2023年05月30日

金融資本主義化グローバル経済の終わり (実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)


金融資本主義化グローバル経済の終わり

(実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)

金融資本主義を貫いて働いている人って、なんかつるんとした人が多いんです。なんかそれぞれのクセとか、趣味趣向とか、そういうものがなくて、つるんとしている感じ。その人は、多分100万円の絵よりも1億円の絵は100倍美しいっていうふうに思う。「俺はこんな絵が好きなんだ」とかいう趣味嗜好の引っ掛かりがなくて、つるんとした人が多い。

資本主義のこれから−その2 金融資本主義の本質は「手段の目的化」。

●実体経済から離れた金融資本主義

なぜグローバル経済というのはわからないのか。それは規模があまりにも巨大化したのである。
それはとても日々の生活からかけ離れたものとなっている。
エコノミーの語源が家計だということでもわかる。
とするとその規模はとてつもないものとなる。日々の生活だと買い物でも100円とか1000円とかである。そして100円でも損したとかなるのは実感なのである。グローバル経済というのは株式でもファンドは日本の国の予算の2倍のお金を動かしているという。そのファンドの会社の人は千人くらいだと言う。その人たちはプライベートジェット持っていて世界を駆け巡っている。
そんな天文学的な金を持って株式市場わ動かす

だからなぜ日本が物価高で苦しんでいるのに株だけが上がってくるのだろうか。どこで日本が景気がいいのいいのだろうか。
それがまるで理解できないのである。つまり実体経済と金が動くだけの金融資本主義があれただ金融資本主義によって金が巨額の金がAからBへまたCへ移動してるだけなのかもしれない。金余りであり金の行く先が投資する場がなくて移動している。アメリカが国債などで債務不履行(デフォルト)が迫ったので日本へ一時的にファンドの金が移動したのかもしれない。ファンドの金が日本の国の二倍もあるとしたらその金が動いたらその影響も大きのである

●貨幣や紙幣は支配する道具

いずれにしろグローバル経済になると天文学的な金になりとても日々買い物して100円とか千円感覚で実感する経済とはまるで違ったものになる。ただそうして金を動かして儲ける人たちがいる、その人たちは世界で千人くらいだとしている
でもそういう人たちでもやはり背後に政府とかの権力お援護がないと力を持てないだろう。そこにアメリカの軍事力がありドルが世界の基軸通貨となった。
でもアメリカだけが得をするドル決済に反対する国がロシアでも中国でもあって不思議ではない、もうけを独り占めするのかとなるからである。

要するに世界のギャンブル場になったのが現代のグローバル経済でありその賭博場で儲けているのが千人くらいのファンド会社の人間なのかもしれない、その人たちは何ら生産に物つくりをしているわけでもない、ただ賭博場で金を動かしているだけだとなる。
それは八百長だとなりロシアでも中国でもグローバルサウスでも対抗するようになったのは当然だとなる
結局金というのはそもそも支配する強力な道具なのである。

それで七つの海を支配した大英帝国がポンドを世界基軸通貨としたのでありドルもまたアメリカが世界帝国となり支配するからドルが基軸通貨となったのである。
貨幣というのは必ず皇帝とか王様の肖像が刻まれていた。つまり皇帝が王様がその地を国を支配するというシルシだったのである。
それでオスマン帝国のテレビドラマを見ていてエジプトに派遣された地方長官が勝手に自分の肖像刻んだ貨幣を発行したのである。そのためにその地方長官は殺害されてしまったのである。これからわかるように貨幣でも紙幣でもそれは支配する道具としても機能していたのである。だからそもそもグローバル経済でも公正な市場などないのである。

そして今や資本主義自体が行き詰まっている。なぜただ巨額の金を右から左へと移すだけで儲けているのか。それは実体経済とは関係ないのである。これまでは何か経済というとき実体経済であり江戸時代でも何万石とか米のとれる量が多いで経済は計れていた。だから実感としてわかりやすいものだったのである。

●マネーゲームと化した株式市場

それでなぜ今金融証券銀行などが採算が取れなくなったのか。実体経済とから離れて証券とか債券とか金とかが動いている。でも実体経済とは違ったものでありマネーゲームのようになっている。それで銀行で働くような人も何か働く生きがいというかは喪失してしまった。
それで銀行をやめて農業をするようになった人もいたのである。

今や証券とか銀行に勤める人は胡散臭い人に見られてしまっているのである
投資にしても直接ものづくりをしている人に買う人は投資する。
クラウドファンディングが生まれて銀行はの役割は喪失しつつあるのである。銀行もメディアであり仲介するものであるということがあり直接作る人にものづくりする人に投資する方法はインターネットで生まれたとき銀行の役割もなくなるともなる

金融関係で働く人が何かこのように実際の物つくりとか農業とかでえる労働の充実感を得られない、金を得ても実感として何か作り上げるとか育てるとかしないので架空のバーチャルな世界で数字の世界で抽象的な世界で生きているからつるんとした個性のない顔になっている。何か実生活で手ごたえのあることしていないからそんな顔になったのかとなる
つまり人間でも人格でも作るのは仕事になる。それで職人気質とか生まれたのである。
いずれにしろグローバル経済とかはとても実体経済から離れているから乖離しているからそこに起きる問題が大きいのである。
そして資本主義が金融資本主義のようになってゆくときモラルもう消失して資本主義は終わりになるのかまた変容して新たな資本主義になるのかそういう一つの大きな時代の区切りにきているのである

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posted by 天華 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年05月19日

世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている (貨幣と紙幣が生まれた予測されていた)


世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている

(貨幣と紙幣が生まれた予測されていた)

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怪物世界ファンドの正体】日本はチマチマした既得権バームクーヘンが支配している。
しかし世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている

アメリカの特権階級のことを加治将一氏は批判しないと書いたがそれはここで説明していた。ファンド会社がありそこで日本の予算の倍もの金を動かしているという、これも驚きである。
金融経済にかかわる人が一億人くらいいる。そのなかで実質的に巨額の金を動かしているのはファンド会社でありアメリカに
1000人くらいいる。
そのトップはプライベートジェットをもっている。それも大きなもので外国にも行けるものだという、そしてその人たちは税金を納めていないという、その人達は政治家とも通じていて金融経済を支配している。陰謀論になるとこの世界の実質的支配者だとなる。

加治氏はアメリカでビジネスしていたからその裏のことを知っている、現代のグローバル経済は実体経済から乖離した仮想世界だとしている。実体経済でやりとりする金より50倍とかの金が金融経済でやり取りされるからそうなる。
それも日本の予算の二倍の金が動いているというのに驚く
それでファンド会社でも金融危機になること恐れている
そして加治氏はこうした仮想の金融経済にかかわらない、株とかにもかかわらない、そういうシステムに組み込まれないためだという、そこでアンテークコインをすすめている

グローバル経済が実体経済でない物と物の交換ではないやり取りではない。金融は実体経済に寄生して巨額の金をもうける。
仮想世界で金を儲ける。それで加治氏自身が株でもやめたとなる
そういう世界にかかわることに嫌気がさしたとなる。
この判断は正しいとなるのかもしれない。もうしこのカラクリに気づいたらみんな株など投資しないしグローバル経済も資本主義も終わりとなる。そういう変換点に来ているとなる。

だからロシアでドルを使わないとかまた中国でわ人民元を使うとかなる。それは公平なものではないからそうなる。千人くらいのフアンドの人たちが世界から富を奪え巨万の富を得ているのである。そのカラクリに気づけば賭博場でいかさまだとして暴れる人がいて時代劇になっている。
でも結局胴元に抑えられて殺されたりしている。
ただ千人くらいの人がこの世界を操作できるのか。そこにはアメリカという巨大な国が後ろ盾となり覇権国になっているからできるとなる。でももう世界でわそれがイカサマだと気づいているからドル支配も終わる。

またグローバルを経済であれ資本主義であれそんなイカサマの賭博場に気づいてみんな手を引くとなればグローバル経済も資本主義も終わりになる。それでアメリカの人たちですらニューヨークのウオール街に反感を持ちデモをしたことでもわかる。
今世界はそうしてアメリカの覇権国から離脱して別な経済系を確立しようとしている。それでアメリカは衰退してゆくとなる。
アメリカは世界からの市場指示を失いつつある。でもまだ中国とかとは逆に信頼されていない。そうよう変換点二きているのである。

そもそもなぜそうなったかというと貨幣が生まれた時そのことは予想されていたのである。本来は価値は物自体にあり貨幣にはない貨幣にはない。でも貨幣が生まれた時すでにその未来は予測されていた。ギリシャでも紀元前6世紀にすでにすべてが金だとなり社会が歪められたことで嘆いていたからである。
貿易というときそもそも物々交換が基本にある。だからハイエクの言うように塩と黄金が等価で交換されたともなる。
ただ貨幣には紙幣でも持ち運ぶことや何でも買えるとか蓄えることなど便利であり必然的に生まれたものである。でもその弊害が大きくなりすぎたのである。グローバル経済ではもうその規模が天文学的であり誰も見通すことができない。

そして千人くらいのファンドの人が巨額の金を操作して金融市場で儲けている。そういうことに世界の人も気づき始めているからドルが基軸通貨として通用しなくなりドルの価値は下がってくる。貿易は別に物々交換が起源だとすれば人間の生活はこの地球で始まった時からすでにあった。それは互いに足りないものを補うということでもあった。
ただそこに貨幣が生まれた時貨幣に左右されるようになったのである。物の価値より貨幣の価値が大きくなったのである。
それがグローバル経済になるとその規模があまりにも大きすぎるのでその貨幣を紙幣を使って実体経済を支配するようになったのである。

なぜインフレになるかというとそもそも紙幣とはいくらでもすれば作れる。例えばある商品の価値があるとする
それが10とした時、紙幣なら100を簡単にすり作れる。
すると10の値段のものが10倍になりインフレになる。
つまり貨幣であれ紙幣であれそれは大したコストもかけないでいくらでも作れる。だから物の値段はあがり人々は物価高に苦しむことになる。
本来は物の値段はどちらが高いというものではなく互いに別の価値あるものと交換することである。りんごとみかんの価値は別物である。どちらが価値あるというものでもない。だからこそりんごとみかんは交換される。そして別々の価値として味わうのである。
でも貨幣で紙幣でものを買うというときはそうではない
そこから経済自体が歪められるものとなったのである。ある人はりんごを作るよりみかんを作るより野菜をつくるより紙幣でも作ればなんでも手に入るとみる
その紙幣でも貨幣でも作れば汗してりんごでもみかんでも野菜でも作る必要はないと見る。それは実物として交換しなくても手に入るからそうなるのである

そういうものの延長として現在のグローバル経済があり金融経済で歪められたものとなったのである
貨幣とか紙幣が生まれた時どうしてもこうして歪められたものとなったのである。だから紀元前6世紀にすでに貨幣によって歪められた社会となりそれが現代でもグローバル化して複雑化して同じ問題が起きているのである。要するに貨幣であれ紙幣であれ大量に作りそれで巨万の富を得る人たちがいる。
その人たちは何も実物として作り出していないのである
そういうからくりに世界で気づきつつありグローバル経済とか資本主義が終わるとなる。株に投資しないというときそれがイカサマだからである。
そうしてグローバル経済化から手を引くとグローバル経済も終わりとなる。ただ貿易とかはなくならない、不公平なグローバル経済や資本主義が終わる。だから次は社会主義だとはならない、それも失敗だったことは歴史が証明しているからである。

posted by 天華 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年05月18日

グローバル経済資本主義が破綻して終わる (それはアメリカなどの極一部の特権階級が儲かるシステム)


グローバル経済資本主義が破綻して終わる

(それはアメリカなどの極一部の特権階級が儲かるシステム)


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【金融経済大混乱!円安は誰にも止められない!】6月1日、米国国債上限問題!世界資産の80%を締める金融経済!
実物経済の50倍が金融経済

実物経済の50倍が金融経済


economyの語源は、ギリシャ語のoeconomia(オイコノミア)です。oeconomia(オイコノミア)はもともと「家計管理・節約」を意味していました。



今の経済はかけから家計から考えた時代より信じられない何兆倍もの規模の経済である。だからグローバル経済というのは誰も結局わからない見通すことなどできないのである。
人間の見通すする範囲は限られている。その実際に交際する範囲にしても限られている。いくらグローバル化したからといって外国の人と直接接するわけでないしその実態は理解できない。
だからグローバル経済というのは常に陰謀論になるし覇権国はアメリカは世界の富を集めて富裕層は後進国の何十億人を稼ぐより金が入ってくるのである
それは額に汗して危険な労働しなくても金融の操作で得たものである。そういう労働をじかに見ていれば金の払うことに文句は言えないだろう。

でもグローバル経済の金融資本主義の世界はそうはなっていない
現実の実態経済より金融のやり取りの金が相当に多いのである。もはや実際に物と物の交換が経済の基本にあるがその物から離れて経済は何千兆円というもう実感できない金がやり取りされて利益を上げる。特権的地位につけば金が労せずして入ってくるとなる。
世界は自由主義社会は市場原理で平等だと言うが実際はある特権階級が信じられない巨万の富を手に入れるシステムだとなる。
それはアメリカだけではなく中国でもそうである。ほかの国でもそういうことはある。だから一概にアメリカが全ての富を得ているとはならない。
でも実質はドルは世界の基軸通貨になっているからアメリカがどうしても一番得するようになっているのである。また金融を牛耳るIMFなどがありそれで実際は自由主義市場ではなくそこで金融市場でも操作されて世界の富は一部の特権階級に奪われているともなる

加治将一氏のいうことはアメリカでビジネスしているから説得力がある。学者の言うことより肌で経済を知っているのである。
だからそのいうことはほかの人とは違っているのである。
でもなぜかアメリカの特権階級の巨万の富を得ている人を批判していないのもよく理解できない。日本の特権階級の人たちは常に批判しているがアメリカの特権階級の人を批判していないように見える。
アンティークコインとは富裕層の資産を保全するためにある。そのために富裕層に奨めているのかとなる。

いずれにしろグローバル経済というのはその実態をすべて知りうる人は一人もいないと思う。それだけあまりにも巨大すぎるのである。だから株式というのは世界になれば上がったり下がったりするから先を見通すことなど誰もできないと思う。
だからそれは突然天災のようにクラッシュしたりする。それはもう人間が操作する範囲を超えてそうなるのである。ある人は株が上がるとか下がるとか常に予想してもどれが真実かは誰も分からないと思う。
まるで津波の地震を予測するようなものである。地震の予測は誰も実際はできない。だから素人でも色々なことを言う。それは学者でも正確に予測できないからである。グローバル経済も一見わかるようなことをいうが実際は誰もその全体を知りえる人はいないのである。だから世界のギャンブル場だという人もいる。実際にギャンブルなのである。
実際の経済とは関係なく金融市場で金のやり取りがされている。

金をただ右から左へと回して巨額の利益を言っている。そこに結局設けているのは賭博場の持ち主であり胴元がもうけているとなる。ただある時その賭博場に関わる人に一時的に儲けさせたりしてはいる。でも本当に儲けているのは胴元なのである。
株でもそうなのである。それでギャンブル場であり株が上がるとか誘われて素人は大損することがある。
今日本の株価上がっているけどそれも実体経済とは関係ないのである。なぜならこれほど貧困者が増えているのにどこで景気が良いのか全くわからないからである。
もし高度成長のような時代ならそれを認める。みんなが豊かになったのだから株も上がって当然だとなる。今これだけ貧困で苦しんでいる人がいるのにどうして株だけが上がるのかそれはやはり実体経済とは関係なく操作されているのである。

結局あまりにも巨大化したグローバル経済のことなど誰もわからないのである。そこで運よくギャンブルで儲ける人はいる。
でもそれは極一部の人なのである。高度成長の時代のようなときはみんなが豊かになったから実体経済と株は合っていたのである。今どうして株が上がったからといって日本人は豊かさを感じるかというと返って電気代が上がるとか物価が上がるとか多くの人が苦しんでいる。そんなときにどうして株が上がるのだろうかとなる。
それは実体経済とは関係ない金融資本主義で金が右から左と左へと移動してるだけのように見える。そもそも日本は景気良くなる何かがあるのかとなればせいぜい観光で外貨を稼ぐくらいだとしたらなぜ株が上がるのか理解できないのである。だからまた天災のように突然株が下がり損する人も出てくる。

それでグローバル経済というのは結局公平ではないしギャンブル場であり胴元が得するシステムだともなる。それは胴元がギャンブルで取り仕切り設けているということである。
それがアメリカの特権階級だったりする。そこで陰謀論になる。
でもその実態を知ることは難しいのである。

それでもうグローバル経済は破綻するという主義も終わると言う。それは公平なものではない。だからこそもう限界であり終わりとなる。
銀行と言うときすでにバビロンにあったのである。その時も銀行に預けてなんとかしようとしたが滅びたのである。
つまりいかなる人間が作る文明もいずれは滅びるということである。クラッシュして破綻するのである。世界統一ができたとしてもそれは悪夢である。それは世界を支配する人であれ国であれその権力で人類を思いのままに操作することになる。
今や国だけではなく人類を操作するのは国際的大会社かもしれない。そのためにビルゲイツなどが人類削減のためにウィルスをばらまいたとかなる。コロナウイルスの前にしきりにウイルスのことを言っていたからである。
要するに人類を統一することはできない。人類を統一することは神の怒りに触れてバベルの塔のように崩壊することになるのである。それが人間の宿命であり人間を治めることができるのは神しかいないのである。

そこには世界政府がない、すべての国の国民に責任を持ち。グローバリゼーションのプロセスを監督してくれる監督してくれる存在がないのである
そこにあるのは世界政府のない世界統括とても言うべきシステムである。少数の機関ー世界銀行。 IMF、WTO,−と少数の人間ー特定の商業的金融的利害と密接に結びつく金融や通商や貿易の担当者ーが全体を支配してその決定に影響される多くの人々はほとんど発言権のないまま取り残されている
世界を不幸にしたグローバリズムの正体ージョセフ・E・ステイグリッツ

グローバリゼーションはこのようにとても人間の血の通ったものとはなれない。そこに道徳なき経済になり実際はアナーキーにもなっている。だからこそ必ず突然にクラッシュが起こり恐慌が起こり世界がアナーキーに無政府になってしまうのである。
そこで発展途上国のことなど貧困者のことなど表向きは助けるような事を言っても無視されているのである。
もう誰が操作しているのかどういう風に経済が動いているのか知り得ないのである。それで必ず陰謀論になるのである。

そして通貨でありそれも実際は人間を弱めたものになったのである歪めるものになったのである。貿易とは本来は物々交換であった。そこに貨幣生まれた時歪められたのである。何か物だったらものを与えるときそこにものが憑くとかなる。物は神そのものが作ったものであり本来は金に換えられない価値がある。その価値は神しか作れないものだったのである。。りんごであれバナナであれみかんであれその価値は神が作ったものであり人間が人間を作った作れないので。
だから人間に直接りんごであれ野菜であれ与えるときそこに人間の心が乗り移る。近くの農家の人でも取れた野菜を食べてくださいというとき何かそこに心がこもり金を与えるのと違っている。金を与えるときそれは確かにありがたいものでも紙幣だったらそれ自体には価値がなく紙切れに過ぎない。

つまり貨幣でも紙幣でも媒介するものでありメディアなのである。それ自体には価値がないのである。だからどうしても貨幣が生まれた時ギリシャでも紀元前6世紀でもう金のために社会が歪められたと嘆いていたのである。
グローバル経済でも金融資本主義となり実体経済とは別なものとなり世界が歪められたと同じである。
そして紙幣は貨幣でも人を支配する道具となる。アメリカはドルで世界を支配できる。だからそれに反発する中国とかロシアでも出てくるのである。つまり紙幣とは支配する強力などう道具であり媒介物でありメディアなのである。
だから自由経済であり自由な市場でありそこに公平があるなどということはないのである。それで今アメリカが力が弱っていくとき中国の人民元が世界で通用するようになる。。
いつまでもドルは世界の基軸通貨とはならない。一番貿易量が多い日本でもいずれ人民元を使うようになるというのもそうである。。

それで日本でもアメリカ一辺倒になっていると問題が起きる。中国との貿易量が多いのだから経済的に問題が起きる。
やはり東西文明があるとき現在は西洋文明になった時逆に東側が今度は優勢になってくる。。それは長い間の世界史で見ればそうなっているからである。次に台頭するのはインドでありそれも東洋なのである。西洋文明は衰退してゆくアメリカもヨーロッパの拡大したものでありそれが行き詰まってゆくともなる。
それが今世界の大きな転換点になっているということである。
posted by 天華 at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年04月01日

需要がないのに宅地でも新築の家が作られる矛盾 (新たに仕事を作り出すー家のリホームと庭のリニューアル)


需要がないのに宅地でも新築の家が作られる矛盾

(新たに仕事を作り出すー家のリホームと庭のリニューアル)

人口を減らしたくないという市町村の事情と、常に新築住宅を作り売らなければならないようなビジネスモデルになっている住宅会社の事情、さらには資金の活用先を増やしたい金融機関の事情から、人口減少が明白であるにもかかわらず新築住宅は増えている。
市町村など自治体にとって人口減少は税収減や地域経済減退につながるのでなんとしても避けたいものだ。総人口が減るなかで、自分のところの人口を減らさないためには近隣の他市町村から住民を引き抜いてくることしかない。すなわち自治体間での住民の取り合いとなる。

それも市街地の中心部や周辺ですでに発生している空き地や空き家を埋めるようにすれば良いのだが、実際は前述のような理由からそれがなかなかできず、それらを放置したまま別の場所に住宅を新築させようとする。

銀行など金融機関も、低金利下で稼ぐ手段として前記の住宅会社と組むケースが出てきた。その中でも土地も資金も持たない個人に対し融資をし、住宅会社が進めるオーナー商法に積極的に協力するところも現れた。
「ローンの返済ができない」などの問題も…人口減少の日本で「新築住宅が減らない」4つの理由

その大工さんは家のリフォームの後庭もリニューアルするとして石の配置を変えたり私がいらないという花の木を切ったりした
花でも同じものをいつも見ていると飽きる。
庭でも何か同じだと飽きる。それで自分自身が新しい花を買ってきて植えた。それで足りないので何種類かの花をコメリからかっ咲かせる育てることは野菜を作るように土とかとも関係してめんどうなのである。
だから人間はあらゆることに通じることは不可能である。
私自身は庭に花を自ら植えたりしたがそれ以上変えるつもりはなかった。でも大工兼庭師が勝手に変えたのである。
それは悪いものではなかった。それなりに前とと違ったものとなりリニューアルされたのである。
それならまた金を払ってもいいと納得した。

このように庭のリニューアルでもリフォームでも前よりよくなればそれに金を払う。その人は今度は墓も作っていたので墓石が汚れているとしてそれを落とすということを言った。
確かに石が汚れて赤くなっている。だからそれも必要なのかと思った。
つまりその人は新たな仕事の需要を見つけたのである。
ただ金のない人はそんなことしなくてもいいともなるだろう。
ここで考えたことは今なかなか仕事がない時代になっている。
何か仕事と言うとき老人が増えれば病気とか介護になりその方面の需要は増えてくる。ただ仕事は需要があってこそある。でもまた新たに新た需要を作り出すことによって仕事も生まれる。
私自身庭を変えるということを少しは考えてもそんなに庭を変えようとは思っていなかった。そこに需要を自ら見出していなかったのである。

何か現在の仕事は新しく家を建てたりすることができなくなっている。少子高齢化でもあり若い人が少なければ家を建てる需要も
減少してくる。
この辺で新築の家が増加したのは原発事故の避難者が故郷に進めなくなった人たちが移住してきたからである。
だから新しい町が三つくらいできた感じになる。新興の住宅地ができたのである。
それも一段落したそれでもなぜ新しい住宅造成地ができるのかとか大東建設のアパートがまたできるのかと疑問だった

そんなに需要があるのか?

もうそんなにないのに依然として開発がなされていることがわからなかった。この記事を読んで明確に理解した
需要がないのに無理して作らねばならない理由がわかったのである。人口減少で自治体間で人の奪い合いになっているという説明である。この辺は原発事故で人が流動した。そして避難区域でわ
家は捨てられ田畑も捨てられ荒廃したのである。
でも周りの市や町に移住してそこは帰って人は増えたのである。このことは特殊なことであるが他でも起きていたことなのである。人口減少で人の奪い合いになっているということである。
需要がないのに土地造成をしてアパートを建てている。でもそうせざるを得ない理由が社会にある。
銀行でも貸付先がないから需要がないのにか金を貸して需要を作り出しているのである

現代は供給過剰社会になっている。だから空き家が増えても利用できるとしてもしない、新しい家を作りつづける。
経済理論では江戸時代でも常に大火がありそのために家が新築されるから需要が生まれて景気よくなったとなる。
戦争になれば奇妙だが家でもインフラでも破壊されるからやはり巨大な需要が生まれて景気よくなる会社も生まれる
経済にとって需要は大きな問題である。それであえて需要を作り出すため公共事業を国で作り出したケインズ理論が生まれたのである。ピラミッドの建設も需要を作り出す公共事業だったという新説もこのようにして生まれたのである。
供給と需要は密接な関係がある。供給が先か需要が先かとなると簡単に決められない、供給しても需要がなければ経済はまわらない、 百万都市の江戸は消費地として発展した
何か生産したわけではない、諸国の大名が集まる大消費地だったのである。別に何かを生産することもなかったのである

ともかく現代は供給過剰社会であり何か需要を見出すことがむずかしいにである。戦後の焼け野原だった何もなくなったから膨大な需要が生まれた。小さな店でも物がないから物を置けば売れたのである。需要に供給が追いつかなかったのである。
でも今は供給過剰社会である、これほど空き家があるのに利用されない、新しい家を建てつづけている。そうしなければならない理由がある。それは需要がなくても消費者側とは関係なく生産者側の要求でそうなっているのである。
でも少子高齢化社会では様々な新しい需要が生まれにくい、病気が増えるとか介護が増えるとかの需要が増大する、でもそれが経済成長には結びつかないのである。



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2023年02月10日

イギリスがなお金融を支配している訳 (タックスヘイブンはイギリスが操作している)


イギリスがなお金融を支配している訳

(タックスヘイブンはイギリスが操作している)

ここでアメリカは、年間約1000億ドル(約11兆円)の税収を、失っているという
もちろん、アメリカだけではなく、世界中の国々がタックスヘイブンの被害を受けている。
現在、世界の銀行資産の半分以上、多国籍企業の海外投資の3分の1が、タックスヘイブンを経由していると言われている。

国際経済において、イギリスが行ってきた「禁じ手」というのは、タックスヘイブンだけではない。現在、世界中で行われている「狡猾なマネーゲーム」の多くはイギリスが関与しているものである。

アメリカが最大の被害者に…世界中に害悪の"タックスヘイブン"が一掃されるどころか増え続けるワケ

タックスヘイブンを作ったのはイギリスだった。金融を支配しているのはアメリカではない、依然としてイギリスであるとしている、すると本当の世界経済の黒幕はイギリスだともなる。
大英帝国の支配体制がつづいていたのである。
国家自体がこうして盗賊の黒幕のようにもなっていたのである。
悪を無くすことができないのはなぜか、それはこうしてその黒幕国家となればイギリスという国家の利権を奪ないとできないとなる。
日本が最初に戦争したのがイギリスだった、その時の覇権国はイギリスだったからである、シンガポールとか向かいのマレーシアとかビルマでイギリスと日本が戦かったのである。
そこでイギリスを破ったことは快挙だったのである
でもアメリカが参戦して敗れたのである。
つまり覇権国になると金融を支配できる。今はアメリカが支配していると思っていた。世界の基軸通貨がドルだからである。
でもイギリスが金融の面で依然として支配していたのである。

世界を旅して面白かったのは貨幣が国ごとに違っていることである、ユーロ―になる前はヨ−ロッパでも必ず貨幣をりょうがいしなければならなかった
それがめんどうだったが別な国に入るということで興味を持つ、つまり国ごとに貨幣が違っていれば貨幣に興味を持つ、だから世界だと歴史が古いから貨幣そのものもにアンテー
コインの蒐集がある、それも現実にアンテークコインが実際に今通用している
高額な価かついて富裕層の資産確保として通用しているのもわかる
それだけ歴史が古いからアンテークコインが現実社会でも今も価値があるとなる
それは単なる趣味ではないのである
貨幣から外国の特にヨ−ロッパの歴史に興味を持つ、ギリシャの露店でドラクマを使う
その貨幣は紀元前から使われていたとなると古いのである

貨幣とは何かというと金融を支配することも世界の覇権国になる。だから大英帝国がありポンドが世界で通用したのである、ポンドは今のドルだったのである
そして意外なのは世界の金融の中心地はイギリスのシティでありニューヨークのウオール街ではない、タックスヘイブンで大きな損失を出していたのはアメリカだったのである
そもそもアメリカはイギリスの植民地から発展した、イギリスから独立したのである
イギリスが世界の覇権国になっていた、だからこそポンドが世界の基軸通貨になっていたドルが基軸通貨ということは世界で通用するのはドルである
ドルはか貨幣ではなく紙幣でも価値がある、だからエジプトの南の方でロバに乗った少年がワンドーラくれとなるのである、ドルはアフリカの果てまで通用しているのである
貨幣の価値は世界を支配する力を持った国が覇権国が持つ、貨幣その物に価値があるとはならない、ただ貨幣が黄金だったら貨幣そのものに価値がある、日本だったら小判がそうである

とにかく七つの海支配した大英帝国は消失した、でも依然として金融はイギリスが支配していたのかとなる、実質的力を失ってもタックスヘイブンを引き受けている国がイギリスの領土だったところである、そして大英帝国の繁栄の遺産が英語が国際語になっていることである、この二つがあってイギリスは力を失っても世界的なプレゼンスがある
だからアメリカもイギリスが所有するタックスヘイブンの島などで一番税金を損失しているとなっている
ニューヨークのウオール街が金融の支配地だとみていがそうではなかった
それでリーマンショックはイギリスのシティから始まったいたという
金融というのも大きな争いであり覇権国になっただけで巨額な富が集まるのである

その金融支配に抵抗してロシアとか中国では独自の世界通貨を作り通用させようとしている,ルーブルで取引しようとしたのである、結果的にルーブルの価値が下がらなかったのはロシアには石油とガスの資源がありその価値の裏付けがあって価値が下がらなかったのである、貨幣の価値はこうして資源とか軍事力とか技術力とかが関係している
そしてドラマではあるがオスマントルコが繁栄したときエジプトに赴任した部下が独自の通貨を作ったことで王が激怒して滅ぼされた、これはローマ帝国でもあった、地方に赴任した部下が独自の自分の肖像を彫った貨幣を流通させようとしていたからである
つまり貨幣とは支配の象徴なのである、イギリスが依然として金融を支配している時でもそうである、大英帝国の遺産があってそうなっていたのである

日本でも円が一時高かったのは高度成長時代がありその延長としてまだあったからである円が力を失ったのは日本の経済が低迷して成長しないからである、また売りとなるものが消失したからである。
要するに依然として大英帝国のイギリスは全部力を失ったわけではなかった、金融の面でやはり世界をリードしていたのである。でもそれは実質的力があるわけではない、そもそもタックスヘイブンとは国の税金を逃れるために作られた
それは明らかに公平なものではない、アメリカすら大損失になっていたからである
何か依然としてイギリスが黒幕として金融を牛耳っている、だからグロ−バル経済とはそもそも公平なものではないのである、覇権国に富が集まるシステムなのである
だから当然ロシアでも中国でも反発して自国の通貨を世界基軸通貨にしたいとなる
でもそうなるとオスマン帝国のエジプトに派遣されて支配した部下が滅ぼされたように
アメリカと戦争にもなるのである

いづれにしろ公平な市場などないのである、市場の公平な原理に基づいてグロ−バル経済があるわけではないのである。基本的に派遣争いになり軍事力とかがありそれで貨幣を強制的に通用されているのである。もし日本が戦争で勝っていたら日本円がアジアでも基軸通貨となり使われていたのである
日本はイギリスには勝ってもアメリカに負けたから公平な市場原理など通用しない、それで高度成長時代にアメリカの土地とかビルを買ったりして顰蹙を買い経済成長でも止められたとなる。グロ−バル化しても公平な市場原理は成立しない、アダムスミスの見えざる神の手などはないのである。必ず覇権国によって操作される覇権国が利益を得るようになっているのである
中国が覇権国になれば中国が利益を得るようになる、それに従わざるを得ないのである



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2022年12月14日

物と心が分離した経済 (でっかい磯部の梨を与えて考える)


物と心が分離した経済

(でっかい磯部の梨を与えて考える)


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でっかい磯部の梨

でっかい磯部でとれた梨
それを病院入院した母親に
食べさせろと息子に与えた
その息子は発達障害者
その梨を食べて癒されるが良い
与える心がその梨に宿りまた伝える
それはただ金で買うものではなく
心がその梨に宿る
磯部で育てられたでっかい梨
この土地に育まれこの土地の人の手で
いつくしみ育てられたもの
それはただ金で買うものではなく
その梨にはこの土地と人の手で
育てられたものとしての価値がある
物と心が一つになったもの
そうしてその梨を味わう時
その梨はただ食べるもの
腹を満たすものではなく
心も充たされるものとして価値がある
死者への供物は金はふさわしくない
土地の実りと人の手を加えたもの
実物を献げてこそ供養となる
その磯部のでっかい梨
ありがたく食すべしかな

古代ギリシャ語には「oikonomia(オイコノミア)」という単語があるんだけど、この単語を英語で表すと「management of a house government」という意味になるんだ。「oikos」という単語には家庭という意味があって、「nomia」はルールとか決まりという意味があるんだよ。つまり「家庭におけるきまりやルール」という意味の「oikonomia」という言葉が変化して「economy」になったと考えられるね。


今経済でも問題なのはグロ−バル化であり広域化経済でありグロ−バルな市場経済でありグロ−バルな金融資本主義でありとかその規模が余りにも大きすぎて本来の経済の言葉とはかけはなれるようになった
それは天文学的な数字となり株式市場でも金が動き数字化される
経済の語源は漢字だと経世済民なのである、民を救うということにあった
またエコノミーとは家政から始まっていたのだからその相違は余りにも大きいのである

そもそも現代社会がなぜ歪めれたかとなるとその起源が貨幣の出現によっていた
これはいい悪いにしろやはり人間が生活するために必然的に生まれたのである
物々交換ではとても商売も成り立たないからそうなった
でも貨幣を紙幣を媒介とするときそこにどうしても歪められるのである
だからこそ貨幣により物神化とか人間疎外がそこに現れたとかなる
これはむずかしいかそもそも貨幣が紙幣が生まれたこと自体にすでに経済を歪めるものとなったのである
そしてギリシャの紀元七世紀にもすべてが金だとなり嘆いていたのは今と同じである
すべての価値は金に還元されて後は無視されたのである
すでにそんな昔から金の弊害が極端化していたのである

そもそも価値はすべて貨幣で金で計れない!

これだけは確かである、市場化してそこで金で売買されてもそれが正当な価値として売買されないのである、そうした矛盾がすでにありマルクスの理論が生まれたのである
今は貨幣がデジタル化して数字になり株式市場では数字として処理されるだけになったのである

磯部でとれた梨の価値、その背景にはその育った土地がありまた育てた人がいて商品となる、でも市場にでるとその品質と値段だけが問題になる
買う人はその梨が作れる背景など考慮しないからである
現実にただ消費者がみるのはその梨がうまいか、後は値段だけである、一応生産した土地とか人を見ることはある、でも生産した人はみず梨の味とか値段だけを見るのである
でも地元だと磯部の梨ということでその土地と人でもイメージするのである
磯部は津波で村落自体が消失した、でも高台の方は被害がなく梨は作られていたのである
こうして商品経済になると人は味と値段しかなみない、現実に自分自身にしても近くに味噌屋があっても一人分買うとなるとめんどうになるからスーパーから選んで買うだけになる、また米でもいろいろな米があり地元の米を買うとは限らないのである
そうして商品は外国からも入ってくる、そしたらその商品がどうのこうのいちいち考えることもできないのである、ただ味とか品質とか値段しか見ないのである
そうして物と心は分離したのが現代のグロ−バル化した大規模経済なのである
そこで金が貨幣が大きな力を持つことになったのである
金はもともと地元にはない贅沢品を買うものとしてあった、それで宝貝などが貨幣の代わりとなったのである、漢字では必ず貝とつけば貨幣とか財になっていたからである
また貴金属が貨幣となったのは遊牧民などの財産となったのは持ち運びが容易だからそうなったのである

いづれにしろ磯部の梨というときその価値は地元でとれたものであるからどうして遠くでとれるものとは違ってそこにその土地と人をイメージする
外国とか遠くなるとまさにその商品しかみない、でもバナナをとるにも結構暑いし楽でないとと日本人が語る時、バナナがどうしてとれるのか知ったとなる
するとただバナナという商品だけを見ずにその背景を考えることになる
現代はとにかく物と心は分離しているのである、膨大な商品があってもいちいちそれがどういう経過で作られたのかとわからないからである
それで貧しい国の人達が工場で作られたらか安いものとして売られているとかグロ−バル経済でそれは人権として問題だとかなる、酷使されて作られたから問題とかなる
でも買う人はそんなこといちいち考えないのである、考えることもできないのである
そこで物と心は分離するのである

東洋的な思想では仏教でも色心不二というとき色は物でありそれが一体だと説いている
そもそも日本語でも物とはいうときものが憑くとか物心とか物と心は一体とみていたのである、そもそも物とは本来は値段がつけられないものともなる
例えば果物でもリンゴとかミカンとかバナナとかあってもそれは別々の価値があり味がありどっちが優れているというより別々の価値なのである
その価値は貨幣では計れないものなのである、それは色にもいろいろある、赤とか黄色とか青とかあると同じである、どっちが優れているというより別々の価値があることなのである

とにかく経済の規模が大きくなりすぎたのである、そうなると物と心は当然分離する
でも別に貿易とかは否定できない、ただ人間の心の問題として経済をみるときもう物と心は分離してしまったからこそマルクスの物神化により人間疎外とかになったのである
今や人間そのものが物であり貨幣で計られる存在でしかないのである
人間を金としてしか見ていないのである、だから私の家に金をくれると来て実際に屋探して大金を盗んだ人がいたのである、つまり人間は田舎であれ都会であれ今や関係ないのである、金こそすべてになってしまったのである
だから原発事故でも補償金をもらったらその土地をすぐ離れて仙台市に住んだとかばらばらに住むようになったのである、それは金があればどこでも住めるのだから原発事故で荒廃した故郷に住みたくないとなったのである、放射線被害があることでそうなったがそれだけでもない現代社会が金があれば別にどこに住んでもいいしもともと故郷に住みたくない人もいたらこの際一億円もらったら都会で暮らした方がいいとなり移り住んだ人も多いのである

ただそこで失われたものは何かなのか?

そのことが後でわかるようになるかもしれない、ただ現実は金しか見えなくなているのが現代社会なのである
ただ磯部の梨を与えた時、病人に与えた時、そこには何か物を通して心が通う、物と心が一体化したものとしてある、それを自ら梨を与えて感じたのである
もしこれが本当に私自身が梨を地元で作り与えたら本当に心と一体化したとなる
だから田舎で自分の土地で育ててとれた野菜でも分けてもらうときは何かスーパーで買うものとは違って心も受け取るとなる、ありがたいとなもなる
金になるとむしろ金で買う方が消費者が王様となってしまいそんなことにはならないのである

現代の人間はそもそも労働でもなんでも金で計られている、時給いくらだとかなるとあなたの価値はそれだけだとなる、その他は見ないのである
だから人間疎外として現れる、労働が人間を作り価値を作るものとなっていないのであるそのために労働を拒否するニートとか引きこもりが大量に現れたのである
もちろんここには甘えがあり問題があるから肯定できないとしても人間の労働は本来そういうものではない、人間の価値を作るものでありそれは必ずしも金で計れないものである人間の一生の価値がなにかとなったときそれは最後は金で計れない、そうなれば十億円ためた人が最高の価値がありとなり後世にも価値ある人として残るとなるが必ずしもそうではない、最後に人間の価値は金で計れない、その人の価値は何なのかとなると様々であり
でも金ですべては計れないのである、それで今になると銀行員の価値は下落した
投資信託でも株式でも証券会社のようになり銀行をもうけさせるだけであり銀行員の言う通りになるなというときそうである、それは銀行が得するものであり客はそうではないからである、するとどうなるのか、銀行員は地域に住んでいてもだます人なのかととも見てしまう、そうしたら田舎とかに住んでいても銀行員を価値あるものと見なくなる
そうしたら銀行員でもその職業自体いいものではないとやめる人も増えてくる
でも大工とか職人とかならその人はその腕に見合ったものが金として払ってもまた地元でも尊ばれるのである、それは医者とかでも農業とかでもそうである
すると銀行員になるより別な職業を選んだ方がいいとなる、そのために銀行員から農業をするようになった人がいたのもわかるとなる

金ですべての価値は計れない!

でも現実はそうなっている、そこに現代社会の大問題がある、グロ−バル経済がすべて否定できないにしてもそれが物と心を分離するからそうなるのである
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2022年11月28日

銀行がすすめる投資信託や金融商品の危険 (退職金二千万でも高度成長時代から比べれば安い)


銀行がすすめる投資信託や金融商品の危険

(退職金二千万でも高度成長時代から比べれば安い)

例えば、手数料が3%かかる投資信託を年に3回乗り換えた場合、3%×3回=9%の手数料がかかることになる。

1年間で10%近い利益を出すのは極めて難しくなるので、回転売買がいかに顧客のことを無視した手法であるかがお分かりいただけるのではないだろうか。

【元銀行員が語る】銀行で損をする日本人?!


これは自分でも経験した、リーマンショックで半分に減った株が元に戻った時、これを説明もせずに銀行員が売ったのである、そして別なものに回した
とにかく銀行員は顧客のもうけなど考えていない、だから転売するのである
株ではわかったのは長期的視野で見れば儲かるようになっている
短期的にはもうからないのである、株は常に変動しているからそうなる
だから安全なのはインデックス投資でありこれを長期的に保有することである
そこで一時的には上がり下がりがあっても長期的にみればもうかる
だから投資は若い人向きだとなる、30年後とか見れるからである
ただ自分の場合そんなに損したとういうことではないから銀行員を責めるわけでもない

でも銀行員は昔と違ってこうした詐欺まがいのものもを売りつけるようになったのである銀行は今まではこんなことをする必要がなかった、借りる人がいくらでもいるから金を集め預けられた金に利子をつければよかった、だから銀行に貯金するだけで利子が7パーセントとかの時代があった
そして不思議なのは退職金が二千万としても少ないと見ている
なぜなら利子が7パーセントになっていたら一千万積んでいたら70万の利子が入る
十年で700万になる、約二倍になっていたからである
だから今は二千万でも利子はつかないから投資してもむずかしいから増やせないのであるまた物価でも上がっているから実質は2000万の価値がないのである
だから意外と少ないとみるのである
今は物価高だから5千万以上ないと余裕がもていなだろう
それより貯金そのものが日本の円そのものが価値がなくなっている
円安になり価値がなくなっている
だから日本の金をもっていても価値がないとなる

だから高度成長時代とは違った時代であり金の価値はなくなったのである
それは日本経済全体が落ち込んでそうなったのである
日本の円が価値がないということは日本全体の価値がないということである
2000万というと大きな金に見えるが実際は違っている
物価が上がっているから相当に目減りしているし高度成長時代から比べると2000万は高いものではない、それだけ金の価値は変動するのである
遂には紙切れにもなるのである

確かに今老人は高度成長時代に貯えた金を持っている人がいる、でもその貯えた金の価値が下がったのである、金自体の価値は変動しやすい、実物ではないからである
本当の価値は実物である、石油とかガスとか食料でも工業製品に価値がある
紙幣そのものに価値はないのである
だから金というのは使った時価値がわかる、家を買うとか車を買うとかカメラを買うとかいろいろ買った時金の価値がわかる
でも金自体には紙幣は紙切れにすぎないのである
だからもともと紙幣の価値を黄金があって価値づけていたことでもわかる
紙幣の価値は黄金が裏付けしていた、それが金本位制だったのである
金でも小判だったら金なのだからその金その物に価値がある
だから小判を貯めていたら安心だともなる、黄金としての価値はあるからだ
ただ持ち運びするものとして貴金属が価値があり貨幣代わりにはなっていた
ベトナムで金属の塊りの重いものが貨幣になっていた、そんなものを持ち歩くことができないからどうしても貨幣が紙幣が発達したとなる

ともかく今銀行は何の用があるのだろうかとなる、貸金庫なのか?金を預けても利子がつかないとしたらまた投資信託や他の金融商品を売りつけるとしたら証券会社なのかとなる実際何回も証券会社の人と一緒に投資信託とかを売りつけに来たからである
金を借りて事業を起こす人も今なくなるといくら銀行に金をあづけても利子をつけることができない、金を借りて事業を起こした人がもうけて利子をつけることができる
だから本当に銀行の役割がいろいろと支払いでもデジタル化しているからなくなったとなるから苦しいとなる

要するに何か価値があるというとき個々人の個々の価値ではなく、全体が影響している
日本に売れるものがなくなったとき価値あるものが作りだせなかった時全体が貧乏化するのである
それは原発の避難区域でもそうである、立派な家と庭があっても空家化して住む人がいなくなったからである、普通だったら立派な家と庭があれば住みたい、金を出しても住みたいとなる、でも回りに商店でもなんでもないとすると住みたくないとなる
私の住んでいる場所でもそうである、弁当屋がないとか百円ショップがないとかないものがあり一人暮らしだとそれで困るのである
人間は余りに普通は全体のことを考えないのである、自分が良ければいいとかなっているでも原発避難区域のようになったところではもう全体が駄目になったから立派な家と庭があっても住みたくないとなったのである

金とか紙幣の価値はもともと変動しやすい、実物でも変動するが金はもともとそれ自体に価値がないのだから本当に紙切れにもなる
だから退職金二千万でも実際は高度成長時代の価値と比べると安いのである
つまり高度成長時代だったら二千万は四千万の価値があったからである
その差が大きいのである、私の家を新築したときは400万だったのである
今なら3000万以上になっていた、こうして時代によって物価でも相当な差がある
だから今の二千万は少ないともみてしまうのである、それは時代が違うからでありもし
日本の経済が成長続けていたら退職金でも倍とかに普通になっていた
現実にアメリカとかでも給料が二倍以上になっているからである
日本では全然給料があがっていないからである

いづれにしろ日本はなぜ貧困化しているのか

やはり価値あるものを作り出せない、外国に売れるものを作りだせない、そして資源もない、するといくら日本の円を刷ったとしても紙切れにすぎないともなる
現実にカンボジアとかベトナムの紙幣は本当に紙切れにすぎなかったからである
交換もできないからである、ドルだったら今なら円と倍でも交換できる
それで失敗したとなる、ただあるゆる価値は変動している、何が価値あるかも時代によって変わる、でも長い目で見れば株はもうかる、確かにリーマンショックのような暴落もあるが経済活動は止まることがないのだから回復してもうかるとなっていたのである
ただ私の場合は株とかでもわからない、投資信託もわからない、売り買いするものわからないから銀行に頼んだのである、でも銀行でも証券会社でも手数料商売であり回転販売されることが危険なのである、株だったらインデックスだったら長期的になればもうかるとなる、でもそういうものは銀行でも証券会社でも手数料がとれないからやりたくないのである、ただ自分でも知識があり取引できる人は株でも投資信託でも金融商品でもしてもいいのである、それで全部損することはない、円安になれば余計にそうなる
でもその知識がないと簡単にできないから銀行とかに頼んだのだがそれがまずかったということである

仲介するものに頼むと何か問題が起きる、メデアも仲介するものだから真実の報道をしない、そして銀行もメデアであり仲介するものだと指摘する人がいたが確かに媒介するものでありその媒介するものによって歪められるのである
宗教でも真実の教えがあり神が存在するとしても仲介するものとして介入する人がいて
カルト教団にでも騙されるのである、牧師がいたとしても仲介するものでありその人に頼ると歪められる、直接媒介するものがなく神への信仰になっればそういうことはないのである、つまり仲介するものメデアに頼ると常に危険なものになる
でも人間そんなにいろんな知識がないのだからメデアに頼ることになって失敗する
つまりこれだけ高度な知識社会になるともう専門家に頼る、でもその専門家によって歪められることにもなるのである


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2022年11月04日

日本の貧困化格差社会化の危険 (世界でも信用できず信頼できず社会は分断される)


日本の貧困化格差社会化の危険

世界でも信用できず信頼できず社会は分断される)


●階級社会の欧米

日本はあまりヨ−ロッパとかアメリカのように極端な格差社会、貴族社会とか階級社会はなかった、それは日本はもともと貧乏であり侍だからといって食べ物でもたいして庶民と変わりなかった、殿様くらいはいいものを食べていたとしても後はたいして変わりないのである
だから士農工商がそれは職業の分類であり階級の分類ではない
外国ではヨ−ロッパとかでその差が激しい、貴族の下で働く召使いたちは貴族の食べた余りものを食べてそれが庶民の料理として発展した
人間は食べ物に一番シビアなのである
そこに差が一番現れて貧乏を感じるのである、だから今私は果物が高くて買えないというときそうである、やはり貧困化して格差社会になると食べ物に影響する
それで栄養がとれないとかなる、それで病気になったのかもしれない

ヨ−ロッパとかに奴隷がいたのは民族と民族の争いが陸つづきでありまた多様な民族が混交しているから激しい争いがあり負けた民族が全部奴隷になることもある
それでスラブ民族はスレーブであり奴隷から来ているとなる
その民族の争そいが熾烈であり民族絶滅(ジェノサイド)も起きて来る
日本だと争ったとしてもそこまで熾烈にならない、歯止がある
それは同じ民族だということがある、日本は早い時期に一つの民族に島国の中で成った
からである
だから敵味方塚とかがある、ぼっしん戦争で東北で戦った九州とかの人でも戦死した人たちが手厚く葬られているのである、日本では戦争でも歯止がありジェノサイドにはならない、また奴隷化もしないのである

大陸だとその争いに容赦がない、異民族同士の争そいになり容赦がなくなる
そもそも階級社会はそこから生まれてきた、貴族がいて奴隷がいるというときその奴隷とは戦争で敗れた民族である、戦争に負けたら奴隷になるからだ
この奴隷にすることはアメリカに受け継がれて黒人は奴隷としてアフリカから連れてこられたのである
そしてなぜアメリカがまとまらないかというと人種差別があるのかとなると黒人はもともと奴隷とかありそういう歴史をひきづっているからである
それはヨ−ロッパの歴史から継続しているのである

ヨ−ロッパでも中国でも中東でも豪華な宮殿がある、中国でも始皇帝なら地下まで宮殿を作っていた、その富が支配者に集積されるのである、それが国が巨大だからそれだけの富みを持つことができる、今でも共産党の幹部が兆の金を持つとか妾を何十人持つとか継続されているのである、つまり支配者になると莫大な富が集中する
でもあれだけ中国が発展成長しても農民は依然として貧しいのである、とても14億の人間が豊になれないのである

●格差社会は国でも分断させる

どうして格差社会が問題になるのか、それは国がまとまらない、一体感を持てなくなる
そのことが具体的にわかるのは金持ちの家で働く召使とかに現れる
その生活の差が具体的に現れて感じるからである、それは食べ物に一番現れる
日本が貧困化するとき果物が高いから食べられないというときそうである
でも別にその人が働けば稼げればいいのだが高齢化して働けないということもある
そして必ず家に入って働く人は金持ちの家にきてその暮らしぶりを見てその格差を具体的に感じる、それは食べ物の差なのである、つまり貴族の余り物を食べるということに現れている、ただそれすらましな方だという時代でもあった
まともな食事にありつけない時代があったからである

そういう格差社会の何が問題かというと互いに信頼しあえない、共同できないことにもなる、それは金持ちにしても手伝ってもらうにしても必ず盗むことが起きる
とても信用できないのである、盗みはどこでも起きるが金持ちの家に働く人に起きやすいそれで雇う人を裸にして雇ったとかアメリカである、それだけ盗みが多いということである
つまりそうしたところで金持ちが働かせようとしても働く気になれない不満がある
すると盗んだ方がいいとなる、そういう格差があると互いに信用できないとなる
この信用があらゆるところで問題になる、別に手伝いさんでも十年とか働いていると
格差があるとしてもそれなりに納得して勤めるようになる、でも時間が必要になる
私もそれを実感した、別にその人は何もしないけどやはり最初は盗みがあった
でも五年間くらい家に来て互いに何か理解しあうものがありその人は盗むことはなくなった、つまり信用できる人となったのである
でもその期間は最低でも五年くらいかかるのである、人間が信用するということは最低でも五年くらいかかる、それでお手伝いさんを雇う時、ある家で十年勤めて問題なく信用されていれば信用できるとしているのもわかる
でも十年間の時間を見なければならないとなる

●どうして人間は信頼信用するのか

人間はそもそもこの信用が人間関係で一番問題なのである
第一初対面の人をまず信用できないだろう、それでこれまでは農家だったら三代同じ場所で働いていないと信用できないとなっていた、農家として認められないとかあった
つまりそれだけもう三代でも同じ地域で共に働くということで信頼を培ったのである
だから昔の農家とかなると簡単に新入りは仲間になれないとなる
それは時代遅れとなっている、だから農業はかえって会社組織にしてそこで信頼してやると楽だとなる、昔の村社会のような所で農家になることはむずかしいとなる
ただここで言えるのはいかに人が信頼して信用して共同することがむずかしいかということである
それには時間がかかる、昔なら三代同じ地域に生きて信頼ができるとなっていた
江戸時代はこうして村社会を基本としていたから強固な信頼関係があり共に生活していたとなる、江戸時代は農民社会であり変化があまりないからできたとなる

ともかく人間がどうして信用しあうか、信頼しあうかが大きな問題である
それが格差社会とか広域社会とかグロ−バル社会になると村社会とかとはまるで違った世界に生きるようになった、その時どうして信頼し合うのかとなる
だから契約が生まれたのは大陸だと異民族同士が信頼しあうことは非常にむずかしい
それで契約をしてその損失をまねがれるために細かいところまで契約書に書いて保証したとなる、それは遊牧民社会から生まれた、遊牧民は移動するから商業民にもなるからである、するとどうして信頼するかとなると商売してどうして損しないようにするかとなり契約したとなる、ただその契約でも破られることがある、それを守るのは軍事力だとなる
今なら警察力だとなる、強制する力がないと守れないとなるからだ
つまり商業でもどうしたら信用しあえるのかということがまずある
だからこの信用というのはどこでも問題になるのである

そして格差社会が悪いのは上と下で格差が激しいと金持ちの家に来て働く人が盗むように信頼し合えないのである、それを国単位になると国自体がまとまらない、離反して暮らすようになる、金持ちは盗まれるからと鉄条網を作り家を囲む、また外国の金持ちは私兵を雇うともなる、財産を守るためにそうなる
そうなると国自体がまとまらない、共同できなくなる、それがアメリカでも起きている
極端な格差社会であり数パーセントの人達がアメリカの富の半分をもっているとかなっているからである
そういう国はもう国自体がまとまらない、そこで対立も激しくなり内戦状態になっているというのもわかる、そこに格差社会の恐ろしさがある
金持でも安閑としていられないのである、絶えず盗まれるとか襲われるとか恐怖の中で生きていかねばならないのである、それが格差社会の問題であり世界的にもグロ−バル化するとアメリカのほんの一部の人達に世界の富が収奪される、金融とかでももうける人達がそうである、それは公平な市場ではない、操作された市場である
そこに信じられない格差が生まれている、そういうシステムが資本主義でもやはり破綻してゆくだろう、それは金持ちの家で働いて具体的に感じることができないから維持できるのかもしれない、外国のこととなると見えないしわかりにくいからである
でもこうした極端な格差社会はやがて信頼しえない信用しえないとなり破綻する
公平な富の分配がなく搾取されだけだとなるからである

つまり格差社会は互いに信頼信用しえない

このことが致命的になり破綻する、それは金持ちの家で働く人が常に盗むということでもわかる、食べ物でも差がありそこで互いに信用できないのである
つまりその格差でも大きくなければいいが大きくなると社会自体が分裂する
そういうことが世界で起きて来る、アメリカが内戦状態だというときそれが原因にもなっている,ヒスパニックなど移民が増えてその人達は英語もしりべられないとかなり意思疎通が難しくなっているからである、そして貧富の差も大きいからである
とにかく人間が互いにどうしたら信頼して信用するかが大きな問題なのである
広域化グロ−バル化するとそのどうして信用するのかとなる
村社会とはまるで違った社会になっているからである
大勢の見知らぬ人達が交わる社会でどうして信用する信頼することができるのかとなる
グロ−バル社会ではそれができないから破綻するとなる
株でも誰かがうまいこと操作して楽して大儲けしているとかなる
つまり株でも実際は信頼していない、それは八百長の博打と同じのようにも見ているのである、公平だと見ていない、だからもう株など信用できないともなる
そうして資本主義でも社会主義でも国自体が破綻してゆく、それが格差社会の深刻な問題なのである
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2022年10月26日

銀行にまかせる投資は危険 (投資は長期的にしないとだめー金より時間が価値あるものだった)


 銀行にまかせる投資は危険

 (投資は長期的にしないとだめー金より時間が価値あるものだった)

何もしなければ10倍になっていたのに…投資信託を買う人がどうしてもやってしまう"最悪の行動"

これは自分の経験からもそうだった、そもそも間違っていたのが銀行にまかせたことである、銀行は投資のプロでもないし素人と同じなのである
ただ私は手続きとかめんどうだからまかせただけである
投資は別に自分で手続きして自分でトレダーになるのならいいのである
でもそうなると一日中パソコンの画面を見て取引することになるからめんどうになる
その時間がもったいないとなる、それでもうけても何かその人の価値を作るのかとなるとないとなる
私は何億円も株でもうけましたよと語ってもそれがその人の価値となるとも思えない
人間の価値は金で計るが全部は計れないからである

例えば大工さんの価値はやはりその腕にある、これまで培ったスキルがありそれは修行して訓練して仕事するなかで作られたものでありそこには価値がある
人間は何かしら積み重ねたものがありそれが実りとなり価値を作り出す
例え金にならなくてもやはり芸術とか学問でもなんでも価値を作りだす
私は株で百億円もうけましたよとなってもその人の価値は金にしかないとしたらどうなるのか、人はその金のことしか見ないのである
でもその金に魅かれる人はある、でもあくまでも金だけでありその人自身の価値ではないとなる

だから人間は意外と何に時間を費やしたかで人間の価値か決まる、そして時間だけは金持ちでも貧乏人でも平等に配分されている、特別多く配分されないのである
だから長生きするとそれだけ時間が多く使われるから早死にの時代よりその人の価値を高めることができる、高齢化社会の地獄を書いたがいい点としては生きる時間が長くなったことである、すると長い目で積み重ねでその人なりの価値を高めることができる
もちろん投資する金も必要である、ただ金だけでは何かすべての価値を作り出すことはできないのである
別にたいして金がなくても旅はできる、でも社長とかなくと忙しくてできないという
つまり時間はあらゆることに費やすことはできない、社長だったら社長の仕事があり他のことに時間を使うことはできないのである

例えば一つの外国語でも習得するとなると相当な時間がかかる、英語でも日本人がしゃべれないというとき外国語の習得が日本語からだとむずかしいからだとなる
すると膨大な時間を費やしてもしゃべれる人はまれだとなる
結局何をするにしても金だけではない時間がかかるのである
投資というのは確かに時間がかかる、それはリーマンショックの時、半分に下がった
ても8年後に元にもどしてその後に倍くらいになったのである
でも銀行員は上がった時に元にもどった時売ったのである

普通だったら上がり調子の時は売らない、では何故そうなったのか?

それは銀行の都合でそうなった、銀行でもうけるためにそうしたのである
一方的に話し合いもせず銀行員は売ったのである

何故そうしたのか?

銀行員はこうして株でも投資信託でも転売させる、そして別な商品を買わせる
するとその投資額が大きいと手数料が入るからもうかる
ただ自分の都合でもうけるのために銀行員だったらノルマのために転売するのである
だから銀行員には頼むことはするべきでなかったとなる
ただ投資は株でもリスクがあるのだから全部が銀行員の責任とはならない
結局自己責任になるのが自由主義民主主義の社会だからである

でも本当にそのままにしておけば倍にはなったのである
他でも転売したりして失敗した、というのはこんなに円安となることが信じられないとなるからである
もし外国に株を投資していればアメリカに投資していたら相当なもうけになったと驚いたからである
アメリカにも投資していたからである、だからこれも失敗だった
銀行にはそもそも素人であり頼むべきではない、頼んでも銀行員に判断させないで自分で判断することである、売る売らないは自分で判断できるからである

ともかく銀行員には投資は頼むな

これだけは間違いない、投資自体は資本主義社会だから悪いものではない
でも銀行は投資とか証券とか株の素人なのである、また証券会社と違ってそういうものを売るノウハウとか蓄積がないのである、だから銀行は証券とかには素人と同じなのであるただ銀行というとやはり会社とかに投資したり金をだしたりしているからプロだと思っていたのである

なぜ銀行がだめになったのか?

これまでは高度成長時代は会社を始めた人がいくらでも貸してくれと銀行に頼みに来た
でもここ30年は日本経済が低迷して借りに来る人が減って金余りにになったのである
だから利子もつかないし逆に手数料がとられるとか投資信託を売りつけられとかになった銀行とは何か今までは信頼できるものとして地域であった
堅い職業としてあった、でもそれも崩れた、それはゆうちょでもそうである
とにかく利子をつけられないということは致命的である
何のために金を預けているのかわからないのである
ただ貸金庫なのかともなる、そして預金封鎖があるとかなんと悪い話ばかりなのである
紙幣は紙切れになるとかである

ここで投資とは30年くらいみて投資しろとしている、それは確かにそうである
つまり上がり下がりがありその間に放っておいてももうかるとなる
それはリーマンショックの時半分になったのが元にもどりそれから倍くらいになったことでもわかる、それでも10年くらいの間のことである
このように投資とは長い期間を見ないと成功しないのである
短期間ではもうけることはできない、つまり投資の株のスキル以前に時間が問題だったのである

要するに人間の問題は意外と時間の活用が関係してくる、時間だけは一挙に増やしたりできない、30年間を見ろとなると長いとなるがそれが別に若い人だったらできるのである若い人の有利なのは体力があるとういだけではない時間があるという事でも有利なのである
それで庭に木を植えてもそれが育つまで十年かかるとすると植える木もなくなった
また家でも直してもリホームしてももう十年も生きないとると直す気にもなれないとなるだから老人は投資だけではない消費することすらできないとなる
ただこれまで費やした時間が何であったか問われる、学問にしても芸術にしてもこれも会得するに時間がかかるからである
一億円あってもではすぐに習得できるかとなるとならない、語学にしてもいくら一億円もらってもすぐに身につかないのである
それはあらゆることでそうである、何か技術でもすぐに身につかない、必ず時間がかかるのである

だから人生をふりかえれば

時間>金

時間の方が金より貴重だったとなる、もう最後は時間がないで終わる
金でないから終るという人もいるが何かする時間をがなくなって終わるとなる
時間切れで終わるというのが人生だとなっていたのである

そして大事なのはタイミングだ!

何するにもタイミングが大事である、投資でも株でもそうだった、もし株でも投資信託でも売らないでもちつづけたら大儲けだった
でも今になるとこれだけ円安になったからそのタイミングがはずれてできなくなった
投資するタイミングは株安の時だったからである
そして私自身タイミングをはずれて50代でバックパッカーになって外国に行ったが
今になるとそのタイミングをはずと外国旅行はできなかった
あとで親の介護になって国内すら旅行できなくなったからである
つまり何らかタイミングをはずすとチャンスを逃すとできなくなる
そしてそのタイミングとかチャンスは何度もないのである

それは人間の生きる時間が限られているからだ!

それが老人になって痛切にわかるのである

 ひとくちに30年間と言いますが、その間には株価の上り下がりは数え切れないぐらいありました。例えば大きな下落でいうと、1987年10月19日のブラックマンデーではNYダウ平均株価が一日で22.6%も下落しました。でも何もせずにそのまま持っていれば、その30年間でほぼ10倍になっているのです。

ただ正直これだけの長い時間を何もしないで待つとういことはむずかしい
何か不安にもなるから売った方がいいとなるからだ
自分の場合は銀行員がノルマを果たすため手数料をとるために売られたのである
だから別にもし本当にまかせられる人がいたらそうすればいいがそういう人はまれだろう銀行では銀行のもうけしか考えないからである
だから常に転売することをすすめる、そして新たに買わせて手数料をとるのである

とにかく老人には投資は株でも投資信託でも向いていないのは長い目で見れないからである
庭に木を植えても十年とかかかるとなるとその頃生きているのかとなり種を植えることもはばかるようになる、何か家を直してもあと何年生きているのだかなる
つまり時間が限られているから投資に向かないのである
ただ投資した成果を実りを老人になったら得るということである
それは金とは限らないのである、経験であり何かの習得であったりそれぞれに生きた時間で得たものが価値となるのである
未来に向かって投資することはいくら金があってもできない、時間が限られているからである
でも高齢化社会になると百才まで元気で生きるとなればそれだけ時間があるのだから
まだまだということもあるがやはりもう新たな投資することはむずかしいとなる

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2022年10月12日

グロ−バリゼーションと資本主義の縮小化 (物の値段はどうして決まる)


  グロ−バリゼーションと資本主義の縮小化

  (物の値段はどうして決まる)

●物の値段がどうして決まるのか

農業の場合

●人件費
●原材料費
●技術設備費用(機械化)
●肥料代
●輸送費用
●燃料代

例えば今肥料がウクライナ戦争で高くなっている、供給が減少したから供給できない
また世界的にコロナウィルスなどで半導体不足になりそもそも商品が機械でも作れない自体になっている
ヤマハの最新作のYPJの電動自転車が作れていない、それもいつ作れるかわからないという、供給ができなくなっているのだ
それは車でも起きている、どこでも半導体が必要でありそれで作れないから新車が買えないとしている、それで中古車が売れているという、高く売れているという
中古車はもともと需要が大きかったからさらに大きくなったのである

物の値段は農業だったら原材料としてかかるものがある、特に肥料代が一番かかる
農業は肥料なくしてできない、肥料が最重要課題なのである
だから焼畑だと森林を燃やして灰にして窒素などを取り出して肥料にしたのである
また尿や糞も肥料にしたし枯葉とかも肥料になった
また北海道のニシンが大量にとれたときそれは人間が食べるものではなかった
肥料として全国に売ったのである、それだけ肥料は農業の生命線なのである

それから現代の農業は今までの農業とは違う、昔だったら田植えでも稲刈りでも人力でしていた、すると人件費がかかるが機械に変わった、でも機械には燃料として石油を使う
またハウス栽培が増えた時、電気でも暖房するこめにも石油を使う、その電気の材料が何かというと石油なのである、だから石油の値段が経済を左右するのである
石油ショックもそのために起きたのである

●値段でも輸送費用が大きい

そして現代社会でかかるのは輸送費用だ!

グロ−バル化すれば世界に物を運ぶのだから輸送費が大きなものとなる、日本国内でも日本全国なのだから輸送費がコストとしてかかる、例えば近くの梨農家で相馬市まで梨をリヤカーで運んでいたという、15キロも相馬市まである、だからその労力は余りにも大きいものだったのである、でも相馬市なら人口が多いから売れたから苦労しても運んだのである
とにかく現代の経済は米をとるのにただ米だけを見ていてはわからない
米をとるにも肥料が必要であり機械が必要であり輸送も必要でありと昔の農業とは違っている、だから必ずしも米はとれているから米は上がらないとかならない
外国から肥料代もかかるし運ぶとなると石油でもかかる、つまり輸送代も大きいのである機械を動かすにも石油が必要でありまた電気も使いハウス栽培しているのである
だから米は日本で十分とれているから高くならないとは限らないのである
それはグロ−バル経済なのである、一見米なら十分にあるように見えるがそれをとるにも食べるにもやはりグロ−バル化していたりする
つまり何でももう国内産だけではやっていけなくなっている、そういうシステムとして農業も組み入れられていたからである

工業製品でも自国だけで作れない、世界中から部品をとりよせて組み立てるとかなる
それで心臓部の半導体が不足したことが致命的になったのである
世界がサプライチェーンになっていたからである
つまり世界が密接に結び付くということは世界情勢に左右される
ウクライナ戦争でそれが現れた、小麦が入らなくなりアフリカでは食料が得られないので餓死にもなるとなり深刻化したのである
またロシアが意外と旧式の武器を使っていて弱かったというときグロ−バル化して技術の面で実際は遅れていたためである
農業でもそうなように工業ならさらにグロ−バル化しているからそうなる
技術的に遅れるとその国自体の国力にも影響してくるのである

●グロ−バル化資本主義の限界現象

でも今世界で何が起きているのか?

それはグロ−バル化とか資本主義の限界が見えてきたということである
私はグロ−バル経済を批判してきた、でもそれが批判するまでもなくグロ−バル化は縮小する、コロナウィルスとかウクライナ戦争とかまた資本主義が機能しなくなったことでそうなる
資本主義とかは常に投資先が必要になるシステムである
そのために資金が必要でありファンドが必要になる、でもその資金でも投資先がなくなれば機能しなくなる、それが具体的には日本の銀行でも起きている
金は集めても投資先がないのである、地方銀行でも高度成長時代は金を借りにくる会社がいくらでもいた、高度成長時代は資金必要として新しい事業を起こす人がいくらでもいたからだとなる、そのためには資金が必要だからである

私でも駄菓子屋のような店を始めるためにもわずかでも資金が必要であった
でも銀行では貸してくれずに苦労したのである
今は事業を起こすから銀行に金を貸してくれという人は減った、すると銀行は必要ないとまでなって苦しんでいる、何でももうけていいのかわからない、それで投資信託とかを売るようになった、それは必ず手数料が確実に入るから銀行にとっては損しないいい商売なのである
でも実際は銀行の預金でもそれを投資していれば必ず銀行でも損するリスクがある
それでも怪しいアメリカのCLOとかにジャンク債とかに投資して大損するとか警告されいる、でも農協でも農民から集めた金をそういう怪しい所に投資しているのである
金余りであっても投資先がないのである

それでスペインが衰退したのは金銀を集めたのだがその金銀を使って投資する先がなくて衰退した、イギリスとかだと金を産業革命が起り投資して七つの海を支配する大英帝国を築いた、でもスペインは投資先がなくなり衰退したのである
だからいくら金があっても金銀があっても豊かになれないなのである
投資先がありそこに金をつぎこんでもうけがでれば豊かになるのである
葡萄栽培でも土地がありさらに大量の葡萄を作ればもうけになる、でもその土地を全部使ってしまいばそれ以上大量には作れなくなる、そして今度は葡萄の質のいいものを作ることに技術開発するのである
日本の米でもそうである、日本の米の生産も最初は新田開発で量を増やして人口を増えたのである、でもその土地に限界があり今度は一反辺りの面積でも量をとれるようにした
さらに今は質も良くしてうまい米が食べるようになったのである
それは量の拡大ではなかったのである

経済は確かに需要と供給の原理で働いている、日本でも戦後高度成長したのはアメリカが電機製品を買ってくれたからである、アメリカが巨大な消費地としてあったからなのである、いくら物を作ってもそれを消費してくれなかったらもうけることはできないからである、戦前の養蚕でも絹を作るのに日本の生糸をアメリカで買ってくれたから農業が成り立っていたとなる、巨大な消費地があったから成立つ産業だったのである
つまり明治維新後は世界が経済の場となり市場となりグロ−バル化していたのである
それが現代になり頂点に達してコロナウィルスとかウクライナ戦争とかさらに自然破壊とかなりグロ−バル化とか資本主義は限界に達したのである
またグロ−バル化の弊害を述べて来たがグロ−バル化とは自然破壊にもなったから持続可能な社会としてのSDCG(持続化可能社会)が言われるようになったのである

●世界の大きな転換期

ともかく世界は大きな転換期を迎えている、そこに混乱が起きている
こんなに円安になり物価高になるにも驚いた、この変化も大きい、これにどう対処していいかもわからない、これは小手先の金融政策では対処できないものだろう
なぜなら世界的変化として起きているからだ、その世界の大変化の中で起きることだから簡単には日本だけでもどうにもならなん問題だとなる
それは一過性ではなく持続するというとき対処方法がないともなる
金勇政策だけではどうにもならないともなる
ただグロ−バル化は終わる時国内経済重視となり江戸時代の鎖国ではないが国内回帰とかにもなる、つまりグロ−バル化と資本主義には無理があったのである
その無理が自然を破壊するとか自然の理に反していたのである
コロナウィルスでもグロ−バル化して一挙に広がったのである
人間は基本的に生態系に依拠して生きるものであり生態系を離れてありえないのである
だから原発事故でも生態系を無視して作られたから事故になり住民が故郷に住めなくなったともなるのである、その被害は余りにも甚大だったのである

いづれにしろ今は時代の大きな変わり目でありそこでいろいろな混乱が起きてくる
ウクライナ戦争でもコロナウィルスでもそうである、そしてこういうときは株とかに手を出すなとか大きな買い物、車などは買うなとかなる
なぜなら優先するものは食料だとなるからである、車などでも増えすぎたのである
だから車が少なくなることはかえって騒音もなくなり落ち着くともなる
何かそもそも生活自体を見直す、必ずしも経済優先ではないものにすることも人間にとって幸福かもしれないからだ
あらゆることが経済優先になりすぎたのである、資本主義とはそういうものでありそれも限界に達したのである、だから何か時代の思想も変えねばならないとなる
資本主義も民主主義でも思想なのである、でもそれも変えねばならないとなった
だから独裁がいいというのではない、そもそもグロ−バル化というのも必ずしもいいものではないのである、だから食料でも基本的には国内でまかなうのが自然の理なのである
自然の理に逆らうことは人間にできない、そうなれば必ず災いが生まれる
それが原発事故でもあったからだ、ただ昔の貧乏に帰れというのではない
何か行き過ぎたものがありそのゆりもどしが来たのである

そもそも電気がなくて車がなくて暮らせないとなっているのがおかしいのである
第一縄文時代から江戸時代まで電気がなくても暮らしていたからである
戦後でも電気など裸電球一つであり水道もない洗濯機も冷蔵庫もなくても死ぬこともなかったのである、貧乏でもそれで人間の生活が途絶えることはなかった
逆にその時子供がわんさといたことの不思議である、食べるものもないような状態でなぜ多くの子供がいて育てられたのかとなる
別に電気を否定するわけではない、ただ電気がなくても石油がなくても人間は死なない
生活は継続されるのである、電気がなくなったらもう終わりだとか石油がなくなったらもう終わりだとかなっているけど実際は人間の歴史は江戸時代までそんなものなくても暮らしていけたということである、だから電気がなくなっても石油が入らなくても人間の生活は維持できるし継続できるのである
その辺を見直すことが迫られている、何か技術的にも見直す、電気だけではない何か方法かあるのではないかとなる
実際は日本は森の国でありでも木材を利用していない、外材に頼るとか不自然なのであるそうして自然の理にかなわないことが災いを産むということが怖いのである
それが原発事故として現象化したともなるのである

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この本はわかりやすい、でも対策は大きな買い物を家とか車を買うなとくらいしかないと書いている
何か有効な対策がないのである、貯金は危険だとしても株がいいとか外貨預金がいいとしても
それもリスクがある、結局この世の中はあるゆることにリスクがある

そもそも生きていること自体リスクだ!

これが世の中なのである


posted by 天華 at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年10月01日

何のために働くのか-働く意味を求める時代 (働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)


何のために働くのか-働く意味を求める時代

(働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)

●働く意味の追求

人間はまずあの人は何をして食べているのか?どんな仕事をしているのか?
それをみる

でも

何をしているのか、何の仕事をしているのか?

それと何のために働いているのかは違っている

まずあの人は何をしているのか、どういう仕事なのかをみる、大工さんなら家を建てるとか家を直してくれたとかわかりやすい、土木関係は道路を直したとかわかりやすい
それはあまり何のためとか考えない、家を直してもらえば客に喜ばれるし道を直してもらえば喜ばれる
だからこういう仕事で何のために働いているとか考えないのである
普通はいちいち何のために働いているとか考えない、金になればいいとなる
利益をあげることである、それに多少問題があり不正があったとしてもあまり考えないことがある、まず利益だ、金を得ることだとして働いている人も多いからである

何のために働いているのか?

こう考えるのは別に普通の人でも哲学者になっているのである
それで漁業者が放射性物質の汚染で魚がとれなくなったとき俺はなぜここにいるのかと問うようになった
それは漁業者は特別東電からでも政府からでも事故前も事故後も手厚い補償金をもらっていたからである、漁業権がありそれが大きな権利だからそうなった
でもそうして魚をとらないでも暮らしていけるのだけど自分はなぜ何もしないで港にいるのかと問うようになったのである

要するに漁業者の仕事は魚をとることであり東電から補償金をもらうことではなかったからである、だから魚をとっていれば魚を食べる人がいてありがたいとなっていたのであるそれで別に暮らしに困らないとしてもその人が地域社会でも何のために存在するのかとまでなった
そしてなぜ漁業関係者は船主などは特別補償金をもらっているのかとなり回りからうらやましがられた、それは事故前でも特別補償金を多くもらっていたからうらやましがられていたのである
そもそも漁業者は魚をとり提供することで地域社会でも存在価値があったからだ
海で魚をとることは結構危険でありだから漁師の仕事は地域社会にとって価値あるものとなっていたしその魚をとる人間も価値あるものとなっていたのである

人間はとにかく金にあればいいとして働くことが多い、その仕事が何のためなのかと問わないことがある、第一今は仕事の種類が多すぎるからである
利益が上がれば金になることが先決でありその仕事が何のためかなど考えない
東電とか電力会社でも電気を供給することでありそこに疑問を感じることもないしそれが有用だから誰も事故がなければ責めないしありがたいものとなっていたのである
何のためになど考える必要もなかった

●何のために働くかは哲学的問題でもある

でも何のために働いているのか、これは哲学的問題になっているのだ

ある人はゴルフ関係の道具を作っている、それは意外と近くの藤倉ゴムとかで作っていたのである、そうか、ゴルフの道具を作る仕事なのかとその人は大工さんだけど認識した
まずその人は何で働いているかをみる、それは一日一万二千円になる
二日しか働かなくても賃金としては高いなとみる
でもゴルフをしないものにはゴルフは遊びじゃないかとも見る
そしてゴルフをする人は比較的金持ちが多い、その人は金持ちの遊びのために働いているのかともなる、老人は暇なのでパークゴルフをしている、でもそれには金はかからない
本格的なゴルフとは違っているからである
でもそんなゴルフをするための人に働いてるということを認識した
すると何のために働いているのか?そうして金持ちの遊びのために働いているのかとなるこんなこといちいち考える人はいないだろう

でもこの辺で起きたことは何かいろいろ考えさせることが多かったのである
それを私は追求して来た、双葉とか浪江とか小高では避難区域になり住めなくなった
そこから仮設住宅に移り住んだ人が多い、その時何もすることかなくなりパチンコとかギャンブル通いになった
そしてかわいそうだとして外部から毎日のようにボランティアが来ていたのである
そのことで地元の人のひんしゅくをかった
あいつらは毎日遊んでいるとかなり外部から来たボランティアとか働く人は不満だったのである、汗を流して復興のために働いた人達は外部の人達だったからである

つまり働くということは何か意義があり意味がある、原発避難者は遊んでいるだけだとか不満になる、そうなるとそんな避難者に尽くすのは馬鹿げているともなるからだ
働くというとき誰かのために働くということがある
家族のために働く、子供のために妻のために働くというのも大きな動機になる
何のために働くのかとなると家族のためだとなるのも多い、その仕事の内容が何であれそうなっている人も多い、そもそも働くとは端を楽にするという意味だったからである
狭い範囲で華族ても苦労して働いているのを見て苦しいから手伝うとかが働くことの言葉の起りだったからである、だから働くといってもいろいろな動機がある
それを一がいに否定できないのである

でも最近いろいろと何のために事業でもするのかとか問題になる、そんなこと無駄じゃないかとも問われる、オリッピックがそうだった、それが何のためにするのか、意味がなくなったからである、東京オリッピックは日本が復興したということを世界に見せるためであり意味があったが今回は意味が明確に見いだせなかったからだ
そして結局そのオリッピックにあづかって儲ける人達のものだったこともわかったからである、大きな賄賂の金が流れていたからである

●何のために事業をするのか?

何のためにするのかというときある人が事業を起こした、それは何のためかとなる利益を得るためにしても何か明確ではない、都会の人に別荘を提供するためだとかまた田舎じゃ金にならないとか言っていた、つまり別荘をもてるのは東京の金持ちでありその金持を相手にしてもうけたいとなっていた
その人は技術者だから家を建てる技術とかあるからそうなった
でもここで問題なのは技術的なものと何のためにするのかとは違ったものである
この技術力があるということは理系の人である、でも何のために考えるのは文系なのである、理系の人は技術者として優秀であればいい、建物をそれも壊れない耐震設計にしてとか地盤を見たり簡単に壊れないように作る、安全を計り作る

でもこの建物を何のために作るのか?

このことは余り考えないのである、ただ鉄道にしても早く目的地に着くために技術開発をすすめる、そしてリニアを作るとなる、でもそのリニアが本当に必要なのかどうかは考えない、でも常に技術開発は奨められるのである
リニアは本当に必要なかどうかは考えない、新幹線で十分だという人もいるからだ
ただ技術開発は常にすすめられるのである、
例えば原発にしても核が危険だからやめるべきだというときでも危険でも開発はすすめられるのが価格技術の世界である
結局哲学となると

あるべきかあらざるべきかと問うことになる

それは文系的思考になる、別荘を東京の金持ちの人のために提供するために働く、その人の動機は何かというとそうして金をもうけるということだった
そして事業に失敗して借金になったのである
でも何かそういうことのために動機でしたことで失敗した、そもそもその動機を見れば
そんなことして何になるのかともなる
それで失敗したからとして自己責任だともなる、同情できないとなる

ともかく人間は何のためかなど考えない、カルト教団の人達は特に何も考えない、ただ拝んで利益があがればいいだけだとしかない、それに疑問を持つ人もいない
宗教だと特に批判できないから完全に洗脳されて従うようになる
何のために拝むのかとなると御利益福運になるからしかないのである
そして大衆は考えない人達である、だから盲目的に従う、それが大衆ファシズムになるのである、だから宗教は人間を奴隷にしやすいのである

●働くことの意義を求める

いづれにしろゴルフの道具を作るために藤倉という会社があることは知った
でもではゴルフの道具を作るためにどんな意義があるのかと問うと金持の遊びのために働いているのかともみる、そこまでいちいち考える人はいない、でも最近そういうことが問われることが多くなったのはなぜなのか?
それは橋がなければ橋が必要だしそれをいちいち考える必要はない、また道路がなければ道路を作る必要がありそれを考える必要がなかった
でもそういうものインフラでも整ってくればリニアとか海底トンネルとか必要なのかと考える、それはやはり貧乏国とは違って豊かになると考えるとなる、哲学とはやはり豊かになったから生まれるたものだとなる
食べることに追われていたら考えないからである

働くこと関しても最近何か変わっている、自分の好きなことをしろとか会社に頼るなとか会社は唯一の価値ではないとか学歴は関係ないとか何か会社中心主義の社会が変わっている、いい大学に入り大企業に入るというのが勝ち組とはならない
これは団塊の世代からすると企業戦士として会社に滅私奉公したのだからそういう考え方とか価値観とかについていけないだろう
でも組織集団が価値がある時代から個々人の価値を追求する時代になったのかとなる
でもそれが世代が違うとぴんと来ない、ただ70年くらい過ぎる価値観ががらりと変わることがある、戦争の時代は国家が最優先課題であった、でも戦争に負けると国家はなくなっていなくても国家中心ではなくなった、その変化も大きかった

それて戦争から帰ってきた人たちは戸惑ったのである
ジャングルに残って日本兵が小野田少尉のように戦いつづけていた人がいた
それは極端にしてもこの変化は何なのだと理解できなかったのである
別世界から来た人のようになっていたのである
それで自分の好きなことをしろとか自分勝手に生きろとか言うこと時代私自身はそう生きてきても理解しかねるのである

ただ働くという時人のために働くことでありそういうことは変わっていない、会社中心の働き方が変わるとういことである
そもそも戦争の時でも何で戦うのか戦争のために死ななければならないのか悩んだ人はいる、特攻隊は20代だから特にそうだった、死ぬのが嫌だったからである
いくら社会が賞讃しても死ぬのが嫌だから煩悶したのである

何のために死ぬのか?

それが後になっても尾を引いている、それは死者を供養するときでもそうなのである
つまり何のための戦争だったのか明確にわからなくなっているからである
どうしてもアジアの欧米の植民地化から解放するための戦争だったというときそれも納得できないからである

●個々人の価値を求めて働く時代ー大企業中心の社会の終わり

いづれにしろ働く価値観が変わった、大企業中心の企業戦士の価値観は変わった
個々人がそれぞれに働く価値観をもって働く、会社のためではない、人のためになるために働く、そして自己実現として自分の好きなことを究めるために働く、でもそんなことができるのか?社会では今まで許されなかったことである
でも一時代が過ぎると戦前と戦後で黒から白のように価値観が変わってしまったことがありすぐには理解できないのである
だから若い人の感覚と老人の感覚はずれてくるのである
私は好き勝手に生きてきたのだから新しい価値観でもいいとなる
第一芸術家とかだったら会社人間ではない、それぞれに美を追求するし学問でもそれぞれの興味があり個々人で追求してゆくものだからである

大企業中心の価値観はカルト教団ともにている、カルト教団も大きな会社のようになっているからだ、また軍隊組織にもなっているからだ、そこで個性は拒否される
黒だったら黒一色になる、赤だっから赤一色になるからである
そこに個性は認められないのである
でもそういう価値観も変わったとなる、個人の時代になるというときそうである
それが社会全体になるというときなかなか信じられないとなる
そうなるともともと学校とかが集団組織に適応するためのものとしてあった
社会に出る訓練として集団で行動できるように編成された
そこからして変えなければならなくなる、教育でもそこで大きく変わる
働くことの価値観が変わった、ただまだそれに気づいていない人達もいる
若い人はそういう価値観になっても適応できる
老人はそれを理解すること自体むずかしいとなるのである

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2025年日本経済再生戦略 国にも組織にも頼らない力が日本を救う【成毛眞・冨山和彦】
https://www.youtube.com/watch?v=K7S0nv2WZMY&ab_channel=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6

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2022年08月29日

価値とは何なのか (貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)


価値とは何なのか

(貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)

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多様な価値


媒介する者についてメデアについて書いたが貨幣でも紙幣でもメデアであり媒介するものである、そのメデアが媒介するものが現実の物より力をも持つようになった
そのことですでにギリシャでは紀元前600年頃から金がすべてとなり社会は金だけを追求するようになり腐敗したと嘆いていたのである
つまり金自体が媒介するものであり仲介するものでありそうなりやすいものだったのである

物の価値は貨幣で計れない

人間の価値も貨幣では計れない

そもそも貨幣では価値が計れない、あらゆるものの価値は計れない、例えば果物があるとする、リンゴがあり梨がありバナナがあり葡萄があり柿がありスイカがありメロンがありみかんがありといろいろある
ではそれを交換するときリンゴが梨より価値があるとか梨よりバナナが価値あるとか水禍りメロンが価値があるとかならない
それは性質が違ったものでありそれぞれの価値は特有の価値を持っている
理想的なものは物々交換なのである、要するに私はリンゴを育てました、でも梨は作っていません、私はリンゴを与えますから梨を下さい、交換してください
こうなるのが理想的なのである、そこにメデアが貨幣が介入するとそもそも歪められる
貨幣自体にはただの金属だし紙幣だったらただの紙切れである
ただ黄金の貨幣だと価値はあるとなる、その貨幣は黄金なのだからそれ自体に価値があるから交換するとなる、でも紙幣だったら紙切れの価値しかない
だからそんなものとは誰も交換しないとなるのである

要するに物々交換だったら貨幣で価値を計ることはできない、そして交換するにしても等価だとなる、物自体の交換だから貨幣が介在しないからである
ただリンゴの味を味わいたい梨の味を味わいたい、スイカの味を味わいたいとかなる
その物自体の価値があって交換するだけなのである
そこに値段はつないのである、ただバナナとか大量にとれるから物々交換となるリンゴ一個にバナナ十本とかが交換するようにもなる
ただ物々交換だったら貨幣で価値を計るようなことはない、ただその物が持っている価値そのものと交換するだけである、そこに貨幣や紙幣は介在しないのである

でも貨幣が生まれたのは遠く持ってゆく、その時運ぶとなると手間である、物々交換するとなると大変な労力になる、リンゴをみかんと交換するのにその場所まで持ってゆくのは大変な苦労である、でも貨幣であれ紙幣だったら買えるとなると便利である
また貨幣でも紙幣でもいろいろなもの買えるということで便利だから貨幣が使われるようになったのである
ただ本質的な価値は貨幣では計れないのである、あくまでリンゴの価値はリンゴが生来持っている味である、その味に価値がありそれは神が創ったものだとなる
そして様々な果物に味がありその味を味わうということで豊かになる
それぞれに違った味があり価値がある、その味があって別な果物の味があって本当は直接物々交換すればいいとなる、金で計ることはない方がいいとなるのだ

それは人間にも通じている、人間の持っている価値は多様である、でもその価値に値段をつけて金が介在すると人間は歪められる、そもそも人間が持っいる価値は多様であり金で計れないからである、でもその計れない価値は金が介在すると無視される
金にならないものは価値がないとして無用とされ社会でも認められない、そこに社会が歪められるのである
それはブナという木が建築用材として価値がないとして無用化された、杉が植林されて杉の林になった、でもブナでも自然では効用があるから自然林を形成していたのである

ブナは漢字で木偏に無と書いてとされるが、由来は材が腐りやすく役に立たないからとされる

これは人間からの一方的見方なのである、自然にあるものは無用ということはない、そこに必要だからある、人間が価値づけすることによって歪められたのである
だからこそ老子は無用の用を説いたのである
例えば大都会を見ればわかる、そこはすべて用で埋め尽くられている,建物で埋め尽くされている、そこに無用の空間がないのである、それで空地とか公園とか貴重になる
でもそういう土地でも必ず何か有用なものとして建物が建ち埋め尽くされるである
そして憩うことも安らぎの場もなくなっているのである
つまり無用の空間がないから窮屈になっているのである
値段もつけられない無用の空間も貴重になっているのが大都会なのである
自然の価値は一様ではない、杉だけの森にしたのは人間側の都合でありそれが災いを産むことがある

松原は人工林だった、それが何か自然林のように思っていた、でも林でも森でももともとは混成林だった、多様な木があった、それで津波で松林が全部流されたことには驚嘆した松原は塩害を防ぐために作られた人工林だったのである
そして砂地に根を張るから津波には弱かったのである、それで根こそぎ全部流されてしまった、それは信じられない光景だった、おそらく自然の森のようになっていたら全部は流されなかったろう、杉の林にしたように一様化したことで根こそぎ全部流されてしまったのである、津波に強いのは竹だった、他にも津波に強い木を植えていればみんな流されることはなかったかもしれない

これもやはり自然というものを無視した結果だったとなる
自然を自然のままに利用しないで人間側の都合で利用すると危険になる
だからこそ文明は滅びるとなる、持続可能ではないとなる
大都会が危険なのは密集地獄のようになっているのは危険である
何かそこから大きな災害が生まれてくるからだ、そもそも地下街などでも危険であり
高層ビルでも危険である、それは人間の力を示すものだがそれが危険なのである
人間はそもそも自然の則(のり)を越えられないからである
だからこそ人間の過去の文明は滅びているのである
人間とは文明とはこうして常に自然に逆らい不自然に生きてきた、その結果として災いが生まれたのである、技(わざ)は常にまた災いになったからである

ともかく価値の交換というとき色でもいろいろな色がある、その一つ一つは多様な独特の価値でありそれに値段はつけられない、赤い色があり青い色があり独特の価値がある
その色もみんな違っているから交換しようとなる、またいろいろな色を欲しいとなる
赤があり青があり黄色がありとそれで豊かになる
でも同じ色はいらないとなる、赤を持っていれば赤はいらない、赤があり青と交換するとはなるのである
そして赤が一番価値があるから高くなるとかない、価値は平等であり等価である
赤には赤の価値があり青には青の価値があり黄色には黄色の価値がありその価値は赤に価値があり青に価値がないということはない、それぞれ違った色でみんな価値がある
優劣はないのである、自然界では優劣はない、みんな調和しているのである
人間界だけが優劣があり上下関係がある、差別がある

価値とはそもそも貨幣とかで計れない、それぞれ特有の価値がありそれは計れない
だから黄金と塩が等価で交換したというときどっちも実は貴重なものだったからである
塩がない砂漠のような所では黄金より塩が貴重になるからだ
価値はまた場所によっても様々な条件で変わるのである
そもそもあらゆるもののこの地球の価値は神が創ったのである
それを人間の都合で変えてしまった、メデアが貨幣でも変えてしまったのである
市場など公正でもないし金融資本主義とかなりもうどうなっているのかわからない
グロ−バル経済はもう公正でもなんでもない、世界のギャンブル場になり一握りの人が莫大な金を得るのである、いかさまなのである
でもそのいかさまが巨大になり見抜けないのである、だからどうしても現代は陰謀論になるのである

この世ではどんなことしても不公正になる法律があってもそうだし経済でもそうであるここの解決は神の国でしかありえない、人間にはとても公正な社会など作れないのである
貨幣は紙幣は便利であってもそこに必ず不公正が生まれている
メデアは報道でも歪められる、社会は必ず歪められるようになっている
そこに人間の限界がある、人間にはとても理想の国など作れないからである

posted by 天華 at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年07月15日

物々交換の時代へ (紙幣とかドルとかでも通用しなくなるーロシアなど資源国が強い)


物々交換の時代へ

(紙幣とかドルとかでも通用しなくなるーロシアなど資源国が強い)

今起きていることは何なのか?それは紙幣とかドルでも価値が急速に下落していることではないか?物価高でありインフレから超インフレになるとそうなる
紙幣だと紙くずになる、円安がますます進み物価はさらに上がる
そして今世界で何が価値があるのかが見えて来る
紙幣の価値はなくなる、ウクライナ戦争でもロシアが問題があるにしろロシアの強みは
資源国だからである、石油とか石炭とかガスとかまた農業国であり麦とか肥料輸出国でありそれで強みを発揮した
肥料というとき農業は肥料が一番大事なのである、それが如実に示していたのが焼畑農業である、木を燃やしてその灰を肥料にしていた、これも実は大きな自然破壊だったのである、そして焼畑地名が多いのでもわかる、飯館村はの佐須とか他でもどうも焼畑地名がある、飯館村は森林が多いから焼畑に適していたのである
その焼畑農業を持ち込んだのが綿津見神社とか山津見神社をもたらした安曇族だったのである、佐須とは焼畑のことだからである、また焼畑の野菜など食べるイノシシや鹿を駆除するとういことで狼が大神ともされたのである,天敵になっていたからである
飯館村の山津見神社では狼が祭られていたというのもそのためである

なぜウクライナ戦争で世界に影響したかというとロシアでもウクライナでも穀倉地帯でありエネルギー産出国であったからだ、ロシアはたいして技術力もなく国民総生産は韓国よりも低いのである、そういう国がどうして戦争できるのか、欧米に対抗できるのかと思ったがエネルギー国でありヨ−ロッパでもガスでも頼っていたし日本でもサハリンからガスを輸入する予定で工事していた、それがロシアから中断させられたことが打撃だった
松川浦にはガスの基地がありそこから新潟とか東北地方にもガスが流通するようにした
その配管工事する人がいた、松川浦は漁業で成立っているとみるが実際は火力発電所がありガスタンクがあり電力供給基地として成り立っているのである
まず漁業とかなると小規模だから現代は零細なものとなる
江戸時代辺りだったら人口規模も小さいから農業でも漁業でも林業でも生業となり細々として生活してきた、今はどうしても経済の規模が大きくなるから工業力技術力がないと
生活できないのである

ウクライナ戦争で世界が変わったというかわかったことは資源を持つ国は強いとなる
その資源とは食糧であり石炭であり石油でありガスであり肥料とかでもそうである
今や電気なくして生活が成り立たないというとき電気の基は電気ではなく、意外とこうした化石燃料である、原子力だけは違っている、そこにメリットがあったのだが余りにも危険なもので失敗した、でも資源国は強い、ロシアがソ連崩壊から弱体化していたとしても資源大国であったことが今回の戦争で強みを発揮した
それはスリランカでもインドでも他でもロシアの石油とかガスに頼っていたことで支援してくれとなったからである、日本でもその影響を受けたのである
日本は資源がない、太平洋戦争でも石油が入らない経済封鎖で戦争に踏み切ったとも言われる、そして戦争になってもゼロ戦でも片道しかの燃料の石油がなくそもそも帰ることもできないものだった、資源不足になると戦争すらできないのである、石油が燃料だからその燃料がなくなれば船でも飛行機でも使えなくなるからだ

そして世界は今やインフレになる、それは物が不足しているからだ
あらゆる物不足不足に陥っている、コロナウィルスでも世界がサプライチェーンになっているから部品が入らない、その心臓部の半導体も入らないからヤマハでもいい自転車でも買えない、高いとしても買おうとしたが買えない、人気商品は買えない、それはバイクでも車でも全般的に買えないという、こういうことは経験していないのである
買ってくれ買ってくれとなっていた、でも買えないとなっている
物不足になると物の価値が高くなり物価があがる、それは世界的に起きている
アメリカでもヨ−ロッパでも起きている
極端なのがスリランカである、国家が破産状態になっている、スリランカの人が私の田舎の工場で働いていた、そして工場で指を切ったケガをした、それでかわいそうだと思ったまた入管でスリランカの女性が死んだりもした、スリランカは産業と言えば紅茶くらいであり後は観光くらいしかなく外貨が稼げないので遂に石油とか入らなければ国家破産になる、そのために中国に借金して国を売りわたすような状態になっていた
それで利を得たのが大統領一族だった、その人達は暴動が起きて国外へ脱出した
そこで紅茶と石油であれガスと交換してくれと訴えている
つまりここでも紙幣より現物が紅茶が紙幣の役割になる
物々交換状態になっているのである

そもそも紙幣とかは紙切れでありそこに価値はない、だから本当に危機になると紙幣は紙切れになる、日本が戦争で負けたとき私の母は前の夫が事故死して一生暮らせるだけの金をもらった、その金で実家に土地を買った、あとは預金封鎖してその土地だけが財産として残ったのである、つまり本当に紙幣は紙切れになってしまったのである
それが今日本でも騒がれている、何が価値があるのか?本当の価値は物にあり紙幣にはないのである
何か物々交換の時代になるのかとも見る、戦争が終わり食料危機になり都会の人は高価な着物とか骨董品とかでも農家の人に食糧を得たいために交換した
すると時価で百万とかしているのも一万にもならなかったろう、それよりわずかの食糧でも食べるものに価値があったとなる、それで農家には高価な骨董品などが残っているのだという人がいる、戦後まもなくは農家は自給自足であり卵でも食べていたし納豆でも作っていたしカヤの木の実から油まで取っていた、自給自足で買うということはあまりなかった、そういう時代にはやはり農家は強い、こうして物価が上がる時またそういう時代の再来かとなる

ハイエクがアフリカの砂漠地帯で黄金と塩が等価で交換されていたという、塩はそれだけ貴重であり黄金もその時塩と同じ価値であったのだ
またアフリカで武器を売りつける武器商人がいてその代金はダイヤモンドであった
アフリカの紙幣など何の価値もないからだ、確かにドルだったら価値があるにしても
それもドルが基軸通貨になる時代も終わりつつあるのかもしれない、そもそも本当の価値は物にあるからである
日本が苦しいのは資源国ではないから輸入しているから円安とかなると物価高になる、インフレになる、自国でエネルギーがなくまかなえないことである

ともかくグロ−バル経済が危機に瀕している、コロナウィルスでもそうであり自由な流通がなくなる、ウクライナ戦争でもアメリカ一辺倒のドル経済も終わりにもなる
ロシアはルーブルの決済を主張したからである、別に資源国だからその資源を売買できるのは自国のルーブルでいいとなりドルはいらないとなるからだ
こうして世界の経済はブロック化する、つまりグロ−バル経済は機能しなくなる
そもそもグロ−バル経済といってもドル基軸としたアメリカが世界から富を収奪するシステムだった、そのアメリカにしても極一部の大富豪に富が集中するシステムだったのである、それが陰謀論になるとデーブステートとかなる
それはわからないにしてもそういう世界システムが崩壊しつつある、金融システムも崩壊しつつある、それがウクライナ戦争で明確になったのである
何が本当に価値あるものなのか、それは紙幣ではない、ドルでもない、その国が持っている資源であり技術だとかなる、紙幣はしょせん紙きれだからそうなっても当然だとなる

ともかくこれから金を貯えても紙幣で貯えてもゼロになる恐怖がある
それはドルが高くなるからとドルを買っても肝心の紙幣自体が紙切れであり本当に紙切れにもなる、だから金の価値が高くなり金本位制とかにもるなると言われる
物の価値が本来の価値でありその価値は変わらないのである、だからこれから支払いは
紙幣ではなく物で支払われる物々交換にもなる
スリランカだと紅茶を売って石油でも買うとかなる、そこに紙幣は金は介在しない
そして日本だと外国に何を売るのかとなると車くらいしかないみたいである
資源がないのだから日本は苦しい立場になる、技術があるにしてもそれも中国に負けている

そして自己防衛として東京とかだと金持ちでも田舎に地方に土地を買って野菜を作れとかなる、でも野菜を作るにしても素人が始めると簡単にできない、様々な困難があるからだ第一田舎でも農業している人は一割にもみたないし農業のノウハウの方が大事でありそれでうまくいかいなのである
ただ物々交換時代になると紙幣は紙くずになるから危険である、でもその対策はむずかしい、資源、物、技術、労働力があればなんとかしのげる、でも老人は労働する力がなくなっている、だから年金頼りなのである、それで不利である
優秀な大工さんでも体が弱体化して稼げないとなる、何か40万の仕事があっても断ったとしているからだ、それで老人はどうしても年金頼りになるが金の価値が低くなり物価高になり苦しむ人が増えている
高齢化では労働力にもならない、年金の価値が物価高になれば低くなる、物価によってスライドもしないからだ、むしろ4万しか年金がもらえない人でも年金は引かれていて困窮しているからだ
posted by 天華 at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年07月06日

こんな額では生活できない」「包丁で刺してやろうか」 生活保護の担当者を脅迫か 男を逮捕


こんな額では生活できない」「包丁で刺してやろうか」
生活保護の担当者を脅迫か 男を逮捕


生活保護は楽だなとか言っているがこれが現実でもある
最低限の保証などしていない、そしてそもそも年金が4万以下のような人が結構いるのだ年金をもらうと生活保護がもらえたとしてもせいぜい医療費が無料になるくらいである
その医療費も二三割負担しなければならない
平均して7万くらいだとどうして生活するのだろうとなる
だから毎月電気水道ガスが払えないのである
そしてガスを止められる、すると食事もできないとなる、そのとめたガスの栓を開けるのに3500円とられる、それを払うからと懇願しても強制的なのである
そんなことを毎月繰り返している

また年金四万から今度は引かれている、そんな金でも引かれている
年金はみんな引かれているが4万とかから引かれたらどうして生活するのかとなる
だから生活保護は最後のセーフティネットでもないのである
この人の気持ちがわかる、ぎりぎりに追い詰められると人間はそうなるのである
そういう人間が増えているのである
何か自分は役所の人でないにしろそういう役回りになって恐怖もしている
犯罪にあっている、つまり日本は貧困化で物騒になっているのだ
最近原町で宝石強盗とかあった、それも地元の人だったのである、事情がわからないにしろこうしたことも起きてくる時代になったのである

もうみんな余裕がないのである、余裕がないということは人間にとって相当に危険になる追い詰められた人間が一番危険だからである
日本がアメリカのように犯罪者社会になるというときも現実化してくる
日本は安全な国でなくなる、人間は余裕がないと人を助けることなどできない
多額の借金をかかえた人が自分が介護とか自分の病気で四苦八苦していたとき来た
でも自分自身が大きな重荷をもっているのだから助けようがないのである
むしろそれは強迫になっていた、お前を助けるから金をだせとまでなっていたからだ
そんな人が苦しいとき来たの最悪だった

金であれなんであれ余裕がないと助けることは不可能である
回りを見ても余裕がない、金に余裕がないとつくづく全体的に余裕がなくなる
私自身の生活は無職で引きこもりで実際は金に余裕がなかった
そこでいつも一番安いホテルとか旅館を探すのにずっと苦労して来た
最後はパリに行っても安宿を探していたのである
余裕が生まれたのは遺産を相続してからである、でも貧乏性だから百万とか簡単に使えないのである、なかなか貧乏性というのは治らないのである
ただ遺産としても何億とかではないから意外と準富裕層とかでも質素な生活しているというのはわかる、私もそうだからである
普通の人と変わりないからである、私の場合車がもたないことで節約にはなっていたのである、でも自転車好きだからいいものを持っているしもっといいものを買いたいとなっている、その他は普通の生活である、外食だって独り身でも月に二三回しかしていない
ただこれは食堂のメニューに飽きたこともある

いづれにしろみんな金に追われると危険になる、余裕がないから危険になる
物騒にもなる、なぜか二回も家で盗まれるとか犯罪に合っている
もうそうして余裕もない犯罪者がそこらじゅうをうろついているような時代になるかもしれない、それはアメリカを見ればわかる、実際はホームレスが多く犯罪多発社会である
極一部の超富裕層がいても下層もまた多いのである
そういう人達は犯罪者になりやすいのである
そうして刑務所の方が楽だというのもわかる、雨露をしのぐ場所があり三食保証されているからだ、それが社会に出れば寝る場所もなくなる、食うこともできなるなるからだ

子供の給食も安上がりになり栄養がたりなくなるとかこれも深刻である
未来の子供がそうなることは日本全体に影響する、ただ団塊の世代は脱脂粉乳とかを供給されていたが別にみんな普通に育つことができた
ただこの時代にまともに子供にも食事が与えられないことは深刻である
それが金持でもそういう困窮者が増えると危険になる、南米とかの大金持ちは子供でも誘拐される危険にさらされているからだ
日本の貧困化は危険な水域に入ってくる、もう入っていることは自分の経験でわかった
でも贅沢したくていい車を買って借金しているとかの貧乏は同情できない
毎月電気水道ガス代を払えない人が本当の困窮者である
そういう人達が百万人以上いるのである、家賃も払えなくなってネットカフェとかで寝泊まりしているとか人たちもいる、都会と田舎の貧困はまた違っている
田舎ではホームレスはいない、寝床は確保されている、安い住宅があるからである

いづれにしろ若い人であれ老人であれ困窮者が増えている、子供にすらまともに給食が与えられないとはもう日本は明らかに後進国である、せいぜい東南アジアクラスであり
下になるとベトナムとかネパールである、その人たちは日本に出稼ぎに来ている
でもその人たちも日本の実情を知ったのでもう稼げないと来なくなると言われる
日本は先進国ではない、後進国になっているのだ
失われた30年間があり一向に経済は上向きにならないのである
そして円安が135円にもなっている、円安でアメリカに投資していたとき一ドル120円で相当なもうけになった、だから円安で相当に逆にもうけた人達がいる
私の場合は他で損したから結局損したともなる
ただ円安とはこのように大きな影響がある、投資に詳しい人はこういうとき必ずもうけるのである、その額が大きいのである
そして富裕層にしても貯金があったとしても利子がつかない、預金封鎖があるとか不安なことばかりなのである、つまり富裕層でもそうして安心がないことなのである

参院選挙があるとして日本の最大の問題は今や貧困の問題なのである
様々な問題があるにしても貧困化することは社会全体への影響が大きいのである
でも日本が貧困から脱するにはどうするのかというとそれが見えない
そして再び外国人から人を呼ぶ観光しかないとなる、それで東南アジアからも日本は安いとなり観光に来る、これはかつての日本が金持ちであり海外旅行して金を使っていたのと逆なのである、それもカルマだとなる
日本が海外で威張っていたが今や海外から来る人をもてなしだとかサービスすることになる、日本は安い国になったのである、

ともかく高度成長時代は一時の繁栄でありたちまたち夢のように消えた
日本人が優秀だとかはなかった、そういう過去の幻想をまだ持ち続けているが現実はもう違っている、日本人の悪い点が指摘されるのである、別に高度成長時代は日本人の協調精神とか真面目さが価値あるものとされていたのである
でも今はそんなことはない、日本人はイノベーションできない劣等民族、国だとされるのである、その評価を百八十度変わってしまったのである
日本のおもてなしがいいとか宣伝されるがそれこそ観光しか売り物がなくなった
後進国になったことを証明しているのである


posted by 天華 at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年06月18日

地震で家を直すのに苦労 (優秀な大工さんの仕事を見る‐樹と人間の共通性)


地震で家を直すのに苦労

(優秀な大工さんの仕事を見る‐樹と人間の共通性)

●受け継いだ家で苦労する−50年過ぎて老朽化している

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地震で家を直すのに苦労している、いつもいる部屋を改造することになりそれが手間になる、何か地震で多少曲がったらしい、でも水平器で調べたら曲がっていなかったという
でもサッシを交換するとになりこれも金がかかる、どうしても一旦大工さんに頼むと
大工さんのペースで恣意で仕事がすすむ、頼んだ大工さんは優秀でも自分なりに仕事をすすめたい人だから何か言うこともむずかしい
そもそも家でも素人が何かを言うのは注文するのは難しいのである
なぜなら構造的な面とかで答えられないことがあるからだ
やはり建築はまず安全を計ることが第一だからである、今回の部屋はもともと玄関だったところを部屋にしたのて基礎とか良くできていなかった
それから一部の柱が腐っていたとか古くなっていたのである

私の家はすでに50年過ぎて老朽化していたのである、それで今回の地震でまた傷んだのである、すでに東日本大震災と次に一二年前の地震でもいたみ今回の地震で相当に傷んだ
この家には相当に金がかかっている、家を持つことは修復とかまた増築とかあると金がかかるのである、だから一軒の家をもつことはそこに大工さんだけではない様々なものがかかわる
今回は流しから水漏れがあり新し流しが必要になる、それも結構高いとなる
水を流す管も水もれしたり水がもれて木が腐っていたのである
こうして家は様々なものがかかわり金がかかる、だからそこに需要が生まれる
それで景気を良くするにはみんなに土地とか安くして家をもたせることだというのもわかる、そこから様々な需要が生まれるからである
家を持つことはそこからいろいろなものが必要になる、装飾も必要になる、するといろいろ消費するから景気が良くなるというのは確かである
だから高度成長時代は次々に新しい家が建ったからこれも好景気になった原因だったなる今は逆にそうして建てられた家が膨大なの空家化しているのである

●樹もゆっくり育った木は丈夫である、年輪を見る

大工さんの話を聞くといろいろ興味深いことがある、年輪が詰まっている木、ゆっくり育った木は丈夫でいい木だという、そういう木はゆっくり育っているからだという
これは人間と同じだとも見た、人間も自然のリズムに合わせてゆっくり育ったらやはり丈夫な木として育つということである
まず木が育つには50年とかかかるからそれ自体長い時間が要する、それに合わせれば人間も長い時間で育つのが自然の理に合っているということである
即製できないのが自然であり人間だともなる、即製したものは十分に育だたないうちに使うから使い物にならないともなる、人間もそもそも即製できない、本当に人間は成長するにしても何かを理解するにしても長い時間が必要なのである
私は何でも奥手だから詩とかの表現でもなかなかうまくいかなかった、でもだんだん自分なりの詩を作れるようになったと自ら思う、ただすでに死が近くなってそうなったのである

ゆっくりと時間をかけて成長した木は年輪が細かい
ゆっくりと時間をかけて育ってきた木は年輪も細かくなるので、比較手比較的固く締まっていて、年輪の見た目も均等に揃っていて美しいです。

濃く密に刻まれた年輪(経験)は自分の未来でとても重要な役割を果たしてくれると思います。

細かな年輪のようにゆっくりしっかり濃く、密に成長していったならば、固くしっかりとした芯ができあがると思うんです。

たくさん成長した年もあれば、ゆっくりとしか成長した年もある。それらがあって、今の自分がつくられていくんだと思います

将来、立派な木のようにどっしりとした自分という芯をもった人間になれるように毎日を大切に過ごしたいと思います

老人の顔は年輪を刻んだ顔
人生を刻んだ顔
そこに若い人にはない重みと深みがある
あなたは何の仕事であれ
年輪を積み重ねてその人なりの顔を作れ
風雪に一年ごと年輪は刻まれて
大木となることを知るべし

若い人が何でもいいとされるか老人はやはり何でも積み重ねたものがあり
人生の成果として実ったものがある、だから老人を尊ばないことはおかしいのである
ただ無駄に時間を重ねた者は評価されないのは当然である
その差も大きいから若い人は評価される老人になることを心がけるべきだとなる
つまり時間を無駄にしてはならないということである
たとえたいして能力がなくても積み重ねてゆくと成長してゆくのが人間だからである
ただ時間を浪費すると成長はしない、ともかく木から学ぶことがあると思った
私の場合は木とか石を詩にしてきたけど現実の場で木を利用する大工とか森林を相手とする仕事はそういうことを学ぶとなる

人間はとにかく何でも達成するのに時間がかかるのである、即製にはできない、インスタントにはいいものはできないのである、それで高齢化社会は何かを自分を伸ばす個性を伸ばすのにはいいとなる、十分な時間があるとなるからだ、それで60歳以降でも70歳以降でもその才能を発揮できるともなる
その大工さんも15歳から修行して技を身に着けた、ただ体力的には苦しいとなる
ただいろいろ仕事を見ていて補助役をしているから実地に知ることがある
外材でも外国の松は太いから大きいから加工して利用しやすいとして使っていた
松という時、日本の松というとき曲がりくねったようなものが目立つ、だから建材としては適さないのかとも見た、でも北海道だとトドマツとかエゾ松がありあれは太いて真っすぐなのである、そういう松があり外国の松だとまた違っているとなる
ただトド松やエゾ松は建築材料としては使われていないのである、加工しにくいためらしい


●松の長所

1、 粘りがあり、強度や耐久性に優れている。
2、 経年変化と共に、素晴らしい色艶を出します。
3、 成長が遅く、年輪の割合に肥大成長が小さく目のこんだ材ができるので、杢が強く浮いてくる。よって、銘木としても評価が高い。
4、 赤身材は水に強く、かつては水道管に松の赤身を使用していた地域もある。
5、 杭木として使用しても非常に強く、東京丸の内の区画造成にも山陰の地松が使われた。
6、 暑さ寒さに耐え、乾燥地や山の急斜面、風当りが強い場所でも育つ。
7、 節操や長寿を象徴する木として尊ばれている。
8、天から神々が降り給うのを“まつ”という意味から松という名前が付いたという様に、古くから神聖なものとされ、現在では松竹梅、鶴亀と共にめでたいもの(縁起物)とされている。

硬くて丈夫で艶が良いので、階段材・地板・床材など強さを求めるなら、真っ先に浮かぶのがマツでしょう。天然の地松が中心となるため、次第に希少性が出ています。中国地方はこのマツの自然林が全国でも豊かな地域なのです。気候風土や土壌に恵まれてマツ独自の強く硬く色艶の良い特色が色濃く出ています。構造材・階段材・敷居などに用いられる素材としてはこれに優るものはないでしょう。

マツ科の針葉樹。特にアカマツ・クロマツ・ゴヨウマツ・ハイマツなどマツ科の植物をさします。トドマツ(モミ属)、エゾマツ(ハリモミ属)、カラマツ(カラマツ属)は属が異なるので、通常は松の仲間に入れません。ハイマツなどを除き、多くは高木となります。雌雄同株で葉は針状で二本・三本・五本の束生。球果は「マツカサ(松ぼっくり)」と呼ばれます。マツは北半球全体に分布しており、現在把握されている総品種数は約93種にも上るとされています。その中でも建築用材として特に適しているのが、アカマツ・クロマツなどの日本のマツなのです。
マツ(松)という名前の由来ですが、日本では古くから神聖な木として考えられていたようで、神がマツの木に天から降りることを、待つ(マツ)という説と、松の葉が二股に分かれている様子から、股(マタ)が転訛(てんか)して、マツ(松)という名がついたという説もあります。

松材は非常に丈夫な木材で耐荷重性にも大きな力を発揮します。 建物の梁桁などの横架材に採用されるのはその為で組み立て式ウッドデッキの土台や大引、根太には 最適な木材選択といえましょう。ウッドデッキに使われる松材は年輪の詰まった(目細)松材を 吟味して選別していますのでこの面でも安心してお使いいただける木材選択をしています

二方柾のような心去り材、断面が大き い梁材、無節材などの取りやすい大径木が、 国産材には少なくなった現在では、大径木 が多い外国産材に依存することが多くなり ました
あらゆると ころで使われている木材は、密閉したり、 厚い塗装で覆わない限り呼吸し、生き続け ています。
 木は切られて、挽かれても、割られても 生きています。
そして、その木の寿命分だ け働くことができます。

また日本でなぜ外材を利用するようになったかというと値段だけではなかった
こうして大きく太い木があり建築材として加工しやすいということがあったのだ
それで外材を利用するようになった、そして値段の面では日本の森は山にありそれを切り出すのが苦労でありそこで値段が高くなり外材と競争できないと言っていた
確かに山の斜面とかで切り出すことが容易ではない、運ぶことが苦労なのである
外国の森をみるとウクライナでもロシアでもどこまでも平坦な地が森なのである
その規模は余りにも大きいから森に遮られてそれが国境にもなり安いのである
つまりどこまでも暗い森がつづいていてそこから抜けられないという世界なのである
そのスケールは日本とは桁違いなのである


硬くて丈夫で艶が良いので、階段材・地板・床材など強さを求めるなら、真っ先に浮かぶのがマツでしょう。天然の地松が中心となるため、次第に希少性が出ています。中国地方はこのマツの自然林が全国でも豊かな地域なのです。気候風土や土壌に恵まれてマツ独自の強く硬く色艶の良い特色が色濃く出ています。構造材・階段材・敷居などに用いられる素材としてはこれに優るものはないでしょう。


マツ科の針葉樹。特にアカマツ・クロマツ・ゴヨウマツ・ハイマツなどマツ科の植物をさします。トドマツ(モミ属)、エゾマツ(ハリモミ属)、カラマツ(カラマツ属)は属が異なるので、通常は松の仲間に入れません。ハイマツなどを除き、多くは高木となります。雌雄同株で葉は針状で二本・三本・五本の束生。球果は「マツカサ(松ぼっくり)」と呼ばれます。マツは北半球全体に分布しており、現在把握されている総品種数は約93種にも上るとされています。その中でも建築用材として特に適しているのが、アカマツ・クロマツなどの日本のマツなのです。
マツ(松)という名前の由来ですが、日本では古くから神聖な木として考えられていたようで、神がマツの木に天から降りることを、待つ(マツ)という説と、松の葉が二股に分かれている様子から、股(マタ)が転訛(てんか)して、マツ(松)という名がついたという説もあります。


松材は非常に丈夫な木材で耐荷重性にも大きな力を発揮します。 建物の梁桁などの横架材に採用されるのはその為で組み立て式ウッドデッキの土台や大引、根太には 最適な木材選択といえましょう。ウッドデッキに使われる松材は年輪の詰まった(目細)松材を 吟味して選別していますのでこの面でも安心してお使いいただける木材選択をしていますhttp://www.hi-ho.ne.jp/shaka/matumokuhenn.html

二方柾のような心去り材、断面が大き い梁材、無節材などの取りやすい大径木が、 国産材には少なくなった現在では、大径木 が多い外国産材に依存することが多くなり ました
あらゆると ころで使われている木材は、密閉したり、 厚い塗装で覆わない限り呼吸し、生き続け ています。
 木は切られて、挽かれても、割られても 生きています。
そして、その木の寿命分だ け働くことができます。



●日本の森と外国の森

それで森の木を切るにしても日本の場合、山が森だからその木を運び出すのが苦労なのである、コストもかかるのでそれで外材との競争していけないと言っていた
日本で野というとき斜面のことなのである、原は平坦な地でも野は違っている
それで入野というときそうした山の間の斜面のことなのである
日本にはそういう地形が多いから野とは日本独特の言葉にもなった

我が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくもかなしも (万葉集)

ともかく大工さんでもこうして何かスキルを技術を身につけた人は強い、それは例え原発事故であれ津波であれ他の市町村に移住してもその技があれば尊ばれからである
何も技がない人は仕事もなく補償金でギャンブルに明け暮れているだけだとなり回りから良く思われないからである、みんな苦労して働いているのに避難民は遊んでいるいい身分だとなってしまう、もう十一年も過ぎたらもう被害者として補償してくれというのもなかなかできないし回りでも受け入れない、お前達は死ぬまで避難者であり被害者であり補償してくれということはそれは地元でも受け入れがたいとなる
だから会津の方に行った避難民でタンス職人とかがその技を示して歓迎されたとかある
やはり何も与えることができないものはそういう時困るともなったのである
ただ馬齢を重ねるだけでは尊ばれることはないのである


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2022年06月14日

グロ−バル経済の崩壊 (信頼無き、道徳なき経済の崩壊現象が起きている)


グロ−バル経済の崩壊

(信頼無き、道徳なき経済の崩壊現象が起きている)

デフレ時代には、「人間対人間の長期的な信頼関係」がないがしろにされてきたといえよう。

 だが、このように次々に相手を乗り換えるやり方は通用しなくなる。インフレ時代には売り手優位になるから、「(売り手との)長期的な信頼関係を持たない買い手」には、品物やサービスが回ってこなくなるのだ。

 インフレ時代には「信頼」がキーワードになるから、長い歴史を刻んだ老舗や、大企業(大船)が優位になる。

迫る『複合危機』――生き残るための教訓を「客家の教え」に学ぶ

グロ−バル経済は限界に来た、デフレ時代だととにかく労働力でも世界でも安い方に向かう、日本だと賃金が高いから中国とか東南アジアに労働力を求めて会社も移動した
その時円高でありメリットがあった
それがインフレになり円安になるとそのメリットがなくなって国内回帰している
そしてここで

デフレ時代には、「人間対人間の長期的な信頼関係」がないがしろにされてきたといえよう。

人間で一番大事なのは信頼関係である、信頼がなければ仕事でもまかせられない、でも信頼は簡単に作れない、時間がかかるのである、それでお手伝いさんでも十年勤めていれば信頼されるとなる、信頼関係を作るにはそれだけの時間が必要なのである
封建時代だと信頼関係が作り安い、たいがい農民だから土地に根ざして生活しているから代々つづく仕事でありそこに侍がいて農民がいて信頼関係が生まれる
また御家大事とかなり所属する藩で信頼関係が生まれる、それはそもそも変化しない
何代も臣従関係があって信頼できるとなる
それで農民だと三代つづかないと仲間になれないとか言われるのがそうである
農民だと草分けが前田とある所の家が中心になって村が存在する
その中心は農民だと土地に根ざして生活しているから変わらないのである
変わらなければ信頼関係が作りやすいのである
十年お手伝いさんでも働いていればその仕える家族と信頼関係ができる
一年くらいとかで変わっていれば信頼関係が作りにくいのである

まずグロ−バル経済となるとそもそも品物だけは入ってきても人との信頼関係とか情的関係とかはない、物だけが入ってきて心は無視される、物と心は分離するのである
つまり経済とはそもそも足りないものを補い合うものであり助け合いともなる
グロ−バル経済には助け合いというものはない、ただ利益をあげることだけが優先されるし必ずしも信頼関係から成り立つ経済ではない、第一外国から入ってくるものが誰が作っているかもわからないのだからそこで信頼関係もない、だから何か問題が起きると品物は入ってこなくなる、それが今起きている
ウクライナ戦争があり麦が入ってこない、他でも食料危機になると食糧を輸出しない
何か助け合うということなどない、自国優先でありむしろ他国とは信頼できないものであり何かあれば奪う存在だともなる、それが戦争なのである、戦争は国が行う強盗であり殺人でもある、でもそれが罪にもならないしとがめられないのである
それはロシアのウクライナ戦争でいくら残虐なことをしてもとがめられないのである
国と国の戦争になるとそこに人道もなくなり法律を通用しなくなるのだ
信頼関係など一時的利益を得るためでありそもそもないからである

また常に国家と国家の関係が平和で安定して信頼できるとはならない、中国でもあれほど田中首相が日中国交回復で中国は井戸を掘った人を忘れないと言っていたが今や日本は小国だから大国の中国に従い、領土でも尖閣であれ沖縄であれもともと中国のものだったとかなり奪われとなる
とにかく外国となるとこうして信頼関係などないのである、信頼関係は簡単に崩れるのである、だから必然的にグロ−バリゼーションは限界にきて世界は自国優先となった
まず食料がなくなれば他国に輸出などしない、すると過度に他国に頼ると日本がで自給していないから食料すら不足して飢饉にもなる

例えばコーヒーばかり作っている国は自国で食糧を自給することがなくなる
そしてアフリカなどではコーヒーの価格が安くなると影響が大きいのである
なぜなら自給できない、コーヒーという単一商品ばかりしかないとするとコーヒーが世界的変動で売れなくなると食べるものがないとなる、それで今では畑でいろいろな食料を作るようになった、日本もそういうことがあったのだ,アメリカはアメリカの食糧を売るために戦後パン食を普及したのである、コッペパンが学校の給食になっていた
他にもアメリカは自国の食糧を売るために強制的に日本人の食習慣を変えたのである
とういことは日本の文化を破壊したともなる、だから今麦が高くなり輸入できないとなるとき困ったことになる、それで米を食べればいいとなるが簡単に変えられないということにもなった

グロ−バリゼーションの問題はこうして日本独自の文化すら破壊したことなのである
日本は海の幸、山の幸の国でありそれが営々とつづいた文化なのである
それは風土にあったものでありそれで体さえ作られてきたから今になると長寿になったとなる、もちろん外国の物をすべて拒絶することではない、取捨選択することが大事だったのである、日本化することが必要だったのである、宗教だって仏教は鎌倉時代で日本化した宗教となったからである
文化というのはそもそも変えられないのである、地理と風土とか気候とかは変えられないからである、それを変えることは大きな弊害が生じて来る

最近世界で起きて来ることはコロナウィルスでもそうだし日本だと円安とかでも外国のものが馬鹿高くなり物価が上がるというのもそうである、それはグロ−バリゼーションが極端になりその反動が今起きている
だから食料などはもともと自給体制をとっておくべきだったのである
外国と信頼関係は築きにくい、何か事あると外国だと敵国ともなり攻めてくるからであるそれが中国をみればわかる、困った時は日本をもちあげていて豊かになると日本は小国なのだから従いとなるだけなのである
もちろん日本が困っても助けることはないのである
国と国の関係は常に信頼できるとはならない、いつ裏切られるかわからないのである
ロシアでも北方領土問題で援助したりすりよったりしたが裏切られたとなる
つまり実際はいつ日本を侵略してくるかわからない国だったのである

そして国際関係では隣国同士は仲が悪い敵対するのである、日本だと朝鮮半島であり
ドイツとフランスも争っていたしインドとパキスタンは核をもって敵対している
中国とインドでも国境を接して争っている、最近ではトルコとギリシャが険悪なものとなっている、つまり国同士は信頼関係がないのである、利害が衝突したりして信頼関係がないのである、だからグロ−バル経済とは信頼関係が成り立っていないのである
それで最近世界でコロナウィルスでもそうだし問題が続出している
グロ−バルに交わることはいいようでもそもそも信頼関係が築けないとしたら経済だってうまくいかないのである、人間と人間の関係は信頼関係があって成り立つからである
それでアメリカと日米同盟があってもいざ中国と戦争になったらアメリカは撤退するというときでもそうである、アメリカが日本のために血を流すことはしないとなる

武器くらいはウクライナのように送るが自らは戦わないとなる、そして武器でもうけるだけだとなる、結局国と国の関係はただ利害関係だけであり信頼できないのである
それは人間と人間の関係もただ金だけの関係であり利益だけの関係だと信用できないと信頼できないとかなる、何かあったら困っても助けない、ただ利害関係としてあるだけだからである、かえって苦しむ時戦争にもなれば武器が売れるとなりもうかるとまでなる
相手は多数死んでも高見の見物だともなる、ウクライナ戦争でもそうである
そこで武器を売ってもうければいいとかなる面があるからだ、日本はこの際ロシアに奪われた北方四島を取り返すべきだとなる、それはロシアに奪われたものだからである
つまりロシアに阿部前首相が友好的になり援助しても無駄だった騙されたとなったのである、つまり信頼関係が崩れたのである、それが国と国の関係であり信頼できないとなったのである

だからグロ−バル経済は限界にきてそれぞれの自国優先になる、貿易はあるとしてもこれまでのようなグロ−バル経済は終焉する、ブロック経済化してそこで信頼関係を築きその上に経済がありうる、そういう大きな変化の時代にきていてそこで産みの苦しみがある
グロ−バル経済自体が資本主義自体が崩壊する危機でもある
それは新しい時代には必要でありそこに産みの苦しみがあり今それが起きてさらに悪化するともなる

 ただし、うわべだけの付き合いの人々がどれほどたくさんいても意味が無い。調子のよい時は、どのような人々と付き合っていたとしても大きな不都合は無いが、大事なのは「危機」において頼りになるかどうかだ。

 これは個人的にもそうである、危機になったとき困った時助けてくれる人がいれば心強い、私が介護とか病気で苦しんだとき助ける人は一人もいなかった
ただ金を求めるだけであり金を奪おうとする人だけだったのである
それは国同士だとそういう関係が普通なのである、国が弱体化すると攻め入るチャンスだとなる、それは戦国時代と同じである、弱肉強食の世界である
マキャベリズムの世界である、そこでは相手が弱体化すると国であれ市であれ襲ってくるからである、国同士とかなる非情な世界になる
個々人でもそういうことがある、助け合うものとしての人間関係がない、事あらば弱体化すれば襲ってくる存在なのが人間である、それは隣人でもそうなのである
田舎などでも他人の不幸は蜜の味となる、田舎の人間が情があるなど今はない
かえって陰険であり他人の不幸を楽しみとしているのである
それは別に人間全般に言える、それが人間の正体なのである、だからこの世は地獄なのである、それはいつの世でも同じだった、だから親鸞の言うように地獄は一定の住処なりになる
そこで必ずこの世から戦争はなくならいし地獄が生れるのである

そしてグロ−バル経済ももともと共存共栄するということあっても信頼関係などないから崩壊する、それが今世界規模で起きている、アメリカのドル基軸通貨も危ういとかなにか世界全体がグロ−バル経済自体が崩壊しつつある、それが食料危機とかで具体的なものとなる、そもそも助け合うとかないのだから自国優先になる、麦が入らなくなるとあらゆることに影響する、パンだけではない麺類でも麦だからである
そうなると日本の食糧自体見直さないと食べることすらできなくなる、飢饉になるのである、そういう危機に直面しているのである

いづれにしろ今までのグロ−バリゼーションとか資本主義とかは終焉しつつある
今は次代のシステムを模索する混迷の時代になる、そこで産みの苦しみになる
アメリカの基軸通貨のドルとアメリカ一国支配も終わる、アメリカの一部のものに富が集中するシステムも終わる、そういう激動の時代に何が起きるかわらかいなのである
天変地異も起きて来る、それはこの辺で体験した、今回の地震は東日本大震災より強かった、だから恐怖だった、一身上でもそういう恐怖の連続だったのである
アメリカの覇権が終わる時そこに世界的激動が起きて来る、ウクライナ戦争でもわからなにしろ何かそういう兆候だともなる
それでアメリカ一辺倒の日本も危険だとなる、EUでも力が衰えてゆくときもそうである
一つではない、ドイツとかフランスは必ずしも一体化していない、イギリスとアメリカは一体だけどその他はそうでもない、だから世界がブロック化するのである

posted by 天華 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年05月29日

「光熱費」に「奨学金」まで狙われる…ひっそり進む「サービサー法改正」の危ない現実 (日本の貧困の深刻化ー100万人が電気、水道,ガス代が払えなくと止められる)


「光熱費」に「奨学金」まで狙われる…ひっそり進む「サービサー法改正」の危ない現実

(日本の貧困の深刻化ー100万人が電気、水道,ガス代が払えなくと止められる)

例えば、今回の改正案では水道やガスといった光熱費も対象となるとしている。電気代の支払いが滞った場合、電気が止められ、支払いができれば再び電気がつく。

しかし、このサービサーの対象となった場合、電気代を優先して回収するために事業者から委託を受けたサービサーが給与の差し押さえをするなどして取り立てができるようになるのだ


1人からじゃなくて数100万人が電気代も支払えない時代になってる

貧乏人には水も飲ませるなという事か

滞納者がそれだけいると言う事か
けしからんな
まずは支払うべき金は取り立てないとな

水道は滞納しても止めれないから支払わないバカが一定数いる
電気みたいに止めれるようにするのが妥当だろ

スマホ料金の滞納なんか100万人以上 給与差押え まあ いいか!

最低生きる保証もなくなるのか
これが民営化

これは流石にかわいそうかなとは思う
光熱費が払えない世帯には無料で提供し高所得者が補う仕組みが必要かもしれない

水道民営化するから、とりっぱぐれない様に法律を改悪する訳だ

弱者に厳しい日本政府の正体

さあこれの真の目的はなんでしょう?
これからものすごーく光熱費や水道代が上がるから?

最近の事件見てると貧民層による国内テロが起こりそうな気配




100万人がスマホとか携帯の料金を払えないとかいるのは深刻である、これは連絡のために必ず今は必要である、生活保護者でも連絡のために用意しておけと言われるからだ
そして水道は払わなくてもすぐにとめられないがガスは止められる
一旦止めると今度をガス栓を開くために3500円とか払わなければならない
これも酷いと思うがそんなこと今はいちいち考慮しない時代である

何か貧乏な時はその日暮らしみたいだった、私の家で部屋を貸していたが毎日家賃をとりに行っていたという、なぜ毎日なのか、結局その日暮らしでありそうなっていたのかと見る、江戸時代でも長屋ではその日暮らしである、日銭を稼いで暮していたのである
貯金などしていないのである

こうした最低限の生活の人はこういう法律がてきると困る、でもあえて政府でするのは何故なのかとなる、水道でも民営化して業者が金をとりやすいようにするためだとも言う
業者の圧力でそうなっているのか?
でも公明党などは貧困層が多いから反対するはずだが押し切られる、公明党は必ずしも弱者の味方ではなくなっている、第一公明党がカジノでも賛成してかかわって利権を得るのかとか問題になった、結局公明党でも共産党でもそうした底辺層から票を集める得するのは幹部だともなる、議員になっている人だともなる
この法律は底辺層に厳しいのだから普通反対するはずだからである

いづれにしろ日本の貧困化はさらに深刻化してくる、遂に食糧危機になるとも騒がれる
確かに給食でもかなり減らされている、すると子供の栄養や健康にもかかわってくる
50年前にももどるとされるのは驚きである、ただ50年前というときどんな暮らしをしていたのか、高度成長時代でありそれなりにいい暮らしをしていた時代ともみる
ただそれもわからなくなった

貧乏という時戦後十年の暮らしは小学生の時の暮らしは貧乏だった、燃料は炭であり
水道もないし水は街では井戸がある家から無料でもらっていたのである
電気は裸電球一つくらいしかない、ということは電気料金などほとんど払うこともなかった、ただ燃料費は炭を買うからかかっていた、風呂は父親が手作りしたものであり燃料は材木屋で家の柱などにする木の切れ端であった、それも無料だった
食料がないので必ず畑の空地で野菜を作っていたりした、その時農家の方が食料があるので豊かだったのである
子供の時だからその暮らしの感じ方は違っていた
でも隣を貸していてその老人が飢え死にしたらしい、それは息子がいても嫁が酷い人でそうなったらしい、そうなったのは生活保護ない時代だったからだとなる

ともかく日本は本当の貧乏がわからなくなった、何かオカズがなくて醤油を御飯にまぜて食べていたとかある、そして明治になるが醤油もない時代もあった
だから高度成長時代から日本は特別豊かになった、日本の歴史では貧乏なのが普通だったのである、戦前でもそうであった、だから戦後十年くらい経て高度成長時代になったのは日本では例外的なものであり日本はみんなずっと貧乏だったのである
ただいつの世でも金持ちと豊かな人と貧乏人はいた、だからどんな貧乏時代でも裕福な人はいたのである、でも高度成長時代のようにみんなが裕福になった時代は日本ではなかったのである

でも昔に50年前にもどるとしても簡単ではない、贅沢な暮らしに下層の人でもしていたからである、貧乏でもその人はサシミだったら冷凍ものは食べないとか選んでいるのであるつまりそうした暮らしはもともと本当の貧乏だったらしていない
なぜなら私の父親は病気になってサシミ食えるようになったが食べたくないとして死んだからである,サシミを食べたのは何か特別な日だった、酒の肴(さかな)は味噌を焼いたものだったりしていたのである
果物というと確かにミカンを食べたにしても柿とか多かったろう
それで私の母親は大正生まれで干し柿が好物だった、でもこの干し柿は今は高い
バナナは父親が病気の時、仙台市まで行って買った、この辺では売っていなかったのである、だから本当に今の生活からいくら貧困で考えられない生活だったとなる
別に高度成長時代から食べ物でも豊富になり贅沢している、それは恵まれていない人でもそうだったのである
その人は果物は高いと食べていないという、ただバナナだけは安いとなる、後は高い

最近の事件見てると貧民層による国内テロが起こりそうな気配

何かこういう不穏な状態にもなる、貧困がますます深刻化するとそうなる
子供の給食でも減らされているというのは深刻である
戦後まもなくは食料不足でコッペパンを油で焼いていたとかある、それは栄養をとらせるためである、それだけ食べるものがないからそうなった
子供の給食が減らされているというのは相当に深刻な状態にも感じる

こういう時なぜ底辺層が困る法律を作るのか?

これは意外と注目していないが政府が底辺層をさらに苦しめる、そしてこういう法律は注目もされず実行される、それが政府のずるい所なのである
でもこれは具体的にわかりやすい、直接底辺層を苦しめる法律である
それで底辺層の暴動が起きるともなる、何しろ人間食えなくなったら政府でも命がけで抗議するともなる、それで中国で一番恐れているのはそうした人民なのである
中国人14億人を食べさせることが第一となる、中国は必ずそうして貧民が政府を攻撃して政権が転覆しているからである

いづれにしろ何か貯金していても今や安心はない、物価が上がり日本の金の価値は半分になるとか預金封鎖があるとかそんな話ばかりだからである
それより農家では燃料として柴をとって二年間分くらい貯えていたという
その方が安心だとる、また水は井戸があるからまかなえた、電気などは裸電球一つだったらわずかである、でも夏が暑いと今は異常に暑いから老人だと熱中症になり死ぬこともふえる、もう電気なしでは生きていけないとなっている

その電気の元は石油とか石炭でありまたガスである、だから原発を再開しろと堂々と言う人がいた、どうも飯館村の佐須部落でチューリップを見せるペランティアをしていた一団は原発の被害はたいしたことがない、死者もでていないとか原発を再開しろという団体であったようだ、そういう世論も形成されやすくなっているのだ
それだけ電気社会になったからそうでありまた車社会になっているからもう車なしでは生活できないとなっているからだ、それで石油が上がってガソリン代が苦しんでも田舎だ依然として一人一台車を持っいるのである
だからこうなるとこういう生活が続けられのかということが問題になる
それだけ日本の貧困が深刻化しているのである

posted by 天華 at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年05月18日

ボランティアの交通整理員 (警察から表彰されたーボランティアは組織に入らないとできない)


ボランティアの交通整理員

(警察から表彰されたーボランティアは組織に入らないとできない)

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小学校の通り道で女性の交通整理している女性がいる、この人は警察にも表彰されたと言っていた、この人の場合、一人でボランティアをしている
一人でできないと思ったがここではできている
ただもし男性だと子供にかかわるということで怪しまれることになったかもしれない
性犯罪とか全国でもあると情報化社会で異常に反応するからである
みんな性犯罪者に見られる、ただそういう人も現実にはいた、役員もしていたのである
ただみんなが性犯罪者ではないのである
でもマクルハーンが言っていたように情報化社会は世界が村となるというとき世界で起こったことでも隣村で起こったように見るのである
特にグロ−バル化した社会ではそうなった、現実にウクライナで戦争になったらあんなに遠い所でも日本でも具体的に避難民が来たりして関係したからである

女性はボランティアに向いているかもしれない、子供にかかわるのでも怪しまれないからである、私の場合は警察に公衆の面前で職務質問されて犯罪人扱いされた
駅長からにらまれて排除されたしまた周りからあいつは怪しいとして警察に通報された
そしてお前はここで何しているのだと若い女性の乗客に「お前はやる必要がない」と言われただけだった、でも少数の人は認めたことは認めた
私は別にボランティアしようとしたのではない、たまたま無人駅になり案内しただけである、またこの辺が原発事故になり外から来る人がふえたので話を聞ける場所として無人駅を利用していたのである、ただ聞かれたからたまたまそうなったのである

ともかくボランティアは意外とむずかしい、特に一人ですることはむずかしい
今回の地震でもDRTとか他にもボランティア団体が来た、国際学生ボランティアとかも来た、それは組織化されているから仕事のプロの人もいてできている
資金もあってできている、第一無料でぱ働いていない、できない、危険な作業もあり給料でももらえないとできない、それはボランティアなのか国の組織としてしているのかともなる、自衛隊のうよなものなのかとも見る
ただメンバーは全国だから沖縄の人も来ていたから何かあったとき集められる組織だとなる

ともかくボランティアは簡単にはできない、駅だったらぱJRで管理しているから許可が必要だしまた勝手にしていると回りから怪しまれる、NPOでも20人くらい集まらないとできないとしている、政府の許可が必要なのだろうだから個人でぱできない
実際にいかがわしいボランティアいて逮捕されたことがあったからだ
この辺でもNPOを管理する組織の事務所が原町にある、そういう場所を通さないと簡単にはボランティアできない
ただ高齢化社会は暇な人が多くなる、生きがいを求める人もいる
でも簡単にボランティアできない、だから老人はデートボールとかしている人が多いのである、そういうめんどうなことにかかわらないのである
それがいいのかもしれないと思った、意外と退職した人がボランティアをしようとして簡単にはできない、実際に地元の地区のボランティアした人が裁判沙汰になったことでもわかる、仕事はやはり組織でしているから一人とかでやるのは無理なのである
普通は邪魔になってしまうのである、なんかわからない奴が入ってくると邪魔だとなる

ただこの交通整理の女性は何の問題もないのである、警察に表彰されるまでなっているからだ、仕事としては朝の一時間くらいだろう、後はしていない
だからそれほどきつくないからしているとなる,ボランティアはきつい仕事はできない
危険な仕事もできない、責任もとれないからだ、でもDRTとはプロ集団だからとてもボランティアに見えなかったのである、自衛隊のように見えたのである
結局退職して生きがいを求めてボランティアしようにも簡単にはできない
まずは組織に入り認められることである、個人的にはできないと思う
この交通整理の女性は例外的なものだと見る

いづれにしろボランティアなど気軽にできると思ってする人したい人がいるかもしれないが簡単にできない
また周りが受け入れるとも限らない、ボランティアというのは意外といろいろな問題をかかえている
何か善意があったとしても様々な問題が生まれて来る、だからしない方がいいともなる
何かもめごとに巻き込まれることがあるからだ、ただ高齢化社会では老人の生きがいというのが問題になる
退職してもその後が長いからである、すると暇を持て余す人が増えてくるのである
トラック運転手だった人が怪我をして自転車に乗るようになった、それで良く私は逢う、今までそういう人と逢っていないのである、その人はまた温泉巡りもしている、明らかに暇だからそうなったのである
温泉巡りをしている人は多いとみる、秘湯とかを車で探して回るとかなる、ただそれが社会に有用なこととして認められるとは限らない、ただ遊んでいるのではないかとも見られる、でも現代は消費社会でもある、地元でも金を使えば良く見られる
何でも買えば喜ばれる、だからボランティアより消費者になった方がいいとなる
ボランティアは意外とめんどうなものなのである
posted by 天華 at 09:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年05月03日

金を誰に渡すかが問題 (地域に金を回すことを考えるーでも広域化グロ−バル化社会では不可能)


金を誰に渡すかが問題

(地域に金を回すことを考えるーでも広域化グロ−バル化社会では不可能)

「書店の消滅」と「女性の労働問題」が根本でつながっている理由

近所の書店で購入すれば、お金はその書店に流れる。他の選択肢を選べば、そのサイトを運営する会社に流れていく。

 日用品でも洋服でもなんでも、インターネットで購入したほうが安くて便利なことは多い。しかし、使ったお金は自分の暮らす地域には流れずに、外に流れていく。人口減で苦しんでいる地方経済はますます不景気になり、シャッター街が増えていく。


金を誰に渡すのか?何か買う時、誰から買うのか、誰に金をわたすのかなど今考えない
スーパーに買い物してその金を誰にわたすのか?誰が受け取るのなど考えないだろう
たいがい金は個人より会社が受け取るとなる、特定の個人は通はいない
戦後の小商店とかだとそこを経営しているのは個人でありその人に渡っていると感じた
商品を買えばそれう売っている個人に誰かに特定の人に金を渡っていると感じる
そこに人と人のつながりを感じる社会である

ただこれも今は社会が変わりすぎたのである、まず商品の量が昔の社会からすると戦後でも膨大に増えたのである,グローバル化でも世界から商品が入ってくるから増えすぎたのである、するともう誰かに金を渡すとかそこに個人の介入する余地がなくなったのであるまず本にしてもインタ−ネットで古本も入れるとその数は書店に並べるのと桁違いとかではない、天文学的数字になっている、書店に置ける本は百万分の一とかかもしれない
それくらいしか書店には置けない、それならアマゾンでも古本で自分を集めていたら書店にもるなと思った、自分なりの書庫を作ればいいと思った
そして書店にはメリットがない、本好きな人などいない、ただ物として売っているだけである、それがこれまで成立っていたのは書店は何か知的なものの窓口としてあったからだともなる、第一自分の家には一冊の本も置いてなかった

教科書だけで勉強するほかない、そうなると書店とかは貴重な存在になっていた
だから本を出す人も特別の人であり本を出すだけで著名人になる
でもまたどうしても本を買うというときむずかしい本は読む人少ない
でも書店に置くだけでくだらない本でも売れたのである
「冠婚葬祭」という本が百万部売れたことがありベストセラーになった本は百万部とか売れた、それが別に内容がいいとかではない、書店に置けて宣伝すると本は売れたのであるそれだけ知的刺激を本から受けていたしその他はなかったからである
そして書店の店員であれ書店の経営者であれ知的なこと本の内容など知らなくても売れていたのである

例えば大工でも職人でもスキルを持っている、だからそれを自慢するがわかる
では本屋の主人が何か本の内容を知っているかとなるとないのである
もちろん知識が膨大だから通じることもむずかしい、でも東京の古本屋街とかではその本の内容を説明できる人がいたりする
でも普通の書店ではいないのである、いづれにしろ前は本を置いているだけで売れたのである、なぜなら書店でしか本は買えないからである
それで自分は一週間に一回仙台市に行っていたのは本を買うためだったのである
近くの本屋には専門的な本などないからである
だから本を買えないということで知識を得るには相当なハンディキャップが田舎ではあったのである

今なら本を買うだけではない、本は簡単とはいかないまでも電子本でもネットでもいくらでも出せる、金にはならないにしても発信できる
youtubeのようなものでも個人でテレビ局さえもてる時代なのである
この差が余りにも大きすぎる、書店には実際は本は置いていなかったともなるのである
置かれない本が膨大にあったが置けるのはその百万分の一とかまでにもなっていたのである

いづれにしろ誰に金を渡すかなど今は意識しないしできない社会である
人など関係なく膨大な物が流通している、そこにいちいち誰に渡すかなど意識できない
それでマルクスは商品を考察して人間疎外とかを言うようになった
金を誰に渡すかなど意識している人はいないしできない、ただ金のやりとりしかそこにはなくなったのでなしる

ただ金を渡すということが誰なのか、田舎だと小さい地域社会だと意識するのである
私は自転車が好きだし使うから結構高い物でも買った、だから自転車屋と親しくなる
しかしここの一万くらいの町では一軒しかないのである
それでもヤマハの委託の店になっているから30万以上の電動自転車を買った
それは本当にいいものだとして常に言っている、でもそれが買えたのはヤマハと直接の販売店なっているから買えた、電動自転車は壊れたりすると直せないのである
それで困っているのは電動の折り畳み自転車を買おうしているがヤマハでは出していないのである、今は外国製のものも相当数入っている、でも田舎でぱ修理とかできないから
買えないので困っているのである
その自転車屋は一軒しかないのだから貴重である、そこで買いたいとなるのが買えないのである、金をその人に渡したいができないということがある


いづれにしろ一万の田舎でも今や隣は何をする人ぞになっている、何の仕事をして生活が成り立っているのかわからないのである
戦後まもなくだったらたいがい何をしている人なのかわかっていたのである
社会が見える社会だったのである、今は見えない社会である、あの人何をして生活が成り立っているのだろうとなる
ただ自転車屋とか大工とか農業しているとかはわかりやすかったのである
買う品物でも金を誰に渡すのか見えていた社会である、この金はあの人に渡っていると意識する、通販とかなるとその金はアマゾンに渡りアメリカに金が集められているのかとも見る、それがグロ−バル社会である
そこに個々人が介在する余地がないのである
ところが誰かに金を渡すということを意識することは人間的だとなる
その人がどういう状態だとか見える、実は病気でありそれでも仕事をして頑張っているとかなると応援したいとなる、金を渡す相手のことを狭い社会だとわかるからである
これが広域社会とかグロ−バル化社会になれば地球の裏側から品物が入ってきて買っても誰に金を渡すかなど考えることもできない、想像すらできないのである
でもバナナ一つにしても結構そこで仕事した人が苦しいと報告があった
でもそんなことを意識して買う人などいない、安くていい商品だから買うとしかないのである

ともかく今は田舎で社会が変わりすぎたのである、グロ−バル化の中に田舎でも組み入れられている、通信では特にそうである、通信の発達で知識が膨大に増えたのである
でも確かに誰に金をわたすとかを意識するのは悪いことではない
あの人に金をわたせば地域でも豊かになるとか意識することは悪いことではない
でもそれが現代ではできない、商品が増えすぎたのである
世界から自転車でも入ればそこにいいものがありそれが買いたいとなる

でも田舎では電動自転車になると買えないとなる、そこに依然として東京とか地方とかさらに田舎の差があると思った
それで自転車にしても私の町の隣の市は大きいから自転車屋が五六軒あるにしても買うことさえ断れることがあった、つまり常に一つの自分の店で買いということにもなる
そうでないものは売らないともなっているのだ、そこは何かそうして田舎の閉鎖性があった、俺の店からだけ買えば売ってやるという感じなのである

ただ自転車は必ず壊れる、修理することが不可欠である、それでエンジン部分をそっくり取り換えたことがあった、こういうことがあるから電動自転車となると買えないのである
おそらく誰かに金を渡すかを意識しろというとき小さな地域では人間的つながりが大事だということがある、それもグロ−バル化で広域経済社会で喪失したとなる
だからどうして原発事故で避難区域になったところが一挙に若い人達が移住して老人だけの街になり廃墟化したようになったのか?
それは人と人のつながりがなくなったことが原因としてあったとも考察した
それで絶えず「絆」を言われたのは外部の人達であり外部との絆であった
内部では絆が必ずしもない、補償金でもめて分断されていたのである
これも広域社会でありグロ−バル経済社会で起きたことなのである
外部との絆が言われたがそれなら外部に人が流出するということにもなる
内部の絆は消失して外部との絆で日常的に生活しているからそうなったのかとも見たのである

いづれにしろ誰かに金を渡すということを意識する社会は消失している
そこに介在するのは人ではない、金であり金というときどうしても外部から外国からでも入ってくるものを金で買うとなる、それが人と人のつながりより金がすべての社会にもなったのである、それでマルクスは商品から考察して人間疎外論を理論化したのである
結局それは商品の数が膨大なものとなったからである
それは本でもそうである、余りにもその数の種類の差が天文学的なものとなるほど差が大きすぎるのである、自転車でも外国製を入れると種類が多い、でも田舎では電動自転車は修理できないとなり買えないからそこが東京とかとは違っていたのである

ここで考察していることは人間と人間がつながる社会である、誰に金を渡すかとか意識するのはそうである
でもそういう社会は田舎ですら喪失している、通販とかなれば金は誰に渡っているかなど意識できないからである
それはアメリカの人達に渡っているのかとなる、小さな村社会とかなると人と人のつながりが優先される
でも現代のような膨大な商品が流通する社会では人と人のつながりは無視されて商品だけが流通する社会になる
それで人間疎外とかマルクスが考察したのである、でもそれを変えることは今となるとできない
それだけ世界経済としてグロ−バル化して経済でも金でも回っているからである
だから道徳無き経済ともなっている、経済が金がすべてであり優位になる社会なのである
でも実際はグロ−バル化しても人と人がつながる協同する社会ともならなかったのである
第一次世界大戦があり第二次世界大戦があり数千万単位で人が死に今度はウクライナ戦争のように核戦争になるまでの恐怖になった、つまりグロ−バリゼーションは世界平和を推進するともならなかった
その反動としてかえって国々との対立を深めるとういこともあった、負の作用も大きいものだったのである
グロ−バリゼーションの悪い面が顕著になったのも確かなのである
posted by 天華 at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年03月24日

ルーブルで石油でもガスでも買いとプーチンが言った (アメリカの金融支配やグロ−バル化の終わり?)


ルーブルで石油でもガスでも買いとプーチンが言った

(アメリカの金融支配やグロ−バル化の終わり?)

そもそも戦争したら米国に土下座しないと資源も売買できず送金もできない
米国は虚偽の戦争でも一切制裁を受けない
まさにヤクザ並の仕組みだと気付かない人がいるのが不思議だね
過去に煮え湯を飲んだ資源国はどんどん増えるのでこの金融暴力システムの命運はもうすぐ尽きるだろう

ウクライナとへのロシアの侵攻ではいろいろな問題が噴出している
ルーブルが下落して使い物にならなくなった
でもロシアには石油とかガスの資源がある、それを買いたい国はある
日本でも買いたいのである、電力が不足して停電しているくらいになっているからだ
その国の紙幣が下落するのはその国の価値がないことになる
買うものがない、日本だったら前は電器製品があったが今は韓国でも中国でも安く売っている、品質でもさほどかわりないとなればうれない、つまり日本から買いたいものがないとき日本の円は下落する

ただトヨタの自動車とかはまだ買いたいという国があるからそれで円の価値が保たれているとなる、でも全体的に買いたいものがないのだから縁の価値は下落する
日本から買いたいものがない、資源もない、技術もないとなれば何を買うのか?
外国人を安い物価で呼んで観光で儲けるほかないとなったのである
なぜならアメリカはもう日本の物価の倍になっている
それを痛感するのは外国旅行に行った時である
中国の十数年前などは日本の物価の十分の一くらいの時があったからだ
それが今では都会では中国の方が高くなったりしている、それだけ変化してしまったのである

カンボジアとかベトナムとか後進国の紙幣をもってきてもそれは何の価値もない
紙くずと同じである、でもドルだったら円安となると価値がある
それで一時トランプが大統領になったときアメリカに投資していたのが円安になりもうかったことがあった、この為替差益が意外と大きなものだったのである
円安になれば確かに外国でも日本の製品を安く買えるからいいとなるが今では日本の製品は中国でも韓国でも作れるからそっちから買えばいいとなる
日本から特別買いたいものがないのである、だから円安のメリットがないのである

結局その国の力は何か供給するものがあるかで決まる、消費するものではない、供給力で決まる、中東とか石油でありロシアでも石油とかガスとか鉱物資源とかになる
ただ資源が無くても技術力があればそれでその国の価値は上がる
技術力とはやはり供給力であり何か与えるものがあるということである
与えるものがない人は別にグロ−バル経済でなくても豊かになれない
個々人でも金を持っているからではない、その人が何を与えてくれるのかでその人の価値は決まる、ただ消費しているだけなら金があってもその人の価値はいづれなくなる
野菜でも米でも果物でもそれを作り供給できる能力のある人は必ずただ金をもっている人より価値があるとなる
その価値は別に紙幣の価値が上がっても下がっても価値を維持できるとなる
要するに価値とは紙幣にはない、何ができるのか何を与えることができるのか何を供給できるのかで決まる

だからロシアでは石油をもっている、ガスを持っている、鉱物資源がある、買いたいならルーブルで買いとなる、つまり金の価値とはまさにく石油であれガスであれ鉱物資源であれそれが金なのである、紙幣はそもそもそも紙切れにすぎない、ルーブルで買いというのはルーブルに価値があるのは石油でありガスであり鉱物資源なのである
ドルが使いないとしたら当然ルーブルで買いとなる

そこでドル一辺倒で支配される世界金融支配を止めることにもなる
中国でもドル支配から逃れようとして人民元とかデジタル貨幣を共通のものとして流通させようとしている
グローバル経済という時ドル支配の世界でありそれはアメリカに富が集中されるシステムだとなる、それを崩そうとすることはアメリカ支配の世界を崩そうとすることである
でもそもそもロシアの経済規模が韓国くらいとなるとそれはできない
ルーブルを貯えてもそのルーブルを世界の国で必要としない、いろいろなものを買いないからである、必要とするのは石油やガスや鉱物資源だけではない、グロ−バル経済とは世界の様々なものを必要とするからである、誰もルーブルを欲しい人はいないのである
となると世界の物をルーブルでは買うこともできないのである

でも今回のウクライナのロシア侵攻でわかったことはグロ−バル経済が終わりブロック化する経済になる、これから世界から食料すら買えなくなり飢饉まで起きるとされる
またグロ−バル経済とか金融支配はアメリカとか特定のものが莫大な富を得るシステムだった、世界から富が収奪する仕組みだった、そして一旦戦争とかなると食料すら入ってこない、小麦が高くなりパンすら麺類でも高くなり食べられるなくなる
すると米なら日本でとれるからそれでしのげばいいとかなる
サツマイモなどもそうである、サツマイモはもともと米だけては足りない、飢饉のときの備えとして救荒食物(きゅうこうしょくもつ)として作られた

江戸時代には、芋代官と呼ばれた井戸平左衛門の尽力で中国地方に移入され、徳川吉宗の支援で関東に普及が図られた甘藷はその代表的な存在である。

コロナウィルスであれウクライナ戦争であれグロ−バル化した世界からブロック化した世界に大きく変化する時代になった
そこで様々な異変が起きてくる、混乱が起きてくるのが戦後70年目の変わり目なのである,グロ−バル経済ではアメリカが覇権をにぎり主役だったがそれも変わる
アメリカも自国ファーストになったからである、世界の警察官をやめたとしているからだこうしてグロ−バル経済でも終わりブロック経済となり世界が大きく変わる

こういう変わり目には混乱する、どう対応していいかわからなくなる
確かなことは自国で供給力を増す、食料でもそうだしグロ−バルに貿易するのではなく
内需中心のドメステック経済になる、やはりそれが本来の国の人間の在り方だったともなる、第一コロナウィルスでもグロ−バル化した結果世界同時に拡散されたからである
すると国境が関所でも必要なものとして意識されたのである
アメリカが覇権のグロ−バリゼーションは終わる、それも見据えていないと日本がの舵取りを誤ることになる、それで中国に着けともならない、でも世界がブロック経済になることは確かである、ロシアがアフガニスタンからアメリカが退いたことでチャンスと見て
ウクライナに侵攻したのもそのためである

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2022年03月09日

ロシアのスイフトとかの金融の制裁 (金融支配も覇権国が作る世界の基軸通貨はドル)


ロシアのスイフトとかの金融の制裁

(金融支配も覇権国が作る世界の基軸通貨はドル)

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ロシアの西側の金融制裁というのも金融もアメリカが覇権国であり支配している
だからアメリカに逆らうものは金融でも排除される
金融支配を理解するのはむずかしい、スイフトから排除されると金が交換できない
すると貿易もできなくなり輸出輸入で入るものも入らなくなる、買ったり売ったりできない、そしてグロ−バル化経済ではアメリカが覇権国であり世界の金融を支配している
それで金融でまず制裁することになる

ロシアから鮭やカニを輸入している、それも高くなったり日本にも影響する
ここで取引するにしても金が必要である、でも西側で取引をできないように制裁して日本も加わると決済もできなくなる、そうなるとどうなるのか?
物はあっても金を介して紙幣を介して売買ができなくなる
でも物は必要である、そしたら物々交換になるのか?それは可能だとしてもめんどうになる、日本の車が欲しいからとして鮭をカニをその値段分もってきて交換するとなるとめんどうでできなるなる
でも経済の原則として物々交換はあった、要するに欲しいものがあればその欲しい物を
手に入れたい、でも物々交換だとめんどうになる
第一何か欲しいからとして魚であれ米であれ持ち歩いて交換していたらとてもできないからだ、ただ物々交換だと黄金と塩が等価で交換されたとうことがアフリカであった
その時塩がそれだけ欲しいものであり高価になるから交感するのに見合っていたのである
ただ金がこれほど普及したのは金があれば自分の欲しいものが何でも買えることにあった欲しい者でも個々人でも国とかの巨大なものでも違ってるからである
金の強みは何でも買えるということである、でも貨幣でも紙幣でも例えば後進国の紙幣はは世界的に流通しないし価値がないのである

カンボジアとかベトナムとネパールの紙幣を持ち返ってもそれは紙切れにすぎないのである、ベトナムで重い金属なのかそれが貨幣としてあった
そんな重い物を持ち歩くことはできない、ただ金属なのだからそれ自体に価値はあるとなる
グロ−バル化した社会ではドルが基軸通貨となる、それでエジプトでロバに乗った少年がワンドーラ―くれとかネパールでも金をくれと子供が言うののである
ロシアで今車が売れている、中古車でも売れている、つまり紙幣はしょせん紙きれであり危機の時は本当に紙切れになる、だから金融が崩壊することは怖いのである
戦後は焼野原で何もなくなったから農家では食料があり高く売れたとなる
黄金の値段が上がっていることもわかる、石油も上がれば物の価値が高くなる
紙幣の価値は下がってくるのである、極端になれば紙切れになる恐怖がある

この金融支配はわかりにくい、そこでグロ−バル経済というのは理解できなくなる
ただ金融支配しているのは西側でありアメリカである、世界の基軸通貨はドルだからである、紙幣でもドルとかユーロ―とか円とかは価値がある、最近では人民元がアジアの共通紙幣にしようとすると中国が巨大化してもくろむ
でも石油を買うのに中東でもドルでしか買えないのである、ここで世界の覇権国のアメリカが金融を支配することになる
世界の覇権争いは軍事だけではない、金融でも経済でも行われている、それで常に金融を支配しているのはロスチャイルドだとロックフェラーだとか陰謀論になる
それは金融そのものがわかりにくいからである、また銀行というのもわかりにくいのである、銀行には実際は金もないのに金を作れる、そして金もないのに貸すことができる
それが紙幣の金の起源だとしている、金を貸した時金が生れるとしている
こういうことはわかりにくいのである、だから金とは謎となっているのである

わかりすいのは金時代に価値があるときである、金が小判だったりすればそれが黄金なのだから金自体に価値がある、その黄金の価値はそれ自体に価値がある、それは持ち運び安いから便利である、それでインドとかで貴金属で飾るのはその貴金属をもつことで金の役割を果たしていたからである、移動して持ち歩けるからである、遊牧民でも貴金属を金のように持ち歩いていたとなる
日本でも江戸時代なら米が貨幣であり石高で経済を計っていた
それだとわかりふすいのである、そのために米を貨幣のようにすれば金融支配の陰謀論は成り立たなくなるというのもわかる
金融というのは投資でも素人にはわかりにくいからである、そこで莫大な富が金が覇権国に収奪されているのである

世界の覇権を握るには金融も欠かせないものでありそれができているのはアメリカを中心とした西側だとなる
シリア紛争ではアラブの春とか民主と自由を求めた革命だと吹聴されたが実際はアメリカの西側とロシアや中国との争いの場になっていたのだ
そしてもともと素朴な人達が平和に暮らしていた国がずたずたにされたのである
それが結局ウクライナで再現されたのである

世界の覇権争いがあり小国はその大国の争そいの場となり悲惨なものになる
その紛争の根は大国の覇権争いであり小国を通じて代理戦争として行われて悲惨なものとなる
つまりウクライナの戦争はシリアの内戦から延長したものだった
ただシリアのことは忘れていたのである、それでシリアの女性が民主とか自由といっても国が破壊されて避難民となった、そこで売春しか仕事がないとか嘆いていた
それがテレビ放送されたのを見て残酷だと見た、そのことがまたウクライナで再現されているのである,大国の狭間で被害を受けるのは小国だとなる
そのことが日本でもありうる、小国化しているから中国とアメリカの狭間で綱引きがあり日本が分断されてシリアであれウクライナであれずたずたにされねないのである

ただシリアと違ってウクライナはそれなりに大きな国だから衝撃が大きかった
ロシア軍が侵略することをまざまざと見たからである
日本にもロシアとか中国の侵略がありうると実感したのである
つまりウクライナだけではない小国化した日本が西側のアメリカとか中国とロシアとかの代理戦争の場になる恐怖である、戦後はロシアとアメリカで日本が二分されることがあった、それは台湾有事から沖縄への中国の侵略がありうる、なぜなら中国はもともと沖縄と関係が深いから中国のものだったとなるからだ

何か戦後70年で対外的にも国内でも動乱の時代になった
大きな変化の時代になった、だから日本でも何が起きるのかわからない
震災以後自分自身でも家族でも今は全部死んだが悪戦苦闘してきた
そのつづきがまだあるのかとなる
原発がこの辺で爆発したけどウクライナの原発は攻撃された、これも恐怖だった
原発は攻撃目標にされる、それは前から言われていた、平和利用でも武器にもなるものである、そういうものは置かない方がいいのである
何かの調子で必ず利用されることになる、子供の部屋に危険なものを置かないようにしているのと同じである
今回のウクライナでも様々な問題が噴出したのである

1954年に、業界第一位で中島佐一の「忠勇征露丸」製造販売権を継承する大幸薬品(大阪府吹田市)が「正露丸(セイロガン)」の名称の独占的使用権を主張し、商標登録を行った。

正露丸の露はロシアのことであり日露戦争がありこういうことがあった
日本は中国とロシアとアメリカと戦争を直接に戦争した国である
これだけの大国と戦争したということに驚く、江戸時代から近代化して欧米に対しても戦いを挑み中国と戦いロシアと戦いアメリカとも戦った国なのである
そんなことができる国だったのかとなる、でも小国になると大国の代理戦争の場になったり分断される、それが一番の問題なのである


宝貝を貨幣とする国(童話)
(貨幣は力の強い国が支配する道具)

金融を支配するのが覇権国になることが今回のウクライナの制裁でわかった
物があったとしても外国に売ることもできなくなるからだ
だから金がグロ−バル化経済で支配するのである
ドルが世界の基軸通貨になっていることは世界を支配できるともなる
その覇権の基は軍事力でもある、それが今回のウクライナ侵略であからさまに見えたのである

プーチンが仕掛ける最終戦争

テープステートの戦いをプーチンがしているという、ウクライナの政府側が流している情報も疑うべきだとしている、つまり実際のことは正確にわからないとしている
ただ衝撃的な映像が次々に映される、するとをとしてもプーチンが悪いとなってしまうのである
でもロシアにしてみれば最終戦争まで核戦争まで覚悟しているやるというのは何なのかとなる、それが見えてないのである
デーブステートとなると陰謀論になりわからなくなる
ネットでは多少ロシア寄りの見方をしている人がいる、ただ金融も世界支配のための組織である、それだけは確かである

つまりなぜ自由な取引ができなくなるのか?

自由社会だったら強制的に取引をできなくすることは反することである
もちろん取引をしない国があってもいいしなくてもいいとなる
ただそれを強制できるのがアメリカでありヨ−ロッパであり西側だとなる
自由貿易社会でそういうことができるのがおかしいとも言える
ロシアではこの金融システム支配を終わらせて黄金本位制にするとしている
それは中国でもドル決済だけではない、金融システムを作ろうとしている
金融は世界を支配する強力なシステムでありだから不公平なのである
わかちないにしろ世界の富が収奪する仕組みだともなる


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2022年02月12日

過剰化社会に現代の歪みが見える (病院も倒産が増え薬剤師も過剰になっている)


過剰化社会に現代の歪みが見える

(病院も倒産が増え薬剤師も過剰になっている)


過剰化社会というとき情報の過剰化のことを書いてきた、グロ−バル化して情報量は天文学的にもなっている、江戸時代だったら村のこととその周辺のことしかわからない
それでも生活できていた、だから情報が少ないにしても回りのことについて深く知っていた、今はとにかく広く浅くであり情報の量が指数関数的に増えてくる
インタ−ネットもいいものとしてもまた情報量がさらに加速して膨大なのである
そして人間は情報に振り回されている、世界で起きることでもそもそも簡単に理解できないからである
情報が多いということはかえって正確な判断もてきなくなる、どうして情報を選別するのかもわからなくなる、そもそも人間の個々人の理解力は限られているからである

例えば昔だったら近くの人が何をしているかどんな職業の人か理解できていた
8割りとか農民だったら農民としての共通認識を得やすいのある
なぜなら職業は同じだから互いに理解しあっていたのである
養蚕が盛んだから仕事を通じて理解しあっている、話しが合うとなる
今は無数の職業があり何をしているかわからないのである
田舎でもわからない、長年近くにいても何をしているかわからない人がいるのだ
私の町は原発事故で避難者が一つの町を形成して住むようになって余計にわからなくなった、また車で遠くの勤め先に行くからまたわからなくなった
会社中心の社会になると会社が移動すると人も家族でも移動するのである
浪江の人は会社が二本松にあるとかで通っていたが二本松に移住した方がいいとなった
会社員だとそうなってしまうのである
農民だったら土地に根ざしで生活しているのだからそういうことができなかったのである

田舎で目立つのは確かに美容院とか歯医者が多いことである、でもそれも過剰だというのもわかる、なぜこんなにあって客があるのかとなるからだ
それび病院でも薬剤師でも過剰でありまた倒産しているという、歯医者でも設備費がかかるから借金しているという、それも今までなら返せたが今は返せないで倒産ともなる
インプラントとかするのも何か利益を得るためだとしている
医者でも何か公定価格になって国で診療費を決めるから高くできない
そこで何か利益を産みだすことをしなければなならい
医者とかで怖いのは薬剤師でもそうだが病気がなくて患者が来なくなると困る、経営が成り立たないとかなり本来なら出さなくてもいい薬を出したり治療でも手術でもすることである
どうも生活保護の人は前にもニュースで報道していたが国から金が出るから無用な治療や薬をだす、それを断ることは別に普通の人でもできないのである
そこに医者の怖さがある

そもそも警察とか医者とか兵隊とか暇な方がいい、むしろない方が平和だ

警察でも犯罪者がいない、すると警官を減らせとかなると食べていけないとかなる
だからあえて犯罪者を増やすとういことまでするとなると怖いとなる
現実に消防士が暇であり火事をわざわざ起こした人がいたのである
また軍隊だと武器会社だと戦争がないと会社がやっていけないとなり戦争起こしてくれ
そうすれば武器が売れてもうかる、そういう人達がネオコンとしてアメリカで力をもっていて戦争を起こすのだという人がいる
武器を作っても売れない、戦争がないと会社がやっていけないとなればそうなる
だからそもそも警察とか軍隊とか病院でも本当は最小限でもいい職業だとなる
これらの職業も大きな業を背負っているとなるからだ
何か人間社会にはこうした矛盾が常にある
現代文明はやはり何でも過剰化してそれでかえって災いにもなる

弁護士でも過剰になりそれもいい商売でなくなった、だから相談するだけでも百万とられたというときやはりその裏を見ると費用の面で苦しいから弁護士でも犯罪者にもなる
背に腹は代えられないとなる、本当は人間社会では特に現代文明ではそうして無駄なものが多いのである、その無駄なものが無駄だけならいいが災いとなることが怖いのである
この世の中本当は優秀な人はまれでありその優秀な人が少数でも成り立つ社会なのかもしれない、それはAIで理解できる、翻訳は高校の先生レベルの能力を軽く持っている
するとAIで学んだ方がいいともなる、AIが先生になっているのだ
それですべてが充たされることになはならないにしてもやはりあることに特化したものが知的な仕事でも機械がコンピュターが代わりになることが見えてきているのである
するとまたそこで大量の人間が無能化されて失業する未来が待っている

ともかく様々な職業が実際はいらないとなっているのかもしれない、過剰に無駄な職業が多いのかもしれない、それが何か害を与えないのならいいが害を与えるから怖いのである軍隊に入ったらなら人を殺すことも仕事だとかなり殺してみたいとかなるのも怖いのである、警官なら犯罪者がいないと立場がなくなる、犯罪者を捕まえてこそ認められる
犯罪者がなくて飯の食い上げだとかなってしまうことも怖いのである
軍隊なら戦争がなければ必要ないとなり戦争を起こしてくれとなるのが怖いのである

これまでの職業が今見直される、必要とされたものが必要とされなくなる
銀行などもそうである、銀行は金を集めるだけで良かった、借りる人がいくらでもいたしそれで利子をとり預金者に配分すれば良かった
今やそれもできないから何のために銀行があるのだろうとなる
地銀でも投資信託とかむずかしいものを売りつける、これは銀行が確実に手数料が入り損しないものだから銀行にとってはいいものなのである
だから必ず転売する、転売して新しい商品を買わせる、その時手数料が大きいのである
客が損してもリスクがあるもなのですと言えばいいだけなのである
でもそれが地銀の本来の仕事ではなかったのである
でも地域でも投資先、借りてくれる人がいなければなんとかして金をもうけねばならないからそうなったのである

つまり今は資本主義社会でも投資先がないとか行き詰まっている、だから資本主義が終わりだとも言われる、でも食べていかねばならないから働く場が必要なのである
そこでベーシックインカムで最低限の収入を与えるということにもなる
なぜならそもそも仕事がAIとか機械に奪われるからである
ただ別にそうなっても人間ができることはある、それが思考脳であり感性脳でり創造脳とか遊戯脳は人間にしかできないことだからである
ただそれで利益が生れるのかというとまたむずかしいのである
ただ人間社会はこうして知的に高度になってゆくとそういう方面に力を注ぐようになるのかもしれない、ルーティンのような仕事は機械がAIするとなるからだ

いづれにしろ過剰化社会というとき無駄な人でも会社でもそういうおじさんがいるとか
社会全体でもニートとか引きこもりが60万にいるとか高齢化で働かない人が千万単位でいるとかこれも現代を象徴しているのである
人間の未来は別に金のためにあくせく働く時代はなくなる、人間のすることは遊びにもなる、つまり思考脳と感性脳と創造脳と遊戯脳にもなる
でもそれは今までのように金も産まないしGDPを上げるわけでもないのである
そういう社会は今までにない社会でありそれに対応するのも適応することがまだできていない、ただ文系の大学では遊びの場だったからそういう社会に適応する場だったのかともなる、でも団塊の世代はみんな会社に就職して企業戦士となったのである
まだ貧乏な時代だからみんな働き蟻になったのである

ただ自分自身のしてきたことは思考脳、感性脳、創造脳、遊戯脳の自己開発だったのである、引きこもりになりそうしてきた、そういう環境が家族で与えられていたのである
だから企業戦士とは全然違った人生を過ごしていたとなる、それは自分の性格が社会に適応できない陰の性格だったからである
とにかく自分は人前で話したり集団の中に溶け込めないのである、体でも異常に緊張して何か体に異常をきたのである、こういう人は確かに陰の性格でありいる
だから奇妙なのは自分の性格にあったのは引きこもりで自由に過ごして思考脳、感性脳、創造脳、遊戯脳を活かす開発することだったのである
ただそのことがこれからの未来ともなっている、それで今までの職業が警察でも医者でも教師でも弁護士でも必要でもその需要はなくなってくる
あったとしても少数でいいとなる、例えば先生でもyoutubeの先生が全国で教えるとか医者ならネットで処方するとかである

だからといって人間の仕事がなくなることはない、何かしら人間的な仕事が残りそれは
機械でもAIでもできないものが残る
例えばいくらコンピュターがAIが優秀だとしてもロボットには愛を持つことがてきないのである、これが致命的なのである
愛というとき医者にも愛が必要なのである、技術的なことだけで医者になれない
なぜなら何か必ず相手は人間だとした時機械の故障のように見れないからである
そこに愛が通わないと医者は病人と接することができない、それを経験したのは病院で私が手術する時誰も頼る者がなく一人の人が待合室で見守ることをしていたがその人は全くが愛がなかったのである

そこにいるだけでも嫌がっていたし会社を経営する人もとにかく箱一つ持つことさえ嫌がっていた、それが態度に現れていたのである、自分のためには実際は何もしたくないとなっていたのである、また自分だけではないその人は他人のためにでも何もしたくない
ただ資格をもって優秀だからみんなに頭がいいとか優秀だとかほめてもらうために事業を起こしたのである、だからその家族自体が事業をするに向いていなかったともなる
事業は自分のためにすることではないだろう、自分が偉いとか優秀だと見せるためにしているわけではないだろう
その人の事業する動機がそんなものだったらそもそも成功するものだろうか?

結局現代に欠けているのは「愛」とか情である、愛となると高級にはあるが人情でもなくなっている、そこには確かに機械があり医学は進歩している、でも欠けているは愛とか人情なのである、医は仁術というとき江戸時代には逆に病気は直せないものとしてあり医者に必要なのは仁術であり愛でもあったとなる
だから確かに現代の医学は進歩して治らない病気も直しているのだがそこに愛は通わない世界となる、病院で死にたくないというときそこが家のように愛が通わない無機質な空間だからである、まるで人間は物のようにかたづけられ数字のように処理されるからだとなる、そこで社会全体が殺伐としているのである
ただ愛という時愛することであり愛されることではないとしている
人か求めるのはただ愛されることであり他者を愛す愛ではないのである
もっと愛してくれとかもっとくれとか何でも要求して与えられる愛のである
でもその人に他者を愛すことはないのである、ただ愛されることだけを望んでいるのである、それも問題なのである





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2022年01月22日

資本主義の成長の限界の歴史的考察 (社会主義化するー分配の公平が政策となる)


資本主義の成長の限界の歴史的考察

(社会主義化するー分配の公平が政策となる)

●売るものがないと人間(生口として)を売る

日本は本当に貧困化している、ここでタイムセールに群がり争っている
それを見たら日本はどうしてこんなに貧困になったのかとなる
安い納豆を取り合いになっている
そういう人を知っている、十円でも安いものを買うために苦労している
ただ田舎ではかえって貧困が見えない、そういう人と接しない限りわからなのだ
都会だとホームレスとかがいて貧困が可視化されるかわかりやすい
田舎だと貧困が見えにくいのである

日本がなぜ貧困化しているのか?その原因はいろいろあるにしても日本の貧困化は世界経済とも関係している、グロ−バル化するとどうしても世界の影響をもろに受けるからだ
グロ−バル化とは実は大航海時代から始まっていたのだ
ヨ−ロッパの世界的拡張から始まっていた、それは信長の時代までさかのぼる
その時スペインとかポルトガルが船でアジアに進出してきたからである
それはキリスト教の布教のためでもあるがその裏では富の収奪だったのである
だからインカとかマヤ文明があったとしてそれも鉄砲と馬で侵略して500人足らずの
ならずずもののような集団に簡単にのっとられたのである
それは強盗団にも似ていたのである、その黄金でスペインは黄金の教会を作ったのであるそれはまさに強盗をして奪ったもので建てたものなのである

真偽がわからないにしてもその時日本に布教をしたスペインに女性が奴隷として売られたとか言われる、日本では売るものがないというとき人間が必ず売られる
人間が奴隷化して売られていることは世界史をみればわかる
古代にさえ日本と中国が外交で何か与えるものが無いから生口を中国に与えたとしている
卑弥呼は239年(魏景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を贈ってきたと、中国の書に記されている

生口とは何なのか 中国、朝鮮の恐ろしい文化
https://artworks-inter.net/pc/2019/11/25/post-652/

魏志倭人伝にみる生口の検討
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0009/RO00090R001.pdf

ここで生口とは男は奴隷であり女は性奴隷としているしまた人肉ようだったということも書かれている、「生口牛馬」とあるとき牛馬と同一化されて生口がある
牛馬のように売り買いされたということである
それは大陸だと常に戦争があり負けたら奴隷にされるのが常だからである
そのために大陸ではアメリカにイギリスでも奴隷商人がいて黒人が売買されたのである
江戸時代の口入れ屋というのも何か奴隷のように人が売り買いされる言葉に見える
そもそも日本では何か中国に贈与するものがなかった貢ぐものがなかったから生口を与えたとなる

つまり中国が巨大化して強国になると日本は朝貢(ちょうこう)になる
何か貢物をもってゆくことになるがなければ生口をもっていったとなる
スペインとか戦国時代でもヨ−ロッパの国が進出した時日本もマヤやインカのように収奪されるようなったのである
アジアの植民地化もその一環として大航海時代から継続されていた
ただ日本は鎖国したので鎖国できたので明治まで侵略されなかったのである

●ヨ−ロッパは富を世界から収奪して豊かになった

なぜヨ−ロッパが豊かになったかというとアジアとか南米とかアメリカから富を収奪したからである、ヨ−ロッパはもともと貧乏な国だったのである
イスラム国が豊であり文明国でありオスマントルコなどのように栄えていた
それで5ドルくらいで今度はイスラム国に白人がヨ−ロッパ人の女性が性奴隷として売られていたとなるのも驚きである
その後大航海時代からイギリスの七つの海の支配で世界帝国となった
ただこの時はイギリスに産業革命が起り資本主義が起り世界貿易で豊かになったのである東インド会社は最初の株式会社とされる
なぜならオランダなどで航海するとき船は航海で危険であり沈没したりするからみんなで株を買って投資した、危険を分散したのであく、それが株式会社の一つの起りとしてあった、今でも会社に投資するともうけも大きいがリスクも大きいからである

いづれにしろなぜ日本がこれほど貧困になったのか?

それを歴史的解明するとなぜ逆にヨ−ロッパが豊になりアメリカが豊かになったのかという問いにもなる
でもその成長も限界に来ている、資本主義とかは投資して成長するフロンティアが必要になる、それがなくなっている、残されたのは宇宙であるがそこに何か資源があるとかにはならない、土地があってもそれで富をもたらすることはないだろう
そしてこれ以上世界が経済成長できないというときグロ−バル経済は限界に来ている
中国経済ももう発展成長は望めない限界に来ている
それでSDGs(持続可能な開発目標)が盛んに言われるようになったのである
このまま世界が経済成長することは環境破壊になる、それはこの辺で起きた原発事故でもそうである、科学技術で豊になろうとしてももう住むことすらできない大惨事になったからである
つまり人間の技術にも限界がある、何か科学技術は無限に発展して限界がないような信仰にもなったのが現代である、でも限界がある、人間の技には限界がある
その限界を意識されるようなっている、全能なのは神しかいないからである
だからこうして歴史をふりかえるとなぜ日本は貧困になったのか?

●高度成長時代は日本の歴史でも例外的なことだった

戦後の焼け野原から高度成長時代になったのは技術力工業力があってそうなった
でもそれは日本が優れていたからではない、やはり経済も運が影響している
米ソ冷戦の中で日本はアメリカの支援を受けた、朝鮮戦争でもそうだった
そこでアメリカ軍を支援して成長したのである
何か子供のとき鉄くずを売って金にしていた、そうした鉄くずが集められたのは朝鮮戦争で鉄が必要であり日本が加工して売ったとなる
日本は日本自体ではもともと豊かになれない、資源もないからだ
だからアメリカとかに電気製品を売るとか車を売るとかで豊かになるほかない
今度は中国が巨大化すれば中国に物を売るということで豊かになるほかない
日本一国だったら江戸時代の鎖国のように平和であるにしろ貧乏で暮らすほかない
何か日本で庶民までも日本人の大半が豊になった時代はない、高度成長のような時代は日本の歴史てではなかったのである、だからふりかえるとそれは例外的なものだったのである、戦争に負けて不運だったのだが幸運にもなっのである

ともかく日本がなぜ貧乏になったのか、円の価値がすでに五〇年と同じになったとか
あらゆることで貧困化している、時代が逆戻りしている、東京だとわずかな富裕層とあとは貧困化したエッセンシャルワーカーしかいずスラム化するとも言われる
だからタイムセールで東京の底辺層がとり合いするとか結婚もできない給料が安くてできないとなっいてる、結婚したくないのではなくそもそも女性がそんな少ない給料では子育てもできないとして男性を選ばない、そこで独身者の一人暮らしが増えたとなる
結婚したくてもできないというのが現実になっている

ただ日本が豊かになれる時代が終わったというときそれは世界的なものでもある
資本主義は限界に来ている、投資する先がない、金余りであり金融資本主義であり本来の資本主義でないとしている、それは銀行でも投資先がない、これまでは利子がついていてその利子で老後でも貯金していれば増えるから悠々と暮らせるとなったが銀行がつぶれるとか預金封鎖だとか円の価値が五〇年前にもどったとか東京にスラム街ができるとかそんな話しかない野てある、退職金が2000万あっても三〇〇百万減らされたとかなる
高度成長時代は一千万あれば七年間くらいで利子で倍になった人もいた
だから二千万もらったとしてもその価値は半分くらいになっているかもしれないのだ
投資で増やそうとしてもそれも知識が必要であり簡単にできない
銀行でそういう素人をカモにして投資信託を売りつける手数料商売になったのである
投資そのものが資本主義では悪いとはならない、でもその投資の方法がわからないのである

●経済成長のない世界へ

ともかくこうして成長する時代は終わり限界にきて資本主義も終わるとか言われる
では次になにが来るのか?それはもう成長しないとなるとき分配を重視する社会主義政策になる、それを岸田首相が唱えるのもわかる
もう収入は増えないし一定である、するとその一定化した収入のなかでやりくりするほかないのである、そして分配を重視するというと全体の成長を計るのではなく分け合う思想になる
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この図のようにもう100しか収入はないというとき60をとっていた人は他の四人に分けるほかないとなる
そして全体的にも富を増やせないのだから江戸時代のように限られた世界で暮らす智慧が必要になる、グロ−バル化だとグロ−バルに発展するということがあるがそれも限界に来ているからだ、そのためにSDGs(持続可能な開発目標)が言われるのである
資源でも人口でも限界であり環境破壊になるとかなり人間の技術も限界だとかなる
それが原発事故で示された、科学技術は人間が無限に発展ずるとう信仰にもなっている
でもそれにも限界をがあることを知るべきである
ただ寿命を延ばすことなどはできる、でもそれが経済成長になるとは思えない
むしろ老人がさらえに増えてくるのだからかえって社会全体が老化するということにもなる、老人はあまり消費しないからである

ただ長生きは悪いものではない、ともかく人間は何か一つでも理解するのに時間がかかりすぎるのである
もう百才まで生きれば普通の人でも天才でなくても功績が残せる
私自身でも六〇歳以後にいろいろなものを理解してインタ−ネットで発表するようになったからである、つまりそれだけ成果をだすのはおそくてもいいとなるからである
それで長寿社会はハードの面ではなくソフトの面が重要なってくる
ソフトの面というとき文化的な面になる、それは物量的なものではなく物質的繁栄ではなく精神的内面の人間の新しい世界を作りだすことである
それが小さいことにしろパソコンのソフトで作りだしている自分の抽象画がその一つだったと思う、全然絵の才能ない自分がどうして絵を作りだしているのか自分自身で不思議だからである、つまりパソコンは今までと違って脳と心と深く関係したものであり今までもの技術とは違っているからである

それはワープロで文章を書くとき体験している、ワープロで文章を書くのと筆記具で書くのとかは違ったものになる、機械を通しして人間の脳が刺激されて拡張されているのである、それは米の生産を増やすとか他にも何か物量を増やすというものではない
文化的なものでありそれはGDPとして計算されない、そもそもなぜGAFAが世界を席巻したのか?これは何か電器製品とか車の生産とか違う、情報社会化したものであり物の生産とは違う、人間の心と精神と関係して生まれてきたのである
つまり人間の最後に残されたフロンティアが脳に心にあるからそうなったのである
人間の創造力と深く関係しているのがパソコンだったからである

●資本主義から社会主義へ?

いづれにしろ貧困化は深刻である、でも資本主義の成長原理で貧困化を解決できない
なぜなら成長そものもが限界に来ているからだ
だから銀行に金が集まっても投資する先がないのである
世界的にも実際は金余りであり投資する先がない、そして金融資本主義で金を右から左に流して利益をあげている、それは詐欺にもにているのだ
金融の操作で金が操作されて利益を産みだされている、実質はただ金を右から左に流しているだけである、ギャンブルと同じである、ギャンブルは何も産みださない、金がただ実は操作されて胴元に流れているとかなり陰謀論になっているのである

つまり100から200に量でも成長すれば分配も底辺層に回る、それが資本主義である
でもGDPでも増えなければ底辺層には回らない、福祉でも成長があるとき福祉にもまわる
それで大正生れの私の母親は60歳になったら年金を積んでいなくても一月三万円もらっていた、でも5年後とかなると4万もらったとか悔しがっていたのである
今はこういうこともないし福祉でも生活保護でも7万とかなりそれで生活できるのかとなる、円安でも円の価値が50年前と同じになったというのはショックである
日本の金の価値がそれほど下落したのである
そうなると外国ののものを買いなくなる、石油でも高くなり物価高になっている

日本はじり貧になってゆく、電気水道ガスがとめられる死ぬ人まででてくる
また食料でも外国から入るものは二倍とかな買えなくなる
ただサツマイモはとれているのか安いとか見て食べている
一応米も日本では余っているからそれがこれ以上高くなるとは見えない
とにかくもともと日本は全体的に豊かなになったことはなかった
ただ高度成長時代というのは日本の歴史で例外的なことだったとふりかえる
すると日本はまた貧乏な時代にもどるほかないのかとなる
貧乏にしても電気水道ガスとか石油は必要になる、それさえまかなうことがむずかしくなる、すると炭を使いとかるのか?そういうふうに追い詰められてくる
ただ電気も水道もガスも石油でもない時代でも人が日本で生きてきたからそれで万事終わりとならない、一応生きてゆくことはできるのである

資本主義がもう成長が望めないという時資本主義は終わる、すると社会主義にもなる
極一部の者か富を独占しているから貧乏なのだと富裕層に不満になる
それでアメリカでもサンダーとか社会主義政策を唱える人が脚光をあびる
岸田首相も分配の政策を言うのはそういう社会状況になっているからである
富裕層の採りすぎる分を底辺層に回せとなるからだ
もし全体的に成長するなら平等に富もまわってくる、でも成長が限界になると富はまわらない、すると極わずかの人が富を独占することに不満がつのる
そこで社会は不安定化してくる、犯罪も増える、富裕層でも安心して暮らせなくなるのである、そのことを富裕層は自覚すべきだとなる


YouTubeの「大学院卒なのに田舎で貧乏生活」も見てね
https://loveandfreedom.hatenadiary.com/?page=1641731809

ここではまだ延々と貧乏を嘆いている、そこから脱出できない、大学院でても文系とかなると苦しいのである
私自身が三流大学の文系であり就職もできずに二十代底辺労働者となっていたからであるただ親に恵まれて自分の好きなことをしてきたのである
でも自分自身も全く贅沢はできなかったのである
ただ時間だけはあったからバックパッカーとかになり旅をしつづけていたのである
外国だとその時中国だと物価が十分の一くらいだった、それが今や日本より高い
日本人は外国旅行は高値の花となる時代になったのか?
むしろ外国人が日本が物価が安いといかことでインパウンドで押し寄せたのである
観光で金を稼ぐほかなくなったということである、それだけ落ちぶれたということである




 


posted by 天華 at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年11月04日

地銀の営業の問題―民主主義は話し合い (勝手に株を決めて売った、その前に説明もなかった―話し合いもなかった)


地銀の営業の問題―民主主義は話し合い

(勝手に株を決めて売った、その前に説明もなかった―話し合いもなかった)


銀行で別に株や投資信託を売って悪いとはならない、それは政府から許可されたからである、法律違反でもないのである
これまではできなかったということは何かそうしてはまずいものとして銀行でも地銀でもあったから許可しなかった
何か自由主義社会とか民主主義社会は基本に話し合いがある
それは政治とかだけでないあらゆる場所でそうなのである
何かをするにも決めるにも話し合いすることが簡単に言えば民主主義の基本である
日本ではそうしして村で話し合いで物事を決めていたというとき民主主義の基礎があったから民主主義に移行できたともされる
ただ話し合いというとき相当に手間でめんどうなのである

何か即決できないから話し合いをしていたら緊急の場合は何もできずに死ぬとういこともある
みんなそれぞれああでもないこうでもないと議論しているうちに敵が攻めてきたらもう対抗もできない、指導者が強制的に命令して判断しなければ死ぬとなるからだ
だから緊急時には民主主義はかえって危険になる
ただその判断を誰にゆだねるかは大事になる、それは相当に優秀でないとできないからだ
地銀が投資信託でも売る時問題だったのは説明も話し合いもなかったことである
何か性急に勝手に営業の人が決めたのである
そこに話し合いがなかったのである、一方的だったのである

リーマンショックの時、半分になった株を元にもどりあがるとき今度はJ=REITに回したのである
その時どうしてなのか一言の説明もなかったのである
私はどうかなとも思ったがまかせる方針だったのでその人の決定に何も言わなかった
それは自分の落ち度だったがそれにしてもその人は何か性急であり説明もせず勝手に決めたのである
それは別に株を売るとか投資信託を売るとかが問題でなくその前にとにかく話し合いがないことが問題だったのである

なぜ今株がリーマンショックから株が元にもどり上がったのにJ-reitにその株を売って買うのかとなる、ただ自分自身がそれを望んだこともある
でも株を売ってそうしてくれとは頼んでいないのである
ただ自分もそこで聞けば良かったのである、でもその営業の人は性急であり勝手に上がっていた株を売った、その株を持っていたら今なら倍になっていたから悔しかった
ただその前に売っていたこともある、それは予測できないしどう判断するかは本当は株を売買する客の判断にまかせることなのである
自分自身が株のプロですからと言われたのでまかしたことが失敗だった

今度は私はなぜかこうしてこのことがありその営業の人を信じられなくなったのである
それは株とか投資信託を売るのが悪いというのではない

その前に話し合いがない,勝手に決められた

これが問題だったのである、今どうして上がってきた株を売るのですかとこちらから問うべきだったがなかった、それは自分の落ち度でもある
でもその営業の人は何か落ち着いて話し合いをしないのである,性急なのである
だから何か若いと営業に向いていないとも見た
じっくり話して決めるということもない、人の話も聞かないのである

そしてJ-reitを売ってくれと言ったとき売ったのだがNISAまで売っていたのである
私はNISAを売れと言っていないのである
これも株を売った時同じように説明もしないのに売ったのである
これは株とか投資信託を地銀でも売る前に話し合いもなく勝手に決められたということである
ともかく説明が必要なのでありそれがないし秋からにNISAは売れといっていないのであるただ営業の問題はこうして説明すらせずに売買したということであり株とか投資信託が悪いからではない、株なら上がったり下がったりするからである
それは銀行のせいではないのである

話し合いが全くなかった!

これが問題だったのである、勝手に営業の人が客に説明しないで決めたことである
株でも投資信託でも詐欺のようにも言ったが十分に説明して話し合いで決めたなら責めることはできないのである
それは原発でもそうだった、ほとんど政府と東電で勝手に決めてすすめたものだったからである、まず住民との話し合いなどない、原子力のこと核のことなどわからないものに話ししても無駄だとなっていたからである
そこからしてすでに民主主義の話し合いがないのだから問題だったのである
常に一方的になっていたのであり聴くことすらできないものになっていたからである

例えば事故がおきたらどうなりますか?

絶対に事故は起こりません

万全の手は打っています

これだけで終わりになる、でも説明くらいできるでしょう、原子力関係の専門家はそれを説明できた、最悪のことが説明はできたのである
それを言うと原発は拒否されるからしなかったのである
つまり政府と東電と住民は話し合いもなかったのである
そこに民主主義はなかったのである、民主主義は別に政治にあるだけではない、社会全般の問題として民主主義がある

その基本が十分な説明であり双方の話し合いなのである
また日本では議論を嫌うことも影響している、理屈を言うやつは嫌われる
でも基本的に裁判でも双方の言い分を聞くから話し合いだともなる
双方の言い分を聞いて判断するからそこで十分な説明と話し合いが必要になる
その中で理屈を言うのもしょうがないとなる
何を基準にして決めていいかわからないからである

いづれにしろ民主主義は手間もかかるし時間もかかるしめんどうになる
客との話し合いだとしても手間になるし時間もかかる
だからそういうことで勝手に営業の人が決めたともなる

ただ私としては株とか投資信託を売るのが悪いとは言わない
その売買で説明不足だったことと話し合いが全くなかったことが不満だったのである
ただ株でも投資信託でも金融商品の売買は自己責任である
ここだけは明確にするべきである、結局損したのは自分であり客である
地銀では利益を得たのであり損していないからである
地銀はただ客の金を売買して手数料を稼ぐだけである
客が損しても絶対に銀行は損しない商売なのである
そうなると客は本当は相当に投資信託とか株に詳しくないと売買するなともなる
結局自己責任であり一切銀行では責任はとらないからである

責任をとらされるのは客であり地銀ではない

まだ原発でも責任をとらされるのは地元の住民である

確かに政府でも東電でも多額の賠償金を払ったので責任をとらされた
でも一番責任をとらされたのは住民である、故郷に住めなくなったからだ

すると本当は一番責任をとらされる住民がもっと真剣に原発の是非を考えるべきだったとなる、それは地銀の株や投資信託の売買とも似ていたのである

最も真剣に考えるべきものは誰だったのか?

それは地銀だったら客自身なのである、なぜなら損するのは客だからである
戦争はもっと責任が重大である、国民が戦場で死んだからである
するともっと国民が戦争すべきかどうか考えねばならなかった
それも政府が勝手に決めてしたともなる、その結果として国民が3百万に死ぬという責任をとらされたのである
ともかく何であれ責任が人間につきまとっているのである
金がもらいるからいいとなってもそれも責任となっていた

責任の自覚がもてない

あなたは金をもらいましたね、あなたは原発を建てることをその金で許可したのです
例え事故があり汚染されてもそれはあなたがた住民の責任です
ただこういうふに自覚した人はいない、金になるからいいとしかなかったのである
だから金は具体的な責任なのである
ただ漁業権をもっている船主とか漁業組合は特別補償されて補償金を事故前でももらっていた、その金をもらったことで事故になっても東電でも責められなくなったのである

でも事故後はもらう権利があったのである、事故前にもらったことが問題だったのである
いづれにしろ人間は常に責任が問題になる、何か生まれたときから責任を負わされているだから赤ん坊は泣いて生まれるのだというのもわかる
何かしらで必ず責任が課せられているのである
そして責任の自覚がもてない、もし責任を自覚していたら原発など作れない、事故起こしたら切腹しろとなったらできない
だからこそいい加減になっていたのである、管理もずさんになっていたのである
権力と権利が欲しいとなるけどそれにもやはり重い責任が課せられている、権力が権利があるとして勝手なことはできない、そのために責任が問われる
マスコミの責任も重かった、800億円もの宣伝費が電事連とかから流れていたからである、それで危険を追求できなかった、ただ金をもらっただけだとなる
でもその責任はあまり追及されないのである





石と石は向き合う

長い時間を向き合う

そして落ち着いて

密に語り合う

石と石が信頼し合い

その場と時間があってそうできる


話し合いとか理解し合うとかでも簡単にできない、現代では何かもうグロ−バルに人は交わる、でもそこで信頼したり話しじっくり合ったりできない、そんな広い場では無理だとなる、信頼でも世界の果てにいるような人とできないしし話し合うこともできない
信頼するにも時間がかかる、すると時間も限られているから簡単にできない
現代ではこうして世界は広まったとしても互いに話し合い理解しあっているとはならないのである

「密」には、すきまのないこと、ちかしいこと、きめの細かいこと、行き届いていること、等の意味があり、「密接」「親密」「綿密」「厳密」などの熟語があります。
「コミュニケーションを密にして〜」は、細かく行き届いた、密接なコミュニケーションをする、という事です

このことである、営業でもそういうことがある、それをしていないと常に誤解があり信頼できないとなる、現実は世界は広がっても信頼するとかはない、ただ物が入ってくるだけだともなる、基本はそういう密なことを目指す社会になる
でも逆に三密はコロナウィルスで避けれることだった、でも密な世界に生きる回帰する
江戸時代辺りはそういう社会だった、狭いから村の様な世界では密にならざるをえなかったからだ






posted by 天華 at 13:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年10月26日

宝貝を貨幣とする国(童話) (貨幣は力の強い国が支配する道具)


宝貝を貨幣とする国(童話)

(貨幣は力の強い国が支配する道具)



バナナ国、パイン国、オレンジ国、ミリタ国という島がありました
四つの国からなる島の国でした
バナナ国にはバナナがとれ、パイン国にはパインがとれオレンジ国にはオレンジがとれました,ミリタ国には何もとれませんでした
ミリタ国では特別な槍を作り兵隊が住んでいました
この四つの島の人達はたがいにその島でとれたものを交換して暮らしていました
パイン国で
「バナナを食べたいな」
「バナナ国へパイン国へ運び交換しよう」
「それがいい、舟で運ぼう、みんな舟にパイン積め」
「よし、一杯積んでバナナと交換しよう、楽しみだな」
他の国でもこうして互いにとれたものを運び交換していました
オレンジが欲しい時はオレンジ国にバナナを運びとか互いにとれたものを交換していました
でもそれもめんどうなので一つの島にそれぞれの島でとれたものを持ちよりそこで交換するようにしました、そこが市場になったのですがそこでもいちいちパインを交換するためにバナナと交換することやまたオレンジに交換することがめんどうになりました


そこで考えたのが交換するための道具です、その道具があれば何でも交換できるものですそれを宝貝にしました、貝を貨幣のように使うのです、貝を金として一つ二つでいくらとして使用するのです
そうすればいちいちとれたものを持って行って交換する必要がないからです
それでこんなことを言う人もいました
「別に宝貝でなくても交換する道具なのだから石コロだっていいじゃない」
「そだな、石コロならいくらでもあるからな」
「でもいくらでも石コロはあるから集められる、それも困るな」
「宝貝はなかなか見つからないから貴重になる」
「それもそうだな、石コロのようにいくらでもあるとそんなもので交換されると困るよ
石コロで何でも交換できるとかありえないよ」
こういうことでやはり宝貝が交換の道具として選ばれました

ところでミリタ国には何にもとれませんでした
それで交換するものがありませんでした
ではどうしたかというと槍をもった兵隊が住んでいたから槍で脅してバナナでもパイナップルでもオレンジでも市場に行って脅して得ていたのです
それえ得るためにまず宝貝を集めたのです
「宝貝をよこせ」
「嫌だ」
「しゃ殺すぞ」
「それはかんべんしててください、宝貝はあげます」
こうしてミリタ国の兵隊はおどして宝貝を一杯集めたのです
それで何もとれないのに宝貝でバナナでもパイナップルでもオレンジでも交換できたのですその宝貝を集めた倉庫がミリタ国にあり兵隊が守っていました
その宝貝はミリタ国で管理していたのです
それを配るにも制限していたのです

ミリタ国は何もとれないのに楽だと見ますがでも敵が攻めてくることがありそれから槍の武器で守っていたのです
だから何もしないということはなかったのです
実際に敵がミリタ国に攻めてきました
敵は鉄砲ももっていて槍ではかないませんでした
そうしてミリタ国は鉄砲をもつ国に支配されました
一部の人は殺されました、他の人は逃げました
そうして鉄砲もった兵隊は宝貝をあることを知りその倉庫を管理するようになったのですミリタ国では槍の代わりに鉄砲の訓練を兵隊がしていたのです
「パインを食べたいな」
「明日市場に集まるから宝貝で買いに行こう」
「俺はバナナが食べたいな「
「それも宝貝で交換できるよ」
「明日市場に行くのが楽しみだな」
こうしてミリタ国で何もしなくても食べ物は得られたのです
ただ敵が攻めてくることがあり危険でした、殺されることもあり兵隊はいつも訓練していました

そこは危険なので他の国の人は住みたくなかったのです
ただ一部は力持ちとか強い人はそこに住みたいということがありましたが普通の人は住みたくありませんでした
ただ宝貝は貴重でありそんなに集まりません
宝貝でバナナを買いパイナップルを買うとミリタ国の宝貝の倉庫はやがて空っぽになります、なぜならミリタ国には売るものがないからです
もしまた別なものでもスイカとかでも何かとれるものがあれば売れるのですがそれがなければ宝貝だけ集めているとやがてなくなるのです
それでミリタ国では困っていたのです
でもミリタ国では敵から守ってやるのだからその宝貝を命令して取り戻したのです
それはミリタ国が命令してそうしたのです
「宝貝をミリタ国にはやりたくない、せっかくバナナを売って得たのにとかパイナップルを言って売って得たのに」
こう言って相手は鉄砲をもった兵隊だから逆らうことができなかったのです
そうして宝貝をミリタ国に一部もどしたのです
ただミリタ国には敵がいつ攻めてくるかわからないので危険でした、平和はなかったので、他の国では平和に暮らしたいからミリタ国に従っていたのです



貨幣の謎は深い、でも貨幣とは紙幣でもそれが権力と関係している
ミリタ国とは今ではアメリカになり世界を支配する、金融を支配しているのはアメリカ政府自体でなくてもロックフェラーとかロスチャイルドとか陰謀論になっても背後に巨大な権力を持っているアメリカがなかったら力をもてない
その力とは軍事力のことなのである
それでアメリカは常に豊かになれる、何も生産しなくても軍事力だけでも豊かになれる
でも覇権国が変わると中国とかになれば中国の貨幣が紙幣が使われることになる
つまり金融とは貨幣とは支配の道具なのである

だからローマでもオスマントルコでも地方長官とかが力を持つとその顔を刻んだ貨幣を出してその土地の支配者ともなる、それで中央政府から攻められるて殺されたともなる
貨幣や紙幣は確かに交換の道具であるがそれは中立でないし公平でもないのである
だからこそ貨幣や紙幣や金融は支配のための道具なのである
七つの海を支配したイギリスがボンドを基軸通貨としたのもそうである
エジプトを支配したからエジプトボンドがあり英語が通じる所ではイギリスに支配されたから通じるとなっている
今ではアメリカが世界を支配するからドルが世界基軸通貨になっている
現実に中国でもドルでしか石油が買えないから中国は金融の面でアメリカに支配されているのである、ただこの力関係が変わると通貨でも紙幣でも中国が支配することになる

だから通貨とか貨幣でも紙幣でもそれは単に交換する道具ではない、支配の道具となっている、そこで覇権国に富が集まるのである、日本の富をそうしてアメリカに吸い上げられる、中国が覇権国になれば中国に吸い上げられるのである
貨幣とか紙幣とかは公平なのものとして通用していない、明らかに力関係が作用して価値が決まる、公平なものとして使われないのである
グロ−バル経済もそうした力関係で価値が決まり正当な公平な価値で決まらないのである貨幣でも何がその時代で一番通用していたかを見ればその時代の覇権国の貨幣が通用している、それはその時代を支配した覇権国があってそうなったとなる

結局貨幣でも紙幣でも詩は道具だとしてたとき人間の歴史は常に覇権国があって支配それぞれの時代時代の通貨があり貨幣がある、それは公平な経済のルールではない
必ず覇権国が得する仕組みであり軍事力が背後にあって通用していたとなる
だからグロ−バル経済は公平ではない、金融で世界を支配する仕組みだともなる
でも覇権国が変わるとまた別な国に支配されるとなる
必ず人間では従属関係が生まれる、国でもそうである、それが人間の歴史であり業(カルマ)なのである

posted by 天華 at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年10月23日

20代で土地を買い家を建て立派な庭を作った80代の人 (新しい産業が生まれないと日本は豊かになれない)


20代で土地を買い家を建て立派な庭を作った80代の人

(新しい産業が生まれないと日本は豊かになれない)


信じられないだろうけどバブル時代は、

16歳の中卒土方でも給料が100万円あった

佐川急便のトラックドライバーの求人でも月給80万円以上あった

anや新聞広告にもよく載ってたから覚えてるやつもいると思う

おれの友達も佐川に2トントラックのドライバーやってたけど22歳で月150万円もらってた
今の若いやつはみんな月給20万円以下


今の時代の差が大きい、知っている人は20代ですでに新しく土地を買い家を建て立派な庭まで作った、20代でそんなことまでできた時代だったと思った
その差は大きい、その頃日本経済はうなぎのぼりで成長していた
その人はトラック運転手であり人より二倍働いた、荷物を運ぶにしても歩合制であり二倍の収入になった、それもあるが収入が今とは二倍くらい違っていたとなる
要するに働けば働くほど収入は増やすことができた

まず貯金していれば金利が7パーセントなのだからそれも信じられないものとなった
今や銀行にあづけるだけで手数料がとられ金利はゼロなのである
地銀などは投資信託をすすめるが実際は素人と同じであった
ただ自分の銀行の利益を上げることしか考えていない、だからとにかく転売をすすめる
その度に手数料が入るからだ、それで株でもリーマンショックで半分になった株が元にもどり上がり始めたとき転売した、それをJーreitに回した
そのJーreitをその地銀の営業の人が信用できなくなりやめたのが良かった
そのあとコロナウィルスで急落したからである

特に田舎の地銀など投資のことなど何も知らないしただ手数料を取るだけの商売である
だから知識のない人はカモになるだけだと知った
ただ今の時代は投資をするなとは言えない、知識のある人はすべきである
でもその知識でも株に通じることは並大抵でないからできないとなる
結局銀行がどうのこうのと言っても自己責任になる
田舎では証券会社でもないし選ぶことが限られているからうまくいかない
それがハンディキャップとなっている

ただ今の時代は本当に給料でも30年間日本でも上がっていないとか日本経済がこれほど落ち込むことは考えられなかった
こういう時代では今の若い人は夢ももてない、自立できないから結婚もできないともなる銀行員など前は公務員と同じく地方ではエリートだったが今や悪徳商人のようにも見られる、銀行は堅い職業と見られていたからである
田舎ではもともと証券とか株は嫌われていた、なにか胡散臭いものとして見ていた
それは別に利子が高いのだからそんなものにかかわる必要がなかったからである
大学の経済学の先生まで株はするなと言ったいたからである
そういう時代は恵まれていた時代だったからそうなっていたのである

20代で結婚して土地を買い家を建て立派な庭を作ることができた
田舎のことでもそういうことは都会でも全国的にそういうことができていたとみる
貯金すれば十年で倍とかなって投資とかめんどうなことにかかわる必要もなかったのである、投資は知識でもむずかしくハードルが高いからである

日本はどうしてこれほど経済が落ち込んだのか?
それは産業の転換が新しいものに転換できなかった
戦後は焼け野原になっても財閥が解体されたとか地主が消滅したとか大改革があった
そして電機産業が起り世界に日本製品が売れた、それで高度成長時代が生まれた
その時それだけではない何もない時代だから地方でれ小さな町工場であれあらゆる場所で起業すると成功していたのである

私の家でも子供相手の駄菓子屋のようなものから始まり小さな店をして売れたのである
物を置けば売れたのである、でも私の家族をみても商売上手とかではなかった
ただ角に店があったから地の利で売れただけだとなる
その店を開くのに5万ほどの金を借りるのに苦労した、銀行でも貸してくれなかった
でもたいした設備もなくて店など開くことができた、そういうふうに簡単に店をもつことができたのである、そういう時代は活気があった
何か起業すると成功しやすかったのである
それはみんながそうであり活気があったとなる
その時子供でもわんさといて神社の境内で遊んでいた、その声がうるさいくらいだった
でも今になると遊んでいる子供もみかけないのである

なぜこんなに日本の経済が落ち込んだのか、その一つの大きな原因が戦前は絹織物生糸を作ることが全国の産業であった、それで私の母親は十年間原町の紡績工場で糸取りとして働いていた、それは全国でそうだったのである
養蚕農家が全国的にあった、それは兜の形をした屋根が今でもいたる所に残っていることでわかる、ここも養蚕農家だったとかわかる
養蚕が日本を支えていたのである、それはアメリカへ輸出されていたのである
でも戦後は焼け野原になり養蚕は終わり電器産業に変わった
その産業の転換に成功して高度成長時代になったのである
あとエネルギーでも石炭から石油に変わったことで大変換になった
鉄道はもともと石炭を運ぶものとして作られた、常磐炭田でもそうだし北海道は石炭の産地であり石炭を運ぶために作られた、夕張とかでも石炭の産地だったからだ
でも石炭から石油に変わると寂れてしまったのである

結局日本が貧困化しているのはこうして産業の転換ができなかった
IT時代になってもそれも韓国や中国より遅れをとった、やはり時代は技術でも変化する
今になると新聞など一軒一軒配ることがどれだけ手間になるか、コストがかかる
もう続けられない、インタ−ネットならもう数人でできることを百倍の手間とコストをかけているとなる、それで大手の印刷会社がやっていけなくなり会社を売るようになったとかある、新聞のコストがかかりすぎるのである
テレビ局でもyoutubeで個人ですら局をもつことがでる

これを比較すると徒歩で旅する時代と汽車で旅すにうよになった時代のように変化している、だからもう新聞とかテレビ局とかは終わりになる
そうしてマスコミの力も相当に弱まった、テレビ局はその装置だけで莫大な金がかっていた、だからこそ第3の権力になっていた、でも残ったのは取材力とか放送する内容になったのである、もともとそこが報道でも重要なものだったのである
だから取材力とかコンテンツを作る人材は必要であり残るとなる
それは別にテレビ局でなくてもyoutubeでも放送できる
現実に教育番組になるとyoutubeがいいとなる、そして大学でもつまらない講義を聞いているよりyoutubeで学べると思った

何かこうして技術の変化があり産業の変化がありそれについていけないと廃れてしまうのが社会である、日本ではそれができなかった、なぜできなかったのか?
日本は物つくりはもともと伝統的に優れていてもITとかの分野は日本の文化と相いれないものがあり苦手でありそれで取り入れることができなかった
明治維新でも物造りではいち早く追いついていたからである
つまり産業の転換ができないためにこれほどまでに落ち込んだとなる
だから経済を回復するために産業の転換が必要になる
電器産業でも韓国に中国に追い抜かれた、すると同じ分野では価格が同じであり差がないから勝負できない、安い方がいいとなるからだ

いづれにしろ時代が変わり養蚕が絹織物産業が興隆した時代から電器産業が興隆して高度成長時代になった、その次なる新しい産業が出てこないと日本がはジリ貧になる
それがITだったのだがそれに遅れた、ただその次なる産業は新たに起これば日本も回復するとなる、でもそれが簡単には今度はできない、それで今度は観光立国とかなったのである、それは落ち目の国がすることである、それで経済が回復することはない
ただ日本には独自の文化がありそれで観光客をひきつけるとういことはあった
でもコロナウィルスでまたそれもそがれたのである

そして今度は負の負担が増える、少子高齢化で老人ばかりふえて福祉関係に金がかかる
何しろ老人は病気になる人が多い、するとそれが負担になる、数が少なければいいが
数が多いから負担になる、若い世代の負担にもなる
結局悪いことは重なる、何かいい面がありそれを見出そうとしてもなかなかない
日本は資源が無いから教育だとか明治から言われた
日本ではそういう基盤があった、寺子屋教育があり読み書きできるとかあった
識字率が高かった、でもそれだけでは今やグロ−バル化するとやっていけない
おそらく日本の弱点は何かまねは上手でも創造力発明がないことである
西欧文明というときそこに発明があったからである

中国文明に習ったのも漢字などを取り入れたのもそこに発明があったからである
日本は独自に発明したものがない、電器産業はそれは独自に発明したものではなくただ先んじて成功したものであり日本独自のものでもなかったのである
それは中国でもアメリカのまねであり中国独自のものを発明していない
だから日本も中国のヨ−ロッパとアメリカのコピーだとなる
それで中国も最近ゆきづまってくる、ただアメリカでも衰退してゆくから次なる興隆する国はどこになるのか?それが見えていないのである

それより世界がもう開発とか限界であり物の生産でも限界でありそこで持続可能社会が言われるようになった、資本主義も限界になった
資本主義は常に資本を投下して成長するシステムでありそれがなくなると終わりになる
後進国があってそこで成長してゆくことによりグロ−バル化資本主義が成立つ、それがなくなると終わりになる、だから世界自体がそうした限界状態になってきているともなる
次なる投資国がないからゆきづまる、そこで中世時代のようになる
それは物を無限をに生産して売る世界ではなく心の内面の追求になる
哲学宗教の時代にもなる、ただカルト教団とか宗教団体はこれは全く資本主義に組み入れられた物欲拡大のものであり心の内面など何にも関係ない、物欲宗教でありそのために毎日祈っているだけである

宗教とか哲学とかは最も離れたものでありだから数だけは増えたとなる
要するにこれからの世界は物欲の追求ではない世界になる
第一ITがコンピュターが人間の頭脳と深く関係しているものであり情報社会とは今までも物欲社会とは違っているからである、そういう時代に生まれたものだからである
だから物欲社会を目指すものは限界に来ているから日本でも高度成長時代はもうまたないつまり物質欲望社会から精神を追求する社会になる、世界で物は飽和状態になる
物を作っても売れないとなる、何が売れるのかとなると今までのような考え方では売れないとなる,アメリカでも金融で支配しているとかなるとそうである
輸入大国にもなっているのだから物を売っても売れない、ただコンピュターを発明してソフトを売っているとなる,ソフトは今までの物つくりとは違って頭脳と深く関係したものだからである
もしかしたらそうして知的遊戯とか精神の遊びの世界が広がる
ゲームとかがそうである、つまり物造りだけで発展した時代は終わったということである



posted by 天華 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年10月12日

金の計算の不思議ー短期的長期的計算 (人間は長期的視点で生きられないのが問題)


金の計算の不思議ー短期的長期的計算

(人間は長期的視点で生きられないのが問題)

timemoney11.jpg

人間は時間を計算することがむずかしい、時間の働きが理解しにくい
だから意外な結果となっている


金の計算で不思議なのは私自身が20万で一か月やりくりする計算している
一か月20万だと多いともなるが実際はそんなにかからないが貧乏な人を金で支援しているからかかるのである
ただ一か月20万としてこれが一か月を一週間延ばす、また10日でも伸ばす
するとこれが一年で金の計算をすると一週間で7日を一年で掛け算すると12×7で84になる
約三カ月分になる、10日伸ばすと120日分になり4ケ月分になる
これがなかなか理解できなかった、そんなに節約できるのか?
20万円分を一週間延ばすだけでそんなに節約できるのか?
でも一年で計算ししてみると確かにそうなっている
この額が大きいと思った

3カ月分節約したら一カ月20万で生活するとして20万のままだったら一年で240万になる
でももし三カ月分を引くと240万−60万で180万になる
これは大きな節約だと思った
ただこの計算が何度しても良くわからなかったのである
それは結局長期的計算だからそうなっている
それも一年という計算でそうなったのである
だから人間は何でも金の計算でも短期的計算と長期的計算は相当に違ってくる
そのことで複利計算だと300万を一〇年で400万にできるとなる
それが意外に思えるのは何故か?

長期的計算だからである

人間の盲点は長期的計算ができないということである
長期的に見ることが苦手なのである、だから株は約一〇年ごとに大きな変動があり上がり下がりするから長期的に見れば必ずもうかるということがある
でも一〇年先だと長いとなる
それで失敗したのが銀行員の営業の人がリーマンショックでもっていた株を元にもどったときそれを勝手に転売してJ−reitに売ったことである
転売したことである、それは自分たちの銀行の利益と営業の人はノルマを稼ぐためだったのである、相手の利益なのことなど証券会社でも銀行でも考えていないのである
銀行員の営業マンは説明すらせずに強引に転売したのである
説明責任があるとしてそれすらしなかった
それ以来銀行員を信じられなくなったのである

つまり銀行でも今長期的にみて商売していない、今利益を上げることしか頭にないのである、それは銀行でも地銀でも収入が得られず追い詰められているからそうなる
顧客のことなどいちいち考慮していられないのである
銀行自体が地銀でもつぶれるというとき悠長にかまえていられないからだ
でも短期的には利益があがり成功であっても長期的には失敗ではないか?
銀行は信用が第一だとすると信用を失ったともなるからである
銀行はそんなものだったのかともなる、信用を失うことは長期的には大損だったともなるかもしれない
だから商売でも本当は長期的視野が必要なるが実際は短期的なものとして商売しているのが普通である
そんな長期的な余裕をもって商売できないからである
資金だってそんな余裕がないからである

ともかく人間は短期的に見るのと長期的に見るのでは相当に金の計算でも違ってくることである

ただ人間は長期的に見ることが苦手でありできない

人生でもそうなのである、まず短期的に見ることは常にしている、でも長期的にみることはできない、それで来年のことを言うと鬼が笑うというのは人間はそもそも長期的に見れないものだからそうなる
必ず不測のことが起きて人生でも狂ってしまうのである
そしてみんな人生は結果的に意外なものとして終わっているのである

人間の弱点は長期的に見れないことである、結婚にしてもそうである
この人と結婚していいのか?幸せなのかとかわからない、だからこそ三分の一は離婚しているのである、結婚するとき好きで結婚しても長期的に見る時それが失敗だったとなる
人間は今幸せならいいとなる、将来のことなど考えないのである
また考えられないのである、そんなことしていたら疲れるだけだとなる
それで今日の苦労は今日一日でたりるとなり明日のことは思いずらうなとなる
長期的に見て思い患っていたら生きてゆくこともできないとなる

例えば長期的に見れないことで人間は災いにあう、津波とかでもそうだった、この辺では津浪でも700人溺死とか記録があってもたった二行でありそれが全く忘れられていたのである、その事実をみんな知っていれば警戒したこともあった
でもこの辺では津波が来ないという確信になっていて逃げないで死んだ人も多いのであるだからこそ災害は忘れた頃にやってくるとなる
それは人間は長期的に見ることが苦手なのである、常に目前のことに追われているのが現実だからである、そこにやふはり長期的にみる歴史的視点が大事だとなる
千年であれ一億年でも長期的な視野で時間で見ることが大事だとなる

現代は特に長期的視点で見ることができなくなっている、江戸時代なら一次産業が主だから農林漁業が主なものだからそれは自然に依拠した生活だから長期的な視野になる
そして生活も代々親の仕事を受け継ぐとかなっていた
それで職人でも十代とか綿々と受け継がれていたのである、そういう時代は長期的視野で生きられる、木でも50年育つにかかるとしても親から子へと受け継がれのその果実は子供が得るともなる、人間が財産を築くにはそもそも一代ではできないのである
例えば近くでうまい梨を作るのに十年かかったとかなる
必ず何か実りを得るためには時間がかかる、それも一代だけではできないことがある
それで農業は親から受け継ぐことが有利になる、土地もあるしまたノウハウも親から受け継ぐことができるからである

そもそも人間は即製的にすることで何か成しえることが本当はない
そういうものは何か本当の実りをもたらさない、例えは遺産でも何か大きな金が入っても消尽されることがある、身につかないのである
それは自分が苦労して溜めた金ではないからである,ギャンブルでもうけた金もそうである、何か金が身につかないのである
ただ人間はどうしても長期的視野で見れない、何かをすることができない
今もうけなければ第一金が入らなければ事業でもつづけられないとなるからだ
十年後に金がもうけて金が入ればいいとかならないからである
すぐ今もうけなければならないとなっているからである
そんな余裕のある人はいないからである

ただ人間は短期的視野で見ると失敗する、一時的に泡銭とか入ってもそれが成功にはつながらない、そして意外と一代で成功しないというとき親の代の苦労が実はその子供の代になって得られるとかなるのである
何か今成功している人は親の代から受けづくものがあって成功しているともなる
つまり長期的にしか成功はなく成功の果実を得られないともなる
ただ人間は長期的にみれないのである
原発でも今金になるからとみんな賛成した、でも長期的に見れば事故になったらどうなるのかなど考えた人などいないのである、今金になるじゃ賛成だとなってしまうのである
今金になるということしか見えないのである

ともかく自然をみると山でも木でも石でも長い時間を感じる、山とになると億年の重みがあるとかなる、それはそれだけ変化しないものとして常にあったからだとなる
木だってやはり樹齢何百年とかなると時間の長さを感じるし石でも岩でもそうである
でも人間の世界はめまぐるしち変わるから無常だとなってしまう
人間すら今日あったものが明日はないとかなる、人間も生れては死んでゆき無常だとなる人間でも千年くらい生きていたらそういう無常を感じないだろう
老人になると人間は逢ったと思ったらあとは永遠に逢わないともなる
「さよならだけが人生だ」liveとはlieveであり去ることだとなってしまう

それで長期的視野がもてないのである、ただそのことが様々な問題を産んでいる
教育だって即製的インスタントになり長期的視野をもてない教育をする
詰め込み教育とか暗記教育が教える方にとって楽だからそうする
でも教育を長期的に見ればその仕方を違ってくる、明日のための試験のための教育ではなくなる、でも常に短期的にしか見れない、試験が常にありその合格のためにはどうするかしかなくじっくり考えて答え出せとかもない、常にせかされているだけなのである

人生百年時代はその点じっくり何でも取り組むということでいいことにはなる
マイナス面も大きいとして急いで成果を出さなくても百年あれば成果を出せするともなる自分の場合は60過ぎてとかからようやく成果を出しているともなる
つまり人生百年時代はそうなる、あせって成果を出す必要がないのである
退職してからも30年とか40年あればまだ人生の半分しか終わっていないのである
こうなると人生観も変わってしまうのである

急いで得た富は減る。
少しずつたくわえる者はそれを増やすことができる。

箴言13章11節

地道に働くことを奨めている、そうなると一攫千金は奨められない、でも株などは常に一攫千金を求めているからすすめられないとなる
いづれにしろ何事時間がかかる、その時間の計算が長期的にできないのである


posted by 天華 at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年10月10日

貧困の深刻ー電気、水道、ガスが止められる (世界的に食料も不足して日本にも回ってこなくなる)


貧困の深刻ー電気、水道、ガスが止められる

(世界的に食料も不足して日本にも回ってこなくなる)


現代の貧困は見えない、汚い恰好していま人はいない、江戸時代とかつぎはぎだらけのものを着ているわけでもない、何か貧乏という時一目見てわかった
今は見た目はこぎれいな恰好をしているからわからない
一番深刻なのがガスを止められることである
電気とか水道は多少余裕があるがガスはそうなっていないのは最初は払わない人がいて
取り立てが厳しくなっているからだと思った
実際はシステム上そうなっていたのだ




料金を確実に徴収できないと見なすと、その資金を使ってガス供給の安全を維持できないことを同時に考慮することになります。つまり、ガス料金は単にガスの使用量に対する料金だけでなく、ガスシステムを安全に運営し続けるための財源も含まれていると言えるでしょう。

ガス料金の滞納に関して他の光熱費比べて対応が早いのは、ガスは民間サービス性が非常に強いからの一言に尽きます。水道や電気は国との関連性が非常に強いですが、ガスはそれほど国との関連は大きくないと言えるでしょう。

ガス会社は料金の徴収に関しては非常に強気でして、滞納が一旦起きると契約者がどのような経済状態であるかを問わずに供給を停止するスタンスを取っています。これは安全確保の名目で進められますが、事実上は収益性を悪化させないための対策であることも事実です。
https://www.tainavi-switch.com/contents/541/



ガスは特別厳しい事情があった、つまり支払いの猶予がないのである
その人がガスで泣くように訴えていたがこういう事情があったのである
何か非情に見えたのだがその裏の事情がわからなかった、何か日本が貧困化して払わない人が増えて警戒して取り立てが厳しいのかと見ていた

その人が凄く憤っていたがその裏の事情がわからないからそうなっていた
つまり何事に理由がある、その理由がわからないとただ憤るとなる

とにかく現代の貧乏は目に見えないが電気ガス水道が止められることでわかる
なぜならそれによってもう食事もできなくなるからである
東北の震災の時、電気がとまらなかったので米とノリくらいあったのでそれで二週間くらいしのいだ、それができたの電気が使いたからである
水道も使いた、でも電気が使えなくなった場所もあり水道も使えなくなった場所もあったのである、そうしたら水をもらいには行くことができたが電気はもらえない、するとガスが頼りとなるがそれもできない場合はお手上げになる
三陸とかの他では裏山の清水を使い燃料は森の木とかを使い米をたいてみんなでしのいでいたのである、今はそれができないのである
ただ子供の頃は水は井戸水であり燃料は炭とか木材であり新聞紙とかをたきつけで使っていた、ただ木材でも製材して余った端切れの木であったする
でもこうした原始的生活はかえって災害に強いのである
電気,ガス、水道が止まるとお手あげになるからである

滞納が一旦起きると契約者がどのような経済状態であるかを問わずに供給を停止するスタンスを取っています

特定のガス会社がこうしたことをしているのではなくガス会社は民間性が強いのでこうしている、その人はなんでこんなことをするんだと憤っているがそういう事情があった
何か会社を変えたこともあったがどこの会社でも共通していたのである

いづれにしろ現代の貧困の深刻化はここに現れている、さらに深刻化すると食べ物を満足に食べられず飢饉の様な状態になる、アフガニスタンでは百万単位で子供でも飢饉状態にある報告されているからだ
ただその前に電気、ガス、水道が止められる、また貧困化すると電気を節約するほかないそれで団地でも夜になると電灯を消しているという、近くにも浪江の復興団地でそうしている人がいると聞いた、こういうのが貧困として目に見えるものとなる
ただ電灯を消すという時フランスのホテルでは夜は電灯を消していた
それは節約のためなのである、だからこれだけを見てもわからないということがある
でも日々の食事にはガスと電気と水は不可欠だからここが止められると生命の危険になるだから水道とかを民間の会社にする外国の会社に委託するというのは危険になる
どうしてもここは公共的なものとして運営しないと危険になる

何か今は情がない社会ともみる、それだけ困窮して生命の危険にもなるのに猶予してもらえない、でも現代社会のシステムがそうなっていたからだともなる
いちいち個々人にそうして対応していたら成り立たなくなる
貧乏な時代はとにかく借りが多かったのである、それは日常的でありその日暮らしでもあった、それで戦前に自分の家で部屋を貸していたたとがあった
その時毎日家賃を取り行っていたという、家賃を毎日とりに行くということがあったのか?家賃も日払いなのかとなる、それも今になると考えられないとなる
それだけ金がない、その日暮らしだったからそうなっていたともみる
そもそも月給取りというけどそういうことがない時代もあったからである
それは江戸時代でありその日暮らしとなっていた、宵越しの金はもてないというときそもそも持てなかったともなっていたのである
私の父親は酒屋の丁稚でありどうも借りを払ってもらうために一軒一軒回っていたようだその手帳が残っているからだ

現代の貧困は眼に見えにくいがこうして電気ガス水道が止められるというのでわかる
また家賃が払えないとかで部屋から追い出されるということでもわかる
厥か一番深刻だから貧困だとわかる、その他はわかりにくいのである
ただ貧困とはそういう人と接しないとわからないのである
どこにそんな人がいるのかとなるからだ、それは田舎でもわからないのである
田舎でも付き合いが薄れているからである、何か助け合うこともあまりない、そして困った人は生活保護になればいいくらいしかないのである
ただ生活保護でも実際は家賃と医療費が無料くらいの人もいるのである
その人は年金をもらっているにしても4万でありあとはもらっていない
だからいつも電気水道ガスが止められている、だからこれもおかしいと思うのだが
そういう人もいるし生活保護があるから安全だとはもうなっていない
これからますます生活保護が増えてもこうしてまともに支給されない時代になる
それは日本全体が貧困化しているからでありそれがさらに深刻化してくるからである
もしかしたら日本でも飢饉のようになり食事もまともにてきない人が増えてくるかもしれない、それは一部であっても全体に影響する、そういう人は犯罪者になり安いからである犯罪が悪いとしても人間はぎりぎりに追い詰められると頼る人がなくなればそうなるからである

ただ田舎でも貧困は見えていない、それは昔のような田舎ではない、農業中心の田舎ではないし人間関係でもそうである、だから不思議なのは隣近所でも何を仕事にしている人がわからないのが多いのである、こういうことは今までなかったからである
それだけ広域社会というか仕事が複雑化してわからなくなったということだろう
ただ日本の貧困化はこれからますます厳しくなる、食料も入らなくなるとか石油が高くなるとかインフレになり金の価値もなくなる、そして遂に飢饉にもなる
そういう恐怖が迫っているのかもしれない、もう世界的に経済が成長することはない
それは中国のことでわかった、だからむしろ世界恐慌前夜のような状態になっているのかもしれない、ただ株が上がるとかいうのは管制相場であり金をばらまいているだけなのである、だからそれもつづかなくなり深刻な貧困が現実化する

何かあらゆるものが末世のような現象になる、そして飢饉さえありうるのかもしれない
食料が高くなると食べることもままならないとなる、そうなっている人がすでにいるからだ、まともに栄養がとれていないのである
それで外国に食料でも頼っていると危険になる、外国に食料があるとして輸送量が馬鹿高くなっているとか運べなくなる、中国で買い占めて日本に入らなくなる
それで中国で一部の特権階級が豊かになっても大部分が貧乏なのはかえっていいとしている、なぜなら中国人がみなん富裕層になったら地球の自然を食い尽くすともなるからだという、マグロでも魚でもうまいとなり中国人みんな食べるようになると魚も取り尽くされるという恐怖である、それも一理あるなと思った




インタ−ネットは確かに知恵袋である、何かわからないとき検索するとそれなりのものにあたる
新しい自転車を買おうとしたら今部品不足で何カ月か後でありいつになるのかもわからないと言われた、自転車でもコロナウィルスの影響を受けている、生産しているのは外国であり世界的サプライチェーンがありそれが途切れると供給できなくなっているのだ
シマノの部品がないと自転車は作れないようにもなっているからだ
コロナウィルスは世界的に影響した、半導体でも不足しているとかで作れないものがかなりある、このコロナウィルスの影響は大きいものだった
深刻なダメージを世界的に与えたのである

posted by 天華 at 07:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年09月05日

職業で形成される人格 (職業選択は大事でもその人にあった職につけないー人格を歪める職が多い)


職業で形成される人格

(職業選択は大事でもその人にあった職につけないー人格を歪める職が多い)

人間は学生時代でもいろいろ学んでも勉強してもその目的は何なのか?
その先に社会があり職業に就くことが目的となる
ただ学生時代はどういう職がありその職がどういうものがわからないのである
例えば農家だったらいつも働いている親とか視ているのだから自ずとその職業を理解するのである、それを日々見ているから反発して嫌だとして親に逆らい農業だけはやりたくないと事件を起こした人までいる
また親から農業だけはやるなと殴られた人もいる、その人は工事現場とか原発で働くようになった、その頃から農業は金にならない割に合わない職業にもなっていたからだ
つまり農業といっても外部から見ているだけではわからない
今になると農業はいいものだともみる、原発事故が起きたことで農業をしていればこうはならなかったとも見るようにもなる

なぜ今職業が問題になるのかというと江戸時代まではたいがい親の職業を継いだのである農家でもそうだし漁師でもそうだし大工とか陶器作りとかでもそうである
家業を継いだのが多いのである、だから職業選択にそれほど悩まないのである
侍は侍であり農民は農民であり商人は商人であり職人は職人である
そして結婚するにしても同じ職業の人なのである
すると互いに理解しやすいということがあった、何か経営者は商人の娘を嫁にしろというときもそうである、それは商人も経営者であり自営業であり金銭のやり繰りとかを身近で見ているからである、嫁ぐ先の職業がのちのち影響する
その職業に向かいない人がいるからだ

天皇家に嫁いだ雅子様は宮家とかに向いていなかったのでうつ病とかなった
宮家というものがどういうものがわからずに強制的に嫁にされたからである
第一天皇家のこと自体わかる人はいない、でも宮家とかで育てばそういう環境で育っているから適合できる割わいが大きくなる、ただ別に美智子様の場合は平民で天皇家に適合したとなる、普通はなかなか適合しにくいとなる
つまり育った環境が人間に影響する、血筋より育った環境の影響が人間は大きいからだ
どういう家に育ったのかそれがその人間を作るともなる
だからカルト宗教団体などで育った者は何か偏り結婚したりするとうまくいかないともなる、常識からはずれているからである

なぜ職業が問題になるかというと職業は人間に欠かせないものでありその職業によって人間でも作られる、職人気質とかなり人間を作る
だからその職業がどういうものか知ることが大事になる
ところが学生時代で勉強しても職業のことはわからないのである
そもそも様々な職業のことを今や複雑化して理解できなくなっている
もともと人間は職業が違うと意志疎通もてきなくなっていた
それで鉄を作る人とか山奥で曲げ物など木の椀などを作る人は神秘的な存在となった
それはその職業のことがわからないからである

ただ言えることは江戸時代の人達がみんないい顔して幸福そうな顔していたということを外人が見て言っているとかなりそれをしきりに言う
でもそうなっていたのは江戸時代ならほとど農民であり後は漁師とか職人であり職業の種類は限られていた、侍は侍の世界があり親の跡を長男が継いだ
だからあまり理解できない職業はなかったように思える
ということはそういう職業は何か人をだますようなことはない、商人とかなる口八丁手八兆で口先だけで物を売るとういことがある
商人は必要でもそうなりやすい面がある、でも第一次産業に従事する人がほとんどの時代は何か人をだますような職業がまれだった、すると貧乏でも嘘つかないとかで人々が良心を曲げることもないから精神的には安らかだったとなりそう言われるとなる
職人気質のように仕事に一途に励んでいたとなる

戦後の私の子供の時代の時、回りでは職業が見える社会だった、農民がまだ多かったし
職人も多かった、駕籠を作る人とか石屋とか漆塗り屋とか豆腐屋とか何か近隣の仕事がわかりやすかったのである、今は職業が多様でありわかりにくいのである
すると職業のことがわからないからその人に合った知っている職業に就くわけでないから適合できずにやめるという人も増える、おそらく親の仕事を見て受け継ぐとなるとそういう職業は子供の時から見ているのだからわかっているし適合する割合が大きくなる
もちろん適合しない人は常にいるけど割合的には適合しやすいのである
そこではあまり職業選択に迷わないとなる

現代は無数の職業がある、でも自分にあった職業に就く人はまれだともなる
だからこそニートとが膨大に増えたとなる、仕事に合わないとか辛いとかもある
そもそも何かその人にあった職業に就くことは簡単にできない社会である
ただ職業というとき文系は理系よりいい職業に就けない、それで理系は物作りでありいい顔になるというときそうだと思う
文系の仕事は何かいいものがない、営業とかなると何かそこで口先で騙す職業だともなるそして何か弁護士であれ証券会社であれ銀行であれこういう職業はいいとも見ていたが実際は騙すものだということがわかった
銀行など地域で硬い職業としてエリートとして見られていたが今や人をだます商売になっている、投資信託とか売り手数料を稼ぐ、投資信託が詐欺商品でありハーバード大学を出た人が良心の呵責になりそれを暴露したことでもわかる
弁護士でも何かそこに法律の知識で騙すということがある
もちろんみんなそうではないがそういう人も現実にいる
それで文系の仕事は何かそういう人をだますのが多いともみる

例えば官僚でも実際それは人をだますものであり犯罪者にあるというときそうである
帳簿でも数字でもごまかす、それでそれをごまかした官僚が良心に耐えられなくなり
自殺した人がいた、だから霞が関の官僚でもそうなる
官僚は技官は別にして文系が多いからである、文系はいい職業に就くことがむずかしいのである、何かごまかすことが多い職業だとなる
政治家となるともう政治家自身が言っている、嘘をつくのが政治家だと言っている
何か口先でいいことを言うだけだとなる
選挙の時だけいいことを言うが実行できないのに言うこと自体がそうである
それは政治家という職業がそうさせるのである、だからこそどういう職業に就くかが大事になる、その人がもともといい人でも職業によって心が歪められるからだ

銀行など地域で硬い職業と見られていた、今や高度成長時代になりITの発達とかで取り残されたもうけることができなくなった
貯金されたものを借りる人がいて自動的に利益が上がる時代が終わった時利子も貯金につけられない、銀行は今や必要ないともなってしまった
そうなると何とかもうけるために投資信託などを売りつける、そして手数料だけはもらうとなる、これも騙しなのである
ただ別に株などは自力でできる人はやればいい、銀行であれ証券会社を仲介にするとき
だまされるとなる、それも結局自己責任だとなる、銀行とか証券会社が罪に問われることはないのである

ただ職業が業となっいてるとい職業自体に何か罪なるものがありそうなった
だから農業でも焼畑とかなると森林を焼くから自然破壊だともなる
稲作でも森を破壊するからそれは人間の業だともなる
そういうことで仏教ではその業から逃れるために僧院に入り職業につかず修行したとなる職業に就くこと自体心が汚れるとしてそうなったのである
確かに今や銀行員とかはそうなる、それでアメリカの大銀行に勤めていたような人が
農業をはじめたとかある、銀行という仕事に嫌気さしてそうなったのである
金だけを操作してそれで大儲けする人を見ていたからそうなった
それが陰謀論になり批判するようになった、「つばさの党」でyoutubeで説明している人がそうである
紙幣とか貨幣とか何か架空的なものをあつかうより実物を扱う農業をするようになったのである、金融というときそれは今や数字てあり数字のゲームをしているようにもなっているからだ、何かギャンブルの世界のようにもなっているからだ
そういう仕事自体が心を歪め人格を歪めるものになっているからだ

とにかく現代は職業が無数にありその選択に悩む、ただ地方だと職業の選択は限られている、大卒だと更に限られていて自分に合った職業がないとなり都会に出るほかないともなる、私の場合は引きこもりであり職業にはついていない
でも郷土学とかを追求してきた、田舎で芸術でも学問でも追求して来た
ただそれが職業にはなっていない、一文の収入もならなかったからだ
そして自分に向いている職業はジャーナリストのなかと思うようになった
今ネットでしている「相馬新報」とかがそうである
ジャーナリストは相当な幅広い知識が必要だと思った、原発事故を追求するにしても多角的に追求する必要があったからだ、ただ文系だと理系ではないから原子力のことがわからない、そこが大きな障壁となり追求できなかった

でも郷土史とか歴史とか地理学とかこの追求はするにはあらゆることを総動員しないとできないものだったのである、そこに限界があった
ただ死ぬ頃になって自分の仕事がこれだったとかと自覚するようになった
つまり仕事は新たに作られるのである、youtubeとか意外とこれはテレビとも違って勉強になるものだとわかってきた、様々なことで経験している人が語っているからである
だから子供が一番なりたいのがユウチュウバーだともなった
テレビはこれまで一番の情報源であり親しいものである、それが個々人がテレビ局にもなるということでそうなった
仕事は新しい時代にそれに合った仕事が生まれる、ただ自分の場合はその仕事を発見することが遅すぎてとなる、今や死ぬ歳になっているからだ
それだけ人間の合った仕事というに就けないというのが現実なのである
ということでニートが引きこもりでも増えたともなる

いづれにしろ職業選択が大事なのはその人を職業が作るからである、だから人格を歪めるような職業につくと金になっても後でふりかえりいいものとはならない
苦いものとなって後悔する、さほど金にならなくても私はその仕事がその人に合っていいものならいい顔になる、それで江戸時代は外国人が見たとき幸福そうな顔していると見たのである、それは仕事はその時農業社会、第一次産業がほとんどでありそれが影響していたのである、現代は余りにも様々な職業があり選択に迷う、それより自分の合った職業に就けないとなる、そこでうつ病になっている人が多いのもわかる
つまりみんな不幸そうな顔をして不満なのが現代人なのである
そのことが社会全体を暗くしているともなる


高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うに彼らが到達したもの彼らのからだと魂に結果残すものではない限り
すべて彼らの身につかず波間に消える-ホイットマン(草の葉)

彼らの体だと魂に結果残すものではない限り

からだと魂に結果を残すというとき職人とかは仕事で体も作られ魂も作られるとなる
体もその仕事に適したものになる
そして魂が作られるということがある意味で怖いのである
その仕事が悪いものであれば魂も歪められるとなるからだ
ホイットマンの時代は職人とか農民とかあらゆる人が讃美されていた
その時代は開拓の時代であり知的な仕事より肉体労働が多い、知的な仕事は弁護士とかでもだますということがあるからだ
だから江戸時代とも似ていたのである、それであらゆるものが讃美されていたのである


体(からだ)は「殻(から)」に接尾語「だ」が付いた語。
古くは、魂に対してそれを宿している身体、生命のこもらない肉体を「からだ」と言い、魂を宿した肉体は「身(み)」と言った。

つまり職業によって魂の宿さないもの、殻(から)になってしまうことである
その一生さえ空虚なものになってしまうとなれば怖いとなる
金があってもその人の実体は中味は魂の無いからだになってしまうとなるからだ

posted by 天華 at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年07月27日

地銀、ゆうちょ、農協、信金などの破産危機の恐怖 (地方の安定を奪うことに)


地銀、ゆうちょ、農協、信金などの破産危機の恐怖

(地方の安定を奪うことに)


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地銀とか農協とか信金とかでもなぜ地方でこそ問題になるのか、それは地域と密着している金融機関だからである、また有力な安定した就職先になっていたからである
それは丁度公務員になると同じて安定していたのである
だからたいがいそこに就職すれば田舎でもそれなりの生活できる田舎の貴族だともなっていた、また地域の人は必ず地銀でもあれゆうちょであれ信金であれ貯金している
それでバブルで日本経済が高度成長していたときは7パーセントもの利子がついていたのである、つまり貯金していれば安心して生活できた
だからこそその頃みんな貯金に励んだのである
そこで今金を持っているという老人の九割は貯金している

投資に回せない、というより投資ということをしてないからわからないのである
それが老人になって投資をしろとか。すすめられてもわからないのである
それで地銀とかゆうちょでも経営が苦しいから投資信託などを売りつける
これも素人には仕組みもわからないし結局だますための商品としてアメリカの大銀行が作ったものである、その仕組みを作った人がハーバード大学出の人だったか良心の呵責になやまされてやめたとうかある
それは素人にはわからない詐欺商品だったのである
それはゆうちょの保険でもそういうことがあった

地銀でもゆうちょうでもなぜ苦しくなったのか?

それは日本経済が衰退して貸し付ける会社が減少した、金があってもその金を活かせないのである、金を借りて事業をする人がいなくなったのである
高度成長時代はいくらでも金を借りる人がいた、事業をする人がいた
その時また投資することは見返りがあった、事業を起こして成功する人が多かったからだとなる、今はそれがないから金があっても増やせない、そうなると金融業も何でも儲けていいかわからないので株式とか投資信託になり地銀はすでに証券会社の子会社のようになっているのだ

証券会社の指導のもとに地銀で信用を築いている地域の家を回るのである
でも証券とか株とか投資信託とか地方の老人はわからないのでしる
だからもうかるとか言いなりになり損するとなる
ただ別に客が損しても地銀とかゆうちょは手数料をとるから損することはないのである
だから前のようにゆうちょとか地銀は地方での安定した職業であり信用されていたという地位から脱落したのである
地元の客でもだましてもうけるとかみられる、ただそれはゆうちょとか地銀だけの責任ではない、日本全体の経済の衰退がそうさせたからである

ただ地方の人にとってもこれは困ったことなのである
地銀が証券会社になることは地方の人にはなじめない、老人でもそうである
でも様々な形で日本経済の衰退が地方にも押し寄せて来た結果なのである
地銀とかゆうちょとか農協でも何か地元の人が経営してそれは同じ地域に住んでいるのである、するとそこで何か詐欺のようなことをして客をだますとなるとその地域の信用も喪失する、、金融機関となると信用が第一になる、だからこそ信用するからこそ投資信託でも株でもすすめられれば買うとなる、そこに信用かあってこそ買うとなる

それが崩れた時どうなるのか?

地域での金融業が成り立たなくなるのではないか、詐欺をしているように見られるからだそれは前のようにただ貯金していればいいという時代ではなくなったせいもある
だから地銀でもゆうちょでも農協でも変革しなければならないというときそれも簡単にはできない、そのことは地銀とかゆうちょだけの問題ではない
地域の人は安心して金をあづけているし利子もついていたからである
それがなくなるとき今度は預金封鎖だとか騒がれるとき安心して生活できないとなる
ただ金融というとき金融で金でせかいを裏でロスチャイルドとかロックフェラーが支配しているというとき金が貨幣が紙幣が人間を支配できるという構造がありそうなる
それは紀元前のギリシャ時代からそうなっていた、そもそも貨幣を使うということ自体に不公平が生まれていたからである

物と物を交換するならそこに公平があり社会を金で紙幣を使う時そこに実際は矛盾が生まれて人間支配の道具となったからである
だからそういう仕組みがある自体この問題を解決しない、金の代わりに物品で供給するとかなれば解決するかもしれないがそれもできない
江戸時代辺りは近辺だけの経済でありそういうことはなかったのである
貨幣を使っていたとしても現代のようなグロ−バル経済とは違う地域経済だったからである、狭い地域での経済だったからである、基本は自給自足であり金にそれほど依存していなかったからである
広域グロ−バル経済になるとまるで違ったものになり金の力が百倍にも千倍にもなったからである、それで世界を支配できるとまでなってしまったからである

ただ地銀でもゆうちょでも中小企業でもつぶしてゆくというときグロ−バル化経済で世界が一部の者たちに支配される、それがロスチャイルドとかロックフェラーだとかなる
それはわからないにしても金融によって金によって紙幣によって世界が支配されるというのは確かなのである
日本がなぜ貧困化したかというとき製造業の衰退もあるがグロ−バル化して一部の金融業者に世界銀行とかにより実体の富が奪われているということもあるとされる
金は金融業は銀行でも世界を支配する強力な道具だからでしる
でも資本主義は投資とういうものを理解しないと分らないのである
それで実際に投資してみることが資本主義を実感することになる
貯金していただけではわからないものだったのである、でも高度成長の時代は投資のこと株のことをわからなくても良かったのである
第一大学の時経済学部の教授が株だけはするなと言っていたことがおかしいとなる
そしたら資本主義のことが何もわからないとなるからだ
それも時代の差だったとなる、その時は素人は投資のことを知らなくても良かったからである

いつれにしろ農林中金の金融機関でもアメリカの訳のわからないブラック会社のジャンク債に投資しているとかで大損になるとか言われる
その影響は地方の真面目に農家でも貯金していた人にくる、虎の子の貯金が損失になり消えるともなるからグロ−バル経済というのは実は地方の関係ない人もまきこんでいるのである、高度成長時代はそういうこと全くなかったからである
こうして地方の生活も安定していとなると安心して暮らせないともなっているのだ
そしてグロ−バル経済でこうして衰退すると今度は日本自体が土地でも今度は中国に買われるとか外資に買われるとかなりすでに日本は植民地化されていると指摘される
福島銀行と合併した証券会社のSBIは外資だからである
銀行だけではない、日本がの土地でも会社でも買われてゆき、戦争しなくても経済的に植民地化されているというのもわかる
ただこういうことは眼に見えて理解できないから困るのである
オリッピックにしてもやはり一部のオリンピック貴族の利権のためにされていたことが判明した、おもてなしされたのは二百万円のホテルに泊まったというから国賓並みの待遇だったのである、そこで日本の金が奪われているということもあった

ともかく日本経済の衰退は津波や原発事故やコロナウィルスとか様々なことで起きているそれが地方の経済にも深刻なダメージを与えている、それが地銀とかゆうちょとか農林信金などの金融業が危機にひんしていることなのである
そこは地域で最も信頼されている生活の要ともなっていたからである
それでおぱあちゃんが投資信託を買わされて2000万損したとか話題になる
そういう所が失われてゆくことはその影響は地方に生きるものにとって大きな影響を受けるのである


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2021年07月17日

老人に投資しろというのは無理 (老人の90パーセントは貯金の理由―地銀の役割がなくなる)


老人に投資しろというのは無理

(老人の90パーセントは貯金の理由―地銀の役割がなくなる)

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あなたは、貴方がお金を預けている銀行が大きく変わることに気が付く
https://www.youtube.com/watch?v=p_8JUFyFtZY

地場産商品の普及、生産、販売が可能になった
事業再生、始業譲渡などに100パーセント出資可能になった

これはまさにもともと銀行が企業家が作ったものでありその成り立ちに返ったということなのである、銀行自体が企業家になるということである
今までは5パーセントしか出資できなかったからである

ここのyoutubeでは今の銀行の問題をわかりやすく解説している



銀行のことでこうして語るのは貯金している人である
別に貯金もしない人は金に困っていても金融機関のことなど考えない
人間はやはり金のことが一番気にする
自分の金がどうなるのだろとうなり心配する
それで地銀でもゆうちょでも金をあづけているから心配になる
自分の預けている銀行はどうなるのだろうと心配になる
こういう心配がなかった高度成長時代は今になると特別恵まれた時代だった
利子は7パーセントもついた時もあったからだ
退職金が一千万だとしても二千万円に5年くらいでなっていたかもしれない
もう貯金していれば利子で十分に生活できた
それが今は預金封鎖だとか利子はゼロだとか地銀でもゆうちょでも投資をすすめる

でも投資のことは老人は簡単に理解できない、酷だ!

だから当然理解できないから損するのが多いし簡単に手を出せない、貯金で安心だという世代では投資は理解できないからだ
むしろ素人が手を出せないものとして見ていたからである

でもなぜこうなったのかというとそれは日本経済が衰退したためなのである
そのツケが金融機関に来て客に来ているのだ
地銀でもゆうちょでもなんとかもうけをださなければやっていけないとなりその窮地を責任を客まで及んでいるのである
お客さんが損しても会社を存続するためには投資をすすめるほかないとなっている
とにかく投資信託であれ株であれリートであれ手数料が額が大きいと利率として大きいのである、だからそれは銀行にとってもいい商売なのである
株が下がっても一切銀行損しないからだ、何か言われれば投資はリスクがあるで終わりでありただ手数料だけはもらえますよという商売なのである

ただそうなったのは地銀とかゆうちょだけの責任ではない、日本経済全体の衰退が金融機関に影響してなった
だから日本経済がまた成長しないと解決できない問題だともなる
それはもう簡単にできない、その金融機関に金をあづけている客が日本経済衰退の影響を受けて責任をとらされているとなる
投資、投資の時代だと盛んに言うけどそもそも老人は経験もない人がほとんどであり
その投資の世界に入ることは容易ではないから貯金しているのである
実際に投資で儲けている人はわずかなのである
そして何より老人は安全を安心を求める、だから投資に向いていないのである
でも金を持っている老人も多いから投資をすすめる、それは日本経済の衰退の結果であるその責任を客がとらされているのである

だから金の価値とは常に変動している、貯金しても変動している
預金封鎖でゼロになるとかもある、しょせん紙幣は紙きれであり今なら数字だからゼロにもなる、紙幣自体に数字自体に価値はないからである
価値になる本体は別なものにあるからだ、金が小判のように黄金だったらそのものに価値があるが紙幣は紙きれにすぎないのである

地銀はもう社会的に機能しなくなっている、要するに地銀でも地域の役割が喪失している地銀は単なる貸金庫なのかともなっている、金の保管場所である、それあるにしてもそれでは銀行は成り立たない、銀行の成り立ちがそもそも会社を起こして成功した人が銀行を作っていた、つまり企業家が銀行を作ったのである
養蚕とかで製糸工場でもうけた人がその中に銀行を作っていたのである
それは曽木資金であらたな起業をするためであった
だからもともと企業家がするものでありただ金を集める人が銀行になったわけではなかった、それが分化して銀行になったけどもともとの成り立ちは企業家が作ったものであった起業できる人が銀行を経営していたのだから当然会社経営する人であり通じた人であり
利益を出せる見込みを得られるとなる

何か今はそうしてそもそも会社でも何でもその成り立ちが問われる
どうしてその企業ができたのか、その由来が問われる、どういう意味があり意義がありはじまったのかということである
ただ高度成長時代にはそういうことは問われなかったのである
銀行でも金を客から集めればその金を借りに来る人はいくらでもいた、だから借りた人から会社から利子をとればいいだけだったのである
何でも成長する時代だと資金が必要でありそれを銀行に頼んだのである
その時預金している人も見返りがあったのである
それがなくなったのは日本経済が衰退したからである
そのツケが金融機関にのみ来ているように見えたが実際は国民全員に預金者にも来ているのである
つまり日本全体が経済成長しないかぎり過去のような利子もつかない、それより預金封鎖だとか金自体の価値がゼロになってしまうのである
だからこれはゆうちょとか銀行とか金融機関だけの問題ではない

日本全体の経済が衰退した責任を預金者にもとらされている!

投資を銀行であれ金融機関からすすめられても老人は簡単にできない、それで90パーセントが貯金したままなのである
銀行がそもそも企業家が作ったように会社を経営できる人が資金を得てまた新たな事業をはじめる、そういう人が銀行をもったのでありその成り立ちをみればそういうことが会社を経営できない人が金をもっても資金をもってもそれを有効に活かせないのである
地銀でもそういう経験がないから投資しろとなり手数料商売になったのである
そういうノウハウとか地銀にはないからである、ただ信用組合は地元密着で地銀よりはあるとしている
とにかくただ金を集める機関であり何か投資してもうけるというノウハウの積み重ねとかなかったのである

地銀は投資には素人だった!

その素人がすすめる商品のことなども知らない、知らないで客にすすめているだけだったのである、手数料をとるためにそうしていだけなのである
そして売らなくてもいい株を売り転売してまた手数料をとる楽な商売になっていた

つまり地銀にはもともと銀行の役割がノウハウがなかった

その成り立ちからして問題をかかえていたのである、それが経済の衰退で露見したのである、何か社会にとって意味があり意義があるものとしてノウハウとかあればこうはならなかった
それはオリンピックとも同じだったのである、オリンピックもただ利益利権のためでありコロナウィルスが広まるのに国民の安全を脅かすものでも強行する
それは一部の利権者のためであったが露見したのと同じなのである
実際の意味意義もなくなっていたからである
何か今社会全体でそうして社会にとっての意味とか意義が問われる時代になった
高度成長時代はそういうことがなかった、銀行でも金を集めればいい仕事だったからである、投資のことなどわからなかったのである
その投資のことがわからない地銀などが投資をすすめること自体が矛盾なのである
ただ日本全体の経済の衰退が地銀とかゆうちょとか金融機関の負担となり客もその責任をとらされているのである
だから根本的解決は日本経済が再び成長しないと解決しないとなる
でもそれは今や至難になる、ただ地銀であれもう社会にとって必要ないものとなる
社会に存在する意味と意義がなくなったからである
その意味と意義を見出すことは簡単にできない、ほぼ絶望的だとなるからだ
農業に投資して銀行員が農業しているのはまさに自ら投資をすることを始めたということである
だからただ金を集める楽な商売は終わったのである、そこで新たな価値を作り出すことは容易ではない、それでつぶれてゆくほかないとも見るのである


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2021年07月13日

貨幣の謎は深い(2)ー貨幣の成り立ちと貨幣で歪めれた世界


貨幣の謎は深い(2)ー貨幣の成り立ちと貨幣で歪めれた世界

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ポロス 古代インド英雄伝



金の謎は言葉と似ていて抽象化されたからである、言葉というのも実際は抽象化されたものであり現実ではない、太陽とか海とか山とか表現しても実物を表現などできない
それと同じように数字化することはさらに抽象化して実体を失うことになる
石があるにしても無数の形と色の石がある、それをただ石とするとき実体とは離れたものである、でも石と人間が表現した時、世界を自然でも表現したとなる
石と岩があり同じようでも違う、自然の認識が言葉によって生まれて世界を表現することになった

貨幣が紙幣がどうして生まれたのか?それは紀元前7世紀とかから生まれたのだから
その起源は古い、どうしても貨幣が生まれねばならないから生まれた
物々交換だとすると米一俵とか羊でも牛でも他の物でも市場に出すとなるとそれを運ぶだけで容易ではない、それで交換を容易にするために貨幣が生まれた
いちいち物を交換していたら自分の欲しいものを買うことがとんでもなくめんどうになるからだ
だから交換する媒介とて貨幣が生まれた、だからメデアでありメデウムとなる媒介するものである
でも貨幣が生まれた時すでに不公平になっていたのである
むしろ物々交換の方が公平だったともなる、なぜならその具体的なものから価値を感じるからである
米俵一俵とかあればこれで当分食べる米はあり心配ないとかなる
でも貨幣からそういう感覚を得られないのである
さらに紙幣になるともうこれはただの紙切れではないかとなりそこに富をあると実感できないのである

貨幣には黄金だったら貨幣自体に価値を感じる、それ意外貨幣には感じないのである
それで貨幣が黄金だったということは理解できるのである
別に貨幣でなくても黄金だったらこの黄金を分けるからその品物をくれとなり貨幣の役割をもつことができたからである
貨幣というのは持ち運び安いということも条件なのである
ただ貨幣の役割をしたのは塩とか米とかでありみんなが使用して価値あるものだとてる
田た塩でも米でも持ち運ぶことはできない、だから貨幣となるのには持ち運び安いものだとなる

中近東とかインドとか遊牧民系では金属で宝飾品で飾りつける
男まで飾りつけている、それはインド英雄伝、ボロスとかでその金ぴかの装飾品を見ることができる、絶えずそれを見せびらかしているからである
インドとかでそうした宝飾品が貨幣の役割を果たしていた、それは貯蔵したり持ち運びができるからである、それが宝となったことがわかる
遊牧民だと絶えず移動しているから富を貯えることができない、農業民族だと蔵に米を貯えたりする、麦でも貯える、でも遊牧民は移動するから貯蔵することができない
だから遊牧民では宝飾品が宝となり貨幣の役割も担っていた
金持ちだということは様々な宝飾品を飾りつけることだとなりあれほど体を飾っているのである

貨幣の不思議はトルコのエフェソスのローマの遺跡は立派である、図書館もあった
そこでローマの貨幣だとか売っていた、でもそれは贋金だった、でもそこで立派な遺跡を見たのでその貨幣が本物に見えたのである
貨幣自体には価値がないかが貨幣を価値づけるものはその背後にある
アメリカのドルを世界の基軸通貨としているのはアメリカが世界の覇権国であり軍事力がありドルが世界でどこでも通用する、エジプトの果てのスーダンに近い所で少年がロバにのりワンドーラーくれというのもそうである
アフリカの果てまでドルは通用している、またドルでしか中東の石油が買えない
それで中国が反発するものもわかる、そのドルが世界の基軸通貨になっていることで世界の富がアメリカに集まる仕組みになっているからだ
そこで数パーセントの金持ちが世界の何十億もの富を所有しているともなる

世界で最も富裕な8人が、最も貧困な36億人分と同じ資産を所有しているとの推計を発表した。

このようなことが可能なのはやはり貨幣が紙幣がまた基軸通貨としてドルがあり成り立つのである、第一そんな巨額の富を貯えることが不可能だからである
米俵にしても蔵に積むにしても限界がある、何か貯えるにしても貯えることに限界がある何兆円をもっていたとしてもそれを物で貯えることはできないのである
でも金なら貨幣なら紙幣ならまた黄金でも貯えることができる
そこで黄金が貨幣になったというのは米とか物ではなくても貯えられるからである
そして今や貨幣は数字になるときその数字はいくらでも増やすことができる
何兆円でも増やすことができる、ただゼロを増やすだけだからである
ここに大きな不公平が生まれたのである

それができたのは物々交換のようではない、物の価値を数字で抽象化できるようになったからである
その抽象化によって物の実感が消失してただ数字として計算されるようになり本来の価値が歪められるようになった
どうしても紙幣とかからは価値を感じないのである
それで自分の家のことを書いてきたが家には単なる建物ではなく様々な付加価値があり
それは他から価値とされないものだがそこに住む者にとっては大きな価値がある
それは具体的に目に見えないものとなっているがその価値は大きいのである

そもそも貨幣が人間社会を歪めたのは貯えることにもあった
神殿とかはもともと麦を貯蔵したとか貯蔵の役割があった
つまり倉庫でもあったとなる、食料でも貯蔵できればそれが貨幣の役割にもなり人民を支配できる、食料を貯蔵して配ることができるからである
貨幣で配るより現物がありそれを貯えていて配る、すると人民を支配する王が権力を持つとなるのである
権力は貯えることから生まれたという経過もある、そこで格差社会とか階級社会も生れた人間がどうして権力を得るのか権力が生まれたのかそれが歴史の大きなテーマなのである

自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。そこでは虫と錆びで、
傷物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にた蓄えなさい。そこでは、虫も錆びもつかず、
盗人が穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

貯えることを戒めている、地上にいくら貯えても無駄だと説いている
貯えることは神から見れば堕落にも見える、貯えることによって格差が生まれ階級が生まれたりしたからである
でも貯える技術が生まれて人類は進歩したともなる
塩漬けにして腐食を防いだり乾燥したり食料でも貯えることができるようになり食料不足に苦しまないようにしたからである
貨幣には貯蔵することができるから富を貯えることができる

でも実際は貨幣をいくら貯えてもそれが実質的に富となるとは限らない
ましてや紙幣だったら本当に紙くずになったことがあるのだから安心などできないのである
預金封鎖があるというとき貯金に税金をかけられてもう利息三文にもなる
それなら米でも他の物でも貯えていた方が安心だとなる
そもそも貨幣でも紙幣でもそれ時代には黄金ではないのだから価値はないのである
株だったらその会社に価値があるのであり金にはない、だから会社が存続してその価値が低下しないなら株を持っていた方がいいとなる
ただ株式となると素人にはむずかしすぎるのである
でも株の方が会社に価値あるものとして持っているので紙幣で貯金しているよりは安心だとなる

要するに貨幣とか紙幣自体には価値がないからである
ここは抑えておく必要がある
何か価値あるというとき貨幣とか紙幣自体にはない、だから価値あるものに投資すべきだとなる、絵画でも貨幣や紙幣より価値あるとなる、その絵画によるにしろそうなる
貨幣と紙幣でももっているだけでは価値は生まれないのである
別に貧しい人がいたらその人にでも金を与えたら価値が生まれている
ただ貯金していても価値が生まれないのである
金に貯蔵の役割があるにしてもその貯蔵するということでも貨幣の価値は変動する
紙幣ならゼロになる、紙くずになるからである、現実そうなった人がいるからである
金は貯える点でも安心はない、インフラになり物価が馬鹿高くなったら物で持っていた方が良かったとなるからだ、でも物だと貯蔵するに限界がありできない
それで本質的に人間は貯えることができないともなる


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2021年07月11日

貨幣(紙幣)の謎は深いー金に物のような価値を感じない (親が残した家には具体的に価値をいつも実感する)


貨幣(紙幣)の謎は深いー金に物のような価値を感じない

(親が残した家には具体的に価値をいつも実感する)

貨幣とか紙幣とか何かという時それには様々な見方がありわからなくなる
ただ単純に考えれば貨幣でも紙幣でもそれ自体にはいくら金だとしても価値を感じない
確かに小判だったら金貨なのだからその金貨自体に価値がある
その金を加工し材料として使えるからだ、だから金本位制になったこともわかる
もし今でも江戸時代の小判だったら価値がある
それは歴史的価値と金そのものの価値が減少しないからである

貨幣とか紙幣の問題としてその物自体に価値を感じない、ここに紙として一億円積まれたとしてもそれは紙に過ぎないともなるからだ
ただ黄金の貨幣を積まれると違ったものになる
私の母は紡績工場で糸取りして働いていた、その時給料代わりに米を何俵かもらった
それを親に与えたら喜んだという
それは苦労して働いて米となってもらったからだ
もともと江戸時代が貨幣の紙幣の代わりをしていたのは米だったからそれがつづいていたともなる、石高で大名の力か計られていたからである
侍の給料も米で石高として与えられていたからである
そうなると具体的に価値が実感できる

だから貨幣ではなく紙幣ではなく物で給料でも何でも与えたりすればいいという人がいるというのは米を与えればその米が農民が苦労して作ったものとしてその重みを感じるからである、貨幣になると具体的な価値をとして実感しないのである
だから人間の労働を貨幣に代えるとその時点で別なものになっていた
貨幣とか紙幣自体に価値は感じないのである
だから紙幣を一億円積んでもそれ自体に価値を感じないのである
だから本当にただ紙くずになるという不安にさいなまされているのだ
それで最近預金封鎖があり本当に紙幣が紙くずになってしまうということで不安になる
実際に私の母親は前の夫が事故で死んだとき一生食べていける金をもらったのである
でも戦争が終わり本当にその紙幣が紙くずになったのである
ただわずかの土地を買ったものが残っただけだったのである
預金封鎖とか金の価値はそうなるから怖いのである

でも何か例えば家があるとする、今まではあまり家の価値を考えなかった
それがこの家を残した親が家族がみんな死んでこの家の主になったとき家のことを考えるようになった
この家は二回も床上浸水になった、最初は伊勢湾台風とかの時であり古い平屋のトタン屋根の家だった、それでその土地は私の父親が買ったものであり街の中て一番低い土地だったのである、でもそういう土地でも戦後まもなく小さな店を開き角にあり繁盛したのである、その時はスーパーもないし車もない徒歩の時代であり近くの店で買い物していたからである、私の家族は全然商売上手でもなかった、ただ場所がいいのと時代に恵まれて繁盛しただけなのである
こうして水害で大きな被害にあったため二階建ての家を作ることが悲願になりまだ回りでも貧乏な時代にいち早く大きな二階建ての家を作ったのである
だからこの家に今一人住んでみると家の価値をつくづく感じるのである
とくに知的仕事となると大きな家に住むことがいいことがわかった
狭い家で部屋だと窮屈になり思索に向いていないことがわかったからだ
広い部屋でゆったりして瞑想したり思索したりすると何かひらめくもなることがわかったからだ

いづれにしろ自分はこうして知的仕事をできるように親によって時間でも家でも与えられていたのである、引きこもりでもそうである
別に引きこもりでも何も言われず自分はこの家に籠もり自分の好きなことをしていたからである
ただ本当は20代でも30過ぎても実は留学することができた、それだけの金が実はあったのである、自分はないと思っていた、でも家族にはそれだけの金があった
でもないと思っていたから留学はしなかった
その頃海外旅行でも馬鹿高いものとなっていたし留学となれば特別な金持ちしか行けないものだったのである、そういう時代だからそこまでは恵まれなかったのである
現実にヨ−ロッパに行った人はシベリア鉄道で行っていたのである
飛行機代が馬鹿高いからそうっないたのである

とにかく老後になると家の価値が大きいとつくづく思った
コロナウィルスでもテレワークとなると広い家が必要なる、なぜなら家が仕事場になるからだ、知的な仕事をするにはやはり書斎とか大きな家が必要になる
でも日本では狭い家が多く恵まれていないのである
人間が価値として認識するのは貨幣とか紙幣とかからではない
実際の具体的なものからなのである、貨幣を紙幣を使って物を買ったりしたときなのである、貨幣や紙幣をいくら貯えていてもそれが価値あるものと思えないのである
だから蔵に米俵を積んであればそれで価値を実感できるのである

何か貨幣や紙幣の価値は本当に百からゼロにもなる、でも現物だったらそんなにはならない、ゼロにはならないのである
ただ本当の価値は現物にあり貨幣や紙幣にはない、だから金の価値は大きく変動する
一定した価値を持てないのである

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

家の価値は住んでみて飽きないものがある、それもその土地の材料で作られたものでありその土地の人々の力で作られたということで価値がある、奈良の山なるということで価値がある、それは外材ではないからである
何かここに一億円の紙幣を積んでいるよりこの大きな家の方が価値があるとみる
それは家には具体的にそこに費やされた材料とか労苦と技術とかを感じるからである
ここに何か貨幣とか紙幣の根本的な問題がある
紙切れかとコインでもそれ自体に価値を感じられないからである
何か価値あるものを持ちたいという時、貨幣とか紙幣と交換して具体的なものでもっていたいとなるのは当然だとなる
ただ米俵でも積んでおくこともできない、貯蔵できない、だから家とか具体的な実物で価値を感じる、そこに家を残してくれた親に感謝するとなる
それは具体的に家から親のこともありがたいと感じるからである
貨幣とか紙幣からは感じにくいのである、そこに貨幣と紙幣とかさらに数字だけとなる金についても価値を実感できないという問題がある

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2021年07月06日

働かなくてもいい社会の未来 (ニート、引きこもりをすすめるひろゆき)


働かなくてもいい社会の未来

(ニート、引きこもりをすすめるひろゆき)

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無能な高齢者やニートは足手まといで邪魔なのでどうぞご自宅で待機なさって下さい
https://www.youtube.com/watch?v=-RIHYtJ7b_0

何か私がひやゆきに同感するのは私自身が引きこもりであり仕事しないで人生終わったようになったためである
団塊のの世代はほとんど猛烈社員、企業戦士となって働いた時代である
だから働かない人とかはほとんどいないからそんな人はいないと見られたし関心もなかったのである
なぜニ‐トとか引きこもりとかが問題視されるのか?
それは結局数の問題なのである、数が多ければ社会でも支障を来すからなんとかしようとする
別に少人数だったらそんなもの変わり者であり放っておけしかならないのである
社会とはなんでも数で決まる、なんでも数で計算している
それは科学的なものでも放射線量も数だったしコロナウィルスでも常に感染者数で数で判断されている
全体を動かすのは数なのである、カルト宗教団体でも数である、中味などどうでもいいのである、それだけの数がいるということで社会に影響を及ぼすから数を集めるのである
数が多いと何かあると社会ではみる、数が少なければそんなもの話題にしもしないとなる民主主義とは選挙でも投票数であり何でも数で決まるのである

能力ない人はかえって働かない方がいいとか言うのは有能な働いている人の足を引っ張るからだとか言う、また老人は働くべきではないというときかえって若い人の職を奪うからだとも言う、無能な人間は足手まといになるから働くなという
それでベーシックインカムを奨励する
働かないで金をもらえないと食べていけないから最低限は補償してやろうということである
そんなことしたら勤勉で成長した日本社会が崩壊するという旧来の人たちが年寄りがいるそこに世代の差が生まれている、そもそも60万以上とか働かないニート、引きこもりがいることが団塊の世代などからすると理解できないことなのである
私自身はそういう人達と違和感がない、というのは自分自身がニートであり引きこもりで遂に人生も終わるとなるからである
ただ自分は好きな勉強はしてきたし旅したことで見聞を広めてその経験を俳句や短歌や詩にしたりいろいろ書いているのである
だから旅したことでもそれが無駄だとはなっていないのである

ただ自分がニートとか引きこもりを見る時、それは何なのだろうと見る
なぜこんなに多いのかともみなる、そして許されているのかということもみる
団塊の世代にはまずそういう人はまれだから誰も気にとめなかったからである
変わり者としてあり社会全体でそんな人はどうでもいいし話題にもしないのである
話題にしているのは経済成長とかでありそんな人はいるか気にもとめなかったのである
ただ堂々と社会にニートだとか引きこもりだとか図々しく言って悪びれないのが違っている、おそらくそれは時代の差なのである
別に働かなくてもいいという余裕がある時代だからそうなった

もともと働くという言葉が端を楽にするということから起きている
家族でも懸命に働く人を見ていると少しでも楽にしてやりたいと家族なら見るからだ
それで貧しい家庭で育った後進国の若者は親を楽させたいということがあり出稼ぎして
仕送りしたりする
今でもそういうことがあるにしろそういう感覚は薄れて来た
たいがい戦前とかは親のために子が働くのが普通だったからである
子供は労働力となっていたのである、私自身も子供の時、店で配達をさせられていたからである、今子供の時カラ働かせるということはない、子供は勉強しろという時代だからである

時代が変わると価値観が変わる、かえって働くことは社会にとって害になる
老人は働くな、若者の職を奪うことになるから働くなということは何かただ働くことが肯定できない時代になっていたのである
それは機械化されたりまたAI化されたり人間以外の労働力が大きなものになると人間は自ずと働かなくてもいい、生産はできるとなる
でも食べていかなければならないから最低のものは与える
それがベーシックインカムだとなる
責任をもって有能な人が働く、あとは働かなくてもいいとう時代になる

老人なってひっこんでいればいい、社会に出るな、ボランティアなどされると働いている人の迷惑にもなる、かえってめんどうが増える、邪魔になるとみられる
仕事する人は仕事するルールがあったりお互いの了解があったりしてしている、そこに何かわからないボランティアとか入ってくるとかえって邪魔だとなる
それは私が駅で道案内したと駅長であれ常にけむたがられて叱責されたことでもわかる
お前は邪魔だから消えろしかなかった、そして回りの人もそこで何しているのかとうるさくてお前はやる必要がないとあからさまに言われた
つまり働く必要は無人駅でもないとされたのである

他の人も退職した人が地域の相談役のようになったときもめ事にまきこまれて裁判沙汰になったことでもわかる
要するに善意であってもすべては受け入れられない、かえってめんなことにかかわって
もめごとをかかえこみ目障りになっただけだとなる

要するに邪魔な老人はひっこんでいろ、何もするな

無能な奴は何もしないでいい、有能な人に仕事はまかせろ

老人は働いて若者の職を奪うな

仕事は機械にまかせろ、AIにまかせろ、人間はいらない

駅は無人駅でいい、コンビニも無人化しろ

こんなふうになる、そこで膨大な老人が無用化してうろうろする時代にもなる
ただ認知症になるのはボケるのは嫁に「ばあちゃんは何もしなくてもいいですよ、テレビでも見ていてください」と言われた人がボケるのである
それで私の家族では同い年親が二人いたともなるが一人は早くに退職して何もしなくなった、優秀な女性だったが何もしなくなりボケのかともみる
看護婦だったからそういう人の世話をする仕事をしていたけど退職してから何もしなくなった、趣味のようなものをしていてもそういう方面には向いていなかったのである
だから認知症になっともみる、その原因はわからないにしろ脳が不活発になって脳の機能が衰えたと見る

なぜならもう一人の親は趣味もなもにもない大正生まれで働き詰めの人生だったがボケなかった、94歳くらいまで家事をしていたからである
趣味はなにもない、庭には花はいらないというくらいで働くことしかなかった
でもボケなかった、家事の仕事がその年まであったからだったのかとなる
家で役割があったがもう一人の親は役割もなにもなくなってただ何もしないそのうち認知症になったのかと見る

確かに社会は有能な人が働く、それで回るようになるかもしれない
でもここでの最大の問題は人間の生きがいなのである
別に仕事をしなくてもいい、ベーシックインカムで最低限の生きるものは与えられる
でも人間にとって社会で認められるとか生きがいを持つことが欠かせないものなのであるそうして社会から何もしなくていい、仕事もするなとなったときそういう人たちが別な生きがいを得られるのか?
それでみんなアーティストになれというのが不思議なのである
自分自身はアートを追求しているにしろみんながそれができるわけではない

そうすると何の生きがいもない人達が増えてくるとどうなるのか?

住宅に住んでいる女性は何か金属のきらきらしたものをぶら下げて回りの人と付き合わない、それでそのことが目障りで嫌だと隣に住んでいる人が毎日訴える
でもその人をどうすることもできないのである
なんでそんなことをしているのかわからない、そんな迷惑人間になっているのかわからない、何かかまってもらいたいなら話しでも愚痴でも言えばいいのだかしないのである
その原因がわからないにしろそんな偏屈な何かわからない迷惑老人も増えて来る
老人でも何か役割をもちたい、社会で持てないなら家族でも持ちたいとなる
でもそれもできないという時代になると何をすればいいのかというのが問題になる
高齢化社会というのはなにかそういうことが問題にもなる
人間はいくらベーシックインカムで食い扶持を与えられて生きろと言っても動物と違うから何か社会で家族でもいい隣近所でもいい役割を持ちたいとかなる
それもできないとするとき何をすればいいのかとなる
そのことがボケになる認知症になるとするとこれも大きな社会問題になるのである

いづれにしろ自分にとっては働かなくてもそのことで責められない社会は望むところだとなる、そもそも働かずに稼ぎもせず遂に一生が終わりとなりつつあるからだ
でも大多数にとってはそうはならないのである
これは人類的問題なのかもしれない、何か戦うこともなくなり人間が惰弱化して怠け者となりそれが人食い人間に食われる、それも抵抗もしないでそうされるというウェルズの小説にあった、人間がもう戦うことがなく惰弱となりそんなふうになったのである

80万年後の世界では、作品が描かれた19世紀末に想像されていた未来の人間社会が描かれます。その社会では人間は仕事をしなくてもよく、遊んで暮らせる存在。しかし主人公はやがてその人間社会がエロイとモーイックという別々の種族で成り立ち、社会はエロイ族が仕切っていることに気づくのです。

本作は、社会主義派であったウェルズが、資本主義社会の行く末と考えられていた「格差社会」を予見して描いたとされています。ウェルズの科学的知識が本作でも抜群に発揮されており、タイムマシンという好奇心を駆り立てる存在と共に、文明に頼りすぎると人間が陥りやすい危険性を力強く描いています。「タイムマシンーウェルズ」

これは有能な働く人と働かない無力化した人間に分化する未来を描いている
それが現代の状況を予言しているともなるから慧眼の人だったともなる

人間が働かなくなり惰弱となり役割もなくなりそれでただ人食い人間に支配されて食われるだけだとなる社会も恐ろしいとなる、人間が二分化してそうなる
ニートとか引きこもりが増える社会はそうして無気力な人間があふれただ今度はそういう人間は食われてゆくだけだとなる
ただ無気力になるというときすべて悪いとはならない
中国の若者の寝そべり族とがでできたのはただ共産党の言うままに奴隷のように働かないということである
そういう若者はとても戦争などしないだろう、血気盛んで勤勉で上の命令に従うだけの人は戦争でもする、でもそれに抵抗する若者が増えることは悪いとも言えない
中国は巨大化して脅威であるからだ、でもがむしゃらに働かないとか、上の命令通りにならないとかなるのは日本にとってもいいことなのである
そんな若者が日本と戦争して中国の奴隷にしろとかならないからである
「戦争なんかやりたくない、、寝そべって方が楽だ」そうなれば戦争は起きないとなるからだ

ともかく高度成長時代が中国でも終わりになりある程度豊かさが充たされると同じ傾向が生まれて来る、そうなれば中国は脅威でなくなるともなる
出世欲がありもっと金持ちになりたいとか物でもなんでも欲しいとか戦闘的な若者が多ければ日本をやっつけろとなり危険になる
ただ寝そべっている若者を見る時変なのだけど安心だともなる
だから自分は自分自身の引きこもりの経験からそういうにもみる
ただ普通は働くことは義務であり働かない人間は非国民だとなるのが普通である
俺たちはこんなに苦労して働いているのにお前はなぜ働かないのだとなるからだ
そういう目で見られるからである
でも価値観が変わるとそういう人もいていいじゃないかとなるとき価値観が変わったためだとなりかえって引きこもりでも無職でもニートでも住みやすいとなるのである
ただそういう人達で社会があふれたときどうなるのかは予想がつかない
社会自体機能しなくなり崩壊するともなる
少数だったら問題ないがこれだけ数が多いということが社会に影響するこもまた大きくなることで問題になるのである

こういう問題が起きているのは現代が日本でも中国ですら高度成長時代があり物不足とか
インフラでもあらゆるものが不足している時代とあらゆるものが備わったしまった社会との相違である
戦後の焼け野原は何もない時代から始まったからだ、それでどこの家庭でも飯台一つくらいしか家になかったのである
道路も土の道路であり舗装もされていない、あらゆるものが整備されていない時代だったそこではだからみんなが働く必要があったのだ
でもあらゆるものが備えられた供給される時代に変わった
するとかえって道路が必要もないのに作られたりする、北海道では熊が通っているだけだとか揶揄された、本当に様々なものが必要なのかどうなのか疑問になる
新幹線は必要であったがリニアは本当に必要なのだろうか?
それは自然を破壊して危険なものになるとか原発でも事故になってそれが本当に必要なものだったのかとか問われる
また宇宙開発とか火星まで大金をつぎこんで行く必要があるのかともなる
そしてオリッピックは結局今や一部の人のためオリンピック貴族のための金儲けのためだと判明した、つまりオリッピックする意味が意義がないとなったのである

結局意味と意義を求める時代になるときそれは哲学とか宗教の問題になる
何もない時代ならそんなこと考えない、橋がなかったら不便だから橋を作れとなりそれに反対する人はいないからである
でもあらゆるものが供給されるとそれが必要なものかどうか問われる
あるべきかあらざるべきとかとか哲学の問題になる
宗教ももともとそういうものだったが現代のカルト教団などはやはり物欲の宗教だった
物欲を満たすものとして宗教があった、だから本来の宗教とは全く違ったものであり

やはり高度成長時代に適応したものでありそれで創価などが巨大化したのである
宗教でももともと現世利益が神道でもありそれが日本的宗教だともなっていたからである
どうしても時代が変わると価値観が変わる、だから戦後70年過ぎて価値観が変わるからとまどうことになる、確かなことは物欲一辺倒の時代は終わったのである
だから高度成長時代のようにがむしゃに働くことが奨励される時代は終わった
そこにニートとか引きこもりとかがこれだけ増えたり中国でも若者の寝そべり族が出てきたりしているのである
中国でも競争が激しく猛烈社員が国家のために働くことが若者に強制されたともなるからだ、いづれにしろ明らかに時代が変わり価値観が変わったことでこういう現象が起きていることは確かである
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2021年06月28日

広域でモノや人が移動する経済構造から、地域集約的な経済構造への変化


広域でモノや人が移動する経済構造から、地域集約的な経済構造への変化

こうした変化が全世界的に波及した場合、莫大なエネルギーを投じて広域でモノや人が移動する経済構造から、地域集約的な経済構造への変化が進む可能性が高くなる。広域経済が縮小されれば、資材の単価は上昇するので、これも物価上昇を誘発するだろう。

莫大なエネルギーを投じて広域でモノや人が移動する経済構造から、地域集約的な経済構造への変化が進む可能性が高くなる

コロナウィルスの影響の不思議はこうして広域経済とかグロ−バル経済に歯止をかけたことである
それはもうグロ−バル経済とか資本主義が限界に来ていたこともあった
それはもう識者であれみんなそういうようになった、
グロ−バル経済は超格差社会を産んだからである
世界の数パーセントが世界の富の50パーセントを持っているとかになった

奇妙なのはグロ−バル化とは世界の人々が世界的に連帯する、世界的に協力するものとしてすすめれられた、しかし現実はあらゆる分断が生まれたのである
EUからイギリスが離脱したりアメリカの製造業が衰退してロストベルトが生まれたとかアメリカの富も数パーセントの人たちが50パーセントの富を持つという超格差社会になった、それでトランプがそういう格差社会になり中産階級からおちぶれて低所得者になる人たちが増えたからその支持で大統領になった
そこに超富裕層と下層階級という分断が生まれたのである
これをそのままにしておくとアメリカが内乱状態になりさらに衰退する

モノ、ヒトが自由に流通する、移動するというとき大量の移民が安い労働力として入ってくる、そこでまた移民と自国民との対立が生まれ分断になる
こうしてグロ−バル化とはかえってあらゆるところで分断を生じさせたのである
国内でも広域社会になると地方と都会とか東京と地方で分断が生まれる
福島原発も東京と地方の問題が顕在化したものとして見ることもでき生る
危険なものは地方に福島に作った方がいいとなったからである
それで地方でも金になるから歓迎された、でも事故後は分断された

原発事故ではフクシマの人は放射能うつるから来るな!

今度は逆に

東京の人はコロナウィルスをうつすから来るな!

こうなったのであある、コロナウィルスまた様々な分断を生んだ
原発事故でも地元でも補償金でもめて分断した
何かあらゆることで分断が生じてきたのである
まるで時代が逆行してきたようなのである

コロナウィルスがうつるから関所を作り他国のものを入れるな!

極端になれば江戸時代にもどれとまでなる、結局広域グローバル社会の負の面が増大して限界に来たのだと思う
人間社会とはそもそも基本的につながりを共同体を作れる規模は小さなものである
顔と顔を見合わすような範囲での社会なのかもしれない
そういう共同体から世界共同体など作りえないものだったのである
こうして世界規模の経済になると「金」が最大の力となりあらゆるものが金で計られる
本当は金で計りえないものまで金で計り金にならないものは価値がないとされる
金でなんでも買えるとなり何か大事なものが金で計れないものが無視される
ところが金で計れないものの価値がありその価値が見失われたともなる
原発事故では故郷に住めなくなった、故郷に住むということには金で計れない価値があったがそれも失われたとなる

資本主義が限界にきたというときもそうである、すべてがコストと利益で計られる
そのために安全がないがしろにされて原発事故にもなった
コストとか利益とか求め効率を求めてゆくとそこで肝心な安全とかがないがしろにされたりする
そしてそのコスト削減のため資本家が経営者は従業員をいかに安く雇うかとなりブラック化する、時給千円で雇うより900円で雇い製品でもなんでも安くすれば競争に勝てるとなる、だからブラック会社には勝てないともいう
そういう極限までコストを追求して人件費を省き競争に勝つしか生き残れない
それが広域的にグロ−バル化に行われたのである
でもそれは人間を疲弊させるのである
ただ消費者にもれば安い方いいとなるからどうにもならないともなる

それで今若者が中国ですら寝そべり族とかそういう競争社会でこきつかわれるのが嫌だとなりそんな人たちが出て来た、日本でニートとか引きこもりが出て来たのと同じである
ただ団塊の世代は企業戦士になった時代でありそういう社会からはずれた人間が極わずかだったのである、それが自分であった、でもみんなその時企業戦士になっていたのであるがむしゃらに働く人がいて高度成長時代があったのである
でもそれもバブルがはじけて30年も過ぎて日本経済は停滞したままなのである
その時は物もないし何もない時代だった、家に小さな飯台一つがあるだけだった
裸電球が一つとか何もない時代だったのである、だから物欲も強かったのである
道は舗装されていない土の道路だったのである、インフラも整備されていなかったのである

いづれにしろ何でも金で計られるということが人間を歪める、すべてを金で計れないからである、何がどれだけの値段になるか、それが公平になりえないのである
それが世界でドルが基準通貨になったとき一番得しているのはアメリカであり覇権国になる,アメリカに富が別に何も生産しなくてもドルを刷れば世界から物が買えるとなった
それも理不尽なのだけどアメリカが覇権国であり逆らうことはできないのである
中国を批判するけどアメリカもやはり貢物を要求しているのである
公平な市場などなくアメリカに富が収集してくる、覇権国になったら必ず世界の富がその国に集中して来る、そこに公平な市場の経済原理など成り立たないのである

この辺でも経営者になった人でも東京の金持ちのためにの別荘とかを建てる
地元の貧乏人相手では金にならないとしてそうなった
遠くの金持ちのためにそれも世界になれば見たこともない接したこともない大金持ちのために働いているともなる、それがグロ−バル経済だったともなる
そしてみんな頭に金のことしかなくなったのである
震災以後絆を盛んに言われたが内部ではかえって絆は消失していた、外部との絆は生まれたが内部の絆は消失していたのである
それは経済の構造が変わったからである、グロ−バル化することは一地域の経済規模とは天文学的な数字となり違っている
そこで経済の動きなど誰もわからないのである
だからこそ覇権国になったアメリカのそれも極一部の数パーセントに金が集まる、そこでアメリカ内部でも分断が起きている

要するに「道徳無き経済」にもなり情なき経済となりただ過酷な資本主義のルールだけが貫徹される、それは何か時代劇で相手が病人でも借金でもとりたてるとか娘は売られるとかなる、そして地域の絆は喪失した、あらゆるものが分断される社会になったのである
情がどうだこうだといえばもうからないと甘いとかされる
そんなことでは生きることもできないよともなる
本来のまともな経済は貨幣を介さないものであるがそれはできない
そもそも貨幣が発明した時から貨幣によって社会が乱れたことを嘆いていた
紀元前7世紀とかから嘆いていたのである
貨幣そのものが不公平をもたらすものだった、でもそれを否定して社会が成り立たない
確かなことは狭い範囲の村の様な範囲の経済だと貨幣は力はもたない
その住んでいる社会が拡大するに比例して貨幣の紙幣の力は強大になってくる
それが可能にしたのが運送する技術の発達だったのである

この辺で梨農家がありリヤカーで相馬市まで売りに行ってたという
そうなると苦労になる、それより近くの人に売った方がいいとなる
でも相馬市だと売れるとなるから苦労して運んだとなる
今なら車ですぐに運べれるからその経済の範囲が拡大する
それが世界的にグロ−バルに拡大したのが現代経済だとなる
ただそこに様々な歪みがもたらされたのである
コロナウィルスがそういう時に流行したというのも不思議である
時代の節目に流行したともなる
やはり人間だけの力ではないものによっても社会は変わる
原発も津波によって砕かれた、そのままだ日本中が原発に埋め尽くされてどうなったのか本当に日本崩壊になったからである、その歯止になったのが津波だったともなる
コロナウィルスもそうでありこれは自然の作用でありそこに神の関与があったともなる
つまり社会を見直して大きく変革する時期になったのである


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2021年06月27日

広域化グロ−バル経済の負の面の増大 (地域の絆は失われ遠くの金持ちのために働く社会)


広域化グロ−バル経済の負の面の増大

(地域の絆は失われ遠くの金持ちのために働く社会)

経済が生活が大きく変わったのは明治以降と戦後である
明治以降はそれでも第一次産業中心であり農民中心の社会である
それは絹織物でも生糸の生産、蚕を飼う農家が本当に多かったからである
それは今でも兜屋根の家がそちこちにあるからわかる
養蚕は農業でもあったからだ
すると農民共同体があり江戸時代からの継続でもあった
確かに侍とが支配していた江戸幕府の封建体制は崩壊した
でも生活の継続があり依然として農民中心の社会になっていたのである
すると農民共同体というのがまだ活きていたとなる

戦後でもやはりその継続があった、農民の割合が依然として多かったのである
でも電機産業に変わった時農民の役割は激減した
今だともう第一次産業は一割にも満たない生産しかない
漁業でも林業でも農業でもそうである
戦後まもなくは東京へまだ石炭とか木材とか石材でも東京に送っていた
それで網の目のように森林鉄道が張り巡らされていた
そのために原町機関区があり平駅についで大きな駅になっていたのである
その時はかえって農山村の人口が多かったのである
飯館村でも一万以上いたとかなる

でも一次産業は衰退の一途をたどった、電機産業工業中心の社会となったからである
そこからグロ−バル化経済になり工業製品を電気製品を外国に売ることで高度成長時代を築いた
でもそれも一時的な繁栄だったのである、日本の電器産業が中国や韓国と同等なり追いつかれた、それはまねすればどこでもできるものだったからである
それで日本人が特別優れていたということではなかった
そこで日本人は特別優秀だということは原発事故で「安全神話」が崩壊した
日本の技術力はそれほど優秀でもなかったのである
むしろ今や中国より貧困化しているという
中国の給料は確かに日本より安いというが中国では生活を安くできるのである
そもそも基本となるものが公共料金が安くされているとか日本の生活実感とは違う
この生活実感は数字だけではわからないからである
中国旅行したときその時は十分の一の物価にしろ何か朝食とかでもお粥とかでも本当に安いのである、だから今でもそういう基本となるものが安いから給料の差で判断できないのである

ともかく第一次産業が日本で衰退した時、グロ−バル経済となったときそこに現代の問題が生まれた
農業でも農業はやるなと親に子供が殴られたとかあったり山の林業は外材に押されて衰退した、それに変わったのがこの辺では原発だったともなる
漁業にしても実際はそれで生活できないと東電に漁業権を売りわたしたのである
つまり漁業も衰退産業になっていたのである
その経済の変化が実生活に大きな影響を及ぼした
これまでの産業は地元に地域に地方が生産したものが都会で利用するとなっていた
石炭があれば常磐炭鉱があり東京に石炭を汽車で送っていた
蒸気機関車でありそのエネルギーは石炭でもあったのだ
その時はかえって地方は地域は活きていたともなる
それがエネルギーでも石油となり木材は外材とかなりグロ−バル化するともともとあった地域の産物が無用化したのである
ただ電器製品を輸出して売れた時は高度成長となり問題なかった
でも売れなくなったとき日本は低成長時代となり低迷して今や大貧困国だとまで言われるようになったのである

そしてグロ−バル経済というのは人間の心を歪めるものとして働いた
何か遠くの金持ちの方が大事になり近くの金のないものは貧乏人は金にならないから相手にしない、そのことを書いた
漁業でも実際は零細でありそれで遠くの金持ちのために最高級品のマグロは青森でとれたとかしても東京の高級店に送られる、そこで3万の寿司店で食べる人がいるとなる
そして地元では漁師は食べたとしても回りの地元の人は食べられないとなる
それが昔だったら新鮮なものを輸送できないから地元で消費させるとなっていたろう
その時地元の人はありがたいとして漁師に感謝していたかもしれない
そこに地域共同体が機能していたかもしれない、ただやはり石鰈などは高いからみんなが食べられるというものではなかった
でも東京の金持ちのために漁をしていたとはならなかったのである
そこで地域の人は漁師を貴重な人として役割ある人として認めていた
だからそうして危険を犯してまでとれたものをとってくれた漁師に感謝していたとなる

でも広域化グロ−バル化するとそういうことはなくなる
むしろ遠くの金持ちの方が上客でありその人たちのために売るために魚をとるとなる
地元の貧乏人相手にしても金にならないとなる
すると漁師と地元の人との関係は希薄なものになる、むしろ遠くの金持ちのために働いているとなる、すると地域の一体感は失われるのである
震災以後盛んに絆、絆を言われたがそれはあくまでも外部との絆だったのである
外部の人がボランティアであり仕事でも来ていて復興のために働いたからである
内部の人は実際はパチンコとかギャンブルで遊んでいた人たち多かったのである
これも広域化グロ−バル化社会で起きたことである
そこにもプラスとマイナスの面が生まれた

今度は漁師にしても魚とるだけではやっていけないから原発を作る東電に漁業権を売りわたした、そして事故前も事故後も他より多額の補償金をもらい別に魚をとらなくてもゆうゆうと暮らすことができたし原発御殿が建っていてうらやましがられていたのである
もともと漁師は魚をとることで地域の人として役割がありそれで感謝されていたのであるただそれが衰退産業化したとき東電の原発に頼ることになった
それは漁業だけではない地域全体がそうなったのである
でも事故になったときその責任が漁師にも問われたとなる
それは地域全体の崩壊現象が起きて故郷に住めなくなったからである

いづれにしろ広域化グロ−バル化は地方に地域に大きな影響を及ぼした
遠くの人を大事にして遠くの人がお客様となりその遠くの金持ちのために働くのが地方の人だとなる
それを象徴していたのが東京で三万の寿司を食べる人がいてその素材はマグロでも青森とか遠くから飛行機でももたらされるとういことである
また観光にしても地元の人より外国人をもてなすのである

日本の貧乏人をもてなしても金にならない!

こうなったのも実は日本の物価が外国より安くなったからである
日本では給料もあがない、でも外国では上がっているのだ
タイすら物価が上がっている、私は海外旅行を十数年していないからわからないが
外国では物価が上がり日本では安くなったから外国人が中国人なら爆買するとかなる
そして貧乏な日本人は相手にしないとなる
これもグロ−バル化がもたらした負の面だとなる
その負の面が大きくなったのが現実に実感するようになったのである
そうは言っても日本人自身が十数年前海外旅行ブームであり安い物価の外国で楽しんでいたからこれもカルマだとなる
今度は日本人が物価が安くなり外国人をもてなすことになったのである

そこで日本の旅館でもホテルでも金のある遠くから来た外国人がもてなされる
金のない日本人は相手にされないとなった
それでコロナウィルスで外国人が来なくなったり東京の金持ちが来なくなったので地元の人を福島県だったら県内の人を安くしてもてなすともなったのである
もともと高級旅館がありそれは東京の金持ち用なのである
何にしろ金のない人は誰も相手にしないというのが現代である

でも江戸時代とか何か戦前でもまだ地元で経済が回っていた

それで芭蕉の俳句で

「語られぬ湯殿に濡らす袂かな」

とあるとき湯治というのは農民が農作業で疲れをいやす場だったのである
それは地元の人たちをその労働の疲れをいやす場として提供していたのである
遠くの金持ちのためではないのである、それで東北には湯殿の碑とか本当に多いのであるそこは湯治の場だったのである
そういう所には百万都市江戸があっても来れない、だから地元の人たちが癒す場として温泉があり湯治があったとなる

とにかく広域化グロ−バル化経済というのは限界に来た
それは人間を歪めるものとして働くことが大きくなったのである
「隣人を愛せ」というけど「遠くの金持ちを愛せ」となったのが広域化グロ−バル化社会にもなったのである
隣人がもっともないがしろにするのが広域化グロ−バル経済なのである
ただ広域化グロ−バル化がすべて悪いとは言えない、ただそれが過度になりその負の面が大きくなりそれが人間を歪めるものとなったから問題なのである

都会と地方の格差、広域グロ−バル化は分断社会
(東京の寿司が三万円ーひろゆきの体験談から)
http://musubu.sblo.jp/article/188792157.html
posted by 天華 at 15:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年06月26日

都会と地方の格差、広域グロ−バル化は分断社会 (東京の寿司が三万円ーひろゆきの体験談から)


都会と地方の格差、広域グロ−バル化は分断社会

(東京の寿司が三万円ーひろゆきの体験談から)


1人〇万円の超高級寿司!「銀座 すきやばし次郎」を語るひろゆき 

日本のここが凄い!日本のある技術についてひろゆきがべた褒め

なぜひろゆきが人気があるのかわかる、まず海外で生活して働いていたのと幅広い経験をしていることである
もちろん最先端のIT技術者でもあり2ちゃんねるの創設者だったことである
ただなぜこれほどの広範囲な知識がそれも実体験からの知識があり経験を語れる
本読んだ知識とは違うのである
何かを語れる人物はたいがい外国に実際に仕事したとか暮らしたとか経験している人なのである
それが加治将一チャンネルとかもそうである、武田邦彦氏でもそうである
そこで現実に外国人と渡り合い仕事している
そうすると日本がどういう国か日本人がとういう国か見えて来る

ただそれでもやはり見方は相当に違ったものにもなっている
明治時代になるとやはり新し時代を築いたのは外国留学派とかである、たいがい外国で学んで大学で創始者になったりしているからだ
だから海外の留学経験がのちのち大きな遺産となる
ただ海外旅行だと表面的なことしかわからない、それでも地理を知るだけでもそのスケールの大きさを知るからいいのである

何か壁職人のような人が外国にはいないというときもそうなのかとその相違の説明に感心する、外国では壁塗りにこだわらない、コンクリートだとただ平面にするということだけであり日本の様な土壁のような丁寧な作り方はしないという
自分の家は古く土壁だった、その土壁にしたのも自分の家で最後だった
そしてその後は土壁職人いなくなったのである
土壁となると手間暇がかかるしめんどうになるからだ
だからこれを見て土壁とは壁塗り職人とは日本文化なのだとわかった

それはなぜわかったのか?つまり外国と比較してわかったのである
第一コンクリートの技術は相当に古い、ローマではコンクリートの技術があったから建築でも壮大なものが作れたし道も作れたしインフラを整備できたともなるからだ
ただコンクリートだとでこぼこになっても気にしないとか何か日本の壁とはまるで違った感覚になっていたのである、ペンキを塗るというのにはこだわるが壁を平面にするとか日本のように丁寧に壁を作るということにこだわらないのである
それがまさに文化の相違だったとわかった
いづれにしろこういう相違は身近でも外国で生活してみないとわからない、そこで外国で生活した者としないものの差が生まれているのである
それはささいなことでも日本との差に気づきそれで日本に住んでいる人より日本を外国と比較して知ることになる、だから外国での生活経験はあとで活きてくるのである

それから1人3万円の超高級寿司のことを聞いて驚いた
この人は相当な金持ちであり貴族なのだと見た
まず田舎で私自身は貧乏症であり千円でも料理は高いと思っている
だから千円以上のものを注文することができないのである
また田舎ではそんな3万の寿司など食べる人はいない、またフランス料理店などもない
たいがい千円くらいである、需要がないからだ
そこで気づいたのは東京と田舎の差だった
寿司の味はその素材で決まる、素材が良くなければいくら料理がうまくても基本的にうまい寿司は作れない、素材の差をごまかすことはできない、マグロでもいろいろあり安いマグロではうまい寿司は作れないというのわかる

でもここで考えたのはこの東京と田舎の格差である
田舎で地方で苦労してとった魚のいいものは東京の金持ちが食べているのである
そこでは輸送費もかかる、新鮮なものは飛行機で送るからである
寿司は新鮮でないとうまくない、魚自体がそうである
それで松川浦の漁師が私は二三日過ぎた魚は食べないと言っていた
それが魚をじかにとるものの贅沢だったのである
でもここで考えたのはこれはまさにグロ−バル化経済の格差を産みだしているのと同じだと思った

そこには百倍の差がとんでもない格差がある!

地元の人が漁師が苦労してとった魚は東京の金持ちが食べる、地元の人の漁師くらいは食べても地元の貧乏人は食べられないのである
それはタイとかで海老の養殖をしている人はその海老を食べられないとか放送されたこともある、何かそうして食べ物でも格差がある
そういう経済は実際は歪んでいるのである、そのことは前々ら指摘してきた
新鮮な魚をとったものは地元の人に回っていたのである
ただ地元でもまた金持ちの人がその魚を買っていた

松川浦でとれた魚を売りに来る人がいた、石鰈はこの辺で美味であった、でも高かったのである、ただ高いと言っても寿司を三万で食べるのとはせいぜい二倍くらい高いとなる
東京だと十倍以上にもなっていたのである
それは運送費がかかるのも加わったそれだけ高くなっていたのである
もともと江戸前寿司というのは江戸の海でとれた新鮮なものを食べるということでた始まったのである、その活きのいい魚が今は地方から田舎から運ばれるようになったのである
ともかくこういう広域経済とかグロ−バル経済というのは何か歪みをもたらしていたのである
地元の人は地元でとれる魚を満足に食べられずにいいものは東京の金持ちが食べている
それだけ価格差があれば当然漁師でも高い方に売ることが第一となるからだ

地方の地元の貧乏人など相手にしても金にならない!

こうした経済の歪みが実は原発事故の原因ともなっていたのである
近くの人は東京の金持ち相手にログハウスとか別荘とかを提供する事業を始めて失敗した
それはこれと同じだったのである、田舎の貧乏人を相手にしては金にならないということなのでる
漁業組合とかは船主とか漁業権を東電に売り渡して原発御殿を事故前にも建てていたのである、それで地元の回りの人たちはうらやましがっていたのである
私は知らないから漁師は危険な海で魚とるのが大変だなとか漁師で暮らすのは大変だなと見ていたのである
でも実際は全然違っていたのである、船主は悠々として金には困らない、事故後も立派な家をいち早く建てた、その補償金が他とは違って大きいものだったからである

なぜそういう矛盾が生まれたのか?

経済が広域化してグロ−バル化したからである、遠くから運ぶことができるようになったからである、どんなことしたって寿司の魚を江戸時代なら新鮮なものを運ぶことは不可能だからである、だから江戸前の魚になっていたのである
それがまた逆に経済の歪みを作り出していたのである

地元の貧乏人を相手しては金にならない!

その差は3万の寿司で十倍にもなっていたからである、これはグロ−バル経済となり同じようなことが世界で起きているのだ
数パーセントの人に世界の金が集められその人たちは贅沢し放題となっている
その人たち3万どころではない、10万でもそういうものを食べるのである
そこに具体的に現代のグロ−バル経済の歪みが見えて来る
ただ東京でその格差が大きいのである、コロナウィルスで物乞いも増えたというのもそうである
それは今までありえないことだったとしているが表面化しのである
だから東京でもみんな三万の寿司を食べていないのである、その格差も大きいのである

ただ私自身の価値観そもそも都会は性にあわない、ごみごみした密集した所に住みたくないからである、だから別に食べなどどうでもいい、腹を満たせばいいとしかない
だからうらやましいとも思わないのである、車も欲しいとも思わない
それは私はそもそもずぼらであり運転に向いていない、都会に住むのも向いていないからである
でもこのことを聞いて何か現代の経済の矛盾を感じたのである

つまり簡単に言えばこうである

漁師さんたちは東京の金持ちの方が優先で地元の貧乏人は相手にしないのですね

すべて金持ち優先であり地元の貧乏人のことなど関知しないとなっていたのである
結果的にとうなったのか?
今度は東京から東電が来て原発を建てるとなると多額の補償金をもらいるから漁業権を売りわたしたのである、そして大事故になった
それで今度はトリチウムを海に流すなというけどそもそも漁業権を売りわたしたのだから反対も本当はできないのである、金は具体的な責任でありカルマとなっていたからである
なぜそういうことになったのか?

それはまず地元の地域の経済で共同体をベースにした経済ではなくなっていたからであるそこに地域の繋がりとか絆というのはなくなっていた
地元のことをまず考慮することはない経済である、まずは金だ、金だ、すべてが決まってしまうのである
漁業が苦しいという時も金だ、東京の金持ちに魚を売れ、原発も金になるからいい
補償金ががっぼり入るからいい、それも金が第一だからそうなったのである
金が大事にしてもすべて金を求める時何か歪んでしまうのである
何か本来あるべきものが金によって無視され歪められるのである

それは今の資本主義とかグロ−バル経済で起きていることでありその矛盾が限界に達している、そこは道徳無き経済とかなって世界中が環境でも破壊されたり矛盾が現れて崩壊するともなる
そもそも世界的公平な市場などありえないのである、貿易とか商業とかが必要でもそれが度を越えたものとなり社会自体を歪めてしまったのである
その結果として地元に人が住めなくなって町や村が消滅してしまったのである
深く原因を考察すればそうなる

ともかく日本に住んでいても日本のことはわからない、また田舎に住んでいると都会のことはわからない、都会にすんでいるとまた田舎のことはわからないのである
そういう矛盾が広域経済とかグロ−バル化経済で矛盾が現れて是正する時が来たのであるコロナウィルスでもそうである、これもそうした世界の人々が自由に往き来するとか
モノ、ヒトが行き来するというのにも歯止めがかかったからである

本来人間がどうあるべきか、どういう生活をするべきなのか?

それが問われたのである、それでコロナがうつるから東京の人は来るなとなった
前は放射能がうつるから福島の人は来るなと言われた
この原発は東京の人にも大きな責任があったのにそういうことを言ったのである
だから今度は東京の人は来るなとなった、カルマとなったのである

結局広域経済とかグロ−バル経済とかが一見いいように見えても様々な分断を世界でもたらしたというのは本当である、移民が流入すれば人種差別となりまた金持ちと貧乏人の格差で分断が起きて都会と田舎の分断が起きたのである
だから今はその反省の時期となり社会の在り方を見直す時期になったともみる



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2021年06月19日

【ひろゆき】資本主義の限界について語る (価値観が変わると見方も変わるーニートと引きこもりの問題)


【ひろゆき】資本主義の限界について語る

(価値観が変わると見方も変わるーニートと引きこもりの問題)

https://www.youtube.com/watch?v=iWXlqJppEas

武田邦彦氏がひろゆきなどを労働を否定しているので批判している、労働は国民の義務だとしている、それが普通である、日本人はもともと労働することが強制というものでもなく労働自体に価値を見出してきたからだとしている
欧米系統になると聖書の教えで神からの罰として労働が強いられたとしている
だから労働はするべきではないということで奴隷にさせたとなる
またヨ−ロッパとかで奴隷階級が生まれたのは大陸では支配するものと支配されるものとに分かれた、常に大陸はつながっているのだから領地争いになり万里長城もできる
そこで支配する者と支配される者が生まれる
スラブ民族はスレーブは奴隷の意味なのである、それは東欧がそういう民族だったとなる日本ではそういう歴史がないから特殊な民族だったとなる

武田邦彦氏が旧来の労働を言うとき何か自分は反発する、それは結局人間は自分の経験から語るからである、一流の科学者技術者が労働について語るのと底辺労働者が労働について語るのとはそもそも根本的に違っているからだ
そういう人は労働はもう楽しいものであり苦痛ではないのである
でも底辺になると食べるための強制になる、私は底辺であり流れ作業や肉体労働などばかりさせられていたら労働自体嫌悪するのである
ただ肉体労働でも例えば職人を見ているとその人は生まれつき職人のようにみえる
仕事ができるし仕事が好きなのである、そういう人は別なのである

仕事というのは強いられたものと自ら望んでやる、適正があり興味があるのとは雲泥の差がある、でも一流の科学者技術者が労働を語るのと底辺労働者が語るのでは全然違ったものになる
だから武田邦彦氏がベーシックインカムは日本を滅ぼすというときもそうである
でもベーシックインカムは時代で言われてきたのである、機械化ロボット化する社会で言われてきたのである、特に知能労働でもAIが発達してきて言われたきた
ロボットというのは昔の奴隷の代わりになるものである
したくない仕事をロボットに機械にしてもらうのである、そして人間は人間にしかできないものを仕事とする、実はそれこそ理想なのである、実際ロボットではできないもの機械ではできないものAIではできないものがありそれをするのが人間的なものを追求する社会になるからだ

自分の場合は社会からはずれて旅ばかりするようになったのは底辺でしか働いていないからである、それで労働に嫌悪するようになった
たまたま家庭環境に恵まれてそれができたのである、だから親に感謝しているのである
どうしても自分にとって学校とか社会とか集団生活にてじめないからである
でも自分に興味あることを追求してきたのである
それは金がかかっても一銭の収入にもなっていない、社会から認められたこともない
でも遂にもう死ぬ時期になってその成果をプログなどで出すようになった
何か自分は自分一人でもこうして発言できるものに向いていたのである
ジャーナリストとかにも向いていたがそういう場に職を得られなかっただけなのである
まず人間は自分の向いている仕事などになかなか普通はつけない、不本意なものをさせられている、だからこそ会社員は自らを社畜と言っている奴隷と言っているのである
そういうふうに言うこと自体労働がすべていいものではないことを知るべきである
ただ人間は労働なくしてありえない、社会の存続もありえない、ただ本来は社畜とかではなく自ら選んで自分の適性ある労働するのが理想である、ただそれは本当にまれにしかないように思う

職人でもうまれつき職人のような人がいる、その人は仕事ができる、仕事を追求しているいい庭も作る、家のことも知っている、その人はだから仕事をするというとき金のためでもあるがその仕事が向いているし仕事ができるということでそれを他者に示したいのである、だからしきりに自分の仕事を自慢するのである
その人は自分が仕事ができて才能でも体力でもあることを示したいとういことで仕事している、だから単に金だけが動機ともなっていないのである
ただそれだけの仕事ができるのだから相応の金は欲しいとなっている
でもその人は仕事をするというときその仕事そのものに熱中するのである
だからいやいやながら仕事するのは違っているのである
おそらく本来の仕事は別に金をもらえなくてもやりたいことをすることである
確かにそこには訓練も必要だがそういう仕事はいやいやながら金のためにやらされる仕事ととは違ってるのである

ともかくなぜこういうことが今問題になるかのかというと本当に引きこもりとかニートとかが普通にいる社会である、それでそういう人と田舎で自分は逢う、なぜこんなに働かない人が多いのか、それも普通にいるのか、それが労働を強いられた高度成長時代と違っている、企業戦士として働いた時代とは違っている
そもそも老人がこれだけ多くて働いていない、おそらく日本では三分の一くらい働いていない、こういう社会はありえなかったのである
その数が多から社会でも困るとなる、団塊の世代などはまず働かないとか無職とかなると本当にまれである数百人とかの単位かもしれない、それが60万人とかそれ以上になるのは考えられないとなるからだ
それで社会でも困るからなんとかしろとなっているのである
本当は無職とかはアウトサイダーであり芸術家とかに多かったのでありそれは特殊な才能がある人でそうなったのである、だからそういう人は悲惨なことになった
ゴッホとかいろいろいる、それらの人は天才であり今のニートとか引きこもりとかは全然ちがったものである、ニートとか引きこもりは普通の平凡な人が今ではなっているからだ

いづれにしろ奇妙なことは時代が変わり価値観が変わったのである
戦後の焼け野原から始まった高度成長時代と今は違っている、物質的にはある程度満たされている、戦後十年は食べるものさえなかったのだからそういう時代とは違う
だからこそ好きなことをやれとか盛んに言う人が増えたのである
今までの労働観とは違ったものになっている、だから私はどちらかというと特殊であり
必ずしも無職であれニートとか引きこもりでもいいじゃないかということにもなる
ただこれも実際は相当な問題がある、社会性がなく将来厳しいものになる
それを親の介護でいやというほど経験したからである
だからいちがいにいいとはならないのである

人間はとにかくその人の経験から語る、その経験も限られているから偏見になる
また人間はその時代を生きて語るからその時代の価値観から逃れられない
また人間は一つの国で生活するからその国の価値観から逃れられないのである
それでひろゆきが外国旅行するならキャーバとかミャンマーとか北朝鮮がいいというときやはり広く外国を肌で知っている人は違っているなと思った
トルコのイスタンブールに滞在していたとき50歳くらいの会社をやめた名古屋の人が
シリアに行った、その人たちは純朴といいと何度も言っていた
シリアというと社会主義国だった、だからそんないい印象がない、でも実際そこに住んでいる人は純朴だったのである、それはラオスに行った人もそう言っていた
つまり資本主義国だとどこも同じ価値観になる、金が唯一の価値になる
でもそういう国ではない価値観に生きる人もある、そこで学ぶ方が多いというのもわかるだから先進国より遅れた国の方が学ぶことが多いというのも逆説である
必ず時代によって国によって価値観が変わってくるからである
これが地上から離れて天国に行けば全く価値観の違った世界に入る
この世にいればどうしてもこの世の価値観に染まるのである、これはもう絶対に脱することができないのである、死んで初めて脱することができるとなる

だから社会主義が必ずしも悪いとはならない、むしろ弱肉強食の資本主義はかえって人間をゆがめたともなる
資本主義は人間を幸福にするとはならなかったのである、民主主義も愚民主義になりいいものとは必ずもならない、とにかく人間社会はそもそもいろいろ体制があっても人間自身が変わらないから同じなのである
人間というのは決して欲から逃れられない、欲望から逃れられない、だから共産主義でも超格差社会にもなる、共産党幹部が富を一人じめとするとかなる
だから永遠にこの世は変わらない、いすいろ体制があっても機械化しても人間そのものは絶対に変わらないのである、それでなぜ宗教が生まれたかとなるとその欲をおさえるために生まれたのである
でもこれも今のカルト宗教団体とかみればわかる、かえって欲望は肯定されて欲望を満足させるものとして俗化したのである、そこであらゆる欲望は肯定されるというより欲望を強く持てとまでなっている、それがエネルギーがあっていいとまでなる
だからこそあれだけの何百万の会員にもなる、それはまたナチスとかとも似ている
要するに人間そのものは変わらない、欲から逃れられないからである
だから人間は欲で滅びるとされているのである

そもそもそうして宗教というのが仏教でも寺にこもって座禅して何もしない、働かないとういことがあった、それが修行なのである、ただ禅宗だと一日成さずば食わずとなって働くことを肯定しているが一面はただ沈黙の行をしている、働かないのである
そして人の喜捨に頼る、自ら汗して働かず恵んでもらう、これは反社会的なことである
資本主義はもともと修道院で生まれたという時労働に価値を置いていた
それは他者を助けるために働くとなっていたからだ、だから西欧的価値観だとその労働観も違っているのである、アジアは闇雲に働くということは肯定されていないのである
そしてプロテタンとが生まれたのはドイツとか北欧とか寒い地域なのである
そういう寒い地域ではどうしてもは働かざるを得ない、バナナなどがいくらでもとれる熱帯とは違うからである、そういう気候の相違でも価値観が違ってきていたのである
posted by 天華 at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年05月27日

証券会社(銀行)の営業マン・アナリストの話は信じるな (手数料商売になっていることが問題ー転売をすすめるのはそのため)


証券会社(銀行)の営業マン・アナリストの話は信じるな

(手数料商売になっていることが問題ー転売をすすめるのはそのため)

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最初に断言しておきますが、株式投資をする上で、 証券会社の営業マンと付き合う必要はありません。 ネットトレード全盛の今、なぜわざわざ証券会社の支店に電話をかけて、 高い手数料を払って株取引しなければならないのでしょうか? 「証券会社の営業マンはプロなのだから、相談するのは当たり前じゃないか」 というあなたは、証券営業という仕事を全く理解していません。 証券会社の営業マンは「株や投資信託を販売するプロ」であって、 「運用のプロ」ではありません。 彼らの仕事は、株や投資信託などの金融商品を買ってもらい、 手数料を稼ぐことです。 あなたが銘柄選択で悩んでいようが、 株取引で損していようが知ったことではありません。
https://bit.ly/2SA3huL

個人投資家については、特に投資の適合性への配慮が重要である。
したがって、投資推奨等の対象となっている証券、特に複雑な仕組
みの新しい金融商品については、リスクを含め商品特性が十分理解
できるよう情報を提供するという姿勢が必要である。
https://www.saa.or.jp/ethics/pdf/kiritsu.pdf

昨日来た大和証券の営業の人は名刺に証券アナリストとなっていた
何か確かに地銀の営業の人よりは専門的知識がある、でもこの専門用語を使う時煙にまかれるとなる、そこで素人は理解不可能となる
例えば原発などでも専門科学者と話ししたら専門用語がでてきたとき理解不能となる
するとあなたは何もわからないから従えばいいとなる
法律に関しても専門用語がありそれを理解することは不可能になる
そうして現代は専門家に支配された時代という指摘がある
専門家とはいたるところにいる、医者でもそうだし科学技術の職業となるとみんな専門家なのである、だから専門用語を使うのである
それだからこそイリイチが専門家のことをあれだけ批判したのである
人間は専門家によって無能にされている、結果的に専門家に支配されここでは原発事故で大被害になって住むことすらできなくなったのである

証券会社の営業マン・アナリストの話は信じるな

この説明は的を得ている、私の株とか投資信託とかの経験では地銀であれ銀行であれ証券会社は客から手数料をどれだけとるかが目的になっている

その例が何度も言っているけどリーマンショックの時、半分になった株を地銀の営業の人がJ=reitに勝手に回したことである

なぜそうしたのか?

とにかく売らせて別な金融商品を買わせればそこで手数料が入るからである
その手数料が額が大きくなると大きな儲けになる、決して損はしない、客が損しても
自己責任になるからである

証券会社の営業マンは「株や投資信託を販売するプロ」であって、「運用のプロ」ではありません

販売と運用は違うとなる、運用とはどれだけその人にとって有利な商品と運用をすすめることである、そこで手数料がとられるのはやむをえない
でも全く客のことは考慮しない、銀行と証券会社の利益を手数料を第一にしてすすめているからだ
だから何か常に一つの金融商品を売ったり買ったり転売をすすめる
つまりそうしていると必ず手数料が入るからである
リーマンショックの株を8年間くらいそのままにしていた
ところがそのことがかえって良かったのである、それが元にもどり上がりはじめたとき
J-reitに売りそのJーreitが暴落したのである
この時から私は銀行の営業の人が信じられなくなった
でもそのことがかえって次のもうかる株を買えなくさせた
ギャンブルでも必ずもうかるともっともうけたいからまた賭けるとかなる
でも最初から損すると賭けにくくなる
それでわざわざ最初に博打場の胴元はもうけさせるとかある
それが人間の心理だからである、だから株が人間の心理と深く関係しているというのはそのことでもあった

何が株でも投資でも歪めているのか?

そこに仲介者(メデア)を通しているからだ!

もし株でもパソコンとか使いデイトレだ―のように自力でやれる人ならもうけることは可能だしそれはすすめられる、それでも損することはある
それはその人のまさに自己責任なのである

ところがメデアを通すと仲介者(銀行、証券会社など)を通すと歪められるのである
情報にしてもマスコミから放送されるので真実が歪められるのと似ている
それでマスメデアがマスコミが報道する権力をもっているから支配できるともなるのだ
都合のいい情報のみを出して都合の悪い情報は出さないとなるからだ
その情報とは例えば何でも第一次の直接情報ではない、マスコミを通じて加工された編集された情報なのである

視聴者は直接その場面を見ていない

直接取材する本人と話ししていない、聞いていない

このことから歪められものとなる、それはNHKでもそうなのである、NHKの放送をすべて鵜呑みにはできないのである、そういう嘘の情報でも流していたことがあるからだ
だからインタ−ネットでも直接本人が話すことに真実があるともなる
ただここでも問題があるにしろ本人が直接話せるのがネットだからそこに真実があるともなる、ただこれでも直接面と向かって話すわけでないから信用できないことはある
でもそういうツールとしてインタ−ネットが生まれたということが大きい
私の言っていることで嘘はついていない、じかに接してそれを報告している
インタ−ネットの時代は一人一人が放送局にもなる
だからすぐに個々人が報道の対象にもなる、悪いことでも個々人に指摘されたり買い物でもすぐに評価されたりする、それは的を得ていることがある

それで銀行もメデアであり仲介者でありそういうメデアはなくなる

こう指摘する人がいた、銀行がメデアということがわからなかった、でもクラウドファンディングはまさに銀行とかが融資するのではなく直接融資だからそうなのかと見た
つまりもう銀行を通さない投資の世界が成立してきたのである
銀行の出番かなくなり窮地にたたされて銀行もこれからどうしていいのかわからず模索する時代となった
第一いくら貯金しても利子も得られないとしたら銀行とは何なのだろうとなる
何の役割りがあって存在するのかとなる、存在理由がなくなっているともなる

とにかくなぜ株とか投資信託とかを銀行でも証券会社でもすすめるとき危険なのかは
手数料をとることを目的にしているからである
そこでまともな運用を目的とてしいない、その人にあった適切な運用を教えるのではないし買わせることもない、そこが問題なのである、客の運用より販売で手数料をとることが優先されるのである
客が知りたいのはどうしたら適切な運用ができるからである
それは証券会社でも銀行でも教えないのである

ただそうはいってもそのすすめられたものがすべて悪いとかはずれるというのではない
そもそもの目的が手数料をとるということになっているからである
手数料をとるためには転売するのである、自分の成績をあげるのにもどうしても売り買わせる必要があったからでとなる
別にリーマンショックで上昇していたなら株を売る必要もなかったのである、チャートをみる力があるのだから銀行の営業の人は知っていたからである
そこが一番の問題点だったのである

だからといって今回のように株がこんなに上がるということもあり株とか投資をするなとは言えない、そのための条件を満たす人はしてもいいともなるし
銀行でも証券会社でもすすめられたものが全部損するということはないのである
ただそれをできる人はメデアに銀行と証券会社に頼らずに株のトレイドが売り買いができる人だとなる
結局それをするとなるとパソコンの画面を一日見ていることになる、するとその他のことは何もできなくなるから時間がもったいなとなる
時間の活用こそ最も人生で大事なことだからである
一生デイトレダーで大金持ちになったとしてもそれで人生が実りあるものとはならないからだ

いろいろ職業のことを考えるとどうしても今や銀行とか証券会社はいいものに見えないのである
それで建設会社とか住宅関係の人はまともだというときそうとも思った
その人は大工として庭師として優れている、デザイン力もあり力仕事もできるから何か自分には驚きである、その人に問題があるのだがそれで金をとられても無駄だとはならないしその人を評価できる
その人はアーティストだとも見た、仕事が芸術作品を作るのと共通していたからである
銀行とか証券会社の人はあまり評価できない、ただそういう仕事は資本主義社会は必要なのだから全部否定はできないのである
投資するとかは資本主義社会の基本にあるし株式会社ではみんなそうして投資して回しているからである

だから二回投資信託を株をすすめてきたときその時買っていれば大儲けしたのだから
銀行でも証券会社でも別に全部が悪いとならないし責めることはできない
ただ最初の失敗がありそれが自分の場合は脳にすりこまれて買うことができなくなったのである、ただ地銀でも証券会社でも途中でまた転売をすすめたかもしれない
何か一つの金融商品でも長く置かないのである、転売をすすめて手数料をとる
だから8年も株を放っておくことはありえなかったのである
そうしたらそこから手数料がとれないからである、でもわかったことはそうして長期的にみればいくら半分に下がったとしても株は必ず上がるものだということを知ったのである

でも銀行と証券会社はそういうことはさせない、必ず転売をすすめる
買わせては売らせて手数料をとるということは一番の問題だったかもしれない
でも株はそうして常に変動するものだからそう言われればまかせるほかない
そして自力でデイトレダーのようにできないのだからどうにもならない
すると老人は向かないし9割が貯金したままだとなるのである
それでも今は貯金自体が大きなリスクになっている、そのことでまた悩むのである
それも日本経済が衰退するばかりだからとなる、そうなるともう個々人の力ではどうにもならないともなる
原発避難区域では5000万の家を置いて600万の中古の家を買って小高から原町に移ったという人がいる、それだけの資産でもゼロになってしまったのである
これももし日本全国にあてはまると日本自体の価値が低下すると個々人の資産も低下してゆくということになるのとにている
そうなると日本自体の経済力を上げない限りどうにもならない問題だともなる



posted by 天華 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年05月24日

大貧困国家日本でも貧困が見えない (戦後10年とかの貧困との比較)


大貧困国家日本でも貧困が見えない

(戦後10年とかの貧困との比較)

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大貧困国家日本ー食費1日400円の日本人が1200万人!ーyoutube

https://bit.ly/3hQp3oO


なぜこれほど日本が貧困化しているのか、これが本当は現代日本の最大の問題になっている、ただ貧乏が目に見えるものとしてわからなくなっている
本当は貧乏なのだけど学校でも家庭が貧乏なのを隠しているとか言う
そうするといじめられるからだともいう、現代では貧困が目立つものとして現れていないとなる
でも高校生で学費がたりなくてアルバイトしている人が多いとか学校も続けられないとか紹介している

大学に入るのにも奨学金をもらう人が多いとかいうのもそうである
入学費用が80万とか払えないとかある
それは今の基準だとそうなる、半分は大学に入る時代だからそうなった
団塊の世代などでは大学に入ったのは二割くらいかもしれない、実際は地方だと一割とかなる

クラスが50人いたとして大学に入ったのは一割だった
その一割に自分は入っていた、高校すらみんなが入れたわけではない
中卒で集団就職した人がクラスで二割くらいいたのかもしれない、それは相当に貧乏な時代だった、それと比べるといくら貧困でも今の貧困はぜいたくな貧困なのかともみえる
ただ時代があり時代の標準があり貧困だとなる
電気も水道もない炭の暮らしとは比べようがないとなる

だから何か貧困が見えにくいの現代である、例えば田舎で家をみていると何台かの車を持っている、一人一台とかもっている、それを見ていたらどこで貧困なのかともなる
ただ田舎だとどうしても車がないと暮らせないことがあるし仕事で使うから車を持つのはぜいたくではない、それで私は自転車だからどうしても自転車の人と出会いやすい
そういう人は貧困である、現代社会で車を持たないということは特殊であり貧困として見られる
私の場合は別に車をもてるけど持たないだけである
ただ確かに車を持たない人は貧乏として見られる、それが可視化された貧乏だとなる
でも他では可視化された貧乏は見えにくいのが現代である

でもコンビニとかスーパーのレジをしている人は高校生がいるみたいだ
高校生でも働かざるを得ないとかなっていることは家庭が貧困だからかもしれない
ただ自分の時代はそもそもそうしてアルバイトなどはしていないしアルバイトを受け入れる場所もなかったからまた時代が違うのでは比較できないのである
貧困というとき戦後十年くらいは農家の方が豊かだった、なにしろ食料を自家生産していたから豊かだった、それで農家の人は卵を食べていたけど町内では卵は食べていないのである、卵は贅沢なものだった、ケージで卵を大量生産しいないし放し飼いであった
それで自分の家で店を開いた時、私は農家に自転車で卵買いにやらせられていた
自転車にしてもいい自転車ではない、自転車でも一台あっても新しい自転車を買うことはなかった、修理して使い続けていたのである

その卵買いで不思議なのはあの真野川の橋が木の橋であり舗装もされてもない、だから揺れたりして怖い橋だった、そしてその卵買いに行った場所が小池でありそこにいたのは
戦争からの引揚者であった、そこに記念碑がある、そこは街内から近いのである
そんなところに引揚者が開墾していたというのも今になると理解しにくい
どこにでもそうしうて引揚者が開墾に入った場所がある、飯館でも山奥の辺鄙な場所がそうである、それは全国でもどこにでもある、どちらかというと小池のような場所ではない山の奥の辺鄙な場所になりやすいからである
つまり今高校生がアルバイトしているというとき貧困化すると子供でも働くとなる
農家の手伝いをさせられとか普通にあった
子供は学校で教育させるものより労働力として見ていたのである
私の母親は尋常小学校卒であり読み書きはでききたが原町紡績で十年間糸取りをして働いていた、つまりそもそも高校とか高度な教育を受ける人はまれだったのである
まず相馬女学校に入れたのは極わずかの金持ちでありそに入れた人は地域の有力者であり資産家だけだったのである

だから貧困というとき何が貧困なのか時代によって違うからわからない
絶対的貧困はもうアフリカとかの最低限の貧困である、水すら満足に飲めないような状態である
だから貧困というのが現代ではわかりにくいのである
ただ水道の水が飲めないという時、今電気ガス水道が必ず毎月止められる人がいる
そういう人が貧困だ言うことで目に見えて来ることは確かである
そこが貧困の一番深刻なものとして現れているのだ
本当に電気ガス水道が止められると死ぬこともありうるし現実にそうして死んでいた人もいたからだ、もちろんそういう貧乏になるとち医者にもかかれず死ぬ人が多くなる
ネパールでは医者もいないから死ぬとなる、それで医者になりたいという子供がいることがわかる

つまり現代の貧困が見えないからほかりにくくそれで切実なものとして感じないのであるまず見ただけでは外見からはわからない、ボロを着ているわけでもないし何が困っているのかわからないのである
田舎でもわからない、みんな車をもっているからそうなるとどこが貧困なのかとなる
例えばベトナムとかネパールから来る外国人労働者はみんな車をもっているのだから
田舎でも貧乏だとは見えないだろう
それと自分自身不思議に思うのはとにかく若くても働かないニートとかが本当に多いのである、これは全国的にも60万とかなんか数が多いのである
でも貧乏だったら働かざるをえない、そうして働かないで暮らしていける人がこんなに数が多いということは貧乏な社会ではありえないのである
だから団塊の世代ではそんな人はほとんどいないしみんな会社員となり猛烈な企業戦士として働いていたのである、また中卒でも集団就職で働かざるをえなかったのである

ただ本当に年収が200万以下は本当に厳しい、もう食べるのがぎりぎりだとなる
それでこのyoutubeの人は400円しか食費に使えなかったとか言う、第一食費が2万5000円というのはもう果物も食べられないレベルである、バナナくらいしか食べられない、私は果物は高くて食べれないという貧乏な人が言うからわかる
ここにも相当な貧乏を具体的に感じる
いづれにしろ現代の貧困が実感できないのは具体的に貧困が見えなくなっているからである
そして最低限電気ガス水道代がかかり携帯も必需品だからである
この出費が大きいしアパートを借りたりしたらそれも負担になる
それで今東京とかで大家族で生活する人が増えてきたというのもわかる
なぜならその人は貧困なのに家族がみんな別々に暮らしている、
そのために別々に電気ガス水道代がかかっている、その出費が大きいのである
もし三人一緒に暮らせば電気ガス水道代は三人分一緒になるから節約できるからである

でもしたくないとしてしない、実際はそうしないと毎月催促されて生活できなくなっている、でもしないのである
それが贅沢だともみる、ニートが数が多いとかこうしてぎりぎりに追い詰められているのに一緒に暮らさないとかある
これだけ貧乏人が多くなれば貧乏でも暮らしていけるようにするほかないのである
でも現実にはそういう貧乏が見えない、だからみんな深刻に見ないともなる
ただこれからますますこういう状態がつづくと耐えきれなくなり暴動でも起きるとか犯罪が増えてくるとかなる、そういう被害に自分自身もあったから貧困は怖いのである
まず老人も本当に貧乏な人が増えている、そもそも年金がもらえない、国民年金が6−7万では食うことさえでないからだ
そしてつくづく感じることは老後に大事なのは年金だと思った、悠々自適な老後を送れる人は二割くらいになっているだろう
これは定期的に入ってきて死ぬまでもらえるからである、それで自分自身は70からもらって高かったので年金のありがたみを感じたのである、それでも貯金がなかったらもう食べるのが精いっぱいであり何もできなくなっていたのである
posted by 天華 at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年05月17日

日本への警告(無国籍人間ージムロジャースの批判)


日本への警告(無国籍人間ージムロジャースの批判)

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投資でもうけた人に人は興味がある、その理由は自分も投資でもうけて大金持ちになりたいからである
だからこうして投資でももうけた人が話題になる
この人はまさにグロ−バル経済の申し子のような人なのである
世界を渡り歩き金儲けのために投資する

この人には国はない!

国ってなんですか?、国と彼にとって金儲けの場所という感覚しかないのである
アメリカはだめだ、日本駄目だ、では次はどこに行く、金に成る場所は国はどこだとなるこの人にはそもそも国はない、国はなく金儲けできる場所が国なのである
だからシンガポールとか香港とかが金融センターと最適だとなる
今住んでいるのはシンガポールである

でも香港とかシンガポールとかは国ではない、金融センターに特化したものであり国ではない、この人は故国とか故郷とか国という感覚はない、ただ世界を渡り歩く人であり
投資先を求めて国を転々ともする、投資先として有望となればすぐに国を移る
有望でないとすればその国を捨てる、それはもしかしたら国土を失ったユダヤ人ともにているのかもしれない、まず国土とか故郷とかがないからである

ただ国とは何かとなるとやはり国土を持つということである
土がある場所だともなる、または日本だったら山があり森がありとかなる
国と意識されるのは国土があるからでありもし国土がなかったら国はない
そしてこの人に欠けているのは国がないのである
もちろん国がなければ故郷もない、あるのは投資先としての国なのである
この人こそグロ−バル経済の申し子ともなる
そうして巨額の金を投資でもうけているからである

こういう人には文化人ではない、この人には文化はない、生粋の経済人である
だから何かこの人には国も故郷もないのだから肝心の国を語ることもできない
アメリカ人でもない、それで安易に中国が経済的に伸びるから投資先となり
中国語を習へとか英語ができないようではもう世界で通用しないとか国々の文化を否定するのである
それは何かアメリカらしいとはなる、アメリカはそうして国々の歴史とか伝統とかを否定して金だけを価値の基準としてたからである
そしてグロ−バル経済とは多国籍企業が支配するシステムなのである

人間が生きるとはこうして国々を投資先を求めて国ももたず金だけを目的にして生きる
そんな人か人間として評価できるのだろうか?
だからこの人は成金であり成金趣味しかない、無国籍人であり国をもたないから要するにその人間としての中味もない、空っぽなのである
文化は長い時間をかけてその風土に国土の中でつちかわれてきたものである
そういうものがそもそもアメリカにはない、アメリカとかにあるのは広大な空間を移動することである、それを拡大するとグロ−バルに国境はなく投資先を求めて移動することになる
それで次は中国だとなりアメリカを捨てる、そして中国語を覚えるのは投資して金をもうけるためだとなる
日本語などはもうなくなるというのもそもそも国の文化など関係ないからである

つまりグロ−バル化とは空間の拡大であり空間人間になる、文化とは長い間にその国土風土のなかに培われたものである、言葉でもそうである
言葉と風土は一体化していることがあるからだ、それが英語に全部しろというとき文化そのものが失われるのである、その時人間は無国籍人間のようになる
その時宗教すらなくなる、なぜなら仏教でもキリスト教でもその国の独特の歴史風土から長い時間をかけて土着したものだからである
それで内村鑑三のキリスト教が武士道を基にしたというとき日本的キリスト教として受け入れたとなるからだ、そうしてその国の歴史と風土に一致して文化となるのである

いづれにしろこの人が崇められるはただ金をもうける投資してもうけるからだけである
それはアメリカ的だとなる、アメリカでもビルゲイツとかジョブスとかコンピュターを発明した人は違っている、それは本当に価値をあるものを産みだして人類に貢献したからである
巨万の金を得てもそれで人類に貢献するものを産みださなければ人類的には評価できないのである
でももしその巨万をの金を使って人類に貢献するものを産みだしたら評価できるとなる

ただ投資的にこの人の言っていることは正しい、ただそれは投資という経済に特化したものであり人類に世界に貢献するとかなると全く評価できないのである
そのことを自分自身でもわかっている、だから金融でもうけることはできなくなるとか農業が次の有望な産業だとしている
それは何か銀行員が農業して投資先にしたというのもわかる
投資的に見れば先見の明があるとなる、ただこの人は無国籍人間でありただ金だけを求めて世界を渡り歩く、だから文化をもたないし文化的には価値がゼロだとなる
日本人でも他の国でも文化がある、歴史がある、アメリカは若い国だからそうした長い歴史がないから文化でも底が浅いのである

ただアメリカが経済的に衰退して中国が覇権国になることは間違えない、だから投資の面からすると何かアメリカ一辺倒になっていることはおかしい見るのである
ただ人間をすべて金で価値を計ることはできない、でも資本主義だとそれが極端になる
てもそういう資本主義も終わりつつある
だからこの人自身が金融でももうけることは終わりだとか言っている、金融で巨万の富を築いても評価はされない、何かギャンブルで大勝ちしたとかなりそのために負けた人たちから命をねらわれるとまでなる
強欲金融資本主義はもう終わりつつある、とにかく無国籍人間とかはそもそも骨なし人間になる、バックボーンがボーン(骨)がないからである
そういう人間は国がないのだから文化を語ることもなにもできないのである

ただ人間の評価となるとむずかしい、この人の本をみんな読んでいるわけでもない
だから必ず人間を評価するとき偏った見方となる、でも基本的にこの人がグロ−バリストであり典型的な経済人としてあることは間違いないだろう
posted by 天華 at 15:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年05月13日

庭作りでコンクリートを壊すのに苦労 (人間は経験からしか学べない)

庭作りでコンクリートを壊すのに苦労

(人間は経験からしか学べない―石工のまねをする)

庭師、大工、壁塗り、デザインなど何かこのようにいろいろできる人がコンクリートを壊して木を植えるというのでそのコンクリートを壊すことで苦労した
自分も手伝った、コンクリートが結構厚かった、それで前は成功したのでもう一つ木を植えることにしたがそれが難儀だった
自分はそういうことに気付きもしなかったしできると見ていなかったのである
ただ何かそういう提案がありでるのかとなりまかせた
ただ正直金がかかるのでしたくないということはあった
ただ成り行き上でそうなったのである

それは玄関にもなっているから二つの木があると森の中に入るようにもなるからいいとなる、前植えた紅葉の木は成功したからである
それでコンクリートが大地を圧迫するとか言うので気になった
そしたらコンクリートの道路を作る造園会社のページがでてきた

呼吸するコンクリート駐車場をつくる。 
http://www.zoukinoniwa.biz/blog/2018/08/30811.html

コンクリートの下でも土を活かしている

通気口を作るとか何かそういう工夫をしている、だからコンクリ―トの下でも土が活きている
不思議なのはななぜコンクリートの一部の土から紅葉の木が伸びてまたノウゼンカズラの木が伸びて花が咲く、それは地中深く根が張ったためだと見ている
いかに根を張らせるかが問題になる
ただ石がでてきたり何か中は木を植えるにはいい感じではない
でもこのサイトだと土を活かす方法が書いてある
何か私は理系ではないから理解しにくいがなんとなく理解できる
コンクリートでも土を活かすために通気口とかいろいろしている
コンクリートの下だと土が圧迫されて死んでいるのかと見るがそうではない

土の中には、空気がたくさんふくまれている。土は空気から酸素(さんそ)を吸(す)って、二酸化炭素(にさんかたんそ)を出しているんだ。つまり、呼吸(こきゅう)しているってわけだね。

でも本当は、土自体が呼吸しているのではないよ。土の中の細菌(さいきん)や小さなカビなどの微生物(びせいぶつ)が、呼吸しているんだ。植物も土の中の微生物なども、土の中に新鮮(しんせん)な空気があるから元気に生きていける。作物を植える時、土をたがやすよね。これは、土の中に新鮮な空気をたくさん送りこむためにやっていることだよ。

土も呼吸(こきゅう)をしているの?
https://www.panasonic.com/jp/corporate/sustainability/citizenship/pks/library/011plant/plan008.html

コンクリートにおおわれると呼吸しにくい、だから通気口が必要になる
何か庭作りと農業は共通したものがある、植物を育てるから共通している
どうしても土を知ることが大事になる、土を知らなくては農業はてきないとなるからだ
だから農業は本当にむずかしい、素人だと必ず教える人がいないとできないのである

今は田舎にいても農業がわからないのだ、農業している人は一割にもみたないからであるただ私は理系ではないからこうして化学とかなると苦手でありわからないのである
化学記号などは学校の時一番苦手でありわからなかったからだ
でも何かわからないなりに現実の農業とかから学ぶものがあったが何も知ることなく終わったとなる
こうしてとにかく学ぶべきことが山ほどあるのに学ばないで終わっているのが人間なのである、それを老人になって死ぬ間際に痛切に知るということにもなる

ともかく何か今は若い人でぶらぶらして職につかない人が多い、ニートとか本当に田舎でも多いのである、だから時間を無駄にしている、それがとりかえしつかないものになる
なぜそうしたことで切迫感をもたないのか?
何か時間が永遠につづくように錯覚しているからだ、それは自分でも若い時はそうだったこんなに時間が早くすぎてもう死ぬのかということがショックなのである

今回は作られた庭の修理とかであった、塀とかの修理であった
でも新しく玄関の方にもう一本木を植えることが提案されて実行したがこれが思った以上大変な作業だったのである
コンクリートを壊すのが大きな仕事になった、それを手伝った
そして楔を入れるようにして部分化して割る
実は昔子供の頃近くに石屋いてそうしていつも楔(くさび)で石をたたき削り割っていたのである、ただその時は機械がないから手でしていたのである
自分でも楔(くさび)打ちコンクリートを割って捨てたのである
石屋とか石工のまねをしたとなる、それでも経験したことで必ず理解するものがあるのだ

何にしろ学問でも身につかないのは現実問題から出発しないからである
学問とはどうしても高校までは試験のためにあるとなり嫌になっていた
ただ私の場合、奇妙なことは大学出て無職だったが学問に興味をもったのである
それは旅すれば地理に興味をもつから自ずとそうなったのである
つまり人間は現実問題に直面してその解決のために学問が生まれたからである

一体どうしてこの辺の原発事故から復興できるのか?

これが最大の課題でありこれも学問と関係している、特に放射性物質に汚染された土どうなっているのかとか除染が可能なのかどうかということが生々しい現実の問題としてあるそれは理系であり文系となるとまた別な問題の解決があるともなる
原発事故の問題をモラルの退廃からその原因を追究するとなるとそうなる
それは自分自身が書いてきたことである
でも理系の専門家が最も重要なものとして事故前でも後でもそうなった
ただその理系の学者でも放射線がわかったわけではない、だから被爆の森というNHKの放送でもそれほど事故から十年すぎても影響がなかったとも報告していた
つまり実際にどういうふうに放射線が人間に影響するのかわからないのである
それはコロナウィルスと似ている、これも未知でありわからないから不安になる人はなる専門の科学者が学者がいてもその人たちもわからないのである
だから憶測で言っているからなんだ素人と変わりないのかとも見るのである

人間はなんでもいいから経験すると頭に関係なく悟る、知る
経験しない限り現実問題ではない架空の問題のようになってしまうのである
だからつまらないことでも経験することが大事である
本ばかりテレビばかり見ていてもわからないのである
神を知れとか言っても聖書を千回読んでもわからない
ただ過酷な経験から知るのであり聖書を一回も読んでいなくても神を知ることは可能なのである、自分自身がそうだったからである

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2021年04月21日

エコノミーの原点は家政 (人間は家を中心にして世界をみる)


エコノミーの原点は家政

(人間は家を中心にして世界をみる)

オイコノミアは「オイコス」(Oikos)と「ノモイ」(Nemu)という2つの言葉が一つになった言葉です。オイコスは家庭、ノモイは法律やルール、規則といった意味があります。そこから、オイコノミアは家の管理や家政を指すようになりました。後年にはエコノミーに、国家を意味する「ポリティカル」(Political)という言葉を加えたポリティカルエコノミーという言葉が登場します。

経済の語源がエコノミーが家政だった、いかに家をきりもりするかが経済の原点だった
人間の生活はいろいろあるが基本的に家とか家族とかから波及したものとしてある
人間の原点は家にあり家族にありだからエコノミーでも家政だとなる

とにかく家を切り盛りすることが一仕事でありそれを上手にこなすことは相当なスキルも必要になる
自分のそれを具体的に感じたのは家族を介護するようになってからである
全部家のことをやることを強いられたからである
これまで家族が三人だったが二人は女性で自分の世話をしてくれたし家事もしないし家のこともしていない、だから楽だったのである
それが全部一手に一人でやるようになり家事にはいろいろあるし労力もかかると思った
それは介護を終わってもそうなのである

家があり庭がある、それが家庭だとなるが庭でも花を見たりして水をやるだけでも手間になる、花というのは庭に植えたりすると水をやったり肥料をやったりそのままに放っておけないのである、ただ牡丹だけは放っておいても何十年も同じ場所に咲いているのは不思議である
こうなっていると楽である、一旦今までの花は枯れて切った
でも同じ場所に種が落ちてまた咲いたのである、こんなに継続して咲く理由がわからない他の花は咲かなくなっているのが多いからである
ただ地中に深く根をはったものはやはり咲いている、それは木の花なのである

家を維持するには常に家でも庭でも目配りしている必要がある
あそこに一つの花が咲きまた他にも花が咲いている、それに肥料などやらなくても目配りしている、そこに花が咲いてることを確認することが必要である
だからそうして何もしないで花を見ているだけでも時間をとられるのである
家全体でも特に地震で傷んだ場所がありそれもまだ直していない、十年前の震災のまま壊れたままなのである、その修理を頼んだ今はそういう大工さんはいないから困る
金にならないからやめたとも言っているからである
それで今度は自分自身で日曜大工のようにやれることをしなければならない、これも手間なのである、ただこれは電器製品のように全く何もできないとはならない
それなりに自分自身でもできるものなのである

いづれにしろ家を一人で切り盛りすることは手間だと思った
家が大きいこともある、すると掃除も大変になり汚れたままになっている
そして家はこうしてなにかかにかすることがあり目配りしていなければならない
だからなんか家に使われている感じにもなる
アパートのようだと狭いから一時的な仮住まいのようになるが大きな家は住んでいい面もあるが負担にもなる
ただ人間と家は一体化する、家を活かすのは人間であり人間が住まない家は荒廃してゆくそして空家は幽霊屋敷のようになる、そういう家が増えている、全国で800万軒も空家となる時代である

家は常に目配りして活きてくる、そして人間が目配りできるのは家と庭くらいでその外になるとなかなか目配りできない、内と外があり家が内であり外になると目配りもできない何か人間というのは本質的にそういう生き物なのかもしれない
自分の家だったら目配りして気を使うが家の外になると無関心になってしまう
人間の関心がもてる範囲は狭い、隣すら目配りしない、関心をもつのは狭い家の中だけだとなる、人間はそういう利己的な存在だからエコノミーが実は家政だったとなる

それでグロ−バル化した広域化した経済というのは人間から離れたものとなる
家の外すら目配りできないのに世界となればもう自分自身の関心事とはならない
ただ何か外国と問題が起きたとき関心をもつ、また物でも何か物が入らなくなったら関心をもつ、バナナが入らなくなって困ったとかなる
それ意外は日常的には関心をもてないのである
それは全く自分の手の及ばない世界だとなってしまう、だからグロ−バル経済というのは家の範囲くらいしかじかに目配りできないのだからもうどうなっているのか理解できないのである、株でも何でももう理解できない、だから株でもギャンブルになる
それは機関投資家でもそうなのである、ただ当たりはずれがありそれはギャンブルになっているのだ
もしエコノミーが家政からはじまったときそんなことありえないからである

目配りできる範囲が家と庭くらいである、そこで自分自身が直接目配りできる範囲であり直接愛情をそそぐことができる世界である
それだけ人間の目配りできる直接関与できる範囲が狭いとなる
その他は何か抽象的なものになる、out of sightになってしまうのである
家にしても自分が住んでいる家だからこそ愛着があり所有する意味がある
でも他人の家となると何か無関係になる
そういうふうに人間は本来利己的であり目配りできる愛情をそそぐにしても狭い範囲でしかできないのである
だからグロ−バル経済とはエコノミーからすると全く想像も絶する経済規模でありもうそこには人間の心を通わせることは不可能なのである
そもそも自分の家と庭くらいしか目配りして愛情をそそぐ範囲だからである
その他は抽象的なになってしまうのである
だからこそ人間は家族単位が基本にある、そこで愛情でも培われる
広い範囲だとまた多人数だと愛情をはぐくむことができないからである

経済とはエコノミーのはじまりは家であり家計だったのである
家族単位のものでありそこが経済の原点だったのである
本当に家をやりくりすることは金銭的にもあるし家を維持するためにすることがいろいろあるからそうなる
それで自分自身が家族の介護からそのあとでも家政に追われているのである  

夫である里長は行政上の役割を負って郡衙に出向くことが多く、それに対して妻である里刀自は家を支配する主婦の尊称であったと同様に、里を統率する里長の妻は里刀自と尊称された」とみる
女性が農業労働力として大きな比重を占めたこと、農業経営・管理に従事していたことを認めながらも、 

家は人間関係としての家族、 「ヤケ」は経営拠点を意味する日本語である。 「イヘ」という語で表された古代の家族
吉田孝氏が解明したように、古代日本語の「イヘ」と「ヤケ」の双方を表記する文字として採用された。 

「刀自」からみた日本古代社会のジェンダー
――村と宮廷における婚姻・経営・政治的地位――
義江明子

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家刀自と里刀自かあり刀自とはとりしまるとか戸主とかからきている、とじるというときとりしきるが語源かもしれない、この刀自は単なる一家の妻ではなく共同経営者でもあり自立的女性の経営者とも考察している
そもそも日本の天皇の基が天照大神であり女性なのである
日本では女性が大きな力をもっていた、それは経済的にも夫に従属する社会と違っていたからである
だから刀自というのは何か家から発したとしても里刀自とかなり里をとりしきる役目となる、村の中で人を統率する大きな力をもった女性だったとなる

真木柱(まけはしら)頌めて造れる殿のごといませ母刀自(ははとじ)面(おめ)変りせず(坂田部首麻呂)

家と母か一体化した歌である、家というのはそれだけ人間と一体化するのである
だから前にも書いたが死者は家にいるともなる
母刀自こそが真木柱のように家を支えていたとなる
人間と家は一体化してアイディンティティ化してそうなる、嫁が女+家なのである
それで嫁とならない女性に何か存在感がないのである
アパートとかに住んでいると何か存在感がないのである

ともかく人間の目配りできるは狭い範囲である、その基本となるのが家なのである、その延長として公ュオやけょとなったり拡大してゆく、だから家刀自と里刀自となる、里と言ってもそれは家の延長した拡大したものてある
公(おおやけ)とは大きな家のことからである、一つの家が拡大したものが公となったことでもわかる
その範囲は目配りできる範囲なのである、それがグロ−バル経済とかなる目配りどころではない
それは全く視界の外になり抽象的なものとなりそこではもう人間の心は通じない世界になっているのである
物と心が完全に分離した世界である、ものというときモノが憑くとかにり心と一体化したもが物だったがそれが全く心と分離した物となることが問題のである、そこで異常化した経済となる、世界市場とかなるともう誰もそれを知ることはできない
そこで突然の経済破綻が起きたりする、もう統制できない、目配りもできないあまりにも広い範囲になったからである


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2021年04月02日

一人暮らしから考える、感謝なき社会 (自分が自分をサービスするしかないあとはロボットにさせる)


一人暮らしから考える、感謝なき社会

(自分が自分をサービスするしかないあとはロボットにさせる)


一人暮らしというのは何か、それも不思議だとなる、というのは私は何度も書いているように家族がしてくれた、食事の用意もしてくれた、でもそのことで感謝とかもしなかった何か当然のように思っていたのである
それが家族がみんな死んで一人暮らしになり全部家事からなにから自分一人ですることになり気持が変わった
確かに学生時代とか一人暮らししていたことがあった
でも食事つきなのでやはり提供されるだけだから一人暮らしとも違っていた

一人暮らしだと助けるのは自分自身しかないしサービスするのも自分自身がしないかぎり誰もしてくれない、つまり自助しかないのである
何かいたわる人もいないから病気なになったりしたら悲惨なのである
それで不思議だったのは食事を用意する、台所と居間が離れているのでトレーで運ぶ
これは何かレストランとか食堂でされことである
今は運ぶのが客がしているから多少違っていてもやはり他人にしてもらっている
他人にサービスしてもらっている

ではそうして食事の用意でも全部している、家事でも全部していることは何なのか?
それは自助でありそもそもサービスしてくれるのはもう自分しかないのである
何かうまい料理かが食べたいなといいうときそれもない、外で買うほかない
食堂やレストランに行くほかない、でもそれも飽きるのである
だからどうしても自分で料理をしないかぎりうまいものが食べられないのである
結局それがほとんどできないからできあいのものですましているだけである
もし料理にこったら時間がかかりすぎるからである

とにかく自分を愛するように他人を愛しなさいとキリストが言う時、そもそも人間はまず自分自身を愛すのであり他人は常に二の次である
他人のことを第一にして愛している人などいないしできないのである
そして一人暮らしとなると独り身となると家族がいないのだから愛する人は自分自身しかいなくなるのだ
だから毎日食事するでもなんでも家事でも自分を良くする愛することから始まっている
実際に自分自身が自分のために何かしなければもう食べることもできないからである

今日も食事の用意をしました、食卓まで運びました、どうぞ食べてください

それは自分自身がしなければ食事すらできないからそうなっている
でもなんかそうして食事の用意をしてありがとうという相手はいない、自分自身がサービスして自分自身が良かったとなる
でも自分自身に感謝するもの変なのである
ただ自分自身が自分にサービスしないかぎり食事も何もできないということである

では他人のサービスはどうなるのか?他人はただ金のためにサービスしているのである
まずその人のためにサービスするということはありえないのである
不特定多数の人にサービスして金をもらうことでそうしている
ただ常連客とかなると助かるので特別サービスするということはある
サービス=金なのである、でもいくら金をもらってもサービスする心はもていないのである、金もらえるから仕方がないなと嫌でもしているのである
嫌でも笑っているとかなる、心からサービスすることなどないのである
水商売の口先のサービスなど誰も信じないのである

ところが一人暮らしになるとサービスするのは自分自身だけであり自分自身を愛さないものはいない、だから心から自分にサービスするサービスしたいとなる
ただ料理などがめんどうであり手間でありできないともなる
そういいう心があっても今度はできないともなる
人間は自分を愛するように他人も愛しなさいというとき自分を愛することが先であり自分ならこうしてもらいたいということをする
でも他人はしない、ただ金によって強制されてしているだけである
それがわかるのは倍とか三倍の金を払う金持ちにはサービスをする
でも貧乏人にはサービスはしない、金によってすべて差別される
サービスが買いたいとしても金がなければ買えないのである
ただそうして金持ちにサービスするのもは心から自分を愛するようにするのではなく金のためにしているとなる

だから召使とか手伝さんとかいてもその人は粗末な風呂に入っている、一方で雇われてる家てユニットバスで大きな風呂に入っている、その時その風呂でも掃除する気になれのか?
もし自分もその風呂に入れるならきれい掃除しようかなる
でもそでないとした金で働きサービスするだけである、つまり掃除する動機がもてないである
ただそれは金の多寡で図られだけである

人間は実際他人のためには何もしたくないのである、箱一つも持ち上げたくない、それが経営している人を見てわかった、その人は借金しているからこともあったが自分が苦しくても何一つしたくなかった、ただ金をが欲しかっただけなのである
その人が経営者になったのも金が欲しいとか人に偉い能力ある人として認められたいしかなかったのである、会社を始めた動機がそうだったからである

要するに他人のためには何もしたくない、ただ金をくれ!

結局人間はみんな自分も含めてこれではないか、他人のために何もしたくないけど金がもらえるからいやいやながらしているとなる
そこでこうしてそもそも金が介在すること自体が人間を歪めるものとなっているのだ
人を雇ってみればわかる、ただ不満しかないだろう、なぜならその人は他人のために何もしたくないからである
すると雇い主が強制しないと本当に何もしない、雇われても働かなくても何もしない
ただ賃金だけは要求するとなる、これが人間なのである
他人のためには物一つも持ちあげることもしたくない、ただ金は欲しいとなるだけであるだからこの世は地獄だともなる、そこに愛など通わないのである

家族が出す食事は例え貧弱でもそこには愛がこもっているから違っている
ただそれでもそうした貧乏は嫌だとなることも確かである
愛では腹のたしにならないともなる、ただ人間は自助が先にあり共助とか公助は義務のようなものであり本来はない
家の中が汚れても命令しないかぎりしないのが雇われた人である
そこは自分の家ではないからである、自分の家だったら汚れた所に住んでいるのが嫌だからする、それは金とは関係ない、金もらったからするのではない
でも何か自分の家だったらそうだが一歩家から外に出るとそういう感覚がなくなる

要するに今働いている人は社畜だとか言ったり奴隷なんだよというときまさにただ金の力でサービスされているだけなのである、本来は他人のために箱一つでももちあげる気持がない、金をもらいたいということはあっても他人のために尽くすという気持ちはない
それが人間の社会を歪めているのである、つまり愛なき世界にしている
だから殺伐として弱肉強食の世界になる、他者を思いやるとかサービスするとかを心からしている人はいないからである
だから一見豊かな生活をしていても人間社会は不幸だとなる
人間は本質的に他人をおもいやることができない、エゴだからである
他人は自分のために利用するものであり金で使うものでありそれ意外の何ものでもないとなるからだ

だからキリストの使うより仕えないさいと弟子の足を洗うようなことは絶対にしない
その逆が人間の真実である、足を強制的に金の力であれ洗わされる
そして金をはらって感謝もしないのである、常に感謝しろというとき金を払っている方なのである、強い者が弱い者をそう強制させられる社会だから不幸だとなる
俺はお前に金を払って足を洗わせた、だから俺に感謝しろとなる
そういう社会であり人々の中に不満が鬱積している、そこに金持ちがいたとしてもその人たちへの怨嗟も大きいのである、そういう社会たからいつまでも平和はないのである
だから平和というとき戦争がないことではない、普通の日常の中に平和がないのである

結局なぜロボットなどがこれほど発達してくるのか?労働が機械に自動化されるのか?

それは誰も他人には心からサービスしない、気持がもてない、そうならばロボットに掃除でも料理でも何でもしてもらった方がいいとなる
雇う方でもロボットの方がいい、現実に雇っても自主的に何かサービスするということはない、ただ命令されてしかたなくしているからである
それならロボットの方がいい、不満も言わないからである
そして人間は働く場所がなくなる、でも金が必要だからベーシックインカムで生活するのがいいとかなる
それは誰も自主的に働きたくない、他人にサービスしたくないからそうなったのかと思うサービスしてもらいたいがサービスをしたくないからである

でも人間はお手伝いさんとか直接的に雇うというサービスでないにしろ複雑に他人からサービスを労働として与えられている
それは金を通してとか複雑でわからないが他人のサービスなしでは生きられないのである何か食べるもの一つでも苦労して作っているからである
ただそれでも金を払えばいいとしてその作った人に感謝などしないのである
心に感謝があっても金を媒介するときその気持ちは消失する、金払えばいいとだけなるからだ、何かそこで金というのが貨幣が発明されたときから社会を歪めるものとしてあったすべては金だということでギリシャでも嘆いていた、それもキリストが生まれる七〇〇年前とかにそうなっていたのである

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2021年03月24日

農業から考える資本主義 (現代で重要になったのは何でもノウハウである)


農業から考える資本主義

(現代で重要になったのは何でもノウハウである)

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資本主義とは何かとなるとこれも複雑だから理解することは難しい
これを農業を例にずると図のようになる
資本主義というからには資本が最も問題になる、資本がなければ何も始まらないからだ
でも資本という時いろいろある、土地はもちろん体が資本だよということもある
体が丈夫でないと資本にならない、それで農業では老人が多くなり継続できなくなる
その女性は土地を借りて農業をはじめた、まず土地という資本がなかったからだ
ただその借り賃は無料に近かった、今はいくらでも土地が余っている、耕作放棄地が膨大なものとなっているからだ、特にこの辺では震災以後、原発事故以後耕作放棄地が他より増えたからである

とにかく農業は土地がまず資本になる、土地がないと始められないのである
だから土地というものの価値が大きかった、戦前とかはそれで土地をもっている地主と土地を借りて働く小作がありその差が大きかった、土地をもたないものは資本がない者は
裕福にはなれなかった
農業が中心の社会では土地が大きな価値をもっていた、それでなぜ相馬藩で飢饉になり
越中の方から移民が来たのか?
三分の一の人口が減った、そこでやはり耕作放棄地とか荒地が増えた
そこにまた藩から出ることは禁止されていたのでもう命がけで脱出して相馬藩に入ってきた

その理由は何だったのか?

土地が無料で与えられるということだった

それだけ土地には価値があった、またなぜ満州とか寒い地域に日本は進出したのか?
それも広大な土地があるということでそこで農業をするためだったのである
そこで寒いのに北海道以上に寒い所で米まで作ろうとしていたのである
その時日本でも農民が多く農民は土地がないとできないからそうなった
資本主義が農本主義にもなっていたからである 

農業というのはまず土地という資本がないと始められない、でもそれだけではない、農業は労働力が必要である、その労働が農業の場合過酷であった、牛馬を使ったりしたがその労働はかなりきついから体が丈夫でないとできない、そこで価値あるものは力持ちだとなる、それで一人前に認められるのは力石とかありそれをもちあげることができる人とか一俵をかつげる人とかになる、それは女性でも力持ちが価値ある者と認められていた
この辺にある一石坂は一石の米を運べる女性がいて名付けられた
何か伝説でも力持ちはたたえられる者だったのである

また道具が農業に大きな影響があった、石の道具とか木の鍬とかと鉄の道具とでは大きな差があったからだ、それで鉄の道具になったとき鍬でも鎌でも生産力が格段に上がったのである、それで稲荷神社とは鋳成りのことであり鉄のことである
それだけ鉄は農業でも重宝されたのである
そして現代になると農業でも労働力が依然として必要でも重要でも機械とか道具が重要なものとなる、力仕事でも機械がすれば力かなくてもやれるからである
それより農業はノウハウが大事になってきた、どうしても育てる智慧が必要になる
肥料も必要になる、そうしたノウハウは農家だと代々伝えられるから有利である
もともと土地という資本もありノウハウも伝えられているから有利なのである

現代ではノウハウの方が大事になる、農業はノウハウがないとできない
それで市民農園でもノウハウを農業を教える人がいて成功したというのはそのためである土地が与えられても簡単にできないからである
資本主義というのは土地が資本とかあってもそれを活かすノウハウが技術がないとできない、そしてそのノウハウの比率が高くなったのが現代である
労働力があってもノウハウの方が大事になる、労働力は機械に道具にまかせる
でもノウハウは簡単に伝えられない、それで代々の農家の方が有利となる

ノウハウというとき私がしている抽象画がそうである
これは全く能力がなくてもしている、それはソフトの作用でできている
その使い方を知れば誰でもできるとなる
だから大量の抽象画を能力ではなく機械的に生産しているから大量生産できるのである
それは絵画の能力とあまり関係ないからである
現代では土地という資本をもっいるよりノウハウはか機械とか道具の方が大事になっている、それができれば商品化して売れるとなるからだ

いづれにしろ資本主義とは何なのか?
資本が基本だという時、資本とは土地でありまた労働力も資本である、あらゆるものが資本となる、その比重が機械道具とかノウハウに移行している
何かそれは成熟した資本主義になると今までのように土地だけ持っていてもそれで大地主とかなり裕福になれない、それを活かすものがないとなれない
ただ道路ができたとか土地が売れるとき金になる
では農業で利益になるかとなるとむずかしいのである
それで小農は成り立たなくなり大農であり今では企業が農業に参入して外国に売るとかなる、農業が今かえって有望な産業となり大企業とか商社とかがかかわってきている
農業がだめだというとき今までの小規模農業が駄目なのであり全体的に見た時農業は有望な産業となりつつある
日本ではそうした農業のノウハウの蓄積があり外国に売れる農産物を作れるとなっているからである 

現代で重要になったのはノウハウである、地銀でも役割りがなくなったというときでは新たなビジネスモデルを作るにしてもノウハウの蓄積がないからできないのである
これまでは金を集めれば借りる人が会社がいくらでもいて利子をつけてもうけることができた、今やそれができない、どうしたら会社を成長させて利子をもうけるのかとなると
相当にむずかしい仕事となりノウハウが必要になるからだ
現代の資本主義は土地とかの資本より労働力よりノウハウなのである
知識であり智慧が重要なものとなっている、それが今までの資本主義とは違ったものとなっている、それは土地とか具体的なものとしての資本とは違ってるし簡単にミニつかないからである

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2021年03月23日

空気を売っている銀行 (地銀の危機と貨幣の謎)


空気を売っている銀行

(地銀の危機と貨幣の謎)

この本で空気を売っている銀行と言っている、読んではいないが盛んにyoutubeなどで
「信用創造」のことを言っている
銀行には金がなくても金を作り出すことができる、無から金を作り出せるというのが信用創造である
でもこれはわかりにくいのである、何にも手元にないのに金を貸せるのかということである
ただ数字だけを通帳に記せばそれが利子がついて返ってくる
一千万が二千万になって返ってくる、そんなことがありうるのか?
それで空気を売っていると言うのである

人間は何か手に取ったり目に見えたものを信用する、小判であれ黄金であれ銀であれ何かそこに手に取り目に見えるモノが価値あるとみる
でもデジタル社会になるとただ数字として記されているだけになる
もう紙幣すらない、数字として記載されたものが金であり紙幣だとなる

でも紙幣の貨幣の金の謎はそもそも何なのかとというとこれも
わかりにくいのである
なぜ紙切れに価値があるのか、紙きれには価値がない、だから今盛んに紙幣は紙くずになるとか言われる
それでみんな不安になる、実際はそれは紙に記された数字と同じようなものである
実際の価値は現物にあり紙幣にはない

だから紙幣の価値は使ってみてわかる、一千万自由に使っていいとなるとき欲しいものを買ってみるのだ、その買ったモノに価値があるとなる
モノでなくてもいろいろ価値あるものがあり金を使った時、その価値を知るのである

なぜ今銀行が危機になり地域でも価値がないとなってきたのか?
まず戦後の焼野原になったとき日本には何もなくなった
だからあらゆるものを再び作り出すことをしなければならなかった
一から始めなければならなかった
その時、何かを始めるにも金が必要だったのである
それで私の家で店を始める時、5万とかの金を用意できなかったのだ
銀行で貸してくれなかったのである
それで知人から借りてやっと店を始めることができた
その苦労話を親から聞かされた

その時代は何かみんな商売であり何でも新しく始めなければならなかった
その時金がない資本がないとできなかったのである
金さえあれば小さな店でも始めればたいがい繁盛した
物不足時代であり物を置けば売れた時代だったのである
商売始めるのにも簡単なものであり今のような設備はいらなかった
何か駄菓子屋のようなものから店が始まったのであく
私の家の場合は道路の角にあり繁盛した
なぜならその時車もない時であり歩いて用をたしている時代だったからである
すると近くの店屋で買い物していたからである

ともかくその時以来高度成長時代は金を借りたいという人が多く、何もないときだから必ず成長して利益をあげていたのである、だから銀行には金を借りる人がいくらでもくる
ただ金を集めていればいいだけである、だから楽な商売だった
貯金しても7パーセントとくらいの利子がついたときがあった
これも信じられない高利だったとなる、今は利子はマイナスまでになっているからだ 
その時大企業というのは少なく工場でも中小企業が多かった  
その中小企業の劣悪な環境で集団就職の中卒が油まみれで働いていたのである
その人たちも小資本ではじめたのである、銀行で金を貸してもやはり景気がいいから利子をもらえていた、つまり銀行はなんら努力も工夫もいらない商売だったのである
みんなから金さえ集めていれば良かったのである                          

いづれにしろ銀行が空気を売っているというとき時代の変化で用がないものとなった
社会から必要ないものとされるようになった、だから銀行はいらない、地銀はいらない、何のためにあるのかと問われている
空気を売っているだけではもう商売にならない、何か銀行の社会的価値を新たに作りださねばならなくなっている
それで今いろいろな試みが行われる、ただ銀行はただ金を集めて貸していれば良かったのでありそれ意外の企業を成長させるノウハウはかないのである
それと日本が経済成長しない貧困化している中で銀行の役割りはなくなったのである

銀行にあづけても利子はつかない、かえって手数料がとられる

銀行に金をあづけて安全なのか?

銀行は統廃合してつぶれるとか預金封鎖で金はとりあげられるとか・・・

こういう不安が銀行にあるということが様変わりしたのである
何か銀行というのは「信用創造」金を作り出している、空気を売っている
そんな商売が成り立つのかとなるからだ

銀行は貸金庫なのか?

銀行は証券会社なのか

銀行の役割りがなくなっている、貸金庫など誰でもできる、投資信託とか株なら証券会社がプロである、銀行にはそのプロがいない、そういう知識の蓄積もない
だから投資信託でも適当に売りつけているだけである
それで営業の人がいつもチャートを見て教えていたのにリーマンショックら株を元にもどして上がり気味の時その株をJ=REITに回したのである、そのJ-reitが今年の一月に暴落したのである
それを一月に売ったはその銀行の営業マンを信じられなくなったからである
また地銀でも信じられなくなったということもある
普通プロならチャートが上昇気味の時は売らないけどその株を売ってJ-reitに売ったのは自分のノルマと成績のためであり銀行の都合でもうけるためにしただけである
客のことは二の次なのである

ただそもそも株とか投資信託でも何でも金融商品は自己責任なのである
だから自分で責任をとれないものはやるなとなる
ただ投資信託などの仕組みは複雑で客を煙にまくだますために作った商品だともなる
それはアメリカのハーバード大学のエリートの証券会社に勤めた人がそのからくりを知って良心の呵責に耐えられずやめたというのもわかる
人間は複雑になると理解できなくなる、それは科学技術社会の中でどこでも起きている
専門家しかわからないとなり専門家が支配者となる

でもその専門家でも全部を理解している人はいない、フクシマ原発でも所長が復水器のことを知らなかった、肝心のことすら知らなかったのである
それは他の大企業の社長でも同じである、そうして複雑だから原子力のことなど核のことなどわからないから地元民など簡単にだませるともなった
でも科学技術者にしては「安全神話」を虚構のものを作ってだましていたから許せないのである

つまりいくら科学技術でもペテンと嘘がまかり通っていたのである
銀行でもそうである、投資信託の複雑さとか金融商品のわかりにくさで客をだましやすくなるからだ、だから知らない人はやるなとなる
いづれにしろ銀行は危機である、役割りがなくなっている
それで空気を売ってもうけているともなる、信用創造でありもしないものをあるとしてもうけているとなる
例えば千両箱に小判がつまっていると言うことはできる

でもその中身が石ころだったとなっている
例えその中に金があったとしてもほとんどは石ころだったとなる
そんなものでも小判が詰まって千両箱をもっているというのと同じである
銀行には金があるというけど小判があるというけど実際は石ころかもっていない
そしてそこから信用創造で金を作り出しているのは詐欺だとなる
ただそれはグロ−バル経済の中でそうなっている、日本だけがそうなっているわけではない、だから国際金融資本家が大元締めがそうしてありもしない紙幣を作り出して世界を支配していると言われる

つまりドルは暴落して本当に紙切れになるということがありうるのだ
そういうことが今起りつつあるのはアメリカの覇権の時代が終わりつつあるからである
アメリカはもう衰退してゆくからである、その過渡期にあり資本主義自体が崩壊の危機になっている、だからといって共産主義がいいというわけではない
共産主義でも自壊すると言われるのもそこに大きな問題がひそんでいるからである





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2021年03月12日

貧困化して生活するのにはどうするのか? (大家族とかシェア経済などリサイクルとか生活を見直す)


貧困化して生活するのにはどうするのか?

(大家族とかシェア経済などリサイクルとか生活を見直す)


困窮死と水道停止 停止前の訪問で防げるか

2019年12月、東京都江東区の集合住宅で72歳と66歳の兄弟が痩せ細った状態で死亡しているのが見つかった。電気やガスが止められ食べ物もほとんどなかった。料金の滞納で水道が止められる直前だったが、生活保護の申請はしていなかった。


毎月電気、ガス、水道がとめられると訴える人がいる
その対策は何になるのか?根本的には収入がないことであり老人になって働けないことがある
でも二人の息子がいて前は一人と一緒に暮らしていた
それが別々に部屋を借りて生活している
すると三人分別々に家賃がかかるしまた電気水道ガス代もかかる
何か対策があってもしない、それで毎月それほど困っているのだから何か対策を考えていいともなる

現代の生活は大家族から核家族から個人化した生活になった
私の子どもの時は電気ガス水道代は払う必要がなかった
電気があった年ても裸電球一つだったからである、水は近くの井戸水の水を無料でもらっていたのである
それから洗濯は近くの堀の水でしていたから信じられないともなる
それは原始的生活だったともなる、ただ近くの小川を利用して洗いものしていたことは普通にあった、水道がなければそうなるのである

それから子供部屋などはなかった、だから子供部屋で勉強していた記憶がないのである
それで団塊の世代は子供部屋おじさんとかはいないのである
子供部屋を持つことは相当に贅沢なことだったのである、個室をもつことは贅沢なことだった
戦後まもなくはみんな貧乏だったから同じような生活だったのである
ただ食べ物は農家にあり農家の方がましだったのである、第一食べ物がないのだから他は無くても食べ物があればたりるという時代だったからである

そして今日本が貧困化すると電気ガス水道代を払うことができない人が相当数増えたのである、全体の5パーセントがそうなっているというとき結構多いとなる
最悪は借りる部屋から出されるということになる
日本は貧乏が見えないけど実際は相当数が貧困化している
それが一番わかるのが電気ガス水道代が毎月払えなくても電気でもガスでも水道でも止められることなのである
金を払わないと止められる、張り紙さえ張られるとかある
だからこれを知った時その人は貧乏だと知るのである
もうぎりぎりの生活をしているのである
だから近くの人が夜は電気を消しているとか団地でも夜電気を消しているということがあると貧困化している日本を実感するのである
ただ現代の貧困はなかなか見えないからわからない人も多いのである

だからこれからはなんらか貧困対策をしなければ生活できなくなる、そのために生活保護があるとか福祉があるとかいうが実際生活保護でも最低限もらえていない人がいる
だからこそ電気ガス水道代が払えないのである
生活保護が最後のセーフティネットになっていないのである
これから福祉予算はますます削られる、国民年金とかなると6万だとかにもなる
それでどうして生活できるのか?
息子の世代も生活が苦しいから親の援助はできないとなる
そこで起きてくるのは家族遺棄社会だとなる、家族がもう経済的にも金銭的にも支援できないのである
福祉に金が回らないのは日本自体の経済力が下降しているからである
そして少子高齢化社会になり全体的に働き手がへりまた高度成長時代のように電器製品でも中国でも韓国でも台湾でも同じようなものを作れるようになったからである
最近では車さえ売れなくなると危機感を抱いている、電気自動車とかになると部品がへり大量の失業者が出ると言われる、基幹産業で輸出ができなくなりますます日本は貧困化して来る

だから今までのような感覚で生活していると借金地獄にもなる
つまりこれまでの生活状態を維持できない、でも維持しようとすると借金になる
そしてさらに苦しむことになる
だから最近若者でミニマリストとかがもてはやされる、なるべく物を買わない、車もいらないといろいろなものをいらない生活を実践する
それは若者でも貯金がないとか貧困化しているからである
そうせざるをえなくなっているからである

ただこれまでの贅沢を維持できなくなる、でも依然として田舎でも一人一台車をもっているとかこれまでの生活をしようとするときどうしても無理が生じて来る
そういうことができなくなる、その時どうするのか?
それが問われることになる、日本は経済成長を目指すべきだとしてもそれもできないとなると貧困であっても生活できる方策が必要になる
その一つが個々に生活するのではなく昔の様な大家族で暮らす方法である
例えば餅でも一人暮らしで一つ焼くのと三つ焼くのでは電気代が一人だと一人分とられるでも三人分を焼けば三分の一でたりるのである

だから実際一人暮らしは本当は贅沢なのである
ただ一人暮らしが増えるという時、売る方にすると一人分をテレビでも電気製品でも何でも買う、すると企業にとっては消費が増えるからいいとはなる
大家族で消費すると何でも一台でまにあうが三人分となり五人分となるとその分の電気製品でも売れるとなるからだ
でも貧困化するとこういうことはぜいたくだとなる
そして今や家族でもプライバシーにうるさくなったりい一緒に暮らしたくないという人も増えている、人間の生活が孤化している、そして孤立化して孤独死とかも増える
これはやはり豊かな時代だからありえた
でも今や貧困化する昔の生活形態を知りそれに習うということ必要になる
三人別々に電器製品でも使い電気ガス水道代を払っているのはぜいたくだとなるからだ

それからみんなそれぞれ別々に電器製品でも買うのではなくみんなで使う、シェアして使う、だから一人車一台もつのは今や贅沢なのである
長屋での共同生活みたいなものにもなる、つまり個々人で個々の家族でも生活することは金がかかるからである
確かにプライバシーは失われるにしてもそれよりそういう生活ができなくなる
それは贅沢なことであり貧困化すればできないのである
ただそういう貧困にあっても依然として今までのようにそれぞさがプライバシーを守り
親子でも一緒に暮らすのを拒否している
もちろんそうして個別化して生活する人もいるしそれが必要な人もいる
でも貧困化したらみんなそんな生活がてきなくなるしなっている

貧乏になったら貧乏に適応した生活にならざるをえないのである
そんなこと嫌だと言って借金してまで贅沢な暮らしをするのは迷惑だとなる
金を貸す方にするとそんなに要求されてもできないとなるからだ
ただまだそこまで深刻に考えていない、でも現実はそうせざるをえないぼと追い詰められている人が相当数いる、毎月電気水道ガス代が払えない人がいる
そういう人たちがどうするのかとなるとミニマリストのような生活を強いられるのであるそれが変人でもなんてもない、そうしなければ生活できなくなっている
ただそこまで追い詰められているのに深刻に考えないのである

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2021年03月01日

金は具体的責任でありカルマとなる (そのカルマは苦しみとなり現象化するー世界恐慌にもなる)


金は具体的責任でありカルマとなる

(そのカルマは苦しみとなり現象化するー世界恐慌にもなる)


武田邦彦】ついに特定!メディアが一切報じないSTAP細胞事件の真犯人が判明しました!
やはり小保方さんは…


武田邦彦氏が小保方さんには責任がないと言っている
その理由は無給だったからだとしている、研究者として無給で参加させていた
だから小保方さんには責任がない、雇った方に責任があるとしている
それで上司の人が自殺したというのはそのことだったのかとなる

何か責任とかカルマとなると金でみるとわかりやすいのである
借金は明らかにカルマとなる、カルマとは何かとなるといろいろあり複雑だからその人のカルマを知ることはむずかしい
でも金から見るとわかりやすいのである、カルマとは借金を背負っていると同じだからである、だからその借金(カルマ)を払うことを強いられるのである

親戚で叔父にあたる人から墓を守ってくれと300万もらった人がいる
私でも叔父になるが交渉はなかった、でも今になるとそんなこと頼まれなくて良かった
墓を守れというけどそれも簡単なようでそうでもない
墓とは何か良くからないからである、そこに何もないとなればない
でも何かあるのかもしれないとかなりわからない
でもいづれ墓を捨てることにはなる、墓を捨てても別に誰も何も言わない

でも墓を守ってくれと言って死んだ人から呪われるかもしれない
「300万墓を守ってくれと頼んだ、あなた守りませんでしたね、私はあなたを呪うでしょう」何かこんなふうになったから怖いとなる
もし半分づつで分けて墓を守ることを自分がしていたらその責任が生じていたのである
だからそんなこと頼まれなくて良かったとなる
ただその頼まれた人は育ての親すら生前に捨てたような人である
だからそういう人がどうして墓を守れるのかとなる
世話になった親すら捨てた、その墓は別にある
いづれにしろそれもカルマとなってその身にりかかる

一見金をもらうことは無条件でいいように見える、でもそれがカルマとなる
ただそういうことを意識しないのである、後でなんらかカルマとなり災いとなる
弁護士に何もしないのに相談するだけで百万を払ったというのもそうである
それは何のとかめられることもない、しかしそれが具体的な金としてもらったことで後でカルマとなって苦しみとなって現れる
金は具体的なカルマとなるからである

原発事故にしても漁業組合の船主などは多額の補償金を事故前からもらっていた
もし金をもらわなかったら責任はないし東電でも政府でも責められる
でも金をもらったことが責任となる責められないのである
事故周辺ではそうして金をもらい恩恵を受けていたから東電を責められないというのもそのためである
ただ事故後に補償金でももらうのは当然だとなり批判はされなかったである

それでドラマでたいした金でもないのに江戸時代のヤクザが殺人に手をかしたとかある
それは金をもらった責任を果たすためにそうなったとなる
そこまでしなくてもいいとなるがそれでもそこまでしなければならないとなるのがカルマだともなる、だから借金を軽く考えるのは疑問なのである

また借金した人はすでに負い目をもっているのだから人を愛すことはできないとしているだから私が介護て苦しんでいる時来た親戚は助けることもできない
借金で苦しんでいるからまず金を要求してくる
負い目をもっているのだからその時点で何も助けることはできないとなる
借金は大きなカルマなのである
そのために自分は苦しめられただけなのである、ただ相手はそのことを意識していない
でも多額の借金で苦しんではいる、たいだい犯罪の動機は借金が多いのである
それがカルマとなって苦しみ犯罪になる
だから借金することはすでに犯罪に近いともなるのである
ただ借金にもいろいろあるから一概には言えないにしろ借金そういうふう怖いものなのである

いづれにしろ金の怖さは具体的なカルマとなるから怖いのである
そして親のカルマが子に残されるという時何か不正であれ子に残された金は得た金はまたカルマとなり子を苦しめる、それが自分にあったと思う
遺産にしてもどうしてその金が残されたかが問題になる
それで金のことで親の介護から死で問題になり苦しんだとなる
だからどうしてもコロナウィルスで苦しんでいる時株が上がりもうけて笑っているという経済の仕組みは必ずカルマとなりそのもうけた金が呪いともなる

つまりそもそも今の資本主義のシステムはもうまともなものではない、だから巨大なカルマとなって恐慌とか起きて破綻する運命になる
国際金融資本家がギャンブルのようにして世界から金を集めている
その金がカルマとなり呪いとなってゆくのである、そのカルマが巨大な重荷となりそれで破綻してゆくのである
金には責任が課せられている、もしそうした巨額な金をもっている人がいたとしたらそれを世界的に有効になるように使わないとカルマとなり呪いとなってゆくのである
だからアメリカは衰退してゆく、世界から過剰に金を集めて豊かになったからである
ただ何かを世界の利益になるものを与えたということもある

そういう責任が大国には覇権国になると課せられている
そのために金が集められるからである、でもそれができないときカルマとなりその国に責任がのしかかりそれが果たせないとその国は衰退してゆく
それがアメリカの超格差社会の現実でありアメリカはもう衰退するほかないとなっているそれは中国でも同じである、覇権国となると世界から金が集まるからである
すると世界的責任が生まれるからだ、それが一部の支配階級のみに金が集まりすぎる格差社会になると中国では必ず革命が起きてきたのである
つまりカルマが積み重なりそれで自壊してきたのである

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2021年02月23日

読めない株の変化ー経済は壊れている (自分で判断できる人が株をやるべき)


読めない株の変化ー経済は壊れている

(自分で判断できる人が株をやるべき)

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なぜ自分自身が株をしておかしくなったのか?

それは銀行の仲介者に営業の人に頼ったからだ

株も投資信託もわからないが地銀の営業の人にまかせた、まためんどうだし時間もないからそうした、それでもともと株は複雑なものでありまたその営業の人を頼った結果としてさらに複雑になり混乱した

最初石油があがるからカナダ国債を買った
実際その頃石油が上がっていて石油がとれる国の株は高くなるとふんでいたのである
でもこれも
急激に石油が急降下したように下がったのである
つまり石油が下がるということを見込めなかった
営業の人は適当にカナダ国債をすすめただけだったのである

次にUS-reitを買った、それがトランプ大統領になったとき急激に円安になりもうかった
その時すぐに売ったからである
でも為替差益がありこれが怖いと言うので日本のJ-REITを買った
これは安全志向でそうなった

でも一番の問題はその時、もっていたリーマンショックで半分になった株が上がって来たのに銀行の営業の人が売ってJ=REITに回したことである
これは一番の失敗だった、その時上がっているのに売ることに疑問だったが説明もなく売ったのである
それ以来銀行の営業の人を信じられなくなった
つまりなぜそうしして銀行では転売するのかというと売ったり買ったりして手数料が入るからである、その手数料金も額が多いと大きなものになる
こうして私の場合は株自体よりそれを仲介した銀行の営業の人に左右されて失敗したとなる

結局株自体複雑で予想できないものでありそれが銀行の仲介が入って余計複雑になり失敗したとなる
だから株はとにかく自分でもうけるにしろ損するにしろ自分で判断できる人がやるべきだとなる、それができる人がやるべきだとなる
だから若い時から株で少額でもいいから訓練していることである
でもまたその時間もかかるからめんどうだからまかせることになる
そこに落とし穴があった、これだけ変化するとなるともはうついていけないのである
さまざまな条件で株は変わるからである、最近その変わり方が激しいのである
確かなことは地銀とかは株の専門家ではない素人と同じである
支店長でも株のことは知らないと言っていたからである

では銀行の営業の人がすべて悪いものかとなるとそうでもない

なぜなら数か月前に株のチャートを見せて上がった時、買わないかと言われた
でもコロナウィルスとかいろいろありその営業の人を信用できなくなったし買わなかったそしてJ-REITを去年の一月に売った、それからコロナウィルスが増えてJ-reitは急激に下がったのである
その判断をしたのは銀行の営業の人が信じられなくなったからである
でも実際は別にその営業の人が悪いというのでもない、そもそも株は自己責任の世界だからである、でもその自己責任になるにしても仲介が入るとその仲介になる人が責任者にもなる、だからその責任を問うことになる、ただ銀行では一切責任はとらない
まず銀行の利益を優先するから転売をしたり銀行の都合で売買するのである

でも素人でもわかるのはチャートである、上り調子の時はやはり上がってゆく
そういう時売るべきではない、だからリーマンショックの株が元にもどして上がった時売るべきではなかったのである
ここから営業の人を信用できなくなったのである
それは株を冷静に見て判断したのではない、銀行のもうけのためにそうしただけだからである
だから自分で判断できない人は株はするべきではないともなる
結局自分の判断なら自分の責任だからである
そこに仲介者が入るとどうしても仲介者が責任にもなる
でも一切銀行では責任はとらないから頼るべきではないとなる

そして株でもうけるには長期的にみろということである、リーマンショックから8年すぎたくらいで元にもどりこんなに上がるとは思わなかったからである
倍にもあがりそのまま株をもっていたら大儲けしていたのである
株でも十年単位くらいで見ているともうかりやすいことである
そうなると若い時から株はしていた方が良いとなる、老人なると株は向いていないのである、つまり先がないから向いていないのである、十年後となると死んでいるかもしれないからである

でも昨今貯金は資産として危険であるということが常に言われる、でも老人は投資する
株でもうけようとすることは危険である
だからといって貯金でももっていても今は不安になる
いろいろ投資があっても理解できないしわからないから貯金しているほかないとなる
そもそもなぜコロナウィルスでこれほど騒いで苦しんでいる人がいるのに株が上がるということがどうしても理解できないからである
その理由は金が余っている、資本主義とは常に投資が必要である、投資先があって発展する、これまではグロ−バル経済が遅れた国でも中国のように巨大な投資先があると発展する、それも行き詰まると投資先がなくなり金が世界的に余ってくる
その金がバブルになる、資本主義はそうしてバブルが崩壊して恐慌になる歴史がある
つまり今は余っただぶついた金が株に回っている、株バブルである
何か特別成長している会社があって投資されているわけではない、政府でもコロナウィルスでも金をつぎこんでいる、それで景気と関係なく金が株に回っているだけだとなる
だから株が暴落すると言われるのである

いづれにしろアメリカは衰退する、金をもつことも巨大なカルマとなる
その金は世界から集めたものであり独占したものである
それを国際金融資本家が一手に集めるとかなる、つまりその金には世界の人々の労苦の賜物なのだがそれが極わずかの人によって独占されている
アメリカの富は数パーセントの人が50パーセントももっているというときそうである
それが巨大なカルマとなってアメリカ自体が衰退してゆくのである
一見金をもつことはいいように見える
ところがその金がカルマとなり悪く作用することがあるのだ
それは自分自身が経験している、なんで金のことでいろいろな問題が生まれ苦しんだからである、たいした金ではないにしろ金をめぐって争うことになる
遺産争いもありまた原発事故では補償金をめぐってこの辺はもめて分断された
それも金が悪く作用したからなのである
つまりアメリカは巨大なカルマを背負って自滅してゆくともなる
中国も同じである、中国の歴代王朝がつぶれたのも必ず貧困に苦しみ格差社会となり農民が主体となり反乱して王朝は倒された歴史がある
つまりやはたここでも大きな格差が生まれそれがカルマとなって王朝が倒れるのである
中国共産党もその歴代の王朝と同じであり倒れる危機になっている
それで社会は70年くらい過ぎると社会に歪が生まれ制度疲労が生まれ時の政権でも倒れる、そういう時期が今なのである

常識的にコロナウィルスでみんな苦しんでいる時なぜ株が上がってもうけているのか?
このこと自体経済が歪んでいる、経済の意味は

「経世済民(けいせいさいみん)」という言葉を聞いたことがある方もいるのではないでしょうか? これは、6世紀ー10世紀頃にいくつか残された中国の古典に記載のある語句で、「世を経めて(治めて)民の苦しみを済う(救う)」という意味があります。

これが経済の意味であるけどそうなっていない、株はそれを反映していない
苦しむ人がいて株で大儲けして笑っている人がいるというのはまさにもう経済そのものが壊れているとなる、だからこそ何か大きな破綻が株の暴落が起きて恐慌が再現されるともなる、そしてその巨大なカルマは苦しとなって現象化するのである
それは個々人でも同じであり社会でも世界情勢でもカルマがかかわっているのである
つまりカルマにより大きな苦しみを受けるのである

中国・習近平が恐れている、米中貿易戦争より「ヤバすぎる現実」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59597

posted by 天華 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年02月16日

チャートは正しかった、株が上昇する時買っていれば良かった (銀行の営業に頼ってしまい失敗)


チャートは正しかった、株が上昇する時買っていれば良かった

(銀行の営業に頼ってしまい失敗)

私は株のことなど全くわからないから銀行の営業の人にまかせた、銀行員だからプロだったと思っていた、本人も東京の証券にかかわり働いていたというから詳しいと思いまかせた
それがそもそも失敗だったのである、その人は株式についてのプロではない
そもそも株は機関投資家のプロでも運営がうまくいかないのである
ギャンブル的なものがあり訳わからないのである

銀行の営業が一番気にしているのは自分のノルマを果たすことである
銀行の利益を上げることである、それが常に頭にあり客をもうけさせることではない
第一に客のことは考えていない、自分のノルマを果たすことと銀行の利益をあげることが第一なのである
でもそのことで客は損するのである

それが象徴的だったのは一旦半分まで下がったリーマンショックの時の株が元にもどしさらにこれだけ上がったことに驚く、その理由がわからない、景気はコロナウィルスで停滞しているしとても株が上がるとは思えない状況だからである
実体経済と離れているからである、だからこんなとき株が上がるとして買う人は普通いないのである

でも確かなことはその営業の人はチャートを常に見せていた
でもそのチャート通りに投資していない、それより自分のノルマと銀行の利益を優先するだからリーマンショックで半分に下がった株を元にもどしチャートで上昇しているとき
それをJ=REITに回したのである

なぜそうしたのか?

チャートでみれば上昇しているのだからそのままにしているのがいい、上昇している時は売らないからだ、ただ営業のノルマを果たすことと銀行の利益を計ることしか頭にないから転売して手数料とるとなる、自分の利益と銀行の利益が優先されるのである
だからその営業の人はチャートを常に見せるがそのチャートに従うわけではなかったのである、もしそのチャートに従っていたら損しなかったしこんなに株が上がっていたら大儲けとなっていたのである
ただ自分のは場合は不安になるから途中で売っていたともなる
たた上り調子の時は売るべきではないことは確かだったのである
それはただ営業の人と銀行の利益を優先するからそうなったのである

その後J-reitはコロナウィルスで急激に下落した、でも損しなかった

それは銀行の営業の人を信じられなくなったからだ!

そのために一月に売って損をまねがれたのである
ところが何カ月か前にその営業の人がチャートをみせて株を買わないと来た
私はコロナウィルスでとても景気が良くなるとは見えなかったら買わなかった
その営業の人も信じられなくなったからだ
つまり自分の場合自分の判断よりその営業の人に頼ったことが失敗だったのである
そうしたらその営業の人の判断ですべて決まってしまうからである
そして営業の人は自分のノルマと銀行の利益を優先するからもうかることは少ないともなる

ただチャートを見せることは正しい方法である、ただ銀行側でも営業ではそのチャートと通りにはしないのである、そこに誤算が生じる
だから銀行の営業マンよりかAIの判断の方が株ではもうけられるともなる
そうした私的なことは機械には働かないからである
銀行をもうけさせようとか自分のノルマを果たすとか機械は考慮しないでただ株の上昇を冷静に計算して答えを出すからである
ただコレかすべてに正解とはならい、常に不測の事態が起きるからAIは万能ではない
でも銀行の営業の人のように私的な都合が働かないので公平だともなる
ただ株はチャートが大事でありそれを見ていると何か間違えない方法だとなる
ただその銀行員はチャート通りにしなかったということである

銀行員の営業には頼るな!

それで判断が誤る、そしてその営業の人を恨んだりするし裁判にもなる
銀行というのが今危機になっているのはメデアとなるもの仲介するものは必要なくなっている
それでマスコミの新聞とかテレビが衰退しているという、銀行も仲介業者であり苦しくなっているという、新聞でもテレビでもまた出版でもメデアは仲介するものだからそうだという

今は別に新聞社に頼まなくても自らインタ−ネットでも発信できる
出版さえアマゾンで電子化すればできる、ただ出版社とか書店ではできない
そういう会社はメデアなのだがこれまでは力をもっていたのである
でもインタ−ネット化して衰退して新聞などは十年後に消失すると言われている

つまり今このメデアを発信する人がもつことは大きな変化なのである
このプログなとほとんど無料である、でも表現がこれだけできるものだと自分自身がかかわって理解した
自らメデアを持つことはそれだけ情報社会にとって大きなことになっていたのだ

だから既存のメデアに頼らずとも自分の創作をプログですら展開できる
それは個々人がメデアを持ったことによるのである、それでこれだけプログで書いてきたのである

投資でも最近わかったことは個々人が物を作ったり売ったりする人に直接投資する
それがインタ−ネットでしている

クラウドファンディングとは、「群衆(クラウド)」と「資金調達(ファンディング)」を組み合わせた造語で、「インターネットを介して不特定多数の人々から少額ずつ資金を調達する」ことを指しています。

資金調達といえば、一般的に金融機関からの借入や関係者・ベンチャーキャピタルによる出資などがあげられます。クラウドファンディングは、そういった資金調達にはない「手軽さ」や「拡散性の高さ」、「テストマーケティングにも使える有用性」といった点が魅力的な新たな資金調達の仕組みとして近年注目されています。

中でも、「こんなモノやサーヒ゛スを作りたい」「世の中の問題をこう解決したい」といったアイデアや想いを持つ人は誰でも“起案者”として発信でき、それに共感し「応援したい」「モノやサービスを試してみたい」と思った人は誰でも“支援者”として支援できる、双方にとっての手軽さがクラウドファンディング最大の特徴といえます。

これが新しい投資なのである、これこそ投資の原点だったともなる
そこに仲介するメデアがないからである、銀行は仲介するメデアだったとなる
みんなから金を集めそこで銀行がその金で投資して利益をだす
でもこれだと直接物を作る売る人に投資できる、これはグロ−バル経済の世界的市場でもない、何か小規模の個々人の人を支援するものである
こういうのが本来の投資だったのかもしれない、そこでは投資する人と物を作り提供する人と直接結びつくからであるこれが新時代の投資形態となりメデアー仲介業者はいらないとなるから銀行は役割を失い危機となっている
でも新しいビジネスモデルを銀行は作れるのか、それができないと銀行はなくなるという危機なのである
これもインタ−ネットで変化したことなのである

そして今銀行は福島銀行もSBI証券に合併させられその配下に入ったように大東銀行も
SBI証券が株を20パーセント近くもっているのは驚きである
だからこそSBI証券と合併してその配下に入ると雑誌で書かれたのである
銀行は新しいビジネスモデルとか投資方法を作らないと瀬う経営はできなくなっている
時代に合わず消えてゆくともなる、何か時代が変わる時それを良く理解できないのである金融でも複雑だから理解できない、自分自身も理解できない、ただインタ−ネットにかかわっていたからそれで全般的に社会をインタ−ネットがかかわり変えられていることを知った、技術の変化は進歩はそれだけ影響が大きいのである

sbidaitobank11.jpg

株主を見ると東北電力が東邦銀行の株主になっているのはいかにも東北らしいとなる
東北では一番大きな会社となるからだ
そして大東銀行の株主が東邦銀行になっている
やはり東邦銀行と大東銀行は合併しやすいとなるのか?

一番の問題はSBI証券がすでに20パーセントの株主になっていることである
だから将来的に大東銀行はSBI証券に買収されてその配下に入る
SBI証券は外資でありそき資金がアメリカに流れるとかその仲介者が竹中平蔵だともしている
ただ金融の仕組みは複雑である、カステデイ日本銀行というのはわかりにくいからである金融が常に陰謀論になるのはこうしう金がどう操作されているのかわからないからである

erekbyecirkle1.jpg

クラウドファンディングの例

走行距離が短いのが問題である、でも50キロだと長いともなる、もっと長いのもある
そうういものが欲しいというときこのように直接インタ−ネットで投資して買うとなる


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