2023年11月02日
物価高に苦しむーデフレからインフレへ 【適正価格を知るべき】
2023年10月06日
自転車でも個人の経営が難しくなっている (商売も人を助けることだがまず利益が優先される問題)
2023年09月22日
ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人 (偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)
2023年08月08日
村は大きな家族だった (広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)
村は大きな家族だった
(広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)
●家族の範囲が狭すぎる―昔の村は大きな家族だった
今家族に何が起きているのか?家族のつながりが弱くなっている。それはなぜか?家族だけの繋がりでは足りないからである。ファミリーとはは大きな集団のことであり夫婦とか子供とか祖父母とかの家族ではない。もっと大きな集団のことである。それは村社会と似ているかもしれない。村というのはある意味でファミリーであり家族とも似ている。だから何かあると助けあうのである。農村社会であるとどうしても互いに助け合わないと仕事もできないしその共同体も維持できないからである。そのために村に生まれた子供は村全体の子供となる。
出生〜幼年期では、「帯の親:オビノオ ヤ/取上げ親:トリアゲオヤ/乳付け親:チツケオヤ/抱き 親:ダキオヤ/名付け親:ナツケオヤ/拾い親:ヒロイオヤ /守り親:モリオヤ/養い親:ヤシナイオヤ」の 8 つの事例 を取りあげる。次に、成年期以降では、「烏帽子親:エボシ オヤ/鉄漿親:カネオヤ/仲人親:ナコウドオヤ/職親:シ ョクオヤ/草鞋親:ワラジオヤ」の 5つの事例を取りあげる。 仮親制度には、親が子どもの成長を願う思いの表れとして、 呪術的な要素と社会的な要素の 2つの意味合いをみることが
これだけ村で生まれた子供には周りの人が村人が関わっていたのである。それは明らかに村という集団のコミュニティの一員として育てるためにそうなったのである。
現代の問題は家族の範囲が狭くなりすぎたのである。核家族化がそうである。ついには親一人、子一人とかになってしまった。シングルマザーが子育てするにも一人なのである。また老人でも孤独死が多くなるのはこうしたコミュニティが喪失したからである。ファミリーの語源が。実はかなり広い範囲の意味であり集団のことだった。
そうなったのはまた社会経済の構造があまりにも変化してしまったからである。今や村と言う500人くらいの単位の社会ではない。広域化してさらにグローバル化して世界の経済の中に組み込まれる。すると別に村の中でそうしたコミュニティとかに入らなくても暮らしていける。物でも世界から入ってくるのからなんでも買える
かえって村の自給自足的な生活だったらものも買えないし。生活すらできなくなる だからこそ村八分にされることは一番厳しい罰だったのである。村のの自給自足的な生活では物が買えないし、入ってこないからである。だからこそそういう背景があり村のつながりとか小さなコミュニティーの人間の繋がりは消失したのである。
だからしきりに戦後間もなくまでは醤油がないとかでも味噌がないとかでも隣の人にくれとかあり助けてくれと言えばもらえたとかいう人がいる。それは物がない時代でありみんなが貧乏だから、かえって助け合ったのである。
今は金がないとどうにもならない。隣に何かそんなものをくれと言ったら応じる人はいない。醤油もないのかとなって馬鹿にされるだけになってしまった。何か助け合うということがなくなり常に金だけが問題になるのである。
現代では金がないということはどれだけ苦しいことかわかる。隣近所する無関心であり何も金で買えばいいとなってしまうからである。
そしてあとはに福祉に頼れと言うだけなのである。奇妙なのは福士に世話になっていた人は私が困った時その人自体が福祉に頼れと言っていたのである。その人はまともな人ではなかった。でも助けたことがあったし、その母親にの親は助けられたので助けたのである。その人は死んだ。
●広域化グローバル化で地域の繋がりが希薄化
現代とはあらゆるものを買う社会である。水すら買っている。だから金がなくなれば生きていくこともできなくなる。でも子供の時使っていた態度が井戸があり今も水が出ている。夏でも冷たい水が出ている。
天然の冷蔵庫から出ているのである。
それはこの辺の原発事故でも放射性物質に汚染されていないと持ち主が言った。検査したのでそれは確かなのだろう。その水が無料だということに感心した。無料で使っていいと言われたからである。子どもの時もそうだった。それは子供の時から持続して水が出ていたのである。その時は風呂場でその水を利用して使っていたのである。だから金わからなかったのである。今は水を飲むにしろ使うにしろ金がかかるから金なしではもう何も出来なくなってしまったのである。
何か近くに味噌屋がある。前だったら必ずそのみそや辛味噌を買っていた。味噌はそこで作っているからである。でもそこから今は買っていない。一人であり出しつきでないので買っていない。スーパーでいろいろだしつきの味噌があり。味噌でもいくらでもどこの味噌でも日本中から入って来て買える。こうして近くは重要なものとならないのである。また近くと関係しなくても金さえあれば何でも買えるそこで田舎からだと言って何か助け合うということもないし。身近で何かを賄うというよりただ金を出してさえいれば何でも買える。通信販売も発達して商品の量が種類が莫大に増えたのである。金さえあれば別に近くにいなくてもなんでも買えるとなる。
ただ自転車とかは後の修理とかあるので困るのである。この辺の街の一軒の自転車の人は死んだから誰もその後見てくれる人はいない。そこでなかなか金だけでもあらゆるものが使えるとはなってはいない。こうして経済が広域化してグローバル化すると近くは大事にならない。それは交通の発達にもよる。なぜなら近くの人が梨を作っていたが相馬市まで運ぶのに15キロぐらいありリやカーで運んでいたからである。そうなると運ぶこと自体が大変な苦労になるしそれを売って金にするにも大変な労力が必要になっていたのである。でも今なら運ぶことはいくらでも簡単とは言えなくても車で運べる。その変化も大きかったのである。
なぜ無縁化社会といわれるようになったのか?無縁化社会になったは神社で無縁の場を作りそこで外から入ってくる人に商売させた。それは外から入ってくる人がいると村のコミュニティがつながりが壊されることがあるからである。それでそのような外から入ってくる人を限定するために、そうしたのである。
それは確かにそうだったのである。もはや外国からでも食糧でもなんでも入ってくる。すると村だけで何かを賄うという社会とはまるで違っている?でも実際は外国からいくらものが入ってきてもその人とつながるわけではないのである。ただ物だけが入ってくるのである。でもその物が欲しいとなれば、金が必要になってくるのである。そこで金がますます重要になってくる。人のつながりより金の方が大事になってくるのである。
ただ昔から金の切れ目が縁の切れ目ということあり貨幣経済がひろがるとそうなるのが必然なのである。 外国からいろいろなものが入ってきてもそれでその外国の人間とつながりが共同ができるというわけでもない。その人は直接会うこともないしただ物を通じて外国と関係しているからである。だから何かあるとその関係も切れて戦争になったりする。人間と人間の繋がりが必ずしもものを通じて行われていないからである。
ただ、人間は金だけを頼っては生きていけない。金で全部まかなえるということはない。それは介護の時如実に表れてくる。金が物を言うということはある。でも金だけで親身になった世話はできない。そこに心が伴わないとどうしてもうまくいかない。
●物が世界から買えても心は繋がらない
でも逆に今親子でも必ずしも子を育てるより虐待したり子供でも大人になると親を虐待するようになる。老人になると力逆転してくるからである。親が虐待されているので。何かその息子は親をこき気使うというか他人のようにしか思ってない。
それで親は泣いていたのである。息子から虐待されていたのである悲しいとなる。でもそういうことは今の時代に起こっている。誰に頼るかということがそれで問題となる。その女性は息子に頼ったのだが虐待されているのである。言葉の暴力であるババとか親を病気をした親を虐待しているのである。ただ他者も家族はわかりにくい、どうしてすなるのかとなると外から見tてわかりぬいからである。
こういうことは自分も親の介護で嫌というほど経験した。 私のところに来たのは事業で失敗した人とかで金がないという人である。頼ったのはそういう人たちであり一人はれっきとした泥棒であった。それで家探しされて大金を失った。ほかの人もなんら助ける気持ちなどなかった。多少はあったがただ金が欲しいというだけできたのである。つまりそういう人にしか頼れなかったというのも自分のカルマだったのである。
ほかの人も誰に頼るかということは、老人にとって大きな問題なのである。家族がいれば息子がいれば娘がいれば兄弟がいればとなるがその人たちが助けるとは限らない。かえって嫌がられうとまれる。親が捨てられるそういう事例を知っている。その娘はひどい娘であり親が私に最後にひどい娘だと言って来てまもなく死んだのではある。その娘は介護などできない。だからそんな娘に頼ることはできないから、死んだ方がよかったのである。
こうして誰に頼るかが最後に問題になる。でも家族の範囲が小さくなるとなかなか大家族のように人手に余裕がないから介護でも面倒見れなくなるのである。 これは肉親でも同じなのである。
別に遠くから外国でも物が入ってくることは悪いことではない。でもそこで人の繋がりが出来るわけではない。だから何かあると物が入ってこなくなる。そして戦争にもなる。だから物が入ってきても互いに貿易してもそれで繋がりができるとは限らないのである。食料不足にな自分の国が最優先となり食料は入ってこないのである。 そこにグローバル化の問題がある。ただ物が入ってきて悪いということではない。問題は人間の繋がりが物が入ってきても。生まれるわけではない。それはあくまでも物のやり取りだけであり。心のやりとりは交流は無いのである。だから、金の切れ目が縁の切れ目になりやすいので。それは今の社会でどこでも起きていることである。
親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代): 今日の一句一首(小林勇一) (musubu.sblo.jp)
2023年07月16日
日本が衰退するのはなぜか? (将来の見込みが約束がない)
日本が衰退するのはなぜか?
(将来の見込みが約束がない)
なぜ将来の約束が大事なのか?ある人がお金を貸してくれと言う。金はは返すという。ではそのあてがあるのか?それはこの辺で原発事故の補償金が入ることである。私の地域は少ないにしても、やはり15万くらい入る。そのお金が入るからと貸してくれと言う。それは確かに入る金だから返せるとなる。
でもおかしなことはその15万入る金以上のものをすでに貸しているのである。でも確かに15万入るということはその金は返せるということである。不思議なのはそうして将来に確約されるものがあれば人は安心して金を貸したりできる。
金も何も確保できない人には誰も金でも与えない。ただ、将来にそうして得るものがあり、確約されていれば金でも与えたりする。
なぜ大学に入るのに奨学金を借りてまで入るのか?またなぜその奨学金を貸すのか?それは働くようになってから返せると見込みがあるから貸すかすのでる。つまり若い人の有利なのはこれから働く力があり、稼ぐ力があるということである。その将来を見込んで金を貸すのである。老人に金を貸しても将来が見込めないから投資しても無駄だとなる。せいぜいいくらか寿命を延ばすだけだともなる。
そうしてなぜ今日本は不景気であり経済も30年も停滞しているのか?その原因は何なのか?将来が見込めないそのことにつきている。例えば高度成長時代だったら利子が3%とか7%とかあり貯金していれば利子がついて安泰だったのである。
今やそういうことはないむしろ貯金していても預金封鎖があるとか利子もつかない手数料が取られるだけだとかなってしまう。そうなると将来に対して見込みがなく不安だけになり消費意欲もうなくなってしまう。景気は気だというとき気力までなくなってしまうのである。
それが社会全体を覆って社会全体が何か気力がなくなってしまう。それで投資とか株は心理学の問題だと言っている人の言うことも分かる。それは気だからである。その気がただ衰える方向にしかない。それでますます全体が落ち込んでゆくのである。
だから意外と将来が約束される収入の見込みがある。成長する見込みがある。お金が入る見込みがある。そのことが安心となり金を貸すこともできる。でも変なのは15万入るとしてもすでに30万以上とか払うことにもなっていた。それが何かおかしいのである。でもそのことはやはり将来に15万でも入ると言うことが約束されているから。安心して貸しているのである。実際に将来入る金より多くの金を払っているのである。だからこれは何なのかとなる
人間にとって将来の見込みが将来に得るものがあるとき確約されている時人間はそのために今金が無い人でも金を払うとなる。
今、日本が30年も衰退しているのは?将来に対して何か成長でも利益でも見込めるものがないからである。技術的にも何か日本は遅れた。そして全般的にも日本はit化できないとか色々な面で遅れてしまったのである。そこで日本は将来の見込みがない。投資家でも投資しないのである。将来の見込みがあるとき日本も外国から投資される。でもそういうものがない時。日本は外国から見放されるのである。
だからキリスト教で神の国を最初に求めなさい。そして神の国に入る約束を得る。そのことが大事なのである。神の国に行けるということは約束されれば将来に対して安心なのである。
なぜなら、人間は必ず死ぬ。巨万の富を蓄えても死んだらそのお金も使えないのである。 この世は何をするにしろ一時的に生きる場所でありいずれは死んでしまう。そして結局空しくされるということである。文明でも実際は大したもののように見えてもそれが最後は墓場になっているのである。
エジプト文明でもそうだしマヤ文明でもそうである。巨大なピラミッドでも建造物でもそれははかないということである。ピラミッドなどはその時間に抵抗して残り続けようとする意志の象徴である。そのピラミッドすら砂に埋もれて消えるかもしれない。いくら時間に抵抗しても最後は消えてしまうともなる。 そこに確かにヒエログリフで石に記してその功績を後世に残そうとしてもそれもはかないものとなる。
大都会もいずれは巨大な墓場となってしまうのである。永遠の都は天にしかないのである。この世の都はすべてそうして廃墟となり、墓場となってしまうのである。だからこれでいくら努力しても無駄だとはなる。最後は空の空になってしま。だからと言って、人間の努力を全て無駄にとは言えない。でもこの世で何か本当に価値あることを達成するということが出来ない。本当の価値は神の国でしか実現しないのである。
そもそも正義とか公平な裁きなどは実現しないのである。いくら法律を作ってもその法律もまた悪用される。だからこの世で正義であれ公正であれ実現しないのである。その努力は続けられるとしても現実は実現しない? 実現できないのである。つまりこの世はそういう場所であり人間の力では変えることはできないのである。だからこの世から悪はなくならないのである。だからこの世はいずれ神によって滅ぼされるのである。神の意にかなうことは絶対にないからである。確かに改良は続けられる。それがすべて無駄だとは言えない。 でも根本的には変えることができない。
それはなぜなのか?例えば社会体制が変えたとしても共産主義にしてもそれも結局独裁制とかなり全体主義となり何千万人の人間も殺されたのである。また資本主義でも限界にきている。民主主義でもそうである。何か制度をつくってもシステムを作っても人間自体が変わることがないからそうなる。だから、そもそも全体を変える事は不可能なのである。そしてまたこの世を理想郷にする事も不可能なのである。
一つの問題を解決しても、また新たな問題が生まれ永遠にこの世から問題を解決することができないのである。 人間にはそれだけの知恵が持てない。それはできるのは全能の神しかないとなるのである。
エジプトの神像の永遠にあれと
そも儚く時に抗うも虚し
その偶像は地に倒れ砂に埋もれぬ
ナイルの岸辺月影に照らされて
ヒエログリフは浮かびぬ
その日は遠く神秘なるかな
謎は深まりその解明はつづく
ただそこに今聞こえるは一なる神
アッラーの声にして神像は虚し
巨大にして威を保つも
そに祈る者はなしも
そは神にはあらじ巨大な石塊となりぬ
畏れる者もなしも儚し
2023年07月01日
狭い閉鎖的世界の生活が長かった日本 (なぜ無縁の場として神社を市場にしたのか?物と心が分離したグローバル経済)
狭い閉鎖的世界の生活が長かった日本
(なぜ無縁の場として神社を市場にしたのか?物と心が分離したグローバル経済)
●無縁の場で商売を許可する
境界を考えるときまず自然が地形が境界になる。山であれ川であれ海であれこれが境界となる。また広大な森があり。そこには道もなく人の往来を阻んでいた。その自然境界があって間は簡単に交わることができなかった。人間は基本的に狭い場所で自給自足の生活をしていた。
各地に小国という地名が残っているのはそのためである。そこが一つの小さな国であり自給自足していたのである。それは?車もないのだから。簡単に遠くには行けないからである。道も整備されていないから歩くにしてもなかなか遠くへゆくことは難しかった。
そうなると小さな狭い世界でなじみの人と交わりそこが一つの世界となって 外界とは交わらず狭い世界で閉ざされた世界で生活していたのである。だから、この辺の伝説で隣村から来た麦つき働いた若い男が蛇だったということが伝えられる。
隣の村の人ですらこうしてめったに交わらない世界だったのである。
だから今、外国人が日本に来て働くということは考えられないことだったろう。ただ、そこで様々な問題が生まれるのは当然である。その麦月の若い男が蛇だったということにすでに。人が交わらないからそんな伝説が生まれたのである。でもそこでも日本語は通じたと思う。あの時方言があったとしてもやはり言葉は通じえた。 だから。コミュニケーションをとることはできた。でも外国人が来たら言葉すらわからないのだから互いに理解しあうことは難しい。
●言葉も通じない外国人と交わる困難
人間は言葉が通じなければ理解しあうことは難しい。外国に行って一番困るのは言葉だからである。でも不思議なのは言葉でも 音は理解しにくいでも文字は理解しやすいのである。それで最初に韓国に行ったときハングルが理解できなくて困った。その意味が全く分からなかった。でもホテルとあったらそこが英語で書かれていたら分かったのである。中国では漢字を通じて話すことができた。筆談ができたからである。 そのために中国では言葉が多様なために漢字で互いに理解し合っていたのである。テレビでも漢字をテロップとして流していた。音になればあれだけ広い国だからで民族もさまざまだから通じないのである。
これは外国だから当然理解し合うことは困難を極める。でも最初は隣の村すら交わることもなく人間は暮らしていたのである。 それで日本の神話でも海彦山彦の交わりが伝説化したのである。海で暮らすものと山で暮らすものとは相当に違ったものになるからである。 でも山で暮らしていれば必ず足りないものがあり。海で暮らしていても足りないものがある。そのために互いに足りないものを補うために交わりが生まれる。それが商業とか貿易とかの始まりである。
でも、そもそもそういう小さな狭い世界で閉ざされた生活をしていれば見知らぬ人と交わるのは容易なことではない。 まず人そのものを警戒するし、信じないからである。でも互いに足りないものがあり。そのために無理をしてでも交わることになった。
その交わる場所が神社だったというのも不思議である。そこを無縁の場所として市場のようにした。 神社とは縁をを結ぶ場所であるがこの場合は無縁の場所として見知らぬ他人を外から来る人を特別に入れたのである。
そういう閉ざされた世界で生きている人は、外部の人を簡単に受け入れないのである。それはなぜかというと。必ず何か摩擦が起きてその閉鎖されたコミュニティ内で問題が起きるからである。外から何か物が入ってくることは悪いことではない。でもそういう狭い世界のコミュニティでは外部からの侵入者によってその和が破壊されることがある。
だからまず狭い世界の村でもその和が破壊されないように図る。そのためにも無縁の場として神社を市場にもしたのである。
物のやり取りをしても、その物をもってくる人と必ずしも交わるということでもなかったのである。 それだけ閉鎖的な世界だったとなる。
でもそこで考えねばならないのは? ものが入ってくるのはいいとしてもどうしても人間の和が破壊される。 だからそのコミュニティの維持が優先されたのである。
●グローバル経済の問題から文化へー心と物が一致する世界へ。
グローバル経済の問題は物が入ってきてもそのものと心が分離していることなのである。 それは経済と文化の問題でもある。それぞれの国にはそれぞれの風土とか歴史に見合った物として作られてきた。
それは食糧でもそうだし様々なものはその体さえその風土に見合って歴史的に作られたものなのである。
この問題はまさに今の問題でもある。それに人が交わるのは一見いい様でもそこにいろいろな摩擦が生じてきて平和で和があってくらしていたとしてもコミュニティでも摩擦が生じて和がなくなってしまう。
ただものだけが入ってくればそれは意識できない。もう外国人が労働者として日本に入ってくるときはそうはならない。相手は物ではなく人だからである。 そこで摩擦が生じ、外交問題にまで発展する。 日本はもともと海に囲まれていて閉鎖された世界だった。一つの閉鎖された島国となっていたのである。
最近日本語がどこの国とも共通国との言葉と共通性がないということ。日本語は実はもっとも古い言葉ではないかと 学者が言うのも分かる。なぜならヨーロッパとかでは必ず外国と共通な言葉がありわかりやすいからである。日本語はどこの国とも共通性ががないのである。そこが一番の日本語の謎なのである。
つまり、それは海に囲まれて閉鎖された島国であったからこそ起きたことである。そこで日本独自の文明が生まれたともなる。
グローバル化とはヨーロッパの大航海時代から始まり。交通の発達で現代はその頂点に達したのである。それももう限界に達したのである。これ以上のグローバル化はただ。問題が大きくさせるだけになる。
現実になぜ第一次世界大戦、第二次世界大戦で何千万の人が死んだのか?これはグローバル化が世界で協力するということではない。貿易にしてもそうである。むしろ世界的には交わるということは、そこに摩擦が起きて争いが激しくなったのである。中世となると遅れた閉ざされた世界で窮屈だとなるが。そこでは世界的に戦争など少なく平和な時代が続いたとなる。江戸時代でも300年、平和が持続されたことは、世界的に見れば奇跡的なことだったのである
ともかくグローバルに協力しあいアイデンティティ作ることは不可能である。だからこそ社会主義でも資本主義でも限界になり崩壊しつつある。それは自然の理に反しているからである。人間は自然から離れて物質的にも精神的にも存在し得ないからである。
●物と心が分離しない文化の時代に
現代の問題は?物と心が分離してしまったことなのである。ものというときものは心でもある。ものが憑くというとき物と心は一体であり、ものを通じて心も関係してくる。その物と心が分離したことが人間疎外を生んだとマルクスか指摘したのである。 それを現代に当てはめれば?これだけ世界中のものが流通している。グローバル経済の中で。生活しているが。それでも人間の心と心は通じ合わない。何かあれば国と国が争いものも入ってこなくなるのである。別に助け合いでものを流通させているわけでは無いからである。非情な競争原理でものは入ってく来たり来なくなったりしているのである。
戦国時代でも。伊達藩と相馬藩が争ったとき相馬藩内では助け合うことがしたが飢饉の時に物資を飯館村に援助したりしたが伊達藩していない。何か揉め事があればこうして物も入ってこなくなるのである。
だからこそ、外部からものが入ってきた時その住民たちは警戒したのである。その狭い、小さなコミュニティが破壊されることがある
現代では都会の人が地方の村に入ったりするととても。うるさくて溶け込めないとかなる。それはやはりそのコミュニティ内で平和に暮らしていたものは何か問題が起きてくるからである。
ものでも何でも外部から今なら外国から入れればいいとなるが。それが問題になるのはやはりそれぞれの国には歴史と伝統があり、風土にに見合った生活をしている。
だから何でも外国から無制限に入れることは危険になる。日本にわ宦官制度はない。中国に行っても、それを真似て取り入れることはなかったのである。
なんでもかんでも外国から取り入れることは問題が起きるのである。食にしても最近糖尿病が増えるとか?胃がんなのが?前立腺癌なのか?そういうものが増えてきたのは、外国から入ってきた食糧と関係しているのである。
なぜなら肉食でも日本はあまりしてない。日本人は肉を消化する酵素がないという。
外国人を絶えず肉を食べてきたから消化する酵素が出るというのである。つまり、長年の。食生活の歴史と伝統があり、それをなんでも入れると。問題が起きてくるのである。
グローバル経済の問題は物が入ってきてもそのものと心が分離していることなのである。 それは経済と文化の問題でもある。それぞれの国にはそれぞれの風土とか歴史に見合った物として作られてきた。
それは食糧でもそうだし様々なものはその体さえその風土に見合って歴史的に作られたものなのである。
文化とはカルチャーとはcultivate から来ている。その土地を耕すことから。文化が生まれたのである。だから文化はその土地土地で多様なものであり同じものとはならないのである。でも工業化となると。機械化するということは画一化することであり。文化を無視するのである。世界中でコカコーラをみんな飲むということはそれはその文化にその土地土地にあったものではない。だから体にみんないいとはならないのである。寿司が人気なのはやはり日本の文化から生まれたものだからである。それは海に囲まれていて、海の幸が豊富だから生まれた食文化なのである。
別にグローバル化でも、文化の交わりなら問題はない。無制限にものとかでも何でも入れることが問題なのである。それぞれの。土地と歴史と風土に見合ったものがあり。なんでも無制限に外国の物を入れることはその文化を破壊することになるのである。だから今、グローバル化は制限されねばならない。コロナウイルスにしてもやはりグローバル化した結果として、たちまち世界に広がったからである。ウィルスは風土病であり。その土地の中だけで。広まっていた。外国まで広まるということはなかなかなかったのである。それがグローバル化に人が交わることによって、ウイルスも世界中にたちまちに拡散したのである。それでかえって国境とか?境界が見直されたのである。
2023年06月28日
地方の既得権者の郵便局、農協、地銀の苦境 (巨大組織は宗教であれ何でも政治化した利権団体である)
最近知っている人の娘が農協に就職した仙台の大学を出た人だった。普通なら安定したところに就職してよかったとはなる。田舎では公務員と銀行と郵貯は御三家であり。そこに就職すれば安定しているとなる。
地方では田舎ではあまりいい就職先はない。
でもこの三つに就職すれば安定するとなる。 それ以外で多いのは 建設土木関係である。事務系となるとこの三つが就職先になる。
おそらく。そこに就職できたのはその娘の親が代々 農家でありそれも古い農家であり鎧を博物館に寄付したともいっていた。また紙漉をしていた家でもあった。 そういう家柄だから就職できたのかもしれない。田舎は往々にしてそういうことがある
農協も郵便局もかつては役所とならんで地域の代表的な就職先で、地域経済の要でした。郵便局長会の幹部からは、「農協も去ってしまったいま、私たちが地方の最後の砦」という発言をよく聞きます。
地方銀行‟仕組債販売”、その「危なすぎる手口」が判明!ローカル・エリートがいまだ取りつかれる「モーレツ営業」のヤバすぎる実態(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
最もつかみどころがなかったのが、日本郵便の郵便局長で組織される「全国郵便局長会」(全特)です。 法人格もなく、誰からの監督も受けないこの組織は、全国で数十万票という安定的な票田を持つ日本最強の集票マシンのひとつで、政治に大きな影響力を持っています。 会員である全国の郵便局長には「集票ノルマ」が課され、郵便事業のための販促カレンダーや顧客情報まで活用して選挙活動を活発に行ってきた。見えてきたのは、全特が郵便事業を私物化しているような実態でした。
農協も郵便局もかつては役所とならんで地域の代表的な就職先で、地域経済の要でした。郵便局長会の幹部からは、「農協も去ってしまったいま、私たちが地方の最後の砦」という発言をよく聞きます。
不祥事連発、自爆営業…自民党をバックアップする「郵便局」と「農協」のヤバい実態(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
地方では田舎ではこれら は?御三家でありここに就職すれば安泰だとなっていた。つまり倒産したりはしないからである。でも郵便局は民営化してIT化などで苦しくなった。
農協でも経済構造が変わり農家の力は衰えた。自民党の強力な 票田であった。それから郵便局でも自民党を支援していた。 これは、高度成長の時代は問題になることがなかった。みんな安心して郵便局や銀行や農協に貯金をして頼っていたのである。そして利子も必ずついていたから、問題になることはなかった。
でも、日本の経済が衰退した時。この御三家もやはりできなくなってきたのである。農協でも農林中金などはアメリカの危険な会社に投資して大損をこうむると言われる。すると農家が貯金したトラの子のお金が奪われることになる。 地銀でも投資先がなくアメリカの危険な会社に投資している、郵貯でも地銀でも今や証券会社の様にもなってる。
地銀では証券会社の人と一緒に来て投資信託を進めるからである。ゆうちょうでもそういうことがあり問題になった。
そして地方の御三家の郵貯農協地銀は既得権者であり利権団体にもなっていた。郵貯と農協はそうである。そこには国の税金が依然として注ぎ込まれているからである。郵貯が民営化してもそうなのである。
結局組織団体化するということは利権化することである。それは宗教でも同じなのである。その最たるものは創価なのだけど。ほかの宗教団体でも同じなのである。なぜならそこにまとまった票を得ることが出来るからである。それが自民党と結びついているから優遇されるのである。そうしてこういうふうに利権化した組織団体は内部からなかなか改革できないのである。特に地方では利権化してその利権を放したくないという人たちがいて内部から改革することができなくなっているのである。地方のボスには逆らえないという事情がある
でも今はもう利権として維持することが難しくなっている。そこに国民の税金が注ぎ込まれていることに。不満な人が増えているからである。ただ正直田舎には地方には大学出たからといって就職先となるとこの御三家であり。公務員であるから困るのである。田舎ではそもそも資産がないと生きづらいのである。土地に家があり家産がないと生きづらいのである。農業だったら、そうして土地と家を受け継いで維持してきたからである。何代も維持できたのは家産があったからだとなる。その家産を受け継いだのは長男だったのである。
もともとヨーロッパでもその家と土地と家産を受け継ぐことが優先されていたのである。家産があって人があったとされている。何か人が死んでも建物が残っている。建物の方が人より長く存在し続けているからそうにもなる。
それは城と一体化した侍を見れば分かる。会津の白虎隊も城が燃えたということで自刀したからである。そこで城と人間は一体化していたのである。城があって人間があったともなる。というとヨーロッパでもローマ時代の建築物が残っていて歴史を振り返るからである。2千年前の建築物も残っているから。その建築物から過去を振り返る。でも人間の一生はは長くても百年でありみんな消えていくのである
本当に時代が変わる時、既得権者が維持できなくなる。それが今地方でも田舎でも起きていることなのである。 だから、こういう大きなな変化の時代には既得権者も維持できない。それが地方でも田舎でも起きているためにこういう問題が表面化したのである。
とにかく人間社会は利益で動いている。だから必ず利権団体と関係している。それは宗教でも同じなのである。そこも巨大な利権団体なのである。賽銭投げて御利益を得ることを祈る。それは利権団体となり政府に要求する,政治化するのである。原発の利権でも想像を越えた巨大な金が動いていた。だからその利権に検察とか警察でも海上保安庁とかでも天下りしていたのである。そういう利益で利権ですべてが動いている。それが社会を歪める
だから時代が変わる時はそうした利権構造であれ既得権者が変わるのである。でもそれを変えることは容易でないから戦争に負けて焼け野原になったりすると既得権者でも一掃されて社会が激変するのである、今がそういう時期になっている。だから田舎でも地方でもゆうちょ、農協、地銀に就職しても安泰な時代ではなくなったのである。
報道でも利権が関係している。福島民報では創価の聖教新聞を刷っているし政経東北でも除染で大儲けした双相リテックを宣伝したりしているのは利権になり金になるからである、報道自体が金がかかるからそうなる。
インターネットだと金はかからないから誰でも報道できるとなる、でも手間はかかるのである。
メデアとは中立の意味であり中立の報道することがむずかしい、いろいろな利権団体がありその圧力もあり中立になりにくいのである。NHKすら公平ではない、でもマスコミは中立を装うから問題なのである
別に赤旗でも聖教新聞でも偏っていてもいいのである。みんなそいうものとして読んでいるからである
マスコミは中立でないのに中立を装っているから問題なのである。
ただ正直中立であることは最高にむずかしい、それは神しかできないかもしれない、神は偏り見ないからである
それで隠者が報道に向いているというのは意外である、なぜなら利権団体と利権とかかわらないからである
でもそれにも問題がある、とてもそうなるといろいろな人の話でも聞かないと社会のことがわからなくなるからである、この世は利権とかかわらないで生きることもできないとなる。だから公平に見れるのは神しかないとなる
そして神の裁きが来世にあるとなる、この世ではとても公平でありえないからである。
2023年06月20日
近くの井戸の水をもらい飲むことにした (接続可能な生活にもどる自給生活を見直す時代)
2023年06月17日
銀行は株のことなど全く素人である (手数料を取ることしか考えていない―銀行の役割の喪失)
2023年06月09日
日本衰退の原因は低金利、発展のために金利を引き上げるべきだ (利子は資本主義に不可欠である利子がなくなれば終わる)
2023年06月06日
誰も予測できない景気とか株 (なぜ日本の株が上がっているのか?)
2023年05月30日
金融資本主義化グローバル経済の終わり (実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)
2023年05月19日
世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている (貨幣と紙幣が生まれた予測されていた)
2023年05月18日
グローバル経済資本主義が破綻して終わる (それはアメリカなどの極一部の特権階級が儲かるシステム)
2023年04月01日
需要がないのに宅地でも新築の家が作られる矛盾 (新たに仕事を作り出すー家のリホームと庭のリニューアル)
2023年02月10日
イギリスがなお金融を支配している訳 (タックスヘイブンはイギリスが操作している)
2022年12月14日
物と心が分離した経済 (でっかい磯部の梨を与えて考える)
物と心が分離した経済
(でっかい磯部の梨を与えて考える)

でっかい磯部の梨
でっかい磯部でとれた梨
それを病院入院した母親に
食べさせろと息子に与えた
その息子は発達障害者
その梨を食べて癒されるが良い
与える心がその梨に宿りまた伝える
それはただ金で買うものではなく
心がその梨に宿る
磯部で育てられたでっかい梨
この土地に育まれこの土地の人の手で
いつくしみ育てられたもの
それはただ金で買うものではなく
その梨にはこの土地と人の手で
育てられたものとしての価値がある
物と心が一つになったもの
そうしてその梨を味わう時
その梨はただ食べるもの
腹を満たすものではなく
心も充たされるものとして価値がある
死者への供物は金はふさわしくない
土地の実りと人の手を加えたもの
実物を献げてこそ供養となる
その磯部のでっかい梨
ありがたく食すべしかな
古代ギリシャ語には「oikonomia(オイコノミア)」という単語があるんだけど、この単語を英語で表すと「management of a house government」という意味になるんだ。「oikos」という単語には家庭という意味があって、「nomia」はルールとか決まりという意味があるんだよ。つまり「家庭におけるきまりやルール」という意味の「oikonomia」という言葉が変化して「economy」になったと考えられるね。
今経済でも問題なのはグロ−バル化であり広域化経済でありグロ−バルな市場経済でありグロ−バルな金融資本主義でありとかその規模が余りにも大きすぎて本来の経済の言葉とはかけはなれるようになった
それは天文学的な数字となり株式市場でも金が動き数字化される
経済の語源は漢字だと経世済民なのである、民を救うということにあった
またエコノミーとは家政から始まっていたのだからその相違は余りにも大きいのである
そもそも現代社会がなぜ歪めれたかとなるとその起源が貨幣の出現によっていた
これはいい悪いにしろやはり人間が生活するために必然的に生まれたのである
物々交換ではとても商売も成り立たないからそうなった
でも貨幣を紙幣を媒介とするときそこにどうしても歪められるのである
だからこそ貨幣により物神化とか人間疎外がそこに現れたとかなる
これはむずかしいかそもそも貨幣が紙幣が生まれたこと自体にすでに経済を歪めるものとなったのである
そしてギリシャの紀元七世紀にもすべてが金だとなり嘆いていたのは今と同じである
すべての価値は金に還元されて後は無視されたのである
すでにそんな昔から金の弊害が極端化していたのである
そもそも価値はすべて貨幣で金で計れない!
これだけは確かである、市場化してそこで金で売買されてもそれが正当な価値として売買されないのである、そうした矛盾がすでにありマルクスの理論が生まれたのである
今は貨幣がデジタル化して数字になり株式市場では数字として処理されるだけになったのである
磯部でとれた梨の価値、その背景にはその育った土地がありまた育てた人がいて商品となる、でも市場にでるとその品質と値段だけが問題になる
買う人はその梨が作れる背景など考慮しないからである
現実にただ消費者がみるのはその梨がうまいか、後は値段だけである、一応生産した土地とか人を見ることはある、でも生産した人はみず梨の味とか値段だけを見るのである
でも地元だと磯部の梨ということでその土地と人でもイメージするのである
磯部は津波で村落自体が消失した、でも高台の方は被害がなく梨は作られていたのである
こうして商品経済になると人は味と値段しかなみない、現実に自分自身にしても近くに味噌屋があっても一人分買うとなるとめんどうになるからスーパーから選んで買うだけになる、また米でもいろいろな米があり地元の米を買うとは限らないのである
そうして商品は外国からも入ってくる、そしたらその商品がどうのこうのいちいち考えることもできないのである、ただ味とか品質とか値段しか見ないのである
そうして物と心は分離したのが現代のグロ−バル化した大規模経済なのである
そこで金が貨幣が大きな力を持つことになったのである
金はもともと地元にはない贅沢品を買うものとしてあった、それで宝貝などが貨幣の代わりとなったのである、漢字では必ず貝とつけば貨幣とか財になっていたからである
また貴金属が貨幣となったのは遊牧民などの財産となったのは持ち運びが容易だからそうなったのである
いづれにしろ磯部の梨というときその価値は地元でとれたものであるからどうして遠くでとれるものとは違ってそこにその土地と人をイメージする
外国とか遠くなるとまさにその商品しかみない、でもバナナをとるにも結構暑いし楽でないとと日本人が語る時、バナナがどうしてとれるのか知ったとなる
するとただバナナという商品だけを見ずにその背景を考えることになる
現代はとにかく物と心は分離しているのである、膨大な商品があってもいちいちそれがどういう経過で作られたのかとわからないからである
それで貧しい国の人達が工場で作られたらか安いものとして売られているとかグロ−バル経済でそれは人権として問題だとかなる、酷使されて作られたから問題とかなる
でも買う人はそんなこといちいち考えないのである、考えることもできないのである
そこで物と心は分離するのである
東洋的な思想では仏教でも色心不二というとき色は物でありそれが一体だと説いている
そもそも日本語でも物とはいうときものが憑くとか物心とか物と心は一体とみていたのである、そもそも物とは本来は値段がつけられないものともなる
例えば果物でもリンゴとかミカンとかバナナとかあってもそれは別々の価値があり味がありどっちが優れているというより別々の価値なのである
その価値は貨幣では計れないものなのである、それは色にもいろいろある、赤とか黄色とか青とかあると同じである、どっちが優れているというより別々の価値があることなのである
とにかく経済の規模が大きくなりすぎたのである、そうなると物と心は当然分離する
でも別に貿易とかは否定できない、ただ人間の心の問題として経済をみるときもう物と心は分離してしまったからこそマルクスの物神化により人間疎外とかになったのである
今や人間そのものが物であり貨幣で計られる存在でしかないのである
人間を金としてしか見ていないのである、だから私の家に金をくれると来て実際に屋探して大金を盗んだ人がいたのである、つまり人間は田舎であれ都会であれ今や関係ないのである、金こそすべてになってしまったのである
だから原発事故でも補償金をもらったらその土地をすぐ離れて仙台市に住んだとかばらばらに住むようになったのである、それは金があればどこでも住めるのだから原発事故で荒廃した故郷に住みたくないとなったのである、放射線被害があることでそうなったがそれだけでもない現代社会が金があれば別にどこに住んでもいいしもともと故郷に住みたくない人もいたらこの際一億円もらったら都会で暮らした方がいいとなり移り住んだ人も多いのである
ただそこで失われたものは何かなのか?
そのことが後でわかるようになるかもしれない、ただ現実は金しか見えなくなているのが現代社会なのである
ただ磯部の梨を与えた時、病人に与えた時、そこには何か物を通して心が通う、物と心が一体化したものとしてある、それを自ら梨を与えて感じたのである
もしこれが本当に私自身が梨を地元で作り与えたら本当に心と一体化したとなる
だから田舎で自分の土地で育ててとれた野菜でも分けてもらうときは何かスーパーで買うものとは違って心も受け取るとなる、ありがたいとなもなる
金になるとむしろ金で買う方が消費者が王様となってしまいそんなことにはならないのである
現代の人間はそもそも労働でもなんでも金で計られている、時給いくらだとかなるとあなたの価値はそれだけだとなる、その他は見ないのである
だから人間疎外として現れる、労働が人間を作り価値を作るものとなっていないのであるそのために労働を拒否するニートとか引きこもりが大量に現れたのである
もちろんここには甘えがあり問題があるから肯定できないとしても人間の労働は本来そういうものではない、人間の価値を作るものでありそれは必ずしも金で計れないものである人間の一生の価値がなにかとなったときそれは最後は金で計れない、そうなれば十億円ためた人が最高の価値がありとなり後世にも価値ある人として残るとなるが必ずしもそうではない、最後に人間の価値は金で計れない、その人の価値は何なのかとなると様々であり
でも金ですべては計れないのである、それで今になると銀行員の価値は下落した
投資信託でも株式でも証券会社のようになり銀行をもうけさせるだけであり銀行員の言う通りになるなというときそうである、それは銀行が得するものであり客はそうではないからである、するとどうなるのか、銀行員は地域に住んでいてもだます人なのかととも見てしまう、そうしたら田舎とかに住んでいても銀行員を価値あるものと見なくなる
そうしたら銀行員でもその職業自体いいものではないとやめる人も増えてくる
でも大工とか職人とかならその人はその腕に見合ったものが金として払ってもまた地元でも尊ばれるのである、それは医者とかでも農業とかでもそうである
すると銀行員になるより別な職業を選んだ方がいいとなる、そのために銀行員から農業をするようになった人がいたのもわかるとなる
金ですべての価値は計れない!
でも現実はそうなっている、そこに現代社会の大問題がある、グロ−バル経済がすべて否定できないにしてもそれが物と心を分離するからそうなるのである
2022年11月28日
銀行がすすめる投資信託や金融商品の危険 (退職金二千万でも高度成長時代から比べれば安い)
2022年11月04日
日本の貧困化格差社会化の危険 (世界でも信用できず信頼できず社会は分断される)
2022年10月26日
銀行にまかせる投資は危険 (投資は長期的にしないとだめー金より時間が価値あるものだった)
2022年10月12日
グロ−バリゼーションと資本主義の縮小化 (物の値段はどうして決まる)
2022年10月01日
何のために働くのか-働く意味を求める時代 (働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)
何のために働くのか-働く意味を求める時代
人間はまずあの人は何をして食べているのか?どんな仕事をしているのか?
それをみる
でも
何をしているのか、何の仕事をしているのか?
それと何のために働いているのかは違っている
まずあの人は何をしているのか、どういう仕事なのかをみる、大工さんなら家を建てるとか家を直してくれたとかわかりやすい、土木関係は道路を直したとかわかりやすい
それはあまり何のためとか考えない、家を直してもらえば客に喜ばれるし道を直してもらえば喜ばれる
だからこういう仕事で何のために働いているとか考えないのである
普通はいちいち何のために働いているとか考えない、金になればいいとなる
利益をあげることである、それに多少問題があり不正があったとしてもあまり考えないことがある、まず利益だ、金を得ることだとして働いている人も多いからである
何のために働いているのか?
こう考えるのは別に普通の人でも哲学者になっているのである
それで漁業者が放射性物質の汚染で魚がとれなくなったとき俺はなぜここにいるのかと問うようになった
それは漁業者は特別東電からでも政府からでも事故前も事故後も手厚い補償金をもらっていたからである、漁業権がありそれが大きな権利だからそうなった
でもそうして魚をとらないでも暮らしていけるのだけど自分はなぜ何もしないで港にいるのかと問うようになったのである
要するに漁業者の仕事は魚をとることであり東電から補償金をもらうことではなかったからである、だから魚をとっていれば魚を食べる人がいてありがたいとなっていたのであるそれで別に暮らしに困らないとしてもその人が地域社会でも何のために存在するのかとまでなった
そしてなぜ漁業関係者は船主などは特別補償金をもらっているのかとなり回りからうらやましがられた、それは事故前でも特別補償金を多くもらっていたからうらやましがられていたのである
そもそも漁業者は魚をとり提供することで地域社会でも存在価値があったからだ
海で魚をとることは結構危険でありだから漁師の仕事は地域社会にとって価値あるものとなっていたしその魚をとる人間も価値あるものとなっていたのである
人間はとにかく金にあればいいとして働くことが多い、その仕事が何のためなのかと問わないことがある、第一今は仕事の種類が多すぎるからである
利益が上がれば金になることが先決でありその仕事が何のためかなど考えない
東電とか電力会社でも電気を供給することでありそこに疑問を感じることもないしそれが有用だから誰も事故がなければ責めないしありがたいものとなっていたのである
何のためになど考える必要もなかった
●何のために働くかは哲学的問題でもある
でも何のために働いているのか、これは哲学的問題になっているのだ
ある人はゴルフ関係の道具を作っている、それは意外と近くの藤倉ゴムとかで作っていたのである、そうか、ゴルフの道具を作る仕事なのかとその人は大工さんだけど認識した
まずその人は何で働いているかをみる、それは一日一万二千円になる
二日しか働かなくても賃金としては高いなとみる
でもゴルフをしないものにはゴルフは遊びじゃないかとも見る
そしてゴルフをする人は比較的金持ちが多い、その人は金持ちの遊びのために働いているのかともなる、老人は暇なのでパークゴルフをしている、でもそれには金はかからない
本格的なゴルフとは違っているからである
でもそんなゴルフをするための人に働いてるということを認識した
すると何のために働いているのか?そうして金持ちの遊びのために働いているのかとなるこんなこといちいち考える人はいないだろう
でもこの辺で起きたことは何かいろいろ考えさせることが多かったのである
それを私は追求して来た、双葉とか浪江とか小高では避難区域になり住めなくなった
そこから仮設住宅に移り住んだ人が多い、その時何もすることかなくなりパチンコとかギャンブル通いになった
そしてかわいそうだとして外部から毎日のようにボランティアが来ていたのである
そのことで地元の人のひんしゅくをかった
あいつらは毎日遊んでいるとかなり外部から来たボランティアとか働く人は不満だったのである、汗を流して復興のために働いた人達は外部の人達だったからである
つまり働くということは何か意義があり意味がある、原発避難者は遊んでいるだけだとか不満になる、そうなるとそんな避難者に尽くすのは馬鹿げているともなるからだ
働くというとき誰かのために働くということがある
家族のために働く、子供のために妻のために働くというのも大きな動機になる
何のために働くのかとなると家族のためだとなるのも多い、その仕事の内容が何であれそうなっている人も多い、そもそも働くとは端を楽にするという意味だったからである
狭い範囲で華族ても苦労して働いているのを見て苦しいから手伝うとかが働くことの言葉の起りだったからである、だから働くといってもいろいろな動機がある
それを一がいに否定できないのである
でも最近いろいろと何のために事業でもするのかとか問題になる、そんなこと無駄じゃないかとも問われる、オリッピックがそうだった、それが何のためにするのか、意味がなくなったからである、東京オリッピックは日本が復興したということを世界に見せるためであり意味があったが今回は意味が明確に見いだせなかったからだ
そして結局そのオリッピックにあづかって儲ける人達のものだったこともわかったからである、大きな賄賂の金が流れていたからである
●何のために事業をするのか?
何のためにするのかというときある人が事業を起こした、それは何のためかとなる利益を得るためにしても何か明確ではない、都会の人に別荘を提供するためだとかまた田舎じゃ金にならないとか言っていた、つまり別荘をもてるのは東京の金持ちでありその金持を相手にしてもうけたいとなっていた
その人は技術者だから家を建てる技術とかあるからそうなった
でもここで問題なのは技術的なものと何のためにするのかとは違ったものである
この技術力があるということは理系の人である、でも何のために考えるのは文系なのである、理系の人は技術者として優秀であればいい、建物をそれも壊れない耐震設計にしてとか地盤を見たり簡単に壊れないように作る、安全を計り作る
でもこの建物を何のために作るのか?
このことは余り考えないのである、ただ鉄道にしても早く目的地に着くために技術開発をすすめる、そしてリニアを作るとなる、でもそのリニアが本当に必要なのかどうかは考えない、でも常に技術開発は奨められるのである
リニアは本当に必要なかどうかは考えない、新幹線で十分だという人もいるからだ
ただ技術開発は常にすすめられるのである、
例えば原発にしても核が危険だからやめるべきだというときでも危険でも開発はすすめられるのが価格技術の世界である
結局哲学となると
あるべきかあらざるべきかと問うことになる
それは文系的思考になる、別荘を東京の金持ちの人のために提供するために働く、その人の動機は何かというとそうして金をもうけるということだった
そして事業に失敗して借金になったのである
でも何かそういうことのために動機でしたことで失敗した、そもそもその動機を見れば
そんなことして何になるのかともなる
それで失敗したからとして自己責任だともなる、同情できないとなる
ともかく人間は何のためかなど考えない、カルト教団の人達は特に何も考えない、ただ拝んで利益があがればいいだけだとしかない、それに疑問を持つ人もいない
宗教だと特に批判できないから完全に洗脳されて従うようになる
何のために拝むのかとなると御利益福運になるからしかないのである
そして大衆は考えない人達である、だから盲目的に従う、それが大衆ファシズムになるのである、だから宗教は人間を奴隷にしやすいのである
●働くことの意義を求める
いづれにしろゴルフの道具を作るために藤倉という会社があることは知った
でもではゴルフの道具を作るためにどんな意義があるのかと問うと金持の遊びのために働いているのかともみる、そこまでいちいち考える人はいない、でも最近そういうことが問われることが多くなったのはなぜなのか?
それは橋がなければ橋が必要だしそれをいちいち考える必要はない、また道路がなければ道路を作る必要がありそれを考える必要がなかった
でもそういうものインフラでも整ってくればリニアとか海底トンネルとか必要なのかと考える、それはやはり貧乏国とは違って豊かになると考えるとなる、哲学とはやはり豊かになったから生まれるたものだとなる
食べることに追われていたら考えないからである
働くこと関しても最近何か変わっている、自分の好きなことをしろとか会社に頼るなとか会社は唯一の価値ではないとか学歴は関係ないとか何か会社中心主義の社会が変わっている、いい大学に入り大企業に入るというのが勝ち組とはならない
これは団塊の世代からすると企業戦士として会社に滅私奉公したのだからそういう考え方とか価値観とかについていけないだろう
でも組織集団が価値がある時代から個々人の価値を追求する時代になったのかとなる
でもそれが世代が違うとぴんと来ない、ただ70年くらい過ぎる価値観ががらりと変わることがある、戦争の時代は国家が最優先課題であった、でも戦争に負けると国家はなくなっていなくても国家中心ではなくなった、その変化も大きかった
それて戦争から帰ってきた人たちは戸惑ったのである
ジャングルに残って日本兵が小野田少尉のように戦いつづけていた人がいた
それは極端にしてもこの変化は何なのだと理解できなかったのである
別世界から来た人のようになっていたのである
それで自分の好きなことをしろとか自分勝手に生きろとか言うこと時代私自身はそう生きてきても理解しかねるのである
ただ働くという時人のために働くことでありそういうことは変わっていない、会社中心の働き方が変わるとういことである
そもそも戦争の時でも何で戦うのか戦争のために死ななければならないのか悩んだ人はいる、特攻隊は20代だから特にそうだった、死ぬのが嫌だったからである
いくら社会が賞讃しても死ぬのが嫌だから煩悶したのである
何のために死ぬのか?
それが後になっても尾を引いている、それは死者を供養するときでもそうなのである
つまり何のための戦争だったのか明確にわからなくなっているからである
どうしてもアジアの欧米の植民地化から解放するための戦争だったというときそれも納得できないからである
●個々人の価値を求めて働く時代ー大企業中心の社会の終わり
いづれにしろ働く価値観が変わった、大企業中心の企業戦士の価値観は変わった
個々人がそれぞれに働く価値観をもって働く、会社のためではない、人のためになるために働く、そして自己実現として自分の好きなことを究めるために働く、でもそんなことができるのか?社会では今まで許されなかったことである
でも一時代が過ぎると戦前と戦後で黒から白のように価値観が変わってしまったことがありすぐには理解できないのである
だから若い人の感覚と老人の感覚はずれてくるのである
私は好き勝手に生きてきたのだから新しい価値観でもいいとなる
第一芸術家とかだったら会社人間ではない、それぞれに美を追求するし学問でもそれぞれの興味があり個々人で追求してゆくものだからである
大企業中心の価値観はカルト教団ともにている、カルト教団も大きな会社のようになっているからだ、また軍隊組織にもなっているからだ、そこで個性は拒否される
黒だったら黒一色になる、赤だっから赤一色になるからである
そこに個性は認められないのである
でもそういう価値観も変わったとなる、個人の時代になるというときそうである
それが社会全体になるというときなかなか信じられないとなる
そうなるともともと学校とかが集団組織に適応するためのものとしてあった
社会に出る訓練として集団で行動できるように編成された
そこからして変えなければならなくなる、教育でもそこで大きく変わる
働くことの価値観が変わった、ただまだそれに気づいていない人達もいる
若い人はそういう価値観になっても適応できる
老人はそれを理解すること自体むずかしいとなるのである

2025年日本経済再生戦略 国にも組織にも頼らない力が日本を救う【成毛眞・冨山和彦】
https://www.youtube.com/watch?v=K7S0nv2WZMY&ab_channel=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6
2022年08月29日
価値とは何なのか (貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)
価値とは何なのか
(貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)
媒介する者についてメデアについて書いたが貨幣でも紙幣でもメデアであり媒介するものである、そのメデアが媒介するものが現実の物より力をも持つようになった
そのことですでにギリシャでは紀元前600年頃から金がすべてとなり社会は金だけを追求するようになり腐敗したと嘆いていたのである
つまり金自体が媒介するものであり仲介するものでありそうなりやすいものだったのである
物の価値は貨幣で計れない
人間の価値も貨幣では計れない
そもそも貨幣では価値が計れない、あらゆるものの価値は計れない、例えば果物があるとする、リンゴがあり梨がありバナナがあり葡萄があり柿がありスイカがありメロンがありみかんがありといろいろある
ではそれを交換するときリンゴが梨より価値があるとか梨よりバナナが価値あるとか水禍りメロンが価値があるとかならない
それは性質が違ったものでありそれぞれの価値は特有の価値を持っている
理想的なものは物々交換なのである、要するに私はリンゴを育てました、でも梨は作っていません、私はリンゴを与えますから梨を下さい、交換してください
こうなるのが理想的なのである、そこにメデアが貨幣が介入するとそもそも歪められる
貨幣自体にはただの金属だし紙幣だったらただの紙切れである
ただ黄金の貨幣だと価値はあるとなる、その貨幣は黄金なのだからそれ自体に価値があるから交換するとなる、でも紙幣だったら紙切れの価値しかない
だからそんなものとは誰も交換しないとなるのである
要するに物々交換だったら貨幣で価値を計ることはできない、そして交換するにしても等価だとなる、物自体の交換だから貨幣が介在しないからである
ただリンゴの味を味わいたい梨の味を味わいたい、スイカの味を味わいたいとかなる
その物自体の価値があって交換するだけなのである
そこに値段はつないのである、ただバナナとか大量にとれるから物々交換となるリンゴ一個にバナナ十本とかが交換するようにもなる
ただ物々交換だったら貨幣で価値を計るようなことはない、ただその物が持っている価値そのものと交換するだけである、そこに貨幣や紙幣は介在しないのである
でも貨幣が生まれたのは遠く持ってゆく、その時運ぶとなると手間である、物々交換するとなると大変な労力になる、リンゴをみかんと交換するのにその場所まで持ってゆくのは大変な苦労である、でも貨幣であれ紙幣だったら買えるとなると便利である
また貨幣でも紙幣でもいろいろなもの買えるということで便利だから貨幣が使われるようになったのである
ただ本質的な価値は貨幣では計れないのである、あくまでリンゴの価値はリンゴが生来持っている味である、その味に価値がありそれは神が創ったものだとなる
そして様々な果物に味がありその味を味わうということで豊かになる
それぞれに違った味があり価値がある、その味があって別な果物の味があって本当は直接物々交換すればいいとなる、金で計ることはない方がいいとなるのだ
それは人間にも通じている、人間の持っている価値は多様である、でもその価値に値段をつけて金が介在すると人間は歪められる、そもそも人間が持っいる価値は多様であり金で計れないからである、でもその計れない価値は金が介在すると無視される
金にならないものは価値がないとして無用とされ社会でも認められない、そこに社会が歪められるのである
それはブナという木が建築用材として価値がないとして無用化された、杉が植林されて杉の林になった、でもブナでも自然では効用があるから自然林を形成していたのである
ブナは漢字で木偏に無と書いてとされるが、由来は材が腐りやすく役に立たないからとされる
これは人間からの一方的見方なのである、自然にあるものは無用ということはない、そこに必要だからある、人間が価値づけすることによって歪められたのである
だからこそ老子は無用の用を説いたのである
例えば大都会を見ればわかる、そこはすべて用で埋め尽くられている,建物で埋め尽くされている、そこに無用の空間がないのである、それで空地とか公園とか貴重になる
でもそういう土地でも必ず何か有用なものとして建物が建ち埋め尽くされるである
そして憩うことも安らぎの場もなくなっているのである
つまり無用の空間がないから窮屈になっているのである
値段もつけられない無用の空間も貴重になっているのが大都会なのである
自然の価値は一様ではない、杉だけの森にしたのは人間側の都合でありそれが災いを産むことがある
松原は人工林だった、それが何か自然林のように思っていた、でも林でも森でももともとは混成林だった、多様な木があった、それで津波で松林が全部流されたことには驚嘆した松原は塩害を防ぐために作られた人工林だったのである
そして砂地に根を張るから津波には弱かったのである、それで根こそぎ全部流されてしまった、それは信じられない光景だった、おそらく自然の森のようになっていたら全部は流されなかったろう、杉の林にしたように一様化したことで根こそぎ全部流されてしまったのである、津波に強いのは竹だった、他にも津波に強い木を植えていればみんな流されることはなかったかもしれない
これもやはり自然というものを無視した結果だったとなる
自然を自然のままに利用しないで人間側の都合で利用すると危険になる
だからこそ文明は滅びるとなる、持続可能ではないとなる
大都会が危険なのは密集地獄のようになっているのは危険である
何かそこから大きな災害が生まれてくるからだ、そもそも地下街などでも危険であり
高層ビルでも危険である、それは人間の力を示すものだがそれが危険なのである
人間はそもそも自然の則(のり)を越えられないからである
だからこそ人間の過去の文明は滅びているのである
人間とは文明とはこうして常に自然に逆らい不自然に生きてきた、その結果として災いが生まれたのである、技(わざ)は常にまた災いになったからである
ともかく価値の交換というとき色でもいろいろな色がある、その一つ一つは多様な独特の価値でありそれに値段はつけられない、赤い色があり青い色があり独特の価値がある
その色もみんな違っているから交換しようとなる、またいろいろな色を欲しいとなる
赤があり青があり黄色がありとそれで豊かになる
でも同じ色はいらないとなる、赤を持っていれば赤はいらない、赤があり青と交換するとはなるのである
そして赤が一番価値があるから高くなるとかない、価値は平等であり等価である
赤には赤の価値があり青には青の価値があり黄色には黄色の価値がありその価値は赤に価値があり青に価値がないということはない、それぞれ違った色でみんな価値がある
優劣はないのである、自然界では優劣はない、みんな調和しているのである
人間界だけが優劣があり上下関係がある、差別がある
価値とはそもそも貨幣とかで計れない、それぞれ特有の価値がありそれは計れない
だから黄金と塩が等価で交換したというときどっちも実は貴重なものだったからである
塩がない砂漠のような所では黄金より塩が貴重になるからだ
価値はまた場所によっても様々な条件で変わるのである
そもそもあらゆるもののこの地球の価値は神が創ったのである
それを人間の都合で変えてしまった、メデアが貨幣でも変えてしまったのである
市場など公正でもないし金融資本主義とかなりもうどうなっているのかわからない
グロ−バル経済はもう公正でもなんでもない、世界のギャンブル場になり一握りの人が莫大な金を得るのである、いかさまなのである
でもそのいかさまが巨大になり見抜けないのである、だからどうしても現代は陰謀論になるのである
この世ではどんなことしても不公正になる法律があってもそうだし経済でもそうであるここの解決は神の国でしかありえない、人間にはとても公正な社会など作れないのである
貨幣は紙幣は便利であってもそこに必ず不公正が生まれている
メデアは報道でも歪められる、社会は必ず歪められるようになっている
そこに人間の限界がある、人間にはとても理想の国など作れないからである
2022年07月15日
物々交換の時代へ (紙幣とかドルとかでも通用しなくなるーロシアなど資源国が強い)
2022年07月06日
こんな額では生活できない」「包丁で刺してやろうか」 生活保護の担当者を脅迫か 男を逮捕
2022年06月18日
地震で家を直すのに苦労 (優秀な大工さんの仕事を見る‐樹と人間の共通性)
2022年06月14日
グロ−バル経済の崩壊 (信頼無き、道徳なき経済の崩壊現象が起きている)
2022年05月29日
「光熱費」に「奨学金」まで狙われる…ひっそり進む「サービサー法改正」の危ない現実 (日本の貧困の深刻化ー100万人が電気、水道,ガス代が払えなくと止められる)
2022年05月18日
ボランティアの交通整理員 (警察から表彰されたーボランティアは組織に入らないとできない)
ボランティアの交通整理員
(警察から表彰されたーボランティアは組織に入らないとできない)

小学校の通り道で女性の交通整理している女性がいる、この人は警察にも表彰されたと言っていた、この人の場合、一人でボランティアをしている
一人でできないと思ったがここではできている
ただもし男性だと子供にかかわるということで怪しまれることになったかもしれない
性犯罪とか全国でもあると情報化社会で異常に反応するからである
みんな性犯罪者に見られる、ただそういう人も現実にはいた、役員もしていたのである
ただみんなが性犯罪者ではないのである
でもマクルハーンが言っていたように情報化社会は世界が村となるというとき世界で起こったことでも隣村で起こったように見るのである
特にグロ−バル化した社会ではそうなった、現実にウクライナで戦争になったらあんなに遠い所でも日本でも具体的に避難民が来たりして関係したからである
女性はボランティアに向いているかもしれない、子供にかかわるのでも怪しまれないからである、私の場合は警察に公衆の面前で職務質問されて犯罪人扱いされた
駅長からにらまれて排除されたしまた周りからあいつは怪しいとして警察に通報された
そしてお前はここで何しているのだと若い女性の乗客に「お前はやる必要がない」と言われただけだった、でも少数の人は認めたことは認めた
私は別にボランティアしようとしたのではない、たまたま無人駅になり案内しただけである、またこの辺が原発事故になり外から来る人がふえたので話を聞ける場所として無人駅を利用していたのである、ただ聞かれたからたまたまそうなったのである
ともかくボランティアは意外とむずかしい、特に一人ですることはむずかしい
今回の地震でもDRTとか他にもボランティア団体が来た、国際学生ボランティアとかも来た、それは組織化されているから仕事のプロの人もいてできている
資金もあってできている、第一無料でぱ働いていない、できない、危険な作業もあり給料でももらえないとできない、それはボランティアなのか国の組織としてしているのかともなる、自衛隊のうよなものなのかとも見る
ただメンバーは全国だから沖縄の人も来ていたから何かあったとき集められる組織だとなる
ともかくボランティアは簡単にはできない、駅だったらぱJRで管理しているから許可が必要だしまた勝手にしていると回りから怪しまれる、NPOでも20人くらい集まらないとできないとしている、政府の許可が必要なのだろうだから個人でぱできない
実際にいかがわしいボランティアいて逮捕されたことがあったからだ
この辺でもNPOを管理する組織の事務所が原町にある、そういう場所を通さないと簡単にはボランティアできない
ただ高齢化社会は暇な人が多くなる、生きがいを求める人もいる
でも簡単にボランティアできない、だから老人はデートボールとかしている人が多いのである、そういうめんどうなことにかかわらないのである
それがいいのかもしれないと思った、意外と退職した人がボランティアをしようとして簡単にはできない、実際に地元の地区のボランティアした人が裁判沙汰になったことでもわかる、仕事はやはり組織でしているから一人とかでやるのは無理なのである
普通は邪魔になってしまうのである、なんかわからない奴が入ってくると邪魔だとなる
ただこの交通整理の女性は何の問題もないのである、警察に表彰されるまでなっているからだ、仕事としては朝の一時間くらいだろう、後はしていない
だからそれほどきつくないからしているとなる,ボランティアはきつい仕事はできない
危険な仕事もできない、責任もとれないからだ、でもDRTとはプロ集団だからとてもボランティアに見えなかったのである、自衛隊のように見えたのである
結局退職して生きがいを求めてボランティアしようにも簡単にはできない
まずは組織に入り認められることである、個人的にはできないと思う
この交通整理の女性は例外的なものだと見る
2022年05月03日
金を誰に渡すかが問題 (地域に金を回すことを考えるーでも広域化グロ−バル化社会では不可能)
2022年03月24日
ルーブルで石油でもガスでも買いとプーチンが言った (アメリカの金融支配やグロ−バル化の終わり?)
米国は虚偽の戦争でも一切制裁を受けない
まさにヤクザ並の仕組みだと気付かない人がいるのが不思議だね
過去に煮え湯を飲んだ資源国はどんどん増えるのでこの金融暴力システムの命運はもうすぐ尽きるだろう
2022年03月09日
ロシアのスイフトとかの金融の制裁 (金融支配も覇権国が作る世界の基軸通貨はドル)
2022年02月12日
過剰化社会に現代の歪みが見える (病院も倒産が増え薬剤師も過剰になっている)
2022年01月22日
資本主義の成長の限界の歴史的考察 (社会主義化するー分配の公平が政策となる)
資本主義の成長の限界の歴史的考察
(社会主義化するー分配の公平が政策となる)
●売るものがないと人間(生口として)を売る
日本は本当に貧困化している、ここでタイムセールに群がり争っている
それを見たら日本はどうしてこんなに貧困になったのかとなる
安い納豆を取り合いになっている
そういう人を知っている、十円でも安いものを買うために苦労している
ただ田舎ではかえって貧困が見えない、そういう人と接しない限りわからなのだ
都会だとホームレスとかがいて貧困が可視化されるかわかりやすい
田舎だと貧困が見えにくいのである
日本がなぜ貧困化しているのか?その原因はいろいろあるにしても日本の貧困化は世界経済とも関係している、グロ−バル化するとどうしても世界の影響をもろに受けるからだ
グロ−バル化とは実は大航海時代から始まっていたのだ
ヨ−ロッパの世界的拡張から始まっていた、それは信長の時代までさかのぼる
その時スペインとかポルトガルが船でアジアに進出してきたからである
それはキリスト教の布教のためでもあるがその裏では富の収奪だったのである
だからインカとかマヤ文明があったとしてそれも鉄砲と馬で侵略して500人足らずの
ならずずもののような集団に簡単にのっとられたのである
それは強盗団にも似ていたのである、その黄金でスペインは黄金の教会を作ったのであるそれはまさに強盗をして奪ったもので建てたものなのである
真偽がわからないにしてもその時日本に布教をしたスペインに女性が奴隷として売られたとか言われる、日本では売るものがないというとき人間が必ず売られる
人間が奴隷化して売られていることは世界史をみればわかる
古代にさえ日本と中国が外交で何か与えるものが無いから生口を中国に与えたとしている
卑弥呼は239年(魏景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を贈ってきたと、中国の書に記されている
生口とは何なのか 中国、朝鮮の恐ろしい文化
https://artworks-inter.net/pc/2019/11/25/post-652/
魏志倭人伝にみる生口の検討
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0009/RO00090R001.pdf
ここで生口とは男は奴隷であり女は性奴隷としているしまた人肉ようだったということも書かれている、「生口牛馬」とあるとき牛馬と同一化されて生口がある
牛馬のように売り買いされたということである
それは大陸だと常に戦争があり負けたら奴隷にされるのが常だからである
そのために大陸ではアメリカにイギリスでも奴隷商人がいて黒人が売買されたのである
江戸時代の口入れ屋というのも何か奴隷のように人が売り買いされる言葉に見える
そもそも日本では何か中国に贈与するものがなかった貢ぐものがなかったから生口を与えたとなる
つまり中国が巨大化して強国になると日本は朝貢(ちょうこう)になる
何か貢物をもってゆくことになるがなければ生口をもっていったとなる
スペインとか戦国時代でもヨ−ロッパの国が進出した時日本もマヤやインカのように収奪されるようなったのである
アジアの植民地化もその一環として大航海時代から継続されていた
ただ日本は鎖国したので鎖国できたので明治まで侵略されなかったのである
●ヨ−ロッパは富を世界から収奪して豊かになった
なぜヨ−ロッパが豊かになったかというとアジアとか南米とかアメリカから富を収奪したからである、ヨ−ロッパはもともと貧乏な国だったのである
イスラム国が豊であり文明国でありオスマントルコなどのように栄えていた
それで5ドルくらいで今度はイスラム国に白人がヨ−ロッパ人の女性が性奴隷として売られていたとなるのも驚きである
その後大航海時代からイギリスの七つの海の支配で世界帝国となった
ただこの時はイギリスに産業革命が起り資本主義が起り世界貿易で豊かになったのである東インド会社は最初の株式会社とされる
なぜならオランダなどで航海するとき船は航海で危険であり沈没したりするからみんなで株を買って投資した、危険を分散したのであく、それが株式会社の一つの起りとしてあった、今でも会社に投資するともうけも大きいがリスクも大きいからである
いづれにしろなぜ日本がこれほど貧困になったのか?
それを歴史的解明するとなぜ逆にヨ−ロッパが豊になりアメリカが豊かになったのかという問いにもなる
でもその成長も限界に来ている、資本主義とかは投資して成長するフロンティアが必要になる、それがなくなっている、残されたのは宇宙であるがそこに何か資源があるとかにはならない、土地があってもそれで富をもたらすることはないだろう
そしてこれ以上世界が経済成長できないというときグロ−バル経済は限界に来ている
中国経済ももう発展成長は望めない限界に来ている
それでSDGs(持続可能な開発目標)が盛んに言われるようになったのである
このまま世界が経済成長することは環境破壊になる、それはこの辺で起きた原発事故でもそうである、科学技術で豊になろうとしてももう住むことすらできない大惨事になったからである
つまり人間の技術にも限界がある、何か科学技術は無限に発展して限界がないような信仰にもなったのが現代である、でも限界がある、人間の技には限界がある
その限界を意識されるようなっている、全能なのは神しかいないからである
だからこうして歴史をふりかえるとなぜ日本は貧困になったのか?
●高度成長時代は日本の歴史でも例外的なことだった
戦後の焼け野原から高度成長時代になったのは技術力工業力があってそうなった
でもそれは日本が優れていたからではない、やはり経済も運が影響している
米ソ冷戦の中で日本はアメリカの支援を受けた、朝鮮戦争でもそうだった
そこでアメリカ軍を支援して成長したのである
何か子供のとき鉄くずを売って金にしていた、そうした鉄くずが集められたのは朝鮮戦争で鉄が必要であり日本が加工して売ったとなる
日本は日本自体ではもともと豊かになれない、資源もないからだ
だからアメリカとかに電気製品を売るとか車を売るとかで豊かになるほかない
今度は中国が巨大化すれば中国に物を売るということで豊かになるほかない
日本一国だったら江戸時代の鎖国のように平和であるにしろ貧乏で暮らすほかない
何か日本で庶民までも日本人の大半が豊になった時代はない、高度成長のような時代は日本の歴史てではなかったのである、だからふりかえるとそれは例外的なものだったのである、戦争に負けて不運だったのだが幸運にもなっのである
ともかく日本がなぜ貧乏になったのか、円の価値がすでに五〇年と同じになったとか
あらゆることで貧困化している、時代が逆戻りしている、東京だとわずかな富裕層とあとは貧困化したエッセンシャルワーカーしかいずスラム化するとも言われる
だからタイムセールで東京の底辺層がとり合いするとか結婚もできない給料が安くてできないとなっいてる、結婚したくないのではなくそもそも女性がそんな少ない給料では子育てもできないとして男性を選ばない、そこで独身者の一人暮らしが増えたとなる
結婚したくてもできないというのが現実になっている
ただ日本が豊かになれる時代が終わったというときそれは世界的なものでもある
資本主義は限界に来ている、投資する先がない、金余りであり金融資本主義であり本来の資本主義でないとしている、それは銀行でも投資先がない、これまでは利子がついていてその利子で老後でも貯金していれば増えるから悠々と暮らせるとなったが銀行がつぶれるとか預金封鎖だとか円の価値が五〇年前にもどったとか東京にスラム街ができるとかそんな話しかない野てある、退職金が2000万あっても三〇〇百万減らされたとかなる
高度成長時代は一千万あれば七年間くらいで利子で倍になった人もいた
だから二千万もらったとしてもその価値は半分くらいになっているかもしれないのだ
投資で増やそうとしてもそれも知識が必要であり簡単にできない
銀行でそういう素人をカモにして投資信託を売りつける手数料商売になったのである
投資そのものが資本主義では悪いとはならない、でもその投資の方法がわからないのである
●経済成長のない世界へ
ともかくこうして成長する時代は終わり限界にきて資本主義も終わるとか言われる
では次になにが来るのか?それはもう成長しないとなるとき分配を重視する社会主義政策になる、それを岸田首相が唱えるのもわかる
もう収入は増えないし一定である、するとその一定化した収入のなかでやりくりするほかないのである、そして分配を重視するというと全体の成長を計るのではなく分け合う思想になる

そして全体的にも富を増やせないのだから江戸時代のように限られた世界で暮らす智慧が必要になる、グロ−バル化だとグロ−バルに発展するということがあるがそれも限界に来ているからだ、そのためにSDGs(持続可能な開発目標)が言われるのである
資源でも人口でも限界であり環境破壊になるとかなり人間の技術も限界だとかなる
それが原発事故で示された、科学技術は人間が無限に発展ずるとう信仰にもなっている
でもそれにも限界をがあることを知るべきである
ただ寿命を延ばすことなどはできる、でもそれが経済成長になるとは思えない
むしろ老人がさらえに増えてくるのだからかえって社会全体が老化するということにもなる、老人はあまり消費しないからである
ただ長生きは悪いものではない、ともかく人間は何か一つでも理解するのに時間がかかりすぎるのである
もう百才まで生きれば普通の人でも天才でなくても功績が残せる
私自身でも六〇歳以後にいろいろなものを理解してインタ−ネットで発表するようになったからである、つまりそれだけ成果をだすのはおそくてもいいとなるからである
それで長寿社会はハードの面ではなくソフトの面が重要なってくる
ソフトの面というとき文化的な面になる、それは物量的なものではなく物質的繁栄ではなく精神的内面の人間の新しい世界を作りだすことである
それが小さいことにしろパソコンのソフトで作りだしている自分の抽象画がその一つだったと思う、全然絵の才能ない自分がどうして絵を作りだしているのか自分自身で不思議だからである、つまりパソコンは今までと違って脳と心と深く関係したものであり今までもの技術とは違っているからである
それはワープロで文章を書くとき体験している、ワープロで文章を書くのと筆記具で書くのとかは違ったものになる、機械を通しして人間の脳が刺激されて拡張されているのである、それは米の生産を増やすとか他にも何か物量を増やすというものではない
文化的なものでありそれはGDPとして計算されない、そもそもなぜGAFAが世界を席巻したのか?これは何か電器製品とか車の生産とか違う、情報社会化したものであり物の生産とは違う、人間の心と精神と関係して生まれてきたのである
つまり人間の最後に残されたフロンティアが脳に心にあるからそうなったのである
人間の創造力と深く関係しているのがパソコンだったからである
●資本主義から社会主義へ?
いづれにしろ貧困化は深刻である、でも資本主義の成長原理で貧困化を解決できない
なぜなら成長そものもが限界に来ているからだ
だから銀行に金が集まっても投資する先がないのである
世界的にも実際は金余りであり投資する先がない、そして金融資本主義で金を右から左に流して利益をあげている、それは詐欺にもにているのだ
金融の操作で金が操作されて利益を産みだされている、実質はただ金を右から左に流しているだけである、ギャンブルと同じである、ギャンブルは何も産みださない、金がただ実は操作されて胴元に流れているとかなり陰謀論になっているのである
つまり100から200に量でも成長すれば分配も底辺層に回る、それが資本主義である
でもGDPでも増えなければ底辺層には回らない、福祉でも成長があるとき福祉にもまわる
それで大正生れの私の母親は60歳になったら年金を積んでいなくても一月三万円もらっていた、でも5年後とかなると4万もらったとか悔しがっていたのである
今はこういうこともないし福祉でも生活保護でも7万とかなりそれで生活できるのかとなる、円安でも円の価値が50年前と同じになったというのはショックである
日本の金の価値がそれほど下落したのである
そうなると外国ののものを買いなくなる、石油でも高くなり物価高になっている
日本はじり貧になってゆく、電気水道ガスがとめられる死ぬ人まででてくる
また食料でも外国から入るものは二倍とかな買えなくなる
ただサツマイモはとれているのか安いとか見て食べている
一応米も日本では余っているからそれがこれ以上高くなるとは見えない
とにかくもともと日本は全体的に豊かなになったことはなかった
ただ高度成長時代というのは日本の歴史で例外的なことだったとふりかえる
すると日本はまた貧乏な時代にもどるほかないのかとなる
貧乏にしても電気水道ガスとか石油は必要になる、それさえまかなうことがむずかしくなる、すると炭を使いとかるのか?そういうふうに追い詰められてくる
ただ電気も水道もガスも石油でもない時代でも人が日本で生きてきたからそれで万事終わりとならない、一応生きてゆくことはできるのである
資本主義がもう成長が望めないという時資本主義は終わる、すると社会主義にもなる
極一部の者か富を独占しているから貧乏なのだと富裕層に不満になる
それでアメリカでもサンダーとか社会主義政策を唱える人が脚光をあびる
岸田首相も分配の政策を言うのはそういう社会状況になっているからである
富裕層の採りすぎる分を底辺層に回せとなるからだ
もし全体的に成長するなら平等に富もまわってくる、でも成長が限界になると富はまわらない、すると極わずかの人が富を独占することに不満がつのる
そこで社会は不安定化してくる、犯罪も増える、富裕層でも安心して暮らせなくなるのである、そのことを富裕層は自覚すべきだとなる
YouTubeの「大学院卒なのに田舎で貧乏生活」も見てね
https://loveandfreedom.hatenadiary.com/?page=1641731809
ここではまだ延々と貧乏を嘆いている、そこから脱出できない、大学院でても文系とかなると苦しいのである
私自身が三流大学の文系であり就職もできずに二十代底辺労働者となっていたからであるただ親に恵まれて自分の好きなことをしてきたのである
でも自分自身も全く贅沢はできなかったのである
ただ時間だけはあったからバックパッカーとかになり旅をしつづけていたのである
外国だとその時中国だと物価が十分の一くらいだった、それが今や日本より高い
日本人は外国旅行は高値の花となる時代になったのか?
むしろ外国人が日本が物価が安いといかことでインパウンドで押し寄せたのである
観光で金を稼ぐほかなくなったということである、それだけ落ちぶれたということである
2021年11月04日
地銀の営業の問題―民主主義は話し合い (勝手に株を決めて売った、その前に説明もなかった―話し合いもなかった)
地銀の営業の問題―民主主義は話し合い
(勝手に株を決めて売った、その前に説明もなかった―話し合いもなかった)
銀行で別に株や投資信託を売って悪いとはならない、それは政府から許可されたからである、法律違反でもないのである
これまではできなかったということは何かそうしてはまずいものとして銀行でも地銀でもあったから許可しなかった
何か自由主義社会とか民主主義社会は基本に話し合いがある
それは政治とかだけでないあらゆる場所でそうなのである
何かをするにも決めるにも話し合いすることが簡単に言えば民主主義の基本である
日本ではそうしして村で話し合いで物事を決めていたというとき民主主義の基礎があったから民主主義に移行できたともされる
ただ話し合いというとき相当に手間でめんどうなのである
何か即決できないから話し合いをしていたら緊急の場合は何もできずに死ぬとういこともある
みんなそれぞれああでもないこうでもないと議論しているうちに敵が攻めてきたらもう対抗もできない、指導者が強制的に命令して判断しなければ死ぬとなるからだ
だから緊急時には民主主義はかえって危険になる
ただその判断を誰にゆだねるかは大事になる、それは相当に優秀でないとできないからだ
地銀が投資信託でも売る時問題だったのは説明も話し合いもなかったことである
何か性急に勝手に営業の人が決めたのである
そこに話し合いがなかったのである、一方的だったのである
リーマンショックの時、半分になった株を元にもどりあがるとき今度はJ=REITに回したのである
その時どうしてなのか一言の説明もなかったのである
私はどうかなとも思ったがまかせる方針だったのでその人の決定に何も言わなかった
それは自分の落ち度だったがそれにしてもその人は何か性急であり説明もせず勝手に決めたのである
それは別に株を売るとか投資信託を売るとかが問題でなくその前にとにかく話し合いがないことが問題だったのである
なぜ今株がリーマンショックから株が元にもどり上がったのにJ-reitにその株を売って買うのかとなる、ただ自分自身がそれを望んだこともある
でも株を売ってそうしてくれとは頼んでいないのである
ただ自分もそこで聞けば良かったのである、でもその営業の人は性急であり勝手に上がっていた株を売った、その株を持っていたら今なら倍になっていたから悔しかった
ただその前に売っていたこともある、それは予測できないしどう判断するかは本当は株を売買する客の判断にまかせることなのである
自分自身が株のプロですからと言われたのでまかしたことが失敗だった
今度は私はなぜかこうしてこのことがありその営業の人を信じられなくなったのである
それは株とか投資信託を売るのが悪いというのではない
その前に話し合いがない,勝手に決められた
これが問題だったのである、今どうして上がってきた株を売るのですかとこちらから問うべきだったがなかった、それは自分の落ち度でもある
でもその営業の人は何か落ち着いて話し合いをしないのである,性急なのである
だから何か若いと営業に向いていないとも見た
じっくり話して決めるということもない、人の話も聞かないのである
そしてJ-reitを売ってくれと言ったとき売ったのだがNISAまで売っていたのである
私はNISAを売れと言っていないのである
これも株を売った時同じように説明もしないのに売ったのである
これは株とか投資信託を地銀でも売る前に話し合いもなく勝手に決められたということである
ともかく説明が必要なのでありそれがないし秋からにNISAは売れといっていないのであるただ営業の問題はこうして説明すらせずに売買したということであり株とか投資信託が悪いからではない、株なら上がったり下がったりするからである
それは銀行のせいではないのである
話し合いが全くなかった!
これが問題だったのである、勝手に営業の人が客に説明しないで決めたことである
株でも投資信託でも詐欺のようにも言ったが十分に説明して話し合いで決めたなら責めることはできないのである
それは原発でもそうだった、ほとんど政府と東電で勝手に決めてすすめたものだったからである、まず住民との話し合いなどない、原子力のこと核のことなどわからないものに話ししても無駄だとなっていたからである
そこからしてすでに民主主義の話し合いがないのだから問題だったのである
常に一方的になっていたのであり聴くことすらできないものになっていたからである
例えば事故がおきたらどうなりますか?
絶対に事故は起こりません
万全の手は打っています
これだけで終わりになる、でも説明くらいできるでしょう、原子力関係の専門家はそれを説明できた、最悪のことが説明はできたのである
それを言うと原発は拒否されるからしなかったのである
つまり政府と東電と住民は話し合いもなかったのである
そこに民主主義はなかったのである、民主主義は別に政治にあるだけではない、社会全般の問題として民主主義がある
その基本が十分な説明であり双方の話し合いなのである
また日本では議論を嫌うことも影響している、理屈を言うやつは嫌われる
でも基本的に裁判でも双方の言い分を聞くから話し合いだともなる
双方の言い分を聞いて判断するからそこで十分な説明と話し合いが必要になる
その中で理屈を言うのもしょうがないとなる
何を基準にして決めていいかわからないからである
いづれにしろ民主主義は手間もかかるし時間もかかるしめんどうになる
客との話し合いだとしても手間になるし時間もかかる
だからそういうことで勝手に営業の人が決めたともなる
ただ私としては株とか投資信託を売るのが悪いとは言わない
その売買で説明不足だったことと話し合いが全くなかったことが不満だったのである
ただ株でも投資信託でも金融商品の売買は自己責任である
ここだけは明確にするべきである、結局損したのは自分であり客である
地銀では利益を得たのであり損していないからである
地銀はただ客の金を売買して手数料を稼ぐだけである
客が損しても絶対に銀行は損しない商売なのである
そうなると客は本当は相当に投資信託とか株に詳しくないと売買するなともなる
結局自己責任であり一切銀行では責任はとらないからである
責任をとらされるのは客であり地銀ではない
まだ原発でも責任をとらされるのは地元の住民である
確かに政府でも東電でも多額の賠償金を払ったので責任をとらされた
でも一番責任をとらされたのは住民である、故郷に住めなくなったからだ
すると本当は一番責任をとらされる住民がもっと真剣に原発の是非を考えるべきだったとなる、それは地銀の株や投資信託の売買とも似ていたのである
最も真剣に考えるべきものは誰だったのか?
それは地銀だったら客自身なのである、なぜなら損するのは客だからである
戦争はもっと責任が重大である、国民が戦場で死んだからである
するともっと国民が戦争すべきかどうか考えねばならなかった
それも政府が勝手に決めてしたともなる、その結果として国民が3百万に死ぬという責任をとらされたのである
ともかく何であれ責任が人間につきまとっているのである
金がもらいるからいいとなってもそれも責任となっていた
あなたは金をもらいましたね、あなたは原発を建てることをその金で許可したのです
例え事故があり汚染されてもそれはあなたがた住民の責任です
ただこういうふに自覚した人はいない、金になるからいいとしかなかったのである
だから金は具体的な責任なのである
ただ漁業権をもっている船主とか漁業組合は特別補償されて補償金を事故前でももらっていた、その金をもらったことで事故になっても東電でも責められなくなったのである
でも事故後はもらう権利があったのである、事故前にもらったことが問題だったのである
いづれにしろ人間は常に責任が問題になる、何か生まれたときから責任を負わされているだから赤ん坊は泣いて生まれるのだというのもわかる
何かしらで必ず責任が課せられているのである
権力と権利が欲しいとなるけどそれにもやはり重い責任が課せられている、権力が権利があるとして勝手なことはできない、そのために責任が問われる
マスコミの責任も重かった、800億円もの宣伝費が電事連とかから流れていたからである、それで危険を追求できなかった、ただ金をもらっただけだとなる
でもその責任はあまり追及されないのである
石と石は向き合う
長い時間を向き合う
そして落ち着いて
密に語り合う
石と石が信頼し合い
その場と時間があってそうできる
話し合いとか理解し合うとかでも簡単にできない、現代では何かもうグロ−バルに人は交わる、でもそこで信頼したり話しじっくり合ったりできない、そんな広い場では無理だとなる、信頼でも世界の果てにいるような人とできないしし話し合うこともできない
信頼するにも時間がかかる、すると時間も限られているから簡単にできない
現代ではこうして世界は広まったとしても互いに話し合い理解しあっているとはならないのである
「密」には、すきまのないこと、ちかしいこと、きめの細かいこと、行き届いていること、等の意味があり、「密接」「親密」「綿密」「厳密」などの熟語があります。
「コミュニケーションを密にして〜」は、細かく行き届いた、密接なコミュニケーションをする、という事です。
このことである、営業でもそういうことがある、それをしていないと常に誤解があり信頼できないとなる、現実は世界は広がっても信頼するとかはない、ただ物が入ってくるだけだともなる、基本はそういう密なことを目指す社会になる
でも逆に三密はコロナウィルスで避けれることだった、でも密な世界に生きる回帰する
江戸時代辺りはそういう社会だった、狭いから村の様な世界では密にならざるをえなかったからだ
2021年10月26日
宝貝を貨幣とする国(童話) (貨幣は力の強い国が支配する道具)
宝貝を貨幣とする国(童話)
(貨幣は力の強い国が支配する道具)
バナナ国、パイン国、オレンジ国、ミリタ国という島がありました
四つの国からなる島の国でした
バナナ国にはバナナがとれ、パイン国にはパインがとれオレンジ国にはオレンジがとれました,ミリタ国には何もとれませんでした
ミリタ国では特別な槍を作り兵隊が住んでいました
この四つの島の人達はたがいにその島でとれたものを交換して暮らしていました
パイン国で
「バナナを食べたいな」
「バナナ国へパイン国へ運び交換しよう」
「それがいい、舟で運ぼう、みんな舟にパイン積め」
「よし、一杯積んでバナナと交換しよう、楽しみだな」
他の国でもこうして互いにとれたものを運び交換していました
オレンジが欲しい時はオレンジ国にバナナを運びとか互いにとれたものを交換していました
でもそれもめんどうなので一つの島にそれぞれの島でとれたものを持ちよりそこで交換するようにしました、そこが市場になったのですがそこでもいちいちパインを交換するためにバナナと交換することやまたオレンジに交換することがめんどうになりました
そこで考えたのが交換するための道具です、その道具があれば何でも交換できるものですそれを宝貝にしました、貝を貨幣のように使うのです、貝を金として一つ二つでいくらとして使用するのです
そうすればいちいちとれたものを持って行って交換する必要がないからです
それでこんなことを言う人もいました
「別に宝貝でなくても交換する道具なのだから石コロだっていいじゃない」
「そだな、石コロならいくらでもあるからな」
「でもいくらでも石コロはあるから集められる、それも困るな」
「宝貝はなかなか見つからないから貴重になる」
「それもそうだな、石コロのようにいくらでもあるとそんなもので交換されると困るよ
石コロで何でも交換できるとかありえないよ」
こういうことでやはり宝貝が交換の道具として選ばれました
ところでミリタ国には何にもとれませんでした
それで交換するものがありませんでした
ではどうしたかというと槍をもった兵隊が住んでいたから槍で脅してバナナでもパイナップルでもオレンジでも市場に行って脅して得ていたのです
それえ得るためにまず宝貝を集めたのです
「宝貝をよこせ」
「嫌だ」
「しゃ殺すぞ」
「それはかんべんしててください、宝貝はあげます」
こうしてミリタ国の兵隊はおどして宝貝を一杯集めたのです
それで何もとれないのに宝貝でバナナでもパイナップルでもオレンジでも交換できたのですその宝貝を集めた倉庫がミリタ国にあり兵隊が守っていました
その宝貝はミリタ国で管理していたのです
それを配るにも制限していたのです
ミリタ国は何もとれないのに楽だと見ますがでも敵が攻めてくることがありそれから槍の武器で守っていたのです
だから何もしないということはなかったのです
実際に敵がミリタ国に攻めてきました
敵は鉄砲ももっていて槍ではかないませんでした
そうしてミリタ国は鉄砲をもつ国に支配されました
一部の人は殺されました、他の人は逃げました
そうして鉄砲もった兵隊は宝貝をあることを知りその倉庫を管理するようになったのですミリタ国では槍の代わりに鉄砲の訓練を兵隊がしていたのです
「パインを食べたいな」
「明日市場に集まるから宝貝で買いに行こう」
「俺はバナナが食べたいな「
「それも宝貝で交換できるよ」
「明日市場に行くのが楽しみだな」
こうしてミリタ国で何もしなくても食べ物は得られたのです
ただ敵が攻めてくることがあり危険でした、殺されることもあり兵隊はいつも訓練していました
そこは危険なので他の国の人は住みたくなかったのです
ただ一部は力持ちとか強い人はそこに住みたいということがありましたが普通の人は住みたくありませんでした
ただ宝貝は貴重でありそんなに集まりません
宝貝でバナナを買いパイナップルを買うとミリタ国の宝貝の倉庫はやがて空っぽになります、なぜならミリタ国には売るものがないからです
もしまた別なものでもスイカとかでも何かとれるものがあれば売れるのですがそれがなければ宝貝だけ集めているとやがてなくなるのです
それでミリタ国では困っていたのです
でもミリタ国では敵から守ってやるのだからその宝貝を命令して取り戻したのです
それはミリタ国が命令してそうしたのです
「宝貝をミリタ国にはやりたくない、せっかくバナナを売って得たのにとかパイナップルを言って売って得たのに」
こう言って相手は鉄砲をもった兵隊だから逆らうことができなかったのです
そうして宝貝をミリタ国に一部もどしたのです
ただミリタ国には敵がいつ攻めてくるかわからないので危険でした、平和はなかったので、他の国では平和に暮らしたいからミリタ国に従っていたのです
貨幣の謎は深い、でも貨幣とは紙幣でもそれが権力と関係している
ミリタ国とは今ではアメリカになり世界を支配する、金融を支配しているのはアメリカ政府自体でなくてもロックフェラーとかロスチャイルドとか陰謀論になっても背後に巨大な権力を持っているアメリカがなかったら力をもてない
その力とは軍事力のことなのである
それでアメリカは常に豊かになれる、何も生産しなくても軍事力だけでも豊かになれる
でも覇権国が変わると中国とかになれば中国の貨幣が紙幣が使われることになる
つまり金融とは貨幣とは支配の道具なのである
だからローマでもオスマントルコでも地方長官とかが力を持つとその顔を刻んだ貨幣を出してその土地の支配者ともなる、それで中央政府から攻められるて殺されたともなる
貨幣や紙幣は確かに交換の道具であるがそれは中立でないし公平でもないのである
だからこそ貨幣や紙幣や金融は支配のための道具なのである
七つの海を支配したイギリスがボンドを基軸通貨としたのもそうである
エジプトを支配したからエジプトボンドがあり英語が通じる所ではイギリスに支配されたから通じるとなっている
今ではアメリカが世界を支配するからドルが世界基軸通貨になっている
現実に中国でもドルでしか石油が買えないから中国は金融の面でアメリカに支配されているのである、ただこの力関係が変わると通貨でも紙幣でも中国が支配することになる
だから通貨とか貨幣でも紙幣でもそれは単に交換する道具ではない、支配の道具となっている、そこで覇権国に富が集まるのである、日本の富をそうしてアメリカに吸い上げられる、中国が覇権国になれば中国に吸い上げられるのである
貨幣とか紙幣とかは公平なのものとして通用していない、明らかに力関係が作用して価値が決まる、公平なものとして使われないのである
グロ−バル経済もそうした力関係で価値が決まり正当な公平な価値で決まらないのである貨幣でも何がその時代で一番通用していたかを見ればその時代の覇権国の貨幣が通用している、それはその時代を支配した覇権国があってそうなったとなる
結局貨幣でも紙幣でも詩は道具だとしてたとき人間の歴史は常に覇権国があって支配それぞれの時代時代の通貨があり貨幣がある、それは公平な経済のルールではない
必ず覇権国が得する仕組みであり軍事力が背後にあって通用していたとなる
だからグロ−バル経済は公平ではない、金融で世界を支配する仕組みだともなる
でも覇権国が変わるとまた別な国に支配されるとなる
必ず人間では従属関係が生まれる、国でもそうである、それが人間の歴史であり業(カルマ)なのである
2021年10月23日
20代で土地を買い家を建て立派な庭を作った80代の人 (新しい産業が生まれないと日本は豊かになれない)
20代で土地を買い家を建て立派な庭を作った80代の人
(新しい産業が生まれないと日本は豊かになれない)
信じられないだろうけどバブル時代は、
16歳の中卒土方でも給料が100万円あった
佐川急便のトラックドライバーの求人でも月給80万円以上あった
anや新聞広告にもよく載ってたから覚えてるやつもいると思う
おれの友達も佐川に2トントラックのドライバーやってたけど22歳で月150万円もらってた
今の若いやつはみんな月給20万円以下
今の時代の差が大きい、知っている人は20代ですでに新しく土地を買い家を建て立派な庭まで作った、20代でそんなことまでできた時代だったと思った
その差は大きい、その頃日本経済はうなぎのぼりで成長していた
その人はトラック運転手であり人より二倍働いた、荷物を運ぶにしても歩合制であり二倍の収入になった、それもあるが収入が今とは二倍くらい違っていたとなる
要するに働けば働くほど収入は増やすことができた
まず貯金していれば金利が7パーセントなのだからそれも信じられないものとなった
今や銀行にあづけるだけで手数料がとられ金利はゼロなのである
地銀などは投資信託をすすめるが実際は素人と同じであった
ただ自分の銀行の利益を上げることしか考えていない、だからとにかく転売をすすめる
その度に手数料が入るからだ、それで株でもリーマンショックで半分になった株が元にもどり上がり始めたとき転売した、それをJーreitに回した
そのJーreitをその地銀の営業の人が信用できなくなりやめたのが良かった
そのあとコロナウィルスで急落したからである
特に田舎の地銀など投資のことなど何も知らないしただ手数料を取るだけの商売である
だから知識のない人はカモになるだけだと知った
ただ今の時代は投資をするなとは言えない、知識のある人はすべきである
でもその知識でも株に通じることは並大抵でないからできないとなる
結局銀行がどうのこうのと言っても自己責任になる
田舎では証券会社でもないし選ぶことが限られているからうまくいかない
それがハンディキャップとなっている
ただ今の時代は本当に給料でも30年間日本でも上がっていないとか日本経済がこれほど落ち込むことは考えられなかった
こういう時代では今の若い人は夢ももてない、自立できないから結婚もできないともなる銀行員など前は公務員と同じく地方ではエリートだったが今や悪徳商人のようにも見られる、銀行は堅い職業と見られていたからである
田舎ではもともと証券とか株は嫌われていた、なにか胡散臭いものとして見ていた
それは別に利子が高いのだからそんなものにかかわる必要がなかったからである
大学の経済学の先生まで株はするなと言ったいたからである
そういう時代は恵まれていた時代だったからそうなっていたのである
20代で結婚して土地を買い家を建て立派な庭を作ることができた
田舎のことでもそういうことは都会でも全国的にそういうことができていたとみる
貯金すれば十年で倍とかなって投資とかめんどうなことにかかわる必要もなかったのである、投資は知識でもむずかしくハードルが高いからである
日本はどうしてこれほど経済が落ち込んだのか?
それは産業の転換が新しいものに転換できなかった
戦後は焼け野原になっても財閥が解体されたとか地主が消滅したとか大改革があった
そして電機産業が起り世界に日本製品が売れた、それで高度成長時代が生まれた
その時それだけではない何もない時代だから地方でれ小さな町工場であれあらゆる場所で起業すると成功していたのである
私の家でも子供相手の駄菓子屋のようなものから始まり小さな店をして売れたのである
物を置けば売れたのである、でも私の家族をみても商売上手とかではなかった
ただ角に店があったから地の利で売れただけだとなる
その店を開くのに5万ほどの金を借りるのに苦労した、銀行でも貸してくれなかった
でもたいした設備もなくて店など開くことができた、そういうふうに簡単に店をもつことができたのである、そういう時代は活気があった
何か起業すると成功しやすかったのである
それはみんながそうであり活気があったとなる
その時子供でもわんさといて神社の境内で遊んでいた、その声がうるさいくらいだった
でも今になると遊んでいる子供もみかけないのである
なぜこんなに日本の経済が落ち込んだのか、その一つの大きな原因が戦前は絹織物生糸を作ることが全国の産業であった、それで私の母親は十年間原町の紡績工場で糸取りとして働いていた、それは全国でそうだったのである
養蚕農家が全国的にあった、それは兜の形をした屋根が今でもいたる所に残っていることでわかる、ここも養蚕農家だったとかわかる
養蚕が日本を支えていたのである、それはアメリカへ輸出されていたのである
でも戦後は焼け野原になり養蚕は終わり電器産業に変わった
その産業の転換に成功して高度成長時代になったのである
あとエネルギーでも石炭から石油に変わったことで大変換になった
鉄道はもともと石炭を運ぶものとして作られた、常磐炭田でもそうだし北海道は石炭の産地であり石炭を運ぶために作られた、夕張とかでも石炭の産地だったからだ
でも石炭から石油に変わると寂れてしまったのである
結局日本が貧困化しているのはこうして産業の転換ができなかった
IT時代になってもそれも韓国や中国より遅れをとった、やはり時代は技術でも変化する
今になると新聞など一軒一軒配ることがどれだけ手間になるか、コストがかかる
もう続けられない、インタ−ネットならもう数人でできることを百倍の手間とコストをかけているとなる、それで大手の印刷会社がやっていけなくなり会社を売るようになったとかある、新聞のコストがかかりすぎるのである
テレビ局でもyoutubeで個人ですら局をもつことがでる
これを比較すると徒歩で旅する時代と汽車で旅すにうよになった時代のように変化している、だからもう新聞とかテレビ局とかは終わりになる
そうしてマスコミの力も相当に弱まった、テレビ局はその装置だけで莫大な金がかっていた、だからこそ第3の権力になっていた、でも残ったのは取材力とか放送する内容になったのである、もともとそこが報道でも重要なものだったのである
だから取材力とかコンテンツを作る人材は必要であり残るとなる
それは別にテレビ局でなくてもyoutubeでも放送できる
現実に教育番組になるとyoutubeがいいとなる、そして大学でもつまらない講義を聞いているよりyoutubeで学べると思った
何かこうして技術の変化があり産業の変化がありそれについていけないと廃れてしまうのが社会である、日本ではそれができなかった、なぜできなかったのか?
日本は物つくりはもともと伝統的に優れていてもITとかの分野は日本の文化と相いれないものがあり苦手でありそれで取り入れることができなかった
明治維新でも物造りではいち早く追いついていたからである
つまり産業の転換ができないためにこれほどまでに落ち込んだとなる
だから経済を回復するために産業の転換が必要になる
電器産業でも韓国に中国に追い抜かれた、すると同じ分野では価格が同じであり差がないから勝負できない、安い方がいいとなるからだ
いづれにしろ時代が変わり養蚕が絹織物産業が興隆した時代から電器産業が興隆して高度成長時代になった、その次なる新しい産業が出てこないと日本がはジリ貧になる
それがITだったのだがそれに遅れた、ただその次なる産業は新たに起これば日本も回復するとなる、でもそれが簡単には今度はできない、それで今度は観光立国とかなったのである、それは落ち目の国がすることである、それで経済が回復することはない
ただ日本には独自の文化がありそれで観光客をひきつけるとういことはあった
でもコロナウィルスでまたそれもそがれたのである
そして今度は負の負担が増える、少子高齢化で老人ばかりふえて福祉関係に金がかかる
何しろ老人は病気になる人が多い、するとそれが負担になる、数が少なければいいが
数が多いから負担になる、若い世代の負担にもなる
結局悪いことは重なる、何かいい面がありそれを見出そうとしてもなかなかない
日本は資源が無いから教育だとか明治から言われた
日本ではそういう基盤があった、寺子屋教育があり読み書きできるとかあった
識字率が高かった、でもそれだけでは今やグロ−バル化するとやっていけない
おそらく日本の弱点は何かまねは上手でも創造力発明がないことである
西欧文明というときそこに発明があったからである
中国文明に習ったのも漢字などを取り入れたのもそこに発明があったからである
日本は独自に発明したものがない、電器産業はそれは独自に発明したものではなくただ先んじて成功したものであり日本独自のものでもなかったのである
それは中国でもアメリカのまねであり中国独自のものを発明していない
だから日本も中国のヨ−ロッパとアメリカのコピーだとなる
それで中国も最近ゆきづまってくる、ただアメリカでも衰退してゆくから次なる興隆する国はどこになるのか?それが見えていないのである
それより世界がもう開発とか限界であり物の生産でも限界でありそこで持続可能社会が言われるようになった、資本主義も限界になった
資本主義は常に資本を投下して成長するシステムでありそれがなくなると終わりになる
後進国があってそこで成長してゆくことによりグロ−バル化資本主義が成立つ、それがなくなると終わりになる、だから世界自体がそうした限界状態になってきているともなる
次なる投資国がないからゆきづまる、そこで中世時代のようになる
それは物を無限をに生産して売る世界ではなく心の内面の追求になる
哲学宗教の時代にもなる、ただカルト教団とか宗教団体はこれは全く資本主義に組み入れられた物欲拡大のものであり心の内面など何にも関係ない、物欲宗教でありそのために毎日祈っているだけである
宗教とか哲学とかは最も離れたものでありだから数だけは増えたとなる
要するにこれからの世界は物欲の追求ではない世界になる
第一ITがコンピュターが人間の頭脳と深く関係しているものであり情報社会とは今までも物欲社会とは違っているからである、そういう時代に生まれたものだからである
だから物欲社会を目指すものは限界に来ているから日本でも高度成長時代はもうまたないつまり物質欲望社会から精神を追求する社会になる、世界で物は飽和状態になる
物を作っても売れないとなる、何が売れるのかとなると今までのような考え方では売れないとなる,アメリカでも金融で支配しているとかなるとそうである
輸入大国にもなっているのだから物を売っても売れない、ただコンピュターを発明してソフトを売っているとなる,ソフトは今までの物つくりとは違って頭脳と深く関係したものだからである
もしかしたらそうして知的遊戯とか精神の遊びの世界が広がる
ゲームとかがそうである、つまり物造りだけで発展した時代は終わったということである
2021年10月12日
金の計算の不思議ー短期的長期的計算 (人間は長期的視点で生きられないのが問題)
金の計算の不思議ー短期的長期的計算
(人間は長期的視点で生きられないのが問題)
人間は時間を計算することがむずかしい、時間の働きが理解しにくい
だから意外な結果となっている
金の計算で不思議なのは私自身が20万で一か月やりくりする計算している
一か月20万だと多いともなるが実際はそんなにかからないが貧乏な人を金で支援しているからかかるのである
ただ一か月20万としてこれが一か月を一週間延ばす、また10日でも伸ばす
するとこれが一年で金の計算をすると一週間で7日を一年で掛け算すると12×7で84になる
約三カ月分になる、10日伸ばすと120日分になり4ケ月分になる
これがなかなか理解できなかった、そんなに節約できるのか?
20万円分を一週間延ばすだけでそんなに節約できるのか?
でも一年で計算ししてみると確かにそうなっている
この額が大きいと思った
3カ月分節約したら一カ月20万で生活するとして20万のままだったら一年で240万になる
でももし三カ月分を引くと240万−60万で180万になる
これは大きな節約だと思った
ただこの計算が何度しても良くわからなかったのである
それは結局長期的計算だからそうなっている
それも一年という計算でそうなったのである
だから人間は何でも金の計算でも短期的計算と長期的計算は相当に違ってくる
そのことで複利計算だと300万を一〇年で400万にできるとなる
それが意外に思えるのは何故か?
長期的計算だからである
人間の盲点は長期的計算ができないということである
長期的に見ることが苦手なのである、だから株は約一〇年ごとに大きな変動があり上がり下がりするから長期的に見れば必ずもうかるということがある
でも一〇年先だと長いとなる
それで失敗したのが銀行員の営業の人がリーマンショックでもっていた株を元にもどったときそれを勝手に転売してJ−reitに売ったことである
転売したことである、それは自分たちの銀行の利益と営業の人はノルマを稼ぐためだったのである、相手の利益なのことなど証券会社でも銀行でも考えていないのである
銀行員の営業マンは説明すらせずに強引に転売したのである
説明責任があるとしてそれすらしなかった
それ以来銀行員を信じられなくなったのである
つまり銀行でも今長期的にみて商売していない、今利益を上げることしか頭にないのである、それは銀行でも地銀でも収入が得られず追い詰められているからそうなる
顧客のことなどいちいち考慮していられないのである
銀行自体が地銀でもつぶれるというとき悠長にかまえていられないからだ
ともかく人間は短期的に見るのと長期的に見るのでは相当に金の計算でも違ってくることである
ただ人間は長期的に見ることが苦手でありできない
人生でもそうなのである、まず短期的に見ることは常にしている、でも長期的にみることはできない、それで来年のことを言うと鬼が笑うというのは人間はそもそも長期的に見れないものだからそうなる
必ず不測のことが起きて人生でも狂ってしまうのである
そしてみんな人生は結果的に意外なものとして終わっているのである
人間の弱点は長期的に見れないことである、結婚にしてもそうである
この人と結婚していいのか?幸せなのかとかわからない、だからこそ三分の一は離婚しているのである、結婚するとき好きで結婚しても長期的に見る時それが失敗だったとなる
人間は今幸せならいいとなる、将来のことなど考えないのである
また考えられないのである、そんなことしていたら疲れるだけだとなる
それで今日の苦労は今日一日でたりるとなり明日のことは思いずらうなとなる
長期的に見て思い患っていたら生きてゆくこともできないとなる
例えば長期的に見れないことで人間は災いにあう、津波とかでもそうだった、この辺では津浪でも700人溺死とか記録があってもたった二行でありそれが全く忘れられていたのである、その事実をみんな知っていれば警戒したこともあった
でもこの辺では津波が来ないという確信になっていて逃げないで死んだ人も多いのであるだからこそ災害は忘れた頃にやってくるとなる
それは人間は長期的に見ることが苦手なのである、常に目前のことに追われているのが現実だからである、そこにやふはり長期的にみる歴史的視点が大事だとなる
千年であれ一億年でも長期的な視野で時間で見ることが大事だとなる
現代は特に長期的視点で見ることができなくなっている、江戸時代なら一次産業が主だから農林漁業が主なものだからそれは自然に依拠した生活だから長期的な視野になる
そして生活も代々親の仕事を受け継ぐとかなっていた
それで職人でも十代とか綿々と受け継がれていたのである、そういう時代は長期的視野で生きられる、木でも50年育つにかかるとしても親から子へと受け継がれのその果実は子供が得るともなる、人間が財産を築くにはそもそも一代ではできないのである
例えば近くでうまい梨を作るのに十年かかったとかなる
必ず何か実りを得るためには時間がかかる、それも一代だけではできないことがある
それで農業は親から受け継ぐことが有利になる、土地もあるしまたノウハウも親から受け継ぐことができるからである
そもそも人間は即製的にすることで何か成しえることが本当はない
そういうものは何か本当の実りをもたらさない、例えは遺産でも何か大きな金が入っても消尽されることがある、身につかないのである
それは自分が苦労して溜めた金ではないからである,ギャンブルでもうけた金もそうである、何か金が身につかないのである
ただ人間はどうしても長期的視野で見れない、何かをすることができない
今もうけなければ第一金が入らなければ事業でもつづけられないとなるからだ
十年後に金がもうけて金が入ればいいとかならないからである
すぐ今もうけなければならないとなっているからである
そんな余裕のある人はいないからである
ただ人間は短期的視野で見ると失敗する、一時的に泡銭とか入ってもそれが成功にはつながらない、そして意外と一代で成功しないというとき親の代の苦労が実はその子供の代になって得られるとかなるのである
何か今成功している人は親の代から受けづくものがあって成功しているともなる
つまり長期的にしか成功はなく成功の果実を得られないともなる
ただ人間は長期的にみれないのである
原発でも今金になるからとみんな賛成した、でも長期的に見れば事故になったらどうなるのかなど考えた人などいないのである、今金になるじゃ賛成だとなってしまうのである
今金になるということしか見えないのである
ともかく自然をみると山でも木でも石でも長い時間を感じる、山とになると億年の重みがあるとかなる、それはそれだけ変化しないものとして常にあったからだとなる
木だってやはり樹齢何百年とかなると時間の長さを感じるし石でも岩でもそうである
でも人間の世界はめまぐるしち変わるから無常だとなってしまう
人間すら今日あったものが明日はないとかなる、人間も生れては死んでゆき無常だとなる人間でも千年くらい生きていたらそういう無常を感じないだろう
老人になると人間は逢ったと思ったらあとは永遠に逢わないともなる
「さよならだけが人生だ」liveとはlieveであり去ることだとなってしまう
それで長期的視野がもてないのである、ただそのことが様々な問題を産んでいる
教育だって即製的インスタントになり長期的視野をもてない教育をする
詰め込み教育とか暗記教育が教える方にとって楽だからそうする
でも教育を長期的に見ればその仕方を違ってくる、明日のための試験のための教育ではなくなる、でも常に短期的にしか見れない、試験が常にありその合格のためにはどうするかしかなくじっくり考えて答え出せとかもない、常にせかされているだけなのである
人生百年時代はその点じっくり何でも取り組むということでいいことにはなる
マイナス面も大きいとして急いで成果を出さなくても百年あれば成果を出せするともなる自分の場合は60過ぎてとかからようやく成果を出しているともなる
つまり人生百年時代はそうなる、あせって成果を出す必要がないのである
退職してからも30年とか40年あればまだ人生の半分しか終わっていないのである
こうなると人生観も変わってしまうのである
急いで得た富は減る。
少しずつたくわえる者はそれを増やすことができる。
箴言13章11節
地道に働くことを奨めている、そうなると一攫千金は奨められない、でも株などは常に一攫千金を求めているからすすめられないとなる
いづれにしろ何事時間がかかる、その時間の計算が長期的にできないのである
2021年10月10日
貧困の深刻ー電気、水道、ガスが止められる (世界的に食料も不足して日本にも回ってこなくなる)
貧困の深刻ー電気、水道、ガスが止められる
(世界的に食料も不足して日本にも回ってこなくなる)
現代の貧困は見えない、汚い恰好していま人はいない、江戸時代とかつぎはぎだらけのものを着ているわけでもない、何か貧乏という時一目見てわかった
今は見た目はこぎれいな恰好をしているからわからない
一番深刻なのがガスを止められることである
電気とか水道は多少余裕があるがガスはそうなっていないのは最初は払わない人がいて
取り立てが厳しくなっているからだと思った
実際はシステム上そうなっていたのだ
料金を確実に徴収できないと見なすと、その資金を使ってガス供給の安全を維持できないことを同時に考慮することになります。つまり、ガス料金は単にガスの使用量に対する料金だけでなく、ガスシステムを安全に運営し続けるための財源も含まれていると言えるでしょう。
ガス料金の滞納に関して他の光熱費比べて対応が早いのは、ガスは民間サービス性が非常に強いからの一言に尽きます。水道や電気は国との関連性が非常に強いですが、ガスはそれほど国との関連は大きくないと言えるでしょう。
ガス会社は料金の徴収に関しては非常に強気でして、滞納が一旦起きると契約者がどのような経済状態であるかを問わずに供給を停止するスタンスを取っています。これは安全確保の名目で進められますが、事実上は収益性を悪化させないための対策であることも事実です。
https://www.tainavi-switch.com/contents/541/
ガスは特別厳しい事情があった、つまり支払いの猶予がないのである
その人がガスで泣くように訴えていたがこういう事情があったのである
何か非情に見えたのだがその裏の事情がわからなかった、何か日本が貧困化して払わない人が増えて警戒して取り立てが厳しいのかと見ていた
その人が凄く憤っていたがその裏の事情がわからないからそうなっていた
つまり何事に理由がある、その理由がわからないとただ憤るとなる
とにかく現代の貧乏は目に見えないが電気ガス水道が止められることでわかる
なぜならそれによってもう食事もできなくなるからである
東北の震災の時、電気がとまらなかったので米とノリくらいあったのでそれで二週間くらいしのいだ、それができたの電気が使いたからである
水道も使いた、でも電気が使えなくなった場所もあり水道も使えなくなった場所もあったのである、そうしたら水をもらいには行くことができたが電気はもらえない、するとガスが頼りとなるがそれもできない場合はお手上げになる
三陸とかの他では裏山の清水を使い燃料は森の木とかを使い米をたいてみんなでしのいでいたのである、今はそれができないのである
ただ子供の頃は水は井戸水であり燃料は炭とか木材であり新聞紙とかをたきつけで使っていた、ただ木材でも製材して余った端切れの木であったする
でもこうした原始的生活はかえって災害に強いのである
電気,ガス、水道が止まるとお手あげになるからである
滞納が一旦起きると契約者がどのような経済状態であるかを問わずに供給を停止するスタンスを取っています
特定のガス会社がこうしたことをしているのではなくガス会社は民間性が強いのでこうしている、その人はなんでこんなことをするんだと憤っているがそういう事情があった
何か会社を変えたこともあったがどこの会社でも共通していたのである
いづれにしろ現代の貧困の深刻化はここに現れている、さらに深刻化すると食べ物を満足に食べられず飢饉の様な状態になる、アフガニスタンでは百万単位で子供でも飢饉状態にある報告されているからだ
ただその前に電気、ガス、水道が止められる、また貧困化すると電気を節約するほかないそれで団地でも夜になると電灯を消しているという、近くにも浪江の復興団地でそうしている人がいると聞いた、こういうのが貧困として目に見えるものとなる
ただ電灯を消すという時フランスのホテルでは夜は電灯を消していた
それは節約のためなのである、だからこれだけを見てもわからないということがある
でも日々の食事にはガスと電気と水は不可欠だからここが止められると生命の危険になるだから水道とかを民間の会社にする外国の会社に委託するというのは危険になる
どうしてもここは公共的なものとして運営しないと危険になる
何か今は情がない社会ともみる、それだけ困窮して生命の危険にもなるのに猶予してもらえない、でも現代社会のシステムがそうなっていたからだともなる
いちいち個々人にそうして対応していたら成り立たなくなる
貧乏な時代はとにかく借りが多かったのである、それは日常的でありその日暮らしでもあった、それで戦前に自分の家で部屋を貸していたたとがあった
その時毎日家賃を取り行っていたという、家賃を毎日とりに行くということがあったのか?家賃も日払いなのかとなる、それも今になると考えられないとなる
それだけ金がない、その日暮らしだったからそうなっていたともみる
そもそも月給取りというけどそういうことがない時代もあったからである
それは江戸時代でありその日暮らしとなっていた、宵越しの金はもてないというときそもそも持てなかったともなっていたのである
私の父親は酒屋の丁稚でありどうも借りを払ってもらうために一軒一軒回っていたようだその手帳が残っているからだ
現代の貧困は眼に見えにくいがこうして電気ガス水道が止められるというのでわかる
また家賃が払えないとかで部屋から追い出されるということでもわかる
厥か一番深刻だから貧困だとわかる、その他はわかりにくいのである
ただ貧困とはそういう人と接しないとわからないのである
どこにそんな人がいるのかとなるからだ、それは田舎でもわからないのである
田舎でも付き合いが薄れているからである、何か助け合うこともあまりない、そして困った人は生活保護になればいいくらいしかないのである
ただ生活保護でも実際は家賃と医療費が無料くらいの人もいるのである
その人は年金をもらっているにしても4万でありあとはもらっていない
だからいつも電気水道ガスが止められている、だからこれもおかしいと思うのだが
そういう人もいるし生活保護があるから安全だとはもうなっていない
これからますます生活保護が増えてもこうしてまともに支給されない時代になる
それは日本全体が貧困化しているからでありそれがさらに深刻化してくるからである
もしかしたら日本でも飢饉のようになり食事もまともにてきない人が増えてくるかもしれない、それは一部であっても全体に影響する、そういう人は犯罪者になり安いからである犯罪が悪いとしても人間はぎりぎりに追い詰められると頼る人がなくなればそうなるからである
ただ田舎でも貧困は見えていない、それは昔のような田舎ではない、農業中心の田舎ではないし人間関係でもそうである、だから不思議なのは隣近所でも何を仕事にしている人がわからないのが多いのである、こういうことは今までなかったからである
それだけ広域社会というか仕事が複雑化してわからなくなったということだろう
ただ日本の貧困化はこれからますます厳しくなる、食料も入らなくなるとか石油が高くなるとかインフレになり金の価値もなくなる、そして遂に飢饉にもなる
そういう恐怖が迫っているのかもしれない、もう世界的に経済が成長することはない
それは中国のことでわかった、だからむしろ世界恐慌前夜のような状態になっているのかもしれない、ただ株が上がるとかいうのは管制相場であり金をばらまいているだけなのである、だからそれもつづかなくなり深刻な貧困が現実化する
何かあらゆるものが末世のような現象になる、そして飢饉さえありうるのかもしれない
食料が高くなると食べることもままならないとなる、そうなっている人がすでにいるからだ、まともに栄養がとれていないのである
それで外国に食料でも頼っていると危険になる、外国に食料があるとして輸送量が馬鹿高くなっているとか運べなくなる、中国で買い占めて日本に入らなくなる
それで中国で一部の特権階級が豊かになっても大部分が貧乏なのはかえっていいとしている、なぜなら中国人がみなん富裕層になったら地球の自然を食い尽くすともなるからだという、マグロでも魚でもうまいとなり中国人みんな食べるようになると魚も取り尽くされるという恐怖である、それも一理あるなと思った
インタ−ネットは確かに知恵袋である、何かわからないとき検索するとそれなりのものにあたる
新しい自転車を買おうとしたら今部品不足で何カ月か後でありいつになるのかもわからないと言われた、自転車でもコロナウィルスの影響を受けている、生産しているのは外国であり世界的サプライチェーンがありそれが途切れると供給できなくなっているのだ
シマノの部品がないと自転車は作れないようにもなっているからだ
コロナウィルスは世界的に影響した、半導体でも不足しているとかで作れないものがかなりある、このコロナウィルスの影響は大きいものだった
深刻なダメージを世界的に与えたのである
2021年09月05日
職業で形成される人格 (職業選択は大事でもその人にあった職につけないー人格を歪める職が多い)
2021年07月27日
地銀、ゆうちょ、農協、信金などの破産危機の恐怖 (地方の安定を奪うことに)
地銀、ゆうちょ、農協、信金などの破産危機の恐怖
(地方の安定を奪うことに)

地銀とか農協とか信金とかでもなぜ地方でこそ問題になるのか、それは地域と密着している金融機関だからである、また有力な安定した就職先になっていたからである
それは丁度公務員になると同じて安定していたのである
だからたいがいそこに就職すれば田舎でもそれなりの生活できる田舎の貴族だともなっていた、また地域の人は必ず地銀でもあれゆうちょであれ信金であれ貯金している
それでバブルで日本経済が高度成長していたときは7パーセントもの利子がついていたのである、つまり貯金していれば安心して生活できた
だからこそその頃みんな貯金に励んだのである
そこで今金を持っているという老人の九割は貯金している
投資に回せない、というより投資ということをしてないからわからないのである
それが老人になって投資をしろとか。すすめられてもわからないのである
それで地銀とかゆうちょでも経営が苦しいから投資信託などを売りつける
これも素人には仕組みもわからないし結局だますための商品としてアメリカの大銀行が作ったものである、その仕組みを作った人がハーバード大学出の人だったか良心の呵責になやまされてやめたとうかある
それは素人にはわからない詐欺商品だったのである
それはゆうちょの保険でもそういうことがあった
地銀でもゆうちょうでもなぜ苦しくなったのか?
それは日本経済が衰退して貸し付ける会社が減少した、金があってもその金を活かせないのである、金を借りて事業をする人がいなくなったのである
高度成長時代はいくらでも金を借りる人がいた、事業をする人がいた
その時また投資することは見返りがあった、事業を起こして成功する人が多かったからだとなる、今はそれがないから金があっても増やせない、そうなると金融業も何でも儲けていいかわからないので株式とか投資信託になり地銀はすでに証券会社の子会社のようになっているのだ
証券会社の指導のもとに地銀で信用を築いている地域の家を回るのである
でも証券とか株とか投資信託とか地方の老人はわからないのでしる
だからもうかるとか言いなりになり損するとなる
ただ別に客が損しても地銀とかゆうちょは手数料をとるから損することはないのである
だから前のようにゆうちょとか地銀は地方での安定した職業であり信用されていたという地位から脱落したのである
地元の客でもだましてもうけるとかみられる、ただそれはゆうちょとか地銀だけの責任ではない、日本全体の経済の衰退がそうさせたからである
ただ地方の人にとってもこれは困ったことなのである
地銀が証券会社になることは地方の人にはなじめない、老人でもそうである
でも様々な形で日本経済の衰退が地方にも押し寄せて来た結果なのである
地銀とかゆうちょとか農協でも何か地元の人が経営してそれは同じ地域に住んでいるのである、するとそこで何か詐欺のようなことをして客をだますとなるとその地域の信用も喪失する、、金融機関となると信用が第一になる、だからこそ信用するからこそ投資信託でも株でもすすめられれば買うとなる、そこに信用かあってこそ買うとなる
それが崩れた時どうなるのか?
地域での金融業が成り立たなくなるのではないか、詐欺をしているように見られるからだそれは前のようにただ貯金していればいいという時代ではなくなったせいもある
だから地銀でもゆうちょでも農協でも変革しなければならないというときそれも簡単にはできない、そのことは地銀とかゆうちょだけの問題ではない
地域の人は安心して金をあづけているし利子もついていたからである
それがなくなるとき今度は預金封鎖だとか騒がれるとき安心して生活できないとなる
ただ金融というとき金融で金でせかいを裏でロスチャイルドとかロックフェラーが支配しているというとき金が貨幣が紙幣が人間を支配できるという構造がありそうなる
それは紀元前のギリシャ時代からそうなっていた、そもそも貨幣を使うということ自体に不公平が生まれていたからである
物と物を交換するならそこに公平があり社会を金で紙幣を使う時そこに実際は矛盾が生まれて人間支配の道具となったからである
だからそういう仕組みがある自体この問題を解決しない、金の代わりに物品で供給するとかなれば解決するかもしれないがそれもできない
江戸時代辺りは近辺だけの経済でありそういうことはなかったのである
貨幣を使っていたとしても現代のようなグロ−バル経済とは違う地域経済だったからである、狭い地域での経済だったからである、基本は自給自足であり金にそれほど依存していなかったからである
広域グロ−バル経済になるとまるで違ったものになり金の力が百倍にも千倍にもなったからである、それで世界を支配できるとまでなってしまったからである
ただ地銀でもゆうちょでも中小企業でもつぶしてゆくというときグロ−バル化経済で世界が一部の者たちに支配される、それがロスチャイルドとかロックフェラーだとかなる
それはわからないにしても金融によって金によって紙幣によって世界が支配されるというのは確かなのである
日本がなぜ貧困化したかというとき製造業の衰退もあるがグロ−バル化して一部の金融業者に世界銀行とかにより実体の富が奪われているということもあるとされる
金は金融業は銀行でも世界を支配する強力な道具だからでしる
でも資本主義は投資とういうものを理解しないと分らないのである
それで実際に投資してみることが資本主義を実感することになる
貯金していただけではわからないものだったのである、でも高度成長の時代は投資のこと株のことをわからなくても良かったのである
第一大学の時経済学部の教授が株だけはするなと言っていたことがおかしいとなる
そしたら資本主義のことが何もわからないとなるからだ
それも時代の差だったとなる、その時は素人は投資のことを知らなくても良かったからである
いつれにしろ農林中金の金融機関でもアメリカの訳のわからないブラック会社のジャンク債に投資しているとかで大損になるとか言われる
その影響は地方の真面目に農家でも貯金していた人にくる、虎の子の貯金が損失になり消えるともなるからグロ−バル経済というのは実は地方の関係ない人もまきこんでいるのである、高度成長時代はそういうこと全くなかったからである
こうして地方の生活も安定していとなると安心して暮らせないともなっているのだ
そしてグロ−バル経済でこうして衰退すると今度は日本自体が土地でも今度は中国に買われるとか外資に買われるとかなりすでに日本は植民地化されていると指摘される
福島銀行と合併した証券会社のSBIは外資だからである
銀行だけではない、日本がの土地でも会社でも買われてゆき、戦争しなくても経済的に植民地化されているというのもわかる
ただこういうことは眼に見えて理解できないから困るのである
オリッピックにしてもやはり一部のオリンピック貴族の利権のためにされていたことが判明した、おもてなしされたのは二百万円のホテルに泊まったというから国賓並みの待遇だったのである、そこで日本の金が奪われているということもあった
ともかく日本経済の衰退は津波や原発事故やコロナウィルスとか様々なことで起きているそれが地方の経済にも深刻なダメージを与えている、それが地銀とかゆうちょとか農林信金などの金融業が危機にひんしていることなのである
そこは地域で最も信頼されている生活の要ともなっていたからである
そういう所が失われてゆくことはその影響は地方に生きるものにとって大きな影響を受けるのである
2021年07月17日
老人に投資しろというのは無理 (老人の90パーセントは貯金の理由―地銀の役割がなくなる)
老人に投資しろというのは無理
(老人の90パーセントは貯金の理由―地銀の役割がなくなる)
あなたは、貴方がお金を預けている銀行が大きく変わることに気が付く。
https://www.youtube.com/watch?v=p_8JUFyFtZY
地場産商品の普及、生産、販売が可能になった
事業再生、始業譲渡などに100パーセント出資可能になった
これはまさにもともと銀行が企業家が作ったものでありその成り立ちに返ったということなのである、銀行自体が企業家になるということである
今までは5パーセントしか出資できなかったからである
ここのyoutubeでは今の銀行の問題をわかりやすく解説している
銀行のことでこうして語るのは貯金している人である
別に貯金もしない人は金に困っていても金融機関のことなど考えない
人間はやはり金のことが一番気にする
自分の金がどうなるのだろとうなり心配する
それで地銀でもゆうちょでも金をあづけているから心配になる
自分の預けている銀行はどうなるのだろうと心配になる
こういう心配がなかった高度成長時代は今になると特別恵まれた時代だった
利子は7パーセントもついた時もあったからだ
退職金が一千万だとしても二千万円に5年くらいでなっていたかもしれない
もう貯金していれば利子で十分に生活できた
それが今は預金封鎖だとか利子はゼロだとか地銀でもゆうちょでも投資をすすめる
でも投資のことは老人は簡単に理解できない、酷だ!
だから当然理解できないから損するのが多いし簡単に手を出せない、貯金で安心だという世代では投資は理解できないからだ
むしろ素人が手を出せないものとして見ていたからである
でもなぜこうなったのかというとそれは日本経済が衰退したためなのである
そのツケが金融機関に来て客に来ているのだ
地銀でもゆうちょでもなんとかもうけをださなければやっていけないとなりその窮地を責任を客まで及んでいるのである
お客さんが損しても会社を存続するためには投資をすすめるほかないとなっている
とにかく投資信託であれ株であれリートであれ手数料が額が大きいと利率として大きいのである、だからそれは銀行にとってもいい商売なのである
株が下がっても一切銀行損しないからだ、何か言われれば投資はリスクがあるで終わりでありただ手数料だけはもらえますよという商売なのである
ただそうなったのは地銀とかゆうちょだけの責任ではない、日本経済全体の衰退が金融機関に影響してなった
だから日本経済がまた成長しないと解決できない問題だともなる
それはもう簡単にできない、その金融機関に金をあづけている客が日本経済衰退の影響を受けて責任をとらされているとなる
投資、投資の時代だと盛んに言うけどそもそも老人は経験もない人がほとんどであり
その投資の世界に入ることは容易ではないから貯金しているのである
実際に投資で儲けている人はわずかなのである
そして何より老人は安全を安心を求める、だから投資に向いていないのである
でも金を持っている老人も多いから投資をすすめる、それは日本経済の衰退の結果であるその責任を客がとらされているのである
だから金の価値とは常に変動している、貯金しても変動している
預金封鎖でゼロになるとかもある、しょせん紙幣は紙きれであり今なら数字だからゼロにもなる、紙幣自体に数字自体に価値はないからである
価値になる本体は別なものにあるからだ、金が小判のように黄金だったらそのものに価値があるが紙幣は紙きれにすぎないのである
地銀はもう社会的に機能しなくなっている、要するに地銀でも地域の役割が喪失している地銀は単なる貸金庫なのかともなっている、金の保管場所である、それあるにしてもそれでは銀行は成り立たない、銀行の成り立ちがそもそも会社を起こして成功した人が銀行を作っていた、つまり企業家が銀行を作ったのである
養蚕とかで製糸工場でもうけた人がその中に銀行を作っていたのである
それは曽木資金であらたな起業をするためであった
だからもともと企業家がするものでありただ金を集める人が銀行になったわけではなかった、それが分化して銀行になったけどもともとの成り立ちは企業家が作ったものであった起業できる人が銀行を経営していたのだから当然会社経営する人であり通じた人であり
利益を出せる見込みを得られるとなる
何か今はそうしてそもそも会社でも何でもその成り立ちが問われる
どうしてその企業ができたのか、その由来が問われる、どういう意味があり意義がありはじまったのかということである
ただ高度成長時代にはそういうことは問われなかったのである
銀行でも金を客から集めればその金を借りに来る人はいくらでもいた、だから借りた人から会社から利子をとればいいだけだったのである
何でも成長する時代だと資金が必要でありそれを銀行に頼んだのである
その時預金している人も見返りがあったのである
それがなくなったのは日本経済が衰退したからである
そのツケが金融機関にのみ来ているように見えたが実際は国民全員に預金者にも来ているのである
つまり日本全体が経済成長しないかぎり過去のような利子もつかない、それより預金封鎖だとか金自体の価値がゼロになってしまうのである
だからこれはゆうちょとか銀行とか金融機関だけの問題ではない
日本全体の経済が衰退した責任を預金者にもとらされている!
投資を銀行であれ金融機関からすすめられても老人は簡単にできない、それで90パーセントが貯金したままなのである
銀行がそもそも企業家が作ったように会社を経営できる人が資金を得てまた新たな事業をはじめる、そういう人が銀行をもったのでありその成り立ちをみればそういうことが会社を経営できない人が金をもっても資金をもってもそれを有効に活かせないのである
地銀でもそういう経験がないから投資しろとなり手数料商売になったのである
そういうノウハウとか地銀にはないからである、ただ信用組合は地元密着で地銀よりはあるとしている
とにかくただ金を集める機関であり何か投資してもうけるというノウハウの積み重ねとかなかったのである
地銀は投資には素人だった!
その素人がすすめる商品のことなども知らない、知らないで客にすすめているだけだったのである、手数料をとるためにそうしていだけなのである
そして売らなくてもいい株を売り転売してまた手数料をとる楽な商売になっていた
つまり地銀にはもともと銀行の役割がノウハウがなかった
その成り立ちからして問題をかかえていたのである、それが経済の衰退で露見したのである、何か社会にとって意味があり意義があるものとしてノウハウとかあればこうはならなかった
それはオリンピックとも同じだったのである、オリンピックもただ利益利権のためでありコロナウィルスが広まるのに国民の安全を脅かすものでも強行する
それは一部の利権者のためであったが露見したのと同じなのである
実際の意味意義もなくなっていたからである
何か今社会全体でそうして社会にとっての意味とか意義が問われる時代になった
高度成長時代はそういうことがなかった、銀行でも金を集めればいい仕事だったからである、投資のことなどわからなかったのである
その投資のことがわからない地銀などが投資をすすめること自体が矛盾なのである
ただ日本全体の経済の衰退が地銀とかゆうちょとか金融機関の負担となり客もその責任をとらされているのである
だから根本的解決は日本経済が再び成長しないと解決しないとなる
でもそれは今や至難になる、ただ地銀であれもう社会にとって必要ないものとなる
社会に存在する意味と意義がなくなったからである
その意味と意義を見出すことは簡単にできない、ほぼ絶望的だとなるからだ
農業に投資して銀行員が農業しているのはまさに自ら投資をすることを始めたということである
だからただ金を集める楽な商売は終わったのである、そこで新たな価値を作り出すことは容易ではない、それでつぶれてゆくほかないとも見るのである
2021年07月13日
貨幣の謎は深い(2)ー貨幣の成り立ちと貨幣で歪めれた世界
ポロス 古代インド英雄伝
2021年07月11日
貨幣(紙幣)の謎は深いー金に物のような価値を感じない (親が残した家には具体的に価値をいつも実感する)
2021年07月06日
働かなくてもいい社会の未来 (ニート、引きこもりをすすめるひろゆき)
2021年06月28日
広域でモノや人が移動する経済構造から、地域集約的な経済構造への変化
2021年06月27日
広域化グロ−バル経済の負の面の増大 (地域の絆は失われ遠くの金持ちのために働く社会)
広域化グロ−バル経済の負の面の増大
(地域の絆は失われ遠くの金持ちのために働く社会)
経済が生活が大きく変わったのは明治以降と戦後である
明治以降はそれでも第一次産業中心であり農民中心の社会である
それは絹織物でも生糸の生産、蚕を飼う農家が本当に多かったからである
それは今でも兜屋根の家がそちこちにあるからわかる
養蚕は農業でもあったからだ
すると農民共同体があり江戸時代からの継続でもあった
確かに侍とが支配していた江戸幕府の封建体制は崩壊した
でも生活の継続があり依然として農民中心の社会になっていたのである
すると農民共同体というのがまだ活きていたとなる
戦後でもやはりその継続があった、農民の割合が依然として多かったのである
でも電機産業に変わった時農民の役割は激減した
今だともう第一次産業は一割にも満たない生産しかない
漁業でも林業でも農業でもそうである
戦後まもなくは東京へまだ石炭とか木材とか石材でも東京に送っていた
それで網の目のように森林鉄道が張り巡らされていた
そのために原町機関区があり平駅についで大きな駅になっていたのである
その時はかえって農山村の人口が多かったのである
飯館村でも一万以上いたとかなる
でも一次産業は衰退の一途をたどった、電機産業工業中心の社会となったからである
そこからグロ−バル化経済になり工業製品を電気製品を外国に売ることで高度成長時代を築いた
でもそれも一時的な繁栄だったのである、日本の電器産業が中国や韓国と同等なり追いつかれた、それはまねすればどこでもできるものだったからである
それで日本人が特別優れていたということではなかった
そこで日本人は特別優秀だということは原発事故で「安全神話」が崩壊した
日本の技術力はそれほど優秀でもなかったのである
むしろ今や中国より貧困化しているという
中国の給料は確かに日本より安いというが中国では生活を安くできるのである
そもそも基本となるものが公共料金が安くされているとか日本の生活実感とは違う
この生活実感は数字だけではわからないからである
中国旅行したときその時は十分の一の物価にしろ何か朝食とかでもお粥とかでも本当に安いのである、だから今でもそういう基本となるものが安いから給料の差で判断できないのである
ともかく第一次産業が日本で衰退した時、グロ−バル経済となったときそこに現代の問題が生まれた
農業でも農業はやるなと親に子供が殴られたとかあったり山の林業は外材に押されて衰退した、それに変わったのがこの辺では原発だったともなる
漁業にしても実際はそれで生活できないと東電に漁業権を売りわたしたのである
つまり漁業も衰退産業になっていたのである
その経済の変化が実生活に大きな影響を及ぼした
これまでの産業は地元に地域に地方が生産したものが都会で利用するとなっていた
石炭があれば常磐炭鉱があり東京に石炭を汽車で送っていた
蒸気機関車でありそのエネルギーは石炭でもあったのだ
その時はかえって地方は地域は活きていたともなる
それがエネルギーでも石油となり木材は外材とかなりグロ−バル化するともともとあった地域の産物が無用化したのである
ただ電器製品を輸出して売れた時は高度成長となり問題なかった
でも売れなくなったとき日本は低成長時代となり低迷して今や大貧困国だとまで言われるようになったのである
そしてグロ−バル経済というのは人間の心を歪めるものとして働いた
何か遠くの金持ちの方が大事になり近くの金のないものは貧乏人は金にならないから相手にしない、そのことを書いた
漁業でも実際は零細でありそれで遠くの金持ちのために最高級品のマグロは青森でとれたとかしても東京の高級店に送られる、そこで3万の寿司店で食べる人がいるとなる
そして地元では漁師は食べたとしても回りの地元の人は食べられないとなる
それが昔だったら新鮮なものを輸送できないから地元で消費させるとなっていたろう
その時地元の人はありがたいとして漁師に感謝していたかもしれない
そこに地域共同体が機能していたかもしれない、ただやはり石鰈などは高いからみんなが食べられるというものではなかった
でも東京の金持ちのために漁をしていたとはならなかったのである
そこで地域の人は漁師を貴重な人として役割ある人として認めていた
だからそうして危険を犯してまでとれたものをとってくれた漁師に感謝していたとなる
でも広域化グロ−バル化するとそういうことはなくなる
むしろ遠くの金持ちの方が上客でありその人たちのために売るために魚をとるとなる
地元の貧乏人相手にしても金にならないとなる
すると漁師と地元の人との関係は希薄なものになる、むしろ遠くの金持ちのために働いているとなる、すると地域の一体感は失われるのである
震災以後盛んに絆、絆を言われたがそれはあくまでも外部との絆だったのである
外部の人がボランティアであり仕事でも来ていて復興のために働いたからである
内部の人は実際はパチンコとかギャンブルで遊んでいた人たち多かったのである
これも広域化グロ−バル化社会で起きたことである
そこにもプラスとマイナスの面が生まれた
今度は漁師にしても魚とるだけではやっていけないから原発を作る東電に漁業権を売りわたした、そして事故前も事故後も他より多額の補償金をもらい別に魚をとらなくてもゆうゆうと暮らすことができたし原発御殿が建っていてうらやましがられていたのである
もともと漁師は魚をとることで地域の人として役割がありそれで感謝されていたのであるただそれが衰退産業化したとき東電の原発に頼ることになった
それは漁業だけではない地域全体がそうなったのである
でも事故になったときその責任が漁師にも問われたとなる
それは地域全体の崩壊現象が起きて故郷に住めなくなったからである
いづれにしろ広域化グロ−バル化は地方に地域に大きな影響を及ぼした
遠くの人を大事にして遠くの人がお客様となりその遠くの金持ちのために働くのが地方の人だとなる
それを象徴していたのが東京で三万の寿司を食べる人がいてその素材はマグロでも青森とか遠くから飛行機でももたらされるとういことである
また観光にしても地元の人より外国人をもてなすのである
日本の貧乏人をもてなしても金にならない!
こうなったのも実は日本の物価が外国より安くなったからである
日本では給料もあがない、でも外国では上がっているのだ
タイすら物価が上がっている、私は海外旅行を十数年していないからわからないが
外国では物価が上がり日本では安くなったから外国人が中国人なら爆買するとかなる
そして貧乏な日本人は相手にしないとなる
これもグロ−バル化がもたらした負の面だとなる
その負の面が大きくなったのが現実に実感するようになったのである
そうは言っても日本人自身が十数年前海外旅行ブームであり安い物価の外国で楽しんでいたからこれもカルマだとなる
今度は日本人が物価が安くなり外国人をもてなすことになったのである
そこで日本の旅館でもホテルでも金のある遠くから来た外国人がもてなされる
金のない日本人は相手にされないとなった
それでコロナウィルスで外国人が来なくなったり東京の金持ちが来なくなったので地元の人を福島県だったら県内の人を安くしてもてなすともなったのである
もともと高級旅館がありそれは東京の金持ち用なのである
何にしろ金のない人は誰も相手にしないというのが現代である
でも江戸時代とか何か戦前でもまだ地元で経済が回っていた
それで芭蕉の俳句で
「語られぬ湯殿に濡らす袂かな」
とあるとき湯治というのは農民が農作業で疲れをいやす場だったのである
それは地元の人たちをその労働の疲れをいやす場として提供していたのである
遠くの金持ちのためではないのである、それで東北には湯殿の碑とか本当に多いのであるそこは湯治の場だったのである
そういう所には百万都市江戸があっても来れない、だから地元の人たちが癒す場として温泉があり湯治があったとなる
とにかく広域化グロ−バル化経済というのは限界に来た
それは人間を歪めるものとして働くことが大きくなったのである
「隣人を愛せ」というけど「遠くの金持ちを愛せ」となったのが広域化グロ−バル化社会にもなったのである
隣人がもっともないがしろにするのが広域化グロ−バル経済なのである
ただ広域化グロ−バル化がすべて悪いとは言えない、ただそれが過度になりその負の面が大きくなりそれが人間を歪めるものとなったから問題なのである
都会と地方の格差、広域グロ−バル化は分断社会
(東京の寿司が三万円ーひろゆきの体験談から)
http://musubu.sblo.jp/article/188792157.html
2021年06月26日
都会と地方の格差、広域グロ−バル化は分断社会 (東京の寿司が三万円ーひろゆきの体験談から)
2021年06月19日
【ひろゆき】資本主義の限界について語る (価値観が変わると見方も変わるーニートと引きこもりの問題)
【ひろゆき】資本主義の限界について語る
(価値観が変わると見方も変わるーニートと引きこもりの問題)
https://www.youtube.com/watch?v=iWXlqJppEas
武田邦彦氏がひろゆきなどを労働を否定しているので批判している、労働は国民の義務だとしている、それが普通である、日本人はもともと労働することが強制というものでもなく労働自体に価値を見出してきたからだとしている
欧米系統になると聖書の教えで神からの罰として労働が強いられたとしている
だから労働はするべきではないということで奴隷にさせたとなる
またヨ−ロッパとかで奴隷階級が生まれたのは大陸では支配するものと支配されるものとに分かれた、常に大陸はつながっているのだから領地争いになり万里長城もできる
そこで支配する者と支配される者が生まれる
スラブ民族はスレーブは奴隷の意味なのである、それは東欧がそういう民族だったとなる日本ではそういう歴史がないから特殊な民族だったとなる
武田邦彦氏が旧来の労働を言うとき何か自分は反発する、それは結局人間は自分の経験から語るからである、一流の科学者技術者が労働について語るのと底辺労働者が労働について語るのとはそもそも根本的に違っているからだ
そういう人は労働はもう楽しいものであり苦痛ではないのである
でも底辺になると食べるための強制になる、私は底辺であり流れ作業や肉体労働などばかりさせられていたら労働自体嫌悪するのである
ただ肉体労働でも例えば職人を見ているとその人は生まれつき職人のようにみえる
仕事ができるし仕事が好きなのである、そういう人は別なのである
仕事というのは強いられたものと自ら望んでやる、適正があり興味があるのとは雲泥の差がある、でも一流の科学者技術者が労働を語るのと底辺労働者が語るのでは全然違ったものになる
だから武田邦彦氏がベーシックインカムは日本を滅ぼすというときもそうである
でもベーシックインカムは時代で言われてきたのである、機械化ロボット化する社会で言われてきたのである、特に知能労働でもAIが発達してきて言われたきた
ロボットというのは昔の奴隷の代わりになるものである
したくない仕事をロボットに機械にしてもらうのである、そして人間は人間にしかできないものを仕事とする、実はそれこそ理想なのである、実際ロボットではできないもの機械ではできないものAIではできないものがありそれをするのが人間的なものを追求する社会になるからだ
自分の場合は社会からはずれて旅ばかりするようになったのは底辺でしか働いていないからである、それで労働に嫌悪するようになった
たまたま家庭環境に恵まれてそれができたのである、だから親に感謝しているのである
どうしても自分にとって学校とか社会とか集団生活にてじめないからである
でも自分に興味あることを追求してきたのである
それは金がかかっても一銭の収入にもなっていない、社会から認められたこともない
でも遂にもう死ぬ時期になってその成果をプログなどで出すようになった
何か自分は自分一人でもこうして発言できるものに向いていたのである
ジャーナリストとかにも向いていたがそういう場に職を得られなかっただけなのである
まず人間は自分の向いている仕事などになかなか普通はつけない、不本意なものをさせられている、だからこそ会社員は自らを社畜と言っている奴隷と言っているのである
そういうふうに言うこと自体労働がすべていいものではないことを知るべきである
ただ人間は労働なくしてありえない、社会の存続もありえない、ただ本来は社畜とかではなく自ら選んで自分の適性ある労働するのが理想である、ただそれは本当にまれにしかないように思う
職人でもうまれつき職人のような人がいる、その人は仕事ができる、仕事を追求しているいい庭も作る、家のことも知っている、その人はだから仕事をするというとき金のためでもあるがその仕事が向いているし仕事ができるということでそれを他者に示したいのである、だからしきりに自分の仕事を自慢するのである
その人は自分が仕事ができて才能でも体力でもあることを示したいとういことで仕事している、だから単に金だけが動機ともなっていないのである
ただそれだけの仕事ができるのだから相応の金は欲しいとなっている
でもその人は仕事をするというときその仕事そのものに熱中するのである
だからいやいやながら仕事するのは違っているのである
おそらく本来の仕事は別に金をもらえなくてもやりたいことをすることである
確かにそこには訓練も必要だがそういう仕事はいやいやながら金のためにやらされる仕事ととは違ってるのである
ともかくなぜこういうことが今問題になるかのかというと本当に引きこもりとかニートとかが普通にいる社会である、それでそういう人と田舎で自分は逢う、なぜこんなに働かない人が多いのか、それも普通にいるのか、それが労働を強いられた高度成長時代と違っている、企業戦士として働いた時代とは違っている
そもそも老人がこれだけ多くて働いていない、おそらく日本では三分の一くらい働いていない、こういう社会はありえなかったのである
その数が多から社会でも困るとなる、団塊の世代などはまず働かないとか無職とかなると本当にまれである数百人とかの単位かもしれない、それが60万人とかそれ以上になるのは考えられないとなるからだ
それで社会でも困るからなんとかしろとなっているのである
本当は無職とかはアウトサイダーであり芸術家とかに多かったのでありそれは特殊な才能がある人でそうなったのである、だからそういう人は悲惨なことになった
ゴッホとかいろいろいる、それらの人は天才であり今のニートとか引きこもりとかは全然ちがったものである、ニートとか引きこもりは普通の平凡な人が今ではなっているからだ
いづれにしろ奇妙なことは時代が変わり価値観が変わったのである
戦後の焼け野原から始まった高度成長時代と今は違っている、物質的にはある程度満たされている、戦後十年は食べるものさえなかったのだからそういう時代とは違う
だからこそ好きなことをやれとか盛んに言う人が増えたのである
今までの労働観とは違ったものになっている、だから私はどちらかというと特殊であり
必ずしも無職であれニートとか引きこもりでもいいじゃないかということにもなる
ただこれも実際は相当な問題がある、社会性がなく将来厳しいものになる
それを親の介護でいやというほど経験したからである
だからいちがいにいいとはならないのである
人間はとにかくその人の経験から語る、その経験も限られているから偏見になる
また人間はその時代を生きて語るからその時代の価値観から逃れられない
また人間は一つの国で生活するからその国の価値観から逃れられないのである
それでひろゆきが外国旅行するならキャーバとかミャンマーとか北朝鮮がいいというときやはり広く外国を肌で知っている人は違っているなと思った
トルコのイスタンブールに滞在していたとき50歳くらいの会社をやめた名古屋の人が
シリアに行った、その人たちは純朴といいと何度も言っていた
シリアというと社会主義国だった、だからそんないい印象がない、でも実際そこに住んでいる人は純朴だったのである、それはラオスに行った人もそう言っていた
つまり資本主義国だとどこも同じ価値観になる、金が唯一の価値になる
でもそういう国ではない価値観に生きる人もある、そこで学ぶ方が多いというのもわかるだから先進国より遅れた国の方が学ぶことが多いというのも逆説である
必ず時代によって国によって価値観が変わってくるからである
これが地上から離れて天国に行けば全く価値観の違った世界に入る
この世にいればどうしてもこの世の価値観に染まるのである、これはもう絶対に脱することができないのである、死んで初めて脱することができるとなる
だから社会主義が必ずしも悪いとはならない、むしろ弱肉強食の資本主義はかえって人間をゆがめたともなる
資本主義は人間を幸福にするとはならなかったのである、民主主義も愚民主義になりいいものとは必ずもならない、とにかく人間社会はそもそもいろいろ体制があっても人間自身が変わらないから同じなのである
人間というのは決して欲から逃れられない、欲望から逃れられない、だから共産主義でも超格差社会にもなる、共産党幹部が富を一人じめとするとかなる
だから永遠にこの世は変わらない、いすいろ体制があっても機械化しても人間そのものは絶対に変わらないのである、それでなぜ宗教が生まれたかとなるとその欲をおさえるために生まれたのである
でもこれも今のカルト宗教団体とかみればわかる、かえって欲望は肯定されて欲望を満足させるものとして俗化したのである、そこであらゆる欲望は肯定されるというより欲望を強く持てとまでなっている、それがエネルギーがあっていいとまでなる
だからこそあれだけの何百万の会員にもなる、それはまたナチスとかとも似ている
要するに人間そのものは変わらない、欲から逃れられないからである
だから人間は欲で滅びるとされているのである
そもそもそうして宗教というのが仏教でも寺にこもって座禅して何もしない、働かないとういことがあった、それが修行なのである、ただ禅宗だと一日成さずば食わずとなって働くことを肯定しているが一面はただ沈黙の行をしている、働かないのである
そして人の喜捨に頼る、自ら汗して働かず恵んでもらう、これは反社会的なことである
資本主義はもともと修道院で生まれたという時労働に価値を置いていた
それは他者を助けるために働くとなっていたからだ、だから西欧的価値観だとその労働観も違っているのである、アジアは闇雲に働くということは肯定されていないのである
そしてプロテタンとが生まれたのはドイツとか北欧とか寒い地域なのである
そういう寒い地域ではどうしてもは働かざるを得ない、バナナなどがいくらでもとれる熱帯とは違うからである、そういう気候の相違でも価値観が違ってきていたのである
2021年05月27日
証券会社(銀行)の営業マン・アナリストの話は信じるな (手数料商売になっていることが問題ー転売をすすめるのはそのため)
証券会社(銀行)の営業マン・アナリストの話は信じるな
(手数料商売になっていることが問題ー転売をすすめるのはそのため)
最初に断言しておきますが、株式投資をする上で、 証券会社の営業マンと付き合う必要はありません。 ネットトレード全盛の今、なぜわざわざ証券会社の支店に電話をかけて、 高い手数料を払って株取引しなければならないのでしょうか? 「証券会社の営業マンはプロなのだから、相談するのは当たり前じゃないか」 というあなたは、証券営業という仕事を全く理解していません。 証券会社の営業マンは「株や投資信託を販売するプロ」であって、 「運用のプロ」ではありません。 彼らの仕事は、株や投資信託などの金融商品を買ってもらい、 手数料を稼ぐことです。 あなたが銘柄選択で悩んでいようが、 株取引で損していようが知ったことではありません。
https://bit.ly/2SA3huL
個人投資家については、特に投資の適合性への配慮が重要である。
したがって、投資推奨等の対象となっている証券、特に複雑な仕組
みの新しい金融商品については、リスクを含め商品特性が十分理解
できるよう情報を提供するという姿勢が必要である。
https://www.saa.or.jp/ethics/pdf/kiritsu.pdf
昨日来た大和証券の営業の人は名刺に証券アナリストとなっていた
何か確かに地銀の営業の人よりは専門的知識がある、でもこの専門用語を使う時煙にまかれるとなる、そこで素人は理解不可能となる
例えば原発などでも専門科学者と話ししたら専門用語がでてきたとき理解不能となる
するとあなたは何もわからないから従えばいいとなる
法律に関しても専門用語がありそれを理解することは不可能になる
そうして現代は専門家に支配された時代という指摘がある
専門家とはいたるところにいる、医者でもそうだし科学技術の職業となるとみんな専門家なのである、だから専門用語を使うのである
それだからこそイリイチが専門家のことをあれだけ批判したのである
人間は専門家によって無能にされている、結果的に専門家に支配されここでは原発事故で大被害になって住むことすらできなくなったのである
証券会社の営業マン・アナリストの話は信じるな
この説明は的を得ている、私の株とか投資信託とかの経験では地銀であれ銀行であれ証券会社は客から手数料をどれだけとるかが目的になっている
その例が何度も言っているけどリーマンショックの時、半分になった株を地銀の営業の人がJ=reitに勝手に回したことである
なぜそうしたのか?
とにかく売らせて別な金融商品を買わせればそこで手数料が入るからである
その手数料が額が大きくなると大きな儲けになる、決して損はしない、客が損しても
自己責任になるからである
証券会社の営業マンは「株や投資信託を販売するプロ」であって、「運用のプロ」ではありません
販売と運用は違うとなる、運用とはどれだけその人にとって有利な商品と運用をすすめることである、そこで手数料がとられるのはやむをえない
でも全く客のことは考慮しない、銀行と証券会社の利益を手数料を第一にしてすすめているからだ
だから何か常に一つの金融商品を売ったり買ったり転売をすすめる
つまりそうしていると必ず手数料が入るからである
リーマンショックの株を8年間くらいそのままにしていた
ところがそのことがかえって良かったのである、それが元にもどり上がりはじめたとき
J-reitに売りそのJーreitが暴落したのである
この時から私は銀行の営業の人が信じられなくなった
でもそのことがかえって次のもうかる株を買えなくさせた
ギャンブルでも必ずもうかるともっともうけたいからまた賭けるとかなる
でも最初から損すると賭けにくくなる
それでわざわざ最初に博打場の胴元はもうけさせるとかある
それが人間の心理だからである、だから株が人間の心理と深く関係しているというのはそのことでもあった
何が株でも投資でも歪めているのか?
そこに仲介者(メデア)を通しているからだ!
もし株でもパソコンとか使いデイトレだ―のように自力でやれる人ならもうけることは可能だしそれはすすめられる、それでも損することはある
それはその人のまさに自己責任なのである
ところがメデアを通すと仲介者(銀行、証券会社など)を通すと歪められるのである
情報にしてもマスコミから放送されるので真実が歪められるのと似ている
それでマスメデアがマスコミが報道する権力をもっているから支配できるともなるのだ
都合のいい情報のみを出して都合の悪い情報は出さないとなるからだ
その情報とは例えば何でも第一次の直接情報ではない、マスコミを通じて加工された編集された情報なのである
視聴者は直接その場面を見ていない
直接取材する本人と話ししていない、聞いていない
このことから歪められものとなる、それはNHKでもそうなのである、NHKの放送をすべて鵜呑みにはできないのである、そういう嘘の情報でも流していたことがあるからだ
だからインタ−ネットでも直接本人が話すことに真実があるともなる
ただここでも問題があるにしろ本人が直接話せるのがネットだからそこに真実があるともなる、ただこれでも直接面と向かって話すわけでないから信用できないことはある
でもそういうツールとしてインタ−ネットが生まれたということが大きい
私の言っていることで嘘はついていない、じかに接してそれを報告している
インタ−ネットの時代は一人一人が放送局にもなる
だからすぐに個々人が報道の対象にもなる、悪いことでも個々人に指摘されたり買い物でもすぐに評価されたりする、それは的を得ていることがある
それで銀行もメデアであり仲介者でありそういうメデアはなくなる
こう指摘する人がいた、銀行がメデアということがわからなかった、でもクラウドファンディングはまさに銀行とかが融資するのではなく直接融資だからそうなのかと見た
つまりもう銀行を通さない投資の世界が成立してきたのである
銀行の出番かなくなり窮地にたたされて銀行もこれからどうしていいのかわからず模索する時代となった
第一いくら貯金しても利子も得られないとしたら銀行とは何なのだろうとなる
何の役割りがあって存在するのかとなる、存在理由がなくなっているともなる
とにかくなぜ株とか投資信託とかを銀行でも証券会社でもすすめるとき危険なのかは
手数料をとることを目的にしているからである
そこでまともな運用を目的とてしいない、その人にあった適切な運用を教えるのではないし買わせることもない、そこが問題なのである、客の運用より販売で手数料をとることが優先されるのである
ただそうはいってもそのすすめられたものがすべて悪いとかはずれるというのではない
そもそもの目的が手数料をとるということになっているからである
手数料をとるためには転売するのである、自分の成績をあげるのにもどうしても売り買わせる必要があったからでとなる
別にリーマンショックで上昇していたなら株を売る必要もなかったのである、チャートをみる力があるのだから銀行の営業の人は知っていたからである
そこが一番の問題点だったのである
だからといって今回のように株がこんなに上がるということもあり株とか投資をするなとは言えない、そのための条件を満たす人はしてもいいともなるし
銀行でも証券会社でもすすめられたものが全部損するということはないのである
ただそれをできる人はメデアに銀行と証券会社に頼らずに株のトレイドが売り買いができる人だとなる
結局それをするとなるとパソコンの画面を一日見ていることになる、するとその他のことは何もできなくなるから時間がもったいなとなる
時間の活用こそ最も人生で大事なことだからである
一生デイトレダーで大金持ちになったとしてもそれで人生が実りあるものとはならないからだ
いろいろ職業のことを考えるとどうしても今や銀行とか証券会社はいいものに見えないのである
それで建設会社とか住宅関係の人はまともだというときそうとも思った
その人は大工として庭師として優れている、デザイン力もあり力仕事もできるから何か自分には驚きである、その人に問題があるのだがそれで金をとられても無駄だとはならないしその人を評価できる
その人はアーティストだとも見た、仕事が芸術作品を作るのと共通していたからである
銀行とか証券会社の人はあまり評価できない、ただそういう仕事は資本主義社会は必要なのだから全部否定はできないのである
投資するとかは資本主義社会の基本にあるし株式会社ではみんなそうして投資して回しているからである
だから二回投資信託を株をすすめてきたときその時買っていれば大儲けしたのだから
銀行でも証券会社でも別に全部が悪いとならないし責めることはできない
ただ最初の失敗がありそれが自分の場合は脳にすりこまれて買うことができなくなったのである、ただ地銀でも証券会社でも途中でまた転売をすすめたかもしれない
何か一つの金融商品でも長く置かないのである、転売をすすめて手数料をとる
そうしたらそこから手数料がとれないからである、でもわかったことはそうして長期的にみればいくら半分に下がったとしても株は必ず上がるものだということを知ったのである
でも銀行と証券会社はそういうことはさせない、必ず転売をすすめる
買わせては売らせて手数料をとるということは一番の問題だったかもしれない
でも株はそうして常に変動するものだからそう言われればまかせるほかない
そして自力でデイトレダーのようにできないのだからどうにもならない
すると老人は向かないし9割が貯金したままだとなるのである
それでも今は貯金自体が大きなリスクになっている、そのことでまた悩むのである
それも日本経済が衰退するばかりだからとなる、そうなるともう個々人の力ではどうにもならないともなる
原発避難区域では5000万の家を置いて600万の中古の家を買って小高から原町に移ったという人がいる、それだけの資産でもゼロになってしまったのである
これももし日本全国にあてはまると日本自体の価値が低下すると個々人の資産も低下してゆくということになるのとにている
そうなると日本自体の経済力を上げない限りどうにもならない問題だともなる