2017年08月12日

マスコミにはリアリティのある報道がない (個人の経験にリアリティがある)


マスコミにはリアリティのある報道がない


(個人の経験にリアリティがある)


マスコミの報道に本当のリアリティがあるのか?
例えばこの辺で起きた原発事故騒動でも報道するときリアリティのある報道をしただろうか?
確かに自分が原発避難者を批判したとき小高の人などから反発をくらった
でも現実に原発避難者が何をしていたのか?毎日パチンコ通いだったのである。
その時ボランティアが来て働いていたが避難者は何もしていない,パチンコでギャンブル通いだったのである

それにも理由があるにしてもともかくそれが現実でありリアリティだったのである。
そういうことはあまり報道されずただかわいそうだかわいそうだということしかなかっただから原発避難者に文句言うことはタブーとなっていたのである
マスコミでも常にかわいそうな人達としてその人たちを批判しないからである。
今でも何か小高の人達に文句言うと怒る,俺たちはかわいそうなんだぞ
何で同情しないんだとなる,そんな奴は誰もいない,マスコミの報道を見ろとなる。

別に自分でもその時介護や自分の病気で苦しんでいたし他の人も貧乏で苦しんでいた人もいる,借金で苦しんでいた人もいる,そして何か自分にその矛盾が現れた
自分が苦しいことなど関係なく親戚の人はパチンコ屋で借金を返すために働いていたのである。別にこれは原発避難者が悪いというのではない,ただそういう矛盾を生み出したからこそ原発避難者に腹ただしくなったのである。
ただその矛盾が実はリアリティだった,そのリアリティを自分は報告したのである。
報道で大事なのはリアリティなのである。
でもマスコミではリアリティは報道されないしされたとしても確かめようがないから何が真実かわからないのである。

良く極貧のことを話題にするけどそれも嘘だったということがわかった,それもNHKがその嘘を作り出していたのである。そこに本当のリアリティが報道されなかった
リアリティとは何か?それは事実なのである。
例えばリアリティというとき時代劇でもリアリティがあって成り立つ,事実があって成り立つ,ただ人などあんなにバタバタ切れない,ただその物語に何か事実がありリアリティがありそれで見ている,全く架空のことならドラマでも感動しないのである。

リアリティというとき報道されてもその事実を確かめようがない,だから映像でも作られた映像でだまされたことがあった,イラク戦争で泥まみれの海鳥の写真が世界中に衝撃を与えフセインは悪い奴だということがすりこまれたのである。
一枚の写真が世界をだました驚きである。その報道が確かめようがないからそうなる

マスコミの報道からは本当のリアリティを事実を伝えるのではなく常に放送局の方針によって編集して伝える,例えばある番組を現地の取材でも実際は100もの写真をとっている
動画をとっているでも報道されるのは1しかない,すると実際はのこされた99の記録したビデオに本当のリアリティを感じるものがある,でもそれは見れないのである。
ただyoutubeでは単調なものでも延々と写している,それができるようになったのがインターネットである。でもマスコミではそれでは視聴率がとれないからいい場面しか写さないのである

マスコミでは視聴率を一番に考慮する,阿部内閣の新しい組閣でもマスコミはサプライズを好むというときそうである。何か目立つものがないと誰も注目しないからである。
マスコミは常にサプライズを好むのである。目をひくものがないと視聴率が上がらないからである。
ただサプライズだけに目がむくと肝心の重要な事実が見逃されてしまうのである。

人間はいくらグローバル化しても世界の事実を知ることは不可能なのである。
だからフェクニュースでも信じてしまうのである。フェクニュースでもサプライズだから見るのである。視聴率を上げるためにインターネットでもそうしているのである
まずインターネットで読まれことは至難だからである。

リアリティとは何かというときそれは平凡な人でも日々経験していることがありそれを報告すればリアリティになる,だからインターネットがでてきてそうした個々人の経験が語られる,そこにリアリティがあることを知る
マスコミでは報道するときはそれが編集されているから本当のリアリティがわからない。それで個々人のプログでもネットでもそうしたリアリティに感心することがある。
ただインターネットは何か情報が多くて混乱しているから探すのがむずかしい。

自分がなぜ津浪や原発事故で報道したときリアリティがあったかというとその現場にいたからである。だから八沢浦が元の美しい入江にもどった写真入りで報告したときここで泥の中にうまった子供の死体が発見されたのだと顰蹙を買った
それも事実なのである。では昔の入江になり波がよせて太陽の光できらきら光っていたのも事実なのである。本当にそれが美しかったのである。
福島県では海があっても入江がないからである。荒々しい波が寄せるだけの荒寥とした風景なのである。ただ入江になると波も穏やかでなごむのである。
それが津浪で再現されたことに驚いたのである。

ただ津浪ではどろどろとして瓦礫の山となったことしか報告されていない,ただ悲惨なものしかなかった,でも一部に美が生れていたのである。それも事実なのである。
でもその美が生れたことは報告されていない,すると全体的に事実が報道されていないともなる,津浪はただ地獄的なものであり何にもいいことはなかったとなる
それは事実にしても八沢浦とか他でも海になったというときそこに美が生れていたのである。特に宮城県のように入江がない福島県ではそうだった

いづれにしろ事実をリアリティを伝えることはできない,その人の目で五感で感じたものを伝えることがリアリティなのだけどマスコミで報道されるのはマスコミという組織が会社が編集したものであり本当のリアリティとは違うのである。
ただマスコミの報道にもリアリティはある,ただ意外と地元でないとわからないことがある

例えばNHKで相馬市のトマト農家が飯館村の原発避難者を採用しなかった,それは相馬市は津浪の被害が大きい,だから津浪の被害者を優先した,それは別にトマト農家が差別したわけでもないのである。
なぜなら原発避難者には手厚い補償金が支払われていたからである。
それから浪江の会社経営の人が元の仲間に仕事をくれと頼んだらあんたは補償金で億の金をもらっているから仕事はいらないだろうと断れたということをちょっと漏らした
そのことは外部の人だとのみこめないだろう。
でも地元だとピンと来る,一番補償金でもめていたからである。
でもマスコミの報道はなぜ原発避難者を差別するのかと伝えられるのである。

要するに報道というのは相馬地方から福島県とか東北とか全国レベルにさらにグローバルになると確実にリアリティを失ってゆく,事実を確かめようがないからマスコミによって操作されることが多くなる,歴史も事実が基なのだけどそれがドラマ化するとドラマが真実のように思えるのである。
坂本竜馬が英雄化されたのも司馬遼太郎の小説によってである,小説は作られたものであり事実があってもそうである。でも小説の方をドラマを真実とみるのと同じである
そこに何がリアリティで真実なのか事実なのかを見極めることができなくなっているのであ。

とにかく報道は事実をリアリティを基にすべきなのだがそうなっていない
マスコミの意図されたものが報道される,それは作られた報道だともなる
都合の悪いものは報道しないしマスコミの意向に反するものはとりあげないのである。
江戸時代のように相馬藩内とかで暮らしていれば狭い世界だから知ることがでる
しかしもう福島県でも東北でも全国レベルになるとグローバルになると報道はリアリティを失い,ただマスコミによって操作されるだけだとなっしまっているのである。
そこに報道の根本的な問題がある,それはなかなか解決策が見いだせないのである
人間は今や報道によって翻弄されるのであり自らではもうその事実も確かめようがないからそうなってしまったのである。

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八沢浦が元の美しい入江に戻った!

2016年09月07日

「天国の門」の映画はこの辺の事情とにている (郷土愛がテーマとなっているから)


「天国の門」の映画はこの辺の事情とにている


(郷土愛がテーマとなっているから)


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日本の国土の70%ほどの面積の土地に人口は約51万、旅行した知人によるとと一日中クルマを走らせて対向車、見かけた人ゼロという日があった由)


現代のブッシュ大統領も、イラクのサダム・フセインを大量破壊兵器を持っているとして、軍事制裁をしようとしている。イラクが大規模な油田を持っていなければこのような目に遭わずとも済んだのだろうが、アメリカの石油財閥の強欲により戦争を仕掛けられるのだろう


アメリカが理解しにくいのは中国ともにているが広すぎることなのである。グランドキャニオンなど見ればわかる、まるで別な惑星に来た感じになるからだ。
日本の村と中国の村は別物だというときもそうである。日本の村は規模が小さい。つまり外国になると日本人的感覚で見るから誤解が生じる

ただ人間はどうしても何かを理解する場合自分の住んでいる所から経験しかからなかなか理解できない、それでどうしても視野が狭くなる。
リンカーンの荒野の一軒のログハウスからはじまったのはここでも同じである。
ただこの作品に興味をもったのはアメリカの黒歴史を事実を背景として作られたからだ。壮絶な撃ち合いは映画だけのことであり実際は二人しか死んでいない

ロシア東欧系移民が先住民でありあとからきた移民との土地争いが根幹にある。
そのあとからきた移民はハーバート出の人がいて支配階級になっていった人たちである。だから法は自分たちのものだとか大統領の許可を得ているとか州政府が味方だとか言って先に住んでいたロシア東欧系移民を従わそうとした。
でもそれに従わないいわば先住民が戦いいどんだのである。
ただあのような華々しい戦いはなかった。
でもそこに住む先住民たる東欧系移民はその土地にすでに愛着がありあとからきた移民と戦う、そこには郷土愛が生じていて戦ったようにも見えた。
娼婦でもここは危ないから他に移ろうとしてもここがすべてだから移らないと恋人に言って残ってその娼婦も戦ったのである。
でもそれは映画のことであり実際にはない、別に娼婦だったらどこにでも行って楽な生活を選ぶだろう。それは作られすぎたものだった。
そもそもこの映画失敗作だとされて作った映画会社も倒産したいわくつきのものだった。
ただ何でも人によって映画でも本でも感じ方が違ってくる。
なぜ自分がこの映画に興味をもったかというとすでに郷土愛が生れ先住民としてあったものがその土地も奪われることに抵抗したことだった。
それが何かこの辺の事情と通じるものがある。
津波や原発事故で郷土が放射能で汚染されて住めなくなった。
そうなったとき多額の補償金をもらったから別に郷土に執着しないで若い人は放射能汚染もあり出て行く、そして他で生活を新たにはじめ故郷には帰ってこない
それは命をかけてまで土地を守ろうとした東欧系の移民達とは違っていた。
東欧系の移民達はすでに土着してその土地に愛着していたから土地を守るために戦ったのである。
ベトナム戦争でも穴にもぐりゲリラとなりアメリカと戦った、それも郷土愛(パトリシズム)でありアメリカはそれを無視したというのともにている。
そこは自然も広大で美しい場所だったのである。

郷土愛とか故郷というときこの辺でも住めなくなったとき問われたのである。
故郷といってもそれは普通にあるものであり意識しない、故郷を離れたときとか失ったとき意識するのが人間である。
ここでもあとから来た移民は金があり金で解決しようとした。
金をはらって追い出そうとした。でもそれができなかった。
ここでは逆に金をもらって自ら出て行くというのは違っていた。
でも戦い死んでまでも自分たちの土地を郷土となった土地を守ろうとしたら壮絶だったとなる、実際は二人しか死んでいないし州政府が仲介して終わったのである。

ただアメリカという国はインデアンを皆殺しにして土地を奪ったのが建国の由来であったり黒歴史がある。支配階級もこのジョソン郡事件のように権力で金で強引に支配してゆくそれがアメリカのやりかたでありまさにそれも世界的に行われてきた
イラク戦争でも石油にからんで化学兵器を所有しているからという一方的ないいがかりをつけて多数の死者を出したのである。飛行機がビルにつっこんだ3・11でもあれをきっかけにアメリカ人の愛国心が燃え上がりテロとの戦争だとイラクを攻撃した。
別にイラクがテロと関係している訳でもなかったが口実となった
それは真珠湾攻撃がなかったらアメリカとの戦争がなかったのとにている。
リメンバーパールハーバーでアメリカ人が日本との戦争に突入したのである。
だから真珠湾攻撃は日本がアメリカに仕組まれたものだという陰謀説が生れる
日本もまたアメリカによって一方的にいいがかりをつけられて戦争を起こされたという味方もある。それはアメリカという国がそういう体質の国だからとなる。
インディアンから土地を奪いさらに移民でも支配階級はその移民の土地を力づくで奪う
それがアメリカの支配階級のやり方だからである。

いづれにしろ郷土愛とかパトリシズムとかをもつのは例えば個々人でも家を建てるのに苦労した人はその家に愛着をもつ、俺は一代で特別他人より働いて家を建てたというとき遺産として家を受け継ぐ人より家に愛着をもつ、また開拓に入って苦労した人もその土地に愛着をもつ、でも二代目三代目となってゆくとそうした苦労も語り聞かされるが愛着がなくなってくる、それで老人はこの辺では故郷に帰りたいとなるが若い人は不便な所には住みたくないから出てゆくとなったのである。
そしてそこではやはり土地に根ざす農民とか牧畜業であり今はみんな会社員であり工業社会になっていることが違っている
故郷への愛着が生れるのはその土地に根づくというときそうした農民とか牧畜業の人たちである。会社が浪江から二本松に移動してそのまま移住したりする人もいる
その土地に根付く仕事でもないからそうなったのである。
だから現代は別に故郷とか郷土に執着する人は少ないのかとなる
だからこそ故郷も失われたのか人間も離散したのかとなる
この映画は実際にあったことを映画にしている、この辺でもやはり様々な葛藤があるのとにているのである。

映画というのもそうした人間の葛藤とか何か戦争シーン、暴力シーンだけではないものをテーマにすれば小説とかと同じになる。
シーンとして牛がいないと人力で多数で畑を耕していた、その時機械もないのだから人力になく、牛がいなかったらそうなる、それも時代を現していた。
何かそういうものは生々しく映像だと感じることがある。ただ映画どうしても実際にあるこより派手にする、今回でもあんな戦闘シーンなどなかったのである。
州政府が乗り出して反抗する移民を殺したということはない、かえって仲裁して未然に戦闘を防いだとなる。そこでは支配階級でも公正だったとなる。
インディアンだったらそんなことはしない、法もなにもない、土地を奪うだけだったとなる。

映画でもそうだが昔のものがかえって面白い、今になるとインターネットでも見れるし買うこともできる、なかなか田舎ではそうしたものを買いなかった。
そんな映画あったのと教えられることが多いのである。
テレビは面白くないけどそういう昔の映画は面白いとなり見る、人間が生きることは常に葛藤つきものである。その葛藤の中で人間が選択して判断して行動してゆく
それが別に映画でなくても個々人の人生で常に起きてくるのだ。
人間は苦難とかそうした葛藤とかない、あまりにも恵まれて苦労もしないとしたら人間として生きたのかとまでなる、そういうことも必要でも人間はどうしたってそうした苦難に直面して葛藤する、それが歴史的に国のレベルでも起きてくる、この辺は地域的レベルで起きたのである。

そういうことがないと人間は成長しないのである。様々な人間の葛藤がありそれはこの辺で起きたのである。津波の被害地でも起きたのである。
補償金で争うというのも内部抗争であり葛藤でありそれは否定できない、きれいごとだけではすまないのである。そこに人間のドラマが生れてくるのである。
「あるべきか、あらざるべきか」じゃないけどそういう葛藤こそが人間の人間たる所以なのである。だから歴史でもどういう葛藤があったのか見るべきなのである
簡単に歴史的な決断となるとそこには相当な葛藤があったと思うからである。
過去になるとその葛藤がなかなか見えない、戦争にしてもどうしてあれだけの戦争になったのか?その過程が今では見えなくなっているのである。
戦争すべきなのかしない方がいいのか決断にいたるまでの過程の方が歴史を見るとき大事だったとなる、過去のことになると結果しか見ないからである。
卑近なことでも個々人でも結婚すべきどうするべきかとか葛藤があり常に選択と決断が求められる、そこに常に葛藤が生れるのが人間なのである。
この辺でも故郷に帰るべきかもう帰らないと決断した人でも葛藤があったとなるのである。


タグ:天国の門

2016年07月14日

家電量販店とインターネットの買い物の相違 (アマゾンのレビューは消費者(有権者)の声が反映されている



家電量販店とインターネットの買い物の相違


(アマゾンのレビューは消費者(有権者)の声が反映されている)


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何かインターネットで向いているのは小物類である。パソコンの周辺機器とか五〇〇〇円以下の小物類がお得である。
IHヒーターを買ったが接続部分のコンセントが熱で焼けて使いなくなった。
何かそれは作りがおかしかったのか?危険でもあった。
IHヒーターでも熱がでるから危険になる
それは家電量販店で買った
今度買ったのは音声で案内したりと使いやすい、それを買ったのはカスタマレビュ-で評価が良かったからである。
たいがいカスタマレビューは評価に間違いがないみたいだ
なぜなら実際に買って使った人が評価しているからだ。

ところが家電量販店ではそろえてる品物もす少ない、どれがいいと聞いてもあなたが選びなさいとなる。そうなると買う方にすると不親切だとなる
使っている人に聞くのが一番いいのである。
実際に使っている人の言うことはまちがいないしまた別にコマーシャルのように金をもらって宣伝しているわけでもない、たいがい薬とか他のものを売るときテレビでは宣伝だから信用できないのである。
金もらって宣伝しているからである。

今家電などは特に通信とかitとかパソコン関係は何か買うのがめんどうになった。
第一家電量販店にそんなに品物をそろえられない、ところがパソコンなどはその種類もメーカーも多くなった、つまり店に並べているのはほんのわずかしかない
だからそこから選ぶと自分のあったものを選べないのである。
そこにも今の問題がある。それは家電だけではない、自転車だって種類が多いから何を買っていいかわからないのである。
それである自転車屋では自分が買いに行って実際に乗ってみてすすめている。
そうして一台は買った。ただこれも電動自転車のいいものだから選ぶ種類が少ないからできた。ロードなどは数が外国製も入ってきて多いから選ぶのが大変なのである。
八万で買ったロードは使いなかった。結局試乗できないから選ぶことにも失敗する

家伝量販店でレンジを三万で買ったときも失敗だった。
それは何でもできるものだと思ってしまった。料理までできると思った。
しかし実際は何もできないものだった。普通のを買っても同じだった。
それを買うとき家伝量販店の人は何も言わない、だから何でもできると思い買ったのである。要するに売る方にしたら高い方がいいとかで説明もしないのである。
そもそも家伝量販店で売る方にしても全部に通じるとは思えない、それほど種類か多くなったからである。
家伝量販店だと売りたいものもうけが多いものを売るとかあり消費者が買いたいものをすすめる訳ではない。そして品数が少ないからすでに選ぶのは限られているのである。


一方通販は品数が多く好みのものを選べる、レビューを見ればたいだいまちがいなくいいものが買える
ただアフターケアーとかないことや見た目とは違っていた、大きさが違っていたとかある衣服とか靴とかバッグとかは大きさがわからないので失敗する。
だから額が大きくなると通販は怖い面がある。つかいないとなると損になるからだ。
設置もできないことなどもあるから買うにしても不安はある。
でもだいたい通信関係をのぞいて家電はわかる、yi-fiとかwin10では簡単にできるようになっていた。
それもASUSとかの外国のメーカー品のノートパソコンでできた。これは三万くらいでありそれでも今は相当にいいものである。それだけハソコンは安くなっている
ただこの辺の家電量販店では置いていないから通販は便利なのである。

家電量販店と消費者の関係を考えると家電量販店の方が力関係では上である。
何を買いたいかと言ってもそこに限られたものしか置いていないし家電量販店ですすめるものとか自分で好きなものを選びなさいとしかない、でも知らないものを使ったことがないものを買う時は困る
それより使った人のレビューを読む方が参考になるのだ。
つまり家電量販店と消費者の間には何か案内するものが必要なのである。
家電量販店の店員が売りたいものがあり消費者が買いたいものがあるとして両者はあわないのである。
その中間に実際使った消費者の声が必要になる、それが一番信用できるのだ。
ものの評価はかたよることがないしまちががない、実際に使ってみてこうだったというのは使用できる、今まではこういう買い方ができなかったからだ。
近くの料理店でIHヒーター買った、それが古い型であり何かいいものに見えなかった。
その人は年寄りだからそもそも通販のことは全くわからない、売っていることさえわからないのである。その差はものを買うにして情報にしても大きい
テレビで放送されることは知っていてもインターネットで放送されていることは全く知らないからである。そういう情報格差も年代的に生まれている

このことを考えるとこれは民主的なことだと思った
つまり消費者の声とはまさに選挙なら有権者の声なのである。
選挙というのは政党とかある組織とか団体とか権力あるものの声が大きく一方的になる。そしてマスコミが政党と有権者の間に入るものだがこれも一方的なものとなる
でも生の消費者の有権者の声が入ればそれが民主的なものとなる
ものとかになると評価はまちがいないのである。
ここでは多数決原理が成り立つ、それは人ではないから評価が多数で良ければまちががないのである。

インターネットではじかに有権者の声がでてくる、それは匿名でも2chであってもそうである。そういうことが今まではできなかった。
インターネットでできるようになった。マスコミは政党と消費者の間に入っていてもマスコミの見方を消費者におしつけている、それは家電量販店とにたものがある。
実際は有権者でも多様な声があり品物も無数にあるときそれを選べるようにするのが民主的だとなる
だからこのレビューを参考にすることはテレビのコマーシャルとかにだつされないことになる。
ただこれも一〇万とか高くなると買うのが怖くなる。それでもカメラなど安いから買った不良品などないし簡単に日本のものは壊れないからである。
ただ通販で便利なのは一万から五〇〇〇円以下のものである。
それなら買っても失敗してもいいとなるからである。

いづれにしろ家電量販店でも商売としてインターネットと競争を強いられるとき売り方を変えねばならない、まず品数がそろえられないのだから通販より不利である。
何かサービスをが加えるから売り方を変えねばならない
一つの方法は使い方のサービスを提供することである。使い方がわからないのが多くなっているからだ。
年寄りは簡単な家電でもつかいないということがある。
それで街の家電屋がそうしたサービスをするとかで生き残るを計る
そういうものが家電量販店にはないのである。
だから何か不親切なものを感じてしまう。
でもまた地元に実際に家電量販店でもないと困るということもある
なぜならみんな通販でそろえるというのも問題であり困るということもある。
地元に商店もなにもなくなってしまうのではないかという不安もある。
だからすべてが通販になることは不便なことがあっても考えものだともなるも

ただ買い物にしてもインターネットの役割があり民主的なものが生まれたと感じた。
民主主義というとき別に政治だけではない、通信環境とかいろいろな技術が生まれないと成熟しないのである。
今まではマスコミが一方的に力をもっていた。でも必ずマスコミのとりあげることにケチつけるのがインターネットである。
そんな貧乏物語を特別取り上げるなとかそんなのが本当なのとなる。
実際にどういう事情でそうなったのかもわからないからそれを一方的にかわいそうだなともならないのである。
ともかくニュースは特別なものでない限り注目しない
だから極端に貧乏だとか困っているとかなるのが注目されやすいのである。
それを意図的にマスコミではとりあげるのである。
そして矛盾は弱者の味方のようでもマスコミは社員は高収入でありまた共産党であれ創価であれ幹部は金持ちだということもある、それは中国ではそうなっている。
貧困ビジネスだなと指摘するのもわかるのである。

考えてみるとなぜ創価とか共産でもなんかカルト的な宗教団体とか未だに強い力をもっているのはなぜなのか?それはやはり以前としてマスコミなどが力をもっていてその実体が知らされないからだろう。
自分はそこで運動していたからわかるのである。でも若い人はインターネットをしているし批判も読むはずだが以前として力をもっている不思議なのである。
全体主義的なものは民主主義とは一般的になじまないはずなのだけど以前として力をもっている、ただ創価の場合は与党にいるために得して力をもっているのと50パーセントの投票率では民意を反映していないこともある
ともかくカトリックの支配が終わったのはグーテンベルグの印刷機の発明で聖書を直接民衆が読めることになったからである。そうした技術革新の結果だったのである。
その時聖書という情報を独占していた牧師が失業することにもなったのである。
インターネットでもまたそうした技術革新の結果として民主主義的なものが促進されることはありうる。
それとともにやはりマイナスなことも起きてくる。
インターネットでは無数の意見が生まれ批評が生まれ数が多すぎててとても読めないということがある。そうなると貴重な知識でも埋もれてしまうのである。
人間はテレビを見て新聞をみてインターネットを見て・・・見てとなるともうそんなに情報をとりいれることができない、情報をとりいれるには人間の頭脳は限度がある。
そこにインターネットの大きな問題がある。
だからといってマスコミのように今までのように情報を独占されるのも今は拒否されるべきである。

要するに情報というとき一人一人が情報をもっている、自分が80以上の老人のことを聞いて語ったのも情報である。それはテレビとか見てではない、対面的に接して情報を得たとなる。過去には情報は体面的に人伝いで伝わった、今は通信の発達でマスコミとかインターネットでも対面的ではない、第一対面的にると接する人は限られてくる、数人とかなってしまう。そこで何かを判断することはできない。対面的になと表情などもにも現れるからよみとれる、猫は表情で仕草で何かァ伝えるし納得もしている、言葉を介さなくても何か通じている。
その人の言っていることは普通に聞いていることとは違っていた。
対面的だと驚くべき情報を得るとういことがある。
沖縄では外から来た人より内部の近くの人がレイプしたりするから怖かったという。
戦時中には異常事態だから何か起きたかわからないのである。
自分も外部の人より内部の人が本当に怖いと思った。
だから家の中に入ってくる人は本当に怖いのである。
そこで必ず何か問題が起きてくる、外部から確かに来る人も怖いのだが
戦国時代でも密偵としてとか内部に入って攪乱されるのが怖いのである。
こういうことは沖縄などでは外部からの被害ばかり言うから語られないのである。

民主主義というとき何か政治のことばかりにあるようになっているが日々の買い物とかの生活でも民主的なことがある。
マスコミはこれまで一方的にコマーシャルを出して消費者に買わせるという手法をとってきた。
テレビや新聞はそれで広告料をもらい成り立っていたのである。
でもレビューの評価になると何も金をもらっているわけでもないからその評価を信用できるのである。
ただこれもわざと評価をあげたり下げたりするものがいるとか問題になったその評価が直接売り上げに影響するからそうなったのである。
ただものの評価は多数がいいというものはいい、ただ薬などはわからない。ある人には効いてもあ人には効かないとかめんどうだからである。
でも食品とか物とか電器製品などの評価はまちがいない、実際に使った人の評価はまちがいないのが多いのである。

そしてパソコンでわからないことは対処方法はインターネットにでている、win10のイヤホンジャックからスピーカーにつないで音がでないというのはみんな書いている。
するとみんなが同じ問題に直面していることがわかり安心する。
そしてそのために中間につなぐものをアダプターをつけると音がでるともある
その製品もアマゾンですぐ買えるのである。
ここまで家電量販店では説明してくれないし品物を地方では売っていないのである。
大きなテレビとか冷蔵庫とかクーラーとかは家電量販店になるがパソコン関係などは今や通販でいなと売っていないのである。

2016年05月20日

みんなが記者になるインターネットの時代 (現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)



みんなが記者になるインターネットの時代


(現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)


現代というのはインターネットになると写真をとって即座にプログにのせることができる速報性では新聞より優れている、そして自分もインターネットで報道などしてしてすでに十年以上になる、別にこれで何も金も報酬もなにもなかった
でもなぜ夢中になるのか?金もらえるわけでもないし名前が売れるわけでもないし金銭的にも他に何も得られないのである。
それでも夢中になるのは何なのか?それは報道するということが人間の本能に近いものがあるからだ
人間は別に利益があるから何かをするということでもない、人間は何でも自然なら美しいものを見たら報告したい写真にとったらそれを見てもらいたいという願望が常にある

常にデジカメをフマホなど持ち歩いていること自体すでに一瞬の場面をとらえて報告するツールになっているのだ。
即座にインターネットにアップしてリアルタイムで報告することがインターネットの特徴なのである。
週刊誌だって三日あととかであり雑誌になると一カ月に一回だからこうした速報性はない速報性はインターネットが一番ある
そしてとてもマスコミでとらえられないものをその場その場に生活している人が報告するのに適しているのだ、その土地の事情に通じているのはそこに生活している人であり
遠くから記者として来る人ではないのである。


それで今回の東日本大震災の津波の被害や原発の被害のことを自分が報告したことは相当に効果があった。相当にプログが読まれた、3000ページビューとか今でもある、平均してそうなのだから多いと思う、割り引いてもページビューが多いのである。
最初のプログは認知症関係で多かったが次ぎには震災の津波原発事故でさらに増大した。認知症にしても自らの苦しみ実況中継したようなものだったのである。
だからこそこれも読まれたのである。その記録は今も残っている

これまではこういう個人的な体験はメデアを通してマスコミを通してしか報告されなかった。そこでどうししてもバイアスがかかりマスコミの意向が入ってきて真実が見えないということがあった
なぜマスコミを通すと真実が見えないかというとその報道する局でNHKでも編集するからその局の意向が放送に入ってくるのである。
そしてマスコミの番組作りの最大の目的が視聴率にある、どれだけの人が見ているかを番組作りで一番気にしているのである。NHKでないとどれだけ見ているかで会社の宣伝になるか決まるからである。

マスコミの問題として何か常に極端なものを例として出す、貧乏問題では極端な貧乏の人を紹介する、その極端なことが一般化するのである。
「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」
アメリカ大統領候補のトランプが大衆はニュースに飢えているから過激な言動をして大衆に訴えると自ら言っていることでもわかる
人間は当たり前のことに誰も注目しない、なぜ津波とか原発事故でゴーストタウンになったとき注目されたのかそれはあまりにも異常な状態がつづいているからである。
自分自身でも未だに避難区域で人が住んでない家のことなど不思議を書いてきた
こんなことありえないことだからニュースにもなるのである。

極端なものが常に一般化する傾向は報道にある
それはインターネットでも起きている、ある特定の人の発言の攻撃が全体に影響しているという。他の人もそのたことにひきづられている
何か人間の心理にある、西部劇でリンチするとき、一人が異常に攻撃してその人につられてみんなも感情的になりリンチを加える、人間の心理にはそういうことがある
東京都知事の舛添が批判されても仕方がないのだがなにかこの際つるし上げて喜ぶということもある。人間にはリンチ(私刑)にする心情があるから法律で客観的に裁くようにしたのである。感情的になると偏ってしまうからである。

現代人はみんな記者になるというときカメラマンになるというとき津波でもその映像をとることに夢中になっていて助けもしなかったということが反省された
衝撃の津波の映像を残そうとして目の前の人を助けなかったから反省している。
それは常にマスコミは災害現場で困っている人をないがしろにして悲惨の現場を写真にとり報告しようとしているのと同じだったのである。それが個人レベルで起きているのが現代なのである。
プログでもyoutubeでも放火してまで視聴者を増やそうとしていることがあり同じことが世界で起きている、それだ金を稼げるとなればますますそうなる、それはマスコミと同じになったのである。
どうしたらみんなが見るのかということはマスコミを腐心している、個々人でも同じなのである。
より衝撃的な映像を出さなければ見てくれないからである。

テレビドラマで火事の場面をその炎を写して注目をあびたカメラマンがいた。
その人が放火したわけではないがその時中で子供が燃えさかる炎の中にいたのである。
そして死んだのである。その時母親がそんな火事の写真を出さないでくれと生き残った息子が恐怖するからとか言ったが全くとりあわなかった。そのことで母親はそのカメラマンに殺意を抱き殺したのである。
こういうことがプロのカメラマンでなくても一般人にもインターネット時代にはスマホ時代には起きやすいのである。


美しい八沢浦が蘇ったという写真をのせて紹介したとき、その水が引いたあとには子供がどろまみれになって死んでいたのである。それを自衛隊員がどろをかきわけて探していたのである。
「前は人が子供がここで死んでいるのに美しい八沢浦が蘇ったなど言えるのか」
そういうおしかりがあったが当然だった
でも津波に関しては本当に悲惨な光景しか目にしていない、どろどろの海となりガレキで埋めつくされていた。そこに美は全く感じられなかった地獄の風景だったのである。
八沢浦は家が少ないからガレキの山にはなっていない、本当に古歌に残っている美しい入江が再現されたことに自分は正直驚嘆したのである。
ただそれは一時であり水が引いたときは泥の海になっていたのである。
朝日がさして八沢浦に浦波がきらきらと寄せてきたときほど驚いたことはなかった。
それは一時の奇跡だと思ったのである。
だからこういう場面を写真にとって残しておきたいとなるのは人間としてまちがってはいないが目の前で津波にのまれるのをみて写真にとっていたら人間的には許されないとなるだろう。

インターネット時代の報道は変わってくる、マスコミの報道とはかなり違ったものとなるその場で生活している人がその場には一番詳しいのである。マスコミより詳しいのであるただ多くの人目にふれるのはまだマスコミである。
インターネットではあまりにも多すぎて記事も埋もれてしまうからである。
いづれにしろ人間の情熱がでることにはいろいろあるが報道する情熱というものがある
その場で起きたことを伝えたいということがある
それは報酬に関係ないのである。自然の光景でもその人が見た特別なものがあったら報告して見てもらいたいとなるのである。
それが度を越すとその場で人を助けることが優先なのにその場の悲惨な状態でも写真だけをとりビデオだけとり視聴率を稼ぐ方に重点が置かれる、マスコミではそうなりやすいがインターネット時代では個人でもそうなりやすいのである。
ともかく自分は震災津波原発事故でそういう記者になっていたのである。
それは家族が認知症になったときも逐一報告していたからそうだった
それも相当に読まれたし今でも参考にされているから無駄とは言えないのである。
なぜなら認知症で困っている人が無数にいるからである。

そもそもインターネットというメデアはパソコン通信からはじまっていたから双方向が基本だった
なぜならパソコン通信の時代は相手に本当に書いたものがメッセージが伝わったかどうかわからないから確かめるために必ずレスが必要になっていたのである。レスポンスがないと伝わったどうかわからないからである。
そういう文の対話からはじまっているからそれを知らない人はなかなかなじめないということがあるがそれが普遍化して普通になってしまったということである。
特にスマホになるとそうである。そこに誤解が生れて事件にもなった。
相手が見えない文だけだとそうなりやすいのである。
ただプログとかなるとただ一方的に書くメデアとなってしまった。その反応はレスより数で決まってしまうのである。

「心の青雲」は毎日読んでいる、ただ著者はレスは罵詈雑言とかあり拒否しているのもわかる、パソコン通信とか2ちゃんねるのノリでやられるとつきあえないとなる
ただその目的がおとしめるだけのものがあるからだ。
「おめえ、傷口に塩ぬって楽しいか」かとか発言されたら答えようがないだろう。
礼儀もなにもない、ただおとしめるだけにだけ発言する人には答えられないというのは当然である。
でもパソコン通信ではその後もインターネットではそれが普通だったのだから異常だったとなる
年も何もない、おめえはなとか言われて来たらどうなるのか?
それだけインターネットの空間の異常性が浮き彫りにされたのはインターネットの世界が普通の社会の感覚になったということでもある
ただレスがないとインターネットの発言が活きにくいということはある。
心の青雲の趣旨には全部が賛成しにくいにしろそこに対話があれば面白いと思う
でもなかなかあそこでは対話しにくい、そういう雰囲気がない、ただ一方的発言になる
それは今は自分でもそうである。

小林秀雄の文章も大嫌いで読めたものではない。谷沢永一氏はこう評した「当たり前のことに勿体をつけ、反り返るような姿勢で絢爛たる字句を操作する名人でした」と
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/437408581.html(生理的に受けつけない文章)

小林秀雄の表現はもったいぶっているとかわざとむずかしくして煙にまくという感じになる。
でも有名だからそれを言うとお前にはそれだけの読む力がないんだとなり黙っている
自分もあの文章には生理的に受け付けない、それを正直に言う人がいてやはりそうかとなる。
でも普通はお前には小林秀雄はわからない、それだけのものだということを思われるのが嫌だあからさまに言わないのである。
「心の青雲」は中味が濃いから相当に対話することがある、内容を対話して深めることができる、ただどうしても極端な発言があるから普通の人は対話しにくいのである。
そしてそれだけ反論するとなると容易ではない、2チャンネルとかパソコン通信のレベルでは対話できないと思う
いづれにしろインターネット時代はみんなが地球的グローバルに記者になった時代であるマスコミの時代は終わった、マスコミも常に批判の対象になるのである。


八沢浦が元の美しい入江に戻った!(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)

2016年05月15日

メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代 (テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)

      
メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代
       

(テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)


●ラジオの時代へ

 メデアが媒介するというだけならいい、ただメデアの種類が増えた現代ではメデアによって左右される、メデアというとき過去のメデアは何なのか?
例えば広大なローマ帝国に情報を伝えるメデアは何なのか?
となると電話もないテレビもないインターネットもない、便利なものはなにもない
そうなれば人間が走るなり馬を走らせるなりしてその内容を伝えるかほないのである。
そのためにローマの道が整備されたのである。「すべての道はローマに通ず」となり広大な帝国を支配したのである。   

忠臣蔵で内匠頭切腹を知らせる早かごはたった5日で赤穂に到着したそうです。約650`の道のりをたった5日で踏破したとは想像に絶します。

どれだけ早く伝えるかが大問題だった。馬も使ったらしい、とすると納得はいく、駕籠だけでは無理である

江戸時代はメデアというものがない、伝える方法がない、何か学ぶにも人伝えになる
直接人を通して訪ねて学ぶとなる、人と人の直接のコミニケーションに頼らざるを得ないだから遠方とのコミニケーションをとるのは相当にむずかしく誤解も生れる
だからローマ帝国のような広い地域を治めるのは容易ではない、遠くで反乱が起きたらどう中央で対処するのか、そのためにすべての道がローマに通じるの格言ができた。
それは今なら電話線とかである。無線通信にも発展しているから現代は距離が情報を通じさせなくなるということはない

現代のようにメデアがないときどうして情報を伝えるのか?まず大勢の人に何かを伝えるというとき大勢の人を集めなければならない、でもその数は限られている
ローマの政治では何かを自分の主張を伝えるのには直接演説している
そういうシーンを映画でみている。演説がうまくないと支持が得られないというのは今でも政治家ならそうだろう、また見栄えも関係してくれる、今ならテレビ写りがいい人が選ばれる、それはテレビとにているがこれまではみんな実物を見ているのである。
江戸時代までは新聞もないから政治は人と人が直接あって物事を決めていた。
例えば相馬藩内の街道を伊達家の侍が参勤交代などで通るとしたら藩主の許可を得なければならない、それは直接あって成されていたのである。
人と人の信頼の上に成り立つ社会だったのである。


現代のメデアの問題はメデアを通して起きることが多いからメデアのことマスコミでも何でも問題にされるのである。メデアの影響が大きいからそうなったのである。
ヒットラーがナチスがラジオから生れたというのもそうである。ゲッベルスが宣伝を担当してラジオを利用して民衆を操作した、ナチスを作り出したのはラジオの力メデアの力が大きかったからだともなる

ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった


ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。
これだけの力をラジオがもっていたのだからテレビがもつ力はそれ以上であり計りしれないものとなっていたのだ。第一ラジオは音しか聞こえないメデアである
ラジオは音に敏感になるメデアなのである。顔とか表情は見えないからである。
それで宝島の放送で杖つく海賊の音が迫ってくるのに恐怖を子供のとき感じたのである。音は意外と一人暮らしなどしているとカランとした家にいると恐怖である。
風の音でも誰かがいるようで不気味になるのである。


●テレビの時代      
  

感情的(即座に反応)

□大衆的、一方的洗脳メデア

□メデアによるリンチ(私刑)を煽動する

現代はテレビの時代であった。インターネットが出る前の50年間くらいがそうだった
テレビはラジオより影響力があった。ラジオ放送で有名な人がNHKでテレビになったとき活躍できなくなった。
テレビは人間をそのまま写すから見栄えが良くない人はテレビ向きでとないのである。
だからこそタレントが一番向いている、テレビに出る人は俳優なのであり役者である。
演技するものだからである。

テレビの特徴はいろいろあるが感情的メデアなのである。活字とかラジオとか文字と音だけのメデアだったら感情的にはならない、本や新聞を読んでもすぐに感情的にはならない、冷静にみる。

「なんだあいつの顔が気にくわねえ、もっと顔のいいやつを出せ、、、、」

顔とか表情がまず注目される、だからアナウサーは美人でないと勤まらないのである。
知性よりその顔をみるからそうなる。

そしてテレビは一方的洗脳メデアである。テレビは何か疑問に思ってもそれを追及できないようになっている、そんなことあるのと思っても追及できない、一方的にテレビ局に洗脳されるだけなのである。
テレビの放送は中立ではない、一見NHKは中立のように思える作り方をしている。
でも巧妙にかたよっているのでる、気づかない人も多い。

何回もとりあげるが相馬市で飯館村の人がトマト農家に勤めたいと言ったら断られたことを放送していた。一瞬自分もそのトマト農家がひどいなと思って怒りを覚えた

「なんだ、その農家は冷たいな・・・・飯館村の人はかわいそうなんだから雇ってやれよ」

とかその放送を見ればみんなそうなる

別に自分は飯館村の人がどうだこうだというのではない、その断られた理由は飯館村の人は補償金をもらっているが津波の被害者はもらっていないからだと理由ははっきりしていたのである。
雇う人はそういうふうに考慮するのは悪いことではないのである。
現実に原発避難者の補償金は多額であり回りではうらやましがってもめている
相馬市では第一原発の補償金などもらっていないからである

●テレビはリンチメデアである 

メデアは一方的に告発してリンチする

すでにテレビの画面に写されただけで犯罪者と確定しなくても犯罪者になってしまう。
テレビ自体がすでに大衆的リンチメデアなのである。そんな権限はないのだけだそうなってしまう。事件でもいろいろ複雑であり突然起きたことに普通は理解できない。 

それで小保方氏の万能細胞についての問題でも過度にテレビでリンチをしてNHKでは理研の一人を自殺に追いやったと武田邦彦氏は言っている
自分は科学に弱いからそのことはわからない、でもテレビが感情的になり大衆的一方的洗脳メデアであるからこそそうなる

「なんだ、嘘ついたのか、ふてい女だ、乳がでかいな、・・・・」

小保方氏はこうしてテレビにさらされリンチされたのである。もちろんそれなりの罪を犯したことはある。でも何か過剰にテレビはさらして大衆にリンチさせる
それは東京都知事の舛添氏でもそうだろう。これは当然だとも思うが過剰にリンチになるということが問題なのである。
そこには当然であっても何か大衆の心理というのがからんでいる   
舛添とかショーンケーンとかはテレビを利用して有名になり今度はそのテレビに復讐されているのである。有名にしてくれたのもテレビであり逆に極端におとしめるのもテレビなのである。そういうふうに有名になったのが悪いともなる
単に「有名な人」がテレビから出る人には多いからである。有名になったというだけで議員にもなれる、でも実力がないのだからボロがでる 、それは自業自得だともなる

今の世の中でも不満が大きい、その不満が鬱積している、その不満の捌け口を求めている貧乏にも苦しんでいる、すると上にたつ金持ちに対しての不満をはらしたいがなかなかできない
タックスヘイブンなどとなるとどうしていいかわからない、それこそ巨悪なのだが巨悪に対抗するのは簡単にはできない
それで不満の捌け口がそうした一個人や弱い所に向けられ集中して鬱憤を晴らすもちろんそうあるべきなことは否定できない、でもそれが過剰になると危険になる
ナチスが起きたとき失業者があふれドイツは貧乏で苦しんでいたからその不満の捌け口を戦争に求めたのである。  

どこでも中国でも北朝鮮でも不満層相当いる、その人たちのガス抜きとして日本がある。反日ということではともかく内部の分裂ではなく国が一致できなるからそうなる
そういう心理が大衆にありテレビはその不満の捌け口としてリンチ的に晒すのである。 
こういうことがあるから司法が生れ裁判が生れた経過がある
でも人間の心情にはリンチして制裁したという願望がある
自分とかかわらなければ他人をおとしめリンチすることは快感となるからだ。
そこに公正に見る力がなくてもいいのである。むずかいしことを言ったらわからないからである。
テレビの問題はすでにリンチの裁判所のようになっていることなのである。
一旦そこに顔を出されたらすでに社会的制裁になってしまうのである。
複雑な背景など関係なくそうなってしまうのである。
大衆的悪感情を刺激するのがテレビの私的リンチなのである。
そこにテレビというメデアの危険性がある






タグ:テレビ批判

2015年08月24日

インターネットの一番の恐怖 (記録したものが一瞬にして消える)


インターネットの一番の恐怖


 
(記録したものが一瞬にして消える)


インターネットの一番の恐怖の恐怖はパソコンでもウィルスで一瞬にして記録したものが消える恐怖である。それは何回か経験している。復元できないものせあった。
せっかく俳句とか短歌を作ったのに復元できなくなった。
これまでの苦労が一瞬にして水の泡になく恐怖である。

これはパソコンだけではない、レンタルサーバーとかプログを使用する場でも起きている突然報告もなくプロクが消されたとインターネットで報告しているのを見た。
何か違反があっても報告もなくプログが消されるのかとなると恐怖である。
一回さくらのレンタルサーバーで故障で記録が消えたと連絡されたときはショックだったでも予備に記録してあるので復元されたのである。
さくらのレンタルサーバーは保守はしっかりしているという
他のプログでは全部プログをもっているものが消えたこともあった
一方でいつまでキャッシュとかで犯罪を犯した人が記録が消されないので困ったという人もいた。
意外とインターネットは通信記録が残るから人物が特定できる

自分の経験で恐怖だったのは突然自分が病気で入院したときだった。
帰ってみてレンタルサーバーに支払う期限があと一日で切れるところだった。
それはカードの期限が切れていたからである。
その月で期限が切れていたからメールで連絡があったのだが入院していた時期に見ていなかった。
インターネットは必ずもメールを見ていないことがある。
自分はメールはあまり見ていない、見ているのは毎日書いているプログである。
だからプロク中心だからプログのコメントとか連絡されると見る
なにしろ忙しいのでいちいち対応できなくなっていた
そししてあわてて電話でレンタルサーバーに連絡した
カードの期限を伸ばすので消さないようにとお願いした。
それもなかなか聞き入れてもらえなかった
プログだけではない、ホームページも運営していた
ただこのて七年間は介護などでホームページはほとんど更新していなかった
だからプログ中心でありそのプログが消されると膨大な記録が失われので
自分の努力も水の泡となる

インターネットは新しいメデアだから様々な問題がある。
でも今回の大阪の中学生の男女が二人殺害された事件の犯人は45才でフェスブックとかしていて記録が残っていた。
そんな人もインターネットししているのが現代である。
労務者ならしていないようでこの前あった人もインターネットしていて詳しかった。
この辺には他の県の人が大勢除染などて入ってきている。
その犯人も除染で福島県に来ていたのである。
なんだからがらの悪い人がきて治安が悪くなったとか心配しているのもこの辺だった
犯罪は大阪で起きたからここてなくて良かったとなる
でも何かフクシマで起きたかもしれないとなると怖いことは確かである。
外部からの人は素性が知らないから困るとなる
この辺はとにかくいたるところプレハブの宿泊所が建っている

さくらのプログはおまけでやっているから力を入れていないというのは本当である。
何か他のメジャーなプログと違ってプログの情報を会社側で何も操作しない
他のプログではそメンバーで共有する機能があった。
だから会員になるとそこの内部で情報を共有しやすい
でもそうなると会社側で操作されるので嫌だという人もでてくる。
自分は何か嫌である。
さくらのプログは全くそういうことがない、何の操作もしないのである。
プログランキングとか何にも操作していないのである。
だからアクセスを増やすには良くないかもしれない
それでもセオ対策しているとか書いてあった。

今悩んでいたのがアクセス解析とか保存整理とかの問題である。
なぜリンク元がなしが9割もなのだろうということがわからなかった。
ブックマークが主だからだとなるとリピーターが多いのか?
でも読まれているページは500とかなる
ページビューは二つのプロクで2000以上になっているから最近また増えてきた。
しかしほとんどリファラーなしリンク元なしだからどういう人が来ているのかわからない外国から写真がすばらしいとか連絡があった。
これも返事はしていない、常時見ている人は写真だから外国でもいるとなる
外国だとどう使われているかわからない
だから良くオリンピンクのロゴがパクリだとわかったのか不思議である。


ともかく自分の課題はこれまで書いてきたものをどう整理するかなのである。
今度はそれで本にしてみようかとgoプログにも試しに作った。
アクセス解析が充実しているのがいいと思ったからだ。
そこは写真を出すのに便利である。livedoorもそうである。
でもlivedoorはアクセス解析では充実していないのでやめた
本を出すのにも対応していない
何かインターネット内にはいろいろな便利なものがある
ただそれを理解して使いこなすのがむずかしい
自分は十年以上インターネットしていてもそういうことがわからないのである
そういう技術的なものを理解することがむずかしかった

とにかく親の介護になったり自分の病気になったりしてから自分はなにかそうしたインターネットのめんどうなことにかかわることができなくなった
だからコメントでもいちいち答えられない
ただ暇をみてやっとプログに一日分出すのが精一杯だった
前は三食付きだし何も家のことなどする必要がなっ交野である。
介護になってから毎日家と格闘し続けてきたのである。
だから第一家のことが七年たっても整理できない
姉のことが写真でも残したものを整理されていない
着るものからなにから自分のものでも整理されない
母のものでも着るものなど整理できないのである。
整理という掃除もあるしこれもなかなかできない
だからゴミ屋敷になるというのもわかる

つまりみんな簡単に捨てられないからそうなる
7年間も家にかかりきりでも整理できないのである。
ともかく記録したものを整理しようとしているのだがこれもいろいろありすぎて自分でもわからなくなった。
まず何でも一人でやることは大変なことである。
例えば家事をするにも料理となるといろいろ食材を点検すること自体手間なのである。
そんなに人間はいろいろなことができない
だか以前として買い物だ食事の提供だ、掃除だ.......
休む暇なく追われているのである。
ただこうしてプログだと簡単に出せるからつづいたのである。
今年の夏は暑くてまた整理もしたくなかった
涼しくなったからともかく家のことでもインターネットでも整理しなければならない

本の整理もまた一苦労である。家が傾くほどの本があったが半分が古本屋にださずにゴミとして捨てた
ところが今度は新しい本をアマゾンで調べるために買うのでまた増えたのである。
本というのも整理するのに苦労なのである。
これも役にたつものがあると捨てられないから困るのである。
確かに読んでいても利用していなから読んだともなっていないのが多かった。
今は自分の文脈で利用しているから本は理解しているし利用できる
深く理解できる、本というのもインターネットより深い情報があるから今も必要なのである。
アマゾンでない本はない、安いものでまにあわせてもいくらでもあるというのは便利である。
だから今は仙台にも行かなくても情報弱者にはならないのである。
仙台の大きな本屋よりも情報は本は瞬時に買いるからである。

最近多少余裕ができたようだがまだまだ追われる生活だから苦しい
第一そんなにいろいろなことに人間は頭が回らないのである。

livedoorはやめてgooプログにも試しに作った

困ったのはプログは簡単に移動できない、ドメインを簡単に変えることができない、
変えると一旦アクセスしたものが切れてしまうことが問題である。
そういう人は自分だけではない、簡単に変えられないということがこれも大きなインターネットのサーバーを借りる問題だったのである。
インターネットは以前として様々な問題があり解決されない問題がある。
ただこうした事情でも一日一回書き続けられたのはプログがあったからである。




2009年12月03日

NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て


NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て



●人間は弱いからあわれみの文学が生まれた



正岡子規は自分でも写生俳句を作ってきたからなじみ深い人である。そもそもあの若さであれだけの文学的業績を残したことはやはり天才だったのだろう。俳句でも若いときなどいいのはできないのではないか?40代でもいいのができていない、60代でいいのができたかなというのが自分だった。若いときは普通は血気盛んであり文学に向いている人は少ない、強い人は短歌や俳句や文学に向いていないというとき、体が丈夫だと強い人は自らの弱さを知って謙虚になることがない、俺は病気になったことがないとか何かで自らの弱さを知ることがないと文学に向いていない、文学では体が丈夫で病気をしたことがないという人は山頭火などがいるが比較的少ない、あれだけの旅行したのだから体が丈夫でなくてはあの過酷な旅はできない、でもそれは例外的存在でもある。啄木でも結核になった結果、自らの天才としての傲慢を砕かれて自らの弱さを自覚する短歌を後世に残すことができたのである。三島由紀夫も弱い人間だったが涙ぐましい努力をして強い人間となろうとして不自然な自決となったのである。公的な要素より私的な自決の要素が大きいのである。老醜の恐怖もありそれを公的なもの愛国心と転化されたからその自決は演技的でもあり批判されることになった。


誰でもス-パ-マンになりたい、でもなれない、ス-パ-マンとは異常な人間である。人間には弱さが与えられていることが他の動物とも違っている。弱肉強食の動物とは違う。人間に弱さがなかったら神など信じない、ニ-チェのようになってしまうだろう。ス-パ-マンは自ら神となってしまうのである。それを神が許すはずがないのである。若いときは体も丈夫であり行動に向いているが文学には向いていない、何か表現することに向いていないのである。正岡子規もあれだけ行動的社交的人間だったから文学に精を出すことはなかった。皮肉なことに子規も啄木も病気の結果あの若さで後世に残す業績を残したのである。 病気になると不思議に自然とか人間の共感が起きてくる。病気になるともののあわれが自然と生じてくる。それは自分自身のことではなくても他者の病気でも特に家族が病気になったりするとあわれだとなり同情するから文学が生まれる。姉も体が丈夫であり病気などしたことがない女性だった。それが頭から体から無惨な結果になり最後は病院でうめくようにして泣いて死んでいったとき本当にあわれだったとなる。それまではあわれみを覚えるような女性ではなかった。そういう人はこの世に結構いる。それでも老人になるとどうしても病気になる人が多くなりあわれだなる。そこにあわれみの文学が生まれることになる。


●柿の俳句について



子規が柿が好きだったというとき特別なことではない、その頃の果物は柿が一番多い、今のように外国からいろいろな果物は入ってこない、大正生まれの母も柿が好きである。干し柿も好きである。果物でも柿は食べられたからである。子規が柿が好きだったというのではなくその頃みんな柿は好物だったのである。

東大寺裏の旅館に泊まっていた子規が夕食の後に柿を食べて居た時、
近くの東大寺の鐘がなったのだそうで
この鐘は「初夜」と呼ばれるその日最初の鐘のことで、

翌日法隆寺を訪ね、
この風景と結びつけ句を読んだと言われています

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺


俳句は短いから背景を知らないと深く味わえない、「初夜の鐘」というのもやはり鐘として心にひびくものがあった。これは茶店のようなところで外で柿を食って作ったかと思った。東大寺の近くの宿だった。そのあと法隆寺にしたのである。これはまた漱石の句の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」からヒントを受けたという。こっちは何か明るい感じがする。この句もいい句なのだろう。


子規泊まる昔の宿や柿の味(自作)



柿の味は日本の変わらない昔の味なのである。現実に柿はKAKIとして世界で通用しているからだ。 ビジネスホテルで柿を食っても情緒がなくなる。昔風の旅館も当時の風景とマッチしていてこうした句ができたのであり今の時代ではできなくなる。なぜか車の騒音とか様々な騒音の世界であり鐘の音のひびきも今とは違っているからだ。これが江戸時代になるとさらにそうなのである。文学もそれができた背景がありその背景が失われるともうそうした俳句もできないのである 。子規は果物好きだったからこんな句もあった。

林檎くふて牡丹の前に死なん哉


これなんかも簡単な何でもない句のようでも死なんかな・・というところが普通の健康な人とは違っている。常に死を意識して作っていたから何でもないようで切実なものとなっていたのである。果物でも林檎でも梨でも食っていた。林檎はその頃みんな食っていたのか?都会だと食えたのか、結構高かったように思う。それなりの収入があったから他の人よりは贅沢していたのだろう。
子規を支えたのは友人でもあったが妹も目立たないが大きな役割を果たした。庭を子規の見やすいように作っていた。庭の花などが慰めだったからである。


薪を割る妹一人冬籠もり


この妹は子規の庵を死んだ後も守っていたという、俳句が写生だというとき自分も写生俳句を基本にしてきたから子規の業績が大きいとなる。他に子規がいい句を残しえたのは死を常にまじかにしていたからである。死は常に目の前にあった。だから事物を末期の目で常に見ていたのである。


柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm



インタ-ネットにこの柿の話はいろいろでていた。それをNHKで説明しただけである。ただNHKでは映像として話を展開するからわかりやすいのである。

2009年03月15日

映画-「殯(もがり)の森」を見て


 

 「殯(もがり)」とは、敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間や場所を意味する言葉
 
亡き妻の思い出の詰まったリュックサックを、そうとは知らず何気なく手にとった真千子を、しげきは突き飛ばしてしまう。
 
認知症がどういう病気なのか理解しないとこの映画もわかりにくいだろう。認知症の人は何かを思い出になるものを特別大事にする。姉もそうだった。戦友からもらったパッグを肌身話さず持ち歩いていた。それは従軍看護婦をして4年間シンガポ-ルで過ごしたことは死ぬまで忘れなかった。そこで一番親しい人からもらったパッグを大事にしていた。戦友とは認知症になる前までつきあいがあった。認知症になってからは年賀状をもらっても返事が書けないので音信が絶えた。バッグには貯金通帳やら保険証やら大事なものが入っていたのでそのパッグをなくしたと毎日のように騒いでいた。親しい人の家に行ってもここでなくしたと責めて迷惑をかけた。この映画で認知症のシゲキもリュックサックを大事にしていた。その中には思い出の大事なものが入っていた。それを手にとって捨てようとしたときシゲキは怒ってつきとばした。そのことは認知症の人と接していれば理解できる。
 
認知症の人は今の記憶が失われ過去に生きる度合いの方が大きくなる。過去に執着して語り行動する。病院の認知症の人もそうだった。二〇年前の死んだ夫のことを死んだと思っていない、毎日「とうちゃん、とうちゃん」と呼んでいた。何度死んだと言ってもわからなかった。他にも認知症気味の女性が看護婦を孫と思って名前を呼んでいた。この映画でも真千子は妻になっていたのかもしれない、この映画では死別もテ-マとなっている。死んだ人とは永遠にあえない、永遠に会えない人を求めて森に入り込みそこで最後に穴をほり死んだ人をいとおしむ。それがもし現実としたらあまりに悲しいとなる。死んだ妻を求める、永遠に死んだ人は帰ってこない、その死者への想いは人によって違う、やはり若くして死別すればなかなか忘れられないだろう。人間は六〇以上とかなると新しい人間関係を結ぶのがむずかしくなる。だからこれまで親しかった人がよりどころとなる。認知症の人は今が記憶できないのだから余計にそうなる。ただこの映画のテ-マで森の中で死者をいたみ死別の悲しみが癒されるとは思えない、森の上のう方を見ている真千子は作りすぎている。その他そんなに作りすぎた不自然でもなかった。そもそも自然は無情ではないか、自然は人間の死に無頓着であり、もちろん生物や動物の死にも無頓着であり非情なのである。森に入って死別の悲しみがいやされたりそこで何か死別の解決方法はないだろう。
 
「殯(もがり)」とは、敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間や場所を意味する言葉
 
この言葉は意味深である。しのぶ時間、場所が大事である。それを美的に構成した。でも人間を偲ぶことと自然を偲ぶことが一致するのかというと死んだ人を思うときどうしてもその人の面影や格好や人格的なものに想いをはせる。そして認知症になると自分が一番存在し執着した場にこだわる。男は会社に行くとかグル-プホ-ムが会社であり介護士は部下だと思っているのはそのためである。会社が人生だったのである。人間は言葉が通じなくても心を通じさせる方法はある。スキンシップであり体で通じ合わせる、それが認知症の人にとっては介護となっている。心も安らぎ落ち着かせる方法だからである。今でも姉と病院に入ってからリハビリなどでスキンシップしたことが思い出に残っている。あまり家族でも体をふれあうことがないが介護になると体をふれあうことが自然と多くなるからだ。 過去にはしのぶ時間を十分にとっていたし場所も自然が豊だからそういう場所で偲ぶことができた。今はそうした時間も場所もないから死者はいたむ文化が喪失している。死者はいむものとして早くモノのように廃棄されかたずけられる。生きているときあれだけ介護しているのに一旦死ぬと早くかたずけてくれ、不浄なものとしてこの世から早く消すことが望まれる。この映画はやはり認知症のことがよくわからないと理解しにくいだろう。死別もテ-マになっていたが死別がどうして癒されるのか、美しい森の中でいやされるのか?そうはなっていないし死別の悲しみはいやされるのは何かまた別なものであろう。ただ死者は美化されやすい、本当にそんなに死者は理想的な人だったのか、死んだからこそ美化されやすい、いい面ばかり見えて悪い面は消えてしまうから自然と一体となり美化されたものとしてイメ-ジされてくる。それで祖先は山の神となり村に恵みを与えるとかなった。そういう日本的死者の文化もこの映画のテ-マとなっていたのだろう。


 

2009年03月11日

クロ-ズアップ現代-貧困が教育を奪うを見て


格差社会、不況が教育にしわよせがきている。NHKの高校中退が多くなっているのは貧困のためである。授業料が払うことができないなど教育費に金をかけられない親がいる。このテレビ見て一〇年前くらいだったか二〇年前だったか不登校のことをしきりに放送していた。その不登校とは学校不適応者でありつまり勉強したくないから学校に行かない生徒のことだった。その生徒をどうして学校に行かせるかが課題だったのだ。今は貧乏で行けないというのもずいぶん時代は変わったものだと思う。格差社会が最近の不況で本当に深刻になり様々なところで影響が大きくなっているのだ。

 
鉛筆・消しゴムだけでも、たくさんある子・全くない子と差があるのが実情だ。
 
あるところではノ-トをもらても書き込みを節約するとか、そんなことまでしているのかというとこれは戦前の貧乏時代に逆戻りなのかと驚いてしまう。戦前は鉛筆自体貴重だから親指より短くなるまでつかむことができないくらいまで使っていたしノ-トもこまかくびっしりと書いていた。ノ-ト自体が貴重だったからである。そういう親戚の人いたからその話を聞いた。インタ-ネットでは鉛筆の歴史を調べればいくらでもそういうことが書いてある。こんなに豊かな使い捨ての時代を経験してきたのにそんなにまでなっているのかというのがピンとこないのである。
 
教育を考えると日本人は教育熱心である。江戸時代にすでに読み書きできた人が多い、寺子屋で学習していた。明治になってもさらに教育が立身出世を決めるということで実利的な面から日本人は拍車をかけて教育熱心になった。末は博士か大臣かである。これは今でも受け継がれている。教育の目的は立身出世である。今でも東大に入れば立身出世は約束されている。東大派閥が官僚を牛耳り天下りで巨額の退職金も労せずして入ってくるとかある。学歴社会になったのもそのためである。
 
でも戦前の教育は貧弱だった。義務教育もままならないものだった。子守りで学校にすら行けないとか学校に行くこと自体むずかしい時代でありこれは学校すらない後進国とにている。今日のテレビをみてそんな時代に逆戻りしているのかという驚きだった。教育を考えるとき日本人は向学心が旺盛であり明治には新しいもの欧米から取り入れるために特に熱心になった。今日の日本人の繁栄を作り出したのは日本人の向学心だったのである。戦後まもなくも貧乏であり向学心はあった。その向学心も物欲の向学心、アメリカのような贅沢な生活をしたいということで勉強していた。日本人の教育は常に立身出世の向学心でありこれは明治時代から加速されて行った。
 
団塊の世代から異常なほどの学歴社会となり有名大学を目指す受験競争が熾烈となった。本来学問はそういうものとまるで違ったものからはじまった。真理の探求であり悟りをえるとか宗教的なものが哲学的なものが学問のはじまりであった。それがすべて実業としての学問に変わったのだ。だから私の場合はどうしても学校で懸命に学ぼうとうすることができなかった。だから高校もかろうじて卒業して大学では遊ぶだけで学問の基本すら身につけず終わったのである。意外と向学心は社会に出てから起きる場合がある。低学歴なものは社会の底辺の仕事しかできない、私が経験したのも流れ作業とか全くロボットにされることだった。それでそうした職業だけは嫌だと思ったが何か生きがいのある仕事につくことはできず結局無職のまま今日にいたったのである。これは団塊の世代は一方で金の卵とか集団就職の時代であり大学に行けるのは地方では何人かしかいなかったのである。高校にすら行けない、中卒も普通にいる時代だったのだ。
 
現代の急激な格差社会はまだよく社会で認知されないし理解されていない、だから対応も遅れているのだ。ノ-トも節約して鉛筆も買いないのかとなるとどうしても理解できない、これほど使いすてにしてきた時代なのにと思ってしまう。向学心があっても貧乏で学べないのが戦前まであり戦後まもなくつづいた。次に貧乏でなくなり教育できる環境になっても学習意欲が起こらず中退する人とかの時代になった。大学に50パ-セント以上行く時代はすでに学習に向いていない人も多数行っているのだ。そういう時代に格差社会になり鉛筆とノ-トすら十分に用意できないという格差不況社会を今まで経験した時代からすぐには理解できないのである。格差社会はやはり不況もあり深刻になっていることは確かである。


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この団地はスラム化したような団地にみえる。相当老朽化しているけど建て直せないしなんか危険にさえ見える。貧乏が目に見えてわかる写真である。

2009年03月07日

本は消えるのか? (インタ-ネット時代でも編集は重要になる)


●出版の過程で消えるもの

 

出版は、製紙業−印刷業−製本業−出版社−取次−書店というパイプラインが正常に稼動して生まれてくる。出版社は創造する編集部門と販売部門とで構成されている。

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インタ-ネット時代になったとき、製紙業とか印刷、製本、取次ぎ、書店は必要なくなる。出版はこの過程をみるだけでいかにコストのかかるものかわかる。この時点で出版は特別なものであり組織のバックなくして出版できないものとなっていた。ロ-マ時代でも紙の値段が高すぎて紙を提供する方が価値があった。作家の価値は低かったのである。出版は一見作家の価値が著者の価値が高いように見えているが実際は違う。販売部門が大きな力を持っていた。宣伝するにしてもおおがかりになると金がかかる。だから文学賞などは販売部門が大きくかかわり大々的に宣伝して売りこむ。中味はさして問題ではない、こんなのがはやっていますよ、流行なんですよと価値のわからない大衆に宣伝して売り込むことが大事なのだ。要するに大勢の人に売ろうとすればあまりむずかしいのは売れないから大衆に読まれるようなものにする必要がある。だからそういう人が商売のために出版社のもうけのために選ばれ作家はただ利用されてあとは売れなくなってもかまわない、また粗製乱造して売り出すだけであり販売部門によって本が売れるか売れないか決まるからそうなる。ところがインタ-ネット時代には×印のところはすべて消える。これらのものは価値がなくなる。本をモノとして運んだり並べたりするだけの作業は必要なくなるのだ。そもそも書店は本の中味はほとんど関係ない、本のことなど知らなくても出版社から送られる本を並べるだけでありあと売れなければ返品するだけである。つまりなんら創造的価値あることなどしていない、野菜とか果物とか食料品を売るより簡単なスキルのいらない職業だった。それでも街の文化事業しているような感覚になっていたのはやはり書店がこれまではあらゆる情報の窓口の役目を果たしていたからである。
 

●残る編集部門
出版では残るのは編集部門である。編集は相当に創造的なことであり相当に優秀な人しかなれない、なぜなら一冊の本を編集することはその作家なり資料なり情報なり書く対象について詳しく専門的知識ももっていないと編集できないのである。編集者の役目は腕のいい料理人とにているのだ。食材に通じて独創的な料理を作り出す、美的感覚も必要である、料理人も明らかに芸術家であるからだ。食材とは様々な情報であり知識である。それを見極めて料理してお客さんに出すのである。他の仕事はただ本をモノとして運んだり並べたりする仕事であり誰にでもできるのだ。でも本の説明して売る人はやはりその本に通じているのだから売りやすいとなるが書店ではそういう人はまれである。本を売る人は中味は関係ない、ただ売るだけである。レジの仕事と同じである。その中味は関係ないのである。つくづくインタ-ネットで8年間ひたすら書き続けてわかったことは書くということも訓練であり書くこと自体が創造性を育むものだと思った。書きながら新しいアイデアが自然と生まれてくるときがあるのだ。インタ-ネットではまた必ず他のサイトやキ-ワ-ドで参考にして書く、編集作業が自然と書くことのなかに行われているのだ。インタ-ネットには料理するための食材が豊富だからそうなるし書きながら利用しやすいのである。でもその情報は本の世界に比べたら微々たるものである。郷土史関係は別にして微々たるものである。それでもその微々たるものでも利用しやすいから相当な効果を発しているのだ。プロの作家になるには膨大な本が必要になったのは書くためには食材が必要であり豊富な食材がないと美味の料理を提供できないからである。

インタ-ネット時代になっても編集はさらに貴重な重要な仕事となっている。インタ-ネット自体編集作業なくして読めない、様々な情報や意見や知識があふれていても何が重要で何がどうなっているのか編集作業が必要だからだ。それをテレビなどではしていた。情報を加工して料理して提供していた。それは偏向になってもわかりやすいから大衆は見ていて一方的に洗脳されることにもなったのである。今回の小沢氏の西松建設の献金問題でも写真と図でテレビ並に説明していた人がいた。そこにはいろいろ参考にするものがあった。でもかなり手間暇かかるからそれだけ暇ある人がいないからどうしても編集したものを提供する場が必要になっているのだ。編集の仕事はますます重要性をましているのだ。だから出版でも編集できる人はやはりインタ-ネット時代でも生き残るしそういう新しい仕事が生まれる。今は過渡期で仕事になっていないだけである。どうしても大きな組織の一員としてしか働く場がなかったからである。
 

●インタ-ネットに対応した仕事はまだできていない
インタ-ネットはまだ十年くらいであり、ずっと過渡的なものとして実験としてあった。その前哨戦としてニフティがあった。その延長上に発言している人はパソ通からの経験でインタ-ネットに則した情報発信をしている。それで個人として有料にしている、田中宇氏も有料にすることになった。宣伝とかでは自立性が得られないとかやはりインタ-ネットになると個人が主体だから個人に金払うことになる。個人でもメデアとして発信できるからだ。これからは作家や著作者、個人のジャ-ナリストがインタ-ネットで仕事ができる。個人のプロが価値が高まる。出版でも新聞でもテレビ放送でも実際仕切っているのは組織でありその中に作家、出演者が組み込まれて報道が成り立つ、そのコストも高いから大きな組織に金で買収されて個々人などは発信できなかったのである。そのコストが極端に低くなったとき個々人の作家やジャ-ナリストの価値は百倍にも高まる。そういう時代なのだけどまだそれが認識されていない、インタ-ネットは無料であり価値もそれだけのものであるとしかなっていないのだ。
今までも出版なら大手や大きな組織がバックにないと出版は無理である。まず書店にすら本は置けない、書店は大手出版社から本の中味など関係なくモノとして流れてくるものを処理するだけの場である。そういう場が今までは必要だった。雑誌を売るにしても街の書店がその窓口になるのだから出先の店として必要であった。読者も書店からしか情報が手に入らないとなれば書店は重要となる。でも今やインタ-ネットで窓口がふえたのである。本というのはなくならない、紙で読む活字と電子モニタ-で読む世界は何か違っている。読むだけではない書く方も違っている。パソコンで書くことの一番の相違は書きながら創造してゆくことなのだ。書くことにより創造がうながされてゆくのだ。情報の食材がキ-ワ-ドからいいがでてくるときは特にそうなる。その時編集作業が自ずと行われていい料理ができるのだ。かといってインタ-ネットとかパソコンとかは万能ではない、例えば皮肉なことはニフティでやっていたとき、これは百科事典なのかと思っていた。本当はレスポンスが主要となる対話形式として電子通信ははじまっていた。今こそインタ-ネットは世界的百科事典の役目もになっているし自分がやっていることはただ百科事典の項目を書いて無料で引用させているだけだとなり虚しいともなる。例えば上野霄里氏のうよな人なり思想なりはその全著作をしり人格をしらなければ理解できない、百科事典のように引用するものではないしできない、百科事典のように引用するのも必要である。郷土史などはそうなりやすい、学問的にもそういうものがあるがその人なり思想を知る場合はそんなこと不可能なのである。

田中宇氏が有料配信開始
http://www.mynewsjapan.com/reports/1007

2009年03月02日

ネットの無料モデルに“マスメディア”の未来はない

        
 ネットの無料モデルに“マスメディア”の未来はない

       http://diamond.jp/series/kishi/10029/?page=3                                                       
 

危機の打開へ若い活力を  池田大作-毎日新聞
http://cgi.2chan.net/n/src/1235954405573.jpg


テレビでも新聞でも今や報道自体がやらせだとかつまらないとか芸人ばかり集めて勝手に騒いでいるから若者は見ないとか毎日新聞は外国にありもしない日本人の性的なことで卑しめることを書いてそれを外国人がネ-ムバリュ-で信じたから大ひんしゅくをかった。変態新聞としてネットでは毎日こきおろされている。今度は池田大作がコラムに書いたのでこれもひんしゅくをかっている。毎日新聞は聖教新聞を刷っているからそれが収入源となっている。他でも聖教新聞を刷って収入源となっている新聞社がかなりある。福島民報もそうである。だから池田大作の文を今回と同じようにのせたことがある。また有名な西沢潤一氏とかも池田大作たたえる記事をのせているし創価をたたえる記事をのせている。それも収入の大きな部分が創価に頼っているからそうなる。テレビですら宣伝がカルト宗教に堂々と不況で採用される。マスコミでもテレビの影響はこれまで甚大だった。何百万人に報道できることはすでに大きな権力でありマスコミが実際は第二の権力になっていた。テレビにでただけで名前が知られ有名になれ社会的認知度があがるのだ。だから政治家はテレビに出たいしテレビで顔売りたい、テレビにこびることになる。大衆も現代の政治は劇場政治だというとき前の小泉首相のような俳優のような人が人気がでて政策など関係ない、劇として面白いから票を入れるのだ。郵政民営化の意味を知って投票した人など一握りでありあとでみんな煽動されたことに後悔している。その時の劇をうまく演じた人に人気がでて政治を左右する。大衆はまたそのように操作されるしテレビが一番大衆を操作するのに適したメデアだったからテレビが力をもっていたのだ。そのテレビが力をなくなってくる。するとどうなるのか新聞でもテレビでもその収入源が半分は宣伝費である。だからトヨタなどは巨額の宣伝費を出していたからトヨタの悪口は書かないとなっていたのだ。つまりメデアは金で操作されるのである。
 
しかしでは大衆は視聴者は本当に報道が何によって支えられているのか考えたことがあるのか、本当に公正な報道を望んだことがあるのか?新聞は一応購読料を払うから宣伝が半分の新聞など読みたくないから新聞をとらないとかなってゆくかもしれない、テレビもつまらないから見ないとなってゆく、でもでは大衆は本当に公正な真実の報道を望んでいるのか?金を払いたくない、報道は情報は無料で入ると思っているのか?それを真剣に考えている人がどれくらいいるのか?2ちゃんねるでまにあうのか?個々のプログで十分なのか?それが今インタ-ネット時代で問題になっているのだ。田中宇氏なども宣伝だけでは公正が保たれない、収入が得られないと個人で購読料をとるようになった。一年で1万円くらいになると高いかもしれない、それでやめる人もいるかもしれない、個人になると高くつくのである。でもインタ-ネットは個人のメデアだから個人に金を払うようになるのだ。それでなければ良質の情報は出すことができないのだ。海外に取材するのも金もかかるし報道の中立性とか公正を求めるならそうした援助がない、宣伝にたよっていたらできない、今までの報道はたいがい組織がバックにいて成り立つ、出版だってそうである。一個人など出版に参入することはできない、もちろん放送になど参入できないからマスコミの一方的報道の洗脳に甘んじていたのだ。 でもインタ-ネット時代本当に公正な報道が可能になってもそれを支えるのは誰なのかとなる。すべて情報が無料で手に入ると思っているのか、もちろん報道することは無料になっている。でもその手間や調査や取材となるとそれなりの負担がかかる。これは個人では負いきれないからどうしても負担をしてもらうものがでてくる。宣伝費をかせげばいいというがそれならマスコミは同じになるではないか、報道が自由でも公正な報道を望むとしてもそれを大衆は視聴者は真剣に考えているだろうか?そこが疑問なのである。
 
いづれにしろグ-グルのブック検索がはじまったりメデアは変わらざるをえない、出版界もこれもどうしても組織、権力あるものが牛耳る世界である。本当にこの世にある本がグ-グルで検索され少額の資金で読まれるとしたらどうなるのか?家にいながら大図書館に常時いることと同じになる。マルクスはその一生の大半を大英国図書館で過ごした。それだけの資料や本を読む必要があったからだ。もしインタ-ネットでそうなったら貧乏人でも大学者が出てくるかもしれない、現実郷土史関係では全国的に資料が豊富でありそうなりつつある。マスコミは衰退して報道はインタ-ネットに移ることは見えてきている。でも本当に公正な自由な報道を支えるものは誰なのか、それが今問われているのだ。金は出したくない、別に2ちゃんねるで十分だとなっていいのか、事件でも真実を追求するにはやはりプロが必要だしいたるところで医療関係でも技術関係でもプロが必要になってくる。それはこれまでマスコミとか組織でできた、ではその支えがなくなったとき誰が代わってやるのだろう。そんなこと真剣にインタ-ネットの視聴者は考えているだろか、そうならやはり報道は変わらないのではないか、つまりインタ-ネットの時代は個々人が報道する主体となりうる。だからこそこうして私も報道を考えるようになったのである。今までは一言も発言する場などなかったからである。
 


補足 
 
ネットの無料モデルに問題があることは同じ意見だった。ちょうどこの記事が2ちゃんねるで見たのだ。
それで題名を変えた。なぜなら自分と同じことを考えていたからだ。
インタ-ネットにいくらプロが出しても金にならないからインタ-ネットではプロは養成されない
2ちゃんねるだと軽薄になるし何らかのプロが導く、編集することがどうしても必要になる。
インタ-ネットはまたいいものがあってもばらばらでありどこに何があるのかもわからない
するとその時点で何が重要なのか見極めることもむずかしくなる。
例え重大なことを書いても目に留まらない、見られない、つまり書いても書いてあることすらわからない、
インタ-ネット時代の報道をどうするのかそもそもインタ-ネットの視聴者自体真剣に考えていない
そこに大きな問題があるのだ。 
 

 

本は消えるのか?
(インタ-ネット時代でも編集は重要になる)
http://musubu.sblo.jp/article/27434969.html