2019年11月11日

外国人と協力して働かざるを得なくなって苦悩する新大久保 (日本は子供も減る一方で働き手がいなくなる)


外国人と協力して働かざるを得なくなって苦悩する新大久保

(日本は子供も減る一方で働き手がいなくなる)

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東京・新大久保。国内最大規模のコリアンタウンにアジア各国からの移民が急増。住民の40%は外国人だ。2年前、日本、韓国、ネパール、ベトナム出身者が集まり「4か国会議」が発足。言葉も生活習慣も考え方も異なる“隣人”たちは、さまざまな葛藤を乗り越え、共生の糸口を見つけ出すことができるのか。

Love & Freedom 暗い日本の現状
https://www.youtube.com/watch?v=YaKnPrxtlys

これからの日本はどうなるの?
https://www.youtube.com/watch?v=7dIbGzkFONU

ここのyoutubeで常に日本の暗い現状を語っていた、田舎だと東京の事情がわかりにくい
私自身ももう十年以上東京に行っていないから余計にわからなくなった
ただNHKの新大久保で多国籍会議というのを見てそうなのかこの人が言っていることが現実化しているとわかった

そこで一番苦労しているのが外国人と一緒にやっていこうとする50くらいの女性だったのである、その人は仲をとりもつために一人苦労している

そこでは日本人が少数派になっている!

その日本人も60以上で店で働いている

なかなかこうなると60以上では若い外国人に溶け込めないとなる
それよりなぜ60以上でも働かざるを得ない状況がある、自営業だから働くことができるにしてもまず若い人が都会でも減っている
若い働き手が減っている、東京でも高齢化になっているのだ
それで非正規で転々と渡り歩いて仕事していた人がどこでも底辺では建築とか土木とかの現場では外国人が多数をしめて日本人がいない、そこで日本人がコミ二ケーションできない、言葉がわからないのでできない、日本人はのけものにされている
そこでマネジメントするのが仕事になるが言葉が通じないので苦労する
新大久保では50くらいの女性がまさに外国人と日本人をまとめるために苦労しているのを見てもうそこではそれが現実化していたのである

高度成長時代というのは何だったのか?
ふりかえると江戸時代だと元禄時代とにていたのだろう、新田開発が全国的に行われたのである、それで葛尾村のような辺鄙な所にも元禄の碑があった
それは新田開発した検地した記念碑があった
石高も全国的に急成長していたのである、それは高度成長時代とにていたのである
子供とか若い世代が東京にもおしよせ地方でもあふれていたのである
地方の人口もその時多かった、そんなところになぜ大勢の人が住んでいられたの?
なぜなら今からするとそんな人口を村とかで養われていたのとなるからである
戦後は引揚者が開墾に入って住んだ、それで人口が増えたのである
でもそこでは貧しかったのである

団地でも高度成長時代は若い所帯でありにぎわっていた、創価が団地の宗教だったというとき団地に住むということは一つの目標としてあった
そこで地方から出た人たちがコミニュティを作ったのである
その団地に住む人たちが老いていく時代になった、団地に老人がまた取り残されたとなる地方でも子供がわんさと集まり近くの神社で子供の遊ぶ声が木霊していたのである
それが今は一人も遊んでいない、組では一人も子供がいないとかなる
子供は学校くらいでしかみかけないのである

つまり人口で見ると少子高齢化はアンバランスになっている
人口でもトータルでみるとき一本の柱のように見ると本当は土台となる下の若い世代が分厚くなっていれば国として未来があるとなる
老人が少なく若い人が多いということは国の未来にとってはいいとなる
それが老人ばかりふえて子供は減る一方なのである
そして氷河期世代とかロスジェネ世代が柱を支える中心的存在となるべきなのが細い柱となり空白化したことが全体からみると日本の国力の衰退になっのである

日本はこうして世代でも国土全体でもバランスがとれないとトータルには不調和になり
国自体の力を失う、東京一極集中というのもアンバランスになり国力を失う
なぜならヨ−ロッパとかで一千万の都市はない、都市でも人口は分散しているからであるパリだって200百万くらいの人口であり東京は異常に人口が集中している
それで少子高齢化で地方に若い世代が減ったのである

いづれにしろ日本は買い物すらしない、高価な買い物をしているのは外国人旅行者だという、日本人は高価なものは買わないので馬鹿にされている相手にされていないという
旅行に行っても北海道旅行でも外国人ばかりで日本人が少ない
日本人は旅行する余裕もないのかとなる
高度成長時代はスキーとか外で遊ぶことが多かったが今はない
ゴルフをする人も減ったとかともなる

ただ旅行というとき日本のホテルとかは高すぎる、貧乏旅行者だった自分はそれで苦労したのである、日本のホテルは今でも外国と比べても高すぎるのである
ヨ−ロッパの方が安く旅行できるようになっている
宿が安いのがあるからだ、ユースホステルでも老人が利用していたからである
温泉宿は高いから泊まらない、一度だけ自転車で行って辺鄙な宿に泊まったことがある
それは一二回だけだった、日本の旅館は高すぎる
金持ちは3万とかのを用意しているが安くても一万とか高すぎるのである
それに交通費も高いのである、だから日本人が旅行していないというとき当然だと思う
家族で旅行したら10万とか軽くかかってしまうからだ
それで引きこもりになっているというのも当然だとなる
私のようにテントで泊まるような旅を普通はできないからである
旅行は別に金なくてもできる、むしろ金がない方が本当の旅になりやすいのである
歩く旅とか自転車旅行とかがそうである、テントで泊まれば金はかからないのである
ただ時間が必要なだけなのである

いづれにしろ日本の未来が暗いという時また保守的になっているというときそれはトータルで見たときアンバランスになっているからだろう
人口が東京とか都会に集中すぎるとかある
世代でもアンバランスになり国力を弱めているのである
ただこうして全体を構築するとか見るのは本当は国の役割だけどそれができなかった
自由主義資本主義社会では会社の力は増大しても国の力は弱まるからである

日本という国がこれからどうなるのか?
外国人を入れない方がいいという右の意見もある、でも現実として日本人が若い世代から減る一方なのである、生れる子供も減り日本人がいないななるとまでなる
地方でも必ずベトナム人とネパール人がいる、原発の関係でこの辺は目立つのかもしれない、でも裁縫関係で女性は働いていたしスーパーでも外国人の女性が働いていた
結局人手不足で日本が働かないからそうなっている
それは東京だけの現象ではない、日本全体でそうなっている
それで外国人が多数となって日本人が少数派となり新大久保で外国人と一緒に協力してやろうとする女性がマネジメントするのに苦労している
それが日本の将来だというのも実感できた

つまり日本人に子供も減って若い世代が減るということは外国人なしで国すら成り立たなくなる、その外国人すら日本が貧困化すると来なくなる
今はベトナムとかネパールとか来ている
ここはまだ遅れているから来ている、為替差益で来ている
でもベトナムだって他のタイとか東南アジアの国のように豊かになれば来なくなる
ネパールはあれだけ過酷な山だらけの国土だから何か豊かになれないように見える
それで4000メートルの高地に住んでいる人が地元のホンダで働いている
その人は奥さんを日本に呼ぶと言っている
つまり日本でそうして外国人が暮らして永住する、その人たち子供を産む
そうして日本人に同化させるというほか国を維持できなくなるかもしれない
それは外国人が嫌だとか移民はべきではないというのはわかる
でも現実問題としてそれができなくなる、第一出生率が減る一方で日本人がいなくなるというのも怖いのである

ただ日本はこれから経済的には衰退しても文化的には成熟してくる、必ず経済が成長した後に哲学とか思想とか芸術とか文化面で興隆しているからである
自分自身にしても何かふりかえるといい時代に生まれたとなる
ほんのわずかの差で戦争中に生まれて戦場の露と消えていたかもしれないからだ
だからどういうう時代に生きるかも大事である
氷河期世代とかロスジェネ世代はそういう割を食った世代なのである
それは戦争に生まれあわせた世代と通じている
これはどうにもならないのである、ただ正直そうした高度成長時代もとっくに終わり

これからの時代は日本は相当に苦難の時代になる
だからこれからの人は苦しいとなる
銀行にしたってか安定したエリートと思っていたがもう銀行はいらないとかなっている
それはあらゆるもので安定した職業がなくなることである
公務員ですら非正規で成り立っているとか月給が安いのである
公務員すら安定の時代は終わったとなる
だから日本は何らか大きな変革が明治維新とか戦後のような大きな変革をしないかぎり
もう衰退国家となり後進国になる、すでになっているというのも現実なのである

posted by 老鶯 at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年11月04日

なぜ氷河期,ロスジェネ世代が生まれたのか? (国家百年の計がもてない、ただ時々刹那に生きているのが現代)


なぜ氷河期,ロスジェネ世代が生まれたのか?

(国家百年の計がもてない、ただ時々刹那に生きているのが現代)

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なぜ氷河期世代とかロスジェネ世代とか不遇な世代が生まれたのか?
これはなぜ大企業でもその世代を採用しなかったのか?
それは不景気とかコストの関係もあった、個々の企業にしてみればその時その時の経済の状態で判断する
それが自由主義社会であり資本主義社会だから自由競争社会だから企業でもっと採用しろとは言えなかった

ただそこに資本主義社会自由主義社会の欠点があったともなる
つまりその時々の情勢によってしか動かない、景気が良ければ採用するし景気が悪ければ採用しない、というよりは採用できないとなる
それは企業側の一方的判断なのである
企業というのはいくらでもある、個々の企業の判断なのである
利益が出なければ人も採用しないし給料を安くするほかないのである

資本主義の弱点は国家百年の計とかをもてないのである
企業の寿命はせいぜい20年とか30年だとかなる、技術革新が速いと十年ももたないとなればとても長期的計画をもてない、だから人を採用したくないときはしないのである
その時々に対応しているだけなのである

でも今なぜ人手不足なのか?それは一時期に人を採用しなかった、人を育てることもできなかった、結果として氷河期世代とかロスジェネ世代が生まれた
その人数も多かったから問題になった
そして今頃になって氷河期世代とかロスジェネ世代を国で応援するといってももう手遅れでありこの世代が放置されて割を食ったとなる
これだけ人手不足の時代でも正規として採用できないとなる
それは時代と言えば時代だから仕方がないとされる

つまり少子高齢化とか氷河期世代とかロスジェネ世代の問題は資本主義の欠点として現れたのかもしれない、それより現代の問題は何でも長期的展望をもって計画できないし全体を国でもみることができない
資本主義とか自由主義はその時々の熾烈な競争でありグロ−バルに争いそれに負けれは会社自体が存続できなくなるからそうなる
グロ−バル経済になると国内だけを見ているわけにはいかない
それで国家というものが弱体化して多国籍企業が国を越えたものとして力をもつことになる

でもグロ−バル経済とか資本主義とか自由主義の欠点は社会を長期的視野で展望で見れないことである
第一次産業主体になると自然を相手だから長期的にみる
第一森林でも木が育つには50年かかるとなるとすでにそのことで長期的に見ない限り維持できない、それは一代でも維持できない、だから農家では三代つづかないと仲間に入れてもらえないとういうときそうなる
その土地に根づくには農業だったら三代くらいかかるということである

もし氷河期世代とかロスジェネ世代でも国家がこれではまずいと考えて手を打てば違っていたかもしれない、
でも今国家にはそうした力をもっていない、自由主義社会だとそうなる、では共産主義国家だったら強制的にそうした不遇の世代を救うことができたのかとなるとそうもならない共産主義国家は資本主義のように古い体質の企業が残りそれが足かせとなったまま変えられないという弱点がありこれも逆にかえって全体が窮乏するとなる
現実そうなって崩壊したのである

ただ長期的展望の上に政治も経済も計画できないというときそこに問題が起きる
人間はそもそも空間軸と時間軸で何でもあるとして時間軸で長期的に観ることができないし全体として空間を俯瞰的に見ることができないのである
それで津波に関してはこの辺で400年前に700人溺死とあった記録も忘れていた
まず400年という間隔で見ることはできなくなっている
会社でもせいぜい十年くらいの先しか今ならさらに一年先すら見ないとなる
政治でも一寸先は闇だとなるのもそうである

そして現代の欲望資本主義は何か非常に短絡的になっている
目先の金だけを追っている、すぐに大金を得たいという心境にみんななっている
まずこつこつ働くということが馬鹿らしいという心境にみんななっている
だからそうして一攫千金を狙うようになる、株とかでもそうだし極端になると盗めばいいとなる、そういう心境にみんななっているのだ
長期的展望の中で生きることがないのである
刹那的快楽主義にも陥っている、それが道徳的には退廃することになる
目先の利益であり金が得られるとういことしか頭にないのである
その金になることに飛びつき消費して終わりだとなる
刹那的快楽主義となり堅実な生活が失われている

国家の政策にしても長期的、百年安心年金とか言うのもその時々の付け焼刃的なものであり適当に言っているだけなのである
国家の仕事としては防災とかなるどうしても国家百年の計なのである
本当に今は国家百年の計とかがない、国家はめまぐるしく変わる社会に適応できない
ただ国家のすべきは防災のように国家百年の計を成しうることにある
国家は千数百年とか日本だとつづいている、するとそれだけの長さがあり国が作られているのだからそういう長期的な展望をもつべきなのが国家だとなる
だから私企業の視点と国家の視点は分けるべきだとなる

国家のすべきことは何か?
それは防災だと国民の安全を計ることでありわかりやすい、これはどうしても長期的視野を展望をもって国家百年の計がないとできないからだ
氷河期世代でもロスジェネ世代の不遇もそれが少子化にもなっていた
その世代がベビーブームを生むというのも期待外れだった
その世代は一人が生活するのに精一杯で結婚できなかったからである
それも国の方で長期的に見ていればこれは将来大きな問題になると見ていればこうはならなかった、でも資本主義自由競争社会ではどうにもならない問題だったとなる
個々の企業は競争であり無駄なコストはかけたくないからである
無駄なコストをかけて長期的に政策を実行できるのは国家しかないのである

とにかく人間は人生百年時代というけどこれも長期になると見れない
そもそも人間は未来を自分の未来を見れない
まず若い時は年取ることをイメージできないのである
それでたいがい若い人は60くらい生きればいいやとかしか考えないのである
それくらいしか生きないと考えている
また老人になることがどういうことなのかイメージできないのである
それは老人になることはあまりにも遠い先だと見ているからである
まるず老人にならないようにも見ているのである
ところが青春はあっというまに過ぎ去る、そして老人になっている
玉手箱を開くと白髪の老人になっているのだ
40ですでにおっさんだとかなっている
その速さに驚くのである

人間の弱点は時間軸になると長期的に見れない、長期的展望をもって生きられない
ただその時々に懸命に対応して生きているだけだとなる
そしてみんな意外な結果として人生をふりかえり後悔して終わっているのである
個々人ならいいが全体社会になると国家百年の計をもたないと国家そのものが崩壊してゆくともなる、少子高齢化というのがそうである
国家自体がもう維持できなくなるとも言われるからだ
ただ国家が関与しにくいから手をこまねいてそうなってしまうのである
氷河期世代のでもロスジェネ問題でもそうだったのである

ただ教育とかに国家百年の計というとき何か自由が束縛される、そもそも学校が果たして国家百年の計でそのままでいいのか?
そういう疑問がある、今の学校はもう行き詰まっている、IT化がすべてではないにしろもう学校という旧弊なままの組織化は
国家百年の計にふさわしくないともなる
そこでモラルとかなんとういうと国家の強制だと見られるのもそうである
教育というときこれは教育するから伸びるのではない、かえって教育過剰になっているから才能が伸ばせないのである
自分のように会社に行かず30年間自由なことを追及できればその人の才能は伸ばせるのである
モラルでも教育しようとするとカルト教団のように強制された集団化されてかえって自由な精神は失われて奴隷化されるのである
つまり上の人の支配者のいいなりにするのが教育だともなるからこれも注意が必要なのである
posted by 老鶯 at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年10月06日

身近な経済(地方の生活ーそこにも発見がある)


身近な経済(地方の生活ーそこにも発見がある)

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原町の道の駅で買った白い茄子




経済という時、グロ−バル経済に地方でも巻き込まれている、身近な生活というとき私は一万の町で暮らしている
とにかく買い物が仕事である、毎日二回くらいスーパーに行くことがある
そして買い物は種類が多いからむずかいしわからないのである
何があり何を利用していいかわからない、料理だけはだから今でもまともにできない
そして買い物でも失敗が多いのである

どういうわけかツルハのドラッグストアーで着るものでいいものを売っていた
パンツでも肌触りがなめらかなものであり気持ちいいのである
次に長袖のTシャツとかもなめらかで着やすいのである
それからポケット付きのスポーツタイプの長いパンツも着やすいのである
なぜポケットがないと困るかというとサイフが重いからである
そしてこれにはチャックがあるから落ちないので安全なのである
それが今まで発見できなかった
それで通販で買うことが多かったが手にとったりできないとかで失敗も結構あった
着るものはやはり実際に見て手に取ってみないとわからないことがある
だから通販がすべていいとはならないと思った

ツルハでは品物が少ない、本当に少ない、でも選ばれたものを着るもので置いてあった
そこで今は種類が多いからこうしていいもので安いものを選ばれてあると買いやすいと思った、一万の町では常に品物を見ていられないことが問題だったからである

今日は道の駅販売店で地元の野菜を売っていた、それも白い茄子を売っていたのに驚いた農Tube委員会チャンネルで小規模農業が生き残るにはこうした大量規格品でないものを栽培して売ることだと言っていたのこはこのことだった
現在の農業は実際は8割が一千万以上の収入がある大農家で生産して規格品を大量に出している、中小の農家はもう補助金農業とかなるから退職金を与えてやめさせるのがいいという人がいる、現実にそうした農家は高齢化でやめざるをえなくなっているのだ

それで知っている人の野菜を作る畑の前は病気になり死んだ、その隣も老人が車にのせられて這ってしていたが力尽きて放置された
それで土手の道の前の畑は半分が荒地化している、原発事故以後放置されるようになったのである
第一草刈るだけで頼んだら何万とかうなってもらのうにいくらだとか金食い虫になっているのがその畑である
その金を自分が払っているからそんなことしなくてもいいとなってしまう
小さな畑とか趣味でやるにも金がかえってかかり収穫はほとんどないのである
それでキュウリ一本一万にもなる、もらったのは数本のキュウリだけだったからである

それで奇妙なのはその川岸の土手の道にウサギを見た
そこは街が近い場所だから普通は出ない、ただウサギはちょっと街から離れた所でもみかけた
ではなぜウサギが出て来たのか?
それは川岸の前の畑が半分くらい荒地になってその草ぼうぼうの荒地は隠れやすいからなのかと見た
また川岸は草ぼうぼうになって隠れやすいからそこに身を隠して出てこなかった

うさぎ追いしかの山・・・というとき昔はウサギは結構街の近くに出没していた
でも私は子供の時そういう経験はないのである
田舎の生活ではそうして自然の中で生活することがいいのである
土手の道をでんでん虫がまだのっそりと歩いていた、そこは車が通らない

不思議なのは田舎で生活していても退屈で平凡になるから嫌だとなる
でも発見することがある、そのウサギを写真にとれなかったことが失敗だった
何か見慣れた光景でもこうして変化がある
何かしらの発見がある、ただそれは見る人によるのである

ただこの辺は限界集落とかではない、隣にも4万の市があり南相馬市となると原町はもともと5万くらいの都市だったから違っていた
ただ正直田舎というのは地方には金持ちになるチャンスが非常に少ない
それはなぜか?
田舎には金持ちにする機会がないのだ、地銀の人が来て投資信託などして損したことでもわかる
その営業の人は銀行でも株とか投資信託も知らなかったのである
素人同然だけで手数料が入るから適当に自分の金をつぎこんで手数料とるだけだった
なぜなら株が上がっているのにそれを投資信託に回して損したからである
その営業の人は株とか投資信託に何の知識もない
分散投資が基本としてある時それすら守らなかった、株とかも分散投資にしてもっていれば良かったのである
ただ自分は忙しいからみんなまかせたのである   

もし都会だったら仙台でも住んでいたら選択する所が多くなる、すると相談できる場も増える
田舎では地銀でも町に一つしかないからだ
それから都会だといろいろ選択できる、医者でもそうである、田舎では選択もしようがないからだ
そもそも医者がいればいいとなっているからだ
それでむずかしい病気になると仙台と福島の医大に行くほかないのである
金儲けでもビジネスをするにしても田舎では不利である、まず需要がないからである
現実に田舎の市場でトマトが一個400円したとかなる、それを買う人がいるのか?
都会だったら金持ちがいるから買うからすると田舎でも金持ちになる農家が増えるとなる
それは中国で都会に野菜を売って金持ちになった村があったからである
田舎では需要がなんでも限られているからである

今田舎とか地方の生活は苦しくなっている、常に明日食べる食料が買えないとくる70歳近くの女性がいる、国民年金の額が少なすぎて基本的に生活できないから常に水道をとめられるとか電気を止められるかと騒いでいるのである
その息子もいても余裕がない、その息子は建築関係でも正社員なのである
仕事で怪我して労災をおりるとか社長は社員のめんどうみがいいのである
でも親が青森に介護に送られていて何か介護用品の請求で金を払わされている
それも苦しいと思った、介護というのは長いし金もかかるのである
私の場合は介護に金はかからなかった、でも施設に入れたりしたらかかっていたかもしれない、その点は救われたのである
ただ一人で苦しく大金を盗まれたとかの被害があったからやはり金はかかったのである

家族がみんな死んでわかったことは一人暮らしというのが老人にとってどういうものかわかりつつある
一人というのは良くない、一日しゃべる人がいないということは精神的に良くない
孤独がいいということはある、でも人間は一人だと良くない
その女性とはただたわいもないことを話すだけで何か孤独でなくなる
そのために金を払っているともなってしまう
話がうまい女性だからである
だからわかったことは女性でも男性でもこうして家族がいなくても友達とかいれば孤独にはならない、たわいもないことを話していてもそうである
孤独死とか孤立死とか現代では成り安い、でも何かそうした人が回りにいれば家族がなくても孤独を感じないのである
私はとにかく人付き合いをしなかったし今もしない、それが異常化していたのである
今でも人付き合いその女性としかしていないのである
ただ家族が死んでから介護になってから人とは話すようになった、もともと話せないというわけではない、話すことが面白いという面もあった、ただ基本的に人付き合いが苦手なのである

田舎暮らしを老人は憧れる、実際老人は田舎の方が向いている、
でも辺鄙な田舎で生活すべきではない、近くに都会がある方がいいのである
やはり買い物とか楽だからである
私自身が今や仙台にすら今年一回行ったとかで遠くに行っていない、それはやはり人ごみとか嫌になり騒々しい所に行くことが疲れるからだとなる
それも年になったせいだと思う、前からそういう気質があり都会を嫌うようになったのが自分だたからである、それで旅行は世界まで60までつづけていたからこれも異常だったとなる
そして今ではそうした経験を記憶したものを文や詩とかにして書いているのである

でで虫の歩みの遅くこの道にウサギの出るや草深きかな


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2019年09月28日

経済を民俗学から考える (自由な市場とか交換は共同体の和解の祭りとして始まった)


経済を民俗学から考える

(自由な市場とか交換は共同体の和解の祭りとして始まった)

経済とは何かというときこれは総合的なものであり社会全体のことであり人間全体のことである
だから経済学となれば一つの分野のことではなくなる
科学技術でも深く関係している、産業革命とかなれば科学技術が発達して生まれたからである
だから経済を語っても世界でも社会でも一部分しか語れないのである

経済と民俗学が関係しているのか?

これも深く関係していた、文化人類学が関係していた

インドネシアでもクジラをとる民と山の民がいて山の民にクジラの肉をもってゆき豊漁を祈る、そこで山の民と海の民が和合する祭りが行われていた
つまり経済とはもともとそうした異なる地域に民族が和合するものとして貿易でも行われていた、現代のような金だけを紙幣だけを唯一の交換の手段として用いることはなかった貿易は交易にはまず民の融合が和合を計ることが先である
現実にグローバル化しても必ず国と国は対立してうまくいかなくなるからである 

これはおそらくクジラという食料がある前に物がある前に何か共同体がある
クジラをとることを生業とする海の共同体があり山で暮らす共同体がある
その違った生業の共同体が和解するために祭りがありクジラが媒介となっていた
ここで重要なのはクジラは共同体を結ぶものであってもその前に共同体がありその共同体同士が和解するために山の共同体がクジラをとれるように祈りクジラの肉も分けてもらうとなっていたのである

海彦と山彦の物語もそうである、ここにも綿津見(わたつみ)の神がかかわってきている海彦と山彦は暮らしが違うので対立しやすいことをここで語っている
その和解のために何かクジラでも同じように和解の祭りが必要になる

顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。「Y」のような三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いために伐採時には事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている。

日本神話では大山祇(大山津見)などが山の神として登場する。また、比叡山・松尾山の大山咋神、白山の白山比盗_など、特定の山に結びついた山の神もある。

だからなぜ綿津見神社と山津見神社が対になっているのか、相馬地方だと飯館村まで綿津見神社があり山津見神社があり一番古いのである
それは海と山で暮らすものたちが実は一体だったからである
海彦山彦の国が日本がだったからである
おこぜがなぜ山の神に供えられているのか?
それは一種の海で暮らすものと山で暮らすものの和解のための儀礼と化したものである
第一山に海でとれた魚を献げることはありえないからである

これは今なら物を交換することであり海で暮らすものと山で暮らすものが和合することで祭りとなったのである
共同体と共同体が交わる時、そこで魚であれ何か物を媒介となる、それは互いの有効の印として交換されたのである
古墳から発見される三角神獣鏡でもこれは大和王権に服属したから与えられたというのではない説がある、それはただ友好の標として土地の有力者に与えられた
この辺の古墳でも金銅双魚佩が古墳から発見されたけどこれもそういうものなのだろう

つまり貨幣がない時代は物と物を直接交換する、その物は友好の印であり今の経済とは違っていた、中国と朝貢となるがそれとにていた、国と国が友好のために物があった
それが貿易の始まりであった
商業、貿易の始まりはそういうものだった
だから第一不思議なのは村で市が許されたのは神社内でありそこを無縁の場所として許されたのである、よそ者が商売することはそうした村の共同体から特別許可された無縁の場所でしかできなかったのである
つまり有縁なものは村の共同体の一員であり外から来る商売に来る人たちは無縁だから
神社の境内とかで商売をさせていたのである
これも矛盾しているが神社とは縁を結ぶものとしてあるがまたそこが無縁の場所にもされたとなる

現代の経済がグロ−バル経済とか広域社会でもこうしてもともとあった共同体を破壊する無縁化することがあった、また海彦となるとこれは海に通じているから広い世界と通じることがあった、貿易も漁民が船でしやすいからである
ただ商売とか貿易の始まりには祭りが必要だった
物があるからとしてそれを自由に売買はできないのである
共同体の許可なくしてはできない、それが人間社会なのである

それでなぜ人間社会がグロ−バル経済が人間をアトム化してばらばらにしてしまった
なぜならそこにある貨幣を通じて金を通じての交換にはもう祭りもなにもない
共同体が和解するものとして始まった交換の儀式がない
そういうややこしいものを全部省くことによって成り立つのが現代の経済だからである
つまり人間は個々人がアトム化して経済的一単位としてみる、そして商品を自由に流通させる、世界市場とすることがグロ−バル経済であり広域経済である
そうすると無縁化して神社の中だけでよそものを受け付けていたことが逆に村でも共同体でも無縁化されるのである、それで無縁化社会になったともなる

ここで人間とはなにかというとき人間は経済の一単位ではない、何かしら別な価値観が働く、もともと海でも山でも共同の暮らしがありそこで培ったものは違っている
それず海彦と山彦が共同するためにはまず祭りが必要である
そこで互いに和解して共同することである

でも現代はそういうものを全く無視してこそグロ−バル経済でもありえる
世界市場の原理だけがある、そして交換するときも金だけがすべてとなる
そして金が万能となり金を極一部のものが数パーセントの者が独占してしまう社会になるだから不思議なのは前近代的と思えるものが実はそこに人間の存在がそもそもどういうものかをふりかえるものとなる
人間が何か物を交換することはまず共同体がありそこで共同体と共同体が交わる儀式が祭りが必要になっていた

結局今でもグロ−バル経済がうまくいかない、うまくいかないと貿易も韓国とのように途絶える、そして戦争になりかねない、国々でも自由に貿易して交換することが行われたが逆にそれがうまくいかないと貿易も途絶えて戦争にもなる
つまり経済合理性というのはそもそもが人間社会では成り立たないのである
世界市場化することが一見理想のようでもそうならない
それは人間の存在がそういうものではないからである
経済だけで利益になるからだけで成り立たないからそうなっていたのである
そのことは世界の歴史が証明している、経済でも相手を武力で屈服させて支配して植民地支配のように欧米が人を奴隷化したりする
貿易でも経済でも強者だけが莫大な利益をあげる仕組みである
アジアの富を吸い上げたのはヨ−ロッパ列強だとなっていたからである

グロ−バル経済でも一旦競争に負けるとその国は貧困化する、それが今の日本である
グロ−バル経済とは新たな国々の戦争でもある
負けたものは貧困化する、別に昔の共同体と共同体の和解を目的として経済が貿易があるのではないからである、そこが根本的に違っているからである
経済とは共同体と共同体が和解する和合するものでもない、物は友好の印でもない
交換するための世界市場がありそこで金が万能化する社会である
それはマルクスが言ったことだが人間社会をふりかえるとそれはいいようでも人間がどういうものか人間存在とはどういうものかを問うとき経済でもその存立基盤を無視するから無縁化社会となり人は属する共同体もなくなる

共同体というとき国家自体がそうである、国家も無視されて経済的一単位化するのである日本が嫌なら外国に住めばいいと金持ちならなるしまた移民問題でもそうである
金をえるために外国で働けばいいとなるのである
でも外国人も人間だから国内に入ってくると機械でも物でもないから問題になる
文化的軋轢とかいろいろ生まれてくるのである
だからいくらグロ−バル経済でも人間を自国に入れることがいろいろな問題が生まれかわかる、うまくいかないことがわかる、それは人間の存在がもともと経済的利益だけで存在していた訳ではないからである
何かこの辺で原発事故で一挙に大勢の人たちが避難してゴーストタウンになったけどそれも今なら人は共同体に属していない、金さえあればどこでも暮らしていいとなっている
すると多額の補償金をもらったからとみんな町から流出して人がいなくなったのである
もちろん放射能汚染のためだともなるが何かそれだけではない現代社会の反映だったのかとも見たのである、そこには強固な共同体の絆は昔のようになくなっていたからだとなる

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2019年09月14日

日本の農業は成長産業! (兼業農家とかが補助金農業で農業をゆがめている)


日本の農業は成長産業!

(兼業農家とかが補助金農業で農業をゆがめている)   
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日本の農業の生産を支えているのは1000万以上の大規模農家

【誤解】農業人口激減で日本沈没?!新規就農するなら今でしょ 

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全農家対象の農業補助金はおかしい。農協利用の農家は、ほとんど兼業あるいは農地放棄農家、それに自家用栽培農家であり、単なるバラマキに過ぎない上、日本農業の再建にマイナス効果しかないように思う。補助金を配布するならば、低所得の専業農家に配るべきではないですか?

あいつら(農協のこと)は、税金も満足に払っていないのに、補助金を独り占めするのは絶対に許せん。こんな不平等を国が放置する限り、俺は税金を払いたくない。

補助金に頼らない理由は、まず第一に、農業者本来の「つとめ」を忘れてしまう心配があるからです。本来、生産者である私は、私のお客様に頭を下げるものですが、補助金に手を出すと行政に頭を下げることになり、自分の経営を見失うことになりそうです。

農業ビジネス


農業は誤解している、農業は日本の成長産業だった、なぜ銀行で農業に投資するようになったのか?それは農業が日本では唯一成長産業だったからである
なぜ農業がだめだ、だめだと言われていたのか?
それは兼業農家とか副業農家が多いからである
そこに税金を補助金を投入されているから非効率であり無駄なのである
それで民主党の政策は農業を復興させるためには

農家一軒ごとに補助金をだす

農協ではなく農家に一軒ごとに直接補助金を与える

農協が巨大な組織でありそこに補助金が注ぎ込まれ吸い上げられていたからである
でもこれは悪政だった、農業の生産高は兼業農家とか副業農家が背負っているのではない専業農家が生産の大部分をになっている、ただ兼業農家が数が多いから票になるから民主党ではそういう政策を打ち出したのである
何か民主党は経済政策とかでも不況にしたようにわかっていなかった面があった
もちろん自民党にも問題があった、ただ民主党がつづいていたらやはり日本の経済は危機的状態に今頃なっていた、なんとか持ちこたえているのは自民党になったからだともなる
ただどっちにしろ日本の経済は衰退して危機的状態になるのは遅かれ早かれなっていたのである
日本では今まで高度成長時代があり経済がいいときそうした補助金でも福祉とか無駄なことでも金を回すことを余力がまだあった
その金を回す余力がなくなり補助金政策はできなくなる

でも実は農業の場合は補助金政策が農業をだめにしていたのである
まもともに農業を考えて取り組んでいる人専業農家が農家の主役になっていた
でも兼業農家とか副業で農業している人たちは足かせとなる存在だったのである
例えば常に言われている農業の後継ぎがいないというとき68歳が農業している人の平均年齢だとか耕作放棄地のことを取り上げるがそれも違っていた
そういう人たちは兼業農家であり副業農家であり補助金農家だったのである
そこに農業に対する誤解があった、なぜそこだけが強調されているのかというと兼業農家の窮状を言うとき補助金を政府が投入されるからである
また数が多いから一票として計算できるからそうなる

また日本の自給率が低いとかはない、世界で5位の自給率であり狭い国土にしては高いのである、そして日本の農業は優れている、きめこまかい農業であり技術レベルが高いのである、だから輸出産業としてみこめる、果物はそうなっている
農業もグロ−バル化していて外国で日本人が農業している人がいる
そのグローバル化に日本の農業は競争力をもっているという

日本の経済は電機製品が売れて高度成長時代を築いたときは違って輸出するものがない
自動車産業がなんとかグロ−バル化で競争力をもっているとなる
だからこそインパウンドとか観光に力を入れたりして日本全体の経済が落ち込み貧乏化しているのである
そしてこれまで日本の農業の負の面が強調されすぎたのである
日本の農業はもともと五反百姓とか小農が多すぎたから貧乏なのである
また機械化もされていないから能率的ではなかった
機械化されて技術も向上して日本の農業はかえって成長産業となっていたのである
だから銀行で投資先がなく投資しようとしているのはそのためなのである

私が援助している趣味で農業している人はまず金がかかる、今は体が悪いとか暑いとか放っておいたから草ぼうぼうになっている
だからとれたものでキュウリ一本一万にもなるのは嘘ではない
ただそこで農業の話をじかにしてくれるからその情報に金を払っているとなる
まず肥料から種から道具からと農業は設備費と金がかかるものなのである
だから今では小農とか兼業農家では採算がとれないのである
ただそこに補助金が出るので老人が片手間にしているだけなのである

そして耕作放棄地が増えていると騒いでいるけどそれは新規参入者にとってチャンスだとしている、つまり土地が安く手に入るからである
もうそういう土地は無料でも貸しているからである
農業はまず土地が手に入らなければできない、土地が資本だからである
そして労働は機械がする時代である
農業が採算がとれないとか負の面が大きく語られたのは高度成長時代、工業化が進展してそれと比べると農業は時代に合わなくなっていたからである
今はかえって農業が成長産業として見直される時代になっている
ただ兼業農家と副業とか今までの小農では成り立たないだけなのである

私が農業について語る時は農業というそのものが持っている価値とか意味を追求したのである、農業は必ず自然と結びつくからそこが他の職業と違っていたからである
農業は生態系と密接に結びついているから共生の思想が自ずと生まれる
ただこれを経済合理性からビジネスとして見れば違ったものになる
農業を成長産業としてビジネスとして位置づけると違ったものになる
今や農業が有望な日本の成長産業になっている

だから趣味でしている畑と同級生が5人で組になっていしている畑を比べると趣味の小さな畑は肥料から種から道具から金がかかる、十倍をもかかる
でも広い畑でも専業農家がかかわりトラクターとか機械をもっているから草はいつも刈られている、生産する量も多くなる、それは専業農家が主導しているからそうなるのである趣味で畑で野菜を作るとかえって十倍とかの金がかかるのである
でも大規模にやれば農業の収入が少ないということはないし成長産業なのである

でもここでも同じだった、補助金農業になると国に頼り補助金をもらうことが主目的になる、補助金をもらえるから工夫もしない、ただ畑をもつということで補助金目当てになるでも補助金をもらわないで農業をするとなると工夫したりいろいろ自ら励むことになる
それは原発事故でも補償金だけをもらいそれで生活しようとすることとなったと同じである
結局人間は補助金とかが補償金でも必ずいい方面に向かわないのである
その補助金とか補償金でかえって人間は向上心を失う、そしてそこに税金を払うことは国民にとっても損になる、税金の無駄使いとなる、それで税金がたりないとなり消費税が政府であげたりしてまた国民の負担が増えて苦しむのである
そういう悪循環があったがもうそれもできない
なぜなら日本全体の経済か落ちこんできているのだからそんな無駄なことをしていられなくなったからである  

この支援のお金の出所はどこかというと、国や地方自治体です。日本は雇用維持という大義名分のもと、助け合いのシステムになっているため、国や地方自治体が助けているのです。現在、国や地方自治体からなんらかの支援を得ている職場で働いている人は、なんと全就業人口の約50%にも上っているそうです。

ただ農業というのは複雑でありそう簡単に効率的だからとか合理的だからとすすめられないのはそれが自然と密接に結びついているからである
農業は他の産業とそこが根本的に違っているから合理的効率的にすすめることが合わないというこもでてくる
でも現実問題としては効率的農業を目指さないともう成り立たなくなっている
農業は別に68歳平均の人たちがしているのではない、専業農家はそうではない、若い世代もしているし新規参入者も増えてくる成長産業なのである 

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都市型公害農業

大規模農業

中山間農業ライフ型

この中山間農業ライフというのは農業自体に価値と意味を求めるのにふさわしい
農業体験して民泊するとか農業ライフを追及する
この辺でも蔵を改造して観光に利用するとかするために学生が来ていた
他でもそういう観光的なことをしている人はいる
つまり農業と自然は密接に結びついているから農業というのは観光のように景色を見るだけではない、自然をどのように活用するのかと深く結びついたものだからそうなる

それは田舎に住んでいても意外と農家のことがわからない、農業のことがわからない
それで趣味でも畑をしている人に直接その苦労とか面白さを聞いている
それは農業ライフを趣味としてしているとなる
趣味でしていると金がかかるのである、ただ都会の人が農業を食料を得るものとしてだけ見ている、でも農業は自然と深く結びついているからその背景が広く奥深いのである
自然に通じるには本当は景色だけみていてはわからないのである
それでその女性に冬(ふゆ)はかえって作物が育つと聞いた時、冬(ふゆ)であり増えるという意味を理解したのである
つまり日本語の由来そのものが農業を実地にしないとわからないし文化すらわからないのである
要するに文化的にアプローチするのが中山間農業ライフ型である
一方で経済合理性を追求するのが大規模農業なのである
時代で農業も変わってきていてその辺が誤解しているのである

大規模農業で経済合理形を追求するにはかえって原発事故で他より耕作放棄地が増えたこの辺は放射能問題があっても新規参入しやすい場所である
第一小高を見ればわかる、田畑が一面草ぼうぼうとなっているからだ
それだけ広い耕作放棄地を新規参入者が自由に利用されるとなればそこに新しい農業が生まれる可能性がかえってあるとなる、そこで会社経営として農業をはじめた人もいるのもわかる、もう個々人の農家ではどうにもならなくなっているからだ

つまりこの辺で兼業農家とか副業農家とかは一掃して会社経営の大規模農業にならざるをえないともなる、それが強いられている場所である
ただ小農として農業ライフを追求する分野も生じている、農業は実際は文化的なものが基になっている、cultivate-cultureだからである
そういう面でも新しい農業として成長産業だともなる

とにかく外から新規参入するのにはここはチャンスとなる場所なのである
そういうふうにすでに農業の新規参入者が外から入っている
つまり何かこういうふうになると大きな改革がしやすいともなる
一挙に広い土地を自由に使えるということにもなるからだ
そこで農業の復興がありそこを基幹として復興がありうるともなる
ただ農業というのは実際にしてみないとわからないものがある
それが田舎にいてもわからないのである
田舎でも実際は多様化しているからである
農業に従事している人は一割にもみたないとかなっているからである

ともかく農業が成長産業だという時かえって田舎が見直され成長してゆくともなる
時代が変わると必ず価値観が変わるからである
農業がだめだ金にならないという時代は高度成長時代でありその時は会社に入ると金になる時代だったからである
でも日本自体が会社が大企業でもグロ−バル競争で倒産したり終身雇用がなくなっている、銀行でもゆうちょでも農協といった国に関係しているものも国で保証できなくなっている

常に時代が変わるからである、ただ余りにも農業に負のイメージが国からでも植え付けられすぎたのである、それは兼業農家でも数が多いと票になるからである
それで意図的に負のイメージが植え付けられた、それでソフトバンクが農業にビジネスとして参画するとかITを利用するとか現代の時代の変化に適合した農業を提案する人がいたとなる
それでこの辺が第一次産業や農業が放射能汚染されたことが致命的だったのである
それさそ農業を根本的に破壊するものだったからである
農業をするなと親に子供が殴られたりした時代もあった、でも農業はまた見直される、その価値が多様だからである
そして農業の価値は工業のように変わらないのである、普遍的であり不変なのである
それは自然と密接に深く関係しているからその価値は変わらない、かえって農業ライフとか生産物だけてはない農業を通じて自然と触れ合うような農業も生れるとなる

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2019年09月02日

刹那的な楽しみに生きる現代人、道徳性の後退 (忍耐力がなくなり長期的視野がもてない)


刹那的な楽しみに生きる現代人、道徳性の後退 

(忍耐力がなくなり長期的視野がもてない)



何か現代人は刹那的になっている、刹那的快楽を求める、地道に働くということになじめない、長期的視野がもてない、その場限りであり宝くじのように大金を得たいというのが共通である
そうなるのはなぜなのか?
それは社会的環境が関係している、社会はもう金、金、金・・である
金さえあればいい、金があれば何でも満たされるという感覚になっている
金さえあればスーパーに行ってなんでも買えるし遊んで暮らせるではないかとなる
そして地道に働いても今は非正規とかが多く簡単に金にならないのだ
現実にこの辺で原発避難者が仮設に住んでも地元の人に世話になるという感覚がゼロだった、むしろ私たちここで消費して助けているのよねということしかなかった
それは消費者が王様だということでそうなった
金さえあればその人がどこでも王様になるのである
それで小高の人が仙台で200坪の土地を買い家を建てアパートまで経営している
それは何億の金が補償金として入ったからだと思う
原発事故で被害者というよりその補償金で成功者になったという現実である

例えば高度成長時代は貯金をすれば10年後には利子で倍になるというとき十年間ためて貯金しようという感覚になる
でも利子もつかないとかなると貯金することに励むということもしなくなる
10年間の長さに耐えられない、石にも三年とかにも耐えられない
忍耐力が欠如しているのである、そういう教えが通じなくなっているのである
それに比べれば私の親などは大正生まれであり本当に忍耐強いのである
貧乏で育ったから贅沢しなくても文句を言わないのである、それは大正生まれとかなるとみんなそうなのである、そういう環境で育ったからである
辛抱強い、だから文句を言わないことに感心する、辛いことがあっても文句を言わないのである
そこが今の人と社会と根本的に違っていたのである 

そもそもなぜ現代は何かせかされるとか忙しいとか刹那的になるのか?
それは多分に今の社会環境と関係しているのだ
まずともかく(待つ)ということを嫌う、待つということが時間の無駄に感じる
ところが駅だと必ず待つ時間がありその時間が無駄ではなく何か人間的時間なのである
電車を待つという時間が人間的なのである
だから私は鉄道が好きなのである
クルマには何か待つ時間がない、いつでもクルマに乗ってキレルように去ってゆくだけである、そこからキレル人間が必然的に生まれてくる
クルマが便利でいいとしても人格まで変えてしまうことが怖いことだったのである

戦前とかまで社会の環境が違っていた、そこでは何か今とは違うものが精神的にも育まれていたのである
例えば戦前でも戦後10年でも馬とか牛とか普通にいた、すると牛がいるとすると牛に忍耐の象徴であり牛がともに生活することで忍耐を学ぶとなる
それはおそらく牛とともに生活することで性急にならないとかあった

「のんきな父さん」とか言われたのもその時代はのんきなものが時間がゆったりとまだ流れていたのである  

何かわからないのだけど世界中から物が入ってきてスーパーにある
でもその物は何か魔法のようにそこにある、とても人が苦労して作り出した感覚がないのである、それは農家でもないしどうしてその野菜でも果物でも作り出されるのか?
それが実感としてわからない、わかるのは金を出せば何でも買えるということである
だから現代生活で常に意識されるのは金なのである
もし農家で米とか野菜を作って入れは金を意識する前に作物をいかにしてとれるかということを意識する
米だったら浜に田植えして秋に収穫する、その間に何か作業がありようやく秋に実りがあるとなる、そこにはやはり時間がかならずかかっているのである

20日大根でも40日大根でもそれだけの時間がかかる、種を植えてすぐに育つことはない
でも買うとういことは常にできあがったものを買っているのだからいつもそこに完成品が育ったものがあるという感覚になる
すると自分で育てる待つ時間もないのである、問題なのは金があればいい、金があれば食料でもなんでもすぐに手に入るとなる
それはまた世界中からなんでも食料が入ってくることによる
地域だけに頼っていたらこんな感覚にはならない、住んでいる場所でとれなくても他からいくらでも入ってくるとなると住んでいる場所に頼るということもなくなる

問題なのは常に金があることなのである
例えば昔は郷倉とかあって飢饉のために米とか貯えていた
でも今はその必要がない、常に外から入ってくるからである
そうすると何が大事なのか金だとなるのである
米など貯える必要がないとなるのである
だから地域に依存していないから地方に田舎に住んでもいても別に地域に頼ることがないのである
ただ津波や原発でこの辺で何もなくなったとき二週間くらい困った
その時古米をこの辺では配ったのである、その時助かったとなるから古米を貯えていたことはやはり郷蔵の役目があったのである
その一番の要因が

外から食料が入らなくなった

この辺では一時二週間以上食料が入らなくなったからである
これでわかるように現代の生活感覚が刹那的快楽とか刹那的に向くのはいつでも食料でもなんでも入ってくるという感覚でありそこで金さえあればいいとなる
それも忍耐して稼いで貯金するというまどろっこしいことをしたくないのである
貯金して利子が高くつくようだと高度成長時代のようにみんな貯金しようとする
でも今は貯金したら銀行から利子をとられる、投資信託とか買わされたりゆうちょで必要のない保険を買わされたりしてごまかされる
そういうことでこつこつ稼いで資本をためる、金をためるということがなじまない時代なのである

そこで起きてくることは何か?ともかく時間をかけてこつこつ貯めるのは無駄だとなる
一攫千金を狙う、FXとか投資がいいとなる、こつこつためてもたまらないからである
また稼げない時代だからである、それでそうした一気に稼げるばの一攫千金を夢見るのである
そして時間のサイクルが早いのである
例えばローマ帝国であれスペイン帝国であれイギリス帝国であれそれなりに長い時間をかけて作られてきた、でもエジプト文明三千年はさらに長い時間で作られてきたのである
そして徐々に衰退したのである、その時間の感覚が長いのである
でも今だと日本の経済成長が30年くらいで終わりとか中国でも二十年くらい成長して終わりだとかなる
世界的に交通が発達してそうなったのである、その成長の速度が速くまた衰退するのも早いのである、だから中国が10数年で宇宙に行ったり新幹線まで走らせていることが信じられないのである
それだけ時間の感覚が早くなっている、そこで刹那的になるのはとめられないのである
長い時間の感覚で社会でも人生でも見れないのである
だから欲しいものはすぐに手に入れるようとする、待つ時間がないのである

道徳にしてもそこで育まれことがないのは時間がないからである
「ローマは一日して成らず」という時間の感覚が喪失しているのである
現代は一日にして成ることを求めているのである
そこに道徳的退廃が生じる、刹那的快楽主義になる、これは一人の力ではどうにもならない
つまり時間というのも文明的時間がありそれがますます加速されて異常化しているのである、文明人はたえず時間に追われている、待つ時間も消失しているのである
無駄な時間も持つことともできない、時間を極限まで無駄なく使うとかなる
生産現場ではそうなる、何か時間すら脅迫的に支配される

そして刹那的なものを求める、時間をかけるものが否定される
そういうところで道徳の退廃が生まれて社会自体がもう維持できなくなる
何か人間は忍耐力がなくなり争いにもなる
それでなぜ産業革命がグロ−バルにはじまったとき戦争となり莫大な死者を出したのか?それも現代の文明と関係していた、刹那的なものを求めて戦争で解決しようとする
そこに忍耐する待つ時間がないのである
だから戦争も文明の結果だということを指摘するのもそういう社会環境が人間を作っているからだともなる
文明が罪を悪を作り出して増幅させるということもある、それが世界的に起きていることは世界が同じように文明化しているからである 
インドの一部をのぞいて馬と牛を使わなくなったりしているからである
そういうことでは共通しているからである

文明には遅らせるとか待つとか減らす思想がない、つまりそのことはもう止めることができず暴走もすることになる
何か現代に必要なのは遅らせるとか減らすとかの思想が必要になっている
そんなことしたら経済が停滞するとか反対がありできないとなるのがそれが資本主義が投資先がなくなりもうそうした思想が時代にマッチしたものになる、だからそんな思想は批判するより現実がそうなんているのだからむしろ現実的思想だともなるのだ
もう文明はいろいろなものが限界になってきている、原発事故でも何か科学技術の限界現象だったのである
経済成長とか無限の科学技術の発展とかも限界が見えてくる、その時こうしてもともと東洋思想だったものが現実社会に適応するものとなる、だから文明が西洋から東洋へシフトするというとき思想の面でも東洋的思想が現実にマッチしたものとなる
資本主義思想はもう現実社会にマッチしなくなったからである

忍耐力がない長期的視野がもていないというとき、現代社会が日本でも高度成長時代は団塊の世代でも若い人が多かった、すると社会は若い人中心の社会だった
すると何でも若者向きになる、でも今度はその団塊の世代が老人になると社会が変わる
少子高齢化社会であり老人向きの社会になる、そのマイナス面も大きいのだがプラスの面もある
老人は70年くらい生きるとそこで一時代を生きたという感覚をもつ、それがどういう人生でもそうである、一時代を生きたという経験が若い世代とは違う、そこで物の見方も違ってくる、その一時代の過去をふりかえり未来を見るということができる
それより団塊の世代の上野の世代は戦争を小学生の時代でも経験した人は違っている
戦争の見方が戦後の戦争を知らない人たちの見方と違っている
その差は戦争の時代を小学生でも生きたということなのである

その経験の差が大きいのである、そういう経験はどうしてもいくら本を読んでも聞かされても実感できないのである、だから戦後は左翼関係者の戦争を否定することばかりが戦前の戦争の実体だとなったのである、それは戦争を経験していないからそうなったのである戦争の現実は経験していないからただ頭で理論的に悪いとばかり言うだけなのである
戦争が悪いことはわかる、でも日本の戦争もその時代の状況で生まれたからその時代を知るべきだとなる、でも実感として知り得ないから一方的に頭で判断する
そういうことは別に戦争でなくても戦前の生活でも江戸時代とかなるともわからないので必ず誤解しているのである、現在から時代を見るからそうなる

ともかく一時代の区切りは70年だということはあたっている
なぜなら明治時代から70年して太平洋戦争になり戦後の高度成長時代から70年して今がある、つまり70年過ぎると時代が大きく変わる、大きく変わらないと遅れとり衰退するということである
そして人生百年という時それがいい面と悪い面があるにしろいい面としては長期的な展望で生きれるとういことでもある
自分の場合特殊でも60までは遊びだった、旅行ばかりして60になりその後介護十年とかなりそのとき一時代が過ぎたのである、そして人生も終わりだとなる
何かふりかえると人生かこんなに簡単にあっけなくあっというまに終わるとは思っていなかった
無常迅速だったことは変わりなかったのである
でも70年生きたということはなんでもあれ誰でも一時代を生きたのである
ただ今の80以上90歳とかなると二つの時代を生きたとなる






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2019年08月29日

人間何のために働くのか? (金を払う方でもなぜ金を払うのかと考える)


人間何のために働くのか?

(金を払う方でもなぜ金を払うのかと考える)

youtubeのlove and freedomの40くらいの人がなぜ自分が働いているのかわからないという
ただ毎日とにかく食べるために働いている
それも日銭稼ぎでありただ日々生きているだけだとなりなぜ生きているのかもわからないとなる
もし家族があったら家族のために働くとなりそこに生きがいもできるから結婚したいとなる
働く理由はまず最低限の衣食住の確保のために働くことが強いられている
でももし最低限の衣食住が保証されていたら働かなくなる人が多くなることは確かであるなぜなら労働自体に今生きがいを見出している人はいないからだ
文明社会は複雑化して無数のパーツになっている 

だからどういうふうに関連して働くことに意義が見出されるのかとなるとわからなくなるみんな巨大な文明社会の部品に過ぎないのである
それはどんな優秀な人でもそうなる、
何か発明でも科学者でも昔のようにニュートンとか天才が出ないというときもそねうなのだろう、何か一人ではもう複雑化した科学でもそこで傑出したものとはなりえなくなったノーベル賞でも何か昔の天才のように傑出したものではないという
確かにそれは地道な基礎研究であり何か世界観まで変えるような発明はないと科学に弱くても見る

働くという時、それは例えば雇う人がいる、働かせる上司がいる、幹部がいて資本家がいる、金を出す方がいてもらう方がいる
給料を出す方でもなぜこの人に金を出すのか?そういうふうに考える
それ相応に見合ったものが得られから給料を払うのである
それで別に効率化するには人間でなくてもいい、AI化したロボットがいいとなり無人化した店になり鉄道だと無人駅が増えてくる
それは雇う人が給料を払いたくないからコストでそうなっているのである

ところが別に人を雇う方でもその働く意義とか理由を与えない、ただ雇われる人は金が欲しいだけだとしか考えない、だから雇う方も金のことしか考えない
働く理由とか意義などは考えないのである
そもそも何か理由とか意義とか意味を考えるのは人間だけである
一体地球が何で存在しているのか?宇宙が何で存在しているのか?
そんなことを問うのは人間だけである
動物なら毎日今日の食べ物しか頭にない、植物でもなぜ自分があるのかなど考えない
木がなぜここに立っているのかなど考えないのである
つまり人間が自然でもその存在意義を考え価値を与えているのである
人間こそが宇宙であれ地球であれ自然の木であれ石であれ花であれ意味を与えるのであるすでに名前をつけること自体なにかしらの意味を与えている

なぜ現代は働くことに意味を感じないのか?ただ金の量だけで計られるのか?
そして金を使う方に重点があり金を使うことが生きがいになるのか?
それで原発避難者が補償金をもらってかえって仮設に住んでいたのに威張っていたのである、「私たちはここで消費して助けているのよね」と言っていた
これが現代人なのである、金のある者が王様であり金をもって消費する方が王様になっている、としたら働く方に価値がないとなってしまうのである
こう言った人が変わった人でもなんでもない、そういう社会に住んでいるからそう言ったしそれが常態化しているからそう言ったに過ぎないのである
つまりいくら労働しても感謝されるということは医者くらいでありほとんどないのである医者だけは命にかかわるから過剰にその労働が評価されて感謝されているのである

今私が金を払う立場にある、別に働いていもらっているからではない

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親(介護されるひと)−息子(施設に一部金を払う)−母親(私か金を払う)

青森の施設に入れても他にいろいろな介護に使うものがあり金を払っている
息子は建築現場で働いている、親は自力で生活できない、年でもある
でもなぜ私がこの人たちに金を払わねばならないのか?
でも払っているから母親のために息子のためにその親のために払うとなるとなぜその人たちに払う必要があるのか意味が価値があるのか?
それを問うことにもなる、それは金は誰しも無償で払いたくないからそうなる
なぜ金を払わねばならないのか?逆になぜ働かねばならいのかということもあるが何もしてもらわないのになぜこの人たちに金を払う意味と価値があるのかとなる

家族だったら自分の場合は特別良くしてもらったのだから介護することも当然であり意味と価値があった、今になると介護して世話して良かったとつくづく思った
恩返しができたとなり何か良心的に救われたのである
もし何もしなかったら後悔していた、なぜならそれだけ自分の場合は60まで世話してくれたからである、その特殊な事情で少しでも恩返したことで死んでから死者と話したり通じることができる、もしそれがなかったら死者とも通じ合えなくなることがあったと思うあなたは何もしてくれなかったとなると良心がいたむからである

でも赤の他人の介護のためになぜ金を払うのか、直接払っていなくても払っているとなるそれは福祉で世話になるとかでもそういうことが起きている
直接払っていなくても間接的に税金を払っているからである
その人に払う価値があるのかとなることはぬきに強制的に介護保険とかで払っているのである、でもその介護される人が介護される価値と意味があるのかとなるとわからないのである、そういうことは問わないが私的に間接的でも金を払うとなるとその価値とか意味を問うことになる

いづれにしろ何で働くのかということもあるが何で金を払うのかということも必ずある
何かしら価値と意味を見出すから金を払っている
みんな簡単に金を払わないからである、特に情報関係では日本人は金を払わない
情報は無料だと思っているからだ、でも情報提供する方でも苦労があり手間がある
するとなんらかその情報に対して金がは払われるべきだともなる
たたインタ−ネットだとプログだと発信するにしても手間がかかってもほとんど無料だということでしているのである

人間はパンのために生きるにあらずというとき何か必ずその意味と価値とかを追求しているのである、現代では働く意味も価値を見出せないという時資本主義とかの危機となる
モラルの崩壊でありそこで資本主義も崩壊してゆく
なぜなら資本主義がキリスト教の奉仕するということで修道院から始まったというウェーバーの説がある、その時は消費することではない働くこと自体に意味と価値を宗教的なものとして追求していたからである
それがなくなったときすでに資本主義のモラルが崩壊して金融資本主義とかギャンブル資本主義のようになりもう意味も価値もない、強欲資本主義となりモラルもなにもなくなるただ金を得て消費だけすればいい、消費する者が王様だとなってしまう

それでこの辺では何かそういうことで露骨なもの極端なものとして現象化したのである
いわき市では二万人が避難して多額の補償金をもらい飲み屋で札びらを切ったとか家を次々に建てた、この辺でも新しい街が二つくらいできたように次々に家が建ったのである
それも立派な家も多いのである
それで地元の人と軋轢が生まれたこともわかる
つまり消費者が王様であり金をもっているものが上になる、周りの事情など関係ないとなる、金が横暴に力をふるったからそうなったのである
第一家は地元の大工さんなど関係ないからである
ハウス会社が二週間くらいで組み立てるだけの家だからである
地元だ自分の家でも三か月以上建てるのにかかっていたが今は即席に建てられるし地元の大工とは関係ない、外から来た人が即席に建てるからである

そして社会がグロ−バル化して広域化すると金の力がますます強くなる
広域社会でありどこにでも金があれば住める、もし金がなければ慣れ親しんだ所でも住めない、だから避難区域に若い世代は帰らないのである
一億円やるからどこに住んでもいいよとなればみんな故郷でも出ていくのが現代である
そしてどこでも金がある人が威張ることができる、消費者は王様ごとなるからである
そういうことでこの辺では人々の絆は切れた
和合できなくなった、まだ補償金をいくらもらったとかでもめていてその後遺症がありうまくいかないのである
外との絆があってもいづれもう今はない、すると残されたのは昔から住んだ人たちでありその人たちで絆を作っていかねばならないとしてもできない
後遺症があり簡単にできないのである 

そして新しく入ってきて住んでいる人たちが金をもっているから威張っているということが依然として起きているのである
そういうことはグロ−バル化広域化社会で起きたことなのである
それで復興を考えるには広域化して考えねばならないという時そうなる
現実は今や原発事故で避難した人たちが仙台辺りまで広域化して住んでいるからである
残された老人にしても南相馬市とか相馬市とかに新地でも住んでいて若い世代は仙台の方に住んでいるからである
それで老人はかえって避難区域に住まわせるより原町とかに集めた方がいいともなる
分散すると世話しにくいからである
コンパクトシティ化するということである、広域化社会だからかえって人を集中させて維持させるとなる





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2019年08月03日

損して得取れ (本当に得したことが得で損したことが損だったのか?)

損して得取れ

(本当に得したことが得で損したことが損だったのか?)

一時的には「損」しても、その損が将来の「得」になるのであれば、当初の損を厭うな、
という意味だと解釈している。目先の損得だけを考えて行動しても、トータルで(長い目で)考えれば損になることがある、ということを示唆しているのだろう。商売でよく言われる言葉だ

人間はとにかく複雑なのである、商売となるとこれも通じることはむずかしい
そもそも自分に商売とかビジネスを語る資格などない、経験もないし、実際失敗もしているから語る資格がない、だいたい芸術とかなる浮世離れしているところがあり語る資格がないとなる
ただここ十年いろいろ経験してそれで語っているのである
まず諺はこれは本当に真理のように普遍的であり人間の経験から生み出された教訓である、では今でもなぜ通用するのか?
それは人間というものがいろいろ変わっても本質的に変わらないものだからである

人間はまず損しようとしない、損するのが嫌なのである、損する人とは付き合いたくないのである、でもなぜ損して得を取れとなっているのか?
そこに経験から生まれた深い意味がある
ある人は事業を始めたが技術系であり商売のことは知らない人だったと思う
その家自体の家風がまたその人を染めたのかもしれない
ともかく一円でも絶対に損しないようにと身構える家だったのである
そして事業をはじめてもまず他人のために一つの物を運ぶこともいとう
ただでは何もしたくない、箱一つさえもたない、一円すら損することはしない
そういう家だったのである、そういう所で事業を始めたらどうなるのか?
何か嫌になるだろう、誰も接したくないともなる

別に損しろというのではない、とにかく相手のためにするというとき一円でも損したくないという身構えているのである
そういうことで商売が成り立つだろうか?
誰も確かに損して商売はしないしできない、でも何か損することがどうしてもある
でもその損することがまた得することに通じることもある
だから一概に損することにこだわると何もできなくなる
その辺の兼ね合いがむずかしいにしろ一円も損はしないぞという構えになると付き合いたくないとなるだろう
ただこの世の中損得に一喜一憂しているのが現実である
それはわずかの金でもそうである、だから誰も損したくない得したいと毎日必死になっている、それから逃れられないことは確かである

でも人間の不可解は「損して得とれ」という諺に現れていたのだ
つまり何が損か得がその時々で計れないことがあるからだ
その時得だと思ったことが損になりその時損だと思ったことが得になったということを経験しているだろう
例えば地銀で苦しいから投資信託を売るのはわかる、それで一時的会社はもうけたとかなる、だから得したとなる
でも銀行は信用を失うとかある、ゆうちょでも保険でそういうことがあった
今までゆうちょとか銀行は信用されていた、それで投資信託をすすめられても銀行がすすめるのだから間違いないと思って大損したばあちゃんがいたのである
銀行とかゆうちょはまず地域で信用を築いてきたのである
でもそれが時代でもうからなくなり変わった時一時的には会社の利益になり得しても
その次から信用がなくなる、銀行とかゆうちょはそんなものだったのか?
もう信用できないな、金をあずけることはできないなとかなることが怖いのである
それで一時的に得してもあとあとは損したとなっていたとなる

ただ損する行為は誰もしたくないのである、自分自身がなぜ働かないのに金を出しているのか?それが嫌になっている、まるっきり損しかないと思うからである
第一商売するにしても損していたら続かない、赤字になり倒産してしまうだろう
だから商売は多少の損を覚悟して資金の余裕をもってするものかもしれない
最初からぎりぎりの資金でしていたら一円でも損しないと身構えるからである
そうなるとかえって客もつかないとかなるからだ

例えば仙台から来たユニットバスを百万で作った会社は優創建は得させた
何か会社自体が損しているのではないか?
第一ガス会社では二百万かかると言っていたし地元の人に頼めば三百万にもなったかもしれない、だから本当に安かったし悪いものでもなかった
だからここだけは得したとなる
あとはみんな損することだけだった、金をむしりとられた奪われたとしかない、現実に盗まれたりもしたからである
その人たちはただ損することより奪うということだったのである
金に苦しんでいるからそうなった、相手が苦しいからこの際脅迫しても奪ってやろうとしかなかったのである
損も得もない、相手から奪おうとするときそれはすでに犯罪者だったのである
実際に罰せられるべきだったのだかそうはなっていない

でもとにかく人間の不思議は不可解は一見確かに得したと思っている、でもあとになると損していたとなる、これは今でもそういうことがある
何が得で損かわからないのである、例えば大きく歴史でも日本の戦争は負けたが三百万人も死んで負けたから国にとっては大損だったのである
でもその後の復興をみればそれが得に変わっていたのである
高度成長ができたのは既得権者を戦争に負けて一掃できたからだという人もいるからだ
国自体でも損したと思うことが得に変わることがある

そして人生そのものもがまた何が損か得かわからないのである
人生をふりかえって誰でも何か得だったのか、損だったのか?
それがわかるだろうか?美人と結婚したから得だったかなっているのか?
金持ちと結婚して得だったのか?それも最後になって見ないとわからない
人生の損得も計れないのである、損だと思ったことが得になり得だと思ったことが損になる、そんなこといくらでもある
得したとやったと思ったことが後で大損だったとかなる
結局人間は小さな損得に一喜一憂しているはかない存在だったともなる
達観すれば所詮この世の損得はどうでもいいことだったともなったりするからである
要するに死んだら損も得もない、一巻の終わりだとなるからだ
いくら富を積んでも来世にはもってゆくことができないことでもわかる
この世で宝を積んでもその宝も腐るし天に持ってゆくこともできないとなっているのだ

要する人間はどんなに得しようとしても結果的に得にならない
損しして得をとれというとき損が得になることがあるから経験でそう言っているのである得ばかり追求しても得になると思ってもならない、かえって損することにもなる
一時相手をだまして得しても結果的には損していたとかなる
つまり長い目で損得をみればそうなる、ただ人間は日々目の前の損得に追われているのである、だから本当に大きな得とか損をわからないのである
人生を総決算すれば本当に何が得だったのか損だったのかわからないとなってしまうのである

あの時損したとことが実は大きな得だったとかなりあの時得したと思ったことが損だったとなることなどいくらでもあるからだ
結局この世の損得は計れないともなる、だから損して得をとれという逆説が成り立つのである、そういう逆説が人生に必ずある、もしかしたら非正規とかロスジェネは割を食った損な世代だったとか言っているのもわかるがまだわからない
最終的にどうなるのかわからない、個々人でもわからない、結局何が損なのか得なのかわからないからである

正直自分の家にきて苦しい時、得しようとした人は絶対に成功はしない、自分自身のカルマであったにしろ相手も成功はしない
銀行ももう地銀とあれば地域に尽くすものだったかこれももう終わりなのだろう
北銀で農業に投資しているとか何か地域に役立つをことをしないと終わりになる

ともかく本当に損して得とれというときそれができない人は成功はしないともなる
一円でも損しないぞとか商売していたら人と接していたらその時点で失敗している
そういう人は事業するべきではなかった、雇われていれば良かったともなる
結局第一損得勘定からはじめる、絶対に一円でも損しないとしてはじめる
それより事業を始める目的は何なのか?それが大事だともなる
ただ得したい金を得ることだということがすでに失敗しているのではないか?
ただ得したいとなれば相手から金でも財でも奪えばいいとしかなくなるからだ
そもそも相手のために何か物一つもつこともしたくない、そういう人が果たして事業などできるだろうか?

社長として偉く見せたいというだけで事業ができるだろうか?
事業のことがわからないにしてもそのこと自体がもう事業する資格がないとなる
最終的にはそういう会社は消えるのではないか?
一時的なものとして泡沫のように消える、ただ事業自体が20人一人とか成功していない6パーセントくらいしか成功していない、だから何か動機があり真面目にやる人でも失敗している、でも最初から絶対に一円でも損しないとか何も動機がない、偉く見せたいためとか、そして他者のために物一つ持ちたくないという人が成功するものだろうか?
その人が技術系でありその技術だけに集中してやれば問題は起きなかった
そこで利を追及していれば何も損しないし問題も起きない、でも事業となると違っていたのである、結局事業起こすこと自体むずかしいからそうなったのである
そういう人は事業を起こすべきではなかった、社会の迷惑になるだけだった
その後借金して周りに迷惑をかけている

人間は日々目先の損得勘定で生活している、でもそれはいいとして大きな事業となるとまた違っている、損得を勘定しないで始めることも必要になる?一円でも損しないということで始めることはできないだろう
長期的視野をもたないとやれないのではないか?そういうことを言っているのもわかるのである、でも現実問題として利益があがらなければつづかない、だからある程度資金的余裕がないと事業ができないともなる
そこで大企業は豊富な資金があるから資本があるから有利だとはなる
一時的に損してもまた資金と資本があるから立ち直れることがあるからだ
個人事業主とかなるとそれがないからである
いづれにしろ(優創建)は安い、で損している感じにもなる、仕事もいい、だから成功するかもしれない、ただそれにしても事業自体がむずかしいからわからないとなる




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2019年07月31日

公務員の退職金も減らされている、給料も減っている (田舎の価値は金だけでは計れない、安定した職業も必要)


公務員の退職金も減らされている、給料も減っている

(田舎の価値は金だけでは計れない、安定した職業も必要)


公務員も苦しいとかやはり日本全体が落ち込んでいる
公務員でも正社員でなく臨時とかでも多くしている、その給料ではやっていけない
公務員はAI化しやすい事務的なものが多いからそういうことでも減らされる
公務員も安泰でなくなっている
この辺では原発事故で避難区域になった所では浪江とかでは激務でやめたいというのもわかる、こうなると公務員も楽な仕事ではないのである

公務員に興味をがあるのは家族が公務員だったからである、役所に勤めていたからであるそれで高度成長時期に退職した、その時2300万など退職金をもらっていない
一千万くらいだった、でもその退職金が貯金しただけで倍以上になっていた
7パーセントとか利子がついているからそうなったのである
その頃貯金していた人は本当に得だった、十年くらいで倍になったからである
今は銀行に貯金すると投資信託とかすすめられて利子をとられる
財産を奪われる、それはゆうちょでも同じだった
保険で金が奪われていたのである
こういうことは今までありえなかったのである
郵便局とか銀行は地域で最も信頼されていたからだ
公務員とにたようなものだった、公務員と郵便局と銀行と農協が地方で安定した職業だったのである

今例え2300万もらったとしても貯金してもその価値はない、価値が減ってくる
だから相当もらっているようでももらっていないのである
金の価値は時価であり物価とかいろいろな状況で変わっているからである
それて積立式の年金はだめだというとき今いくら金を積んでも年金をもらうとき数十年後には物価が違って金の価値もなくなる
100万積んでも30万とかなったりする、だから積立式の年金はだめだというのがわかる

公務員というとき年金は最初18万もらっていたから高かった、地方では最も高い
でもやがて16万になったからそれほどでもなくなったのである
ただ公務員は何かと得する仕組みがあったのである
それは高度成長時代は公務員ても民間が良ければ公務員もその水準になるからいいのである、もう今はこういう状態だと公務員もやはり民間と同じようになる
安泰ではなくなったということである

日本は本当に貧困化している、やがて発展途上国並みになるとも言われる
そしてまともに福祉サービスも受けられなくなる
老人ばかり増えてそうなる、それで衰退国家となってゆく恐怖がある
地方の就職先でもこうした安定した場所が奪われるとどうなるのか?。
何か地方で落ち着いて生活できなくなる

地方とは田舎の役割は何なのか?食料生産基地なのか?

地方は田舎は自然との共生の場であり例え米が売れなくても金にならなくてもそういう生業(なりわい)維持すべき所なのである
だから矛盾していたのは東電に生業(なりわい)を返せと裁判化したことである
でもこの辺では漁業者でも農民でも東電にその生業を売り渡したのである
生業というときその土地に生まれたときからある仕事のことであり受け継がれる仕事である、それは自然と共生として長い間千年以上つづけられてきたものである

それで田んぼがなくなったとき蛙もいなくなった、そして鷺もいなくなった

この時田んぼは米をとる場所だけではなく、蛙も鷺も活かす共に生きる場所だと自覚したつまり蛙も鷺も田んぼがあって餌となる場があって生きていたことを知ったのである
だから蛙の鳴き声が田舎の夜空に木霊した時、復興したと感じたのである
そういう場所が田舎なのである、それは食料とか生産するだけではない、金にならないとしても田畑が荒れるとそこは荒廃してしまう
現代はすべて金で価値を計るが金だけですべての価値は計れないのである
すべて金で価値を計ると原発でもなんでもいいとなってしまう
結果的にこの辺が生業でも自然との共生も自然も汚染されたとういことでそのことが現実になった、あまりにも原発に電気に価値を置き過ぎた結果だともなる
                                                              
公務員の役割はなになのか?
実はその住んでいる場所全体、自然にもかかわる仕事だったともなる
漁業でも農業でも林業でもそういう自然とかかわることも仕事だったのかとなる
何か全体のバランスを計るというのも公務員の仕事だったのかもしれない
だからこそ民間のように利益第一主義ではないものを追求できるとなるからだ

ともかく都会の人だと東京でも食料は外国から入ればいいという
だから日本の地方はいらない、田舎はいらない、金がかかるだけだとなる
地方交付税でも東京の人が払っているからだとかなる
これは暴論である、日本の国土形成からした全く日本の自然でも無視した危険なものとなる、そして原発は本当は東京に造ることが一番向いていたのである
でも事故になると困るからフクシマに離れた場所に造り安全を計ったのである
そして地方では自然と共生するものが漁業でも農業でも林業でもだめになり原発は歓迎されたのである

そしてまた地方の田舎の価値は経済的なものだけではない、精神的なものとして地方が田舎がはぐくむものがある、文化が生まれるのは都会のように見えて地方なのである
ヨ−ロッパでは地方都市が国家となりそこが栄えてルネサンスとか生まれたことでもわかる、小規模の地方都市が文化をはぐくむにはいいのである
cultureはcultivate(耕す)である、地方でこそ田舎でこそ文化が育まれるのである
何か最近銀行員が農業の育成にかかわるというのも苦しいけど農業にかかわり余った金を投資して地方を活性化するというのはいいことである
でも農業は金にならないのである、でも農業にはそれだけではない付加価値が大きいのである、でもそれは金として評価されないことが問題なのである
東京とかの人にすれば安いいい食料が入ればいいとしかないからである

例えば価値とはいろいろありストリーも価値となる、アセリプトを発明した人の話はそうだった、あんなに苦労して作り出したものだと知る時価値あるものとして意識するからだでもスーパーに並ぶ食料を刈っても安いかの高いのかとしか意識しないのである
そうなれば外国産でもいいとなってしまう
価値を計る尺度を変えることも必要である、金で計れない価値にこそかえって大きな価値がある、例えば景観などがそうである、それは金にならなけどその景観がなかったら索漠としたものになる、それが都会のビルの谷間で暮らしている人なのである
そこになごみも美もないからである
とにかく田舎の価値は食料基地だけではないのである

だから何か地方は田舎は安定した職業が必要だとも思う、あまりにも競争にさらされると地方の田舎の良さが奪われるのである、そして原発事故は田舎の良さを本来の価値を根こそぎ奪ったのである、生業を奪ったのである
私の場合は芸術的に田舎の価値を追求してきたのである
ただ私の問題は畑があるとする、すると畑の野菜とかに注目しないで花が咲いていていいなとか見ている、でも現実に野菜を作るとなると毎日草取りであり汚い仕事にもなる

でも花だけを見ていいなと見ていると都会人的だともなる
都会の人が田舎に来ていいと思うのは自然があり花が咲いていていいなとなるからであるでもそこで農業するとなるともうやっていけないとなっていたのである
それは農業とかの価値が食料にだけあると見ているからなのである
それ以外の景観とか自然の共生とかは省かれて野菜の値段とか米の値段ですべてを計っているからそうなる
ジントルマンというとき田舎に住んでいる貴族だった、田舎こそ文化を育むジントルマンが住む場所だったのである、ただ矛盾しているのはそのジントルマンも都会にロンドンとかに住まいがあり田舎と行き来していたのである
ただ田舎を本拠地として生活していたのである

人間生きるというとき何らかの価値を追求しているのである、その価値をすべて金で計ることはできない
金を得るにしても金を使うにしても価値を追求している、その価値が何なのか?
本当にそこに金を得るために使うための価値があるのか?
だからこそ東京とかには田舎と比べて価値は無だとさえなる、そこに自然の美とかが全くないとしたらそうなるのである







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2019年07月26日

資本主義が終わりー国々の文化力の再発見開発の時代へ


資本主義が終わりー国々の文化力の再発見開発の時代へ

資本主義では金を増やすことを望む、金を増やすためにはどうするのか?
投資する、投資するとはそこでもうけて利益を増やして金を得ることである
その金を運用するのが銀行であり資本主義の中核としてあった
銀行が金を生み出していたからである
銀行はゼロから貸し付けてその借用書が紙幣になったというとき何もないのに金を増やすことができる
でもその金が増えすぎると使われないと経済は停滞する
でもなぜ今銀行がつぶれるとかいうのだろうか?
銀行には金はある、金が余っている、その金の使い道がない
投資先がないのである

それは世界的に起きていることである、世界で金が余っている、でももう世界経済が成長しないというとき金余りでありその金が活かされない、投資先がないからである

日本の海外債務が主にアメリカにありドルとして

対外純資産残高は328兆4470億円と3年連続で減少したが、27年連続で「世界最大の対外債権国」という座を維持した。

対外純資産がたくさんあるという事実は、見方を変えれば「日本国内に投資機会がない結果、外に出るしかなかった」ことの裏返しでもあるため、日本を語る上で憂うべき論点も多く含んでいるだろう

民間に米ドル相当の資産が150兆円以上あることも大変な強みだ。国の外貨準備高を合わせて300兆を優に越える。これらは一気に換金するとドルを始めとした通貨が暴落するし日本の信頼性の問題が問われるから実行する事はないものの、いざというときには換金出来る。言うまでもなく米国は世界最強の国家で、ここより安全で安心できる投資先はない。

アメリカの強みは軍事費が世界で突出している、軍事国家なのである
日本は経済国家である、アメリカの信用は軍事国家であることでドルが基軸通貨になっていることである
でもドルが紙屑になるというときそのドルの裏付けのアメリカ経済が弱体化しているからである
つまり金は資本主義での金は常に増大することを望む、金が金を生むことを望むのが資本主義なのである

でも世界経済の成長は頭打ちとなりもう成長しない、とすると金の行き先投資する先がない、だから銀行に預けても利益を生まない、利子が払われないのである

つまり銀行の用がなくなる→銀行はいらない→銀行員の大リストラ

こうなったときもう資本主義は機能しない、投資先がない、それで資本主義が終わりだとされる
その行き詰まりを打開するのに軍事力で突出した軍事産業の占める割合が多いアメリカは戦争を起こす、するとそこで戦争が投資となりアメリカ製の武器が売れる
景気回復するとか怖いことになり実際そういうことが行われてきたとされる
そこで人命も失われたのである

経済が行き詰まる→戦争になりやすい

それはドイツのナチスでも失業者が増えたとかなり戦争に突入した
失業者を戦争が吸収したとなる、日本でもアメリカの経済制裁で追い詰められて戦争に突入したとされる
経済的に追い詰められた国は人間でもわずかの金でも奪うし強盗でもするし人を殺す
借金していると借金を返すために犯罪を起こす、借金が犯罪の動機になっていることが多いのである
そういうことをこれまで嫌とういほど自分自身が経験したので恐怖となった
経済的に追い詰められた人たちが介護とか病気になったとき弱者化したとき襲ってきたからである

今やどこも経済不況とか停滞に陥り危険だとされる
アメリカもそうだし中国も韓国も日本もそうなのである
世界同時不況、世界恐慌前夜のような様相を呈している
つまり資本主義自体が機能しなくなり崩壊しつつある
世界的に経済成長は見込めないのである
それで資本主義の終わりだとみんなが言うようになる

つまり経済成長がない資本主義はありえないのである
だから資本主義は終わりだとなる
では次に来るのは何なのか、経済成長がない投資先がない社会である
だからこういう時代は文化の時代にもなる、文化の価値は物を増やすとか生産するとかとも違う、例えば日本でインパウンドで外国旅行者が増えたというとき旅行は文化的な価値を求めるのでありそれは何か物を生産するとか技術を開発するとかとは違っているのである、その国の文化を見るのが観光だからである

国を見る時確かにGDPとかでみる、でもその中身は技術力でありもう一つは歴史文化力がある、歴史ある国はヨ−ロッパでも中国でもインドでも文化力がある
オーストラリアなどは歴史がないから文化力がない、アメリカでもそうである
資源があり国が広大であり経済力技術力があったとしても文化力に欠けているのである
おそらくこれからの時代は世界で経済成長が望めないとしたら文化力の時代になる

だから一方でこれからますますグロ−バル化するから英語は不可欠だとしている
でも文化力にシフトするとき英語のように商業語だけでいいのか?
そこには文化力がない、確かにそれで経済力を高めることはできる、でも文化力は英語にはない、日本語あって日本の歴史と文化がありその価値が高まる時代になる
明治維新からは開国の時代であり富国強兵とか経済力の時代だった
それは太平洋戦争までつづきその後も経済成長の時代でありそれがバブルで日本は崩壊した
経済成長はあるところで限界にきてとまる、それが今は中国でそうなっている
そして世界的にももう経済成長はできないのである
そして資本主義が機能しなくなる、銀行が不用なることがまさに資本主義の終わりを象徴しているのである

何かだからこれから中世の時代のように内面化する、宗教とか哲学とか芸術の時代になる経済成長は世界的にもうできないからである、するとその国々に住んで文化力を高める時代になる、文化力はその国の風土と歴史から作られる
ただ文化というとき幅広いから必ずしも芸術とは限らないのである
農業に回帰するというとき農業は文化の側面がある
なぜならcultureはcultivate(耕す)から出た言葉だからである

なぜそうなっているのか?
つまり農業はその土地土地の地味に作用されたり風土と密接に結びついているからであるワインでもその土地土地の名がついていたり日本の米でもそうである
味が違ってくるからである、日本酒が世界で売れるという時もそれは日本の風土と歴史で培われたものであり文化力なのである、単なる物の販売ではないのである
とにかく文化とは幅広いものでありそれを風土に根ざして再開発再発見してゆく時代なのである

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2019年07月18日

ロスジェネ氷河期世代(40才前後)の苦境 (金がなく結婚もできない、将来に夢も希望もない底辺)


ロスジェネ氷河期世代(40才前後)の苦境

(金がなく結婚もできない、将来に夢も希望もない底辺)

その人は建築関係の会社に勤めている、正社員なのか?派遣とも違う、一つの会社に勤めて現場に派遣される
今は青森に行っている、青森というとこの人の父親が介護のために南相馬市から送られた場所だったのである
その人が嘆いているのは安い施設に入れてもその後にたりない分が要求されることであるでも親だから金を出している
そしてもう一人その母親も困窮している、だから金をせびる
でもその人はそんなに収入がないのである
でも親に金をだしていることで感心するとはなる
自分は介護しても親に働いて金をやったことがないからだ
実際は結婚して子供をもっている兄弟がいるがその人は父親にも母親にもかかわらないのである

この人は40代でありロスジェネとか氷河期世代である
ただこの人は別に建築現場があっているからしている
他のサービス業を嫌っているからである
だから必ずしも不本意にその職業についているわけではないから事情が違う
一方でlove and freedomの「底辺労働者」テーマにして訴えているyoutubeの人は不本意についた職業だから派遣だから不満なのである
貧しくても結婚したいができないとしているからだ
この世代は現代の日本社会のブラックでありそれが社会を歪めている
世代によって運不運が大きいのが人間である
まず戦争中だったら特攻隊で20代で死なねばならなかった
それが嫌でもどうにもならなかったのである

つくづくこのyoutubeに私が関心があるのは人生をふりかえると40才が最後の転機だったことである、自分の人生は参考にはならない
普通の家庭環境では違うし何か特別恵まれていたからである
この人は不幸な家庭環境で育ったからである、でも大学を出ているからインテリなのである、子供の時親に特に母親に承認されない人は一生自信がなく育つというのは本当であるなぜこの世代が問題なのかというと将来60以上になると年金ももらえないとか今のままに貧乏をひきづるからである
そして独身が多いから頼る人がいないで孤独死となる、この人も身寄りがないから同情する、誰も助けてくれないというのは本当である
現代とは情が喪失した社会である、日本人にあった人情などなくなっている
それで金さえあれば未来を開ける、結婚もできると嘆いているのだ

この人がなぜこうした重圧感にあえぐのか?
それは40という年なのである、もう人生は決まったとなり将来がないと見る年代だからである、40というのはその人がもう何でも見える、決まるという年である
その年で結婚していないとか子供もないとかなると会社でも社会でも信用されないとなるこの世からはずれた人ととなる
私が言っているアウトサイダーをあてはめることはできない、それは特殊な才能があり芸術家のことなどをさしているからである
これだけ数が多いということはその人たち普通に暮らしたいのである
結婚して子供をもち貧しくても楽しい我が家をもちたいのである
それができないから絶望的になっている

知っている人も結婚はしたくないというが本音は違っているというのもわかる
結婚したくても金がなくてできないのである
金がないから収入が低いから女性が相手にしないのである
結婚して子供を育てる金銭的余裕がない、経済力がないからである
それだけ日本社会は貧乏になっているとういことである
これはますます深刻になり治安も悪化する

何か今日はアニメ会社で放火があり10人死んだのか大被害が出た

この犯人は41歳だった!

この人も何か40才という年で事件を起こした
何かこの年に問題があったのか?
40歳で人生にキレタのか気になる
まず40才から50歳になったらもう結婚もなにもない、人生終わりだとなる
私の場合は50歳からバックパッカーになっていたから終わっていなかった
そこでやっと見聞を広めることができたのである
だから別に40歳で人生が終わるわけではない
私は60から十年介護してそれからこうして盛んにプログで発表するようになったからだ長寿の時代は鼻開くのは60以降とか70以降にもなる、人生百年となればそうなる
そうはいっても40歳は人生の分かれ目となる
一般社会ではもうその行く先とか評価は決まってしまのである

それで底辺労働者として一生終わり最後は孤独死だとなり夢も希望もないとなる
私の場合は別にそういうことはない、今自分自身の時間は充実している
今まで貯えたものがあり詩などの創作に熱中しているからだ
学問でもそうである、孤独ではあるが最後に実りがあるなとつくづく思う
人によってその時期が違う、早い時期に才能を開花する人も天才もいるからだ
いつづれにしろ40歳前後は社会にとって大きな問題をはらんでいる
これもニートとかと同じように数が多いからそうなるのである
数十人なのかアウトサイダーなどは放っておいても何の問題もない
でも数百万人もいるとなると放っておくわけにはいかないからみんなの問題になるのである

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2019年07月12日

 実力ある人のみ生き残る時代 (銀行員でも弁護士でも医者でも頼める優秀な人がいない・・)


  実力ある人のみ生き残る時代

(銀行員でも弁護士でも医者でも頼める優秀な人がいない・・)

何か頼むにしてもその頼む相手が問題になる、それか人間社会で日常的に起きてくる
大工でも修理を頼んだが直っていなかったが金ばかりとられた
一方で仙台から来たユニットバスを請け負った会社は百万で作ってくれた
それはいいものだったから得だった、ほとんど損した
小高の庭作りしてくれた大工さんは優秀だったから良かった

地銀に投資を頼んだがそれも損しただけだった、第一銀行自体証券会社でないから素人並みである、そんなところに頼んでももうけられはずがなかったのである
ただ適当に客のことなど考えないで投資しただけである
投資したら損しようが地銀では関係ない、地銀には手数料が確実に入るからだ
地銀は一切リスクはとらない、では本当にそうなのかとなるとそうでもない
銀行は信用を失ったしその後に影響してくる
銀行はそんなものだったのかとなり銀行にまかせたら金とられるだけだと警戒するようになる、これが高度成長時代だったら銀行も楽だったのである
銀行に貯金してもらえば利子がつきますよとなりみんなあずけたし銀行は地域では信頼された安定した職場だったのである

でももし銀行員の営業の人でも優秀だったら別である
証券のことを知っていれば儲けさせる確率が大きくなるからだ
でもそういう人は銀行にはいないのである
そうしたらもうけることなどできないのである
つまり証券に株式に通じている人はいないのである
そういう人に頼むことはできない
ただ金持ちはフィナンシャルプランナーとかを個別に雇い投資をまかせる
でもそのフィナンシャルプランナーにリスクがある
損したらもうけがないとかなる、もうけたら一割でも二割でもそのもうけたなから収入となる、だからそれは相当に投資にたけた人でないとできないのである
まず地銀クラスには一人もいない、そういう仕事が地銀の仕事ではないからである

地銀の仕事はyoutubeで今日見たようなことである

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これまで金融庁で中小企業をつぶれないように援助していた、でも限界に来た
そして地銀自体が収益が悪く倒産するということで援助しないとなった
これももう追い詰められているから大目に見ることができなくなったのである

このように中小企業が大倒産の時代になる、その数も多いのに驚く、こんな数の中小企業が倒産してゆくことは確かに地銀にとっても衝撃が大きく地銀自体が倒産してゆく時代だと言っている
それだけ今の地銀は厳しい経営状態にあり先がなくなっているのだ
そういうふうに追い詰められた個人でも団体でも会社でもかかわることは危険になる
もう生き残るために善悪もなにもなくなるからだ
銀行でもゆうちょでもブラック化してゆく、投資信託でも無理やり売りつける
そもそも素人の知識しかないのに売りつける、ゆうちょでも簡保でも不正をしていたというのがそうである
ノルマを果たすために行員に無理やり保険でも老人に売りつけていたのである
老人もゆうちょをもともと信用していたからである

今の経済は社会は身近なところ崩れてゆく、その時モラルもなにもなくなる
事業失敗した人がそうだった、追い詰められているからとても人のことなど考えていられないのだ、そういう人が自分が病気で介護の時来たから最悪だったとなる
銀行もまた同じだった、追い詰められて余裕がないから客のことなど全く考えられなくなっている
オレオレ詐欺のようになってしまう、堅い職業の銀行までがそうなっいることはやはり日本の経済は危機的状況にある、地域の経済でもそうである

交通事故でわからないから弁護士を頼んだ、でも最初に相談料として100万要求された何か事件を解決したわけでもない、裁判になったわけでもない、ただ相談料としてそれだけ要求されたのである
それは仙台の弁護士だったのである、それを頼んだのは親戚だったがこの人も全くあてにならない人だったのである
つまり頼んだ人があてにならない→その人が頼んだ弁護士もあてにならい、金を不法にとったともなる
こうして頼む先があてにならない、信用できないとかなると必ず損するのである

中小企業の大倒産時代にそれを引き受けてうまく倒産するというか事業を維持させることは相当に熟練した弁護士でないとできない、その計画を明確に提言できる人だという
そういう弁護士はまれだという、それだけその事業を倒産させるにもノウハウがあるが
それをできる弁護士は本当にまれだとなる
つまり弁護士の資格をもっていようが医者の資格をもっていようが本当にできる人はまれなのである
第一資格といってもそれは実際の社会で通用するわけではないのである
資格はとれても実際の社会で通用しないことが多いからどういう経験を積んだか履歴を会社でみるというのもわかる

いづれにしろ今や日本経済は厳しい状態に突入している
会社でも優秀でなくても年功序列で終身雇用で一旦会社に入れば安泰の時代は終わった
もう大企業でも不要な存在は容赦なく切り捨てられる、そうしなければ生き残れないのである、ただこういうときは本当に才能があり実力がある人はいい時代になる
高給で大企業でも若い人を待遇する、でも不用な45歳以上はリストラさせられる
会社にも余裕がなくなったのである
ただ銀行員でもフィナンシャルプランナーとかで個人的でもなれる人は生き残れるがそういう人はまれである、それだけのプロとなるとまれだとなるからだ
だから本当に実力社会になったら極少数の人しか生き残れない
特別優秀な人たちと多数の普通の人たちに分かれる、格差社会になる
そういう変わり目に時代は突入しているから厳しい時代になる
会社に入れば安泰だという時代は終わったのである
大卒だからだと学歴もあてにならなくなる、大学で評価されるのは理系の一流とかに準じる大学だけである、その他は文系だと評価されにくい、大学出ても実力社会では通用しない、学歴は通用しなくなる

こういう時代をどう生きるのか?
教育も見直される、暗記とか受験とかそうした勉強しても実力社会になると通用しない
資格をもっていてもそれでその人が優秀だともならない
医者でも弁護士ても選ばれる時代になるとそうなる
要するにでは選ばれる優秀な人になるのにはどうするのかということである
教育でも今までのやりかたでは通用しない、やはり何か創造力を鍛えるとか暗記ばかりではない、独自性を発揮させるものを追求することだとなる
既定路線にのって安泰な時代は終ったからである


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2019年07月09日

今を反映している一田舎の生活状態 (年金不足、介護、高齢化、外国人労働者 地銀の危機)


今を反映している一田舎の生活状態

(年金不足、介護、高齢化、外国人労働者 地銀の危機)

一人の困窮者がいる、その人の息子は40くらいで建築関係で働いている
独身である、非正規というのではなく会社に勤めているとはなる
その息子の父親は介護状態になり南相馬市では介護士不足で世話できず青森に送られた
その後も安いとしても金がかかり嘆いている
その母親はもともと困窮していた、だから余裕がない
そして腰が悪いとか体も悪く70近くになっている、でもどうして相馬市まで普通の自転車で行けたのか不思議である                   

草取りするとかがむので腰をいためることはある
その女性が畑をもっているがその前の人は腎臓悪くして死んだ
隣の畑は家の人に車で乗せられて這って畑仕事していたができなくなって荒地になった
隣と前は荒地になった、この辺は震災以後原発事故にもな耕作放棄地が増えた
多少は回復しても田畑を維持することをあきらめた人が多い、高齢化もある

何か不思議なのはネパールの女性が三人ほど福装で働いている
その人が良く土手の道を通る、ネパールの男性の人がホンダで修理工として働いていた
それげ日本に長いから奥さんを呼ぶと言っていた、4000メートル級の所に住んでいるから驚く
他にベトナムとかから来ている、仮設の食堂していた人は中国人の女性と結婚して店を切り盛りしていた
この辺は外国人が多いという時、まだ震災以後原発関係の仕事がある
それでベトナム人が知らずに除染関係の仕事をさせられて問題になった
中国人に連れられたきたベトナム人を駅でみかけた
中国人がそうした外国人労働者の手引きをしている

困窮している老いた女性がパンクした、そのパンク代が払えない、それで金をせびりにくる、今はつけで物は買えない、その人は昔のようにその日暮らしである
最底辺なのである、老人で年金をもらえずそういう人が増えている
その自転車屋にしても病気であり60越えていたから年だった
技術的には若い人が今に適応しているからいいという
でもどこでも年寄りが多くなっているのだ、そしてその人も跡継ぎがいない
娘はいても東京とかにいる、そういう人がまた田舎では多い、もう一人の人もそうだった跡継ぎは中小企業でもいなくなり農業でも漁業でもいなくなり続けられないとなっていた相当な中小企業が日本からなくなりGDPを引き下げるという

そうして同級生でも二人が脳卒中になった、一人は足が悪くなった
その人は一人暮らしである、弟が一週間に一回来ている
一人暮らしの人も増えている、自分自身がそうであり不安になる
団塊の世代は75以上になると病気になり介護する人が増大する、しかし世話する人手がたりない、いい施設があっても人手がないから青森に送られる

地銀がきたが地銀がすすめた投資信託はもうけることはできない、かえってリーマンショックのとき半分に減った株を元にもどして上がる時投資信託に銀行員が回して損した
銀行員はもう地域で用なくなってくる
投資先がないからそうして銀行では絶対損しない投資信託をすすめるのである
これは手数料が確実に入るおいしい商売なのである
また転売するとまた手数料が入ったり売ったり買ったりするとそこで額が大きいと手数料が入るのである、銀行はもうかつての銀行ではない、銀行員は大手もやめている
それは資本主義がゆきづまって終わりに来ている象徴でもあるのかとみる
大手のメガバンクの銀行員が仲間からやめる相談を多くの人から受けているという
銀行はもうその用がなくなりつつある
そうなると銀行自体が害になってくる、なんとかもうけを出そうとしてあこぎなこともしてくるから害になるのである
大企業でもリストラされる時代になっているからもう安心して終身雇用などなくなるのである

ともかくこの状態は現代の日本の状態を象徴して自分にも起きていることなのである
日本は閉塞感が強くなり外国に働きに出る人も増えているという
そして経済的には江戸時代にもどってくるのかもしれない
服のお直し屋さんがはやっているという、新しい服を買うのではなく直して使う
その技術も高いので直しても使えるという
それはリサイクルとか江戸時代にもどることである
そういう経済感覚が時代を変えてゆく、ミニマム生活とかもそうである
大量生産大量消費の時代は終わる

この情報をyoutubeで得たということが自体が情報環境でも変わったことなのである
もうテレビでも新聞でも雑誌でも情報の主流となる時代は終わったのである
youtubeでは個々人の経験を語っているからである
こうして自分自身が自分の状況を語っているのもそうである
そこに今の社会が如実に反映されている

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2019年07月02日

元銀行員の生き残り戦略としての地方移住のプログで思ったこと (田舎志向と都会志向)


元銀行員の生き残り戦略としての地方移住のプログで思ったこと

(田舎志向と都会志向) 

元銀行員のプログ


●産業革命による世界的異常な人口の増加

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1802年 10億人
1927年 20億人
1961年 30億人
2015年 73億人

人口が日本の戦後から世界で倍増している、グラフをみても人口は世界で増えていない
産業革命があり突然鰻上りに増加した
日本でも江戸時代は3000万とか明治で4000万とか大正で6000千万でありその時東京は百万くらいでありそれで都会まで讃歌されていた時代があった
その時の人口でいうと新潟県の人口の方が東京より多かったのである
まずこの人口からして産業革命のもたらした影響は甚大だった
これだけの人口が増えるということは世界でも地球環境でも計りしれない影響を及ぼしたのである、だから少子高齢化というけど人口が減ることはこうして極端に増えたことの揺り戻しであり異常ではないともみる

要するに世界的にみてもグロ−バル経済となり世界的環境破壊が起きても当然だった
そこに資本主義が絶大な力を世界で振るうようになった
それが世界的環境破壊になった、貴重な熱帯林でも破壊されてオランウータンの住む森が破壊されて住めなくなったとかある
木材資源として森は切られたのである、またそういう技術があり根こそぎ森が破壊されることにもなった
原発でも二酸化炭素を出さないとか言われたが事故でわかったように環境を致命的に破壊して人を住めなくしたのである
ここで多国籍グローバル企業が国より大きな力をもち開発した
その多国籍企業に資本主義によるマネーが流れたのである、そこに銀行も投資した
銀行はグロ−バル経済の中で投資されるのと地銀とかとは別である
メガパンクだと武器製造会社とか悪徳ビジネスといわれたものにも投資して株主となりもうけたとかある

そして今なぜ資本主義が行き詰まっているのか?
それは当然ではなかったか?もうこれだけ人口が増えて環境破壊もされるとき地球が悲鳴を上げているとなる、地球の資源は限界でありこれ以上資本を投下して開発したらもう住めなくなるとまでなる
人口も限界にきている、何か地球全体で成長とか発展は望めなくなっているのだ
だから必然的にダウンサイジング縮小経済に向かわざるを得なくなる
これ以上経済成長することは地球で許容できないところにきているからだ
すると銀行が投資先がなくなるとか用がなくなるということはまさにそれを示している
資本主義と銀行は密接に一体化していたからである
資本を投下する、資金を集めて投資するという資本主義の基本ができない状態になっているからだ、それで銀行はいらないというときそれは資本主義が限界にきているからだ
むしろ江戸時代のような小規模の助け合いのような頼母子講とかの金融が別な形で必要となる時代である、それは中世への逆戻りだということにもなる

●田舎志向が増える時代?

田舎志向が増えるという時、都会より田舎へ心でもシフトしてゆく、モノより精神的豊かさを求めて田舎志向になる時代ともなる
つまり経済成長とか量だけで計る経済から質で計る経済生活を志すとき田舎志向になる
もともと林秀彦が言っているように大陸国家は量の文化であり日本は質の文化だとてしている、大陸国家は中国でもあれだけ人が多ければ数で圧倒する国である
その大陸の広さと量で圧倒する文化になる、それは大陸で共通している
日本のような狭い国では質を追及するとういのもわかる
細部にこだわるというのもそうである、巨大な神殿とか大聖堂は建てられないのである

奇妙なのは都会人に強烈に田舎に憧れて田舎志向になる人がいる、山尾三省などがそうだった、こういう人は田舎に住んでいる人より田舎志向になる
都会が嫌になり田舎を渇望してパンすら贅沢だとしていた、最低の原始的生活をして妻も本人も60数年で死んだ、今なら早いとなる、それだけ過酷だったともなる
こういうふうに強烈に都会に住んでいたものが田舎志向になる
逆に田舎の人間が都会志向になる、東京に憧れる、そして現実は田舎に住んでいる人は都会志向が多いのである、なぜなら田舎の人は東京と同じような生活をしたいとして家と車を競っているからである   

家でも借金しても立派な家を建てる、クルマでもいいものを持ちそれが田舎のステータスになっているのだ
だからこそ原発でも金になるから歓迎されて積極的に誘致されたのである
その時双葉とか大熊辺りは働く場がなくて出稼ぎ地帯だったから地元で働く場が欲しいとなり原発を積極的に誘致したのである
原発は金の成る木だったのである、それは漁業者でも事故前も補償金が入り船主が原発御殿が建ったとかうらやましがられていたのである
事故後もそうである、補償金は継続されるから金に困ることはないのである

つまり田舎だから田舎志向だとはならない、田舎はむしろ都会志向が多いのである
だから農業は金にならないとかやらないで耕作放棄地が増大した、震災以後この辺は荒地がまだ多いのはそのためである、高齢化で田畑でも跡を継ぐ若い世代がいないからであるそれは中小企業でも跡継ぎいなので廃業になるものがふえて日本経済への影響が大きいのである 
田舎志向の人は田舎ではかえって少ないともなる
事業した人も都会の金持ちの人をねらい別荘とかを提供するとか言っていた
事業の趣旨がそもそも都会志向であり田舎の土地を活かして農業するとか何かそれに付随するものをするとかはない、ただ都会に金持ちがいるからそこで金儲けするというのが趣旨なのである、これなども都会志向で事業を起こしたが失敗したのである

つまり田舎にはこうして事業するにも都会志向が優先になることが多いともなる
なぜなら里山資本主義で農業とか言っても林業とか漁業自体が金にならないとそれを受け継ぐ若い世代がいない、だからこそ原発は歓迎されたのである
だから田舎でも都会志向であり田舎志向の人は山尾三省のような変わり者になる
なぜなら田舎で車をもたないものはすでにそう見られているからだ
あいつはクルマももてない劣等者だとされるからである
パンも食べられない田舎に住むことを望む人間はいない
もっといい家もっといい車もっとうまいパンを食べたいもっとうまい・・・を食べたいとなっているからだ

●田舎の人はかえって都会志向である

このプログの主は銀行員だったが相当に田舎志向でありもともと田舎に住むことに適していた人だと思う
田舎に住んで田舎に適していなものも多い、だからみんな田舎に適しているとはならない田舎に住んでも田舎の人でも都会志向の人が多いのである
それがわかるのは別に仕事でも会社員がほとんどであり農業とか漁業とか林業に従事するのは一割とか少ないからである
だからこの人がクルマを持たないとか家は空家を活かすとかしているのもわかる
そこに都会志向がない、田舎志向を生活で実践する
それはそもそも田舎に住んでいるより田舎志向なのである

正直田舎がいいことばかりではない、田舎で人間関係は実際は嫌であり自分自身もだから田舎の人とかかわらず住んでいた、家族がいたから自分は何もすることがしないからそうできていたのである
でも家族がみんな死んだとき自分一人あらゆるものがふりかかってきて嫌な思いをしたからである、田舎の人は人間的にいいとはならない、むしろ都会の人が助け合ったりすることもある、田舎は姑息であり人情がないともなる
それは日本全体が外国暮らしから帰って暮らしたことでそういうことを痛烈に感じた人がいたからからわかる
今や日本人が情があるなどないのである、田舎でもそうである
だから田舎でいいとして暮らせる人はまた人によるとなる

ただ人間には都会志向と田舎志向が混在している
この辺では仙台が都会であり都会を味わうのは仙台だとなる
私が一週間に一回でも仙台に行っていたのは本を買うためだった
本が田舎では売っていないかったのだ、もうベストセラーとかしか置いていない
それもくだらないものだったが冠婚葬祭の手引書が百万部売れたとかあった
つまりくだらない本でも本屋に置かれるものは売れたとなる
それはそもそも本が田舎には置いていなかったからである

専門書など置いていない、この差が今ふりかえると大きかったなと思う
知的な要求は満たされない、非常に狭い範囲でしか物を考えることもできなかったと思うそして今になるとインタ−ネットで大学の学術論文でも読めるとなるとこのい差は大きいまずそういうものにはアクセス不可能だったからである
そこに厳然として田舎と都会の差があった、他にも物を買うことでもあった
今でも自転車は新しいものを知ることがむずかしい、仙台だと実物が置いてあったりするが田舎ではないからだ、東京辺りだと試乗もできるらか違っている
自転車は通販では買えない、修理とかあるからだ

いづれにしろインタ−ネットの普及は田舎でもこうした知的分野では追及できる
発信もほとんど無料でできる、だから田舎で知的に情報分野で遅れるということはなくなったのである、ただ人と直接会うとういことでは田舎では知的な人と会うとういことはまれである、でも本にしてもこんなにあるということに驚いたのである
それで今になって遅いが本を一か月10冊以上買っている
それも古本で安いのがあるから買えるのである、別に安くても内容があるから同じなのである

●田舎志向と都会志向の人の住み分けが必要?

だから田舎に住んでいると人は田舎志向ではない、都会に住んでいる人で強い田舎志向の人がいるし田舎に適している人がいる
だから

田舎に住んで都会志向の人は都会に住むべき

都会に住んで田舎志向の人は田舎に住むべき

こういう住み分けが必要なのかもしれない、なぜならそうしないとこの辺のように限りなく欲望を満たすことを望みそれが原発を積極的に誘致するようになるからだ
そういう人たちはかえって都会に住むべきだとなる、そうしないと田舎が田舎として保てないのである
ただ田舎でも都会志向があってもいい、でも限度がある
田舎に住んでももう欲望はきりなくみたそうとする、それが結果的に原発事故にも通じていたのである
そして別に故郷に愛着あると田舎に愛着をもつとかない、補償金をもらったかえって都会がいいとして若い人は流出したのである

そもそも田舎の若い人は都会志向が強よかったのである
一億円もらったらこんな田舎出て行きたいという人が多かったのである
だからかえって原発事故で補償金もらってチャンスとなって出て行って帰ってこないのである
そういう人は最初から田舎に住むべきではなかったのである
そういう人たちが住んでいるとまた何か原発事故とかこんなしょぼい田舎に住んでなにいいことあるんだとかなんとか不満があり原発を作れとなる、現実に大熊町長は原発再稼働を望んでいるからでる
要するにそういう人達が多いから町長もそうなるのである
田舎に住んでいてもむしろ都会にもともと住むべき人たちが田舎に住んでいることが問題なのである
もし都会でもこのように強い田舎志向がある人達が住んでいれば原発は作れないからだ
そういう人は都会的な文明的なぜいたく志向がないからである
何かそういうことを原発事故で考えさせられたのである



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2019年07月01日

銀行の歴史をふりかえり新しい銀行はどうなるのかを考える


  銀行の歴史をふりかえり新しい銀行はどうなるのかを考える
  
  「生糸から軍艦が生まれる」というほど製糸産業は重要であった。生糸の生産・流通は、養蚕農家からの繭の購入、選繭・煮繭・繰繭・揚返による製糸、生糸の倉庫への保管と横浜・神戸への運搬、海外への輸出というプロセスを辿るが、このそれぞれの過程でファイナンスが必要であった。これに対し、ある地方銀行は、智恵を絞り、繭・生糸・不動産を担保に、当座貸越や手形貸付の形態で製糸会社に資金を供給したそうだ。

徳島は銀行の歴史も藍商人から


頼母子講や無尽などの考察

「無尽」の行為自体に関する法律は現在まで存在しない。
石川県加賀市の特に山中温泉地区、山代温泉地区では預金講(「よきんこ」と呼ばれる)という無尽が今も盛んである。これは蓮如が信者に講を勧めたことの名残りとされるが、現在では浄土真宗の信仰とは無関係である。特にこの地域で無尽が発達した理由には零細な旅館業者や山中塗の問屋、個人事業主である職人が多かったことから、金融機関に頼らずに相互に金を融通しあう組織が必要とされたことが大きいとされる


銀行は預金者からお金を集め
それを人に貸すと言う点では
一見すると
「頼母子講」の仕組みと似ていますが 

お金を集めている団体が 
営利を目的としている点で
大きく異なります  

集団的な知恵と工夫の産物として成立・発展したと考えられる。 これをソーシャル・ビジネスに当てはめると, その成立・発展において重要な要素は, 個性的な起業家だけでなく 地域社会などを基盤とした集団的な知恵や工夫であると思われる。

無尽・頼母子講

銀行の危機というとき銀行がそもそも何か?それがわからないと対処できない
近代的銀行の前にその前進となるものは鎌倉時代からでもあったからだ
金貸しというのは古い時代から存在していたのである
貸すとか借りるということは古い時代からあった、人間のやりとりでもモノとモノを交換することがあった、その交換から貨幣が必然的に生まれてきた
ただ貨幣の発生はそれだけではないからそれは仮設であり貨幣の発生は交換するためではない、貨幣そのものが石の貨幣のように価値がある威信財だったという説もある

なぜ銀行とか金融がわかりにくいのか?
それが経済的行為が抽象化されてきたためである、抽象化というときそもそも文字が抽象化の最たるものでありまた数字でもそうである
楔形文字時代に一つとあるがその一つとは必ず何かの物と対応されていたのである
具体的なものだありそれが一つであり二あれば二つが対応する
それを数として抽象化することには相当な歳月を要している
それだけ抽象化ということは高度な知能の進歩だったのである
それでエジプトの書記が神のような権威と力をもったことも理解できる
小麦でもその数量を把握することで力を持ったとなる
今なら官僚が膨大な生産物を数量化して予算として貨幣で配分するから力をもつ
年金でも税金として莫大な金を集めてその金を官僚がネコババしているとか言われるのもそのこためである、官僚の取り分になってもその数字を操作できるからそうなっている
財務省でもそうである、その莫大な国民の税金がどう使われているのかわかりにくいからである

銀行がなぜ今危機になっているのか?
それを歴史からふりかえると銀行はそもそも明治以降は零細な個人事業者ではない
江戸時代は個々人が零細な事業者である、明治以降は会社組織になったから規模が大きくなった、だから金の額が大きくなる、それで頼母子講のように少額の金を流通するようなものでは金が回らないから銀行が生まれた
四国では藍の産業が交流して全国に売れた、福島県の須賀川まで販路を伸ばした
生糸産業は「生糸から軍艦が生まれる」というのはまさにそうだった
今でも兜作りの養蚕の家が全国いたるところにある
養蚕が国を作っていたのである、原町の原町紡績は有名である
私の母もそこで十年間糸取りとして働いていた、女性の働き場としてもあった

それが鉄道とも関係していたのである、原町紡績に鉄道の引き込み線があり生糸が横浜まで積みだされていたのである、横浜からアメリカに輸出されていたのである

1929年アメリカから広がった世界恐慌により生糸が売れなくなりました。さらに、1940年には生糸の最大の輸出先のアメリカで、生糸に代わってナイロンが使われるようになりました。その後、低価格で大量生産ができるさまざまな化学繊維が開発されるようになりました。

私の母の実家は原町であり原町紡績で十年間働きどうしてか姉は家の事情で横浜に行った姉も紡績工場で働いていたのか?そして父親は機織り工場を失敗して悲惨な結果になったのである
ここで言いたいことはそれだけ養蚕にかかわる人が多かった

早くから蚕糸業が発達していたのは、なんといっても奥州(福島県)の信達地方(福島市、伊達郡)でした。すでに江戸時代初期から桑や蚕の新品種が吟味され、 天和 年間(一六八一〜八四)から 元禄 年間(一六八八〜一七〇四)には、「 赤熟 」や「 市平」といった蚕の新品種が選び出されています。これは明治期に至っても使用されました。上州(群馬県)では、十七世紀にすでに各地で生糸市が開かれていますが、元禄年間以降、近江商人の進出が活発になり、「登せ糸」が送られるようになりました。さらに信州(長野県)では、上田地方がもっとも進んだ地方であり、 寛文年間(一六六一〜七三)には、藩が問屋から 紬(上田紬)を買い上げており、すでにこちで絹織物業がある程度展開されていたことがわかります。

江戸時代から素地があった、信州とか関東とか東北の阿武隈高原地域とかが盛んだった
とにかく兜作りの家が多いのである 
それで養蚕で財を築いた店の中に銀行が置かれていた映像を見たことがある
つまり銀行とは頼母子講のように個々人の零細な人たちのものではなくこうして大きな事業をして成功した人が作るようになった
それは四国の藍でもそうである、鉄道ができたことにより全国展開できるようになったからである、交通の発達によりそうした地域の産物でも全国に売れるようになりそこで財を築くようになったのである、商品化するのは交通が発達しないとできないのである
いくらいいもものを作ってもそれを売るには交通が発達しないとできないからだ

銀行の起源は近代になるとこうして大きな利益をあげた会社組織が銀行を作った
それでさらに別な事業資金として投資された、だから銀行というのはこうして新たな起業があるとき資金が必要でありそのために設立されたのである
今でもクラウドファンディングがそうである
これは個々人が個人の起業に金を出す仕組みであり小規模なものでありそれをインタ−ネットが可能にしたのである、それは江戸時代の頼母子講とか無尽とにている
ただ投資してもその見返りが期待できない場合があるから寄付金ともなる

銀行というときこうしてまた江戸時代のようなものに回帰してゆくことがある
歴史が逆戻りするということがある、でも歴史は繰り返すといっても同じにはならない
インタ−ネットが生まれてそういうことが可能になったからである
それは藍の産業でも生糸でも交通が発達して商品として全国に外国に売れるようになったのとにている

こうして歴史をふりかえると銀行の役割とは何なのか?
藍の産業でも生糸の産業でもそこで資本が蓄積されてその資本を基にまた他の事業を展開するために銀行が生まれたとなる
銀行には両替とか金貸しとかの旧来の機能もあるが本質的には何か新たな事業を起こすときに資金を提供してその見返りとしてその利益の分配を受けるとなる
その資金はもともとは藍の産業でも生糸の産業でもそこでもうけたもので資本蓄積して次の事業に投資したとなる
その時一般人から貯金を集めるということはなかった
それが一般人から貯金として集めるということは実はその金を基にして地元であれ事業者に投資してその見返りとして利益分配を受けて利子として預貯金者に返すという仕組みだったのである

とういことは実は銀行に貯金することは預金者は利子をもらうことしか意識していないか銀行にあずけることは投資することなのである
銀行にあづけて利子をもらうということ自体がそういうことになっているからである
実際に利子もつかないとしたら別に銀行にあづける必要もない、貸金庫が銀行の役割となりそれは銀行でなくてもできる、銀行の仕事はそれより高度なものである
それで銀行自体が事業を起こすとういことも起きてくる
それだけの金があるのだから自ら事業を起こすのは合理的だとなるからだ
でもそれができていないのは事業で成功することが至難だからである

小規模なものになると20人起業して一人しか成功しないとなっているからである
こうして銀行を考えてみると銀行が優秀というより事業を起こして成功する人の方が優秀だしそういう人がいなければ銀行も成り立たないとなる
高度成長時代は別に優秀な人でなくても条件が良くてみんな成功していた
だから銀行も利益の配分を受けて預金しているだけで高い利子がついていたのである
それでそういう経験している人は銀行は信用されていたのである
それで投資信託をすすめられたばあちゃんが2000万損したという時銀行が時代の変化で変わったということを知らなかったのである、それは自分自身もそうだったのである
何か急速に時代が変わるらか追いつけなくなったのである

ここで自分が探求しているのは銀行とはどううい存在だったのか歴史をふりかえって考えたのである
明治時代とかは藍の産業とか生糸で儲けた会社が銀行を設立した
それから銀行は一般の人から金を集めて事業者にその金を貸して事業を推進させる、成功させてその見返りとして利益配分を受ける、その利益を今度は利子として預貯金者に配分していたのである
だから地銀というときその地域地域にあり地域から金を集めて資本金としてそれを事業者に貸して見返りとして利益配分を受けて預貯金者に利子として配分していた
その株主は地域の人たちなのである、それがメガバンクなととの相違である
それは信用組合とかでも地域に根ざした金融機関なのである
株主は地域の人たちだからである

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だからこういうことを言うのもわかる、大企業は別に地元の人が株主ではない、グロ−バル化経済になると世界の人が株主になっていて利益配分される
メガバンクとかも地域の人たちが株主ではない、全国の人であり外国の人も株主になりうる、それで会社自体がグロ−バル化すると外国の株主にのっとられるとかなる
そういうことが地銀とかではあってはならないものとして設立された
つまり地銀の目的とか設立趣旨はそうしたグロ−バルに展開するものとは違っている
でも現実にはグロ−バル化社会になるとその要請が強くなる
それで大東銀行ではブラジルに支店を置くとかしたのはブラジル人が日本から送金するからである、それはブラジル人も福島県で働いているからだとなる
どうしてもグロ−バル化しているからそこに商機が生まれとなる

ともかく銀行でも時代の変化に対応できない、銀行の形態が変わるという時、それにどう対応していいかのか?それが見えない、そこで当座の利益獲得として投資信託とか株を売りつけるようになったのである
それは本来の地域経済から離れたものとなる、ても利益を出せないということでそうなる何か利益をあげるにしても実際は利益を出すということが現代ではむずかしい

自分自身でも小さな畑を荒地にしておくよりいいからと援助したってその人は70近くで体が悪いし畑をうなうにも人を頼んだり種から肥料から必ず作物が盗まれたとかブヨに食われたとか草が生えて根が深いからとりようがないとか延々と文句を聞いているだけでありそれで投資して得たものはキュウリ二三本と数個の野菜だげである
それで実際投資している額が十万とかなったら一本一万以上しているともなるのだ
そんなこと普通は続かない、ただ荒地にしておくよりはいいとしても利益などでない
それよりそこで利益を出すとういことは全くありえない、相当な赤字でありつづけられなくなる

現代は高度成長時代でないから何かそうして投資してもうけるとうことが至難になっているのだ、だからこそもう銀行は用がないとなる、それは会社としてもそんな零細なものではない、それなりに小規模でも中小企業でも社員が5人以上はいるとかのものである
5人いても給料を払うとなるとそれだけの利益を出さなければならないからだ
第一もう資本主義が成り立たないという時代ともなっている
何か投資でも飽和状態になっている、投資先がないとかなっている
こういう時代は今までの何でも発展するとか成長するとか量の拡大路線は無理になる
それで中世に還るとか江戸時代に還るとかなるというときそこでは小規模な個々人の起業だからである

それで個人がインタ−ネットでクラウドファンディングしているのがまさにそうなのである、そんなところに銀行では金を貸さないからである
まず利益配分が得られないからである、でも銀行はそういうことでもう必要ないともなる時代になる、ただ何か新しいビジネスを開拓できるのか?
それはなかなか自分のような素人にはわからないが歴史をふりかえると銀行とは何かが見えてくるのもがやはりあったから歴史の勉強は欠かせないのである




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地方銀行の危機 (週刊ダイヤモンドの記事をまとめる)


地方銀行の危機

(週刊ダイヤモンドの記事をまとめる)

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銀行だと堅い仕事であり地方ではエリートで安定して評価も高かった
それでこの辺で東邦銀行に孫が就職したと自慢する人がいたのもわかる
地方では大企業などないから公務員と農協職員とか銀行とかに就職すればエリートとなっていたのである、ともかく倒産するこどなどないからである
そこで地方で結婚して安定した生活ができる
正直地方で田舎で生活するにはもともと資産がないと生活しにくいのである
東京と違って底辺だと目立つのである、だから肩身が狭い思いをするのである

自分自身も銀行というとき何か堅い職業で安定していると見ていた
実際私は銀行についてわからない、何か職業で一番わかりにくいのが金融関係なのであるそこで株などしていると世界情勢とかが関係してくる
するとそんな話になるとこれは相当な知識が必要になりその他いろいろな専門知識が必要でありわからなくなる
だから株などに手を出すなとなる、そもそもわからないからである

それで私は金融のプロですからまかせてくださいと地銀の営業の人が言うからまかせたのである、第一株をするにしても投資信託でもどんな銘柄がいいかなどわからないからだ
株式をいつも見ているわけにもいかないからである
だからこそプロにまかせるのである
でも地銀は投資信託のことはほとんど素人だったのである
その素人がすすめているのだから儲かるわけがないのである
地銀は証券会社からすすめられるのを適当に選んで売りつけるだけである
あとは野となれ山となれ投資信託だと確実に手数料がはいる、売ったり買ったりするとさらに手数料が入る
どこかの会社に投資して失敗して損することなど絶対にないおいしい商売なのである

それで私が悔しい思いをしたのはリーマンショックのとき半分になった株をもっていた
それをちょうど元の値段に回復したとき投資信託に勝手にまわして損したのである
そのままにしていれば株が上がりかなりの収益を得たのである
それ以来銀行は信用していない、銀行はそもそも窮地に追い込まれていたから何でもいい客のことなどどうでもいいと投資信託を売りつけるようになった
それで2000千万とか銀行を信用して損したばあちゃんがいた
詐欺と変わりなかったのである

追い詰められた人間は会社でも何でもする、悪いこともなにもなくなる

このことを何度も書いてきた、そういう追い詰められた人たちが自分の介護と病気の時に来てひどいめにあったことを書いてきた
その一つにまた加わったのが銀行だったのである
それは意外なことだったのである

何か銀行はこの辺で原発事故などで多額の補償金が入って金が銀行に貯金されたと思ったがそうではなかった、会社でもその補償金は銀行に回らずに使われていたのである
ただ銀行の仕事は何なのか良くからない、地銀とか信用組合になると地元の経済に貢献する、会社を育てるとか地域のために金を集めて経済を活性化するものとみる
それが高度成長時代ならうまくいって貯金していると倍にもなったのである
今は全然違う、利子はつかない、投資信託を売りつけられて損するとしかない
地域にも貢献しないから地銀は不要だとなる
金でももう銀行で出し入れしないとかIT化してゆき苦境になる

つまり銀行の苦境は日本の経済の苦境でありさらに地域経済の苦境なのである
ゾンビ企業が地方に多いというときもそうである
そういう企業とかかわっても銀行はリスクになるだけで利益をあげられないのである
つまり地銀が危機になるということはまた地域の経済も危機となる
それはまた日本全体の経済の危機となってゆき日本が貧困化してゆくことなのである

そして金をもっているのは株でも投資しているのは70代とかなる、老人が金融資産をもっているからそこで狙われてすすめられているのである
そして自分のように損したりする、それも高齢化社会である
つまり銀行はやがてそうした金融資産をもっている老人もいなくなり貯金する人もいなくなるともなる
その金融資産が東京に住んでいる子供に相続されるから地銀などに回らなくなるとか言っている

いづれにしろ銀行とは何なのか?銀行の役目は何なのか?
それは地銀なら地域の経済に貢献することである
その集めた資金は地域のために使うのは基本にある
そうなら銀行に預けてもうけがさほど出ないにしろその金は有効だったとなる
自分自身が相馬郷土史研究とかのプログの趣旨も地域に報道関係で学問であれ芸術であれ貢献するという趣旨があるからである
そこで地銀というのもそこで関連しているとはなる
ただそうはいっても自分の場合はその影響は微々たるものであり認められていない
ただそういう趣旨があってプログで伝い書きつづけているとはなる
だから何か会社でもただ利益を出すということではなくその前に社会に貢献するという趣旨があり成り立つ、それがなくなりただ金を集めてその金を地域に還元しないとなれば何なのだとなってしまうのである

ダイヤモンドに書かれた記事をまとめてみた

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ゾンビ企業が多いということは銀行でそういう会社に資金援助しても還ってこないということである
それだけ地方で起業でももうからない、利益が出せない時代である
そのゾンビ企業を整理しなければならない、そういう厳しい時代になっている


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地銀の「地元」とは株主は必ずしもイコールではなき、そこに地元のために
ということと矛盾が生じる



ここに福島銀行と大東銀行がでている、この二つの銀行は危機であり合併するとか言われるが両方とも収益が全国レベルでもワースト10に入っている、だから合併するメリットがないとしている
福島県で残るのは東邦銀行だけだとしている、そして70代とかの人に投資をすすめるのは金融庁ではいましめている
投資というのは長い期間で見ないと損得がわからないのである
それでリーマンショックのときもっていた株が半分から元にもどりさらに上がった額が大きかった
それが地銀によって損させられたのである、それはとりもなおさず地銀が追い詰められていたからである
こういうふうに追い詰められた個人でも会社でもそうなると恥も外聞もなくなる
なんとか会社を維持するために何でもすることになるから危険なのである

そういうことで自分がどれほど被害にあってきたか書いてきた
自分の家が大金は盗まれるは借金は要求されるわ、弱った時責められつづけたからである
今でも困窮者の一人に要求されている、そういうことは日本の貧困化とか地域の衰退がこれからもっとひどくなる
老人の金融資産も取り崩すので貯金もへって銀行には回らなくなる
そしてこの辺では10年間の震災の国の援助が終わる、その時財政的に相当追い詰められるとしている
だからそうして追い詰められると周りの人にも影響が大きいのである
田舎では地方では東京のようにはならない、金をもっていれば目立つし危険な状態になるから安心して暮らせなくなる
そして地方だけではない日本全体が治安が悪くなる、とにかく追い詰められた人間は本当に怖いからである
そういう人か巷にあふれたら今日食べるものがないとわずかの金でも殺されるという恐怖社会になる
その時裕福な人でも安閑とはしていなられない社会になる、だから富裕層でも格差社会は危険だから真剣に対策しないとその危険が自分のように及んでくることを覚悟しなければならないのである


posted by 老鶯 at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年06月27日

一千万人が消費者金融を利用(見えない現代の貧困)


一千万人が消費者金融を利用(見えない現代の貧困)   




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これも衝撃である、一千万人が消費者金融を利用している?
貯金ない人がこんなにいる
でもなかなか日本人が貧乏だとは見えない?

要するには今の貧乏と昔の貧乏は違っている
昔の貧乏は貧乏に見えるしみんな貧乏だった
今の貧乏はレベルが高い暮らしを維持するための貧乏になった

クーラーを設置するからなんやかにやと金がたりないとなる
全部福祉でもしてくれないからだ
最近暑くてクーラーがないと死ぬこともあるから必要になる
でも昔はクーラーなどなかった
トイレも外のトイレで農家の人が汲み取りにきて無料でもっていってくれた
水道はなく水は近くの井戸あるところからもらっていた
家には飯台一つしかなく裸電球一つだったとかなる
自転車は一台でそれを修理して新しいものを買うことはなかった
こういうことをあげればきりがなくなる
乞食もいたから貧乏が見えていたのである、今でも後進国ではそういう生活をしている

現代の貧乏はまず電気代水道代携帯代、スマホ大、車代、クーラー代とかそういう基本料金にかかる、そこからして貧乏になると家計に負担になってくる
教育費でもかかる、つまりそもそもレベルの高い生活をしているから貧乏になると一段と苦しくなる
そして回りでもみんなそういう生活しているからまわりに合わせる必要がある
でも現実貧乏になればクーラーがある生活すら携帯をもつことすらできないのである

すると結局どうなるのか?

消費者金融から借りることになる、そしてその利子が馬鹿高いからさらに追い詰められるとなる
確かに福祉から借りられるにしても手続きがめんどうだからあまり利用しないとなる

何かおかしいのは事業を失敗して経済的に苦しいのにそれを隠している
車もいい車に乗って夫婦で一台づつ車を持っている
その人は別に事業に失敗したとは見られていない
平均より上の暮らしをつづけていたのである
それで自分が病気とか介護になった時借金を要求しやすいからしてきた

その人が本当に昔のように貧乏で食うものがないというものではない
だから今日食べるものがないから助けてくれとは言わないしそんな貧乏とは違うのである依然としてハイレベルの生活をするために借金を要求してくるのである
それも事業に失敗したからその額は大きくなる
でもその人が外から見たら成功した人として見られているのである

そんな人とつきあったらどうなるのか?
多額の借金を成功した人としての生活を維持させるために要求されるのである
その人は別に最低限の生活には困らないのである
ただ事業に成功した人としての外分を保つために金が必要だとうして借金している
また借金でもギャンブルして借金している人も多いと思ったがここの報告では意外と少ない
となると現実に日本は本当は貧困化している
でも依然としてこれまでのレベルの文化的生活するためにそうなっているのである

自分自身の生活費でも他者に援助しなければ13万あれば間に合う
そして計算して不思議たったのは一か月の生活費を例えば月20万として

それを5日のばすと5×12=60日になる

一日の生活費は200000÷30=6666

二か月延ばすと60日になる

6666×60=199980

一年で約20万節約となる、この額が大きいのである

20万を10日のばすとその倍になるから40万一年で節約になる

この計算が何かピントこないのである
でも間違っていると思えないのである
時間の長さで金が節約されているとなるしまた時間の関係で利子でもそれが積もり積もれば高くなるということがある
ただ人間は一年間隔で金の計算でもなんでもしていないのである
人間は長い時間で計算することができない

それで人間は時間を一番無駄にしている!

つまり人間の時間は限られている、何をするにもそうである、何かスキルを身につけるにも必ず時間がかかる、そして時間は平等に与えられている
天才でも金持ちでも時間は平等である
ただ時間を活かせないのである
天才でも膨大な知識がありすべてに精通することなどできないのである
だから凡人でも知識でも何でも積み重ねれば最後にその道の達人になったり専門家になれるのである

金の問題でも長い時間で計ることができない、ただ金というのは人生でも何か計算が必ずはずれる、常に人生でもリスクがあり計算が狂うのである
ただ時間で積み重ねることで最後に実りがあることは確かである
ギャンブルのように大金が入ることはまれである
特に何か知識とか趣味とか心を豊かにするものは日ごろの積み重ねで実りとなる
ただ語学でも何か学び方が悪いとモノにならない
時間を有効に使う方法がありただ時間だけかけても上達しないのである

いづれにしろこれだけ貯金がないとか消費者金融に金を借りている日本は本当に貧困化している、その無理がいつか表面に出てくる、その時どうなるのか?
氷河期世代とかが非正規の人たちが大量に生活保護になるとか団塊の世代が75歳になり病気や介護になるとか負担が増えてどうなるのか?
現実にその人は氷河期世代で非正規であり青森の施設に親を入れているが何かと必要なものがあり金を請求されて困っているというのもそうである
親は貧乏であり福祉となると頼る者もいないから苦しいとなる
それがさらに全国的に極端化するのが氷河期とか非正規が60歳になる頃である
年金ももらえない人があふれる、今でも国民年金だと4,5万しかもらえない人が結構いるのである
今になり年金が大事だったとつくづく思う、なぜなら年金は死ぬまでもらえることが強みなのである、それで死ぬまで保証されるからである

posted by 老鶯 at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年06月26日

グローバル化の波が押し寄せている「日本社会の現状」と「英語の必要性」について


グローバル化の波が押し寄せている「日本社会の現状」と「英語の必要性」について


Love & Freedomからの疑問

外国人スタッフが言う
日本人は何もどうせ何も買わない、たいしたものは買わない、接客する必要がない
ツアー客の外国人が次から次と買うのを見る

外国人が底辺労働者を見ている、腰が曲がっている老人でも働いている
日本の現状を外国人は知っている

外国人労働者が地方でも増えてくる

多文化共生が好きである、刺激的である

日本人が日本語がなくなり日本の歴史も文化も消失してゆく

英語が共通語にてってゆく、日本語を学んでも意味がない
日本語を学んでも役にたたない

日本が委縮していることを知っている、日本語を勉強しても他の国で働けない

外国人は日本にずっといるわけではない、今円が強いからいるだけ・・

外国人が集まって蚊帳の外に出されるないように英語を勉強する

日本政府は団塊ジュニアを救わない、日本は老人が増えるだけ



ここで疑問なのはそんなに英語をベトナム人とか中国人とか話しているのか?
ネバール人のガイドは英語を使っている、でもネパール人全部が英語を話せけるわけではない
ただ東南アジアはイギリスの植民地になったので英語を話す人が多い
だからネパールでガイドが英語を話せるから商売になる
英語が話せるということは英語を使う国が多いのだから役立つ
日本語覚えてもそこでは役にたたないのである
ただ翻訳アプリなどではめんどうくさくて通じにくいと言っている
確かにスマホの翻訳アプリを駅の高校生の見守り役が中国人に説明していた
でもなかなかめんどうになることは確かである

自分の失敗はもっと早く外国に行って実際に英語で話ししてみるべきだった
英語の勉強の仕方も悪かった、今ならインタ−ネットとかあるから勉強しやすい
それで外国旅行したときは英語をしゃべったこともないのに結構しゃべった
それで英語が通じたということは役に立ったという経験をしたのである
でなければほとんど英語を使わないから英語を勉強する気がなくなる
今は海外旅行にも国内旅行もここ十年は介護でしていない
そうなると駅でフランス人が来たのだが英語で案内しようとしたが英語が出てこないのである

ただ正直この人がなぜこれほど英語にこだわるのかということがわからない
みんなそんなに英語を使っているのか?
第一底辺労働者自体が肉体労働派が多いだろう
ただフィリンピンから来た肉体労働者は大学卒だったとかあり仕事がないので出稼ぎに来ている人はいるが一般的に知的な仕事をしている人たちではないだろう
だからそんなに英語が必要なのかともなる
かたことの日本語でもしゃべって建築現場などでは通じているというからだ

多文化共生というとき自分自身も何か外国に興味があり文化的交流ならしたいとなる
でも底辺労働者はそういう人達ではない、日本で日本円が欲しいというだけである
日本の文化とか歴史に別に興味あるからきているのではない
フランス人の小学校の教師は日本の歴史と文化に興味があってきていた
多から野馬追いとか平泉まで行こうとしていたのである
ただそこでわずかな時間でありコミ二ケーションはできなかった

とにかく多文化共生というとき外国に観光旅行する人にはありえる、観光ならありえる
自分自身も特にヨ−ロッパに興味をもっていた、そこの歴史に興味をもっていた
それで帰ってからも勉強して詩にしたりしている
でも日本に来る底辺労働者の目的は円が欲しいというだけであり文化的なことに興味がないのである、またそんなことても得にならないから英語を使った方が世界で通用するとなるから英語を使う

ここでの問題はそういう人たちは日本人になる気はない、一時的に滞在して円をかせぎたいというだけである、そういう人達である
ただ近くのホンダで働くネパールの人は長く日本にいるから妻を日本に呼び永住権があるから日本人になるのかとなる

●つまり日本人になるというときやはり英語より日本語を覚える、それは強制される

●一方で円を欲しくて帰る人は日本語などむずかしいから覚える必要がないとなる

永住して日本人になる人と一時的に滞在する人と分けることが必要なのかとなる

一時的に滞在する人は日本の円が強いから働く、でも日本が衰退することを知っているから永住する気はないとしている

でも日本人なら衰退してもここで生きてゆくほかないのである
ただ日本人もそうなると外国に出稼ぎに行き日本に来た外国人と同じ待遇になるのであるそれもカルマだとなる、つまりいつまでもどこの国でも優位に立つことはできないのである
アメリカだって今やもう中国と対等であり中国に負ける
そして日本からも撤退するとしている、そういう力関係も変わるからである
中国があれほど強気になれるのはやはりアメリカがどういう状態にあるか知っているからだろう
結局国々でもせめぎ合い興亡があり変わるのである
いつまでも栄える国もないのである、だからアメリカが衰退する、日本も一時興隆して衰退するというのも宿命だともなる
ただ日本が良かったのは高度成長時代の二十年くらいだったとなる
それも短い時間でありはかなかったともなる



外国人労働者の増加で職場・生活はどう変わる?】第19回:国際競争力をつけるには、
日本語を話せるグローバル人材より英語を話せる日本人を育てるべき

英語についてはいろいろ意見があるけど日本人が英語が苦手なのはもともと英語を使う相手がいないからである、しゃべる機会がほとんどないからである
英語をしゃべる機会がふえればまた必要性があれば庶民でも覚える
それで印象的だったのは長野県の宿のおばさんが外国人とだきあってまた来てくれと言っていたことである
それは嫌なことでも日本が貧乏になるとそうなるのである
奴隷化にもされるのがグロ−バル化なのである
食べるために英語だって覚えるし嫌なことでも外国人にこびることでもする
でも普通は英語は使わないから使わないと忘れてしまうのである

学問的にとか文化的にとか芸術的にとか英語とか語学を追求しているのはまた別だからである
グロ−バル化とは一部のそうした知的エリートとかのものではなん庶民まで及んでくるのがグロ−バル化なのである

posted by 老鶯 at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年06月25日

中国人がベトナム人の人材派遣を請け負う (日本の底辺と外国人労働者が競う時代に・・)


中国人がベトナム人の人材派遣を請け負う

(日本の底辺と外国人労働者が競う時代に・・)

ベトナムでは外資系企業が人材派遣会社を経営することはできないが、中国の送り出し機関の関係者が裏で関わる形で日本への送り出しビジネスが始まったという。

中国の送り出し機関が持ち込んだのは、日本の受け入れ機関とのネットワークや単純な人材派遣のノウハウだけではない。

「中国で行われていた日本の受け入れ機関へのキックバックや過剰な接待がベトナムにも引き継がれています。技能実習生の増加とともにベトナムの送り出し機関が乱立して競争も激しくなり、営業攻勢が強くなっています」(同前)

駅で見たのはベトナム人を引率する中国人だった、なぜ中国人なのか?
その解答がここにあった、中国人が斡旋していたのである
中国人が仲介業になっていたのである

カンボジアでも中国人が百万人いるというときもうそこはカンボジアなのか?
いかに中国人がいたるところに増殖するかわかる
カンボジアはもう中国人がビジネスでも支配する国になっている
やがて国自体を中国人が牛耳るようになる
そうなっている国もある、それだけ中国の影響が拡大して増大したのである

確かにこれまでは欧米中心のグロ−バル化だった、今でもそういうことは継続されているしかしそうしたことも米中の貿易戦争となり中国の存在がこれから増してくる
ヨ−ロッパでもイタリアが中国の一帯一路の中に組み入れられるとかになる
それだけどこにも中国人が世界中を跋扈する、もともと中国人は数が多いのだからそういうことがあった、でも今はそうした底辺労働者ではない、ベトナム人を日本で労働者として斡旋しているのは中国人だというときもそうである

それで底辺労働者のLove & Freedomのyoutubeでも深夜の労働現場はもう外国人だらけであり日本人が入り込めない、コミ二ケーションがとれないと訴えている
日本語が通じない世界になっている、そこで日本人は排除される
だから英語を使ってコミ二ケーションをとるほかないとしている
それはさしせまったことであり英語を実用化することなのである
その英語もあくまでも高度なものでなくて簡単な支持を英語でできるレベルだという

これは実体験の報告でありリアルである、youtubeにはそうした実体験から語るから
リアルなものとなりマスコミの報道とは違っている
第一マスコミの人は学者でもそういう実体験から語っているのではない、論議もしないからである、上からの目線で語り論議するだけだからである
だから切実な訴えとはならないのである
また一つ明らかにyoutubeで報道の変化が起きている
ただこれもなかなか最初は理解しにくいものだった
ただ今やマスコミとyoutubeが対比して見られるということで大きな変化になった
youtubeはテキストよりわかりやすいから見る人も多いのである

結局マスコミは媒介するもメデアである、でも発言する人自体がメデアをもったのがインタ−ネットであゃyoutubeとかである、媒介するものはいらなくなったのである
そこに生々しい真実が暴露されることがある、直接医者が裏側を語る人もいる
それはマスコミで語られないものである
それで実態が赤裸々に明るみ出さされる、つまりどこで仕事していてもそこで仕事している人が一番詳しいのである、だからその現場をそのまま伝えれば驚きとなる

この辺では最初は福装(裁縫)に中国人が来ていて今も継続して来ている
そして今はベトナム人とネパール人が来ている
とにかくベトナム人とネパール人は増えた、ここはまだ貧しいからである
ネパールは最底辺国である、山ばかりなのだからそこで何を食べているのかわからなかった、ベトナムだったら二毛作で米をとれているから食料に困るとは見えない
平地も多い、ネパールは平地がない、山ばかりだとしたらどうしても耕地でも奴の斜面とかになる、だから山ばかりで土地を活かせないのである
ただそうはいってもペルーのインカでも山ばかりでも高地でも高度な文明を作った
ただネパールの不思議は熱帯のジャングルがあり象がいてサイがいてトラまでいる
ワニもいた、これもここがいかに原始的な状態がまだあるかということである
だから裸足て山岳地帯を歩く人がいたのである

いづれにしろそうして外国人が来るときその国自体に興味をもつ、その国の自然とか文化でも興味をもつ、だから外国人そのものがヒトが入って生活するとなるとモノが入るだけのグロ−バリゼーションとは違ったものになるのである
人と人の交流になりそこに軋轢も生れるし相互理解も生れる
ただ底辺労働者が入る単純労働者はそうした文化的交流とは別なのかもしれない
中国だったら奈良時代に唐まで行ったのはあくまでも文化交流である
そこで学んで漢字を取り入れたことが最大の交流だったのである
だから今の外国人労働者が入ってくるのとは違っていたのである
ヒトが他国に大量に入れる時は奴隷である、戦争に負けたら奴隷にされる
それでスラブとは奴隷の意味である、その後も黒人が奴隷とされた
まずそうした人たちに同等の権利を与えることはなかったのである

だからこれだけの人間が自由に国に関係なく移民化する時代はなかった
日本でも歴史でも経験していないのである
だから外国人労働者を奴隷として扱うこともできない、欧米のような奴隷化する歴史もないからである
日本人は召使でも平等に扱う家族のように扱うとかなり使うことができないとなっているからだ、そういう文化がないからである
つまり外国人をどうあつかうか?その経験も歴史的にもないからとまどうのである
それはモノが入ってくるのとは全く違ったものになるからである
それでつくづくネパールで外国人をカースト化するのもわかる
日本人もカースト化されているのだ

日本だと中国が外国人ではアジア人では一番上のカーストになっている、欧米人はもともと一番上のクラスだった、アジア人では韓国在日ー中国人ー台湾人ーベトナム人ーネパール人とかなる、人種が混交するとそういうふうになりやすいのである
ただ日本が貧困化するとそのカーストの順位が下がりやがて外国人の奴隷にもなる
なぜなら日本人はもう外国に出稼ぎに行く時が来ると言っている人がいるからだ
そういうことが外国人労働者の底辺に起きている報告がLove & Freedomのyoutubeで成されている、日本語が通じないという、日本人は外国人グループから排除される
つまり外国人労働者の下位に置かれるとまでなりつつある、そうした競争が強いられるのがグロ−バル化した世界だとなるのである

種子島の鉄砲伝来でも中国人がポルトガル人の通訳に

100人ほどの南蛮(ポルトガル)商人の乗った一隻の船が強風により漂着した。代官より報せを受けた島主の種子島時堯(ときたか)はこれを赤尾木湊に曳航させ船主と会ったところ、乗組員の中にいた商人が見慣れぬ鉄の棒(鉄炮)を持っているのを見つけた。
 言葉は通じなかったが、これが欲しくなった時堯は乗組員の中に五峰という中国人がいたことから彼を通訳として筆談で話を進め、高価にもかかわらず二挺の鉄砲を購入したという。ともあれ、こうして二挺の鉄砲が種子島時堯の手に入り、彼はこれを「稀世の珍宝」として家宝にしたという。これが鉄炮伝来の瞬間であった。

ここでも日本人は中国人と筆談していた、漢字を使えるからそうなったのである
今でも中国に行くと筆談である、皆目発音はわからなかったからだ



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中間層の没落は国家を維持できなくなさせる (国家へ忠誠心がなくなり国も守れくなる)


中間層の没落は国家を維持できなくなさせる

(国家へ忠誠心がなくなり国も守れくなる)


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日本の中間層の没落の方が深刻!

日本は高齢化の度合いがアメリカより大きいのでより深刻
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アメリカでも高齢者の貧困があり65歳以上でも働いている人が増加している
アメリカと日本はにている




1997年をピークに、年収で55万6千円も減少した。給与所得者数を所得階層別にみると、増加しているのは年収2000万円以上のごく一部の高額所得者と、年収500万円以下の層であり、年収500万円〜1000万円の層は減少している。


働きながら生活保護水準以下の収入しかないワーキングプア世帯は、就業者世帯の4・2%から9・7%と2倍にもなった。「貯蓄ゼロ世帯」(2人以上世帯)は30・9%、1997年から2015年の間に3倍に急増した。


アメリカ人の中間層、850万人が退職年齢時に貧困レベルへ?

世界の歴史を振り返った時、空前の繁栄を享受した帝国がほどなく崩壊した背景には、必ずといっていいほど共通した出来事があった。中間層の没落である。古代ギリシャの民主政、ローマ帝国、唐王朝等々、いずれも中間層を没落させたことが衰退、そして滅亡の引き金になった



中間層の没落が国家自体を衰退させる、それがアメリカでも日本でも起きている
中国では経済が上り調子で日本の高度成長時代と同じになった
でも格差が拡大化して同じ問題が起きてくる
分厚い中間層が形成されるとき国は安泰である
それを成したのが高度成長時代の日本だった 
その中間層が没落した時アメリカではトランプ大統領が生まれたのである
日本はなんでもアメリカに追随する、アメリカに起きることは遅れて日本に起きる

中間層の没落はギリシャのポリスでそうだったようにポリスへの忠誠心をなくして貧富の差が増大して傭兵を雇ったりして弱体化する、国家でもそうである

ブドウやオリーブを栽培する農民は、内陸部との貿易で莫大な利益を得られるようになりました。内陸部からギリシャへ穀物や金銭が大量に流入し、それに比例するようにギリシャの各々の都市国家(ポリス)の人口は増えていき、その後の繁栄の基礎を築いていったというわけです



ギリシャは貿易国家であり日本とにていた、高度成長時代は電機製品を輸出することで分厚い中間層が形成されたからである、その中間層がバブルの崩壊で没落して下降する経済になり現在がある
格差社会は国家への忠誠心を喪失させる、それはアメリカでも日本でも同じである
日本は明治維新で侍をなくした、国民国家とした、それで西南戦争は国民国家とするための戦いであり侍階級は廃止された、それは中間層が増大して国民意識が芽生え国家への忠誠心が醸成された

でも戦前の国家意識は国家への忠誠心は経済的要因より対外的な要因から起きた
欧米列強に植民地にされるのを拒否するために起きたのであり経済的要因だけでは語られないだろう、すべてを経済的原因では語られない、なぜなら植民地にされたくないという動機は日本のプライドであり心の問題だからである
アジアの他の国はすべて植民地にされたからである
だから歴史でもすべて経済的なものに原因を求めることはできないのである
個人でもプライドがあり国家にもある、プライドをかけて人間は戦うという歴史観も納得する、そうなると経済的には損失になる、それでもプライドをかけて戦うのが人間だとなる、だからすべて経済的側面からだけで歴史を観ることはできないのである

ただ中間層の没落とか弱体化はポリスでも弱体化したしまた国家でも弱体化する要因になったことは間違いない、一パーセントの富裕層がいてもいくらその人たちが金をもっていても国は守れない、なぜなら南米をみると一パーセントの富裕層がいてもその他は経済が崩壊してホンジュラスとかでは国を捨ててアメリカに移民するために流出しているからである、一パーセントの富裕層がいても国は守れない崩壊するのである

だから現代はグロ−バル化経済になったときその構造は共通して起きる
極端な格差社会になり国家自体が維持できなくなる、国民は国家に忠誠心をもたない
むしろ多国籍企業とかになると国家自体が邪魔になる、もうけるためには国家の障壁をとりはらうことがいいのである、それはただ経済的動機だけで動くことになる社会だからである
国家とは民族のアイディンティティを無視して経済合理性だけを利益だけを追求すればいいとなる、人間はただ経済的ユニットになる、そこに文化とか何か精神的アイディンティティは喪失させる、でも人間はそういうことで生きる価値があるのかともなる
人間はすべて経済的なものだけで生きているわけではないからだ
その矛盾がグロ−バル経済で大きくなっているのだ

いづれにしろ間違いなく中間層が没落するとポリスでもそうだったように国家でも一体感がなくなる
中間層が分厚く存在している時はポリスでも国家でも忠誠心がますが極端な格差社会は国家自体への忠誠心が喪失して他国が攻めてきても誰も国を守ろうともしないだろう
それは何か南米とかの大金持ちが私兵を雇って城塞化しているとにている
そういう私兵は金でやとわれているだけであり傭兵と同じであり金だけの動機しかないからとても守りきれないとなる
最後は主人を裏切って金を奪いばいいとしかなくなる
つまり忠誠心は得られないのである、それは個々人でも金持ちの家で働く召使とかでも起きてくる、どうして忠誠心を得られのか?
現代だったらもう金の関係でしかないというとき、かつては侍でもその家臣でも忠誠心をもっていた、それはそういう社会があったからそうなりえたとなる
何か精神的紐帯があったからありえたとなる

ともかく中間層の没落は国家自体の危機なのである、でもそういうふうにアメリカでも日本でも危機を上層部は感じていないのである
やがて中間層が没落して下層と上層に二分されるとき国家の一体感は喪失してどうなるのか?
そういうときフランス革命とか中国でも革命が起きる、反乱が起きる
そうして少数者の上層階級は襲われて危険な状態になる
そういう革命は歴史でロシアでも起きたしどこでも起きているからである
分厚い中間層が存在すればいくら下層がいても少ないから抑えられるのである
でも下層が増大して格差社会になり階級社会になると国家でも社会でも不安定になり
反乱や革命が起きて国の一体感はなくなり他国から攻められても国を守る意志もなくなるつまり中間層が没落することは国防にとっても危機なのである
ただグロ−バル経済では世界的に起きていることである

世界的な格差社会階級社会が形成されている、グロ−バル経済の中で国家の中でも格差が生じている、グロ−バル経済になるとある所に金融関係でも操作して莫大な富が集中するためである、でもその富が中間層に回らない時、国家自体が弱体化して富裕層も上層部もその富も守れなくなる、なぜなら国家と民族は最後の紐帯であり精神的アイディンティティを持つものだからそれを否定できないからだ
そういうせめぎ合いが世界で起きる
アメリカでもアメリカファーストというときそれは数パーセントの金持ちのためなのか?それを否定して没落する中間層にトランプが訴えたのである
それは国家というのは一パーセントのものが50パーセントの富を得ているとなるともう国家は存在しない、国家とはやはり多数のものでありそんな極一部のもののものではないからである、そんな国家は成り立たないのである
だからこそ中間層の没落はアメリカでも日本でも中国でも危機なのである
それを無視していると国家自体が崩壊してゆくのである


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2019年06月23日

「クルマを捨ててこそ地方は甦る」藤井聡を読む


「クルマを捨ててこそ地方は甦る」藤井聡を読む

この本は私が日ごろ指摘したことだった、そのことをプログに書いてきた
クルマを持っている人は地域に愛着をもたない度合いが大きくなる

鳥や虫の鳴き声を聞くこと
道端に咲く花にふれること
地域の人々とあいさつすること
地域の人々と会話すること

こういう機会がクルマではなくなる、クルマと自然でも人でも交流を遮断するからである一つの閉鎖された空間なのである
それで何度も自転車のことでそのことを言ってきた
最近買った電動自転車で行くのは舗装されていない道である
それも隠された細い丘の間の道だったりする
それで俳句や短歌を作ったりする

ふるさとの小径やあわれスミレかな

ふるさとは小径なのである、そういう道がある所か故郷である
またマウテンバイクだと悪路でも行ける

悪路行くマウテンバイクや夏あざみ

これも自転車で行くから自然と一体化するのである、クルマだったらそういう自然にふれることができないのである
だからクルマはキレル乗り物なのである
自然との親和性もないし人間との親和性もない、キレル乗り物なのである
突然猛スピードで走ってきて去ってゆくキレルの売り物である
自転車は目障りとなり歩行者も目障りであり無視される
「危ない、馬鹿野郎」と言って猛スピード走りさるキレル乗り物である
それが人格まで変えてしまったからあまりにも影響が大きくなりすぎたのである
そして自転車とか歩行者は隅に追いやられて邪魔者にされるようになったのである

地域愛着の薄い人は地域を良くしていこうとする「まちづくり」に無関心となり地域全体に役立つ取り組みが全然すすめられなくなる
「シラケ」気分が蔓延して地域ぐるみの掃除とかまちおこしとか祭りや運動会などの自治体活動必然的に停滞してゆく

クルマ社会は一番身近なものに関心がなくなるのである
駅で案内のボランティアしてそのことがわかった、駅には関心がほとんどない、乗り方もわからなくなっている、でも駅は人々が集う会話したりする広場の役割があった
年齢に関係なくそういう機能があった、それがクルマとは違っていたのである

地域の人は今地域に関心がなくなるというときどうなるのか?
それを原発避難者を例にしてその極端な現象を説明した
もちろん放射能汚染とか政府から強制されたこともある
でもなぜ突然ゴーストタウンになって故郷が捨てられたのだろうかということが疑問だった、人間は代々住んだ場所を簡単に捨てられるものだろうか?
そこに何かしらの葛藤があり何か議論があってもいいはずだった
強制されたことはあるにしてもそんな簡単に街全部が故郷全部から一瞬にして人がいなくなったことの驚きである

それはクルマ社会と多分に関係していた、マイカーマイホームの社会である
ここにマイタウンとかマイシティという視点がないのである
マイカー=マイホームではその他ないのである
するとどうなるのか、マイタウンがないのだからそのままマイカーで外に出ても何の違和感もないとなる、日ごろからそういう生活をしていたからそうなる
もともと田舎でも故郷に長年住んだ所に愛着がなくなっていたのである
そして若い世代はかえって田舎に住むことを不便だとか嫌がっていたからこれ幸いと脱出したとなる、補償金を多額にもらったことでチャンスだともなったのかとなる

ただ田舎に住んでいる人はみんな「脱出願望」をもっている、田舎の人間関係は拘束された窮屈なものだからである、だからどこでも知っている人に出会うから男の場合スーパーに買い物もしないし人に会うことを避けるようになる
そういう脱出願望が田舎では強いのである、自分自身もこういうことを言っても田舎が嫌だから脱出願望があったから旅ばかりしていたとなるその脱出願望をかなえるのに最も適していたものがクルマなのである
一瞬にしてあっというまに外に出れる、それも遠くに出れる乗り物だからであ
だから必ずしもクルマのせいにすべてすることはできないところはある

ただクルマというのは社会自体を人間自体を人格まで変えたから深刻なのである

クルマ社会の中で(家族をふくめたあらゆる)コミニュティを共同体が希薄化して
家族同士、住民同士の「助け合い」様々なレベルのコミニュティが担っていた
老人ケアや保育サービスなどを行政が肩代わりせざるをえない
行政サービスが肥大化せざるをえない

私が前にも指摘したように高齢化で免許を返納が増えると老人が今度は取り残される
それもクルマ社会のカルマだと思った、現代はまさにクルマ社会を生きてきたからであるそれが老人になって裏目になりマイナスとなる、何か人間は必ずいい面と悪い面を技術的なものでももたらすのである、それは原発事故でもそうだった
便利でいいなと思っていてもそれがマイナスに働くようになる
技術は災い(技わい)になる、そういうカルマをもっているのである

そしてクルマ社会は将来にも禍根を残す、子供たちが健全に育たないのである

クルマばかり使って移動している子供はうつ性、不安性、攻撃性が強くなっている

そして恐怖はクルマが健康にも相当影響していた
クルマを利用するのと徒歩自転車の人では病気になる割合が違っていたのである
つまり徒歩とか自転車だと健康度合いが高かったのである
とにかくクルマというのはあらゆる面に影響したのでありそれが技術の怖さだったのである、技術はそれだけ社会を一変させてしまったのである

だから技術は文化を簡単に破壊する怖さをもっていたのである
それが原発事故でもわかった、自然が汚染されてもう人が住めなくなって町自体が住めないようになったからである
だから人間はなんでも便利だから社会に取り入れることは危険だったのである
技術の影響力を考えなかったのである
社会にとってクルマがどう影響するかなど全く考えなかったのである
そういうことは科学技術には常にあるけどなんでも開発される
遂にはロボットにITに人間が支配されてしまうとかもある
科学技術はいいものであり無制限になるときどうなるのか?
それが恐怖なのである、それによって人類も滅びるとういこともある

いづれにしろこの本は自分自身を言いたいことを明確にした本である
ただここでテーマにしているのはこの著者は京都でありまた富山市でも大きな都市でありこの辺の五、六万の都市とは違う、規模が違うからみんなあてはまらない
むしろ五、六万の都市では路面電車とかは作れないから事情が違う
むしろこういう小規模都市はクルマ社会から脱出できないともなる
それに代わる交通網が整備できないからである
それをどうするかとなるとまた別な課題としてある
この著者はクルマ社会をすべて否定しているのではない、高速道路は必要だとしている
まずクルマをすべて否定することは不可能だからである
ただあまりにもクルマ社会になりすぎたことで提案しているのである

経済的にもそうである、クルマを捨ててこそ地方がよみがえるというもの逆説だからである、経済的効果がかえって車なしで生まれという発想はしないからだ
地方の問題がいろいろ言われる、地方を活性化するにはどうすべきかいろいろ言われる
ただクルマを捨ててこそ地方が活性化するというのは斬新だった
そういう発想を普通はしない、でもそれを可能にしているのはかえって東京とか富山市でもある程度の十万万以上の人口があるところだともなる
富山市でも42万の人口があるからできたことなのである
かえって5万くらいだともうどうにもならない、クルマ依存がかえって強くなっているのだ
そして鉄道に関心がないようにこういうことに賛同するのは一パーセントもいるのかとなる、それだけクルマ社会にどっぷりとつかっているからこれを変えることは容易ではないただ高齢化になって老人が困るという時、かえってそれで多少変える機運が出てくるかもしれない、そういう点で高齢化がすべて悪いものとして働くともならないのである
 
 あとがき

市電とか路面電車がこの本で見直されて実際に実現した、何か市電とか路面電車はクルマとちがって人間的なのである
クルマというのは非人間的なものなのである、だからこそ昔からあったコミニュティでも破壊したのである

市電は過去の記憶を刻む
乗り場は駅でありその名に親しむ
老若男女が日々乗り合わせる
我は旅人なれば気楽なり
市電はゴトゴトコト街中を走る
その線路は刻まれた記憶の道
古い喫茶店が十字街にある
私はかつて函館の住人のようにあった
私は長く気ままにそこに滞在した
青函連絡船もその時あった
函館と本州は船で結ばれていた  
・・・・・・・・・・・・

過去の記憶の街ー函館(詩)

まさにこのようにクルマ社会にはないものが市電には路面電車にありそういうことがクルマ社会が変わる時蘇えるのである
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2019年06月21日

外国人労働者と底辺労働者が争うようになる (日本の貧困化で起きていること)


外国人労働者と底辺労働者が争うようになる

(日本の貧困化で起きていること)

若者の失業は世界中で蔓延している。その数には驚くはずだ。世界全体で約7500万人の若者が職を探している。アラブ諸国のなかには、16〜24歳の失業率が90パーセントに達する国もある。アメリカでは23パーセント。スペインとギリシャでは約50パーセント。イギリスでは22パーセント。世界的に見れば、ワーキングプアの4人にひとりが若者であり、質の悪い仕事に就いて、将来の希望が持てない状態から抜け出せない 

若者7500万人が無職にあえぐ世界の暗い未来

一つの有力な見解は、南アの低所得者と外国人低所得者が住宅や雇用機会などを巡って競合した結果、外国人低所得者が南ア人低所得者の不満のはけ口になっている、というものだ。


例えばエジプト辺りだと若者の仕事は観光になる、工業がないから観光業になる
ギリシャでもそうである、つまり観光業が若者の仕事になるような所は経済的に遅れている、豊かな国ではないのだ
日本がでも電機製品を外国に売れていたときは先進国になりジャパンアズナンバーワンとまで言われた、それも日本の技術が優秀だから日本人が特別優秀だからでもなかったのである、なぜなら今では韓国でも中国でも同じものを作っているからである
もし日本でしか作れないものだったら別だったが今や中国でも韓国でも作れし日本の製品より安くていいともなれば日本製品は売れなくなる
それで外国人の観光客を呼び込もうとしているのは日本が貧乏になっているからなのだ
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この引用先が不明に

こたれなどもそうである、高度成長の時は日本人がアジアに言って女性を買っていた
つくづく人間には何でもカルマがある、そうして優越感にひたっていたが今度は逆になったのである、それもカルマだったとなる
日本を卑下する必要はないが日本人が特別優れていると思う時奢りになり危険になる
原発でも日本人の技術が優秀だから事故は起きないとしていたからである
そういう奢りが本当に常に危険なのである、奢りが滅びに通じているのである

南アメリカで起きていることが日本がでもすでに起きつつある 

【外国人労働者問題】日本人の底辺労働者は捨てられる? Love & Freedom


このyoutubeで日本人が外国人に占拠されて入り込めなくなっていると非正規底辺労働者が語るのはリアルである
外国人労働者問題で学者でも政治家でも言うが実体験からは語られないからである
この人は底辺労働者で具体的に恐怖を感じて語っているのである
日本語が通じない、日本人は外国人労働者のグループから排除されると恐怖を語っているからだ、もうし日本語が通じないから英語を覚えろと言っている
英語は世界の共通語だからなんとか通じると言っている

つまり南アフリカのように底辺層同士が日本でも争うようになる
それがグロ−バル経済のまた資本主義の熾烈な競争社会なのである
労働者でも若い人の方が使いやすい40近くになるとおっさんだとかなり選ばれなくなる20代の若い人が覚えやすいし使い安いとか体力もあるとかなる
そして日本人の非正規で35から40過ぎは外国人の若い労働者に負ける
そういう危機感を言っているのは南アフリカと同じなのである
それが自由に労働者でも行き来するヒトでもモノでも自由に出入りするグロ−バル社会なのである

そして世界で若い人の失業者が多いということも外国人労働者がとめられない理由にもなる、ネパールとかで山ばかりで近くに住んでいるホンダに勤めている人でも4000メートル級の所に住んでいるという、そこでどういう暮らしがあるのか?
観光しただけではわからなかった、ただ裸足て歩いている人がいたのには驚いた
原始的生活をまだしていると実感したのである
それからしきりにボールペンをくれという、そういうものがないから用意しておけと書いてあったからそれをくれた、書くものすらない、するとどうして教育するのだろうか?
ただネパールでは英語を話す人がいてガイドしていた
そのネパールから今女性でも三人男性でも一人一万くらいの田舎にいる、一人は妻となる人を呼び永住するらしい、後はベトナム人も多い

そして世界で失業者が多い、若者が多いという時、なぜイスラム国など過激なテロ団体が生まれたのか?
それは宗教とは関係ない、貧乏とか若者の失業者が多いためである
血気盛んな若者がぶらぶらしてはいられない、それなら戦争でもいい、そこで活路を見出そうともなるのである、現実に日本でも就職できなかった大卒の若者がイスラム国に入ろうとしたことで問題になったからである
何か不平不満があるときそれが社会的圧力となりそうしたテロ集団とかが生まれてくる
それは本来の宗教とは関係ないのである、それは日本のカルト宗教団体でもみんな同じなのである、何か不満を抱えている人がそういう団体に入り境遇を変えようとする
だから生活保護の人がカルト団体には多いのである

別に今だけではない常に大陸ではヨ−ロッパでも民族移動があった
移動する圧力がありそれがローマへと向かったのはそこは先進国であり富が集中していたからだとなる、ただ日本は確かに東南アジアとかでもネパールとかベトナムと比べれば豊かでも今や他と比べてはそうでもない、むしろ貧乏国になっている
たからこそ観光に力を入れているのである、観光に力を入れる国は貧乏だからである
その状況をリアルに訴えているのが底辺労働者のyoutubeである
自分も若い時底辺労働者でありそれからも社会からはずれて暮らしていた
ただ家で生活できたから底辺労働者として呻吟することはなかったのである


インターネットの情報は今や膨大である
でもそれらを編集しないと読んだことにもならない、問題意識をもって情報を編集することである
ここでこうして書けたのはインタ−ネットの配信とyoutubeと楽天の雑誌や週刊誌を読んで編集したのである 
だから今の情報社会は膨大な良質な情報がある、でもそれを消化することは時間もかかり疲れるのである、だからこうして自分なり編集して読む必要がある
ただ時間がかかる、それだけ毎日情報に追われている、これも疲れると思った


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2019年06月08日

「貧乏生活ほどお金がかかる」 (地方の貧困はますます厳しくなる)


「貧乏生活ほどお金がかかる」

(地方の貧困はますます厳しくなる)

●車代の出費が大きい

お金がないと、この「移動手段」には隠れたコストが2つあることに気がつきます。1つ目は、車には高額な修理費が避けられないこと。私はブレーキパッドの交換時期を無視していたせいで、キーキー音が鳴るようになりました。その音は嫌でしたが、お金が出ていくことはもっと嫌でした。そこで、音楽を大音量でかけてごまかしていたのです。

車にもよりますが、ブレーキパッドの交換には平均145ドルがかかります。それは、1カ月分の食費に相当します

破産経験者の私が語る「貧乏生活ほどお金がかかる」という現実

●通信費の出費(老人も携帯は必需品)

iPhoneだって、日本全国どこに行こうがiPhone XSは10万円するわけで、物価の安い田舎に行ったからと言って3万円に値下がりするものではありません。

●医療介護費用が大きい

これも節約できないので負担が大きい 

●水道、電気代などが大きい

これを止められれば生活できな


その家族はまず一人の非正規の労働に頼っている、その人は建築関係であり常に移動しているから車が欠かせない、でも車は結構金がかかる代物なのである
もし車を使わないと30年くらいで一千万くらい節約できるかもしれない
私は車は使っていないからその分節約していたとなる
私は仕事もしなかったけど金も使っていない、旅行したとしても最低の金しか使っていないからである、それで海外旅行では意外とバックパッカーで安くついたので金が残ったので高いヤマハの最新の電動自転車を買った 
介護を二人したがそれもそれほど金を使わずにすんだので助かった

その人は親が青森の介護施設に送られた、安いのとこの辺では人手がなくて受け入れる施設がない、ではそれで何もしなくてもいいかというと何かと金が要求される
つまり施設ではあくまでも基本料金だけではすまない、その他にかかるので要求される
その負担もあるから苦しい

そしてその女性は70近くであり絶えず体の不調を訴えている、それもこの辺では治療できないからと東京に行ったり仙台に行ったりしている
この辺ではめんどうな病気は仙台に行かないと治療できない
この負担が老後になると大きいのである
月三万で病院通いしている老人がいたとか病気になっている人が多いからである
一旦家族でも自分自身でも病気になると金だけでも解決できなくなり破産するようにもなる

通信費というのも老人でも携帯は必需品であり欠かせないとなるとそれも負担になる
それは都会と田舎に差がないのである、田舎だから安くつくものが現代では少ないのである
そして現代では水道、電気代が大きい、それで金が底をつくと必ず水道や電気をとめられ生活できないと泣きついてくる
結局現代は貧乏でも金がかかる時代なのである
これらの費用が欠かせないからである

戦後十年では電気は裸電球一つであり飯台一つでありエネルギーは炭だった
水は近くの井戸水をもらっていたから無料であり糞尿は近くの農家の人がもって行った
それも無料である、紙は新聞紙でありトイレットペーパーがなかった
もちろん車がない、自転車があったがそれも一台を修理してみがいて長く使っていた
新しいものを買うというのはほとどなかった
風呂は外風呂であり鉄砲風呂であり私は子供の頃風呂焚きが仕事だった
その燃料は近くの木材店でバタを買ってなのかもらったのかそれが燃料だった

その時は本当に金を使っていない、また使いようがない時代だった
現代はこうした金の使わない生活がそもそもできないからさらに苦しくなっているのだ
これらのものが最低限必要でありそれだけで昔のような貧乏生活ができないのである
だからなぜその人が東京までわざわざ医者に診てもらうために行ったのかと何か贅沢に思える、ただ江戸時代でも医者に診てもらうためには遠くに行かざるをえなかった
特に目が悪い人が多く、そのために遠くに行って医者に診てもらわないと直らなかったからだ

結局現代の生活が貧乏といってもその基本料金自体を省くことができない、するとどうしても節約もできないのである
それらは現代生活の必需品だからである、それで最後は水道と電気をとめられるのであるそれでその人が貧乏だということを知るのである
そうでないと貧乏が見えないのである

自分自身はある程度は余裕があってもそういう人とつきあっていると自分自身にも影響する、そしてそういう人が家に入り込んできて大金を盗まれたとか事業に失敗した人に苦しい時に借金を頼まれたかと地銀に投資信託を買わされて大損したとかなる
なぜなら地銀自体が追い詰められているからもう地方で投資する先がない
金を貸す先がないとか苦しいから詐欺的な投資信託を売りつける
第一地銀の支店長自体が株のことを知らないとか投資信託をのことを知らないと言っていたのである
素人並みでありそんな人がなぜ売ってもうけさせてくれるのか?
金融のプロでもなんでもない、素人なのである、ただ手数料をとればいいとしかないのである

こうして地方でも金がかかるから原発は金になるということでとびついたのである
積極的に誘致したのである、そこに誤算があった
でもこの辺で成金になっているのは原発にかかわった人たちが多い
この辺で有名な建築土木会社の創始者は原発の工事がありそれで資本ができて大会社にした、それから船主は原発事故前も多額の補償金で原発御殿が建っていたとか事故後もそうだった、補償金は継続的にもらえるから金には困らないのである
烏アは漁港であり原町火力発電所が作られたとき補償金がかなり入った
その人の親は漁師でありそういう人は金を相当にもらった
でも海で死んだのである、その時近くの呉服屋が着物を売ってもうかったのである
その人が40年前とにかヨ−ロッパに海外旅行に行っていたのには驚いた
この辺でそんな人がいたのかと知らなかった、なぜなら飛行機代が50万とかになっていたからである、だからその時自分は海外旅行はできないと思っていた
それが何か尾をひいて海外旅行するのが遅れたのである
1ドルが240円くらいの時代だったからである

ではその他はどうかとなると田舎ではいろいろあっても貧乏な人が多いとなる
ただ何か現代の貧乏は見えにくいのである、外から見てていもわかりにくいのである
昔だったら乞食がいたからそれなら見えるからである
生活保護などがあるから最低は維持できるから見えにくいとなる
ただこの生活保護も医療費は無料だとかその他はもらえないという人もいる
地方では生活保護は都会のようにもらえない、最低が保証されない

現代の生活は貧乏でもさらに金がかかるというときもしこれらのものにかからない昔のような生活だったら楽なのである、それができないから追い詰められる
水がないとなくなればその時生活すら生きることもできなくなる
水は昔は無料でもらっていたからである、水だけでも無料でもらえたとなるからだ
電気もないから裸電球一つだから電気代もかからない、もちろん車もないからかからないトイレも無料で使用する、ただ医療とか介護になると医者代はかかる
でも60くらいで死んでいれば介護というのはそれほどなかった
また医者にはかからないのが多かったろう、そんな金がないからである
でも脳卒中になって藁で便をとってふいていたということも聞いた
紙が貴重な時代でありそれもなかったからだ、それだけ昔の生活からすると贅沢しているからである
そういう生活を子供の時小学校の時していたからその経験は貴重だった

「貧乏生活ほどお金がかかる」というとき現代ではそれだけ基本的にかかる金が大きいのである
もしそれが昔のようにゼロだったらこうはならないからである

現場の近くには、広範囲に渡って「ネマガリダケ」というタケノコが繁殖している。犠牲者4人は全員、ネマガリダケの採取に訪れていた。このタケノコを採りに来る人の中には車で3時間以上かかる秋田市内からやって来る人もいるというが、労をいとわず遠方からも訪れる理由は、それを売るためである

ツキノワグマ「山林の人喰い現場」を決死ルポ!(1)事件の深層にある地方の窮状

秋田となるとここも過疎化が東北では一番厳しい地帯である
人口減少で働く場所もない県となっている、青森でもそうである、青森とか長崎から原発に働きに来ていた人がいたし北海道の室蘭かも来ていた
そういう地域から来る人の事情は察せられる

山の生活では山菜が食料になるということがあった、それで飢饉になると山に逃げたとかあったのはそのためなのか?でも山菜だけでは腹の足しになるとも思えない
飯館村では山菜は料理の定番になっているのもそのためである
タケノコだと腹の足しになるからそれが貴重だというのはわかる

いづれにしろ現代の便利な生活は金がかかる、最低限でもかかる、すると貧乏だとしても昔の貧乏とは大違いだとなる、昔の貧乏は金がなくてもなんとかあるもので暮らせるということになるが今の貧乏は金がなければどうにもならないという貧乏なのである
そこが大きく違っているのである、農業でもハウス栽培になれば石油を買う金が必要だとかなる、電気が必要だとかなる、エチゴ栽培ではそうである

ともかく地方の窮状はこれからもっとひどくなる
地銀がもうなくなるというのもそうである、何か地方には成長産業がないからだ
何か昔のようにかえって自給自足していた農家が裕福だったということがない
その時裕福だったと感じたのはその時代の感覚である
農家でも今は老人でも軽トラがないと農業もできない、トラクターがないとできないとかなっているから金がかかる割に収入が少ないとなっている
昔は機械がない代わりに村全体で田植えしたり稲刈りしていたのである
そういうこともなくなるとまた機械に金がかかるのである
だからこそ原発に頼るということが起きてきて事故になり故郷に住めなくなった
そして農業とか一次産業が衰退して軽視されるようになったのである
それで地方をこれからどうするのか?それが大きなテーマとなる
なんらか今までの生活を見直さないともう生活自体成り立たなくなるかもしれないからだ






posted by 老鶯 at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年06月06日

今までの日本人の労働観は通用しない (労働する価値とか意味が見いだせなくなっている)


今までの日本人の労働観は通用しない

(労働する価値とか意味が見いだせなくなっている)
   

ニートは憲法違反なのか?
(誰でも労働したいがそのしたい労働ができない) 


「よくわからない」からとりあえずやってみる。
実際にやってみないと、労働が何であるかはわからない(やってもよくわからない)。



laborー(名) 労働 (=labour) laborious  (形) 骨の折れる

ラテン語系の labor を見ると、これには古代の奴隷制を連想させる苦役のイメージが色濃く付きまとっている。要するに、堪え忍ぶ苦しい仕事の意味合いが強い。労使関係、労働運動、革命運動等の文脈における「労働」は基本的に labor である。ちなみにドイツ語の Arbeit の語源的意味も 辛苦、困苦であり、フランス語の travail にいたっては責苦、拷問という恐ろしい意味が語源にある。この系列では、働くことは「苦」なのである
一方、ゲルマン語系の work の方にはあまりマイナス・イメージはない。同語源のドイツ語 wirken にも見られるように、その意味するところは何らかの自主的・能動的な活動をなすということである。その活動の結果としての作品が名詞としての work(Werk)である

なぜ労働を問うのかとなると人間日々働いているからである、毎日どこかで日々働いている、それが社会だからである、労働無くして人間もありえないとなるからだ
ただ労働とは何かとなるとそれが本当にむずかしい、いろいろいくらでも理屈が言えるからである
労働を苦役としてとらえることはその起源も古い、つまりエデンの園から神がアダムを追い出して労働させられるようになった、それがlabor(苦役)なのである
罰として労働をさせられているのである
エデンの園では苦役の労働はない、でも何もしていなというのではない、苦役の労働がないだけだった、でも一日何していたのだろうとはなる
何かいろいろな花が咲いていてそれに名前をつけるとか知的な活動はしていたともいう
でも苦役としての労働はなかったのである

労働というときその要素は様々であり正直一つのものとして語れることはできない
労働は多様でありその価値も多様だからである、時と場合によっても意味と価値が違ってくるからである、つまり労働は何かと定義することは不可能だとなる

多様な価値観をふくむ人間的活動となる

労働をみるとき欠かせないのは他者のためにとか家族のためにとか地域のためにとか国家のためにとか自分自身のためではないものが必ずそこにある
そもそも働くとは端(はた)を楽にするということから出ている言葉である
それは身近な人が働いていて苦労しているから楽にしたいとして生まれた言葉である
働くとは必ず家族であれ村であれ地域であれ国家であれ広く関係していて労働が語られるのはそのためである
だからつくづく労働は何か語りつくせないし定義もできないしその意味と価値もすべて語りえないのである

基本的には労働しなければ今日の食べ物がえられないから労働するとなる
腹減ったからに狩出て獲物をとらえる、農業になると米や野菜を作る、それはある程度の日数がかかる一か月とかもかかるとなるとそこに計画性が生まれる
それで農業となる暦が大事になりいつ種をまくとか時季が大事になる
それを基にして文化化したのが俳句の季語だとなる

民族的に働くということの意味も価値もとらえ方も違う、そもそも大陸の国を見る時大事なのは日本のように海に囲まれていないから民族同士の争いがたりない、すると戦争で負けたものは奴隷とされる、その奴隷は戦争で皆殺しにされていたが温情で奴隷として使ってやるとなったのである、そこに人権の進歩があったとみるのも歴史である
またなぜ貴族と平民とかに別れるのか、階級制があるのかというのも民族同士が戦争して優劣を決めるからである、それで面白いのはネパールである
インドからカースト制がもたらされているからいろいろ人種でカースト制が作られる
それが外国人にも適応されている、日本人もカースト制に入りどういう位置にあるか決められているというのも奇妙である
それは民族が混交してくるとどうしてもその差で色分けしてカースト制が生まれていたのである、だから外国をみるときこのことが背景にあることを知らなければならない
日本では特殊であり日本は階級制もない平等な国なのは日本人は早い時期に人種が混交してみんな日本人になったからである
そういう歴史や文化の差があるということを知らねばならない
つまり日本は大陸と比べるとありえない特殊な国柄を歴史を文化を作ってきた国になる
敵味方塚がなるのも日本だけである、だから中国人が敵の墓まで作っているのが理解できないのである
それは日本人は一つの民族であり争っても仲間だということでそうなっているのである
中国人は敵の墓まで暴いて罰しているのだからそこが歴史と文化の大きな相違なのである

外国では戦争に勝てば負けた人は奴隷にされる、そして本当はみな殺しにするのだが温情で活かすが奴隷として使われるとなったのである
その奴隷に働かせて貴族が労働しない階級制が生まれた、だから奴隷を使うことに罪悪感がないのである、日本ではそうはならない、そういう歴史がないためなのである
労働が苦役とするとき奴隷にやらせればいいという労働観になる、そして労働しないから暇が生まれ学問が生まれたとなる
なぜならスクールとはスコーレであり暇の意味だからである、それは奴隷がいたことにより獲得されたのである
今でも働く者は奴隷だ、社畜だとかになる、自らそういうものもいる
ということは戦争に負けたわけではないが働かされているという感覚になる、では苦役でも働いているのか?
それは戦争に負けたからだとなるが今ではまた違った意味でそう強いられているとなる

この奴隷労働をふりかえるとき常に労働にはそういう要素がある、働かせられているとは強いられているのだから奴隷なのである
もし働かなくてもいいとしたら働かないからである、奴隷だから働かさせられるのである
奴隷でなくても借金したりすると嫌でも働かせられる、借金の奴隷となるのである、それは苦役でしかないのである

ともかく働くことにはいろいろな要素があるから一概には言えない

今何が働くことで問題になっているのか?
それは働くことが生きがいが感じられないと何か意味を価値を感じられないとか労働疎外が起きているためである
村とかの共同体があれば村を維持するための労働となりそこに労働疎外は起きない、苦役でもそこに労働の価値と意味を感じるからである、溜池でも共同で作るという時それと村を維持するためにみんなで働かねばならないものだからである
そういう目的が明確でありその労働の意味と価値を求めることをしなくても明確だからである
だから労働が苦役でもあってもそのことで悩まないのである、ただ苦しいから楽でありたいというのはいつでもある
今の労働は何か労働自体がそうした意味と価値が感じられないのである
その例だ非正規の労働なのである
正社員なら高度成長時代の会社なら終身雇用であり会社が村のようになっていたのである
会社とは社(やしろ)に会すだからまさに村なのである
村でも終身雇用だからである、そういうことで働くことは会社のためでありそれは村のためだということに通していたのである
そこに共同体があり共同体を維持するために働いていた協働していたのである
  
Love & Freedomの非正規労働者の絶望は何か現代の労働を象徴しているのである

彼は働くも
妻もなく子もなく
親もなく親類もいない
ただ一人働く
今日の糊口をしのぐために
それは会社のためでもない
誰かのためでもない
社会のためでもない
孤立して今日一日分の金をもらう
働いたからと人からの感謝もない
ただ一日分の食べる住む金をもらう
そこに協同で働くことがない
孤立した労働であり
誰からの感謝もない労働
ただ一日分の賃金をもらう
労働の価値はそれだけである

非正規労働者が会社のためという動機がない、だから働く仲間がいない、決まった場所で働くわけでもない、どこに派遣されるかもわからない、日々違った場所に派遣されるからである
何か達成感もない、そして最後は孤独死だとなるだけであり捨てられるだけだとなる
そこには労働の共同性が奪われた孤立した労働だともなる
無数のパーツ化した分解された労働でありアトム化された人間となる
その個々の労働につながりが見いだせないのである
そうなるとエジプトのピラミッドを作った人たちは奴隷だったとかなるがそうでもない
その目的は王の墓ではないとすると宗教的建造物を一致して作っていたともなる
それはカテドラルを作った人たちの労働とにている、また古墳でも共同の産物でありその時代の共同性の証として残されたものだとなる、すると今の孤立した無数に分解された苦役の労働よりは意味と価値があったとなるのである 
この人の希望はFXでの一攫千金なのである、つまりそれだけが希望だけだという時何か切ない悲しいとなる
金さえあればというのがまさに資本主義での幸福になっているのだ
でもこの人がでは何をしたいのかというと金が入ってどうするのかというと見えない
ただ苦境から脱したいから金が欲しいというだけになる

例えばそういうことは田舎でも起きている、田畑があってもでは地元の田んぼからとれた米を食べているかというとそうではない、いくらでもうまい米は売っているから、地元の米を食べて地元の人に感謝することもないのである
第一私が援助して畑に野菜を作らせている人はそもそも何ももらっていないからである
そしたら何のために金を払っているのだとなるからだ、田舎でも村でも今はその土地でとれたものを食べていないのである
かえって外国から来た野菜でも果物でも食べているのである
グロ−バル化経済では日常的にそうなっているのである、そしたら地元の人が働いていてありがたいとかならないのである
そして地球の裏側から来た果物でも食べていてもその食べ物を作る人のことなど知り得ようがない
つまりそこで労働しているもののことなどわかりえようがないのである
ただ食べ物だけは入ってくるのである、それでもバナナ農場で働いたから苦役だったというから労働に苦役がつきものなのであるこういうグロ−バル化経済が今は労働疎外を生んでいるから社会が変わっているから労働は義務だとした今までの価値観は変わる
こういうことは商品としての労働となり貨幣の物神化とかでマルクスが説いた
ただマルキシズムでもまたその労働は共産党のための共産党の金持ちのための労働になった
兆もの金を共産党幹部は得たからである、極端な格差は平等の共産主義にも生まれたのである

現代の労働がなぜ疎外が生むのか?ただ金だけを得る労働になりかつてのような労働の意味と価値が生まれないのか?
労働をしたくないというとき苦役だから常にそういうことはあった
でも家族のために村のためにかんばらねばならぬ、働かねばならぬきということで働いていた
それは原発避難地区に起きている、なんとか働いて田畑を復興させてくれと願っても若い世代でも働く人でも流出したらできないのである、こういう場では働いてもらいたいし働いた人に感謝するとなる、それで働き甲斐があるとなる

グロ−バリゼーションと資本主義が危機だというときそれは労働観に現れている、働かないという時なぜなのか?
働きたくないのはなぜなのか?このことを追求することが大事になる
私自身は働きたくなくなったのは底辺労働でありロボットのように流れ作業しかししていないからである
これが仕事なのかとなるとしたくないとなった、でも何かそこで生きがいのある労働であれば自主的にする
でもそんな仕事は与えられないのである、それは能力がないからそうなっているのだともなる
能力がある人は生きがいのある仕事をしているとなる
それで私は引きこもりになり家で好きなことをしていただけだとなる
学問とか芸術をの追求をしていたとなる、それは創造的仕事だからしているとなる
何か私は文章を書くことが好きである、しゃべるのは不得意である、だからこうしてプログで書き続けているのである
ただ金にならないから価値と意味を与えられていないとはなる、与えているのは自分だけだとなっているのだ



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2019年05月29日

借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類 (日本人が貧乏する理由(武田邦彦)


借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類

(日本人が貧乏する理由(武田邦彦)




武田氏はとにかく見識が広いから参考にして見ている、人間はなかなか正確にわからないし批評はできない、だからコメントするのでも一行二行とかしていてはわからない
こいつは馬鹿かとかなんとか言ってそれで平等化する
それでも何か批判して俺の方がわかっているんだともなるからだ
だから私は一行二行のコメントを歓迎しないし私のプログにはコメントはない
やはりプログでその人なりのものをもっていて批判しないと相手にしたくないのである
ただプログだとどこに書いてあるかわからないから問題なのである

武田邦彦氏は人気がありあれだけ広い見識があるから参考になる
それは直接現代のエリート層とも通じているし外国生活も長いからその経験で違っている第一私は底辺層としかつきあったことがないからである
すると社会のことを底辺からしか見れないのである
そうしたら社会のことはわからないとなる

ただ人間はつくづくその人の生い立ちから住む場所から個性でも違っている、だから人はみんな違っているのである、その人自身の個性を作る条件がみんな違っているからである毎日海を見える場所にいる人と山に囲まれて山ばかりみている人でも何か人間も違ってくる、風土によって違ってくるから世界中てこれだけ文化も違ったものとなるのである

だから人間は自分の経験からいろいろなものを見るのが基本になる
経験しないものはわからないのである、それは本を読んでもわからない
実感がないからわからないのである、例えば戦争でもこれだけは実感することが不可能である、隣にいる人がばたばた死んでゆく、戦友が死んでゆくことなどとても経験しないかぎりわからないのである、だから戦争がどうのこうのというときそういう経験した人こそ戦争を語れるとなるがしない人はわからないから戦争はいいものだとさえなる、恰好いいともなってしまうのである

武田氏は超エリートである、でも貧乏のことを語る時何かずれているなとも見た
なぜなら借金してでも金を使うのが資本主義社会である
そういうことが理解できない、もちろんそこに深い意味があるかもしれないから表面的なことで軽々しくは批判できない
youtubeの欠点は言うことが短いし何か感情的になりふすい、それで非正規の苦しさを訴える人に同情した、声とかが出ると何か感情がでてくるんだなと思った
テレビというメデアは声とか表情が見る人に影響する、それで人の感情をあおる
あいつが悪い奴だとなるとみんなが感情が刺激されてリンチ的になるのである
つまりテレビとかは深く考えさせるメデアではなのである
ただyoutubeを見ていてわかったことはテレビとも違う何か学習機能がある
常にスタディしている、だからテレビのような大衆相手にエンターテインメントになっているのはも違う、とにかくテレビは視聴率がとれればいいのである
youtubeも視聴率が問題になるが百万とかまでは見る人はいない
そして個々の経験に基づいたことを発言しているのである
そこはテレビというマスメデアとの大きな相違だったのである

youtubeでもまだ深くは考えられないメデアである

それを感じた、だから借金してでも使いというとき誤解が生じる
そこだけをきりとって反論すると誤解が生じる、またそこには深い裏付けがないからである
なぜなら武田邦彦氏は果たして借金の意味を深く考えているのか?
まず自分自身が借金をしたことがあるのか?借金で苦しんだことがあるのか?
また他人の借金で苦しんだことがあるのか?
それがあれだけのエリートだとない、そこに借金とは何かわからなくなっているのだ

自分自身も親の介護とか自分の病気とかで苦労しなければ人はみんないい人だとのんきに思っていたのである、社会ともかかわらずに60まで生きていたことが異常だったとなる
だから社会は人はみんないい人だと思っていた
人間とは結局自分の経験から社会でも見る
一旦人から裏切られた人は深刻な人間不信になる、もう人間は信じられなくなるのであるそういう経験を私は介護になってからずっとしてきてそのことプログに書いてきた

人間とはこんな恐ろしいものだとか実感した、誰一人として自分が苦しんでいるとき同情もしない、むしろ相手が弱ったからチャンスだとなり大金は盗まれるわ何かと責められるとか苦しんだ、一切そこに同情すらなかった
それも自分自身がこれまであまりにも楽していた結果でありカルマだったことを知った
だかちそのことで他者をうらまない、でもそれ以来人間観が変わってしまったのである
人間がこんな恐ろしいものだと思わなかったからである
人間は自分が苦しんでいれば相手が死ぬと何であれ何の関係もないのである
だから最底辺で苦しんで老いた人が言う
あそこの土手の道で倒れても誰も助けないというときそのことに共感したのである
その人もこれまでひどい目にあった連続だったからそう思うようになったのである

そして借金してでも使えということがどういう意味なのか?
そんなこと軽々しく言えるのか?
借金した人が私が介護して病気になって来た時どれほどの恐怖を与えたか?
そのことを書いてきた、事業に失敗してかなりの額の借金をした人がきて助けると言うがもう助けるどころではない、その人の頭には借金のことしかない
それも額が多いのである、だからもうその人にとって頭は借金のことしかない
すると自分が苦しんでいてもそんなこと関係ないのである
こいつからなんとか借金しようとしかないのである、だから脅迫もされたのである
その時自分が病気であり介護していてどうにもならなくなっているからそういうふうに借金でも要求しやすくなっていたからだ
その人はなんとか自分の財産を得ようとしていたのである

その人は別に会社にいたときはいい人だったのである
誰もとれない資格をもっていた技術者だったからである
ただ事業をはじめて失敗して借金したのである
その人はまず事業などできない、商売できない人だったと思う
経営者にはなれない人だったと思う、技術をもっていても経営とか商売は違っているからだ、その人はまず私が病気のとき物を持つことさえ嫌がっていた
入院するとき物をもつことさえ嫌がっていた
つまり私のためには何もしたくなかったのである
それはその家族にも言えた、ただ金が欲しいしかなかったのである
そういう人がどうして会社を経営できるのか?
他者になにもしたくない、ただ金をもらいたいというだけなのである
そんな人に仕事でも頼むだろうか?その家族もまたそうだったのである

そして借金している人は怖い、借金しているだけで犯罪者予備軍であり犯罪の動機をみると借金を返すためだとかの動機が本当に多い
だからまずこの人が借金しているかどうかでその人を見るのが常である

だから借金している人は犯罪者である

ここまでなってしまうのである、それほど借金は人間を変えてしまうのである
借金している人はもう人を助けるなど全くできない
また追い詰められている余裕のない人間は人のことなど考えない
会社でもそうだし今の銀行が追い詰められているもう顧客のことなど考える余裕もないのである、会社がもうけをだすためには詐欺的な投資信託でも売りつけるほかないのであるつまり余裕がない人は人を助けるとか考えることすらできないのである

だから借金してまで使いということほどあまりにも浅薄な意見はない
ただ資本主義社会では借金は奨励されるというとき会社とかで事業する人はそうかもしれない、でもその人は事業していたのである
そして多額の借金となり我が家が苦しい時借金を返すために脅迫までするようになったのである
だから借金は人を根本的に変える、善人も借金で簡単に悪人になる
もう借金した時点で悪人となっているのである

だから武田氏の見識の広さには学んでいたがこれはどうかなと反発した
ただその背後には深い意味があるがそれが語られないのかもしれない
でもこれは危険なことである、借金してでも使い、そうなのか?
そんなことで同調して借金して使う人がいたら危険だとなる
結局は人間はその人の限られた経験からしか語られないのである
あらゆることを知り経験することはできない、そこにかたよって見方が生まれる
底辺で生きている者は社会のエリートとして生きている人のことを理解できないのであるまたエリートは底辺の人を理解できないのである

だから格差社会になるとたがいに社会で理解し得なくなり分断されて社会が維持できなくなる、その認識は共通していとなるが借金については個々人ではすべきではない
借金の恐ろしさについて鈍感でありその恐ろしを知らない
借金によって人間のモラルは消失する、ただ借金を返すために借金のために殺人まで普通にするからである、そういう事件はいくらでもあるからだ
ただ正直youtubeでもネットではなかなか深い議論にはならないのが問題なのである


あとかぎ

借金しても使えというとき貯金だけしてもだめだということはある、金をいかに有効に使うか、それが資本主義だということもある
だからそういう意味とかありそれはくみとれる、でも借金しても使えというのは誤解を与えやすい
国単位とかだとそうなのかもしれない、でも個人単位では別だと思う




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2019年05月27日

投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


2017年3月、金融庁は「顧客本位の業務運営に関する原則」を打ち出し、金融事業者に顧客本位の業務運営、いわゆる「フィデューシャリー・デューティー」の確立・定着を求めた。「顧客本位の業務運営」に関する7つの基本原則とは以下の通りだ

【原則1】顧客本位の業務運営に係る方針の策定・公表等
【原則2】顧客の最善の利益の追求
【原則3】利益相反の適切な管理
【原則4】手数料等の明確化
【原則5】重要な情報の分かりやすい提供
【原則6】顧客にふさわしいサービスの提供
【原則7】従業員に対する適切な動機づけの枠組み等


手数料等の明確化
重要な情報の分かりやすい提供

投資信託にはこういうことはない、複雑であり一般人はわからない商品である
株の方がわかりやすい、なぜなら株は上がったりもうかり下がったら損するだけである
だからリーマンショックのとき買った株が上がったから8年過ぎてもうかっていたが
銀行員が来て勝手に投資信託に回して損したとなる
その時説明責任があったが一言説明なく投資信託に回した
ただこれには自分自身の責任もかなりあった、その時の情勢もあるからだ

私は投資のことでもわからない

自分はそもそも地銀ということで信頼していた

時間がないからまかせた

こういうことで地銀を信頼したからまかせたのである
そもそも病気になったらプロである医者にかませるだろう
法律がわからなければ弁護士にまかせる、家建てるにしても素人は建築会社にまかせる
そもそも一人の人間の知識など限られている
だからこそプロがいてまかせるのである
金融のプロが銀行であり証券会社である、株が上がったり下がったりする
それを素人の人は他にも仕事があるから見ていられないのである
だからそういう暇がない人は知識がない人はやるなとなる
銀行にまかせること自体がお前の責任だったとなる
それも言われてもしかたがないとなる、自己責任だとなる

でも金融でもそうだが原発でもそうだったが相手は圧倒的な専門知識がありそれに対抗できないのである
だからこそ「安全神話」が作られたのである、放射能のことを原子核とかなんとかなるともうお手上げだからである
そこに圧倒的な知識の差がありそれと対抗すること自体不可能なのである
それは金融商品でもそうである、まず投資信託について毎月分配型について通暁することは不可能である、仕組みが複雑すぎるからである
それは素人をだますために作られた商品だとも今では思ってしまう
顧客のためではない、そういうふうに複雑にして顧客をだましやすい商品として作られたのである、最初からそういう意図があったのである
そこにすでに悪質性がある、ギャンブルにしても公平性がある
調か半かは確率であり公平だともなる
ところが投資信託にはわかりにくい、株とかFXはもうからないとしてもわかりやすいから素人でも理解できるから公平だったとなる
一時何かアメリカの投資信託で円安になりもうかったがそれもすぐ売って別なものを銀行で買った、そこでまた手数料が入りまた売ったり買ったりするときその額によって銀行が手数料が入る仕組みになっていたのである

結局自分はなぜそういうふうに失敗したのか?

その原因が来た相手はみんな追い詰められた余裕のない人たちだったのである
金がなくて苦しんでいる人が病気と介護のとききて大金を盗まれた
事業に失敗した人が金に苦しんでいて責められて自分自身も苦しんだ
相手を思いやる余裕などないからである
銀行も同じなのである、銀行は今一番追い詰められていたのである
それが今までの感覚で銀行は信頼できると思い込んでいたのである
老人は銀行との付き合いで確実に利子をもらって預金を増やした経験があるから
その経験で銀行を信用している人が老人に多いのである
だから大銀行でもリストラされているとか追い詰められているから2000千万も投資信託で損した老人がいたのである

その最大の原因が銀行がもう生きる死ぬかの瀬戸際にきているからである
特に地銀などはもうなくなるとされている、維持できないのである
そうなって追い詰められた者は何でもする、悪もなにもなくなる
そうして自分は責められ苦しめられてきたのである

追い詰められた人間は会社でも国でも一番怖い

追い詰められれれば人間から善悪は消失する、今日食べるものがないとなればわずかなものでも食べるために人を殺すこともある、それは追い詰められているからである
そういうふうに銀行は今やそれだけ追い詰められているから危険だったのである
はっきりいってももう銀行の仕事はなくなる、福島県で残る銀行は一つだけであり
もう銀行は生き残れないのである
そういう銀行とかかわることはすでに危険だったのである

いづれにしろ追い詰められると人間個人でも会社でも国すら危険なものになる
まず余裕がないから相手のことなど考慮しない、相手の利益など無視する
頭の中は自分のノルマを果たすことか銀行の利益だけしか考えられなくなる
それは個々人の会社員だけではない、銀行員だけではない、会社自体が存亡をかけて
投資信託でももうけるほかないとなっているからである

それでこれから地方が衰退して窮地に追い込まれると田舎でものんびりとはならない
現実に自分自身がそうした人たちに襲われてきたからである
つまり日本経済が縮小して衰退して窮迫してくるとこういうことが起きやすくなるのである、若者でも老人でも生活がぎりぎりだとか銀行でも儲け先がもないとか物を作っても売れないとかいろいろな経済の窮迫状態が起こってくる
それが日本全体を追い詰めてそういうとき戦争にさえもなる
戦争とは何か追い詰められたからなったとなる
なぜなら人間がそんな簡単に戦争に突入するとは思えないからだ
ドイツでナチスが台頭したのも借金漬けであり失業者が膨大に増えた結果だとしている
経済的困窮の結果戦争に突入したのである
日本がもアメリカによっけ経済制裁されて追い詰められたのが原因だともしている

とにかく追い詰められた人でも会社でもそういうのが増えると害になってゆく
もう客のもうけのことなど全く考えられない、いくら手数料をとるしか考えないからである、頭の中はそれしかなくなるのである
会社自体がそうなっているからである、その駒になるのが営業員だとなるからだ

ただそうした会社が繁盛するのか、栄えるのか?
地銀とかなると地元に尽くすから地銀なのである、地元を栄えさせるのが地銀の使命なのである、それができないとしたら地元にとって必要なのだろうか?
もう地銀などいらないとなる、そこにマイナスの感情だけが働く
銀行に金を預けてもなんにもならないという声が大きくなっているからだ
銀行の用がなくなっているのである、そして投資信託のような詐欺的商品をうりつけるだけだとなりその負の感情を受ける

そういうことで会社でも銀行であれ維持できるだろうか?

何かしら負の感情を従業員であれ消費者であれ受ければそれが栄えるだろうか?
それは国でもそうである、その国がいかに強大であっても回りで負の感情をもたれたら栄えるだろうか?
いづれは衰退してゆくのではないか?共存共栄しなければ負の感情ばかり強くなればとても栄えることはできない
だから銀行はもう必要ないとなり消えるともなる、ただ何か新しい利用価値が生まれれば別である、今のように窮迫して投資信託のようなものを売りつけるとしたらもう維持できない、それも時代の変化で銀行すら消えるということになる
銀行自体今どういう働きを社会でするのかどういうサービスを提供するのか問われている投資信託のようなものを売りつけるだけとなると銀行はもう終わりだと思う
それは最後のあがきなのかもしれない、そのために被害者でる
そして銀行は消えるのかとなる

ただ銀行だけではない、大企業のリストラとかあり日本時代が窮迫してこういうことが起きる、地方も疲弊して追い詰められた人があふれると危険な状態になる
そういう人と出会うことが多くなるからである
余裕がなくなった人たち自分が経験したように襲ってくるからである
遂にはホンジュラスのようにギャングに支配されるとまでなる
そしたら国を脱出するほかなくなるのである
そういう危機すら日本にこれから来るかもしれない、それは経済が衰退して困窮してくる人たちが増えればそうなるのである

それで自分自身がその例なのである
自分が病気になり介護になり弱った時襲われたからである
それは相手も追い詰められていたからそうなったのである
余裕がない人は他人のことなど考慮できない、食うか食われるかになるのである
そういう地獄がこれから日本が困窮してくればなるのである
それが大企業でもリストラが起こり首切られた人たちがブラック企業で働かせられたりと日本は余裕のない社会になってゆく
そういう地獄がこれから起きてくる、戦争状態のようなことが起きてくることもありうるそうなったとき決して富裕な人たちも安閑となどしていられないのである
もういつホンジュラスのように誘拐されるかもしれないし襲われる
そうした地獄のような社会になる、だから経済の窮迫は怖いのである



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責任をとれない人には何でもまかせるべきではない (あらゆることに責任がついてまわる)


責任をとれない人には何でもまかせるべきではない

(あらゆることに責任がついてまわる)


この世の中は本当に責任が常に問題になる、だからこそ契約にこまかく責任はとりませんと書いてある、責任を明確にするために契約がある

ある人が組の会費集めとかまかせられた、組長で順番がまわりまかせられた
でもその人にはそもそもその責任を果たすだけのものがなかったのだ
福祉に世話になっているし貯金もなにもない、だから金を盗まれたとかなりそれは3万とかでも払えない、それで私の所に常に頼みに来る
最初から組長などできない、責任がもていない人だったのである
私の組では一人暮らしの人は組長にならなくてもいいか助かる
金があづかるとなるとめんどうになる
数万の金でもない人はないからなにかあったら責任がとれないのである
だから責任がとれない人にはまかせるべきではないのだ
別に断ってもいいのである、そういう事情がありそれを押し付ける方も問題だとなる

とにかく何かこの責任問題をいろいろ自分の一身上でもそうだが問題になった
介護になってからあらゆることで自分は責められる立場になったのである
それから津波や原発事故でも責任が問われた
特に原発事故では責任が重く問われた、「安全神話」で事故は起きないとしていたのに大事故になりとりかえしのつかないものになった
その責任はどうとれるのか?誰もとっていないともなる
もし事故起こしたら切腹してますとか契約にでもあったらまた財産は没収されますとかでまかされたらそれなりに責任とるのだから「安全神話」を信じてもいいのかとみる
実際は誰も責任はとらないのである

地銀にしても

私はプロですからまかせてください

ではどういう責任をとるのですか

株とか投資信託はいろいろなことで変化しますから保証はできません
すべてお客様の責任です

ではなぜプロですからまかせてくださいと言うのですか?

・・・・・・・・・

それならそれで損することもあることを明確に説明すべきです
そうして客に判断をゆだねる
説明責任がアカンタビリティがあるというのは本当である
責任の中に説明責任が明確にある
すべてまかせてくださいとなれば客は何もかかわる必要がないのである

「私は株のことや投資信託は全く知りません、あなたがプロというのでまかせます
私は忙しいしいちいち株のことなど調べることも株の上がり下がりとか投資信託の利益がどうなっていんるのか見ていられないのです
だからプロの方におまかせしたのです」

「そういうことなら私たちプロですからおまかせください」

こういうふうになっても全く地銀でも損しても責任は一切とらない
地銀は百パーセント損することはない、手数料が確実に入るのである
そして何か売り買いするとまた手数料が銀行に入る絶対に損しない責任もとることがない商売だったのである

「もしお客様損するようなことがあればこちらでも分相応の負担はします」

こうでもなっていたら責任を分担してとるということで信用できたし納得できたのであるそもそも何も責任をとらないのだから信用できないとなっていたのである
そしてでは株でもなんでも知らないものはかかわるなともなっていた
素人は怪我するからかかわるなともなっていたのである
そもそも経験も知識もないからである
ただリーマンショックの時もっていた株が上がった時投資信託に回したのも分散投資しておけばいいのに地銀の儲けだけを営業の人はノルマを果たすだけにそうしたのである
でもなんであれこ一切地銀は責任はとらない、だから最初から何の責任も取れない人は信用してなてらないしまかせるべきではなかったのである

なにかこういうことは社会の中で常にあるから保証人問題があり保証人がない人は信用できないとなるし後ろ立てがないものは信用できないとなる
何かまかせるにしてもその人だけを信用していたら金を貸す方でも部屋を貸す方でも大損するからである
だから契約して責任を明確にしていないと後で大けがをする
だから何かと社会は責任を恐れるから契約をする
駅の高校生の見守り役でも駅の業務をしないと契約しているのはJRの方に責任が回ってくることが恐れているためかもしれない、駅の業務をJRが頼んだとなる何かあるとJRに責任が問われるからである
それで私が書いた時刻表でもルールであり何かで問い合わせとか来たりして責任をとらされることが嫌だから断ったとなる

つまり人間社会ささいなことでも常に責任を恐れるのである
それも責任をとらされることを恐れるからそうなっている
ただ責任を明確にして責任をとらないものには任せるべきではない
その任せた方が実は責任が問われているのである
それは原発でもそうである、なんであれ東電と国に原発を建てることで合意してまかせた時点で責任が今度は地元住民と福島県民とかさらに日本国民まで責任をとらされたのである、国民が関係ないとはならない、莫大な廃炉費用が税金として国民からとられるからである、責任は何かあったら広く波及してくるのである

合意したことはどちらにも責任がある  

説明責任→合意→契約→責任

こういうことになる、だから合意には双方が責任があることを明確にしたものだとなるそうしたら簡単に合意はできないともなる
責任が問われるし責任が課せられるからである
だから合意の契約するときは慎重になるしその重みを感じてすることになる
責任をとらされるものとして合意するからである
交渉とかでも説明責任が重要になる
説明したとしても専門的なことだからわからないとかいっても一応説明はされるべきなのである

このシステムには最終的な「説明する責任」がない
日本がで最も力をもっている人たちと、公式に民主主義国家である以上は主権者である普通の人々の間の政治的コミ二ケーションを可能にする機構がない
権力者がある政策について人々にきちんと説明し、人々が別な政策について権力者に一般的な方向付けを与える
官僚たちは何をしているのか、なぜそれをしているのか、人々に伝えず、人々は「公僕」たちが何をすべきか、官僚たちに伝えない、政治家は信用されずその役を果たしていない(
日本を幸福にしない、日本がというシステムーカレル・バアン、ウオルフレン )

民主主義ではめんどうでも説明する責任が重要になる、とにかく相手が素人でも説明はすべきだとなる、そして責任を明確にすべきである
そうしたら投資信託など誰もしなくなる、だからこそ明確な説明はしないししてもわからない仕組みになっているのである
ただそれだってやはり説明責任がある、そしてまかせる客も合意したとなるのだからわからないにしろ責任だけはとらされるのである

だからわからないならやるな、まかせるな!

こうにもなる、責任は必ずとらされる、誰かがとらされる、原発でも合意したから責任は地元の人も故郷に住めなくなる責任をとらされたのである

そして組長をまかせられて金をあつかうとなると責任が生じる、わずかな金でもその人には貯金もないとしたら何かあったらどうするのか?
その責任がまわりにくる、それがいつも自分自身なのである、必ず金を払っているからだそうなるとそんな責任をとらされることはやるなとなる
また周りの人もやらせてはいけないのである
こうして人間は常に何かしら誰かが必ず責任をとらされるのである



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なぜ日本が衰退しているのか? (産業構造の変化ができないから?)


なぜ日本が衰退しているのか?

(産業構造の変化ができないから?)


日本ががなぜ貧乏になっているのか?
この解答もいろいろあるがではなぜ高度成長があったのか?
これをふりかえると日本は産業構造を変化させたからだった
それまでは養蚕であり絹織物産業でアメリカに輸出していた
絹織物は今の自動車のようなものだったのである
それで外貨を稼いでいた
私の母親も原町の紡績会社で働いていた、原町は原町機関区であり今のいわき市の平機関区と福島県の常磐線では二つあっては繁栄していた
そして原町紡績会社に引き込み線があり直接鉄道で積みだして運んでいた
それは横浜から船で運ばれていたのである

とにかく養蚕は日本全国でどこでもしていた、必ず兜作りの屋根が今でも残っているからこの家で養蚕していたとわかる、それが本当に多いのである
養蚕は地方に生産拠点がありそれで地方の産業となっていたことが今と違っていた
桑畑が私の家の裏にもあったしどこでもあったからである
養蚕は農業でもあったからそうなった
それで阿武隈高原の町に鉄道が通る時、煙で桑の葉が被害をうけるから反対したとかあった、それだけ養蚕中心の産業構造だからそうなっていた

その時蒸気機関車であり私が原町の高校に通った時もまだ蒸気機関車だったことがふりかえると信じられないのである、どうしても蒸気機関車のことが思い出せないのである
ただトンネルを通った時、煙で顔がすすけたことがあった
でも今どうしてあのようなものが走っていたことが現実に思えないのである
ただその時もし鉄道マニアであったらそのことを思い出すだろう
私は全国の鉄道を乗って旅したからである    

そして蒸気機関車の燃料は石炭だったのである
石炭というときその頃各地に炭鉱があり石炭がエネルギー産業になっていた
だから学校でもストーブを使っていて石炭を使っていたのである
エアコンなどなかったのである
その頃の産業は養蚕であり石炭だったともなる
ただ戦後は養蚕はつづいていてもすぐになくなった
でも戦後十年は炭を使っていた、囲炉裏がどこにでもあった
その生活は本当に江戸時代のつづきだった
水道もないから街内では井戸の水をもらって生活していた
それで子供の時水汲みされたことを思い出す
その時は何もない、飯台一つしかない生活だったしたいがい同じだった
玉子も食べられなかった、農家では食べられたのである
農家の方が裕福だったのである

つまり養蚕や絹織物が石炭が産業だった、それが戦後10年くらいして産業構造が変わった三種の神器といわれた、冷蔵庫、洗濯機、テレビとかが出てきたからだ
この電器産業が輸出ともなり売れたので日本は目覚ましい高度成長時代を築いたのである要するに産業構造が変化したこととグロ−バル化して輸出を日本がになったことで高度成長時代を築いたのである

その高度成長時代を築いた中心がが団塊の世代である、その人たちの話を聞くとわかる
私の家でも駄菓子屋のようなものを始めた、その時別に何のノウハウもない、全くの素人であり商才もなにも関係ない、第一私の家ではそういう商売に向いている人はいなかったのである、でも成功したのは時代だったのである
その時物がないからただ物を置けば売れたのである
ちょうど角に家があり場所が良かった、その頃車もないから場所が関係していたのであるただそれは他でもみんなそうした零細な商売でも繁盛したのである
それは中小企業でも同じである、電器産業になり部品を調達するために中小企業が繁栄した、それで人手不足となり金の卵は地方の中卒が東京などへ集団就職したのである

なぜ日本が今貧乏になり衰退して後進国にすでになっているというとき輸出産業の大手の電器会社がもう終身雇用ができない、45歳でリストラとかなっている
もう電器産業は中国でも韓国でも同じものを作り品質も変わらなくなったからである
パソコンだって中国製品と変わらないとなれば日本の製品は売れないとなる
するとどうなるのか?もう日本で外国に売れるものはない
でも石油とか材料とかを買わざるを得ない、そうなると苦しいとなる
そしてIT産業には乗り遅れてスマホでも中国の方が優れているとなった

だから産業構造を変化しないかぎりもう日本は貧乏国になり発展途上国になる
すでになっている、すると産業構造を変えるにはどうすればいいのか?
それが大問題になる、そして過去をふりかえると日本はグロ−バル化した結果
石油とか外材とかいろいろなものを輸入に頼りすぎたともなる
でもそれがこれからできなくなる、第一売る物がなくなる、車でも中国で電気自動車を自前で生産している、そしたら車さえ売れなくなるのである

ではこれから日本はどうするのか?
国内産業と国内需要にもどることではないか?
国内の資源を活かすとか国内でなるべく生産できるものを生産して外国の物を輸入しないそれより輸入する金がなくなる、輸出するものがなければ金が入ってこないからである
すると江戸時代のように自給自足のような生活にならざるええない
日本には本当に森が70パーセントでありこの資源を利用していない、もう外材を買う金もないとしたらこれだけの資源を放っておくことはできない
日本がにある物でまかなうほかないとなる

何か時代が逆戻りすることが歴史ではあるのかもしれない
日本の人口が減るという時もそれもこうした時代とマッチしてそうなってきている
それだけの人口をもう養う力が日本がにはなくなったからである
そうなれば人口だって減らざるをえない、それをとめることができない
そして日本人の人口の適正規模は8000万くらいなのかもしれない
大正時代で6000千万でありそのくらいの時はかえって自然と調和した社会だったのである東京でも百万くらいだとするとちょうどいい人口だったともなるからだ

つまり時代の変化がありそれをすべて否定的にとらえるのではなく、人口減少でもプラスの面はあるしまた輸出産業がないとしても国内生産と内需にもどるとどうなるのか?
森林資源でも他にも国内の資源が活かされて地方も活性化するとかなる
農業も荒地が多いがもう輸出産業がなくなればそうした荒地でも耕して食料を確保しなければならない、戦後の引揚者がわずかの土地を求めて農業を仕事をしたのと同じになる
でも半分は厳しくてやめた事情はある
活かすものがないとなるとそういう時代になる
すると地方に人が移住して活性化して過疎化も解決するとかなる
いづれにしろ膨大な高度成長時代に生まれた中小企業でももう成り立たなくなっている
何か起業してもうまくいかいない、それは時代だからである
能力があるとか関係ない、高度成長時代では私の家でもそうだが別に能力がなくてもみんな成功していたからである

おそらく今たりないのはこうした時代に適応したマッチした国家的政策、グランドデザインを描くことかもしれない、個々の問題はいろいろあるにしても戦略的思考が必要なのかもしれない、時代に適応した国家的戦略をもちそれに向かって国民が一致協力するとなるネガティブなものがあってもそれをボジッティブなものに変える
かえって地方が活性化して日本全体で自然と調和がとれた社会になるとかのビジョンを出してみる
もちろん時代は逆戻りはしない、でも何かやはり時代は常に過去を歴史をふりかえり進むともなる
つまり日本の産業は国内中心の産業と需要にする、国内の資源を極力活かすとかする
それは江戸時代の逆戻りだとかなるがそれが理にかなっている
何か方法があればいいがないとしたらそういう方向にもってゆくほかないからである

とにかく時代の変わり目でありそこにいろいろな矛盾とか問題が噴出する
戦後70年で大きな根本的変革が要求されているのである
そのグランドデザインが描かれていないのである
つまり個々の問題をいろいろいっても解決しない、日本全体をどうするのかという大きな視点と戦略とビジョンが必要になっている
もしそれができたとき一眼となって日本人がすすむとなるからだ
ただ正直私の言っていることは一つの提案にすぎない
私自身そうした大きな視点とか戦略とかグランドデザインを描けないからである
ただ過去をふりかえるとこういうことがありそこからまた未来を見るということで書いただけである

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2019年05月18日

田舎と都会の暮らしの相違 (いい面と悪い面がなんでもある)


田舎と都会の暮らしの相違

(いい面と悪い面がなんでもある)


田舎と都会を比べる時いろいろある、田舎でも10万の都市というけど
それが田舎なのか?
10万の都市といっても合併した都市は全然違っている
例えば南相馬市は鹿島と原町と小高が合併してできたから6万以上になっている
原発事故で小高が避難区域になったから一割くらいは人口が減った

ただ10万の都市とかで百万都市とかに住んでいる人は誤解する
合併しているから土地が広いのである
原町はすでに5万とかあったこの辺では都会なのである
だから前から小高とか鹿島は一万くらいの町だから差が大きかったのである

私が今でも一番感じているのは食事がめんどうであり外食したいのだがそれが鹿島とか小高くらいになると極端に少なくなる、弁当屋すらなくなった
原町だととにかく食事するには便利なのである
さまざまなものが提供されている、レストランとか食堂とか弁当屋でも比べると10倍以上の差がある
そしてキクチスーパーが鹿島にもあるが原町に比べると何倍もの差がある
それで鹿島にはキクチスーパーで売れないものと古くなったものとかが置かれているというのも本当なのだろう
品物の種類でもなんでも違うからである
ただ最近シシドスーパーができたので競争が生まれたからそれだけでも良くなったとはなる

だから南相馬市というとみんな市で同じでも住む場所によって全然違っているのである
いわき市などでも30万あるとすると大きな都市と思うがその範囲が広いから住む場所によって相当な差がある、仙台とかのように密集して人が住む都会ではないのである
合併してからそういう都市が増えたからここに誤解が生まれる
だから田舎の都市は原町のような都市部に住む者と周辺部はかなりちがったものとなる
周辺部は買い物でも車がないとできないとなっている

田舎と都会の差はいろいろある、教育でも仕事でもあらゆる面にある
それはいい面と悪い面がありいちがいに語れないしそれを語っているものがインタ−ネットだったらいくらでも今はあるから実情がわかる
田舎の不利な点も相当にあるしいい面もある
だから田舎に向いている人間と向いていない人間があるともなる
また生まれた家によっても左右される
田舎は何か資産がないと生きずらいのである
つまり親がある程度裕福で資産がないと生きずらい
田舎では若い人でも収入が年収でも200万とか低くても親の援助があり家ももっているし車でも家に普通二台はもっている、一人一台もっているのも普通なのである
ただ生れた家で資産がないと何か目立って田舎の底辺になる
そういう人を知っているがたいがい市営住宅に住んでいる
家賃は4000円の人もいたしそれでも三つも部屋があった
それくらでいないと田舎では現金を稼ぐのむずかしいから住めないとなるからだ

ただ田舎と都会の一番の違いはなにか?

多様な選択があるのが都会である
田舎は教育でも仕事でもなんでも選択できない
たいがいコースでも決められている、それは東京のように多様な仕事がそもそもないからである、そうなると多様な職業の人と接することもできない、非常に限られた人としか接することができないから視野が狭くなる
学校でも私立がないから選択できないしあらゆるものでそもそも選択することができないそもそも選択するものがないからである
それで知的には遅れるとか何か才能を活かした職業に従事できないとかある

ただ田舎と都会の底辺を比べると田舎はそれほど苦しいとも見えない、そういうことを語っている人がいる、都会の底辺はyoutubeのLove & Freedom(底辺労働者)のように苦しいのである、追い詰められている
それは親の資産を受け継がないからそうなる
家でも狭いアパートであり東京辺りだと何するにも金になるが底辺だと金がないから何もできないとかなる、だから東京辺りだと底辺は金持ちの奴隷なのかというふうに見える
いろいろサービスが多様にあったとしてもそのサービスをさせられ方とする方に分かれているからだ
それで安く奴隷を使うには金持ちは外国人がいいともなる、つまり都会ではグロ−バリゼーションでも極端なものとして働く、東京辺りだと金持ちも多いが底辺も多いのである
その底辺も田舎の底辺とはかなり違っている
田舎の底辺は家の資産を受け継ぐとか親の援助があり家もあるし車ももっているしと東京辺りの底辺とは違っている
だから底辺を比べれば東京とかは極端化してみじめなのである

ただ田舎だと親からの資産と援助がないと苦しくなる、つまり田舎だと農家でも代々で住んで財を築いてきた家がある、その上に次代のものがある
たいがい家はもっているからである、土地ももっているからそこに資金をかける必要がないのである
そして田舎で住みやすい人はそうして代々住んでいて資産があり社会的地位がある家である、医者とか公務員とか土建業でも社会的地位があり資産があるとなる
農家でも篤農家はそうである、ただ零細な農家はもうやっていけない、果樹と花の栽培とか商品作物になるものを作らないとやっていけない

都会と田舎の相違はいろいろある、そこにいい面と悪い面がある、それを語ったらきりがないとなる
例えば芸術とかになると都会がなんでもあるからいいように見えてもとても自然の中での感受性を磨くことは不可能である
なぜなら毎日見ているのが高層ビルだらけだったり人ばかり見ていることになるからだ
一方で丸森の絶景ポイントから見た蔵王とか海岸線の景色には感動した
それも今までこの年になるまで知らなかったのである
何か田舎に住んでも田舎のことを知らないことがかなりあるのだ
車がないということも影響していたがあんないい場所があるとは知らなかったのである
そういう場所に日常的に行けるとなれば田舎は都会とは比べようがないほどいいとなる
それは価値観の相違があっても高層ビルと人ごみの中にいてそれが幸福なのかとなるからだ

東京辺りだったら散歩する場所もない、サイクリングするにも車の洪水と人ごみを通るから田舎のようにはいかないのである
トラック運転手で足を悪くした人がサインクリングしている、結構遠くに行っている
それが楽しそうなのである、別に安い自転車でもできる
東京では底辺労働者が休みにすることがないというだ田舎だったら自然は親しむことがいくらでもある、別に遠くに行く必要もないのである
だから丸森にあんな景観がいい場所があったとういのもそうである
そういう絶景ポイントはそこに住んでないとわからないことがあるのだ
それもそこで何度も見れるということが違っている

田舎とか都会で情報とか教育格差があるとして情報格差はインタ−ネットで解消したともいえる
まず田舎では本を手に入れることが容易ではなかった、専門的な本はそもそも売っていないからだ
仙台ですら本の量が少ない、それを知ったのはインタ−ネットの通販でこんなに本があったのかという驚きだった
本が手に入らなければそもそも知識を得ること自体不可能だったからその差は大きかった
それが解消したとき何か田舎でも研究者になれるのかとも思った
例えば学者の論文まで読めたことが大きい、それも無料である、自分の古代関係の万葉集の真野の草原について相当に深くわかってきたからだ
これはそもそも学者の論文も読めない本も読めないとなればわかりようがないからだ
こういう点で都会と田舎の格差は解消したことは大きいとはなる


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2019年05月13日

田舎でもネパール人など外国人が増え一方で老人や病人が増える日本


田舎でもネパール人など外国人が増え一方で老人や病人が増える日本


その女性は福装の裁縫会社で働いていた、そこでは前らか中国人は働いていた
最近見かけたのは黒い顔の女性だった
インド人かと見たし前にスリランカ人がきたからスリランカとも見た
その女性はネパール人だったろう、なぜなら一人のネパール人と会ったからだ
そこで地元でも海外旅行が日本がではじまったときからヨ−ロッパに行っていた人が聞いた、やはりあの人は外人になれていたのである
そういう人が田舎でもいたことは意外だった、それだけもう田舎でも多様な人がいたのである、ただ自分の場合は引きこもりのようになっていて知らなかったとなる

今年の4月から法律が改正されてさらに外国人が入りやすくなった
ベトナム人とネパール人が本当に多いくなった、これはいたるところにいる
田舎でも普通に見かけるようになった
ネパールは一度トレッキングで行った、どうしてあんな高い所で生活できるのか?
ボールペンもなくくれと言われる、ボールペンがないとしたら学校で学ぶこともできない筆記用具とかノートもないともなるからだ

第一あのような高い所での生活の問題は運ぶのが容易ではない、山を上らないければならないからだ、それだけで容易ではない、そして裸足で歩いている人がいたのには驚いた
というよりは靴が買えないないからだともなる
インドでもリキシャの人が裸足だった、暑いのにそうなのである
何か原始的なところがまだある世界だとなる
山の中で畑で何かの獲り入れをしている人を見たらそれが万葉時代の女性のようにも見えた、それだけ原始的なものがまだ残っている所だともなる
ネパールの暮らしは理解できなかった、それは文明的な生活と隔絶されているからでも
ベトナムだと理解できる、なぜなら田んぼがあれば稲作であり米を食べているからであるそして平地が多いからである、二毛作であり一つの場所で田植えして稲刈りをしていた
だから米の量としては日本より倍とれるとはなる
ただ日本では品種改良で良質の米をとるし収穫量も一反からでも多くなった

ネパールは本当に生活でもそうだが気候でも地理でもその土地そのものがわからなかったなぜネパールにジャングルがあるのか?そこにサイがいたしワニもいたしトラもいるという、そのジャングルを象で見て歩く
なぜヒマラヤのうよな雪に閉ざされた山があるのに熱帯のジャングルがあるのか?
私は外国旅行に慣れていなから驚きだった
ネパールの紙幣が象とかトラとかサイが描かれているのもそういうジャングルがあるからなのだ、熱帯の大きな鳥もいたのである
ネパールは旅するには魅力ある国である、原始的なものが生活に残りその自然が多様でありヒマラヤが見れるからである
ただ一回しか行ってないのでちょっとだけ垣間見たとういだけである
海外旅行は深く鑑賞はできない、言葉もわからないしただ垣間見たというだけで終わったそして何かもう二度と年で行けなくなったのである
だから何でも海外旅行でも早い時期にすべきだったとなるのだ

いづれにしろこうして外国人が入ってくることは必ずいい面と悪い面をもたらす
外国人が入ってきて不満なのは40くらいの氷河期世代である
賃金の安い外国人と競争を強いられている
外国人は若いから競争に勝てないとしている、日本語ができなくても仕事はできるものがある、そうしてグローバル化するとそうして底辺国とも競争を強いらるのである
そこでスキルもなんにもない者はさらに最底辺に落ちてゆく恐怖を訴えている
そうしたベトナムであれネパールであれ外国人は生き生きとしているという
なぜなら為替の差で親に仕送りできるし労働する意欲が違っているからだ
日本人の氷河期世代とかは自分自身のことだけで金は使われてなくなる
外国人は賃金が安くても日本で働くメリットがあるからだ

ネパール人は白人のような顔の人もいるし黒い人もいるし本当に人種が混在している
だから見分けがつかない、何か不思議なのはアメリカのサンフランシスコとかで見かけた年配の日本人の女性は見分けられた、日本人のような顔していると見たからである
だから日本人の顔はやはり日本人としての型があるともなる
でもネバールとかなると見分けがつかない、多民族国家だから見分けがつかない

ともかく何であれ女性であれ男性であれ若いということは国に関係なく価値がある
つまり若いというだけ価値がある、そのために40くらいの氷河期世代は若くなくなっているから価値が自ずと低下しているから嘆いているのである
若いという価値は世界共通でありどこの国に行っても価値があるということになる
若いということは適応力とかいろいろ優れているからである
それはどこの国とかではなく世界共通なのである

日本の問題は高齢化である、最近なぜかとなりの60代の人が見かけなくなった
体を悪くしたのか?外に出たのを見たことがないのだ
また一軒となりの子さも60代になったのか?
その人も足をひきづって歩いている、スーパーのレジで働いていたがやめている
この前土手の道であった人は64歳で脳梗塞になり一時はしゃべれなくなった
杖をついて歩いている、その同級生も病気になった      
もう一人近くの同級の人も脳梗塞で足を悪くしてひきづり歩いている
でも車で買い物に来ていた

それから危機一髪で脳梗塞から助かった同級の人がいた、一時痩せ細ったが普通に話しできる、でも無理はできないという、他にも病気の人が多い、高齢化病人社会になっている60過ぎると自分もそうだったが何かしら病気になりやすいのである
ただ70歳でロードに乗っていた人もいたからいろいろである
元気な人は元気なのだが病気の人が目立つとなる
福島県は脳卒中が多い県であり全国で7番目になる、心筋梗塞は一位なのである
そして南相馬市はさらに脳卒中が多い市なのである

こういう社会では外国人は若いから歓迎されるということはある
つまり外国人は日本人の若い人よりもやる気がある、それは賃金が安くても為替の差で仕送りもする、そういうモチベーションがあり違っているからだ
日本はこうして衰退国家になってゆくのだろうか?
なぜなら戦後焼け野原になってもその時団塊の世代が生まれた
なぜそんなときに食べ物もないのに多くの子供が育つことができたのか?

それが不思議なのである、今の経済力でも10倍くらいの差があった
家にあったのは飯台一つだったからである、それはどこでも同じである
そんなときになぜあんなに子供がいたのかという不思議である
貧しくても子供は増えるし育つともなるのか?
その時は逆に今より社会に活気があったとなる、つまり子供が多くまた若い人が多かったからである、つまり日本はその時若い国家だったからだとなる
若い人が子供が多いということはそれだけで国に活気をもたらしていたのである
貧乏でもそうなのである、そういう国ではエネルギーが満ちているともなる

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ネパールの紙幣

現実にサイとかトラとか象がいる国なのである

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2019年05月10日

なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか? (生産共同体(会社)から排除されたため)


 なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか?

 (生産共同体(会社)から排除されたため)

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 経済という時、基本として生産と消費がなんでもある、生産する者とまたはサービスを提供するものと消費するものサービスを受ける者がいる
それは資本主義社会では明確に分かれているのである
なぜなら時代をさかのぼればのぼるほど生産と消費は分化していないからである
例えば農業している人は米でも野菜でも生産する、そして村は生産共同体だったと同時に消費する共同体でもあった
つまり自然があり米でも野菜でも生産して消費する、その時消費するというとき自然から神からいただくということで感謝する、それがその土地土地の祭りとなっていた
神社とかにはもともとそういう機能があったとなる
神社はその土地土地に根ざしたものが多いからである
そうして一つのミクロコスモスに生きていたのである

そういう社会では生産と消費は分化しない、今でも小さな畑で野菜を作っている人は生産と消費が分かれていない、しかしそのためには金がかかる、肥料やら種やら道具やら労働力やらと生産するには金もかかるし苦労が多い、だから私がそれを援助してももらったのはキュウリ二三本でありそれも一万もしたともなる
これをスーパーで買えばそんな馬鹿高いものにはならない、だからそんなことをしても無駄だとなり損するだけだとなる

ただその人にとってそれが生きがいになっている、他にも仕事があるとしても家事などしたくない、皿など洗いたくない、その人は庭で花を育てるとかそういうことに熱心なのである、そういうことが苦労があっても好きなのである
皿洗いと掃除とか家事はしたくないのである
だから今は一切していない、なぜそうした農業が生きがいになるのか?
ただの労苦ではないのか?

それは生産と消費が一体化してからである

そして生産共同体というとき生産は共同でする、その人も畑で野菜作るにもいろいろ他でも畑で野菜を作っている人がいるから聞いている
また畑をうなってもらったりしている、その時は金を払っているのである
つまり一旦生産するとなるとサービスを提供する側になると共同体が必要なのである
協調しないとできない、それでどうしても農協などがかかわるようになる
でもそんな小規模なものは金にもならない、農協を通じて売る場所がある
するとそこで農協に金を払うからもうけもなにもなくなってしまうのである
いづれにしろその畑で野菜を作ることは共同があり生産と消費が一体化している
そして現代社会は生産とサービスを提供するものと消費が分離しているのである

消費者が王様だというときもそうである
ではなぜそうなるのか?生産する者からサービスする者から一旦離れてしまうことは社会にとって消費者になる
でも消費共同体などないのである、消費は個々人でしている、だから会社を退職した人は生産共同体(会社)から離れるから社会で孤立する
会社をやめて地域で活動しろといってもそこには生産共同体としてのコミニュティがないのである

生産共同体は会社は共同して働く場だったのである、だから会社で働く人たちは共同体の一員となる、そして仲間意識をもつ、でも一旦そこから離れると仲間ではなくなる
でも農業とかしていた村ではそういうことはないのである
村の共同体の一員として死ぬまであり死んでからも先祖として生きつづけていたのであるそれが村の祭りだったのである

人間は自然から確かになんでも消費する存在である、食べ物でも自然から本質的には得ている、でもまた生産するものでもある、生産することによって自然への神への感謝が生まれ消費するというものではなく賜(たまわ)るのである
資本主義グローバル化社会になるとそういう自然の中での生産と消費の一体化は喪失して分離されるのである、その時自然とか神に感謝する祭りはなくなる
そこに媒介するのは金だけだとなる
だから会社という生産共同体から離れたらその人は消費するだけの人間となる
そうなると消費するためには金がないと存在感がなくなる
消費すれば金を払えば消費者は王様だとなり歓迎されるのである

そしてなぜ会社を退職すると社会で居場所がなくなるのか?孤立するのか?
それは生産共同体から分離されてしまうからである
地域でもし昔の村のように農業でもしていればそういうことはありえないのである
労働の疎外というときマルクスが指摘したことは今も活きている
でもその労働の疎外がどこから起きているのか?
それは生産と消費の分離から起きていたのである

とにかくなぜ一旦会社から分離させられると居場所がなくなり孤立しやすいのである
そしてもう何か社会のために労働したとしてもできない
ボランティアとか意外とめんどうでできないのである
なぜなら会社とは生産共同体として組織化して素人は立ち入れない場所だからである
なにより生産共同体になると個人ではできない、組織化して仲間でするから一旦そういう共同体から離れると消費者になるほかないからである

現代は何か本当に労働自体が疎外されている
その悲惨な例が非正規とか派遣で働いている40くらいの人たちである
夢も希望もない、家族がいない人は何の働く動機もない
ただ金だけであり日々ただ生きがいもなく時間を浪費しているだけだとなる
つまり派遣という労働は毎日ただ仕事の現場に派遣される
会社で働いているのとは違う、会社員とも違う、仕事があれば派遣されるのである
そこでは日給であり正規の会社員として定年まで働くというものではない
だから保証もないし福祉もないとなる

そして何よりそこで働いたからと言って誰かに感謝されることもないのである
家族がいたら家族に感謝される生きがいがあるかもしれないが結婚していない独身者はそういうことがない、ただ一日分の金をもらいあとは食べて寝るだけだとなる
労働する生きがいがないのである
例えば働く語源が端(はた)を楽にするというときそれは家族労働のような狭い範囲から生まれた、家族が働いて苦労しているから楽にさせたいとなるのが語源なのである
そういうとき働くということはやりがいがあるとなる
今の労働はそういうことは全くない、それもグローバル化すれば地球の裏側で働いている人のことなどまるでわからない、つまり働いている人とは関係をもていなのである
ただモノが無数に入ってくるが人とは関係しない、そこに金が媒介となるだけである
そこに結局労働の疎外が起きているのである
ただマルクスの論理はそれで共産主義になったらそうした労働の疎外がなくなるということはないかった、共産主義だってグローバルであり働くという語源のようなものはなくなっている

つまり生産共同体として生産と消費が一体化することが本来の人間の在り方でありそこに自然との融和があり人間の協調があり祭りがあった
だから人間の労働のモラルもなにもなくなったのである
働くことに生きがいが見いだせないのだ、ただ金が欲しいというだけである
それで小さな畑で野菜を作る人は生産と消費が一体化しているからそこに生きがいを見出しているのである
ただそこの矛盾は金がかえってかかるということである
その金を与える者がいなければそもそもできないのである

いづれにしろ生産と消費が分離しているのはあらゆるものがそうだと思う
例えば情報というとき今までは情報を提供する者と消費する者に分離していたのである
情報を提供する者はマスコミだった、新聞とかテレビとか主だった、雑誌でもそうであるそれで情報を提供するものが国民の世論を操作して作っていたとなっていたのである
マスコミが報道するとき必ずマスコミの意にかなったものしかとりあげないからである
ニュースにしても重大なニュースでも報道されないからだ
また個々人では報道できないからである
それがインタ−ネットでyoutubeとかなると一個人がテレビのように報道できる
それは金がかからないからできるようになったのである

それでyoutubeのLove & Freedom底辺労働者)は一つの例としてこんな人がいたのかとなりその人の立場を派遣労働の悲惨な姿を生々しく知ったのである
それは家族もいないから孤立していて労働自体にも共同性もなくただ毎日金をもらい食べて寝るだけの生活なのである
そこで生産共同体という会社にも属していないからない、派遣共同体とかにはないから孤立しているのである
何より家族がいないということが孤立感を深めているのである
それは今になると自分もそうだから同情する、共感するとなる

自分自身も若い時は底辺労働者だった、でもそれは自分にとって必要なものだったのである、何か自分は恵まれていて傲慢な所があったから底辺労働してそういう傲慢さが打ち砕かれたのである、その後も自分は労働は一切していない
旅ばかりしていた、消費しかしていないのである
鉄道の旅をしている時でもそうである、それは消費でありサービスを受ける側しか経験していない、でも資本主義社会では消費者は王様なのである
金さえ払えば鉄道会社でサービスしてくれるのである
それが一旦サービスを提供する側にまわるとボランティアでもいかにむずかしいか無人駅の問題で延々と書いてきたのである
それは自分だけではない退職したら会社という生産共同体から離れたらもう一消費者でしかありえないのである、そこに仲間もいなくなり孤立化して居場所もなくなるのである 、ただ金をもっていれば消費者は王様であり待遇してくれるとはなっているのだ
しかし消費共同体というのはないのである、だからやはり孤立しているともなる
生産共同体なら会社のように共同があるが消費するだけだったらないからである
だから会社から退職した人は一消費者となり居場所がなくなり孤立するのである


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2019年05月07日

日本の経済は産業構造を変えな限り回復しない (アベノミックスでも政治では変えられない)


日本の経済は産業構造を変えな限り回復しない

(アベノミックスでも政治では変えられない)

社会が変わる時何が起きるのか? 

人口が増加する 

産業構造(技術革新)が変わる

失業問題が起きる  

社会が大きく変わる時歴史的に何が起きたのか?
縄文時代から弥生時代になったとき何が起きたのか

人口が爆発的に増加した

稲作に寄って養う人口が爆発的に増加した、縄文時代では養う人口が限られていた
狩猟採集ではそもそもその資源は限られている、食料にする動物でも植物でも爆発的に増えないからである

社会が変わる時は産業構造が変わる、狩猟採集から稲作に産業構造が変わる
稲作と鉄の生産はセットになっていた
稲荷(いなり)とは鋳成りのことであり鉄と関係した信仰である
鉄が重要なのは鉄の道具が農耕と一体となり発展させたからである
つまり道具とは技術革新だったのである
技術革新とともに社会が変わる

そういうこと歴史であったことであり継続されていることである
縄文時代が一万年というときその間にさほど変化がない社会だったのである
次に稲作時代が2000年とかつづいた
それが明治維新で工業化の時代になって大変革になった
その時も人口が江戸時代だったら3000万くらいなのに明治から大正になり6000千万になったのである、だから明治の変革は政治的なものばかりではなく産業構造の大変化だったのである
それで6000千万となっても東京は百万くらいだった、その後に十倍になったのである人口が社会構造産業技術革新で増大する

そして社会が変るとき失業問題が起きる、なぜなら産業構造が変わるから失業問題が起きる、それは例えば戦国時代になると侍は戦場で戦い人を殺すことが仕事になる
でも戦争が終わる人殺しを商売とする侍は必要なくなる
それで大量の旗本が無用化したり浪人の大量発生になる
それが社会不安をもたらすのである
旗本の不満は命をかけて戦場で戦ったのに事務方のようなものが出世しているとなり不満だった、それで旗本はもともと力があるものがなったからその力をもてあまして狼藉を働くことを時代劇でみる、戦場では活躍できたが平和になったらできないからである
失業しなくても飼い殺しのような状態になったのである

なぜこうしうて歴史をふりかえり考察するかというと現代でも同じようなことが起きているからだ
なぜ日本は今世界から遅れをとったのか?なぜ貧困化して後進国に成り下がろうとしているのか?
そしてやはり同じように失業問題が生じている、人手不足じゃないかといわれるが大企業で電機産業で富士通であれNECであれパナソニックでも苦しいとなっている
日本が高度成長したのは電機産業に社会構造を変えたからだったからである

戦前はとにかく養蚕が主要産業だった、今でも兜作りの養蚕をした家がどこでも見られるのである、どこもかしこも養蚕なのである、そこで絹織物をアメリカに売っていた
紡績産業が主要産業だったのである、それは明治以降にそうなった
紡績産業が工業化の始まりだったのである
それで私の母親も原町の紡績工場で原紡で十年間働いたのである
そこに原町駅からの引き込み線まであった、それだけ盛んだったのである

その後産業構造は石炭産業が花形のときもあったが石油がでてきて衰退した
常磐炭鉱もなくなりそれハアイアンに仕事を変えたのである
それが一応成功したのである
つまり今何が起きているのか?
そうした産業構造の変革の時代でありそれに適応できないと国自体が衰退してゆく
日本が高度成長の原動力になった電機産業衰退したから日本が貧乏化している
そしてIT産業に日本は乗り遅れて中国がアメリカと競うトップに踊り出たとなる

社会構造が変わると必ず失業問題が起きる、アメリカ国内でもラストベルト(錆びついた地帯)とか生まれたのは自動車産業の衰退で失業者が増えたためである
それは今度は日本で起こっている

電子産業生産金額を重ねてみると、まず目立つのは2000年以後の急速な減少である。2013年の生産金額は11兆円と、ピークの26兆円の半分以下となる。GDPは「ほとんど伸びない」程度なのに、電子産業生産は「10年で半減」だ

このために大企業の電機関係で電子産業で衰退が著しくリストラされるようになった
失業問題が起きてくる、今人手不足となっいてるのは底辺層の仕事であり日本を支えた先進技術関係ではないのである
そういう先進技術関係は衰退しているのである、すると戦国時代のように侍であった身分であったものが失業して浪人化する、浪人は金持ちの商人に雇われて用心棒になったり時代劇ではなる
それと同じことが大企業をリストラされた人たちはブラックな会社に落ちてゆく
それは浪人とにているのである

そして地銀とかは半分になるとか銀行でもすでにIT 化でつぶれるとなり銀行員の失業問題がクローズアップされる、つまり必ず失業問題が社会が変わる時起きてきてそれが社会の不安定要因となる、失業者があふれるときドイツではナチスの戦争になったからである戦争によって失業者を吸収したともなるからだ
日本でも戦争が終わり引揚者が過酷な開墾に従事させられた、兵隊を失業したからである兵隊よりはいいとしても悪い土地を開墾して生活するのは容易ではないから半分はやめたのである

社会が変わるというとき変えるというときそれは政治だけでは変えられないのである
アベノミックスとかの金融政策でも変えられない、それは歴史を見ればわかる
根本的に社会構造産業を変えない限り変わらないのである
日本は明治維新以降その産業構造を変えることに成功してきたのである
でも今度はその産業構造を変えることができなかった
それで窮地に追い込まれている、ではどうしたらいいのか?
それは新しい時代の産業に変えなければ政治でいくらアベノミクスとかしても効果はないのである、ただますます格差が広がり株でもうけた人だけが恩恵をこうむったとかなっている 

リストラの意味はReーstructuringなのである、産業の再構築なのである
そこに痛みが生じるが明治以降でも侍が失業したが北海道に移民して農業で再構築したとかなる、ただこうして再構築できないときどうなるのか?
それはドイツで大量の失業者が生まれて行き場を失い戦争として兵隊となったということも起きてくる、つまり戦国時代で侍が失業したとき浪人が大量に発生してそれが社会の不安化になったのとにているのだ
失業というとき大企業の正社員であったものがそれは侍とかが庶民の仕事ができない
ブラック会社に落ちるのは嫌だとなるのとにている

いづれにしろ政治で官僚でも何か政策をアベノミックスとかしても産業構造自体を変えなければ社会は変わらない、日本人の不満も解消しないのである
それはアメリカにも言えたのである、ラストベルトを解決するのにはやはりアメリカの産業構造を変えなければ解決しない、でもアメリカ全体ではIT産業に変えたからアメリカ衰退論はないという人もいる、ただ中国にIT関係でそのシェアを奪われるとアメリカは衰退するとして危機感をもったのである


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2019年05月02日

youtubeで40才くらいの底辺労働者の切実な訴え (底辺労働者ーLove & Freedom )


youtubeで40才くらいの底辺労働者の切実な訴え

(底辺労働者ーLove & Freedom )

このyoutubeは何か今までにないものであり直接に訴えるものがあった
例えば外国人労働者問題で是非を盛んに言うがそれは政府関係者とか学者とか会社経営者とか上に立つ人が意見を言っている
でも底辺労働者の生の声をテレビでも出演させて話を聞かないのである
それが今までのメデアでありマスコミだった
この人は底辺労働者だからこそそれを訴えるから今までのものとは違っていた
そういうことはインタ−ネットであったがyoutubeになると何か感情的なものが伝わってくるから切実なものが感じ取ったのである

外国人労働者というときこの人が言っているのは30から40とかその上でも賃金が上がらなくなる、来年の4月から法律が変わり外国人が大量に入りやすくなり底辺労働者として受け入れる、その人たちにとって賃金が安いとしても為替の差でかまわないという
そして仕送りするのである
また若い人だから会社でも企業でも受け入れやすい、若い人は使い安いからだ
コンビニでも言葉ができないにしても飲み込みが早いから適応できるという
肉体労働の現場でも筋肉が違っている、ギャングなどしていたとかそういうツワモノが入ってくるから40とか以上のおっさんは建設現場では使いたくないとしている
そのことで会社で若い外国人労働者が一杯入ってきて若返ったと喜んでいる人がいたのもそういうことなのだろう
つまり若いということはそれだけ価値があるということである

その人はもうコンビニとかは外国人労働者で固められていて日本人は入っていけないという、その人たちだけの仲間でやっているから日本人は入れないという
それだけすでに外国人がコンビニでも入ってきて独占しているともなる
また雇う方でも外国人の方がいいとなっている
それはグロ−バル化の結果でもある、為替の差でどうしても日本はまだ高いから安い賃金でもかまわない、そして若いから使い安いとなっているからである
それで政府でも外国人を研修させて金を使うとか積極的になる
そうして取り残されてゆくのが日本人の40を中心にした氷河期世代だという
その世代が一番苦しいとしている,その世代は不運な世代だったとなる
ただその数が多いからやがて60過ぎたりすると生活保護になるからそれが社会の負担となる、それは自己責任だけではすまされない
社会全体の負担になるからである、ただ会社のいいようにされてきた
でもそれが社会全体で見たとき良かったのか?それが問われている

40になると結婚でもなんでもどうにもならないとかも言っているが同時にまだなんとかなるとも言っている、ただ人間は30くらいまで人生の方向が決まってしまう
一旦そうしたレールから若い内でもはずれるとはずれたまま人生の最終章まではずれたままになってしまうのだ
それは自分自身がそうだった、若い時就職もしないで結婚もしないで底辺労働者だった
そしたらこの年まで社会からはずれたアウトサイダーとして生きていたとなる
そうできたのは自分の場合はそういう家庭環境がありできたのである
今の人は別にアウトサイダーでもない、フリターがいいとかされたが実はそういう労働を上からおしつけられていたとなる、非正規だと首をきりやすいから会社にとっては便利だったのである
現代が会社社会だという時、会社の意向の方が優先されるから会社に就職もしない人は社会からはずれたものとなる

この社会からはずれるということは実際は怖いことだったのである
それができたのは団塊の世代だったら極一部である、全体からしたら10万人に1人とか百万人とか一人とかの極少数でありそんな人がいたのかとなる
それが今の40くらいになるとフリターとか非正規が膨大に増えたのである
その人たちは働かないわけではないが正規のレールからはずれたようになってしまったのである
そして行く着く先が孤独死だとかなり俺たちは捨てられるとしている
その人は友達もいないし身寄りもないとかでそうなっている
それは自分自身が経験したことである、介護とかなり病気になっても誰も頼るものがないそれよりその弱さにつけんこんで脅迫して金だけを得ようとする
相手も金に追い詰められているからそうなったのである
その過酷さがどういうものか思いしることになる
それも自分の場合はカルマだったということは言えるしそのカルマとは自己責任のことだったのである

その人はただ働かされるだけで希望もなにもないと言っている
それで希望は株とかFXでありそれで金になるのが希望だとしている
後は絶望しかないと言っている、でも何かしたかったのか?
その人はただ金が入ればいいだけだったのか?
私の場合はいろいろすることがあった、旅でもそれは学習であり芸術方面でも追及して来たし学問でも追及してきた
それもその人に言わせれば金がないのだから何もできないとしている
何も積み重ねるものスキルも身につかない仕事で絶望している
だからなんとかスキルを身につけろと今になり後悔しているが遅いともしている
つまり人間は30くらいで方向が決まってしまう
人生百年でも若い時で人生の行く方向は基本的に決まってしまうことが怖いのである
そして青春はたちまちすきで40くらいになるともうとりもどせない
方向は遂に孤独死とか決まってしまうのである

いづれにしろ

俺はなんのために生きているんだ

その問いは40くらいでかなり重いものとなる、実はそれは20代でそう真剣に問うべきものだったからだ、若き時に神を知れとういのがそうである
時間はたちまちすぎる、光陰矢の如しである
ただ人生百年時代はその成果は70からでも普通にありうる時代である
だからその成果を出すことに急ぐ必要はなくなった
何か自分でも成果を出しているのは60からだったなと見るからである
そういうことでも時代が変わっている、政治家でも70と80近いとか92で首相になっているとかそういう時代なのである
それだけ長い時間の中で成果を出す時代になったのである
だから40でもまだまだというのはわかるが限界の年齢でもある
なぜならその人が言うように資格をもっていてもキャリアがないと採用されない、実践で役に立たないとなっているからだ、資格だけではだめなのである
人間は何でも経験がものいうからそうなってしまうのである
40となるとなんらかキャリアがないものは採用されないとなるのだ
底辺労働も経験だかキャリアにならないのである

ただ人生をふりかえれば順調に正規の会社員のレールにのったとしてもそれで万全なことなどない、現実に今45くらいの人がリストラされているからだ
そしてたらその人たちはとをなるのか?その人たちももう正社員として採用されるのは極一部だとなるからだ
つまりこの世に万全に備えることができない、何が未来に起きるかわからないからであるそれでベーシックインカムになりみんなアーティストになれというのも本当に今までありえないことだったのである、そういう時代が来るかもしれないからだ

結局どういうことなのか?

人生は予測できない意外な結果で終わる

これなのである、何でこうなったのだとこの人だけではない、正規のレールを真面目に歩いてきた人たちでもそうなのである、だから底辺労働者だけがそうなっているとは限らないのである
そして今や日本人全体が底辺化している、それはだからこの人だけの問題ではなくなっているのだ、底辺化してどう日本人が生きるのかという課題がつきつけられているからだ
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2019年04月27日

固定観念を破らないと生きていけなくなる (変化に対応できない者は生きていけない?)


固定観念を破らないと生きていけなくなる

(変化に対応できない者は生きていけない?)

「こうするのが当たり前」と思っていることが実は当たり前ではない、ということはよくあります。
私たちはそれぞれに異なる過去を辿ってきました。
そうした異なる過去で身に着けた常識、それにこだわることを固定観念と呼びましょう。

人間はなぜ固定観念化するのか?

●地理
●時代
●家庭環境ー生い立ち  

基本的にはこの三つの影響が大きい、まず地理のことを再三語ってきたけど地理は一番わかりにくい、それは地図を見たってわからない、グーグルで山があるとしてその山がどれだけ深い森が延々とつづいているかなど表示できない、それは経験しないかぎりできない近くでも山は延々と森で覆われて出口もなかったのである

地理が何か一番固定観念を作り安い、だから人間は狭い場所で生活しているからその小さい世界で一つの世界観が生まれる、国単位なら日本は島国の世界観が生まれる
そして島国でも様々な地域の風土があり地勢がありそこで世界を見る
太平洋側だと海から太陽が昇るとなり山に沈むというのをいつも見ている
すると世界はそういうものだと固定観念が自然と作られる
でも日本でも日本海になると海に太陽は沈むし山から太陽が昇り山に沈む地域も多いのである、日本がには盆地が多いからである
それで旅行すると全く違った世界を地理から知るのである
固定観念がそこで破られるのである

また時代が違うとそこで経験することはまるで違ったものになる
江戸時代に生きた者と明治以降に生きたものとはまるで違った世界を生きているのである戦前を生きた者と戦後を生きたものでもそうである
だから江戸時代から明治を生きた者はその時代に適応するのに苦労する
侍は侍でなくなり威張っていられないとかいろいろ激しい変化があり戸惑うのである
何か人間の社会も70年サイクルで急激に変化する
明治維新から70年で太平洋戦争があり戦争が終わり高度成長時代に向かった
それが団塊の世代だった
そして70年過ぎてまた大きな変革の時代を迎えている
日本はおそらくそういう変革の時代に再びあるのだがそれがまだ意識されていないのだろう、でも否応なく変革は迫られてそれに適応できないものは滅びてゆくとなる

銀行なども特に地銀とかゆうちょとかなると地域に根ざしたものであり信頼されていた
それは時代がそうしたのである、確実に利子がついている時代は銀行は信頼されていた
銀行が潰れるなどありえないことだった、でもバブルとかで銀行が潰れたことがあった
銀行もつぶれるのてある
最近は銀行は半分に減るとか存亡の危機になっている
それでも地銀とかが投資信託を売りに来ておばあちゃんが一千万とか損したが
それでも銀行を信用していたということでもわかる
老人はこれまで生きてきた経験から固定観念がありそれで判断するからである
自分自身もそうだったのである、銀行は信用できるという固定観念を植え付けられていただから地銀の人が投資信託をすすめたとき信用したのである
株でも投資信託でも証券のことなど自分は知らなかった
でも銀行員を信用していたのである、それが根本的に間違いだったのである
時代が変わっていたことを知らなかった、時代は急速に変わることがあるからだ

AIとかが良く語られる時代になりベーシックインカムが空想ではなく現実問題として語られる、現実にベーシックインカムを実行した国もある
そうして人間は働かずみんな芸術家になるとか言うのも本当に理解できない
なぜなら高度成長時代は団塊の世代は企業戦士として猛烈に働いたからである
その時自分自身は働いていない、ただその時ニートなどはいない
引きこもりもいない、いたとしてもほんのわずかでありそんな人はいたこともわからないのである
でも今になるとニートとか引きこもりの数が多くなったから話題になる

働くということは別に江戸時代から明治時代から戦後でも強力な否定できない価値観だったのである、働かざる者食うべからずだったのである
大正生まれの私の母は働くことしかない、それで花とかに興味もないし一切趣味もない
働くことだけしかなかったのである、これも異常だった
そういう環境にあったということも影響した、貧乏だから趣味などもてなかったのであるだから本当に時代が変わると価値観ががらりと変わることに驚くのである

アリとキリギリスの話があるけどキリギリスは常に否定されてきた、蟻のように働いて貯えろというのが普通の常識だったのである
でもみんなAIと機械化でアーティストになるというときキリギリスになれとはいうことなのである、キリギリスになれない者は歌を歌いないとか何か趣味もないとか個性を表現できないとかできない人は価値がない、蟻はいらない、それはAIや機械がするとなるからだそういう変化にもみんなが気づいているわけではない、そうなると今までの生活全般、教育でもなんでも見直すことになるからだ
今までの固定観念から判断できないからである 

固定観念というとき家庭環境とか生い立ちも影響してくる、みんな同じようで育った環境とか生い立ちが違うから人はみんな違っている、何か自分は普通でない家庭環境で育ったから正常な家庭でないから奇妙なものとなった
家庭環境がやはりいつもそこで生活しているのだから影響が大きい
自分自身は働くことを強制されなかった、だから働かないし自由に旅行していただけだとなる、それもとがめられることもなかったのである、その結果として介護とか自分自身の病気とかで塗炭の苦しみを受けたのである
それは今のニートが40代以上とかなり親が老いて死んだりすると自分と同じような結果になる
それは想像もつかない厳しい状態に追い込まれることは眼に見えているのだ
誰もその時助けないからである、お前は遊んでいただけだからともなる
つまり人間はなにかしらなんであれカルマを積んでいない人はいないのである
その清算が60以降に必ず強いられる、逃れることができないのである
人間の生い立ちというとき家族でも兄弟でも姉妹でもまるで違った運命をたどることが普通にある
家族ですらそうなら他人になるとさらに生い立ちとか家庭環境が違うと理解しにくくなるのである

なぜなら自分の育った環境とか生い立ちが固定観念となる、異常な家族でもそれがその人にとってはそうして育ったのだから普通になる、家族とは異常でもそういうものだったと固定観念が作られるのである
固定観念はこうして強固に植え付けられるからこれから脱することは容易ではないのだ
それは例えばカルト宗教団体でもそこに入ったものはそこは異常でもそれが正常となる、その異常性に気づかないのである
そこに固定観念が強固に作られるからだ、だから外部の意見など聞かなくなる、批判すると集団的に罰当たるとか威嚇するようになるのである
科学でも固定観念を破ることは容易ではなかった、地動説から天動説を唱えたり様々な科学の発見でもそうである
それは強固に固定観念が作られているからだ、それを脱することができないからである
また固定観念を破らない限り新しい時代は生まれないし作れないのである

この辺で津波とか原発事故で起きたことでもそうである、田畑があり街があるとかそれは固定観念として変わらないものだと思っていた、それが田畑が荒地化して村や街が津波で消失するとかなるとそのあまりの変化に対応できないのである
そこで何か今まで違ったものを作れといっても簡単にはできないのである
第一田んぼにしたって千年とかの単位であったものでありそれがなくなるとういことは田舎ではイメージすらできなかったからであるそれでデザインとはザイン(在る)ものをdは否定する言葉の由来がある
デザインは今まで在るものを否定することから始まる、それは固定観念を破ることから始まるとなる
だから今までの街作りではなく新しいデザインで街でも村でも作るとなる
そうしなければ復興はない、流出した若い人も故郷に戻ってこないともなっている
それで小高のマルシェは新しいデザインで街中に憩いの場を作ったのであれは良かったなと思ったのである
それは今までにないものとして作られたからである  

めぐり 逢 ひ て   見 し や それとも   わか ぬ 間 に 雲隠れ に し   夜半 の 月かな      

月は常に満ち欠けして変化している、月は変化の象徴である
だからもともと暦は旧暦は月の変化を基に作られた、太陰歴である、外国は太陽暦である
日本文化の特徴として四季でも変化がはっきりしている、季節の変化が激しいのである
この歌は人間の出会いも次々に変わることを示唆している
自分自身の経験でもそうだった、家族がみんな死んで次々に人間関係も変わったからである
親戚関係は全部切れた、この世の人のめぐり会いもめまぐるしく変わるのである
無常の世界なのである、この辺では津波原発事故で信じられない無常を経験したのである

最近は特に暑くなったり寒くなったりする、今日はもう夏になるのに寒いのである
日本人は本質的に風土的に変化に適応しやすいのかもしれない、それはこうした気候の変化でも激しい風土から生まれているのかとなる
一方で北極星とかは不動であり変化しないもの定点にあり位置を知るのに信仰までになった
妙見信仰がそうである、この世は変化するものがありまた変化しないものも求めている
変化しないものにも価値がある、AI化でも見直されるのはかえって人間的なもの情的なものや人間の感性だとかなるとそれはもともと人間にあったものでありそれが見直されるとういこともある、ただかえってそうしてもともと人間にあったものが見直されるのでありすべてが変わるということでもないのである 





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2019年04月25日

人間が一番のコスト (機械化、AI化は必然的に起きたー「一人で会社を経営しろ」もわかる)


人間が一番のコスト

(機械化、AI化は必然的に起きたー「一人で会社を経営しろ」もわかる)

人を雇うことは雇われる人より雇う人の方が大変なのである
そのことを雇われる人は理解していない
ただ雇われる人は不満だけなのである
これくらいの金でやっていられねえよとかだけなる
例えば家で手伝ってもらうにしても何もしたくない
そこに主がいるとしても家族でもないし夫でもないし働くのはただ金のためだの動機しかないのである、それは江戸時代とか身分制社会なら主人に仕えるということがモラルとしてある、そういう社会では主人に仕えることは金のためだけではない
一つの共同体を維持するとかあったとなる
それが現代では全くないのである、金しか働く動機がないのである

すると手伝いに来る人はどうなるのか? 

金しか動機がないから主人でも物色して金がないかと探して現実に金が盗まれたとなる
極端化すればその家に来る動機が金しかないとしたら当然そうなるのである
そういう人を雇うことは危険極まりないとなる
だから雇わない方がいいとなるのだ

皿洗いにしても    

●家族のためにやる

●しかたないからやる

●金になるからやる

家族のためにやるというときそこに動機がある、一人暮らしだと汚れたままにしていられないからしかたがないからやるとなる
外部の人にしてもらうとその人はそもそも動機が金しかないのである
そこに危険が生まれる
だからしかたがないとか他者に手伝ってもらうと危険とかなり一番いいのは機械化なのである、皿洗いの自動化であり家事の機械化自動化がすすめられる
他人の家で働く動機が金しかないとなるとそれは危険だからである

最近出た本で「会社は一人で経営しろ」というのが拾い読みしたが面白いようだ
人を雇うことがコストになりそれが搾取になるというとき一人でした方がいいとなる
そのためには外注とか機械化とかAIに頼るとなる
人間を雇うということは一番コストだからである
それで外国人労働者でも安くこき使うことができなくなるのは当然である
福祉とか給料でも日本人並みにしなければもう働かないとなる、日本には来ないとなる

働くということは何か動機が必要なのである
端(はた)を楽にするがはたらくだというときそれは身近な家族でも苦しんで働いているから楽にしてやりたいと自然と湧きあがるものがありそれが動機になっていたのである
介護だってやはり他人になれば介護施設でも働く動機が金だけになりどうしても家族のようにはできない、むしろ金持ちに使われるのが嫌だとなる

機械化AI化すると何かいろいろな分野で一人でできる社会になるのかもしれない
インタ−ネットを利用すればすでに一人で雑誌でも出せるとかなる
現実に自分のしていることでもそうである、一人で多様なことを書いているから小雑誌になっている、それは一人でできるのである、これを本にしていたり販売したりになると出版社が必要になる、なんらか雇う人が必要になるからだ
ところがインタ−ネットだったら即座に送信できるから販売がなくなる
ただ誤字とか脱字がありこれは自分でもわかっているのだがなかなかできない
それも相当手間になるからだ

「一人で会社を経営しろ」というときそういう社会になりつつあるからだろう
機械化AI化するとそうなる、インタ−ネット上で即座に書いて送信していること自体そうである
ただ雇うにしてもその人に金だけの動機ではないものがあれば雇ってもいいのである
でも誰も皿洗いなどしたくない、それは自分自身でもそうだし家族でもそうである
でもどうしても家事はしなければならないからしかたなくしているとなる
その人は今は何もしていない、ただ一週間に一二度見回りして畑のことを話すだけであるその人は畑はいろいろ不満を言ってもしたいのである
畑をやりたいという動機がある、農業が好きであり生きがいにもなる
でも皿洗いとか他人の家事などしたくないのである
でも畑にしてもそれに金を払ってもキュウリ二三本で一万とかなる
ほとんどとれていないからである
だからその人は金の援助がなければ畑もできないのである
しかしその人のしたいことは畑での仕事なのである

これからの社会はベーシックインカムとかなればしたくないことはしない
自分のしたいことをする、そしてしたくないことは機械にAIにさせるとなる社会になるから一人で会社を経営しろということも現実化している
大勢でなくても一人でする方が効率的だとなるからそうなる
雇われる人の問題は動機がないことなのだ、ただ金しかない、そして金の不満だけになるもし動機があれば別なのである、自分にしてもプログでもこんなに書いているのはそこに生きがいとなり無料でも働く動機があるからだとなる
自分の個性を出せる仕事だからやるとなる
実際自分にしても金くれるから仕事しろとしてもしたくない、動機がなかったらしたくないからである
だから金のためにだけ働く人間は雇いたくない、それ自体が問題なのである
でもまた金のために働いている人が多すぎるのである、そこに俺は社畜なんだよなとかいう人が多いという時、そういう人を雇う方もただ搾取されているとか見られるだけになるから嫌になる、それなら一人で会社を経営できるならその方がいいとなってしまうのである

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2019年04月16日

貧困化する日本の実態 (外国人観光客より貧乏な日本人)


貧困化する日本の実態

(外国人観光客より貧乏な日本人)

【貧乏・貧困・格差社会の日本】半額弁当や半額惣菜に群がる人たち…


閉店まぎわの半額弁当を半額惣菜に群がる、外国人観光客がデパチカで高い弁当を買っている、半額弁当の取り合い争奪戦になっているという
それは戦後の配給とにているという、アフリカなどで援助物資を奪い合っているという

貧乏のこと今いろいろ言うけどこれは何か生々しい、そんなに日本人が貧乏になっているのか?それがショックである
田舎のスーパーではそういう光景を見かけない、とすると都会の方が数が多いから貧乏人も多いのかとなる
これはもうすでに日本は逆に東南アジアとか中国人の貧乏人のレベルとなったのか?
そういう光景である、外国人観光客を優遇して金を使わせる
それはかつて日本人がそうだった、日本人がパリとかでもブランド品を買い漁っていたのである、その時日本の円高で安く買うことができて海外旅行ブームになったのである
その逆の現象が起きている

これも国レベルのカルマ現象なのかと思う
後進国で貧乏な国で日本人が威張っていたからである
今度は逆に外国人様様になり観光客を優先して地元の人はないがしろにされる
テレビで外国人と旅館のおばちゃんが抱きあっているというのもそうである
日本人が観光客として来ないからそうなっている
貧乏な国は前は外国でもそうだったからでありその時日本人は威張っていたからである

ただそれだってたかだか20年前くらいは日本人の海外旅行ブームだった
でも中国でもそうだが10年過ぎると世の中は急速に変わるということに驚く
あるyoutubeでは外国人労働者を正規の労働者として受け入れることに積極的なので日本人の底辺労働者が追い詰められているともい、それはなぜかというと外国人労働者は若いからである、その若さが会社でも活気を与えるからだという
日本人は中高年が多すぎるからそうなっているという、それもわかる
やはり若いということは価値があり社会にとって活力を与えるのである

なぜ高度成長時代が生れたのか?
戦後の焼け野原から団塊の世代のベビーブームになった、その時子供が膨大に増えたのである、だから良くそんなとき食べ物がないのに子供を育てることができたと感心する
その団塊の世代が労働力となり高度成長時代が生まれたのである
中卒の金の卵とかが東京に行き労働力となったのである
何かその時はふりかえると日本が活力があった時代だったとなる

その団塊の世代ももう70以上になり高齢化して今度は逆に負担になり重荷となり経済でも成長はない、少子高齢化で日本経済は縮小してゆく
そういう貧乏な時代になってきた
それは私の一身上でも経験している、事業に失敗した人が追い詰められた借金を要求してくる、それも自分も病気であり介護でもそんなことをかまっていられない
また手伝いに来た人に大金を盗まれるとか困窮した人が金を貸してくれとくる
その人は必ずガス水道電気がとめられてどうにもならないと泣きついてくるのである
ただ金額が少ないから工面できる

事業に失敗した人は俺は億の財産があると言っていたからそんな人とどうして事業家でもない自分が都合できるのか?借りる金が千万とかまで普通になる
そんな人と付き合えるのかとなる
その人は成功しているとかレベルの高い生活をしてきた、それを落とすことができないのである、それはこれまで高度成長とかバブルを経験した人にも言える
今までの生活のレベル落とせないのである
でもそれを借金で継続していたらどうなるのか?他者にも多大な迷惑をかけることになる
だから貧困化する時代にはそれなりに生き方を変えなければならなくなる
それは日本全体でそうなるからだ、銀行だって金を貸す会社がないとかなり投資信託とかそうした株と投資信託には素人でしかないのに手数料がとれるのですすめる
それも結局日本全体の経済が落ち込んでいて銀行でもどこでも利子をつけられないからである、だから逆に客から貯金している人から利子を与える代わりに投資信託とかで手数料商売にしているのである
日本経済全体の落ち込み衰退の結果なのである

だからこれから生活を根本的に変えねばならない時代に突入したのではないか?
消費が進められても消費税が10パーセントになったら貧困化しているのに消費できるわけがないからだ
すると庶民の防衛策としては消費しない、節約する他ないとなるのである
それは資本主義社会では経済成長をとめるものだとしてもそうならざるをえない
投資など普通の人はもうからない仕組みになっているからだ
するとその対抗策は節約しかないとなる

貧乏という時、本当の貧乏を戦後生まれの人は知らない、また江戸時代の貧乏がどれほど過酷だったかもしらない、もちろん飢えることがどういうことかも知らない
だからそういう時代と比べればまだましだとも考えることができる
それは時代的に合わないとしてもやはりここでも歴史を参考にすることはできる

(徒(かち)町百首俗解に描かれた徒町弥田之進の短歌)
                                                            
徒の町土塀南瓜の霜がれて赤椀する時は来にけり

赤椀をふすともしらで家中人こたつをやたらほりばたの庵(いお)
                            
これもどん底の貧乏である、赤椀をふせるとは炭が買えないから赤椀をふせて炭火の感じをだしていた、炭も変えなかったのか、会津のような寒い場所で炭も買えなかった
そしたらそんな寒い所でどうして過ごせるのかと今なら思う
炭は別に子供の時団塊の世代では使っていたのである
炭だと炬燵でもあたためられるからましだとなる

今になるとこれは貧乏な人がガスとか電気水道をとめられることなのである
なぜならそうなるともう生活できないからである
たいがいそこまで追い詰められてくる
いづれにしろ貧乏な時代をどう生き抜くのか?それが日本人の課題になってきている
でもそれがむずかしいのは高度成長とかバブルとか贅沢を経験しているから生活レベルを落とすことがむずかしいからである
だからどうしても借金することになりそこで追い詰められる
でもそんなことをしていたら首を自ら絞めることになる
では貧乏にどう対処するばいいのか?庶民には節約しかない、ぎりぎりに節約する他なくなってくる、それもむずかしいにしても追い詰められればどうにもならなくなる
ともかく日本が豊かだっか時代の感覚ではもう生活できないことを自覚するべきである

そしてこうして日本人が貧困化する時、それは必ずまだ余裕がある金持ちでも影響する
それが自分自身が体験した、治安は悪くなるしそうした追い詰められた人が多くなれば決して金持ちでも安閑としてはいられない、社会自体が余裕のない不安な暴動寸前のような状態になり金持ちが現実に襲われて殺されたりもする
そういうことが革命にもつながっていたからである
だから日本の貧困化でもそれは一部だけの問題ではない、日本が全般で深刻なものとなってゆくから怖いのである

ただ奇妙なのは老人は節約しやすい、何か贅沢しなければ食べていればいいと考えればたいして金はかからない
でも海外旅行だとかまた何か金をかかることをするとそうはならない
でも何か老人はあまり金を使わない、何か新しい機械を買っても道具を買っても使いこなせないとかある
その点では有利である、使うとしたら医療費用とか介護費用なのである
その他は使わない、だから節約というとき老人はできるかもしれないが若い人はいろいろ自分に投資するから苦しいとなるし
また日本自体の活力が衰えるともなる


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2019年04月11日

人を雇うほどやっかいなことはない―人手不足はなぜ起きる (奴隷のしつけ方(本)を読む)


人を雇うほどやっかいなことはない―人手不足はなぜ起きる

(奴隷のしつけ方(本)を読む)


コンビニでも人手不足で24時間営業ができなくなるとか曲がり角に来ているとかなる
24時間影響でないと仕入れを夜にして早朝に品物を出せなくなるとかある
それより人手不足が深刻のためもう維持できないとなっている
都会では外国人労働者が多くなる

そもそもなぜ人手不足が起きるのか?
少子高齢化とかいろいろあるにしても現代では労働したくないのである
人間はもともと労働をしたくないというのがある
労働は重荷になるからである

だからこそ機械化自動化することに経営者は熱心になる、また誰でも機械化して家事ですら楽にしたいということで機械化したのである
人間の楽園はエデンの園では労働はしていない、そこには果物でもふんだんに実り労働する必要はなかった、アダムが罪を犯してエデンの園から追放されて労働させられるようになったのである、労働は呪いであり神からの刑罰だったとなる

私自身も労働を嫌悪した、それは底辺で流れ作業のようなことばかりしていたからであるそれはまさにロボットにされることだったのである
そこに人間の尊厳は丸ごと奪われこる、機械と同じにされる、ならば機械化して人間はいらないとなるのは当然である
それ以後私は一切仕事はしていないのである

コンビニに働く人がいないのはなぜか?
そこで働く人に敬意をもつ必要があるとか言っていたがまず今働く人に敬意をもっているのは医者とか科学者とか技術者とかくらいだろう、弁護士などもそうなる
後は底辺の労働者にまず敬意を持つ人はゼロだろう
そこには敬意どころか感謝すらないのである、感謝されるのは買う方だとなっているからだ

駅で道案内とか何か案内してありがとうと言われる、その時すら感謝しているがコンビニとかスーパーで働く人に感謝している人など皆無である、ただ文句と不満しかないのである、だからそういうところで誰も自主的に働いているわけではない、しかたなく金のために働いている、それはみんなそうである
つまり現代はあからさまな奴隷はいない、金銭の奴隷化されたのが現代である

人手不足というけど別に元気な老人が膨大にいるしその人たちはパークゴルフとかして働かない、ニートもいてその数も60万とかいる
つまり現代は働かないで暮らせる人が膨大なのである、何千万人といるのである
それだけの余裕があるからそうなっている

人間というのは本当に歴史をふりかえると過去には奴隷がいて過酷だったとかなる
でも現代でも資本主義社会で巧妙にかえって過酷な奴隷にされているということがある
それはあからさまに奴隷ではないからそう自覚しないだけである
「奴隷のしつけ方」−マルクス、シドニウス、ファルクス・・は面白い本である
ローマの奴隷となると過酷な本当に奴隷のように思っていたがそうではなかった
奴隷も人間だから人間的に扱うようになる、そうしなければ奴隷を働かせることはできないと書いている

不思議なのはかえって人間的なものがそこにあった
奴隷は奴隷ではない人間であり主人でも奴隷のように仕えるのでは人間として仕える
そして忠誠を誓い主人のために命までささげた奴隷もいたのである
それは家族のような紐帯が一緒に暮らしているから自ずと生まれていたのである
人間はどんなことしたって家畜ではない、家畜のようにはできない、必ず人間的情が生まれる、奴隷は家の中で働くから余計にそうなるのである
家族の一員のようになってしまう、現実に奴隷でも家族と一緒に食卓を囲み食事していたことがあった、奴隷というと鎖縛られて家畜のように扱われたように見ていたが違っていたのである

現代の方がむしろ非情な奴隷化システムが構築されている、そこには人間の情が親愛の情が通わない、ロボットのようにまさに工場では流れ作業をさせられているのだ
後進国だと余計にそうさせられる、子供まで安い賃金で働かせられる
だから時代が進んでも文明化されても人間が幸福になるということはなかったのである
誰もが今働きたくないというとき労働する者に敬意をはらわないというときローマの奴隷以下にされているのが現代なのである

そして決して人間は奴隷のように働かすことは不可能である
だからこそ外国人労働者でも自国並みの待遇をしなければもう日本には来ないとなる
それでそういう法律もできる、いかに人間を働かすことはやっかいなことかである
とても機械のようにロボットのように働かすことはできない、だから奴隷というがそれは今よりましだったともこの本を読んで思った

正直それを自分自身が嫌というほど経験した、もう根も尽き果てるほどになる
雇う方が重荷になるのである、それでまた機械化ロボット化が雇う側にするとそうする事情がある、人間を雇うということはどれだけ負担になるのか?
そうなら機械化ロボット化自動化ですまそうとするのは必然なのである
だからコンビニでもどこでも自動化する、駅でも無人化するのである
そのコストは金銭面だけではない、様々なことで負担になるからである
そして自らの自主的な意志で働く人はまれである
それからどこでも働いてる人に敬意などもたない、むしろサービスがたりないたりないと文句と不満しかないからである
それでベーシックインカムでも現代に堂々と言われ実行さえされている
でもこれも失敗になっている、働かなくてもいい社会である
なぜならみんな働きたくないからそうなる

ではベーシックインカムになったらみんな働かないかというとそうではない
私の家にきて働いた人は今は何もしない、皿洗いもなにもしない、ただ三日に一度くらい話にきて金をせびるだけだとなる、でもその人は小さな畑でたいして野菜もとれないがその仕事だけは文句言いながらしたいのである
それでもそこには種だと肥料だ道具だと金がかかるがそれも払っている、それでもらったのはキュウリ二三本だったのである、だから一本一万以上のキュウリになっていたのである

いづれにしろ人間は金のために働く人は奴隷である、ソローも「森の生活」でそう言っていた、もちろんベーシックインカムなども実現不可能なことはわかる
でもそれが公然と言われすでに実行されたのはやはり現代のシステムはローマ時代より過酷な奴隷労働化されているからである
ローマの方が主人との親愛の情が生まれ主人のために命まで捨てた人もいたのである
それは武士社会でも主従関係が生まれてそういうことがあったのとにている
そこにはどうしても家族のように一緒に暮らすからそういうことが自ずと人間だからこそ生まれたのである

今はただ人間と人間の関係は金しかなくなったのである
そこに一切人間的情を省かれた社会なのである、だから索漠とした社会である
もちろんローマの奴隷でも召使でも奴隷でも常に盗まれるとかがあったから今と同じである、でも何かそれでも家族内労働となると人間的な情愛が生まれる
現代の問題は情が喪失した省かれた非情化した世の中である
そしてすべてが金に換算されるだけで一切人間の情は通わない世の中なのである
だからまず家の中に入る人はローマの奴隷ように危険である
まず金しかもらうということしかない、だから後は盗めばいいとなってしまうからであるローマでもそのことで苦労していたけど反面家族のようになった人もかなりいたということである

つくづく人間の進歩とはなんなのだろうと思う
ローマの奴隷とかなると映画とかで見ると非人間的な社会だと見ていた
実際はむしろ現代社会より情的であり人間的であったともなる
現代の方が非人間的であるとすると自由社会でありながら巧妙に資本主義のシステムのなかで奴隷化されている、どうせ社畜なんだよなと常に言うのもそうである
会社員でも奴隷だと意識しているわけである 

だから元気な老人でもニートでもなんでも金さえあれば働きたくないのである
そして当然そうなれば働くことを強いられなければ働かないとなる
それも責められるにしても自分のように別に働かなくてもいいなら働かない
駅でボランティアしているのは別に働いているわけではない
そこで人と話したりその合間に困った人がいたら案内しているだけだとなる
別に雇われているわけでもない、だから雇う人は何の負担にもならないのである
私は何もしない人でも金を払っているのとは違うのである



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2019年04月05日

食堂・レストランはどこがいいのか? (価値=場所+料理+サービス)


食堂・レストランはどこがいいのか?

(価値=場所+料理+サービス) 

食堂というとき食べるだけではない、その他の付加価値が影響する
何か私は狭い食堂が嫌なのである、狭苦しいと嫌なのである
だからそもそも私は都会には行きたくなくなった
ごちゃごちゃしているから嫌になったのである
人ごみも嫌になった、前からそういう性格があった
でも若い時は都会に行くことを苦痛とはならなかった
それが今は何か人ごみとか狭苦しい場所とかに行きたくない

そうなると食堂でもまず場所だとなる、場所と関係してその食堂内の雰囲気も問題になるもちろん味も問題になる
味が一番の問題なのだがその味にしても一人暮らし用になっていない
一人暮らしで気づいたことは定番の料理はあきる
でもみんないつも同じ定番の料理なのである、エビフライとかハンバーグとかサシミ定食とか決まっているのである
そこで一人暮らしに向いているのは惣菜などを個別に売って自由にとれるものである
それで自分なりの組み合わせの料理が味わえるのがいいのである

そういうの都会にある、都会にはいろいろ需要がありサービスも生れる
でも田舎だと外食でも限られている、それも定番のものが多いからあきるのである
そこが最大の問題なのである
そこで東京では日替わりで違ったカレーを出している店が繁盛しているのもわかる

一人暮らしにとって料理はめんどうになる、だからどうしても外食が多くなるのが
それがいつも定番だから飽きるのである
ただそもそも安いのだからぜいたくは言えないのである

それで深野のユッサでは最近食堂を新しくした、そこは惣菜を小皿で150円でだしていいる、するとそれを選んで自分好みにできる、そういう食堂は都会にある
つまり需要があるからそれに応じてサービスが生まれる
田舎ではそもそも需要がないからそういうサービスが生まれにくい
一時仮設食堂であつみ食堂でそういうバイキング方式の食堂をしていた
それも客が以外と入らずにやめたのである
それはなぜか?そういう方式でも受けなかったとなるのか?
それより一人暮らしに野菜がとれるので良かったのだがそもそも一万の町では需要がなかったのである
でも都会だったら一人暮らしの老人が多いから老人用の食堂までできている
それが田舎ではできないためだと思った

つまり何か商売するのにも需要がないと成り立たないのである
また需要を見ないと商売は成り立たない
そして価値=場所+料理+サービスなのである
私はだから高見食堂に行ったけどそこは料理がいいにしても狭苦しいのである
まずカウンターにしか座れないのである、そこも狭いのである
そういう場所だと悠々と食事できないともなる
それで高見ホテルの食堂は広いしコーヒーも無料なのと味噌汁がいいものを出していてうまいのである、ただあそこも定番になるからあきる
日替わりの魚定食があればいいがホッケしかでてこない
でも大きなものだからあそこは得である、あとはいいにしても飽きる
たとえうまくても高くても同じだとあきるのである
これが食堂とかレストランの一番の問題だった

とにかく一人暮らしだと果物は簡単に用意できるが野菜を食べるのがむずかしいのだ
だから小皿で安く野菜とか惣菜を食べられるのがいいのである
ただそれをしているのは深野のユッサだけである
そこは場所がいいとしても自転車だと遠くなるから簡単には行けないのである
そういうふうに何かすべて満たされるものはこの世にないとなる




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2019年02月28日

禍福は糾える縄の如し 万事塞翁が馬 (人間は未来が予測できない―不幸が幸福になり幸福が不幸になる)


禍福は糾える縄の如し 万事塞翁が馬

(人間は未来が予測できない―不幸が幸福になり幸福が不幸になる)


鹿児島の硫黄島に漁獲量の豊富な地区とそう多くない地区があって、漁獲量の多い地区がかえって過疎化した
その地区子供の教育に金をかけることができるので、子供は進学のために島をでて、都会で就職して帰ってこなくなった
一方教育に金をかけることができなかった地区は子供が漁業を継いで過疎化に歯止がかかった (文化の時代の経済学入門)

これは何を示唆ししているのか?
漁獲量が多い地区は金が入った、だから子供の教育に金をかけることができた
それは悪いことではない、いいことだったのである
それが島という狭い土地を離れさせる原因になったのである
どうしても島に住みたくないとなったのである
それは教育を受けさせた結果だとなった、ここには島の事情があるから一般的に適用はできないだろう

でもこれは何を意味しているのか?
人間は良かれと思ったことでもそれが必ずいい結果を生むとは限らないことである
人間の幸福はまた計れないことである、だから江戸時代と今の時代と比べて江戸時代の人が不幸だったとはならない、幸不幸は計れないからである
そういう時代を生きることはまたその時代を生きない限りわからないのである

人間はこれが幸福につながると思ってもそれが不幸なになったり不幸と思っていたことが幸福につながったりする
何かたりないものがあると思ってもそのたりないことが幸福につながることもある
日本がは資源がないから教育に力を入れて先進国になったとかそれぞれの国でもすべてを満たされた国はないからである
郷土料理は金をかけたものではない、その土地でとれたものを工夫して利用したものでありそれは金かけた材料で作るものではない、だからこそそれが今になると貴重なものになっている

原発事故でもわかったようにそれはこの土地にとっていいものだったのである
それは富をもたらしたのである、そのいいものが事故になり住むことすらできなくなっただから未来は予測できないものとしてある
それがいいことだと思っても悪いことに転化する
それは社会にとってもそうであり個々人でもはそうである
硫黄島の場合はそこに何ら悪いと思えるものを予測しえないものでもそうだったのである子供にいい教育をさせることにどこも悪いとはならない
それですら思わぬ結果になったのである、それは未来を予測する能力が人間にないからだとなる

そういうことは人生でも組織でも団体でも国家レベルでもある
いいと思うことが悪い結果を生み悪いと思うことがいいことを生む
戦争に負けて300百万人も死んだことは最悪だった
でも不思議なのことは戦争の結果として日本は高度成長を遂げたのである
それは既得権益者が一掃されて新しい国造りができたからだともされる
そしてその時なぜ食料もないのにベビーブームになり団塊の世代が生まれた
その人たちが労働力となり日本は経済成長を遂げたのである
これも予測し得ないことだったのである
つまり人間には個人でも社会でも予測し得ないものがあり思わぬ結果になる
そういう運命を握っているのは誰なのか?それは神なのかもしれないとなる
それでfortuneとは運命でありまた財産にもなっている
富も財も努力が必要でも運の力も大きいということである
でもその運がまたどういうふうに作用して幸福をもたらすのか不幸をもたらすのかもわからないのである

個々人でも技術関係で理系で優秀な人がいてもそれが経営者になったときまるで実際は違った分野であり失敗したという人も多い、あることで優秀でも人間すべてに優秀ではないからだ、だから優秀だと言っても一部のことであり神のように万能にはならないのである万能でないからこそ人間は原発事故であれなんであれ必ず躓く失敗する運命にある
また成功してもまたそれが永続したりもしない、成功したために失敗につながることもある
つまり人間の未来は予測できない、未来を握っているのは神にもなるからだ

だから硫黄島のことなど本当にそうである、どこも悪いことではないのにいい結果をその土地の者には家族にでももたらさなかったのである
そういうことはこの世にいろいろあるからこの諺が生まれたのである
だから悪いと思える所にいいことがあり見出す努力すればある
いいと思うところも原発事故のように悪い結果をうむのである
だから人間の未来は予測できない、だから悪いことがあったとしてもいいことに通じるということもあるのだからそういう志向が大事になる
そしていいことと思ったことでも悪いことに通じるということを知るべきだとなる
そこに謙虚さが必要だとなる、いいと思うことは才能でも奢りになりそれが失敗に通じているのが常だからである、それは一つの法則のようなものなのである
だから別にむずかしい学問でないにしろ庶民の間で諺が残された
それが今日でも生きているのは人間個々人でも社会でもそもそも人間は変わらないからである

人生が終わりになっている、老人に聞いてみるといい

意外な結果に終わったな  こんなはずじゃなかった

こうなっているのである、いくら努力したとしてもそれがいい結果になるとは限らないし思わぬ幸運も不運もあるからである
これこそ未来は予測できないからこうなっているのである
人間個々人でも人生でも思うようにはならないのである、それはたとえどんなに恵まれていたとても最後はわからないからだ
必ず思わぬことが起こりみまわれてそうなっているのである



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2019年02月27日

経済原理だけのグロール経済社会の限界 (環境保全とか景観の視点と価値観の転換の時代ー文化経済学へ


経済原理だけのグロール経済社会の限界

(環境保全とか景観の視点と価値観の転換の時代ー文化経済学へ)

●戦後経済の見直し作業

原発事故は様々な現代社会の矛盾を具体的なものとしてつきつけたのである
それを追求してきた、大きな時代の変革の時にこういうことが起きてくる
それは明治維新とか戦争に敗北したとかで起きてきた
そういう時代に突入しているのが現代である、それは世界的な現象でもある
この世界に適応されたのは経済原理だけである
要するにグロ−バルに金で価値を計る社会である
あらゆる価値を金で計算する、それは国境を越えてもそうである
そこで国すら越えてグローバルな多国籍企業が世界を牛耳る時代になった
そこにあるのは経済原理しかない、金ですべての価値を計るのである

そこで問題が起きる、巨大企業が進出して環境も破壊される
それはこの辺の原発事故でも起きた、自然環境が放射性物質で汚染されて住めなくなった未だに松川浦で潮干狩りができない、それは観光の打撃となっている
アサリが汚染されたからだ
でもそういうことがなぜ起きたのか?そのことを延々とプログで追求してきた
それは現代社会のグローバル経済の矛盾でもあった

そこには一つの価値観しかない、経済原理だけなのである
国家だとGDPが増えればいいとか個人レベルだと金になればいいとかしかない
数量的価値観と金ですべてを計る価値観である
そこで原発を作った国家でも東電でもそれにかかわる人たちも地元民も金さえやれば納得する、それよりそうして地方を活性化させるためる地元民が積極的に誘致させたのだとまでなる、頼まれて原発を作ってやったのだとなっていたのである

でもあらゆるもの経済原理で金で価値は計れないのである、つまり人間の価値はあまりにも多様だからである
私はワインなど飲まない、飲まないということはそれに価値を置いていないということである、でも金持ちでなくても日本でもワインを飲む習慣が生まれている
ある人にとってそれは価値がないがそれを楽しめる人は価値があるとなる
  
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この表はわかりやすい、価値観が対象的にしているからである
赤丸で囲んだ価値への転換なのである、これは自分も特にそうだがそういう社会状況になったからみんながそういう価値観を求めれば自ずとそうなってゆく、もちろん金だけの価値観を克服することは容易ではない
ただ変革の時代にはそういうことも総体的に起きてくる

 ホスピタリティとか気遣うと情とか場所の価値とか倫理主体とか計算不能の価値観である、つまりすべてを金で計算できない価値の社会なのである
等価交換ではない、不等価交換である、実際時と場合により価値は変わる、価値は多様だから一定しないのである、だから時給いくらとかで労働力を計算するのは非人間的なのである、つまり現代から奴隷がなくなったようで巧妙に資本の論理で奴隷労働化されているのである、それで今仕事をしたくないというときそこに生きがいを見いだせないからである
お前の労働は時給いくらだ、それがすべての価値観となっているからである

●価値は多様であり一定ではない

例えば旅行でも豪華な列車で金持ちでも多額な金を払って一回限りの旅をする
また高級バスで何十万を払い超贅沢な旅をすることが話題になる
私は旅ばかりしたけどそういう旅をうらやましいとも思わない、ワインを飲めなくてもそれで不幸だともなんとも思わない
旅だとむしろ歩くなり自転車なりの時間をかけた旅の方が旅という経験をしているからだそんな豪華な旅はもう旅でも何でもないのである
確かに金のある老人の楽しみだとはなるがそれが旅とは言えないのである
つまり旅を経験していないのである

あらゆる価値はいくら金を出しても手に入れることはできない
例えば読書などがそうである、高い本でもいくら買えるとしてもそれを鑑賞することは相当な知的レベルを要求されるしそれを自分のものとして読むことは容易ではない
ただ私はやっとこの年になって鑑賞できるようになったことでもわかる
だから自分なりに本を読んでその解説ができる
するとその時こそ本当に読書しているとなっているからだ     
若い人はこれはできない、経験とかがものいうからである
また老人のように精神的に成熟しないからである

とにかくあらゆるものを金で手に入れることはできない、老人になるともう体力もないから登山もできないとか無理なことができなくなる、それはいくら金をだしても体力がもどらないのだからできないのである
若者だったら金がなくても別に野宿しても旅はできる
だから野宿して旅ししている人と豪華な贅沢三昧の旅をしている老人をとどっちが旅をしているかとなると若者の方だとなってしまうのである
それは老人がいくら金を積んでもそういう旅ができないからである

経済原理だけで金だけすべてを計る社会はもう限界にきた、貧乏な時代は豊かになりたいというのはわかる、でもそれもある程度満たされると人は価値観が変わるのである
それは今や社会全体に及んでいる
金でなんでも手に入れることはできないということがわかりつつある
老人ならそのことを何もむずかしい本を読まなくても経験から知っているのである

●農業漁業林業は生態系維持環境保全としての価値がある

だから価値というのは様々でありすべてを金だけで経済原理だけで計ることは人間を不幸にする、それがこの辺が原発事故で起きたことなのである
農業とか漁業でも林業でも第一次産業は金にならないとして誰も跡を継がないとかもう放置されるような状態になったときとうなったのか?
原発でも金になればいいとなった、結果として水すら飲めないとか空気すら吸いないとまでなって住めなくなった、これほど最悪なことはなかったのである
土も利用できないから田畑も利用できないとかなる、すると地元で食べるものすら得られないとなったからだ

価値観の転換として農業というのをただ食料生産の面から見るという視点より環境保護のために必要だということも価値観の変換である
環境保全の役割を農業はになっいていた、それは水の利用とか自然と密接につながりそうなっていた、それが自然環境の保全の役割を果たしていてその結果として農村の景観が作られていたのである
そういう景観と自然環境でも農業をただ経済原則だけからみたら金にならないとしてみんな誰もやらない、放置される、そして耕作放棄地が全国に膨大に増えて景観も破壊されるのである
そこには今度はソーラーパネルだらけになったり風力発電の風車が森の中や山にもできるそして景観は破壊されるのである
それはそもそも第一次産業を金にならないという経済原理からしか見ていないからある
でも実際生活するにはそうなるからやっていられないというのはわかる
でもみんながそうではない、経済原理だけからしか見ない価値観を変換させればまた違ってくる

東京のようなビルの谷間で人口が異常に集中して暮らすのが人間の生活なのかという疑問も都会から起きている
つまり景観とか環境保全があって人間は幸福に暮らせるという意識が高まると価値観が変わるとみんな金だけではない、経済原理だけではない価値観の変化が起きるとやはり社会は変わるのである
食料を生産するだけではない、環境保全、持続可能な自然との共生とか景観の保全とかが価値となる生活である、そこに意味があるのだとなれば金だけでは計られないものとしてそこに金を回すとういことも起きてくる 
そんなことではまともな暮らしができないというときそれはまた価値観の転換が必要なのである、それで家族一緒で故郷に住めるなら蝋燭でもいい言う人がいたときそれは極端でもそうなるのである   

●恵みはめぐるであり生態系の維持があって恵みがある

グロ−バル経済は多国籍企業が世界を経済原理で動かして支配するシステムなのである
そこにもともとある自然も無視するしそうして生活していた住民も無視する
それは原発事故で起きたのである
もちろんもともと住んでいた住民もまた今の社会の価値観に染まっているからそうなったそういう矛盾がこの辺では生まれた
元の貧乏な生活にもどれというのかとかそこにはまたいろいろな問題がある
ただ人間の価値を経済原理だけで金だけ計る時代は終わり新たなまた古くからあるものの価値観を見出すべき時代になっているのだ

恵みとは巡る、めぐることなのである、ロールすることなのである
水のように山から平地へと田んぼへと水は巡り恵みを与えるのである
それが自然との共生の生活でありその中で自然環境は保全されまた景観も維持できるのである
そういう恵みの思想が工業とか巨大企業にはないのである
何か自然から富を資源でも収奪する他国からでも収奪するというのが現代のグロ−バル経済である
それで自然は破壊されて極端になったのがこの辺だったのである
だからどうしても価値観の転換が望まれている
経済原理の金中心の経済を止めることなのである
何でも買うそして捨てるという生活なども見直す時代である
そういう傾向はシェア経済などで生まれてきている、大量生産大量消費の時代は終わったのである
そうなると確かに不景気とかになるがそれも時代だからやむをえないのである
そうなったならなったで人間は適応して生きてゆくほかないということである

●経済は意味と価値を求める時代になる

原発事故では現代の矛盾が噴出したのである、それはとりもなおさず現代社会を見直すものとなった
例えば松川浦の人が漁もできなくなった、放射性物質の汚染でできなくなった
その時「俺はここになんのためにいるのか」と自問していた

「漁もしない、俺はここになんのためにいるのか?」
「あなたたちは多額の補償金を原発事故前からももらっていたから別にいいんじゃない」「それはそうだけどでもなんのために生きているのかもわからないよ」
「今も十二分に補償金を特別もらっているだからいいんじゃない、みんなうらやましがっているよ」
「そう言われてもな」
「そもそもさ、漁業権を東電に売ったことがおかしいんだよ、その漁業権はそもそも資源保護とか環境保護のために与えられたんだよ、それは必ずしも漁業者のものじゃなかたんだよ、みんなのものだったんだよ、ただ資源保護のためにみんなから委託されたものなんだよ」
「そういうむずかしいことはわかんねえな」
「あなたたちは特権を与えられていたんだよ、その特権には責任が課せられていたんだよそういう自覚が必要だったんだよ」
「かといって漁業で暮らすことはできない、いろいろと金がかかるし魚もとれなくなっているからな」
「でも漁業権を東電に売ってどうなったのか、金だけはもらい何の意味も価値もない者になったんじゃないか」

原発事故は漁業関係者に一番矛盾が現れたのである
事故前も原発御殿が建っていたとかその後は軽く一千万以上の庭を作っているとか一番恵まれていたからである、ただ津波の被害にあったから家族でも死んでいるからその点は犠牲が大きかったとなる
それで近くでも漁業に関係しない人もいるから罰があたったとか言う人もいたのである
そこまで言うとはやはり周りの人はそういう恵まれた人に相当不満があったということである

そして松川浦では現実にアサリ採りが潮干狩りができないから観光でも大きな打撃だったのである、資源保護のために漁業権が与えられていたのにその資源保護の務めをしなかったとなる

とにかくここに象徴的に補償金で別に生活には困らない、補償金は継続的に東電や国から入ってくる、でもその存在意義と生きる意味とか価値は地域で失ったのである
ただ現代のグロ−バル経済はこの生きる意味とか価値とか意義とか倫理的なものは追求していないのである、むしろそうしたものを省略化して成り立つのがグロ−バル経済なのである
世界をそうして人間的属性としてあるものを省く、ただそこで経済原理、金だけで計るようにしたのがグロ−バル経済だからである
それで失敗したのは移民となると外国人を入れるとなると相手は人間だから物のように金で計ることはできない、様々な問題が生まれ福祉や共同体にどうして受け入れるかとかが問題になり失敗したとなる
人間はモノの用地扱えないからそうなったのである 

漁業が跡継ぎがいないとかいうけど漁獲高が多い所でかえって跡継ぎがいなくなった
教育に金をかけて子供を育てたが東京に就職したとか漁業を継がない
でも漁獲高が低くく子供の教育に金をかけなかった所は子供が漁業の跡を継いで残ったというのも皮肉である  
これも何か現代の矛盾した社会を示唆ししている、跡継ぎがいないというとき農業でもそうだし山村でもそうである、それは人間の生きる意味とか価値を経済原理だけで計っているからである、金になればいいとう価値観しかないからである

●万人の万人に対する戦い、モラルなき社会は地獄に生きることだ

ただ確かに先立つものは金だというときその矛盾は大きい
そんなものは理想論であり現実はそうはならない厳しいから適応できないともなる
でも明らかに現代の社会の行き詰まりというか荒廃はゆきつくところまで来ている
倫理もないモラルなき金だけが突出してふりまわされている社会である
それが自分自身の体験で嫌というほど経験した
もう金のために保険金殺人のように殺される一歩手前まで来ていたのである

金でめんどうみてもらへ

金をよこせ

金をください

これしかなかった、自分苦しい時にも相手は金しかみていなかったのである
それは芥川龍之介の羅生門の世界である、人間は生きていても死体でありその死体に身につけている髪の毛でも金属類でも金になる者が価値になる世界となっている、もうグロ−バル経済では人間的なものが省略されし見えないからそうっないるのだ
物がありそれに債権化された金しか価値観がない世界である

それほど金の亡者となり人を人とも見なくなっている社会である
それは何であれ生活をレベルを落としたくないということもある
今までいい生活していたのにそれを落とすことがむずかしいからである
でもそうだからといって他者から金を奪い殺してもいいとまでなることの怖さである
だから情なき経済原理だけの社会が極端化すれば万人が万人の戦いなっているのである

「万人の万人に対する戦い」とは国家や法律のない自然状態を表現した、ホッブズの言葉である。『リヴァイアサン』で語られており、自然状態におかれた人間は、すべての人が各々、自己保存の権利を無制限に追求して自由にふるまう。その結果、相互に敵対的な立場を取り、暴力的な混乱状態が発生してしまう。このホッブズの利己主義的な人間観は、「人間は人間に対して狼」とも表現されている

まさに現代のグロ−バル経済は世界的にそうなっている、そして極端な格差社会になっている、モラルなき社会と化しているのである、まさにこうなると地獄に生きているのである、そして生きる意味とか価値とかは無視されて金だけを追及する
それで何か原発事故でもそうした社会の中で起きた極端なものでありそれが具体的な現象として現れたともなるのである
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2019年01月23日

投資は何の価値があり意味があるのかわからない (金は使ったとき価値がわかる)


投資は何の価値があり意味があるのかわからない

(金は使ったとき価値がわかる)


投資に何の価値があり意味があるのかわからなかった
カナダの国債を買ってなんの意味があるのか?
株を買って何の意味があるのか価値があるのかわからない
現代の資本主義は投資に何か価値とか意味を見いだせない

ただ利益があがることに価値がある

それ意外のことはわからない、そして現代の資本主義では金を使う時その価値が一般人でもわかる  

具体的には

●仙台の「優 創建」でユニットバスを100万で作ってもらった

●小高の大工さんに庭を作ってもらった

●ヤマハのjpy-xrを買ってその乗り心地に感動した  



仙台の優 創建に作ってもらったユニットバスは本当に得だった
まず古いタイル張りの風呂を壊すことから大変な作業だったしその後でも仕事を見ていたら大変だった、浴槽でも高いと見えたし全体で百万では本当に安い
なぜならガス会社では200百万かかるといっていたし地元だと300万以上かかっていた、なぜならその人は何もわからない、あっせんした大工さんは修理を頼んでも直っていなかったからである

次に小高の大工さんは優秀であり庭作りもできたしいろいろその他仕事ができた
だからこれも得したとなる、その後小高と補償金などでももめて頼まなくなった
でもその小高の大工さんは仕事ができる人だったのである

それから感動したのはヤマハのjpy-xrだった、これは今までのアシスト自転車とは違うものだった、走りが違う、バイクのように自動的に走るような快感があった
エンジン部分が進歩したのである、こんなに違うものかと驚き感動した
今までの倍速で軽く走れるからである

このように現代の資本主義はまず投資してもそれが利益があがれば得したとなるだけであり金を使ってみない限り金の価値も意味もわからないのだ
だから銀行があるとして地銀などでどういうふうに金を使っているのか?
どこに投資して地元の会社を育たているのか?
金を集めてその金をどう使っているのか?
地元に何かその金で貢献しているのか?それを見ると金をあづけてその金を運用して地元の経済でも活性化して貢献していると実感する

それは例えれば大金持ちがいたとしてその大金持ちが何に金を使うかをみる
ただ100億とか200億の収入のあった芸能人やプロのスポーツで金儲ける人などがいてもそれは豪邸を建てたとか何か自己満足で浪費して終わってそれで破産しているというのもその人が金を社会のために使いなかったからである
もしその金を有効に使う能力があったなら社会に貢献もできてそんな破産するような状態にならなかったからである

つまり金をどういうふうに使うかでその人がみれる、会社でも見れるとなる
いくら金をもうけてもその使い方が悪ければ知らなけれればそういう人に金をもたせても社会のためにならないとなる
それは銀行に言えるのである、銀行を大金持ちに例えればわかりやすくなるからである
そこには巨万の金が貯えられている、その金は庶民から集めたものなのである
ではその金を何に使うのだろうか?
今は利子などゼロである、貯金した人には利子として還元されないなのである
その金は貯金した人のものである、もし利益をあげないとしてたら預けた人は何のためにあづけているのだろう?
銀行は利益をあげられないのだからただ銀行は貸金庫なのか?
現実に貸金庫をしているからそれだけの用なのかとなる
銀行に金をあづけても利子はつかない、そして投資信託などをすすめられて損するだけだとなる、そうなると銀行は必要ないとまでなる

現代の資本主義はグロ−バルだからまず投資したとしてその金がどう動きどういう価値があり意味があるのかもわからないのだ
もし例え損したとしてもその投資することでそれが価値があり意味があるなら必ずしも損したとはならないからだ、それがグロ−バル経済では全くわからないのである
わからないからこそそこに不正があってもわからない
極一部の数パーセントの人たちに世界の富が金が吸い上げられている
ただ投資しても庶民には金は回ってこないのである
要するにグロ−バル経済では巨大なギャンブル場と同じようになっている
とても庶民がそこでもうけることはむずかしいから一般の人は手を引いているのである

投資信託などは毎月分配型とあってもそうはならない、それはだます手法だったのである何か月ごとに月給のように入ってくると錯覚させるからである
つまり投資というのは株でもそうだが極一部の人しか理解できないものなのである
グロ−バル経済になれば特にそうなる
ただ現代資本主義の価値を理解できるのは金を使う時なのである
株でも投資でも利益あげればその金を使うことでその価値と意味がわかる
その投資がどうしてもうけて価値が意味があるかはわからないのである
銀行ではだからいかがわしいものにも世界で投資している、武器とか何か環境破壊する会社にも投資している、だからやめさせるべきだということもわかる
投資には必ずも価値と意味があるものとは限らないのである
それでも金を使う時は具体的にその価値と意味を見出すのが現代の資本主義なのである

最初はウエバーのように資本主義がキャスト教から修道院から発したときは働くことが神に奉仕することでありまた社会に奉仕するということではじまった
そうして蓄えられた資本を消費する使うということに価値と意味を見出していなかったのである、それが逆になったのである
金を使うことでしかその価値と意味を実感できないのである
だからグロ−バル経済には何か見えないが大きな不正の温床になり世界の数パーセントの人が富をもつ異常なものとなったのである
それはグロ−バル経済は見えない理解できないものだからである
世界を市場化して公正のように見えてもそうではない

だから地銀などというと地元に密着して地元に金を流して投資して地元に貢献するものとして金を使う、投資するという使命で成り立っていると見ていた
地元の企業を育てて地元に貢献するのが地銀の使命であり貯金でも利子がつかなくてもそういう貢献をすれば納得することがある
そういうものが見えないし地銀でも利益をあげられないから投資信託などを売りつけ手数料商売をするようになったのである
すると地銀は社会にとって地元にとっても不要のものだとなる
だから金をあづけても地元のために使うわけでもないとなるからだ
つまり金があっても有効に使えるのか、それは個人でも会社でも銀行でも同じだったのである

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素人は一般人は投資ではカモだったのである
もうからない仕組みになっていてギャンブルと同じ
胴元がもうかるだけだった


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2019年01月22日

投資の失敗の原因 (地銀でも利益を上げられず余裕がなく追いつめられていたから)

投資の失敗の原因

(地銀でも利益を上げられず余裕がなく追いつめられていたから)

なぜ投資が失敗したのか?
これも結果論だがふりかえればまず自分自身が投資の経験もないし知識もなかった
それでなぜ投資したのか?銀行の投資信託の誘いにのったのか?
それは利子がゼロとか銀行を地銀を信用していたことであった

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この人も親しまれていた人だったが地銀もこれとにていたのである

最近テレビで見たのが干し柿の会社に投資した人がいたがその会社は倒産した
この何か干し柿とにていたのが地銀だったのである
何か地元に根付いて一軒一軒回って営業して対面的に信用を築いてきたのが銀行であり特に地銀だったのである
干し柿というとき何か素朴な地域的なものを感じるからである
そういう会社はごまかさないだろうと思うからである
地銀もそれとにていたのである
だから一千万でも投資信託に投資させられたばあちゃんが損しても地銀の人を信用していたのである

ただ時代は常に変わってゆく、その変わり目にきたとき失敗した
地銀は第一苦しい、銀行自体が投資先がないとかAIとかで変革を迫られて大手の銀行は大量にリストラされる時代になっていた
銀行はもともと利子がゼロにゼロ金利になっていた
銀行はもう金を貸してその金でもうけて利益を出してくれ会社がない
だから高度成長時代のように利子がつかなくなった

そして銀行自体が余裕がないし追い詰められていた
なんとか他益を出させねばならないと投資信託をはじめたのである
それは金融庁で最近許可したからである
投資信託は銀行にとってた最高にいい商品なのである
まず契約して売れば絶対に銀行は損しない、株の値上がり値下がりともなんの関係もない確実に手数料が入る銀行にとっては最高にいい商品なのである
でも客にとってはいいものではない、手数料が高いし損することも普通にある
そして投資信託を理解できない複雑な仕組みになっている
月ごとにもうけが分配されるというのも嘘である、実際は元金からひかれていたりする
それも詐欺的なのである

別に株でも投資信託でも銀行で扱ったりそれが悪いこととはならない、なぜなら資本主義社会ではそうなっているからである、もし悪いとすれば資本主義が悪いとなってしまうからである、投資して利益を出すことが資本主義だからである
ただそのやり方が悪かったのである、詐欺的だったのである

「私は金融のプロですからまかせてください、私は東京の株式市場で働いたことがあります」
「銀行は金融のプロだからまかせていいのか、私は忙しいしいちいち株のことを見ていられない、だからまかせるほかない」

それで失敗したのがカナダ国債を買ったのは石油がカナダでとれていたからである
そういうことも知らなかった、最初は分配金が定期的に月ごとに確かに入っていた
でも急激に石油の値段が下がりこれはかなりの損失になった
次にUSーREITはトランプになり円安になり売って得したみたいだ

一番の失敗はリーマンショック以来もっていた株を丁度元にもどって上がっている時
J=REITにその金を回したことである、それから回転売買もしていた
銀行では一か所に置くよりそれを別に買ったり売ったりすると銀行の収入になるからだ
そして営業の人はノルマを課せられているから回転売買とか何か自分が成績を上げることしか考えていない
銀行自体が今や追い詰められている、余裕もないから詐欺的商品でもすすめる
収入先がなくなっているからだ
だからこうして追い詰められているとか余裕のない人間とか会社でもかかわると危険になる

結局これまで書いてきたように自分自身が介護や病気になったとき来た人たちは泥棒とか事業に失敗して借金に追われている人とかそういう余裕もない人だった
地銀もそうなっていたのである
それが自分自身をさらに不幸にしたのである

でもふりかえるとなぜ地銀がそうなったのか?
それは余裕がない、収入源がない、それで投資信託でもうけを出そうとする
でも地銀などには証券の知識は素人並みなのである
ただ株でも証券でも分散投資していればそれなりにリスクは逃れられるのである

国債
リート

とかに分散していれば安全度は高まるのである

それを銀行員が自ら破って自分のノルマの成績をあげるために株があがっているのに今度はJ-REITに回した、それも損していた
ふりかえれば株が元にもどったときそのままにしていればかなり上がった
そして上がった時売っていてJ-REITに回せばそれほどの損失にはならなかった
J-REITも損しているがそれほどでもなかったからだ
そうしたら地銀でも営業の人でも責めることはなかった
ただこれも結果論なのである、自分の自己責任もある

結局自分のところに来た人が悪かったからこうなったのかともなる
いい人が来ればいい結果にもなる、悪い人がくれば悪い結果になる
ただ銀行の場合は人といっても背後に会社の責任もある
だから銀行だからと信用できないとなっていた時代の変化を知らなかったからだともなる何か老人になると時代の変化についていけなくなる、それでだまされたり損することが多くなる

結局投資などしないでもっていた株をそのままにしていれば結構もうけになっていたのである、それも結果論だった
余裕がないとか追い詰められている人は会社でも危険である
手段を選ばなくなくなる、今日食べるものがないという人に出会ったら数万の金欲しさに殺されることもある、そういうふうに追い詰められた人間と出会うことは危険になるのだそれが地銀がそうなっていたことに気づかなかったのである

posted by 老鶯 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年01月09日

クボタの社員が若いヤンキー風の女性を採用する相談 (人手不足になっているからか?)


クボタの社員が若いヤンキー風の女性を採用する相談

(人手不足になっているからか?)

喫茶店でしきりにクボタの中年くらいの社員が若い女性を相手に仕事の説明をしていた
部品でも100くらいからの納入がありその手続きのことをパソコンですることを説明していた、会社ごとに伝票とか違ってくるからめんどうになると言っていた

その女性は髪が長いからヤンキー風である、焼肉屋とかで働いていたと言っていた
だから継続して夜も働きたいとか言っていた

ではなぜこの女性がクボタに応募したのだろうか?

事務をしたいということは言っていた、でも何かクボタとなると大きな会社でありその社員になるにはふさわしく感じなかった
実際に髪が長いとしきりにその説明する社員は言っていた
制服がありそれを着てもらうからだとか注意したのは

「じいちゃんばあちゃんの印象を悪くする」

つまりここでわかることは農業しているのは60以上のじいちゃんとかばあちゃんが多いということである、実際に本当に農業しているのはそうなっている
するとヤンキー風の女性は好まれないから何回もそのことを言っていたのだ
第一そういう人は面接で落とされるはずである

でもなぜ採用しようとして仕事の説明を丁寧にしていたのか?

それはやはり人手不足になっているからではないか?

もう人を選んでいられないとも見た、特に若い人は少ないからである
その女性は事務員には向いていないとも見たからである

休みのことで農繁期があり秋の刈り入れ時期は忙しくなる、修理なども頼まれる
でも冬になると暇になるから休暇を取りやすいとか言っていたのはやはり農業だそういうリズムになるからだ
あとはハワイとか観光旅行にも会社で行うとか言っていた
つまり何かクボタの社員の方がなんとか説得して若い女性に働いてもらいたいという感じなのである
それはやはり人手不足になっているなのか見た
その女性は事務員には向いていないと見たからである、でもパソコンの操作などはできるから採用しようとしたのか?

人手不足はいろいろ深刻になっている、広島の災害地で復興できないのは大工が少なく修理ができないとテレビで放送していた
地元の大工は今や本当に少ない、ただ大東建託のようなのはすぐに外から来て組み立てるだけだから建てることができる
でも修理となると大工でないとできないのである

この辺でなぜ見て南相馬市から青森の老人ホームに移されるのか?
それは青森ではもともと仕事のない所であり女性も仕事がないから介護で働く人が多いからである、仕事がもともとないから介護が仕事になる
福島県では施設があって空き部屋があっても入所を断っているのは介護する人がいないからである

ともかくいたるところで人手不足は深刻になっているから外国人労働者を入れる新しい法律も作ったのである
ただ外国人労働者を入れることは国と国の国際問題になりやっかいなのである
でも人手を会社でどうして確保するのか、誰でもいいというわけではない
でも働く人の質はどこでも介護でも低下してくる
でもニートとかでも今なら働けるのではないか?
それだけ人手不足になると選ぶ方でもその質をどうのこうの言っていられないからである

ともかくどうも焼肉屋で働くのとクボタの事務員となるのはかなり違ったものになるのでは、確かに焼肉屋でも勘定していたし会計していたとか言う
でもクボタの仕事となると高度になるように見えた
百社もの部品の納入とかの事務になると結構大変な作業になると見たからである
ただパソコンでもそうしたことはわかりやすくなっているからとは説明していた
自動化をどこでもしているからである
ただ一千万とかの納入があるとか金の責任が生まれるからそこは注意していた

仕事はこうして何か経験しないとわからないのである、だからこういう仕事をすればこなせば一段上の収入のいい仕事につける、この女性は男性と暮らしている、男性も仕事しているのである、だから焼き肉店で夜も働いているとなると結構収入になるとはなる
ただまたそれだけ働かねばならないともなる

posted by 老鶯 at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年12月28日

外食産業がチェーン店もは時代のニーズに合わなくなった (手作り感や人間味が求められているー時代で変わる商売)


外食産業がチェーン店もは時代のニーズに合わなくなった

(手作り感や人間味が求められているー時代で変わる商売)

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単純に言えば、家族でやってる3ちゃん企業は固定費や人件費がかからんのです。
店員が10人いたら、売り上げがあろうとなかろうと10人分の人件費は払わなくてはなりません。
大企業では本社などのスタッフ部門の給料も売り上げから捻出する必要がありますが、3ちゃん企業はもちろん本社は自宅なので、会社としてもオペレーションコストは不要です。

田舎の小さな店は、地縁血縁の固定客がいますので、細く長い経営が成り立っています。
大型チェーン店は一見の客が多いので、よほど味やサービスが良くないと長続きしません。


食事はめんどうだから外食するのが一人暮らしだといい、でもそれがチェーン店でもファミレスでも何か定量化されて決まりきっていて飽きる
それで毎回カレーでも違ったものを出している小さな店が繁盛しているのもわかる
しかしこうなると出す方も大変になる、決まったものを出している方が楽だからである
手間もかからない、機械的に作ればいいとなる
何かチェーン店は流れ作業のようにして食事を出している感じになる
客も流れ作業のように処理している、相手にするのは個々人ではない
数であり一人一人のニーズには答えられないからそっけないともなる

だからかえってこじんまりとした飲み屋とか食堂でも見直される
要するにそこにはチェーン店にはない魅力がかえってあるとなる
どうしても料理は定番化してくるから飽きる
そして何か変なのは自分は田楽が好きなのだがそういうものは出していない
あと鍋物を出していない、そういうのは自分で手間で作るほかない
どうしても料理を楽しみたっかたら手作りになるのだ

今何かあらゆるものが時代の変わり目に来ている
それは外食産業だけではない、マスを相手にしたもの大衆を相手にした定量化したものに飽きている、同じものを大量に供給することも時代的には合わなくなっている

そもそも情報産業すらそうなっている
みんなテレビの芸能人のばか騒ぎにはうんざりしている
テレビ自体が視聴率をとるために大衆を相手にしてそういう番組作りになったがそれも限界にきている、だからもう若い人は見ないのである
新聞だって見ないのである、キーワードで何でも調べるという時それはその人のそれぞれのニーズから調べているのである

新しい自転車を買ったらその備品を買うのが意外と多かった、ベルを新しくとりつけたとかサドルの痛くならないを買ったとかいろいろあった
それはアマゾンでぴったりしたものがあった、ただベルは一つは千円で買うの失敗した
それは今回買ったもののようにブザーのように音が大きく出なかったからである
それはキーワードを間違えたからそうなったのである
どういうキーワードを入れるかがいい買い物をすることになる
それからその人にあった情報もキーワードから導かれるからキーワード検索はインタ−ネットに向いている
テレビは一方的におしつけるメデアだからである

現代は何でも大組織になり経済が動く政治でも動く、だから大衆をマスを相手にしてきたマスコミ二ケーションだった、宗教さえそうだった
数を集めることが第一でありその人がどんな人かなど全く考えない
要するに一票になりそれで勢力をもって社会に影響するためにある
悟りだとか何か求道などとは関係ない世界である
ただ大衆相手に数を増やすことが第一でありそれで社会に影響力を権力を誇示するだけなのである

何か時代が変わる時がある、その変わり目に来ている
大衆相手マスを相手にするのは終わった、大量規格品の生産も物が豊富なのだから飽きられる、みんな同じだとしたら価値がないのである
そういうマスを大衆相手のものは終わってゆく
だから外食をするにも何かそこに一人一人に気を配ってくれるものを望んでいる
それでかえって小さな飲み屋がつぶれないでやっていけるというのも逆説である
それよりそういう小さなものでも見直されるものがあったとなる 

ファミレスとかチェーン店は高度成長時代とかその後の時代にあったものだった
家族で贅沢する場であり晴れの場を演出するものだった、それあ安価でできたということで全国に普及したのである
それも時代のニーズにあっていたのである
でも今はまたニーズが変わったのである、高齢化社会とかまたシングルが多いとかニーズが変わった、このニーズにあわなければ商売も成り立たないのである
ただそのニーズに合わせるにしても毎日カレーのメニューを変えることは容易ではない
でも時代のニーズに答えないと適応しないと商売もできなくなる
つまり社会も同じままに進行しない、必ず変化があり変化を望むのである

これからの時代は小さなもの、個人個人の好みに合わせるとか何か今までとは違った価値観が生まれる、すでにインタ−ネットなどではそうなっている
それは大衆相手ではないからである
だからマスを相手にしているマスコミとかはもう終焉に向かっている
それぞれの要望がありそれを基に情報も検索して探しているからである

これからの時代は逆に東京一極集中はなくなってゆく
地方に人は分散してローカルなものの中でそれぞれに合った生き方をする
つまり大量生産マスを相手にした社会は終わりになる
それは文化の時代にもなく、大量規格生産では文化ではないからである
ただ自分の場合は料理は手間がかかりすぎるからしたくない
簡単にすませたいのである、それで外食に行くからこんなことを考えるようになったのである

posted by 老鶯 at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年12月08日

職人の仕事が失われてゆく、後継者もはいない (地方を活かす文化が再び求められているのだが・・・)


職人の仕事が失われてゆく、後継者もはいない

(地方を活かす文化が再び求められているのだが・・・)


「福島県地域おこし協力隊」を募集します。

福島県には、国見町のあんぽ柿、会津美里町の会津本郷焼、須賀川市の牡丹、西会津町の会津張り子など、多くの伝統産業が地域に息づいています。
 これらは、地域の風土、気候に根ざし、歴史を紡ぎながら独自の産業として 受け継がれてきた「宝」であり、「地域住民の誇り」です。
  
  
 南北朝時代、時の武将「斯波兼頼」が山形市で地盤を築き、以降職人の町が発展した際には150を超える職人屋敷がありました。
現在、伝統を受け継いだ職人さんは急激に減り、桶樽や竹細工など残念ながら埋没してしまった技術もあります。和傘や漆器、鋸や特技木工は特に事業の承継が急務な状態です。



職人の仕事がなぜあったのか?
そもそも戦前から江戸時代は地元密着の経済だったからである
地元にあるもので生産して消費する傾向があった、外部から入るのではなく外部に頼るのものでもない、自給自足が原則だった
それはそもそも農業に従事する人が8割だったというとき当然そうなっていた
その土地に根ざした生活が基本になるからである


このテレビ放送は面白かった、室町時代にこの土地で飢饉があったがこの芋だけはとれて助かったとその家に伝えられているのも古い歴史がある、室町時代となると残っているものが東北では少ない、それが農家に伝わっていたということで興味をもった
そんな言い伝えが山の一軒の家に残っていることの驚きである
飢饉は崔さんあり山の人たちが買えって山に食料があり助かったとかも伝えられている
また米だけを作っていることで飢饉になり苦しんだとかある、土地にはそもそも米だけではない多様な食料を作っていたからである、米は伊達藩では江戸に売る商品作物化して飢饉になり食べるもものがなくなって死んだとも伝えられるからである
これは現代ではグローバル経済でコーヒーだけを作っていた所でもそうしていろいろものを食料として作らないからコーヒーが売れないとそうなっていたのである

何か私はこうしてその土地に根ざしたものがあるとき関心をもつ、そこに歴史があり土地に密着したものがありそれが人間の本来の生活だったともみるからである
だからそこにこうして物語がある、会津でも木地師の物語が伝説が残っているのはそのためである

そもそも職人とは今のように特殊な人たち、芸術家のようなものではない、ただ日々の生活に必要なものを手作りで作っていた人たちである
それを民芸としたのは近代になってからである、竹細工とかあれば竹で籠などを作っていた、そういう人が近くにいた、籠屋とかいたのを知っている
竹を削り竹を編んで籠を作っていたのである、漆屋も近くにいた
そこでは何度も何度も塗りをしていたのを見ているから一個の製品を作るのが手間なのである、それは職人はみんなそうである、石屋とかもあり近くで石を一つ一つ鉄の道具でたたき削っていたのである、墓一つ作るのに手間だったのである、手作業だからである
それがなんでも機械化した、墓の戒名でもなんでも人の手で彫るのではない機械でしているから楽なのである

だから団塊の世代は戦後生まれであり戦後十年は江戸時代の継続だったからある程度江戸時代をイメージできるのである、高度成長時代になったとき急速に変化したのである
だから職人の世界というのをこの世代は親が職人だったりするからまだ理解できる
私の父親が酒屋の丁稚だったということでその丁稚のことで時代劇を見た
暖簾分けして一人前になる物語でありそれが何か身近に感じたのもそのためである
第一自分の家がその暖簾分けした家だったからである
すると江戸時代からの継続があり江戸時代に興味をもつのである

確かに職人の世界は喪失した、陶芸以外は厳しい、陶芸はまだまだ需要がある
そしてお土産品にはいいのである、その土地独特のものとして室町時代からでも継続しているのがあるからだ、相馬焼は大堀焼は古いから他に技術が伝播された
職人の手仕事の世界には今の物とは道具と製品は人間味があり人間臭いのである
そこにだから物語が生まれ伝えられる
今の大量生産の製品にはそうした人間味がない、人間が作ったというより機械でロボットで大量生産した画一化されたものとしてある
それぞれに個性とか土地の匂いとか文化はないのである
どこでも文化が喪失したのである、なぜなら文化とはもともとcultivate-cultureから来ているからだ
その土地を耕すということが文化なのである、甚五右ヱ門芋とかがまさに文化なのであるその土地の名のついた練馬大根とかもあり他にもある
それが特産品となりその土地のものとして伝えられてきたのである
だから江戸時代の方が食べるものでもその土地のものからとれたものが出されたから味わい深いとなる、郷土料理は別に特別なものではない、その土地でとれたもので工夫して作られていたのである

ともかく今盛んに文化の時代になるというとき大量画一生産からその土地のものを作り出すべきだというときそれは戦前まではあった、それが失われたとき一体その土地独特のものを作り出すことは容易ではなくなる、また同じようなものを作っても伝統が活きるとはならない、伝統でも新しいものが加わらないと商品化しにくいのである
地域おこしのむずかしさはやはりそうした伝統が消失してきたときそれでは新しものを簡単には作れないのである

ただあくまでも日用品として生活の中で日々使われることで道具でも物でも活きる
芸術品のように鑑賞品となるだけでは活きてこないのである
そこがまさに現代の民芸の問題である、それは日用品として使うものではない、特殊ものとして見られるからである
つまり今は職人の仕事は芸術家のような仕事に見られているのである
でも現実には手間がかかり高価になったりして何か実用品より芸術品のように見られているのである、それでここも跡継ぎがいないというとき金にならないといことでそうなる

それでも現代は大量生産の品物とか道具に飽きている、だから茶の湯のようにお椀とかその作法とかにこるようになり芸術化する
実用と機能性重視からお椀を手に取りそのお椀をしげしげとながめくろいだ時間を過ごすようになる、茶碗でもコーヒーカップでも色の違ったものとか変えて気分転換するとかなる、そういう時代にもなっている
ただあくまで日常的に日用品として使うことで道具でも物でも活きてくる
その基本は変わらないからそこで新しいものを作る必要が生まれる
会津漆器のお椀でもレンジで使用できるものを作っていたとかなる

ともかく何か土地の物語が文化が失われたのが現代でありそれを回復しようとするが現実はその基本としての生活に使用されないから回復するのがむずかしいし後継者も育たないのである
職人に弟子入りして苦労するというのも何か現代では向いていないのである
だから職人芸というものも工場での製品作りにあったがそれもコンピュターに伝承させるとかなっているのである
それでもデザインとかは本当に抽象画をパソコンのソフトで作ってみて多様だからそういう装飾性をくわえることは新しい技術で変えることができる
そもそもartは技術き意味だったからである

posted by 老鶯 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年10月29日

高齢化社会の価値観 (高度成長時代の価値観は終わる―節約の時代に)

高齢化社会の価値観

(高度成長時代の価値観は終わる―節約の時代に)

●デフレは解消しない

飲食店以外でも、ファミリーマートやナチュラルローソンなどコンビニのイートインは、お昼は満席です。

東京の場合は、東京駅(八重洲側)も含め、新宿・渋谷・池袋など大きな駅の周辺は、デフレ系のお店であふれています。お昼の時間帯は、マックや松屋、富士そばなどは満員。行列ができていることもしばしばです


金を使わないのではなくそもそもないのだから使いようがないのである
それだけ日本が貧困化している、低所得者が増えたのである
消費を減らすほかないのである
消費税が10パーセントになったらますます消費は冷え込む
そして消費が増えないのは老人も数パーセントの人だけが余裕があるが後はない
もう破産状態の人がいる、年金も少ないから食べてゆくのがぎりぎりだとかなっている
そして頼る人もいないのである、娘息子でもこのように苦しいからである
老人はまた物が欲しくないとかなり金ある人も消費しないとなるがそれは極わずかでありあとはぎりぎりなのである

これからの時代はだからミニマム生活とか縮小化社会にあった思想とか哲学とかが必要になる、消費者は王様だとか終わりである

●節約の時代にもどる

貧困化する社会にどう対処するのか

●新しい物をなるべく買わない
●今あるものを大事に使う
●金だけではない協力(シェア)しあう経済 

貧乏には貧乏なりの生活を工夫するとなる、そうしなければ生活できなくなる
ただ人間は一旦豊かな生活を覚えるとそのレベルを落とせなくなる
かえってそのことが辛くなる、だから金持ちでも零落すると悲惨なのである
もし貧乏だったらもともと貧乏だからそういうことはない
そういう生活でも満足する他ないとして生活していた
戦前とか江戸時代はみんなそうだったのである
ご飯と味噌汁とか梅干しとか漬物くらいで生活していた
紡績工場で糸取りして働いていた母の昼食がそうだった、それで長時間労働だった
本当に栄養失調になるようて食事で良くそれだけ働けたなと不思議に思う
江戸時代でもオカズがないからご飯を一杯食べていた
ご飯がエネルギー源だったのである、土方弁当などでもそういうことがあった

今は食べ物でも低所得者でもその頃と比べると豊かなのである
だから贅沢になれすぎてそうなったのである
そういう生活を貧乏になると見直すことが強いられる
つまり過去の生活を知って今の生活を見直すという歴史を知ることが必要なのである
便利な時は江戸時代だったらあらゆるものを大事にしたリサイクル社会である
糞尿でも肥料するするとか紙一枚でも無駄にしない、油一滴でも無駄にしない  

ロウソクに火をつけたときに垂れた蝋(ロウ)を捨てるのはもったいないということで、使い終わったロウを集めて、固め直し、再利用し、ロウソクとして販売するという「蝋燭の流れ買い」という仕事が江戸時代にはおこなわれていました。

それだけ物は貴重だったのである

●生活態度を変える

これからは必然的にこうして生活態度を改めないともう生活できなくなっている
それは何か高齢化社会に適合しているのも不思議である
老人になるといろいろ消費できなくなる、新しい機械を買っても利用できないとかなる
それで老人は金を使わないから経済が停滞するというのもわかる
でも新しいものを次々に買うという経済が貧乏化すると成り立たなくなるのだ
次々に新しいものを買う金がない、そうなると今まであるものや物でもすぐに捨てるのではなく長く大事に修理しても使うとなる
そういう生活の態度を変えることが必要になる
それは社会にとって悪いことではない、あまりにも物を粗末にしてきたし消費が浪費になっていたのである
高度成長時代は日本にとっては特別な時代であり異常な時代でもありそれがつづけることは無理だったのである
だから貧困化は正常化にもなる、そうでなくて経済成長しなければ貧乏は解決しないとういのもわかる、でもそれができないとしたらどうするのか?
生活する態度を変えないかぎりもう生活できないとなっているのだ

何かいい方法があればまた別である、株とか投資信託でももうけられる人は極一握りてことがわかった、それよりもう普通の人は大多数は節約するほかなくなる
それしか方法がないからこそ昼食500円以下とかもうそれ以下の300円とかでデフレが改善できないのである
そうしてければ増えた低所得層は生活できないのである
消費を増やせとか言ってもできない、そもそも収入が増えない、減ってもいるとなるとそうするほかないからだ

いい面だと貧乏な人でも米をくれとか隣の人が来たりして助け合うとういことが生まれ来るかもしれない、互いに協力しあうとういことができてくるかもしれない
それは貧乏な時代にはかえってあったし江戸時代で長屋とかではそうだった
互いに都合しあうということが生まれてくるかもしれない、シェア経済とかはそういう時代にあったものいかもしれない、何でも金を使う消費するという経済が続けられなくなってくるからだ、収入が増えてくれば節約する他ないからだ
ただそうはいってもその切り替えがむずかしい、生活のレベルを下げることはむずかしいそこには見栄もあるからしにくいけど切羽詰まったら見栄とかも言っていられなくなる
ただただただ頭を下げて金を要求できる人間とかは生きていけるともなる
そういう人を知っているからそういう人は人に何度も頭を下げて頼むことができるからだでも金持ちの家に生まれたような人はできない、自分もできない
そこで金もないのに依然として見栄をはるがそれも成り立たなくなる

そして怖いのはそうした高いレベルのままの生活をしたいがために借金をしてまでそうしたり見栄のためにそうする人が怖い
そうして借金を要求された経験があるからだ
その人は自分が成功したと見せたいから借金してまで贅沢をしていたのである、そういうことが回りに影響する
みんな余りにも立派な家が欲しいいい車が欲しい、もっともっと贅沢したいとなり原発が誘致されたのもそうである
その欲望には歯止めがないからである
そんな人のために私は恐怖に陥れられた
金のためにそうして脅迫され殺されるようなことにもなる
例えばギャンブルで遊びたい金が欲しいとして襲われたりするのと同じである、それは日々食べるものがないとかではない
ただ遊びたいとか自分は成功者だと見せたいとかのためにそうしている、そのために他者が犠牲になるのが怖いのである

●江戸時代に学ぶ

確かにこうなるとますます物は売れなくなり不景気になるということもある
でも収入が増えないのだからそんなことを庶民は言っていられないのだ
消費税10パーセントになったら余計にそうなる
それに対抗するには節約しかなくなるのである、それからいい方向に行くとしたら
グローバル経済が崩壊してゆく、その兆候は世界で現れている
自国が大事であり他国に頼る経済は衰退する、自国でまず食料でもなんでも例えば木材でも日本では豊富なのだから外国から買うより自国でまかなうとなる

自国の産物を資源を極力活かす江戸時代のような生活にもどるとなる
同じではないにしてもそうした生活をしないかぎりもう日本はそもそも生活できないとなる、それは理屈ではなくそういうふうに強いられているのである
第一アメリカでも日本車に関税をかけてくれば車も売れなくなる
そうなると外国の外材でも買えなくなったりする、他にも外国の資源でも買えない
石油でもそんなに買えなくなる、石油でも高くなるからである
アメリカで車の関税を高くすれば車を売ってドルを得ることもできなくなるからである
石油はドルの決済になっているからである

何か高齢化社会は悪い面ばかり言われるが老人の特徴は消費しないことである
あまりものはいらなくなる、消費できなくなる、そして何かいろいろなものがいらなくなる、節約生活が向いているのである
老人にとって必要なのは物の豊かさではなく精神の豊かさが大事になる
過去に経験したものが宝となり新たに経験することがしにくくなる
だから過去を回想したりすることが得意であり新たに経験することが苦手になる
それは高齢化社会に精神的な状態となるときこれからの貧乏社会には向いているともなるただそうなると日本の活力は停滞するともなり世界に遅れをとるというのもわかる

反面そうしたことがすべて悪く働くとはならないかもしれない
高度成長時代の価値観は普通てはなかったのである、特殊でありそういう社会はもうこない、むしろ江戸時代のような節約型の社会が人間にとって正常な社会だとなる
だからそこでかえって社会が正常化してゆくということもある
だから高齢化社会は悪い面だけが強調されるが反面そうした社会風潮は社会を落ち着いたものにしたりモラル的にも今までの消費一辺倒の無駄な浪費社会を是正することになる
それはモラル的にも相当に影響してくる、それが全部悪いとはならないのである

そしていくらでも今は物が入ってくる、外国からでも入ってくる
それが高度成長前の貧乏とは違う、バナナすら売っていない時代があった
バナナはここで売っていず家族が病気になった時仙台から買ってきたのである
つまりバナナせ贅沢品だったのである、今は果物でもバナナは一番安いのである
果物ではバナナとかリンゴでもこの辺でも梨は安い、すると安いもので間に合わせようとなる、貧乏になればそうなるのである

●高齢化社会の価値観が社会の価値観になる

これからは必然的にこうして生活態度を改めないともう生活できなくなっている
それは何か高齢化社会に適合しているのも不思議である
老人になるといろいろ消費できなくなる、新しい機械を買っても利用できないとかなる
それで老人は金を使わないから経済が停滞するというのもわかる
でも新しいものを次々に買うという経済が貧乏化すると成り立たなくなるのだ
次々に新しいものを買う金がない、そうなると今まであるものや物でもすぐに捨てるのではなく長く大事に修理しても使うとなる
そういう生活の態度を変えることが必要になる
それは社会にとって悪いことではない、あまりにも物を粗末にしてきたし消費が浪費になっていたのである
高度成長時代は日本にとっては特別な時代であり異常な時代でもありそれがつづけることは無理だったのである
だから貧困化は正常化にもなる、そうでなくて経済成長しなければ貧乏は解決しないとういのもわかる、でもそれができないとしたらどうするのか?
生活する態度を変えないかぎりもう生活できないとなっているのだ

何かいい方法があればまた別である、株とか投資信託でももうけられる人は極一握りてことがわかった、それよりもう普通の人は大多数は節約するほかなくなる
それしか方法がないからこそ昼食500円以下とかもうそれ以下の300円とかでデフレが改善できないのである
そうしなければ増えた低所得層は生活できないのである
消費を増やせとか言ってもできない、そもそも収入が増えない、減ってもいるとなると
そうするほかないからだ

確かにこうなるとますます物は売れなくなり不景気になるということもある
でも収入が増えないのだからそんなことを庶民は言っていられないのだ
消費税10パーセントになったら余計にそうなる
それに対抗するには節約しかなくなるのである、それからいい方向に行くとしたら
グローバル経済が崩壊してゆく、その兆候は世界で現れている
自国が大事であり他国に頼る経済は衰退する、自国でまず食料でもなんでも例えば木材でも日本では豊富なのだから外国から買うより自国でまかなうとなる
自国の産物を資源を極力活かす江戸時代のような生活にもどるとなる
同じではないにしてもそうした生活をしないかぎりもう日本はそもそも生活できないとなる、それは理屈ではなくそういうふうに強いられているのである

第一アメリカでも日本車に関税をかけてくれば車も売れなくなる
そうなると外国の外材でも買えなくなったりする、他にも外国の資源でも買えない
石油でもそんなに買えなくなる、石油でも高くなるからである
アメリカで車の関税を高くすれば車を売ってドルを得ることもできなくなるからである
石油はドルの決済になっているからである

●高齢化社会は金で計れない精神的価値を求める時代

何か高齢化社会は悪い面ばかり言われるが老人の特徴は消費しないことである
あまりものはいらなくなる、消費できなくなる、そして何かいろいろなものがいらなくなる、節約生活が向いているのである
老人にとって必要なのは物の豊かさではなく精神の豊かさが大事になる
過去に経験したものが宝となり新たに経験することがしにくくなる
だから過去を回想したりすることが得意であり新たに経験することが苦手になる
それは高齢化社会に精神的な状態となるときこれからの貧乏社会には向いているともなるただそうなると日本の活力は停滞するともなり世界に遅れをとるというのもわかる
反面そうしたことがすべて悪く働くとはならないかもしれない
高度成長時代の価値観は普通てはなかったのである、特殊でありそういう社会はもうこない、むしろ江戸時代のような節約型の社会が人間にとって正常な社会だとなる
だからそこでかえって社会が正常化してゆくということもある
だから高齢化社会は悪い面だけが強調されるが反面そうした社会風潮は社会を落ち着いたものにしたりモラル的にも今までの消費一辺倒の無駄な浪費社会を是正することになる
それはモラル的にも相当に影響してくる、それが全部悪いとはならないのである

これまでは欲は物に集中していた、家電が欲しい、車が欲しい、マイホームが欲しいとかなっていた
でもこれからはそうした物ではない、金では計れない価値が価値を帯びてくる、老人の価値観は変わる
金が必ずしもそんなに価値があるとはならない
何か精神的なものが価値を帯びてくる、老人が過去を回想するというとき過去に経験したことが価値となる
それは物ではないのだ、老人はみんな何かしら過去を語り語り部となり哲学的にも庶民でもなるのである
そしてもともと精神的な価値は見えにくく金になりにくいものだった、そもそも宗教とか哲学とかは心の豊かさは金では計れないものだったからである
その計れないものに価値がでてくる、それはその人の経験とかから生まれてくる価値である

だから農業している女性は冬は土も眠り栄養を貯えるとか何も肥料もやらなくてもいいとか言うのもそうである
冬はふゆ(ふえる)だったのである、その言葉は農民の経験から生まれたものだったのである
農業をしないものはそのことを実感としてわかりにくいからだ
つまりその女性は農業のことを知っているということで価値がある、ただそれで金を要求されるのは問題にしても経験でそういうことを知っているということは価値になる
だから価値にはいろいろある、金だけで計れる価値も基本的にあるとしてもこれからはそれだけではない、金で計れない価値が価値になる、それは高齢化社会ではそうなりやすいのだ
老人が求めるのもは物とかの物欲ではなく精神的なものを求めるからである
時代的にも高度成長時代は終わり精神的なものを求める
宗教とか哲学とか芸術とか何か精神的なものもを求める時代になる、宗教も実際はカルトであり物欲御利益宗教だったがそれも変わる、本来の内面的精神的価値を求める時代になる

江戸時代は停滞した時代のようでも何かを貯えていた
冬にかえって栄養を維持している土のように貯え増やすものがあった、そうでなければとても明治維新などできない
歴史は連続しているから江戸時代に蓄えたものが明治に華開いたともなる、江戸時代に日本の基礎が作られていたからこそ明治維新ができたともなるのである
これからの時代は春とか夏ではなく秋とか冬がふさわしい時代となる、それもまた実りの季節であり蓄える季節となる
そういう時代の循環があるともなる、だから一概にすべてが悪い方向にいくとはかぎらないのである
ただなんらか今までの生活や態度や考え方、価値観とか思想を変えなければならない、高度成長の価値観の延長では成り立たない
銀行だってもう金余りで投資する先がないとなって資本主義の危機だともされる
時代的に資本主義でも変革を強いられているのである






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2018年10月14日

過剰化社会から縮小社会やミニマム生活へ変わる (無駄な消費が多すぎた社会)

  
過剰化社会から縮小社会やミニマム生活へ変わる

(無駄な消費が多すぎた社会)


●過剰消費社会

●過剰医療社会
                
●過剰教育社会

●過剰情報化社会


縮小社会というのは悪いことばかりではない、それは現代資本主義が限界にきて生まれてくる正常化の方向転換なのかもしれない、あらゆる物が増えすぎて、買うものが増えすぎた、いらないものまで買わされる、過剰化に悩んでいるのが現代人でもある
最近ミニマム生活とか捨てることが推奨されるのも無駄なものを買いすぎる、ためこむからそうなる、古いものは修理ししてまた使うとかはない、常に新しいものを買うことになるから物も増える、それでリサイクルとかシェア経済が言われるようになる
何か欲望資本主義には常に物を買わせる仕組みがある
宣伝されればそれが欲しくなるとかなりいらないものでも買うとなる
ジュース類などでも多すぎる、ジュース類は実際は栄養分はほとんどなくかえって人工甘味料とかが必ず入っていて体に良くないのである

かえって運動したあと飲んでも疲れるというのもそうである
本当の栄養分はほとんど入っていないのである、甘いだけでかえって疲れるとなる
それで老子の言う無味を味わう、水が一番いいとなる皮肉があるのだ
人間の栄養を考える時基本的なものはいいものをとる、でもその他に現代は無駄なものをとりすぎるのである、それがかえって体に悪影響しているから太るとなる
やせ形タイプの自分でもなかなかやせられない、太るのはそれだけ栄養を知らずにとっているからである、そういう環境にあるからそうなる
過剰消費社会は会社の利益をまた過剰に追求するためになった、江戸時代のような村社会ではそういうことはありえないからだ

大企業とか会社とかは社会に害悪を及ぼすものとしてもある
まず利益をあげる売るということを第一にする、本当の需要がないのに需要を無理に作り出す、宣伝で作りだすのである
いらないものまで売りつける、それは銀行でも同じである、,投資信託など売りつけるようになる、それは銀行だけが確実にもうかるものだからそうなる
そういうことは保険とかでもいろいろ現代社会にある
そして皮肉なことにその人が本当に困ったことで必要なものは手に入らないということがあるのだ、消費というのは消すということであり無駄なことが多いことは確かなのであるそして現代社会はあらゆることで消費社会になる
病気でも本当に病気はあるし治療も必要である

でも過剰治療が問題になる

「病でつながる社会」(「病縁"化社会」
と必ずしも同義ではない)とそれから生み出された病にしか安住できない人々
について論じている。その

その弱者をいたわる「看護人」だらけ
の「世界が巨大な病院になる」とゲーテの言葉を引用して述べている。そして,
敢えて,「公認された『病人』的な位置がとても心地よいために『弱者』をやめ
られなくなってしまう人たちが現実に出ている。(中略)『弱者』帝国主義とで
も呼ぶべき困った状況が出現する」(前掲書:136)と忠告を発している。その
結果,先述したように病で他人や社会としかつながれないで,病にしかアイデ
ンティティを見いだせない病人をつくり出していると批判している。

過剰治療が日本では保険制度もあって作り出される、生活保護者は無料になるから医療費が無駄になるから医者でも病院でも過剰医療になる
その負担がまた国民に税金としてのしかかるのである
そして国がつぶれるとまでなる、過剰医療のために延命治療とかでもそうだが莫大な金が使われる、もちろんなかなか延命治療が悪いとはならないことは自分自身の家族の介護で経験しているからむずかしい問題である
ただ二年半で死んだから長いとは言えなかった、病院には半年いて死んだ
だからいちがいに悪いとはならないが一般的問題としては過剰医療が多いのである
検査でもそうである、やたらと検査する、無駄な検査が多いのである

認知症になりMRIをとったがそれなど何もわからない、わからないというよりその機械はそもそも脳の精密な写真が撮れないものだったのである
福島県にとれる病院は二つしかない、その機械は極端に高価なものだからである
それでも認知症は写真撮ったからわかるものでもない直らないのである
そうして3万とられたが一割負担とかするともしかしたら写真とるだけで30万かかったかもしれない、知っている人は東京まで行って写真をとり20万かかったといっていたからだ、脳の写真となるとそれだけ高いものになる
でもそんな写真をとることもないのに30万かかったとしたらその負担は国民にはねかえってくるのだが医者とか病院は利益をあげればいいとしかなっていないのである
そういう医療でも多すぎるのである

老人だと町の医院とか病院が社交の場とかもいわれる、病気のことで連帯感を持つということにもなる社会である
またそれしかつながりをもてない社会だというのも不健康な社会だとなる
その他では普通の社会では激烈な競争社会だがそういう場では社会は病人として扱い親切になるからいいともなる
医者が話相手にもなってくれるとかなる、孤立した老人にはいいともなる
ともかく病気だとか障害者でもなると国から援助されるようになるからいいとなる
逆に弱者をよそおい脅迫するまでにもなる社会である

一旦弱者と認定されると権利になる、この辺の原発事故でもそうである
原発事故避難者などは特にそうである、もう永遠に補償しろとまでなっている
もう何も自助努力もしなくなる、そうした特権を得ることになる
そういう人を批判することはタブーになる、お前はかわいそうな弱者を批判するのかとなりタブーになる、現実は毎日原発避難者はパチンコとかギャンブルで遊んでたいのであるいづれれにしろ何かうまくいかなければ原発事故のせいだとなる
それがまた通るから余計にそうなり自助努力はしないしもうあきらめて他で住むとなった沖縄とか韓国だと必ず日本の戦争のためにこうなったといって賠償金を要求してくるのと同じである、そして個々人の弱者は助けたりしない、それで自分は途端の苦しみであってもただ責められるだけだったのである
お前はなぜ原発避難者をかわいそうな避難者を責めるのだと批判されこたけど自分自身が苦しんでいたけど誰も助けないただ責められるだけだからそうなったともなる

過剰という時いろいろな過剰がある、教育というのも過剰がある、膨大な知識が過剰に幼い時からでもおしつけられる、そうなるとやはり消化不良になり自主的学習動機が失われる、受験とかでもそうである、そしてそういう受験戦争にかちぬいた人たちが指導者になって問題が起きるというのもわかる
あまりにも知の面を重視してそうなった
過剰というとき今は情報社会であり情報でもそうである、これはいい面と悪い面がある
あまりにも多い情報は消化しきれなくなる
何が重要なのか重要でいなのかニュースでもわからなくなるのである
ただマスコミだけの情報の一方通行は悪いものだった
情報が多いということは多角的に検討できるということである 

だから最近はアマゾンでいくらでも古本でも安く買えるからまた本が増大したのである
こういうことが早い時期にできたら田舎では知識で劣ることはなかった
本を買うこと自体仙台まで行かねばならないしそもそも仙台でも売ってない本が多すぎたのである、それだけ今になると本というのは多いものだと思った
だから読むべき本も読まないで終わったとなったのである
だから情報が多いということは悪いことではない、多角的に物事を見れるからである
ただそれも限度がある、もうとても処理できない情報の氾濫になってしまったからだ
ただこういうことが若い時からあれば相当に有利だったのである

例えば動画があるが動画をビデオにとるとその情報量が写真の百倍にもなる
膨大な情報量になる、それがテレビとかで編集するが実は百倍のテレビに写さないものが残されている、それも情報なのだがはぶかれる、つまり人間が摂取する情報には限りがある、百倍あるとしたら8時間でも見ていなければなくなるからだ
だから最近動画をとって出そうとしたがあきらめた、その作業も手間だからである
写真だったら一場面でいいからだ、いいものを印象になった一場面を出すからだ
ただその写真でデジタルになると実は百枚とって一枚選ぶとなる
情報でモ選別作業が必要になる、その選別作業でもむずかいしのである
情報を処理しきれないというのが現代にもなる、その膨大な情報の中で重要な貴重な情報が見逃されることもある、これも問題だと思った

だから過剰化社会になると無駄なゴミ情報に追われるということもある
これはテレビ六局時代にあった、それは情報の独占時代だったからである
でもこれだけ情報が増えると膨大な情報のゴミが生まれても整理できない
それがゴミなのかどうかも判定できないから簡単には言えない
でも検索でも膨大な情報の前にゴミの中から宝石を探すような状態になる
ただ膨大なゴミをかきわけるとかになる、情報の過剰化社会だとそうなる
でもそれをゴミとか簡単には判定できない、でも肝心の宝石となる情報も埋もれるということはありうる、それは大衆化したということでもある
インタ−ネットでも少数の時代があり今ではスマホでも参加して大衆化したのである
大衆化するとどうしても何でも低俗化する
低俗な情報がインタ−ネットをしめる、それで視聴率でもとる
それはテレビと同じだとなる、でもyoutubeでも百万は見ていないからいかにテレビがみんなが見ることで力をもったかわかるのである

とにかく縮小化社会とかミニマム社会とは過剰化社会からの変換として必然的にそうなってゆくのかもしれない、何かあまりにも過剰化してそれが税の負担の増大になる
もうそれに耐えられない、国自体がつぶれるとまでなる
それは過剰な医療とか過剰な無駄は許されなくなる、そんな余裕はもうないのである
だから縮小化社会とかミニマム生活とかが言われるのはそうした反動があり必然的に生まれたともなるのだ
なんでも増大すればいいという社会は終わりを告げたとなるからだ  

大量生産・消費時代の「足りない、欲しい」の意識を捨てることで、

余計なものを削ぎ落とし、コンパクトに生きるミニマムライフが大切です

こんなことが盛んに言われる時代になったのである











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2018年10月13日

縮小社会であらゆるものがへる (大学でも銀行も病院も倒産が増える)


縮小社会であらゆるものがへる

(大学でも銀行も病院も倒産が増える)

銀行倒産
大学倒産
病院倒産
宗教団体倒産
肥大化した自治体倒産
新聞テレビもいらない

・・・・・・・・


会社はAIを操作する人と他は少数精鋭で一人握りで経営、社員や行員は極力減らす
教師は特に優秀な人にしぼりあとは減らす、通信で全国放送とかパソコンのソフトとかで学び人間から学ぶことははぶく

教師は減らす
銀行員はいらない
病院も優秀な医者がAIを操作してあとは減らす
宗教団体の数はへらす、あくどい宗教商売だから
そこで幹部は収入減でやめる
それも商売だったからだ

要するに人間社会は特に現代はいらないものを増やしすぎたのである
それは高度成長時代だから人口も増えて何でも増えることがいいという時代だった
物でもどんどん増やさないといけない、また人口が多いから売れたのである
大学だってすでに団塊の世代から私立大学などはマンモス大学になり二三流となるともう何が大学かわからなくなっていた、ただ大学という名前だけになっていたのである
三千人に講堂で講義するとかなるとつまらないからみんなゲバ棒をもって学生運動が面白いとかなった、そこで青春のエネルギーを発散させるとかなっていたのである
つまりこの時から大学生はエリートという感覚がなくなっていたのである

とにかく何でも右肩上がりに増大した時代は終わった
次に来るのは縮小社会なのである
これからせ病院も倒産してくる、すでに倒産が増えている
患者が減ってくる、高齢化でもまもなくその高齢者自体が死んで減ってゆく
すると病院も医者もそんなにいらなくなる
医者とか病院がへってもそれは社会にとって悪いとはならない
みんな健康で年をとり介護されないで死ぬようになると社会的コストも少なくてすむ
医療費で国が潰れるようなことはなくなる

あらゆるものが減ってゆく時代である
空き家が800万軒も全国にある、いたるところに空き家は増える
そのことは自治体の人口がへり縮小してゆくことなのである
つまり少子高齢化とかこれからは深刻な縮小社会になる

逆に今までは大学生でも大量生産でありどこが大学生なのかわからない、ただ名前だけが大学とついているだけになった
銀行も金を集めるのはいいが投資先がないからもうけられない
それで投資信託をうりつける、それで信用を失うということもある
つまり銀行もいらなくなったのである
金余りであり金の使い先投資先がないのだ
だから銀行自体が無駄であり社会に何の役割があるのかとなりいらないとなる
縮小社会になるからそうなるのである

なんでも縮小しないともう経済的にもやっていけない、限界になったからである
無駄なことにエネルギーを費やしていられない時代になる
必要なものだけに投資してなんとかやってゆく、江戸時代のようなリサイクル社会にもなる、そういう変化の時代である
これからの時代は高度成長とかの時代とは違う、減らす時代なのである
それは老子の言うような増やすのではない、減らす時代なのである
それはまた無駄なものが多すぎたということもある
かえって減らす結果社会はすっきりして住み安くなるメリットある
もちろんデメリットも大きいから社会の変革時には苦しむ人が増える
ただそれを乗り越えるとかえって住みやすい社会になっているかもしれないのだ  

インタ−ネットで新聞とか雑誌とか出版社でもテレビもいらなくなるしもうなっている
こうしたものはメデアだったのである、ただ仲介するものでありそれで利益を得ていたのである、医療分野でも専門雑誌がありそこで仲介して出版社がもうけていたがそれを直接インタ−ネットで閲覧させる仕組みを作ってそこに金を払わないようにしたとかある
そういう仲介業者はインタ−ネットになるとはぶかれる
時代の変わり目には失業する人が増大する
ただ新しい職業も生まれる、それを模索中なのである

ともかくなんでも減らす時代になる、縮小する時代になる
ダウンサイジングする時代になる、こういう時代は今までの成長時代とは違った人生哲学思想が必要になる、リサイクルとかシェア経済とかである
貨幣でも今までの違ったものとして現れる、金に対する感覚も変わるしそれより価値観が変わる、物が豊かになると物意外が価値が生まれる
それは今まで金では買えないものだったがそうした金では計れない価値が価値を帯びてくる、それはAIで加速する、固定化しない流動的な社会になる
そういう中で活路を見出す人が生き残るとなる
その過渡期だからいろいろなことが試されるとなる

これまでは大量生産の時代であり量の時代であった、これから質の時代になる
つまり良質なもの人でも優秀な選ばれた人が必要になりその選ばれた人がAIにもなる
なぜなら人間社会はもともとどこでも優秀な人を求めているからである
そればどこの分野でもそうである、その優秀な人はわずかでありだからこそAIを作りその優秀な人の代わりにさせるとなるのである
要するに社会は少数の優秀な人がいればまわる、その他は無能なのはいらない、それはコストになるだけだとなる、その未来はまた悪夢にもなる
なぜなら無能であれなんであれ人間はこの世に生まれたら生きていかねばならないからだ多数の無能であれなんであれ無視してはありえてないのである
ただ社会自体少数で機能し運営されるようになる
縮小社会ではそうならざるを得ないからだ、そうしなければ人口が減るのだから労働力も減るのだからそれを補うためにはAIであれロボットであれ必要になる

ただ誰も未来のことはわからない、それが悪夢にもなる、いくら科学技術が発達しても人間に楽園は来ない、原発事故を見ればわかる、何かで矛盾が生まれ必ずアクシデントがあり破綻するのが人間社会の運命なのである
ただ別に縮小社会にもメリットとデメリットがあり全部悪いものではないのである
かえって広々として狭い日本も住みやすくなったとかなるかもしれない、日本はそもそも狭いところに人が集まりすぎているからだ
家でも広い部屋に寝ている安眠できる,八畳間で天井が高いとかなると安眠できる
心に余裕ができなる、空き家が増えるとそういうことがやりやすくなる
東京でも江戸が百万だとするとせめて5百万とかなると住みやすくなる
そういう時代が縮小社会でやってくる、地方都市などに人口も分散する
それは縮小社会で起きてくる、その方が住みやすくなったとなる
だから未来がすべて悪いものとはならないのである


要するに無駄に食べ過ぎている、過食になっている、また食べさせられている
それは会社のもうけのためであり会社を経営する人たちがそう仕向けている

そういう罠にはまらない、質素な生活でも人間は健康になれる
自分も実際はやせているタイプなのに太る
現代の生活は何か太るようにできているのである、過食になるのだ
一人暮らしは余計になりやすい、外食とか簡単なものですませる
そして野菜がどうしても不足するからである

現代人はこうした食生活を見直すべきである、これも大きな無駄でありその無駄によって健康を害す、まずジュース類は人工甘味料が入っているら体に良くない
これも太るようになる,野菜ジュース自体が野菜ではないのだ
それで買って飲むのが間違っているのである
確かに安いがこの辺は本物の野菜と果物をとらないとだめである




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2018年10月12日

戦後70年で時代変革の時が来た (そこに若者の活躍する場が開ける)


戦後70年で時代変革の時が来た

(そこに若者の活躍する場が開ける)


人間はどうして人格形成とか知識でも思想でも作られてゆくのか?
それは何もしないで作られるわけがない、生まれつきで作られるというのは天才だけだろう、天才だってなんらかか社会に生きていて身につくものがありなる
人間は必ず時代の影響を受ける、もし今の人が一時代前にタイムマシンで行ったらそこで天才になってしまう、それは時代が違うからそうなる
時代の影響が大きいしそれを乗り越えられない、だから不思議なのは江戸時代は農業社会であり80パーセントが農民だったのに工業化できたのか?
そういう素地があったのかとなる 

明治時代はみんな大学でも会社でもみんな創業者になった、そういうことができたのだろうとなる、それはやはり江戸時代に培ったものがなければできない
そのことが良く理解できない、工業といっても家内工業とかでありそれが機織りから工場の絹織物工場に変化したからである
そこには機械を入れて煉瓦作りの工場を建設して農家の若い女性は工員となったからである
その時なぜ学校ができたかというと集団で組織化して子供を工場で時計にあわせて働かせるものとなったからである
寺の鐘で時間をおおまかに計っていたのとは違い時計によって人は時間で働かせられるようになったのである 

こう考えると明治時代は凄い時代だったとみる、それで外国の人も驚いた、日本の力に脅威を感じたこともわかる、なぜならアジアをみればわかる、ほとんど植民地になったからだ、明治時代はまた西洋に追いつくために青年は必死だった
それでイギリスに留学した青年が英語できなくて自殺したとかある
公費留学だから責任も感じていた、その時明治維新でもそうだが若者が活躍して新しい時代を切り開いたということがある
それだけ新しいものを吸収するには今までの価値観とか考え方や特権に甘んじている既得権者にはできないことだった、それで明治維新の中心になったの下級武士の若者だったのである、明治維新でも歴史でもいろいろな見方がある
最近は明治維新を否定的に見る人もいる、でもその激変のなかで日本だけがヨ−ロッパの植民地にならなかったことは特筆すべきことだったしそしてその後も日本自体をあれだけ変革したということは驚嘆すべきだった
江戸時代とはまるで違ったものとなった大変革があったからである

ただ人間何もないところから何か新しいものが生まれるとは思えない
だから日本は江戸時代のことを良く知るべきだがなかなか理解できない
新しい改革を担ったのは侍だったということもあるからだ
侍が教育者になったのが多い指導的立場になった
そういう人材になるものとして侍があったとなる
別に薩摩長州だけではなん江戸幕府からも明治時代を築く人たちは出ていたからである
人間はどうして作られるのか?

人間は歴史的存在だということが動物とは違っている
歴史的に継続されたものとして人間がある、それを一番感じるのはそれぞれの家なのである、家というの実際それぞれ違っていて歴史があり重みをもっている
二代くらいでも家の歴史があり人間がつきあうときその個人もあるが家を見ないとわからないということがある、それで前は家と家の結婚だったということでもわかる
その家の家系など家を見て結婚していた、家柄もあってそれを見ていた
だから家柄が違うと結婚しないということもあった
これもプラスマイナスはある、だから全面的には肯定できないがそこにもやはり伝統的なものにはなにかしら人間にとっていいものがあるから伝えられてきたのである 

人間はまずその時代に生きていてもその時代のことはわからないことがある
一時代が終わった時、その時代が見えてくる、歴史とはそういうものである
今の時代だって現実に生きていてもわからないことがあるのだ
今どういう時代になっているのか?その時代を見ることがむずかしいのである
これだけグロ−バル化したことでさらにわからなくなる
中国があんなに遅れていたのにもう世界の大国になりアメリカと覇権を争うまでになっている、そういうふうに国際関係でも常に変わってゆくから理解できなくなる

老人の有利なのはやはり一つの時代を生きたことでその一時代を見れるということがある団塊の世代は戦前とかの世代と比べると戦争を経験しない、日本をだめにした世代とされて若者の反感が多い、団塊の世代のために日本はだめにされた、団塊の世代はいいとこどりしたとか言われる、団塊の世代は高度成長の時代であり何か企業しても小規模でも店でも中小企業でもうまくいった時代なのである
今になると起業することはむずかしい、それはもういろろいなものができあがっているからである、もう物質的には飽和状態になっている
団塊の世代はものずごい物欲があり三種の神器として「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」があった、それを欲しくてがむしゃらに企業戦士として働いた
テレビにはみんなかじりついていたからだ、子供の時はラジオだった
家にはどこでも飯台一つであり裸電球とか何もない時代だったのである
その物欲はその後もマイホームとか車が欲しいとなり日本人は働いたのである

そして今若者が物欲がないというときそういうものがあふれていて満たされているからである、生まれたときからあるのだからそれはあってあたりまえだからそれを欲しいとはならないのである、便利な生活が当たり前だから特別欲しいともならないのである
つまり物欲の時代は終わったのである、情報化社会というのは物欲社会とは違っている
そこに何か価値観の変化が起きている、それは今の時代に生きていてもわからない
例えば日本の経済がなぜ停滞して衰退して日本人が今度は貧乏になってゆくのか?
その原因はなんなのだろうとなる、その前に日本人はなぜ戦後世界でもアメリカについで経済力をもち豊かになったのかというのもある
それはアジアで一番先に西欧化したヨ−ロッパに追いついたということがある
それは明治に植民地化されないでそうなったのである
戦争に負けた結果それが悪いこともあったがいい方に働いた
軍事力に力をそそがないで経済だけに集中すればよかったからである
それからソビエト連邦とアメリカの冷戦も日本にとっていいものとして働いた
そこに戦後は国際関係で日本に有利に働き経済発展を遂げたのである

そして戦後70年過ぎて時代の変わり目がきたのである
日本はまた変革しないと後進国になる、すでにその兆候はいたるところに現れている
明治時代のような進取の精神はない、それで今は国際化して大学にもアジアの留学生が来る,その人たちは熱心に真剣に学んでいるという、それは日本の明治時代の青年と同じなのである、なんとか国に帰って発展させたいという熱意があるからそうなっている
日本人は今若者ですらそういう進取の精神がない、それは満たされた社会だからである
物欲は満たされた社会だからそれがないのである

日本は高度成長時代からバブルとか経験してあらゆることに遅れをとった
IT分野でもそうでありすでに中国に追い越された、知的な分野でも科学技術でも遅れをとっている、今のノーベル賞をとっているのは20年前と30年前の基礎研究の結果だと言われる、これからはノーベル賞もとれない,なぜなら論文の数が少なくなり今度は中国が日本をおいぬいて進んでいるからである
だから中国でも20年前には最低の国だと思っていたがこんなに変わることに驚くのである

今日本は戦後70年で変わり目にきている、あらゆる方面でそうなのである
銀行は安定していい就職先だった、しかし銀行はもうすでに大手の銀行でも大量にリストラされている、地銀でも投資信託などを売りつけてもともと証券会社でないのに利益が出せない、貸し付ける先がないとなり危機にひんしている
そもそも世界中が金余りになり金が回らない、それで世界的に経済が停滞しているというその大量の金が行く先がてくなり大麻とかをとりしきる闇の世界に流れていたのである
つまり資本主義でも変わり目にきている,金だけが価値となる社会から何か違った価値観が生まれる、そこで今までの金が紙幣が流通するのではなく別の価値観でやりとりできる新しい貨幣の創造が成される、試みがなされている
それはインタ−ネットとかの普及でも変わるのである

今の時代の先端を行っているのはやはりIT関係だともなる、だから銀行は旧弊なものとなる、何か銀行が江戸時代のような感覚にもなる、私自身も古いタイプだから銀行は信用ある硬い職業だというものとして見ていた
それで投資信託を売りつけられて2000万損したというばあちゃんは損しても銀行を信用していたのである、それは明治の時徳川幕府を信じていた、永遠につづくと思っていた人たちと同じなのである、それは自分自身がそうだったのである
老人はとはそういう過去からあったものをそのまま継続して同じにあると見ているからそうなるのである
情報だって今はテレビだけからとるものではない、インタ−ネットがあり今度はyoutubeがありと幅広くなる
それでわかるのはテレビを見ている層ははっきりその傾向が年代別にわかる
50代以上は多いし60代以上になるとさらに多い、その年代の人たちはテレビをみている、だからテレビではそういう人たちに見られているのだから番組作りも若者向きではない、老人向きの番組作りになるのである

そして現代の問題は少子高齢化でありシルバー民主主義というように老人は投票に行くし老人に政治家もこびる、老人向きの政策になる
それで正規社員はやめさせられないとか50代以上になると若者の給料の倍をもらっているとか若者世代の40以下の世代の不満が大きいのである
でもそれが改革できないのはシルバー民主主義になり50代以降でもそこが人口が多いから政策でもその年代向きのものになる
つまり改革できないということである、それで日本全体が衰退してゆき結果的に貧乏になるというITを担う若者が40代以下が言うのもわかる
つまり何らかの改革が日本ではしなければならない、それは大学でもそうだしあらゆる面でそうなのだができないのである
老人がこれだけ多いということはなかなか新陳代謝ができない社会だからそうなる
それは世界的にそうである、中国もそうなりつつあるという、そうなるとこれから発展するのはアフリカになるのかという、なぜならアフリカは一番若い人が多いとなっているからだ、若い人が多いということはそれだけでエネルギーとなるからだ
戦後に団塊の世代は生まれたが数が多かった、だから不思議なのは戦後の焼け野原なのに食べるものもないのに良くそんな人口を養えたという不思議がある

いづれにしろ今の時代を生きていても今がどういう時代なのかわからない
でもその中で時代を切り開く人たちがいて新しい時代が生まれた
そういう時代の変わり目には若者が活躍できるということもある
新しい時代を築くとなると老人にはできない、この辺でも復興しようにも避難区域に帰ったの老人だけでありどうせ死ぬだけだとなる人が復興はできない
こういうときこそ若い世代が活躍しなければできない、それが流出したからできなくなっているのだ
ただでは新しい時代を築くとしてもそれを切り開くには容易ではない
未来を見る目が必要になりそれはまた過去を歴史をふりかえることでもある
だから明治時代にあれだけの改革をできたということは驚嘆すべきであり見習うべきだとなる、今あるもの大学でもそうだが企業でも会社でも明治時代にできたものだからであるただ老人は歴史とかを見る目は養われる、それはやはり長く生きていてその変化をみるからである、家というのも生きていてそこで長い目で家の歴史をみる
家が形成された歴史をみるからそれが他でも歴史を見る目が養われるのである


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2018年10月09日

銀行はもう害になるだけでいらない? (投資信託の説明責任があってもしない(犯罪として認定された)


銀行はもう害になるだけでいらない?

(投資信託の説明責任があってもしない(犯罪として認定された)

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銀行の投資信託販売につき不法行為責任が認められた事例

説明義務違反について

本件各投資信託について、一応の説明は行われていたとしつつも、Xの年齢や投資経験、知識の乏しさに照らし、「本件各投資信託は、その内容を理解することは容易ではなく、将来の株価の予測というおよそ困難な判断が要求され、また、元本割れのリスクも相当程度存在するにもかかわらず、条件付きの元本保証、という商品の特性により元本の安全性が印象づけられることから、当該条件については特に慎重に説明する必要があった」とした。

 そのうえで、Xが不安も述べずにその場で直ちに購入を決めていたことなどから、Xは本件各投資信託の内容を具体的に理解できず、そのリスクについて現実味を帯びたものとして理解 できていなかったとした。

 また、Aらは、Xが元本保証を重視していることを知っていたのに、株価予測の参考となる情報を提供しなかったことなどから、本件各投資信託の危険性をXが具体的に理解することができる程度の説明をしたとは認められないなどとして、Aらの説明義務違反を認めた。

 そして、適合性原則違反および説明義務違反による不法行為を認定し、2割の過失相殺のうえ205万9748円の限度で損害賠償請求を認め、弁護士費用20万円を認容した(契約不成立や錯誤については、複数の手続書類(約定書や確認書など) の存在や、勧誘時に一応の説明がなされていたことから否定)。



AがBに対して "accountable" であるということは、AはBに対して自分の行動や決断を説明、正当化し、また不正行為を働いた場合は、処罰を受け入れる義務を負う、ということです。

つまりは、「説明責任を果たす」ということは、与えられた権限を行使し自らの役割を果たし、もし任務に失敗したり、何か不正を働いた場合は、その責任を負う。最終的には出所進退を申し出て、裁きを待つ。

日本では、accountability が矮小されて、「説明する責任」になってしまっており、責任を負う、責任を取るという肝心の部分が抜けてしまっています。これは、なぜでしょうか。誰もが責任を避け、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会と評される日本の文化では、これも当然の帰結なんでしょうか。


ここで犯罪と認定されたということである、そこまでできるのか?
こういう判例は他の者にあとで適応できるのか?
こういうことは相当に今増えているからだ、もしこれが適用できれば裁判になり勝訴するともなる、,銀行でも証券会社でも警戒するからすすめにくいともなる
ただここでこれだけで本当に犯罪として裁判で認定されたということはやはり他の者にも相当に影響するのではないか?

銀行がすすめる投資信託は人気商品はもうからないという、なぜなら人気商品となったとき高額になっていて下がるだけだからだという、早いうちに仕込んでいれば将来もうかるしかし銀行が人気商品としてすすめるときはもう下がるときなのである

そのことを銀行は知らないのか?

知っている?

知っていてすすめるのか 

銀行がもうかるから

これはだましという詐欺罪なのだろうか?

まず銀行では今はやりでもうかります、みんな投資していますとかすすめる
youtubeではAIをすすめた、でもその時はもう高額になっていたりして新規参入が多くなり競争が激しくなり株価は必ず下がるという方程式みたいなものがあると指摘していた
youtubeではAI投資で大損した人も説明している、つまりはやりのときをすすめるがその時はすでに高額になっていて遅い
後は株は下がるだけだというのが株をしている人は知っている
今はやりのものはそのずっと前にしこんでおかないとみんなが参入したときでは遅いのである
でも銀行はそれを知っていてすすめてくる、知らないわけがないのである
その時証券会社の人も一緒に来たから銀行と証券会社は共謀していたとなる

銀行員は私はプロですからまかせてくださいという
その人は証券市場で一時的に働いていた
ではその人はこうした事情を知らないですすめているのだろうか?

このyoutubeでは東京の大きな銀行でもすすめらたのである
その大きな銀行でこうした事情を知らないのだろうか?
つまり銀行は金融業だから株式にも素人よりは通じていると思うだろう
そういうふうにプロだからまかせてくださいというからまかせたのである

でもそもそも銀行は投資信託のことを株のことをどこまで知っているのだろうか?
支店長は証券会社ではないから知らないと言っていた
そんな知らないなら投資信託などすすめるなとなる、素人にすすめるなとなる
本当に株のことは知らない,ただ証券会社の人も来たから教えられていることは確かである
でもまた証券会社では本当に金融のプロだとするとき銀行にそうしたはやりの投資信託をすすめるのか?

証券会社はそれがどういう商品か知っている

もうすすめるときはもうからない  

銀行は証券会社から知らないで委託されて客に売るのか

証券会社→銀行→客

ここに二つの媒介となるものがある、この二つはその商品が投資信託がどういうものか知っている、少なくてもそれを仕事にしている人だからである
もしそういうことを知らないとしたら誰もまかせないだろう
もちろん株だとしたらいろいろなことでリスクがあり上がったり下がったりする
でも投資信託に株にも方程式のようなものがある
そこは説明されないし投資信託の仕組みは複雑すぎてわからないのである

ここで私が問題にしているのはこれは意図がある詐欺にあたるのではないかということである

もし知らないとしたらまかせてくださいとか言えるのか?

もし知っているとしたらどうしてそんなもうからないものをすすめるのか?

もちろん株には上がり下がりがあり予測できない、でも事前にyoutubeの失敗した人の話では一切そうししたリスクは説明しないのである
銀行では知っていて説明しない、説明したら買わないからである
いいことしか言わないのである

どうしてもこれは詐欺にあたるのではないか?

説明責任を果たさないということで詐欺になる、それで実際に訴えた人がいる
説明責任を問われたのである、もちろん買う人にも責任はある
でもどこまで買った人に責任があるのか? 
買った人も責任があるとしても銀行側の責任もあることは確かである

要するに銀行側ではその投資信託は実際はもうからないと知っている
でも売った時点確実に手数料がとれるしあとはどうでもいいと考えている
銀行側では絶対に損しない商売だからである

なぜこういうことが起きるのか?

それは医療関係でも説明責任があるのだが良く説明しない、それは専門用語とかになりわかりにくいからである、それで説明されたとしてもわからないままに治療をつづけてかえって薬や抗癌剤を飲み続けて悪化したとか普通にある
医院では医者ではいらない薬でも必要ないMRIの写真をとらせたりする、20万かかったとかある、その費用は福祉関係で税金だったりする
それで医療の費用が高齢化で莫大なものになり国がつぶれるとまでなる

そこではどうしてしももうける利益をあげることが優先されるからだ
医者だってもしいらない薬を与えているとしたら知っていて与えるとしたらそれは違法であり詐欺的なものとなる、そこには金がかかり国の財政に影響してくる

これは原発事故でもあった、まず説明はされない、ただ安全だ、安全だとしか言わない
それで「安全神話」が作られていたから避難する時も一番危険な場所に浪江の人たちは避難したのである
それは「安全神話」が作られていれば事故が絶対に起きないという説明だから事故が起きても対処することなど考慮していないからである
事故の時一番先に伝えたのはアメリカだったのである
日本ではもう何もできなくなっていたのである
アメリカに頼ることしかできないようなものを日本国内に作るなとなる
アメリカでは事故になってもかけつけることもできないからである

原発の場合はまず放射線とかわかりにくい、するとそこに御用学者が科学者が説明するけどそれは政府とか東電に雇われた人であり説明責任を果たすことはできない
やはりただ安全だ安全だとしか言わないからである
危険のことは言わない、言ったら原発も建てられないからである
銀行でももし投資信託がどういうものかそのマイナス点を説明したら説明責任を果たすことになるがそれはしない、そうしたら買ってもらえない、銀行の利益にならないからである

現代文明社会の問題はこうして複雑であり説明されても株とか投資信託でもわからない
医療でもわからない、原発はさらにわからない、そこで説明されてもいいことしか言わない、でも反論もできない、専門家の言うままになる
それで専門家によって無力化された社会だということがわかる
そうして専門家にまかせても専門家が万能ではない、危険がありそれに備えることはできない、そしてとりかえしのつかない大事故になった

結局誰かが何であれ責任をとらされる

投資信託はまがいものだが買った奴が悪い、大損になる責任をとらされる
医療でも抗癌剤をいいとして飲まされて悪化して早く死んだ
死んだ本人が責任をとらされる
原発事故では「安全神話」がふきこまれリスクの説明責任は果たさなかったが地元の人は住めなくなるとか農作物を作れない責任をとらされた
必ずなんであれ誰かが責任をとらされるのが人間社会である
そのことを事前に頭に入れておくことが大事だとなる

日本では、accountability が矮小されて、「説明する責任」になってしまっており、責任を負う、責任を取るという肝心の部分が抜けてしまっています。これは、なぜでしょうか。誰もが責任を避け、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会と評される日本の文化では、これも当然の帰結なんでしょうか 

説明する責任ではない、説明したら終わりではない、責任をとるということである、原発事故のことで再三指摘してきたけど日本人は本当に責任をとらない社会である、誰も原発事故でも責任はとらない、でも責任は必ず誰かがとらされるのである
つまり責任をとらされるとしたらそのために真剣になり事にあたり万全を期すとなるからだ
責任とらなくていいとなると説明でも適当でいいしとか事故など百パーセント、確率で百万年に一回しか起きないとか言っていればいいのである、でも起きたらどうするのか?死刑になっていもいいのかとなったらそんなこと簡単には言えないのである
つまり責任感が日本人にはないとなる

これは危険なものですよ

これは大損するかもれませんよ

こういう恐怖をもって対処しないと必ず責任をとらされるし後から泣いても誰もその責任を代わってくれないのである
要するにだまされた奴が悪いとなりどん底にになっても誰も助けないとなってしまう
ただ現代社会はそうして大きな組織が団体がカルト宗教団体でもだましの団体になるし
国家自体がだますということも原発ではあったのである
こうなるとこの世をまともに生きてゆくことは本当に困難だとなる
そういうだますような詐欺的団体でも組織でも容認されているからだ
だから説明責任で銀行が罪に問われたことは大きい、消費者側にたったからである

第一国家がそうしてだますとなるともうお手上げだとなってしまうからだ
銀行などは地銀などは今までは地元でも信用するものとしてあったからだ
だからこそだまされてもばあちゃんは銀行を信じていたのである
だからそういう身近なところでも苦しくなると利益をあげるためにはそういうことをするだから個人でもそうだが団体でも追い詰められると人間は怖いとなる
善悪もなくなるからだ、それで日本の戦争でもアメリカに経済的に追い詰められたから石油も入らないとかで戦争に突入して負けたとなる
追い詰められることはすでに敗北しているのである
事業して失敗した人も借金して追い詰められているから人を助ける余裕などない
結局自分の困窮している時に来た人はみんな追い詰められた人だったから怖いものとなったのである
今自分は多少金銭的にも助けているとなるとそれは今は病気でもないし余裕があるからである

余裕がない人はみんな危険だ

銀行も今は追い詰められているから危険だ

追い詰められている人間と接することは一番危険だとなる 

いづれにしろ引用した文のようにして事にあたっている人がいるのか?
そうでないから国家の事業ですら誰も責任はとらない、そして誰かが確実に責任をとらされるのである
だから実際に説明責任を果たさないと判決が出て罰せられたということは知るべきである
原発事故では本当にこれをあてはめれば説明責任を果たさない犯罪だったとなり罰せられるべきだが罰せられないのである、誰も責任をとっていないのである

それにしても地銀とかはもともと信用を第一にしている、銀行だとそうである
証券会社はもともと何かあやしいものとして普通は手を出さないのである
自分もそうである、銀行は信用できるものだと思ったから銀行にすすめられたから買ったという人は相当に多い

でもこういうことを銀行がそれも大手でもするとなると銀行の信用はどうなるのか?

銀行はそんなものだったのか?

もう銀行は信用できない,地銀とかは何するところなんだ、地域にもいらない
実際に銀行が生き残るのは県で一つくらいとなる、銀行が消えてゆく
それはこんなだましをして悪あがきをしても生き残れなくなったのだ
何かそもそも投資信託は老人をだますために作られた商品だったと思う
次々配当金が入るとか何か利子がついてくる感覚になっていたのである
自分も馬鹿だと言えば馬鹿であり責任があることはある
でもばあちゃんが銀行を最後まで信用していたように銀行とはもともと信頼されていた
地銀となると地域に密着するから信用第一だったのである
それで銀行に就職するには身元調査をしたりと金を扱うからうるさいのである
それがこんなふうに人をだますような投資信託を売るようになったらもう銀行も終わりである、銀行の役目は終わったとなる
ただ害になるだけではないか?地域に何か貢献することがあるのか?
もうないとしたら役割を終えたとなるのか?

もう銀行はいらない、害になるだけだ!

こうなったらもう終わりである






posted by 老鶯 at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題