2025年01月16日

経済とは何なのか、人間の問題は総合的なものとして起きる 【政経学部があり政治とも不可分でありその範囲が広すぎる】


経済とは何なのか、人間の問題は総合的なものとして起きる
【政経学部があり政治とも不可分でありその範囲が広すぎる】

●経世済民の意味

経済をどみるか、これもわからない、第一経済学部を自分自身でても何も勉強していないからである。経済という学部の範囲が広すぎるのである。
経済という言葉は、「経世済民(けいせいさいみん)」を略したものです。

経世済民とは、「世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)うこと」という意味です。

「経」には「治める、統治する」、「済民」には民衆を苦しみから救済するという意味があります。
経世済民は中国の古典に出てくる言葉で、世の中をよく治めて人々を苦しみから救うことや、そうした政治のことをいいます。
また経済は英語では「Economy(エコノミー)」と訳されますが、その語源はギリシャ語の「オイコノミア」で、家の家計(家政)を意味していました。
のちに近代になり、Economyに国家を意味する「Political(ポリティカル)」を加えた「Political Economy」という言葉が生まれます。

そもそも経済とは経世済民からきている。民を救うことが語原になっている。また家計からきている。
何か今の資本主義とか社会主義であれそうした大きな思想ではない、ただ経世済民というとき国家的なものであり政治として民を救うものとして経済があった。それは政治の一貫としてもあった
だから政経学部がある。政治として切り離せないものとして経済がある。何故なら日銀があるとしてその金利政策が経済に影響する。だから今度トランプ大統領になる時円高になるという学者もいる。それは経済と政治が密接に結びついているからである。

円高であれ円安であれ自由市場の原理で動くわけではなく政治で動かすことができる、第一グローバル経済など成り立たないのである。なぜなら世界的規模の経済となれば誰もそれを知りうる人はいないからである。アダムスミスの神の手に寄り導かれるなどありえないのである。そこに何かしらの政治的であれ国家的であれ介入してくる、だからトランプ大統領になれば関税が馬鹿高くなるとか操作されることになる。
政治的恣意で変わるのである。

そもそも明らかなことはグローバル経済で得するのは覇権国であるアメリカである。そこに世界の富が集中する。そのアメリカでも極一部の者に富が集中する。

さらに上位1%の超富裕層の所得は、世界の全所得の19%を占め、
成人1人当り年額32万1600ユーロ(約4142万円)を受けとっている

●大陸国家では富は独占された歴史がある

ただ大陸国家では富は必ず一部の者支配者に集中してきた
つまり中国なら国が巨大だから一将なって万骨枯れるとなる

将軍1人がその功績を我が物とすることを言います。 転じて、一人が功績を上げる陰で多くの人が犠牲となっていることの例えとして使用されます

中国の始皇帝は中国を初めて統一したがその墓は巨大な山であり地下まで宮殿を作っていた、つまり死んでも地下に葬られてもそこで贅沢しようとしたのである。酒池肉林の継続ともなる
こうして大陸では凄まじい格差が生まれた、民などは奴隷だったのが真実である。民の字の語原は目をつぶすとあるから怖いとなる。盲目にして民を支配するとなる。その富は奴隷によって築かれたのでありその矛盾も大きいものだった。だからこうした格差は別に昔から人間の歴史が始まってからすでにあったのである。

王の権力は絶大なものでありそこに富が集中した。それは世界的に共通している、ただ日本の天皇は例外なのである。それは大陸の皇帝とかとは成り立ちが違っていたからである。また日本では大陸のような富を産み出せなかったからである。
大陸では共産主義だろうが必ず大きな格差が生まれた。中国でも習近平は帝王であり巨万の富を隠しているという、外国に隠しているという。共産党の幹部も莫大な富を得ているのである
それは平等を目指す共産主義社会主義でも同じだったのである

日本ではそもそもそうした富を産み出せないからそれほど格差がうまれなかっただけである。
グローバル経済の富はアメリカに集中して世界的に巨大な格差が生まれる。なぜなら覇権国だから基軸通貨がドルだからそのドルを刷ればいいとなる。それはただの神でもアメリカが覇権国だから通用する。だからこそアメリカはドルの基軸通貨を維持したいのである、金は必ずロ−マ時代であれ皇帝の顔が彫られている
つまり支配の道具でありだからこそアメリカはドルを基軸通貨としてそれに反対する国を許さないのである。
ロシアとか中国がドルを基軸通貨とさせないと画策すると反対する。あくまでもアメリカの覇権を守りたいからである。

ローマ帝国が東西に分裂して通貨も別々になった 

●政治と経済は不可分―総合的なものとして問題が起きる

経済と政治は不可分なものである。なぜなら不況になると政治も不安定化して暴動が起きたり時の政権も倒れる、中国の経済が停滞してそれで習近平政権が危ういとされるのはそのためである
就職できない若者であふれ失業者であふれると時危険になる
それで支配者は戦々恐々となる。
日本も御上には従順な国民であっても物価高とかになればやはり不満が爆発して自民党でも選挙に負けて維持できなくなる
つまり経済と政治は一体なのである。経世済民というときそれはやはり政治でもあるからそうなる
実際にグローバル経済の自由な市場などありえないのである。

それは覇権国のアメリカによって操作される。ただグローバル経済はアメリカでも富の不平等を産んだ。中西部の工業地帯のはラストベルトとなりその人達の不満がアメリカ・ファーストになったからである。中国への関税を馬鹿高くするとかもそうである
つまりグローバル経済はそもそもを国自体を破壊するから当然そうなる。経済戦争に負ければ国自体が属国にもなる
そうした経済優先でいいのかとなったのがグローバル経済でありそれはアメリカにも影響したということである。

そもそも神の手に導かれる自由な経済市場は成立しない、それはサタンに導かれたとまでなる、世界の富が極わずかな人達に独占される。それが歴史上では継続したとしてそんなことが許されるのかとなる。
モラルなきグローバル経済は崩壊する。資本主義が終わるというときそうなる。何かそれが矛盾して自滅するとなる。それは何かバベルの塔のとうにも思える。アメリカが覇権国ななり世界の富を集める、それは形を変えた帝国主義だとなる
貨幣は人民を支配する道具でありだからこそローマ帝国が東西に分裂したとき貨幣もまた別々の皇帝の顔となった。それが今中国ロシアがアメリカと対立してアメリカの基軸通貨支配から脱することを画策する。つまり経済と政治は不可分なものである

●グローバル経済も公平なものではない

グローバル経済は公平なものではないしそこに政治が介入して操作される。そして経済戦争でも今度は本当の国と国の戦争に発展する。だから政治と経済は一体なのである。専門家の時代は様々な分野に分化したが人間の問題はは不可分にあらゆるものが結びついている。原発事故でも科学技術に政治と経済でも一体のものとして事故が起きた。なぜなら原発は現代の最先端の科学技術でありそこに政治があい国家的なものとして造られたからである。

また経済面から見れば地元に特に零細な漁業者に事故前でも多額の補償金が漁業権が強力な権利のために入って来た。原発とは経済的恩恵が大きいから地元でも誘致したとなる、それが事故で崩壊したのだがその補償金も莫大なものであったのだ
だから毎日十円でも安いものを買うことに苦労している庶民からするとその金のは驚くばりだった。除染でも6兆円なのかかかりそれをゼネコンが請け負ったのである。だから経済の問題として原発はあり政治の問題としてまた科学技術の問題としてあり一体だったのであり別々のものとして事故が起きたわけではないのである。

人間の問題は総合的な問題として起きる。様々な問題があったとしてもそれが必ず総合的な問題として起きる。それを象徴していたのが原発事故だったのである。それが単に科学技術の問題だけではないあらゆることが関係していたのである、政治の問題でもあり経済の問題でもあり科学の問題でもありあらゆることは関係していた。盲点は郷土史とも関係していたことである。
なぜならこの辺で400年前に生波〔津波〕で700人溺死と相馬藩政期に記録されていた。それもわずか二行であり学者の人も津波が来て調べて分かったのである。だから原発事故はこうして理系とか文系でも関係した総合的な問題として解析するものとなった。

ともかく経済というときアダムスミスの経済学が倫理学から始ったというとき人間のモラルとも密接に結びついていたのである。
道徳感情論でモラルに基礎とする経済学だったのである。それは資本主義がウェーバーの修道院で他者への奉仕として始まったというのと似ている、経済はモラルを基礎にして成り立つということでは共通している。だからこそグローバル経済がモラルなき経済というときもはやそれは何なのか返ってホッブスの万民の万民による戦い戦争にもなる、弱肉強食の世界である

資本主義は極わずかの何パーセントかの人が富を独占するシステムである。そこにウェーバーのキリスト教から発した他者を救済する労働などではありえない、むしろ他者を外国でも奴隷にするシステムである。確かに軍事力で従わせないがアメリカは覇権国であり軍事力がその背景にあり金融もドルを基軸通貨として支配できる。つまりアメリカ帝国主義資本主義であり大英帝国の世界支配と似ていたとなる。






posted by 天華 at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年12月29日

労働意欲の減退とモラルの荒廃と高齢化の退廃 【あらゆる分野で人手不足で社会が維持できなくなる】


労働意欲の減退とモラルの荒廃と高齢化の退廃
【あらゆる分野で人手不足で社会が維持できなくなる】

●働く意欲の減退−働くモチベーションがもてない

何か全体的傾向として人間のモラルの低下労働意欲の減退が起きている、ありがとうとかいらっしゃいとかもコンビニとかでも言わない、そういうことをみんな経験している
ただ日本人はこれまでおもてなしとか外国と比べて過剰接待になっていた。外国ではただ売るだけであり日本人のようなサービスをしない。でもそういうことも喪失してきているのかもしれない、その原因が人手不足で雇う人がいないから誰でもいいとなる。それで近くの地元の野菜を売る場で働いたのは77才の同級生はお前は何もしていないから来る必要はないとあからさまに言ったことにが驚いた。

まず客という意識が全くなかった。そんな人がなぜそこにいるのか理解できなかった。その理由が今いたるところで人手不足になって質の悪い人でも雇うほかなくなっている。
第一77才となるとレジとかで働くのは向いていない、なるべくなら若い女性がいい、でもその人手がたりない、それはいろいろな分野で日本全体に起きている現象である、もはや人を選び雇う時代ではない、高齢者でも何でもいいとまでなる。
ただ別にスーパーの女性の対応が悪いとは見えない、でも対応が全般的に悪くなっている。それは確かだろう。

その原因が働くモチベーションが低下している。たいがい時給いくらとかで働くのであり何か金意外の動機がもてないのである
資本主義がキリスト教の修道院から人を助けるために生まれたとかのウエーバーの説がある。そんな動機が今あるのかとなればない、ただ金で雇われる金を得るためありそれしか動機がないだろう、だから働きたくないのだけだ金のため仕方なく働いているというのが多い、そうなる客にしろ丁寧な接客などしないし何か客のためとか会社のためとか地域のためとか働く動機がない、それで普通の会社でも金の為でありそれしか働く動機がない
だから社畜と自ら言いただ仕方なく金のために働く、それが一部なあいいが全体的に働く意欲が減退している

●働くことは自己実現のためWORK【作品】をつくること

高度成長時代はとにかくがむしゃらに働いたのは団地でも住めるとか憧れになっていたりマイホ−ムがもてるだとかみんながいい暮らしをできるということが目に見えていたからがむしゃらに働いた、給料も毎年上がっていたからである。
つまり現代は働く意欲が出ない、賃金は上がらないそれより働く動機が持てないのである。会社のために働くとなってもみんな嫌々ながら金のために仕方ないとして社畜としてがまんする
そうなると社会全体が不満な人ばかりになり精神的にもスモッグのようにもなり空気まで汚れるという感じになる

働くということはただ金のためだけなのか?働くことは実はその人なりの価値を創ることでもある。それが働くことに見い出せないから働く意欲もなくなる、ただ要するに金のために仕方なく働く奴隷だとなる。
例えば昔の大工であれ職人であれ腕一本で生きてゆくと誇りがあった。職人気質とか形成されたのもそのためである。
でも今働くということはただ金のためでありだからあくどく稼ぐ、何か金融関係とかは金を右から左へと流しているだけなのかとなる。何かそこにモラルが働かないから精神的に荒廃するともなる。

本当は働くとはWORKすることであり作品という意味もあるから自分の作品を作ることである。それが自己実現なのである。
だから人間が働くことはすべて金のためではなくその人なりの自己実現なのである。
だからその働くことは誰かのためというのでもなく自己実現のためでありただ金がいくらで雇われるのとは違うのである
とにかく働く動機がもてないということも現代の問題である
それが問題なのは老人になるとわかるが何をしてきたのかもわからない語らない老人がいる、ということはその人の人生はなんだったのだろうとなる。

一芸に秀でるとかもない、何等か人間は職人でも一芸に秀でるよううなっていた。それは工場内でも確かにあっても個人としては現代は自己実現はむずかしい。
私の場合は俳句短歌詩など追求して来た、でもそれで一文にもならなかった。返って金を使うだけだった、旅をしていたからである。でも振り返らば自分の自己実現のためだったのである
別に会社に勤めそこで自己実現はない社畜として終わることはその人の人生は何だったのかとなる。

●老人が尊敬されないのなぜかー自己実現のため働かなかった

そして深刻なのは確かに意にそむいて会社で働いて老人になった時それなりに金を残してもその人の自己実現が何かあったのかとなる。何も語れないとか何をしてきたのかとかもおわからない
もし職人として励んで来たら私が作ったものを見てください、私が精魂込めて作ったものです、長年の修練で作ったものですとして見せて語ることになる、そいうものがないとしたら金は残してもその人生は何だったのだろうとなる。

ただ現代はその人の意にそぐわずに金のために強制的に働かせられる。そして老人になり何も語ることがないとしたらその人の人生は何だったのだろうとなる。
金融関係は金を残しても何かそれで誇るものがるのかとなるとないかもしれない、金を手にしてもその人の残したもの語れるも何もない、そして人格的にもモラル的に人間として有意義なものとして形成されなかった。

現代の老人は何か尊敬できるような人がいるのか、何か歪んでいる。それはやはり働いてきたしても金のためであり意にそぐわないものでありそれで人格まで歪めてしまったともなる
正直老人が老人だけで誰も尊敬などしない、何故なら老人が多すぎるからである。そのなかで自己実現した人一芸に秀でた人は極めて少ないとなる。そういう人が多ければ社会全体がどんよりとしたものになり空気まで汚れた感じになる
金銭的問題だけでなく精神的問題としても高齢社会化がある
ただ老人の問題はすでに若い時から始まっていたのである
なぜなら人生は連続したものである若い時があり若い時のことが老人になっても影響する、老人になったからと言って急に変質して何か尊敬される人などなれないからである。

そして老人になったらもはやその人を変えることは不可能である
偏屈な老人とかになり迷惑老人となりそういう老人が周りにひしめくようになったときどうなるのか、まるで精神病院にもなる。
異様な老人であふれる。それは障害者の施設に入る感覚にもなる
何かそれがもはや現実化しているかもしれないだから精神衛生上も悪い、社会全体に影響して社会自体が老化してゆく

テレビでローマ帝国が滅んだのは水道などのインフラを修理できなくなったからだという説を言っていた
つまりインフラでも老化する、でも修理することもできなくなり滅んだというのもわかる
社会全体が老化してゆくことの怖さである。現実にインフラが道路でも橋でもトンネルでも修理できずに通行できなくなる
何かそもそも別に外国が攻めてこなくて日本は内部崩壊してゆく
国自体人手不足でも維持できなくなる、その人でも相当にローマの水道のように劣化しているのである。
だからどうしても明るい未来をイメージできないのである。

●未来の労働はロボットがしてみんなアーテストなる?

これからの社会は機械的な単純な仕事は機械化してロボットがするようになる。つまりレジでも自動化したようにまたロボットでも高機能化して肉体労働もこなす、すると人手不足も補える
もともとロボットがするような仕事に生きがいを感じない
私自身が流れ作業とか肉体労働とかしたことないので仕事しなくなったからである。これからの人はそうした仕事はロボットはして人間は自己実現の労働をする、それは遊びに見えても自己実現の労働であり社畜の労働とは違う、生きがいを持てるから生き生きとしてやる。だからみんなアーテストなれということもわかる。自らのwork〔作品〕を作るための労働だからである

未来はどうなるかわからない、たいがい意外なものとなっているからである。私自身は旅ばかりしてもそこで地理に地名に興味をもったとか詩歌を追求して来たとかなりそれが実りとなっているからである。それはまさに自己実現だったのである
ただそれは家族に恵まれた結果でありだから私は家族が死んでも感謝して供養しているのである。
posted by 天華 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年12月07日

貸金庫の金を銀行員が盗んた 【野村証券会社員が顧客の金を奪い殺人】


貸金庫の金を銀行員が盗んた
【野村証券会社員が顧客の金を奪い殺人】

bankcraisisu.jpg

三菱UFJ銀行貸金庫10数億円以上の重大窃盗!
オールドメディアが報道しない理由】昔3億円事件で日本中が大騒ぎ!
今回は10数億円


この事件は今年7月、野村証券の社員だった男が広島市内の顧客の住宅から約1800万円を奪ったうえ、放火し、住人の女性を殺害しようとした罪で起訴されたものです


銀行が何なのか理解できない、別に利子がついている時は銀行が何なのかなど問わない、でも今になると利子がつかないし何のために預けているのかわからない、それで銀行員と証券会社の人が来て投資信託をすすめられる、それで損したとなる
銀行は証券会社なのかとも思うようになった。
銀行はそもそもどうしてもうけているのか?
それが利子もつかないとなるとわからなくなる。

銀行は貸金庫ではないか?

金を安全に保管してくれる場所ではないか
私がそう思ったのは現実に金をたまたま家に置いていたら本当に盗まれたからである
その人はここに前から住んでいた人ではない、でも遠くない所である

その人は【金をくれ】と家に来た、それで多少手伝いして緊急入院して家を空にしていた時家捜しされて大金を盗まれた
そもそも私はそんな人がいると思わなかったのである
金をくれと言って本当に屋探ししたのである。その人は今でも近く会うがなんにも反省などしない、悪びれもしない、そんな人が近くにいる驚きである。

野村証券の会社員が顧客から金を盗んだとかもありこれは何なんだろうとなる。もはや根本的なところで人間のモラルが崩壊しているのではないか、何かそうなると誰も信用できなくなる
確かにその人はずっと金で苦しんできた人である
だから金を盗むことに抵抗がなかった。でも金をくれと来て本当に屋探して盗むとは思わなかった

それだけ今の世は金だけしか見ていない、人が苦しんでいるからこの際金をとるチャンスだとしかならないのである
一人は事業に失敗したからその人も同じだった。今の人は金のことしか考えないのである。私が苦しんでいることに何ら考慮することはなかったのである。

そして金の切れ目が縁の切れ目となり終わった

何か今は人間のモラルとか日本人の良さとかも喪失している。日本人がアメリカ人になったというときすべてが金になってしまったのである。だから犯罪も増えて殺伐としたものとなる。
もう末世でありそこでは犯罪が横行する。それは銀行とか証券会社とかで犯罪が行われることでもわかる、そこは一番信用が必要なと所だからである。
銀行が既得権者の一つということはなかなか理解しにくい
銀行の役割とは何なのか理解しにくい、今までなら利子がついているから考えることもなかった。
私は銀行は貸金庫ではないかとも思った
だって利子もつかないとしたら何のために金をあずけているのかとなる。その貸金庫も銀行員が盗んでいたというのだから何を信用したらいいのかとなる。

つまり今起きていることはモラルの全般的崩壊なのである。金さえ得ればいいとしかない社会である。それは銀行員ならいつも金の計算しているのだからそうなる。金がこんなにあるのに私はたいして金をもらっていないと不満になり盗むとなる
つまり銀行員とか証券会社員は金しか見ていないのである

例えば農民なら果物でも野菜でも実ればそれが労働の成であり収穫する時喜びがある。でも銀行員の労働の喜びは何なのかとなる
医者なら患者を直った時喜びがある、物を作る人はいいものを作れば喜びがある、大工なら家を修理するとか家を建てることで充実感がある、何か金融関係にはそいうことがない、それで銀行員がやめて農業を始めた人もいる
意外と金融関係で働いた人は老人になった時語ることも何か仕事を成し遂げたということまなく空っぽにもなっているかもしれない、金融関係の仕事は私はこういうことしてきましたとか語れないのである。だから老人ななって自分がしてきたことを語れないのかもいしれない。ただ金は儲けている人が多いのである

でもその人は最後に何も語れない。その人生はただ金を右から左へ流すだけのものであり何か充実した実りがないとなる。
だから銀行であれ証券会社員であれ仕事としてはいいものに思えないのである。その仕事でも何も残らないとなってしまう
ただ何か成果があるものとして主張できるものもある。
それは見えない、大東銀行でもカードで支払いして不正を見抜いたのである。それで警告してくれカードの番号を変えた

だから銀行金融業で一番大事なのは信用であった!

その信用も失われたときその存在意義もなくなる。現実に銀行でも前のようにもうけられない。銀行自体がそれで成り立たなくなっていることも原因している、とにかく銀行でも信用がなくなったら終わりだとなる

それにしても野村證券の人は顧客の金を奪い殺すとなると何なのだろうとなる、世も末だだとなる。それは社会全体に起きているモラルの消失から起きる、盗むのがいいとなりそこに悪びれることもない、特に日本でも貧困化してくるとますます金を奪えばいいとしかなくなる怖い社会になる

posted by 天華 at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年11月03日

何が得か損かわからない 【不正をして繁盛するのかー損して得をしろの意味】


何が得か損かわからない
【不正をして繁盛するのかー損して得をしろの意味】

●損得勘定だけで成り立たない商売や社会

人間の習性として誰でも損したくない、そしてまで商売したくない、そもそも損していたら商売自体成り立たないからである
だから誰でもともかく利益を得ようと必死になる。
でもカルト教団とかでは宗教でも異常なほど御利益を説く、得するから信心に励めと狂気のように祈っているのである。
だから不思議なのは王宮に住んでいた釈迦が乞食ともなり修行したのかとなる。これほど損なことはないからである。
カルト教団になると絶対に損になるようなことはしない、すべて計算ずくで御利益になることだけを考えている、御利益になるとか信心に励めとなる、だからこそあれだけ数が増えたのである
それが個々人でもそうであり会社とか団体でもそうである。
みんな利益を追求しているのだからそうなる、誰も損して何かをやる人はいないし会社でもそうである。

だから銀行でも

投資御信託は絶対に損しないから奨める

何であれ客は損したら客の損であり銀行は絶対に損しない
手数料は確実に入り銀行は損することはないのである
損するの客であり銀行は絶対に損しない、でも客が預金したものを投資する時がやはり大きな損をすることがある
だから投資信託は銀行では絶対に損しない商品なのである。
これは何か不公平ではないか、別に投資が悪いというのではない
でも人から預かった金で投資させてその手数料で稼ぐ、実際は銀行はそもそも株のことなど素人だから証券会社に預金している人紹介するだけだとなる。ただ確実に客が損しても銀行は損しないからいい商売だとなり奨めるのである
もしかしたらそれは詐欺とにっているかもしれない。

●宗教は最大の詐欺になりやすい

カルト教団でも異常なほど信じれば拝めば後利益がありますよ説く、だから布施をしなさいとなり莫大な金を集める。
そのことが理解できないのである。宗教はそうして金を集めることができる。何ら苦労もないとなる。農民でも大工でも土木作業員でも汗水たらして酷暑のなかで働き死ぬ人もいる
でも銀行員とか何か公務員とか士業といわれるものは何か損悪路もないとも見る、それは政治家にも言える、裏金のように労せずして多額の金が入って来るとかなる
それで反発されたのである。宗教とかを職業にしている人は何か胡散臭いとなる。していることはただ拝んでいるだけではないかともなるからである。だからパウロはテントを作り職人として稼いで布教していたのである

でも今のカルト教団は布教のためにまず莫大な金を集める、それは御利益が得られるからだと説いている
これも巨大な詐欺ではないか?そもそもなぜそんなことが堂々と成り立ち巨額の金がカルト教団に集まり消費されるのかとなる。
その金を払う人も御布施する人ひたすら御利益を得たいために払っているのである。魚心あれば水心ありとなる
でも金にシビアな人間がそんなに金を払う貢ぐことを理解できないのである。
だからそんなことこの世で成り立つのかとなる。それで創価公明は衰退して消滅してゆくのが当然だとなる。そもそもそんな宗教団体が成り立つこと自体が異常だった。

宗教だと別に資金もいらない、紙一枚の御本尊を大量にすればいいいけだとなる、それを拝めば後利益があるとなる
だからそもそも資本はかからないのである。何か事業を起こすにしてもその負担は大きい、でも宗教の場合紙切れ一枚すればいいとなるから坊主まるもうけとかなっていたのである
何の苦労無くてももうかるということである

●損して得をせよもまた真理

人はともかく絶対に損しないと見がまえている。損になることは箱一つでも運ぶのを嫌がる、ただではしたくないということである、はたしてそういうことで逆に成功するのかとなる
もちろん無料でやれというのではない、損になることは一切しないとなっていたらそもそもが商売でも繁盛するのかとなる

いずれにしろ宗教が商売になるようになったらどうなるのか、そういう団体は維持できなくなる。会社でもただ利益だけを追求していたら成り立たなくなる、一切利益にならないことはしないとなったら何でも繁盛するのかとなる
だからカルト教団とか銀行であれ会社であれ何らか実際は利益だけではなく人にサービスして助けるということがあっって成り立つ、結果として繁盛するとなる。不正して繁盛することはない
だから商売でも経済でも正義が関係しているとなる。不正に儲けて巨利をえているとなるとそうした会社であれ国でも成り立たないだろう。いつか崩壊する。資本主義でも強欲資本主義となり極一部の人に莫大な富が集まることは格差社会は自壊してゆくとなる

ともかく損して得せよということま人間社会では格言として残されている、そうした諺とかは別に難しい哲学とかではなく人間がかわらないから高度な科学技術社会でも活きているのである
その人は技術者としては優秀であり事業を始めた、でもそ人は何か他人のために尽くすとかではない、頭がいいから自分の優れているところを見せたいからだともなっていた
だからその人は他人の為に箱一つも持ちたくないとなっていたのである。それで事業に失敗したのかもしれない、ただ詳しいこてわからない。その人は損なこと絶対にしないとなっていた

こういうことは普通にある。例えば電器量販店でその店で買ったものでないものをパソコンの使い方を教えてくれと言ったら教えてくれたのである。それは簡単なことでもパソコンだとわからないからである。それは利益にならないのである
確かにそこの電器量販店では結構買い物はしている、でもそこで買わないもの教えないのが普通である。でも教えてもらったころで恩義を感じたのである、その結果として通販で安いものがあったが多少高くてその店で買ったとなる。通販は売るだけであり他のサービスはしないからでわる。
普通はみんな絶対に損しないと身構えて商売している、だからその店で買わない者に教える必要がないとなるのが普通であり責められないのである。

損して得をせよ

これもまた一面の真理なのである。そこでその店で買わないのその操作を教えてくれたということで恩義を感じたからである。
それが見返りがないようで後で見返りがあるともなる。それはわからないにしても損したようでも得になることは確かにある

●無料では何もしない問題と通販はアフターサービスがない

人はともかく絶対に損しないと見がまえている。損になることは箱一つでも運ぶのを嫌がる、ただではしたくないということである、はたしてそういうことで逆に成功するのかとなる
もちろん無料でやれというのではない、損になることは一切しないとなっていたらそもそもが商売でも繁盛するのかとなる

いずれにしろ宗教が商売になるようになったらどうなるのか、そういう団体は維持できなくなる。会社でもただ利益だけを追求していたら成り立たなくなる、一切利益にならないことはしないとなったら何でも繁盛するのかとなる

だからカルト教団とか銀行であれ会社であれ何らか実際は利益だけではなく人にサービスして助けるということがあっって成り立つ、結果として繁盛するとなる。不正して繁盛することはない
だから商売でも経済でも正義が関係しているとなる。不正に儲けて巨利をえているとなるとそうした会社であれ国でも成り立たないだろう。いつか崩壊する。資本主義でも強欲資本主義となり極一部の人に莫大な富が集まることは格差社会は自壊してゆくとなる

2 「三方よし」とは?
3 近江商人の商売十訓
3.商売は世の為、人の為の奉仕にして、利益はその当然の報酬なり
3.売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる


今は通販の時代だけど

売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる

これが欠けているの問題なのである、そのために買えないということがある。ただどうしても私自身でも安いから買うのである
でも自転車だけは後の修理があるから通販では買いにくいのが問題なのである。でも通販で買えないものが多いからどうにもならないともなる








posted by 天華 at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年10月19日

なぜ起きたカンボジアの虐殺ー中国の文化大革命も同じ】 【知識人が憎まれた理由ーAI化でかわる労働

なぜ起きたカンボジアの虐殺ー中国の文化大革命も同じ】
【知識人が憎まれた理由ーAI化でかわる労働

●毛沢東の文化革命、カンボジアの200百万虐殺の恐怖

960年代半ばでは、ポル・ポトは、カンボジアを強大なクメール王朝の「神話的な過去」に戻し、外国援助と西洋文化のような不健全な影響を根絶して、農村社会主義を復元するといった目標に沿って、マルクス・レーニン主義における自らの思想をカンボジアの状況に適合するように再構築した

クメール・ルージュ政権は頻繁に、専門家、知識人、仏教僧侶、少数民族だけでなく、カンボジアの旧政権や外国とつながっているという疑いで誰も彼も逮捕して処刑した。型にはまったように、眼鏡をかけたり複数の言語を話したりといった特徴で知識人と見なされれば、クメール・ルージュに反抗するおそれがあるとして処刑された[71]。、ビジネスリーダー、ジャーナリスト、学生、医師、法律家に加えて、それまでのカンボジアの軍、政治指導部の粛清につながった

医者や教師、公務員などの人たちは問答無用で知識人の対象として扱われましたが、そのほかにも以下のような理由だけで、連行の対象になったそうです。しかも家族ごと。

都会に住んでいる
メガネをかけている
自営業を営んでいる

毛沢東思想でも文化大革命でも同じようなことが起きた。今なら中国でも都市戸籍をもている人と農民は持てないので差別がある
農民中心のしゃかいだったらならなかったのである。

文化大革命とは、毛沢東と彼を支持する学生たちが起こした共産主義革命である。毛沢東の継続革命論に感化された知識層の学生らは紅衛兵と称して暴力的な革命を試みた。
毛沢東に扇動された紅衛兵は毛沢東の政敵である共産党の幹部、役人・教師、地主や親までも弾圧の対象となり、犠牲者20万人から50万人とされ、被害者は1億人に上ると言われている。なお、文化大革命の後、紅衛兵の学生らは、下放と称して辺境の農村部に強制移民させられた

また知識層を信用していなかった毛沢東は、下放と呼ばれる知識青年の再教育制度を行った。下放により、毛沢東を熱烈に支持した2000万人を超える青年たちが辺境の地に赴き、慣れない手つきで農作業に従事した。絶望的な貧困に直面し、毛沢東の死後、1000万人が、都会へ逃げ帰ったと言われている。

何故こういうことが起きたのか、その時代は農民中心社会であり額に汗して働いている人が多数だった時代である。
そこでは知識人とか

ビジネスリーダー、ジャーナリスト、学生、医師、法律家に加えて、それまでのカンボジアの軍、政治指導部の粛清につながった

こういう人達が粛清された。医者も入っていることに驚く、こういう人達は知識人でもあり楽しているとみなされた。つまり農民からみればそう見えるからである。だから国を支えているのは農民であり知識人は楽していると見られたのである。医者は別にそうでなくても特権階級にみられたのかもしれない、このことが何か特殊なことに見えるが今でも現場で働く人たちと事務とか設計しているとかの仕事に分かれる

設計している人達は冷房にきいた室内で仕事しているが建設現場で働く人は炎天下でもはたらくとか過酷だからである。
農民も外で働くから老人が畑で熱中症で死んだとかある、建設現場でも危険であり事故で死ぬのが多いのである
だからこういう対立は今でもある。

●現場労働者の苦労から知識人の排斥

大工さんというのも現場仕事であり高い所で仕事することがあり危険である。だからその人は私に向かって本を捨てろとか何とか知識人であることに憎悪していた。お前は本ばかり読んで文を書いたとしても楽だと見られたのである
別に古代から知識人が時に為政者に憎まれたことあがある。

始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって体制を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬・卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。

ここでは医薬はのぞかれている。農業させるために下放されたというのも毛沢東思想であり今の習近平首相もそうなのである。
トルストイでも手を見てその人を判断した、農民として仕事している人の手とそうでない事務仕事と化している人の手は違っているとして判断した。

トルストイによれば、ロシアは農民の国からわざわざプロレタリアの国に変わる必要はないこと。彼が最も道徳的で正しいと考えたのは、どの国においても農民の生活だった

ロシアと中国も農民が多数であり当然そうなった。マルクス主義はその農民社会に適合したのである。その後の工業社会ではない、土地を基盤とした農業社会に適合して革命になった
毛沢東革命も農民社会があり農民を基盤にしていた社会だから起きたのである。

丘や聞きく、国くにを有たもち家いえを有たもつ者ものは、寡すくなきを患うれえずして均ひとしからざるを患うれう。貧まずしきを患うれえずして安やすからざるを患うれう、と

均ひとしければ貧まずしきこと無なし

こういう思想はもともとあった。ただ共産主義国家は等しく貧しくなり豊かになれなかったのである。金融資本主義になったとき反発される、ただ数字をそうさして莫大な富が一部の人にはいるからだる。

●労働の機械化ロボット化AI化で起きること

いずれにしろ危険な重労働から人間は解放されるのか、労働というカルマから解放されるのか、それがAIとかで返って知能労働者が不用になってくるというのも何なのだろうとなる。
むしろ肉体労働であれエッセンシャルワーカーは代わりになれない、それでも自動運転とかロボットが改良されれば現場の仕事も肩代わりする。すると別に現場で働く人も知識階級とかを楽なものとして恨むことがなくなる。
実際なぜニートとかこれほど多いのか、それは社会に余裕があり家族でも養っているからである。
私自身にしても家事を全部してプログでも書けるのは全部機械化しているからである。
なぜなら戦前であれ戦後十年くらいは電器製品がないから家事だけでも重労働になる。それで私の母が東京で女中していたように女中を裕福でなくても雇っていたのである

だから機械化ロボット化AI化で人間は嫌な労働から解放される
その時知識人でも現場で働く人から責められることもなくなる
ただ労働自体はなくならない、人間にとって負荷が大きい肉体労働はなくなる。それが理想となる。そうなれば知識人でも現場で働く人から責められないからである。
そして人間は何をするのか遊戯をする人間になるかもしれない、
遊ぶという価値が増大する、何かAIとかでもそれはコンピューターが成すのであり人間は何もしないとなる。
つまり人間の出番がなくなる。それも不思議な世界である。

絵や詩までAIが作るとしたら人間の価値は何なのかとなる
ただその時現場で働く人も機械化ロボット化するときブルーカラーの人の知識人とか事務員とかトルストイとか毛沢東の思想のようなものは消失する。
ただSF的なものとなるがそこにもやはり矛盾が生まれ人間の問題は解決しないのである。仕事がなくなれば金だけではない生きがいとして仕事を与えてくれともなるからである。

●人間は金でなく仕事そのものをしたい人がするのが理想

そもそも金にならなくても人間は生きがいを求めるから仕事は必要なのである。それは強制されたものではなく自主的に仕事するものとなる。・
そもそもに天職についている人などどれくらいいるのだろうか。金のために働いているのはほとんどではないか、せいぜい1割がいればいい方だろう。もしその人の天職があれば金を払っても仕事する
ソローが森の生活をしたのは金のために働くことしたくなかったからである。
だからこそ機械がロボットが代わりに仕事すればいいとなる。

自分自身も流れ作業とか建設現場の危険な仕事しかなかった。
大学を出ても旅と学問とか芸術とか追求して終わるとなる。そこで金をもらったことはないのである。あとは教師のまねごとをしたがそれも失敗だった。
つまり人間は本当に天職についている人がどれだけいるのかとなる。医者でも親が医者になるとかでなるとかその人の適性を考慮しないからである。
ただ正直何が適正なのかわかりにくいのである。

ソローが言ったようにほとんどが強制されて金のために仕事している。すべての仕事の成果は金で計られるのである。
あなたは立派な仕事しましたとかその価値を認める人はなかなかない。リホームした大工さんは立派な仕事したから認めている
その人の天職だったのかとなる。実際は天職についている人がどれくらいいるのか、これだけ仕事が多様化したとき個々の仕事が見えないのである。

だから現代では仕事についている人はかえって部品のように見える。人間が巨大な複雑な社会の一部品となり卑小化されるのである。その部門でいくら優秀でも巨大な社会の一部品になっているからである。
それでニーチェのような超人志向になったりヘンリーミラーとか上野霄里(しょうり)氏の原生人間とか何か全人間をトータルに生きるエネルギーに満ちた天才だとなる

何か人間でも無数の細胞がありその一つの細胞を見ているだけだとなる。何か共産党では党員は細胞というときもそうである。
創価とかカルト教団でもそこはただ一票とみられるだけであり後は何もない、一人など一票でしかないのである。無数の大衆を相手にして大衆を操作するためにある、ファシズムになるのが現代なのである。

●機械がAIが主役で人間が補助役になる

ともかくAIというものでも絵画を詩すら作るのに驚く、でも何か自分で創造した感じがない、だから達成感みたいなものが生まれないのである。コンピューターの価値は高くなるけど人間の価値は低下してくるのである。
それで奇妙なのは田植えでも機械で今しているがそれでも端のほうが全体でできないところがありそれは手で植えている。
中国でも膨大な麦を刈り取るがそれでも地形的にコンバインでできないところを前々から出稼ぎに来ていた人がコンバインでできないところを刈り取っているのである。

だからいくら機械化されても人間のすることはある。それでも何か機械の補助役となり主役でなくなる
それはAIの知的仕事でもそうなりつつある。人間は補助役であり主役はコンピューターになる。だからどうしても何か自分で工夫して自分の才能で作ったという感覚がもてないのである。

コンピューターが人間の頭脳化するときどうなるのか、
これはSF的なものとなる。人間はいらないとまでなる。多くの人は特に知的な事務員とか医療関係でも人がいらなくなる。
まずyoutubeはインターネットは学びの場である。それはインターネットはもともとパソコン通信から始まったから対話的なのである、マスコミはマスを大衆を相手にするがインターネットは個々人を相手にして対話的なのである。
だからヤホーニュースの解説でも私自身が答えることができる、他のyoutubeでも答えることができるメデアなのである。
マスコミはそれができないのである。ただ大衆洗脳装置となっていたのである。




posted by 天華 at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年10月03日

中古品が価値がある理由‐紙幣は紙屑になる理由 【空家空地も活用する人がいれば価値がある】

中古品が価値がある理由‐紙幣は紙屑になる理由
【空家空地も活用する人がいれば価値がある】

●カメラ、レンズは中古品でも売れる

価値あるものとは何なのか?価値あるものは現物であり物にある。商品にある。それでカメラのレンズが二万とかで買ったものが一万で売れた。すでにそのレンズで撮ったものがあり使っているから元は取っているともなる。それがまた一万で売れたから儲けものだとなる。
その実質の値段は価値は二万で買ったから三万になっているのである。別にそのレンズは古いにしても普通に使える。レンズは種類が多い、だから古いものでもいいものがある。
中古のレンズ市場やカメラ市場は成り立つのである。
それは中古の車市場でも同じである。100万で買っても50万で売れれば元はとれるとなる。なぜなら使ったということですでに元はとれているからである

でも物でも食料などは食べれば終わりであり価値は消失するのである。でもカメラであれレンズであれ中古でも価値があり売れることがある。外国だと家は中古でも売れる。つまりその家に長く住んですでにその元は取っている。その家の値段が中古で半分になってもすでに元はとれているのである。

●土地でも使用して活かす者の方が価値があった

でも金は紙幣はそうした価値を生まない、ただ投資したりして金を増やさない限り増えないのである。金に紙幣自体には価値がないからである。本当の価値は物にありその物が価値をうむ
だから今中古品が売れているというときそれはカメラでもレンズでも車でも使うことができるからである。
物でも商品でもそれは人に使われる時価値を持つ、使われなかったらいくら価値あるものでも価値ないとなる。それで空家空地が増えているけどそれも使われなけれ価値がないのである。

だから前に地主がいて小作がいたというとき小作は土地を借りて
作物を作り出していた。その労働も苦しいものだった
それが戦後は地主制度は廃止されて土地は小作のものになったというのもむしろ土地でも活用する使うものがその土地の所有者だとなったからである。つまり土地だけを持って貸して労働もせず収穫を得ることは不平等だったからである。
だから今は土地でも耕作放棄が膨大になっている。それを活用してくれる方がその土地の所有者だともなる。空家でもそうである誰かが住んでくれれば使用されればその空家も活きてくる
だから今は極端に安い値段で古い農家でも土地でも手に入る時代である。つまり使用する方に価値がある時代になる。

●なぜ金本位制になっていたのか―黄金の価値は衰えない

なぜ金とか紙幣に価値を感じられないのか、紙幣をいくらみていても紙でしかないからである。でも小判とか金貨だったら本当価値あるものを手にしていると感じたのである。
江戸時代だったら小判は金だから小判自体に価値を感じたのである。金であれば別に貨幣にしなくても金自体に価値があるからである。だからもともと貨幣は金本位制だったのである。
紙幣でも金と交換できるということで価値があった
だから盛んに日本の紙幣でも紙屑になるとか言われるは実際に紙幣をいくら持っていても紙でしかないとなるからである。
実際の価値は物にあるからそうなる。

レンズでもカメラでもそのもの自体の価値がありAからBからCへと譲渡されると2万のものが何倍にもなっているのである。
その物自体に価値がありその価値が消失しないからそうなる
金の場合紙幣の場合常に価値が変動してゼロになる。紙屑になることもありえる。円安になれば日本の紙幣は価値が半分とになりゼロにもなりうるのである。
ただ価値は常に変動している。でも不思議なのは黄金の価値は多少変化あっても変動しないから金は不変的な価値を持っている
それで金本位制だったのである。

●戦後預金封鎖があり貯金が紙幣の価値がゼロになった

ともかく紙幣自体には価値がないということで不安になることがわかる。でも小判のように黄金を積んでいればその価値が減退することもないし消失することもない、それでいくら貯金があってもそれはただ紙幣の場合安心がないのである。
現実に戦争が終わった時預金封鎖があり私の母親は東京の人と結婚して夫が工場の事故で死んだ、その時一生生活に困らないと言われた金をもらった、でもその金はゼロになり故郷で買っていたわずかの土地だけが遺産として残ったのである、それでもその土地の方が価値あるものとなっていたのである。

このように金は紙幣は紙切れになることは他の国でもある日本の経済が落ち込めばそうなるから怖いのである。
要するにそもそもこの世は無常の世界だというとき常に変わる世界でありいくら貯金があっても安心は得られないのである
常に変動する世界であり価値も変わってくるからである。

posted by 天華 at 10:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年09月22日

日本人が勤勉になったのは明治以降 【二宮尊徳の像は勤勉の模範として各地に作られた】

日本人が勤勉になったのは明治以降

【二宮尊徳の像は勤勉の模範として各地に作られた】

●家族という言葉は明治以降に作られたもの

江戸時代から明治になった時の変化は大きかった。誤解しているのは家族を大事にしろとか家族中心の社会形成は上からの命令で押し付けられたものであり江戸時代からあったわけではない、第一庶民に姓がなかったのだから家族としてのまとまりがあったのかとなる。

夫婦墓が個人墓がああっても姓を中心にした家族墓はなかったのである。つまり‥家の墓がなかったのである。だから今から考えると不思議になる。村人は墓がなく村の共同墓地の仏方(ホトッケポ)に埋葬されたのである。
家族墓が生まれたのは天皇制とも関係していた。天皇とは日本人を家族としてみて親になるからである。赤子とは天皇のなることである。だから明治以降の家族は上からの命令で日本の国家形成の一貫として成されたものである。それは政治的なものとして造られた。ただ家族は人間が存在したときからある。

でも見今のような家族とは違ったものである。なぜなら家族という概念は広いからである。ファミリーというときヨーロッパでは教会に集まる人達がファミリーになる。今のような小家族核家族のようなものではない。日本だったら村くらいの単位が家族にもなる。だから今ある家族という言葉でも明治以降に作られたものであり新しいものなのである。
このことを頭に置いておかないと根本的なことがわからなくなる。

●日本人が勤勉になったのは明治以降であった

禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響は、それだけではない。禁欲的プロテスタンティズムは、「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出した。つまり、金儲けに正当性を与えたのである。

交渉は 日がな一日 ゆっくりあわてず
「すぐに」が一週間のことをさす
独特の のんびり、のん気な日本流
時計の動きは てんでんばらばら
報時の響はそろわない

詠み人は明らかになっていませんが、タイトルもずばり、「大ざっぱな時間の国」とされています。この他にも、明治期、多くの外国人が日本を訪れ、日本人の「怠惰さ」についての印象を言葉として残していきました(西本2006、2001橋本,栗山)。

「日本人は勤勉」説は本当か──二宮尊徳と勤勉革命の歴史
1970%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%8B%E3%82%8920

何か江戸時代から日本人は勤勉だと思っている。これも明治以降にヨーロッパ文明が入って来た時日本人は時間でも寺の鐘で時間を知るとか地域が違うと鐘が鳴る時間は違っっているとか時間の観念が曖昧だったのである。時計などもないし明治になってもカレンダーもなく時間にルーズだったのである

日本人が勤勉だというのは明治以降に政治的に上からの命令でつくられたものだったのである。学校ができたこともそこで時間を決めて勉強するとかでもそうである。汽車を走らせるにしても時間を明確にする必要があった。

つまり文明とは資本主義とは時は金なりとなったのは明治以降であり江戸時代には時間がおおざっぱであり時計もないのだから正確に計りようがなかったのである。お日様が上れば明るくなれば働く日が沈み暗くなれば仕事はやめるとになる原始的生活だったともなる

1903年(明治36年)
大阪で初めて日めくりカレンダーが製造された

カレンダーができたのは明治30年であり日めくりカレンダーだった。戦後子供の時も日めくりカレンダーだったのである。
日めくりカレンダーとなると先の見通しができない、計画もできない、その日その日を知るだけだとなり計画性が育まれなかったとなる。

ともかく誤解しているのは明治以降作られたものが江戸時代から継続されたものだと錯覚していることである
二宮尊徳の像があらゆるところに建てられたのも寸暇を惜しん働くことを勉強することを奨励するためだったのである。

●大正生まれの母はなぜ異常なほど勤勉だったのか

母の一生は働き詰めの一生だった。それは性格的に真面目であったからでもあるが貧乏で働かざるをえないということもあった。
だから花などいらないと無駄だとして庭に豆を植えるとかなった。花より食べるものを優先したのは貧乏の経験がありそうなった。でも裕福になってからも働かされたこともあるが働きずめだったのである。原町紡績で十年糸取りで働き次は東京に出て女中だったのである、その後私の家に嫁いでも店を始めてからも暇なく働いていた働かせられていたのである。
何か楽しむこともなくただ働くばかりの一生だったのである

これは私の母だけでなく大正生まれとか戦前でも戦後でも日本人は勤勉だったのである。それは強いられた側面があった。
そんなになぜ働くのかとなるからである。それは貧乏で強いられた面もあった。なぜならヨーロッパに追いつけということで国家が総力で働けとなっていたからである。富国強兵のために上から強いられていたこともあったのである。
つまり明治以降はヨーロッパに習い追いつくためにそうなったのである。何かイギリスに留学した人が英語ができないと自殺したとかもある。それだけ必死になってヨーロッパに先進国に追いつくためにそうなったのである。その時代は国家総動員のようになり個々人のことは無視されて国家が優先されたのである。

●戦後焼け野原からなぜ高度成長を成し遂げたのか

戦後なぜ焼け野原から高度成長を成し遂げたのか、それはやはりアメリカの援助があり電器製品が売れたというのも日本が優れているというよりただ幸運もあった。
なぜなら韓国が日本に追いつきまた中国でも日本に追いつき追い越すとまでなったからである。つまり国というのは先進国があればそれに習い必死に努力する。日本はまず先進国になり次に韓国が中国が発展したのである。
何か戦後復興でも何とか復興しようと必死になっていた。そういう必死さがあり高度成長時代があった。

ただそれもジャパンアズナンバーワンと言われそれで奢りが生まれた。何かそうなると明治のようによりに追いつくという必死さが消失した。日本はすでにヨーロッパよりアメリカより優れているとなり傲慢になったのである。
だから日本が貧困化しているのはなぜだろうとなる。何か必死になって戦後でも復興しようとかない、日本はすでに先進国であり欧米を見習うことではないとかなり傲慢になった
でもその時韓国でも中国でも必死になり追いつこうとしていて日本より発展したのである。その時日本は失われた30年となってしまった。ITでも遅れたのである。
何か日本全体で向上精神が消失した。

とにかく明治維新の時はヨーロッパに追いつこうと国全体で必死であった。戦後は焼け野原になってこの時も必死になり働き復興したのである。そうなったのは余りにも変化が大きいからそうなった。そういう時はみんな必死になる。その意気込みが違っていたのである。
日本は今だらだらと衰退してゆく。それは明治時代の意気ごみ戦後の焼け野原からの復興の意気込みがないからである。
なにかだらだらと衰退してゆく、イギリス病が言われたが日本病が言われるようになったのである。
ただ文明全体が行きずまり資本主義が極端な格差社会になりモラルなき経済となったときグローバルに行きずまり衰退現象が起きている。今また中国がすでに衰退して日本と同じ運命をたどっているのもそうである。何か一つの限界点が来ている
変換点が来ている。そもそもグローバル化でも無限の成長は望めないことである。それは環境を自然を破壊してこの辺の原発事故住めなくなるからである。

posted by 天華 at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年09月06日

愛なき情なき荒野化した社会 【金がすべてであり心通わない社会】


愛なき情なき荒野化した社会
【金がすべてであり心通わない社会】

anolovesystemjpeg.jpg

【愛なきシステム増殖!高齢者=切捨て説明拒否→カスハラ】愛なき世界には、
暗黒の未来が待っている!必要なくなると切捨て!高齢者はウバ捨て!

●同世代で共感する

なぜ加治将一氏に共感するのかそれはやはり同世代ということである。同じ年だから何か経験したことが共通しているからである。ただ若い時から自主性があることに驚く、だから資質は相当に違っている

何か戦後まもなくの社会と今は相当に変化してしまった。戦前でも戦後まもなくは貧乏でも日本人的なもの情がある社会だった
だからその頃を振り返り今貧乏な人は物がなくてもわずかなものでも互いに醤油でも食べ物でも互いにもらうことがよく合ったとかなつかしがる。

つまり貧乏でも互いに助け合うということがあった。そういうことが全くなくなった。だからこそおにぎり食いたいと言って餓死した人が出てくる、何も隣近所に今日食べるものがないからくださいといえば与える人がいたかもしれない、
そんなことも言えないし金のないやつは怠けてそうなっているのだとかしかみない。

●資本主義社会は弱肉強食であり情なき社会となった

そして何か資本主義社会の人間はとにかく自分より上か下かに異常こだわる。それは才能でもなんでも俺はお前より豊かでありいい家をもっているとかいい家に住んでいるとかいい車をもっているとかで競争してマウントしてくる。
ここで弱者は無視される、それは自己責任であり怠けていてそうなったとか同情することはない。熾烈な競争社会になっている
自己責任者になっている。

それは別に団塊の世代でも受験戦争があり競争社会になっていたことは変わりないのである。つまり資本主義社会とは敗者に弱者に厳しい社会なのである。だから極端な格差社会になる。
勝ったものが富を総取りするとかなる。ただ資本主義が修道院から生まれたマックスウエバーが言うように不思議なのはキリスト教精神で弱者を助けるものとして発生したという論理がある
でも今はまるでそんなものはない弱肉強食の資本主義である
そのアンチテーゼとして反発としてマルクスの平等を追求する共産主義が生まれたのである、ただこれも失敗であった。余りにも極端化して中国の文化革命であれカンボジアで200万人も粛清されて死んだとかなる

●情なき愛なき荒野化した社会

ともかく現代は総じて人間は情なき愛なき荒野化した。それは特殊な現象ではなく現代人間に共通している、かといって昔がすべていいということではない、やはり悪い人とは必ずいるからである。問題は社会全般をみるとき戦前までは情があった社会だっとも見る。特に近くの農家の女性は正直であり嘘をつかないし情があった。でもそれは例外的である。かえって私の家族はその人を馬鹿にしていたのである。だからなぜ介護になり私が苦しんだのかとなればそうして金があっても他者にやはり冷たかったからだともなる

今の人間は総じて弱肉強食の世界で生きて来たから情というのが枯渇した。すべてが金で計られる社会である。だからこそ私の母を介護している時親戚の女性が【おばちゃんは金でめんどうみてもらい】と去って行ったのである。ただそれはそんな関係でしかないこともあり一概には責められない、でも全般的にすべてが金で計られ社会になっていることは確かである

それで私の家で介護になりそこに来たのは泥棒であり事業に失敗して借金している人であり金に困窮しているから思いやる心は全くもてない、要する金を奪う金をとればいいしかない人達だった
弱者化したときチャンスとなり大金は盗まれる金を要求されるだけだった、同情は一切なかったのである

●物を通じて心が通わない社会

そしてつくづく思うことは現代の社会から情は消失した。デジタル社会化すればますます人間の心は通わないとなる。だから商売にしても対面的でないから相手を思いやる心などない、それでカスハラになる。そもそもが現代とは心と心が通じなくなった社会である。例えば物があるとして何か相手を気づかって売るのとただ金になればいいとして売るのとは違っている
それでヤクルトとなると対面販売にしたのはただ物を売るというのではなくそこに思いやりがあり体を大切にしてくださいとか言われるとうれしいのである。でも別な対面販売店でがそういうことはなくただ冷たくされたからそうなれば買いたくないとなる。

つまり現代は物を売るにしてもその物と心は分離しているのである。でも物は憑くとかあり物には心が憑くともなるから人間と物とはもともと分離していないのである。
仏教でいう色心不二という思想も色(もの)と心が一体となる思想ななのである、ただ物を売るのでなく心をこめて売ると心が通うとなる。それは何でそうである。医者でも体を見るだけでなくその人全体を心も診るというこが必要である。

いずれにろ物に対しても心が通わない、そして人間はただ金を得る為の手段のようになったのが現代である。
第一地球の裏側から物が食料品でも運ばれてもそこに心が通うとはありえないのである。グローバル経済とは物と心が分離していくら貿易があっても肝心の心は通はないのである。


posted by 天華 at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年08月31日

1度の失敗やつまずきでおしまい 【通販の配達の苦労―人間は何でも経験しないと実感できない】


1度の失敗やつまずきでおしまい

【通販の配達の苦労―人間は何でも経験しないと実感できない】

「辞めたらマンション管理人に戻るか、ハローワークでよく勧められた介護。さもなくば求人倍率が高い警備ぐらいしか行くところがない。それでも今よりはましかなって思うんです」

「1度の失敗やつまずきでおしまい。これが本当のことですよ」

特別な資格や特技のない人間は、ひたすら長時間労働するか賃金の低い仕事に甘んじるしかない。こんな社会に希望があるのかと思う。
ハンドルを握るのが怖い…約3年間「1日12時間労働」を続ける月収34万円・53歳宅配ドライバーの悲痛な叫び

●1度の失敗やつまずきでおしまい

人生は長いから失敗して何度でも挑戦すればいい。でもそうはなっていない。大概人生を20代で決まるという時もそうであるそれで大卒で大企業に入るか中小企業に入るかな大きな問題になる中小企業に入ればその後給料にも差がありずっと格差は続いてゆくだからこそ最初最初の就活は大事になってくる
またたとえ大企業に入って入ったとしても20代でやめればその後は簡単にいい会社就職できない、一生不利なところでで働かざるを得ないのである。私自身がそうだった。大学を出ても就職もしないで底辺をさ迷っていたとなる。つまりまともな所で働けないということである。それが一生続くのである。
20代で正規のルートを外れると一生はずれたままになることが怖いのである。20代ニートとかになるとその時は一時期に過ぎないと思っていてもたちまち時間は過ぎて一生ニートとなり引きこもりになる。

昔は大工になるには親方について修行せねばならなかった。でも18才になったら親方は弟子にしなかった。すでに修行するには遅くなっていたのである。だから何かスキルを身に着けるにしろ若い時していないとできない。だから若い時が大事になる。
特別な資格や特技のない人間は底辺になり一生苦労することになる。

つまり人間は20代で決まる、それは何でも20代で方向が決まる。右左と分かれ道があったとして一緒にそこまで道連れになってもそこで分かれ後は一生合わないのである。つまり人生はあそこでこの道を来たのは間違っていたから引き返すことはできなくなる。20代でその方向は決まる。だからカルト宗教2世は子供の時から将来の進路まで決められていることが怖いのである
その一つの方向しか見えないし選択できないからである。

●チャンスは一回、引き返すことのできない人生

この道を来たのは間違っていたとして引き返すことができなくなる。人間に与えられた時間は短いからである。人生失敗したらやり直せばいいとはならない。そんなにやり直す時間が人間には与えられていないのである。
それで若い時に神を知れというのもそうである。若い時求道して神を知らなければその機会を逃すとしたら怖いことである。神でもいつでも知ることができる。むしろ老人になってから知るべきものだと見ているが老人になって悟ることはできるが神を知ることは難しい。ということは神を知るチャンスを逃したということは恐ろしいともなる。

1度の失敗やつまずきでおしまい、チャンスも一度だけだとなる。チャンスは何度もないのである。結婚にしても女性なら30ぐらいまでにしていないとその容姿も魅力がなくなりおばあちさんとかとか言われてしまう
し男なら40にもなれば白髪がでてきておっさんになる、それが早いのである。

確かに人間は向き不向きがあることは確かである。でも職業にしてもそもそも経験してみなければわからないのである。ではその職業でも経験できることは極めて限られたものになる。いろいろな職業があったとしても経験できるのはごく限られたものである。そして何でも経験しないとわからないのである。
だからこそその人を採用する時どんなことを経験したのか職歴をみることになる。それはやはりその人がどんな経験をしたかをみるのである。まず職歴もなくニートとか引きこもりになると採用もされないとなる。

私でも職歴がないから採用されない、だから社会から外れた人間となった。ただ自分の場合は家族に恵まれて自分の好きなことを追求できたのである。そして底辺で働いたことも無駄ではなかった、私は一人っ子であり甘やかされて育ったからである。
若い時は買ってでも苦労しろというとき私はそれを実践したのである。

●何事経験しないとわからない

いずれにしろ人間を作るのは経験である経験しない限り実感として理解できないからである例えば先生になるにしても実際に生徒を前にして教壇に立つ経験がしないと先生にはなれない。それは先生だけではないあらゆる現場で実際に経験しない限り理解することが不可能なのである。地理を知るしても実際にその場に行くとかしないといくら地図を見てもわからないのである。
だから外国でも留学とかの経験は大きい。それは実感としてささいなことでも知ることで理解を深めるからである。
だから15年もアメリカでビジネスした経験は凄いと思う
実地にアメリカ人とビジネスで渡り合うことの経験が凄いとなる
その経験から日本を批判するから訴えるのである、もし私のように外国について本ばかり読んでいて外国を語るとし何か頓珍漢になっていたのである。でも50代あからバックパッカーになり世界を回ったことで一応表面的でも外国を語ることができるようになった。人間は何でも経験なのである、山を登らない人は山を知ることができない、確かに遠くから眺めることで知るがやはり実際に上ると山の厳しさを実感するのである。

だから人間は何事経験であり経験しない者はいくら本を読んでも分らないのである。聖書を読んでも苦しみ悲しむ経験をしない者は理解できない、学者のように聖書を研究してもわからないのである。むしろ実人生で経験した者は別に聖書を読まなくても信仰の何か大事なことを理解して信者にもなる。だからいくら教会に行っても実人生で経験することが大事なのである。人間は実人生から経験から学ぶ。実人生こそ人間を教えるのである。

医者にしても学校で学んでも実際に患者を診る経験をしなければ医者のことはわからないのである。例えば手術がうまい人は場数を踏んだ人だとなる。手術回数が多い人が手術はその経験に比例して上手だから手術した回数を知ればいい医者なのか見分けがつくがつくかそうでないかわかるないとなる。それが目安となるのである。必ずしも何大学が出たから手術が上手だとはならないのである。でもいくら手術が上手でも最初はうまくいかない、だから研修生とかに手術されるのは怖いとなる。実験台にされるとなるからである。でも経験を積まない限り上手な医者にはなれないのである。

●通販でも配達する人の苦労は知らない

ともかく通販で配達している人必死に働いているが給料も少なく保証もないから厳しい、でも配達する人に特別感謝したりもしない、それが現実である、大工さんは私は家を直してくれたことで感謝した。それは家に来て自分のこといろいろ言うし苦労を言うから強制されたともなる、普通配達する人に感謝などしない、その事情なども分からないのである。ただ配達する人も大変だなと知る。なぜなら私は結構通販で買っているからである
でも配達する人のことなど考えないのである。ただ一つの者でも配達されることはそれなりに人間が関わり苦労があること知る

だからと言って配達する人に多くの金を支払うわけでもない、要するに配達する人は数をこなさない限りやっていけないということである、ある人に配達して二倍の料金をもらえるなどないからである。ともかく働くことには常に何らかの苦労があり危険もある、配達するだけで交通事故の危険が増すというのもそうである
そういう事情ももし自分が配達する仕事をアルバイトでもいいいからしてみると実感するとなる、そのい経験がないから無頓着ななのである。
posted by 天華 at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年08月06日

実体経済が良くならない限り株はあがらない 【今回の株の暴落には政府が関与してとめた】

実体経済が良くならない限り株はあがらない
【今回の株の暴落には政府が関与してとめた】

kajikabu.jpg

【政官財パニック!株価大暴落を食い止めろ!】日経平均株価-4450円!史上最大の
暴落で激震!無論、株価暴落時の対策はシミュレーション済み【加治将一】

株はわからないけどここがわかりやすい,加治氏の強みビジネスでも投資でも経験していることが他の人と違うのである。
だから前から警告していた。ニーサとか危険だと言っていた。
また銀行でも証券会社に個人情報を流していいとなった。証券会社になったのも銀行である。それでリーマンショックからもとに株を戻ったとき勝手に銀行では説明もなく強引に売ってしまったのである。
それ以来銀行を信用できなくなったのである。

加治氏はなぜ投資にニーサに誘導しているのかというとそれは政府の魂胆があってのことだという。個人の資産が日本では巨額でありその金を投資に回せば景気良くなるとしてNHKとか日経新聞を使い投資に誘導させる。

いずれにしろ日本はオワコンだというとき今の資本主義もおわこんになると言っている。つまり世界的に行きずまってしまっている、もはや成長は望めないのである。だから株が上がったとしても見せかけでありヘッジファンドとかが操作している。
実体経済から株が上がっているのではなく故意に操作して上がったり下がったりしている。高度成長時代なら実体経済が反映して株が上がっていたのである。
投資が心理だというとき何か突然今回のように暴落にパニックになるのはそのためである。全員が心理的にそうなり株が一気に下がったとなる。

とにかくグローバル経済の中心がアメリカのウォール街でありそこで巨万の富を得る人たちがいる。そんな経済は公平なものではない、だからなんらかでこうしたシステムは世界的に崩壊する
それはアメリカ内部でも矛盾をかかえているから内戦状態にあるとなり内部から崩壊してゆく、ドル基軸通貨が終わりつつある。
世界情勢も変化してアメリカが世界を治めることはもはやできない。そのために株の暴落であれ地域紛争であれ不穏な状態になり一触即発の危険な状態になっている

そのため株の暴落でも起こりその不安な心理が株に影響する。
つまり心理的パニックに落ち入る危険がある。そいう世界の大変化の兆候として株であれ戦争であれ起きているし起こるとなる。
問題は日本とかだと実体経済が良くならないのだから株の乱高下になり不安定になる。でも日本の実体経済が良くならない限りいくら株を上げようとしても円高でも基本的にできないともなる
つまり問題は実体経済でありそれが良くならない限り安定はないのである。
posted by 天華 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

実体経済から離れたグローバル金融資本主義の問題 【巨万の富が極一部のウオール街の人達に収奪される―4000円日本の株の暴落】

実体経済から離れたグローバル金融資本主義の問題

【巨万の富が極一部のウオール街の人達に収奪される―4000円日本の株の暴落】

●実体経済の時代ー石高が現物が指標だった時代

経済というとき何かというともともとは実体経済でありであり金融とかの中心となる経済ではない。例えば江戸時代ならその経済の指標は米のとれる石高で決まる。全国に藩がありその石高で経済力が具体的に見える。相馬藩なら6万石でありそれで藩の規模がわかる。

家禄(かろく)が与えられる家には米を生産できる領地の統治権が、土地の値打ちを玄米の生産量で表す石高をもとに支給されます。対して、土地を持たない武士や個人に俸禄が与えられる場合は、現物の米が支給されていました。

江戸時代には薄給の武士をさげすむ「さんぴん侍」という言葉がありました。これは俸禄が3両1扶持(ふち)米だったことに由来します。

江戸時代の武士の給与って?

このように給料でも現物支給支給であるそれが米だったのである。もともと現物支給という時ローマ帝国で兵士に塩を提供していたからサラリーとなった。それは塩の意味であり現物支給でもあった。

英語のサラリー(salary)はラテン語のサラーリウム(salarium)に由来する。そしてこの salarium の語源は sal すなわち「塩」である。このことに疑いの余地はまったくない。

これも問題があるでしろやはり現物支給があったことは確かだろう。ただそれでも米が日本で侍に支給されたとしてもまたそれを貨幣に変えていたし塩でも貨幣に変えていたのである
つまり米だけをもらっても必ず他の物を買う必要がありそうなった。ただ現物から考えるとわかりやすいのである。
いずれにしろ何か現物だと具体的になりわかりやすいのである。
もともとの価値はすべて現物にありだから経済でもわかりやすいものとして庶民でも理解していたとなる。

●地元でも農業でも漁業でも関心がなくなった理由

何か近くの農家がこの辺で水不足に成なりスイカが割れた嘆いている。それがもし戦前でも特に江戸時代とかなれば他から入って来ないのだから深刻な問題になる。つまり他から食糧でも入って来なかったらどうなるのか?飢饉になってしまうのである
だからそこに住んでいる人は常にその土地で食料は得られなければ危険になってしまう。だからより身近なものとして見ていたのである。例えば漁業でもしけるというとき実は漁師から生まれた言葉なのである

 風雨が強く、海が荒れる。また、海が荒れて不漁になる。「海が−しける」
金回りが悪くなる。けちけちする。「当節はどこもしけた話ばかりだ

つまり魚とれないことは回りでもしける不景気になることである。それはその土地に住んでいれば身近に感じていたからそうなった。現代になればいくらでも食料でも外国からでも入ってくる。するとそうしてスイカが割れて取れないという時別にスーパーに行けばいくらでもスイカは売っているとなり身近なことに関心を持たなくなるのである。
それで浪江町が原発事故で避難区域になったの周りの農地は草ぼうぼうになったのそれにも関心がなかったのである。返って補償金もらったから良かったとまで言っているのである。
つまりその人はもともと農業にしても地元のことにして実際の給料は東電とかに働いてもらっているから無関心になっていたのである。他の人でも会社に勤めているのはほとんどであり農業の占める割合は全体の1割にも満たないぬである。だから意外と田舎に住んでいても農業のことを知らない関心もも持たないとなるのである

●実体経済から遊離して金融資本主義で巨利を得る人達

一番関心を持っているのはグローバル経済になれば株式市況である。そこでいくら上がったとか下がったとか円高になった円安になったとかが最大の関心事になるのである。でもそれは実体経済と離れていてとてもその巨大な天文学的規模の経済を知り得ることは不可能であるくれだからそこに陰謀論が生まれ実際アメリカのウォール街が金融支配して操作していることは確かである

ウォール街のゴールドマンサックスとかか巨大な金融関係の会社が巨額の利益を引いている。何百億という給料でももらっている人がいるくれないそれは金融の操作でそうなるのでありそんなことができるということ自体が不平等であり異常なことだよある。そしてアメリカの政治というのは実はその金融関係の人たちによって牛耳られているというときそういう人たちは金を持っているから政治家お金で動かして支配をできるのである。

あたかも世界市場公正に取引しているようでも実際はそうしたいごく一部の人に巨万の富が得られている。それで必ず陰謀論になってしまうのである。それは経済の規模がグローバル化されれとてもわからないからそうなる。つまりわからないということは
そこで不正に巨利を得てもわからないとなる。
グローバル化経済になれば余計にそうなるのである。

だからなぜ突然株が日本で4000円も下落したのかとなる。その原因は何なのか?それも実体経済と実際は連動してるようでも金融関係者がウオール街の人達がヘッジファウンドが操作しているのではないかとなる陰謀論になるのである。
それはグローバル経済というのが規模が大きすぎて誰もわからないからだとなる。それで突然大暴落は起きる。でもその大暴落にしてウォール街の金融業者がヘッジファンドの人たちが操作しているのかとなる。そこに現在のグローバル経済の闇がある

どうして闇になるかというとそれが明確に見えないものであり見ることもできないからそうなってしまうのである。そこで操作されて労せずして巨万の富を得る人たちがいるということである。
アメリカでも実は極わずかのウオール街の人達が巨万の富を得て
あとの大多数は貧困化している。中西部の製造業はグローバル化で工場でも中国とか移転して衰退したからである。それでその不満が大きくなりトランプが出てきたとなる、民主党はウオール街と一体だからである。

●日本で不景気なのになぜ株だけ上がったのかまた円安になったのか

いずれにしろなぜ景気が良くないのに株が上がったのだろうとかまた160円とかの円安になったのだろうか、突然4000円も株が下がると何なんだろうとなる。それは必ずしも実体経済から起きたことではなく金融資本主義から起きた金融の操作によってなっている部分も大きいことは確かである。株でも実際は操作されるものであり公平な市場の操作市場の操作で起きてくるものでもないだからそもそも素人でもなぜ日本で景気が悪いのに株が上がっていたということ理解できなかったからである。
また3000円と日本株があがったことでも何かヘッジファウンドが操作しているのかとなる。そんなに乱高下するのは変だからである。その乱高下で儲ける人がいるからだともなる

それは日本の政府は貯金しても利子がつかないからニーサなどで株式投資を進めてその金を巻き上げるためだという人もいる。そして日本のゆうちょうでも農林中金でも年金のお金でもアメリカがそれを狙って奪うためにそうしているともいう。アメリカがそれができるのがアメリ日本は戦争に負けて実質的にはアメリカの植民地になったのだからそれも当然だとなってしまうのである。つまり株式でもグローバル化するときそれは巨大な賭博場になったのかもしれない。そこで儲けるは一部の金曜関係者でありその人たちは胴元であり何であれその胴元に金は入ってくるのである

それができるのはアメリカがアメリカ帝国主義がありアメリカはドルを基軸通貨として世界を支配しているということであったでもそれも中国とかロシアとかBRICSの台頭で危うくなっているのである。
つまりもうドルが基軸通貨でなくなるときアメリカの世界支配も終焉するのである。必ず基軸通貨というのは政治情勢で変わるのでローマ帝国でも東西に分裂したとき貨幣も変わってしまったから東西で別々になり変わってしまったからである。
つまり貨幣というのは紙幣でも支配の道具であり公正なものではないのである。だからこそロシアでも中国でもドルを使わないようになるとかなるのである。なぜならドルを使うということはアメリカの支配下に入るということである

でもアメリカ帝国主義の内部分裂とかで衰退して終わりつつあるそういう変革期にありさまざまなことが世界で起きてくるウクライナ戦争もそうであるイスラエルの戦争もそうでありイランでスハマスの指導者が殺されたということそのためである。アメリカもトランプのようにアメリカファーストである世界のことにかかわる力も失っているのである。それよりアメリカは内戦が起きるとかその内部から崩壊しつつあるともなる。だから日本でもアメリカ一辺倒になっていることは危険なのである。
posted by 天華 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年06月29日

グローバル経済がもたらした歪み 【円安で国産経済にシフトせざるをえなくなる―ナショナリスト化】


グローバル経済がもたらした歪み

【円安で国産経済にシフトせざるをえなくなる―ナショナリスト化】

●グローバル経済の終わり

これからの日本の社会がどうなるのか?

グローバル経済というのは成り立たなくなるかもしれない。アメリカでもグローバル経済の中心であってもそこに歪みが生まれてアメリカファーストへ転換した。つまりアメリカの製造業は外国製品が入ってきて成り立たなくなったとかあるあるそれで失業者が増えたりする。一軒グローバル経済でわアメリカは中心となり一番利益を上げているとみえるはそれでもアメリカでもひずみが生まれている。

グローバル経済世界の市場化というのは無理だったのだと思う。なぜならそもそも地球の裏側から食料品が入ってきたとしてもそれは何かゆがみをもたらす。もともと食料は自国で自給自足は基本としてあるべき姿である。地球の裏側から食料品を輸入するということ自体が何か不自然なのである。

でも昨今の円安を見るときもはや日本では食糧でも何でも輸入できなくなる。それで牛肉豚肉でも国産のものをと値段が変わらなくなって国産が売れるとなる。つまりグローバル経済というのは何か外国に売るものがあるときはいいのである。でも一旦外国に売る物がなくなるときその影響は大きなものとなる

高度成長時代は日本の電器製品などが売れたので好景気になったのである。それが失われた30年とか今や日本経済はグローバル経済の中で競争に敗れて外国に売るものもなくじり貧になってゆく
そもそも国内経済を中心にまわるのは自然の理に適っている。外国から何でも輸入して成り立つという国はありえないのである。

だからグローバル経済というのは行き詰まっている。やはり自国で取れるものは自国で取り利用するというのは自然の理である。
だから木材にしても日本にこれだけ森があるの利用しないというのはおかしなことなのである。外材がいくら利用するにはいいにしてもこれだけ円安になれば国内より高くなるからである。もし木材でも国産にすれば日本の山村でも経済的に復活するかもしれない。今は森など山など無用のものとしてただソーラーパネルとか風力発電になるというのを何かおかしいのである

●グローバル経済の歪みが顕著になった

つまりグローバル経済というものは何か売るものがあるときはいいものなのである。日本のように一旦技術競争にも敗れて売る物がなくなったとき食料も外国に頼っていれば外国から買うこともできなくなる ほかの国では食料自給力は高い日本だけが食料自給力が相当に低い。だから円安になれば外国産のものが買えなくなり日本は飢饉になるともいわれる

おそらくグローバル経済というのは世界的に歪みをもたらしたのである。確かにあらゆることはいい面と悪い面が出てくる。だからグローバル経済を全て悪いものはできない。でも自然の理から考えるとき食料などは自国でなるべく自給しなければ飢饉にもなってしまう。
それぞれの国は自国優先でありそうな時外国には輸出しないからである。またグローバル経済で円安になると日本の土地であれ資源であれ安いとなり外国人に買われてしまう。そうなると日本は戦争しなくても外国人に占領されてしまう。一部の北海道のニセコなどがまるで外国の領地のようになってなったことでもわかる

そしてそして売る物がなくなる時グローバル経済では観光が売るものとなそして日本人は旅すらできなくなる。外国人の相手の商売とした方が儲かるからである
これはグローバル経済になったとき世界的に起きてきたことである。東南アジアである中国であれ物価が日本の1/10くらいの時があった。そういう時日本人は上客となりみんなフリーターとか貧乏人でも外国旅行していたのである。
それが今や欧米などはもはや旅行できない。また中国などでも経済発展が著しく物価も上がったから簡単に旅行できない。だから円高の時は若い貧乏人でも外国旅行ができるという恩恵があったが今やそれもない。だから今の若者は不幸だと思う。ただ時代時代に幸不幸がありそれはどうにもならない。
団塊の世代は戦争に負けて焼け野原から始まったが戦後10年くらいは貧乏だったがはい高度成長時代になり平均的に国民は豊かになったのである。だから戦争で死んだ人たちは損だったとなる、でも時代時代で必ずこうした損得は生まれているのである

●国内経済復帰に向かう

これからグローバル経済のもたらした歪みが是正されてくるのかもしれない。アメリカはその中心になっていたとアメリカ時代でも全て良いものとして働かなかったのである。外国から安いものはいくらでも入ってくればアメリカ国内の製造業で成り立たなくなそこで失業者が生まれてアメリカ経済の不安定になるのである。それでトランプはそうした失業者が生まれた地帯の救済を訴えてそれに同調する人が多いということは意外とグローバル経済に対してアメリカ自体が拒否反応出していたということである。

グローバル経済というのは勝者が独り占めするというシステムかもしれない。技術競争でも現代のITでもまたAIでもその技術競争に勝った者がGAFAのように独占となり富を独り占めするようになる。つまりその会社の使用するために金を払うとなる。
つまり技術競争に敗れるとき勝った国は富を独占し負けたものは悲惨なものとなる。 一種の戦争でもあり技術競争に敗れればその国は他国に占領されるとまでなる。現実に戦争しなくてもグローバル経済ではそうなりやすい。だからアメリカですらトランプ大統領になったら関税を高くするというときアメリカ自体が経済が成り立たなくなるからそうするのである

それはEVでも中国産は世界を席巻するときどうなるのか。日本のトヨタなどの車産業成り立たなくなる。その時日本はどうなるのかやはりアメリカのように製造業は打撃を受けて悲惨な結果になる。経済技術競争に負ければ戦争はしなくても従属国となり奴隷化されるともなる。
結局日本の国土すら外国に買われてもはや自分の国する守れなくもない。なぜならその土地を外国人がどのように利用するのかそれはその外国人の意のままになってしまう。それはすでに戦争をしなくても日本は外国に占領されると同じなのである。そのことは中国の巨大化で現実化しつつあるのである

アメリカですらグローバリストとナショナリスト戦いがトランプはナショナリストなのである。国内経済を優先させるのである
またナショナリストというときそれは経済的な面ではなくその国の文化を大切にする維持するという側面も大きいのである。なぜなら国というのはそもそもその地理とか風土とか歴史とかあて不可分に結びついて形成されたからである。だから魏志倭人伝に日本には馬や羊がいないという時日本では海に囲まれたであり漁労民族でありそうなっていた。だからこそ大陸とはそもそも違ったものとして文化でも作られてきたのである。第一大陸のように馬がどこまでも疾走するような土地はなかったということもある

●グローバル経済は自然の理に合わなかった

ともかくグローバル化というのは一見公平でありいいものに見える。でも自然の理に合わないことが矛盾をもたらす。別に貿易を否定するわけではない、貿易がベネチアでは食料が入って来て飢饉にならなかったとかもある。だから貿易をすべて否定して鎖国にすべきだとは言わない。ただ公平な世界市場など成り立たない
アメリカですらグローバル経済の勝者でも国内で歪みをもたらしたからである。
だからグローバル経済とか資本主義は行き詰まり終焉しつつある。何でも自然の理を無視して世界は成り立たない。それぞれの国で食糧でも自給するのは自然の理だからである。食料まで外国から輸入して頼っていたら何かあれば円安にもなって外国産が買いなくなるからである。

だからこれからは経済でも日本国内の生産でまかなう国内にあるもの利用するほか生き残る道はなくなる。でもそれはいい方に働けば国内の木材でも利用されるから山村でもまた限界集落として消えるのではなく復活するということもありうるかもしれない。だから必ずいい面と悪い面が出てくるのであり悪い面ばかりに注目すると悲観的になるがいい面に注目すれば日本の国内の経済が復活するとなるのである




posted by 天華 at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年06月18日

ローマ帝国が東西に分裂して通貨も別々になった 【通貨は政治支配のツールー経済だけから見れない―ドル基軸通貨への反抗】


ローマ帝国が東西に分裂して通貨も別々になった

【通貨は政治支配のツールー経済だけから見れない―ドル基軸通貨への反抗】

romaimperia.jpg

東西の皇帝は、互いの名前を使って自国の通貨を発行しましたし、西側が直面していた異民族による襲撃には、
東側が軍事援助を行っていました。

偉大なローマ帝国はなぜ東西に分裂したのか? (2/2)

●通貨は政治として支配するツール

このことがアメリカのドルの基軸通貨に起きるかもしれない。アメリカの覇権国としてパックスアメリカがありえたがそれが揺らいでいる。つまりローマ帝国が東西に分裂したときその貨幣通貨東と西では違ったものになった。その皇帝も東西で違ったものとなり通貨も統一されなかった。つまり通貨とはこうして国が分断されると統一した通貨とはならない、ただ日本でも西では大阪中心に銀が流通して東は江戸は金だったのである。

このことが今ドルに起きつつあるということはかつてあったことが繰り返されるということになる。歴史は繰り返すというときローマ帝国までさかのぼるからそこに人間の成すことは変わらぬものがある。通貨というのは通貨を作り流通させることは必ずそこに政治的要素があり政治指導で通貨が発行される
だからオスマン帝国の地方長官がエジプトで独自の通貨を発行して反逆者として罰せられたのである。

つまり通貨とは政治支配の道具であり別に自由経済と自由競争の市場の原理で使われるのではない、公平なものではない、だからこそアメリカは日本円が高くなったときプラザ合意で円安にしたのである。政治と経済は分離していないのである。
アメリカが覇権国になれば通貨でもドルを基軸通貨にして世界を経済の面から支配できるのである。

●基軸通貨のドルが維持できなくなる

だから今なぜロシアのウクライナ戦争でロシアがドル決済しないでルーブルを使い中国も元を使わせることを画策している
それはまさにそれは政治の覇権を争う権力闘争でありそれが通貨に現れていたのである。アメリカは基軸通貨としてドルを維持したいのである。でもロシアであれ中国はさらにブリックスとかの新興国はドル一辺倒になることを拒否しつつある。

つまり今の状態はローマ帝国が東西に分裂して通貨も別々に流通するのと似ている。世界的にロシア―中国ーブリックスなどとアメリカやヨーロッパや日本の西側諸国が対立しているからである
それが通貨をめぐる経済支配にも現れる。経済とは政治と密接に結びついていて分離はできない、むしろ政治主導になり通貨は操作されるのである。アメリカが覇権国なら通貨もドルを基軸通貨にできる。それは政治的に覇権国だからできるのである。

だから日本の円安でも政治的にアメリカの大統領がトランプになったら変わるというのも政治的意図があり変わるということである。
通貨というのが何なのかわかりにくい、でも通貨には政治と密接に結びついていて一つの支配のツールだということ知っておく必要がある。なぜなら通貨には王の肖像画が刻まれている時それは王が支配する地域で通用することを示しているからである。

そこには政治的意味があり経済として自由に流通するものとは違っているのである。だから通貨というのは政治によって操作されるから経済的に公平なものとはなりえない。一つの政治として支配するツールだともなる。だからアメリカはドル基軸通貨を譲りたくない。
だからこそロシアとか中国に制裁してくるのであるそれは日本も円高になっていた時プラザ合意で政治的に円安にされたからである。だからえー円安とか円高になるのは政治的要素がかなりありいくら日本は成長しない国となったとしてもすべてがその経済で決められるわけではないことを知るべきである
何らかの政治的意図でアメリカは円高にもできるのである。大統領は変われば円高になるということが一番それを示しているのである

●ドルだけに頼るのは危険な国際情勢―日本の世界の役割

いずれにしろドル基軸通貨は揺らいでいる。ドルだけに頼るのは危険である。それは経済だけを見ていてはわからない政治の動向を見ないとわからないのである。それで円高になるという人がいるというとき政治情勢が変わると経済とは関係なく円高にもなるということである。もちろん日本の外国に輸出するものがなければ日本は豊かにはなれない。その輸出するものは今は車くらいだからいくら円安になっても日本全体は豊かにならないことは確かである。でも為替は通貨は政治的にも操作できるものだということを知るべきである。

それでかつてあったことは歴史であったことはまた現代でも繰り返すとな世界がまるで東西のローマ帝国に分断されたように二つに分断されるような状態にもなりなったからなったなっているからそこで通貨でも二つに分断されて別々使用されるようになるかもしれない
どうしてもアメリカの覇権は続かないように思えるからである。そしてヨーロッパも衰退しているというときアメリカとヨーロッパは一体でありドルはともに衰退してゆくのかとなる。

それで日本の立ち位置というのも難しいものとなる。アメリカだけに頼るのは危険だとしてもでは中国の支配に甘んじるのかというのも拒否感がある。
ただ日本というのは東西の結節点にあり東西を結ぶものとして地理としてある。そこに日本の地政学的役割があり世界の役割がある。
だから中国にしてもアメリカにしてもヨーロッパにしても日本を無視することはできないだろう。それは経済だけの問題ではない政治の問題として無視できないのである。となれば円安としても政治的配慮で円高にもなるということである。だからすべて経済的視点からだけでは世界は見れないとなるのである

posted by 天華 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年06月01日

金とは紙幣とは何なのか (紙幣自体は紙切れに過ぎない、価値は現物にある。)

金とは紙幣とは何なのか

(紙幣自体は紙切れに過ぎない、価値は現物にある。)

●紙幣は紙切れで価値は現物にある

金というものはなぜいろいろ考えてみても理解できないのか。紙幣ならばそれは紙にすぎない。だから実際にハイパーインフレになった国でジンバブエとかでその紙幣は紙くずのようになってしまってしまった。そういうことはドイツなどでも第一次世界大戦とかで経験している。
そもそも紙幣は紙に過ぎないしそれ自体には価値はない。だからこそ紙くずになってしまうのである。だからもともと紙幣などは信用されていないから金本位制になったなっていた。つまりその紙幣でも金と交換できるということで価値があり信用されていたのである。
だから日本でも江戸時代なら小判でありその黄金には価値があるから信用したとなる。今でも小判なら金なのだからその価値は骨董品としての価値もあり現実の金で作られているから価値が衰えないのである。

アンティークコインにしてもそれが価値があるのは紙幣だからではないコインだからこそ価値があるのである。紙幣にはそうした骨董品としての価値も無くただの紙切れになってしまう。紙だからいずれはすり減ったり汚れたりして使えなくもなるのである。金属のコインだったら千年前でも依然としてその当時のままの状態で維持されているのである。

明らかなことは紙幣にはあるとき何かの調子で紙くずになる恐怖がつきまとっている。例えば外国旅行してカンボジアの紙幣とかベトナムの紙幣となるとそれは本当にその国を出れば紙切れに過ぎず使うこともできなかった。つまり紙幣自体に紙切れ自体に何が価値があるのかとなる。
だから人間を紙幣などより黄金であれ銀であれあれまた土地であれ実際の現物で持っている方が価値を実感できて安心するのである。
でも何か蓄えるという時現物を食糧でも蓄えることは容易ではない。それで紙幣であれば別に蓄えることは簡単であり今ならただ銀行に数字として金が存在するだけだともなる。でもその数字も何らかの調子でゼロになるという恐怖がある。

●紙幣は紙屑になる恐怖

いずれにしろ何か価値を実感するというとき紙幣をいくら持っていても数字として増えても実感できないのであるある。何か価値を実感するときは紙幣でも果物を買ってその味を味わうその時価値を感じる。またカメラでも良いカメラを買ってレンズを買って綺麗な写真を撮った時価値を感じるのである。それは何でも車であれ家であれ実際に紙幣と交換した時その価値を感じるのである。紙幣自体に価値を感じるということはない。

だから紙幣というのは何なのだろうと思う。そんな紙切れに何の価値があるのだろうかともなだからある時ハイパーインフレになって物価が高騰した時その紙切れの紙幣を山のように積んでも買えないとなる。
つまり所詮紙幣は紙であれ本当に紙くずのようになる。でも黄金となればその価値は減ることはないのである現物として価値の変動はあっても黄金自体に価値があるから紙くずのようには絶対にならないのである。
それは車でやれ自転車であれパソコンでやれスマホであれ家であれそれはその価値はその物自体にあり紙幣には無いのである。だから紙幣でも何かと交換するとき価値を感じるのである
とようことは人間は紙幣金を欲しいというわけではなく紙幣によって交換されるものが欲しいのである。交換して初めて価値を実感できるのである。

ともかく紙幣であれ何か果物でも買った時その果物を食べた時うまいとなりそこに価値が生まれる。紙幣自体には紙切れであれ価値はないのである。そして価値自体は実際は変化したりしない。果物でもいろいろありりんごがありみかんがあり柿がありバナナがあり葡萄がありその価値は多様なのである。
ただ紙幣であれ貨幣であるそれがなかったらば物々交換になる。私はみかんを持っているからバナナと交換してくださいとかなる。でもそうなると面倒だから金が生まれたのである。いちいち者を持って行って交換していたらその手間が大変なものになるからである

●売る者がなければ観光で外貨を稼ぐほかない

ではなぜ世界でさまざまな国で紙幣を発行しているがその価値が常に変わっているのか。なぜドルだけが世界で通用して世界基軸通貨ともなっているのか。そのドルにしても紙切れに過ぎない。ただそのドルを持つということはアメリカが提供する価値をがあるからドルが世界で一番信用されて流通されている。別に最近経済成長した中国の元でもロシアのルーブルでもまたはヨーロッパのユーローでも使用しても構わないわけである。

でもカンボジアとかベトナムとかネパールの紙幣などそれはまさに紙切れであれその国を出たら何の価値もないとまでなってしまう。それはなぜなのかとなればその国の価値がほかの国と比べてあまりにもない国だからだとなる。
第一カンボジアに行ったら何が買えるとしたらアンコールワットを見る観光くらいだからである。だから何も売るものがない国は観光が売り物になるのであるそれはギリシャでもそうである。ヨーロッパ文明の元になったギリシャはただ観光で食っているだけだともなる。でもユーロになる前はドラクマであり

ドラクマという名前は「つかむ」という意味の動詞「ドゥラットー(ギリシア語: δράττω)」に由来している。これはもともとドラクマが手のひらいっぱいの量の金属塊にあたる6ゴーコスに相当したからである。オボロイ(単数:オボロス)は、紀元前11世紀以降使われていた通貨単位である。

紀元前5世紀以降、アテネでつくられた四ドラクマ硬貨は、アレクサンドロス大王以前のギリシア世界でもっとも広く用いられた硬貨であった。

これは貨幣でもその裏付けとして交換できるものとして黄金があったとなる。黄金を手でつかむという意味になれば黄金こそ価値があるその黄金を手に掴むという時価値を実感したのである。

いずれにしろギリシャというのは島であれ古い岩がありロバがいて菜の花が咲いている何か牧歌的な世界であり不思議だった。そこには現代の産業となるべきものもなかったのであ
観光が主な産業であり何かものづくりをして売れるものもないのである。つまりグローバル経済で競争に負ければ日本もまた観光が売り物となるのである。それで外貨を稼ぐほかなくなってしまうのである。

●日本円の価値を上げるには外国に売れるものを作ること

ともかく紙幣自体に価値は感じられない。また数字として銀行にあったとしても価値は感じられない。何かと現物と交換した時家事を感じるのである。それは例えば交換しないとしてもその人は貧乏であり食うことにも食うとにも困っている。
でもお金を与えればその人はありがたいと思う。何もその見返りもないのだがやはりそのお金をは無駄に使われたということでもない。その人はその金によって今日の食い扶持を買うことができたともなるからである。
だから金の効用がない何も得られないとしてもあったとなる。ただ金を持っていただけではそれは価値にはならないのである。金は何かと現物と交換するなり人間的サービスでも受けるなりその時金の効用がありそれで価値を感じるのである。

そもそもグローバル経済にしてもただ紙幣だけが流通していただけはなんら価値を感じない。その紙幣で外国の物が食糧でも資材でもかえるということで価値がある。価値の基となっているのはその国にある資産である。紙幣に価値があるわけではないのである。まだいくら数字になっていてその数字が増えたとしてもそれが必ずしも価値とはならないのである。その価値を生み出すものはアメリカとかロシアであれば広大な土地がありそこから農産物が生み出されるからそれが価値があり紙幣であれ貨幣であれ価値が生まれてくるのである。

そしてどうして日本は円安になりそれが止まらないのか。それは日本が持っている価値がなくなったということである。それは技術的にもそうだし何か日本が世界に売れるものは車くらいしかなくなったからである。つまり日本の円の価値は日本が作り出すものは売れたということで価値が生まれていた。その価値がなくなったのは日本が作り出すものは外国に売るものがなくそのために日本円の価値は低落して上がることがなくなったのである

だから日本の円の価値を上げるのはどうしたらいいかとなると日本は外国に売れるものを作るほかない。それができないと後進国のようにギリシャでもカンボジアでも観光に頼るほかなくなるのである。悲惨なのは今度は日本の女性が安く外国人に買われるということであるそれも日本人がしてことがだからカルマだとな自分たちのしてきたことは今度は外国人にされているだけなのである。

だから必ず人間にはカルマの法則が当てはまるのである。それでアメリカにしろいつまでも繁栄するということもなくやはり衰退してドルもう安くなるということである。世界は一国だけが永遠に栄えるということなどないからである。それは歴史を見ればわかる。みんな栄えた国でも衰退しているからである。それは歴史の法則のようにもなっている。だからいつまでもアメリカが栄えるということも覇権国になっているということもありえないのである。
posted by 天華 at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年05月30日

メデアは仲介するものであり真実を歪める 【銀行もメデアであり仲介するもので不要になる?銀行の役割喪失】


メデアは仲介するものであり真実を歪める

【銀行もメデアであり仲介するもので不要になる?銀行の役割喪失】

bankinvest.jpg

 銀行・保険を信じるな!あくどい銀行の実態

農林中金、5000億円超の赤字へ 1.2兆円の増資検討

daitoubank.jpg


大東銀行は危険な銀行の十位内に入っている


●銀行は証券会社なのか―役割喪失して不用化する

何かこの世のことはわかりにくい。銀行というと最も硬い職業であり結婚相手としてもいいものとされていた。高度成長時代などは金を集めるだけでいい仕事でありいくらでもかす会社がいて収入を得られていた。だから利子でも7%とかあったのだから驚きである。なぜなら今はほとんど利子はゼロだからである。むしろマイナスにもなっているのである。銀行にお金を預けていてもそれは貸金庫のこともなってしまう。。
特に地方の銀行が苦しいらしい。我が町には大東銀行の支店が一つあるが大東銀行自体危険な銀行として十位以内にある。福島銀行はSBI証券に買収された。東邦銀行は一番大きいから安全なのかとなる。つまり福島県で残る銀行は東邦銀行だけになるのかとなる。そもそも銀行に何の役割があるのか分からなくなった。金を預けているだけなら別に銀行など必要ないのであそれは貸金庫になるからである。

銀行の役割は地銀だったら地元の経済を活性化するためにお金を貸して会社を応援することである。それは高度成長時代には別に黙っていてもお金を貸してくれという人がいくらでもいたから金を集めることが仕事でありそれで成り立っていたのである。だから楽な仕事だったのである。それで銀行員というと硬い職業とされて地域でもエリートになっていたのである。

金融関係としてはゆうちょ銀行元の郵便局農協信用組合地銀があるがこれなどは地域の就職先として優良なものとしてあり安定していたのである。それも今危機に陥っている。儲ける先がなくなってきたからである。それで郵便局でも何か投資関係で怪しいものに投資させて問題になった。農協の農林中金でも5000億円の損失をアメリカの国債に投資して損失を出したのである。
それはほかの地銀でも何か危険なアメリカの会社に投資しているから同じである。なぜそうなるかといえば金を集めてもその金を借りて会社で起業したり会社の拡大したりとすることがなくなったからである。
すると何か投資信託とか株とか証券会社の会社の傘下に入り手数料を稼ぐ商売になったこの商売は銀行では絶対に損しないし手数料が確実に入る商売だからである。その手数料でも額が大きくなると3%か取れるからいい稼ぎになるのである。

●保険であれそれは売る人を食わせるため

そこで高橋洋一氏が保険などに入るのその保険を奨める人を食わせるためであり必要もないと言っている銀行もまた同じようになっているという。投資信託とかは銀行員が手数料を取って儲けるものであり必ずしも客は儲からない方が多いという。それは私自身の経験してわかった。常に手数料だけを銀行の営業の人は考えている。だからこそ転売おすすめる。せっかくリーマンショックで半分になったものが元に戻りそれからどんどん株が上がってきたでも勝手に売ってしまったのでこんなに上がるとわ思わなかったからである。

その時私が止めればよかったのだがその人は強引に勝手に売ってしまったのである。その時なんの話し合いもなかったのである。結局それは自分自身の責任でもあった。結局銀行はまったく責任を取らない責任お客がすべて取るのである。それは原発事故よりあくどいかもしれない。なぜなら原発事故なら巨額の賠償金を支払う羽目に陥ったからである。
では銀行では客が損したからといって銀行自身は絶対に損することはないからである。責任を銀行に頼んだ人が悪いとなってしまうのである。
このユーチューブで高橋洋一氏が国債は安全なのだが銀行では進めないのは手数料などが取れないから進めないのである。むしろ国債の方を買ったほうが良かったのである。もはや銀行の信用というのは地に落ちたのかもしれない。今までの銀行とはまるで違ったものになったのかもしれない。それはまた銀行も仲介するものでありメディアだと言っている。
なぜならクラウドファンディングなどは消費者から直接お金を集めて銀行に金を借りに行かないからである。銀行に頭を下げて金を借りに行く必要もないと言っている。

●メデアとは仲介するものー銀行も同じだった

またメディアという時マスコミでもメディアであり仲介するものである放送するにしてマスコミでは取捨選択するしマスコミが儲かるものには忖度する宣伝費を出す人には忖度して真実を知らせない
だからこそ原発の危険性など指摘することも知らせることもしなかったのである。なぜなら原発事故が起きたとき朝日新聞から読売新聞であれその幹部たちが中国に東電から招待されていたのである。
そして電事連がありそこからマスコミに800億円もの金が宣伝費として出されていたのである。こうなればとても原発の危険性などを指摘することはできなかったのである。

だからメディアというものは仲介するものであり銀行でもそうでありもし消費者が直接投資するようなことがあれば銀行はいらなくなった。つまり銀行の役割がなくなったということである。銀行と地銀であれそれは地域の経済を発展させるものとして役割があった。それが証券会社の笠下になるようになるともはや地銀としての役割はないという。でも信用組合というのは地元の経済界と深いつながりがありやっていけるという。危ないのは銀行だとしている

いずれにしろメディアとなるもの仲介するものはインターネットとかでとかで必要なくなったのである。誰でも放送局になるし出版社にもなれるしもはやそうした仲介するものに頼む必要もなくなったのである。私自身プログのようなものでも写真も載せられるしその地域を総合的に見て報道もできる。
例えば福島県でも広すぎるのでは。まず会津というと古代から別の国であり会津は会津中心の報道はあってもいいとなる。つまり報道は土着的なものとしてその地歴と密接に結びついて報道してこそそれが理解できるのである
私自身は相馬藩内を自転車で隈なく回っている。だから地理に通じていて歴史にも通じるからそれで何か報道するときも空間軸と時間軸で報道できるのでは。でも会津となると山国であり何回か行ったとしても地理的には分かりにくいのである。山また山でありその山を高く深いからとても何回か行っても分からなかったのである。

●メデアは仲介するもので情報でも宗教でも何でも歪める

とにかく銀行でも生き残るとしたら合併とか後は福島県だったら東邦銀行くらいになってしまうだろう。第一もうすでに三つ銀行など必要なくなったからである。ただ大東銀行でもいいところはあった。不正にカードが使われているということで連絡がありそれで番号を変えたりら何かそういうことで安全策を図れるということがあった。それは機械ではなくコンピューターでなくそこに勤める人の感でわかったのである。
だからすべてコンピューター化しても必ず安全策をはかるのには人間とか必要人間は必ず必要なのである。あらゆるものをコンピューター化したり機械ができないからである。だから人間の仕事はなくなることはないのである
ただその仕事の種類が変わるということでその代わり変化に適応できないできないものは生きてゆくこともできなくなってしまう。

ただ地域経済を考えるとき郵貯であれ農林中金であれ信用組合であれ賃金であるそこは安定した職場を提供していた。それも危険になった時地域で安定して安心して暮らすことがなくなり地域に定着して生活することが難しくなる。もともと地域にはいい就職先がないから東京に就職先を求めて若者が移動しているというとき困ったことになるのである。
若い人がいなければその地域は後継者もいなくなり衰退するばかりだからである。私自身の仕事はその地域をただ自転車で回っているだけであったがそれで地域の地理に詳しくなり歴史を探求していたのでインターネットができてそれで放送できるようになったのである。個人放送局になったのである。個人でもYouTubeなどではテレビ局にもなっているのでだからマスコミは衰退産業となってしまったのである。また銀行でも仲介するものでありメディアだから役割がなくなってしまったのである

この仲介するというとき宗教にも関係していた。カトリックの司祭が牧師がいて信者に教えていたがカトリックは牧師はいらない神と直接個人が繋がればいいとなりなった
プロテスタントには牧師はいないのであるつまり牧師とは司祭でも神と人間の仲介役としてあった。でもその仲介役は必ず歪めるものとなりまたは権力者ともなった。だからこそ腐敗したのであるプロテスタントが生まれたのである。つまりメディアとは仲介役でありそれが必ず歪めるものとなるのである。噂話にしてもそれが問題なのはその噂がどこから出てきたのかそれを仲介する人がいて真実は歪められてしまうからである。

それにしても銀行があくどいから信じるなとなればそこで働いている人も働くモチベーションも失われてゆく
銀行が堅い職業だとか信用に値する人たちだとかもなくなる。それはやはり日本の経済が停滞してそうなってしまったとなる。だからそんな職業に就くこと自体問題であり若い人たちが銀行など選ばないようになってしまうかもしれない。また大手の新聞社やテレビ局でも選ばなくなるなるそれで記者でも一人でもユーチューブで報道している人もいるのである。

ただそこで収益を上げることがかなり難しい。私の場合は別に何人読む読まないが関係ないので別に収入も必要ないからである。でももしかしたらそれが強みともなっているのかもしれない。誰かに権力者に忖度する必要もないからである。新聞社でありテレビ局であれそれは莫大な施設施設とか装備とかが必要であり金がかかりすぎてその金を得るために大会社とかカルト宗教団体とかそういう巨大な利権団体に忖度して宣伝とかで収入を得ていたからであるでもそうなると真実は報道されなかったのである。


posted by 天華 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年04月17日

円安にどう対処するのか? 【日本は昔の自給自足生活にもどる?】


円安にどう対処するのか?

【日本は昔の自給自足生活にもどる?】

●円安で輸入する材料費の高騰で倒産する会社も

これだけ円安になれば日本はどうすればいいのかとなる。
外国から入るものはなんでも高くなる。材料費が高くなる。それでパン屋では材料費が高騰して倒産したパン屋が多いという。それはほかの職業でも起きていて建築資材あが高くなれば家を建てるにも費用が高くなる。それはあらゆるところに影響するのである。グローバル化で輸入しているものはどれだけ多いかそのために円安になるとその影響はあまりにも大きくなる。

ただ円安になれば輸出するものは安くなるから外国人が買いやすくなる。それで儲けている企業もある。でもそれは今になると日本では電気製品などを売るにしても台湾や韓国や中国で同じようなものを作っていて日本製品が売れるとはならない。
トヨタの車とかは依然として売れているが他はあんまり売れていなかった。だから円安になったからといって日本が輸出が増えてそれで補うということもできなくなっていたのである。

ただ全てが悪い方に働くともならない。全体的に見れば悪いほうに働くのだがもしかしたら何かいい方にも働くことがある。
それは日本は例えば外材をとか高くなれば今利用されていない日本の森林を利用するかもしれない。というのは日本の森林の木材が利用されなくなったのは外材が安いからでありそれが高くなったら日本ではかいなくなる。するとどうしても日本にある資源を利用する他なくなるのである。

●円安で日本にある資源を利用するほかなくなる

もともと日本は戦前まで戦後の十年くらいまでは本当に日本にあるもので生活していた。自給自足で生活していたのである。それは当たり前のことだったのである。その時外国から入ってくるものはほとんどなくないものなかった。。例えばその時戦前でも森林鉄道が網の目のように発達したのは木材とか石材とかその他日本の資源を利用するためにそうなったのでだからその時山の村でも人々は多くなり例えば飯館村でさえ一万近くの人が住んでいたのである。

それは全国的にそうであり戦後十年くらいは燃料は炭だったのである。私の高校時代まで蒸気機関車でありそれで通っていたのである。だからその生活を考えるとそんなことがあり得たのかとまでなる。なぜならバナナにしても輸入されていない。それで私の姉は父親が病気になったとき仙台市まで行ってバナナを買ってきたのである。その時輸入されるものはごくわずかだったのである。

私の母親の好物は干し柿だった。大正生まれであり他に果物などそんなに食べることはできなかった。そもそも外国から入るものは食糧でもほとんどなかったからである。私の母親は紡績工場で働き糸取りをしてそこで食べていたものはおかずにして味噌汁とか沢庵くらいしかなかったのである。だからよく細身の体でそんな労働ができたということが不思議である。

つまり戦前であり戦後十年くらいは日本の国内だけでまかない自給自足の生活だったのである。その時石油も使わずストーブとかには石炭を使っていたのである。だから常にこの石炭が必要になり常磐炭田がから石炭が東京へ運ばれていたのである。そのとき石油というのは工場で使っていても普通の生活でわ使っていないのである。何故ならその時円の価値は一ドル360円とかにもなっていたからである。今は一ドル150円ぐらいになっているけどそれから比べるとまだまだ高いとなる

●だから日本というのはこれからどうなるのだろうか?

経済的な面から見ればもはや高度成長などは夢のまた夢である。いろいろな見方があるにしても全体的に見れば円高になる要素はないのである。となるとどうすればいいのだろうとなる。
その参考となるのは歴史を振り返ることである。日本はもともと貧乏であり戦前などはまともに食べることさえできないこともあった。その栄養にしてもかなり不足していた。だから長生きはできなかったのである。戦後は十年くらいはまともに食べるものがなかったということがある。でも高度成長時代になり外国からいろいろなものが入ってきて食も豊かになったのである

要するに日本はこれからどうすればいいのか?そのヒントは歴史を振り返ることである。日本が外国から輸入するものに頼るのではなく自給自足体制に戻すことかもしれない。それは全部というのではなくやはり食糧でも自給自足体制にしなければそもそも日本では物価が高騰して生活できなくなるからである

となるともしかしたらいい点は貧しくても自給自足であり外国に頼らず生きて行く生活するとなる。パンが食べられなかったら日本では米はとれる。コメを中心にまた食を見直さなければならないなぜなら輸入するものはみんな高くなるからである。自給するものは高くならないから必然的にそうなっていく。そうする他なくなってくるかもしれない。

そして人口は減少して行くということは何を意味しているのか

それは日本のある資源を効率的に利用すれば昔のようにそれなりに人口を養うことができる。石油であれ木材であれ何でも輸入するものでありそれができなくなれば日本にもともとある資源を有効に活用する他なくなるのである。

つまりグローバルから逆に自給自足の昔の村のような生活に戻るのかとなる。ただ歴史は繰り返すとしても同じようにはならない。でもグローバル化というのはもともと問題があった。国の経済が順調で強い時はいいが一旦競争に負けると今の日本のようにインバウンド観光で召使いになり奴隷にされるのはグローバル化なのである。

だからこれもカルマだったのである。日本は景気がいいときは安い国に行って観光してやはり日本に来る観光客と同じようなことをしていたからである。そのときは貧乏人でもヨーロッパ旅行でもどこでも旅行で来たのである。外国は意外とユースホステルと多く安く旅行で来たので。今になるともはや一ドル360円の時代のように海外旅行は高嶺の花となってしまったのである。このように時代は常に変わっていくものだと思った

●グローバル経済は持続できないシステムーSDGsに反するもの

グローバル化とは盛んに言われるSDGs(エス・ディー・ジーズ)持続可能な社会とは違っている。例えば日本だったらほかの国でも江戸時代から戦後14年は自給自足の生活であった。そしてグローバル化とはこの持続可能な社会とは違ったものである。なぜならその国にある資源を利用して自給するのではなく外国から輸入することで生活するからである

でもそれに偏ってしまいはこのように円安になったとき外国のものは高くなり輸入もできなくなる。でも日本国内で生産されるものは高くならないのである。そうするとどうなるかとなるとなるとなるべく日本国内の資源を利用して生活する他なくなる。それは戦後の生活とそれから戦前とか江戸時代まで遡る生活にも戻るとまでなる

そんなことはもはやできないというのも分かるし全部がそうなるとことはできない。電気をいらないともならない。ただ歴史を振り返れば人間はそもそもその身近で取れるもので生活してきたのである。だからグローバル化経済で地球の裏側からでも食料が入ってくるというのはそれは異常なことだったかもしれない。それが悪いというのではなくただ一旦円安になるとそういう外国の物高くて買えなくなるということである。

だからグローバル化経済は一旦売るものがなくなり円安とかなれば世界に買うものがあったとしたって買うこともできないのである。だからこそ逆に食糧でも地球して日本で取れるもので賄うということが要求されるかもしれない。世界からもはや円安で食糧でも買うことができなくなるからである。

そんなことはもはやできないというのも分かる。でも現実にこんなに円安になってきたらどうすればいいのかとなる。何か良い解決策があるのかとなる。ただ奇妙なのはもし昔のように自給自足となると山の木材であり石材であれまた利用しなければ日本は成り立たなくなる。すると過疎化した加速した山村が活性化するのかともなる。
つまり外国に売る物がなくなるとき日本でもインバウンドになり観光客を呼び寄せるほかのほかなくなる。それで日本人は外国人の召使いになるというのが現実化している。日本旅行する物価が高くなってホテルも高くなって日本人が自由に旅行できないともなるのである。それがグローバル化経済の競争に負けるとどこでもそうなってしまっているからである。

●大正生まれの母の好物は干し柿

ともかく失敗したのはドルを買っておけばよかった。それが一番わかりやすいのである。他の物ほかのものは株でも投資信託でも分かりにくいからやりにくいのである。ただドルを買っていればこれだけ円安になれば相当な利益を得た。ただ近くにそれを売買できるところがないので何もしないでいた結果儲けることもできなかった。そこが田舎の不利な点である。そしてドルが余っていて蓄えていたがそれも使ってしまったのでなくなってしまったただこんなに円安になるとは思っていなかった。

そしてこの円安はいつまで続くのか前だったらゆり戻しがありこんなに安くなるとわ思わなかった。つまり今の社会はグローバル化でありグローバル化に対応しないと観ていないとき金も儲けられないということである
ただ田舎だとどうしてもそういう時勢に遅れをとってしまうのである。人間はいろんなことはできない。私自身このプログに文章を書くだけで半日はかかる。その他ここに集中すると他のものに集中できなくなるのである

ともかく大正生まれの母親は干し柿が好物であった。果物といえば干し柿でありほかのものはあまりなかったからである。それでつくづくそののことを思うのである
つまり人間の生活というのは歴史をたどれば江戸時代からでも戦前でも戦後十年でも貧しかったのである。だからこれほどある程度全ての人が豊かな食生活でありそのために長生きしている時代はなかったのである。

戦前は本当に肺結核で若い人が死んだ。それは悲惨なことだった。国民病と言われ肺結核で死ぬ人が本当に多かった。 20代くらいで死ぬから悲惨だったのである。それも戦後伝染病とわかり治すことが治すことができた。
だからそれで現在は恵まれた時代だったとなだから歴史を振り返るということは現在の恵まれたことを見直すことなのである。もしその過去を知らなければ豊かなことが当たり前となりそのありがたさを感じなくなるのである。

だから日本は貧乏になる時やはりこうして歴史を振り返りどうすればいいかということを考えねばならないのである。もちろん歴史は元に戻すことはできない。ただ昔は歴史を振り返りそれを参考にするということである。現実にそうした自給自足の生活が江戸時代から戦前から戦後十年まで続いていたからであるこれその方は長いのであれ常態でありそれがまた自給自足の生活に戻るのかとまでなる
posted by 天華 at 19:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年03月20日

周期的に起きる株価の暴落にリセッション 【地銀などは株の素人ーただ長い時間ででインデックス投資すれば儲かる】


周期的に起きる株価の暴落にリセッション

【地銀などは株の素人ーただ長い時間ででインデックス投資すれば儲かる】


resetion.jpg


今後、破綻する銀行リストが公開】【49%の暴落】リストラがITバブル崩壊以来の最高のペースを記録!

B91%E6%9C%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3


●株は約十年周期で大きく変動する

株価は周期的に変動する。それは約十年ごとに変動する
だからリーマンショックから10年過ぎた今の変動の時期である
株価はこれから大きく変動する。アメリカの景気も悪くなる。それがこのグラフに現れている。そして中小の銀行が百くらい倒産して行くという。再びリーマンショックのような金融危機が起きてくる。今はバブル前夜なのかとなる。株価には景気にも周期性があるからである。

だから私が失敗したのはリーマンショックの時持っていた株を株価半分に下がったけどその後元に戻してそれから株はうなぎ上りになりその株を売らなかったらかなりの収入になっていただその時の判断は難しい。第一こんなに株が上がるとは予想しないから売っていたことである。
その失敗は近くの地銀の営業の人が勝手にインデックスの株を売ってしまったことである。その時私が止めていればよかった。でも強引に説明もなく営業の人は売ってしまったのである。それ以来地銀の人を信じられなくなったのである
まず地銀は株の素人であるおそらく私と大して変わらない知識しかない。要するに当たるも八卦当たらないも八卦でいろんなものに投資しただけだった。そして投資してAにBにC投資して転売してその度に手数料を稼ぐのが営業の人だったのである。

その額が多ければ手数料で相当に稼げたからである。だから地銀にとってはこの商売は本当にいいものだったのである。なぜなら客が損しようがしまいが銀行には確実に手数料は入るのである。そしてそれはすべて損しようが客の責任になる。銀行で株は得する時もあるし損する時もあるというだけで終わりである。

銀行は何の責任も取らない!

だから投資信託であれ何であれ金融商品を売ることは銀行側にとってはリスクのないもので確実に収入になるのである。
銀行自体が株に投資するば失敗すれば相当な損になる。でも客が投資するなら客が損するだけなのである。これは相当に不公平なものである。だから投資することを頼む人がプロの人がいるがその人は株で儲ければ収入がある。失敗すれば損すればその人も損することになる。それならば公平なのである。

●銀行は株のことは素人

つまり銀行はそもそも金融商品等については素人と変わりないのである。ただ証券会社と組んで営業の人が来るからそこで何か信用を与える。銀行では金を持っている人を証券会社に紹介する。でも銀行自体は証券のことについては素人なのである。だから賃金とかに投資を任せるのは危険である。
なぜならその仲介役になって相手を客を儲けさせるというより銀行を儲けさせることが優先され営業マンのノルマを果たすことが先決になるからである。客のことは2の次3の次である。

いずれにしろなぜ銀行でもそうした金融商品を投資することを紹介する株を紹介するようになったのか。それは投資する金を貸すものは減少して儲けられないということである。だから高度成長時代を知っている人はその代わりように驚くとなる。
利子が最高で7%の時もありそのときは貯金をしていれば何の心配も要らなかったのである。銀行でも貯金してもらえば金を返してそれで利益はあった。だから投資とはか客に株とか投資を進める必要はなかったのである。つまりその時銀行は楽な仕事であった。

●高度成長時代銀行で5パーセント7パーセントの利子がついた

それで私の家族の一人が公務員であり退職金をもらった。それが1300万とかであれでもその価値は今の倍もあった。なぜなら十年貯金したままにしておくと確実に倍になっていたからである。つまりその時貯金していればあとは何も考えずに銀行に預けているだけでよかったのである。そうすればお金はただ時間とともに増えていくだけだった。今やマイナス金利で貯金していただけはお金も増えないし物価が上がり目減りしているのである。

だからたとえ2000万円退職金もらっても少ないと見る。物価が上がってるし円安になり金の価値がなくなったからである。 2000万円は実質は1000万くらいの価値しかないのかもしれない。それだけ社会情勢によってお金の価値は変わってしまうのである。

●円高でアルバイトとか貧乏人の若い人が海外旅行できた時代

一ドル80円とかありまた110円くらいでもそのときは若いアルバイターとフリーターとかコンビニで働いているような人であれ海外旅行に行っていたのである。円高だから貧乏人でも別に海外旅行で来ていたのである。そして意外とヨーロッパでやれホテルの安い場合がある。ユースホステルに泊まると1000円くらいで泊まれたのである。そこには別に老人でも泊っていたのである。だからヨーロッパ旅行というと高いものと思っていたがそうでわなかった。ユースホステルが安く泊まれるから私は50歳でバックパッカーになり貧乏旅行したのである。

そして外国のことがわからず金が相当にかかると思っていた。でもそのお金を相当に余った。だから金が持ち過ぎていったのである。ヨーロッパですらそうだったからアジアとかなると中国でも物価が日本の1/10くらいのところはあった。それでカンボジアに行ったら売春を案内する人がいて5ドルでどうだと言っていたのである。私は興味がないからそんなことは関係なかった。

でもそこに日本人が何人か群れてて長く滞在していたらしい。何をしているのかわからない。そこに長く滞在しても物価が1/10だったらお金はかからないからそうしていられるのである。
それで一時沈没とかいうそう安宿に泊まっている若い人たちがいたのである。それができたのは物価が安い日本円が高かったからできたことなのである。
またバイクを貸して中国人が会社を経営していた。車でなくバイクがタクシー代わりにもなる。そのバイクは日本製だったなる

今になるとその逆の現象が起きている。日本が円安になり日本は安いとなり中国人でもアジアの人でも日本に観光旅行に押しかけて来る。そして日本の若い女性が海外に売春に行ってるということで問題になったのである。つまり日本をしてきたことは今度は逆にアジア人であれ中国人であれこれまでしてきたことを同じようにされているともなる。それもカルマだったとなる。

●グローバル経済は変化のスピードが速い

その中国にしてもまた日本と同じように不景気になり失われた30年のようになるのかともなる。何かこうして経済の変化が激しいのはグローバル化しているからである。交通が発達して世界中の人が行き来して交わるからそうなる。グローバル経済では勝者は戦争に勝つだ人と同じであり負けた国の人は奴隷となる。それで現代は世界戦争はないにしても経済戦争に負けたものは実質植民地化されて奴隷にされるのである。

それは一時日本が外国に対してアジアに対しては特に同じようなことをしていたからそれもカルマだったのである。ただそのスピードがその盛衰のスピードが速いのである。百年かかって変化することが今や10年か20年なのか早いのである。中国は遅れた国だと言っていたがたちまちにして日本でも技術的に追い越したとか変わり方が早いからついていけなくなるのである。
そして中国のも不景気になり日本と同じような状態になっているのもその変化が速いからるである

●株は長い目で見れば儲かる

ただ株でわかったことは長い目で見るということである一番悪いのは途中で株をやめてしまうことである。十年とか20年先を見ないと株では儲けられない。なぜならリーマンショックの時株が半分になるその十年後に元に戻それから株が倍増したからであるこんなに株が上がるとその時を持っていなかったからである。だから20年先20年先を見れば株は儲けることができる。
どの株が良いとかではなくインデックス株で投資して10年先20年先を見ていれば儲かるということはわかった。
ただ残念だったのはその虎の子のインデックス株地銀の営業マンが勝手に売ってしまったことである。私はその時疑問だったが強引ににその人は売ってしまった。ただそれも私自身の責任となったのである。

ただそれ以来私は銀行を信用しなくなったのである。何か銀行は一番信用が大事である。その信用失くした時銀行は成り立つのかともなる。
とにかく老人には投資は向いていない、何故なら後生きる年月がどのくらいなのか?10年としたらとても株ではもうけられない。もうかったとしてもその時あの世に行っているかもしれない。そして例えば木を植えて花を咲かそうとしても実を得ようとしても8年先だとかなれば木も植える気しないのである。

それで津波であれ原発事故の復興にしても老人が多いからはかどらない、できないのである。80過ぎたら墓の心配するとかなりできないのである。そもそも老人はこうして投資に向いていないのである。老人はこれまで投資したもの実りとして示すことであり未来に向かって投資することではないからである。
投資には株では時間を味方にすればもうけられる。インデックス投資なら大した知識など必要ないからである。ただ銀行とかに頼むの危険である。転売させられて手数料をとられだけだからである。.
posted by 天華 at 18:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年01月28日

老後の金の計算ができない―利子がつかない銀行の役割は何なのか 【常に時代も変化し予測できない―貧乏人も海外旅行できた円高の時代】

老後の金の計算ができない―利子がつかない銀行の役割は何なのか

【常に時代も変化し予測できない―貧乏人も海外旅行できた円高の時代】

●日本は貧乏になって老後の金の心配が尽きない―銀行に預けても安心はない

老後の生活費が2000万円足りないといった試算が出て毎月10万円ずつ貯金しても20年間もかかってしまいます。毎月10万円の貯金なんて相当に頑張らなければできないですし、それを20年間も続けても、老後はギリギリで生活できる水準にしかならないのです。

日本でどんどん増える「中間層」からの脱落者…「貧困層」へ落ちないために、いまからできる現実的なこと

なぜ金の計算ができないのか。十年先くらいはなんとか計算できるかもしれない。それにしてもその十年の間に何が起きるか分からない。株の暴落だってあるし最近だと預金封鎖があるとかそんな話しかない。銀行に預けても利子はつかないし返って手数料が取られるだけだとなる。それで高度成長の時代には利子が7%の時代があった。今は1%もなく0.01%とかそんな時代である。利子はほとんどつかない。そしたら何のために銀行に預けているのだろうとなる。銀行に預けるとマイナス金利であり返って手数料を取られるだけだとなる。そして銀行員も苦しいから投資信託などを進める。でもそうした金融商品というのは分かりにくいのである。

そして銀行というのはもともと株とかしていないからわからない。株のことなど素人なのである。だから適当にあたりばったりに金をつぎ込んでいるだけである。それでリーマンショックで半分になったインデックスの株が上がり始めた時説明もなく勝手に売ったのである。その人は強引なところがありそうなった。私はその時疑問だったが勝手に説明もなく売ってしまったのである。

そのインデックス株をもっていれば今の倍の収入にもなったかもしれない。こんなに株が上がるとわ思わなかったからである。だからそれは自分自身の責任もあるが銀行の責任もあった。地銀などは株のことなどほとんど素人である。ただ投資信託であれ手数料が3%とか入るから損はしない商売なのである。そもそももし株で儲けられるとしたら銀行自体が株に投資してもうければいいことである。でもそこで損したら銀行自体の損になるのである。だから客の金を利用して投資させてそれで手数料を稼ぐ。

それは絶対に銀行は損しない

株はリスクがあるから元本割れもありますとか損しますとか言うがそれを売る銀行は絶対に損はしないのである。だからこれほどいい商売はないのである。だからそもそも銀行とは何なのかとなる。特に地銀とは何の役割があるのだろうと今になると疑問になる。細かい金の出し入れは今や銀行は不便であり通信関係の銀行など時貯金しててそこから出し入れをすればいいとなる。だから銀行というのは今店を構えていても人の出入りは非常に少ないだからそういう店を構えているとお金をかかるだけであるとなる。金の出し入れなら通信関係の会社に頼めばいいとなる。

そもそも銀行とは何で儲けているのか。銀行の仕事は何なのか。いったい客から金を集めてそれをどう利用しているのか。それがよくわからない。お金を預ける方にしてみれば銀行は今やただの金庫なのかどうなの。なぜなら家に置けば盗まれることがあるから銀行に預ければ盗まれないから安全だとなる。でももし金庫だけならそんな仕事は誰でもできるだろう。そもだから銀行とは何をする場所なのか会社なのかそれが今問われているのである。

●銀行の役割が問われている

それはゆうちょ銀行でも投資信託などを売ってそれが騙しということで問題になった。また農協でもアメリカの危ない会社に集めた金を農民から集めた金を投資しているという。だからその会社は危険であり大損になるかもしれない。でも金を集めてそれを増やす方法はないからそうなったのである。ただ銀行でも農家に協力して有機栽培の米作りしてそれを販売することを援助してそれで儲けたという報告もあるもうある。そんなことで銀行に嫌気がさして農業に従事したという人もいる。何か仕事として手応えがないからそうなったのである。

それにしても日本は失われた30年があり賃金は上がらない物価は上がる年金は足りない税金ばかり取られる。そして退職金も500万も減らされているという。私の家族は公務員であれ退職金をもらったがそれは1300万くらいだったようである。今は2000万以上になっている。でもその当時の1300万は利子が5%とかつけば10年でその倍になっていたのである

だからみんな貯金したのである。面倒な投資とかにかかわる必要もなかったのである。そして銀行でもお金を集めてそれを借りる人がいるのだからいい商売だったのである。それは失われた30年があり利子はつかないマイナス金利にもなっている。だからなぜ銀行に金を預けているのかもわからない。銀行の役割はなんなのだろうとなる。地域経済を活性化するために預けた金を使っているのか。それもよくわからない。そういう報告も調べられないからである。でも銀行の収支決算見るべきだろうともなる。預けた金を何に使い何で儲けているのか。それを見るべきだと思う。こんなことを今まではする必要もなかった。要するにそれなりの利子ががついていればそんなことを調べる必要もなかったのである。

いずれにしろいくら金の計算をしてもできない。毎日の金の出し入れは1000円2000円でありそれを計算すれば一ヶ月いくらかかるとか日一年でどれくらいかかるのかとか一を計算できる。でもそれが一年後でもさらに十年後にどうなる十年ごとになると計算できなくなるのである。なぜなら70過ぎたら十年すぎたら死んでいるかもしれないからである。また不慮の事故とか自然災害とか予期せぬ出来事が起きて金は必要になり金が出る。

だから十年後になるといくら金があっても金の計算は出来ないし不安は解消できない。もし高度成長のような時代だったら何の心配もなかったかもしれない。なぜなら1000万あったとしたらそれはすでに2000万の価値があったからである。今になると1000万あったとしてもその価値は500万くらいになっているのである。それより預金封鎖があって貯金は国に没収されるとかそんな話ばかりがあるとき金には何か価値を見いだせないのである。

●円高で貧乏人も海外旅行できた時代

とにかく日本円の価値は相当に下がっている。こんな円安を経験したことないからである。十年前とかでも一ドル110円とかであった。そのくらいだと海外旅行も楽にできた。それで意外と貧乏人が海外旅行していたのである。フリーターとかでも旅行して海外旅行していた。ヨーロッパでも横旅行していたのである。それだけ円高だったからである。だからバックパッカーとかになりもう百万もあれば若い人なら世界一周もできたかもしれない。若い人は安く旅行できる。それは体力もありまた外国でも適応力があるからそれができるのである。

私の場合はバックパッカーになって外国を回ったのは50すぎていたのである。その時私は常に貧乏であり外国でも節約しなければ旅ができないと思っていたのである。だから相当な金を持って行ったがそんなに金は必要ではなかった。だから百万持って行ってたして50万くらい残っていたのである。それだけ海外旅行というのは一ドル110円くらいだとそうなっていたそれより一ドル80円とかにもなっていたからそれをそれを知らないで節約した旅行をしていたのも失敗であった。私は日本での金の価値を外国にも同じように計算していたから失敗だったのである。

ただ中国で8000円でホテルに泊まったことがあった。それは夜になり泊まる場所がなくてそうなった。普通バックパッカーなどそんなところに泊らない。当時の8000円というと中国で計算したら十万くらいになっていたかもしれない。それくらいの高級ホテルだったのである。中国だと100円200円でも泊まれるような場所があった。それは中国人の貧乏人だとそういうところに泊っていたらしい。中国というのはそうして高いところもあれば極端に安いところもあり貧乏人をその安い所を利用して生活できるのである。

だからそういう貧乏人も中国だったら旅行旅行で来たのである。他でもカンボジアあたりに行ったら五ドルで女性が買えるとかそんな値段だったのである。そんなところで外国人が日本人でもたむろしていた。私はそんなことは関係していない。そして今逆に日本が安い安いと外国人が貧乏人でも入ってくるということである。それもやはりカルマだったのである。だからつくづく人生というのはその時々にやるべき事やるべきことがありそうしないとたちまち年を取ってできなくなる。もはや今になると貧乏人は外国旅行は高嶺の花だとなってしまったからである。

ともかく貧乏人でも海外旅行で来た。ヨーロッパでも旅行できた時代が今や貧乏人はとてもできない。これは相当に損な事になった。なぜなら旅でもいいから外国じかに接するということをそれだけ価値があることだからである。もし私がその時海外旅行していなかったらもはやできなかった。なぜなら親の介護でその後四苦八苦して十数年が過ぎてしまったからである

●時間はすぐ過ぎるからその時々するべきことしないと大損

このように人生というのは何かすべきとすべき時しないとあとは永遠にできなくなってしまうということが怖いのである。信仰にしても若き時神を知れというように20代で神を知らなかったらあと知ることができないとしたらそれは恐るべきことになる。
でも人生にはそういうことが多い。なぜなら時間というのは常に過ぎ去って行き老人になるとあっという間であり後は死ぬだけだとなってしまう。だから時間はいつまでもないし何かをするにしてもチャンスを逃したら永遠にできなくなるということである。だから金がないから海外旅行はできないと私は思っていた。でもそのときは円高であり別に貧乏人でも海外旅行ができた時代だったのである。だから今の若者は不幸だと思な。逆に外国に出稼ぎに行って金を稼いでいるという時代にもなったのである。

ともかくこのように金の計算ができない。未来は予測できないからできない。金の価値は常に変わっているからである。あらゆるものの価値はまた変わっていく。海外旅行する経験というは相当に価値がある。なぜなら海外旅行というのは戦前であれ戦後間もなくであれ特別選ばれた者しかできなかったからである。特にヨーロッパとかなると相当に高価なものになっていた。航空運賃だけで50万くらいするのが普通だったからであるそしたらその当時の金の価値で計算すれば今なら百万くらいしていたかもなるからであるそれで自分はとても海外旅行はできないと思っていたのである。

それで思い切って50過ぎても海外旅行にしたのはどれだけ得だったかわかる。なぜなら今になるととても海外旅行する気力もなくなったからである。だから人間とは金の問題もあるが何かするにもできる時しないと永遠にできなくなってしまうのである。それは登山でも言える。私は体力がないので40ごろまで登山者があまりにもきついのでやめた。それで自転車旅行になったのである。自転車旅行ならいつでもどこでも休めるし食べるものも手に入ることができるから意外と楽だったのである。でもこの自転車旅行も20代の頃自分にはできないと見ていた。それもそう見ていたことが失敗だったのである。

人間の見逃していることがこの時間を有効に使えないということである。確かに金の問題もあるわその前に何かをする時間が消失してしまうということである。海外旅行でもフリーターでも貧乏人でもできた時代はもはや過ぎ去った。だから今の若い人は不幸だともなってしまうのである。それも時代だからどうしようもない。戦争の時代はいやでも戦争に行ってそれで死んでいる人もいるからである。時代時代によって幸不幸が運不運がある。

とにかく金にしても十年先であれ計算できない。いくら貯金していても安心な人はいない。預金封鎖になったらいくら金を持っていても金は紙切れになってしまうのである。私の母は前の夫が事故で死んで一生暮らせる金をもらったがその金も戦後に預金封鎖があり使えなくなったのである。ただわずかに故郷に買った土地だけが残ったのである。だからいくら貯金があってもそれは紙切れであり価値なくなってしまうかもしれないからである。つまり人間というのは人生でも一定してない変転するのであるこの辺を見ればわかる。原発で裕福になった人も多いが事故になって故郷にすら住めなくなった人も多いからである。それより津波で村ごと消失してしまったという信じられないことを経験したのである。




posted by 天華 at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年12月30日

人間が変わるのは技術の進歩や環境の変化で変わる 【グローバル経済は誰も知りえないから陰謀論になる】


人間が変わるのは技術の進歩や環境の変化で変わる

【グローバル経済は誰も知りえないから陰謀論になる】

●時代と環境の変化せ人間も変わった―農業社会は共通の認識で共同していた

人間が変わったというとき人間社会が変わったということにもなる。人間は本質的に変わらない。でも縄文時代から弥生時代からとか時代を遡れば江戸時代でもその中で生きた人間は今の人間とは違っていたところがある。つまり時代によって時代の変化や環境の変化によって人間が変わるということである。だからよく江戸時代の人間は今の人間と違って情があり人々は助け合い生きていたとか美化される。

結局過去になると歴史になるとその時代に生きる感覚がリアルに再現できない。なぜなら人間は自分の経験したことしたことからしかイメージできないからである。だから戦後生まれの団塊の世代とかは戦争が終わってから生まれたのだから戦争をリアルに理解できない。ただ親から戦争のことを聞く。現実に戦争に参加した人もいてその話を直接聞いているから違っている。今になると孫の世代んあると何か話を聞いていてもそれがリアルなものとして伝えられなくなる。

卑近な例として農民が80%がいたとか戦後でも農民が60%かとかいった時代は今とは相当に違っている。今は農民は田舎でも1割くらいしかいない。だから田舎に住んでいるからだと言って農業のことを知らない人が普通にいるのである。
確かに周りは田畑があるから都会とは違っている。でも現実は農業している人は少数派であり農業社会ではないからやはり都会化しているともなる。何か戦後の子供時代を見ると今とは全然違っていたと思う。働いている人を見れば何をしているかわかった。それは狭い地域での自給自足的生活である。例えばカゴヤとかあれば竹で編んで竹のかごを作っていた。何かそうして手作りで日用品を作り売っていたとなる。近くに漆塗りをしていたとか豆腐屋がいて豆腐を作っていたとか何か近くで自営業して作って売っていた。

●自給自足的生活が基本だった時代

その時外国から入ってくるものをわずかだったろう。バナナを売って秋市にバナナの叩き売りとかあった。また私の家族が病人になってわざわざ仙台まで行ってバナナを買ってきたという。バナナなどいまいくらでもある。その頃はバナナすら外国から入ってこなかったのである。また卵すら満足に食べられないし食べていない。その時豊かだったのがかえって農家だったのである。農家というのはそもそも自給自足体制であり買うという生活はあまりなかった。だからカヤの実から油まで取っていたとか納豆も作っていたとか自給自足的生活をしていたのである。もちろん水道など無いから井戸水を使っていたのである。

私は戦後私の家では戦後店を始めたがその店屋にしてもただ商品を並べているだけでありそれでも近くに店屋もないから売れたのであ。それで卵とか野菜は近くの農家から買っていたのである。私は卵を買いに自転車で行かされた農家に行かされた。糠に卵を入れて自転車で運ぶのだがそれが必ず一個ぐらいは壊れるのである。その理由が道がまだ舗装されていなかったのである。だから道が悪いからどうしても自転車では割れてしまう。そして橋でも木の橋であるそれが揺れたりして怖いものだったのである。
その頃車はほとんど使われていない。だから卵自体が贅沢なものだったのである。それで卵焼きが食べられることが贅沢な暮らしとなったことを象徴している。
巨人・大鵬・卵焼きが流行語になったのはやはり卵焼きというがみんな普通に食べられることになったことが食の変化だったからである。

とにかく時代が変わる社会環境が変わればまた人間も変わってしまう。その時代が変わる社会環境が変わるというとき様々な技術の変化もあるがやはり交通の発達も大きな影響があった。
なぜなら食料というのはそもそも戦前から戦後10年くらいまでやはりそれぞれの地域で自給自足的な生活をしていた。それは車もないし運ぶというのが鉄道になるしするとどうしても狭い身近なところで食料供給する。だから近くの梨農家の人は相馬市まで15キロくらいあるのにリアカーで売りに行ったという。つまりリヤカーで運んだらどれだけ苦労だったかとなるからである。

つまり交通が発達しなければそれだけ運ぶということが容易なことでわなかったのである。結果として身近にあるもの取れるもので生活するほかなかったのである。だからその頃人々の関心はやはり狭い地域の中にあったともなる。その住んでいる地域で食べ物でもまかなっていたら常にその米とか野菜の取れることに関心をもっていた。それは遠くから運ばれないからそうなっていたので。すると常に近くで食料は得られるかどうかが問題になるから農家のことで今以上今より相当に身近なものであり関心をもっていた

●失われた共同意識ー日ごろから共同しないものは共同できない

今年の米の収穫はどうだろうかとかそれは農家だけの問題ではないそこに住んでいる人たちがその米を食べるのだから他から入ってこないとしたらその米が豊かに実るようにやはり農民と同じように祈っていたと思う。でも今や経済が広域化してグローバル化してくると食べ物でも外国からでも入ってくる。するとそこに住んでいる農家が作る米でも野菜でも果物でも特別関心を持って見ていないとなる。

なぜなら別に日本中から野菜でも果物でも米もさらに外国からでも食料が入ってくるとなる。そこで必要なのはそれらを買うための金となってしまうのである。だから地域でも昔のように地域でとれる食料に関しても関心がなくなる。問題は金が大事だとなる。なぜなら金で世界中からでも日本中からでも食料が入ってくるからそれを買うことが必要になってくるからである。別に地元でそうした食料がとれなくても金があれば世界外国からも入ってくるから金で買えばいいとなってしまうので

おそらく戦前とか江戸時代とかなれば農民が80%なのか多いのだからそして交通も発達してないから狭い地域で暮らしていたからみんな社に集まって豊作を祈っていたともなる。そこで共同意識が生まれていた。それが今になるとそうした共同意識は生まれにくい。なぜなら食糧でも外部からいくらでも入ってくる時金さえあれ買えばいいとなってしまうからである。それは人間の心に影響して人間を変えてしまったともなる。

だから孤独死が増えるというときそれは人間の共同体とか共同意識とか失われただ金だけが全てとなった社会がそうさせたと思う。共同しろと言っても日頃から共にに共同していなければいくら強制しても簡単にできるものではない。農村共同体だったらやはり日頃から密接な繋がりがあり共同していたからおこそ共同できるのである。
だから人間関係というのはそもそも物を流通するような関係とは違うからものはいくら外国から入ってきても必ずしもその外国人と共同するというわけでもないのである。だから外交関係でもうまくいかなくなるとものも入ってこなくなるのである

つまり現代というのは何かグローバル化でも物はいくらでも入ってくるわそれで共同しているというわけでもない。一旦何かあるとそうした物でも入ってこなくなる
だから常に貿易戦争というのは起きてくる。なぜ日本の明治以降とか世界大戦が2回もあり莫大な人間が1000万以上とか戦争で死んだのかとなそれはグローバル化しても人間は共同するわけでないからであるだからロシアでも肥料とか麦でも買っていたとしても日本売らないとなってしまう。それは石油とかガスでも同じである。

外交関係でうまくいかなければ必ず貿易は止められるもし共同することがありあったならそういうことはないはずなのである。だからアメリカで日本車が叩かれて潰されたりしていた。アメリカでわ自国の車が売れないとなれば公平な貿易というよりは自国優先になるのは普通だからそうなってしまう。つまり政治と経済を分離できないのである。政治的に分断されれば経済的にも分断されてしまうのである。

●グローバル経済は共同意識を作らない

公益化社会グローバル化社会というのは返って人間の共同意識が消失してしまう。貿易が悪いというのではなくやはり何かそこに制限するものは必要だったともなる。あらゆるものはグローバル化に自由に経済というのは人間社会というのは成り立つのかという問題が生まれた。それが道徳なき経済ともなったのである。それは機械化によっても起きた機械が便利でもその機械に頼りすぎると何か人間的なものは失われてゆく。それは2000年前に老子が指摘していたことである。

つまり結果的には人間が機械の奴隷にまでなってしまうということである。そういう危険性が機械もあり今話題になっているAIとかチャットgptとかにもある。それはいい面もあるのだが必ず悪い面としても作用するのであるそれは車でもそうである。車というのも一地域に縛り付けられた生活から解放されたという感覚になる。
車に乗ればたちまち遠くに行ける。すると近くより遠くが生活の場になってしまうのでそうすれば当然近く大事なものではなく近隣の関係も希薄化してで助け合うということなどもなくなったのである。それも必ず道具とか機械はいい面と悪い面に働くのである。

人間というのは何か物を買っている生活しているのと実際に野菜でも米でも果物でもそれを育てて直に食べているのとは相当違っている何故ならその時米でも野菜でも果物でも必ずその土地の気候とかその土地の豊かさとか何か必ずその土地と関係して食料は作られてくるからである
それで特産物というのはその土地の気候とその土地が持っている豊かさとかと関係しているそうした土の栄養分とかそういうものは簡単に作れないからである。だからその土地に精通して気候にも精通して食料は作られるとなる。

でもただそうした食糧でもお金を出して買うだけならそんなことを感じないのでただ金さえあればいいというだけであるだから食料を作り売る人とただ買う人とかのその差も相当に大きいということである。
だから文化というときカルチャーとはcultivate耕すということになっていることでもわかる。その土地土地の風土から耕して作られたものだからである。それが広域社会化してグローバル化するとそれはただ買うというだけでありそこに独自の文化は生まれないのである。だからもともとは物と心は一体であり心を離れてものもなかったのであるそれが物と心が分離してただ金で買えばいいというだけになってしまったのである

●人間で大事なのは実感

馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも

何か人間は実感が大事である。何でも実感がないと訴えないのである。戦争でもテレビで見ていてもなかなか実感をもてないのである。それで私が近くの井戸の水をもらって自らペットボトルに汲んだ時飲んだ時ここの下に飲める水があるのだということを実感してした。それは感動的なものだったのである。ただ蛇口をひねって水道の水を飲んでいるのとも違っていた。この土地の下に水が蓄えられていてそれを飲めるということである。その水は絶えることなくあると流れてあるということでもあった。それはなんとも豊かなものを感じたのである

確かなことはあまりにも経済の規模が拡大化して巨大化したことでもはやそれは人間が操作などできない。だから金融資本主義になり金を左から右から左へと流して巨万の金を得ている人がいる。それはグローバル経済でなればとてつもなく巨大なものである。それをもはや知ることもできないのである。ということは必ず誰かが裏で操作しているとか陰謀論になるのである。それはあまりにもその規模が大きいから誰もその知ることができないからである。もし地域経済とか小規模なら別に経済学者でなくても手に取るようにわかっていたからである。

だからと言って江戸時代に戻れとかというのでもない。何かやはり経済優先であり人間の心というもの置き去りにした結果そうなった。だからどうしても株で儲けるとか銀行でも金融に携わる人は胡散臭いとなってしまうのである。
でも野菜を作り米を作り果物を作りとか食料を作っている人は密接に自然と繋がりそうした職業とはまるで違ったものとなっている。だから銀行員をやめて農業を始めた人もいた。それはなぜかというと何か生きる実感というものを持てないからそうなってしまったのである。ただ金を右から左に流しているだけで何かを育て実らせるという生の充実感が得られないためにそうなったのである。

ともかく経済にしても来年はどうなるとか株がどうなるとかいろいろ円安がどうなるとかそれもわからない、いくらいろいろ本を読んでもわからないのである。ただ貯金しても利子はつかないし何のために銀行に金を預けているのかもわからない。だから金利を上げるというのは老人がかなりの金融資産を持っているからそれで使うから景気良くなると言うのも分かる。
とにかく利子もつかない物価は上がる将来どうになるのどうなるのかもわからない。そして常に預金封鎖がどうだとかそんな話ばかりになったらいくら金があったって老人でも金が使えないのである。もし高度成長時代のように利子が5%でもついたらそれはすごいことになる。老人は金を使わないと言うがやはりそれだけ金の余裕ができれば金を使うのである

いずれにしろ経済にしても将来のことはわからない。楽観論があり悲観論がありそれもわからない。人間が理解できるのはやはり狭い範囲でしかない。グローバル経済とか巨大になればそこで操作しているのは天文学的数字でありそんなものを知り得ることは不可能なのである

経済という時でもやはり身近に狭いところだと手に取るようにわかる。でもあまりにもグローバル経済とか巨大になればそれが現実なのか架空なのかすらわからなくなってくる。
だからそれは巨大なグローバル経済とはある一部の者が操作して儲けている詐欺だという人もいる。それはあまりにも巨大なために常に陰謀論になってしまうのである。だから人間というのはやはりある程度手にとりわかるような世界でないともはや世界認識でも必ず偏ったり誤ったものになるのは当然である







posted by 天華 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年12月23日

人間の幸不幸はわからない‐災い転じて福と成す 【家事について感じたこと】

人間の幸不幸はわからない‐災い転じて福と成す

【家事について感じたこと】

houskeeper.jpg

B%B8%40%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%93

●洗濯機も冷蔵庫も使わなくなって楽になった女性

人間は何が良く作用するのか何が悪く作用するのかそれもわからない。驚くのは家事を簡素化するために冷蔵庫から洗濯機からレンジから掃除機から便利などうなの道具を捨てた人である。洗濯板でしていた時代に戻っている。返ってそれで余計なものを買わなくてすっきりしたと言っている。そんなことあり得るのかと思うけどこれはユーチューブで見た本当の話である。なぜ極端にこんなことまでして道具を捨てたのか。返って道具を捨てた結果余計なものを買わずものが増えずすっきりしたと言っている。この人は女性だからそういうことも言えたのかもしれない。

それにしても選択まで手でしているということに驚いた。ここで考えさせられることは家事にしても便利さを追求してきたのだがそれが不便にもなるということである。冷蔵庫がなければその日の暮らしになる。その日その日で料理をして後に残さないということにもなる。それは江戸時代のような長屋のその日暮らしになるのかもしれない。長屋にあるものは本当にわずかなものしかなかったからである。でも暮らし自体は余計なものを持たない簡素なものとしてあった。また火事の備えとしていろいろなものを持っていると逃げにくいからそういう風な暮らしにもなった。身一つで逃げるだけでいいということにもなっていたからである。

家事というのはそれだけでいろいろあり手間にななる。だから電器製品を使うようになったのである。でもその道具でも書いて返って煩わしい物となった。それも極端だがそういうことを感じる人もいたということである。だからその人にとっては別に電化製品が無いことに苦痛を感じていないのである。
だから災い転じて福となすとなるのである。人間は何が幸福なのか不幸なのか分からないということである。結婚すれば幸福になる。でも離婚も1/3以上しているから結婚というのは重荷になるだけだという人もいる。結婚がうまくいかないとただストレスになるだけだともなる。でも独身がいいかとなればそうでもない。何か病気になったりすると助ける人もいないからである。でも結婚でもうまく行かなければただストレスが溜まり苦しくなるだけだと思うんだ。

すぎると金持ちの息子が放蕩息子のようにもなってしまう。それはあまりにも恵まれてそうなったのである。でも不幸な生い立ちでもいいとは言わないが苦労人になりその苦労したことでやがて幸福にもなる。それは長い一生で見ればそうなるのである

●家事もしないで認知症になった女性

私の家では特殊な事情があり二人の母親がいた。一人は役所に勤めていたが退職してから何もしなくなった怠け者になってしまった。それが認知症のねなる原因でもあった。
ただテレビだけを見て何もすることなくボケッとしていたのである。結果的に本当にボケて認知症になってしまったのである。その原因は分からないにしても明らかにそうして頭も働かせず何もしていないことが大きな原因だったと思う。
それで認知症になる人は例えば嫁におばあちゃんは何もしなくていいからテレビを見ていてでもくださいと言われる人だという。それがボケに通じているのである。なぜなら家事をするということ料理をするということそれはかなり頭を働かされる仕事だからである。

だから一見働かせられている女性の方が苦しいとかつらいとか見ていたが実際は何もしないで怠けてボッケとしていた人が認知症になってしまったのである。それで一見良いように見えることが悪いものとして作業したとなる。それも不思議な現象だった。
それは例えば召使いというか女中というか金持ちの女性の人が雇って金持ちの女性の人が何もしなければ同じようにボケてしまい認知症になってしまうかもしれないのである。だから人間というのは本当に何が幸福にし何が不幸にするかわからないということである。

ともかく人間の幸不幸は何か分からない。幸福だったと思うことが不幸になり不幸だったことが幸福にもなる。人間はいつまでも幸福ということはありえないっていつまでも運がいいともならない。人間は常に社会でも変わり人間関係も変わり変遷するからである。私自身がそうだった家事など何もする必要はなかった。すべてしてくれる人が居たからである。
今や誰もいないから自分でするほかないのである。だからいつまでも人間は幸福であり同じ状態も続かないのである。必ず何から不幸があり運命の変わってしまうからである。だから人間に一生安泰ということはない。どこかで必ず不幸になり苦しみが与えられる。それが人間なのである。

だからそもそも何が幸福になり何が不幸になるかもわからない。不幸だったことが実は幸福にもなる。不幸な生い立ちの人がいるがその人には同情する。でも恵まれた人でも恵まれすぎると金持ちの息子が放蕩息子のようにもなってしまう。それはあまりにも恵まれてそうなったのである。でも不幸な生い立ちでもいいとは言わないが苦労人になりその苦労したことでやがて幸福にもなる。それは長い一生で見ればそうなるのである

●人間の幸不幸は常に変わり無常

人間万事塞翁が馬とかもそうである。人間の幸不幸など何かわからないのでだから不幸があるときそれがすべて悪く作用するともならないその反対に幸福であってもそれが不幸にもつながる。幸不幸は反転するのである。この辺でし確かに津波や原発事故は悲惨だった。でも原発前から漁業者などは多額の補償金をもらい豊かになった人達もいた。
それが反転してふるさとにも進めなくなったのである。だから幸福になると思っていたものが反転して不幸にもするのである。オ要するにこの世に絶対的幸福とか絶対的不幸とこは無いのである。常に無常だという時常無きものでありこの世は変わるからである。だから幸不幸も常に変わってゆく。何が幸福なのか不幸なのかわからない。

確かに老人になれば体が弱くなり病気にもなりやすくなりいいこともないとなる。でも老人には老人の幸福がある。その老い先も短いからいろいろと青年のように悩み苦しむこともない。まもなく死ぬだけだとなればこの世にあまり執着することもなくなるから気が楽である。だから老人がすべて不幸だともならないのである。老人には老人の不幸がありまだ幸福もあるのである。

そして死というのは最悪なものだとなるが最後に老人になって邪魔者扱いするより扱いされるより死んで迷惑をかけずただ崇められるということもある。その方は人間として尊厳がありましだと思うなってしまうのである。だから死がすべて悪いものともならないのである。それより邪魔者扱いされ病気になり苦しみ苦しみ生きていることこそ地獄なのである最悪の不幸なのである。

ともかく人間の幸福を幸不幸はわからない。それは常に社会でも変わり価値観も変わり人間関係も変わり常に無常の世界だからである。常なき世界である。これまで価値があったことも価値なくなり価値観も変わってしまう。そしてその価値観が変わりこれまで生きたことの価値まで否定されることにもなってしまう。戦前は国家のために命を捧げるのは普通だった。戦争に負けてまるっきりその価値観も変わってしまった。日本人から国家というものはあまり意識されなくなったのである。

でわそれがいいかというとそうでもない。私益ばかりを計る人間ばかりになってしまったからである。そこに日本人としてのモラルを消失してしまったのである。だから戦争を経験した人はそのとき国家のためであり日本人が強く一体であることを感じて懐かしく回想する人さえいたのである。だから戦争ですらそこに簡単に幸福であることを幸不幸であることを決められないということもある。戦争はいいということではなくそれでも何か当時を懐かしむの人もいたということである。

いずれにしろ人間の幸不幸は簡単に決められない。それは常に変遷するからである。ある時は幸福だと思っても急激に変転して不幸になる人も普通に居る。でも逆に不幸極まりないと思っている人でもある時から幸運に恵まれて幸福になる人もいる。つまり人間の幸福は幸不幸は変わるということである。それがまさに自分自身が今家事をしているがこれ必ずしも悪いということではないかもしれない。

家事は仕事であり妻でもなんでも家事をしてくれたとして夫がただ何もしないでいればその夫が生きがいもなく認知症になるかもしれない恐怖があるからだ。だから家事というのもバカにできないのである。家事はかなり体も頭も使う仕事だと仕事だからである。その認識が男性には欠けているのである。まず一人暮らしでも男性で料理をできる人はやはり優秀であり一人暮らしでも充分に豊かに暮らせるとなるからである。それが自分自身してみて料理ほど難しいものはないと思ったからである。このように家事というのは今や男性にとってもすることが強いられる時代なのである


posted by 天華 at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年12月20日

家事にかかる手間と時間 【人間はあらゆることに手間と時間をかけられない】


家事にかかる手間と時間

【人間はあらゆることに手間と時間をかけられない】

●家事の手間ー鉄砲風呂のこと

人間は何でも効率的にして手間と時間を短縮しようとしてきた。その一つの例として近くに井戸があった。それは子供の時使っていた井戸である。街の中では井戸がない家があった。それで井戸水をもらっていたのである。そして風呂に入るにもその井戸水をバケツに汲んで運んで風呂の水にしていたのである。子供の時バケツで運んだことを経験しているからである。その後も私は風呂焚きが仕事になっていた。

鉄砲風呂と言ってそこに木の屑のバタや新聞紙はみなどを入れて燃やすのである。それは結構な手間である。昔は何をするにも手間がかかり時間がかかった。水を汲むにしても井戸があるにしてもそこから水を汲み上げて運ぶということ自体手間であり時間がかかるのである。

水を汲むのと、湯を沸かすのが子どもたちの仕事でした。水汲みは何度も何度も往復して風呂桶に入れるので大仕事。湯が沸くのに鉄砲風呂はわりに早く、1時間弱もすればあったかいお湯になりました。
鉄砲風呂の写真がここで見れる

だから近くの井戸水を利用するにしてもあまり出が良くないのでペットボトルをでその水を溜めていたがそれも時間がかかるのでやめた。それで水をどうしているかというとスーパーから安い水を買うことにしたのである。一箱六本くらいで1週間以上は持つからである。またツルハとかでも無料で水を提供しているのだがそれもなかなか暇なのである。人が並んでいる時もあり一気に水は出てこないそれは手間なのである。

家事を全部一人でしているから手間になること時間にかかる時間がかかることをしたくないのである。もし昔のように風呂をたいていたらそれだけで労力を費やして時間も失われるのである。
だからどれだけ昔は家事に労力を費やし時間を費やしたかわかる。今なぜ自分のようなルーズなものがなんとか一人で家事ができているのか。それは一人暮らしでもでん便利になっているからできるのである。ただ料理だけは相当な手間であり時間がかかり簡単にはできない。料理には10種類くらいのものが必要になるそれを揃えるだけで手間なのである。調味料とか様々なものがありそれが面倒になってくるのである。料理というのはどうしても手間が省け無いのである。だから弁当を買って簡単に済ましたいとなってしまうのである。でも弁当は必ず飽きてしまうのである。

●人間はあらゆることに手間と時間をかけられない

とにかく人間は何をするにしても手間と時間がかかる。これは省くことができないのである。例えばインターネットでも何か新しいことをしようとすると覚えることがかなりありなかなか出来ない。ワードプレスをしようとしているのだがそれも今になるとなかなか出来ない。私がインターネットをに早い時期からしていたのは引きこもりであり暇だからできたのである。
この世界を知るにはやはり相当な手間が必要でありまた時間もかかっていたのである。だから何十年も前にワードプレスでもしていればこうはならなかったのである。つまり何でやれ何かを習得するということは学習するということ自体が時間がかかるということで手間もかかるのである。でも人間はあらゆることに手間と時間をかけることはできない。例えば楽器一つでも習得するにわやはり手間であり時間がかかるのである。語学なども習得するにわ必ず手間であり時間がかかるのである。

そして人間はあらゆることに労力を注ぎ時間をかけることはできない。あることに時間をかければ他の事には時間をかけられないのである。そして人間に与えられた時間は短いのでは。だからみんな老人になればなんで何もたいしたこともやれずに終わったとまでなる。私自身も何かをしようとしてきたのだがそれもちょっと試しただけで何も成さずに終わってしまう。つまり何かを経験するにしてもわずかのことしか経験できないしそのうちただ時間が過ぎて何かを試したり何かをする時間もなくなっていたのである

ともかく家事は一仕事である機械化されていたとしてもやはり人間の手間と時間がかかるのである。特に料理はそうである。料理に凝ったりしたらもう何かほかのことはできなくなってしまうのである。つまり人間が専門化するということは料理にだけ集中して経験を積んでいけばその人の能力もあるがやはりそれなりの料理人になってゆく。要するに人間とは才能もいろいろだが何に時間をかけたか何に労力を費やしたかでそれがその人の人生だったともなる。

とてもあらゆることに精通する人はいないし何でもできる人は居ない,何かに熟練するにしてもそれは一つの事にはできるが一分野にはできてもあらゆることに熟練することは不可能である。だから無数の専門家に分かれてしまったことでもわかる。
家事でも掃除であれ料理である頼むようになった。家事の専門家に頼むようにもなったのである。それは人間はあらゆることに手間をかけて時間をかけることができないからである。こうしてプログでかけるの手間と時間を省けるから一人でもやれているのである。もしこれが手書きだったり紙に原稿に書いたりそれから雑誌に載せたりしたらそれを配るだけでも大変な手間になる。ネットならそういうことは全部誰にも頼まずに一人で出来てしまうのである。
でも依然として文章を書く労力と暇は手間は必要なのである。だからどんなに便利になっても人間の労力と手間を全部省くことはできないのである。機械がやるにしてもその機械を点検する人も必要になってくる。AIでもそれが全部人間の代わりはしてくれない,必ず人間のすることがありそこに労力と手間がかかるのである

ただ文章入力にしても音声入力でしているがこれがもっと精度が良くなりなれば効率的になり時間が省かれる。音声入力の問題は後から必ず校正しなければならない。そのために一回だけでなく何度も文章を読み直して構成しなければならない。それが手間なのである。だからいくら機械が発達してもAIになっても人間の手を加えないと仕事にならないのである。逆にすべてが機械がやるようになったら人間は必要な物となってしまう。それはaiで起きるとされている。それをそれをまたそれはバカげた世界だと思う.
人間はいらないとして人工知能化した高度な知性のある機械が人間を支配してしまう。人工知能機械がコンピューターは人間を操作するという恐ろしい結果になるのである。

●老人は利益を求めず好きなことするにが理想

人間には機械には休むということはない。 24時間でも一年中でも休むことなく機械は働き続けることができる。それで文句も言わない。そうなると経営者は人間より機械を使った方が良いとなるのである。でもそんな世界は異常な世界である。人間には休息が必要であり自然にも休息は必要である。神も創造の技を1週間続けた後にその手を休めて休息したからである。その休息することが日曜日で聖なる日となったのである。日曜日は人間の技は何もしていけないということである。だから機械すら停止して休むべきだともなるかもしれない。冬はやはり休みに居る時であり休息の季節なのである。
ただ不思議なのは冬はふゆーふえるであり意外と野菜が育つときなのである。冬の時期に育ちやすい野菜が多いからだともなる

今年も終わりに近づいたが老人でも働かざるをえない働くことを教えられる日本は貧乏な国になった。でも昔から隠居というように老人がそんなに働くことがいいものなのかどうかはわからない。働きたいという人もいるし働く働けば生きがいがあるという人もいる。要するに人間は何かしら老人になっても生きがいを求めるのである。だから別に働くことは悪いことではない。ただ老人になってまで働かさせられることはいいことではない。自らが働くという働くことに生きがいを求めるならばいい。

でもそれを金銭のためにだけするというときまた問題がある。理想としては子供の時とときは遊ぶといってもそれは純粋な遊びであるそこに何か金を求めるとか利益を求めることはなかった。でも大人になれば何をするにしても遊ぶにしても利益を追求しているのである。だから老人になったらそうした利益から利益追求から金から解放されるというのは理想である。利益を得るためでなく金を得るためでなくその人の追求したいことをする。それは利益にならなくてもその人にとって価値があればいいとなる。それはあくまでも理想であり現実はそうはなっていない。人間はどうしても利益から離れられないし金から解放されないそして地獄の沙汰も金次第となっているのである。それが人間の現実なのである。

おそらく天国とは金で価値を計れない世界になる。そもそも無数に花があるとしてその花のそれぞれに価値がある。その花自体に花のイデアに価値があるのであり神はその価値を人間に示したくて創造したのである。別に神は金など欲しくない、その花自体が持っている美をみとめてもらいたいとして創造したのである。それはそもそも金額で計れないものである。要するにに価値というときすべてを金で計ることはできないのである。だから天国では金は通用しなくなる。そのものが持っている神が創造した純粋な価値だけが問題になる。



posted by 天華 at 18:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年12月09日

お金の賢い減らし方―大江英樹の批評 【老人は共感する本ーただしある程度金の余裕がある人】


お金の賢い減らし方―大江英樹の批評

【老人は共感する本ーただしある程度金の余裕がある人】

●紙幣であれ貨幣であれ何なのか?

この本は金を増やす本はいくらでも出ている。でも金を減らす本はほとんど見かけない。人間はいくら金があっても金を増やしたいと思う。また人間はいくら金があっても減らしたくないのである。それはケチというより人間の心理なのである。だから金を減らすということは大きな金があるにしろ多少のお金があるにしろしたくないのである。それで金がタンス預金などで回っていかないから経済が停滞する。だからお金を減らす減らし金をもっと世の中に回すべきだとしている。お金は天下の回りものだという時それも同じことである。

そもそも金というのは紙幣というのは何か分かりにくいのである.貨幣物々交換が面倒だから生まれたというのは違っていると言う。紙幣は借用証書用の借用証書だとも言う人もいる。金の解釈はさまざまにある。なぜ紙切れなのに価値があるのかとなればそれ自体すでに紙幣というのは本当に紙切れになることもあるし実際にそうなったこともある。
だから今盛んに預金封鎖が行われるとか紙幣が紙切れになるとか言われるのはそのためである。銀行に貯金してでも利子はなく増えない。物価は上がり金の価値は低下している。物の価値が上がるという時ただの紙切れの紙幣の価値は下がる。本当の価値は物にあり紙幣は実際紙切れなのだから紙切れになってしまう。ただ小判とか黄金だったらばc貨幣自体に価値があるのだから紙幣とは違ったものなのである。

それで株というのは紙幣と違っている。

通貨というものはすべからくバーチャルマネーだと言えます
これに対して株式の方が実はリアルマネーなのです
なぜなら株式を持っているということはその会社の一部を所有していることになるからです
通貨という信用をベースにした実体のないものではなく会社の設備や人材という財産の所有権をという目に見えるものを裏づけにしているからです
お金の賢い減らし方

これがただ金を持っているのと貯金しているのと株を持っているということの大きな相違だとなる。会社の株を持つということは株主になるということはその会社の財産権と設備とか人材とかお所有しているということにもなる。ただ金を持っているだけではない。

●資本主義は自己増殖社会−金が金を生む

だから何か株式投資というのはギャンブルだとか言うが実際は違っている。株式投資というのはその会社のことをよく理解していなければできない。でもそれが複雑であり素人でわかりにくいから証券会社とか銀行でもその会社を投資先を選んでもらっているだけである。でも本当は会社のことを理解してその会社の投資するということはその会社の経営者と同じだというのも分かる。でも様々な会社がありそれを理解することは難しいから証券会社とか銀行に頼んでしまうのである。

ともかく確かなことは資本主義社会が「資本が自己増殖する」社会だという時金でも常に金が金を生むということにならない限り成り立たない
だから高度成長時代は銀行に預けていれば利子が7%とか信じられない時代であった。その時銀行ではただ金を貸せばいいだけだったのである。いくらでも金を借りたいという人は会社があってそこから利子を取ればいいだけだったのである。その利子を貯金をしている人に回せばそれだけでよかったのである。でもそれがなくなると貯金しても利子がつかないということは何のために貯金しているかも分からないのである。

だからむしろある程度金ある人はそんなところにただ置いておいても金は有効に働かない。だから金を社会に回すということを言っているのだと思う.
ただかなにしてもそんなにただ減らすただ減らすだけで増えないとしたらいくら金があっても普通はそんなことをしない。それより今そんな金を持っている人は少なく70になっても汲汲として働かざるを得なくなっている。だからこの金を減らせというのはある程度余裕ある人に言っていることである。普通の人には人には関係ないかもしれない。ただタンス預金をしていても金は回らないことは確かである。

●お金は感謝のしるしにはなっていない

そしてお金は感謝のしるしだという時それを現実の経済活動ではそんなふうにはなっていない。誰もスーパーで物を買うにしてもただ値段を見ているだけでありそこにその野菜でありあれ果物であれ作った人など誰かも分からない。どんな苦労して作ったのかもわからないのだからどんな人が作ったのだからわからないのだから感謝のしようもないのであ。ただ値段だけを見ているだけである。ただ大工さんとか家の設備を作る人は直接家に来て対面的に関わるから感謝するということがあった。それは目に見えて目の前で仕事をしてくれた人がいたからである。でも物を買う場合そういうことはないのである。

そして感謝というとき例えば売る方にしても100のものを100で売れるより2000売れた方がいいとなる。例えば100円で買ってくれた人がいくら感謝してもそんなことは通じない。売る方にしてみれば200円もらった方がいいのであり感謝など必要ないともなるのである。第一貧乏人は果物でも高くなると買えないのである。もしあなたが貧乏だからあなたには安くしてあげますよとなれば買う人も感謝する。

でも現実社会ではそんなことは絶対にあり得ないのである。例えば金持ちには高い物でも売れる。でも別に金持ちはそれを買ったからとして感謝などしないのである。むしろ感謝してくれという方なのである。だから売る方では必ずありがとうと言っているのである。でももしかしたら金持ちには高くして貧乏人には安くしたりすればその貧乏人は作った人に感謝することは確かである。でも現実の市場経済活動ではそんなことは絶対にあり得ないのである。だから金は感謝のしるしだというのはほとんど成り立っていないのである

そもそも感謝といってもそれはあくまでも心であり直接に伝わることはない。そして現実の社会ではそんな感謝より具体的にその感謝を示すものを要求されるのである。それが金であり金を多くもらえば作る人は提供する人はそれが報酬だとなるのである。だから別に感謝などはよりは金の多寡で全ては決まってるのは現実社会である。ただ感謝するということが悪いことではない。ただ現実問題として経済活動でそういうことは通じないということであ。ただ著者が言っているのは金にある程度余裕があるのでそういうことを言っているのだと思う。

でも人間の心というのはこならず必ず具体的な行為となって現れる。例えば介護とかになると病人の世話で世話とかになると愛がないと簡単にできない。確かに病院では医者でも看護師でも体を診ているがそこに愛があるとはならない。だから看護師自身が家族のようにはなれないと言っているのである。家族なら確かに医療行為はできない愛はある。その愛が大事なのである。

その愛が病気とか介護になると必ず必要でありそれは欠かせないものなのである。例えば医療行為はできなくてもただ見守っているだけでも愛がそこにありそれは愛がない人にはできないのである。それを自分自身は家族もいなくなり痛いほど経験したからである。その人は私が手術する時ただそこに居るということさえ嫌っていた。は何もしなくてもいいのだがいることさえ見守ることさえ嫌がっていたのである。

その人には全く愛がなかったからである。私のところに来た人は介護に来た人は全て何の愛もなかったのである。ただ金がほしいというだけの人だったのである。ただそれは実際は恐ろしい事だったのである。つまり愛が人間愛がないとしたらもう関わるべきではないとなってしまう。つまり人間の本心というのはどこかで必ず現れてくるのである。それが恐ろしいことなのである。だからダンテの地獄篇でもまさに人間の本心が現れた世界でありそこが地獄なのである。その地獄を自分は経験したのである。それはまた自分と自分の家のカルマでもあったとなる。でも実際はこの世こそ地獄なのである。その地獄を経験したのである。

とにかく感謝するということは大事なことである。それは必ず何らかの行為となって現れることがある。何か金が払えないとしても物をもらったとき感謝すればそれをいつか何かその人に行為となって現れる。何か困ったときやはり今度は助けてくれる人になるかもしれない。だから私は感謝を否定しているのではない。ただ現実経済活動でそうした感謝ということが無視されているというだけである。

●思い出が最後に残る価値となるのわかる

この本で思い出が一番価値あるものとなるというときそれは老人にならないとわからないことである。そして思い出というときたとえばに人ならやはり時間に比例しているかもしれない。一緒に長く過ごした時間お共有した人が一番思い出の人となる。それが家族の思い出である。でも家族でもやがて子供たちは育ってゆくそして家を離れてゆく人も多い。すると共に過ごす時間がなくなる。そうなるとやはりいくら家族でも疎遠となってしまうので

私の場合は特殊な事情で子供の時から60歳までも一緒にいたから特別二人の親に以前死んでからも依然としてそれが思い出となり忘れることができないのである。その理由は長い時間共に過ごしたことでそれが思い出となりそうなったとなる。だから夫婦でも熟年離婚っていうのは相当に損であるなぜなら人間には限られた時間しか与えられていない。すると長い時間を共にした妻でも別れて60過ぎからまた誰かと近しくなりということが難しくなるのである。

その最大の理由は人間はそんなに時間は与えられていないということである誰かと一緒に過ごすにしてもそれは極めて限られた人であり多くの人と時間を共にするということはできないのであるできないからである。だから時間の価値というのはお金の価値よりも大きいものだったともなる。なぜならもう時間は取り戻せない。青春時代もう二度と帰ってこない老人は金があっても病気になったでしたら何もできなくなってしまうのである.そして人間は何かをするチャンスを常に逃してそのチャンスにもいろいろある。勉強するチャンスとか旅をするチャンスとか善行するチャンスとか金を得るチャンスとか恋愛するチャンスとか友情を作るチャンスとかさまざまなチャンスがありそれを逃しているのである。

だから留学などは金がかかるからしないしないとかしているとあとでできないってその留学の体験というのは相当に価値があるからである。つまりこの本でも言っているが体験会見することがもっとも価値あることなのである。その体験した思い出が価値あることだと老人には否が応でも分かるのである。なぜならもはや老人は体験ができなくなるからであるいくら金があっても過酷な外国旅行とか他の事でも登山とかそうしたことはできなくなる。ただ過去に体験したことを思い出すだけになってしまうのである。








posted by 天華 at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年12月08日

投資は人間にとって不可欠なもの 【投資先がなくなると資本主義は終る】

 投資は人間にとって不可欠なもの

【投資先がなくなると資本主義は終る】

investreson.jpg



藤原肇ー紙の爆弾

(3)ポンツィ金融(ポンジ金融)

 最も危ない状態。期待所得により利払いすらできない状態。利払い分についても借入が必要で、借入残高が増大していく状態。
 つまり借入を増加させることでしか、元金と利子の支払いができない状態を示す。大雑把に言えば、営業利益が支払利息を下回るような状態である。



●投資は人間に不可欠なものとしてあった

投資というときそれは本来悪いものではない。株とかとか離れても人間は常に何かに投資している存在だからである。今日は人間は何するにしてもそれは投資になる。例えば勉強するにしてもそれは未来への投資なのである。本一冊を買うにしても金がかかるわやはり知識を得るための投資なのである。一番分かりやすいのは農業でありそれも投資なのである。なぜなら種をまくそして肥料をやってその種が成長して実りなる。でもそこには必ず人の手間と時間がかかる。

だから農家の後を継ぐ場合はその作物を育てるノウハウが伝授されるから楽になる。でも一から始めれば農業は簡単にできるものではない。とにかく人間と投資は不可分に結びついている。種をまくことは投資であり未来に実りがあるから種をまくのである。何もしなければ何も得ることもないのである。だから投資というのは人間にとって別に資本主義の株式とか関係なく人間が存在してから投資ということは必ずあったのである。

つまり人間のすることはなんでも未来への投資なのである。例えばパソコンなどその出始めにはおもちゃのようなものでもバカ高いものだった。それはしょっちゅうフリーズしてまともに使い物もない使えないものだったのである。でも一台40万とかバカ高いものだったのである。それをしていた人は使っていた人は特殊な人たちだった。でもそれは投資だったのである。未来への投資になっていた。そこでbbsとか文章で話をするということが実は画期的なことだったのである。つまり通信機能が付いているということが一番画期的なことだったのでだから私が通信機能付の富士通のワープロを買ったということがインターネットにのめり込む減塩になっていたのである。

たとえその時おもちゃのようなパソコンでもそれを高いとしても買ったことはやはり未来への投資だったのである。ただその時はそれがこのように世界的に発展するということは見えなかった。でも実際は地域間のパソコンでの通信とか国内での通信はすでに始まっていた。富士通のニフティーではそうした通信をシステム化していたのである。でもそれをしている人はまだまだ特殊な人だったのである。だからこれほどまでに世界的になりもはや必需品となったことが驚きだとなる。ただ最初のうちはそれをそのパソコンを買ったり通信をしていた人は投資していたのである。

●投資は必ず未来に向ってする

それは未来に向かっての投資だったのである。だから人間は必ず投資する存在だということである。投資とは未来に向かっての投資なのである。だから投資に向いているのは若い人だとなる。なぜなら若いということはすべてこれから人生を始めるということであり未来があり未来に向かって何かしら投資することになるからである。つまり種をまくということである。そのが種は実りとなるのが投資したものを収穫するということである。

写真でも写真を撮るにはいいカメラとレンズが不可欠である。だからそれも投資なのである。私はソニーのα6000を買った。このカメラが意外といいものだったのである。その後いろいろ出たが画質はさほどかわらないのである。レンズでも中古の二万くらいのでも映りがいいのである。だからこれは投資してもお得だったとなる。αシリーズはその後いろいろ出ても画質はたいしてかわらないというからだ。画質が最優先されるからこれに投資したことがお得だったとなる。だから何か買うということも投資なのである。その見返りは大きかったとなる。

例えば投資が始まったという時世界航海に出る船に投資するという時そこに投資する人たちは必ずリスクはある。なぜならその時船で後悔することは危険に満ちていたからである。だから船が沈没して帰ってこなければ何も得られないとなる。でも無事帰ってくれば莫大な利益が入りで配分されるとなる。だから投資というのにわ危険がともなっているので

資本主義には何か投資するということが基本的にある。社会主義になると何かみんな平等になるということはあっても投資ということがなければ経済がどうしても停滞する。でも共産主義国家でも中国でも体制は共産主義でも経済は資本主義なのである。だから常に投資ということはされてきた。外国でも投資してきたのである。それは将来中国が人口も多いし国土も広いし発展することが成長することが見込まれたから外国でも投資してきたのである。

●老人は投資に向かない理由

ともかく人間にとって投資とは不可欠なのである。常に何かに向かって投資する存在なのである。でも必ずしも投資したからといってそれがそれがすべて利益となって帰ってくるとはならない。投資したものは利益は得られずただ損だけになってしまうこともある。農業にしても種をまいてもいろいろな影響で天候などの影響で収穫されないこともある。だから農業にしてもリスクがある。でもまず種をまいて育てない限り収穫は得られないのである。つまり人間にとって何かに投資するということは不可欠なのである。資本主義とはそうして投資するということで成り立っている。でもなぜ今資本主義が行き詰まっているかとなると投資する先がなくなっている。

成熟社会となり投資する先が無い。インフラでも道路でもなんでも整備されればもはや投資することはなくなる。さまざまなものが整備されれば投資されるということがなくなる。だから投資先がないからオリンピックとか万博とかそんなものに投資しても無駄だとなる。それだけ投資する先がなくなっている。高度成長時代はいくらでも投資する先があり銀行でわ借りる人がいくらでもあり利子が7%とかついていた信じられない時代があったのである。その時貯金していれば貯金しているだけで金は増えていったのである。今や銀行に金を預けても手数料取られたりして増えることもない。だからなぜ銀行に金を預けているのかわからなくなる。銀行にしても金を貸す先がないのである。そこで資本主義自体が行き詰まり限界に来ているともされる

そして投資というときそれは必ず未来に向かっての投資なのである。だから投資という時若い人にわ向いている。でも老人になると未来がない。後は死ぬだけだとかなってしまう。すると投資するのも無駄となってしまうのである。老い先短いとかなるとかなり何か投資するということがむいていないのである。私の家は古い家なので隙間風が入ってきて冬は寒い。それで家を暖かくするには窓が重要だという時その窓を直そうとしても広い家なので金がかかる。
でももし若い人ならその家に長く住むのだから未来への投資として金をかかっても治そうとするだろう。でも老い先短い人だぞ家にしてもそんなに長くすまないとなり我慢して住むかともなる。つまり若い人の感覚と老人との間隔は相当に違っているのである。例えば老人の介護にしてもそれは子供が病気になって介護するのとは違う。なぜなら子供は未来があり病気になっても直れば長い人生を生きることになる。

ところが老人の介護はただ死ぬだけでありその間介護するということになる。そこに子供のように未来はないのである。だからそこに労力を費やしても未来は無いとなる。だから若い人が老人を介護するというのはそれが職業となるのは何か無駄に思えるのであ。老人を介護しても老人には病気でも治らない人が多いしただ死んでゆくだけだからである。老人が未来を考えて投資するということもしにくい。老い先短いのだから例えば種をまいても木を植えてもそれが成長するのに時間がかかりその木が成長して実がなるというまで待つこともできない。そのうちに死んでしまうということである。

でもこの辺で津波でまず松林が流されたがそこにまた松を植えた。その松は成長している。でもその松が大きくなるのは50年もかかるとなればとても老人はその成長した松を見ることはできないのである。だから老人には投資が向いていないのである。老人は投資これまで投資したもの成果として発表するのに向いている。例えば私自身が旅に費やしたとしてその旅のことを書けばそれも一つの成果である。これまで老人は経験したことをさまざまに語る。それも一つの成果であり実りである。でもこれから投資するということは老い先短いのだからできないとなってしまうのである。

●投資先がなくなるとき資本主義は終る

いずれにしろ投資というとき株式だけではない常に人間には投資が必要なのである。その投資したものはまた必ずしも実りともならない。でもそもそも種を蒔かなければ投資しなければ何も得られないことは確かである。だから投資にはリスクが伴うのである。教育にしても投資なのである。それで子供の時そろばんを習ったがそれも投資だったが今や何の役にも立たない。そういうことは投資にはある。投資したものはすべて実りとなることをとはならないのである。そこに投資の難しさがある。いくら投資しても時代の変化で実りとなるとは限らない。でも意外なことが投資して実りになることもある。だから投資というのは別に株式だけではない不可欠なものとしてあった。

ただ株式となるとその投資でもいったい何に投資してそれが何をもたらすのかだ投資した金が増えるということしかない。グローバル化して経済が巨大化すればもはやそれを全部見通すことなど誰もできない。だから現代の投資は投機となり資本主義の限界が生じたとなる。投資するにしても何に投資したものが何なのかとかわからない。ただ金を投資して増えるということしかないから投機になる。 一種のギャンブルにもなる。でもクラウドファンディングとかなるとそれは何に投資するかはっきりしている。こういうものを作って作りますよとして金を集める。その金を早めに払った人は安くその品物を買えるのである。だから何に投資しているのか明確に見えるのである。だからそれは投機ではないのである。とても株式市場時になると巨大であり投機になってしまうのでは。

そして資本主義が終わるというとき投資先がなくなってしまったからだとなる。今世界的企業であるGAFAは何か必ずしもものを作り出しているわけでもない。でもbeingイメージクリエーターとか言葉を入れれば映像が作られる。それはコンピューターが画家になり芸術家になったということでもある。だからチャットgptでも今そこに投資されるという時それが新しい未来を作り出しているからである。

でもそれは今までのものを作り出すとかインフラを整備するとかとは違っている。でもそこが巨大な利益を生み出しているというのも現代なのである。そこは確かにただ遊びの空間ではない金を生み出しているのである。だから今一番儲けているのはGAFAでありそこに人は投資するのである。確かなことは人間社会に投資はなくなることはない。ただ投資先が必ず変わってくるのである.
だから意外なものは投資して大きな利益を生むということがある。ただそれが何なのか分からないということもある。だから投資には常にリスクはつきものなのである


posted by 天華 at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年11月02日

物価高に苦しむーデフレからインフレへ 【適正価格を知るべき】


物価高に苦しむーデフレからインフレへ

【適正価格を知るべき】


●デフレ時代長く物価が安すぎた反動が今出ている

一番身近に感じる物価高は食品である。なぜならそれは毎日買うし食べているからである。それが20円でも30円でも高いと感じてしまうのである。大判焼きが150円だったのは200円になっているのは高いと思って買えないと見た。
その他コンビニに行くと何でも20円とか30円は上がっているそしてお菓子でも中身が半分くらいに減っている。それは実質値上げなのである。ただ気づいたことは葡萄などはもはや高級品であり買えるものではないと思った。
でも安い葡萄が出ていてそれを買っている。私自身は貧乏だったので長い間贅沢をしたことがない。だから多少お金が入っても贅沢はしない。そもそも貧乏性が習慣になっていたのである。私は旅をしたとしてもいつでも最低の宿を探していた。私はただそこで寝るだけでいいと思っていた。私の目的は何か旨い物を食べるのではなく旅をすることだったからである。

人間は日頃の生活が習慣化して習性化してくる。それをなかなか変えることができないのである。貧乏性になるとそれもなかなか変えられない。また逆に裕福な生活をしてきた人もその生活を落とすことはできない。私は果物は好きで果物は一応それなりに買って食べていた。でも今年は梨が高いので買わなかった。それで安く売れ残ったものがあったのでそれを買ったらまずかった。得したと思って買ったが結果的には損だった。

そういうことは前にもあった。ただ梨一個250円とか300円までなっているので高いと思った。でもよくよく考えたら250円でも高いとは言えないものだったのかもしれない。今までの物価は本当は安すぎたのかもしれない。安いということは消費者にとってはいいことだが生産生産者にとっては苦しいことであり体。いかにして安くするかということで苦労するからである。

ただあまりに高いと葡萄などは本当に高級品であり金持ちしか手が出ないというふうに見た。それがまるで宝石のようにも見えたのである。でも果物が好きだから食べたいと思った。それで安い葡萄を買って我慢しているとなる。
とにかくあらゆるものは上がっている。でも年金生活は年金は上がらないし貯金はあっても利子もつかないだから物価高は年金生活者とか老人には余計に響くものとなる。でも人手不足だから働ける人は賃金が多少上がっているかもしれない。賃金が上がらない上がらなければこの物価高にもう対応できないからである。

最低限の生活のしてる人はまともなものは食べていない。するとそれは体に影響する。その体に影響するということはもっとも悪い影響なのである。老人にとっては健康が最も大事だからである。健康を喪失すると金があってどうにもならなくなっ。だからこそ健康に気をつけねばならないのだが物価高で果物でも野菜でも上がる時苦しくなる。
でもその健康の源の食品の選択を誤ると体にじかに影響する。だから多少高くても基本的に食品を安物には全部することはできない。ただお菓子などは贅沢品となったかもしれない。どこかで何かを減らさざるを得ないのである。

●回転寿司のネタはにせもの

原材料の粗悪化も進めていた。たとえば、回転寿司のネタはニセモノのオンパレードというのはよく知られるようになっているのだが、これらのニセモノは本物とはまったく違う「安い原料」を使って作られる。

*偽装、代用の例

ヒラメ→米国産アメリカナマズ
天然マダイ→ティラピア
キハダマグロ→赤マンボウ
カツオ→南半球産アロツナス
アナゴ→ウミヘビ科のマルアナゴ
ブリ→南半球産シルバーワレフ
ヒラメのエンガワ→オヒョウ
カンパチ→コバンザメ近隣種スギ
スズキ→ナイルパーチ、ブラックバス
アイナメ→深海魚のヒモダラ
アワビ→ロコ貝
赤貝→サルボウ貝
クルマエビ→養殖ブラックタイガー

レストランやスーパーで売っているカニ爪フライも、海老フライも、イカリングのフライも、今ではすべてニセモノの安い原材料を使って作ることができるし、実際ニセモノが堂々と売られている。

要するに本物を食べていない。本物を偽装したもの食べている。それが現実なのである。なぜなら安くするにはそれなりのものしか使えないからである.でも本当の本物の寿司を食べようとしたらばか高くなる。それは金持ちにしかできない食べられないものになっている.

ともかくデフレ時代が長かった。そこで安物志向が習性になってしまったのである。だから本当の価値あるものはどういうものかわからなくもなっている。葡萄などばかだ買い物があるがそれはもともとそれだけの価値あるものだったのである。価値あるものはやはり高くなる。それは市場の原理で当然である。でも安物志向が習慣化して物価でも何でも安くなければならないという感覚になっていたのである。でも庶民からすればそれは当然のことである。高いものを買うにしても買えないからである。今これだけ物価高になり年金も少ないとか収入も上がらないとすればさらに安物思考になってしまう。すると健康に影響して寿命でも縮まるとなってしまう。

そもそもやはり物には適正価格がありあまりにも安いとかあまりにも高いとなると問題になる。デフレ時代は安すぎたということはある。それで物の価値が歪められてきたのである。梨が一個200円にしろ250円にしろそれが適正価格なのである。それを高いと見るのは問題だったともなる。もはや安さには限界がありそれでは作る人が生産者がやっていけなくなっているのである。なぜなら肥料代とかでも上がり人件費でもあげねばならないからである。

そういうことを考慮すると100円くらい上がってもそれが適正価格だったということ認識したので。でもみんな金がないのだからそれが適正価格でも高いと思うし現実に買えない人が増えている。それだけ日本は総じて貧乏になっていて購買力も無くなっているのである。ただ確かなことはこれまで物価は安すぎたということである。そしてこれだけ円安になると金の価値は持っていても低下するだけである。だから年金とか貯金だけで暮らすということは厳しいものとなる。貯金があっても利子はつかない。その金の価値は目減りするだけだからである。

posted by 天華 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年10月06日

自転車でも個人の経営が難しくなっている (商売も人を助けることだがまず利益が優先される問題)


自転車でも個人の経営が難しくなっている

(商売も人を助けることだがまず利益が優先される問題)

●商店街が廃れた原因

地方の商店街何かで出店するとしたら 
飲食店以外でどんな業種があるんだろうなぁ 
理髪店位しか思い付かんな

なぜ商店街とかがだめになったのか。その一つが車社会になり商店街には駐車場などがないとか買い物に不便になった。
そして商品の種類とかあ増えすぎたのである。私の家は店屋だった。その頃商品の量は種類は少なかった。物がない時代であり物を置けば売れたということがあった。また繁盛した原因が角にあったということである。ただそれだけのことで繁盛したのである。
というのはその頃車など持ってる人いないし歩く範囲で生活していた。だから近隣の人が買い物に来てそれで繁盛していたのである。ただ場所が良かったというだけだったのである。何か私の家の人は商才などなかったからである。
だから必ずしも商売上手だからといって繁盛するということでもない。その時代時代に適応して繁盛する。

なぜその頃袋に入ってるものを売っていない。ばら売りであり袋は母親が新聞紙で一つ一つ作っていたのである。そのことをインドに行ったときバラックのような店でやはり新聞紙のようなもので袋に品物を入れていた。また量り売りでもあり飴玉一つでも売っていた。
とにかく物がないから物を置けば売れたのでそこに何か設備としてかかるものもほとんどなかったのである。その頃子供相手にもものを売っていて子供が多いからまた子供は欲しいものが売れたのである。だからそんな商売は何か特別な商才など必要なかったのである。
何か今になると病気になってやっと歩いている人が近くに店がなくて困っているという。店と言う時はもはや1万の街で二軒のスーパーがあるだけである。そこまでゆくのには歩いてゆくのは病気になって辛いのである。何かその頃は近くに魚屋とか豆腐屋とかあってそれで間に合わせていたのである

●個人商店は成り立たなくなっている

今になると車社会になったり商品の量が増えてとても小売店などは個人の小売店などは成り立たない。だから商店街はすたれてしまった。自転車屋でも町に一軒あった自転車の人が最近死んでなくなった。それで修理してもらうためにイオンに行った。何か個人の自転車屋だと原町で常連客ではないので断られる事があったからだ。それは昔は個人商店ではお得意さんいた。それと同じである。

スーパーになればお得意さんなどはいないのである。コンビニでもそうである。そこでただ人は物を買うというだけになってしまったのである。そしてなぜチェーン店などが増えたかというとたとえば自転車でもチェーン店が増えた。ただこの辺にはそういうものはない。自転車屋のチェーン店だとさまざまな種類の自転車を置いてある。私が買いたい折りたたみの電動自転車も置いてある。自転車の場合どうしても後から修理を頼むことがありか通信販売でわ外国製などいろいろあるのだが買えないのである。なぜなら現実にエンジンになる部分が壊れていたとかありそっくり交換したことがあるからである。それが出来ないから怖くて買えないのである

でもなんとか買おうとしても防犯登録をしなければならないとか面倒なのである。それで近くの自転車屋でもその防犯登録はしてくれなかった。というのはそこで買ったものはサービスするな防犯登録だけはしてくれない。金にならないからである。でもその人はその自転車屋は最近死んでしまったのである。

何かこれ商売というのはただ売って儲けるというだけではない。何か人を助ける人のために働くということが必ずある。だから本当は他で買ったものでも防犯登録でもしてくれるべきだったのである。でも経営が苦しければそうなってしまうのである。
だから一概に責めるわけにはいかない。そして思うに今は小さな個人商店というのが商売できなくなっている。それは自転車屋でも同じなのかもしれない。あまりにも自転車の種類が増えすぎたのである。イオンには自転車の数が少なすぎる。電動自転車も置いてない。扱っていない。電動自転車になると後の修理とかが面倒になる。普通の自転車だったら修理はできるのである。

イオンで自転車が部門があり人が居るのは別にそこで商売にならなくてもイオン全体で商売になればその一部分でも給料を同じように払うことができる。だからどうしても今の時代はそうして大きな会社でないと成り立たなくなっている。そのことは利用する人にとっても困る。サービスを受けられなくなるからである。だから個人商店が自転車屋でも成り立たなくなっているのかもしれない。ただ自転車屋の問題は必ず後で修理することがありそれが最大の問題なのである。
でもこれだけ商品の種類が増えるとき店に飾ってあるのはほんのわずかであり折りたたみ自転車や電動自転車は置いていない。だから現代では個人商店が成り立ちにくいのである。でもイオンでは修理だけでも受け付けている。それができるのはやはりイオンという大きい会社で給料を払っているからできるとなる。

●商売も人を助けるということが基本にある

いずれにしろ何か商売というのは人のためにすることでありやはりサービスを心がける。でもその前に利益を上げなければならないから無料で奉仕するわけにはいかない。そこにジレンマがある。
でも基本的には人を助けるということが商売の根底にもあるということである。ただそれを無料ではできない。それは医者だとか看護師だとかは常に人を直接に助けるという意識を持たないとできない。

でも医者や看護師でも必ずしもやはり商売にならないと金にならないとできない。だから近くの医者でもあなたはいつも来ていないから緊急の時見てもらえず断られたのである。自転車屋でもあなたはいつも来てていないからと修理を断られた人がいるのである、自分も断られたのである。

人を助けるにしてもどうしてもそこに個人商店だと経営が成り立たなくなるからそうなる。でも基本的には人を助けるということが商売の根底にありまたほかの職業でもそういうことがある。
もうし人を助けるということがなければあらゆる職業でも成り立たなくなるかもしれない。無料でしてくれとは言わない。実際防犯登録してくれたらそれなりのお金は払うと言っていた。
だから無料では頼んでいないのである。いずれにしろほとんどの職業でまず利益を上げなければやっていけない。それでこうした問題が起きるのである。でも基本的に根底に人を助けるということがなければ職業も成り立たないかもしれない。でも医者だったら金を払えなかったら医者にもかかることはできないし医者も相手にはしない。それで貧乏な人は金がかかるから医者に行けないとかなっているのである

●イオンとは商売が成り立たないと撤退する

ともかく確かなことは個人商店が成り立ちにくくなっていることなのである。例えば医者でもなぜ目の病気になったとき仙台まで行ているのか。その仙台の眼科は2人の医者がいて専門病院である。だから設備も整っていてそこで手術も前からわざわざ仙台市まで行くのである。
つまり医者でも今は日進月歩であり技術が進んでいるからそういう場に行かないそういう病院に行かないと損だとなってしまうのである。
だから小規模の個人の医院とか商売としては成り立ちにくくなっている。ただ理髪店や美容店などは個人経営で成り立っているのかもしれない。

とにかく商店街が廃れのはやはり時代に合わなくなった。だからどうしてもスーパーとか大きな会社に従属して商売する他なくなる。でも相馬市でイオンが撤退したように商売にならないなるとそうした大きな会社が撤退して街全体が廃れてしまうことにもなる。そうした大きな会社は街のことなどあまり関心がない。だから商売にならなければ簡単に撤退してしまうということである。でもその地域に生きる人は他に移ることもできない。それでその影響が大きいので。相馬市ではいつもイオンに寄っていたから相当に影響したのである


posted by 天華 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年09月22日

ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人 (偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)


ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人

(偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)

darksidemis.jpg

これは再放送がある

porutogul.jpg



この人の最初の詐欺はオックスフォード大学の卒業証書を偽造したことである。その卒業証書はあらゆる理系の学部を学び卒業したと書いてあった。まず最高の大学で理系だったら相当な価値がある。ここでも文系は価値がないことがわかる。
その卒業証書が見破られなかったのは公証役場で国家の認証を受けたからだった。その卒業証書を持っていたからポルトガルの植民地だったアンゴラで鉄道会社に就職できた。そこで実際に機関車の故障を直して評判になったのである。その人はすでに高校とかで専門学校で工学部に入っていて勉強していたから直すことができた。だから別に本当はオックスフォード大学の卒業証書がなくても仕事ができる人だったのである。

現実にオックスフォード大学を出た人は人もそこで働いていたがそういう現場の仕事はしてしないとなっていた。だからここでそうした卒業証書はすべてそれで判断することは間違っているということになる。ただオックスフォード大学の理系となればどうしても誰でも認める。まず今や大学などが50%以上の人が行っているのだから価値がない。計算も読み書きもまともに出来ない人まで言っている。そういう時代である。でもやたらと学歴にこだわる人もいる。

私は三流大学の経済学部を出ても何も勉強してない。だから高卒で銀行に勤めている人のほうが実務をしているから経済を知っているとなる。まず文系は社会に出て大学の勉強などほとんど役に立たない。文系とは実用とは関係ない教養にすぎないからである。それは無駄ではないにしろ独学できるものなのであるある。

その次は株を買い占めるための資金を得るために小切手の詐欺をしたことである。アメリカの銀行に金がないのにおろさせた。次に鉄道会社の株を買い占めて経営者になることなるために資金が必要であり銀行を通じて紙幣を作ることだった。そのその紙幣をばらまきアンゴラの経済を立て直すということがあった。だからこの人のやっていることはアンゴラのためでありその人自身の私利私欲というものでもなかった。実際に経済政策として紙幣を金を回して経済を活性化するということは国家レベルでもしているからである。

だからこの人のしてきたことは別に私利私欲というものでもなかった。これは別に国家レベルですることでありそれが一個人でしていたという違いである。そして別にオックスフォード大学の卒業証書がなくても実際の現場で仕事ができていたのである。だから会社側でも別にオックスフォード大学の卒業証書がなくてもその人は仕事ができる人だったのである。だから学歴にしてもそれですべてを判断することは間違っている
だからこの人の詐欺は何かすべて悪いものにも見えない。何かそういうことは会社でも国家レベルでも行っている。大掛かりな詐欺になってもいるかもしれない。あまりに大掛かりになるとかえってそれが見えないし信用するとなる。それで現実にグローバル経済とかではそういうことが実際に行われている。だからこそ陰謀論は常に言われるのである。
つまり国家自体とか大会社でも銀行でも詐欺していることがある。でもそれが巨大だからわからないとなる。つまりグローバル経済というのはそうした大掛かりな詐欺なのかもしれない。でもそれは罰せられることはないのである。国家レベルの詐欺ということもある。それは誰も罰することができないのである。

何かこの世はそうした騙しが詐欺が公然として行われる場でもある。それがカルト宗教団体でありそれを取り締まることもできない。税金も払うことがないビジネスなのか何かそれがあまりに大掛かりになると巨大になるとその悪夢は隠蔽されて見なくなるのである。
つまり大掛かりな詐欺はだましは簡単に見破れなくなる。原発事故でもそうだった。検察とかも天下りして官僚もかかわり国家的事業でありそのために安全神話が作られ誰もそこに立ち入ることもできない。アンタッチャブルとなりそこに危険があっても何も言うこともできなくなっていたのである。それは国家的犯罪でありでもそれを取り締まることはできない。だから国家自体が犯罪者になるということがある。でもそれを取り締まることはできなくなる。それで国民が大被害を受けることがある。

不思議なのは一人の個人がこのような大掛かりな詐欺作業したということである。でもそれは全て悪いものかというと国家に代わってアンゴラの経済を立て直すための方策として紙幣をばらまいたのでそれは結果的に効果があった。この人は確かに自分が英雄になりたいとか認められたいとかはあったがそれは私利私欲と言うものでもなかった。アンゴラの経済の立て直しのためにそうしていたのである。国家ができないことを個人で不正であったが防いであったが個人でしていたということである

ともかく国家的犯罪は犯罪にならない。戦争でも国家的犯罪であっても何百万人が死んでも犯罪にはならない。国家を罰するものはいないのである。また国家を罰することはできない。だから原発でも罰することができなかった。ただ津波が地震がその悪を暴いたのである。
だから何らか国家を罰するものは国家を超えたものでありそれは神にしかできないともなる。だからこそ最後の審判がありそれは個々人を罰するものだけでなく国家でも罰せられるのである。国家自体が犯罪を犯すものでありでも罰することはできないからである。
だからこの事件は個人の問題だけではない国家の問題として提起されたのである。国家は何もしてくれないから個人が大きな詐欺をして偽の紙幣をばら撒きアンゴラの経済を活性化させたということにもなる。でも結局は罰せられて悲惨な結果として終わったのである。

posted by 天華 at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年08月08日

村は大きな家族だった (広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)

村は大きな家族だった


(広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)


●家族の範囲が狭すぎる―昔の村は大きな家族だった


今家族に何が起きているのか?家族のつながりが弱くなっている。それはなぜか?家族だけの繋がりでは足りないからである。ファミリーとはは大きな集団のことであり夫婦とか子供とか祖父母とかの家族ではない。もっと大きな集団のことである。それは村社会と似ているかもしれない。村というのはある意味でファミリーであり家族とも似ている。だから何かあると助けあうのである。農村社会であるとどうしても互いに助け合わないと仕事もできないしその共同体も維持できないからである。そのために村に生まれた子供は村全体の子供となる。


出生〜幼年期では、「帯の親:オビノオ ヤ/取上げ親:トリアゲオヤ/乳付け親:チツケオヤ/抱き 親:ダキオヤ/名付け親:ナツケオヤ/拾い親:ヒロイオヤ /守り親:モリオヤ/養い親:ヤシナイオヤ」の 8 つの事例 を取りあげる。次に、成年期以降では、「烏帽子親:エボシ オヤ/鉄漿親:カネオヤ/仲人親:ナコウドオヤ/職親:シ ョクオヤ/草鞋親:ワラジオヤ」の 5つの事例を取りあげる。 仮親制度には、親が子どもの成長を願う思いの表れとして、 呪術的な要素と社会的な要素の 2つの意味合いをみることが


これだけ村で生まれた子供には周りの人が村人が関わっていたのである。それは明らかに村という集団のコミュニティの一員として育てるためにそうなったのである。


現代の問題は家族の範囲が狭くなりすぎたのである。核家族化がそうである。ついには親一人、子一人とかになってしまった。シングルマザーが子育てするにも一人なのである。また老人でも孤独死が多くなるのはこうしたコミュニティが喪失したからである。ファミリーの語源が。実はかなり広い範囲の意味であり集団のことだった。


そうなったのはまた社会経済の構造があまりにも変化してしまったからである。今や村と言う500人くらいの単位の社会ではない。広域化してさらにグローバル化して世界の経済の中に組み込まれる。すると別に村の中でそうしたコミュニティとかに入らなくても暮らしていける。物でも世界から入ってくるのからなんでも買える

かえって村の自給自足的な生活だったらものも買えないし。生活すらできなくなる だからこそ村八分にされることは一番厳しい罰だったのである。村のの自給自足的な生活では物が買えないし、入ってこないからである。だからこそそういう背景があり村のつながりとか小さなコミュニティーの人間の繋がりは消失したのである。


だからしきりに戦後間もなくまでは醤油がないとかでも味噌がないとかでも隣の人にくれとかあり助けてくれと言えばもらえたとかいう人がいる。それは物がない時代でありみんなが貧乏だから、かえって助け合ったのである。

今は金がないとどうにもならない。隣に何かそんなものをくれと言ったら応じる人はいない。醤油もないのかとなって馬鹿にされるだけになってしまった。何か助け合うということがなくなり常に金だけが問題になるのである。


現代では金がないということはどれだけ苦しいことかわかる。隣近所する無関心であり何も金で買えばいいとなってしまうからである。

そしてあとはに福祉に頼れと言うだけなのである。奇妙なのは福士に世話になっていた人は私が困った時その人自体が福祉に頼れと言っていたのである。その人はまともな人ではなかった。でも助けたことがあったし、その母親にの親は助けられたので助けたのである。その人は死んだ。


●広域化グローバル化で地域の繋がりが希薄化


現代とはあらゆるものを買う社会である。水すら買っている。だから金がなくなれば生きていくこともできなくなる。でも子供の時使っていた態度が井戸があり今も水が出ている。夏でも冷たい水が出ている。

天然の冷蔵庫から出ているのである。

それはこの辺の原発事故でも放射性物質に汚染されていないと持ち主が言った。検査したのでそれは確かなのだろう。その水が無料だということに感心した。無料で使っていいと言われたからである。子どもの時もそうだった。それは子供の時から持続して水が出ていたのである。その時は風呂場でその水を利用して使っていたのである。だから金わからなかったのである。今は水を飲むにしろ使うにしろ金がかかるから金なしではもう何も出来なくなってしまったのである。


何か近くに味噌屋がある。前だったら必ずそのみそや辛味噌を買っていた。味噌はそこで作っているからである。でもそこから今は買っていない。一人であり出しつきでないので買っていない。スーパーでいろいろだしつきの味噌があり。味噌でもいくらでもどこの味噌でも日本中から入って来て買える。こうして近くは重要なものとならないのである。また近くと関係しなくても金さえあれば何でも買えるそこで田舎からだと言って何か助け合うということもないし。身近で何かを賄うというよりただ金を出してさえいれば何でも買える。通信販売も発達して商品の量が種類が莫大に増えたのである。金さえあれば別に近くにいなくてもなんでも買えるとなる。


ただ自転車とかは後の修理とかあるので困るのである。この辺の街の一軒の自転車の人は死んだから誰もその後見てくれる人はいない。そこでなかなか金だけでもあらゆるものが使えるとはなってはいない。こうして経済が広域化してグローバル化すると近くは大事にならない。それは交通の発達にもよる。なぜなら近くの人が梨を作っていたが相馬市まで運ぶのに15キロぐらいありリやカーで運んでいたからである。そうなると運ぶこと自体が大変な苦労になるしそれを売って金にするにも大変な労力が必要になっていたのである。でも今なら運ぶことはいくらでも簡単とは言えなくても車で運べる。その変化も大きかったのである。


なぜ無縁化社会といわれるようになったのか?無縁化社会になったは神社で無縁の場を作りそこで外から入ってくる人に商売させた。それは外から入ってくる人がいると村のコミュニティがつながりが壊されることがあるからである。それでそのような外から入ってくる人を限定するために、そうしたのである。

それは確かにそうだったのである。もはや外国からでも食糧でもなんでも入ってくる。すると村だけで何かを賄うという社会とはまるで違っている?でも実際は外国からいくらものが入ってきてもその人とつながるわけではないのである。ただ物だけが入ってくるのである。でもその物が欲しいとなれば、金が必要になってくるのである。そこで金がますます重要になってくる。人のつながりより金の方が大事になってくるのである。


ただ昔からの切れ目が縁の切れ目ということあり貨幣経済がひろがるとそうなるのが必然なのである。 外国からいろいろなものが入ってきてもそれでその外国の人間とつながりが共同ができるというわけでもない。その人は直接会うこともないしただ物を通じて外国と関係しているからである。だから何かあるとその関係も切れて戦争になったりする。人間と人間の繋がりが必ずしもものを通じて行われていないからである。

ただ、人間は金だけを頼っては生きていけない。金で全部まかなえるということはない。それは介護の時如実に表れてくる。金が物を言うということはある。でも金だけで親身になった世話はできない。そこに心が伴わないとどうしてもうまくいかない。


●物が世界から買えても心は繋がらない


でも逆に今親子でも必ずしも子を育てるより虐待したり子供でも大人になると親を虐待するようになる。老人になると力逆転してくるからである。親が虐待されているので。何かその息子は親をこき気使うというか他人のようにしか思ってない。

それで親は泣いていたのである。息子から虐待されていたのである悲しいとなる。でもそういうことは今の時代に起こっている。誰に頼るかということがそれで問題となる。その女性は息子に頼ったのだが虐待されているのである。言葉の暴力であるババとか親を病気をした親を虐待しているのである。ただ他者も家族はわかりにくい、どうしてすなるのかとなると外から見tてわかりぬいからである。


こういうことは自分も親の介護で嫌というほど経験した。 私のところに来たのは事業で失敗した人とかで金がないという人である。頼ったのはそういう人たちであり一人はれっきとした泥棒であった。それで家探しされて大金を失った。ほかの人もなんら助ける気持ちなどなかった。多少はあったがただ金が欲しいというだけできたのである。つまりそういう人にしか頼れなかったというのも自分のカルマだったのである。


ほかの人も誰に頼るかということは、老人にとって大きな問題なのである。家族がいれば息子がいれば娘がいれば兄弟がいればとなるがその人たちが助けるとは限らない。かえって嫌がられうとまれる。親が捨てられるそういう事例を知っている。その娘はひどい娘であり親が私に最後にひどい娘だと言って来てまもなく死んだのではある。その娘は介護などできない。だからそんな娘に頼ることはできないから、死んだ方がよかったのである。

こうして誰に頼るかが最後に問題になる。でも家族の範囲が小さくなるとなかなか大家族のように人手に余裕がないから介護でも面倒見れなくなるのである。 これは肉親でも同じなのである。


別に遠くから外国でも物が入ってくることは悪いことではない。でもそこで人の繋がりが出来るわけではない。だから何かあると物が入ってこなくなる。そして戦争にもなる。だから物が入ってきても互いに貿易してもそれで繋がりができるとは限らないのである。食料不足にな自分の国が最優先となり食料は入ってこないのである。 そこにグローバル化の問題がある。ただ物が入ってきて悪いということではない。問題は人間の繋がりが物が入ってきても。生まれるわけではない。それはあくまでも物のやり取りだけであり。心のやりとりは交流は無いのである。だから、金の切れ目が縁の切れ目になりやすいので。それは今の社会でどこでも起きていることである。


親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代): 今日の一句一首(小林勇一) (musubu.sblo.jp)




posted by 天華 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年07月16日

日本が衰退するのはなぜか? (将来の見込みが約束がない)

日本が衰退するのはなぜか?


(将来の見込みが約束がない)



なぜ将来の約束が大事なのか?ある人がお金を貸してくれと言う。金はは返すという。ではそのあてがあるのか?それはこの辺で原発事故の補償金が入ることである。私の地域は少ないにしても、やはり15万くらい入る。そのお金が入るからと貸してくれと言う。それは確かに入る金だから返せるとなる。

でもおかしなことはその15万入る金以上のものをすでに貸しているのである。でも確かに15万入るということはその金は返せるということである。不思議なのはそうして将来に確約されるものがあれば人は安心して金を貸したりできる。 


金も何も確保できない人には誰も金でも与えない。ただ、将来にそうして得るものがあり、確約されていれば金でも与えたりする。

なぜ大学に入るのに奨学金を借りてまで入るのか?またなぜその奨学金を貸すのか?それは働くようになってから返せると見込みがあるから貸すかすのでる。つまり若い人の有利なのはこれから働く力があり、稼ぐ力があるということである。その将来を見込んで金を貸すのである。老人に金を貸しても将来が見込めないから投資しても無駄だとなる。せいぜいいくらか寿命を延ばすだけだともなる。



そうしてなぜ今日本は不景気であり経済も30年も停滞しているのか?その原因は何なのか?将来が見込めないそのことにつきている。例えば高度成長時代だったら利子が3%とか7%とかあり貯金していれば利子がついて安泰だったのである。

今やそういうことはないむしろ貯金していても預金封鎖があるとか利子もつかない手数料が取られるだけだとかなってしまう。そうなると将来に対して見込みがなく不安だけになり消費意欲もうなくなってしまう。景気は気だというとき気力までなくなってしまうのである。

それが社会全体を覆って社会全体が何か気力がなくなってしまう。それで投資とか株は心理学の問題だと言っている人の言うことも分かる。それは気だからである。その気がただ衰える方向にしかない。それでますます全体が落ち込んでゆくのである。 


だから意外と将来が約束される収入の見込みがある。成長する見込みがある。お金が入る見込みがある。そのことが安心となり金を貸すこともできる。でも変なのは15万入るとしてもすでに30万以上とか払うことにもなっていた。それが何かおかしいのである。でもそのことはやはり将来に15万でも入ると言うことが約束されているから。安心して貸しているのである。実際に将来入る金より多くの金を払っているのである。だからこれは何なのかとなる 

人間にとって将来の見込みが将来に得るものがあるとき確約されている時人間はそのために今金が無い人でも金を払うとなる。


今、日本が30年も衰退しているのは?将来に対して何か成長でも利益でも見込めるものがないからである。技術的にも何か日本は遅れた。そして全般的にも日本はit化できないとか色々な面で遅れてしまったのである。そこで日本は将来の見込みがない。投資家でも投資しないのである。将来の見込みがあるとき日本も外国から投資される。でもそういうものがない時。日本は外国から見放されるのである。


だからキリスト教で神の国を最初に求めなさい。そして神の国に入る約束を得る。そのことが大事なのである。神の国に行けるということは約束されれば将来に対して安心なのである。 

なぜなら、人間は必ず死ぬ。巨万の富を蓄えても死んだらそのお金も使えないのである。 この世は何をするにしろ一時的に生きる場所でありいずれは死んでしまう。そして結局空しくされるということである。文明でも実際は大したもののように見えてもそれが最後は墓場になっているのである。


エジプト文明でもそうだしマヤ文明でもそうである。巨大なピラミッドでも建造物でもそれははかないということである。ピラミッドなどはその時間に抵抗して残り続けようとする意志の象徴である。そのピラミッドすら砂に埋もれて消えるかもしれない。いくら時間に抵抗しても最後は消えてしまうともなる。 そこに確かにヒエログリフで石に記してその功績を後世に残そうとしてもそれもはかないものとなる。


大都会もいずれは巨大な墓場となってしまうのである。永遠の都は天にしかないのである。この世の都はすべてそうして廃墟となり、墓場となってしまうのである。だからこれでいくら努力しても無駄だとはなる。最後は空の空になってしま。だからと言って、人間の努力を全て無駄にとは言えない。でもこの世で何か本当に価値あることを達成するということが出来ない。本当の価値は神の国でしか実現しないのである。


そもそも正義とか公平な裁きなどは実現しないのである。いくら法律を作ってもその法律もまた悪用される。だからこの世で正義であれ公正であれ実現しないのである。その努力は続けられるとしても現実は実現しない? 実現できないのである。つまりこの世はそういう場所であり人間の力では変えることはできないのである。だからこの世から悪はなくならないのである。だからこの世はいずれ神によって滅ぼされるのである。神の意にかなうことは絶対にないからである。確かに改良は続けられる。それがすべて無駄だとは言えない。 でも根本的には変えることができない。


それはなぜなのか?例えば社会体制が変えたとしても共産主義にしてもそれも結局独裁制とかなり全体主義となり何千万人の人間も殺されたのである。また資本主義でも限界にきている。民主主義でもそうである。何か制度をつくってもシステムを作っても人間自体が変わることがないからそうなる。だから、そもそも全体を変える事は不可能なのである。そしてまたこの世を理想郷にする事も不可能なのである。 

一つの問題を解決しても、また新たな問題が生まれ永遠にこの世から問題を解決することができないのである。 人間にはそれだけの知恵が持てない。それはできるのは全能の神しかないとなるのである。


エジプトの神像の永遠にあれと

そも儚く時に抗うも虚し

その偶像は地に倒れ砂に埋もれぬ

ナイルの岸辺月影に照らされて

ヒエログリフは浮かびぬ

その日は遠く神秘なるかな

謎は深まりその解明はつづく

ただそこに今聞こえるは一なる神

アッラーの声にして神像は虚し

巨大にして威を保つも

そに祈る者はなしも

そは神にはあらじ巨大な石塊となりぬ

畏れる者もなしも儚し


posted by 天華 at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年07月01日

狭い閉鎖的世界の生活が長かった日本 (なぜ無縁の場として神社を市場にしたのか?物と心が分離したグローバル経済)

狭い閉鎖的世界の生活が長かった日本


(なぜ無縁の場として神社を市場にしたのか?物と心が分離したグローバル経済)


marketplace.jpg


●無縁の場で商売を許可する


境界を考えるときまず自然が地形が境界になる。山であれ川であれ海であれこれが境界となる。また広大な森があり。そこには道もなく人の往来を阻んでいた。その自然境界があって間は簡単に交わることができなかった。人間は基本的に狭い場所で自給自足の生活をしていた。

各地に小国という地名が残っているのはそのためである。そこが一つの小さな国であり自給自足していたのである。それは?車もないのだから。簡単に遠くには行けないからである。道も整備されていないから歩くにしてもなかなか遠くへゆくことは難しかった。


そうなると小さな狭い世界でなじみの人と交わりそこが一つの世界となって 外界とは交わらず狭い世界で閉ざされた世界で生活していたのである。だから、この辺の伝説で隣村から来た麦つき働いた若い男が蛇だったということが伝えられる。


隣の村の人ですらこうしてめったに交わらない世界だったのである。

だから今、外国人が日本に来て働くということは考えられないことだったろう。ただ、そこで様々な問題が生まれるのは当然である。その麦月の若い男が蛇だったということにすでに。人が交わらないからそんな伝説が生まれたのである。でもそこでも日本語は通じたと思う。あの時方言があったとしてもやはり言葉は通じえた。 だから。コミュニケーションをとることはできた。でも外国人が来たら言葉すらわからないのだから互いに理解しあうことは難しい。


●言葉も通じない外国人と交わる困難


人間は言葉が通じなければ理解しあうことは難しい。外国に行って一番困るのは言葉だからである。でも不思議なのは言葉でも 音は理解しにくいでも文字は理解しやすいのである。それで最初に韓国に行ったときハングルが理解できなくて困った。その意味が全く分からなかった。でもホテルとあったらそこが英語で書かれていたら分かったのである。中国では漢字を通じて話すことができた。筆談ができたからである。 そのために中国では言葉が多様なために漢字で互いに理解し合っていたのである。テレビでも漢字をテロップとして流していた。音になればあれだけ広い国だからで民族もさまざまだから通じないのである。


これは外国だから当然理解し合うことは困難を極める。でも最初は隣の村すら交わることもなく人間は暮らしていたのである。 それで日本の神話でも海彦山彦の交わりが伝説化したのである。海で暮らすものと山で暮らすものとは相当に違ったものになるからである。 でも山で暮らしていれば必ず足りないものがあり。海で暮らしていても足りないものがある。そのために互いに足りないものを補うために交わりが生まれる。それが商業とか貿易とかの始まりである。


でも、そもそもそういう小さな狭い世界で閉ざされた生活をしていれば見知らぬ人と交わるのは容易なことではない。 まず人そのものを警戒するし、信じないからである。でも互いに足りないものがあり。そのために無理をしてでも交わることになった。

その交わる場所が神社だったというのも不思議である。そこを無縁の場所として市場のようにした。 神社とは縁をを結ぶ場所であるがこの場合は無縁の場所として見知らぬ他人を外から来る人を特別に入れたのである。


そういう閉ざされた世界で生きている人は、外部の人を簡単に受け入れないのである。それはなぜかというと。必ず何か摩擦が起きてその閉鎖されたコミュニティ内で問題が起きるからである。外から何か物が入ってくることは悪いことではない。でもそういう狭い世界のコミュニティでは外部からの侵入者によってその和が破壊されることがある。

だからまず狭い世界の村でもその和が破壊されないように図る。そのためにも無縁の場として神社を市場にもしたのである。

物のやり取りをしても、その物をもってくる人と必ずしも交わるということでもなかったのである。 それだけ閉鎖的な世界だったとなる。 

でもそこで考えねばならないのは? ものが入ってくるのはいいとしてもどうしても人間の和が破壊される。 だからそのコミュニティの維持が優先されたのである。 



●グローバル経済の問題から文化へー心と物が一致する世界へ。


グローバル経済の問題は物が入ってきてもそのものと心が分離していることなのである。 それは経済と文化の問題でもある。それぞれの国にはそれぞれの風土とか歴史に見合った物として作られてきた。

それは食糧でもそうだし様々なものはその体さえその風土に見合って歴史的に作られたものなのである。



この問題はまさに今の問題でもある。それに人が交わるのは一見いい様でもそこにいろいろな摩擦が生じてきて平和で和があってくらしていたとしてもコミュニティでも摩擦が生じて和がなくなってしまう。

ただものだけが入ってくればそれは意識できない。もう外国人が労働者として日本に入ってくるときはそうはならない。相手は物ではなく人だからである。 そこで摩擦が生じ、外交問題にまで発展する。 日本はもともと海に囲まれていて閉鎖された世界だった。一つの閉鎖された島国となっていたのである。 


最近日本語がどこの国とも共通国との言葉と共通性がないということ。日本語は実はもっとも古い言葉ではないかと 学者が言うのも分かる。なぜならヨーロッパとかでは必ず外国と共通な言葉がありわかりやすいからである。日本語はどこの国とも共通性ががないのである。そこが一番の日本語の謎なのである。

つまり、それは海に囲まれて閉鎖された島国であったからこそ起きたことである。そこで日本独自の文明が生まれたともなる。


グローバル化とはヨーロッパの大航海時代から始まり。交通の発達で現代はその頂点に達したのである。それももう限界に達したのである。これ以上のグローバル化はただ。問題が大きくさせるだけになる。

現実になぜ第一次世界大戦、第二次世界大戦で何千万の人が死んだのか?これはグローバル化が世界で協力するということではない。貿易にしてもそうである。むしろ世界的には交わるということは、そこに摩擦が起きて争いが激しくなったのである。中世となると遅れた閉ざされた世界で窮屈だとなるが。そこでは世界的に戦争など少なく平和な時代が続いたとなる。江戸時代でも300年、平和が持続されたことは、世界的に見れば奇跡的なことだったのである


ともかくグローバルに協力しあいアイデンティティ作ることは不可能である。だからこそ社会主義でも資本主義でも限界になり崩壊しつつある。それは自然の理に反しているからである。人間は自然から離れて物質的にも精神的にも存在し得ないからである。


●物と心が分離しない文化の時代に


現代の問題は?物と心が分離してしまったことなのである。ものというときものは心でもある。ものが憑くというとき物と心は一体であり、ものを通じて心も関係してくる。その物と心が分離したことが人間疎外を生んだとマルクスか指摘したのである。 それを現代に当てはめれば?これだけ世界中のものが流通している。グローバル経済の中で。生活しているが。それでも人間の心と心は通じ合わない。何かあれば国と国が争いものも入ってこなくなるのである。別に助け合いでものを流通させているわけでは無いからである。非情な競争原理でものは入ってく来たり来なくなったりしているのである。 


戦国時代でも。伊達藩と相馬藩が争ったとき相馬藩内では助け合うことがしたが飢饉の時に物資を飯館村に援助したりしたが伊達藩していない。何か揉め事があればこうして物も入ってこなくなるのである。 

だからこそ、外部からものが入ってきた時その住民たちは警戒したのである。その狭い、小さなコミュニティが破壊されることがある

現代では都会の人が地方の村に入ったりするととても。うるさくて溶け込めないとかなる。それはやはりそのコミュニティ内で平和に暮らしていたものは何か問題が起きてくるからである。


ものでも何でも外部から今なら外国から入れればいいとなるが。それが問題になるのはやはりそれぞれの国には歴史と伝統があり、風土にに見合った生活をしている。

だから何でも外国から無制限に入れることは危険になる。日本にわ宦官制度はない。中国に行っても、それを真似て取り入れることはなかったのである。

なんでもかんでも外国から取り入れることは問題が起きるのである。食にしても最近糖尿病が増えるとか?胃がんなのが?前立腺癌なのか?そういうものが増えてきたのは、外国から入ってきた食糧と関係しているのである。

なぜなら肉食でも日本はあまりしてない。日本人は肉を消化する酵素がないという。

外国人を絶えず肉を食べてきたから消化する酵素が出るというのである。つまり、長年の。食生活の歴史と伝統があり、それをなんでも入れると。問題が起きてくるのである。 


グローバル経済の問題は物が入ってきてもそのものと心が分離していることなのである。 それは経済と文化の問題でもある。それぞれの国にはそれぞれの風土とか歴史に見合った物として作られてきた。

それは食糧でもそうだし様々なものはその体さえその風土に見合って歴史的に作られたものなのである。

文化とはカルチャーとはcultivate から来ている。その土地を耕すことから。文化が生まれたのである。だから文化はその土地土地で多様なものであり同じものとはならないのである。でも工業化となると。機械化するということは画一化することであり。文化を無視するのである。世界中でコカコーラをみんな飲むということはそれはその文化にその土地土地にあったものではない。だから体にみんないいとはならないのである。寿司が人気なのはやはり日本の文化から生まれたものだからである。それは海に囲まれていて、海の幸が豊富だから生まれた食文化なのである。 


別にグローバル化でも、文化の交わりなら問題はない。無制限にものとかでも何でも入れることが問題なのである。それぞれの。土地と歴史と風土に見合ったものがあり。なんでも無制限に外国の物を入れることはその文化を破壊することになるのである。だから今、グローバル化は制限されねばならない。コロナウイルスにしてもやはりグローバル化した結果として、たちまち世界に広がったからである。ウィルスは風土病であり。その土地の中だけで。広まっていた。外国まで広まるということはなかなかなかったのである。それがグローバル化に人が交わることによって、ウイルスも世界中にたちまちに拡散したのである。それでかえって国境とか?境界が見直されたのである。



posted by 天華 at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年06月28日

地方の既得権者の郵便局、農協、地銀の苦境 (巨大組織は宗教であれ何でも政治化した利権団体である)


地方の既得権者の郵便局、農協、地銀の苦境

巨大組織は宗教であれ何でも政治化した利権団体である

最近知っている人の娘が農協に就職した仙台の大学を出た人だった。普通なら安定したところに就職してよかったとはなる。田舎では公務員と銀行と郵貯は御三家であり。そこに就職すれば安定しているとなる。

地方では田舎ではあまりいい就職先はない。

でもこの三つに就職すれば安定するとなる。 それ以外で多いのは 建設土木関係である。事務系となるとこの三つが就職先になる。

おそらく。そこに就職できたのはその娘の親が代々 農家でありそれも古い農家であり鎧を博物館に寄付したともいっていた。また紙漉をしていた家でもあった。 そういう家柄だから就職できたのかもしれない。田舎は往々にしてそういうことがある


農協も郵便局もかつては役所とならんで地域の代表的な就職先で、地域経済の要でした。郵便局長会の幹部からは、「農協も去ってしまったいま、私たちが地方の最後の砦」という発言をよく聞きます。


地方銀行‟仕組債販売”、その「危なすぎる手口」が判明!ローカル・エリートがいまだ取りつかれる「モーレツ営業」のヤバすぎる実態(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース


最もつかみどころがなかったのが、日本郵便の郵便局長で組織される「全国郵便局長会」(全特)です。  法人格もなく、誰からの監督も受けないこの組織は、全国で数十万票という安定的な票田を持つ日本最強の集票マシンのひとつで、政治に大きな影響力を持っています。  会員である全国の郵便局長には「集票ノルマ」が課され、郵便事業のための販促カレンダーや顧客情報まで活用して選挙活動を活発に行ってきた。見えてきたのは、全特が郵便事業を私物化しているような実態でした。



農協も郵便局もかつては役所とならんで地域の代表的な就職先で、地域経済の要でした。郵便局長会の幹部からは、「農協も去ってしまったいま、私たちが地方の最後の砦」という発言をよく聞きます


不祥事連発、自爆営業…自民党をバックアップする「郵便局」と「農協」のヤバい実態(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース




地方では田舎ではこれら は?御三家でありここに就職すれば安泰だとなっていた。つまり倒産したりはしないからである。でも郵便局は民営化してIT化などで苦しくなった。

農協でも経済構造が変わり農家の力は衰えた。自民党の強力な 票田であった。それから郵便局でも自民党を支援していた。 これは、高度成長の時代は問題になることがなかった。みんな安心して郵便局や銀行や農協に貯金をして頼っていたのである。そして利子も必ずついていたから、問題になることはなかった。


でも、日本の経済が衰退した時。この御三家もやはりできなくなってきたのである。農協でも農林中金などはアメリカの危険な会社に投資して大損をこうむると言われる。すると農家が貯金したトラの子のお金が奪われることになる。 地銀でも投資先がなくアメリカの危険な会社に投資している、郵貯でも地銀でも今や証券会社の様にもなってる。


地銀では証券会社の人と一緒に来て投資信託を進めるからである。ゆうちょうでもそういうことがあり問題になった。

そして地方の御三家の郵貯農協地銀は既得権者であり利権団体にもなっていた。郵貯と農協はそうである。そこには国の税金が依然として注ぎ込まれているからである。郵貯が民営化してもそうなのである。 


結局組織団体化するということは利権化することである。それは宗教でも同じなのである。その最たるものは創価なのだけど。ほかの宗教団体でも同じなのである。なぜならそこにまとまった票を得ることが出来るからである。それが自民党と結びついているから優遇されるのである。そうしてこういうふうに利権化した組織団体は内部からなかなか改革できないのである。特に地方では利権化してその利権を放したくないという人たちがいて内部から改革することができなくなっているのである。地方のボスには逆らえないという事情がある


でも今はもう利権として維持することが難しくなっている。そこに国民の税金が注ぎ込まれていることに。不満な人が増えているからである。ただ正直田舎には地方には大学出たからといって就職先となるとこの御三家であり。公務員であるから困るのである。田舎ではそもそも資産がないと生きづらいのである。土地に家があり家産がないと生きづらいのである。農業だったら、そうして土地と家を受け継いで維持してきたからである。何代も維持できたのは家産があったからだとなる。その家産を受け継いだのは長男だったのである。

もともとヨーロッパでもその家と土地と家産を受け継ぐことが優先されていたのである。家産があって人があったとされている。何か人が死んでも建物が残っている。建物の方が人より長く存在し続けているからそうにもなる。


それは城と一体化した侍を見れば分かる。会津の白虎隊も城が燃えたということで自刀したからである。そこで城と人間は一体化していたのである。城があって人間があったともなる。というとヨーロッパでもローマ時代の建築物が残っていて歴史を振り返るからである。2千年前の建築物も残っているから。その建築物から過去を振り返る。でも人間の一生はは長くても百年でありみんな消えていくのである

本当に時代が変わる時、既得権者が維持できなくなる。それが今地方でも田舎でも起きていることなのである。 だから、こういう大きなな変化の時代には既得権者も維持できない。それが地方でも田舎でも起きているためにこういう問題が表面化したのである。


とにかく人間社会は利益で動いている。だから必ず利権団体と関係している。それは宗教でも同じなのである。そこも巨大な利権団体なのである。賽銭投げて御利益を得ることを祈る。それは利権団体となり政府に要求する,政治化するのである。原発の利権でも想像を越えた巨大な金が動いていた。だからその利権に検察とか警察でも海上保安庁とかでも天下りしていたのである。そういう利益で利権ですべてが動いている。それが社会を歪める

だから時代が変わる時はそうした利権構造であれ既得権者が変わるのである。でもそれを変えることは容易でないから戦争に負けて焼け野原になったりすると既得権者でも一掃されて社会が激変するのである、今がそういう時期になっている。だから田舎でも地方でもゆうちょ、農協、地銀に就職しても安泰な時代ではなくなったのである。


報道でも利権が関係している。福島民報では創価の聖教新聞を刷っているし政経東北でも除染で大儲けした双相リテックを宣伝したりしているのは利権になり金になるからである、報道自体が金がかかるからそうなる。

インターネットだと金はかからないから誰でも報道できるとなる、でも手間はかかるのである。

メデアとは中立の意味であり中立の報道することがむずかしい、いろいろな利権団体がありその圧力もあり中立になりにくいのである。NHKすら公平ではない、でもマスコミは中立を装うから問題なのである

別に赤旗でも聖教新聞でも偏っていてもいいのである。みんなそいうものとして読んでいるからである

マスコミは中立でないのに中立を装っているから問題なのである。


ただ正直中立であることは最高にむずかしい、それは神しかできないかもしれない、神は偏り見ないからである

それで隠者が報道に向いているというのは意外である、なぜなら利権団体と利権とかかわらないからである

でもそれにも問題がある、とてもそうなるといろいろな人の話でも聞かないと社会のことがわからなくなるからである、この世は利権とかかわらないで生きることもできないとなる。だから公平に見れるのは神しかないとなる

そして神の裁きが来世にあるとなる、この世ではとても公平でありえないからである。



posted by 天華 at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年06月20日

近くの井戸の水をもらい飲むことにした (接続可能な生活にもどる自給生活を見直す時代)


近くの井戸の水をもらい飲むことにした

(接続可能な生活にもどる自給生活を見直す時代)

willwater.jpg

あしび(馬酔木)なす 栄えし君が 掘りし井の 石井の水は 飲めど飽かねかも
                      
咲き誇る馬酔木の花のように栄えたあのお方が掘られた井戸、その石で
組み上げた井戸の水は、いくら飲んでも飽きないことだ.

ある高貴な人にゆかりの井戸を誉め称えた歌.石を積んで頑丈に囲んだ
井戸は、その所有者の富裕と威勢を示したことでしょう

井戸の使い方とは?井戸はどのように生活を支えていたのか

 軍勢は井のあるところに集まる。ふだんより重い衣(甲冑)を着ているので喉が渇く。喉が渇いたら人は井のあるところへ行く。一度戦って敗走した兵を再編成するには、将軍は井のところで待って居ればいい。つまり、戦において、井は、軍を「いはむ(屯・聚・満)」むための根拠なのである。そんな意味の井でお偉い天皇軍がイハムむのだったら、呼び名として、イハミヰ(屯井、ミは甲類)でなければならないと想定される。それなら、イハ(磐)+ミヰ(御井、ミは甲類)と聞こえて納得できる地名である。


水は生活の基本である.それで水争いがありそれが戦争の原因にもなった。特に砂漠地帯では水の一滴が血の一滴というように貴重だったまるだからこそ水を得るために命をかけて戦ったのである。それは日本でも水を争う戦いがあった。
水にめぐまれた日本でもやはり水をめぐって戦争にもなっていたのである。

今子供の時をふりかえると水道がない時代があった
それで近くの井戸があり家から水をもらっていたのである。
風呂で使う水はバケツで運んでいた。量が多いから何回も運んでいたから苦労だった。風呂にしても父親の手つくりの風呂だったのである。
洗濯ものは裏の堀でしていたのである。洗濯も洗濯機がないから苦労だった。ゴシゴシと手で洗い石鹸で盥でしていた
それでパリのセーヌ河で大勢の女性が洗濯している絵があったからそれはどこの国でも小川とか川を利用して洗濯していたのである。世界中同じ光景が見られたのである。
洗濯でもそもそも水がないとできないものだった。だから井戸であれ川であれ利用していたのである。

子供の時こうしてもらっていた井戸はまだ残っていた
それはポンプでくみ上げるものではない、でもポンプでくみ上げる井戸が隣にあったことは不思議である。街の中にも結構井戸はあったのである。
そしてその井戸を使ってもいいと持ち主に言われたので器に入れて飲んだ。この辺では放射背物質に汚染されたということがあり水道水でも未だに飲まない人もいる。でも井戸の水は計ってもらったから安全だという、川の汚染の問題は泥に放射性物質が付着して減らないからである。地下水の井戸水は安全だとなる。

とにかくペットボトルの水を買って飲めば金がかかる。水道でも金がかかる。この井戸水を使いば節約できると思った
それからこの井戸水はなかなか枯れない、だからいくら汲んでも
尽きないともなる。無料で使いるとなると貴重である。
水道代もあがるとかなり金をここで少しでも節約できれば助かるとなる、こうした資源は持続する、森林でも成長するに時間がかかってもやはり持続可能なものとして利用できる
そこに安心がある。他のものは外国から入ってくるから昨今の急激な円高とかで日本では苦しくなる。だから自給できるものがあれば安心なのである。

いずれにしろ生活を見直すことが迫られている。電気でも高くなり節約が迫られる。原発を再開しろとか言うがもし福島のようになったら取り返しがつかなくなる。電気でも今までのように使えない時代になる。そしたらどうしても過去の生活に戻れなくても
自給できる生活を取り戻すことも必要になるのである。
飯館村では井戸でも清水でも天然の水をまだ利用している家が結構あった。山があり清水を利用していた
また作見の井戸がありそれを見て豊作を占ったというときも井戸はそれだけ貴重であり生活に欠かせないものだからそうなったのである。

posted by 天華 at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年06月17日

銀行は株のことなど全く素人である (手数料を取ることしか考えていない―銀行の役割の喪失)


銀行は株のことなど全く素人である

(手数料を取ることしか考えていない―銀行の役割の喪失)

invest1.jpg

invest2.jpg



まず銀行とか特に地銀などは株でも投資信託でも素人よりわからない。素人でも投資の経験を積んだ人が返って知っている。
ここのyoutubeの説明がシンプルでわかりやすかった
難しく考えると切りなくなるからである。

長い目で十年二十年単位で株を見ろ
index投資は下がったら買い上がったら売る
でも長期的に見て売り買いする
銀行とか証券会社に頼むのは危険
なぜなら手数料を取ることしか考えていない
株というのは素人には予測できないものと知れ
銀行でもプロでも予測できない

ここのyoutubeは素人でもわかる、小学生でもわかる感じである
むずかしいことを知る必要もないからである。
このことで一番理解したことがリーマンショックの時に半分に下がったindexを元に戻ったと地銀の人が売ったことである

ここのyoutubeでは金が必要でないかぎり株は売るな、今これだけ株が上がっても売るなと言っているのは意外である。
ただそれが株に対する正しい見方なのである。なぜなら株は予測できないから株は持ち続けることが大事だとしているからである

ともかく銀行とか証券会社でも奨めるのはまず手数料をとることが優先されるから問題なのである。自力で投資するなら別にこの人のようにやればいいとなる。ただそれをできないなら銀行とか証券会社に頼むともうけることはできなくなる
人間社会は何でも仲介者がかかわるとそこでだまされる。メデアとは仲介する意味でありマスコミでも情報を直接得ることをできあないからメデアを通して得るからそれで騙される、現代社会は広域化グローバル化したとき余計に真実がわからなくなったのである。だから誰も景気良くなるとか悪くなるとかいろいろな人が言ってもわからないのである。

ただ銀行とかは固いものとして固定化して見ていた。信用できるものとして見ていた。それも変わってしまったのである。
銀行そのものの必要がなくなってきたのである。まず利子がつかないから一体何のために金を預けているのかももわからない、金を預けても金をとられるとなったら一体銀行は何であるのかとなる。むしろ害になるものとしてあるとなったらないほうがいいともなる。銀行でも預金した金を何に使い何か地域に貢献しているのかそのことを示す必要がある。
銀行が必要なくなることは資本主義社会の終わりだともなる。
銀行の役割とは金を集めて会社に金を貸して利子をとり預金者に利子を与えることだからである。利子がつけられないことはもう銀行の役割が終わったということである。
株は会社への直接投資であり銀行は仲介者としてメデアとしてある。だから会社の株を買いその配当金をもらうことが資本主義なのである。銀行は仲介者メデアでありもし個々人が直接株を買い投資すればいらないものだったのである。

そもそも金融は分かりにくいのであるくてその仕組みにしても複雑でありわかりにくい説明されてもわからないのである
投資信託でもその仕組みがあまりにも複雑で理解できないくてそれを作ったハーバード大学の出た人がこれは詐欺だとして良心の呵責に耐えられずやめてしまったということもある。
この株とか投資信託とかこれは銀行だけではない何か巨大なギャンブル場でありそこでファンドとか銀行であれ金が騙し取られていう感じになる、だからこそもはやグローバル経済はモラルなき道徳なき経済でありそれは世界的な巨大な詐欺が合法的にも行われていてそれを正す人はいないのである
それで資本主義自体が自壊しつつある。その一つとして大きな役割を担っていた銀行も必要なくなりつつある

地域的に見れば大工さんであれ自転車屋であれ農家であれその人たちは地域で欠かせないものであり死んでも地域に生き続ける
御先祖様ともなるが金融関係は何か詐欺的なものとなり必要なくなったのである。
posted by 天華 at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年06月09日

日本衰退の原因は低金利、発展のために金利を引き上げるべきだ (利子は資本主義に不可欠である利子がなくなれば終わる)


日本衰退の原因は低金利、発展のために金利を引き上げるべきだ

(利子は資本主義に不可欠である利子がなくなれば終わる)



低金利は借り入れ側の企業などには有利だが、預貯金を行う国民の側からすれば「富を奪われている」ということになる。本来もらえるべき金利を受け取ることができないということだ。

この「本来もらえるはずの金利」を国民が受け取ることによって、経済が活性化し老後不安も大幅に減少するのではないだろうか。

低金利政策によって「借り手」は大いに潤ったが、預貯金を中心とした資産を持つ国民は富を奪われてきたともいえる。
ところが、2%で貸し出して0.2%の利ザヤしか無ければ優良企業以外には貸せないということになる。

日本産業からチャレンジ精神が失われ沈滞ムードが覆っている大きな原因は低金利なのだ。
そもそも、優良企業は金利が高くても問題は無い。金利コストを十分負担できるし、事業で得た収益を活用すれば、借金する必要さえない場合もある。むしろ運用でさらなる収益を得ることができるかもしれない。
また国民も、利子という一種の「不労所得」は思い切って使う。


前述のように、ほとんど金利がつかない預貯金を取り崩すことには大きな抵抗があるが、利子収入であればもっと気軽に使える。したがって景気浮揚効果が大きいのだ。

こういうことはほとんど聴かない。金利をあげないでその金を回して金を借りさせて事業を起こさせて儲けさせる
でもこのことがうまくいかなかったとここでは指摘している。
このことは国民の貯金した金が奪われていると指摘している。

その金はどこに行ったのか?それは東京などの大都市に流れた。
または地方でわ中核都市に流れた。そしてその他の地域は金利がゼロでも別に金を借りて事業お起こして儲けることもできなかった。大企業を除いて金利をゼロにしても効果はなかったとしている。

●ゼロ金利で老人も不安になり使わない、金もまわらない

それより利子がつかないので消費意欲が減退した。多少金を持っている貯金している老人でも金は使いにくいのは全く利子がつかないからである。人間の心理としていくらお金があっても金を減らすことに抵抗がある。だから金が減るだけだとすると使いたくなくなるのである。もうし高度成長期のように利子がついていたらお金を持っている老人でも相当に消費した。

それが今は利子がゼロであり今になると返って銀行を利用すると金は取られるのである。そしてその預金すら利子がつかないというだけではない。預金封鎖があり貯金は国家に奪われてしまうということが常に言われる。だから今銀行に貯金していても安心がないのである
でもこの金利ゼロからマイナス金利にまでなっているのは日本の景気の浮揚策としてしているということでみんなしょうがないと思い是認していたのである。それで効果があれば何も言わない。
結果的には効果がなかったからこういうことを言う人も少数派でも出てきたということである。
本当に金利を下げて経済がよくなればそれも仕方がないとも貯金する人も我慢する。そうでないとしたらいったいなぜ金利をあげないのかと言う人がいても不思議ではない。
地方の経済でも一向にに成長しない。それはまた大企業や大都市中心にお金がまわり地方には回らない。

現在比較的繁栄しているのは、福岡や札幌などの地方の中核都市である。交通網が整備されたことによって、それ以外の地域から、人もビジネスも「よりよい環境」の中核都市に流れてくるのだ。

東北だったら仙台市に震災後は帰って人が集まり増えた。そして常磐高速とかが開通した結果かい余計に人でも金の流れがそうした中核都市に集まるようになったのである。

もともとは地銀とかは地域の経済の活性化をになっていた。でもその役割もなくなった。そもそもが利子がつかないということが原因でもあったのだ。あとそれはなぜかといえばもし老人が貯金していて利子がついていれば地域でもお金を使うということである。高齢化社会でも地域で消費すれば彼は金も地域に回ってくる。利子がゼロだということは物価が上がれば目減りしているし余計に金を使わないのである。
だから利子がゼロとかさらにマイナス金利にもなっている。このことがかえって経済を停滞させている。もしゼロ金利でも経済が活性化すれば仕方がないとなる。
でも現実は地域でも経済は活性化しないし向上しないのである。

●低金利政策は効果がなかった

ただ私がこういうのはやはりそれなりの貯金があるからだとなる。でも銀行が勧める投資信託とかは銀行の手数料商売でありそれで儲けることはかなりハードルが高いのである。
地銀ではもともと株とか投資信託とかの金融商品は扱っていなかった。それはやはり金利が高く金を貸せば儲かるという時代だったからである。銀行側にすれば金利が高い方がいいわけである。貯金している人も金利が高い方がいいのである。
でも景気を良くするために金利をゼロにしてマイナスにまでしたのである。それでも効果がなかったとすればその政策は間違ったものだったともなる。

低金利政策によって「借り手」は大いに潤ったが、預貯金を中心とした資産を持つ国民は富を奪われてきたともいえる。
ところが、2%で貸し出して0.2%の利ザヤしか無ければ優良企業以外には貸せないということになる。

低金利政策でもう儲かったのは大企業とか一部の優良企業でありほかの大部分は別にを利子無しで借りられたとしてもそれで景気がよくなるとか活性化することもなかったのである。
つまりゼロ金利政策は効果がなかったともなる。

日銀からの融資はやればいくらでもできるが。結局は日銀納付金の減少という形での公的資金てんつまり税金不足という形での税負担がおかしな形での通貨供給量の増大を招き将来のインフレをもたらす
融資先は基本的に日銀融資は目先の資金繰りの話であってツケ回しに過ぎない当面のごまかしが定着してしまうだけである
結局は税金かほかの金融機関からの援助の二つしか資金源はない。ところがほかの金融機関の援助というのは貯金している預金者から見ればその炎上しなければを受けられたであろう利回りの上昇とかサービスとかその金融機関の株価上昇するメリットなどを奪われるだけである-日本には日本の経済があるー菊池哲郎」

日銀の政策でもやることはたいして効果がないとなる。結局預金者がの利益をないがしろにして成り立つものだったのである。

ただ私にしても貯金がある程度ある人はやはり私益から考える。
だから必ずしも公正にはならない、でも現実問題として確かにゼロ金利政策が効果が無いとしたらやはり金利を上げるということも考えねばならない。貯金がない人には関係がないとかにもならない。地域でも貯金する人がありそれに利子がつけば消費するからである

ともかく百年安心の年金など全くない。みんな将来に対して安心感がない不安になっているから消費もしない。貯金でも利子が着けば消費するのである。
それより預金封鎖があるとかなんとか安心がないそのことが心理的にでも相当に影響している。景気が気だという時気持ちに大きく影響して全体的に波及して景気もよくならないのである。
だからなのか利子をあげた方が地域の経済にとっても活性化して金回りがよくなり効果的だともなる。すると安心感があり貯金している人でも地域で金を使うということになる。

ただ一方で貯金がない人にとってはは利子などは関係ない。むしろ金持ちからは税金を取れとかなるのも当然である。
人間はそもそもが利己的なものであり何か自分のことを考えないで社会のことも考えない。ボランティアでもうやはりそこに利己的なものがあってなされる。
宗教団体でも看板は福祉だとしても実際は私益から運動しているからである。
だから私自身でも金利を上げろというとき私益から言っている。でもその私益でも資本主義社会だとそれが経済を活性化して経済を成長するものとして認めているのである。

●金利がつかないと資本主義も終わる

そもそも資本主義社会で金利をゼロにするということは銀行のの収入もなくなりまたそうなると資本主義自体が成立しない。
だからゼロ金利とかマイナス金利になったらもう資本主義は終わりだとなる。そうなれば金利がマイナスなることはもう資本主義の終わりであり社会自体が成立しなくなり大きい変革が必要になる。つまり資本主義が終わり社会主義も失敗したしたから次は何になるのかとなる。そういう時代の大きな変わり目に来たともなっているのである。

利子の下限は限りなくゼロに近いわけだが、それでもあまりに利子を低くしすぎると、今度は貨幣資本家の貸し出し意欲がそがれる。だから、貨幣資本家がある程度納得できるような水準に決められる。それがどのような水準に落ち着くか、明確な基準はないとマルクスは言う。さまざまな偶然が積み重なって、事後的に決まってくるとマルクスは考えた。

利子を取ることはキリスト教でも禁止されていたしイスラム教では今でも禁止されている。でも利子を容認したことが資本主義が産まれ発展してきた。利子を否定したイスラム教は発展しなかった。それは利子を認めるか認めないかということでそうなったともみる。そもそも利子は高利貸など良いものとして日本だってみられていなかったのである。
ただ利子をとること悪いものだとしたら資本主義はありなかったとなる。だから利子の問題は資本主義の根幹をなし銀行が金を貸して利子をとるということは悪いものではなく正当化されて発展したとなる。だからゼロ金利政策とかマイナス金利になるともう資本主義は成り立たなくなる危機だとなる・

そもそも人間が金を貸すときそれを何も見返りもなく一人は貸す人はまれである。必ず何かの見返りを要求しているしそれが具体化したのは利子なのである。
そいうことで貸す方にしても利子を要求する。また金を貸しても返さない人も多い、それで何か担保を要求する。
でも簡単に金は借りられないから家族でも友達でも簡単に貸してくれないから危険な消費者金融とかに頼み借りるのである
家族とかだったらも返さないということも普通だが消費者金融だとガラの悪い人が取り立てに来る。でもその人が悪いかというとお金を借りた人にも責任がある。簡単に人は金を貸さないからである。
それで消費者金融の取り立てする人が悪役となって金になっている。誰も見返りがなかったら貸さないからである。だから利子ををつけるのはそのためである。それより利子もとれなくて現金も回収できないということもある。そしたら貸す方では商売が成り立たないとなるからである。だから借金する人にも問題があり借金は極力しないのが無難だとなる。

個々人の貸し借りと事業の貸し借りはまた違っている。その金も大きくなるからからである。一人の個人が負担することは限界がある。だから会社組織にして借金したとしても倒産しても負担を軽減する。それで事業もしやすくしたのである。
ともかく銀行に貯金しても利子がつかないということはそもそも
資本主義が成り立たなくなっているとも見る。また個々人が株をやれ投資をしろといわれても簡単にできない、投資のプロでもうまくいかないものを素人がするのだから危険になる
銀行は地銀でも株のことなど素人だし株のこと知る人などいないのである。銀行では顧客の利益など考えていない、手数料とることしか考えていない、何か詐欺的なのである。

●貨幣資本家とは銀行にそれなりの金を貯金している人

今度は貨幣資本家の貸し出し意欲がそがれる。だから、貨幣資本家がある程度納得できるような水準に決められる。それがどのような水準に落ち着くか、明確な基準はないとマルクスは言う。さまざまな偶然が積み重なって、事後的に決まってくるとマルクスは考えた。


貨幣資本家とは銀行に貯金している人である。土地でも資本だし貨幣でも紙幣でも資本だからである。その資本家に利子もつかないとしたら銀行に貯金しても何のためにしているのかわからなくなる。貸金庫なのかとなってしまう、銀行の役割りは消失してしまうのである。

とにかく利子がつかないということは一見事業起こす人にはいいとなっていてもゼロ金利の効果はでてこなかった。すると政策の転換が必要になる。そもそも利子がつけられないことは資本主義自体の終わりを意味しているかもしれないのである。

金は天下の回り物だというとき金が回ることが経済を活性化する
高齢者でも金をそれなりに持っている人でも貯金しても利子がつかないことは金が回らないことである。高齢者でも貯金に利子がつけば金を使うことはある。孫にとか使うことがある。
地域でも使うことがある。利子がつかないということが返って金が回らないようにしているとも見る。それはすでに資本主義が機能しなくなったこととも見る。
ただ貯金がないわずかな人はそんなことは思わないのである。
でも金は回り回ってゆくから貧乏人にも金が回って行くようにもなる。金は天下の回り物だからである。

この「本来もらえるはずの金利」を国民が受け取ることによって、経済が活性化し老後不安も大幅に減少するのではないだろうか。

これも利己的な見方でも一理ある、ゼロ金利政策はそもそも資本主義では成り立たないものであり終わりになることに通じているのである。

posted by 天華 at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年06月06日

誰も予測できない景気とか株 (なぜ日本の株が上がっているのか?)


誰も予測できない景気とか株

(なぜ日本の株が上がっているのか?)


経済学者の予測が驚くほどハズレる根本理由

●金融資本主義は実体経済と乖離している

地銀とか銀行でも株のことなどまったくの素人である。
証券取引所で働いていたと言うがその人は何も知らない
ではどうし奨めたかというと分散投資しろということであった。だからカナダの国債とかリードとかアメリカの株とかに投資したのである。しかしその理由も適当なものだったのである。ただ分散投資が安全だということでそうしただけである。
つまりABCDとあればそれぞれにランダムに理由もなく投資したのである。そのうちの一つくらい当たるだろうということであった。実際に一つは当たったのである。
それも円安になってそうなったのである。その円安にしてもドルが110円から120円になったくらいだった。今の円安には本当に驚く。こんなに安くなったらアメリカに投資していたらその利益は相当なものになっていた。だから投資して大儲けした人がいることは確かである
なぜ今これほど株が日本で上がっているのだろうか。その理由もわからないのである。日本の景気がとても良くなったとは誰も思わないからである。ただインバウンドで海外からの旅行者が戻ってきたということで観光面では景気が良いとなることはわかる
でも経済の基本となる輸出するものが日本にあるかとなるとトヨタの車くらいだろう。だから今なぜこんなに株が上がる上がるのだろうか。
その理由がわからない。アメリカだって景気が良いようには見えない中国だって行き詰まっている。そしてウクライナ戦争は終わりすそれも世界経済に影響しているからとても景気がいいとこ見えないのである。

ただファンドが日本の予算の規模の2倍の金を持っていて投資している。その莫大な金が日本に投資されているのかもしれない。つまり金融資本主義になれば実体経済から離れてファンドのようなものが右から左に金を動かして巨額のもうけを出す。
それは実体経済とは関係ないのである。だから今日本の株が上がっているのは日本の経済の実体を反映していないのである。もし高度成長時代のような時だったら実体経済が良いからみんな金回りがよくなっていた。その裏付けは日本の電気製品とかが外国で売れたからである。だがそれは理由が明確なのである。

でも今回の日本の株の上がっているのはなぜなのかその理由がわからない。ただ金融資本主義によるファンドなどの莫大な金が日本に流入して株が上がった。そうとしか見えないのである。
だからこれで日本語景気が良くなり経済が回復するとは誰も観ていない。みんな物価が上がり窮して生活しているからである。
実体経済が反映してないからこそまた急激に株でも暴落する。それはまるで天災のようにやってくる。その時日本の予算の2倍もあるファンドのお金が動き日本からそのお金が入ってこない時別な国に行く時日本株はまた急落するのである。

●資本主義はグローバル化は限界

つまり金融資本主義になれば巨額の金が右から左にAからBへCからDへそしてまたDからえAと移動して株の上り下がりがあるだけになる。。実体経済は何にも変わっていないのである。
それでもう資本主義経済は行き詰まっている。金余りになってその金を投資するばかなくなっているからである。一時は中国が投資する場となりアメリカでも日本でもその恩恵はあった。
とてもそれが一段落するともう中国が発展せず成長せず行き詰まる。そして今や世界的に経済も行き詰まり成長は止まっている。
インドが中国のようになるとは限らないみたいである。
いずれにしろ資本主義が金融資本主義になり投資する先がなくなる時行き詰まり終わりとなる。銀行でも金を集めてもそれを投資して利益を上げることができない。投資する先が無いのである。

だからなぜ銀行に利子もつかないのに貯金しているかわからないのである。
銀行でも金を集めても投資して儲けることができない。だから利子もつけることができない。
それなら銀行は貸金庫なのかとも見る。安全に金を守る金庫なのかともみる。
つまり投資先がなくなるとき資本主義も終わりとなるのかもしれない。それでただ銀行の役割もなくなる。それでも何か最近ステイブルコインとかが世界の通貨となるという人もいる。その時そのコインを管理するのは大銀行でありそれも日本だったら三つくらいあればいいとしている。後の地銀などはいらないとしている。
それは銀行が融資して儲ける先が無くなっているからである。
銀行の役割はただそうしてコインを管理するものであり投資して融資して儲けて預金者に利子お与えるものではなくなったのである。
そもそも学者でも銀行員でも証券会社員でも株の予測などできないのである

なぜ経済予測でも良くなるという人と悪くなるという人はいるのか。いったいどちらが正しいのか予測として当たるのかというと当たるも八卦当たらぬも八卦なのである。
だからグローバル経済というのは誰も予測できないし規模が大きすぎて何かようとしてもごく一部分のお見て言っているだけなのである。規模が巨大過ぎて誰もわからないのである。

ただわかったようなことを言っているだけなのである。学者ですらそうなのだから誰も予測できない。それでグローバル経済は爆博打場になりギャンブル場なのである。
ただその胴元がいて影の支配者でありそれがファンドなどになるのかもしれない。それがわからないから常に陰謀論になって終わっているのである。いかさまだとしても規模が大きすぎて実態が見えないからである。そして突然株でも急激に上がったり下がったり最悪は暴落するのである。
それももしかしたら日本の予算の2倍ものお金を持っているファンドが操作しているのであり実体経済とは関係ないともなる。
だからそもそも今や資本主義というのは限界にきている。投資先がなくなるということは資本主義にとっては致命的になるからである。いくら金を銀行に集めても投資先がないのである。

●ドルではない通貨が模索されている

だからもう銀行はいらないとなる。そして銀行員は失業するとなる。ただスティーブルコインとかでは大銀行が役割があり維持されるという
そもそも世界基軸通貨とかは覇権国が支配されるための支配世界を支配するためのものだったのである。イギリスが七つの海を支配していたときはポンドは世界基軸通貨だった。それで今でもエジプトポンドは使われているのである。介護
次にドルが世界基軸通貨となったのである。そこにアメリカのファンドが金を動く巨額のお金を動かして巨利を得ているそれは実体経済とは関係ない金融資本主義でありある意味でギャンブルで儲けているとなる。
だから今やドルでもロシアが使わないとか中国が人民元を基軸通貨にするとかサウジアラビアでも石油の代金をドル以外で取引しようとしている。アメリカではサウジアラビアにドルで石油を買わせるために軍事的にサウジアラビアを守るとしてドルで支払うことを守ったのである。

つまりアメリカの強さは軍事力があってドルを世界の基軸通貨として守ったということである。
でもそもそもそういうことに反発する人が国があって当然だとなる。アメリカだけが世界の富をドルを投資して得るということは不公平だからである。
そのためにもう世界通貨をどうしたらいいのかということでステーブルコインとかが使われるようになるとか模索する時代になったのである。
とにかくグローバル経済資本主義が金融資本主義とかなり実体経済から離れてただ右から左に巨額の金を移動させて暴利を得ていることはギャンブルで設けていると同じなのである。
それに反発するロシアでも中国でもサウジアラビアでもブラジルでも当然だとなる。別にその国々がいいとか味方して言っているのではない。公平なグローバル経済だったら貿易だったら世界中の人が認めるのである。そうでないからこそドルにドルが世界基軸通貨になっていることに反発することは当然なのである。

●突然暴落する株−そのからくり

そしてもうグローバル経済は規模が大きすぎて制御できないから突然天災のように暴落したり恐慌に陥る。それを避けることができないのである。だからこそスティーブルコインとか別なシステムが必要になってきたのである。ただそれも途上でありどうなるかわ予測できないとなる。

とにかく誰も株でも経済予測はできないこれだけは知っておくべきである。それは株の専門家でもできない。ウクライナ戦争のようなことは突然起こったりそれよりも金融資本主義になると実体経済から離れて金が右から左へAからBからCからDへまたDからAへ移動して株も上がったり下がったりしているからである。
だからなぜ日本の株がこんなに今上がっているのかその理由は何なのかそれはとても日本は景気がよくなったからだとは思えないのである。

とするとまた株は暴落する。それを見込んでいないと大損するとなる。それよりそんなギャンブル場にエネルギーを貴重な時間を費やすのは無駄だとなる。ただそこでは金を動かし金を得たいいうだけでありそれで何かを作り達成するということもないのである。要するに金融資本主義になればそこは博打場でありギャンブル場なのである。だからそもそも世界的投資家とかは詐欺師なのかともみる。
そこで巨利を得るのはファンドとかまたは陰謀論になればディープステートとかになるのである。だからこういう経済はむしろ破綻するのは当然だとなる。そんなギャンブル場に参加すること自体ただ金を奪われるだけだと思うからである。だからこそもう資本主義は限界であり終わりになると言われるのである
posted by 天華 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年05月30日

金融資本主義化グローバル経済の終わり (実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)


金融資本主義化グローバル経済の終わり

(実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)

金融資本主義を貫いて働いている人って、なんかつるんとした人が多いんです。なんかそれぞれのクセとか、趣味趣向とか、そういうものがなくて、つるんとしている感じ。その人は、多分100万円の絵よりも1億円の絵は100倍美しいっていうふうに思う。「俺はこんな絵が好きなんだ」とかいう趣味嗜好の引っ掛かりがなくて、つるんとした人が多い。

資本主義のこれから−その2 金融資本主義の本質は「手段の目的化」。

●実体経済から離れた金融資本主義

なぜグローバル経済というのはわからないのか。それは規模があまりにも巨大化したのである。
それはとても日々の生活からかけ離れたものとなっている。
エコノミーの語源が家計だということでもわかる。
とするとその規模はとてつもないものとなる。日々の生活だと買い物でも100円とか1000円とかである。そして100円でも損したとかなるのは実感なのである。グローバル経済というのは株式でもファンドは日本の国の予算の2倍のお金を動かしているという。そのファンドの会社の人は千人くらいだと言う。その人たちはプライベートジェット持っていて世界を駆け巡っている。
そんな天文学的な金を持って株式市場わ動かす

だからなぜ日本が物価高で苦しんでいるのに株だけが上がってくるのだろうか。どこで日本が景気がいいのいいのだろうか。
それがまるで理解できないのである。つまり実体経済と金が動くだけの金融資本主義があれただ金融資本主義によって金が巨額の金がAからBへまたCへ移動してるだけなのかもしれない。金余りであり金の行く先が投資する場がなくて移動している。アメリカが国債などで債務不履行(デフォルト)が迫ったので日本へ一時的にファンドの金が移動したのかもしれない。ファンドの金が日本の国の二倍もあるとしたらその金が動いたらその影響も大きのである

●貨幣や紙幣は支配する道具

いずれにしろグローバル経済になると天文学的な金になりとても日々買い物して100円とか千円感覚で実感する経済とはまるで違ったものになる。ただそうして金を動かして儲ける人たちがいる、その人たちは世界で千人くらいだとしている
でもそういう人たちでもやはり背後に政府とかの権力お援護がないと力を持てないだろう。そこにアメリカの軍事力がありドルが世界の基軸通貨となった。
でもアメリカだけが得をするドル決済に反対する国がロシアでも中国でもあって不思議ではない、もうけを独り占めするのかとなるからである。

要するに世界のギャンブル場になったのが現代のグローバル経済でありその賭博場で儲けているのが千人くらいのファンド会社の人間なのかもしれない、その人たちは何ら生産に物つくりをしているわけでもない、ただ賭博場で金を動かしているだけだとなる。
それは八百長だとなりロシアでも中国でもグローバルサウスでも対抗するようになったのは当然だとなる
結局金というのはそもそも支配する強力な道具なのである。

それで七つの海を支配した大英帝国がポンドを世界基軸通貨としたのでありドルもまたアメリカが世界帝国となり支配するからドルが基軸通貨となったのである。
貨幣というのは必ず皇帝とか王様の肖像が刻まれていた。つまり皇帝が王様がその地を国を支配するというシルシだったのである。
それでオスマン帝国のテレビドラマを見ていてエジプトに派遣された地方長官が勝手に自分の肖像刻んだ貨幣を発行したのである。そのためにその地方長官は殺害されてしまったのである。これからわかるように貨幣でも紙幣でもそれは支配する道具としても機能していたのである。だからそもそもグローバル経済でも公正な市場などないのである。

そして今や資本主義自体が行き詰まっている。なぜただ巨額の金を右から左へと移すだけで儲けているのか。それは実体経済とは関係ないのである。これまでは何か経済というとき実体経済であり江戸時代でも何万石とか米のとれる量が多いで経済は計れていた。だから実感としてわかりやすいものだったのである。

●マネーゲームと化した株式市場

それでなぜ今金融証券銀行などが採算が取れなくなったのか。実体経済とから離れて証券とか債券とか金とかが動いている。でも実体経済とは違ったものでありマネーゲームのようになっている。それで銀行で働くような人も何か働く生きがいというかは喪失してしまった。
それで銀行をやめて農業をするようになった人もいたのである。

今や証券とか銀行に勤める人は胡散臭い人に見られてしまっているのである
投資にしても直接ものづくりをしている人に買う人は投資する。
クラウドファンディングが生まれて銀行はの役割は喪失しつつあるのである。銀行もメディアであり仲介するものであるということがあり直接作る人にものづくりする人に投資する方法はインターネットで生まれたとき銀行の役割もなくなるともなる

金融関係で働く人が何かこのように実際の物つくりとか農業とかでえる労働の充実感を得られない、金を得ても実感として何か作り上げるとか育てるとかしないので架空のバーチャルな世界で数字の世界で抽象的な世界で生きているからつるんとした個性のない顔になっている。何か実生活で手ごたえのあることしていないからそんな顔になったのかとなる
つまり人間でも人格でも作るのは仕事になる。それで職人気質とか生まれたのである。
いずれにしろグローバル経済とかはとても実体経済から離れているから乖離しているからそこに起きる問題が大きいのである。
そして資本主義が金融資本主義のようになってゆくときモラルもう消失して資本主義は終わりになるのかまた変容して新たな資本主義になるのかそういう一つの大きな時代の区切りにきているのである

fundmoney.jpg




posted by 天華 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年05月19日

世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている (貨幣と紙幣が生まれた予測されていた)


世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている

(貨幣と紙幣が生まれた予測されていた)

fund2.jpg

怪物世界ファンドの正体】日本はチマチマした既得権バームクーヘンが支配している。
しかし世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている

アメリカの特権階級のことを加治将一氏は批判しないと書いたがそれはここで説明していた。ファンド会社がありそこで日本の予算の倍もの金を動かしているという、これも驚きである。
金融経済にかかわる人が一億人くらいいる。そのなかで実質的に巨額の金を動かしているのはファンド会社でありアメリカに
1000人くらいいる。
そのトップはプライベートジェットをもっている。それも大きなもので外国にも行けるものだという、そしてその人たちは税金を納めていないという、その人達は政治家とも通じていて金融経済を支配している。陰謀論になるとこの世界の実質的支配者だとなる。

加治氏はアメリカでビジネスしていたからその裏のことを知っている、現代のグローバル経済は実体経済から乖離した仮想世界だとしている。実体経済でやりとりする金より50倍とかの金が金融経済でやり取りされるからそうなる。
それも日本の予算の二倍の金が動いているというのに驚く
それでファンド会社でも金融危機になること恐れている
そして加治氏はこうした仮想の金融経済にかかわらない、株とかにもかかわらない、そういうシステムに組み込まれないためだという、そこでアンテークコインをすすめている

グローバル経済が実体経済でない物と物の交換ではないやり取りではない。金融は実体経済に寄生して巨額の金をもうける。
仮想世界で金を儲ける。それで加治氏自身が株でもやめたとなる
そういう世界にかかわることに嫌気がさしたとなる。
この判断は正しいとなるのかもしれない。もうしこのカラクリに気づいたらみんな株など投資しないしグローバル経済も資本主義も終わりとなる。そういう変換点に来ているとなる。

だからロシアでドルを使わないとかまた中国でわ人民元を使うとかなる。それは公平なものではないからそうなる。千人くらいのフアンドの人たちが世界から富を奪え巨万の富を得ているのである。そのカラクリに気づけば賭博場でいかさまだとして暴れる人がいて時代劇になっている。
でも結局胴元に抑えられて殺されたりしている。
ただ千人くらいの人がこの世界を操作できるのか。そこにはアメリカという巨大な国が後ろ盾となり覇権国になっているからできるとなる。でももう世界でわそれがイカサマだと気づいているからドル支配も終わる。

またグローバルを経済であれ資本主義であれそんなイカサマの賭博場に気づいてみんな手を引くとなればグローバル経済も資本主義も終わりになる。それでアメリカの人たちですらニューヨークのウオール街に反感を持ちデモをしたことでもわかる。
今世界はそうしてアメリカの覇権国から離脱して別な経済系を確立しようとしている。それでアメリカは衰退してゆくとなる。
アメリカは世界からの市場指示を失いつつある。でもまだ中国とかとは逆に信頼されていない。そうよう変換点二きているのである。

そもそもなぜそうなったかというと貨幣が生まれた時そのことは予想されていたのである。本来は価値は物自体にあり貨幣にはない貨幣にはない。でも貨幣が生まれた時すでにその未来は予測されていた。ギリシャでも紀元前6世紀にすでにすべてが金だとなり社会が歪められたことで嘆いていたからである。
貿易というときそもそも物々交換が基本にある。だからハイエクの言うように塩と黄金が等価で交換されたともなる。
ただ貨幣には紙幣でも持ち運ぶことや何でも買えるとか蓄えることなど便利であり必然的に生まれたものである。でもその弊害が大きくなりすぎたのである。グローバル経済ではもうその規模が天文学的であり誰も見通すことができない。

そして千人くらいのファンドの人が巨額の金を操作して金融市場で儲けている。そういうことに世界の人も気づき始めているからドルが基軸通貨として通用しなくなりドルの価値は下がってくる。貿易は別に物々交換が起源だとすれば人間の生活はこの地球で始まった時からすでにあった。それは互いに足りないものを補うということでもあった。
ただそこに貨幣が生まれた時貨幣に左右されるようになったのである。物の価値より貨幣の価値が大きくなったのである。
それがグローバル経済になるとその規模があまりにも大きすぎるのでその貨幣を紙幣を使って実体経済を支配するようになったのである。

なぜインフレになるかというとそもそも紙幣とはいくらでもすれば作れる。例えばある商品の価値があるとする
それが10とした時、紙幣なら100を簡単にすり作れる。
すると10の値段のものが10倍になりインフレになる。
つまり貨幣であれ紙幣であれそれは大したコストもかけないでいくらでも作れる。だから物の値段はあがり人々は物価高に苦しむことになる。
本来は物の値段はどちらが高いというものではなく互いに別の価値あるものと交換することである。りんごとみかんの価値は別物である。どちらが価値あるというものでもない。だからこそりんごとみかんは交換される。そして別々の価値として味わうのである。
でも貨幣で紙幣でものを買うというときはそうではない
そこから経済自体が歪められるものとなったのである。ある人はりんごを作るよりみかんを作るより野菜をつくるより紙幣でも作ればなんでも手に入るとみる
その紙幣でも貨幣でも作れば汗してりんごでもみかんでも野菜でも作る必要はないと見る。それは実物として交換しなくても手に入るからそうなるのである

そういうものの延長として現在のグローバル経済があり金融経済で歪められたものとなったのである
貨幣とか紙幣が生まれた時どうしてもこうして歪められたものとなったのである。だから紀元前6世紀にすでに貨幣によって歪められた社会となりそれが現代でもグローバル化して複雑化して同じ問題が起きているのである。要するに貨幣であれ紙幣であれ大量に作りそれで巨万の富を得る人たちがいる。
その人たちは何も実物として作り出していないのである
そういうからくりに世界で気づきつつありグローバル経済とか資本主義が終わるとなる。株に投資しないというときそれがイカサマだからである。
そうしてグローバル経済化から手を引くとグローバル経済も終わりとなる。ただ貿易とかはなくならない、不公平なグローバル経済や資本主義が終わる。だから次は社会主義だとはならない、それも失敗だったことは歴史が証明しているからである。

posted by 天華 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年05月18日

グローバル経済資本主義が破綻して終わる (それはアメリカなどの極一部の特権階級が儲かるシステム)


グローバル経済資本主義が破綻して終わる

(それはアメリカなどの極一部の特権階級が儲かるシステム)


moneyeconomy.jpg

【金融経済大混乱!円安は誰にも止められない!】6月1日、米国国債上限問題!世界資産の80%を締める金融経済!
実物経済の50倍が金融経済

実物経済の50倍が金融経済


economyの語源は、ギリシャ語のoeconomia(オイコノミア)です。oeconomia(オイコノミア)はもともと「家計管理・節約」を意味していました。



今の経済はかけから家計から考えた時代より信じられない何兆倍もの規模の経済である。だからグローバル経済というのは誰も結局わからない見通すことなどできないのである。
人間の見通すする範囲は限られている。その実際に交際する範囲にしても限られている。いくらグローバル化したからといって外国の人と直接接するわけでないしその実態は理解できない。
だからグローバル経済というのは常に陰謀論になるし覇権国はアメリカは世界の富を集めて富裕層は後進国の何十億人を稼ぐより金が入ってくるのである
それは額に汗して危険な労働しなくても金融の操作で得たものである。そういう労働をじかに見ていれば金の払うことに文句は言えないだろう。

でもグローバル経済の金融資本主義の世界はそうはなっていない
現実の実態経済より金融のやり取りの金が相当に多いのである。もはや実際に物と物の交換が経済の基本にあるがその物から離れて経済は何千兆円というもう実感できない金がやり取りされて利益を上げる。特権的地位につけば金が労せずして入ってくるとなる。
世界は自由主義社会は市場原理で平等だと言うが実際はある特権階級が信じられない巨万の富を手に入れるシステムだとなる。
それはアメリカだけではなく中国でもそうである。ほかの国でもそういうことはある。だから一概にアメリカが全ての富を得ているとはならない。
でも実質はドルは世界の基軸通貨になっているからアメリカがどうしても一番得するようになっているのである。また金融を牛耳るIMFなどがありそれで実際は自由主義市場ではなくそこで金融市場でも操作されて世界の富は一部の特権階級に奪われているともなる

加治将一氏のいうことはアメリカでビジネスしているから説得力がある。学者の言うことより肌で経済を知っているのである。
だからそのいうことはほかの人とは違っているのである。
でもなぜかアメリカの特権階級の巨万の富を得ている人を批判していないのもよく理解できない。日本の特権階級の人たちは常に批判しているがアメリカの特権階級の人を批判していないように見える。
アンティークコインとは富裕層の資産を保全するためにある。そのために富裕層に奨めているのかとなる。

いずれにしろグローバル経済というのはその実態をすべて知りうる人は一人もいないと思う。それだけあまりにも巨大すぎるのである。だから株式というのは世界になれば上がったり下がったりするから先を見通すことなど誰もできないと思う。
だからそれは突然天災のようにクラッシュしたりする。それはもう人間が操作する範囲を超えてそうなるのである。ある人は株が上がるとか下がるとか常に予想してもどれが真実かは誰も分からないと思う。
まるで津波の地震を予測するようなものである。地震の予測は誰も実際はできない。だから素人でも色々なことを言う。それは学者でも正確に予測できないからである。グローバル経済も一見わかるようなことをいうが実際は誰もその全体を知りえる人はいないのである。だから世界のギャンブル場だという人もいる。実際にギャンブルなのである。
実際の経済とは関係なく金融市場で金のやり取りがされている。

金をただ右から左へと回して巨額の利益を言っている。そこに結局設けているのは賭博場の持ち主であり胴元がもうけているとなる。ただある時その賭博場に関わる人に一時的に儲けさせたりしてはいる。でも本当に儲けているのは胴元なのである。
株でもそうなのである。それでギャンブル場であり株が上がるとか誘われて素人は大損することがある。
今日本の株価上がっているけどそれも実体経済とは関係ないのである。なぜならこれほど貧困者が増えているのにどこで景気が良いのか全くわからないからである。
もし高度成長のような時代ならそれを認める。みんなが豊かになったのだから株も上がって当然だとなる。今これだけ貧困で苦しんでいる人がいるのにどうして株だけが上がるのかそれはやはり実体経済とは関係なく操作されているのである。

結局あまりにも巨大化したグローバル経済のことなど誰もわからないのである。そこで運よくギャンブルで儲ける人はいる。
でもそれは極一部の人なのである。高度成長の時代のようなときはみんなが豊かになったから実体経済と株は合っていたのである。今どうして株が上がったからといって日本人は豊かさを感じるかというと返って電気代が上がるとか物価が上がるとか多くの人が苦しんでいる。そんなときにどうして株が上がるのだろうかとなる。
それは実体経済とは関係ない金融資本主義で金が右から左と左へと移動してるだけのように見える。そもそも日本は景気良くなる何かがあるのかとなればせいぜい観光で外貨を稼ぐくらいだとしたらなぜ株が上がるのか理解できないのである。だからまた天災のように突然株が下がり損する人も出てくる。

それでグローバル経済というのは結局公平ではないしギャンブル場であり胴元が得するシステムだともなる。それは胴元がギャンブルで取り仕切り設けているということである。
それがアメリカの特権階級だったりする。そこで陰謀論になる。
でもその実態を知ることは難しいのである。

それでもうグローバル経済は破綻するという主義も終わると言う。それは公平なものではない。だからこそもう限界であり終わりとなる。
銀行と言うときすでにバビロンにあったのである。その時も銀行に預けてなんとかしようとしたが滅びたのである。
つまりいかなる人間が作る文明もいずれは滅びるということである。クラッシュして破綻するのである。世界統一ができたとしてもそれは悪夢である。それは世界を支配する人であれ国であれその権力で人類を思いのままに操作することになる。
今や国だけではなく人類を操作するのは国際的大会社かもしれない。そのためにビルゲイツなどが人類削減のためにウィルスをばらまいたとかなる。コロナウイルスの前にしきりにウイルスのことを言っていたからである。
要するに人類を統一することはできない。人類を統一することは神の怒りに触れてバベルの塔のように崩壊することになるのである。それが人間の宿命であり人間を治めることができるのは神しかいないのである。

そこには世界政府がない、すべての国の国民に責任を持ち。グローバリゼーションのプロセスを監督してくれる監督してくれる存在がないのである
そこにあるのは世界政府のない世界統括とても言うべきシステムである。少数の機関ー世界銀行。 IMF、WTO,−と少数の人間ー特定の商業的金融的利害と密接に結びつく金融や通商や貿易の担当者ーが全体を支配してその決定に影響される多くの人々はほとんど発言権のないまま取り残されている
世界を不幸にしたグローバリズムの正体ージョセフ・E・ステイグリッツ

グローバリゼーションはこのようにとても人間の血の通ったものとはなれない。そこに道徳なき経済になり実際はアナーキーにもなっている。だからこそ必ず突然にクラッシュが起こり恐慌が起こり世界がアナーキーに無政府になってしまうのである。
そこで発展途上国のことなど貧困者のことなど表向きは助けるような事を言っても無視されているのである。
もう誰が操作しているのかどういう風に経済が動いているのか知り得ないのである。それで必ず陰謀論になるのである。

そして通貨でありそれも実際は人間を弱めたものになったのである歪めるものになったのである。貿易とは本来は物々交換であった。そこに貨幣生まれた時歪められたのである。何か物だったらものを与えるときそこにものが憑くとかなる。物は神そのものが作ったものであり本来は金に換えられない価値がある。その価値は神しか作れないものだったのである。。りんごであれバナナであれみかんであれその価値は神が作ったものであり人間が人間を作った作れないので。
だから人間に直接りんごであれ野菜であれ与えるときそこに人間の心が乗り移る。近くの農家の人でも取れた野菜を食べてくださいというとき何かそこに心がこもり金を与えるのと違っている。金を与えるときそれは確かにありがたいものでも紙幣だったらそれ自体には価値がなく紙切れに過ぎない。

つまり貨幣でも紙幣でも媒介するものでありメディアなのである。それ自体には価値がないのである。だからどうしても貨幣が生まれた時ギリシャでも紀元前6世紀でもう金のために社会が歪められたと嘆いていたのである。
グローバル経済でも金融資本主義となり実体経済とは別なものとなり世界が歪められたと同じである。
そして紙幣は貨幣でも人を支配する道具となる。アメリカはドルで世界を支配できる。だからそれに反発する中国とかロシアでも出てくるのである。つまり紙幣とは支配する強力などう道具であり媒介物でありメディアなのである。
だから自由経済であり自由な市場でありそこに公平があるなどということはないのである。それで今アメリカが力が弱っていくとき中国の人民元が世界で通用するようになる。。
いつまでもドルは世界の基軸通貨とはならない。一番貿易量が多い日本でもいずれ人民元を使うようになるというのもそうである。。

それで日本でもアメリカ一辺倒になっていると問題が起きる。中国との貿易量が多いのだから経済的に問題が起きる。
やはり東西文明があるとき現在は西洋文明になった時逆に東側が今度は優勢になってくる。。それは長い間の世界史で見ればそうなっているからである。次に台頭するのはインドでありそれも東洋なのである。西洋文明は衰退してゆくアメリカもヨーロッパの拡大したものでありそれが行き詰まってゆくともなる。
それが今世界の大きな転換点になっているということである。
posted by 天華 at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年04月01日

需要がないのに宅地でも新築の家が作られる矛盾 (新たに仕事を作り出すー家のリホームと庭のリニューアル)


需要がないのに宅地でも新築の家が作られる矛盾

(新たに仕事を作り出すー家のリホームと庭のリニューアル)

人口を減らしたくないという市町村の事情と、常に新築住宅を作り売らなければならないようなビジネスモデルになっている住宅会社の事情、さらには資金の活用先を増やしたい金融機関の事情から、人口減少が明白であるにもかかわらず新築住宅は増えている。
市町村など自治体にとって人口減少は税収減や地域経済減退につながるのでなんとしても避けたいものだ。総人口が減るなかで、自分のところの人口を減らさないためには近隣の他市町村から住民を引き抜いてくることしかない。すなわち自治体間での住民の取り合いとなる。

それも市街地の中心部や周辺ですでに発生している空き地や空き家を埋めるようにすれば良いのだが、実際は前述のような理由からそれがなかなかできず、それらを放置したまま別の場所に住宅を新築させようとする。

銀行など金融機関も、低金利下で稼ぐ手段として前記の住宅会社と組むケースが出てきた。その中でも土地も資金も持たない個人に対し融資をし、住宅会社が進めるオーナー商法に積極的に協力するところも現れた。
「ローンの返済ができない」などの問題も…人口減少の日本で「新築住宅が減らない」4つの理由

その大工さんは家のリフォームの後庭もリニューアルするとして石の配置を変えたり私がいらないという花の木を切ったりした
花でも同じものをいつも見ていると飽きる。
庭でも何か同じだと飽きる。それで自分自身が新しい花を買ってきて植えた。それで足りないので何種類かの花をコメリからかっ咲かせる育てることは野菜を作るように土とかとも関係してめんどうなのである。
だから人間はあらゆることに通じることは不可能である。
私自身は庭に花を自ら植えたりしたがそれ以上変えるつもりはなかった。でも大工兼庭師が勝手に変えたのである。
それは悪いものではなかった。それなりに前とと違ったものとなりリニューアルされたのである。
それならまた金を払ってもいいと納得した。

このように庭のリニューアルでもリフォームでも前よりよくなればそれに金を払う。その人は今度は墓も作っていたので墓石が汚れているとしてそれを落とすということを言った。
確かに石が汚れて赤くなっている。だからそれも必要なのかと思った。
つまりその人は新たな仕事の需要を見つけたのである。
ただ金のない人はそんなことしなくてもいいともなるだろう。
ここで考えたことは今なかなか仕事がない時代になっている。
何か仕事と言うとき老人が増えれば病気とか介護になりその方面の需要は増えてくる。ただ仕事は需要があってこそある。でもまた新たに新た需要を作り出すことによって仕事も生まれる。
私自身庭を変えるということを少しは考えてもそんなに庭を変えようとは思っていなかった。そこに需要を自ら見出していなかったのである。

何か現在の仕事は新しく家を建てたりすることができなくなっている。少子高齢化でもあり若い人が少なければ家を建てる需要も
減少してくる。
この辺で新築の家が増加したのは原発事故の避難者が故郷に進めなくなった人たちが移住してきたからである。
だから新しい町が三つくらいできた感じになる。新興の住宅地ができたのである。
それも一段落したそれでもなぜ新しい住宅造成地ができるのかとか大東建設のアパートがまたできるのかと疑問だった

そんなに需要があるのか?

もうそんなにないのに依然として開発がなされていることがわからなかった。この記事を読んで明確に理解した
需要がないのに無理して作らねばならない理由がわかったのである。人口減少で自治体間で人の奪い合いになっているという説明である。この辺は原発事故で人が流動した。そして避難区域でわ
家は捨てられ田畑も捨てられ荒廃したのである。
でも周りの市や町に移住してそこは帰って人は増えたのである。このことは特殊なことであるが他でも起きていたことなのである。人口減少で人の奪い合いになっているということである。
需要がないのに土地造成をしてアパートを建てている。でもそうせざるを得ない理由が社会にある。
銀行でも貸付先がないから需要がないのにか金を貸して需要を作り出しているのである

現代は供給過剰社会になっている。だから空き家が増えても利用できるとしてもしない、新しい家を作りつづける。
経済理論では江戸時代でも常に大火がありそのために家が新築されるから需要が生まれて景気よくなったとなる。
戦争になれば奇妙だが家でもインフラでも破壊されるからやはり巨大な需要が生まれて景気よくなる会社も生まれる
経済にとって需要は大きな問題である。それであえて需要を作り出すため公共事業を国で作り出したケインズ理論が生まれたのである。ピラミッドの建設も需要を作り出す公共事業だったという新説もこのようにして生まれたのである。
供給と需要は密接な関係がある。供給が先か需要が先かとなると簡単に決められない、供給しても需要がなければ経済はまわらない、 百万都市の江戸は消費地として発展した
何か生産したわけではない、諸国の大名が集まる大消費地だったのである。別に何かを生産することもなかったのである

ともかく現代は供給過剰社会であり何か需要を見出すことがむずかしいにである。戦後の焼け野原だった何もなくなったから膨大な需要が生まれた。小さな店でも物がないから物を置けば売れたのである。需要に供給が追いつかなかったのである。
でも今は供給過剰社会である、これほど空き家があるのに利用されない、新しい家を建てつづけている。そうしなければならない理由がある。それは需要がなくても消費者側とは関係なく生産者側の要求でそうなっているのである。
でも少子高齢化社会では様々な新しい需要が生まれにくい、病気が増えるとか介護が増えるとかの需要が増大する、でもそれが経済成長には結びつかないのである。



posted by 天華 at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年02月10日

イギリスがなお金融を支配している訳 (タックスヘイブンはイギリスが操作している)


イギリスがなお金融を支配している訳

(タックスヘイブンはイギリスが操作している)

ここでアメリカは、年間約1000億ドル(約11兆円)の税収を、失っているという
もちろん、アメリカだけではなく、世界中の国々がタックスヘイブンの被害を受けている。
現在、世界の銀行資産の半分以上、多国籍企業の海外投資の3分の1が、タックスヘイブンを経由していると言われている。

国際経済において、イギリスが行ってきた「禁じ手」というのは、タックスヘイブンだけではない。現在、世界中で行われている「狡猾なマネーゲーム」の多くはイギリスが関与しているものである。

アメリカが最大の被害者に…世界中に害悪の"タックスヘイブン"が一掃されるどころか増え続けるワケ

タックスヘイブンを作ったのはイギリスだった。金融を支配しているのはアメリカではない、依然としてイギリスであるとしている、すると本当の世界経済の黒幕はイギリスだともなる。
大英帝国の支配体制がつづいていたのである。
国家自体がこうして盗賊の黒幕のようにもなっていたのである。
悪を無くすことができないのはなぜか、それはこうしてその黒幕国家となればイギリスという国家の利権を奪ないとできないとなる。
日本が最初に戦争したのがイギリスだった、その時の覇権国はイギリスだったからである、シンガポールとか向かいのマレーシアとかビルマでイギリスと日本が戦かったのである。
そこでイギリスを破ったことは快挙だったのである
でもアメリカが参戦して敗れたのである。
つまり覇権国になると金融を支配できる。今はアメリカが支配していると思っていた。世界の基軸通貨がドルだからである。
でもイギリスが金融の面で依然として支配していたのである。

世界を旅して面白かったのは貨幣が国ごとに違っていることである、ユーロ―になる前はヨ−ロッパでも必ず貨幣をりょうがいしなければならなかった
それがめんどうだったが別な国に入るということで興味を持つ、つまり国ごとに貨幣が違っていれば貨幣に興味を持つ、だから世界だと歴史が古いから貨幣そのものもにアンテー
コインの蒐集がある、それも現実にアンテークコインが実際に今通用している
高額な価かついて富裕層の資産確保として通用しているのもわかる
それだけ歴史が古いからアンテークコインが現実社会でも今も価値があるとなる
それは単なる趣味ではないのである
貨幣から外国の特にヨ−ロッパの歴史に興味を持つ、ギリシャの露店でドラクマを使う
その貨幣は紀元前から使われていたとなると古いのである

貨幣とは何かというと金融を支配することも世界の覇権国になる。だから大英帝国がありポンドが世界で通用したのである、ポンドは今のドルだったのである
そして意外なのは世界の金融の中心地はイギリスのシティでありニューヨークのウオール街ではない、タックスヘイブンで大きな損失を出していたのはアメリカだったのである
そもそもアメリカはイギリスの植民地から発展した、イギリスから独立したのである
イギリスが世界の覇権国になっていた、だからこそポンドが世界の基軸通貨になっていたドルが基軸通貨ということは世界で通用するのはドルである
ドルはか貨幣ではなく紙幣でも価値がある、だからエジプトの南の方でロバに乗った少年がワンドーラくれとなるのである、ドルはアフリカの果てまで通用しているのである
貨幣の価値は世界を支配する力を持った国が覇権国が持つ、貨幣その物に価値があるとはならない、ただ貨幣が黄金だったら貨幣そのものに価値がある、日本だったら小判がそうである

とにかく七つの海支配した大英帝国は消失した、でも依然として金融はイギリスが支配していたのかとなる、実質的力を失ってもタックスヘイブンを引き受けている国がイギリスの領土だったところである、そして大英帝国の繁栄の遺産が英語が国際語になっていることである、この二つがあってイギリスは力を失っても世界的なプレゼンスがある
だからアメリカもイギリスが所有するタックスヘイブンの島などで一番税金を損失しているとなっている
ニューヨークのウオール街が金融の支配地だとみていがそうではなかった
それでリーマンショックはイギリスのシティから始まったいたという
金融というのも大きな争いであり覇権国になっただけで巨額な富が集まるのである

その金融支配に抵抗してロシアとか中国では独自の世界通貨を作り通用させようとしている,ルーブルで取引しようとしたのである、結果的にルーブルの価値が下がらなかったのはロシアには石油とガスの資源がありその価値の裏付けがあって価値が下がらなかったのである、貨幣の価値はこうして資源とか軍事力とか技術力とかが関係している
そしてドラマではあるがオスマントルコが繁栄したときエジプトに赴任した部下が独自の通貨を作ったことで王が激怒して滅ぼされた、これはローマ帝国でもあった、地方に赴任した部下が独自の自分の肖像を彫った貨幣を流通させようとしていたからである
つまり貨幣とは支配の象徴なのである、イギリスが依然として金融を支配している時でもそうである、大英帝国の遺産があってそうなっていたのである

日本でも円が一時高かったのは高度成長時代がありその延長としてまだあったからである円が力を失ったのは日本の経済が低迷して成長しないからである、また売りとなるものが消失したからである。
要するに依然として大英帝国のイギリスは全部力を失ったわけではなかった、金融の面でやはり世界をリードしていたのである。でもそれは実質的力があるわけではない、そもそもタックスヘイブンとは国の税金を逃れるために作られた
それは明らかに公平なものではない、アメリカすら大損失になっていたからである
何か依然としてイギリスが黒幕として金融を牛耳っている、だからグロ−バル経済とはそもそも公平なものではないのである、覇権国に富が集まるシステムなのである
だから当然ロシアでも中国でも反発して自国の通貨を世界基軸通貨にしたいとなる
でもそうなるとオスマン帝国のエジプトに派遣されて支配した部下が滅ぼされたように
アメリカと戦争にもなるのである

いづれにしろ公平な市場などないのである、市場の公平な原理に基づいてグロ−バル経済があるわけではないのである。基本的に派遣争いになり軍事力とかがありそれで貨幣を強制的に通用されているのである。もし日本が戦争で勝っていたら日本円がアジアでも基軸通貨となり使われていたのである
日本はイギリスには勝ってもアメリカに負けたから公平な市場原理など通用しない、それで高度成長時代にアメリカの土地とかビルを買ったりして顰蹙を買い経済成長でも止められたとなる。グロ−バル化しても公平な市場原理は成立しない、アダムスミスの見えざる神の手などはないのである。必ず覇権国によって操作される覇権国が利益を得るようになっているのである
中国が覇権国になれば中国が利益を得るようになる、それに従わざるを得ないのである



posted by 天華 at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年12月14日

物と心が分離した経済 (でっかい磯部の梨を与えて考える)


物と心が分離した経済

(でっかい磯部の梨を与えて考える)


nashiisobe1.jpg

でっかい磯部の梨

でっかい磯部でとれた梨
それを病院入院した母親に
食べさせろと息子に与えた
その息子は発達障害者
その梨を食べて癒されるが良い
与える心がその梨に宿りまた伝える
それはただ金で買うものではなく
心がその梨に宿る
磯部で育てられたでっかい梨
この土地に育まれこの土地の人の手で
いつくしみ育てられたもの
それはただ金で買うものではなく
その梨にはこの土地と人の手で
育てられたものとしての価値がある
物と心が一つになったもの
そうしてその梨を味わう時
その梨はただ食べるもの
腹を満たすものではなく
心も充たされるものとして価値がある
死者への供物は金はふさわしくない
土地の実りと人の手を加えたもの
実物を献げてこそ供養となる
その磯部のでっかい梨
ありがたく食すべしかな

古代ギリシャ語には「oikonomia(オイコノミア)」という単語があるんだけど、この単語を英語で表すと「management of a house government」という意味になるんだ。「oikos」という単語には家庭という意味があって、「nomia」はルールとか決まりという意味があるんだよ。つまり「家庭におけるきまりやルール」という意味の「oikonomia」という言葉が変化して「economy」になったと考えられるね。


今経済でも問題なのはグロ−バル化であり広域化経済でありグロ−バルな市場経済でありグロ−バルな金融資本主義でありとかその規模が余りにも大きすぎて本来の経済の言葉とはかけはなれるようになった
それは天文学的な数字となり株式市場でも金が動き数字化される
経済の語源は漢字だと経世済民なのである、民を救うということにあった
またエコノミーとは家政から始まっていたのだからその相違は余りにも大きいのである

そもそも現代社会がなぜ歪めれたかとなるとその起源が貨幣の出現によっていた
これはいい悪いにしろやはり人間が生活するために必然的に生まれたのである
物々交換ではとても商売も成り立たないからそうなった
でも貨幣を紙幣を媒介とするときそこにどうしても歪められるのである
だからこそ貨幣により物神化とか人間疎外がそこに現れたとかなる
これはむずかしいかそもそも貨幣が紙幣が生まれたこと自体にすでに経済を歪めるものとなったのである
そしてギリシャの紀元七世紀にもすべてが金だとなり嘆いていたのは今と同じである
すべての価値は金に還元されて後は無視されたのである
すでにそんな昔から金の弊害が極端化していたのである

そもそも価値はすべて貨幣で金で計れない!

これだけは確かである、市場化してそこで金で売買されてもそれが正当な価値として売買されないのである、そうした矛盾がすでにありマルクスの理論が生まれたのである
今は貨幣がデジタル化して数字になり株式市場では数字として処理されるだけになったのである

磯部でとれた梨の価値、その背景にはその育った土地がありまた育てた人がいて商品となる、でも市場にでるとその品質と値段だけが問題になる
買う人はその梨が作れる背景など考慮しないからである
現実にただ消費者がみるのはその梨がうまいか、後は値段だけである、一応生産した土地とか人を見ることはある、でも生産した人はみず梨の味とか値段だけを見るのである
でも地元だと磯部の梨ということでその土地と人でもイメージするのである
磯部は津波で村落自体が消失した、でも高台の方は被害がなく梨は作られていたのである
こうして商品経済になると人は味と値段しかなみない、現実に自分自身にしても近くに味噌屋があっても一人分買うとなるとめんどうになるからスーパーから選んで買うだけになる、また米でもいろいろな米があり地元の米を買うとは限らないのである
そうして商品は外国からも入ってくる、そしたらその商品がどうのこうのいちいち考えることもできないのである、ただ味とか品質とか値段しか見ないのである
そうして物と心は分離したのが現代のグロ−バル化した大規模経済なのである
そこで金が貨幣が大きな力を持つことになったのである
金はもともと地元にはない贅沢品を買うものとしてあった、それで宝貝などが貨幣の代わりとなったのである、漢字では必ず貝とつけば貨幣とか財になっていたからである
また貴金属が貨幣となったのは遊牧民などの財産となったのは持ち運びが容易だからそうなったのである

いづれにしろ磯部の梨というときその価値は地元でとれたものであるからどうして遠くでとれるものとは違ってそこにその土地と人をイメージする
外国とか遠くなるとまさにその商品しかみない、でもバナナをとるにも結構暑いし楽でないとと日本人が語る時、バナナがどうしてとれるのか知ったとなる
するとただバナナという商品だけを見ずにその背景を考えることになる
現代はとにかく物と心は分離しているのである、膨大な商品があってもいちいちそれがどういう経過で作られたのかとわからないからである
それで貧しい国の人達が工場で作られたらか安いものとして売られているとかグロ−バル経済でそれは人権として問題だとかなる、酷使されて作られたから問題とかなる
でも買う人はそんなこといちいち考えないのである、考えることもできないのである
そこで物と心は分離するのである

東洋的な思想では仏教でも色心不二というとき色は物でありそれが一体だと説いている
そもそも日本語でも物とはいうときものが憑くとか物心とか物と心は一体とみていたのである、そもそも物とは本来は値段がつけられないものともなる
例えば果物でもリンゴとかミカンとかバナナとかあってもそれは別々の価値があり味がありどっちが優れているというより別々の価値なのである
その価値は貨幣では計れないものなのである、それは色にもいろいろある、赤とか黄色とか青とかあると同じである、どっちが優れているというより別々の価値があることなのである

とにかく経済の規模が大きくなりすぎたのである、そうなると物と心は当然分離する
でも別に貿易とかは否定できない、ただ人間の心の問題として経済をみるときもう物と心は分離してしまったからこそマルクスの物神化により人間疎外とかになったのである
今や人間そのものが物であり貨幣で計られる存在でしかないのである
人間を金としてしか見ていないのである、だから私の家に金をくれると来て実際に屋探して大金を盗んだ人がいたのである、つまり人間は田舎であれ都会であれ今や関係ないのである、金こそすべてになってしまったのである
だから原発事故でも補償金をもらったらその土地をすぐ離れて仙台市に住んだとかばらばらに住むようになったのである、それは金があればどこでも住めるのだから原発事故で荒廃した故郷に住みたくないとなったのである、放射線被害があることでそうなったがそれだけでもない現代社会が金があれば別にどこに住んでもいいしもともと故郷に住みたくない人もいたらこの際一億円もらったら都会で暮らした方がいいとなり移り住んだ人も多いのである

ただそこで失われたものは何かなのか?

そのことが後でわかるようになるかもしれない、ただ現実は金しか見えなくなているのが現代社会なのである
ただ磯部の梨を与えた時、病人に与えた時、そこには何か物を通して心が通う、物と心が一体化したものとしてある、それを自ら梨を与えて感じたのである
もしこれが本当に私自身が梨を地元で作り与えたら本当に心と一体化したとなる
だから田舎で自分の土地で育ててとれた野菜でも分けてもらうときは何かスーパーで買うものとは違って心も受け取るとなる、ありがたいとなもなる
金になるとむしろ金で買う方が消費者が王様となってしまいそんなことにはならないのである

現代の人間はそもそも労働でもなんでも金で計られている、時給いくらだとかなるとあなたの価値はそれだけだとなる、その他は見ないのである
だから人間疎外として現れる、労働が人間を作り価値を作るものとなっていないのであるそのために労働を拒否するニートとか引きこもりが大量に現れたのである
もちろんここには甘えがあり問題があるから肯定できないとしても人間の労働は本来そういうものではない、人間の価値を作るものでありそれは必ずしも金で計れないものである人間の一生の価値がなにかとなったときそれは最後は金で計れない、そうなれば十億円ためた人が最高の価値がありとなり後世にも価値ある人として残るとなるが必ずしもそうではない、最後に人間の価値は金で計れない、その人の価値は何なのかとなると様々であり
でも金ですべては計れないのである、それで今になると銀行員の価値は下落した
投資信託でも株式でも証券会社のようになり銀行をもうけさせるだけであり銀行員の言う通りになるなというときそうである、それは銀行が得するものであり客はそうではないからである、するとどうなるのか、銀行員は地域に住んでいてもだます人なのかととも見てしまう、そうしたら田舎とかに住んでいても銀行員を価値あるものと見なくなる
そうしたら銀行員でもその職業自体いいものではないとやめる人も増えてくる
でも大工とか職人とかならその人はその腕に見合ったものが金として払ってもまた地元でも尊ばれるのである、それは医者とかでも農業とかでもそうである
すると銀行員になるより別な職業を選んだ方がいいとなる、そのために銀行員から農業をするようになった人がいたのもわかるとなる

金ですべての価値は計れない!

でも現実はそうなっている、そこに現代社会の大問題がある、グロ−バル経済がすべて否定できないにしてもそれが物と心を分離するからそうなるのである
posted by 天華 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年11月28日

銀行がすすめる投資信託や金融商品の危険 (退職金二千万でも高度成長時代から比べれば安い)


銀行がすすめる投資信託や金融商品の危険

(退職金二千万でも高度成長時代から比べれば安い)

例えば、手数料が3%かかる投資信託を年に3回乗り換えた場合、3%×3回=9%の手数料がかかることになる。

1年間で10%近い利益を出すのは極めて難しくなるので、回転売買がいかに顧客のことを無視した手法であるかがお分かりいただけるのではないだろうか。

【元銀行員が語る】銀行で損をする日本人?!


これは自分でも経験した、リーマンショックで半分に減った株が元に戻った時、これを説明もせずに銀行員が売ったのである、そして別なものに回した
とにかく銀行員は顧客のもうけなど考えていない、だから転売するのである
株ではわかったのは長期的視野で見れば儲かるようになっている
短期的にはもうからないのである、株は常に変動しているからそうなる
だから安全なのはインデックス投資でありこれを長期的に保有することである
そこで一時的には上がり下がりがあっても長期的にみればもうかる
だから投資は若い人向きだとなる、30年後とか見れるからである
ただ自分の場合そんなに損したとういうことではないから銀行員を責めるわけでもない

でも銀行員は昔と違ってこうした詐欺まがいのものもを売りつけるようになったのである銀行は今まではこんなことをする必要がなかった、借りる人がいくらでもいるから金を集め預けられた金に利子をつければよかった、だから銀行に貯金するだけで利子が7パーセントとかの時代があった
そして不思議なのは退職金が二千万としても少ないと見ている
なぜなら利子が7パーセントになっていたら一千万積んでいたら70万の利子が入る
十年で700万になる、約二倍になっていたからである
だから今は二千万でも利子はつかないから投資してもむずかしいから増やせないのであるまた物価でも上がっているから実質は2000万の価値がないのである
だから意外と少ないとみるのである
今は物価高だから5千万以上ないと余裕がもていなだろう
それより貯金そのものが日本の円そのものが価値がなくなっている
円安になり価値がなくなっている
だから日本の金をもっていても価値がないとなる

だから高度成長時代とは違った時代であり金の価値はなくなったのである
それは日本経済全体が落ち込んでそうなったのである
日本の円が価値がないということは日本全体の価値がないということである
2000万というと大きな金に見えるが実際は違っている
物価が上がっているから相当に目減りしているし高度成長時代から比べると2000万は高いものではない、それだけ金の価値は変動するのである
遂には紙切れにもなるのである

確かに今老人は高度成長時代に貯えた金を持っている人がいる、でもその貯えた金の価値が下がったのである、金自体の価値は変動しやすい、実物ではないからである
本当の価値は実物である、石油とかガスとか食料でも工業製品に価値がある
紙幣そのものに価値はないのである
だから金というのは使った時価値がわかる、家を買うとか車を買うとかカメラを買うとかいろいろ買った時金の価値がわかる
でも金自体には紙幣は紙切れにすぎないのである
だからもともと紙幣の価値を黄金があって価値づけていたことでもわかる
紙幣の価値は黄金が裏付けしていた、それが金本位制だったのである
金でも小判だったら金なのだからその金その物に価値がある
だから小判を貯めていたら安心だともなる、黄金としての価値はあるからだ
ただ持ち運びするものとして貴金属が価値があり貨幣代わりにはなっていた
ベトナムで金属の塊りの重いものが貨幣になっていた、そんなものを持ち歩くことができないからどうしても貨幣が紙幣が発達したとなる

ともかく今銀行は何の用があるのだろうかとなる、貸金庫なのか?金を預けても利子がつかないとしたらまた投資信託や他の金融商品を売りつけるとしたら証券会社なのかとなる実際何回も証券会社の人と一緒に投資信託とかを売りつけに来たからである
金を借りて事業を起こす人も今なくなるといくら銀行に金をあづけても利子をつけることができない、金を借りて事業を起こした人がもうけて利子をつけることができる
だから本当に銀行の役割がいろいろと支払いでもデジタル化しているからなくなったとなるから苦しいとなる

要するに何か価値があるというとき個々人の個々の価値ではなく、全体が影響している
日本に売れるものがなくなったとき価値あるものが作りだせなかった時全体が貧乏化するのである
それは原発の避難区域でもそうである、立派な家と庭があっても空家化して住む人がいなくなったからである、普通だったら立派な家と庭があれば住みたい、金を出しても住みたいとなる、でも回りに商店でもなんでもないとすると住みたくないとなる
私の住んでいる場所でもそうである、弁当屋がないとか百円ショップがないとかないものがあり一人暮らしだとそれで困るのである
人間は余りに普通は全体のことを考えないのである、自分が良ければいいとかなっているでも原発避難区域のようになったところではもう全体が駄目になったから立派な家と庭があっても住みたくないとなったのである

金とか紙幣の価値はもともと変動しやすい、実物でも変動するが金はもともとそれ自体に価値がないのだから本当に紙切れにもなる
だから退職金二千万でも実際は高度成長時代の価値と比べると安いのである
つまり高度成長時代だったら二千万は四千万の価値があったからである
その差が大きいのである、私の家を新築したときは400万だったのである
今なら3000万以上になっていた、こうして時代によって物価でも相当な差がある
だから今の二千万は少ないともみてしまうのである、それは時代が違うからでありもし
日本の経済が成長続けていたら退職金でも倍とかに普通になっていた
現実にアメリカとかでも給料が二倍以上になっているからである
日本では全然給料があがっていないからである

いづれにしろ日本はなぜ貧困化しているのか

やはり価値あるものを作り出せない、外国に売れるものを作りだせない、そして資源もない、するといくら日本の円を刷ったとしても紙切れにすぎないともなる
現実にカンボジアとかベトナムの紙幣は本当に紙切れにすぎなかったからである
交換もできないからである、ドルだったら今なら円と倍でも交換できる
それで失敗したとなる、ただあるゆる価値は変動している、何が価値あるかも時代によって変わる、でも長い目で見れば株はもうかる、確かにリーマンショックのような暴落もあるが経済活動は止まることがないのだから回復してもうかるとなっていたのである
ただ私の場合は株とかでもわからない、投資信託もわからない、売り買いするものわからないから銀行に頼んだのである、でも銀行でも証券会社でも手数料商売であり回転販売されることが危険なのである、株だったらインデックスだったら長期的になればもうかるとなる、でもそういうものは銀行でも証券会社でも手数料がとれないからやりたくないのである、ただ自分でも知識があり取引できる人は株でも投資信託でも金融商品でもしてもいいのである、それで全部損することはない、円安になれば余計にそうなる
でもその知識がないと簡単にできないから銀行とかに頼んだのだがそれがまずかったということである

仲介するものに頼むと何か問題が起きる、メデアも仲介するものだから真実の報道をしない、そして銀行もメデアであり仲介するものだと指摘する人がいたが確かに媒介するものでありその媒介するものによって歪められるのである
宗教でも真実の教えがあり神が存在するとしても仲介するものとして介入する人がいて
カルト教団にでも騙されるのである、牧師がいたとしても仲介するものでありその人に頼ると歪められる、直接媒介するものがなく神への信仰になっればそういうことはないのである、つまり仲介するものメデアに頼ると常に危険なものになる
でも人間そんなにいろんな知識がないのだからメデアに頼ることになって失敗する
つまりこれだけ高度な知識社会になるともう専門家に頼る、でもその専門家によって歪められることにもなるのである


posted by 天華 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年11月04日

日本の貧困化格差社会化の危険 (世界でも信用できず信頼できず社会は分断される)


日本の貧困化格差社会化の危険

世界でも信用できず信頼できず社会は分断される)


●階級社会の欧米

日本はあまりヨ−ロッパとかアメリカのように極端な格差社会、貴族社会とか階級社会はなかった、それは日本はもともと貧乏であり侍だからといって食べ物でもたいして庶民と変わりなかった、殿様くらいはいいものを食べていたとしても後はたいして変わりないのである
だから士農工商がそれは職業の分類であり階級の分類ではない
外国ではヨ−ロッパとかでその差が激しい、貴族の下で働く召使いたちは貴族の食べた余りものを食べてそれが庶民の料理として発展した
人間は食べ物に一番シビアなのである
そこに差が一番現れて貧乏を感じるのである、だから今私は果物が高くて買えないというときそうである、やはり貧困化して格差社会になると食べ物に影響する
それで栄養がとれないとかなる、それで病気になったのかもしれない

ヨ−ロッパとかに奴隷がいたのは民族と民族の争いが陸つづきでありまた多様な民族が混交しているから激しい争いがあり負けた民族が全部奴隷になることもある
それでスラブ民族はスレーブであり奴隷から来ているとなる
その民族の争そいが熾烈であり民族絶滅(ジェノサイド)も起きて来る
日本だと争ったとしてもそこまで熾烈にならない、歯止がある
それは同じ民族だということがある、日本は早い時期に一つの民族に島国の中で成った
からである
だから敵味方塚とかがある、ぼっしん戦争で東北で戦った九州とかの人でも戦死した人たちが手厚く葬られているのである、日本では戦争でも歯止がありジェノサイドにはならない、また奴隷化もしないのである

大陸だとその争いに容赦がない、異民族同士の争そいになり容赦がなくなる
そもそも階級社会はそこから生まれてきた、貴族がいて奴隷がいるというときその奴隷とは戦争で敗れた民族である、戦争に負けたら奴隷になるからだ
この奴隷にすることはアメリカに受け継がれて黒人は奴隷としてアフリカから連れてこられたのである
そしてなぜアメリカがまとまらないかというと人種差別があるのかとなると黒人はもともと奴隷とかありそういう歴史をひきづっているからである
それはヨ−ロッパの歴史から継続しているのである

ヨ−ロッパでも中国でも中東でも豪華な宮殿がある、中国でも始皇帝なら地下まで宮殿を作っていた、その富が支配者に集積されるのである、それが国が巨大だからそれだけの富みを持つことができる、今でも共産党の幹部が兆の金を持つとか妾を何十人持つとか継続されているのである、つまり支配者になると莫大な富が集中する
でもあれだけ中国が発展成長しても農民は依然として貧しいのである、とても14億の人間が豊になれないのである

●格差社会は国でも分断させる

どうして格差社会が問題になるのか、それは国がまとまらない、一体感を持てなくなる
そのことが具体的にわかるのは金持ちの家で働く召使とかに現れる
その生活の差が具体的に現れて感じるからである、それは食べ物に一番現れる
日本が貧困化するとき果物が高いから食べられないというときそうである
でも別にその人が働けば稼げればいいのだが高齢化して働けないということもある
そして必ず家に入って働く人は金持ちの家にきてその暮らしぶりを見てその格差を具体的に感じる、それは食べ物の差なのである、つまり貴族の余り物を食べるということに現れている、ただそれすらましな方だという時代でもあった
まともな食事にありつけない時代があったからである

そういう格差社会の何が問題かというと互いに信頼しあえない、共同できないことにもなる、それは金持ちにしても手伝ってもらうにしても必ず盗むことが起きる
とても信用できないのである、盗みはどこでも起きるが金持ちの家に働く人に起きやすいそれで雇う人を裸にして雇ったとかアメリカである、それだけ盗みが多いということである
つまりそうしたところで金持ちが働かせようとしても働く気になれない不満がある
すると盗んだ方がいいとなる、そういう格差があると互いに信用できないとなる
この信用があらゆるところで問題になる、別に手伝いさんでも十年とか働いていると
格差があるとしてもそれなりに納得して勤めるようになる、でも時間が必要になる
私もそれを実感した、別にその人は何もしないけどやはり最初は盗みがあった
でも五年間くらい家に来て互いに何か理解しあうものがありその人は盗むことはなくなった、つまり信用できる人となったのである
でもその期間は最低でも五年くらいかかるのである、人間が信用するということは最低でも五年くらいかかる、それでお手伝いさんを雇う時、ある家で十年勤めて問題なく信用されていれば信用できるとしているのもわかる
でも十年間の時間を見なければならないとなる

●どうして人間は信頼信用するのか

人間はそもそもこの信用が人間関係で一番問題なのである
第一初対面の人をまず信用できないだろう、それでこれまでは農家だったら三代同じ場所で働いていないと信用できないとなっていた、農家として認められないとかあった
つまりそれだけもう三代でも同じ地域で共に働くということで信頼を培ったのである
だから昔の農家とかなると簡単に新入りは仲間になれないとなる
それは時代遅れとなっている、だから農業はかえって会社組織にしてそこで信頼してやると楽だとなる、昔の村社会のような所で農家になることはむずかしいとなる
ただここで言えるのはいかに人が信頼して信用して共同することがむずかしいかということである
それには時間がかかる、昔なら三代同じ地域に生きて信頼ができるとなっていた
江戸時代はこうして村社会を基本としていたから強固な信頼関係があり共に生活していたとなる、江戸時代は農民社会であり変化があまりないからできたとなる

ともかく人間がどうして信用しあうか、信頼しあうかが大きな問題である
それが格差社会とか広域社会とかグロ−バル社会になると村社会とかとはまるで違った世界に生きるようになった、その時どうして信頼し合うのかとなる
だから契約が生まれたのは大陸だと異民族同士が信頼しあうことは非常にむずかしい
それで契約をしてその損失をまねがれるために細かいところまで契約書に書いて保証したとなる、それは遊牧民社会から生まれた、遊牧民は移動するから商業民にもなるからである、するとどうして信頼するかとなると商売してどうして損しないようにするかとなり契約したとなる、ただその契約でも破られることがある、それを守るのは軍事力だとなる
今なら警察力だとなる、強制する力がないと守れないとなるからだ
つまり商業でもどうしたら信用しあえるのかということがまずある
だからこの信用というのはどこでも問題になるのである

そして格差社会が悪いのは上と下で格差が激しいと金持ちの家に来て働く人が盗むように信頼し合えないのである、それを国単位になると国自体がまとまらない、離反して暮らすようになる、金持ちは盗まれるからと鉄条網を作り家を囲む、また外国の金持ちは私兵を雇うともなる、財産を守るためにそうなる
そうなると国自体がまとまらない、共同できなくなる、それがアメリカでも起きている
極端な格差社会であり数パーセントの人達がアメリカの富の半分をもっているとかなっているからである
そういう国はもう国自体がまとまらない、そこで対立も激しくなり内戦状態になっているというのもわかる、そこに格差社会の恐ろしさがある
金持でも安閑としていられないのである、絶えず盗まれるとか襲われるとか恐怖の中で生きていかねばならないのである、それが格差社会の問題であり世界的にもグロ−バル化するとアメリカのほんの一部の人達に世界の富が収奪される、金融とかでももうける人達がそうである、それは公平な市場ではない、操作された市場である
そこに信じられない格差が生まれている、そういうシステムが資本主義でもやはり破綻してゆくだろう、それは金持ちの家で働いて具体的に感じることができないから維持できるのかもしれない、外国のこととなると見えないしわかりにくいからである
でもこうした極端な格差社会はやがて信頼しえない信用しえないとなり破綻する
公平な富の分配がなく搾取されだけだとなるからである

つまり格差社会は互いに信頼信用しえない

このことが致命的になり破綻する、それは金持ちの家で働く人が常に盗むということでもわかる、食べ物でも差がありそこで互いに信用できないのである
つまりその格差でも大きくなければいいが大きくなると社会自体が分裂する
そういうことが世界で起きて来る、アメリカが内戦状態だというときそれが原因にもなっている,ヒスパニックなど移民が増えてその人達は英語もしりべられないとかなり意思疎通が難しくなっているからである、そして貧富の差も大きいからである
とにかく人間が互いにどうしたら信頼して信用するかが大きな問題なのである
広域化グロ−バル化するとそのどうして信用するのかとなる
村社会とはまるで違った社会になっているからである
大勢の見知らぬ人達が交わる社会でどうして信用する信頼することができるのかとなる
グロ−バル社会ではそれができないから破綻するとなる
株でも誰かがうまいこと操作して楽して大儲けしているとかなる
つまり株でも実際は信頼していない、それは八百長の博打と同じのようにも見ているのである、公平だと見ていない、だからもう株など信用できないともなる
そうして資本主義でも社会主義でも国自体が破綻してゆく、それが格差社会の深刻な問題なのである
posted by 天華 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年10月26日

銀行にまかせる投資は危険 (投資は長期的にしないとだめー金より時間が価値あるものだった)


 銀行にまかせる投資は危険

 (投資は長期的にしないとだめー金より時間が価値あるものだった)

何もしなければ10倍になっていたのに…投資信託を買う人がどうしてもやってしまう"最悪の行動"

これは自分の経験からもそうだった、そもそも間違っていたのが銀行にまかせたことである、銀行は投資のプロでもないし素人と同じなのである
ただ私は手続きとかめんどうだからまかせただけである
投資は別に自分で手続きして自分でトレダーになるのならいいのである
でもそうなると一日中パソコンの画面を見て取引することになるからめんどうになる
その時間がもったいないとなる、それでもうけても何かその人の価値を作るのかとなるとないとなる
私は何億円も株でもうけましたよと語ってもそれがその人の価値となるとも思えない
人間の価値は金で計るが全部は計れないからである

例えば大工さんの価値はやはりその腕にある、これまで培ったスキルがありそれは修行して訓練して仕事するなかで作られたものでありそこには価値がある
人間は何かしら積み重ねたものがありそれが実りとなり価値を作り出す
例え金にならなくてもやはり芸術とか学問でもなんでも価値を作りだす
私は株で百億円もうけましたよとなってもその人の価値は金にしかないとしたらどうなるのか、人はその金のことしか見ないのである
でもその金に魅かれる人はある、でもあくまでも金だけでありその人自身の価値ではないとなる

だから人間は意外と何に時間を費やしたかで人間の価値か決まる、そして時間だけは金持ちでも貧乏人でも平等に配分されている、特別多く配分されないのである
だから長生きするとそれだけ時間が多く使われるから早死にの時代よりその人の価値を高めることができる、高齢化社会の地獄を書いたがいい点としては生きる時間が長くなったことである、すると長い目で積み重ねでその人なりの価値を高めることができる
もちろん投資する金も必要である、ただ金だけでは何かすべての価値を作り出すことはできないのである
別にたいして金がなくても旅はできる、でも社長とかなくと忙しくてできないという
つまり時間はあらゆることに費やすことはできない、社長だったら社長の仕事があり他のことに時間を使うことはできないのである

例えば一つの外国語でも習得するとなると相当な時間がかかる、英語でも日本人がしゃべれないというとき外国語の習得が日本語からだとむずかしいからだとなる
すると膨大な時間を費やしてもしゃべれる人はまれだとなる
結局何をするにしても金だけではない時間がかかるのである
投資というのは確かに時間がかかる、それはリーマンショックの時、半分に下がった
ても8年後に元にもどしてその後に倍くらいになったのである
でも銀行員は上がった時に元にもどった時売ったのである

普通だったら上がり調子の時は売らない、では何故そうなったのか?

それは銀行の都合でそうなった、銀行でもうけるためにそうしたのである
一方的に話し合いもせず銀行員は売ったのである

何故そうしたのか?

銀行員はこうして株でも投資信託でも転売させる、そして別な商品を買わせる
するとその投資額が大きいと手数料が入るからもうかる
ただ自分の都合でもうけるのために銀行員だったらノルマのために転売するのである
だから銀行員には頼むことはするべきでなかったとなる
ただ投資は株でもリスクがあるのだから全部が銀行員の責任とはならない
結局自己責任になるのが自由主義民主主義の社会だからである

でも本当にそのままにしておけば倍にはなったのである
他でも転売したりして失敗した、というのはこんなに円安となることが信じられないとなるからである
もし外国に株を投資していればアメリカに投資していたら相当なもうけになったと驚いたからである
アメリカにも投資していたからである、だからこれも失敗だった
銀行にはそもそも素人であり頼むべきではない、頼んでも銀行員に判断させないで自分で判断することである、売る売らないは自分で判断できるからである

ともかく銀行員には投資は頼むな

これだけは間違いない、投資自体は資本主義社会だから悪いものではない
でも銀行は投資とか証券とか株の素人なのである、また証券会社と違ってそういうものを売るノウハウとか蓄積がないのである、だから銀行は証券とかには素人と同じなのであるただ銀行というとやはり会社とかに投資したり金をだしたりしているからプロだと思っていたのである

なぜ銀行がだめになったのか?

これまでは高度成長時代は会社を始めた人がいくらでも貸してくれと銀行に頼みに来た
でもここ30年は日本経済が低迷して借りに来る人が減って金余りにになったのである
だから利子もつかないし逆に手数料がとられるとか投資信託を売りつけられとかになった銀行とは何か今までは信頼できるものとして地域であった
堅い職業としてあった、でもそれも崩れた、それはゆうちょでもそうである
とにかく利子をつけられないということは致命的である
何のために金を預けているのかわからないのである
ただ貸金庫なのかともなる、そして預金封鎖があるとかなんと悪い話ばかりなのである
紙幣は紙切れになるとかである

ここで投資とは30年くらいみて投資しろとしている、それは確かにそうである
つまり上がり下がりがありその間に放っておいてももうかるとなる
それはリーマンショックの時半分になったのが元にもどりそれから倍くらいになったことでもわかる、それでも10年くらいの間のことである
このように投資とは長い期間を見ないと成功しないのである
短期間ではもうけることはできない、つまり投資の株のスキル以前に時間が問題だったのである

要するに人間の問題は意外と時間の活用が関係してくる、時間だけは一挙に増やしたりできない、30年間を見ろとなると長いとなるがそれが別に若い人だったらできるのである若い人の有利なのは体力があるとういだけではない時間があるという事でも有利なのである
それで庭に木を植えてもそれが育つまで十年かかるとすると植える木もなくなった
また家でも直してもリホームしてももう十年も生きないとると直す気にもなれないとなるだから老人は投資だけではない消費することすらできないとなる
ただこれまで費やした時間が何であったか問われる、学問にしても芸術にしてもこれも会得するに時間がかかるからである
一億円あってもではすぐに習得できるかとなるとならない、語学にしてもいくら一億円もらってもすぐに身につかないのである
それはあらゆることでそうである、何か技術でもすぐに身につかない、必ず時間がかかるのである

だから人生をふりかえれば

時間>金

時間の方が金より貴重だったとなる、もう最後は時間がないで終わる
金でないから終るという人もいるが何かする時間をがなくなって終わるとなる
時間切れで終わるというのが人生だとなっていたのである

そして大事なのはタイミングだ!

何するにもタイミングが大事である、投資でも株でもそうだった、もし株でも投資信託でも売らないでもちつづけたら大儲けだった
でも今になるとこれだけ円安になったからそのタイミングがはずれてできなくなった
投資するタイミングは株安の時だったからである
そして私自身タイミングをはずれて50代でバックパッカーになって外国に行ったが
今になるとそのタイミングをはずと外国旅行はできなかった
あとで親の介護になって国内すら旅行できなくなったからである
つまり何らかタイミングをはずすとチャンスを逃すとできなくなる
そしてそのタイミングとかチャンスは何度もないのである

それは人間の生きる時間が限られているからだ!

それが老人になって痛切にわかるのである

 ひとくちに30年間と言いますが、その間には株価の上り下がりは数え切れないぐらいありました。例えば大きな下落でいうと、1987年10月19日のブラックマンデーではNYダウ平均株価が一日で22.6%も下落しました。でも何もせずにそのまま持っていれば、その30年間でほぼ10倍になっているのです。

ただ正直これだけの長い時間を何もしないで待つとういことはむずかしい
何か不安にもなるから売った方がいいとなるからだ
自分の場合は銀行員がノルマを果たすため手数料をとるために売られたのである
だから別にもし本当にまかせられる人がいたらそうすればいいがそういう人はまれだろう銀行では銀行のもうけしか考えないからである
だから常に転売することをすすめる、そして新たに買わせて手数料をとるのである

とにかく老人には投資は株でも投資信託でも向いていないのは長い目で見れないからである
庭に木を植えても十年とかかかるとなるとその頃生きているのかとなり種を植えることもはばかるようになる、何か家を直してもあと何年生きているのだかなる
つまり時間が限られているから投資に向かないのである
ただ投資した成果を実りを老人になったら得るということである
それは金とは限らないのである、経験であり何かの習得であったりそれぞれに生きた時間で得たものが価値となるのである
未来に向かって投資することはいくら金があってもできない、時間が限られているからである
でも高齢化社会になると百才まで元気で生きるとなればそれだけ時間があるのだから
まだまだということもあるがやはりもう新たな投資することはむずかしいとなる

posted by 天華 at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年10月12日

グロ−バリゼーションと資本主義の縮小化 (物の値段はどうして決まる)


  グロ−バリゼーションと資本主義の縮小化

  (物の値段はどうして決まる)

●物の値段がどうして決まるのか

農業の場合

●人件費
●原材料費
●技術設備費用(機械化)
●肥料代
●輸送費用
●燃料代

例えば今肥料がウクライナ戦争で高くなっている、供給が減少したから供給できない
また世界的にコロナウィルスなどで半導体不足になりそもそも商品が機械でも作れない自体になっている
ヤマハの最新作のYPJの電動自転車が作れていない、それもいつ作れるかわからないという、供給ができなくなっているのだ
それは車でも起きている、どこでも半導体が必要でありそれで作れないから新車が買えないとしている、それで中古車が売れているという、高く売れているという
中古車はもともと需要が大きかったからさらに大きくなったのである

物の値段は農業だったら原材料としてかかるものがある、特に肥料代が一番かかる
農業は肥料なくしてできない、肥料が最重要課題なのである
だから焼畑だと森林を燃やして灰にして窒素などを取り出して肥料にしたのである
また尿や糞も肥料にしたし枯葉とかも肥料になった
また北海道のニシンが大量にとれたときそれは人間が食べるものではなかった
肥料として全国に売ったのである、それだけ肥料は農業の生命線なのである

それから現代の農業は今までの農業とは違う、昔だったら田植えでも稲刈りでも人力でしていた、すると人件費がかかるが機械に変わった、でも機械には燃料として石油を使う
またハウス栽培が増えた時、電気でも暖房するこめにも石油を使う、その電気の材料が何かというと石油なのである、だから石油の値段が経済を左右するのである
石油ショックもそのために起きたのである

●値段でも輸送費用が大きい

そして現代社会でかかるのは輸送費用だ!

グロ−バル化すれば世界に物を運ぶのだから輸送費が大きなものとなる、日本国内でも日本全国なのだから輸送費がコストとしてかかる、例えば近くの梨農家で相馬市まで梨をリヤカーで運んでいたという、15キロも相馬市まである、だからその労力は余りにも大きいものだったのである、でも相馬市なら人口が多いから売れたから苦労しても運んだのである
とにかく現代の経済は米をとるのにただ米だけを見ていてはわからない
米をとるにも肥料が必要であり機械が必要であり輸送も必要でありと昔の農業とは違っている、だから必ずしも米はとれているから米は上がらないとかならない
外国から肥料代もかかるし運ぶとなると石油でもかかる、つまり輸送代も大きいのである機械を動かすにも石油が必要でありまた電気も使いハウス栽培しているのである
だから米は日本で十分とれているから高くならないとは限らないのである
それはグロ−バル経済なのである、一見米なら十分にあるように見えるがそれをとるにも食べるにもやはりグロ−バル化していたりする
つまり何でももう国内産だけではやっていけなくなっている、そういうシステムとして農業も組み入れられていたからである

工業製品でも自国だけで作れない、世界中から部品をとりよせて組み立てるとかなる
それで心臓部の半導体が不足したことが致命的になったのである
世界がサプライチェーンになっていたからである
つまり世界が密接に結び付くということは世界情勢に左右される
ウクライナ戦争でそれが現れた、小麦が入らなくなりアフリカでは食料が得られないので餓死にもなるとなり深刻化したのである
またロシアが意外と旧式の武器を使っていて弱かったというときグロ−バル化して技術の面で実際は遅れていたためである
農業でもそうなように工業ならさらにグロ−バル化しているからそうなる
技術的に遅れるとその国自体の国力にも影響してくるのである

●グロ−バル化資本主義の限界現象

でも今世界で何が起きているのか?

それはグロ−バル化とか資本主義の限界が見えてきたということである
私はグロ−バル経済を批判してきた、でもそれが批判するまでもなくグロ−バル化は縮小する、コロナウィルスとかウクライナ戦争とかまた資本主義が機能しなくなったことでそうなる
資本主義とかは常に投資先が必要になるシステムである
そのために資金が必要でありファンドが必要になる、でもその資金でも投資先がなくなれば機能しなくなる、それが具体的には日本の銀行でも起きている
金は集めても投資先がないのである、地方銀行でも高度成長時代は金を借りにくる会社がいくらでもいた、高度成長時代は資金必要として新しい事業を起こす人がいくらでもいたからだとなる、そのためには資金が必要だからである

私でも駄菓子屋のような店を始めるためにもわずかでも資金が必要であった
でも銀行では貸してくれずに苦労したのである
今は事業を起こすから銀行に金を貸してくれという人は減った、すると銀行は必要ないとまでなって苦しんでいる、何でももうけていいのかわからない、それで投資信託とかを売るようになった、それは必ず手数料が確実に入るから銀行にとっては損しないいい商売なのである
でも実際は銀行の預金でもそれを投資していれば必ず銀行でも損するリスクがある
それでも怪しいアメリカのCLOとかにジャンク債とかに投資して大損するとか警告されいる、でも農協でも農民から集めた金をそういう怪しい所に投資しているのである
金余りであっても投資先がないのである

それでスペインが衰退したのは金銀を集めたのだがその金銀を使って投資する先がなくて衰退した、イギリスとかだと金を産業革命が起り投資して七つの海を支配する大英帝国を築いた、でもスペインは投資先がなくなり衰退したのである
だからいくら金があっても金銀があっても豊かになれないなのである
投資先がありそこに金をつぎこんでもうけがでれば豊かになるのである
葡萄栽培でも土地がありさらに大量の葡萄を作ればもうけになる、でもその土地を全部使ってしまいばそれ以上大量には作れなくなる、そして今度は葡萄の質のいいものを作ることに技術開発するのである
日本の米でもそうである、日本の米の生産も最初は新田開発で量を増やして人口を増えたのである、でもその土地に限界があり今度は一反辺りの面積でも量をとれるようにした
さらに今は質も良くしてうまい米が食べるようになったのである
それは量の拡大ではなかったのである

経済は確かに需要と供給の原理で働いている、日本でも戦後高度成長したのはアメリカが電機製品を買ってくれたからである、アメリカが巨大な消費地としてあったからなのである、いくら物を作ってもそれを消費してくれなかったらもうけることはできないからである、戦前の養蚕でも絹を作るのに日本の生糸をアメリカで買ってくれたから農業が成り立っていたとなる、巨大な消費地があったから成立つ産業だったのである
つまり明治維新後は世界が経済の場となり市場となりグロ−バル化していたのである
それが現代になり頂点に達してコロナウィルスとかウクライナ戦争とかさらに自然破壊とかなりグロ−バル化とか資本主義は限界に達したのである
またグロ−バル化の弊害を述べて来たがグロ−バル化とは自然破壊にもなったから持続可能な社会としてのSDCG(持続化可能社会)が言われるようになったのである

●世界の大きな転換期

ともかく世界は大きな転換期を迎えている、そこに混乱が起きている
こんなに円安になり物価高になるにも驚いた、この変化も大きい、これにどう対処していいかもわからない、これは小手先の金融政策では対処できないものだろう
なぜなら世界的変化として起きているからだ、その世界の大変化の中で起きることだから簡単には日本だけでもどうにもならなん問題だとなる
それは一過性ではなく持続するというとき対処方法がないともなる
金勇政策だけではどうにもならないともなる
ただグロ−バル化は終わる時国内経済重視となり江戸時代の鎖国ではないが国内回帰とかにもなる、つまりグロ−バル化と資本主義には無理があったのである
その無理が自然を破壊するとか自然の理に反していたのである
コロナウィルスでもグロ−バル化して一挙に広がったのである
人間は基本的に生態系に依拠して生きるものであり生態系を離れてありえないのである
だから原発事故でも生態系を無視して作られたから事故になり住民が故郷に住めなくなったともなるのである、その被害は余りにも甚大だったのである

いづれにしろ今は時代の大きな変わり目でありそこでいろいろな混乱が起きてくる
ウクライナ戦争でもコロナウィルスでもそうである、そしてこういうときは株とかに手を出すなとか大きな買い物、車などは買うなとかなる
なぜなら優先するものは食料だとなるからである、車などでも増えすぎたのである
だから車が少なくなることはかえって騒音もなくなり落ち着くともなる
何かそもそも生活自体を見直す、必ずしも経済優先ではないものにすることも人間にとって幸福かもしれないからだ
あらゆることが経済優先になりすぎたのである、資本主義とはそういうものでありそれも限界に達したのである、だから何か時代の思想も変えねばならないとなる
資本主義も民主主義でも思想なのである、でもそれも変えねばならないとなった
だから独裁がいいというのではない、そもそもグロ−バル化というのも必ずしもいいものではないのである、だから食料でも基本的には国内でまかなうのが自然の理なのである
自然の理に逆らうことは人間にできない、そうなれば必ず災いが生まれる
それが原発事故でもあったからだ、ただ昔の貧乏に帰れというのではない
何か行き過ぎたものがありそのゆりもどしが来たのである

そもそも電気がなくて車がなくて暮らせないとなっているのがおかしいのである
第一縄文時代から江戸時代まで電気がなくても暮らしていたからである
戦後でも電気など裸電球一つであり水道もない洗濯機も冷蔵庫もなくても死ぬこともなかったのである、貧乏でもそれで人間の生活が途絶えることはなかった
逆にその時子供がわんさといたことの不思議である、食べるものもないような状態でなぜ多くの子供がいて育てられたのかとなる
別に電気を否定するわけではない、ただ電気がなくても石油がなくても人間は死なない
生活は継続されるのである、電気がなくなったらもう終わりだとか石油がなくなったらもう終わりだとかなっているけど実際は人間の歴史は江戸時代までそんなものなくても暮らしていけたということである、だから電気がなくなっても石油が入らなくても人間の生活は維持できるし継続できるのである
その辺を見直すことが迫られている、何か技術的にも見直す、電気だけではない何か方法かあるのではないかとなる
実際は日本は森の国でありでも木材を利用していない、外材に頼るとか不自然なのであるそうして自然の理にかなわないことが災いを産むということが怖いのである
それが原発事故として現象化したともなるのである

bookeconomic1.jpg


この本はわかりやすい、でも対策は大きな買い物を家とか車を買うなとくらいしかないと書いている
何か有効な対策がないのである、貯金は危険だとしても株がいいとか外貨預金がいいとしても
それもリスクがある、結局この世の中はあるゆることにリスクがある

そもそも生きていること自体リスクだ!

これが世の中なのである


posted by 天華 at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年10月01日

何のために働くのか-働く意味を求める時代 (働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)


何のために働くのか-働く意味を求める時代

(働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)

●働く意味の追求

人間はまずあの人は何をして食べているのか?どんな仕事をしているのか?
それをみる

でも

何をしているのか、何の仕事をしているのか?

それと何のために働いているのかは違っている

まずあの人は何をしているのか、どういう仕事なのかをみる、大工さんなら家を建てるとか家を直してくれたとかわかりやすい、土木関係は道路を直したとかわかりやすい
それはあまり何のためとか考えない、家を直してもらえば客に喜ばれるし道を直してもらえば喜ばれる
だからこういう仕事で何のために働いているとか考えないのである
普通はいちいち何のために働いているとか考えない、金になればいいとなる
利益をあげることである、それに多少問題があり不正があったとしてもあまり考えないことがある、まず利益だ、金を得ることだとして働いている人も多いからである

何のために働いているのか?

こう考えるのは別に普通の人でも哲学者になっているのである
それで漁業者が放射性物質の汚染で魚がとれなくなったとき俺はなぜここにいるのかと問うようになった
それは漁業者は特別東電からでも政府からでも事故前も事故後も手厚い補償金をもらっていたからである、漁業権がありそれが大きな権利だからそうなった
でもそうして魚をとらないでも暮らしていけるのだけど自分はなぜ何もしないで港にいるのかと問うようになったのである

要するに漁業者の仕事は魚をとることであり東電から補償金をもらうことではなかったからである、だから魚をとっていれば魚を食べる人がいてありがたいとなっていたのであるそれで別に暮らしに困らないとしてもその人が地域社会でも何のために存在するのかとまでなった
そしてなぜ漁業関係者は船主などは特別補償金をもらっているのかとなり回りからうらやましがられた、それは事故前でも特別補償金を多くもらっていたからうらやましがられていたのである
そもそも漁業者は魚をとり提供することで地域社会でも存在価値があったからだ
海で魚をとることは結構危険でありだから漁師の仕事は地域社会にとって価値あるものとなっていたしその魚をとる人間も価値あるものとなっていたのである

人間はとにかく金にあればいいとして働くことが多い、その仕事が何のためなのかと問わないことがある、第一今は仕事の種類が多すぎるからである
利益が上がれば金になることが先決でありその仕事が何のためかなど考えない
東電とか電力会社でも電気を供給することでありそこに疑問を感じることもないしそれが有用だから誰も事故がなければ責めないしありがたいものとなっていたのである
何のためになど考える必要もなかった

●何のために働くかは哲学的問題でもある

でも何のために働いているのか、これは哲学的問題になっているのだ

ある人はゴルフ関係の道具を作っている、それは意外と近くの藤倉ゴムとかで作っていたのである、そうか、ゴルフの道具を作る仕事なのかとその人は大工さんだけど認識した
まずその人は何で働いているかをみる、それは一日一万二千円になる
二日しか働かなくても賃金としては高いなとみる
でもゴルフをしないものにはゴルフは遊びじゃないかとも見る
そしてゴルフをする人は比較的金持ちが多い、その人は金持ちの遊びのために働いているのかともなる、老人は暇なのでパークゴルフをしている、でもそれには金はかからない
本格的なゴルフとは違っているからである
でもそんなゴルフをするための人に働いてるということを認識した
すると何のために働いているのか?そうして金持ちの遊びのために働いているのかとなるこんなこといちいち考える人はいないだろう

でもこの辺で起きたことは何かいろいろ考えさせることが多かったのである
それを私は追求して来た、双葉とか浪江とか小高では避難区域になり住めなくなった
そこから仮設住宅に移り住んだ人が多い、その時何もすることかなくなりパチンコとかギャンブル通いになった
そしてかわいそうだとして外部から毎日のようにボランティアが来ていたのである
そのことで地元の人のひんしゅくをかった
あいつらは毎日遊んでいるとかなり外部から来たボランティアとか働く人は不満だったのである、汗を流して復興のために働いた人達は外部の人達だったからである

つまり働くということは何か意義があり意味がある、原発避難者は遊んでいるだけだとか不満になる、そうなるとそんな避難者に尽くすのは馬鹿げているともなるからだ
働くというとき誰かのために働くということがある
家族のために働く、子供のために妻のために働くというのも大きな動機になる
何のために働くのかとなると家族のためだとなるのも多い、その仕事の内容が何であれそうなっている人も多い、そもそも働くとは端を楽にするという意味だったからである
狭い範囲で華族ても苦労して働いているのを見て苦しいから手伝うとかが働くことの言葉の起りだったからである、だから働くといってもいろいろな動機がある
それを一がいに否定できないのである

でも最近いろいろと何のために事業でもするのかとか問題になる、そんなこと無駄じゃないかとも問われる、オリッピックがそうだった、それが何のためにするのか、意味がなくなったからである、東京オリッピックは日本が復興したということを世界に見せるためであり意味があったが今回は意味が明確に見いだせなかったからだ
そして結局そのオリッピックにあづかって儲ける人達のものだったこともわかったからである、大きな賄賂の金が流れていたからである

●何のために事業をするのか?

何のためにするのかというときある人が事業を起こした、それは何のためかとなる利益を得るためにしても何か明確ではない、都会の人に別荘を提供するためだとかまた田舎じゃ金にならないとか言っていた、つまり別荘をもてるのは東京の金持ちでありその金持を相手にしてもうけたいとなっていた
その人は技術者だから家を建てる技術とかあるからそうなった
でもここで問題なのは技術的なものと何のためにするのかとは違ったものである
この技術力があるということは理系の人である、でも何のために考えるのは文系なのである、理系の人は技術者として優秀であればいい、建物をそれも壊れない耐震設計にしてとか地盤を見たり簡単に壊れないように作る、安全を計り作る

でもこの建物を何のために作るのか?

このことは余り考えないのである、ただ鉄道にしても早く目的地に着くために技術開発をすすめる、そしてリニアを作るとなる、でもそのリニアが本当に必要なのかどうかは考えない、でも常に技術開発は奨められるのである
リニアは本当に必要なかどうかは考えない、新幹線で十分だという人もいるからだ
ただ技術開発は常にすすめられるのである、
例えば原発にしても核が危険だからやめるべきだというときでも危険でも開発はすすめられるのが価格技術の世界である
結局哲学となると

あるべきかあらざるべきかと問うことになる

それは文系的思考になる、別荘を東京の金持ちの人のために提供するために働く、その人の動機は何かというとそうして金をもうけるということだった
そして事業に失敗して借金になったのである
でも何かそういうことのために動機でしたことで失敗した、そもそもその動機を見れば
そんなことして何になるのかともなる
それで失敗したからとして自己責任だともなる、同情できないとなる

ともかく人間は何のためかなど考えない、カルト教団の人達は特に何も考えない、ただ拝んで利益があがればいいだけだとしかない、それに疑問を持つ人もいない
宗教だと特に批判できないから完全に洗脳されて従うようになる
何のために拝むのかとなると御利益福運になるからしかないのである
そして大衆は考えない人達である、だから盲目的に従う、それが大衆ファシズムになるのである、だから宗教は人間を奴隷にしやすいのである

●働くことの意義を求める

いづれにしろゴルフの道具を作るために藤倉という会社があることは知った
でもではゴルフの道具を作るためにどんな意義があるのかと問うと金持の遊びのために働いているのかともみる、そこまでいちいち考える人はいない、でも最近そういうことが問われることが多くなったのはなぜなのか?
それは橋がなければ橋が必要だしそれをいちいち考える必要はない、また道路がなければ道路を作る必要がありそれを考える必要がなかった
でもそういうものインフラでも整ってくればリニアとか海底トンネルとか必要なのかと考える、それはやはり貧乏国とは違って豊かになると考えるとなる、哲学とはやはり豊かになったから生まれるたものだとなる
食べることに追われていたら考えないからである

働くこと関しても最近何か変わっている、自分の好きなことをしろとか会社に頼るなとか会社は唯一の価値ではないとか学歴は関係ないとか何か会社中心主義の社会が変わっている、いい大学に入り大企業に入るというのが勝ち組とはならない
これは団塊の世代からすると企業戦士として会社に滅私奉公したのだからそういう考え方とか価値観とかについていけないだろう
でも組織集団が価値がある時代から個々人の価値を追求する時代になったのかとなる
でもそれが世代が違うとぴんと来ない、ただ70年くらい過ぎる価値観ががらりと変わることがある、戦争の時代は国家が最優先課題であった、でも戦争に負けると国家はなくなっていなくても国家中心ではなくなった、その変化も大きかった

それて戦争から帰ってきた人たちは戸惑ったのである
ジャングルに残って日本兵が小野田少尉のように戦いつづけていた人がいた
それは極端にしてもこの変化は何なのだと理解できなかったのである
別世界から来た人のようになっていたのである
それで自分の好きなことをしろとか自分勝手に生きろとか言うこと時代私自身はそう生きてきても理解しかねるのである

ただ働くという時人のために働くことでありそういうことは変わっていない、会社中心の働き方が変わるとういことである
そもそも戦争の時でも何で戦うのか戦争のために死ななければならないのか悩んだ人はいる、特攻隊は20代だから特にそうだった、死ぬのが嫌だったからである
いくら社会が賞讃しても死ぬのが嫌だから煩悶したのである

何のために死ぬのか?

それが後になっても尾を引いている、それは死者を供養するときでもそうなのである
つまり何のための戦争だったのか明確にわからなくなっているからである
どうしてもアジアの欧米の植民地化から解放するための戦争だったというときそれも納得できないからである

●個々人の価値を求めて働く時代ー大企業中心の社会の終わり

いづれにしろ働く価値観が変わった、大企業中心の企業戦士の価値観は変わった
個々人がそれぞれに働く価値観をもって働く、会社のためではない、人のためになるために働く、そして自己実現として自分の好きなことを究めるために働く、でもそんなことができるのか?社会では今まで許されなかったことである
でも一時代が過ぎると戦前と戦後で黒から白のように価値観が変わってしまったことがありすぐには理解できないのである
だから若い人の感覚と老人の感覚はずれてくるのである
私は好き勝手に生きてきたのだから新しい価値観でもいいとなる
第一芸術家とかだったら会社人間ではない、それぞれに美を追求するし学問でもそれぞれの興味があり個々人で追求してゆくものだからである

大企業中心の価値観はカルト教団ともにている、カルト教団も大きな会社のようになっているからだ、また軍隊組織にもなっているからだ、そこで個性は拒否される
黒だったら黒一色になる、赤だっから赤一色になるからである
そこに個性は認められないのである
でもそういう価値観も変わったとなる、個人の時代になるというときそうである
それが社会全体になるというときなかなか信じられないとなる
そうなるともともと学校とかが集団組織に適応するためのものとしてあった
社会に出る訓練として集団で行動できるように編成された
そこからして変えなければならなくなる、教育でもそこで大きく変わる
働くことの価値観が変わった、ただまだそれに気づいていない人達もいる
若い人はそういう価値観になっても適応できる
老人はそれを理解すること自体むずかしいとなるのである

work1111.jpg

2025年日本経済再生戦略 国にも組織にも頼らない力が日本を救う【成毛眞・冨山和彦】
https://www.youtube.com/watch?v=K7S0nv2WZMY&ab_channel=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6

posted by 天華 at 14:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年08月29日

価値とは何なのか (貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)


価値とは何なのか

(貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)

valued colour1.jpg
多様な価値


媒介する者についてメデアについて書いたが貨幣でも紙幣でもメデアであり媒介するものである、そのメデアが媒介するものが現実の物より力をも持つようになった
そのことですでにギリシャでは紀元前600年頃から金がすべてとなり社会は金だけを追求するようになり腐敗したと嘆いていたのである
つまり金自体が媒介するものであり仲介するものでありそうなりやすいものだったのである

物の価値は貨幣で計れない

人間の価値も貨幣では計れない

そもそも貨幣では価値が計れない、あらゆるものの価値は計れない、例えば果物があるとする、リンゴがあり梨がありバナナがあり葡萄があり柿がありスイカがありメロンがありみかんがありといろいろある
ではそれを交換するときリンゴが梨より価値があるとか梨よりバナナが価値あるとか水禍りメロンが価値があるとかならない
それは性質が違ったものでありそれぞれの価値は特有の価値を持っている
理想的なものは物々交換なのである、要するに私はリンゴを育てました、でも梨は作っていません、私はリンゴを与えますから梨を下さい、交換してください
こうなるのが理想的なのである、そこにメデアが貨幣が介入するとそもそも歪められる
貨幣自体にはただの金属だし紙幣だったらただの紙切れである
ただ黄金の貨幣だと価値はあるとなる、その貨幣は黄金なのだからそれ自体に価値があるから交換するとなる、でも紙幣だったら紙切れの価値しかない
だからそんなものとは誰も交換しないとなるのである

要するに物々交換だったら貨幣で価値を計ることはできない、そして交換するにしても等価だとなる、物自体の交換だから貨幣が介在しないからである
ただリンゴの味を味わいたい梨の味を味わいたい、スイカの味を味わいたいとかなる
その物自体の価値があって交換するだけなのである
そこに値段はつないのである、ただバナナとか大量にとれるから物々交換となるリンゴ一個にバナナ十本とかが交換するようにもなる
ただ物々交換だったら貨幣で価値を計るようなことはない、ただその物が持っている価値そのものと交換するだけである、そこに貨幣や紙幣は介在しないのである

でも貨幣が生まれたのは遠く持ってゆく、その時運ぶとなると手間である、物々交換するとなると大変な労力になる、リンゴをみかんと交換するのにその場所まで持ってゆくのは大変な苦労である、でも貨幣であれ紙幣だったら買えるとなると便利である
また貨幣でも紙幣でもいろいろなもの買えるということで便利だから貨幣が使われるようになったのである
ただ本質的な価値は貨幣では計れないのである、あくまでリンゴの価値はリンゴが生来持っている味である、その味に価値がありそれは神が創ったものだとなる
そして様々な果物に味がありその味を味わうということで豊かになる
それぞれに違った味があり価値がある、その味があって別な果物の味があって本当は直接物々交換すればいいとなる、金で計ることはない方がいいとなるのだ

それは人間にも通じている、人間の持っている価値は多様である、でもその価値に値段をつけて金が介在すると人間は歪められる、そもそも人間が持っいる価値は多様であり金で計れないからである、でもその計れない価値は金が介在すると無視される
金にならないものは価値がないとして無用とされ社会でも認められない、そこに社会が歪められるのである
それはブナという木が建築用材として価値がないとして無用化された、杉が植林されて杉の林になった、でもブナでも自然では効用があるから自然林を形成していたのである

ブナは漢字で木偏に無と書いてとされるが、由来は材が腐りやすく役に立たないからとされる

これは人間からの一方的見方なのである、自然にあるものは無用ということはない、そこに必要だからある、人間が価値づけすることによって歪められたのである
だからこそ老子は無用の用を説いたのである
例えば大都会を見ればわかる、そこはすべて用で埋め尽くられている,建物で埋め尽くされている、そこに無用の空間がないのである、それで空地とか公園とか貴重になる
でもそういう土地でも必ず何か有用なものとして建物が建ち埋め尽くされるである
そして憩うことも安らぎの場もなくなっているのである
つまり無用の空間がないから窮屈になっているのである
値段もつけられない無用の空間も貴重になっているのが大都会なのである
自然の価値は一様ではない、杉だけの森にしたのは人間側の都合でありそれが災いを産むことがある

松原は人工林だった、それが何か自然林のように思っていた、でも林でも森でももともとは混成林だった、多様な木があった、それで津波で松林が全部流されたことには驚嘆した松原は塩害を防ぐために作られた人工林だったのである
そして砂地に根を張るから津波には弱かったのである、それで根こそぎ全部流されてしまった、それは信じられない光景だった、おそらく自然の森のようになっていたら全部は流されなかったろう、杉の林にしたように一様化したことで根こそぎ全部流されてしまったのである、津波に強いのは竹だった、他にも津波に強い木を植えていればみんな流されることはなかったかもしれない

これもやはり自然というものを無視した結果だったとなる
自然を自然のままに利用しないで人間側の都合で利用すると危険になる
だからこそ文明は滅びるとなる、持続可能ではないとなる
大都会が危険なのは密集地獄のようになっているのは危険である
何かそこから大きな災害が生まれてくるからだ、そもそも地下街などでも危険であり
高層ビルでも危険である、それは人間の力を示すものだがそれが危険なのである
人間はそもそも自然の則(のり)を越えられないからである
だからこそ人間の過去の文明は滅びているのである
人間とは文明とはこうして常に自然に逆らい不自然に生きてきた、その結果として災いが生まれたのである、技(わざ)は常にまた災いになったからである

ともかく価値の交換というとき色でもいろいろな色がある、その一つ一つは多様な独特の価値でありそれに値段はつけられない、赤い色があり青い色があり独特の価値がある
その色もみんな違っているから交換しようとなる、またいろいろな色を欲しいとなる
赤があり青があり黄色がありとそれで豊かになる
でも同じ色はいらないとなる、赤を持っていれば赤はいらない、赤があり青と交換するとはなるのである
そして赤が一番価値があるから高くなるとかない、価値は平等であり等価である
赤には赤の価値があり青には青の価値があり黄色には黄色の価値がありその価値は赤に価値があり青に価値がないということはない、それぞれ違った色でみんな価値がある
優劣はないのである、自然界では優劣はない、みんな調和しているのである
人間界だけが優劣があり上下関係がある、差別がある

価値とはそもそも貨幣とかで計れない、それぞれ特有の価値がありそれは計れない
だから黄金と塩が等価で交換したというときどっちも実は貴重なものだったからである
塩がない砂漠のような所では黄金より塩が貴重になるからだ
価値はまた場所によっても様々な条件で変わるのである
そもそもあらゆるもののこの地球の価値は神が創ったのである
それを人間の都合で変えてしまった、メデアが貨幣でも変えてしまったのである
市場など公正でもないし金融資本主義とかなりもうどうなっているのかわからない
グロ−バル経済はもう公正でもなんでもない、世界のギャンブル場になり一握りの人が莫大な金を得るのである、いかさまなのである
でもそのいかさまが巨大になり見抜けないのである、だからどうしても現代は陰謀論になるのである

この世ではどんなことしても不公正になる法律があってもそうだし経済でもそうであるここの解決は神の国でしかありえない、人間にはとても公正な社会など作れないのである
貨幣は紙幣は便利であってもそこに必ず不公正が生まれている
メデアは報道でも歪められる、社会は必ず歪められるようになっている
そこに人間の限界がある、人間にはとても理想の国など作れないからである

posted by 天華 at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年07月15日

物々交換の時代へ (紙幣とかドルとかでも通用しなくなるーロシアなど資源国が強い)


物々交換の時代へ

(紙幣とかドルとかでも通用しなくなるーロシアなど資源国が強い)

今起きていることは何なのか?それは紙幣とかドルでも価値が急速に下落していることではないか?物価高でありインフレから超インフレになるとそうなる
紙幣だと紙くずになる、円安がますます進み物価はさらに上がる
そして今世界で何が価値があるのかが見えて来る
紙幣の価値はなくなる、ウクライナ戦争でもロシアが問題があるにしろロシアの強みは
資源国だからである、石油とか石炭とかガスとかまた農業国であり麦とか肥料輸出国でありそれで強みを発揮した
肥料というとき農業は肥料が一番大事なのである、それが如実に示していたのが焼畑農業である、木を燃やしてその灰を肥料にしていた、これも実は大きな自然破壊だったのである、そして焼畑地名が多いのでもわかる、飯館村はの佐須とか他でもどうも焼畑地名がある、飯館村は森林が多いから焼畑に適していたのである
その焼畑農業を持ち込んだのが綿津見神社とか山津見神社をもたらした安曇族だったのである、佐須とは焼畑のことだからである、また焼畑の野菜など食べるイノシシや鹿を駆除するとういことで狼が大神ともされたのである,天敵になっていたからである
飯館村の山津見神社では狼が祭られていたというのもそのためである

なぜウクライナ戦争で世界に影響したかというとロシアでもウクライナでも穀倉地帯でありエネルギー産出国であったからだ、ロシアはたいして技術力もなく国民総生産は韓国よりも低いのである、そういう国がどうして戦争できるのか、欧米に対抗できるのかと思ったがエネルギー国でありヨ−ロッパでもガスでも頼っていたし日本でもサハリンからガスを輸入する予定で工事していた、それがロシアから中断させられたことが打撃だった
松川浦にはガスの基地がありそこから新潟とか東北地方にもガスが流通するようにした
その配管工事する人がいた、松川浦は漁業で成立っているとみるが実際は火力発電所がありガスタンクがあり電力供給基地として成り立っているのである
まず漁業とかなると小規模だから現代は零細なものとなる
江戸時代辺りだったら人口規模も小さいから農業でも漁業でも林業でも生業となり細々として生活してきた、今はどうしても経済の規模が大きくなるから工業力技術力がないと
生活できないのである

ウクライナ戦争で世界が変わったというかわかったことは資源を持つ国は強いとなる
その資源とは食糧であり石炭であり石油でありガスであり肥料とかでもそうである
今や電気なくして生活が成り立たないというとき電気の基は電気ではなく、意外とこうした化石燃料である、原子力だけは違っている、そこにメリットがあったのだが余りにも危険なもので失敗した、でも資源国は強い、ロシアがソ連崩壊から弱体化していたとしても資源大国であったことが今回の戦争で強みを発揮した
それはスリランカでもインドでも他でもロシアの石油とかガスに頼っていたことで支援してくれとなったからである、日本でもその影響を受けたのである
日本は資源がない、太平洋戦争でも石油が入らない経済封鎖で戦争に踏み切ったとも言われる、そして戦争になってもゼロ戦でも片道しかの燃料の石油がなくそもそも帰ることもできないものだった、資源不足になると戦争すらできないのである、石油が燃料だからその燃料がなくなれば船でも飛行機でも使えなくなるからだ

そして世界は今やインフレになる、それは物が不足しているからだ
あらゆる物不足不足に陥っている、コロナウィルスでも世界がサプライチェーンになっているから部品が入らない、その心臓部の半導体も入らないからヤマハでもいい自転車でも買えない、高いとしても買おうとしたが買えない、人気商品は買えない、それはバイクでも車でも全般的に買えないという、こういうことは経験していないのである
買ってくれ買ってくれとなっていた、でも買えないとなっている
物不足になると物の価値が高くなり物価があがる、それは世界的に起きている
アメリカでもヨ−ロッパでも起きている
極端なのがスリランカである、国家が破産状態になっている、スリランカの人が私の田舎の工場で働いていた、そして工場で指を切ったケガをした、それでかわいそうだと思ったまた入管でスリランカの女性が死んだりもした、スリランカは産業と言えば紅茶くらいであり後は観光くらいしかなく外貨が稼げないので遂に石油とか入らなければ国家破産になる、そのために中国に借金して国を売りわたすような状態になっていた
それで利を得たのが大統領一族だった、その人達は暴動が起きて国外へ脱出した
そこで紅茶と石油であれガスと交換してくれと訴えている
つまりここでも紙幣より現物が紅茶が紙幣の役割になる
物々交換状態になっているのである

そもそも紙幣とかは紙切れでありそこに価値はない、だから本当に危機になると紙幣は紙切れになる、日本が戦争で負けたとき私の母は前の夫が事故死して一生暮らせるだけの金をもらった、その金で実家に土地を買った、あとは預金封鎖してその土地だけが財産として残ったのである、つまり本当に紙幣は紙切れになってしまったのである
それが今日本でも騒がれている、何が価値があるのか?本当の価値は物にあり紙幣にはないのである
何か物々交換の時代になるのかとも見る、戦争が終わり食料危機になり都会の人は高価な着物とか骨董品とかでも農家の人に食糧を得たいために交換した
すると時価で百万とかしているのも一万にもならなかったろう、それよりわずかの食糧でも食べるものに価値があったとなる、それで農家には高価な骨董品などが残っているのだという人がいる、戦後まもなくは農家は自給自足であり卵でも食べていたし納豆でも作っていたしカヤの木の実から油まで取っていた、自給自足で買うということはあまりなかった、そういう時代にはやはり農家は強い、こうして物価が上がる時またそういう時代の再来かとなる

ハイエクがアフリカの砂漠地帯で黄金と塩が等価で交換されていたという、塩はそれだけ貴重であり黄金もその時塩と同じ価値であったのだ
またアフリカで武器を売りつける武器商人がいてその代金はダイヤモンドであった
アフリカの紙幣など何の価値もないからだ、確かにドルだったら価値があるにしても
それもドルが基軸通貨になる時代も終わりつつあるのかもしれない、そもそも本当の価値は物にあるからである
日本が苦しいのは資源国ではないから輸入しているから円安とかなると物価高になる、インフレになる、自国でエネルギーがなくまかなえないことである

ともかくグロ−バル経済が危機に瀕している、コロナウィルスでもそうであり自由な流通がなくなる、ウクライナ戦争でもアメリカ一辺倒のドル経済も終わりにもなる
ロシアはルーブルの決済を主張したからである、別に資源国だからその資源を売買できるのは自国のルーブルでいいとなりドルはいらないとなるからだ
こうして世界の経済はブロック化する、つまりグロ−バル経済は機能しなくなる
そもそもグロ−バル経済といってもドル基軸としたアメリカが世界から富を収奪するシステムだった、そのアメリカにしても極一部の大富豪に富が集中するシステムだったのである、それが陰謀論になるとデーブステートとかなる
それはわからないにしてもそういう世界システムが崩壊しつつある、金融システムも崩壊しつつある、それがウクライナ戦争で明確になったのである
何が本当に価値あるものなのか、それは紙幣ではない、ドルでもない、その国が持っている資源であり技術だとかなる、紙幣はしょせん紙きれだからそうなっても当然だとなる

ともかくこれから金を貯えても紙幣で貯えてもゼロになる恐怖がある
それはドルが高くなるからとドルを買っても肝心の紙幣自体が紙切れであり本当に紙切れにもなる、だから金の価値が高くなり金本位制とかにもるなると言われる
物の価値が本来の価値でありその価値は変わらないのである、だからこれから支払いは
紙幣ではなく物で支払われる物々交換にもなる
スリランカだと紅茶を売って石油でも買うとかなる、そこに紙幣は金は介在しない
そして日本だと外国に何を売るのかとなると車くらいしかないみたいである
資源がないのだから日本は苦しい立場になる、技術があるにしてもそれも中国に負けている

そして自己防衛として東京とかだと金持ちでも田舎に地方に土地を買って野菜を作れとかなる、でも野菜を作るにしても素人が始めると簡単にできない、様々な困難があるからだ第一田舎でも農業している人は一割にもみたないし農業のノウハウの方が大事でありそれでうまくいかいなのである
ただ物々交換時代になると紙幣は紙くずになるから危険である、でもその対策はむずかしい、資源、物、技術、労働力があればなんとかしのげる、でも老人は労働する力がなくなっている、だから年金頼りなのである、それで不利である
優秀な大工さんでも体が弱体化して稼げないとなる、何か40万の仕事があっても断ったとしているからだ、それで老人はどうしても年金頼りになるが金の価値が低くなり物価高になり苦しむ人が増えている
高齢化では労働力にもならない、年金の価値が物価高になれば低くなる、物価によってスライドもしないからだ、むしろ4万しか年金がもらえない人でも年金は引かれていて困窮しているからだ
posted by 天華 at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年07月06日

こんな額では生活できない」「包丁で刺してやろうか」 生活保護の担当者を脅迫か 男を逮捕


こんな額では生活できない」「包丁で刺してやろうか」
生活保護の担当者を脅迫か 男を逮捕


生活保護は楽だなとか言っているがこれが現実でもある
最低限の保証などしていない、そしてそもそも年金が4万以下のような人が結構いるのだ年金をもらうと生活保護がもらえたとしてもせいぜい医療費が無料になるくらいである
その医療費も二三割負担しなければならない
平均して7万くらいだとどうして生活するのだろうとなる
だから毎月電気水道ガスが払えないのである
そしてガスを止められる、すると食事もできないとなる、そのとめたガスの栓を開けるのに3500円とられる、それを払うからと懇願しても強制的なのである
そんなことを毎月繰り返している

また年金四万から今度は引かれている、そんな金でも引かれている
年金はみんな引かれているが4万とかから引かれたらどうして生活するのかとなる
だから生活保護は最後のセーフティネットでもないのである
この人の気持ちがわかる、ぎりぎりに追い詰められると人間はそうなるのである
そういう人間が増えているのである
何か自分は役所の人でないにしろそういう役回りになって恐怖もしている
犯罪にあっている、つまり日本は貧困化で物騒になっているのだ
最近原町で宝石強盗とかあった、それも地元の人だったのである、事情がわからないにしろこうしたことも起きてくる時代になったのである

もうみんな余裕がないのである、余裕がないということは人間にとって相当に危険になる追い詰められた人間が一番危険だからである
日本がアメリカのように犯罪者社会になるというときも現実化してくる
日本は安全な国でなくなる、人間は余裕がないと人を助けることなどできない
多額の借金をかかえた人が自分が介護とか自分の病気で四苦八苦していたとき来た
でも自分自身が大きな重荷をもっているのだから助けようがないのである
むしろそれは強迫になっていた、お前を助けるから金をだせとまでなっていたからだ
そんな人が苦しいとき来たの最悪だった

金であれなんであれ余裕がないと助けることは不可能である
回りを見ても余裕がない、金に余裕がないとつくづく全体的に余裕がなくなる
私自身の生活は無職で引きこもりで実際は金に余裕がなかった
そこでいつも一番安いホテルとか旅館を探すのにずっと苦労して来た
最後はパリに行っても安宿を探していたのである
余裕が生まれたのは遺産を相続してからである、でも貧乏性だから百万とか簡単に使えないのである、なかなか貧乏性というのは治らないのである
ただ遺産としても何億とかではないから意外と準富裕層とかでも質素な生活しているというのはわかる、私もそうだからである
普通の人と変わりないからである、私の場合車がもたないことで節約にはなっていたのである、でも自転車好きだからいいものを持っているしもっといいものを買いたいとなっている、その他は普通の生活である、外食だって独り身でも月に二三回しかしていない
ただこれは食堂のメニューに飽きたこともある

いづれにしろみんな金に追われると危険になる、余裕がないから危険になる
物騒にもなる、なぜか二回も家で盗まれるとか犯罪に合っている
もうそうして余裕もない犯罪者がそこらじゅうをうろついているような時代になるかもしれない、それはアメリカを見ればわかる、実際はホームレスが多く犯罪多発社会である
極一部の超富裕層がいても下層もまた多いのである
そういう人達は犯罪者になりやすいのである
そうして刑務所の方が楽だというのもわかる、雨露をしのぐ場所があり三食保証されているからだ、それが社会に出れば寝る場所もなくなる、食うこともできなるなるからだ

子供の給食も安上がりになり栄養がたりなくなるとかこれも深刻である
未来の子供がそうなることは日本全体に影響する、ただ団塊の世代は脱脂粉乳とかを供給されていたが別にみんな普通に育つことができた
ただこの時代にまともに子供にも食事が与えられないことは深刻である
それが金持でもそういう困窮者が増えると危険になる、南米とかの大金持ちは子供でも誘拐される危険にさらされているからだ
日本の貧困化は危険な水域に入ってくる、もう入っていることは自分の経験でわかった
でも贅沢したくていい車を買って借金しているとかの貧乏は同情できない
毎月電気水道ガス代を払えない人が本当の困窮者である
そういう人達が百万人以上いるのである、家賃も払えなくなってネットカフェとかで寝泊まりしているとか人たちもいる、都会と田舎の貧困はまた違っている
田舎ではホームレスはいない、寝床は確保されている、安い住宅があるからである

いづれにしろ若い人であれ老人であれ困窮者が増えている、子供にすらまともに給食が与えられないとはもう日本は明らかに後進国である、せいぜい東南アジアクラスであり
下になるとベトナムとかネパールである、その人たちは日本に出稼ぎに来ている
でもその人たちも日本の実情を知ったのでもう稼げないと来なくなると言われる
日本は先進国ではない、後進国になっているのだ
失われた30年間があり一向に経済は上向きにならないのである
そして円安が135円にもなっている、円安でアメリカに投資していたとき一ドル120円で相当なもうけになった、だから円安で相当に逆にもうけた人達がいる
私の場合は他で損したから結局損したともなる
ただ円安とはこのように大きな影響がある、投資に詳しい人はこういうとき必ずもうけるのである、その額が大きいのである
そして富裕層にしても貯金があったとしても利子がつかない、預金封鎖があるとか不安なことばかりなのである、つまり富裕層でもそうして安心がないことなのである

参院選挙があるとして日本の最大の問題は今や貧困の問題なのである
様々な問題があるにしても貧困化することは社会全体への影響が大きいのである
でも日本が貧困から脱するにはどうするのかというとそれが見えない
そして再び外国人から人を呼ぶ観光しかないとなる、それで東南アジアからも日本は安いとなり観光に来る、これはかつての日本が金持ちであり海外旅行して金を使っていたのと逆なのである、それもカルマだとなる
日本が海外で威張っていたが今や海外から来る人をもてなしだとかサービスすることになる、日本は安い国になったのである、

ともかく高度成長時代は一時の繁栄でありたちまたち夢のように消えた
日本人が優秀だとかはなかった、そういう過去の幻想をまだ持ち続けているが現実はもう違っている、日本人の悪い点が指摘されるのである、別に高度成長時代は日本人の協調精神とか真面目さが価値あるものとされていたのである
でも今はそんなことはない、日本人はイノベーションできない劣等民族、国だとされるのである、その評価を百八十度変わってしまったのである
日本のおもてなしがいいとか宣伝されるがそれこそ観光しか売り物がなくなった
後進国になったことを証明しているのである


posted by 天華 at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年06月18日

地震で家を直すのに苦労 (優秀な大工さんの仕事を見る‐樹と人間の共通性)


地震で家を直すのに苦労

(優秀な大工さんの仕事を見る‐樹と人間の共通性)

●受け継いだ家で苦労する−50年過ぎて老朽化している

housbb1.jpg


地震で家を直すのに苦労している、いつもいる部屋を改造することになりそれが手間になる、何か地震で多少曲がったらしい、でも水平器で調べたら曲がっていなかったという
でもサッシを交換するとになりこれも金がかかる、どうしても一旦大工さんに頼むと
大工さんのペースで恣意で仕事がすすむ、頼んだ大工さんは優秀でも自分なりに仕事をすすめたい人だから何か言うこともむずかしい
そもそも家でも素人が何かを言うのは注文するのは難しいのである
なぜなら構造的な面とかで答えられないことがあるからだ
やはり建築はまず安全を計ることが第一だからである、今回の部屋はもともと玄関だったところを部屋にしたのて基礎とか良くできていなかった
それから一部の柱が腐っていたとか古くなっていたのである

私の家はすでに50年過ぎて老朽化していたのである、それで今回の地震でまた傷んだのである、すでに東日本大震災と次に一二年前の地震でもいたみ今回の地震で相当に傷んだ
この家には相当に金がかかっている、家を持つことは修復とかまた増築とかあると金がかかるのである、だから一軒の家をもつことはそこに大工さんだけではない様々なものがかかわる
今回は流しから水漏れがあり新し流しが必要になる、それも結構高いとなる
水を流す管も水もれしたり水がもれて木が腐っていたのである
こうして家は様々なものがかかわり金がかかる、だからそこに需要が生まれる
それで景気を良くするにはみんなに土地とか安くして家をもたせることだというのもわかる、そこから様々な需要が生まれるからである
家を持つことはそこからいろいろなものが必要になる、装飾も必要になる、するといろいろ消費するから景気が良くなるというのは確かである
だから高度成長時代は次々に新しい家が建ったからこれも好景気になった原因だったなる今は逆にそうして建てられた家が膨大なの空家化しているのである

●樹もゆっくり育った木は丈夫である、年輪を見る

大工さんの話を聞くといろいろ興味深いことがある、年輪が詰まっている木、ゆっくり育った木は丈夫でいい木だという、そういう木はゆっくり育っているからだという
これは人間と同じだとも見た、人間も自然のリズムに合わせてゆっくり育ったらやはり丈夫な木として育つということである
まず木が育つには50年とかかかるからそれ自体長い時間が要する、それに合わせれば人間も長い時間で育つのが自然の理に合っているということである
即製できないのが自然であり人間だともなる、即製したものは十分に育だたないうちに使うから使い物にならないともなる、人間もそもそも即製できない、本当に人間は成長するにしても何かを理解するにしても長い時間が必要なのである
私は何でも奥手だから詩とかの表現でもなかなかうまくいかなかった、でもだんだん自分なりの詩を作れるようになったと自ら思う、ただすでに死が近くなってそうなったのである

ゆっくりと時間をかけて成長した木は年輪が細かい
ゆっくりと時間をかけて育ってきた木は年輪も細かくなるので、比較手比較的固く締まっていて、年輪の見た目も均等に揃っていて美しいです。

濃く密に刻まれた年輪(経験)は自分の未来でとても重要な役割を果たしてくれると思います。

細かな年輪のようにゆっくりしっかり濃く、密に成長していったならば、固くしっかりとした芯ができあがると思うんです。

たくさん成長した年もあれば、ゆっくりとしか成長した年もある。それらがあって、今の自分がつくられていくんだと思います

将来、立派な木のようにどっしりとした自分という芯をもった人間になれるように毎日を大切に過ごしたいと思います

老人の顔は年輪を刻んだ顔
人生を刻んだ顔
そこに若い人にはない重みと深みがある
あなたは何の仕事であれ
年輪を積み重ねてその人なりの顔を作れ
風雪に一年ごと年輪は刻まれて
大木となることを知るべし

若い人が何でもいいとされるか老人はやはり何でも積み重ねたものがあり
人生の成果として実ったものがある、だから老人を尊ばないことはおかしいのである
ただ無駄に時間を重ねた者は評価されないのは当然である
その差も大きいから若い人は評価される老人になることを心がけるべきだとなる
つまり時間を無駄にしてはならないということである
たとえたいして能力がなくても積み重ねてゆくと成長してゆくのが人間だからである
ただ時間を浪費すると成長はしない、ともかく木から学ぶことがあると思った
私の場合は木とか石を詩にしてきたけど現実の場で木を利用する大工とか森林を相手とする仕事はそういうことを学ぶとなる

人間はとにかく何でも達成するのに時間がかかるのである、即製にはできない、インスタントにはいいものはできないのである、それで高齢化社会は何かを自分を伸ばす個性を伸ばすのにはいいとなる、十分な時間があるとなるからだ、それで60歳以降でも70歳以降でもその才能を発揮できるともなる
その大工さんも15歳から修行して技を身に着けた、ただ体力的には苦しいとなる
ただいろいろ仕事を見ていて補助役をしているから実地に知ることがある
外材でも外国の松は太いから大きいから加工して利用しやすいとして使っていた
松という時、日本の松というとき曲がりくねったようなものが目立つ、だから建材としては適さないのかとも見た、でも北海道だとトドマツとかエゾ松がありあれは太いて真っすぐなのである、そういう松があり外国の松だとまた違っているとなる
ただトド松やエゾ松は建築材料としては使われていないのである、加工しにくいためらしい


●松の長所

1、 粘りがあり、強度や耐久性に優れている。
2、 経年変化と共に、素晴らしい色艶を出します。
3、 成長が遅く、年輪の割合に肥大成長が小さく目のこんだ材ができるので、杢が強く浮いてくる。よって、銘木としても評価が高い。
4、 赤身材は水に強く、かつては水道管に松の赤身を使用していた地域もある。
5、 杭木として使用しても非常に強く、東京丸の内の区画造成にも山陰の地松が使われた。
6、 暑さ寒さに耐え、乾燥地や山の急斜面、風当りが強い場所でも育つ。
7、 節操や長寿を象徴する木として尊ばれている。
8、天から神々が降り給うのを“まつ”という意味から松という名前が付いたという様に、古くから神聖なものとされ、現在では松竹梅、鶴亀と共にめでたいもの(縁起物)とされている。

硬くて丈夫で艶が良いので、階段材・地板・床材など強さを求めるなら、真っ先に浮かぶのがマツでしょう。天然の地松が中心となるため、次第に希少性が出ています。中国地方はこのマツの自然林が全国でも豊かな地域なのです。気候風土や土壌に恵まれてマツ独自の強く硬く色艶の良い特色が色濃く出ています。構造材・階段材・敷居などに用いられる素材としてはこれに優るものはないでしょう。

マツ科の針葉樹。特にアカマツ・クロマツ・ゴヨウマツ・ハイマツなどマツ科の植物をさします。トドマツ(モミ属)、エゾマツ(ハリモミ属)、カラマツ(カラマツ属)は属が異なるので、通常は松の仲間に入れません。ハイマツなどを除き、多くは高木となります。雌雄同株で葉は針状で二本・三本・五本の束生。球果は「マツカサ(松ぼっくり)」と呼ばれます。マツは北半球全体に分布しており、現在把握されている総品種数は約93種にも上るとされています。その中でも建築用材として特に適しているのが、アカマツ・クロマツなどの日本のマツなのです。
マツ(松)という名前の由来ですが、日本では古くから神聖な木として考えられていたようで、神がマツの木に天から降りることを、待つ(マツ)という説と、松の葉が二股に分かれている様子から、股(マタ)が転訛(てんか)して、マツ(松)という名がついたという説もあります。

松材は非常に丈夫な木材で耐荷重性にも大きな力を発揮します。 建物の梁桁などの横架材に採用されるのはその為で組み立て式ウッドデッキの土台や大引、根太には 最適な木材選択といえましょう。ウッドデッキに使われる松材は年輪の詰まった(目細)松材を 吟味して選別していますのでこの面でも安心してお使いいただける木材選択をしています

二方柾のような心去り材、断面が大き い梁材、無節材などの取りやすい大径木が、 国産材には少なくなった現在では、大径木 が多い外国産材に依存することが多くなり ました
あらゆると ころで使われている木材は、密閉したり、 厚い塗装で覆わない限り呼吸し、生き続け ています。
 木は切られて、挽かれても、割られても 生きています。
そして、その木の寿命分だ け働くことができます。

また日本でなぜ外材を利用するようになったかというと値段だけではなかった
こうして大きく太い木があり建築材として加工しやすいということがあったのだ
それで外材を利用するようになった、そして値段の面では日本の森は山にありそれを切り出すのが苦労でありそこで値段が高くなり外材と競争できないと言っていた
確かに山の斜面とかで切り出すことが容易ではない、運ぶことが苦労なのである
外国の森をみるとウクライナでもロシアでもどこまでも平坦な地が森なのである
その規模は余りにも大きいから森に遮られてそれが国境にもなり安いのである
つまりどこまでも暗い森がつづいていてそこから抜けられないという世界なのである
そのスケールは日本とは桁違いなのである


硬くて丈夫で艶が良いので、階段材・地板・床材など強さを求めるなら、真っ先に浮かぶのがマツでしょう。天然の地松が中心となるため、次第に希少性が出ています。中国地方はこのマツの自然林が全国でも豊かな地域なのです。気候風土や土壌に恵まれてマツ独自の強く硬く色艶の良い特色が色濃く出ています。構造材・階段材・敷居などに用いられる素材としてはこれに優るものはないでしょう。


マツ科の針葉樹。特にアカマツ・クロマツ・ゴヨウマツ・ハイマツなどマツ科の植物をさします。トドマツ(モミ属)、エゾマツ(ハリモミ属)、カラマツ(カラマツ属)は属が異なるので、通常は松の仲間に入れません。ハイマツなどを除き、多くは高木となります。雌雄同株で葉は針状で二本・三本・五本の束生。球果は「マツカサ(松ぼっくり)」と呼ばれます。マツは北半球全体に分布しており、現在把握されている総品種数は約93種にも上るとされています。その中でも建築用材として特に適しているのが、アカマツ・クロマツなどの日本のマツなのです。
マツ(松)という名前の由来ですが、日本では古くから神聖な木として考えられていたようで、神がマツの木に天から降りることを、待つ(マツ)という説と、松の葉が二股に分かれている様子から、股(マタ)が転訛(てんか)して、マツ(松)という名がついたという説もあります。


松材は非常に丈夫な木材で耐荷重性にも大きな力を発揮します。 建物の梁桁などの横架材に採用されるのはその為で組み立て式ウッドデッキの土台や大引、根太には 最適な木材選択といえましょう。ウッドデッキに使われる松材は年輪の詰まった(目細)松材を 吟味して選別していますのでこの面でも安心してお使いいただける木材選択をしていますhttp://www.hi-ho.ne.jp/shaka/matumokuhenn.html

二方柾のような心去り材、断面が大き い梁材、無節材などの取りやすい大径木が、 国産材には少なくなった現在では、大径木 が多い外国産材に依存することが多くなり ました
あらゆると ころで使われている木材は、密閉したり、 厚い塗装で覆わない限り呼吸し、生き続け ています。
 木は切られて、挽かれても、割られても 生きています。
そして、その木の寿命分だ け働くことができます。



●日本の森と外国の森

それで森の木を切るにしても日本の場合、山が森だからその木を運び出すのが苦労なのである、コストもかかるのでそれで外材との競争していけないと言っていた
日本で野というとき斜面のことなのである、原は平坦な地でも野は違っている
それで入野というときそうした山の間の斜面のことなのである
日本にはそういう地形が多いから野とは日本独特の言葉にもなった

我が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくもかなしも (万葉集)

ともかく大工さんでもこうして何かスキルを技術を身につけた人は強い、それは例え原発事故であれ津波であれ他の市町村に移住してもその技があれば尊ばれからである
何も技がない人は仕事もなく補償金でギャンブルに明け暮れているだけだとなり回りから良く思われないからである、みんな苦労して働いているのに避難民は遊んでいるいい身分だとなってしまう、もう十一年も過ぎたらもう被害者として補償してくれというのもなかなかできないし回りでも受け入れない、お前達は死ぬまで避難者であり被害者であり補償してくれということはそれは地元でも受け入れがたいとなる
だから会津の方に行った避難民でタンス職人とかがその技を示して歓迎されたとかある
やはり何も与えることができないものはそういう時困るともなったのである
ただ馬齢を重ねるだけでは尊ばれることはないのである


posted by 天華 at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年06月14日

グロ−バル経済の崩壊 (信頼無き、道徳なき経済の崩壊現象が起きている)


グロ−バル経済の崩壊

(信頼無き、道徳なき経済の崩壊現象が起きている)

デフレ時代には、「人間対人間の長期的な信頼関係」がないがしろにされてきたといえよう。

 だが、このように次々に相手を乗り換えるやり方は通用しなくなる。インフレ時代には売り手優位になるから、「(売り手との)長期的な信頼関係を持たない買い手」には、品物やサービスが回ってこなくなるのだ。

 インフレ時代には「信頼」がキーワードになるから、長い歴史を刻んだ老舗や、大企業(大船)が優位になる。

迫る『複合危機』――生き残るための教訓を「客家の教え」に学ぶ

グロ−バル経済は限界に来た、デフレ時代だととにかく労働力でも世界でも安い方に向かう、日本だと賃金が高いから中国とか東南アジアに労働力を求めて会社も移動した
その時円高でありメリットがあった
それがインフレになり円安になるとそのメリットがなくなって国内回帰している
そしてここで

デフレ時代には、「人間対人間の長期的な信頼関係」がないがしろにされてきたといえよう。

人間で一番大事なのは信頼関係である、信頼がなければ仕事でもまかせられない、でも信頼は簡単に作れない、時間がかかるのである、それでお手伝いさんでも十年勤めていれば信頼されるとなる、信頼関係を作るにはそれだけの時間が必要なのである
封建時代だと信頼関係が作り安い、たいがい農民だから土地に根ざして生活しているから代々つづく仕事でありそこに侍がいて農民がいて信頼関係が生まれる
また御家大事とかなり所属する藩で信頼関係が生まれる、それはそもそも変化しない
何代も臣従関係があって信頼できるとなる
それで農民だと三代つづかないと仲間になれないとか言われるのがそうである
農民だと草分けが前田とある所の家が中心になって村が存在する
その中心は農民だと土地に根ざして生活しているから変わらないのである
変わらなければ信頼関係が作りやすいのである
十年お手伝いさんでも働いていればその仕える家族と信頼関係ができる
一年くらいとかで変わっていれば信頼関係が作りにくいのである

まずグロ−バル経済となるとそもそも品物だけは入ってきても人との信頼関係とか情的関係とかはない、物だけが入ってきて心は無視される、物と心は分離するのである
つまり経済とはそもそも足りないものを補い合うものであり助け合いともなる
グロ−バル経済には助け合いというものはない、ただ利益をあげることだけが優先されるし必ずしも信頼関係から成り立つ経済ではない、第一外国から入ってくるものが誰が作っているかもわからないのだからそこで信頼関係もない、だから何か問題が起きると品物は入ってこなくなる、それが今起きている
ウクライナ戦争があり麦が入ってこない、他でも食料危機になると食糧を輸出しない
何か助け合うということなどない、自国優先でありむしろ他国とは信頼できないものであり何かあれば奪う存在だともなる、それが戦争なのである、戦争は国が行う強盗であり殺人でもある、でもそれが罪にもならないしとがめられないのである
それはロシアのウクライナ戦争でいくら残虐なことをしてもとがめられないのである
国と国の戦争になるとそこに人道もなくなり法律を通用しなくなるのだ
信頼関係など一時的利益を得るためでありそもそもないからである

また常に国家と国家の関係が平和で安定して信頼できるとはならない、中国でもあれほど田中首相が日中国交回復で中国は井戸を掘った人を忘れないと言っていたが今や日本は小国だから大国の中国に従い、領土でも尖閣であれ沖縄であれもともと中国のものだったとかなり奪われとなる
とにかく外国となるとこうして信頼関係などないのである、信頼関係は簡単に崩れるのである、だから必然的にグロ−バリゼーションは限界にきて世界は自国優先となった
まず食料がなくなれば他国に輸出などしない、すると過度に他国に頼ると日本がで自給していないから食料すら不足して飢饉にもなる

例えばコーヒーばかり作っている国は自国で食糧を自給することがなくなる
そしてアフリカなどではコーヒーの価格が安くなると影響が大きいのである
なぜなら自給できない、コーヒーという単一商品ばかりしかないとするとコーヒーが世界的変動で売れなくなると食べるものがないとなる、それで今では畑でいろいろな食料を作るようになった、日本もそういうことがあったのだ,アメリカはアメリカの食糧を売るために戦後パン食を普及したのである、コッペパンが学校の給食になっていた
他にもアメリカは自国の食糧を売るために強制的に日本人の食習慣を変えたのである
とういことは日本の文化を破壊したともなる、だから今麦が高くなり輸入できないとなるとき困ったことになる、それで米を食べればいいとなるが簡単に変えられないということにもなった

グロ−バリゼーションの問題はこうして日本独自の文化すら破壊したことなのである
日本は海の幸、山の幸の国でありそれが営々とつづいた文化なのである
それは風土にあったものでありそれで体さえ作られてきたから今になると長寿になったとなる、もちろん外国の物をすべて拒絶することではない、取捨選択することが大事だったのである、日本化することが必要だったのである、宗教だって仏教は鎌倉時代で日本化した宗教となったからである
文化というのはそもそも変えられないのである、地理と風土とか気候とかは変えられないからである、それを変えることは大きな弊害が生じて来る

最近世界で起きて来ることはコロナウィルスでもそうだし日本だと円安とかでも外国のものが馬鹿高くなり物価が上がるというのもそうである、それはグロ−バリゼーションが極端になりその反動が今起きている
だから食料などはもともと自給体制をとっておくべきだったのである
外国と信頼関係は築きにくい、何か事あると外国だと敵国ともなり攻めてくるからであるそれが中国をみればわかる、困った時は日本をもちあげていて豊かになると日本は小国なのだから従いとなるだけなのである
もちろん日本が困っても助けることはないのである
国と国の関係は常に信頼できるとはならない、いつ裏切られるかわからないのである
ロシアでも北方領土問題で援助したりすりよったりしたが裏切られたとなる
つまり実際はいつ日本を侵略してくるかわからない国だったのである

そして国際関係では隣国同士は仲が悪い敵対するのである、日本だと朝鮮半島であり
ドイツとフランスも争っていたしインドとパキスタンは核をもって敵対している
中国とインドでも国境を接して争っている、最近ではトルコとギリシャが険悪なものとなっている、つまり国同士は信頼関係がないのである、利害が衝突したりして信頼関係がないのである、だからグロ−バル経済とは信頼関係が成り立っていないのである
それで最近世界でコロナウィルスでもそうだし問題が続出している
グロ−バルに交わることはいいようでもそもそも信頼関係が築けないとしたら経済だってうまくいかないのである、人間と人間の関係は信頼関係があって成り立つからである
それでアメリカと日米同盟があってもいざ中国と戦争になったらアメリカは撤退するというときでもそうである、アメリカが日本のために血を流すことはしないとなる

武器くらいはウクライナのように送るが自らは戦わないとなる、そして武器でもうけるだけだとなる、結局国と国の関係はただ利害関係だけであり信頼できないのである
それは人間と人間の関係もただ金だけの関係であり利益だけの関係だと信用できないと信頼できないとかなる、何かあったら困っても助けない、ただ利害関係としてあるだけだからである、かえって苦しむ時戦争にもなれば武器が売れるとなりもうかるとまでなる
相手は多数死んでも高見の見物だともなる、ウクライナ戦争でもそうである
そこで武器を売ってもうければいいとかなる面があるからだ、日本はこの際ロシアに奪われた北方四島を取り返すべきだとなる、それはロシアに奪われたものだからである
つまりロシアに阿部前首相が友好的になり援助しても無駄だった騙されたとなったのである、つまり信頼関係が崩れたのである、それが国と国の関係であり信頼できないとなったのである

だからグロ−バル経済は限界にきてそれぞれの自国優先になる、貿易はあるとしてもこれまでのようなグロ−バル経済は終焉する、ブロック経済化してそこで信頼関係を築きその上に経済がありうる、そういう大きな変化の時代にきていてそこで産みの苦しみがある
グロ−バル経済自体が資本主義自体が崩壊する危機でもある
それは新しい時代には必要でありそこに産みの苦しみがあり今それが起きてさらに悪化するともなる

 ただし、うわべだけの付き合いの人々がどれほどたくさんいても意味が無い。調子のよい時は、どのような人々と付き合っていたとしても大きな不都合は無いが、大事なのは「危機」において頼りになるかどうかだ。

 これは個人的にもそうである、危機になったとき困った時助けてくれる人がいれば心強い、私が介護とか病気で苦しんだとき助ける人は一人もいなかった
ただ金を求めるだけであり金を奪おうとする人だけだったのである
それは国同士だとそういう関係が普通なのである、国が弱体化すると攻め入るチャンスだとなる、それは戦国時代と同じである、弱肉強食の世界である
マキャベリズムの世界である、そこでは相手が弱体化すると国であれ市であれ襲ってくるからである、国同士とかなる非情な世界になる
個々人でもそういうことがある、助け合うものとしての人間関係がない、事あらば弱体化すれば襲ってくる存在なのが人間である、それは隣人でもそうなのである
田舎などでも他人の不幸は蜜の味となる、田舎の人間が情があるなど今はない
かえって陰険であり他人の不幸を楽しみとしているのである
それは別に人間全般に言える、それが人間の正体なのである、だからこの世は地獄なのである、それはいつの世でも同じだった、だから親鸞の言うように地獄は一定の住処なりになる
そこで必ずこの世から戦争はなくならいし地獄が生れるのである

そしてグロ−バル経済ももともと共存共栄するということあっても信頼関係などないから崩壊する、それが今世界規模で起きている、アメリカのドル基軸通貨も危ういとかなにか世界全体がグロ−バル経済自体が崩壊しつつある、それが食料危機とかで具体的なものとなる、そもそも助け合うとかないのだから自国優先になる、麦が入らなくなるとあらゆることに影響する、パンだけではない麺類でも麦だからである
そうなると日本の食糧自体見直さないと食べることすらできなくなる、飢饉になるのである、そういう危機に直面しているのである

いづれにしろ今までのグロ−バリゼーションとか資本主義とかは終焉しつつある
今は次代のシステムを模索する混迷の時代になる、そこで産みの苦しみになる
アメリカの基軸通貨のドルとアメリカ一国支配も終わる、アメリカの一部のものに富が集中するシステムも終わる、そういう激動の時代に何が起きるかわらかいなのである
天変地異も起きて来る、それはこの辺で体験した、今回の地震は東日本大震災より強かった、だから恐怖だった、一身上でもそういう恐怖の連続だったのである
アメリカの覇権が終わる時そこに世界的激動が起きて来る、ウクライナ戦争でもわからなにしろ何かそういう兆候だともなる
それでアメリカ一辺倒の日本も危険だとなる、EUでも力が衰えてゆくときもそうである
一つではない、ドイツとかフランスは必ずしも一体化していない、イギリスとアメリカは一体だけどその他はそうでもない、だから世界がブロック化するのである

posted by 天華 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題