2023年11月17日

情報社会の変化ーマスコミからインターネットへ 【相馬新報の意味するもの】


情報社会の変化ーマスコミからインターネットへ

【相馬新報の意味するもの】

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●マスコミからインターネットへの情報社会の変化

社会が変化するというとき、現在の特徴は情報化社会になったということである、この情報化社会というのは今までにないことであり、なかなか理解できない、この情報化を促進したのはインターネットである。
この変化の一番大きな点は個人でも、新聞社出版社テレビ局ともなる、それが個人でできるということが画期的なことだったのである、 これをわかりやすくみれば今までの情報社会というのはマスコミュニケーションであり、マスコミとはマスは大衆を相手にすることでありそれでマスコミが巨大な力を持ったのである。

テレビを通じて国民へ1000万以上の人がそのテレビを見ているということがどれだけ力を持ったかということである、だからこそテレビに出ただけで名前が売れて、それで国会議員になった人も結構いる、中身がなくても、名前が売れていればそれで良かったのである。それで芸能人でも、国会議員にもなれたのである、それだけマスコミの力が六局のテレビ局がどれだけ力を持っていたか分かる、 

でもこの独占された情報世界から、インターネットへの移行は情報環境変えてしまったのである、最初は通信というのは子供の遊びのようなものだったのである。文字をやり取りして、話し合うをするということが何か理解できなかった、でもそれが実はインターネットの普及する始まりだったのである。

●個々人がメデアとなり発信する時代

つまり、個々人が、テレビ局や新聞を通じて、発言するのではなく、そうした媒体、メディアを通して発言するのではなく、じかにに個人が発言すると言う場をつくったからである。でも依然としてそこは制限された場であり、富士通のニフティなどでは、シスオペなどがいて自由に発言できなかったのである、それが急激に世界的にインターネットが普及したのである。特にスマホはパソコンがなくても、その代わりになるから、それでさらに、加速したのである。

世界的に見ても時代的に見ても、このインターネットの環境の変化が大きなものだった。つまり世界が情報化社会になったのである。は今までのマスコミニケーションとは違ったものなのである。 これまでは政府から認められた。認可された6局のテレビ局しか放送できなかったが。今や簡単に個人がyoutubeのようにテレビ局になるのである。この変化も大きいものだった。マスコミュニケーションとは認可された六局の情報の独占だったのである。

ニュースでもそこから知ることができなかったからである。そうするとその六局で国民でも大衆でも情報を操作することができる。それは巨大な権力を持ったということである。誰がテレビに出すか出さないかを決めることができるし、何を報道するか報道しないかも決めることができる。 でも自由に発言できる場ではない。NHKでもそうでありNHKが発言する人を選ぶのである。だから必ず偏っているのである。

不思議なのはインターネットでは誰でも発言できる。放送できる。ただ問題は発言できても放送できてもそれが今までのテレビのようには見られたりしないのである。見られないかったり読まれなかったりするのが普通なのである。そこで認められることは容易なことではないのであ。なぜなら1000万人の人間が自由に発言したりテレビ局になったりしたらどうして見るのか?そこでは全く見られないし読まれない人も出てくるのである。そんなに多くの人をチャンネルを見て回ることが出来ないからである。

●情報とはなになのか

そもそも情報とは何なのか?それは常に社会でもあった。例えばどこかに鹿がいてみんなに知らせて狩りをするとかである。その情報伝達は人を媒介としてあり人から人へ伝えることが普通だった。情報とは噂話のようなものでもあった。噂話だと人から人に伝えるからである。伝えるうちにそれが誇大化して真実とは違ったもになる。

でも情報を伝えるときこうして噂話のように個人から個人に伝える。そこにはどうしても大勢に伝えるということはできない。だから情報というのは限られたものとなっていた。知ることは狭い範囲のことである。極めて限られた情報しか得ることはできなかったのである。 特に閉鎖的社会で村で生きてきた日本人は外の世界と関わらないから得られる情報も限られていたのである。

でもそういう世界ではフェイクニュースとかに騙されることもなかった。情報というのは狭い範囲だと実際にその場に立って確かめることもできるからである。それが情報が世界的になれば。とてもその情報を調べることもできないし。それで騙されるのであ。それを証明したのがイラク戦争での一羽の海鳥が油まみれになっていたことである。それが作られた映像だったのである。別に周りは油まみれになっていなかったからである。だから、この一枚の写真を見て、イラクは酷いと世界中の人が思った。

一枚のが真でそれだけ影響があったのである。それはとても世界となれば、その場に立つこともできないのだから。その一枚の写真から判断するからそうなったので。
ただ、ここで言えることは、情報が世界化すれば。マクルーハンの言うように世界で起きたことが隣の村で起きたように影響するということである。 日々世界の事件が報道されるが、その場に立ってみることはできない。だからどうしてもそこに誤解が生じるのである。 

情報環境で変わったことはテレビでも六局だけが1000万以上の人間に報道する時代は終わった。誰でもテレビ局にもなれるし新聞社にもなれるし、出版社にもなる。それも誰でも簡単にできるので。プログなど簡単に誰でもできる。でもそこに写真も載せられるし、文章も載せられるし情報の蓄積もそこでできる。だからこんなものでも個人でメディアを持つということがどれだけ力を待ったかを知る実感したのである。ただ、これが見られるのは最高に難しいということである。六局をみんなが見ていた時は集中して1000万人の人間が個人が放送するようになったらとてもそこで見られるということは不可能にもなってしまったのである。

●相馬新報の意味するもの

そもそも情報というものは何かということである。人間が狭い範囲で生きていれば。情報は常にその場に立って確かめることができる。私自身が相馬新報というのをプログで書いているがその場を俳句にしたり報告している。
でも全国放送でもないから全国の人を相手にしているわけでないからその場に行って確かめることも可能なのである。写真に撮ったものでも、その場に行ってじかに確かめることができる。すると実際見たものと違うとも感じることができる。

このことが今までの情報社会とは違っているのである。 何か狭い範囲だと?その道端にあるであれ小さな石ころであれそこに関心を持つ。一軒一軒の家にも関心を持ち一人一人の人間にも関心を持つ。マスコミだと芸能人とか有名人しか相手にしない。だからそういう人たちは大衆でも関心があり、知っているからである。

だから最近週刊誌を見てもテレビを見てもつまらないと見る。そうしたマスコミの相手にするのはみんなが1000万人以上の人間が知っていることであり、興味あることである。芸能人というのは、いつでもテレビで出ているから親しみがあり。そのために関心がある。でもそれはマスコミの時代からそうなっていたのである。マスコミを大衆を相手にするとそうなる。

でもそれもつまらないと思うようになった。これはやはりインターネットが生まれて情報環境が変わったからある。大衆を一千万とかを単位にすれば常にそうなるとみんなが関心あるものをとりあげる。するとみんな同じものとなり週刊誌すらそうでありつまらないと見た

●一軒の自転車屋の死が報道される意味

例えば近くの最近死んだ駅前の自転車屋の星淳一氏のことを偲び私は記事にした。そんなこと普通はおそらく相馬地域でも関心にならない。でもこの地域に住み、自転車を持っている人は関心を持っているのである。そしてなぜか不思議なのは駅と一体化して駅に降りると死んでもその人が迎えに来ているような感覚になったのである。
その駅前の自転車屋は駅と一体化していたのである。だからこういうことを報告するのはインターネットができる。全国放送のテレビ局で放送したところで誰も観ないからである。福島県の放送局でも報道しないでもでも地元の人にとっては関心あることなのである。

 情報と言うのは、実際はなんでもじかに見て、その場に立って、その人とじかに会うということこそリアルなものとして伝わるのである。マスコミュニケーションでは何千万人も相手にしていたらそんなことはあり得ない。だから。何千万人もが知られるものとして、芸能人やスポーツ選手やそういう人たちを報道することになる。
でも最近そういう報道を見ても自分とはなんか何の関係もないとなり。つまらないと思うようになった。それより近くで起きた事件があり。事故でも必ず関心をもつのである。それは身近に感じるからそうなる。あそこで事故起きたから危険だと感じるからである。
だから相馬新報というのも徐々に認識されて読者数もかなり増えた。 やっぱり地域でも知らないことがありそれを知り得るということはから出来るからである。

●文明の時代から文化の時代に―時間軸で見る世界

そして今文明という大きな枠組みから文化という時代になっている。また、東京一極集中から地方へ分散するという時代になっている。情報もまた同じなのである。東京一極集中から地方へ地域へ分散する。それは文化の時代となり。地域に根ざした文化の構築が課題となるからである。だからせまい地域だと一つの石ころでありそれに関心を持つ。そして石であれ木であれ山であれアイデンティティ化するのである。自己同一化してゆく。それは中世時代の回帰になる。

cultureはcultivateでありその土地土地を耕し掘りだすことにありからだ。
情報にしても狭い範囲だと常に現実にそれを見ることもできるし、触れることもできる。より具体的であるより身近でありそれはその人の生活にも直に関わってくるからである。

そしてまたマコミュニケーションと違うのは空間も狭いのだが時間軸で見ているということである。私のプログにしても、すでに20年以上書いているからである。すると20年前のことでも知ることができるのであ。最近隣の人が他に家を建てて移動した。そこが空家化して今は家も壊され更地になっている。
でもその時の写真が残っていた。大きな平たい石がありそこで奥さんが洗濯ものを干していたのである。そのとき、そこに生活があったのである。今は空き地になり何もない。何か暮らしがあるときその土地も家も活きていた。だからこそ原発事故の避難区域になったところは人が住んで居ないから人の暮しがないから死んだようになってしまったのである。 その写真にしても普通なら誰も関心などはない。でも私自身は隣にいたのだからいつも見ていたから関心を持っていたのである。でもその奥さんと一回も話ししたこともないのである

やっぱりこのようにプログは狭い地域でも時間軸で見るということが違っている。記録として時間軸で残されるのである。全国ニュースだったら、その場その場で消えて、あと継続されないのである。狭い地域だったらこのように継続して見ることができる。そこに何もなくなっても、かつては何があったと言うことを記録されるのである。だからそこに何か地域として意味を与えることになるかもしれな。
いずれにしろこのように情報環境が変わったということを知るべきである。テレビばかりから情報を得る時代は終わったのである。ただ、情報の量が莫大に増えた時。それを処理するということも不可能になってしま。ただ、リアルに情報を得るのは、やはり狭い範囲なのである。

田舎の冬の一日【写生俳句】

メデア(仲介するもの)によって歪められる社会 
(マスコミからインタ−ネットへ)






2023年07月31日

なぜ新聞が読まれなくなったのか? (新聞社に勤めていた人も読んでいない)


なぜ新聞が読まれなくなったのか?

(新聞社に勤めていた人も読んでいない)

●それぞれの住んでいる場からの報道はできる時代

新聞社に勤めていた人さえ新聞を読んでいない。今日はリンクの機能がないから一つの記事について深く知ることができない。いろいろな記事が新聞に出て一覧性があるということがあったが、返ってそれが不便なのである。新聞というのはいろいろ手間とお金でかかりすぎるのである。新聞という紙面の作り方にも問題があった。

それはどうしてなのだろうかと思うと社会は人間は空間軸と時間軸で必ず起きている。そこで何か起きたとしても空間軸と時間軸で必ず見る必要がある。ところが人間は空間軸でも。狭い範囲でいつも生活している。すると例えば福島県でも何が起きているか?自分の住んでいる場所なら。わかるのだが。他だとなかなかわかりづらくなる。それは気候とか違っているからである。福島県だとハマナカアイズに分かれている。そして会津となると山国であり、その風土も浜通り相当に違っているのである。それで会津のことはなかなかわかりにくいのである。福島県といっても知ることが難しいのである。

だからこれが東北地方とかでも広がるとなかなかわかりにくくなる。つまりまず事件でも何か問題が起きた時どこで起きたかということが問題になる。だから何か起きることがTake placeなのである。場所が問題なのである。場所とは空間軸でありでもその空間軸も広いのだから分かりにくいのである。
もう一つは時間軸として事件も起きているのである。なぜなら何か事件が起きるとしてもそこに歴史というのが必ず知る必要がある。歴史という時、大げさなものでなく例えば家族があったとするとその家族も時間の中で形成されている。その時間でも親から祖父母からその前の先祖まで関係していることがある
実際、事件というのは何かそうしてカルマが関係しているのである。その家に積み重ねられたカルマは事件として現れてくるのである。だから事件でも突然起きてきても時間軸で見ないとわからないので。それは世界で起きていることでも同じである。ウクライナでなぜ戦争が起きたのかというときまず空間軸でみる。それは比較的わかりやすい。でも空間軸でもウクライナというと、ロシアというとてつもなく広いのである。延々として森が広がっている。それを日本からすると理解しにくくなるのである。そして時間軸で見るとさらに難しくなる。それはそれぞれの国に歴史がありだから問題がまた起きてくるからである。 

●空間軸と時間軸で理解する

新聞が衰退したのはマス(大衆)を相手にしている。マスコミという。何千部も売るとしたらとにかくそれだけの人数を相手にするとなるととても深く見ることは伝えることは不可能になる。その土地から離れて空間軸から離れて。ただマスコミは大衆を相手にする。それでニュースでも解説でも空間軸と時間軸で理解できない。突然。事件が起きてそれを報道してもすぐには理解できないのである。

でも狭い地域だと自分の住んでいる場所だとある事件が起きればその土地と結びついてまた、時間軸で見るから理解することがある。 ただ、その土地、土地に住んでいても。時間軸で理解することは非常に難しい。その土地に100年前、200年前、300年前にどうだったかなど理解することが難しいからである。ただ、狭い地域に住んでいればその土地のことを肌で知っているから理解しやすいとなる。 

現代の情報環境は前とはあまりにも違ってもうマスコミを相手にしていない。そのツールとしてパソコンやスマホが生まれてさまざまな情報に接する手段を得たからである。マスコミは何千万人も人を相手にしているのだからそれができない。福島県でも広いからその土地、土地のことをすべて報道することはできない。地方新聞にしてもその範囲が広いのである。また、一つの事に関心を持っても新聞だとリンクして深掘りできないから読まないと言う人もいる。それはインターネットとかで一つのことに関して深く知るということができるようになったからである。 

やはり報道するにしても狭い土地ならその土地のことを知っているから知りi抜いているからできる。空間軸でも狭い土地でもその土地全体を知るということもまた難しい。
例えば、相馬地域でも飯館村も相馬藩内であった。でもその土地ときこうでも飯館村だと平地寄り500mも高いとかとなり夏は涼しく冬は寒いとなる。その感覚的なことがわからないのである。特に私は車がないから自転車でゆくから、その感覚を肌で知るっているのである。その土地を知ることはやはり肌で知ることである。そこに車で行き来してもわからないことがある。福島県が暑いとき35度とかになると言う時私の住んでいる相馬地域はそうはならない。なぜなら海から風が吹いてきてそれが涼しいからである。

福島市は盆地でありそこで熱風は吹くとなる。それで自転車で夏に福島市の方から峠を越えて浜通りの方に出たとき涼しい風が吹いてきてほっとしたのである。なぜならそのとき熱風が盆地の方になると吹いててきていたからである。こうして。風土のの違いがありそれを遠くからはなかなか理解できない。そのことがその土地に対して何か起きても分かりにくいことなのである。それで原発事故があったとき丁度、3月11日頃海から東風が吹くのである。その風が山の方に吹いて飯館村とか、福島市まで放射性物質は大量に流れたのである。それは風の影響であり季節的な影響があり、不運だったのである。

このように、その土地のことを理解しないと何か事件が起きても問題が起きても理解しにくいのである。福島県でもハマナカアイズと広いから理解しにくい。浜通りだと福島市とか郡山市がある。中通ですらいつも阿武隈山脈高原にさえぎられていてまったく見えないのである。だから地理的に一体感を感じられないのである。むしろ仙台が交通的にも近いから仙台の方に一体感を感じるのである。まず会津となるとほとんど地理的一体感は感じない。あれほど2000m級の山々がひしめいていることで地形的にも全く別の世界なのである。この辺で高い山は鹿狼やまであり400メートルしかないからである。

地理とか風土とかは、そこに住んでみないとなかなか理解しにくい。冬になると常に雪が積もる。世界と海側のほとんど雪も降らない地域とは相当に違っている。そこに生活する感覚も相当に違っているのである。 

●新聞の構成も時代に合わない

ともかく新聞だとリンクしたり時間軸で深掘りすることがなかなかしづらい。でもプログのようなものでもリンクしたり関連付けたりできる検索できるからである。私の記事は膨大でありそこで調べようとすると難しくなる。でもリンクしたり検索窓から調べるとその一連の記事に関連したものは読める。だから深掘りできるのである。

だから誰でもできるプログのようなものでもその効果は本当に大きいのである。ただ正直私のプログはいまだに。SLL化してないしワードプレスもできないから何かもう一つ宣伝効果もないし問題がある。だから技術的な面でもっと読みやすいものに、作り直すことが必要になる?。ホームページも持っていたがそれも今はしてない活かされていない時間もなくなったせいである。家事に追われているからいろいろなことができないのである。今はコメントすらしてない。一つの記事を書くだけで結構大変なのである。そして写真とることで手間になるる。動画を試してみたが。これも手間でありなかなか出来ない。ここにやはり一人でやる。限界が出てきている。

でも一人だけ金もかからずこれだけできることは?今までにありえないありえなかったことである。毎日新聞を出している感じになるからである。 今やこれが自分の仕事である。金にはならないが仕事なのである。それで苦しいが暑かったが雲雀が原に野馬追のことを報告するために無理して行ったのである。記者でもやはり危険な場合がある。危険な場所にも行くことはある。それで取材で死んだ人もいたのである。ただ、仕事には常に危険がある。工事現場とか大工さんでも危険な仕事にもなる。だからただ、文章を書いて楽机に座っているだけで楽だとみられるが。記者となると、やはりそれなりに危険も出てくる。海外を取材するとなると、さらにそう危険である。

いずれにしろ、私自身がプログに書くだけでジャーナリストとはどういうものなのか、記者とはどういうものなのかそういうことを理解した。 仕事と言うのはなんでも実際に携わって見ないと理解できないのである。それで無人駅のボランテアをして案内をしていて鉄道に詳しくなった。乗客であるだけでわからないことを知った。。鉄道のことは理解できない。駅のことについても理解できない。でも実際駅で案内していただけで駅のことを理解したのである。

それで仙台方面に行くホームと磐城に方面に行くホームが意外と分からない人が多かったのである。そのことをいつも聞かれたので駅長にその事を言って分かりやすいように支持する看板を作ってもらったのである。これはそこに勤めていない限り分からない事だったのである。ただ、サービスを受ける側になっているだけでわわからない。その仕事に実際に携わると肌で理解するのである。でも実際は仕事には簡単につけない。だから多くの仕事があっても実際は理解してないので。仕事の苦労など外から見ていてもわからないからである。

だからその土地に住んでいる人は、その土地のことを報告することは有利である。とてもさまざまな土地のことについて。知りえないからである。またあらゆることについて報道できない。そんな専門的な知識など誰も持ってないからである。でもその土地に住んでいれば。原発事故が起きたとき私自身が理系では無いから放射線のことなどまるでわからなかった。でも事故が起きたとき海から東風が吹いて山の方に流れて飯館村などが大損害になったということは理解したのである。ほかの人はそういう土地のことがなかなかわかりにくいからです。だから地元の人が。報告することは、ほかの人より有利なのである。

●インターネットに変わられるメデアの変化

新聞の問題は配るだけ金かかるし新聞紙にも金がかかる。それは既に前時代的なものになっているのである。でも記者とかはジャーナリストという仕事はなくならない。それは簡単にみんなができるものでもないと思った。あることについて報告するにしてもそのことについて何か深く知っていなければ出来ない。まず相馬地域を報告するにしても、その土地について住んでいて深く知っていなければ。報道できないのである。

いずれにしろ新聞社とかはもうなくなる。テレビでも観なくなった。情報環境があまりにも違う変わってしまったからである。でも、あまりにも情報が溢れると今度はその情報はスモッグのようになってしまう。Facebookなどを試しにやってみたがそれはただ、世界のことは次々に写真とか動画で流れてくるだけであり。その情報の関連性がないのである。ただ、まだそれも使いこなせていない。インターネットでもいろいろなものが出てきてもなかなかわからないし、使いこなせないのである。そして動画を出してみたがそれは簡単にできない。でもその動画を編集することが面倒なのでそれをまだ出来ていない。その辺に一人でやるのは限界がある。でもこれだけの者を一人でしているのだからその。変化が大きいのである。

一人一人が新聞社になり出版社になりテレビ局にもなっているからである。この変化は大きいのである。ただ、そこで膨大な情報がスモッグのようになって肝心なものは読まれないと見れないとなるやはりくだらない刺激的なものが映像でも観て大衆化してくる。どれだけページビューを上げるとか見れるとかで金になるとかなってしまったのである。

だからインターネットの情報でもそれはもう大衆のものであり大衆的なものが受けて数ですべてが図られる。その価値が決められるのである。それが金になるということでその金のためにyoutubeとかを下らないものでも大衆向けに出しているのである。だからなんであれ大衆を相手にすると堕落するのである。カルト宗教もただ大衆を相手にしか数だけを集めているから堕落しているのである。そこに高貴なものは何もない。唯一数を集めて権力化することが目的化してしまったのである。インターネットでも広告を出して金を儲けようとするユーチューバーもいて問題になった。それは常に利益優先となり大衆化して堕落するのである。

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ)
(アイディンティティは場から形成される)

イラク戦争で油にまみれた海鳥を世界に放送してそれが嘘だったのである。回りは別に油に汚されていなかった。世界になるとこうした場のことなどわからないぁら騙されたのである

2023年07月18日

使いこなせない道具に機械。 (情報社会でパソコンを使えないのは致命的)

使いこなせない道具に機械。


(情報社会でパソコンを使えないのは致命的)


●機械道具を使いこなせない問題


機械道具が増えて使いこなせない。使いこなせないのがパソコンを買ったとしても使いこなすのは容易じゃない。そしてWindows 11になったらまた。使いこなせなくなった。私は親指シフトの富士通のキーボードを使っていた。でもwindows 11時になったらそれもできなくなった。それが一番の問題だった。なぜならやはり基本は文章を書くことだからである。スムーズにできないとなかなかパソコンに馴染めないのである。音声入力ではスムーズに文章を書けない。ただ、かなり進歩したことは確かである。ただ一番パソコンは使いこなすことが大変なのである。だからいくら買ったとしても使いこなすことに大変な労力が必要になる。


 もちろん車でも使いこなすことは容易ではない。その点、自転車なら誰でものれるということはある。でもマウンテンバイク型の電動自転車を買ったがそれに荷物を乗せられないことで困った。また。バッテリー一つでは乗れる距離が短い。それで二つ乗せると倍の距離を行ける。それで安心だとはなる。でもその二つを自転車に乗せることが難しかった。それをなんとか工夫して二つを自転車に取り付けることができた。こうして便利な道具や機械があっても、それを自分なりに使いこなすことが容易ではないのである。


ちょっとした道具でも機械でも意外と難しい。今度買った。自転車用のドラコレ動画を記録するものがマイクロsdカードであり小さすぎて無くしてしまったのである。そこでこんな小さなものに動画という記憶量が多いものが記憶されることは驚きになった。そこでわかったことがこうした半導体が現代の最先端であり知能社会を作っていることを認識した。半導体とは正に人間の脳でありそれも人間の脳より恐るべき記憶量があり知能を作り出すのである。半導体がなければ、もはや今の現代社会は機能しなくなっている。日本は最初半導体で。世界のシェアの多くwを占めていたがそれも失われた。 それで日本が半導体で経済を復活させようと世界的な工場を作った事も分かった。


こうしてともかく現代は道具に機械に追われる、その操作にも追われる。

それで頭脳がついていけないのである。要するに現代とは?知能社会であり。その象徴がパソコンになっていたのである。その。中枢にあるのは半導体だったのである。


●情報社会に適応できないと劣等者になる 


ともかく情報社会であり知能社会であり機械社会でありそれに適合することは容易ではない。もはや老人は適応できない。家族が認知症になったがテレビのボタンのボタンを押す事さえ分からなかった。認知症になってそうなったのである。老人は認知症でなくても機械に疎くなる。だから今の社会は老人にとっては相当に生ききづらい社会である。スマホ自体使いこなせない。すると社会に適応できなくもなっているのである。老人はやはり対面的に。人と接して何かを知る得ることが向いている


パソコンはその全体を使いこなすことはもはや不可能である。その都度一つでも二つでも使いかたを覚えるほかない。全部はもう覚えられない。それにしても理解するにしても。手間なのである、だからフェイスブックをしようとしたら実験してみたらそれも簡単にわからなかった。でもこうしたものを使いこなせないと時代から取り残されてしまうのである。私はパソコンはwindows 95から始めているから長くしている。でも常にこれも変化してWindows 11になったらまた。その操作も複雑になり使いこなせなくなったのである。 


ただfacebookにしても動画が簡単にアップできたことは驚きだった。でもその他は未だ分からない。何かFacebookにしてもその機能を理解することがすぐにはできないのである。それが問題なので。別に老人でも人と話すならできる?でもそこに機械がパソコンが介入すると簡単に使いこなすことができなくなるのである。ただ使いこなせれば便利なものなのである。 


●マスコミは新聞でもテレビでも旧メデアとなり終わる


情報社会という時、知能社会というときまずパソコンを使いこなせなければその社会に適応できない。すると現代のことが分からなくなる。現代社会から取り残されてしまうのである。それが老人に起きている。70以上の人はパソコンを使いこなせない。だから未だに新聞を読みテレビを見ているのである。もう60代でも今はテレビも新聞も見ない人が多い。今は個人が新聞を出しテレビ局にもなり雑誌でも出せる本でも出せる。そういう時代になったのである。個人が一つのチャンネルを持つ。マスコミの時代は終わったのである。個人でも写真でも動画でも出せる。それも金もかからない。そうなると莫大な金がかかる新聞とかテレビとかはもう終わりになったのである。


 マスコミの放送は全国放送であり、偏るのである。例えば福島県でも広いハマ,ナカ、アイズありそこは違った風土があり歴史も違う。福島県を放送する時。福島県全体ではなく。その土地、土地に住んでいる人がベースとなり放送すれば生々しいものとなる。。ただそれが別に機械がするわけではないやはり人間がするのだからそこに報道できる人間が必要なのである。それを自分はしてきた。相馬地域をベースとしその歴史でもさまざまなことを報道のしてきたからである。一つのミクロコスモスとして相馬地域をテーマにして書いて来たからである。

ただスキルがたりなかった。それでhttpsに未だにしていないとか遅れてしまったのである。


報道の問題としてフェイスブックをしてみたらそこにはあまりにもさまざまなものが混交してつながりが見い出せないのである。あらゆるものがそこにブチ込まれている。エロでもなんでもとにかく刺激ときは映像がアクセスされやすい。だからこれも問題だ問題があると思った。でもそうなるのはすべてが大衆を基準として大衆に受けるものが求められるからである。そうすればアクセスする人も増えてそれを主催する人も金にならなければ維持できないのだから、そうなるのと情報を扱うのは民間だけでやるのは難しいと思った。

その安全性であり情報の今こうした状態は人々を混乱させることになる。だからこそフェイクニュースとかいろいろ問題が起きてくるわけである。


●侍は馬を持つ人で足軽はその人に仕える人


でも今や情報社会を拒否して生きることはできなくなったのである。車社会になったら車を持たないものは劣等者となったと似ている

戦国時代でも鉄砲を利用して馬を利用した人が優位になった。例えば足軽とは馬を持たない人である。サムライとは馬を持っている人だったのである。そして徒歩(かち町)とある時そこは馬を持たない歩くことしかできない人たちが集団で住んでいたのである。だから馬を持つ持たないで身分差が生まれたのである。それは今でも通用している。クルマを持たない者は劣等者であり。自転車とか徒歩の人は劣等者のである。だから常に人間社会ではその道具であれ機械であれそれを使いこなせるかこなせないかによって身分まで違ったものとなったのである。


でももう老人は適合することはできない。認知症になれば。テレビのボタンを一つさえ押せなくなっているからである。 

いずれにしろ格差というとき、金だけではない。情報格差が生まれるのはパソコンを利用できないからである。それが致命的になっているのである。パソコンなどは今は安い。このノートパソコンは6万くらいしかしてない。だから誰でも買えるである。それよりそれを使いこなすことが。ハードルが高すぎるのである。 ただ、今の情報社会に適応出来ないものはまともな収入すらいられなくなる。現実に今は優秀な学生は医者を目指すのではなくIT関係を目指していることでもわかる。それが現代ではそういう社会になっているのだから。それで最先端を行く者はアイティーなのだからそうなったのである。日本は?世界から遅れたのitが。遅れたためだったのである。 



2023年05月26日

本が整理できないー本は何なのか (電子化されると本でも相対化してみる)

本が整理できないー本は何なのか

(電子化されると本でも相対化してみる)

「読書家は本の内容あるいは本を読むという行為が好きな者である。一方、愛書家は“書籍”という物体を愛する者である。」と定義的に言及されることもある。

書籍を愛好する性癖および書籍を収集する習慣は、ビブリオフィリズム(bibliophilism、書籍愛好)と呼ばれる(形容詞形は、bibliophilic)


「真 実 」 あ る い は本 来 の 「価 値 」が 否 定
隠 蔽 さ れ て 全 く別 の もの(モ ノ)が そ う した
真 実 や 価 値 を も っ もの と み な さ れ る と い う,
取 り違 え や 誤 認,ず れ を 示 す 用 語 」

小川, さやか. 書評 フェティシズム研究(第1巻)フェティシズム論の系譜と展望

●本が貴重だった時代

本が何かというと本は紙でありそれは物体なのである。でも本に価値あるのは本という物体ではないのである。そこに文章となって書かれたものに価値のある。
でも紙として物体化したときそのものを愛するフェティシズムは生まれる。何かものだと茶碗がでもそのものを使用したり触ったりして愛することにもなる。本でもそれが物体化したとき触ったりして愛することになる。そのものに愛着が生まれるのである。そこが何か本に対して錯覚しているのである。
だから今電子本がある。文章を電子化すると本というものはなくなり物体でわなくなる。でもそれもやはり紙に書くわけではないが文章なのである。それでその文章をやはり読んで利用しているのである。

でもなぜか電子で読む文章と電子本と本の相違は何なのか。それが明確に理解できないのである。長年それも歴史的に2000年とか本というものがあれ親しんできたから電子化した文章というのが何かもう一つなじめない理解しにくいものとなっている。
そしてなぜか本には重みがあり本自体に価値がある。例えばヨーロッパの中世になると修道院で写本がありその写本一冊作るのに大変な苦労をしていた。するとその写本自体が相当に価値あるものとなっていたのである。そもそも庶民が本を手にするということは長い間なかった。本を手にすることができたのは聖職者とか僧侶とか貴族とか一部の恵まれた人だけだったのである。
だから本というものは何か黄金とは違っても財産にもなっていたのである。その後も本はやはり財産であり知識というのは本から得られていたのである。
それでなぜかローマ帝国だと実に立派な図書館がすでに建てられていたのである。そこには本があれ知識がそこに集積されていたのである。でもその図書館が石造りの立派なのにはには驚いたのである。

●本と電子本の相違

とにかく知識は本から得られることが第一だった。でもだから本というのは貴重なものだったのである。また紙に書かれたということで紙自体が希少なものでありそこに書かれたということで本は今と違って相当に価値あるものだったのである。
でも文字になるとでもネット化して電子化して文章で伝えられるようになると本は相対化して見られるようになった。
本を一冊出す人はすでに選ばれた人であり知識人ともされていた。本は簡単に出せない。本を一冊出す人は社会に認められた人だったのである。本を作ってもも出版するとなると出版社がかかわり書店にも置くからなかなか本自体を流通させることは難しかったのである。
つまり本を出せる人は特権的な人だったのである。
本を作るにも本を流通させるにもコストがかかり過ぎていたのである。それは新聞でも同じである。新聞も紙に書くから本とも似ている。でも本よりは軽いものとしてみられていたのである。それで子供の時は新聞紙がトイレで使ったり風呂の焚き付けにされていたのである。それは紙に書くからそうなっていたのである

これで本の価値は本来はその物体化した紙にあるのではなくそこに書かれた文章にある。でも文章というのは文字から成り立っている。ということはそもそもは文字に価値があり文字を発明したことによって本が生まれた。その価値の基は文字にあったのである。人間が文字を発明したことによって本が生まれたのである。
でも文字は物体ではないのである。何かそこに茶碗であれ皿であれ人形であれ石であれ家であれそれは物ではないのである。。それは写真でもそうである。現実にあるものを写したものだからである。でも写真もまたフィルムにするとそのフィルム化した写真を愛着するようにもなる。
でも電子化したものは何か愛するということフェティシズム二はならないのである。そこに本と電子化されたものの相違があるのである。

●本を関連付けて利用することがむずかしい

また本は一冊一冊になっていて完結している。だから本を理解することは全体を読みそこから部分を読まないと理解できない。
でも全体を読まなくても数行を読んでもやはり理解すれば価値あるものとなる。でも違うのは本は一冊としてありその一冊に価値がある。しかし人間はその一冊を全体を読んで理解するしようとするとかなり困難になりとうして全体を読んでいないともなる。
そこでこれまで買った本をいろいろパラパラとめくって部分的に読んでみたらつくづく買ったとしても読んだとしても忘れているしまるで初めて読んだように思えるのも不思議である。
それだけ人間は忘れやすいのである。いろいろなことが起きても次々に新しいことが起こり過去のことは忘れられてゆくのである。そこに確かに住んでいた人がいても死んでしまうとたちまちに忘れられてしまうのである。

それで今私が読んでいる本でも作者はすでに死んでいる人も結構いるのである。するとその人の残したものは本だったとなる。それしかその人を知る方法はなくなっているともなる。それで最後に自叙伝を残す人がいる。金持ちだと何百万かけても本を作ったりする。本はそれだけ庶民にとっては価値あるものとなっていた。私が本を出したよ作ったよとなれば自慢できたのである。
今なら本自体はアマゾンとかで一冊から作れる。たいして費用もかからないのである。でも本を流通させることは難しい。それでいくら本を作っても出版は書店にで回ることは簡単にできなかったのである
今になると本に出して本にして流通させるよりインターネットでプログであれ簡単に自分の創作したもの即座に出せる。ただ読まれることは至難である

では本にしたものは優れたものかと言えば今はそうともいえない。別にプログであれ何であれyoutubeであれ電子化したものがにも優れたものはある。
でもこれまでは本に知識が蓄積されていたからその本を頼る他なかったのである。それで私も本を買ったのだがそれを今手に取ってパラパラと読んでみると読んでいなかったということになっていたのである
これでもそれでも集めた本に何かしら価値がありその本を分類してなんとかまた生かそうとしているのである。ただ本は一冊一冊でありそれらを関連させることが難しい。
ネットだとわからないことでも検索して関連付けさせることができる。一冊の本だとなかなかそれができない。なぜなら一冊の本は完結していてほかの本と連結させることが難しいからである

●私設図書館が必要に

私の場合私用の書庫または図書館のようなものは必要になっている。有名な小説家だったら施設の図書館のようなものを持っていたからである。なぜなら知的作業にはとても一人の知識では成り立たないからである。必ず他者のものを参考にしたり引用するからである。
それで今AIが小説を書くことができるというときその有利な点は膨大な情報を参考に出来るからである。いちいち本で調べるのではなく膨大な情報から小説を書くことが出来るからである。
関連付けが出来るからである。今私は音声入力しているが紙というときどうしても神が出てきて紙は出てこないのである。
でも紙に書くというとき紙がでてくるのである。それはやはりコンピューターが連関したものとして認識しているからだろう
紙に書くとなれば神はでてこないのである
ともかく膨大な本でもその内容を関連づけることで知識も活きてくる、それがネット上ではしやすいが本だとしにくいのである

ただ本にはネット違い専門家とか一流の知られた人が書いているから中味があり本は何回も読んでりかいする、また詩などでも鑑賞するとなる。ネットだと一回しか読まないからである、本には何回も読む価値があるとなる

買い貯めた本をいかに活かすかが今私の問題になっている
一冊の本の感想文を書いてみるのもいいだろう。すると読んだというだけではな自分自身も関与すうことになるからである。

ローマ帝国のトルコのエフェソスの図書館

本を電子本にできるがめんどうになる、本一冊を電子本にすることが手間なのである、ただ買いためた本をこれからどう活かすかが問題なのである。



2023年05月02日

なぜ本が捨てられないのか (本は物体ではなく言葉であり精神を表象化したものだから)


なぜ本が捨てられないのか

(本は物体ではなく言葉であり精神を表象化したものだから)

●カメラより撮った写真の方が貴重だった

本が捨てられなくて困っている。例えば古いものカメラなどはほかの危機でも機械でも機器でも古くなったものは捨てられる。
別にそれは新しくいいものを変えればいいからである。
新しいもの新しい機器の方が性能も良くなっているからである。
そのカメラより機器より大事なものはカメラだったらその記録したものであった。それはビデオカメラでも記録したものが実際は大事なものであった。
なぜなら津波の前と津波の後の景色がまるで変わってしまったからである。となると津波の前に写真としてでもビデオとしてでも残した風景画の記録として貴重なものになったのである。

ただカメラはそのの風景を残すものとして記録するものとしてあった。カメラ自体は古くなったので捨てた。
カメラよりその写したものが貴重なものとなっていたのである。
それは外国旅行の写真でもそうだった。もう私の場合年をとりとてももう外国旅行することができないと思ったからである。
そして外国旅行というのはなかなか記憶に残りにくい。それは日本と風景でも歴史でも変わっているからなかなか印象として記憶として残りにくいからである。
日本だったら一回でわからないことでも2回行くと理解が深まる。
そのの歴史でも後から調べて理解を深めることができる。
でも外国になると一回くらいしかいけないから印象が時間とともに薄れて記憶することが難しいのである。

●本で家が傾きずれた―本は重いが電子本は重さがない

そして本でも家が沈むとか傾くとか大工さんが言った。どうしてもその重さで2回大きな地震を経験して家が歪んでしまったのである。その原因は二階に置いた本の重さが影響していたのである。
本の重さによって下に影響して地震があり柱がずれたのである。
それだけ本というのは重いからそうなる。本はは本当に重いのである。厚い本がありそれを運ぶのも重いのである。
そして本がなぜ捨てられないのか?それは本が紙というものにしろものと違っているからである。紙に書かれたものは別にものではない言葉なのである。紙はものであり表紙でも装丁で紙である。つまり本というのはもののようにも思うが実際はものではない。文章であり絵も描かれてたり写真でもある

だからものではないから電子化すればいくらでも本を手元に置き参考にできる。重さはそこでなくなるのである。電子本には本の重さがなくなっているからである。実際の本と電子本の違いは重さがなくなり物として手に取ることができないことなのである
でも本というのは何か物として物体としてあると思う
でも本を読んだ本に書かれたものが文章がその本体でありその文章は電子化すれば重さがなくなるのである。本は持ったり触ったりページをめくったりと何か物体としてある感じになるが実際は文章が大事であり本でなくても紙でなくても文章が本体であるから電子本でも読むことができるのである。
それは絵でも写真でもそうである。それが紙に描かれていなくても電子化すれば映像になり本がなくても絵がなくてもいくらでも表現ができて重さもないからかさばることもないから保存できるのである。

●電子化で怖いのは一瞬ですべてが記録が消えること

でも電子本だと何かの調子で故障があったりすると一瞬にして消えるという恐怖がある。
本だとそういうことはない。何か物として残り続けるという感覚になる。それで石に文字を刻む時それは石はなかなか消えたりはしない。だから石に刻まれた文字はなくならないという感覚になるのである。
それで江戸時代の元号のが記された石碑がありそれは200年であり300年であれ消えずにその場所にあり残っているのである。
でも電子化された文であれ絵であれそれは残るのだろうかという疑問になる。

なぜなら一瞬で全部消えるということもあるからである。だからせっかく創作したものでも電子がしても一瞬で消えて何も残らなくなってしまうのかと不安になるのである。
だから電子本とか電子化したものに何か不安を感じる。でも本だとがさばり重いしそれを一個人が所有することは限界がある。
本は膨大でありとても所有しきれないのである。電子本にすれば重さもないからいくらでも所有できるのである。ただ弱点は電子本の場合一瞬にしてすべてが消えてしまうという不安なのである。

●一冊の本でも理解することがむずかしい

とにかく本は捨てにくいし整理するのも容易ではない。そして本は若い時であれ読んだものを理解していない。でも年を重ねて経験を積み老人になると理解力が深まる。それはそういうことだったのかとおのずと理解できるようになる。
だから老人は批評に向くようになるのである
それから30年前頃買った本がの作者がすでに死んでることが多いのである。するとその人が残したのは本でありそれ以外にその人を知るすべがなくなる。
大概の人は本など残せない。本を残せたのは限られた人でしかなかった。それほど本は簡単に出版できないし作れないものだったのである。でも今になれば一冊でもアマゾンで本を作れるらしい。それで自分も試してみようとしている。でも手間がかかり時間がないのでなかなかやれないのである。

今ならインターネットで電子化して誰でも発表できる。ただ読まれることは本当に難しい。出版というのは簡単にできない。たとえ本を作ったとしても書店になど勝手に置けないのである。
でもインターネット化すると誰でも別に表現することができる。
それができたとしても読まれることが至難なのである。インターネットが普及しない前は田舎の本屋など本当に本が少なかった。専門書など置いてない。仙台市まで1週間に一回も言っていたのは本を買うためだった。でも仙台市でも実際は本は少なかったのである。インターネットが普及してわかったのはアマゾンなどで分かったのは信じられない量の本があり古本もあるからその膨大な本があることに驚いたのである。
もしそうしてそれだけの中から自分の追求している本を買ったらもっと自分の知識は広がり深められていたのである。

●くだらない本が百万部も売れていた時代

例えばどんな本が売れていたかというとベストセラーになったかというと冠婚葬祭とかいう本は百万部も売れていたのである。
そんな本がなぜそんなに売れたのかそれはその本の内容とは何の関係もない。ただベストセラーとして宣伝され田舎の書店にも置かれたことで売れたのである。全国の書店に置かれただけで別に内容がなくても売れた時があったのである。
また出版社が宣伝して全国の書店におくことで内容はなくてもベストセラーになって売れていたのである。それでしょぼい田舎の書店でも商売が成り立っていたのである

今や本屋は田舎の市町村では消失している。あまりにもアマゾンとかに比べると本が少なすぎるのである。また古本の量もインターネットでわ膨大であり買えないものはない。すると新刊の本でもすぐに古本になり安くなり帰るのである。そうなると本屋から買うということは損だとなってしまったのである。だから書店は大きな書店ですら消滅しているのである
依然として私の家の中の整理は続いていた。特に本の整理は簡単にできない。簡単に捨てることができないのである。というのは読み返してみるとほとんど理解していない。初めて読んだようにする思えるのである。それだけ本というのは理解することが難しいのである。それでびっしりど印をつけているのだが実際はそのしるしをつけたことを理解してないし忘れてしまっていたのである。

つまりその本を読んだことは読んだのだが理解していなかったとなる。ただ本を集めたというこうとうがすることになる。
だから本というのはほかの品物と違ってそもそも買っても理解力がなければ利用していないとなっていたのである。
それだけ本というものは内容はありそれを理解する方が相当な力量がないと理解できないのである。
それで本は30年過ぎても40年過ぎてもその本の内容を深く知るということができていない。たいがいものだったら機械でも古くなり捨てることができる。本はその内容を理解できていないからまた理解しようとして読む。年取ると理解力が深まるからそういうことだったのかと理解するからである。まだ芸術でも鑑賞力がついて深く理解するようになるのである

今や最後の総決算として本でも創作でも自分の成果をまとめようとしている。やはり最後にその人の成果が本に残す。ほんでなくてもインターネットの中でも残すとなる。それは出版できなくても残せるからである。

2023年01月21日

機械の操作に追われる時代ーパソコンなしで暮らせなくなった時代 (win8.1からwin.11移行の苦労)


機械の操作に追われる時代ーパソコンなしで暮らせなくなった時代

(win8.1からwin.11移行の苦労)

win8.1からwin.11へ移行することは苦労になる、アマゾンで登録しようとしたらできなかった、何回やってもパスワードを変えて登録するのもできなかった
そこでコールセンターに電話したがそれでもできなかった
コールセンターの人は二人の女性でありそれも中国人だったのである
だからこんな高度なものを指示できるのかとも思った
前はデルのパソコンの時も中国人の女性がコールセンターで説明した
アマゾンでもデルでも別にグロ−バル会社だから仕事ができればいいとなる社会である

でも結局パソコンなどでわからないことはいろいろな原因があるから結局自分自身で解決するほかないのである、それは前からそうだったのである
いろいろな外付けの器具でも合わないことがあり使いないとかめんどうなものだったのである、でも今回でもデルのパソコン自体に問題があったかもしれない
だからパソコンは自国のものがいいとかになるかもしれない、私は親指シフトを使っているからどうしても富士通を買っていたのである

結果的に前のパソコンでアマゾンに登録できた、何かメールを送られてもデルのwin11のノートパソコンで正確に表示されないともみた
それはわからないにしても何かパソコンが変わると不具合がやはり出るのだろうか?
パソコンは安全のために二台必要なことがわかった
win8.1が危険でも通信していなければ安全である、記録は保存できるからである
この記録が消えることがパソコンの最大の問題なのである

今度はビデオレコーダーが壊れた、そしたら記録したのものがとりだせない、全部消えたのである、前にもそういうことがあった、でももしデスクに記録していれば消えないのである、それはパソコンでも同じなのである
クラウドにしてもこれも何かわからない、これも雲をつかむようなものになる
意外とアマゾンでもそうだったようにパスワードが忘れてアクセスできなくなるのであるそれでオフィスとかにアクセスできなかったのである
このパスワードは自転車の番号を合わせる鍵でもそうだった
どうしても番号を忘れて結局百円ショップで10個くらい買ったからである
このパスワードは大きな問題である、それで顔認証とかがでてきたのである
パスワードの怖さはパスワードがわからなくなり部屋に閉じ込められて出れなくなったことである
フィクションにしてもそうして死ぬこともある、脱出できなくなるからである

今日はビデオレコダーが送られてくる、今度はこの後ろの配線もめんどうだったのである何かいろいろ電器製品でもいいものがあり買ったとしても操作が結構わからない
意外と簡単なものでもわからない、わかるまで時間がかかる
まずスマホなどでもそうである、これをしていたら暇なしスマホを見ていなければならない、だから私も買ったがほとんど利用していない、もう機械の操作で他に何もできなくなる
現代とは機械に頼り機械の操作に追われる、それは農業でもそうである、IT技術を利用したスマート農業とかでもそうである
今までは人を使ってしていたがみんな機械に頼る、今や家事でも機械化しているから家政婦とか家で働いていた女性はいらない、そして価値観が変わったのである。ただ料理だけが価値がある、これ女性でも簡単にできないからである

女性の価値はただ家事をすることではない、例えば話しがうまいとかは花に興味があって話しができるとか単に掃除とか皿洗いとかすることではない、だから現代ではそうした下働きは機械がするようになる、でもやはり女性でも女性として話しがうまいとか他に何か話すことが面白いとかで価値がある
それは男性でもそうである、みんなアーティストになれというときもそうである
それも不思議なのだけど機械が仕事する時代になると価値観が変わったのである
昔だったら戦前だったら一軒の普通の家でも女中二人を雇っていたときがあった
それは家事がそれでけ労力を必要としたからである

ともかくトイレが壊れて22万かかりその前に地震で壊れて修復して40万かかり
今度は家に来る人の女性の息子が交通事故になり中古車を買うのに金がないと50万やりさらに次はキッチンが壊れて直すとかなる、結構大きな金を使うのもいたい
この辺の地震の被害が意外と大きかった、今だに家を直している、まだ直されていない家もある
どうも今年は幸先が悪い、パソコンはもうないと仕事もできない、ただパソコンでできることは出版から販売から何から何まで一人でしているのである
もしカラーの本を出したりしたら相当な金がかかるから普通はできない
でもパソコンだと結局出版社であり製作者であり販売者であり全部一人でしているのである、印刷もしているからである
これだけのものをパソコンだと一人でできるのである
ただ記者は必要である、取材とか簡単にできないからである
そのコストはやはり払わなければならない、でもその後の放送とか出版は一人でもできる時代になったのである、youtubeだとテレビ局にもなっているからである

また本の整理にも苦労している、本の問題は千冊あるとして実際は読んだ事も忘れているびっしり線をつけているのにその文を忘れている、ということは読んでいたのかとなる
もしパソコンのようにインタ−ネットのように検索できると便利だかできない
だから本を大量に買っても利用されていないともなっていた
インタ−ネットの検索だと集団知となりそれらを編集するとまた別なものになる
それは自分がしている抽象画とも似ている、それは膨大にある映像を自分なりにソフトで加工して創造しているからである、でもそこに著作権の問題が出てきていることは言えるでもやはり創造になっているのである、だから今や知識はこうして検索して編集してまた新たなものとして創造することができる時代である
でも本当の内容があるものは本にある、その本が検索して活用できないのである
そこがもったいないと思う、いづれは著作権の期限が切れれば活用できるようにはなる

またニュースでもヤホーニュースの解説などでも私自身がそれを引用して批評したりできる、こういうことは今までできなかった、新聞の記事や解説に何か言うこともできない
テレビでもそうである、だから一方的洗脳機関にテレビはなっていたのである
youtubeだと放送局にもなっている、そこで教育番組も作れるからである
だから出版社でもそこで教育番組をコンテンツを作り売るとなる、現実にそれは個々人でしていて収入にもなっている、ただこれも娯楽番組は視聴率を稼げているが専門的なものはなかなか見ないからテレビと似ている、多数を相手にするとどこでもそうなるのであり質が低下するのである、ただインタ−ネットのいい点では小数者相手でも成り立つことである、極端な話一人で視聴者がいれば成り立つ、対話的にも成り立つのである
ではそれが意味がないかとなればある、それができるのはコストがかからない

ただ手間だけは省けない、つくづくプログに記事を出すのに半日かかる
これだけは省くことはできない、でも機械に頼る時代であり機械の操作に追われるのも
問題だと思った、だからスマホを手に取ってしょっちゅう見ていたらかえって頭が悪くなるとか研究されて言われるようになった
子供にとっても良くないのである、旅をしてもその場の雰囲気とか土地の人でも少しでも話すとかすることでわかるものがある、その場の風や光りでも違うから感じることが大事である、それが記憶されるからである
だからこんなに機械に頼ることは問題がある、でもどうしても時代でありそうしなければ現代の生活は成り立たなくなった、車を批判しても車無しでは仕事もできないからであるパソコンなしではスマホなしではもう生活もできなくなっているのである


2022年11月25日

私に起きたデジタルIT社会の危険と問題―安全が計れない (ビザカードとか無くして(盗まれて)起きた問題)


私に起きたデジタルIT社会の危険と問題―安全が計れない

(ビザカードとか無くして(盗まれて)起きた問題)


どうしても家でジャンパーが盗まれたとしか思えない、そこに財布が入っていたがビザ
カードを入れていて失敗したのである、これでいろいろ契約していたからである
それで今度はauからの支払いが書類で来た、コンビニで支払ってくださいとなった
カードで支払いができなくなったからである
でもそのことで金額のことを聞いたらスマホの暗証番号を教えてくださいとなった
それが忘れていたのである

この暗証番号とかパスワードも多いから忘れ安い

こうして聞くこともできなくなった、期限は25日だと覚えていたから今度は原町のau
の支店にたずねた、ところがUQモバイルは支店では案内したり教えたりしないことがあるそれは別な会社がしていたからである、これもめんどうだったのである
こうして昨日やっとUQモバイルに電話して係の人が詳しい人で手続きができた
コンビニで支払う番号を教えてくれてそれで支払うことができた
もし25日まで支払わないと通信できなくなっていたかもしれない
これも怖いことである、ただ私はスマホはほとんど使っていない
私が毎日使っているのはインタ−ネットでありさくらのレンタルサーバーなのである
だから私にとって一番大事なのはさくらのレンタルサーバーになる
ここではまだ問題は起きていない、でも一回だけ記録が消えたとういうことがあった
これも怖かった、でも修復できたのである

こうして何か通信というのは危険がある、クラウドというのも安全なのか、そうでなくても何かパスワードが忘れてアクセスできないということがある
私は二三回そういうことがあったからだ、そしてパスワードは安全のためにむずかいしものにしろとなり忘れるのである

ただ一番怖かったのはさくらのレンタルサーバーで私が突然入院していたとき契約の料金の更新ができずにその日に料金を払わないと消される寸前だった
日曜日に電話が通じないと消されるところだった、その時さくらのレンタルサーバーは電話で受け付けしていて教えていた、だから助かったのである
そうでないとみんな一瞬にして消されたのである
これが通信世界の恐怖である
対面的なこともなく相手の事情もわからないで簡単に消されるからである
だから本当は一社ではなく二社くらいで安全を確保する必要がある、でもめんどうなのでできない、ただ安全を計るためにはそうしないと危険である
一つのサーバーに頼っていると危険になるからだ

こうして何かとIT化がデジタル化がすすむけどこの安全対策は民間だけではできないとも見る,インフラ整備でもそうである、これはある程度公共的なものとして備えなければならないものである、これだけインタ−ネットでも普及するとそうなる
ただなぜ電話にしろ何かレンタルサーバーとかでもいちいち電話で応対していたらコストがかかるとかになりむしろ利用する人が手間でもしてくれとなる世界である
通信販売でもそうである、そうした利用する人が手間でもしてくれるから安くなるとはなる

ただ安全対策をどうするかが問題になる、メールで連絡しようにもスパムが多くて見れないとまでなっている、何か怖いからできない、だから郵便で来るのは安全だとなる
安全対策がとれないのである、またワードプレスをしようとしてもこれもハードルが高かった、時間がある時ならできた、今は時間がない、意外とプログのようなものでも毎日
新聞のようにして出すとなると手間なのである
こうしてプログでも今は一方的に書いているだけでコメントされても読んでもいない
プログに書くだけで時間がとられているからである
そしてからかいとかなんかコメントでも真面目に相手にしてやれない人もいるし通信の場合は相手を対面的でないからなかなか対話も成立ちにくいのである
この年になると時間がとられることでなんかわからない人のために時間を費やすことができないのである
老人になると残り少ない時間となるから時間がさらに貴重になるからである
無駄なことをしていられないのである

いづれにしろデジタル社会にもいろいろ問題がある、その第一が安全を計れないとうことである、記録したものが消える不安が常にあるしアクセスできなくなるという不安もある安心感が得られないのである
そうはいってももう通信社会になればIT社会になればもう車とかと同じでありなくては生活できなくなっているのである
だから安全を計ることは国とかでもすべきなのである、民間だけでぱ無理だからである
ともかくウィルスとかでもそうでありこれに個々人では対処できないのである
メールで拒否機能を使っても依然としてスパムの山でありこれも困るのである

マイナンバーカードに政府がするということでもこれもなくしたりするから危険なのである、安全が計れないのである、だから抵抗がある
通信というのは安心できないのである、ただ別に普通の社会でも安心できないから通信世界だけが安心できないとういことではない、でもインタ−ネットとかだと機械の操作とかの問題がありそれに詳しくないと安全を計れないとか使いないということが問題なのである、そして結構何するにも手間がかかり時間がかかるのである
これだけは省くことはできない、プログの一記事を書くにも半日かかるとかなる
だから操作がめんどうだと時間がかかりすぎてできないとなる、ワードプレスを覚えるだけでもそうである、前は時間があったからパソコン通信などできた
あれも今よりずっとめんどうだった、それもワープロでしていたからめんどうで暇人しかできないようなものだった、私は引きこもりでも暇人だからそんなことできていたのである、今はそういう時間の余裕がないのである、家族がみんな死んで家事を全部しているから時間がとられてできないのである

2022年09月20日

昭和33年の新聞記事(3) (ラジオからテレビへの過渡期だったー女中も募集されていた)


昭和33年の新聞記事(3)

(ラジオからテレビへの過渡期だったー女中も募集されていた)

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68500円は当時では相当に高い
女中の手取りが8000円とか5000円とかなっている
そしたらいかに高いかわかる
でも私の家は中学頃にテレビを買っていたのである
父親が病気になり買ったのである

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昭和33年は何か高度成長が始まる時だった、なぜならテレビが出たからである
そのテレビの前に人がわんさと集まった、その頃テレビはみんなない、だからテレビがある所に人が集まった、その熱気はすごかったのである

ただその時代の面白いのはラジオが依然として使われていた
テレビが出る前はラジオが主役だった、ラジオだと声だけでりその声に耳を澄ます
何か恐怖小説がありその犯人の足音がラジオから聞いた時怖かった
そしてラジオというメデアは音だけであり姿が見えない
それでラジオで人気だったアナウンサーがテレビがでた時用なしになったのである
なぜそうなったかというと姿とか顔が写ると見映えが悪いと拒否される
なぜなら映像だとまず姿とか顔を見るからである
youtubeでも顔が問題になる、顔をまずみる、その人の発言することの前に顔を見る
こんな顔なのかと拒否する人もいるだろう
プログでも文章だけだったら顔が見えないししゃべることが下手でもいいとなる
でもyoutubeはしゃべゃ方を相当に影響している、声でも姿でも顔でも影響しているのである

ただyoutubeはわかりやすい、図で説明もできるしいろいろテレビのように映像を出せるからである、この写真とか図を出せることはプログでもできるのである
だから誰でもできるプログで写真と図でも動画でも一部出せるとなるとその表現力は意外と大きいのである
それでこんなものでも表現力があるなと感心するのである
これは誰でも簡単にできるものだからである
そうなると一人一人がメデアを持ったともなる、だから私は膨大なものを書いている
それはいくらでも書けるし誰も止めるものもいない、自分なり自由に書けるのである
発言できるのである、youtubeでもそうである

テレビ局と同等にもなることでテレビは衰退したのである
今までは動画となるとテレビからしか知り得ようがなかったからである
今や個々人は新聞社に出版社に雑誌社にもなれる、それがプログのようなものでもできるこの変化は大きいものである
ただyoutubeでもプログでも見られること読まれることは至難である
結局大衆受けするものは視聴率を稼ぐのはテレビと同じだった
でも別に金もかからないのだから少数者でも成り立つのである
テレビは金がかかる少数者では成り立たなくなる、宣伝費も入らなくなっている

昭和33年の新聞記事ではマスコミのことを書いているが膨大な本や雑誌が出されていた活字メデアが全盛期に入りつつあった、そしてまだ戦前からのメデアであるラジオが結構聞いていた、天皇陛下の玉音放送がラジオで成されたようにラジオが戦前のメデアであり映像に触れることはまれだった、ラジオでも大きな力を持っていた
ラジオだと手作りした人もいたようである、それほどむずかいものではないからできたらしい、昭和33年は古いものもがまだ残り新しいものが出て来る時期だった

それで不思議なのは職業の募集欄に女中と結構ある
まだ女中を東京で募集していたのか、戦前は女中が多かった、火事が電化されていないのだから頼んでいた、普通の家でも女中を二人雇っていたとかある
それだけ家事が負担だったからである、別に金持ちでなくても雇っていたのである
今なら大金持ちしか手伝いさんは雇いない、専用だと雇いない
家政婦も募集していたがこれも女中が家政婦になる変わり目だったのか?
女中に興味があるのは私の母親は大正生まれで東京に女中で働いていたからである
それは戦前のことである、でも集団就職とかあり東京に女中ではないにしろ手伝いとして働いた中卒の人がいる、だから依然として女中は東京で必要なものとしてあった
だからこの昭和33年はこうした古いものと新しいものがまじりあった社会だったともなる

2022年08月28日

メデア(仲介するもの)によって歪められる社会 (マスコミからインタ−ネットへ)


メデア(仲介するもの)によって歪められる社会

(マスコミからインタ−ネットへ)
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●メデアの意味

メデアというとき何か?中立であり仲介するものである、でも仲介するとか仲立ちするとかなると実は人間そのものがメデアなのである
何かあれば必ず人から人と口コミで伝えられる、それがだんだん現実に起きたこととは別なものになってゆく、噂がそうである、そこで真実が見えなくなる
それは何か起きたときその現場にもいないし直接当事者から聞くこともできないからである、それは人から人へと伝わりそうして伝えられる内に真実とは別なものとなってゆく
マスコミとか報道機関がないとき人から人に伝えられるのが基本になる
現代の問題はマスコミが伝える、それでマスコミは第三の権力になったのである

メデアというときいろいろなものがメデアなのである、仲介するものなのである
銀行もメデアだというときそうなのかと思った、普通はメデアとは見ない
でもみんなから金を集めそれを投資に回したり金を貸したりして利子をとる
そういう仲介者だということではそうなのかとなる
だからクラウドファンディングとかなるとある製品を作るために直接生産者に投資する手法がインタ−ネットで生まれた、銀行を介さないで消費者が投資するのである
銀行は仲介するものであるがここでは生産者と消費者が直接結びつく関係でありメデアが仲介者がかかわらないのである

現代とは様々な分野でメデアに頼っている、どうしても株などわからないのだから証券会社とか銀行だと前は信用あったから頼る、でも個々人でトレダーとなって株の取り引きをしている人達がいる、その人たちは証券会社を通さないし銀行も通さない
自力投資してもうけているのだ、でもそのハードルは相当に高い、みんなができるわけではない、でもそういう人こそ自立しているしメデアを通さないのだからそれで損するにしろ儲けるにしろ自己責任なのである
でも銀行で投資信託をすすめるけど必ず手数料がとられるしまた必ず転売する
自分の場合は株をもっていたがリーマンショックの時持っていた株が元にもどり上がってきたとき勝手に銀行員が売ったのである、転売して他の商品を買わせるためだった
その株を持っいたらその後上がり続けたから倍にも儲けることができた

これも結局そもそも銀行というメデアに仲介者に頼んだことでそうなったのである
それは証券会社でも同じである、それは株とかわからないからそうなったのである
そして銀行は投資には株には素人だったのである、銀行自体が株を知らない
なぜなら銀行はこれまでただみんなから金を集めると金を貸してくださいという人がいくらでもいたからである、だから金を貸す相手がいないということはなかった楽な商売だったのである、金を貸して利子をとればいいだけの商売だったのである
それがなくなったとき金を貸す会社でももうわずかでありなくなったとき商売が成り立たなくなったのである、細かい金の出し入れは銀行でするのではなく自動化したりして仕事がなくなってきたから苦しくなったのである

●メデアに仲介する者に頼る社会

現代社会はともかくあらゆることでメデアに頼る社会なのである、仲介するというとき
何か言いたいことがあってもメデアを通さないとできない、テレビ局に私が発言したいのですがと言ってもできない、テレビ局で発言する人を選ぶのである
NHKは公共放送というけどそこで発言できる人は限られている、その発言内容までチェックされる、つまりそのテレビ局の意向にそったことしか発言できないのである
それでインタ−ネットはメデアなのだけど制限するものがいない、誰でも一応発言できることでメデアが変わったとなる
それでNHK党とか参政党とか極端な思想の政党でも選挙で議席を持つようになったのである、インタ−ネットでは前々から極端な発言でも許可されていたからである
それも問題があったが確かなことは仲介するものが力をもっていないから権力を持っていないからそうなったのであるつ

ただ問題はインタ−ネットでもプログなどは簡単にできるがワードプレスのように自分仕様にすることがめんどうである、技術的にめんどうなことがある
それで自分のプログでもワードプレスにしようとしたができないとか技術的な問題があるそこに手間だけは省けないのである
そしてインタ−ネットではまずマスコミのように何百万人とか見ないし読まない
だから目立つ人となるとわずかになる、後は膨大な人達は埋もれるのである
ただそれでもインタ−ネットはマスコミのように仲介するものがいないのである
一応自由な発言が許されている、でも読む人は極端に少ないとなっているのである

ともかくメデアに仲介する者に頼るというのが現代社会である、本を出して自分の意見を言いたいとしてもそれもハードルが高い、書店でも置く本を選ぶからである
でもアマゾンとかなるともう天文学的な本が古本でも簡単に地方でも買えるから情報格差はなくなったのである
私は引きこもりでワープロでパソコン通信していた時期があった、それはまだパソコンが出始めのときであり技術的には未熟な時だったのである
それでワープロに通信機能がついていて全国の人たちと通信で会話していたのは不思議な経験だった、そのことが自分には良く理解できていなかった
でもそれがインタ−ネットの発展の初期でありそれが現代では拡大して日常化したのである
ただそこで発言するには技術的にめんどうだったのである、そこに技術の問題があり技術が障壁となる、パソコンマニアがいてしていたともなる
私がなぜそういう初期の時代からかかわっていたかとういと悪筆なのでまずワープロに親しんだ、そして富士通のワープロで親指シフトを覚えて文章をスムーズに書けるので利用するようになった、ローマ字入力だとスムーズに文章化できないのである
ここが意外と一番問題であり入り口としてはつまづくからである
やはり映像もあるが文章が基本になるからである

インタ−ネットは今でも技術的な問題がまだまだある、それがワードプレスにしようとしてもできないことにあった、またホームページを作ったがそれも放置したままである
そこで新しくアップしていない、プログをしていていたホームページを使っていなかったからである、途中十年とか介護になり時間もなくなったからである
何かこのインタ−ネットとか意外と理解するのに時間がかかるのである
それは技術的な問題があるからそうなる、なぜなら最初の時期はパソコンマニアがいて理系の人が意外と多かったことでもわかる、文系の人は技術に弱いからそうなっていた

●宗教も教会と牧師は神と仲介するものだからメデアだった

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宗教でも神と取り継ぐものとして教会と牧師が生まれた、旧約聖書の時代には牧師も教会も存在しない、直接神とエホバとの交信であり信仰である、そこにいたのは預言者だった教会が生まれたのはローマ帝国にキリスト教が公認されてからなのである
そこで教会が強大な力を持つようになりキリストの信仰を仲介するものが牧師ともなった司祭ともなり権力を持つようになった
それに反発したのがプロテスタントなのである、免罪符などを売りつけられて反発した
だから教会とか牧師が神との仲介役になることを否定したのである
カトリックとなるとイタリアではバチカンがありそこは独立国でり兄弟な権力持ったのである、一つの国をそこで形成しているからである

仏教でも寺院はそこは不可侵の領域であり城でもあり僧兵が武装もしていた
だから信長がそこを権力集団とみて攻撃して殺戮したのである
その原因は比叡山でもそこが不可侵のものとなり一つの国ともなり琵琶湖の船運で税もとっていたからである
そこが強大な権力集団と見たから武士団と対立したのである
それはカルト教団でも数を集めて巨大化すると現政権をとりこめる、それが創価であり
統一教会でありオウムでもオウム王国を作ろうとしていたのである
創価は創価王国を作ろうとするために運動しているし幸福の科学でもそこに教祖が王となることを目指しているとなる、統一教会だったら文鮮明が王となっている
つまり宗教を利用してこの世の王となることなのである
そのために権力を掌握せねばならないから政治にかかわり操作しようとしているのである
だから何でもメデアとなるものが力を持つ、何か庶民でももめごとがあると弁護士に頼むでもそうして仲介者に頼むと搾取されることがあるのだ
ただ相談しただけで百万の金をとられたというのもそうである、そういう悪徳弁護士も結構いるのである、それで推理ドラマにもなる、弁護士は遺産とかにかかわるからそうなる労せずして金が入る職業だともなるからである、そこにいろいろいるにしても裁判でも弁護士を頼む他ないからそうなる、つまりこの弁護士もメデアなのである、仲介する者なのである、現代とは専門家がいてその人達もメデアであり仲介するものとなる
そしてその仲介する者が力を持ち搾取されるともなるのである

現代社会とはとにかく複雑であり何でも個々人でできない、すると仲介者に頼る
そのために仲介者がメデアが力を持ち左右されるのである
それはいろいろな分野でそうなっているのである
だから現代社会の問題はメデアに支配されるということにある
それは現代社会が余りにも複雑すぎてそうなっているのである
何かあれば専門家に頼らざるをえないからである、専門家の時代でもあるからだ
ただこうして人間は非力化されてただ専門家であれメデアであれ支配されるだけだとなるただメデアに支配されていることは気づかないことがあるのだ
NHKなどがそうである、いかにも善人のように見せて現実は裏では真実をまげて報道しているとかある、それでNHK党が生まれたのはインタ−ネットの効果だったとなる

●金がかかりすぎるマスコミ報道の問題

現代社会はメデアの役割が仲介するものの役割が巨大化したのである
それでマスコミが第三の権力と化したのである、新聞でもそうだったがこれも新聞を刷る印刷するのに莫大な金がかかりそれを配達するのにも金がかかる、それは本でも同じである、金がかかりすぎるから結果的にスポンサーに頼りスポンサーに忖度する
そして真実は報道されない、福島県の原発事故でもそうだった
電事連とか800億円の宣伝費がマスコミに回っていたから批判する記事は書けなかったまた今カルト宗教団体のことが問題になっているが統一教会でもマスコミに深くかかわり批判できないようにしていた、なぜなら霊感商法で批判されてから20年以上統一教会のことなど話題にならなかったからである、それは意図的にマスコミがそうしていたとなるまた創価などは聖教新聞を毎日新聞であれ福島民報であれ刷らせている

そして金銭面で批判を抑えるのである、つまり新聞というのは余りにも金がかかりすぎるのである、他でも本でも雑誌でも金がかかりすぎる、それで福島県の政経福島でも相双リテックから宣伝費をもらっている、裏表紙で宣伝したからである
相双リテックは除染で莫大な金をもらい億の金を幹部で山分けしていたからである
そんな会社のことを宣伝していることは大問題である、ても結局金の問題でそうなっいるのである、報道するにも金がかかりすぎるのである

まずインタ−ネットなら技術的なものとしても障壁があってもまた手間でもあるが金がかからないのである、だから個人でもテレビ局まで持つようになる、youtubeがそうである
そうなるとマスコミの力はかなりそがれる、何百億円の資本金の会社としてマスコミがあったとしてyoutubeなど手間はかかるが金はかからないのである
このことが画期的なことだったのである
そうなるとテレビでもあまり見ないとかなり新聞を読まないとかなってきた
巨大メデアが小さく見えるようになったのである、平等化したともなる
ただyoutubeでも見られことは至難であるから人気のあるものは見ても多くなると選ばれるから全然見られない人も出でくる、それはインタ−ネットでも前からそうだった
そもそもそんなに多くあっても見る時間が限られているのだからみんなに目を通すことはできない、それがまたインタ−ネットの問題だとなる

●なぜ現代社会がナチス化するのかカルト化するのか?

いづれにしろ現代社会はメデアが力をもった時代である、江戸時代なら村で生活する知識とかあれば良かった、自給自足が基本であり外国まで頼る頼られる時代とはまるで違っていた、国内でも村で自立している生活である、すると村のことを知っていればいいともなる、他藩のことは知らなくてもいいとなる
今は外国のことまで知らなければならない、すると天文学的な知識になる、とてももう処理できないのである
そして様々な複雑なシステムであり社会全体を理解する人は誰もいない、世界だった理解不可能である、福島原発でも吉田所長が復水器のことを知らなかったという、それは大事なものだが資材関係が専門だから知らなかったと言っている
肝心なことすら知らなかった、それは社長でも会社のことを全部知る人などいないのである、一部は知っていても全体を知る人はいないのである

そうなると社会がどうなるのか、どうしてもカルト宗教団体でもナチスでも全体主義になる、ハイルヒットラーが一番わかりふすいからそうなったのである
カルト教団でも教祖がヒットラーと同じだからである
それは複雑に分化してもうあらゆることなど知り得ないからである
知るにしてもメデアを頼る他ないとなりメデアにマスコミに操作されたのである
江戸時代だったらヨ−ロッパでも中世社会だったらそんなことありえなかったからである世界でもメデアに左右される、情報でもフェイズニュースでも信じる
イラク戦争では油まみれの海鳥が全世界に報道されてイラクへの批判が強まった
でもまわりは油がなくそれは作られた映像だったのである、それに全世界がだまされたのである

要するに現代社会は情報でも必ず直接見ることもできないしその場に立つこともない
だから偽りの情報に左右される、外国で起きたことでもその場に行って確かめるなどできないからである、現実にその場に行って聞いたりしら全然違った感想にもなるからである現代が情報社会というときナチスがゲッベルスが宣伝の役割をになったように情報に左右されやすいのである、そしてカルト教団などは金で権力でメデアをマスコミを支配する
必ず権力を持つと自由な報道は抑えられるからである
でもインタ−ネットはなかなか抑えにくいからマスコミの力は減退した
それでインタ−ネットが民主主義を促進する役割があったとなる

私が思うに民主主義でもあまりに巨大化すると機能しなくなる、そもそも人間が理解する範囲はアイディンティティ化できる範囲は狭い、自然でも狭い範囲でしかアイディンティティ化できない、常にその場を歩いて実見していないとできない
旅しても30年とかすぎるともう記憶もあいまいとなりその場がどういう場所だったかもわからなくなる、常にその場で生活していないと理解できなくなる
だから国というとき小さい狭い範囲になる、そこでアイディンティティ化して安らぐとなる、日本の国といっても大きいからアイディンティティ化することはむずかしくなる
それより中国とかに三回行ってもその国土でも人民でも歴史でも理解することは不可能だった、あまりにも巨大すぎて理解できない、アメリカでもそうである

人間は狭い範囲でしか実地に生活する場でないと理解できない、アイディンティティ化できない、ギリシャのポリスでも一万くらいだったのである
それくらいの規模でないともともと民主主義は成立たなっか、人間の認識できる範囲は狭いのである
だから自分自身が相馬郷土史と相馬新報として発言してきたのはまさに狭い範囲で自然とも社会ともアイディンティ化しようとしためである
そういうホームとか基盤を持たないと真実の報道はできない、この場が重要なのである

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ)
(アイディンティティは場から形成される)
http://musubu.sblo.jp/article/186376894.html

とにかく現代社会は偽りの情報に惑わされる、様々な情報が天文学的になっている
そして現実にその場に立つこともないので偽りの情報に左右されるのである

2022年07月05日

本の整理ができない (地震で散乱した本の山の整理に苦しむ-引用とは)


本の整理ができない

(地震で散乱した本の山の整理に苦しむ-引用とは)

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地震で本が散乱して山積みになっている、それが整理できない、本も簡単に捨てられないただ本が多くなると読んで印しをつけていてもそれを忘れていた
確かにその時熱心に読んでいても忘れていた
そして本を読み直したら初めて読むと同じだった
これは最近良く推理ドラマをBSで見る、それもたいがい一回見たものなのである
でもそれも忘れていてこれは見たなという記憶があるのだが初めて見るのと同じになっている
まず推理ドラマは一回だけ見ても理解できない、複雑なストリーがあり理解できない
三回くらい見ないとどういう展開になっていたのか理解できないのである
テレビでも映像でも人間は一回見ただけでは記憶にとどまらないのである
老人になると記憶をたどる旅にもなるしこれまで読んだ本でも自分なりに自分の文脈で理解するようになる
だから前に読んだ本を読み直すと今度は自分の文脈で引用できる
でもその引用すべき本が読んでいたにしろ忘れていたのである
膨大な本が山積みとなっている、本は何か自分なりに解説してみると理解が深まる
批評すると理解が深まる、この批評に向いているのが老人なのである
それだけ見る目が理解力が深まっているからできるようになる

でも一冊の本でも内容が濃いとなるとき深く読むことはむずかしい
本を読む時心がけるのは著者と対話することである、でも実力がないので若い時はただ一方的になってしまうのである、人生とは例え平凡な人でも老人になると経験からあのことはこうだったのかこうすれば良かった、時間は貴重だった、馬鹿のことに時間を費やして浪費してしまった、もっと登山すれば良かったとか何かをすれば良かったとか後悔する
そしてあの時こうすればとかもっと勉強していればとか後悔する
ます後悔しない人はいない、それだけ人間はつくづく無駄が多いのである

人間は貴重な限られた時間を一番浪費している

これだけは確かである、どれだけ時間を浪費しているか、時間など無限にあるとか思っていたが極めて限られていたのである
人生70年で経験でも知識でも得たものはわずかだったのである
知識にしても天文学的に膨大でありそのわずかな一部しか知ることができない、経験にしてもわずかのことしか経験できない

何か先生になろうとしてそれも一二年しかできなかった、それは試しにすぎなかった
どう教えるかを試したがその試しすらわずか一二年で終わってできなかった
どのように効果的に教えるかはそれも試して教える術を覚えなければならない
でも時間がなく何もできなかった
いろいろ試したくてもその機会もなく終わった、社会はそもそも一人一人の人間に合ったものを用意してくれない、試すこともできない
それで人間には職業でもミスマッチが多いのである
私は旅ばかりするようになったのは自分にあった職業がなかったからというよりは落ちこぼれであり引きこもりになったからだとなる
でも性格的に引きこもりが自分にあっていたのである、それができたのは家族に恵まれたからである

それで興味のおもむくままにいろいろしてきた、主にしたのは旅だったとなる
登山もしたが体力がなく40代前でやめたのである、その後は自転車旅行になったのである、それも40過ぎでできると思っていなかったのである
また海外旅行でも50歳でバックパッカーになったがこれも遅すぎたのである
自分の場あい何でも遅すぎたのである、それで時間を無駄にしたとなる
ただ今になりいろいろなことを深く理解するうになったのは不思議である
誰しも老人になると人生はこういうものだったのかと自ずと理解する
知らしめられるともなる、否応なくあなたの人生が何であったか知らしめられる
それはもう偽ることができなくなる、それで失敗したと後悔してももう人生をやり直すことができなくなっているのだ

本には人間が一生で得たものが詰まっている、その人なりの経験から知識の積み重ねから得たものが表現されている、だからすでに30年前に買った本の著者は死んでいる人が多いのである、そして人間が残したものが何かとなれば死んだ人と逢うこともできないから本を通じてその人を知るともなる、知る方法がないからである
つくづく本を読んでも理解できなかった、本を読むことはかなり難易度が高い
そこには大きく見れば人類の知識の宝庫であり智慧が詰まっているともなる
インタ−ネットだと断片的知識が多いが本一冊はその人の経験知識を凝縮したものとしてもある、そこに本の価値がある

ただ本を読むにしてもその本人が本を読む人にその本を深く理解するものがなければできない、その本人がそもそもダイヤモンドになり黄金となっていなければならないのであるそうなればダイヤモンドにサファイアとかエメラルドとかルビーいろいろな宝石が寄ってくる、付随してくるのである
本を引用するのはそうして多種な多様なものをアレンジすることにも似ている
それも創作なのである、知識は膨大だからとても一人ではもうあらゆることを知ることは不可能だからである

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(著作権引用の規定)

主従関係が明確であること(明確性)
引用部分が他とはっきりと区別されていること(明瞭区別性)
引用をする必要性があること(必要性)
出典元が明記されていること(出典)
改変しないこと


人間のしていることは何らか共同作業なのである、本当に独創的なことは一人ではないかもしれない、知的作業でも何らか協同作業になっている
第一天文学的な知識があるときそれに通暁することは不可能である
だから知的なものでも協同作業なのである
でも主従関係というといん主となるのが明確でありそれはダイヤモンドでもある
そのダイヤモンドに引用がそえられる、つまり宝石だったらエメラルドとかサファイヤとかルビーとかになる
要するに人間のしていることは独創的なものがあったとしても何か様々なものの過去に創られたものでも組み合わせなのである
それで過去の創作物でも本でもそこからまた新たなものがつけ加えられるのである
そういう作業は延々とつづく、知的創造に限りがないからである
過去の創作したものでもそれがそのままではなく常に変異して新たなものとして再創造されるのである

とにかく本を読むということ本を理解することは簡単にできない、重要な所にいくつも線を引いていても忘れていたとなる、線引いても肝心の自分自身が忘れているのである
忘れないように線を引いていても時間がたつと忘れていたのである
ここに人間の弱点があった、本でも推理ドラマでも少なくとも二回見ないと忘れている
二回見るとその因果関係とか犯罪の理由とかいろいろなものが見えて来る
そして再確認するのである、推理ドラマは人間関係でも複雑だからである
本を読んだとしてもそれなりに自分自身の文脈で理解する、その時引用は生きてくる
ダイヤモンドが自分でありそれに添えられるのがエメラルドやサファイヤやルビーだとかなる、そこに協同の創作があり過去のものも現在に活き続けさらに未来にも変化して生き続けるとなる



イノベーションが生まれるものではない。むしろイノベーションとは、日本語訳で「新結合」とされるように、新しい組み合わせであって、組み合わせるもの同士は新しくなくてもよい。

ソニーやパナソニックが再び世界で戦うために必要な「21世紀の水道哲学」

まさに子さなのだ、新しい組み合わせがイノベーションであり創造なのである
全く新しいもの作ることではない、ルネサンスでも過去にあったものを再創造したからである、膨大な知識も組み合わせする新しいものが生まれるのである




2022年06月01日

プログは時系列で記録することだけで意味がある (インタ−ネットで権力をもった庶民)


プログは時系列で記録することだけで意味がある

(インタ−ネットで権力をもった庶民)

●私の十年前のプログの記録も忘れていた

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退院して山帽子赤く実れるや我が家にそ心安らぐ

10年前震災前に入院した自分の記事を読んだ、それが忘れていた、こんなことあったのか書いていたのかも忘れていた、それでその時の写真を見てこんなことがあったのだなとふりかえる、病院から家に退院したとき山帽子の実が赤くなっていたのだ
病院から自分の家に帰ってきてその実を見たときいかにもここには実りがあったとみる
病院は無機質な空間である、別に南相馬市立病院は悪い場所ではない、看護師は親切だった、ただ相馬総合病院に入院したときいじめられたとかありいい印象をもてなかった

ともかく病院はいい場所ではない、それでいい看護師でも家族の代わりにはなれないと
本まで出して言っていた、また知っている人が半年なのか長く入院してかえって栄養不足で悪化した、糖尿病であっても病院の食事はまずいとして悪化したのである
そして家に帰ったら回復したと聞いた、こういうことはみんな経験しているだろう
別に看護師とかでも医者でも悪いとはならないがどうしても家族が見うにはならないからである、つまり医療とは情とか愛とかを必ず必要としているがそれが病院ではできない
別に冷たいのではないがそこに限界がある

この山帽子を見ていたのを忘れていた、あの時病院から帰ってこの赤い実を見ていたのだとふりかえる、それがなんともいいのであく、つまり家にこそ実りがあった
その赤い実は本当に命であった、病院にはそういう実りはない、索漠とした空間なのである
この山帽子の実には何か温かみがある、家に実っていたのだなとつくづく思った
でもこの山帽子は嵐があって半分そがれたのである、それはかなりひどい台風なのか嵐でそうなった、だからもう花も実もならないとかとも見た
でも今では十年過ぎて回復している、こうして10年も過ぎれはまた必ず変化がある

とにかく自分の場合震災から十年の変化は激しすぎたのである
その前に姉が認知症になって介護に追われていた、でも十年もすぎると忘れていたとなる
プログはこうしてただ記録することに意味がある、例え読まれなくても意味がある
日記として残されることに意味がある、人間は時系列で見る時間軸で見ることが苦手なのである、何か事件があるとして空間的にはどこで起きたかすぐにわかる、
だからtake placeになる、どこで事件が起きたというとき場所としてまず認識するのである、ところが時系列で認識することは本当に難しいのである
ウクライナのことでも時系列で認識することがむずかしいから理解しにくいのである
テレビでプーチンはスターリンを模範にしているとかロシア国民はスターリンを再評価しているというときもそうである、それは若い人がスターリンがどれだけ酷いことをしたか教えないからそうなっているという、情報は一方的にロシアではなっているから一方的な見方しかできないからだという
つまりこうして時間が過ぎると過去は歴史となりそれもその歴史を教えないと誤解が生まれる、一千万人も粛清されたとかあり

●ウクライナで起きた時系列の歴史がわからないから理解できなかった

ソ連では1939年末までに約900万人が投獄されたと主張する。

この第2次チェチェン戦争での民間人の死者数は、統計した団体ごとにさまざまな推定値がある。4万〜5万人という推定が多いが、もっとも少ない推定値は中立的立場の国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」の調査で、民間人の死者が約2万5000人、さらにおそらく死亡したであろう行方不明者が5000人いるとされている。つまり、少なくとも3万人以上の民間人が殺害されたとみていいだろう。

今回のウクライナ侵攻よりずっと以前から、プーチンは数々の殺戮に手を染めている。ざっと計算すると、すでに8万人前後の殺戮に直接の責任がある。事実上プーチンの配下になっているシリアのアサド大統領による殺戮の責任も加えれば、プーチンはなんと30万人近い人々を殺してきた21世紀最悪の大虐殺者といえる。

時系列でみればこういう事実があった、でもそういうことを深くふりかえり考察できないそれはロシアの若い人たちでもそうなのだから外部になるとさらにそれを深く見ないのである、かえって内部の人達は閉鎖された環境で一方的な情報しか与えられず方に何があったかわからないからスターリンを賞讃するようになっている
これも怖いことである、日本でもそういうことが起りえると警告している
もう70年以上すぎるといくら日本が三百万人が戦争で死んだとしてもリアルな感覚がもてくなくなる、ただ私は姉が従軍看護婦だったからその話を最後に認知症になり千回を聞かされたからそこで戦争が何であったか知る、でも今や若い世代になると全く直接戦争の話でも聞けない、だから戦争を理解することはむずかしくなる
こうして過去が忘れることが人間にとって危険になる、戦争とかスターリンの粛清も隠されて忘れられるとしたらまたロシアは同じことを繰り返す、そして大量の死者がでて犠牲になる、それで若い人は今のプーチンでも生ぬるいとしているのが多いというのがそのためである、日本でも戦争のことを忘れて右翼的な人達がこうなるかもしれない
それは戦争の悲惨さをわからなくなるからである

●記録されない重大なのこと-津波の記録

人間とは時系列でみることが苦手なのである、次々に事件でも起こり過去にあったことは忘れてゆく、そして過ちを繰り返す、だから重要な歴史でも忘れられるのである

それで相馬藩では400年前に慶長津波があり生波で700人溺死と相馬藩政記に記録されていたが誰も知らなかったのである、その記録も膨大だからである、学者すら知らなかったのである、もしこの記録をみんな知っていたら逃げて助かった人が相当数いたかもしれないこの辺では400年も津波が来ないのだからここは津波が来ないという確信になっていた
でも戦国時代だったから相馬藩の戦争のことは事細かに記録していたのである
そして生波(いくなみ)後で津波となった、これは二行だけしか記録されなかったのである

なぜ記録されなかったのか?

それは文字を書ける人も少なかった、文字を書けるのは役人でありその時の関心事は戦争のことだったからである、その時の権力者の一番の関心事は戦争のことだったからである別に民衆が700人津波で死んでもたいしたことではなかったのである
でもその時生きていた民衆が記録することができていたら貴重なものとなりそのことで津波から逃げて助かった人がいたともなる

ともかく記録することは意外と大事である、その手段をインタ−ネットで民衆が得たとなることは実は大きな進歩である、なぜなら記録することは簡単にできないかったからである、文字が生れ記録することはエジプトの神聖文字のようにそのことから三千年前のことまでわかる、石に記録されたから消えないのである、紙に記録したものはやはり消える
でも石に記録したものは消えなかったからである

インタ−ネットとかは庶民でもこうして膨大に日記でも簡単に記録できる
するとその当時の庶民のことが記録されているから歴史の資料ともなる
電子化するとことの強みはこのうよにいくらでも書けることである、一人一人の全集のようなものが残せる、全集とかなると特別の人しか残せなかった、それで印刷技術ができたとき聖書が誰でも読めるようになりルターがドイツ語で聖書を本として出版してカトリックに対抗してプロテスタントが生まれたのである
このプロテスタントとはカトリックに対してプロテストすることであり抗議することである、それは印刷の技術が生まれてできたことなのである
これで大きく社会が変わったのである

だからインタ−ネットにもそういう力がある、その力を民衆でも得たとなる
今まではマスコミから選ばれた人しか発言できなかった、また記録としても残したとしてもそれがこんなふうに膨大に書いて残せなかった、出版できるのは極一部である
民衆の大多数は日記に記録したとしても本として出せることはない、ということはやはり何かしら権力をもっていないとできない、その権力だとカルト宗教団体とか様々な組織団体が背景にあって出されるとなる、だからインタ−ネットによりこうして膨大な記録ができて発言できて少数でも読む人がいるということは大きな変化だったのである
そして電子空間だと紙に書くわけでないから無制限に書ける、本でも新聞でも紙の媒体だと書けない、それは費用がかかるからだ
それは江戸時代とかなる紙自体が紙漉きとかで作り高価なものだったからである

●記録することも簡単にてきなかった

ヨ−ロッパだと修道院に

「写本」というのは、本の内容はもちろん、豪華な装丁の高級感が、政治的権力を表していました。今、本と政治というのはあまり権力とは関係がないですが、当時はこういう貴重なものを持っているということが権勢の象徴になっていたと言えます。また、戦利品としても写本が非常に重宝されていました

羊皮紙をつくる職人、絵を描く職人、イニシャルを描く職人、テキストを筆写する職人、写本を本に綴じる職人、装丁を作る職人らの分業から成り立っているものです。

これだけの手間がかかっていた、それは紙漉きと同じである、だから高価なものだから
特別であり誰も記録を残せるものでもなかった、羊の皮ともなれば貴重だからである

でも電子空間だとそういうことはない、いくら書いてもかまわない、紙が増える訳でもないからである、費用はかからないのである、だから庶民でも誰でも記録して残すことができる
ただ電子空間だと一瞬にして消える恐怖である、それで都築詠一氏のプログは自ら消して死んだのである、なぜ記録を残さなかったのかわからないのである
電子空間は記録するにしても一瞬で消えることがありそういう経験を数回自分もしているすると一瞬で苦労して書いたものでもゼロになる恐怖なのである

とにかく私はプログで書き続けて来た、そこでコメントとか対話もせずにただ一方的に
書いてきた、でも読む人はいる、津波震災の時は毎日二千ページビューとかあった
それはあれだけの震災の犠牲がありその現場にいて生々しく伝えたからそうなった
つまりインタ−ネットでアクセスが増えるとしたらマスコミに報道されるだけではない、その現場にいた人からの報道することが可能になった、写真でも動画でも出せる
今ならスマホで動画を即座に出せる、それでウクライナ戦争のリアルな映像が世界中に流れた、それが生々しいものとなったのである
報道はマスコミがするものでありそれ以外はできなかったからマスコミがとれだけ力をもったかしれない、第三の権力になったこともわかる

●インタ−ネットで庶民が新聞社にもテレビ局にも出版社もなれる

全国区の選挙があったときも芸能人が名前が売れてるから一位当選とかあったのである
そきお中味などどうでも良かったのである、なぜなら庶民は名前を知っている人に投票するからである、その人がどんな人なのかなとわからないからである
それで東京都知事の青島だよとかテレビに常に出ていた人が知事になったのである
その人は選挙運動もしないでいつも当選していたのである、それはテレビの宣伝力のためだったのである、それだけ中味など関係なくテレビに出ただけで有名人になっていたからそうなったのである
そこでNHKが大衆を洗脳する機関となりNHKの言うことがすべて正しいとまでなったのである、もうNHKには逆らえないとなったのである
そのNHKを批判することだけで選挙に出る人がでてきたというのも時代である
それだけNHKが報道でも世論でも作り出す独占するものだからそうなっていた

私はインタ−ネットでもすでに二十年している、それはホームページから始まった
でもそれも5年間くらいで終わりプログに移った、介護とかで忙しくなりプログが中心になった、プログでも書き続けるとなると手間だけは省けない、そこに時間がかかる
でもこれだけ一私人が膨大なものを書けるそれも資金はかからない、紙代もかからない
出版するとなると紙代から本作りから店に置くだけで百万以上かかるだろう
それより勝手に出版などできない、本屋でも置けないし売ってくれない、無名の人など相手にしないからである
だからプログでもこれは庶民が大きな権力を得たものだと自覚した
出版社にもyoutubeだとテレビ局にもなるからそうなる、youtubeだとテレビ局にもなり
芸能人でもyoutubeに出ているしyoutubeで有名になり広告で一億円稼いだとか出て来た
今やマスコミとかテレビでも見ない人が増えたのである
マスコミはテレビは凋落するメデアである、それより多様なコンテンツが見れるインタ−ネットに視聴者は移っている

●パソコンン通信から発展したインタ−ネット

私はたまたま通信機のついた富士通のワープロでオワシスキーボードで文章がスムーズに書けるのではまった、悪筆でありこれにのめりこんだのである

代表的なパソコン通信サービスには、NIFTY-ServeやPC-VAN、アスキーネット等がある。1987年に提供が開始されたNIFTY-Serveでは「フォーラム(電子会議室)」というサービスを提供していた。フォーラムでは特定分野のテーマに沿ったコミュニティが用意されており活発な議論が交わされていた

これ以上の小規模なものがあり個々人を一つのパソコンに結び通信して対話もしていた
そこでレスが必要だったのは相手に書いた文が届いたいるどうか確かめるためだったのである、それは通信の初歩だからそうなった、その後にインタ−ネット通信がグロ−バル化したのである、今やこれが世界をつなぎインタ−ネットなしでありえない世界になったことは驚きである、この変化がやはり21世紀では一番大きなものであったともなる
通信が飛躍的に発展したのである
だから個人でも出版社にもなり新聞社にもなりテレビ局までなったである
それを一人でしているのは驚異的だとなる、写本の時代とか今でも新聞とかあるがこの手間を見たらそうである、新聞を新聞社で刷るだけで大変な手間である、費用もかかる
それをまた一軒一軒配るだけでも手間で費用がかかる、だからとても新聞社は維持できないともなる

こうして新聞社が金をかかるから東電とかの宣伝媒体として使われた、なぜなら電事連とかから800億円の資金が出ていたからである、また政経東北でもなぜ相双リテックとか除染で大儲けした幹部が何十億と分配された会社を裏表紙一面で宣伝していたのかとなる
また福島民報では創価の聖教新聞を刷っている、それで金が入り会社を維持できている
他でも聖教新聞を毎日新聞とかでも刷っている、そうして大きな権力のプロパガンダにもされるのである、それは新聞を出すことに金がかかりすぎるからである
新聞のようなものでも一個人がインタ−ネットで出せるしテレビ局になれることは大きな変化である、ただ取材とかなるとどうしてもプロが必要になる、そういう人件費は省けない、個々人だと取材が簡単にはてきないからである
第一ブロガーだとか言っても相手にされず取材もできないとなる

●プログは記録しているだけで後で役に立つ

とにかくプログは個々人でもその時々のことを記録していると後で役にたつ、こんなことがありこんな感想を書いていたとふりかえれる、だから十年前にこういうことがあったのか思い出してまた感想を書いたのである
ただパソコン通信とかの時代と違って対話はせずに一方的に書いている
家事でも全部しているし忙しくなったからである、いちいち対話することがめんどうになったのである
でもインタ−ネットでは必ず文章を書くにしても参照るのがインタ−ネット上にあるから引用できるのがいいのである、これを図書館に行っていたりしたらできない
コピーするにも許可必要だったりキーワードで探せない、だから今は市の図書館に十年くらい行っていない、その時間かなくなったからだ
もう図書館が必要ないかもしれない、ただ中味のあるものは本にある、でもその本も膨大でありアマゾンで古本でも安く買える、そして自分用の図書館すらできる

私の家は大きいからできる、それで司馬遼太郎などは自前の図書館をもっていたことでもわかる、文章を書くとき必ず参考にするものが必要でありそれが本になっていたからである
私は膨大な本を買った、それをびっしり線を引いていても忘れていた、覚えていなかったでも読み直してみて今はその一部を引用して自分なりの文を書いているのである
やはり本は専門家が書いているのだから中味があるからだ、だから本自体はなくならないその中味がコンテンツが良ければそれは必要だからである、でも別に電子本でもいいわけである、ただ本の方が頭に記録されやすいことはあるようだ
それにしても本も膨大になるとただ積読(つんどく)になったいのである
本は買っても読んだとしても忘れていたのである

このように人間ほど忘れるものはないと思った、認知症になりすべてを忘れるとういうこは病気だからそうなるにしても本当に人間は老人になると忘れるのである
50年前にあったことが何なのか50年前に逢った人は本当に逢っていたのかともなる
本当に存在してたのかとまでなる
それだけ記憶もあいまいになってしまうのである
だから忘れないように日記でも書いていることは後で参考にはなる、ても紙に書くとなるとめんどうになる、こうして電子空間だといくらでも気軽に書ける、記録を残せることが庶民でも権力でも金がなくでもできるから大きな変化であり権力をもったとなるのである

2022年05月27日

膨大な本を買っても理解していなかった (新しいものを求めるばかりで温故知新がなかった)


膨大な本を買っても理解していなかった

(新しいものを求めるばかりで温故知新がなかった)

何か不思議なのは人間の心理として例えば本をアマゾンで注文する、すると二三日待っている、そこにまだ読んでいない知らない新しい知識に接することに期待する
別に二三日でも期待して待つということがすぐに手に入るのと違った感覚になる
それは電車でも駅舎で待つということがありその待つ時間が期待にもなる
親しい人とか愛する人と別れていたがまた逢えるとかの期待に通じている
それは待つという時間にありそれが無駄なものではなく精神的豊かさをもたらしていたのである

高速道路のSAにはまず待つ時間がない、別にそこで電車のように車が来るの待つことはないのである、何かこうして便利さとか効率さだけを求めて来た社会には意外と欠けたものが生じる、そこに無駄なようなものでも人間にとっては無駄なものではないということがある、その無駄と思えるものが何か人間的豊かさを作り出している
もし駅についてすぐに電車にのり目的地に行くの効率的である、山手線などではそうである、二三分でも遅れると嫌だとなる、仕事をするとなるとそうなる
でも旅とかなるとまた他のことでも待つということが意外と精神的なものとして必要だともなる

それはおそらく手紙でも同じだろう、手紙は今のようにネットとかメールのように瞬間的に送れない、そこで手紙を待ち望むとういことがあった、そこに期待があった
今はそうした期待もない、待つ時間もないのである、それは効率的なのだが失うものがあった、人間の不思議は何かを得るとまた何かを失っているのである
これはあらゆることで起きているのだ
機械化というとき何でも効率化していいとなりあらゆるものが機械化してゆく
でもそこで失われるものがある、農業だと村で田植えでも稲刈りでも人力でするから
みんな協力しないとできない、人手を集めないとできない、それも不便なのだけどそこで村が一体化して共同性が育まれて祭りなどが生まれたのである
機械化するとそういうこともなくなって祭りも廃れたとなる

そしてこれも不思議なのは人間の心理として常に新しいものを求める、本でも何か新しい本を求める、そこには今までにない新知識が知見を得ると思えるからである
でも私の場合でも一つの部屋が本でうまるくらい本を買った、いたるところに線も引いてあるのだがその本を読んだ覚えすらなくなっている、これも何なのだろと思う
人間はとにかく忘れやすいから一回くらい読んだとしても忘れていたのである
こんなこと書いてあったのかと初めて読むのと同じだった
だから奇妙なのは新鮮だったともなる、前に読んだとしても忘れていたからである
人間にはこういうことが多い、そして人間は常に新奇なもの新しものを求めている

でも本を読むにしてもその本の内容を深く理解していなかった、またできなかった
ただ新しいものを求めて本を買い積読していただけだとなる
つまり本は本当は深く自分なりに理解してこそ得るものがある、でも深く理解できない
そうして新しい知識を求めて本を買っても消化できていないのである
一冊の本でもその本を深く理解することがむずかしいのである
だから今読み直してみる理解するようになった、そういうことだったのかと理解を深めるようになった

こういうことは人間に良くあることだろう、それで温故知新という言葉が生まれた
古きをあたため新しきを知るということである、新しいことばかり求めてもだめである
古きをたずね古きを温めて理解を深める、それで知識でも理解が深まる
つまり現代は物があふれている、新しい物を求めて物が過剰になっている
知識でも情報でもそうである、でも古きを温めるということが欠けている
現代はこうして新しきものばかりを求める時代から古きを温める時代になっている
それで古民家再生のことなど古いことを活かそうとしている人がいるのはめずらしいと思った、神道とか仏教でもそこになお意義があり意味があり現代に活かそうとしている
ただカルト宗教団体などは全くそういうものがない、求めるのは数であり組織の拡大であり結局権力を得ることしかないのである
だからそこから全く思想などないのである、数であり権力しか求めていないかである
このプログではそういう権力とは何ら関係ないから好感がもてるのである

いづれにしろ日本でももともといいものはいくらでもあった、学び伝えるものがあった
欧米のものだけがすべていいものではない、それを新しいものを求めてかえって日本的ないいものが見失われてきたのである
だからもともとあった日本のいいものを見出すこと日本の文化を再生させることも現代ではかえって必要なのである、また明治維新から150年もすぎてそういう時代になったということもある、ともかく物の時代から精神の世界、文化の時代に移りつつある
そういう過渡期にある、日本の役割が東西文明の掛け橋であり融合の役割を担った
その過程で戦争となり混乱して悲劇になり終わった

そして欧米に習うだけであり日本のいいものを忘れていたとなる
例えば武士道でも神道でも仏教でもそこに日本人が見出したいいものがあり独自のものがある、でもそれも忘れられた、でも欧米のものを日本人は日本人なりに消化されなかったただ仏教でも日本人なりに消化するには鎌倉時代までかかったから時間がかかる
文化とかなると簡単には消化されないのである、物とか機械なら意外と消化する
それで明治維新でなぜ汽車をすぐに作れたのかとなる、工業化できたのかとなる

でも文化となると政治とか宗教とか思想となると簡単に消化できないのである
民主主義といっても簡単に消化応用できなかった、民主主義では戦後は権利のみを主張することが民主主義であり義務とか責任は無視されたのである
そこでは各自利己の利益のみ追求したのである、結局アメリカに占領されて習ったのだから日本はアメリカに似て来るのである、それが金だけを追求する国となったことでもわかる、もう何が日本的なものかもわからなくなったのである
それは温故知新がなくなり日本の古き良きものが見直されることなくただ新奇なものばかりを求めてきた結果だともなる
それは自分自身でも膨大な新しい知識を求めて本を買ってもただ積読になって深く読んで理解していなかったと同じなのである

とにかく人間は理解することが何でもむずかしい、一人の人間でも理解することはむずかしい、ましてや他国を理解することはさらにむずかしい、とても簡単に理解できない
ウクライナ戦争でもウクライナとかロシアとはどういう国なのか理解することは至難である、空間的にはある程度はわかる、それにしても空間でも大陸だと広大だからわかりにくくなる、そして時間軸で歴史として理解することも簡単にできないから必ず誤解が生まれる、親戚でも付き合いが30年とかないと相手のことがわからなくなる
なぜなら人間がまるで変ってしまっていたからである、人間もそもそも常に変わり安いのである、だから突然ロシアとウクライナが戦争になったのだろうとなる
それを理解することは本当にむずかしいとなる

いづれにしろグロ−バリゼーションは物流の増大であり技術の革新であり機械化であり
またコンピュター化でもあったがコンピュターとなるとこれは頭脳とも関係してAI時代にもなる、それは脳と深く関係してくるから文化とも関係してくる
それでコンピュターのソフトで世界の写真や画像を見て私が変化させて作っている抽象画が新しい芸術ともなっている、全然絵の才能がないのにできるからだ
そもそも写真自体が絵の才能がなくても絵画化できるものとして発展してきたからである現代は映像の時代でありそれが世界的にグロ−バル化してコンピュター化してそうなったとなる、つまり現代とは表現の時代である、個々の表現の時代である
だからニュース解説者がyoutubeでもプログでもホームページでも膨大に増えたのである
マスコミが独占していたものが個々人でもできるようになったのである
なぜなら個人でもテレビ局になり出版者にも新聞社にもなれるからである
それは何百憶とかの資本金などいらない、無料でできるのである
この変化も大きいのである、プログのようなものでもいかに表現力があるか感心するからだ、だから現代は情報社会という時個々人の表現の時代になったのである

ただいかにこうした技術革新かあっても依然として温故知新は必要である
過去に蓄積され伝えられたものを見直す作業である、それは個々人にも言えたのである
私は膨大なものを詩とかで書いていた、百から千くらいまで書いていたかもしれぬ
それは発表していない、それを整理しているのである、そしてこんなことを書いていたのかと自分自身で感心しているのも不思議なのである、それだけ人間は個々人でも全体でも過去を忘れるものだと思った、全く自分で書いたものとも思えないのである
つまりそれだけ人間は忘れやすいのである、人間も死ぬと十年もすぎると曖昧模糊となる60年一生に生活していてもそうなる、他人ならそんな人いたのかとなり全く忘れられるのである、それでこの辺で400年前に慶長津波があり生波(いくなみ)で700人溺死と相馬藩政期に記されていたが誰も学者すら知らなかったのである
津波の後に発見されたのである、こうした重要なことすら人間は忘れるのである

だから人間の大きな問題が忘れることになったともみる
認知症になると遂に自分の住んでいる町の名前すらわからなくなる、子供の名前もわからなくなる、そうなるともう家族でも他人であり見知らぬ人になっていたのである
つくづく人間の大きな問題は忘れることにあったと思う
どれだけ重要なことでも人間は忘れる、日々目前のことに追われ忘れるのである
そうして重要なことでも忘れてしまうのである、だから忘れないように記録することも大事である、もう百年後とか二百年後とかなるとやはりあらゆることが忘れられる
そこに重大なことがあっても忘れられるのである、それで過去のことを記した記録した文字が発明したことが人間にとって大きな意義があったとなる
ともかく何かを記録しておくことが個々人でも大事であり地域でも国家でも大事だとなるそして見直すことが大事になる、そうしないと過去を忘れると津波とかでも警戒しないことになり大被害になるからである


金で買えないもの・・・・

2,500円の本をアマゾンで買った
それは高いと思った
また内容も良くわからなかった
詩の本となると理解するのがむずかしい
本でも知的なものは
金より理解すること
深く鑑賞することができること
それが問題なのだ
その理解力鑑賞力がなければ
いくら金があっても無益
金ですべては買えない
知識や知恵は金ですべて買えない
本は絵画を買ったとしても
その鑑賞力理解力がなければ無益
しかしそれは得難きもの
それでこの世で貴重なものは
すべて金では買えない
金がなくても得られることもある
自然の美は無料で神により提供される
ただ理解力鑑賞力があればである
食べ物なら誰でも価値がわかる
でも文化的なもの知的なものは
理解力と鑑賞力がないと価値はわからない
つまり金ではそもそも買えないのである



ともかく過去に書いたものが本当にこれだけの量になると忘れていた
これが自分の書いたものなのかと不思議にもなる
人間はそれだけ忘れる、それで過去に書いたものを整理している
それも膨大だからその整理も尽きない、そして疲れたとなる
自分自身が書いたものが自分が書いたもののように思えくなっている
これも量が多いからそうなっているのだ

とにかく文化的な価値は金に換算しにくい、詩とかなるとマイナーだから
そもそも理解する人にしても少数である、そうなると理解する人鑑賞できる人の方が貴重だとなる
なぜならそもそも理解しにくいのだから価値も認められないとなるからだ
それで偉大な芸術家がいたとしても全く認められない人もいたとなる
つまりその価値を見出す人がいなかったのである


2022年01月17日

不確かな人間の認識 (情報のカオスで混乱、操作される社会)


 不確かな人間の認識

 (情報のカオスで混乱、操作される社会)

 ●近くの人でも錯覚して間違った情報を信じていた

 近くの人で誰が言ったのか、自衛隊で働いているという、福島市の方で働いているという、その人は確かにそこをいつも通るからそうなのかと見ていた
いないときも多くその時は福島市の自衛隊の駐屯地に行っているのかと見ていた
そこで直接聞いた、そしたら自衛隊ではないという、これも奇妙なのである
てっきり自衛隊だと自分は思い込んでいたからである
でもずっと自分で直接聞いて確かめていなかったのである

また昨日桜井古墳の前の方墳を見た、それが意外大きなものだったのである
前も見たがそこはあまり見ていなかったから驚いたのである
こんなに大きいものだったのかと驚いた
つまり自分の認識で錯覚していた、桜井古墳はいつも見ていたがそこは隠されたような場所にあり何度も見ていなかったからだ
こうして近くでも錯覚していることが結構あるのだ

これでわかるようにいかに人間の認識があいまいだか不確かだかわかる
それは近くでもそうなのである、何か今田舎でも近くでもその人が何で働いているのかわからないことがある、その家の主人は通りかかって何回か見た、妻もみた
でもたいがい家にいないのである、だからどこで働いているのか不思議になる
これが都会だったら当たり前になるのが田舎でも今はそうなのである
何をしているかわからない人が多いのである、戦後の焼け野原の十年くらいはそういうことはなかった、農家の人が多く近くで働いている人はわかっていた
篭屋であれば竹で篭を作っていたとか漆屋となれば漆塗りしていたのである
それを私は隣だから見ていたのである
また石屋がありいつも石をノミで削っていたとか見ていたのである
たいがい近くの職業がわかりそれで何をしているかわかる社会だったのである
すると子供でも近くの人が何をしているか理解していたのである

今は近くでも何をしているかわからない人が田舎でも多いのである
それだけ広範囲な多様な職業が生れそれでわからなくなった
その人はおそらく地元では働いていいない、今は車で遠くまで通う人が多いからである
でもその人が見たのは近くに何十年といて何回かというのも不思議である
何か職業は謎が多かった、それで山の中で木地師がいて椀と木の器を作っていてそれが
椀貸し伝説とかなって残った、その職業が地元の農民からすると神秘的だったからである鉄を作る人でもそうだった、それらは農民にとって理解できないものがあったからだ

●現代は情報の洪水で真実がわからない

現代は情報社会だという時、情報が膨大でその真実を知ることは不可能にもなる
江戸時代だったら村のことを知っていればよかった、村自体が一つの家族のようになっていて知らない人などいなかったのである、みんな何をしているか知っているしその家の竈の中でまで知っていたとなる、だから何かあってもすぐにわかる
今は隣は何をする人ぞとなる、すると他者を理解することはむずかしくなる
村人だったらみんな農民だからわかりあえるが一万くらいの田舎でも知らない人がいる
何をしているのかもわからないとなると互いに理解することもむずかしくなる
ただ反面ある人は四六時中監視されていると嘆いているということもある
それで田舎は嫌だという人がいてなじめないともなる

ともかく情報社会でフェクニューフェースにだまされやすいというとき日本でもさらにグロ−バル化すると必然的にそうなる
イラク戦争でも油まみれの海鳥が映されてイラクはひどいと世界中の人が思った
その一枚の写真がいかに世界に影響したかみればグロ−バル化して世界中がだまされたということである、それはアメリカによる情報操作だったのである
つまり現代は自分で情報を確かめることもできないから簡単に情報操作されやすいのである

何か人間は意外と身近でも誤った認識を持つ、推理ドラマでも実際に見たという人の証言が間違っていることが結構あるのだ、人間はその人を良く見ていないからである
だからその証言をどこまで信じていいかわからないのである
見間違うということが普通にあるからだ、すると人間はフェクニューススでも簡単に信じる、それは自分自身でじかに確かめようがないからだ
だから相当に情報社会でも誤って情報信じている、何が真実かもほからないで一方的に情報を信じているのである
そうしてその情報を伝えるマスコミが絶大な力をもったのである
それでナチスを産んだのが宣伝でありゲッベルスが担当したのである
つまり大衆を情報操作してファシズムとなったのである
大衆を扇動する、情報でもって扇動することで戦争となり悲惨な結果となったのである

●情報はもう情報公害になっている

もう現代の情報は過剰でありとても人間で処理できない、江戸時代の何万倍なのか膨大な情報が流される、するとその真偽など関係ない、いちいち調べようもないからだ
情報洪水の中で何が真実かわからなくなるからフェクニュースにだまされるとなる
情報がスモッグのようになっている、あまりに情報が多くカオスになっている
そして情報の真実を確かめることもできないのである
だから結局真実がわからないから陰謀論になって終わる
株がどうして上がるのか下がるのかなどもわからない、それが市場の原理でもないし公正でもない、ただアメリカが結局はもうける仕組みになっているともなる
いづれにしろグロ−バル化した経済を理会することは不可能なのである

さらにインタ−ネット時代になると個々人も自由に発言するからそれもいい面と悪い面がでる、さらに情報が何百倍にも増大したからである
ただNHKがまるで裁判官のようになって情報を独占するよりはいいとなる
テレビでも六局に支配されていた時よりは真実を見極められる時代になった
これまではマスコミによって情報はそうされていた、マスコミに取り上げられればその人物はつまらない人間でも大きく影響力が持てたのである
今はテレズに呼ばれる専門家もyoutubeで直接話ししているからわかりやすいとなる
高橋洋一氏とか科学の専門家の武田邦彦氏などがそうである
そういう人から直接聞いた方がいいとなる
それでメデアとは仲介するものでありその仲介するメデアがマスコミが衰退してゆく

結局メデアというとき人間が直接話を聞けるのは極わずかである
必ず人間は誰かから聞いて判断している、誰かが人がメデアになり媒体になっていた
でもまた直接本人に聞けることはほとんどない、人から人へと噂で広がる
だからフェクニュースは新聞でもテレビもない時代からあったのである
誰かからの又聞きで噂が広がったからである、ではその噂の発信源は誰かとなるとわからなくなっていたのである
昔にあったことが機械のメデアの発達で大規模になったともなる

人間はやはりじかに合って話さないとわからないことがある
推理ドラマではじかに話しして聞いてその人の態度で微妙な反応を見て判断する
だからじかに合ってみるとか現場に何回も行けとかなる
そこに何か犯人の残したものがあるとかなるからだ
つまり事件が起きるとかはtake place てあり場所が深く関係しているからである
だから桜井古墳の前の方墳に何回も行っていればあれだけ大きいものだと実感したのである、そこには一回なのか二回なのか行っていなかったからである
地元で有利なのは何回もその場に行けることなので認識が深まるのである

現代は情報社会である、これがいかに大きな影響があるかを知らないと危険にもなる
マクルハーンが世界で起きたことが隣村で起きたことのように影響すると言ったのもわかる、世界で起きることが本当に隣村で起きたように影響する
だから凶悪犯罪でも実際はまれでも隣村で起きたように思うのである
だから今やすべてが犯罪人に見えるのである、誰も隣村で起きたように見るから戦々恐々として誰も信じられなくなり子供にすら声をかけることができなくなった
性犯罪の報道も多いからである、でもその犯罪でも実際は教室で先生が起こすことの方が多いのである、なぜならその先生はいつも子供と接しているからである
だから見知らぬ人でも必ずしも子供に害を及ぼすとはならないのである
ただ情報社会だからそうなってしまったのである
ともかく情報社会がどういうものか理解していないと現代を知ることはできない
常に何でも情報に左右される社会だからである
そして誤った情報に左右されて戦争になったり何百万人も死んだりするから怖いのである


2021年12月08日

重要ななネットインフラ (デジタル社会に適応せざるをえない)


重要ななネットインフラ

(デジタル社会に適応せざるをえない)


dellのノートパソコンを使うのに苦労した

インターネットにはまだいろいろ問題がある

セキュリティの問題もアキレス腱でありそれで常にパスワードが問題になる

そしてパスワードがもう十個くらい別々にあり忘れる

するとアクセスできなくなるから困る

ドラマで必ずパスワードがわからなくなり必死で合わせて助かる、つまりパスワードは命にも関わっているからだとなる

ドワでも閉じたのわいいがパスワードを忘れると開けられなくなり死ぬことあり得るからだ

私が失敗したのは自転者のカギである、パスワードを忘れて開けられなくなった、これも怖い、何故ならもしパスワードを忘れて開けられなくなったらどうにもならなくなるからだ、つまりパスワードはそれだけ重要だとなる。パスワードがわかれば重要な情報は盗まれて致命的になる

ここにネット社会の弱点がある

それと情報でもせっかく創作したのでも一瞬にして消える何か不具合があると一瞬にして記録したものが消えるる、また消すことができる

これも大問題なのである、本に出したもの消えない、どこかで残っている、電子本でも長くは残らないとも言う

いかに記録を保存すらかも大問題である

それから依然として文章にするのが進歩していない、手間なのである、私は富士通の親指シフトになじんでワープロからパソコンンの世界に入った

もしこれがないと入りずらかったのである

ただ文字入力でもdellだと校正しなくてもいいようだ、私の文は必ず誤字脱字などが多かったからだ、これも機械が変わると防げる

この文はデルのノートパソコンで打っている

ローマ字入力で打っている、だから遅くなる

この辺は進歩していないのである


とにかくネット社会にデジタル社会になるとこれに適応せざるを得ない、私は20年前からパソコンはしている

でもスマホはしていないのである、だからデジタル社会に適応してないともなるのだ

社会がデジタル社会になるとき仕事も変わる、新聞とかテレビでも変わる、マスコミはテレビは国の運命すら決めるとまでなっていた、それだけ報道できるのはマスコミしかなかったからそうなったのである

この辺で来年一月に市長選挙があるが政経東北で今の市長が相馬市長の子分でいいなりだとかかれて抗議した

この報道の影響は大きい、選挙に相当影響する、だから

マスコミは力を持ったのである

でも政経東北も金で動く、双相リッテクの宣伝していたからである、何十億の除染費用を山分けしていたからである、こうして報道でも公正にはならない、報道にしても調べるにしても金がかかるからだ

また警察とと親しくしないと情報すらはいらないからである、そのために検事と新聞社の記者がマージャンしていたことがわかったからである

ただネット社会化すると選挙にも影響するかもしれない、もし南相馬市長選挙で私が発言して影響すればそうなる、そうなっていたのがマスコミだったからである

だから政経東北の記事が判断材料になる

そもそも市役所の内部のことまでわからないからである

マスコミが報道することで判断する人も多いからである」、ネットだと確かに一個人でも発言はできる、でも影響はわずかであるまた信用度にも欠ける

でも政経東北でも全面的に信用できるかとなるとできない、双相リッテクから金をもらっていたからである

私はネットだと金はもらっていない、そういう人が大部分である、今はyutubeでも宣伝費をもらっているからだ

いずれにしろメデアは相当に変わる、スポーツ新聞の記者が辞めてネットに活路見出したというのもそうである

新聞は岐路う立たされている、ネット社会にデジタル社会に適応せざるを得ないのである


そのためにネットインフラ重要になる、国家的にも重要になる、道路を整備するようにインフラが重要になる

民営の会社だけでは維持できないともなる、自分にとってレンタルサーバーのさくらは重要である、ここでは不具合が一回しかおきていない、バックアップ体制がある、ただ民間だと権力がかかわりつぶされることもありえる、そんなに大きな会社ではないからである、そこに不安がある、そういう発言の保証もない

だからネット社会はデジタル社会は国がかかわらないとできないともなる、ただどいうふにかかわるかとなるとむずかしい、自由が制限されるようだと問題だからである














2021年10月04日

インタ−ネットの通信時代で一番怖いこと (記録したものが一瞬にして消える)


インタ−ネットの通信時代で一番怖いこと

(記録したものが一瞬にして消える)

ネットの時代で一番怖いことが何かというと記録したものが一瞬にして全部消えることである
それを自分は経験した、突然危険な病気になり開業医に行ったらすぐ入院しろと言われたのである
胃カメラで胃が悪いと思っていたら腎臓が悪くなっていて腎不全になり死ぬところだったのである
なぜそれを放っておいたかというと家族の介護とか誰も自分を心配するものがいなくなかったからである、だから素人判断でたいしたことがないと思い放っておいたのである
だから一人暮らしはこうして危険がある、連絡する人もなく死ぬ人もいる

それで緊急入院した結果一か月は病院から出れなくなった
その時家には母ともう一人いたかその人は自分のいない間に屋探してその時運悪く貯金をおろしたのが家にあって大金を盗まれたとなる
病院を一時的に出たいとしてもそれが許可されなかったのである
親の介護になってからこういう苦しいことの連続だった

そして怖かったのはさくらのレンタルサーバーでログが記録したものが消される寸前だった、その時電話連絡して消さないように頼んだのである
もしその時連絡しなかったら次の日は消されてせっかく書いてきたことが全部ぱーになった、その時電話連絡できたから良かったのである
今はさくらの電話連絡は予約制であり一週間後くらいでないと連絡できない
これだったらもう間に合わなかったのである

今日はその支払いの確認をするためにチャットした、これもどうなのかと思ったが意外と個人に対応して答えるのが早かった
これは緊急時はいいなと思った、自分はパソコン通信の時からチャットとかでもしていたのである、経験があるからそのことがわかっていた
でも経験がないならこれもどうしていいのかとかわからない
つまり通信の世界も経験であり慣れなのである
第一文字だけで会話するということが今までにない経験であり戸惑うからである
でも経験していればそういうものかとなる
このネットの世界は慣れだと思う、だからフェスブックとかツイッターがめんどうなので答えていない、この世界もわからないからである
こうしたコミニケーションは今までにないものだから理解できないのである

なぜ日本でITが普及しなかったのか?

それは日本の文化と関係しているようにも思う
日本は話せばわかるとか面と向かった対面的なもので信用する、そうなると相手の顔も見えない人とコミ二ケーションをとるのがむずかしいのである
つまり日本人の文化は腹でわかるとか言葉を通じないでわかたあうという文化である
村という狭い範囲で生きてきたからそうなる、みんな顔見知りの狭い範囲で生きてきたから見知らぬ人とのコミニケーションが苦手なのである

日本の文化は師弟不二とか師と一体化するのもそうである、師が地獄に行くなら弟子も行くとかなるのもそうである、人でも直接に接する人とで信用してコミニケーションする
だからそこに現実の人がないいと信用できないとなる
また書類だけではなく直接会うことが要求されるのである
例えば法治主義というとき法で治めるというとき人と人が面と向かって決めるのではない法律を基にして判定する、基本に法があってその法を基にして決める
それは人と人が面と向かって判断することではないのである
法とはいわば数学の公式のようなものでありそれで公正に判断するとなる
人より法の方を信用して判断するのである

インタ−ネットの世界とは相手直接会う世界ではない、相手は見えないのである
確かにズームとかで顔が出てコミニケーションもとれる
でもそれも直接合って話すのと違ったものとなる
そういうことで何か日本人にとってはなじめない世界でありITが普及しなかったのかともみる、それは単なる技術に遅れをとったというより日本にはそういう文化がなくなじめなかったからだともみる

別に通信だけで全くコミ二ケーションがとれないということはない
意外と一対一のチャットだとコミ二ケーションがとれた、何回も念を押して聞いて答えてくれて安心したとなる、ただここが人数が多いと混乱してくるからむずかしくなる

いづれにしろ通信の世界でいろいろ問題が起きるのは信用することとかそういうことがネット上で確立していない、だから一瞬にして記録でもログでも消されるのてはないかという不安がつきまとうのである
クラウドというのもこれだって本当に記録されているのか、一瞬にして消えるのではないかという不安がつきまとっているのである
そういう記録でも誰が保証してくれのかとなるとわからないのである
ただ安心を得るためには一か所に記録をログを保存することは危険である
三カ所くらいに記録を保存しておく必要がある
それもめんをとなのだがそれしか安心する方法はない
結局紙に記録する本て記録するというのが一番安全だともなる
ただ記録するもが膨大になるから本にすると金もかかるから大変だとなる

ただ都築詠一氏のプログのログは消えたのである、なぜなら死んだからである
これもただインタ−ネット上だけで発言して書いて消えたのである
一部は残されたが大部分は消えたから残念だったとなる
ログが消えるとふりかえることができなくなる
それで不思議なのは自分自身の書いたものを読み返すとこんなことを書いていたのかと自分自身で再認識する、自分で書いたものも忘れているのである
だから人間ほど忘れやすいものはないと思った
肉親だって死ぬと忘れる、何か書き遺したものでもあれば思い出すことがあるがそれがないと忘れてゆく

だからインタ−ネットはプログでも記録としてあとで役に立つのである
前に書いたものは活かすことができるのがインタ−ネットなのである
連続して継続しているのであり生きている限り終わらない世界である
インタ−ネットとは知的共同作業の場にもなっている
調べるにしても図書館だとめんどうになる、インタ−ネットだったら家にいながらテレワークできるから便利なのである、家が図書館にもなっているから便利なのである
それで今では5年以上も図書館に行っていないのである
忙しいせいもある、家事に追われるから図書館で調べものする時間がないからである

とにかく今日は安心した、消す時は必ず連絡してくれとか連から々する方法がチャットでもできることがわかったからである
だから意外と事務的連絡などでチャットは役に立つと思った
ただこれは経験していたからできたのである、そうでないとチャットは何かもわからなくなる、今はラインとかで普通になっているからわかるがそれもしていない人は通信の世界になじむことはむずかしいとなる
要するに人間にとっていかに経験が大事なものかわかる
はじめての経験になるとあらゆることでわからないのである、ネットの世界は意外とこうした経験を積まないとなじめないのである

ただネットの世界でも文章だけでもわかりあえることはある
だから何かコミ二ケーションをとれないということはない、信用できないとういこともない、体面的なチャットは意外と相手のことでもわかりコミ二ケーションがとれるかもしれない、意外と事務的なことはかえってできるかもしれない
他のことになると何かめんどうになる、例えば自分の書いたものでもどこまで理解しているのか?そういうことで対話するとめんどうになる
なぜそうなるのか、それは相手のことが全くわからないからである
その人がどういう人でどういうことに関心がありどこに住んでいるのかとか年齢とかいろいろな属性もわからないから深い対話はできないしまして真剣な対話は不可能だとなる
だから自分の場合一方的に書いているだけだとなっている

でも引用するときは相手のことがわかるから引用する、その人の主張がわかるから引用する、それは短文でもわかるのである、そのために結構私自身は他人のプログでもニュースの解説でも引用しているのであi

2021年08月31日

30年前40年前のドラマが面白い(サスペンス名作選 地方記者立花陽介) (ドラマも一つの歴史の記録となっていた)


30年前40年前のドラマが面白い(サスペンス名作選 地方記者立花陽介)

(ドラマも一つの歴史の記録となっていた)

新聞記者が事件を調べるドラマである、それがすでに30年前から40年前のことである
だからなにか画面もぼやけている、はっきりしないとなる
それだけテレビの技術が進化していない、デジタル化していないからである
その時ワープロを記者が使っていた、パソコンは使っていない、ワープロを自分自身も使っていた、そしてワープロに通信機がついているのを買った結果としてパソコンをするようになった
私は理系でもないし機械マニアでもない、悪筆なのでワープロをするようになりたまたま通信機能がついていて始めたのである
そのためにパソコンも買ったがその時40万くらいしていたようだ
また通信は今のように世界規模とかになっていない、小グループでパソコンマニアがしていたのである,その時富士通がシステムを作ってしていたのである
そもそもパソコンで文字で対話するというのがパソコン通信から始まったのである
私は引きこもりだからそんなことをする時間があり家に籠ってしていたのである

1986年11月21日 伊豆大島 三原山噴火

こういうこともあったなとふりかえる、ドラマではこの時殺人事件が起きた
ただ過去をふりかえるといつそれが起きたのか定かでなくなる、10年くらいずれて見る時がある、正確には34年前のことである,テレビで見たあれだけ火柱が上がったのは驚きだった、でもそういうことも忘れていてドラマを見て思い出したのである
過去というのは常にあいまいなものとなってゆく、だから何かの方法で思い出さないと忘れてしまう、津浪とか原発事故でも地元の人は簡単に忘れられないが外部になると忘れるのである、人間ほど忘れやすいものはいない、第一自分の書いたプログとかでも十五年とか書いていてもそれがこんなこと自分で書いていたのと忘れているから変なのだけど自分自身で読み直していいこと書いているなと感心している

何か常に人間は記録していないと忘れてしまうのである、次々に新たな事件が起こり過去の事件でも忘れてしまうのである
30年40年前は遠い過去でありそんなことがあったのかも忘れている
その時大騒ぎしたニュースでも忘れているのである
人間がその時どうであったのか、どう感じたのかとか日記のようなものに記録しているとその記録を読んで思い出すことがある、また写真を見て思い出すことがある
それでプログとかはその記録としても価値があるとなる
とにかく人間の起きることは次々に流れてゆく変わってゆく
一個人にしてもそうである、絶え間ない変遷なのである、あの人と逢ったなとふりかえるがそれもあいまいなものとなりそんな人いたのかなともなる
第一家族すら私の場合全部死んだ、その家族の記憶もあいまいなものとなる
なぜか一緒に暮らした家が家族の記憶になる、家があるからそこで過去を思い出すのである、これも家がなくなると思い出すこともむずかしくなるのである

人間の弱点は忘れやすい、だから記録とか記憶することが大事になる
それでエジプトの神聖文字とかありそこに刻まれた文字から3000年前のことでもわかるようになる、でも文字でも未だ解読されないものがりインダス文明とかマヤ文明が何であったのか不明になりジャングルに埋もれたとなる
人間にとって文字の発明は大きかった、文字があれば文明となる、文明の文も文字のことだからである、文字がない国は文明国とはならない、日本は漢字を取り入れて文字をもったから文明国である、文字がないと過去を歴史を記録できないから不明になる
柳田国男は文字に伝えられるものより語り継がれたものこそ真実があり歴史だとした
それで口碑を重んじたのである、でも語られることはなにかかえって尾ひれがついて真実が見えなくなる、語り継ぐとしてもそこでいろいろに変えられるからである
そして言葉がない民族はいない、文字がない民族はいる、アイヌなどは文字がなかったし文字がない民族はいる、そういう民族の歴史は消えやすいとなる
千年と二千年とか過ぎると語り継ぐこと自体不可能にもなる
実際に経験した人は死ぬしまた親から祖父母から聞いたとしてもそれもあいまいなものになるからだ

それで相馬地域で400年前に津波があったことがわからなかった、この辺ではそれで津波が来ないと確信して逃げない人がいたのである
でも相馬藩政記に700人生波(いくなみ)で溺死と二行だけ記されていたのである
生波とは津波のことであり津波という言葉は慶長津波で津波という言葉が定着したのである
これほど貴重な記録はなかった、それも学者すら知らなかったのである、この辺で起きた津波でそれがわかったのである、だから記録はこれほど大事なのものなのである
なぜ津波の被害が記録されなかったかというとその時戦国時代であり民が700人死ぬことより戦争に勝つことが優先されたからその記録が詳細に記録されていた
でも津波の被害のことはたった二行しか記録しなかったのである
つまり記録するにも時の権力者の都合でそうなるのである

何か記録できるものも権力がないとできないとなる、ニュースであれマスコミであれ重大なことでも取り上げない、知らせない、原発事故でもそうだった
「原子力村」が絶大な権力をんているのだからその危険性は伝えないのである
出版とかは簡単にできない、これも権力がないとできないのである
出版社とか取次とかを経ないとできない、するとそのハードルは高くてで普通はできない、でもインタ−ネットだと気軽にできる
プログのようなものでも写真も出せるし結構表現力があると思った
そしてこれは一庶民でも出せるから記録ともなる、ただこれも電子空間で消えやすいということが難点なのである
でも自分自身やってみていかに一個人がプログをもつことが権力をもつことにも通じていたことがわかった
それはyoutubeでもそうである、一個人がテレビ局となることは大きな権力をもったことになっていたのである

いづれにしろこうして重大な過去も忘れられる、それが忘れていいものがあるがどうしても忘れてならないものもある、それが津波とかでありそれはまた起きてくるから記録されるべきであり思い出すべきだったとなる
そきために忘れた頃に災害はやってくるとなる、カルマとして繰り返すとなる
自然災害も周期的に起きていたからである、ただ400年の周期となるともう何代にもなるから忘れられるのである

このドラマではそうした殺人事件の犯人が地元の人だったと記者が追及すると地元の人が地元の悪い所を書くなと近所の女性が見張っていた
これもまた田舎だと理解できる、田舎では自分達のわるいことを言うなとなる
狭い範囲で生活しているからそうなる、当り障りなくしていないと暮らしにくい
そこに田舎の閉塞感が生まれ嫌だとなるのである
現実に慶長津浪より500年前の岩松氏の一家皆殺しの悲劇が今もその子孫か現実に生きているからそれを語ればその子孫が嫌だとなる、それで郷土史はつまらないというときただ地元を美化することであり悪人のことは語らないとなるからだとしている
語りにくいということである、現実に近くに生活しているからである
外部のことだったらいくらでも追求して語れるが地元となると語れないのである
だから地方の新聞記者は記事にすることでも制約がかかる
でもいいのは新聞記者も常に転勤するからそれで重荷にならないということがある
嫌なことがあってもまた別な地域に移り忘れるとなるからだ

ともかくドラマは事実を基にしている、それで30年、40年前のドラマとなるとすでに歴史的な記録にもなる、それで貴重だとも見た、今それをBSで見れるから貴重なのである
テレビは今やインタ−ネットとかのyoutubeとか出てきてあまり見ない
でもこうした過去の記録となっているドラマとなると貴重だと見たのである
大げさに言えば歴史的価値あるとも見たのである

2021年07月07日

マスコミはスポンサーに忖度して真実を報道しない (民主主義でも報道の自由はなかった)


マスコミはスポンサーに忖度して真実を報道しない

(民主主義でも報道の自由はなかった)


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紙の爆弾8月号



マスコミの問題はここにあった、それは前から言われていたことである
宣伝費で経営が成り立つとしたら金を出すスポンサーの批判はできない
またスポンサーが競争している同業他社の商品の宣伝はしないとなる
ここに明らかにスポンサーに配慮して公平な見方を批判をさせなくさせているのだ
それはテレビ放送となるとその装置だけでも莫大な金がかかっているからだ
もしインタ−ネットメデアとかyoutubeの放送となると手間はかかっても個人でも放送局になる、すると金がかからないからスポンサーに媚びなくても自由に放送できるとなる
だからインタ−ネットメデアとかyoutubeとかでも素人の発言でも真実をついているということがある

それはNHKでもそうである、NHKは別に視聴者から金をもらっているのだからスポンサーから金をもらっていないのだから公平に放送できるがしていない
今度は様々な団体から抗議される、そこには盲人団体とか障害者団体もあり常に抗議がきてそういう団体に気を使いタブーが生まれて真実が報道されないのである
それで差別語に敏感になりめくらだとつんぼだとかは使いなくなったのである
どうしても権力をもつ者、団体組織からの圧力があるために真実が報道されない

今までのテレビ局だと金がかかりすぎたのである、新聞でもそうだし本だってそうであるそういう場所は権力がないと発言もできないのである
だからインタ−ネットでは報道の自由があるというときメデアをもったからだとなる
マスコミというときマスコミで発言させるものと何を言わせるのか決めていた
個人はそうしてマスメデアの管理化にあって発言することが許される
全面的に自由な発言はなかったのである
善悪とかせいじゃたを決めるのはマスメデアになっていたのである
特にNHKは何か裁判官のようになっていたのである
NHKは公平ではない、NHKが裁判官であり双方の言い分を公の場で示さない
発言にしても発言させる人と発言させない人を決めている

それでこの辺で原発事故の避難者と津波の避難者がいたとき同じ仮設住宅に住んでいた
でも双方が争った時、原発避難者が今の話題だとして応援することにしたのである
それで相馬市のトマト農家で原発避難者を飯館村の人と相馬市の松川浦など津波被害者を雇うことで暗にそのトマト農家を避難した
津波被害者を雇わなかったことで避難したのである
でもよくよく地元から見ると津波被害者は特に相馬市となると補償金をほとんどもらっていないのである、すると生活でも困窮するからそっちの方を優先的に雇うのは人間の情として当然だったのである、でも冷たいトマト農家だと暗に放送で批判するようにしたのである、ただその辺の編集がうまいからわからない人もいたのである
別に飯館村のことでは私は特別補償されてもいい、ほとんど原発の恩恵など受けていないからである、そのことはプログで書いてきた
ただここでの公平さを問題にして言っているのである

必ず裁判でも双方のいい分がありそれを聞くし発言させる

でもマスコミではそういうことはさせないで一方的に編集して裁判官になり報道する
民報だとスポンサーに忖度して真実は報道しないのである
その最大のスポンサーになったのが原発では東電とか電事連とかなり800億円の宣伝費がマスコミに払われていたのである
それを象徴していたのが中国に東電でマスコミの幹部が招待されていた、その中には朝日新聞社の人もいたのである、だからこうして利益を得るとなると必ず忖度するから
公平な報道はできなくなる
そういうふうに真実が追及されないことで原発事故とかの大惨事が起きて来る
ただ権力を持つもの金を持つものによって操作されるだけだとなっていた
そういう構造は変わらないのである、権力に対抗する力をマスコミはもっていない
だから権力に媚びて得すればいいとしかなくなる
ただそのことが国民全体からすると大損失になる、生命まで奪われるとなる
太平洋戦争では朝日新聞が一番戦争を鼓舞したとされる、マスコミは新聞でもあおればその影響も大きかったとなる

マスコミがマスメデアが第三の権力と言われるのは民主主義で報道することの影響が大きいからである、報道されなければ知りえようがない、でも報道する権力はマスコミにあり
一般の人にはなかった、ただインタ−ネットでメデアをもたないのでも報道することができるようになった
それは2ちゃんねるを創設したひろゆきとかが現れたりそこで自由な一般の人の発言がありメデア環境が変わったのである
次にyoutubeが生まれて個々人が放送局になった、ここでも大きくメデアが変わったのである
インタ−ネットの発言は無料でもできるからそうなったのである
そこに限界があるにしろ個々人の発言に真実がある、なぜなら大企業とか大組織とかの応援がなくても個々人で報道したり発言できるからである

ただそれでも高橋洋一チャンネルで中国の統計を分析して経済成長していないとか言ったら中国当局から批判され抗議されたという、日本人の発言に対して圧力をかけて来たのである
これは怖いと思った、中国は巨大化して日本人の発言に対して抗議してくる
言論弾圧してくる、そこに中国の一党独裁の危険がある
中国の巨大権力に対抗できなくなる日本はついに中国の属国とされるというのもわかる
中国の圧力に抵抗できなくなるからだ

民主主義において報道は大事である、なぜなら報道されなければ真実は見えなくなる、隠される、原発事故でもその内部は公表されずブラックボックス化して大事故大惨事になったからである、そこに外部から立ち入ることもできない場所になっていた
報道関係もその真実は報道されなかった、結果として大惨事になったのである
その時地元のマスコミも何らのその危険性を報道しなかった
第一民報は出資者の半分が県でありあとは創価の聖教新聞を刷って経営は成り立っているそしたら県とか国の広報と同じなのである
だから何か国でも県でも真実は報道しない、隠蔽されたままだとなる

日本の政治行政の体質が隠蔽にありそのことで後で大きな問題になって露呈する
それが原発事故だったなのである、そこでは隠蔽が権力によって常時行われていたからである、無数の配管でも老朽化して危険だった、でもそういうことを報道されることもない東電とか電事連から800億円も宣伝費もらっているから報道しない
つまり権力に迎合して得すればいいとしかないからである
それでマスコミの人たちの馬鹿高い給料が維持されている
つまり自分たちの損になることはしないとなる
それも結局報道するのは金がかかりすぎるからそうなっていたのである
東北政経ですら相双リテックの宣伝をしていた、その会社は除染で馬鹿もうけした会社である
となるとその金が東北政経に回っていたとしたら東北政経で原発事故のことで十年過ぎても追求しているが本当に追求できるのかとなる
東北政経にも原発マネーが回っていたとなるからだ

マスコミは報道するということで第三の権力を有していた、でもその役割を果たさなかった、それは金がかかりすぎることでそうなった
だから第三の権力として報道が大きな役割を民主主義で持つときそれをどうするかが問題になる、インタ−ネットではそういう自由に報道して発言する場を与えたということで進歩があった
ただインタ−ネットのメデアにしてもGoogleとかがまた独占すると権力をもつことになるそれでトランプ大統領のアカウントを取り消して発言を拒否したことでもわかる
本当に自由なメデアはないともなる、でもそのことで大被害を受けることがある
その犠牲者は今回は原発事故で故郷に住めなくなったとかまた戦争で300百万人が日本で死んだとかその被害が甚大なものになるから報道の自由が必要なのである

2021年06月13日

車がない人は通販が便利‐メデア(仲介)はいらなくなる (鹿島から原町でも送料がとられたから)


車がない人は通販が便利‐メデア(仲介)はいらなくなる

(鹿島から原町でも送料がとられたから)


なぜ買い物がアマゾンとか通販に向くようになったのか
それは自分の場合は車がないということである
車で買い物に行けない、するとアマゾンでも通販がいいとなる
量販店から近いのに運んでもらうのに3000円とかかかるからだ
それなら通販の方がいいとなってしまう
ただ車がある人は運べるからいいのである

ただ問題は設定とか何か不具合とかでうまくいかないときがある
キャノンの印刷機を設定するのに苦労したからである
何かわからなくなったけどなんとか設定できた
前にもこういうことがあった、いろいろやってみて設定できた
何かパソコンは説明書を読んでもわからないのである
いろいろ操作してなんかわからないけどできたとなる
これが設定ができないと使いないとなるから困る、それが不安なのである

でも今仲介する電器店の役目は何なのか?

それはこうして操作できないとかソフトがインストールできないとかそういう使い方がわからなくなるとき聞きたいとなる
でも今やメーカーでも直接教えるからそれも必要がないとなる
それでどうしてもメデアというのが仲介するものが必要なくなる
メデアというとき新聞でもテレビでも出版社でも銀行でも何か仲介するものであり
それだインタ−ネットだとじかに読者や視聴者に向かって伝えるとなると
メデアは必要ないとなる、youtubeとか個人でもテレビ局になるときがそうである
インタ−ネットは作者が直接伝える、何かを新聞でもテレビでもない、出版社でもない
仲介するものはインタ−ネットのグーグルだとかなってしまった
ただ依然としてグーグルとかが仲介の役目をしている
だからトランプ大統領の発言を禁じることができたのである

とにかくパソコンは設定するとか使い方がめんどうなのである
確かにプログなとは簡単である、これなどはコンテンツを作ることに時間をかければいいのである、放送する内容が問題になるからだ
操作する手間がかかったらとてもできないとなる
ただ自分の場合、ワードプレプログをしようとしているがなかなかできない
何か年になると新しいものができなくなる、結構手間になるからだ
ワードプレスはいいようで安全が確保されていないようだ
それも困るのである

車をもっていない自分でも車で配達してくれる人がいる、アマゾンで配達している人は
ずっと同じ人がしている、おそらくこの辺一体の配達を担当している
また別な配達の人も来る、だから配達の仕事は増えたのである
もうその配達する人が定住もできるとなる
それだけ配達する量が多いから定住しても生活できるとなる

ただ通販でも弱点はある、量販店で実際に商品を手にとってみると大きさとか重さがわかる、カメラだとこれが大事だとわかった
どれだけの大きさなのか重さなのかが問題なのである
それはインタ−ネットの画面からはわからないのである
だから中国製のカメラが手に取ってみて軽いというこがわかり軽いものも必要だと実感した
というのは私は車がないから自転車にのせるとがさばる、それも荷台もない自転車だから困っていた、それで重さとか大きさとか持ち具合とかが大事なことを知ったのである

自分は車がないけど通販だと車の恩恵を受けているのである
車がなくても通販なら何でも安く買えるとなる、でも通販が全部いいとはならない
どうしても買ってみて合わないとかがあり失敗がある
パソコン関係だと設定ができないとかある

キャノンのG6030はいいものだった、これも量販店では注文してもかなり遅くなるとか言っていたがアマゾンで注文した二日後に配達されたのである
本当に早いとなる、8キロくらいしか離れていない隣の街の店屋の方が配達が遅くなるというのも変なのである、そして配達料がとられるのも損だとなってしまう
だから買い物でも仲介するものはみんな苦しくなってくる
ただそれでも現物を見たり触ったり持ったり着たりしないと商品のことがわからないということがある、これは通販ではできない、だからまだまだ実店舗は必要だともなる

でもメデアは仲介するものはこれだけ通販が便利になるとやがて消失してゆく
ただ別な仕事が生まれる、操作とか設定とかがわからないとういことがあるからだ
それを教えてもらいたいとしても量販店では教えないのである
結局そうしたことは自分自身でやる他ないのである
私はなんとか自分でやるほかないのでやってきたのである

2021年06月02日

なぜメデアがマスコミが問題になるのか? (メデアは仲介するものー直接に聞いて見た情報でないから)


なぜメデアがマスコミが問題になるのか?

(メデアは仲介するものー直接に聞いて見た情報でないから)

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メデアとは仲介するものでありメデュウムというとき中立という意味になる
メデアというとき何か人づてに聞くうわさ話とかもそうである
ある人を通してそれを聞くからである、直接話を当人から聞いているわけではないから
それを全部うのみにすると間違いやすい、それで噂話しは尾ひれが必ずついてだんだん
ありもしないことが大きなものとして広まる
ということは個々人でも媒介する仲介する人となるからである

またメデアというとき何か銀行とかがメデアとも見なかったが
やはり仲介するものだからメデアだとしている
それで銀行の営業を通して株とか投資信託とかを頼んだこと自体があくまでも仲介者する人を頼んだので失敗したともなる
なぜならその銀行であれ証券会社であれあくまでも仲介者であり直接株式に投資するというのではないからである

だから仲介者に手数料がとられる、そこで銀行であれ営業の人はまず手数料をどれだけ多くとるかということしか考えない
それで転売を常にすすめるのである、売ったり買ったりさせるたびに手数料が入るからである、そもそも長期間で株はみないともうからない、でもそうなると銀行であれ証券会社であれ手数料がとれないから転売させるのである
リーマンショックの八年前の株が元にもどり上がった時、その金をJ=REITに回したのもそのためである、それ以来銀行の営業の人を信じられなくなった
ただ仲介してくれるのだから手数料はとられる
そもそも株式市場に参入するには仲介者がいなかったら素人はできない
だからその仲介する者によって左右されてしまうのである

今クラウドファンディングが普及して来た、クラウドとは群衆のことである
なかなか長距離の折り畳みの自転車がない、でもそれが欲しいという人が多くなる
群衆化するとそういう人がそういう自転車を作る人たちに直接投資する
するとそういうことは銀行から金を借りてしていたのだが直接投資になる
それでメデアを介さない生産する者と消費する者とは直接結びつく手法がインタ−ネットで生まれたとなる
銀行に金を借りる必要がないからである、そこでメデアとなる仲介者の役割が喪失して
銀行の役割りがなくなる、投資先も金を借りてくれる先がなくなる
そういうことで銀行は窮地にたたされる

マスメデアとかマスコミはメデアでありそれがマスメデアとなる
そもそもあらゆるニュースはマスメデアによってマスコミによって報道される
個々人が伝達者ではない、でもそれも仲介者だからフェクニュースとかでも広まる
マスコミでマスメデアでとりあげるとそれが個人の噂の伝達より巨大な力をもつから
第三の権力までなった
何か現代社会はこうして仲介するものが大きな力をもった時代である
それは社会が村単位とかではない狭い単位ではない大きな単位になったからとても情報でもメデアを仲介するものがないと伝えられないからである
だから報道の役割か大きくなった、でもそこでマスメデアがマスコミが大きな権力をもつことになったのである
とにかく個々人でも直接接して聞いた情報ではない、仲介者の意のままにも報道される情報なのである
会社が宣伝費を払いマスコミにマスメデアに商品を宣伝してもらう、その媒介となるのがメデアだとなる、だから金をくれる会社の悪いことは言わないとなる

それで商品でも消費者が直接その商品を評価するときはマスコミでもマスメデアでも介さないからかえって的を得ている、信用できるとなる
例えは電器の量販店でも消費者が欲しいものを売るのではない、その店で売りたいものを売るとういことがある、店もやはりメデアであり、商品を売るメデアだともなる
だから常にこうしてメデアによって曲げられる社会にもなっていた
消費者は弱い立場になっていたのである

とにかくこの世で直接の知り合いとか直接に逢って話しして得られ情報は限られている
その他の膨大な情報は何かメデアを通して得られたものだとなる
だからマスコミとかマスメデアを通してしか情報を得られないとしたらメデアが大きな力を持つことになった
ある人が意見を言うにしてもメデアをマスメデアをマスコミを通して言う時、これも歪曲されるのである
仲介するものが無色透明でもない、中立でもない、会社から宣伝費をもらっているとき
その宣伝する会社の商品を悪くは言えないのである

なぜ民主主義がなりたたくなっているのか?
それは民主主義といっても一万くらいのギリシャのポリスで行われていたのである
それは直接民主主義であり顔も知っているしどういう人かも人づてではなく身近に接している人の間で行われていた、それが何百万票とか何十万票とかになるともうその人個人がどういう人なのかわからない、人づてに聞くだけである
だからその票になるまとまった人数が投票してくれる組織団体があって決まるとなる
個々人より自民党とか公明党とか立件民主党とか共産党とか党に投票している
個々人がどういう人なのかなどわからないし個々人の票は無力なのである

それは利権団体民主主義になる、小選挙区制だと余計にそうなったのである
狭い範囲なら個々人のことを知っていたからその個人に投票していた
もう現代のように規模が大きくなると個人は何の力もない、むしろやはりマスメデアとかマスコミが媒介して伝えるものが大きな力をもった
第一名前すら知らないとなり芸能人が参議院議員でトップ当選していたのもわかる
それはマスコミでマスメデアで一番名の知れた人だったからである
それで東京都知事になった青島とかは俺は選挙運動しないと言って選挙運動もしなかったが当選してきたのである、それはマスコミのマスメデアの力でありその人に何かできる能力などなかったのである

いづれにしろ村単位の社会からグロ−バル化社会になると情報に左右される
それを左右するのはマスメデアでありマスコミでありそうなるとNHKがあれだけ力をもったのはまるで神殿で信託を述べるような聖職者ともなる
何かマスコミが重大なことでも決めるとなってしまう、宣託するものがマスコミだともなった時代であった
それでNHKを常に批判している武田邦彦氏がNHKの人はいかにも善人のような顔している
でも実際は違うといういう、確かにラジオの時代は顔が出ないから顔で判断できなかったテレビがは顔が出るから何か悪人に見える顔とか美人でないと出せないともなる
見映えが良くないと出せないとなってラジオで人気だったNHKのニュース番組に出ていた人がやめさせられたということがずっと前にあった
どうしても顔が出ると顔から判断するからそうなったのである

その結果として映像が大きな力をもつようになった、そのテレビの映像でも真実を伝えるものではなくフェクニュースをマスコミでも作って問題になった
油まみれの海鳥が世界に放送されたときイラクは悪者にされて世界に伝えられたのであるそれほどの影響力をマスコミがもった、それは誰も世界となると現実に接することもできない、その当事者から直接聞くこともできないからそうなる
世界が拡大するとかえってフェクニュースでも真実になりやすいのである
そもそも嘘なのか真実なのか確かめようがないからである

2021年05月12日

貨幣でも紙幣でも使えなくなる (コンビニで小銭に異物が入っていて自動支払機が故障)


貨幣でも紙幣でも使えなくなる

(コンビニで小銭に異物が入っていて自動支払機が故障)

コンビニで小銭を整理しようとして失敗した
自動支払機に小銭を整理しようとして入れた、そしたらその中に10円玉とか一円玉とかくっついていた、またコインでないものが入っていて機械が故障した
それを直すのに手間だった、前もスーパーで同じことを経験していた
その原因は小銭一度にたくさん入れたことで故障になった
だから今回は少しづづ入れた、でもその中にコインではない異物が混じっていて故障になった

異物が混じる⇒認識できない⇒機械の故障

こうなったのだがそれがなぜめんどうになったかというとそのコンビニの機械が中央の本部とつながっていて直すことになったからだ
電話で連絡して修理の仕方を教えられてようやく直せた
パスワードを入れるとそれがわからず何度も聞いていた
このパスワードでは自分もパソコンのインタ−ネットの通信で苦労しているからわかる

結局何か機械にも弱点がありそれが修復するのに手間になる
特に通信の場合は不具合があると修復するのが大変な作業になる
それが複雑であり手に負えなくなる、そういう問題が通信では起きいた

この異物が混じるということが機械とコンピュターの弱点である

なぜならその異物を認識できない、判別できないことで故障になったからである
それはウィルスとにている、異物が体内にはいり人間の体の故障ともなるからだ
必ずそういう弱点が現代文明にはありインタ−ネットの通信社会にもある
また他の機械でもそういうことが起きる
それが原発事故という致命的なものとなる
だからインタ−ネット通信がどこかで破壊されると全世界に影響して使用不能になるとか大問題が起きる、戦争とかなる今でもサイバー攻撃してくるからだ

それで一番怖いのがデーターを壊されることである
自分もそれで戦々恐々しているのだ、せっかく書いたものが一瞬にして全部消えてしまうからである
そういうことが世界的に起きたら努力も水の泡になってしまうからだ
それで今何とかしよらとしているのはデーターの保存である
三カ所くらいに保存する、データー保存のため別なレンタルサーバーとかワードプレス専用のサーバーを借りる、そこでさくらのプログを全部一応移すことが有料でできるからだただまたワードプレスを使おうとして試したがめんどうになる
そういう時間の余裕もないとなる、そこに老人の問題があった

ともかくセブンエレブンで失敗したがそこではキクチスーパーのカードが使えるようになっていたのである
楽天のエディを使っていてそれはコンビニでも使えたのである
それが知らなかったのである
今スーパーキクチでは自動で支払いをする機械を使っている
慣れると意外と簡単だった、ここでも自動化するからもう現金は必要なくなる
現金はウィルスがつくとか何かコロナウィルス騒ぎでも嫌われるようになった

現金は紙幣でもコインでももう使えなくなる!

だからこれは老人が苦手である、でもなれるほかない、簡単な買い物はできるようするほかない、もうIT化社会に適合するほかない、それができないと生活すらできなくなる
電子化するのは情報分野でもそうなんている、新聞などでも一軒一軒配る時代ではない
ただコストがかかるだけである、そんな手間になる金になることはもうできない
そのために宣伝費でまかなうから会社のいいなりになるだけだとなる

ただ電子化社会にも弱点がある、異物混入したりするとシステム全体に影響して世界の通信がとまるともなる
でも不思議なのはそうした通信の防衛策としてインタ−ネットが生まれたことである
つまりインタ−ネットの通信は部分的な結合であり一部が通信できなくても通信ができるように軍事目的でできたものなのである
ただこれだけ世界的電子化通信社会になると異物が混入したりする世界的通信がとまり修復することも困難になりデーターが消失したり大損害になってしまうのである
それが一番怖いのである
そのことはウィルスともにている世界的グロ−バルに交流する世界になった時、ウィルスも世界的に瞬時にでも伝染しているからである
もう瞬時にでも世界をウィルスが伝播するとなる
だからその伝染を止めることでできなくなる、そうした負の面ももたらしているのである
インタ−ネットがどうしててきたのか?

その人物はTim Berners-Lee博士で、スイスにある欧州原子核研究機構(CERN)という研究機関に在籍中、研究に関係のある文献やデータを互いに「リンク」させる仕組みを考案した。それが今では「ウェブ」と呼ばれるWWW(World Wide Web)のもとであり、ウェブという名前も同氏によって付けられた。

IT担当者なら知っておきたいインターネットの基礎:
その起源をざっくり振り返る -

なるほど研究データーのリンクからインタ−ネットが始まっていた
自分のドメイン名のmusubuなのである、リンクできるから研究者同士の研究を結びつけるリンクできることで知識が拡大して深化できる
とても図書館などに通っていてもこれはできないからだ
本というのは膨大にあってもリンクは簡単にできないからである
何かリンクすると自分の文脈の中で知識が拡大して深化できる、より深く知識を探求できるからである

自分がインタ−ネットにかかわったのは富士通のワープロ通信からだった
それはたまたまそうなっただけである、私は理系ではないし機械に弱いからである
でも本当にこのように学者でなくても田舎にいても知識を広く深く探求できるし別に本とか雑誌とかを発行しなくても個人ですらできる
それはyoutubeのように個人でもテレビ局が開業できる時代である
だから何かを発表する発信するには便利なものである
ただここにも弱点があるからデーターが一瞬にして消えるとかウィルス問題がありそれが大問題なのである

2020年01月05日

小泉首相はナチズム的手法でゆうちょを民営化した (マスメデアは洗脳機関だった)


小泉首相はナチズム的手法でゆうちょを民営化した

(マスメデアは洗脳機関だった)

マスメデアがこれだけ力をもったのはその情報を操作して伝える力をもったからである
白を黒とも伝えられるし黒を白としても伝えられる
その判断はマスコミがしていたのである
それで最近なぜ小泉信三前首相があれほどゆうちょを民営化しようとしたのか?
それは外資にアメリカに国際資本家にゆうちょを民営化して貢ぐためだったと批判する人がいる
そうしなければならなかったのはアメリカの圧力であり日本は植民地だからアメリカに従わないければならない金を奪われても仕方がないということになっていた

ただそういうことをあからさまにはメデアでは言わない、マスコミでは言わない
だからマスコミにのせられてゆうちょを民営化することに熱中したとなる
それは小泉前首相がそういうふうに国民をあおるのにたけていたとなる
また国民もゆうちょの民営化は国民にとっていいものだとその時は熱中していたのであるそれはもしかしたら戦争でも政府があおり国民が熱中した構図とにているのかもしれない戦争でも今では朝日新聞があおったとしているからだ
オリーブの木で小泉信三と竹中平蔵と安倍首相がその首謀者であり日本の経済をだめにした張本人だとして告発している
バブル崩壊からの30年くらいが失われた時代であり日本経済が低迷した
その原因が小泉前首相とか竹中平蔵とか阿部首相などがそうさせたとして批判している
つまり外資に国際資本家にアメリカの言うなりになってそうなったとしている

経済が特にグロ−バル経済になるともう誰もその仕組みもどうなるのかもわからない
だから処方せんも書けないとなる
江戸時代に二宮尊徳が成功したのはその経済が眼に見えて具体的に把握できたからこそである、それで何を正せばいいか見えたからできたのである
グロ−バル経済だったらもう何を正せばいいのか見えないのである
それで必ず陰謀論になって終わっているのである

でも具体的に見えるのはカジノ利権とかある時である、それはカジノを運営したいのはラズベガスでカジノを運営しているユダヤ資本家だという、その名前もあげている
一方で中国でもかかわろうとして議員に賄賂が送られたとして検察が取り調べるをする
その裏はアメリカと中国がカジノ利権を日本で得ようとしているからだとなる
これがわかりやすいのは金がどういうふうに動いているのかわかるからである
それはまさに黒い金である

第一オリンピックでも消費税でもカジノでも国民が賛成していない、いるのは一部の利権者だとなる、ギャンブルは大きな利権である
だからパチンコが大きな利権でありこれでもうけている人たちは手放さないのである
原発だってこれも大きな利権だから地元でも官僚でも検察すら天下り先として東電と一体化して大事故になったのである
ただそこに見ているのは利権であり会社であれ個人であれ利である
利益を得ればいいというごけである、それはカルト教団でも宗教も実際は神より仏より
賽銭でもお布施でも利だとなる
神仏などよりそれでもって得る利が御利益が大事なのである
だからそういう利を否定しない、必ず拝めば利を得るとして教えている

金がこれほど力を持ったのもはなぜなのか?
それは本当は金とは媒介するメデアはメデュウムであり中間であり仲介するものに過ぎなかったのだがそれが力をもったのはマスコミのようにメデアとなっていたからだとなる
情報を仲介するだけのものでもそれが六局に独占されていたから第3の権力までになった
仲介するものがそれだけ力をもつのは金が貨幣が情報だからだという人もいる
今では金は数字としての情報である
そしたらその情報を伝える力をもつものが力をもつのは当然だとなる

人間は金だけではない、情報に左右される、今になるとなぜ小泉前首相が郵貯を民営化することにあれほど熱心だったのか?
そして国民がそのことに熱中したのか?これも本当に不可解になる
そうしむけたのはマスコミだったともなる、いつもテレビに小泉首相が簡単なわかりやすいフレーズで訴えていた、それが小泉前首相がうまかったのである
それがテレビという媒体がありそれにのっかたからである
マスコミは冷静に批判して伝えない、疑問もさしはさまない、良く議論もさせない、
一方的メデアなのである、マスコミはただ媒介する中間のメディウムではない
確実に放送局の意志があって決められる、それは幹部の会合でしているのである
ただ事実を報道するということではない、その事実の報道でも選ぶことによって力を得ている、何でも放送するわけではないからである
つまり放送局にとって大事だと思うニュースを流しているのである

なぜ人間はこれほど人物でも事の真相でも見えないのか?
それは人間は直接首相などでも聴くことなどできない、必ずそこに媒介する者がいて
その媒介する者に左右されるのである
噂でも人から人へと伝えられて別なものになってしまうと同じである
ゆうちょを民営化するのはアメリカにゆうちょの貯金をさしだすためだとか外資に売るためだとか言う人はいてもその仕組みが良くわからないからうやむやになっていて注目されななかった

大衆にとってはわかりやすいことが訴える!

それが小泉前首相はうまかった、演技者だった、それはナチスのヒットラーの手法だったのである、ワンフレーズで難しいことは言わない、それが大衆に受けたのである
それはハイルヒットラーと同じだったのである
現代は大衆時代であり何百万人であれ千万人にも訴えるなるとそういう手法になりそれが大衆に訴えることになる
それでカルト宗教団体も何百万人の会員がいるとか増えたのである
それもナチス的集団なのである、その前に小さな声は圧殺されるのである

だから民主主義などこれだけの人数が多いともう機能しないのである
ギリシャのボリスがせいぜい一二万の人口の都市で行われていた
それは直接民主主義てある、現代は間接民主主義でありまさに間接ということはそこにメデアが介在してそのメデアの影響が大きくなるのだ
そこで中間とか中立とかはありえないのである、メデアはどちらかに偏る
それがメデアの問題である、それでグーグルさえそういうメデアであり中立ではない
中国に通信技術を盗まれるとかいうけどそれはアメリカが情報をITの技術を独占するから対抗してそういうようになる、それが米中の対立となっている 

それにしても大衆というのは簡単に洗脳されるものだと思った
それでピカートはラジオがナチスを産んだとして批判した
それだけラジオすら音声ですら大衆を扇動するのに十分だったのである
それがテレビになったとき映像になったとき千倍の効果を出すことができるようになったのである、映像の力はそれほど強力なのものである
だからこそテレビの映像は必ずしも真実ではない、操作されていてもそれを信じるのである、それでやらせとかあってもわからないのである
まず真実はその場に立たない限りわからないのである
だからテレビを見て何でもわかったようになるのは危険である
まず人間はその場に立たない限りわからないものだという自覚が必要である
そうしないとやらせが普通にテレビにあり真実は見えなくなるのである

ただこんなことを言っているのはやはりミネルバのフクロウは夜に飛びたつというとき
過去をりかえるとき真実が見えて来るという人間の習性があり常に事の起きた後しか真実が見えないからそうなっているのである
その時々のことは時流に流されて生きる、しかしその事が終わった時、真実が見えて来るただその時はもう方向が決まっていて前にもどすことができない
それが歴史でありまた人間の一生でもあった
人生というのはみなん老人になるとあの時そういうことだったのかとわかるのである
何が大事だったかも人生を経験してみてからしかわからないのである
でも失敗したからとして道を誤ったからとしてその時に戻れないのが深刻なのである
戦争で3百万に死んだのはなぜだ、こうすればあうすればまた深く考えていればこうはならなかったといってもその時にはもどれない

3百万人死んだ人たちは生き返ってこない!

このことでもいかに道を誤ることが深刻かわかるのである、それは個々人だけではない、国家の進路でもそうなる、対処が誤ると道を誤るとそれだけの恐ろしい犠牲が出るということである、そして取り返しがつかないのである
共産主義でもカンボジアで2百万人死んだとか今でもカンボジアは最貧国で疲弊している
だから国家が道を誤ることはどれだけの犠牲が出るかということである
これは肝に命じなければならない、だから国民をただ他者に為政者にまかせるだけでは
いけないのである、結果的に無関心だと戦争にもなり犠牲がでる
それは原発でもそうだったのである
自分等も30キロ離れているから無関心だったのである
また地元の人たちは「安全神話」を信じていた、信じさせられた
結果的に放射能汚染になり悲惨な結果に住めなくなったのである
それも自分自身もそうだが無関心からそうなったのである

ただ政治とかにはなかなか関心がもちにくい、その原因が民主主義でもいくら一票あるからといっても無力感がある、どうせ変わらないとなる無力感がある
それは社会の規模が大きくなりすぎたいうこともある
一票でも百分の一くらいの重みがあったら違っている
比例区とかなると百万分の一ともなれば一票などどうでもいいとなるからだ
そこに無力感があり民主主義はポピュリズムになり大衆化して遂にはナチスのようちファシズムになり安いのてある
あまりに規模が大きいともう民主主義は成り立たなくなる
そこで通用するのは小泉前首相のようにナチズム的手法になる
それが現代の政治だけではない全般的な問題なのである

2019年11月09日

テレビの一場面の映像のインパクトが強烈なのが問題 (全体から見ることはテレビにはない)


テレビの一場面の映像のインパクトが強烈なのが問題

(全体から見ることはテレビにはない)

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丸森町で一部分にこの映像のように被害が大きい場所があった

でもここはどこなのか?

その一部から全体を判断はできない

丸森町の街内がこんなふうになったとは思えないのである
要するにテレビだと一部分でも全体がそういう被害だと見てしまう
それが大きな問題なのである
イラクの油まみれの海鳥一羽が全体が汚染されたように世界の人が受け取ったのである
その一羽は一羽だけが故意に油がぬられ写されていたからだ
つまりテレビで注意すべきは一画面から全体を判断すべきではない
でもその一場面が強烈な印象を与えることが問題なのである
それがテレビの特徴だったのである

テレビを見る時はこのことに注意すべきである
常に一部分しか写していないしそこの全体を知ることはその場を踏まない限り不可能なのである
でもその一場面の映像が異常なほど印象ずけられる
一軒の被害を見てこれはひどいな、その町全部がこんな状態だと見てしまう
丸森町の被害は一か月すぎたにしろ平常に見えたからである
ある一部分の被害が大きかったが街内はそれほどでもなかった
でも丸森町の全体が一軒の被害を見ただけで判断されるのである
そこにテレビの特徴がある

人間でも何人かいても必ず一人だけがクローズアップされる
だからこそアナウンサーがいつもその顔が一番露出するから中心になっている
でも本当はアナウンサーは脇役のはずなのである
でも主役になっている、一番顔が映るから有名になっているのはアナウンサーなのである
こうなるとテレビを見ることは必ずそうしてある一部分が特別印象ずけられるメデアだとなる
それは人間でもあらゆる映像でもそうである、回りの全体の状況がわからない
ただ一場面だけが特別故意に強調されてクローズアップされてそれで判断が誤るのである
そしてテレピでは平凡なありふれた映像を嫌う、それは視聴者にインパクトを与えない
なんだ当たり前じゃないかとなり見ないとなる
一目をひくには普通にないことが注目するからである

私は阿武隈川の川岸の鴨を写したようにそういう平和な風景は写しても人目をひかないのである
だから何かテレビというメデアはリアルなものではなく、一見現場を写しているようで
常に一部分しか写せない、それも強烈にインパクトあるものしか写せない
視聴者が見る時間を限られているから平凡な風景は写さないのである

確かに一部分が被害がありそれは嘘ではない、でも全体からみたらそうではなかった
その一部分でも全体を判断することで誤解が生まれるのである

例えば本だと長いから一部分だけを読んで判断できない、全文を読んで判断する
本全体が切り離せないものともなっている
文脈があり全体がつながっている、でもテレビはそういうことはない

一部分でもその映像が全体だと思いこまされる!

それは意図してそうなるのでもない、テレビといいう小さな箱の中の映像がそうさせるのである、それがテレビの特徴なのである
だからそういう特徴を見ていないと判断を誤る
それは何かあらゆることでテレビの特徴はそうなっている
そこで全体を知ることは不可能なのである  

そして「ウソ」で植えつけられたイメージは、その後も残り続ける。
 つまり、「ウソ」を捏造する側にとっては、あとでバレても一向にかまわない。ウソがバレても、効果は半永久的に保たれるからだそれこそが重要なのだ。フセインは永遠に狂気の独裁者として歴史に名を連ねる。そして、アメリカの行為も半永久的に正当化される   

 メディアのウソを見抜け(1)

ともかく物事はいろんな角度から見る必要がある、また様々な問題でもいろんな角度から見ないと真実はわからない
ところが次々に無限に起きて来る事件を追うことは不可能である
ただ一つだったらそれを深めて真実を追求できる、でも無数の事件の真相を知ることが不可能である
そこで誤った判断になる、嘘を嘘だと見抜けないし恐ろしいのは嘘でもフィクニュースでも頭に一旦すりこまれるとそれが消えないというのも心理的にそうなるから本当に危険である

映像を疑い

それは真実ではない

こうまでなってしまう、なぜなら映像は全体からきりとったほんの一部分だからである、それから判断することは間違うということである
でも次か次に起きる事件でもニュースの真意を知りえようがないからただクローズアップされた一部分の写真や動画で判断してしまうのである

一場面の映像によって印象付けられる操作される

これが情報社会の危険である、そのために戦争にもなるし非常に危険なことにもなるから怖いのである
インタ−ネットだとこうして多角的に検討できるのがメリットである
でも時間がない人が多いのだからそんなに多角的に見れないからテレビの一場面の映像で頭にすりこまれて判断する
それを回避することはむずかしくなる
丸森町のことでも私は実際に行って見て報告した、それは間違えない、町全体はそれほどの被害ではなかった
一部分私が見ていない場所で被害があったことは確かである、でもそれは全体ではないのである

【武田邦彦】『テレビと新聞から真実を知る方法』報道の嘘を大暴露!!

偉い人が嘘をつくというとき武田氏はその偉い人であり偉い人と直接知っている
普通庶民はそういう人と直接知り得ないのである
直接話を聞くことも問うこともできない
テレビとかメデアを通してしか知り得ないのである

2019年05月21日

メデアが変わると表現方法とか伝わるものが変わる (youtubeを見て感じたこと)


メデアが変わると表現方法とか伝わるものが変わる

(youtubeを見て感じたこと)

昨日は疲れた、ウィルスソフトの体験版をインストールしようとして失敗した
すでに入っているマイクロソフトのdefenderを削除しないとできなかった
途中で中止できたから良かった、へたにするとパソコンの不具合になる
パソコンは今はいいものメーカー品を買わないとあとで困る
富士通のパソコンはいいから買っていて良かった
後は中古品を使っていた、そしたら不具合になった
何かこのパソコンは使い方で苦労する
20年くらい使っていても私は詳しくはないのである
その機械ばかりにこだわっていると肝心の書きたいことに精力をそそげないのである

youtubeは今や小学生でもユウチュバーになりたいとかなっているから新しいメデアなのである
メデアとは媒体のことである、仲介するものとか中間で偏りがないという意味でもある
でもマスメデアとういうときメデアが力をもっていたからメデアを通してしか発言できない、するとメデアを持つものが絶大な権力をもったのである
私に発言させてくださいと言ってもメデアをもっているマスコミを通してしか発言できないのである、それもメデアをもっているマスコミの意向に沿っての発言しか許されないのである
それはNHKでもそうである、でもそうだからこそマスコミは第三の権力となっていたのである
マスコミに顔だけ出てもそれだけ絶大な効果がありその人物など関係なくても名前が知れるから選挙に有利になったのである
それで青島とかなんとかなにかふざけたものでも芸能人でも名前が知れているから都知事になったりする、それはマスメデアのマスコミの影響でそうなったのである

ただこのyoutubeとは何なのか?これは実際はまた違ったメデアだと思った
これまでは写真も出でいたがテキスト中心でありビデオ形式では出ていなかった
つまり今や個人がテレビ局になっていたのである
何かこれが最初違和感がありわからなかった
こういうのは新しいものは老人にはなじめないのである
パソコンを20年とかしていてもそうなのである
ITの世界はいろいろあり複雑なのである、遺伝子情報の解析のようなことウィルスソフトでしている、その複雑さはもう理解できないとなる

このyoutubeで理解したのは最初は武田邦彦氏の放送を見ていた、次にdeepmaxの中国情報を見た、これも中国の裏側がわかって興味深い
何か最近「オスマン帝国外伝愛と欲望のハレム」このドラマを連続して見た
中国の権力闘争は中国のカルマとして繰り返されている、でも権力闘争となるとオスマン帝国でもそうだったしハレムとは江戸時代の大奥だったから同じだった
東西でも人間のやることは共通していたのである
それが人間の業(カルマ)だったのである

最近のyoutubeで面白かったというかこれは何なのだろうと良くわからなかった
Love & Freedomの底辺労働者の訴えである
これがなぜか生々しいものだった、それは底辺労働の非正規の現実を生々しく訴えていたからである、そこで外国人労働と競争する底辺労働者の恐怖を理解した

日本人底辺労働者が外国人労働者に追いやられる!

これもグロ−バリゼーションのためだった、賃金競争で最底辺のネパールとかベトナムと同じ水準化する、その深刻さがここの放送で生々しくわかった
それでこれは個人の窮状をとかを訴えるのには効果的なメデアだと見た
とてもマスコミでは個人でこんなふうに訴えられないし語られないのである
確かに学者とか政治家がマスコミで語るとしてもその当事者が延々とその不満を経験から語ることはできないのである
だからそういう声は抹殺されていたのである
その人の焦燥感が何かyoutubeだと生々しく伝わってきた、これはテキストだとこんなふうに伝わらない、さめたものとして読んでいるからである
だからこれはメデアによって伝わり方が違うと見たのである

この人は何か大学院まで出て臨床心理学とか学んで実際に職にもついたから相当なインテリなのである、だからなぜ底辺労働者になっているのかわからない
でも家族とか恵まれないとかなり身寄りがないとかでそうなった
両親に大学の時なのか捨てられたのである
それに比べると自分は相当に恵まれていた、家族に恵まれてこんな自由な生活ができたと今でも感謝している、だから介護も必死でしたのである
それは強制されるのではない、そういう気持ちに自然になっていたからである

なぜ私がこのyoutubeの放送に惹かれたかとなると自分自身も20代に底辺労働者だった
流れ作業とか建築現場でも働き高いビルから落ちて死ぬところだったが危機一髪助かったのである、自分が働いたという時そういう場所しかなかった
三流大学の文系であれその当時はみんなどこの会社でも人手不足で就職できたが自分はしなかった、だただそういう人は本当に10万人に1人なのかほんのわずかしかいなかったみんな高度成長時代であり企業戦士となっていたのである

その時自分は追及していたのは宗教である、それでカルト教団に入ったのである
これも全く宗教を追求する、求道する場所ではなかった
でもそこで大学時代を費やしたのである、これも無駄と言えば無駄だった
とにかく人間は無駄が多すぎるのである、青春は浪費と放蕩とかで終わるのも多いのである
そして青春はあまりにも短すぎたとなる、あっというまに過ぎて老人になっていたのである

いづれにしろメデアの変化がITで凄まじい時代であった、平成はITの変化の時代でありそれは世界的に共通していたのである
そしてその変化は今も続行中なのである、だから理解できないものがある
私はスマホをしていないからそこで確実に理解できないものが生じている
メデアの変化という時、ソフトで新聞のようなものも雑誌でも作れる
本自体でも作れる、ただ出版のハードルは高い、インタ−ネットだと誰でも即座に発信できる、そのことが大変化だったのである
だんだんテレビでも見なくなる、youtubeが主流にもなるからもしれない
別にテレビ局は一人でも作れるしもしスタッフを何人か集めれば資金があればテレビ局が作れるからだ
それは教育とかでもそうしたテレビ局を作り資金もいらないのである
だからインタ−ネットのメデアを利用することでビジネスもできる
ただyoutubeが何かわからなかったようにまだこのメデアを利用することがどういうことなのかわからないことがあるのだ

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2017年10月08日

人工知能化する人間 (膨大な情報処理が強いられる)


人工知能化する人間

(膨大な情報処理が強いられる)


人工知能という時,人間→人工知能(コンピュター化)があり人工知能→人間化がある
その双方向で今は進んでいる,パソコンとかインターネットを使っているのはすでに人工知能化しているのである。
膨大な情報からキーワードで調べているのはコンピュター化している人工知能化しているのだ。
地名などでもそうである。地名をキーワードで調べると全国から様々な情報が取得できるこういうことは今までできなかった,図書館などではとてもできない
そこから知識の世界が飛躍的に拡大したことになる
それは人間が人工知能化コンピュター化していることなのだ

この手法だとわかったことは大量の情報を知り読むことが世界を拡大することになる
今ままでは本をどれだけ読んでいるかが知識の拡大方法だった
でも地方だとまず専門書自体が買えない,小さな本屋しかなく結局ベストセラーなどが百万部も売れた時代があった,それは冠婚葬祭のくだらない本だったのである。
そんなものでも百万部も本屋に置けば売れた,本屋に置くこと自体がすでに売れることだったのである。本の数がそれだけ少ないからである。
今や膨大な本が古本をふくめてボタン一つで買える

それでわかったことは自分は前より本を買っている,一カ月で十数冊以上買っている,
でも深くは読んでいない,さーと読んで要点をつかみ自分が書くものに引用しているのである。なぜそういうことをするようになったかというとある程度金に余裕ができたのと
まず高い本は買わない千円以上の本は買わない,そうすると本の数を買えることになる
古本は安い,古本でもいいのがある。それでまにあうとなる

本は人によっていろいろな見方がありそれを知ることができる,人間は職業が違うと理解できなくなるがいろいろ経験した人が書いているから参考になる
警察にいた人が書けば警察のことはわかる,外部から警察のことはわかりにくいからである。それからその地域に住んでいる人はその地域に詳しくなれるのは当たり前である。
自分はだから郷土史研究でそれを書き発信した
郷土史とか歴史関係は土地と結びつきやすいから参考になった

知識の世界ではもうインターネットとコンピュターで人工知能化しているのである。
つまり膨大な情報を処理して見解を述べる,それはAIの方が優れいてるというときそれは人間一個の調べたりする情報よりその量が膨大なになるから人工知能の方が人間より優秀だとなっている,その手法を人間でもする,情報量を多くしてその要点をつかみ引用して書く,ただ人間の場合はどうしても限界がある
でも人間がやはり人工知能化しているからそういうことをするようになる
そういう環境が生まれたからそうしている

一方で人工知能の人間化というのはむずかしい作業である,人間と同じようなロボットを作るのはむずかしい,人間とコンピュターの相違がある,コンピュターのの得意なものと苦手なものがありただ苦手なものでも画像認識などで高度になり人間に近づいてくる
コンピュターが自ら考えるというか作りだすものとなると人間ににてくる
ただコンピュターを人間化することはむずかしい,でも人間がコンピュター化,人工知能化している

自分がしている抽象画は極めて現代的なのである。それができるのはなぜか?
膨大な画像が写真でも絵でもありそれを変形して生み出しているのである。
それはインターネットが生まれてできたものである。
コンピュターのソフトがあって生まれたのである。
こういう芸術は今までになかった,もちろんそれがどれほどの芸術性があるかはわからない,でもアメリカの人達が一定数見ているからそれなりに評価されているとなる
全く絵の才能もない自分が絵を作り出している不思議がここにあった

人工知能は人間から仕事を奪うとかいろいろ言われるが人間の知能の拡大増幅補強なのである,これによって学習も飛躍的に進歩する,もちろん人工知能といっても万能ではないあくまでも人間を補強するものである。
ただ絶対に人工知能はロボットは人間になることはできない,人工知能からロボットが人間に近づける作業をしても人間にはなれない
ただ補強してくれるのである。例えば医療でも弁護士でも教育でも警察の職務質問でもなんでもケースバイケースであり個々人によって対応が違ってくる
警察でも権力にまかせて何でも職務質問すればいいというものではない,それで甚大な被害が受ける人もでてくる,田舎だと職務質問されるところを見れらるとあいつはあやしいとなり駅にすら出入りできなくなったからである。
それもケースバイケースに対応できないからである。
人工知能ではとてもそうしたケースバイケースには対応できないのである。
ただ強力に補強してくれる道具なのである。
人工知能というとき何でも人間に代わってしてくれるものだと思っている
そして人間がいらなくなるとかいうがそうはならないのである

例えば俳句を作るとき季語があるがその季語のキーワードで調べて創作するということがある,そこに膨大な俳句を引用できる参考にできるからである。
他の知識でもそうである。膨大な量の知識から必要なものを取得することができるからである。
学校で勉強するというのも終わりになるかもしれない,なぜなら人工知能化の世界では
学校という一つの定められた閉鎖的空間での勉強方法では一人の先生に教えられるというのではない方法がとれるからである。
個々人にあったペースとかで好みにあったものでできる環境が調うからである。

ただ学校とかはそれ以外の機能がある,友情を育むとか何か人間的なものをチームで共同で行うとかすることで社会生活を送るための人間関係を学ぶとかある
知識だけが強調されるがそういう人間的なものは学ぶのが次代の学校だともなる
それは学校というのではなくクラブとか武道の道場とかがそういう場を提供するようになるかもしれない。
でもそこでは今までのような知識偏重にはならない,知識は人工知能から学ぶともなる
いづれにしろ人工知能でもあくまでも人間を補強するものであり人工知能がロボットが人間になり人間は必要なくなるということはない
もし人間が必要がなくなるというときその人間の仕事か実際はロボットでもできるように部品化されたものとなっていたからである。
そういう仕事はどんどんロボットがするようになるのである。

お手伝いさんでも皿洗うだけらなら機械化できるようになる,でも他にもいろいろな仕事がある,花を活けたりすることもある,美容師でも生け花を習ったりするのは美容室に花を飾ったりするからである。人間の仕事は一つのことに特化することはできない
何か幅広いものとして仕事がある,会話をするとなるとやはりその仕事だけではない,他の話にもなりそこで経験とか知識とか教養が必要になるのである。

でもビジネスマンとかサラリーマンとかなると文化的なもの文芸などの話はできない,それは職人でもそうである。ただ専門の仕事の話しかできないのである。
ただ現代になるとその仕事が多様だからとても話を合わせることができない
科学の時代でも科学に弱いと現代では相当に不利である。
でも科学の知識はもう不可欠の時代なのである。
この辺では原発事故で否が応でも放射能のことを最低でも知らなければ生きられなくなったからである。
そうして膨大な知識に対応できないということもある,情報でもグローバル化しているからそうである。だから現代を生きるとういことはかむずかしいから鬱病にもなるのである

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タグ:ai 人口知能

2017年08月12日

マスコミにはリアリティのある報道がない (個人の経験にリアリティがある)


マスコミにはリアリティのある報道がない


(個人の経験にリアリティがある)


マスコミの報道に本当のリアリティがあるのか?
例えばこの辺で起きた原発事故騒動でも報道するときリアリティのある報道をしただろうか?
確かに自分が原発避難者を批判したとき小高の人などから反発をくらった
でも現実に原発避難者が何をしていたのか?毎日パチンコ通いだったのである。
その時ボランティアが来て働いていたが避難者は何もしていない,パチンコでギャンブル通いだったのである

それにも理由があるにしてもともかくそれが現実でありリアリティだったのである。
そういうことはあまり報道されずただかわいそうだかわいそうだということしかなかっただから原発避難者に文句言うことはタブーとなっていたのである
マスコミでも常にかわいそうな人達としてその人たちを批判しないからである。
今でも何か小高の人達に文句言うと怒る,俺たちはかわいそうなんだぞ
何で同情しないんだとなる,そんな奴は誰もいない,マスコミの報道を見ろとなる。

別に自分でもその時介護や自分の病気で苦しんでいたし他の人も貧乏で苦しんでいた人もいる,借金で苦しんでいた人もいる,そして何か自分にその矛盾が現れた
自分が苦しいことなど関係なく親戚の人はパチンコ屋で借金を返すために働いていたのである。別にこれは原発避難者が悪いというのではない,ただそういう矛盾を生み出したからこそ原発避難者に腹ただしくなったのである。
ただその矛盾が実はリアリティだった,そのリアリティを自分は報告したのである。
報道で大事なのはリアリティなのである。
でもマスコミではリアリティは報道されないしされたとしても確かめようがないから何が真実かわからないのである。

良く極貧のことを話題にするけどそれも嘘だったということがわかった,それもNHKがその嘘を作り出していたのである。そこに本当のリアリティが報道されなかった
リアリティとは何か?それは事実なのである。
例えばリアリティというとき時代劇でもリアリティがあって成り立つ,事実があって成り立つ,ただ人などあんなにバタバタ切れない,ただその物語に何か事実がありリアリティがありそれで見ている,全く架空のことならドラマでも感動しないのである。

リアリティというとき報道されてもその事実を確かめようがない,だから映像でも作られた映像でだまされたことがあった,イラク戦争で泥まみれの海鳥の写真が世界中に衝撃を与えフセインは悪い奴だということがすりこまれたのである。
一枚の写真が世界をだました驚きである。その報道が確かめようがないからそうなる

マスコミの報道からは本当のリアリティを事実を伝えるのではなく常に放送局の方針によって編集して伝える,例えばある番組を現地の取材でも実際は100もの写真をとっている
動画をとっているでも報道されるのは1しかない,すると実際はのこされた99の記録したビデオに本当のリアリティを感じるものがある,でもそれは見れないのである。
ただyoutubeでは単調なものでも延々と写している,それができるようになったのがインターネットである。でもマスコミではそれでは視聴率がとれないからいい場面しか写さないのである

マスコミでは視聴率を一番に考慮する,阿部内閣の新しい組閣でもマスコミはサプライズを好むというときそうである。何か目立つものがないと誰も注目しないからである。
マスコミは常にサプライズを好むのである。目をひくものがないと視聴率が上がらないからである。
ただサプライズだけに目がむくと肝心の重要な事実が見逃されてしまうのである。

人間はいくらグローバル化しても世界の事実を知ることは不可能なのである。
だからフェクニュースでも信じてしまうのである。フェクニュースでもサプライズだから見るのである。視聴率を上げるためにインターネットでもそうしているのである
まずインターネットで読まれことは至難だからである。

リアリティとは何かというときそれは平凡な人でも日々経験していることがありそれを報告すればリアリティになる,だからインターネットがでてきてそうした個々人の経験が語られる,そこにリアリティがあることを知る
マスコミでは報道するときはそれが編集されているから本当のリアリティがわからない。それで個々人のプログでもネットでもそうしたリアリティに感心することがある。
ただインターネットは何か情報が多くて混乱しているから探すのがむずかしい。

自分がなぜ津浪や原発事故で報道したときリアリティがあったかというとその現場にいたからである。だから八沢浦が元の美しい入江にもどった写真入りで報告したときここで泥の中にうまった子供の死体が発見されたのだと顰蹙を買った
それも事実なのである。では昔の入江になり波がよせて太陽の光できらきら光っていたのも事実なのである。本当にそれが美しかったのである。
福島県では海があっても入江がないからである。荒々しい波が寄せるだけの荒寥とした風景なのである。ただ入江になると波も穏やかでなごむのである。
それが津浪で再現されたことに驚いたのである。

ただ津浪ではどろどろとして瓦礫の山となったことしか報告されていない,ただ悲惨なものしかなかった,でも一部に美が生れていたのである。それも事実なのである。
でもその美が生れたことは報告されていない,すると全体的に事実が報道されていないともなる,津浪はただ地獄的なものであり何にもいいことはなかったとなる
それは事実にしても八沢浦とか他でも海になったというときそこに美が生れていたのである。特に宮城県のように入江がない福島県ではそうだった

いづれにしろ事実をリアリティを伝えることはできない,その人の目で五感で感じたものを伝えることがリアリティなのだけどマスコミで報道されるのはマスコミという組織が会社が編集したものであり本当のリアリティとは違うのである。
ただマスコミの報道にもリアリティはある,ただ意外と地元でないとわからないことがある

例えばNHKで相馬市のトマト農家が飯館村の原発避難者を採用しなかった,それは相馬市は津浪の被害が大きい,だから津浪の被害者を優先した,それは別にトマト農家が差別したわけでもないのである。
なぜなら原発避難者には手厚い補償金が支払われていたからである。
それから浪江の会社経営の人が元の仲間に仕事をくれと頼んだらあんたは補償金で億の金をもらっているから仕事はいらないだろうと断れたということをちょっと漏らした
そのことは外部の人だとのみこめないだろう。
でも地元だとピンと来る,一番補償金でもめていたからである。
でもマスコミの報道はなぜ原発避難者を差別するのかと伝えられるのである。

要するに報道というのは相馬地方から福島県とか東北とか全国レベルにさらにグローバルになると確実にリアリティを失ってゆく,事実を確かめようがないからマスコミによって操作されることが多くなる,歴史も事実が基なのだけどそれがドラマ化するとドラマが真実のように思えるのである。
坂本竜馬が英雄化されたのも司馬遼太郎の小説によってである,小説は作られたものであり事実があってもそうである。でも小説の方をドラマを真実とみるのと同じである
そこに何がリアリティで真実なのか事実なのかを見極めることができなくなっているのであ。

とにかく報道は事実をリアリティを基にすべきなのだがそうなっていない
マスコミの意図されたものが報道される,それは作られた報道だともなる
都合の悪いものは報道しないしマスコミの意向に反するものはとりあげないのである。
江戸時代のように相馬藩内とかで暮らしていれば狭い世界だから知ることがでる
しかしもう福島県でも東北でも全国レベルになるとグローバルになると報道はリアリティを失い,ただマスコミによって操作されるだけだとなっしまっているのである。
そこに報道の根本的な問題がある,それはなかなか解決策が見いだせないのである
人間は今や報道によって翻弄されるのであり自らではもうその事実も確かめようがないからそうなってしまったのである。

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八沢浦が元の美しい入江に戻った!

2016年09月07日

「天国の門」の映画はこの辺の事情とにている (郷土愛がテーマとなっているから)


「天国の門」の映画はこの辺の事情とにている


(郷土愛がテーマとなっているから)


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日本の国土の70%ほどの面積の土地に人口は約51万、旅行した知人によるとと一日中クルマを走らせて対向車、見かけた人ゼロという日があった由)


現代のブッシュ大統領も、イラクのサダム・フセインを大量破壊兵器を持っているとして、軍事制裁をしようとしている。イラクが大規模な油田を持っていなければこのような目に遭わずとも済んだのだろうが、アメリカの石油財閥の強欲により戦争を仕掛けられるのだろう


アメリカが理解しにくいのは中国ともにているが広すぎることなのである。グランドキャニオンなど見ればわかる、まるで別な惑星に来た感じになるからだ。
日本の村と中国の村は別物だというときもそうである。日本の村は規模が小さい。つまり外国になると日本人的感覚で見るから誤解が生じる

ただ人間はどうしても何かを理解する場合自分の住んでいる所から経験しかからなかなか理解できない、それでどうしても視野が狭くなる。
リンカーンの荒野の一軒のログハウスからはじまったのはここでも同じである。
ただこの作品に興味をもったのはアメリカの黒歴史を事実を背景として作られたからだ。壮絶な撃ち合いは映画だけのことであり実際は二人しか死んでいない

ロシア東欧系移民が先住民でありあとからきた移民との土地争いが根幹にある。
そのあとからきた移民はハーバート出の人がいて支配階級になっていった人たちである。だから法は自分たちのものだとか大統領の許可を得ているとか州政府が味方だとか言って先に住んでいたロシア東欧系移民を従わそうとした。
でもそれに従わないいわば先住民が戦いいどんだのである。
ただあのような華々しい戦いはなかった。
でもそこに住む先住民たる東欧系移民はその土地にすでに愛着がありあとからきた移民と戦う、そこには郷土愛が生じていて戦ったようにも見えた。
娼婦でもここは危ないから他に移ろうとしてもここがすべてだから移らないと恋人に言って残ってその娼婦も戦ったのである。
でもそれは映画のことであり実際にはない、別に娼婦だったらどこにでも行って楽な生活を選ぶだろう。それは作られすぎたものだった。
そもそもこの映画失敗作だとされて作った映画会社も倒産したいわくつきのものだった。
ただ何でも人によって映画でも本でも感じ方が違ってくる。
なぜ自分がこの映画に興味をもったかというとすでに郷土愛が生れ先住民としてあったものがその土地も奪われることに抵抗したことだった。
それが何かこの辺の事情と通じるものがある。
津波や原発事故で郷土が放射能で汚染されて住めなくなった。
そうなったとき多額の補償金をもらったから別に郷土に執着しないで若い人は放射能汚染もあり出て行く、そして他で生活を新たにはじめ故郷には帰ってこない
それは命をかけてまで土地を守ろうとした東欧系の移民達とは違っていた。
東欧系の移民達はすでに土着してその土地に愛着していたから土地を守るために戦ったのである。
ベトナム戦争でも穴にもぐりゲリラとなりアメリカと戦った、それも郷土愛(パトリシズム)でありアメリカはそれを無視したというのともにている。
そこは自然も広大で美しい場所だったのである。

郷土愛とか故郷というときこの辺でも住めなくなったとき問われたのである。
故郷といってもそれは普通にあるものであり意識しない、故郷を離れたときとか失ったとき意識するのが人間である。
ここでもあとから来た移民は金があり金で解決しようとした。
金をはらって追い出そうとした。でもそれができなかった。
ここでは逆に金をもらって自ら出て行くというのは違っていた。
でも戦い死んでまでも自分たちの土地を郷土となった土地を守ろうとしたら壮絶だったとなる、実際は二人しか死んでいないし州政府が仲介して終わったのである。

ただアメリカという国はインデアンを皆殺しにして土地を奪ったのが建国の由来であったり黒歴史がある。支配階級もこのジョソン郡事件のように権力で金で強引に支配してゆくそれがアメリカのやりかたでありまさにそれも世界的に行われてきた
イラク戦争でも石油にからんで化学兵器を所有しているからという一方的ないいがかりをつけて多数の死者を出したのである。飛行機がビルにつっこんだ3・11でもあれをきっかけにアメリカ人の愛国心が燃え上がりテロとの戦争だとイラクを攻撃した。
別にイラクがテロと関係している訳でもなかったが口実となった
それは真珠湾攻撃がなかったらアメリカとの戦争がなかったのとにている。
リメンバーパールハーバーでアメリカ人が日本との戦争に突入したのである。
だから真珠湾攻撃は日本がアメリカに仕組まれたものだという陰謀説が生れる
日本もまたアメリカによって一方的にいいがかりをつけられて戦争を起こされたという味方もある。それはアメリカという国がそういう体質の国だからとなる。
インディアンから土地を奪いさらに移民でも支配階級はその移民の土地を力づくで奪う
それがアメリカの支配階級のやり方だからである。

いづれにしろ郷土愛とかパトリシズムとかをもつのは例えば個々人でも家を建てるのに苦労した人はその家に愛着をもつ、俺は一代で特別他人より働いて家を建てたというとき遺産として家を受け継ぐ人より家に愛着をもつ、また開拓に入って苦労した人もその土地に愛着をもつ、でも二代目三代目となってゆくとそうした苦労も語り聞かされるが愛着がなくなってくる、それで老人はこの辺では故郷に帰りたいとなるが若い人は不便な所には住みたくないから出てゆくとなったのである。
そしてそこではやはり土地に根ざす農民とか牧畜業であり今はみんな会社員であり工業社会になっていることが違っている
故郷への愛着が生れるのはその土地に根づくというときそうした農民とか牧畜業の人たちである。会社が浪江から二本松に移動してそのまま移住したりする人もいる
その土地に根付く仕事でもないからそうなったのである。
だから現代は別に故郷とか郷土に執着する人は少ないのかとなる
だからこそ故郷も失われたのか人間も離散したのかとなる
この映画は実際にあったことを映画にしている、この辺でもやはり様々な葛藤があるのとにているのである。

映画というのもそうした人間の葛藤とか何か戦争シーン、暴力シーンだけではないものをテーマにすれば小説とかと同じになる。
シーンとして牛がいないと人力で多数で畑を耕していた、その時機械もないのだから人力になく、牛がいなかったらそうなる、それも時代を現していた。
何かそういうものは生々しく映像だと感じることがある。ただ映画どうしても実際にあるこより派手にする、今回でもあんな戦闘シーンなどなかったのである。
州政府が乗り出して反抗する移民を殺したということはない、かえって仲裁して未然に戦闘を防いだとなる。そこでは支配階級でも公正だったとなる。
インディアンだったらそんなことはしない、法もなにもない、土地を奪うだけだったとなる。

映画でもそうだが昔のものがかえって面白い、今になるとインターネットでも見れるし買うこともできる、なかなか田舎ではそうしたものを買いなかった。
そんな映画あったのと教えられることが多いのである。
テレビは面白くないけどそういう昔の映画は面白いとなり見る、人間が生きることは常に葛藤つきものである。その葛藤の中で人間が選択して判断して行動してゆく
それが別に映画でなくても個々人の人生で常に起きてくるのだ。
人間は苦難とかそうした葛藤とかない、あまりにも恵まれて苦労もしないとしたら人間として生きたのかとまでなる、そういうことも必要でも人間はどうしたってそうした苦難に直面して葛藤する、それが歴史的に国のレベルでも起きてくる、この辺は地域的レベルで起きたのである。

そういうことがないと人間は成長しないのである。様々な人間の葛藤がありそれはこの辺で起きたのである。津波の被害地でも起きたのである。
補償金で争うというのも内部抗争であり葛藤でありそれは否定できない、きれいごとだけではすまないのである。そこに人間のドラマが生れてくるのである。
「あるべきか、あらざるべきか」じゃないけどそういう葛藤こそが人間の人間たる所以なのである。だから歴史でもどういう葛藤があったのか見るべきなのである
簡単に歴史的な決断となるとそこには相当な葛藤があったと思うからである。
過去になるとその葛藤がなかなか見えない、戦争にしてもどうしてあれだけの戦争になったのか?その過程が今では見えなくなっているのである。
戦争すべきなのかしない方がいいのか決断にいたるまでの過程の方が歴史を見るとき大事だったとなる、過去のことになると結果しか見ないからである。
卑近なことでも個々人でも結婚すべきどうするべきかとか葛藤があり常に選択と決断が求められる、そこに常に葛藤が生れるのが人間なのである。
この辺でも故郷に帰るべきかもう帰らないと決断した人でも葛藤があったとなるのである。


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2016年07月14日

家電量販店とインターネットの買い物の相違 (アマゾンのレビューは消費者(有権者)の声が反映されている



家電量販店とインターネットの買い物の相違


(アマゾンのレビューは消費者(有権者)の声が反映されている)


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何かインターネットで向いているのは小物類である。パソコンの周辺機器とか五〇〇〇円以下の小物類がお得である。
IHヒーターを買ったが接続部分のコンセントが熱で焼けて使いなくなった。
何かそれは作りがおかしかったのか?危険でもあった。
IHヒーターでも熱がでるから危険になる
それは家電量販店で買った
今度買ったのは音声で案内したりと使いやすい、それを買ったのはカスタマレビュ-で評価が良かったからである。
たいがいカスタマレビューは評価に間違いがないみたいだ
なぜなら実際に買って使った人が評価しているからだ。

ところが家電量販店ではそろえてる品物もす少ない、どれがいいと聞いてもあなたが選びなさいとなる。そうなると買う方にすると不親切だとなる
使っている人に聞くのが一番いいのである。
実際に使っている人の言うことはまちがいないしまた別にコマーシャルのように金をもらって宣伝しているわけでもない、たいがい薬とか他のものを売るときテレビでは宣伝だから信用できないのである。
金もらって宣伝しているからである。

今家電などは特に通信とかitとかパソコン関係は何か買うのがめんどうになった。
第一家電量販店にそんなに品物をそろえられない、ところがパソコンなどはその種類もメーカーも多くなった、つまり店に並べているのはほんのわずかしかない
だからそこから選ぶと自分のあったものを選べないのである。
そこにも今の問題がある。それは家電だけではない、自転車だって種類が多いから何を買っていいかわからないのである。
それである自転車屋では自分が買いに行って実際に乗ってみてすすめている。
そうして一台は買った。ただこれも電動自転車のいいものだから選ぶ種類が少ないからできた。ロードなどは数が外国製も入ってきて多いから選ぶのが大変なのである。
八万で買ったロードは使いなかった。結局試乗できないから選ぶことにも失敗する

家伝量販店でレンジを三万で買ったときも失敗だった。
それは何でもできるものだと思ってしまった。料理までできると思った。
しかし実際は何もできないものだった。普通のを買っても同じだった。
それを買うとき家伝量販店の人は何も言わない、だから何でもできると思い買ったのである。要するに売る方にしたら高い方がいいとかで説明もしないのである。
そもそも家伝量販店で売る方にしても全部に通じるとは思えない、それほど種類か多くなったからである。
家伝量販店だと売りたいものもうけが多いものを売るとかあり消費者が買いたいものをすすめる訳ではない。そして品数が少ないからすでに選ぶのは限られているのである。


一方通販は品数が多く好みのものを選べる、レビューを見ればたいだいまちがいなくいいものが買える
ただアフターケアーとかないことや見た目とは違っていた、大きさが違っていたとかある衣服とか靴とかバッグとかは大きさがわからないので失敗する。
だから額が大きくなると通販は怖い面がある。つかいないとなると損になるからだ。
設置もできないことなどもあるから買うにしても不安はある。
でもだいたい通信関係をのぞいて家電はわかる、yi-fiとかwin10では簡単にできるようになっていた。
それもASUSとかの外国のメーカー品のノートパソコンでできた。これは三万くらいでありそれでも今は相当にいいものである。それだけハソコンは安くなっている
ただこの辺の家電量販店では置いていないから通販は便利なのである。

家電量販店と消費者の関係を考えると家電量販店の方が力関係では上である。
何を買いたいかと言ってもそこに限られたものしか置いていないし家電量販店ですすめるものとか自分で好きなものを選びなさいとしかない、でも知らないものを使ったことがないものを買う時は困る
それより使った人のレビューを読む方が参考になるのだ。
つまり家電量販店と消費者の間には何か案内するものが必要なのである。
家電量販店の店員が売りたいものがあり消費者が買いたいものがあるとして両者はあわないのである。
その中間に実際使った消費者の声が必要になる、それが一番信用できるのだ。
ものの評価はかたよることがないしまちががない、実際に使ってみてこうだったというのは使用できる、今まではこういう買い方ができなかったからだ。
近くの料理店でIHヒーター買った、それが古い型であり何かいいものに見えなかった。
その人は年寄りだからそもそも通販のことは全くわからない、売っていることさえわからないのである。その差はものを買うにして情報にしても大きい
テレビで放送されることは知っていてもインターネットで放送されていることは全く知らないからである。そういう情報格差も年代的に生まれている

このことを考えるとこれは民主的なことだと思った
つまり消費者の声とはまさに選挙なら有権者の声なのである。
選挙というのは政党とかある組織とか団体とか権力あるものの声が大きく一方的になる。そしてマスコミが政党と有権者の間に入るものだがこれも一方的なものとなる
でも生の消費者の有権者の声が入ればそれが民主的なものとなる
ものとかになると評価はまちがいないのである。
ここでは多数決原理が成り立つ、それは人ではないから評価が多数で良ければまちががないのである。

インターネットではじかに有権者の声がでてくる、それは匿名でも2chであってもそうである。そういうことが今まではできなかった。
インターネットでできるようになった。マスコミは政党と消費者の間に入っていてもマスコミの見方を消費者におしつけている、それは家電量販店とにたものがある。
実際は有権者でも多様な声があり品物も無数にあるときそれを選べるようにするのが民主的だとなる
だからこのレビューを参考にすることはテレビのコマーシャルとかにだつされないことになる。
ただこれも一〇万とか高くなると買うのが怖くなる。それでもカメラなど安いから買った不良品などないし簡単に日本のものは壊れないからである。
ただ通販で便利なのは一万から五〇〇〇円以下のものである。
それなら買っても失敗してもいいとなるからである。

いづれにしろ家電量販店でも商売としてインターネットと競争を強いられるとき売り方を変えねばならない、まず品数がそろえられないのだから通販より不利である。
何かサービスをが加えるから売り方を変えねばならない
一つの方法は使い方のサービスを提供することである。使い方がわからないのが多くなっているからだ。
年寄りは簡単な家電でもつかいないということがある。
それで街の家電屋がそうしたサービスをするとかで生き残るを計る
そういうものが家電量販店にはないのである。
だから何か不親切なものを感じてしまう。
でもまた地元に実際に家電量販店でもないと困るということもある
なぜならみんな通販でそろえるというのも問題であり困るということもある。
地元に商店もなにもなくなってしまうのではないかという不安もある。
だからすべてが通販になることは不便なことがあっても考えものだともなるも

ただ買い物にしてもインターネットの役割があり民主的なものが生まれたと感じた。
民主主義というとき別に政治だけではない、通信環境とかいろいろな技術が生まれないと成熟しないのである。
今まではマスコミが一方的に力をもっていた。でも必ずマスコミのとりあげることにケチつけるのがインターネットである。
そんな貧乏物語を特別取り上げるなとかそんなのが本当なのとなる。
実際にどういう事情でそうなったのかもわからないからそれを一方的にかわいそうだなともならないのである。
ともかくニュースは特別なものでない限り注目しない
だから極端に貧乏だとか困っているとかなるのが注目されやすいのである。
それを意図的にマスコミではとりあげるのである。
そして矛盾は弱者の味方のようでもマスコミは社員は高収入でありまた共産党であれ創価であれ幹部は金持ちだということもある、それは中国ではそうなっている。
貧困ビジネスだなと指摘するのもわかるのである。

考えてみるとなぜ創価とか共産でもなんかカルト的な宗教団体とか未だに強い力をもっているのはなぜなのか?それはやはり以前としてマスコミなどが力をもっていてその実体が知らされないからだろう。
自分はそこで運動していたからわかるのである。でも若い人はインターネットをしているし批判も読むはずだが以前として力をもっている不思議なのである。
全体主義的なものは民主主義とは一般的になじまないはずなのだけど以前として力をもっている、ただ創価の場合は与党にいるために得して力をもっているのと50パーセントの投票率では民意を反映していないこともある
ともかくカトリックの支配が終わったのはグーテンベルグの印刷機の発明で聖書を直接民衆が読めることになったからである。そうした技術革新の結果だったのである。
その時聖書という情報を独占していた牧師が失業することにもなったのである。
インターネットでもまたそうした技術革新の結果として民主主義的なものが促進されることはありうる。
それとともにやはりマイナスなことも起きてくる。
インターネットでは無数の意見が生まれ批評が生まれ数が多すぎててとても読めないということがある。そうなると貴重な知識でも埋もれてしまうのである。
人間はテレビを見て新聞をみてインターネットを見て・・・見てとなるともうそんなに情報をとりいれることができない、情報をとりいれるには人間の頭脳は限度がある。
そこにインターネットの大きな問題がある。
だからといってマスコミのように今までのように情報を独占されるのも今は拒否されるべきである。

要するに情報というとき一人一人が情報をもっている、自分が80以上の老人のことを聞いて語ったのも情報である。それはテレビとか見てではない、対面的に接して情報を得たとなる。過去には情報は体面的に人伝いで伝わった、今は通信の発達でマスコミとかインターネットでも対面的ではない、第一対面的にると接する人は限られてくる、数人とかなってしまう。そこで何かを判断することはできない。対面的になと表情などもにも現れるからよみとれる、猫は表情で仕草で何かァ伝えるし納得もしている、言葉を介さなくても何か通じている。
その人の言っていることは普通に聞いていることとは違っていた。
対面的だと驚くべき情報を得るとういことがある。
沖縄では外から来た人より内部の近くの人がレイプしたりするから怖かったという。
戦時中には異常事態だから何か起きたかわからないのである。
自分も外部の人より内部の人が本当に怖いと思った。
だから家の中に入ってくる人は本当に怖いのである。
そこで必ず何か問題が起きてくる、外部から確かに来る人も怖いのだが
戦国時代でも密偵としてとか内部に入って攪乱されるのが怖いのである。
こういうことは沖縄などでは外部からの被害ばかり言うから語られないのである。

民主主義というとき何か政治のことばかりにあるようになっているが日々の買い物とかの生活でも民主的なことがある。
マスコミはこれまで一方的にコマーシャルを出して消費者に買わせるという手法をとってきた。
テレビや新聞はそれで広告料をもらい成り立っていたのである。
でもレビューの評価になると何も金をもらっているわけでもないからその評価を信用できるのである。
ただこれもわざと評価をあげたり下げたりするものがいるとか問題になったその評価が直接売り上げに影響するからそうなったのである。
ただものの評価は多数がいいというものはいい、ただ薬などはわからない。ある人には効いてもあ人には効かないとかめんどうだからである。
でも食品とか物とか電器製品などの評価はまちがいない、実際に使った人の評価はまちがいないのが多いのである。

そしてパソコンでわからないことは対処方法はインターネットにでている、win10のイヤホンジャックからスピーカーにつないで音がでないというのはみんな書いている。
するとみんなが同じ問題に直面していることがわかり安心する。
そしてそのために中間につなぐものをアダプターをつけると音がでるともある
その製品もアマゾンですぐ買えるのである。
ここまで家電量販店では説明してくれないし品物を地方では売っていないのである。
大きなテレビとか冷蔵庫とかクーラーとかは家電量販店になるがパソコン関係などは今や通販でいなと売っていないのである。

2016年05月20日

みんなが記者になるインターネットの時代 (現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)



みんなが記者になるインターネットの時代


(現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)


現代というのはインターネットになると写真をとって即座にプログにのせることができる速報性では新聞より優れている、そして自分もインターネットで報道などしてしてすでに十年以上になる、別にこれで何も金も報酬もなにもなかった
でもなぜ夢中になるのか?金もらえるわけでもないし名前が売れるわけでもないし金銭的にも他に何も得られないのである。
それでも夢中になるのは何なのか?それは報道するということが人間の本能に近いものがあるからだ
人間は別に利益があるから何かをするということでもない、人間は何でも自然なら美しいものを見たら報告したい写真にとったらそれを見てもらいたいという願望が常にある

常にデジカメをフマホなど持ち歩いていること自体すでに一瞬の場面をとらえて報告するツールになっているのだ。
即座にインターネットにアップしてリアルタイムで報告することがインターネットの特徴なのである。
週刊誌だって三日あととかであり雑誌になると一カ月に一回だからこうした速報性はない速報性はインターネットが一番ある
そしてとてもマスコミでとらえられないものをその場その場に生活している人が報告するのに適しているのだ、その土地の事情に通じているのはそこに生活している人であり
遠くから記者として来る人ではないのである。


それで今回の東日本大震災の津波の被害や原発の被害のことを自分が報告したことは相当に効果があった。相当にプログが読まれた、3000ページビューとか今でもある、平均してそうなのだから多いと思う、割り引いてもページビューが多いのである。
最初のプログは認知症関係で多かったが次ぎには震災の津波原発事故でさらに増大した。認知症にしても自らの苦しみ実況中継したようなものだったのである。
だからこそこれも読まれたのである。その記録は今も残っている

これまではこういう個人的な体験はメデアを通してマスコミを通してしか報告されなかった。そこでどうししてもバイアスがかかりマスコミの意向が入ってきて真実が見えないということがあった
なぜマスコミを通すと真実が見えないかというとその報道する局でNHKでも編集するからその局の意向が放送に入ってくるのである。
そしてマスコミの番組作りの最大の目的が視聴率にある、どれだけの人が見ているかを番組作りで一番気にしているのである。NHKでないとどれだけ見ているかで会社の宣伝になるか決まるからである。

マスコミの問題として何か常に極端なものを例として出す、貧乏問題では極端な貧乏の人を紹介する、その極端なことが一般化するのである。
「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」
アメリカ大統領候補のトランプが大衆はニュースに飢えているから過激な言動をして大衆に訴えると自ら言っていることでもわかる
人間は当たり前のことに誰も注目しない、なぜ津波とか原発事故でゴーストタウンになったとき注目されたのかそれはあまりにも異常な状態がつづいているからである。
自分自身でも未だに避難区域で人が住んでない家のことなど不思議を書いてきた
こんなことありえないことだからニュースにもなるのである。

極端なものが常に一般化する傾向は報道にある
それはインターネットでも起きている、ある特定の人の発言の攻撃が全体に影響しているという。他の人もそのたことにひきづられている
何か人間の心理にある、西部劇でリンチするとき、一人が異常に攻撃してその人につられてみんなも感情的になりリンチを加える、人間の心理にはそういうことがある
東京都知事の舛添が批判されても仕方がないのだがなにかこの際つるし上げて喜ぶということもある。人間にはリンチ(私刑)にする心情があるから法律で客観的に裁くようにしたのである。感情的になると偏ってしまうからである。

現代人はみんな記者になるというときカメラマンになるというとき津波でもその映像をとることに夢中になっていて助けもしなかったということが反省された
衝撃の津波の映像を残そうとして目の前の人を助けなかったから反省している。
それは常にマスコミは災害現場で困っている人をないがしろにして悲惨の現場を写真にとり報告しようとしているのと同じだったのである。それが個人レベルで起きているのが現代なのである。
プログでもyoutubeでも放火してまで視聴者を増やそうとしていることがあり同じことが世界で起きている、それだ金を稼げるとなればますますそうなる、それはマスコミと同じになったのである。
どうしたらみんなが見るのかということはマスコミを腐心している、個々人でも同じなのである。
より衝撃的な映像を出さなければ見てくれないからである。

テレビドラマで火事の場面をその炎を写して注目をあびたカメラマンがいた。
その人が放火したわけではないがその時中で子供が燃えさかる炎の中にいたのである。
そして死んだのである。その時母親がそんな火事の写真を出さないでくれと生き残った息子が恐怖するからとか言ったが全くとりあわなかった。そのことで母親はそのカメラマンに殺意を抱き殺したのである。
こういうことがプロのカメラマンでなくても一般人にもインターネット時代にはスマホ時代には起きやすいのである。


美しい八沢浦が蘇ったという写真をのせて紹介したとき、その水が引いたあとには子供がどろまみれになって死んでいたのである。それを自衛隊員がどろをかきわけて探していたのである。
「前は人が子供がここで死んでいるのに美しい八沢浦が蘇ったなど言えるのか」
そういうおしかりがあったが当然だった
でも津波に関しては本当に悲惨な光景しか目にしていない、どろどろの海となりガレキで埋めつくされていた。そこに美は全く感じられなかった地獄の風景だったのである。
八沢浦は家が少ないからガレキの山にはなっていない、本当に古歌に残っている美しい入江が再現されたことに自分は正直驚嘆したのである。
ただそれは一時であり水が引いたときは泥の海になっていたのである。
朝日がさして八沢浦に浦波がきらきらと寄せてきたときほど驚いたことはなかった。
それは一時の奇跡だと思ったのである。
だからこういう場面を写真にとって残しておきたいとなるのは人間としてまちがってはいないが目の前で津波にのまれるのをみて写真にとっていたら人間的には許されないとなるだろう。

インターネット時代の報道は変わってくる、マスコミの報道とはかなり違ったものとなるその場で生活している人がその場には一番詳しいのである。マスコミより詳しいのであるただ多くの人目にふれるのはまだマスコミである。
インターネットではあまりにも多すぎて記事も埋もれてしまうからである。
いづれにしろ人間の情熱がでることにはいろいろあるが報道する情熱というものがある
その場で起きたことを伝えたいということがある
それは報酬に関係ないのである。自然の光景でもその人が見た特別なものがあったら報告して見てもらいたいとなるのである。
それが度を越すとその場で人を助けることが優先なのにその場の悲惨な状態でも写真だけをとりビデオだけとり視聴率を稼ぐ方に重点が置かれる、マスコミではそうなりやすいがインターネット時代では個人でもそうなりやすいのである。
ともかく自分は震災津波原発事故でそういう記者になっていたのである。
それは家族が認知症になったときも逐一報告していたからそうだった
それも相当に読まれたし今でも参考にされているから無駄とは言えないのである。
なぜなら認知症で困っている人が無数にいるからである。

そもそもインターネットというメデアはパソコン通信からはじまっていたから双方向が基本だった
なぜならパソコン通信の時代は相手に本当に書いたものがメッセージが伝わったかどうかわからないから確かめるために必ずレスが必要になっていたのである。レスポンスがないと伝わったどうかわからないからである。
そういう文の対話からはじまっているからそれを知らない人はなかなかなじめないということがあるがそれが普遍化して普通になってしまったということである。
特にスマホになるとそうである。そこに誤解が生れて事件にもなった。
相手が見えない文だけだとそうなりやすいのである。
ただプログとかなるとただ一方的に書くメデアとなってしまった。その反応はレスより数で決まってしまうのである。

「心の青雲」は毎日読んでいる、ただ著者はレスは罵詈雑言とかあり拒否しているのもわかる、パソコン通信とか2ちゃんねるのノリでやられるとつきあえないとなる
ただその目的がおとしめるだけのものがあるからだ。
「おめえ、傷口に塩ぬって楽しいか」かとか発言されたら答えようがないだろう。
礼儀もなにもない、ただおとしめるだけにだけ発言する人には答えられないというのは当然である。
でもパソコン通信ではその後もインターネットではそれが普通だったのだから異常だったとなる
年も何もない、おめえはなとか言われて来たらどうなるのか?
それだけインターネットの空間の異常性が浮き彫りにされたのはインターネットの世界が普通の社会の感覚になったということでもある
ただレスがないとインターネットの発言が活きにくいということはある。
心の青雲の趣旨には全部が賛成しにくいにしろそこに対話があれば面白いと思う
でもなかなかあそこでは対話しにくい、そういう雰囲気がない、ただ一方的発言になる
それは今は自分でもそうである。

小林秀雄の文章も大嫌いで読めたものではない。谷沢永一氏はこう評した「当たり前のことに勿体をつけ、反り返るような姿勢で絢爛たる字句を操作する名人でした」と
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/437408581.html(生理的に受けつけない文章)

小林秀雄の表現はもったいぶっているとかわざとむずかしくして煙にまくという感じになる。
でも有名だからそれを言うとお前にはそれだけの読む力がないんだとなり黙っている
自分もあの文章には生理的に受け付けない、それを正直に言う人がいてやはりそうかとなる。
でも普通はお前には小林秀雄はわからない、それだけのものだということを思われるのが嫌だあからさまに言わないのである。
「心の青雲」は中味が濃いから相当に対話することがある、内容を対話して深めることができる、ただどうしても極端な発言があるから普通の人は対話しにくいのである。
そしてそれだけ反論するとなると容易ではない、2チャンネルとかパソコン通信のレベルでは対話できないと思う
いづれにしろインターネット時代はみんなが地球的グローバルに記者になった時代であるマスコミの時代は終わった、マスコミも常に批判の対象になるのである。


八沢浦が元の美しい入江に戻った!(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)

2016年05月15日

メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代 (テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)

      
メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代
       

(テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)


●ラジオの時代へ

 メデアが媒介するというだけならいい、ただメデアの種類が増えた現代ではメデアによって左右される、メデアというとき過去のメデアは何なのか?
例えば広大なローマ帝国に情報を伝えるメデアは何なのか?
となると電話もないテレビもないインターネットもない、便利なものはなにもない
そうなれば人間が走るなり馬を走らせるなりしてその内容を伝えるかほないのである。
そのためにローマの道が整備されたのである。「すべての道はローマに通ず」となり広大な帝国を支配したのである。   

忠臣蔵で内匠頭切腹を知らせる早かごはたった5日で赤穂に到着したそうです。約650`の道のりをたった5日で踏破したとは想像に絶します。

どれだけ早く伝えるかが大問題だった。馬も使ったらしい、とすると納得はいく、駕籠だけでは無理である

江戸時代はメデアというものがない、伝える方法がない、何か学ぶにも人伝えになる
直接人を通して訪ねて学ぶとなる、人と人の直接のコミニケーションに頼らざるを得ないだから遠方とのコミニケーションをとるのは相当にむずかしく誤解も生れる
だからローマ帝国のような広い地域を治めるのは容易ではない、遠くで反乱が起きたらどう中央で対処するのか、そのためにすべての道がローマに通じるの格言ができた。
それは今なら電話線とかである。無線通信にも発展しているから現代は距離が情報を通じさせなくなるということはない

現代のようにメデアがないときどうして情報を伝えるのか?まず大勢の人に何かを伝えるというとき大勢の人を集めなければならない、でもその数は限られている
ローマの政治では何かを自分の主張を伝えるのには直接演説している
そういうシーンを映画でみている。演説がうまくないと支持が得られないというのは今でも政治家ならそうだろう、また見栄えも関係してくれる、今ならテレビ写りがいい人が選ばれる、それはテレビとにているがこれまではみんな実物を見ているのである。
江戸時代までは新聞もないから政治は人と人が直接あって物事を決めていた。
例えば相馬藩内の街道を伊達家の侍が参勤交代などで通るとしたら藩主の許可を得なければならない、それは直接あって成されていたのである。
人と人の信頼の上に成り立つ社会だったのである。


現代のメデアの問題はメデアを通して起きることが多いからメデアのことマスコミでも何でも問題にされるのである。メデアの影響が大きいからそうなったのである。
ヒットラーがナチスがラジオから生れたというのもそうである。ゲッベルスが宣伝を担当してラジオを利用して民衆を操作した、ナチスを作り出したのはラジオの力メデアの力が大きかったからだともなる

ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった


ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。
これだけの力をラジオがもっていたのだからテレビがもつ力はそれ以上であり計りしれないものとなっていたのだ。第一ラジオは音しか聞こえないメデアである
ラジオは音に敏感になるメデアなのである。顔とか表情は見えないからである。
それで宝島の放送で杖つく海賊の音が迫ってくるのに恐怖を子供のとき感じたのである。音は意外と一人暮らしなどしているとカランとした家にいると恐怖である。
風の音でも誰かがいるようで不気味になるのである。


●テレビの時代      
  

感情的(即座に反応)

□大衆的、一方的洗脳メデア

□メデアによるリンチ(私刑)を煽動する

現代はテレビの時代であった。インターネットが出る前の50年間くらいがそうだった
テレビはラジオより影響力があった。ラジオ放送で有名な人がNHKでテレビになったとき活躍できなくなった。
テレビは人間をそのまま写すから見栄えが良くない人はテレビ向きでとないのである。
だからこそタレントが一番向いている、テレビに出る人は俳優なのであり役者である。
演技するものだからである。

テレビの特徴はいろいろあるが感情的メデアなのである。活字とかラジオとか文字と音だけのメデアだったら感情的にはならない、本や新聞を読んでもすぐに感情的にはならない、冷静にみる。

「なんだあいつの顔が気にくわねえ、もっと顔のいいやつを出せ、、、、」

顔とか表情がまず注目される、だからアナウサーは美人でないと勤まらないのである。
知性よりその顔をみるからそうなる。

そしてテレビは一方的洗脳メデアである。テレビは何か疑問に思ってもそれを追及できないようになっている、そんなことあるのと思っても追及できない、一方的にテレビ局に洗脳されるだけなのである。
テレビの放送は中立ではない、一見NHKは中立のように思える作り方をしている。
でも巧妙にかたよっているのでる、気づかない人も多い。

何回もとりあげるが相馬市で飯館村の人がトマト農家に勤めたいと言ったら断られたことを放送していた。一瞬自分もそのトマト農家がひどいなと思って怒りを覚えた

「なんだ、その農家は冷たいな・・・・飯館村の人はかわいそうなんだから雇ってやれよ」

とかその放送を見ればみんなそうなる

別に自分は飯館村の人がどうだこうだというのではない、その断られた理由は飯館村の人は補償金をもらっているが津波の被害者はもらっていないからだと理由ははっきりしていたのである。
雇う人はそういうふうに考慮するのは悪いことではないのである。
現実に原発避難者の補償金は多額であり回りではうらやましがってもめている
相馬市では第一原発の補償金などもらっていないからである

●テレビはリンチメデアである 

メデアは一方的に告発してリンチする

すでにテレビの画面に写されただけで犯罪者と確定しなくても犯罪者になってしまう。
テレビ自体がすでに大衆的リンチメデアなのである。そんな権限はないのだけだそうなってしまう。事件でもいろいろ複雑であり突然起きたことに普通は理解できない。 

それで小保方氏の万能細胞についての問題でも過度にテレビでリンチをしてNHKでは理研の一人を自殺に追いやったと武田邦彦氏は言っている
自分は科学に弱いからそのことはわからない、でもテレビが感情的になり大衆的一方的洗脳メデアであるからこそそうなる

「なんだ、嘘ついたのか、ふてい女だ、乳がでかいな、・・・・」

小保方氏はこうしてテレビにさらされリンチされたのである。もちろんそれなりの罪を犯したことはある。でも何か過剰にテレビはさらして大衆にリンチさせる
それは東京都知事の舛添氏でもそうだろう。これは当然だとも思うが過剰にリンチになるということが問題なのである。
そこには当然であっても何か大衆の心理というのがからんでいる   
舛添とかショーンケーンとかはテレビを利用して有名になり今度はそのテレビに復讐されているのである。有名にしてくれたのもテレビであり逆に極端におとしめるのもテレビなのである。そういうふうに有名になったのが悪いともなる
単に「有名な人」がテレビから出る人には多いからである。有名になったというだけで議員にもなれる、でも実力がないのだからボロがでる 、それは自業自得だともなる

今の世の中でも不満が大きい、その不満が鬱積している、その不満の捌け口を求めている貧乏にも苦しんでいる、すると上にたつ金持ちに対しての不満をはらしたいがなかなかできない
タックスヘイブンなどとなるとどうしていいかわからない、それこそ巨悪なのだが巨悪に対抗するのは簡単にはできない
それで不満の捌け口がそうした一個人や弱い所に向けられ集中して鬱憤を晴らすもちろんそうあるべきなことは否定できない、でもそれが過剰になると危険になる
ナチスが起きたとき失業者があふれドイツは貧乏で苦しんでいたからその不満の捌け口を戦争に求めたのである。  

どこでも中国でも北朝鮮でも不満層相当いる、その人たちのガス抜きとして日本がある。反日ということではともかく内部の分裂ではなく国が一致できなるからそうなる
そういう心理が大衆にありテレビはその不満の捌け口としてリンチ的に晒すのである。 
こういうことがあるから司法が生れ裁判が生れた経過がある
でも人間の心情にはリンチして制裁したという願望がある
自分とかかわらなければ他人をおとしめリンチすることは快感となるからだ。
そこに公正に見る力がなくてもいいのである。むずかいしことを言ったらわからないからである。
テレビの問題はすでにリンチの裁判所のようになっていることなのである。
一旦そこに顔を出されたらすでに社会的制裁になってしまうのである。
複雑な背景など関係なくそうなってしまうのである。
大衆的悪感情を刺激するのがテレビの私的リンチなのである。
そこにテレビというメデアの危険性がある






タグ:テレビ批判

2015年08月24日

インターネットの一番の恐怖 (記録したものが一瞬にして消える)


インターネットの一番の恐怖


 
(記録したものが一瞬にして消える)


インターネットの一番の恐怖の恐怖はパソコンでもウィルスで一瞬にして記録したものが消える恐怖である。それは何回か経験している。復元できないものせあった。
せっかく俳句とか短歌を作ったのに復元できなくなった。
これまでの苦労が一瞬にして水の泡になく恐怖である。

これはパソコンだけではない、レンタルサーバーとかプログを使用する場でも起きている突然報告もなくプロクが消されたとインターネットで報告しているのを見た。
何か違反があっても報告もなくプログが消されるのかとなると恐怖である。
一回さくらのレンタルサーバーで故障で記録が消えたと連絡されたときはショックだったでも予備に記録してあるので復元されたのである。
さくらのレンタルサーバーは保守はしっかりしているという
他のプログでは全部プログをもっているものが消えたこともあった
一方でいつまでキャッシュとかで犯罪を犯した人が記録が消されないので困ったという人もいた。
意外とインターネットは通信記録が残るから人物が特定できる

自分の経験で恐怖だったのは突然自分が病気で入院したときだった。
帰ってみてレンタルサーバーに支払う期限があと一日で切れるところだった。
それはカードの期限が切れていたからである。
その月で期限が切れていたからメールで連絡があったのだが入院していた時期に見ていなかった。
インターネットは必ずもメールを見ていないことがある。
自分はメールはあまり見ていない、見ているのは毎日書いているプログである。
だからプロク中心だからプログのコメントとか連絡されると見る
なにしろ忙しいのでいちいち対応できなくなっていた
そししてあわてて電話でレンタルサーバーに連絡した
カードの期限を伸ばすので消さないようにとお願いした。
それもなかなか聞き入れてもらえなかった
プログだけではない、ホームページも運営していた
ただこのて七年間は介護などでホームページはほとんど更新していなかった
だからプログ中心でありそのプログが消されると膨大な記録が失われので
自分の努力も水の泡となる

インターネットは新しいメデアだから様々な問題がある。
でも今回の大阪の中学生の男女が二人殺害された事件の犯人は45才でフェスブックとかしていて記録が残っていた。
そんな人もインターネットししているのが現代である。
労務者ならしていないようでこの前あった人もインターネットしていて詳しかった。
この辺には他の県の人が大勢除染などて入ってきている。
その犯人も除染で福島県に来ていたのである。
なんだからがらの悪い人がきて治安が悪くなったとか心配しているのもこの辺だった
犯罪は大阪で起きたからここてなくて良かったとなる
でも何かフクシマで起きたかもしれないとなると怖いことは確かである。
外部からの人は素性が知らないから困るとなる
この辺はとにかくいたるところプレハブの宿泊所が建っている

さくらのプログはおまけでやっているから力を入れていないというのは本当である。
何か他のメジャーなプログと違ってプログの情報を会社側で何も操作しない
他のプログではそメンバーで共有する機能があった。
だから会員になるとそこの内部で情報を共有しやすい
でもそうなると会社側で操作されるので嫌だという人もでてくる。
自分は何か嫌である。
さくらのプログは全くそういうことがない、何の操作もしないのである。
プログランキングとか何にも操作していないのである。
だからアクセスを増やすには良くないかもしれない
それでもセオ対策しているとか書いてあった。

今悩んでいたのがアクセス解析とか保存整理とかの問題である。
なぜリンク元がなしが9割もなのだろうということがわからなかった。
ブックマークが主だからだとなるとリピーターが多いのか?
でも読まれているページは500とかなる
ページビューは二つのプロクで2000以上になっているから最近また増えてきた。
しかしほとんどリファラーなしリンク元なしだからどういう人が来ているのかわからない外国から写真がすばらしいとか連絡があった。
これも返事はしていない、常時見ている人は写真だから外国でもいるとなる
外国だとどう使われているかわからない
だから良くオリンピンクのロゴがパクリだとわかったのか不思議である。


ともかく自分の課題はこれまで書いてきたものをどう整理するかなのである。
今度はそれで本にしてみようかとgoプログにも試しに作った。
アクセス解析が充実しているのがいいと思ったからだ。
そこは写真を出すのに便利である。livedoorもそうである。
でもlivedoorはアクセス解析では充実していないのでやめた
本を出すのにも対応していない
何かインターネット内にはいろいろな便利なものがある
ただそれを理解して使いこなすのがむずかしい
自分は十年以上インターネットしていてもそういうことがわからないのである
そういう技術的なものを理解することがむずかしかった

とにかく親の介護になったり自分の病気になったりしてから自分はなにかそうしたインターネットのめんどうなことにかかわることができなくなった
だからコメントでもいちいち答えられない
ただ暇をみてやっとプログに一日分出すのが精一杯だった
前は三食付きだし何も家のことなどする必要がなっ交野である。
介護になってから毎日家と格闘し続けてきたのである。
だから第一家のことが七年たっても整理できない
姉のことが写真でも残したものを整理されていない
着るものからなにから自分のものでも整理されない
母のものでも着るものなど整理できないのである。
整理という掃除もあるしこれもなかなかできない
だからゴミ屋敷になるというのもわかる

つまりみんな簡単に捨てられないからそうなる
7年間も家にかかりきりでも整理できないのである。
ともかく記録したものを整理しようとしているのだがこれもいろいろありすぎて自分でもわからなくなった。
まず何でも一人でやることは大変なことである。
例えば家事をするにも料理となるといろいろ食材を点検すること自体手間なのである。
そんなに人間はいろいろなことができない
だか以前として買い物だ食事の提供だ、掃除だ.......
休む暇なく追われているのである。
ただこうしてプログだと簡単に出せるからつづいたのである。
今年の夏は暑くてまた整理もしたくなかった
涼しくなったからともかく家のことでもインターネットでも整理しなければならない

本の整理もまた一苦労である。家が傾くほどの本があったが半分が古本屋にださずにゴミとして捨てた
ところが今度は新しい本をアマゾンで調べるために買うのでまた増えたのである。
本というのも整理するのに苦労なのである。
これも役にたつものがあると捨てられないから困るのである。
確かに読んでいても利用していなから読んだともなっていないのが多かった。
今は自分の文脈で利用しているから本は理解しているし利用できる
深く理解できる、本というのもインターネットより深い情報があるから今も必要なのである。
アマゾンでない本はない、安いものでまにあわせてもいくらでもあるというのは便利である。
だから今は仙台にも行かなくても情報弱者にはならないのである。
仙台の大きな本屋よりも情報は本は瞬時に買いるからである。

最近多少余裕ができたようだがまだまだ追われる生活だから苦しい
第一そんなにいろいろなことに人間は頭が回らないのである。

livedoorはやめてgooプログにも試しに作った

困ったのはプログは簡単に移動できない、ドメインを簡単に変えることができない、
変えると一旦アクセスしたものが切れてしまうことが問題である。
そういう人は自分だけではない、簡単に変えられないということがこれも大きなインターネットのサーバーを借りる問題だったのである。
インターネットは以前として様々な問題があり解決されない問題がある。
ただこうした事情でも一日一回書き続けられたのはプログがあったからである。




2009年12月03日

NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て


NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て



●人間は弱いからあわれみの文学が生まれた



正岡子規は自分でも写生俳句を作ってきたからなじみ深い人である。そもそもあの若さであれだけの文学的業績を残したことはやはり天才だったのだろう。俳句でも若いときなどいいのはできないのではないか?40代でもいいのができていない、60代でいいのができたかなというのが自分だった。若いときは普通は血気盛んであり文学に向いている人は少ない、強い人は短歌や俳句や文学に向いていないというとき、体が丈夫だと強い人は自らの弱さを知って謙虚になることがない、俺は病気になったことがないとか何かで自らの弱さを知ることがないと文学に向いていない、文学では体が丈夫で病気をしたことがないという人は山頭火などがいるが比較的少ない、あれだけの旅行したのだから体が丈夫でなくてはあの過酷な旅はできない、でもそれは例外的存在でもある。啄木でも結核になった結果、自らの天才としての傲慢を砕かれて自らの弱さを自覚する短歌を後世に残すことができたのである。三島由紀夫も弱い人間だったが涙ぐましい努力をして強い人間となろうとして不自然な自決となったのである。公的な要素より私的な自決の要素が大きいのである。老醜の恐怖もありそれを公的なもの愛国心と転化されたからその自決は演技的でもあり批判されることになった。


誰でもス-パ-マンになりたい、でもなれない、ス-パ-マンとは異常な人間である。人間には弱さが与えられていることが他の動物とも違っている。弱肉強食の動物とは違う。人間に弱さがなかったら神など信じない、ニ-チェのようになってしまうだろう。ス-パ-マンは自ら神となってしまうのである。それを神が許すはずがないのである。若いときは体も丈夫であり行動に向いているが文学には向いていない、何か表現することに向いていないのである。正岡子規もあれだけ行動的社交的人間だったから文学に精を出すことはなかった。皮肉なことに子規も啄木も病気の結果あの若さで後世に残す業績を残したのである。 病気になると不思議に自然とか人間の共感が起きてくる。病気になるともののあわれが自然と生じてくる。それは自分自身のことではなくても他者の病気でも特に家族が病気になったりするとあわれだとなり同情するから文学が生まれる。姉も体が丈夫であり病気などしたことがない女性だった。それが頭から体から無惨な結果になり最後は病院でうめくようにして泣いて死んでいったとき本当にあわれだったとなる。それまではあわれみを覚えるような女性ではなかった。そういう人はこの世に結構いる。それでも老人になるとどうしても病気になる人が多くなりあわれだなる。そこにあわれみの文学が生まれることになる。


●柿の俳句について



子規が柿が好きだったというとき特別なことではない、その頃の果物は柿が一番多い、今のように外国からいろいろな果物は入ってこない、大正生まれの母も柿が好きである。干し柿も好きである。果物でも柿は食べられたからである。子規が柿が好きだったというのではなくその頃みんな柿は好物だったのである。

東大寺裏の旅館に泊まっていた子規が夕食の後に柿を食べて居た時、
近くの東大寺の鐘がなったのだそうで
この鐘は「初夜」と呼ばれるその日最初の鐘のことで、

翌日法隆寺を訪ね、
この風景と結びつけ句を読んだと言われています

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺


俳句は短いから背景を知らないと深く味わえない、「初夜の鐘」というのもやはり鐘として心にひびくものがあった。これは茶店のようなところで外で柿を食って作ったかと思った。東大寺の近くの宿だった。そのあと法隆寺にしたのである。これはまた漱石の句の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」からヒントを受けたという。こっちは何か明るい感じがする。この句もいい句なのだろう。


子規泊まる昔の宿や柿の味(自作)



柿の味は日本の変わらない昔の味なのである。現実に柿はKAKIとして世界で通用しているからだ。 ビジネスホテルで柿を食っても情緒がなくなる。昔風の旅館も当時の風景とマッチしていてこうした句ができたのであり今の時代ではできなくなる。なぜか車の騒音とか様々な騒音の世界であり鐘の音のひびきも今とは違っているからだ。これが江戸時代になるとさらにそうなのである。文学もそれができた背景がありその背景が失われるともうそうした俳句もできないのである 。子規は果物好きだったからこんな句もあった。

林檎くふて牡丹の前に死なん哉


これなんかも簡単な何でもない句のようでも死なんかな・・というところが普通の健康な人とは違っている。常に死を意識して作っていたから何でもないようで切実なものとなっていたのである。果物でも林檎でも梨でも食っていた。林檎はその頃みんな食っていたのか?都会だと食えたのか、結構高かったように思う。それなりの収入があったから他の人よりは贅沢していたのだろう。
子規を支えたのは友人でもあったが妹も目立たないが大きな役割を果たした。庭を子規の見やすいように作っていた。庭の花などが慰めだったからである。


薪を割る妹一人冬籠もり


この妹は子規の庵を死んだ後も守っていたという、俳句が写生だというとき自分も写生俳句を基本にしてきたから子規の業績が大きいとなる。他に子規がいい句を残しえたのは死を常にまじかにしていたからである。死は常に目の前にあった。だから事物を末期の目で常に見ていたのである。


柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm



インタ-ネットにこの柿の話はいろいろでていた。それをNHKで説明しただけである。ただNHKでは映像として話を展開するからわかりやすいのである。

2009年03月15日

映画-「殯(もがり)の森」を見て


 

 「殯(もがり)」とは、敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間や場所を意味する言葉
 
亡き妻の思い出の詰まったリュックサックを、そうとは知らず何気なく手にとった真千子を、しげきは突き飛ばしてしまう。
 
認知症がどういう病気なのか理解しないとこの映画もわかりにくいだろう。認知症の人は何かを思い出になるものを特別大事にする。姉もそうだった。戦友からもらったパッグを肌身話さず持ち歩いていた。それは従軍看護婦をして4年間シンガポ-ルで過ごしたことは死ぬまで忘れなかった。そこで一番親しい人からもらったパッグを大事にしていた。戦友とは認知症になる前までつきあいがあった。認知症になってからは年賀状をもらっても返事が書けないので音信が絶えた。バッグには貯金通帳やら保険証やら大事なものが入っていたのでそのパッグをなくしたと毎日のように騒いでいた。親しい人の家に行ってもここでなくしたと責めて迷惑をかけた。この映画で認知症のシゲキもリュックサックを大事にしていた。その中には思い出の大事なものが入っていた。それを手にとって捨てようとしたときシゲキは怒ってつきとばした。そのことは認知症の人と接していれば理解できる。
 
認知症の人は今の記憶が失われ過去に生きる度合いの方が大きくなる。過去に執着して語り行動する。病院の認知症の人もそうだった。二〇年前の死んだ夫のことを死んだと思っていない、毎日「とうちゃん、とうちゃん」と呼んでいた。何度死んだと言ってもわからなかった。他にも認知症気味の女性が看護婦を孫と思って名前を呼んでいた。この映画でも真千子は妻になっていたのかもしれない、この映画では死別もテ-マとなっている。死んだ人とは永遠にあえない、永遠に会えない人を求めて森に入り込みそこで最後に穴をほり死んだ人をいとおしむ。それがもし現実としたらあまりに悲しいとなる。死んだ妻を求める、永遠に死んだ人は帰ってこない、その死者への想いは人によって違う、やはり若くして死別すればなかなか忘れられないだろう。人間は六〇以上とかなると新しい人間関係を結ぶのがむずかしくなる。だからこれまで親しかった人がよりどころとなる。認知症の人は今が記憶できないのだから余計にそうなる。ただこの映画のテ-マで森の中で死者をいたみ死別の悲しみが癒されるとは思えない、森の上のう方を見ている真千子は作りすぎている。その他そんなに作りすぎた不自然でもなかった。そもそも自然は無情ではないか、自然は人間の死に無頓着であり、もちろん生物や動物の死にも無頓着であり非情なのである。森に入って死別の悲しみがいやされたりそこで何か死別の解決方法はないだろう。
 
「殯(もがり)」とは、敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間や場所を意味する言葉
 
この言葉は意味深である。しのぶ時間、場所が大事である。それを美的に構成した。でも人間を偲ぶことと自然を偲ぶことが一致するのかというと死んだ人を思うときどうしてもその人の面影や格好や人格的なものに想いをはせる。そして認知症になると自分が一番存在し執着した場にこだわる。男は会社に行くとかグル-プホ-ムが会社であり介護士は部下だと思っているのはそのためである。会社が人生だったのである。人間は言葉が通じなくても心を通じさせる方法はある。スキンシップであり体で通じ合わせる、それが認知症の人にとっては介護となっている。心も安らぎ落ち着かせる方法だからである。今でも姉と病院に入ってからリハビリなどでスキンシップしたことが思い出に残っている。あまり家族でも体をふれあうことがないが介護になると体をふれあうことが自然と多くなるからだ。 過去にはしのぶ時間を十分にとっていたし場所も自然が豊だからそういう場所で偲ぶことができた。今はそうした時間も場所もないから死者はいたむ文化が喪失している。死者はいむものとして早くモノのように廃棄されかたずけられる。生きているときあれだけ介護しているのに一旦死ぬと早くかたずけてくれ、不浄なものとしてこの世から早く消すことが望まれる。この映画はやはり認知症のことがよくわからないと理解しにくいだろう。死別もテ-マになっていたが死別がどうして癒されるのか、美しい森の中でいやされるのか?そうはなっていないし死別の悲しみはいやされるのは何かまた別なものであろう。ただ死者は美化されやすい、本当にそんなに死者は理想的な人だったのか、死んだからこそ美化されやすい、いい面ばかり見えて悪い面は消えてしまうから自然と一体となり美化されたものとしてイメ-ジされてくる。それで祖先は山の神となり村に恵みを与えるとかなった。そういう日本的死者の文化もこの映画のテ-マとなっていたのだろう。


 

2009年03月11日

クロ-ズアップ現代-貧困が教育を奪うを見て


格差社会、不況が教育にしわよせがきている。NHKの高校中退が多くなっているのは貧困のためである。授業料が払うことができないなど教育費に金をかけられない親がいる。このテレビ見て一〇年前くらいだったか二〇年前だったか不登校のことをしきりに放送していた。その不登校とは学校不適応者でありつまり勉強したくないから学校に行かない生徒のことだった。その生徒をどうして学校に行かせるかが課題だったのだ。今は貧乏で行けないというのもずいぶん時代は変わったものだと思う。格差社会が最近の不況で本当に深刻になり様々なところで影響が大きくなっているのだ。

 
鉛筆・消しゴムだけでも、たくさんある子・全くない子と差があるのが実情だ。
 
あるところではノ-トをもらても書き込みを節約するとか、そんなことまでしているのかというとこれは戦前の貧乏時代に逆戻りなのかと驚いてしまう。戦前は鉛筆自体貴重だから親指より短くなるまでつかむことができないくらいまで使っていたしノ-トもこまかくびっしりと書いていた。ノ-ト自体が貴重だったからである。そういう親戚の人いたからその話を聞いた。インタ-ネットでは鉛筆の歴史を調べればいくらでもそういうことが書いてある。こんなに豊かな使い捨ての時代を経験してきたのにそんなにまでなっているのかというのがピンとこないのである。
 
教育を考えると日本人は教育熱心である。江戸時代にすでに読み書きできた人が多い、寺子屋で学習していた。明治になってもさらに教育が立身出世を決めるということで実利的な面から日本人は拍車をかけて教育熱心になった。末は博士か大臣かである。これは今でも受け継がれている。教育の目的は立身出世である。今でも東大に入れば立身出世は約束されている。東大派閥が官僚を牛耳り天下りで巨額の退職金も労せずして入ってくるとかある。学歴社会になったのもそのためである。
 
でも戦前の教育は貧弱だった。義務教育もままならないものだった。子守りで学校にすら行けないとか学校に行くこと自体むずかしい時代でありこれは学校すらない後進国とにている。今日のテレビをみてそんな時代に逆戻りしているのかという驚きだった。教育を考えるとき日本人は向学心が旺盛であり明治には新しいもの欧米から取り入れるために特に熱心になった。今日の日本人の繁栄を作り出したのは日本人の向学心だったのである。戦後まもなくも貧乏であり向学心はあった。その向学心も物欲の向学心、アメリカのような贅沢な生活をしたいということで勉強していた。日本人の教育は常に立身出世の向学心でありこれは明治時代から加速されて行った。
 
団塊の世代から異常なほどの学歴社会となり有名大学を目指す受験競争が熾烈となった。本来学問はそういうものとまるで違ったものからはじまった。真理の探求であり悟りをえるとか宗教的なものが哲学的なものが学問のはじまりであった。それがすべて実業としての学問に変わったのだ。だから私の場合はどうしても学校で懸命に学ぼうとうすることができなかった。だから高校もかろうじて卒業して大学では遊ぶだけで学問の基本すら身につけず終わったのである。意外と向学心は社会に出てから起きる場合がある。低学歴なものは社会の底辺の仕事しかできない、私が経験したのも流れ作業とか全くロボットにされることだった。それでそうした職業だけは嫌だと思ったが何か生きがいのある仕事につくことはできず結局無職のまま今日にいたったのである。これは団塊の世代は一方で金の卵とか集団就職の時代であり大学に行けるのは地方では何人かしかいなかったのである。高校にすら行けない、中卒も普通にいる時代だったのだ。
 
現代の急激な格差社会はまだよく社会で認知されないし理解されていない、だから対応も遅れているのだ。ノ-トも節約して鉛筆も買いないのかとなるとどうしても理解できない、これほど使いすてにしてきた時代なのにと思ってしまう。向学心があっても貧乏で学べないのが戦前まであり戦後まもなくつづいた。次に貧乏でなくなり教育できる環境になっても学習意欲が起こらず中退する人とかの時代になった。大学に50パ-セント以上行く時代はすでに学習に向いていない人も多数行っているのだ。そういう時代に格差社会になり鉛筆とノ-トすら十分に用意できないという格差不況社会を今まで経験した時代からすぐには理解できないのである。格差社会はやはり不況もあり深刻になっていることは確かである。


slamuuu123.jpg

この団地はスラム化したような団地にみえる。相当老朽化しているけど建て直せないしなんか危険にさえ見える。貧乏が目に見えてわかる写真である。

2009年03月07日

本は消えるのか? (インタ-ネット時代でも編集は重要になる)


●出版の過程で消えるもの

 

出版は、製紙業−印刷業−製本業−出版社−取次−書店というパイプラインが正常に稼動して生まれてくる。出版社は創造する編集部門と販売部門とで構成されている。

printresss1.jpg
インタ-ネット時代になったとき、製紙業とか印刷、製本、取次ぎ、書店は必要なくなる。出版はこの過程をみるだけでいかにコストのかかるものかわかる。この時点で出版は特別なものであり組織のバックなくして出版できないものとなっていた。ロ-マ時代でも紙の値段が高すぎて紙を提供する方が価値があった。作家の価値は低かったのである。出版は一見作家の価値が著者の価値が高いように見えているが実際は違う。販売部門が大きな力を持っていた。宣伝するにしてもおおがかりになると金がかかる。だから文学賞などは販売部門が大きくかかわり大々的に宣伝して売りこむ。中味はさして問題ではない、こんなのがはやっていますよ、流行なんですよと価値のわからない大衆に宣伝して売り込むことが大事なのだ。要するに大勢の人に売ろうとすればあまりむずかしいのは売れないから大衆に読まれるようなものにする必要がある。だからそういう人が商売のために出版社のもうけのために選ばれ作家はただ利用されてあとは売れなくなってもかまわない、また粗製乱造して売り出すだけであり販売部門によって本が売れるか売れないか決まるからそうなる。ところがインタ-ネット時代には×印のところはすべて消える。これらのものは価値がなくなる。本をモノとして運んだり並べたりするだけの作業は必要なくなるのだ。そもそも書店は本の中味はほとんど関係ない、本のことなど知らなくても出版社から送られる本を並べるだけでありあと売れなければ返品するだけである。つまりなんら創造的価値あることなどしていない、野菜とか果物とか食料品を売るより簡単なスキルのいらない職業だった。それでも街の文化事業しているような感覚になっていたのはやはり書店がこれまではあらゆる情報の窓口の役目を果たしていたからである。
 

●残る編集部門
出版では残るのは編集部門である。編集は相当に創造的なことであり相当に優秀な人しかなれない、なぜなら一冊の本を編集することはその作家なり資料なり情報なり書く対象について詳しく専門的知識ももっていないと編集できないのである。編集者の役目は腕のいい料理人とにているのだ。食材に通じて独創的な料理を作り出す、美的感覚も必要である、料理人も明らかに芸術家であるからだ。食材とは様々な情報であり知識である。それを見極めて料理してお客さんに出すのである。他の仕事はただ本をモノとして運んだり並べたりする仕事であり誰にでもできるのだ。でも本の説明して売る人はやはりその本に通じているのだから売りやすいとなるが書店ではそういう人はまれである。本を売る人は中味は関係ない、ただ売るだけである。レジの仕事と同じである。その中味は関係ないのである。つくづくインタ-ネットで8年間ひたすら書き続けてわかったことは書くということも訓練であり書くこと自体が創造性を育むものだと思った。書きながら新しいアイデアが自然と生まれてくるときがあるのだ。インタ-ネットではまた必ず他のサイトやキ-ワ-ドで参考にして書く、編集作業が自然と書くことのなかに行われているのだ。インタ-ネットには料理するための食材が豊富だからそうなるし書きながら利用しやすいのである。でもその情報は本の世界に比べたら微々たるものである。郷土史関係は別にして微々たるものである。それでもその微々たるものでも利用しやすいから相当な効果を発しているのだ。プロの作家になるには膨大な本が必要になったのは書くためには食材が必要であり豊富な食材がないと美味の料理を提供できないからである。

インタ-ネット時代になっても編集はさらに貴重な重要な仕事となっている。インタ-ネット自体編集作業なくして読めない、様々な情報や意見や知識があふれていても何が重要で何がどうなっているのか編集作業が必要だからだ。それをテレビなどではしていた。情報を加工して料理して提供していた。それは偏向になってもわかりやすいから大衆は見ていて一方的に洗脳されることにもなったのである。今回の小沢氏の西松建設の献金問題でも写真と図でテレビ並に説明していた人がいた。そこにはいろいろ参考にするものがあった。でもかなり手間暇かかるからそれだけ暇ある人がいないからどうしても編集したものを提供する場が必要になっているのだ。編集の仕事はますます重要性をましているのだ。だから出版でも編集できる人はやはりインタ-ネット時代でも生き残るしそういう新しい仕事が生まれる。今は過渡期で仕事になっていないだけである。どうしても大きな組織の一員としてしか働く場がなかったからである。
 

●インタ-ネットに対応した仕事はまだできていない
インタ-ネットはまだ十年くらいであり、ずっと過渡的なものとして実験としてあった。その前哨戦としてニフティがあった。その延長上に発言している人はパソ通からの経験でインタ-ネットに則した情報発信をしている。それで個人として有料にしている、田中宇氏も有料にすることになった。宣伝とかでは自立性が得られないとかやはりインタ-ネットになると個人が主体だから個人に金払うことになる。個人でもメデアとして発信できるからだ。これからは作家や著作者、個人のジャ-ナリストがインタ-ネットで仕事ができる。個人のプロが価値が高まる。出版でも新聞でもテレビ放送でも実際仕切っているのは組織でありその中に作家、出演者が組み込まれて報道が成り立つ、そのコストも高いから大きな組織に金で買収されて個々人などは発信できなかったのである。そのコストが極端に低くなったとき個々人の作家やジャ-ナリストの価値は百倍にも高まる。そういう時代なのだけどまだそれが認識されていない、インタ-ネットは無料であり価値もそれだけのものであるとしかなっていないのだ。
今までも出版なら大手や大きな組織がバックにないと出版は無理である。まず書店にすら本は置けない、書店は大手出版社から本の中味など関係なくモノとして流れてくるものを処理するだけの場である。そういう場が今までは必要だった。雑誌を売るにしても街の書店がその窓口になるのだから出先の店として必要であった。読者も書店からしか情報が手に入らないとなれば書店は重要となる。でも今やインタ-ネットで窓口がふえたのである。本というのはなくならない、紙で読む活字と電子モニタ-で読む世界は何か違っている。読むだけではない書く方も違っている。パソコンで書くことの一番の相違は書きながら創造してゆくことなのだ。書くことにより創造がうながされてゆくのだ。情報の食材がキ-ワ-ドからいいがでてくるときは特にそうなる。その時編集作業が自ずと行われていい料理ができるのだ。かといってインタ-ネットとかパソコンとかは万能ではない、例えば皮肉なことはニフティでやっていたとき、これは百科事典なのかと思っていた。本当はレスポンスが主要となる対話形式として電子通信ははじまっていた。今こそインタ-ネットは世界的百科事典の役目もになっているし自分がやっていることはただ百科事典の項目を書いて無料で引用させているだけだとなり虚しいともなる。例えば上野霄里氏のうよな人なり思想なりはその全著作をしり人格をしらなければ理解できない、百科事典のように引用するものではないしできない、百科事典のように引用するのも必要である。郷土史などはそうなりやすい、学問的にもそういうものがあるがその人なり思想を知る場合はそんなこと不可能なのである。

田中宇氏が有料配信開始
http://www.mynewsjapan.com/reports/1007

2009年03月02日

ネットの無料モデルに“マスメディア”の未来はない

        
 ネットの無料モデルに“マスメディア”の未来はない

       http://diamond.jp/series/kishi/10029/?page=3                                                       
 

危機の打開へ若い活力を  池田大作-毎日新聞
http://cgi.2chan.net/n/src/1235954405573.jpg


テレビでも新聞でも今や報道自体がやらせだとかつまらないとか芸人ばかり集めて勝手に騒いでいるから若者は見ないとか毎日新聞は外国にありもしない日本人の性的なことで卑しめることを書いてそれを外国人がネ-ムバリュ-で信じたから大ひんしゅくをかった。変態新聞としてネットでは毎日こきおろされている。今度は池田大作がコラムに書いたのでこれもひんしゅくをかっている。毎日新聞は聖教新聞を刷っているからそれが収入源となっている。他でも聖教新聞を刷って収入源となっている新聞社がかなりある。福島民報もそうである。だから池田大作の文を今回と同じようにのせたことがある。また有名な西沢潤一氏とかも池田大作たたえる記事をのせているし創価をたたえる記事をのせている。それも収入の大きな部分が創価に頼っているからそうなる。テレビですら宣伝がカルト宗教に堂々と不況で採用される。マスコミでもテレビの影響はこれまで甚大だった。何百万人に報道できることはすでに大きな権力でありマスコミが実際は第二の権力になっていた。テレビにでただけで名前が知られ有名になれ社会的認知度があがるのだ。だから政治家はテレビに出たいしテレビで顔売りたい、テレビにこびることになる。大衆も現代の政治は劇場政治だというとき前の小泉首相のような俳優のような人が人気がでて政策など関係ない、劇として面白いから票を入れるのだ。郵政民営化の意味を知って投票した人など一握りでありあとでみんな煽動されたことに後悔している。その時の劇をうまく演じた人に人気がでて政治を左右する。大衆はまたそのように操作されるしテレビが一番大衆を操作するのに適したメデアだったからテレビが力をもっていたのだ。そのテレビが力をなくなってくる。するとどうなるのか新聞でもテレビでもその収入源が半分は宣伝費である。だからトヨタなどは巨額の宣伝費を出していたからトヨタの悪口は書かないとなっていたのだ。つまりメデアは金で操作されるのである。
 
しかしでは大衆は視聴者は本当に報道が何によって支えられているのか考えたことがあるのか、本当に公正な報道を望んだことがあるのか?新聞は一応購読料を払うから宣伝が半分の新聞など読みたくないから新聞をとらないとかなってゆくかもしれない、テレビもつまらないから見ないとなってゆく、でもでは大衆は本当に公正な真実の報道を望んでいるのか?金を払いたくない、報道は情報は無料で入ると思っているのか?それを真剣に考えている人がどれくらいいるのか?2ちゃんねるでまにあうのか?個々のプログで十分なのか?それが今インタ-ネット時代で問題になっているのだ。田中宇氏なども宣伝だけでは公正が保たれない、収入が得られないと個人で購読料をとるようになった。一年で1万円くらいになると高いかもしれない、それでやめる人もいるかもしれない、個人になると高くつくのである。でもインタ-ネットは個人のメデアだから個人に金を払うようになるのだ。それでなければ良質の情報は出すことができないのだ。海外に取材するのも金もかかるし報道の中立性とか公正を求めるならそうした援助がない、宣伝にたよっていたらできない、今までの報道はたいがい組織がバックにいて成り立つ、出版だってそうである。一個人など出版に参入することはできない、もちろん放送になど参入できないからマスコミの一方的報道の洗脳に甘んじていたのだ。 でもインタ-ネット時代本当に公正な報道が可能になってもそれを支えるのは誰なのかとなる。すべて情報が無料で手に入ると思っているのか、もちろん報道することは無料になっている。でもその手間や調査や取材となるとそれなりの負担がかかる。これは個人では負いきれないからどうしても負担をしてもらうものがでてくる。宣伝費をかせげばいいというがそれならマスコミは同じになるではないか、報道が自由でも公正な報道を望むとしてもそれを大衆は視聴者は真剣に考えているだろうか?そこが疑問なのである。
 
いづれにしろグ-グルのブック検索がはじまったりメデアは変わらざるをえない、出版界もこれもどうしても組織、権力あるものが牛耳る世界である。本当にこの世にある本がグ-グルで検索され少額の資金で読まれるとしたらどうなるのか?家にいながら大図書館に常時いることと同じになる。マルクスはその一生の大半を大英国図書館で過ごした。それだけの資料や本を読む必要があったからだ。もしインタ-ネットでそうなったら貧乏人でも大学者が出てくるかもしれない、現実郷土史関係では全国的に資料が豊富でありそうなりつつある。マスコミは衰退して報道はインタ-ネットに移ることは見えてきている。でも本当に公正な自由な報道を支えるものは誰なのか、それが今問われているのだ。金は出したくない、別に2ちゃんねるで十分だとなっていいのか、事件でも真実を追求するにはやはりプロが必要だしいたるところで医療関係でも技術関係でもプロが必要になってくる。それはこれまでマスコミとか組織でできた、ではその支えがなくなったとき誰が代わってやるのだろう。そんなこと真剣にインタ-ネットの視聴者は考えているだろか、そうならやはり報道は変わらないのではないか、つまりインタ-ネットの時代は個々人が報道する主体となりうる。だからこそこうして私も報道を考えるようになったのである。今までは一言も発言する場などなかったからである。
 


補足 
 
ネットの無料モデルに問題があることは同じ意見だった。ちょうどこの記事が2ちゃんねるで見たのだ。
それで題名を変えた。なぜなら自分と同じことを考えていたからだ。
インタ-ネットにいくらプロが出しても金にならないからインタ-ネットではプロは養成されない
2ちゃんねるだと軽薄になるし何らかのプロが導く、編集することがどうしても必要になる。
インタ-ネットはまたいいものがあってもばらばらでありどこに何があるのかもわからない
するとその時点で何が重要なのか見極めることもむずかしくなる。
例え重大なことを書いても目に留まらない、見られない、つまり書いても書いてあることすらわからない、
インタ-ネット時代の報道をどうするのかそもそもインタ-ネットの視聴者自体真剣に考えていない
そこに大きな問題があるのだ。 
 

 

本は消えるのか?
(インタ-ネット時代でも編集は重要になる)
http://musubu.sblo.jp/article/27434969.html