2023年11月17日
情報社会の変化ーマスコミからインターネットへ 【相馬新報の意味するもの】
2023年07月31日
なぜ新聞が読まれなくなったのか? (新聞社に勤めていた人も読んでいない)
2023年07月18日
使いこなせない道具に機械。 (情報社会でパソコンを使えないのは致命的)
使いこなせない道具に機械。
(情報社会でパソコンを使えないのは致命的)
●機械道具を使いこなせない問題
機械道具が増えて使いこなせない。使いこなせないのがパソコンを買ったとしても使いこなすのは容易じゃない。そしてWindows 11になったらまた。使いこなせなくなった。私は親指シフトの富士通のキーボードを使っていた。でもwindows 11時になったらそれもできなくなった。それが一番の問題だった。なぜならやはり基本は文章を書くことだからである。スムーズにできないとなかなかパソコンに馴染めないのである。音声入力ではスムーズに文章を書けない。ただ、かなり進歩したことは確かである。ただ一番パソコンは使いこなすことが大変なのである。だからいくら買ったとしても使いこなすことに大変な労力が必要になる。
もちろん車でも使いこなすことは容易ではない。その点、自転車なら誰でものれるということはある。でもマウンテンバイク型の電動自転車を買ったがそれに荷物を乗せられないことで困った。また。バッテリー一つでは乗れる距離が短い。それで二つ乗せると倍の距離を行ける。それで安心だとはなる。でもその二つを自転車に乗せることが難しかった。それをなんとか工夫して二つを自転車に取り付けることができた。こうして便利な道具や機械があっても、それを自分なりに使いこなすことが容易ではないのである。
ちょっとした道具でも機械でも意外と難しい。今度買った。自転車用のドラコレ動画を記録するものがマイクロsdカードであり小さすぎて無くしてしまったのである。そこでこんな小さなものに動画という記憶量が多いものが記憶されることは驚きになった。そこでわかったことがこうした半導体が現代の最先端であり知能社会を作っていることを認識した。半導体とは正に人間の脳でありそれも人間の脳より恐るべき記憶量があり知能を作り出すのである。半導体がなければ、もはや今の現代社会は機能しなくなっている。日本は最初半導体で。世界のシェアの多くwを占めていたがそれも失われた。 それで日本が半導体で経済を復活させようと世界的な工場を作った事も分かった。
こうしてともかく現代は道具に機械に追われる、その操作にも追われる。
それで頭脳がついていけないのである。要するに現代とは?知能社会であり。その象徴がパソコンになっていたのである。その。中枢にあるのは半導体だったのである。
●情報社会に適応できないと劣等者になる
ともかく情報社会であり知能社会であり機械社会でありそれに適合することは容易ではない。もはや老人は適応できない。家族が認知症になったがテレビのボタンのボタンを押す事さえ分からなかった。認知症になってそうなったのである。老人は認知症でなくても機械に疎くなる。だから今の社会は老人にとっては相当に生ききづらい社会である。スマホ自体使いこなせない。すると社会に適応できなくもなっているのである。老人はやはり対面的に。人と接して何かを知る得ることが向いている
パソコンはその全体を使いこなすことはもはや不可能である。その都度一つでも二つでも使いかたを覚えるほかない。全部はもう覚えられない。それにしても理解するにしても。手間なのである、だからフェイスブックをしようとしたら実験してみたらそれも簡単にわからなかった。でもこうしたものを使いこなせないと時代から取り残されてしまうのである。私はパソコンはwindows 95から始めているから長くしている。でも常にこれも変化してWindows 11になったらまた。その操作も複雑になり使いこなせなくなったのである。
ただfacebookにしても動画が簡単にアップできたことは驚きだった。でもその他は未だ分からない。何かFacebookにしてもその機能を理解することがすぐにはできないのである。それが問題なので。別に老人でも人と話すならできる?でもそこに機械がパソコンが介入すると簡単に使いこなすことができなくなるのである。ただ使いこなせれば便利なものなのである。
●マスコミは新聞でもテレビでも旧メデアとなり終わる
情報社会という時、知能社会というときまずパソコンを使いこなせなければその社会に適応できない。すると現代のことが分からなくなる。現代社会から取り残されてしまうのである。それが老人に起きている。70以上の人はパソコンを使いこなせない。だから未だに新聞を読みテレビを見ているのである。もう60代でも今はテレビも新聞も見ない人が多い。今は個人が新聞を出しテレビ局にもなり雑誌でも出せる本でも出せる。そういう時代になったのである。個人が一つのチャンネルを持つ。マスコミの時代は終わったのである。個人でも写真でも動画でも出せる。それも金もかからない。そうなると莫大な金がかかる新聞とかテレビとかはもう終わりになったのである。
マスコミの放送は全国放送であり、偏るのである。例えば福島県でも広いハマ,ナカ、アイズありそこは違った風土があり歴史も違う。福島県を放送する時。福島県全体ではなく。その土地、土地に住んでいる人がベースとなり放送すれば生々しいものとなる。。ただそれが別に機械がするわけではないやはり人間がするのだからそこに報道できる人間が必要なのである。それを自分はしてきた。相馬地域をベースとしその歴史でもさまざまなことを報道のしてきたからである。一つのミクロコスモスとして相馬地域をテーマにして書いて来たからである。
ただスキルがたりなかった。それでhttpsに未だにしていないとか遅れてしまったのである。
報道の問題としてフェイスブックをしてみたらそこにはあまりにもさまざまなものが混交してつながりが見い出せないのである。あらゆるものがそこにブチ込まれている。エロでもなんでもとにかく刺激ときは映像がアクセスされやすい。だからこれも問題だ問題があると思った。でもそうなるのはすべてが大衆を基準として大衆に受けるものが求められるからである。そうすればアクセスする人も増えてそれを主催する人も金にならなければ維持できないのだから、そうなるのと情報を扱うのは民間だけでやるのは難しいと思った。
その安全性であり情報の今こうした状態は人々を混乱させることになる。だからこそフェイクニュースとかいろいろ問題が起きてくるわけである。
●侍は馬を持つ人で足軽はその人に仕える人
でも今や情報社会を拒否して生きることはできなくなったのである。車社会になったら車を持たないものは劣等者となったと似ている
戦国時代でも鉄砲を利用して馬を利用した人が優位になった。例えば足軽とは馬を持たない人である。サムライとは馬を持っている人だったのである。そして徒歩(かち町)とある時そこは馬を持たない歩くことしかできない人たちが集団で住んでいたのである。だから馬を持つ持たないで身分差が生まれたのである。それは今でも通用している。クルマを持たない者は劣等者であり。自転車とか徒歩の人は劣等者のである。だから常に人間社会ではその道具であれ機械であれそれを使いこなせるかこなせないかによって身分まで違ったものとなったのである。
でももう老人は適合することはできない。認知症になれば。テレビのボタンを一つさえ押せなくなっているからである。
いずれにしろ格差というとき、金だけではない。情報格差が生まれるのはパソコンを利用できないからである。それが致命的になっているのである。パソコンなどは今は安い。このノートパソコンは6万くらいしかしてない。だから誰でも買えるである。それよりそれを使いこなすことが。ハードルが高すぎるのである。 ただ、今の情報社会に適応出来ないものはまともな収入すらいられなくなる。現実に今は優秀な学生は医者を目指すのではなくIT関係を目指していることでもわかる。それが現代ではそういう社会になっているのだから。それで最先端を行く者はアイティーなのだからそうなったのである。日本は?世界から遅れたのitが。遅れたためだったのである。
2023年05月26日
本が整理できないー本は何なのか (電子化されると本でも相対化してみる)
「読書家は本の内容あるいは本を読むという行為が好きな者である。一方、愛書家は“書籍”という物体を愛する者である。」と定義的に言及されることもある。
書籍を愛好する性癖および書籍を収集する習慣は、ビブリオフィリズム(bibliophilism、書籍愛好)と呼ばれる(形容詞形は、bibliophilic)
2023年05月02日
なぜ本が捨てられないのか (本は物体ではなく言葉であり精神を表象化したものだから)
2023年01月21日
機械の操作に追われる時代ーパソコンなしで暮らせなくなった時代 (win8.1からwin.11移行の苦労)
2022年11月25日
私に起きたデジタルIT社会の危険と問題―安全が計れない (ビザカードとか無くして(盗まれて)起きた問題)
2022年09月20日
昭和33年の新聞記事(3) (ラジオからテレビへの過渡期だったー女中も募集されていた)
昭和33年は何か高度成長が始まる時だった、なぜならテレビが出たからである
そのテレビの前に人がわんさと集まった、その頃テレビはみんなない、だからテレビがある所に人が集まった、その熱気はすごかったのである
ただその時代の面白いのはラジオが依然として使われていた
テレビが出る前はラジオが主役だった、ラジオだと声だけでりその声に耳を澄ます
何か恐怖小説がありその犯人の足音がラジオから聞いた時怖かった
そしてラジオというメデアは音だけであり姿が見えない
それでラジオで人気だったアナウンサーがテレビがでた時用なしになったのである
なぜそうなったかというと姿とか顔が写ると見映えが悪いと拒否される
なぜなら映像だとまず姿とか顔を見るからである
youtubeでも顔が問題になる、顔をまずみる、その人の発言することの前に顔を見る
こんな顔なのかと拒否する人もいるだろう
プログでも文章だけだったら顔が見えないししゃべることが下手でもいいとなる
でもyoutubeはしゃべゃ方を相当に影響している、声でも姿でも顔でも影響しているのである
ただyoutubeはわかりやすい、図で説明もできるしいろいろテレビのように映像を出せるからである、この写真とか図を出せることはプログでもできるのである
だから誰でもできるプログで写真と図でも動画でも一部出せるとなるとその表現力は意外と大きいのである
それでこんなものでも表現力があるなと感心するのである
これは誰でも簡単にできるものだからである
そうなると一人一人がメデアを持ったともなる、だから私は膨大なものを書いている
それはいくらでも書けるし誰も止めるものもいない、自分なり自由に書けるのである
発言できるのである、youtubeでもそうである
テレビ局と同等にもなることでテレビは衰退したのである
今までは動画となるとテレビからしか知り得ようがなかったからである
今や個々人は新聞社に出版社に雑誌社にもなれる、それがプログのようなものでもできるこの変化は大きいものである
ただyoutubeでもプログでも見られること読まれることは至難である
結局大衆受けするものは視聴率を稼ぐのはテレビと同じだった
でも別に金もかからないのだから少数者でも成り立つのである
テレビは金がかかる少数者では成り立たなくなる、宣伝費も入らなくなっている
昭和33年の新聞記事ではマスコミのことを書いているが膨大な本や雑誌が出されていた活字メデアが全盛期に入りつつあった、そしてまだ戦前からのメデアであるラジオが結構聞いていた、天皇陛下の玉音放送がラジオで成されたようにラジオが戦前のメデアであり映像に触れることはまれだった、ラジオでも大きな力を持っていた
ラジオだと手作りした人もいたようである、それほどむずかいものではないからできたらしい、昭和33年は古いものもがまだ残り新しいものが出て来る時期だった
それで不思議なのは職業の募集欄に女中と結構ある
まだ女中を東京で募集していたのか、戦前は女中が多かった、火事が電化されていないのだから頼んでいた、普通の家でも女中を二人雇っていたとかある
それだけ家事が負担だったからである、別に金持ちでなくても雇っていたのである
今なら大金持ちしか手伝いさんは雇いない、専用だと雇いない
家政婦も募集していたがこれも女中が家政婦になる変わり目だったのか?
女中に興味があるのは私の母親は大正生まれで東京に女中で働いていたからである
それは戦前のことである、でも集団就職とかあり東京に女中ではないにしろ手伝いとして働いた中卒の人がいる、だから依然として女中は東京で必要なものとしてあった
だからこの昭和33年はこうした古いものと新しいものがまじりあった社会だったともなる
2022年08月28日
メデア(仲介するもの)によって歪められる社会 (マスコミからインタ−ネットへ)
メデア(仲介するもの)によって歪められる社会
(マスコミからインタ−ネットへ)
●メデアの意味
メデアというとき何か?中立であり仲介するものである、でも仲介するとか仲立ちするとかなると実は人間そのものがメデアなのである
何かあれば必ず人から人と口コミで伝えられる、それがだんだん現実に起きたこととは別なものになってゆく、噂がそうである、そこで真実が見えなくなる
それは何か起きたときその現場にもいないし直接当事者から聞くこともできないからである、それは人から人へと伝わりそうして伝えられる内に真実とは別なものとなってゆく
マスコミとか報道機関がないとき人から人に伝えられるのが基本になる
現代の問題はマスコミが伝える、それでマスコミは第三の権力になったのである
メデアというときいろいろなものがメデアなのである、仲介するものなのである
銀行もメデアだというときそうなのかと思った、普通はメデアとは見ない
でもみんなから金を集めそれを投資に回したり金を貸したりして利子をとる
そういう仲介者だということではそうなのかとなる
だからクラウドファンディングとかなるとある製品を作るために直接生産者に投資する手法がインタ−ネットで生まれた、銀行を介さないで消費者が投資するのである
銀行は仲介するものであるがここでは生産者と消費者が直接結びつく関係でありメデアが仲介者がかかわらないのである
現代とは様々な分野でメデアに頼っている、どうしても株などわからないのだから証券会社とか銀行だと前は信用あったから頼る、でも個々人でトレダーとなって株の取り引きをしている人達がいる、その人たちは証券会社を通さないし銀行も通さない
自力投資してもうけているのだ、でもそのハードルは相当に高い、みんなができるわけではない、でもそういう人こそ自立しているしメデアを通さないのだからそれで損するにしろ儲けるにしろ自己責任なのである
でも銀行で投資信託をすすめるけど必ず手数料がとられるしまた必ず転売する
自分の場合は株をもっていたがリーマンショックの時持っていた株が元にもどり上がってきたとき勝手に銀行員が売ったのである、転売して他の商品を買わせるためだった
その株を持っいたらその後上がり続けたから倍にも儲けることができた
これも結局そもそも銀行というメデアに仲介者に頼んだことでそうなったのである
それは証券会社でも同じである、それは株とかわからないからそうなったのである
そして銀行は投資には株には素人だったのである、銀行自体が株を知らない
なぜなら銀行はこれまでただみんなから金を集めると金を貸してくださいという人がいくらでもいたからである、だから金を貸す相手がいないということはなかった楽な商売だったのである、金を貸して利子をとればいいだけの商売だったのである
それがなくなったとき金を貸す会社でももうわずかでありなくなったとき商売が成り立たなくなったのである、細かい金の出し入れは銀行でするのではなく自動化したりして仕事がなくなってきたから苦しくなったのである
●メデアに仲介する者に頼る社会
現代社会はともかくあらゆることでメデアに頼る社会なのである、仲介するというとき
何か言いたいことがあってもメデアを通さないとできない、テレビ局に私が発言したいのですがと言ってもできない、テレビ局で発言する人を選ぶのである
NHKは公共放送というけどそこで発言できる人は限られている、その発言内容までチェックされる、つまりそのテレビ局の意向にそったことしか発言できないのである
それでインタ−ネットはメデアなのだけど制限するものがいない、誰でも一応発言できることでメデアが変わったとなる
それでNHK党とか参政党とか極端な思想の政党でも選挙で議席を持つようになったのである、インタ−ネットでは前々から極端な発言でも許可されていたからである
それも問題があったが確かなことは仲介するものが力をもっていないから権力を持っていないからそうなったのであるつ
ただ問題はインタ−ネットでもプログなどは簡単にできるがワードプレスのように自分仕様にすることがめんどうである、技術的にめんどうなことがある
それで自分のプログでもワードプレスにしようとしたができないとか技術的な問題があるそこに手間だけは省けないのである
そしてインタ−ネットではまずマスコミのように何百万人とか見ないし読まない
だから目立つ人となるとわずかになる、後は膨大な人達は埋もれるのである
ただそれでもインタ−ネットはマスコミのように仲介するものがいないのである
一応自由な発言が許されている、でも読む人は極端に少ないとなっているのである
ともかくメデアに仲介する者に頼るというのが現代社会である、本を出して自分の意見を言いたいとしてもそれもハードルが高い、書店でも置く本を選ぶからである
でもアマゾンとかなるともう天文学的な本が古本でも簡単に地方でも買えるから情報格差はなくなったのである
私は引きこもりでワープロでパソコン通信していた時期があった、それはまだパソコンが出始めのときであり技術的には未熟な時だったのである
それでワープロに通信機能がついていて全国の人たちと通信で会話していたのは不思議な経験だった、そのことが自分には良く理解できていなかった
でもそれがインタ−ネットの発展の初期でありそれが現代では拡大して日常化したのである
ただそこで発言するには技術的にめんどうだったのである、そこに技術の問題があり技術が障壁となる、パソコンマニアがいてしていたともなる
私がなぜそういう初期の時代からかかわっていたかとういと悪筆なのでまずワープロに親しんだ、そして富士通のワープロで親指シフトを覚えて文章をスムーズに書けるので利用するようになった、ローマ字入力だとスムーズに文章化できないのである
ここが意外と一番問題であり入り口としてはつまづくからである
やはり映像もあるが文章が基本になるからである
インタ−ネットは今でも技術的な問題がまだまだある、それがワードプレスにしようとしてもできないことにあった、またホームページを作ったがそれも放置したままである
そこで新しくアップしていない、プログをしていていたホームページを使っていなかったからである、途中十年とか介護になり時間もなくなったからである
何かこのインタ−ネットとか意外と理解するのに時間がかかるのである
それは技術的な問題があるからそうなる、なぜなら最初の時期はパソコンマニアがいて理系の人が意外と多かったことでもわかる、文系の人は技術に弱いからそうなっていた
●宗教も教会と牧師は神と仲介するものだからメデアだった

宗教でも神と取り継ぐものとして教会と牧師が生まれた、旧約聖書の時代には牧師も教会も存在しない、直接神とエホバとの交信であり信仰である、そこにいたのは預言者だった教会が生まれたのはローマ帝国にキリスト教が公認されてからなのである
そこで教会が強大な力を持つようになりキリストの信仰を仲介するものが牧師ともなった司祭ともなり権力を持つようになった
それに反発したのがプロテスタントなのである、免罪符などを売りつけられて反発した
だから教会とか牧師が神との仲介役になることを否定したのである
カトリックとなるとイタリアではバチカンがありそこは独立国でり兄弟な権力持ったのである、一つの国をそこで形成しているからである
仏教でも寺院はそこは不可侵の領域であり城でもあり僧兵が武装もしていた
だから信長がそこを権力集団とみて攻撃して殺戮したのである
その原因は比叡山でもそこが不可侵のものとなり一つの国ともなり琵琶湖の船運で税もとっていたからである
そこが強大な権力集団と見たから武士団と対立したのである
それはカルト教団でも数を集めて巨大化すると現政権をとりこめる、それが創価であり
統一教会でありオウムでもオウム王国を作ろうとしていたのである
創価は創価王国を作ろうとするために運動しているし幸福の科学でもそこに教祖が王となることを目指しているとなる、統一教会だったら文鮮明が王となっている
つまり宗教を利用してこの世の王となることなのである
そのために権力を掌握せねばならないから政治にかかわり操作しようとしているのである
だから何でもメデアとなるものが力を持つ、何か庶民でももめごとがあると弁護士に頼むでもそうして仲介者に頼むと搾取されることがあるのだ
ただ相談しただけで百万の金をとられたというのもそうである、そういう悪徳弁護士も結構いるのである、それで推理ドラマにもなる、弁護士は遺産とかにかかわるからそうなる労せずして金が入る職業だともなるからである、そこにいろいろいるにしても裁判でも弁護士を頼む他ないからそうなる、つまりこの弁護士もメデアなのである、仲介する者なのである、現代とは専門家がいてその人達もメデアであり仲介するものとなる
そしてその仲介する者が力を持ち搾取されるともなるのである
現代社会とはとにかく複雑であり何でも個々人でできない、すると仲介者に頼る
そのために仲介者がメデアが力を持ち左右されるのである
それはいろいろな分野でそうなっているのである
だから現代社会の問題はメデアに支配されるということにある
それは現代社会が余りにも複雑すぎてそうなっているのである
何かあれば専門家に頼らざるをえないからである、専門家の時代でもあるからだ
ただこうして人間は非力化されてただ専門家であれメデアであれ支配されるだけだとなるただメデアに支配されていることは気づかないことがあるのだ
NHKなどがそうである、いかにも善人のように見せて現実は裏では真実をまげて報道しているとかある、それでNHK党が生まれたのはインタ−ネットの効果だったとなる
●金がかかりすぎるマスコミ報道の問題
現代社会はメデアの役割が仲介するものの役割が巨大化したのである
それでマスコミが第三の権力と化したのである、新聞でもそうだったがこれも新聞を刷る印刷するのに莫大な金がかかりそれを配達するのにも金がかかる、それは本でも同じである、金がかかりすぎるから結果的にスポンサーに頼りスポンサーに忖度する
そして真実は報道されない、福島県の原発事故でもそうだった
電事連とか800億円の宣伝費がマスコミに回っていたから批判する記事は書けなかったまた今カルト宗教団体のことが問題になっているが統一教会でもマスコミに深くかかわり批判できないようにしていた、なぜなら霊感商法で批判されてから20年以上統一教会のことなど話題にならなかったからである、それは意図的にマスコミがそうしていたとなるまた創価などは聖教新聞を毎日新聞であれ福島民報であれ刷らせている
そして金銭面で批判を抑えるのである、つまり新聞というのは余りにも金がかかりすぎるのである、他でも本でも雑誌でも金がかかりすぎる、それで福島県の政経福島でも相双リテックから宣伝費をもらっている、裏表紙で宣伝したからである
相双リテックは除染で莫大な金をもらい億の金を幹部で山分けしていたからである
そんな会社のことを宣伝していることは大問題である、ても結局金の問題でそうなっいるのである、報道するにも金がかかりすぎるのである
まずインタ−ネットなら技術的なものとしても障壁があってもまた手間でもあるが金がかからないのである、だから個人でもテレビ局まで持つようになる、youtubeがそうである
そうなるとマスコミの力はかなりそがれる、何百億円の資本金の会社としてマスコミがあったとしてyoutubeなど手間はかかるが金はかからないのである
このことが画期的なことだったのである
そうなるとテレビでもあまり見ないとかなり新聞を読まないとかなってきた
巨大メデアが小さく見えるようになったのである、平等化したともなる
ただyoutubeでも見られことは至難であるから人気のあるものは見ても多くなると選ばれるから全然見られない人も出でくる、それはインタ−ネットでも前からそうだった
そもそもそんなに多くあっても見る時間が限られているのだからみんなに目を通すことはできない、それがまたインタ−ネットの問題だとなる
●なぜ現代社会がナチス化するのかカルト化するのか?
いづれにしろ現代社会はメデアが力をもった時代である、江戸時代なら村で生活する知識とかあれば良かった、自給自足が基本であり外国まで頼る頼られる時代とはまるで違っていた、国内でも村で自立している生活である、すると村のことを知っていればいいともなる、他藩のことは知らなくてもいいとなる
今は外国のことまで知らなければならない、すると天文学的な知識になる、とてももう処理できないのである
そして様々な複雑なシステムであり社会全体を理解する人は誰もいない、世界だった理解不可能である、福島原発でも吉田所長が復水器のことを知らなかったという、それは大事なものだが資材関係が専門だから知らなかったと言っている
肝心なことすら知らなかった、それは社長でも会社のことを全部知る人などいないのである、一部は知っていても全体を知る人はいないのである
そうなると社会がどうなるのか、どうしてもカルト宗教団体でもナチスでも全体主義になる、ハイルヒットラーが一番わかりふすいからそうなったのである
カルト教団でも教祖がヒットラーと同じだからである
それは複雑に分化してもうあらゆることなど知り得ないからである
知るにしてもメデアを頼る他ないとなりメデアにマスコミに操作されたのである
江戸時代だったらヨ−ロッパでも中世社会だったらそんなことありえなかったからである世界でもメデアに左右される、情報でもフェイズニュースでも信じる
イラク戦争では油まみれの海鳥が全世界に報道されてイラクへの批判が強まった
でもまわりは油がなくそれは作られた映像だったのである、それに全世界がだまされたのである
要するに現代社会は情報でも必ず直接見ることもできないしその場に立つこともない
だから偽りの情報に左右される、外国で起きたことでもその場に行って確かめるなどできないからである、現実にその場に行って聞いたりしら全然違った感想にもなるからである現代が情報社会というときナチスがゲッベルスが宣伝の役割をになったように情報に左右されやすいのである、そしてカルト教団などは金で権力でメデアをマスコミを支配する
必ず権力を持つと自由な報道は抑えられるからである
でもインタ−ネットはなかなか抑えにくいからマスコミの力は減退した
それでインタ−ネットが民主主義を促進する役割があったとなる
私が思うに民主主義でもあまりに巨大化すると機能しなくなる、そもそも人間が理解する範囲はアイディンティティ化できる範囲は狭い、自然でも狭い範囲でしかアイディンティティ化できない、常にその場を歩いて実見していないとできない
旅しても30年とかすぎるともう記憶もあいまいとなりその場がどういう場所だったかもわからなくなる、常にその場で生活していないと理解できなくなる
だから国というとき小さい狭い範囲になる、そこでアイディンティティ化して安らぐとなる、日本の国といっても大きいからアイディンティティ化することはむずかしくなる
それより中国とかに三回行ってもその国土でも人民でも歴史でも理解することは不可能だった、あまりにも巨大すぎて理解できない、アメリカでもそうである
人間は狭い範囲でしか実地に生活する場でないと理解できない、アイディンティティ化できない、ギリシャのポリスでも一万くらいだったのである
それくらいの規模でないともともと民主主義は成立たなっか、人間の認識できる範囲は狭いのである
だから自分自身が相馬郷土史と相馬新報として発言してきたのはまさに狭い範囲で自然とも社会ともアイディンティ化しようとしためである
そういうホームとか基盤を持たないと真実の報道はできない、この場が重要なのである
大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする
読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ)
(アイディンティティは場から形成される)
http://musubu.sblo.jp/article/186376894.html
とにかく現代社会は偽りの情報に惑わされる、様々な情報が天文学的になっている
そして現実にその場に立つこともないので偽りの情報に左右されるのである
2022年07月05日
本の整理ができない (地震で散乱した本の山の整理に苦しむ-引用とは)
本の整理ができない
(地震で散乱した本の山の整理に苦しむ-引用とは)
地震で本が散乱して山積みになっている、それが整理できない、本も簡単に捨てられないただ本が多くなると読んで印しをつけていてもそれを忘れていた
確かにその時熱心に読んでいても忘れていた
そして本を読み直したら初めて読むと同じだった
これは最近良く推理ドラマをBSで見る、それもたいがい一回見たものなのである
でもそれも忘れていてこれは見たなという記憶があるのだが初めて見るのと同じになっている
まず推理ドラマは一回だけ見ても理解できない、複雑なストリーがあり理解できない
三回くらい見ないとどういう展開になっていたのか理解できないのである
テレビでも映像でも人間は一回見ただけでは記憶にとどまらないのである
老人になると記憶をたどる旅にもなるしこれまで読んだ本でも自分なりに自分の文脈で理解するようになる
だから前に読んだ本を読み直すと今度は自分の文脈で引用できる
でもその引用すべき本が読んでいたにしろ忘れていたのである
膨大な本が山積みとなっている、本は何か自分なりに解説してみると理解が深まる
批評すると理解が深まる、この批評に向いているのが老人なのである
それだけ見る目が理解力が深まっているからできるようになる
でも一冊の本でも内容が濃いとなるとき深く読むことはむずかしい
本を読む時心がけるのは著者と対話することである、でも実力がないので若い時はただ一方的になってしまうのである、人生とは例え平凡な人でも老人になると経験からあのことはこうだったのかこうすれば良かった、時間は貴重だった、馬鹿のことに時間を費やして浪費してしまった、もっと登山すれば良かったとか何かをすれば良かったとか後悔する
そしてあの時こうすればとかもっと勉強していればとか後悔する
ます後悔しない人はいない、それだけ人間はつくづく無駄が多いのである
人間は貴重な限られた時間を一番浪費している
これだけは確かである、どれだけ時間を浪費しているか、時間など無限にあるとか思っていたが極めて限られていたのである
人生70年で経験でも知識でも得たものはわずかだったのである
知識にしても天文学的に膨大でありそのわずかな一部しか知ることができない、経験にしてもわずかのことしか経験できない
何か先生になろうとしてそれも一二年しかできなかった、それは試しにすぎなかった
どう教えるかを試したがその試しすらわずか一二年で終わってできなかった
どのように効果的に教えるかはそれも試して教える術を覚えなければならない
でも時間がなく何もできなかった
いろいろ試したくてもその機会もなく終わった、社会はそもそも一人一人の人間に合ったものを用意してくれない、試すこともできない
それで人間には職業でもミスマッチが多いのである
私は旅ばかりするようになったのは自分にあった職業がなかったからというよりは落ちこぼれであり引きこもりになったからだとなる
でも性格的に引きこもりが自分にあっていたのである、それができたのは家族に恵まれたからである
それで興味のおもむくままにいろいろしてきた、主にしたのは旅だったとなる
登山もしたが体力がなく40代前でやめたのである、その後は自転車旅行になったのである、それも40過ぎでできると思っていなかったのである
また海外旅行でも50歳でバックパッカーになったがこれも遅すぎたのである
自分の場あい何でも遅すぎたのである、それで時間を無駄にしたとなる
ただ今になりいろいろなことを深く理解するうになったのは不思議である
誰しも老人になると人生はこういうものだったのかと自ずと理解する
知らしめられるともなる、否応なくあなたの人生が何であったか知らしめられる
それはもう偽ることができなくなる、それで失敗したと後悔してももう人生をやり直すことができなくなっているのだ
本には人間が一生で得たものが詰まっている、その人なりの経験から知識の積み重ねから得たものが表現されている、だからすでに30年前に買った本の著者は死んでいる人が多いのである、そして人間が残したものが何かとなれば死んだ人と逢うこともできないから本を通じてその人を知るともなる、知る方法がないからである
つくづく本を読んでも理解できなかった、本を読むことはかなり難易度が高い
そこには大きく見れば人類の知識の宝庫であり智慧が詰まっているともなる
インタ−ネットだと断片的知識が多いが本一冊はその人の経験知識を凝縮したものとしてもある、そこに本の価値がある
ただ本を読むにしてもその本人が本を読む人にその本を深く理解するものがなければできない、その本人がそもそもダイヤモンドになり黄金となっていなければならないのであるそうなればダイヤモンドにサファイアとかエメラルドとかルビーいろいろな宝石が寄ってくる、付随してくるのである
本を引用するのはそうして多種な多様なものをアレンジすることにも似ている
それも創作なのである、知識は膨大だからとても一人ではもうあらゆることを知ることは不可能だからである
(著作権引用の規定)
主従関係が明確であること(明確性)
引用部分が他とはっきりと区別されていること(明瞭区別性)
引用をする必要性があること(必要性)
出典元が明記されていること(出典)
改変しないこと
人間のしていることは何らか共同作業なのである、本当に独創的なことは一人ではないかもしれない、知的作業でも何らか協同作業になっている
第一天文学的な知識があるときそれに通暁することは不可能である
だから知的なものでも協同作業なのである
でも主従関係というといん主となるのが明確でありそれはダイヤモンドでもある
そのダイヤモンドに引用がそえられる、つまり宝石だったらエメラルドとかサファイヤとかルビーとかになる
要するに人間のしていることは独創的なものがあったとしても何か様々なものの過去に創られたものでも組み合わせなのである
それで過去の創作物でも本でもそこからまた新たなものがつけ加えられるのである
そういう作業は延々とつづく、知的創造に限りがないからである
過去の創作したものでもそれがそのままではなく常に変異して新たなものとして再創造されるのである
とにかく本を読むということ本を理解することは簡単にできない、重要な所にいくつも線を引いていても忘れていたとなる、線引いても肝心の自分自身が忘れているのである
忘れないように線を引いていても時間がたつと忘れていたのである
ここに人間の弱点があった、本でも推理ドラマでも少なくとも二回見ないと忘れている
二回見るとその因果関係とか犯罪の理由とかいろいろなものが見えて来る
そして再確認するのである、推理ドラマは人間関係でも複雑だからである
本を読んだとしてもそれなりに自分自身の文脈で理解する、その時引用は生きてくる
ダイヤモンドが自分でありそれに添えられるのがエメラルドやサファイヤやルビーだとかなる、そこに協同の創作があり過去のものも現在に活き続けさらに未来にも変化して生き続けるとなる
2022年06月01日
プログは時系列で記録することだけで意味がある (インタ−ネットで権力をもった庶民)
2022年05月27日
膨大な本を買っても理解していなかった (新しいものを求めるばかりで温故知新がなかった)
2022年01月17日
不確かな人間の認識 (情報のカオスで混乱、操作される社会)
2021年12月08日
重要ななネットインフラ (デジタル社会に適応せざるをえない)
重要ななネットインフラ
(デジタル社会に適応せざるをえない)
dellのノートパソコンを使うのに苦労した
インターネットにはまだいろいろ問題がある
セキュリティの問題もアキレス腱でありそれで常にパスワードが問題になる
そしてパスワードがもう十個くらい別々にあり忘れる
するとアクセスできなくなるから困る
ドラマで必ずパスワードがわからなくなり必死で合わせて助かる、つまりパスワードは命にも関わっているからだとなる
ドワでも閉じたのわいいがパスワードを忘れると開けられなくなり死ぬことあり得るからだ
私が失敗したのは自転者のカギである、パスワードを忘れて開けられなくなった、これも怖い、何故ならもしパスワードを忘れて開けられなくなったらどうにもならなくなるからだ、つまりパスワードはそれだけ重要だとなる。パスワードがわかれば重要な情報は盗まれて致命的になる
ここにネット社会の弱点がある
それと情報でもせっかく創作したのでも一瞬にして消える何か不具合があると一瞬にして記録したものが消えるる、また消すことができる
これも大問題なのである、本に出したもの消えない、どこかで残っている、電子本でも長くは残らないとも言う
いかに記録を保存すらかも大問題である
それから依然として文章にするのが進歩していない、手間なのである、私は富士通の親指シフトになじんでワープロからパソコンンの世界に入った
もしこれがないと入りずらかったのである
ただ文字入力でもdellだと校正しなくてもいいようだ、私の文は必ず誤字脱字などが多かったからだ、これも機械が変わると防げる
この文はデルのノートパソコンで打っている
ローマ字入力で打っている、だから遅くなる
この辺は進歩していないのである
とにかくネット社会にデジタル社会になるとこれに適応せざるを得ない、私は20年前からパソコンはしている
でもスマホはしていないのである、だからデジタル社会に適応してないともなるのだ
社会がデジタル社会になるとき仕事も変わる、新聞とかテレビでも変わる、マスコミはテレビは国の運命すら決めるとまでなっていた、それだけ報道できるのはマスコミしかなかったからそうなったのである
この辺で来年一月に市長選挙があるが政経東北で今の市長が相馬市長の子分でいいなりだとかかれて抗議した
この報道の影響は大きい、選挙に相当影響する、だから
マスコミは力を持ったのである
でも政経東北も金で動く、双相リッテクの宣伝していたからである、何十億の除染費用を山分けしていたからである、こうして報道でも公正にはならない、報道にしても調べるにしても金がかかるからだ
また警察とと親しくしないと情報すらはいらないからである、そのために検事と新聞社の記者がマージャンしていたことがわかったからである
ただネット社会化すると選挙にも影響するかもしれない、もし南相馬市長選挙で私が発言して影響すればそうなる、そうなっていたのがマスコミだったからである
だから政経東北の記事が判断材料になる
そもそも市役所の内部のことまでわからないからである
マスコミが報道することで判断する人も多いからである」、ネットだと確かに一個人でも発言はできる、でも影響はわずかであるまた信用度にも欠ける
でも政経東北でも全面的に信用できるかとなるとできない、双相リッテクから金をもらっていたからである
私はネットだと金はもらっていない、そういう人が大部分である、今はyutubeでも宣伝費をもらっているからだ
いずれにしろメデアは相当に変わる、スポーツ新聞の記者が辞めてネットに活路見出したというのもそうである
新聞は岐路う立たされている、ネット社会にデジタル社会に適応せざるを得ないのである
そのためにネットインフラ重要になる、国家的にも重要になる、道路を整備するようにインフラが重要になる
民営の会社だけでは維持できないともなる、自分にとってレンタルサーバーのさくらは重要である、ここでは不具合が一回しかおきていない、バックアップ体制がある、ただ民間だと権力がかかわりつぶされることもありえる、そんなに大きな会社ではないからである、そこに不安がある、そういう発言の保証もない
だからネット社会はデジタル社会は国がかかわらないとできないともなる、ただどいうふにかかわるかとなるとむずかしい、自由が制限されるようだと問題だからである
2021年10月04日
インタ−ネットの通信時代で一番怖いこと (記録したものが一瞬にして消える)
2021年08月31日
30年前40年前のドラマが面白い(サスペンス名作選 地方記者立花陽介) (ドラマも一つの歴史の記録となっていた)
2021年07月07日
マスコミはスポンサーに忖度して真実を報道しない (民主主義でも報道の自由はなかった)
2021年06月13日
車がない人は通販が便利‐メデア(仲介)はいらなくなる (鹿島から原町でも送料がとられたから)
車がない人は通販が便利‐メデア(仲介)はいらなくなる
(鹿島から原町でも送料がとられたから)
なぜ買い物がアマゾンとか通販に向くようになったのか
それは自分の場合は車がないということである
車で買い物に行けない、するとアマゾンでも通販がいいとなる
量販店から近いのに運んでもらうのに3000円とかかかるからだ
それなら通販の方がいいとなってしまう
ただ車がある人は運べるからいいのである
ただ問題は設定とか何か不具合とかでうまくいかないときがある
キャノンの印刷機を設定するのに苦労したからである
何かわからなくなったけどなんとか設定できた
前にもこういうことがあった、いろいろやってみて設定できた
何かパソコンは説明書を読んでもわからないのである
いろいろ操作してなんかわからないけどできたとなる
これが設定ができないと使いないとなるから困る、それが不安なのである
でも今仲介する電器店の役目は何なのか?
それはこうして操作できないとかソフトがインストールできないとかそういう使い方がわからなくなるとき聞きたいとなる
でも今やメーカーでも直接教えるからそれも必要がないとなる
それでどうしてもメデアというのが仲介するものが必要なくなる
メデアというとき新聞でもテレビでも出版社でも銀行でも何か仲介するものであり
それだインタ−ネットだとじかに読者や視聴者に向かって伝えるとなると
メデアは必要ないとなる、youtubeとか個人でもテレビ局になるときがそうである
インタ−ネットは作者が直接伝える、何かを新聞でもテレビでもない、出版社でもない
仲介するものはインタ−ネットのグーグルだとかなってしまった
ただ依然としてグーグルとかが仲介の役目をしている
だからトランプ大統領の発言を禁じることができたのである
とにかくパソコンは設定するとか使い方がめんどうなのである
確かにプログなとは簡単である、これなどはコンテンツを作ることに時間をかければいいのである、放送する内容が問題になるからだ
操作する手間がかかったらとてもできないとなる
ただ自分の場合、ワードプレプログをしようとしているがなかなかできない
何か年になると新しいものができなくなる、結構手間になるからだ
ワードプレスはいいようで安全が確保されていないようだ
それも困るのである
車をもっていない自分でも車で配達してくれる人がいる、アマゾンで配達している人は
ずっと同じ人がしている、おそらくこの辺一体の配達を担当している
また別な配達の人も来る、だから配達の仕事は増えたのである
もうその配達する人が定住もできるとなる
それだけ配達する量が多いから定住しても生活できるとなる
ただ通販でも弱点はある、量販店で実際に商品を手にとってみると大きさとか重さがわかる、カメラだとこれが大事だとわかった
どれだけの大きさなのか重さなのかが問題なのである
それはインタ−ネットの画面からはわからないのである
だから中国製のカメラが手に取ってみて軽いというこがわかり軽いものも必要だと実感した
というのは私は車がないから自転車にのせるとがさばる、それも荷台もない自転車だから困っていた、それで重さとか大きさとか持ち具合とかが大事なことを知ったのである
自分は車がないけど通販だと車の恩恵を受けているのである
車がなくても通販なら何でも安く買えるとなる、でも通販が全部いいとはならない
どうしても買ってみて合わないとかがあり失敗がある
パソコン関係だと設定ができないとかある
キャノンのG6030はいいものだった、これも量販店では注文してもかなり遅くなるとか言っていたがアマゾンで注文した二日後に配達されたのである
本当に早いとなる、8キロくらいしか離れていない隣の街の店屋の方が配達が遅くなるというのも変なのである、そして配達料がとられるのも損だとなってしまう
だから買い物でも仲介するものはみんな苦しくなってくる
ただそれでも現物を見たり触ったり持ったり着たりしないと商品のことがわからないということがある、これは通販ではできない、だからまだまだ実店舗は必要だともなる
でもメデアは仲介するものはこれだけ通販が便利になるとやがて消失してゆく
ただ別な仕事が生まれる、操作とか設定とかがわからないとういことがあるからだ
それを教えてもらいたいとしても量販店では教えないのである
結局そうしたことは自分自身でやる他ないのである
私はなんとか自分でやるほかないのでやってきたのである
2021年06月02日
なぜメデアがマスコミが問題になるのか? (メデアは仲介するものー直接に聞いて見た情報でないから)
なぜメデアがマスコミが問題になるのか?
(メデアは仲介するものー直接に聞いて見た情報でないから)
メデアとは仲介するものでありメデュウムというとき中立という意味になる
メデアというとき何か人づてに聞くうわさ話とかもそうである
ある人を通してそれを聞くからである、直接話を当人から聞いているわけではないから
それを全部うのみにすると間違いやすい、それで噂話しは尾ひれが必ずついてだんだん
ありもしないことが大きなものとして広まる
ということは個々人でも媒介する仲介する人となるからである
またメデアというとき何か銀行とかがメデアとも見なかったが
やはり仲介するものだからメデアだとしている
それで銀行の営業を通して株とか投資信託とかを頼んだこと自体があくまでも仲介者する人を頼んだので失敗したともなる
なぜならその銀行であれ証券会社であれあくまでも仲介者であり直接株式に投資するというのではないからである
だから仲介者に手数料がとられる、そこで銀行であれ営業の人はまず手数料をどれだけ多くとるかということしか考えない
それで転売を常にすすめるのである、売ったり買ったりさせるたびに手数料が入るからである、そもそも長期間で株はみないともうからない、でもそうなると銀行であれ証券会社であれ手数料がとれないから転売させるのである
リーマンショックの八年前の株が元にもどり上がった時、その金をJ=REITに回したのもそのためである、それ以来銀行の営業の人を信じられなくなった
ただ仲介してくれるのだから手数料はとられる
そもそも株式市場に参入するには仲介者がいなかったら素人はできない
だからその仲介する者によって左右されてしまうのである
今クラウドファンディングが普及して来た、クラウドとは群衆のことである
なかなか長距離の折り畳みの自転車がない、でもそれが欲しいという人が多くなる
群衆化するとそういう人がそういう自転車を作る人たちに直接投資する
するとそういうことは銀行から金を借りてしていたのだが直接投資になる
それでメデアを介さない生産する者と消費する者とは直接結びつく手法がインタ−ネットで生まれたとなる
銀行に金を借りる必要がないからである、そこでメデアとなる仲介者の役割が喪失して
銀行の役割りがなくなる、投資先も金を借りてくれる先がなくなる
そういうことで銀行は窮地にたたされる
マスメデアとかマスコミはメデアでありそれがマスメデアとなる
そもそもあらゆるニュースはマスメデアによってマスコミによって報道される
個々人が伝達者ではない、でもそれも仲介者だからフェクニュースとかでも広まる
マスコミでマスメデアでとりあげるとそれが個人の噂の伝達より巨大な力をもつから
第三の権力までなった
何か現代社会はこうして仲介するものが大きな力をもった時代である
それは社会が村単位とかではない狭い単位ではない大きな単位になったからとても情報でもメデアを仲介するものがないと伝えられないからである
だから報道の役割か大きくなった、でもそこでマスメデアがマスコミが大きな権力をもつことになったのである
とにかく個々人でも直接接して聞いた情報ではない、仲介者の意のままにも報道される情報なのである
会社が宣伝費を払いマスコミにマスメデアに商品を宣伝してもらう、その媒介となるのがメデアだとなる、だから金をくれる会社の悪いことは言わないとなる
それで商品でも消費者が直接その商品を評価するときはマスコミでもマスメデアでも介さないからかえって的を得ている、信用できるとなる
例えは電器の量販店でも消費者が欲しいものを売るのではない、その店で売りたいものを売るとういことがある、店もやはりメデアであり、商品を売るメデアだともなる
だから常にこうしてメデアによって曲げられる社会にもなっていた
消費者は弱い立場になっていたのである
とにかくこの世で直接の知り合いとか直接に逢って話しして得られ情報は限られている
その他の膨大な情報は何かメデアを通して得られたものだとなる
だからマスコミとかマスメデアを通してしか情報を得られないとしたらメデアが大きな力を持つことになった
ある人が意見を言うにしてもメデアをマスメデアをマスコミを通して言う時、これも歪曲されるのである
仲介するものが無色透明でもない、中立でもない、会社から宣伝費をもらっているとき
その宣伝する会社の商品を悪くは言えないのである
なぜ民主主義がなりたたくなっているのか?
それは民主主義といっても一万くらいのギリシャのポリスで行われていたのである
それは直接民主主義であり顔も知っているしどういう人かも人づてではなく身近に接している人の間で行われていた、それが何百万票とか何十万票とかになるともうその人個人がどういう人なのかわからない、人づてに聞くだけである
だからその票になるまとまった人数が投票してくれる組織団体があって決まるとなる
個々人より自民党とか公明党とか立件民主党とか共産党とか党に投票している
個々人がどういう人なのかなどわからないし個々人の票は無力なのである
それは利権団体民主主義になる、小選挙区制だと余計にそうなったのである
狭い範囲なら個々人のことを知っていたからその個人に投票していた
もう現代のように規模が大きくなると個人は何の力もない、むしろやはりマスメデアとかマスコミが媒介して伝えるものが大きな力をもった
第一名前すら知らないとなり芸能人が参議院議員でトップ当選していたのもわかる
それはマスコミでマスメデアで一番名の知れた人だったからである
それで東京都知事になった青島とかは俺は選挙運動しないと言って選挙運動もしなかったが当選してきたのである、それはマスコミのマスメデアの力でありその人に何かできる能力などなかったのである
いづれにしろ村単位の社会からグロ−バル化社会になると情報に左右される
それを左右するのはマスメデアでありマスコミでありそうなるとNHKがあれだけ力をもったのはまるで神殿で信託を述べるような聖職者ともなる
何かマスコミが重大なことでも決めるとなってしまう、宣託するものがマスコミだともなった時代であった
それでNHKを常に批判している武田邦彦氏がNHKの人はいかにも善人のような顔している
でも実際は違うといういう、確かにラジオの時代は顔が出ないから顔で判断できなかったテレビがは顔が出るから何か悪人に見える顔とか美人でないと出せないともなる
見映えが良くないと出せないとなってラジオで人気だったNHKのニュース番組に出ていた人がやめさせられたということがずっと前にあった
どうしても顔が出ると顔から判断するからそうなったのである
その結果として映像が大きな力をもつようになった、そのテレビの映像でも真実を伝えるものではなくフェクニュースをマスコミでも作って問題になった
油まみれの海鳥が世界に放送されたときイラクは悪者にされて世界に伝えられたのであるそれほどの影響力をマスコミがもった、それは誰も世界となると現実に接することもできない、その当事者から直接聞くこともできないからそうなる
世界が拡大するとかえってフェクニュースでも真実になりやすいのである
そもそも嘘なのか真実なのか確かめようがないからである
2021年05月12日
貨幣でも紙幣でも使えなくなる (コンビニで小銭に異物が入っていて自動支払機が故障)
2020年01月05日
小泉首相はナチズム的手法でゆうちょを民営化した (マスメデアは洗脳機関だった)
2019年11月09日
テレビの一場面の映像のインパクトが強烈なのが問題 (全体から見ることはテレビにはない)
2019年05月21日
メデアが変わると表現方法とか伝わるものが変わる (youtubeを見て感じたこと)
2017年10月08日
人工知能化する人間 (膨大な情報処理が強いられる)
2017年08月12日
マスコミにはリアリティのある報道がない (個人の経験にリアリティがある)
2016年09月07日
「天国の門」の映画はこの辺の事情とにている (郷土愛がテーマとなっているから)
2016年07月14日
家電量販店とインターネットの買い物の相違 (アマゾンのレビューは消費者(有権者)の声が反映されている
2016年05月20日
みんなが記者になるインターネットの時代 (現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)
2016年05月15日
メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代 (テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)
2015年08月24日
インターネットの一番の恐怖 (記録したものが一瞬にして消える)
せっかく俳句とか短歌を作ったのに復元できなくなった。
これまでの苦労が一瞬にして水の泡になく恐怖である。
これはパソコンだけではない、レンタルサーバーとかプログを使用する場でも起きている突然報告もなくプロクが消されたとインターネットで報告しているのを見た。
何か違反があっても報告もなくプログが消されるのかとなると恐怖である。
一回さくらのレンタルサーバーで故障で記録が消えたと連絡されたときはショックだったでも予備に記録してあるので復元されたのである。
さくらのレンタルサーバーは保守はしっかりしているという
他のプログでは全部プログをもっているものが消えたこともあった
一方でいつまでキャッシュとかで犯罪を犯した人が記録が消されないので困ったという人もいた。
意外とインターネットは通信記録が残るから人物が特定できる
自分の経験で恐怖だったのは突然自分が病気で入院したときだった。
帰ってみてレンタルサーバーに支払う期限があと一日で切れるところだった。
それはカードの期限が切れていたからである。
その月で期限が切れていたからメールで連絡があったのだが入院していた時期に見ていなかった。
インターネットは必ずもメールを見ていないことがある。
自分はメールはあまり見ていない、見ているのは毎日書いているプログである。
だからプロク中心だからプログのコメントとか連絡されると見る
なにしろ忙しいのでいちいち対応できなくなっていた
そししてあわてて電話でレンタルサーバーに連絡した
カードの期限を伸ばすので消さないようにとお願いした。
それもなかなか聞き入れてもらえなかった
プログだけではない、ホームページも運営していた
ただこのて七年間は介護などでホームページはほとんど更新していなかった
だからプログ中心でありそのプログが消されると膨大な記録が失われので
自分の努力も水の泡となる
でも今回の大阪の中学生の男女が二人殺害された事件の犯人は45才でフェスブックとかしていて記録が残っていた。
そんな人もインターネットししているのが現代である。
労務者ならしていないようでこの前あった人もインターネットしていて詳しかった。
この辺には他の県の人が大勢除染などて入ってきている。
なんだからがらの悪い人がきて治安が悪くなったとか心配しているのもこの辺だった
犯罪は大阪で起きたからここてなくて良かったとなる
でも何かフクシマで起きたかもしれないとなると怖いことは確かである。
外部からの人は素性が知らないから困るとなる
この辺はとにかくいたるところプレハブの宿泊所が建っている
さくらのプログはおまけでやっているから力を入れていないというのは本当である。
何か他のメジャーなプログと違ってプログの情報を会社側で何も操作しない
他のプログではそメンバーで共有する機能があった。
だから会員になるとそこの内部で情報を共有しやすい
でもそうなると会社側で操作されるので嫌だという人もでてくる。
自分は何か嫌である。
さくらのプログは全くそういうことがない、何の操作もしないのである。
プログランキングとか何にも操作していないのである。
だからアクセスを増やすには良くないかもしれない
それでもセオ対策しているとか書いてあった。
今悩んでいたのがアクセス解析とか保存整理とかの問題である。
なぜリンク元がなしが9割もなのだろうということがわからなかった。
ブックマークが主だからだとなるとリピーターが多いのか?
でも読まれているページは500とかなる
ページビューは二つのプロクで2000以上になっているから最近また増えてきた。
しかしほとんどリファラーなしリンク元なしだからどういう人が来ているのかわからない外国から写真がすばらしいとか連絡があった。
これも返事はしていない、常時見ている人は写真だから外国でもいるとなる
外国だとどう使われているかわからない
だから良くオリンピンクのロゴがパクリだとわかったのか不思議である。
今度はそれで本にしてみようかとgoプログにも試しに作った。
アクセス解析が充実しているのがいいと思ったからだ。
そこは写真を出すのに便利である。livedoorもそうである。
でもlivedoorはアクセス解析では充実していないのでやめた
本を出すのにも対応していない
何かインターネット内にはいろいろな便利なものがある
ただそれを理解して使いこなすのがむずかしい
自分は十年以上インターネットしていてもそういうことがわからないのである
そういう技術的なものを理解することがむずかしかった
とにかく親の介護になったり自分の病気になったりしてから自分はなにかそうしたインターネットのめんどうなことにかかわることができなくなった
だからコメントでもいちいち答えられない
ただ暇をみてやっとプログに一日分出すのが精一杯だった
前は三食付きだし何も家のことなどする必要がなっ交野である。
介護になってから毎日家と格闘し続けてきたのである。
だから第一家のことが七年たっても整理できない
姉のことが写真でも残したものを整理されていない
着るものからなにから自分のものでも整理されない
母のものでも着るものなど整理できないのである。
整理という掃除もあるしこれもなかなかできない
だからゴミ屋敷になるというのもわかる
7年間も家にかかりきりでも整理できないのである。
まず何でも一人でやることは大変なことである。
例えば家事をするにも料理となるといろいろ食材を点検すること自体手間なのである。
そんなに人間はいろいろなことができない
だか以前として買い物だ食事の提供だ、掃除だ.......
休む暇なく追われているのである。
ただこうしてプログだと簡単に出せるからつづいたのである。
今年の夏は暑くてまた整理もしたくなかった
涼しくなったからともかく家のことでもインターネットでも整理しなければならない
本の整理もまた一苦労である。家が傾くほどの本があったが半分が古本屋にださずにゴミとして捨てた
ところが今度は新しい本をアマゾンで調べるために買うのでまた増えたのである。
本というのも整理するのに苦労なのである。
これも役にたつものがあると捨てられないから困るのである。
確かに読んでいても利用していなから読んだともなっていないのが多かった。
今は自分の文脈で利用しているから本は理解しているし利用できる
深く理解できる、本というのもインターネットより深い情報があるから今も必要なのである。
アマゾンでない本はない、安いものでまにあわせてもいくらでもあるというのは便利である。
だから今は仙台にも行かなくても情報弱者にはならないのである。
仙台の大きな本屋よりも情報は本は瞬時に買いるからである。
最近多少余裕ができたようだがまだまだ追われる生活だから苦しい
第一そんなにいろいろなことに人間は頭が回らないのである。
変えると一旦アクセスしたものが切れてしまうことが問題である。
そういう人は自分だけではない、簡単に変えられないということがこれも大きなインターネットのサーバーを借りる問題だったのである。
インターネットは以前として様々な問題があり解決されない問題がある。
ただこうした事情でも一日一回書き続けられたのはプログがあったからである。
2009年12月03日
NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て
NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て
●人間は弱いからあわれみの文学が生まれた
正岡子規は自分でも写生俳句を作ってきたからなじみ深い人である。そもそもあの若さであれだけの文学的業績を残したことはやはり天才だったのだろう。俳句でも若いときなどいいのはできないのではないか?40代でもいいのができていない、60代でいいのができたかなというのが自分だった。若いときは普通は血気盛んであり文学に向いている人は少ない、強い人は短歌や俳句や文学に向いていないというとき、体が丈夫だと強い人は自らの弱さを知って謙虚になることがない、俺は病気になったことがないとか何かで自らの弱さを知ることがないと文学に向いていない、文学では体が丈夫で病気をしたことがないという人は山頭火などがいるが比較的少ない、あれだけの旅行したのだから体が丈夫でなくてはあの過酷な旅はできない、でもそれは例外的存在でもある。啄木でも結核になった結果、自らの天才としての傲慢を砕かれて自らの弱さを自覚する短歌を後世に残すことができたのである。三島由紀夫も弱い人間だったが涙ぐましい努力をして強い人間となろうとして不自然な自決となったのである。公的な要素より私的な自決の要素が大きいのである。老醜の恐怖もありそれを公的なもの愛国心と転化されたからその自決は演技的でもあり批判されることになった。
誰でもス-パ-マンになりたい、でもなれない、ス-パ-マンとは異常な人間である。人間には弱さが与えられていることが他の動物とも違っている。弱肉強食の動物とは違う。人間に弱さがなかったら神など信じない、ニ-チェのようになってしまうだろう。ス-パ-マンは自ら神となってしまうのである。それを神が許すはずがないのである。若いときは体も丈夫であり行動に向いているが文学には向いていない、何か表現することに向いていないのである。正岡子規もあれだけ行動的社交的人間だったから文学に精を出すことはなかった。皮肉なことに子規も啄木も病気の結果あの若さで後世に残す業績を残したのである。 病気になると不思議に自然とか人間の共感が起きてくる。病気になるともののあわれが自然と生じてくる。それは自分自身のことではなくても他者の病気でも特に家族が病気になったりするとあわれだとなり同情するから文学が生まれる。姉も体が丈夫であり病気などしたことがない女性だった。それが頭から体から無惨な結果になり最後は病院でうめくようにして泣いて死んでいったとき本当にあわれだったとなる。それまではあわれみを覚えるような女性ではなかった。そういう人はこの世に結構いる。それでも老人になるとどうしても病気になる人が多くなりあわれだなる。そこにあわれみの文学が生まれることになる。
●柿の俳句について
子規が柿が好きだったというとき特別なことではない、その頃の果物は柿が一番多い、今のように外国からいろいろな果物は入ってこない、大正生まれの母も柿が好きである。干し柿も好きである。果物でも柿は食べられたからである。子規が柿が好きだったというのではなくその頃みんな柿は好物だったのである。
東大寺裏の旅館に泊まっていた子規が夕食の後に柿を食べて居た時、
近くの東大寺の鐘がなったのだそうで
この鐘は「初夜」と呼ばれるその日最初の鐘のことで、
翌日法隆寺を訪ね、
この風景と結びつけ句を読んだと言われています
俳句は短いから背景を知らないと深く味わえない、「初夜の鐘」というのもやはり鐘として心にひびくものがあった。これは茶店のようなところで外で柿を食って作ったかと思った。東大寺の近くの宿だった。そのあと法隆寺にしたのである。これはまた漱石の句の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」からヒントを受けたという。こっちは何か明るい感じがする。この句もいい句なのだろう。
子規泊まる昔の宿や柿の味(自作)
柿の味は日本の変わらない昔の味なのである。現実に柿はKAKIとして世界で通用しているからだ。 ビジネスホテルで柿を食っても情緒がなくなる。昔風の旅館も当時の風景とマッチしていてこうした句ができたのであり今の時代ではできなくなる。なぜか車の騒音とか様々な騒音の世界であり鐘の音のひびきも今とは違っているからだ。これが江戸時代になるとさらにそうなのである。文学もそれができた背景がありその背景が失われるともうそうした俳句もできないのである 。子規は果物好きだったからこんな句もあった。
。
これなんかも簡単な何でもない句のようでも死なんかな・・というところが普通の健康な人とは違っている。常に死を意識して作っていたから何でもないようで切実なものとなっていたのである。果物でも林檎でも梨でも食っていた。林檎はその頃みんな食っていたのか?都会だと食えたのか、結構高かったように思う。それなりの収入があったから他の人よりは贅沢していたのだろう。
子規を支えたのは友人でもあったが妹も目立たないが大きな役割を果たした。庭を子規の見やすいように作っていた。庭の花などが慰めだったからである。
薪を割る妹一人冬籠もり
この妹は子規の庵を死んだ後も守っていたという、俳句が写生だというとき自分も写生俳句を基本にしてきたから子規の業績が大きいとなる。他に子規がいい句を残しえたのは死を常にまじかにしていたからである。死は常に目の前にあった。だから事物を末期の目で常に見ていたのである。
柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm
インタ-ネットにこの柿の話はいろいろでていた。それをNHKで説明しただけである。ただNHKでは映像として話を展開するからわかりやすいのである。
2009年03月15日
映画-「殯(もがり)の森」を見て
亡き妻の思い出の詰まったリュックサックを、そうとは知らず何気なく手にとった真千子を、しげきは突き飛ばしてしまう。
認知症がどういう病気なのか理解しないとこの映画もわかりにくいだろう。認知症の人は何かを思い出になるものを特別大事にする。姉もそうだった。戦友からもらったパッグを肌身話さず持ち歩いていた。それは従軍看護婦をして4年間シンガポ-ルで過ごしたことは死ぬまで忘れなかった。そこで一番親しい人からもらったパッグを大事にしていた。戦友とは認知症になる前までつきあいがあった。認知症になってからは年賀状をもらっても返事が書けないので音信が絶えた。バッグには貯金通帳やら保険証やら大事なものが入っていたのでそのパッグをなくしたと毎日のように騒いでいた。親しい人の家に行ってもここでなくしたと責めて迷惑をかけた。この映画で認知症のシゲキもリュックサックを大事にしていた。その中には思い出の大事なものが入っていた。それを手にとって捨てようとしたときシゲキは怒ってつきとばした。そのことは認知症の人と接していれば理解できる。
認知症の人は今の記憶が失われ過去に生きる度合いの方が大きくなる。過去に執着して語り行動する。病院の認知症の人もそうだった。二〇年前の死んだ夫のことを死んだと思っていない、毎日「とうちゃん、とうちゃん」と呼んでいた。何度死んだと言ってもわからなかった。他にも認知症気味の女性が看護婦を孫と思って名前を呼んでいた。この映画でも真千子は妻になっていたのかもしれない、この映画では死別もテ-マとなっている。死んだ人とは永遠にあえない、永遠に会えない人を求めて森に入り込みそこで最後に穴をほり死んだ人をいとおしむ。それがもし現実としたらあまりに悲しいとなる。死んだ妻を求める、永遠に死んだ人は帰ってこない、その死者への想いは人によって違う、やはり若くして死別すればなかなか忘れられないだろう。人間は六〇以上とかなると新しい人間関係を結ぶのがむずかしくなる。だからこれまで親しかった人がよりどころとなる。認知症の人は今が記憶できないのだから余計にそうなる。ただこの映画のテ-マで森の中で死者をいたみ死別の悲しみが癒されるとは思えない、森の上のう方を見ている真千子は作りすぎている。その他そんなに作りすぎた不自然でもなかった。そもそも自然は無情ではないか、自然は人間の死に無頓着であり、もちろん生物や動物の死にも無頓着であり非情なのである。森に入って死別の悲しみがいやされたりそこで何か死別の解決方法はないだろう。
「殯(もがり)」とは、敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間や場所を意味する言葉
この言葉は意味深である。しのぶ時間、場所が大事である。それを美的に構成した。でも人間を偲ぶことと自然を偲ぶことが一致するのかというと死んだ人を思うときどうしてもその人の面影や格好や人格的なものに想いをはせる。そして認知症になると自分が一番存在し執着した場にこだわる。男は会社に行くとかグル-プホ-ムが会社であり介護士は部下だと思っているのはそのためである。会社が人生だったのである。人間は言葉が通じなくても心を通じさせる方法はある。スキンシップであり体で通じ合わせる、それが認知症の人にとっては介護となっている。心も安らぎ落ち着かせる方法だからである。今でも姉と病院に入ってからリハビリなどでスキンシップしたことが思い出に残っている。あまり家族でも体をふれあうことがないが介護になると体をふれあうことが自然と多くなるからだ。 過去にはしのぶ時間を十分にとっていたし場所も自然が豊だからそういう場所で偲ぶことができた。今はそうした時間も場所もないから死者はいたむ文化が喪失している。死者はいむものとして早くモノのように廃棄されかたずけられる。生きているときあれだけ介護しているのに一旦死ぬと早くかたずけてくれ、不浄なものとしてこの世から早く消すことが望まれる。この映画はやはり認知症のことがよくわからないと理解しにくいだろう。死別もテ-マになっていたが死別がどうして癒されるのか、美しい森の中でいやされるのか?そうはなっていないし死別の悲しみはいやされるのは何かまた別なものであろう。ただ死者は美化されやすい、本当にそんなに死者は理想的な人だったのか、死んだからこそ美化されやすい、いい面ばかり見えて悪い面は消えてしまうから自然と一体となり美化されたものとしてイメ-ジされてくる。それで祖先は山の神となり村に恵みを与えるとかなった。そういう日本的死者の文化もこの映画のテ-マとなっていたのだろう。
2009年03月11日
クロ-ズアップ現代-貧困が教育を奪うを見て
格差社会、不況が教育にしわよせがきている。NHKの高校中退が多くなっているのは貧困のためである。授業料が払うことができないなど教育費に金をかけられない親がいる。このテレビ見て一〇年前くらいだったか二〇年前だったか不登校のことをしきりに放送していた。その不登校とは学校不適応者でありつまり勉強したくないから学校に行かない生徒のことだった。その生徒をどうして学校に行かせるかが課題だったのだ。今は貧乏で行けないというのもずいぶん時代は変わったものだと思う。格差社会が最近の不況で本当に深刻になり様々なところで影響が大きくなっているのだ。
鉛筆・消しゴムだけでも、たくさんある子・全くない子と差があるのが実情だ。
あるところではノ-トをもらても書き込みを節約するとか、そんなことまでしているのかというとこれは戦前の貧乏時代に逆戻りなのかと驚いてしまう。戦前は鉛筆自体貴重だから親指より短くなるまでつかむことができないくらいまで使っていたしノ-トもこまかくびっしりと書いていた。ノ-ト自体が貴重だったからである。そういう親戚の人いたからその話を聞いた。インタ-ネットでは鉛筆の歴史を調べればいくらでもそういうことが書いてある。こんなに豊かな使い捨ての時代を経験してきたのにそんなにまでなっているのかというのがピンとこないのである。
教育を考えると日本人は教育熱心である。江戸時代にすでに読み書きできた人が多い、寺子屋で学習していた。明治になってもさらに教育が立身出世を決めるということで実利的な面から日本人は拍車をかけて教育熱心になった。末は博士か大臣かである。これは今でも受け継がれている。教育の目的は立身出世である。今でも東大に入れば立身出世は約束されている。東大派閥が官僚を牛耳り天下りで巨額の退職金も労せずして入ってくるとかある。学歴社会になったのもそのためである。
でも戦前の教育は貧弱だった。義務教育もままならないものだった。子守りで学校にすら行けないとか学校に行くこと自体むずかしい時代でありこれは学校すらない後進国とにている。今日のテレビをみてそんな時代に逆戻りしているのかという驚きだった。教育を考えるとき日本人は向学心が旺盛であり明治には新しいもの欧米から取り入れるために特に熱心になった。今日の日本人の繁栄を作り出したのは日本人の向学心だったのである。戦後まもなくも貧乏であり向学心はあった。その向学心も物欲の向学心、アメリカのような贅沢な生活をしたいということで勉強していた。日本人の教育は常に立身出世の向学心でありこれは明治時代から加速されて行った。
団塊の世代から異常なほどの学歴社会となり有名大学を目指す受験競争が熾烈となった。本来学問はそういうものとまるで違ったものからはじまった。真理の探求であり悟りをえるとか宗教的なものが哲学的なものが学問のはじまりであった。それがすべて実業としての学問に変わったのだ。だから私の場合はどうしても学校で懸命に学ぼうとうすることができなかった。だから高校もかろうじて卒業して大学では遊ぶだけで学問の基本すら身につけず終わったのである。意外と向学心は社会に出てから起きる場合がある。低学歴なものは社会の底辺の仕事しかできない、私が経験したのも流れ作業とか全くロボットにされることだった。それでそうした職業だけは嫌だと思ったが何か生きがいのある仕事につくことはできず結局無職のまま今日にいたったのである。これは団塊の世代は一方で金の卵とか集団就職の時代であり大学に行けるのは地方では何人かしかいなかったのである。高校にすら行けない、中卒も普通にいる時代だったのだ。
現代の急激な格差社会はまだよく社会で認知されないし理解されていない、だから対応も遅れているのだ。ノ-トも節約して鉛筆も買いないのかとなるとどうしても理解できない、これほど使いすてにしてきた時代なのにと思ってしまう。向学心があっても貧乏で学べないのが戦前まであり戦後まもなくつづいた。次に貧乏でなくなり教育できる環境になっても学習意欲が起こらず中退する人とかの時代になった。大学に50パ-セント以上行く時代はすでに学習に向いていない人も多数行っているのだ。そういう時代に格差社会になり鉛筆とノ-トすら十分に用意できないという格差不況社会を今まで経験した時代からすぐには理解できないのである。格差社会はやはり不況もあり深刻になっていることは確かである。
2009年03月07日
本は消えるのか? (インタ-ネット時代でも編集は重要になる)
●出版の過程で消えるもの
出版は、製紙業−印刷業−製本業−出版社−取次−書店というパイプラインが正常に稼動して生まれてくる。出版社は創造する編集部門と販売部門とで構成されている。
インタ-ネット時代になったとき、製紙業とか印刷、製本、取次ぎ、書店は必要なくなる。出版はこの過程をみるだけでいかにコストのかかるものかわかる。この時点で出版は特別なものであり組織のバックなくして出版できないものとなっていた。ロ-マ時代でも紙の値段が高すぎて紙を提供する方が価値があった。作家の価値は低かったのである。出版は一見作家の価値が著者の価値が高いように見えているが実際は違う。販売部門が大きな力を持っていた。宣伝するにしてもおおがかりになると金がかかる。だから文学賞などは販売部門が大きくかかわり大々的に宣伝して売りこむ。中味はさして問題ではない、こんなのがはやっていますよ、流行なんですよと価値のわからない大衆に宣伝して売り込むことが大事なのだ。要するに大勢の人に売ろうとすればあまりむずかしいのは売れないから大衆に読まれるようなものにする必要がある。だからそういう人が商売のために出版社のもうけのために選ばれ作家はただ利用されてあとは売れなくなってもかまわない、また粗製乱造して売り出すだけであり販売部門によって本が売れるか売れないか決まるからそうなる。ところがインタ-ネット時代には×印のところはすべて消える。これらのものは価値がなくなる。本をモノとして運んだり並べたりするだけの作業は必要なくなるのだ。そもそも書店は本の中味はほとんど関係ない、本のことなど知らなくても出版社から送られる本を並べるだけでありあと売れなければ返品するだけである。つまりなんら創造的価値あることなどしていない、野菜とか果物とか食料品を売るより簡単なスキルのいらない職業だった。それでも街の文化事業しているような感覚になっていたのはやはり書店がこれまではあらゆる情報の窓口の役目を果たしていたからである。
出版では残るのは編集部門である。編集は相当に創造的なことであり相当に優秀な人しかなれない、なぜなら一冊の本を編集することはその作家なり資料なり情報なり書く対象について詳しく専門的知識ももっていないと編集できないのである。編集者の役目は腕のいい料理人とにているのだ。食材に通じて独創的な料理を作り出す、美的感覚も必要である、料理人も明らかに芸術家であるからだ。食材とは様々な情報であり知識である。それを見極めて料理してお客さんに出すのである。他の仕事はただ本をモノとして運んだり並べたりする仕事であり誰にでもできるのだ。でも本の説明して売る人はやはりその本に通じているのだから売りやすいとなるが書店ではそういう人はまれである。本を売る人は中味は関係ない、ただ売るだけである。レジの仕事と同じである。その中味は関係ないのである。つくづくインタ-ネットで8年間ひたすら書き続けてわかったことは書くということも訓練であり書くこと自体が創造性を育むものだと思った。書きながら新しいアイデアが自然と生まれてくるときがあるのだ。インタ-ネットではまた必ず他のサイトやキ-ワ-ドで参考にして書く、編集作業が自然と書くことのなかに行われているのだ。インタ-ネットには料理するための食材が豊富だからそうなるし書きながら利用しやすいのである。でもその情報は本の世界に比べたら微々たるものである。郷土史関係は別にして微々たるものである。それでもその微々たるものでも利用しやすいから相当な効果を発しているのだ。プロの作家になるには膨大な本が必要になったのは書くためには食材が必要であり豊富な食材がないと美味の料理を提供できないからである。
インタ-ネット時代になっても編集はさらに貴重な重要な仕事となっている。インタ-ネット自体編集作業なくして読めない、様々な情報や意見や知識があふれていても何が重要で何がどうなっているのか編集作業が必要だからだ。それをテレビなどではしていた。情報を加工して料理して提供していた。それは偏向になってもわかりやすいから大衆は見ていて一方的に洗脳されることにもなったのである。今回の小沢氏の西松建設の献金問題でも写真と図でテレビ並に説明していた人がいた。そこにはいろいろ参考にするものがあった。でもかなり手間暇かかるからそれだけ暇ある人がいないからどうしても編集したものを提供する場が必要になっているのだ。編集の仕事はますます重要性をましているのだ。だから出版でも編集できる人はやはりインタ-ネット時代でも生き残るしそういう新しい仕事が生まれる。今は過渡期で仕事になっていないだけである。どうしても大きな組織の一員としてしか働く場がなかったからである。
●インタ-ネットに対応した仕事はまだできていない
インタ-ネットはまだ十年くらいであり、ずっと過渡的なものとして実験としてあった。その前哨戦としてニフティがあった。その延長上に発言している人はパソ通からの経験でインタ-ネットに則した情報発信をしている。それで個人として有料にしている、田中宇氏も有料にすることになった。宣伝とかでは自立性が得られないとかやはりインタ-ネットになると個人が主体だから個人に金払うことになる。個人でもメデアとして発信できるからだ。これからは作家や著作者、個人のジャ-ナリストがインタ-ネットで仕事ができる。個人のプロが価値が高まる。出版でも新聞でもテレビ放送でも実際仕切っているのは組織でありその中に作家、出演者が組み込まれて報道が成り立つ、そのコストも高いから大きな組織に金で買収されて個々人などは発信できなかったのである。そのコストが極端に低くなったとき個々人の作家やジャ-ナリストの価値は百倍にも高まる。そういう時代なのだけどまだそれが認識されていない、インタ-ネットは無料であり価値もそれだけのものであるとしかなっていないのだ。
今までも出版なら大手や大きな組織がバックにないと出版は無理である。まず書店にすら本は置けない、書店は大手出版社から本の中味など関係なくモノとして流れてくるものを処理するだけの場である。そういう場が今までは必要だった。雑誌を売るにしても街の書店がその窓口になるのだから出先の店として必要であった。読者も書店からしか情報が手に入らないとなれば書店は重要となる。でも今やインタ-ネットで窓口がふえたのである。本というのはなくならない、紙で読む活字と電子モニタ-で読む世界は何か違っている。読むだけではない書く方も違っている。パソコンで書くことの一番の相違は書きながら創造してゆくことなのだ。書くことにより創造がうながされてゆくのだ。情報の食材がキ-ワ-ドからいいがでてくるときは特にそうなる。その時編集作業が自ずと行われていい料理ができるのだ。かといってインタ-ネットとかパソコンとかは万能ではない、例えば皮肉なことはニフティでやっていたとき、これは百科事典なのかと思っていた。本当はレスポンスが主要となる対話形式として電子通信ははじまっていた。今こそインタ-ネットは世界的百科事典の役目もになっているし自分がやっていることはただ百科事典の項目を書いて無料で引用させているだけだとなり虚しいともなる。例えば上野霄里氏のうよな人なり思想なりはその全著作をしり人格をしらなければ理解できない、百科事典のように引用するものではないしできない、百科事典のように引用するのも必要である。郷土史などはそうなりやすい、学問的にもそういうものがあるがその人なり思想を知る場合はそんなこと不可能なのである。
田中宇氏が有料配信開始
http://www.mynewsjapan.com/reports/1007
2009年03月02日
ネットの無料モデルに“マスメディア”の未来はない
ネットの無料モデルに“マスメディア”の未来はない
http://diamond.jp/series/kishi/10029/?page=3
危機の打開へ若い活力を 池田大作-毎日新聞
http://cgi.2chan.net/n/src/1235954405573.jpg
テレビでも新聞でも今や報道自体がやらせだとかつまらないとか芸人ばかり集めて勝手に騒いでいるから若者は見ないとか毎日新聞は外国にありもしない日本人の性的なことで卑しめることを書いてそれを外国人がネ-ムバリュ-で信じたから大ひんしゅくをかった。変態新聞としてネットでは毎日こきおろされている。今度は池田大作がコラムに書いたのでこれもひんしゅくをかっている。毎日新聞は聖教新聞を刷っているからそれが収入源となっている。他でも聖教新聞を刷って収入源となっている新聞社がかなりある。福島民報もそうである。だから池田大作の文を今回と同じようにのせたことがある。また有名な西沢潤一氏とかも池田大作たたえる記事をのせているし創価をたたえる記事をのせている。それも収入の大きな部分が創価に頼っているからそうなる。テレビですら宣伝がカルト宗教に堂々と不況で採用される。マスコミでもテレビの影響はこれまで甚大だった。何百万人に報道できることはすでに大きな権力でありマスコミが実際は第二の権力になっていた。テレビにでただけで名前が知られ有名になれ社会的認知度があがるのだ。だから政治家はテレビに出たいしテレビで顔売りたい、テレビにこびることになる。大衆も現代の政治は劇場政治だというとき前の小泉首相のような俳優のような人が人気がでて政策など関係ない、劇として面白いから票を入れるのだ。郵政民営化の意味を知って投票した人など一握りでありあとでみんな煽動されたことに後悔している。その時の劇をうまく演じた人に人気がでて政治を左右する。大衆はまたそのように操作されるしテレビが一番大衆を操作するのに適したメデアだったからテレビが力をもっていたのだ。そのテレビが力をなくなってくる。するとどうなるのか新聞でもテレビでもその収入源が半分は宣伝費である。だからトヨタなどは巨額の宣伝費を出していたからトヨタの悪口は書かないとなっていたのだ。つまりメデアは金で操作されるのである。
しかしでは大衆は視聴者は本当に報道が何によって支えられているのか考えたことがあるのか、本当に公正な報道を望んだことがあるのか?新聞は一応購読料を払うから宣伝が半分の新聞など読みたくないから新聞をとらないとかなってゆくかもしれない、テレビもつまらないから見ないとなってゆく、でもでは大衆は本当に公正な真実の報道を望んでいるのか?金を払いたくない、報道は情報は無料で入ると思っているのか?それを真剣に考えている人がどれくらいいるのか?2ちゃんねるでまにあうのか?個々のプログで十分なのか?それが今インタ-ネット時代で問題になっているのだ。田中宇氏なども宣伝だけでは公正が保たれない、収入が得られないと個人で購読料をとるようになった。一年で1万円くらいになると高いかもしれない、それでやめる人もいるかもしれない、個人になると高くつくのである。でもインタ-ネットは個人のメデアだから個人に金を払うようになるのだ。それでなければ良質の情報は出すことができないのだ。海外に取材するのも金もかかるし報道の中立性とか公正を求めるならそうした援助がない、宣伝にたよっていたらできない、今までの報道はたいがい組織がバックにいて成り立つ、出版だってそうである。一個人など出版に参入することはできない、もちろん放送になど参入できないからマスコミの一方的報道の洗脳に甘んじていたのだ。 でもインタ-ネット時代本当に公正な報道が可能になってもそれを支えるのは誰なのかとなる。すべて情報が無料で手に入ると思っているのか、もちろん報道することは無料になっている。でもその手間や調査や取材となるとそれなりの負担がかかる。これは個人では負いきれないからどうしても負担をしてもらうものがでてくる。宣伝費をかせげばいいというがそれならマスコミは同じになるではないか、報道が自由でも公正な報道を望むとしてもそれを大衆は視聴者は真剣に考えているだろうか?そこが疑問なのである。
いづれにしろグ-グルのブック検索がはじまったりメデアは変わらざるをえない、出版界もこれもどうしても組織、権力あるものが牛耳る世界である。本当にこの世にある本がグ-グルで検索され少額の資金で読まれるとしたらどうなるのか?家にいながら大図書館に常時いることと同じになる。マルクスはその一生の大半を大英国図書館で過ごした。それだけの資料や本を読む必要があったからだ。もしインタ-ネットでそうなったら貧乏人でも大学者が出てくるかもしれない、現実郷土史関係では全国的に資料が豊富でありそうなりつつある。マスコミは衰退して報道はインタ-ネットに移ることは見えてきている。でも本当に公正な自由な報道を支えるものは誰なのか、それが今問われているのだ。金は出したくない、別に2ちゃんねるで十分だとなっていいのか、事件でも真実を追求するにはやはりプロが必要だしいたるところで医療関係でも技術関係でもプロが必要になってくる。それはこれまでマスコミとか組織でできた、ではその支えがなくなったとき誰が代わってやるのだろう。そんなこと真剣にインタ-ネットの視聴者は考えているだろか、そうならやはり報道は変わらないのではないか、つまりインタ-ネットの時代は個々人が報道する主体となりうる。だからこそこうして私も報道を考えるようになったのである。今までは一言も発言する場などなかったからである。
補足
ネットの無料モデルに問題があることは同じ意見だった。ちょうどこの記事が2ちゃんねるで見たのだ。
それで題名を変えた。なぜなら自分と同じことを考えていたからだ。
インタ-ネットにいくらプロが出しても金にならないからインタ-ネットではプロは養成されない
2ちゃんねるだと軽薄になるし何らかのプロが導く、編集することがどうしても必要になる。
インタ-ネットはまたいいものがあってもばらばらでありどこに何があるのかもわからない
するとその時点で何が重要なのか見極めることもむずかしくなる。
例え重大なことを書いても目に留まらない、見られない、つまり書いても書いてあることすらわからない、
インタ-ネット時代の報道をどうするのかそもそもインタ-ネットの視聴者自体真剣に考えていない
そこに大きな問題があるのだ。
本は消えるのか?
(インタ-ネット時代でも編集は重要になる)
http://musubu.sblo.jp/article/27434969.html