2025年01月16日
経済とは何なのか、人間の問題は総合的なものとして起きる 【政経学部があり政治とも不可分でありその範囲が広すぎる】
2024年12月29日
労働意欲の減退とモラルの荒廃と高齢化の退廃 【あらゆる分野で人手不足で社会が維持できなくなる】
2024年12月07日
貸金庫の金を銀行員が盗んた 【野村証券会社員が顧客の金を奪い殺人】
2024年11月03日
何が得か損かわからない 【不正をして繁盛するのかー損して得をしろの意味】
2024年10月19日
なぜ起きたカンボジアの虐殺ー中国の文化大革命も同じ】 【知識人が憎まれた理由ーAI化でかわる労働
2024年10月03日
中古品が価値がある理由‐紙幣は紙屑になる理由 【空家空地も活用する人がいれば価値がある】
2024年09月22日
日本人が勤勉になったのは明治以降 【二宮尊徳の像は勤勉の模範として各地に作られた】
2024年09月06日
愛なき情なき荒野化した社会 【金がすべてであり心通わない社会】
2024年08月31日
1度の失敗やつまずきでおしまい 【通販の配達の苦労―人間は何でも経験しないと実感できない】
2024年08月06日
実体経済が良くならない限り株はあがらない 【今回の株の暴落には政府が関与してとめた】
実体経済から離れたグローバル金融資本主義の問題 【巨万の富が極一部のウオール街の人達に収奪される―4000円日本の株の暴落】
2024年06月29日
グローバル経済がもたらした歪み 【円安で国産経済にシフトせざるをえなくなる―ナショナリスト化】
2024年06月18日
ローマ帝国が東西に分裂して通貨も別々になった 【通貨は政治支配のツールー経済だけから見れない―ドル基軸通貨への反抗】
2024年06月01日
金とは紙幣とは何なのか (紙幣自体は紙切れに過ぎない、価値は現物にある。)
2024年05月30日
メデアは仲介するものであり真実を歪める 【銀行もメデアであり仲介するもので不要になる?銀行の役割喪失】
2024年04月17日
円安にどう対処するのか? 【日本は昔の自給自足生活にもどる?】
2024年03月20日
周期的に起きる株価の暴落にリセッション 【地銀などは株の素人ーただ長い時間ででインデックス投資すれば儲かる】
2024年01月28日
老後の金の計算ができない―利子がつかない銀行の役割は何なのか 【常に時代も変化し予測できない―貧乏人も海外旅行できた円高の時代】
2023年12月30日
人間が変わるのは技術の進歩や環境の変化で変わる 【グローバル経済は誰も知りえないから陰謀論になる】
2023年12月23日
人間の幸不幸はわからない‐災い転じて福と成す 【家事について感じたこと】
2023年12月20日
家事にかかる手間と時間 【人間はあらゆることに手間と時間をかけられない】
2023年12月09日
お金の賢い減らし方―大江英樹の批評 【老人は共感する本ーただしある程度金の余裕がある人】
2023年12月08日
投資は人間にとって不可欠なもの 【投資先がなくなると資本主義は終る】
2023年11月02日
物価高に苦しむーデフレからインフレへ 【適正価格を知るべき】
2023年10月06日
自転車でも個人の経営が難しくなっている (商売も人を助けることだがまず利益が優先される問題)
2023年09月22日
ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人 (偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)
2023年08月08日
村は大きな家族だった (広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)
村は大きな家族だった
(広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)
●家族の範囲が狭すぎる―昔の村は大きな家族だった
今家族に何が起きているのか?家族のつながりが弱くなっている。それはなぜか?家族だけの繋がりでは足りないからである。ファミリーとはは大きな集団のことであり夫婦とか子供とか祖父母とかの家族ではない。もっと大きな集団のことである。それは村社会と似ているかもしれない。村というのはある意味でファミリーであり家族とも似ている。だから何かあると助けあうのである。農村社会であるとどうしても互いに助け合わないと仕事もできないしその共同体も維持できないからである。そのために村に生まれた子供は村全体の子供となる。
出生〜幼年期では、「帯の親:オビノオ ヤ/取上げ親:トリアゲオヤ/乳付け親:チツケオヤ/抱き 親:ダキオヤ/名付け親:ナツケオヤ/拾い親:ヒロイオヤ /守り親:モリオヤ/養い親:ヤシナイオヤ」の 8 つの事例 を取りあげる。次に、成年期以降では、「烏帽子親:エボシ オヤ/鉄漿親:カネオヤ/仲人親:ナコウドオヤ/職親:シ ョクオヤ/草鞋親:ワラジオヤ」の 5つの事例を取りあげる。 仮親制度には、親が子どもの成長を願う思いの表れとして、 呪術的な要素と社会的な要素の 2つの意味合いをみることが
これだけ村で生まれた子供には周りの人が村人が関わっていたのである。それは明らかに村という集団のコミュニティの一員として育てるためにそうなったのである。
現代の問題は家族の範囲が狭くなりすぎたのである。核家族化がそうである。ついには親一人、子一人とかになってしまった。シングルマザーが子育てするにも一人なのである。また老人でも孤独死が多くなるのはこうしたコミュニティが喪失したからである。ファミリーの語源が。実はかなり広い範囲の意味であり集団のことだった。
そうなったのはまた社会経済の構造があまりにも変化してしまったからである。今や村と言う500人くらいの単位の社会ではない。広域化してさらにグローバル化して世界の経済の中に組み込まれる。すると別に村の中でそうしたコミュニティとかに入らなくても暮らしていける。物でも世界から入ってくるのからなんでも買える
かえって村の自給自足的な生活だったらものも買えないし。生活すらできなくなる だからこそ村八分にされることは一番厳しい罰だったのである。村のの自給自足的な生活では物が買えないし、入ってこないからである。だからこそそういう背景があり村のつながりとか小さなコミュニティーの人間の繋がりは消失したのである。
だからしきりに戦後間もなくまでは醤油がないとかでも味噌がないとかでも隣の人にくれとかあり助けてくれと言えばもらえたとかいう人がいる。それは物がない時代でありみんなが貧乏だから、かえって助け合ったのである。
今は金がないとどうにもならない。隣に何かそんなものをくれと言ったら応じる人はいない。醤油もないのかとなって馬鹿にされるだけになってしまった。何か助け合うということがなくなり常に金だけが問題になるのである。
現代では金がないということはどれだけ苦しいことかわかる。隣近所する無関心であり何も金で買えばいいとなってしまうからである。
そしてあとはに福祉に頼れと言うだけなのである。奇妙なのは福士に世話になっていた人は私が困った時その人自体が福祉に頼れと言っていたのである。その人はまともな人ではなかった。でも助けたことがあったし、その母親にの親は助けられたので助けたのである。その人は死んだ。
●広域化グローバル化で地域の繋がりが希薄化
現代とはあらゆるものを買う社会である。水すら買っている。だから金がなくなれば生きていくこともできなくなる。でも子供の時使っていた態度が井戸があり今も水が出ている。夏でも冷たい水が出ている。
天然の冷蔵庫から出ているのである。
それはこの辺の原発事故でも放射性物質に汚染されていないと持ち主が言った。検査したのでそれは確かなのだろう。その水が無料だということに感心した。無料で使っていいと言われたからである。子どもの時もそうだった。それは子供の時から持続して水が出ていたのである。その時は風呂場でその水を利用して使っていたのである。だから金わからなかったのである。今は水を飲むにしろ使うにしろ金がかかるから金なしではもう何も出来なくなってしまったのである。
何か近くに味噌屋がある。前だったら必ずそのみそや辛味噌を買っていた。味噌はそこで作っているからである。でもそこから今は買っていない。一人であり出しつきでないので買っていない。スーパーでいろいろだしつきの味噌があり。味噌でもいくらでもどこの味噌でも日本中から入って来て買える。こうして近くは重要なものとならないのである。また近くと関係しなくても金さえあれば何でも買えるそこで田舎からだと言って何か助け合うということもないし。身近で何かを賄うというよりただ金を出してさえいれば何でも買える。通信販売も発達して商品の量が種類が莫大に増えたのである。金さえあれば別に近くにいなくてもなんでも買えるとなる。
ただ自転車とかは後の修理とかあるので困るのである。この辺の街の一軒の自転車の人は死んだから誰もその後見てくれる人はいない。そこでなかなか金だけでもあらゆるものが使えるとはなってはいない。こうして経済が広域化してグローバル化すると近くは大事にならない。それは交通の発達にもよる。なぜなら近くの人が梨を作っていたが相馬市まで運ぶのに15キロぐらいありリやカーで運んでいたからである。そうなると運ぶこと自体が大変な苦労になるしそれを売って金にするにも大変な労力が必要になっていたのである。でも今なら運ぶことはいくらでも簡単とは言えなくても車で運べる。その変化も大きかったのである。
なぜ無縁化社会といわれるようになったのか?無縁化社会になったは神社で無縁の場を作りそこで外から入ってくる人に商売させた。それは外から入ってくる人がいると村のコミュニティがつながりが壊されることがあるからである。それでそのような外から入ってくる人を限定するために、そうしたのである。
それは確かにそうだったのである。もはや外国からでも食糧でもなんでも入ってくる。すると村だけで何かを賄うという社会とはまるで違っている?でも実際は外国からいくらものが入ってきてもその人とつながるわけではないのである。ただ物だけが入ってくるのである。でもその物が欲しいとなれば、金が必要になってくるのである。そこで金がますます重要になってくる。人のつながりより金の方が大事になってくるのである。
ただ昔から金の切れ目が縁の切れ目ということあり貨幣経済がひろがるとそうなるのが必然なのである。 外国からいろいろなものが入ってきてもそれでその外国の人間とつながりが共同ができるというわけでもない。その人は直接会うこともないしただ物を通じて外国と関係しているからである。だから何かあるとその関係も切れて戦争になったりする。人間と人間の繋がりが必ずしもものを通じて行われていないからである。
ただ、人間は金だけを頼っては生きていけない。金で全部まかなえるということはない。それは介護の時如実に表れてくる。金が物を言うということはある。でも金だけで親身になった世話はできない。そこに心が伴わないとどうしてもうまくいかない。
●物が世界から買えても心は繋がらない
でも逆に今親子でも必ずしも子を育てるより虐待したり子供でも大人になると親を虐待するようになる。老人になると力逆転してくるからである。親が虐待されているので。何かその息子は親をこき気使うというか他人のようにしか思ってない。
それで親は泣いていたのである。息子から虐待されていたのである悲しいとなる。でもそういうことは今の時代に起こっている。誰に頼るかということがそれで問題となる。その女性は息子に頼ったのだが虐待されているのである。言葉の暴力であるババとか親を病気をした親を虐待しているのである。ただ他者も家族はわかりにくい、どうしてすなるのかとなると外から見tてわかりぬいからである。
こういうことは自分も親の介護で嫌というほど経験した。 私のところに来たのは事業で失敗した人とかで金がないという人である。頼ったのはそういう人たちであり一人はれっきとした泥棒であった。それで家探しされて大金を失った。ほかの人もなんら助ける気持ちなどなかった。多少はあったがただ金が欲しいというだけできたのである。つまりそういう人にしか頼れなかったというのも自分のカルマだったのである。
ほかの人も誰に頼るかということは、老人にとって大きな問題なのである。家族がいれば息子がいれば娘がいれば兄弟がいればとなるがその人たちが助けるとは限らない。かえって嫌がられうとまれる。親が捨てられるそういう事例を知っている。その娘はひどい娘であり親が私に最後にひどい娘だと言って来てまもなく死んだのではある。その娘は介護などできない。だからそんな娘に頼ることはできないから、死んだ方がよかったのである。
こうして誰に頼るかが最後に問題になる。でも家族の範囲が小さくなるとなかなか大家族のように人手に余裕がないから介護でも面倒見れなくなるのである。 これは肉親でも同じなのである。
別に遠くから外国でも物が入ってくることは悪いことではない。でもそこで人の繋がりが出来るわけではない。だから何かあると物が入ってこなくなる。そして戦争にもなる。だから物が入ってきても互いに貿易してもそれで繋がりができるとは限らないのである。食料不足にな自分の国が最優先となり食料は入ってこないのである。 そこにグローバル化の問題がある。ただ物が入ってきて悪いということではない。問題は人間の繋がりが物が入ってきても。生まれるわけではない。それはあくまでも物のやり取りだけであり。心のやりとりは交流は無いのである。だから、金の切れ目が縁の切れ目になりやすいので。それは今の社会でどこでも起きていることである。
親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代): 今日の一句一首(小林勇一) (musubu.sblo.jp)
2023年07月16日
日本が衰退するのはなぜか? (将来の見込みが約束がない)
日本が衰退するのはなぜか?
(将来の見込みが約束がない)
なぜ将来の約束が大事なのか?ある人がお金を貸してくれと言う。金はは返すという。ではそのあてがあるのか?それはこの辺で原発事故の補償金が入ることである。私の地域は少ないにしても、やはり15万くらい入る。そのお金が入るからと貸してくれと言う。それは確かに入る金だから返せるとなる。
でもおかしなことはその15万入る金以上のものをすでに貸しているのである。でも確かに15万入るということはその金は返せるということである。不思議なのはそうして将来に確約されるものがあれば人は安心して金を貸したりできる。
金も何も確保できない人には誰も金でも与えない。ただ、将来にそうして得るものがあり、確約されていれば金でも与えたりする。
なぜ大学に入るのに奨学金を借りてまで入るのか?またなぜその奨学金を貸すのか?それは働くようになってから返せると見込みがあるから貸すかすのでる。つまり若い人の有利なのはこれから働く力があり、稼ぐ力があるということである。その将来を見込んで金を貸すのである。老人に金を貸しても将来が見込めないから投資しても無駄だとなる。せいぜいいくらか寿命を延ばすだけだともなる。
そうしてなぜ今日本は不景気であり経済も30年も停滞しているのか?その原因は何なのか?将来が見込めないそのことにつきている。例えば高度成長時代だったら利子が3%とか7%とかあり貯金していれば利子がついて安泰だったのである。
今やそういうことはないむしろ貯金していても預金封鎖があるとか利子もつかない手数料が取られるだけだとかなってしまう。そうなると将来に対して見込みがなく不安だけになり消費意欲もうなくなってしまう。景気は気だというとき気力までなくなってしまうのである。
それが社会全体を覆って社会全体が何か気力がなくなってしまう。それで投資とか株は心理学の問題だと言っている人の言うことも分かる。それは気だからである。その気がただ衰える方向にしかない。それでますます全体が落ち込んでゆくのである。
だから意外と将来が約束される収入の見込みがある。成長する見込みがある。お金が入る見込みがある。そのことが安心となり金を貸すこともできる。でも変なのは15万入るとしてもすでに30万以上とか払うことにもなっていた。それが何かおかしいのである。でもそのことはやはり将来に15万でも入ると言うことが約束されているから。安心して貸しているのである。実際に将来入る金より多くの金を払っているのである。だからこれは何なのかとなる
人間にとって将来の見込みが将来に得るものがあるとき確約されている時人間はそのために今金が無い人でも金を払うとなる。
今、日本が30年も衰退しているのは?将来に対して何か成長でも利益でも見込めるものがないからである。技術的にも何か日本は遅れた。そして全般的にも日本はit化できないとか色々な面で遅れてしまったのである。そこで日本は将来の見込みがない。投資家でも投資しないのである。将来の見込みがあるとき日本も外国から投資される。でもそういうものがない時。日本は外国から見放されるのである。
だからキリスト教で神の国を最初に求めなさい。そして神の国に入る約束を得る。そのことが大事なのである。神の国に行けるということは約束されれば将来に対して安心なのである。
なぜなら、人間は必ず死ぬ。巨万の富を蓄えても死んだらそのお金も使えないのである。 この世は何をするにしろ一時的に生きる場所でありいずれは死んでしまう。そして結局空しくされるということである。文明でも実際は大したもののように見えてもそれが最後は墓場になっているのである。
エジプト文明でもそうだしマヤ文明でもそうである。巨大なピラミッドでも建造物でもそれははかないということである。ピラミッドなどはその時間に抵抗して残り続けようとする意志の象徴である。そのピラミッドすら砂に埋もれて消えるかもしれない。いくら時間に抵抗しても最後は消えてしまうともなる。 そこに確かにヒエログリフで石に記してその功績を後世に残そうとしてもそれもはかないものとなる。
大都会もいずれは巨大な墓場となってしまうのである。永遠の都は天にしかないのである。この世の都はすべてそうして廃墟となり、墓場となってしまうのである。だからこれでいくら努力しても無駄だとはなる。最後は空の空になってしま。だからと言って、人間の努力を全て無駄にとは言えない。でもこの世で何か本当に価値あることを達成するということが出来ない。本当の価値は神の国でしか実現しないのである。
そもそも正義とか公平な裁きなどは実現しないのである。いくら法律を作ってもその法律もまた悪用される。だからこの世で正義であれ公正であれ実現しないのである。その努力は続けられるとしても現実は実現しない? 実現できないのである。つまりこの世はそういう場所であり人間の力では変えることはできないのである。だからこの世から悪はなくならないのである。だからこの世はいずれ神によって滅ぼされるのである。神の意にかなうことは絶対にないからである。確かに改良は続けられる。それがすべて無駄だとは言えない。 でも根本的には変えることができない。
それはなぜなのか?例えば社会体制が変えたとしても共産主義にしてもそれも結局独裁制とかなり全体主義となり何千万人の人間も殺されたのである。また資本主義でも限界にきている。民主主義でもそうである。何か制度をつくってもシステムを作っても人間自体が変わることがないからそうなる。だから、そもそも全体を変える事は不可能なのである。そしてまたこの世を理想郷にする事も不可能なのである。
一つの問題を解決しても、また新たな問題が生まれ永遠にこの世から問題を解決することができないのである。 人間にはそれだけの知恵が持てない。それはできるのは全能の神しかないとなるのである。
エジプトの神像の永遠にあれと
そも儚く時に抗うも虚し
その偶像は地に倒れ砂に埋もれぬ
ナイルの岸辺月影に照らされて
ヒエログリフは浮かびぬ
その日は遠く神秘なるかな
謎は深まりその解明はつづく
ただそこに今聞こえるは一なる神
アッラーの声にして神像は虚し
巨大にして威を保つも
そに祈る者はなしも
そは神にはあらじ巨大な石塊となりぬ
畏れる者もなしも儚し
2023年07月01日
狭い閉鎖的世界の生活が長かった日本 (なぜ無縁の場として神社を市場にしたのか?物と心が分離したグローバル経済)
狭い閉鎖的世界の生活が長かった日本
(なぜ無縁の場として神社を市場にしたのか?物と心が分離したグローバル経済)
●無縁の場で商売を許可する
境界を考えるときまず自然が地形が境界になる。山であれ川であれ海であれこれが境界となる。また広大な森があり。そこには道もなく人の往来を阻んでいた。その自然境界があって間は簡単に交わることができなかった。人間は基本的に狭い場所で自給自足の生活をしていた。
各地に小国という地名が残っているのはそのためである。そこが一つの小さな国であり自給自足していたのである。それは?車もないのだから。簡単に遠くには行けないからである。道も整備されていないから歩くにしてもなかなか遠くへゆくことは難しかった。
そうなると小さな狭い世界でなじみの人と交わりそこが一つの世界となって 外界とは交わらず狭い世界で閉ざされた世界で生活していたのである。だから、この辺の伝説で隣村から来た麦つき働いた若い男が蛇だったということが伝えられる。
隣の村の人ですらこうしてめったに交わらない世界だったのである。
だから今、外国人が日本に来て働くということは考えられないことだったろう。ただ、そこで様々な問題が生まれるのは当然である。その麦月の若い男が蛇だったということにすでに。人が交わらないからそんな伝説が生まれたのである。でもそこでも日本語は通じたと思う。あの時方言があったとしてもやはり言葉は通じえた。 だから。コミュニケーションをとることはできた。でも外国人が来たら言葉すらわからないのだから互いに理解しあうことは難しい。
●言葉も通じない外国人と交わる困難
人間は言葉が通じなければ理解しあうことは難しい。外国に行って一番困るのは言葉だからである。でも不思議なのは言葉でも 音は理解しにくいでも文字は理解しやすいのである。それで最初に韓国に行ったときハングルが理解できなくて困った。その意味が全く分からなかった。でもホテルとあったらそこが英語で書かれていたら分かったのである。中国では漢字を通じて話すことができた。筆談ができたからである。 そのために中国では言葉が多様なために漢字で互いに理解し合っていたのである。テレビでも漢字をテロップとして流していた。音になればあれだけ広い国だからで民族もさまざまだから通じないのである。
これは外国だから当然理解し合うことは困難を極める。でも最初は隣の村すら交わることもなく人間は暮らしていたのである。 それで日本の神話でも海彦山彦の交わりが伝説化したのである。海で暮らすものと山で暮らすものとは相当に違ったものになるからである。 でも山で暮らしていれば必ず足りないものがあり。海で暮らしていても足りないものがある。そのために互いに足りないものを補うために交わりが生まれる。それが商業とか貿易とかの始まりである。
でも、そもそもそういう小さな狭い世界で閉ざされた生活をしていれば見知らぬ人と交わるのは容易なことではない。 まず人そのものを警戒するし、信じないからである。でも互いに足りないものがあり。そのために無理をしてでも交わることになった。
その交わる場所が神社だったというのも不思議である。そこを無縁の場所として市場のようにした。 神社とは縁をを結ぶ場所であるがこの場合は無縁の場所として見知らぬ他人を外から来る人を特別に入れたのである。
そういう閉ざされた世界で生きている人は、外部の人を簡単に受け入れないのである。それはなぜかというと。必ず何か摩擦が起きてその閉鎖されたコミュニティ内で問題が起きるからである。外から何か物が入ってくることは悪いことではない。でもそういう狭い世界のコミュニティでは外部からの侵入者によってその和が破壊されることがある。
だからまず狭い世界の村でもその和が破壊されないように図る。そのためにも無縁の場として神社を市場にもしたのである。
物のやり取りをしても、その物をもってくる人と必ずしも交わるということでもなかったのである。 それだけ閉鎖的な世界だったとなる。
でもそこで考えねばならないのは? ものが入ってくるのはいいとしてもどうしても人間の和が破壊される。 だからそのコミュニティの維持が優先されたのである。
●グローバル経済の問題から文化へー心と物が一致する世界へ。
グローバル経済の問題は物が入ってきてもそのものと心が分離していることなのである。 それは経済と文化の問題でもある。それぞれの国にはそれぞれの風土とか歴史に見合った物として作られてきた。
それは食糧でもそうだし様々なものはその体さえその風土に見合って歴史的に作られたものなのである。
この問題はまさに今の問題でもある。それに人が交わるのは一見いい様でもそこにいろいろな摩擦が生じてきて平和で和があってくらしていたとしてもコミュニティでも摩擦が生じて和がなくなってしまう。
ただものだけが入ってくればそれは意識できない。もう外国人が労働者として日本に入ってくるときはそうはならない。相手は物ではなく人だからである。 そこで摩擦が生じ、外交問題にまで発展する。 日本はもともと海に囲まれていて閉鎖された世界だった。一つの閉鎖された島国となっていたのである。
最近日本語がどこの国とも共通国との言葉と共通性がないということ。日本語は実はもっとも古い言葉ではないかと 学者が言うのも分かる。なぜならヨーロッパとかでは必ず外国と共通な言葉がありわかりやすいからである。日本語はどこの国とも共通性ががないのである。そこが一番の日本語の謎なのである。
つまり、それは海に囲まれて閉鎖された島国であったからこそ起きたことである。そこで日本独自の文明が生まれたともなる。
グローバル化とはヨーロッパの大航海時代から始まり。交通の発達で現代はその頂点に達したのである。それももう限界に達したのである。これ以上のグローバル化はただ。問題が大きくさせるだけになる。
現実になぜ第一次世界大戦、第二次世界大戦で何千万の人が死んだのか?これはグローバル化が世界で協力するということではない。貿易にしてもそうである。むしろ世界的には交わるということは、そこに摩擦が起きて争いが激しくなったのである。中世となると遅れた閉ざされた世界で窮屈だとなるが。そこでは世界的に戦争など少なく平和な時代が続いたとなる。江戸時代でも300年、平和が持続されたことは、世界的に見れば奇跡的なことだったのである
ともかくグローバルに協力しあいアイデンティティ作ることは不可能である。だからこそ社会主義でも資本主義でも限界になり崩壊しつつある。それは自然の理に反しているからである。人間は自然から離れて物質的にも精神的にも存在し得ないからである。
●物と心が分離しない文化の時代に
現代の問題は?物と心が分離してしまったことなのである。ものというときものは心でもある。ものが憑くというとき物と心は一体であり、ものを通じて心も関係してくる。その物と心が分離したことが人間疎外を生んだとマルクスか指摘したのである。 それを現代に当てはめれば?これだけ世界中のものが流通している。グローバル経済の中で。生活しているが。それでも人間の心と心は通じ合わない。何かあれば国と国が争いものも入ってこなくなるのである。別に助け合いでものを流通させているわけでは無いからである。非情な競争原理でものは入ってく来たり来なくなったりしているのである。
戦国時代でも。伊達藩と相馬藩が争ったとき相馬藩内では助け合うことがしたが飢饉の時に物資を飯館村に援助したりしたが伊達藩していない。何か揉め事があればこうして物も入ってこなくなるのである。
だからこそ、外部からものが入ってきた時その住民たちは警戒したのである。その狭い、小さなコミュニティが破壊されることがある
現代では都会の人が地方の村に入ったりするととても。うるさくて溶け込めないとかなる。それはやはりそのコミュニティ内で平和に暮らしていたものは何か問題が起きてくるからである。
ものでも何でも外部から今なら外国から入れればいいとなるが。それが問題になるのはやはりそれぞれの国には歴史と伝統があり、風土にに見合った生活をしている。
だから何でも外国から無制限に入れることは危険になる。日本にわ宦官制度はない。中国に行っても、それを真似て取り入れることはなかったのである。
なんでもかんでも外国から取り入れることは問題が起きるのである。食にしても最近糖尿病が増えるとか?胃がんなのが?前立腺癌なのか?そういうものが増えてきたのは、外国から入ってきた食糧と関係しているのである。
なぜなら肉食でも日本はあまりしてない。日本人は肉を消化する酵素がないという。
外国人を絶えず肉を食べてきたから消化する酵素が出るというのである。つまり、長年の。食生活の歴史と伝統があり、それをなんでも入れると。問題が起きてくるのである。
グローバル経済の問題は物が入ってきてもそのものと心が分離していることなのである。 それは経済と文化の問題でもある。それぞれの国にはそれぞれの風土とか歴史に見合った物として作られてきた。
それは食糧でもそうだし様々なものはその体さえその風土に見合って歴史的に作られたものなのである。
文化とはカルチャーとはcultivate から来ている。その土地を耕すことから。文化が生まれたのである。だから文化はその土地土地で多様なものであり同じものとはならないのである。でも工業化となると。機械化するということは画一化することであり。文化を無視するのである。世界中でコカコーラをみんな飲むということはそれはその文化にその土地土地にあったものではない。だから体にみんないいとはならないのである。寿司が人気なのはやはり日本の文化から生まれたものだからである。それは海に囲まれていて、海の幸が豊富だから生まれた食文化なのである。
別にグローバル化でも、文化の交わりなら問題はない。無制限にものとかでも何でも入れることが問題なのである。それぞれの。土地と歴史と風土に見合ったものがあり。なんでも無制限に外国の物を入れることはその文化を破壊することになるのである。だから今、グローバル化は制限されねばならない。コロナウイルスにしてもやはりグローバル化した結果として、たちまち世界に広がったからである。ウィルスは風土病であり。その土地の中だけで。広まっていた。外国まで広まるということはなかなかなかったのである。それがグローバル化に人が交わることによって、ウイルスも世界中にたちまちに拡散したのである。それでかえって国境とか?境界が見直されたのである。
2023年06月28日
地方の既得権者の郵便局、農協、地銀の苦境 (巨大組織は宗教であれ何でも政治化した利権団体である)
最近知っている人の娘が農協に就職した仙台の大学を出た人だった。普通なら安定したところに就職してよかったとはなる。田舎では公務員と銀行と郵貯は御三家であり。そこに就職すれば安定しているとなる。
地方では田舎ではあまりいい就職先はない。
でもこの三つに就職すれば安定するとなる。 それ以外で多いのは 建設土木関係である。事務系となるとこの三つが就職先になる。
おそらく。そこに就職できたのはその娘の親が代々 農家でありそれも古い農家であり鎧を博物館に寄付したともいっていた。また紙漉をしていた家でもあった。 そういう家柄だから就職できたのかもしれない。田舎は往々にしてそういうことがある
農協も郵便局もかつては役所とならんで地域の代表的な就職先で、地域経済の要でした。郵便局長会の幹部からは、「農協も去ってしまったいま、私たちが地方の最後の砦」という発言をよく聞きます。
地方銀行‟仕組債販売”、その「危なすぎる手口」が判明!ローカル・エリートがいまだ取りつかれる「モーレツ営業」のヤバすぎる実態(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
最もつかみどころがなかったのが、日本郵便の郵便局長で組織される「全国郵便局長会」(全特)です。 法人格もなく、誰からの監督も受けないこの組織は、全国で数十万票という安定的な票田を持つ日本最強の集票マシンのひとつで、政治に大きな影響力を持っています。 会員である全国の郵便局長には「集票ノルマ」が課され、郵便事業のための販促カレンダーや顧客情報まで活用して選挙活動を活発に行ってきた。見えてきたのは、全特が郵便事業を私物化しているような実態でした。
農協も郵便局もかつては役所とならんで地域の代表的な就職先で、地域経済の要でした。郵便局長会の幹部からは、「農協も去ってしまったいま、私たちが地方の最後の砦」という発言をよく聞きます。
不祥事連発、自爆営業…自民党をバックアップする「郵便局」と「農協」のヤバい実態(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
地方では田舎ではこれら は?御三家でありここに就職すれば安泰だとなっていた。つまり倒産したりはしないからである。でも郵便局は民営化してIT化などで苦しくなった。
農協でも経済構造が変わり農家の力は衰えた。自民党の強力な 票田であった。それから郵便局でも自民党を支援していた。 これは、高度成長の時代は問題になることがなかった。みんな安心して郵便局や銀行や農協に貯金をして頼っていたのである。そして利子も必ずついていたから、問題になることはなかった。
でも、日本の経済が衰退した時。この御三家もやはりできなくなってきたのである。農協でも農林中金などはアメリカの危険な会社に投資して大損をこうむると言われる。すると農家が貯金したトラの子のお金が奪われることになる。 地銀でも投資先がなくアメリカの危険な会社に投資している、郵貯でも地銀でも今や証券会社の様にもなってる。
地銀では証券会社の人と一緒に来て投資信託を進めるからである。ゆうちょうでもそういうことがあり問題になった。
そして地方の御三家の郵貯農協地銀は既得権者であり利権団体にもなっていた。郵貯と農協はそうである。そこには国の税金が依然として注ぎ込まれているからである。郵貯が民営化してもそうなのである。
結局組織団体化するということは利権化することである。それは宗教でも同じなのである。その最たるものは創価なのだけど。ほかの宗教団体でも同じなのである。なぜならそこにまとまった票を得ることが出来るからである。それが自民党と結びついているから優遇されるのである。そうしてこういうふうに利権化した組織団体は内部からなかなか改革できないのである。特に地方では利権化してその利権を放したくないという人たちがいて内部から改革することができなくなっているのである。地方のボスには逆らえないという事情がある
でも今はもう利権として維持することが難しくなっている。そこに国民の税金が注ぎ込まれていることに。不満な人が増えているからである。ただ正直田舎には地方には大学出たからといって就職先となるとこの御三家であり。公務員であるから困るのである。田舎ではそもそも資産がないと生きづらいのである。土地に家があり家産がないと生きづらいのである。農業だったら、そうして土地と家を受け継いで維持してきたからである。何代も維持できたのは家産があったからだとなる。その家産を受け継いだのは長男だったのである。
もともとヨーロッパでもその家と土地と家産を受け継ぐことが優先されていたのである。家産があって人があったとされている。何か人が死んでも建物が残っている。建物の方が人より長く存在し続けているからそうにもなる。
それは城と一体化した侍を見れば分かる。会津の白虎隊も城が燃えたということで自刀したからである。そこで城と人間は一体化していたのである。城があって人間があったともなる。というとヨーロッパでもローマ時代の建築物が残っていて歴史を振り返るからである。2千年前の建築物も残っているから。その建築物から過去を振り返る。でも人間の一生はは長くても百年でありみんな消えていくのである
本当に時代が変わる時、既得権者が維持できなくなる。それが今地方でも田舎でも起きていることなのである。 だから、こういう大きなな変化の時代には既得権者も維持できない。それが地方でも田舎でも起きているためにこういう問題が表面化したのである。
とにかく人間社会は利益で動いている。だから必ず利権団体と関係している。それは宗教でも同じなのである。そこも巨大な利権団体なのである。賽銭投げて御利益を得ることを祈る。それは利権団体となり政府に要求する,政治化するのである。原発の利権でも想像を越えた巨大な金が動いていた。だからその利権に検察とか警察でも海上保安庁とかでも天下りしていたのである。そういう利益で利権ですべてが動いている。それが社会を歪める
だから時代が変わる時はそうした利権構造であれ既得権者が変わるのである。でもそれを変えることは容易でないから戦争に負けて焼け野原になったりすると既得権者でも一掃されて社会が激変するのである、今がそういう時期になっている。だから田舎でも地方でもゆうちょ、農協、地銀に就職しても安泰な時代ではなくなったのである。
報道でも利権が関係している。福島民報では創価の聖教新聞を刷っているし政経東北でも除染で大儲けした双相リテックを宣伝したりしているのは利権になり金になるからである、報道自体が金がかかるからそうなる。
インターネットだと金はかからないから誰でも報道できるとなる、でも手間はかかるのである。
メデアとは中立の意味であり中立の報道することがむずかしい、いろいろな利権団体がありその圧力もあり中立になりにくいのである。NHKすら公平ではない、でもマスコミは中立を装うから問題なのである
別に赤旗でも聖教新聞でも偏っていてもいいのである。みんなそいうものとして読んでいるからである
マスコミは中立でないのに中立を装っているから問題なのである。
ただ正直中立であることは最高にむずかしい、それは神しかできないかもしれない、神は偏り見ないからである
それで隠者が報道に向いているというのは意外である、なぜなら利権団体と利権とかかわらないからである
でもそれにも問題がある、とてもそうなるといろいろな人の話でも聞かないと社会のことがわからなくなるからである、この世は利権とかかわらないで生きることもできないとなる。だから公平に見れるのは神しかないとなる
そして神の裁きが来世にあるとなる、この世ではとても公平でありえないからである。
2023年06月20日
近くの井戸の水をもらい飲むことにした (接続可能な生活にもどる自給生活を見直す時代)
2023年06月17日
銀行は株のことなど全く素人である (手数料を取ることしか考えていない―銀行の役割の喪失)
2023年06月09日
日本衰退の原因は低金利、発展のために金利を引き上げるべきだ (利子は資本主義に不可欠である利子がなくなれば終わる)
2023年06月06日
誰も予測できない景気とか株 (なぜ日本の株が上がっているのか?)
2023年05月30日
金融資本主義化グローバル経済の終わり (実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)
2023年05月19日
世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている (貨幣と紙幣が生まれた予測されていた)
2023年05月18日
グローバル経済資本主義が破綻して終わる (それはアメリカなどの極一部の特権階級が儲かるシステム)
2023年04月01日
需要がないのに宅地でも新築の家が作られる矛盾 (新たに仕事を作り出すー家のリホームと庭のリニューアル)
2023年02月10日
イギリスがなお金融を支配している訳 (タックスヘイブンはイギリスが操作している)
2022年12月14日
物と心が分離した経済 (でっかい磯部の梨を与えて考える)
物と心が分離した経済
(でっかい磯部の梨を与えて考える)

でっかい磯部の梨
でっかい磯部でとれた梨
それを病院入院した母親に
食べさせろと息子に与えた
その息子は発達障害者
その梨を食べて癒されるが良い
与える心がその梨に宿りまた伝える
それはただ金で買うものではなく
心がその梨に宿る
磯部で育てられたでっかい梨
この土地に育まれこの土地の人の手で
いつくしみ育てられたもの
それはただ金で買うものではなく
その梨にはこの土地と人の手で
育てられたものとしての価値がある
物と心が一つになったもの
そうしてその梨を味わう時
その梨はただ食べるもの
腹を満たすものではなく
心も充たされるものとして価値がある
死者への供物は金はふさわしくない
土地の実りと人の手を加えたもの
実物を献げてこそ供養となる
その磯部のでっかい梨
ありがたく食すべしかな
古代ギリシャ語には「oikonomia(オイコノミア)」という単語があるんだけど、この単語を英語で表すと「management of a house government」という意味になるんだ。「oikos」という単語には家庭という意味があって、「nomia」はルールとか決まりという意味があるんだよ。つまり「家庭におけるきまりやルール」という意味の「oikonomia」という言葉が変化して「economy」になったと考えられるね。
今経済でも問題なのはグロ−バル化であり広域化経済でありグロ−バルな市場経済でありグロ−バルな金融資本主義でありとかその規模が余りにも大きすぎて本来の経済の言葉とはかけはなれるようになった
それは天文学的な数字となり株式市場でも金が動き数字化される
経済の語源は漢字だと経世済民なのである、民を救うということにあった
またエコノミーとは家政から始まっていたのだからその相違は余りにも大きいのである
そもそも現代社会がなぜ歪めれたかとなるとその起源が貨幣の出現によっていた
これはいい悪いにしろやはり人間が生活するために必然的に生まれたのである
物々交換ではとても商売も成り立たないからそうなった
でも貨幣を紙幣を媒介とするときそこにどうしても歪められるのである
だからこそ貨幣により物神化とか人間疎外がそこに現れたとかなる
これはむずかしいかそもそも貨幣が紙幣が生まれたこと自体にすでに経済を歪めるものとなったのである
そしてギリシャの紀元七世紀にもすべてが金だとなり嘆いていたのは今と同じである
すべての価値は金に還元されて後は無視されたのである
すでにそんな昔から金の弊害が極端化していたのである
そもそも価値はすべて貨幣で金で計れない!
これだけは確かである、市場化してそこで金で売買されてもそれが正当な価値として売買されないのである、そうした矛盾がすでにありマルクスの理論が生まれたのである
今は貨幣がデジタル化して数字になり株式市場では数字として処理されるだけになったのである
磯部でとれた梨の価値、その背景にはその育った土地がありまた育てた人がいて商品となる、でも市場にでるとその品質と値段だけが問題になる
買う人はその梨が作れる背景など考慮しないからである
現実にただ消費者がみるのはその梨がうまいか、後は値段だけである、一応生産した土地とか人を見ることはある、でも生産した人はみず梨の味とか値段だけを見るのである
でも地元だと磯部の梨ということでその土地と人でもイメージするのである
磯部は津波で村落自体が消失した、でも高台の方は被害がなく梨は作られていたのである
こうして商品経済になると人は味と値段しかなみない、現実に自分自身にしても近くに味噌屋があっても一人分買うとなるとめんどうになるからスーパーから選んで買うだけになる、また米でもいろいろな米があり地元の米を買うとは限らないのである
そうして商品は外国からも入ってくる、そしたらその商品がどうのこうのいちいち考えることもできないのである、ただ味とか品質とか値段しか見ないのである
そうして物と心は分離したのが現代のグロ−バル化した大規模経済なのである
そこで金が貨幣が大きな力を持つことになったのである
金はもともと地元にはない贅沢品を買うものとしてあった、それで宝貝などが貨幣の代わりとなったのである、漢字では必ず貝とつけば貨幣とか財になっていたからである
また貴金属が貨幣となったのは遊牧民などの財産となったのは持ち運びが容易だからそうなったのである
いづれにしろ磯部の梨というときその価値は地元でとれたものであるからどうして遠くでとれるものとは違ってそこにその土地と人をイメージする
外国とか遠くなるとまさにその商品しかみない、でもバナナをとるにも結構暑いし楽でないとと日本人が語る時、バナナがどうしてとれるのか知ったとなる
するとただバナナという商品だけを見ずにその背景を考えることになる
現代はとにかく物と心は分離しているのである、膨大な商品があってもいちいちそれがどういう経過で作られたのかとわからないからである
それで貧しい国の人達が工場で作られたらか安いものとして売られているとかグロ−バル経済でそれは人権として問題だとかなる、酷使されて作られたから問題とかなる
でも買う人はそんなこといちいち考えないのである、考えることもできないのである
そこで物と心は分離するのである
東洋的な思想では仏教でも色心不二というとき色は物でありそれが一体だと説いている
そもそも日本語でも物とはいうときものが憑くとか物心とか物と心は一体とみていたのである、そもそも物とは本来は値段がつけられないものともなる
例えば果物でもリンゴとかミカンとかバナナとかあってもそれは別々の価値があり味がありどっちが優れているというより別々の価値なのである
その価値は貨幣では計れないものなのである、それは色にもいろいろある、赤とか黄色とか青とかあると同じである、どっちが優れているというより別々の価値があることなのである
とにかく経済の規模が大きくなりすぎたのである、そうなると物と心は当然分離する
でも別に貿易とかは否定できない、ただ人間の心の問題として経済をみるときもう物と心は分離してしまったからこそマルクスの物神化により人間疎外とかになったのである
今や人間そのものが物であり貨幣で計られる存在でしかないのである
人間を金としてしか見ていないのである、だから私の家に金をくれると来て実際に屋探して大金を盗んだ人がいたのである、つまり人間は田舎であれ都会であれ今や関係ないのである、金こそすべてになってしまったのである
だから原発事故でも補償金をもらったらその土地をすぐ離れて仙台市に住んだとかばらばらに住むようになったのである、それは金があればどこでも住めるのだから原発事故で荒廃した故郷に住みたくないとなったのである、放射線被害があることでそうなったがそれだけでもない現代社会が金があれば別にどこに住んでもいいしもともと故郷に住みたくない人もいたらこの際一億円もらったら都会で暮らした方がいいとなり移り住んだ人も多いのである
ただそこで失われたものは何かなのか?
そのことが後でわかるようになるかもしれない、ただ現実は金しか見えなくなているのが現代社会なのである
ただ磯部の梨を与えた時、病人に与えた時、そこには何か物を通して心が通う、物と心が一体化したものとしてある、それを自ら梨を与えて感じたのである
もしこれが本当に私自身が梨を地元で作り与えたら本当に心と一体化したとなる
だから田舎で自分の土地で育ててとれた野菜でも分けてもらうときは何かスーパーで買うものとは違って心も受け取るとなる、ありがたいとなもなる
金になるとむしろ金で買う方が消費者が王様となってしまいそんなことにはならないのである
現代の人間はそもそも労働でもなんでも金で計られている、時給いくらだとかなるとあなたの価値はそれだけだとなる、その他は見ないのである
だから人間疎外として現れる、労働が人間を作り価値を作るものとなっていないのであるそのために労働を拒否するニートとか引きこもりが大量に現れたのである
もちろんここには甘えがあり問題があるから肯定できないとしても人間の労働は本来そういうものではない、人間の価値を作るものでありそれは必ずしも金で計れないものである人間の一生の価値がなにかとなったときそれは最後は金で計れない、そうなれば十億円ためた人が最高の価値がありとなり後世にも価値ある人として残るとなるが必ずしもそうではない、最後に人間の価値は金で計れない、その人の価値は何なのかとなると様々であり
でも金ですべては計れないのである、それで今になると銀行員の価値は下落した
投資信託でも株式でも証券会社のようになり銀行をもうけさせるだけであり銀行員の言う通りになるなというときそうである、それは銀行が得するものであり客はそうではないからである、するとどうなるのか、銀行員は地域に住んでいてもだます人なのかととも見てしまう、そうしたら田舎とかに住んでいても銀行員を価値あるものと見なくなる
そうしたら銀行員でもその職業自体いいものではないとやめる人も増えてくる
でも大工とか職人とかならその人はその腕に見合ったものが金として払ってもまた地元でも尊ばれるのである、それは医者とかでも農業とかでもそうである
すると銀行員になるより別な職業を選んだ方がいいとなる、そのために銀行員から農業をするようになった人がいたのもわかるとなる
金ですべての価値は計れない!
でも現実はそうなっている、そこに現代社会の大問題がある、グロ−バル経済がすべて否定できないにしてもそれが物と心を分離するからそうなるのである
2022年11月28日
銀行がすすめる投資信託や金融商品の危険 (退職金二千万でも高度成長時代から比べれば安い)
2022年11月04日
日本の貧困化格差社会化の危険 (世界でも信用できず信頼できず社会は分断される)
2022年10月26日
銀行にまかせる投資は危険 (投資は長期的にしないとだめー金より時間が価値あるものだった)
2022年10月12日
グロ−バリゼーションと資本主義の縮小化 (物の値段はどうして決まる)
2022年10月01日
何のために働くのか-働く意味を求める時代 (働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)
何のために働くのか-働く意味を求める時代
人間はまずあの人は何をして食べているのか?どんな仕事をしているのか?
それをみる
でも
何をしているのか、何の仕事をしているのか?
それと何のために働いているのかは違っている
まずあの人は何をしているのか、どういう仕事なのかをみる、大工さんなら家を建てるとか家を直してくれたとかわかりやすい、土木関係は道路を直したとかわかりやすい
それはあまり何のためとか考えない、家を直してもらえば客に喜ばれるし道を直してもらえば喜ばれる
だからこういう仕事で何のために働いているとか考えないのである
普通はいちいち何のために働いているとか考えない、金になればいいとなる
利益をあげることである、それに多少問題があり不正があったとしてもあまり考えないことがある、まず利益だ、金を得ることだとして働いている人も多いからである
何のために働いているのか?
こう考えるのは別に普通の人でも哲学者になっているのである
それで漁業者が放射性物質の汚染で魚がとれなくなったとき俺はなぜここにいるのかと問うようになった
それは漁業者は特別東電からでも政府からでも事故前も事故後も手厚い補償金をもらっていたからである、漁業権がありそれが大きな権利だからそうなった
でもそうして魚をとらないでも暮らしていけるのだけど自分はなぜ何もしないで港にいるのかと問うようになったのである
要するに漁業者の仕事は魚をとることであり東電から補償金をもらうことではなかったからである、だから魚をとっていれば魚を食べる人がいてありがたいとなっていたのであるそれで別に暮らしに困らないとしてもその人が地域社会でも何のために存在するのかとまでなった
そしてなぜ漁業関係者は船主などは特別補償金をもらっているのかとなり回りからうらやましがられた、それは事故前でも特別補償金を多くもらっていたからうらやましがられていたのである
そもそも漁業者は魚をとり提供することで地域社会でも存在価値があったからだ
海で魚をとることは結構危険でありだから漁師の仕事は地域社会にとって価値あるものとなっていたしその魚をとる人間も価値あるものとなっていたのである
人間はとにかく金にあればいいとして働くことが多い、その仕事が何のためなのかと問わないことがある、第一今は仕事の種類が多すぎるからである
利益が上がれば金になることが先決でありその仕事が何のためかなど考えない
東電とか電力会社でも電気を供給することでありそこに疑問を感じることもないしそれが有用だから誰も事故がなければ責めないしありがたいものとなっていたのである
何のためになど考える必要もなかった
●何のために働くかは哲学的問題でもある
でも何のために働いているのか、これは哲学的問題になっているのだ
ある人はゴルフ関係の道具を作っている、それは意外と近くの藤倉ゴムとかで作っていたのである、そうか、ゴルフの道具を作る仕事なのかとその人は大工さんだけど認識した
まずその人は何で働いているかをみる、それは一日一万二千円になる
二日しか働かなくても賃金としては高いなとみる
でもゴルフをしないものにはゴルフは遊びじゃないかとも見る
そしてゴルフをする人は比較的金持ちが多い、その人は金持ちの遊びのために働いているのかともなる、老人は暇なのでパークゴルフをしている、でもそれには金はかからない
本格的なゴルフとは違っているからである
でもそんなゴルフをするための人に働いてるということを認識した
すると何のために働いているのか?そうして金持ちの遊びのために働いているのかとなるこんなこといちいち考える人はいないだろう
でもこの辺で起きたことは何かいろいろ考えさせることが多かったのである
それを私は追求して来た、双葉とか浪江とか小高では避難区域になり住めなくなった
そこから仮設住宅に移り住んだ人が多い、その時何もすることかなくなりパチンコとかギャンブル通いになった
そしてかわいそうだとして外部から毎日のようにボランティアが来ていたのである
そのことで地元の人のひんしゅくをかった
あいつらは毎日遊んでいるとかなり外部から来たボランティアとか働く人は不満だったのである、汗を流して復興のために働いた人達は外部の人達だったからである
つまり働くということは何か意義があり意味がある、原発避難者は遊んでいるだけだとか不満になる、そうなるとそんな避難者に尽くすのは馬鹿げているともなるからだ
働くというとき誰かのために働くということがある
家族のために働く、子供のために妻のために働くというのも大きな動機になる
何のために働くのかとなると家族のためだとなるのも多い、その仕事の内容が何であれそうなっている人も多い、そもそも働くとは端を楽にするという意味だったからである
狭い範囲で華族ても苦労して働いているのを見て苦しいから手伝うとかが働くことの言葉の起りだったからである、だから働くといってもいろいろな動機がある
それを一がいに否定できないのである
でも最近いろいろと何のために事業でもするのかとか問題になる、そんなこと無駄じゃないかとも問われる、オリッピックがそうだった、それが何のためにするのか、意味がなくなったからである、東京オリッピックは日本が復興したということを世界に見せるためであり意味があったが今回は意味が明確に見いだせなかったからだ
そして結局そのオリッピックにあづかって儲ける人達のものだったこともわかったからである、大きな賄賂の金が流れていたからである
●何のために事業をするのか?
何のためにするのかというときある人が事業を起こした、それは何のためかとなる利益を得るためにしても何か明確ではない、都会の人に別荘を提供するためだとかまた田舎じゃ金にならないとか言っていた、つまり別荘をもてるのは東京の金持ちでありその金持を相手にしてもうけたいとなっていた
その人は技術者だから家を建てる技術とかあるからそうなった
でもここで問題なのは技術的なものと何のためにするのかとは違ったものである
この技術力があるということは理系の人である、でも何のために考えるのは文系なのである、理系の人は技術者として優秀であればいい、建物をそれも壊れない耐震設計にしてとか地盤を見たり簡単に壊れないように作る、安全を計り作る
でもこの建物を何のために作るのか?
このことは余り考えないのである、ただ鉄道にしても早く目的地に着くために技術開発をすすめる、そしてリニアを作るとなる、でもそのリニアが本当に必要なのかどうかは考えない、でも常に技術開発は奨められるのである
リニアは本当に必要なかどうかは考えない、新幹線で十分だという人もいるからだ
ただ技術開発は常にすすめられるのである、
例えば原発にしても核が危険だからやめるべきだというときでも危険でも開発はすすめられるのが価格技術の世界である
結局哲学となると
あるべきかあらざるべきかと問うことになる
それは文系的思考になる、別荘を東京の金持ちの人のために提供するために働く、その人の動機は何かというとそうして金をもうけるということだった
そして事業に失敗して借金になったのである
でも何かそういうことのために動機でしたことで失敗した、そもそもその動機を見れば
そんなことして何になるのかともなる
それで失敗したからとして自己責任だともなる、同情できないとなる
ともかく人間は何のためかなど考えない、カルト教団の人達は特に何も考えない、ただ拝んで利益があがればいいだけだとしかない、それに疑問を持つ人もいない
宗教だと特に批判できないから完全に洗脳されて従うようになる
何のために拝むのかとなると御利益福運になるからしかないのである
そして大衆は考えない人達である、だから盲目的に従う、それが大衆ファシズムになるのである、だから宗教は人間を奴隷にしやすいのである
●働くことの意義を求める
いづれにしろゴルフの道具を作るために藤倉という会社があることは知った
でもではゴルフの道具を作るためにどんな意義があるのかと問うと金持の遊びのために働いているのかともみる、そこまでいちいち考える人はいない、でも最近そういうことが問われることが多くなったのはなぜなのか?
それは橋がなければ橋が必要だしそれをいちいち考える必要はない、また道路がなければ道路を作る必要がありそれを考える必要がなかった
でもそういうものインフラでも整ってくればリニアとか海底トンネルとか必要なのかと考える、それはやはり貧乏国とは違って豊かになると考えるとなる、哲学とはやはり豊かになったから生まれるたものだとなる
食べることに追われていたら考えないからである
働くこと関しても最近何か変わっている、自分の好きなことをしろとか会社に頼るなとか会社は唯一の価値ではないとか学歴は関係ないとか何か会社中心主義の社会が変わっている、いい大学に入り大企業に入るというのが勝ち組とはならない
これは団塊の世代からすると企業戦士として会社に滅私奉公したのだからそういう考え方とか価値観とかについていけないだろう
でも組織集団が価値がある時代から個々人の価値を追求する時代になったのかとなる
でもそれが世代が違うとぴんと来ない、ただ70年くらい過ぎる価値観ががらりと変わることがある、戦争の時代は国家が最優先課題であった、でも戦争に負けると国家はなくなっていなくても国家中心ではなくなった、その変化も大きかった
それて戦争から帰ってきた人たちは戸惑ったのである
ジャングルに残って日本兵が小野田少尉のように戦いつづけていた人がいた
それは極端にしてもこの変化は何なのだと理解できなかったのである
別世界から来た人のようになっていたのである
それで自分の好きなことをしろとか自分勝手に生きろとか言うこと時代私自身はそう生きてきても理解しかねるのである
ただ働くという時人のために働くことでありそういうことは変わっていない、会社中心の働き方が変わるとういことである
そもそも戦争の時でも何で戦うのか戦争のために死ななければならないのか悩んだ人はいる、特攻隊は20代だから特にそうだった、死ぬのが嫌だったからである
いくら社会が賞讃しても死ぬのが嫌だから煩悶したのである
何のために死ぬのか?
それが後になっても尾を引いている、それは死者を供養するときでもそうなのである
つまり何のための戦争だったのか明確にわからなくなっているからである
どうしてもアジアの欧米の植民地化から解放するための戦争だったというときそれも納得できないからである
●個々人の価値を求めて働く時代ー大企業中心の社会の終わり
いづれにしろ働く価値観が変わった、大企業中心の企業戦士の価値観は変わった
個々人がそれぞれに働く価値観をもって働く、会社のためではない、人のためになるために働く、そして自己実現として自分の好きなことを究めるために働く、でもそんなことができるのか?社会では今まで許されなかったことである
でも一時代が過ぎると戦前と戦後で黒から白のように価値観が変わってしまったことがありすぐには理解できないのである
だから若い人の感覚と老人の感覚はずれてくるのである
私は好き勝手に生きてきたのだから新しい価値観でもいいとなる
第一芸術家とかだったら会社人間ではない、それぞれに美を追求するし学問でもそれぞれの興味があり個々人で追求してゆくものだからである
大企業中心の価値観はカルト教団ともにている、カルト教団も大きな会社のようになっているからだ、また軍隊組織にもなっているからだ、そこで個性は拒否される
黒だったら黒一色になる、赤だっから赤一色になるからである
そこに個性は認められないのである
でもそういう価値観も変わったとなる、個人の時代になるというときそうである
それが社会全体になるというときなかなか信じられないとなる
そうなるともともと学校とかが集団組織に適応するためのものとしてあった
社会に出る訓練として集団で行動できるように編成された
そこからして変えなければならなくなる、教育でもそこで大きく変わる
働くことの価値観が変わった、ただまだそれに気づいていない人達もいる
若い人はそういう価値観になっても適応できる
老人はそれを理解すること自体むずかしいとなるのである

2025年日本経済再生戦略 国にも組織にも頼らない力が日本を救う【成毛眞・冨山和彦】
https://www.youtube.com/watch?v=K7S0nv2WZMY&ab_channel=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6
2022年08月29日
価値とは何なのか (貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)
価値とは何なのか
(貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)
媒介する者についてメデアについて書いたが貨幣でも紙幣でもメデアであり媒介するものである、そのメデアが媒介するものが現実の物より力をも持つようになった
そのことですでにギリシャでは紀元前600年頃から金がすべてとなり社会は金だけを追求するようになり腐敗したと嘆いていたのである
つまり金自体が媒介するものであり仲介するものでありそうなりやすいものだったのである
物の価値は貨幣で計れない
人間の価値も貨幣では計れない
そもそも貨幣では価値が計れない、あらゆるものの価値は計れない、例えば果物があるとする、リンゴがあり梨がありバナナがあり葡萄があり柿がありスイカがありメロンがありみかんがありといろいろある
ではそれを交換するときリンゴが梨より価値があるとか梨よりバナナが価値あるとか水禍りメロンが価値があるとかならない
それは性質が違ったものでありそれぞれの価値は特有の価値を持っている
理想的なものは物々交換なのである、要するに私はリンゴを育てました、でも梨は作っていません、私はリンゴを与えますから梨を下さい、交換してください
こうなるのが理想的なのである、そこにメデアが貨幣が介入するとそもそも歪められる
貨幣自体にはただの金属だし紙幣だったらただの紙切れである
ただ黄金の貨幣だと価値はあるとなる、その貨幣は黄金なのだからそれ自体に価値があるから交換するとなる、でも紙幣だったら紙切れの価値しかない
だからそんなものとは誰も交換しないとなるのである
要するに物々交換だったら貨幣で価値を計ることはできない、そして交換するにしても等価だとなる、物自体の交換だから貨幣が介在しないからである
ただリンゴの味を味わいたい梨の味を味わいたい、スイカの味を味わいたいとかなる
その物自体の価値があって交換するだけなのである
そこに値段はつないのである、ただバナナとか大量にとれるから物々交換となるリンゴ一個にバナナ十本とかが交換するようにもなる
ただ物々交換だったら貨幣で価値を計るようなことはない、ただその物が持っている価値そのものと交換するだけである、そこに貨幣や紙幣は介在しないのである
でも貨幣が生まれたのは遠く持ってゆく、その時運ぶとなると手間である、物々交換するとなると大変な労力になる、リンゴをみかんと交換するのにその場所まで持ってゆくのは大変な苦労である、でも貨幣であれ紙幣だったら買えるとなると便利である
また貨幣でも紙幣でもいろいろなもの買えるということで便利だから貨幣が使われるようになったのである
ただ本質的な価値は貨幣では計れないのである、あくまでリンゴの価値はリンゴが生来持っている味である、その味に価値がありそれは神が創ったものだとなる
そして様々な果物に味がありその味を味わうということで豊かになる
それぞれに違った味があり価値がある、その味があって別な果物の味があって本当は直接物々交換すればいいとなる、金で計ることはない方がいいとなるのだ
それは人間にも通じている、人間の持っている価値は多様である、でもその価値に値段をつけて金が介在すると人間は歪められる、そもそも人間が持っいる価値は多様であり金で計れないからである、でもその計れない価値は金が介在すると無視される
金にならないものは価値がないとして無用とされ社会でも認められない、そこに社会が歪められるのである
それはブナという木が建築用材として価値がないとして無用化された、杉が植林されて杉の林になった、でもブナでも自然では効用があるから自然林を形成していたのである
ブナは漢字で木偏に無と書いてとされるが、由来は材が腐りやすく役に立たないからとされる
これは人間からの一方的見方なのである、自然にあるものは無用ということはない、そこに必要だからある、人間が価値づけすることによって歪められたのである
だからこそ老子は無用の用を説いたのである
例えば大都会を見ればわかる、そこはすべて用で埋め尽くられている,建物で埋め尽くされている、そこに無用の空間がないのである、それで空地とか公園とか貴重になる
でもそういう土地でも必ず何か有用なものとして建物が建ち埋め尽くされるである
そして憩うことも安らぎの場もなくなっているのである
つまり無用の空間がないから窮屈になっているのである
値段もつけられない無用の空間も貴重になっているのが大都会なのである
自然の価値は一様ではない、杉だけの森にしたのは人間側の都合でありそれが災いを産むことがある
松原は人工林だった、それが何か自然林のように思っていた、でも林でも森でももともとは混成林だった、多様な木があった、それで津波で松林が全部流されたことには驚嘆した松原は塩害を防ぐために作られた人工林だったのである
そして砂地に根を張るから津波には弱かったのである、それで根こそぎ全部流されてしまった、それは信じられない光景だった、おそらく自然の森のようになっていたら全部は流されなかったろう、杉の林にしたように一様化したことで根こそぎ全部流されてしまったのである、津波に強いのは竹だった、他にも津波に強い木を植えていればみんな流されることはなかったかもしれない
これもやはり自然というものを無視した結果だったとなる
自然を自然のままに利用しないで人間側の都合で利用すると危険になる
だからこそ文明は滅びるとなる、持続可能ではないとなる
大都会が危険なのは密集地獄のようになっているのは危険である
何かそこから大きな災害が生まれてくるからだ、そもそも地下街などでも危険であり
高層ビルでも危険である、それは人間の力を示すものだがそれが危険なのである
人間はそもそも自然の則(のり)を越えられないからである
だからこそ人間の過去の文明は滅びているのである
人間とは文明とはこうして常に自然に逆らい不自然に生きてきた、その結果として災いが生まれたのである、技(わざ)は常にまた災いになったからである
ともかく価値の交換というとき色でもいろいろな色がある、その一つ一つは多様な独特の価値でありそれに値段はつけられない、赤い色があり青い色があり独特の価値がある
その色もみんな違っているから交換しようとなる、またいろいろな色を欲しいとなる
赤があり青があり黄色がありとそれで豊かになる
でも同じ色はいらないとなる、赤を持っていれば赤はいらない、赤があり青と交換するとはなるのである
そして赤が一番価値があるから高くなるとかない、価値は平等であり等価である
赤には赤の価値があり青には青の価値があり黄色には黄色の価値がありその価値は赤に価値があり青に価値がないということはない、それぞれ違った色でみんな価値がある
優劣はないのである、自然界では優劣はない、みんな調和しているのである
人間界だけが優劣があり上下関係がある、差別がある
価値とはそもそも貨幣とかで計れない、それぞれ特有の価値がありそれは計れない
だから黄金と塩が等価で交換したというときどっちも実は貴重なものだったからである
塩がない砂漠のような所では黄金より塩が貴重になるからだ
価値はまた場所によっても様々な条件で変わるのである
そもそもあらゆるもののこの地球の価値は神が創ったのである
それを人間の都合で変えてしまった、メデアが貨幣でも変えてしまったのである
市場など公正でもないし金融資本主義とかなりもうどうなっているのかわからない
グロ−バル経済はもう公正でもなんでもない、世界のギャンブル場になり一握りの人が莫大な金を得るのである、いかさまなのである
でもそのいかさまが巨大になり見抜けないのである、だからどうしても現代は陰謀論になるのである
この世ではどんなことしても不公正になる法律があってもそうだし経済でもそうであるここの解決は神の国でしかありえない、人間にはとても公正な社会など作れないのである
貨幣は紙幣は便利であってもそこに必ず不公正が生まれている
メデアは報道でも歪められる、社会は必ず歪められるようになっている
そこに人間の限界がある、人間にはとても理想の国など作れないからである