2017年08月24日

資本主義社会とは何なのか? (発明発見技術革新ないとゆきづまる)



資本主義社会とは何なのか?

(発明発見技術革新ないとゆきづまる)


普通の人から金を毟り取る「弱肉強食の資本主義」で生き残れ

このサイトでは資本主義社会でどうして生き残るか,資本主義社会とは何かを絶えず考察している,要するに資本主義社会というのが株式のことでも良く一般の人にはわからないのである。
その仕組みもわからないしその思想もわからない,資本主義というからにはこれも主義であり漠然としてあるものではない,明確な主義の元に動いている
民主主義もそうである。主義としてある。
それを理解するには対局にある社会主義を理解すればわかりやすい,でも社会主義は失敗したのである。中国は社会主義政権だけど実質は資本主義で動いているからだ

資本主義がキリスト教の修道院から発したという説もあるし資本主義の発生は何なのかわかりにくい,わかりやすいものとしてオランダで船で世界で貿易するとき株主がよりあって金を出した,船が無事に帰れば巨額のもうけがある
でも船が嵐などなにかの事故で沈んだらもうけはゼロになるし大損になる
そのリスクをとるのが資本主義の株式の世界での基本にある
リスクからとるからまたもうけも大きいとなる
そのリスクを分け合うものとして株式がある

これも資本主義発生の一つとしてあるがその他に資本主義には何か有望なものに将来を見込んで投資するということがある,そしてもしその投資したものが大きな発見があったりすると見返りが大きくなる,新薬の発明で売れたりすればそうなる
コンピュターの発明は世界を支配するほどの発明だった,だから発明者のビルゲイツとかはものすごい金持ちになったのである。そのことで批判する人はいない
なぜならそれによってアメリカ自体巨額の収入を得ることになりインターネットなどで世界まで支配するような力をもったからである。

資本主義にはフロンティアの開発,大航海時代とか発明発見技術革新が不可欠でありそれに成功したものは巨利を得るのである。
本質的に今の金融資本主義,金を右から左に動かして富を得ることではない,そこからは富が生れないのである。
大航海時代だとスペインに富が黄金が集まったというときもインカとかを征服して黄金を手にいれたからである。
それからイギリスでも産業革命で蒸気機関車とか工場を作るなど技術革新の結果なのである。

資本主義はそうした発明発見技術革新などがあって活きる,それがないと資本主義の意味がなくなる,そのことで世界にフロンティアがなくなった,未開発の国がなくなったというとき資本主義の発展がそがれ限界だという説がでてくる
中国が発展したときは株も世界的にあがったが世界的に発展する国がなくなると株も上がらないのである。投資先がなくなるからである。

具体的に何か日本が新薬を出すというとき日本株が上がるぞとか騒いだことがあった
他に海底資源が発見されて日本でも資源がとれるとなると株も上がる
常にそうして発見発明技術革新があり資本主義は発展する
それで格差社会になっても全体の富が増えるから下々でも豊かになり恩恵を受ける
高度成長時代はそうだった,逆に発明発見技術革新がないとき今度は全体的に経済も停滞して資本主義はゆきづまるのである。
現代はそういう傾向にある,福祉平等は社会主義の思想だけどそれも国全体の富が増大しないと成り立たないのである。
社会主義はもともと富の増大をめざしていない,だから発明発見や技術革新に投資するという思想がないのである。

要するになぜヨーロッパが欧米が世界を導くものになったかというとヨーロッパには天才が科学でも芸術でもなんでも多い,発明発見がヨーロッパ中心に成されてきたからである今でもノーベル賞をみればわかる,欧米中心にして世界があったのはそのためである。
社会主義だとみんなが平等でもみんなで貧しくなるが資本主義だとそれがうまくいけば
全体の富をおしあげる,でも発明発見技術革新がないと停滞してゆきづまるのである。
金融資本主義は富を生まないのである。金を右から左へ流していただけでは富は生れないのである。それが資本主義のゆきづまり限界が来たとされるのである。

コンピュターなどの技術革新は芸術の分野にも波及した,それが自分とは関係あるとは思わなかった,自分がソフトで変化させて抽象画を作っているがこれは全く技術的なものであり自分には全く絵の才能がないのにできているという不思議である。
一定数,アメリカの人が主に見ていることでもたいしたことはないにしても評価されているとなる,それが著作権違反ということで問題になるものもあるがオリジナルなものとまるで違っているのだからわからない,著作権違反にはならないということである。
全く別物になっているからである。

アメリカがなぜあれだけ発展して世界まで支配する用になったのか?軍事力なのだろうか?軍事力もそうだが果たして軍事力だけで世界を支配できるのか?
ローマ帝国は軍事力だけで支配したのか?やはり技術の優位,建築術の優位があったことも大きな原因だった
日本が一時高度成長時代にいわれたのは猿まねの国だが何も自ら発明発見技術革新がないよその国のまねはうまいが自ら発明して発見して世界に普及したものがあるのか?
そういうことが問われたのも資本主義は発明発見技術革新がないと発展しないからそういわれたのである。

日本にはそうした発明発見とか天才を産む土壌がないとも言われた
狭い村で生活するとなにより平等が争わないことが要求される,田舎に住んでみればわかる,いつも同じ顔の人とつきあっていれば何か争いがあったりするいつも一緒に住んでいるからきまづくなるしいずらくなるのである。
まず田舎では経済でも徹底して平等を要求する,特別な金持ちは目立つし分けろとなるからいずらくなる,日本自体が村だというとき日本では発明発見の土壌がないというのもわかる,学校教育でもコンピュターを発明したビルゲイツとジョブスとか生れないのであるゆきんでたものを常に嫌う村社会が日本なのである。

天才なんか普通の人とは関係ないというが別に天才でなくても何か常に創造的なものを志向する態度が奨励されないと天才の能力があっても活かされないのである。
そういう土壌が日本にはないのである。日本は外国の猿まねで豊かになったが今度は自ら何かを発明発見する技術革新するとなるとできないとなるから停滞する
それは中国でも日本の技術をなどをコピーして発展してきたがでは今度は自ら新たなものを発明発見技術革新しなければならないというときできないとなるとゆきづまるのであるそれが資本主義社会だということを理解する必要があるのだ。

確かに格差社会だとか資本主義が批判されるがでは社会主義のようにみんな同じで貧しくていいのかとなる,社会主義はにはこれも主義であり投資とか発明発見技術革新をすすめる思想がないのだと思う,そこに大きな差があり資本主義が世界に普及した
でもフロンティアの喪失や発明発見技術革新がなくなるとき資本主義もゆきづまるのである。今はそうなっているから株もあがらないとなってしまったのである。
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2017年08月20日

人間何のために働くのか? (ただ金のためだけなのか?)


人間何のために働くのか?

(ただ金のためだけなのか?)


このことは自分の一つのテーマである。これはすべての人のテーマでもある。なぜなら日々働いているのが人間だからである。
でも働いている人自体がなぜ日々働いているのか?
明確にわかっていて働いているだろうか?
労働の経験がまれな自分がこのことをテーマにしているのも変だとはなる
ただ自分は働いたのではない,働かされたという経験しかない
金がほしい,その日の食を得るために働いただけだとなる
そういう人も多いしそれ以上考えないから別に金があれば多くの人は働かない
働くことを強いられている働くことは嫌でも仕方なく働いているとなる

まず家族のために働いているというのはわかりやすい,その一番の理由となるだろう。
働くのは嫌だけど家族を養うために働くことる生きがいを感じるからだ
でもその時働くこと自体に生きがいを感じるということではない
次に会社のために働く,会社が家族より大事に思うことさえあり企業戦士とか高度成長時代に言われた,戦士だから会社のために命をささげるほどに働くということである。
今でもそのことは継続している面がある,会社があってその人の存在意義がある
なぜなら日々会社に行き会社から月給をもらい生活が成り立つからである。

不思議なのはある会社がある,では無数にある会社はなんのためにあるのだろうか?
JRという会社がある,その会社はなんのためにあるのか?
それは人々に交通の便宜を計るためにある,そのために早く安全に人を運ぶことを仕事としている,それは考えるまでもないことである。
でも他に無数の会社は何のためにあるのか?
どんな会社も何かのサービスをするためにある?

建築関係になると個人的には快適な住まいを提供するということでわかりやすい,他に大きな公共的建てものを建てるということもある,それは個々人ではない,大勢の人のためのものもを提供するためである
医療関係だとこれも医者がいて患者を治すために働く,その他医者のすることはある
製薬会社は薬を作り人間の病気や予防などをする,それも実際は人にサービスするためである。
複雑な社会だからそのサービスも多岐にわたる,現代なら通信が発達している,するとそれを提供するためにITで働く,それもやはり人にサービスするためなのである。

何か会社というときこうして人に尽くす,サービスすることが基本にある
だから働くことは人にサービスすることだともなる,つまり働くとは自分のために働いているのではないのだ。
でもみんな自分が飲食して住居を得て自分が生活するために働いていると思う
他者にサービスするまえに自分の日々の生活のために他者にサービスする生活を強いられているともなる
現実に働かなくてもいい金があれば人は働かない,人にサービスするのはしたくないからだ,誰もコンビニでスーパーのレジで危険な建築現場で働くだろうか?
もし家でも自分で作るとしたら家族のために労を惜しまず働くのである。
他者のために家を建てるというときそういう動機はない,ただ会社のために金のために働くとなる

不思議なのは資本主義が修道院の中の労働からはじまったということである。
それは宗教的なものが信仰がバッグにあったということである。
そんなことが今や資本主義からイメージしにくい,宗教は人を助けるためにサービスするために働く,それが神の意志にかなうとなる,だから修道院では勤勉に働き人々に奉仕する,その結果として資本が蓄積された,仏教関係ではむしろ働かず人々の布施で生きていたから東洋と西洋では違っていたのである。
人間はそもそもそんなに働かないものだったからだ
資本主義社会は歴史的に異常に働く社会になったことは確かなのである。

宗教だと布施で生きるということは他者の労働により生きる寄食者にもなる
汗水垂らして働いた米でも農民からもらい生きることだからである。
だからこそ僧職にあれば最低の生活で身を修めて仏に仕えることになった
基本的にはそういうのが宗教のはじまりだろう。
ただ僧職としての専門家が生れて堕落したのは東洋でも西洋でも同じである。

明らかなことはウェバーが働くことにキリスト教の信仰にありそこから働くことが意義あるものとして奨励されたことである。
人間はそもそもそんなに働くものでは本来なかったからである。
働く動機がもてない,その動機が信仰に由来するとなれば人は無償でも働くとなる
ボランティアもこれとにているのである。無償でも働きたい,人のためになりたいと働くからである。生きがいとか何か他の動機があるにしろ他者のために働くのである。

働く動機は他に遊びたいから働くということが現代では多い,海外旅行したいからその金をためるために働くとか他に趣味を楽しむために働くとか遊びの世界が広がったからそのために働くのであり働くこと自体に意義を求めて働いてはいない
消費するために働くというのもそうである。何かうまいものを食べたい,でも金がないと食べられないから働き金を得る,金のために働くといってもその金を何に使うのかが問題になる,ただ貧乏になると衣食住のためだけだとなるだろう
その他そんなことを考えることはないだろう。一般的にはそうである。

現実に人を雇うがお手伝いさんなどはその家の塵一つでも掃除したくないのである。
金がほしいからしかたなくしているだけである。
ある人はただ金をくれといって家捜しされて大金を盗まれた
つまり他人の家で働く動機が全くない,金しかないから極端になればそうなる
家族だったら親でも妻でも自分の家だから掃除でも家事でもするのである。
そういうことは狭い地域で生きているとある
ゴミが道端に捨てられてあったが誰も拾わなかった,そこは自分の家ではないからそうなった,自分の家だったらするが外に出ると自分の家という感覚がなくなるからしないのである。それで自分がかたづけた,でも社会もまた家であり公(おおやけ)であり家なのである。

駅でボランティアしているのは自分の家のような感覚がありしている
自分の街がきれいになっていれば住んでいて気持ちいいからである。
自分の住んでいる所が汚いと嫌になる,だから山の斜面が土をとるために削られたのを毎日見ていると嫌な気分になったりする,景観というのは日々接する場所にいれば気になるのである。
それが一番現れたのは原発避難で街がゴーストタウンのようになったときである。
街全体に人が住まなくなり放置されればあのように荒廃してしまう
そしてそこに個人的に家に帰り住みたくないとなる,つまり常に自分の家のこと家族のために働いているが街全体のために働いているという意識がないのが普通なのである。
でも街全体が人が住まなくなり荒廃したとき実は意識しなくても自分の家のためだけではなく街全体の維持のために人々は働いていたのである。

だから本当は家族を維持するとしても街全体がなければ維持できない,それが原発で避難区域になったところで起きた。街自体がゴーストタウン化したからである。
働くというときいろいろあっても家族のためだけでもない,会社のためでもない,地域全体のために働かなけれも街が維持できない,それを如実に証明したのが原発避難区域である。

一人はみんなのためにみんなは一人のために(One for all,all for one)

そういうものとして街はあった,それが失われたのが原発避難区域の街だったのである。
いづれにしろ人間の働くことも多様でありそれをもはや解きあかすことはできない,これだけ複雑な社会になると余計にそうである。
ただ基本的に人にサービスするということが働くことにはある。
実際に鉄道でも人々がそのサービスがいらないとなると維持できなくなる
そのサービスが必要ないということは人のためになっていなから鉄道で働く人もいらないとなるからである。
その人のためにサービスすするにしても社会が変わればまたその職でもなんでも変わってくるのである。
ただ基本的に人に何かを与えるサービスするということが働くことのベースとしてることは確かなのである。
ニートとか無職は何も与えないから社会から責められることになるのである。
働かない人が金をもっていても批判されるのは人にサービスすることをしないからだともなる,何かを与えないからだともなる,ただもらうだけの人だったらその人は例え金があっても批判の対象になるのである。
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2017年07月28日

日本人には外国人メイドを使えない (主従関係が作れない)


日本人には外国人メイドを使えない

(主従関係が作れない)


日本にバックグラウンドのない外国人メイドを雇うなら 
はっきり主従関係を作らないとお前の財産は奪われ 
下手したら殺されるかもしれない 
それぐらい外国で育った環境は日本のと違う 
それさえも周知しないで 
外国人家政婦を始めるなんて間違い 

責任の所在もあやふやのまま 
数件家政婦が主人を殺す事件が続いたころは 
一儲けした企業も撤退して終わり 
こんなの目に見えてる

日本人って白人みたいに移民を奴隷扱いできるわけがないのがよくわかる。 
むしろ日本人が奴隷になってるよ。


自分の家でお手伝いさんを使ってわかった。お手伝いさんといっても一時間もいないから家政婦とも違う,今だって皿二三枚洗うだけである。10分で終わる

むしろ日本人が奴隷になってるよ。

まさに自分の場合はこれだった,どっちが使われているのかわからないのである。
一人は本当に大金を奪われたしへたすると殺されるかもしれないというのは経験でわかった,経済的差がありすぎると人間は危険になる
そもそも人間だからなぜこの家はこんなに金があるんだと家に入ると実感する
その差が大きすぎるから不満が大きくなるのである。

主従関係がある社会なら通用する,江戸時代だったら侍階級がいて仕える者がいた
それはそういう社会の中で生きていたからできたことである。
戦前でも中産階級で二人も女中を雇っていたというとき家事労働が女性の働き口であり他にないからそういう社会で女中という仕事が一般化していたからできた

今は一般の家庭で家に入れて女中を雇うことはできない,大金持ちであるならばできる,でも30万くらい月給を払わないとできないしそういう家政婦を雇うことが習慣になっているような金持ちでないとできない,日本では外国人をただ安く使おうとしているだけである。

そして戦後は徹底して平等を教育で教えられてきたのだ,平等意識が極端化している
あらゆることが平等でないと不満になる,才能でもなんでも平等であり才能があったとしてもみんな同じでなければならない,突出したものは許されない社会である。
日本ではもともとそういう平等社会だったけど民主主義になって極端になったのである。家の中に入るとその差が目に見えてわかるから家の中に入れることは危険なのである。
なぜここの家はこんなに贅沢なんだとかなり不満が大きくなる
それが具体的に目に見えてそうなるから危険になる

日本では平等意識が強いというとき雇う方でもそうなのである。お手伝いさんが家族の一員のようになってしまうのである。それはいい面でもあるが外国人を雇うとしたらそうはいかない,外国人も人間だから家に入れば家事だけではない人間として扱うとなるとめんどうになる,日本人はやさしいから余計にそうなる
すると家事だけではないその他に負担が増えることは確かである。
危険も増してくる,外国人だといつでも国に帰るということもあり一時的だから余計にそうなる

ヨーロッパでは貴族がいて階級制度が歴史的に作られてきた,ローマでは奴隷を使っていたとかそういう歴史がある,スラブ民族のスレーブは奴隷の意味である。
奴隷になる民族がいたということである。そういう伝統があって召使を雇うことができていた。でも結局相手が人間だから黒人でも平等を要求してくるし今でもその問題は解決していないのである。
つまり人間は機械の部品ではない,その部品のように人間は使いないのである。

江戸時代の主従関係は歴史的に作られてきたものである。戦国時代に生死をともにするということで強い絆が作られてきた,それはもう現代のような金だけのつながりではない
精神的に強いつながりを歴史的に形成されていたのである。
それは家族ぐるみであり地域も一体化して作られてきたのである。
ヨーロッパではさらにそういう伝統があり言葉まで庶民階級とでは違っていた
ただ日本でも侍言葉がありそれを庶民が使うようになったこともあるからにている

いづれにしろ普通の家庭で外国人をお手伝いとして家政婦として雇うことは日本ではむずかしい,そういう伝統もなくなっているしそういう社会でもなくなっているからだ
ただ便宜的に金で雇えばいいとはならない,人間は何でも金では解決しないのである。
家事は機械化して今では一人暮らしでも困らないのである。
一人の人間が外国から入ってくることはその背景に国の歴史とか宗教とか様々なものがもちこまれるのである。そこに衝突が生れてテロにもなっているのがヨーロッパなのである

では人手不足をどう解決するのか?それは日本で別な方法で解決するほかない
外国人を安易に入れると日本社会そのものが変質してくる
それでも外国人を入れるとなると相当な覚悟が必要になる
日本社会が変質してもいい,外国人を許容する,そういう寛容さをもつ
でも本当に日本人がそれをできるのか?それに耐えられなくなるだろ。
外国人を入れるとすると簡単に安い労働力としてだけではすまなくなる
その覚悟があれば国民にあれば入れるということはできる
安易に外国人を入れることは危険になる
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2017年07月26日

金の価値がなくなる時代 (働く人に価値がでる-一時間の労働で一万五千円とられた)


金の価値がなくなる時代


(働く人に価値がでる-一時間の労働で一万五千円とられた)


雨漏りして困った、その場所が危険な場所で見えない、大工さんに頼んだがなかなかこない、その雨漏りが雨が強くふるとびしょびしょになる
一回みてもらったが高い所で危険な場な所であった
木の剪定をしてもらったが一時間くらいしか働いていない
だから一万で間に合うと思った

そしたら一万五千円要求された,高いなと思ったが払わざるえない
その人は危険だったからだという
ほかに頼む人がいないからしょうがない
今はこうした仕事する人がいなくなっている

今は人手不足であり人が集まらなくて建築関係では倒産したり会社でも新しく始められない、それほど人手不足は深刻なのである
そうなると賃金が高くなるのだ、つまり金をもっている人がいてもその金の価値は低くなる、第一利子もつかないし投資してももうからない、もうかるのは銀行だけなのである。手数料をひかれてもうかるより損する度合いが大きいのである。

何か技術が必要だったり危険な仕事は高くなる、もともとそうだったがこれからますます高くなる、ということは金の価値が減少してくるから金をもっていても価値にならなくなる、そういう時代であり働く人の価値は高くなる
老人はもう働けないかち金をもっていても価値がないとなる
でもそれが正常な姿なのかもしれない、働く人の価値が高くなることは悪いことではない利子とかでもうけることは働かないでもうけることはむずかしくなっているのだ

そして人のあまりできないことをする人は賃金が高くなる
このように一時間でも一万五千円とかなる
でも頼まざるを得ないのである。
こういう仕事をする人がいなくなっているからである。
供給する人が多ければいいがなければ高くなる
医者でも多ければいいが歯医者のように多くなると需要と供給の関係で賃金の格差がこれから生まれてくる、その時々で賃金も価値も変わってくるのである。

それはAIとか機械化しても同じである。人間にしかできないことが必ずありそれをできる人の賃金は高くなるのである。大工でも危険な仕事がある、屋根に上ったりするのは危険だから賃金が高いとなる、そうしてそういう人がいなくなるとその人の価値は高くなる、賃金も高くなるのである。
だからこれからどれだけとられるのか心配になる
でも直さないと雨がどんどんもれて家がだめになる
まず家というのは何かこうして修理代とかで金がかかるから資産がないと維持できないのである。
こういう点では借りている方がいいともなる、いづれにしろ人間の価値と仕事の価値は時代によって絶えず変わっている

自分の家は大きな家でも当時は50年前くらいになるが400万だったのである。
今だったら軽く3000万以上する建物である。
その時大工の賃金が安かったのである。すぐに何倍にも高くなったのである。
それでその前に建てろと言って建てたのが良かった
古い造りであり土壁で職人もいなくなっていたのである。
土壁の家はその後なくなったのである。

家にも歴史がある、この家は50年の歴史を刻んだともなる
他でも家には歴史がある、だから原発事故で避難した人たちは家に愛着をもつことはある特に老人はそうなる、思い出が家とともにあるからだ。
そのことが大きな精神的損害だったのである。
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2017年07月16日

移民の是非、少子高齢化、人手不足、AI化 (労働環境の変化)


移民の是非、少子高齢化、人手不足、AI化

(労働環境の変化)


これが同時平行的に起きている、人手不足が深刻化して会社が倒産するとか起業もできないとか起きている、人が集まらない、八〇歳の老人は横浜からここに来ていた
そんな人まで雇わなければ人がいない、ベトナム人からネバール人からスリランカ人からと中国人もいるが増えてきた
阿部政権は移民を支持している、経団連も支持している
安価な労働力として移民がいいとしている
ところが移民がなぜこれほど問題になるのか?
移民が日本に来て働いてどう思うか?

それは自分たちの貧乏をさらに意識する、なぜ日本人は豊かな生活をしているんだと実際に実感する、日本に来て贅沢な生活をしている人を知る
それで不満がかえって大きくなる、もし戦後十年のように電気製品も何もないバナナすら食べれない時代だったらみんなが貧乏だから貧乏を意識できないのである。
貧乏とか才能とか美貌とかは比較するとき顕著に意識させられるのである。
体力でもそうである。

花でも赤い花があり青い花があり黄色の花がありそれはかえってそれぞれの個性が一緒になるとき映える、自然の場合はそれで調和している
人間の場合は比較することでかえってそのみじめさや才能のなさや体力のなさでも意識されて不満になるのである。

貧乏というとき移民問題でもお手伝いさんとかが家政婦とかが一番意識する
皿二三枚洗ってもらうのにどれほど雇うほうでは大変なのか?
それは他人でも親戚でもそうだった、人のためにちょっとのことでもする人はいない
まずたいしたことをしなくても金が欲しいしかないのである。
それで泥棒だったり借金に首が回らない人は大金をまず要求してくる

つくづくそのお手伝いさんは今は四〇くらいの息子のためには食事も用意して世話をしてくれる、自分に対しては皿二三枚しか洗わないのに要求が多いのである。
金を絶えず要求してくる、前借りだとかなんだとか要求してくる
だから今になるとつくづく家族のありがたみがわかった、自分のために食事は三食用意してくれたし家事もしてくれた、他人になると金の要求しかないのである。

これを移民問題と共通な問題としてあることを知った、移民とは人間でありロボットのように使うことができない、食欲も性欲も様々な欲も日本人に住んでいる人と同じようにある、すると同じ家にお手伝いさんのように入るのとにているのである。
人間だから家族がいて仕送りするとかいろいろ困ることがあり相談するとか要求もする
問題も起すし犯罪も起す、それは相手がロボットではない人間だからである。

だからいくら安価な労働力として入れてもコストがかえってかかってくる、福祉だってかかる、移民はさらに文化が違うからヨーロッパでもそうなように問題を起こしやすいのである。それまた人間のやっかいなところである。
むしろローマのように戦争に勝って奴隷のように使えればいいとなる
でも結局相手が人間だからそれもできなくなった、人間である限り平等を追及するし要求する、やがてスパルタクスのような奴隷の反乱が起きた

家事手伝いの奴隷は多少は人間的な扱いを期待することができたし、場合によってはお金や財産を手にすることもできた。この財産はペクリウムと呼ばれ、法的には主人によって所有が認められた私有財産のことであった。つまり早い話が、奴隷は自分の好きなようにお金を使用できたということだ。

この指摘は面白い、家事手伝いの人がなぜこうなったのか?それは相手が人間でありいくら奴隷でも家の中で働けば情が移り家族の一員のようになる
相手が人間だからいくら奴隷として雇っても雇う方も人間であり雇われる方も人間だから人間として扱うようになる
だからある有名な俳優がお若い女性の手伝いさんを家族のようにかわいがっていた
でも子供が生まれてから子供に愛情が移りお手伝いさんに冷たくするようになったとかでお手伝いさんがその子供を殺す事件も起きているのである。
まさに家族の一員になっていたのである。

ローマにとって一番の悩みは、奴隷が取れなくなったらどうしようということでした。
なぜかというと、蛮族の抵抗も強くなったことで、奴隷を得ることは難しくなり、次第に海外領土を獲得することが難しくなりはじめたのです

奴隷が繁栄の基になっていることには限界がくる、人間は奴隷にして扱うとういことはできなくなる、それがやがてその国すら危うくして滅亡させる、ローマでは自国民が戦うことなく外国人の傭兵に頼りやがて滅んでゆく
この奴隷問題はヨーロッパに歴史的にあり黒人を奴隷としてアメリカで使うことによりそれが後の災いとなったのである。
スラブ民族とかがあるがそさはslaveであり奴隷のことだった、奴隷民族として見られていたのである。
アメリカの移民問題もメキシコからの大量の移民でもやがてアメリカがヒスパニック系なしではありえなくなり白人はもう人口的にも半分以下になり支配層も変わらざるをえなくなる

移民の是非を考えるとき移民も人間であり安価な労働力として奴隷のように使えないことである。相手は働くロボットではないからである。
結局こういう歴史があるとき移民に頼るときそれは国を滅ぼす結果にもなる
ただ世界史を見れば人間の歴史は強壮な民族が勝ち残り弱い民族は国は滅んでゆくから
移民に頼るときすでにその国は衰退しているのかともなる
ヨーロッパでもイスラム系にとって変わられるとかアメリカでもヒスパニック系に変わるとかなる、中国でも漢民族がなお中核として生き残っているが多国籍国家である。
だから遊牧民とかが絶えず侵入してモンゴルのようにジンギスハーンのような大帝国が生まれるのである。
日本ではそういう外国人の侵入が海に囲まれてないから民族として国としてこれまで維持されてきたのである。それが強みでもあり弱みにもなる

いづれにしろ人手不足が深刻になるときそれがいい面と悪い面に働く、どうしても国力は衰退する、でも会社では人手確保のために働く側にたたざるをえなくなる、働きやすい環境を作り人を呼び込む、働く方も会社に選ばれるのではなく働く方が選ぶのである。
そうなると労働の質が重視される、ただ賃金だけではない、生きがいを追及するということにもなる、これは今までにない労働の価値が生まれてくる
それはいいことなのである。労働の質を高める、今までは物でも大量生産であればいいがこれからは物の質を高めるようになっているのと同じである。

そして少子高齢化とかでも労働力が不足するときAI化が促進されることになる
家事でも戦前は中流階級でも二人も女中を雇っていたとかあった
それだけ家事のしめる仕事の割合が大きかった、洗濯するのにも洗濯板でごしごし洗っていたのだからその手間は並大抵のものではない、ご飯を炊くのにも竈(かまど)でしていたこれは薪をくべて煙もでるから汚れるし手間である。
家事の労働力が時間的に大きく他のことができないとなる
今は家事が電化したのと外が買ってまかなうので一人暮らしは困らないのである。
自分は全部家事一人でしている、お手伝いさんは皿二三枚洗って終わりである
後はなんにもしないのである。だからその人はお手伝いさんとはいえないのである。
時間にして五分もかからないからである。
そしてあとは全部自分でしている、でも時間があるから知的な創造的なことも追及できるのである。

要するにAI化やロボット化は時代の要請で不可欠なのである。移民だと問題が起きるし
人を雇うことは会社にとってコストがかかりすぎる、すると自動化、AI化、ロボット化は不可欠なのである。ロボットは人間のように文句を不満を言わないからである。
人間はともかくきりなく不満があり欲がある、ロボットの文句を言わずやってくれることはない、必ず不満があり要求だけが大きくなるのが人間なのである。
それは移民でも同じなのだ、色が違っていても人間だからである。

だから今や自動化、AI化は不可欠である。そうすれば移民を入れなくてもすむ、そして
人間が雇われなくなり失業するということも確かに過渡的には起きてくる
でもそれが人間の歴史だった、技術革新はとめることができない
そして人間の働き方も変わるのである。労働の質を求めるようになる
ロボットのような仕事はしなくてもいいとなる、すると人間的なものがロボットにはAI化してもできないより人間的なものが追及できる社会になる

芸術などはAI化してもできないから高い評価を得るようになる、何か他に医者でもAI化すると人間とのコミニーケーションにたけたものや情がある医者とか看護師でも介護師でも要求されて給料も高くなったりするかもしれない、価値観が変わるのである。
人間の歴史では常に価値観は変わってきた
そうなると教育すら変わらざるをえない、今までのような教育の仕方では人間の創造性が発揮されないからである。
人間はより創造的に感性をみがくとか庶民レベルでも情がある人選ばれる、価値ある人となるときそれはいいことなのである。
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2017年07月03日

なぜ疑心暗鬼になるのか? (犯人が特定できないから)


なぜ疑心暗鬼になるのか?


(犯人が特定できないから)


今回の自分の家で起きた侵入でも金庫が確かに閉まってあけられなくなっていたのに開いていた、このことは一番の謎である。金庫がこんな簡単に開けられるものかと思ったからだ、まず金庫は小さいものはほとんど役に立たない、自分のは小さな金庫だった
それにしてもこれも不可解なのである。

すると犯人は誰なのか?それも探り得ようがない、外部のものか内部のものか、一体誰なのか?一回内部のもの犯行であり手痛い目にあったがそれは犯人が疑いようもなくはっきりしていたのである。それで自分は津浪が来る前の半年以上その人に対して呪いつづけていたのである。
額が大きいからそうなった、その人に呪い続けたというときその人だと疑いようもなくはっきりしていたからである。
これも呪うというときはっきりと呪う対象が明確化されないとできないのである。
その後は自分はあきらめた。

今回のまた別だった、誰なのか皆目検討もつかない、そこが不気味なのである。
こうなると疑い内部のものへ、回りのものへとあらゆる人に疑いをもつようになってしまう。これもまた困ったものになる
そう疑われる人も嫌だろう、実際は関係ない人が多いからである。
そこでなぜ警察では犯人の逮捕急いだり犯人でないものまで犯人にしたてたりするのか?
それがわかった、市民に不安をもたらすからである。
誰が犯人かわからない、すると住民は不安にかられる、その不安が実際に相当広い範囲に広がる
もし犯人が特定されてそれが真犯人でなくてもつかまえると安心することがある
それは人間の心理なのである。

加計学園問題でも東京都が利権化されていたがそれが闇につつまれている、それも明らかにされないということが疑心暗鬼をもたら国民に都民に不信感をつのらせる、はっきりさせてくれとなる
それをしないから不信感がつのり結果的に選挙で大敗したりする
苦しくてもこういうことをしましたと党なりで明確化して謝罪するとかすれば安心はする
でもその時信頼を一挙に失うからしない、しないとまた疑心暗鬼になってゆく
そういうことが最近の問題にもあり常にあったことでもある

このことは良く世界を操っているのはロスチャイルドだとかなにか常に言われる陰謀論とにている、その正体が実際はわからないからだ。
本当に世界を操るほどの力があるのか?それもわからない。
だけどそれが根強く存在するのは犯人が特定できないことにある
すると人間の心理として誰かに特定のものがその犯人だとしたい心理が働いているのである。

疑心暗鬼の問題の深刻さは厚い雲となって社会をおおい晴れないことなのである。
暗雲となってたれこめて消えないのである。
もしその暗雲が晴れるとするとともかく誰かが犯人であり特定される
そしてその人を弾劾して死刑にしてでも罰すると何か安心して暗雲が晴れるとなる
だから犯罪というのは無数にあるし犯罪を犯さない人もいない

ただその犯罪がもたらす影響について考える人はいない、もちろんそんなことを考える余裕があるなら犯罪など犯さないのである。人のことなど考えられないから犯罪を犯すのである。そして犯罪に対して理解を深めるというときそれは犯罪を受けた人が犯罪でいろいろな被害が受けるわかるのである。
人間は何かこの世で事件があっても無関心である。それは自分とかかわならいからドラマのように見ているだけなのである。
病気にしたって自分が病気を経験していない限り他人の病気には無関心なのである。
ただ今回の自分の熱中症のように誰にでもなる可能性がありそのことを書いたら警戒する人がでてくる

いづれにしろ副島氏が実際に盗難の被害にあって考え方が変わったというときそうである今までは他人事だったがそうでなくなったのである。人間は理論上は理屈は言えるのだが体験から語るのとただ理屈として語るのは違ってくるのである。

元日弁連副会長の岡村勲弁護士(71)の自宅で、 
夫人の真苗さん=当時(63)=が訪れた男に殺された。 

犯人(66)は山一証券との株取引で損をし、 
そのうらみから同証券での交渉相手だった岡村弁護士宅を訪ね、 
応対に出た夫人を用意したナイフで刺し殺した。

岡村弁護士は犯罪の被害者になって初めて「司法と被害者の距離を実感した」という。 

ここで死刑廃止論者が死刑を望んだのである。死刑廃止というのは理論的には人道的でいいとかなる、でも自分の身にふりかかったとき全く違ったものになる
株の恨みも怖いものだと思った。

疑心暗鬼になるとみんな信用できなくなる、それが深刻なのである。
もし誰か特定されればそういうことはない、それは病気でもそうだろう、何か病名判断してこういう病気ですからこの薬を飲んでくださいというとき安心する
あなたの病気は何の病気かわかりません、一応この薬を飲んでくださいとなると安心できないのである。
これは明らかに人間の心理なのである。人間は心理的なものがかなり影響する
人間の心理を知れば営業などでもうまくいく、まず体が弱っているときは薬を売りやすいそれが効く効かないではなくその時とにかく何か処方されて安心したいという心理があるからだ

いづれにしろ疑心暗鬼状態は影響が大きい、側近でも回りでも信じられなくなるからである。だから国を攪乱するには内部からすると効果的である。
日本の国内には在日であれ中国系であれまぎれこんでいて日本を操作していると常に右の人がいうのもそのためだろう。マスコミはそういう操作するものとしてある
でもなんかそれも明確化されていないから疑心暗鬼になるのである。
スパイがまぎれこむとみんなスバイに思いこんでしまうのである。
そうして疑心暗鬼になることで戦国時代であれば一つの藩の結束が失われる
国でもそういうことが起きてくる、内部攪乱されることの怖さがある。


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2017年06月29日

コンビニの立ち読み(新聞)を注意された (コンビニやスーパーは御得意(おとくい)さんにならない)


コンビニの立ち読み(新聞)を注意された


(コンビニやスーパーは御得意(おとくい)さんにならない)


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この人は時々新聞を買っている

一カ月の間に10回かっているときもあった

今は立ち読みしているが買うかもしれない

だから注意をしない方が良いかもしれない

なぜなら一回注意したら買わなくなるから

こういうふうに継続した見方ができないのがコンビニでありスーパーなどである

この「立ち読みお断り」システム、かえって売り上げダウンになっていませんか。

立ち読みさせろ」って言ってるのではありません。買う前にすでに買ってある本と重複してしまわないかどうか(単なる増刷版だったり、単行本→文庫化だったり)チェックしたいのです。

コンビニより先行して立ち読みをお断りを全面に出したことで売り上げが上がりました。


大体この店の雑誌コーナーには立ち読みはご遠慮くださいという注意書きもなかったんや
なのにこのクソ店員にわしの立ち読みを妨害する権利があるんかいな!
わしは客はやぞ、客が居心地よく買い物出来るようにするのが店員の役目やろうが!


コンビニでもスーパーでも量販店でも問題になるのはおとくいさんとか常連客とかになれないことにあるのだろう。ただ人は物を買う人でありその人がいくら買ってもおとくいさんではない特別の人ではない、ただ多く買えばそれで商品券などがもらえるとかだけである。

人間の歴史をみれるとき言葉を調べるといい

客というときcustumerでありカスタムは習慣のことである。習慣のように常時通ってくる人である。そういう人が客なのである。

前に十年間コンビニに通ってもパン一つ間違ってボケットに入れた犯罪者扱いにされたことがあった、つまりコンビニとかでもスーパーでも電気量販店でもお得意さんになることがない、ただ電気量販店ではカードでその人がどれだけ店から買っているかわかるから多くかっていると違った目で見るかもしれない

今日はセブンエレブンで新聞を日刊現代と日刊フジとかを立ち読みして注意された
新聞は読むのは禁止されているみたいだ、でも新聞でもどんな記事があるのかと見ることがある、自分は結構買っている、ニュース関係に興味があるし自分もプログで書いているからだ。今日は卵とパンも買っていたから何も買わないわけではなかった
新聞に関してはローソンでも注意されたから禁止されているのかもしれない。
ただ自分は時々買っているから買わないということはないのだ
その日によって記事を見て買っているのである。

何かこういう問題は現代の商店の問題がある、つまりいくら買ってもお得意さにならないコンビニでも外部の人がくるしコンビニの店員も変わる、でも田舎だと同じ人がいる
その人は前にもみかけたのである。
現代は今までの社会を見直す時代に来ているのだろう。
確かに便利なものを追求してきたしそれはそれでいいものであった
でもそこにも何か足りないものを感じるようになった、車社会も飽和点に達したとき車社会で失ったもの自覚するようになった。
人間社会というのは商売でも同じ形態がつづかないという
それはなぜなのか?人間の求めるものが時代によって違ってくるからだろ
一時代はそれで良かったのだがまた何か欠けたものを意識して見直される
豊かになれば便利なものを安いものだけを追求しても売れないとかなってくる

自分が新聞の立ち読みは禁止にしろ感じたことは一応時々新聞でも買っている
するとその人が何を買っているかを量販店のように見れるといいのである。
カードだとスーパーでもコンビニでも何を買ったとか買った履歴が出てきてわかる
それは通販ではしている、何を買ったかを履歴でわかりそしてその人にあったものをすすめる、でもこれもあくまでも対面ではない
ある人はしょっちゅうキクチスーパーに対して文句を言っている
店員の対応が良くないことをしきりに言うのである。
シシドスーパはいいといつでも言っている、よほどキクチスーパーの対応に不満だったのである。別に自分はそんなものだと思っているから感じない
女性は細かいことにこだわるからそうなるのかもしれない
でもこれもいくら買ってもお得さんにならないということに問題があった
店員にとってお得意さんなどない、店員もまた変わりやすいからである。
ただクレマーというのもいて店員だけ悪いということない場合がある
その人はクレマーの面もあったからだ

それで確かに武田邦彦氏の言うシャッター通りが回復するという、メーカーが量販店と同じ値段で店に売らせるというのだ、そうなると個人的にサービスを受けられる方がいいという人がでてくる、特に老人にはいいのである、老人は電気製品でも使い方などいろいろわからなくなっている、すると説明されたりどういうものを買ったらいいかなど相談できるからである、これもまた時代の変化でそうなってくる
スーパー、コンビニ、量販店などで欠けていたものが補えるからだ
そもそもスーパー、コンビニ、量販店でもいつまで続くとは限らないという人もいる
また新たなものに変わってゆく、その一つが通販が盛んになったことである。
またそれと同時に小さな個人商店も復活することもありうる、それは前のようなものではなく新たなものとなって復活する

ただ雑誌が見れないようにして紐でしばっているとかえって売れたというのも不思議である。あのようになれば自分は買わない、自分が買うときはどういう記事なのか、ある程度知らないと買わないからだ、それは本でもなんでもそうである。
田から新聞でも今日はどんな記事があるのかと買う時買わない時がある
ただ今回新聞は立ち読みが注意されたからもう買うか買わないとなると買わないとなる
別に買わなくてもいい方が多かったからそうなる
ともかく問題はその人がどういう客なのか10年間通っても関係ない、おとくいさんにカスタマーになれないことが問題にある
それは店の方でも客になる方でもいいとならない、双方にとって良くない
ただこれも時代でありそういう売る方と買う方両方に見直すものが生まれてきたのである
個人の仕様に従って作られる

(made according to the specifications of an individual)

これからの売る方と買う方の関係はこうなってゆくのではないか?
個々人に対応する売り方である。個々人の求めるものが多様化したからである。
例えは食堂に毎日のようにゆくとする、すると同じメニューではあきる、それで今日はあたのために一品違ったものをそえましたとかなるとうれしい、またあなたの要望によりつくりますとかなるとうれしい
ただそうなると作る方もめんどうになる、金もかかるとなるからむずかしい面はある
都会だといろいろオカズを用意するがそういう需要が田舎にはない
人が少ないからないのである。都会では老人様の食堂もできているからだ。

そうした多様性に答えるものとしてキーワードで調べるインターネットの情報システムに移行したというのもそうである。
実際はやはりインターネットで日刊新聞でも読む時代なのだろう。
ただそうなると月いくらと払わねばならない、他にも読むものがあるから金がかかりすぎるのか問題なのである。それでいくつもの雑誌を読めるというサービスが生まれたのも時代である。
ともかく時代は常に変わっているのである。その変化に対応できないと商売でも何でもうまくいかなくなる、その変化をなかなか読めないのである
だからいつまでも今までの商売の仕方が変わらないということはないのである。

シャッター通りの大変革!(武田邦彦プログ)
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2017年06月28日

金庫が開き証書がなくなった謎 (泥棒のプロが入って来たのか?)


金庫が開き証書がなくなった謎


(泥棒のプロが入って来たのか?)


証書をとりごそうとしたらなかった、それはいつもの場所に置いてあいていたはずである他に置かない、何枚かあった、銀行の人が来たので出そうとしたがなくなっていた
それがなぜ忘れたのではないと自分で思ったのはダイヤル式の金庫が空いていたのであるダイヤル式の金庫は暗唱番号がわかなくなり閉めたままにしていたからである。
それを使わないで失敗したこともあった、そもそもダイヤル式の金庫は開けられないはずである、でもプロになれば開けられるのかもしれない、鍵屋だとできる
そういう機械があるからだ、ただその金庫には一銭の金も入っていなかった、書類もなにも入っていない空の金庫だった
今回は内部のものではない、第一金庫は開けられないからである。
外部のものだとすると物騒になっているとなる、ただ夜に入って来たとは思えない
それでも二階に寝ているとわからないということはある
証書は二階に置いていた、だからこれも謎である。どこか別な所に置いたとういことありうる
何か一人暮らしは物騒になる、不用心になる

別に今回は何の被害もない、小銭も盗まれてもいない、証書はめんどうでも再発行できるし通帳もあり印鑑もある、実際の被害はなにもなかった
だからなんとも不思議だとなる、第一証書をもっていても金を引き出すことは不可能だからである。ではどこか別な所に置いたのか?
そう思えないのはどうして金庫が開いてのかということである。
それで誰かかが物色したのかと思った
内部のものではないというときとてもダイヤル式の金庫は開けられないからである。

ただ一回も外には出かけていない、留守にしたことは昼間にあったが一日も外に泊まったりはしない、その間に戸を開け忘れたことはあった
それで入り安い面はあったがそこも謎である。
謎ではあるがプロが入ってきたとしか思えないのだ

別に被害がないから騒ぐこともない、ただ結局金は親族でもどんな人でも信用してまかせられないというのは本当だろう。

税理士も、親戚も旦那も妻も子供も信用してはいけない

「だまされるな」「警戒せよ」「用心せよ「「近寄って来た人間は信用するな」

税金恐怖政治が資産家を追い詰める(副島隆彦)

これが金に関してはこうなる、妻子でも信用できないのである。
タンス預金しているといつのまになくなるというとき家の者が使っているのである。
それが金というものなのである。だから万全の安全対策が必要である。
その安全対策をしていない人が悪いのである。自己責任になってしまうのである。
会社でも銀行だって横領事件が必ずある、だからこそ管理をする、調査することが義務なのである。信用するしないの問題ではないのである。

金に関しては人は信用できない、これは別に人を信用しないということではない、金がかかわるといくら信用ある人間でも別だと割り切るべきなのである。
いくら信用したって金に関してはそういうことが起きるからだ
今のように格差社会とか貧乏社会になると常に金は危険なものになる
これは覚悟してなけれはならない、副島氏も一千六百万相当が盗まれた
一千万くらい手元に置けと講演していたというから馬鹿だとなった
それも自分で経験している、タンス預金はするべきではない
盗難は巧妙になっている、仏壇の下に隠してもプロはわかる

そしてこんな有名な人でも警察はなにもしてくれなかったのである。本当に警察は何もしない、それが現実である。有名人でもそうなのだから普通の人は相手にもされない
そして昭和恐慌のとき(昭和5-8年)の時ものすごと泥棒が増えた、電気を夜もつけぱなしにしていたという、今もそういう時代にもどりつつあるというのは本当だろう
困窮している人たちが回りに増えれば必然的にそうなるのだ。
資産家にとっても格差社会や貧困化する社会はいいものではないのだ。
安心して寝ることすらできなくなるからだ。
資産家が高い塀で囲んでいるのもそうである。もう戦国時代のように要塞化でもしないと財産も守れないともなる、田舎でも困窮している人はいるし増えてくる

今は田舎も都会も同じようになっている、金に振り回されているのは同じだからである。資産家と小金もちは違う、この人は資産家だから被害も大きくなり不安も増大してゆく
監視カメラから金庫でも特大のものを用意するとか守るために苦労する
外国の資産家は警備員を雇っているからそうなる、日本ではいろいろなハイテクでも何でも利用して守るとなる
自分も今度は銀行の貸し金庫を利用することにした、いちいち出すのがめんどうでしなかった、なんとか整理できたから利用するようにする、金は妻子にもまかせることができないというとき別に一人暮らしだからではない、みんなそうなのである。
それが金というものなのである。

いづれにしろ自分は金の扱いとかわからないし大金を使うとかできない、そういう経験がないからだ、何か経験がないことをするのはめんどうなのである。
必ず失敗する、大金を使い慣れていなければ大金をもつと失敗することがある
日頃の習慣でそうなっているのだ。習慣の力は大きいのである。
いくら金が入ってたとしても金持ちのような生活はできないのである。
自分は資産家でもなんでもない、遺産でちょっと恵まれたというだけである。
でももっと困窮している人が増えていることで安心できない社会になったのである。

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副島氏


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責任は否が応でもとらされるのが人間 (金の多寡で責任の度合いも決まる資本主義社会)


責任は否が応でもとらされるのが人間

(金の多寡で責任の度合いも決まる資本主義社会)

●否が応でも」で、承知不承知に関わらず、何が何でも、という意味に用いられる

仕事や人間関係にトラブルが生じると、必ずといっていいほど始まるのが「責任の押し付け合い」です。誰がミスをしたのか、そもそも誰が責任をとるべきなのか、といったやりとりを見ると「責任なんて、背負いたくない」と思ってしまいますね。

自分が一度でもミスしてしまった場合、それがずっと自分の看護師としての人生についてまわります


ゴミみたいな給料で責任感持たせられてたまるかよ 
経営者が責任感の欠片も持ってないってのに


非正規は責任感が無い奴が多いよ 
実際、責任が無いからね 
要は投げやりなのよ

責任取らされたりするのが嫌で非正規選んでる人多いよ

非正規に責任はない 
正社員じゃないのだから会社の将来を考える必要もない 
やる気いらない、対価を稼ぐだけ 

派遣社員には責任感がない 
仕事に誇りを持って、その道を極める 
そういう日本人らしい労働姿勢こそが日本の誇りなんだよ 
責任感のない派遣社員増やしたの誰だよ

非正規は責任感ないっていうより、信用が出来ないから責任のある仕事は任されない。 
非正規採用である時点で会社から一線引かれてることに早く気付こう。

労働者側から見れば責任感やる気は対価に見合わないだろ。それがほしければ相当の対価を出せよ。



看護師とか医者はやはり厳しい、ミスを許されない職業だからそうなる
ミスしたら患者が死ぬこともあるから厳しいとなる
そのミスが一生つきまとうとなるのも厳しい
あの人はだめな人なのよとされてしまう。
それだけ責任をもたされている仕事だから待遇もそれなりのものになる


職業に貴賤はないというけどやはりそうして責任のある仕事と責任のない仕事に分けられる、掃除する人は多少汚れが残ってもそれが生死にはつながらないからだ
建築関係などでも手抜きしたりしたら本当は地震の時その結果が現れる
それは命にかかわってくる、タカタのエアバッグなどでもそうである。
その責任が問われて一兆円も損失となり倒産するようにもなる

例えば商品でも野菜でも安いならそんなものだろうとなる、高ければいいものでなければならない、電気製品でも三万のノートパソコンを通販で買ったけど壊れた、するとその値段だからそんなものだとなる、これが十万だったらあきらめることもできない
十万の責任がその商品にはあるとなるのが資本主義社会なのである。
値段によって責任の度合いが決められているのである。
家だって安ければそんなものだろうとなる、責任も問うこともできない
そのくらいしか払っていないのだからとなる

だから責任のある仕事にはそれ相応の地位と給料があってもしかたがないとなる
そうしないと本当はそんな重い責任の仕事を引き受けないともなる
非正規はそんな重い責任はとらないだろうしまかせられないともなる

ただ結局誰も責任から逃れられないようになっている、責任はまたカルマなのである。
その人が作り出したカルマなのである。そのカルマを果たすことが強いられる
そのカルマというときいろいろなものがある。
借金したということはすでにカルマを作ったことでありそれを他人に肩代わりできない
その人の家族のカルマとなってゆく、例えば子供をもつ人は持つ人で責任が生まれカルマをもつ、では持たない人は持たない人でカルマをもつ、身寄りがないとなるとそれも経験したように悲惨なことになる、それもカルマだった
ニートとか非正規とか責任ないからいいとなるが後で責任をとらされる
社会的に優遇されないし下流老人の最低限で生きていかなければならないとかなる
また金があっても身寄りがないとかなり苦しむ

要するに人間は生まれたことはカルマを背負うことなのである。生まれたこと自体責任を負わされているのである。子供が泣いて生まれてくるというときそのカルマを背負って生まれるからだともなる、
日本の国土に生まれたものは日本の国土のカルマを背負う、地震とか津浪が来るのもカルマだった、だからこいういう国土のカルマに原発は作るべきではなかった。

人間は責任をもてと言ってももちきれないこともある、裁判官などがそうである。
人が人を裁けるかとなったら裁けない、人は裁くなと神が言う時そうである。
それはあまりにも責任が重すぎるからである。
人を裁けるのは神しかないからそんな重い責任を負うことはできないのである。
最終的に責任をもっているのは神だともなる
なぜなら神は全能だから責任をもちうるからである。
人間は全能ではないから必ずミスがあり過ちがあるから責任がもちえないのである。

だから原発の「安全神話」などももろくも崩れ去ったのである。
そして誰も責任をとらないが責任を地元の住民は責任をとらされているのである。
責任は別に当人がとらされるとは限らない、事業に失敗すると家族でも親戚でも回りにその責任が及んでくるのである。だから事業は慎重にすべきであり回りの同意を得てやれともなる、失敗したら家族にその責任が回り親戚にも回ってくるからだ
それは原発ともにていたのである。
だから土地の所有者と県で許可するようなことをするべきではなかった
広範囲な住民との話し合いで対話してするべきものだったのである。
結果的には今や浪江の人でも他でも避難した人が住んでいるように広範囲なものとして
責任がとらされている、原発を作った町だけの問題ではなくなったからである。
もしそこだけで責任がとれればいいが回りにも波及しているからである。

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2017年06月23日

車社会を見直すとき (車は効率的な乗り物ではないー車社会の異常性に気づけ)


車社会を見直すとき

(車は効率的な乗り物ではないー車社会の異常性に気づけ)
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車を考えるとき車をもっていない人は車のことがわからないのである。
それで原町のモスバーガーが車のない人も入れることが二十年間わからずに大失敗だったいつも喫茶店を探していたがあの辺になかったがあったのである。
こういうことは車がない人にありうることなのだ、車社会になっているとき車のことがわからないのである。
だから車社会で車をもたない人は弱者になり一段と下のクラスに見られる、車もない貧乏なのかとみられる、そして金持ちは車の善し悪しで判断される、いい車をもっている人は金持ちである。
この辺で原発避難者は多額の補償金をもらった人がいてそういう人はいい車を買ったりしたからわかり反発を受けたのである。

車をもっていない人は車が社会でどう活用されているわからないのである。
ただ交通というとき鉄道が全盛の時代がありバスも活用されていた時代があり車社会になったのである。
車がなぜこれほど普及したのかそれは家からすぐに乗れて行動範囲が広がるからである。ただ車を見るとき車で見落としているのは盲点は車は空間占有率が高いことなのである。一軒車は小さいが意外と場所をとる、車は一台に一人しか乗らないことが多い
すると50人乗って移動するとどうなるか、50代の車が連なり百人になると百台も連なるのである。百台の車がつらなるとき道路をそれだけの場所をとる
だから渋滞にもなる、それで津浪のとき車が渋滞して被害になったのもわかる

誰でも車を日常的に使っていると何かあったとき車をまず利用しようとする、それは習慣なのである。自転車を足としている人は自転車を利用しようとするのである。
車は津浪から逃れるのにいいとみんな思っていた
ところが早いから逃げられると思ったが渋滞になって車が動けなくなったのである。
それは車がその時一度に百人も逃げるというとき百台にもなるからである。
それは道路を埋めて渋滞になったのである。
車は場所をとる乗り物なのである。例えは乗り物でもバイクとか自転車とかなるとそれほど場所をとらないのである。自転車だったら百台置けるところを車だと十台くらいしかおけないのである。それだけ場所をとるのが車である。
だから歩いて生活していた通りがシャッター通りになったりしたのは車社会になったからである。駐車するスペースがとれないからである。
道にとめて買物しているが危険にもなるからだ。

車社会を見直すというとき、車をなくすということではない、お前は電気もなにもない江戸時代に帰れとかいうとき電気をなくすことではない、車をなくすことではない
電車とかバスでももっと活用して車を減らすということである。
車は実際はエネルギー効率が相当に悪いし二酸化炭素も出している
エコな乗り物ではない、そして金がかかるということである。
車をもたないと生涯で二千万くらいかかるとも言われる
自分は車をもたなかったからそれだけたまったのかともなる
車に金がかかりそれで貧困化している日本では車をもつことは苦しくなっている
皮肉なことは都会は車なくても電車があるから暮らせる、田舎は車がないと暮らせないという矛盾がある、田舎では車は一人一台もっているのも贅沢だとなる

また高齢化社会で運転できなくる人が増えてくる、すると社会的弱者になり買物すらできなくなる、そういう買物難民がすでに増えている
車社会だから近くに店がない、みんな遠くにスーパーなどを作ったからである。
それも車社会が作り出したものなのである。
それが高齢化社会になったとき不利なものとして働くようになった。
高齢化社会はスロー社会だと暮らしやすい

盲人が電車に乗るのは停車時間が一分とか短いからである。それだけ時間も効率化したのはいいが障害者にとってはそのスピードに合わせられないのである。
それは高齢化社会になるとそうしたスピードに合わせることが苦痛になるし事故にもなる車社会が見直さなければならないというとき社会を歪(いびつ)にしてしまったことがあるからだ。街の中心部がシャッター通りになったり街としての機能を失ったとかである。
手押し車で買物も苦痛だという老人が街中にいた、近くに店がないからである。
だから高齢化社会は車社会を見直すのにはいいのである。
それは老人だけではないみんなにとって住み安くもなるのである。

例えば広域化社会とかグローバル社会とかも社会を歪にしてしまった。
そんなに遠くと関係して生活するということがいいことなのかどうかである。
基本的なものは地元でまかなうというのが人間的な生活になるからだ
そして足りないものは補うのがいいのである。
外部からのもので買ってばかりいることは豊かなことではない
ただそうはいっても矛盾しているのは自分は買物は地元の店ではしない
それは買物が毎日結構手間だからである。いくつもの店を回るのが手間になるからだ。
だからそういう矛盾は常にある。

車の一番の問題は何かというときそれが場所をとる、空間を占有する率が高い、実際に道路を毎日埋めて走っているのをみればわかる、それも日常の風景だけどよくよく考えてみれば異常な風景にもなる、車がない時代の人が見たらこれはなんなんだとなる
正常とか異常の感覚はとにかく慣れてしまえばそれが正常なのである。
何か異常と思えるのも社会に存在して慣れてしまえばそれが正常になるのだ。
その異常性に人間は気づかなくなるのだ。
車があって当然じゃないか、何を馬鹿言っているんだと実際なっているからだ。
車社会が正常なものであり車がないことは異常なのである。
戦争ばかりしていたら戦争状態が正常になり戦争がないことが異常にもなる

現代に何が正常なのか異常なのかわからなくなっている
それで異常なものにたやすく席巻されるのである。
それがカルト宗教団体とかであり他にも様々な異常なことがあっても気づかないのである車社会を見直すというときそういう異常性があるんだということを気づかない
車がこれだけあふれて空間を占有して金がかかりエネルギーを使い効率も悪いということを考えないのである。

この辺では原発事故で故郷が捨てられて空家だらけになった、その時異常の世界が映画のようにな世界になった、そして今までありふれたものが見直された
田舎の農家に通じる一本の道がアットホームに人のぬくもりを感じたというのもそうである、そんなの当たり前じゃないかとなるけど現実に人が住んでいない家がどうなるか
その異常な世界を見たとき今まであったありふれたものの価値が見直された
そのありふれたものの価値を見いだしていなかったからだ。

原発も異常なものだったが異常と認識できなかった、科学の時代に原子力があるのが普通である、先進国なら当然だとなっていた。だから原発が日本でこれだけ増えて危機感も感じないでいたのである。
人間は異常性に気づかないのである。車があるのは当然であり車がない社会は考えられない、でも車社会はもう飽和状態である、何か別な交通手段、今まである鉄道でも見直すときなことは確かである。路面電車などが見直されたのは実際に運行するようになったのはそのためである。ただそれも都会として規模が大きくないとできない
規模の小さい市町村では交通をとうするかが課題になっている
posted by 老鶯 at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2017年06月21日

格差社会で金持ちは日本に住めなくなる (金しか働くモチベーションがない時代の恐怖)


格差社会で金持ちは日本に住めなくなる


(金しか働くモチベーションがない時代の恐怖)


真面目に質の高い接客をしてほしいなら、バイトを正社員に変えてくれ!と要望するのが多分1番効果があると思います


バイトなんだから責任が重いものはさせるなとか質の高いサービスをさせてくれるなとか激しい労働はお断りだとか言える、賃金分しか働かないとなる、こんな賃金で働くの馬鹿らしいとなるのも当然である。
モチベーションがもてないのである。そういう人は社会に忠誠を尽くせない、ロイヤルティとか忠誠心は簡単に作れない、だから江戸時代とか戦国時代であれ主君に仕える侍がありえたのは今になるとうらやましいとなる
なぜなら主君とともに生死を共にするまでになっていたからである。
忠義とかの武士の道徳も生まれたからである。

今はそれだけの忠誠心を会社であれどこであれ得られない、ただ金で雇われ金で人を使い金が縁の切れ目で分かれてゆくだけの関係しかないからである。
人間のそうした強固な絆がどこから生まれたのか?それは経済的なものだけの関係ではなくなっていたからである。
そんな人間関係が現代では生まれようがないことを見ればわかる
正社員ではなくアルバイトとか派遣とか増えてくると余計にそうである。
派遣というのはまさに一時的に派遣される、時給でいくつもの会社に派遣されるだけでありその見返りは賃金しかないのである
派遣にはまたキャリアをつけることもできない、江戸時代の職人とかとも違う。
だから働くモチベーションがもてないのである。
ただ賃金だけがモチベーションになっている
もちろん資本主義社会ではみんな奴隷なんだよというとき労働は強いられたものでありみんなしたくないのである。

だから人を雇うことは特に家の中に入れることほど怖いことはない
その家に尽くすということなど微塵もない、ただ金が欲しいというだけである。
それで金をくれと来て家捜して金を奪うことも平気でされたからである。
今の時代働くモチベーションが金しかない、すると金のある者から奪うというのが一番効率的になるのである。
時代劇でも盗賊が強盗に入るために女性を女中として「引き込み女」として働かせて家に導かせるのが常套の手段である。
推理小説で家政婦が犯罪にかかわるのが多いがそれはその家の内情が詳しくわかるからである。家族の一員のようになるのが家政婦だからである。
だからこそ危険度が普通の会社で働く人より高くなるのである。
その引き込み女は女中してもただその家から盗むということしかないのである。

つくづくそういうことを実際に経験したからわかる、雇うにしてもそこには金しかモチベーションがないなら金持ちの家から盗むのが一番てっとりばやいのである。
なぜそうなったかというと働くモチベーションが現代では金しかないからである。
人間関係は家族意外は金でしか作れないとなまでなっている
それは親戚でも血縁でもそうだというとき金に関してはそれだけ厳しいものとして扱わざるをえないのが現代である。

税理士も、親戚も旦那も妻も子供も信用してはいけない

「だまされるな」「警戒せよ」「用心せよ「「近寄って来た人間は信用するな」

税金恐怖政治が資産家を追い詰める(副島隆彦)

こういう世界に生きることはこの世が金持ちでも地獄になる、心を許せる人もいなくなるからだ。家族さえそうなると金をもっていても安心できない、常に 疑心暗鬼で生きた心地もなくなる、そんな社会に生きたいと思うだろうか?

その人は毎日家で皿二三枚洗うのも嫌なのである。賃金は別にそれだけだったらわずかでいいのだか自分にしても三倍かくら払っている、でもその人は極力働かないですまそうとしている、家族だったらそうはならない、現実に息子がいてそのためには朝晩ご飯を作って世話しているからだ。その息子は働いていても金はそれほど出していないのである。
でも息子のためならそうして朝晩ご飯を作ってやっているのである。
それは自分もずっと親にそうしてもらっていたから今までは感じなかった
今やいかに皿に二三枚洗ってもらうことにさえ苦労しているか?
要するに自分のために何かしてやるという人はいなくなったのである。
だから皿二三枚洗ってもらうことなど今は必要ないからしてもらわなくてもいいのである
働くというときどうして働くのか働かせるのか?

●金のためだけ

●解雇される怖のため

●ミッション(使命)のため

●事故実現のため(work-作品の完成のため)

働くというとき雇用者はいつもやめさせられるという権力をもっている、それが雇われる人の恐怖となりやめたいのだがしかたなく働くとなる、それがブラック会社に多い
何か人間の弱みをつかんで働かせる、それはまさに恐怖政治とにている
人間を支配するのは恐怖を使う、マキャベリズム的手法である。
これはカルト宗教の支配でもそうである。宗教によって恐怖を与えるのである。
地獄に落ちるとかなんとか脅してやめさせないようにする、でもまたカルト宗教の場合は自らもその恐怖に呪縛されているのである。カルト宗教は地獄とか罰の恐怖しか与えられないのである。幹部も宗教に呪縛されているのだ。地獄と罰を恐れているのである。
精神的にも奴隷人間化しているのである。
なぜ創価が権謀術数の三国志を教科書としているのか?
宗教と何の関係があるのだろうとなる、そして世界平和のためにとか言っているのだから矛盾しているけどそれがカルトなのである。
権力とるために中国は何千年もそうしてきたからそれに学んでいるとなる、中国人はそれだけ権謀術数にたけているのだ。
それはあまりにも苛烈な社会で生きてきたからそうなったのである。

結局働くというときミッションのためとか自己実現の労働があまりにも少なすぎることなのだ。WORK(作品)がない。江戸時代の職人はWORKしていたが今はただ賃金のために金のためにだけ働いている、何かを消費するために働いている、それが労働のモラルを荒廃させているのである。
恐怖で働かせられているのもまさに奴隷だからである。
資本主義とか自由主義とか民主主義でもそこには必ず奴隷化するものがある
人間社会はいくら進歩した改革したとしてもそうなりやすいのである。
だからこの世は変わったようで一向に実際は変わらないのである。

前の親戚の人も事業に失敗したから要求するのは金であり借金だけだった
自分が病気とか介護で苦しんでいても関係ない、自分か困窮しているから他人のことなどどうでも良くなっていたのである。ただ金を欲しいということだけだった
だから荷物一つもつことさえ自分のために持つのを嫌がっていたのである。
それはみんなそうだった、金しかモチベーションがないからそうなる

もう一人の親戚の女性は自分の親に対して
おばちゃんは金があるんだから金にめんどうみてもらへ血相変えて去って行った
その女性は別に金に困っていない、金に恵まれたから何もしたくなかったのである。
金しかモチベーションがないというときどうなるのか?
例えば一人暮らしでも金しかもっていないとなると身寄りがないとかなるどうなるのか?
介護施設に入ってもモチベーションがないのだからすべて金になる
そこにはいたわりの気持ちもないのだから金をもらったとしてもその扱いはぞんざいになる、そういう人はこいつは金があるんだから奪ってやろうとも普通になる
なぜならモチベーションが金しかないからだ。
だからいくら金持ちでも今の資本主義社会では幸福になるとは言えないのである。
金持ちの親は必ず高額な施設に入れられるがそこで心のこもった介護はされないのである金で愛情とか心のこもったもてなしは受けられないのである。

現代が豊かでもみんなこんなふうに金だけすべてとなるとき不幸になっている
金持ちでも貧乏人でも不幸なのである。金持ちは金持ちで幸福は限らないのである。
回りを高い塀で囲んで泥棒から守ろうとしてもできない
日本では特にできない、狭い範囲で生活しているからできない
アメリカ辺りだと広いから黒人でも嫌なら近くに住まないとか棲み分けができているという、日本は国土が狭いからできない、特に田舎になったらもう徹底して平等を追求される金持ちは貧民に分けないと住んでいられないだろう。
そして今や格差社会になると金持ちはさらに危険になる
金持ちの家が貧民に破壊されることある、昔のように打ち壊しもある。
そういう時代になっているのだ。
太宰治の生家は高い煉瓦の塀を作り小作が暴動を起こすのを恐れていたのでそうなった
警官が警備員のようになっていた。今ならそうしていただろう。
つまりいくら金持ちでも田舎では安心して暮らせなかったのである

副島隆彦は千二百万盗まれてショックを受けたとあるがそれでも警察はとりあわなかった警察は殺人事件とか重要なものしか扱わない、一千万盗まれても扱わない
だから今どれだけの人がそういう被害があっても泣き寝入りしているかわからない時代である。わずかの百円盗んでも刑務所に入る人もいる
でもその何千倍なのかしらないけど多額の金を盗まれても罪は問われない時代になっている、盗まれ損なのが膨大になっているのだ。だまされた人もそうである。
警察は何もしない、そういう時代になっているのだ。

こういう時代はもう長く続かない、こうした資本主義も崩壊寸前なになっているのだ。
それは格差社会で決定的になる、暴動が起きたり打ち壊しになり金持ちも安心して住めなくなるからだ、金持ちも安閑としていられない社会だからこそ金持ちも格差があるのは当然だとか自己責任だとか言っていられない社会なのである。
なぜならそんなこと言っていると貧民の暴動が起きたりして財産を根こそぎ奪われたり殺されたりもする時代になっているからだ。
税金をとられるから海外で暮らせとかなんとか言っているけどそれも無駄である。
そんなことよりもう日本人を捨てる意外道はない
でも日本人として金儲けもできないし日本人として保護もされない覚悟はすべきである。もう日本では特別な金持ちの存在は許されなくなっているのだ。
小金持ちはなんとか貧民と暮らせるかもしらないけど五億円ももち資産まである人は一緒に生活できなくなる、非常に危険になる、命も保証できない時代になっているからだ。
それが貧困化した日本の実情なのである。

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2017年06月17日

付加価値の時代は新たな文化の時代 (フラワーアレンジメントから考える)


付加価値の時代は新たな文化の時代

(フラワーアレンジメントから考える)


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「姉妹」

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「清楚」


何やっても実際は簡単ではない、フラワーアレンジメントもただいろいろな花を挿せばいいと思っていたがそうでもなかった
それを知ったのはスーパーで売っていたすでにフラワーアレンジメントされたものだったそれは400円とか安くても作品として作られていて花束として売っていたのである。
それは簡単なようでもフラワーアレンジメントされていたのである。
それでそれを写真に加工してプログに出した

この花は結局ただ花を売っていただけではない、フラワーアレンジメントをしたのを売っていた、ということは花屋はそうしてフラワーアレンジメントして売ることが商売となるとき花を売るにしてもフラワーアレンジメントできないと売れないともなる
そうして結婚式と葬式のときは作って売っていることは確かである。

今回スーパーで買ったものは安いからそういうものではないと思った
ただ花をアトランダムに束ねただけかと思っていたのである。
でも良く見ると単純なのだがすでにフラワーアレンジメントとして作られていたのである。
フラワーアレンジメントは花が高いので金持ちでないとできない、ただ安いものでも売っているからそれでたりならいい、花をいろいろ買ってフラワーアレンジメントすると高くつくのである。
そして壺もフラワーアレンジメントの要素として欠かせない役割がある
写真をとると壺もとるから壺の役割が大きくなるのだ
壺によて印象が違ってくるのである。

これからの商売はただ花だったら花を売るだけでは売れない、単純なものでもフラワーアレンジメントされたものなら買うともなる
それは単純でもただ花を売っているのではない創作品だったのである。
そこに価値が生まれていたとなる
花があってそこに付加価値としてのフラワーアレンジメントがあるから価値があった

付加価値というときもともと機能的価値が基本にある、土器でもそれは物を入れるものとして機能性を追求する、でも今度は装飾性を追求する、それが縄文土器となった
機能性に付加価値を加えたのである。それが芸術だともなる
何でも最初は機能性を追求する、茶の湯でもそうである。茶碗はただお茶を飲むものでしかなかった、それが茶の湯に発展したのである。
それが人間的なことであり文化なのである。

つまりこれだけ物があふれると物としての道具としての機能性より付加価値があるものが求められる、なぜなら機能的な面は今度は機械化され自動化されるからである。
でもそうしても駅でメカニカルなものとヒューマンなものとして分けて見た
いくら機械化しても自動化してもそこにヒューマンなものが必要になる
そこに価値が生まれる、機械化すれば自動化すれば余計にヒューマンなものが価値が出てくる、ロボットには愛などは生まれようがない、ただ高度な知性は備えるようになる
でもヒューマンなものは必ず求められる、それが付加価値になる

要するに今は物があふれているから物だけ売っても売れない、そこに何でも付加価値が必要になる、それは芸術的なものとなる場合もあるしその他人間的なものとしてあることの価値が高まる、もてなしというときとても機械だけでロボットにはできないのである。
機械にロボットにできても人間にしかできないことがありその価値が高まるのである。

情報化時代というときこれも付加価値なのである。情報といっても無限である。
それがインターネットでキーワードでひけるとき情報の付加価値が生まれる
本の弱点はキーワードで関連したものを引用できないことなのだ。
情報のデーターベース化が必要になる、それは確かに個人的にもできるようになってはいる、蔵書もデーターベース化できる、だから知的な環境として自宅に図書館をもっていることにもなる、図書館は何か調べるのにもめんどうなのである。だから図書館に行かなくなったのである。図書館も飼料でもデーターベース化すれば調べやすいのである。

もう一つは物語性というのも価値がでてくる、例えばヨーロッパの修道院で作られた菓子が売っているというときそこで修道院のシスターが丹念に作ったものとして歴史を偲ぶのである。そういうことは日本でもある。その菓子は中世とかなると貧しいから貴重なものだった。そういう物語性はむずかしい歴史書を読むとういのではなく誰でも感じることができる、庶民的なものにもあるからだ、確か北海道のトラピスト修道院の菓子とかあるがヨーロッパだと中世からはじまっているからもし旅をしてその菓子を味わうとき歴史を偲ぶことができる、その中世の街にあってこそその菓子を食べたとき本当の価値を知るのである。
ただ自分はヨーロッパを旅してもそういうことはできなかった、旅はなかなかそういうことを知ることがむずかしいのである。
その土地の表面的なものだけを見て終わっているのである。

最近駅に興味をもってお茶の水という駅があり地名の由来を知るとなるほどなと思った。もともとは寺があり江戸城で殿様がその寺の井戸の水で茶の湯のために使ったことがその地名の起こりである。
するとそこから江戸時代が偲ばれる、水道の水ではない、井戸の水を使っていた。
そして茶の湯をたしなんでいたのである。その時江戸時代の感覚だと悠長な時間があった騒々しい時代ではない、ゆったりとして茶の湯をたしなんでいたのである。
その感覚はあまりにも今とはかけはなれいるから余計にそう思う
お茶の水駅でもそこは騒々しいとても茶の湯をイメージする場では今はないからだ。
でもその物語を知るとき江戸時代はまるで違ったものとしてあったのである。

殿様の茶の湯たしなむ江戸の町静かなる時のかつてありしも

江戸にはそういう悠長な時間があったとなる、それを偲ぶ物語があり付加価値が生まれるのである。




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2017年06月14日

メカニカルなものとヒューマンなもの (AI社会でもヒューマンなものが残る)


メカニカルなものとヒューマンなもの

(AI社会でもヒューマンなものが残る)


現代はなんでもmechanicalなもの機械化することが多い、人間にとって機械は欠かせないそれで今は本当に人間社会は全自動化を目指して人間は働かなくてもいい社会になる
それが本気であり夢物語でもなくなっている
その時人間は何をするのか?人間はいらなくなるのか?
そもそも人間とは何なのか?そういうことまで問われる時代となる

それを英語でmechanical comnicationとかmechanical workとかmechanical learning
とかmechanical responseとか前にmechanicalをつけるとわかりやすい
その反対がhuman comnication human work とかなるからである。

それを駅で考えると mechanical stationとhuman stationになる
なぜなら無人駅でも自動化しているからそこはall mechanical stationなのである。
人間はいないのである。これからの社会はそうなってゆく
鉄道はローカル線だともうからない、だから極力人間を雇わない、全自動化した方がいいとなる、それで実用的にできる、実際そうなっている駅が多くなっている

ところが今日の鹿島駅で報告したようにそこに人間的なものが必要になる
盲人が一人定期的に通っている、その人が乗るとき危険なのである。
それで導いてやる必要がある、それは機械にはできない、そのことで盲人団体が無人駅化に反対しているというのもわかる

駅で感じたことは人間は無人化してゆく、機械化してゆく、駅でもスマホを見ている人が多い、すると回りも機械化しているしそこにいる人間もスマホだけと会話しているとかなる、もう人間はいらないとなる
でもそうなるとどうなるのか?人間的なものがない駅は何かが欠けているとなる

それで中学生が近くにお菓子屋があったとき腹が減って食べたいということを言った
それは貧乏ではない、たまたま金をもっていなかったのである。
それで買えなかった、それで自分が買って食べさせてやった、それがヒューマンなことだったのである。
自動化して機械化したらそういうことはなくなる、ただ機械化して自動化した駅を機械的に通りすぎるだけになる
そこにその駅の印象は消失するのである。
人と人は会話も情もかわさなくなる、人間なんていらなくなる、そしてロボットが観光案内でもするようになる、それも必要だがやはりヒューマンなものがなくなるということはありえないのである。

ただこれは駅だけの話ではない、どこでもこういうことが起きてくる病院でも学校でも店屋でも日常的に起きてくる問題である。メカニカルなもの自動化するとヒューマンなものは何かとかえって問われるのである。
そしてそのヒューマンなものの価値が上がってくる
医者でもAI化して診断するときでも医者の価値はヒューマンな対応が問われる
それが何かというとき医者はもう病気に対して処方するより人間的な対応がより求められるから悪いとはならないしそういう適正がないとすると医者失格にもなる

そういうことはどこの職場でも起きてくる、今だってすでにメカニカルなものの中で働いている、それが高度な仕事と思われるものも機械化するからだ
すでに翻訳は機械翻訳を参考にして翻訳者は訂正しているのが仕事になっているのだ。
いくら機械化してもそこにまだ人間がかかわる余地が残るからだ。

でもそもそも人間的なものヒューマンなものは何かというとき明確ではない
例えば情報というとき情に報えるというとき情報はただ機械を通じて伝えられるものではない、情報はまさに人間の情を通じて与えられるものである。
ただ道を教えてもそうである。だからこそありがとうと言うのである。
機械にスマホになればそれもなくなる、人間はいらない、土地の人でも教えてもらう必要がない、そこにはもう人間の情は通わないとなる
そういう世界とは何なのか?殺伐とした世界となってしまうだろう。

別にAI化の前に機械化するということは何か人間的なものを奪われるのである。
車社会になると歩くということがなくなる、それで街はシャッター通りになった
歩くということが人間的に見えるというのもあまりにも機械化したからメカニカル化したからそう見えるようになったのである。歩くことはもっともヒューマンなこと人間的なことだからである。
歩いて旅した時代なら世は道連れとかなりそこに人間的な交流が生まれるが車では生まれないのである。ただ通りすぎてゆくだけだとなる

そもそも全自動化店でロボットがそこにいるだけの店に人は行くとしてもそれだけでは満足しない、それでかえって人間的な対応してくれるサービスをしてくれる店を求めるようになる、だからこれからの商売は自動化する機械化する店と人間的対応する店とに分かれる、いくら機械化しても人間的なものヒューマンなものを求めるからである。
かえってそういう店が繁盛するということにもなる
自動化した店は店として利用してもまた人間的な店も残るのである。
それはどういうものかわからないけどそういう商売はなくならないのである。
かえって機械化するとそういうものが歩くことが人間回復になるように求められるからである。

飲み食いするにしても人間はただ腹を満たすだけではない、そこで会話したりすることが人間的になる、だから何か一人暮らしだとそういう場を求めるようになる
ただ飲み食いするだけではものたりないのである。
そこに人間的なサービスがあればいいとなるのだ
これからの世の中は機械化するけどスシだって実際に回転寿司となるとそうなっている
でも何かそういうものでは腹を満たすだけで満たされないということもある
そこに人間的なものを求めるのが人間たる所以なのである。

家庭でもすでに家事は機械化している、一人暮らしても家事は困らないのである。
オカズは買えばいいし料理はめんどうでもそれも機械化してゆく
その時妻の役割は何になるのか?お手伝いさんとか今はいらないのである。
だから一体なぜ皿二三枚洗うのにも雇う必要もないのである。
それでも人間的なものが必要になる、より人間的なものの価値があがる
一人暮らしだと淋しいからやはり女性がいると安らぎがあるとかなる
いるだけでもいいとかもなっているのが一人暮らしなのである。
ロボットと対話しても人間の代わりにはならないからだ
そこで求められるのは家事をすることではなくなっているのだ。

ともかくこれからの経済は社会は機械化であれ自動化であれAI化であれさらにすすむ
でもその反面人間的なものがかえって強く求められるのである。
するとその人間的なものは何か問われる、人間的なものの価値がかえってあがる
すると機械的なものと人間的なものとの区別をして対応する必要出てくる
そこに価値観が変わるからだ、それにどう対応するか教育ですら変わらざるをえない、
それは悪い方ばかりになるとはならない、なぜなら人間的なものがかえって価値あることは悪い社会ではないからだ。
そういう人間的なものが一番欠けた社会で殺伐としたとなった社会だからである。



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2017年06月04日

量より質の時代へ (AI化で仕事の価値観が変わる)


量より質の時代へ

AI化で仕事の価値観が変わる


プログはコメントとかより訪問者とかページビュー数で決まる、数を集めたら評価になる、宣伝するにも効果ある、自分のサイトは最近あがってきている、10万ページビューとかなっている、ほとんどブックマークからでありこれだと常時読まれているとなる
ただ10万ページビューとかなると本当にプログでアクセスされるとなると大変である。
どうしても数をかせぐには大衆向きにすることになる
すると質は追求できなくなる、そもそも自分はアクセス数よりずっと読まれた人にも関心なく質を追求してきたのである。
だからむずかしくなってもそうしてきた

第一芸術とか宗教とか哲学が量を追求することはできない、ただニュースの解説とかなると量が必要になる、多くの人に読まれれば影響力が何でもでてくるからだ
それでマスコミは大衆向きに量を得るための報道をしてきた
結局は今は芸能人を集めて漫談しているだけの低俗番組化してかえって嫌われたのであるそういうもの一過性で終わる、本当のものを芸術でも創造すれば何世代にもわたって読まれ見られ音楽でも聞かれつづけるのである。
本当に価値あるものはそれだけ寿命が長い、ニュースとなるとその時その時で消えてゆくから不変的な価値とはならない、でもそのニュースを解説するとき人間の変わらぬ真実がありそれを書けばあとあとまで読まれることはある
ただ一過性に消えるものがあまりにも多いのである。


戦後は貧乏であり食べることが最大の問題であり衣食住が満たされることのために働いただから大量生産システムを作りともかく作れば売れるという時代だったのである。
そこではあまり質を追求していなかった、大量生産のための労働というとき労働の質も追求されない、それでもその時団塊の世代などは人数が多いから大量に人手も供給されてきたのである。その時あまり労働の質などは追求されなかったのである。
賃金を高くすることは追求されたが労働の質は追求されない

今になると労働することそのものの価値が追求されるようになった
一体自分の労働にどういう価値があるのかということである。
それで働く動機が賃金もあるが何か労働自体に満足する価値を求めている時代になる
だから趣味に時間を費やしたいという人が増えるのもそのためである。
理想的なのは趣味と労働が一致して収入になることである。遊びと労働も一致して収入になることである。
出世とか賃金だけではないもの、何か人生として充実する労働をしたいとなる

そもそもそういうことは別に今だけではない過去にもあった。
江戸時代の職人は質を追求していた、量ではない、一つのものを作るのにも質を追求して最高のものを作ろうとしていた、それで職人気質ヴ生まれたのである。
刀を作るにも精根こめて最高のものを作ろうとしていたのである
それは大量生産ではない、手作りでありその技を究めようとしていたのである。

人間の仕事はworkでありそれは作品の意味だからこれは東西の文明にかかわりなくそういうことはあった、作品を仕上げることが仕事なのである。
大量生産にはそういうことはなかった、大量に同じものを提供することが豊かになることだった、そういう時代は貧乏なときはやむをえていことがあった
でもこれからはそうした大量生産というのはなくなる、AI化によってそうした労働は機械やロボットやコンピュターがする、すると労働もそうした流れ作業的なロボットができるような仕事はなくなる、では人間はどういう労働をするのか?
それが今後問われてくることになる

それは教育などにも影響してくる、今までのような受験競争とかでいいのか、社会でこれから通用するのかとなる、労働の質が変わるというときそれがどうなるのか明確ではない

野村総合研究所によると、「芸術、歴史学・考古学、哲学・神学など抽象的な概念を整理創出するための知識が要求される職業」や「他者との協調や、他者の理解、説得、ネゴシエーション、サービス志向性が求められる職業」は、人工知能やロボットで置き換えるのが難しい職業になる

こういうことになるとすると暗記ばかりの受験のための勉強は役に立たなくなる
語学でも翻訳機械が飛躍的に進歩している、翻訳にも創造性が必要なのだが機械的に翻訳できる面ができるから変わってくる、ただ詩などはとても機械ではコンピュターでは翻訳できないだろう。そういう分野は以前として人間がすることになる
でも何かAI化というのは仕事でも機械にできないものとなると相当に高度なものになる
そこまで人類は進化しているかとなるとしていないだろう。
まず暇が多くなるとき一般的に何しているかとなるとギャンブルが多いことでもわかる
暇の有意義な過ごし方をしている人がどれだけいるのかとなる
これは高齢化社会の大きな問題になっているのだ。
なぜなら暇を有意義に過ごすことを訓練されていないからである。

質を追求するというときこれからあらゆる面で起きてくる、それは卑近な所でも起きてくる、料理でもそうである。料理となると実際はその材料が良くないといくら料理人の腕が良くても活かせない、ではその料理の材料を良くしようとしたら農家がやはりいいものを作らねばならない、そこにも質が求められているのである。
AI化機械化されることは人間の質を実際は追求することになる
人間にしかできないものが仕事として残る
それは介護分野とかでもそうである。そこにコミニケーションとか愛とかが必要になり追求される、それはサービスをする方にもされる方にもいいことなのである。

政治とか経済とかは高度成長時代ではGDPが指標になってきた、どれだけ生産量があるかでありその質は計られない、その量を増やすことが目標になってきた
カルト宗教団体でもそうである。ひたすら数さえふやして政治力、経済力をもち権力をもつことが目標である。
そもそも宗教とは本当は質の追求である、もともとそんなに数はいらないのである。
そんなに数を増やすとなると大衆化して低俗化する、それはマスコミが視聴率を稼ぐ方法になる、芸能人の漫談の場を提供するだけになる

ただAI化というのがどういうふうに影響するのかわかっていない、それは知能部門でも仕事が変わるからである。すでに翻訳部門では変わっている、まず翻訳者は機械翻訳してそれを直していることでもわかる
ビッグデーターでもAI化されて分析される、AI化がコンピュターが知能をもつということがわかりにくいのである。
ただこれからの時代はそうしたAI化に備える勉強も必要になる
それは仕事の質が変わるから今までのような仕事がなくなるからである。
それは高齢化社会というものにも影響しているのだ
高齢化社会というとき老人はもう人生は終わりだから関係ないともなるがそうでもない
高齢化社会は60で退職しても70でもそれからの人生の時間があることなのだ
するとそこで何か有意義な時間を過ごそうとするとそれに備えねばならない

それが今までの将棋とか碁とか何か老人の趣味も変わる、将棋でも碁でもすでにコンピュターが人間に勝ったというときもう将棋でいくら15歳くらいの天才が出ても驚かないのないのである。コンピュターが人間に勝ったという方が驚きなのである
そのソフトを作り出した人こそ将棋の人間の天才より驚きなのである。
第一将棋ソフトに勝てる素人はいないのである。将棋でもコンピュター相手にして勝てないのである。だから将棋がいくら天才が出ても驚かないのである。
それはもう計算されつくされた世界であり人間はコンピュターに負けているからだ
ビッグデーターをコンピュターは解析して買っているからである。

人間が進歩するというときやはり機械的な奴隷的な仕事はしたくない、手伝いさんでもそうである。その女性は皿洗いなどはしたくない、でも庭の手入れとか花を植えたりすること育てること野菜を作ることにははりきってしている
その方に生きがいを見いだしている、家事には見いだしていないのである。
第一家事は機械化しているからもう手伝いさんでも職業として必要ないのである。
そうして人間としてしたくないものはAI化して機械化する
では人間は何をするのか?それが問題になる、それは暇をどう有意義なものとして使うかということになりそれは人間の進歩だとなる



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2017年05月25日

「成熟社会」は高齢化社会で実現される (駐車場が通りにないことが致命的になっていた)


「成熟社会」は高齢化社会で実現される


駐車場が通りにないことが致命的になっていた


地方の商店街が人来ない一番の原因が駐車場が無いからだよ。 
店舗解体に助成出して駐車場増やせば少しはマシになる。

シャッター商店街が埋まるとはとても思えないし、駐車場もないから今更客も来ないだろう 
10年位前に田舎の中央通りにちょっとしたショッピングモールが出来たけど、はじめからほとんど客がいない状態だよw 
みんなイオンや郊外のバイパス通りの方に行ってるw

空き店舗潰して駐車場にすればいい

商店街の土地は近代的な店舗にする際には狭すぎるんわ 

ただ、重税果たして売却を推進しようとしても時間がかかるし、必ずしも土地統合に 
結びつくとは限らない 
隣接地を統合して店舗なり住宅なりを建てる場合に特例を設けるなどして土地の 
統合を推進した方が良いはず

シャッター通りは店舗併用住宅がほとんどだろ? 
だから固定資産税が大した事ない 
駐車場なんかにすると固定資産税が跳ね上がる

地方は車社会だから商店街の活性化は無理 
地歩の人間なんか競うように入口近くの駐車スペースを奪い合うからな 
たった数メートルすら歩くのを嫌がる

地方の商店街何かで出店するとしたら 
飲食店以外でどんな業種があるんだろうなぁ 
理髪店位しか思い付かんな



鹿島駅前の駐車場が狭いことを問題にしてきた、駅前は一軒の家具屋が閉じて理髪店が閉じ角の家の庇が破れているけど修繕していない、美観的にも良くない
ただトイレは新しくしてきれいにしている

要するに車社会になった結果としてこういうことが起きてきたのである。
車社会になると今までの通りはただ車が通りすぎる場所にすぎなくなった
まず車が駐車できないからである。車というのは空間占有率が大きいのである。
自転車とかバイクとかなると台数でも車より置けるが車が置けない
それだけの空間を土地を必要とする
すると今までの通りは歩いて買物するようにできている
その大きな相違がシャッター通りにしたのである。
大きな駐車場を作れないということである。

それで郊外にイオンとかできるのも大きな駐車場のスペースが確保できるからである。
原町のイオンの前の駐車場は馬鹿に広いからである。
今回鹿島区のスーパーキクチが新装して開店したけどこれも駐車場が狭いとういことがあり広い駐車場を作ったのである。
だから現代は車社会に適応しないと商売もできないのである。

だから鹿島駅での一番の問題が駐車場が狭いことなのである。他からきて駐車するスペースが狭すぎるのである。農協と決められた場は駐車できないからである。
現代はでも車をもたない人は車社会のことが意外と実感としてわからないのである。
車をどこにとめようかとなるのが車社会なのである。
今までの通りにはそれがないからシャッター通りになる

車社会というのは便利でも旧来もっていたものを破壊した。その影響はあまりにも大きすぎたのである。何か車というとき俳句とか短歌にしにくいのである。
ただ歩くということは今や人間回復になる、歩くことは絵になるけど歩いて旅していた人がいたとしても広重のような浮世絵にはならないのである。
そういう社会が失われたからもう二度とそういう絵は生れないのである。
車がない歩く社会のときは鉄道も活きていた、駅で下りて通りを歩いて買物したりしたからである。
原町の駅でおりて靴屋まで歩いて買った、いいものが置いてあった
ただその歩く距離が結構あったなと思うほど今は歩かない生活なのである。

分散社会になったというとき車社会であれば別に分散していてもいいからである。
車で行けばいいとなるからどこでもいいとなるからである
ただ高齢化社会は昔を回顧するようになるから昔のいい面をとりもどそうとする
その高齢者が多いとき車社会が転換する圧力になる
田舎でも車が運転できなくなるとたちまち社会的弱者に転落する
80でも車を運転している人がいるがそれで乗せてもらっている女性がいる
でも車が運転できないとなるそういうこともできなくなる
その人は社会的弱者となり相手にされないともなるから怖いのである。
もし昔のように歩く生活なら老人でもそうはならない

どうしても夫婦でも夫が車をもたないで運転できないとなると夫の資格も男としての資格までないと感じてしまう社会である。社会的不具者になってしまうのである。
何か機械というのはそもそも人間を人間的なものから離脱させるものである。
ちょっと会話しようとしてもスマホを操作してしない、旅をしたりよその市町村に来たら必ず道がわからなくなり聞くことがある、そこで土地の人とかかわることになる
でも今は土地の人とかかわる必要もないのである。
スマホで地図を見て案内されて車でGPSとかで自動で案内し運転する
そこに人間が介在しなくなっているのである。人間はかえってわずらむほしいものとなる機械化自動化する人間はいらないんだよともなる
すると土地の人とも交わらないとなる、江戸時代は歩く旅だから土地の人ともまじわる、何か人間的にも濃密な旅をしていた、今は高速を突っ走ってゆくし新幹線で一時間だとかなる旅である、すると中間ははぶかれてただ通過するだけになるのだ
目的地にどれだけ早くつくかが問題になるだけだとなる、するとそこに旅情も生れないのである。

高齢化社会は今までの車社会とかに向かない、「成熟社会」を目指すようになる
スロー社会である。もともとそういうものを自分は俳句短歌とかでも詩でも追求してきたのである。
景観というとき確かにそこに暮らしがなければありえない、人間の営みが景観を作っているのは確かである。
菜の花が一面に咲いているというときそれは菜の花をただ鑑賞するためではない
花としてではない菜種油とかとして生活で利用するために作られていたのである。
その生活があってこそ菜の花の景観が作られていたのである。
それは田んぼでも畑でも果樹園でもそうである。生活のためにあり景観が作られてきた
それが津浪や原発事故で破壊されたことでもわかる
荒地と化したことでもわかる、茫々と草が生えて草原化してやがて森になるのが自然だった、そういう風景に変化した不思議をプログで紹介してきた
その草原は確かに草雲雀というように雲雀にはあった風景だった不思議である。

いづれにしろ車社会の転換が望まれている、なぜなら車を減らせばある程度江戸時代にもどるのである。本当に昔にもどりたかったら車が全く通らない世界を再現すればそうなるそうなると歩く他ない、自転車で行くほかなくなるからである。
すると歩く街とか歩いて生活するように社会もなる、自転車で買物できるような街にもなるのである。一部都会でヨーロッパではそうなっている
車社会からの脱却、転換が民意となってそうなったのである。

成熟社会というときそれは確実に高齢化社会に適した社会なのである。
これだけ老人が増えれば老人に適した社会がいいとなるからだ
だから高齢化の負の面が強調されるがプラスの面としては落ち着いたスローな社会の新たな再現がありうる、車を全部なくすというのではなく制限されてそれに代わるものが志向されるとういことである。


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2017年05月18日

資本主義の精神とは何か 資本主義の倫理は崩壊したから資本主義は終わる


資本主義の精神とは何か


資本主義の倫理は崩壊したから資本主義は終わる


自分の職業もまた神が選んでくれたものに違いない。これを天職または召命という。この考え方はプロテスタンティズム以前にはなかった。自分の仕事が天職であるならば怠けているわけにはいかない。働いて働きまくることが神様のみ心にそう方法。もともとキリスト教には労働こそが救済の手段であるという思想がある。働かざるもの食うべからずというのはキリスト教修道院の戒律だ。こんな思想は仏教にはない。仏教では働かなくても食ってよいし、それどころかインド仏教では経済活動を禁止し、お布施で暮らしていた。


今は社会主義国でも資本主義のなかに組み込まれ生きている、でも資本主義というとき何なのか?それがわかりにくいのだ。
だから何かを理解するのには何かと対比することである、比較することである。
人間はそもそも美と醜があるとき醜があるから美を理解する、善と悪でも悪があるから善を理解する、何かをうまいというとき味でもまずいものばかり食べていたら何がうまいかもわからない、歴史でも今を知るには昔にさかのぼり日本だったら江戸時代をみる
すると現代というのがどこが変わったのかそして昔あったもの失ったことをしる。

例えば車社会になるとこれがどれほど社会を変えててまったか驚くほどである。
なぜなら駅前はすたれシャッター通りなり人間は個々に車に閉じた生活をするようになった、車の影響は実は単に道具が変わった便利になっただけとかならない
人間の精神のありかたまで変えてしまったのである。
なぜこんな人間ばかりなのだと嘆くとき車社会になった人がその社会に適合してそうなったともなる、だから道具の影響は人間の精神まで変えるからただ便利だからいいとして
応用すると社会そのもの人間の精神そのもののまで変えてしまうのである。

メデアでも新聞からラジオからテレビからインターネットと変わる時、変化した、それは社会そのものまで変える、それはマスコミが世論を作ってきたと言われるようにである。世論も操作できるのだからどれだけたマスコミが力をもったかわかる
でもインターネットが出てきて今度はまた変わってくる
インターネットの不思議は個人がクローズアップされるメデアである。
対話的メデアである,マスコミのように一方通行ではない、基本的にman to manのメデアである。それはもともと個々人がメデアとなったときまた個々人が反応しやすいからそうなる
パソコン通信は必ずレスポンスが必要であるものとしてはじまったことでもわかる

資本主義でもそれがどうしてキリスト教から生れたのかとなると理解しにくい、確かにイスラム教や仏教からは生れていない、労働の倫理でもある。
そもそも宗教と資本主義が関係あるのかとなる
今の資本主義がどうしてキリスト教と関係あるのかとなる、隣人愛などと何の関係もない、自分の欲だけを限りなく追求するだけである。そこにはまず禁欲などないからだ。
禁欲があったら消費もないのである。欲望を無限に拡大して消費することがすすめられているのだ、そこにかつての素朴な倫理は皆無である。

結局逆に働かないで勤労しないで株でもうけたいとなる、一攫千金を得たいとなる
働かないで食べていきたということを今の資本主義から人々は目指すようになった
なぜなら今や金融の操作で働かないで莫大な富を得る、数パーセントの大金持ちが世界から富を吸い上げているとなる、それがなぜ隣人愛だとなる
それはまるで違った資本主義であり宗教とはもう何の関係もないのである。
もし修道院で働く人たちを見ていたらそれがキリスト教に由来して隣人愛の労働だと他者も理解したのである。労働が尊いと理解したのである。

株を金融を操作している一握りのものが世界の富を集めているといのうは悪魔的なのである。つまり資本主義はもうサタンによって操作されていてそこで陰にユダヤ人がいるとかロスチャイルドがなんとか陰謀論になってしまう世界である。
もう資本主義の精神とかモラル崩壊しているのである。
 現実に投資のことをボジティブな姿勢として見たが株式市場では素人は勝てないようになっている
数パーセンのものが株式市場で勝つように仕組みとしてなっているからギャンブルにしても勝てない
なんか銀行に手数料をとられ素人はプロに金を吸い上げられ得するのは数パーセントの大金持ちだとなってしまうのが
現代の株式市場なのである。


では社会主義がどうかとなると、社会主義の精神は何なのだとなる、これも資本主義を否定するものとしてマルクスが産み出したものである。
それが現実化したのがかつてのソビエト連邦とかであり北朝鮮であり中国もそうだった
でも社会主義というのは平等の精神なのか、ぬきでたものはいらない、みんなどんぐりの背比べでいいともなる
何かに新しいものに投資もしない、平等であればいいとなり福祉を充実させることだとなる、そして社会主義国で一番成りたい職業は官僚だとなる、役人だとなる
そこに一番富が集まるからその富の分配にあづかるのが役人だからである。
それで中国ではそうなった、そこにも大きな格差を産む社会になった
でも中国は資本主義も取り入れているからいろいろな試みが投資が行われている

資本主義がもう限界だというとき資本主義は常に投資して新たな富を作り出して分配する平等より差があってもいい、ただその差は何かに投資して新たな富を作りだすからこそ容認されていたのである。
その新たな富を産み出せなくなったとき資本主義が金融資本主義とかなりただギャンブル資本主義となり数パーセントのものに世界の金が富が吸収されるだけとなる
その時、こんな社会なら働くの馬鹿らしいとなり勤労や勤勉の精神がなくなったのであるそこにモラルの荒廃が生れたのである。つまり逆に資本主義が生れた宗教の勤勉を基にしてたモラルが失われたとき資本主義は成立しなくなった
なぜなら働くことが馬鹿らしい、誰のために働いているのだ、株で金融でもうけている人のために俺たちは働いている奴隷なのだとなってしまったからである。
今や富は極少数のものにサタンに吸い上げられているだけだとなる。
そこで常に陰謀論となっているのである。

そして機械化がすすむと人間は労働しなくてもいい、労働しなくても生きられるようになる、ベーシックインカムになる、まさに機械も人間が労働しないために推進される
自分の労働経験は流れ作業しかない、だからもう若いときから労働などしたくなくなったロボットとしての労働でしかなかった、その後労働を嫌いアウトサイダーになった
これも学校も嫌だったし集団組織になじめないということからそうなったこともある。
たまたまそういう境遇に恵まれたからできた、でも自分は学問とか芸術は好きなのであるだからその方面では勤勉に勉強して開発してきたのである。

いづれにしろ資本主義の精神は失われた、そのモラルは失われ荒廃している。
そういう面でも資本主義が崩壊してゆく、もう成り立たないのだ。
世界中で働きたくないということになる、こんな格差社会で働くの馬鹿らしいとなるからだ、悪魔的な世界の数パーセントに富が独占される、その他の人たちみんなその数パーセンの人たちの奴隷だなっていたらそうなる
もう働く動機がもちえない、働くとしても隣人愛のためとかではない、世界の富を独占する数パーセントのものために働く奴隷だとなっているからだ

事業をして失敗した人はそもそも何の理念もない、動機もない、ただ資格をもっていたから金持ち相手にもうけてやろう、そしてもともと自分は優秀だから社長になろうというくらいで事業を起こした、ここに何か社会のためになるとかの動機もなにもない、俺は優秀なんだ、だから社長になれるんだとしかないのである。
そして失敗したら今度は弱者を責めて借金を強要する、ここに隣人愛など微塵もないのである。ただ自分は頭がいいのだから優秀な人間としてみともらいたいから事業したとなるせめてみんなに上手い料理を食べさせて幸せな気分なってもらいたいとかあればいいがそうういものもない、金持ちは金をもっているからそいつらを相手にすれば金になるだろうしかないのである。
こういう人はそもそも何のために働くの生きるのかもわからないだろう。

ただ以前として働くことには意義がある、それが医者とか看護師とか介護士などがそうである。それは相手が弱者だから愛も必要としているからである。
そうした愛を必要としていると直接接するからわかりやすいのである。
ただ現実は医者でも看護師でも弱者を相手にして優位にたつ商売だとも反面なっている
ただその労働は隣人愛に本当は一番通じやすいものとなっているのは確かである。
何か商品を作る売るにしてもそれが人助けになってもそれに感謝する人はいない
金を払えばいいじゃないかだけである。

だから駅で道案内して行きと帰りに二回もありがとうと言われたのは意外だった
ありがとうというときそれは隣人愛に通じていたとも大げさになるが言える
ただそこに金が介在すると当然でありむしろ金払っているのになんとかだとクレームがくるのである。
ともかく今や労働の倫理はモラルは崩壊している、もうだから働くより人に使われるより働かない方がいいとなる
働くのは金だけが動機でありそしてもう働くより金ある所から人から盗めばいいとなる
そういう気持ちになっていることがもう労働のモラルは崩壊しているのである。
勤勉に働く必要などない、もうけた奴は悪い奴だから盗まれても当然なのだ
巨万の富をたくわえたものは俺たちの労働を盗んだものだと思っているしそれも事実だからである。巨万の富だけではない金持ちに対してはみんなそう思っているからである。
そういう意識が蔓延している、現実に自分はそれで大金を失った。
だから今は人間に働かせるより機械に働かせる方がいいともなる
人間はもう働きたくないからだ、そして家事は実際機械や買ったものでまにあせられる
人間は働く必要がないのである


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投資とは攻めかー貯金は守り (経験しないと投資の世界もわからない)


投資とは攻めかー貯金は守り


経験しないと投資の世界もわからない


自分がしたのは株ではないし銀行経由の投資信託だから株の世界はわからない
本当はしたくなかった、ただ貯金は利子がつかないのでやむをえずすすめられした
今でも本当はしたくない、何か今は減る方の心配が大きいのである。
だから増えるより減らないようにしてくれとなる
実際に減ったことがありかなり損したからである。

でもそもそも投資というのは何なのか?投資と貯金は相当に違っている
投資とはそもそも株でも何でもその前に人間は何かに投資して生きている
例えば教育も投資だし何か物を買って利用するのも投資なのである。
ただそれがすぐ見返りとして金として返ってこないものもある

でも人間は何か投資して生きる、教育は将来の投資なのである。
それに見返りなくても投資して教育はある。
金を使うことは投資なのである。本が高いとなるがこれも投資である。
自分は何か本を読んでも理解できないことが多かった
ただ本を買っただけで本をためただけで何か読んだ感覚になり知性も伸ばせたという感覚になっていた。でも本は買っても内容を理解しない限り買った価値も得られないのであるだからいくら金があっても投資しても理解できなければ何もならないのだ

でも不思議なのはそのただ買って集めた本が今になって活きてきているというのも奇妙なのである。
自分がプログで文章を書くようになって今まで買った本を読み直して引用しているからである。本というのはそもそも今自分がしているように自分の文脈にとりいれたとき活きるのである。ただ一方的に読ませられても活きてこないのである。
こういうことは情報にもある、一方的にテレビでも情報でも見たり聞いたりしてもそれが自分のものとして理解しないとただ洗脳されるだけだとなる
だかち本を読むにしても情報を取り入れるにしても批評的に読めれば見れば効果的なる

まず投資というときそれはどこでも起きている、だって何をするにも投資ということがある。例えば農業に投資が関係ないようでも種を買って肥料を買って作物を育てるのも投資なのである。それが実りになるからどうかわからないからだ
それは投資してみて実際に試してみなければわからないのである。
何でも成功は約束されていないのである。農業にも天候の異変とか様々なリスクがあるからだ
だから何でもリスクを逃れられないのである。

でも何もしなかったら何か実りがあるのかとなったらないのである。
金だって使うとき使わないと腐れてゆく、宝の持ち腐れとなる
資本主義が株式会社が最初にオランダの東インド会社から起こったというとき
航海するために金を出しあってリスクを引き受けた、なぜなら船は遭難することがあるからだ、もし遭難したら収入はゼロになるし投資した金もゼロになるリスクがあるからだ
でも成功すればその見返りは大きいのである。株は今でもそういうことで変わりないものだと思った
もちろん今の株とか金融はシステム的にギャンブルであり欺瞞だというのもわかる
ただ投資というのが根本的に何なのかということを投資して考えたのである。

投資というときあらゆることに投資があるからだ、何かを発明するとか研究するとか新しいものを作り出すとあらゆることが投資なのである。
だから投資をやめたら人間社会は活動を停止してしまうことになる
金でも銀行に貯金していてもタンス預金していてもそれが安全とはならない
金の値段は貯金しようがタンス預金しようが変動しているからである。
人間はこの世を生きることはリスクをまねがれないということである。
そのリスクは今回のような津浪だとか原発事故とかでもそうである。
必ず事故はつきものでありリスクが人間社会にはある

人間がでもリスクを回避して安全を計ることばかりしていたら進歩もなかったろう。
常に投資してきてそれがリスクがあってもしてきたから進歩したとなる
大航海時代というときこれもアジアの白人の侵略だったということもあるが
新大陸を目指して航海したことは大きなリスクだった、だから投資というときヨーロッパから生れた攻めの態度だったとなる
農民は守りであり貿易とか外に冒険するのとは違う、ただ農業には農業のスピリットがありそれはまた別である。
投資のスピリットとフロンティア精神でもあり攻めの姿勢なのである。

ただスポーツでも攻めと守りがあり守らねばならないときは守る、それは忍耐に通じている、一方的に攻めということはない、攻めるために守ることも大事になる
男は攻めであり女は守りだもなる、でも経済に関しては守りというのはないのかもしれない、貯金していても高度成長時代のように利子が7パーセンとつけば貯金として守っていれば良かったのである。その時銀行でもいくらでも投資先がありもうけられたからそれだけの利子がついた、今は投資先がないから利子がつかない、それで投資信託とかにならざるをえない時世である。

ただ人間は守りだけになると結果的に守ることさえできず失うだけだともなる
守るとはスポーツなら攻められたら守りぬくが守ったら攻めに転ずるために守るのである結局サッカーのようにシュートをはずれても打つ、そのうち回数が増えればゴールになる確率が増える、シュートは投資である、でもはずれることがある
でもシュートしなければゴールになることもないのである。
そして守っていただけではゴールを得られないからどこかで攻めなければならない
投資は攻めであり人間には不可欠なものとしてある
ただそれが金融とかなるとその攻めが何なのか投資とは何なのか理解することはむずかしい、ただ人間は生きることは投資が欠かせないことは確かである。




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2017年05月13日

相手の価値を認めないと共同はできなくなる (弱みをもつと人間は正常心を失う)


相手の価値を認めないと共同はできなくなる


(弱みをもつと人間は正常心を失う)


鹿島駅前の鈴木食堂に行く人がいる、ちょっと離れているので場所がわからない、離れているといってもすぐ近くだけとはじめての人には場所がわかりにくい、それで若い女性が来たので教えた、時々そうした案内がある。
何かそれだけでその若い女性は帰りもあったからありがとうと言っておいしかったというそれだけで感謝されるのかというのも意外である。
何にも言わない人もいる、そして今日頭に来たのはそんなことしても無駄とか必要ないという人である。
その人は畑をしている、でもその畑から何かもらえればいい、何にももらったことがない苦情だけは聞いているし農業のことを理解することにはなる
考えてみるとそういう畑をしていても誰も感謝しないことの不思議である。
それは別に金にならないことでも有益である、荒地にしておくよりはいいからだ

でもなぜその女性が駅で自分がしていることを認めない、無駄というときどういうことなのだろうかとなる。
その人には相当に援助しているけどその仕事は自分でもできるから必要ないのである。
今になると自分は常に弱い立場だったから理不尽なことでも不満でもどうにもならなかった、結局その弱さに常につけこまれてきたのである。
弱みをもつと結局不満でも何も言えないのである。
だから借金している人はその弱みにつけこまれる
それか人間の悪質さである。その人もまた常に弱い立場にあり苦しんできた人ではある

道案内しただけで感謝されるのにその人は無駄とかしなくてもいいとか言うときどうなるのか?
相手のしていることの価値を認めないときどうなるのか?それは金銭の問題ではない
むしろしなくてもいいことに金を払っている、同情もしてきた。
しかし自分が駅でしていることを無駄だとかしなくてもいいとか言うことは何なのだとなる
そうなら道案内して感謝されるだけでもそっちの方がましだとなる
金も払う必要がないからだ、その人は別にしなくてもいいことで金をもらっているともなるからだ、その金でもシルバーセンターのような安いのならいいがそうでもない
その人は主張する女性だからいい面がある。
しかしこっちでは金を払っている、でもそれは当然であり感謝などしない、仕事していると思っているからだ。それはしなくてもいい仕事なのである。

それなら道案内して駅で案内して感謝される方が自分にとっては気分いいとなる
人間はボランティアしている人でも何でもその人のしていることを否定されたらどうなるのか?
ボランティアなど格好つけているけど無駄なことが多いんだよな、自己満足すぎないんだよなとか見る人もいる、自分もそういうふうに見ている面はあった
でもボランティアにしてみれば全く自分のしていることを否定されたことになるから怒りにもなるだろう。
なぜなら実際に感謝している人がいることもある。他から見てわからないからだ。

ある人から見れば詩など書いても絵でも理解しない人には無駄だとなる。
でも資本主義社会では金になることは価値が認められたことなのである。何でも売れなければ金にならなければ価値がないものとみなされる社会である。
でも相手がありがとうということは価値が認められたことなのである。
それはささいなことでもそうである。
だからそんなことしても役に立たないということが納得いかないのである。

ともかく自分は介護はじめてから十年間は弱みにつけこまれてきたのである。
なんか今は確かに一人ということ自体弱みではある。でも今は他者に頼らなくても一応自分でできる。介護するとか病気だとか金がないとか人間は様々なことだ弱みをもつ、するとその弱みにつけこまれて奴隷化されるということがある。
病院では医者とか看護師に何も言えないというとき病気であり弱みをもつからである。
そういうことが世の中には常にある、相手が弱みをもつことはその人の上に立てることになるからだ。何か何でもそうなると要求しやすいのである。

いづれにしろ道案内でも感謝している人がいるのにその人はそんなの無駄ということは何なのだろうとなる、それなら感謝される人に尽くした方がいいとなる
自分はいつのまにか奴隷化されていたのである。何も言えなくなっていたのである。
それが今になると別に頼らなくてもいいとなると弱みにつけこまれる必要もないとなる
なんか介護などしていると人間が異常化してくる、病気になっても借金しても他にいろいろなことで人間は正常心を失ってしまうことがあるだろう。
戦争していれば人が死ぬの当り前だからそういう異常な環境で正常心を失うのである。
それも怖いことである。夫婦でもDVなどでもそれが日常化して慣れてそれが普通だとなるとしたら怖いとなる。

弱者化されることに気づかない人もいる、たいがい人間はいいように使われるのが普通である。カルト宗教団体に入るのも弱みがもつからである。左翼関係でもそうであり貧困ビジネスもある。極端な貧乏をとりあげてそれで社会に訴える、それが金集めの手段にもなる
人は何でも人を安くいいように使いたいのである。それは結局人間がなんらか弱みをもっているとそうなる、その弱みにつけこまれていいように使われるとなる
除染であれ建築現場でも正規でない人は何か事情があってくるから賃金の不払いとか安く使われる、暴力団が介入してくるとかある。
ブラックユーモアなのはアメリカの刑務所で安くこきつかわれている人たちである。
これも弱みをもっているから資本家に安くこきつかわれるとなる
そういう仕組みを作り出しているのか資本主義といえばそうなる

逆にカルト宗教団体とか底辺層を相手にする団体でも左翼でも人の弱みにつけこむともなる、それで勢力を拡大する、そういう弱みをもった人は強力な会員に鳴りやすいということである。
要するに人間は弱みをもつと頼らざるをえないからそこに歪みが生まれる
別に金をもっていれば嫌な仕事などしなくてもいいのである。
ともかく人は何らかの弱みをもくそれで心も実生活もゆがめられているのである。
雇われている人でも別に金があれば雇われなくてもいいし相手に何を言おうといいわけである。その人も雇われているとなると弱みになる。
人には人の価値観があるから別に何を無駄だ、そんなことしても価値がないということは言えるのである。
そうならあなたはそのように生きなさいとなる、別に相手の価値など認めなくてもいいわけである。
では人を雇うというとき実は雇う人も一人でできないとか弱みをもっているからでもある機械でやれるとか自分一人でやれるとなれば別に雇う必要もないのである。
自分の場合は弱みをもったから様々なことでそう強いられたのである。

人間は意外と価値観の対立は深刻である。グローバル化したときなぜ移民問題などでうまくいかなっかったのか?
イスラムとの価値観をキリスト教圏ではできないということもあった。
その価値観の対立の故に共同できないということがあった、一見自分のしていることの否定はささないたとでもそういうことで必ず人間は対立が起きる
それは家族内でも起きている、自分の母親は貧乏だったから花にも興味もないから庭作りしたとき木を植えたらそんなものいらない、金がかかるからいらないと言い続けていたのである。母と子だってそうした価値観の対立があり世代間でもありそれで共同しえなくなるのである。だから価値観の対立はささいなことでも深刻になり共同しえなくなり分裂することにもなる。

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2017年03月22日

駅の活性化を考える (付加価値とコラボーレーションの時代)


駅の活性化を考える


(付加価値とコラボーレーションの時代)

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チューリヒ中央駅

欧米では改札口もないからホームまでもが街の雰囲気に渾然一体と
なっている。
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余暇的付加価値:

小規模な住宅地に接するように立地することで、非日常的な空間をもたらし、
「休憩」「おしゃべり」という余暇活動を促す。

 集客的付加価値:

国道との距離が近いことで、
道の駅のような役割を担い、「草花見学・育成」「駅
舎見学」という集客性の高い活動を促す。

 行楽的付加価値

駅舎とホームが直結することで、ホームへの出入りが容易になり、
ホームまで「駅舎見学」「飲食」という行楽地的活動を促す



社会は同じようなことを考えている人が必ずいる、インターネットではそれがわかるので共通項が即座にキーワードで出てくるのでそこから議論を深めることができる

駅の用途というとき普通は電車をのりおりする場としか考えない、人がそこで出会って分かれるという場でもある
だから別に電車を利用しない人でも駅前には仕事でも待ち合わせとか多様な人が訪れる
道の駅にもそういう機能があるが駅にもそういう機能があり道の駅のない町でも駅が一番目立つしわかりやすいから駅に行く
自転車旅行でも知らない町に行ったとき駅に行くのが便利である。
そこで情報を仕入れるのである
駅は街全体の中で機能する役立つ場としてある。

だから電車を利用しなくても駅前にもっと店やその他施設があれば集まる
それで南相馬市では駅前に図書館を作ったがあれは外から来た人は利用しない
まず自分も調べ物するとき旅行で立ち寄ったがとても時間も余裕もないのでできない
外から来た人はそうした時間の余裕がないのである。
図書館は相当に暇な人でないと利用できない、いちいち本を調べるのがめんどうなのである。
インターネットだとこのようにキーワードでそれなりのものが出てくる
これを図書館で調べるとなるともうできないのである。
だから図書館にはここ10年もほとんど行っていないのである。
家事でも時間がとられるからそうなった。原町で遠いためにもそうなる

駅では意外と多様な人々が来て分かれる場であることがわかった
高校生とかばかりが目だつけどそうではない、遠くから来る人が意外といる
今日あった人は千倉の住宅に中学と高校の時住んでいた人である。
その人は東京に夫がいて大阪に住んでいるというからそれも遠いと思った。
結構昔とか前にここに住んでいて来る人がいる

やはり一番多いのは仙台から来る人である。この前も墓参りに来たとかある。
この辺の墓地は仙台から来る人が多い、それだけ仙台との交流がこの辺は深いのである。車で来る人も嫁の実家がここだとかありそういう縁の人が来る
墓地を見ると意外と今は外から来る人が多い、仙台のナンバーは良くみかけるからだ。
仙台に移り住んで墓参りだけに来るといひ人もいるだろう。
現代は移動しやすい時代だから何代も墓がつづくということがむずかしくなり
墓が捨てられるというのもそうしてみんな広い地域に住むようになったからである。

「草花見学・育成」「駅舎見学」という集客性の高い活動を促す

要するに駅を公園とか花壇とか何か街の中で憩いの場所として活用する
電車が来る鉄道のみに利用を限定するのではなく街の中での駅舎の活用を考える
一つのものに限定して利用するというより街という中に鉄道の駅もあり活用される
そこは待ち合わせの場だったり人と人が出会う場であったり憩う場所だったりする公園とか広場の機能をもたせる
公園はあってもそこは地元の人しか利用しないし子供が少ないから子供もあまり利用していないのが淋しい

鹿島駅前には春の日がさしてクロッカスが咲いていた、そこは花壇になり憩いの場となるただ八重桜の木は切られたのでその影に休み電車を待つことはなくなった
駅は公園とか広場とかの機能がありそこに花壇があれば四季の花が楽しむ場ともなる
そして外からの人が来ても第一印象としていいものになる
原ノ町駅は大きくても前に広場もないし憩う空間がないのである。


なぜ自分が駅に行くようになったのかというと駅はすぐ近くであり一人になってからそこで人と交われるということを発見したからである。
ちょうど無人駅となっていたのでそれで何かしらの役に立つから行くようになった。
そしてホームに出入り自由だから見送りしているのである。
待合室で待っている人は誰かと話したい、今日あった人もそうである。
知り合いもいなくなっているとか言っていた。
そこに人がいて少しでも人と話したりすると駅でも活きた場所となる
何か今はそういう場所が少ない、コンビニでもスーパーでも買物する場であっても人と人が出会う場でもない、買物をすることで時間がとられる

欧米では改札口もないからホームまでもが街の雰囲気に渾然一体となっている

確かに欧米では駅のホームへ出入り自由なのである。無人駅で駅員がいないから出入り自由になり自分は見送りしている、ホームに出入り自由になるとそうでないのとではかなり違ったものになる、ホームに出入り自由になるとそれは広場とか街と直結して出入り自由な空間となるのである。もし駅員がいて切符をみるとかするとホームには出入り自由になれないのである。そこに無人駅となり自由に人が行き来する空間が生れたとなるのも不思議である。
うらやましいのは自転車も自由にホームへ出入りできてそのまま電車にのせられるようになっている
自転車専用の車両があるからだ、だから街とホームとは道として直結しているのだ
日本のように輪行するとかなるとめんどうなのである。自転車をこのように利用できれば電車の利用も増えるはずである。

「駅舎見学」というときヨーロッパの駅は立派なのが多い、アーチ型のローマ風の威風堂々したもの大きな教会のような神殿のようなものがあるから駅舎が見学の対象にもなるしまたヨーロッパでは建物が人間に威厳を与える、それはアテネィの学堂というラファエロの絵にも現れている、そういう駅におりると何か人間にも威厳あるものに見える
ヨーロッパの文明は建築と不可分にあり建築が威厳を与えている文明である。
だから駅もそうした建築として威厳あるものとして作られたともなる

そして駅だと待つ時間がある、それが見ていると30分くらいある人が多い、それは外から来た人なのである。待ち合わせの時間がローカル線で生れる
都会の路線だと新幹線とかなるとそうした待ち合わせの時間はもてないのである。
その待ち合わせの時間があることでそれが人間な時間が生れるのである
ただそこで待っているだけではつまらないから多少でも話したりするといいとなる

新地駅とか山下駅は駅前が広く駐車場になり山下駅はスーパーができたので駅に人が集まるようになった。
新地駅でもまだ施設ができていないが温泉が出たとかで施設が作られると人が電車を利用しなくても駅前に人が集まる、鉄道だけの駅ではない、町全体の中に駅が活用するものとして新しく作られたのである。
海が見えるようになり見晴らしが良くなったことでもそこが外から来る人にとってもいい場所になった。
いづれにしろ駅を鉄道だけの駅として利用するだけになるとやはり現代の生活には合わなくなり廃れてゆく、市や町全体の中に駅も活用されるようにする
それはこの辺でも小高でも浪江でもそういう街作りを志向する、ヒントになる
駅が活性化する場として蘇るとういことがある。
ただ鉄道だけを利用するということになると廃れるのである。

現代は食事するにもただ腹をみたすだけでいいとはならない、その空間を楽しむとか何か付加価値が要求されている、ただうまいもの食べるというだけでは今の生活にはあわないだからいい景色があり内装もきれいだとかなると食べるものもおいしいとなる
要するに一つだけの価値ではない、付加価値が要求されて何かとのコラボーレーションが要求されるのが現代だとなる

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2017年03月19日

職がないと長崎から来て東京で強盗 (地方の経済の苦境)


職がないと長崎から来て東京で強盗


(地方の経済の苦境)


前田好範容疑者(27)ら2人は午前1時ごろ、 
西武新宿駅近くで、会社員の男性(38)に「困っているから1万円くれ」と言って胸ぐらをつかみ、 
現金およそ1万4,000円が入ったポーチを強奪して逃走し、手配中の警察官に現行犯逮捕された。

前田容疑者は、職を求め、長崎県から上京したばかりだったという。 

ttp://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00352872.html


地方はもう年金と生保がベーシックインカムになってるんだよ 
受給者を固めて住まわせて、その地域にショッピングモールを作って街を極限まで小型化しその中で細々とカネを回す 
もちろん公務員は一等地に住んでデパートに買い物に行くから「山の手とスラム」みたいな二極化 


長崎は人口流出が凄いんだよ 
ただでさえ立地は西の果てだし、平地は少ないし 
仕事も長時間労働&低賃金ばかりだし 
若者はどんどん出て行ってる 
唯一の東証一部上場企業の十八銀行は福岡FG傘下になる予定で遂に 
全国初の0社に 
三菱重工業長崎造船所もこの所あんな状態で元気出ないよ

東京・西武新宿駅近くで、男性から現金を強奪した男らが現行犯逮捕された。


このニュースに注目したのは長崎から来た人に鹿島駅であったからだ。別にこの辺は全国から来るからめずらしくない、その人は原発関係で働きに来た
長崎には職がないとして働きにきた、ただ長崎はなにかここからだと遠く感じる
弘前の人も職がないと来ていたがまだ青森だとここから近い感じになる
長崎はなにかここからだと日本の果てのように感じた

何か日本の経済は東京中心になりすぎた、例えば地方に工場があっても東北サッシでも初任給が基本的に13万とか安い感じがする、それが田舎の平均だといえばそうになる
でも今の時代に13万だと田舎でも苦しいとなる、要するにパートなみの給料なのかとなる自宅から通いばそれでも家賃を払わないからやっていけるとなるのか?

田舎は東京から富を収奪されているというとき東北サッシの社長が神奈川の人であり本社が神奈川でも東京にある感じになる
たいがい本社は東京にある、すると地方は安い賃金で働かされて豊かになれない
それはグローバル化経済で貧乏な国低賃金で働いているのとにている
この前駅に来た人も友伸電気であり東京から来ていた、このように東京に本社があり地方に幹部の人が来る、すると地方では安い賃金で働くのであり給料も安いとなる
東京に富が集中するのを批判するのもわかる、社会システムがそうなっいるためである。東京はやはり日本の頭脳となっているから東京に富が集まるのである。
地方は低賃金で働かせられるのである。

東京電力だってフクシマに原発を作ったというときそういうシステムになっている社会だからフクシマに原発を建てた、地方の工場と同じである。
ただ原発は東京に建てられないからフクシマに建てた
でも原発だけはこの辺の経済を豊かにしていたのである。
ともかく原発は危険だから給料が高いからである。日当が二万くらいになっていたかもしれない、すると東北サッシで働くより相当高いとなる

結局でもそうした東京中心の経済が日本全体からすると社会の歪みをもたらしている
それで原発事故が起きたりする
東北電力は地元だから同じ原発を建てるにしても津浪に警戒していたのである。
実際にそれだけの対策をしていたから助かったとなる
これは別に今だけではない、そもそも双葉とか大熊辺りはこの辺でも工場がないとか出稼ぎ地帯になっていた、出稼ぎしなくて地元で働けるようにと原発が誘致された。
そういう東京中心の経済がやはり原発事故とかの原因ともなっていた。日本全体のバランスのよい社会が作られていないことがこうした問題起す根があった。

いづれにしろ今は給料が安いし賃金も上がらない、何か若者が消費しないというときそれだけの金がもらえないということがある。
高度成長時代は消費欲があった、マイホームがほしい、車がほしい、電化製品がほしいと消費欲があり景気が良かった、今は買うものがないとうより買えないということがある。そして金をもっているのは高度成長時代に資本蓄積した、貯金していた老人だとなる
その時は貯金していると倍になったからである。
保険でもかけていると倍になっていたのである。金利はその高い時のものが継続されていたからである。
とすると金利の影響が意外と大きいとなる、ローンでも金利が安いとき買えば20年とか計算するとかなり得になる、金利が高ければそれだけまた長い間払うから損になる

地方はもう年金と生保がベーシックインカムになってるんだよ 
受給者を固めて住まわせて、その地域にショッピングモールを作って街を極限まで小型化しその中で細々とカネを回す

自分が病気になり介護になりどれだけひどい目にあったか書いてきた
それを冷静に考えるとそれだけ地方では経済的に困窮している人が増えたしこれからも増えてくる、だからこの辺では原発避難民でも補償金でもめるのはやはりもらえない人が多かったし経済的に苦しい人が多いからうらやむとなる
自分は別にうらやんだのではない、金の不満より避難民がパチンコなどで毎日遊んでいることに不満だったのである。
なぜならその時自分は病気で苦しみ介護で苦しんでいたからである。

だからなにやかにやといっても原発避難民は金をもらえるだけもらうということをとめることはできない、いくら他者が言ってももらうものともらうとなる
裁判を起こしてももらうとなる、ただだんだん復興景気も一段落して復興バブルとか補償金バブルもなくなるとこの辺の経済は相当に厳しくなる
すでにそういう兆候が現れている、もともと経済的に地方は厳しかったからだ

地方はもう年金と生保がベーシックインカムになってるんだよ

この指摘は面白い、現実に自分がしていることはこのことである。田舎では仕事がなくなれば金をまわさざるをえなくなる、大金持ちはまず田舎には住めない
そして老人が多いのだから年金頼りであり生活保護者も増えてくる、そういうぎりぎりの線の人が多いからである。まず国民年金でも8万もらってもまともに暮らせない
8万もらっていない人もいるからだ。
この辺は復興バブル、補償金バブルが終わるとさらに経済的に厳しい状態になってゆく
すると多少でも金ある人にたかるとか強奪するとかまでなってくる
そのことを身をもって経験しているしそれは継続しているからだ。
この辺で人口流出した結果、街を極限まで小型化しその中で細々とカネを回すも現実化している問題である。
人手不足というときそれはスキルのある人手不足と低賃金の人手不足である。
低賃金だと職にありついても暮らしは改善されないのである。、スキルある賃金の高い職にはそもそもつける人は限られている
スキルというとき東京にはそういう仕事があり日本の頭脳になっているから富が集中するのである

ともかくインターネットだと地方の生々しいことが話題になるときテレビとは違ったものとして情報を受け取る
地方にはそれぞれの事情があるがテレビは東京中心の話題に占領されるからである。

問題の大型客船は2011年にドイツのアイーダ・クルーズ社から受注したもので、12万トン級2隻。しかし、設計や建造に手間取り、納入が遅れるなどした結果、16年3月期までに約2400億円の損失を計上

長崎の三菱重工の造船がうまくいかない、それも大きな影響がある。
鹿島駅であった原発で働いている人がどういうことでここまで来たのかわからない
でも長崎にいい職がないから金になる原発に来たというのは確かである。
それは弘前の人も同じである。
それにしても原発の廃炉事業は未来の事業ではない、負の産物となったのでありそれにそそぐ労力でも金でも莫大なのである。
これはなんらか未来につながるものではない、未来につながるものならいいが何かただ金と労力を無駄に使役されるとみる
何かそこに未来につながる技術の開発とかあればいいのだが負の遺産の後始末だけだとなる、東芝の原子力事業でも失敗して危機に瀕している
結局原発は疫病神になったのである。



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2017年03月15日

グローバル化経済でも人を入れるのには覚悟が必要 人間はモノではないし機械でもないから問題が起きる


グローバル化経済でも人を入れるのには覚悟が必要


人間はモノではないし機械でもないから問題が起きる


世界分業ということは、生産地域が偏在することを意味します。生産地域が偏在した場合、その地域の生産が何らかの理由で不可能になった場合、その影響は全世界に広がります。たとえば穀物の生産をアメリカに依存していたとして、アメリカが大干ばつに襲われて穀物がほとんど収穫出来なかったらどうなるでしょう


グローバル化経済の問題はいろいろ指摘されている、それは世界の現実となっている。
世界の分業化というのもそうである。
そういうことは国内問題としても起きてきた。
例えば江戸時代は米が伊達藩では商品作物として作り江戸に船で石巻とかから出していた米が商品作物化してそれが飢饉を作り出したとかある
米は売るものとなったとき地元では高い買いないとかなる
世界的商品作物となるとそれは世界中で起きている
東南アジアではエビを養殖して日本に輸出しても地元では食べないとか、コーヒーの産地ではコーヒーばかり作って畑でいろいろな食料を作らないので飢饉に見舞われたとかあるグローバル化資本主義にはそうした矛盾が生れる

基本的に自分が探求したのはクニとしての生産文化共同体の中で生活するというのが人間の自然な姿だと追求してきた。クニというときグローバル化経済になれば日本国となるがこれにしても十分大きいし自給できるものなのである。
果物だってそれなりに日本ではとれるのである。そうしたもともと地産地消から成り立っていたのが社会である。
それより村という単位で自給自足してきたのがもともとの人間の生活だったのである。
グローバル化経済というのはそういう人間的な経済からはみだした異常な世界である。
そこから環境破壊とか何でも様々な問題が生れて世界がアメリカでも移民を制限するようになったのである。

要するにグローバル化経済の一番矛盾がわかるのはヒト、モノが自由に出入りするというときモノだけだったら余り感じない、いくらバナナが安く入ってきてもそのバナナを作り出す人間の苦労などわからないからである。それは国内だってそうである。
ところが外国人が入ってくると人間が入ってくると全然違ったものとなる
ネパール人でも入ってくるとモノではないから人間だから様々な人間的なことをその入ってきたヒトから付随してくるのである。
その人の家族はどうだとか、その人がネパールでどういう暮らしをしているのかとか宗教が違うと文化の相違もあるし食べ物でもなんでも違うからそこから衝突も誤解も生れる
ヒトが安い労働力として機械のようにロボットのようには使えないとういことである。
日本にとたら格差を感じるしやがてなぜ自分の給料は日本人と比べたら安いのだと不満になりそれが治安の悪化になってゆく

ネパール人が日本で働くというときネパール人がどんな生活をしているかを知ると知らないではまた違っている、自分は登山したからあんな高い山の上で何を食べて生活しているのかと思った。裸足で歩いているのも驚きだった。ボールペンもない村である。
その差が大きいから理解できなくなる、でも自分の子供のときは水道もない、電気も裸電球一つくらいで燃料が炭だったというときネパールの暮らしもある程度理解できた。
昔の生活でも江戸時代でもある程度理解できたのである。
葛尾村などは戦後十数年してろやっと電気が通ったとかある、電気がない時代があった。もちろん家電などなにもない時代があったのだ。
洗濯でも近くの小川でしていた、それは自分の家でも町内でもそうだったのである。
そういう生活をしていればネバールの山の中の生活も理解できる
もうそういう生活とかけはなれているから理解できなくなった。
でも昔の生活を知りたかったらネバールの山奥に行ってみればわかる
そこには万葉集に歌われた時代に帰るともなるからだ。
自分は通りすぎただけだけど本当にそうである。万葉集時代を実感できるのである。

グローバル化経済というときヒト,モノが自由に出入りするというときヒトが入るということは必ず問題が起きるしまたヒトが入らなければグローバル化とは何か理解できないのである。
それで労働者だけではない観光で外国人が大量に入ってくるときそれを感じる
モノではないヒトが入ってくるから人間の交流が生れる
白馬村のおばさんが日本人のスキー客が来なくなり外国人相手となり習字を教えたりしている、英語も覚えて教えている、そして一番印象的だったのが外国人と抱き合って別れを惜しんでいたことなのである。
その姿は経済的に日本が苦しいからもう一度来てくださいねという願いもこめられていたのである。
そもそも日本人の習慣ではあんなにおばさんでも若い男とだきあうなどしないのである。あの映像からは言葉ではわからないものを感じた
そこまで日本人も苦しくなりしなければならなくなったのかということもある。
でも反面そこには人間との交流があるということも感じたのである。
モノだけ入ってきてはそうした人間の交流はないのである。
だから労働者でも外国人が入ってくると人間の交流が生れる
でも人間だからこそやがてなぜ日本人と格差があるのだと不満になってくるのである。

結局人間はモノではない、人間が入ってくれば相手を人間としてみて人間として交流するいくら外国人でも相手が人間なのである。家族もあるし人間的感情もあるしそれは人間であれば同じなのである。
人間だからこそ差別されたり格差がある社会には耐えられないとなるのだ。
それがグローバル化経済では露骨になる、それはネパール人のような人が入ってくれば余計にそうなる
これは一体なんなのだと自分たちの国の生活と比べるからである。
ただカトマンズとなると外国人としっちゅう接しているから違っている、山奥に入ると全く別世界になるからだ。
逆に人が入るということはそこに人間的交流が観光できた外国人のように生れる
だから言葉がわからなくなもあんな抱き合って別れを惜しむということは言葉ではない人間と人間の交流が生れているとなる
いづれにしグローバル化経済はもうある程度はさけられない、そういう世界になっているそのいい面とは悪い面を世界のどこでも受けざるをえないのである。

こういうことは別に国内でも普通に起きている、それを一番感じるのは家にお手伝いさんとかヘルパーとかでもいい入ってくる人である。
そういう人は家族のように待遇されやすいのである。そしてあからさまに暮らしの比較がされる、こんな贅沢しているのか、こんなものを食べているのかとか差があると不満になる、それで大金を盗まれたとかいろいろ自分は経験した。
だから自分はそんな金持ちでもないから十分も働かないのに雇うのが嫌になっている
そのために費やす雇う方の苦労が多いのである。
実際に使っているというより使われている、それが実感である。人を雇うということはこれほど大変なことである。
そして生活相談もしてきて絶えず金を要求される、それにも応じなければならない
家族の一員のようになってしまう、生身の人を雇うとういことはそれだけの苦労がある。これは本当に外国人でも同じなのである。ロボットのようには雇えない
その一人の人間のバックには家族もいるし文化も宗教の相違などもあるしいろいろなものとかかわらざるをえなくなるのである。
そこには確かにいい面はあるのだがそれは安易に安い労働力として受け入れることはできないものがある。それを覚悟していないとやはり世界で起きている移民の問題がわからないのである。


NHK 小さな旅「聖火の夢 つなぐ〜長野県 白馬村」

再放送 2017年3月18日(土) 午前5時15分(25分) 

 


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2017年03月13日

ネパールの暮らしは一番厳しい (忘れられた昔の暮らしがあるーそこにも学ぶものがある)


ネパールの暮らしは一番厳しい

(忘れられた昔の暮らしがあるーそこにも学ぶものがある)


裸足に慣れている。村などでは、舗装されていない、小石が転がっているでこぼこ道でも平気で裸足で歩いている。気合を入れるときは履物を脱ぐ人も多い。ガイジンが、高価な登山靴を履いてトレッキングをしている中、地元の人はすいすいと裸足やぞうりで山道を移動している。


ネパールの山中をトレッキングすると裸足で歩いている人がいる、裸足だということにびっくりする、インドでも力車の人は暑いのに裸足だった、そうういことが全く日本ではイメージすらできなくなっている

「 信濃路は 今の墾(は)り道 刈りばねに
    足踏ましなむ 沓(くつ)履(は)け我が背 」
                     巻14−3399 作者未詳

沓はけというとき日常的に沓は履いていない時代である。そこは危険な所だから沓をはけとなっている
不思議なのは戦前までは草鞋を使っていた。草鞋を作ることを農家では仕事としていた。夜なべというとき草鞋を作っていたのである。その需要が大きかったからである。
戦前から戦後十年は江戸時代のつづきだったのである。

例えば自分の家では水道がないから近くの井戸ある家から水をもらっていたし燃料は炭だったし鉄砲風呂でバタを燃やしていた、それが子供時代の仕事だった。
そういう生活だったというときそれはネパールとか今の後進国と通じた生活だったのである。
ネパールの山中の生活でも葛尾村のような所での生活とにていたのである。
要するに自給自足で生活する他なかったのである。

ただ自給自足でも塩だけはできない所がありネパールでも命懸けで塩と麦を交換した。
岩塩が山中でとれて麦と交換した物語の映画があった
それを見ていないが塩の道がこの辺でもあるというとき飯館村では山中だから塩がなくしては生活できないということで松川浦から塩の道があった。
塩は貴重であり砂漠では黄金と等価で交換されたとかもある

塩の道で有名なのは松本から糸魚川に出る長い塩の道である。そこには牛繋ぎ石とか牛転がしという地名が残る、その距離は相当に長い、この辺の塩の道とは違うのである。
牛が塩を運んだというとき牛は坂道に強いし山道を行くのには適していた。
牛方宿というのも山中に残っていた。牛を休ませる宿があった。
だからネパールの山中をイメージするのにはいい、ただネパールの山が高く迫ってきて家があんな高い所にあるというときその厳しさは違ったいるが日本にも似たところがあった

人間の弱点は何かというとき常に心もなんでも今に奪われている、人生でも過去は忘れて今がすべてになることなのだ。
こんな便利な生活をしていれば昔の生活が何だったのかイメージすらできなくなる
自分は子供の時代にそうした江戸時代のつづきの生活を経験しているからなんとかイメージできるが忘れてもいるのだ。
そうして現代の生活にすべて心も奪われ現在しか見えなくなるときどうなるのか?
それが原発事故でもわかるように危険なものでもあったとういことなのだ。
どこまでも便利さを追求して原発の危険性も無視するし金があれば何でもいいんだという感覚になる。

そういう昔にもどることは無理でもそういう暮らしがありそういう貧乏でも不便でも人間は生きてきたということを知るべきなのである。
そこに人間生活の原点があるということを知るべきなのである。
それで万葉集はそうした人間の生活の原点を伝えるものであるから貴重なのである。
ただその原始的感覚がなかなか理解できないのは今からしか人間は見ない見えないからである。
それでネパールとか後進国に行ったときかえってそういう人間の原点の生活が現実にあるということに驚くのである。
先進国だと今はどこも同じような暮らしをしている、でもネパールとかなると原始時代にもどったような感覚になるのである。
だから裸足で歩いている人がいることに驚くのである。

ネパールではポールペンをくれとか良く言われる、ボールペンすらない、ノートもないだろう。なぜならそもそもそんな店もないだろう。
ではこれが日本ではどうだったかとなると例えは鉛筆が戦前とかにあったとしても貧乏だから鉛筆が極端に短くなるまで手でつかまえられないくらいまで使っていた。
それだけ鉛筆が貴重だったのである。だからネパールのような生活を日本ですらしていた時代があったが忘れられている
そして物はありあまって捨てているだけだとなる、もったいないというのもなくなった。
だからそうした昔の暮らしを知るにはネパールとかに行けば本当にそういうものがまだ現実としてあることになりタイムスリップすることになるから有意義だとなる
そこに現代の生活と比較して具体的に実感して学ぶものがある。

それはなぜ原発事故があってこの辺がこんな苦労を強いられたのかということの答えがあるともなる
つまりあまりにも贅沢になった結果として過去の生活が忘れられて結果的に土から水から森から生活する基盤となるものがすべて汚染されて住めなくなったという深刻な被害となった。
自給自足の生活をしていれば原発など建てる必要もない、でもその生活は余りにも違ったものとなっていた。そんな暮らしを今になるとイメージもできないのである。
そうして過去を忘れるとき何が起きてくるのか?
今回のような原発でも何でもいい金になればいいとかただひたすら便利な生活を求め金を求めるだけになってしまう。
そして肝心の人間の生活の原点となるものは忘れられてしまう。

馬酔木なす 栄えし君が 掘りし井の 石井の水は 飲めど飽かぬかも

栄えたというときそれは原発のようなものによって栄えたのではない、自然の水を利用する、井戸を掘ってその水を飲むことによって栄えた
その水はくめどあかぬかもとなった。
その水は枯れることはないしくめどあかぬものなのである。それは水道の水とも違っているのだ。
結局原発事故で人口流出した町では水道を維持すらできない、馬鹿高い料金を払わないと維持できない、原発補償金もなくなるからそうなる。
原発事故を考えるときこうしたことをこの辺では常に考えるようになった。
そんな過酷な昔にはもどれないにしてもあまりにも贅沢になれて人間の原点の生活が忘れられてしまったのである。
もしもっとその原点の生活の価値を知れば原発に頼るだけの生活ではないものになっていたし別にそんな過酷な生活ではないそれなりに豊かな生活も志向できたと思えるようになったのである。  

一方でまずネパールの山の中から日本に出稼ぎに来たような人はネパールに帰りたくないとなり子供がいれば定住する人も増えているというのもわかる、その生活の差が大きすぎるのである。
これもタイムマシンで全く別な未来の世界に来たともなるからである。
カトマンズとかなると山の上の生活とは違うからその差も大きくはないが山の上の生活津はあまりにも厳しいとなる。
ヤハな人間は生きていけない、でもそういう生活も過去には日本にもあったということを知るべきである。
どこまでいってもたりないたりない、王侯のような生活をしていてもたりないとなっているのが日本でもあり先進国でもある。
そういうことが原発を生む土壌になっているのである。



ネパールの山では電気がない、ソーラーパネルを使っているというのも現代的である。
こういうところだとソーラーパネルの力が発揮される
文明の利器がかえって生きる、先進国ではかえって景観の破壊とか起きる
ソーラーパネルは先進国ではかえって向いていない面もあった。

こういうことはインターネットで調べると今は相当に詳しくなる
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2017年03月12日

南相馬市のユッサで会ったのはネパール人 (人手不足で増える外国人労働者)



南相馬市のユッサで会ったのはネパール人


(人手不足で増える外国人労働者)


ベトナム、ネパール、台湾が急増


国籍別では、中国が最多の約66万6000人で、以下韓国、フィリピン、ブラジル、ベトナムの順(下表)。特にベトナムはこの1年で4万以上も日本在留者が増加した。ネパール、台湾も在留者の伸びが高かった。

    (1)中国     665,847人   (構成比29.8%) (+ 1.7%)
  (2)韓国     457,772人   (構成比20.5%) (− 1.7%)
  (3)フィリピン  229,595人   (構成比10.3%) (+ 5.5%)
  (4)ブ ラ ジル  173,437人   (構成比 7.8%) (− 1.1%)
  (5)ベ ト ナム  146,956人  (構成比 6.6%) (+47.2%)
  (6)ネ パ ール   54,775人  (構成比 2.5%) (+29.4%)
  (7)米国      52,271人  (構成比 2.3%) (+ 2.0%)
  (8)台湾      48,723人  (構成比 2.2%) (+21.2%)
  (9)ペルー     47,721人  (構成比 2.1%) (− 0.5%)
  (10)タイ       45,379人  (構成比 2.0%) (+ 5.3%)

今日ユッサであったのはネパール人だった、色が黒いのでどこの人かと思った。
そしたらネパールだと英語で答えた、ネパール人は英語をしゃべれる、ガイドするときも英語で案内してくれた。
英語がしゃべるというときその国はイギリス帝国に支配されたからである。
マレーシアとかビルマでも今のミャンマーでもそうである。インドとかもそうである。
エジプトでも紙幣がポンドである。だから世界では未だに英語とか通じることでイギリスの支配を感じるのである。
フィリピン人が英語を話すというときアメリカが支配していたからでありイギリスとは関係ない、そしてスペインとかポルトガルが南米を支配した、だからメキシコはスペイン語でありブラジルはポルトガル語である。

今外国人が日本に来てるというときベトナムとネパールが増えたいるというとき本当だと実感した。なぜなら鹿島駅であったのは中国人が連れてきたベトナム人だったのである。連れて来た中国人は日本語をしゃべれるから案内した
今回会ったネパール人は英語をしゃべれる、カトマンズの出身だった。
ということはカトマンズは一番の大都会であり必ずそこから奥地に入る
だからその人は都会人でもある、ただネパールは山の国であり3000メートル級の高地にも人が住んでいて貧しいのである。牛を飼っていたりジャガイモがとれたとかあったがまずあの高い山で何を食べているのかとなる、もう何もできないという感じなのだ。
そんなところで良く生きているなという感じになる。
だから卵までインドから輸入したりしている、リンゴも小さいものを食べたがそれがリンゴなのかとなる、ともかくネパールは最貧国なのである。

その人は所沢からレンタカーで日本の会社の人に連れられて来た人だった、聞いてみると会社は川崎にあり所沢からレンタカーでここまできた、エネルギー館の仕事できた。
そしてその会社ではネパール人を20人くらい雇っているという
その訳はその会社の社長の娘がネパール人と結婚したとか言っていた、それで縁故がありネパール人を雇っている
そしてなぜベトナム人であれネパール人などが今日本で増えているのか?
それは人手不足がそれだけ深刻なのである。
ここではまだ建築関係で人手が必要でありその人手がたりない、それで外国人が入ってくる。

そして注意しなければならないのは中国人が一番多いことはわかる、ここの裁縫関係の会社でもいつも中国人の女性が働いている、でも中国は豊かになっている、まず北京となると日本と物価でもさほどかわりないのである。ある面で日本より中国が豊かになっているのが現実である。
なぜなら満州里とかあんな果てでもトヨタの車をもっているという人がいて裕福な人がいるからだ。だから10年前とか20年前の中国とは余りにも違っているのである。
その時物価は十分の一だったからである。今や新幹線まで走っている時代である。
だからこそ中国は賃金も高くなったから日本の会社でも東南アジアに移している
つまりベトナム人とかネパール人が増えたというとき中国人だけには頼れなくなったからである。
低賃金で雇えるのは東南アジアである、タイも豊かになっているからベトナムとかネパールとかパキスタンとかになる、その辺はまだまだ貧乏であり物価が安いからである。
今度増えてくるのはミャンマー人とかかもしれない

いづれにしろ日本は人手不足が深刻になってきている、この辺でも若い人が流出して人手不足でありもう跡継ぎがいないとか補償金をもらって店をやめたとはいう人もいる
人手不足は医者でも看護師でもそうであり介護士でもそうである。
特にこの辺は原発事故で若い人が流出しているから深刻である、津浪の被災地でも最大の問題は若い人が働き手が流出したから復興できない、いくら防潮堤とか嵩上げの土地を作っても肝心の住む人がいないとなると復興はありえないのである。

ともかくこの辺は沖縄から九州から北海道の人がくるのがめずらしくないのだが外国人もこれだけ多様化して増えているのは田舎では驚きである。
まず今や外国人の旅行者も都会だとあふれているし驚くことではない
ただNHKのテレビで白馬では日本人でスキーする人が集まらないと外国人相手になった。
それはどこでも起きていることである。
そのために女性の主人が英語をしゃべりコミニケーションしていた、その人は別に英語が話せるわけではないがコミニケーションするために覚えたという
そして習字とか外人に教えて好評なのである。
要するに英語でもあくまでも言葉でありコミニケーションの手段である。
だからそういう必要性があれば英語も覚える
ただ高校生がしゃべれないというとき何か外人を特別に意識するからである。
高校生くらいの英語で十分ある程度は通じるのである
ただ自分もそうだったがそういう機会がないしなれていないだけなのである。

これだけ外人が増えてくるとまた英語が重要性を帯びてくる、英語がどうしても共通語になりやすい、何か英語をしゃべるとステータスが高くなる、スペイン語とかだとそうは感じない、だからフィリピン人が英語を話したときフィリピン人は貧乏なんだけど一目置かれるというのも奇妙なのである。
英語をしゃべれる人としゃべれない人で差別ができているのだ。
英語がしゃべれる人はステータスが高くなるのはイギリスが七つの海を支配した時期があったからである。それとアメリカが英語をしゃべるということが大きいのである。
スペインとかポルトガルは小国になっている、英語をしゃべるアメリカは大国だから違っているのだ。

観光でも白馬では高校に国際観光科ができたりするときそれだけ外国人が多いからいかにコミニケーションをするか大事になり英語も実践的に学ばざるを得なくなっている
ただ日本人は英語が苦手である。日本語と英語には何か構造的に根本的に違っていて脳が働かないのだと思う、ただ結局言葉もあくまで人間と人間がコミニケーションするツールでありそれは英語だけとは限らないのである。
英語が優れているからではなく英語がイギリス帝国によって普及したからそうなっているにすぎないのである。
でも英語しゃべれることは損得で考えればグローバル化した世界でますます必要になり得だとなる、だからどうしても英語教育が小学生からやるとかなる

ただ言葉にしても事前に知識があったりすると通じる、どうもわからなかったがカトマンズがハートなんとか言ったときカトマンズがヒンズー教の聖地とかの意味でありヒンズーの寺院が多いからそのことを言ったのかもしれない,つまりそういう知識があれば経験があれば察しがつくことがある。
言葉の前にそうした知識とか経験があることも大事なのである。
ただしゃべるとなると場数を踏むことでありなれなのである。
日本人は相当に英語を学んでいるのだからなれれば話せる
自分も外国にアメリカでも一年でも住んでいたら相当にしゃべれるようになったと思う
その基礎ができていたからである。それを逃したのが失敗だったとなる
もう遂にそれを取り戻す時間がなくなったのである。

結局そうして貴重な機会を取り逃がしているのが人間であり老人になってみんな後悔しているのである。
ヒマラヤだってもっと登ることができた、十回も上ったという人に出会ったからである。だからこれも今や行けないというとき残念だとなる
人間はすぐに年とる、だから何かすべきことをしないとあとで後悔するのである。
だから自分は50歳から外国旅行して本当に良かった、60代になったら介護でどこにも十年間行けなくなったからである。
だからそういうことを考慮していないと後悔することになる
退職してからやりたいことをやると思っても病気になったり介護になったりすることが多いのである、その予定は狂い安いのである、人間は本当に貴重な時間を無駄にしている
これはみなん老人になったとき痛切に否が応でも知るのである。


  
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2017年03月08日

資本主義社会は資本蓄積がない人は豊かになれない (今はそれができないから貧困社会になった)



資本主義社会は資本蓄積がない人は豊かになれない


(今はそれができないから貧困社会になった)


資本主義は何かというときそれを学問的に定義しても普通はわからない、資本主義だから資本を中心にした制度であり主義だともなる。
資本というのには実際は社会の中で多様である。土地というのも大きな資本である。
土地をもっている人は日本では得に金持ちに成りやすかった。
今でもそうである。農業はまず土地がなければ土地という資本をもたなければなりたたない、土地という資本があり労働がそこにつぎこまれて生産があり収穫があり実りがあり
富をもたらす。

資本主社会は土地であれなんであれ資本をもたないものは豊かになれない、土地と家をもつとそれも資本となり資本蓄積が生れて豊かになる基礎が生れる
でも土地と家を買ってもローンになると資本蓄積はまだ成らないとなる
土地と家が財産となるとき資本蓄積が起こりそれを受け継ぐ人は豊かになる
ただ今はかえって土地でも家でも空家からするとそれが資本として有効なものにはならない。豊かな家は先祖からの資本蓄積がある場合が多い、一代で豊かになることはむずかしいからである、だから先祖が悪いと豊かになれないとなる
あいつは遺産をもらってたいしたことしなくても豊かになっているというとき妬む時、それはその人の先祖が悪いともなる

共産主義はこの先祖からの資本蓄積を否定する思想だった、元から土地をもっているとか金持ちとなっている人は不公平だという思想である。
先祖からの資本蓄積を否定する思想なのである。
伝統的な考え方でば聖書でも豊かなにるのは先祖のおかげだという思想がある。
つまり共産主義の考え方はそうした歴史の否定なのである。
だから中国では文革革命でそうした歴史的なもの文化的なものでも破壊したのである。
つまり先祖を無視して一から平等にしてやり直すことだったのである。


ともかく何か基礎としての資本蓄積があると豊かになりやすい、何もないところから資本がないところから始めるのは相当な努力が必要になるからだ。
自分の家では店を始めるとき50万くらいの金がないとできなかった。駄菓子屋のようなものをするにしてもそれだかけの金が必要だったがその金が用意できなかったが自分の姉はしっかりものだからその金を用意したがその苦労を語っていた。
つまり自分がこうして楽していられるのは親のおかげなのである。
親に恵まれたから楽していられるとなるのだ。

資本蓄積が成されたからである。自分の母親も60歳の時、一カ月三万もらった。
60から100歳まで生きたのだからその額も大きくなったのである。
3万×12×40=14400000となった、1400万になった、その金を全然使わないからそうなったただその金も全部ではないにしろ盗まれたからなんのためにためていたのかわからない。でもよくよく考えてみるとその金は国から支給されたものである。その時は国民年金のように全然積み立てをしていないからである。
経済的に60以上の人が貯金の8割をもっているというとき30年前頃で貯金していると金利が高いから20年とか貯金していると倍になったからである。
貯金していた金利は当時のままであり下がらないからそうなった。
今の老人はそうして資本蓄積して金を持っている人はもっている、もっていない人はもっていない。

いづれにしろ金も資本主義社会では大きな資本であり株でも債権化されて資本主義市場で金が働くのである。人が労働しなくても資本が金が働く仕組みになっている
そういうシステムがない時代があった。土地とかでも売り買いがあっても今のように債権化して世界市場で売買されることはなかったのである。
だから資本主義社会とは資本が何でも金でも金を生むシステムである。
株をするにしても元金が大きければギャンブルのように大きな金が入り格差社会になったのである。もともと元金が資本がない人は豊かになれないシステムなのである。
株でも一億円とかあればそれが元金となり金持ちになれる、でもその一億円の元金を作ること自体が普通の人にはできないから株の世界には入れないのである。

資本主義の特徴としてはどうして豊かになれのか?それは土地とか資源の豊かな国は豊かになれる、それが前は地主でありグローバル経済になると石油をもつ国は豊かになれる、でも石油を精製する技術が中東ではないから豊かになれない、技術力が関係してくる。
それからイノベーションがないと発明がない資本主義では豊かになれない、常に発明を求める技術力を求める社会である。
そもそもヨーロッパが豊かなになったのは世界貿易の結果である。それは大航海時代からはじまる、最新式の船を造りアジアに進出して貿易で富を得たのである。
その時航海は危険だからみんなで金を出し合ったのも資本主義のはじまりという人もいる一方で勤勉に働いてマックスウェバーの宗教が勤勉を生み資本蓄積が行われたからだという説がある。この二つは資本主義の基本にある。

技術力というとき発明というときコンピューターの発明は大きかった。
それがスマホとかになり世界的革命となり普及した。そのITの技術力でアメリカが優れていたから世界をリードするようになり豊かになった。
パソコンの発明は実際画期的なものだった。自分が抽象画を作ってつくづく不思議だと思うからだ。全く絵の才能がないものが絵を作り楽しむことができる不思議である。
そういう芸術の分野でも精神の分野にも技術は影響していたのである。
そういう発明をするものは資本主義では世界をリードして金持ちになる
アメリカがエジソンを生んだようにアメリカが豊かになれたのはそういう発明があったからだとなる、医療分野でもガンの薬が百万とかで新しいものが効果あるものができているそれが馬鹿高いにしてもそれがガンに効くとなると買う人もいる、それよりそんな薬が発明される手いることに驚くのである。

とにかく今はいろいろ不満があっても資本主義社会にグローバル化経済の中で生きているするとそういうなかで生きることを否定しても否定できない、それが現実だからである。それでdarkness duaではそのことを説いているのである。
どうしたら資本主義社会で生きぬくかという知恵である。
でも明らかなことは資本蓄積がないと豊かにはなれない、金持ちにはなれない
一千万をためるのに一万貯金して30年とかなると嫌になるだろう。
自分の母親はそういうことをしてきたが使う必要もなかったからそうなっただけなのである。

なんかそのこと自体がいかに今の社会が貧困化しているかの証明である。
高度成長時代だったら貯金が倍になったのだから容易にできたことだからである。
その時の金の価値は二倍三倍だった、なぜなら一千万貯金したら二千万になったからである。今の一千万は一千万の価値もないのである。
高度成長時代だったらこんな金の計算はしていないからである。
非正規雇用者とかなるとじり貧であり貯金もできない、日本も貧困化社会になっているからどうして生きるかとなると節約とか働きつづける意外道がないとなる
老人になっても働き続けるほかない社会だとなってしまったのである。





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2017年03月06日

コンビニで監視カメラが警備会社とつながる 相互信頼のない殺伐とした社会


コンビニで監視カメラが警備会社とつながる


相互信頼のない殺伐とした社会



近くのコンビニで何かしきりに警告している、何なのかと思ったら監視カメラがカウターの前に二台大きなのがすえつけられていている、そしてそのカメラは警備会社と直通であり盛んにそのことを警告している
そのコンビニは前とは違い警戒を強めている、万引きなどを警戒している
それは前にもあったがその警戒の度合いが強いのである。
何か見て回っていてのだが何か買うのかと店員が言ってくる
何も買わないものは早く出て行きなさいという感じである。
そして立ち読みも禁止していて店に長くいま人を警戒している
すぐに目的のものを買って店を出て行ってくださいという感じである。

自分はオカズなども買ったからそういう客ではない、ただ何があるのか見て回っていた。ともかく買物はどういうものがあるかを知ることが意外とむずかしいのである
ゴンビニによっても売るものが違うからである。
だから何を買うのかが問題になる。それで見て回っていた。
でもそうしていると何かうさんくさい何も買わないで見て回るだけの人だとされる
だから何を買うのか買わないなら出て行ってくれと店員が口には出さなくても強いている
ではなぜこんなふうに変わったのか?やはり万引きなどが多いからなのか?
そこの店はこれまで外部の除染関係とか工事関係者の利用が多かったのである。
何かそういう理由があるのか?そこはセブンエレブンではない。
でもその警戒ぶりは異様にも思えた。
地元でもコンビニに十年通っても今はお得意様とはならない、それはどこでもそうであるコンビニでもスーパーでもお得意にはならない、そして客も信用できないからそうした厳しい監視体制をとる、警備会社にたのみ警察が直結しているともなる
コンビニ強盗にも備えているということがある。

そういう店に入ると何かとげとげしくなる、ゆっくり品物を見ていられないのである。
もちろん立ち読みもできない、そういう余裕がない店になる
何か自分は息抜きに店を利用するということがある
毎日三軒は店を常時回っている、それだけ買うものがあるからである。
あのようになるとあそこの店には行きたくないともなる

もう資本主義社会をつきつめてゆくと金だけの社会になる、人間関係も金しかなくなる
実際には自分はそれを経験した。
要するに「お前のために働いているのではないんだよ、金のために働いているんだ」となっているのが普通である。
労働はすべて金のためでありその人のためではない、お前のために働いているのではない金のためであるのをつきつめてゆくと自分が経験したように相手が介護で困っていようが病気だろうが関係ない、金さえとればいいとなり実際盗まれたり虐待されたのが自分である

その人は借金しているから自分のためには何一つ軽い荷物すらもつのを嫌がっていた。
ただただ金がほしいしかなかったのである。
それが極端になると相手のことなど全くかまわない、金さえもらえばいいとなり強盗にもなる、そういう経験もしてきた。
だから家の中に人を入れるのは今はとても信用できる人がいないから一番危険になる
そこに経済的格差が大きいと本当に危険になる
家で働くものはよほど信用がある人でないと危険極まりないものとなっている
それはみんなその人のために働いているのではない金のために働いている社会だからである。

結局江戸時代の貧乏の暗黒があった、容姿のいいものは遊女にされ不細工な女性は過酷な紙漉きをさせられたとか暗黒があった。
現代もまた相互信頼がない暗黒社会である。それはアメリカとにてくるのである。
アメリカをまねて日本も資本主義社会になったからである。
もちろん金が常に人を支配してきたとういことはある
でも何か現代はそれが異常化している、それはアメリカでは他人は信用しない、玄関に人が来れば銃をかえまているのがアメリカである。
まさにこのコンビニはアメリカと同じになっていた。客が来ても信用しない、銃をかまえている、即警備会社から警察に監視カメラがつながっているのである。

ともかく現代の暗黒もまた江戸時代などの暗黒もあるが変わらないものがある。
貧困社会になれば余計にそうなる、資本主義社会は金がないともう余裕などもてないものになっている、清貧などありえない、基本料金として水道からガスから電気から通信費でもかかるから清貧はありえないのである。
金がないということはそうして精神的余裕がてないのである。
自分は今まではそうだったが金が入った結果精神的余裕がもてるようになったのである。このくらいの金はたいしたことがないとかなった、今まではそうではなかった。

もう日本も貧困社会になるとみんなさらに余裕がなくなる、物があふれていても金がなくて買えないとなるとかえって餓鬼地獄のようになる。そして唯一の頼りが金だけになる
人が働く動機も金しかないというとき殺伐としたものになる
遂に極端になると金をめぐって殺すか殺されるまでなる、メキシコなどは貧困社会でありギャングが横行するから実際にそうなっている
そういう殺伐とした社会では金持ちでも安穏とはしていられない、メキシコでは金持ちが誘拐されるのが多いからである。
いくら個人が余裕があったとしても回りがみんなそうなったらとてものんびりとしてはいられないのである。そういう経験をしてきたから今の世の中はかえって江戸時代よりも貧乏な時代よりも暗黒だとさえなる
結局この世の中から暗黒はdarkness duaではないがなくならない
一見現代はいい面も多々あるが金のないものにとっては地獄なのである。
その傾向は貧困化しているから日本でもますます強まり相互信頼もなくなり殺伐となってくるのである。

タグ:監視カメラ
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2017年03月03日

人間が本質的に変わらないから諺(ことわざ)も生きている (人間の行為はすべてカルマとなっている)


人間が本質的に変わらないから諺(ことわざ)も生きている


(人間の行為はすべてカルマとなっている)


損して得をとれ

ただより高いものはない

金の切れ目が縁の切れ目


損して得をとれというとき何か商売するにしてもすぐにもうけがでるということはない、それは事業でもそうである。そういうことで自分も失敗している
何かすぐにもうけがでる、成功するということを考える
実際はそうはいかず出費ばかりでもうからないなとなる
商売でもすぐにはじめて繁盛するようなのはなかなかないだろう。
人間はだから最初損して得をとれということに耐えられないのである。
ただ損ばかりしているだけじゃないかとなる

損したくない反面として「ただより高いものはない」ともなる
ただでやってもらいたいと思うが誰もそんなことはしない
何かするには必ず代償を要求してくるのが人間でありこの世である。
ただでやまことはかえって高くつく
人はちょっとしたことでもただではやらない
ちょっとしたことでもただでやるとかえって百倍も高くつく

例えば車がないから車をもっている人に頼むとするとタクシー料金より百倍も高くなるかもしれない、ただでやりますよ、頼んでくださいと言ってもらってもでは必ずお礼をしなければならない、いくらでもいいですよというがそれが普通の料金より馬鹿高くなる
「いくらでもいいですよ」ということはその上限がないことだから馬鹿高くなる
だからそういわれても頼めないことがわかる
ただ近くで車を利用するときは知人に2000円を払うということを決めて頼んでいた人がいた。それもやはり親しい人間関係があってできることである。
だから車をもっている人がこんなにいるのに頼めないのである。
「いつでも頼んでください」といわれてもいくらと決まっていない、「いくらでもいいですよ」ということは上限がないからかえって高くつくのである。

まず事業して借金していたような人に頼んだら怖いことになる、その人は金に窮しているから頭に金とることしかないからだっだ
だからほんのちょっとしたことでもしてもらったら恩きせがましくなるし金を要求する
それも額が百倍になってしまう、上限がないからである。
だから本当にただより高いものはないことを知った

要するに人間はどんなささいなことでも一杯のお茶を運ぶにしてもただではやらないことなのだ、だからこそ金で払うシステムを作ったのである。
いくらいくらで何かをすれば決めて払うのである。「いくらでもいいですよ」とはしないこれだけのサーズヒにはこれだけの金を払うというシステムを作って社会が成り立っている、だがその決められたものならいいが決められないものになると法外に馬鹿高いものとして要求されるのである。
でも家族がいないとかなると何かあったとき一杯のお茶でも入れてもってきてもらうことに百倍の料金が必要になることがある。
家に来た人は盗むことしか考えていなかったから実際は百万倍もの金を払うことになったのである。
それだけ人はただでは働かないものだと知った

この諺は矛盾しているのだけで損して得をとれというのも真実である。それは経験上そういうことがあるから諺になる。損したようでもそれが得となってかえってくるというのも真実である。こんなことをただして何の見返りもない、こんなことをしてどうなるのか?
でも商売だと最初からもうけがすぐにでることはむずかしい
でもサービスがたりないのか、お客さんの要望に答えていないのかとか、徐々にお客さんの要望に答えてゆくようにする、その時どうしても最初は損することになる
その損がやがて得にむずびつくようになる

そもそも相手に何か尽くして損することはないのである。こんなことして何の得にもならないからやらないというのが普通である
でも小さなことでも人間のすることはなんでも「カルマ」になっているのだ。
カルマとは行為のことなのである。何かの行為がささいなことでもカルマとなる
例えそれがすぐに返されなくてもいつかまた自分に跳ね返ってくることがカルマの法則なのである。
人が困ったとき何かをしてやればささいなことでもそれがカルマとなってゆく
それはされる方もした方もそうなってゆく
そしていつかその帳尻は合うようになっているのがこの世なのである。
だからこの世にはカルマの法則が貫かれている

損したと思ってもそれが得に結びついているのである。
「こんな金にもならない、得にもならないことをして何になるんだ」
そう思っているとき実は最も得なことを徳を将来に積んでいたのかと後でわかることがある。

いづれにしろここ十年の介護とか自分の病気とかで社会経験を積んだから諺は人間が変わらないから今も生きていると思った。
確かに便利な世の中になったが本質的に人間は変わらない、だから諺が今もつくづく生きている、むずかしいことだけが真理ではない、庶民もその生活の中で普遍的な真理の言葉を残しているのである。

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2017年02月24日

貧困化する日本で社会不安が増大する



貧困化する日本で社会不安が増大する

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●金でめんどうみてもらへ
●金をくれ
●金をよこせ
●金をください

最初の人は全く金に困っていないが人格異常になっていた、何か遺産が入る人だったのである。ただその遺産でもめたりはしていた。
「金をくれ」と来た人は火をともすような生活をしていた。おそらく年金だけは少なくて暮らしていけない状態だった、国民年金でもそうだし厚生年金にしてもまともな会社に入っていなければもらえない、その女性は10万以下しかもらっていない、でもカラオケだとか趣味とかに金を使っていた、だから節約するにしてもそうした楽しみを奪われたくない、つきあいもしたいとなり金が必要になる
そもそも10万以下ではカラオケにもつきあいもできないのである。

「金をよこせ」という人は事業に失敗していたからこれも切羽詰まっていた、自分が介護とか病気になり借金をせまってきた、最初はわからなかった、成功していたと思っていたのである。家族すら知らなかったのである。パチンコ屋に妻が勤めているということでわかったのである。
事業に失敗したとなるとその額は大きくなる、そしてその人は節約していない、いい車をもって外見は成功した生活をしているのである。だから知らない人はやはり成功していると見ているだろう、ただパチンコ屋に勤めているということで金に窮していることがわかる
その人は何かまだ成功するとしている、事業も別に継続しているからだ。
ただ借金の額が大きいからそういう人は軽く百万とか平気で要求するから怖い
だからそういう人と付き合えるのは事業して何十億とかある金持ちしかいないだろう。
そんな人と付き合うとなると怖いとなる、保険金殺人とかの危険もあり何か自分もそういう恐怖になった

最後の人はやはりサラ金からも借金していてヤクザ風の取り立て屋が来た。
でもその額は小さいのである。その女性は一万とか二万とか少額の金を借りてやりくりしていたのである。だから自分はそれを払ってやった。
その人は見栄もなにもないし贅沢もしていない、ぎりぎりでずっとやりくりしていたのである。その日暮らしのような状態であり今でもそうである。
でもサシミなどは魚屋で新鮮なものを食べていた。
ただ人に頼むのがうまい、たけている、処世術がある。
「金をくれ」とか「金をよこせ」とか命令してそれを実行している人とは違う、見栄もなにもないのである。他の人は見栄があるからそういうことはできない

いづれにしろダークネスデュオで言っているように日本も貧困化している、ただそれが現代では見えないのである。着るものでも食べるものでは昔の貧困とは違うからである。
自分の父親は明治生まれでサシミなど酒のつまみに食べすに終わっている
味噌を焼いたようなものを魚にしていたのであてる。
そしてサシミ食べれるようになったけど食べたくないと言って病気で死んだのである。
貧困は自分の子供時代はみんなそうだった、第一物が何もない、電化製品もない、飯台が一つしかないという生活はみんな共通だった
そして農家では卵を食べることができたからかえって自給自足で贅沢だったのである。
街の人は卵を食べていない、自分の家では店をしていたから卵を買うことが仕事にさせられたのである。ものがない時代の貧乏だった、その時はみんな貧乏だったのである。
今は物がある時代の貧乏なのである。これほど物が世界から集まり何でもあるが今度は金がなければ買えないという貧乏なのである。そして格差社会になった貧乏である。

格差社会というときこれは世界的問題である。グローバル経済になるとどこの国でも格差社会になる、グローバルに企業が低賃金の労働者を求める、企業は競争に勝たねばならないからみんなそうなる、そしてAI化とか機械化が進んでゆく、コストを人間にかけられないからである。人間より機械の方が企業にとっては都合がいいのである。
そこにあるのは人間を見る論理ではなくより効率的に企業を経営するという企業側の論理しかないのである。だから非効率な人間は切り捨てられる
それがコンピューター化や機械化でますますめんどうな人間はいらないとなる
グローバル経済になれば低賃金化した職業が増えるし貧困化した人間が増大するのであるグローバル経済はアメリカでもそうだけど極一部の人に富が集まるシステムである。
スキルをもった頭脳となる部分に富が集中するのである。
そして人間を雇うよりそうした頭脳となる人たちはより効率的にするために人間は切り捨てられるしグローバルに低賃金化して雇うのである。それは世界的なものでありアメリカでもそうだしどこの国でもそうなっているのだ。

これほど借金してやりくりしている人が多いということは社会的不安が犯罪でも増大す
る、まず高齢社会になり国民年金だけでは生活できない、貯金ある人も少ない、その人たちは生活保護になり国の財政を圧迫するから75歳まで働けとなった、もう75歳までは老人ではないから福祉サービスも受けられない、国でも出さないとなったのである。
自分が助かったのは介護であまり金を使わなかったことである。
手間がかかったが金はそんなにかからなかった、そのうち死んだので金はかからなかったでも介護だと長くなるし一千万とか二千万使ったという人がいるからこれも負担なのである。高齢化社会は介護の負担が金だけではない労力としても負担が大きいのである。
それはみんなにのしかかってくる負担なのである。

こういう時代は社会不安が増大してくる、その犠牲になったのが自分である。格差社会となり金持ちでも安心して暮らせない、困窮している人が増えれば犯罪は増大してくる
怨嗟も大きくなる。
ただ自分もそうだが犯罪でも被害にあわないかぎり実際にそうした貧困化している人と会わない限り感じないのである。だから自分はこれまでそんなことを感じない状態にあったからみんないい人だと思っていたのである。
現実はあまりにも違ったものだったのである。
ただ自分も贅沢などしていない、旅するにも温泉宿になど泊まったことがないし土地のうまいものも食べたこともない、そんな金の余裕がないからである。
本を買ったりしたがほとんど何か贅沢などしていないのである
小遣いを多少もらっていただけだからである、だから百万の金を使ったことがないのである。家だって親が建てたからそこに住んでいたというだけである。
要するに自分が贅沢だったというとき時間だけが与えられたというだけだったのである。
ともかく借金で汲々としてやりくりしている生活はどこで破綻するかもしれない、そして何かローンで家を買った人なども退職してからも余裕がないのである。
ローン地獄となる、それも経済成長しないから誤算だったとなる
そもそもそんなに借金でやりくりしているということがまちがいだった、節約すべきだったと言うのもわかる、節約が唯一の道だったというのわかる
で物があふれいる時代は節約することがかえってむずかしい、物がない時代はそもそも買いたいものもないのだから節約もないのである。
だから事業に失敗しても以前としてレベルの高い生活をしているが借金を返すことに汲々していてもそうしている

そういうことは理に反しているけど現代はそうなっているのである。
だから「絶対に借金はするな」となるがそれが実行されずにそのために回りの人もまきこまれることが怖いのである。犯罪の被害者になり自分のように脅迫されるとかもなる。
そもそも節約しないで他人が金あるからとそれを借りてまた脅迫してでも犯罪でもとるということがおかしなことなのである。
そんなに金を出せる人がいるのかとなる、自分だってそんな金はないけどそんなことはかまわず要求してくる、遂に奪えばいいとなる、そして自分のことなど死のおうが何になろうがかまわないとなっている、だから金は怖いとなる
この辺で補償金でもめたけどこれもどうにもならない、どんなことしたって金をもらったものが勝ちだとなるからだ。そういう社会になっているからである。
もらえるものはもらう、金がもらった方が何であれ勝ちだとなっている社会だからであるそして人心の荒廃がすすんでゆくのが現代なのである。。

タグ:貧困
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2017年02月23日

情なき現代人の不幸-科学者は頭が冷たくなる (江戸時代は情で不足を補っていた)


情なき現代人の不幸-科学者は頭が冷たくなる


(江戸時代は情で不足を補っていた)

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知、情、意があるが、江戸時代は情の世界であり現代が知が拡大した、情は縮小した
江戸時代は不足を情で補っていた、現代の情なき世界は人間を不幸にした
知のみが突出しててまったのである。


人間は江戸時代となるとそんなところに生きたくないとなる、一方で現代と比べてそこがそんなに住みにくい場所だったのかとなるとまた違っている
江戸時代の人が外国人が来たときモラルも高いしみんな幸せそうな顔をしていたというときそうである。

現代人はみん幸せな顔しているかというと不満な人が多い
そして大方の人が金に追われている、なぜこれほど金に追われているのか?
江戸時代などと比べればどれだけ豊かな生活をしているのか江戸時代の人が現代に来たら驚くだろう。

自分が経験したことでも

●金でめんどうみてもらへ
●金をくれ
●金をよこせ
●金をください

これしかなかった。一人は別に金に困っていない、ただその人も金でめんどうみろと言って去った、一人は最初から金をくれときたから冗談と思ったが本気であり本当に家捜して金を奪った、その人は金に困っていたからである。
もう一人は金をよこせという脅迫である。事業に失敗して金に困り自分が苦しんで困っているときだからそうしやすかった。
これほど露骨に金が全面に出してはばかることもないのか?その驚きだった。
最後に来た人も金にずっと困っていたが金を要求してもまだ少ないから良かった。
そしてともかくたのみこむからことわりきれないことがあった。
それは金をくれとかよこせとかいうのではなく金をくださいと頭を何度も下げて頼むのである。
前の三者はそういう金をほしいのだけどそういうことはない、「金をくれ」「金をよこせ」という強要していたのである。
一人は強盗だったし一人は脅迫者になっていた
そして「金の切れ目が縁の切れ目」となった

ではこういうことが自分だけに起きたことなのか?。それは社会全般の傾向ではないか?
金しかない、金の力があまりにも大きくなった社会だからそうなっている
普通の生活をしていたら自分が健康で家族も普通の生活をしていたらこうはならなかった家族が認知症になった、介護になった、自分が病気になったということでこういう人が露骨に人の弱みにつけこむようになったのだから悪質である。
相手も金がないのだから困窮しているから相手のことなど考えられないのである。
こういう人と比べると最後の人はいろいろあってもましな人だなとつくづく思っている。この女性も金に常に困っている人ではあったがまだそこまで露骨にはならないし人間的情がある

現代とは江戸時代と比べれば豊かであり便利でありこんないい社会は今までないとなる
でもなぜそうでもていのか?その原因は何なのかとなる
便利になり技術が発達しても必ずしも人間は幸福にならないと言うことがある
車は便利でも交通事故があり原発でも事故になり故郷にも住めなくなったとかある
金がこれほど大きな力ももつようになったのもグローバル社会になれば外国から物を買うのだから金が必要になる、金の力が大きくなるのである。
そして格差社会にもなる、こういう社会では金持ちも幸福とはならない、常に危険にさらされることになる、自分はたいして金持ちでないとしてもそういう目にあったから怖いと思った。

なぜ人間は技術でも何でも進歩してきたはずなのに幸福にならないのか?
それは江戸時代と比べると見えてくるものがある。江戸時代が全面的にいいとかいうのではない、社会というものを比べるためにそうしている
江戸時代は情に厚い社会だったことは確かである。貧乏で不便なのだけど人間は濃密な交わりがあり情に厚い社会だった、知識だって今の千分の一なのか万分の一なのかその量も比べものにならない、だから勉強だって楽だったとなる
医は仁術というとき医者でも技術より情が重んじられていたのである。
それより病気を治せないものとしてありただ情をかけてすませていたともなる社会であるだから情をかけてもっただけで直らないというのでは困るということもあった。
でも治す技術もないし科学も発達しないのだからそうなったのである。
そういうことは社会全般にあったと思う、科学技術が発達しないから人間はただ情をかけてかわいそうだなとして対処できなかったということもある
ただそこに情が通っていたとはなる、無力なんだけど情をもって人々は暮らしていたともなる

現代の医者は情などより病気を治してくれ、治せない医者は無能だからいらないとなる
だから医者は情をかけるというより機械を操作したり知識をもち患者に対応する、そこでかえって情は無視されるのである、看護師だって情にかけている、常に治療のために気をとられるから情をもって接することはなおざりになる。
医者でも人間を機械のように見ているかもしれない、病気とは機械の部品を壊れたように見ているかもしれない、医療とか福祉の分野はどうしても情が必要になるがそこが欠けるようになった、もちろん江戸時代でも医は算術ということはあった。
薬となる朝鮮人参が高いということもあった。だから江戸時代では病気になったらもうあきらめるほかないとかあった。情をかけられても病気は治せないということがあった。
それでも厚い情をもって人々は接していたとなる
とすると江戸時代でも科学技術が発達しなくても情によって補っていたともなる。
それはそれでいい社会であり科学技術も発達しなくても貧乏でもいい社会だったとなるから外国人が日本人はみんな幸せそうな顔していたとなるのである。

いづれにしろ現代人は情がうすくなり冷たくなっていることはまちがいない、それは現代の社会によって作られたものなのである。
武田邦彦氏が理系であり技術者であっても文系にも詳しいから言うことは興味深い
物理とか機械とかにたずさわる人、知識人は頭が冷たくなるという、これも面白い表現だなと思う、そういう学問であれ技術であれ膨大なの知識で頭を酷使していると頭が冷たくなる、情が薄れてくる、そしてそのことは頭脳のみが肥大化した冷酷な人間と化す
何かそういう人は文系などから見ると数式をあやつり人間的世界から離れてしっている感覚になる、最後はフランケンシュタインのような異様な人間とまで化してゆく
何かそうまでしないとそうした世界には入っていけないということがある
だから頭が冷たくなるというのはそういう世界に没入するとそうなってしまうのである。
一方で庶民など体を使っている人はブラーカラーは情があり情がまだ厚いということが今でもある。それは庶民の方が情が厚いとなる、 女性の方が情が厚いのは知で物事を判断しないからである。ただ金の世界になったときそういうことも失われてきている、でもそうした科学技術とか知識人よりはかえって単純なのだけど情に厚い人はまだいる、ただ全般的に庶民ですら今は金で追われているから情は薄くなっている、現代は頭でっかちな人が多すぎる社会である。
江戸時代はほとんど農民であり職人であり体を使う仕事である。頭を使う仕事は非常に少ないから情があった社会だともなる。
現代に必要なのはかえって情がある情を養成することだとも逆説的になる
昔だったら情を養成する環境があった。牛とか馬とか生き物を使っていると自ずと動物相手だと情が働く,機械だと情が働かないのである。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 

現代とは何かというと知に働くから角がたつ社会なのである。一方で情にも問題があり情を流されるというのもあり情がすべていいものともならないことは言える。でもこの情が欠けた社会は人間を幸福にはしない。

現代は情を養成する環境が希薄なのである。人間は遂にロボットになるとかになる
ロボットの最大の欠陥は情がもていないことなのである。知識は技術はもてても情に欠ける、それは理系とか機械を扱う分野の人は頭が冷たくなるということでそうなってしまうのである。
だからこれからはどうしたら情を養うのかということが問題になる、知識だけが膨大に増大しても人間は幸福になれないからである。
でもここを問題にしているのは教育でも社会でもないのである。
でもそういうことが人間を不幸にしているとすれば人間はただ便利なもの知識のみ技術のみを追求してもかえって不幸になるということである。
だから社会は人間はそういうことをただ闇雲に科学技術だけを知識だけをいいものとして追求するのも問題なのである。でもそれを制御するものはない、それで原発事故とかなって不幸に陥れられたということがある。

要するに人間は江戸時代だからといってそこに生きていてもすべてが悪いとはならなかった、不便でも貧乏でもそれを補うものが情が厚かったとかある、だから人間はそもそも幸福とは何なのか?そのことを問題にしていない、ただ便利なものを豊かになることを科学技術の発達を追求しているのである。「人間の幸福」を別に追求しているのではないのである。人間として不幸になろうがやはり科学技術は追求されるし便利さは追求されるし知識はますます増大してしゆく、つまり人間社会は「人間の幸福」は追求していない、
そもそも「人間の幸福」は何かというときそれを正確にとらえていない、とらえられないからである。だから結局そうして豊かさや便利さを追求しても不幸になるのである。

ともかく情がない世界に生きることは恐怖である。情がない世界とは愛がない世界であるそれはいくら便利でも豊かでも恐怖になる、だから病院とかは何か無機質であり治療はしても情がないとなることを知ったから病院には一時的ないいが長くばいたくないとか死にたくはないとなる、情のない世界と愛のない世界でもありそれは地獄ではないか?
つまり便利でも豊かでも地獄に生きるということがあるのが人間社会だということである。
理系とか科学技術者とかでも頭が冷たいとなるとそういう人は人を人ともみないかもしれない、そういう傲慢なものにもなってしまう。
だって情がないとしたらその人がどんなに頭が良くてもつきあえるのか、その人は人間なのかとまでなるからだ。医者でも実際に患者を人ともみない、情もかけない、この人は実験材料だとかなってしまう、そういう冷酷なものとしても医者とかはありうるしあるから怖いとなる。つまり情がない世界はいくら豊かでも便利でも索漠としたものとなるのでありそれが現代だからみんな不幸な顔をしているともなるのである。

だから社会が進歩してきたとしても「人間を幸福」にしてきたとはならないのである。
もちろん豊かになれば確かに幸福にしたという面はあっても不幸にした面もある。
だから江戸時代の人間は貧乏であり不幸だったとは言えないし現代人がみんな幸福だとも言えないのである。思うに人間はこの世を楽園にはできない、どんなに努力してもできないようになっている、それが神のみしかできないことである。
人間は科学技術がいいと思っても必ず交通事故とか原発事故のように悪いものとして現れてくるからである。それは神話でも火を神から盗んで罰せられたプロメテウスのようにありそれが原発事故として現代でも再現されていたのである。
核も火でありそれを盗んだのだがそれが罰として原発事故になり故郷にも住めなくなって不幸をもたらしたのである。

インテリの非人間性(1)(武田邦彦)
タグ:情なき社会
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2017年02月20日

機械化 、AI化、ロボット化は人間にとっていいものである (真の労働をボランティアで追求する時代に)


機械化 、AI化、ロボット化は人間にとっていいものである


(真の労働をボランティアで追求する時代に)

人間の社会は労働なくしてありえないし日々労働である。だから労働もしなかった自分が労働を考えるのもかえって労働しないから考える
自分の労働の経験は流れ作業とか底辺の肉体労働しか若いときしていない、だから労働を嫌悪してしなくなったのである。それができたのは家族に恵まれてできたのである。
自分は学校にも適応できないし会社勤めもできない性格だったからである。

人間がホモファーベルとうとき道具を使う人間というときやはり人間の労働が苦しいから道具を使って生産性をあげる、楽をするとかあり発達した。それは石器の時代からはじまっていたのである。そして石器から鉄になったとき飛躍的に生産性があがった。
稲荷信仰は実は鋳成神である

大鍛冶(タタラ)の仕事が行なわれた地域には鋳成神(稲荷神)が、小鍛冶(道具鍛冶)の仕事が行なわれた場所には荒神(庚申)が奉られた可能性が高い。稲荷の敷地からヒ(けら)や銑(ずく)のクズが、庚申塚の下から火床(ほと)跡が発見されることも多い。のちに、産鉄地が放棄されて神を奉った聖域だけが残り

稲作は鉄器を使った時飛躍的に生産が増大したのである。そして王という字は斧というのが元になっている、まさに斧をもったものが王となったことでも道具をもつものが支配者になるということである。

そういうことは人間の歴史でつづいてきた、機械化は進んできた。
だからなぜ大井川とかで橋を作らなかったのか、船で渡らなかったのか?とか疑問があるがそれは人足が職を失うからだったというのもそうである。
川を渡す人足は相当数いたからその人たちが職を失うから船で渡さなかったという、
便利なものができればそれで職を失う人は必ずでてきて機械化に反対する人たちがいる
鉄道が車時代になったとき国鉄が衰退して社会党も消滅した
国鉄の組合が社会党を支えていたからである。でもその時は高度成長時代であり民営化しても退職金を多くもらうことができた、民営化に反対するというときこれも道具の移り変わり進歩でそうなったのである。つまり政治まで影響するのが技術の進歩なのである。
原発だってやはりその技術の進歩の結果としてまた事故にもなり政治に影響したのである
機械化するというとき家事に機械化も大きい変化だった、洗濯でも盥(たらい)や洗濯板でごしごしやっていたらその苦労は並大抵のものではない、家事も電化しないときは重労働だったのである、それで戦前でも中流家庭でも二人の女中を雇っていたという
それだけ家事に時間がとられていたのである。女中がそれだけ必要だったのである。
今は家事は自分も全部しているけど楽である。
何か自分は一人で三人分くらいの仕事をしている感じになる。
一人は毎日来ているとしても二三分しか働かない、皿二三枚洗うだけである。
それでも高い金をはらっているのは自分にとって必要だらしょうがないとしてそうなっている
つまり実際はその女性は別にここで働いてもらう必要がないのである。
それは機械化の結果である、でもそうなったらその女性は職を失うのである。
金がもらえなくなるのである。
現代は機械化とかコンピューター化すればますます職を失う人が増えてくる
アメリカで雇用を増やしてくれというときそうしたコンピューター化や機械化した結果としてもそうなっている、なぜなら企業はどこまでも効率化してゆくことが要求されるから金のかかるめんどうな人間を雇いたくないからである。

では機械化コンピューター化が人間にとって悪いことなのとかとなるとそうではない、そもそも機械化できるコンピューター化できる労働は単純労働であり機械化した方がいい労働なのである。流れ作業などがそうである。そういうことを人間はしたくない、だから機械化した方がいいとなる
それはロボットと同じであり実際に今はロボットが代わりにしている。
人間のやるべきことはそうした機械的なことではない何か創造的なことであり人間にしかできないことをやるようになる。
いくら機械化してもそういう仕事は人間に残る、女性の仕事もなくならない、女性は何か慰め役とかして男性にはできないことが適応があるからである。
つまり機械化 、AI化、ロボット化によって人間は本来人間にしかできないものをするようになる。

それはボランティア的なものを追求することになる、ボランティアは自発的にするものでありしたくないからするものではない、俺たちは奴隷なんだよなと社蓄なんだよなとかの労働ではない、労働はそもそもそういうものであってはならない、なぜならその時社会全体が不健康になるからである。
ところがもしみんなが自発的なボランティアのようになっていればみんな楽しく自発的にしているのだから社会が健康なものになるからである。
ある技術者は残業をしていたが守衛とかにやてくださいと言われたがもっと仕事をしたいから自発的にしているというときその人はその技術職だから技術を追求しているからそうなっている、流れ作業のよう梨ごとをしていれば一刻でも早くやめたいからである。
つまりこの世にはそうして機械化した方がいい仕事が多いのである。
だからコンビニでもアマゾンで自動化している店がすでにあるというときそういう仕事すら機械化自動化することは悪いことではない、その店員は別な仕事をより人間的な仕事を求めることになるからだ。

だからベーシックインカムというのも豊かになれば必要だとなる、人間社会では嫌な仕事をしたくなくても強制されるからである。自由社会とは何でも強制されない社会である。ボランティア精神でするのが自発性でもって仕事するのが自由社会である。
それは道徳的な面でもそうである。宗教をカルトのように強制的におしつけるのではない、自発的に求めるならいいのである。
人間はそもそも他者から強制されたり他者の言いなりになることは自分を失うことなのである。それを金のためにそうしている人があまりにも多いからこの世が不健康になっているのである。金によって自分のしたいこと自発性が損なわれるのである。
芸術家にしたってそんな絵を描いても文章かいても売れなければなんにもならないとか出版社でも画商でもなる、もし別に金があればそんなことをしなくてもいいのである。
要するに金のために働いているものは奴隷なのである。
だからこの世の中は奴隷社会になっている。そのことが社会を不健全にしているのであるカルト宗教でも人間の自発性を発揮させない、教育でも学校だと自発的に勉強するということがなくただ暗記だから興味を失うのである。
もし自発的なものとして勉強していれば勉強は楽しいものとなる

だから運送でも車の自動運転でもそうしたものが機械化できればそれは悪いことにはならない、確かにその反動はあり事故もあったりするがそういうただ物を運ぶということでもそこに創造性とか人間的なものがないものは機械化自動化した方がいいとなる
そして機械化自動化コンピューター化できないものが人間的な仕事だとなる
それで意外とそうして機械化自動化がすすむとき介護などの仕事は人間に直接ふれる仕事だから残るというときそういう仕事の給料が上がるかもしれないしそういう仕事に適応できるのは高給取りになるかもしれないのである
仕事の価値は時代によって変わってくるからである。
だから豊かな時代になれば
「あなたのしたいことをしてください、金のために働く必要はありません、会社のために働く必要はありません、
奴隷的仕事はしなくてもいいです、あなたのしたいことをしてください」
となるかもしれない、でもその時退職した人のようにとまどう人もでてくる。
そういう人はやはり奴隷にしてくださいともなることもある、自由といっても自由を本当に価値あるものに活用することもむずかしいからである。

人間が追求しているのは自発性、ボランティア精神なのである。それが民主主義であり自由社会の基本なのである。もちろんそれは理想なのだけどモラルだって自発性がなければいくら強制してもモラルは向上しない、カルト宗教団体などは全くこの自発性が皆無なのである。まさに精神的奴隷にされているのである。
ただ地獄に落ちるとか罰あたるとか怯えているだけの団体でありそれもこの社会を不健全にしているのである。
この世の中をゆがめているもの自発的にボランティアとして生きられないことなのであるいづれにしろ俺はこれが好きでやっているから苦しくなんかない、楽しいんだ、残業など強制されない、仕事をしていたいんだよとなっていれば健全である。
農業だってこれも別に趣味でしている人は楽しいのである。農業は実際はそうして売るためにとか金のためにではなくしていれば自然と密接に結びつくから楽しいものであり生きがいとなる、大工の仕事でも職人でも何でも自発的にしたいということはある
そこには機械的な作業もあるが何か自発的にしたいというものがありそれが創造性につながるのである。

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2017年02月19日

ボランティアの条件 (ボランティアと仕事の相違)


ボランティアの条件


(ボランティアと仕事の相違)


ボランティアの条件として

●金をとらない
●金を出さない
●楽しい
●強要されない
●感謝も自由

他人の判断や責任のもとで行為するのではなくて、上のような意図のもとに、自分で状況を認識し、何をなすべきかを自分で判断し、あくまでも自分の責任において、いわば何の後盾もなく、行為を開始するのである。

<無償性>  無償性とは、経済的な報酬(金銭、物品、サービスなど)を目的としないということである。ボランティア活動をするときに、精神的な満足や交流の楽しみなどを報酬として目的にすることは、ここにいう無償性をそこなうものではない。

無償の立場から、公益性を探ろうとする点で、際だっている。もちろん、無償の立場だからこそ真の公益性を主張できるのだ

(一)チャリティーのボランティア(他人のための道徳的行為)
(二)自己実現のボランティア  (自分のための文化的行為)
(三)社会参加のボランティア  (社会のための公的な行為)

ボランティアと仕事は違う、仕事は嫌でもしなければならないしそうしないと社会が成り立たない、ここのボランティアの考察は興味深い

自分が無人駅の案内としての偶然のボランティアはこのことだった。
金をとらないし金を出さないしやっていることが楽しい、公益性もある。強要されてもいない、感謝もされるがそれも自由である。

(二)自己実現のボランティア  (自分のための文化的行為)

この文化的行為というのがむずかしい面がある。自分の場合は鉄道が好きであり鉄道会社に世話になっているということで文化的行為になっている
それから介護施設で老人の昔の話を聞いたときもそれは文化的なことであり郷土史にも結びついていたから文化的行為だったのである。
それは苦痛ではない、楽しいものだったのである。

原発事故や津浪ではボランティアが大勢きた、しかしその人たちがこのような無償の行為だったかというとみんながそうではない、例えば宗教団体が結構きていたがそういう人たちは自分たちの団体を宣伝するという目的があった。
それかち芸能人でもそういう人たちもやはり純粋にボランティアするというよりは名前を売るとかの目的があった。
この辺では福島県の詩人が有名になったけどそれは原発を種にして有名になった売名詩人である。名前を売り出すことができたからである。
そういう目的があってボランティアをしているのである。
だから純粋にボランティアしているというのは意外と少ないしボランティアは本当は相当にむずかしいものだと思う

だいたい人間は何か自分に利益がなければなにもしない、日頃近くで困っている人がいてもボランティアしているかというとしていない、ほとんど無関心なのである。
今でもボランティアにきて焚き出しなどをしているというが国から交通費が出ていると日当がでているとも言われる、第一遠くから来るとしたら交通費を自腹でするとなると簡単にはできないはずである。日当は出るとなる
この辺で仮設に議員が来て援助するというと票を得るためであり無償ではしないからそれも政治活動であり自分のためだともなる

このサイトのボランティアの考察で面白いと思ったのは(自分のための文化的行為)である。これが何か自分のしていることなのである。
文化的なことは本当はボランティアに向いているものがある。肉体労働とかなると苦しいからボランティアしにくい、文化的行為というとき鉄道が好きだとか鉄道マニアがいて鉄道にかかわりたいとかなるとそれは文化的行為なのである。
そもそも文学とか芸術とかは文化的行為である。これでもうけようとするのがなじまないのである。それから情報関係でもそういうことがある。
何かを伝えたいというとき別に金がほしいからではなく常に人間が社会生活ではあるからだ。電車が風の影響で毎日遅れているということを伝えることは別に金がほしいからではない、それがみんなに伝える必要があるものだからである。
人間の社会生活にはこうして実は金にならないものでも必要なものがある。
金にならないということで価値が認められない社会は余裕のない社会なのである。

本でも売れないから出版社で出さないとかあり著者は売れるようなものを書けとなるのが普通である。売る売れないで出版するかどうか決まる、それはマスコミでもそうである。視聴率をかせげるものを放送するが本当はボランティアだったら言いたいことをその人の関心をもっていることを赤裸々に言うことがかえって社会を知ることになる

だから余裕のある社会はボランティア精神を発揮できる社会だともなる、貧乏だったらできないからである。ボランティアできる人間はどうしても金銭的に余裕ある人である
時間的にもそうである。
ただボランティアの問題は責任がないということである。ボランティアの駅員でもいつもいるわけでもない、気まぐれだともなる、だからボランティアと仕事は相当に違っているのである。
嫌でも苦労でもしなければならないのが仕事なのである。
仕事は義務でありそれをしなければ社会生活が成り立たない、ボランティアは義務とか責任に欠けている、ただ自分がボランティアの駅員していて気持ちいいなと思ったのである結構ありがとうという人がいることなのである。こんなことで感謝されるのかとなる
別に感謝されなくてもいいがありがとうということは何か役に立っていることなのであるこのボランティアには全く自分は苦痛を感じていない、楽しいのである。
別にこれは他人でも社会でも認められるものでもないしそうされなくてもいいものであるちょっとした親切にすぎないからである。
ただ不思議なのはこういうことが善であるということも感じた

「人に注目されようとして自分の義を人の前で行なうことがないようによく注意しなさい。そうでないと,天におられるあなた方の父のもとであなた方に報いはありません。ゆえに,憐れみの施しをする際,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。(マタイ福音書 6章4節)

つまりこういうものに通じるものがある。結局津浪原発事故では様々なことが問題になった。ボランティアもそうである。
この言葉のようにしている人はいない、普通の社会生活でもいない、何か自分に利益があってしているのである。みんな何かしらの報いを得るためにしているのである。
ボランティアでもそうである。人間は無償で何かをすることはしない
ただ文化的行為というのは芸術となるといい俳句が短歌が絵でも作れたなとなるときそれ自体が報いとなっている、仕事にもいい作品を作ればそれが報いとなることがある。
だから収入の多寡に関係なくいいものを作るために精進することはある。
それはボランティア精神なのである。つまり仕事でもボランティア精神がなければ成り立たない、だからボランティアが文化的行為になっているとと自ずとボランティアになっているのである。ただ文化というとき広範囲だから理解しにくいが文化には無償性が大きい出版とか報道とかは無償ではない、常に売れなければならない、視聴率をかせぎ宣伝して企業から金をもらむなければならないとか利益追求があるからかえって真実も伝えられないのである。
だからインターネットともともとボランティア精神から成り立っていた。営利事業はしていなかったのである
ウィキペディアなどがそうである

宗教でも本来は無償性かあって成り立つ、だから金をとるカルト宗教団体はうさん臭いのである。布施というとき自発的なものとして受け取る、強制はできないものとしてあったでもカルト宗教教団では布施でも自由に見えても強制されているのである。
そしてなぜ兆にもなるような巨額な金を集めるのか?
それはそれでもって権力を得て銀行でも従わせるとか政治活動して権力を左右するためにしている、宗教も本当はボランティア精神でしていればこうはならない
金もとならない、強制はしないとかなれば問題ないのである。
つまり人間には社会にはボランティア精神がなくては一方で成り立たない、仕事は義務であってもボランティア精神がなければその仕事もゆがんだものとなる
みんなしたくない仕事をしているから奴隷なんだよな、社蓄なんだよなとなっているのである。それが社会を不健全にしているのである。

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2017年01月25日

感謝の経済学 (感謝がなくなった社会には災いが起きる)


感謝の経済学


(感謝がなくなった社会には災いが起きる)


●感謝する人、感謝される人が多い社会→平和な幸福な社会

×感謝する人、感謝される人が少ない社会→不幸な地獄的な社会

今の社会は感謝する人、感謝される人が少ない社会である。だから不幸な社会となる
確かに豊かなのだけど働いても感謝されない、消費者が王様だとなっているのだから働いている人が金払う人に感謝しているのである。
これは逆なのかもしれない、感謝される人はその人は何か金でないとしても与えられるものがある、感謝されたことで幸福感が生れる、有為な人材としての誇りもいだける。
感謝された人は目に見えないが何か力が付与されたのである。感謝した人もやはり精神が浄化されるというか幸福になるものが付与される、そうなると自然からも他者からも災いが与えられないともなる

でもまたいくら心で感謝されても感謝の具体的なものとして金が払われるべきであり言葉などでの感謝はいらないと言う人もいる。
つまり現代の資本主義社会では金がすべてとなっているから感謝でも金に変えなければ何もならないということにもなる。
では一番金持ちの人が一番感謝されているかとなるとなっていない。むしろ恨みと妬みとかを受ける、株でもうけたような人はギャンブルでもうけた人のように見られている
大富豪に感謝している人がいるのか?それは労働した人からその果実を奪い取った人のように見られる、だからその金も人も呪われているとなる
それはいつかカルマとなり結果として現れる、不幸なことが災いがその人や家族でも回りにも起きてくるのである。

感謝などどうでもいい、金さえ得ればそれでいいというのが現代の資本主義社会である。そのことが本当は怖いことになる、危険なことになっていたのだ
この辺で起きた津波や原発事故がなぜ起きたのかというとき現代社会のそうした感謝しない社会から起きてきたと書いた。
一匹の魚でも一粒の米にでも感謝しないことが危険だったのである。
一匹の魚の恩恵より原発を建てた東電から補償金として金をもらうことだと漁業者はなっていた。
結果的には何が起きたのか、港は壊滅して魚も食べられなくなった、それがすべて原因とは言えないけど関連性がある、津波で壊滅した港がある所が壊滅したというとき本当に恐ろしいものを感じた、それが自然の罰なのかどうかはわからない、でも今はどこでも漁業者でも農業でも社会全体が一匹の魚の恵みとか一粒の米の恵みとかに感謝していない
それを捕り作る人も金にならない金にならないとなげくだけである。
すると結果としてどうなるのか?原発の方が金になるとなって積極的に住民が誘致したのである。

もちろん時代だと言えば時代である。米がありあまる時代、減反などあるから米一粒を大事にする社会とは違う、米余りで困っている時代である。
だから米とか野菜を作る農民に感謝する心がなくなっていこともいえるし漁師でも農民でもその人たち自体が金にならないと軽んじるようになった。
それは社会全部がそういう傾向になっていたのである。
魚とか米でも野菜でもそれは自然が与えるものである、食料に感謝するということはそれを作って与えてくれた神に感謝することなのである。
感謝の基本はそこにあることを現代は工業社会とかなり忘れていた。
文明こそが富を与える、原発が富を与えるとなれば漁業とか農業は軽んじられる
すると自然に天に感謝しなくなるのである。
むしろそうなると原発から電気を作り出す科学者などに感謝する、まるで神のように科学者が今なっているように科学者こそ富を作り出すものとなって崇められるのである。
科学にはそういうところがあるからだ。科学によって寿命は伸び死ななくなとまで思う人さえ出てくる。それは科学が信仰までなっているということである

グローバル経済とか現代の社会には相当な矛盾がありそこに人間的なものを逸脱している誰も地球の裏側から来る果物でもそれをとった人、育てた人になどに感謝しないのである感謝しようもないのである。
グローバル経済が世界的にいいもののように見えたが天の利とか地の利とか人の和を壊すものとして認識されるようになった。それでナショナリズムが起きてくる。
ナショナリズムはその土地にアイディンティティを見いだすものであり基本とするからである。だから食料でも自給自足を目指すことになる、それが利にかなったことにあるからである。その土地でとれたものに食べて感謝することは理にかなっているのである。

経済学というのは広い範囲にわたるものである。

道徳なき経済は罪悪であり、

経済なき道徳は寝言である

二宮尊徳がこう言うとき、道徳無きとは感謝がないということである。感謝がない経済は罪悪になる、でも反面、経済無きというときそれは今なら金にならないとしたらそれは寝言だとなる、空論になってしまうということである。

そのことは感謝しただけでは労働した人は喜ばないし生活も成り立たないからである。
でも逆に感謝がない労働のみになっている現代は道徳無き経済であり罪悪であるとなっている、この二つが調和することが社会にとって必要だとなる。
現代は感謝もない道徳なき経済にかたよりすぎているのである。
その基本に二宮尊徳の天地に感謝して労働する、勤めるということがなくなったことなのである。
ただこれはあくまでも江戸時代から農民が社会の大半のときに生れた思想なのである。
今はまるで違った社会である。工業商業社会でありその中で道徳がない、それでも商業にも商業のモラルがある。契約でありルールである、工業でもやはり壊れないものが作ることで信頼を得るとかある。日本製品はそれで信頼を得て売れているともなる。
ただ一般的に道徳なき経済になったのである。
でも基本的には天地に感謝して労働する人に感謝するということで調和の平和な世界になる、その基本が欠けてしまったことに道徳無き経済となった。
ただ二宮尊徳の思想を今に適用することはむずかしい、常に過去は新たなものとして適用されてゆくからである。

とにかくグローバル経済はそうした道徳を無視して金だけの世界にする社会だったのである。
そこでマネーゲームとか行われ労働の成果の富が極一部の者に収奪されたのである。
だから世界の人がそういう人たちに誰も感謝しないのである。
それが恨みとなってかえって極一部の富者に向けられるいる、だから富者もまた感謝されないということで危険な状態にあるのだ。
いつ金をもっていても襲われるかもしれないという危険になっているのだ。
極端な格差社会は常に波瀾含みでありいつ暴動が起きるかもしれないし犯罪も起きやすい社会だとなる。そういう社会では金持ちも安穏とはしていられないのである。
たから富者にしても貧乏な者にとっても不幸な社会なのである。平和もない社会なのである。

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2017年01月24日

感謝されない労働がなぜ多いのか? (感謝しない社会が労働の荒廃を生んでいる)


感謝されない労働がなぜ多いのか?


(感謝しない社会が労働の荒廃を生んでいる)


今の世の中はいくら働いても金になっても感謝される職業自体少ない、感謝されないから金にならないという、でも金になっても感謝は簡単にされないだろう。
大富豪に感謝しているだろうか?
あいつはうまくやったな、悪だからもうけたんだよとかなる、株とかでもうければそうである。株はギャンブルるきようになっているからだ。ギャンブルでもうけた奴に感謝などしない、ただ腹がたつだけだとなる

そもそも例えばコンビニで働いている人、スーパーのレジで働いている人、建築現場で汗を流して働いている人すら感謝しないだろう。
感謝される労働は医療関係とか福祉関係である。これは医者でも看護師でも介護士でも感謝されている、いつもありがとうありがとうと言われている職業なのである。
それに見あった給料をもらっているのも医者であり看護師である。
だから感謝されると同時に給料もいいから理想的な職業だとなる
でも仕事自体はきついから社会ではその人たちの給料を高くしているのである。
社会的に認められた職業なのである。一方介護士は感謝される割りには月給が安いからなり手がないのである。

でも感謝される労働は資本主義社会では本当に少ない、いろいろな場所で働いていてもわからないということもある。
それより「消費者は王様だ」というのが資本主義の現状なのである。
つまり労働しているより消費する人の方が偉いのだとなる
そうなれば当然労働している人に感謝などしないのである。
いちいちレストランであれ買物して客がありがとうとか言わない、ありがとうと言っているのはそこで働いている人なのである。
そして金をもっている人が資本主義社会では王様になるのである。

だからみんな労働をしたくないのが現状なのである。ただ金のために働いているということが多いからである。コンビニで働くのも一日立っているとなると疲れるがその報酬は時給いくらとしかならない、誰も感謝などしないのである。
感謝しているのは労働している側なのである。
だから金のために働かせられているということにしかならない
そこで働く生きがいがもてるようには見えないのである。
ただ労働はしてみないとわからないところがあるからいちがいには言えない
ただ資本主義の労働にはそういう傾向が大きいのである。
だから労働に対して嫌悪感をもつ人が多い、奴隷なんだよとか社蓄なんだよなとか言う人が多いことでもわかる。
労働というのは江戸時代であれそういうものではなかった、労働は今とは別な意味があり成されていた。

ともかく感謝されてまた月給がいいというのは医者と看護師くらいである。
ただそこでは過剰な感謝も要求されている、強要されているのである。

 患者の命を医師と共に守り介護する看護師が、なぜ患者が死ぬかもしれないような犯行を?? その動機について容疑者は次のように話しているという。

「患者が自分に感謝してくれずイライラしていた。仕事上のミスもあり看護師に向いていないのではと悩んでいたが、職場に相談する人がいなかった」

病院の怖さはこういうところにある。感謝を強要されるのである。お医者様として尊敬を強いられ感謝を強要される、だから自分は医者にゆくのも病院にゆくの恐怖になった。
感謝は必要でも強制はできない、人間はあらゆることについて強制はできない
ただ恩をかけたものに恩を返さないとかすれば必ずカルマとなってくる、でも恩でも強要はできない、結果としてカルマがその相手にのしかかるだけである。
ここでこれだけきつい労働して尽くしているのに感謝されないとしても月給はそれなりに高いのだからとがまんするほかないのかもしれない。

感謝しろといっても人間は当たり前のことに感謝しない、でもその感謝しないことが危険だということを書いてきた、一体人間は今住んでいる故郷とかに感謝している人はいないだろう。故郷に住めてありがたいなとか感謝している人はいない
それが原発事故で故郷に住めなくなったとき故郷に住むことを感謝するようになる
啄木も故郷から出て望郷の念がつのり故郷の山はありがたきかなとなったのである。

また親に感謝する子供もいない、それは当たり前のことであり妻にも感謝する人はまれだろう。でも一旦死んで今度は全部家事でもしなければなくなると家事をしてくれた食事を作ってくれた母でも妻でも感謝するようになるのである。
そしてこの感謝しないことが意外と危険に通じていたのである。
一尾の魚にまたは一粒の米に感謝しないことは危険に通じていた。
この辺では一尾の魚に一粒の米に感謝するより原発に感謝していたのである。
それが事故になり故郷にも住めなくなったのである。
感謝することは別に神から強要されてはいない、でもそのことに気づかない自覚しないと今回の津波や原発事故のような災いに見舞われる恐怖があった
感謝すべきことに感謝しないことが危険なものになっていたのである。

労働は本来感謝されるべきものとしてあるべきものだった。感謝されずにいくら巨万の富を積んでもそれは万人から奪い取ったものだとか言われていればその富豪自体が危険なものになってゆく、その人たちは他人の労働の成果を奪いとったものだとなるからだ。
資本主義社会が今や格差社会になったとき感謝されないのに巨万の富を積む人といくら働いても金にならない、感謝もされないという人たちに分かれた。
そうなると積極的に労働する動機がなくなり今や人手不足になる、人手あっても働かない方がいいとなる、そういう労働への価値がそこなわれている時代なのである。
もちろんすべての労働が価値あるとはならない、でも何か感謝される労働はいい労働なのである。
ただ金のために働く労働はいくら巨万の富を得てもいいものではない

パチンコ屋で働いてそれが遊ぶ人に感謝されるのかともなる、そういう労働をしているのはまさに借金とか奴隷化しているからである。普通だったらそんなところで働かない、
要するに金のために働くだけだとそれは奴隷なのである。金のためにだけ働かされるのも奴隷だとなる、みんなが会社員でも俺たちは奴隷なんだよなというときそこに現代の労働の頽廃がある。資本主義社会の頽廃がありそれが社会を頽廃させてゆく。

この辺では津波や原発事故でも自分の一身上でも感謝することの大事さを学んだ。
ありふれたものに対して感謝するようになったことはいいことである。
鉄道だってそうだしただそれは当たり前にあり使用しても感謝したことはない、電車賃が高いとか不満を言っているだけだったのである。
それはもう労働するサービスをする人が大事にされて消費する人は王様になる時代は終わるかもしれない、金ですべてを換算する時代も終わるかもしれない、人手不足であり働き手が貴重になってくれば働く人こそ感謝すべきであり医者や看護師のように労働者がなってゆくかもしれない、一方で労働が自動化する方向にあり労働自体が機械に代わる
すると労働を奪われることにもなる、ロボットに機械に感謝する人はいない
そううい社会もどうなるのだろうとなる。
いづれにしろ感謝することがこの辺では自分の一身上でも見直されたのである。


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2017年01月16日

鹿島駅であったヨーロッパに8年いた人の仕事 (ミシン関係で安い賃金を求めて世界をわたり歩いていた)


鹿島駅であったヨーロッパに8年いた人の仕事

(ミシン関係で安い賃金を求めて世界をわたり歩いていた)


武藏野中央公園と中島飛行機など軍需産業だったところも多い。

あれこれ調べていたら、調布にあったジューキミシンも軍需産業だった。機関銃を作っていた。戦後は技術を生かしてミシンの製造に転換した。

それで、てっきり戦前の会社名は漢字表記で「銃器」かと思ったら違いました。東京重機工業株式会社だった。でも、この重機は、大辞泉の@「重工業に用いる機械」ではなくてA「重機関銃の略」の方だよね。広い意味では「銃器」だ。当たらずといえども遠くない

その人は札幌生まれであり東京の大学を出てミシン関係の会社に就職した。
今札幌に帰ったのは生れたところであったからだ。
その人はドイツに8年ではなくヨーロッパを広く回っていた。
それはミシンの会社であり裁縫関係の仕事をしていた。
それで別に外国だけではなくこの辺に良く来ていた。裁縫関係の会社がこの辺では結構多い、福装は有名であり150名が働いていた。ここに女性はこの辺で働いた人が多い。
浪江にもあったとかその人はこの辺を結構知っていた回っていた。

そのように国内だけではない、世界中を回っていたのである。
カザフスタンとかにも行ったとかそれからアジアもいろいろ回っている
それはなぜかというと安い賃金を求めて会社が移動していたのである。
それはテレビなどで放送されるが会社が安い賃金を求めて工場を移してゆくのである。
最初は中国だったが最近は東南アジアでベトナムが安いからいいとか移動しているのである。
その人もそのために世界中を移動していたともなる
そんな人いるのかとこの辺ではそういう人にあまり出あわないから驚きだとなる

でもそういうグローバル化社会をまさに身をもって生きていたのがこの人だったのである最後は生れた札幌に帰ったとなる。何かこの辺にきたのは前にもコネがあり来たと言っていた。
こういう生活しているとどういう感覚になるのか?
もう生まれ故郷も日本もどこの国とかも関係ない、ただ安い賃金を求めて世界を移動してゆく、渡り歩く、要するにどこの国とか関係ない、賃金の安い所などこでも行くという感覚になる、まさにこれは多国籍企業を象徴している人である。
それが今は現実としてある、トヨタとかでも工場をメキシコに作る、それは賃金が安いからである。
それが世界的にグローバルに行われたのが現代なのである。
企業にとってその国々のことなど関係ない、賃金が安ければいいというだけである。
そうしないとグローバル競争に勝てないからである。
福装では中国人も働いている、この前駅から中国に正月に帰ったのを見ている

ミシンで面白いのは銃器の技術を応用してミシンを作っていたのである。
これも意外だが何か技術はどこで利用されるかわからないところがある。
トヨタも最初は紡績関係の会社だったのである。
例えば車でも賃金の安いところで作る、そうするとヨーロッパでもアジアでもメキシコでもその会社員はこの人のように渡り歩くことになるしそういう人が現代のグローバル社会では多いとなる。

しかし自分が国内でも国外でも旅したとしてもこの人とは違う、自分は故郷にずっと住んでいたからである。それで故郷とアイディンティティをもつことを探求した。
この人にはそんなことはない、ただ会社のために世界中を回り歩いていたのである。
だからこの人はそういう一生を生きてどんな感覚になったのかとなる
いくら世界中を渡り歩いてもそこでその国のこと文化とかとはあまり関係しないし理解していないだろう。
なぜなら仕事はミシン関係でありそうした仕事中心に回っているからその国々のことは深くは関係しない
ただこの前あったオランダの大使館に3年間勤めていた人はオランダと深くかかわったことは確かである。それは大使館員であったからであり会社員とは違うからである。

いづれにしろソビエト連邦時代からかかわりカザフスタンまで工場を開くために行っていたというのは驚きである。その頃まだ日本がそんなソビエト連邦まで行っていたのかとなるからだ。
これが現代のグローバル社会の人間なのである。こういう生活は人間としてどうなるのかともなる、何かと深く自然でも文化でもアイディンティティをもつことは不可能になる
日本人としてのアイディンティティすらもてなくなる、ただこうしたグローバル社会を生きた人だったということである、他でも今はそういう人が結構いるのである。

韓国であった人も会社員ではないにしろアルジェリアで石油工場で働く人を集めて入って行った。そこは危険な場所であり実際に日本の会社員が9名とかテロで殺害されたのである。そういうグローバル社会にまきこまれているのが現代である。
そして今度はミャンマーが開国して賃金が安いとなるとこうした会社が進出してゆくからそこに日本人が派遣されるのである。
世界で起きているのはこうしたグローバル社会での問題がありテロも難民問題も起きている
シリア難民をどうしてドイツで受け入れているのか?危険を冒して受け入れているのか?
安い労働力が必要だからである。世界へ安い労働力を求めるより自国へ呼んでいるから文化の相違なと宗教の相違なとでテロが起きたりしているのである。

でも他国へ工場だけを作り働かせるならそういう問題は生れにくい、それでも軋轢は生れてくる、だからそもそもこのグローバル経済社会は世界的な問題でありこれでいいのかとなってナショナリズムが勃興する。
トランプが大統領になったのはアメリカですら多国籍企業でグローバル社会で一番もうけていたと思っていたがそうではないからその不満が大きくなって大統領に押されたのである。グローバル経済社会は自分の国を利するものではないし自国民にとってすべていいものとなっていなかったのである。
だから会社は国民のために従業員のためにあるべきでありメキシコのような所に関税を安いからといって作るべきではない、日本で生産して高くても売れるという主張がある
武田邦彦氏がそのことを言っているのもわかる。
多国籍企業というのがただ自社の利益だけを求めて世界中に進出して安い労働力で働かせること自体が何か反発されて拒否されるようになったのである。

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2016年12月30日

一億総ひきこもり時代 (ネットがそうさせたのか、内面化文化志向の時代へ)


一億総ひきこもり時代

(ネットがそうさせたのか、内面化文化志向の時代へ)


仕事や買い物などで外出する人の割合はこの30年間で最も低くなったことが国土交通省が行った調査でわかりました。国土交通省は高齢化に加えて、インターネットの普及などで20代をはじめとする若年層が外出しなくなっていることが影響していると見ていますhttp://saigaijyouhou.com/blog-entry-14852.html


交通渋滞とかほとんど遭遇しなくなった 
クルマ自体少ないんだろな

買い物で外行くとろくなことが無いからな 
目当ての商品がない店とバカな店員、クソみたいな客 
通販で買うのが一番良い

まあ近場なら出るけどそれ以外はネットの方が楽だからね

観光地はそれで避けるようになった 
この前、沖縄本島に寄ったら中国人だらけで駄目だと思った 
観光客だけでなく店員も中国人になってしまった 
場所によるけど旅行はオワコンだね

外出ても金が減るだけで、つまらないしいいことないし。 
ネットしてるほうが金使わないし楽しいし 


外出しないとかなら旅行でもそうだが老人ならわかる、でも若者もそうなっている、それはなぜか?
インターネットの影響が大きい、買物でもコミニケーションでもネットでする
ネット通販は便利すぎる。この前も掃除機買った。
1014年型だけど十年前以上の使っていたからいいものだったし安かった。
量販店で見ても最新式で高くなる、それと自分が一番困っているのは車がないから配達になると有料になる、それで通販がほとんどである。
まずレビュー便利である。レビュー見て買えばほとんどまちがいない
量販店で買ったレンジは3万したけど一万で良かった、いろいな機能は使えなかったからである。
これも店員が売りたいものをすすめるからこうなる。
使った人が一番親切だし正直だし知っている

インターネットは確かに操作するのがめんどうで若者向きだと思っていたがネット通販とかなると老人向きなのである。ボタン一つで何でも配達されるからである。
本でもないものがない、電子本ならこれはまさボタン一つで即座に読める
だから情報的に昔のように都会も田舎もないのである。
だから今は老人にとってはいい時代である。もちろん老人は死ねとか若者が言っているけど老人は大切にされないけど何でも便利だから老人は部屋を出なくても用がたせる
遠くに行かなくてもいいから老人にとっては今の社会は過ごしやすい

第一老人は消費しようにもできないのである。消費が実は投資であると考察したとき遊ぶのだってそうである。遠くに行くのが億劫になるのだ。それは老人であれば当然なのだけどそれが若者でもそうなっていることが現代的でありこれは社会にとっては活気のないものとなりいいものではない、ネットだけでこもっていると本当の自然でも社会でもふれられないということがある。このままゆくと日本は発達障害の人間であふれるかもしれない何かもっと若者はバイタリティあるものだからである。それはとてもインターネットだけでは発散できないだろう。

ただ時代としては若者は金がないとか車にも乗らないとか何か内向きにならざるをえない状況が作り出されているのだ。それはまさに若者の老人化なのである。
老人はたいがい内向きになる,だから外向きの消費はへる、内向きというとき家で過ごしやすくするためにリホームするとかバリアフリーにするとかに金は使う
でも外向きには金を使わないのが普通の老人である。
でも逆に現代では60代で元気だからかえって山は老人に占拠されているとかにもなっている
そういう所でも老人が主役になっているのも高齢化社会である。

自分はもう旅行をしたくない、何か介護とかで消耗して疲れたのである。
日本は若者ですら外出や旅行を嫌うというとき人が多すぎるし今や外国人の観光客も多くなると嫌だとなる、それは普通は若者だったら障害にはならない
でも東京のような人ごみに行くのは今は嫌である、あれだけの人を見るだけ疲れる
もともと自分にはそういう性格だった、でも旅行だけは全国でも外国でも60までしていたのである。
これからもしようと新しいザックを買ったりビデオカメラ機器を買ったりしたがそれも消化できない、使いこなせなくなったのである。
つまり老人は物を買っても消化できない、使いこなせなくなるのである。

どっちかというと知的なもの本を読んだりするのはまだ向いている、老人は内面的なもの内省するのが向いているからだ。老人は引きこもりが向いている。
でも若者がそうなることはやはり社会的に活力が衰退してゆくだろう。
それは若者が老人化していることなのである。
ともかく家の中で何でも用せるとういことは老人にはいいが若者までそうなると社会全体の活力は喪失してゆく、ただ現代は内面化してゆく中世化してゆく時代ともいわれる
江戸時代のようにヨーロッパの中世のようになってゆくとも言われる
だから時代の流れなのかとも思う、ただ日本は活気がなくなり衰退してゆくというときそれは日本の未来にとっていいものではないだろう。

ふりかえると団塊の世代は恵まれていた。自分でも旅行したときは外国人などほとんどいない、旅行しやすい時代だったのである。それが今は日本人が日本を旅行しにくい時代になったのである。これもいいようで日本が観光客で稼ぐという三流国になってゆく兆候なのだろう。
ただ高度成長は活動の時代でありそれが終わり内面化する内省化する時代は宗教でも哲学でも芸術でも興隆する時代になる、宗教といってもカルト宗教は実は高度成長時代の貪欲なもの現世利益追求したものであり時代的なものだった。
これからはそうした物欲とかぎらぎらした欲望の宗教ではなく内面化した宗教になる
だからあんな徒党を組んで活動して政治化はしないだろう。

つまり戦後は何か団塊の世代とともに社会もあった、高度成長もそうであったし老人になると今度はやはり高齢化社会で内面化に適した社会となっているのである。
だから若者までそうした団塊の世代の調子に合わせているともなる
何か欲望むき出しのぎらぎらしたものはないが精神的に成熟した価値を求める
それは結局日本だったら江戸時代への回帰でありヨーロッパだったら中世への回帰になる老人化ということはまた成熟化した内面的価値を求める社会なのである。
戦後は何か騒々しすぎたのである。これから落ち着いて真の価値あるものを求める、作り出す社会になる。文化や哲学や宗教の時代になる、それは江戸時代に回帰したように落ち着いて老人にはいいとかなる、若者にとっても落ち着いて真の価値を追求できる社会になればいいとなる、経済成長だけを求める時代はすでに終わっているからだ。


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2016年12月29日

投資、消費と浪費の相違 (消費という言葉は変えねばならない)


投資、消費と浪費の相違

(消費という言葉は変えねばならない)


投資というと何かポジティブなイメージになる。投資というのは何かを積極的に育てるというイメージである。
例えば教育に投資するとかがそうである。将来のために知識を身につけるために本を買うとかパソコンを買うとか旅行することも実際は消費に見えて投資なのである。
自分は何か普通に言う投資でもうけたことはない、消費しただけである
金を稼いだことはあるにしてもそれはアルバイトだからわずかである。
ほとんど消費しかしていないのである。でも浪費とは明らかに違っている
ほとんど消費でも金を稼がなくても投資にもなっていた。

その成果とは何なのか?それは自分のプログなどで示している、ただこれは一文にもなっていない、だから資本主義社会では自分は金を稼がないのだから浪費者にすぎていとなるでも自分としては浪費したわけではない、今まで経験したことを知識として無料で提供している。別に金に困らないから稼ぐ必要がない、だから無料で提供している。
でも金にならないとその人は無益な人だと社会ではされるのである。
あなたはただ浪費しただけだとされてしまうのである。

では巨万の金を稼いだ人が社会にとって有益な人だったのかとなるとそれも疑問なのである。収入の多寡でその人の価値を計れるかとなるとそれもわからない、つまり人間の価値が何かそもそもわからないし計れないものだからそうなる
人を裁くなというときそうである、人間は人を裁けないのである。
人間の価値を計ることも人間にはできない、それは神がするともなる

投資と消費は簡単に分けられない,一体になっていることが多いのである。
パソコンを買うことは消費である。でもこれを買って使いこなす方がずっとむずかしい、買うのはいいけど使いこなせない、使いこなす手間も大変である。
だからパソコンを買うことはすでに消費ではない、投資なのである。
パソコンを使って何かを産み出すという側面の方が強いのである。
だから自分がしているパソコンの抽象画などもそうである。
パソコンのソフトを通して創作しているのである。

投資というとき何か株でもうけるとか投資信託でもうけるとかそういうものになるが
実際はその投資は具体的に何に投資しているのかわからない,ただ金を得てそれをまた消費するということなのである。自分の場合その消費は浪費ではないのである。
その成果を無料で提供している、それでプログを読む人が結構多いのである。
消費というとき日々に食べることなどは単なる消費であるが食べなきゃ生きていけないし活動できないのだからそれも浪費とはならない、それは生きるために不可欠なものだからである。浪費とは酒を飲んでただ毎日ぶらぶらしていたりしたら浪費になる。

そもそも消費という言葉が良くなかったのである。消すということは何か浪費であり無駄であるというイメージがあるからだ。消費は一冊の本を買うことでも投資になっていることが多いのである。まず知識を吸収しようとしない人は本も買わないのである。
普通のブルーカラーの人など本を買わないし読まない、そもそもそういう知識関係のものに消費しないのである。それより消費できないのである。
だから何か消費するということはかえって投資できる人なのである。
本を買うということは知識をえるために投資している、でも知識を吸収しようとしない人は本は買わないからである。もちろんパソコンなどもやらないのてある。

結局消費することが人生になっても有益だったとなる、最初パソコンは高価なものでありパソコン通信の時代がありその時パソコンを40万くらいで買った人は浪費したのかというとそうではない、パソコンの開発に協力して投資して発展させていたのである。
まずその時パソコンを操作すること時代特殊な技術者にもなっていたからである。
そこからパソコン通信が生れて今日のスマホなどに発展したのである。
だからまずパソコンを買うことはすでに社会的にもパソコンを発展させる投資だったのである。

投資と消費は一体化していることが多いのである。自転車でも車でもただ買うだけであり消費するだけかともなる、でも車でも自転車でもそれは消費するためのものではない、様々な投資になっている、自分は自転車で買物しているから欠かせないものであり単に消費しているとか浪費しているとはならない、遊びに使ったからとしても浪費ではないのである。遊びにもギャンブルなどは違うが消費ではない、投資なのである。

要するに豊かな時代は金をいくら稼いでいるかで人の価値を決めない、そういう時代が好ましいとなる。なぜなら価値は多様であり金だけで人間の価値を決めることは問題なのである。ただ金の力は大きいからそれを指標としている、現実に金の力がこの社会では働くからである。
豊かな時代は投資と消費が分けられなくなる、仕事と遊びも分けられなくなる
そしてすべての価値を金で計れなくなる、そういう社会がいい社会なことはまちがいない、なぜなら人間の価値は多様だからである。
別に現実社会で金を稼がなくてもベーシックインカムのように自分のやりたいことをするそれは必ずしも消費にはならないのである。
そんなのんきな社会はありえないというがではなぜこんなに働かない人が増大していて社会が成り立っているのかとなる。老人をふくめて三分の一は直接金を稼いでいるように見えないからである。その代わり機械が仕事しているとかなる。

いづれにしろ消費という言葉が大きな錯覚をもたらしたのである。今の時代にあわないのである。消すということはマイナスのイメージしかないからである。
消費ではなく投資でもなく投費にでもなるからもしれない、投資+消費=投費になる。

資本を投じる、費用を投じるが投費になる

ただ費にはいい意味がない

「消費」「費力=力ヲ費ヤス」「費言=言ヲ費ヤス」「君子恵而不費=君子ハ恵ミテ費ヤサズ」〔論語〕
{名}ついえ(ツヒエ)。つかうための金品。もとでとなる金銭。支出する費用。「経費」「学費」「費用」
ヒナリ{形}つかいすぎである。よけいな。「辞費也」
{《解字》
会意兼形声。弗フツは「豆のつる+左右にはらいのけるしるし」の会意文字で、まとまった物を左と右にはらいわけること。拂(=払。はらう)の原字。費は「貝(財貨)+音符弗フツ」で、財貨を支払って、ばらばらに分散させてしまうこと。

この費を利用したことも問題である。この字の意味が消につながっていたのである。

他にもいい造語が必要なことは確かである。要するに時代によって不適切な言葉になるのもあるし廃れる言葉もある。だから常に言葉は新たに創造される必要がある。
同じ言葉でも意味も変わってくるのである。



タグ:投資と消費
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2016年12月24日

ありがとうと言う人と言わない人 (今の社会でいちいち感謝する人はいないのではないか?)


ありがとうと言う人と言わない人

(今の社会でいちいち感謝する人はいないのではないか?)


学者の武田邦彦氏はプログの放送で金とは関係なくタクシー運転手でもありがとうと言っているという、金の問題ではない、それが日本文化だという。
アメリカだとすべて金になり金を払えばいいとなると言っている
武田氏は経験豊富だからいろいろ参考になる
指導している立場にいるから具体的にそうした上のことを知っているのである。
自分は上の人のことは知らない、だから参考になる

なぜそのことを自分が考えるようになったのか?それはいつも駅に来て外から来た人の案内をしたことにあった。別にボランティアでするつもりではなく、最近介護も終わり余裕ができたことで気晴らしに駅に行って他から来た人と話すということでそうなった。
でも年配の人、二三人は案内するとありがとうと言っていたのである
それも何回も言っていた。そんなにありがとうと言うものかとも思った。
自分はありがとうと直接言われたことがあまりないからである。

結局その経験があって昨日駅で強風のために足止めされた若者をそこは無人駅になったのでいろいろ案内した。その若者は歩いて原町まで行った。
でも一言もありがとうと言わなかった。それが今までだったら気にしない、それが普通だと思っていた。
それが変だな感じたのは年配の人が何度もありがとうと言われたことにあったのだ。
ずいぶんその人は丁寧にありがとうと言うものだと思っていたからである。
それと比べたとき若者は何も言わず当たり前のように去って行った
今までならそれが普通でありおかしいと気づかなかった。
第一次自分は旅行で世話になってもありがとうなど言っていない
金払えばいいじゃないかしかない、何か社会常識に欠けていることは認めざるを得ない
でも今の社会はそういう社会なのである。金払えばいい、ありがとうより金を得ればいい、払えばいいという社会なのである。
だから店に行こうがどこに行ってもありがとうとか感謝している人はいない
そんなことしていたら疲れてしまうだろう。

ただありがとうと仕事して言われたいなら医者と看護師になることである。
ここではありがとうということを過剰に言われる、言わなければならない、医者になったらそういうふうに言われるから仕事がハードでも最高の仕事である。
あとはそんなにありがとうなどといわれる仕事は今はないのである。
みんな金を払えばいいとしている社会である。
感謝といっても人間はそもそも感謝することが一番むずかしいのである。
何かに心から感謝することが本当にむずかしい、昔の人は江戸時代あたりだと自然に感謝することがあり実りがあれば祭りをしていた。
今は農民でもそんな祭りもない、ただ減反政策だとか農産物が安くてもうからないしかないのである。
普通何かに心から感謝することはないだろう。
第一人間はどんな恩を受けてもそれも忘れるのである。
だからそもそも感謝することが一番むずかしいのである。

ありがとういとき有り難いとであり何か特別のことを難いことをしにくいことをしてくれたからこそありがとうになる、だから医者とか看護師はそれにあてはまるからそうなる
介護士なども直接人に接して援助するからありがとうと言われる
ただ介護士はそういわれても給料が安いからやる人が少ないのである。
いくら感謝されても金にならなければ仕事をしないのが現代なのである。
そういう社会になっているのだからどうにもならない

現実にホテルでも旅館でもそのもてなしは一万のホテルや旅館と三万とかのホテルでは全く違ったもてなしになる、レストランでもまずいいものを食べるには千円では無理である金によってもてなしが違ってくるのである。
いくら客に感謝されるにしても金の多寡によってサービスの質が決まるのである。
そういう社会になっているとありがとうと言うことにこだわるのかともなる
ただ人間の関係は絶対に金に換算されるないようにできている
そこにこの問題のむずかしさがある
金を払えばいいじゃないかではすまない、金では絶対に割り切れない問題がある

そのことを感じたのはしょっちゅう言っている、仮設の食堂である。
そこで気づいたことはその食堂は一人で女性がしている、それも年配である。
だからあれだけの料理を一人で用意するのは大変だと思う、皿洗うだけでも大変である。相当な労働なのである。すると千円にもならないのでは安いのかと思う
一カ月でどのくらいの収入になっているのも気になる
とてももうかる仕事ではない、それなのにかなりの重労働に見えるのである。
自分も家事をしているから家事は何か細かい作業がり疲れるのである。
だから自分は不精でありほとんど料理はしていないのである。

そういうふうに見ているのと旅しているときなどゆきづりであり相手のことはわからないだからいちいち相手をのことを気を使うなどない、食堂だって一回限りなのだからそうなる。でも常時サービスしてくれるとなると違ったものとなる。
だから地元で生活することはそうして行きづりで旅で世話になるのとは相当違っているのである。そういう気がまわせないのである。
人間の関係だって旅したくらいでは関係が築けないだろう。
グローバル化した経済の問題はそうした人間関係もないしただ物がけが入ってくることにある。何か物が入ってきてもまさに金さえ払えばいいとなる。
いちいちその物を作った人や育てた人のことを考えることはない、だからありがとうも何もないのである。そういう社会に今はみんな生きている
でもそれが人間社会として異常だということに気づかなくなっているのかもしれない
金を払えばいいしか普通はない、だから原発避難者でも私たちは金を払って消費して地元の人を助けているのよとなる、それが今の社会なのである。

それより今は近隣でも金の関係しかないのである。
自分が苦しいとき来た人はそうである。極端になると
「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と行って遠い親戚の人は去っていったし、もう一人の遠い親戚も借金だから要求するのは苦しいときでも金しかなかった。
もう一人は本当にこいつからは金さえとればいい、本当に家捜しされて大金を失った。
一人は福島県内でも遠いがその人は近くにいるのである。
近隣でもそういう関係になっているのが今の社会なのである。
だから「金の切れ目が縁の切れ目」になる、近隣でもそうである。
でも納得がいかないのは今でもその人に会うし地域で生きている
それでも消費者が王様だというよう原発避難者でも「私たちは地元の人を消費して金を使って助けているのよね」と言っているようにそういう社会なのである。
ただ自分の場合はそれが極端なものとして現れたのである。
それは自分の事情もありすべてにあてはまらないにしても極端化するとこうなるのである。

ただ江戸時代辺りだったたらこういうことはありえなかったと思う、人間と人間が密接にかかわる社会ではありえないことだったろう。
そういう人間と人間の関係がすべて金に換算された社会は人間とて異常な社会だということに江戸時代にいたら気づいた。
だからありがとうにこだわるというときそういう社会こそ正常だったとなる
それが日本の文化だというときその方がいい社会だったともなる
ただそういう美徳は年配の人には残されていた,というより社会生活でそういう生活をしてきたからそうなっていたともなるのだろう。
それはやはり人によることもある、一般的に若者はそんなありがとうとか道を教えたくらいでは言わないだろう。
それでも外人なにかいちいちサンキューという、そういう習慣がある。
外から来た人に対してもそうである。そういう遊牧民的な社会だと客が大事になりもてなすという文化がかえってある。だからいちいちサンキューというとも言われる
日本では外から来た人には冷たいからである。それもまた日本文化なのである。

いづれにしろ駅でボランティアのように案内して年配の人は丁寧にありがとうと言った、それで今回の若者は教えても何も言わず去って行った、そこに違和感が生れた。
やはり人間は何か比較すると気づくのである。今までだったら気づかないのである。
対処がまるで違っていたので気づきやすかったとなる
だから現代を知るには江戸時代と比べるとわかりやすいのである。
それで江戸時代のことを自分で書いてきたのである。
ただ自分など社会経験に欠けているからありがとうと言わないし言いたくないのである。だから人のことはとやかく言えないともなる
でも今の社会がすべて金に換算されるということがおかしい、異常だとはみんな思っているのである。だからこそありがとうでもそういうことが見直されるのである。




  タクシーについて(武田邦彦)

これは江戸時代のことなのである。江戸時代には日本文化があった。
だから江戸時代と比べると今の時代は異常な社会だとなる
でもそれを具体的に知ることはむずかしいから江戸時代と比べてそれを知るのであり気づくのである

今回も年配の人は丁寧にありがとうといって若者は何もいわない、さっさと去って行ってしまったということで何だろうと気づいたのである。
つまり日本文化といっても時代によって変わるから何が日本文化かもわからなくなるのである。今はそんな日本文化にこだわる人もいないのが普通だからである。



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2016年12月02日

投資信託はもうからない もうかるのは証券会社と銀行だけ


投資信託はもうからない

もうかるのは証券会社と銀行だけ


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投資信託というとき月々の分配金が定期的に入ってくると思いやる人が多いだろう。
何か安全だという感覚になる、貯金に利子がつくような感覚になる
それが特に外国になると全く違っている、為替の差が大きく作用するしその他にまぶ手数料が高いし為替取引でも外国になると税金がかかるとか何かと差し引かれる金が多いのである。
そしてリスクが株と同じくある。

投資信託はもうかっても損する方が多い

ますごのことは確率的にもまちがいない、もうかったとしても損しなくらいである。
株の方が損失も大きいがもうかる場合がある、分配金といってもこれもいつのまにか元金からひかれていたのである。その報告もなかった、その額も大きかったのである。
売ったり買ったりするのもいちいち即座にできない、手続きがありめんどうになる
そのままにしていたら担当の銀行員が放っておいて大損していた。
カナダの国債はそうだった、USリートはもうかっていたのでそれで穴埋めになった
結局損失を出していた。

投資信託はどうしたってもうからない仕組みになっている、分配金は一カ月いくらであり一年間でも安定しない、常に変動にさらされている
次々にリスクがありかえって株のように一度大儲けしたらやめてまたやるのならいいが
分配金は一カ月に一回でありそれがたまるまで一年とか軽くかかる、その間に必ず変動がある、リスクがあるからどうしてももうからない仕組みになっていることがわかった。

ただアメリカがトランプ大統領になって景気が良くなるとかでアメリカに投資するのは今は時期だというのは本当だろう、みんな言っているからだ。
ただそのあとははわからない、八月までくらいであとはリスクが大きくなる
だから自分はその頃にやめてあとは一切投資にはかかわらない
株とか投資信託でもうかるのは証券会社と銀行だけである。
これはまちがいない、そもそもそういう仕組みになっているからだ。
むしろ株の方がリスクが大きくてももうける人はもうける
投資信託は分配金では一カ月決められた額であり多くはない、それも一年間くらいすると変動してくるからもうからない、だから結局リスクをとることの度合いが大きくなるだけである。

ただ不思議なのはもし自分が投資信託に投資しても損もしなかったとなると実はその分が銀行であれ証券会社であれ金が回っている、金は増えているのである。
それでももし自分が損してその金が回っているなら金自体は増えていないのである。
だから投資は金が増えたということでとにかく金が証券会社であれ銀行であれ回ってゆけばそこに金がたまる、それは悪いことではない、金は減っていないからである。
一方で貯金はそもそも今は全く増えないのである。減りもしないが増えないのである。
実際は利子がつかないと金は実質では目減りしている、物価が上がれば目減りしているのである。
グローバル経済というとき金が世界中を回るということである。
それは血液と同じであり金が回らなければ金も活きてこない
ただもうかるのは一般の素人は確実にもうからない、もうかるのは証券会社であり銀行だけである。

特にグローバル経済ではゴールドマンサックスとかが年収が七〇〇〇万とかなりリーマンショックでもその蓄えた金で影響がなかったといわれる。
つまり巨大なグローバルな証券会社は損することはないのである。それは銀行でも言える投資信託では手数料が大きいから稼ぎが大きいのである。
5000兆の金が世界をめくっている、まわっているというから驚きである。
そういう中に素人が一般人が参加しても小遣い程度もうけたとしてももうからない仕組みになっている
ただ投資信託でも貯金しているより金は増えたり回っているのである。
別に地方銀行でももうければ回り回って地方の経済に貢献するということもありうる
銀行員の月給も高くなるかもしれない、まず地方銀行員は月給も安いのである。

33才独身、地方銀行勤務。年収450万位です。 
総合職だから一般職よりは給料高いけど、飲み会、転勤も多くて、家賃代も出ない(実家が職場の同一勤務内にある)ので、全然貯まらない。 
散々親に金を使わせて、就職も適当に好き勝手やってきた妹が公務員と結婚する。 
真面目にやってきた人間ほど損すると気づいた時には遅すぎた。

田舎では地方銀行がエリートとか公務員と同じだとされていたが今は違うのだろう
高度成長時代とは違うからである。まず利子がつかないとかマイナス金利とか銀行も相当に苦しくなっているからである。

ただ地方銀行が投資信託などに手を出すのは信用を失うリスクがある。
それで信用組合などはしなんというのもわかる、一時は郵便局で投資信託をして損したと騒がれたからである。
そもそも投資信託はこのようにもうからない仕組みになっているのだ。
それを経験してわかったのである。人間何事痛い目にあい経験しないと本当に実感として理解できない、それが社会という生き物なのである。
どんなことしても投資信託ではいくら多額だったとしても素人ではもうからない
それはそういう仕組みになっているからである。
一時期もうけたとしても次は損することになっているのである。

タグ:投資信託
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2016年11月30日

ことわざは人間の普遍的真理 (損して得をとれ)


ことわざは人間の普遍的真理


(損して得をとれ)

何かこの十年社会経験を積んだ、社会経験が自分にはたりなかった。それで何か自分には欠けていた。
三〇年間くらい社会から離れて生活していたからである。どういうわけかそういう環境にあり社会知らずにすんでいたのである。
ということはあまり社会の悪い面を見ずにすんでいたし悪に染まるということもなかったそれはいい面と悪い面がかならずでてくる
社会と交わらないで生活していると不思議にみんないい人だと思ってしまうのである。
学者の問題は浮世離れになり現実の生活が見えなくなることである。
それ理系の研究者などならかまわないが文系となると社会経験がないの致命的である。
象牙お塔とかで学者は社会の実体験をしていないから浮世離れになり非現実的世界にとじこもることにもなる
何か官僚などでも東大閥とかで法律分野関係が独占してそれが日本をおかしくしているというのもそうである。
大岡裁きとかあるけど裁判などは相当に人間に通じていないとできないだろう。
ただ法律だけでは相手が人間なのだからできない、情がなく理だけではできないのであるだから人生経験が豊かでないとできないということがある。
でも大学からすぐに司法関係に就職すると社会を知らないままに人間を知らないままに専門職となり何か現実社会とはかけはなれた見方をするようにもなる

「法匪」というのもそういうものだろう

匪とは賊に近い意味の言葉で,匪賊という言葉もあります。
昔,中国共産党は赤匪と罵倒されていました。
法匪とは,法律知識を悪用する法曹関係者に対する罵倒語です。

法をたてにして悪さをする、弁護士などもそういうことがある

社会というのは人間そのものが変わらないから諺(ことわざ)に真理がある。
もしこれだけ文明的に進歩したとなれば人間そのものが変わりそんな昔からの諺はすたれているはずだからである。
人間は例え飛行機にのり電車にのり車にのりスマホで通信してパソコンを操っていてもその本質は変わらないから諺は今でも生々しく生きている

今回の銀行の投資信託でもそうだった。

「魚心あれば水心」となる

こういうのは相手がもうかりますよというときそれを聞いている人ももうけたいからそれにのってくる。もし別に自分はもうけたくない、金はこれ以上ふやす必要はない、今あるだけで十分だと思っていればそうした勧誘にはひっかからないのである
だからこそ何か売りつけるとかのときは魚心あれば水心なのである。

こういう諺は長い人間生活の中で誰言うともなく普遍的なものになっていったのである。
「損して得をとれ」

これも何か商売している人たちが長年の経験の積み重ねで納得するものとなった。
商売というのもそれも長年の経験がないと理解できない、商売上手というとき単に人をだまして売りつけるだけではつづかないだろう。
だから大阪や近江商人が有名なのはそういう積み重ねの結果として会得した商売の心得が生れた。それは単にもうけるということだけでは商売がうまくいかないからである。

その人は理系分野ではすぐれていても経営となると商売の要素が大きく入ってくる
その人は最初から絶対損をしてやるものかと身構えてきた。
もちろん借金しているから追い詰められているからそうなったこともあるが
自分が苦しみ病気になっていても介護でもそれを商売にして取引してきたのである。
だからその人はもう絶対損してはいられないという態度で接してきたのである。
何か商売しているうちにそういう態度が身についたのかもしれない、相手が苦しい時がチャンスと取引として商売とて接してきた。
だから「損して得をとれ」などありえない、得することしか頭にないのである。
それで自分は苦しめられたのである。
だから商売で人格が変わってしまったとなる。なぜなら若いときはいい人だったと知り合いがしきりに言っていたからである。
つまり人間はその仕事によって人格が作られるということがある。
だからこそ職人気質とかが生れた、江戸時代だと何か職業でも道徳的には今の社会とは違ってまともなのがほとんどだったのである。
そのことが外国人が日本人を見たとき幸せそうな顔をしていると見たのである。
今の社会は何かブラックなものが多すぎるのである。

いづれにしろ損して得をとれというとき人間は何が損が得かわからない、計算できないのである。損したと思ったことは得に通じるし得したことが損になる
そしてまず人生は損得では計れない、人生をふりかえると損したと思ったことが結局は得だったが得したことが損だったなどということは普通にある、めずらしいことではない
人間はともかく利益あげようあげよう得しよう得しようと必死なっているのが日常である目先の利益に血眼になっている、今利益をあげればいいのだとなっている
でも今の利益が後の損になっているかもしれないのである。
自分が商売のことを言うのはどうかと思うが自分のわずかな経験から言っている。
商売でもつきあいでも損して得をとれということは経験してあるから諺になったのである銀行が株とう投資信託に手をだして一時的には利益を上げることに成功しても将来的にどうなるのか、地域の人々の役にたつ銀行なのか?地銀の役割は何かなのかと問われる

そしてまちがいないのが

「金の切れ目が縁の切れ目」

これもただ金を求めるものはみんな現実にそうなった。現実社会は利で結び利で分かれる金の切れ目が縁の切れ目なのである。こいつはもう金にならないとなれば分かれる
用なしだとなる。
最初から得しよう得しようときて後は得にならないから用なしだとなる。
どうしても苦しい人とか困った人とかに接するときは損することになる
でも損したくないとなれば福祉関係でもかえってそれを利用して得することを考えるし実際に福祉関係でもそういう弱者相手に商売している人たちはそうなっているのである。
誰も慈善活動で商売をしているのではないとなるからだ。

今の社会とか会社の問題はあまりにも利を血眼になって追求しているからモラルの荒廃が生まれた。江戸時代は貧乏でも職人は技をみがくことに精出していた。
ただ商売関係だとどうしても現代に通じる問題があった。
何か職業をみると自分の所にきた仙台のユニットバスを作ってくれた人は安かったしそれで安上がりにしたというものでもない、だから安くていいものを作ってくれたからその会社はいい会社だしそこで働く人たちもいい人だと見るのである。
個々人にはいろいろあってもそういう人たちはモラルの荒廃はない
でも銀行でも官僚でも政治家でも医者でもマスコミでも学者ですら御用学者となり原発を推進してきたようにブラックなものが多すぎるのである。

江戸時代がモラル的には優れていて民心が安定していたというとき農業中心の社会だったからということもある。農民だったら自然を直接相手にしているから気が長いとできない、森林でも木材をとるには五〇年とかかかるとしたらまず一代では収穫できないのである。それで農民は三代つづかないと仲間になれないというのもそうなのだろう。
それだけ気が長い仕事なのである。
大根の種を今まいたとしても成長するには三カ月も必要だとというときそれも気が長く待つ仕事なのである。だから農業は忍耐をはぐくむということはある。即製できないからである。
現代はあまりにも変わりすぎるのである。そこに民心の安定もない、目先の利益だけに血眼になっている。株でも投資となればやはりその会社が成長するには時間がかかる
でも投機は違っているのだ。為替差益とかで即製的にもうけることなのである。
現代は瞬間瞬間の即製的な投機が経済になっている、それが世界を歪めてしまったのである。

国家にしても国家百年の大計とかあるけどそういうふうに考えることもなかった
めまぐるしく変化する社会に追いつくこと追われ社会なのである。
目先の利益獲得に追われる社会なのである。今もうけなければもうかならいという社会である。株などはそういうものだからそこでモラルを醸成することはむずかしい
そうなるとどうなるのか?今は得してもあとで大損になっているともなる
その得した分が今度は子孫の負担として損になるともなる
原発事故は一時的には利益を地域にもたらしたも結果的には大損になったからである。
そういうことはこの世にかなりある、現代の問題は江戸時代のような時間の悠長さがもてないのである。分刻み仕事に追われている、目先の利益をあげようとしてかえって大局的長期的には損になる
だから何か得になるか損になるかわからないからこそ「損して得をとれ」という諺が生れたのである。


慌てても「損して徳とれ」の効果は期待できません。長い期間の「いい仕事」「いい事」の積み重ね、心の底からそう思える綺麗な心を兼ね備えなければ偽善になります。
類義語に「損せぬ人に 儲けなし」「損は 儲けの始め」「損をして 利を見よ」などもあります

得とは徳ともしている、となると損することは徳を積むとういことにもなる
何か損したと思ったことは実は徳を積んでいたことにもなる
このサイトは要点をついている、長いつきあいとかを考慮しているからである。
現代に欠けているのはこの長期的視野とか長い視点なのである。
ギャンブルになると今もうかればいい、今大金をもうけることになる
それは株にもある。株などは長期的にみると上がったり下がったりしているから長期的にみると損しないともなる、そもそも投資というときそれが今大金を投入しても成果をあげるのはすぐにできない、特に新しい研究分野になると何十年とか新薬の発明にはかかる
事業でもすぐに成功することはない、でもすぐにみんな成功したいのである。
利益をあげたいのである。現実に事業でも金がかかるからである。
ただ自分も失敗したから他人をとやかくは言えない、何かはじめても成功はすぐにはできない、プログなどでもこれも積み重ねである。すでに十年とかしていればそこに情報の蓄積ができあがる、プログで検索するとそこに膨大な情報がありそれが図書館のように役にたつとなる
インターネットでは最初はたいした情報がなかったが知識がなかったが今や膨大なものとなっている、それは情報や知識の蓄積ができてきたからである。
そうなると参考にすべきものが多くなってくるのである。
巨大な図書館の機能もつようになっている。
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2016年11月29日

銀行が投資信託や証券に手を出すリスク (銀行は証券のことは支店長でも部長でもわからない)


銀行が投資信託や証券に手を出すリスク


(銀行は証券のことは支店長でも部長でもわからない)                                          



「支店長が是非ともご挨拶をと申しておりますので、近くにお立ちよりの際は是非当店にお越しください」。

で、実際に支店を訪ねると、応接室に通され、上客にしか出さないような玉露のお茶が置かれ、しばしの歓談となるが、この段階では、支店長から退職金の運用方法などについて切り出してくることはない。支店長は、あなたの現役時代の自慢話を、「うん、うん」と頷いて熱心に聞いてくれる。

ある銀行の支店長マニュアルには、「退職されたお客様の話には、きちんと耳を傾けること」とある。正直、銀行の支店長は、退職した人の話に時間をかけて付き合うほど暇人ではない。それでもじっくり話を聞いてくれるのは、別の目的があるからだ。


特にマイナス金利になってからは、銀行としては出来るだけ預金を減らしたいと考えている。だから、銀行はその預金を、投資信託などの運用商品に乗り換えさせようと画策している。


自分の所にも部長が地銀の部長がきた。小さな地銀だから部長といってもたいしたことがないのだろう。
カナダの国債で大損していた、前に手を打つこともしていなかった。
だからそもそもその部長も支店長も信じられなくなった。
これは銀行が証券に手を出すリスクでもある。
客だけがリスクがあるのではない、銀行は確かに手数料は確実に入り損はしない

その代わり銀行は信用を失う

これは銀行にとってかなり深刻なことかもしれない、利益さえあげればいいと考えでしたことでもそこで信用をうしないかねないリスクが銀行にもあった。
銀行は損はしない手数料で確実にもうけるけど損した客はその銀行を信用しなくなる場合がありうる
自分の場合はそうなった、なんかその地銀の担当にも部長にももう会いたくない話もしたくない
これは自分も悪いのだからそんなこと言われてもともなるが何かそうなってしまうことがやはり銀行のリスクなのである。
信用第一というときその信用が失われることが銀行側の大きなリスクかもしれない
そんなこと銀行側ではあまり考えないがそこに将来的には何かかえって損失になるかもしれない。

二宮尊徳の言葉に

「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳)

罪悪を犯罪としているところもある。法にふれなくても犯罪などこの世にいくらでもある殺人犯さえつかまっていないのがこの世である。
今の経済は総じて道徳がない、グローバル金融資本主義なると全く道徳はまるっきりないマネーゲームとギャンブル化した世界市場になる。
そもそもそういう所に金をなげこむこと投資することはすでに道徳もなにもない世界に金を投入することなのである。
本来の会社を成長させるとか地域経済に産業に貢献するとかはない、投資でもなんでもないのである。投機は投資ではないのである。金を動かすマネーゲームなのである。
それこそまさに道徳なと経済であり犯罪なのである。

だからこういうことに加担する地銀はもう地銀ではない、その本来の役割を失いかねないのである。お前にも道徳がある経済があるのかといえばなかった。
ただ利子がつないので老後のたしになればと投資したのである。
それならお前も責められるべきではないかというのも本当である。
それで今は反省している、遺産でもど使っていいかわからないからそうなった。
自分は百万の金を使ったことなどないからである。
ただ老後が長いとなると年金も少ないからそれで補おうとしていたのである。

経済なき道徳も寝言になる、利益をあげない経済もまた寝言であるとなるとき実利を重んじることは悪いことでとないしそうでないものはこの世で成り立たないのである。
だから別に利益を追求することが悪いことではない、その前提に道徳があり証券でも株でも扱うときそれそうおうの対処方法がある。
でも証券マンとかなるともうかる株は投資信託は教えないとか何か知ることがむずかしいのである。
カナダの国債が安全だというときそれは石油がとれたし石油が高かったときだった。石油が下がったとき価値が下がった。その詳しい事情はわからない。
カナダの国債を選んだのは銀行の担当員自体も適当だったのである。詳しい将来予測などしていない、その後ずさんに管理していただけである。

ともかくその地銀に金をあづけるのは危険であるとまでなった。
それは投資信託などに証券に銀行が手を出すリスクだったのである。
そんな一人などどうでもいいということにもなるが自分のプログはそれなりに地域で読まれているとなるとそんな地銀があるのかと警戒する人もでてくるかもしれない
自分も悪いにしても地銀にも問題があった。
今の時代インターネットで評判が広まる時があるから気をつけるべきである。
今まではマスコミをおさえればいいが個々人の情報がストレートにフログにのせられるとそれが広がる場合がある。
するとどこの銀行とはいわないが評判を落とすことになる。
だからこうした情報化社会では気をつけるべきである。
インターネットで発信できる権力を個々人がもったからである。
ただそれも読まれる人の数によるのだ。プログの力はやはりテレビと同じように視聴率がそのプログの評価になる。もし読者が多いプログだとなんらか拡散して影響するかもしれない、それは会社にとっても危険なことになるかもしれない

おそらくあそこの銀行かもしれない、銀行はそんなことしているのか?
気をつけなければならないとか警戒されて信用されなくなることもある。
もちろん投資信託にも警戒する人もでてくる。
ただ個々人によってその対応は違うしそれを鵜呑みにすることも危険である。
ただアマゾンのレビューを見て買い物するとたいだいまちがいないのである。
だから今はインターネットで個々人の評価が口コミが広まることもあるし評価となることもあるから会社でも気をつけた方がいい
消費者は何も言えなかったが今は直接フログなどで訴えることができるからである。
posted by 老鶯 at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年11月28日

地方銀行の役割は何なのか? (証券などに手を出すのは信頼を失いかねない)


地方銀行の役割は何なのか?

(証券などに手を出すのは信頼を失いかねない)


「地方銀行は、守るべきところ――つまり地域そのものであり、地域にある企業や住んでいる人ですが――が、はっきりしている。これが地銀の大きな特徴であり、アイデンティティだと言えるでしょう。だから、地銀は地元を決して裏切れないし、地元に信頼されるべき存在なんです」

銀行が、モラルハザードを起こしやすいということである。そのため、課題としては、モラルハザードを起こさないで、信用される銀行になることである。銀行が不祥事を起こし、顧客離れが起きたしまうことは非常に危険である。そのために、まず、不祥事を起こさない内部の取り組み・仕組みづくりから行わなければならない。その銀行の特色として、信用がある銀行と顧客から言われることが銀行にとって一番大事なことである。


利益をあげるためにも、投資と証券が必要になってくる。これから投資と証券のエキスパートが、地方銀行の鍵を握ってくるだろう。

今後の地方銀行


地銀というくらいだから地にその土地土地に根ざす銀行となる。地銀とメガバンクなどは役割がそもそも違うものとして生れた。
つまりこれは郷土学とも関係あるものだった。
郷土に根ざした銀行が地銀である。メガバンクは大企業に融資するが地銀は地元に融資するからその規模も小さいのである。
地元の零細な会社でも自営業の支えとなるのが地銀である。
でも今や利子がつかないとか地域経済の衰退で地元で成長する成功する産業も減少した
そのためにグローバル経済化したなかで証券などに手を出すことになった。
これは預金者が利子がつかないということで全国的に起きていることである。
その時危険なのは地銀の本来の役割が見失われることと地域の信頼の上に成り立っていたものが失われる危険である。

そのことを自分は身をもって経験した。なぜ銀行員なのにその若い人は証券場で働いていたという、そのことをしきりいってすすめてきた。
証券に詳しい人と話を聞けば思う、でもそもそもその人個人が優秀でも銀行は証券会社ではない、つまり証券に関する知識でも情報でも経験でも積み重ねがないのである。
なぜならそれは別分野の仕事であり会社自体が地銀自体が最近利子がつけられずどうして預金を集めるかもうけるかとなり証券とかに手を出すことになった。
実際は銀行自体が証券を扱うのではなく大きな証券会社の下請けになっているにすぎないのである。
だからそもそも地銀の仕事と証券の仕事はにているようで違ったものなのである。

その一人が証券場で働いていても地銀自体は証券のことは知識の蓄積もなにもないので知らないのである。だから部長がきたとしてもその人は確かに世界情勢とか知識はもっていた。でも別に証券とか株の知識があるわけではなかったのである。
部長レベルですら地銀だったら素人と変わりないと思った。
だからカナダの国債が安全だとしてすすめられてまた売ったときも大損をしていた。
売るときも円高のときだった。今になると円安になっている
そして管理がずさんだったのである。仕組みが複雑すぎてどのくらいあづけた金額が減ったのかも報告されなかったのである。
早い時期に売るべきものだったが報告されないからわからなかった。
それは自分があづけっぱなしにしていたのが悪いんだというのもそうである。
何でも他人にあづけぱなしまかせてしまうと文句は言えないのである。
だから知らないことはやるなというのは確かなのである。

第一そもそも知らないというとき地銀は証券とかの知識はないのである。
その一人の若い人は証券場で働いた経験があるとしてもとても一人でグローバル経済にたちうちできるものではないからである。
それより地銀はグローバル経済にたちうちできない、素人となんら変わりないのである。
そして銀行とか郵便局でも投資信託をはじめて損した人が怒って訴えたことがあった。
それも郵便局が地域で信頼していたからである。
郵便局が窓口となっていたことで信頼して投資信託を買ったのである。
そういうものではないにしろリスクがあるにしろそう今までの習慣で思ったのである。
知らない人は地銀でも銀行の人がくるのから信頼できのかともなる

そして結果的に自分の場合は銀行も信頼できない、証券に関しては知らないんだということを大損して知った。
そもそもが地銀がグローバル経済の中に組み入れられて証券でもうけるとなると本来の役割からはずれたものとなる
グローバル経済は今は格差を生んで批判されている、それで世界の潮流としてグローバル経済は否定されつつある。
でも地銀でももうけ先がないから手数料が入るから証券に手を出したのである。

いづれにしろ証券などをしていると地銀の役割が見失われ信頼が失われる
この信頼が失われることは怖いことになる
あそこには金さえあづけられないとかなるかもしれない、あれほどもうたると言ったのに大損したとか地銀に対して信頼できないとなるかもしれない、
もちろんもうけさせればそうせならないが証券は株でも素人はもうけられないようになっているからだ。となると手数料だけ地銀はとっているだけとなり信頼を失いかねないことが怖いのである。
証券とが株はそういうものだといえばそれまでだが何かそれだけではないものが残ってしまう。銀行も証券をはじめたがうまいこと言うだけで損するだけだとなって地域の信頼を失う、それは証券をはじめた人が悪いのであり銀行は悪いのではないとういことも確かである。
でも何かそれだけでは割り切れないものが残るのである。

例えはギャンブルなら賭博場ならそういう場では大儲けする人もいるし損する人もいる
そこはそういう場所としてあり損したからといってそういうものだとしてそのガジノがあることを批判することはない
でも銀行は何か堅い職業としてあった、だから何か証券場になるのはそぐわない、賭博とは違っていても何かそういう感覚になる
証券はリスクが大きいからである。
地域に生きるとなると信頼が第一になる、二本では狭い村社会が基本にして生活してきたから信頼を失うともうそこでは何もできなくなる、それで世界で日本は一番相互信頼が強い国だとなり犯罪も少ない社会だとなっていた。
それがグローバル経済などで破壊された。それは地銀にも及んでいたのである。

世界がイギリスのEU離脱でもアメリカのトランプの勝利でもそうだがアメリカファーストいうときまさにそうである。ナショナリズムへの回帰となっている
日本でも地銀でもそうだがメガバンクと地銀の役割はそもそも違っていた。
グローバル経済になると巨利を得たの世界的メガバンクである。
ゴールドマンサックスなどはリーマンショックでも年収が七〇〇〇万もありその蓄積があったから影響がなかったとかある
こういうグローバル金融資本主義が世界的な格差を生みアメリカでさえ貧民の国になっていたのである。その怒りがトランプの勝利になったのである。

ともかく自分にも非があったが地銀に対する信頼はその人でもその銀行に対しても疑問をもつようになった。もともと証券の知識などないのだから地銀を通じて金を操作させてはいけないものでもあった。
そして管理の仕方もずさんだった。逐一報告して売り買いしないかぎりもうからないしリスクになる。それができないのだから地銀などには頼むべきではなかったとなる
つまりリスクというとき証券など知らないとういこともあるが地銀に頼んだことにもあった。その管理もずさんだったからである。
そして証券とかグローバル市場でもうけようとしたら意外とその担当する人による
今回も実際に売ったり買ったりしたのはカナダの国債を選んだ若い人が担当者だったからである。売る時期とかも大事になる、タイミング大事になる、それが裏目に出たのである投資家というときこれも実際は優秀な人がいるし医者でも藪もいれば優秀な医者がいる
だからその当たりはずれも大きいのである。
ただ自分で売り買いしたりできるなら自分の責任になるしそれができるならいいが地方ではしにくい、カナダ国債が安全だとなればそうなのかなと日本の国債をイメージして思ったからである。

それで本当に怖いのは為替差益であれたちまち差益が大きくなり大損になるのが外国向けの投資信託なのである。確かにもうけることもあるがその損するときの額も大きくなるのである。グローバル経済はあるほんの一部のものがもうける仕組みになっているから素人はもうけられない。もうけてもまた損するのである。
こういう悪魔に操作されているようなグローバル金融資本主義はなんらかでリーマンショックの再来とかなんか恐慌とかで崩壊してゆく、その前にナショナリズムに復帰してそれぞさの国の文化を大事にするものへと世界は変わってゆく、そういう兆候が世界的にすでに政治の面でも現実化しているからである。

人間にとって大事なのは信頼なのである。その信頼がないと何事なりたたない、日本では狭い範囲で生活してきたから信頼を失うと繁栄しない、地銀でもそうである
こうした信頼関係が成り立つのはグローバル経済になるとむずかしい。
そこではもう相手の顔も見えないのだから世界から集められたかねはゴールドマンサックスとかに吸い上げられるのである。それで七〇〇〇万の年収を得ていたとなる
そういう暴利を得ているのは異常である、何か物を売るならいいが金融でそんな巨利を得るのはもう悪魔的だとなる、だからそういうシステムを否定する力が世界でわきあがる
それがアメリカですら起きていることなのである。

職業には何でも知識が必要である。


本屋だって本の知識とか本の内容を理解する知識が必要

料理屋は料理についての材料でもなんでも知識が必要

農民だったこれは様々な体験的知識が必要

大工は木材とか深い体験的知識が必要

医者ももちろん知識がなければできない

店屋も売るものの知識が必要


本屋などは本についての知識がないからつぶれてゆくということもある
ただ本をならべているだけだからである。
電子本の影響もあるがそもそも売る本を理解して知識があって売っている店はまれだったのである。
株とか証券も知識が必要、でも銀行では地銀ではその知識がない
株は上がるときもあれば下がる時もある
為替も上がったり下がったりする
世界には常にリスクがある、それは誰もわからないんです
大損しても私たちにはどうにもなりません、責任はとりません

ただし手数料だけは確実にいただきます

損しても文句は言わないでください、それが投資信託であり株なんですから

要するに投資信託でも株でもその知識はある人はある、でもそういう人とはめったに出会いない、だから素人にはもうけられないのである。
他の職業は知識がなければ勤まらない、簡単に注射だってできないだろう。
家を建てのだって危険になる、証券とか株は頼んだ人は大損しても何の保証もないのである。
その時情勢によりますからどうにもならないですで責任などとる必要がないのである
となるとこれほどでたらめな職業はないともなる
無責任きわまりない職業ともなる

『当たるも八卦、当たらぬも八卦』

それは運しだいです、負けても文句は言わないでね

いくら知識を言ってもそれがどうなっているのかわからないからである。
だからペテン師なのかとなる、ギャンブルと同じだとなる
そのギャンブルも素人は負けるようになっているからやらない方がいいとなる

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2016年11月25日

銀行員も今はブラックなのか? 若い人の会社や仕事で形成される人格は将来どうなるのか ?


銀行員も今はブラックなのか?

若い人の会社や仕事で形成される人格は将来どうなるのか ?

身内の知り合いが大和証券に就職決まったと報告受けたが、
その後彼が言った言葉、客にはいい情報教えないw
とペラペラ喋っていたことを絶対忘れない。面接などで植え付けられる
汚い思想であると思われるが、証券会社社員という人種は通常の商売のような
顧客満足を目指す仕事をしてはおらず、客を食い物にするために仕事をするクズで
あると実地でわかった。


顧客満足を目指す仕事をしてはおらず........

ユニットバスを百万で作ってもらったけどいいものである。自分が顧客だとすると満足したとなる。安くていいものでなかったら顧客は満足しない。
たいがいの仕事はいかに顧客を満足するか努力している、そうしないと仕事が成り立たないからだ。仕事の注文もなくなり物も売れなくなり病院のようなところでも患者の扱いが悪ければ患者も来ない、それはどこでも同じである。

証券会社とか銀行とかなると顧客満足となると株や投資信託でもうけされることだけど実際はそうなっていない、客をだますことが多いというとき株とか投資信託の仕組みが複雑すぎてわからないからである。
だから素人はだましやすいのである。
カナダの国債は素人考えて安全だと思っていたが為替差益で大損した。それもわからないうちにそうなっていたのである。
管理がずさんなのである。それは逐一報告されていない、その収支決算は素人が見ても全くわからないものだったのである。
売り買いするのもめんどうである。だから自分はたいして損しないと思ってまかせていたのである。
国債でも投資信託でも外国になるとより危険になる。それは為替差益がありさらに世界情勢などのリスクがありわからないから危険なのである。
だから知らないことには手を出すなというのは本当だったとなる

一番わかりやすいのは円高とか円安の差益でもうけるものである。
110円の時買ったが今はあがっているからもうかる、下がれば損するのである。
これは何も考える必要がないのである。こういうふうにわかりやすいものは素人でも得するにしろ損するにしろいいのである。
株とか投資信託はプロでもわからないからリスクが大きいとなる。

自分を担当した人は証券の取引場にいて経験しているからわかっているというがカナダ国債では全部裏目にでた。
今になると円安になり売るとしたら高かっのかもしれない、そんなに損するまでなぜ売らなかったのか?
それはずさんな管理なのである。良く見ていないし連絡もしないのである。
最後に急に配当金が下がったから売った方がいいと売ったら大損になったことがその時はじめて知ったのである。

人まかせにしたら株も投資信託も必ず損する

投資というのはわからなかったらその頼む人がどんな人なのか最大の問題になる。
なぜなら知らないのだからまかせてしまうからである。
でもずさんな管理しかしない、手数料とればいいとかしか思っていないとなると必ず損する
はっきりいって地方の銀行などは投資信託についてほとんど素人なみである。
だからやらない方がいいとなる。
もうける方法はあっても証券会社の人は知っていてもそれを頼む人は知らないからである
そして経験から銀行は信用できないということにもなる。
一時は郵便局でも客が損してその恨みをかったことがあった。
もともとリスクがあるものですと言っているから客も悪いことは確かである。
だから頼んだ以上文句いうなともなる
だから泣き寝入りであり得するのは手数料でもうける証券会社とか銀行なのである。

あなたにもうけさせてやりますよ、私を信頼してください

こういっても株や投資信託はそもそもがそんな約束などできないものである。
ユニットバスを作るとしたらこういうものができますよといえば確実にそういうものができて顧客満足させる
医者でもあてたの病気は直せますと言って直すように努力する、株とか投資信託はそんなことはない、言ってみれば時のなりゆきでもうけることも損することもあります
いろいろリスクがありますからしかたないです
でも銀行員や証券会社は損しません
手数料だけはしっかりもらっておきます、損はしない商売です

銀行はもともとこんな仕事じゃなかったろう、ただ投資先がないとか金余りとかもうける方法がなくて株とか投資信託の窓口になったのである。
だかから銀行についてのイメージが悪くなった。そんなギャンブルの馬券などを売り出す窓口になったともなる
何か会社に投資して会社を育てるなどという仕事とはそれはまるっきり違ったものである
世界的にグローバル経済がマネーゲームになったというときそのことがやはり世界を人間を狂わせたのである。
例えはドル紙幣はアメリカでは銀行が発行するとかドルで世界を支配する、石油もドルで買う他ないというときドルが世界の貨幣となりアメリカが得するような仕組みになっている。その仕組みも複雑でありとてもわからないから陰謀論になるのである。
金を右から左に流して巨利を得ているという現代のグローバル金融資本主義が本当に世界を狂わせたのである。
あなたもそれでもうけようとしたではないかというときそうである。
でもそのギャンブルに勝てるのは胴元である大銀行とか大財閥とかであり普通の人はそのギャンブルに勝てない仕組みになっているのがグローバル金融資本主義なのである。

いづれにしろ現代の職業が何かいかがわしいものが増えたというときそこにモラルの荒廃が生じる
資本主義が修道院から生まれて神に奉仕するものとして生まれたというとき今のグローバル金融資本主義は悪魔の資本主義になってしまったのである。
悪魔が世界金融を操作しているのでてある。それがユダヤ人だとか言うがそれもわからないのである。ユダヤ人ももともと真面目な商売人だったのである。
だからこのグローバル金融資本主義は操作しているのは誰なのか?
それは何か悪魔的なものであり誰もわからない謎になるのである。

結局徳川幕府が為替差益で崩壊したいうとき明治維新から日本もまるで変わったものとなってしまった。
江戸時代はモラル的には世界で一番優れていたかもしれない、貧乏だったけど悪いことをする人は本当に少なかった。だからみんな幸せそうな顔ししていたというとき貧乏なのだけど素朴な人が正直な人が多かったからである。
暴利をむさぼるような人はほとんどいない、こつこつ農民でも職人でも商人ですら棒ふりとか小商いであり何かそういヴ職業は大きな利益は得られない、でも正直な商売をしていたとなる、そういう人が多いというとき社会もモラル的には安定していたし江戸時代はかかって住みやすい時代だったとなる。
ただ常に過去は理想化しやすいからそこには様々な暗黒があった。
女性は貧乏で身売りされたとかいろいろあったが総じてあまり悪い人はいなかった。
それは仕事が今のように複雑でない、農民が八割とかなるとそういう人たちは素朴な人たちが多いからである。それは戦前までもそうだった。
それで義理人情に厚いとかあったが現代ではそういう人を見るのは希少動物をみるのと同じであり絶滅したのである。

それで考えたことはそうした証券など銀行でもそうだがそんな仕事をしている人が将来的にどんな人格が形成されるのか?
口先だけの嘘も平気でつく、人をだますことにだけたけてくる、何かそんな人格が形成されるとなると将来的にそんな仕事はもうかってもすすめられないともなる
銀行は堅いイメージがありもともとそんな仕事ではなかったと思っていたからである。
地方では公務員と銀行員はエリートである。まず倒産することがないし安定しているからである。

親戚で事業で失敗した人もて何か人格的におかしくなった。もう頭が金のことしかなくなっていた。借金しているからそうなった。
若いときはいい人だったというからもともとあんな人ではなかったのだろう。
その人は会社で技術系の仕事をこつこつしていればそうはならなかったのだろう。
事業をして事業に失敗しておかしくなった。
自分が苦しんでいるときその弱みにつけこんで商売してきたからである。
いちいちなにかするにも金を要求してきたのである。
何かもらわなければただでは何もしないとなっていたのである。
ちょっとした物でも運ぶのさえ嫌がっていた。
つまり何であれ人間は仕事が人生になるからその仕事で人格が形成されやすいとなるときその仕事がいいかげんなものだったらその人は将来人格的にどうなるのか?
それを考えると怖いなと思った。
ただ若いから利益をあげるためにノルマを達成するために駆けずり回っていてそんなこたとを考えることもないのである。
でも自分の仕事が何なのだろうとちょっと立ち止まって考えると矛盾や良心の痛みを感じるかもしれない、そういうことがあるならいいがそんなことを全く無視しているのが普通である。

とにかく何かそういう疑問が生まれることはある。でもそんなこと深く考えないでた利益をあげることだけに夢中になり他はかえりみない、それは自分でもカルト宗教団体に入り活動していたときあった。
なんでただ票集めだけに必死になっているのか?これは何なのだ宗教なのかというと疑問をもちやめた。
何か人生の中でそういう疑問をもつがそれをあいましいにしてつきすすむ、会社でもやめるのは簡単にできない、会社のために猛進する
それで会社なんかやめろとかいう作家がいるのもわかる、でも会社をやめるとなると自由人を目指すとフリーターとか派遣とかになってしまう
それも厳しいとなる。自分は家庭環境に恵まれていてたまたま自由人だったとなる。
でも自由人というけど社会経験がないものはあとでまた困るのである。
それで介護とか自分の病気で苦労したことを書いたのである。

自由人でまともでいることもむずかしいのである。
例えば芸能人とか芸術かでも変なのが多いだろう。社会常識がない、だからこういう仕事も何か人格形成にはいいものではない、そうなるとどんな仕事がいいのかそんな仕事があるのかとまでなる。
自由人といってもよほど優れている人でないと
「小人閑居して不善を成す」ということに必ずなるのである。
ニートなどはだから相当に危険なものとなる、今といいくても必ず苦難がありそれを乗り越えられなくなる、社会経験がない浮世離れになっても人間はまともになれないのであるでも一方で会社に人生をすべてあづけるのもまた危険だなと思ったのである。

posted by 老鶯 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年11月24日

投資信託を為替差益で失敗した (為替差益でか江戸幕府も崩壊したその恐ろしさ?)


投資信託を為替差益で失敗した


(為替差益でか江戸幕府も崩壊したその恐ろしさ?)


身内の知り合いが大和証券に就職決まったと報告受けたが、
その後彼が言った言葉、客にはいい情報教えないw
とペラペラ喋っていたことを絶対忘れない。面接などで植え付けられる
汚い思想であると思われるが、証券会社社員という人種は通常の商売のような
顧客満足を目指す仕事をしてはおらず、客を食い物にするために仕事をするクズで
あると実地でわかった。

投資信託で失敗したのは銀行でしているから大きく損するものではないと思っていたことである。一つは確かにそうだった
もう一つすすめられたカナダの国債で大きく損をした。
カナダというと一番評価が高かったし安全だと思っていたのである。
国債となると日本の国債をイメージしていたがまるで違ったものである。
為替差益で120円の時買ったが100円のときに売って大損だった。
つまり外国の国債でも安全と思っていても為替差益がものすごく影響しているのである。そして為替の変動は予想もつかないのである。


幕府の閣僚の最大の失敗は、為替レートで騙されたことである。金銀の交換レートを迂闊に設定して、莫大な損失を出したことは良く知られる。幕閣の誰も経済に疎かった。
 日本の金1に対してメキシコ銀4で交換することにさせられた。
 額面は同等のようでいて、日本の金貨は金の含有量が多く、不利だった。

 徳川幕府は経済失政で滅びた(心の青雲)

この当時は金が世界の貨幣だった、金の含有量で貨幣の価値が決まっていた。それで日本の小判は金の含有量が高かったけどそのことを知らないで安く買い取られてそれで日本の財政を圧迫して江戸幕府の崩壊につながったと「心の青雲」で説明している。 
ここはいろいろなことで詳しい、反発することもあるが参考になるので毎日読んでいる
ここではすでにマネーゲームのようなことが行われていたのである。
それは金が今のドルと同じように世界の貨幣になっていたからである。
その貨幣の価値は金の含有量で決まっていたのである。
なぜスペインが一時豊になったかというとインカとかから金銀を集めたためなのである。略奪したためなのである。金が君をもたらしたのがスペインだったのである。
スペインと泥棒国家だったというのはそのためである。

そもそも銀行が何かとなるとこれもわかりにくい、不思議なのはなぜ銀行が問題になるかというとグローバル経済になったとき世界が金で左右され支配される結果そうなった
そしてドルを発行できるのはアメリカではなくアメリカの銀行がドルを発行する権利をもっているのである。

FRBはアメリカの発券銀行で有るばかりか、国際通貨でもあるドル紙幣を唯一発行しているが、驚くべきことに全株式の100%はロックフェラー家やロスチャイルド家を含むプライベートなエスタブリッシュメント(大手銀行)が握っているのです。

アメリカがイギリスの植民地だった時に、アメリカが紙幣を独自に作る事をイギリスが禁止しました。
通貨を貸し付け、利息を取り続けることは莫大な利益になるからです。
その後、アメリカは独立は勝ち取りましたが、肝心の通貨発行権の戦いには敗れました。リンカーン大統領は新通貨を発行時に暗殺され、新通貨発行は立ち消え、ガーフィールド大統領はFRBを批判した2週間後に暗殺され、ケネディ大統領は通貨発行権をFRBから取り戻した半年後に暗殺され、再び新通貨の発行は取りやめとなりました。暗殺の原因がその理由かどうかは議論の分かれるところです。

FRBはアメリカの発券銀行で有るばかりか、国際通貨でもあるドル紙幣を唯一発行しているが、驚くべきことに全株式の100%はロックフェラー家やロスチャイルド家を含むプライベートなエスタブリッシュメント(大手銀行)が握っているのです。

これは陰謀論でいろいろ言われる、その最大の理由がこうして銀行が支配している、紙幣を発行するドル発行することで金で世界が支配できるシステムになっている、それでグローバル経済が批判されるのである。
マネーゲームの胴元がロックフェラー家やロスチャイルド家などでありそこに世界のマネーを支配するとなる。
それは見えないからこそ陰謀論になるのである。銀行は世界を支配する要としてあるから問題なのである。

いづれにしろ為替差益というか金の価値は世界を旅すればわかるけど後進国に行けばわかる。中国でも前は十倍とかの差があった。今はもう何か中国と日本の円でもドルでもそれほど差がなくなっている。
為替差益というのは何かグローバル経済の異常性を一番示していたのである。
それて江戸幕府まで滅びる原因となっていたという指摘は新鮮だとなる。
なんらか経済が金がどこでも関係しているからそうなる
侍が藩が商人から金を借りていたというのもどこで侍が偉いのかとなる、士農工商はただ職業の分類であり相違にすぎなかったというのはそのためである。
つまり金を借りた方は必ず支配される方になるからだ。
金を借りたらそれを返すために奴隷化されるからだ。女性は身売りされるし奴隷化されるそして借金においつめられて犯罪に走るのが推理ドラマのバターンなのである。
当然借金した武家は藩はそれで商人に支配されてゆくことにもなる。
それが江戸幕府が崩壊した大きな要因だだったともなる。

「版籍奉還」と「廃藩置県」で諸藩は消滅し、大名は「華族」となって東京に在住します大名たちが領地を召し上げられても喜んで従ったのは、借金返済を免除されたからです

こういうことは確かにあった。明治維新も裏側を探ればそうなる。
人間は何かやはり金が経済的理由が動機となるのが多いからである。
犯罪だってそうだし金絡みの事件が多いからそうなる
世界的な動きでも金絡みでありグローバル経済になると余計にそうなる
為替差益とかはすでに明治維新の時もありそれが江戸幕府を滅ぼしたというときもそうである。戦争も常に金がからみ金からみる人もいるのもそうである。
軍資金がないと戦争もできないからである。それでユダヤ人が裏で金であやつっているとかの陰謀論になる。
今はその中心に銀行がからんでいるから何か銀行は今はいかがわしいし銀行員も何かうさん臭いとか証券会社は特にそなる。詐欺的な職業と化しているとなる
グローバル経済自体がもうマネーゲームでありそれに反発する人が多くなった。
その金はほんの一部のものに陰謀論ではロックフェラーとかロスチャイルドに集まる仕組みになっているとかなる

とにかくカナダの国債で大損したのは為替差益でありそれが盲点だった。
だから知らない人は投資はすべきではないというのは本当だった。
投資信託の仕組みは複雑すぎわからないのである。
結局人間は何でも経験である。株であれ投資信託であれ何でも経験しないとわからないのである。いくら本読んでもわからないのである。

人間は痛い目にあわない限り理解しない

これが人間なのである。津波でも原発事故でもそうである。人間は痛い目に直接自分があわないかぎり理解しないのである。
それは個々人が苦労していても自分が実際にそういう苦しい目に会わない限り理解しないのである。それが人間の盲点だったのである。
でも人間の経験する範囲は極めてわずかだからどうしても失敗するということになるのである。

タグ:為替差益
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2016年11月20日

投資信託でも証券会社、銀行でもでもリスクをとらない (原発もリスクを説明しないから詐欺だった)


投資信託でも証券会社、銀行でもでもリスクをとらない

(原発もリスクを説明しないから詐欺だった)

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投資信託などわからないでやったのが失敗だった、得したのは手数料でもうけたのは銀行と証券会社だった。
人間は知らないことはやるべきではないということは本当だった
ずぶの素人が株とか投資信託ではもうけられない仕組みになっている
第一銀行のいいかげんさに気づいたのは全くリスクをとらないからすすめる方は安全なのである。

投資信託で銀行も証券会社も絶対に損しない

これは何かおかしいなと今になって損して思った。銀行がかかわろうが銀行は何のリスクもとならいのである。

だから気づいたことは今度はその銀行の投資信託をすすめた人に個人的にもうけたら半分はやるからある程度の金を頼むとまかせる、その代わり損したらリスクを半分でもとってくれとなればまかせてもいいと思った、結局銀行を経由してやることもなかったのであるその人は訓練を積んでいるし実際に株の取引にもかかわっているとなるとそうなる

人間社会では何かリスクがどこでもあるものだとつくづく津波とか原発事故で思った。

こんなにリスクがあるのか?

原発をがこれほど恐ろしいものだとみん思っていなかったのである。そううい知識もなかったのである。
株とか投資信託もそうである。投資信託は株と同じである。外国の国債でも日本の国債と思い安全と思い買ったがこれが非常に危険なもので大損していたのである。
それも知識がないからそうなった。為替差益で円高になって大きな損失になっていたのである。
資本主義社会は社会主義と違ってリスクがありそのリスクでもうけが大きく左右される
事業でも起こすことができるがそのリスクが大きいのである。それは半端じゃない、ギャンブルともにている
実際に自分の母方の祖父は警察署長していても機織りの工場をその時のブームでして失敗して一家離散になった。
父方ではやはり工場が倒産してその土地は今は更地となっているそして最近自分の見にふりかかったのがやはり遠縁であってもかかわりがありそれで苦しめられたことを書いてきた。
へたすると相手は借金なので殺されるのかとすら恐怖を感じた。そういう推理ドラマが常にあるからだ。借金のためにはどんなことでもするようになるのが人間なのである。
自分が病気であり介護のときに責められたから地獄の恐怖だかったのである。

いづれにし事業で成功するのは20人一人とか本当にまれなのである。事業で失敗したなどごろごろどこにでもいることなのだ。そこから事件が起きてくることが推理ドラマのテーマになっていることでもわかる。
資本主義社会はリスクをとり成功すれば社会で特殊な地位を築ける、トランプのようにな大金持ちにもなる、ところが一旦失敗したら悲惨なのである。
それで自殺する人も多いということはそれだけ事業で成功することは並大抵のことではないのである。

もともと船で航海して貿易するとおおもうけできた、その時金をだした株主は船が沈まないならら大儲けしたがもし船が沈んだら大損になっていたのである。
そういう資本金を出すにしても賭けであり賭けに勝てば大金持ちにもなるのが資本主義なのである。
勤勉の資本主義もあるがリスクをとってもうける資本主義もある。
そして現代ではそうしたリスクも結局マネーゲームでもうけるのはギャンブルだったら胴元だけななっているのかもしれない、その仕組みに精通できないからである。

人間はなんらか人生では株でなくてもリスクがある。どんな人間でも別に特殊な人間でなくてもそういうリスクをもたざるをえない、要するに人間は先を見ることができないのである。
母が東京で結婚して一年にもならないのに夫が事故で死んだとかなにか常に意外なことが怒りその人生航路が狂ってしまうのである。
まずいくらリスクをとらなくてもリスクをとらされるのである。
母はもともと何にも冒険するようなことをしない大人しい女性だった
ところがこの辺で水害になったとき炬燵の穴に入って怪我をしたのである。
つまり人間はいくら安全を計って家の中にいても危険がある
危険がもうさけられないとなっている、津波でもそうだった。あんなものが来るとは誰も予想できない、これほど生きていることが危険なものか思い知らされたのである。

そして人間はまたリスクをとりそれを乗り越えないと一人前にもなれない
イチカバチカの勝負に出て一人前になる、英雄にもなる。もしそのリスクをとらなければ英雄にはなれない、またそういうリスクがなかったら人生もつまらないともなる
別に自分で望まなくてもこの世では否が応でもリスクをとらされるのである。
たから証券会社でも銀行でもリスクをとらずに自分は安全圏にいてもうけるのはおかしいと気づいたのである。
そんな商売は詐欺にもにていると思った。

他の仕事でも建築関係でも医療関係でもリスクがある。技術的に安全を確保するための努力を払っているのである。
原発は最もリスクがあるものだったのである。それを知らせないのは証券会社とか銀行と同じだった。
投資信託などすすめて失敗してもリスクをとらないのからである。
原発は間違えばこれだけの被害になりますよ、リスクがありますよと知らせないで教えないで事故になったからである。これが詐欺だったのである。
これだけ原発で被害があったら他の国では台湾でもベトナムでもトルコでも日本から原発を輸出できなくなるのは当然である。
そのリスクを考えたら大損なことがわかるからである。
その負担は立地した市町村や県や国民全体でとらされる
税金が延々ととられるからだ。それに頭にくるのもわかる。原発にはそれだけのリスクがあったのである。国民にそれだけの負担を強いるリスクがあってもそれを良く説明していなかったのである。

ただリスクという時別に株でなくても貯金していても安全かというとそうでもない、預金封鎖とかインフレとかで金の価値もなくなる、自分の母は戦争中前の夫が事故で死んで大金をもらったがその時買ったわずかの土地だけが残りあとは紙幣は戦後紙きれになったのである。
だから預金も安全ではない、要するにこの世に完全な安全などないのである。
どんなに安全を計ってもない、病気にならないようにどんなにしようとなる人はなる。
それも保証できない、人間の肉体自体がリスクをかかえているのである。
どんな丈夫な人でも病気になるとたちまち総崩れになる、一転してこれほど人間は弱いのかと驚くのである。
優秀な人でも認知症になったら頭もだめになるからもう信じられないとそのことを書いてきた。
そうしたことは晩年に最後に起きやすいのである。

いづれにしろ何でもリスクがあるのにリスクをとらないのはずるいと思った。
原発だってこれだけのリスクがあったが会社の社長でも幹部でもそのリスクをとっていないのである。他の事業を起こした人はリスクをとらされる、それで自殺する人も多いからである。
そういうリスクがあるとしたら株でもそうだが知っていればそんなもの作らないだろう。作ったからにはそのリスクをとることが責任をとらされる
でも政府でも官僚でも東電でも誰もそのリスクの責任はとっていないのである。
それは証券会社とか銀行と同じだったのである。
それは国家的な詐欺でありまんまんと国民もだまされたとなる
神国神話などもそうでありこれも国家的詐欺の一面があった。宗教には詐欺が多いからである。
そのために300百万人も死んだとなるといくら英霊だなどと言っても死者が浮かばれないともなる
ただ国民にしても銀行のすすめで投資信託でもうけようとしたのでありその本人も責任はあり責任は損失でとらされる、でも証券会社は銀行はとらないのである。
そんな人たちに原発をまかせられるのか?

国家の詐欺は誰も責任をとらないが国民が責任をとらされる 

つまりもしそれだけのリスクをとらされるとしたらどうなるのか?
必死で銀行でももうけようとするしアドバイスもする
別にリスクをとらないから本気にはならない
失敗したら切腹させられるとかなれば本気になる。でも原発ではそういうことであまり真剣に安全のことは考慮していなかったのである。
そもそも原発は人間が完全に安全に運転できるものではなかった。
その割にはものすごいリスクがあった
確かに交通事故もリスクである。未だに年に6000千人は死んでいるからである。
これもそのリスクを承知で車を運転している
ただ原発は強固な「安全神話」を作って成されていたことが問題だったのである。
証券会社でも銀行でも一応元金割れのリスクは言っているからである。
原発にはそういうリスクがありますよということが「安全神話」となり言われなかったのである。
でも大損失になりリスクを否が応にも地元ではとらされたのである。

確かにこの世に生きる限りリスクはまねがれない、どんなに安全だといっても今回の津波のように予想外のことが起きてくる。
ただ人間はリスクをとらなっかたら大航海時代も何も人間は進歩しないというのもそうだった。様々なリスクがあってもそれを乗り越えてきて進歩したとなる
人間の生きる醍醐味はリスクを乗り越えてそれで生き延びるとか成功することにあるからだ。
ただ闇雲に勝算もないのにリスクをとるということも問題である。
原発は科学が主要なものとして運営される、科学技術の粋が集まり運営される
科学というのはリスクをとってはいけないものである。一歩間違えば犠牲が出るからである。建築だってそうであり原発はその最たるものだったのである。
航空機でもこれも安全が第一でありそれは計られている、もし一回の事故でも犠牲者が多くなるからだ。だから万全を期しているのである。それはほぼ達成されている
原発はさらに厳重に安全に万全を期していなければならなかった。
しかし現実はそうではなかったのである。


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2016年11月15日

見える仕事と見えない仕事 (人間の仕事が機械に代わるとき、人間の価値は何か問われる)


見える仕事と見えない仕事


(人間の仕事が機械に代わるとき、人間の価値は何か問われる)


人間は見える仕事だと理解しやすい、江戸時代とかまではみんな見える仕事だったのである。戦前でも見える仕事が多かった。
近くでも籠屋とか籠を竹で編んで作っていたし石屋というとき石を槌で削っていたのを子供の時見ている
田植えにするにしても手で一つ一つ苗を植えていた。
社会自体が見える社会であり社会がどう動いていて人がどういう役割をしていたか見える、理解できる社会だった。
仕事しているのがほとんど人力だったからである。
そういう社会はアメリカでも外国でも同じだった。
ホッイトマンが讃えた詩にしたのはそうした見えて働く人間の姿だった。

何か働く人を見ているとき一番見えて働いているのは建築関係である。特に力仕事しているときあの人は汗を流して働いているなと理屈抜きで実感するのである。
特に猛暑の時力仕事していたのを見たときは感じた。
自分は体力がないからとてもこの暑さでは木陰で休んでいるほかないとなっていたからである。
一般的に医者とか看護師とかも働いている姿が明確に見えるからいろいろあっても働いているなと見る、でも現代の労働の不思議は一旦そこに機械が道具が介入すると違ってくる例えばクレーンとか操作したりする人は本当は人力の何十倍というか百倍もの労働をしている、機械の労働と人間の労働を比べればその差はあまりにも大きいのである。

ところが機械を操作している人の労働は何か人間が労働しているように見えないのであるこれも何か現代を象徴している。
あの人が働いているの?ただ機械を操作しているだけじゃないか、もしかしたらロボットがコンピュターの遠隔操作で仕事しているんじゃないかとなる
そういうシステムがすでにできていて人間がコンピュターの支持で仕事していることが紹介されている
その時人間は人力の労働の百倍もしていても機械がしているのであり人間が労働しているように見えないのである。
それは田植機でも稲刈り機でも機械が労働すると人間が労働しているように見えなくなるのである。
だから労働歌などがあった、それは民謡となったりしていたがそれが今の機械化した労働になるとなくなった。
炭鉱労働でもそこで地下に入って真っ黒になって人間が働いていたので労働歌が残った。
人間は現代では機械の背後に見えなくなった、車でもそこに人間がいることが見えない、顔も良くわからないのである。
ただ突然自転車で横切ったりするとどなりつけられるから人間がいたのかとなる
それで面白いのは自転車に乗る人が危険なので車に乗った人の顔を見て確認して安全を確かめているという、それはネットの話でありそういう日常的なことがかえってネットの情報は参考になる。
車という機械道具がありそれに人間は隠されている、人間と人間は眼を合わせて安全を確認すれば確実だとなる、なぜなら信号で無視する人がいるからである。
これも人間が機械とか道具とかに頼り見えなくなっているからである。

今回ユニットバスで浴室をリホームしたが少し手伝ってみて配管というとき今は鉄の管を使っていない、伸縮自在のゴムのようなものを使っていたのである。
あれらち鉄と違って扱い安くなっている、鉄だとめんどうだからである。
配管などは水が流れなくなるとき、管が錆びたり何かに詰まったりするときである。
何かそれはわかりやすいのである。だからこれは見ていてもこれなら自分でもできるように見えたのである。管をつなぐことでありそこに水を流すということだからである。
そして修理するときもただその伸縮自在の管をとって洗浄したりつないだりすればいいと見たのである。
そもそもそういうことは原理的に簡単だから理解できるのである。
今の技術は何かと素人にはむずかしすぎるから見えないから理解できない
このように見えればそういうことかとなり技術的にも理解できて自分でも直せるのかなと思うのである。それは原理的に見えてわかるからそうなる

ところが現代の社会はあまりにも複雑であり見えない社会なのである。
その最たるものが原発だったのである。放射能も全く見ることはできない、原発の内部もどうなっているかなど内部の所長すらわからなっかたという驚きである。
吉田所長が復水器のことを知らなかったというのだから最も肝心なことすら原発のことで知らなかった。としたら素人などまるっきりわからないということになる
それより誰ももう原発のことなどわからないのである。
だから何かあったら今回のような事故になったら操作できない何もできないとなってしまう、あまりにも複雑であり誰も全体を知るものはいない、としたらどうして修理できるのかとなる、配管でも網の目のようにめぐらされているのである。
その配管自体が老朽化すると放射能だってもれてくるのである。

人間は今この複雑な文明社会を見えない理解できない、すると何が起きるのか?
原発事故のようなものが起きるということである。
そしてもう誰も修理もになもできない、お手上げとなりこの辺のような状態になってしまう。
ともかく人間は労働することで人間の尊厳があった。
それでどうしても見える理解できる労働だと人間は尊重される
株とかでもうけてもその人はどんな労働しているのかとなると見えない、理解できない
だから株にたずさわる人を尊敬するというふうにはなりにくい。
他にも実際はITで働くような人も普通の人にはその仕事が見えないから理解できない
でもなにかたいしたことを誰にもできないことをしているなと見ていても理解できない
その他はいろいろな仕事があってもそうである。
そこにすでに機械がかかわりやがて人間の代わりにコンピュターがなるというとき人間の尊厳はなくなる、人間はかえってコンピュターより能力がないから仕事も奪われるとかなり未来を予測する
知能までそうなれば人間の存在と尊厳とか価値まで問われるのである。
一部のものはすでに人間より優秀なのである。機関翻訳などは進歩しているから機械から学ぶとまでなっている

いづれにしろ働くことで見えないということは原発のように社会にとっても危険なものになる、見えないということは社会にとって危険なのである。
株なども証券でもグローバル化してその流れを誰も見ることができないのである。
そのことから何が起きてくるのか?世界恐慌とか社会の破綻が突然にくる
見えないからもう操作できない、突然今回のように水素爆発が起きて惨事となる
皮肉なのは原子炉なのか密閉されないでガスがもれて大爆発にならずにすんだとかなったそれは実際は人間の技術のてぬきだったのだがその手抜きがかえって助けたとなった
だからとても人間というのはいくら機械を進歩させてもそれを操作しきれないのである。どこかにミスが生れそれが致命的になるのである。
それは結局人間が神でもないし完全ではないからである。
だから原発のようなものをそもそもそんな所長すら知り得ないものを作るべきではなかったとなる





タグ:人間と機械
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2016年11月04日

二宮尊徳の思想が見直される時代 (グローバル資本主義経済は限界に来ている)


二宮尊徳の思想が見直される時代


(グローバル資本主義経済は限界に来ている)



大地の実り

大地は誰とも争わない
人間は境界を作り争う
大地は誰とも争わない
大地は深く沈黙して
様々な実りをもたらす
大地は誰とも争わない
大地はひたすら忍耐して
人に実りを与える
その土地土地に何がしか
神は与えるものがあり養う
その分を与えて養う
そこに人の生きる土台がある
その分を越えて求めるとき
人に災いが起きる
人は天より神より罰せられる


分度と推譲

 「報徳」の実践で、特に重要な概念が「分度」「推譲」だ。
 「分度」とは、あらかじめ定めた収入の範囲内に支出を収めることを言う。尊徳は、過去に遡る調査で見定めた土地の生産力に基づき、農民と領主双方の取り分を設定した。
 その上で農民達には勤労を求めた。努力すれば、分度を超える収入が生まれることになるが、この分度以上の収入は、子孫や他者に譲ることとされた。これを「推譲」と言う。子孫への推譲は将来世代に残す貯金であり、他者への推譲は地域への寄付と言い換えられる。

経済倫理の根幹といえる。金銀財宝そのものは決して貴いものでなく、足るを知る心こそ何にもまして、貴い宝である、


相馬藩では二宮尊徳のことは常に語られている、二宮尊徳の弟子となった人がいて二宮仕法を実践したからである、二宮尊徳が直接来て指導したわけではない。
二宮尊徳の思想と実践は江戸時代の封建制という制約の中で実践された。
江戸時代というのは役とか分度とかが常に言われた時代でありその分を越えないというのが日々の生活の中で習慣化していたのである。
士農工商とは身分制のことではなくその分を役を与えられて生きることでありそれぞれに与えられた分度を越えてはならないというのが生活の中で徹底されていた社会である。

その江戸時代と対比するとき明治から現代の変化は余りにも大きかったのである
特に高度成長時代というのは江戸時代からつづいた経済感覚を全く変えてしまったのである。分度もなにもない、グローバル経済にとりこまれ欲望のグローバル化だった。
食糧でも世界から入るあらゆるものを食べるようになった。
江戸時代は物が少ない時代だから当然質素倹約になる。それは明治から戦後十年は日本は貧乏だから質素倹約が自ずと思想になる
だいたい人間は歴史をみれば庶民であれば質素倹約であり贅沢していたのは王侯貴族とかほんの一部だったのである。それが高度成長時代のグローバル経済で過去の王侯貴族並みの生活になったし庶民もそれを当然のように求めるようになったのである。

その時経済の変化として生産より消費が重んじられるようになった。消費が美徳となったお客様は神様ですとまでなった。金を払い消費する人が偉いとなったのである
普通だったらこれまでは苦労して生産している人が偉いのである。
この辺では原発事故の避難者が仮設に入っている、そ人たちは金が入った、その仮設の人たちは何もしないで遊んでいる人たちが多かった。ギャンブルしている人も多かった。
ある女性の人はここで金使ってやっているんだから地元の人は助かっているんだよと言っていた。
このことにも現代人が消費者が王様だともなっていたことがわかる。
原発事故の影響は広範囲で補償金をもらったのは避難した人たちでありあとは何ももらっていないのである。
その避難した人たちは病院であれ介護であれ何でも優先になったのである。
あらゆる保証があり優先されたのである。
そこで地元の人たちが不満なのは当然なのだがそういうことも感じない人もいたのである金使ってやっているんだから地元の人も助かっているんだという考えはまさに現代の消費が美徳、消費者が王様だということでありその金が原発の補償金でないとしたらそんなに言われないだろう。
これもまた現代の矛盾でありそれが露骨に原発事故で現れたのである。
あいつらは毎日補償金で遊んでいる、地元の人たちはその人たちのために働いている
そうなればやはり地元の人たちだって不満になる
これは特殊な例にしてもやはり現代を象徴したものとして起きたのである。

グローバル資本主義経済の問題はもともとあった人間の経済から発した道徳を破壊したことにもある、二宮尊徳の思想が生まれたのは現代のようなグローバル資本主義ではない、江戸時代という分度を守らねば生きていけない時代だったのである。
そういう制約の下に必然的に生まれた思想である。
資本主義でも税所は修道院から始まったというとき資本蓄積が勤勉という質素倹約のモラルから始まった。それは二宮尊徳の思想と同じだったのである。
それが今は全く違ったものとなっている、強欲グローバル資本主義であり金融資本主義であり一攫千金を求めたりあくことなく世界的に欲が限りなく拡大した社会である。
そこには分度などというものはない、だから極端なのは中国の共産主義国家でも巨万の富を得る人が出てきて王様並の富を得ている矛盾がある。
そういう巨万の富を得ることがグローバル資本主義の成功者であり庶民でもそういう人たちが憧れの人となる、そうしたら質素倹約というモラルはない、金融で株で一攫千金をねらうとかになりやすいのである。
もともと分度を越えるのが資本主義の思想としてあったのである。
封建時代の農業中心から生まれた思想とは余りにも違っているのがグローバル資本主義社会なのである。

一国にとどまらない、国を越えて富を求めてヨーロッパの貿易による世界侵略ともなったのである。資本主義に冒険とかイノベーションとか技術開発とか何か質素倹約とか勤勉とかの徳とは違う思想がある。むしろ質素倹約の思想は共産主義にあった
その共産主義自体が資本主義化したから資本主義の思想が世界のスタンダードになったのである。
でもそれも見直す時代になった。様々な矛盾とかモラルの荒廃が生まれたからである。
この辺の原発事故でもそういう時代の矛盾の結果として現れたともなる
なぜなら庶民一人一人でもいかに強欲になっているか、限りない欲を求めているか、
それは借金してまで贅沢するというのが普通である。
そして金がないからと借金を求め自分は節約もしない、金は借りればいいとなり以前として贅沢しようとしている、こんな人間とつきあえのか?
いくら金があってもたりない、そんな無謀な人間が現代の社会が作り出したのである。
結果的には金の切れ目が縁の切れ目となる、それは昔からあったにしろそれはが極端な普通の現象になったのである。
現代はモラルを説くこと自体無駄だとすらなっている。金が暴威をふるい誰もそんなこと聞かないとまでなっているからだ。

だから江戸時代を見直すというとき実は歴史とは過去にあった今に見失われたものを見いだすという作業でもある。現代がなぜこんなふうになったのだというとき過去がどうだったと歴史をふりかえるとそこにモラル的には人間として極当り前の世界があったとなり見直し参考になるということである。
二宮尊徳の思想は特別なことではない、人間として当り前のことである。分度をわきまえるとか余剰を貯えて公共のために他人のために役立てるとかは別に普通のことである。。その当り前のことを実践したからこそたたえられたのである。

民主主義というのもその解釈はいろいろある、でも何でも平等というのはかえって不平等になる。女性も平等を主張したとき男と同じになることでなかった。第一男と同じにはなれない、女性の分を尽くすことが女性として生まれた喜ぶにもなる。
確かに一部の女性は優れていて男と変わらないように仕事できる人もいたがほとんどはそうではない、女性は女性の分を尽くすのが女性にとっても幸福なのである。
その他に人間は何でも平等を追求する、お前と俺は同じなんだ、何でも同じでなければらないとなったらかえって不平等になる。それぞれの個性があり分を発揮するとき社会は多彩になり富むことにもなるからだ。
民主主義の思想は何か?その思想も深く追求されず何でも平等のみが追求されたことで社会を歪めたのである。
だから一見封建時代の分度の思想が古いから現代に合わないということではない。
かえって新たな視点で見直されることがあるのが人間社会なのである。

貿易とかはたりないものを他者から他国から補うということが基本にある、それは助け合いということでもある。ただそれが限度をこしている、江戸時代とか戦後十年くらいの自給自足社会とはあまりにも違った世界なのである。
分度をわきまえない、世界的に限りなく欲望をふくらませてゆく社会である。
それは自然の理にも反する、天の理にも反する、だから突然リーマンショックとか資本主義が恐慌になり破綻するリスクをかかえている。
そういう自分もまた甚大な被害を受けるから喜べることではない矛盾をかかえている、でも素人はもうからな仕組みになっている。
何か手数料などがひかれるしリスクになると大損するからである。
ただもうこうしてグローバル資本主義の限りない欲望の追求は限界にきた。
もう株は上がらないとか石油の値段も上がらないということは生産力も消費も限界にきている。
すると江戸時代の二宮尊徳の思想が見直されたりするのである、それは自然や世界が正常心をとりもどすということにもなる。
現代はそういう転換期にきている、原発事故もそんな危険なものを作ったのも人間の限りない欲望の結果だったということもあったからだ。
それに神からの罰が与えられたともなる、グローバル資本主義は何か人間的モラルに反するから破綻する、金融で暴利をむさぼるというのもそうである。
世界の数パーセントの人が富を独占しているということが異常化しているから破綻してしまう。人間普通の生活をしていれば二宮尊徳の思想のようになる。
それは江戸時代はそういう自然との共生とか自然の制約とか社会の制約で生活せざるをえないから当然そういう思想にもなったのである。
ただ資本主義でもすべてが悪ではなくフロンティアを開くということでは意味があった。それも侵略だったということも言われるがやはり世界がそれに刺激を受けて発展するということはあった。ただそれも今ではマイナスのものとして意識され否定されるようになったのである。

天の理、地の理、自然の理、神の理に反するとき社会に乱れが生じる、ノワの洪水もみな心が悪しくなっとので起きた。

   父母根元在天地令命  (父母の根元は天地の令命に在あり)
 身體根源在父母生育  (身体の根元は父母の生育に在り)
 子孫相續在夫婦丹精  (子孫の相続は夫婦の丹精に在り)
 父母富貴在祖先勤功  (父母の富貴ふうきは祖先の勤功に在り)
 吾身富貴在父母積善  (吾身の富貴は父母の積善に在り)
 子孫富貴在自己勤労  (子孫の富貴は自己の勤労に在り)
 身命長養在衣食住三  (身命の長養衣食住の三つに在り)
 衣食住三在田畠山林  (衣食住の三つは田畑山林に在り)
 田畠山林在人民勤耕  (田畑山林は人民の勤耕に在り)
 今年衣食住昨年産業  (今年の衣食は昨年の産業に在り)
 来年衣食在今年艱難  (来年の衣食は今年の艱難に在り)
 年年歳歳不可忘報徳  (年年歳歳報徳を忘るべからず)

五行思想面からの説明では、万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの徳を持っているとされた、大同の思想もこれとにていた。分は仕事のことだった。

こういう思想は農業を通じて生まれたのである。農業は天地と自然と深くかかわるから必然的にそうなった。工業となるとこういう思想は生まれにくいからである。

命長養在衣食住三  (身命の長養衣食住の三つに在り)
衣食住三在田畠山林  (衣食住の三つは田畑山林に在り)

田畑山林が生活の基でありそれは自給自足が基本の生活だったのである。
今はそんなことを考える人はいない、生活の基は電気でありその電気を作る電力会社であるともなる。電気の源は何か?それは石油であるとかなる。
炭で生活していたらエネルギーはすべて身近なものでまかなっていた。山林がありまかなっていた。その差が大きすぎるのである。
勤勉の思想にしても機械が導入すれは働くの機械であり人の労働は軽くみられるから勤勉の思想も成り立たなくる。
ただ以前として人間は天地から離れてありえないのである。
人間の科学でも技術でも限界があるだ。それが原発事故で示されたのである。

分をわきまえることが常に強調されたとき、その分とは役とは国単位でもそうである。
日本にと日本の役と分がある。それは地理的環境でもそうなる。
一国はそうして自然の分として神から天から与えられたのである。だからグローバル資本主義経済はそうした分を生活の基本にしないで無視する。
食生活でも日本だと海の幸が豊富であり山の幸があり縄文時代からそういう生活をしてきたのである。人間は風土を無視してありえないのである。人間の体そのものがその土地土地に適合して長い時間で作られてきたのである。
それで日本人は腸が長いというとき穀物が主食だから牛のように咀嚼して消化するためにそうなった。欧米人は肉食だから肉を消化しやすい酵素が出るということでもそうである日本人には牛肉とか豚肉でも肉食は合わないようにできている、その代わりに貝と魚でも海産分が適していてそれが長寿の国にもなった原因である。
新地の鹿狼山や他にも手長明神の伝説、長い手を伸ばして貝を食べていたというのは日本が海の産物で生活していたためである。

ともかくグローバル資本主義は天地とも遊離しているし国々でも個々でも分をわきまえることがない社会である。ただ金が突出して猛威をふるう社会である。
その富が世界の数パーセントに集中する世界である。それは自然の理にも天の理にも反するから崩壊する危機にさらされる。
資本主義は農業から生まれたものではない、自然と遊離した商業とか工業を基本にして生まれた、人間の思想も自然から離れてありえない、大地でも忍耐しているというとき大地や山でも石でも樹でもそうみる。争わない忍耐して実りがある
でも今はそういう石にも三年とかないのである。手っとり早く金になることしか考えない農業中心だと自然とかかわるから時間の感覚が長い、すぐに実りはえられないからである工業の時間感覚とは違うのである。それは車を利用する時間でもない、牛馬を利用する時間だとなる、動物の時間は人間の時間と適合するのである。
機械に合わせた時間は自然の時間とは違うのである。
そしてあらゆる人が世界の人がその分をわきまえずグローバルに欲望を限りなく追求するそれが天にも神にも許されるのかとなる。そこから今回のような災いが生まれてくるのである。


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2016年10月18日

広域化グローバル資本主義の限界 (原発事故から考えるー離散解体しやすい社会)


広域化グローバル資本主義の限界


(原発事故から考えるー離散解体しやすい社会)


「われわれのだれもが、面識のない人びと、その存在についてさえ知らない人びとの役に立っており、ひるがえって、まったく知らない他の人びとのサービスのうえに生きているのである。


人間を経済学的な面からみると最近考えたことはこの辺でも地元の人が作った果物とか野菜とか花を売る市がたつ、そこで最初に買ってもらったリンゴがなんともうまかったのである。
今までは二種類しか紅玉リンゴとフジリンゴしかスーパーでは売っていないので食べていない、それは地元産にしては甘いし不思議な味だった。これなら高くてもいいと思った
スーパーの二倍はしていた。
ところが次に買ってもらったのは小粒であり紅玉リンゴでありスーパーでいつも安く売られいるものである。それは三倍の値段だった。
地元の市の方がなんでも高い、でもその時感じたことは「なんでこんな安いリンゴが三倍の値段なのだ」という怒りにすらなる
人間は値段に敏感だからだ。ただこういうことは現代の経済の矛盾である。
地元産を買うのは地元の人を優先している、地元のものを買うことは地元が経済的に豊かになれば回り回って自分も豊かになる。そういうのが今までの経済だったのである。

現代の経済では何が起きているのか?

金ゝ物ゝ人

人間がいるとしてもその人間より物が価値がある、物を通して人間の価値が計られる
「なんだ、こんな普通の安いリンゴを三倍の値段で売るのか、こんなのしかここでは作れないのか?」となりその人間の価値が計られその人間自体の価値の低下につながっているのである。
でも地元になると地元で生きるのだから地元のことを大事にするということはあるが現実問題として広域化グローバル経済になるとそうはならない

この辺でつくづく考えさせられたことはそのことである。今でも復興住宅を建てる人は九州から北海道からも来ている。それがなぜなのかよくわからない。
建売住宅の場合は仙台の人が来て作っているからである。復興住宅は政府が関係しているから全国から来ているのかもしれない、その会社では熊本でも地震の被害がありこれと同じような復興住宅を建てているというからだ。
その会社の説明ではこうした復興住宅を広めるためだとも言っていたからである。
ともかち除染関係でも全国から来ている
そして地元で働いている人は少ないのである。9割くらいは外部の者によって復興事業が成されているのである。ボランティアもそうである。
そして地元の人は毎日パチンコ屋通いだとか遊んでいたのである。
これもおかしな現代の矛盾なのである。

一方で地元の人でも仙台に車で朝早く通って建築関係で働いている人もいる
また広域的に仕事をしないともうからないとかで建築関係では全国に仕事を展開した人はそもそも個人では無理であり事業に失敗した。
今の経済はこうしして広域的でありグローバル経済になっているとき地元に土着するという感覚がない、それで地元に愛着する愛郷心も希薄化したともなる
普通家を建てるときたいだい地元の大工とかでしていた。するとこの家は自分達が建てたとかわかる、建ててもらった人も地元の大工に世話になったとかなる

でも建売住宅だとそういうことが全くない、自分がこの家を建てた、仕事したけどその家に入る人とは何の関係もない、別にその家建てたからといってその家の人に感謝もなにもない、第一建てたらあとは遠くから来ているのだから関係しない、ただ復興住宅は地元の大工もかかわっているからその人たちはかかわるがほとんどは外部の人で建てたのであるそこで報酬は金しかない、会社からもらう金が仕事の報酬でありその他はないのである。一般的に今の経済はみなそうである。地球の裏側から食料でも物が入ってきたからと言ってその人のことはわからないのである。
ただいいものだったら買う、すべては値段で決まる、いいもので高いとしても買う人はいる、金のある人は買う、ない人はいくらいいものでも買えないというのが現代の経済である。
すると金ゝ物ゝ人の原理が働いてくる、人間の価値は金で計られる、三倍もして小粒の味の良くないリンゴをいくら地元産だからと買わない,それよりそのことによって地元の価値の低下と人間の価値の低下が起きているのである。
「この土地ではこんなものしかとれないのか、この土地に住んでいる人間は価値がない、劣っている」とまでなる。

現代とは文明とは物の価値でもそうだが人間の価値が低下したのである。
機械によっても人間の価値は低下する、機械の方が仕事ができることがあるからそうなるロボットが仕事するようにるなと人間自体がいらない、人間はもう雇う方にとっていらないとなってしまう。それはとりもなおさず人間の価値が極端に低下したことなのである。本一冊作るにも今までだったら活字を拾っていた仕事があり様々な行程で作られてきた。でも電子本とかなるとその行程もない、人間の手はほとんどなく簡単に作られてしまうのである。そこで人間はいらなくなり失業者が増えるともなる
そしてもう人間の仕事がなくなる、機械が人間の代わりに仕事するからとなり人間はどうするのかとなると、ベーシックインカムで金を提供するということが現実に外国では行われたのである。

この辺で起きたこと原発事故で放射能で人が住めなくなったこともあるが何かそこにはまた別な要因があった。広域化グローバル経済というのは昔のように80パーセントが農業していたという世界とはあまりにも違うのである。
第一次産業の割合一割にみたないのである。だからこそ原発の比重がこの辺では大きくなっていたのである。東電に地元が買い取られていた、東電の社員化していたともなる
東京の東電の社員寮に入ったりしたものもいるから社員と同じであった。
それだけ東電にしめる経済の比重が大きくなっていたからそうなる。
つまり米とか野菜とか魚でも木材でも東電の電気が価値があるという世界である。
そうだからこそ原発は電気を産み出すのだから一番価値があるとなっていたのである。
東電社員もそのために原発事故前は威張っていたとかうらやましがられていたのてある

ともかく地元に故郷に帰らないというとき何か原発事故とか放射能被害とかそれだけでとはない現代の社会が影響してそうなったともみれる。
広域化グローバル経済になれば一地域の経済で生きているのではないから解体しやすいとうことがある。極端なのは日本だけに留まらないで金持ちは外国に住むとか世界的にも起きる、金さえあればどこでも暮らせるとなるとそうなってしまうのある。
そこでは人間が物に金にのみ換算される、計られる世界だからそうなる
それがマルクスが指摘した物神化のことである
またそれに反発して市場原理の働かない、ハイエクの経済観である。

資本主義が限界だとういうときグローバル経済でも限界になる。その矛盾も大きくなっている。そして新しい世界が求められている
それが何なのかというとき人間が人間的に暮らせる社会である。
シェアリング経済というのもそうかもしれない、シェアするというのは新しい共同をコミニュティを作ることの模索なのかもしれない、現代経済は極端化した金ゝ物ゝ人になってしまったのである。

番町皿屋敷のように大事な皿を割ったからと下女を責めてしなせたというのもまた別に今だからではなく人より物が大事だということはあった。
自分も経験しているがそういうことは常にあるし家の中で働く人は何か家族的な関係になる、下女はロボットではないからである。
物の方だ人間より大事だということは昔もあった。だから現代の金ゝ物ゝ人が昔にもなかったのかということではない、ただそれが世界的になり何か地元が故郷すら消失してゆく要因ともなっていた、それはどうしても原発事故だけが原因になっているようにも見えないのである。

要するに資本主義の限界とかグローバル経済の矛盾とか広域社会による人間の離散化とかは何か現代の文明社会の行き詰まりとして現れた。
もう経済成長は無理だとか経済もゼロ成長でありそれに見合った社会にするとかもそうである。それは金ゝ物ゝ人が極端化した反動としてそうなっているのである。
何かグローバル経済でも非人間化するものがある、そもそも全然知らない地球の裏側の人に働くこと自体が非人間的だともなる
そうなると金しかないし抽象的なものとてしの人間しかない、具体的な生々しい人間はそこになくなる、物と金に還元された関係でしかありえないのである。
そういう矛盾が原発事故が原因になっていてもそれだけではない、そういう社会状況が拍車をかけて離散したとも見れる


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2016年09月28日

広域社会の暗部、貧困日本の家族離散生活 (青森から沖縄からトヨタで派遣労働ー原発は出稼ぎしないために誘致された)


広域社会の暗部、貧困日本の家族離散生活


(青森から沖縄からトヨタで派遣労働ー原発は出稼ぎしないために誘致された)


過酷な工場型派遣労働者の現実
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最近youtubuを見るようになった。NHKスペシャルなど過去に放送したものを見れるのがいい。これはNHKではない、名古屋のトヨタで働く派遣労働者である。
一人は青森県の子供三人ももつ42歳の人である。
バスの運転手していたが15万くらいしかもらえずにやめた。派遣労働者用の団地があり住まいは提供されている、でもわびしい一人暮らしであり栄養もあまりとれない、二五万くらいもらってほとんど仕送りしているという、四万くらいがそこでの生活費にあてている妻子がいるのだからそのために苦しいけど働いている
本当は青森で家の近くで働きたいというが職がないので派遣で働いている

もう一人は沖縄からきた青年である。この人は働き方が上司から認められて正社員になることをすすめられた。でもその青年は沖縄で恋人と居酒屋をすることが夢であり迷ったが決断して沖縄に帰ることにした、三〇万ももらっていたので豆腐を売っている父親に五万とか仕送りしている、その青年は父親が苦労して働いていることを知っているのでそうしている、何かうらやましくなった。今の時代そこまで子供がしてくれるというのはなくなっているからだ。貧乏な国では親に仕送りする、親のために働くというのは普通である。それはそうせざるを得ないからである。

日本でも戦前とかはみんなそうだった。子供は親のために働いたのである。
今は親は子供のために働かされているというのが現実である。
その差も大きいから親は子ども生むのを育てるのを嫌がるのである。
でも子は親の背を見てそだつというとき親が貧しくても懸命に働いていれば子はその親のことをわかっていて仕送りしてくれる、これが金持ちの家とかなるとかえって親が苦労して育てていないから親孝行はない、親は介護になったら高額な老人ホームに入れるだけである。親のために子も苦労しないとなる、だからつくづく人間は何がいいのかわからないのである。金持ちになることをみんな求めて必死に働いていてもそれがすべていいとは限らない。一方で貧困の厳しい現実もある。

この二つのyoutubeを見て思ったのは広域社会グローバル社会から生れた問題があった。
昔も出稼ぎ労働はあった。双葉とか大熊辺りでも出稼ぎ労働がありなんとか地元で働きたいということで実は原発が作られたのである。政治家が誘致して作られた。
あの辺には仕事がなかったのである。浜通りのチベットとか言われた。
原町市とか前の平市(今はいわき)からも離れていたからである。
ただ出稼ぎ労働があり高度成長時代であり農家でも金が入り子供を大学に入れることもできるようなっていたのである。
でも皮肉なのはこうして出稼ぎではなく地元で働きたいとして原発を誘致したがそれが裏目となり地元にも住めなくなり家族が離散したことである。

だからこういうことが起きるのは本来の人間の生活が破壊されているからではないか?
本来の生活とは家族がいてその土地に働く場所があって生活する
それができないということが家族離散の生活になり本来の生活が奪われているのである。ただ金を仕送りするために派遣で一時的に働くとかなる、働くことと生活が一体化しないのである。
それが沖縄と青森という両極端に離れた地域から来ているということも何か現代を象徴しているのである。
それは原発事故を起こした大熊とか双葉などの地域で思っていたことと同じだったのである。地元で家族と共に生活したい働く場所がないからできない、では地元で働く場所となった原発は事故を起こして地元に住むことすらできなくなったというのもまた現代を象徴している

戦前辺りまでだと農業が中心だからその土地で土着して生活する人が多かった。
でもそこに生活する人は限られていた、人数が限られていたのである。
土地も限られているから一つの村に生活できる人数は限られていた。
結局人口が増えたら村を出るということはあった。
自分の父親は葛尾村から酒屋に丁稚に出たのもそのためである。
そういうことは江戸時代からすでにあったのである。丁稚奉公は遠くから子供をあづかって働かせていたからである。
集団就職ともにている、それは農業中心だと養える人間が限られてくるからである。

ただ青森の派遣の人でも家族の元に帰り一緒に生活したいというのが切実なのである。
沖縄の青年も恋人のいる父親のいる沖縄で生活したいと決断した。
いくら沖縄では得られない金をもらってもやはり沖縄で住みたいとなった。
その気持ちはわかる。でもそれをこの辺の原発避難区域となった所と比べてみるとずいぶん違うなとも思う
かえって補償金をもらったからもう親のこともかえりみないで出て行きあとには老いた親だけが残される、ただ青森とか沖縄の派遣と違って家族で出てゆき他で仕事を得たとなると家族離散とも違うのである。親は離散しても若い夫婦は子供と暮らしているから離散しているとは違う。ただ親だけが残されたとなる

現代は広域化グローバル社会である。まず復興住宅のために日本全国から職人が会社の人が来ている。なぜこんなに全国から九州から北海道から来ているのか?
除染はわかるにしても住宅を建てるのにこんなに全国の人が来るのかとなる。
広域社会になると昔の経済生活の感覚とはあまりにも違うのである。
自給自足生活ともかけ離れている、結果的に広域的に人間も分散しやすいのである。
農家のように代々その土地に根付いて生活する感覚とは違うのである。
そういう生活は遊牧民的生活、根無し草的生活にもなる
そこに人間の深い意味ある生活は生れない、当然文化も生れない、cultuteはcultivate(耕す)でありその土地を耕すから生れた言葉だからである。
土地を耕すというときその土地から米の実りを得るということでもある
稲作は自然と融合した文化にもなっていたのである。
根無し草の遊牧民から文化は生れなかった。現代の生活も土地から遊離した生活になるから土着的なものは消失して文化が生れないのである。

文化的生活というとき何か電気製品とか車をもった便利な生活のことを言われてきたけど実際の文化とは家族とともその土地に根付き耕すことだったのである。
そこから文化は生れて来たのである。そこに生活の重みと意味があった
だから現代社会は文化破壊の生活でありなにかこの二つのドキュメントのように人間生活に潤いもいな意味も見いだせない、ただまさに一時的派遣でしかない、人間の労働の切り売りになっているのである。そういう労働が現代には多すぎるのである。
労働というとき全人間的なものとしてあるとき意味と価値がある。
労働するということworkであり自分の作品を仕上げてゆくことでもある。
単なる一時的なjobとか苦労を意味するlaborになっているのが多い
laboruには骨折る苦心する努力するとかありjobよりは労働として意味を探求している。 労働にはどうしても苦労とか努力なしでありえないからである。
ただ派遣労働はただ苦労ということだけが背負わされている、家族と離散して賃金を得るだけのものとなっている、そこに人間の本来の生活が奪われているのである。
広域社会でトヨタの車を作る部品としての労働となってしまっている
それも現代が生み出した非人間的な生活なのである。



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2016年09月12日

若者(20代)の自殺率ワースト 日本の自殺率世界一 (時代をふりかえり考える)


若者(20代)の自殺率ワースト 日本の自殺率世界一


(時代をふりかえり考える)



1位 秋田 
2位 福島 
3位 山形 
4位 宮城 
5位 徳島 
6位 福井 
7位 栃木 
8位 茨城 
9位 長崎 
10位 高知


東北、北関東の自殺率がトップクラスになってる原因は何だよ 
あの一帯は何かある


人並みの生活ってのが 
どんどん遠くなって 
手の届かないとこに逝ってしまった 
中間層の没落 
格差は広がるばかり 
いい思いしてるやつを嫉妬で眺める日々 
自殺したくなるよ


20年前は9割は正社員で年収500万くらいもらえて 
9割のひとが人並みの生活をおくれていた 
今は平均年収300万クラスが半分以上 
格差がどんどん拡大して 
勝ち組上級国民や公務員とかは 
なんの努力もなく 
家買って子供産んで 
人生を謳歌してる 
対象的なんだよな 
悲惨な人生

メンタル鍛えられるもんじゃなく、立場によって変わるものだと思う。 
ひ弱なメンタルも、やばい所にいけば強くなるよ。 
生きるために殺しあわないといけない場所とかねw 
今はそういう必要がないから、豆腐メンタルでいられる。




人間は必ず時代時代を生きざるを得ない、江戸時代を自分はロマンチックに回想して美化したけど現実は最も厳しい、経済的には今の最貧国よりひどい状態でもあった。
紙漉きという仕事があってもそれがあまりに過酷で家の人がしたくないので醜い少女を養女にして奴隷のように働かせたという、そして容姿のいい女性は遊女にされたという現実があった。あとは少年でも丁稚奉公であり自分の父親がそうだった。
江戸時代は一割近くが盲人であったのショックである。それはやはり栄養不足からなっていた。侍だって貧乏侍が多く内職していた、それが今のお土産になったのである。

江戸時代は今のバングラデッシュとかカンボジアとかの最貧国を知れば実感できる。
遊女が悲惨だったというとき今でも少女が最貧国では売られているのが多いのである。
バングラデッシュでは空港にトランジットで寄ったら裸足の子供の群れが集まっているのに驚いた。そもそも空港も何かこぎたないというかソファーも何か古物なのである。
カンボジアだと少女が5ドルで売春させられている、自分は関係していないが世界からそこに年配の男性が集まっている
貧乏になるとどこの国でもそうなってくるし日本だって今や逆に日本人の女性が中国人の富裕層を相手にする、それも日本人がさんざん外国でしたことだからカルマなのである。必ず人にしたカルマはかえってくるのである。

現代で若者が自殺が多いというときその理由が何か定かではない、今の時代が生きにくいと感じるのもわかる、でもそもそもどんな時代でもその時代を生きるものにとって生きにくかったのである。
江戸時代など本当に過酷でありそれと比べたら今は天国だとなる
紙漉きしていたという農家に嫁いだ女性は華奢でありとてもその時代だったら勤まらないでは容姿がいいとなると遊女にされたかもしれない、そんなふうに考えると今の時代は楽だなと思う
自分にしても体力がないから江戸時代であれ昔になると生きられなかったと思う

明治から大正にしても貧乏はつづいていた。醬油すらまともに使えない時代だったのである。自分の母親は原町紡績で糸取りであり環境が悪いし働きづめだった。
食事は味噌汁と沢庵くらいしかないのである。だからよく細身で生き抜いたと不思議だった。
そして昭和は今度は戦争の時代だった。これもあまりにも過酷だった。
自分の姉は赤紙一枚でシンガポールに従軍看護婦にされて四年間戦地で働いた。
そこは地獄だったのである。特に日本が負けたときジャングルに逃げたので食うものもなく地獄だったのである。
戦争の悲惨はとても今では想像すらできない過酷なものであり悲惨なものだったのである
こういふうに時代時代には必ず苦しみがある、困難がある。そして現代もまた違った困難を生きねばならない、現代は肉体的より精神的なもので苦しくなるから鬱病が増えたのである。要するに仕事でも会社勤めでもやりくない嫌なことをしつづけると体にも頭にも良くないのである。
そしてみんなもっと休養したい、休みたいというとき現代の仕事は分刻みで仕事に追われている。それで神経も疲れてくる

自分が良かったのは体力がないけど何か休み自由にとっていたことである。
もう疲れたら休むだけ休んだのである。そういう環境にもあったからできた。
その結果何か体力がないのにこれまで生きてきたし今は病気もない
外からあなたは元気だと常に言われのも不思議だとなるのだ。
それは結局自分はそれだけ無理していないからだったのである。
江戸時代とか戦前とかなるととてもこんなことはしていられない、だから早めに死んでいたと思う
休みたいとき休まないと疲労は相当に蓄積される、それが体を弱めることは確かである。
体力がなくても自分は北海道を自転車旅行しても一日休んでまた走るということがあった。
そうすると体力がなくてもできるとなる、それを無理して連続して走っていれば疲れてつづかないとなるのだ。
会社などはそうして休ませないから社員も疲れてかえって効率が上がらないということもあるのだ。

ともかくなぜ地域的に見ると福島県が二番目なのはなぜだろう,東北が多いのはなぜだろうとかなる、ただ栃木県とか茨城県が北関東が多いのかというのもなぜだろうとなる
一つは東北に関してはメンタリティが弱いということがある
大阪辺りとか西は何か図々しいしメンタリティが強い、地を這ってでも生き抜くような根性がある。商人の世界でもある。
東北はもともと農民社会でありだからこそ現代の工業商業社会に適応できないということがあるかもしれない、事業を近くで起こした人は何か経営者向きではなかった
経営者になることは商売することである、その人は職人には向いていたのである。
一級の資格をもっていたからである。東北人は職人に向いているが商売には向いていないというのは本当である。自分だったら学者に向いていたとなる
何かこつこつやっているのがいいのであり一か八かの勝負をするようなのには向いていないのである。だから株なとも向いていないし自分は投資信託でもしたくないのである。
老人になると保守的になることもあるから株は老人には向いていないのである。

人間はどうしてもその時代時代を生きざるを得ない、その時代時代の困難を生きざるをえない、今の困難は中産階級が世界的に没落したとういことが共通なのである。
その原因はグローバル経済にもあり機械が仕事するということもあり後進国が豊かになってきたということもある、世界の富を数バーセントの人が独占してあとは貧困階級に陥るというのは世界的なのである。
上に上がるには相当なスキルがある人でないとなれない時代である。
あとは大方は非正規とか派遣とかアルバイトとか底辺の仕事に甘んじて食いつなぐ他ない時代になったのである。
それでも江戸時代であれ戦前と比べれば栄養はとっているから病気にはならないし何が死因となるかとなると若い人なら余計に自殺が死因のトップになるのは当然だとなる。

現代の問題としては何かブラックな職業が多すぎるということがあるのかもしれない、江戸時代などは何かそうしてブラックなものが少ないだろう。
みんな農民であり職人であり侍だって貧乏であり何か現代のように濡れ手で粟のような株で一攫千金でもうけるとかそんなうまい商売はまれである。
みんな貧乏でもこつこつ真面目に生きざるを得ない時代だったのである。
ただそういうことでモラル的には悪いことブラック的なことがないから外国人が見たときいい顔していたとなったのかもしれない、貧乏でも悪いことしている人は非常に少なかった時代なのである。労働は過酷でもそういうことがあって社会自体が今とは違っていた。現代の仕事は会社にしてとにかく利益のためには何でもする、モラルを無視するのが普通である。東電だってそうして大事故を起こした。会社には利益しかないしモラルがない
みんな会社人間になっているとき当然個々人にもモラルがなくなり金さえあればいいとなってしまっている。
そうなると社会自体も格差が大きくなるとさらに不満が大きくなる、江戸時代でも階級社会のように見えても侍自体が貧乏だったのである。
現代は格差が広がると非正規とか派遣とかアルバイトなどの仕事が増えるとそうして公務員とかをうらやましいとなる、公務員でも非正規社員が増えていて暮らしていけないとかなっている、何か相当なスキルがない人間は現代では稼げなくなっているのである。
会社に入ってもそうなる、一部の有能な人間以外は切り捨てられて非正規とかになってしまう社会なのである。、それが希望をなくしているのである。
ただ時代により困難があり食の面からすれば今までにない贅沢をしているのである。







タグ:若者の自殺
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2016年09月05日

なぜブラックな職業が多いのか? (社会自体がブラックだから)


なぜブラックな職業が多いのか?


(社会自体がブラックだから)


葬儀屋 僧侶 

人の不幸を喜ぶい卑しいお仕事です

カルト宗教団体

人の不幸が商売の種

風俗業

手っとり早い女性の稼ぎ場 金のため魂まで売る職業

ギャンブル(パチンコ屋など)

趣味も何もない暇つぶしの場の提供
でもギャンブル場だから身を滅ぼす人も

政治家

利権のブローカー

弁護士

ヤクザの示談屋とにている
最近は数が増えたので人気がない

医療関係

弱者となる病人相手
弱みにつけこむ商売
いらない薬やいらない手術でもうける

福祉関係(介護など)

弱者を相手にしぼりとる
弱者相手の職業だから人間のあくどさが一番現れる

銀行や証券会社

銀行は汚い消費者金融などに出資してもうけている
弱者には金は貸さないし冷たい
証券会社はマネーゲームでもうける
他人の金を利用して損しない、銀行も同じ

官僚、公務員

税金にたかる無駄使いが多い、天下り先のため大企業と結託

公明党共産党員

貧困ビジネス、弱者を相手に幹部が上前をはねて贅沢をする

学者、知識人

現体制擁護で富裕層につく、御用学者で得する

マスコミ

会社の宣伝機関、正義を装う、愚かな大衆操作の機関

皇室

権力に祭りあげられて利用される無能な人形

大企業(トヨタなど)

労働者は奴隷、派遣は一時期の部品
いらなくなれば容赦なく切り捨て
経団連は日本を牛耳る

軍隊

人を殺すのを生業とする職業

警察

権力を傘にして威張る組織
富裕層や権力側につく団体
弱者は無視

検察

正義の味方を装い権力側につく、大企業や大組織は罰しない
東電の幹部を見ればわかる、あれだけの事故でも罰せられない
百円盗んでも刑務所に入れられるのに

農協

政府から補助金をしぼりとる団体
農民もまたブラックなのか?

不動産屋

土地で暴利をむさぼること

建築関係

除染関係でも一人十万出しても一万しか労働者に払わない
ピンハネ団体

コンビニ

会社の正社員が店主や店員を搾取するシステム

暴力団

悪が支配することを標榜する正直な団体



そもそもブラックというとき自分が問題にしているのはモラルの面である。この世を見ればどんな職業でもブラックなものが大半になる。
一見まともだと見えるのもブラックである。もちろん全部がブラックとなはらないが表と裏がある。職業には何かしらブラックなものがある。
だから職業とは業でありカルマであり職業につかないことがこの世の悪に染まらないために出家した、世俗とたちきって修行に励んだのがもともと仏教の教えであり実践されたが今では戒名とかでもうけるあくどいブラックになったのが寺とかである。

第一この世で清く正しく生きることなど不可能にある。なぜならこれだけ社会がブラックだとなるとブラックに染まらざるを得ないだろう。いくら自分はそうならないとしてもそのブラック社会では困難を究める、だからこそ出家する世俗から離れることになった。
世俗から離れるといってもまたカトリックでも仏教でもそこもブラックになってくる
それが宗教の歴史でもあった。ブラックになる、悪の力がそれだけこの世では強いということを証明しているのである。
なぜなら今でも一番ブラックなのが宗教団体だからである。宗教を標榜しているからにはブラックでありえないと思っていても全く逆でありそこは真っ黒なのである。
そのことからしてこの世がどういうところか自ずと判明する

だいだいこの世でブラックでないものを探すこと自体むずかしい、そもそも何かしら罪を犯していない人間はいない、それは刑罰を受ける受けないの問題ではない、心の中で悪意をもったときすでに心に罪を犯しているとしたら人間は必ず悪意をもつからそんな人は一人もいないとなる、そんな人がいたら神だとなってしまう。
悪意というとき自然の驚きはそうした悪意をもっていない、花を見ればわかるように全く悪意はないてのである。
心であの人が憎い殺したいとまで思うときすでに殺人に向かっている
借金した人が金がどうしても欲しいとなり自分が病気になったとき脅迫してきたときその人は殺人者になっていたのである。でもそういう人も善人で通っているのがこの世である殺人を犯さない限り自分は善人だと思っているのがこの世なのである。
お前は悪人だということを意識できないのである。だから別に悪いことをしないのに優れた宗教者は自分は最大の悪人だとしていることでもわかる。
それだけ自分の罪を意識できるからかえって優れているとなるのだ。
自分も反省すれば悪人だとなるがそれでもいくらそうしたとしても深刻度がそれほどないのである。
本当に悪人だと意識できることはよほどモラル感のある人でないといない、そういう人は本当にまれである。だからこの世はほとんど善人だと思っているのである。

人間はなんらか生活するためには職業につかねばならない、ではこれだけブラックな職業が多いときブラックにならざるをえない。
ただ変なのは例えばトヨタでも大企業でも派遣などを安く使って使い捨てだけどそうさせる上のものは幹部であれ正社員ですらそういう派遣がいて会社も成り立つとき搾取しているからブラックになる、派遣とか下で働く人は苦しいけどブラックな人とは言えないのである。
建築関係でも毎日暑いのに家を建てるために働いている、その人たちが別にブラックな訳ではない、ブラックになるのは建築関係の会社だったら事業をとるために政治家にワイロを贈るとかしたらブラックになる。それは上の人のすることであり下で働く人はブラックとは言えない
ただ東電では幹部がブラックになったが普通の社員はその責任がさほど問われない、月給も下がるわけではないしボーナスも普通にもらっている、それで東電の社員はずるいという人もいる。

大きな利益があり地位ある人は責任があり収入も多いからブラックになりやすい。
その下で働く人は給料も安いからその労働はきついとしてもブラックにはなっていないのである。
だから「悲しむ人は幸いである」というときそういうふうに下で働く人は悲しむ人が多、でもブラックにはなっていないということなのかともなる
そういう下々の人はかえって心を清く保てるからキリストがそういう人たちは天国に入るとされたのである。

つまり一見この世で得している人たちは天国には入れないとなる、この世でこのブラックな社会でお前たちは十分に利益を得た、それは下々の人々の汗から生れたものでありあなたたちはそれ故に富を築いたから天国に入れないともなる
「卑いものが高くされ高い者が低くされる」となる
現実にブラックでないものを探すこと自体むずかしいからである。
どっちかというと理系的な職人的な仕事はブラックになりにくい、でも下々のものにしてもブラックではないかというそうでもない、農民だって今は補助金をもらったりしているから国の税金にたかるものだとかされる
この世に生きている限りなにかしらブラックになっている
意識せずにそうなっている場合もある。
生活保護者はずるいとかブラックだとかも言われる、そういう人もかなりいるからそう言われる
ただ一般的には権力をもっているもの金をもっているものはブラックの度合いが強いのである。下々のものはただそういう地位につけないからブラックにならないということは言える、人間は権力をもつとそのあくどさが露骨に現れるからである。

この世とはもともと天使が住んでいた、人間は天使でありこの世は天国だった、それがなぜかその天使かサタンになってしまったのである。もともと天使だったものが堕落して墜落してサタンになった。
だからこの世の魅力に負けてサタンになったのが人間なのである。
そうなれば当然この世がブラックになっているのは当然だとなる。
結局人間は金の魅力に勝てないというときもそうである。金のために魂をサタンに売り渡しているのだ。それは人間の欲から生れているからだ。
いくら宗教家を装ってもそれは偽善であり結局私利私欲を宗教を利用して追求しているだけだとなる、弁護士だって正義の味方のようでも私利私欲の追求になってしまう。
そうしなければ弁護士事務所も経営できないとなっているし医療福祉関係でも利益第一になるからブラックになってくる

この世になぜ自然の美が映えないのか?それはこのように職業でもブラックになっている
闇でおおわれている。こういう人間社会に自然の美は映えない、自然の美は天国で罪なき世界で本来の美を発揮する、それは飯館村で感じる草深い何か咲く花とにている
それはこの辺の街では感じないものである。だから何かいつもその不思議さを感じていたのである。ただ原発事故の汚染で変わってしまったしその前でも飯館村が良かったのはその暮らしが隠されていたからである。自然の中に隠されていたから露骨に人間の醜悪なものが隠されているから良かっただけだともなる
パチンコ屋もないし何もないが馬券売り場はあった、別に飯館村に住んでいる人が汚れていないということではない、要するに自然の中に隠されていたから良かったのである。
それも原発事故で大きな金が入ったりと混乱して前の飯館村とは違ってきたのである。
毎日ギャンブルでありギャンブラーになっというのもそうである。
かえって大きな補償金によって人間の醜さが露骨に現れたともなる
そもそも全体が荒地と化しているしフレコンパックとかソーラーパネルとかなるとそこが一体何なのだろうとなる、もう牛は飼えない、農業もできないとなればどうなってしまうのかとなる。

人間の社会が延々とこれだけブラックなものとしてあり変わりがないというとき、それは神の御意にとてもかなうものではない、とすると神はソドム、ゴムラのように怒り滅ぼすということがある、ノアの洪水のようなものも起きてくる、今回の津波などもそうである何か想像を絶する天変地異が起きてくる、そうして悪を一掃するか人間を滅ぼしてしまう恐怖がある。人間社会を変えることは不可能だからである。
社会主義だろうがカルト宗教だろうがそのたづさわる人間の欲は消えない、ゆえに結果的に何も変わらないのである。欲の故に滅びるということはそういうことだろう。







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2016年08月17日

グローバル巨大化資本主義の限界 (次に来るものは小規模なもの地方文化の興隆)


グローバル巨大化資本主義の限界


(次に来るものは小規模なもの地方文化の興隆)


●資本主義はリスクがあってもうける


資本主義というのは何なのか?いろいな解釈があっても資本というとき資本がものいうものだということがわかりやすい、資本がなければ何もできないのが資本主義だとなる。
元手がないと何もできない、何をするにも最初元手が資本が必要になるからである。
その資本を金を提供するのか銀行である。銀行が金で世界を支配しているというときまさに銀行が資本主義の要にあるからそういわれる
自分の家でも戦後まもなく駄菓子屋を始めたときその始める金がなかったのである。
たいした設備が必要でないにしろその当時5万くらい必要だった、今なら50万くらいなのか?ともかくその金、資本がないので始めるのに苦労した。
銀行ではその時貸さない、あの時代ならみんな何をやっても成功した時代だから貸せばいいのに貸さなかった。資本がないので何か事業でも始められない人が多いのである。

資本主義はもともと始まりにはいろいろな説があるが大航海時代から始まった。
船でアメリカやアジアに進出した、そこで貿易で莫大な富を得たのである。
植民地化して富をアジアであれアメリカであれ南米であれ収奪したのである。
イギリスも海賊が貿易をしてもうけたとかスペインは本当に強盗団であり南米をインカやマヤでも制服して富を得たのである。
ただそこには大きなリスクがあった、大きな賭け、ギャンブルであり船で航海するにしても沈没したりするからそこに資本を金を出してもゼロになる危険があった。
資本主義はは今でもリスクをとらないと大儲けはできない、株でももうけるのはもリスクがある。事業するのにも20人一人しか成功していない、失敗したらどうなるのか?
借金で首が回らなくなったりどん底に陥ってしまう。
成功すれば破格の待遇がある、社長は月給高すぎるというときリスクをとっているからである
そういう人を親戚で三人も知っているから一家離散とか悲惨なの結果になっている
社会主義だと国営になるから国でリスクをとるとなる、でも中国の国営企業が損をしていてもつぶせないとか効率的ではないのである。

人間はリスクがつきものなのである。どんな人生だってリスクを経験している
自分のような平凡な人間でもたいしたことがない人生にしてもリスクがあった。
何回か死に目にあっている、何もしなくても人間は交通事故であれ津波とかの自然災害で死ぬとかリスクをかかえている、つまりリスクのない人生はないのである。
そしてそこには何らかの運が作用している、とてもその人にいくら力量があっても運がないとどうにもならないことがある。
だから大きなことには神すら関与していて成るとも思えるのである。
fortuneとは運であり財産なのである。

●資本主義はイノベーションがないと衰退する

資本主義がリスクをとることで発展するように、イノベーションがないと発展できない、消費が増えないというとき少子高齢化問題もあるが、イノベーションも関係している
イノベーションが起きると消費が喚起されて増える、電動自転車を三台も買っているのはそれだけ今までにない自転車だからである。
車でも自動運転ができるなら高くても買って乗ってみたいとなる
老人でもそういうものは買う、自動運転なら別に老人だから危ないということがないからである。

イノベーションはパソコンがそうだった、バソコンが社会をいかに変えたかこれからも変えるかは目に見えてわかる。
自分が経験したのは抽象画の分野である。ずいぶん多量の抽象画を出したがインターネット上に原画ありしやすいからである。そして変化というのは無限になる、いくらでも作れるということである。
まさにartは技術だというとき絵画の分野では技術が相当に影響している
レオナルドダビンチの遠近法とかで大きな改革があり印象派で改革がありと絵画もイノベーションがあり新しい芸術が開かれてきた。
ピカソになると抽象画になるが現代は抽象画の時代である。抽象画は具象画のように実際に目に見えるものにとらわれず自在にソフトで変化させるから自由度が高いから大量に生産できる。それは別に絵の才能がなくてもできる、自分は具象画だったら何も描けないけど抽象画ならパソコンのソフトで自在に変化して自分が作ったような気分になるのであるこれもイノベーションの結果であり新しい芸術の分野を開いたのである。

日本の問題はイノベーション力が世界的に劣っていることである。今までは故障しないとかテレビでも何でも高品質の製品を作って世界に売れていたがイノベーションは日本から起こるのが少ない、それで経済的にも世界から遅れをとって衰退してきている
発明とか発見はどうしても欧米が勝っているのである。

●グローバル資本主義も限界

大航海時代から産業革命からグローバル化は世界をおおった。しかしそれも限界に達してきている、株価の低迷は世界的である。まず大航海時代とか産業革命のような大規模な革命は起きない、これからは大きな変化は起きてこない、中国でもすでに発展するエネルギーは限界になっている。
そして資本主義は冒険とか植民地とかで富を収奪したがそれもできない、今は金融資本主義であれ株価は操作されてただマネーゲームでもうける人は莫大な富を得ている。
それは本来の資本主義、市場の原理が働かなくなっている
ただ金が株が世界のわずかの人によって操作され金が流れている
そして格差がどこでも拡大して不満が大きくなっている、それで社会がどこでも不安定になっているのだ。
金融資本主義とかの問題は規模が大きすぎてどう操作されているのかとても普通の人にはわかりにくいのである。株でもうけるのは一般人はできない、巨額なマネー操作するものだけに世界の数パーセントの人に金が流れてゆく仕組みが問題になる
そういうシステムはいづれは破綻してゆく、暴動すら起きてくるだろう。

世界的にナショナリズムが勃興するのもそういう時代の流れである、人、物が自由に行き来する時代はヨーロッパのテロなどで行き詰まっている
イギリスのEU離脱でもそうである。もはやイスラム教の人がロンドンの市長になるようにどこの国なのかわからなくなっているからこそ離脱問題が起きた
移民の受け入れを拒否するようになっているのだ。

現代の問題はグローバル化して企業でも世界的になり巨大なるが故に世界が支配される
そこに大きな闇が生れる、巨大な利益を得る、権力をもちすぎるがゆえにそこに闇が生れる、カルト宗教団体でも創価であれ他の団体でも巨大なるがゆえに闇も大きいのである。それが小さなサークルだったら闇にはならない、闇があったとしても見える規模だからその闇を指摘できて払うこともできる、もう巨大化したものは闇も見えないし払うこともできないのである。原発事故でも安全神話は作られたように規模が大きいから権力が巨大だからできたのである。規模が大きいこと自体が問題なのである。
これまでは同じ規格の大量生産で物を供給していれば良かった、これも巨大化した企業にとっては好都合だった。
でも3Dプリンターとかで個々にも対応する物を提供する時代になるとか巨大化がかえって小回りがきかないものとっなって滅びてゆくともなる、恐竜のようになる。
小規模でも物作りできる、そこにはアイディア勝負となるのであり同じ規格の大量生産の時代は終わる。

●江戸時代や中世への回帰へ

ルネサンスが起きたのは小規模な都市国家である。フィレンツとかも小さいのである。
それでもあれだけの芸術文化が華開いたのか?
文化が華開いたの小さな地方都市である。そういう小さい規模の地方都市が文化が耕すには向いていたのである。
相互の連関性とかそこに一つの世界観を作り安かったとなる

自分も相馬藩内でそういう一つの世界観を構築する作業を詩などからしてきたのである。規模が大きくなると東京のようになったらとてももう巨大なるがゆえに非人間的になり
像からイメージするもなにもない、人間は自然の中で像を形成するようにそれができない高層ビルを毎日見ていて像が形成できるか?人間は自然からその像が形成されるのである自然の陰影が人間の心に反映してその像が形成される
山があり森があり大地があり川があり海がありその像に顔に影響しているのである。

人間は家族関係でも昔の大家族にもどればいいというができない、人間は昔にはもどれないというのは本当である。
大家族はその時代的要請でありえた、自給自足の江戸時代の暮らしにももどれない、蝋燭で暮らそうとしてもできない、つまり何でも昔にはもどれない
形を変えて復古というのも起きてくる、小規模なものにもどるというとき江戸時代の地域地域で独自に暮らしていた時代への回帰でも同じとはならないのである。

いづれにしろグローバル化や大規模化の社会は合わなくなる、マスコミでもマスコミニーケーションでありマスを大勢を対象としたメデアである。
それがインターネットになり個々に対応したメデアとなりその過渡期にある。
マスメデアは巨大であり大衆を操作するためにあった。巨大カルト宗教教団でもそうである。マスメデアとか巨大なるものと一体となりさらに巨大化して闇をもつ、その巨大化したもの自体非人間的なものなのである。それは現代社会の危険な牽引力となる。
ナチスとかのファシズムにもなり再び混乱に陥れる
そうした巨大カルト宗教団体は創価でも他でも一つの世界観をもち得ないのである。
ただ人を増やして巨大化して大衆を操作して権力をもち支配することのみを目指しているからである。

不思議なのは国家国家と国家至上主義になっているのも疑問である。そもそも国家というのは日本だったら明治に生れたものでありその概念は新しいのである。
国民というのも江戸時代には存在していない、天皇も国民というものをどう扱っていいかわからないというとき靖国神社は庶民まで祭っているからである。
国家とか国民の前に江戸時代なら一つの地域的世界観の中に生きていた。
葉山信仰などがそうである。それは稲作と深く結びついた世界観である。死生観でもあり死んだら死者は山に眠り春になると山を神が下りてくるという信仰になった。
国家の前に一つの共同の世界観があり共同体があった。
それは中世ならキリスト教世界観でありエジプトも一つの文明の世界観に生きていたのである。イスラムでもそうである。国家というのは新しい概念なのである。
だから国家主義になることは実は歴史的に由来するものがないからそれが何なのか規定することがむずかしい、それで靖国問題がどう対処していいかわからないのである。
国家のために死んだ国家が祭らねばならないとしてその国家が天皇の国家なのかとなるとそれも否定されるとわからないという、国家には何か世界観とは関係ない、何か古いように見えて新しいから対処できないとなっている。

ともかくすでに巨大なものは悪でありスモールイズビュアティとなる。グローバル資本主義ももう誰もそれがどう動いているのか知るものなどいないのである。
だから株価暴落とかなんかの調子で極端な方向に向かい崩壊してゆくのが恐怖なのであるそれはあまりにも巨大なるがゆえにそうした恐怖を常に感じるのである。
例えば高層ビルをいつも見ていたら3・11のアメリカのビル崩壊のような不安を感じないだろうか?何か一挙に崩れてゆく不安が地震でもあるし不安定なのが現代社会なのであるそれは規模が何でも大きすぎるからである。誰もその全容など知るものはいないのである
原発でも小さければ不安を感じない、巨大なるがゆえに常に不安がつきまとっているのである。
原発などでもその内部を知るものは吉田所長すら肝心なことを知らなかったのである。
そういうふうに東電の所長すら原発のことなど全部しりえようがないんのである。
そのことから何が起きてくるか、事故が起きたらもう制御できない。その巨大な複雑なるがゆえに一挙に事故になり成す術もなくなっていたのである。
現代社会には文明にはそうしたある時制御できなくなり崩壊してゆく恐怖がつきまとっているのである。株価暴落でもそうである。巨大なるゆえにその崩壊もカタストロイフィになる。つまりバベルの塔のように崩壊する恐怖がつきまとっているのである。


カタストロフィ
かたすとろふぃ
catastrophe

「倒す」を意味するギリシア語のkatastrophに由来し、普通「悲劇的結末」とか「破局」と訳される。演劇用語としては、劇構成上の最終部分を示し、クライマックスで最高潮に達した主人公の運命がやがて逆転、下降線をたどり、残っていた運命挽回(ばんかい)の可能性も消えて破滅が決定的になることをいう。しかし、なにも悲劇にだけ適用されるものではなく、単に劇を結末づける部分をさすとも考えられ、「大団円」「大詰」と訳されることもある。[高師昭南]

posted by 老鶯 at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部