2020年01月17日

格差社会の生まれる原因は技術の差 (歴史でも階級制は継続してなくすことができなかった)


格差社会の生まれる原因は技術の差

(歴史でも階級制は継続してなくすことができなかった)

格差がなぜ生まれるのか、そしてなぜ極端な格差がグロ−バル化社会で起きているのか?歴史をふりかえると平等な社会などこれまでなかった
わずかに日本の縄文時代が階級制がなかったとかいわれるし日本は階級制があっても
侍階級はヨ−ロッパの貴族とは違う、食べるものでもたいして変わらない
それは日本自体が平均すれば貧乏だったからである
日本はそうした極端な格差を作らない社会だったのである
日本の特徴はまた民族同士が絶滅させるような熾烈な戦争はしない
それで中国人が来て敵の墓まで作っている、敵味方塚があるのを理解できない
中国でぱ墓まで暴いて敵を罰しているからである

日本だけが世界からみて特殊な歴史を島国で作ってきた民族だったのである
大陸国家はみんな階級制社会である
そうなるのは民族同士の戦争となり負ければ奴隷にされるからそこに極端な階級制が生まれる、そしてどこの国でも奴隷がいる、奴隷は近代になっても黒人奴隷がいたようにアメリカという民主主義の国でもキリスト教国でも是認されていたのである
その奴隷をめぐってリンカーンが廃止することで南北アメリカが戦争になったのである

ただ人間社会に根強く階級制が金持ちと貧乏人がいるのか?
この階級制を生む原因は何なのか?
それは民族同士の争いで戦争になれば負ければ奴隷にされるということからも起きているそれで今の東欧はスラブというときそれはスレーブであり奴隷から来ていたとされる
ローマ帝国の辺境にあるからそういう名がついたのかもしれない。

階級制は必ずしも民族同士の争いから起きたとは限らない
人間が存在したときから何らか階級制を生むものをはらんでいた
例えば石器時代があるとする、その石器でも武器になる、石器をもたない民族はその石器をもつ民族に戦争して負ける、すると階級制を作る原因は技術力だとかなる
また騎馬民族が世界を席巻したのは馬を操作するのにたけていたからである
また鉄を作りだしてその鉄をハミを馬に装着して強くなった
そして青銅器時代があり鉄の時代になり青銅器は刀でも鉄の刀が強度が強いので負ける
ここに人間の階級制を作る原因が技術力にあることを証明している
日本の戦争でもアメリカが空軍が飛行機が主力となっていたとき軍艦主義で日本は負けたのである

現代型新人は石器の大量生産をはじめて以来、息てく上で必要以上の食料を得るために
殺戮を行います、実際は十頭程度した食べないのにもかかわらず、何百頭のバイソンを
谷に一気に落としているのです
こうした必要以上の平気で行うことができるのが現代型新人の特徴であるのです
(地球文明の寿命ー安田、松井)

何かヨ−ロッパとは大陸は戦争のために技術が発達して来た
それだけ戦争が多いからそうなった
まず戦争があれば奴隷が生まれるからそこで必ず階級制になるのである
そして戦争でも技術力は核で頂点に達した、核兵器をもてば北朝鮮のようなとるにたらない小国でもアメリカと対等になるからだ 
それで怖いのは石器時代にすでに大量の動物を殺す術をもっていた、それが技術が発達すると人間をも大量に殺戮されたのである
鉄が発明されたときもそうであり第二次世界大戦では何千万人が殺戮されたのである
遂に核兵器で日本は一都市が絶滅の危機になった
つまりゼウスからプロメテウスが火を盗んだ罰を自らカルマとして受けたのである

こういう歴史を人間が終わることなくつづけてきた
そして今のグロ−バル化による格差社会もまた国内の格差社会も階級社会もやはり歴史としての継続なのである
アメリカは一時はそうしたヨ−ロッパの貴族がいない平等の社会だったがやはりもうアメリカンドリームはない階級社会化している
そこでは学歴が階級を示すものとなってたりする

人間の歴史をふりかえれば格差とか階級制が不可避なのである
農民だと土地をもつものと持たない者で格差が階級社会が生まれる
戦前の地主と小作がそうだった、そういう格差は戦後はなくなった

でもなぜ格差は階級社会はなくならないのか?

現代のグローバル資本主義の格差社会はなぜこんなに極端になったのか?

金融資本主義で株を操作して極端な格差をうむ、またやはり技術力の差で格差をうむ
ITに通じていればアメリカの GAFA(ガーファのように富を独占する
アマゾンなどの会社が富を一人占めにしてしまうのである
つまり人間の歴史では技術力が格差を生んできたのだからここでも同じだったのである

一見現代社会は奴隷など生まないとみる
でも歴史は形は変わるのだが繰り返しだとなる、階級制とか奴隷とか格差社会はなくならないのである
グロ−バル化するとやはり技術力により世界的格差が生まれる
米中の貿易戦争もまたIT技術の競争でありそこで優位に立つための争いである
これに負ければアメリカはその世界を支配する地位を失うから必死になる

そして人間は民族同士の争いも継続している、それが武器をもった戦争ではなく経済戦争になっている、ここでもやはり技術力の競争なのである
グロ−バル経済になると人件費が極力省かれる、それはコストでありだからアメリカですらロストベルト地帯とか取り残されて格差が生まれる
日本でも国内から労働力の安くつく海外に工場をもち競争するのである
そうなると国内空洞化してゆく、そうして遂には日本人はあと何十年かしたら中国に出稼ぎに行くようになるというのもそのためである

人間社会から格差は階級制はなくならない

その原因は技術をもつものと持たない者の差だとなる
だからAIだと盛んに言われるときもそうである
人間よりAIが優れているから人間はコストだからいらないとまでなる
おそらくSF的未来はAIが人間を支配する、人間はAIのロボットの奴隷になるとまでなる
技術力が格差や階級制を作るとなるとそうなっても不思議ではないのである

マルクスの言った生産手段を持たないプロレタリア―トは資本家の奴隷になるというのもそうである、生産手段とは技術力なのである            
人間をただコストとして人件費のかかるものとしてそれを省くものとしてみる
それでなければ人間を奴隷としてみる、それが現代社会であり奴隷がなくなったのではない、形を変えた奴隷社会格差社会階級社会なのである

SF的未来になると人間はコストだからいらない、人間は無用だともなる、そしてそんな人間は抹殺しろとかまでなる、障害者は役にたたないからコストだから殺してしまいとまでなる、それがナチズムにもっていた
AI社会が人工頭脳社会がいいように見えてもそこにも恐ろしい暗黒が待っていたとなる
人工頭脳が無用な無能な人間はコストだから抹殺しろという命令を出してそれが実行されるかもしれないからだ

つくづくそうなると人間社会とは何なのだろうとなる
それを2000年前に予言してたのが老子だったのである

鍬とか鎌とか道具をもつことを否定した

小国寡民はグロ−バル社会の批判だった

つまり技術を否定してまたグロ−バル社会を否定していた
確かに日本でも江戸時代は中国とも朝鮮とも友好的だったのである
それは貿易は出島でしたとして現代のような極端なものではなかった
あくまでも自国の生産主体の社会だったのである
国と国はこんなに干渉しないから平和が維持できたのである
AIでもやはりバラ色の未来とはならないのである
何より人間はロボットではない、人間自体が幸福にならない社会はどんな社会であれ理想的な社会とはならないのである
そこに技術に対する科学に対する異常な過信が生まれたのが現代だったのである




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2020年01月15日

SBI証券と福島銀行の支店が郡山に開店 (地銀としての役割は消滅)

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SBI証券と福島銀行の支店が郡山に開店

(地銀としての役割は消滅)


ゆうちょ銀行は資金運用の高度化と多様化のため、外資系金融機関などから専門家を多く採用してきた。それに伴い、外貨建ての有価証券などのリスクの高い、いわゆるリスク性資産の保有を積極的に増やしている。

ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2018/06/post_23851.html
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そもそも大東銀行でも私がかかわってこれが銀行なのかと疑問だった
証券会社と変わりなかった、現実に大和証券との人も来た
つまり銀行はすでに証券会社化していてその証券会社の投資信託などの商品を売っていたのである
そこで証券会社と銀行で二重の手数料がとられる
そして投資信託など銀行自体がわからない商品だったのである
それでその大元の作り主であるゴールドマンサックスに勤めるハーバード大学の出の人がその仕組みを作ったのだがそれは詐欺に等しいとして良心の呵責に耐えきれずやめたりした
それだけこ投資信託とか月ごとの分配金はわかりにくいし詐欺的だったのである

ともかくSBI証券は伸びている、野村證券とがが伸びないのは経営も危うくなったのは個人の投資家が金をもっている人たち高齢化してきているからそこで伸びない
またIT化してくるからその対応もできない、それは地銀でも同じである
それで外資のSBI証券がやがて一局になってしまうのかとなる
手数料無料とかしているから別に地銀をとか通さないでできるから手数料の面では有利だからである

ただここで大事なのことは地銀はもその役割を終えたということである
支店の会見で福島銀行の対面販売が強みだ頭取が言っていた
地銀とかゆうちょとかは地元密着で対面販売で信用を得てきた
でもその対面販売でそうして築いてきた信用を失墜することになる
銀行はこれまで信用第一でありそれができたのは貸す先が探さなくてもあしり利子もとれていたからである
だから銀行は安定した就職先として地方だは公務員と同じだったのである

それが貸す先も投資する先もない、それでグロ−バル経済の中に組み入れられて証券会社とか化して信用を失う
でも背に腹は代えられないとして投資信託とかで手数料を稼ぐほかなくなったのである
でもそうなれば本来の地銀の役割は喪失する
まさに福島銀行が僧である、対等の合併ではない、SBI証券に吸収されてこれまでの銀行の対面で築いた信用を基に証券が売られるのである

地銀は地(地元)のことであり地元のために尽くす金融だった
それがグロ−バル経済に組み入れられて地域の金融資産がグロ−バル化してゆく
その金はアメリカに吸収されるとしている
それで農林中金の金が6兆円も危ない投資につぎ込まれてなくなると言われている
そうなったのは農林中金では上にいる人は天下りのような役得の人であり証券について知らないからだという、それと同じようにゆうちょの金でも年金でも投資として使われている、それがアメリカの証券会社など外資に奪われことになるという
それは日本がアメリカに戦争に負けた植民地だから小泉首相のゆうちょの民営化があり
それでその金がアメリカに貢ぐためだったとなる

地銀は信用組合より地元に密着していない、信用組合だときめ細かに地元に融資しているし関係を築いているという、地銀はそこまでしていないしそういうノウハウももっていない、だからSBI証券のようなグロ−バル証券会社に吸収されやすいものだったのである
そして地銀の生き残り策として江戸時代の金融を参考にしろというのもまた日本回帰の例なのである
無尽とか頼もし講とか金融があった、近くの同級生は古い家でそういう書類が残っていたという、何か主催者のようになっていた
ただそれは規模が極めて小さい、10人とかの規模だった
でも逆にそうした地域金融の小規模金融に返り金融を見直すということにもなる
そして地域創成のために農業を銀行員がじかにしていたりするのも時代の変化である

またクラウドファンディングもそうである、それは個人を全国の個人が賛同して金はわずかでも投資する仕組みである
何か起業するにも金が必要になるからインタ−ネットで金を集める
そういう小規模事業である、まずそうした小規模事業はインタ−ネットとかでやりやすいそもそもメデアになるとマスメデアでありテレビと新聞とか出すのは個人などできなかった
今なら無料でプログでもできる、せいぜい有料になっても一年で一万も満たない
そんなことでテレビ放送自体がyoutubeでできるのである
それで外国に住んでいる人が報告していたがあれは外国の特派員だと見た
そういうふうに報道とかでは変化している、巨大な会社とか資本はいらないのである

いづれにしろ福島銀行のようにもう地銀としての役割は終わった
銀行員は証券の会社員となったのである、そして銀行の半分は消えるというときまさに
そうなってきたのである
銀行が必要がなくなった、その役割が消失した
その象徴的な出来事がSBI証券と福島銀行の合併だった、吸収だったのである

posted by 老鶯 at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年01月06日

貨幣が紙幣がなぜ今問われているのか? (キャッシュレス社会とかグロ−バル経済で通貨を何にするか問われている)


貨幣が紙幣がなぜ今問われているのか?

(キャッシュレス社会とかグロ−バル経済で通貨を何にするか問われている)



貨幣とは何なのかということを追及するとそれが不可解になる
いろいろな人が貨幣について述べても何かわからないのである
簡単なところでは金本位制というのはわかりやすい
金自体に価値がありその金が基となり現実にあるからそれで紙幣で発行される
その裏付けはその紙幣で金と交換できるということである
だから金の額が決まっているから発行される紙幣は制限される
現代は金本位制ではないから紙幣は紙なのだからいくらでも作れる
でもそれが大量に出回るとその紙幣の裏付けがない、金と交換できないのだから紙くずになるのである

つまり大量の紙幣を刷ってもそれ自体には何の価値もない、紙くずにもなる
だからこそバブルが起きる、オランダのチューリップバブルでもそうである

そういうものになぜ高価な値段がついたのか?

それは大量の紙幣を紙をもっていてもそれ自体に価値がないからである
金余りが高じるとそうなるのは何か簡単に理解できる
本当の価値は紙幣にはない、紙幣は紙に過ぎないからである
だから貯金していたとしてもその貯金しているのは紙幣であり数字にすぎないとしたら
紙幣は紙屑になるし数字は一瞬にしてゼロになる
数字に価値があるはずがないからだ

そして現代は金余りだというときバブルになるというとき大量の紙幣が土地とか建物でもまた前は絵画とかが投機商品となった、ゴッホの絵が百億円とかで買った実業家もいる
それはその絵画に価値あるというより投機商品として買った
いくら金をもっていても紙幣なら紙くずになり数字ならゼロになるからである
それよりはましだとしてチューリップの種であれ何でも実物と骨董品でも何でも持っていた方が価値があるとなるからだ
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金融資産は3.4倍に増えている
つまり世界的に金余りなのである
日本は金融資産ではアメリカよりも大きいとかある
日本は金は持っている、でも活かされていかないのである

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島の人たちがみんなこの石貨どこの家にあり誰の者か認めている
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銀行の場合は銀行だけが特定の個人の金があることを認めている
他の人はわからないのである


不思議なのは石の貨幣がヤップ島である、それは重いから移動できない、いつも持ち主の家の前にある、それがなぜ貨幣としての機能があるのか?
わかることはいつもその石の貨幣を島の人たち見ている

その石の貨幣を島の人たちがみんな認めている

ここに貨幣と同じ役割がある、それは交換できないのだがその石の貨幣をもっていることはみんなが認めている、だから立派な石の貨幣をもっている人は信頼される  

このみんなが認めるということが石の貨幣として価値をもたらしている
このみんなが認めるということが大事なことを銀行のことで気づいた


例えば金というのはタンス預金として持っているとその人が持っているかどうかもわからないのである、だから盗まれたとき盗まれたと認識するのはその持っている人しかいないから証拠がなくなる

この人はいくらの金をもっていましたと証明する人がいなくなる

ただ預金通帳を見れば日にちが記されていていくら引き出したかわかる
それを手がかりとして証拠として盗まれたことを証明できるかもしれない
でも証拠がないと盗まれたということを証明できないのである
だからタンス預金は盗まれたとき警察に訴えても返ってこなくなる
証拠がないからである、常に犯罪を証明するには証拠が大事になるからだ

あなたは本当にその金をもっていたのですか?

それを証明できますか?

こうなって立証することがむずかしくなる

だから金というのは何かというとき本来は島の人たちが石貨でもある人の家にあることを認められて存在しているともなる
その石貨は重いし盗むことができないから安定した貨幣だとなる
ただそれ自体で交換はできないのである
ただそこに金があるということを常に示している、それをみんなが認めているのである

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日本経済新聞1月6日号

一方で今の金は紙幣はそれ自体で匿名性でどこでも何でも買える、交換性が抜群なのである、それが誰の金でなくても金さえあれば例え盗んだものでも使えるのである
その金をつかっても誰が使ったなどわからないのである

でもキャッシュレスになるとカードで買うとその本人のことが個人情報がわかる
斎藤という人がいくらいくら使ったとか記帳されるからわかるのである
それでここで問題にしているのは銀行預金がないとカードが使えないということである
とすなると銀行なしではありえないということで問題にしている
銀行がつぶれたりするとかいろいろ銀行だけに頼ると問題が起きたとき使えなくなる
現実に銀行がつぶれるとか騒いでいるからである

金というのは銀行にあづけるとこの人がいくら持っているとかわかる
銀行がいくらあづけられたかと証人になるからである
それはタンス預金とは違うのである、それは盗まれることはないのである
ただ預金した人の金があることを知っているから投資信託とか売りつけにくるのである
そして遺産相続の時も銀行がかかわるのである
別に親族でもないのに金がおろせなくなるのである
つまり銀行がその人の金を操作するようにもなるのである
だから金を銀行に預けることは権利を委任するような感覚になる
銀行がその人の金に口出してして操作するとまでなる
だから銀行とは何なのか?これもわかりにくいのである

石の貨幣だと島の人たちが貨幣として認めるものだった、それはもし現金をもっていたらあの人はいくらもっているとかなる、大きな石なら大きな金をもっていると認める
でもそれは交換に使用できないのである
でもみんながあの人には大きな石貨があり金持ちだと認められるのである
ところがタンス預金にはいくらもっていもみんなが知らないから認められないのである
第一そんな金をもっているとなると周りからいろいろ言われる
だから隠すことになる
一億円見せびらかして殺された人もいたからである
もし銀行にあづけていれば盗まれることも殺されることもなかったかもしれない
現金を見せびらかして現金が家にあると思われたから盗まれて殺されたとなる

でも銀行にあづけるといろいろ銀行側で今は苦しいから投資信託とか損するものがすすめられる、それはゆうちょでも同じなのである
金が余っているけど投資してもうける先がないからである
だから日本は貧乏になっているというとき金は紙幣は貯金は多いのである
でもその金があっても有効に使えない、会社だと内部留保であり投資に使わないとか
金が全体に回らないのである

ともかく今貨幣を紙幣をどうするのか、グロ−バル経済にもなり混乱している
それは金というものが何なのか?それ自体が問われるのもそうである
そもそも金というのが一定したものではない、金が単なる数字であり情報だという人もいる、通信がこれだけ発達するとまた金がもう紙幣ではなくキャッシュレスになり数字になり情報になる、でも依然として銀行に貯金がないと使えないという指摘もある
そうしてブロックチェーンとかが生れて来る素地ができている
これはわからないにしてもやはりその人が金をもっているということを銀行という民間会社だけではなくみんなで認め合うということかもしれない
それは石貨とにているのである   

つまり金でもそれ自体で通用していたがキャッシュレスとなるとその本人の個人情報がはっきりしていないと使えなくなる
そしてカードから金がどれだ何に使ったかとか把握される
それを銀行がするとなると銀行が潰れたりすると使えなくなるから困るとなるのもわかるキャッシュレスだと匿名でなくなる、個人の情報があって信頼されて金が使える
もう金を盗んで使えなくなる、それは誰の金か登録してあって他の人は使えないからである

いづれにしろ金について紙幣についてどうするのか転機に来ていることは確かである
それでそもそも金とは紙幣とは何かを世界で問われるようになったのである
ただ正直金が何なのかわかりにくい、金には多様な面があり多様な機能がありそれがなかなかわかりにくいのである

第一国で預金封鎖するとかなぜできるのか?
個々人の貯金をゼロにすることもできる、そんな権限が政府にあるのかとなる
すると金とはあくまでも政府の国のものであり個々人にはないともなる
だから金は紙幣は国で管理して民間銀行で管理してはならないともなる
なぜならそんな権限を持ちえるのは国であり国の都合で意のままになる
国が借金しても預金封鎖で金をとりあげて払えばいいとかなる
個々人に金をもつ権利はないとまでなる

とにかく金であり貨幣であり紙幣でありこれがグロ−バル経済になると大きな力をもつ
金で世界を支配できるとかなり問題になる、ドルが世界基軸通貨になっているからアメリカが世界を支配するとなる
それでいいのかとなりユーロが生れたり中国でも反発しているのである
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2019年12月28日

大東銀行の収支決算をみる (危険度は103行で83位)


大東銀行の収支決算をみる

(危険度は103行で83位)

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収益率がROAで順番を決めている
0.12ということは1億円から0.12パーセントの収益は120万となる
10億だと1200万になる
この比率は総資産額が多くその金の大きさ比例して大きくなる
だから総資産額が大きいと有利になる

それは株でも投資でも金が大きければ大きいほど世うける率も大きくなる
一億で一パーセントでも百万になり百万の収益ともなる
だから金の量に比例して例えもうける比率が低くても大きな収益になる
ただ損も大きくなる、でも株式だとそうして大きな金をもっていないとまずそもそも大きくはもうけることはできない、だからその元金が多くためないと株でもなんでも金融では大きくもうけられないのである
大東銀行の総資産は少ない、東邦銀行から比べると一けたも少ない
総資産が少ない銀行は危険度が高くなる、それで福島銀行と島根銀行がSBIに外資に買収されたのである

そして収益を見る場合、そこに勤めている社員の頭数をみる
つまり収益に対して勤めている人の頭数で割ると一人当たりの収益もわかる
それでその収益に対して人が多すぎると負担になりスリム化したり人を減らさざるを得ないのである

従業員数515名 
※従業者数は就業人員数であり、出向受を含み嘱託および臨時従業員を含んでおりません。
店舗数58

515人の従業員がいる、515÷58=8・8人である
この人数だとすると鹿島区の従業員はそのくらいかもしれない、ただ臨時従業員とかもいるからその内訳はわからない、臨時従業員はスーパーとかコンビニのように銀行では雇いないと思う、なぜなら金を扱うから信用が第一になるからだ

福島県の市町村の数は

13市 31町 15村 / 計 59市町村 

南相馬市だと原町区は人口が多い、鹿島区は一万くらいである、南相馬市内に二つ店舗がある、だから市となると広いから二つあるのも普通である
また町となると一つくらいがあるのか?村となるとないようにも思う
つまり13×2=26であり一つの町に一行あれば26+15=41になる
会津市とか郡山市とかになると三つくらい天保がるのかもしれない
そんな店舗の数がある
そしてこの店舗の負担が今になると大きいのである
その維持費が負担になるのである

そして大事になるのが収益があったとしてもそこで大事なのは一人一人でその収益を割ることだと説明している
なぜなら従業員に給料を払うにしても収益に左右される、収益率が下がれば従業員の数が多ければ負担になるからだ

10億の収入があるとして収益があるとして従業員の数で割れば
1000000000÷515=194174になる

つまり約20万は一人頭の給料として払えるとなる、ただそこに店舗の維持費などを計算するとそれだけではすまないから今では店舗を維持することが問題になる
インタ−ネットだと店舗がないから費用を節約して手数料とかを安くできるのである
ただこれは高齢者になると通信だと苦手になるから問題がある
なぜなら今金をもっているのは60以上だからである
私もインタ−ネット預金したが何かアクセスするのに暗証番号とか複雑でできなくなってやめたからである
だから対面であり店舗があると安心であり信用につながっているのだ
それは高齢者にはいいのであるがこれからそうでなくなるら店舗営業を減らさざるをえなくなるのである

何か自分は大東銀行には投資信託とかで一番かかわった
だから地銀の経営が苦しくて倒産するとかいろいろ言われると不安になったのである
そして銀行の社会的役割というのも良くわからなかったのである
社会では銀行は一番わかりにくいのである
それでこれがグロ−バル経済の金融資本主義になったとき本当にわかりにくくなる
その仕組みの複雑さで投資関係は人をだましやすいのである
だかち農林中金が6兆円もの金をアメリカの国際資本家にだまされて投資したと警告されている、それはゆうちょ銀行でもそうであり地銀でもそうである

投資とか株とか何かそれがだまされやすいのはそもそも複雑で理解しにくいからなのである、それは原発ともにていたのである、原子力のことを説明されても理解できないからである、あなたは核のことがわかるのですかと言われれば何も言えなくなるからである
私は文系だから科学のこと技術のことはわからないからである

ただ文系でも銀行となると数字が大事になるから理系でもありまた文系的要素もある
何か政治とかそれぞれの国の事情とかいろいろもものが関係しているからである
株が上がったり下がったりするのはいろいろな要素がある
その要素を見るということは国際政治とかいろいろなものが関係してくる
そういうものは文系なのかとみたのである
ただ銀行は数字を扱う会社だから数字に強くないと仕事はできない、もう金は数字になっているからだ

そして金が数字になったとき良く数字を見ていないので自分の金を把握できなかったのである、いろいろ利率とか関係して数字で混乱したのである
それは投資信託などは毎月分配型となるとそれは元金から引かれていたから収入にはていなかったのである、投資信託などはまず素人には理解できない
農林中金でもゆうちょでも地銀でもアメリカの国際資本家にだまされてCLOとかの危険な商品を大量に買って警告されている、農林中金では6兆円も買った
その金が吹っ飛んでしまうというのも怖いことである
それはら預金者に返ってこないともなる、他にも投資で失敗すれば巨額の金が返ってこなくなるということがある、それは日本の年金でもそうなのである

そして何百兆の金がアメリカに日本でつぎ込んでいて為替差益でドルの価値が低下してゼロになるということを言っている
アメリカの経済は落ちてゆくだけでありドルの基軸通貨の時代は終わったとしている
そうなると外貨建ての保険なども危険なのかとなる
そしてなぜ日本ではゆうちょでも小泉首相の時民営化したりしたのか?

それは国際資本家にまたアメリカの圧力でそのゆうちょの金を国際金融資本家にまたはアメリカにさしだすためだったとなる
つまり日本は独立国ではない、アメリカの疑似植民地であるからアメリカの意向に従わざるをえないのだ                                                
だから中国に朝貢したように貢がねばならないのである
結果としてアメリカによって日本が汗水たらした働いた金が百兆円がゼロになったというのも悔しいとなる
ただ額が大きいから実感できないのである

なぜ自分がこんな大東銀行が気になったのかというと自分の金がそこでゼロにもなるという恐怖を感じたからである、自分の利害と密接に結びついたからなのである
科学技術となる理解できないがなんとか銀行だと文系でも理解できる範囲にあるのかと思った、ただ細かい数字になると理系の分野なのである
銀行と数字は切り離せないし今の社会は数字化した社会だから数字に強くないと生きてもいけないとなっているのである 

とにかく最下位の島根銀行が外資のSBIに合併吸収されたとか福島銀行もそうなった
つまり大東銀行もそうなるのかという不安である
総資産額が低いのはどうしても危険になる、福島県では東邦銀行が安定しているからこの一行しか残らないとされているからだ


週刊ダイヤモンド】全国地銀 余命ランキングから見る 銀行・企業の見方

youtubeはわかりやすい、そしていいものがヒットしやすいのである
テキストの検索だと数が多すぎで目当てものものに当たるのが大変なのである

預金封鎖その2 欧州初の預金封鎖の凄まじい事実、ドイツ、フランス、そしてロシアの裏にあのIMFの圧力があった!

スペインに住んでいる人も金融について預金封鎖について語っていた
スペインに若い時からずっと長く住んでいたので詳しい
実感で語っている、個人的ボランティアの特派員になっている
こういう人は見る人も多くなる、まず外国は旅行したくらいではわからない
住んだ人しか深いところがわからないのである 

youtubeは相当に情報世界を変えている、テレビとなっているから見る
テキストだと検索で読まれるのは少ないがyoutubeだといいものに当たり安いのである
そしてわかりやすいから要点を理解できるのである
第一一つのテーマで一万人も見ればすごいと思うからだ

ただこの世界も子供が見ている、何百万の登録者がいることに驚く
それは軽い娯楽としての子供向けのyoutubeなのである
でもこういう人達が大人になればもうテレビは見ない、だから大人になったらユウチュバーになりたいというのもこの数字からわかるのである






posted by 老鶯 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

金融資本主義の限界を語るyoutube (2020は確実に経済でも大きく変化する年)


金融資本主義の限界を語るyoutube  

(2020は確実に経済でも大きく変化する年)

「金融資本主義支配と搾取の構造」

経済の仕組みがわかりにくいのは貨幣とか紙幣とかの問題が基本にある
貨幣が生まれたことで便利になったのだがその貨幣によって人間の社会が変質してしまった
それはギリシャのボリス時代からすでにそうなっていたのである
つまりすべての価値が貨幣で計られる、貨幣が生まれたことのマイナス面がすでに紀元前から始まっていたのである
だから貨幣のない社会と貨幣のある社会を対比で考える必要がある
でも貨幣の歴史そのものがそれだけ古いのだからもう貨幣のない社会がわからなくなっている、エジプト文明には貨幣がなかった?、マヤ文明とかにもなかった
中国で始皇帝の時代に貨幣は統一されていた

何か金融資本主義と本来の資本主義が違う、そのことをわかりやすく説明するyoutubeがあった
これも何か理解を深めたがそれでもむずかしいと思った
このサイトでは金融資本主義だと必然的に極一部の人に金が集中する
世界で六人の人たちが金をにぎる、それはそういう仕組みでありその仕組みをかえなければ格差はなくならないというのもわかる

金とは銀行が作り出す借金でありその借金は幾何数級のように増えてゆくという
そして返せなくなりその借金は次代にもちこまれる、子供たちがその借金を払うことになる
つまり借金は消えないのか?それはやはりカルマとなってゆくのか?
親の因果が子に報えてゆくという
でもまた不思議なのは政府通貨を百兆円だすと借金は消えるとかもいう
これも不思議だとなる
まるで手品ではないか?そんな簡単に借金とは消えるものなのか?
個人で借金すると借金を返せないために自殺する人が普通にいる
その負担はそれだけ大きいのである

政府通貨を百兆円だせば国の借金は消える?

これもなんなのだろうとなる
国レベルになると金というのもを理解することが不可解になる

金はもともとない、金は数字としてはゼロだというのはわかる
金自体には何の価値もないからだ
金の力を実感するのはそれで買ったもの得たものによってである
家一軒でも建てればその力を実感する
でもその他で金の力を実感できるのものがあるのか?
いろいろ遊ぶということもある、旅行もある
そういうものはしてきたから今はしたくない、本当は山でも上りたいが体力がなくなりできなくなった、年取ると金だけではできなくなる

金融資本主義が国際資本家によって富が強奪される仕組みだという
それは日本の銀行でゆうちょから地銀でも特に農林中金が6兆円の金をあやしげな投資先に金をつぎこんだから破産の危険があると警告されている
これも投資先がないためである、それは国際資本にだまされて買ったという
するとそうして農林中金に貯金した日本人の金が奪われるとなる

それはもう金を投資して利益をあげる会社もないからだ

そこで資本主義がゆきづまっていると学者も言う
そんな変な危険な場所にアメリカの国際資本にだまされて金をつぎ込んでいるからである
金が行く先がない、投資する先がないというとき米余りともにているのか?
米をいくら作っても売れない、米が余るから値段も安くなる
そしてかえって減反して補助金を出していたのである
なにか今も金余りでそれと似ているのかもしれない、ただ最近はブレンド米は結構高いからそれが売れれば農家も成り立つとなる

米をいくら作っても価値がない

金がいくらあっても増やせない

そういう社会になっている、米は実体経済でありブランド米とか酒に利用したりして外国に売ったりもしている
でも金はどうなるのか?それはあくまでも紙に過ぎないのである
いくら貯えても紙でありそれが紙くずになる危険性が常にある
だから今数パーセントの大金持ちがいろいろな権利を買っているという
土地とか水と水道経営の権利とかいろいろな特許とかもそうである
必ず生活に欠かせないものを資源でも買っている
金でもっていても紙幣は紙きれにすぎないからである
それは本当に紙切れになるがこうした実体経済の権利を取得していれば他者を支配できるという、そして国際資本家は国より政府より力をもっているのが現代の金融資本主義だという、それがグロ−バル化の金融資本主義なのである
このyoutubeを理解するのはむずかしい

今の格差を作る金融資本主義、国際資本家による富の強奪をふせぐには政府通貨の発行とかベーシックインカムとかを政策として提示している
とにかく世界でなんらかでこうした極端な格差を止めようとする運動が活発化してきたのである、それも当然なのである
そんなわずかの人に世界の富が集中して支配されることを誰も望んでいないからである
ただその仕組みがわかりにくい、戦前だと地主が大きな力をもって小作は苦しめられた
その時地主は憎悪の対象になった、それは誰が苦しめているから近くで目に見えていたからである

グロ−バル経済になるとその苦しめているものがアメリカだったりイギリスだったり見えないのである
グロ−バル経済を理解できる人はいないと思う
それだけ世界の市場になると巨大でありとても理解できない、すると本当は憎むべきもの地主のような人が見えないから必ず陰謀論になるのである

国際資本家とかを世界で攻撃すべきだとなる、その六人の名前はあがっている
そういう人たちは犯罪者と同じである、もしかしたら本当は死刑に値するような人かもしれない、そんな莫大の富をもってどうするのだとなるからだ
それには借金だらけの国も勝てないとしているからだ、そこに世界的な革命さえ必要にもなる、でもそれが共産主義ではない
結局と共産主義も一部の幹部が富を強奪したのであり同じだったからである
「世界のプロレタリアー斗、団結せよ」それは通じなかったのである

ともかく2020年は激動の年になるのか?

何かのけじめの年である、だから何かわからないが自然災害なのか政治なのか経済変動が起きる、その規模も大きく世界が変わる、日本だけではない世界が変わる年になる
そういうふうに変わる時大きな痛みがともなうのである
その後に戦後復興のように新たな世界が生まれる
ただ未来は予測はできない、経済活動が社会のすべてではない
文化的な価値もあり物質的豊かさの後にはどうしても文化的な価値を追求するようになる文化的な価値となるとそれは精神性を追求するものであり物質的な価値をもたらさない
でも物質的な価値から文化的精神的価値の追求の時代になる
インパウンドでも最初は爆買いだけで次は事の消費だとか日本の文化をするものへと変わる

ただこの文化的精神的価値は物質的な価値とはなりにくい、金を産むものとはなりにくい要するに減反してその土地を何に活かそうかとなる時、どうするのか?
そこを花畑にしようかとかなる、でもそれが金になるとは限らないのである
花畑にして菊畑にして花を売れるとなればそれが金を産んだとはなる
でもただその花を観賞して楽しむということもある
金にならないとしてもそこに価値を作りだしたのである
もしかしたらそんなふうにして金を使うようになるのかもしれない
オランダのチューリップバブルがそうだったのである
その後にヒヤシンスバブルがあったからくりかえしていたのである
ただ花に価値がないというものではない、花には価値がある
それは美として文化的価値がある、一時は絵画がゴッホの絵とかが100億円とか値段がついたことがあった、それとにている
何に価値があるか、明らかなことは紙幣には価値がそのものにはない
だから金は仮想であり仮想通貨が生まれても不思議ではないのである

価値はいろいろありただそれがもう金を産む利益を産むということにならない
だから銀行は利益にならないのだから投資先がないのだから消失するとなる
要するに資本主義が金融資本主義になりグロ−バル化して極端な格差社会になり
人々は苦しめられる、そういう世界の終わりが来ている

ただ次なる世界は何になるのか?

それは当分模索中となるがただ確実にそういう大変化が起こり強いられて戦後のような状態になる
それで銀行の無用論とか倒産とか預金封鎖とか言われるようになったのである
そういう傾向は何かで変わりえようがないと思う
下降トレンドから何かの調子で上昇トレンドになるとは思えないのである
それは日本の株で官製のものであり実体経済を反映していないからである
だからどうしても悲観的な見方が大きいのである 

時代が変わる時、江戸時代から明治になった時、江戸時代にあった仕事がなくなった
大井川の渡しの仕事はなくなり茶畑を作るようになった、それで静岡は茶で有名になった職種転換が起きて来る、産業の変化が起きて来る
戦前は養蚕農家がどこにでもありそれが兜屋根として残っている
絹織物が主用産業であり石炭産業がエネルギー産業になり蒸気機関車の時代だった
それは戦後十年くらいまでつづいたのである

時代が変わる時職種が変わる、だから銀行が半分なくなるとかいらなくなるとなる
何か地銀でも一万くらいの人口なのに店舗を構えて十人以上も働いているとなると多いと思った、そこにかかる費用を想像するとかなりのものになると思ったからだ
つまりそれだけの費用維持できなくなる
そして投資先がなくなり銀行員が農業を実地にして投資していることをテレビで写していた、youtubeでは銀行員がやめて実際に農業をしていた
ここで紹介した証券会社で金だけを扱っている仕事がいやになり実際に店を開いたりした何か金ばかり扱っていて生きがいを見いだせないとなった
そして金はもともとないとかゼロなのだということを言うのもわかる
金は実際に引き出して使う時金の力を発揮する
特に紙幣になれば金本位制でないということはもう実質金の価値はゼロなのである
それは数字だとなりゼロになる

いづれにしろ来年は2020は大きな変化の年になる
特に経済の変化がもうさけられない、それはほとんどの人が言っている、良く言っている人はないからだ、要するに経済が良くなる要素がないからそう言っている
ただ時代の変化に老人は対応できないのである
技術に関しては非常に不利なのである、新しい技術に対応できないからである




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2019年12月25日

人を見たら泥棒と思え (国も政府も官僚も銀行も弁護士も・・・みんな泥棒?)


人を見たら泥棒と思え

(国も政府も官僚も銀行も弁護士も・・・みんな泥棒?)


銀行・証券・政府が「低リスク商品だと勧めたから」という理由で投資するなどというのはばかげている。投資先(金融商品)のリスクが高いか低いかを判断することこそ投資家の最大の仕事なのに、それを他人任せにするべきではない。

「銀行・証券等の金融機関は決して責任をとらない」と法律で明記(損失補てんの禁止)されているのだ。

「新NISA」への違和感…結局、儲かるのは「銀行」だけという真実

本当は帰れるのにダラダラと会社に残る「残業泥棒」、決められたことしかできない「マニュアル人間」…。日本企業を見渡せばそこら中にいる「非生産的」なビジネスパーソン。彼らは今後世界から必要とされなくなります

会社内でも会社で働いて有用な人でない人がいる、その人たち有用な有能な人から盗んでいるともなる
なぜなら無駄な残業しているだけだとしている、盗むということは多様なのである


人見たら泥棒と思へという格言も全く今も同じである
ただ泥棒というときそれは個々人のことではない、政府までが泥棒であり国民の金を盗むのである、国家自体が盗賊国家だったということを書いたがこの世の中官僚でも泥棒なのである
外国でも他国の金を盗む、アメリカは強い巨大な国だから日本から金をまきあげているというのも泥棒だということである
国自体が政府が自国国民の金を盗んでいるし外国では他国の富を金を盗む
これが政府と証券会社と銀行がグルになって盗む、盗賊化していたのである
ニーサとか非課税商品だとして政府がすすめた理由は投資の方に国民の金をまわしたいからである
そして利子がつかないのだからただ金を集めても増えない、地銀でも地方は衰退して金を貸してももうけくれる会社がない
すると証券会社のすすめる投資信託を売る
それは確実に手数料が入るものでありリスクをとらないから銀行にとってはいいものなのである

そもそも人間が盗むというとき安藤昌益が侍を批判したのは働かないで農民から税を搾り取って暮らしていくということで批判した
だから盗むとなっていたのである、他人の労働を得たものを何もしないで盗んでいるのが侍だとしていたのである
盗むということは小銭でも何でも金を盗むとかでもない
他人の労働を盗む、他人が工夫して苦労の上に作り上げたものを何の労苦もまた智慧も発明もないのに盗むということがある、著作権などがそうである
この盗む行為は日常的に社会でしている

弁護士でもそうである、相談料として事前に百万とるというのも盗みだった
その金は交通事故で死んだ人の金でありその遺族に入るものだけど盗まれたとなる
遺産で何か正当な理由があれば受け取れる
でもその金で盗むということがある、多分に自分自身にも盗むということを知らずにしていることがある、つまり誰でもなんらか盗むとういことをしているのである  
それが自覚できないことがある、百円から盗むとなぜかひどく自覚しているが大きな金になると自覚できないのである、ここに人間の盲点がある、何かリンゴ一つでも盗むと良心の呵責を覚える
ところが政府でも銀行でも会社でも横領する金が一億となったりする、でもその時リンゴ一つ盗むような良心の呵責も覚えないのである、それは単なる数字のように思えるからかもしれない、金はもう現代では数字だからである
良く一桁のゼロを間違えることがある、1000000を100000と見間違いることもある、その額は大きいのだけど数字では間違いやすいのである、その額を間違えたら大きなことなのだけど自覚できないことがあるのだ
それはすでに物ではないからである

人間は罪を指摘されて自覚されないとわからないことがあるのだ
だからたいがい人間はみんな善人だと思っているのだ
だからこれは悪いことだと自覚することはその人はまだいい方だとなるのである
それで人を見たら泥棒だと思へとなっていたのである
そこに格言に変わらぬ人間の真理があり人間社会が技術が進歩しても常に盗むことが起きる、ただそれが複雑な社会で見えなくなっているだけなのである
第一政府が盗むとなるともう盗むということはどこでもありうる
第一政府がそうなのだからそれに習へとなるからだ
共産党幹部でも中国国民からその労働の成果でも盗んで巨万の富を得ているとなる
共産主義革命は何なのだろうとなる

盗むというとき不思議なのはそもそも火を神からゼウスから盗んだプロメテウスのようにエネルギーはもともと神のものでありその神から人間が盗んだのである
だから科学技術でもそこに呪いが隠されていたのである
そして過酷な罰を受けたのである、それが原発事故として現代に事実として現れたのである
それで風力発電でも水力発電でも太陽光発電でも自然のエネルギーを盗んでいるものだからいいものではないというときなるほどなと思った
そういうふうに盗む行為は何か災いが隠されていたのである
だからこそ過酷な罰をプロメテウスは受けたのである
そして逆説としてシンホシスがただ転がり落ちる石をもちあげる、終わりなく持ち上げる労働を課せられた罰はこれも何か意味あることしない、働かない罰だったともなる
それはもしかしたら他人の労働を盗んだ罰だったかもしれないのである

だから社会を見る時不思議なのはみんな泥棒である

では誰が泥棒ではないのか?これを見れば何か人間を社会をみる糸口が開けるのではないか?
するとまず政府の官僚とか政治家とか士業と言われるもの、弁護士でも銀行員や証券会社はみんな胡散臭い奴らだなともなってしまうのである
それらはうまく操作して市場が公平のように装いグロ−バル経済で金を右から左に流して巨万の富を得ている、それは世界から盗んでいるのである
そのことを知ったゴールドマンサックスの会社員は自らそうした仕組みを頭いいからITとかで作ったから良心にさいなまされてやめたとしている、日本の富を奪うために仕組んだからである
ただその人はましだった、悪いと感じていたからである、もう現代では感じないからである
盗み稼業でも現代ではその人自身が気づかない
盗んでいるとなど思わないしむしろ正規の仕事をしているだけだとなる
なぜなら決してそれをとがめられることもないからである
だからそんなのいかさまのギャンブルだとして民衆がデモを起こしたら怖いことになるでもそういう人達はかエリートとしてのうのうとして公然と人も国も会社もだまして外国の富も奪っているとなる、なんかそうすると悪魔的になっている

いづれにしろ今や銀行そのものが地銀でも社会に害を及ぼすだけであり必要なのか問われている、社会の不思議は人間の不思議は社会の害になっても生きねばならい
日々の糧を得なければならない、だからきれいごとを言っていては生きられないとなる
それでマフィアは麻薬をやめられない、その栽培をアフガニスタンではやめられないとしていたのであく
何かそれがアフガニスタンだけではない、現実世界でも日本でもそういうことが日常的に行われていたのである
原発マフィア村というのもそうだったのである、原発は何兆円とかの金に鳴る木だからそこに利権がありみんな食い物にした、それは政府でも政治家でも官僚でもそうであり検察も官僚であり東電に天下りしていたからグルだったとなる
マスコミもみんな原発村の一員であり巨額の宣伝費が東電や電気連合からもらっていたのである

ではみんなそうして金で汚れてしまったのか?汚れていない人はいない

その対比から見ると貧しく社会の底辺で呻吟している人はそうした金が入らないのだから汚れてないないのかとなる
まず土建業とかになるとそこで下働きなどしている人は金は入らない
でも原発の除染の仕事では会社の幹部には何億の金が入っていた、それで奪われた盗まれたとして逮捕されたりする
でも下の方で現場で働く人にはそうした恩恵がないのである
でもその人たちは心は汚されないとなる、それも何か理解できないのである

もちろん上に立つ人がすべて盗むというのではない、重責をになって仕事している人はいる、ただ社会のためにとか政府でも官僚でもまた銀行員とかでも何か社会の害悪にもなるそれで地銀の頭取が地域のため副業するのがいいとか奨励している
野球の監督とか塾の英語の講師とかして地域に尽くせとしている
それは本業で地域に尽くすことがてきなくなった
ただ貯金を投資信託にまわして金を奪うようなことをしているからそうなる
それもだから銀行員は今何のために地域にあるのかと問われる
ただ地域住民をの金を奪うだけのものなのかとまでなる
それで老人と貸した団塊の世代がねらわれているというのもわかる
月々分配型などは貯金に利子がつくような感覚になっていたからである

でも元本も保証できない危険な商品だったのである
銀行は損しても一切責任はとらないうまみのある商品だったのである
それが政府ぐるみで奨励しているというのはグルで盗賊化していたのかとなる
ただ人間はこのように知らず盗む行為をしている
遺産とかになるとただ親の労働をその子が盗むとなる
それは自分の場合に言えたのである
最後に介護したので遺産を受け取る権利は生まれたとはなる
むしろ親族でも子供で介護が別な他人がすればその人に権利がでるのは当然なのである
それは盗むと同じになっていたのである
自分の場合は一応介護したから権利があったとなる

いづれにしろ人間社会とは何なのだろうとなる
弁護士まで猛勉強してもそれが社会のために尽くすかとなるとただだますために盗むために法律を学んだとまでなる
政府の官僚になっても国民から税金を盗むためだったとまでなる
それは何なのだろうとなる、そのために勉強してきたのか?
実際団塊の世代の受験勉強はそういうものだった
他者を蹴落としても点数をとりそれでいい暮らしをしたい、官僚になれば高い地位につけば実入りが良くなるというたげの教育である
それも私の経験から納得することはある
なぜなら底辺になると悲惨だからである、流れ作業をロボットのようにしていなければならなかったり建築現場でも危険と隣り合わせだからである
そこは汚い場所でもあり誰もそんなところで仕事したくないとなる
そのために勉強しなければならないという動機にもなる
ただそれが盗むという地位に就くということではない
設計とか事務になれば楽だとなるから勉強しないというのはわかるのである

銀行は高度成長時代とかは楽だった、ただ金を集めれば良かった
そして金を貸す会社でもいくらでもあった
だからほとんど審査する必要もなかったという、そしてそこから利子がとれて顧客にも利子が回っていたのである
つまりそれは高度成長時代でありどこでも金回りが良かったからそうなっていたのである金さえ集まれば借りてくれる人や会社はいくらでもいる、それも高度成長時代だから投資も盛んになっている成功している人も会社も多いから不良債権にならなかったのである
審査する能力すら必要なかったのである

銀行がいかに楽な商売だったかわかる
これからの時代は銀行は半分なくなるとか銀行自体必要がなくなってきたのである
ただ訳のわからない投資信託とかうりつけて手数料だけはとるとなったりもう顧客から
いかにだまして金を奪うかとかなればそうである
そのターゲットに団塊の世代がなっているというのもわかる
高度成長時期に貯えた金融資産があるからそれが奪われるとまでなったのである
月々分配型などが何かうまい仕組みである、それが利子がもらえると勘違いするものだったのである、実際は利子がとられる商品だったのである

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2019年12月22日

2020年以降の日本の社会の恐怖 (すでに自分が経験したことだった)


2020年以降の日本の社会の恐怖

(すでに自分が経験したことだった)


2021年 団塊ジュニア世代が50歳に。介護離職が増加
2022年 団塊世代が75歳になり、超高齢化社会が加速
2025年 東京都の人口が減少に転じる。全国で介護職員が37万7千人不足
2026年ごろ 認知症患者が800万人に
2031年 18歳人口が100万人を割り込む。経営が悪化する大学が続出
2035年 日本の人口の4割が60歳以上になる
2040年 自治体の半数が消滅の危機
2040年ごろ 孤独死が年間20万人発生
2053年 日本の人口が1億人を切る
2055年 75歳以上の人口が2446万人に。4人に1人が後期高齢者になる
2056年ごろ 現役世代の社会保障負担が重くなる。海外に移住する若者も
2065年 日本の人口が約8800万人に
(取材をもとに編集部作成)

※週刊朝日  2017年8月4日号

この表で2026年ごろ 認知症患者が800万人に

これも怖い、現実に私の家では自分が重症の認知症患者を介護した、そのことをプログで書いてきた
800万人となればどうなるのか?そこらじゅう徘徊する老人であふれるのか?
認知症の介護は精神的にも相当な負担になる
そして認知症は精神的障害だかさ回りでも援助などしない、馬鹿になったと笑われるだけであり後見人制度も金をとることしか考えないとして問題になっている
つまり金のことがわからない、銀行からも金を下ろせないのだから他人だとそうなる
そして今は近隣の助けは得られない社会である
認知症だけではない精神障害者でも肉体障害者でも一千万とかいる負担も大きい
その息子をかかえた母親は毎日そのことばかりいって心配している
でもすでに50歳近くになっている障害者なのである
障害者は生涯めんどうを見なければならないのである
その負担は並大抵のものではない、最近我が町に立派な障害者用の学校ができたのであるそれも立派なのである
でもその負担も大きいなとつくづく思う

2040年 自治体の半数が消滅の危機

これも原発事故周辺では現実化したのである
避難区域になった所は田畑は草ぼうぼうであり若い世代は流出して帰らないのである
残ったのは老人である、でも小高などでは浪江でも原町が大きいからそこに住んでいる
それで不便は感じないとなる、でも若い世代が住んでいないのだからやがて老人だけになり町自体を維持できなくなる
そしてそういう場所に予算を金をつぎ込んでも無駄だともされる
官僚がジジババしかいない所に金をつぎこんでも無駄といか本音を言ったことでもわかるただいい面として耕作放棄地が全体に広がったためその土地を利用しやすくなって外から来た若者がその土地を手に入れて農業をはじめたとかある

そして農業が次の時代にかえって有望な産業として見られるようになったことである
それは日本の経済がグロ−バル競争に敗れた結果そうなったのである
ただ農業は土地だけあってもできない、人手が必要でありその苦労が並大抵ではない
だから知人の畑ではただその苦労だけを聞いて収穫はゼロだったとなる
それだけ農業は労力も大きい、だから土地だけあっても簡単にはできないのである
農業は親の後継ぐ職業としてあったことでもわかる

ともかく限界集落というとき小さな村だがここでは津波原発以後大きな村でも町でもそうなった、第一津波でぱいくつもの村が消滅したからである
そこはもう人も住んでいないからである
もうこれからは限界集落のようなのが増えてくるしもう今のレベルの生活は無理だから都市部に移れという人もいる、インフラも維持できなくなるからだ
つまり電気すら利用できなくなるかもしれないからだ
そうでも昔なら自給自足で生活していた、その昔には戻れないとなると都市部に移れとなる
そういうふうにこの辺では原町区はもともと5万以上の都市だったから小高の人はそこに住んでいる、浪江の人や双葉でも大熊でも移り住んでいる
とても原発避難区域になったところはもう回復できないようにも思う
最初は回復復興してもらいたいと思ったが今はそれよりもう維持できないとなり
かえって移り住み集約化した方がいいのかともみる
ただそこは限界集落とは違う、浪江でも二万人とか小高でも一万人とか住んでいたのだからそれが全部なくなることはどうなるのか?それが問われる
でも現実的にはすでに原町区に相当数移り住んでいるし帰らないともなっているのだ

2040年ごろ 孤独死が年間20万人発生

ロスジェネ世代も深刻である、結婚しない人が20パーセントとか独身のまま老いるのだが貯えもないから生活保護化するとかなる、でももう国では支援できないとして捨てられるその最後は捨てられて孤独死だとなる
それは自分にも身近である、結婚しない人は頼る人がいないのだから悲惨になる
ロスジェネや非正規とか未婚社会となりこれも深刻なのである
この世代は負の遺産となり社会を圧迫する
団塊の世代も高度成長時代は人口が多くても社会にとってプラスの人口増加だったのである、それが今になると負の遺産になって社会を介護とか認知症とか病人社会になり負担となる
ただ2040年となると団塊の世代でも90歳以上になれば死ぬ人が多くなる
すると団塊の世代の負担はへる、代わりにその子供時代のロスジェネ世代が大負担になってくるのだ
つまりロスジェネ世代が死ぬまで日本は負担に苦しむ社会となる

ただ長期的にみればこれらの負担が消えればどうなるのか?
そこにまた新しい未来が開けるのか?
結局未来はどうなるかわからない、戦後の焼け野原から何もなくなっても戦後は復興したそれは戦争によって負の遺産をかえって一掃して新生日本になったからだったのである
それだけの衝撃があっても復興したということは戦争は日本にとって次の時代を作るのにかえって貢献したとまで長期的にみればなる、全体的に見ればなる
だからかえってもし団塊の世代とかロスジェネ世代でも戦争で戦死するようなことになれば若い人達の負担がなく新生日本が生まれるとまでなる
だから後30年後とか40年後には日本は新生日本として蘇るとなる
ただ未来が予測できないのは必ず不測の事態が国際政治でも自然災害でも起きるから予測できないのである

人生でもみんなそれぞれの一生をふりかえると何か意外な結果だったなとなる
つまり個々人の人生も予測できない、そして結果的に人生でも幸不幸が何だったのかわからなくなる
不幸だと思ったのが実は幸福の基だったとか幸福だったのが災いの基になっていたとかある、まず一生楽な人生などないのである
いくら恵まれていても一生の間には何が起きるかわからないからだ
そして何か損だったのか得だったのかもわからない
ただ戦争時代に生まれ人は損だった、若くして死なねばならなかったからである
ロスジェネ世代も損な世代だったと今では言われる
こういう時代のめぐりあわせはどうにもならないのである
運不運でありどうにもならないのである

いづれにしろ団塊の世代も一つの歴史となってゆく
老人の強みはこうして長い一生をみて歴史をみる、それが若い世代にはできない
つまり人間はいくら本を読んでも知識を積み重ねても経験から学ぶことが一番多いからである
それで何か学問なくても経験した人は肌で知っているのである
学歴よりその人の経験が人を作るのである
それはつまらない経験でもそうなのである、経験が教えることは忘れないのである
私自身はたいした経験をしていない、結局底辺労働者と引きこもりとわずかの教育体験だったとなる、だから経験としては貧弱だったのである
それでも人間はふりかえると経験から学ぶ方が大きいのである

それで50歳でバックパッカーで大失敗したけど海外旅行して良かったとなる
その経験は確実に活きてくる
その時海外旅行しなかったら遂にできなかったともなる
団塊の世代では同世代でも海外経験した人はわずかだろう
そういう時代ではなかったからである
なんであれ経験が人間を作るのであり本だけ読んでは作れない
そこで本を読んでいてもつくづく印や線をびっしり引いてあるのだがほとんど理解していなかったのである、これでもいくら本を読んでも経験に優らないことがわかる
経験したことは体で覚えているからだ、これは外国だけではない日本でも地理をわかるには本を読む前に実地にその地を踏まない限りわからない、日本の場合は隈なく旅行しているから地理を理解したのである

ただ本を読むことが無駄だとはならない、それも後で活きてくる
雑学でもしないよりはした方がいいのである、知識でも経験と合わせて必ず役にたつようになるからである
それでも外国の旅行の本を読んでいるより海外旅行を実地にした方が外国は表面的でもわかる外国は本を読んだだけではわからない、そのことがいかに経験が大事なのか証明しているのである、百聞は一見にしかずなのである、百聞とは外国のことを百回聞いても本で読んでも理解できない、本を読まなくても一回でも外国に行った人の方が知っているのであるだから行動が先で知識や理解は後からついてくるというのが順序なのである

今年も終わりだけど今年は結構youtubeを見た、これも新しいメデアであり知識を得られた
youtubeだと短いにしろ要点がわかる、それで大勢の人に見られるのはテレビに似ている
何かこれからテレビの代わりになるのがyoutubeなのかとなる
テレビはマスコミでありそれが情報を独占したいた時代は終わった
マスコミの力は六局が動画で放送できる権利をもって権力をもったのである
それが個人レベルでもテレビのように放送できることは大きな変化だった
これからはテレビを見ない時代が来る、六局の放送局でも別に安価にyoutubeで放送できる
ただコンテンツを作るのはむずかしい、その能力があればyoutubeでも有料で放送できる
youtubeはまだそうした人材を集めたり特派員をもっていない
それはだけのい収入が得られないからである、でも放送局のように金が入ればそういうことはできるのである

2020年は時代が大きく変化する、区切りよく2020年となり元号も令和に変わったからである
その変化は日本にとっては厳しいものとなる、日本自体はこれから厳しい冬の時代になる
自分自身ももう冬を生きる老人となり過去を回想して引きこもるともなる





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2019年私が選んだサイト お金のために働く人が、「起業家」に向いていないワケ


2019年私が選んだサイト

お金のために働く人が、「起業家」に向いていないワケ

人間はどうしても目の前の利益にとらわれる、これは逃れようがない、なぜなら毎日生活する金が糧がなければ生きていけないからである
するとまずは利益だ、金だとなりブラックにでもなんでもなる
それが現実社会であり甘いことなど言っていられないとなる儲けがなければ客が来なければつぶれてしまうからである

ただこの人の言うようにただ金のためだけではない、もちろん金を得るために働くことはあるが何か仕事にはそれだけのものではないものがある
何でもできる大工さんを見ているとその人は根っからの大工なのである
また庭作りもできる、単なるハウス会社の組み立てやではてい
修理とかもできる大工なのである
だから楽しそうに仕事をしているのである、そして自分で作ったものを誇示する
それは別に奢りでもなんでもない、自分の作ったものに満足している、仕事に満足しているのである
ただその人は実際は大工ではない別なしなくてもいいブラックな仕事をしている
それは本当に金のためだけの仕事である

つまりその人を仕事でも見ている時、金を得ることが仕事ではあることはいなめない
でもその他に何かある、自転車屋ですら何かある、その仕事に誇りをもっている
ただ誇りを持ち過ぎて人との対応が悪くなる、技術屋ならいいが客と対応することで
商売ができない、それは医者だって技術があっても患者と対応することがありにている
駅前で商売しているから街を良くしようとする気持ちがある
ただ駅の見守り役はそういうことがなかった
それは同じ市内でも区域が違ってそうなった、やはりそこに住んでいる人はその住んでいる場所を良くしようとする、同じ市内でも気持ちが違ってくるのだ

経営者にはただ金だけではないものがあってできるというのもわかる
自分は技術者として優秀だから優秀な所をみせてやるとかそんな動機で会社を初めて失敗した人もいた、その動機自体がただ金になり社長として成功したいというだけだったのである
その人は雇われて技術者としてやっていれば何の問題もなかったのである
経営者となると違った動機とか経営理念とかでも必要になる
理系だとそういうことが不得意だともなる、そういう点では文系が経営者に向いているから文系が経営者になっていたのもわかるのである

塾を経営していた人も何か教育などに何の関心もない、生徒を集めて金になればいいというだけである、教育はただ金儲けの手段なのである
自分自身も教育のまねごとをしたが失敗だった
でも何か自分には能力がないにしろ教育を楽しいもの学びを楽しいものにしようする動機があった、だから経営者のように全然動機がない、金だけの動機とは違っていた
ただそれは自分も失敗だった
でも流れ作業しか仕事とししていないものにとってそういう仕事は全く違ったものだったのである、そこにはある程度創造性も発揮できる仕事だった
ただ矛盾は金にならないとかもあり挫折したともなる
自分にとって仕事は流れ作業くらいしか経験していない、だから何でもいいからそれ以外の仕事をしたかったとなるができなかったとなる
それだけの能力もなかったとなる

でも自分は依然としてホームページでもプログでも創造性を追及している
天才でもなんでもないのだけど創造性を追及していることは理解されるだろう
その一つはソフトによる抽象画だったのである
他でもいろいろなことを探求して来た
それは「郷土学」というものである
郷土を一つの全体として多角的に考察してゆく、アイディンティティ化してゆく作業である、いわば今はやりの地域創成学部とでもなる
これは地域全体の学でありまた地域を改善することである
そのささやかなものとして無人駅の案内にかかわった
これも怪しいと疑われただけだったともなるが何かふるさとの一員としてかかわるものだったのである
つまり何か成功するとか金になるとかの前にそうした気持ちが動機が必要になる
それがそこに住んでいれば自ずとそうなるのである

結局あからさまに金だけを求めて経営者になっている人はやはり経営者にふさわしくないとなる                                    

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば糧は神から与えられるだろうとしている、でも現実世界はまず糧をくださいとなる、それが先だとしているのである、まず金を与えてください、さすれば与えられるとなる
人間の矛盾がここに一番現れている、それはあらゆる仕事でもそういうことで葛藤する
それは本当にみんな働いているとしてそういう問題をかかえているとなる
何を求めるのか神はその心を見ているというとき動機を重んじている
でも現実社会ではまず利益であり金だとなっている
人間はみんなその葛藤で苦しんでいるのである
そのためにこの世ではサタンのささやきが優っているからこの世は腐敗して乱れるのである

特にグロ−バル経済とか資本主義社会では修道院から生まれ動機とまるで正反対になったその求めるものは金だけであり極わずかの国際金融資本家たちに世界の富が吸い上げられる、日本の富もアメリカに吸い上げられる、それが日本貧困になった原因だという人も多いのである
つまり金が利益がまず先だ、そのためには手段を選ぶなとかいうことでサタンのささやきに従ったのが現代のグロ−バル資本主義になった
ガンジーの言う道徳無き経済となってしまったのである


人間はとにかくジキルハイドになる、善と悪との二面性がありアメリカ人がアングロサクソンがその二面性が極端だというのもそのためである
善を言うのだがその善と裏腹に本当にどす黒いものを平気で実行してくる
人をだますのも平気なのである、敵に笑顔を見せてその裏では相手を平気でだまして殺す善悪の二面性が極端なのである
そういう二面性を日本人はなかなか理解できないというとき日本は島国で平和だったからそうなる、熾烈な民族同士の争いを経て来た人たちはそうはならない
契約は正義を実行するためのものでもない、相手をだますものとして法律もある
法律もその利用する人によってどうにでも解釈できるからである

裏を見せ 表を見せて 散るもみじ 良寛

裏表を見せる人はいない、表だけを見せて装う、それが現実の社会であり人なのである
だから人間はその行動だけから判断できないのである
どうしてそういう行動をするのか?それが問題になる
経営でもあからさまに金だけを求める人も多いしそれが現実社会だともなるからだ
まず金をもらわなければ一歩も動かない、何かそういう人は金だけが目的であり仕事そのものをするにふさわしい人ではないだろう
例えばここに倒れた人がいる、その時まず金を出せば助けるでは仕事にならない
まず助ける、そういうことは医療関係者に望まれている
何か仕事というとき金をもらうことはいいとしてその前に仕事そのものに生きがいを見出すことも必要である

それでworkとなっている、仕事は作品なのである
大工が作ったものは本当に作品だった、だからその作品に満足するのである
それは芸術家なら特にそうなる、金が欲しい得るにしてもまず自分が納得いく作品を作りたいのである、その動機も目的もまず金になるのではない、その人の創造性を個性を発揮したものを作りたいとなるのである
ただ仕事でも多様だから本当に好きな仕事をできる人は限られている
でもそういう人が仕事するときいい仕事はできないし社会にとっていいものではないのである、適材適所で働いていたらその社会は活気がありいいものとなっていることは確かなのである
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2019年12月20日

日本の戦後経済の復興した理由 (預金封鎖が再び来る!)


日本の戦後経済の復興した理由

(預金封鎖が再び来る!)

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第25話・地獄の財産税法預金封鎖と預金税【後編】

これは連載であり長いから読み応えがある
一冊の本と同じである
なぜ戦後復興できたのか?それが今の日本のヒントになる
そういう大改革が痛みがともなってもその後に復興するということを説明している

J-reitを売った、全体的には損しなかった
でも株が倍くらいにあがったからもしその株を売っていたら相当な利益になった
分散投資と言っていたのに銀行員自身がそれを守らなかったのである
自分の都合でノルマのためにJ=REITに回した
だから投資の基本は分散投資だし財産を守るのも分散させることだと思った

なぜなら2020年に預金封鎖とか株価暴落とか悪いことしか専門家が言っていないからだ
中国の経済状況も悪い、アメリカの株価もバブルだし日本でもそうである
めのために何か給料が上がらないのに景気の良さを感じないのに株だけが上がっているのは危険な兆候だとしている
グラフで分析しているから何か納得する

預金封鎖がある!

これが心配になってきたしそれも単なる憶測ではない、専門家がそう言っているからだ
経済は金融のことを知らないと理解できないという

ここのサイトでは経済はエネルギーと金融だという、日本が戦後復活したのはエネルギーとして石炭があり金融政策がうまくいったからだとしている
金は血液と同じでありこれがまわらないと経済は死ぬから金融が要になるとしている
そういうことで国際金融資本家がグロ−バル経済の要にあり富を総取りするようなことが起きていることが納得する
それで銀行はつぶれないとしている、なぜなら国の税金が投入されるからだという
それだけ金融が国家にとっても大事だから銀行を守るといっている

エネルギーが国家を支えるという時イギリスでも炭鉱があり蒸気機関車を発明して運営できた、石炭がなければできなかったからだ
日本でも福島県だと常磐炭鉱が有名である
炭鉱という時何か戦後まもなくはいたるところで炭鉱を探していたのである
私の町でも探していた、それだけ石炭を必要としていたのである
そしてたいがい鉄道は石炭を運ぶものとして開かれた
乗客ではなく石炭を運ぶために開かれたのである、小樽とかもそうである
北海道は石炭のために鉄道が開かれたのが多いのである
乗客を乗せるためのものではなくまず貨物輸送であり石炭を運ぶためだったのである
私の学校時代でも石炭を使ったストーブであり蒸気機関車を利用して学校に通っていたのである

戦後なぜ日本が復興したのか?

それはあらゆるものが焼野原になりそこから新たな再生があった
既得権者が財閥とか地主とかが力を失った、結果的にそこで新しい企業が生まれて活躍して高度成長時代を築いた
農地改革も行われて小作が土地をもてるようになったことも大きい
なぜなら地主と小作の格差が大きかったからである、だから小作の恨みがどこでも大きかったのである、農業は土地が資本だからそもそも土地がないことには豊かにはなれないからである

結局日本の戦後は幸運だったのである
一見最悪の状態だったが復活したのは既得権者が解体されたり政治的にはソ連との冷戦になり共産主義に世界が赤に染められるとしてアメリカが対抗して日本がその防衛の最前線になったためである、政治的に保護されて経済的にも有利に働いたのである
このサイトでは朝鮮戦争の特需で日本経済が復活したのではないというのもそうだったのかとなる

こういう歴史は団塊の世代の親が経験しているから身近なのである
私の母親は原町の原町紡績で10年間糸取りしていた、それから女中として東京で働いた
そこで結婚したのだがその夫は事故で死んだ
その時かなりの額の金を会社からもらった
でも戦争で預金封鎖になり残ったのはその金で故郷に買ったわずかなの土地だけだったのである、その時みんな金をもっていても本当にそれが紙切れになったからである
だから預金封鎖は金がある人にとっては恐怖である

でも預金封鎖が全部悪いというのではない、荒治療だけど効果も大きい
つまり戦後のように大改革になり結果的に格差も解消されるということにもなる
いくら格差を解消しようにも戦後のような荒治療をしなかぎりできない
ただ戦後はそもそもみんな焼野原で何もなくなったのだからそうした荒治療する前に
戦争によって荒治療された状態になっていたからやり安かったのである
反対することもできない状態だったのである

でも今は安定社会であり一億円以上もっている人は相当に不安になる
また反対するだろう、下層階級でも影響が大きい、預金封鎖の結果どうなるか誰もわからない、ただ金を持っている人は持てるがために恐怖になる
金持ちは常に金が減るという恐怖にさらされている、人間の心理として一旦金をもつと減らしたくないのである、それが億とかさらにそれ以上の金でもそういう心理が働くのだ
金はあるはあるでそれが不安の種になる、なければないでまた苦しむ
人間に何であれ完全な安心を得ることはできないのである

とにかく預金封鎖は金持ちにとっては税金が80パーセントとかかけられたりそもそも金が国によって没収されるのだから恐怖である
ただそれによって法外な金を持つ人から金は奪い平均化できる
だから貧乏な層にとっては苦しいにしろ悪いことともならい、何より格差が解消するからである

だからこういうことは世界的にして極端な格差を解消させる、国際金融資本とかから金を奪い貧乏な層に金を回すということで今の資本主義が守るともなる
ベーシックインカムより有効になるのかとも見る
何かそうした荒治療をしないかぎりもうグロ−バル経済は資本主義はもたなくなっているからだ、自由主義でも自由市場にまかせることは限界に来ているのである
もうグロ−バル経済は格差を拡大してとても公平さを保てないのである
すると強権で預金封鎖とかしない限り破綻してゆく
そういう岐路が今来ているのだと思う



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2019年12月10日

国家自体が盗賊集団から起きた (追い詰められると個人も会社も国も盗賊化する)


国家自体が盗賊集団から起きた

(追い詰められると個人も会社も国も盗賊化する)


中華人民共和国は最後の「盗賊王朝」だ

個々人で盗んだり強盗すれば厳しく罰せられる、でもそれが大集団になって盗賊集団になると罰することかできない、むしろそれが正義となり国をのっとることになる
それが中国では常に起きてきた
中国とは常にそうした盗賊集団によって国ごと乗っ取られてきたのである
王朝はその度に変わる、今の共産党も王朝でありだからこそあれだけの格差になった
王朝になればそこに仕えるものは上層部は共産党幹部には莫大な富が入ってくるからである

つまりマルクス主義とはただ美名にすぎない、現実は盗賊国家なのだけでそれを隠すために理論でごまかしているともなる
中国という国柄がそういう歴史であったのだ
モンゴルでも満州でも周辺国に遊牧民がいてそれらも盗賊と化して襲ってくる
そして遊牧民では砂漠でぱ奪うことが正当化されているのである
奪って当然だとして罪の意識がない、関税のようにして奪ったとなる
女性まで略奪婚であり奪うのである、それが正当化されているのである 

中国だけではない、ヨ−ロッパでもスペインなどは本当に盗賊国家だった
それは南米でインカとかを亡ぼしたけどそこに侵略したのは本当に盗賊集団だったのである、国家というのはなかった、そこで馬と銃でわずかの人間でインカ帝国を亡ぼしたのである、そして黄金を奪い自国にもちかえりキリスト教会を黄金で飾ったのである
これも矛盾である、それでキリストが喜んだのだろうか?
そして異教徒は人間ではないとして殺戮したりした
それはスペインだけではない、ヨ−ロッパ全体が大航海時代にアジアの富を奪った
植民地化して奪ったのである、アメリカはイギリスなどの移民によってインディアンを滅ぼして根こそぎ広大な大陸を奪ったとなるからこれも盗賊集団だったともなる
オーストラリアでもアボリジニとかいてそれもイギリスの移民によって奪われた
その人たちは囚人だったともなるから荒っぽい人たちだったともなる
またイギリス国家の成り立ちが海賊から始まったというのもそうである
海賊もまた奪うことが正当化される
国が違えばもう法律は通用しないからである、力をある者が富を得るだけだとなる

盗賊とは個々人では罰せられる、でも大盗賊は罰せられないのである
むしろ崇められるのである、それは日本だって上級国民とかになれば警察も手を出せないと交通事故を起こして殺した人をみんなで言っている
社会というのはそういうものである
例えば戦国時代があるとする、それは何だったのか?
一種の盗賊集団の争いだったのか?権力を得るための殺し合いであり盗賊集団同士の戦いだったとなる
天下をとるとはまさにそういう盗賊集団の最も強い頭領だったともなる

そういうことは現代では社会が変わったからありえないとみる
でも人間は本質的に変わらないのではないか?
人間が富を得るというとき盗賊として他者の富を奪って富を得る
世界の富がなぜ数パーセントの大金持ちがもっていることでもわかる
それは巧妙な資本主義の制度の中で合法的に奪っているのである
だからいづれそういう人達が襲われて殺されたりするともなる 
株式市場が暴徒によって襲われるかもしれない、アメリカではデモでそれとにたことがあった
つまりそのわずかな人たちがそんなに富を得ているのか?
それがなぜ許されているのか?
これを世界の人がアメリカでも中国でも許すことはないと思うからである
そこで戦国時代のような内乱状態になってゆく
世界では今なぜデモとかが命がけで起きているのか?
それはそうした極端な格差に対して怒りはじめて抗議するようになった

そして日本も格差か階級社会になっているというとき底辺層は追い詰められて暴動化して盗賊化するかもしれない、革命という時、そうした不満層を集めることだからである
それが共産主義革命ともなっているが実質はこれも盗賊集団なのである
それは中国を見ればわかる、黄巾族とか宗教集団がもあったがこれも同じだった
盗賊集団なのである、今の創価とカルト集団もそうである
権力を狙い富を得よとしているからである  
要するに権力を得てその富を分配する御利益として分配する
そのために徒党を組んで毎日祈り選挙活動がすべてとなっているのである
仏教など何の関係もないのである、そんな人がいたら奇跡だというのがこの世である

それは戦国時代は念仏宗とかでもありそれが信長と対立したのである
島原の乱でもあぶれた浪人が集結して幕府と戦った
つまり失業しているということは侍でもそうなるのである 
アメリカでイラク戦争の時も下層の人たちが黒人が仕事を得て上の階層に入るために従軍した
だから人間社会で失業することは食べることができなくなるのだから一番深刻なのである
浪人は戦争がなくなれば失業する、すると戦争があった方がいいとまでなる
第一僧侶から侍になった人も多かった、寺という領域は一つの支配体制であり権力を有していた、僧兵もいた、無防備の集団ではない武装集団だったのである
だから信長が敵として認識したのである
人間が集団化するのはなぜなのか?利害とか利益で御利益を共同で得ようとする
それは盗賊集団でもいいとなる、ただ現代で権力を得るためには選挙でしかできないから戦国時代にならないというだけなのである
実質は変わっていないのである

そして今格差がこれだけ世界的日本でも大きくなると盗賊集団化する
金持ちを襲うこともありえる、金持ち自体も盗賊だと見るからだ
俺たちの富を奪っていると見るからである
そして日本でも貧困化すると生活が追い詰められると個人だけではない会社も盗賊化する富を奪うようになる
銀行でも地銀でも堅い職業として見ていたが今は違う、利益が得られないから投資信託とかゆうちょでもまやかしの保険を売り込んだりしてだまして金を奪う
人間は別に個人だけではない、追い詰められると会社でも盗賊集団と化すのである
だから追い詰められた個人も怖いが集団も怖い
国家自体が追い詰められれば盗賊集団と化す、遊牧民のように他国を攻めてくるのであるそのために万里長城ができたのである
それは別に南米とかでも大金持ちはガードマンを雇い高い塀をめぐらして富を盗まれないようにしている、強盗が入らないようにしているし金持ちがだけ住んで門を作りよそ者は入れないようにもしている
社会がそこでて分離して分断されている、アメリカなどでもそうなっているところもある  
生活保護あくまでも金持ち層でも犯罪を犯さないように最低限を供給するシステムである
でも氷河期世代とかロスジェネ世代が大量に高齢化すると生活保護ができなくなる
その時また危険な状態になる、追い詰められた老人でも何するかわからないとなるからだ

国家でも追い詰められれば盗賊集団と化して他国を攻める、その盗賊集団によって王朝が変わったのが中国だったのである
アメリカにしても今でも世界を支配するから富が集中するのである
ドルが世界の貨幣になっているのもそうである、金融でも世界を支配する
それでゴールドマンサックスがむずかしい投資信託を作りそれを地銀でもゆうちょでも農協にも売りつけて富を吸い上げているというのもそうである、アメリカは日本の富で容易に奪える、戦争に負けたらそうなっている  
アメリカに従わなければどうなるのか?日本はやはりアメリカに貢がないと自らの国すら守れない国はとなっているからだ
だから独立するにはアメリカと起き、中国とも距離を起きバランスを計ることだとなる
でもそれが日本が独立国で強国となればできることである、日本は敗戦でそれができなくなったのである
つまり地銀でもゆうちょでも農協でもそういうことで庶民の貯金がアメリカに奪われているのである
自分も投資信託を地銀から買って損した
それは地銀自体が証券のことをわからない、投資信託のことをわからないでアメリカの証券会社から買って庶民が貯金した金を投資して損していたのである

だからこの世とは何なのだろうとなる
人間の歴史とは何なのだろうとなる
ただ盗賊により政権の交代があり王朝の交代がある、ただ選挙制度ができて武力でそういうことがなくなっただけだともなる
そうなっても格差はなくならないからかえって増大しているからなんらかで革命が別な盗賊集団が台頭してくる
それが共産党でも公明創価でも同じである、それらの人たちは富を奪う集団だからである、そして仲間に分配するだけだだとなる
仲間に入らなければ奪った富は分配されないとなる  
罰当たるとか地獄に落ちるとか言うがその人間がそもそも地獄人間なのである、やはり本質的に変わらない人間の欲と業をもった人間でありその地獄人間がそんなことを言っているのだから異常だとなる
自分自身が親鸞のように地獄は一定の住処なりというならいい、それを他者に対して言うのは異常なのである
だからカルトでありファシズムともなる
いづれにしろ人間の社会は結局そんなものだったのかとなる
そこに主義主張とか何か大義名分と宗教とかかかわっても現実は富を得るための奪うための闘争だったとなる

そういう食うか食われるかの弱肉強食の世界である、だから格差社会とか貧困化は追い詰められ人間を大量に作り出すから怖いのである
そして失業がナチスが生まれた原因だったとか国が盗賊化する原因になる
他国に侵略する原因にもなる、日本が貧しい農民国家の時土地が欲しくて満州に浸出したそれも何か盗賊化してゆく原因である
それは世界中で同じなのである、それが世界の歴史だともなる

相馬藩の歴史でも野馬追いがあるように相馬氏が進出してこの土地を奪ったともなる
それは馬を操るのが得意でありまた強かったからである
だから地元の土着していた豪族も従うようになったのである
それはやはり奪ったとなる盗賊集団だったともなる、それは世界史でもみんなそうだったのである
ただその後に平和的な法的な支配体制が生まれたとなる
もともとの起こり侍でも盗賊集団だったとなる、それはみんなそうだったのである
結局これが人間の真実であり歴史だったともなる

維持維新でも革命でもそういうことがあった、富を奪うとは権力を奪うことでありそこで富を得ることである
薩摩長州が権力をとりそうなったからである
政治がもともと武力闘争で権力を得ることだったが選挙で決めるようになったのはそのためである
ただ選挙だって今や公平ではない、だから不満が鬱積している
それが暴動となり金持ちでも襲ってくる、そういう革命前夜にあるのが世界的にあり日本でもそうなのである
追い詰められ人間がそこらじゅうに増えてくるとそれがいつか爆発してくる
そういう恐怖の時代に突入しているのである

だから金持ちはむしろ戦々恐々としていなければならない、その不公平で得られる富に安住はできない
ただ下層階級を見下していることはできない、いつ襲ってくるかわからないからだ
日本が貧困化するとますますそうなってくる
だから消費税など上げてはならなかったのだ、何か買い物で10パーセントは大きいと思った
100円買って十円とられるのは日常的に大きいのである
毎日買い物しているから実感した、こうしたことで今度は自民党への不満が大きくなってゆく
これはもうさけられないのである

経済的に成功した層が激しい憤怒をもったアンダークラスに襲撃される日

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2019年12月08日

新しい産業が起こらない、フロンティアがない、投資先がない (停滞社会、中世社会へ逆行か?)


新しい産業が起こらない、フロンティアがない、投資先がない

(停滞社会、中世社会へ逆行か?)

世界史をふりかえると大航海時代とかアメリカ大陸発見からフロンティアがありヨ−ロッパは栄えた、オランダで航海するには危険であり沈没すると大損になる
でも成功すれば大儲けになる、それで株式会社として共同で出資して成功すれば株の配当でもうかる、オランダそうして栄えた
東インド会社とかを作り成功した
大航海時代はそうした世界がフロンティアとなっていた
その最大のフロンティアがアメリカ大陸だったのである

スペインは略奪国家だったけど南米で富をえた、ただそれが継続しなかったのはただ奪う国家、海賊国家だったからである
次にイギリスは自ら産業革命を起こして七つの海を支配した
それはただ奪うだけではない技術革新があった、今のITの技術と同じである
アメリカが開発したのでありそれで世界を支配する
鉄道の発祥の地はイギリスだったのである

日本では江戸時代までは新田開発でありそれで人口を増やした、一番栄えたの元禄時代だったのである、それは地方でも同じだったのである、葛尾村にも元禄の碑があったし相馬市の新田にも元禄の碑があった、この辺ではめずらしけど元禄の碑があるということはやはりこの辺で盛んに新田が作られたということなのである

明治になると個々人の家で零細な絹織物などの手仕事が大規模な産業となった
絹織物は養蚕農家を日本全体で作りだした
今でも兜形の家はいたるところに残っている、そこは養蚕がされた場所なのである
その絹織物はアメリカに輸出されたのである
原町の原町紡績(原紡)はこの辺では有名である
私の母はそこで糸取りとして十年働いた、それまでは農業が中心で現金収入は得られなかった

特に女性はそうだった、だから女性に働く場を与えたということで大きな変化だった、女工哀史とかあるけど全部がそうではない、そういう面はあったにしろ農業しか働く場がない時代から脱出したのが養蚕と絹織物産業だったのである
その後私の母は東京で女中になった
この女中もその頃女性の働き場だった、電化製品などないかである
それで中産階級でも二人も女中を雇ったいたのである
それだけ家事自体の労力がかかっていたのである
第一洗濯板で洗濯するだけで手間なのである、それはフランスのセーヌ河でも選択する女性がいた、それがルーブル博物館に絵として残っている
インドでは洗濯するカーストがあった、洗濯自体一仕事だったのである

戦前まで依然として農業に従事する人が8割とかの社会だった
そこでいかに農業で苦労したか?農民詩人を見ればわかる、食うや食わずであり小作が過酷でありその恨みが残った
その後戦争に負けて日本は焼野原になった、そして引揚者が開墾者となりやはり農業で生活しようとしていた、それも過酷で半分はやめた
でも戦後十年くらいから電機製品が世界で売れて高度成長時代になった
その後日本は電器製品から自動車産業が輸出産業となった
でも失われた30年となり日本が経済は停滞した
IT化にもおくれてスマートフォン時代にも乗り遅れた
そして新しい産業が起こらない、そして今は株が上がっていても好景気感はない
それはなぜか?歴史をみても新しい産業が起こらないとういことである
日本はITでは後進国だからである

そして自動車産業も衰退しつつある、そもそも自動車が自動運転化すると車の使い方が根本的に変わり車自体の数は必要ないという、車を実際に利用しているのは4パーセントであり家で使わないのである、ただ高い車を使わずに置いてある度合いが高いのである
ここでもAI化とかでかえって雇用する人が減ってゆく、人はいらなくなってくる
新しい産業は雇用を増大させるがAI化はかえって雇用する人を減らすのである

そして今金はどこでも余っている、その使い先が投資先がないのである
大企業でも膨大な金を留保している、それを社員の給料にもまわさない
保留しているだけで金が回らないのである、それだけ投資できない、保守志向になっている、銀行でも金が余っている、でも投資先がないのである
それで投資信託などを売りつける、それはゆうちょでも農協でもアメリカのゴールドマンサックスなどの餌食になっているという、投資信託とはそういうアメリカの頭脳となる人達が作り出したものでありそれで日本の金融機関から金を奪われるだけだとしている
金融とは金を右から左に回して差益でもうけている詐欺のようなものである
投資ではなく投機なのである、円高差益でかせぐFXのようなものである
だからもう地銀とか金融機関は必要なくなっている
かえって追い詰められているからそうした詐欺商品を売りつけるから害毒になる
それは医者がいらない薬を患者に与えて製薬会社と結託してもうけているのとにているのである
つまり社会に有効に働かない時、その人間は害になってくるのである
会社でも害悪として社会に働く、むしろそこで働くことは社会に害悪をもたらすだけだとなるから怖い存在になる

その仕事が害悪になるというとき例えばアフガニスタンで大麻を売らざるを得ない、栽培しなければならないのは食べるためにそうなっている
職がないからそうなったのである、メキシコで大麻でギャングがいるのはそれしか仕事がないからだとなる、それを簡単にやめさせることができないのである
だからそうして戦争でも失業者のために兵士にさせて仕事を与えるとまでなる
ナチスは失業者救済のため兵士にして戦争したとかなる
失業者が大量に出ると戦争にもなるのである
なにしろ追い詰められた人間は一番怖い、何でもするようになるからである
今日食べるものがないとしたらわずかの金でも殺す、そういう人に出会ったら最悪だとなる、でもそういう人が増えることはその社会はアフガニスタンやメキシコの麻薬社会にもなる、食べるために善悪もなにもなくなってしまうのである

だからこうして新しい産業も起こらないとか日本でも衰退してゆくばかりとなると非常に危険な状態になってゆく、それが金融機関にも現れているし社会が不安定になり犯罪も増えて来る
でも日本の場合は米が余っているとかとても食料不足になるとは思えない
アフガニスタンなどは食料すら確保できないから絶望的だからテロ国家になっている
ただ世界的に見て新しい産業はもう起こらないのかもしれない
AI化があってもそれは人力をますます減らすのであり今までの産業とは根本的に違うからである

するとどうなるのか?中世のような停滞社会、ゼロサム社会になる
そこでは何か内面性が追求される、精神世界の開発になる
第一パソコンとかITとかAI化は頭脳と関係して物つくりではないからだ
それに日本では追いつけなかったのである、物つくりが得意でもそうした頭脳となると苦手になる
ただ未来はどうなるかわからない、必ず予測しえないことが起きるからだ
津浪とか原発事故でもそうだった、予測し得ないことが人生では起きる
まず70年生きたら必ず戦争であり大災害であり何か大きなことがそのサイクルで起きているからだ
明治維新から70年後に太平洋戦争があり次に70年でまた大きな変化に見舞われている何か2019年も終わるけど2020年は本当にその節目であり大きなことが起きる
そうして時代が変わるのかと思う





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2019年12月05日

店が見せる(魅せる)になっている (常に新しい価値を提供しないと生き残れない)


店が見せる(魅せる)になっている

(常に新しい価値を提供しないと生き残れない)


店というのは見せるからきている、売る物をまず集めて並べる、そしてまず見てもらうことが売ることに通じている
だから店(みせ)がもともと見せるから来ていたのである
棚というときはそこに在庫があるということである

でも最近ただ店で買うのではなく見るということが多くなったのだろうか?
原町のスポーツ関連の商品を売っていた大きなチェーン店がようやく原発事故から8年も過ぎて開店した、それにニトリの家具店だった
だからそこでまず商品を見る、店に入って見る、買うとういのではなくまず見る
ここから商売がはじまる、だからこそ店は見せるだったのである

そして街全体を考えるとそうして大きな店が廃墟になっているようなことが何か街がさびれた感じであの前を通ると嫌だったのである
それが8年もつづいたかからである、でも新しい店ができてそういう感じはなくなったから良かったと思い入って見たのである
でも買ったものは意外と高かった、あそこは高いと思った

ダイユーとかの方が安いし品物も同じでありかえって買った短い絨毯はいいものではなかった、それが長いと思って買ったが失敗だった
ふりかえれば通販だったらそこで寸法が出ているから自分の家で長さがわかったのであるすると通販の方がいいとなる
とにかく通販が多くなった、特に私が通販になるのは車がないからである
原町の店で運送費がとられるから損なのである
この辺も変だなと思って量販店でそのことを言ったら無料で配達してくれた

ただ初めてできたから最初はものめずらしくて入る、買う人もいる、何か多少高くても買っている人はいるだろう
それは悪いことではない、どうも通販だけだと街自体がさびれてしまう
シャッター通りになってしまうのが嫌なのである
原町も駅前通りはそうなっている、だから店はあった方がいい、街自体が活気が出てくるからだ

ただ問題は

店が本当に見せるだけになったこと

売る側にしたらただ見せるだけでは商売にならないのだ
買ってもらわなければ店を維持できないのである
書店にしても今はただ見るだけである、専門書は置いていないからである
本というのは天文学的量があることに驚いた
こんな本があるのととても読み切れない買い切れないのである
ただ安いものを古本化したものを買っている、それで十分だともなる
要するに本でもただ見るために店に入っているとなる

その店で見るにしてもその量が通販と比べると比べようがなく少なすぎる
だからとても通販にはかなわない
そして本当に東京辺りで店が見せるだけになり後は通販で買ってもらうようになった店がある、これまでの店というのがデジタル化で通販と結びついたのである
一応それで商売が成り立つ、そこで買ってもらわなくても通販と結びついて買ってもらうとなる

まさに店は本当に見せるだけで魅せられて買う場となった

ウィンドウショッピングとかあったからそうなったともなる
店は見せるであり街はそうして商品を見せることだともなってしまう
見せることは現物を見るのと通販のように写真で見るのとは違う
手触りとか何か大きさとか現物にふれる魅力がある
だから現物を見るということはそれなりの価値を提供している
つまり通販だけではすべての価値は提供できないのである

とにかく価値は様々なものがあり多様化したのである
だから今までの小さな商店でも勝機はある、街の電気店でも高い値段でもその操作とかアフターサービスを充実した結果成り立っているとかある
何か老人になると簡単なことでも操作できないのである
その操作することを教えてくれるのは助かるからそのサービスに対して金を払うのであるそれも大きな価値なのである
価値というのは本当に多様でありあらゆる価値を提供はできない
いくら通販でも提供できない、だから小さな商店でも勝機がでてくる
それを島倉とかのyoutubeでしきりに訴えている、あれも説得力がある
そもそもyoutubeは新たな価値を提供するツールとなっているからそれ自体新しい価値を提供している、それはテレビとかマスコミではできないものの価値を提供して金をもらっているのである

レストランでも食堂でもそこに料理だけの価値ではない、その食堂であれレストランでも何か店によって雰囲気がある
そこに仲間が集う場になって価値があるとか内装がいいとか広いとかある
私の気に入っているのは原町の高見ホテルの高見食堂である
それはホテル内にある、そこは広々して広いという価値がある、そこでは広いからゆったりできるのである
料理としてはいまいちだというとき何か決まりきっているからである
ても味噌汁はいつも同じではない、魚のアラとかアサリ貝とか蟹とかの味噌汁を大鍋で提供している
自分が一番気にいっているのは広いから気持ちいいとういことである
その広さが私が一番価値を認めているのである
ただ料理は決まっていてイマイチである、ただサシミ料理などはお得な感じがする
ただ料理は決まっているのであきるのである、それで日替わりでカレーを出している所が繁盛しているのもわかる
あきるから毎日変わるものを出すことが価値を提供していたのである
ただそうなるとそれだけのものを毎日提供するとなると大変な労力が必要になる
でもそれが新しい価値を提供することなのである

まず価値は無数にあり価値はいくらでもあり見出されていないのである
故郷にしても田舎にしてもその価値と魅力をそこに住んでいる人すら知らないのである
最近秘密の小径を発見した、それは地元の人もほとんど通らない場所でそこは魅力ある場所だった、しかしその価値を発見して見出している人はいない
それを私は詩にしたりしている
美的な詩的な芸術的価値も無数にあり近くの平凡な場にもある
しかし地元の人すら発見していないしその価値を認めていないのである

いづれにしろIT化して多様な価値がまた発見される、でも旧来の価値もまた活きてくる
それは店が見せるからきて魅せるになることでもわかる
その言葉の成り立ちをみれば昔に帰ったともなるからだ
つまり見せるということ店はそれなりに価値を持っているのである
でもただ見せるだけでは商売にならない、そこでデジタル化した通販と結びついたのである

ただあまりにも商品の種類が増えすぎた、とても店だけでは展示できない
そうなると通販はどうしても有利になる、でもまだ小さい店でも勝機はあるとなる
第一チェーン店でも商品を展示するには限られる、ニトリでもそうである
そこでは通販もしている、通販でも買えるとなる
通販だと大量の商品から選べるとなる、どうしても通販なしでは成り立たなくったのである
でも旧来のものがすべてだめかというとそうではない、何かそこに勝機がかえって逆に出て来る


この人の説明は説得力がある


starcicle111122.jpg

鹿島駅前の星自転車屋は他店で買った自転車でも修理を受け付けている
そういう表示を店前にしている
今日は休みで写真がとれなかった
必ず病院に行くとき休みなのである

原町の自転車屋では自分だけではないそこで買わないと修理を受け付けないのである
だから自転車屋は困る、また近くにないと困るのである
今は鹿島には一軒しか自転車屋がないからなくなると困るのである
でもいづれはなくなる、なぜなら跡継ぎがいないからである
何かこうして高齢化と少子化で跡継ぎがいなくなり中小企業でも大量に廃業化してゆくのもまた耕作放棄地とかと同じように問題なのである

ここはヤマハの販売店でありヤマハだと買いやすい
そしておすすめが老人向きでもあるYPJ-XCなのである
ただ高いから買うとなるとむずかしい、でも同級生がすすめたから買ったのである
そして喜んでいた、なぜなら脳卒中になり一命をとりとめて運動のために自転車にのるようになったからである
つまり走した人でも乗り安い自転車だったのである







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2019年12月04日

経済活動には本当は動機が大事になるのでは? (目先の利益にふりまわされている、老人になってみんな人相まで悪くなる)


経済活動には本当は動機が大事になるのでは?

(目先の利益にふりまわされている、老人になってみんな人相まで悪くなる)

●まずは利益だ

経済活動は金を得るためである、仕事も金を得るためである、会社も金を得るためであるだから最優先課題はいかに利益を出してもうけを出すかであり
そもそも儲けがなかったら利益がなかったち社員に給料すら払われないからだ
社長でもそして第一に利益を出すことを考える
会社は利益を出さなかったらつづけられない、社員にも給料も払われないからである
福祉事業でもないのだからまず利益を出すことだとなる

でもそこから何か経済活動が歪んたものになっている
それがあらゆる職業に及んでいるのだ、それは一番尊敬されている医療関係者、特に高給取りの医者でもそうである
今の社会で…様と言われるのはお医者様くらいだろう
そのくらい尊敬されているのに医者も金になっている
患者にとって有害な薬を出しているのは金になるからである
そして製薬会社と結びつき金が入る仕組みになっている
そういうことが慣習にもなる
ところが江戸時代は医療技術も貧弱だから医は仁術になっていた
医者に望まれたのは人徳であった、だから貧乏人からは金をとらないということもあったそれで医者はやはり尊敬されていた

そもそも医者になる動機はなんなのだろうか?
給料がいいとかが第一になる、それはみんなそうである、また医者だけは尊敬されるということもある
まず現代では尊敬されるということはほとんどない、平等社会だからである
ただ給料が高いということが一番の目的になる
それがみんなそうなっているとき社会自体が歪んでくる
もう頭の中が金しかないのが現代である

まず利益だ、金だ

これしかない、でもそれで社会の賛同が得らるのか?
利益があって当然でありそうしなければ会社が成り立たない
でも社会的有効性とか利益を得るにしてもそういうものがなければ果たして消費者が支持するだろうか?
何かその人が例えば経営者であり社長だとする、するとその人の頭の中が利益だけなのか、金だけを考えているのか?それがその会社全体に影響する
学習塾を経営するにしても経営者は何か蘊蓄を言っていたけどその人の中には金のことしかない、教育自体に何の興味もなかったのである
だから生徒を獲得させるばいいと思っていたのである
それで営業をさせてただ生徒を獲得して金になればいいと思っていた
そういう人に教育者となる資格があったのだろうか? 

●会社はただ金儲けの手段

もちろん自分自身は仕事も会社に勤める経験もないのだからたいしたことは言えない
でも私が教育に関心をもったのはもちろん金が欲しいということがあった
それは同じである、でも何か面白い教育をしたい、何か子供に創造的なものを喚起したということがあった、それも実際は頓挫していたし経営能力もなにもなかった
それで失敗して終わった
でも何か多少はそういう動機があったことは確かである
じも経営者でも社長でも教育自体になんら興味がない、ただ教育というのは金儲けの手段とういう人も多いのである

会社は仕事は金儲けの手段である

何かそういう人が現実に多いのではないか?
それが何か社員でもそうなる、まずは売ることであり銀行なら貯金を増やすことであり
今なら投資信託を売りつけることだとなる
それはゆうちょでは保険だったのである
ゆうちょまでそんなことしているのかと社会の顰蹙をかった
でもそれもまた利益を出せない時代だから追い詰められているからそうなったのである
本来の仕事とは関係なくなっていたのである
銀行とか金融関係がもうけを出る会社に金を貸せないからそうなったのである

地銀とかは元来地域の会社を育てる、地域に貢献することを第一として仕事があった
でも地域に金を貸して利益を出せなくなり投資信託とか売りつけるようになった
社員はそのためにノルマを課せられて顧客のことなど関係なくなった
もはや銀行は客から金を奪うことを目的にしているとまでなる
それも高度成長時代は恵まれていたのである
顧客に貯金するだけで利子をつけられていたからである
今は顧客から投資信託などをすすめられて手数料という利子をとられる時代になったのである、だからめうう時代だからいちがいに責めるということもできないことある

でも頭の中がとにかく金をとれば利益をだせばいいんだということしかなくなることは異常ではないか?
何か個人でも会社でも社会の役割があり仕事する動機がある
それか金だけになって頭の中が社会的役割社会に貢献するとか全くなくなり金を引き出し奪うという感覚にすらなっている
医者でも地銀でも他の会社でもそういうことが多くなる
でも利益を出さなければどうにもならない、給料を支払えないとなっているのだからしょうがないとしてあきらめ働くとなる
それはでも社会にとって有害になり社会の人々に損害を害を与えるものにならないか?
医療関係でもいらない薬を与えてかえって病気が悪くなり薬を減らしたら良くなったというのが結構あるからだ
そこに金しか動機がなくなったらもう社会の害毒になっている
そういう人たちを容認していたら害毒がありいつかみんな被害者になる

●人間の日々の仕事や生活がその人を作る

資本主義社会がウェバーの言うようにキリスト教の精神から修道院ではじまったという分析がある、つまりキリスト教の愛の精神で他者に尽くすということから始まったのが資本主義だとしている、でも今はそんなことは全くない、ただ強欲資本主義になった
金さえ得ればいいという資本主義である、株式でも何か本来の投資ではない
ただ投機なのである、FXとにている
株が上がったり下がったりする、だから巨額の金があればそこで買ったり売ったりしていればもうかるのである、その上下しているから必ず上がったら利益確定すればいい
そしてまた上下するらか安い時に買い高い時に売ればいい 

これは単純なのである、だから資金がある人はそうしてこまめに株の上下を利用すればもうかるのである、ただ一億以上とかの資金がないとたいしてもうからないのである
まず素人はそういう株の世界にはのれない、一日パソコンを見ていなければならなとなるからだ、一億でもたりない、会社だったら百億とかで売り買いして利益をあげている
それでも投資信託でアメリカのゴールドマンサックスのような世界銀行に投資信託をうまくうりつけられてゆうちょでも農協でも地銀でも投資して大損しているというから
普通は株では素人はもうけられないのである

いづれにしろ経済活動には動機が必要だけどそれが失われた
その時この社会の根底が成り立たなくなっているのではないか?
もうあらゆる人が頭の中が金しかない、他所でも別なものが動機があればいいのだが全部金が動機になっているのである
そこに現代の資本主義の退廃が極点に達しているともなる

それで面白かったのは「安曇の白い庭」で丸山健一が言っている

彼は間違いなく肉体は若者のようにひきしまり、贅肉などかけらもなく、肌にしみひとつなく、黒髪でふさふさしててその目はきらきらとかがやいていた
それより、何より、精神が全く穢れていないことに驚いたという

その人は蜂家でミツバチとともに花を求めて北から南まで移動する日々を送っているという
同級会で集まった人はみんな肉体も老いていた、それより心がみんなけがれて人相に現れていたという
丸山健一と私は年齢的さほど差がないのである

これは何を意味しているのか?その日々の性格の結果が肉体に心にも集積して現れたということである
だから人間とは何でも日頃の日々の生活が体でも心でも作ってゆく
だからこそ職業とは大事なのである、職業によって人間はかえって作られてゆくからだ
しかしみんなおかしくなっていたというときそれだけ現代の社会は体でも心でも歪めてしまう社会なのである、それが何か恐ろしいとも思った
第一株でも一日パソコンで株のことを見ていて億万長者になってもその人がどんな人になってゆくのか?何か人格的におかしくなってゆく、そしてその結果が老人になると現れる本当に老人になるとあらゆる結果が現れてくることが怖いのである
つまらないことでも老人になると結果として現れるのである
でも資本主義社会ではどんなことしても金にけがされる人が多いのである

つまりみなんその顔が金だけを追求する社会では悪相になっているというのだ
それこそが今の社会を如実に示していると思った
そういう会社で働いていたら自ずと悪相になってゆくのである
それが社会全体がそうだというとき生き苦しいものとなってくる
そういう社会ではモラルが失われていてもうまともにも生きられくなる  

ただお前の言っていることは甘いだよ
世の中そんなものじゃない、食うか食われかなんだよ
そうしなければ生きていけないんだよ

そういう反論になる、でもそうした社会がどうなってゆくのか?
社会が結局そうして金ばかりの悪相の人間を増やしてゆく

それは地獄社会になってゆくのではないか? 

●みんなが善人だと思っていることが間違いを産む

ただこの世はそもそも地獄だという人も普通にいた、親鸞などがそう言っていた
「地獄は一定すみかぞかし」と言っていた
人間はみんな悪人だとも言っていた、それが世の中の変わらぬ真相である
資本主義がもともとキリスト教の奉仕の精神で始まったのだが結局金だけを追及する
強欲資本主義になったり共産主義が大格差を産んだりとなっている
だから社会は変わらない、世の中は変わらない、変えられないとなり無常だとなる
みんな悪人だというときそうだとなる、ただ悪人だと自覚していないのである
親鸞は悪人だと自覚していたし他の優れた宗教者も自覚していた
その差が大きいのである                
たいがい善人だと思ってしているのである、だからかえって扱いにくいのである
カルト教団とか宗教関係者がかえってそういうのが多い
善人だと思ってすすめているけどそのすすめている人間が大悪人なのである
だからこそ善人は扱いにくいのである
俺たちは善人だ、全部善人だ、だから善人の言うことを聞けとなるからだ

地獄への道は善意で舗装されている

内的な確信が、間違った政策や行動によってなされた危害を正当化することがある。善意あるものは、その行いが集団に対して良いと信じている。それはかれらにとっては自明である。かれらはよりよい善をなしたためと信じた結果の巻き添え被害を正当化する。

善意だいうことで善人だとなりそれが災いとなる、善意なら通るべきだと従うべきだとなり強制される、そういうことが歴史上に常に人間には起きて来ていたのである
カルト教団になるとナチスもそうだけど善意が強制されて人殺しまでさせられるのである俺たちは善人で正しいから反対するならボアしてもいい殺してもいいとなるからだ
それはまず人間は親鸞の言うように悪人だとしないからである
そういう個々人で反省がないからである、そして集団の善意は一番恐ろしいものとなったのである、善意だから相手を殺ししてもいいとまでなったからである 
結局この世自体がダンテの地獄編だったのである
地獄人間の中に生きているということである
そういうことは人生をふりかえり老人になると不思議にわかるのである 

動機が大事だという時そもそも宗教というとき動機を一番重んじている、それはキリスト教でも仏教でも同じである
「神はあなたの心を見ている」とかいう時その動機を見ているのである
「心の清い者は神を見るだろう」というときもそうである
だから資本主義が修道院から始まったとしてもその逆になってしまったのである
共産主義でも同じだったのである

例えば宗教というときどうして生まれたかというと法華経になると飢えた虎にその身を与えたという故事がある、それは親のトラが植えて子供を殺そうとしたからだとされているその生まれ変わりが釈迦だとしている
なぜそういうことになったのか?それはインドでは動物を大事にする、動物を人間のように見ている、今でも牛でも猿でも大事にする
それから牧畜社会では動物を扱う、羊でも牛で豚でも飼っていて食べることがある
すると動物を殺して食べることに罪悪感をもつ、血を流して殺されてゆく動物を見る
そこで動物に対しての罪悪感を自ずともつ、動物を殺して自分は生きているのだという
ことになりそこで動物に悪い感じがする、動物の命を殺して自分は生きている

だから動物に感謝しなければならないとかなる、ただ植物だと野菜だけならそういう感情をもたないのである、魚でもやはり多少はもつが動物だと羊とかなるとより人間に近い感情になるからである
だから罪の意識が牧畜民族からより強く生まれて宗教になったともなる
現代の人間はそういう感情をもたない、ただ肉を貪り食うだけなのである
その動物を殺している現場を知ったらそうはならないのである
何か動物の接点がなくなる、するとただ肉の断片を買って食うだけになりそめういうことを感じないのである、命がどうして維持できるのかをやはり知ることが必要なのである

結局この世はダンテの地獄編なのである、そこにいるのは地獄人間だった
その地獄がこの世で現実にあるのだ、地獄編の人間のようにみんななってゆくことが怖いのである、でも本人はそういうことを自覚しないのである
そして老人にてったときみんな地獄人間となりその人相がダンテの地獄編にいる人と同じになっていたのである、宗教にかかわっている人もそうだったのである
だから日々生活する仕事が大事になる、それが結果的にその人を作ってゆくからである
でもそういう職業が資本主義では汚されているから大問題なのである






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2019年11月23日

貨幣の謎 (貨幣の前にそれを通用させる王国や帝国などの共同体が権力が必要)


貨幣の謎

(貨幣の前にそれを通用させる王国や帝国などの共同体が権力が必要)

貨幣はそもそもいろいろ考えてみても謎である
それが生まれたのは今のトルコのリディア王国である
そこはホーマーのホメロスの舞台となった古い場所である
そこにトロイアの遺跡が埋もれていたのである
そこはもともと要衝の地であり港だった、私自身が行ったことがあるけど何か遺跡にして小さいのに驚いたのである、こんな小さいのがホメロスの舞台だったのかとなる
何か日本だと古墳の方が大きいから大きい国を想像してしまうがここは小さいのである
場所としてこれは陸地にあってもその時代は海が迫っていた場所である
つまり港の機能があった場所であり要衝の地であり貿易の港として機能していた
そういう場所から人類最初の金貨が生まれたともなる
また砂金がとれたとか資源があり金属加工技術がありとかいい条件があり生まれた
そしてそこにミダス王の杖で触れるとなんでも金に変化したという伝説が生まれた
それだけ金がとれた場所だったともなる

そこから今度はギリシャに貨幣が広がった、まずリデアにしても一つの王国があり共同体があり貨幣が生まれた、次にギリシャは大きな国としてのまとまりがありそこで壺などを売る貿易が地中海を通じて起きた、植民都市を地中海沿岸に作った 
ベニスとかフランスのニースとかでももともとギリシャがで新しい都市という意味であり植民都市から始まった
その植民都市にギリシャの貨幣が使用された、つまりギリシャがそうして貿易とか通じて拡大化されると貨幣もその中で通用するようになる
貨幣だけが単独で通用しないのである、その前に王国であれ帝国であれ大きな共同体が政治組織が生まれないと貨幣は通用しないのである
共通の貨幣が通用するにはそうして共通の土台となる連合であれ共同体ができないと通用しない、それはローマ帝国でもそうだったし最近ではユーロ―がそうである
ヨ−ロッパを統合するものとて新しく生まれた貨幣だからである
中国でも始皇帝が統一国家を作った時共通の貨幣が生まれた

そして今ドルが世界基軸の貨幣になっているときそれはアメリカが世界を支配している
アメリカが軍事力でも支配して経済でも支配しているからそうなる
それでアフリカの果てまでロバに乗った子供までワンドーラ―くれと言っている
ドルは世界中で通用するのである、例えば石油でも売買できるのはドルなのである
それはアメリカが世界を支配しているからドルが世界で通用している
何か交換するに便利だからとして貨幣は生まれない、経済の前に政治があり軍事力がありそれで共通の貨幣が通用する
外国に行ってカンボジアとかベトナムの紙幣とかもってきても何の価値もない
交換しても利息三文なのである、ただの紙切れと同じなのである
しかしドルだったら十分な価値があり円と交換できて物を買うことができる

だから今なぜ中国で元を共通貨幣にしようとしているかとなると中国がアメリカと対抗できるような大国化したからそうなる、単に便利だからとして貨幣が通用するとはならないなんかトルコにいってエフェソスというローマ帝国の遺跡は立派である
そこでローマの貨幣だとだまされて買った、それはどうしてかというとその遺跡が立派だからその偽貨幣でも高いとも思ったのである
貨幣の背後にはそうした実質となるもの価値あるものがなければ効用がないとなる
しょせん貨幣でもそれ自体には価値がないからだ
その貨幣でもたらされるものが買えるものに価値がある
その金で何が買えるかということである、アメリカからドルで何が買えるのか?
日本から何が買えるのか?ヨ−ロッパから何が買えるのか?中国から何が買えるのか?
それが問題になる、その手段として貨幣があるのであり貨幣とか紙幣自体に価値はないのである

ただ世界でドルが基軸となっていてもアメリカの国力が衰えればドルの価値も下がり通用しなくなる、つまり貨幣の価値はその国の力に作用されて決まる
その国の力とはいろいろある、資源とか軍事力とか技術力とか政治力とかいろいろ要素がある、国力とは総体的であるからだ
アメリカはそういうふうに総合的力がありドルが依然として基軸通貨になる
でもそろそろその地位もゆらぎつつある、アメリカがいつまでもその力を維持できない
それはイギリス帝国が七つの海を支配したときボンドが世界で一番通用する基軸通貨となっていた、エジプトボンドとかもあった、それはイギリス帝国が支配したからである

オスマン帝国で部下がエジプトに派遣されてそこでその部下はその地方長官となり王のように君臨する、そして自分が王として貨幣を鋳造しようとしていた  
それでスレイマンという王によって征伐された
何か貨幣はそうして権力と関係している、権力を誇示するものとして貨幣がある
ローマでもそうして地方長官とかが反乱する、そして自らの像を貨幣に刻むことがある
ローマ皇帝の像は刻まれるが地方長官の像を刻んだ貨幣がある 
                        
硬貨鋳造の権限についてカッシウス・ディオは「各都市は独自の造幣権や度量衡の制定権を持つべきではない。彼らは我々のものを使うべきだ」と記している。共和政期から帝国期前半においては、ローマだけで金貨や銀貨が造幣されていた。

貨幣の発行権は権力をもつものがもつ、それでGHQに戦争に負けた日本は天皇の菊の紋様の貨幣の発行を禁じたのである
つまり貨幣には権力がかかわる、これを見ても戦後日本は独立国ではない、貨幣の発行まで自由にできなかったのである
実際は様々な自由が奪われていたのである、それは敗戦国になったからである
だからトルの基軸通貨にロシアとかは反対している、IMFとかに入らない管理されないということで今も対立している
中国でもアメリカに対抗するのにドルの基軸通貨から離れようとする
だから貨幣には政治権力が常にかかわっている、貨幣を発行できるのは権力を持つものだからである
例えば地方通貨などが話題になって実行されてもその範囲は狭すぎるから普及しない、江戸時代だと仙台銭とか地方通貨があっても
それは藩内でありその外では通用しない、大きな権力下で幕府が公認しないと通用しないのである

いづれにしろドルに不満をもつ時、アメリカが富を独占している、世界から搾取して独占している、グローバル経済で株式で富を不法に集めて何兆円もの富をもつ数パーセントの大金持ちがいる、それはドル基軸のアメリカの世界支配の下でそうなっている
それはアメリカ帝国があってそうなっている、でもアメリカ国内でも格差が激しい
アメリカ帝国があってもアメリカ人は食べることが満足にできない底辺層がまた多いのである
それでこうした富の独占を許すことはできないと貧困層から社会主義者のサンダースとかが人気になっている
ローマ帝国でも常に権力争いがありそれが貨幣に影響していた、二頭政治だと二人の権力者が貨幣に刻まれていたり四頭政治とかにもなる   

日本でも宋銭の資金力が平家を台頭させたと考える「反平家」の人々や宋銭の流通によって経済的に不利益を受けるようになった荘園領主、地方武士も、宋銭とこれを流通させようとする平家に強い不満を持つようになった。
ただこの宋銭は民衆単位で便利だから権力と関係なく流通したと言う人もいる

この宋銭は青森の一三湊とか函館から大量に発見されている、それだけ日本の広範囲に流通した、この宋銭が日本の貨幣経済の端緒になった、ここでも宋銭を牛耳る平家に対して対立が生まれた

つまり貨幣が経済的合理性はないのである、だから中国であれ世界でドル一極支配、アメリカ一極支配に対抗するためユーロ―が生れたり中国でも対抗してくるのはそのためである
日本でも天皇の菊の紋の貨幣の発行をGHQが禁じたというのも本当に理不尽なのである
ただ中国の元が紙幣が基軸通貨になったらこれも不満になる、でも通貨の背後には政治が大きな権力がかかわるから従うのである
そして貨幣が金がこれほど力をもつのは貿易が盛んになるときである、外部から多くの物を買いたいとなれば貨幣が金が力を持つ
現代はまさにグロ−バル経済だから外国から無数の物が入る時代だから金が必要になる
もし江戸時代の自給自足の村だったら外部から買うものもない売るものもないとなり金の力はそんなにないとなるからだ 

とにかく海外旅行すると常に貨幣を両替したりとか貨幣に興味をもつ、ヨ−ロッパでもユーロ―になる前は国ごとに貨幣が違っていたのである、だから国を変わる旅に貨幣を交換するからめんどうだった、でもユーロ―になるとそういうことがない
でも貨幣を通じてそれぞれの国を意識することがありそこでその国の歴史に興味をもつことがある
だからお土産として自分は貨幣を記念にもってきたのである



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2019年11月19日

農業は自然のリズム、工業は機械のリズム (風力発電がとまり刈田となり山眠るとなった)


農業は自然のリズム、工業は機械のリズム

(風力発電がとまり刈田となり山眠るとなった)

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久しくも風車のとまる刈田かな

山眠る風車のとまり田舎かな

台風で電源装置が水につかった、それで風力発電の風車もとまった
それも奇妙な風景だった、田んぼの稲が刈られてそこは刈田となる
それが俳句だと季語になる、つまり農業だとやはり自然の一環として成り立つ
だから冬になれば刈田になり冬田となり田んぼも休むのである

ところが工業は休むことはない、休むことなく働きつづける、それで機械でもロボットでも疲れることがないのである、工業社会は自然のリズムとは違うのである
機械に人間でも自然のリズムに反して合わせる
だから冬でも休まないし機械は休むことなく稼働つづけるのである
そして人間も休むことがない、機械のリズムに合わせるのである
もう一秒単位で機械のリズムに合わせて人間も働かせられる
江戸時代までは時間は寺の鐘で知らされた、それは今の一分刻みの時間とは違う、おおざっぱなものである
第一チクチクと時計が動くのとゴーンと鐘が人間の手でつかれるのとは感覚的に相当違っている
時間はゆっくりと進んでいたのである
江戸時代と明治時代では時間の感覚も根本的に変わってしまったのである

それは明治以降人間でもそうなったのである、工業化機械化して精密な時計が作られて
その時間の単位は一分単位とかになり人間は工場で機械のようにロボットのように働かせられるようになった
その工業社会に合わせて近代的な学校ができたのである
学校とは工業社会になった時、その社会に適合させるために生まれたシステムである
だから学校は世界でもどこにでもある、それは工業社会に不可欠だからそういう集団を一律に教育するシステムが作られた

だから社会をみるとき江戸時代と明治になったときその相違を見るとわかりやすくなる
対象的にわかりやすくなる、寺子屋だと机があったとしてもばらばらなのである
学校のように並んでいないのである、先生にしても何か個別指導のようなことをしていたかえって江戸時代には自由があったとなる
それは教える科目も少ないとか明治以降の近代化とは全く違った教育だったからである
読み書き算盤ができればいいという時代だったのである
今になると私は算盤を習ったけど何の役にたたなかったとなる
教育も時代に合わないと後で何の役にもたたないとなる
それは時代が技術が変わりそうなる
今やパソコンやITの進歩で変わってしまったように技術革新がすすむと例えば銀行はもうキャッシュレスになりいらないとまでなる
つまり銀行は時代に取り残された過去の遺物となるかもしれない
そういう変化が激しいから老人はついていけなくなる

とにかく工業化とか情報社会とか社会自体が変化する、そこでまた様々な問題が生まれる現代人文明人がなぜ鬱病とかいろいろ不適合症状が生まれるのか?
それは農業社会だったら自然のリズムとともに生きていた
だから一分一秒刻みで時間に追われことがなかった、だからストレスも少なかった
現代人は体の不調と精神の不調になりやすいのである

江戸時代は仕事でも大工などでも午後二時頃までしか仕事しなかったとかなるとのんびりしていたとなる、仕事に追われてはいないのである
近代化して人間は働く機械にロボットにされたともなる
つまり機械というのは自然のリズムとは関係ないものである
すると機械は休むことなく夜でも働きつづける、電気でも送りつづける
すると昼も夜もなくこうこうと電気がついて明るく人間は眠らずに働くともなる

人間はもともと生物だからやはり自然の産物だから自然のリズムに合わせて生きるのが自然なのである、だからこそ機械のリズムに合わせるから体でも心も不調になってくる
例えば山眠るという季語は冬の季語であり山も冬に入ると眠りに入る
それが田舎だと冬は休息の時であり山が深く静まってゆくことで心の安らぎを覚える
でも都会になると冬でも眠らない、延々と働き続ける
不夜城のように人々は働きつづける、それで人々は心も不調になってくる
そういうこと文明生活自体に反逆して天才的な人はアウトサイダーになった
ニーチェとか上野霄里氏とかである、そういう人は強力な並外れたエネルギーの持ち主だから文明的機械的非人間的非自然的な生活に耐えられないのである

私の場合は平凡な人間だけど何かそうした文明生活に適合できずに遂に無職で人生を終える、それはニートとかともにている、その人たちも文明生活に適合できないから無職になったともなるからだ、ただアウトサイダーのように強力なエネルギーはない人たちである人間が自然のリズムに合わせることが本来の生である
夜は人は本当は休止すべきで眠りに入る、朝は日の出とともに働くのが心身ともにいいことでありそこに鬱病とかにはならない、自ずと自然からエネルギーをもらい元気になる

そして冬には冬の役割がある、冬は作物も育ち安いというは意外だけど実際に畑で野菜を作っている人がそのことを熱心に言っていたのでそうなのだと思った
冬はふゆー増えるだったとは知っていた、でも現実に冬は土がかえって働くのである
つまりそれも自然のリズムから生まれた言葉である
第一季語はほとんど農業から生まれている、だから冬という言葉自体が農業を実地にしている人から生まれた言葉だったのである

ただ人間は冬は休んでいいかとなると別に江戸時代でも休んでいない、どうしても毎日遊んでいることはできないから出稼ぎとかに行ったり夜なべ仕事とかもしていた
藁で草履を作ったり縄を作ったり何か金になるための仕事をしていた
農閑期は戦後も出稼ぎをしていた、どうしても金が必要な時代になったからである
それで双葉とか大熊辺りは出稼ぎ地帯で地元に住んで働きたいということで原発を誘致したのである、出稼ぎ時代というのはここだけではない全国的にあったのである
原発は二三倍の金をもらえるからこの辺では働いた経験のある人が多いのである

そもそも人間は自然から離れて東京のような大都会に住むことはもう人間でありえなくなっている、それは人工化した荒野ともなる、そこで人間は働くロボットとされる
そこで心身共に不調になるのは当然なのである
自然のリズムから離れた生活でありストレスが自ずとたまるからである
それは動物でも工業化すると休むことなく卵をケージのなかで生まされつづける
夜まで電気をつけて産まされ続けて鶏の寿命が10年あるとして二年で廃用になり肉にされて始末される、そういうことを動物にするとき人間も同じことをされるのである
だから放し飼いの鶏の卵を食べる方がいいというのもわかる
そうして産まされた卵は体に悪いというのは本当だと思う
相当なストレスをためて産まされているからだ

何か近くに鶏が庭鳥が庭の鳥がまさに放し飼いされて自由に歩いていた、そこで庭鳥が鳴く時なんともいえない解放感とか自由を感じた
ニワトリも本来はそうして自然の中で自然のリズムの中で飼われるべきでありケージで飼われるべきではない、機械にロボットにされるべきではないばのである
ニワトリはそうして卵を産む機械としてその生でも十年あるのに二年で廃用になる
そういうことは人間に跳ね返ってくる、人間もニワトリと同じように働かせられる
機械のリズムに合わせて働かされるのである
そうしてニワトリをケージに入れて玉子を産ませる業者でも嫌悪感をいだく、それは鳥籠に鳥を飼っているのともにている
そういうことは動物だけではない、人間にも適応されている、文明人は何らかでこうしてケージに入れられて飼育されて卵を利益をあげるロボットにされている

だから現代では働くことを否定する人が多くなる、それでニートか増えているのかとも思う、また働かなくてもいい環境があるから食べることができるからそうなっている
私自身も我がままだったとしても社会に文明に適合できなかったのである
だから遂に死ぬまで無職だったとなる
ただ自然のリズムに合わせて生きてきたことは確かである
その結果としてわからないにしても体が弱くてもまだ病気になったにしろ元気でいるのかもしれない、無職になることの効用としては自然のリズムの中に生きることができる
ただ危険なのは社会性を失いニーチェのようになる
社会性はやはり人間の生活で基本的に必要なのものである
自然の中で社会を離れて仙人のように人は生きることはできないし人格も形成できないのである

ただ現代文明に適合している人たちはニートとか無職を常に優越感で攻めているけど
異常である、普通だったら現代文明に適合できなくなるのが正常だからである
それで適合している人は異常化しているとなる
そういう異常な人と合ってひどい目に合ったのも自分だった
そんな人がいるのか、そんな夫婦がいるのか、何か結婚しない人が常に責められるけど結婚している人がそれほど称賛できるのか?
奇形のようになっている夫婦もいる、その人は文明社会では正常であり責められないのである、確かにニートとか無職は異常である
でもまた社会に適合して正常と思える人も異常だったのである
異常人格が形成されていたのである
だから何が異常か正常かもわからなくなるのである
文明そのものが異常として批判するのも理解できるのである

人間の価値は多様である、でも金になることしか価値あるものとして見れない
金を産まない人は無価値とされる、農業だと都会の人だったら米でも野菜でも果物でもそれがどれだけうまいかとでその価値を判断する
ところがその米や野菜や果物がとれる背景とか基盤とか自然とかは考慮しないのである
農業の本当の価値を知る者はそこに住んでいる人である
そこに住まない限りただ米でも野菜でも果物でも食べれても本当の農業の価値はわからないのである
農業という暮らしがありそれはそこに住んでみないとわからない、実感てきない
だから田舎では農業をしている人がいればその価値観を共有できるとはなる
ただ田舎でも農業をしている人は一割とかなるとまるで都会人の価値観に生きている人も普通なのである、だから原発事故で田畑が草ぼうぼうになっても全く関心がない
かえって補償金で年金のようにもらったから良かったと喜んでいるのも異常なのである

いづれにしろ自然から自然のリズムから離れて生活することは人間を奇形化する
奇形人間を作り出しているのである、それでアウトサイダーは徹底してそれを批判したのである、ただ社会性がなくなりその本人も狂気したとはなる
自分自身も社会性が喪失していて介護になり社会とかかわり苦労したことでもわかる
とにかく冬はどうしても休む時期であり山眠る時期である、だから風力発電の風車もとまっているのがふさわしいとまでなる
でも自分自身だって夜も電気なしでは暮らせないのである、こうして文章を書いたのは蛍光灯の光の下でパソコンでしているからである

農業には基本的に農作物を作るというだけではない、農業から生まれる暮らしの価値がある、でも金が払われるのは農作物である
都会の人が手に取るのは米であり野菜とか果物だけである
その農作物をとれる場所て生活していないのだからそこでの暮らしは関係なくなっているその暮らしに金を払う人はいなのである
その暮らしの価値を知るのはそこに住んでみないとわからないからである
でもその暮らしの価値に金を払われることはない
それで生業を失ったということで東電に生業を返せと裁判を起こしたのである
でも地元の人でもその農業がその暮らしを尊重していた人はまれである
戦前辺りだと本当に農業が貧乏でも苦しくても農業の価値に生きていた人はいる
それは過酷だったのである
だからこそ親に農業だけはするなとして殴られてその子供は原発や建築現場で働くようになったのである








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2019年11月18日

私はこうして田舎が嫌いになりました (農業の価値を追求してもできない時代)


私はこうして田舎が嫌いになりました

(農業の価値を追求してもできない時代)

縦書き小説
https://pdfnovels.net/n4463ce/main.pdf

これは小説というよりドキュメントである、ここは本当の限界集落であり老人しかもういない場所である、もう消滅する村である
もう跡継ぎになる子供のいる世代もいないからである
だからなんとか若い子供のいる人に来てもらいたいとしてその若い人を招いた
でも実際その部落になじめず出て行った
「村八分」にもあった、すでにそこで二組が新しく入ってきたが定着できなかった
それが生々しく語られている
縦書きだと読みやすくなっていた

農業を歴史的にふりかえれば文明そのものが農業から始まった
エジプト文明3000年も小麦中心の農業文明であり、中国文明も農業文明でありマヤ、インカの文明もトウモロコシを主食とした農業文明である
牧畜文明はあったがそれは大きな文明とはなちなかった、モンゴル帝国は文明とは言えないからだ
ローマ帝国はもともと農民から発したというのもそうである、その人たち貴族の名前に野菜の名をつけているのが多いというときもそうである
農民だから最初質実であり堅実だったが豊かになって贅沢しすぎて弱体化したとされる
そもそも人間の歴史は産業革命が起きるまで農業が主体だったのである
漁労というものがあっても農業が主体でありそれに牧畜が交じったのである
だから人間の歴史は農業を知らなければわからないとまでなる

明治維新で確かに日本はヨ−ロッパの文明を取り入れて工業化したが戦前までは8割が農民だったのである、それも小作などが多く貧乏な農民国家だったのである
それは江戸時代のつづきだったのである
戦争が終わってもそうだった、戦争の引揚者は働く場所がないからいたるところで開墾に入った、すぐ近くの小池にも開墾に入った入植者がいたのである
いくらかの土地があればそこで農業するほか生活する方法がなかったのである

そもそもてぜ満州のような所に日本が新天地を求めたのか?
それは農業するためだった、農業には土地が必要である、そこには広大な土地があり農業ができるということで満州が憧れの地となったのである、そこは寒いから農業の適地ではなかったがとにかく土地が広大だから農業的価値観だといい場所となっていた
それで日本人は米すら作っていたのである
戦争終っても今度はブラジルとかに南米とかに移住したのは仕事がないから土地を求めて農業するために移住したのである

そういう歴史をふりかえると高度成長時代から工業社会になった、農業している人は一割にも田舎でもいないのである、その女性は古い農家に野馬追に出た郷士の家に嫁いだとしても土地があっても夫は会社員であり女性もそうである
その女性はだからなんら農業の話ができない、土地は貸している、農業に一切たずさわらないのである、紙漉きもしていたというがそのことも何も伝えられていない、それを伝えてくれる人も死んでいるからである
だから何かその人と話ができない、農業に興味があっても一切農業のことは知らないのである、農家に嫁ぐことは昔は相当に嫌がられてみんなサラリーマンに憧れて嫁いだのである、その家には姑もいないから楽なのである

ただ私が農業のことを言う時、農業を実地にすることではない、農業を通じた農業の暮らしがありその暮らしの価値を求めているのである
それは何か限界集落に田舎に住みたいという人に共通している
都会は東京などは嫌だとして田舎の自然の中で暮らしたいというときそうである
農業には確かに米と野菜を作りそれで生活するということがある
それと同時に農業から生まれる暮らしがありそれが価値となるのである
その価値は工業から生まれる価値とはまるで違ったものなのである
自然に密着したものになるから自然に通じるものだから都会の工業社会商業社会で暮らすのとは全然違ったものになる、その人も最初は星がきれいだとか田舎の風景に都会にないものを感じて良かったと思っていたのである
ただ姑息な田舎特有の人間関係とかに嫌気がさしてまた都会に帰ったのである

結局はそれは自分自身の矛盾でもある、農業的暮らしの価値をもとめてもそこで実地に農業することは別なのである、田をするにしても水をひくにしてもそこに人が必ずかかわりその人の関係があまりにも濃密になるのでうまくいかない
第一若い人が必要だとして招いてもよそ者を嫌っているからだ
田舎ではよそ者を嫌う、そして農業だと三代つづいて一人前とかされる、それで仲間になれる村の一員になれるとか旧弊な世界なのである
そこで幅を利かすものはそこに代々住んだ人であり草分けとかである
その人の指導がないと農業はできないからである、だからそういう人達の機嫌をそこねては暮らしていけない、それでこの辺では越中とかから来た真宗系統の移民が悪い土地を開墾して苦しんだ、その人たちはなぜ飢饉の後に来たのか?

そこには飢饉のために放置された土地があったから

農業社会では土地が最高の価値あるものだったからそうなった
そしてわざわざなぜ命がけでも来たのか、土地が与えられて農業できるからだとなる
越中から命がけ移住する理由がありそれは強いられたものだったのである
それで相馬藩内に定住するようなったとき相当に苦労した、
苦しくて加賀泣きということが伝えられている、泣いていたということである
この限界集落に来た人もないていた
でも別に今はそんな苦労する必要ないのである、その人たちはもう故郷には帰ることができない、だから我慢すぴる他なかったのである、帰ったら藩から罰せられて死刑にされるかもしれないからだ
つまり簡単に限界集落で田舎の生活がてきるとして移住したとしても嫌だったら都会に帰ればいいとはなちなかったのある
なぜ田舎に定住できないのか?それは別に強いられないからである
人間はあえて苦しい方を選ばないのである、苦しい方を選ぶのはそう強いられたからである

ただ今になるとそうして都会の若者でも田舎に憧れる、それは都会的生活が嫌になっているからである、農業とか田舎を求めるのもは自然と密着しているからそこに憧れる
農業の暮らしの価値を求めているのである
農業の田舎の暮らしの価値は都会の価値とは違う、収入は少なくても時間がゆっくりとすぎてゆくとか自然とともに暮らすとかある
そういう暮らしの価値を求める、農業というのは何も米とか野菜を作るだけではない
それにともなう田舎の農業の暮らしの価値がある
だから飯館村では山菜料理が定番でありそれは山から山菜をとってそれを食べる
その山菜は無料なのである、それが都会に出て行ったときその暮らしが失われたから淋しいとなっている、つまり生業を返せとして東電を原発事故で訴えたのはそういうことがあった

ただそういう農業の田舎の暮らしの価値は具体的に金になったりしないから農業だけだと貧乏になっているから農業はしたくないとなっていたのである
私が知っている援助している畑で野菜を作る女性は実際はそこで何もとれない
ただ農業の話を聞いているだけである、なぜか勝手に草むしりされた金を要求されたとか何にもそういう人がいる、そして金を払わされる、一年でなんだかんだで10万とか払わされている感じにもなる、実際そこでは何もとれないのである
これは本当である、そこで聞かされるのは周りとのいざこざである、盗まれたとか鳥に虫に食われたとかネズミに食われたとかキジに食われたとか農薬だ肥料にかかる、種にかかるとかそういう話を聞いているだけなのである
ただ畑をするにしても実際は周りとの関係が必要なのである
趣味のようなものでも必ず畑で仕事することは隣がありその人間関係がめんどうなのである
だから隣の人が嫌だとしてその人が死んだ時喜んでいたのである
田畑は本当に孤立してはできない、密接な人間関係があってできるのが農業なのである
だからもう限界集落のような場所ではとても都会で暮らしていた人は適合できない
それよりもうそこには子供もいないし跡継ぎもいないからまさに限界がきて廃村までになる

ただ田舎という時農業の暮らしの価値があることが見逃されている、現実に田畑がなくなったら田舎ではない、そこに田畑があり暮らしがあって田舎なのである
ただ自然の中に家があるだけだったら田舎ではない、その農業の暮らしの価値があり
ただ田畑で米を作ること野菜を作るだけではない価値がある
だからそういう暮らしがなくなったら田舎の価値もなくなる
だから飯館村で山菜料理が定番となるとそれが山の村の暮らしなのである
それがなくなったとき淋しいとなるのである
でも原発事故以後飯館村は福島県で収入も最低だったが公務員の給料でも上がっている
補償金などで財政が豊かになって学校とか施設は立派なものができてもそこに今までの山菜をとるなどの生業としての暮らしがなくなった
そこは外から見ても価値がなくなった、残念だとなる
ただその土地に住む人はかえって金が入って新しい家も建てた人がいて良かったと思っている人もいる、だから外から見るのと実際にそこで生活するのとは違っているのである
ただ正直飯館村の価値はかなり失われてしまったことは確かであり残念だとなる

とにかく農業の暮らしの価値を知らない関心がないというのは田舎に住んでいておかしいとなる、浪江の原発で働いていた人は全く農業に関心がないから事故後でも年金など老人はもらえないのに金をもらって良かったとしているのである
回りが草ぼうぼうになって田畑がなくなっても関心がない
それはすでに田舎に住んでいても都会人になっていたのである
今は農業社会でないから田舎でもそうなっても不思議ではないのである
今は電気社会でもある、電気がエネルギーとするときそれが重要になる、仕事も電気関係が多くなる、原発で千人も電気関係の人達が仕事をしていたことでもわかる
そういう社会では田舎でも農業の暮らしの価値を認める関心がある人は少ない
ただうまい米を食いたい野菜を食べたいとか果物を食べたいとかあってもその暮らし自体の価値を認める関心がある人は少ないのである

ただ原発事故以後耕作放棄地がこの辺では増えたというよ小高と浪江だと元の原始の状態にもどった、草ぼうぼうの荒地化した、その土地を利用する人はいない
するとその土地をかえって外から来た人でも利用しやすい、土地を集約して大規模農業にしやすい、それだ小高では農業会社ができて会社員として雇う、そうなると限界集落で一家族が入って苦労することはないとなる
農業はやはり土地を得ることが最初の関門だからそうなる
だから原発事故周辺は何か新しいことをしやすいとういこと反面ある



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2019年11月15日

日本はモノマネ国家であり中国もパクリ国家である


日本はモノマネ国家であり中国もパクリ国家である

(独創的な創造的な人間が育まれない国)

パナソニックという会社は、かつて松下電器産業という社名だったが、昭和の時代には、よく「マネシタ(真似した)電器」と揶揄されていた。トヨタも今でこそ、レクサスといったブランド商品を出せるようになったが、米ゼネラル・モーターズの自動車を参考に製品の開発を続けてきたのは有名な話である。

パナソニックに限らず、日本企業の多くは、欧米企業がヒット商品を出すと、すぐにそれを真似して(今の言葉で言えばパクって)、より安い価格の製品を出すというのが定番商法だった

https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2019/08/post-78_2.php

良く日本では中国をパクリ国家だと攻めているけど日本もそうだったのである
ただマネシタ電気と松下電器が言われていたというのは知らなかった
何か日本の電器製品が売れたのは日本の技術力が高いから売れたとされていた
それで日本を誇る人がいた、技術者とか科学者は今でもそうである
日本は技術力で優秀だとしている、それが疑問なのである
戦争の時もアメリカのことを知らない、どれだけ巨大な国なのかもしらない
それで日本がはアメリカに負けないとして戦争になった

その時庶民はアメリカのことなど情報も入ってこないのだから知らない
テレビも何もないのだから知らない、ケネディ大統領が暗殺されたときようやくテレビが普及して外国の情報が映像で入るようになった
つまり映像で情報が入るとインパクトが強くなる、アメリカではすでに戦前でも車が普及していたとかその生活ぶりがテレビで写されればアメリカの見方が違ってくる
外国は実地にその国を踏んで見ないとわからない、だから今でも知識人となる要件が
外国で暮らした人であり学んだ人なのである
そこで日本という国を客観的に見れるからである

日本は科学技術でノーベル賞もとっているから優秀なのだという奢りがある
そのことで何か日本が画高度成長時代を築いたのもそうして科学技術が優秀だったからだとしている
それはマネシタ電器というように欧米のマネであり日本独自のものではなかった
それが日本独自のものと奢るようになった
それが明らかに原発事故に通じていたのである

原発を操作する技術は日本にはなかった、それで湯川博士がまだ時期が早いと反対していた、原発を操作する技術は日本になかったけど無理して導入したのである
そしてアメリカも安全性を無視して古い原子炉のマーク1を売りつけたのである
たいがい後進国には武器でも古いものがお古が売りつけられる
明治維新でも南北戦争で使った古い銃がアメリカから入ってきたとか中国だとロシア製の古い銃とかか売りつけられるのである
そこに武器商人が活躍する素地があった

日本は科学技術に関してはみんな欧米とかから学んだものであり独自のものはない
ただ文明は必ずその国にとどまらず伝播する、ギリシャ文明にエジプト文明の影響があったとかヨ−ロッパ文明にイスラムの文明の影響があったとかなる
日本では中国文明のコピーだとか言われる、だからものまねが別に悪いことではない
そういうふうにして文明はグロ−バル化したからである

日本の高度成長は運が良かったのである、戦争に負けて軍備に金を使う必要があまりなかった、外交でもアメリカに守られて楽な立場になっていた
それで経済のみに集中できたのである、そして電機製品が売れたという時それは日本独自で造りだしたものではない、モノマネだったのである
ただそのモノマネが悪いということではない、外国のものを改善したということもそれなりに日本的優秀さを発揮したとなる

ただ日本人には何か発明能力には欠けている、イノベーションが苦手である
アメリカを見ればわかる、エジソンをはじめ発明の国だからである
ヨ−ロッパでも本当になぜあれだけ天才が多いのか?
それがアジアとの大きな差である、科学技術でも欧米が発明したものでありアジアで発明したものではない、だから中国の経済発展も日本の高度成長と同じだったのである
欧米をまねて日本をまねて発展した、そこに独自に発明したものはないのである

それで今になると日本の電器製品を韓国でも中国でも作っていることをみればわかる
そうなれば日本の製品は売れなくなる、そして日本はまた貧乏国にもどったというのもわかる、もし真似できない日本独自の製品だったらこうはなっていなかったからだ
ただマネすることが悪いことではない、学ぶとはまねることだったからである
ただそこから創造する力に日本は欠けていたのである

その創造する力がどこから生まれてくるのか?
それが問題になっているのは最近盛んにそうした創造力が大事になると言われるからだ
AI化でも機械化できるものは機械化されて仕事がなくなるというのはその仕事がコンピュターでもできるからである、事務でも法律でもできるとなれば一体人間の価値はどこにあるのかとなるからだ
そこで問題になるのが創造力だとなる、その創造力をどうして育まれるのかとなる
日本でもモノマネ国家だというとき国自体にそうした素地がない
天才とか独創力のあるものを育てる素地がない、同調圧力が強く平均的人間を作のは得意でも独創的な人を育てることができない社会なのである

だから教育にしても平均的な人間を作るには効率的だったが独創的創造的人間は作れないシステムである、だから欧米の教育と日本の教育では教育の仕方が違うとなる
ただでは欧米のように独創的創造的人間を作れるのかとなると簡単にはできない
それは歴史的伝統の中で育まれたからである
それに宗教も関係していてキリスト教だから科学技術も発展したとも言われる
その関係は詳しくわからないにしろ何か総合的なものとして文明が生まれているからである

日本にもそうした歴史文化伝統があるとして何か美的な分野ではある
日本語が外国語と比べてそういう独自なものがあるとして訴えたのが林秀彦である
日本語には美的な要素が感性的に優れたものがあるというのは日本の風土とかに育まれたからだろう、それで短歌とか俳句のような独特なものが生まれたのである
ただ科学技術面ではもともとそうした素地はなかった
第一科学技術という時西洋文明がギリシャ文明が生まれたことでもわかる
そこが基となり科学技術が生れて来たからそれが発展して現代のアメリカ文明まで通じているからである

いづれにしろ日本が再生するにはそう創造力独創力だとするとき平均的な大量生産に適した規格化された人間を作ることではそうした力を生みだせない
ただそういうことは一朝一夕にはできない、では中国があれだけの大国だからできるかとなるとそれもできない、やはりアメリカのパクリであり独自のものがないからアメリカが怒るのである、それで結局中国も日本のよに高度成長があったが今では行き詰まっていというのは同じなのである
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2019年11月11日

外国人と協力して働かざるを得なくなって苦悩する新大久保 (日本は子供も減る一方で働き手がいなくなる)


外国人と協力して働かざるを得なくなって苦悩する新大久保

(日本は子供も減る一方で働き手がいなくなる)

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東京・新大久保。国内最大規模のコリアンタウンにアジア各国からの移民が急増。住民の40%は外国人だ。2年前、日本、韓国、ネパール、ベトナム出身者が集まり「4か国会議」が発足。言葉も生活習慣も考え方も異なる“隣人”たちは、さまざまな葛藤を乗り越え、共生の糸口を見つけ出すことができるのか。

Love & Freedom 暗い日本の現状
https://www.youtube.com/watch?v=YaKnPrxtlys

これからの日本はどうなるの?
https://www.youtube.com/watch?v=7dIbGzkFONU

ここのyoutubeで常に日本の暗い現状を語っていた、田舎だと東京の事情がわかりにくい
私自身ももう十年以上東京に行っていないから余計にわからなくなった
ただNHKの新大久保で多国籍会議というのを見てそうなのかこの人が言っていることが現実化しているとわかった

そこで一番苦労しているのが外国人と一緒にやっていこうとする50くらいの女性だったのである、その人は仲をとりもつために一人苦労している

そこでは日本人が少数派になっている!

その日本人も60以上で店で働いている

なかなかこうなると60以上では若い外国人に溶け込めないとなる
それよりなぜ60以上でも働かざるを得ない状況がある、自営業だから働くことができるにしてもまず若い人が都会でも減っている
若い働き手が減っている、東京でも高齢化になっているのだ
それで非正規で転々と渡り歩いて仕事していた人がどこでも底辺では建築とか土木とかの現場では外国人が多数をしめて日本人がいない、そこで日本人がコミ二ケーションできない、言葉がわからないのでできない、日本人はのけものにされている
そこでマネジメントするのが仕事になるが言葉が通じないので苦労する
新大久保では50くらいの女性がまさに外国人と日本人をまとめるために苦労しているのを見てもうそこではそれが現実化していたのである

高度成長時代というのは何だったのか?
ふりかえると江戸時代だと元禄時代とにていたのだろう、新田開発が全国的に行われたのである、それで葛尾村のような辺鄙な所にも元禄の碑があった
それは新田開発した検地した記念碑があった
石高も全国的に急成長していたのである、それは高度成長時代とにていたのである
子供とか若い世代が東京にもおしよせ地方でもあふれていたのである
地方の人口もその時多かった、そんなところになぜ大勢の人が住んでいられたの?
なぜなら今からするとそんな人口を村とかで養われていたのとなるからである
戦後は引揚者が開墾に入って住んだ、それで人口が増えたのである
でもそこでは貧しかったのである

団地でも高度成長時代は若い所帯でありにぎわっていた、創価が団地の宗教だったというとき団地に住むということは一つの目標としてあった
そこで地方から出た人たちがコミニュティを作ったのである
その団地に住む人たちが老いていく時代になった、団地に老人がまた取り残されたとなる地方でも子供がわんさと集まり近くの神社で子供の遊ぶ声が木霊していたのである
それが今は一人も遊んでいない、組では一人も子供がいないとかなる
子供は学校くらいでしかみかけないのである

つまり人口で見ると少子高齢化はアンバランスになっている
人口でもトータルでみるとき一本の柱のように見ると本当は土台となる下の若い世代が分厚くなっていれば国として未来があるとなる
老人が少なく若い人が多いということは国の未来にとってはいいとなる
それが老人ばかりふえて子供は減る一方なのである
そして氷河期世代とかロスジェネ世代が柱を支える中心的存在となるべきなのが細い柱となり空白化したことが全体からみると日本の国力の衰退になっのである

日本はこうして世代でも国土全体でもバランスがとれないとトータルには不調和になり
国自体の力を失う、東京一極集中というのもアンバランスになり国力を失う
なぜならヨ−ロッパとかで一千万の都市はない、都市でも人口は分散しているからであるパリだって200百万くらいの人口であり東京は異常に人口が集中している
それで少子高齢化で地方に若い世代が減ったのである

いづれにしろ日本は買い物すらしない、高価な買い物をしているのは外国人旅行者だという、日本人は高価なものは買わないので馬鹿にされている相手にされていないという
旅行に行っても北海道旅行でも外国人ばかりで日本人が少ない
日本人は旅行する余裕もないのかとなる
高度成長時代はスキーとか外で遊ぶことが多かったが今はない
ゴルフをする人も減ったとかともなる

ただ旅行というとき日本のホテルとかは高すぎる、貧乏旅行者だった自分はそれで苦労したのである、日本のホテルは今でも外国と比べても高すぎるのである
ヨ−ロッパの方が安く旅行できるようになっている
宿が安いのがあるからだ、ユースホステルでも老人が利用していたからである
温泉宿は高いから泊まらない、一度だけ自転車で行って辺鄙な宿に泊まったことがある
それは一二回だけだった、日本の旅館は高すぎる
金持ちは3万とかのを用意しているが安くても一万とか高すぎるのである
それに交通費も高いのである、だから日本人が旅行していないというとき当然だと思う
家族で旅行したら10万とか軽くかかってしまうからだ
それで引きこもりになっているというのも当然だとなる
私のようにテントで泊まるような旅を普通はできないからである
旅行は別に金なくてもできる、むしろ金がない方が本当の旅になりやすいのである
歩く旅とか自転車旅行とかがそうである、テントで泊まれば金はかからないのである
ただ時間が必要なだけなのである

いづれにしろ日本の未来が暗いという時また保守的になっているというときそれはトータルで見たときアンバランスになっているからだろう
人口が東京とか都会に集中すぎるとかある
世代でもアンバランスになり国力を弱めているのである
ただこうして全体を構築するとか見るのは本当は国の役割だけどそれができなかった
自由主義資本主義社会では会社の力は増大しても国の力は弱まるからである

日本という国がこれからどうなるのか?
外国人を入れない方がいいという右の意見もある、でも現実として日本人が若い世代から減る一方なのである、生れる子供も減り日本人がいないななるとまでなる
地方でも必ずベトナム人とネパール人がいる、原発の関係でこの辺は目立つのかもしれない、でも裁縫関係で女性は働いていたしスーパーでも外国人の女性が働いていた
結局人手不足で日本が働かないからそうなっている
それは東京だけの現象ではない、日本全体でそうなっている
それで外国人が多数となって日本人が少数派となり新大久保で外国人と一緒に協力してやろうとする女性がマネジメントするのに苦労している
それが日本の将来だというのも実感できた

つまり日本人に子供も減って若い世代が減るということは外国人なしで国すら成り立たなくなる、その外国人すら日本が貧困化すると来なくなる
今はベトナムとかネパールとか来ている
ここはまだ遅れているから来ている、為替差益で来ている
でもベトナムだって他のタイとか東南アジアの国のように豊かになれば来なくなる
ネパールはあれだけ過酷な山だらけの国土だから何か豊かになれないように見える
それで4000メートルの高地に住んでいる人が地元のホンダで働いている
その人は奥さんを日本に呼ぶと言っている
つまり日本でそうして外国人が暮らして永住する、その人たち子供を産む
そうして日本人に同化させるというほか国を維持できなくなるかもしれない
それは外国人が嫌だとか移民はべきではないというのはわかる
でも現実問題としてそれができなくなる、第一出生率が減る一方で日本人がいなくなるというのも怖いのである

ただ日本はこれから経済的には衰退しても文化的には成熟してくる、必ず経済が成長した後に哲学とか思想とか芸術とか文化面で興隆しているからである
自分自身にしても何かふりかえるといい時代に生まれたとなる
ほんのわずかの差で戦争中に生まれて戦場の露と消えていたかもしれないからだ
だからどういうう時代に生きるかも大事である
氷河期世代とかロスジェネ世代はそういう割を食った世代なのである
それは戦争に生まれあわせた世代と通じている
これはどうにもならないのである、ただ正直そうした高度成長時代もとっくに終わり

これからの時代は日本は相当に苦難の時代になる
だからこれからの人は苦しいとなる
銀行にしたってか安定したエリートと思っていたがもう銀行はいらないとかなっている
それはあらゆるもので安定した職業がなくなることである
公務員ですら非正規で成り立っているとか月給が安いのである
公務員すら安定の時代は終わったとなる
だから日本は何らか大きな変革が明治維新とか戦後のような大きな変革をしないかぎり
もう衰退国家となり後進国になる、すでになっているというのも現実なのである

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2019年11月04日

なぜ氷河期,ロスジェネ世代が生まれたのか? (国家百年の計がもてない、ただ時々刹那に生きているのが現代)


なぜ氷河期,ロスジェネ世代が生まれたのか?

(国家百年の計がもてない、ただ時々刹那に生きているのが現代)

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なぜ氷河期世代とかロスジェネ世代とか不遇な世代が生まれたのか?
これはなぜ大企業でもその世代を採用しなかったのか?
それは不景気とかコストの関係もあった、個々の企業にしてみればその時その時の経済の状態で判断する
それが自由主義社会であり資本主義社会だから自由競争社会だから企業でもっと採用しろとは言えなかった

ただそこに資本主義社会自由主義社会の欠点があったともなる
つまりその時々の情勢によってしか動かない、景気が良ければ採用するし景気が悪ければ採用しない、というよりは採用できないとなる
それは企業側の一方的判断なのである
企業というのはいくらでもある、個々の企業の判断なのである
利益が出なければ人も採用しないし給料を安くするほかないのである

資本主義の弱点は国家百年の計とかをもてないのである
企業の寿命はせいぜい20年とか30年だとかなる、技術革新が速いと十年ももたないとなればとても長期的計画をもてない、だから人を採用したくないときはしないのである
その時々に対応しているだけなのである

でも今なぜ人手不足なのか?それは一時期に人を採用しなかった、人を育てることもできなかった、結果として氷河期世代とかロスジェネ世代が生まれた
その人数も多かったから問題になった
そして今頃になって氷河期世代とかロスジェネ世代を国で応援するといってももう手遅れでありこの世代が放置されて割を食ったとなる
これだけ人手不足の時代でも正規として採用できないとなる
それは時代と言えば時代だから仕方がないとされる

つまり少子高齢化とか氷河期世代とかロスジェネ世代の問題は資本主義の欠点として現れたのかもしれない、それより現代の問題は何でも長期的展望をもって計画できないし全体を国でもみることができない
資本主義とか自由主義はその時々の熾烈な競争でありグロ−バルに争いそれに負けれは会社自体が存続できなくなるからそうなる
グロ−バル経済になると国内だけを見ているわけにはいかない
それで国家というものが弱体化して多国籍企業が国を越えたものとして力をもつことになる

でもグロ−バル経済とか資本主義とか自由主義の欠点は社会を長期的視野で展望で見れないことである
第一次産業主体になると自然を相手だから長期的にみる
第一森林でも木が育つには50年かかるとなるとすでにそのことで長期的に見ない限り維持できない、それは一代でも維持できない、だから農家では三代つづかないと仲間に入れてもらえないとういうときそうなる
その土地に根づくには農業だったら三代くらいかかるということである

もし氷河期世代とかロスジェネ世代でも国家がこれではまずいと考えて手を打てば違っていたかもしれない、
でも今国家にはそうした力をもっていない、自由主義社会だとそうなる、では共産主義国家だったら強制的にそうした不遇の世代を救うことができたのかとなるとそうもならない共産主義国家は資本主義のように古い体質の企業が残りそれが足かせとなったまま変えられないという弱点がありこれも逆にかえって全体が窮乏するとなる
現実そうなって崩壊したのである

ただ長期的展望の上に政治も経済も計画できないというときそこに問題が起きる
人間はそもそも空間軸と時間軸で何でもあるとして時間軸で長期的に観ることができないし全体として空間を俯瞰的に見ることができないのである
それで津波に関してはこの辺で400年前に700人溺死とあった記録も忘れていた
まず400年という間隔で見ることはできなくなっている
会社でもせいぜい十年くらいの先しか今ならさらに一年先すら見ないとなる
政治でも一寸先は闇だとなるのもそうである

そして現代の欲望資本主義は何か非常に短絡的になっている
目先の金だけを追っている、すぐに大金を得たいという心境にみんななっている
まずこつこつ働くということが馬鹿らしいという心境にみんななっている
だからそうして一攫千金を狙うようになる、株とかでもそうだし極端になると盗めばいいとなる、そういう心境にみんななっているのだ
長期的展望の中で生きることがないのである
刹那的快楽主義にも陥っている、それが道徳的には退廃することになる
目先の利益であり金が得られるとういことしか頭にないのである
その金になることに飛びつき消費して終わりだとなる
刹那的快楽主義となり堅実な生活が失われている

国家の政策にしても長期的、百年安心年金とか言うのもその時々の付け焼刃的なものであり適当に言っているだけなのである
国家の仕事としては防災とかなるどうしても国家百年の計なのである
本当に今は国家百年の計とかがない、国家はめまぐるしく変わる社会に適応できない
ただ国家のすべきは防災のように国家百年の計を成しうることにある
国家は千数百年とか日本だとつづいている、するとそれだけの長さがあり国が作られているのだからそういう長期的な展望をもつべきなのが国家だとなる
だから私企業の視点と国家の視点は分けるべきだとなる

国家のすべきことは何か?
それは防災だと国民の安全を計ることでありわかりやすい、これはどうしても長期的視野を展望をもって国家百年の計がないとできないからだ
氷河期世代でもロスジェネ世代の不遇もそれが少子化にもなっていた
その世代がベビーブームを生むというのも期待外れだった
その世代は一人が生活するのに精一杯で結婚できなかったからである
それも国の方で長期的に見ていればこれは将来大きな問題になると見ていればこうはならなかった、でも資本主義自由競争社会ではどうにもならない問題だったとなる
個々の企業は競争であり無駄なコストはかけたくないからである
無駄なコストをかけて長期的に政策を実行できるのは国家しかないのである

とにかく人間は人生百年時代というけどこれも長期になると見れない
そもそも人間は未来を自分の未来を見れない
まず若い時は年取ることをイメージできないのである
それでたいがい若い人は60くらい生きればいいやとかしか考えないのである
それくらいしか生きないと考えている
また老人になることがどういうことなのかイメージできないのである
それは老人になることはあまりにも遠い先だと見ているからである
まるず老人にならないようにも見ているのである
ところが青春はあっというまに過ぎ去る、そして老人になっている
玉手箱を開くと白髪の老人になっているのだ
40ですでにおっさんだとかなっている
その速さに驚くのである

人間の弱点は時間軸になると長期的に見れない、長期的展望をもって生きられない
ただその時々に懸命に対応して生きているだけだとなる
そしてみんな意外な結果として人生をふりかえり後悔して終わっているのである
個々人ならいいが全体社会になると国家百年の計をもたないと国家そのものが崩壊してゆくともなる、少子高齢化というのがそうである
国家自体がもう維持できなくなるとも言われるからだ
ただ国家が関与しにくいから手をこまねいてそうなってしまうのである
氷河期世代のでもロスジェネ問題でもそうだったのである

ただ教育とかに国家百年の計というとき何か自由が束縛される、そもそも学校が果たして国家百年の計でそのままでいいのか?
そういう疑問がある、今の学校はもう行き詰まっている、IT化がすべてではないにしろもう学校という旧弊なままの組織化は
国家百年の計にふさわしくないともなる
そこでモラルとかなんとういうと国家の強制だと見られるのもそうである
教育というときこれは教育するから伸びるのではない、かえって教育過剰になっているから才能が伸ばせないのである
自分のように会社に行かず30年間自由なことを追及できればその人の才能は伸ばせるのである
モラルでも教育しようとするとカルト教団のように強制された集団化されてかえって自由な精神は失われて奴隷化されるのである
つまり上の人の支配者のいいなりにするのが教育だともなるからこれも注意が必要なのである
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2019年10月06日

身近な経済(地方の生活ーそこにも発見がある)


身近な経済(地方の生活ーそこにも発見がある)

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原町の道の駅で買った白い茄子




経済という時、グロ−バル経済に地方でも巻き込まれている、身近な生活というとき私は一万の町で暮らしている
とにかく買い物が仕事である、毎日二回くらいスーパーに行くことがある
そして買い物は種類が多いからむずかいしわからないのである
何があり何を利用していいかわからない、料理だけはだから今でもまともにできない
そして買い物でも失敗が多いのである

どういうわけかツルハのドラッグストアーで着るものでいいものを売っていた
パンツでも肌触りがなめらかなものであり気持ちいいのである
次に長袖のTシャツとかもなめらかで着やすいのである
それからポケット付きのスポーツタイプの長いパンツも着やすいのである
なぜポケットがないと困るかというとサイフが重いからである
そしてこれにはチャックがあるから落ちないので安全なのである
それが今まで発見できなかった
それで通販で買うことが多かったが手にとったりできないとかで失敗も結構あった
着るものはやはり実際に見て手に取ってみないとわからないことがある
だから通販がすべていいとはならないと思った

ツルハでは品物が少ない、本当に少ない、でも選ばれたものを着るもので置いてあった
そこで今は種類が多いからこうしていいもので安いものを選ばれてあると買いやすいと思った、一万の町では常に品物を見ていられないことが問題だったからである

今日は道の駅販売店で地元の野菜を売っていた、それも白い茄子を売っていたのに驚いた農Tube委員会チャンネルで小規模農業が生き残るにはこうした大量規格品でないものを栽培して売ることだと言っていたのこはこのことだった
現在の農業は実際は8割が一千万以上の収入がある大農家で生産して規格品を大量に出している、中小の農家はもう補助金農業とかなるから退職金を与えてやめさせるのがいいという人がいる、現実にそうした農家は高齢化でやめざるをえなくなっているのだ

それで知っている人の野菜を作る畑の前は病気になり死んだ、その隣も老人が車にのせられて這ってしていたが力尽きて放置された
それで土手の道の前の畑は半分が荒地化している、原発事故以後放置されるようになったのである
第一草刈るだけで頼んだら何万とかうなってもらのうにいくらだとか金食い虫になっているのがその畑である
その金を自分が払っているからそんなことしなくてもいいとなってしまう
小さな畑とか趣味でやるにも金がかえってかかり収穫はほとんどないのである
それでキュウリ一本一万にもなる、もらったのは数本のキュウリだけだったからである

それで奇妙なのはその川岸の土手の道にウサギを見た
そこは街が近い場所だから普通は出ない、ただウサギはちょっと街から離れた所でもみかけた
ではなぜウサギが出て来たのか?
それは川岸の前の畑が半分くらい荒地になってその草ぼうぼうの荒地は隠れやすいからなのかと見た
また川岸は草ぼうぼうになって隠れやすいからそこに身を隠して出てこなかった

うさぎ追いしかの山・・・というとき昔はウサギは結構街の近くに出没していた
でも私は子供の時そういう経験はないのである
田舎の生活ではそうして自然の中で生活することがいいのである
土手の道をでんでん虫がまだのっそりと歩いていた、そこは車が通らない

不思議なのは田舎で生活していても退屈で平凡になるから嫌だとなる
でも発見することがある、そのウサギを写真にとれなかったことが失敗だった
何か見慣れた光景でもこうして変化がある
何かしらの発見がある、ただそれは見る人によるのである

ただこの辺は限界集落とかではない、隣にも4万の市があり南相馬市となると原町はもともと5万くらいの都市だったから違っていた
ただ正直田舎というのは地方には金持ちになるチャンスが非常に少ない
それはなぜか?
田舎には金持ちにする機会がないのだ、地銀の人が来て投資信託などして損したことでもわかる
その営業の人は銀行でも株とか投資信託も知らなかったのである
素人同然だけで手数料が入るから適当に自分の金をつぎこんで手数料とるだけだった
なぜなら株が上がっているのにそれを投資信託に回して損したからである
その営業の人は株とか投資信託に何の知識もない
分散投資が基本としてある時それすら守らなかった、株とかも分散投資にしてもっていれば良かったのである
ただ自分は忙しいからみんなまかせたのである   

もし都会だったら仙台でも住んでいたら選択する所が多くなる、すると相談できる場も増える
田舎では地銀でも町に一つしかないからだ
それから都会だといろいろ選択できる、医者でもそうである、田舎では選択もしようがないからだ
そもそも医者がいればいいとなっているからだ
それでむずかしい病気になると仙台と福島の医大に行くほかないのである
金儲けでもビジネスをするにしても田舎では不利である、まず需要がないからである
現実に田舎の市場でトマトが一個400円したとかなる、それを買う人がいるのか?
都会だったら金持ちがいるから買うからすると田舎でも金持ちになる農家が増えるとなる
それは中国で都会に野菜を売って金持ちになった村があったからである
田舎では需要がなんでも限られているからである

今田舎とか地方の生活は苦しくなっている、常に明日食べる食料が買えないとくる70歳近くの女性がいる、国民年金の額が少なすぎて基本的に生活できないから常に水道をとめられるとか電気を止められるかと騒いでいるのである
その息子もいても余裕がない、その息子は建築関係でも正社員なのである
仕事で怪我して労災をおりるとか社長は社員のめんどうみがいいのである
でも親が青森に介護に送られていて何か介護用品の請求で金を払わされている
それも苦しいと思った、介護というのは長いし金もかかるのである
私の場合は介護に金はかからなかった、でも施設に入れたりしたらかかっていたかもしれない、その点は救われたのである
ただ一人で苦しく大金を盗まれたとかの被害があったからやはり金はかかったのである

家族がみんな死んでわかったことは一人暮らしというのが老人にとってどういうものかわかりつつある
一人というのは良くない、一日しゃべる人がいないということは精神的に良くない
孤独がいいということはある、でも人間は一人だと良くない
その女性とはただたわいもないことを話すだけで何か孤独でなくなる
そのために金を払っているともなってしまう
話がうまい女性だからである
だからわかったことは女性でも男性でもこうして家族がいなくても友達とかいれば孤独にはならない、たわいもないことを話していてもそうである
孤独死とか孤立死とか現代では成り安い、でも何かそうした人が回りにいれば家族がなくても孤独を感じないのである
私はとにかく人付き合いをしなかったし今もしない、それが異常化していたのである
今でも人付き合いその女性としかしていないのである
ただ家族が死んでから介護になってから人とは話すようになった、もともと話せないというわけではない、話すことが面白いという面もあった、ただ基本的に人付き合いが苦手なのである

田舎暮らしを老人は憧れる、実際老人は田舎の方が向いている、
でも辺鄙な田舎で生活すべきではない、近くに都会がある方がいいのである
やはり買い物とか楽だからである
私自身が今や仙台にすら今年一回行ったとかで遠くに行っていない、それはやはり人ごみとか嫌になり騒々しい所に行くことが疲れるからだとなる
それも年になったせいだと思う、前からそういう気質があり都会を嫌うようになったのが自分だたからである、それで旅行は世界まで60までつづけていたからこれも異常だったとなる
そして今ではそうした経験を記憶したものを文や詩とかにして書いているのである

でで虫の歩みの遅くこの道にウサギの出るや草深きかな


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2019年09月28日

経済を民俗学から考える (自由な市場とか交換は共同体の和解の祭りとして始まった)


経済を民俗学から考える

(自由な市場とか交換は共同体の和解の祭りとして始まった)

経済とは何かというときこれは総合的なものであり社会全体のことであり人間全体のことである
だから経済学となれば一つの分野のことではなくなる
科学技術でも深く関係している、産業革命とかなれば科学技術が発達して生まれたからである
だから経済を語っても世界でも社会でも一部分しか語れないのである

経済と民俗学が関係しているのか?

これも深く関係していた、文化人類学が関係していた

インドネシアでもクジラをとる民と山の民がいて山の民にクジラの肉をもってゆき豊漁を祈る、そこで山の民と海の民が和合する祭りが行われていた
つまり経済とはもともとそうした異なる地域に民族が和合するものとして貿易でも行われていた、現代のような金だけを紙幣だけを唯一の交換の手段として用いることはなかった貿易は交易にはまず民の融合が和合を計ることが先である
現実にグローバル化しても必ず国と国は対立してうまくいかなくなるからである 

これはおそらくクジラという食料がある前に物がある前に何か共同体がある
クジラをとることを生業とする海の共同体があり山で暮らす共同体がある
その違った生業の共同体が和解するために祭りがありクジラが媒介となっていた
ここで重要なのはクジラは共同体を結ぶものであってもその前に共同体がありその共同体同士が和解するために山の共同体がクジラをとれるように祈りクジラの肉も分けてもらうとなっていたのである

海彦と山彦の物語もそうである、ここにも綿津見(わたつみ)の神がかかわってきている海彦と山彦は暮らしが違うので対立しやすいことをここで語っている
その和解のために何かクジラでも同じように和解の祭りが必要になる

顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。「Y」のような三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いために伐採時には事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている。

日本神話では大山祇(大山津見)などが山の神として登場する。また、比叡山・松尾山の大山咋神、白山の白山比盗_など、特定の山に結びついた山の神もある。

だからなぜ綿津見神社と山津見神社が対になっているのか、相馬地方だと飯館村まで綿津見神社があり山津見神社があり一番古いのである
それは海と山で暮らすものたちが実は一体だったからである
海彦山彦の国が日本がだったからである
おこぜがなぜ山の神に供えられているのか?
それは一種の海で暮らすものと山で暮らすものの和解のための儀礼と化したものである
第一山に海でとれた魚を献げることはありえないからである

これは今なら物を交換することであり海で暮らすものと山で暮らすものが和合することで祭りとなったのである
共同体と共同体が交わる時、そこで魚であれ何か物を媒介となる、それは互いの有効の印として交換されたのである
古墳から発見される三角神獣鏡でもこれは大和王権に服属したから与えられたというのではない説がある、それはただ友好の標として土地の有力者に与えられた
この辺の古墳でも金銅双魚佩が古墳から発見されたけどこれもそういうものなのだろう

つまり貨幣がない時代は物と物を直接交換する、その物は友好の印であり今の経済とは違っていた、中国と朝貢となるがそれとにていた、国と国が友好のために物があった
それが貿易の始まりであった
商業、貿易の始まりはそういうものだった
だから第一不思議なのは村で市が許されたのは神社内でありそこを無縁の場所として許されたのである、よそ者が商売することはそうした村の共同体から特別許可された無縁の場所でしかできなかったのである
つまり有縁なものは村の共同体の一員であり外から来る商売に来る人たちは無縁だから
神社の境内とかで商売をさせていたのである
これも矛盾しているが神社とは縁を結ぶものとしてあるがまたそこが無縁の場所にもされたとなる

現代の経済がグロ−バル経済とか広域社会でもこうしてもともとあった共同体を破壊する無縁化することがあった、また海彦となるとこれは海に通じているから広い世界と通じることがあった、貿易も漁民が船でしやすいからである
ただ商売とか貿易の始まりには祭りが必要だった
物があるからとしてそれを自由に売買はできないのである
共同体の許可なくしてはできない、それが人間社会なのである

それでなぜ人間社会がグロ−バル経済が人間をアトム化してばらばらにしてしまった
なぜならそこにある貨幣を通じて金を通じての交換にはもう祭りもなにもない
共同体が和解するものとして始まった交換の儀式がない
そういうややこしいものを全部省くことによって成り立つのが現代の経済だからである
つまり人間は個々人がアトム化して経済的一単位としてみる、そして商品を自由に流通させる、世界市場とすることがグロ−バル経済であり広域経済である
そうすると無縁化して神社の中だけでよそものを受け付けていたことが逆に村でも共同体でも無縁化されるのである、それで無縁化社会になったともなる

ここで人間とはなにかというとき人間は経済の一単位ではない、何かしら別な価値観が働く、もともと海でも山でも共同の暮らしがありそこで培ったものは違っている
それず海彦と山彦が共同するためにはまず祭りが必要である
そこで互いに和解して共同することである

でも現代はそういうものを全く無視してこそグロ−バル経済でもありえる
世界市場の原理だけがある、そして交換するときも金だけがすべてとなる
そして金が万能となり金を極一部のものが数パーセントの者が独占してしまう社会になるだから不思議なのは前近代的と思えるものが実はそこに人間の存在がそもそもどういうものかをふりかえるものとなる
人間が何か物を交換することはまず共同体がありそこで共同体と共同体が交わる儀式が祭りが必要になっていた

結局今でもグロ−バル経済がうまくいかない、うまくいかないと貿易も韓国とのように途絶える、そして戦争になりかねない、国々でも自由に貿易して交換することが行われたが逆にそれがうまくいかないと貿易も途絶えて戦争にもなる
つまり経済合理性というのはそもそもが人間社会では成り立たないのである
世界市場化することが一見理想のようでもそうならない
それは人間の存在がそういうものではないからである
経済だけで利益になるからだけで成り立たないからそうなっていたのである
そのことは世界の歴史が証明している、経済でも相手を武力で屈服させて支配して植民地支配のように欧米が人を奴隷化したりする
貿易でも経済でも強者だけが莫大な利益をあげる仕組みである
アジアの富を吸い上げたのはヨ−ロッパ列強だとなっていたからである

グロ−バル経済でも一旦競争に負けるとその国は貧困化する、それが今の日本である
グロ−バル経済とは新たな国々の戦争でもある
負けたものは貧困化する、別に昔の共同体と共同体の和解を目的として経済が貿易があるのではないからである、そこが根本的に違っているからである
経済とは共同体と共同体が和解する和合するものでもない、物は友好の印でもない
交換するための世界市場がありそこで金が万能化する社会である
それはマルクスが言ったことだが人間社会をふりかえるとそれはいいようでも人間がどういうものか人間存在とはどういうものかを問うとき経済でもその存立基盤を無視するから無縁化社会となり人は属する共同体もなくなる

共同体というとき国家自体がそうである、国家も無視されて経済的一単位化するのである日本が嫌なら外国に住めばいいと金持ちならなるしまた移民問題でもそうである
金をえるために外国で働けばいいとなるのである
でも外国人も人間だから国内に入ってくると機械でも物でもないから問題になる
文化的軋轢とかいろいろ生まれてくるのである
だからいくらグロ−バル経済でも人間を自国に入れることがいろいろな問題が生まれかわかる、うまくいかないことがわかる、それは人間の存在がもともと経済的利益だけで存在していた訳ではないからである
何かこの辺で原発事故で一挙に大勢の人たちが避難してゴーストタウンになったけどそれも今なら人は共同体に属していない、金さえあればどこでも暮らしていいとなっている
すると多額の補償金をもらったからとみんな町から流出して人がいなくなったのである
もちろん放射能汚染のためだともなるが何かそれだけではない現代社会の反映だったのかとも見たのである、そこには強固な共同体の絆は昔のようになくなっていたからだとなる

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2019年09月14日

日本の農業は成長産業! (兼業農家とかが補助金農業で農業をゆがめている)


日本の農業は成長産業!

(兼業農家とかが補助金農業で農業をゆがめている)   
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日本の農業の生産を支えているのは1000万以上の大規模農家

【誤解】農業人口激減で日本沈没?!新規就農するなら今でしょ 

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全農家対象の農業補助金はおかしい。農協利用の農家は、ほとんど兼業あるいは農地放棄農家、それに自家用栽培農家であり、単なるバラマキに過ぎない上、日本農業の再建にマイナス効果しかないように思う。補助金を配布するならば、低所得の専業農家に配るべきではないですか?

あいつら(農協のこと)は、税金も満足に払っていないのに、補助金を独り占めするのは絶対に許せん。こんな不平等を国が放置する限り、俺は税金を払いたくない。

補助金に頼らない理由は、まず第一に、農業者本来の「つとめ」を忘れてしまう心配があるからです。本来、生産者である私は、私のお客様に頭を下げるものですが、補助金に手を出すと行政に頭を下げることになり、自分の経営を見失うことになりそうです。

農業ビジネス


農業は誤解している、農業は日本の成長産業だった、なぜ銀行で農業に投資するようになったのか?それは農業が日本では唯一成長産業だったからである
なぜ農業がだめだ、だめだと言われていたのか?
それは兼業農家とか副業農家が多いからである
そこに税金を補助金を投入されているから非効率であり無駄なのである
それで民主党の政策は農業を復興させるためには

農家一軒ごとに補助金をだす

農協ではなく農家に一軒ごとに直接補助金を与える

農協が巨大な組織でありそこに補助金が注ぎ込まれ吸い上げられていたからである
でもこれは悪政だった、農業の生産高は兼業農家とか副業農家が背負っているのではない専業農家が生産の大部分をになっている、ただ兼業農家が数が多いから票になるから民主党ではそういう政策を打ち出したのである
何か民主党は経済政策とかでも不況にしたようにわかっていなかった面があった
もちろん自民党にも問題があった、ただ民主党がつづいていたらやはり日本の経済は危機的状態に今頃なっていた、なんとか持ちこたえているのは自民党になったからだともなる
ただどっちにしろ日本の経済は衰退して危機的状態になるのは遅かれ早かれなっていたのである
日本では今まで高度成長時代があり経済がいいときそうした補助金でも福祉とか無駄なことでも金を回すことを余力がまだあった
その金を回す余力がなくなり補助金政策はできなくなる

でも実は農業の場合は補助金政策が農業をだめにしていたのである
まもともに農業を考えて取り組んでいる人専業農家が農家の主役になっていた
でも兼業農家とか副業で農業している人たちは足かせとなる存在だったのである
例えば常に言われている農業の後継ぎがいないというとき68歳が農業している人の平均年齢だとか耕作放棄地のことを取り上げるがそれも違っていた
そういう人たちは兼業農家であり副業農家であり補助金農家だったのである
そこに農業に対する誤解があった、なぜそこだけが強調されているのかというと兼業農家の窮状を言うとき補助金を政府が投入されるからである
また数が多いから一票として計算できるからそうなる

また日本の自給率が低いとかはない、世界で5位の自給率であり狭い国土にしては高いのである、そして日本の農業は優れている、きめこまかい農業であり技術レベルが高いのである、だから輸出産業としてみこめる、果物はそうなっている
農業もグロ−バル化していて外国で日本人が農業している人がいる
そのグローバル化に日本の農業は競争力をもっているという

日本の経済は電機製品が売れて高度成長時代を築いたときは違って輸出するものがない
自動車産業がなんとかグロ−バル化で競争力をもっているとなる
だからこそインパウンドとか観光に力を入れたりして日本全体の経済が落ち込み貧乏化しているのである
そしてこれまで日本の農業の負の面が強調されすぎたのである
日本の農業はもともと五反百姓とか小農が多すぎたから貧乏なのである
また機械化もされていないから能率的ではなかった
機械化されて技術も向上して日本の農業はかえって成長産業となっていたのである
だから銀行で投資先がなく投資しようとしているのはそのためなのである

私が援助している趣味で農業している人はまず金がかかる、今は体が悪いとか暑いとか放っておいたから草ぼうぼうになっている
だからとれたものでキュウリ一本一万にもなるのは嘘ではない
ただそこで農業の話をじかにしてくれるからその情報に金を払っているとなる
まず肥料から種から道具からと農業は設備費と金がかかるものなのである
だから今では小農とか兼業農家では採算がとれないのである
ただそこに補助金が出るので老人が片手間にしているだけなのである

そして耕作放棄地が増えていると騒いでいるけどそれは新規参入者にとってチャンスだとしている、つまり土地が安く手に入るからである
もうそういう土地は無料でも貸しているからである
農業はまず土地が手に入らなければできない、土地が資本だからである
そして労働は機械がする時代である
農業が採算がとれないとか負の面が大きく語られたのは高度成長時代、工業化が進展してそれと比べると農業は時代に合わなくなっていたからである
今はかえって農業が成長産業として見直される時代になっている
ただ兼業農家と副業とか今までの小農では成り立たないだけなのである

私が農業について語る時は農業というそのものが持っている価値とか意味を追求したのである、農業は必ず自然と結びつくからそこが他の職業と違っていたからである
農業は生態系と密接に結びついているから共生の思想が自ずと生まれる
ただこれを経済合理性からビジネスとして見れば違ったものになる
農業を成長産業としてビジネスとして位置づけると違ったものになる
今や農業が有望な日本の成長産業になっている

だから趣味でしている畑と同級生が5人で組になっていしている畑を比べると趣味の小さな畑は肥料から種から道具から金がかかる、十倍をもかかる
でも広い畑でも専業農家がかかわりトラクターとか機械をもっているから草はいつも刈られている、生産する量も多くなる、それは専業農家が主導しているからそうなるのである趣味で畑で野菜を作るとかえって十倍とかの金がかかるのである
でも大規模にやれば農業の収入が少ないということはないし成長産業なのである

でもここでも同じだった、補助金農業になると国に頼り補助金をもらうことが主目的になる、補助金をもらえるから工夫もしない、ただ畑をもつということで補助金目当てになるでも補助金をもらわないで農業をするとなると工夫したりいろいろ自ら励むことになる
それは原発事故でも補償金だけをもらいそれで生活しようとすることとなったと同じである
結局人間は補助金とかが補償金でも必ずいい方面に向かわないのである
その補助金とか補償金でかえって人間は向上心を失う、そしてそこに税金を払うことは国民にとっても損になる、税金の無駄使いとなる、それで税金がたりないとなり消費税が政府であげたりしてまた国民の負担が増えて苦しむのである
そういう悪循環があったがもうそれもできない
なぜなら日本全体の経済か落ちこんできているのだからそんな無駄なことをしていられなくなったからである  

この支援のお金の出所はどこかというと、国や地方自治体です。日本は雇用維持という大義名分のもと、助け合いのシステムになっているため、国や地方自治体が助けているのです。現在、国や地方自治体からなんらかの支援を得ている職場で働いている人は、なんと全就業人口の約50%にも上っているそうです。

ただ農業というのは複雑でありそう簡単に効率的だからとか合理的だからとすすめられないのはそれが自然と密接に結びついているからである
農業は他の産業とそこが根本的に違っているから合理的効率的にすすめることが合わないというこもでてくる
でも現実問題としては効率的農業を目指さないともう成り立たなくなっている
農業は別に68歳平均の人たちがしているのではない、専業農家はそうではない、若い世代もしているし新規参入者も増えてくる成長産業なのである 

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都市型公害農業

大規模農業

中山間農業ライフ型

この中山間農業ライフというのは農業自体に価値と意味を求めるのにふさわしい
農業体験して民泊するとか農業ライフを追及する
この辺でも蔵を改造して観光に利用するとかするために学生が来ていた
他でもそういう観光的なことをしている人はいる
つまり農業と自然は密接に結びついているから農業というのは観光のように景色を見るだけではない、自然をどのように活用するのかと深く結びついたものだからそうなる

それは田舎に住んでいても意外と農家のことがわからない、農業のことがわからない
それで趣味でも畑をしている人に直接その苦労とか面白さを聞いている
それは農業ライフを趣味としてしているとなる
趣味でしていると金がかかるのである、ただ都会の人が農業を食料を得るものとしてだけ見ている、でも農業は自然と深く結びついているからその背景が広く奥深いのである
自然に通じるには本当は景色だけみていてはわからないのである
それでその女性に冬(ふゆ)はかえって作物が育つと聞いた時、冬(ふゆ)であり増えるという意味を理解したのである
つまり日本語の由来そのものが農業を実地にしないとわからないし文化すらわからないのである
要するに文化的にアプローチするのが中山間農業ライフ型である
一方で経済合理性を追求するのが大規模農業なのである
時代で農業も変わってきていてその辺が誤解しているのである

大規模農業で経済合理形を追求するにはかえって原発事故で他より耕作放棄地が増えたこの辺は放射能問題があっても新規参入しやすい場所である
第一小高を見ればわかる、田畑が一面草ぼうぼうとなっているからだ
それだけ広い耕作放棄地を新規参入者が自由に利用されるとなればそこに新しい農業が生まれる可能性がかえってあるとなる、そこで会社経営として農業をはじめた人もいるのもわかる、もう個々人の農家ではどうにもならなくなっているからだ

つまりこの辺で兼業農家とか副業農家とかは一掃して会社経営の大規模農業にならざるをえないともなる、それが強いられている場所である
ただ小農として農業ライフを追求する分野も生じている、農業は実際は文化的なものが基になっている、cultivate-cultureだからである
そういう面でも新しい農業として成長産業だともなる

とにかく外から新規参入するのにはここはチャンスとなる場所なのである
そういうふうにすでに農業の新規参入者が外から入っている
つまり何かこういうふうになると大きな改革がしやすいともなる
一挙に広い土地を自由に使えるということにもなるからだ
そこで農業の復興がありそこを基幹として復興がありうるともなる
ただ農業というのは実際にしてみないとわからないものがある
それが田舎にいてもわからないのである
田舎でも実際は多様化しているからである
農業に従事している人は一割にもみたないとかなっているからである

ともかく農業が成長産業だという時かえって田舎が見直され成長してゆくともなる
時代が変わると必ず価値観が変わるからである
農業がだめだ金にならないという時代は高度成長時代でありその時は会社に入ると金になる時代だったからである
でも日本自体が会社が大企業でもグロ−バル競争で倒産したり終身雇用がなくなっている、銀行でもゆうちょでも農協といった国に関係しているものも国で保証できなくなっている

常に時代が変わるからである、ただ余りにも農業に負のイメージが国からでも植え付けられすぎたのである、それは兼業農家でも数が多いと票になるからである
それで意図的に負のイメージが植え付けられた、それでソフトバンクが農業にビジネスとして参画するとかITを利用するとか現代の時代の変化に適合した農業を提案する人がいたとなる
それでこの辺が第一次産業や農業が放射能汚染されたことが致命的だったのである
それさそ農業を根本的に破壊するものだったからである
農業をするなと親に子供が殴られたりした時代もあった、でも農業はまた見直される、その価値が多様だからである
そして農業の価値は工業のように変わらないのである、普遍的であり不変なのである
それは自然と密接に深く関係しているからその価値は変わらない、かえって農業ライフとか生産物だけてはない農業を通じて自然と触れ合うような農業も生れるとなる

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2019年09月02日

刹那的な楽しみに生きる現代人、道徳性の後退 (忍耐力がなくなり長期的視野がもてない)


刹那的な楽しみに生きる現代人、道徳性の後退 

(忍耐力がなくなり長期的視野がもてない)



何か現代人は刹那的になっている、刹那的快楽を求める、地道に働くということになじめない、長期的視野がもてない、その場限りであり宝くじのように大金を得たいというのが共通である
そうなるのはなぜなのか?
それは社会的環境が関係している、社会はもう金、金、金・・である
金さえあればいい、金があれば何でも満たされるという感覚になっている
金さえあればスーパーに行ってなんでも買えるし遊んで暮らせるではないかとなる
そして地道に働いても今は非正規とかが多く簡単に金にならないのだ
現実にこの辺で原発避難者が仮設に住んでも地元の人に世話になるという感覚がゼロだった、むしろ私たちここで消費して助けているのよねということしかなかった
それは消費者が王様だということでそうなった
金さえあればその人がどこでも王様になるのである
それで小高の人が仙台で200坪の土地を買い家を建てアパートまで経営している
それは何億の金が補償金として入ったからだと思う
原発事故で被害者というよりその補償金で成功者になったという現実である

例えば高度成長時代は貯金をすれば10年後には利子で倍になるというとき十年間ためて貯金しようという感覚になる
でも利子もつかないとかなると貯金することに励むということもしなくなる
10年間の長さに耐えられない、石にも三年とかにも耐えられない
忍耐力が欠如しているのである、そういう教えが通じなくなっているのである
それに比べれば私の親などは大正生まれであり本当に忍耐強いのである
貧乏で育ったから贅沢しなくても文句を言わないのである、それは大正生まれとかなるとみんなそうなのである、そういう環境で育ったからである
辛抱強い、だから文句を言わないことに感心する、辛いことがあっても文句を言わないのである
そこが今の人と社会と根本的に違っていたのである 

そもそもなぜ現代は何かせかされるとか忙しいとか刹那的になるのか?
それは多分に今の社会環境と関係しているのだ
まずともかく(待つ)ということを嫌う、待つということが時間の無駄に感じる
ところが駅だと必ず待つ時間がありその時間が無駄ではなく何か人間的時間なのである
電車を待つという時間が人間的なのである
だから私は鉄道が好きなのである
クルマには何か待つ時間がない、いつでもクルマに乗ってキレルように去ってゆくだけである、そこからキレル人間が必然的に生まれてくる
クルマが便利でいいとしても人格まで変えてしまうことが怖いことだったのである

戦前とかまで社会の環境が違っていた、そこでは何か今とは違うものが精神的にも育まれていたのである
例えば戦前でも戦後10年でも馬とか牛とか普通にいた、すると牛がいるとすると牛に忍耐の象徴であり牛がともに生活することで忍耐を学ぶとなる
それはおそらく牛とともに生活することで性急にならないとかあった

「のんきな父さん」とか言われたのもその時代はのんきなものが時間がゆったりとまだ流れていたのである  

何かわからないのだけど世界中から物が入ってきてスーパーにある
でもその物は何か魔法のようにそこにある、とても人が苦労して作り出した感覚がないのである、それは農家でもないしどうしてその野菜でも果物でも作り出されるのか?
それが実感としてわからない、わかるのは金を出せば何でも買えるということである
だから現代生活で常に意識されるのは金なのである
もし農家で米とか野菜を作って入れは金を意識する前に作物をいかにしてとれるかということを意識する
米だったら浜に田植えして秋に収穫する、その間に何か作業がありようやく秋に実りがあるとなる、そこにはやはり時間がかならずかかっているのである

20日大根でも40日大根でもそれだけの時間がかかる、種を植えてすぐに育つことはない
でも買うとういことは常にできあがったものを買っているのだからいつもそこに完成品が育ったものがあるという感覚になる
すると自分で育てる待つ時間もないのである、問題なのは金があればいい、金があれば食料でもなんでもすぐに手に入るとなる
それはまた世界中からなんでも食料が入ってくることによる
地域だけに頼っていたらこんな感覚にはならない、住んでいる場所でとれなくても他からいくらでも入ってくるとなると住んでいる場所に頼るということもなくなる

問題なのは常に金があることなのである
例えば昔は郷倉とかあって飢饉のために米とか貯えていた
でも今はその必要がない、常に外から入ってくるからである
そうすると何が大事なのか金だとなるのである
米など貯える必要がないとなるのである
だから地域に依存していないから地方に田舎に住んでもいても別に地域に頼ることがないのである
ただ津波や原発でこの辺で何もなくなったとき二週間くらい困った
その時古米をこの辺では配ったのである、その時助かったとなるから古米を貯えていたことはやはり郷蔵の役目があったのである
その一番の要因が

外から食料が入らなくなった

この辺では一時二週間以上食料が入らなくなったからである
これでわかるように現代の生活感覚が刹那的快楽とか刹那的に向くのはいつでも食料でもなんでも入ってくるという感覚でありそこで金さえあればいいとなる
それも忍耐して稼いで貯金するというまどろっこしいことをしたくないのである
貯金して利子が高くつくようだと高度成長時代のようにみんな貯金しようとする
でも今は貯金したら銀行から利子をとられる、投資信託とか買わされたりゆうちょで必要のない保険を買わされたりしてごまかされる
そういうことでこつこつ稼いで資本をためる、金をためるということがなじまない時代なのである

そこで起きてくることは何か?ともかく時間をかけてこつこつ貯めるのは無駄だとなる
一攫千金を狙う、FXとか投資がいいとなる、こつこつためてもたまらないからである
また稼げない時代だからである、それでそうした一気に稼げるばの一攫千金を夢見るのである
そして時間のサイクルが早いのである
例えばローマ帝国であれスペイン帝国であれイギリス帝国であれそれなりに長い時間をかけて作られてきた、でもエジプト文明三千年はさらに長い時間で作られてきたのである
そして徐々に衰退したのである、その時間の感覚が長いのである
でも今だと日本の経済成長が30年くらいで終わりとか中国でも二十年くらい成長して終わりだとかなる
世界的に交通が発達してそうなったのである、その成長の速度が速くまた衰退するのも早いのである、だから中国が10数年で宇宙に行ったり新幹線まで走らせていることが信じられないのである
それだけ時間の感覚が早くなっている、そこで刹那的になるのはとめられないのである
長い時間の感覚で社会でも人生でも見れないのである
だから欲しいものはすぐに手に入れるようとする、待つ時間がないのである

道徳にしてもそこで育まれことがないのは時間がないからである
「ローマは一日して成らず」という時間の感覚が喪失しているのである
現代は一日にして成ることを求めているのである
そこに道徳的退廃が生じる、刹那的快楽主義になる、これは一人の力ではどうにもならない
つまり時間というのも文明的時間がありそれがますます加速されて異常化しているのである、文明人はたえず時間に追われている、待つ時間も消失しているのである
無駄な時間も持つことともできない、時間を極限まで無駄なく使うとかなる
生産現場ではそうなる、何か時間すら脅迫的に支配される

そして刹那的なものを求める、時間をかけるものが否定される
そういうところで道徳の退廃が生まれて社会自体がもう維持できなくなる
何か人間は忍耐力がなくなり争いにもなる
それでなぜ産業革命がグロ−バルにはじまったとき戦争となり莫大な死者を出したのか?それも現代の文明と関係していた、刹那的なものを求めて戦争で解決しようとする
そこに忍耐する待つ時間がないのである
だから戦争も文明の結果だということを指摘するのもそういう社会環境が人間を作っているからだともなる
文明が罪を悪を作り出して増幅させるということもある、それが世界的に起きていることは世界が同じように文明化しているからである 
インドの一部をのぞいて馬と牛を使わなくなったりしているからである
そういうことでは共通しているからである

文明には遅らせるとか待つとか減らす思想がない、つまりそのことはもう止めることができず暴走もすることになる
何か現代に必要なのは遅らせるとか減らすとかの思想が必要になっている
そんなことしたら経済が停滞するとか反対がありできないとなるのがそれが資本主義が投資先がなくなりもうそうした思想が時代にマッチしたものになる、だからそんな思想は批判するより現実がそうなんているのだからむしろ現実的思想だともなるのだ
もう文明はいろいろなものが限界になってきている、原発事故でも何か科学技術の限界現象だったのである
経済成長とか無限の科学技術の発展とかも限界が見えてくる、その時こうしてもともと東洋思想だったものが現実社会に適応するものとなる、だから文明が西洋から東洋へシフトするというとき思想の面でも東洋的思想が現実にマッチしたものとなる
資本主義思想はもう現実社会にマッチしなくなったからである

忍耐力がない長期的視野がもていないというとき、現代社会が日本でも高度成長時代は団塊の世代でも若い人が多かった、すると社会は若い人中心の社会だった
すると何でも若者向きになる、でも今度はその団塊の世代が老人になると社会が変わる
少子高齢化社会であり老人向きの社会になる、そのマイナス面も大きいのだがプラスの面もある
老人は70年くらい生きるとそこで一時代を生きたという感覚をもつ、それがどういう人生でもそうである、一時代を生きたという経験が若い世代とは違う、そこで物の見方も違ってくる、その一時代の過去をふりかえり未来を見るということができる
それより団塊の世代の上野の世代は戦争を小学生の時代でも経験した人は違っている
戦争の見方が戦後の戦争を知らない人たちの見方と違っている
その差は戦争の時代を小学生でも生きたということなのである

その経験の差が大きいのである、そういう経験はどうしてもいくら本を読んでも聞かされても実感できないのである、だから戦後は左翼関係者の戦争を否定することばかりが戦前の戦争の実体だとなったのである、それは戦争を経験していないからそうなったのである戦争の現実は経験していないからただ頭で理論的に悪いとばかり言うだけなのである
戦争が悪いことはわかる、でも日本の戦争もその時代の状況で生まれたからその時代を知るべきだとなる、でも実感として知り得ないから一方的に頭で判断する
そういうことは別に戦争でなくても戦前の生活でも江戸時代とかなるともわからないので必ず誤解しているのである、現在から時代を見るからそうなる

ともかく一時代の区切りは70年だということはあたっている
なぜなら明治時代から70年して太平洋戦争になり戦後の高度成長時代から70年して今がある、つまり70年過ぎると時代が大きく変わる、大きく変わらないと遅れとり衰退するということである
そして人生百年という時それがいい面と悪い面があるにしろいい面としては長期的な展望で生きれるとういことでもある
自分の場合特殊でも60までは遊びだった、旅行ばかりして60になりその後介護十年とかなりそのとき一時代が過ぎたのである、そして人生も終わりだとなる
何かふりかえると人生かこんなに簡単にあっけなくあっというまに終わるとは思っていなかった
無常迅速だったことは変わりなかったのである
でも70年生きたということはなんでもあれ誰でも一時代を生きたのである
ただ今の80以上90歳とかなると二つの時代を生きたとなる






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2019年08月29日

人間何のために働くのか? (金を払う方でもなぜ金を払うのかと考える)


人間何のために働くのか?

(金を払う方でもなぜ金を払うのかと考える)

youtubeのlove and freedomの40くらいの人がなぜ自分が働いているのかわからないという
ただ毎日とにかく食べるために働いている
それも日銭稼ぎでありただ日々生きているだけだとなりなぜ生きているのかもわからないとなる
もし家族があったら家族のために働くとなりそこに生きがいもできるから結婚したいとなる
働く理由はまず最低限の衣食住の確保のために働くことが強いられている
でももし最低限の衣食住が保証されていたら働かなくなる人が多くなることは確かであるなぜなら労働自体に今生きがいを見出している人はいないからだ
文明社会は複雑化して無数のパーツになっている 

だからどういうふうに関連して働くことに意義が見出されるのかとなるとわからなくなるみんな巨大な文明社会の部品に過ぎないのである
それはどんな優秀な人でもそうなる、
何か発明でも科学者でも昔のようにニュートンとか天才が出ないというときもそねうなのだろう、何か一人ではもう複雑化した科学でもそこで傑出したものとはなりえなくなったノーベル賞でも何か昔の天才のように傑出したものではないという
確かにそれは地道な基礎研究であり何か世界観まで変えるような発明はないと科学に弱くても見る

働くという時、それは例えば雇う人がいる、働かせる上司がいる、幹部がいて資本家がいる、金を出す方がいてもらう方がいる
給料を出す方でもなぜこの人に金を出すのか?そういうふうに考える
それ相応に見合ったものが得られから給料を払うのである
それで別に効率化するには人間でなくてもいい、AI化したロボットがいいとなり無人化した店になり鉄道だと無人駅が増えてくる
それは雇う人が給料を払いたくないからコストでそうなっているのである

ところが別に人を雇う方でもその働く意義とか理由を与えない、ただ雇われる人は金が欲しいだけだとしか考えない、だから雇う方も金のことしか考えない
働く理由とか意義などは考えないのである
そもそも何か理由とか意義とか意味を考えるのは人間だけである
一体地球が何で存在しているのか?宇宙が何で存在しているのか?
そんなことを問うのは人間だけである
動物なら毎日今日の食べ物しか頭にない、植物でもなぜ自分があるのかなど考えない
木がなぜここに立っているのかなど考えないのである
つまり人間が自然でもその存在意義を考え価値を与えているのである
人間こそが宇宙であれ地球であれ自然の木であれ石であれ花であれ意味を与えるのであるすでに名前をつけること自体なにかしらの意味を与えている

なぜ現代は働くことに意味を感じないのか?ただ金の量だけで計られるのか?
そして金を使う方に重点があり金を使うことが生きがいになるのか?
それで原発避難者が補償金をもらってかえって仮設に住んでいたのに威張っていたのである、「私たちはここで消費して助けているのよね」と言っていた
これが現代人なのである、金のある者が王様であり金をもって消費する方が王様になっている、としたら働く方に価値がないとなってしまうのである
こう言った人が変わった人でもなんでもない、そういう社会に住んでいるからそう言ったしそれが常態化しているからそう言ったに過ぎないのである
つまりいくら労働しても感謝されるということは医者くらいでありほとんどないのである医者だけは命にかかわるから過剰にその労働が評価されて感謝されているのである

今私が金を払う立場にある、別に働いていもらっているからではない

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親(介護されるひと)−息子(施設に一部金を払う)−母親(私か金を払う)

青森の施設に入れても他にいろいろな介護に使うものがあり金を払っている
息子は建築現場で働いている、親は自力で生活できない、年でもある
でもなぜ私がこの人たちに金を払わねばならないのか?
でも払っているから母親のために息子のためにその親のために払うとなるとなぜその人たちに払う必要があるのか意味が価値があるのか?
それを問うことにもなる、それは金は誰しも無償で払いたくないからそうなる
なぜ金を払わねばならないのか?逆になぜ働かねばならいのかということもあるが何もしてもらわないのになぜこの人たちに金を払う意味と価値があるのかとなる

家族だったら自分の場合は特別良くしてもらったのだから介護することも当然であり意味と価値があった、今になると介護して世話して良かったとつくづく思った
恩返しができたとなり何か良心的に救われたのである
もし何もしなかったら後悔していた、なぜならそれだけ自分の場合は60まで世話してくれたからである、その特殊な事情で少しでも恩返したことで死んでから死者と話したり通じることができる、もしそれがなかったら死者とも通じ合えなくなることがあったと思うあなたは何もしてくれなかったとなると良心がいたむからである

でも赤の他人の介護のためになぜ金を払うのか、直接払っていなくても払っているとなるそれは福祉で世話になるとかでもそういうことが起きている
直接払っていなくても間接的に税金を払っているからである
その人に払う価値があるのかとなることはぬきに強制的に介護保険とかで払っているのである、でもその介護される人が介護される価値と意味があるのかとなるとわからないのである、そういうことは問わないが私的に間接的でも金を払うとなるとその価値とか意味を問うことになる

いづれにしろ何で働くのかということもあるが何で金を払うのかということも必ずある
何かしら価値と意味を見出すから金を払っている
みんな簡単に金を払わないからである、特に情報関係では日本人は金を払わない
情報は無料だと思っているからだ、でも情報提供する方でも苦労があり手間がある
するとなんらかその情報に対して金がは払われるべきだともなる
たたインタ−ネットだとプログだと発信するにしても手間がかかってもほとんど無料だということでしているのである

人間はパンのために生きるにあらずというとき何か必ずその意味と価値とかを追求しているのである、現代では働く意味も価値を見出せないという時資本主義とかの危機となる
モラルの崩壊でありそこで資本主義も崩壊してゆく
なぜなら資本主義がキリスト教の奉仕するということで修道院から始まったというウェーバーの説がある、その時は消費することではない働くこと自体に意味と価値を宗教的なものとして追求していたからである
それがなくなったときすでに資本主義のモラルが崩壊して金融資本主義とかギャンブル資本主義のようになりもう意味も価値もない、強欲資本主義となりモラルもなにもなくなるただ金を得て消費だけすればいい、消費する者が王様だとなってしまう

それでこの辺では何かそういうことで露骨なもの極端なものとして現象化したのである
いわき市では二万人が避難して多額の補償金をもらい飲み屋で札びらを切ったとか家を次々に建てた、この辺でも新しい街が二つくらいできたように次々に家が建ったのである
それも立派な家も多いのである
それで地元の人と軋轢が生まれたこともわかる
つまり消費者が王様であり金をもっているものが上になる、周りの事情など関係ないとなる、金が横暴に力をふるったからそうなったのである
第一家は地元の大工さんなど関係ないからである
ハウス会社が二週間くらいで組み立てるだけの家だからである
地元だ自分の家でも三か月以上建てるのにかかっていたが今は即席に建てられるし地元の大工とは関係ない、外から来た人が即席に建てるからである

そして社会がグロ−バル化して広域化すると金の力がますます強くなる
広域社会でありどこにでも金があれば住める、もし金がなければ慣れ親しんだ所でも住めない、だから避難区域に若い世代は帰らないのである
一億円やるからどこに住んでもいいよとなればみんな故郷でも出ていくのが現代である
そしてどこでも金がある人が威張ることができる、消費者は王様ごとなるからである
そういうことでこの辺では人々の絆は切れた
和合できなくなった、まだ補償金をいくらもらったとかでもめていてその後遺症がありうまくいかないのである
外との絆があってもいづれもう今はない、すると残されたのは昔から住んだ人たちでありその人たちで絆を作っていかねばならないとしてもできない
後遺症があり簡単にできないのである 

そして新しく入ってきて住んでいる人たちが金をもっているから威張っているということが依然として起きているのである
そういうことはグロ−バル化広域化社会で起きたことなのである
それで復興を考えるには広域化して考えねばならないという時そうなる
現実は今や原発事故で避難した人たちが仙台辺りまで広域化して住んでいるからである
残された老人にしても南相馬市とか相馬市とかに新地でも住んでいて若い世代は仙台の方に住んでいるからである
それで老人はかえって避難区域に住まわせるより原町とかに集めた方がいいともなる
分散すると世話しにくいからである
コンパクトシティ化するということである、広域化社会だからかえって人を集中させて維持させるとなる





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2019年08月03日

損して得取れ (本当に得したことが得で損したことが損だったのか?)

損して得取れ

(本当に得したことが得で損したことが損だったのか?)

一時的には「損」しても、その損が将来の「得」になるのであれば、当初の損を厭うな、
という意味だと解釈している。目先の損得だけを考えて行動しても、トータルで(長い目で)考えれば損になることがある、ということを示唆しているのだろう。商売でよく言われる言葉だ

人間はとにかく複雑なのである、商売となるとこれも通じることはむずかしい
そもそも自分に商売とかビジネスを語る資格などない、経験もないし、実際失敗もしているから語る資格がない、だいたい芸術とかなる浮世離れしているところがあり語る資格がないとなる
ただここ十年いろいろ経験してそれで語っているのである
まず諺はこれは本当に真理のように普遍的であり人間の経験から生み出された教訓である、では今でもなぜ通用するのか?
それは人間というものがいろいろ変わっても本質的に変わらないものだからである

人間はまず損しようとしない、損するのが嫌なのである、損する人とは付き合いたくないのである、でもなぜ損して得を取れとなっているのか?
そこに経験から生まれた深い意味がある
ある人は事業を始めたが技術系であり商売のことは知らない人だったと思う
その家自体の家風がまたその人を染めたのかもしれない
ともかく一円でも絶対に損しないようにと身構える家だったのである
そして事業をはじめてもまず他人のために一つの物を運ぶこともいとう
ただでは何もしたくない、箱一つさえもたない、一円すら損することはしない
そういう家だったのである、そういう所で事業を始めたらどうなるのか?
何か嫌になるだろう、誰も接したくないともなる

別に損しろというのではない、とにかく相手のためにするというとき一円でも損したくないという身構えているのである
そういうことで商売が成り立つだろうか?
誰も確かに損して商売はしないしできない、でも何か損することがどうしてもある
でもその損することがまた得することに通じることもある
だから一概に損することにこだわると何もできなくなる
その辺の兼ね合いがむずかしいにしろ一円も損はしないぞという構えになると付き合いたくないとなるだろう
ただこの世の中損得に一喜一憂しているのが現実である
それはわずかの金でもそうである、だから誰も損したくない得したいと毎日必死になっている、それから逃れられないことは確かである

でも人間の不可解は「損して得とれ」という諺に現れていたのだ
つまり何が損か得がその時々で計れないことがあるからだ
その時得だと思ったことが損になりその時損だと思ったことが得になったということを経験しているだろう
例えば地銀で苦しいから投資信託を売るのはわかる、それで一時的会社はもうけたとかなる、だから得したとなる
でも銀行は信用を失うとかある、ゆうちょでも保険でそういうことがあった
今までゆうちょとか銀行は信用されていた、それで投資信託をすすめられても銀行がすすめるのだから間違いないと思って大損したばあちゃんがいたのである
銀行とかゆうちょはまず地域で信用を築いてきたのである
でもそれが時代でもうからなくなり変わった時一時的には会社の利益になり得しても
その次から信用がなくなる、銀行とかゆうちょはそんなものだったのか?
もう信用できないな、金をあずけることはできないなとかなることが怖いのである
それで一時的に得してもあとあとは損したとなっていたとなる

ただ損する行為は誰もしたくないのである、自分自身がなぜ働かないのに金を出しているのか?それが嫌になっている、まるっきり損しかないと思うからである
第一商売するにしても損していたら続かない、赤字になり倒産してしまうだろう
だから商売は多少の損を覚悟して資金の余裕をもってするものかもしれない
最初からぎりぎりの資金でしていたら一円でも損しないと身構えるからである
そうなるとかえって客もつかないとかなるからだ

例えば仙台から来たユニットバスを百万で作った会社は優創建は得させた
何か会社自体が損しているのではないか?
第一ガス会社では二百万かかると言っていたし地元の人に頼めば三百万にもなったかもしれない、だから本当に安かったし悪いものでもなかった
だからここだけは得したとなる
あとはみんな損することだけだった、金をむしりとられた奪われたとしかない、現実に盗まれたりもしたからである
その人たちはただ損することより奪うということだったのである
金に苦しんでいるからそうなった、相手が苦しいからこの際脅迫しても奪ってやろうとしかなかったのである
損も得もない、相手から奪おうとするときそれはすでに犯罪者だったのである
実際に罰せられるべきだったのだかそうはなっていない

でもとにかく人間の不思議は不可解は一見確かに得したと思っている、でもあとになると損していたとなる、これは今でもそういうことがある
何が得で損かわからないのである、例えば大きく歴史でも日本の戦争は負けたが三百万人も死んで負けたから国にとっては大損だったのである
でもその後の復興をみればそれが得に変わっていたのである
高度成長ができたのは既得権者を戦争に負けて一掃できたからだという人もいるからだ
国自体でも損したと思うことが得に変わることがある

そして人生そのものもがまた何が損か得かわからないのである
人生をふりかえって誰でも何か得だったのか、損だったのか?
それがわかるだろうか?美人と結婚したから得だったかなっているのか?
金持ちと結婚して得だったのか?それも最後になって見ないとわからない
人生の損得も計れないのである、損だと思ったことが得になり得だと思ったことが損になる、そんなこといくらでもある
得したとやったと思ったことが後で大損だったとかなる
結局人間は小さな損得に一喜一憂しているはかない存在だったともなる
達観すれば所詮この世の損得はどうでもいいことだったともなったりするからである
要するに死んだら損も得もない、一巻の終わりだとなるからだ
いくら富を積んでも来世にはもってゆくことができないことでもわかる
この世で宝を積んでもその宝も腐るし天に持ってゆくこともできないとなっているのだ

要する人間はどんなに得しようとしても結果的に得にならない
損しして得をとれというとき損が得になることがあるから経験でそう言っているのである得ばかり追求しても得になると思ってもならない、かえって損することにもなる
一時相手をだまして得しても結果的には損していたとかなる
つまり長い目で損得をみればそうなる、ただ人間は日々目の前の損得に追われているのである、だから本当に大きな得とか損をわからないのである
人生を総決算すれば本当に何が得だったのか損だったのかわからないとなってしまうのである

あの時損したとことが実は大きな得だったとかなりあの時得したと思ったことが損だったとなることなどいくらでもあるからだ
結局この世の損得は計れないともなる、だから損して得をとれという逆説が成り立つのである、そういう逆説が人生に必ずある、もしかしたら非正規とかロスジェネは割を食った損な世代だったとか言っているのもわかるがまだわからない
最終的にどうなるのかわからない、個々人でもわからない、結局何が損なのか得なのかわからないからである

正直自分の家にきて苦しい時、得しようとした人は絶対に成功はしない、自分自身のカルマであったにしろ相手も成功はしない
銀行ももう地銀とあれば地域に尽くすものだったかこれももう終わりなのだろう
北銀で農業に投資しているとか何か地域に役立つをことをしないと終わりになる

ともかく本当に損して得とれというときそれができない人は成功はしないともなる
一円でも損しないぞとか商売していたら人と接していたらその時点で失敗している
そういう人は事業するべきではなかった、雇われていれば良かったともなる
結局第一損得勘定からはじめる、絶対に一円でも損しないとしてはじめる
それより事業を始める目的は何なのか?それが大事だともなる
ただ得したい金を得ることだということがすでに失敗しているのではないか?
ただ得したいとなれば相手から金でも財でも奪えばいいとしかなくなるからだ
そもそも相手のために何か物一つもつこともしたくない、そういう人が果たして事業などできるだろうか?

社長として偉く見せたいというだけで事業ができるだろうか?
事業のことがわからないにしてもそのこと自体がもう事業する資格がないとなる
最終的にはそういう会社は消えるのではないか?
一時的なものとして泡沫のように消える、ただ事業自体が20人一人とか成功していない6パーセントくらいしか成功していない、だから何か動機があり真面目にやる人でも失敗している、でも最初から絶対に一円でも損しないとか何も動機がない、偉く見せたいためとか、そして他者のために物一つ持ちたくないという人が成功するものだろうか?
その人が技術系でありその技術だけに集中してやれば問題は起きなかった
そこで利を追及していれば何も損しないし問題も起きない、でも事業となると違っていたのである、結局事業起こすこと自体むずかしいからそうなったのである
そういう人は事業を起こすべきではなかった、社会の迷惑になるだけだった
その後借金して周りに迷惑をかけている

人間は日々目先の損得勘定で生活している、でもそれはいいとして大きな事業となるとまた違っている、損得を勘定しないで始めることも必要になる?一円でも損しないということで始めることはできないだろう
長期的視野をもたないとやれないのではないか?そういうことを言っているのもわかるのである、でも現実問題として利益があがらなければつづかない、だからある程度資金的余裕がないと事業ができないともなる
そこで大企業は豊富な資金があるから資本があるから有利だとはなる
一時的に損してもまた資金と資本があるから立ち直れることがあるからだ
個人事業主とかなるとそれがないからである
いづれにしろ(優創建)は安い、で損している感じにもなる、仕事もいい、だから成功するかもしれない、ただそれにしても事業自体がむずかしいからわからないとなる




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2019年07月31日

公務員の退職金も減らされている、給料も減っている (田舎の価値は金だけでは計れない、安定した職業も必要)


公務員の退職金も減らされている、給料も減っている

(田舎の価値は金だけでは計れない、安定した職業も必要)


公務員も苦しいとかやはり日本全体が落ち込んでいる
公務員でも正社員でなく臨時とかでも多くしている、その給料ではやっていけない
公務員はAI化しやすい事務的なものが多いからそういうことでも減らされる
公務員も安泰でなくなっている
この辺では原発事故で避難区域になった所では浪江とかでは激務でやめたいというのもわかる、こうなると公務員も楽な仕事ではないのである

公務員に興味をがあるのは家族が公務員だったからである、役所に勤めていたからであるそれで高度成長時期に退職した、その時2300万など退職金をもらっていない
一千万くらいだった、でもその退職金が貯金しただけで倍以上になっていた
7パーセントとか利子がついているからそうなったのである
その頃貯金していた人は本当に得だった、十年くらいで倍になったからである
今は銀行に貯金すると投資信託とかすすめられて利子をとられる
財産を奪われる、それはゆうちょでも同じだった
保険で金が奪われていたのである
こういうことは今までありえなかったのである
郵便局とか銀行は地域で最も信頼されていたからだ
公務員とにたようなものだった、公務員と郵便局と銀行と農協が地方で安定した職業だったのである

今例え2300万もらったとしても貯金してもその価値はない、価値が減ってくる
だから相当もらっているようでももらっていないのである
金の価値は時価であり物価とかいろいろな状況で変わっているからである
それて積立式の年金はだめだというとき今いくら金を積んでも年金をもらうとき数十年後には物価が違って金の価値もなくなる
100万積んでも30万とかなったりする、だから積立式の年金はだめだというのがわかる

公務員というとき年金は最初18万もらっていたから高かった、地方では最も高い
でもやがて16万になったからそれほどでもなくなったのである
ただ公務員は何かと得する仕組みがあったのである
それは高度成長時代は公務員ても民間が良ければ公務員もその水準になるからいいのである、もう今はこういう状態だと公務員もやはり民間と同じようになる
安泰ではなくなったということである

日本は本当に貧困化している、やがて発展途上国並みになるとも言われる
そしてまともに福祉サービスも受けられなくなる
老人ばかり増えてそうなる、それで衰退国家となってゆく恐怖がある
地方の就職先でもこうした安定した場所が奪われるとどうなるのか?。
何か地方で落ち着いて生活できなくなる

地方とは田舎の役割は何なのか?食料生産基地なのか?

地方は田舎は自然との共生の場であり例え米が売れなくても金にならなくてもそういう生業(なりわい)維持すべき所なのである
だから矛盾していたのは東電に生業(なりわい)を返せと裁判化したことである
でもこの辺では漁業者でも農民でも東電にその生業を売り渡したのである
生業というときその土地に生まれたときからある仕事のことであり受け継がれる仕事である、それは自然と共生として長い間千年以上つづけられてきたものである

それで田んぼがなくなったとき蛙もいなくなった、そして鷺もいなくなった

この時田んぼは米をとる場所だけではなく、蛙も鷺も活かす共に生きる場所だと自覚したつまり蛙も鷺も田んぼがあって餌となる場があって生きていたことを知ったのである
だから蛙の鳴き声が田舎の夜空に木霊した時、復興したと感じたのである
そういう場所が田舎なのである、それは食料とか生産するだけではない、金にならないとしても田畑が荒れるとそこは荒廃してしまう
現代はすべて金で価値を計るが金だけですべての価値は計れないのである
すべて金で価値を計ると原発でもなんでもいいとなってしまう
結果的にこの辺が生業でも自然との共生も自然も汚染されたとういことでそのことが現実になった、あまりにも原発に電気に価値を置き過ぎた結果だともなる
                                                              
公務員の役割はなになのか?
実はその住んでいる場所全体、自然にもかかわる仕事だったともなる
漁業でも農業でも林業でもそういう自然とかかわることも仕事だったのかとなる
何か全体のバランスを計るというのも公務員の仕事だったのかもしれない
だからこそ民間のように利益第一主義ではないものを追求できるとなるからだ

ともかく都会の人だと東京でも食料は外国から入ればいいという
だから日本の地方はいらない、田舎はいらない、金がかかるだけだとなる
地方交付税でも東京の人が払っているからだとかなる
これは暴論である、日本の国土形成からした全く日本の自然でも無視した危険なものとなる、そして原発は本当は東京に造ることが一番向いていたのである
でも事故になると困るからフクシマに離れた場所に造り安全を計ったのである
そして地方では自然と共生するものが漁業でも農業でも林業でもだめになり原発は歓迎されたのである

そしてまた地方の田舎の価値は経済的なものだけではない、精神的なものとして地方が田舎がはぐくむものがある、文化が生まれるのは都会のように見えて地方なのである
ヨ−ロッパでは地方都市が国家となりそこが栄えてルネサンスとか生まれたことでもわかる、小規模の地方都市が文化をはぐくむにはいいのである
cultureはcultivate(耕す)である、地方でこそ田舎でこそ文化が育まれるのである
何か最近銀行員が農業の育成にかかわるというのも苦しいけど農業にかかわり余った金を投資して地方を活性化するというのはいいことである
でも農業は金にならないのである、でも農業にはそれだけではない付加価値が大きいのである、でもそれは金として評価されないことが問題なのである
東京とかの人にすれば安いいい食料が入ればいいとしかないからである

例えば価値とはいろいろありストリーも価値となる、アセリプトを発明した人の話はそうだった、あんなに苦労して作り出したものだと知る時価値あるものとして意識するからだでもスーパーに並ぶ食料を刈っても安いかの高いのかとしか意識しないのである
そうなれば外国産でもいいとなってしまう
価値を計る尺度を変えることも必要である、金で計れない価値にこそかえって大きな価値がある、例えば景観などがそうである、それは金にならなけどその景観がなかったら索漠としたものになる、それが都会のビルの谷間で暮らしている人なのである
そこになごみも美もないからである
とにかく田舎の価値は食料基地だけではないのである

だから何か地方は田舎は安定した職業が必要だとも思う、あまりにも競争にさらされると地方の田舎の良さが奪われるのである、そして原発事故は田舎の良さを本来の価値を根こそぎ奪ったのである、生業を奪ったのである
私の場合は芸術的に田舎の価値を追求してきたのである
ただ私の問題は畑があるとする、すると畑の野菜とかに注目しないで花が咲いていていいなとか見ている、でも現実に野菜を作るとなると毎日草取りであり汚い仕事にもなる

でも花だけを見ていいなと見ていると都会人的だともなる
都会の人が田舎に来ていいと思うのは自然があり花が咲いていていいなとなるからであるでもそこで農業するとなるともうやっていけないとなっていたのである
それは農業とかの価値が食料にだけあると見ているからなのである
それ以外の景観とか自然の共生とかは省かれて野菜の値段とか米の値段ですべてを計っているからそうなる
ジントルマンというとき田舎に住んでいる貴族だった、田舎こそ文化を育むジントルマンが住む場所だったのである、ただ矛盾しているのはそのジントルマンも都会にロンドンとかに住まいがあり田舎と行き来していたのである
ただ田舎を本拠地として生活していたのである

人間生きるというとき何らかの価値を追求しているのである、その価値をすべて金で計ることはできない
金を得るにしても金を使うにしても価値を追求している、その価値が何なのか?
本当にそこに金を得るために使うための価値があるのか?
だからこそ東京とかには田舎と比べて価値は無だとさえなる、そこに自然の美とかが全くないとしたらそうなるのである







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2019年07月26日

資本主義が終わりー国々の文化力の再発見開発の時代へ


資本主義が終わりー国々の文化力の再発見開発の時代へ

資本主義では金を増やすことを望む、金を増やすためにはどうするのか?
投資する、投資するとはそこでもうけて利益を増やして金を得ることである
その金を運用するのが銀行であり資本主義の中核としてあった
銀行が金を生み出していたからである
銀行はゼロから貸し付けてその借用書が紙幣になったというとき何もないのに金を増やすことができる
でもその金が増えすぎると使われないと経済は停滞する
でもなぜ今銀行がつぶれるとかいうのだろうか?
銀行には金はある、金が余っている、その金の使い道がない
投資先がないのである

それは世界的に起きていることである、世界で金が余っている、でももう世界経済が成長しないというとき金余りでありその金が活かされない、投資先がないからである

日本の海外債務が主にアメリカにありドルとして

対外純資産残高は328兆4470億円と3年連続で減少したが、27年連続で「世界最大の対外債権国」という座を維持した。

対外純資産がたくさんあるという事実は、見方を変えれば「日本国内に投資機会がない結果、外に出るしかなかった」ことの裏返しでもあるため、日本を語る上で憂うべき論点も多く含んでいるだろう

民間に米ドル相当の資産が150兆円以上あることも大変な強みだ。国の外貨準備高を合わせて300兆を優に越える。これらは一気に換金するとドルを始めとした通貨が暴落するし日本の信頼性の問題が問われるから実行する事はないものの、いざというときには換金出来る。言うまでもなく米国は世界最強の国家で、ここより安全で安心できる投資先はない。

アメリカの強みは軍事費が世界で突出している、軍事国家なのである
日本は経済国家である、アメリカの信用は軍事国家であることでドルが基軸通貨になっていることである
でもドルが紙屑になるというときそのドルの裏付けのアメリカ経済が弱体化しているからである
つまり金は資本主義での金は常に増大することを望む、金が金を生むことを望むのが資本主義なのである

でも世界経済の成長は頭打ちとなりもう成長しない、とすると金の行き先投資する先がない、だから銀行に預けても利益を生まない、利子が払われないのである

つまり銀行の用がなくなる→銀行はいらない→銀行員の大リストラ

こうなったときもう資本主義は機能しない、投資先がない、それで資本主義が終わりだとされる
その行き詰まりを打開するのに軍事力で突出した軍事産業の占める割合が多いアメリカは戦争を起こす、するとそこで戦争が投資となりアメリカ製の武器が売れる
景気回復するとか怖いことになり実際そういうことが行われてきたとされる
そこで人命も失われたのである

経済が行き詰まる→戦争になりやすい

それはドイツのナチスでも失業者が増えたとかなり戦争に突入した
失業者を戦争が吸収したとなる、日本でもアメリカの経済制裁で追い詰められて戦争に突入したとされる
経済的に追い詰められた国は人間でもわずかの金でも奪うし強盗でもするし人を殺す
借金していると借金を返すために犯罪を起こす、借金が犯罪の動機になっていることが多いのである
そういうことをこれまで嫌とういほど自分自身が経験したので恐怖となった
経済的に追い詰められた人たちが介護とか病気になったとき弱者化したとき襲ってきたからである

今やどこも経済不況とか停滞に陥り危険だとされる
アメリカもそうだし中国も韓国も日本もそうなのである
世界同時不況、世界恐慌前夜のような様相を呈している
つまり資本主義自体が機能しなくなり崩壊しつつある
世界的に経済成長は見込めないのである
それで資本主義の終わりだとみんなが言うようになる

つまり経済成長がない資本主義はありえないのである
だから資本主義は終わりだとなる
では次に来るのは何なのか、経済成長がない投資先がない社会である
だからこういう時代は文化の時代にもなる、文化の価値は物を増やすとか生産するとかとも違う、例えば日本でインパウンドで外国旅行者が増えたというとき旅行は文化的な価値を求めるのでありそれは何か物を生産するとか技術を開発するとかとは違っているのである、その国の文化を見るのが観光だからである

国を見る時確かにGDPとかでみる、でもその中身は技術力でありもう一つは歴史文化力がある、歴史ある国はヨ−ロッパでも中国でもインドでも文化力がある
オーストラリアなどは歴史がないから文化力がない、アメリカでもそうである
資源があり国が広大であり経済力技術力があったとしても文化力に欠けているのである
おそらくこれからの時代は世界で経済成長が望めないとしたら文化力の時代になる

だから一方でこれからますますグロ−バル化するから英語は不可欠だとしている
でも文化力にシフトするとき英語のように商業語だけでいいのか?
そこには文化力がない、確かにそれで経済力を高めることはできる、でも文化力は英語にはない、日本語あって日本の歴史と文化がありその価値が高まる時代になる
明治維新からは開国の時代であり富国強兵とか経済力の時代だった
それは太平洋戦争までつづきその後も経済成長の時代でありそれがバブルで日本は崩壊した
経済成長はあるところで限界にきてとまる、それが今は中国でそうなっている
そして世界的にももう経済成長はできないのである
そして資本主義が機能しなくなる、銀行が不用なることがまさに資本主義の終わりを象徴しているのである

何かだからこれから中世の時代のように内面化する、宗教とか哲学とか芸術の時代になる経済成長は世界的にもうできないからである、するとその国々に住んで文化力を高める時代になる、文化力はその国の風土と歴史から作られる
ただ文化というとき幅広いから必ずしも芸術とは限らないのである
農業に回帰するというとき農業は文化の側面がある
なぜならcultureはcultivate(耕す)から出た言葉だからである

なぜそうなっているのか?
つまり農業はその土地土地の地味に作用されたり風土と密接に結びついているからであるワインでもその土地土地の名がついていたり日本の米でもそうである
味が違ってくるからである、日本酒が世界で売れるという時もそれは日本の風土と歴史で培われたものであり文化力なのである、単なる物の販売ではないのである
とにかく文化とは幅広いものでありそれを風土に根ざして再開発再発見してゆく時代なのである

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2019年07月18日

ロスジェネ氷河期世代(40才前後)の苦境 (金がなく結婚もできない、将来に夢も希望もない底辺)


ロスジェネ氷河期世代(40才前後)の苦境

(金がなく結婚もできない、将来に夢も希望もない底辺)

その人は建築関係の会社に勤めている、正社員なのか?派遣とも違う、一つの会社に勤めて現場に派遣される
今は青森に行っている、青森というとこの人の父親が介護のために南相馬市から送られた場所だったのである
その人が嘆いているのは安い施設に入れてもその後にたりない分が要求されることであるでも親だから金を出している
そしてもう一人その母親も困窮している、だから金をせびる
でもその人はそんなに収入がないのである
でも親に金をだしていることで感心するとはなる
自分は介護しても親に働いて金をやったことがないからだ
実際は結婚して子供をもっている兄弟がいるがその人は父親にも母親にもかかわらないのである

この人は40代でありロスジェネとか氷河期世代である
ただこの人は別に建築現場があっているからしている
他のサービス業を嫌っているからである
だから必ずしも不本意にその職業についているわけではないから事情が違う
一方でlove and freedomの「底辺労働者」テーマにして訴えているyoutubeの人は不本意についた職業だから派遣だから不満なのである
貧しくても結婚したいができないとしているからだ
この世代は現代の日本社会のブラックでありそれが社会を歪めている
世代によって運不運が大きいのが人間である
まず戦争中だったら特攻隊で20代で死なねばならなかった
それが嫌でもどうにもならなかったのである

つくづくこのyoutubeに私が関心があるのは人生をふりかえると40才が最後の転機だったことである、自分の人生は参考にはならない
普通の家庭環境では違うし何か特別恵まれていたからである
この人は不幸な家庭環境で育ったからである、でも大学を出ているからインテリなのである、子供の時親に特に母親に承認されない人は一生自信がなく育つというのは本当であるなぜこの世代が問題なのかというと将来60以上になると年金ももらえないとか今のままに貧乏をひきづるからである
そして独身が多いから頼る人がいないで孤独死となる、この人も身寄りがないから同情する、誰も助けてくれないというのは本当である
現代とは情が喪失した社会である、日本人にあった人情などなくなっている
それで金さえあれば未来を開ける、結婚もできると嘆いているのだ

この人がなぜこうした重圧感にあえぐのか?
それは40という年なのである、もう人生は決まったとなり将来がないと見る年代だからである、40というのはその人がもう何でも見える、決まるという年である
その年で結婚していないとか子供もないとかなると会社でも社会でも信用されないとなるこの世からはずれた人ととなる
私が言っているアウトサイダーをあてはめることはできない、それは特殊な才能があり芸術家のことなどをさしているからである
これだけ数が多いということはその人たち普通に暮らしたいのである
結婚して子供をもち貧しくても楽しい我が家をもちたいのである
それができないから絶望的になっている

知っている人も結婚はしたくないというが本音は違っているというのもわかる
結婚したくても金がなくてできないのである
金がないから収入が低いから女性が相手にしないのである
結婚して子供を育てる金銭的余裕がない、経済力がないからである
それだけ日本社会は貧乏になっているとういことである
これはますます深刻になり治安も悪化する

何か今日はアニメ会社で放火があり10人死んだのか大被害が出た

この犯人は41歳だった!

この人も何か40才という年で事件を起こした
何かこの年に問題があったのか?
40歳で人生にキレタのか気になる
まず40才から50歳になったらもう結婚もなにもない、人生終わりだとなる
私の場合は50歳からバックパッカーになっていたから終わっていなかった
そこでやっと見聞を広めることができたのである
だから別に40歳で人生が終わるわけではない
私は60から十年介護してそれからこうして盛んにプログで発表するようになったからだ長寿の時代は鼻開くのは60以降とか70以降にもなる、人生百年となればそうなる
そうはいっても40歳は人生の分かれ目となる
一般社会ではもうその行く先とか評価は決まってしまのである

それで底辺労働者として一生終わり最後は孤独死だとなり夢も希望もないとなる
私の場合は別にそういうことはない、今自分自身の時間は充実している
今まで貯えたものがあり詩などの創作に熱中しているからだ
学問でもそうである、孤独ではあるが最後に実りがあるなとつくづく思う
人によってその時期が違う、早い時期に才能を開花する人も天才もいるからだ
いつづれにしろ40歳前後は社会にとって大きな問題をはらんでいる
これもニートとかと同じように数が多いからそうなるのである
数十人なのかアウトサイダーなどは放っておいても何の問題もない
でも数百万人もいるとなると放っておくわけにはいかないからみんなの問題になるのである

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2019年07月12日

 実力ある人のみ生き残る時代 (銀行員でも弁護士でも医者でも頼める優秀な人がいない・・)


  実力ある人のみ生き残る時代

(銀行員でも弁護士でも医者でも頼める優秀な人がいない・・)

何か頼むにしてもその頼む相手が問題になる、それか人間社会で日常的に起きてくる
大工でも修理を頼んだが直っていなかったが金ばかりとられた
一方で仙台から来たユニットバスを請け負った会社は百万で作ってくれた
それはいいものだったから得だった、ほとんど損した
小高の庭作りしてくれた大工さんは優秀だったから良かった

地銀に投資を頼んだがそれも損しただけだった、第一銀行自体証券会社でないから素人並みである、そんなところに頼んでももうけられはずがなかったのである
ただ適当に客のことなど考えないで投資しただけである
投資したら損しようが地銀では関係ない、地銀には手数料が確実に入るからだ
地銀は一切リスクはとらない、では本当にそうなのかとなるとそうでもない
銀行は信用を失ったしその後に影響してくる
銀行はそんなものだったのかとなり銀行にまかせたら金とられるだけだと警戒するようになる、これが高度成長時代だったら銀行も楽だったのである
銀行に貯金してもらえば利子がつきますよとなりみんなあずけたし銀行は地域では信頼された安定した職場だったのである

でももし銀行員の営業の人でも優秀だったら別である
証券のことを知っていれば儲けさせる確率が大きくなるからだ
でもそういう人は銀行にはいないのである
そうしたらもうけることなどできないのである
つまり証券に株式に通じている人はいないのである
そういう人に頼むことはできない
ただ金持ちはフィナンシャルプランナーとかを個別に雇い投資をまかせる
でもそのフィナンシャルプランナーにリスクがある
損したらもうけがないとかなる、もうけたら一割でも二割でもそのもうけたなから収入となる、だからそれは相当に投資にたけた人でないとできないのである
まず地銀クラスには一人もいない、そういう仕事が地銀の仕事ではないからである

地銀の仕事はyoutubeで今日見たようなことである

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これまで金融庁で中小企業をつぶれないように援助していた、でも限界に来た
そして地銀自体が収益が悪く倒産するということで援助しないとなった
これももう追い詰められているから大目に見ることができなくなったのである

このように中小企業が大倒産の時代になる、その数も多いのに驚く、こんな数の中小企業が倒産してゆくことは確かに地銀にとっても衝撃が大きく地銀自体が倒産してゆく時代だと言っている
それだけ今の地銀は厳しい経営状態にあり先がなくなっているのだ
そういうふうに追い詰められた個人でも団体でも会社でもかかわることは危険になる
もう生き残るために善悪もなにもなくなるからだ
銀行でもゆうちょでもブラック化してゆく、投資信託でも無理やり売りつける
そもそも素人の知識しかないのに売りつける、ゆうちょでも簡保でも不正をしていたというのがそうである
ノルマを果たすために行員に無理やり保険でも老人に売りつけていたのである
老人もゆうちょをもともと信用していたからである

今の経済は社会は身近なところ崩れてゆく、その時モラルもなにもなくなる
事業失敗した人がそうだった、追い詰められているからとても人のことなど考えていられないのだ、そういう人が自分が病気で介護の時来たから最悪だったとなる
銀行もまた同じだった、追い詰められて余裕がないから客のことなど全く考えられなくなっている
オレオレ詐欺のようになってしまう、堅い職業の銀行までがそうなっいることはやはり日本の経済は危機的状況にある、地域の経済でもそうである

交通事故でわからないから弁護士を頼んだ、でも最初に相談料として100万要求された何か事件を解決したわけでもない、裁判になったわけでもない、ただ相談料としてそれだけ要求されたのである
それは仙台の弁護士だったのである、それを頼んだのは親戚だったがこの人も全くあてにならない人だったのである
つまり頼んだ人があてにならない→その人が頼んだ弁護士もあてにならい、金を不法にとったともなる
こうして頼む先があてにならない、信用できないとかなると必ず損するのである

中小企業の大倒産時代にそれを引き受けてうまく倒産するというか事業を維持させることは相当に熟練した弁護士でないとできない、その計画を明確に提言できる人だという
そういう弁護士はまれだという、それだけその事業を倒産させるにもノウハウがあるが
それをできる弁護士は本当にまれだとなる
つまり弁護士の資格をもっていようが医者の資格をもっていようが本当にできる人はまれなのである
第一資格といってもそれは実際の社会で通用するわけではないのである
資格はとれても実際の社会で通用しないことが多いからどういう経験を積んだか履歴を会社でみるというのもわかる

いづれにしろ今や日本経済は厳しい状態に突入している
会社でも優秀でなくても年功序列で終身雇用で一旦会社に入れば安泰の時代は終わった
もう大企業でも不要な存在は容赦なく切り捨てられる、そうしなければ生き残れないのである、ただこういうときは本当に才能があり実力がある人はいい時代になる
高給で大企業でも若い人を待遇する、でも不用な45歳以上はリストラさせられる
会社にも余裕がなくなったのである
ただ銀行員でもフィナンシャルプランナーとかで個人的でもなれる人は生き残れるがそういう人はまれである、それだけのプロとなるとまれだとなるからだ
だから本当に実力社会になったら極少数の人しか生き残れない
特別優秀な人たちと多数の普通の人たちに分かれる、格差社会になる
そういう変わり目に時代は突入しているから厳しい時代になる
会社に入れば安泰だという時代は終わったのである
大卒だからだと学歴もあてにならなくなる、大学で評価されるのは理系の一流とかに準じる大学だけである、その他は文系だと評価されにくい、大学出ても実力社会では通用しない、学歴は通用しなくなる

こういう時代をどう生きるのか?
教育も見直される、暗記とか受験とかそうした勉強しても実力社会になると通用しない
資格をもっていてもそれでその人が優秀だともならない
医者でも弁護士ても選ばれる時代になるとそうなる
要するにでは選ばれる優秀な人になるのにはどうするのかということである
教育でも今までのやりかたでは通用しない、やはり何か創造力を鍛えるとか暗記ばかりではない、独自性を発揮させるものを追求することだとなる
既定路線にのって安泰な時代は終ったからである


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2019年07月09日

今を反映している一田舎の生活状態 (年金不足、介護、高齢化、外国人労働者 地銀の危機)


今を反映している一田舎の生活状態

(年金不足、介護、高齢化、外国人労働者 地銀の危機)

一人の困窮者がいる、その人の息子は40くらいで建築関係で働いている
独身である、非正規というのではなく会社に勤めているとはなる
その息子の父親は介護状態になり南相馬市では介護士不足で世話できず青森に送られた
その後も安いとしても金がかかり嘆いている
その母親はもともと困窮していた、だから余裕がない
そして腰が悪いとか体も悪く70近くになっている、でもどうして相馬市まで普通の自転車で行けたのか不思議である                   

草取りするとかがむので腰をいためることはある
その女性が畑をもっているがその前の人は腎臓悪くして死んだ
隣の畑は家の人に車で乗せられて這って畑仕事していたができなくなって荒地になった
隣と前は荒地になった、この辺は震災以後原発事故にもな耕作放棄地が増えた
多少は回復しても田畑を維持することをあきらめた人が多い、高齢化もある

何か不思議なのはネパールの女性が三人ほど福装で働いている
その人が良く土手の道を通る、ネパールの男性の人がホンダで修理工として働いていた
それげ日本に長いから奥さんを呼ぶと言っていた、4000メートル級の所に住んでいるから驚く
他にベトナムとかから来ている、仮設の食堂していた人は中国人の女性と結婚して店を切り盛りしていた
この辺は外国人が多いという時、まだ震災以後原発関係の仕事がある
それでベトナム人が知らずに除染関係の仕事をさせられて問題になった
中国人に連れられたきたベトナム人を駅でみかけた
中国人がそうした外国人労働者の手引きをしている

困窮している老いた女性がパンクした、そのパンク代が払えない、それで金をせびりにくる、今はつけで物は買えない、その人は昔のようにその日暮らしである
最底辺なのである、老人で年金をもらえずそういう人が増えている
その自転車屋にしても病気であり60越えていたから年だった
技術的には若い人が今に適応しているからいいという
でもどこでも年寄りが多くなっているのだ、そしてその人も跡継ぎがいない
娘はいても東京とかにいる、そういう人がまた田舎では多い、もう一人の人もそうだった跡継ぎは中小企業でもいなくなり農業でも漁業でもいなくなり続けられないとなっていた相当な中小企業が日本からなくなりGDPを引き下げるという

そうして同級生でも二人が脳卒中になった、一人は足が悪くなった
その人は一人暮らしである、弟が一週間に一回来ている
一人暮らしの人も増えている、自分自身がそうであり不安になる
団塊の世代は75以上になると病気になり介護する人が増大する、しかし世話する人手がたりない、いい施設があっても人手がないから青森に送られる

地銀がきたが地銀がすすめた投資信託はもうけることはできない、かえってリーマンショックのとき半分に減った株を元にもどして上がる時投資信託に銀行員が回して損した
銀行員はもう地域で用なくなってくる
投資先がないからそうして銀行では絶対損しない投資信託をすすめるのである
これは手数料が確実に入るおいしい商売なのである
また転売するとまた手数料が入ったり売ったり買ったりするとそこで額が大きいと手数料が入るのである、銀行はもうかつての銀行ではない、銀行員は大手もやめている
それは資本主義がゆきづまって終わりに来ている象徴でもあるのかとみる
大手のメガバンクの銀行員が仲間からやめる相談を多くの人から受けているという
銀行はもうその用がなくなりつつある
そうなると銀行自体が害になってくる、なんとかもうけを出そうとしてあこぎなこともしてくるから害になるのである
大企業でもリストラされる時代になっているからもう安心して終身雇用などなくなるのである

ともかくこの状態は現代の日本の状態を象徴して自分にも起きていることなのである
日本は閉塞感が強くなり外国に働きに出る人も増えているという
そして経済的には江戸時代にもどってくるのかもしれない
服のお直し屋さんがはやっているという、新しい服を買うのではなく直して使う
その技術も高いので直しても使えるという
それはリサイクルとか江戸時代にもどることである
そういう経済感覚が時代を変えてゆく、ミニマム生活とかもそうである
大量生産大量消費の時代は終わる

この情報をyoutubeで得たということが自体が情報環境でも変わったことなのである
もうテレビでも新聞でも雑誌でも情報の主流となる時代は終わったのである
youtubeでは個々人の経験を語っているからである
こうして自分自身が自分の状況を語っているのもそうである
そこに今の社会が如実に反映されている

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2019年07月02日

元銀行員の生き残り戦略としての地方移住のプログで思ったこと (田舎志向と都会志向)


元銀行員の生き残り戦略としての地方移住のプログで思ったこと

(田舎志向と都会志向) 

元銀行員のプログ


●産業革命による世界的異常な人口の増加

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1802年 10億人
1927年 20億人
1961年 30億人
2015年 73億人

人口が日本の戦後から世界で倍増している、グラフをみても人口は世界で増えていない
産業革命があり突然鰻上りに増加した
日本でも江戸時代は3000万とか明治で4000万とか大正で6000千万でありその時東京は百万くらいでありそれで都会まで讃歌されていた時代があった
その時の人口でいうと新潟県の人口の方が東京より多かったのである
まずこの人口からして産業革命のもたらした影響は甚大だった
これだけの人口が増えるということは世界でも地球環境でも計りしれない影響を及ぼしたのである、だから少子高齢化というけど人口が減ることはこうして極端に増えたことの揺り戻しであり異常ではないともみる

要するに世界的にみてもグロ−バル経済となり世界的環境破壊が起きても当然だった
そこに資本主義が絶大な力を世界で振るうようになった
それが世界的環境破壊になった、貴重な熱帯林でも破壊されてオランウータンの住む森が破壊されて住めなくなったとかある
木材資源として森は切られたのである、またそういう技術があり根こそぎ森が破壊されることにもなった
原発でも二酸化炭素を出さないとか言われたが事故でわかったように環境を致命的に破壊して人を住めなくしたのである
ここで多国籍グローバル企業が国より大きな力をもち開発した
その多国籍企業に資本主義によるマネーが流れたのである、そこに銀行も投資した
銀行はグロ−バル経済の中で投資されるのと地銀とかとは別である
メガパンクだと武器製造会社とか悪徳ビジネスといわれたものにも投資して株主となりもうけたとかある

そして今なぜ資本主義が行き詰まっているのか?
それは当然ではなかったか?もうこれだけ人口が増えて環境破壊もされるとき地球が悲鳴を上げているとなる、地球の資源は限界でありこれ以上資本を投下して開発したらもう住めなくなるとまでなる
人口も限界にきている、何か地球全体で成長とか発展は望めなくなっているのだ
だから必然的にダウンサイジング縮小経済に向かわざるを得なくなる
これ以上経済成長することは地球で許容できないところにきているからだ
すると銀行が投資先がなくなるとか用がなくなるということはまさにそれを示している
資本主義と銀行は密接に一体化していたからである
資本を投下する、資金を集めて投資するという資本主義の基本ができない状態になっているからだ、それで銀行はいらないというときそれは資本主義が限界にきているからだ
むしろ江戸時代のような小規模の助け合いのような頼母子講とかの金融が別な形で必要となる時代である、それは中世への逆戻りだということにもなる

●田舎志向が増える時代?

田舎志向が増えるという時、都会より田舎へ心でもシフトしてゆく、モノより精神的豊かさを求めて田舎志向になる時代ともなる
つまり経済成長とか量だけで計る経済から質で計る経済生活を志すとき田舎志向になる
もともと林秀彦が言っているように大陸国家は量の文化であり日本は質の文化だとてしている、大陸国家は中国でもあれだけ人が多ければ数で圧倒する国である
その大陸の広さと量で圧倒する文化になる、それは大陸で共通している
日本のような狭い国では質を追及するとういのもわかる
細部にこだわるというのもそうである、巨大な神殿とか大聖堂は建てられないのである

奇妙なのは都会人に強烈に田舎に憧れて田舎志向になる人がいる、山尾三省などがそうだった、こういう人は田舎に住んでいる人より田舎志向になる
都会が嫌になり田舎を渇望してパンすら贅沢だとしていた、最低の原始的生活をして妻も本人も60数年で死んだ、今なら早いとなる、それだけ過酷だったともなる
こういうふうに強烈に都会に住んでいたものが田舎志向になる
逆に田舎の人間が都会志向になる、東京に憧れる、そして現実は田舎に住んでいる人は都会志向が多いのである、なぜなら田舎の人は東京と同じような生活をしたいとして家と車を競っているからである   

家でも借金しても立派な家を建てる、クルマでもいいものを持ちそれが田舎のステータスになっているのだ
だからこそ原発でも金になるから歓迎されて積極的に誘致されたのである
その時双葉とか大熊辺りは働く場がなくて出稼ぎ地帯だったから地元で働く場が欲しいとなり原発を積極的に誘致したのである
原発は金の成る木だったのである、それは漁業者でも事故前も補償金が入り船主が原発御殿が建ったとかうらやましがられていたのである
事故後もそうである、補償金は継続されるから金に困ることはないのである

つまり田舎だから田舎志向だとはならない、田舎はむしろ都会志向が多いのである
だから農業は金にならないとかやらないで耕作放棄地が増大した、震災以後この辺は荒地がまだ多いのはそのためである、高齢化で田畑でも跡を継ぐ若い世代がいないからであるそれは中小企業でも跡継ぎいなので廃業になるものがふえて日本経済への影響が大きいのである 
田舎志向の人は田舎ではかえって少ないともなる
事業した人も都会の金持ちの人をねらい別荘とかを提供するとか言っていた
事業の趣旨がそもそも都会志向であり田舎の土地を活かして農業するとか何かそれに付随するものをするとかはない、ただ都会に金持ちがいるからそこで金儲けするというのが趣旨なのである、これなども都会志向で事業を起こしたが失敗したのである

つまり田舎にはこうして事業するにも都会志向が優先になることが多いともなる
なぜなら里山資本主義で農業とか言っても林業とか漁業自体が金にならないとそれを受け継ぐ若い世代がいない、だからこそ原発は歓迎されたのである
だから田舎でも都会志向であり田舎志向の人は山尾三省のような変わり者になる
なぜなら田舎で車をもたないものはすでにそう見られているからだ
あいつはクルマももてない劣等者だとされるからである
パンも食べられない田舎に住むことを望む人間はいない
もっといい家もっといい車もっとうまいパンを食べたいもっとうまい・・・を食べたいとなっているからだ

●田舎の人はかえって都会志向である

このプログの主は銀行員だったが相当に田舎志向でありもともと田舎に住むことに適していた人だと思う
田舎に住んで田舎に適していなものも多い、だからみんな田舎に適しているとはならない田舎に住んでも田舎の人でも都会志向の人が多いのである
それがわかるのは別に仕事でも会社員がほとんどであり農業とか漁業とか林業に従事するのは一割とか少ないからである
だからこの人がクルマを持たないとか家は空家を活かすとかしているのもわかる
そこに都会志向がない、田舎志向を生活で実践する
それはそもそも田舎に住んでいるより田舎志向なのである

正直田舎がいいことばかりではない、田舎で人間関係は実際は嫌であり自分自身もだから田舎の人とかかわらず住んでいた、家族がいたから自分は何もすることがしないからそうできていたのである
でも家族がみんな死んだとき自分一人あらゆるものがふりかかってきて嫌な思いをしたからである、田舎の人は人間的にいいとはならない、むしろ都会の人が助け合ったりすることもある、田舎は姑息であり人情がないともなる
それは日本全体が外国暮らしから帰って暮らしたことでそういうことを痛烈に感じた人がいたからからわかる
今や日本人が情があるなどないのである、田舎でもそうである
だから田舎でいいとして暮らせる人はまた人によるとなる

ただ人間には都会志向と田舎志向が混在している
この辺では仙台が都会であり都会を味わうのは仙台だとなる
私が一週間に一回でも仙台に行っていたのは本を買うためだった
本が田舎では売っていないかったのだ、もうベストセラーとかしか置いていない
それもくだらないものだったが冠婚葬祭の手引書が百万部売れたとかあった
つまりくだらない本でも本屋に置かれるものは売れたとなる
それはそもそも本が田舎には置いていなかったからである

専門書など置いていない、この差が今ふりかえると大きかったなと思う
知的な要求は満たされない、非常に狭い範囲でしか物を考えることもできなかったと思うそして今になるとインタ−ネットで大学の学術論文でも読めるとなるとこのい差は大きいまずそういうものにはアクセス不可能だったからである
そこに厳然として田舎と都会の差があった、他にも物を買うことでもあった
今でも自転車は新しいものを知ることがむずかしい、仙台だと実物が置いてあったりするが田舎ではないからだ、東京辺りだと試乗もできるらか違っている
自転車は通販では買えない、修理とかあるからだ

いづれにしろインタ−ネットの普及は田舎でもこうした知的分野では追及できる
発信もほとんど無料でできる、だから田舎で知的に情報分野で遅れるということはなくなったのである、ただ人と直接会うとういことでは田舎では知的な人と会うとういことはまれである、でも本にしてもこんなにあるということに驚いたのである
それで今になって遅いが本を一か月10冊以上買っている
それも古本で安いのがあるから買えるのである、別に安くても内容があるから同じなのである

●田舎志向と都会志向の人の住み分けが必要?

だから田舎に住んでいると人は田舎志向ではない、都会に住んでいる人で強い田舎志向の人がいるし田舎に適している人がいる
だから

田舎に住んで都会志向の人は都会に住むべき

都会に住んで田舎志向の人は田舎に住むべき

こういう住み分けが必要なのかもしれない、なぜならそうしないとこの辺のように限りなく欲望を満たすことを望みそれが原発を積極的に誘致するようになるからだ
そういう人たちはかえって都会に住むべきだとなる、そうしないと田舎が田舎として保てないのである
ただ田舎でも都会志向があってもいい、でも限度がある
田舎に住んでももう欲望はきりなくみたそうとする、それが結果的に原発事故にも通じていたのである
そして別に故郷に愛着あると田舎に愛着をもつとかない、補償金をもらったかえって都会がいいとして若い人は流出したのである

そもそも田舎の若い人は都会志向が強よかったのである
一億円もらったらこんな田舎出て行きたいという人が多かったのである
だからかえって原発事故で補償金もらってチャンスとなって出て行って帰ってこないのである
そういう人は最初から田舎に住むべきではなかったのである
そういう人たちが住んでいるとまた何か原発事故とかこんなしょぼい田舎に住んでなにいいことあるんだとかなんとか不満があり原発を作れとなる、現実に大熊町長は原発再稼働を望んでいるからでる
要するにそういう人達が多いから町長もそうなるのである
田舎に住んでいてもむしろ都会にもともと住むべき人たちが田舎に住んでいることが問題なのである
もし都会でもこのように強い田舎志向がある人達が住んでいれば原発は作れないからだ
そういう人は都会的な文明的なぜいたく志向がないからである
何かそういうことを原発事故で考えさせられたのである



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2019年07月01日

銀行の歴史をふりかえり新しい銀行はどうなるのかを考える


  銀行の歴史をふりかえり新しい銀行はどうなるのかを考える
  
  「生糸から軍艦が生まれる」というほど製糸産業は重要であった。生糸の生産・流通は、養蚕農家からの繭の購入、選繭・煮繭・繰繭・揚返による製糸、生糸の倉庫への保管と横浜・神戸への運搬、海外への輸出というプロセスを辿るが、このそれぞれの過程でファイナンスが必要であった。これに対し、ある地方銀行は、智恵を絞り、繭・生糸・不動産を担保に、当座貸越や手形貸付の形態で製糸会社に資金を供給したそうだ。

徳島は銀行の歴史も藍商人から


頼母子講や無尽などの考察

「無尽」の行為自体に関する法律は現在まで存在しない。
石川県加賀市の特に山中温泉地区、山代温泉地区では預金講(「よきんこ」と呼ばれる)という無尽が今も盛んである。これは蓮如が信者に講を勧めたことの名残りとされるが、現在では浄土真宗の信仰とは無関係である。特にこの地域で無尽が発達した理由には零細な旅館業者や山中塗の問屋、個人事業主である職人が多かったことから、金融機関に頼らずに相互に金を融通しあう組織が必要とされたことが大きいとされる


銀行は預金者からお金を集め
それを人に貸すと言う点では
一見すると
「頼母子講」の仕組みと似ていますが 

お金を集めている団体が 
営利を目的としている点で
大きく異なります  

集団的な知恵と工夫の産物として成立・発展したと考えられる。 これをソーシャル・ビジネスに当てはめると, その成立・発展において重要な要素は, 個性的な起業家だけでなく 地域社会などを基盤とした集団的な知恵や工夫であると思われる。

無尽・頼母子講

銀行の危機というとき銀行がそもそも何か?それがわからないと対処できない
近代的銀行の前にその前進となるものは鎌倉時代からでもあったからだ
金貸しというのは古い時代から存在していたのである
貸すとか借りるということは古い時代からあった、人間のやりとりでもモノとモノを交換することがあった、その交換から貨幣が必然的に生まれてきた
ただ貨幣の発生はそれだけではないからそれは仮設であり貨幣の発生は交換するためではない、貨幣そのものが石の貨幣のように価値がある威信財だったという説もある

なぜ銀行とか金融がわかりにくいのか?
それが経済的行為が抽象化されてきたためである、抽象化というときそもそも文字が抽象化の最たるものでありまた数字でもそうである
楔形文字時代に一つとあるがその一つとは必ず何かの物と対応されていたのである
具体的なものだありそれが一つであり二あれば二つが対応する
それを数として抽象化することには相当な歳月を要している
それだけ抽象化ということは高度な知能の進歩だったのである
それでエジプトの書記が神のような権威と力をもったことも理解できる
小麦でもその数量を把握することで力を持ったとなる
今なら官僚が膨大な生産物を数量化して予算として貨幣で配分するから力をもつ
年金でも税金として莫大な金を集めてその金を官僚がネコババしているとか言われるのもそのこためである、官僚の取り分になってもその数字を操作できるからそうなっている
財務省でもそうである、その莫大な国民の税金がどう使われているのかわかりにくいからである

銀行がなぜ今危機になっているのか?
それを歴史からふりかえると銀行はそもそも明治以降は零細な個人事業者ではない
江戸時代は個々人が零細な事業者である、明治以降は会社組織になったから規模が大きくなった、だから金の額が大きくなる、それで頼母子講のように少額の金を流通するようなものでは金が回らないから銀行が生まれた
四国では藍の産業が交流して全国に売れた、福島県の須賀川まで販路を伸ばした
生糸産業は「生糸から軍艦が生まれる」というのはまさにそうだった
今でも兜作りの養蚕の家が全国いたるところにある
養蚕が国を作っていたのである、原町の原町紡績は有名である
私の母もそこで十年間糸取りとして働いていた、女性の働き場としてもあった

それが鉄道とも関係していたのである、原町紡績に鉄道の引き込み線があり生糸が横浜まで積みだされていたのである、横浜からアメリカに輸出されていたのである

1929年アメリカから広がった世界恐慌により生糸が売れなくなりました。さらに、1940年には生糸の最大の輸出先のアメリカで、生糸に代わってナイロンが使われるようになりました。その後、低価格で大量生産ができるさまざまな化学繊維が開発されるようになりました。

私の母の実家は原町であり原町紡績で十年間働きどうしてか姉は家の事情で横浜に行った姉も紡績工場で働いていたのか?そして父親は機織り工場を失敗して悲惨な結果になったのである
ここで言いたいことはそれだけ養蚕にかかわる人が多かった

早くから蚕糸業が発達していたのは、なんといっても奥州(福島県)の信達地方(福島市、伊達郡)でした。すでに江戸時代初期から桑や蚕の新品種が吟味され、 天和 年間(一六八一〜八四)から 元禄 年間(一六八八〜一七〇四)には、「 赤熟 」や「 市平」といった蚕の新品種が選び出されています。これは明治期に至っても使用されました。上州(群馬県)では、十七世紀にすでに各地で生糸市が開かれていますが、元禄年間以降、近江商人の進出が活発になり、「登せ糸」が送られるようになりました。さらに信州(長野県)では、上田地方がもっとも進んだ地方であり、 寛文年間(一六六一〜七三)には、藩が問屋から 紬(上田紬)を買い上げており、すでにこちで絹織物業がある程度展開されていたことがわかります。

江戸時代から素地があった、信州とか関東とか東北の阿武隈高原地域とかが盛んだった
とにかく兜作りの家が多いのである 
それで養蚕で財を築いた店の中に銀行が置かれていた映像を見たことがある
つまり銀行とは頼母子講のように個々人の零細な人たちのものではなくこうして大きな事業をして成功した人が作るようになった
それは四国の藍でもそうである、鉄道ができたことにより全国展開できるようになったからである、交通の発達によりそうした地域の産物でも全国に売れるようになりそこで財を築くようになったのである、商品化するのは交通が発達しないとできないのである
いくらいいもものを作ってもそれを売るには交通が発達しないとできないからだ

銀行の起源は近代になるとこうして大きな利益をあげた会社組織が銀行を作った
それでさらに別な事業資金として投資された、だから銀行というのはこうして新たな起業があるとき資金が必要でありそのために設立されたのである
今でもクラウドファンディングがそうである
これは個々人が個人の起業に金を出す仕組みであり小規模なものでありそれをインタ−ネットが可能にしたのである、それは江戸時代の頼母子講とか無尽とにている
ただ投資してもその見返りが期待できない場合があるから寄付金ともなる

銀行というときこうしてまた江戸時代のようなものに回帰してゆくことがある
歴史が逆戻りするということがある、でも歴史は繰り返すといっても同じにはならない
インタ−ネットが生まれてそういうことが可能になったからである
それは藍の産業でも生糸でも交通が発達して商品として全国に外国に売れるようになったのとにている

こうして歴史をふりかえると銀行の役割とは何なのか?
藍の産業でも生糸の産業でもそこで資本が蓄積されてその資本を基にまた他の事業を展開するために銀行が生まれたとなる
銀行には両替とか金貸しとかの旧来の機能もあるが本質的には何か新たな事業を起こすときに資金を提供してその見返りとしてその利益の分配を受けるとなる
その資金はもともとは藍の産業でも生糸の産業でもそこでもうけたもので資本蓄積して次の事業に投資したとなる
その時一般人から貯金を集めるということはなかった
それが一般人から貯金として集めるということは実はその金を基にして地元であれ事業者に投資してその見返りとして利益分配を受けて利子として預貯金者に返すという仕組みだったのである

とういことは実は銀行に貯金することは預金者は利子をもらうことしか意識していないか銀行にあずけることは投資することなのである
銀行にあづけて利子をもらうということ自体がそういうことになっているからである
実際に利子もつかないとしたら別に銀行にあづける必要もない、貸金庫が銀行の役割となりそれは銀行でなくてもできる、銀行の仕事はそれより高度なものである
それで銀行自体が事業を起こすとういことも起きてくる
それだけの金があるのだから自ら事業を起こすのは合理的だとなるからだ
でもそれができていないのは事業で成功することが至難だからである

小規模なものになると20人起業して一人しか成功しないとなっているからである
こうして銀行を考えてみると銀行が優秀というより事業を起こして成功する人の方が優秀だしそういう人がいなければ銀行も成り立たないとなる
高度成長時代は別に優秀な人でなくても条件が良くてみんな成功していた
だから銀行も利益の配分を受けて預金しているだけで高い利子がついていたのである
それでそういう経験している人は銀行は信用されていたのである
それで投資信託をすすめられたばあちゃんが2000万損したという時銀行が時代の変化で変わったということを知らなかったのである、それは自分自身もそうだったのである
何か急速に時代が変わるらか追いつけなくなったのである

ここで自分が探求しているのは銀行とはどううい存在だったのか歴史をふりかえって考えたのである
明治時代とかは藍の産業とか生糸で儲けた会社が銀行を設立した
それから銀行は一般の人から金を集めて事業者にその金を貸して事業を推進させる、成功させてその見返りとして利益配分を受ける、その利益を今度は利子として預貯金者に配分していたのである
だから地銀というときその地域地域にあり地域から金を集めて資本金としてそれを事業者に貸して見返りとして利益配分を受けて預貯金者に利子として配分していた
その株主は地域の人たちなのである、それがメガバンクなととの相違である
それは信用組合とかでも地域に根ざした金融機関なのである
株主は地域の人たちだからである

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だからこういうことを言うのもわかる、大企業は別に地元の人が株主ではない、グロ−バル化経済になると世界の人が株主になっていて利益配分される
メガバンクとかも地域の人たちが株主ではない、全国の人であり外国の人も株主になりうる、それで会社自体がグロ−バル化すると外国の株主にのっとられるとかなる
そういうことが地銀とかではあってはならないものとして設立された
つまり地銀の目的とか設立趣旨はそうしたグロ−バルに展開するものとは違っている
でも現実にはグロ−バル化社会になるとその要請が強くなる
それで大東銀行ではブラジルに支店を置くとかしたのはブラジル人が日本から送金するからである、それはブラジル人も福島県で働いているからだとなる
どうしてもグロ−バル化しているからそこに商機が生まれとなる

ともかく銀行でも時代の変化に対応できない、銀行の形態が変わるという時、それにどう対応していいかのか?それが見えない、そこで当座の利益獲得として投資信託とか株を売りつけるようになったのである
それは本来の地域経済から離れたものとなる、ても利益を出せないということでそうなる何か利益をあげるにしても実際は利益を出すということが現代ではむずかしい

自分自身でも小さな畑を荒地にしておくよりいいからと援助したってその人は70近くで体が悪いし畑をうなうにも人を頼んだり種から肥料から必ず作物が盗まれたとかブヨに食われたとか草が生えて根が深いからとりようがないとか延々と文句を聞いているだけでありそれで投資して得たものはキュウリ二三本と数個の野菜だげである
それで実際投資している額が十万とかなったら一本一万以上しているともなるのだ
そんなこと普通は続かない、ただ荒地にしておくよりはいいとしても利益などでない
それよりそこで利益を出すとういことは全くありえない、相当な赤字でありつづけられなくなる

現代は高度成長時代でないから何かそうして投資してもうけるとうことが至難になっているのだ、だからこそもう銀行は用がないとなる、それは会社としてもそんな零細なものではない、それなりに小規模でも中小企業でも社員が5人以上はいるとかのものである
5人いても給料を払うとなるとそれだけの利益を出さなければならないからだ
第一もう資本主義が成り立たないという時代ともなっている
何か投資でも飽和状態になっている、投資先がないとかなっている
こういう時代は今までの何でも発展するとか成長するとか量の拡大路線は無理になる
それで中世に還るとか江戸時代に還るとかなるというときそこでは小規模な個々人の起業だからである

それで個人がインタ−ネットでクラウドファンディングしているのがまさにそうなのである、そんなところに銀行では金を貸さないからである
まず利益配分が得られないからである、でも銀行はそういうことでもう必要ないともなる時代になる、ただ何か新しいビジネスを開拓できるのか?
それはなかなか自分のような素人にはわからないが歴史をふりかえると銀行とは何かが見えてくるのもがやはりあったから歴史の勉強は欠かせないのである




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地方銀行の危機 (週刊ダイヤモンドの記事をまとめる)


地方銀行の危機

(週刊ダイヤモンドの記事をまとめる)

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銀行だと堅い仕事であり地方ではエリートで安定して評価も高かった
それでこの辺で東邦銀行に孫が就職したと自慢する人がいたのもわかる
地方では大企業などないから公務員と農協職員とか銀行とかに就職すればエリートとなっていたのである、ともかく倒産するこどなどないからである
そこで地方で結婚して安定した生活ができる
正直地方で田舎で生活するにはもともと資産がないと生活しにくいのである
東京と違って底辺だと目立つのである、だから肩身が狭い思いをするのである

自分自身も銀行というとき何か堅い職業で安定していると見ていた
実際私は銀行についてわからない、何か職業で一番わかりにくいのが金融関係なのであるそこで株などしていると世界情勢とかが関係してくる
するとそんな話になるとこれは相当な知識が必要になりその他いろいろな専門知識が必要でありわからなくなる
だから株などに手を出すなとなる、そもそもわからないからである

それで私は金融のプロですからまかせてくださいと地銀の営業の人が言うからまかせたのである、第一株をするにしても投資信託でもどんな銘柄がいいかなどわからないからだ
株式をいつも見ているわけにもいかないからである
だからこそプロにまかせるのである
でも地銀は投資信託のことはほとんど素人だったのである
その素人がすすめているのだから儲かるわけがないのである
地銀は証券会社からすすめられるのを適当に選んで売りつけるだけである
あとは野となれ山となれ投資信託だと確実に手数料がはいる、売ったり買ったりするとさらに手数料が入る
どこかの会社に投資して失敗して損することなど絶対にないおいしい商売なのである

それで私が悔しい思いをしたのはリーマンショックのとき半分になった株をもっていた
それをちょうど元の値段に回復したとき投資信託に勝手にまわして損したのである
そのままにしていれば株が上がりかなりの収益を得たのである
それ以来銀行は信用していない、銀行はそもそも窮地に追い込まれていたから何でもいい客のことなどどうでもいいと投資信託を売りつけるようになった
それで2000千万とか銀行を信用して損したばあちゃんがいた
詐欺と変わりなかったのである

追い詰められた人間は会社でも何でもする、悪いこともなにもなくなる

このことを何度も書いてきた、そういう追い詰められた人たちが自分の介護と病気の時に来てひどいめにあったことを書いてきた
その一つにまた加わったのが銀行だったのである
それは意外なことだったのである

何か銀行はこの辺で原発事故などで多額の補償金が入って金が銀行に貯金されたと思ったがそうではなかった、会社でもその補償金は銀行に回らずに使われていたのである
ただ銀行の仕事は何なのか良くからない、地銀とか信用組合になると地元の経済に貢献する、会社を育てるとか地域のために金を集めて経済を活性化するものとみる
それが高度成長時代ならうまくいって貯金していると倍にもなったのである
今は全然違う、利子はつかない、投資信託を売りつけられて損するとしかない
地域にも貢献しないから地銀は不要だとなる
金でももう銀行で出し入れしないとかIT化してゆき苦境になる

つまり銀行の苦境は日本の経済の苦境でありさらに地域経済の苦境なのである
ゾンビ企業が地方に多いというときもそうである
そういう企業とかかわっても銀行はリスクになるだけで利益をあげられないのである
つまり地銀が危機になるということはまた地域の経済も危機となる
それはまた日本全体の経済の危機となってゆき日本が貧困化してゆくことなのである

そして金をもっているのは株でも投資しているのは70代とかなる、老人が金融資産をもっているからそこで狙われてすすめられているのである
そして自分のように損したりする、それも高齢化社会である
つまり銀行はやがてそうした金融資産をもっている老人もいなくなり貯金する人もいなくなるともなる
その金融資産が東京に住んでいる子供に相続されるから地銀などに回らなくなるとか言っている

いづれにしろ銀行とは何なのか?銀行の役目は何なのか?
それは地銀なら地域の経済に貢献することである
その集めた資金は地域のために使うのは基本にある
そうなら銀行に預けてもうけがさほど出ないにしろその金は有効だったとなる
自分自身が相馬郷土史研究とかのプログの趣旨も地域に報道関係で学問であれ芸術であれ貢献するという趣旨があるからである
そこで地銀というのもそこで関連しているとはなる
ただそうはいっても自分の場合はその影響は微々たるものであり認められていない
ただそういう趣旨があってプログで伝い書きつづけているとはなる
だから何か会社でもただ利益を出すということではなくその前に社会に貢献するという趣旨があり成り立つ、それがなくなりただ金を集めてその金を地域に還元しないとなれば何なのだとなってしまうのである

ダイヤモンドに書かれた記事をまとめてみた

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ゾンビ企業が多いということは銀行でそういう会社に資金援助しても還ってこないということである
それだけ地方で起業でももうからない、利益が出せない時代である
そのゾンビ企業を整理しなければならない、そういう厳しい時代になっている


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地銀の「地元」とは株主は必ずしもイコールではなき、そこに地元のために
ということと矛盾が生じる



ここに福島銀行と大東銀行がでている、この二つの銀行は危機であり合併するとか言われるが両方とも収益が全国レベルでもワースト10に入っている、だから合併するメリットがないとしている
福島県で残るのは東邦銀行だけだとしている、そして70代とかの人に投資をすすめるのは金融庁ではいましめている
投資というのは長い期間で見ないと損得がわからないのである
それでリーマンショックのときもっていた株が半分から元にもどりさらに上がった額が大きかった
それが地銀によって損させられたのである、それはとりもなおさず地銀が追い詰められていたからである
こういうふうに追い詰められた個人でも会社でもそうなると恥も外聞もなくなる
なんとか会社を維持するために何でもすることになるから危険なのである

そういうことで自分がどれほど被害にあってきたか書いてきた
自分の家が大金は盗まれるは借金は要求されるわ、弱った時責められつづけたからである
今でも困窮者の一人に要求されている、そういうことは日本の貧困化とか地域の衰退がこれからもっとひどくなる
老人の金融資産も取り崩すので貯金もへって銀行には回らなくなる
そしてこの辺では10年間の震災の国の援助が終わる、その時財政的に相当追い詰められるとしている
だからそうして追い詰められると周りの人にも影響が大きいのである
田舎では地方では東京のようにはならない、金をもっていれば目立つし危険な状態になるから安心して暮らせなくなる
そして地方だけではない日本全体が治安が悪くなる、とにかく追い詰められた人間は本当に怖いからである
そういう人か巷にあふれたら今日食べるものがないとわずかの金でも殺されるという恐怖社会になる
その時裕福な人でも安閑とはしていなられない社会になる、だから富裕層でも格差社会は危険だから真剣に対策しないとその危険が自分のように及んでくることを覚悟しなければならないのである


posted by 老鶯 at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年06月27日

一千万人が消費者金融を利用(見えない現代の貧困)


一千万人が消費者金融を利用(見えない現代の貧困)   




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これも衝撃である、一千万人が消費者金融を利用している?
貯金ない人がこんなにいる
でもなかなか日本人が貧乏だとは見えない?

要するには今の貧乏と昔の貧乏は違っている
昔の貧乏は貧乏に見えるしみんな貧乏だった
今の貧乏はレベルが高い暮らしを維持するための貧乏になった

クーラーを設置するからなんやかにやと金がたりないとなる
全部福祉でもしてくれないからだ
最近暑くてクーラーがないと死ぬこともあるから必要になる
でも昔はクーラーなどなかった
トイレも外のトイレで農家の人が汲み取りにきて無料でもっていってくれた
水道はなく水は近くの井戸あるところからもらっていた
家には飯台一つしかなく裸電球一つだったとかなる
自転車は一台でそれを修理して新しいものを買うことはなかった
こういうことをあげればきりがなくなる
乞食もいたから貧乏が見えていたのである、今でも後進国ではそういう生活をしている

現代の貧乏はまず電気代水道代携帯代、スマホ大、車代、クーラー代とかそういう基本料金にかかる、そこからして貧乏になると家計に負担になってくる
教育費でもかかる、つまりそもそもレベルの高い生活をしているから貧乏になると一段と苦しくなる
そして回りでもみんなそういう生活しているからまわりに合わせる必要がある
でも現実貧乏になればクーラーがある生活すら携帯をもつことすらできないのである

すると結局どうなるのか?

消費者金融から借りることになる、そしてその利子が馬鹿高いからさらに追い詰められるとなる
確かに福祉から借りられるにしても手続きがめんどうだからあまり利用しないとなる

何かおかしいのは事業を失敗して経済的に苦しいのにそれを隠している
車もいい車に乗って夫婦で一台づつ車を持っている
その人は別に事業に失敗したとは見られていない
平均より上の暮らしをつづけていたのである
それで自分が病気とか介護になった時借金を要求しやすいからしてきた

その人が本当に昔のように貧乏で食うものがないというものではない
だから今日食べるものがないから助けてくれとは言わないしそんな貧乏とは違うのである依然としてハイレベルの生活をするために借金を要求してくるのである
それも事業に失敗したからその額は大きくなる
でもその人が外から見たら成功した人として見られているのである

そんな人とつきあったらどうなるのか?
多額の借金を成功した人としての生活を維持させるために要求されるのである
その人は別に最低限の生活には困らないのである
ただ事業に成功した人としての外分を保つために金が必要だとうして借金している
また借金でもギャンブルして借金している人も多いと思ったがここの報告では意外と少ない
となると現実に日本は本当は貧困化している
でも依然としてこれまでのレベルの文化的生活するためにそうなっているのである

自分自身の生活費でも他者に援助しなければ13万あれば間に合う
そして計算して不思議たったのは一か月の生活費を例えば月20万として

それを5日のばすと5×12=60日になる

一日の生活費は200000÷30=6666

二か月延ばすと60日になる

6666×60=199980

一年で約20万節約となる、この額が大きいのである

20万を10日のばすとその倍になるから40万一年で節約になる

この計算が何かピントこないのである
でも間違っていると思えないのである
時間の長さで金が節約されているとなるしまた時間の関係で利子でもそれが積もり積もれば高くなるということがある
ただ人間は一年間隔で金の計算でもなんでもしていないのである
人間は長い時間で計算することができない

それで人間は時間を一番無駄にしている!

つまり人間の時間は限られている、何をするにもそうである、何かスキルを身につけるにも必ず時間がかかる、そして時間は平等に与えられている
天才でも金持ちでも時間は平等である
ただ時間を活かせないのである
天才でも膨大な知識がありすべてに精通することなどできないのである
だから凡人でも知識でも何でも積み重ねれば最後にその道の達人になったり専門家になれるのである

金の問題でも長い時間で計ることができない、ただ金というのは人生でも何か計算が必ずはずれる、常に人生でもリスクがあり計算が狂うのである
ただ時間で積み重ねることで最後に実りがあることは確かである
ギャンブルのように大金が入ることはまれである
特に何か知識とか趣味とか心を豊かにするものは日ごろの積み重ねで実りとなる
ただ語学でも何か学び方が悪いとモノにならない
時間を有効に使う方法がありただ時間だけかけても上達しないのである

いづれにしろこれだけ貯金がないとか消費者金融に金を借りている日本は本当に貧困化している、その無理がいつか表面に出てくる、その時どうなるのか?
氷河期世代とかが非正規の人たちが大量に生活保護になるとか団塊の世代が75歳になり病気や介護になるとか負担が増えてどうなるのか?
現実にその人は氷河期世代で非正規であり青森の施設に親を入れているが何かと必要なものがあり金を請求されて困っているというのもそうである
親は貧乏であり福祉となると頼る者もいないから苦しいとなる
それがさらに全国的に極端化するのが氷河期とか非正規が60歳になる頃である
年金ももらえない人があふれる、今でも国民年金だと4,5万しかもらえない人が結構いるのである
今になり年金が大事だったとつくづく思う、なぜなら年金は死ぬまでもらえることが強みなのである、それで死ぬまで保証されるからである

posted by 老鶯 at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年06月26日

グローバル化の波が押し寄せている「日本社会の現状」と「英語の必要性」について


グローバル化の波が押し寄せている「日本社会の現状」と「英語の必要性」について


Love & Freedomからの疑問

外国人スタッフが言う
日本人は何もどうせ何も買わない、たいしたものは買わない、接客する必要がない
ツアー客の外国人が次から次と買うのを見る

外国人が底辺労働者を見ている、腰が曲がっている老人でも働いている
日本の現状を外国人は知っている

外国人労働者が地方でも増えてくる

多文化共生が好きである、刺激的である

日本人が日本語がなくなり日本の歴史も文化も消失してゆく

英語が共通語にてってゆく、日本語を学んでも意味がない
日本語を学んでも役にたたない

日本が委縮していることを知っている、日本語を勉強しても他の国で働けない

外国人は日本にずっといるわけではない、今円が強いからいるだけ・・

外国人が集まって蚊帳の外に出されるないように英語を勉強する

日本政府は団塊ジュニアを救わない、日本は老人が増えるだけ



ここで疑問なのはそんなに英語をベトナム人とか中国人とか話しているのか?
ネバール人のガイドは英語を使っている、でもネパール人全部が英語を話せけるわけではない
ただ東南アジアはイギリスの植民地になったので英語を話す人が多い
だからネパールでガイドが英語を話せるから商売になる
英語が話せるということは英語を使う国が多いのだから役立つ
日本語覚えてもそこでは役にたたないのである
ただ翻訳アプリなどではめんどうくさくて通じにくいと言っている
確かにスマホの翻訳アプリを駅の高校生の見守り役が中国人に説明していた
でもなかなかめんどうになることは確かである

自分の失敗はもっと早く外国に行って実際に英語で話ししてみるべきだった
英語の勉強の仕方も悪かった、今ならインタ−ネットとかあるから勉強しやすい
それで外国旅行したときは英語をしゃべったこともないのに結構しゃべった
それで英語が通じたということは役に立ったという経験をしたのである
でなければほとんど英語を使わないから英語を勉強する気がなくなる
今は海外旅行にも国内旅行もここ十年は介護でしていない
そうなると駅でフランス人が来たのだが英語で案内しようとしたが英語が出てこないのである

ただ正直この人がなぜこれほど英語にこだわるのかということがわからない
みんなそんなに英語を使っているのか?
第一底辺労働者自体が肉体労働派が多いだろう
ただフィリンピンから来た肉体労働者は大学卒だったとかあり仕事がないので出稼ぎに来ている人はいるが一般的に知的な仕事をしている人たちではないだろう
だからそんなに英語が必要なのかともなる
かたことの日本語でもしゃべって建築現場などでは通じているというからだ

多文化共生というとき自分自身も何か外国に興味があり文化的交流ならしたいとなる
でも底辺労働者はそういう人達ではない、日本で日本円が欲しいというだけである
日本の文化とか歴史に別に興味あるからきているのではない
フランス人の小学校の教師は日本の歴史と文化に興味があってきていた
多から野馬追いとか平泉まで行こうとしていたのである
ただそこでわずかな時間でありコミ二ケーションはできなかった

とにかく多文化共生というとき外国に観光旅行する人にはありえる、観光ならありえる
自分自身も特にヨ−ロッパに興味をもっていた、そこの歴史に興味をもっていた
それで帰ってからも勉強して詩にしたりしている
でも日本に来る底辺労働者の目的は円が欲しいというだけであり文化的なことに興味がないのである、またそんなことても得にならないから英語を使った方が世界で通用するとなるから英語を使う

ここでの問題はそういう人たちは日本人になる気はない、一時的に滞在して円をかせぎたいというだけである、そういう人達である
ただ近くのホンダで働くネパールの人は長く日本にいるから妻を日本に呼び永住権があるから日本人になるのかとなる

●つまり日本人になるというときやはり英語より日本語を覚える、それは強制される

●一方で円を欲しくて帰る人は日本語などむずかしいから覚える必要がないとなる

永住して日本人になる人と一時的に滞在する人と分けることが必要なのかとなる

一時的に滞在する人は日本の円が強いから働く、でも日本が衰退することを知っているから永住する気はないとしている

でも日本人なら衰退してもここで生きてゆくほかないのである
ただ日本人もそうなると外国に出稼ぎに行き日本に来た外国人と同じ待遇になるのであるそれもカルマだとなる、つまりいつまでもどこの国でも優位に立つことはできないのである
アメリカだって今やもう中国と対等であり中国に負ける
そして日本からも撤退するとしている、そういう力関係も変わるからである
中国があれほど強気になれるのはやはりアメリカがどういう状態にあるか知っているからだろう
結局国々でもせめぎ合い興亡があり変わるのである
いつまでも栄える国もないのである、だからアメリカが衰退する、日本も一時興隆して衰退するというのも宿命だともなる
ただ日本が良かったのは高度成長時代の二十年くらいだったとなる
それも短い時間でありはかなかったともなる



外国人労働者の増加で職場・生活はどう変わる?】第19回:国際競争力をつけるには、
日本語を話せるグローバル人材より英語を話せる日本人を育てるべき

英語についてはいろいろ意見があるけど日本人が英語が苦手なのはもともと英語を使う相手がいないからである、しゃべる機会がほとんどないからである
英語をしゃべる機会がふえればまた必要性があれば庶民でも覚える
それで印象的だったのは長野県の宿のおばさんが外国人とだきあってまた来てくれと言っていたことである
それは嫌なことでも日本が貧乏になるとそうなるのである
奴隷化にもされるのがグロ−バル化なのである
食べるために英語だって覚えるし嫌なことでも外国人にこびることでもする
でも普通は英語は使わないから使わないと忘れてしまうのである

学問的にとか文化的にとか芸術的にとか英語とか語学を追求しているのはまた別だからである
グロ−バル化とは一部のそうした知的エリートとかのものではなん庶民まで及んでくるのがグロ−バル化なのである

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2019年06月25日

中国人がベトナム人の人材派遣を請け負う (日本の底辺と外国人労働者が競う時代に・・)


中国人がベトナム人の人材派遣を請け負う

(日本の底辺と外国人労働者が競う時代に・・)

ベトナムでは外資系企業が人材派遣会社を経営することはできないが、中国の送り出し機関の関係者が裏で関わる形で日本への送り出しビジネスが始まったという。

中国の送り出し機関が持ち込んだのは、日本の受け入れ機関とのネットワークや単純な人材派遣のノウハウだけではない。

「中国で行われていた日本の受け入れ機関へのキックバックや過剰な接待がベトナムにも引き継がれています。技能実習生の増加とともにベトナムの送り出し機関が乱立して競争も激しくなり、営業攻勢が強くなっています」(同前)

駅で見たのはベトナム人を引率する中国人だった、なぜ中国人なのか?
その解答がここにあった、中国人が斡旋していたのである
中国人が仲介業になっていたのである

カンボジアでも中国人が百万人いるというときもうそこはカンボジアなのか?
いかに中国人がいたるところに増殖するかわかる
カンボジアはもう中国人がビジネスでも支配する国になっている
やがて国自体を中国人が牛耳るようになる
そうなっている国もある、それだけ中国の影響が拡大して増大したのである

確かにこれまでは欧米中心のグロ−バル化だった、今でもそういうことは継続されているしかしそうしたことも米中の貿易戦争となり中国の存在がこれから増してくる
ヨ−ロッパでもイタリアが中国の一帯一路の中に組み入れられるとかになる
それだけどこにも中国人が世界中を跋扈する、もともと中国人は数が多いのだからそういうことがあった、でも今はそうした底辺労働者ではない、ベトナム人を日本で労働者として斡旋しているのは中国人だというときもそうである

それで底辺労働者のLove & Freedomのyoutubeでも深夜の労働現場はもう外国人だらけであり日本人が入り込めない、コミ二ケーションがとれないと訴えている
日本語が通じない世界になっている、そこで日本人は排除される
だから英語を使ってコミ二ケーションをとるほかないとしている
それはさしせまったことであり英語を実用化することなのである
その英語もあくまでも高度なものでなくて簡単な支持を英語でできるレベルだという

これは実体験の報告でありリアルである、youtubeにはそうした実体験から語るから
リアルなものとなりマスコミの報道とは違っている
第一マスコミの人は学者でもそういう実体験から語っているのではない、論議もしないからである、上からの目線で語り論議するだけだからである
だから切実な訴えとはならないのである
また一つ明らかにyoutubeで報道の変化が起きている
ただこれもなかなか最初は理解しにくいものだった
ただ今やマスコミとyoutubeが対比して見られるということで大きな変化になった
youtubeはテキストよりわかりやすいから見る人も多いのである

結局マスコミは媒介するもメデアである、でも発言する人自体がメデアをもったのがインタ−ネットであゃyoutubeとかである、媒介するものはいらなくなったのである
そこに生々しい真実が暴露されることがある、直接医者が裏側を語る人もいる
それはマスコミで語られないものである
それで実態が赤裸々に明るみ出さされる、つまりどこで仕事していてもそこで仕事している人が一番詳しいのである、だからその現場をそのまま伝えれば驚きとなる

この辺では最初は福装(裁縫)に中国人が来ていて今も継続して来ている
そして今はベトナム人とネパール人が来ている
とにかくベトナム人とネパール人は増えた、ここはまだ貧しいからである
ネパールは最底辺国である、山ばかりなのだからそこで何を食べているのかわからなかった、ベトナムだったら二毛作で米をとれているから食料に困るとは見えない
平地も多い、ネパールは平地がない、山ばかりだとしたらどうしても耕地でも奴の斜面とかになる、だから山ばかりで土地を活かせないのである
ただそうはいってもペルーのインカでも山ばかりでも高地でも高度な文明を作った
ただネパールの不思議は熱帯のジャングルがあり象がいてサイがいてトラまでいる
ワニもいた、これもここがいかに原始的な状態がまだあるかということである
だから裸足て山岳地帯を歩く人がいたのである

いづれにしろそうして外国人が来るときその国自体に興味をもつ、その国の自然とか文化でも興味をもつ、だから外国人そのものがヒトが入って生活するとなるとモノが入るだけのグロ−バリゼーションとは違ったものになるのである
人と人の交流になりそこに軋轢も生れるし相互理解も生れる
ただ底辺労働者が入る単純労働者はそうした文化的交流とは別なのかもしれない
中国だったら奈良時代に唐まで行ったのはあくまでも文化交流である
そこで学んで漢字を取り入れたことが最大の交流だったのである
だから今の外国人労働者が入ってくるのとは違っていたのである
ヒトが他国に大量に入れる時は奴隷である、戦争に負けたら奴隷にされる
それでスラブとは奴隷の意味である、その後も黒人が奴隷とされた
まずそうした人たちに同等の権利を与えることはなかったのである

だからこれだけの人間が自由に国に関係なく移民化する時代はなかった
日本でも歴史でも経験していないのである
だから外国人労働者を奴隷として扱うこともできない、欧米のような奴隷化する歴史もないからである
日本人は召使でも平等に扱う家族のように扱うとかなり使うことができないとなっているからだ、そういう文化がないからである
つまり外国人をどうあつかうか?その経験も歴史的にもないからとまどうのである
それはモノが入ってくるのとは全く違ったものになるからである
それでつくづくネパールで外国人をカースト化するのもわかる
日本人もカースト化されているのだ

日本だと中国が外国人ではアジア人では一番上のカーストになっている、欧米人はもともと一番上のクラスだった、アジア人では韓国在日ー中国人ー台湾人ーベトナム人ーネパール人とかなる、人種が混交するとそういうふうになりやすいのである
ただ日本が貧困化するとそのカーストの順位が下がりやがて外国人の奴隷にもなる
なぜなら日本人はもう外国に出稼ぎに行く時が来ると言っている人がいるからだ
そういうことが外国人労働者の底辺に起きている報告がLove & Freedomのyoutubeで成されている、日本語が通じないという、日本人は外国人グループから排除される
つまり外国人労働者の下位に置かれるとまでなりつつある、そうした競争が強いられるのがグロ−バル化した世界だとなるのである

種子島の鉄砲伝来でも中国人がポルトガル人の通訳に

100人ほどの南蛮(ポルトガル)商人の乗った一隻の船が強風により漂着した。代官より報せを受けた島主の種子島時堯(ときたか)はこれを赤尾木湊に曳航させ船主と会ったところ、乗組員の中にいた商人が見慣れぬ鉄の棒(鉄炮)を持っているのを見つけた。
 言葉は通じなかったが、これが欲しくなった時堯は乗組員の中に五峰という中国人がいたことから彼を通訳として筆談で話を進め、高価にもかかわらず二挺の鉄砲を購入したという。ともあれ、こうして二挺の鉄砲が種子島時堯の手に入り、彼はこれを「稀世の珍宝」として家宝にしたという。これが鉄炮伝来の瞬間であった。

ここでも日本人は中国人と筆談していた、漢字を使えるからそうなったのである
今でも中国に行くと筆談である、皆目発音はわからなかったからだ



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中間層の没落は国家を維持できなくなさせる (国家へ忠誠心がなくなり国も守れくなる)


中間層の没落は国家を維持できなくなさせる

(国家へ忠誠心がなくなり国も守れくなる)


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日本の中間層の没落の方が深刻!

日本は高齢化の度合いがアメリカより大きいのでより深刻
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アメリカでも高齢者の貧困があり65歳以上でも働いている人が増加している
アメリカと日本はにている




1997年をピークに、年収で55万6千円も減少した。給与所得者数を所得階層別にみると、増加しているのは年収2000万円以上のごく一部の高額所得者と、年収500万円以下の層であり、年収500万円〜1000万円の層は減少している。


働きながら生活保護水準以下の収入しかないワーキングプア世帯は、就業者世帯の4・2%から9・7%と2倍にもなった。「貯蓄ゼロ世帯」(2人以上世帯)は30・9%、1997年から2015年の間に3倍に急増した。


アメリカ人の中間層、850万人が退職年齢時に貧困レベルへ?

世界の歴史を振り返った時、空前の繁栄を享受した帝国がほどなく崩壊した背景には、必ずといっていいほど共通した出来事があった。中間層の没落である。古代ギリシャの民主政、ローマ帝国、唐王朝等々、いずれも中間層を没落させたことが衰退、そして滅亡の引き金になった



中間層の没落が国家自体を衰退させる、それがアメリカでも日本でも起きている
中国では経済が上り調子で日本の高度成長時代と同じになった
でも格差が拡大化して同じ問題が起きてくる
分厚い中間層が形成されるとき国は安泰である
それを成したのが高度成長時代の日本だった 
その中間層が没落した時アメリカではトランプ大統領が生まれたのである
日本はなんでもアメリカに追随する、アメリカに起きることは遅れて日本に起きる

中間層の没落はギリシャのポリスでそうだったようにポリスへの忠誠心をなくして貧富の差が増大して傭兵を雇ったりして弱体化する、国家でもそうである

ブドウやオリーブを栽培する農民は、内陸部との貿易で莫大な利益を得られるようになりました。内陸部からギリシャへ穀物や金銭が大量に流入し、それに比例するようにギリシャの各々の都市国家(ポリス)の人口は増えていき、その後の繁栄の基礎を築いていったというわけです



ギリシャは貿易国家であり日本とにていた、高度成長時代は電機製品を輸出することで分厚い中間層が形成されたからである、その中間層がバブルの崩壊で没落して下降する経済になり現在がある
格差社会は国家への忠誠心を喪失させる、それはアメリカでも日本でも同じである
日本は明治維新で侍をなくした、国民国家とした、それで西南戦争は国民国家とするための戦いであり侍階級は廃止された、それは中間層が増大して国民意識が芽生え国家への忠誠心が醸成された

でも戦前の国家意識は国家への忠誠心は経済的要因より対外的な要因から起きた
欧米列強に植民地にされるのを拒否するために起きたのであり経済的要因だけでは語られないだろう、すべてを経済的原因では語られない、なぜなら植民地にされたくないという動機は日本のプライドであり心の問題だからである
アジアの他の国はすべて植民地にされたからである
だから歴史でもすべて経済的なものに原因を求めることはできないのである
個人でもプライドがあり国家にもある、プライドをかけて人間は戦うという歴史観も納得する、そうなると経済的には損失になる、それでもプライドをかけて戦うのが人間だとなる、だからすべて経済的側面からだけで歴史を観ることはできないのである

ただ中間層の没落とか弱体化はポリスでも弱体化したしまた国家でも弱体化する要因になったことは間違いない、一パーセントの富裕層がいてもいくらその人たちが金をもっていても国は守れない、なぜなら南米をみると一パーセントの富裕層がいてもその他は経済が崩壊してホンジュラスとかでは国を捨ててアメリカに移民するために流出しているからである、一パーセントの富裕層がいても国は守れない崩壊するのである

だから現代はグロ−バル化経済になったときその構造は共通して起きる
極端な格差社会になり国家自体が維持できなくなる、国民は国家に忠誠心をもたない
むしろ多国籍企業とかになると国家自体が邪魔になる、もうけるためには国家の障壁をとりはらうことがいいのである、それはただ経済的動機だけで動くことになる社会だからである
国家とは民族のアイディンティティを無視して経済合理性だけを利益だけを追求すればいいとなる、人間はただ経済的ユニットになる、そこに文化とか何か精神的アイディンティティは喪失させる、でも人間はそういうことで生きる価値があるのかともなる
人間はすべて経済的なものだけで生きているわけではないからだ
その矛盾がグロ−バル経済で大きくなっているのだ

いづれにしろ間違いなく中間層が没落するとポリスでもそうだったように国家でも一体感がなくなる
中間層が分厚く存在している時はポリスでも国家でも忠誠心がますが極端な格差社会は国家自体への忠誠心が喪失して他国が攻めてきても誰も国を守ろうともしないだろう
それは何か南米とかの大金持ちが私兵を雇って城塞化しているとにている
そういう私兵は金でやとわれているだけであり傭兵と同じであり金だけの動機しかないからとても守りきれないとなる
最後は主人を裏切って金を奪いばいいとしかなくなる
つまり忠誠心は得られないのである、それは個々人でも金持ちの家で働く召使とかでも起きてくる、どうして忠誠心を得られのか?
現代だったらもう金の関係でしかないというとき、かつては侍でもその家臣でも忠誠心をもっていた、それはそういう社会があったからそうなりえたとなる
何か精神的紐帯があったからありえたとなる

ともかく中間層の没落は国家自体の危機なのである、でもそういうふうにアメリカでも日本でも危機を上層部は感じていないのである
やがて中間層が没落して下層と上層に二分されるとき国家の一体感は喪失してどうなるのか?
そういうときフランス革命とか中国でも革命が起きる、反乱が起きる
そうして少数者の上層階級は襲われて危険な状態になる
そういう革命は歴史でロシアでも起きたしどこでも起きているからである
分厚い中間層が存在すればいくら下層がいても少ないから抑えられるのである
でも下層が増大して格差社会になり階級社会になると国家でも社会でも不安定になり
反乱や革命が起きて国の一体感はなくなり他国から攻められても国を守る意志もなくなるつまり中間層が没落することは国防にとっても危機なのである
ただグロ−バル経済では世界的に起きていることである

世界的な格差社会階級社会が形成されている、グロ−バル経済の中で国家の中でも格差が生じている、グロ−バル経済になるとある所に金融関係でも操作して莫大な富が集中するためである、でもその富が中間層に回らない時、国家自体が弱体化して富裕層も上層部もその富も守れなくなる、なぜなら国家と民族は最後の紐帯であり精神的アイディンティティを持つものだからそれを否定できないからだ
そういうせめぎ合いが世界で起きる
アメリカでもアメリカファーストというときそれは数パーセントの金持ちのためなのか?それを否定して没落する中間層にトランプが訴えたのである
それは国家というのは一パーセントのものが50パーセントの富を得ているとなるともう国家は存在しない、国家とはやはり多数のものでありそんな極一部のもののものではないからである、そんな国家は成り立たないのである
だからこそ中間層の没落はアメリカでも日本でも中国でも危機なのである
それを無視していると国家自体が崩壊してゆくのである


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2019年06月23日

「クルマを捨ててこそ地方は甦る」藤井聡を読む


「クルマを捨ててこそ地方は甦る」藤井聡を読む

この本は私が日ごろ指摘したことだった、そのことをプログに書いてきた
クルマを持っている人は地域に愛着をもたない度合いが大きくなる

鳥や虫の鳴き声を聞くこと
道端に咲く花にふれること
地域の人々とあいさつすること
地域の人々と会話すること

こういう機会がクルマではなくなる、クルマと自然でも人でも交流を遮断するからである一つの閉鎖された空間なのである
それで何度も自転車のことでそのことを言ってきた
最近買った電動自転車で行くのは舗装されていない道である
それも隠された細い丘の間の道だったりする
それで俳句や短歌を作ったりする

ふるさとの小径やあわれスミレかな

ふるさとは小径なのである、そういう道がある所か故郷である
またマウテンバイクだと悪路でも行ける

悪路行くマウテンバイクや夏あざみ

これも自転車で行くから自然と一体化するのである、クルマだったらそういう自然にふれることができないのである
だからクルマはキレル乗り物なのである
自然との親和性もないし人間との親和性もない、キレル乗り物なのである
突然猛スピードで走ってきて去ってゆくキレルの売り物である
自転車は目障りとなり歩行者も目障りであり無視される
「危ない、馬鹿野郎」と言って猛スピード走りさるキレル乗り物である
それが人格まで変えてしまったからあまりにも影響が大きくなりすぎたのである
そして自転車とか歩行者は隅に追いやられて邪魔者にされるようになったのである

地域愛着の薄い人は地域を良くしていこうとする「まちづくり」に無関心となり地域全体に役立つ取り組みが全然すすめられなくなる
「シラケ」気分が蔓延して地域ぐるみの掃除とかまちおこしとか祭りや運動会などの自治体活動必然的に停滞してゆく

クルマ社会は一番身近なものに関心がなくなるのである
駅で案内のボランティアしてそのことがわかった、駅には関心がほとんどない、乗り方もわからなくなっている、でも駅は人々が集う会話したりする広場の役割があった
年齢に関係なくそういう機能があった、それがクルマとは違っていたのである

地域の人は今地域に関心がなくなるというときどうなるのか?
それを原発避難者を例にしてその極端な現象を説明した
もちろん放射能汚染とか政府から強制されたこともある
でもなぜ突然ゴーストタウンになって故郷が捨てられたのだろうかということが疑問だった、人間は代々住んだ場所を簡単に捨てられるものだろうか?
そこに何かしらの葛藤があり何か議論があってもいいはずだった
強制されたことはあるにしてもそんな簡単に街全部が故郷全部から一瞬にして人がいなくなったことの驚きである

それはクルマ社会と多分に関係していた、マイカーマイホームの社会である
ここにマイタウンとかマイシティという視点がないのである
マイカー=マイホームではその他ないのである
するとどうなるのか、マイタウンがないのだからそのままマイカーで外に出ても何の違和感もないとなる、日ごろからそういう生活をしていたからそうなる
もともと田舎でも故郷に長年住んだ所に愛着がなくなっていたのである
そして若い世代はかえって田舎に住むことを不便だとか嫌がっていたからこれ幸いと脱出したとなる、補償金を多額にもらったことでチャンスだともなったのかとなる

ただ田舎に住んでいる人はみんな「脱出願望」をもっている、田舎の人間関係は拘束された窮屈なものだからである、だからどこでも知っている人に出会うから男の場合スーパーに買い物もしないし人に会うことを避けるようになる
そういう脱出願望が田舎では強いのである、自分自身もこういうことを言っても田舎が嫌だから脱出願望があったから旅ばかりしていたとなるその脱出願望をかなえるのに最も適していたものがクルマなのである
一瞬にしてあっというまに外に出れる、それも遠くに出れる乗り物だからであ
だから必ずしもクルマのせいにすべてすることはできないところはある

ただクルマというのは社会自体を人間自体を人格まで変えたから深刻なのである

クルマ社会の中で(家族をふくめたあらゆる)コミニュティを共同体が希薄化して
家族同士、住民同士の「助け合い」様々なレベルのコミニュティが担っていた
老人ケアや保育サービスなどを行政が肩代わりせざるをえない
行政サービスが肥大化せざるをえない

私が前にも指摘したように高齢化で免許を返納が増えると老人が今度は取り残される
それもクルマ社会のカルマだと思った、現代はまさにクルマ社会を生きてきたからであるそれが老人になって裏目になりマイナスとなる、何か人間は必ずいい面と悪い面を技術的なものでももたらすのである、それは原発事故でもそうだった
便利でいいなと思っていてもそれがマイナスに働くようになる
技術は災い(技わい)になる、そういうカルマをもっているのである

そしてクルマ社会は将来にも禍根を残す、子供たちが健全に育たないのである

クルマばかり使って移動している子供はうつ性、不安性、攻撃性が強くなっている

そして恐怖はクルマが健康にも相当影響していた
クルマを利用するのと徒歩自転車の人では病気になる割合が違っていたのである
つまり徒歩とか自転車だと健康度合いが高かったのである
とにかくクルマというのはあらゆる面に影響したのでありそれが技術の怖さだったのである、技術はそれだけ社会を一変させてしまったのである

だから技術は文化を簡単に破壊する怖さをもっていたのである
それが原発事故でもわかった、自然が汚染されてもう人が住めなくなって町自体が住めないようになったからである
だから人間はなんでも便利だから社会に取り入れることは危険だったのである
技術の影響力を考えなかったのである
社会にとってクルマがどう影響するかなど全く考えなかったのである
そういうことは科学技術には常にあるけどなんでも開発される
遂にはロボットにITに人間が支配されてしまうとかもある
科学技術はいいものであり無制限になるときどうなるのか?
それが恐怖なのである、それによって人類も滅びるとういこともある

いづれにしろこの本は自分自身を言いたいことを明確にした本である
ただここでテーマにしているのはこの著者は京都でありまた富山市でも大きな都市でありこの辺の五、六万の都市とは違う、規模が違うからみんなあてはまらない
むしろ五、六万の都市では路面電車とかは作れないから事情が違う
むしろこういう小規模都市はクルマ社会から脱出できないともなる
それに代わる交通網が整備できないからである
それをどうするかとなるとまた別な課題としてある
この著者はクルマ社会をすべて否定しているのではない、高速道路は必要だとしている
まずクルマをすべて否定することは不可能だからである
ただあまりにもクルマ社会になりすぎたことで提案しているのである

経済的にもそうである、クルマを捨ててこそ地方がよみがえるというもの逆説だからである、経済的効果がかえって車なしで生まれという発想はしないからだ
地方の問題がいろいろ言われる、地方を活性化するにはどうすべきかいろいろ言われる
ただクルマを捨ててこそ地方が活性化するというのは斬新だった
そういう発想を普通はしない、でもそれを可能にしているのはかえって東京とか富山市でもある程度の十万万以上の人口があるところだともなる
富山市でも42万の人口があるからできたことなのである
かえって5万くらいだともうどうにもならない、クルマ依存がかえって強くなっているのだ
そして鉄道に関心がないようにこういうことに賛同するのは一パーセントもいるのかとなる、それだけクルマ社会にどっぷりとつかっているからこれを変えることは容易ではないただ高齢化になって老人が困るという時、かえってそれで多少変える機運が出てくるかもしれない、そういう点で高齢化がすべて悪いものとして働くともならないのである
 
 あとがき

市電とか路面電車がこの本で見直されて実際に実現した、何か市電とか路面電車はクルマとちがって人間的なのである
クルマというのは非人間的なものなのである、だからこそ昔からあったコミニュティでも破壊したのである

市電は過去の記憶を刻む
乗り場は駅でありその名に親しむ
老若男女が日々乗り合わせる
我は旅人なれば気楽なり
市電はゴトゴトコト街中を走る
その線路は刻まれた記憶の道
古い喫茶店が十字街にある
私はかつて函館の住人のようにあった
私は長く気ままにそこに滞在した
青函連絡船もその時あった
函館と本州は船で結ばれていた  
・・・・・・・・・・・・

過去の記憶の街ー函館(詩)

まさにこのようにクルマ社会にはないものが市電には路面電車にありそういうことがクルマ社会が変わる時蘇えるのである
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2019年06月21日

外国人労働者と底辺労働者が争うようになる (日本の貧困化で起きていること)


外国人労働者と底辺労働者が争うようになる

(日本の貧困化で起きていること)

若者の失業は世界中で蔓延している。その数には驚くはずだ。世界全体で約7500万人の若者が職を探している。アラブ諸国のなかには、16〜24歳の失業率が90パーセントに達する国もある。アメリカでは23パーセント。スペインとギリシャでは約50パーセント。イギリスでは22パーセント。世界的に見れば、ワーキングプアの4人にひとりが若者であり、質の悪い仕事に就いて、将来の希望が持てない状態から抜け出せない 

若者7500万人が無職にあえぐ世界の暗い未来

一つの有力な見解は、南アの低所得者と外国人低所得者が住宅や雇用機会などを巡って競合した結果、外国人低所得者が南ア人低所得者の不満のはけ口になっている、というものだ。


例えばエジプト辺りだと若者の仕事は観光になる、工業がないから観光業になる
ギリシャでもそうである、つまり観光業が若者の仕事になるような所は経済的に遅れている、豊かな国ではないのだ
日本がでも電機製品を外国に売れていたときは先進国になりジャパンアズナンバーワンとまで言われた、それも日本の技術が優秀だから日本人が特別優秀だからでもなかったのである、なぜなら今では韓国でも中国でも同じものを作っているからである
もし日本でしか作れないものだったら別だったが今や中国でも韓国でも作れし日本の製品より安くていいともなれば日本製品は売れなくなる
それで外国人の観光客を呼び込もうとしているのは日本が貧乏になっているからなのだ
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この引用先が不明に

こたれなどもそうである、高度成長の時は日本人がアジアに言って女性を買っていた
つくづく人間には何でもカルマがある、そうして優越感にひたっていたが今度は逆になったのである、それもカルマだったとなる
日本を卑下する必要はないが日本人が特別優れていると思う時奢りになり危険になる
原発でも日本人の技術が優秀だから事故は起きないとしていたからである
そういう奢りが本当に常に危険なのである、奢りが滅びに通じているのである

南アメリカで起きていることが日本がでもすでに起きつつある 

【外国人労働者問題】日本人の底辺労働者は捨てられる? Love & Freedom


このyoutubeで日本人が外国人に占拠されて入り込めなくなっていると非正規底辺労働者が語るのはリアルである
外国人労働者問題で学者でも政治家でも言うが実体験からは語られないからである
この人は底辺労働者で具体的に恐怖を感じて語っているのである
日本語が通じない、日本人は外国人労働者のグループから排除されると恐怖を語っているからだ、もうし日本語が通じないから英語を覚えろと言っている
英語は世界の共通語だからなんとか通じると言っている

つまり南アフリカのように底辺層同士が日本でも争うようになる
それがグロ−バル経済のまた資本主義の熾烈な競争社会なのである
労働者でも若い人の方が使いやすい40近くになるとおっさんだとかなり選ばれなくなる20代の若い人が覚えやすいし使い安いとか体力もあるとかなる
そして日本人の非正規で35から40過ぎは外国人の若い労働者に負ける
そういう危機感を言っているのは南アフリカと同じなのである
それが自由に労働者でも行き来するヒトでもモノでも自由に出入りするグロ−バル社会なのである

そして世界で若い人の失業者が多いということも外国人労働者がとめられない理由にもなる、ネパールとかで山ばかりで近くに住んでいるホンダに勤めている人でも4000メートル級の所に住んでいるという、そこでどういう暮らしがあるのか?
観光しただけではわからなかった、ただ裸足て歩いている人がいたのには驚いた
原始的生活をまだしていると実感したのである
それからしきりにボールペンをくれという、そういうものがないから用意しておけと書いてあったからそれをくれた、書くものすらない、するとどうして教育するのだろうか?
ただネパールでは英語を話す人がいてガイドしていた
そのネパールから今女性でも三人男性でも一人一万くらいの田舎にいる、一人は妻となる人を呼び永住するらしい、後はベトナム人も多い

そして世界で失業者が多い、若者が多いという時、なぜイスラム国など過激なテロ団体が生まれたのか?
それは宗教とは関係ない、貧乏とか若者の失業者が多いためである
血気盛んな若者がぶらぶらしてはいられない、それなら戦争でもいい、そこで活路を見出そうともなるのである、現実に日本でも就職できなかった大卒の若者がイスラム国に入ろうとしたことで問題になったからである
何か不平不満があるときそれが社会的圧力となりそうしたテロ集団とかが生まれてくる
それは本来の宗教とは関係ないのである、それは日本のカルト宗教団体でもみんな同じなのである、何か不満を抱えている人がそういう団体に入り境遇を変えようとする
だから生活保護の人がカルト団体には多いのである

別に今だけではない常に大陸ではヨ−ロッパでも民族移動があった
移動する圧力がありそれがローマへと向かったのはそこは先進国であり富が集中していたからだとなる、ただ日本は確かに東南アジアとかでもネパールとかベトナムと比べれば豊かでも今や他と比べてはそうでもない、むしろ貧乏国になっている
たからこそ観光に力を入れているのである、観光に力を入れる国は貧乏だからである
その状況をリアルに訴えているのが底辺労働者のyoutubeである
自分も若い時底辺労働者でありそれからも社会からはずれて暮らしていた
ただ家で生活できたから底辺労働者として呻吟することはなかったのである


インターネットの情報は今や膨大である
でもそれらを編集しないと読んだことにもならない、問題意識をもって情報を編集することである
ここでこうして書けたのはインタ−ネットの配信とyoutubeと楽天の雑誌や週刊誌を読んで編集したのである 
だから今の情報社会は膨大な良質な情報がある、でもそれを消化することは時間もかかり疲れるのである、だからこうして自分なり編集して読む必要がある
ただ時間がかかる、それだけ毎日情報に追われている、これも疲れると思った


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2019年06月08日

「貧乏生活ほどお金がかかる」 (地方の貧困はますます厳しくなる)


「貧乏生活ほどお金がかかる」

(地方の貧困はますます厳しくなる)

●車代の出費が大きい

お金がないと、この「移動手段」には隠れたコストが2つあることに気がつきます。1つ目は、車には高額な修理費が避けられないこと。私はブレーキパッドの交換時期を無視していたせいで、キーキー音が鳴るようになりました。その音は嫌でしたが、お金が出ていくことはもっと嫌でした。そこで、音楽を大音量でかけてごまかしていたのです。

車にもよりますが、ブレーキパッドの交換には平均145ドルがかかります。それは、1カ月分の食費に相当します

破産経験者の私が語る「貧乏生活ほどお金がかかる」という現実

●通信費の出費(老人も携帯は必需品)

iPhoneだって、日本全国どこに行こうがiPhone XSは10万円するわけで、物価の安い田舎に行ったからと言って3万円に値下がりするものではありません。

●医療介護費用が大きい

これも節約できないので負担が大きい 

●水道、電気代などが大きい

これを止められれば生活できな


その家族はまず一人の非正規の労働に頼っている、その人は建築関係であり常に移動しているから車が欠かせない、でも車は結構金がかかる代物なのである
もし車を使わないと30年くらいで一千万くらい節約できるかもしれない
私は車は使っていないからその分節約していたとなる
私は仕事もしなかったけど金も使っていない、旅行したとしても最低の金しか使っていないからである、それで海外旅行では意外とバックパッカーで安くついたので金が残ったので高いヤマハの最新の電動自転車を買った 
介護を二人したがそれもそれほど金を使わずにすんだので助かった

その人は親が青森の介護施設に送られた、安いのとこの辺では人手がなくて受け入れる施設がない、ではそれで何もしなくてもいいかというと何かと金が要求される
つまり施設ではあくまでも基本料金だけではすまない、その他にかかるので要求される
その負担もあるから苦しい

そしてその女性は70近くであり絶えず体の不調を訴えている、それもこの辺では治療できないからと東京に行ったり仙台に行ったりしている
この辺ではめんどうな病気は仙台に行かないと治療できない
この負担が老後になると大きいのである
月三万で病院通いしている老人がいたとか病気になっている人が多いからである
一旦家族でも自分自身でも病気になると金だけでも解決できなくなり破産するようにもなる

通信費というのも老人でも携帯は必需品であり欠かせないとなるとそれも負担になる
それは都会と田舎に差がないのである、田舎だから安くつくものが現代では少ないのである
そして現代では水道、電気代が大きい、それで金が底をつくと必ず水道や電気をとめられ生活できないと泣きついてくる
結局現代は貧乏でも金がかかる時代なのである
これらの費用が欠かせないからである

戦後十年では電気は裸電球一つであり飯台一つでありエネルギーは炭だった
水は近くの井戸水をもらっていたから無料であり糞尿は近くの農家の人がもって行った
それも無料である、紙は新聞紙でありトイレットペーパーがなかった
もちろん車がない、自転車があったがそれも一台を修理してみがいて長く使っていた
新しいものを買うというのはほとどなかった
風呂は外風呂であり鉄砲風呂であり私は子供の頃風呂焚きが仕事だった
その燃料は近くの木材店でバタを買ってなのかもらったのかそれが燃料だった

その時は本当に金を使っていない、また使いようがない時代だった
現代はこうした金の使わない生活がそもそもできないからさらに苦しくなっているのだ
これらのものが最低限必要でありそれだけで昔のような貧乏生活ができないのである
だからなぜその人が東京までわざわざ医者に診てもらうために行ったのかと何か贅沢に思える、ただ江戸時代でも医者に診てもらうためには遠くに行かざるをえなかった
特に目が悪い人が多く、そのために遠くに行って医者に診てもらわないと直らなかったからだ

結局現代の生活が貧乏といってもその基本料金自体を省くことができない、するとどうしても節約もできないのである
それらは現代生活の必需品だからである、それで最後は水道と電気をとめられるのであるそれでその人が貧乏だということを知るのである
そうでないと貧乏が見えないのである

自分自身はある程度は余裕があってもそういう人とつきあっていると自分自身にも影響する、そしてそういう人が家に入り込んできて大金を盗まれたとか事業に失敗した人に苦しい時に借金を頼まれたかと地銀に投資信託を買わされて大損したとかなる
なぜなら地銀自体が追い詰められているからもう地方で投資する先がない
金を貸す先がないとか苦しいから詐欺的な投資信託を売りつける
第一地銀の支店長自体が株のことを知らないとか投資信託をのことを知らないと言っていたのである
素人並みでありそんな人がなぜ売ってもうけさせてくれるのか?
金融のプロでもなんでもない、素人なのである、ただ手数料をとればいいとしかないのである

こうして地方でも金がかかるから原発は金になるということでとびついたのである
積極的に誘致したのである、そこに誤算があった
でもこの辺で成金になっているのは原発にかかわった人たちが多い
この辺で有名な建築土木会社の創始者は原発の工事がありそれで資本ができて大会社にした、それから船主は原発事故前も多額の補償金で原発御殿が建っていたとか事故後もそうだった、補償金は継続的にもらえるから金には困らないのである
烏アは漁港であり原町火力発電所が作られたとき補償金がかなり入った
その人の親は漁師でありそういう人は金を相当にもらった
でも海で死んだのである、その時近くの呉服屋が着物を売ってもうかったのである
その人が40年前とにかヨ−ロッパに海外旅行に行っていたのには驚いた
この辺でそんな人がいたのかと知らなかった、なぜなら飛行機代が50万とかになっていたからである、だからその時自分は海外旅行はできないと思っていた
それが何か尾をひいて海外旅行するのが遅れたのである
1ドルが240円くらいの時代だったからである

ではその他はどうかとなると田舎ではいろいろあっても貧乏な人が多いとなる
ただ何か現代の貧乏は見えにくいのである、外から見てていもわかりにくいのである
昔だったら乞食がいたからそれなら見えるからである
生活保護などがあるから最低は維持できるから見えにくいとなる
ただこの生活保護も医療費は無料だとかその他はもらえないという人もいる
地方では生活保護は都会のようにもらえない、最低が保証されない

現代の生活は貧乏でもさらに金がかかるというときもしこれらのものにかからない昔のような生活だったら楽なのである、それができないから追い詰められる
水がないとなくなればその時生活すら生きることもできなくなる
水は昔は無料でもらっていたからである、水だけでも無料でもらえたとなるからだ
電気もないから裸電球一つだから電気代もかからない、もちろん車もないからかからないトイレも無料で使用する、ただ医療とか介護になると医者代はかかる
でも60くらいで死んでいれば介護というのはそれほどなかった
また医者にはかからないのが多かったろう、そんな金がないからである
でも脳卒中になって藁で便をとってふいていたということも聞いた
紙が貴重な時代でありそれもなかったからだ、それだけ昔の生活からすると贅沢しているからである
そういう生活を子供の時小学校の時していたからその経験は貴重だった

「貧乏生活ほどお金がかかる」というとき現代ではそれだけ基本的にかかる金が大きいのである
もしそれが昔のようにゼロだったらこうはならないからである

現場の近くには、広範囲に渡って「ネマガリダケ」というタケノコが繁殖している。犠牲者4人は全員、ネマガリダケの採取に訪れていた。このタケノコを採りに来る人の中には車で3時間以上かかる秋田市内からやって来る人もいるというが、労をいとわず遠方からも訪れる理由は、それを売るためである

ツキノワグマ「山林の人喰い現場」を決死ルポ!(1)事件の深層にある地方の窮状

秋田となるとここも過疎化が東北では一番厳しい地帯である
人口減少で働く場所もない県となっている、青森でもそうである、青森とか長崎から原発に働きに来ていた人がいたし北海道の室蘭かも来ていた
そういう地域から来る人の事情は察せられる

山の生活では山菜が食料になるということがあった、それで飢饉になると山に逃げたとかあったのはそのためなのか?でも山菜だけでは腹の足しになるとも思えない
飯館村では山菜は料理の定番になっているのもそのためである
タケノコだと腹の足しになるからそれが貴重だというのはわかる

いづれにしろ現代の便利な生活は金がかかる、最低限でもかかる、すると貧乏だとしても昔の貧乏とは大違いだとなる、昔の貧乏は金がなくてもなんとかあるもので暮らせるということになるが今の貧乏は金がなければどうにもならないという貧乏なのである
そこが大きく違っているのである、農業でもハウス栽培になれば石油を買う金が必要だとかなる、電気が必要だとかなる、エチゴ栽培ではそうである

ともかく地方の窮状はこれからもっとひどくなる
地銀がもうなくなるというのもそうである、何か地方には成長産業がないからだ
何か昔のようにかえって自給自足していた農家が裕福だったということがない
その時裕福だったと感じたのはその時代の感覚である
農家でも今は老人でも軽トラがないと農業もできない、トラクターがないとできないとかなっているから金がかかる割に収入が少ないとなっている
昔は機械がない代わりに村全体で田植えしたり稲刈りしていたのである
そういうこともなくなるとまた機械に金がかかるのである
だからこそ原発に頼るということが起きてきて事故になり故郷に住めなくなった
そして農業とか一次産業が衰退して軽視されるようになったのである
それで地方をこれからどうするのか?それが大きなテーマとなる
なんらか今までの生活を見直さないともう生活自体成り立たなくなるかもしれないからだ






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2019年06月06日

今までの日本人の労働観は通用しない (労働する価値とか意味が見いだせなくなっている)


今までの日本人の労働観は通用しない

(労働する価値とか意味が見いだせなくなっている)
   

ニートは憲法違反なのか?
(誰でも労働したいがそのしたい労働ができない) 


「よくわからない」からとりあえずやってみる。
実際にやってみないと、労働が何であるかはわからない(やってもよくわからない)。



laborー(名) 労働 (=labour) laborious  (形) 骨の折れる

ラテン語系の labor を見ると、これには古代の奴隷制を連想させる苦役のイメージが色濃く付きまとっている。要するに、堪え忍ぶ苦しい仕事の意味合いが強い。労使関係、労働運動、革命運動等の文脈における「労働」は基本的に labor である。ちなみにドイツ語の Arbeit の語源的意味も 辛苦、困苦であり、フランス語の travail にいたっては責苦、拷問という恐ろしい意味が語源にある。この系列では、働くことは「苦」なのである
一方、ゲルマン語系の work の方にはあまりマイナス・イメージはない。同語源のドイツ語 wirken にも見られるように、その意味するところは何らかの自主的・能動的な活動をなすということである。その活動の結果としての作品が名詞としての work(Werk)である

なぜ労働を問うのかとなると人間日々働いているからである、毎日どこかで日々働いている、それが社会だからである、労働無くして人間もありえないとなるからだ
ただ労働とは何かとなるとそれが本当にむずかしい、いろいろいくらでも理屈が言えるからである
労働を苦役としてとらえることはその起源も古い、つまりエデンの園から神がアダムを追い出して労働させられるようになった、それがlabor(苦役)なのである
罰として労働をさせられているのである
エデンの園では苦役の労働はない、でも何もしていなというのではない、苦役の労働がないだけだった、でも一日何していたのだろうとはなる
何かいろいろな花が咲いていてそれに名前をつけるとか知的な活動はしていたともいう
でも苦役としての労働はなかったのである

労働というときその要素は様々であり正直一つのものとして語れることはできない
労働は多様でありその価値も多様だからである、時と場合によっても意味と価値が違ってくるからである、つまり労働は何かと定義することは不可能だとなる

多様な価値観をふくむ人間的活動となる

労働をみるとき欠かせないのは他者のためにとか家族のためにとか地域のためにとか国家のためにとか自分自身のためではないものが必ずそこにある
そもそも働くとは端(はた)を楽にするということから出ている言葉である
それは身近な人が働いていて苦労しているから楽にしたいとして生まれた言葉である
働くとは必ず家族であれ村であれ地域であれ国家であれ広く関係していて労働が語られるのはそのためである
だからつくづく労働は何か語りつくせないし定義もできないしその意味と価値もすべて語りえないのである

基本的には労働しなければ今日の食べ物がえられないから労働するとなる
腹減ったからに狩出て獲物をとらえる、農業になると米や野菜を作る、それはある程度の日数がかかる一か月とかもかかるとなるとそこに計画性が生まれる
それで農業となる暦が大事になりいつ種をまくとか時季が大事になる
それを基にして文化化したのが俳句の季語だとなる

民族的に働くということの意味も価値もとらえ方も違う、そもそも大陸の国を見る時大事なのは日本のように海に囲まれていないから民族同士の争いがたりない、すると戦争で負けたものは奴隷とされる、その奴隷は戦争で皆殺しにされていたが温情で奴隷として使ってやるとなったのである、そこに人権の進歩があったとみるのも歴史である
またなぜ貴族と平民とかに別れるのか、階級制があるのかというのも民族同士が戦争して優劣を決めるからである、それで面白いのはネパールである
インドからカースト制がもたらされているからいろいろ人種でカースト制が作られる
それが外国人にも適応されている、日本人もカースト制に入りどういう位置にあるか決められているというのも奇妙である
それは民族が混交してくるとどうしてもその差で色分けしてカースト制が生まれていたのである、だから外国をみるときこのことが背景にあることを知らなければならない
日本では特殊であり日本は階級制もない平等な国なのは日本人は早い時期に人種が混交してみんな日本人になったからである
そういう歴史や文化の差があるということを知らねばならない
つまり日本は大陸と比べるとありえない特殊な国柄を歴史を文化を作ってきた国になる
敵味方塚がなるのも日本だけである、だから中国人が敵の墓まで作っているのが理解できないのである
それは日本人は一つの民族であり争っても仲間だということでそうなっているのである
中国人は敵の墓まで暴いて罰しているのだからそこが歴史と文化の大きな相違なのである

外国では戦争に勝てば負けた人は奴隷にされる、そして本当はみな殺しにするのだが温情で活かすが奴隷として使われるとなったのである
その奴隷に働かせて貴族が労働しない階級制が生まれた、だから奴隷を使うことに罪悪感がないのである、日本ではそうはならない、そういう歴史がないためなのである
労働が苦役とするとき奴隷にやらせればいいという労働観になる、そして労働しないから暇が生まれ学問が生まれたとなる
なぜならスクールとはスコーレであり暇の意味だからである、それは奴隷がいたことにより獲得されたのである
今でも働く者は奴隷だ、社畜だとかになる、自らそういうものもいる
ということは戦争に負けたわけではないが働かされているという感覚になる、では苦役でも働いているのか?
それは戦争に負けたからだとなるが今ではまた違った意味でそう強いられているとなる

この奴隷労働をふりかえるとき常に労働にはそういう要素がある、働かせられているとは強いられているのだから奴隷なのである
もし働かなくてもいいとしたら働かないからである、奴隷だから働かさせられるのである
奴隷でなくても借金したりすると嫌でも働かせられる、借金の奴隷となるのである、それは苦役でしかないのである

ともかく働くことにはいろいろな要素があるから一概には言えない

今何が働くことで問題になっているのか?
それは働くことが生きがいが感じられないと何か意味を価値を感じられないとか労働疎外が起きているためである
村とかの共同体があれば村を維持するための労働となりそこに労働疎外は起きない、苦役でもそこに労働の価値と意味を感じるからである、溜池でも共同で作るという時それと村を維持するためにみんなで働かねばならないものだからである
そういう目的が明確でありその労働の意味と価値を求めることをしなくても明確だからである
だから労働が苦役でもあってもそのことで悩まないのである、ただ苦しいから楽でありたいというのはいつでもある
今の労働は何か労働自体がそうした意味と価値が感じられないのである
その例だ非正規の労働なのである
正社員なら高度成長時代の会社なら終身雇用であり会社が村のようになっていたのである
会社とは社(やしろ)に会すだからまさに村なのである
村でも終身雇用だからである、そういうことで働くことは会社のためでありそれは村のためだということに通していたのである
そこに共同体があり共同体を維持するために働いていた協働していたのである
  
Love & Freedomの非正規労働者の絶望は何か現代の労働を象徴しているのである

彼は働くも
妻もなく子もなく
親もなく親類もいない
ただ一人働く
今日の糊口をしのぐために
それは会社のためでもない
誰かのためでもない
社会のためでもない
孤立して今日一日分の金をもらう
働いたからと人からの感謝もない
ただ一日分の食べる住む金をもらう
そこに協同で働くことがない
孤立した労働であり
誰からの感謝もない労働
ただ一日分の賃金をもらう
労働の価値はそれだけである

非正規労働者が会社のためという動機がない、だから働く仲間がいない、決まった場所で働くわけでもない、どこに派遣されるかもわからない、日々違った場所に派遣されるからである
何か達成感もない、そして最後は孤独死だとなるだけであり捨てられるだけだとなる
そこには労働の共同性が奪われた孤立した労働だともなる
無数のパーツ化した分解された労働でありアトム化された人間となる
その個々の労働につながりが見いだせないのである
そうなるとエジプトのピラミッドを作った人たちは奴隷だったとかなるがそうでもない
その目的は王の墓ではないとすると宗教的建造物を一致して作っていたともなる
それはカテドラルを作った人たちの労働とにている、また古墳でも共同の産物でありその時代の共同性の証として残されたものだとなる、すると今の孤立した無数に分解された苦役の労働よりは意味と価値があったとなるのである 
この人の希望はFXでの一攫千金なのである、つまりそれだけが希望だけだという時何か切ない悲しいとなる
金さえあればというのがまさに資本主義での幸福になっているのだ
でもこの人がでは何をしたいのかというと金が入ってどうするのかというと見えない
ただ苦境から脱したいから金が欲しいというだけになる

例えばそういうことは田舎でも起きている、田畑があってもでは地元の田んぼからとれた米を食べているかというとそうではない、いくらでもうまい米は売っているから、地元の米を食べて地元の人に感謝することもないのである
第一私が援助して畑に野菜を作らせている人はそもそも何ももらっていないからである
そしたら何のために金を払っているのだとなるからだ、田舎でも村でも今はその土地でとれたものを食べていないのである
かえって外国から来た野菜でも果物でも食べているのである
グロ−バル化経済では日常的にそうなっているのである、そしたら地元の人が働いていてありがたいとかならないのである
そして地球の裏側から来た果物でも食べていてもその食べ物を作る人のことなど知り得ようがない
つまりそこで労働しているもののことなどわかりえようがないのである
ただ食べ物だけは入ってくるのである、それでもバナナ農場で働いたから苦役だったというから労働に苦役がつきものなのであるこういうグロ−バル化経済が今は労働疎外を生んでいるから社会が変わっているから労働は義務だとした今までの価値観は変わる
こういうことは商品としての労働となり貨幣の物神化とかでマルクスが説いた
ただマルキシズムでもまたその労働は共産党のための共産党の金持ちのための労働になった
兆もの金を共産党幹部は得たからである、極端な格差は平等の共産主義にも生まれたのである

現代の労働がなぜ疎外が生むのか?ただ金だけを得る労働になりかつてのような労働の意味と価値が生まれないのか?
労働をしたくないというとき苦役だから常にそういうことはあった
でも家族のために村のためにかんばらねばならぬ、働かねばならぬきということで働いていた
それは原発避難地区に起きている、なんとか働いて田畑を復興させてくれと願っても若い世代でも働く人でも流出したらできないのである、こういう場では働いてもらいたいし働いた人に感謝するとなる、それで働き甲斐があるとなる

グロ−バリゼーションと資本主義が危機だというときそれは労働観に現れている、働かないという時なぜなのか?
働きたくないのはなぜなのか?このことを追求することが大事になる
私自身は働きたくなくなったのは底辺労働でありロボットのように流れ作業しかししていないからである
これが仕事なのかとなるとしたくないとなった、でも何かそこで生きがいのある労働であれば自主的にする
でもそんな仕事は与えられないのである、それは能力がないからそうなっているのだともなる
能力がある人は生きがいのある仕事をしているとなる
それで私は引きこもりになり家で好きなことをしていただけだとなる
学問とか芸術をの追求をしていたとなる、それは創造的仕事だからしているとなる
何か私は文章を書くことが好きである、しゃべるのは不得意である、だからこうしてプログで書き続けているのである
ただ金にならないから価値と意味を与えられていないとはなる、与えているのは自分だけだとなっているのだ



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2019年05月29日

借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類 (日本人が貧乏する理由(武田邦彦)


借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類

(日本人が貧乏する理由(武田邦彦)




武田氏はとにかく見識が広いから参考にして見ている、人間はなかなか正確にわからないし批評はできない、だからコメントするのでも一行二行とかしていてはわからない
こいつは馬鹿かとかなんとか言ってそれで平等化する
それでも何か批判して俺の方がわかっているんだともなるからだ
だから私は一行二行のコメントを歓迎しないし私のプログにはコメントはない
やはりプログでその人なりのものをもっていて批判しないと相手にしたくないのである
ただプログだとどこに書いてあるかわからないから問題なのである

武田邦彦氏は人気がありあれだけ広い見識があるから参考になる
それは直接現代のエリート層とも通じているし外国生活も長いからその経験で違っている第一私は底辺層としかつきあったことがないからである
すると社会のことを底辺からしか見れないのである
そうしたら社会のことはわからないとなる

ただ人間はつくづくその人の生い立ちから住む場所から個性でも違っている、だから人はみんな違っているのである、その人自身の個性を作る条件がみんな違っているからである毎日海を見える場所にいる人と山に囲まれて山ばかりみている人でも何か人間も違ってくる、風土によって違ってくるから世界中てこれだけ文化も違ったものとなるのである

だから人間は自分の経験からいろいろなものを見るのが基本になる
経験しないものはわからないのである、それは本を読んでもわからない
実感がないからわからないのである、例えば戦争でもこれだけは実感することが不可能である、隣にいる人がばたばた死んでゆく、戦友が死んでゆくことなどとても経験しないかぎりわからないのである、だから戦争がどうのこうのというときそういう経験した人こそ戦争を語れるとなるがしない人はわからないから戦争はいいものだとさえなる、恰好いいともなってしまうのである

武田氏は超エリートである、でも貧乏のことを語る時何かずれているなとも見た
なぜなら借金してでも金を使うのが資本主義社会である
そういうことが理解できない、もちろんそこに深い意味があるかもしれないから表面的なことで軽々しくは批判できない
youtubeの欠点は言うことが短いし何か感情的になりふすい、それで非正規の苦しさを訴える人に同情した、声とかが出ると何か感情がでてくるんだなと思った
テレビというメデアは声とか表情が見る人に影響する、それで人の感情をあおる
あいつが悪い奴だとなるとみんなが感情が刺激されてリンチ的になるのである
つまりテレビとかは深く考えさせるメデアではなのである
ただyoutubeを見ていてわかったことはテレビとも違う何か学習機能がある
常にスタディしている、だからテレビのような大衆相手にエンターテインメントになっているのはも違う、とにかくテレビは視聴率がとれればいいのである
youtubeも視聴率が問題になるが百万とかまでは見る人はいない
そして個々の経験に基づいたことを発言しているのである
そこはテレビというマスメデアとの大きな相違だったのである

youtubeでもまだ深くは考えられないメデアである

それを感じた、だから借金してでも使いというとき誤解が生じる
そこだけをきりとって反論すると誤解が生じる、またそこには深い裏付けがないからである
なぜなら武田邦彦氏は果たして借金の意味を深く考えているのか?
まず自分自身が借金をしたことがあるのか?借金で苦しんだことがあるのか?
また他人の借金で苦しんだことがあるのか?
それがあれだけのエリートだとない、そこに借金とは何かわからなくなっているのだ

自分自身も親の介護とか自分の病気とかで苦労しなければ人はみんないい人だとのんきに思っていたのである、社会ともかかわらずに60まで生きていたことが異常だったとなる
だから社会は人はみんないい人だと思っていた
人間とは結局自分の経験から社会でも見る
一旦人から裏切られた人は深刻な人間不信になる、もう人間は信じられなくなるのであるそういう経験を私は介護になってからずっとしてきてそのことプログに書いてきた

人間とはこんな恐ろしいものだとか実感した、誰一人として自分が苦しんでいるとき同情もしない、むしろ相手が弱ったからチャンスだとなり大金は盗まれるわ何かと責められるとか苦しんだ、一切そこに同情すらなかった
それも自分自身がこれまであまりにも楽していた結果でありカルマだったことを知った
だかちそのことで他者をうらまない、でもそれ以来人間観が変わってしまったのである
人間がこんな恐ろしいものだと思わなかったからである
人間は自分が苦しんでいれば相手が死ぬと何であれ何の関係もないのである
だから最底辺で苦しんで老いた人が言う
あそこの土手の道で倒れても誰も助けないというときそのことに共感したのである
その人もこれまでひどい目にあった連続だったからそう思うようになったのである

そして借金してでも使えということがどういう意味なのか?
そんなこと軽々しく言えるのか?
借金した人が私が介護して病気になって来た時どれほどの恐怖を与えたか?
そのことを書いてきた、事業に失敗してかなりの額の借金をした人がきて助けると言うがもう助けるどころではない、その人の頭には借金のことしかない
それも額が多いのである、だからもうその人にとって頭は借金のことしかない
すると自分が苦しんでいてもそんなこと関係ないのである
こいつからなんとか借金しようとしかないのである、だから脅迫もされたのである
その時自分が病気であり介護していてどうにもならなくなっているからそういうふうに借金でも要求しやすくなっていたからだ
その人はなんとか自分の財産を得ようとしていたのである

その人は別に会社にいたときはいい人だったのである
誰もとれない資格をもっていた技術者だったからである
ただ事業をはじめて失敗して借金したのである
その人はまず事業などできない、商売できない人だったと思う
経営者にはなれない人だったと思う、技術をもっていても経営とか商売は違っているからだ、その人はまず私が病気のとき物を持つことさえ嫌がっていた
入院するとき物をもつことさえ嫌がっていた
つまり私のためには何もしたくなかったのである
それはその家族にも言えた、ただ金が欲しいしかなかったのである
そういう人がどうして会社を経営できるのか?
他者になにもしたくない、ただ金をもらいたいというだけなのである
そんな人に仕事でも頼むだろうか?その家族もまたそうだったのである

そして借金している人は怖い、借金しているだけで犯罪者予備軍であり犯罪の動機をみると借金を返すためだとかの動機が本当に多い
だからまずこの人が借金しているかどうかでその人を見るのが常である

だから借金している人は犯罪者である

ここまでなってしまうのである、それほど借金は人間を変えてしまうのである
借金している人はもう人を助けるなど全くできない
また追い詰められている余裕のない人間は人のことなど考えない
会社でもそうだし今の銀行が追い詰められているもう顧客のことなど考える余裕もないのである、会社がもうけをだすためには詐欺的な投資信託でも売りつけるほかないのであるつまり余裕がない人は人を助けるとか考えることすらできないのである

だから借金してまで使いということほどあまりにも浅薄な意見はない
ただ資本主義社会では借金は奨励されるというとき会社とかで事業する人はそうかもしれない、でもその人は事業していたのである
そして多額の借金となり我が家が苦しい時借金を返すために脅迫までするようになったのである
だから借金は人を根本的に変える、善人も借金で簡単に悪人になる
もう借金した時点で悪人となっているのである

だから武田氏の見識の広さには学んでいたがこれはどうかなと反発した
ただその背後には深い意味があるがそれが語られないのかもしれない
でもこれは危険なことである、借金してでも使い、そうなのか?
そんなことで同調して借金して使う人がいたら危険だとなる
結局は人間はその人の限られた経験からしか語られないのである
あらゆることを知り経験することはできない、そこにかたよって見方が生まれる
底辺で生きている者は社会のエリートとして生きている人のことを理解できないのであるまたエリートは底辺の人を理解できないのである

だから格差社会になるとたがいに社会で理解し得なくなり分断されて社会が維持できなくなる、その認識は共通していとなるが借金については個々人ではすべきではない
借金の恐ろしさについて鈍感でありその恐ろしを知らない
借金によって人間のモラルは消失する、ただ借金を返すために借金のために殺人まで普通にするからである、そういう事件はいくらでもあるからだ
ただ正直youtubeでもネットではなかなか深い議論にはならないのが問題なのである


あとかぎ

借金しても使えというとき貯金だけしてもだめだということはある、金をいかに有効に使うか、それが資本主義だということもある
だからそういう意味とかありそれはくみとれる、でも借金しても使えというのは誤解を与えやすい
国単位とかだとそうなのかもしれない、でも個人単位では別だと思う




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2019年05月27日

投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


2017年3月、金融庁は「顧客本位の業務運営に関する原則」を打ち出し、金融事業者に顧客本位の業務運営、いわゆる「フィデューシャリー・デューティー」の確立・定着を求めた。「顧客本位の業務運営」に関する7つの基本原則とは以下の通りだ

【原則1】顧客本位の業務運営に係る方針の策定・公表等
【原則2】顧客の最善の利益の追求
【原則3】利益相反の適切な管理
【原則4】手数料等の明確化
【原則5】重要な情報の分かりやすい提供
【原則6】顧客にふさわしいサービスの提供
【原則7】従業員に対する適切な動機づけの枠組み等


手数料等の明確化
重要な情報の分かりやすい提供

投資信託にはこういうことはない、複雑であり一般人はわからない商品である
株の方がわかりやすい、なぜなら株は上がったりもうかり下がったら損するだけである
だからリーマンショックのとき買った株が上がったから8年過ぎてもうかっていたが
銀行員が来て勝手に投資信託に回して損したとなる
その時説明責任があったが一言説明なく投資信託に回した
ただこれには自分自身の責任もかなりあった、その時の情勢もあるからだ

私は投資のことでもわからない

自分はそもそも地銀ということで信頼していた

時間がないからまかせた

こういうことで地銀を信頼したからまかせたのである
そもそも病気になったらプロである医者にかませるだろう
法律がわからなければ弁護士にまかせる、家建てるにしても素人は建築会社にまかせる
そもそも一人の人間の知識など限られている
だからこそプロがいてまかせるのである
金融のプロが銀行であり証券会社である、株が上がったり下がったりする
それを素人の人は他にも仕事があるから見ていられないのである
だからそういう暇がない人は知識がない人はやるなとなる
銀行にまかせること自体がお前の責任だったとなる
それも言われてもしかたがないとなる、自己責任だとなる

でも金融でもそうだが原発でもそうだったが相手は圧倒的な専門知識がありそれに対抗できないのである
だからこそ「安全神話」が作られたのである、放射能のことを原子核とかなんとかなるともうお手上げだからである
そこに圧倒的な知識の差がありそれと対抗すること自体不可能なのである
それは金融商品でもそうである、まず投資信託について毎月分配型について通暁することは不可能である、仕組みが複雑すぎるからである
それは素人をだますために作られた商品だとも今では思ってしまう
顧客のためではない、そういうふうに複雑にして顧客をだましやすい商品として作られたのである、最初からそういう意図があったのである
そこにすでに悪質性がある、ギャンブルにしても公平性がある
調か半かは確率であり公平だともなる
ところが投資信託にはわかりにくい、株とかFXはもうからないとしてもわかりやすいから素人でも理解できるから公平だったとなる
一時何かアメリカの投資信託で円安になりもうかったがそれもすぐ売って別なものを銀行で買った、そこでまた手数料が入りまた売ったり買ったりするときその額によって銀行が手数料が入る仕組みになっていたのである

結局自分はなぜそういうふうに失敗したのか?

その原因が来た相手はみんな追い詰められた余裕のない人たちだったのである
金がなくて苦しんでいる人が病気と介護のとききて大金を盗まれた
事業に失敗した人が金に苦しんでいて責められて自分自身も苦しんだ
相手を思いやる余裕などないからである
銀行も同じなのである、銀行は今一番追い詰められていたのである
それが今までの感覚で銀行は信頼できると思い込んでいたのである
老人は銀行との付き合いで確実に利子をもらって預金を増やした経験があるから
その経験で銀行を信用している人が老人に多いのである
だから大銀行でもリストラされているとか追い詰められているから2000千万も投資信託で損した老人がいたのである

その最大の原因が銀行がもう生きる死ぬかの瀬戸際にきているからである
特に地銀などはもうなくなるとされている、維持できないのである
そうなって追い詰められた者は何でもする、悪もなにもなくなる
そうして自分は責められ苦しめられてきたのである

追い詰められた人間は会社でも国でも一番怖い

追い詰められれれば人間から善悪は消失する、今日食べるものがないとなればわずかなものでも食べるために人を殺すこともある、それは追い詰められているからである
そういうふうに銀行は今やそれだけ追い詰められているから危険だったのである
はっきりいってももう銀行の仕事はなくなる、福島県で残る銀行は一つだけであり
もう銀行は生き残れないのである
そういう銀行とかかわることはすでに危険だったのである

いづれにしろ追い詰められると人間個人でも会社でも国すら危険なものになる
まず余裕がないから相手のことなど考慮しない、相手の利益など無視する
頭の中は自分のノルマを果たすことか銀行の利益だけしか考えられなくなる
それは個々人の会社員だけではない、銀行員だけではない、会社自体が存亡をかけて
投資信託でももうけるほかないとなっているからである

それでこれから地方が衰退して窮地に追い込まれると田舎でものんびりとはならない
現実に自分自身がそうした人たちに襲われてきたからである
つまり日本経済が縮小して衰退して窮迫してくるとこういうことが起きやすくなるのである、若者でも老人でも生活がぎりぎりだとか銀行でも儲け先がもないとか物を作っても売れないとかいろいろな経済の窮迫状態が起こってくる
それが日本全体を追い詰めてそういうとき戦争にさえもなる
戦争とは何か追い詰められたからなったとなる
なぜなら人間がそんな簡単に戦争に突入するとは思えないからだ
ドイツでナチスが台頭したのも借金漬けであり失業者が膨大に増えた結果だとしている
経済的困窮の結果戦争に突入したのである
日本がもアメリカによっけ経済制裁されて追い詰められたのが原因だともしている

とにかく追い詰められた人でも会社でもそういうのが増えると害になってゆく
もう客のもうけのことなど全く考えられない、いくら手数料をとるしか考えないからである、頭の中はそれしかなくなるのである
会社自体がそうなっているからである、その駒になるのが営業員だとなるからだ

ただそうした会社が繁盛するのか、栄えるのか?
地銀とかなると地元に尽くすから地銀なのである、地元を栄えさせるのが地銀の使命なのである、それができないとしたら地元にとって必要なのだろうか?
もう地銀などいらないとなる、そこにマイナスの感情だけが働く
銀行に金を預けてもなんにもならないという声が大きくなっているからだ
銀行の用がなくなっているのである、そして投資信託のような詐欺的商品をうりつけるだけだとなりその負の感情を受ける

そういうことで会社でも銀行であれ維持できるだろうか?

何かしら負の感情を従業員であれ消費者であれ受ければそれが栄えるだろうか?
それは国でもそうである、その国がいかに強大であっても回りで負の感情をもたれたら栄えるだろうか?
いづれは衰退してゆくのではないか?共存共栄しなければ負の感情ばかり強くなればとても栄えることはできない
だから銀行はもう必要ないとなり消えるともなる、ただ何か新しい利用価値が生まれれば別である、今のように窮迫して投資信託のようなものを売りつけるとしたらもう維持できない、それも時代の変化で銀行すら消えるということになる
銀行自体今どういう働きを社会でするのかどういうサービスを提供するのか問われている投資信託のようなものを売りつけるだけとなると銀行はもう終わりだと思う
それは最後のあがきなのかもしれない、そのために被害者でる
そして銀行は消えるのかとなる

ただ銀行だけではない、大企業のリストラとかあり日本時代が窮迫してこういうことが起きる、地方も疲弊して追い詰められた人があふれると危険な状態になる
そういう人と出会うことが多くなるからである
余裕がなくなった人たち自分が経験したように襲ってくるからである
遂にはホンジュラスのようにギャングに支配されるとまでなる
そしたら国を脱出するほかなくなるのである
そういう危機すら日本にこれから来るかもしれない、それは経済が衰退して困窮してくる人たちが増えればそうなるのである

それで自分自身がその例なのである
自分が病気になり介護になり弱った時襲われたからである
それは相手も追い詰められていたからそうなったのである
余裕がない人は他人のことなど考慮できない、食うか食われるかになるのである
そういう地獄がこれから日本が困窮してくればなるのである
それが大企業でもリストラが起こり首切られた人たちがブラック企業で働かせられたりと日本は余裕のない社会になってゆく
そういう地獄がこれから起きてくる、戦争状態のようなことが起きてくることもありうるそうなったとき決して富裕な人たちも安閑となどしていられないのである
もういつホンジュラスのように誘拐されるかもしれないし襲われる
そうした地獄のような社会になる、だから経済の窮迫は怖いのである



posted by 老鶯 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

責任をとれない人には何でもまかせるべきではない (あらゆることに責任がついてまわる)


責任をとれない人には何でもまかせるべきではない

(あらゆることに責任がついてまわる)


この世の中は本当に責任が常に問題になる、だからこそ契約にこまかく責任はとりませんと書いてある、責任を明確にするために契約がある

ある人が組の会費集めとかまかせられた、組長で順番がまわりまかせられた
でもその人にはそもそもその責任を果たすだけのものがなかったのだ
福祉に世話になっているし貯金もなにもない、だから金を盗まれたとかなりそれは3万とかでも払えない、それで私の所に常に頼みに来る
最初から組長などできない、責任がもていない人だったのである
私の組では一人暮らしの人は組長にならなくてもいいか助かる
金があづかるとなるとめんどうになる
数万の金でもない人はないからなにかあったら責任がとれないのである
だから責任がとれない人にはまかせるべきではないのだ
別に断ってもいいのである、そういう事情がありそれを押し付ける方も問題だとなる

とにかく何かこの責任問題をいろいろ自分の一身上でもそうだが問題になった
介護になってからあらゆることで自分は責められる立場になったのである
それから津波や原発事故でも責任が問われた
特に原発事故では責任が重く問われた、「安全神話」で事故は起きないとしていたのに大事故になりとりかえしのつかないものになった
その責任はどうとれるのか?誰もとっていないともなる
もし事故起こしたら切腹してますとか契約にでもあったらまた財産は没収されますとかでまかされたらそれなりに責任とるのだから「安全神話」を信じてもいいのかとみる
実際は誰も責任はとらないのである

地銀にしても

私はプロですからまかせてください

ではどういう責任をとるのですか

株とか投資信託はいろいろなことで変化しますから保証はできません
すべてお客様の責任です

ではなぜプロですからまかせてくださいと言うのですか?

・・・・・・・・・

それならそれで損することもあることを明確に説明すべきです
そうして客に判断をゆだねる
説明責任がアカンタビリティがあるというのは本当である
責任の中に説明責任が明確にある
すべてまかせてくださいとなれば客は何もかかわる必要がないのである

「私は株のことや投資信託は全く知りません、あなたがプロというのでまかせます
私は忙しいしいちいち株のことなど調べることも株の上がり下がりとか投資信託の利益がどうなっていんるのか見ていられないのです
だからプロの方におまかせしたのです」

「そういうことなら私たちプロですからおまかせください」

こういうふうになっても全く地銀でも損しても責任は一切とらない
地銀は百パーセント損することはない、手数料が確実に入るのである
そして何か売り買いするとまた手数料が銀行に入る絶対に損しない責任もとることがない商売だったのである

「もしお客様損するようなことがあればこちらでも分相応の負担はします」

こうでもなっていたら責任を分担してとるということで信用できたし納得できたのであるそもそも何も責任をとらないのだから信用できないとなっていたのである
そしてでは株でもなんでも知らないものはかかわるなともなっていた
素人は怪我するからかかわるなともなっていたのである
そもそも経験も知識もないからである
ただリーマンショックの時もっていた株が上がった時投資信託に回したのも分散投資しておけばいいのに地銀の儲けだけを営業の人はノルマを果たすだけにそうしたのである
でもなんであれこ一切地銀は責任はとらない、だから最初から何の責任も取れない人は信用してなてらないしまかせるべきではなかったのである

なにかこういうことは社会の中で常にあるから保証人問題があり保証人がない人は信用できないとなるし後ろ立てがないものは信用できないとなる
何かまかせるにしてもその人だけを信用していたら金を貸す方でも部屋を貸す方でも大損するからである
だから契約して責任を明確にしていないと後で大けがをする
だから何かと社会は責任を恐れるから契約をする
駅の高校生の見守り役でも駅の業務をしないと契約しているのはJRの方に責任が回ってくることが恐れているためかもしれない、駅の業務をJRが頼んだとなる何かあるとJRに責任が問われるからである
それで私が書いた時刻表でもルールであり何かで問い合わせとか来たりして責任をとらされることが嫌だから断ったとなる

つまり人間社会ささいなことでも常に責任を恐れるのである
それも責任をとらされることを恐れるからそうなっている
ただ責任を明確にして責任をとらないものには任せるべきではない
その任せた方が実は責任が問われているのである
それは原発でもそうである、なんであれ東電と国に原発を建てることで合意してまかせた時点で責任が今度は地元住民と福島県民とかさらに日本国民まで責任をとらされたのである、国民が関係ないとはならない、莫大な廃炉費用が税金として国民からとられるからである、責任は何かあったら広く波及してくるのである

合意したことはどちらにも責任がある  

説明責任→合意→契約→責任

こういうことになる、だから合意には双方が責任があることを明確にしたものだとなるそうしたら簡単に合意はできないともなる
責任が問われるし責任が課せられるからである
だから合意の契約するときは慎重になるしその重みを感じてすることになる
責任をとらされるものとして合意するからである
交渉とかでも説明責任が重要になる
説明したとしても専門的なことだからわからないとかいっても一応説明はされるべきなのである

このシステムには最終的な「説明する責任」がない
日本がで最も力をもっている人たちと、公式に民主主義国家である以上は主権者である普通の人々の間の政治的コミ二ケーションを可能にする機構がない
権力者がある政策について人々にきちんと説明し、人々が別な政策について権力者に一般的な方向付けを与える
官僚たちは何をしているのか、なぜそれをしているのか、人々に伝えず、人々は「公僕」たちが何をすべきか、官僚たちに伝えない、政治家は信用されずその役を果たしていない(
日本を幸福にしない、日本がというシステムーカレル・バアン、ウオルフレン )

民主主義ではめんどうでも説明する責任が重要になる、とにかく相手が素人でも説明はすべきだとなる、そして責任を明確にすべきである
そうしたら投資信託など誰もしなくなる、だからこそ明確な説明はしないししてもわからない仕組みになっているのである
ただそれだってやはり説明責任がある、そしてまかせる客も合意したとなるのだからわからないにしろ責任だけはとらされるのである

だからわからないならやるな、まかせるな!

こうにもなる、責任は必ずとらされる、誰かがとらされる、原発でも合意したから責任は地元の人も故郷に住めなくなる責任をとらされたのである

そして組長をまかせられて金をあつかうとなると責任が生じる、わずかな金でもその人には貯金もないとしたら何かあったらどうするのか?
その責任がまわりにくる、それがいつも自分自身なのである、必ず金を払っているからだそうなるとそんな責任をとらされることはやるなとなる
また周りの人もやらせてはいけないのである
こうして人間は常に何かしら誰かが必ず責任をとらされるのである



posted by 老鶯 at 16:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

なぜ日本が衰退しているのか? (産業構造の変化ができないから?)


なぜ日本が衰退しているのか?

(産業構造の変化ができないから?)


日本ががなぜ貧乏になっているのか?
この解答もいろいろあるがではなぜ高度成長があったのか?
これをふりかえると日本は産業構造を変化させたからだった
それまでは養蚕であり絹織物産業でアメリカに輸出していた
絹織物は今の自動車のようなものだったのである
それで外貨を稼いでいた
私の母親も原町の紡績会社で働いていた、原町は原町機関区であり今のいわき市の平機関区と福島県の常磐線では二つあっては繁栄していた
そして原町紡績会社に引き込み線があり直接鉄道で積みだして運んでいた
それは横浜から船で運ばれていたのである

とにかく養蚕は日本全国でどこでもしていた、必ず兜作りの屋根が今でも残っているからこの家で養蚕していたとわかる、それが本当に多いのである
養蚕は地方に生産拠点がありそれで地方の産業となっていたことが今と違っていた
桑畑が私の家の裏にもあったしどこでもあったからである
養蚕は農業でもあったからそうなった
それで阿武隈高原の町に鉄道が通る時、煙で桑の葉が被害をうけるから反対したとかあった、それだけ養蚕中心の産業構造だからそうなっていた

その時蒸気機関車であり私が原町の高校に通った時もまだ蒸気機関車だったことがふりかえると信じられないのである、どうしても蒸気機関車のことが思い出せないのである
ただトンネルを通った時、煙で顔がすすけたことがあった
でも今どうしてあのようなものが走っていたことが現実に思えないのである
ただその時もし鉄道マニアであったらそのことを思い出すだろう
私は全国の鉄道を乗って旅したからである    

そして蒸気機関車の燃料は石炭だったのである
石炭というときその頃各地に炭鉱があり石炭がエネルギー産業になっていた
だから学校でもストーブを使っていて石炭を使っていたのである
エアコンなどなかったのである
その頃の産業は養蚕であり石炭だったともなる
ただ戦後は養蚕はつづいていてもすぐになくなった
でも戦後十年は炭を使っていた、囲炉裏がどこにでもあった
その生活は本当に江戸時代のつづきだった
水道もないから街内では井戸の水をもらって生活していた
それで子供の時水汲みされたことを思い出す
その時は何もない、飯台一つしかない生活だったしたいがい同じだった
玉子も食べられなかった、農家では食べられたのである
農家の方が裕福だったのである

つまり養蚕や絹織物が石炭が産業だった、それが戦後10年くらいして産業構造が変わった三種の神器といわれた、冷蔵庫、洗濯機、テレビとかが出てきたからだ
この電器産業が輸出ともなり売れたので日本は目覚ましい高度成長時代を築いたのである要するに産業構造が変化したこととグロ−バル化して輸出を日本がになったことで高度成長時代を築いたのである

その高度成長時代を築いた中心がが団塊の世代である、その人たちの話を聞くとわかる
私の家でも駄菓子屋のようなものを始めた、その時別に何のノウハウもない、全くの素人であり商才もなにも関係ない、第一私の家ではそういう商売に向いている人はいなかったのである、でも成功したのは時代だったのである
その時物がないからただ物を置けば売れたのである
ちょうど角に家があり場所が良かった、その頃車もないから場所が関係していたのであるただそれは他でもみんなそうした零細な商売でも繁盛したのである
それは中小企業でも同じである、電器産業になり部品を調達するために中小企業が繁栄した、それで人手不足となり金の卵は地方の中卒が東京などへ集団就職したのである

なぜ日本が今貧乏になり衰退して後進国にすでになっているというとき輸出産業の大手の電器会社がもう終身雇用ができない、45歳でリストラとかなっている
もう電器産業は中国でも韓国でも同じものを作り品質も変わらなくなったからである
パソコンだって中国製品と変わらないとなれば日本の製品は売れないとなる
するとどうなるのか?もう日本で外国に売れるものはない
でも石油とか材料とかを買わざるを得ない、そうなると苦しいとなる
そしてIT産業には乗り遅れてスマホでも中国の方が優れているとなった

だから産業構造を変化しないかぎりもう日本は貧乏国になり発展途上国になる
すでになっている、すると産業構造を変えるにはどうすればいいのか?
それが大問題になる、そして過去をふりかえると日本はグロ−バル化した結果
石油とか外材とかいろいろなものを輸入に頼りすぎたともなる
でもそれがこれからできなくなる、第一売る物がなくなる、車でも中国で電気自動車を自前で生産している、そしたら車さえ売れなくなるのである

ではこれから日本はどうするのか?
国内産業と国内需要にもどることではないか?
国内の資源を活かすとか国内でなるべく生産できるものを生産して外国の物を輸入しないそれより輸入する金がなくなる、輸出するものがなければ金が入ってこないからである
すると江戸時代のように自給自足のような生活にならざるええない
日本には本当に森が70パーセントでありこの資源を利用していない、もう外材を買う金もないとしたらこれだけの資源を放っておくことはできない
日本がにある物でまかなうほかないとなる

何か時代が逆戻りすることが歴史ではあるのかもしれない
日本の人口が減るという時もそれもこうした時代とマッチしてそうなってきている
それだけの人口をもう養う力が日本がにはなくなったからである
そうなれば人口だって減らざるをえない、それをとめることができない
そして日本人の人口の適正規模は8000万くらいなのかもしれない
大正時代で6000千万でありそのくらいの時はかえって自然と調和した社会だったのである東京でも百万くらいだとするとちょうどいい人口だったともなるからだ

つまり時代の変化がありそれをすべて否定的にとらえるのではなく、人口減少でもプラスの面はあるしまた輸出産業がないとしても国内生産と内需にもどるとどうなるのか?
森林資源でも他にも国内の資源が活かされて地方も活性化するとかなる
農業も荒地が多いがもう輸出産業がなくなればそうした荒地でも耕して食料を確保しなければならない、戦後の引揚者がわずかの土地を求めて農業を仕事をしたのと同じになる
でも半分は厳しくてやめた事情はある
活かすものがないとなるとそういう時代になる
すると地方に人が移住して活性化して過疎化も解決するとかなる
いづれにしろ膨大な高度成長時代に生まれた中小企業でももう成り立たなくなっている
何か起業してもうまくいかいない、それは時代だからである
能力があるとか関係ない、高度成長時代では私の家でもそうだが別に能力がなくてもみんな成功していたからである

おそらく今たりないのはこうした時代に適応したマッチした国家的政策、グランドデザインを描くことかもしれない、個々の問題はいろいろあるにしても戦略的思考が必要なのかもしれない、時代に適応した国家的戦略をもちそれに向かって国民が一致協力するとなるネガティブなものがあってもそれをボジッティブなものに変える
かえって地方が活性化して日本全体で自然と調和がとれた社会になるとかのビジョンを出してみる
もちろん時代は逆戻りはしない、でも何かやはり時代は常に過去を歴史をふりかえり進むともなる
つまり日本の産業は国内中心の産業と需要にする、国内の資源を極力活かすとかする
それは江戸時代の逆戻りだとかなるがそれが理にかなっている
何か方法があればいいがないとしたらそういう方向にもってゆくほかないからである

とにかく時代の変わり目でありそこにいろいろな矛盾とか問題が噴出する
戦後70年で大きな根本的変革が要求されているのである
そのグランドデザインが描かれていないのである
つまり個々の問題をいろいろいっても解決しない、日本全体をどうするのかという大きな視点と戦略とビジョンが必要になっている
もしそれができたとき一眼となって日本人がすすむとなるからだ
ただ正直私の言っていることは一つの提案にすぎない
私自身そうした大きな視点とか戦略とかグランドデザインを描けないからである
ただ過去をふりかえるとこういうことがありそこからまた未来を見るということで書いただけである

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2019年05月18日

田舎と都会の暮らしの相違 (いい面と悪い面がなんでもある)


田舎と都会の暮らしの相違

(いい面と悪い面がなんでもある)


田舎と都会を比べる時いろいろある、田舎でも10万の都市というけど
それが田舎なのか?
10万の都市といっても合併した都市は全然違っている
例えば南相馬市は鹿島と原町と小高が合併してできたから6万以上になっている
原発事故で小高が避難区域になったから一割くらいは人口が減った

ただ10万の都市とかで百万都市とかに住んでいる人は誤解する
合併しているから土地が広いのである
原町はすでに5万とかあったこの辺では都会なのである
だから前から小高とか鹿島は一万くらいの町だから差が大きかったのである

私が今でも一番感じているのは食事がめんどうであり外食したいのだがそれが鹿島とか小高くらいになると極端に少なくなる、弁当屋すらなくなった
原町だととにかく食事するには便利なのである
さまざまなものが提供されている、レストランとか食堂とか弁当屋でも比べると10倍以上の差がある
そしてキクチスーパーが鹿島にもあるが原町に比べると何倍もの差がある
それで鹿島にはキクチスーパーで売れないものと古くなったものとかが置かれているというのも本当なのだろう
品物の種類でもなんでも違うからである
ただ最近シシドスーパーができたので競争が生まれたからそれだけでも良くなったとはなる

だから南相馬市というとみんな市で同じでも住む場所によって全然違っているのである
いわき市などでも30万あるとすると大きな都市と思うがその範囲が広いから住む場所によって相当な差がある、仙台とかのように密集して人が住む都会ではないのである
合併してからそういう都市が増えたからここに誤解が生まれる
だから田舎の都市は原町のような都市部に住む者と周辺部はかなりちがったものとなる
周辺部は買い物でも車がないとできないとなっている

田舎と都会の差はいろいろある、教育でも仕事でもあらゆる面にある
それはいい面と悪い面がありいちがいに語れないしそれを語っているものがインタ−ネットだったらいくらでも今はあるから実情がわかる
田舎の不利な点も相当にあるしいい面もある
だから田舎に向いている人間と向いていない人間があるともなる
また生まれた家によっても左右される
田舎は何か資産がないと生きずらいのである
つまり親がある程度裕福で資産がないと生きずらい
田舎では若い人でも収入が年収でも200万とか低くても親の援助があり家ももっているし車でも家に普通二台はもっている、一人一台もっているのも普通なのである
ただ生れた家で資産がないと何か目立って田舎の底辺になる
そういう人を知っているがたいがい市営住宅に住んでいる
家賃は4000円の人もいたしそれでも三つも部屋があった
それくらでいないと田舎では現金を稼ぐのむずかしいから住めないとなるからだ

ただ田舎と都会の一番の違いはなにか?

多様な選択があるのが都会である
田舎は教育でも仕事でもなんでも選択できない
たいがいコースでも決められている、それは東京のように多様な仕事がそもそもないからである、そうなると多様な職業の人と接することもできない、非常に限られた人としか接することができないから視野が狭くなる
学校でも私立がないから選択できないしあらゆるものでそもそも選択することができないそもそも選択するものがないからである
それで知的には遅れるとか何か才能を活かした職業に従事できないとかある

ただ田舎と都会の底辺を比べると田舎はそれほど苦しいとも見えない、そういうことを語っている人がいる、都会の底辺はyoutubeのLove & Freedom(底辺労働者)のように苦しいのである、追い詰められている
それは親の資産を受け継がないからそうなる
家でも狭いアパートであり東京辺りだと何するにも金になるが底辺だと金がないから何もできないとかなる、だから東京辺りだと底辺は金持ちの奴隷なのかというふうに見える
いろいろサービスが多様にあったとしてもそのサービスをさせられ方とする方に分かれているからだ
それで安く奴隷を使うには金持ちは外国人がいいともなる、つまり都会ではグロ−バリゼーションでも極端なものとして働く、東京辺りだと金持ちも多いが底辺も多いのである
その底辺も田舎の底辺とはかなり違っている
田舎の底辺は家の資産を受け継ぐとか親の援助があり家もあるし車ももっているしと東京辺りの底辺とは違っている
だから底辺を比べれば東京とかは極端化してみじめなのである

ただ田舎だと親からの資産と援助がないと苦しくなる、つまり田舎だと農家でも代々で住んで財を築いてきた家がある、その上に次代のものがある
たいがい家はもっているからである、土地ももっているからそこに資金をかける必要がないのである
そして田舎で住みやすい人はそうして代々住んでいて資産があり社会的地位がある家である、医者とか公務員とか土建業でも社会的地位があり資産があるとなる
農家でも篤農家はそうである、ただ零細な農家はもうやっていけない、果樹と花の栽培とか商品作物になるものを作らないとやっていけない

都会と田舎の相違はいろいろある、そこにいい面と悪い面がある、それを語ったらきりがないとなる
例えば芸術とかになると都会がなんでもあるからいいように見えてもとても自然の中での感受性を磨くことは不可能である
なぜなら毎日見ているのが高層ビルだらけだったり人ばかり見ていることになるからだ
一方で丸森の絶景ポイントから見た蔵王とか海岸線の景色には感動した
それも今までこの年になるまで知らなかったのである
何か田舎に住んでも田舎のことを知らないことがかなりあるのだ
車がないということも影響していたがあんないい場所があるとは知らなかったのである
そういう場所に日常的に行けるとなれば田舎は都会とは比べようがないほどいいとなる
それは価値観の相違があっても高層ビルと人ごみの中にいてそれが幸福なのかとなるからだ

東京辺りだったら散歩する場所もない、サイクリングするにも車の洪水と人ごみを通るから田舎のようにはいかないのである
トラック運転手で足を悪くした人がサインクリングしている、結構遠くに行っている
それが楽しそうなのである、別に安い自転車でもできる
東京では底辺労働者が休みにすることがないというだ田舎だったら自然は親しむことがいくらでもある、別に遠くに行く必要もないのである
だから丸森にあんな景観がいい場所があったとういのもそうである
そういう絶景ポイントはそこに住んでないとわからないことがあるのだ
それもそこで何度も見れるということが違っている

田舎とか都会で情報とか教育格差があるとして情報格差はインタ−ネットで解消したともいえる
まず田舎では本を手に入れることが容易ではなかった、専門的な本はそもそも売っていないからだ
仙台ですら本の量が少ない、それを知ったのはインタ−ネットの通販でこんなに本があったのかという驚きだった
本が手に入らなければそもそも知識を得ること自体不可能だったからその差は大きかった
それが解消したとき何か田舎でも研究者になれるのかとも思った
例えば学者の論文まで読めたことが大きい、それも無料である、自分の古代関係の万葉集の真野の草原について相当に深くわかってきたからだ
これはそもそも学者の論文も読めない本も読めないとなればわかりようがないからだ
こういう点で都会と田舎の格差は解消したことは大きいとはなる


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2019年05月13日

田舎でもネパール人など外国人が増え一方で老人や病人が増える日本


田舎でもネパール人など外国人が増え一方で老人や病人が増える日本


その女性は福装の裁縫会社で働いていた、そこでは前らか中国人は働いていた
最近見かけたのは黒い顔の女性だった
インド人かと見たし前にスリランカ人がきたからスリランカとも見た
その女性はネパール人だったろう、なぜなら一人のネパール人と会ったからだ
そこで地元でも海外旅行が日本がではじまったときからヨ−ロッパに行っていた人が聞いた、やはりあの人は外人になれていたのである
そういう人が田舎でもいたことは意外だった、それだけもう田舎でも多様な人がいたのである、ただ自分の場合は引きこもりのようになっていて知らなかったとなる

今年の4月から法律が改正されてさらに外国人が入りやすくなった
ベトナム人とネパール人が本当に多いくなった、これはいたるところにいる
田舎でも普通に見かけるようになった
ネパールは一度トレッキングで行った、どうしてあんな高い所で生活できるのか?
ボールペンもなくくれと言われる、ボールペンがないとしたら学校で学ぶこともできない筆記用具とかノートもないともなるからだ

第一あのような高い所での生活の問題は運ぶのが容易ではない、山を上らないければならないからだ、それだけで容易ではない、そして裸足で歩いている人がいたのには驚いた
というよりは靴が買えないないからだともなる
インドでもリキシャの人が裸足だった、暑いのにそうなのである
何か原始的なところがまだある世界だとなる
山の中で畑で何かの獲り入れをしている人を見たらそれが万葉時代の女性のようにも見えた、それだけ原始的なものがまだ残っている所だともなる
ネパールの暮らしは理解できなかった、それは文明的な生活と隔絶されているからでも
ベトナムだと理解できる、なぜなら田んぼがあれば稲作であり米を食べているからであるそして平地が多いからである、二毛作であり一つの場所で田植えして稲刈りをしていた
だから米の量としては日本より倍とれるとはなる
ただ日本では品種改良で良質の米をとるし収穫量も一反からでも多くなった

ネパールは本当に生活でもそうだが気候でも地理でもその土地そのものがわからなかったなぜネパールにジャングルがあるのか?そこにサイがいたしワニもいたしトラもいるという、そのジャングルを象で見て歩く
なぜヒマラヤのうよな雪に閉ざされた山があるのに熱帯のジャングルがあるのか?
私は外国旅行に慣れていなから驚きだった
ネパールの紙幣が象とかトラとかサイが描かれているのもそういうジャングルがあるからなのだ、熱帯の大きな鳥もいたのである
ネパールは旅するには魅力ある国である、原始的なものが生活に残りその自然が多様でありヒマラヤが見れるからである
ただ一回しか行ってないのでちょっとだけ垣間見たとういだけである
海外旅行は深く鑑賞はできない、言葉もわからないしただ垣間見たというだけで終わったそして何かもう二度と年で行けなくなったのである
だから何でも海外旅行でも早い時期にすべきだったとなるのだ

いづれにしろこうして外国人が入ってくることは必ずいい面と悪い面をもたらす
外国人が入ってきて不満なのは40くらいの氷河期世代である
賃金の安い外国人と競争を強いられている
外国人は若いから競争に勝てないとしている、日本語ができなくても仕事はできるものがある、そうしてグローバル化するとそうして底辺国とも競争を強いらるのである
そこでスキルもなんにもない者はさらに最底辺に落ちてゆく恐怖を訴えている
そうしたベトナムであれネパールであれ外国人は生き生きとしているという
なぜなら為替の差で親に仕送りできるし労働する意欲が違っているからだ
日本人の氷河期世代とかは自分自身のことだけで金は使われてなくなる
外国人は賃金が安くても日本で働くメリットがあるからだ

ネパール人は白人のような顔の人もいるし黒い人もいるし本当に人種が混在している
だから見分けがつかない、何か不思議なのはアメリカのサンフランシスコとかで見かけた年配の日本人の女性は見分けられた、日本人のような顔していると見たからである
だから日本人の顔はやはり日本人としての型があるともなる
でもネバールとかなると見分けがつかない、多民族国家だから見分けがつかない

ともかく何であれ女性であれ男性であれ若いということは国に関係なく価値がある
つまり若いというだけ価値がある、そのために40くらいの氷河期世代は若くなくなっているから価値が自ずと低下しているから嘆いているのである
若いという価値は世界共通でありどこの国に行っても価値があるということになる
若いということは適応力とかいろいろ優れているからである
それはどこの国とかではなく世界共通なのである

日本の問題は高齢化である、最近なぜかとなりの60代の人が見かけなくなった
体を悪くしたのか?外に出たのを見たことがないのだ
また一軒となりの子さも60代になったのか?
その人も足をひきづって歩いている、スーパーのレジで働いていたがやめている
この前土手の道であった人は64歳で脳梗塞になり一時はしゃべれなくなった
杖をついて歩いている、その同級生も病気になった      
もう一人近くの同級の人も脳梗塞で足を悪くしてひきづり歩いている
でも車で買い物に来ていた

それから危機一髪で脳梗塞から助かった同級の人がいた、一時痩せ細ったが普通に話しできる、でも無理はできないという、他にも病気の人が多い、高齢化病人社会になっている60過ぎると自分もそうだったが何かしら病気になりやすいのである
ただ70歳でロードに乗っていた人もいたからいろいろである
元気な人は元気なのだが病気の人が目立つとなる
福島県は脳卒中が多い県であり全国で7番目になる、心筋梗塞は一位なのである
そして南相馬市はさらに脳卒中が多い市なのである

こういう社会では外国人は若いから歓迎されるということはある
つまり外国人は日本人の若い人よりもやる気がある、それは賃金が安くても為替の差で仕送りもする、そういうモチベーションがあり違っているからだ
日本はこうして衰退国家になってゆくのだろうか?
なぜなら戦後焼け野原になってもその時団塊の世代が生まれた
なぜそんなときに食べ物もないのに多くの子供が育つことができたのか?

それが不思議なのである、今の経済力でも10倍くらいの差があった
家にあったのは飯台一つだったからである、それはどこでも同じである
そんなときになぜあんなに子供がいたのかという不思議である
貧しくても子供は増えるし育つともなるのか?
その時は逆に今より社会に活気があったとなる、つまり子供が多くまた若い人が多かったからである、つまり日本はその時若い国家だったからだとなる
若い人が子供が多いということはそれだけで国に活気をもたらしていたのである
貧乏でもそうなのである、そういう国ではエネルギーが満ちているともなる

neparumoney.jpg

ネパールの紙幣

現実にサイとかトラとか象がいる国なのである

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2019年05月10日

なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか? (生産共同体(会社)から排除されたため)


 なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか?

 (生産共同体(会社)から排除されたため)

cooperate11.jpg

 経済という時、基本として生産と消費がなんでもある、生産する者とまたはサービスを提供するものと消費するものサービスを受ける者がいる
それは資本主義社会では明確に分かれているのである
なぜなら時代をさかのぼればのぼるほど生産と消費は分化していないからである
例えば農業している人は米でも野菜でも生産する、そして村は生産共同体だったと同時に消費する共同体でもあった
つまり自然があり米でも野菜でも生産して消費する、その時消費するというとき自然から神からいただくということで感謝する、それがその土地土地の祭りとなっていた
神社とかにはもともとそういう機能があったとなる
神社はその土地土地に根ざしたものが多いからである
そうして一つのミクロコスモスに生きていたのである

そういう社会では生産と消費は分化しない、今でも小さな畑で野菜を作っている人は生産と消費が分かれていない、しかしそのためには金がかかる、肥料やら種やら道具やら労働力やらと生産するには金もかかるし苦労が多い、だから私がそれを援助してももらったのはキュウリ二三本でありそれも一万もしたともなる
これをスーパーで買えばそんな馬鹿高いものにはならない、だからそんなことをしても無駄だとなり損するだけだとなる

ただその人にとってそれが生きがいになっている、他にも仕事があるとしても家事などしたくない、皿など洗いたくない、その人は庭で花を育てるとかそういうことに熱心なのである、そういうことが苦労があっても好きなのである
皿洗いと掃除とか家事はしたくないのである
だから今は一切していない、なぜそうした農業が生きがいになるのか?
ただの労苦ではないのか?

それは生産と消費が一体化してからである

そして生産共同体というとき生産は共同でする、その人も畑で野菜作るにもいろいろ他でも畑で野菜を作っている人がいるから聞いている
また畑をうなってもらったりしている、その時は金を払っているのである
つまり一旦生産するとなるとサービスを提供する側になると共同体が必要なのである
協調しないとできない、それでどうしても農協などがかかわるようになる
でもそんな小規模なものは金にもならない、農協を通じて売る場所がある
するとそこで農協に金を払うからもうけもなにもなくなってしまうのである
いづれにしろその畑で野菜を作ることは共同があり生産と消費が一体化している
そして現代社会は生産とサービスを提供するものと消費が分離しているのである

消費者が王様だというときもそうである
ではなぜそうなるのか?生産する者からサービスする者から一旦離れてしまうことは社会にとって消費者になる
でも消費共同体などないのである、消費は個々人でしている、だから会社を退職した人は生産共同体(会社)から離れるから社会で孤立する
会社をやめて地域で活動しろといってもそこには生産共同体としてのコミニュティがないのである

生産共同体は会社は共同して働く場だったのである、だから会社で働く人たちは共同体の一員となる、そして仲間意識をもつ、でも一旦そこから離れると仲間ではなくなる
でも農業とかしていた村ではそういうことはないのである
村の共同体の一員として死ぬまであり死んでからも先祖として生きつづけていたのであるそれが村の祭りだったのである

人間は自然から確かになんでも消費する存在である、食べ物でも自然から本質的には得ている、でもまた生産するものでもある、生産することによって自然への神への感謝が生まれ消費するというものではなく賜(たまわ)るのである
資本主義グローバル化社会になるとそういう自然の中での生産と消費の一体化は喪失して分離されるのである、その時自然とか神に感謝する祭りはなくなる
そこに媒介するのは金だけだとなる
だから会社という生産共同体から離れたらその人は消費するだけの人間となる
そうなると消費するためには金がないと存在感がなくなる
消費すれば金を払えば消費者は王様だとなり歓迎されるのである

そしてなぜ会社を退職すると社会で居場所がなくなるのか?孤立するのか?
それは生産共同体から分離されてしまうからである
地域でもし昔の村のように農業でもしていればそういうことはありえないのである
労働の疎外というときマルクスが指摘したことは今も活きている
でもその労働の疎外がどこから起きているのか?
それは生産と消費の分離から起きていたのである

とにかくなぜ一旦会社から分離させられると居場所がなくなり孤立しやすいのである
そしてもう何か社会のために労働したとしてもできない
ボランティアとか意外とめんどうでできないのである
なぜなら会社とは生産共同体として組織化して素人は立ち入れない場所だからである
なにより生産共同体になると個人ではできない、組織化して仲間でするから一旦そういう共同体から離れると消費者になるほかないからである

現代は何か本当に労働自体が疎外されている
その悲惨な例が非正規とか派遣で働いている40くらいの人たちである
夢も希望もない、家族がいない人は何の働く動機もない
ただ金だけであり日々ただ生きがいもなく時間を浪費しているだけだとなる
つまり派遣という労働は毎日ただ仕事の現場に派遣される
会社で働いているのとは違う、会社員とも違う、仕事があれば派遣されるのである
そこでは日給であり正規の会社員として定年まで働くというものではない
だから保証もないし福祉もないとなる

そして何よりそこで働いたからと言って誰かに感謝されることもないのである
家族がいたら家族に感謝される生きがいがあるかもしれないが結婚していない独身者はそういうことがない、ただ一日分の金をもらいあとは食べて寝るだけだとなる
労働する生きがいがないのである
例えば働く語源が端(はた)を楽にするというときそれは家族労働のような狭い範囲から生まれた、家族が働いて苦労しているから楽にさせたいとなるのが語源なのである
そういうとき働くということはやりがいがあるとなる
今の労働はそういうことは全くない、それもグローバル化すれば地球の裏側で働いている人のことなどまるでわからない、つまり働いている人とは関係をもていなのである
ただモノが無数に入ってくるが人とは関係しない、そこに金が媒介となるだけである
そこに結局労働の疎外が起きているのである
ただマルクスの論理はそれで共産主義になったらそうした労働の疎外がなくなるということはないかった、共産主義だってグローバルであり働くという語源のようなものはなくなっている

つまり生産共同体として生産と消費が一体化することが本来の人間の在り方でありそこに自然との融和があり人間の協調があり祭りがあった
だから人間の労働のモラルもなにもなくなったのである
働くことに生きがいが見いだせないのだ、ただ金が欲しいというだけである
それで小さな畑で野菜を作る人は生産と消費が一体化しているからそこに生きがいを見出しているのである
ただそこの矛盾は金がかえってかかるということである
その金を与える者がいなければそもそもできないのである

いづれにしろ生産と消費が分離しているのはあらゆるものがそうだと思う
例えば情報というとき今までは情報を提供する者と消費する者に分離していたのである
情報を提供する者はマスコミだった、新聞とかテレビとか主だった、雑誌でもそうであるそれで情報を提供するものが国民の世論を操作して作っていたとなっていたのである
マスコミが報道するとき必ずマスコミの意にかなったものしかとりあげないからである
ニュースにしても重大なニュースでも報道されないからだ
また個々人では報道できないからである
それがインタ−ネットでyoutubeとかなると一個人がテレビのように報道できる
それは金がかからないからできるようになったのである

それでyoutubeのLove & Freedom底辺労働者)は一つの例としてこんな人がいたのかとなりその人の立場を派遣労働の悲惨な姿を生々しく知ったのである
それは家族もいないから孤立していて労働自体にも共同性もなくただ毎日金をもらい食べて寝るだけの生活なのである
そこで生産共同体という会社にも属していないからない、派遣共同体とかにはないから孤立しているのである
何より家族がいないということが孤立感を深めているのである
それは今になると自分もそうだから同情する、共感するとなる

自分自身も若い時は底辺労働者だった、でもそれは自分にとって必要なものだったのである、何か自分は恵まれていて傲慢な所があったから底辺労働してそういう傲慢さが打ち砕かれたのである、その後も自分は労働は一切していない
旅ばかりしていた、消費しかしていないのである
鉄道の旅をしている時でもそうである、それは消費でありサービスを受ける側しか経験していない、でも資本主義社会では消費者は王様なのである
金さえ払えば鉄道会社でサービスしてくれるのである
それが一旦サービスを提供する側にまわるとボランティアでもいかにむずかしいか無人駅の問題で延々と書いてきたのである
それは自分だけではない退職したら会社という生産共同体から離れたらもう一消費者でしかありえないのである、そこに仲間もいなくなり孤立化して居場所もなくなるのである 、ただ金をもっていれば消費者は王様であり待遇してくれるとはなっているのだ
しかし消費共同体というのはないのである、だからやはり孤立しているともなる
生産共同体なら会社のように共同があるが消費するだけだったらないからである
だから会社から退職した人は一消費者となり居場所がなくなり孤立するのである


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2019年05月07日

日本の経済は産業構造を変えな限り回復しない (アベノミックスでも政治では変えられない)


日本の経済は産業構造を変えな限り回復しない

(アベノミックスでも政治では変えられない)

社会が変わる時何が起きるのか? 

人口が増加する 

産業構造(技術革新)が変わる

失業問題が起きる  

社会が大きく変わる時歴史的に何が起きたのか?
縄文時代から弥生時代になったとき何が起きたのか

人口が爆発的に増加した

稲作に寄って養う人口が爆発的に増加した、縄文時代では養う人口が限られていた
狩猟採集ではそもそもその資源は限られている、食料にする動物でも植物でも爆発的に増えないからである

社会が変わる時は産業構造が変わる、狩猟採集から稲作に産業構造が変わる
稲作と鉄の生産はセットになっていた
稲荷(いなり)とは鋳成りのことであり鉄と関係した信仰である
鉄が重要なのは鉄の道具が農耕と一体となり発展させたからである
つまり道具とは技術革新だったのである
技術革新とともに社会が変わる

そういうこと歴史であったことであり継続されていることである
縄文時代が一万年というときその間にさほど変化がない社会だったのである
次に稲作時代が2000年とかつづいた
それが明治維新で工業化の時代になって大変革になった
その時も人口が江戸時代だったら3000万くらいなのに明治から大正になり6000千万になったのである、だから明治の変革は政治的なものばかりではなく産業構造の大変化だったのである
それで6000千万となっても東京は百万くらいだった、その後に十倍になったのである人口が社会構造産業技術革新で増大する

そして社会が変るとき失業問題が起きる、なぜなら産業構造が変わるから失業問題が起きる、それは例えば戦国時代になると侍は戦場で戦い人を殺すことが仕事になる
でも戦争が終わる人殺しを商売とする侍は必要なくなる
それで大量の旗本が無用化したり浪人の大量発生になる
それが社会不安をもたらすのである
旗本の不満は命をかけて戦場で戦ったのに事務方のようなものが出世しているとなり不満だった、それで旗本はもともと力があるものがなったからその力をもてあまして狼藉を働くことを時代劇でみる、戦場では活躍できたが平和になったらできないからである
失業しなくても飼い殺しのような状態になったのである

なぜこうしうて歴史をふりかえり考察するかというと現代でも同じようなことが起きているからだ
なぜ日本は今世界から遅れをとったのか?なぜ貧困化して後進国に成り下がろうとしているのか?
そしてやはり同じように失業問題が生じている、人手不足じゃないかといわれるが大企業で電機産業で富士通であれNECであれパナソニックでも苦しいとなっている
日本が高度成長したのは電機産業に社会構造を変えたからだったからである

戦前はとにかく養蚕が主要産業だった、今でも兜作りの養蚕をした家がどこでも見られるのである、どこもかしこも養蚕なのである、そこで絹織物をアメリカに売っていた
紡績産業が主要産業だったのである、それは明治以降にそうなった
紡績産業が工業化の始まりだったのである
それで私の母親も原町の紡績工場で原紡で十年間働いたのである
そこに原町駅からの引き込み線まであった、それだけ盛んだったのである

その後産業構造は石炭産業が花形のときもあったが石油がでてきて衰退した
常磐炭鉱もなくなりそれハアイアンに仕事を変えたのである
それが一応成功したのである
つまり今何が起きているのか?
そうした産業構造の変革の時代でありそれに適応できないと国自体が衰退してゆく
日本が高度成長の原動力になった電機産業衰退したから日本が貧乏化している
そしてIT産業に日本は乗り遅れて中国がアメリカと競うトップに踊り出たとなる

社会構造が変わると必ず失業問題が起きる、アメリカ国内でもラストベルト(錆びついた地帯)とか生まれたのは自動車産業の衰退で失業者が増えたためである
それは今度は日本で起こっている

電子産業生産金額を重ねてみると、まず目立つのは2000年以後の急速な減少である。2013年の生産金額は11兆円と、ピークの26兆円の半分以下となる。GDPは「ほとんど伸びない」程度なのに、電子産業生産は「10年で半減」だ

このために大企業の電機関係で電子産業で衰退が著しくリストラされるようになった
失業問題が起きてくる、今人手不足となっいてるのは底辺層の仕事であり日本を支えた先進技術関係ではないのである
そういう先進技術関係は衰退しているのである、すると戦国時代のように侍であった身分であったものが失業して浪人化する、浪人は金持ちの商人に雇われて用心棒になったり時代劇ではなる
それと同じことが大企業をリストラされた人たちはブラックな会社に落ちてゆく
それは浪人とにているのである

そして地銀とかは半分になるとか銀行でもすでにIT 化でつぶれるとなり銀行員の失業問題がクローズアップされる、つまり必ず失業問題が社会が変わる時起きてきてそれが社会の不安定要因となる、失業者があふれるときドイツではナチスの戦争になったからである戦争によって失業者を吸収したともなるからだ
日本でも戦争が終わり引揚者が過酷な開墾に従事させられた、兵隊を失業したからである兵隊よりはいいとしても悪い土地を開墾して生活するのは容易ではないから半分はやめたのである

社会が変わるというとき変えるというときそれは政治だけでは変えられないのである
アベノミックスとかの金融政策でも変えられない、それは歴史を見ればわかる
根本的に社会構造産業を変えない限り変わらないのである
日本は明治維新以降その産業構造を変えることに成功してきたのである
でも今度はその産業構造を変えることができなかった
それで窮地に追い込まれている、ではどうしたらいいのか?
それは新しい時代の産業に変えなければ政治でいくらアベノミクスとかしても効果はないのである、ただますます格差が広がり株でもうけた人だけが恩恵をこうむったとかなっている 

リストラの意味はReーstructuringなのである、産業の再構築なのである
そこに痛みが生じるが明治以降でも侍が失業したが北海道に移民して農業で再構築したとかなる、ただこうして再構築できないときどうなるのか?
それはドイツで大量の失業者が生まれて行き場を失い戦争として兵隊となったということも起きてくる、つまり戦国時代で侍が失業したとき浪人が大量に発生してそれが社会の不安化になったのとにているのだ
失業というとき大企業の正社員であったものがそれは侍とかが庶民の仕事ができない
ブラック会社に落ちるのは嫌だとなるのとにている

いづれにしろ政治で官僚でも何か政策をアベノミックスとかしても産業構造自体を変えなければ社会は変わらない、日本人の不満も解消しないのである
それはアメリカにも言えたのである、ラストベルトを解決するのにはやはりアメリカの産業構造を変えなければ解決しない、でもアメリカ全体ではIT産業に変えたからアメリカ衰退論はないという人もいる、ただ中国にIT関係でそのシェアを奪われるとアメリカは衰退するとして危機感をもったのである


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2019年05月02日

youtubeで40才くらいの底辺労働者の切実な訴え (底辺労働者ーLove & Freedom )


youtubeで40才くらいの底辺労働者の切実な訴え

(底辺労働者ーLove & Freedom )

このyoutubeは何か今までにないものであり直接に訴えるものがあった
例えば外国人労働者問題で是非を盛んに言うがそれは政府関係者とか学者とか会社経営者とか上に立つ人が意見を言っている
でも底辺労働者の生の声をテレビでも出演させて話を聞かないのである
それが今までのメデアでありマスコミだった
この人は底辺労働者だからこそそれを訴えるから今までのものとは違っていた
そういうことはインタ−ネットであったがyoutubeになると何か感情的なものが伝わってくるから切実なものが感じ取ったのである

外国人労働者というときこの人が言っているのは30から40とかその上でも賃金が上がらなくなる、来年の4月から法律が変わり外国人が大量に入りやすくなり底辺労働者として受け入れる、その人たちにとって賃金が安いとしても為替の差でかまわないという
そして仕送りするのである
また若い人だから会社でも企業でも受け入れやすい、若い人は使い安いからだ
コンビニでも言葉ができないにしても飲み込みが早いから適応できるという
肉体労働の現場でも筋肉が違っている、ギャングなどしていたとかそういうツワモノが入ってくるから40とか以上のおっさんは建設現場では使いたくないとしている
そのことで会社で若い外国人労働者が一杯入ってきて若返ったと喜んでいる人がいたのもそういうことなのだろう
つまり若いということはそれだけ価値があるということである

その人はもうコンビニとかは外国人労働者で固められていて日本人は入っていけないという、その人たちだけの仲間でやっているから日本人は入れないという
それだけすでに外国人がコンビニでも入ってきて独占しているともなる
また雇う方でも外国人の方がいいとなっている
それはグロ−バル化の結果でもある、為替の差でどうしても日本はまだ高いから安い賃金でもかまわない、そして若いから使い安いとなっているからである
それで政府でも外国人を研修させて金を使うとか積極的になる
そうして取り残されてゆくのが日本人の40を中心にした氷河期世代だという
その世代が一番苦しいとしている,その世代は不運な世代だったとなる
ただその数が多いからやがて60過ぎたりすると生活保護になるからそれが社会の負担となる、それは自己責任だけではすまされない
社会全体の負担になるからである、ただ会社のいいようにされてきた
でもそれが社会全体で見たとき良かったのか?それが問われている

40になると結婚でもなんでもどうにもならないとかも言っているが同時にまだなんとかなるとも言っている、ただ人間は30くらいまで人生の方向が決まってしまう
一旦そうしたレールから若い内でもはずれるとはずれたまま人生の最終章まではずれたままになってしまうのだ
それは自分自身がそうだった、若い時就職もしないで結婚もしないで底辺労働者だった
そしたらこの年まで社会からはずれたアウトサイダーとして生きていたとなる
そうできたのは自分の場合はそういう家庭環境がありできたのである
今の人は別にアウトサイダーでもない、フリターがいいとかされたが実はそういう労働を上からおしつけられていたとなる、非正規だと首をきりやすいから会社にとっては便利だったのである
現代が会社社会だという時、会社の意向の方が優先されるから会社に就職もしない人は社会からはずれたものとなる

この社会からはずれるということは実際は怖いことだったのである
それができたのは団塊の世代だったら極一部である、全体からしたら10万人に1人とか百万人とか一人とかの極少数でありそんな人がいたのかとなる
それが今の40くらいになるとフリターとか非正規が膨大に増えたのである
その人たちは働かないわけではないが正規のレールからはずれたようになってしまったのである
そして行く着く先が孤独死だとかなり俺たちは捨てられるとしている
その人は友達もいないし身寄りもないとかでそうなっている
それは自分自身が経験したことである、介護とかなり病気になっても誰も頼るものがないそれよりその弱さにつけんこんで脅迫して金だけを得ようとする
相手も金に追い詰められているからそうなったのである
その過酷さがどういうものか思いしることになる
それも自分の場合はカルマだったということは言えるしそのカルマとは自己責任のことだったのである

その人はただ働かされるだけで希望もなにもないと言っている
それで希望は株とかFXでありそれで金になるのが希望だとしている
後は絶望しかないと言っている、でも何かしたかったのか?
その人はただ金が入ればいいだけだったのか?
私の場合はいろいろすることがあった、旅でもそれは学習であり芸術方面でも追及して来たし学問でも追及してきた
それもその人に言わせれば金がないのだから何もできないとしている
何も積み重ねるものスキルも身につかない仕事で絶望している
だからなんとかスキルを身につけろと今になり後悔しているが遅いともしている
つまり人間は30くらいで方向が決まってしまう
人生百年でも若い時で人生の行く方向は基本的に決まってしまうことが怖いのである
そして青春はたちまちすきで40くらいになるともうとりもどせない
方向は遂に孤独死とか決まってしまうのである

いづれにしろ

俺はなんのために生きているんだ

その問いは40くらいでかなり重いものとなる、実はそれは20代でそう真剣に問うべきものだったからだ、若き時に神を知れとういのがそうである
時間はたちまちすぎる、光陰矢の如しである
ただ人生百年時代はその成果は70からでも普通にありうる時代である
だからその成果を出すことに急ぐ必要はなくなった
何か自分でも成果を出しているのは60からだったなと見るからである
そういうことでも時代が変わっている、政治家でも70と80近いとか92で首相になっているとかそういう時代なのである
それだけ長い時間の中で成果を出す時代になったのである
だから40でもまだまだというのはわかるが限界の年齢でもある
なぜならその人が言うように資格をもっていてもキャリアがないと採用されない、実践で役に立たないとなっているからだ、資格だけではだめなのである
人間は何でも経験がものいうからそうなってしまうのである
40となるとなんらかキャリアがないものは採用されないとなるのだ
底辺労働も経験だかキャリアにならないのである

ただ人生をふりかえれば順調に正規の会社員のレールにのったとしてもそれで万全なことなどない、現実に今45くらいの人がリストラされているからだ
そしてたらその人たちはとをなるのか?その人たちももう正社員として採用されるのは極一部だとなるからだ
つまりこの世に万全に備えることができない、何が未来に起きるかわからないからであるそれでベーシックインカムになりみんなアーティストになれというのも本当に今までありえないことだったのである、そういう時代が来るかもしれないからだ

結局どういうことなのか?

人生は予測できない意外な結果で終わる

これなのである、何でこうなったのだとこの人だけではない、正規のレールを真面目に歩いてきた人たちでもそうなのである、だから底辺労働者だけがそうなっているとは限らないのである
そして今や日本人全体が底辺化している、それはだからこの人だけの問題ではなくなっているのだ、底辺化してどう日本人が生きるのかという課題がつきつけられているからだ
posted by 老鶯 at 08:42| Comment(3) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題