2018年02月22日

日本に来る中国人の動機 (今は経済的なものだけではない,別な価値を求めている)


 日本に来る中国人の動機

 (今は経済的なものだけではない,別な価値を求めている)


まだ一軒残っている仮設の食堂は嫁さんが中国人である。
その人は中国に研修とかで十日間ほど休んだ
今日中国のことを聞いてみた
自分が疑問に思っていたのは

なぜ中国人が豊かになったのにまだ日本に働きにきているのか?

そのことだった,聞いてみたらもう中国は日本とさほど変わりない,日本人より金持ちの人がいるという,その人が行った先はハルビンである。
元の満州であるが寒い地域である
なんでも日本に行くか中国で働くか悩んでいる人がいるという
つまり日本にはそれほど来たいという強い願望はなくなっている
その中国人の嫁さんはそうした経済的格差とは関係なく日本にひかれているのは別な要素だった
つまり街中がきれいだとか日本人がやさしいとかなにか経済が豊かだからではない
それは中国人の観光でも事の観光となり爆買いが下火になって物ではないのに変わってきたということでもわかる

ハルピンには新幹線も通っているというからその変わり方が激しいのである。
自分の行った十数年前は電車に家畜か物のように人間がつめこまれていたのである。
そんな所に乗った死ぬ思いになった,笞で打たれてつめこまれていたから本当に家畜の扱いだったのである。
それが新幹線になったということはその変わり方は早すぎるのである。
物価もすでに十年前でも北京辺りは日本と変わらないように高くなっていたのである。
満州でもロシアの国境にある満州里ではトヨタに乗っていた金持ちもいたのである。
それから十年も過ぎたからその変わり方は激しいものとなる
確かに中国は広いから貧乏な人も多いが都市は日本と変わりなくなっているみたいだ

そうなると日本に経済的価値だけをも求めるのではなく日本の環境がいいとか日本が好きだからとかなる,それは貧乏な人が求める価値観とは違っているのである。
新幹線があり車も乗っている人が多くなればたいして日本と変わりないとなるからだ
ただ自分はそのことを経験していないから実感としてはわからない
ただ物価が十分の一の時代から同等になってしまったのである。
だから中国で格安に旅行する時代は終わったのである。
満州となると飛行機でも近い,3時間くらいだから楽である。

ロシアから満州に電車できた時はどこまでもとうもろかて畑しか見えなかった
その中に汚い川が流れているだけだなと見た,たた外国で自然は良くわからないのである自然の中に入ることは危険になるからだ
その人は言葉が通じなくて困るではないかと言ったらそうでもないと言っていた
日本語を結構覚えたとも言っている,中国語はまるでわからなかった
英語の方がわかって英語で会話したしまた漢字を書いて会話した

国際化というとき田舎でも国際化している,まず中国人を嫁さんにしていれば中国がより身近になる,その人は中国を案内してもらうから中国通になる
近いから行き来も楽である。
でもなぜまたフクソウとかで働いてる中国人の女性がいるのかとなる
別に中国で働いていた方がいいのではないか?
逆に中国で働いている若者がいた,youtubeで紹介されていた
中国の方が日本より働く場としていいともなっている時代なのである。
ただその人が言うように中国でもいいが日本にも行ってみようかというとき
すでに経済的なものが動機ではない,日本と中国でそれほど賃金も変わらないとなったら日本に来てもしょうがないとなるからだ
今多くなったのはベトナム人である,だからベトナム人の犯罪が増えている
この辺でも駅で何人かにあっているからだ,前の中国人がベトナム人に変わったのである。

日本が先端分野のITとかドローン技術では中国はすすんでいる,それで日本がその下請けになるとか記事にもある,そうんな時代になっていたのである。
とにかくその変わり方の速さについていけないのである。
それで判断を誤るのである。



タグ:中国人
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人間を見る心理学 (ギャンブルでも最初にもうけさせてあとで負けさせるのが定理)


人間を見る心理学

(ギャンブルでも最初にもうけさせてあとで負けさせるのが定理)


今回の自分の投資信託でもうやる気がなくなったのは最初から負けたからである。
それは予測しないことが起きたこともある
カナダの国債が石油が急激に下がって損した
石油は今までずっと高かったのに急激に下がったのである。
まずこのことを予測できないから失敗したとなる
先を見ることができなかったとなる

もう一つの大きな失敗はリーマンショク前から株をもっていたのである。
それが15000円になったとき回復して元にもどった
でもその時株は上がり調子だから上向きのトレンドだからそういうときはチャートを見て専門家は売らないのである。絶えずチャートのグラフを見ているからだ
でもなぜ自分の担当の銀行員は売ったのか?
それを投資信託に回したのは手数料がとれるからだったのである。
その時自分は売らなくてもいいではないかとも思った
上がってきているからそう思った,しかし相手はプロだと思いまかせたのである。
でも前に書いたように大手証券会社でも銀行は特にプロでも何でもないのである。
プロとはプライベートファンドのように利益を上げたらその10パーセントはもらうという商売である。最初から手数料をとるということはすでに損は投資信託を売った時点で損はしない仕組みになっているのである
ただそこで手間隙かかるからその分とるということはわかる
でも損はしないのだからそれもいいわけにはならないだろ。

ともかく人間の心理として最初にもうけるとまたギャンブルでも賭ける
これは人間の善悪の問題ではない,人間の心理が古来変わらないのである。
そういうふうに人間が変わらない心理がありそこから人間を見るということも必要であるそれで中国とかでは絶え間なく戦乱であり人間を策略で陥れる
そういう非情を見てきたから孫子の思想とかがが生まれる
マキャベリもそうである。

人間はだいじに扱うか、叩きのめすか、どちらかにすべきである。小さな傷を受けた者は復讐するかもしれないが、重傷を負えば復讐できない。人を傷つけるときは、必ず復讐のおそれを断っておくべきである。

これを日本にあてはめると日本は原爆を落されて完全に打ちのめされて抵抗できなくなったのである。だからアメリカでは容易に日本を支配できるようになったのである。
日本人はあれほど鬼畜米英になっていたのにすんなり原爆をおとされて従順になったのを不思議がるが原爆の影響が大きかった,この言葉のように完全に打ちのめされたのである
日本が戦争に突入した原因としてギャンブル的に考えれば日本は日清日露戦争で一応勝ったので傲慢になった
それはギャンブルで最初に勝ったことによりそうなったともいえる
もし日露戦争でも負ければ日本は弱いのだという自覚をもつから次の戦争でも躊躇したことはありえる,つまり最初に勝つことは人間の心理としてかなり影響する
次もまた勝つという奢りが生まれるのである。
だから日露戦争に反対した内村鑑三などいたが後は日露戦争を賛美する人が今でも多いし当時は国民がロシアに勝ったと熱狂していたのである。
それも実は危険なことであり奢りとなり次の太平洋戦争に突入した

信長は桶狭間で勝ったけどその後は同じ戦法を使わなかったというときそこに信長の優れたものがあった,同じ戦法では時と場合がありケースバイケースであり勝てないのであるともかく人間は一回勝利するとその成功体験に酔う,次も同じように勝つと奢りになるのである。
だから必ずしも最初から勝つということはその後がありいいとういことはない
要するに日本の戦争でも日露戦争で負けていたらうちのめされていたらアメリカと戦うようなことはしなかったのである。

ともかく自分はとてもまた投資信託などやる気がしなくなった
これだけ負ければやる気がなくなる,ただもし勝っていたらまたやることは間違いないのである。
だから株をすすめる人は最初いいものをもってきて勝たせる必要があると思った
ただそういうことは投資信託ではない,ほとんど手数料をもらう商売であり客にもうけさせるということはないのである。
だからもうそのことを客がわかってくるとやる人がいなくなる
投資信託は7割がもうかっていない,でも3割はもうかっているとなるがその3割は大手証券会社とか銀行にすすめられたものではない,別な証券会社であり手数料をとらないものとかいろいろある,まず大手証券会社と銀行にすすめられるものはもうかる人がいても一割くらだろう。だからほとんどは損しているのである。
つまり投資信託の仕組み自体がそうなっているからもうからないのである。

いづれにしろ自分の場合は人間の心理として最初に負ければ損すれば次にまた賭けるということはしなくなる,それは人間の心理でありどうにもならないとなる
だから人間の心理というのを良く知ることも必要だなと思った
悪知恵にしても最初はもうけさせない限り人はもうその後は賭けないからである。
結局全敗だったからやる気がなくなったとなる,分配型は知らぬ間に元金からひかれていたのも錯覚をもたらしていたし収支決算もしないしすべて投資信託をすすめる人が有利になっている仕組みなのである。
だからこそすすめるのである。

ただネットでもどこでも様々な情報がでる,では投資信託の情報で気をつけねばならいなのは投資信託をすすめる商売をしているものとそれを買う側とに分けるべきである
投資信託をすすめる商売の人は投資信託を言いも気としてすすめるからいいことを書いている,でもそれで失敗した人はそうは書かないのである。
でも失敗した人は一部だとも言うことはできる他の人に言える
でも統計的にも7割しか成功していないし3割が成功しても大手証券とか銀行にすすめられたものは成功していない確率が多いのである
だから統計的にも合理的なものである。一人一人はいろいろあってもやはり統計的に答えが出ているのからだ

ただわからないのはどうして投資信託のようなものが世間に出回りそれがもうかるような錯覚をもたらしているのか?
それになぜ銀行までが加担して広めているのか?
それは一時的にはもうけをだしてもみんなもうからないとか損したとなると信用がなくなる,なぜこんなものをすすめたのだと客が銀行でも不信をいだくようになるとあと何をすすめてもしんようできないとなる
信用を損なうようなことをして将来的に成り立つのかという疑問である。
別に銀行員が悪いということはない,銀行の方針としてノルマを課して投資信託をすすめさせているからだ

こういうことは自分も経験している,カルト教団では会員を獲得することがノルマである一票をとるために毎日奔走する,それはなぜだったのか?
それがその団体が権力を得るためにそうしている,数が増えれは社会的勢力となり影響力をもつのが民主主義だからである。
そういうふうに圧力をかけているのは誰なのか?
それは上に立つものだともなる,若い人は別に従わなくてもいいが銀行に勤める限り従わざるを得ないのである。
だからそもそも銀行自体が問題視される,そういう経営で社会のためになるのか?
社会の中で存在意義があるのかということにもなる
なぜなら会社とは会社の利益だけを追及するものではないからである。
必ず公益的なものがありそれでなければ存続しえないからである。
それで金融庁から投資信託のことで注意されたのである。
つまり銀行自体が実は問われているのである。
ただ銀行側にすると投資信託はもうかるものだからそうしている,でもそれが信用を失うことになり社会的公益性からして銀行はすでにもういらないとされるようになる
そういう危機に直面しているのが銀行だともなる

タグ:心理学
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2018年02月21日

無駄に金が使われすぎる (弁護士とか銀行とか医療関係とかゼネコンとかで無駄に使われた)


無駄に金が使われすぎる

(弁護士とか銀行とか医療関係とかゼネコンとかで無駄に使われた)


今になると経済を知るには株をやるといい,それも百万とか実験的にする,それは損してもいいとしてやる,すると相当経済の勉強になっていたなとこれも後悔する,今頃それをしても遅かったのである。
これも失敗だったと思う,実感としての経済学がわかることが大事なのである。
株をしていると確実に損したり得したりするとそこから実感として学ぶからである。
それがまさに資本主義社会なのである
株をしないと実感的に資本主義とかグローバル経済というのがわからないのである。
カナダの国債で円高になり相当に損したということで円高のことがわかる
トヨタなどでも一円で百億円とかの損益でるとなるとこの為替の上がり下がりは怖いなと実感した
最近USリートを売ったのはアメリカの金利が上がったからである。金利が上がる住宅関係は借りにくくなるから指数が下がってきたのである

人間は経済的な面から見ると損したことは良く覚えている,あれは損だったということを実感として脳裏に刻まれるのである。
でも成功した体験は何か忘れやすいのである。
おそらく心理学的にはギャンブルで最初もうかるということが危険なのである。
そこに有頂天になるとか俺はついているとか過信が生まれたりするから危険なのである。ただ人間の心理として最初にもうかるとまたギャンブルでは賭ける
だから最初にもうかることはかえって危険だとなる
ただ心理学的には人間は最初もうかると必ずまたもうかると思い賭けるのである。
そして今度は損したとしても何か最初にもうかったからあきらめるともなるのが不思議である。人間の心理としてそれがある、だから心理学的に人間をだますこともできると思った,ギャンブルでは最初は勝たせないともうその後は賭けないからである。
今回の自分の投資信託は全敗だったからもうやらないと決心したのである。

損したというとき自分は直接かかわっていないが弁護士に何もしてもらわないのに相談料で百万とられたのは今ふりかえるとただ金をとられたというだけになった
なぜなら実際の交渉は保険会社の人がしたからである。弁護士は一切なにもしていない
ただ弁護士に頼んだということを相手には言ったが実際は何もしないのに相談料だけ最初に百万とったのである。これも理不尽だなと今ふりかえる
それから前の渡辺病院でMRIで認知症になった姉の写真をとったが3万とられた
でもその機械でまず認知症のことはわからない,写らないのである。
郡山とかに二台ある機械だと多少わかるようだがそれでも認知症がわかる機械はないのである。

3万払ったとしても実際は一割だから30万も払ったことになる
これもその時は考えなかったが今になるとそのことに気づいた
30万は大きな金である,なぜこうしてこういうふうに金がかかることは実は自分の家族だけの問題ではない,税金となり保険となるから国民の負担となっている
医療関係にはそうした無駄な治療とか検査とか多すぎるのである
でも病院とかではそれで稼がないといい機械を買えないとかありそうするのである
3万で安いと思っても実際は医療の場合は馬鹿高くなっている
他でも医療費がふくれあがりもう保険でも介護でももたないというときそこには相当な無駄があるためである。減らすことができるが無駄がありすぎる
何か税金は無駄が多い,その額も大きいのである。

この辺で除染で何兆円も欠けたけどそんなに必要だったのか?
むしろその金を南相馬市だったら小高とかと鹿島区ではもめたからその金によって争いをなくすようにできたのである。
また公共の建築土木関係には大きな金の無駄が指摘されてきた
その無駄が国民にはねかえり税負担になる
人間は自分の金は大事にするけど他人の金は大事にしない,それで官僚は税金を無駄にするというのもわかる,自分の金だったらそういうことはしない,やはり十円でも百円でも損失には敏感だからである。
本当に大きな金になると無駄も大きくなるのである。

弁護士であれ医療であれ株とか大きな金が動く,そこでその金をとりこむことができる
それは不正というのではないが合法的に金がとられとなる
でもそれはだましにもなっている,弁護士の相談料に100万を払う必要はなかった
自分が払うとなるとそんなにかかるのとなるからだ
今はみんな自分で払うから自分の金だから痛みになる
ただ医療費はいくら3万でもしかたがないのかとなりやすいのである。
薬でも高いのもしかたがないとなるのは病気に人間は弱いからである。
弁護士でももめごとで困っているから頼むのである。
そこに常に弱みがありその弱みに合法的につけこまれるのである。

銀行でも証券会社でも大きな金が動く,するとそこに暴利のようなものにもなる
ビットコインなどもそうである。そこでは普通の社会では得られない金を得た人がいた
そういう株の世界には不自然なものがあり理不尽なものもある
ただ金を得ればいいとうだけのことしかない,日常の生活ではそういうことはない
野菜でも果物で何か作って売ってもそれ相応の分しか金はもらえないからだ
だから仙台の優創建とかのユニットバスを作った人は百万で安かったしできたものはいいものだった,ガス屋では200百万かかるというのを百万で作ったのである。
地元の大工だと3百万かかっていた,知り合いの人に頼むとそうなった
なぜなら見積もりもなにもないからそうなるのである。

結局人間は何か地道な仕事がモラル的にはいいとなる,ただそうなると収入が少なくなるから嫌だとなる,肉体労働となるとまたきついから嫌だとなる
でも弁護士でも銀行でも医療関係でもブラック化しやすいなと思った
金融関係は一般的にそうなりやい,地道に働くのとは違っているからだ
人間がどういう職につくのかは大事である。
なぜならもしそこで人生の時間を費やすとしたらそこに費やした時間が人生になってしまうからだ,そこがモラル的には悪いとなるそれが後で影響が出てくる
何か顔を見ると人間がわかるというがそういう仕事をしていると人間は心も歪んでくる
それがあとで結果として出てくるから怖いのである。

自分が思うには江戸時代がみんないい顔していたということを外人が言うとき貧乏でも今のような多様な職業の中でモラル的に歪んだものではなく天に恥じないような仕事をしていた,農業だと今の弁護士だと金融関係などの仕事とは根本的に違うからである。
そういう影響で素朴な人が多く人をだましたりしない,何か弁護士でも正義のためにするのではない,口八丁でだますということがしやすいのである。
法律する人をだますものとして悪用しやすいものだからである。
何か現代の職業はそういう職業にかえって憧れるし楽で金が入るとかなるけどそういう職業はモラル的に問題あるなと思った

投資信託の話などでたらめだとなる,自分たちの銀行でも証券会社の利益が優先されているから顧客のことより手数料の多い投資信託をすすめる
そこで判断が誤るということもある,なぜなら株をリーマンショクの前にもっていたのにそして上がってきたのにその時売って投資信託につぎこんだからである。
それはその時の判断がありいちがいに批判はできない
でもその言っていることがただ自分たちの銀行の利益が優先で顧客のことは二の次三の次だなと経験して思った
そして損すれば株とは上がったり下がったりいろいろな政治とかその時々の様々な影響がありますといえばいいのである,そう嘘でもいいわけがしやすいのである。
素人にはわからないからである。

結局安全なのは貯金だとなる,これも問題あるにしろもう年になれば株は無理である。
手堅くいく他ない,底辺層が貯金がないから安心がないというのもわかる
株で投資信託などで増やそうとするのではなく手堅く財産を守るとなる

●節約する
●消費を極力減らす
●財産は守る,なるべく減らさない

このように保守的になる,それは老人はみんなそうでありそうすることがしやすいのである。老人は消費するにもできない,いい長距離用の電動マウンテンバ自転車が出たから買いたい,でも体力もないし遠く行く旅行は無理だとか思い買っても無駄だとなる
すると老人自体が消費できないのである。消費することもエネルギーが必要なのである。現代は消費することが生産すると同じようにエネルギーが必要なのである。
だから自分の生活の仕方,方針を転換した
それで75歳から5万もらえる保険がいいとか思った
ただ75歳前に死ぬとゼロになる,でも安心だともなる,自分の場合国民年金だとたりないからである。でも5万は結構大きい金だからそれでなんとかのりきれるとかなる
つまり保守的になってしまうのである。
退職してから株とか投資に向かいないのである。
これも相当な訓練と経験がないとできないからである。




タグ:無駄な金
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銀行,大手証券のすすめる投資信託はもうからない (その人達は金融のプロではない)


銀行,大手証券のすすめる投資信託はもうからない

(その人達は金融のプロではない)



投資信託だけは買ってはいけない3つの理由 − 金融のプロはどうやって儲けているのか

ここで言っていることは経験してわかった、金融のプロがどうしてもうけているのか?
その金融のプロとはどういう人なのか?

プライベートファンドの多くは、信託報酬の他に「成功報酬」として「運用で勝った場合に、勝ち分の〜%を貰います」という報酬形態を採用しています。

彼らの給料の内多くはこの成功報酬から払われることになりますので、手数料の面で一見投資信託よりも高く映ります。
しかし、むしろ実質的な運用の質は遥かに高いものが期待出来ると言えます。

これはわかる,銀行とか大手証券会社で手数料をとるのはまるで違っている
失敗しようが全然損益にはならない,手数料は確実に入ってくるのである。
でも証券会社でも銀行でも個々人に投資させれば投資するものが損する
証券会社とか銀行は何の不利益にもならないのである。

だからある程度大きな金ならプライベートファンドを見つけて金をまかせた方がいい
大手証券でも銀行でも手数料が多くとれることしか考えていないからである。

相手をもうけさせようとしているのではない

証券会社が銀行がもうけるためにまずすすめるのである。

それでリーショックの時株もっていた半分になった,でもその後倍になった
でもその時投資信託をすすめたと銀行員はその株を投資信託に回した
なぜか?

銀行にとって手数料がとれる投資信託がもうかるからである

つまり顧客のことより自分たち銀行のもうけを優先しているからである。
それで今になると株が上がったたのだから売れば相当な利益になっていたのである。
ただその時の判断はあるが自分はその銀行員がプロだと思いまかせたのである。

大手証券会社とか銀行員は金融のプロではない

ここがはっきりと認識すべきである。
だからここのサイトはその要点をついているからわかりやすいのである。
もちろん投資信託でも株でも金融商品にはいろいろな見方がある
だからいちがいに自分の経験が参考にはならない

でもカナダの国債が石油が下がりusリートでも一時売ってもうかったがまた買ったとして手数料がとられる,3パーセントは大きな額になる,投資信託の金が大きければその額は大きいのである。

まず証券会社の人でも銀行でも投資信託はしていない

それは証券会社と銀行はもうけるのであり顧客をもうけさせるもののためではないからだただ手数料をとればいいという商売である。

だからこそ株が上がっていたのにその株を売って投資信託にしたのである。
そして今度はJリートにしたがこれも指数が下がり今は損して売れない
つまりみんな実際は自分の場合は投資信託でも外国の国債でも失敗したのである。
そして次々に新しい投資信託を買わせるのはその時大きく手数料が入るからである。

投資信託はもうからない仕組みになっている,もうかるのは手数料をとるリスクもなにもない,大手証券と銀行である,だから詐欺ともにているのだ
投資信託を売りつければ自分たちは絶対に損はしない手数料だけはいただくという商売だからである。

損して得をしろというけど投資信託は得して絶対損しない商売である。

そういう商売自体が一時的にもうけてもその後は成り立たなくなる
まず銀行員が投資信託をすすめても信用できない,いいことを言ってもこれだけ失敗すれば信じることはできない,株とかそういうものだとしてもプロとしてまかせたからである
でも証券会社や銀行は金融のプロではない

金融のプロとはプライベートに大金をまかせられる人なのである。それは大手証券会社とか銀行ではないのである。
金融のプロはそこで顧客をもうけさせれば何パーセントと利益を得るが失敗すれば何も得られないからである。
それはただ相当な金持ちしかそういう人には頼めないのである

実際投資信託でも手数料が安いとそれなりの対応しかしてくれないというのはわかる
でも自分はそれなりの大きな金を頼んだのである。
金持ちとは違っていても手数料も大きかったのである。
それで失敗したとなるともう何を言っても信用できない,まずその証券会社と銀行員は金融のプロではないのだ
ただ手数料をとるために適当に金集めしているだけだというのもわかる
つまり顧客をもうけさせるのではなくまず彼らが考えているのは手数料をとることである
だから商売でも相手を得させるということは損しても得しろということが諺として残されている,それとは全く違う世界である。
でもその諺も通用する,もし最初にもうかっていればまたもうかるのではないかと別な投資信託をすすめられれば投資することになるからだ
ギャンブルでも最初にもうけた人はまた賭けるのと同じである
これだけ損して全敗のようになれば賭けたりしないのである。
投資でも最初分配金が払われて信用したということもある
全く自分の場合は全部失敗したのだからとてもこれ以上すすめられてもそんなことできなくなったのである。

そもそも銀行自体信用できなくなったともなる
そのことを知っている人がしきりに言っていたから当たっていたとなる
金融は複雑だからだましやすいのである。何かもうかるような気分にさせる
でも現実にこれだけ全部失敗して損させられればもうまかせることはできない
それが小さい金だったらこうはならなかった
それなりの金をまかせたのにその人は金融のプロではなかったのである。
一般的に普通の人が接するのは金融のプロではない
ただ手数料をとるだけの自分たち確実に得するが顧客は損しようがかまわない商売なのである。
ただそういうものが社会にまかり通っていることが納得がいかない
それも銀行という固い職業でそうだとういことは銀行の信用は失墜する
それでもしているのは銀行が追い詰められているからだとなる

ともかく人間は経験である。もし株でも経験していればこうはならなかった
本を読んでもわからないことがこの世にはいくらでもある
経験しない限り株なら損するとかしないとその世界のことはわからないのである。
それがわかるのは学者が経済や経営を教えているけど株でもうけられないことでもわかるそういう世界に通じるにも経験なのである。それがないからたやすくだまされるともなるのである。
ただわからないのは銀行がそこまでするということは切羽詰まっているからでありでも結果的には最大の財産である信用失うということになりかねない
その怖さを認識しないと会社自体が危うくなる,すでになっているからこそそうしたものに手を出さざるをえなくなったとなる



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2018年02月19日

経済のための社会か社会のための経済か? (仲間となりうるものは誰なのか?)


経済のための社会か社会のための経済か?

(仲間となりうるものは誰なのか?)

人手不足で低賃金の理由(宮台真司)

ここで社会(仲間)のための経済のための社会の議論


この問いかけは興味深い,でも仲間とは何かなのか仲間からcompanyに発展した,仲間から会社に成ったことは理解できる
会社は今でもそこでともに働くのだから強い仲間意識をもっている
だからこそ会社人間となり企業戦士となり高度成長時代があった
仲間意識というとき江戸時代なら会社がないのだから身分社会だから身分によって仲間意識をもっていた,侍は侍で農民は農民で職人は職人で住み分けられて仲間意識をもっていた

そもそも仲間というとき一番親密なものは家族である。ただ家族からではなく仲間とか友達は家族意外のもとの仲間関係である。家族はそもそも仲間という意識から成り立っていないからである。
他人との関係で仲間意識が形成される,その仲間意識がどうして培われたのか?
それは友は共でありもともと共にする,共同して働くとかから起きている言葉である。
共同して働くことが友となり仲間となることを意識させたのである。
だから働くというとき端を楽にするということで働くとなった,それは家族が仲間が労働していて苦労していることを見て自分も手伝ってやろうという意識が生まれた
だから仲間意識は協同して働くことから起きてくる

村とか今でも協同して除草をしている,今より前は必ず協同しないと農民は成り立たないだから街内から離れて農家のあるところに住んでいる人は農家がありつきあいがめんどうだから嫌だといっているのもわかる
その人は農民ではなくトラック運転手だったり電気工だったり会社員になっていたからである。農民と協同する立場にないからそうなった
その人にとって共同しているのは会社だったのである。
ただ今は退職しているからその会社とは関係ないけどその農家のいる所に住んでいるから付き合いが嫌だと言っているのである。

ただこの仲間というのを深く考えると何なのか?
仲間内では協同しても仲間意外の人とは協同しないということがある
一つの村では協同しても他の村とは協同とはならない,利害で対立することがある
水争いとか木材資源の争いとかあった,そこで武士が加勢して戦争にもなった
ある仲間ができればその仲間内では協力するが外に対しては仲間でないから対立して戦争になる
そういうのも人間の歴史だった,部族同士では猿族とか犬族とかトーテムで形成されて仲間意識が作られた,でもその他の部族のトーテムとは争うことになる
仲間意識は必ずそうして仲間同士では協力するがその外に対しては協力しない敵対する
それで日本の村では閉鎖的でありよそ者を受け入れないのである。

この仲間意識の形成は仲間内では仲間と認めて協同するのである。
例えば今の会社だってそうである。同じ会社なら協同する関係で仲間である。
まず会社のために働くことは仲間のために働くことになる
地銀などでもまず自分たちの会社のために働くことが至上命令になる
どうしても利益をあげねばならない,だから手数料のとれる投資信託をすすめるのである顧客の利益も計ることは計るが会社の利益が会社の仲間の利益のために収益をあげることノルマが課せられている
顧客は損しても仲間(company)は損してはならないのである。
それはどこの会社でも同じだが会社意外の人をただ金儲けの対象としているとき自分たちがもうければいいとなるとき顧客から見離されることがある
顧客ともなんらか協同関係がないと協力してくれない,金はあずけないとなるからだ

そういう問題はいろんな場面で起きている,病院でも患者を仲間とみるのか?
ただ金をとれる人としてみるとそこでいらない薬を与えたりまた極端にるなといらない手術をして保険の点数を稼ぎもうける,病院にも医者にもそういうことはあり問題になる
患者をただ金をとるたげのものと見ればそうなる,仲間とみればそうはならない
その差は大きいとなる,例えば患者が友人だったりすればそういうことはしないからである。

要するにその人を仲間とみるか見ないかでその待遇も相当に違ったものとなる
ベトナム人が出稼ぎにくる,ただ安く使えるからと働かせる
でもベトナム人でも日本に来ればそれ相応の生活をしたいとなるのが人情である
それで盗むことや犯罪が多くなるのである。

ベトナム人は仲間ではない,働く道具である

そういうふうに見ている,これは経営者と雇う人と雇われる人の間でも起きている
雇う人が雇われる人をどう見ているのか?
ただ安くこき使い収入をあげれば会社の人達にとってもうけとなると見ているのか?
それは非正規と正社員の間でもあった,非正規は会社員で正社員でないから仲間ではないとかなる
仲間と認めるものと認めないもので待遇は相当に変わってしまうのである。

日本人は仲間だが外国人は仲間ではないから安く使ってもいい,日本人のような扱いにしなくてもいいというのも仲間と認めないからである。
ただ外国人でもスキルがある人は待遇が良くなるし日本人より良くなる
それは日本人にとって会社にとって利益になるからである。
ではたいして利益にならないベトナム人は最低辺でこきつかいばいいともなる
それは外国人でなくても日本人内部でも起きていることである。
だから誰を仲間とするかという問題も複雑なのである。

ただ現在のグローバル経済,資本主義は経済のために社会がある,社会が仲間意識だとすると経済が優先される,仲間のために経済が金が回っていない
そもそも誰か知らない人のために地球の裏側の人のために働いていれば物でも売り買いしていれどはそうなるのである。
例え外国から物が入っていいとしてもそれで仲間意識はもたないのである。
仲間意識は狭い範囲でしかもてない,福島県でも仲間意識をもっているのかというと広すぎるからもちにくい,それが全国になるとさらにもちにくいのである。
第一仲間意識をもったのは日本だったら村という狭い地域だったからである。

それで地元を良くするために地元で買い物しろ地元の商店で買いというとき地元は仲間なのだから仲間のために買いとなる
それからユニットバスを仙台の業者に頼んだら百万でできた,ガス屋では二百万かかると言っていた,ただ家に来ている人は建築関係者を知っていてそこに頼むべきだとしきりに言っていた,その人には庭作りなどをしてもらったからである。
それは地元の人は仲間のなのだから仲間のために仕事させろ金を使いということなのである。地元が豊かにならなければそこに住んでいる人も豊かにならない
そして病気になったり何かあったら地元の人に助けてもらうのだからそうしろ,仲間なのだからそうすべきだとなる
でもその人に頼めば三〇〇百万はかかった,その人の知っている大工はあとからあとから金を請求してきたからである。
仲間だからといって経済のためだけではせない,社会=地元とするとき地元のためだけに仲間のためにだけにすると経済の原理と反することになる
損害も受けるから金が三倍もかけて地元の人に頼むのかともなる
こういう問題も広域化したグローバル化した社会の問題である。
地銀に証券会社の人が出向して株や投資信託をすすめるのもそうである。
それは地銀の枠をこえたグローバル経済の中に組み込まれるからそうなる

地元を優先しろ,仲間を優先しろ

これが常に言われるがそうするとこういうい問題も起きてくるのである。

ただ仲間意識というのは会社だけではない宗教によっても作られる
カルト教団でもそこに所属して仲間意識をもつことはもつ,だから宗教の対立も同じ宗教だと仲間意識をもつがそうでないと深刻なの対立になるのである。
人間の対立はそもそもそうして仲間意識をもつ故に他の仲間意識をもつ人達と争いになる国があれば日本国意外の人とは仲間意識をもちにくいしそれは世界共通である。
グローバル経済は資本主義はただ経済の原理しかない,仲間など関係ないという世界である。これも一見いいようで失敗したのは人間はそうした経済だけの無機質的な物だけのやりとりのつながりに価値と意味を見いだせないからである。
イギリスはイギリスに生きてきたもののものであり外国人のものではないとかなる
外国人は仲間として認められないから移民はもういらないとなるのが世界で起きてきたのである。

つまり経済の原理だけで人手がたりないから人間を部品のようにもってくることはできない,まず仲間として認めないと人間は機械ではないのだから不満になるのである。
人間は必ずしも働く動機が経済利益の原理だけで働いているのではない
仲間のために働いているということがある,仲間と認めるから働くということがある
だからグローバル経済はそうした人間的なものを無視しているから失敗になるしそういう世界に人間は耐えられないのである。
だから経済のための社会はゆきづまり人間のための経済へと変換する
世界的市場でやりとりするのは無理だとなる

一円でも円高になれば百億もトヨタとかで損する世界は異常なのである。
そんな世界に人間はもう対応できない,それより内需型で安定している方がいいとなる
国内の仲間中心の経済がいいとなる,それは世界中で起きているのである。
アメリカだったら一体この国は誰のものなのか?
肝心のこの国を作った子孫なのに貧困化している,移民に職も奪われている
移民は仲間ではない,一時的に金を稼ぐだけの人達にすぎない,国が危機になっても協同しない奴らだとなる

現実に日本人でも韓国でも中国人でも日本で働く人は実は中国韓国の工作員であり何か緊急自体になったとき戦争などが起きれば日本で中国のために働くように法律まである
つまり中国人は中国人は仲間だけど日本人は仲間ではないとなる
だからスキルをもった優秀な人達でもそういう人こそ実は内部資料とか日本の中枢部に入るから危険だとなる
つまりその人たちは日本人ではないから日本のために尽くすわけではない,何かあったら戦争のようになったら危険分子となる
だからいくらスキルがあってもそういう人を安易に受け入れていいのかという警戒するのもわかる

だからここで問題になっているのは仲間とは何なのか?
日本だったら戦争のとき生死をともにしたから仲間である。
生死をともるするともなると強固な仲間意識をもつ
でも敵対するものは仲間ではないから殺しても平気だとなる
つまり仲間意識を強固にもつことはその外のものに対しては排他的になり殺してもいいともなる
それは別に国内でも起きている,カルト教団でもある団体組織に所属すれはその中では仲間意識を強固にもつが外に対して容易に敵対関係になる
そしてその組織や団体を批判するとその団体組織ぐるみでその人に対して攻撃する
それは宗教を誹謗するからだとかなるがそれだけではない,その団体組織内で強固な従属仲間意識をもつからそうなるのである。

いづれにしろグローバル経済は人間的なものから逸脱した経済の原理のみから成り立つからそれに人間は耐えられない,世界的にそんな経済で一体化することはない
むしろ一握りのものの利益のために働かせられているというだけになり崩壊する
そこに仲間などいないのである。金の道具としての人間がいるだけだからである。
金の奴隷として使える人間であり仲間のためになど関係ないからである。
それは金をくれと自分の家に来た人がそうである。
自分の家のために自分など仲間でもなんでもない,金をとれるものとしてしか見ていない近くに住んでいてもそうだった,そこでは完全に人間関係は断絶しているのである。
相手は金をとるものでありそれしか意味がないのである。
たとえ金持ちでも何か人間として交流がありうるからである。仲間意識だってつくりえるそれも一切ない,金あるものから金を奪えばいいとういだけの関係になる
だから金あるものから盗めばいい殺しても盗めばいいとしかならない
現代のグローバル経済は田舎でもその中に組み入れられているからそうなる
金のために経済のための社会であり他人であり仲間のための社会では経済ではないのである。そうなると仲間はいないのだから弱肉強食の社会となる
それは地獄にいるとなる,特に家族がいないものはそうなる







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2018年02月17日

安定の時代は終わり不安定と混乱の時代へ (日本の中世の混乱の時代とにている?)


安定の時代は終わり不安定と混乱の時代へ

(日本の中世の混乱の時代とにている?)

村共同体→武家共同体→国家国民共同体→会社共同体→グローバル多国籍企業共同体→

共同体は時代と共に急激に変化した,もともとあった共同体が破壊され新しい共同体になる,その時の変化が大きかったし心理的にも相当な変化であり不安定なものとなる
そこで顕著に現れるのは今までの職を失うことである。
職を失うことは一番社会でも不安定になる,高度成長時代は職を失うということはまれである。中小企業でも安定していたのである。
今は大企業でも安定していない,というのはグローバリゼーションの中で経済が動けば世界の動向に左右されるから不安定になる
その中で熾烈な競争が強いられるし安定しないのである。
だから為替でも一円でも上がったり下がったりするとトヨタでは何百億とか損失になるとかなる,そのこと自体が常に変動する世界であり安定しないのである。
何か北朝鮮のような所で問題が起きるとすぐに株は下がり不安定化する

働き方もフリーターとかパートとかが常態化している,その日暮らし日銭稼ぎのような人が増えてくる,それは会社自体が安定していないからである。
今までなら大企業でも中小企業でもそこに勤めれば一生勤めることができた
そういう社会は安定していたのである。
だから高度成長時代は人心も安定していた時代だったとなる
フリーターとか派遣とか非正規労働者はまれだったのである。
自分のような人は特別な例外だったのである。
それがそうしたフリーターとか非正規,その日暮らしの人が常態化した社会となった

何かそうして急速に社会が変わる,それに追いついていけない社会でもある
銀行が地方でも最も安定した職業だと見られていたのである。
それが地銀が消失するとか危機になっている
それで銀行員が必死に投資信託をすすめる,もう背に腹をを代えられないからしている
それは手数料ばかりとられるもので素人は株とかではもうけられない仕組みになっていたのである。
ただ銀行は信用できると思い銀行員にまかせたのである。
そういうふうに時代が急速に変わるから追いつけないのである。

そういう変化は中世に平家の時代や鎌倉時代に起きたというので今の時代とにているというのも共通性があるのか?
その時代に海運が発達して物の流通が活発になり宋銭が出回り物価があがり庶民が苦しんだ,そこで商工業者が勃興してその人たちは社会を牛耳るようになるとモラルが頽廃したそれで親鸞などが生まれそういう悪人でも往生できるとか説いたという説もそうなのかと思う。
現代も異常に金の力が社会を席巻しているからである。
どの顔を見ても金が欲しい金から離れられないものとなっている
金のことしか頭にないのである。

自分の所に来た人もみんなそうだった,金をくれと家に手伝いに来た盗む女性がいたり事業じ失敗して自分が苦しんでいるのも関係なく借金しているから脅迫するようにもなる
銀行までが窮地に追い込まれているから投資信託で手数料をとる商売になる
それは社会全体で起きている現象なのである。
人間=金となった時代である。

そして海運が発達した結果投機的になった社会だとうい「二一世紀をどう生きるか」野田宣雄氏の見方は興味深い
海運は投機的である,沈没したりするからである。船が沈没すれば投資してもその見返りはゼロになるからだ,それは株の投資ともにているし資本主義がそういう船への投資から始まったという説もうなづける
オランダがそうした海外貿易で栄えたのもわかる,それで金余りになり最初のバブルが起きた,チューリップバブルが起きたのである。
オランダはだから最初の資本主義国家を具現化したともなる
オランダにはユダヤ人が集まりそこで金融が発達したというのもわかる
大航海時代はそうして船への投機がありそれでヨーロッパに富がもたらされたのである。植民地経営でも莫大な富がヨーロッパにもたらされたのである。

時代が変わるともともとあった共同体が破壊される,消失する,国家国民共同体が戦争で破壊されて会社共同体になった,高度成長時代があり社会は安定していた
でもその会社共同体がゆらぎ消失してゆくと不安定な時代になる
フリーターとか非正規労働者が常態化する,その日暮らしになり格差社会化する
そういう不安定な社会では犯罪も増えるはずである。
ただ犯罪自体は増えていないがモラルは荒廃してゆく
金のみが価値になり親子の間でも財産だけが欲しいとなり親は捨てられる
世界的にも金を求めて人も物も移動する,移民労働者も不安定な社会に拍車をかける
今はベトナム人が最底辺で働いているが犯罪が多くなっているのでもわかる
どうしても日本に来れば金がかかるからそうならざるをえないのである。

人間は清貧などには一般的にはなりえない,恒産がなければ恒心がないというのが普通である,何か安定して収入がなけれは人間のモラルは荒廃するのである。
田舎では特にそうなのである。土地とか家とか何か他に田畑とか恒産がないと安定しないのである。今までは銀行などは安定した職場だったのである。公務員は今でも安定した職場である。それすらこれからゆらいでくるから不安定になる
そういう社会はモラルが荒廃してゆく,すでに荒廃している
みんな真面目に働かなくもなる,投機でもうける株でもうけるのがいいとかなる
FXとかで利ざやを稼ぐとかなる,それは労働倫理が社会的に消失していることなのである一攫千金がいい真面目にこつこつ働くことは馬鹿らしいとなっているからだ

そうしてモラルが荒廃したから親鸞とかが他に新宗教が生まれたというのも現代とにているという。
もう一つの見方として今までの安定した共同体が破壊されることである。
では新しい共同体を作れるのかというと簡単にはできない,当分混乱状態になる
なんらか中世の混乱時代,戦国時代のようになる
すでになっている,もう安定はないのである。
だからこれから生きる人は若い人はその最初から困難を強いられているのだ
高度成長の団塊の世代は最初は貧乏だったけどその後は安定していたからである。

ただ中世にもどるというとき中世とか江戸時代とかは閉鎖された社会でありそこで安定したと見る,資本主義やグローバル経済とは違い内需だけで生活していたと見る
だからグローバル経済に影響されないから国内で安定してモラルが形成されるとなる
江戸時代はそうだった,貧乏でも外国人が来て言うようにみんないい顔していたとかなるそれは国内経済だけで安定していたからである。貧乏であってもモラル的に安定していたからである。侍でも庶民でも食べるものはさほど変わらない,平等だったということも日本ではあり安定していたのである。
身分社会でも安定した社会が形成されていたからモラルもありえた
現代のように金だけに価値をおく社会ではなかった,金がこれほど価値があるようになったのはやはりグローバル経済とか社会に物があふれ豊かになったからである。
農業中心の社会では米が貨幣であり貨幣そのものがすべての価値ではなかったのである。

いづれにしろこれからは混乱と不安定の時代である。
その中で生きることは容易でなくなる,アメリカが衰退して中国にどう対処するかなども大問題であり日本は危機と困難の時代に突入したのである。
この辺は原発事故で困難に直面した,その解決はなく混乱している
津浪原発事故はそうした時代の変化のときに起きた,だから日本の中世の混乱期とにているとなる

こういう時代に人間の心境はどうなるのか?

なるべく早くこの世を去ってあの世に行きたい
成仏してあの世に行きたい,極楽に行きたい
念仏を一心にあげることが救いだ
それしか望みはない

そんな心境になる,自分も早くこの濁世を去ってあの世に行きたい,天国に行きたいとなる,それが望みだとなる,老人になると先が短いとういことで余計にそうなる
ただ若い人になると欲望が強いからそういう心境になりにくいのである。
いづれにしろ鎌倉時代に念仏とか法華経とか普及したのは時代背景があった
要するにそれだけ混乱して乱れた末世であり宗教に救いを求めたのである。



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2018年02月16日

グローバリゼーションの行き詰まりはなぜ? (国家を越える共同体を作ることができないから)


グローバリゼーションの行き詰まりはなぜ?

(国家を越える共同体を作ることができないから)


人間の歴史は何か?道具を使う人間,ホモファーベルとか言葉をもつ人間とかいろいろ見方がある
重要なことは見方として人間の歴史と共同をめざす歴史だったとういことである

共同するために歴史は変化して作られてきた

言葉でも英語だったらcoがつく言葉が多い,それは共同という意味なのである。
日本語だとあうというのが語尾につく,・・・・しあうというのは合わせるという意味であり合わせるということは共同して生活することなのである。
人間の歴史は共同するための歴史だったとなる

まず家族がありそこに共同の基があり発展する,強力な有力な家族が国家の基礎にもなる家族は今でも変わらない人間の共同体としてある
ところが共同するにしても人間の社会は常にその共同体を破壊することで社会が変化した進歩したとなる
進歩というとき技術の進歩に着目するがそれとともなって共同体が変化することなのである。
共同体は常に家族が基礎にあってもより大きな共同体へと拡大して変わる
その大きな共同体を作る時,これまであった共同体が破壊される
だから歴史をふりかえれど共同体の破壊が歴史だったとなる

共同体を破壊して新しい共同体を作ることが歴史の進歩だった

歴史が変わるとき必ずもともとあった共同体が破壊されるからである。
家族があり村があり村には群れるという意味であり狭い範囲の共同体である。
それが国(くに)となるとクニは区切るからきていて境界をもうける
そしてそこが国となる,ただその国にしても今の国家とは違い規模が小さいのである。

会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね 

国はそれなりに広い範囲だが何かそれでも自然の中に区切られた一地域なのである。
オクニはどこですかというとき今は県になるが前は藩だった,会津藩とか仙台藩とか相馬藩とかなる,そこが国だったのである。

国が大きくなるとき必ずこれまであった共同体が破壊される,大和王権になるとき蝦夷制服があり蝦夷という大和王権に反抗する共同体は破壊される
蝦夷共和国などと榎本たけようが函館の五稜郭で宣言したのはそこに新しい共同体を作ろうとしたためである。
蝦夷というときそこに一つのまとまった国は国家はなくても蝦夷と言われる共同体が存在したともなる,それはアメリカだったらインディアンが原住民がいてそこに共同体があった,でも異民族の侵入でその共同体は破壊された
蝦夷民族もそうした原住民もいたしその他大和王権に所属したくない人達がいたのであるでも大きな共同体,国家を形成するときそうした共同体は破壊される

これは常に人間社会であったことなのである。
わかりやすいのは江戸時代から明治になるとき侍という階級がなくなったことである。
侍というのは当時の支配階級であり共同体である。そこに侍の文化が歴史の中で作られてきたのである。
江戸時代は身分社会であり固定した社会だから金だけが通用するような社会ではない
身分として人は生きていたのであり金があってもそれが力を持ち得ないのである。
そして侍階級が明治維新で破壊されたとき日本は古代の天皇の臣民になった
天皇によって日本を再統一したのである。
その時ヨーロッパで起きた市民革命とかはない,貴族階級を庶民が倒すということはなかった,侍同士の戦いで侍階級をなくした戦いだった
それはヨーロッパから見ればありえない革命だったともなる

侍階級がなくなったとき日本の共同体は国民共同体に変貌した,でも国民という意識がないからそれは作られ必要があった
西南戦争で政府軍が国民軍を編成して侍の集団に勝ったことにより国民の意識をもったのである。政府軍はもう侍も混じっていたが平民主体となりそれは国民軍だったのである。国民という共同体がそこに生まれたのである。
国民というのもはもともとあったものではない,確かに日本人というのは存在した
日本語を話す人々は存在して日本民族は存在した
でも民族と国家は国民は違っていたのである。国民は歴史の中で新たに作られたものだったのである。
それは世界的に国民が形成されて今度は国民同士が戦いになったのが第二次世界大戦だったのである。

そして日本が目指したのは大東亜共栄圏である,それはやはり日本だけではない大きな共同体を目指すものだったのてある。そのためにもともとあった共同体を戦争で破壊するのである。
でもそれは挫折した,国家とは何かというときそれは歴史的に作られてきたのもであり必ずしも同じ民族ということではない,外国で民族が入り交じるからである。
国家と民族は違っているのである。
人間はより大きな共同体を目指すために歴史がある,そこでは戦争もある
戦争だけではない商業とか貿易はより大きな共同体を目指すものとしてあった
だからハンザ同盟とかは貿易のために商人が作った国家なのである。
それは今まである封建国家と対立する存在ともなる

戦前は強固に国家共同体があった,戦後は日本はアメリカに負けてその強固な国家共同体が破壊された,そして新たな共同体になったのが会社であり企業である。
企業戦士というのでもわかる,国家に忠誠を誓っていたのが会社に忠誠を誓い猛烈な企業戦士となり高度成長時代を築いたのである。
その時国家共同体は希薄化していた,何かいくらナショナリズムを煽ってももう一つ戦前のようにならないのは共同体が歴史的に変わってしまったからである。
ただ民族とか国家は共同体として根強く残る
なぜなら中国であれロシアであれアメリカであれヨーロッパの諸国であれ国家は残っているからだ,その間でまだ戦いがある

でもそうした国家とか民族を越えた共同体を目指したのがグローバル経済である
地域とか国とか人種とか関係なくグローバルに人も物も行き来する社会である。
それもまた国家を越えた共同を目指すものだったのである。
その時国家とか民族の共同体が破壊されるのである。
でも結果的には国家とか民族は強力であり反発がヨーロッパでもアメリカでも起きたのである。
グローバリゼーションというのは世界的人類的共同体を目指すものだったのである。
civilizationは文明でありその基は技術ではなくcivil(市民)なのである。
その市民は城壁に囲まれた市壁に囲まれた中での市民のことである。
でも文明とはより大きな共同を目指すものでありその基に市民があった
それはヨーロッパの歴史から生まれたのである

歴史でもエジプト文明とかマヤ文明とかローマ帝国とかあればそれは大きな共同体を形成した文明だとなる。
その大きな文明を共同体を形成するものとして共産主義がありマルキシズムの思想を基にして生まれた,これも資本主義とは違うようでグローバリゼーションとは違うようでも同じだった、なぜなら人種とか国家を越えて共同を目指したからである。
世界のプロレタリアートよ団結せよというときそうである。
それは民族とか人種とか国家を越えたものとして思想が普及して実現したものなのである
ただこうしたグローバリゼーションがゆきづまっているのはなぜか?
そこに共同しえないものとしての壁がありそれでかえってイギリスで反抗してアメリカですら反抗してナショナリズム的傾向になったのである。
経済だけで国は形成できない,国は歴史的に形成されたものでありそれを無視してもできない,国家を越えて民族を越えた共同体の理想は挫折する
グローバリゼーションとか多国籍企業は国家とか民族がない経済中心の共同を目指しているのである。
そしてそのグローバリゼーションは金だけに支配される世界となる
そこでユダヤ人は金融で支配しているとか陰謀論にもなる
ユダヤ人は国を土地をもちえなかったから金融が発達したとなる

グローバリゼーションが失敗したのは人間は経済だけで金だけで共同できない
何かそこには経済だけではないもの,共同するものが必要なのである。
それが宗教であったり民族の文化であったり歴史であったりする
そういうものを破壊して成り立つ経済だけのグローバル経済社会は人間社会にとって不可能だったとなる
それを理想としてありえない,異常な世界とも化していたのである。
世界の富がわずかの人に集中して格差社会が生まれたのもそうである。
共同を目指すならそんな極端な世界はありえないからである。
グローバリゼーションは共同することに失敗したのである。
それは経済だけを中心にしてグローバルを目指したからである。
資本主義のゆきづまりも同じように経済の論理だけでは世界は共同を目指すことができないということである。
共産主義でもその思想は経済だけの論理であり人間が生きるのは経済だけではない
様々な要素があり文化かあり歴史があり生きてきたからそれを無視することはゆきづまるのである。その文化とか歴史は人間的なものであり金だけが非情に支配する社会とは違うのである

身近なことでは例えば地銀が消滅するというとき今地銀には証券会社が入ってきている
証券会社がしていることはグローバリゼーションの経済である。
世界的に金が流通する株式の世界である。でも地銀はもともと地域に根ざし金融だったのである。それがグローバル化すると金が世界を流通するのである。
それで投資信託をして何か違和感を自分は感じたのである。
それは地域に住むものとは関係ない所で金が動いている,もうそこは人間的感覚からはずれた世界になる,経済でもそういうふうにグローバル化するともう人間の感覚から隔絶した所で動き何かその実体もつかめないものとなる
ただグローバル化とはそうした地域的なものを破壊するのである。
多国籍企業が一つの国家のように巨大になると国家でも地域でも破壊される
でも多国籍企業に所属して共同体を形成できるのかとなるとできない
なぜなら多国籍企業とは何か一部を作り生産して売るものである。
車であり薬でもそうだがそれは社会の一部であり全体ではないのである。
国とか民族とかはそうした一部を部品を作るものではなく全体のことだからである。
それは風土と一体化して作られてきたのもである。
そこに国があり故郷があるとなるからだ
そういうものを越えて一企業に所属して人は共同できないしそうあるのが人間としてあるべき姿なのである。

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

会津嶺でもそうだが山が国の象徴としてあるのは日本的だとなる、山に固まれた国が日本には多いからである。
そこは経済的要素だけではない,美しい自然がありそこに囲まれた国がまほろばであり故郷なのである。
だから東京が首都でもそこにはまほろば,国はないのである。
ただ経済的な膨張した都市でありそこにあるのはやはり経済的なものだけになり殺伐としたものになる,そこに文化もないし文化も起こらないのである。

グローバリゼーションの資本主義も共産主義もゆきづまり失敗した
それは当然だったのである。文化とか歴史とか自然をとかを無視して来たのだからそこに共同はありえないのである。共同は経済だけでは成り立たないのである。
世界的共同を無視するというのではない,経済だけが金だけが唯一の価値となり世界を支配する,それはドルが支配することでありアメリカが支配することに通じている
ただ人間の歴史は共同を目指す歴史でありそのことはやはり以前として追及されるが経済的なものだけを追及しても挫折するのである。
それは資本主義でも共産主義でも同じでありゆきづまるのである。


故郷意識国意識とは何なのか? (南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)

ここで考察したように市町村合併でうまくいかないときより大きな共同体として結合したが原発の補償金問題などで分裂したのである。
金というのは人間を分裂させる,原発避難民が金があるからいわき市などに家を次々に建てた,それも数が多いからもともといた住民は迷惑になった
なんであいつらが家を建てられるのだ,こっちは元から住んでいるのに家も建てられないのにとか不満になった,金が万能の社会はそうしてその土地の歴史でも文化でも破壊する消費者が王様だというのもそうである。
そういう金だけに支配された現代のグローバル経済の歪みがあちこに出てきている
人間は共同を目指して歴史的に進歩してきたというとき金だけの経済はゆきずまりグローバリゼーションもゆきづまる
金は何か暴力的でありそれだけに価値を置くと社会でも世界でもゆがめるのである。
金はあくまでも流通の交換の手段であったがそれが人を何か暴力的に支配するとなる
その矛盾が格差社会となり人々のモラルも崩壊してゆく
それは世界的なことでありグローバリゼーションの実験は挫折したともなる



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2018年02月11日

働くことは端(はた)を楽にすることだった (今の労働は端迷惑なのが多い)


働くことは端(はた)を楽にすることだった

(今の労働は端迷惑なのが多い)

労働はたいだいすべて何であれいいものだと考えている
極端な例になるとこの辺で競輪の券売り場ができた,そこに労働が生まれる,
掃除の仕事ができるからいいんだとか底辺の人は言っていた,
確かにタクシーを駅から利用する人を見ているからタクシーの収入になったり中に食堂があったり食べたりしているとか活気が生まれる
それはギャンブルでも活気が生まれるからいいんだということも国のレベルでもなっていて大きな賭博場を作り外国の金持ちに金を落してもらおうとなる

でもそういうものを作るにしてもそこで誰かが働かねばならない,サービスしなければならない,そのために人は使われる,ただ掃除の仕事ができていいから金になるものができたからいいとなるのか?
だからそういう矛盾を自分は一身上で感じた
この辺では仮設に入った人が何もすることなく大勢がパチンコ屋におしかけ通うことになった,その時パチンコ屋の掃除をしていた人かいたのである。
それは金になるから借金していた事情があってしていた
その時自分は自分の病気とか介護で苦しんでいたがその人が働いたのはパチンコ屋だったのである。それも何かこの辺の矛盾だった
原発事故でみんなかわいそうだなと外から見て援助にきていたが実際はそうして何もしないで遊んでいたのがほとんどだったのである。
だからポランティアがそういう人達のために働いていて馬鹿らしいと地元の人達と喧嘩になったのである。

この辺では働くというとき事情が違っている,もう人手不足で困っているから病院では資格のない人も看護師の補助をしたり働いている,その時まさに働くことは端(はた)を楽にするために働いている,そうならざるをえないのである。
家族だってみんな苦労して働いているときそこでのんびりしていられない,何かしら働かざるをえないのである。それが働くことだったのである
だからこの辺では何かしら働かないことは責められるような状態にある
ニートとか余計にそうなる,だからそういう人はいずらくなる
みいんな困っているのに働かないとしたら市町村自体維持できなくなるからだ
でもそういう人は実際にいるのも現実である。

ともかく働くといっても人間の労働は無数にあるから多様なのである。
その働くことが社会にとってどういう意義があるのかも価値あるのかもわかりにくくなる田舎でもみんな会社員というときどこで働いて何をしているのかもわからないのが多いのである。
ただ最近引っ越してきた女性がダイユーエイトで働いているのでそこで働いているのだとわかる,その他はわかりにくいのである。それだけ働く場が多様化してしまったからである。

例えば地銀で働いている若者は毎日一軒一軒回っている,だから働いてるなと思う
それは会社でも回りでも認めていることである。
でもその働く内容が問題になる,それが投資信託とか株をすすめるとかなるとそのために一軒一軒回っているとなると問題が生まれる
それはすべてではないにしろ迷惑なことであり害悪をもたらすことにもなる
働くことがすべていいものとして是認できないのである。
ただ会社のプレッシャーが強いからノルマを課せられているからなんとか売ろうとする
そうして働かせられる,働くというこも迷惑になり害にもなるなと思った
人間は自分のことしかから考えないから勝手である,もし自分が投資信託でもうかっていればこんなことは言わないのである。だから自分も勝手だとはなる

小さな畑で野菜作りしている女性がいる,そこでとれるものはわずかでもその労働は金にもならない,かえって金がかかる,肥料とか種とか高いのである。
その分もとれない,では金にならないからその労働が無意味かとなるとそうでもない
荒地にしておくよりそこで野菜をとれて役に立っているのである。
それは必ずしも金では計れないものがある,荒地にしておくと良くないからだ
たいがいすべての労働は金になるかしている,金にならない労働は無価値であり意味のないものとされるのが資本主義社会である。
ただ害悪になる労働もありそれは社会にとって恐怖にもなる


いらないものを売りつけられる,だんだん銀行でも保険などそうであったが脅迫して売りつけるまでなる,暴力団のようになる,それは銀行が追い詰められているからそうなるのである。生き残るためにはやむをえないとしてそうなる
事業失敗して借金したりしている人もそうなる,だから追い詰められた人間は怖いのであ
創価とかでもエホバでも他のカルト教団などが怖いのは集団化して組織化して活動している,信仰の押し売りである。それが一票を獲得するために一軒一軒回る,それも信仰とか何か社会のためだとかなる,それははた迷惑なのである。
でも組織化して集団化しているから社会で認められているから抑制できないのである。
働くが端を楽にするのではなく端迷惑になることで逆なのである。
肝心の困ってるとき誰も働いてくれないということも起きている

そういうことは他の会社でも起きている
その仕事はそんなに社会にとって有意義でなくても会社で金をもうけるためにそうしている,営業の仕事はそういうことが多いのである。
そこには必要なものがあることは確かである。
ただ銀行なら今自分の必要としているものは株とか投資信託ではなかった
何か他で金融商品で老人向きの保険があった,それが自分に必要なものだったが
銀行にとっては投資信託が手数料で金になるからすすめたのである。
それは端迷惑だったとなる

いづれにしろこの辺の事情は違っている,実際人手不足で病院とか介護で困っていても誰も働かない,でも新しくできた広いパークゴルフ場では元気な老人で一杯だとなる
要するに病院と介護だと働くことが苦しくなるからあえて金があれば人間は働かないのないのである。でも市町村が一つの家族のように考えればそうはいかないはずなのだが
それなりに規模が大きいから村のようではないから働かないのである。
村のような狭い世界だと働くということがしやすい,それはその労働を常に見ているからである。端を楽にしたいということが自然に沸き起こるからである。
そういう労働は健全だったとなる。
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2018年02月10日

銀行の窮地(銀行がなくなる)


銀行の窮地(銀行がなくなる)

銀行がなくなるというのもイメージできなかった,ただ利子がつかない時が実際は長かった,だから貯金しても何の役にも立たないとなっていた
銀行は地方の銀行でも有力な就職先だった,銀行員になれば信頼できるとか信用第一でそれだけで固い職業であり地域では一目置かれていた,月給も地方では良かった
銀行は公務員のように見ていたのである。

その銀行がなくなる?それも驚きだった
銀行は一軒一軒回ってあるきそれで地域と信頼させていた
郵便局などでもそうである。いろいろ金のことで相談したりしていた
だから信用があった,それがなぜ証券会社のようになったのか?
それは銀行が追い詰められてきたということである。
マイナス金利になり国債でももうけられない,そこでなんとか利益をあげねばならない
そこで背に腹は代えられないとなり投資信託とか株をすすめるようになったのである

そもそも銀行は金の出し入れとかで利用していない,いろいろな事務も自動化機械化する銀行の役割が大幅に減少したのである。
でも一万くらいの人口の町に支店を構えるとそれだけの金がかかる
結構かかると思う,事務員も雇っている,それを維持するだけで相当な出費である
もうそうした支店は維持できなくなっている

そしてなぜ銀行が今金融庁とかいろいろ責められるのか?
金貸しが金貸さないのでどうするとか財務大臣から言われたりする
そして金融庁から不透明な投資信託の手数料を明確にしろとか言われる
現実に投資信託の手数料などがどれだけとられているのかもわからない
示さないのである。
ある意味でだまし的なものがある,銀行がそんなことするのと自分も失敗だった
事前に情報を摂取していなのが失敗だった

銀行とは何なのか?
簡単に考えれば金貸しだというときそれを個人にあてはめる
例えば金をもっていると外からいろいろとうるさい
あいつは金をもっているけど何に使っているんだ,遊んで使っているとかなると外から見る目は厳しい,金を無駄にしているとかなる
特に田舎でそういうことがうるさいのである。
だから田舎では平等でないと成り立たないのである。
特別の大金持ちなど住めないのである。

銀行も大金持ちと比べるとにている,金があるんだから金を有効に使いとなる

銀行の金は銀行だけの金ではない,みんなから集めた金だ,たから有効に使い
社会のために使い,景気を良くするために使い

そうなるがまず銀行はリスクをとらない,金は貸さない,貸し渋りが問題になった
高度成長時代のように会社が成長しない,利益をあげないから慎重になり金を貸さない
これまでは国債で利子がついてもうけていた,だから余計に貸さない
銀行は安全志向なのである。
投資信託でも確実に手数料がとれる,それで株をもっていたが1500円くらいのとき売って投資信託をすすめられた,その株をもっていれば相当な利益をあげられた
これはその時の事情にもよるが何か一方的に投資信託をすすめられる
それは投資信託が確実に手数料をとれるからである。
手数料は証券会社と銀行と税金とでとられる,3パーセントもとられる,アメリカでは0・05パーセントくらいである。
その手数料だけでとてももうからない仕組みになっている
とにかく銀行はリスクをとらないでもうけたいのである。

投資信託でも株でもすすめるのなら損したら銀行もリスクをとるべき

でももうけたらその半分をもらうとかなれば納得するかもしれない
全く何のリスクもとらずに銀行は手数料だけはいただくという甘いものなのである。
だからもう銀行は今までとは違い一軒一軒回っても信用できないとなる
証券会社化した銀行はもう銀行ではないのである。

そしてなぜ銀行が今責められるのか?

銀行の金は会社の金とは違う,みんなから集めたものであり社会に役立ててもらいたいということであづけている,公益のために使ってほしいということなのである。
それをただ集めて使わないということで責められている
そこで株とか投資信託をする場ではないのである。
それなら証券会社になるべきなのである。現実にはなっているのだ
その変化に気づかなかったのが悪かったともなる

結局時代が変わるとき職業でも不用なものが生まれる,もう社会にとって必要ない
銀行は何の役に立っているのだ,貸し金庫くらいしか役にたたない
金貸しなのに金は貸さない,リスクはとらない,その金を有効に使わない
だからもう金をあづけても無駄だとなる
銀行はいらないと社会でみんなが思うようになる
するともう金をあづけたりしなくなるかもしれない,信用もなくなる
そして金があるのに何に役にもたっていないとなり銀行はいらないとなる

でも何か金があってもそれを有効に使うとうことが簡単にできないのである。
自分でも一千万あるとする,それを自由に使って何か役に立つことをしなさい
もうけることをしなさいとなるとむずかしいのである。
何か役に立つことは寄付したり何かできるがそこからもうけを出すことは至難になる
せいぜい鉄道の時刻表や交通案内などを駅お無料で置いた
それはたいした金でないからできた
では何か事業するとか社会の役に立つことそしてもうけを出すことはそういう経験もないしできないのである。
そうなると個人でもお前には金をもつ資格がないとなり銀行のように批判されることになる

銀行はこのように金を持つ資格がなくなっているのである。
公益性もないしもう銀行の役目がなくなっている
むしろ投資信託とかすすめると害になる存在になる
社会に害悪をもたらすものとなる
それで金融庁からも社会からも責められる
でも銀行にすれば生き残るためには手段を選ばなくなる
株だろうが投資信託だろうがもうけねばならないとなるからすすめる
人間は窮地になると追い詰められるとモラルもなにもなくなる
それは個人でもそうだが団体でも組織でもそうなる
ただ組織がそうなると社会的影響が大きすぎるのである。

それはカルト教団ともにている,常に会員獲得にノルマが課せられて勢力拡大を強いられる,一票のノルマを常に課せられている,それが信仰なのだからやっかいなのである。
そういう組織は社会に大きな圧力となり害悪になる
会社でも害悪になるものがある,その害悪は個人のレベルではないから怖いのである。
例えば製薬会社でも薬を売るノルマが課せられる,なんとか薬を売れ,薬を売るにはいろいろ恐怖を植えつけろ,宣伝しろとかなる
医者に頼みもっと薬を買わせさせろ,医者ももうけたいから薬をもっと出させろ,いらなくても薬を出させろとかなる
現実にそうなっているのが医療なのである。薬は必要でも無駄に出しすぎるのである。
こうなると働くことも社会の害悪になる

社会にはそういう怖さが常にある,何かそうして強制される
それは正義のためとかにもなるし国のためだとかもなる
だから老子の思想が2000年前にすでに生まれていたのである。
無用の用とか成さずしてなるとか無為自然の思想である。
人間は働くことがすべていいものとして作用しないのである。それは大きな害悪となる
政治否定になったのもそのためである。政治はそうした巨悪となり害悪となるからだ
本当は原発などいらなくても核兵器の準備のために必要だとかアメリカの圧力があるとかで作らせられているのだ
その害悪は巨大になるからこの辺では故郷に住めなくなったのである。

銀行も社会にとってそうした害悪ともなる,でもそれも高度成長が終わり時代が変わったからそうなる,侍の社会から侍がなくなる社会になったときのように銀行という会社組織自体がなくなる,するとやめる人が大量に出るし現実にリストラされている
もう銀行には未来はないとやめる人が出ている
結局やめて新しい道を見いだすことが正解なのかとなる
社会に害悪をふりまくとなると銀行そのものの存在価値がなくなっているからだ

ただそうなると地域にとってはいい就職先がなくなるとか地域がさらに疲弊してくるかもしれない,地銀とあるように地域に密着して存在価値をもっていたからである。
ただ何か地域に密着して新たな存在価値を見つけ出せばまた違ったものになる
それはただ時代が変わると相当にむずかしくなる
ただもう一万の町に支店をかまえる余裕はなくなる,それは無駄が多すぎるようになったからである。銀行で金の出し入れをする人は本当に少ないからである。
そういうのはみんな自動化してゆくからである。

ともかくこういうふうに次々に変わる社会というのはついていけない,時代が大きく変わるときはこうなるのか?
今まであったものが無用となりなくなる,地銀もその一つとなる
津浪であれ原発事故であれそれは大きな時代の変わり目にそうなった
だから銀行でもそういう変わり目にいらないとまでなったのである。
その変化する時代をなかなかわからない,自分は金を現実に結構損したから実感としてわかった
自分が時代の変わり目に痛みを負ったからわかったとなる
なんらか時代の変わり目にはそうして痛みを負わされる犠牲にされる人が出てくるのである。
戦争で3百万人も死んだのもそうである。犠牲にされるものが出てくるのだ

ただ時代というのはいつのまにか変わっている,それが早いから追いつけないのである。
それで老人は不利だったのである。銀行は信用できるものだという先入観があった
そういうことが裏目に出たのである。
youtubeなどを見ていればこうはならなかった,銀行のことは詳しくその内情を指摘しているからだ
youtubeはかなり役立つ,信頼性もある,だから今までの文字だけのものとは違っている
わかりやすく要点はつかめるからいいのである。本を読むとか文字だけの情報だと広く知識は得られないのである。
深い知識は本とか文字の情報がいいが浅く広くなるとyoutubeのようなものが役立つ
そういう情報世界でも変わっていたのだがyoutubeは最近見始めたから遅かったとなる

タグ:銀行
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2018年02月06日

余裕がないことが社会を害する (文明は害になる労働が多すぎる)


余裕がないことが社会を害する

(文明は害になる労働が多すぎる)


人類の歴史をふりかえると縄文時代とか狩猟採集時代とかなると最も貧乏でそこには毎日食うだけで精一杯で何もできない社会と考える
でも不思議なのはそうして毎日食うためにだけ追われて何もできなかったのか?
縄文時代なら縄文土器などを装飾性豊かな土器を作っている
そうした装飾をするのはまず食べることだけに追われていたなら時間がないならできないなんらか時間があり余裕があるからそうした装飾をすることができた
芸術が生まれたのである。芸術は暇がなければできないからだ
つまり人間は最も貧しい時代でも食べることだけに追われていたのではない
その時踊りとか祭りとかもしていた,それがなぜ不思議なのかというと現代の文明は最も豊かな文明であり食べることだけに追われないということで対比してみる
でも縄文時代でも人間は食べることだけに追われていないし暇もあった
江戸時代でも仕事は二時で終わったとかなれば暇があり暇を楽しむ文化が生まれていた

ただこの暇が生まれたのは歴史的にふりかえるとギリシャでスクールがスコーレであれ暇だったということで学問が生まれた,ソクラテスなどがアゴラ(市場)をぶらついて青年に話しかけ真理を議論したことなどがそうである。
ソクラテスなどは一日仕事もしないしただ若者と議論していた
そうできたのは奴隷がいたからだとなる,奴隷が食料を供給してくれ食事を用意してくれたとか妻がいてそういう暇が生まれた
暇は今でも誰かに与えられて暇ができるということがある
結婚して妻がいて食事を用意してくれれば暇が生まれる,でも妻が死んだりして全部家事を料理でもさせられたら暇がなくなる,家事は機械化されていないからそれだけで時間が奪われるからだ,それで戦前は中産階級でも二人とか女中を雇っていた
それだたけ家事は時間がかかっていたからだ,ただそれでも縄文時代でも江戸時代でも暇がありその暇を楽しむ時間があり文化が生まれた

文明の目的は何なのか?それは人間に暇を作り出すことである。だから現代はその暇が作り出された,機械化などと豊かになり仕事しない人が老人を含めてニートとかもいるしフリーターとかも働いたとしても不正規であり一年中は働いていていない
その数が膨大でありそれだけ暇が作り出されているから文明化したことは暇を作り出したとはいえる
暇と金銭的余裕とかあれば文化が発達する,それは個々人でもそうなのである。
自分は三流大学で文系であり大学でもほとんど勉強していない,だから就職もできず今の底辺労働者として放浪していたとなる
その後は家族がいて何でもししてくれたから暇で暇でしょうがない身分だったのである。結婚もしないから子供の世話もしないし稼ぐ必要もないから旅ができたとなる
そうして暇と金と余裕が与えられていたから旅もできたとなる
金銭的に十分ではないが一応旅はできていたのである。旅は金より時間が必要になっていたのである。それから体力とか精神的余裕も必要である。
今になると家が留守になり誰もいないから外出するだけでも不安になるとかある
だから旅するにしてもそうした旅をできるような状態にさせてくれる応援してくれるのもが必要だったとなる

現代の問題は何なのか?何から問題が生まれているのか?それはこれだけ文明が発達しても暇とか余裕が産み出されていないことである。
文明は余裕を暇をスコーレを作り出すことは一面してもまた余裕なき社会にもしている,だから人間が時間を文明に奪われていると嘆いている
つまり豊かさの基準を暇とを楽しむことに置いていないのである。
経済成長とか何か常に働くことを強いられる,そしてみんな社蓄だとか奴隷なんだよなと働く人が言う社会は文明の目的に反している

なぜ人はこんなに働くことが必要なのか?働くことが強いられているのか?
日本では働くことは端(はた)を楽にするということである。家族とかを見ていて働く姿をみて楽にさせたいということでその言葉が生まれた
そういうことは極めて人間的なことであり動機としてはいいのである
今の人の働く動機はそういうものとは全然違っているのだ
働かねば食べることもできないし住むこともできない衣食住も成り立たないというのもわかる、それは別に縄文時代から同じだったのである。
でも暇は作り出されていたのである

文明の矛盾は労働量を増やしすぎたことである。その労働が害になることが実は多くなっていたのだ,例えばなぜ銀行で今株とか投資信託をすすめるのか?
それは日銀などがマイナス金利にして銀行に余裕がない,すると金を貸し付ける先もないそしたらどうしてもうけるのかとなり投資信託とかで手数料え稼ぐとかなった
それは余裕がなくなったからである。銀行は何か公務員のようなところがあり地方でエリートであり余裕がある職業だったのである。
その余裕がなくなったとき実際は7割の人が損する株や投資信託をすすめるようになった
それで自分も失敗した,銀行は固い信用できるものだということで信用していたからである。それも銀行自体に余裕がなくなり失われた
そうして余裕がなくなると働いているから有用のようでも社会に害をもたらすのである。銀行員はノルマを果たすことと銀行の利益のみしか考えなくなる
それで実際は株でもそのままにしておけば今上がったからもうかったが手数料がとれる投資信託を買わせたのである。それは自分にも非があっても自分は相手がプロだと思いまかせたのである。
要するに余裕がない人は自分のことしかまた自分の所属する会社のためしか考えなくなるまず相手のことを考えるのは相手の立場になり考えることは余裕がないとできないのである。

だから自分のところにきた人はみんな余裕がない,事業に失敗した人は多額の借金をかかえているから自分が苦しくても何にも考えない,相手のことが考えられないのである。
ただこういう苦しい状態だからこそ金を借りるにはいいと脅迫するようにもなる
そしてこいつが死んだら金になるとまで心ではなっていたから恐ろしいことだが相手は追い詰められているから自分のことしか考えられないからそうなる
犯罪は余裕がないから起きるのである。明日食べるものがないから相手を殺して金を奪うとなる,でももしそこで自分は今日食べるものがない,今日食べるものをくださいとか言えばあげることもあるかもしれない,ただそういうことをしにくいのが現代である
犯罪は余裕がないから起きる,ベトナム人の日本で起きるのは当然なのである。
日本人の最低の生活すらできないとなれば自ずとそうなるのである。

いづれにしろその銀行員でもそうして余裕がない人が働くことは害になる
ただ自分のことしか考えない,会社のことしか考えない,公益性もなくなる
あの人は毎日働いているから会社にとって必要だと認める
社会にとっても必要だみる,でも働くことが全部社会のためになるとは限らない
マスメデアでも働いて甚大な害悪をもたらした,それが一見社会で有益なようでもそうではなかった
戦争も朝日新聞が宣伝して作られたとかなるし温暖化もそうだった
その人達は社会の善として報道で働いていたのである

働くことが社会の害になる

そういうことは意外と多いのである。みんなノルマを課せられては働かせられる
すると何でもその人のためにより自分のもうけのために会社のもうけのためにと働くことになりそれは社会の害になるのである。

火災報知機が義務つけられたけどこれもみんな必要なのか?それは業者のために必要なのかともなる,公共事業でも無駄な道路を作ったりしたのは必要だからではない、業者のためにゼネコンのために国で決めたのである。
それはこの辺の除染作業でも何兆円の金を使った,それもどれだけ効果があるのか疑問である。他にその金を使えばもっと有効に働いたということもある
つまり消費者のためではなく業者とか会社のために義務づけられてもうけさせるためにある
そういうことが現代文明では多すぎるのである,そのために金が必要になりまた働くことが労働が強いられるのである。

原発だってそうである。これは社会の人々が必ずしも必要だから作られたのではない,国家の政策として核兵器の準備として必要だとか強制されたのである。
科学者もそのために働かせられた,その働くことが害になるということがあるのだ
現実にこの辺ではそのために故郷に住めなくなったのである。

原発で働いたために害になり住めなくなった

そうして文明は働くこと労働がなんでもいいものとして是認される,でもそれが害になることがある,甚大な害になることがある

それで老子は無用の用とか成さずして成るとか無為自然を唱えた
それは政治というものが甚大な害を作り出すからである。政治は人間の恣意であり自然に則ったものではないからである
原発は自然に反するものでも国家の政治として作られた,それで安全神話も作られた
そうして働いたことが甚大な害を及ぼすのである。
文明はいらないものを無数に作り出すと老子が言っていたのもそうである。
いらないもの作り出す労働が膨大になり労働がますます増えてくる矛盾がある

お前らが働いているから害悪となっている

こういうことが多いけど誰もそうは社会で思わない,警告もしない
あらゆる場面で働くことがすべていいとはならない

労働は甚大な害悪になる

こういう自覚をしている者がいない,社会でもそうである。働かないものは無職は刑務所行きだとか言うけど害悪の労働を責める人はいないのである。
お前が働いていることがそんなに社会にとって必要なのか有意義なのか?
そう反論する人はほとんどいないのである。働くことがすべて善だとしているのである。だから逆に過剰に働く人は罰せられるべきであり労働をさせないようにすべきだともなるそうした害悪の労働を放置しておくと甚大な影響を社会に与えるからである。
自然環境だって利益優先させると破壊されてきた,つまり文明とは膨大な労働のことだからである。その後は森がなくなり都市化して砂漠化したのである。
エジプトでもメソポタミアでも文明の発達したところから森が消えたのはそうした労働の結果なのである。
そのことを二千年前に老子などが警告していた,キリストでも仏陀でもそうである。
だからすでにその頃人間はかなり高度に文明化していたからそうした思想が生まれたのである。今やその文明も極点に達して遂には過剰な労働のために滅亡するまでなっているのだ,害になる労働が増えすぎたのである
いらないものを作りすぎている,それがかえって人間を余裕なくさせている

労働は社会に害悪をもたらす,すべての労働は是認できない
労働は制約すべきである

文明はいらないものを作りすぎるというとき薬でも過剰に作りもうけるために投与する
病院が減ったら病人も減ったとかなるのも医者が病人を作り出しているともなる
患者にとって医者が必要ではあるが医者にとって患者が病人が必要なのである。
だから極端になれば健康な人も病人にしなければならない,そうしなければ医者の利益にならないからである。製薬会社でもそうである。病人が薬を飲む人が減れば商売にならないからである。
そういう職業は文明が高度化すると多くなる
警官でも犯罪を犯す者がいなくなれば必要がないしそれが理想である。軍隊でも戦争がなければ必要がないものである。

軍隊があるから戦争が必要なのである
兵器があるから売るために戦争が必要なのである。

そういう逆説を説いたのが老子の思想だったとなる,文明に対して警告して予言していたのがその通りになったのである。
政治というのも否定したのもそのためである。政治は害悪になる,害悪を作り出すから無為自然にまかせろとなったのである。
そういうことは聖書に書いてあるから何か宗教は共通したものがある

わが民よ、あなたを導く者は かえって、
 あなたを迷わせ、 あなたの行くべき道を混乱させる」
わたしはわらべを立てて彼らの君とし、 みどりごに彼らを治めさせる。 。

嬰児(みどりご)に治めさせよというときそうである。なぜそんな人が治めることができるのか?つまり政治をする人はかえって害悪をもたらすことが多いからそうなったのである
原発など作る必要なくても核が必要だから作るとか害悪をもたらすものが政治なのである
ともかく文明社会は必要ないものが多すぎるのである。カルト宗教団体なども実際は社会の害悪でしかない,でも会員を増やすために一軒一軒回って歩く,それは何のためなのか?勢力を拡大して社会に対して権力をもって社会を動かすためである。
そのために銀行員のように会社員のようにノルマが課せられているのである。
それは社会の害悪でしかない,でもその人たちは社会の善だとして働いているのである。善だとして働いていることが最大の害悪となっていることを自覚させるべきなのである。でも働いているからすべて善だとしている,働くことによって甚大な害悪をもたらすことを指摘する人はほとんどいないのである。

そして高度に文明化した社会ではベーシックインカムが必然的に必要になる
つまり文明社会は害悪の労働を作りすぎるからである。それも働かねば収入にならないとして害悪の労働でも強いられるからである。
そうしたらみんな働かなくなり困るというけど文明とは高度だから知能もAI化するからそうはならない,害悪になる労働を抑える制約できるようになる
ただこれもまた問題が生まれる,でも高度な文明の行き着く点としてベーシックインカムがあるともなる,そうしなければ害悪の労働を制約できないからである。

posted by 老鶯 at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月04日

資本主義の崩壊現象が起きている (ビットコインのバブルなど)


資本主義の崩壊現象が起きている

(ビットコインのバブルなど)

資本主義はなぜ起きたのか?なぜ世界に普及したのか?
それはいろいろな見方がある,一つは資本主義はウェーバーによると資本蓄積することであり隣人愛にもとづいて修道院の中で発生した
労働倫理であり労働は神のために隣人のためにするとなった
ただこれも次のように堕落するとウェーバー自身が指摘してその通りになった
宗教というのがその禁欲などが守れないので世俗化してゆくのとにている

1.ウェーバーが見据えた資本主義の末路
ウェーバーは禁欲的プロテスタンティズムのエートスと資本主義の精神を同一と考えたのではない。
資本主義機構の確立とともに両者は決定的に対立する事になる

@金持ち達の信仰心の喪失
A激しい反営利性が邪魔になる
B隣人愛の実践から利潤追求への重点移動
C営利そのものを自己目的とするエートスへ
D禁欲的精神、天職倫理の喪失、機械化の中で精神喪失、意味喪失の時代となる

資本主義を理解するのには社会主義とか共産主義を理解することが必要になる,対比して理解することが必要になる
社会主義とか共産主義は平等を目指した,それは分配の平等を目指したのである。
だからこそ土地まで私有を廃して国のものとして平等に与えることにした
そこにこそ共産主義たる所以があった
すべて共同に使用するものとして国家のものになったのである。
でも皮肉なことに平等を目指すと競争もなくなり悪平等になる,人間は何するにして優れた人と劣った人がかならずいる,才能ある人とない人もいる,努力する人と努力しない人がいる,そういう様々な人達を平等にしたらかえって不平等になり経済は停滞したのである。

現実に前のソビエト連邦や今の中国は最も不平等な国になったという皮肉である。
共産党幹部が何兆もの金をもっているからかつての皇帝と同じになったのである。
共産主義は平等を一番目指したのに一番不平等になっている
だから何でも平等を目指すことは失敗する,いくら働いても怠けても工夫しても何しても同じ給料しかもらえないとなると誰も働かない,適当に怠けて働くのいいとなるからだ
ローマ帝国のゆきづまりは大量の奴隷がいてもその人たちは創意工夫して積極的に働かないからだというのもそうである。
共産主義は一種の国家的奴隷状態に労働者がなったのである。
創意工夫が起きないイノベーションが起きない,ソビエト連邦だと軍事力だけが増大して核兵器が大量生産されたのである。
そして共産党の幹部が神のように祭り上げられて偶像崇拝のようになった
それは中国でも起きていた,共産党幹部が権力を握り皇帝のようになる

資本主義とは資本を蓄積して資本を投下して生産を増大させて経済を活性化させる
資本というとき今は金に紙幣になるのが資本はもともと現物であった,家畜が羊が資本になることもある農業だと麦や米が資本になる,林業だと木材になる
そして土地が資本になる,そういう具体的なものとして資本がある
ローマ帝国の兵士に支払われていたサラリーとは塩のことだったのである。
日本でも江戸時代は石高で米で支払われていたのと同じである。

その資本が土地でなんでも債権化して金融資本主義となったのが現代なのである。
そして今なぜ資本主義が終わりとか崩壊現象が起きているのか?
資本主義が常に資本を投下するものを求めている,資本を投下してそこで利益を出すのが資本主義である。
でも銀行には金融資本があるがそこに預金すれば利子がついていた,それは銀行が金融資本を集めてそれを起業する人などに貸してその会社がもうけを出して銀行ももうけるということをして預金者に利子として与えていたのである。
ところが銀行ではもうその金を貸してもうける先がなくなったのである。
すると金の行く先はどこになるのか?
資本主義にはバブルがつきものである。オランダのチャーリップバブルでもそうである。チューリップにそんな価値があったのか?そこに大金がつぎこまれたのである。
日本では土地バブルになった,今度は仮想通過バブルになった
資本を金を投下する場がなくなりそうなった

そもそも仮想通貨というけど金そのものが紙幣そのものが仮想のものである。
金融市場でも半分は仮想なのである。
仮想の世界で金もやりとりされている感覚になるのだ
仮想通貨は株式市場と違って全くの仮想の世界だったともなる
仮想の中で金がやりとりされていたから破綻したともなる
株式市場は現物が動いて金が動いているということがまだある
仮想通貨にはそういうことがない,現物の裏付けがないのである。
仮想の世界だからバブルであり一挙に無価値と化してゆく
価値となるべきものが仮想だったからだとなる
株式市場でも半仮想の世界である。金融資本主義になるとそうなるのである。

資本主義は資本を有効に投下して経済活動することだが金融資本主義になるとそこは本来の投資家マインドより投機マインドになる
FXとかがそうであり本来の投資とは関係ないのである。
投機でありそれは博打と同じである。博打ではギャンブルでは何も産み出さない,胴元がもうかるだけだとなる,全体としては何も産みださないのである。
資本主義が正常なときは常にイノベーションがありとか産み出していた
それが全体の富ともなっていた,ギャンブルからは何も産み出されない
巨額の金が右から左に動くだけで実際は何も産み出していないのである。
その金はほんの一部の胴元に入るだけだとなる
そこに数パーセントの者に金融資本が流れ格差社会が生まれたのである。
そうなると今一番の経済の問題は分配の問題だとなる
富をいかに分配するかが問題になる,それでアメリカでも社会主義者のサンダースとか大統領になったしトランプが大統領になったのもそうした富が公平に分配されないということでアメリカの不満がありそうなった
それは世界的なことでありただほんの一部の者に金が流れ滞留して金が資本主義本来のものとして回らないから銀行にあづけても利子はつかない,かえって金を預ける方が利子を事務費など負担させられることになった
それはすでに資本主義の崩壊現象なのである。

これから資本主義はどうなるのか?
金とか紙幣が本当に紙屑になるかもしれない,そしてまた現物経済にもどるのか?
土地バブルのときはそうだった,金とか紙幣は紙でしかないのだから紙屑になっても不思議ではない,その金とか紙幣自体に何の価値もないからである。
それで土地バブルのときはそうなったのである。
土地をもっている人が金を持っているより価値がありわずかの土地をもっているだけで売れば億万長者になっていたのである。
金より紙幣より現物をもっている方が強いとなる
資本主義が本格的に崩壊するときそうなる
誰も金と紙幣を信用しなくなるのである。信用がなくなったとき何でも通用しなくなる
地銀などは信用が第一でありその信用が利子をつけられないということで壊れている
その信用が銀行の財産だったのである。なぜならまず人を信用することが最もむずかしいからである。信用とは簡単に築けない,

だから家に入れて働かせるとなると一番危険になる,それで十年とか家政婦として働いているとかになると信用できるとなる
それは金持ちの家でしかできないことである。
そいういうふうに信用は銀行でも地元を一軒一軒回ることで築かれてきた
だから郵便局とか地銀は地元では固い職業でありエリートであり信用される人となっていたのである。それが投資信託と株を売るだけとなるとそうした信用も失われる
その時銀行の役割も喪失していらないとなる,現実はもう証券会社化しているのである。投資信託とかすすめる証券会社化して投資家マインドは銀行には喪失した
銀行は資本主義社会の要としてあったときそれが機能しなくなったことが資本主義崩壊現象の最たるものだともなる

そうして経済がモラルが消失してゆくことがすでに資本主義でも崩壊していることなのである。格差社会でもそうである。
みんな働いたら負けとか働くの馬鹿らしいとかなる,ではどうすればいいのか?
盗めばいいとかなり社会のモラルは維持できなくなる
労働倫理はなくなる,格差社会は確かに上の人にとってはいいのだがそれが上の人にとっても危険なのである。モラルがなくなればその上の人も襲われる,殺されるとういことも起きる,それが社会全体になると暴動となり革命となり上の人は殺されるともなる
そういう危機的状態を極端な格差社会は作りだだすのである。
だから資本主義は崩壊する危機にありその前にまたバブルとか長期停滞とかもう成長できないとか銀行に利子がつかないとかいろいろその前兆現象が起きているとなる


資本主義はすべてが金で計られる,金で計られないものは無価値にされる
でもこれからは金で計られないものの価値を認める,価値を社会的に付与する
何かそういう社会の転換期である。
ボランティアが増えたのもそうである。金にならなくても社会的価値を認めてもらいたいからしている,でも金にならない,利益を出さないものは社会的に価値を認められず無用のものとされる
だからベーシックインカムは衣食住は最低限は補償してそれぞれの価値を追及する
それは金にならない,利益を産まなくても社会的価値を産む,そういう価値を認めることで社会を豊かにする,それはどっちかというと物質的満足というよりは文化的精神的満足になる,そういう文化的精神文化的なものへの変換期になっているのが現代なのである。時代が変わるときは価値の変換が起きる

津浪とか原発事故も大きな価値の変換をうながすものだった
科学文明に対する不信が生まれた,故郷にも住めなくなったらかである。
土も水も森も大気も汚染されたからである,するとそこに今までの価値観ではない
ただ物質的な豊かさを求めてはだめだということが現実問題としてこの辺ではつきつけられたからだ
例えば景観というのは金にならない,森があっても木材を切れば金になる
でも森自体の景観は金にならないから無視される
そして現代は索漠な景観となっている
この辺では海岸は風力発電となりソーラーパネルとなり火力発電所からの煙が出るまで工場地帯のようになった,まずあそこに植樹しても森にしようとしてももう無理である。
松原の景観とかみんな失われてしまったのである。










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2018年02月03日

経済社会の構図 (景気がいいのに金が回らないのはなぜか?)


経済社会の構図

(景気がいいのに金が回らないのはなぜか?)


economymap1.jpg
経済を考えることは社会の構成とか社会全体を見ないとわからない,経済学とは社会学であり社会全体を見る学問である。
社会全体を見ることが現代社会ではできない,だからどんな人が社会を分析してもできない,それほど巨大で複雑だからである。
だから自分がここで分析したとしても社会の一部のことである。

ただ最近なぜ景気がいいのに賃金が上がらないのかと消費が伸びないのかとかなぜ銀行に金をあずけても利子がつかないのとか盛んに言われる
金の行き場がない,銀行でも有望な投資先がない,金を借りてくれる会社がないから金利は下がる,金が借りて事業を起こしたいという人がいれば金利はあがる
銀行は金貸しが商売なのに金を貸さなかったらなにする所なのだと政府から批判されるのもわかる

そしてもう銀行に金を預けただけで事務費などがとられる,預金したらかえって銀行から金をとられる,また投資信託などをすすめられて手数料がとられる
銀行は証券会社の子会社か支社になったとなる、現実に地方銀行には証券会社の人が出向して銀行員の一員として働いているのである。
マイナス金利も銀行を追い詰めたからそうなったと言われる

今景気がいいから会社がもうかっているといってもその分配が問題になる
経済が分配が大事だというとき利益の配分が株主とかに吸い上げられて一般の人に従業員にも回らない,賃金は上がらないからだ,すると消費も伸びないのである。
ただほんの一部の人に株主に株が上がり金がまわる,それより世界的にみると数パーセントの人に世界の富が集中して吸い上げられているそして格差社会になっている

金があっても金が有効に配分されない、分配されない問題なのである。
会社は利益をあげることが株主から要求されて株主優先になり従業員の賃金にまわらないそして利益をあげるために賃金の安い外国に工場を作ると国内に金がまわらない
会社は賃金を安くして利益をあげなければならないからそうなる
その圧力が強いから会社は会社員の賃金を上げることができない
利益を上げるというとき会社であり会社中心の社会が現代である。

例えば税金は会社が払う,国にも払う,法人税として払う,その金が公務員の給料になる公務員は利益を追及する必要がない職業である。
その公務員とは福祉とか医療とか安全とか警察とか自衛隊とかの国家公務員とかになる
その人たちは利益を追及しないし利益をもたらさない職業なのである。
今はこの公務員にかかる費用が膨大なのである。
少子高齢化で余計に福祉とか医療とかに金がかかり財政を圧迫して危機的状態になっている
そもそも会社が利益をあげて税金を払っている,それがなければ成り立たない職業なのである。公務員の仕事が肥大化すれば財政を圧迫するのは当然なのである。
なぜなら会社のように利益をあげないことを追及しているからである。
利益をあげているのは会社であり公務員はそこから税金をもらって運営しているからだ
またみんな会社員だというとき会社員は給料からそうした福祉とか医療とか安全のために警察とか自衛隊に金を払っている
でも公務員は利益を産みださないのである。

今金がまわらないというとき銀行にあづけても投資信託をすすめられて手数料とられるだけだとか証券会社でもそうである。確かにもうけている人はいるし株は上がっている
でもそれは全体からすればほんの一部なのである。
それより今はみんな株でも投資信託でももうからないから銀行に金をあずけても利子をつかないからビットコインの投資でバブル化しているという,ビットコインにはそういう事情があったのかと納得した,金があるのだかその金が有効に使えない,消費できない,回らない,分配できないということにあった
経済は分配が大事だという人がいたが現代経済の問題はそこにあるから納得する

現代の資本主義が限界にきているとか常に言われるのは投資先がなくなっている,投資してもうけることができない,投資信託とかでファンドで金を集めてもその投資先がない
もうけ先がない,それで投資を基本とする資本主義がゆきづまったとなる
金融関係者だけに巨大な金が吸い上げられているだけだともなる
世界の富が数バーセントの人ににぎられるというのはもう資本主義が機能しなくなったのである。
そこから資本主義は破綻してゆくようになる,格差社会でモラルも荒廃してゆく
投資マインドを持てというけど投機マインドしかもてないようになっている
金を右から左に移してその利ざやを稼ぐだけであり投資ではない,それFXなどで顕著である。
そうなると投資ではなく投機に走る,ビッドコインもそうである。
何か将来有望なものに投資するのではない,そうした有望な会社に投資するのではない
ギャンブル的投機になっている,そして胴元だけがもうかり格差社会になる
するとこれはいかさまだと一般の人の不満が爆発することになる
資本主義のシステムがもう機能しなくなったからでありもう崩壊してゆくとなる

自分が経験したことは奇妙だが有効に金が分配されたともなる,というよりは分配を強いられたのである。
泥棒にも大金が流れたり銀行や証券会社の投資信託として手数料がとられたり生活困窮者に金をくれたりした,それは金を回した分配したことにもなる
その金は有効に分配された,このことから考えると現代の経済の問題は分配がうまくいっていないことにある
会社がもうけても会社員の賃金が上がらないとか公務員などの税金に吸い上げられて金が有効にまわらない,そもそも公務員の仕事は医療とか福祉に安全に金がかかればそれは利益を上げないものだからそうなる,そういう仕事は利益を追及できないのである。
ここの支出を減らせば財政的に楽になり他にまわる,こういう所にだけ金が増大して回すと社会全体の経済は疲弊してゆく,国家破産にもなる
少子高齢化社会はまたそうなることを強いるから全体の経済も良くならない,金がまわらないのである。

投資というとき何か将来にむけての未来に向けての投資になる,教育も投資でありそれは今の成果ではない,未来に向けての成果のためである。
個人的にも勉強でもそれは未来に向けての投資である。教育投資は先が長い投資なのである。地味な研究などもそうである。
その成果があがるのはようやく老人になってからだともなる
いくら医療とか福祉とか老人に投資しても国の未来はないともなる
それが少子高齢化になり投資先が医療とか福祉とかだけになるから国自体が疲弊して全体の経済も良くならないということはある

posted by 老鶯 at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月02日

うまい大福と相馬焼きのコーヒーカップを買う (経済とは何か?-本当の価値を追及すること)


うまい大福と相馬焼きのコーヒーカップを買う

(経済とは何か?-本当の価値を追及すること)

somayakiii1123.JPG

利益の追及は悪いことではない,正当な利益の追及は悪いことではない,今日金沢の街から離れた所のコンビニで大福餅を130円で買った
その中味は小豆の粒が大きいのである。
これはセブンとか他のコンビニでは売っていない,他は100円くらいで売っている
130円は高いようで高くない,それだけの価値があるものだからその値段でだましてもうけているのではない
その大福餅が食べたくてそれほど遠くもないと思い自転車でそこに寄って買った
ただあそこはダンプがひっきりなしに通っているから嫌だった
あんりる行きたくない場所になっている
でもあんな離れたところでコンビニが成り立つのか?
それは外から来たダンプの運転手とか工事関係者も寄るからなのかもしれない。
場所的には良くないからである。津浪の被害もあったところだからである。

何か一つでも売りになるものがあると商売も成り立つとういことがある
あの大福餅食べたいないうだけで寄ることがある
そこは遠いという距離でもないことでそうなる
何か名物が生まれるとそれだけで商売になるのはそのためである。
お菓子屋などがなぜ小売店のようにつぶれないのか,近くではカステラとシュークリームだけを売って成り立っている店がある,それはその店だけが出せる味を出しているからである。お菓子屋はそれで生き残っているのである

100円で同じもの売るより

130円で価値あるものを売れ

大福でも中味が同じでどこも100円なのは今は価値がない
30円高くても価値あるものを売った方が売れるとなる
それは外部の人にでもそうである。
これはどこにでもコンビニで売っているものだとなると価値がない
こんな大福食べたことがないとなれば30円高くても売れるとなる

もう一つは原町のみ道の駅で買ったコーヒーカップである。
これはこの辺の土地の特徴を出していた
この辺は海と大地と森の世界である。
それでこのカップを見ると海の感じと土の感じを出している,それで浜通り特有の特徴を出したものとして評価して買った,2100円だけど高いとも言えるがそれだけの価値がある,こうした陶器類とかの価値の判断はそれぞれにあるからむずかしいことがある
まず芸術品は鑑賞能力がないかぎり無価値なのである。
食べ物ならその価値はどんな人でもわかるが芸術品は鑑賞能力がないなら無価値なのである。ゴッホの絵が何十億だピカソの絵が何十億だとか言ってもそもそもその絵でも見る目がない人には無価値なのである。
ただ何十億となると芸術の鑑賞力ない人もその価値を認めるのが資本主義社会だとなる
あらゆるものの価値が金で計られるからである。
そして金で計られないものは価値がないとなるのが資本主義社会である。

価値を見いだすというときその人が価値を見いだすことがある
近くの花屋でいいフラワーアランジメントをして3000円で売っていた
でもその花屋自体がその価値をそれほど認めていなかった
自分がその価値に注目したのである。和洋折衷の美の価値を見いだしたのである。
だから消費するというとき食べ物なら平等に消費できるが芸術品的なものになると消費できない,買い物もできないとなる
芸術となるとそれを鑑賞できる能力がある人が価値あるともなるのだ

一般的に車でも自転車でも高いものはいいとかなる,でも陶器とか芸術品とかなると値段がつけようがない場合がある
それはその人の見る目がないと評価できないからである。骨董品などがそうである。
だからそういう価値を発見したものはこそそれを作った人と同等に価値ある人だともなる奇妙だけどそういう価値を見いだし得ない者はいくら金もっていても価値がないとなる
そういう人は金ももつ価値がないともなるのだ,確かに10億円の絵画を買うことができても鑑賞はできないとなる,金があっても何でも買える訳ではないのである。
それは自然の美があったとしても金ばかり数えている強欲な人は自然の美が見えないとういこととも通じているのである。
それでソロモンの栄華よりも一輪の自然に咲いている花の方が飾られているともなる
その価値は金では買えない無償のものとして平等に与えられているとなる
ただ見る目がなかったらそれも無価値となってしまうのである。

ただ金だけで高いとか安いというだけ計れないものがこの世にはある
価値にはいろいろな要素があるからである。
土地にしてもそこがどういう場所にあるかで価値が変わる
眺めのいいところだったら価値があるとか車などが頻繁に通るダンプなどが通るとしたら価値が低くなる
都会に豪邸が建ってもそこは見えるのはビルだけだとしたら価値がないともなる
いつも富士山全体を見えるような場所だったら価値があるとなる
価値はだからいろいろであり一定していなのが普通なのである。

経済は人生であり生活であるとか分配とか消費こそ経済だという経済で説いている人のサイトは何か自分と追及している共通のものがあった
要するに金ばかりですべての価値が計り他のものが人間にとって本当に価値あるものが見えなくなったのが現代の資本主義なのである。
それぞれが本当の価値を追及する社会を求めている
ただ別に正当な利益は利益を追及するべきだというのもわかるし分配が大事だというのも共感する
なぜなら現代のグローバル資本主義が数バーセントのものに富が集中していることが最大の問題だからである。
消費と分配こそ経済の基本にあるべきだというのは現在の経済の状況を見ればわかるからだ、経済とは常に人間の社会の根幹にかかわるものである
経済学部と商学部とか商学部は実利的なものであり経済学部は人生全般にかかわるものだともなる
ただ文系の場合はそういう学部ごとで特別変わるものではない,経済といっても陶器一つの価値を見るにもその見る目を養うことが大事になるからである。


貨幣で重要なのは、循環と分配である。循環があって始めて貨幣は効用を発揮できる。そして、貨幣本来の目的は、分配なのである

経済の基礎は消費にあるのである。
消費が生産を制約していくべきなのである。
そして、消費が生産を制約するために分配の仕組みが重要となる。

ここのサイトは現代の経済が本来の経済からはずれている,金だけが価値を計ることになり荒廃したというとき自分と同じ感想であり共感したのである。
それはみんなが思っていることである。
なぜ数パーセントの人に巨額の金が流れて平等に分配されないのか?
そのことが今の経済で一番問題になっているからだ

人間は消費が大事であり生産だけではないというのも誤解しやすいが膨大な不必要なものを生産しすぎる時代だからである。
薬でも過剰に生産して必要ないのに投与したりと不必要なもの本当に使用すべきもの消費すべきものを作る,そのために労働者の時間と金を無駄にしていけないということでもある
ここのサイトは一冊の本のように論を展開している,だから深く考察すると現代が見えてくるので読まれるべきサイトである。

posted by 老鶯 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

国内の格差社会化,外国人移民で犯罪が増えてゆく (ベトナム人の犯罪が増加)


国内の格差社会化,外国人移民で犯罪が増えてゆく

(ベトナム人の犯罪が増加)

外国人犯罪の勢力図に変化? ベトナム人の刑法犯が中国人抜く

ベトナム国内の犯罪組織と連携し、盗んだ工具や盗難バイクを「輸出」した事件もあった「盗品売買や生活保護の不正受給などいろいろな犯罪が行われる。留学生と結託して犯行に及ぶこともある」という。

ベトナム人が駅に二人来ていろいろ聞かれたことを書いた,なぜタブレットなどをもっているのか?留学生なのかもしれない,留学生だと入りやすいからである。
別に悪そうな人には見えない若者である。
ただなぜ石油の空のポリタンクがなくなっていたのか
石油を入れるために自転車に乗せていたのである。
それがそのベトナム人に説明していたときなくなっていたのである。
あれは大きいから落ちようがないのである。
ベトナム人も自転車できていたからもっていたのか?

ベトナム人にはベトナムに行って良かったから親近感をもっていた
でも日本に来たベトナム人は正直危険になる,前は中国人の犯罪率が高かった
それは貧富の差がその時まだ大きかったからである。
今は中国人が日本に来るメリットはもうそれほどないだろう。
だからこそベトナム人が増えて犯罪が中国人より多くなったのである。

犯罪は格差が大きいとどうしても起きる,防ぎようがないのだ。
日本に来たら最低でも日本人と同じように暮らしたいとなるのである。
給料があまりに少ないとそれを埋め合わせるのは犯罪しかないのである。
盗むほかないのである。
そういうふうに格差がありすぎると人間はモラルもなくなる
盗んだ方が手っとり早いとなる

これは外国人だからというのではない,日本人でもそうなのである。
格差社会はモラルを崩壊させるから怖いのである。
いくら働いても給料は上がらない,やっと食べるだけだ
そうなると一部の恵まれた人への風当たりが強くなる
あいつは何であんなに贅沢しているんだとなる
そして現代とは働くモラルが消失した時代である。
働く奴は負けだとかなる,そういう風潮がある
働いてもたいした金にならない金持ちの奴隷にされるだけだとかなる
そういうことは自分にあるから他人には言えないこともある

モラルが崩壊するということは人を信用できない
もともと人を見たら泥棒と思へというのは今も変わりない
金持ちの家で家の中で働いてもらうのは本当に危険である。
その格差が大きければ物色される
そして大金を失った経験があるから今は人を信用できない

その原因が格差社会にある,それが富裕層はか比較的恵まれている人達に関係ないかというと関係がある。格差社会が極端化してゆくとそうした恵まれた層も危険になる
いくら働いてもたいして金にならない馬鹿らしいという気持ちになるとどうなるのか?
盗んだ方がいいとなるのだ
ベトナム人などはそうなりやすいのである。この人達は日本人の最低層より下だからである。
貧乏と言っても知っている人はそうでも食べ物は自分より贅沢している
パンでもわざわざ相馬市からいいパンを買っているしサシミでも個人の店からいいものを買っているとか食べ物は自分と何ら変わりないのである
ベトナム人とかは食べ物でも日本人の最低層より下になる
すると日本で暮らしていればどうしてもその穴埋めするのには盗む他ない犯罪になる
それは善悪とかではなく人間はそういうものなのである。
だからこそ格差社会は危険なのである。

そして現代はグローバル社会になると金があれば何でも買えるとなる非情な社会がグローバルになる
それは別に外国人でなくても日本人同士でも今は人間を人間と見ていない、人間は単なる番号のようになり金としか見ていないのである。
人間は金であり金として勘定されているだけだとなる
それがマルクスの指摘した物神化ということが誰でもそういう社会に生きていればそれが現実なのである。
膨大な商品がありその媒介する金が人間を支配するのである。
みんなそういう世界に生きてきたし生きているのだからそれは単なる理論ではない,現実なのである。

ベトナム人でも観光とかに来て日本人と親しくなるようだったら違う
単純労働者とかはそういうものではない,日本で金を稼ぐという切実なものがあるからだだからそうした外国人労働者は犯罪者に容易になりやすいのである。
日本人人でも格差社会になれば犯罪が増える、モラルが崩壊する
日本人は落した財布がもどってくる平和な社会だとか言うがそれとこれは別問題なのである。
日本人でも何かそうしたささいなことでは律儀である
無人駅でも切符入れに電車賃を入れる,別に通りすぎてもわからない,外国人だったらそんなことしない,だから日本人はそういうモラルがあるんだと外国からは見る
日本人でも盗む奴は盗む,いたるところで会社の金をごまかしたり他の所で盗みは日常的である。戦前生まれの人だと何か貧乏でも盗まないとかモラルがあったが今はないのだ
だから家に入れると本当に危険である。

ともかく格差社会とか階級化社会になると上のものと下のものに階層化して意思疎通ができなくなる,そこで犯罪が増えるのである。
モラルが崩壊してゆくのである,そういうことを今恵まれている者は真剣に考えないとその危険が本当にその身に及ぶ割合が大きくなるのである。
殺されることだってありうる,江戸時代は侍の社会として固定化したけどそこには階級社会でもモラルがあった,今階級社会化するとモラルがないから上のものは非常に危険になるのである。
野獣の中に住んでいるようになる,それを自分は介護自分の病気とかで責められて経験しているからだ
もう食うか食われるか金をとるかとられるかの社会である。
だからこそ格差社会を放置しているとその危険が増大して上のものはフランス革命のようにギロチンにもされるかもしれない,そううい恐怖が迫っているのである。

外国人労働者とか日本国内でも格差社会の危険は深刻になる,格差を埋めるために人は犯罪を恐れない,それより貧乏なものはどう考えているか知るべきである。
金持ちから奪うのは権利だ、俺たちがいくら働いても金をえられないのに金がある奴は許せないとなっている,盗んでも当然だ,金持ちこそ俺たちの働いたものを盗んで金をためたのだとなる,だからそこに犯罪は正当化されるから犯罪を恐れない
そもそも犯罪をしたという意識もないのである。
つまりこの世は今やモラルが崩壊して地獄と化してゆくのである。
自分の経験したことはまさにこの世の地獄だったからである。

あいつには金がある,俺にはない
だからあいつから盗んでもいい
人は平等だからだ
盗むことは悪いことではない
当然の権利なのだ
警察は金持ちの味方だ
法律もそうだ
俺たちの働いている金を盗んでいるのが金持ちだ
だから盗んでも犯罪にはならない

泥棒にも三部の理があることは確かである。ただこういうことを普通に思う人が増えてくると日本人のモラルは崩壊する
格差社会や外国人労働者を受け入れることはモラルが崩壊することなのだ
もし外国人労働者にも日本人の最低の賃金とか暮らしを与えるならそうはならないのである。外国人労働者は日本人の最低層より下になっているから犯罪が増えるのである。


これを投稿したと思っていたらしなかった
それでまた新しく投稿した

posted by 老鶯 at 08:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月28日

国内の格差社会化,外国人移民で犯罪が増えてゆく (ベトナム人の犯罪が増加)


国内の格差社会化,外国人移民で犯罪が増えてゆく

(ベトナム人の犯罪が増加)

外国人犯罪の勢力図に変化? ベトナム人の刑法犯が中国人抜く

ベトナム国内の犯罪組織と連携し、盗んだ工具や盗難バイクを「輸出」した事件もあった「盗品売買や生活保護の不正受給などいろいろな犯罪が行われる。留学生と結託して犯行に及ぶこともある」という。

ベトナム人が駅に二人来ていろいろ聞かれたことを書いた,なぜタブレットなどをもっているのか?留学生なのかもしれない,留学生だと入りやすいからである。
別に悪そうな人には見えない若者である。
ただなぜ石油の空のポリタンクがなくなっていたのか
石油を入れるために自転車に乗せていたのである。
それがそのベトナム人に説明していたときなくなっていたのである。
あれは大きいから落ちようがないのである。
ベトナム人も自転車できていたからもっていたのか?

ベトナム人にはベトナムに行って良かったから親近感をもっていた
でも日本に来たベトナム人は正直危険になる,前は中国人の犯罪率が高かった
それは貧富の差がその時まだ大きかったからである。
今は中国人が日本に来るメリットはもうそれほどないだろう。
だからこそベトナム人が増えて犯罪が中国人より多くなったのである。

犯罪は格差が大きいとどうしても起きる,防ぎようがないのだ。
日本に来たら最低でも日本人と同じように暮らしたいとなるのである。
給料があまりに少ないとそれを埋め合わせるのは犯罪しかないのである。
盗むほかないのである。
そういうふうに格差がありすぎると人間はモラルもなくなる
盗んだ方が手っとり早いとなる

これは外国人だからというのではない,日本人でもそうなのである。
格差社会はモラルを崩壊させるから怖いのである。
いくら働いても給料は上がらない,やっと食べるだけだ
そうなると一部の恵まれた人への風当たりが強くなる
あいつは何であんなに贅沢しているんだとなる
そして現代とは働くモラルが消失した時代である。
働く奴は負けだとかなる,そういう風潮がある
働いてもたいした金にならない金持ちの奴隷にされるだけだとかなる
そういうことは自分にあるから他人には言えないこともある

モラルが崩壊するということは人を信用できない
もともと人を見たら泥棒と思へというのは今も変わりない
金持ちの家で家の中で働いてもらうのは本当に危険である。
その格差が大きければ物色される
そして大金を失った経験があるから今は人を信用できない

その原因が格差社会にある,それが富裕層はか比較的恵まれている人達に関係ないかというと関係がある。格差社会が極端化してゆくとそうした恵まれた層も危険になる
いくら働いてもたいして金にならない馬鹿らしいという気持ちになるとどうなるのか?
盗んだ方がいいとなるのだ
ベトナム人などはそうなりやすいのである。この人達は日本人の最低層より下だからである。
貧乏と言っても知っている人はそうでも食べ物は自分より贅沢している
パンでもわざわざ相馬市からいいパンを買っているしサシミでも個人の店からいいものを買っているとか食べ物は自分と何ら変わりないのである
ベトナム人とかは食べ物でも日本人の最低層より下になる
すると日本で暮らしていればどうしてもその穴埋めするのには盗む他ない犯罪になる
それは善悪とかではなく人間はそういうものなのである。
だからこそ格差社会は危険なのである。

そして現代はグローバル社会になると金があれば何でも買えるとなる非情な社会がグローバルになる
それは別に外国人でなくても日本人同士でも今は人間を人間と見ていない、人間は単なる番号のようになり金としか見ていないのである。
人間は金であり金として勘定されているだけだとなる
それがマルクスの指摘した物神化ということが誰でもそういう社会に生きていればそれが現実なのである。
膨大な商品がありその媒介する金が人間を支配するのである。
みんなそういう世界に生きてきたし生きているのだからそれは単なる理論ではない,現実なのである。

ベトナム人でも観光とかに来て日本人と親しくなるようだったら違う
単純労働者とかはそういうものではない,日本で金を稼ぐという切実なものがあるからだだからそうした外国人労働者は犯罪者に容易になりやすいのである。
日本人人でも格差社会になれば犯罪が増える、モラルが崩壊する
日本人は落した財布がもどってくる平和な社会だとか言うがそれとこれは別問題なのである。
日本人でも何かそうしたささいなことでは律儀である
無人駅でも切符入れに電車賃を入れる,別に通りすぎてもわからない,外国人だったらそんなことしない,だから日本人はそういうモラルがあるんだと外国からは見る
日本人でも盗む奴は盗む,いたるところで会社の金をごまかしたり他の所で盗みは日常的である。戦前生まれの人だと何か貧乏でも盗まないとかモラルがあったが今はないのだ
だから家に入れると本当に危険である。

ともかく格差社会とか階級化社会になると上のものと下のものに階層化して意思疎通ができなくなる,そこで犯罪が増えるのである。
モラルが崩壊してゆくのである,そういうことを今恵まれている者は真剣に考えないとその危険が本当にその身に及ぶ割合が大きくなるのである。
殺されることだってありうる,江戸時代は侍の社会として固定化したけどそこには階級社会でもモラルがあった,今階級社会化するとモラルがないから上のものは非常に危険になるのである。
野獣の中に住んでいるようになる,それを自分は介護自分の病気とかで責められて経験しているからだ
もう食うか食われるか金をとるかとられるかの社会である。
だからこそ格差社会を放置しているとその危険が増大して上のものはフランス革命のようにギロチンにもされるかもしれない,そううい恐怖が迫っているのである。

外国人労働者とか日本国内でも格差社会の危険は深刻になる,格差を埋めるために人は犯罪を恐れない,それより貧乏なものはどう考えているか知るべきである。
金持ちから奪うのは権利だ、俺たちがいくら働いても金をえられないのに金がある奴は許せないとなっている,盗んでも当然だ,金持ちこそ俺たちの働いたものを盗んで金をためたのだとなる,だからそこに犯罪は正当化されるから犯罪を恐れない
そもそも犯罪をしたという意識もないのである。
つまりこの世は今やモラルが崩壊して地獄と化してゆくのである。
自分の経験したことはまさにこの世の地獄だったからである。

あいつには金がある,俺にはない
だからあいつから盗んでもいい
人は平等だからだ
盗むことは悪いことではない
当然の権利なのだ
警察は金持ちの味方だ
法律もそうだ
俺たちの働いている金を盗んでいるのが金持ちだ
だから盗んでも犯罪にはならない

泥棒にも三部の理があることは確かである。ただこういうことを普通に思う人が増えてくると日本人のモラルは崩壊する
格差社会や外国人労働者を受け入れることはモラルが崩壊することなのだ
もし外国人労働者にも日本人の最低の賃金とか暮らしを与えるならそうはならないのである。外国人労働者は日本人の最低層より下になっているから犯罪が増えるのである。

posted by 老鶯 at 19:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月21日

外発的動機と内発的動機の相違 (芸術家だけでなく,一般の仕事でも悩むー銀行員を例に)


外発的動機と内発的動機の相違

(芸術家だけでなく,一般の仕事でも悩むー銀行員を例に)

成功する芸術家と、成功できない芸術家。その運命をわけるものは?

内発的に動機づけられた画家や彫刻家は、発見の喜びと創造へのやりがいが彼らにとっての報酬にあたり、芸術家のキャリアにつきものの困難な時期――収入がない、なかなか認められないといった苦労の多い時期――を切り抜けられる。

アメとムチの致命的な7つの欠陥】

●内発的動機づけを失わせる。
●かえって成果があがらなくなる。
●創造性を蝕(むしば)む。
●好ましい言動への意欲を失わせる。
●ごまかしや近道、倫理に反する行動を助長する。
●依存性がある。
●短絡的思考を助長する。

芸術でも賞をとることが目的になるのもあるしまた賞でもとらないと文学では社会的に認められることがない,そのため外発的動機が強く作用する
有名になりたいというのもあるし金も欲しいとなる,有名になれば金が入ってくることがあるからだ,ただその時内発的動機が失われる
賞をもらって有名になった人がその後どうなったのか?
何かその道で大成しているのはわずかだろう。

これを考えると別に芸術家の問題だけではない,社会全般の問題である。
そもそも内発的動機で仕事をしているか,内発的動機で仕事を求めているのか?
そういう人はまれなのかもしれない,知っている人で事業に失敗した人はそうした内発動機はほとんどなかった,ただ経営者になり自分が優秀だということを他人に見せたいためだけだったともなる
だから金持ち相手にもうけるんだとか言っていた,そうでなければ田舎では金にならないとか言っていた,何か事業を起すということは回りの人をまきこむものだと思った
一人ではない,その事業に共鳴する人々を作る必要があるのだ

例えは金を出さなくてもでもそうなのである。この人は社会に何をアピールして会社を起こしたのかということである。
それで「はれのひ」成人式の商売を起こしたのだ失敗した
内発動機として人生の一度の「はれのひ」を提供するものだった,ただその事業が失敗した原因は何かはわからない,でもそうして社会に対してみんなに対して共感させて商売することが会社になると必要になるのだ

例えば銀行がなぜ今問題になっているのか?
それはこれまでしてきたような銀行の役割とか使命感みたいなものが喪失した
銀行が創立された動機があった,地銀だと地域経済を発展させることをになうため会社を育てるとかあった,それがなくなり金を投資する先がなくなりどこでもうけようかとなったとき投資信託とか株を客にすすめる
そして証券会社の支社のようになり地銀の役割が喪失した

すると七つの欠陥のようなことが起きてくる

一軒一軒回る人は若い人だとそうした純粋な動機があり入ってくるがそれがなくなった銀行についていけないとやめているというのもわかる

●好ましい言動への意欲を失わせる。
●ごまかしや近道、倫理に反する行動を助長する。
●短絡的思考を助長する

とにかく手数料とるために客をせかす,過剰にもうかるどうかわからないのにいいことを言いすすめる,もうノルマもありそれに追われる,困窮している人は個人でも余裕がなくなる,投資信託でも買ったらまた売らせてその時大きな手数料が入るからそうする
でも証券会社の人自身が投資信託はもうからないと言っていたから分配金は知らずに元金からまた引かれていたのである。
つまり投資信託は何か仕組みが複雑すぎるからわからないから手数料をとるには好都合だとなる

おそらく銀行員のイメージは律儀であり硬い職業であり地域の人にとって信頼できる人だった,銀行員というと公務員という感じでもあった
それは高度成長があって成り立っていたのである。銀行にあずければ利子がつき安心だ,銀行は金を守ってくれるし利子もつけてくれるということに安心感があり銀行員も固い職業として信頼されていた,証券会社の人もいたが別に見ていたのである。
銀行に就職するにはその家のことを詳しく調査されるという,それは金を扱うから信用第一だからそうなっていた,それでこの辺で孫が銀行に就職したとか自慢していたのもわかる,地方では銀行員というとエリートになっていたのである。

投資信託を株をすすめるとなると前の固い銀行員とは違ったものになる
株や投資信託で客にもうけさせるより自分たちがいかに手数料をとるしか頭になくなる
そこにごまかしや倫理に反することも助長するのである。
短絡的にもうけることが頭に先にあり客のことはないがしろにする

そうなるのはやはり銀行がそもそも地銀であるための地域の人々に何か奉仕するというベースが動機が消失したためだともなる
地域の会社でも金を貸してもうける先がないとなればどうしてもうけるのかとなる
マイナス金利になったのも痛かった,これは政府の責任だという人もいる
銀行は遂に預金の通帳をもっいるだけで金をとるとかなる
利子はなくただ預けるだけで金がとられる時代になった
そしたら銀行の役割はなくなったとなる,それでタンス預金が増えた
銀行はただの貸し金庫になる,それで銀行も信用できないからタンス預金になる
この信用できないということは怖い,やがて銀行から金をみんな下ろしたら銀行が倒産するからである。それは信用がないし金をあずけるメリットもない損するだけだとなればそうなる,貸し金庫でもあれば銀行は銀行でなくなる

自分の失敗は大きな金をもったことがないので金がどういう作用をするのかわからなかったことである。大きな金といってもたいした金ではなかった
でも回りに困窮した人がいるとき金があればそういう人達が目の色変えて寄ってくる
金持ちが不孝になるというときそういうことかあった,金が災禍を生むのである。それ相応の金だったらいいのかもしれないが金が常に人間社会で災禍を生むのである。
自分が病気だろうが介護で苦しんでいても関係ない,弱った時がチャンスとなり金をとろうと寄ってくる,そこに金持ちの危険があり現実に家政婦二人を雇うような不動産屋が強盗に殺されたとか普通にある,そういう困窮した人達に狙われやすいのである。
それを狙っていたのが銀行だったということに気づかなかった

そういうことを知ってる人は銀行に金を預けると投資信託をなどすすめられるから預けないとう言っていた,銀行の強みは金があるということを帳簿を見て知っているからであるそして地元の家を一軒一軒回ることか信頼を築く方法だったのである。
地銀では特にそうだった,それが崩れたとき銀行の最大の財産だった信用が失われる
信用金庫とあるように信用が失われる,それで銀行には金をあづけないとまでこれからはなる,前の銀行員の固いイメージとは違ったものとなっていたのである。銀行には金をあづけられないという時銀行の役割もなくなる

人間にとって信用が一番大事なのである。信用がなくなれば商売すらできなくなる
なぜドルが信頼されるのか?紙切れじゃないかともなる,でもカンボジア紙幣などをもっていて何の価値もないのである。
その信用はどこから生まれているのか?アメリカという世界一の大国があり生まれている
でもまたアメリカが信用できないとなるとドルも紙切れにすらなりかねないのである。
信用は一旦失うと回復するのがまたむずかしい,だから地銀の信用も失うときもう地元では仕事ができなくなることもある
預金もしないとかなり倒産することさえありうる,でも切羽詰まってそうなってしまったともなる

posted by 老鶯 at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月20日

なんでも引かれる時代 (資産は増やせない時代)


なんでも引かれる時代

(資産は増やせない時代)


今テレビでサラリーマンの小遣いが3万とかで減ったと放送した,どこで景気が良くなったのか,株もっている人だけであり他はない
アベノミックスは極一部の人達に恩恵があっただけである。そこにトリックがあった
他に投資でも銀行がすすめる商品は投資信託でも何でも引かれる傾向がある
自分がしたのはみんなそうだった,自分は全く知識がなくてはじめたのも原因だった
銀行に預けたら金が増えるという感覚は高度成長時代にあった
銀行に預けたら金は増えない,利子はつかない,そしてさらに銀行から投資信託などをすすめられて確実にへる,分配金が増えていたと思ったら元本から引かれて減っていた
銀行自体がマイナス金利で日銀から減らされる,銀行自体が増えないから増やそうとして投資信託などをすすめる

それはもうあらゆるところで起きている,保険でもそうだと言っている,ゆうちょでも保険を勧誘するがそこでも損させられている,ゆうちょでも地銀でも儲け口がないから今までの顧客に信用があるから顧客から金をとろうとしている
もうどこも引かれる時代である。
高度成長時代のように郵便局であれ銀行であれ金をあずけていれば増える時代はとっくの昔に終わった,その時郵便局とか銀行員は信頼されて地方でもいい職業だったのである。それがもう信用できないものとなってしまった
そういうことをしていると一時的にはいいがやがて郵便局でも地銀でも信用組合でもこれは何なのだとみんなが気づくようになる,これは前のようなものとは違ってきている
するともう信用しなくなり金もまかせなくなる

それはゆうちょとか地銀とかが悪いともならない,背に腹は代えられないからそうなっている,切羽詰まってそうなっている,もうそこにここでも余裕がないのである。
マイナス金利というけどあらゆる所で引かれる時代なのである。
賃金がわずかにあがったとしても保険料とかが上がり引かれる
年金も引かれるし他にもいろいろ引かれる時代で増える時代ではない,増やせないのである。
何か資産を増やそうとすると減らされる引かれる時代になっている
それは社会全体でそうなっているのだ,高度成長時代なら貯金は別に特別の知識とかなくても貯金すれば増えていたのである。今は利子はゼロであり貯金は全く増えない
物価が上がれば目減りしてゆく

自分の資産もどうして金を失ったか書いたけど引かれるだけだったとなる
回りが困窮していれば増やすことはむずかしいのである
高度成長時代はみんなが右肩上がりの成長時代であり増える時代だったのである。
今は株が上がって一見また景気よくなるのかと見えるがそれは錯覚なのである。
アベノミックスの演出であり本当に景気が良くなっているわけではない
確かに株をもっているとか大企業とかの一部は良くなっているが全体に普及していないのである。
サラリーマンの小遣いが3万に減っているというのがわかりやすいのである。

何か老人はもっと使いというけど何をしても引かれる黙っていても引かれる時代である。すると一番安全なのは貯金なのかとなる,株とか投資信託はリスクが大きすぎるしもうからないのである。それをすすめるのは証券会社や銀行がもうかるからである。
ただ投資信託でも株でも自分の利益を度外視すれば税金にもなったし手数料として証券会社と銀行に金は増えたのである。だから投資することは資本主義では社会全体の金回りを良くするということはありうる,貯金にはそういうことはないからである。
ただそこで金を増やすことが個人的にはほとんどできない仕組みになっていたのである。
だから引かれる時代,マイナスの経済である時代にどう生きるかが問題になる
それは若い人と老人では根本的にその対処が違う,株とかは若い人は向いているが老人には向いていない,老人の先は短いからである。
そして時代にもついていけない,知識もないからである。

それで銀行員が信頼できると頼むと引かれるマイナスになる時代である。
本当に株でもうけるのは個人的に大金持ちがプロにまかせる場合なのだろう
それは個人的に雇いまかせるのである。それは銀行でもない証券会社でもないのである。つまり株をしっている個人的な相談役を雇うことなのである。
そういうことができるのはほとんどいない,だからたいがいは引かれる損するのである。証券会社や銀行に相談するなというときそうである。
株に詳しい相談しろというときそうである。でもそんな友達が普通はいないから証券会社や銀行に資産は引かれる時代なのである。

何か自分の資産を増やそうとすると引かれ時代である。だから増やそうとするより守りになる,特に老人はそうである。だから年金保険みたいなのがいいとなる
確実に将来入ってくるとなると安心するのである。
老人にはそういう金融商品があっていたのである。そして地銀とかでもすすめるのは自分たちがもうかるものでありそういうところに頼めば引かれるだけだとなる
ただ銀行などでも将来を考えるともうそいうことがみんながわかると頼まなくなる
信頼はなくなる,するとどうなるのか?
一時的にもうかったとしてもそういう商売は長くはつづかない,切羽詰まっているからもう地銀などは将来など考えないのかもしれない,第一もう地銀はなくなるとするとこれまでの地元を足で歩いて信頼を築いてきた資産を元に投資信託などでもうけてあとは消滅すればいいとなっているのかもしれない,将来のことすら余裕がないと考えられないのである。

つまり余裕がないということはあらゆるところに悪い影響がでてくる
それは人生でもそうだし社会でもそうである。
勉強でも余裕をもって勉強すれば身につくことがあるから受験だとかせかされるとできないということがある,試験のために追われていたから何が勉強なのかわからなかった
人生でも余裕がないということはあらゆることに影響している
芸術でも勉強でも余裕がないとできない,だから社会にとって余裕が大事である。
その余裕が現代では一番もてない,そうするとそういう社会に生きることは幸福ではない江戸時代は貧乏だけど余裕があったかもしれない,仕事も午後二時で終わったとしたら十分な時間の余裕はあったとなる,田から現代社会の余裕のなさはどこから生まれているのか考える必要がある。

金は否定できないが何か金に追われるのはなぜか?それは足りることを知らないかからかもしれない,これで十分だということは今の社会ではない,これが欲しいあれが欲しいと限りなく欲望を拡大するのが資本主義だからである。
常に充たされない渇望になり餓鬼地獄になっているのが資本主義社会だともなる
だからもうそれも限界に近づいている,幸福を追求しているとして幸福になっていないのが現代である。
栃餅を山では作り食べていた,それは外には売られていない,狭い地域で家族だけで生産して食べていた,それを売り何かを買おうとしたとき大量に栃餅を作ることになる
するとどうなるのか?毎日日夜栃餅を作ることになる,それで時間の余裕がなくなるのである。そういう生活になったのが現代の資本主義社会だとなる

恒産なくして恒心なし

上は父母に十分に仕えられるように、下は妻子を十分に養えるように、そして豊年の年には腹一杯食べることができ、不作の年にも餓死をさせることなく、そのようにしてから国民を励まして善い行いをするように仕向けました。 
そのために国民は君主に従うことがたやすかったのです。

恒産とは常なる産であり常に産出するものとすると農業に由来して生まれた道徳である。だからこれを今にあてはめるのはむずかしいがつまり人間は余裕がないと道徳もありえないことは同じなのである。
この恒産とは金ではない,常に農業時代なら米などの実りがありそれが安心に通じていた今ほど株のように変動しやすい時代では通じない
そういう社会は余裕がないから幸福なの社会ではないのである。
ただ人間は無常というとき常なるものがないのだ,それはいつの時代でもそうである。
この辺は本当に津浪原発事故で無常を経験した,だから恒産をもつといってもそういう平和がつづいた時代も個人的に短いのである。
自分の場合は30年つづいたからこれはありえないことでもあった,そうして生きられていたことは例外的だったともなる
ただその後に家族がみんな死んで急速に無常を経験したのである。

国民は君主に従うことがたやすかったのです。

高度成長時代はこうなっていたのかもしれない,国民は将来の見通しも経済的に明るいしそれは国の政治でも安定して従い安いとなっていたからである。







posted by 老鶯 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月19日

余裕なき社会は他人を思いやることができない (格差社会で金持ちも危険になる)


余裕なき社会は他人を思いやることができない

(格差社会で金持ちも危険になる)


自分のことばかり書いて恐縮だが自分に起きたことはやはり社会にも起きるし現代の社会現象なのである。
金の社会だというとき今だけではない,金のために日夜ある,金が頭から離れる時はないそういう社会に生きている
結果的にどうなるのか?余裕がない社会になる

事業失敗した人は借金している人はまず余裕などもてない,なんとか借金を返そうとそれしか頭にない,金ことしか頭にない,すると相手のことを思いやることなど微塵もない
ただ金をとってやろうとういう考えになる,それが極端になると盗むとなり犯罪になる
現実にそういう目に自分はあってきた

貧困社会になるとそういう余裕がない人が巷にあふれることになる,するといくら金をもっている金持ちでも実際は危険になり住みずらい世の中にある
ただ本当に自分の場合不思議なのはそういう目に30年間あっていないのだ
だから他者がそんなに困窮していたのかと驚きなのである。
社会と人と接しないでそれなりの財産があって家族が守ってくれればそうなる
ただそうなることは本当にまれなことだった
みんなこうして金に追われて追い詰められて生きていたとなる

そういう人と直接接しなければわからないのである。
だから大金持ちでもそんな金に困っている人いたのとなる
マリーアントワネットが「パンがなければ お菓子を食べればいいじゃない」
とかなる
貴族は宮廷で何不自由なく生活している,そうした貧民と接しないから全くそういう人がいることもわからないのである。
結果的にどうなったか,革命がありギロチンで殺されたのである。
その悲劇はまさに全くそういう貧民がいることすら気づかないとういことにあったのだ

自分は20代は苦しんでいた,アルバイトを転々としていたからである。工事現場でも働いたことがある,例えば冷凍庫の中で働いたのは厳しかった,零下20度くらいになっていたからである。あいういうところで働いていると体を壊しやすいことは確かである。
ただ30以降は全くそうした苦労をしていないのである。旅に明け暮れて終わったとなる
だからこそこうして今苦労を強いられたとなる

ただ自分だけではない,政治家でもそうした貧民がいることをじかに接しないものはわからないのである。野菜の値段が上がったといっても無関心になる
総理大臣でも本当に貧民がいるというこをじかに接しないからわからないのである。
金持ちでもじかに貧民と接しなければそういう人がいるということすら見えないわからないのである。どこにそんな困った人いるのとなってしまう
そういう人もまた多いのである。政治家ですらそうだからおして知るべしとなる

自分でもだから意外だったのである。こんなに困っていたのか?
そんな人がいたのかとなる,それでこれまで書いてきたように自分はそういう人達に苦しめられたのである。
まずそういう人達他人のことを思いやることができない,みんな自分が優先になる
自分のことしか考えられないのである。
だからこいつが金があるんだからとればいいしかない,その人が困り苦しんでいても関係ないのである。
それは結局余裕がないからである。他人に思いやりがある人は余裕があるからなのだ
金持ちは貧乏人をかわいそうだねと言えるのは思いやりをもちうるのは余裕があるからである。貧乏人は明日食べるものどうしようとしたら他人を思いやる余裕がないのである。

そして高度成長から低成長時代になると地銀なども余裕がなくなった
それでどうして収入を得るのかとなる投資信託とか株をすすめることになる
それも相手を思いやるのではない,銀行にとって都合のいいものをすすめるのである。
手数料をとれるものをすすめる,相手のことを考えないのである。
だから自分は何度も別に大きなもうけはいらない,少しで増えればいいと何度も言っていたのである。そういう商品はただここの地銀では買えない
東京のメガバンクとかそうでなくても他では用意してある
それは老人用であり定期預金に多少利子がつくような年金的な保険のようなものである。そういう方が老人には向いていたが地銀とか証券会社ではそれではもうけにならないから投資信託とか株をすすめるのである。それは非常にリスクが大きいので理解するのもむずかしいから老人向きではなかったのである。

そういうことは前からあったにしろ現代は地銀のような固い職業もそうなっている
地銀はもう融資先がなく必要もないとなればどうしてもうけるのだとなり切迫してくる
つまり余裕がないから顧客を本当に思いやる対応ができないのである。
それはあらゆる人がそうなっているのである。
ただ金持ちは喧嘩せずとかあり金持ちは余裕があるからガツガツしない
ただ金持ちでもマリーアントワネットのように格差社会がこれだけすすむと危険になる
なんらか貧民の暴動とかが起きてくる,それは自分が経験している
追い詰められた人間は犯罪など恐れないからである。
格差社会の怖さはそこにあった,田舎などでは金持ちは目立つし真っ先に標的にされる
そういう自覚がない人がマリーアントワネットのように多いのである。
そして現実に貧民の反乱が起きて殺されるということまでなる,そして愕然とするのである。それは貴族が貧民のことに関心をもたない,関係ないとしていたから起きたのである。

タグ:格差社会
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2018年01月18日

地銀などの投資信託でも株でも商品の数が少なすぎる (その説明もないし地銀とか証券会社のもうかるものを提供する)


地銀などの投資信託でも株でも商品の数が少なすぎる

(その説明もないし地銀とか証券会社のもうかるものを提供する)

自分の経験では勉強していないからわからなかったけどいろいろな商品があるし投資信託でも安全に投資できるものがある
地銀には一つ二つしかなく勝手に相手の銀行と証券会社の都合で決められているふしがある
調べればいろいろなものがあった,投資信託でも積み立てとかいろいろな方法があった
でもそんなものは一切紹介されない
そういう商品をそろえられないのである。
メガパンクでそういうものをそろえているからそこの案内に行けば教えてくれる
でも田舎の地銀はそうした商品の知識すらないのである。
大和証券が来たらそこから与えられるものであり地銀はただそれに従う下請けである。
様々な商品を投資の仕方が提示できない,ただ証券会社にとって投資信託などの商品もいろいろあっても銀行がもうかる証券会社がもうかるものを提示するだけである
だからこうした証券関係や投資信託などは田舎では不利である。

要するに地銀では東京のメガバンクなどと比べると格段の商品の差がある
そしてその仕方もいろいろあり安全志向のもある
地銀で損したら半分リスクをとって払いというときそういう商品もあるみたいだ
この世界は商品の種類が多いが田舎に来るときはすでに証券会社と地銀のもうかるものを提示して与える,そしてそれしか方法がないのである。
だから安易に知らないですると損する
本当は少額で訓練してやれば良かったとなる,それなら損しても仕方がないとなるからだそうするとまた証券会社とか銀行でもめんどうだから相手にしないということもある

何も勉強しないで銀行だから安心だとしてまかせたのが自分のもともとの失敗だった
自分では調べることもできない,他にすることがあってできない
だから時間がとられるから頼んだがそこが裏目に出たとなる
つまり人間は何するにも時間が必要であり時間をさかないと実りがないのである。
それは天才とか特別な人でなくても一つのものを探求すればそれなりのものになる
それはそのテーマに時間を費やしたということなのである。
それは株でも投資信託でも同じだった
みんな銀行に一括してまかせたら時間は節約できてもその代わり実りは収入はないのである。

本当は株でもうけるならデイトレイダーのように一日パソコンの画面を見ていることである。だがそうなる他のことは一切できなくなる
その人の時間はパソコンで株をみることに費やしたとなる
ただ結果として大金持ちになることもある
そこに時間を費やして大金を得たのである
ただ貴重な時間はそのために消えた,すると後で老人になって後悔することになる
金はあるけど自分のしたことはパソコンの画面で株の値動きを追うだけだったとかなる
この時間が貴重なことが人間にとって盲点だった
時間などいくらでもあるというが時間は確実に消失する
そして最後は何にもできなくなる,ベッドで病院の天井だけを見て死ぬだけだともなる

だから老人になるとみんなあの時何をしていればよかったとかみんな後悔している
それはどんな優秀な人でもそうなのである。
それだけ時間を有効に使うのはむずかしいのである。
金がいいのは金があれば他人を金で雇うことができる,すると家事してもらえばその人は自分のしたいことに集中できる
金で時間を買うというときはそういうことなのである。
でも人間は何かを経験するというとき家事だって経験なのである。
それに時間をさいて家事を理解する,料理も理解する
それを全部他人にやらせたら経験がないとなり損したともなる
時間はこの世には様々なことがありそれを経験することだからである。

結局株でも投資信託でもそれを経験していないからわからない,わからないのに近くの銀行員だから安心だということはなかった
むしろ東京のメガバンクのような多様な商品がありそれで説明されて入るというものでもない
本当に非常に限られた数個の株でも投資信託しか紹介しないからである。
そのやり方も説明しない,銀行のもうけになるから最初大金を入れてももらうことになるまた売り手数料を稼ぐ,それが全部悪いというのではないが説明もその時ない
それは営業する人にもよるかもしれないが地銀には本当に商品が少なすぎる
メガバンクなら老人にあった投資の商品も仕方もあったのである。
ただ田舎ではそれを申し込むにも店舗に行けないのだからできないのである。
だから田舎では投資信託とか株はすべきではないとなる
すすめれるものでも確かにいいものはある,ただ選べないのである。
田舎はここでかなりこうした商品とか投資では不利になっていたのである。
アマゾンで本を買うなら平等だが投資は平等ではなかったのである。

ただ銀行員は毎日地元の人達の家を一軒一軒回っている,そして何度も来る,それが信用なっていたのである。ネットとは違うリアルな人間が直接来ることが信頼になる
でも証券とか投資信託とか株は必ずしもそしてもうけるものではない
その仕組みがわかればパソコンの画面で取引して一人でもできる
それになるには相当時間をさくし訓練が必要なのである。
そのためには資金も必要なのである。
だからこそ銀行員に頼んだがそれが裏目に出たのである。
銀行員自体が知らないし地銀はそうした老人向きでも多様な商品をそろえられない
またその投資の運用の仕方もいろいろありそれも説明しないのである。

自分は何度もそんなにもうけなくてもいい,、損はしたくないと言っていた
そういう商品が売られていたのである。
銀行員では答えられない,そんな商品をそろえられないからである。
田から証券会社と銀行に都合のいいものだけを紹介されるともなる
確かに一つはなんとか利益を出したみたいだけど元本から分配金はひかれて損もないがもうけもないという感じなのである。

老後に投資などで知らないことで金をとられるな

これは言えたのである。投資は田舎と都会の差が意外と大きかった
地銀では素人に毛がはえたくらいの経験と知識もない
蓄積もないのである。だからそもそもそんな商品を売ることができないから一方的に証券会社の下請けになっている,独自に何か商品をそろえたりその仕方を教えることもできないのである。
ただ銀行に都合のいい商品を売って手数料を稼げばいいとなる
そういうことを知らないで銀行員にあづけたのは自己責任だとされる
ただ何か老人はもう時間がない,将来生きる時間が限られている
それで一から勉強するものは無理になる
その老人の弱点を知ってその需要に答えられる商品があっても紹介されなかったとういことである。また地銀ではできなかったのである。




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株や投資信託は経験知識のないものはするな (老人が金をためこむほかない訳)


自分の失われた金

(カルマの清算のために金は失った)


今貯金を計算したら相当へった,それはこれらの人に使ったからである。
その額は大きい,事業失敗者にも払った
盗難の額が一番大きかった,これは痛手だった
親戚の遺産分配もそれなりに大きかった
困窮者が来て援助するはめになった,これもそれなりに要求されて大きかった
そして地銀もまた同じようにもうけ話をもってきても結果は銀行や証券会社に手数料とかとられるだけだった

結果としてずいぶん減ったと思う,ただ助かったのは介護は手間だったけどそれほど金がかからなかった,それは自分一人でのりきったからである
ただその間に自分が病気になったりして盗難にあったり苦しい目にあった
介護は本当は二人だからもっと金がかかっているのが普通である。
でもここで金がかかっていないから残ったともなるかもしれない
病院に入院して治療代とか安いし自宅で介護していてもベッド代にしても安いから意外と金はかからなっかた,手間はかかったがかからなかった
ここで金を使っていたら残らなかった
介護とか病気とかで金がかかると思っているが意外と保険があるからかからない
ただ保険金を払うことにかかるだけである。
だからそこを心配する人がいるが自分の場合介護医療には意外とかからなかった
ただ私的に介護する人をたのんだら月三〇万とか一千万くらいかかったともなる
つまり自宅介護で自力でできるなら金は意外とかからないのである

ともかく金は要求されて出ていったとなる,それもしかたない面はあるがここでわかることは困窮者が多いからこうなっているのである。
一見銀行が関係しないようでも銀行も地銀などが困窮会社になる
もうけることができない,金を貸さない金貸しがいるのかと揶揄されたことでもわかる
金を貸してもうけるのが銀行だけどそれができないから銀行の役割はなくなり消滅してゆく危機である。

事業失敗者の要求も追い詰められているから余裕がないから介護する自分の家にきても助けることなどできない,ただ重荷となって自分に事業失敗の金をなんとかしてくれとくるだけである。それはだんだん自分が死んだら金が入るのではないかとすら思うようになる保険金殺人のようになるから怖い
人間はみんな金に追い詰められればそうなる
わずかの金でも殺すし借金が犯罪の動機になるのが普通である

なぜ自分がこんなに金で責められたのか?
それはみんな金に余裕がないからである。
差し迫ったものがありそれが強盗のようなものにもなり脅迫めいたものにもなり自分は苦しめられたのである。こういう人は他人に同情する余裕もなにもなくなっているから
そういう人が自分が苦しい時に来ればかえって苦しめるだけだったともなる

ただこうなったのも自分の親のカルマと自分のカルマだったのである。
ふりかえるとカルマの清算を強いられたのである。
必ずカルマの清算時期がある,遺産相続したりすると必ずこうした金のことでもめる
だからカルマの清算は過酷なのである。
必ずそのカルマの清算の時はやってくる
へたすると殺されるということさえカルマが重ければなる
それは自分だけではない,例えば親が金があってもその金がブラックな金だとカルマの清算が強いられる,金があればすべていいとはならない,そのブラックな金のためにカルマがまわってきて苦しめられる
それは人生の法則のようなものである。若いときの過ちもそのままでは終わらない
必ずカルマとなり後年責められる苦しむことになる

ただここで銀行に苦しめられというのは無知だからだろう,銀行に責任があるわけではない,それはただ知識がない経験がないことでのってしまっただけだとなる
ただ銀行も今は困窮者になっているから余裕がないから証券会社化したのである。銀行もまた困窮者だから苦しめる側になったともなる
困窮者になれば明日食べるものがなければ相手を襲ってでも奪っても殺してまで得ようとするだろう。そこまで追い詰められている人間は善悪はなくなるからだ
そういう人に出くわすのもカルマだとなるかもしれない
自分がそうだったとなる,でないとなぜある人がなぜ事件にあい,苦しめられるのか理不尽だとなるからだ,

もう自分は自分の親とか自分でもカルマを清算したとしてくれとなる
これ以上金はもうない,それで許してくれともなる
つまり金をもつことはこうしてカルマになるから気をつけろとなる
金の額にもよるが平均的にしても上回る金だと今は貧困者が多いから責められる
田舎では特にそうである。田舎では大金持ちなどは住めない
なぜあいつは金をもっているんだとなるからだ
ともかく金というのはどこまでもついてまわる,そして地獄の沙汰も金しだいになる
金の恐ろしさがわかる,金をめぐって人生も変転する
だから人間は金から解放されたいと心底願うようになる
そして強欲資本主義とか金融資本主義がやがては成り立たなくなる,そして別なシステムが生まれるのか?そういう時代が来ることを願うほかない

ただ天に宝を積めというときこの世に積んだ宝も金もそれは腐れる,死ぬときは結局そんなものは意味がなくなる,天国ではこの世の金で生きるのではない
天に積んだ宝で生きる,金にふりまわされることはもうないのである。

カルマの精算期にきたら

本当にこういうことがある,もうこれは法則のようなものである。
人はカルマから逃れられないのである。ただ苦しみがないと自覚できないのである。
なんらか苦しみがともなうときカルマを自覚するのである

自分はカルマ消すことをしてきた,だからもう金ではめんどう起さないでくれとなる
金のカルマから解放されたいとなる






タグ: 投資信託
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2018年01月17日

株や投資信託がわからない人はするな? (すべて自己責任になる)


株や投資信託がわからない人はするな?

(すべて自己責任になる)


人間は何でも知っていたりできない,極一部しか知ることができないしできない,だからこそいろいろな人に頼む,病気になれば医者にみてもらうし家を建ててもらうには建築会社に頼む,大工さんに頼む,墓を作るとしたら墓を作ってくれる会社に頼む
人間はあらゆることに通じることはできない
だから投資信託とかも株でもわからないからこそ銀行員が来ればそれに頼む人が多いのである。

では知らないからとすべてが自己責任になるのか?
投資信託とか株とかはそうなりやすい,私たちは十分に説明してすすめたのです
ただいろいろな状況で株は変動するものですし投資信託でもそうです
それが下がる時も上がる時もあるのです
その責任は私たちにないのですという言えばそれまでで追及はできない
要するに知らないと自己責任になるのである。

別に他にも投資信託をネットでするとか会社もある,ただそうなるとまた手続きがめんどうになったりする,銀行員は近くに支店があり地元を一軒一軒まわることで頼み安いとなる,でも証券とか投資信託とか株はそういうものではない
これは知識とか経験かないとそもそもできなものである
いくら一軒一軒まわって対面的に相談するにしても株とか投資信託とか証券はそういうものではない,一軒一軒まわる銀行員がいてもそれで信頼できるというものではない
ただそれで手続きができて安心感があってすすめられてしている
利子がつかないから投資信託だともうかりますとか言われればそうなる

でも投資信託は実際はもうからない,手数料でも高いし毎月分配はもうからない
仕組み的にはそうなっている,リスクだけが怖いと思うようになった
利益になるよりそっちの方が怖い商品だと思った
だから株とはそもそも大きなもうけがありそれで余裕ができてまた株をするというのがいい,毎月配分型とか利子がつく感覚でやるものではない商品である。
株はそもそもそういうものだからである。時々の状況にも左右されやすいからである。

自分は株にも証券にも国債にも投資信託も知らないけどした
それは結構大金だった,それは銀行員だと地銀だと銀行員は地元をまわっている
それで頼みやすいのである。そこに信頼が生まれている
でも株とか投資信託とかはそういう性質のものではない
銀行員が地元と回って歩いているからと信頼がましてもうけがあるという商品ではない
性質の違った商品なのである。
しょっちゅう顔を合わせているからといって株が上がったり投資信託が上がったりしないからだ

地銀の仕事はなになのか?やはり地元に支店がありface to faceで仕事している
でもこれはそういう仕事とも違う,ただ証券会社とかなると地元に支店もない
地銀というのは地元志向で土着的だともなる
ただ地元の会社を育てるとかなくなるとそれは役割を終えたのかとなる
電子化してゆくと特に金の管理でも自動化するからである。
地銀というのは地銀として本来もっていた役割を終えたのである。

だから今日は大和証券の人が来たが銀行は証券会社の下請けになったのかとなる
つまり銀行はかつてのような信頼できる地元に土着した密着したものとは違う。
証券会社の下請けになったとのかとなる
なぜなら株に投資しろとか投資信託になると証券会社の方が断然上になるからだ
証券会社はそういう仕事をしてきたのだから当然だとなる
すると銀行は何をするところなのか?それが問われることになる

それは商店は地元にありそれは土着的であり信頼感をもつ,ところがインターネット販売になると違ったものになる
それでケーズデンキで通販で調べて最新式のデジタルカメラを買った,店に飾ってある商品が少なすぎるからである。ただアマゾンでノートパソコンを買ったが壊れて修理に出すところがなかった,それで損したこともあり近くに店があると安心なのである。
そのことはアマゾンだけになるとそうした商店は消滅してそこには人間がいなくなる
それで緊急時にはそうした食料すら手に入れらなくなると忠告する人もいる
それは近くに現実のリアル商店がないことからそうなるのである。
だから銀行でも現実にリアル店舗として地元にあることがネット化しても必要なのかもしれない,ただコスト的に女性の窓口業務などは無駄だとなり廃止されてゆくしすでにしている

大和証券がもってきたのはAI化自動化ロボット化する会社の株を買いということである。そのファンドでありそれは毎日のように今や話題になっている
そこが社会を変えるから株が鰻登りに上がっているという,そこに将来性があるというのはわかる,だから納得するから買ってもいいとなるのか思案する
でもまた前の投資信託を解約すると何か金がとられたりする
その株を買えばまた手数料がとられる,その手数料の額が馬鹿にならないのである。
投資する額が多いとそうなる,そのもうけは証券会社と銀行に入るだけだとなったのが現実だったのである。
そもそも銀行が投資信託をすすめるのはメリットがある,それが会計上そうなっている
ただそうした仕組みを理解すること自体むずかしすぎる

だからわからないか人は株や投資はするなというのもわかる
結局説明されてもわからない,そのわからないことで失敗しても自己責任だとなるからだ
ただ金融でもそうだが病気のように自分で直せないから医者に行くのである。
金融商品でもわからないから銀行員にたのみ証券会社に頼むのである。
だから何でもわからないからとすべて自己責任になると社会で生きてゆくこともできなくなる
株とは投資信託はそういうリスクがありますよというのはわかる
そうなると本当に思う,銀行員は特に地銀はそういうリスクをすべて地元の客におしつけるな,すすめるなともなる
もちろん株で投資信託でもそれぞれが自己責任でするならいいとなる
そういう投資信託でもうかる会社はある,ネットに出ているからだ
すると銀行に地銀に頼まずそこに頼めばいいとなる
ただ自分の場合その手続きとかがめんどうでしなかったのである。
やはり近くに銀行があり地元をまわっている銀行員がいるということが信頼を生んでいるのである。

いづれにしろこれもいろいろな問題があり次々に問題がもちこまれているのが自分なのである。それで疲れたともなる,そんなにいろいろなことを自分だけでは処理できないからである。
だから家事でもこれもいろいろあり金融でもあり忙しいのである。
そんなに人間はいろいろなことはできないのである。
だからこそ専門家にみんな頼むのだがそれでうまくいかないとしてもまた自己責任だと責められるのが現代なのである。

でも医者などはいろいろあっても患者を直すためのノウハウがありしている,そして手術などでミスすれば裁判にもなる
建築関係でも建物に手抜きがあって事故になれば責任問題になる
この銀行の投資信託とか株は銀行の責任問題にならない,責任が別な所にどうでも転嫁できるからである
医者の場合や建築関係は具体的に責任問題となり問われる
だから金融関係の仕事は何かというときいい加減な口八丁の仕事なのかともなってしまう。
別に客が損してもいい訳がつくからである。
銀行は融資して失敗したら損する,だから土地などの担保をとる,融資して失敗したら責任をとらされるのである。
だからこそ慎重にもなる,でも投資信託とかは客がすべてその責任をとらされるのである。
そういう商品を買わせているのである。それで銀行も責めることはできない自己責任になるのである。
だから知らない人は株でも投資信託でもするなという結論になるのである。
そして株とか投資信託でも素人が知ることがむずかしすぎるのである。
だからこそ素人は株とか投資信託に手を出すなともなる

ただ人間の仕事は商売でも一時もうかってもあとでそれが信頼を失い会社自体が駄目になることがある
地銀でも投資信託とか株で客にすすめると信頼がなくなるかリスクがある
今はいいけど後で銀行自体が信頼されなるなるのである。
銀行というものはそんなものか証券会社の下請けになったのかとかなる
地銀としての役割もなくなりみんなから見離されてしまうのである。

それは雨漏りを頼んだ大工さんが仕事をしたあとに何がかかったとか五六回も金を請求してくる
金は別に多少高くなってもしょうがない,しかし常識的にあとから何かかかった,またかかったとか次から次と後から要求されたらたまらない,いいかげにしてくれとなる
それで次の仕事は断ったのである。なぜなら仕事した後に何ににかかった今度は何にかかっていたとか要求されるからである。
そしたら頼めるか?怖くて頼めない,一回頼んで仕事してもらったそれがわかったからだ
そういうふうに信頼をなくしてしまい仕事も失うのである。
そういう危険が今や地銀とかにある,それはあせりもある,収入の道がないということもある
ただそこで地元の人からも信頼されなくなったらどうなるのか?
今日来た人は東京から大東銀行に出向してきた人であるから地元とは関係ないともなるからだ
でも地銀は地元密着型でありそこでの信頼関係が失われると地元の人から見離されるということがある
それで投資信託に手を出さないという信用組合とか地銀もある
とにかく今銀行が問われていることは確かである。


銀行にも責任はある,客が損した分の半分くらいは払う必要があるかもしれない
ただ逆に客がもうけたときはその半分はもらうとかなるかもしれない
客もやはり負担が強いられる,そんならしないというのもわかるし自由である。
ただ銀行は客が損したとき何のリスクもとらないことが別に客が損してもかまわないしどうでもいいとなる
手数料さえもらえば関係ないとなれば真剣にもならないのである。
客が損したら銀行も損するとなれば真剣になるからだ
だから銀行はこの点を改善しないと地元の客からも見捨てられるかもしれない・・・


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仕事したあとに次々に金を要求する大工 (困窮する人達が増えているためか?)


仕事したあとに次々に金を要求する大工

(困窮する人達が増えているためか?)

雨漏りしたから大工さんに頼んだ,その大工は五六回も仕事が終わったあとに金かかったと請求してくる,すでにそれなりに金を払っている
でも最初に見積もりもなくただ雨漏りを直してくれというだげで頼んだ
一二回ならいいそれが何度も後から後から請求されるのである。

何がここで問題になったのか?
この仕事はだいたいいくらかかりますかとか金額提示されないからだった
それで後から後から金を請求される
工事の請け負いでも落札価格があり決める,どのくらいの値段でしてくれるのかで決めるところが素人にはそうした工事していくらという値段がわからないのである。
ただ領収書で材料費にいくらかかったとかはわかる
その人はその領収書も見せないで後か後から金を請求してくる

つまり最初にいくらいくらでするとかおおよその目安を示してそれで契約する
その時多少高くてもそういう契約したのだからそれは双方で納得したことなのである。
契約がうるさいのは後でこうした問題が常に起きているからである。
ただ素人には例えばリホームとかでその値段がわからないのである。

だから仙台から来たユニットバスを作った会社は良心的だった
百万で作ると言って契約してその通りに立派なものを作ったからである。
イワタニではガス屋ではこれは二百万すると言っていた
もし地元の人に頼んだら知り合いの人を通じて頼んだら後から後から要求されて三百万になっていた
その人はいろいろあって大目に見て金を払ってきたのである。

というのは仮設の食堂で働いていて賃金をもらえなかったからである。
その仮設の食堂には自分は通っていたからである。
七〇万もらえないと自分のところに来て訴えるからかわいそうだと思って払ってきた
そこでは皿二三枚洗うのとは違う,かなりの労働だったからである。

要するに雇う人と雇われる人の関係は何なのか?
そこにはなんらか信頼関係がないと成り立たない
別に雨漏りで頼んだ大工さんが多少高くてもしょうがない,それは交渉である
でもあまりに高いと頼めないのはしかたないことである。
慈善事業ではないからだ
ここで問題は契約が大事なのはこうしてのべつもなく後から金を請求されたり困ることが双方に起きるからである。
それで樋も壊れたので頼んでいたが断った
つまり信頼関係がこれで壊れた,仲介した人との関係も悪化したりする
仲介する人の信頼も壊れてゆくこともある
なぜそんな人を頼んだとなるからである。
人と人の信頼関係が壊れてゆく

この前の家で手伝ってもらった人もそうである,家に来て盗むとなると危険となるその人はこの土地に今も住んでいる
するとこの土地にそういう人が住んでいることはこの土地はそういう危険があり信頼できないともなる,狭い田舎だとそうなる,その市町村は住むにも危険だともなるのである。雇うとか雇われるという関係もつくづくめんどうだった
そんなこと自分は経験していないからだ
雇う人雇われる人には問題が起きやすい,それは双方の信頼関係を築くのがいかにむずかしいかを示しているのである。
信頼関係を築くことがいかに人間はむずかしいかを示しているのである。
それは歴史的にもそうである。人間が信頼し合う関係は最高にむずかしいともなっているからだ

ともかく自分の所にくるものはこうして金を奪おうとうする人達が多かった
一人事業に失敗した人であり借金かかえているからただ金を奪おうという気持ちしかないから自分の困ったことがチャンスとなり脅迫のようになった
例えば銀行員などがまともだと思うと今は違う
地方銀行はもうかつての銀行ではない,収入がなく追い詰められて投資信託とか売っているがそれは手数料商売であり顧客がもうかるとはなっていないので手数料とりすぎるので金融庁から諫められたのである。
この前は親の代の親戚で金貸してくれとかきた,何かこの辺ですでに金がなく困窮している人が多いから余裕がないからそういうことをするとなる
自分の所にはそうした困窮している人が来るからこの辺の経済状態は悪い
それよりそれは下流老人と非正規とかフリーターとかニートとかそうした社会が貧困化している日本の問題が顕在化しているのである。

雨漏りの修理をたのんだ大工さんも仙台の方で働いているという,非正規の人は東京に職探しに行った,そういう何か困窮した人達が増えてきたのである。
それは日本全国でそうである。アベノミックスでいいのは株でもうけた人達である。
その株にしても普通の人はもうからない,極一部の人でありトリプルダウンはなかったのである。
もうこの辺はこうして困窮している人が増えてくる
この辺ではいいのは原発の避難民となり多額の補償金をもらった人達である。
それも全部ではない,復興団地に住んでいる人も多いからである。
豪邸を建てた人はやはり多いとは言えない

もう三年でこの辺は復興事業の予算が国からでなくなる,その時さらにこの辺は高齢化が他より一〇パーセント多いとかなり困窮する人達が増えてくる恐怖である。
それは自分のように今は余裕があっても回りが余裕がないのだから田舎では平等を徹底して要求するからのんきにしてはいられないのである。
三年などすぐだしその時もう自分も年で弱ってくる年齢である
するとさらにこの辺で住むことは苦しいことになってゆく
回りに余裕がないと経済的でもそうだが一人だけのんびりはできないのである。

だから今になるとニートとかフリーターとか非正規とかが社会の重荷になり責められるのである。
そういう経済状況でくなったからである
本当は高度成長時のときこそニートとかフリーターがまだ多くても良かったのである。
全体の経済が良かったからである。
でもその時は自分のようにニートとかになっていたのは本のわずかである。
だからそんな人いたのと誰も注意もしないし話題にもならなかったのである。
でもその時こそそういう人がもっといても良かったなと思うのも時代である。
とにかく時代によって人間はあらゆることの価値観から見方から変わって来るのである




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2018年01月14日

氷河期世代高齢化社会で日本は共倒れになる危機に (ニート,非正規などと高齢化問題はセットである)


氷河期世代高齢化社会で日本は共倒れになる危機に

(ニート,非正規などと高齢化問題はセットである)

なぜか田舎でも40代あたりでニートがいる,自分はそういう人間と会いやすい,三人くらいあっている,一人は働いていても非正規なのである。
だからこの前も仕事を探して就職したのに今年になって仕事がないと6月まで休むというから驚きである。
それでその母親が自分に困ったとして金を要求してくる
だから自分はできないと言った,その人はこれまで同情すべきことがあったから援助していた,しかし自分一人ではどうにもならない問題である。

低賃金の仕事で生活することや、インフォーマルな仕方で紹介されることが多い職をそもそもみつけることは、家族や家族のように付き合う仲間がいない場合、途端に難しくなるからである。

しかし仕事が流動化し、一生の職と呼べなくなるなかで、仕事によって人を判断することも、まただからこそ仕事に熱意を注ぐことも、意味のないことになりつつある。

この人は自分の労働観とにた意見になっている,現代の労働はその場限りの日払いのような仕事に変わっている,それまで終身雇用とかで一生勤めていた会社員だったけどそういうのは少ない,非正規の数が膨大になっているからだ
だから働くことは何なのか自分のようにすでに団塊の世代でもあったのである。
ただその時は高度成長時代で会社が大きな価値をもっていたからみんな企業戦士となったのである。

非正規だからこうしたことがないとやっていけないとなる,この記事はその非正規の待遇を考慮するべきだと言っている,つまり非正規が増えすぎたからそれを自己責任として押しつけることができなくなっているのである。
自分も半年工事関係で働いて仕事がない,その間援助してくれとなり二回も金を要求された,その額も大きい,そんな金は自分にはもうないのである。
自分には収入として入ってくるものが国民年金しかないからである。

氷河期とかニート,フリーターは40代で人口も多い
その人たちがなぜ大問題になるのか?
それはその親がその負担を負っているからである。
その親が死んだりするともう生活もできなくなる,その数も多いから問題なのである。

つまり氷河期とかニート,フリーターとか非正規とかの問題は高齢化社会と一体化してあった,これは切り離せない問題である。
親があって親の援助で生きている,その親が介護状態とかなる高齢化社会である。
それはちょうど団塊の世代が親なのである。
その団塊の世代は介護時期になるとその氷河期とかニートとか非正規とかの子は親を介護できるのか?それは思った以上深刻な問題である。

それを自分は自ら被害を受けて具体的に知ったのである。自分にその負担がまわってきたからである。他にも親戚で生活保護の女性が東京にいた,それも40代なのである。
この40代世代が大きな問題をはらんでいる,それも数が多いのである。
団塊ジュニアになるからだ,数が多いということはそれだけ問題が社会に顕在化しやすいのである。
例えばニートとかでも数が少なければ問題化しない,団塊の世代で自分のようにニート化したのは極々まれだからである。そんな人いたのとなるからである
でも社会に数が多くなると問題化してどうしようとなる,社会の負担となるからである。少数だったら負担にならないからである。
その人たちがどうにもならなくなり生活保護になったら国自体が負担して国が傾くのである。

高齢化社会はまた団塊の世代のように数が多いことで問題になる,死体を処理する火葬場すらたりなくなり困ると東京などで問題にふでになっている
つまり数が多いということはあらゆることで問題になるのである。
高齢化社会とは数が多いことによって国の負担になり負いきれないとなる
そこでもう老人の価値は昔と違って格段に低下する,老人は邪魔だ,安楽死して始末させろとか毎日のようにネットで若者が叫んでいることでもわかる
昔のように老人をいたわるというとき敬老の精神は数が少ないときありえたのである。
数が多くなったらただ社会全体の負担になり若者の負担になり老人のために人生が犠牲にされるとまでなる
国の税金も老人のために使われて将来の日本をになうものに使われないとなる

そういう不満が全国に充満している,そこでは愛とか慈悲とか成り立たない,数が多すぎるから成り立たなくなる,そんなこと言っていたら国が破綻するとなるからだ
老人は弱者だからいたわりなさいとかならない,老人は障害者でもありでもその障害者が膨大に増えたらそれにいちいちかわいそうだねとか言えなくなる
みんなそんな余裕がなくなる,だから今病院では老人が無理やり生かされているが早く始末してくれともなる,数が多いと人間は物扱いになる,愛とか慈悲が成り立つのは少人数の時なのである。
数が多いといちいちかわいそうだねとかなりえないのである。
それで病院ではそうした老人ばかり診ているからいらだっている
そこで自分も看護師に虐待されたのである。
数が増えすぎた老人はもうその負担に耐えられないとなり社会的に始末しろとまでなる

つまり今までの宗教観とかモラルも通用しなくなる,それは人間が悪くなったからとも言えない,数が多すぎるとそうなってしまうのである。
数が多いこと自体,人間の価値は比例して低下してゆく
一票の価値でも村のような所だと十票の価値があるが東京とかなる一票の価値は格段に低くなるからだ

いづれにしろ氷河期とかニートとか非正規の問題は深刻である。
日本の経済が景気が良くなったというが株だけ上がり逆に物価が上がり苦しくなっている野菜が高騰して鍋物が作れないと嘆いている
実際は賃金も上がらない,そしてニートとか非正規をかかえた親は負担を強いられるがそれもできなくなる,その時あと20年とかなると社会負担になる人が増えてくるのだ
団塊の世代の高齢者もその氷河期とかニートとか非正規の親であり介護状態になる人が多くなる,認知症の患者が800百万人になるという数字も恐怖である。
認知症の介護に全国がふりまわされてパニック状態になるかもしれない
つまりこの深刻な将来を真剣に考えないともう日本は終わるとなる
あと十年とかでその問題は社会に顕在化してゆく,それは本当に恐怖でありリアルなものなのである。



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仕事になるのはみんなのためになること (一人はみんなのために みんなは一人のために)


仕事になるのはみんなのためになること

(一人はみんなのために みんなは一人のために) 


仕事というのを考えるとき自分の例だと例えばお手伝いさんを雇うというときそれは自分という一人のためであり家族のためである,でもその範囲は極端に狭くなる
すると社会的にその仕事が認められるにくい
戦前女中が多かったというとき家事が家族だけでできない社会的事情がありそうなった
今は家事は機械化しているしいろいろオカズも買うことができる
家事は一人でもできるようになっている

だからオカズをスーパーなどで売っているというときそれは一家族のためではない,みんなのために売っている,オカズでも食事は家族のために作っていたのである。
家族労働と社会的労働とは違っている,現代は家族的労働が社会的労働にとって変わってきている,掃除すら会社がしてまわる,それは一家族のためではない,みんなのための労働なのである。

まず一家族だけの労働だとすると一個人のための労働だとすると仕事にはならない,収入にもならない,たいがい製品でも食品でも売るものはみんなに受け入れられて評価されなければ売れないのである。
社会的に認められ受け入れられたものが社会的価値あるものとして受け入れられる仕事になる

例えば食堂でもレストランでも一人のために食事を出す所などないのである。
ある程度の人数のためにサービスしているのである。
でも考えてみると金持ちがいて一人でもそのレストランが成り立つようであればできる
そうなるとそれは王様くらいしかいなくなる
そういうのは現代では成り立たない,ただ食事でも高級な食事はある
そういうレストランは都会だとあるし田舎だってある
それは特別であり予約制になっている
一般的にはそういうのはまれであり仕事として成り立ちにくいのである。

仕事というとき何か自分が人を雇って感じたことはみんなのための仕事でないのは仕事として社会的に容認されにくいのである。
社会的に価値が認められないのは仕事となりにくい,介護でも家族内でしていてもそれが社会的には認められない,家族なら当たり前じゃないかとなるだけである
でも他者がかかわり施設などを利用したり入るとそこは社会的に認められた仕事である。それは一人のためにではない,みんなのためにしているからである。

みんなのためになるというとき電気でも石油でもガスでも一軒のために供給するのではない,もうこれは全員に供給しているのである
そういうのが仕事であり社会的に認められる,家族内では家族だけの人のための労働になる,それは社会的労働とは違っている
でも人間は家族内ですべてできればいいのだができない,だからこそ社会的労働が家事の分野まで拡大したのである。

野菜とか米とか農業でも自給自足していても仕事はしている,それは家族内労働とにている,農家では納豆を作っていたとか味噌を作っていたとか自給自足であった
でも現代では文明とは無数の職業がある,分業化した
すると仕事になるにはみんなのためになることをしないと社会的には認められないし金にはならないのである。
家族内で自給自足していているのと野菜でも米でも果物でも売るとなると自分の家族のためだけではない,みんなのためになり仕事となる
でもそうなるとその品質も売れるものとして作らねばならないのである。
市場に出して商品として売れるものみんなに認められるもの必要とされるものを作らねばならない,それは自給自足で野菜などを栽培しているのとは違ったものになる
価格競争もあり品質競争もありそれに勝たないと売れないともなる
自給自足だと競争というのはないからである。

みんなのためになるのが仕事だというとき例えば自分が駅に鉄道の時刻表を作って置いたそれは需要があった,もう千枚以上すっているが以前としてもってゆく人がある
それはみんなのためであり一人のためではない,だからビジネスにもなるのである。
無人駅での案内などは外部の人のためであり町の人のためでありその範囲が広いのである今やグローバル化になると世界の人のためになり世界の人のために売れるものが認められる,世界的に容認されて仕事となる

そしてそういうことができるのは大きな会社組織である,みんなのためになるものを提供するとなると社会組織にならないとできないからである。
だから今は女中のような個人である特定の家族のみに労働を提供することはまれになった掃除するにも会社が多数の家をまわってしているのである。
そういう形態は過去にはなかった,家事でも会社組織となってしているのである。

その女性は一時仮設の食堂で働いていた,その時その食堂は繁盛した
外部の人も大勢来たからである。自分も通っていたから街の人にもサービスしていた
でも外部の人の方が多かったのである
今でも仮設に一軒食堂があるが外部の工事関係者が入っていて成り立っている
つまり仕事になるのはそうしてみんなのためになるもの,より大勢の人のためになると仕事になり収入にもなるのである。
現代はこうしてみんなのために働いている人が多いのである。
それが仕事であり分業化してそうなっている,そうでなければ仕事として認められないからである。

なぜ自分に人を雇う資格がなかったかというとそれは自分一人のためになっていたからである。
「あなたはどこで何して働いていますか」
それがその人をどういう人か見る指標である。
だからどこの会社で働いているかで人を見る,人の価値を決めたりするのである。
「私はある家で家事働きをしています」
そういうのは今では社会的に価値として認められにくいのである。
だから家事サービスでも会社組織になってしているのである。
つまりみんな会社員の時代になったのである。

一人はみんなのために みんなは一人のために

こうならないと仕事になりにくい,みんなそうして仕事しているのである。
自分の場合はそうなっていないから人を雇うことも使うこともできないとなったのかと反省したのである。

この言葉もまた深く解釈すると逆に生活保護とか福祉になるとそういうのはみんなで負担するということになる,みんなの了解を得て給付するとなる
第一自分とか一人に頼られてもできないからだ,そういう余裕のある人はまれだからである。だから福祉関係もみんなで負担して助け合うとういうことで成り立つ
みんなはひとりのために助けるということがある
ただそこにもやはりみんなの了解が必要になる,それが民主主義社会となる
民主主義社会自体みんなの社会であるからだ,王様のための社会ではないからだ
だから格差社会が問題なのである。


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2018年01月13日

ギャンブルのために費やされる労働の是非 (金になるからいいとすべてなるのか)


ギャンブルのために費やされる労働の是非

(金になるからいいとすべてなるのか)


一時鹿島区では競輪の券売り場で是非を争った,風紀が乱れるとかなんとかあった
でもどちからというと賛成者が多かった,理由は金になるからということである
そこで底辺層は掃除などあるからいいと言っていた
それはパチンコ屋とにている
バチンコ屋があって街もにぎわっているという主張があるからだ

でも問題は何にあったのか?金になればすべていいという論理がまかりとおるのが資本主義であり現代である。
いちいちその金のことなど考えない,金をどう稼ごうとも使うとも自由だというのが資本主義である

しかしそれを深く考えるとそうでもない,そのことが自分の一身上のことで現れたのである。
自分が介護で苦しんでいるときその人は借金してパチンコ屋で働いていたのである。
その時小高の人達が大勢避難してきて仮設に住んですることなくパチンコ屋におしかけた他にも競馬とか競輪とかに通うことになった

別に暇だからいいじゃないか娯楽なんだよという人もいる,気晴らしが人間に必要なんだよという人もいるしいろいろである。
でもその本当の問題は何なのか?
それは金の問題もあるが貴重な人間の労働がそこに費やされていることなのである。
その時介護で自分が苦しんでいたのになぜパチンコ屋で働いていたのか?
それは借金のためしかたなく働いていたとはなる
でも本来は介護して苦しんでいる人のために労力を費やすべきだとはなる
でも金にならないのもは何もしないとなるのが現代である。

自分は駅で案内してそういう競輪の人が来てタクシーを呼ぶ,案内したこともある
でもそんな人のために労力を費やしたくないとはなる
しかしタクシー会社とか金をおとしてくれる人がいいんだという意見の方が根強いのである。

それが資本主義社会に基礎にあるからそうなる
それはいいとして他の人達が困っている時にそういうことで遊んでいる人が許されるのかそういう疑問になる,そんなこといったらパークゴルフ場で老人が毎日遊んでいるではないかともなる
そこにも労力は費やされているのである,そこを作るにもそうだし整地するとかにも今でも金はかかっている,金だけではない必ず労働されて労力が費やされて成り立つ運営されるのである。
だから遊びのためにそんなところに金を使っていいのかという意見もある

ただ自分はパークゴルフはしないけどあそこは気持ちいい場所として散歩に自転車で寄っているのである。
それはレクリーエションで別に今の時代そんなことにめくじらたてる必要もないとはなる
ただ問題はこの世のあるゆるものに人間の労力が費やされて成り立っている
一見それが見えないのである。鉄道など乗っている人にはわかりにくいが毎日のように鉄道の保守点検に下請けの人などが来ている,それだけ鉄道を維持するには金も人手もかかっているのである。
いくら機械化しても自動化しても必ず人手がかかるしそれを全部無くすことはできないのである。
そして人手とは今や貴重なのもでてあり安価には使いないものである。

だから自分には人は使いなかった,使う資格がなかった,そういう立場にもなかったのである。人は単に金だけでは使えない,その仕事にそれだの価値があり社会の用があるとき仕える
医者は看護師を仕える立場にあり社会的にも認められている
それは確かに給料も関係しているが金が関係しているが社会的に必要なものとして認められているから人を使うことができる
自分などの仕事はそんな家事を自分でやれよなとなるのである。
ただ介護のときは苦しいからそうでもなく助けてもらいたかったとなる

まず人の労力は貴重なものでありそれを使える者はそれだけの資格とか社会的必要性があるのかとかで判断される,金があるからは言って人をがむしゃらに使うことはできない
もろろんそれで働く人もいるし資本主義社会では是認されている
でも労働力が貴重であるときすべてが金だけでは決められない
社会的必要性があるもの万人が価値を認めるものでないと人を雇うことはできない

だから例えばオリンピックに今労働力が費やされている,そのために過労で死んだとかいう人もいるし事故で必ず誰かかが死ぬ,ではそれだけの労力を費やしてオリンピックをすべきなのかということになるのである。
それは労働力が貴重だからそうなっている

人生は何か?それは何に時間を費やしたかによって決まる,すると人生は労働なしではありえないのだから何のために何に貴重な時間を労力を費やしたのかとなる
労働というとき必ずしも社会のためにというだけではない,遊びでも旅行とか登山とかその他遊びが貴重な時間を費やして実りとなることもある
ただギャンブルなどがそうして労働の実りとなるとはありえないのである。
ただギャンブルの本当の問題は何か?

そこに貴重な他者の労働力が費やされている

掃除するものも労働だしその労働は本来はもっと社会にとって個人にとっても有効なものに費やされるべきものだからである。
ギャンブルするのはいいとしてパチンコする人が掃除をして他人の貴重な労働を奪うなとなる
それは理想だがそういうことが社会には多いのである。
その時労働をしたくないというのもわかる,自分の貴重な時間をギャンブルする人達のために掃除して他にも費やして何か実りがあるのかとなるからである。
そこまで深く考える人はいないが社会にはそういうことが多いのである。
ただそれが自由社会であり資本主義だとなれば是認される
人はそれぞれの価値観に基づいて金を払うというだけになる
ただその時社会全体が荒廃してゆく,本当に労働の必要な所には労働力が得られなくなるそれは社会全体の被害になる,人手不足の時代は特にそうなるのである。



タグ:ギャンブル
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非正規雇用の問題 (一年の内に半年も仕事がないのか?)


非正規雇用の問題

(一年の内に半年も仕事がないのか?)

その人は建築関係の仕事である。年齢は40代くらいだろう。去年は3ケ月くらい働いていない,その後仕事探していわき市の方に勤めた、前はこの辺で除染関係の仕事をしていたその時は近くだから楽だった
その仕事を終わってまた別な仕事を探しまたせっかくいろいろ書類をそろえて正式に勤めたのにまた仕事がないと6月まで仕事がないからその母親が金を援助てしくれという
その女性にはいろいろあってずいぶん援助してきた
でも遂に限界に達した,前借りから何かと金を要求されるから限界になった
事情があったときはやむをえなかったが限界になった
そんな親子とつきあっていて金払っていたらきりがないからだ

確かに母親は67才くらいと年でいつも腰痛い痛いと言って皿二三枚やっと洗って終わりである。それはもう必要ない仕事である。ただ事情があってさせていたのである。
非正規の問題はそうして途中でブランクができてまた別な仕事を探すことである。
これは手間になる,建築関係とか土木関係はそういうのが多いからしかたがない面があるでも建築関係でも正規に勤めている人はそうではない,その人の兄は同じ建築関係でも
家族を養い足場を組む仕事をしているのである

だから非正規とかなっている人はその時の社会の事情があり氷河期で就職できなかったとかあった,でもそれを全部社会のせいにはできないだろう。
現実にその時でも正規になって働いて来た人はいるからである。
とにかく非正規はこうして一年の内半年くらいブランクができることが問題なのである
その人はその間に何もしないというのではない,手間賃をもらうような仕事はしていた
でも去年もそうでありまた今年もまた半年も働かないのか?
仕事がないとはこの辺では言えないのである。
全国でもそうである。どこも人手不足で苦しみ会社自体が倒産したり起業できなくなっているからだ

特に原発事故周辺はみんな人手不足で困っている,特に病院とか介護関係で困っている
飲食関係でも募集しても時給1000円以上になっても来ないのである。
だから働く場所が仕事がないから困っているということはないのである。
ニートとかフリーターとかの問題を取り上げたけどこの辺の事情が違うし人によっても事情は違ってくる公式のように社会の問題をあてはめることはできない
この辺では働いてもらわないとみんな困るし復興もできないのである。
それで原発避難者が毎日パチンコでありギャンブル指定ことが避難されるのは当然だったのである。それは被害者だからしかたがない,かわいそうだだけでは許されないことだった,今でも今度は浪江町の人達が遊んでいるけどこれもやはり問題になる
浪江町の問題は不思議は南相馬市に特に原町市に5階建ての団地ができて浪江町の人が入った,原町には何千人と入ってきている
でも南相馬市民ではないのである。浪江町民であり南相馬市民として税金も払っていないのである。そのことが問題になった
そして小高の人達と同じように補償金で働かない人が多数なのである。
老人が多くて働けないとういことがある

いづれにしろ働かない自分がなんか言うことはまた考えてみれば矛盾しているともなる
それで自分は反省すれば自分にはそもそも人を雇う資格がなかったともなる
第一自分には人を雇う経験もないし人を雇うことがどういうことかもわからなっかた
それで大金を盗まれたり次は次々にただ金を要求するだけなのかとなる
そこには事情があってもなぜそうなっているのか?
こういう事態になっていればこの辺ではニートとか働かない人は責められて仕方がない面がある,人手が足りなくて困っているのにパチンコ屋で毎日いりびたりで遊んでいたり他に何もしない仕事をしないということは責められる立場にある
すでに事故から7年も過ぎようとしているからである。

結局労働問題になると生活保護であれ非正規であれ確実にその人の資質とか自己責任はある,ただそれが百パーセントあるとはならない,社会の責任も回りの責任もあるからだ
ただ全く全部社会の責任とはならないのである。
どうしてもそういう人達は怠け者が多いとなる,それが別に他人に迷惑をかけないならいいのである。では仕事あるのに働かずに他人に要求してくる
あいつが金があるからせびればいいとかなっている
そして自分自身も問題があり人を雇う資格などなかったのである。
今になれば自分で家事も全部できるから人など雇う必要がない
人を雇うということがどれだけやっかいなものかわかった
そういう資格のある人はできる,また組織として人を雇うシステムがあり伝統があるとかなればできる,一人の普通の金持ちでもない人が人を個人的に雇うことはその雇う人に問題があったのである。
それは自分のことである,自分など仕事もしていないし会社勤めもしていないし人を雇うことがどういうことかもわからない,だから人をたいした金でもないにしても雇う力量も資格もなかったとなる
ただやむをえない事情でそうなったのである。

だから自分はそんな非正規社員で一年の内半年も働かないで金がないからと自分に要求されては困るのである。それは社会に対してもそうである。
今は現実に人手不足でありいくらでも仕事がある,特に原発事故でこの辺は人手不足で困っているからだ,そしたら正規に勤める場もある,近くでもある
それは町を復興させるためにも必要なのである。
67才で今は働いている人もいる,だから67才でも何か病気でない限り働けないということもない,何か市町村のために働くことはある
結局非正規とかフリーターとかニートとかは現代の豊かさから生まれたものである。
でもそれを個々に事情があるからわからないが全部は是認できない
特にこの辺ではみんなで働いて復興しようとしているとき許されないものとなっている
全体的にそうしてここで働かない働けない人が多すぎるのである。
そうなるともう市町村自体が成り立たなくなる

ただ何が優先順位になるかはわからない,葬儀屋などは自分の価値観ではそんなに重要な仕事なのかとなる,でもそれも重要だと社会で位置づける場合もある
ぎりぎりになれば飲食業でも外食はしない,家で食べていろともなる
金があっても人手がないのだからできないともなるかもしれない
でも外食できなくても死ぬことはないから他の病院のようなものだけは人手不足では困るからそっちに働くことを優先するとかなる
人間はぎりぎりになればそうして働くことを強いられるのである。
この辺はそういう事情があるから他とは違っているのである。

タグ:非正規雇用
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2018年01月08日

ニートは憲法違反なのか? (誰でも労働したいがそのしたい労働ができない)


ニートは憲法違反なのか?

(誰でも労働したいがそのしたい労働ができない)


●労働の義務が生まれた時代の事情

27条
1.すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 

戦争に負けて、焦土と化した日本を復興させるために、みんなで努力していこうという気持ちを込めて、この規程が入れられたそうである

このサイトで理路整然と勤労は国家の義務ではない,それが作られたのはその時代の事情があったのである。
戦争に負けて焦土と化していた日本を復興させるために時代の要請によって作られたのである。
時代が変われば法律も変わるのである。モラルは時代が変わらず絶対的なことである。
嘘をつくなというときそれはいつの時代でもそうしろとなるのがモラルであり世界的にも普遍的なものとしてモラルがある、法律は誰が定めたのか?
国民がそう決めたわけではない,上の支配者が勝手に決めたことなのである。

ただ勤労が義務だというときその時代とか地域でも違ってくる,国でも違ってくる
この辺は原発事故で若い人が避難して働き手がなくて困っている
それは戦争に負けた時とも似通っているのだ
それで小高辺りでは若い人が介護職員が確保できずに立派な施設があっても仕事ができないのである。他でも農業をはじめたが人手が集まらないから困っているとかある
だからこの辺ではニートとか働かない人は責められる立場にある
他の地域と違って働いてもらわないと困るからである。
それは今や人手不足で日本全体の問題ともなっている,日本の国力が低下してもう日本は人口も減り日本の国土も維持できないとかいう。
だから事情が時代が違ってくれば労働観も変わるのである。

地域でもあるところではスーパーすら維持できなくなり買い物すらできなくなり地域の老人でもそこで働くようになった,そうしなければもう村を維持できないからである。
そういうとき働かないということはもうそこに買い物もできない住めなくもなるから責められて当然だしそういう人は住んでいては困るらか出て行けともなる
原発事故で若い人が流出したこの辺もそれと似たところがあるからニートなどありえないということもある,でも現実にここでもそういう人が結構いる
自分はそういう人と良くあうのである。
だからこの辺では余計に片身の狭い許されないものとなっている
原発避難者が仮設で毎日パチンコしていたときも働いてくれという人が地元でいたことも当然であった
なぜなら地元の人は働いて避難者は毎日パチンコでは何で自分たちだけが働くのだとなったからである。

ただ戦後の焼け野原とかと時代が変わったから豊かになったからフリーターとかニート問題が生まれたのである。
ここで自分の言うのはこの地域の特殊性のことではなく,ニートとか全国的に増えたことの問題である。
ニートが増えたのはそれだけ社会に家族にも余裕があるからなのだ
貧乏だったらそんな遊んで何もしない人を家族も世話はできないからだ
だからニートとかフリーターは時代が生んだものなのである。
時代特有の問題なのである。なぜなら団塊の世代だとそんな人は極々まれでありみんな会社に就職していたからである。
そして猛烈な企業戦士になって働いたのである。
自分からするとなぜみんなそんなに会社のために働いたのかという疑問がある
今の豊かな時代とは違い,ハングリーな時代だったからともなる
自分の場合は特殊な家庭環境とかでなったものでありまれであった
まれなときは極端に少ない時は話題にもならないのである。
今は増えすぎたから話題になり社会でどうしたらいいのかとなったのである。

●労働は権利である

すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ

ここで注目したのが勤労の権利を有し・・・ということである
義務ではない,勤労の権利を記されているのだ。
では勤労の権利とは何なのか?義務は押しつけられたものである。
それは勤労したいというとき国家がその権利を認め勤労させることだともなる
国民は勤労の権利をもっているともなる

俺はぶらぶらなどしていたくない,勤労したいのだ,だから勤労する職を与えてくれともなる,勤労の権利があるのだからその職を与えてくれるのも国ですべきだともなる
おそらくこの勤労の権利は自主的なものであり自分がこういうふうに働きたいというボランティア的なものかもしれない,すると自分がしたい働く場がないなら働かないともなるかもしれない,働かないという権利もあるのかもしれないとなる
権利を有すれば必ず義務があるとも解釈している

人間はともかく働かないということはなぜ犯罪者のようにされるのか?
それはみんな毎日働いているからである。お前が毎日食べるものは働いたものが汗水たらして提供したものでありそれを無料で食べられるのかとかなる
それはお前は他人の労働の成果を盗んでいると同じだともなる
実際に社会ではみんな働いているからである
すると毎日何もしないで家にこもっているニートは何なのだ,そんいなもの社会にいらない,負担になるだけだ,障害者と同じだともなる

ただではなぜニートが生まれのか?本当にその人たちが働きたくないからなのか?
本当は働きたいのだが働けない,いろいろな障害があり働けない,それで家族で養ってくれるから働かないでいいとなりそうなっている
国民が税金を払う生活保護者とも違う,自分が働かなくなったのは流れ作業とかが一番していてそれでこんな仕事になんの生きがいも感じない,これは機械と同じだとなり仕事を嫌悪するようになり仕事はしたくなくなった
もし何かそこに仕事に生きがいがあるものとなっていればこうはならなかった

結果的に仕事はしないで旅をしたり一人で学問とか芸術の追及をしていたとなる,だから遊んでいて何もしないともならない,今ではプログで何かを与えていることは確かである現代では働くことが必ずしもすべていいものではない,働くことは他者を無益なのもでも働くことを強制しているのである。
例えは奇妙だが毎日郵便局員が配達しているのと自転車だと良くあう,するとその人は毎日働いている,それが働かない人にとっては圧迫するものとなる
俺は働いている,お前は何しているんだなる
つまり田舎では今は一定数働かないニートとかがいる,田舎ではそういう目があるから片身の狭い思いをしていずらくなるのである。

自分が働かない理由としてむずかしくなるが文明拒否して全人間たらんとしたということもある,文明とは人間がどんな優秀な人でも部品と化してゆくことである。
医者でもその分野が専門化して細分化されるのである。
江戸時代だったら医者は体全体を見て心ともかかわっていた,だから医は仁術となっていたのである。
現代文明はある職につくことがすでに部品化することであり全人間を失うことである。
なぜ英語の先生だったら英語ばかりを教えているのか?
教える方もつまらないと思った,数学の先生は数学ばかり教えている
これも人間が専門化していることである。そういう先生は数学を教えるロボットのようにも見える,実際に人間はこうして部品化して巨大機構とか組織とか機械作業の部品として働いているのである。

だから全人間になるにはアウトサイダーになるほかなくなる,それは特定の専門化した職業につかないことなのである。
ただそういう人は天才とか社会に適合できないのはそれはニートなどと違ってかえって優れているからそうなった,でもそれは別に天才でなくても一般化したのが現代なのである自分も天才ではなくても特殊な家庭環境から社会からはずれてしまったのである。
でも自分には天才的なアウトサイダーとは違っていた

小人閑居して不善をなす

必ずこうなるのが平凡な人ならなる,社会からはずれてニートになってもそこで不善を成す、何か有益なことができないのである。かえって不善を成すのである。
自分でもそういう経験しているからわかる,つまり社会からはずれて生きることはかえってむずかしいとなる
社会で普通に働いている方がかえって楽だともなる,社会から責められることもない,つまらなくても機械的な仕事をしているにしろ組織のロボットになるにしろ楽だとなる
ニートはむしろ落ちこぼれでありアウトサイダーとなると極々まれな人がなっていた
それは百万人に一人とか極めてまれな人がなっていたのである。
それが普通にいるようになったとき社会的問題になったのである。
アウトサイダーは反社会的でも何らかの価値をもたらし提供したがニートなどは何も提供しないからである。だからただの穀潰しと非難されるのである。
だからとてもアウトサイダーとニートとは同一に論じられない問題なのである。
ただ似通っているから何なのだろうと自分でもそういう人は何なのだろうとなる

いづれにしベーシックインカムなどが真面目に論じられたりすでにスイスで実行している時代だというときそういう働かない人が時代が生んだのである。
ただそれは百万人とか一人のアウトサイダーとはまるで違ったものなのである。
自分には絶えず向上心とか勉強もしてきたがニートは何かそういう向上心とかない,
嫌な仕事を嫌うのはわかるがただずるずると怠けていて社会の負担にしかならないと見られているのである。
ただ働くということがすべていいものではない,それは害悪となり本当に自然環境でも破壊してこの辺は原発事故で住めなくなったからだ
自然環境の破壊は人間は働くことによって起きたのである。

●労働によって自然の美は破壊されてきた歴史

農業も自然破壊だったのである。焼き畑がそうである。森を焼いて消滅させたり稲作だって自然破壊だった,海を埋め立てたのもそうである。
松原は自然景観だと思っていたがそうではなかった,もともと松原はなかった
松は根が強く張らないので津浪に弱かったのである。
つまり松原は自然ではなく人工的自然だったから津浪に弱かったのである。
だから文明とは働くことは自然破壊だったということを歴史が示している
人間の過剰な労働が自然環境を破壊してきたのである。
だから文明の跡は砂漠のようになったというのもそのためなのである。
もし人間はこんなに過剰に労働しなかったら天地創造のままの自然景観がありそこで暮らせていたのである。
だから人間の労働がすべて肯定はできない,労働を強制することは危険である。
でも誰かの労働によって過剰にお前は働かないのに与えるものがないのに得ているのだから他人の労働を盗んでいるとなり非難される


労働観にはいろいろ見方がある,でも労働がすべていいものではなく強制される義務とされるのは時と場合によるし賛成できないのである。
自分も働きたい,働く権利がある,でも自分がしたいとする職は与えられない,見いだされないからしないとなる,そんなわがままなことを受け入れる会社も人もいないというのもわかる
そんなことで仕事ができるのかというのもわかる
ただ理想論を言えばそうなるのである。
誰でも実は野菜で作ってみたい,果物でも作ってみたい,ただそれを得るだけではない自ら作ってみたい,そしてその労働の成果を味わってみたいとなる
家を自ら建ててみたい,いろいろしたいことがあってもできない
自分が報道したいとか本を出したいとかあったができなかった
でもインターネットでできたので金にもならないが積極的にしていることでもわかる
労働の権利は得られないのである。そのために労働しないという人も多いのである。


「野の百合はいかにして育つかを思え、労せず、つむがざるなり。されどわれ汝らに告ぐ栄華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにも及かざりき。」(マタイ6章)

労せず、つむがざるなり・・・・華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにも及かざりき。

労せずとは労働しないのである。花は別に労苦して労働して育つわけではないのである。ソロモンの栄華とは文明のことでもある
こんなに労働しているのに死ぬほど労働しているのになぜ東京とかニュヨークとかそれが労働の成果であり文明の成果なのかとなる
科学技術の粋を集めた成果は東京砂漠というようにそこに潤いも美もないのである。
江戸にはまだ美があったが今の東京にはないのである。
だから文明そのものが徒労だったともなるのである。
それは働きすぎた結果なのである。もし自然のままだったら東京でもそこには自然環境がそのままのこり美があった,それが労働の結果失われたのである。
この辺で津浪で八沢浦が元の浦にもどったということを報告したとき確かに批判された
でも田んぼを作ることは海を埋め立てて田にしたことは自然破壊だったのである。
なぜならこの辺は浦がまれであり貴重だからである。
ただそれは時代の要請でそうなったのでありそれをとやかくいわないしそんなこと言ったら批判されたこともわかる
ただ確実に文明化することは自然が破壊されその美も破壊される消失することなのである。


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2018年01月05日

「労働は国民の義務ではない」 労働は他者に被害を与えることがある-武田邦彦氏への反論


「労働は国民の義務ではない」

労働は他者に被害を与えることがある-武田邦彦氏への反論

人間の思想と労働観とかその他いろいろな価値観は違ってくる,労働に対しての価値観もみんな相当に違ってくる,極端になれば人間が作り出した労働によって作り出した文明そのものが何の意味があるのか?
その労働の精華すら無意味だとも言うことはできるのである。
ピラミッドに使役された労働は莫大なものである。それは何のためなのか?
そんなもの作ったのは徒労だったともいえる
もう王のために作ったとしたら余計にそうなったが今では王のための墓ではないから何かしらピラミッドを作った人達はピラミッドに価値を見いだしていたから莫大な労働力を費やして作ったとなる

人間の歴史は労働の歴史である,歴史といってもいろいろある,戦争が歴史だったともなるし宗教が歴史だったともなるし科学技術などが歴史だったとかもなる
人間はエデンの園で労働していたかとなるとしていないともしていたともなる
神から与えられた種を植えて果実などの栽培をしていた
食料は必要だったからしていた,ただエデンの園では肉食はしていないかった
果実が食料だったのである。その果実はふんだんに与えられていた,果実はぶらさがりバナナのように人間が労苦せずに与えられていたのである。
今では南国の暑い地方では果実がふんだんにあるから飢えることはないから男は働かず怠け者だとなる

人間は自ら働いているのではない,働くことを強いられてきたのが人間の歴史である。
エデンの園では働いていたのではない,エデンの園では自ら働くのであり強いられて働くことはないのである。「労働の義務」はそこにないのである。
なぜなら労働しなくても基本的な食料が得られるとしたらそんな義務は必要ないからである。
働く義務があるとかは自己責任があるとか時の支配者がそういうのである。
そもそも働くというとき誰かのために働くかも今はわからない,地球の裏側の人のために働いている人もいる,そこに働く意味など見いだせないのである。
働くとは端を楽にさせるというときそれは家族とかの狭い範囲で考えていたのである。
近くで見ている家族が働いて苦しいというのを見ているから少しでも楽にさせたいということで働いていたのである。
それは非常に狭い範囲の労働観なのである。

ここではっきりさせるべきは労働はすべていいものではない,労働は強いられたものならいいものではない,労働はボランティアのように自主的にするものならいいのである。
でも人間の労働は強いられたものであり自主的にしている人は少ないのである。
自主的にしていない労働は奴隷の労働なのである。
だから農業でもその女性は農業が好きだから文句を言ってもわずかの畑を金を出してしている,その金を自分が払っているのである。
そこからとれたものでもらったのは今でもトマト二三個だけだった
その女性はその畑を別に強制されてしているわけではない,ただしたいからしているのである。それで収入になるわけでもないしかえって支出が増えているからだ

一方で本当に農業で生計を立てている人はもう強いられてやる,そんな軽いものではないまず品質のいいものを市場に出さない限り売れないからである。
市場での競争に勝つためには品種改良したりいろいろ工夫しなければならない,そうならないとブランド米にならないし売れないから生計が成り立たなくなるからだ
そういう労働の結果として今では米はうまくなりうまい米を消費者が食べられるとなった
ただ別にそうして売るための労働でないにしろ自分たちでうまい米を食べたいからうまい米を作る,農家は新鮮な野菜でもいつも食べられる,農薬使わない野菜を食べているのである。ただそれが売るものとなるとやはり強制された過剰な労働となってくるのである。例えば栃餅というのがある,これを山の村では作っていた,でもこれを広く販売するとなると労働は確実過剰になってくる,その労働量は増えてくるのである。
でも売れれば金になるということで見返りがある,でも労働量は増えるのである。

現代はこうして交通が発達していろいろなものを食べたい、うまいものを食べたいとかなるとそれはグローバルになり世界から食料が入ってくる
でも結果的には労働は何倍にも増えるのである。
もともと文明が発達しない原始的な暮らしをしていた人は怠け者だったというときそうして何か欲しいものがあっても限られてたから得る方法もないから少ないもので満足しているほかなかったのである。結果的に労働量は少なくてすんだのである。

働くというとき働かさせられるということがある。うまいものを食べたいとそれに答えるレストランが必要になる,そうさせるのは誰のなのか?
それは実は金持ちであり昔なら王様である。王様だったらうまいものを食べたいから料理人を雇う,そしてうまいものを作れとなり中国とか韓国とかで宮廷料理として発展したのである。
それは今も同じなのなのである。誰か金持ちがいるとするとレストランでうまいものを食べたいとなりそういう人が必要になり働かさせられるということもある
自分は外食を良くするけど千円が上限でありそれ以上はなかなか出せない
すると自分のようなものだといい料理を出すのは限界になるのだ

要するに王様がいて金持ちがいて誰かがその人のために使われ働かさせられるということがあるのだ
だから会社員でも社蓄だとか自ら言っているのは自ら自主的に働いているのではなく誰かのために働かせられているとして労働しているからそう言っているのである。
労働は義務だというときそれは支配者がそう言っているのである。
自己責任だというときも支配層がそう言っているのである。
金持ちにとって労働は義務だとか貧乏なのは自己責任だとか言っていれば都合がいいからである。
その支配層は公務員とか甘い汁を吸いる人達とかであり底辺層はお前らは自己責任で貧乏になっているだけだと言っているのである。

武田邦彦氏の言い分とか見識は外国でも暮らしているから広く深い,でもフリ-ターとかを批判しているのは納得いかないところがある、フリーターとニートの末路は本当は信じられない悲惨な末路が待ち受けていることも確かである。
その証拠が自分だったのである。社会の常識がないことで自分は介護などでひどいめにあった,それは言えるから別にフリーターとかニートがいいとかは言わない
ただその労働観とかはいろいろな見方があるから賛成しにくいのである。
科学者で技術者で学者で仕事している人と毎日流れ作業とか建築現場とか汚れたところで働いていたりサービス業で頭を下げて仕事している人や嫌な人に売るために営業している人とか嫌な仕事はこの世には多いのである。
そういう仕事は誰もしたくないのである。だから機械かAI化した方がいいとなる
力仕事だって機械化しているのはそういう仕事は人間がしたくないからである。

武田邦彦氏に言いたいことはなぜ原発を推進してきた支配層なのに謝らないのか?
原発で働いたからこそそれがこの辺をとりかえしつかないものにしたのである。
故郷にも住めなくなったのである。それはお前たちが働いたためだともなる
だから労働がすべていいものとはなっていないのである。
ギャンブルをしている人のために働いていた人もいた
パチンコ屋の掃除とかしていた人もいた,その時自分は介護とか苦しかったがパチンコ屋のためにパチンコする人のためにその人は働いていて自分が苦しいことなど関係なかったのである。
なぜなら借金しているからその金を返すために働いていたからである。
そのパチンコをしていた人達は原発避難者の小高の人達だったのである。
そこで自分は怒りになったのである。

ギャンブルと原発は違っていてもにたものもあったのである。
つまり労働が義務だというとき労働していることが他者に甚大な被害を与えるのである。戦争だって労働なのである。それは人を殺すことが仕事になるのである
資本主義社会では金がすべてだというときその金のために働かせられて人を殺していることもあるのだ,金のためには戦争することもあるからだ
金のために奴隷にさせられて働かせられているからだ。
借金した人と金がない人は人を殺すということも普通にするからである。
働きすぎて死ぬ人もいるがそれも社会にとってそんなに働く必要もないのに会社によって殺されているのである。それは強いられた奴隷化された労働なのである。
医者でも過剰に働くのは金もうけのためである。
いらない薬をおしつけるのもそのためである。
遂に国民を病気にすればもうかるとまでなっている,働くということはそういう過剰な無駄な労働も多いのである。

ともかく「労働は国民の義務ではない」労働の理想は強制されないことである。
人間は別に義務でなくても自主的に働く人は働くし勉強する人は勉強する
民主主義の理想は自由であり自主性を重んじることである。
それで共産主義を武田氏が批判することは同意する
しかし「労働は国民の義務である」というときそれは共産主義の思想なのである。
それは強制しているからそうなる,労働は必要でも義務ではない,自ら労働する自主的にボランティアで労働することこそ理想なのである。
だからこそ機械化をAI化を人間は進めてきたのである。
奴隷的な奴隷から解放させるために機械化AI化をすすめてきているのである。

自分の意見としては遊びも労働だったとなる,自分にとって旅行することは見聞を広めることだから労働だった,自転車旅行は辛いからこれも仕事だったとも言える
それは他人が認めなくなくてもそうである。
金にならなくても労働になっていることはある,金をもらう労働にはギャンブルとかその他原発だって他者に甚大な被害を与えるものがあることを知るべきである。
環境破壊にもなっているし大気汚染も人間は働きすぎてそうなっているのである。
ソーラーパネルだって環境破壊であり景観の破壊なのである。
だからその労働がすべていいものとはならない,つまり環境破壊を防ぐには人間が過剰に働かないようにすることだともなるのである。
いづれにしろ労働観とか価値観も常に変わっている,だから「労働は国民の義務であり神聖である」とかなると人は支配者層に奴隷にされて働かせられることもあるから気をつけるべきである。

結局武田邦彦氏のような科学者や技術者は別に原発でも危険な作業はしないのである。
そういう支配者層が底辺層に危険な仕事につかせて労働は国民の義務だと言う
それならそういう底辺層のしている仕事をしてみるべきだ
みんなが原発事故で言っていた,原発にたずさわった人が放射能の瓦礫をかたづけろとか放射能に汚染された地域に住むべきだとか言っていたのも一理ある
それが支配層の責任なのである。労働した責任をとれともなるのである。
ただ人間は矛盾した存在だし言い分はある,フリーターとかニートはいいものではない
やはり仕事のプロとなることが望ましい,それは世界で共通したことである。
でも労働にもいろいろあり本当に甚大な害をもたらすものとして労働もある
労働によって環境は破壊され人は殺されるのである。
だから文明そのものを否定する人もでてくる,そのこと労働そのものが無益であり徒労でありかえって害になるという逆説なのである。





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2017年12月29日

会社中心の社会が終わる? (個々人のスキルで仕事はプロジェクト型になる?)


会社中心の社会が終わる?

(個々人のスキルで仕事はプロジェクト型になる?)

金儲けは何か会社というものにしばれていた、銀行を考えると銀行という会社で仕事している、会社のために仕事している,会社があって自分がある,会社がなくなれば自分もなくなる,だから会社を優先させる,会社の一員として忠誠心をもって働く
新卒一括採用という日本の方法はそういう手法である。
まず何より会社への忠誠心が大事なのである。それを最初にたたきこむために新卒一括さいようなのである。忠誠心となると若い内は教育できる,たたきこめるけどだんだん年をとると打算的になったりと純粋でなくなるからできなくなる
カルト教団でも洗脳しやすいのは若い内である。何にもない白紙の状態だと洗脳しやすいのである。
そして会社は社会で信用がある,私は・・・・の銀行員ですというときこの辺だと東邦銀行などは大きいから信用度が増すのである。
それで孫は東邦銀行に入っていた人が近くで自慢していたのもわかる

一方で欧米では仕事は会社に入ることではない,どういう仕事ができるのか,その仕事をこなせるのか,それが大事になる,だから天職が多い,自分はこういう仕事ができる
だからその仕事をしたいとして転職する,そういうシステムもある
一つの会社で一生過ごすようなことはない,仕事について言っていたので面白かったのはプロジェクト型の仕事の仕方である,何か一つの目的があってプロジェクトがあってそのプロジェクトを達成するために仕事する人が集まる
テレビドラマだと仕置人が金をもらって何人か集まり悪人を殺すということともにているそれはプロジェクト型なのである。そういう仕事の方法は会社とは違っている

まずどんな仕事でも絶対に一人ではできない,多様な人がいて才能がありスキルがあってできる,それでコラボレーションというのが必要になる
コラボすると何か才能が引き出せるのである。
この前変わった陶器を売っている人と野草のアレンジしている人が道の駅で並んで売っていた,するとそこに相乗効果が生まれる,陶芸と野草とか花とか関係ないようで関係ある野菜でも農業とも関係ある,自分もそこで実は何か提供するものがある
プログで表現したようにいろいろなことをしているからである
自分は花屋で写真をとったりしてコンピュターで絵画化したりもしてきた
花屋も農業とも深く関係している,土で花を育てるから野菜を育てると共通しているからである。

自分の場合は美的なものを追及している,ただこの美的なものは食べ物と違うから普通は関心がないというよりセンスがないとなる
食べ物だったらうまもいものとうまくないものは誰でも区別できるからである。
だから価値としてわかりやすいのである。
でも美的なものとなると絵画を見てもどれが優れているのか判断しにくくなる
ただこの絵は一億円するんですよど言うと絵画に詳しくない人は驚きそんな価値あるものなのかとなる,まず値段がつかなっかたら判断しようがないからだ
抽象画なんか特にそうである。絵画に詳しい人でもその判断はまちまちになるからだ

銀行員であれ何であれまず会社があり会社の一員として会社のために働く
会社が増収になり会社が社会的に認められればその会社員も認められるとなる
でも会社が今の地方銀行のようにその価値が何なのかわからなくなるとその会社の一員であることにも価値がなくなる
もしその銀行員が優秀なら金持ちのフイナンシャルコンサルタントのようになり金持ちから会社を銀行を通さないでもらうことになるしそうしている人もいる

ただそうなるともうけたら金は分配されるがもうからなかったらもらいないとなる
そこにリスクを自らも負担せねばならなくなる
でも今の銀行は投資信託を売っても株を媒介して売ってもリスクを全くとらないのである手数料だけは必ずもらいます,損しても銀行では全くリスクをとらないのである。
リスクをとらないことはまたその個々人の銀行員でも真剣にならない
自分の金でもないし別にもうけたとしても俺たちに金が入るわけではない,銀行に入り同じ給料しかどうせもらえないとなるからだ

つまリスクがないことは真剣に仕事もしないということである。
金持ちの金を預かり自らももうければ何倍の収入を得るが失敗すれば得られない,かえってやめさせられたりとか収入もなくなるとなれば自分の金のようになんとかもうけようとするだろう。そういう真剣さが今の銀行になはい,ただ手数料をもらえばいい
後は他人の金だから適当に斡旋すればいいとなる

おそらく本当に能力ある人はスキルがある人はアメリカのような所だったら別に大企業に就職しなくても生活できる,そういうシステムになっている
もしフイナンシャルプランナーとかなれる人だったら銀行員でいる必要もない
むしろ種金が資本金がかなりあれば自分で投資してもうければ銀行員である必要もない
なぜなら地方銀行不用論になっているとき会社に頼れなくなくなる
会社自体が消滅したら会社のために尽くすという今までもの働き方も終わるのである。

だからネットでは盛んにそういうことを言う人がいる,AI化で仕事なくなるとかもう会社はなくなる,大企業でも安心してはいられないとかいろいろ言われる
自分で稼ぐ力を身につけろと盛んに言われる時代だとなる
ただどこの分野でもそれだけのスキルと能力がある人はまれである。
だからAI化であれ会社中心社会が終わっても今度はさらに格差社会になる
天才的に能力のある人は高収入になるけど何もスキルもない人は就職すらできない,AI化で失業してベーシックインカムで食うための最低の金は支給するからがまんしろともなる
そもそも陶芸などは自立して自営しやすいものだった,会社経営ではない,みんな自分の窯をもって生産しているからである。小規模でも独立して腕を磨くことができた
だから個々人で窯ごとに個性をだす作品を作っていたからこういう仕事は自分の技でスキルで生活していたのである。
ただほとんどの人か会社員時代に自分でスキルをもって自立できる人は少ない
そういう社会になるから備えろといってもなかなかできないことはある

でも以前として会社に新卒で一括採用はつづいている,そこで忠誠心をたたきこまれ会社に尽くすことを第一とされる時代が実は時代遅れでありそんなに忠誠心を若い人にたたきこんでも会社自体が地方銀行でも消滅したら何にもならないのである。
そういう会社自体が増えてきたら何をもって生きてゆくのかとなる
会社への忠誠心より自分のスキルを磨く,するとプロジェクト型仕事でもスキルさえあれば参加できる,この分野の仕事はまかせておけとかなればできる
でも私は大会社の一員ですとかの肩書は通用しなくなる
プロジェクト型だと会社の忠誠心とは別なものでありいかにそのプロジェクトを達成するかのために努力するからである。



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2017年12月22日

銀行の役割と価値の喪失 (投資信託も株も銀行を通してもすべて自己責任で終わるのか?)


銀行の役割と価値の喪失

(投資信託も株も銀行を通してもすべて自己責任で終わるのか?)

●銀行は今ただの貸し金庫なのか?

銀行が今なぜ問題になっているのか?AI化で一番影響を受けるのか銀行だという,事務的なものでAI化しやすいからだろう。
そして銀行は今までは何か社会で金を持ち貸す,会社に後ろ楯となりその会社の財政の支えとなる,会社を育てるとかしして社会に役立っていた役割があった
だから銀行に金を預けていれば高い利子がついていたのである。
銀行は会社を育てそのリターンもあった,それは高度成長時代だからできた
社会が資金を必要としていたしその資金をつぎこんでも会社は成長していたのである。
だから会社がもうけて利益を得ていたのである。
会社を育てるとか何か資金をつぎこんで社会に役立てるもの成長させるものを作ることがなくなったとき銀行は何する場なのか?

不思議なのは銀行はただ金をあづかる貸し金庫なのかともなる,金をあづけても利子はつかない,そしたらただ金をあづけている貸し金庫だとなる
もしそうならそんなこと銀行員がいなくてもできる,ただ金を安全に保管するという仕事は別に銀行員でなくてもできる
金の出し入れも別に自動化しているしAI化でさらに銀行木役割は消失する
だから一時サラ金の後ろ楯が銀行になっていたとか言われる
つまり貸し出す先がなくなりサラ金会社に実質銀行が金をまわしてもうけていたとなる
それはただの金貸しであり金を貸して新しいものを会社でも育成するということがない

ただ銀行も社会の必要性があり生まれた,役割があり生まれた,その役割が見いだされなくなったら銀行は何している所なのだ,金をあづけても利子につかない,貸し金庫なのかそんならタンス預金でも何か金を安全に保持する方法があるとなる

そして今銀行が弱小の地方銀行が証券会社化している,株とか投資信託とかを売る証券会社の仲介業となったとき銀行は一体何の役割なのか?
自分も投資信託をしても実際はもうからない,手数料とか常にリスクがあり一時的にもうけても損する時の額が大きいからもうけることがむずかしいのである。
手数料が高すぎるというのも問題である。だからこそ貯金しても利子がつかないから投資信託をすすめる,その手数料が一定して銀行に入るから銀行にとっては利益の面からみればおいしいとなりすすめるのである。
それで金融庁からそういう投資信託の手数料をとるのは銀行業としてふさわしくないと通達があった
だから今銀行とは何なのか問われているのである。

●銀行は今どのうような価値を社会に提供しているのか?

人間はなんらか価値あるものに金を払う,食料でも家を建てるにしても価値あるから金を払う,そういう価値について厳しいのである。料理でもレストランでもまずはっきりと料理がよければ払う,それは金の額によって決まるのである。
まず千円の料理だったらその分の料理であり文句と言えない,値段をごまかせない,高ければやはりいい材料を使っているとなる,自転車だと高ければ必ずいい部品を使っている値段ではっきり差がついているからごまかせないのである。
値段のいいものはいい自転車なのである。
一般的に品物とか家でもたいがい値段どおりのものしか買えない,値段と金が一致していてごまかせないのである。

ところが銀行は何の価値を提供しているのか?今までは利子を提供していたから問題なかった,利子をつかないとしたら銀行は何を提供するのか?
ただ金を安全に保管する貸し金庫なのか?それが銀行の役割なのかとなる
すると銀行は必要なのしかとなってメガバンクでも大量にリストラされたのである。
つまり銀行の事務員とか店舗をかまえるとコストがかかる
そのコストを払うためにはどうするのか?それよりコストを減らすために窓口をなくすとか事務所を減らすとか事務員を減らすとかするようになる
それは銀行を利用する方にとってもそうしてもらった方がいいとなる
なぜならそもそも人間は価値あるものに金を払っている
銀行は何の価値を提供しているのか?それが明確でなくなるとき銀行に金をあづけても利子もつかないし何の役割があるのだとなる

要するにこの世の中価値を提供できないものは廃れる,銀行は何の価値を提供しているのか?証券や株や投資信託で証券会社の仲介業なのか?それが銀行の役割なのか?
そして利子はつかないからとすすめられ高い手数料をとられる
「今利子がつかないですから,株でも投資信託をしてください」
いつでもこういうけどそもそも利子がつかないということで銀行の役割が消失しているのではないか?銀行は貸し金庫業となる

自分でもそうだが利子がかつかないということで株とか投資信託をすすめられてする,そして投資信託でも株でも理解しにくい,その理解しにくいことで専門家の銀行にまかせるでも手数料だけ高くとられてリスクがありたとえそれで金が減ったとしても銀行は株とかはそういうものでありリスクがあるといえばそれで何の責任もとらず手数料だけはいただきあとは知らないとなる
それが固い職業の銀行だったのかとなる

逆に客から利子をとっているのは銀行だった

投資信託でも手数料は確実にもらいます

リスクは銀行ではとりません

それは銀行が客から利子をとっていると同じなのである。

ただ別に銀行が証券会社化してもその道のプロであり投資信託でももうけてくれるなら誰も文句は言わないのである。
でも証券会社のプロとは違うから金融庁から苦言がでる
銀行の金は株や投資信託にまわすものではなく地方銀行だったら地方の産業を育てるために支援するとか投資するとかあった
その資金を集めて投資してリターンを金をあづけた人に与えるとなっていた
でももうそれができないからただ金を安全に保管する場となり証券会社の仲介業にすぎないとなれば銀行の役割は消失したのだから銀行はいらないとまでなる

●結局すべて自己責任で終わるのか?

人間はともかくなんでも何らかの価値を与えないものは社会で必要ないとなる
金は価値あるものに払っているのである。
人間はなんらかの価値を追及している,その価値が認められなくなったらそれは社会にとって必要ないものだからである。
銀行は社会にどういう価値を与えるのか,ただ金を集める貸し金庫なのかとなる
ただ何であれ例えば消費者金融とかブラックであれ金を預けている人は増えれば文句を言わないのである。いちいちそうした金がどうしても入っているかなど考えない
消費者金融のようなあこぎな商売でももうけた金が預金者に利子となって入ってくればいいとなるからだ

そこまで考えると預金者にも同罪だともなる,それはモラルに反するから銀行ではそんなことをするなとなる,預金者でもそんなしてもうけた金は得たくないとなるのか?
金は貸した方にも責任があるように金を預ける方にも責任があるとなる
それは銀行だけの責任ではない,預金者も銀行に責任があるとまでなる
要するにそうなら銀行に預けるなとなるし別に銀行を通さないで投資信託でも株でもすればいいとなる,それは銀行の責任ではないともなる

そうなると株でも投資信託でも理解しにくいからしないともなる,なぜなら一日株式のことを見ていたら何もできなくなる,みんな他に仕事をもっているからである。
だからこそプロがいるならまかせているのである。
つまり他の人は時間を別なものに使いたいからプロにまかせているのである。
ただ結局自己責任として個々人も問われるとしたら株とか投資信託はしない
自己責任となると株とか投資信託でもそこに相当な時間をさかないとできないからであるそしたら結局銀行を貸し金庫として利用して文句言うなとなるかもしれない
そしたらリスクもないから利子もつかないが目減りしてもまた自己責任だとなる

銀行が投資信託でも株でもすすめると銀行との信頼関係が喪失するということもある
銀行は固い職業とこれまで見られてきたからである。
証券会社とは違ったものとして見られていたからである。
だから銀行もそうだが銀行を見る眼をも預金する方で変わってくるしまた預金する方も問われていることになる

一体銀行はただの貸し金庫なのか?

銀行は証券会社になったのか?

結局銀行はリスクをとらない,手数料だけとって株でも投資信託でも損しても銀行とは関係ないとなる,それは楽な仕事だとなる,一切リスクをとらないからだ
金を貸すとその金が返せなくなり銀行が損することがあるがここではないのである。
手数料をとるだけのおいしい商売だとなる

損したら

「株でも投資信託でもリスクがるある,誰もわからないんですよ,株のことは,専門家でもわからないんですよ」

こういって終わりである。

そもそもそんな人が専門家なのか?医者だってそんなこといわないだろう。

手術にはリスクがあります,死ぬことがあります」

これはありうる,でも医者とか病院では専門家であり株とか投資信託とかとは違う,それなりの技術があり専門知識があり患者を消費者に対応しているのである。
それはどこでもたいがいそうである。
何か銀行員はそうした社会の職業からすると今は社会に対して客に対してどういう価値を与えているのかあいまいであり詐欺的にもなっている
だからこそ金融庁からおしかりがありまた預金者からも銀行は何なのだと問われる
一方で預金者でも問われているのである。
別に投資信託をすすめられても断ることもできるし証券会社に頼むこともできるし自己責任ですよとなる
ただ人間の知識や経験は限られているからあらゆることに自己責任はとれないのである。

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2017年12月10日

常に変わる社会の人間や物の価値 (資本主義社会はその変化に対応するシステム?)


常に変わる社会の人間や物の価値

(資本主義社会はその変化に対応するシステム?)



最も強い者が生き残るのではなく、

最も賢い者が生き延びるのでもない。

唯一生き残るのは、変化できる者である。ダーウイン

人間の価値は常に変動している,農業時代は力持ちが価値があった,だからどこの神社でも比べ石がありその石を持ち上げると一人前として認められた
米俵とかをかつぐことができないと一人前に認められないからだ
女性すら力持ちの方が嫁としていいとまでなった,美人でも農作業ができなければ役にたたないとなるからだ
大きな祭りの藁人形をかつげると一人前として認められたとかもある
それだけの力があれば大人の仲間入りできたのである。
だから農業時代の価値基準は力があることだったのである。
それは男女でもそうだったのである。女性も農家に嫁げば力仕事をしなければ勤まらないからである。

人間の価値は常に変わっている,明治時代になると福沢諭吉が「学問のすすめ」を書いた人間の価値は侍のように刀をさして武道にすぐれていればいいとはならなくなった
学問が立身出世になるから学問に励めとなったのである。
実際学校で勉強嫌いででも自分でもそうだが勉強できないものは力仕事を以前としてしなければならない,建築関係でも力仕事をさせられる,すると体力がないもの力持ちでないものは勤まらないのである。
だから自分は勉強嫌いであり社会のことがわからないで失敗した
なぜなら自分は体力がないのだから勉強して頭を働かす仕事をするほかなかったのであるそういう自覚が全くなかったのである。
自分は他の人と比べて体力がないのだから勉強して頭を使って生きるという自覚がもてなかったのである。

ともかく価値は常に変動している,職業でも前は繊維関係とか石炭関係とか花形産業であった,鉄道も国鉄時代では地方でも有力な就職先だったのである。
国鉄職員が多かった,それで社会党が国鉄の組合をバッグにして野党第一党となっていたのである。そして民営化したとき社会党の力もなくなり消失したのである。
産業自体の価値が時代によって技術革新によって変わるのである。
だから人間社会では変化に対応できないものは滅びるのである。

日本が経済大国になったのは電気製品などの製造業が世界一になり世界に売れた結果として経済成長して豊かになった,その時電器製品がテレビなどが日本の製品が一番すぐれていたからそうなったのである。今ではそういうテレビとか電器製品は韓国と中国とかと同等になり売れなくなった,自動車だけはまだ日本の製造産業を支えている
他は韓国でも中国でも追いつかれて東芝でもシャープでも売られているという時代になった

アメリカがなぜ世界を以前としてリードしているのか?
それは日本のような電器製品からITに移行したからである。インターネットなど通信とかコンピュターなどの技術革新をした結果とてして世界をリードしている
今度はAI化による技術革新時代に入るとまた人間の価値が変わる
常に人間はそうした技術変化がありすると社会自体も変わってしまう
今までの体制では会社でも生き残れなくなる,人間を見る価値観も変わる
新卒一括採用とかも変わる,会社を発展するにはどういう人間がいいのか価値があるのかという見方が変わるからである
今までのように人間を見ない,会社にだけ忠実なロボットのような人間はいらないとかともなる

価値が変わるというとき過去には塩が価値があり塩が経済の重要な産物であった,それで砂漠では塩と金が同等のものとして取引されていた
それだけ塩が価値があった,日本でもいたるところに塩の道があり塩が重要な産物だったのである。
でも今は塩などいくらでもあるし米ですら減反政策とかなり余ると価値のないものになるこうして価値が常に変動している

石油の値段が下がった→アメリカがシェール石油をとる技術を発明したため
ある会社が価値が上がった→何かの新技術を発明したから
ある会社の価値(株)が下がった→技術が停滞して遅れをとったため

会社の株がグローバルに上がったり下がったりしているのは価値の変動が常に起きているからである。それがグローバル資本主義のシステムなのである。
その他でもいろいろな要因が株は上がったり下がったりする
経済も変動する社会に合わせるからそうなるのである。
こうして変動する社会に対応するのが資本主義だからこそ矛盾していても生き残っているということになる
強い者が勝つのではなく適応するものが生き残るというのが資本主義社会の思想だから生き残っているのかとなる

職業でも地方では銀行員などが硬いものとしていい職場とされていた,でも地銀はもう役割がないとかなり証券会社の出先機関の役割しかないとかいづれはなくなるとか言われる銀行自体が事務などがAI化されて不用になり大量リストラに現実にされている
AI化で人間が不用になるのが四十パーセント以上日本であるというのも驚きである。
AI化で効率化されると人間の価値も変わり不用となりリストラされるのである。

そうして価値から考えるとき,みんな金に紙幣に価値があると思っている,でも金といっても紙は紙切れにすぎない,黄金ではないからだ,だから金は数字にすぎないというとき今ではそうである。だから突然その貯金の数字でもゼロになるという恐怖につきまとわれているのだ
それで現物で米俵を蔵に蓄えるとか黄金でもつとか土地をもつとかなったのである。
チューリップバブルではチューリップが異常な高値となり売買されたのである。
それはバブルだからそうなった,つまり金をもっていても金自体には価値がない
その金で買えるものに価値がある,だから投資というとき価値があるとういものに投資しているのである。だから投資先も常に変わることにもなる
それを見抜けば株式市場でもうけられるとなる
それには相当な知識が必要であり素人には無理だとなる
投資信託でもその基本的なことすら理解できないのが自分だったからである。

人間社会は常に価値が変わっている,原子力発電は福島の事故が起きる前は価値あるものだったのである。電気自体の価値は現代社会ではその価値は増大している
電気自動車でも膨大な電気を必要としている,ただ原子力は事故が起きてから中国でもソーラーパネルとか風力発電とかにシフトしている
だから突然に価値が急変することがありそれで株の暴落にもなるのである。

いづれにしろ資本主義社会では今や銀行であれタンス預金であれ金だけ蓄えていてもそれは紙にすぎない,数字にすぎないという感覚をもつ必要がある
金の価値も常に変動している,金をもっていたとしてもインフラになれば半分に価値が下がることもあるし文字通り紙屑にもなってしまうのである。
資本主義社会が投資から成り立っているというときそれは価値あるものが変化する
時代時代によって価値あるものを追及して投資して新しい分野を開きそこに富が生まれる
だからdarkness tigaで多国籍企業の価値は下がらないから株をもてと言っていることはそういうことかと理解する,株というのが投資というのが資本主義社会の基本にある
でもその資本主義社会でどう生きるかわからないのである。
銀行も間接投資会社でありやはり株式会社資本主義社会のシステムの中に作られていた
でも本来は間接投資より直接投資が本来の資本主義なのである。
ただ株のことが投資信託でもわからないから銀行がプロだと思ってまかせている
でも今や証券会社の出先機関が銀行なのかとなっているのである,だからもう必要ないと言われるのである。

これは常に価値が変わっているからそうな,銀行に金を預けていれば利子がつく時代が終わったとき銀行はもう必要ないとなる
だからそもそも銀行員でないにしろ銀行を利用する人も銀行の価値や見方を変えねばならないのである。一体銀行は何するところなのかとなる
それも時代の変化で価値が変わったくるからそうなる
その価値が変わることについていけないから銀行でも今までと同じように見ている
それで失敗するということがある
ただでは正直金をどうすればいいのか?資本主義がそういう仕組みでシステムで動いているということは理解しても現実にどうしてその資本主義のシステムで働いたり利益を得るのかとなるとなかなかわからないのである。
そして自分の場合は他にすることがあるからまかせる,でもその結果としてもうけることができず損するともなるのである。
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2017年11月19日

家政の道徳(詩) (道徳なき経済で社会も衰退し破壊される)


家政の道徳(詩)

(道徳なき経済で社会も衰退し破壊される)

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玄関に置く壺に咲く対なる鶏頭の二つ
長くも咲きて枯れじも
人の交わりも長くあるべし
誠実にして日々勤めつつ
使う者も仕える者も
誠実に勤めべし
巌のごと主は不動なれ
人よ,いづこにあれ良心に恥ざれ
良心を汚すと心は乱れぬ
例え罰せられずとも
良心は痛み苦しむ
村も街も会社も国も誠実なるべし
そして山も大地も木も石とも
人は調和して活きるべしかな
正当な実りはそこに神から与えられる
しかし過剰なる富は与えられじ
相応の富のみ等しく配分されるべし
富をむさぼる者,わたくしする者
それは許されざるべし
上に立つ者の責任は重く
厳しく罰せられべし
人は金により従わすことならじ
人は権力によって支配されじ
良心に従い心の安らぎを得る
社会の安定もまた同じなりしを


【経世済民】は「世の中を治め、 国民の苦しみを救うこと」


道徳を忘れた経済は、罪悪である。

経済を忘れた道徳は、寝言である。

人道は一日怠れば、たちまちすたれる。

誠実にして、はじめて禍(わざわい)を
福に変えることができる。術策は役に立たない。
(二宮尊徳)

「οικονομία(オイコノミア)」という言葉は「オイコス(家)」と「ノモス(法、ルール)」という言葉を組み合わせた言葉で、家族や仲間、国や地域などの共同体のあり方を考えるという意味なんだ。
つまり、「Economy(エコノミー)」=「経済」とは自分だけの幸せを考えるのではなくて、「どのように生きたら世の中のみんなが幸せになれるか」を考えることなんだ。

プロの経済学者の多くが「非現実的」な特定の前提の下で研究を進め、そこで証明された事柄を政府に提言し、それに基づいて「現実的」な政策が展開されているのである。


経済というとき何なのか?エコノミーの語源がオイコノミアであり家政だというとき狭い範囲で考えていたのである。
家政というとき一番身近だからそうなった,まず経済を国家単位とかさらにグローバル単位になると大きすぎてわからかなくる,誰も世界が株で動かされている社会を理解できないのである。それで結局何か極一部のものにユダヤ人だとかロスチャイルドだロックフェラーだとかが支配しているとなる,つまり世界の富が何パーセントかの人達によってにぎられて世界が操作されているとなる陰謀論になるのである。
世界的経済のことなどわかりえようがないし株のことも普通の人はわからないからである見えざる手によって導かれる世界市場とはまさに逆に見えないからこそサタンの手によって導かれるのである。巨額の金の流れは見ることがもはやできない
それで巨額の金が税金逃れのためにタックスヘイブンの国にあづけられるとういのもそのためである。

家政という単位だったから経済は見ることができる,まだ村とかポリスなら見える社会である。もう経済は個々人では見えない世界で操作されている,だから富は世界の極一部の人達に集まり操作されるとなる
そこにはモラルもなにも通用しない,悪魔的なものが世界を支配するとなる
「道徳を忘れた経済は、罪悪である」であるというときまさにこの世が罪悪の社会,ブラック化した社会となる

ブラック会社のことを良く言われるけどそこでモラルが通用しない,雇う人にも雇われる人にもモラルは通用しない,雇う人はただ安く雇いたいとういだけであり人を人とも見ない,だから時給とかで安くこき使い使われる方も奴隷なんだよとなる
でも人手不足になるともうブラック会社が倒産している,会社も起業できなくなっている働く方にするとそれはいいことになる,つまり雇う人をを大事にしないものはつぶれるとなるからだ,つまりそこにはモラルが道徳がないから当然の結果だとなる
モラルが関係しないようで結果として現れているのである。
モラルがなくなるとき荒廃するとき家でも村でも街でも国でも成り立たなくなる

プロの経済学者の多くが「非現実的」な特定の前提の下で研究を進め、そこで証明された事柄を政府に提言し、それに基づいて「現実的」な政策が展開されているのである。

これなどもまさに非現実化しているとき経済が何かグローバル化すればそれを現実のように見ることができない,マネーゲームとなるものもそうである。
そして学者が経済学など役にたたないというとき非現実化している提案をしているというのもそうである。グローバル経済になるとその実体を見える人はいないからである。
エコノミーが家政単位だったら手にとるように見えるからこそモラルも通用するのであるそのモラルも自然にも通じる,二宮尊徳はそうして自然と通じる農業を基本にしていたからそこにモラルと一体化していたのである。

自分の詩のなかでもこれは自分が家政の中で感じたことを詩にしたのである。
人を使うにしても使う方でも使われる方でもやはりそこにモラルが必要になる
だからそういうことが江戸時代では侍に奉公する中で培われたというのもそうである。
相手が身近に人として接するからそうなったのである。
つまり家政の延長としてそうしたモラルが養成されたのである。
人と人が上下の関係なく信頼関係が結ばれたということがあった
現代社会はそうした関係はない,時給でロボットのように時給として雇うという関係だけなのである。そこにモラルもないから雇う方でもそういうロボットのようにしか人を見ていないから遂に雇う人もいないくなり会社が成り立たなくなる,それは道徳,モラルの喪失による結果だともなる

ただ等しく配分するといっても実際は人間は平等ではない,平等にしたらかえって不公平になるのである。真面目に働いた人が能力がある人と不真面目な人と能力もない人が等しく配分されることはかえって不平等となり社会は衰退するのである。
富でもすべて悪いとはならない,それ相応の配分の富だったらそれは公平なのである。
でも貧乏人は自ら努力もしないで才能もないのにただ等しい配分だけを求めることがあるのだ,それもモラルとしては許されないのである。

いづれにしろ理想の経済といってもその逆としてブラックなモラルなき経済が世の中を支配する,グローバル経済とか資本主義でもそうしたモラルが喪失しているから陰謀論になる。誰もグローバル経済のことなど理解できないからである。
こういうことを言う自分だって経済のことはわかっていない,ただ家政を自分一人でするようになって感じたのである。
家政というのはいろいろあるから大変なのである。家事もあり財政もありとその家政は政治でもあり一国を運営するものともにているのである。
だから家政というのはエコノミーの基本にあるからそこから考えるとわかりやすくなるのである。

誠実にして、はじめて禍(わざわい)を
福に変えることができる。術策は役に立たない。
(二宮尊徳)

誠実なことが実は使用する人でも使用される人でも不可欠である。でも富める人と貧乏な人ではそれがありえない,なぜなら貧乏な人は等しい配分を要求しているからである。
するとまず富める人は貧しい人に等しく配分せよとなるからだ
でも富はその人の相応に配分されるというときその相応がむずかしいのである。
それは個々によっても違ってくるからである。
だからみんな平等だ,なんでも平等にしろという共産主義は理論的にも現実的にも無理であり失敗だったのである。
要するにかえって不平等になり特権階級を生んだのが共産主義だったからである。
貧乏にも貧乏になる原因がある,その原因を無視してみんな平等だというのは無理だったのである。

ともかく人間は良心をもっている,だから良心にはじることをすると苦しむようになっている,人をだましたりいろいろ悪事を行うと良心がいたむ,それで心が乱れる
もし人間に良心がなかったらどうなるのか?それはもう本当にこの世は地獄になるだろう
ただグローバル経済社会となるとそうした人間の良心も傷まない,それは見えない世界でありそこに悪魔が活動しやすいからである。
天文学的な金を操作するということ自体がそうなのである。
家政とか村とか小さな共同体単位ならそういうことはないのである。
江戸時代はそういう社会だから二宮尊徳の道徳の経済が成り立っていたのである。
ただ現代でもモラルが喪失する荒廃すると社会も成り立たなくるのは同じなのである。

本当に人間は富で金だけで支配できるのか?力によって支配できるのか?
いくら国が大きくてもその力によってすべての国を支配できるのか?
アメリカが世界を支配できたかとなるとできなかった
力だけでは支配できないのが人間なのである。
また民主主義となると選挙だがこれもまた数だてがすべてとはならない,そこにモラルが欠如すると数の論理がまかりとおると社会は破壊されるのである。
そういうことは国家間の大規模戦争でも起きてきたのが現代だったのである。
数が権力となったのが民主主義だっからである。数が大衆がモラルを破壊したのである。数だけが目的化して破壊したのである。それはカルト宗教団体ともにていたのである。
そこは数だけがすべてになるからだ,モラルも関係ない数だけのマスだけが権力化してくるからである。
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2017年11月16日

人手不足倒産時代 (特に飲食業が人が集まらない)


人手不足倒産時代

(特に飲食業が人が集まらない)

低価格のラーメンチェーン「幸楽苑」を運営する会社が人手不足で人件費が上昇し採算が悪化しているとして、全体のおよそ1割に当たる50店舗余りを今年度中に閉鎖すると発表しました

サービス業ってのはそもそも半分虚業じゃないの? 
単に自分がやればできることを他人にやらせてるだけの商売は特に

人手不足で休みます

幸楽苑が原町にあるけど二人だけで忙しい,この辺は原発事故で若い人が減ったとかあり人が集まらない時給を高くしても集まらない,それは全国でもそうである。
働く人がいなくなれば会社もやっていけない,しかしもともと飲食業とかしたくない仕事がこの世に多い,だからそうした飲食業は給料も安いとなると人も集まらない
何かそうした仕事は機械化してゆく,事務関係でもAI化してゆく,つまり給料もあるが人間がやりがいを感じないこともある,自分は流れ作業しか仕事していないから仕事のことがわからない,そういう仕事は金をもらってもしたくない,人間の尊厳を傷つけるのである。

こんなことが人間の仕事なのか?そうして遂に自分の場合は仕事をせずに一生終わったのである。ただそれは特別恵まれたからできたことでありニートとか今は普通だけど団塊の世代はガムシャラに企業戦士として働いたのである。
それは何か高度成長時代は働く意欲がみんなあったのである。上昇気分があった,経済成長が国全体として高揚したものとなっていたのである。
日本はアメリカに戦争に負けても経済では勝ったとかなっていたのである。
だから国民全体が今とは違って働く意欲があった,それは仕事がいろいろあっても全般的に言える,そして給料も毎年上がりマイホームとかいろいろ将来への望みがありそれが目標となりかなえられるとなっていた

そもそも時給で働かせることは人間の尊厳を傷つけていないか?
人生は時間を何に使うかで本当に決まる,時間が一番大事なのである。それが安く切り売りされている,でもその時間がもしただ切り売りするのではなく何か自分のスキルを仕事を身につけるならいい,例えば大工なら職人なら職人として仕事を身につける,それが誇りになる,職人は仕事をするというときその仕事に関して専門家だという自負がある
他でも仕事は一人前にになるには修行をする,それはその仕事でスキルでも何か社会で給料だけではないものを身につける,それで社会からも大工なら大工として認められるし自分もそのスキルで誇ることができる
飲食業などはチェーン店などではそうしスキルは与えられたものであり機械化している感じになる

要するには本当は誰でもできないものがあるにしても誰でもできるものでありロボットでもできるのじゃないかと見られる職業が人手不足となる,そうして機械化するとAI化するのである。それは人間はこんな仕事したくないとなるものなのである。
だからたいがいの人か人手不足というときただ奴隷が欲しいだけなんだよとなる
時給2000円くれるのが当たり前だとなる,それも人間になるとそうなるのである。
人間は「俺は機械じゃない」とかなる,そういう人間の尊厳を傷つける労働が多すぎるからである。

では仕事は「俺は機械じゃない」という仕事をしている人は少ない,江戸時代だったら職人は手作りだから一つ一つ丹精こめてその人の技量を活かして独自のものもう作っていただから下駄すら作った人の名前がついている,今でも近くの包丁を作っている店はいい包丁だとして知られている
何かそういうことが江戸時代には手作りの社会だから多かった大量生産の時代になるとそういう仕事がなくなった,みんな型にはまったものを大量生産するだけだとなった,それは人間も同じような型にはまった人間の大量生産だったのである。

それは学校という場がそうした大量生産に向く型にはまった人間を訓練する場として作られたというのもそうである。
江戸時代の寺子屋は机でもばらばらであり自由だからである。
この大量生産の時代は命も安価となったのである。
戦争で大量に何百万人も死んだというのも現代社会の大量生産の結果だという人もいるのがわかる,ナチスをそうして批判している思想家もいる
今まではそんなに大量に死ぬ戦争はなかったからである。

ともかく飲食業でも人手不足でみんな倒産するというのも困る,飲食業は社会にとってただ腹を充たすだけの場ではない,憩いの場だと社交の場だとか気分転換の場だといろいろある,人間のすることはまず一つの機能だけをすることはないのである。
人間の仕事はただ部品を作るということではない,だからロボットのように人間を使うことはできないのである。
自分は外食することが多いから飲食業に関心をもっている
飲食業は実は他者と区別できる,同じ品物を売っていないのである。

料理はみんな店で違っている,最近鹿島の仮設の食堂が一軒残っているけどメニューを変えた,500円のカレーがうまいなと思う,いい肉も使っているから500円では手頃である。そのカレーはそこだけのカレーなのである。
そういうものが別にチェーン店だけではなくても作れるのである。
だから飲食業が誰でもやれるとはならないし個別化できる,他と違ったものを作れるということである。それで人を集められるということがある
ただ商売は場所だから都会のようにある程度人がいないといくらうまいとしても人が集まらないのである。
商売にはいろいろな要素がからんでくるからである。

サービス業ってのはそもそも半分虚業じゃないの? 
単に自分がやればできることを他人にやらせてるだけの商売は特に

別に飲食業がなくても自分でも作れる,でもそうしたら人間の生活は豊かなものにならない,豊かさとはただ食べるだけのことではない,雰囲気とか仲間と親交をあたためるとか人間が食べるというとき腹を充たすだけではないのである。
鉄道の駅だってただ電車に乗るというだけではない,そこは出会いと別れの場であり人間的情をはぐくむ場でもある
つまりメカニカルなだけではない,ヒューマンな場なのである。そこが自動化して無人駅になってもだから駅員が必要だともなる,人間的な場にする必要があるとなる
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メニューをかなり変えた ラーメンでも盛りがいい,いいものを食材に使っている
仮設はここ一軒しかないから淋しいとなる
やはり何軒も食堂でもあれば選べぶからいいのである。
そこに仮設商店街の利点があった


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2017年11月05日

像で考えろ,図で考えろ (抽象化された社会で生きる術)


像で考えろ,図で考えろ

(抽象化された社会で生きる術)


抽象化することは具体的な事物から離れてしまう,なぜ勉強嫌いになるのか?
それは学校はまさに抽象的空間しかない,何か具体的に学ぶことがない
教科書中心でありそこに具体的な現実にある事物を通じて学ぶことがない
実習として畑とか花作りなどをすればいいがそういうこともほとんどない
抽象的空間とは言葉がまずそうである。
言葉は現実にある事物を抽象化したものだからである
なぜ英語が身につかないかというと言葉でも実際の生活から具体的なものから
無意識的に覚えているのだ,

だから英語でスティディ(stedy)というのを馬が落ち着かず暴れるのを「スティディ)と言ったのを映画で見た時理解した,「落ち着け」とかの意味だがその他堅実になどいすいす意味がある,言葉そうして現実の生活の中で覚える
英語の場合にそれが結びつかないから身につかないのである。

そして現代はあらゆるものが数値化した世界になっている,数字も抽象化したものであり人間も数値化される世界である。科学は数字で現す,また化学記号化するからこれも抽象の世界になる,まるで人間は記号の中で生きていて人間自体が記号のように数字のようになっている,それで議員が病院で番号で呼ばれて怒ったというのもわかる
人間はおそらく学校でも会社でも工場でも番号化しているのである。
この人は俺は議員様だということ言いたかったのかもしれない,番号だったらどの人も同じになるからである。地位も個性もなにななくなるからである。

今の社会はこして数値化された社会である。銀行などもそうである。
金は実は数字にすぎないというのもわかる,金がもし小判とか銀でもいい金自体が価値あるものだったらその金をもったとき財産をもったとなる
数字だったら一瞬にして消える恐怖があるからだ
そして数字は抽象的だから金をもっていることが実感できないのである。
だから毎日札束を見ていたら実感できる
そしてわかったことは数字をグラフ化すると図形化するとわかりやすくなる
数字だと実感がわかないが図形とグラフ化すると実感として感じる度合いが強くなる

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この辺の放射性物質の被害もすべて数字でしかわからないものだった,それだけ抽象化した世界だから実感がわかないのである。どこに危険があるかも実感できないのである。
0.2と0.3マイクロシーベルトの相違がどれだけあるのか?
それも実感できない,放射能物質に色がついていればわかりやすいにとかなるった
水は透明であり空気もそうでありどこで汚染されているのかわからないのである。

自分は数学とか科学は苦手である。でも今ふりかえると数学の場合,子供のときから試験ばかりであり考えることがなかった,やはり考えることが学問に興味をもつことなのである。
算数も図形で考えれば具体的になり興味をもっていたのである。ただ暗記ばかりだから興味がもてなくなり勉強嫌いになる
不思議なのは一旦興味をもつとのめりこむ,そういうオタクのような人は興味をもったものに集中できるのである。そういう人が理系の人に多いというときなるほどと思う。

ともかく学問は学校で興味をもたなくても現実社会でもし役にたてば興味をもつ,そもそも数学だって実用のために生まれた,土地を計り建物を建てるのにも計測することは不可欠だからである。それはエジプトですでに生まれていたからこそピラミッドが作られたのである。知識とか技術はエジプトが起源になっているのが多いのである。

実用というとき原町の歯医者に行ったら例えば年齢により一割分や二割分や三割分がとられる,だから千円はらったとしたらそれが二割分はらったとなると実質に全部でいくらはらったことになるのか?
それが数学がわからないからなかなかわからなかった

二割ということは0・2であり分数に直すと10分の2であり数式にすると

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となりあらゆるものがこの数式にあてはまる,3割り負担になると10分の3×Xとなる
このように現実社会で役に立つと数学でも興味をもつのである。
いかに現実社会で生きるかがもともと学問だったからである。

それから保険証はもっていったが高齢者用のものをもっていかなかった,でもすぐ近くが市役所だったので市役所の人が連絡して事務ができた,それは市役所でできたのは南相馬市として合併したからできたのである。そういう点は便利になったのである。
その日はどしゃぶりの雨だったら助かったのである。

いづれにしろ現代は数字と離れずにありえない社会である。あらゆるものが数値化されるのである。絶えずどこでも経済でも数字の世界になる,科学は基礎は数字である。
数字の世界を生きているのである。
だから数学ができないと今の社会はいきずらいとなる,でも今や暗記だけの教育ではもうやっていけない,世界の競争に勝つにもそうである。
考える力が創造力がなければ世界から取り残されるのである。
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2017年10月09日

飲食店の料理にはそれぞれ得意なものがある (飲食店から考える労働とは?)


飲食店の料理にはそれぞれ得意なものがある

(飲食店から考える労働とは?)


A店は料理人がいるホテルだからランチでも魚とか牡蠣とか海老とか他について700円とかは安い,ただこの店の問題は安い飯を使っていることである。
飯は今はいいものを使っているのが普通である。
ただここはお得だが街からちょっと離れている

仮設の食堂では前はあつみ食堂はいつもけんちん汁を出していた,それにはいろいろ野菜が入っていたしあそこでは野菜料理を出していたので良かった
でもそこもやめた,それで独身の建築現場で働く人は今はぼそほそ一人でコンビニの弁当を食べている

B店はチャーハンがうまいが野菜炒めはC店がうまかった,百円ほど安いのにうまかった
今度はいろいろメニューを変えたが野菜炒めは出していない,500円の牛丼とかカレーは出している,自分は牛丼は嫌いなので食べないからメニューが変わってもいいものではなかった

料理だけは店によって特徴がある,今は他は品物でも同じものが多い,ただ食料品はやはり味が違うことはある
ただ果物だと見分けがつきやすいが野菜は見分けにくい,だから値段で買っている
なるべく野菜をとろうとしているが種類がそろえられないのである。
一人だとかえって高くつくのである。

要するに料理店はA店B店C店とあったらそこの得意なものがありそこを売りにすればいいのだが個々別々になっている,でも仮設のように三軒集まれば別々の店を利用できる
離れているとそうはいかないのである。
仮設商店街はそうして一カ所に集まったからかえって一時期繁盛したのである。

今なぜ飲食店で特に人手不足になっているのか?
そこは仕事もきついし誰も働きたくないのである。
時給千円なったとしても安い,それは奴隷でしかないとしている
人手不足はなぜ起きているのか?
それは少子高齢化の影響でもある

4000万人が働かないで年金暮らしとかしている

こんな社会がありうるのか?それだけ余剰が社会にあるということなのか?

日本の飲食店は安すぎる,他の接客業でも安すぎる
それで外国ではそうした職業にチップを与える習慣がある
それはもともと貴族の社会があり対人的にサービスしてくれる家事をしてくれる人に与えた
家で働く人にはその人が家族の一員のように意識するようにもなるからチップが生まれた何か時給いくらだとかなると貴重な時間とか人生を切り売りしているのである。

現代の労働はあからさまに奴隷を使うようなことをしていない,でもシステム的に奴隷化した労働となっている,時給いくらだというのがそうである。
それは人が安価に雇える時は良かったが今や人手がないのでできなくなったのである。

だから対人的サービス業は飲食店でも倍とか高くなる
従業員に払う金が高くなるからだ
すると外食をしなくなり外食産業がつぶれてゆく

「私はあなたにこうしてサービスしてます,それ相応の金をください
千円でしたが二千円払ってください」
「それもわかります,でも自分はそんな金持ちでないですから家で安くすませます,
スーパーやコンビニの弁当ですませます」

こんなふうになると特別の金持ちを相手にするレストランくらいしか残らない,それは都会のレストランだけになるかもしれない。
結局別にそれでまにあうし餓死するわけでもない,外国ではそもそもレストランは特別な場所であり日本のレストランとは桁違いの高さである,だから外国旅行ではレストランに入れないからスーパーとかマックとかですませるほかなかった,安い食堂がないからである。あってもわかりにくいこともある。
日本では安いレストランがいくらでもあるから外国人旅行者は安く旅行できる

ともかく料理は手間だからほとんど自分はしていない,ただ野菜をなんとかとろうとはしている,家事を一人でするだけで手間なのである。
だから気軽に安く食事する所があれば小さな町になると三軒くらいしかない,何かラーメン店が多いがご飯の料理が少ないのである。
一人暮らしになると都会はいろいろあるから便利である。

人手不足というとき賃金もあるが人間は仕事することは何か人生を充実させるということもある,まずお手伝いさんは皿洗いなどしたくない,二三枚洗って終わりである。
でも話しているのは畑のことである。その人がいかに畑をすることに情熱を傾けいるかわかる
その肥料代とか資金は自分が出している,でももらったのはほんのわずかである。
人に与えるほどとれない,金銭的に換算すれば労力でも金でも十倍はかかっているのだ
農業でも趣味でやるとなるとそれだけ金がかえってかかるのである。
そして毎日草むしりであり簡単に収穫ができないのである。

それだけ割りにあわなくてもその人はともかく農業が好きでありそこに情熱を注いでいるその人がやりたいのは皿洗いとか掃除とかではない,農業なのである。
そしてその人の価値は何かなのか?それを考えたら農業をすることだとなる
農業していること自体に価値がある,それがわかるのはもしその人が畑もしないで遊んでいたら何の価値があるのかとなるからでてある。
金銭的なものも抜きにすればそうなる

だから人間の価値は何かというとき金銭的なものからしかみないが何をやりたいのか情熱を注ぐのかになる,そういうものをもっているのかとなる
芸術などは絵を描くしにししてもそういうことは金を払ってでもやりたいのである。
創作にはそれだけの魅力があるからだ
農業もまたその人は実際に金を払ってしているのである。その金を払ってくれる人がいるからしているとなる
要するに本当にしたい仕事がありそれをしている時その人に価値があり幸福だとなる
飲食業など誰もしたくない,奴隷だというとき人も集まらないともなる
それは金銭的問題だけではない,そこに生きがいが見いだせないからである。

だからやりたくない仕事はロボットがして機械化してAI化されてゆく,ベーシツインカムというのはやはりそういう時代を先取りしたものである。
別にベーシクインカムにしても農業したい人はするのである。
何か自分のしたいことをもっている人は働くのである。
それは人間の一つの理想社会を目指すものとなるがそこにも必ず矛盾が生まれてくる
人間社会はそうした矛盾とか何か負の部分が必ず生まれる
いくら理想社会を目指してもそれは永遠にありえないのが現実なのである。
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2017年10月06日

豊かになるには豊かな国に人に習うほかない (共産主義から富は生まれない,みんな貧乏になる平等だけ)


豊かになるには豊かな国に人に習うほかない

(共産主義から富は生まれない,みんな貧乏になる平等だけ)


なぜ金持ちと貧乏人がいるのか?それは謎である。だからこそfutune(財産)が運の意味もあった,運がある人が財産をもつとなっていた
それは歴史上変わっていない,マルクス流に言えば階級が生まれるというときそうであるどこの国でも貴族が生まれて貴族が国を作り文化を作ってきたのである。
そんな貴族がいらないとなれば国も文化もなかったのである。
そもそも文化は財を成さなければ生まれない,国自体が豊かになれなければ生まれない
薬で財を成したメディテ家が富豪になりその富が波及してルネサンスが生まれた
ルネサンスというとき特別な天才が生まれて成ったのではない
総合的なものとして職人とがいて成った
ただフィレンツという都市が豊かになったから生まれたのである。

ではなぜ金持ちと貧乏人がいるのかとなるとき国レベルで考えればわかりやすくなる
イスラム圏がなぜ貧乏なのか?でも砂漠で何もなくても石油があり豊かだとなる
石油は天からの恵みであり何か砂漠の住民が発明したものでもないし勤労の結果でもないその国に与えられて国の恵みなのである。
国々にはなんらか恵みがないところはない
日本でも回りが海なのだから海産物が豊富であり肉とか食べなくても魚を食べられるとかなっていた,その国にはその国の恵みが神から与えられていて豊かさがあるとなる

ではそうして国々が与えられた恵みのみで豊かになるのかというとそうでもない
現代の富は別なところからうまれた,工業化がもたらした富は資源がもたらした富とは違っていたのである。
産業革命は確かにイギリスで生まれた,石炭がとれたということで蒸気機関車が発明されたということはある,でも蒸気機関車というのを発明したことが富を作り出したのである
そして宗教も関係していたのである。ドイツとかイギリスとか寒い国が工業化した
そこはカトリックではない,フロテスタンの国だったのである。
キリスト教の受容でも南と北では違っていたのである。
地中海沿岸は暑いからイタリアでもスペインでもカトリック系になる
そして南米ではカトリック系になりアメリカの東部はイギリスのフロテスタント系が入り工業地帯になった,一方南部は農業中心になった,そこで争いが南北戦争が起きた
この生産形態の相違が人種の相違より大きな差を生み争いになったのが人類である。

遊牧民と農耕民が争い万里長城が築かれた,大和王権と蝦夷が争ったのは蝦夷が縄文人を主体とするとき稲作民族と狩猟,採集,漁労民族の相違で争いが起きた
大和王権は稲作民族にしたかったからである。
今でもわかりやすいのは職業が違うと相手のことが理解できなくなるのである。
人種とかの相違ではなく職業が違うとコミニケーションがはかりにくくなるのである。
だから江戸時代は良かったというとき同じようナコミニケーションがとりやすい人々が集まり生活していたのである。

職人は職人同士,農民は農民同士とか侍は侍同士が同じ地域に長く住んでいたのである。職人ですら十代以上をつづいたりしていたのである。
そういう社会は変化しないのだから安定しているからみんないい顔していたというとき
現代のようにいろいろ悩む必要がなかったからだともなる。
要するに親の職業を継ぐのが一番多かったから職業選択でも悩む必要がないからである。現代は様々なことで悩みが多すぎる時代なのである。だから鬱病にもなるのである。

人間が豊かになるいうことはどういうことか?それをマクロで考えれば国単位とかで考えれば個々人として考えるのと違った見方になる
本質的には人間は国とか市でもマクロ的に見ないとわからない,国が豊かにならなければ個々人も豊かになりえない,高度成長の時代は別にさほど能力がなくてもみんな豊かになったことでわかるのである。それは能力とあまり関係なかったのである。
能力がなくても三流大学でもみんな就職できたからである。
そして今なぜ貧乏にが増えたのか?それは国自体が貧乏になったからである。
電器製品も売れないとかグローバル社会の中で日本が衰退したからである。
歴史的には必ず栄枯盛衰がある,イスラム圏が貧乏だというけどヨーロッパより先進国のときがあり豊かな時代があった,それでその富を奪うために十字軍が生まれたとも言われる,その延長として大航海時代になりヨーロッパに富がもたらされたともなる

ではなぜ日本が貧乏になってゆくのかとなると衰退するのかとなるとやはりどの国でも永遠に栄えている国はない,栄枯盛衰を繰り返している,その歴史の法則でそうなったともなる,日本はアジアでいち早く工業化したから豊かになった,次に韓国とか中国がまねて工業化して豊かになったともなる,富は移動してゆく,めぐってゆくのである。
それは個人的にもそうである。富はある一カ所の家でも個人でもとどまっていない,まずとどめようとしてもとどめられないのである。
もしとどめようとしたりすると盗まれたりするのである。
金は天下の回りものというときそうなる,金の性質が富は一カ所にとどめられないのである。それが歴史の法則なのである

そしてなぜ共産主義が社会主義が失敗したかというとそれは富を生みださなかったからである。みんな平等というときみんな貧乏になるということでもある
富を生みだすには生み出すシステムとか何か他にある,個々人で見ればなぜ金持ちと貧乏人が生まれているのか?
その差はどこからきているのか?貧乏人からは富を生み出す方法を知ることはできない
だから金持ちになりたかったら金持ちに学ぶことが必要であり貧乏人から金持ちなる方法は学べない,だから金持ちをあいつは金に汚い奴だとか嫌っていると金持ちにはなれないのである。もちろんそういう人もいるのはいる,でもどうしてその人が金持ちになったのか?例えば事業に成功したのかとか成功した人に学ばないと金持ちにはなれないのである

浪江の請戸の農家の人は富農だった,娘を三人も大学に出した,それで回りの人も習いにきていたのである。それは農家として優秀であり表彰もされた,農家でも富農となるものもいれば貧乏農家もいる,その差はどこから生まれたのか?
それは貧乏農家の愚痴だけを聞いても農家として豊かになれない,富農の農家に習ってノウハウを取得して同じように豊かになる,その富農をねたんでも豊かに離れ内ののである

共産主義はとにかく金持ちを否定することからはじまる,あいつは不正に金をもうけた,人民を搾取してもうけた悪い奴だとなりそういう金持ちがいるから俺たちは貧乏なのだという論理である。だから革命を起して資本家を殺してもいい盗んでもいいという論理なのである。そしてそこからは富は生まれなかった,みんな貧乏になる平等しかないのであるこういう考えだと絶対に人は豊かになれない
金持ちの家にいってただうらやましいとかねたむだけな人も金持ちになれない
こいつは贅沢している,だから盗んでやれとなると金持ちになれない
この家は金持ちだからその福にあやかろうと思った方が金持ちになる
それは国単位でも豊かな国に習えば豊かになると同じなのである。
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2017年08月24日

資本主義社会とは何なのか? (発明発見技術革新ないとゆきづまる)



資本主義社会とは何なのか?

(発明発見技術革新ないとゆきづまる)


普通の人から金を毟り取る「弱肉強食の資本主義」で生き残れ

このサイトでは資本主義社会でどうして生き残るか,資本主義社会とは何かを絶えず考察している,要するに資本主義社会というのが株式のことでも良く一般の人にはわからないのである。
その仕組みもわからないしその思想もわからない,資本主義というからにはこれも主義であり漠然としてあるものではない,明確な主義の元に動いている
民主主義もそうである。主義としてある。
それを理解するには対局にある社会主義を理解すればわかりやすい,でも社会主義は失敗したのである。中国は社会主義政権だけど実質は資本主義で動いているからだ

資本主義がキリスト教の修道院から発したという説もあるし資本主義の発生は何なのかわかりにくい,わかりやすいものとしてオランダで船で世界で貿易するとき株主がよりあって金を出した,船が無事に帰れば巨額のもうけがある
でも船が嵐などなにかの事故で沈んだらもうけはゼロになるし大損になる
そのリスクをとるのが資本主義の株式の世界での基本にある
リスクからとるからまたもうけも大きいとなる
そのリスクを分け合うものとして株式がある

これも資本主義発生の一つとしてあるがその他に資本主義には何か有望なものに将来を見込んで投資するということがある,そしてもしその投資したものが大きな発見があったりすると見返りが大きくなる,新薬の発明で売れたりすればそうなる
コンピュターの発明は世界を支配するほどの発明だった,だから発明者のビルゲイツとかはものすごい金持ちになったのである。そのことで批判する人はいない
なぜならそれによってアメリカ自体巨額の収入を得ることになりインターネットなどで世界まで支配するような力をもったからである。

資本主義にはフロンティアの開発,大航海時代とか発明発見技術革新が不可欠でありそれに成功したものは巨利を得るのである。
本質的に今の金融資本主義,金を右から左に動かして富を得ることではない,そこからは富が生れないのである。
大航海時代だとスペインに富が黄金が集まったというときもインカとかを征服して黄金を手にいれたからである。
それからイギリスでも産業革命で蒸気機関車とか工場を作るなど技術革新の結果なのである。

資本主義はそうした発明発見技術革新などがあって活きる,それがないと資本主義の意味がなくなる,そのことで世界にフロンティアがなくなった,未開発の国がなくなったというとき資本主義の発展がそがれ限界だという説がでてくる
中国が発展したときは株も世界的にあがったが世界的に発展する国がなくなると株も上がらないのである。投資先がなくなるからである。

具体的に何か日本が新薬を出すというとき日本株が上がるぞとか騒いだことがあった
他に海底資源が発見されて日本でも資源がとれるとなると株も上がる
常にそうして発見発明技術革新があり資本主義は発展する
それで格差社会になっても全体の富が増えるから下々でも豊かになり恩恵を受ける
高度成長時代はそうだった,逆に発明発見技術革新がないとき今度は全体的に経済も停滞して資本主義はゆきづまるのである。
現代はそういう傾向にある,福祉平等は社会主義の思想だけどそれも国全体の富が増大しないと成り立たないのである。
社会主義はもともと富の増大をめざしていない,だから発明発見や技術革新に投資するという思想がないのである。

要するになぜヨーロッパが欧米が世界を導くものになったかというとヨーロッパには天才が科学でも芸術でもなんでも多い,発明発見がヨーロッパ中心に成されてきたからである今でもノーベル賞をみればわかる,欧米中心にして世界があったのはそのためである。
社会主義だとみんなが平等でもみんなで貧しくなるが資本主義だとそれがうまくいけば
全体の富をおしあげる,でも発明発見技術革新がないと停滞してゆきづまるのである。
金融資本主義は富を生まないのである。金を右から左へ流していただけでは富は生れないのである。それが資本主義のゆきづまり限界が来たとされるのである。

コンピュターなどの技術革新は芸術の分野にも波及した,それが自分とは関係あるとは思わなかった,自分がソフトで変化させて抽象画を作っているがこれは全く技術的なものであり自分には全く絵の才能がないのにできているという不思議である。
一定数,アメリカの人が主に見ていることでもたいしたことはないにしても評価されているとなる,それが著作権違反ということで問題になるものもあるがオリジナルなものとまるで違っているのだからわからない,著作権違反にはならないということである。
全く別物になっているからである。

アメリカがなぜあれだけ発展して世界まで支配する用になったのか?軍事力なのだろうか?軍事力もそうだが果たして軍事力だけで世界を支配できるのか?
ローマ帝国は軍事力だけで支配したのか?やはり技術の優位,建築術の優位があったことも大きな原因だった
日本が一時高度成長時代にいわれたのは猿まねの国だが何も自ら発明発見技術革新がないよその国のまねはうまいが自ら発明して発見して世界に普及したものがあるのか?
そういうことが問われたのも資本主義は発明発見技術革新がないと発展しないからそういわれたのである。

日本にはそうした発明発見とか天才を産む土壌がないとも言われた
狭い村で生活するとなにより平等が争わないことが要求される,田舎に住んでみればわかる,いつも同じ顔の人とつきあっていれば何か争いがあったりするいつも一緒に住んでいるからきまづくなるしいずらくなるのである。
まず田舎では経済でも徹底して平等を要求する,特別な金持ちは目立つし分けろとなるからいずらくなる,日本自体が村だというとき日本では発明発見の土壌がないというのもわかる,学校教育でもコンピュターを発明したビルゲイツとジョブスとか生れないのであるゆきんでたものを常に嫌う村社会が日本なのである。

天才なんか普通の人とは関係ないというが別に天才でなくても何か常に創造的なものを志向する態度が奨励されないと天才の能力があっても活かされないのである。
そういう土壌が日本にはないのである。日本は外国の猿まねで豊かになったが今度は自ら何かを発明発見する技術革新するとなるとできないとなるから停滞する
それは中国でも日本の技術をなどをコピーして発展してきたがでは今度は自ら新たなものを発明発見技術革新しなければならないというときできないとなるとゆきづまるのであるそれが資本主義社会だということを理解する必要があるのだ。

確かに格差社会だとか資本主義が批判されるがでは社会主義のようにみんな同じで貧しくていいのかとなる,社会主義はにはこれも主義であり投資とか発明発見技術革新をすすめる思想がないのだと思う,そこに大きな差があり資本主義が世界に普及した
でもフロンティアの喪失や発明発見技術革新がなくなるとき資本主義もゆきづまるのである。今はそうなっているから株もあがらないとなってしまったのである。
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2017年08月20日

人間何のために働くのか? (ただ金のためだけなのか?)


人間何のために働くのか?

(ただ金のためだけなのか?)


このことは自分の一つのテーマである。これはすべての人のテーマでもある。なぜなら日々働いているのが人間だからである。
でも働いている人自体がなぜ日々働いているのか?
明確にわかっていて働いているだろうか?
労働の経験がまれな自分がこのことをテーマにしているのも変だとはなる
ただ自分は働いたのではない,働かされたという経験しかない
金がほしい,その日の食を得るために働いただけだとなる
そういう人も多いしそれ以上考えないから別に金があれば多くの人は働かない
働くことを強いられている働くことは嫌でも仕方なく働いているとなる

まず家族のために働いているというのはわかりやすい,その一番の理由となるだろう。
働くのは嫌だけど家族を養うために働くことる生きがいを感じるからだ
でもその時働くこと自体に生きがいを感じるということではない
次に会社のために働く,会社が家族より大事に思うことさえあり企業戦士とか高度成長時代に言われた,戦士だから会社のために命をささげるほどに働くということである。
今でもそのことは継続している面がある,会社があってその人の存在意義がある
なぜなら日々会社に行き会社から月給をもらい生活が成り立つからである。

不思議なのはある会社がある,では無数にある会社はなんのためにあるのだろうか?
JRという会社がある,その会社はなんのためにあるのか?
それは人々に交通の便宜を計るためにある,そのために早く安全に人を運ぶことを仕事としている,それは考えるまでもないことである。
でも他に無数の会社は何のためにあるのか?
どんな会社も何かのサービスをするためにある?

建築関係になると個人的には快適な住まいを提供するということでわかりやすい,他に大きな公共的建てものを建てるということもある,それは個々人ではない,大勢の人のためのものもを提供するためである
医療関係だとこれも医者がいて患者を治すために働く,その他医者のすることはある
製薬会社は薬を作り人間の病気や予防などをする,それも実際は人にサービスするためである。
複雑な社会だからそのサービスも多岐にわたる,現代なら通信が発達している,するとそれを提供するためにITで働く,それもやはり人にサービスするためなのである。

何か会社というときこうして人に尽くす,サービスすることが基本にある
だから働くことは人にサービスすることだともなる,つまり働くとは自分のために働いているのではないのだ。
でもみんな自分が飲食して住居を得て自分が生活するために働いていると思う
他者にサービスするまえに自分の日々の生活のために他者にサービスする生活を強いられているともなる
現実に働かなくてもいい金があれば人は働かない,人にサービスするのはしたくないからだ,誰もコンビニでスーパーのレジで危険な建築現場で働くだろうか?
もし家でも自分で作るとしたら家族のために労を惜しまず働くのである。
他者のために家を建てるというときそういう動機はない,ただ会社のために金のために働くとなる

不思議なのは資本主義が修道院の中の労働からはじまったということである。
それは宗教的なものが信仰がバッグにあったということである。
そんなことが今や資本主義からイメージしにくい,宗教は人を助けるためにサービスするために働く,それが神の意志にかなうとなる,だから修道院では勤勉に働き人々に奉仕する,その結果として資本が蓄積された,仏教関係ではむしろ働かず人々の布施で生きていたから東洋と西洋では違っていたのである。
人間はそもそもそんなに働かないものだったからだ
資本主義社会は歴史的に異常に働く社会になったことは確かなのである。

宗教だと布施で生きるということは他者の労働により生きる寄食者にもなる
汗水垂らして働いた米でも農民からもらい生きることだからである。
だからこそ僧職にあれば最低の生活で身を修めて仏に仕えることになった
基本的にはそういうのが宗教のはじまりだろう。
ただ僧職としての専門家が生れて堕落したのは東洋でも西洋でも同じである。

明らかなことはウェバーが働くことにキリスト教の信仰にありそこから働くことが意義あるものとして奨励されたことである。
人間はそもそもそんなに働くものでは本来なかったからである。
働く動機がもてない,その動機が信仰に由来するとなれば人は無償でも働くとなる
ボランティアもこれとにているのである。無償でも働きたい,人のためになりたいと働くからである。生きがいとか何か他の動機があるにしろ他者のために働くのである。

働く動機は他に遊びたいから働くということが現代では多い,海外旅行したいからその金をためるために働くとか他に趣味を楽しむために働くとか遊びの世界が広がったからそのために働くのであり働くこと自体に意義を求めて働いてはいない
消費するために働くというのもそうである。何かうまいものを食べたい,でも金がないと食べられないから働き金を得る,金のために働くといってもその金を何に使うのかが問題になる,ただ貧乏になると衣食住のためだけだとなるだろう
その他そんなことを考えることはないだろう。一般的にはそうである。

現実に人を雇うがお手伝いさんなどはその家の塵一つでも掃除したくないのである。
金がほしいからしかたなくしているだけである。
ある人はただ金をくれといって家捜しされて大金を盗まれた
つまり他人の家で働く動機が全くない,金しかないから極端になればそうなる
家族だったら親でも妻でも自分の家だから掃除でも家事でもするのである。
そういうことは狭い地域で生きているとある
ゴミが道端に捨てられてあったが誰も拾わなかった,そこは自分の家ではないからそうなった,自分の家だったらするが外に出ると自分の家という感覚がなくなるからしないのである。それで自分がかたづけた,でも社会もまた家であり公(おおやけ)であり家なのである。

駅でボランティアしているのは自分の家のような感覚がありしている
自分の街がきれいになっていれば住んでいて気持ちいいからである。
自分の住んでいる所が汚いと嫌になる,だから山の斜面が土をとるために削られたのを毎日見ていると嫌な気分になったりする,景観というのは日々接する場所にいれば気になるのである。
それが一番現れたのは原発避難で街がゴーストタウンのようになったときである。
街全体に人が住まなくなり放置されればあのように荒廃してしまう
そしてそこに個人的に家に帰り住みたくないとなる,つまり常に自分の家のこと家族のために働いているが街全体のために働いているという意識がないのが普通なのである。
でも街全体が人が住まなくなり荒廃したとき実は意識しなくても自分の家のためだけではなく街全体の維持のために人々は働いていたのである。

だから本当は家族を維持するとしても街全体がなければ維持できない,それが原発で避難区域になったところで起きた。街自体がゴーストタウン化したからである。
働くというときいろいろあっても家族のためだけでもない,会社のためでもない,地域全体のために働かなけれも街が維持できない,それを如実に証明したのが原発避難区域である。

一人はみんなのためにみんなは一人のために(One for all,all for one)

そういうものとして街はあった,それが失われたのが原発避難区域の街だったのである。
いづれにしろ人間の働くことも多様でありそれをもはや解きあかすことはできない,これだけ複雑な社会になると余計にそうである。
ただ基本的に人にサービスするということが働くことにはある。
実際に鉄道でも人々がそのサービスがいらないとなると維持できなくなる
そのサービスが必要ないということは人のためになっていなから鉄道で働く人もいらないとなるからである。
その人のためにサービスすするにしても社会が変わればまたその職でもなんでも変わってくるのである。
ただ基本的に人に何かを与えるサービスするということが働くことのベースとしてることは確かなのである。
ニートとか無職は何も与えないから社会から責められることになるのである。
働かない人が金をもっていても批判されるのは人にサービスすることをしないからだともなる,何かを与えないからだともなる,ただもらうだけの人だったらその人は例え金があっても批判の対象になるのである。
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2017年07月28日

日本人には外国人メイドを使えない (主従関係が作れない)


日本人には外国人メイドを使えない

(主従関係が作れない)


日本にバックグラウンドのない外国人メイドを雇うなら 
はっきり主従関係を作らないとお前の財産は奪われ 
下手したら殺されるかもしれない 
それぐらい外国で育った環境は日本のと違う 
それさえも周知しないで 
外国人家政婦を始めるなんて間違い 

責任の所在もあやふやのまま 
数件家政婦が主人を殺す事件が続いたころは 
一儲けした企業も撤退して終わり 
こんなの目に見えてる

日本人って白人みたいに移民を奴隷扱いできるわけがないのがよくわかる。 
むしろ日本人が奴隷になってるよ。


自分の家でお手伝いさんを使ってわかった。お手伝いさんといっても一時間もいないから家政婦とも違う,今だって皿二三枚洗うだけである。10分で終わる

むしろ日本人が奴隷になってるよ。

まさに自分の場合はこれだった,どっちが使われているのかわからないのである。
一人は本当に大金を奪われたしへたすると殺されるかもしれないというのは経験でわかった,経済的差がありすぎると人間は危険になる
そもそも人間だからなぜこの家はこんなに金があるんだと家に入ると実感する
その差が大きすぎるから不満が大きくなるのである。

主従関係がある社会なら通用する,江戸時代だったら侍階級がいて仕える者がいた
それはそういう社会の中で生きていたからできたことである。
戦前でも中産階級で二人も女中を雇っていたというとき家事労働が女性の働き口であり他にないからそういう社会で女中という仕事が一般化していたからできた

今は一般の家庭で家に入れて女中を雇うことはできない,大金持ちであるならばできる,でも30万くらい月給を払わないとできないしそういう家政婦を雇うことが習慣になっているような金持ちでないとできない,日本では外国人をただ安く使おうとしているだけである。

そして戦後は徹底して平等を教育で教えられてきたのだ,平等意識が極端化している
あらゆることが平等でないと不満になる,才能でもなんでも平等であり才能があったとしてもみんな同じでなければならない,突出したものは許されない社会である。
日本ではもともとそういう平等社会だったけど民主主義になって極端になったのである。家の中に入るとその差が目に見えてわかるから家の中に入れることは危険なのである。
なぜここの家はこんなに贅沢なんだとかなり不満が大きくなる
それが具体的に目に見えてそうなるから危険になる

日本では平等意識が強いというとき雇う方でもそうなのである。お手伝いさんが家族の一員のようになってしまうのである。それはいい面でもあるが外国人を雇うとしたらそうはいかない,外国人も人間だから家に入れば家事だけではない人間として扱うとなるとめんどうになる,日本人はやさしいから余計にそうなる
すると家事だけではないその他に負担が増えることは確かである。
危険も増してくる,外国人だといつでも国に帰るということもあり一時的だから余計にそうなる

ヨーロッパでは貴族がいて階級制度が歴史的に作られてきた,ローマでは奴隷を使っていたとかそういう歴史がある,スラブ民族のスレーブは奴隷の意味である。
奴隷になる民族がいたということである。そういう伝統があって召使を雇うことができていた。でも結局相手が人間だから黒人でも平等を要求してくるし今でもその問題は解決していないのである。
つまり人間は機械の部品ではない,その部品のように人間は使いないのである。

江戸時代の主従関係は歴史的に作られてきたものである。戦国時代に生死をともにするということで強い絆が作られてきた,それはもう現代のような金だけのつながりではない
精神的に強いつながりを歴史的に形成されていたのである。
それは家族ぐるみであり地域も一体化して作られてきたのである。
ヨーロッパではさらにそういう伝統があり言葉まで庶民階級とでは違っていた
ただ日本でも侍言葉がありそれを庶民が使うようになったこともあるからにている

いづれにしろ普通の家庭で外国人をお手伝いとして家政婦として雇うことは日本ではむずかしい,そういう伝統もなくなっているしそういう社会でもなくなっているからだ
ただ便宜的に金で雇えばいいとはならない,人間は何でも金では解決しないのである。
家事は機械化して今では一人暮らしでも困らないのである。
一人の人間が外国から入ってくることはその背景に国の歴史とか宗教とか様々なものがもちこまれるのである。そこに衝突が生れてテロにもなっているのがヨーロッパなのである

では人手不足をどう解決するのか?それは日本で別な方法で解決するほかない
外国人を安易に入れると日本社会そのものが変質してくる
それでも外国人を入れるとなると相当な覚悟が必要になる
日本社会が変質してもいい,外国人を許容する,そういう寛容さをもつ
でも本当に日本人がそれをできるのか?それに耐えられなくなるだろ。
外国人を入れるとすると簡単に安い労働力としてだけではすまなくなる
その覚悟があれば国民にあれば入れるということはできる
安易に外国人を入れることは危険になる
posted by 老鶯 at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2017年07月26日

金の価値がなくなる時代 (働く人に価値がでる-一時間の労働で一万五千円とられた)


金の価値がなくなる時代


(働く人に価値がでる-一時間の労働で一万五千円とられた)


雨漏りして困った、その場所が危険な場所で見えない、大工さんに頼んだがなかなかこない、その雨漏りが雨が強くふるとびしょびしょになる
一回みてもらったが高い所で危険な場な所であった
木の剪定をしてもらったが一時間くらいしか働いていない
だから一万で間に合うと思った

そしたら一万五千円要求された,高いなと思ったが払わざるえない
その人は危険だったからだという
ほかに頼む人がいないからしょうがない
今はこうした仕事する人がいなくなっている

今は人手不足であり人が集まらなくて建築関係では倒産したり会社でも新しく始められない、それほど人手不足は深刻なのである
そうなると賃金が高くなるのだ、つまり金をもっている人がいてもその金の価値は低くなる、第一利子もつかないし投資してももうからない、もうかるのは銀行だけなのである。手数料をひかれてもうかるより損する度合いが大きいのである。

何か技術が必要だったり危険な仕事は高くなる、もともとそうだったがこれからますます高くなる、ということは金の価値が減少してくるから金をもっていても価値にならなくなる、そういう時代であり働く人の価値は高くなる
老人はもう働けないかち金をもっていても価値がないとなる
でもそれが正常な姿なのかもしれない、働く人の価値が高くなることは悪いことではない利子とかでもうけることは働かないでもうけることはむずかしくなっているのだ

そして人のあまりできないことをする人は賃金が高くなる
このように一時間でも一万五千円とかなる
でも頼まざるを得ないのである。
こういう仕事をする人がいなくなっているからである。
供給する人が多ければいいがなければ高くなる
医者でも多ければいいが歯医者のように多くなると需要と供給の関係で賃金の格差がこれから生まれてくる、その時々で賃金も価値も変わってくるのである。

それはAIとか機械化しても同じである。人間にしかできないことが必ずありそれをできる人の賃金は高くなるのである。大工でも危険な仕事がある、屋根に上ったりするのは危険だから賃金が高いとなる、そうしてそういう人がいなくなるとその人の価値は高くなる、賃金も高くなるのである。
だからこれからどれだけとられるのか心配になる
でも直さないと雨がどんどんもれて家がだめになる
まず家というのは何かこうして修理代とかで金がかかるから資産がないと維持できないのである。
こういう点では借りている方がいいともなる、いづれにしろ人間の価値と仕事の価値は時代によって絶えず変わっている

自分の家は大きな家でも当時は50年前くらいになるが400万だったのである。
今だったら軽く3000万以上する建物である。
その時大工の賃金が安かったのである。すぐに何倍にも高くなったのである。
それでその前に建てろと言って建てたのが良かった
古い造りであり土壁で職人もいなくなっていたのである。
土壁の家はその後なくなったのである。

家にも歴史がある、この家は50年の歴史を刻んだともなる
他でも家には歴史がある、だから原発事故で避難した人たちは家に愛着をもつことはある特に老人はそうなる、思い出が家とともにあるからだ。
そのことが大きな精神的損害だったのである。
posted by 老鶯 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2017年07月16日

移民の是非、少子高齢化、人手不足、AI化 (労働環境の変化)


移民の是非、少子高齢化、人手不足、AI化

(労働環境の変化)


これが同時平行的に起きている、人手不足が深刻化して会社が倒産するとか起業もできないとか起きている、人が集まらない、八〇歳の老人は横浜からここに来ていた
そんな人まで雇わなければ人がいない、ベトナム人からネバール人からスリランカ人からと中国人もいるが増えてきた
阿部政権は移民を支持している、経団連も支持している
安価な労働力として移民がいいとしている
ところが移民がなぜこれほど問題になるのか?
移民が日本に来て働いてどう思うか?

それは自分たちの貧乏をさらに意識する、なぜ日本人は豊かな生活をしているんだと実際に実感する、日本に来て贅沢な生活をしている人を知る
それで不満がかえって大きくなる、もし戦後十年のように電気製品も何もないバナナすら食べれない時代だったらみんなが貧乏だから貧乏を意識できないのである。
貧乏とか才能とか美貌とかは比較するとき顕著に意識させられるのである。
体力でもそうである。

花でも赤い花があり青い花があり黄色の花がありそれはかえってそれぞれの個性が一緒になるとき映える、自然の場合はそれで調和している
人間の場合は比較することでかえってそのみじめさや才能のなさや体力のなさでも意識されて不満になるのである。

貧乏というとき移民問題でもお手伝いさんとかが家政婦とかが一番意識する
皿二三枚洗ってもらうのにどれほど雇うほうでは大変なのか?
それは他人でも親戚でもそうだった、人のためにちょっとのことでもする人はいない
まずたいしたことをしなくても金が欲しいしかないのである。
それで泥棒だったり借金に首が回らない人は大金をまず要求してくる

つくづくそのお手伝いさんは今は四〇くらいの息子のためには食事も用意して世話をしてくれる、自分に対しては皿二三枚しか洗わないのに要求が多いのである。
金を絶えず要求してくる、前借りだとかなんだとか要求してくる
だから今になるとつくづく家族のありがたみがわかった、自分のために食事は三食用意してくれたし家事もしてくれた、他人になると金の要求しかないのである。

これを移民問題と共通な問題としてあることを知った、移民とは人間でありロボットのように使うことができない、食欲も性欲も様々な欲も日本人に住んでいる人と同じようにある、すると同じ家にお手伝いさんのように入るのとにているのである。
人間だから家族がいて仕送りするとかいろいろ困ることがあり相談するとか要求もする
問題も起すし犯罪も起す、それは相手がロボットではない人間だからである。

だからいくら安価な労働力として入れてもコストがかえってかかってくる、福祉だってかかる、移民はさらに文化が違うからヨーロッパでもそうなように問題を起こしやすいのである。それまた人間のやっかいなところである。
むしろローマのように戦争に勝って奴隷のように使えればいいとなる
でも結局相手が人間だからそれもできなくなった、人間である限り平等を追及するし要求する、やがてスパルタクスのような奴隷の反乱が起きた

家事手伝いの奴隷は多少は人間的な扱いを期待することができたし、場合によってはお金や財産を手にすることもできた。この財産はペクリウムと呼ばれ、法的には主人によって所有が認められた私有財産のことであった。つまり早い話が、奴隷は自分の好きなようにお金を使用できたということだ。

この指摘は面白い、家事手伝いの人がなぜこうなったのか?それは相手が人間でありいくら奴隷でも家の中で働けば情が移り家族の一員のようになる
相手が人間だからいくら奴隷として雇っても雇う方も人間であり雇われる方も人間だから人間として扱うようになる
だからある有名な俳優がお若い女性の手伝いさんを家族のようにかわいがっていた
でも子供が生まれてから子供に愛情が移りお手伝いさんに冷たくするようになったとかでお手伝いさんがその子供を殺す事件も起きているのである。
まさに家族の一員になっていたのである。

ローマにとって一番の悩みは、奴隷が取れなくなったらどうしようということでした。
なぜかというと、蛮族の抵抗も強くなったことで、奴隷を得ることは難しくなり、次第に海外領土を獲得することが難しくなりはじめたのです

奴隷が繁栄の基になっていることには限界がくる、人間は奴隷にして扱うとういことはできなくなる、それがやがてその国すら危うくして滅亡させる、ローマでは自国民が戦うことなく外国人の傭兵に頼りやがて滅んでゆく
この奴隷問題はヨーロッパに歴史的にあり黒人を奴隷としてアメリカで使うことによりそれが後の災いとなったのである。
スラブ民族とかがあるがそさはslaveであり奴隷のことだった、奴隷民族として見られていたのである。
アメリカの移民問題もメキシコからの大量の移民でもやがてアメリカがヒスパニック系なしではありえなくなり白人はもう人口的にも半分以下になり支配層も変わらざるをえなくなる

移民の是非を考えるとき移民も人間であり安価な労働力として奴隷のように使えないことである。相手は働くロボットではないからである。
結局こういう歴史があるとき移民に頼るときそれは国を滅ぼす結果にもなる
ただ世界史を見れば人間の歴史は強壮な民族が勝ち残り弱い民族は国は滅んでゆくから
移民に頼るときすでにその国は衰退しているのかともなる
ヨーロッパでもイスラム系にとって変わられるとかアメリカでもヒスパニック系に変わるとかなる、中国でも漢民族がなお中核として生き残っているが多国籍国家である。
だから遊牧民とかが絶えず侵入してモンゴルのようにジンギスハーンのような大帝国が生まれるのである。
日本ではそういう外国人の侵入が海に囲まれてないから民族として国としてこれまで維持されてきたのである。それが強みでもあり弱みにもなる

いづれにしろ人手不足が深刻になるときそれがいい面と悪い面に働く、どうしても国力は衰退する、でも会社では人手確保のために働く側にたたざるをえなくなる、働きやすい環境を作り人を呼び込む、働く方も会社に選ばれるのではなく働く方が選ぶのである。
そうなると労働の質が重視される、ただ賃金だけではない、生きがいを追及するということにもなる、これは今までにない労働の価値が生まれてくる
それはいいことなのである。労働の質を高める、今までは物でも大量生産であればいいがこれからは物の質を高めるようになっているのと同じである。

そして少子高齢化とかでも労働力が不足するときAI化が促進されることになる
家事でも戦前は中流階級でも二人も女中を雇っていたとかあった
それだけ家事のしめる仕事の割合が大きかった、洗濯するのにも洗濯板でごしごし洗っていたのだからその手間は並大抵のものではない、ご飯を炊くのにも竈(かまど)でしていたこれは薪をくべて煙もでるから汚れるし手間である。
家事の労働力が時間的に大きく他のことができないとなる
今は家事が電化したのと外が買ってまかなうので一人暮らしは困らないのである。
自分は全部家事一人でしている、お手伝いさんは皿二三枚洗って終わりである
後はなんにもしないのである。だからその人はお手伝いさんとはいえないのである。
時間にして五分もかからないからである。
そしてあとは全部自分でしている、でも時間があるから知的な創造的なことも追及できるのである。

要するにAI化やロボット化は時代の要請で不可欠なのである。移民だと問題が起きるし
人を雇うことは会社にとってコストがかかりすぎる、すると自動化、AI化、ロボット化は不可欠なのである。ロボットは人間のように文句を不満を言わないからである。
人間はともかくきりなく不満があり欲がある、ロボットの文句を言わずやってくれることはない、必ず不満があり要求だけが大きくなるのが人間なのである。
それは移民でも同じなのだ、色が違っていても人間だからである。

だから今や自動化、AI化は不可欠である。そうすれば移民を入れなくてもすむ、そして
人間が雇われなくなり失業するということも確かに過渡的には起きてくる
でもそれが人間の歴史だった、技術革新はとめることができない
そして人間の働き方も変わるのである。労働の質を求めるようになる
ロボットのような仕事はしなくてもいいとなる、すると人間的なものがロボットにはAI化してもできないより人間的なものが追及できる社会になる

芸術などはAI化してもできないから高い評価を得るようになる、何か他に医者でもAI化すると人間とのコミニーケーションにたけたものや情がある医者とか看護師でも介護師でも要求されて給料も高くなったりするかもしれない、価値観が変わるのである。
人間の歴史では常に価値観は変わってきた
そうなると教育すら変わらざるをえない、今までのような教育の仕方では人間の創造性が発揮されないからである。
人間はより創造的に感性をみがくとか庶民レベルでも情がある人選ばれる、価値ある人となるときそれはいいことなのである。
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2017年06月29日

コンビニの立ち読み(新聞)を注意された (コンビニやスーパーは御得意(おとくい)さんにならない)


コンビニの立ち読み(新聞)を注意された


(コンビニやスーパーは御得意(おとくい)さんにならない)


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この人は時々新聞を買っている

一カ月の間に10回かっているときもあった

今は立ち読みしているが買うかもしれない

だから注意をしない方が良いかもしれない

なぜなら一回注意したら買わなくなるから

こういうふうに継続した見方ができないのがコンビニでありスーパーなどである

この「立ち読みお断り」システム、かえって売り上げダウンになっていませんか。

立ち読みさせろ」って言ってるのではありません。買う前にすでに買ってある本と重複してしまわないかどうか(単なる増刷版だったり、単行本→文庫化だったり)チェックしたいのです。

コンビニより先行して立ち読みをお断りを全面に出したことで売り上げが上がりました。


大体この店の雑誌コーナーには立ち読みはご遠慮くださいという注意書きもなかったんや
なのにこのクソ店員にわしの立ち読みを妨害する権利があるんかいな!
わしは客はやぞ、客が居心地よく買い物出来るようにするのが店員の役目やろうが!


コンビニでもスーパーでも量販店でも問題になるのはおとくいさんとか常連客とかになれないことにあるのだろう。ただ人は物を買う人でありその人がいくら買ってもおとくいさんではない特別の人ではない、ただ多く買えばそれで商品券などがもらえるとかだけである。

人間の歴史をみれるとき言葉を調べるといい

客というときcustumerでありカスタムは習慣のことである。習慣のように常時通ってくる人である。そういう人が客なのである。

前に十年間コンビニに通ってもパン一つ間違ってボケットに入れた犯罪者扱いにされたことがあった、つまりコンビニとかでもスーパーでも電気量販店でもお得意さんになることがない、ただ電気量販店ではカードでその人がどれだけ店から買っているかわかるから多くかっていると違った目で見るかもしれない

今日はセブンエレブンで新聞を日刊現代と日刊フジとかを立ち読みして注意された
新聞は読むのは禁止されているみたいだ、でも新聞でもどんな記事があるのかと見ることがある、自分は結構買っている、ニュース関係に興味があるし自分もプログで書いているからだ。今日は卵とパンも買っていたから何も買わないわけではなかった
新聞に関してはローソンでも注意されたから禁止されているのかもしれない。
ただ自分は時々買っているから買わないということはないのだ
その日によって記事を見て買っているのである。

何かこういう問題は現代の商店の問題がある、つまりいくら買ってもお得意さにならないコンビニでも外部の人がくるしコンビニの店員も変わる、でも田舎だと同じ人がいる
その人は前にもみかけたのである。
現代は今までの社会を見直す時代に来ているのだろう。
確かに便利なものを追求してきたしそれはそれでいいものであった
でもそこにも何か足りないものを感じるようになった、車社会も飽和点に達したとき車社会で失ったもの自覚するようになった。
人間社会というのは商売でも同じ形態がつづかないという
それはなぜなのか?人間の求めるものが時代によって違ってくるからだろ
一時代はそれで良かったのだがまた何か欠けたものを意識して見直される
豊かになれば便利なものを安いものだけを追求しても売れないとかなってくる

自分が新聞の立ち読みは禁止にしろ感じたことは一応時々新聞でも買っている
するとその人が何を買っているかを量販店のように見れるといいのである。
カードだとスーパーでもコンビニでも何を買ったとか買った履歴が出てきてわかる
それは通販ではしている、何を買ったかを履歴でわかりそしてその人にあったものをすすめる、でもこれもあくまでも対面ではない
ある人はしょっちゅうキクチスーパーに対して文句を言っている
店員の対応が良くないことをしきりに言うのである。
シシドスーパはいいといつでも言っている、よほどキクチスーパーの対応に不満だったのである。別に自分はそんなものだと思っているから感じない
女性は細かいことにこだわるからそうなるのかもしれない
でもこれもいくら買ってもお得さんにならないということに問題があった
店員にとってお得意さんなどない、店員もまた変わりやすいからである。
ただクレマーというのもいて店員だけ悪いということない場合がある
その人はクレマーの面もあったからだ

それで確かに武田邦彦氏の言うシャッター通りが回復するという、メーカーが量販店と同じ値段で店に売らせるというのだ、そうなると個人的にサービスを受けられる方がいいという人がでてくる、特に老人にはいいのである、老人は電気製品でも使い方などいろいろわからなくなっている、すると説明されたりどういうものを買ったらいいかなど相談できるからである、これもまた時代の変化でそうなってくる
スーパー、コンビニ、量販店などで欠けていたものが補えるからだ
そもそもスーパー、コンビニ、量販店でもいつまで続くとは限らないという人もいる
また新たなものに変わってゆく、その一つが通販が盛んになったことである。
またそれと同時に小さな個人商店も復活することもありうる、それは前のようなものではなく新たなものとなって復活する

ただ雑誌が見れないようにして紐でしばっているとかえって売れたというのも不思議である。あのようになれば自分は買わない、自分が買うときはどういう記事なのか、ある程度知らないと買わないからだ、それは本でもなんでもそうである。
田から新聞でも今日はどんな記事があるのかと買う時買わない時がある
ただ今回新聞は立ち読みが注意されたからもう買うか買わないとなると買わないとなる
別に買わなくてもいい方が多かったからそうなる
ともかく問題はその人がどういう客なのか10年間通っても関係ない、おとくいさんにカスタマーになれないことが問題にある
それは店の方でも客になる方でもいいとならない、双方にとって良くない
ただこれも時代でありそういう売る方と買う方両方に見直すものが生まれてきたのである
個人の仕様に従って作られる

(made according to the specifications of an individual)

これからの売る方と買う方の関係はこうなってゆくのではないか?
個々人に対応する売り方である。個々人の求めるものが多様化したからである。
例えは食堂に毎日のようにゆくとする、すると同じメニューではあきる、それで今日はあたのために一品違ったものをそえましたとかなるとうれしい、またあなたの要望によりつくりますとかなるとうれしい
ただそうなると作る方もめんどうになる、金もかかるとなるからむずかしい面はある
都会だといろいろオカズを用意するがそういう需要が田舎にはない
人が少ないからないのである。都会では老人様の食堂もできているからだ。

そうした多様性に答えるものとしてキーワードで調べるインターネットの情報システムに移行したというのもそうである。
実際はやはりインターネットで日刊新聞でも読む時代なのだろう。
ただそうなると月いくらと払わねばならない、他にも読むものがあるから金がかかりすぎるのか問題なのである。それでいくつもの雑誌を読めるというサービスが生まれたのも時代である。
ともかく時代は常に変わっているのである。その変化に対応できないと商売でも何でもうまくいかなくなる、その変化をなかなか読めないのである
だからいつまでも今までの商売の仕方が変わらないということはないのである。

シャッター通りの大変革!(武田邦彦プログ)
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2017年06月28日

金庫が開き証書がなくなった謎 (泥棒のプロが入って来たのか?)


金庫が開き証書がなくなった謎


(泥棒のプロが入って来たのか?)


証書をとりごそうとしたらなかった、それはいつもの場所に置いてあいていたはずである他に置かない、何枚かあった、銀行の人が来たので出そうとしたがなくなっていた
それがなぜ忘れたのではないと自分で思ったのはダイヤル式の金庫が空いていたのであるダイヤル式の金庫は暗唱番号がわかなくなり閉めたままにしていたからである。
それを使わないで失敗したこともあった、そもそもダイヤル式の金庫は開けられないはずである、でもプロになれば開けられるのかもしれない、鍵屋だとできる
そういう機械があるからだ、ただその金庫には一銭の金も入っていなかった、書類もなにも入っていない空の金庫だった
今回は内部のものではない、第一金庫は開けられないからである。
外部のものだとすると物騒になっているとなる、ただ夜に入って来たとは思えない
それでも二階に寝ているとわからないということはある
証書は二階に置いていた、だからこれも謎である。どこか別な所に置いたとういことありうる
何か一人暮らしは物騒になる、不用心になる

別に今回は何の被害もない、小銭も盗まれてもいない、証書はめんどうでも再発行できるし通帳もあり印鑑もある、実際の被害はなにもなかった
だからなんとも不思議だとなる、第一証書をもっていても金を引き出すことは不可能だからである。ではどこか別な所に置いたのか?
そう思えないのはどうして金庫が開いてのかということである。
それで誰かかが物色したのかと思った
内部のものではないというときとてもダイヤル式の金庫は開けられないからである。

ただ一回も外には出かけていない、留守にしたことは昼間にあったが一日も外に泊まったりはしない、その間に戸を開け忘れたことはあった
それで入り安い面はあったがそこも謎である。
謎ではあるがプロが入ってきたとしか思えないのだ

別に被害がないから騒ぐこともない、ただ結局金は親族でもどんな人でも信用してまかせられないというのは本当だろう。

税理士も、親戚も旦那も妻も子供も信用してはいけない

「だまされるな」「警戒せよ」「用心せよ「「近寄って来た人間は信用するな」

税金恐怖政治が資産家を追い詰める(副島隆彦)

これが金に関してはこうなる、妻子でも信用できないのである。
タンス預金しているといつのまになくなるというとき家の者が使っているのである。
それが金というものなのである。だから万全の安全対策が必要である。
その安全対策をしていない人が悪いのである。自己責任になってしまうのである。
会社でも銀行だって横領事件が必ずある、だからこそ管理をする、調査することが義務なのである。信用するしないの問題ではないのである。

金に関しては人は信用できない、これは別に人を信用しないということではない、金がかかわるといくら信用ある人間でも別だと割り切るべきなのである。
いくら信用したって金に関してはそういうことが起きるからだ
今のように格差社会とか貧乏社会になると常に金は危険なものになる
これは覚悟してなけれはならない、副島氏も一千六百万相当が盗まれた
一千万くらい手元に置けと講演していたというから馬鹿だとなった
それも自分で経験している、タンス預金はするべきではない
盗難は巧妙になっている、仏壇の下に隠してもプロはわかる

そしてこんな有名な人でも警察はなにもしてくれなかったのである。本当に警察は何もしない、それが現実である。有名人でもそうなのだから普通の人は相手にもされない
そして昭和恐慌のとき(昭和5-8年)の時ものすごと泥棒が増えた、電気を夜もつけぱなしにしていたという、今もそういう時代にもどりつつあるというのは本当だろう
困窮している人たちが回りに増えれば必然的にそうなるのだ。
資産家にとっても格差社会や貧困化する社会はいいものではないのだ。
安心して寝ることすらできなくなるからだ。
資産家が高い塀で囲んでいるのもそうである。もう戦国時代のように要塞化でもしないと財産も守れないともなる、田舎でも困窮している人はいるし増えてくる

今は田舎も都会も同じようになっている、金に振り回されているのは同じだからである。資産家と小金もちは違う、この人は資産家だから被害も大きくなり不安も増大してゆく
監視カメラから金庫でも特大のものを用意するとか守るために苦労する
外国の資産家は警備員を雇っているからそうなる、日本ではいろいろなハイテクでも何でも利用して守るとなる
自分も今度は銀行の貸し金庫を利用することにした、いちいち出すのがめんどうでしなかった、なんとか整理できたから利用するようにする、金は妻子にもまかせることができないというとき別に一人暮らしだからではない、みんなそうなのである。
それが金というものなのである。

いづれにしろ自分は金の扱いとかわからないし大金を使うとかできない、そういう経験がないからだ、何か経験がないことをするのはめんどうなのである。
必ず失敗する、大金を使い慣れていなければ大金をもつと失敗することがある
日頃の習慣でそうなっているのだ。習慣の力は大きいのである。
いくら金が入ってたとしても金持ちのような生活はできないのである。
自分は資産家でもなんでもない、遺産でちょっと恵まれたというだけである。
でももっと困窮している人が増えていることで安心できない社会になったのである。

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副島氏


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責任は否が応でもとらされるのが人間 (金の多寡で責任の度合いも決まる資本主義社会)


責任は否が応でもとらされるのが人間

(金の多寡で責任の度合いも決まる資本主義社会)

●否が応でも」で、承知不承知に関わらず、何が何でも、という意味に用いられる

仕事や人間関係にトラブルが生じると、必ずといっていいほど始まるのが「責任の押し付け合い」です。誰がミスをしたのか、そもそも誰が責任をとるべきなのか、といったやりとりを見ると「責任なんて、背負いたくない」と思ってしまいますね。

自分が一度でもミスしてしまった場合、それがずっと自分の看護師としての人生についてまわります


ゴミみたいな給料で責任感持たせられてたまるかよ 
経営者が責任感の欠片も持ってないってのに


非正規は責任感が無い奴が多いよ 
実際、責任が無いからね 
要は投げやりなのよ

責任取らされたりするのが嫌で非正規選んでる人多いよ

非正規に責任はない 
正社員じゃないのだから会社の将来を考える必要もない 
やる気いらない、対価を稼ぐだけ 

派遣社員には責任感がない 
仕事に誇りを持って、その道を極める 
そういう日本人らしい労働姿勢こそが日本の誇りなんだよ 
責任感のない派遣社員増やしたの誰だよ

非正規は責任感ないっていうより、信用が出来ないから責任のある仕事は任されない。 
非正規採用である時点で会社から一線引かれてることに早く気付こう。

労働者側から見れば責任感やる気は対価に見合わないだろ。それがほしければ相当の対価を出せよ。



看護師とか医者はやはり厳しい、ミスを許されない職業だからそうなる
ミスしたら患者が死ぬこともあるから厳しいとなる
そのミスが一生つきまとうとなるのも厳しい
あの人はだめな人なのよとされてしまう。
それだけ責任をもたされている仕事だから待遇もそれなりのものになる


職業に貴賤はないというけどやはりそうして責任のある仕事と責任のない仕事に分けられる、掃除する人は多少汚れが残ってもそれが生死にはつながらないからだ
建築関係などでも手抜きしたりしたら本当は地震の時その結果が現れる
それは命にかかわってくる、タカタのエアバッグなどでもそうである。
その責任が問われて一兆円も損失となり倒産するようにもなる

例えば商品でも野菜でも安いならそんなものだろうとなる、高ければいいものでなければならない、電気製品でも三万のノートパソコンを通販で買ったけど壊れた、するとその値段だからそんなものだとなる、これが十万だったらあきらめることもできない
十万の責任がその商品にはあるとなるのが資本主義社会なのである。
値段によって責任の度合いが決められているのである。
家だって安ければそんなものだろうとなる、責任も問うこともできない
そのくらいしか払っていないのだからとなる

だから責任のある仕事にはそれ相応の地位と給料があってもしかたがないとなる
そうしないと本当はそんな重い責任の仕事を引き受けないともなる
非正規はそんな重い責任はとらないだろうしまかせられないともなる

ただ結局誰も責任から逃れられないようになっている、責任はまたカルマなのである。
その人が作り出したカルマなのである。そのカルマを果たすことが強いられる
そのカルマというときいろいろなものがある。
借金したということはすでにカルマを作ったことでありそれを他人に肩代わりできない
その人の家族のカルマとなってゆく、例えば子供をもつ人は持つ人で責任が生まれカルマをもつ、では持たない人は持たない人でカルマをもつ、身寄りがないとなるとそれも経験したように悲惨なことになる、それもカルマだった
ニートとか非正規とか責任ないからいいとなるが後で責任をとらされる
社会的に優遇されないし下流老人の最低限で生きていかなければならないとかなる
また金があっても身寄りがないとかなり苦しむ

要するに人間は生まれたことはカルマを背負うことなのである。生まれたこと自体責任を負わされているのである。子供が泣いて生まれてくるというときそのカルマを背負って生まれるからだともなる、
日本の国土に生まれたものは日本の国土のカルマを背負う、地震とか津浪が来るのもカルマだった、だからこいういう国土のカルマに原発は作るべきではなかった。

人間は責任をもてと言ってももちきれないこともある、裁判官などがそうである。
人が人を裁けるかとなったら裁けない、人は裁くなと神が言う時そうである。
それはあまりにも責任が重すぎるからである。
人を裁けるのは神しかないからそんな重い責任を負うことはできないのである。
最終的に責任をもっているのは神だともなる
なぜなら神は全能だから責任をもちうるからである。
人間は全能ではないから必ずミスがあり過ちがあるから責任がもちえないのである。

だから原発の「安全神話」などももろくも崩れ去ったのである。
そして誰も責任をとらないが責任を地元の住民は責任をとらされているのである。
責任は別に当人がとらされるとは限らない、事業に失敗すると家族でも親戚でも回りにその責任が及んでくるのである。だから事業は慎重にすべきであり回りの同意を得てやれともなる、失敗したら家族にその責任が回り親戚にも回ってくるからだ
それは原発ともにていたのである。
だから土地の所有者と県で許可するようなことをするべきではなかった
広範囲な住民との話し合いで対話してするべきものだったのである。
結果的には今や浪江の人でも他でも避難した人が住んでいるように広範囲なものとして
責任がとらされている、原発を作った町だけの問題ではなくなったからである。
もしそこだけで責任がとれればいいが回りにも波及しているからである。

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2017年06月23日

車社会を見直すとき (車は効率的な乗り物ではないー車社会の異常性に気づけ)


車社会を見直すとき

(車は効率的な乗り物ではないー車社会の異常性に気づけ)
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車を考えるとき車をもっていない人は車のことがわからないのである。
それで原町のモスバーガーが車のない人も入れることが二十年間わからずに大失敗だったいつも喫茶店を探していたがあの辺になかったがあったのである。
こういうことは車がない人にありうることなのだ、車社会になっているとき車のことがわからないのである。
だから車社会で車をもたない人は弱者になり一段と下のクラスに見られる、車もない貧乏なのかとみられる、そして金持ちは車の善し悪しで判断される、いい車をもっている人は金持ちである。
この辺で原発避難者は多額の補償金をもらった人がいてそういう人はいい車を買ったりしたからわかり反発を受けたのである。

車をもっていない人は車が社会でどう活用されているわからないのである。
ただ交通というとき鉄道が全盛の時代がありバスも活用されていた時代があり車社会になったのである。
車がなぜこれほど普及したのかそれは家からすぐに乗れて行動範囲が広がるからである。ただ車を見るとき車で見落としているのは盲点は車は空間占有率が高いことなのである。一軒車は小さいが意外と場所をとる、車は一台に一人しか乗らないことが多い
すると50人乗って移動するとどうなるか、50代の車が連なり百人になると百台も連なるのである。百台の車がつらなるとき道路をそれだけの場所をとる
だから渋滞にもなる、それで津浪のとき車が渋滞して被害になったのもわかる

誰でも車を日常的に使っていると何かあったとき車をまず利用しようとする、それは習慣なのである。自転車を足としている人は自転車を利用しようとするのである。
車は津浪から逃れるのにいいとみんな思っていた
ところが早いから逃げられると思ったが渋滞になって車が動けなくなったのである。
それは車がその時一度に百人も逃げるというとき百台にもなるからである。
それは道路を埋めて渋滞になったのである。
車は場所をとる乗り物なのである。例えは乗り物でもバイクとか自転車とかなるとそれほど場所をとらないのである。自転車だったら百台置けるところを車だと十台くらいしかおけないのである。それだけ場所をとるのが車である。
だから歩いて生活していた通りがシャッター通りになったりしたのは車社会になったからである。駐車するスペースがとれないからである。
道にとめて買物しているが危険にもなるからだ。

車社会を見直すというとき、車をなくすということではない、お前は電気もなにもない江戸時代に帰れとかいうとき電気をなくすことではない、車をなくすことではない
電車とかバスでももっと活用して車を減らすということである。
車は実際はエネルギー効率が相当に悪いし二酸化炭素も出している
エコな乗り物ではない、そして金がかかるということである。
車をもたないと生涯で二千万くらいかかるとも言われる
自分は車をもたなかったからそれだけたまったのかともなる
車に金がかかりそれで貧困化している日本では車をもつことは苦しくなっている
皮肉なことは都会は車なくても電車があるから暮らせる、田舎は車がないと暮らせないという矛盾がある、田舎では車は一人一台もっているのも贅沢だとなる

また高齢化社会で運転できなくる人が増えてくる、すると社会的弱者になり買物すらできなくなる、そういう買物難民がすでに増えている
車社会だから近くに店がない、みんな遠くにスーパーなどを作ったからである。
それも車社会が作り出したものなのである。
それが高齢化社会になったとき不利なものとして働くようになった。
高齢化社会はスロー社会だと暮らしやすい

盲人が電車に乗るのは停車時間が一分とか短いからである。それだけ時間も効率化したのはいいが障害者にとってはそのスピードに合わせられないのである。
それは高齢化社会になるとそうしたスピードに合わせることが苦痛になるし事故にもなる車社会が見直さなければならないというとき社会を歪(いびつ)にしてしまったことがあるからだ。街の中心部がシャッター通りになったり街としての機能を失ったとかである。
手押し車で買物も苦痛だという老人が街中にいた、近くに店がないからである。
だから高齢化社会は車社会を見直すのにはいいのである。
それは老人だけではないみんなにとって住み安くもなるのである。

例えば広域化社会とかグローバル社会とかも社会を歪にしてしまった。
そんなに遠くと関係して生活するということがいいことなのかどうかである。
基本的なものは地元でまかなうというのが人間的な生活になるからだ
そして足りないものは補うのがいいのである。
外部からのもので買ってばかりいることは豊かなことではない
ただそうはいっても矛盾しているのは自分は買物は地元の店ではしない
それは買物が毎日結構手間だからである。いくつもの店を回るのが手間になるからだ。
だからそういう矛盾は常にある。

車の一番の問題は何かというときそれが場所をとる、空間を占有する率が高い、実際に道路を毎日埋めて走っているのをみればわかる、それも日常の風景だけどよくよく考えてみれば異常な風景にもなる、車がない時代の人が見たらこれはなんなんだとなる
正常とか異常の感覚はとにかく慣れてしまえばそれが正常なのである。
何か異常と思えるのも社会に存在して慣れてしまえばそれが正常になるのだ。
その異常性に人間は気づかなくなるのだ。
車があって当然じゃないか、何を馬鹿言っているんだと実際なっているからだ。
車社会が正常なものであり車がないことは異常なのである。
戦争ばかりしていたら戦争状態が正常になり戦争がないことが異常にもなる

現代に何が正常なのか異常なのかわからなくなっている
それで異常なものにたやすく席巻されるのである。
それがカルト宗教団体とかであり他にも様々な異常なことがあっても気づかないのである車社会を見直すというときそういう異常性があるんだということを気づかない
車がこれだけあふれて空間を占有して金がかかりエネルギーを使い効率も悪いということを考えないのである。

この辺では原発事故で故郷が捨てられて空家だらけになった、その時異常の世界が映画のようにな世界になった、そして今までありふれたものが見直された
田舎の農家に通じる一本の道がアットホームに人のぬくもりを感じたというのもそうである、そんなの当たり前じゃないかとなるけど現実に人が住んでいない家がどうなるか
その異常な世界を見たとき今まであったありふれたものの価値が見直された
そのありふれたものの価値を見いだしていなかったからだ。

原発も異常なものだったが異常と認識できなかった、科学の時代に原子力があるのが普通である、先進国なら当然だとなっていた。だから原発が日本でこれだけ増えて危機感も感じないでいたのである。
人間は異常性に気づかないのである。車があるのは当然であり車がない社会は考えられない、でも車社会はもう飽和状態である、何か別な交通手段、今まである鉄道でも見直すときなことは確かである。路面電車などが見直されたのは実際に運行するようになったのはそのためである。ただそれも都会として規模が大きくないとできない
規模の小さい市町村では交通をとうするかが課題になっている
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2017年06月21日

格差社会で金持ちは日本に住めなくなる (金しか働くモチベーションがない時代の恐怖)


格差社会で金持ちは日本に住めなくなる


(金しか働くモチベーションがない時代の恐怖)


真面目に質の高い接客をしてほしいなら、バイトを正社員に変えてくれ!と要望するのが多分1番効果があると思います


バイトなんだから責任が重いものはさせるなとか質の高いサービスをさせてくれるなとか激しい労働はお断りだとか言える、賃金分しか働かないとなる、こんな賃金で働くの馬鹿らしいとなるのも当然である。
モチベーションがもてないのである。そういう人は社会に忠誠を尽くせない、ロイヤルティとか忠誠心は簡単に作れない、だから江戸時代とか戦国時代であれ主君に仕える侍がありえたのは今になるとうらやましいとなる
なぜなら主君とともに生死を共にするまでになっていたからである。
忠義とかの武士の道徳も生まれたからである。

今はそれだけの忠誠心を会社であれどこであれ得られない、ただ金で雇われ金で人を使い金が縁の切れ目で分かれてゆくだけの関係しかないからである。
人間のそうした強固な絆がどこから生まれたのか?それは経済的なものだけの関係ではなくなっていたからである。
そんな人間関係が現代では生まれようがないことを見ればわかる
正社員ではなくアルバイトとか派遣とか増えてくると余計にそうである。
派遣というのはまさに一時的に派遣される、時給でいくつもの会社に派遣されるだけでありその見返りは賃金しかないのである
派遣にはまたキャリアをつけることもできない、江戸時代の職人とかとも違う。
だから働くモチベーションがもてないのである。
ただ賃金だけがモチベーションになっている
もちろん資本主義社会ではみんな奴隷なんだよというとき労働は強いられたものでありみんなしたくないのである。

だから人を雇うことは特に家の中に入れることほど怖いことはない
その家に尽くすということなど微塵もない、ただ金が欲しいというだけである。
それで金をくれと来て家捜して金を奪うことも平気でされたからである。
今の時代働くモチベーションが金しかない、すると金のある者から奪うというのが一番効率的になるのである。
時代劇でも盗賊が強盗に入るために女性を女中として「引き込み女」として働かせて家に導かせるのが常套の手段である。
推理小説で家政婦が犯罪にかかわるのが多いがそれはその家の内情が詳しくわかるからである。家族の一員のようになるのが家政婦だからである。
だからこそ危険度が普通の会社で働く人より高くなるのである。
その引き込み女は女中してもただその家から盗むということしかないのである。

つくづくそういうことを実際に経験したからわかる、雇うにしてもそこには金しかモチベーションがないなら金持ちの家から盗むのが一番てっとりばやいのである。
なぜそうなったかというと働くモチベーションが現代では金しかないからである。
人間関係は家族意外は金でしか作れないとなまでなっている
それは親戚でも血縁でもそうだというとき金に関してはそれだけ厳しいものとして扱わざるをえないのが現代である。

税理士も、親戚も旦那も妻も子供も信用してはいけない

「だまされるな」「警戒せよ」「用心せよ「「近寄って来た人間は信用するな」

税金恐怖政治が資産家を追い詰める(副島隆彦)

こういう世界に生きることはこの世が金持ちでも地獄になる、心を許せる人もいなくなるからだ。家族さえそうなると金をもっていても安心できない、常に 疑心暗鬼で生きた心地もなくなる、そんな社会に生きたいと思うだろうか?

その人は毎日家で皿二三枚洗うのも嫌なのである。賃金は別にそれだけだったらわずかでいいのだか自分にしても三倍かくら払っている、でもその人は極力働かないですまそうとしている、家族だったらそうはならない、現実に息子がいてそのためには朝晩ご飯を作って世話しているからだ。その息子は働いていても金はそれほど出していないのである。
でも息子のためならそうして朝晩ご飯を作ってやっているのである。
それは自分もずっと親にそうしてもらっていたから今までは感じなかった
今やいかに皿に二三枚洗ってもらうことにさえ苦労しているか?
要するに自分のために何かしてやるという人はいなくなったのである。
だから皿二三枚洗ってもらうことなど今は必要ないからしてもらわなくてもいいのである
働くというときどうして働くのか働かせるのか?

●金のためだけ

●解雇される怖のため

●ミッション(使命)のため

●事故実現のため(work-作品の完成のため)

働くというとき雇用者はいつもやめさせられるという権力をもっている、それが雇われる人の恐怖となりやめたいのだがしかたなく働くとなる、それがブラック会社に多い
何か人間の弱みをつかんで働かせる、それはまさに恐怖政治とにている
人間を支配するのは恐怖を使う、マキャベリズム的手法である。
これはカルト宗教の支配でもそうである。宗教によって恐怖を与えるのである。
地獄に落ちるとかなんとか脅してやめさせないようにする、でもまたカルト宗教の場合は自らもその恐怖に呪縛されているのである。カルト宗教は地獄とか罰の恐怖しか与えられないのである。幹部も宗教に呪縛されているのだ。地獄と罰を恐れているのである。
精神的にも奴隷人間化しているのである。
なぜ創価が権謀術数の三国志を教科書としているのか?
宗教と何の関係があるのだろうとなる、そして世界平和のためにとか言っているのだから矛盾しているけどそれがカルトなのである。
権力とるために中国は何千年もそうしてきたからそれに学んでいるとなる、中国人はそれだけ権謀術数にたけているのだ。
それはあまりにも苛烈な社会で生きてきたからそうなったのである。

結局働くというときミッションのためとか自己実現の労働があまりにも少なすぎることなのだ。WORK(作品)がない。江戸時代の職人はWORKしていたが今はただ賃金のために金のためにだけ働いている、何かを消費するために働いている、それが労働のモラルを荒廃させているのである。
恐怖で働かせられているのもまさに奴隷だからである。
資本主義とか自由主義とか民主主義でもそこには必ず奴隷化するものがある
人間社会はいくら進歩した改革したとしてもそうなりやすいのである。
だからこの世は変わったようで一向に実際は変わらないのである。

前の親戚の人も事業に失敗したから要求するのは金であり借金だけだった
自分が病気とか介護で苦しんでいても関係ない、自分か困窮しているから他人のことなどどうでも良くなっていたのである。ただ金を欲しいということだけだった
だから荷物一つもつことさえ自分のために持つのを嫌がっていたのである。
それはみんなそうだった、金しかモチベーションがないからそうなる

もう一人の親戚の女性は自分の親に対して
おばちゃんは金があるんだから金にめんどうみてもらへ血相変えて去って行った
その女性は別に金に困っていない、金に恵まれたから何もしたくなかったのである。
金しかモチベーションがないというときどうなるのか?
例えば一人暮らしでも金しかもっていないとなると身寄りがないとかなるどうなるのか?
介護施設に入ってもモチベーションがないのだからすべて金になる
そこにはいたわりの気持ちもないのだから金をもらったとしてもその扱いはぞんざいになる、そういう人はこいつは金があるんだから奪ってやろうとも普通になる
なぜならモチベーションが金しかないからだ。
だからいくら金持ちでも今の資本主義社会では幸福になるとは言えないのである。
金持ちの親は必ず高額な施設に入れられるがそこで心のこもった介護はされないのである金で愛情とか心のこもったもてなしは受けられないのである。

現代が豊かでもみんなこんなふうに金だけすべてとなるとき不幸になっている
金持ちでも貧乏人でも不幸なのである。金持ちは金持ちで幸福は限らないのである。
回りを高い塀で囲んで泥棒から守ろうとしてもできない
日本では特にできない、狭い範囲で生活しているからできない
アメリカ辺りだと広いから黒人でも嫌なら近くに住まないとか棲み分けができているという、日本は国土が狭いからできない、特に田舎になったらもう徹底して平等を追求される金持ちは貧民に分けないと住んでいられないだろう。
そして今や格差社会になると金持ちはさらに危険になる
金持ちの家が貧民に破壊されることある、昔のように打ち壊しもある。
そういう時代になっているのだ。
太宰治の生家は高い煉瓦の塀を作り小作が暴動を起こすのを恐れていたのでそうなった
警官が警備員のようになっていた。今ならそうしていただろう。
つまりいくら金持ちでも田舎では安心して暮らせなかったのである

副島隆彦は千二百万盗まれてショックを受けたとあるがそれでも警察はとりあわなかった警察は殺人事件とか重要なものしか扱わない、一千万盗まれても扱わない
だから今どれだけの人がそういう被害があっても泣き寝入りしているかわからない時代である。わずかの百円盗んでも刑務所に入る人もいる
でもその何千倍なのかしらないけど多額の金を盗まれても罪は問われない時代になっている、盗まれ損なのが膨大になっているのだ。だまされた人もそうである。
警察は何もしない、そういう時代になっているのだ。

こういう時代はもう長く続かない、こうした資本主義も崩壊寸前なになっているのだ。
それは格差社会で決定的になる、暴動が起きたり打ち壊しになり金持ちも安心して住めなくなるからだ、金持ちも安閑としていられない社会だからこそ金持ちも格差があるのは当然だとか自己責任だとか言っていられない社会なのである。
なぜならそんなこと言っていると貧民の暴動が起きたりして財産を根こそぎ奪われたり殺されたりもする時代になっているからだ。
税金をとられるから海外で暮らせとかなんとか言っているけどそれも無駄である。
そんなことよりもう日本人を捨てる意外道はない
でも日本人として金儲けもできないし日本人として保護もされない覚悟はすべきである。もう日本では特別な金持ちの存在は許されなくなっているのだ。
小金持ちはなんとか貧民と暮らせるかもしらないけど五億円ももち資産まである人は一緒に生活できなくなる、非常に危険になる、命も保証できない時代になっているからだ。
それが貧困化した日本の実情なのである。

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2017年06月17日

付加価値の時代は新たな文化の時代 (フラワーアレンジメントから考える)


付加価値の時代は新たな文化の時代

(フラワーアレンジメントから考える)


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「姉妹」

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「清楚」


何やっても実際は簡単ではない、フラワーアレンジメントもただいろいろな花を挿せばいいと思っていたがそうでもなかった
それを知ったのはスーパーで売っていたすでにフラワーアレンジメントされたものだったそれは400円とか安くても作品として作られていて花束として売っていたのである。
それは簡単なようでもフラワーアレンジメントされていたのである。
それでそれを写真に加工してプログに出した

この花は結局ただ花を売っていただけではない、フラワーアレンジメントをしたのを売っていた、ということは花屋はそうしてフラワーアレンジメントして売ることが商売となるとき花を売るにしてもフラワーアレンジメントできないと売れないともなる
そうして結婚式と葬式のときは作って売っていることは確かである。

今回スーパーで買ったものは安いからそういうものではないと思った
ただ花をアトランダムに束ねただけかと思っていたのである。
でも良く見ると単純なのだがすでにフラワーアレンジメントとして作られていたのである。
フラワーアレンジメントは花が高いので金持ちでないとできない、ただ安いものでも売っているからそれでたりならいい、花をいろいろ買ってフラワーアレンジメントすると高くつくのである。
そして壺もフラワーアレンジメントの要素として欠かせない役割がある
写真をとると壺もとるから壺の役割が大きくなるのだ
壺によて印象が違ってくるのである。

これからの商売はただ花だったら花を売るだけでは売れない、単純なものでもフラワーアレンジメントされたものなら買うともなる
それは単純でもただ花を売っているのではない創作品だったのである。
そこに価値が生まれていたとなる
花があってそこに付加価値としてのフラワーアレンジメントがあるから価値があった

付加価値というときもともと機能的価値が基本にある、土器でもそれは物を入れるものとして機能性を追求する、でも今度は装飾性を追求する、それが縄文土器となった
機能性に付加価値を加えたのである。それが芸術だともなる
何でも最初は機能性を追求する、茶の湯でもそうである。茶碗はただお茶を飲むものでしかなかった、それが茶の湯に発展したのである。
それが人間的なことであり文化なのである。

つまりこれだけ物があふれると物としての道具としての機能性より付加価値があるものが求められる、なぜなら機能的な面は今度は機械化され自動化されるからである。
でもそうしても駅でメカニカルなものとヒューマンなものとして分けて見た
いくら機械化しても自動化してもそこにヒューマンなものが必要になる
そこに価値が生まれる、機械化すれば自動化すれば余計にヒューマンなものが価値が出てくる、ロボットには愛などは生まれようがない、ただ高度な知性は備えるようになる
でもヒューマンなものは必ず求められる、それが付加価値になる

要するに今は物があふれているから物だけ売っても売れない、そこに何でも付加価値が必要になる、それは芸術的なものとなる場合もあるしその他人間的なものとしてあることの価値が高まる、もてなしというときとても機械だけでロボットにはできないのである。
機械にロボットにできても人間にしかできないことがありその価値が高まるのである。

情報化時代というときこれも付加価値なのである。情報といっても無限である。
それがインターネットでキーワードでひけるとき情報の付加価値が生まれる
本の弱点はキーワードで関連したものを引用できないことなのだ。
情報のデーターベース化が必要になる、それは確かに個人的にもできるようになってはいる、蔵書もデーターベース化できる、だから知的な環境として自宅に図書館をもっていることにもなる、図書館は何か調べるのにもめんどうなのである。だから図書館に行かなくなったのである。図書館も飼料でもデーターベース化すれば調べやすいのである。

もう一つは物語性というのも価値がでてくる、例えばヨーロッパの修道院で作られた菓子が売っているというときそこで修道院のシスターが丹念に作ったものとして歴史を偲ぶのである。そういうことは日本でもある。その菓子は中世とかなると貧しいから貴重なものだった。そういう物語性はむずかしい歴史書を読むとういのではなく誰でも感じることができる、庶民的なものにもあるからだ、確か北海道のトラピスト修道院の菓子とかあるがヨーロッパだと中世からはじまっているからもし旅をしてその菓子を味わうとき歴史を偲ぶことができる、その中世の街にあってこそその菓子を食べたとき本当の価値を知るのである。
ただ自分はヨーロッパを旅してもそういうことはできなかった、旅はなかなかそういうことを知ることがむずかしいのである。
その土地の表面的なものだけを見て終わっているのである。

最近駅に興味をもってお茶の水という駅があり地名の由来を知るとなるほどなと思った。もともとは寺があり江戸城で殿様がその寺の井戸の水で茶の湯のために使ったことがその地名の起こりである。
するとそこから江戸時代が偲ばれる、水道の水ではない、井戸の水を使っていた。
そして茶の湯をたしなんでいたのである。その時江戸時代の感覚だと悠長な時間があった騒々しい時代ではない、ゆったりとして茶の湯をたしなんでいたのである。
その感覚はあまりにも今とはかけはなれいるから余計にそう思う
お茶の水駅でもそこは騒々しいとても茶の湯をイメージする場では今はないからだ。
でもその物語を知るとき江戸時代はまるで違ったものとしてあったのである。

殿様の茶の湯たしなむ江戸の町静かなる時のかつてありしも

江戸にはそういう悠長な時間があったとなる、それを偲ぶ物語があり付加価値が生まれるのである。




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2017年06月14日

メカニカルなものとヒューマンなもの (AI社会でもヒューマンなものが残る)


メカニカルなものとヒューマンなもの

(AI社会でもヒューマンなものが残る)


現代はなんでもmechanicalなもの機械化することが多い、人間にとって機械は欠かせないそれで今は本当に人間社会は全自動化を目指して人間は働かなくてもいい社会になる
それが本気であり夢物語でもなくなっている
その時人間は何をするのか?人間はいらなくなるのか?
そもそも人間とは何なのか?そういうことまで問われる時代となる

それを英語でmechanical comnicationとかmechanical workとかmechanical learning
とかmechanical responseとか前にmechanicalをつけるとわかりやすい
その反対がhuman comnication human work とかなるからである。

それを駅で考えると mechanical stationとhuman stationになる
なぜなら無人駅でも自動化しているからそこはall mechanical stationなのである。
人間はいないのである。これからの社会はそうなってゆく
鉄道はローカル線だともうからない、だから極力人間を雇わない、全自動化した方がいいとなる、それで実用的にできる、実際そうなっている駅が多くなっている

ところが今日の鹿島駅で報告したようにそこに人間的なものが必要になる
盲人が一人定期的に通っている、その人が乗るとき危険なのである。
それで導いてやる必要がある、それは機械にはできない、そのことで盲人団体が無人駅化に反対しているというのもわかる

駅で感じたことは人間は無人化してゆく、機械化してゆく、駅でもスマホを見ている人が多い、すると回りも機械化しているしそこにいる人間もスマホだけと会話しているとかなる、もう人間はいらないとなる
でもそうなるとどうなるのか?人間的なものがない駅は何かが欠けているとなる

それで中学生が近くにお菓子屋があったとき腹が減って食べたいということを言った
それは貧乏ではない、たまたま金をもっていなかったのである。
それで買えなかった、それで自分が買って食べさせてやった、それがヒューマンなことだったのである。
自動化して機械化したらそういうことはなくなる、ただ機械化して自動化した駅を機械的に通りすぎるだけになる
そこにその駅の印象は消失するのである。
人と人は会話も情もかわさなくなる、人間なんていらなくなる、そしてロボットが観光案内でもするようになる、それも必要だがやはりヒューマンなものがなくなるということはありえないのである。

ただこれは駅だけの話ではない、どこでもこういうことが起きてくる病院でも学校でも店屋でも日常的に起きてくる問題である。メカニカルなもの自動化するとヒューマンなものは何かとかえって問われるのである。
そしてそのヒューマンなものの価値が上がってくる
医者でもAI化して診断するときでも医者の価値はヒューマンな対応が問われる
それが何かというとき医者はもう病気に対して処方するより人間的な対応がより求められるから悪いとはならないしそういう適正がないとすると医者失格にもなる

そういうことはどこの職場でも起きてくる、今だってすでにメカニカルなものの中で働いている、それが高度な仕事と思われるものも機械化するからだ
すでに翻訳は機械翻訳を参考にして翻訳者は訂正しているのが仕事になっているのだ。
いくら機械化してもそこにまだ人間がかかわる余地が残るからだ。

でもそもそも人間的なものヒューマンなものは何かというとき明確ではない
例えば情報というとき情に報えるというとき情報はただ機械を通じて伝えられるものではない、情報はまさに人間の情を通じて与えられるものである。
ただ道を教えてもそうである。だからこそありがとうと言うのである。
機械にスマホになればそれもなくなる、人間はいらない、土地の人でも教えてもらう必要がない、そこにはもう人間の情は通わないとなる
そういう世界とは何なのか?殺伐とした世界となってしまうだろう。

別にAI化の前に機械化するということは何か人間的なものを奪われるのである。
車社会になると歩くということがなくなる、それで街はシャッター通りになった
歩くということが人間的に見えるというのもあまりにも機械化したからメカニカル化したからそう見えるようになったのである。歩くことはもっともヒューマンなこと人間的なことだからである。
歩いて旅した時代なら世は道連れとかなりそこに人間的な交流が生まれるが車では生まれないのである。ただ通りすぎてゆくだけだとなる

そもそも全自動化店でロボットがそこにいるだけの店に人は行くとしてもそれだけでは満足しない、それでかえって人間的な対応してくれるサービスをしてくれる店を求めるようになる、だからこれからの商売は自動化する機械化する店と人間的対応する店とに分かれる、いくら機械化しても人間的なものヒューマンなものを求めるからである。
かえってそういう店が繁盛するということにもなる
自動化した店は店として利用してもまた人間的な店も残るのである。
それはどういうものかわからないけどそういう商売はなくならないのである。
かえって機械化するとそういうものが歩くことが人間回復になるように求められるからである。

飲み食いするにしても人間はただ腹を満たすだけではない、そこで会話したりすることが人間的になる、だから何か一人暮らしだとそういう場を求めるようになる
ただ飲み食いするだけではものたりないのである。
そこに人間的なサービスがあればいいとなるのだ
これからの世の中は機械化するけどスシだって実際に回転寿司となるとそうなっている
でも何かそういうものでは腹を満たすだけで満たされないということもある
そこに人間的なものを求めるのが人間たる所以なのである。

家庭でもすでに家事は機械化している、一人暮らしても家事は困らないのである。
オカズは買えばいいし料理はめんどうでもそれも機械化してゆく
その時妻の役割は何になるのか?お手伝いさんとか今はいらないのである。
だから一体なぜ皿二三枚洗うのにも雇う必要もないのである。
それでも人間的なものが必要になる、より人間的なものの価値があがる
一人暮らしだと淋しいからやはり女性がいると安らぎがあるとかなる
いるだけでもいいとかもなっているのが一人暮らしなのである。
ロボットと対話しても人間の代わりにはならないからだ
そこで求められるのは家事をすることではなくなっているのだ。

ともかくこれからの経済は社会は機械化であれ自動化であれAI化であれさらにすすむ
でもその反面人間的なものがかえって強く求められるのである。
するとその人間的なものは何か問われる、人間的なものの価値がかえってあがる
すると機械的なものと人間的なものとの区別をして対応する必要出てくる
そこに価値観が変わるからだ、それにどう対応するか教育ですら変わらざるをえない、
それは悪い方ばかりになるとはならない、なぜなら人間的なものがかえって価値あることは悪い社会ではないからだ。
そういう人間的なものが一番欠けた社会で殺伐としたとなった社会だからである。



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2017年06月04日

量より質の時代へ (AI化で仕事の価値観が変わる)


量より質の時代へ

AI化で仕事の価値観が変わる


プログはコメントとかより訪問者とかページビュー数で決まる、数を集めたら評価になる、宣伝するにも効果ある、自分のサイトは最近あがってきている、10万ページビューとかなっている、ほとんどブックマークからでありこれだと常時読まれているとなる
ただ10万ページビューとかなると本当にプログでアクセスされるとなると大変である。
どうしても数をかせぐには大衆向きにすることになる
すると質は追求できなくなる、そもそも自分はアクセス数よりずっと読まれた人にも関心なく質を追求してきたのである。
だからむずかしくなってもそうしてきた

第一芸術とか宗教とか哲学が量を追求することはできない、ただニュースの解説とかなると量が必要になる、多くの人に読まれれば影響力が何でもでてくるからだ
それでマスコミは大衆向きに量を得るための報道をしてきた
結局は今は芸能人を集めて漫談しているだけの低俗番組化してかえって嫌われたのであるそういうもの一過性で終わる、本当のものを芸術でも創造すれば何世代にもわたって読まれ見られ音楽でも聞かれつづけるのである。
本当に価値あるものはそれだけ寿命が長い、ニュースとなるとその時その時で消えてゆくから不変的な価値とはならない、でもそのニュースを解説するとき人間の変わらぬ真実がありそれを書けばあとあとまで読まれることはある
ただ一過性に消えるものがあまりにも多いのである。


戦後は貧乏であり食べることが最大の問題であり衣食住が満たされることのために働いただから大量生産システムを作りともかく作れば売れるという時代だったのである。
そこではあまり質を追求していなかった、大量生産のための労働というとき労働の質も追求されない、それでもその時団塊の世代などは人数が多いから大量に人手も供給されてきたのである。その時あまり労働の質などは追求されなかったのである。
賃金を高くすることは追求されたが労働の質は追求されない

今になると労働することそのものの価値が追求されるようになった
一体自分の労働にどういう価値があるのかということである。
それで働く動機が賃金もあるが何か労働自体に満足する価値を求めている時代になる
だから趣味に時間を費やしたいという人が増えるのもそのためである。
理想的なのは趣味と労働が一致して収入になることである。遊びと労働も一致して収入になることである。
出世とか賃金だけではないもの、何か人生として充実する労働をしたいとなる

そもそもそういうことは別に今だけではない過去にもあった。
江戸時代の職人は質を追求していた、量ではない、一つのものを作るのにも質を追求して最高のものを作ろうとしていた、それで職人気質ヴ生まれたのである。
刀を作るにも精根こめて最高のものを作ろうとしていたのである
それは大量生産ではない、手作りでありその技を究めようとしていたのである。

人間の仕事はworkでありそれは作品の意味だからこれは東西の文明にかかわりなくそういうことはあった、作品を仕上げることが仕事なのである。
大量生産にはそういうことはなかった、大量に同じものを提供することが豊かになることだった、そういう時代は貧乏なときはやむをえていことがあった
でもこれからはそうした大量生産というのはなくなる、AI化によってそうした労働は機械やロボットやコンピュターがする、すると労働もそうした流れ作業的なロボットができるような仕事はなくなる、では人間はどういう労働をするのか?
それが今後問われてくることになる

それは教育などにも影響してくる、今までのような受験競争とかでいいのか、社会でこれから通用するのかとなる、労働の質が変わるというときそれがどうなるのか明確ではない

野村総合研究所によると、「芸術、歴史学・考古学、哲学・神学など抽象的な概念を整理創出するための知識が要求される職業」や「他者との協調や、他者の理解、説得、ネゴシエーション、サービス志向性が求められる職業」は、人工知能やロボットで置き換えるのが難しい職業になる

こういうことになるとすると暗記ばかりの受験のための勉強は役に立たなくなる
語学でも翻訳機械が飛躍的に進歩している、翻訳にも創造性が必要なのだが機械的に翻訳できる面ができるから変わってくる、ただ詩などはとても機械ではコンピュターでは翻訳できないだろう。そういう分野は以前として人間がすることになる
でも何かAI化というのは仕事でも機械にできないものとなると相当に高度なものになる
そこまで人類は進化しているかとなるとしていないだろう。
まず暇が多くなるとき一般的に何しているかとなるとギャンブルが多いことでもわかる
暇の有意義な過ごし方をしている人がどれだけいるのかとなる
これは高齢化社会の大きな問題になっているのだ。
なぜなら暇を有意義に過ごすことを訓練されていないからである。

質を追求するというときこれからあらゆる面で起きてくる、それは卑近な所でも起きてくる、料理でもそうである。料理となると実際はその材料が良くないといくら料理人の腕が良くても活かせない、ではその料理の材料を良くしようとしたら農家がやはりいいものを作らねばならない、そこにも質が求められているのである。
AI化機械化されることは人間の質を実際は追求することになる
人間にしかできないものが仕事として残る
それは介護分野とかでもそうである。そこにコミニケーションとか愛とかが必要になり追求される、それはサービスをする方にもされる方にもいいことなのである。

政治とか経済とかは高度成長時代ではGDPが指標になってきた、どれだけ生産量があるかでありその質は計られない、その量を増やすことが目標になってきた
カルト宗教団体でもそうである。ひたすら数さえふやして政治力、経済力をもち権力をもつことが目標である。
そもそも宗教とは本当は質の追求である、もともとそんなに数はいらないのである。
そんなに数を増やすとなると大衆化して低俗化する、それはマスコミが視聴率を稼ぐ方法になる、芸能人の漫談の場を提供するだけになる

ただAI化というのがどういうふうに影響するのかわかっていない、それは知能部門でも仕事が変わるからである。すでに翻訳部門では変わっている、まず翻訳者は機械翻訳してそれを直していることでもわかる
ビッグデーターでもAI化されて分析される、AI化がコンピュターが知能をもつということがわかりにくいのである。
ただこれからの時代はそうしたAI化に備える勉強も必要になる
それは仕事の質が変わるから今までのような仕事がなくなるからである。
それは高齢化社会というものにも影響しているのだ
高齢化社会というとき老人はもう人生は終わりだから関係ないともなるがそうでもない
高齢化社会は60で退職しても70でもそれからの人生の時間があることなのだ
するとそこで何か有意義な時間を過ごそうとするとそれに備えねばならない

それが今までの将棋とか碁とか何か老人の趣味も変わる、将棋でも碁でもすでにコンピュターが人間に勝ったというときもう将棋でいくら15歳くらいの天才が出ても驚かないのないのである。コンピュターが人間に勝ったという方が驚きなのである
そのソフトを作り出した人こそ将棋の人間の天才より驚きなのである。
第一将棋ソフトに勝てる素人はいないのである。将棋でもコンピュター相手にして勝てないのである。だから将棋がいくら天才が出ても驚かないのである。
それはもう計算されつくされた世界であり人間はコンピュターに負けているからだ
ビッグデーターをコンピュターは解析して買っているからである。

人間が進歩するというときやはり機械的な奴隷的な仕事はしたくない、手伝いさんでもそうである。その女性は皿洗いなどはしたくない、でも庭の手入れとか花を植えたりすること育てること野菜を作ることにははりきってしている
その方に生きがいを見いだしている、家事には見いだしていないのである。
第一家事は機械化しているからもう手伝いさんでも職業として必要ないのである。
そうして人間としてしたくないものはAI化して機械化する
では人間は何をするのか?それが問題になる、それは暇をどう有意義なものとして使うかということになりそれは人間の進歩だとなる



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2017年05月25日

「成熟社会」は高齢化社会で実現される (駐車場が通りにないことが致命的になっていた)


「成熟社会」は高齢化社会で実現される


駐車場が通りにないことが致命的になっていた


地方の商店街が人来ない一番の原因が駐車場が無いからだよ。 
店舗解体に助成出して駐車場増やせば少しはマシになる。

シャッター商店街が埋まるとはとても思えないし、駐車場もないから今更客も来ないだろう 
10年位前に田舎の中央通りにちょっとしたショッピングモールが出来たけど、はじめからほとんど客がいない状態だよw 
みんなイオンや郊外のバイパス通りの方に行ってるw

空き店舗潰して駐車場にすればいい

商店街の土地は近代的な店舗にする際には狭すぎるんわ 

ただ、重税果たして売却を推進しようとしても時間がかかるし、必ずしも土地統合に 
結びつくとは限らない 
隣接地を統合して店舗なり住宅なりを建てる場合に特例を設けるなどして土地の 
統合を推進した方が良いはず

シャッター通りは店舗併用住宅がほとんどだろ? 
だから固定資産税が大した事ない 
駐車場なんかにすると固定資産税が跳ね上がる

地方は車社会だから商店街の活性化は無理 
地歩の人間なんか競うように入口近くの駐車スペースを奪い合うからな 
たった数メートルすら歩くのを嫌がる

地方の商店街何かで出店するとしたら 
飲食店以外でどんな業種があるんだろうなぁ 
理髪店位しか思い付かんな



鹿島駅前の駐車場が狭いことを問題にしてきた、駅前は一軒の家具屋が閉じて理髪店が閉じ角の家の庇が破れているけど修繕していない、美観的にも良くない
ただトイレは新しくしてきれいにしている

要するに車社会になった結果としてこういうことが起きてきたのである。
車社会になると今までの通りはただ車が通りすぎる場所にすぎなくなった
まず車が駐車できないからである。車というのは空間占有率が大きいのである。
自転車とかバイクとかなると台数でも車より置けるが車が置けない
それだけの空間を土地を必要とする
すると今までの通りは歩いて買物するようにできている
その大きな相違がシャッター通りにしたのである。
大きな駐車場を作れないということである。

それで郊外にイオンとかできるのも大きな駐車場のスペースが確保できるからである。
原町のイオンの前の駐車場は馬鹿に広いからである。
今回鹿島区のスーパーキクチが新装して開店したけどこれも駐車場が狭いとういことがあり広い駐車場を作ったのである。
だから現代は車社会に適応しないと商売もできないのである。

だから鹿島駅での一番の問題が駐車場が狭いことなのである。他からきて駐車するスペースが狭すぎるのである。農協と決められた場は駐車できないからである。
現代はでも車をもたない人は車社会のことが意外と実感としてわからないのである。
車をどこにとめようかとなるのが車社会なのである。
今までの通りにはそれがないからシャッター通りになる

車社会というのは便利でも旧来もっていたものを破壊した。その影響はあまりにも大きすぎたのである。何か車というとき俳句とか短歌にしにくいのである。
ただ歩くということは今や人間回復になる、歩くことは絵になるけど歩いて旅していた人がいたとしても広重のような浮世絵にはならないのである。
そういう社会が失われたからもう二度とそういう絵は生れないのである。
車がない歩く社会のときは鉄道も活きていた、駅で下りて通りを歩いて買物したりしたからである。
原町の駅でおりて靴屋まで歩いて買った、いいものが置いてあった
ただその歩く距離が結構あったなと思うほど今は歩かない生活なのである。

分散社会になったというとき車社会であれば別に分散していてもいいからである。
車で行けばいいとなるからどこでもいいとなるからである
ただ高齢化社会は昔を回顧するようになるから昔のいい面をとりもどそうとする
その高齢者が多いとき車社会が転換する圧力になる
田舎でも車が運転できなくなるとたちまち社会的弱者に転落する
80でも車を運転している人がいるがそれで乗せてもらっている女性がいる
でも車が運転できないとなるそういうこともできなくなる
その人は社会的弱者となり相手にされないともなるから怖いのである。
もし昔のように歩く生活なら老人でもそうはならない

どうしても夫婦でも夫が車をもたないで運転できないとなると夫の資格も男としての資格までないと感じてしまう社会である。社会的不具者になってしまうのである。
何か機械というのはそもそも人間を人間的なものから離脱させるものである。
ちょっと会話しようとしてもスマホを操作してしない、旅をしたりよその市町村に来たら必ず道がわからなくなり聞くことがある、そこで土地の人とかかわることになる
でも今は土地の人とかかわる必要もないのである。
スマホで地図を見て案内されて車でGPSとかで自動で案内し運転する
そこに人間が介在しなくなっているのである。人間はかえってわずらむほしいものとなる機械化自動化する人間はいらないんだよともなる
すると土地の人とも交わらないとなる、江戸時代は歩く旅だから土地の人ともまじわる、何か人間的にも濃密な旅をしていた、今は高速を突っ走ってゆくし新幹線で一時間だとかなる旅である、すると中間ははぶかれてただ通過するだけになるのだ
目的地にどれだけ早くつくかが問題になるだけだとなる、するとそこに旅情も生れないのである。

高齢化社会は今までの車社会とかに向かない、「成熟社会」を目指すようになる
スロー社会である。もともとそういうものを自分は俳句短歌とかでも詩でも追求してきたのである。
景観というとき確かにそこに暮らしがなければありえない、人間の営みが景観を作っているのは確かである。
菜の花が一面に咲いているというときそれは菜の花をただ鑑賞するためではない
花としてではない菜種油とかとして生活で利用するために作られていたのである。
その生活があってこそ菜の花の景観が作られていたのである。
それは田んぼでも畑でも果樹園でもそうである。生活のためにあり景観が作られてきた
それが津浪や原発事故で破壊されたことでもわかる
荒地と化したことでもわかる、茫々と草が生えて草原化してやがて森になるのが自然だった、そういう風景に変化した不思議をプログで紹介してきた
その草原は確かに草雲雀というように雲雀にはあった風景だった不思議である。

いづれにしろ車社会の転換が望まれている、なぜなら車を減らせばある程度江戸時代にもどるのである。本当に昔にもどりたかったら車が全く通らない世界を再現すればそうなるそうなると歩く他ない、自転車で行くほかなくなるからである。
すると歩く街とか歩いて生活するように社会もなる、自転車で買物できるような街にもなるのである。一部都会でヨーロッパではそうなっている
車社会からの脱却、転換が民意となってそうなったのである。

成熟社会というときそれは確実に高齢化社会に適した社会なのである。
これだけ老人が増えれば老人に適した社会がいいとなるからだ
だから高齢化の負の面が強調されるがプラスの面としては落ち着いたスローな社会の新たな再現がありうる、車を全部なくすというのではなく制限されてそれに代わるものが志向されるとういことである。


posted by 老鶯 at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題