2019年06月23日

「クルマを捨ててこそ地方は甦る」藤井聡を読む


「クルマを捨ててこそ地方は甦る」藤井聡を読む

この本は私が日ごろ指摘したことだった、そのことをプログに書いてきた
クルマを持っている人は地域に愛着をもたない度合いが大きくなる

鳥や虫の鳴き声を聞くこと
道端に咲く花にふれること
地域の人々とあいさつすること
地域の人々と会話すること

こういう機会がクルマではなくなる、クルマと自然でも人でも交流を遮断するからである一つの閉鎖された空間なのである
それで何度も自転車のことでそのことを言ってきた
最近買った電動自転車で行くのは舗装されていない道である
それも隠された細い丘の間の道だったりする
それで俳句や短歌を作ったりする

ふるさとの小径やあわれスミレかな

ふるさとは小径なのである、そういう道がある所か故郷である
またマウテンバイクだと悪路でも行ける

悪路行くマウテンバイクや夏あざみ

これも自転車で行くから自然と一体化するのである、クルマだったらそういう自然にふれることができないのである
だからクルマはキレル乗り物なのである
自然との親和性もないし人間との親和性もない、キレル乗り物なのである
突然猛スピードで走ってきて去ってゆくキレルの売り物である
自転車は目障りとなり歩行者も目障りであり無視される
「危ない、馬鹿野郎」と言って猛スピード走りさるキレル乗り物である
それが人格まで変えてしまったからあまりにも影響が大きくなりすぎたのである
そして自転車とか歩行者は隅に追いやられて邪魔者にされるようになったのである

地域愛着の薄い人は地域を良くしていこうとする「まちづくり」に無関心となり地域全体に役立つ取り組みが全然すすめられなくなる
「シラケ」気分が蔓延して地域ぐるみの掃除とかまちおこしとか祭りや運動会などの自治体活動必然的に停滞してゆく

クルマ社会は一番身近なものに関心がなくなるのである
駅で案内のボランティアしてそのことがわかった、駅には関心がほとんどない、乗り方もわからなくなっている、でも駅は人々が集う会話したりする広場の役割があった
年齢に関係なくそういう機能があった、それがクルマとは違っていたのである

地域の人は今地域に関心がなくなるというときどうなるのか?
それを原発避難者を例にしてその極端な現象を説明した
もちろん放射能汚染とか政府から強制されたこともある
でもなぜ突然ゴーストタウンになって故郷が捨てられたのだろうかということが疑問だった、人間は代々住んだ場所を簡単に捨てられるものだろうか?
そこに何かしらの葛藤があり何か議論があってもいいはずだった
強制されたことはあるにしてもそんな簡単に街全部が故郷全部から一瞬にして人がいなくなったことの驚きである

それはクルマ社会と多分に関係していた、マイカーマイホームの社会である
ここにマイタウンとかマイシティという視点がないのである
マイカー=マイホームではその他ないのである
するとどうなるのか、マイタウンがないのだからそのままマイカーで外に出ても何の違和感もないとなる、日ごろからそういう生活をしていたからそうなる
もともと田舎でも故郷に長年住んだ所に愛着がなくなっていたのである
そして若い世代はかえって田舎に住むことを不便だとか嫌がっていたからこれ幸いと脱出したとなる、補償金を多額にもらったことでチャンスだともなったのかとなる

ただ田舎に住んでいる人はみんな「脱出願望」をもっている、田舎の人間関係は拘束された窮屈なものだからである、だからどこでも知っている人に出会うから男の場合スーパーに買い物もしないし人に会うことを避けるようになる
そういう脱出願望が田舎では強いのである、自分自身もこういうことを言っても田舎が嫌だから脱出願望があったから旅ばかりしていたとなるその脱出願望をかなえるのに最も適していたものがクルマなのである
一瞬にしてあっというまに外に出れる、それも遠くに出れる乗り物だからであ
だから必ずしもクルマのせいにすべてすることはできないところはある

ただクルマというのは社会自体を人間自体を人格まで変えたから深刻なのである

クルマ社会の中で(家族をふくめたあらゆる)コミニュティを共同体が希薄化して
家族同士、住民同士の「助け合い」様々なレベルのコミニュティが担っていた
老人ケアや保育サービスなどを行政が肩代わりせざるをえない
行政サービスが肥大化せざるをえない

私が前にも指摘したように高齢化で免許を返納が増えると老人が今度は取り残される
それもクルマ社会のカルマだと思った、現代はまさにクルマ社会を生きてきたからであるそれが老人になって裏目になりマイナスとなる、何か人間は必ずいい面と悪い面を技術的なものでももたらすのである、それは原発事故でもそうだった
便利でいいなと思っていてもそれがマイナスに働くようになる
技術は災い(技わい)になる、そういうカルマをもっているのである

そしてクルマ社会は将来にも禍根を残す、子供たちが健全に育たないのである

クルマばかり使って移動している子供はうつ性、不安性、攻撃性が強くなっている

そして恐怖はクルマが健康にも相当影響していた
クルマを利用するのと徒歩自転車の人では病気になる割合が違っていたのである
つまり徒歩とか自転車だと健康度合いが高かったのである
とにかくクルマというのはあらゆる面に影響したのでありそれが技術の怖さだったのである、技術はそれだけ社会を一変させてしまったのである

だから技術は文化を簡単に破壊する怖さをもっていたのである
それが原発事故でもわかった、自然が汚染されてもう人が住めなくなって町自体が住めないようになったからである
だから人間はなんでも便利だから社会に取り入れることは危険だったのである
技術の影響力を考えなかったのである
社会にとってクルマがどう影響するかなど全く考えなかったのである
そういうことは科学技術には常にあるけどなんでも開発される
遂にはロボットにITに人間が支配されてしまうとかもある
科学技術はいいものであり無制限になるときどうなるのか?
それが恐怖なのである、それによって人類も滅びるとういこともある

いづれにしろこの本は自分自身を言いたいことを明確にした本である
ただここでテーマにしているのはこの著者は京都でありまた富山市でも大きな都市でありこの辺の五、六万の都市とは違う、規模が違うからみんなあてはまらない
むしろ五、六万の都市では路面電車とかは作れないから事情が違う
むしろこういう小規模都市はクルマ社会から脱出できないともなる
それに代わる交通網が整備できないからである
それをどうするかとなるとまた別な課題としてある
この著者はクルマ社会をすべて否定しているのではない、高速道路は必要だとしている
まずクルマをすべて否定することは不可能だからである
ただあまりにもクルマ社会になりすぎたことで提案しているのである

経済的にもそうである、クルマを捨ててこそ地方がよみがえるというもの逆説だからである、経済的効果がかえって車なしで生まれという発想はしないからだ
地方の問題がいろいろ言われる、地方を活性化するにはどうすべきかいろいろ言われる
ただクルマを捨ててこそ地方が活性化するというのは斬新だった
そういう発想を普通はしない、でもそれを可能にしているのはかえって東京とか富山市でもある程度の十万万以上の人口があるところだともなる
富山市でも42万の人口があるからできたことなのである
かえって5万くらいだともうどうにもならない、クルマ依存がかえって強くなっているのだ
そして鉄道に関心がないようにこういうことに賛同するのは一パーセントもいるのかとなる、それだけクルマ社会にどっぷりとつかっているからこれを変えることは容易ではないただ高齢化になって老人が困るという時、かえってそれで多少変える機運が出てくるかもしれない、そういう点で高齢化がすべて悪いものとして働くともならないのである
 
 あとがき

市電とか路面電車がこの本で見直されて実際に実現した、何か市電とか路面電車はクルマとちがって人間的なのである
クルマというのは非人間的なものなのである、だからこそ昔からあったコミニュティでも破壊したのである

市電は過去の記憶を刻む
乗り場は駅でありその名に親しむ
老若男女が日々乗り合わせる
我は旅人なれば気楽なり
市電はゴトゴトコト街中を走る
その線路は刻まれた記憶の道
古い喫茶店が十字街にある
私はかつて函館の住人のようにあった
私は長く気ままにそこに滞在した
青函連絡船もその時あった
函館と本州は船で結ばれていた  
・・・・・・・・・・・・

過去の記憶の街ー函館(詩)

まさにこのようにクルマ社会にはないものが市電には路面電車にありそういうことがクルマ社会が変わる時蘇えるのである
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2019年06月21日

外国人労働者と底辺労働者が争うようになる (日本の貧困化で起きていること)


外国人労働者と底辺労働者が争うようになる

(日本の貧困化で起きていること)

若者の失業は世界中で蔓延している。その数には驚くはずだ。世界全体で約7500万人の若者が職を探している。アラブ諸国のなかには、16〜24歳の失業率が90パーセントに達する国もある。アメリカでは23パーセント。スペインとギリシャでは約50パーセント。イギリスでは22パーセント。世界的に見れば、ワーキングプアの4人にひとりが若者であり、質の悪い仕事に就いて、将来の希望が持てない状態から抜け出せない 

若者7500万人が無職にあえぐ世界の暗い未来

一つの有力な見解は、南アの低所得者と外国人低所得者が住宅や雇用機会などを巡って競合した結果、外国人低所得者が南ア人低所得者の不満のはけ口になっている、というものだ。


例えばエジプト辺りだと若者の仕事は観光になる、工業がないから観光業になる
ギリシャでもそうである、つまり観光業が若者の仕事になるような所は経済的に遅れている、豊かな国ではないのだ
日本がでも電機製品を外国に売れていたときは先進国になりジャパンアズナンバーワンとまで言われた、それも日本の技術が優秀だから日本人が特別優秀だからでもなかったのである、なぜなら今では韓国でも中国でも同じものを作っているからである
もし日本でしか作れないものだったら別だったが今や中国でも韓国でも作れし日本の製品より安くていいともなれば日本製品は売れなくなる
それで外国人の観光客を呼び込もうとしているのは日本が貧乏になっているからなのだ
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この引用先が不明に

こたれなどもそうである、高度成長の時は日本人がアジアに言って女性を買っていた
つくづく人間には何でもカルマがある、そうして優越感にひたっていたが今度は逆になったのである、それもカルマだったとなる
日本を卑下する必要はないが日本人が特別優れていると思う時奢りになり危険になる
原発でも日本人の技術が優秀だから事故は起きないとしていたからである
そういう奢りが本当に常に危険なのである、奢りが滅びに通じているのである

南アメリカで起きていることが日本がでもすでに起きつつある 

【外国人労働者問題】日本人の底辺労働者は捨てられる? Love & Freedom


このyoutubeで日本人が外国人に占拠されて入り込めなくなっていると非正規底辺労働者が語るのはリアルである
外国人労働者問題で学者でも政治家でも言うが実体験からは語られないからである
この人は底辺労働者で具体的に恐怖を感じて語っているのである
日本語が通じない、日本人は外国人労働者のグループから排除されると恐怖を語っているからだ、もうし日本語が通じないから英語を覚えろと言っている
英語は世界の共通語だからなんとか通じると言っている

つまり南アフリカのように底辺層同士が日本でも争うようになる
それがグロ−バル経済のまた資本主義の熾烈な競争社会なのである
労働者でも若い人の方が使いやすい40近くになるとおっさんだとかなり選ばれなくなる20代の若い人が覚えやすいし使い安いとか体力もあるとかなる
そして日本人の非正規で35から40過ぎは外国人の若い労働者に負ける
そういう危機感を言っているのは南アフリカと同じなのである
それが自由に労働者でも行き来するヒトでもモノでも自由に出入りするグロ−バル社会なのである

そして世界で若い人の失業者が多いということも外国人労働者がとめられない理由にもなる、ネパールとかで山ばかりで近くに住んでいるホンダに勤めている人でも4000メートル級の所に住んでいるという、そこでどういう暮らしがあるのか?
観光しただけではわからなかった、ただ裸足て歩いている人がいたのには驚いた
原始的生活をまだしていると実感したのである
それからしきりにボールペンをくれという、そういうものがないから用意しておけと書いてあったからそれをくれた、書くものすらない、するとどうして教育するのだろうか?
ただネパールでは英語を話す人がいてガイドしていた
そのネパールから今女性でも三人男性でも一人一万くらいの田舎にいる、一人は妻となる人を呼び永住するらしい、後はベトナム人も多い

そして世界で失業者が多い、若者が多いという時、なぜイスラム国など過激なテロ団体が生まれたのか?
それは宗教とは関係ない、貧乏とか若者の失業者が多いためである
血気盛んな若者がぶらぶらしてはいられない、それなら戦争でもいい、そこで活路を見出そうともなるのである、現実に日本でも就職できなかった大卒の若者がイスラム国に入ろうとしたことで問題になったからである
何か不平不満があるときそれが社会的圧力となりそうしたテロ集団とかが生まれてくる
それは本来の宗教とは関係ないのである、それは日本のカルト宗教団体でもみんな同じなのである、何か不満を抱えている人がそういう団体に入り境遇を変えようとする
だから生活保護の人がカルト団体には多いのである

別に今だけではない常に大陸ではヨ−ロッパでも民族移動があった
移動する圧力がありそれがローマへと向かったのはそこは先進国であり富が集中していたからだとなる、ただ日本は確かに東南アジアとかでもネパールとかベトナムと比べれば豊かでも今や他と比べてはそうでもない、むしろ貧乏国になっている
たからこそ観光に力を入れているのである、観光に力を入れる国は貧乏だからである
その状況をリアルに訴えているのが底辺労働者のyoutubeである
自分も若い時底辺労働者でありそれからも社会からはずれて暮らしていた
ただ家で生活できたから底辺労働者として呻吟することはなかったのである


インターネットの情報は今や膨大である
でもそれらを編集しないと読んだことにもならない、問題意識をもって情報を編集することである
ここでこうして書けたのはインタ−ネットの配信とyoutubeと楽天の雑誌や週刊誌を読んで編集したのである 
だから今の情報社会は膨大な良質な情報がある、でもそれを消化することは時間もかかり疲れるのである、だからこうして自分なり編集して読む必要がある
ただ時間がかかる、それだけ毎日情報に追われている、これも疲れると思った


posted by 老鶯 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年06月08日

「貧乏生活ほどお金がかかる」 (地方の貧困はますます厳しくなる)


「貧乏生活ほどお金がかかる」

(地方の貧困はますます厳しくなる)

●車代の出費が大きい

お金がないと、この「移動手段」には隠れたコストが2つあることに気がつきます。1つ目は、車には高額な修理費が避けられないこと。私はブレーキパッドの交換時期を無視していたせいで、キーキー音が鳴るようになりました。その音は嫌でしたが、お金が出ていくことはもっと嫌でした。そこで、音楽を大音量でかけてごまかしていたのです。

車にもよりますが、ブレーキパッドの交換には平均145ドルがかかります。それは、1カ月分の食費に相当します

破産経験者の私が語る「貧乏生活ほどお金がかかる」という現実

●通信費の出費(老人も携帯は必需品)

iPhoneだって、日本全国どこに行こうがiPhone XSは10万円するわけで、物価の安い田舎に行ったからと言って3万円に値下がりするものではありません。

●医療介護費用が大きい

これも節約できないので負担が大きい 

●水道、電気代などが大きい

これを止められれば生活できな


その家族はまず一人の非正規の労働に頼っている、その人は建築関係であり常に移動しているから車が欠かせない、でも車は結構金がかかる代物なのである
もし車を使わないと30年くらいで一千万くらい節約できるかもしれない
私は車は使っていないからその分節約していたとなる
私は仕事もしなかったけど金も使っていない、旅行したとしても最低の金しか使っていないからである、それで海外旅行では意外とバックパッカーで安くついたので金が残ったので高いヤマハの最新の電動自転車を買った 
介護を二人したがそれもそれほど金を使わずにすんだので助かった

その人は親が青森の介護施設に送られた、安いのとこの辺では人手がなくて受け入れる施設がない、ではそれで何もしなくてもいいかというと何かと金が要求される
つまり施設ではあくまでも基本料金だけではすまない、その他にかかるので要求される
その負担もあるから苦しい

そしてその女性は70近くであり絶えず体の不調を訴えている、それもこの辺では治療できないからと東京に行ったり仙台に行ったりしている
この辺ではめんどうな病気は仙台に行かないと治療できない
この負担が老後になると大きいのである
月三万で病院通いしている老人がいたとか病気になっている人が多いからである
一旦家族でも自分自身でも病気になると金だけでも解決できなくなり破産するようにもなる

通信費というのも老人でも携帯は必需品であり欠かせないとなるとそれも負担になる
それは都会と田舎に差がないのである、田舎だから安くつくものが現代では少ないのである
そして現代では水道、電気代が大きい、それで金が底をつくと必ず水道や電気をとめられ生活できないと泣きついてくる
結局現代は貧乏でも金がかかる時代なのである
これらの費用が欠かせないからである

戦後十年では電気は裸電球一つであり飯台一つでありエネルギーは炭だった
水は近くの井戸水をもらっていたから無料であり糞尿は近くの農家の人がもって行った
それも無料である、紙は新聞紙でありトイレットペーパーがなかった
もちろん車がない、自転車があったがそれも一台を修理してみがいて長く使っていた
新しいものを買うというのはほとどなかった
風呂は外風呂であり鉄砲風呂であり私は子供の頃風呂焚きが仕事だった
その燃料は近くの木材店でバタを買ってなのかもらったのかそれが燃料だった

その時は本当に金を使っていない、また使いようがない時代だった
現代はこうした金の使わない生活がそもそもできないからさらに苦しくなっているのだ
これらのものが最低限必要でありそれだけで昔のような貧乏生活ができないのである
だからなぜその人が東京までわざわざ医者に診てもらうために行ったのかと何か贅沢に思える、ただ江戸時代でも医者に診てもらうためには遠くに行かざるをえなかった
特に目が悪い人が多く、そのために遠くに行って医者に診てもらわないと直らなかったからだ

結局現代の生活が貧乏といってもその基本料金自体を省くことができない、するとどうしても節約もできないのである
それらは現代生活の必需品だからである、それで最後は水道と電気をとめられるのであるそれでその人が貧乏だということを知るのである
そうでないと貧乏が見えないのである

自分自身はある程度は余裕があってもそういう人とつきあっていると自分自身にも影響する、そしてそういう人が家に入り込んできて大金を盗まれたとか事業に失敗した人に苦しい時に借金を頼まれたかと地銀に投資信託を買わされて大損したとかなる
なぜなら地銀自体が追い詰められているからもう地方で投資する先がない
金を貸す先がないとか苦しいから詐欺的な投資信託を売りつける
第一地銀の支店長自体が株のことを知らないとか投資信託をのことを知らないと言っていたのである
素人並みでありそんな人がなぜ売ってもうけさせてくれるのか?
金融のプロでもなんでもない、素人なのである、ただ手数料をとればいいとしかないのである

こうして地方でも金がかかるから原発は金になるということでとびついたのである
積極的に誘致したのである、そこに誤算があった
でもこの辺で成金になっているのは原発にかかわった人たちが多い
この辺で有名な建築土木会社の創始者は原発の工事がありそれで資本ができて大会社にした、それから船主は原発事故前も多額の補償金で原発御殿が建っていたとか事故後もそうだった、補償金は継続的にもらえるから金には困らないのである
烏アは漁港であり原町火力発電所が作られたとき補償金がかなり入った
その人の親は漁師でありそういう人は金を相当にもらった
でも海で死んだのである、その時近くの呉服屋が着物を売ってもうかったのである
その人が40年前とにかヨ−ロッパに海外旅行に行っていたのには驚いた
この辺でそんな人がいたのかと知らなかった、なぜなら飛行機代が50万とかになっていたからである、だからその時自分は海外旅行はできないと思っていた
それが何か尾をひいて海外旅行するのが遅れたのである
1ドルが240円くらいの時代だったからである

ではその他はどうかとなると田舎ではいろいろあっても貧乏な人が多いとなる
ただ何か現代の貧乏は見えにくいのである、外から見てていもわかりにくいのである
昔だったら乞食がいたからそれなら見えるからである
生活保護などがあるから最低は維持できるから見えにくいとなる
ただこの生活保護も医療費は無料だとかその他はもらえないという人もいる
地方では生活保護は都会のようにもらえない、最低が保証されない

現代の生活は貧乏でもさらに金がかかるというときもしこれらのものにかからない昔のような生活だったら楽なのである、それができないから追い詰められる
水がないとなくなればその時生活すら生きることもできなくなる
水は昔は無料でもらっていたからである、水だけでも無料でもらえたとなるからだ
電気もないから裸電球一つだから電気代もかからない、もちろん車もないからかからないトイレも無料で使用する、ただ医療とか介護になると医者代はかかる
でも60くらいで死んでいれば介護というのはそれほどなかった
また医者にはかからないのが多かったろう、そんな金がないからである
でも脳卒中になって藁で便をとってふいていたということも聞いた
紙が貴重な時代でありそれもなかったからだ、それだけ昔の生活からすると贅沢しているからである
そういう生活を子供の時小学校の時していたからその経験は貴重だった

「貧乏生活ほどお金がかかる」というとき現代ではそれだけ基本的にかかる金が大きいのである
もしそれが昔のようにゼロだったらこうはならないからである

現場の近くには、広範囲に渡って「ネマガリダケ」というタケノコが繁殖している。犠牲者4人は全員、ネマガリダケの採取に訪れていた。このタケノコを採りに来る人の中には車で3時間以上かかる秋田市内からやって来る人もいるというが、労をいとわず遠方からも訪れる理由は、それを売るためである

ツキノワグマ「山林の人喰い現場」を決死ルポ!(1)事件の深層にある地方の窮状

秋田となるとここも過疎化が東北では一番厳しい地帯である
人口減少で働く場所もない県となっている、青森でもそうである、青森とか長崎から原発に働きに来ていた人がいたし北海道の室蘭かも来ていた
そういう地域から来る人の事情は察せられる

山の生活では山菜が食料になるということがあった、それで飢饉になると山に逃げたとかあったのはそのためなのか?でも山菜だけでは腹の足しになるとも思えない
飯館村では山菜は料理の定番になっているのもそのためである
タケノコだと腹の足しになるからそれが貴重だというのはわかる

いづれにしろ現代の便利な生活は金がかかる、最低限でもかかる、すると貧乏だとしても昔の貧乏とは大違いだとなる、昔の貧乏は金がなくてもなんとかあるもので暮らせるということになるが今の貧乏は金がなければどうにもならないという貧乏なのである
そこが大きく違っているのである、農業でもハウス栽培になれば石油を買う金が必要だとかなる、電気が必要だとかなる、エチゴ栽培ではそうである

ともかく地方の窮状はこれからもっとひどくなる
地銀がもうなくなるというのもそうである、何か地方には成長産業がないからだ
何か昔のようにかえって自給自足していた農家が裕福だったということがない
その時裕福だったと感じたのはその時代の感覚である
農家でも今は老人でも軽トラがないと農業もできない、トラクターがないとできないとかなっているから金がかかる割に収入が少ないとなっている
昔は機械がない代わりに村全体で田植えしたり稲刈りしていたのである
そういうこともなくなるとまた機械に金がかかるのである
だからこそ原発に頼るということが起きてきて事故になり故郷に住めなくなった
そして農業とか一次産業が衰退して軽視されるようになったのである
それで地方をこれからどうするのか?それが大きなテーマとなる
なんらか今までの生活を見直さないともう生活自体成り立たなくなるかもしれないからだ






posted by 老鶯 at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年06月06日

今までの日本人の労働観は通用しない (労働する価値とか意味が見いだせなくなっている)


今までの日本人の労働観は通用しない

(労働する価値とか意味が見いだせなくなっている)
   

ニートは憲法違反なのか?
(誰でも労働したいがそのしたい労働ができない) 


「よくわからない」からとりあえずやってみる。
実際にやってみないと、労働が何であるかはわからない(やってもよくわからない)。



laborー(名) 労働 (=labour) laborious  (形) 骨の折れる

ラテン語系の labor を見ると、これには古代の奴隷制を連想させる苦役のイメージが色濃く付きまとっている。要するに、堪え忍ぶ苦しい仕事の意味合いが強い。労使関係、労働運動、革命運動等の文脈における「労働」は基本的に labor である。ちなみにドイツ語の Arbeit の語源的意味も 辛苦、困苦であり、フランス語の travail にいたっては責苦、拷問という恐ろしい意味が語源にある。この系列では、働くことは「苦」なのである
一方、ゲルマン語系の work の方にはあまりマイナス・イメージはない。同語源のドイツ語 wirken にも見られるように、その意味するところは何らかの自主的・能動的な活動をなすということである。その活動の結果としての作品が名詞としての work(Werk)である

なぜ労働を問うのかとなると人間日々働いているからである、毎日どこかで日々働いている、それが社会だからである、労働無くして人間もありえないとなるからだ
ただ労働とは何かとなるとそれが本当にむずかしい、いろいろいくらでも理屈が言えるからである
労働を苦役としてとらえることはその起源も古い、つまりエデンの園から神がアダムを追い出して労働させられるようになった、それがlabor(苦役)なのである
罰として労働をさせられているのである
エデンの園では苦役の労働はない、でも何もしていなというのではない、苦役の労働がないだけだった、でも一日何していたのだろうとはなる
何かいろいろな花が咲いていてそれに名前をつけるとか知的な活動はしていたともいう
でも苦役としての労働はなかったのである

労働というときその要素は様々であり正直一つのものとして語れることはできない
労働は多様でありその価値も多様だからである、時と場合によっても意味と価値が違ってくるからである、つまり労働は何かと定義することは不可能だとなる

多様な価値観をふくむ人間的活動となる

労働をみるとき欠かせないのは他者のためにとか家族のためにとか地域のためにとか国家のためにとか自分自身のためではないものが必ずそこにある
そもそも働くとは端(はた)を楽にするということから出ている言葉である
それは身近な人が働いていて苦労しているから楽にしたいとして生まれた言葉である
働くとは必ず家族であれ村であれ地域であれ国家であれ広く関係していて労働が語られるのはそのためである
だからつくづく労働は何か語りつくせないし定義もできないしその意味と価値もすべて語りえないのである

基本的には労働しなければ今日の食べ物がえられないから労働するとなる
腹減ったからに狩出て獲物をとらえる、農業になると米や野菜を作る、それはある程度の日数がかかる一か月とかもかかるとなるとそこに計画性が生まれる
それで農業となる暦が大事になりいつ種をまくとか時季が大事になる
それを基にして文化化したのが俳句の季語だとなる

民族的に働くということの意味も価値もとらえ方も違う、そもそも大陸の国を見る時大事なのは日本のように海に囲まれていないから民族同士の争いがたりない、すると戦争で負けたものは奴隷とされる、その奴隷は戦争で皆殺しにされていたが温情で奴隷として使ってやるとなったのである、そこに人権の進歩があったとみるのも歴史である
またなぜ貴族と平民とかに別れるのか、階級制があるのかというのも民族同士が戦争して優劣を決めるからである、それで面白いのはネパールである
インドからカースト制がもたらされているからいろいろ人種でカースト制が作られる
それが外国人にも適応されている、日本人もカースト制に入りどういう位置にあるか決められているというのも奇妙である
それは民族が混交してくるとどうしてもその差で色分けしてカースト制が生まれていたのである、だから外国をみるときこのことが背景にあることを知らなければならない
日本では特殊であり日本は階級制もない平等な国なのは日本人は早い時期に人種が混交してみんな日本人になったからである
そういう歴史や文化の差があるということを知らねばならない
つまり日本は大陸と比べるとありえない特殊な国柄を歴史を文化を作ってきた国になる
敵味方塚がなるのも日本だけである、だから中国人が敵の墓まで作っているのが理解できないのである
それは日本人は一つの民族であり争っても仲間だということでそうなっているのである
中国人は敵の墓まで暴いて罰しているのだからそこが歴史と文化の大きな相違なのである

外国では戦争に勝てば負けた人は奴隷にされる、そして本当はみな殺しにするのだが温情で活かすが奴隷として使われるとなったのである
その奴隷に働かせて貴族が労働しない階級制が生まれた、だから奴隷を使うことに罪悪感がないのである、日本ではそうはならない、そういう歴史がないためなのである
労働が苦役とするとき奴隷にやらせればいいという労働観になる、そして労働しないから暇が生まれ学問が生まれたとなる
なぜならスクールとはスコーレであり暇の意味だからである、それは奴隷がいたことにより獲得されたのである
今でも働く者は奴隷だ、社畜だとかになる、自らそういうものもいる
ということは戦争に負けたわけではないが働かされているという感覚になる、では苦役でも働いているのか?
それは戦争に負けたからだとなるが今ではまた違った意味でそう強いられているとなる

この奴隷労働をふりかえるとき常に労働にはそういう要素がある、働かせられているとは強いられているのだから奴隷なのである
もし働かなくてもいいとしたら働かないからである、奴隷だから働かさせられるのである
奴隷でなくても借金したりすると嫌でも働かせられる、借金の奴隷となるのである、それは苦役でしかないのである

ともかく働くことにはいろいろな要素があるから一概には言えない

今何が働くことで問題になっているのか?
それは働くことが生きがいが感じられないと何か意味を価値を感じられないとか労働疎外が起きているためである
村とかの共同体があれば村を維持するための労働となりそこに労働疎外は起きない、苦役でもそこに労働の価値と意味を感じるからである、溜池でも共同で作るという時それと村を維持するためにみんなで働かねばならないものだからである
そういう目的が明確でありその労働の意味と価値を求めることをしなくても明確だからである
だから労働が苦役でもあってもそのことで悩まないのである、ただ苦しいから楽でありたいというのはいつでもある
今の労働は何か労働自体がそうした意味と価値が感じられないのである
その例だ非正規の労働なのである
正社員なら高度成長時代の会社なら終身雇用であり会社が村のようになっていたのである
会社とは社(やしろ)に会すだからまさに村なのである
村でも終身雇用だからである、そういうことで働くことは会社のためでありそれは村のためだということに通していたのである
そこに共同体があり共同体を維持するために働いていた協働していたのである
  
Love & Freedomの非正規労働者の絶望は何か現代の労働を象徴しているのである

彼は働くも
妻もなく子もなく
親もなく親類もいない
ただ一人働く
今日の糊口をしのぐために
それは会社のためでもない
誰かのためでもない
社会のためでもない
孤立して今日一日分の金をもらう
働いたからと人からの感謝もない
ただ一日分の食べる住む金をもらう
そこに協同で働くことがない
孤立した労働であり
誰からの感謝もない労働
ただ一日分の賃金をもらう
労働の価値はそれだけである

非正規労働者が会社のためという動機がない、だから働く仲間がいない、決まった場所で働くわけでもない、どこに派遣されるかもわからない、日々違った場所に派遣されるからである
何か達成感もない、そして最後は孤独死だとなるだけであり捨てられるだけだとなる
そこには労働の共同性が奪われた孤立した労働だともなる
無数のパーツ化した分解された労働でありアトム化された人間となる
その個々の労働につながりが見いだせないのである
そうなるとエジプトのピラミッドを作った人たちは奴隷だったとかなるがそうでもない
その目的は王の墓ではないとすると宗教的建造物を一致して作っていたともなる
それはカテドラルを作った人たちの労働とにている、また古墳でも共同の産物でありその時代の共同性の証として残されたものだとなる、すると今の孤立した無数に分解された苦役の労働よりは意味と価値があったとなるのである 
この人の希望はFXでの一攫千金なのである、つまりそれだけが希望だけだという時何か切ない悲しいとなる
金さえあればというのがまさに資本主義での幸福になっているのだ
でもこの人がでは何をしたいのかというと金が入ってどうするのかというと見えない
ただ苦境から脱したいから金が欲しいというだけになる

例えばそういうことは田舎でも起きている、田畑があってもでは地元の田んぼからとれた米を食べているかというとそうではない、いくらでもうまい米は売っているから、地元の米を食べて地元の人に感謝することもないのである
第一私が援助して畑に野菜を作らせている人はそもそも何ももらっていないからである
そしたら何のために金を払っているのだとなるからだ、田舎でも村でも今はその土地でとれたものを食べていないのである
かえって外国から来た野菜でも果物でも食べているのである
グロ−バル化経済では日常的にそうなっているのである、そしたら地元の人が働いていてありがたいとかならないのである
そして地球の裏側から来た果物でも食べていてもその食べ物を作る人のことなど知り得ようがない
つまりそこで労働しているもののことなどわかりえようがないのである
ただ食べ物だけは入ってくるのである、それでもバナナ農場で働いたから苦役だったというから労働に苦役がつきものなのであるこういうグロ−バル化経済が今は労働疎外を生んでいるから社会が変わっているから労働は義務だとした今までの価値観は変わる
こういうことは商品としての労働となり貨幣の物神化とかでマルクスが説いた
ただマルキシズムでもまたその労働は共産党のための共産党の金持ちのための労働になった
兆もの金を共産党幹部は得たからである、極端な格差は平等の共産主義にも生まれたのである

現代の労働がなぜ疎外が生むのか?ただ金だけを得る労働になりかつてのような労働の意味と価値が生まれないのか?
労働をしたくないというとき苦役だから常にそういうことはあった
でも家族のために村のためにかんばらねばならぬ、働かねばならぬきということで働いていた
それは原発避難地区に起きている、なんとか働いて田畑を復興させてくれと願っても若い世代でも働く人でも流出したらできないのである、こういう場では働いてもらいたいし働いた人に感謝するとなる、それで働き甲斐があるとなる

グロ−バリゼーションと資本主義が危機だというときそれは労働観に現れている、働かないという時なぜなのか?
働きたくないのはなぜなのか?このことを追求することが大事になる
私自身は働きたくなくなったのは底辺労働でありロボットのように流れ作業しかししていないからである
これが仕事なのかとなるとしたくないとなった、でも何かそこで生きがいのある労働であれば自主的にする
でもそんな仕事は与えられないのである、それは能力がないからそうなっているのだともなる
能力がある人は生きがいのある仕事をしているとなる
それで私は引きこもりになり家で好きなことをしていただけだとなる
学問とか芸術をの追求をしていたとなる、それは創造的仕事だからしているとなる
何か私は文章を書くことが好きである、しゃべるのは不得意である、だからこうしてプログで書き続けているのである
ただ金にならないから価値と意味を与えられていないとはなる、与えているのは自分だけだとなっているのだ



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2019年05月29日

借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類 (日本人が貧乏する理由(武田邦彦)


借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類

(日本人が貧乏する理由(武田邦彦)




武田氏はとにかく見識が広いから参考にして見ている、人間はなかなか正確にわからないし批評はできない、だからコメントするのでも一行二行とかしていてはわからない
こいつは馬鹿かとかなんとか言ってそれで平等化する
それでも何か批判して俺の方がわかっているんだともなるからだ
だから私は一行二行のコメントを歓迎しないし私のプログにはコメントはない
やはりプログでその人なりのものをもっていて批判しないと相手にしたくないのである
ただプログだとどこに書いてあるかわからないから問題なのである

武田邦彦氏は人気がありあれだけ広い見識があるから参考になる
それは直接現代のエリート層とも通じているし外国生活も長いからその経験で違っている第一私は底辺層としかつきあったことがないからである
すると社会のことを底辺からしか見れないのである
そうしたら社会のことはわからないとなる

ただ人間はつくづくその人の生い立ちから住む場所から個性でも違っている、だから人はみんな違っているのである、その人自身の個性を作る条件がみんな違っているからである毎日海を見える場所にいる人と山に囲まれて山ばかりみている人でも何か人間も違ってくる、風土によって違ってくるから世界中てこれだけ文化も違ったものとなるのである

だから人間は自分の経験からいろいろなものを見るのが基本になる
経験しないものはわからないのである、それは本を読んでもわからない
実感がないからわからないのである、例えば戦争でもこれだけは実感することが不可能である、隣にいる人がばたばた死んでゆく、戦友が死んでゆくことなどとても経験しないかぎりわからないのである、だから戦争がどうのこうのというときそういう経験した人こそ戦争を語れるとなるがしない人はわからないから戦争はいいものだとさえなる、恰好いいともなってしまうのである

武田氏は超エリートである、でも貧乏のことを語る時何かずれているなとも見た
なぜなら借金してでも金を使うのが資本主義社会である
そういうことが理解できない、もちろんそこに深い意味があるかもしれないから表面的なことで軽々しくは批判できない
youtubeの欠点は言うことが短いし何か感情的になりふすい、それで非正規の苦しさを訴える人に同情した、声とかが出ると何か感情がでてくるんだなと思った
テレビというメデアは声とか表情が見る人に影響する、それで人の感情をあおる
あいつが悪い奴だとなるとみんなが感情が刺激されてリンチ的になるのである
つまりテレビとかは深く考えさせるメデアではなのである
ただyoutubeを見ていてわかったことはテレビとも違う何か学習機能がある
常にスタディしている、だからテレビのような大衆相手にエンターテインメントになっているのはも違う、とにかくテレビは視聴率がとれればいいのである
youtubeも視聴率が問題になるが百万とかまでは見る人はいない
そして個々の経験に基づいたことを発言しているのである
そこはテレビというマスメデアとの大きな相違だったのである

youtubeでもまだ深くは考えられないメデアである

それを感じた、だから借金してでも使いというとき誤解が生じる
そこだけをきりとって反論すると誤解が生じる、またそこには深い裏付けがないからである
なぜなら武田邦彦氏は果たして借金の意味を深く考えているのか?
まず自分自身が借金をしたことがあるのか?借金で苦しんだことがあるのか?
また他人の借金で苦しんだことがあるのか?
それがあれだけのエリートだとない、そこに借金とは何かわからなくなっているのだ

自分自身も親の介護とか自分の病気とかで苦労しなければ人はみんないい人だとのんきに思っていたのである、社会ともかかわらずに60まで生きていたことが異常だったとなる
だから社会は人はみんないい人だと思っていた
人間とは結局自分の経験から社会でも見る
一旦人から裏切られた人は深刻な人間不信になる、もう人間は信じられなくなるのであるそういう経験を私は介護になってからずっとしてきてそのことプログに書いてきた

人間とはこんな恐ろしいものだとか実感した、誰一人として自分が苦しんでいるとき同情もしない、むしろ相手が弱ったからチャンスだとなり大金は盗まれるわ何かと責められるとか苦しんだ、一切そこに同情すらなかった
それも自分自身がこれまであまりにも楽していた結果でありカルマだったことを知った
だかちそのことで他者をうらまない、でもそれ以来人間観が変わってしまったのである
人間がこんな恐ろしいものだと思わなかったからである
人間は自分が苦しんでいれば相手が死ぬと何であれ何の関係もないのである
だから最底辺で苦しんで老いた人が言う
あそこの土手の道で倒れても誰も助けないというときそのことに共感したのである
その人もこれまでひどい目にあった連続だったからそう思うようになったのである

そして借金してでも使えということがどういう意味なのか?
そんなこと軽々しく言えるのか?
借金した人が私が介護して病気になって来た時どれほどの恐怖を与えたか?
そのことを書いてきた、事業に失敗してかなりの額の借金をした人がきて助けると言うがもう助けるどころではない、その人の頭には借金のことしかない
それも額が多いのである、だからもうその人にとって頭は借金のことしかない
すると自分が苦しんでいてもそんなこと関係ないのである
こいつからなんとか借金しようとしかないのである、だから脅迫もされたのである
その時自分が病気であり介護していてどうにもならなくなっているからそういうふうに借金でも要求しやすくなっていたからだ
その人はなんとか自分の財産を得ようとしていたのである

その人は別に会社にいたときはいい人だったのである
誰もとれない資格をもっていた技術者だったからである
ただ事業をはじめて失敗して借金したのである
その人はまず事業などできない、商売できない人だったと思う
経営者にはなれない人だったと思う、技術をもっていても経営とか商売は違っているからだ、その人はまず私が病気のとき物を持つことさえ嫌がっていた
入院するとき物をもつことさえ嫌がっていた
つまり私のためには何もしたくなかったのである
それはその家族にも言えた、ただ金が欲しいしかなかったのである
そういう人がどうして会社を経営できるのか?
他者になにもしたくない、ただ金をもらいたいというだけなのである
そんな人に仕事でも頼むだろうか?その家族もまたそうだったのである

そして借金している人は怖い、借金しているだけで犯罪者予備軍であり犯罪の動機をみると借金を返すためだとかの動機が本当に多い
だからまずこの人が借金しているかどうかでその人を見るのが常である

だから借金している人は犯罪者である

ここまでなってしまうのである、それほど借金は人間を変えてしまうのである
借金している人はもう人を助けるなど全くできない
また追い詰められている余裕のない人間は人のことなど考えない
会社でもそうだし今の銀行が追い詰められているもう顧客のことなど考える余裕もないのである、会社がもうけをだすためには詐欺的な投資信託でも売りつけるほかないのであるつまり余裕がない人は人を助けるとか考えることすらできないのである

だから借金してまで使いということほどあまりにも浅薄な意見はない
ただ資本主義社会では借金は奨励されるというとき会社とかで事業する人はそうかもしれない、でもその人は事業していたのである
そして多額の借金となり我が家が苦しい時借金を返すために脅迫までするようになったのである
だから借金は人を根本的に変える、善人も借金で簡単に悪人になる
もう借金した時点で悪人となっているのである

だから武田氏の見識の広さには学んでいたがこれはどうかなと反発した
ただその背後には深い意味があるがそれが語られないのかもしれない
でもこれは危険なことである、借金してでも使い、そうなのか?
そんなことで同調して借金して使う人がいたら危険だとなる
結局は人間はその人の限られた経験からしか語られないのである
あらゆることを知り経験することはできない、そこにかたよって見方が生まれる
底辺で生きている者は社会のエリートとして生きている人のことを理解できないのであるまたエリートは底辺の人を理解できないのである

だから格差社会になるとたがいに社会で理解し得なくなり分断されて社会が維持できなくなる、その認識は共通していとなるが借金については個々人ではすべきではない
借金の恐ろしさについて鈍感でありその恐ろしを知らない
借金によって人間のモラルは消失する、ただ借金を返すために借金のために殺人まで普通にするからである、そういう事件はいくらでもあるからだ
ただ正直youtubeでもネットではなかなか深い議論にはならないのが問題なのである


あとかぎ

借金しても使えというとき貯金だけしてもだめだということはある、金をいかに有効に使うか、それが資本主義だということもある
だからそういう意味とかありそれはくみとれる、でも借金しても使えというのは誤解を与えやすい
国単位とかだとそうなのかもしれない、でも個人単位では別だと思う




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2019年05月27日

投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


2017年3月、金融庁は「顧客本位の業務運営に関する原則」を打ち出し、金融事業者に顧客本位の業務運営、いわゆる「フィデューシャリー・デューティー」の確立・定着を求めた。「顧客本位の業務運営」に関する7つの基本原則とは以下の通りだ

【原則1】顧客本位の業務運営に係る方針の策定・公表等
【原則2】顧客の最善の利益の追求
【原則3】利益相反の適切な管理
【原則4】手数料等の明確化
【原則5】重要な情報の分かりやすい提供
【原則6】顧客にふさわしいサービスの提供
【原則7】従業員に対する適切な動機づけの枠組み等


手数料等の明確化
重要な情報の分かりやすい提供

投資信託にはこういうことはない、複雑であり一般人はわからない商品である
株の方がわかりやすい、なぜなら株は上がったりもうかり下がったら損するだけである
だからリーマンショックのとき買った株が上がったから8年過ぎてもうかっていたが
銀行員が来て勝手に投資信託に回して損したとなる
その時説明責任があったが一言説明なく投資信託に回した
ただこれには自分自身の責任もかなりあった、その時の情勢もあるからだ

私は投資のことでもわからない

自分はそもそも地銀ということで信頼していた

時間がないからまかせた

こういうことで地銀を信頼したからまかせたのである
そもそも病気になったらプロである医者にかませるだろう
法律がわからなければ弁護士にまかせる、家建てるにしても素人は建築会社にまかせる
そもそも一人の人間の知識など限られている
だからこそプロがいてまかせるのである
金融のプロが銀行であり証券会社である、株が上がったり下がったりする
それを素人の人は他にも仕事があるから見ていられないのである
だからそういう暇がない人は知識がない人はやるなとなる
銀行にまかせること自体がお前の責任だったとなる
それも言われてもしかたがないとなる、自己責任だとなる

でも金融でもそうだが原発でもそうだったが相手は圧倒的な専門知識がありそれに対抗できないのである
だからこそ「安全神話」が作られたのである、放射能のことを原子核とかなんとかなるともうお手上げだからである
そこに圧倒的な知識の差がありそれと対抗すること自体不可能なのである
それは金融商品でもそうである、まず投資信託について毎月分配型について通暁することは不可能である、仕組みが複雑すぎるからである
それは素人をだますために作られた商品だとも今では思ってしまう
顧客のためではない、そういうふうに複雑にして顧客をだましやすい商品として作られたのである、最初からそういう意図があったのである
そこにすでに悪質性がある、ギャンブルにしても公平性がある
調か半かは確率であり公平だともなる
ところが投資信託にはわかりにくい、株とかFXはもうからないとしてもわかりやすいから素人でも理解できるから公平だったとなる
一時何かアメリカの投資信託で円安になりもうかったがそれもすぐ売って別なものを銀行で買った、そこでまた手数料が入りまた売ったり買ったりするときその額によって銀行が手数料が入る仕組みになっていたのである

結局自分はなぜそういうふうに失敗したのか?

その原因が来た相手はみんな追い詰められた余裕のない人たちだったのである
金がなくて苦しんでいる人が病気と介護のとききて大金を盗まれた
事業に失敗した人が金に苦しんでいて責められて自分自身も苦しんだ
相手を思いやる余裕などないからである
銀行も同じなのである、銀行は今一番追い詰められていたのである
それが今までの感覚で銀行は信頼できると思い込んでいたのである
老人は銀行との付き合いで確実に利子をもらって預金を増やした経験があるから
その経験で銀行を信用している人が老人に多いのである
だから大銀行でもリストラされているとか追い詰められているから2000千万も投資信託で損した老人がいたのである

その最大の原因が銀行がもう生きる死ぬかの瀬戸際にきているからである
特に地銀などはもうなくなるとされている、維持できないのである
そうなって追い詰められた者は何でもする、悪もなにもなくなる
そうして自分は責められ苦しめられてきたのである

追い詰められた人間は会社でも国でも一番怖い

追い詰められれれば人間から善悪は消失する、今日食べるものがないとなればわずかなものでも食べるために人を殺すこともある、それは追い詰められているからである
そういうふうに銀行は今やそれだけ追い詰められているから危険だったのである
はっきりいってももう銀行の仕事はなくなる、福島県で残る銀行は一つだけであり
もう銀行は生き残れないのである
そういう銀行とかかわることはすでに危険だったのである

いづれにしろ追い詰められると人間個人でも会社でも国すら危険なものになる
まず余裕がないから相手のことなど考慮しない、相手の利益など無視する
頭の中は自分のノルマを果たすことか銀行の利益だけしか考えられなくなる
それは個々人の会社員だけではない、銀行員だけではない、会社自体が存亡をかけて
投資信託でももうけるほかないとなっているからである

それでこれから地方が衰退して窮地に追い込まれると田舎でものんびりとはならない
現実に自分自身がそうした人たちに襲われてきたからである
つまり日本経済が縮小して衰退して窮迫してくるとこういうことが起きやすくなるのである、若者でも老人でも生活がぎりぎりだとか銀行でも儲け先がもないとか物を作っても売れないとかいろいろな経済の窮迫状態が起こってくる
それが日本全体を追い詰めてそういうとき戦争にさえもなる
戦争とは何か追い詰められたからなったとなる
なぜなら人間がそんな簡単に戦争に突入するとは思えないからだ
ドイツでナチスが台頭したのも借金漬けであり失業者が膨大に増えた結果だとしている
経済的困窮の結果戦争に突入したのである
日本がもアメリカによっけ経済制裁されて追い詰められたのが原因だともしている

とにかく追い詰められた人でも会社でもそういうのが増えると害になってゆく
もう客のもうけのことなど全く考えられない、いくら手数料をとるしか考えないからである、頭の中はそれしかなくなるのである
会社自体がそうなっているからである、その駒になるのが営業員だとなるからだ

ただそうした会社が繁盛するのか、栄えるのか?
地銀とかなると地元に尽くすから地銀なのである、地元を栄えさせるのが地銀の使命なのである、それができないとしたら地元にとって必要なのだろうか?
もう地銀などいらないとなる、そこにマイナスの感情だけが働く
銀行に金を預けてもなんにもならないという声が大きくなっているからだ
銀行の用がなくなっているのである、そして投資信託のような詐欺的商品をうりつけるだけだとなりその負の感情を受ける

そういうことで会社でも銀行であれ維持できるだろうか?

何かしら負の感情を従業員であれ消費者であれ受ければそれが栄えるだろうか?
それは国でもそうである、その国がいかに強大であっても回りで負の感情をもたれたら栄えるだろうか?
いづれは衰退してゆくのではないか?共存共栄しなければ負の感情ばかり強くなればとても栄えることはできない
だから銀行はもう必要ないとなり消えるともなる、ただ何か新しい利用価値が生まれれば別である、今のように窮迫して投資信託のようなものを売りつけるとしたらもう維持できない、それも時代の変化で銀行すら消えるということになる
銀行自体今どういう働きを社会でするのかどういうサービスを提供するのか問われている投資信託のようなものを売りつけるだけとなると銀行はもう終わりだと思う
それは最後のあがきなのかもしれない、そのために被害者でる
そして銀行は消えるのかとなる

ただ銀行だけではない、大企業のリストラとかあり日本時代が窮迫してこういうことが起きる、地方も疲弊して追い詰められた人があふれると危険な状態になる
そういう人と出会うことが多くなるからである
余裕がなくなった人たち自分が経験したように襲ってくるからである
遂にはホンジュラスのようにギャングに支配されるとまでなる
そしたら国を脱出するほかなくなるのである
そういう危機すら日本にこれから来るかもしれない、それは経済が衰退して困窮してくる人たちが増えればそうなるのである

それで自分自身がその例なのである
自分が病気になり介護になり弱った時襲われたからである
それは相手も追い詰められていたからそうなったのである
余裕がない人は他人のことなど考慮できない、食うか食われるかになるのである
そういう地獄がこれから日本が困窮してくればなるのである
それが大企業でもリストラが起こり首切られた人たちがブラック企業で働かせられたりと日本は余裕のない社会になってゆく
そういう地獄がこれから起きてくる、戦争状態のようなことが起きてくることもありうるそうなったとき決して富裕な人たちも安閑となどしていられないのである
もういつホンジュラスのように誘拐されるかもしれないし襲われる
そうした地獄のような社会になる、だから経済の窮迫は怖いのである



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責任をとれない人には何でもまかせるべきではない (あらゆることに責任がついてまわる)


責任をとれない人には何でもまかせるべきではない

(あらゆることに責任がついてまわる)


この世の中は本当に責任が常に問題になる、だからこそ契約にこまかく責任はとりませんと書いてある、責任を明確にするために契約がある

ある人が組の会費集めとかまかせられた、組長で順番がまわりまかせられた
でもその人にはそもそもその責任を果たすだけのものがなかったのだ
福祉に世話になっているし貯金もなにもない、だから金を盗まれたとかなりそれは3万とかでも払えない、それで私の所に常に頼みに来る
最初から組長などできない、責任がもていない人だったのである
私の組では一人暮らしの人は組長にならなくてもいいか助かる
金があづかるとなるとめんどうになる
数万の金でもない人はないからなにかあったら責任がとれないのである
だから責任がとれない人にはまかせるべきではないのだ
別に断ってもいいのである、そういう事情がありそれを押し付ける方も問題だとなる

とにかく何かこの責任問題をいろいろ自分の一身上でもそうだが問題になった
介護になってからあらゆることで自分は責められる立場になったのである
それから津波や原発事故でも責任が問われた
特に原発事故では責任が重く問われた、「安全神話」で事故は起きないとしていたのに大事故になりとりかえしのつかないものになった
その責任はどうとれるのか?誰もとっていないともなる
もし事故起こしたら切腹してますとか契約にでもあったらまた財産は没収されますとかでまかされたらそれなりに責任とるのだから「安全神話」を信じてもいいのかとみる
実際は誰も責任はとらないのである

地銀にしても

私はプロですからまかせてください

ではどういう責任をとるのですか

株とか投資信託はいろいろなことで変化しますから保証はできません
すべてお客様の責任です

ではなぜプロですからまかせてくださいと言うのですか?

・・・・・・・・・

それならそれで損することもあることを明確に説明すべきです
そうして客に判断をゆだねる
説明責任がアカンタビリティがあるというのは本当である
責任の中に説明責任が明確にある
すべてまかせてくださいとなれば客は何もかかわる必要がないのである

「私は株のことや投資信託は全く知りません、あなたがプロというのでまかせます
私は忙しいしいちいち株のことなど調べることも株の上がり下がりとか投資信託の利益がどうなっていんるのか見ていられないのです
だからプロの方におまかせしたのです」

「そういうことなら私たちプロですからおまかせください」

こういうふうになっても全く地銀でも損しても責任は一切とらない
地銀は百パーセント損することはない、手数料が確実に入るのである
そして何か売り買いするとまた手数料が銀行に入る絶対に損しない責任もとることがない商売だったのである

「もしお客様損するようなことがあればこちらでも分相応の負担はします」

こうでもなっていたら責任を分担してとるということで信用できたし納得できたのであるそもそも何も責任をとらないのだから信用できないとなっていたのである
そしてでは株でもなんでも知らないものはかかわるなともなっていた
素人は怪我するからかかわるなともなっていたのである
そもそも経験も知識もないからである
ただリーマンショックの時もっていた株が上がった時投資信託に回したのも分散投資しておけばいいのに地銀の儲けだけを営業の人はノルマを果たすだけにそうしたのである
でもなんであれこ一切地銀は責任はとらない、だから最初から何の責任も取れない人は信用してなてらないしまかせるべきではなかったのである

なにかこういうことは社会の中で常にあるから保証人問題があり保証人がない人は信用できないとなるし後ろ立てがないものは信用できないとなる
何かまかせるにしてもその人だけを信用していたら金を貸す方でも部屋を貸す方でも大損するからである
だから契約して責任を明確にしていないと後で大けがをする
だから何かと社会は責任を恐れるから契約をする
駅の高校生の見守り役でも駅の業務をしないと契約しているのはJRの方に責任が回ってくることが恐れているためかもしれない、駅の業務をJRが頼んだとなる何かあるとJRに責任が問われるからである
それで私が書いた時刻表でもルールであり何かで問い合わせとか来たりして責任をとらされることが嫌だから断ったとなる

つまり人間社会ささいなことでも常に責任を恐れるのである
それも責任をとらされることを恐れるからそうなっている
ただ責任を明確にして責任をとらないものには任せるべきではない
その任せた方が実は責任が問われているのである
それは原発でもそうである、なんであれ東電と国に原発を建てることで合意してまかせた時点で責任が今度は地元住民と福島県民とかさらに日本国民まで責任をとらされたのである、国民が関係ないとはならない、莫大な廃炉費用が税金として国民からとられるからである、責任は何かあったら広く波及してくるのである

合意したことはどちらにも責任がある  

説明責任→合意→契約→責任

こういうことになる、だから合意には双方が責任があることを明確にしたものだとなるそうしたら簡単に合意はできないともなる
責任が問われるし責任が課せられるからである
だから合意の契約するときは慎重になるしその重みを感じてすることになる
責任をとらされるものとして合意するからである
交渉とかでも説明責任が重要になる
説明したとしても専門的なことだからわからないとかいっても一応説明はされるべきなのである

このシステムには最終的な「説明する責任」がない
日本がで最も力をもっている人たちと、公式に民主主義国家である以上は主権者である普通の人々の間の政治的コミ二ケーションを可能にする機構がない
権力者がある政策について人々にきちんと説明し、人々が別な政策について権力者に一般的な方向付けを与える
官僚たちは何をしているのか、なぜそれをしているのか、人々に伝えず、人々は「公僕」たちが何をすべきか、官僚たちに伝えない、政治家は信用されずその役を果たしていない(
日本を幸福にしない、日本がというシステムーカレル・バアン、ウオルフレン )

民主主義ではめんどうでも説明する責任が重要になる、とにかく相手が素人でも説明はすべきだとなる、そして責任を明確にすべきである
そうしたら投資信託など誰もしなくなる、だからこそ明確な説明はしないししてもわからない仕組みになっているのである
ただそれだってやはり説明責任がある、そしてまかせる客も合意したとなるのだからわからないにしろ責任だけはとらされるのである

だからわからないならやるな、まかせるな!

こうにもなる、責任は必ずとらされる、誰かがとらされる、原発でも合意したから責任は地元の人も故郷に住めなくなる責任をとらされたのである

そして組長をまかせられて金をあつかうとなると責任が生じる、わずかな金でもその人には貯金もないとしたら何かあったらどうするのか?
その責任がまわりにくる、それがいつも自分自身なのである、必ず金を払っているからだそうなるとそんな責任をとらされることはやるなとなる
また周りの人もやらせてはいけないのである
こうして人間は常に何かしら誰かが必ず責任をとらされるのである



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なぜ日本が衰退しているのか? (産業構造の変化ができないから?)


なぜ日本が衰退しているのか?

(産業構造の変化ができないから?)


日本ががなぜ貧乏になっているのか?
この解答もいろいろあるがではなぜ高度成長があったのか?
これをふりかえると日本は産業構造を変化させたからだった
それまでは養蚕であり絹織物産業でアメリカに輸出していた
絹織物は今の自動車のようなものだったのである
それで外貨を稼いでいた
私の母親も原町の紡績会社で働いていた、原町は原町機関区であり今のいわき市の平機関区と福島県の常磐線では二つあっては繁栄していた
そして原町紡績会社に引き込み線があり直接鉄道で積みだして運んでいた
それは横浜から船で運ばれていたのである

とにかく養蚕は日本全国でどこでもしていた、必ず兜作りの屋根が今でも残っているからこの家で養蚕していたとわかる、それが本当に多いのである
養蚕は地方に生産拠点がありそれで地方の産業となっていたことが今と違っていた
桑畑が私の家の裏にもあったしどこでもあったからである
養蚕は農業でもあったからそうなった
それで阿武隈高原の町に鉄道が通る時、煙で桑の葉が被害をうけるから反対したとかあった、それだけ養蚕中心の産業構造だからそうなっていた

その時蒸気機関車であり私が原町の高校に通った時もまだ蒸気機関車だったことがふりかえると信じられないのである、どうしても蒸気機関車のことが思い出せないのである
ただトンネルを通った時、煙で顔がすすけたことがあった
でも今どうしてあのようなものが走っていたことが現実に思えないのである
ただその時もし鉄道マニアであったらそのことを思い出すだろう
私は全国の鉄道を乗って旅したからである    

そして蒸気機関車の燃料は石炭だったのである
石炭というときその頃各地に炭鉱があり石炭がエネルギー産業になっていた
だから学校でもストーブを使っていて石炭を使っていたのである
エアコンなどなかったのである
その頃の産業は養蚕であり石炭だったともなる
ただ戦後は養蚕はつづいていてもすぐになくなった
でも戦後十年は炭を使っていた、囲炉裏がどこにでもあった
その生活は本当に江戸時代のつづきだった
水道もないから街内では井戸の水をもらって生活していた
それで子供の時水汲みされたことを思い出す
その時は何もない、飯台一つしかない生活だったしたいがい同じだった
玉子も食べられなかった、農家では食べられたのである
農家の方が裕福だったのである

つまり養蚕や絹織物が石炭が産業だった、それが戦後10年くらいして産業構造が変わった三種の神器といわれた、冷蔵庫、洗濯機、テレビとかが出てきたからだ
この電器産業が輸出ともなり売れたので日本は目覚ましい高度成長時代を築いたのである要するに産業構造が変化したこととグロ−バル化して輸出を日本がになったことで高度成長時代を築いたのである

その高度成長時代を築いた中心がが団塊の世代である、その人たちの話を聞くとわかる
私の家でも駄菓子屋のようなものを始めた、その時別に何のノウハウもない、全くの素人であり商才もなにも関係ない、第一私の家ではそういう商売に向いている人はいなかったのである、でも成功したのは時代だったのである
その時物がないからただ物を置けば売れたのである
ちょうど角に家があり場所が良かった、その頃車もないから場所が関係していたのであるただそれは他でもみんなそうした零細な商売でも繁盛したのである
それは中小企業でも同じである、電器産業になり部品を調達するために中小企業が繁栄した、それで人手不足となり金の卵は地方の中卒が東京などへ集団就職したのである

なぜ日本が今貧乏になり衰退して後進国にすでになっているというとき輸出産業の大手の電器会社がもう終身雇用ができない、45歳でリストラとかなっている
もう電器産業は中国でも韓国でも同じものを作り品質も変わらなくなったからである
パソコンだって中国製品と変わらないとなれば日本の製品は売れないとなる
するとどうなるのか?もう日本で外国に売れるものはない
でも石油とか材料とかを買わざるを得ない、そうなると苦しいとなる
そしてIT産業には乗り遅れてスマホでも中国の方が優れているとなった

だから産業構造を変化しないかぎりもう日本は貧乏国になり発展途上国になる
すでになっている、すると産業構造を変えるにはどうすればいいのか?
それが大問題になる、そして過去をふりかえると日本はグロ−バル化した結果
石油とか外材とかいろいろなものを輸入に頼りすぎたともなる
でもそれがこれからできなくなる、第一売る物がなくなる、車でも中国で電気自動車を自前で生産している、そしたら車さえ売れなくなるのである

ではこれから日本はどうするのか?
国内産業と国内需要にもどることではないか?
国内の資源を活かすとか国内でなるべく生産できるものを生産して外国の物を輸入しないそれより輸入する金がなくなる、輸出するものがなければ金が入ってこないからである
すると江戸時代のように自給自足のような生活にならざるええない
日本には本当に森が70パーセントでありこの資源を利用していない、もう外材を買う金もないとしたらこれだけの資源を放っておくことはできない
日本がにある物でまかなうほかないとなる

何か時代が逆戻りすることが歴史ではあるのかもしれない
日本の人口が減るという時もそれもこうした時代とマッチしてそうなってきている
それだけの人口をもう養う力が日本がにはなくなったからである
そうなれば人口だって減らざるをえない、それをとめることができない
そして日本人の人口の適正規模は8000万くらいなのかもしれない
大正時代で6000千万でありそのくらいの時はかえって自然と調和した社会だったのである東京でも百万くらいだとするとちょうどいい人口だったともなるからだ

つまり時代の変化がありそれをすべて否定的にとらえるのではなく、人口減少でもプラスの面はあるしまた輸出産業がないとしても国内生産と内需にもどるとどうなるのか?
森林資源でも他にも国内の資源が活かされて地方も活性化するとかなる
農業も荒地が多いがもう輸出産業がなくなればそうした荒地でも耕して食料を確保しなければならない、戦後の引揚者がわずかの土地を求めて農業を仕事をしたのと同じになる
でも半分は厳しくてやめた事情はある
活かすものがないとなるとそういう時代になる
すると地方に人が移住して活性化して過疎化も解決するとかなる
いづれにしろ膨大な高度成長時代に生まれた中小企業でももう成り立たなくなっている
何か起業してもうまくいかいない、それは時代だからである
能力があるとか関係ない、高度成長時代では私の家でもそうだが別に能力がなくてもみんな成功していたからである

おそらく今たりないのはこうした時代に適応したマッチした国家的政策、グランドデザインを描くことかもしれない、個々の問題はいろいろあるにしても戦略的思考が必要なのかもしれない、時代に適応した国家的戦略をもちそれに向かって国民が一致協力するとなるネガティブなものがあってもそれをボジッティブなものに変える
かえって地方が活性化して日本全体で自然と調和がとれた社会になるとかのビジョンを出してみる
もちろん時代は逆戻りはしない、でも何かやはり時代は常に過去を歴史をふりかえり進むともなる
つまり日本の産業は国内中心の産業と需要にする、国内の資源を極力活かすとかする
それは江戸時代の逆戻りだとかなるがそれが理にかなっている
何か方法があればいいがないとしたらそういう方向にもってゆくほかないからである

とにかく時代の変わり目でありそこにいろいろな矛盾とか問題が噴出する
戦後70年で大きな根本的変革が要求されているのである
そのグランドデザインが描かれていないのである
つまり個々の問題をいろいろいっても解決しない、日本全体をどうするのかという大きな視点と戦略とビジョンが必要になっている
もしそれができたとき一眼となって日本人がすすむとなるからだ
ただ正直私の言っていることは一つの提案にすぎない
私自身そうした大きな視点とか戦略とかグランドデザインを描けないからである
ただ過去をふりかえるとこういうことがありそこからまた未来を見るということで書いただけである

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2019年05月18日

田舎と都会の暮らしの相違 (いい面と悪い面がなんでもある)


田舎と都会の暮らしの相違

(いい面と悪い面がなんでもある)


田舎と都会を比べる時いろいろある、田舎でも10万の都市というけど
それが田舎なのか?
10万の都市といっても合併した都市は全然違っている
例えば南相馬市は鹿島と原町と小高が合併してできたから6万以上になっている
原発事故で小高が避難区域になったから一割くらいは人口が減った

ただ10万の都市とかで百万都市とかに住んでいる人は誤解する
合併しているから土地が広いのである
原町はすでに5万とかあったこの辺では都会なのである
だから前から小高とか鹿島は一万くらいの町だから差が大きかったのである

私が今でも一番感じているのは食事がめんどうであり外食したいのだがそれが鹿島とか小高くらいになると極端に少なくなる、弁当屋すらなくなった
原町だととにかく食事するには便利なのである
さまざまなものが提供されている、レストランとか食堂とか弁当屋でも比べると10倍以上の差がある
そしてキクチスーパーが鹿島にもあるが原町に比べると何倍もの差がある
それで鹿島にはキクチスーパーで売れないものと古くなったものとかが置かれているというのも本当なのだろう
品物の種類でもなんでも違うからである
ただ最近シシドスーパーができたので競争が生まれたからそれだけでも良くなったとはなる

だから南相馬市というとみんな市で同じでも住む場所によって全然違っているのである
いわき市などでも30万あるとすると大きな都市と思うがその範囲が広いから住む場所によって相当な差がある、仙台とかのように密集して人が住む都会ではないのである
合併してからそういう都市が増えたからここに誤解が生まれる
だから田舎の都市は原町のような都市部に住む者と周辺部はかなりちがったものとなる
周辺部は買い物でも車がないとできないとなっている

田舎と都会の差はいろいろある、教育でも仕事でもあらゆる面にある
それはいい面と悪い面がありいちがいに語れないしそれを語っているものがインタ−ネットだったらいくらでも今はあるから実情がわかる
田舎の不利な点も相当にあるしいい面もある
だから田舎に向いている人間と向いていない人間があるともなる
また生まれた家によっても左右される
田舎は何か資産がないと生きずらいのである
つまり親がある程度裕福で資産がないと生きずらい
田舎では若い人でも収入が年収でも200万とか低くても親の援助があり家ももっているし車でも家に普通二台はもっている、一人一台もっているのも普通なのである
ただ生れた家で資産がないと何か目立って田舎の底辺になる
そういう人を知っているがたいがい市営住宅に住んでいる
家賃は4000円の人もいたしそれでも三つも部屋があった
それくらでいないと田舎では現金を稼ぐのむずかしいから住めないとなるからだ

ただ田舎と都会の一番の違いはなにか?

多様な選択があるのが都会である
田舎は教育でも仕事でもなんでも選択できない
たいがいコースでも決められている、それは東京のように多様な仕事がそもそもないからである、そうなると多様な職業の人と接することもできない、非常に限られた人としか接することができないから視野が狭くなる
学校でも私立がないから選択できないしあらゆるものでそもそも選択することができないそもそも選択するものがないからである
それで知的には遅れるとか何か才能を活かした職業に従事できないとかある

ただ田舎と都会の底辺を比べると田舎はそれほど苦しいとも見えない、そういうことを語っている人がいる、都会の底辺はyoutubeのLove & Freedom(底辺労働者)のように苦しいのである、追い詰められている
それは親の資産を受け継がないからそうなる
家でも狭いアパートであり東京辺りだと何するにも金になるが底辺だと金がないから何もできないとかなる、だから東京辺りだと底辺は金持ちの奴隷なのかというふうに見える
いろいろサービスが多様にあったとしてもそのサービスをさせられ方とする方に分かれているからだ
それで安く奴隷を使うには金持ちは外国人がいいともなる、つまり都会ではグロ−バリゼーションでも極端なものとして働く、東京辺りだと金持ちも多いが底辺も多いのである
その底辺も田舎の底辺とはかなり違っている
田舎の底辺は家の資産を受け継ぐとか親の援助があり家もあるし車ももっているしと東京辺りの底辺とは違っている
だから底辺を比べれば東京とかは極端化してみじめなのである

ただ田舎だと親からの資産と援助がないと苦しくなる、つまり田舎だと農家でも代々で住んで財を築いてきた家がある、その上に次代のものがある
たいがい家はもっているからである、土地ももっているからそこに資金をかける必要がないのである
そして田舎で住みやすい人はそうして代々住んでいて資産があり社会的地位がある家である、医者とか公務員とか土建業でも社会的地位があり資産があるとなる
農家でも篤農家はそうである、ただ零細な農家はもうやっていけない、果樹と花の栽培とか商品作物になるものを作らないとやっていけない

都会と田舎の相違はいろいろある、そこにいい面と悪い面がある、それを語ったらきりがないとなる
例えば芸術とかになると都会がなんでもあるからいいように見えてもとても自然の中での感受性を磨くことは不可能である
なぜなら毎日見ているのが高層ビルだらけだったり人ばかり見ていることになるからだ
一方で丸森の絶景ポイントから見た蔵王とか海岸線の景色には感動した
それも今までこの年になるまで知らなかったのである
何か田舎に住んでも田舎のことを知らないことがかなりあるのだ
車がないということも影響していたがあんないい場所があるとは知らなかったのである
そういう場所に日常的に行けるとなれば田舎は都会とは比べようがないほどいいとなる
それは価値観の相違があっても高層ビルと人ごみの中にいてそれが幸福なのかとなるからだ

東京辺りだったら散歩する場所もない、サイクリングするにも車の洪水と人ごみを通るから田舎のようにはいかないのである
トラック運転手で足を悪くした人がサインクリングしている、結構遠くに行っている
それが楽しそうなのである、別に安い自転車でもできる
東京では底辺労働者が休みにすることがないというだ田舎だったら自然は親しむことがいくらでもある、別に遠くに行く必要もないのである
だから丸森にあんな景観がいい場所があったとういのもそうである
そういう絶景ポイントはそこに住んでないとわからないことがあるのだ
それもそこで何度も見れるということが違っている

田舎とか都会で情報とか教育格差があるとして情報格差はインタ−ネットで解消したともいえる
まず田舎では本を手に入れることが容易ではなかった、専門的な本はそもそも売っていないからだ
仙台ですら本の量が少ない、それを知ったのはインタ−ネットの通販でこんなに本があったのかという驚きだった
本が手に入らなければそもそも知識を得ること自体不可能だったからその差は大きかった
それが解消したとき何か田舎でも研究者になれるのかとも思った
例えば学者の論文まで読めたことが大きい、それも無料である、自分の古代関係の万葉集の真野の草原について相当に深くわかってきたからだ
これはそもそも学者の論文も読めない本も読めないとなればわかりようがないからだ
こういう点で都会と田舎の格差は解消したことは大きいとはなる


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2019年05月13日

田舎でもネパール人など外国人が増え一方で老人や病人が増える日本


田舎でもネパール人など外国人が増え一方で老人や病人が増える日本


その女性は福装の裁縫会社で働いていた、そこでは前らか中国人は働いていた
最近見かけたのは黒い顔の女性だった
インド人かと見たし前にスリランカ人がきたからスリランカとも見た
その女性はネパール人だったろう、なぜなら一人のネパール人と会ったからだ
そこで地元でも海外旅行が日本がではじまったときからヨ−ロッパに行っていた人が聞いた、やはりあの人は外人になれていたのである
そういう人が田舎でもいたことは意外だった、それだけもう田舎でも多様な人がいたのである、ただ自分の場合は引きこもりのようになっていて知らなかったとなる

今年の4月から法律が改正されてさらに外国人が入りやすくなった
ベトナム人とネパール人が本当に多いくなった、これはいたるところにいる
田舎でも普通に見かけるようになった
ネパールは一度トレッキングで行った、どうしてあんな高い所で生活できるのか?
ボールペンもなくくれと言われる、ボールペンがないとしたら学校で学ぶこともできない筆記用具とかノートもないともなるからだ

第一あのような高い所での生活の問題は運ぶのが容易ではない、山を上らないければならないからだ、それだけで容易ではない、そして裸足で歩いている人がいたのには驚いた
というよりは靴が買えないないからだともなる
インドでもリキシャの人が裸足だった、暑いのにそうなのである
何か原始的なところがまだある世界だとなる
山の中で畑で何かの獲り入れをしている人を見たらそれが万葉時代の女性のようにも見えた、それだけ原始的なものがまだ残っている所だともなる
ネパールの暮らしは理解できなかった、それは文明的な生活と隔絶されているからでも
ベトナムだと理解できる、なぜなら田んぼがあれば稲作であり米を食べているからであるそして平地が多いからである、二毛作であり一つの場所で田植えして稲刈りをしていた
だから米の量としては日本より倍とれるとはなる
ただ日本では品種改良で良質の米をとるし収穫量も一反からでも多くなった

ネパールは本当に生活でもそうだが気候でも地理でもその土地そのものがわからなかったなぜネパールにジャングルがあるのか?そこにサイがいたしワニもいたしトラもいるという、そのジャングルを象で見て歩く
なぜヒマラヤのうよな雪に閉ざされた山があるのに熱帯のジャングルがあるのか?
私は外国旅行に慣れていなから驚きだった
ネパールの紙幣が象とかトラとかサイが描かれているのもそういうジャングルがあるからなのだ、熱帯の大きな鳥もいたのである
ネパールは旅するには魅力ある国である、原始的なものが生活に残りその自然が多様でありヒマラヤが見れるからである
ただ一回しか行ってないのでちょっとだけ垣間見たとういだけである
海外旅行は深く鑑賞はできない、言葉もわからないしただ垣間見たというだけで終わったそして何かもう二度と年で行けなくなったのである
だから何でも海外旅行でも早い時期にすべきだったとなるのだ

いづれにしろこうして外国人が入ってくることは必ずいい面と悪い面をもたらす
外国人が入ってきて不満なのは40くらいの氷河期世代である
賃金の安い外国人と競争を強いられている
外国人は若いから競争に勝てないとしている、日本語ができなくても仕事はできるものがある、そうしてグローバル化するとそうして底辺国とも競争を強いらるのである
そこでスキルもなんにもない者はさらに最底辺に落ちてゆく恐怖を訴えている
そうしたベトナムであれネパールであれ外国人は生き生きとしているという
なぜなら為替の差で親に仕送りできるし労働する意欲が違っているからだ
日本人の氷河期世代とかは自分自身のことだけで金は使われてなくなる
外国人は賃金が安くても日本で働くメリットがあるからだ

ネパール人は白人のような顔の人もいるし黒い人もいるし本当に人種が混在している
だから見分けがつかない、何か不思議なのはアメリカのサンフランシスコとかで見かけた年配の日本人の女性は見分けられた、日本人のような顔していると見たからである
だから日本人の顔はやはり日本人としての型があるともなる
でもネバールとかなると見分けがつかない、多民族国家だから見分けがつかない

ともかく何であれ女性であれ男性であれ若いということは国に関係なく価値がある
つまり若いというだけ価値がある、そのために40くらいの氷河期世代は若くなくなっているから価値が自ずと低下しているから嘆いているのである
若いという価値は世界共通でありどこの国に行っても価値があるということになる
若いということは適応力とかいろいろ優れているからである
それはどこの国とかではなく世界共通なのである

日本の問題は高齢化である、最近なぜかとなりの60代の人が見かけなくなった
体を悪くしたのか?外に出たのを見たことがないのだ
また一軒となりの子さも60代になったのか?
その人も足をひきづって歩いている、スーパーのレジで働いていたがやめている
この前土手の道であった人は64歳で脳梗塞になり一時はしゃべれなくなった
杖をついて歩いている、その同級生も病気になった      
もう一人近くの同級の人も脳梗塞で足を悪くしてひきづり歩いている
でも車で買い物に来ていた

それから危機一髪で脳梗塞から助かった同級の人がいた、一時痩せ細ったが普通に話しできる、でも無理はできないという、他にも病気の人が多い、高齢化病人社会になっている60過ぎると自分もそうだったが何かしら病気になりやすいのである
ただ70歳でロードに乗っていた人もいたからいろいろである
元気な人は元気なのだが病気の人が目立つとなる
福島県は脳卒中が多い県であり全国で7番目になる、心筋梗塞は一位なのである
そして南相馬市はさらに脳卒中が多い市なのである

こういう社会では外国人は若いから歓迎されるということはある
つまり外国人は日本人の若い人よりもやる気がある、それは賃金が安くても為替の差で仕送りもする、そういうモチベーションがあり違っているからだ
日本はこうして衰退国家になってゆくのだろうか?
なぜなら戦後焼け野原になってもその時団塊の世代が生まれた
なぜそんなときに食べ物もないのに多くの子供が育つことができたのか?

それが不思議なのである、今の経済力でも10倍くらいの差があった
家にあったのは飯台一つだったからである、それはどこでも同じである
そんなときになぜあんなに子供がいたのかという不思議である
貧しくても子供は増えるし育つともなるのか?
その時は逆に今より社会に活気があったとなる、つまり子供が多くまた若い人が多かったからである、つまり日本はその時若い国家だったからだとなる
若い人が子供が多いということはそれだけで国に活気をもたらしていたのである
貧乏でもそうなのである、そういう国ではエネルギーが満ちているともなる

neparumoney.jpg

ネパールの紙幣

現実にサイとかトラとか象がいる国なのである

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2019年05月10日

なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか? (生産共同体(会社)から排除されたため)


 なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか?

 (生産共同体(会社)から排除されたため)

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 経済という時、基本として生産と消費がなんでもある、生産する者とまたはサービスを提供するものと消費するものサービスを受ける者がいる
それは資本主義社会では明確に分かれているのである
なぜなら時代をさかのぼればのぼるほど生産と消費は分化していないからである
例えば農業している人は米でも野菜でも生産する、そして村は生産共同体だったと同時に消費する共同体でもあった
つまり自然があり米でも野菜でも生産して消費する、その時消費するというとき自然から神からいただくということで感謝する、それがその土地土地の祭りとなっていた
神社とかにはもともとそういう機能があったとなる
神社はその土地土地に根ざしたものが多いからである
そうして一つのミクロコスモスに生きていたのである

そういう社会では生産と消費は分化しない、今でも小さな畑で野菜を作っている人は生産と消費が分かれていない、しかしそのためには金がかかる、肥料やら種やら道具やら労働力やらと生産するには金もかかるし苦労が多い、だから私がそれを援助してももらったのはキュウリ二三本でありそれも一万もしたともなる
これをスーパーで買えばそんな馬鹿高いものにはならない、だからそんなことをしても無駄だとなり損するだけだとなる

ただその人にとってそれが生きがいになっている、他にも仕事があるとしても家事などしたくない、皿など洗いたくない、その人は庭で花を育てるとかそういうことに熱心なのである、そういうことが苦労があっても好きなのである
皿洗いと掃除とか家事はしたくないのである
だから今は一切していない、なぜそうした農業が生きがいになるのか?
ただの労苦ではないのか?

それは生産と消費が一体化してからである

そして生産共同体というとき生産は共同でする、その人も畑で野菜作るにもいろいろ他でも畑で野菜を作っている人がいるから聞いている
また畑をうなってもらったりしている、その時は金を払っているのである
つまり一旦生産するとなるとサービスを提供する側になると共同体が必要なのである
協調しないとできない、それでどうしても農協などがかかわるようになる
でもそんな小規模なものは金にもならない、農協を通じて売る場所がある
するとそこで農協に金を払うからもうけもなにもなくなってしまうのである
いづれにしろその畑で野菜を作ることは共同があり生産と消費が一体化している
そして現代社会は生産とサービスを提供するものと消費が分離しているのである

消費者が王様だというときもそうである
ではなぜそうなるのか?生産する者からサービスする者から一旦離れてしまうことは社会にとって消費者になる
でも消費共同体などないのである、消費は個々人でしている、だから会社を退職した人は生産共同体(会社)から離れるから社会で孤立する
会社をやめて地域で活動しろといってもそこには生産共同体としてのコミニュティがないのである

生産共同体は会社は共同して働く場だったのである、だから会社で働く人たちは共同体の一員となる、そして仲間意識をもつ、でも一旦そこから離れると仲間ではなくなる
でも農業とかしていた村ではそういうことはないのである
村の共同体の一員として死ぬまであり死んでからも先祖として生きつづけていたのであるそれが村の祭りだったのである

人間は自然から確かになんでも消費する存在である、食べ物でも自然から本質的には得ている、でもまた生産するものでもある、生産することによって自然への神への感謝が生まれ消費するというものではなく賜(たまわ)るのである
資本主義グローバル化社会になるとそういう自然の中での生産と消費の一体化は喪失して分離されるのである、その時自然とか神に感謝する祭りはなくなる
そこに媒介するのは金だけだとなる
だから会社という生産共同体から離れたらその人は消費するだけの人間となる
そうなると消費するためには金がないと存在感がなくなる
消費すれば金を払えば消費者は王様だとなり歓迎されるのである

そしてなぜ会社を退職すると社会で居場所がなくなるのか?孤立するのか?
それは生産共同体から分離されてしまうからである
地域でもし昔の村のように農業でもしていればそういうことはありえないのである
労働の疎外というときマルクスが指摘したことは今も活きている
でもその労働の疎外がどこから起きているのか?
それは生産と消費の分離から起きていたのである

とにかくなぜ一旦会社から分離させられると居場所がなくなり孤立しやすいのである
そしてもう何か社会のために労働したとしてもできない
ボランティアとか意外とめんどうでできないのである
なぜなら会社とは生産共同体として組織化して素人は立ち入れない場所だからである
なにより生産共同体になると個人ではできない、組織化して仲間でするから一旦そういう共同体から離れると消費者になるほかないからである

現代は何か本当に労働自体が疎外されている
その悲惨な例が非正規とか派遣で働いている40くらいの人たちである
夢も希望もない、家族がいない人は何の働く動機もない
ただ金だけであり日々ただ生きがいもなく時間を浪費しているだけだとなる
つまり派遣という労働は毎日ただ仕事の現場に派遣される
会社で働いているのとは違う、会社員とも違う、仕事があれば派遣されるのである
そこでは日給であり正規の会社員として定年まで働くというものではない
だから保証もないし福祉もないとなる

そして何よりそこで働いたからと言って誰かに感謝されることもないのである
家族がいたら家族に感謝される生きがいがあるかもしれないが結婚していない独身者はそういうことがない、ただ一日分の金をもらいあとは食べて寝るだけだとなる
労働する生きがいがないのである
例えば働く語源が端(はた)を楽にするというときそれは家族労働のような狭い範囲から生まれた、家族が働いて苦労しているから楽にさせたいとなるのが語源なのである
そういうとき働くということはやりがいがあるとなる
今の労働はそういうことは全くない、それもグローバル化すれば地球の裏側で働いている人のことなどまるでわからない、つまり働いている人とは関係をもていなのである
ただモノが無数に入ってくるが人とは関係しない、そこに金が媒介となるだけである
そこに結局労働の疎外が起きているのである
ただマルクスの論理はそれで共産主義になったらそうした労働の疎外がなくなるということはないかった、共産主義だってグローバルであり働くという語源のようなものはなくなっている

つまり生産共同体として生産と消費が一体化することが本来の人間の在り方でありそこに自然との融和があり人間の協調があり祭りがあった
だから人間の労働のモラルもなにもなくなったのである
働くことに生きがいが見いだせないのだ、ただ金が欲しいというだけである
それで小さな畑で野菜を作る人は生産と消費が一体化しているからそこに生きがいを見出しているのである
ただそこの矛盾は金がかえってかかるということである
その金を与える者がいなければそもそもできないのである

いづれにしろ生産と消費が分離しているのはあらゆるものがそうだと思う
例えば情報というとき今までは情報を提供する者と消費する者に分離していたのである
情報を提供する者はマスコミだった、新聞とかテレビとか主だった、雑誌でもそうであるそれで情報を提供するものが国民の世論を操作して作っていたとなっていたのである
マスコミが報道するとき必ずマスコミの意にかなったものしかとりあげないからである
ニュースにしても重大なニュースでも報道されないからだ
また個々人では報道できないからである
それがインタ−ネットでyoutubeとかなると一個人がテレビのように報道できる
それは金がかからないからできるようになったのである

それでyoutubeのLove & Freedom底辺労働者)は一つの例としてこんな人がいたのかとなりその人の立場を派遣労働の悲惨な姿を生々しく知ったのである
それは家族もいないから孤立していて労働自体にも共同性もなくただ毎日金をもらい食べて寝るだけの生活なのである
そこで生産共同体という会社にも属していないからない、派遣共同体とかにはないから孤立しているのである
何より家族がいないということが孤立感を深めているのである
それは今になると自分もそうだから同情する、共感するとなる

自分自身も若い時は底辺労働者だった、でもそれは自分にとって必要なものだったのである、何か自分は恵まれていて傲慢な所があったから底辺労働してそういう傲慢さが打ち砕かれたのである、その後も自分は労働は一切していない
旅ばかりしていた、消費しかしていないのである
鉄道の旅をしている時でもそうである、それは消費でありサービスを受ける側しか経験していない、でも資本主義社会では消費者は王様なのである
金さえ払えば鉄道会社でサービスしてくれるのである
それが一旦サービスを提供する側にまわるとボランティアでもいかにむずかしいか無人駅の問題で延々と書いてきたのである
それは自分だけではない退職したら会社という生産共同体から離れたらもう一消費者でしかありえないのである、そこに仲間もいなくなり孤立化して居場所もなくなるのである 、ただ金をもっていれば消費者は王様であり待遇してくれるとはなっているのだ
しかし消費共同体というのはないのである、だからやはり孤立しているともなる
生産共同体なら会社のように共同があるが消費するだけだったらないからである
だから会社から退職した人は一消費者となり居場所がなくなり孤立するのである


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2019年05月07日

日本の経済は産業構造を変えな限り回復しない (アベノミックスでも政治では変えられない)


日本の経済は産業構造を変えな限り回復しない

(アベノミックスでも政治では変えられない)

社会が変わる時何が起きるのか? 

人口が増加する 

産業構造(技術革新)が変わる

失業問題が起きる  

社会が大きく変わる時歴史的に何が起きたのか?
縄文時代から弥生時代になったとき何が起きたのか

人口が爆発的に増加した

稲作に寄って養う人口が爆発的に増加した、縄文時代では養う人口が限られていた
狩猟採集ではそもそもその資源は限られている、食料にする動物でも植物でも爆発的に増えないからである

社会が変わる時は産業構造が変わる、狩猟採集から稲作に産業構造が変わる
稲作と鉄の生産はセットになっていた
稲荷(いなり)とは鋳成りのことであり鉄と関係した信仰である
鉄が重要なのは鉄の道具が農耕と一体となり発展させたからである
つまり道具とは技術革新だったのである
技術革新とともに社会が変わる

そういうこと歴史であったことであり継続されていることである
縄文時代が一万年というときその間にさほど変化がない社会だったのである
次に稲作時代が2000年とかつづいた
それが明治維新で工業化の時代になって大変革になった
その時も人口が江戸時代だったら3000万くらいなのに明治から大正になり6000千万になったのである、だから明治の変革は政治的なものばかりではなく産業構造の大変化だったのである
それで6000千万となっても東京は百万くらいだった、その後に十倍になったのである人口が社会構造産業技術革新で増大する

そして社会が変るとき失業問題が起きる、なぜなら産業構造が変わるから失業問題が起きる、それは例えば戦国時代になると侍は戦場で戦い人を殺すことが仕事になる
でも戦争が終わる人殺しを商売とする侍は必要なくなる
それで大量の旗本が無用化したり浪人の大量発生になる
それが社会不安をもたらすのである
旗本の不満は命をかけて戦場で戦ったのに事務方のようなものが出世しているとなり不満だった、それで旗本はもともと力があるものがなったからその力をもてあまして狼藉を働くことを時代劇でみる、戦場では活躍できたが平和になったらできないからである
失業しなくても飼い殺しのような状態になったのである

なぜこうしうて歴史をふりかえり考察するかというと現代でも同じようなことが起きているからだ
なぜ日本は今世界から遅れをとったのか?なぜ貧困化して後進国に成り下がろうとしているのか?
そしてやはり同じように失業問題が生じている、人手不足じゃないかといわれるが大企業で電機産業で富士通であれNECであれパナソニックでも苦しいとなっている
日本が高度成長したのは電機産業に社会構造を変えたからだったからである

戦前はとにかく養蚕が主要産業だった、今でも兜作りの養蚕をした家がどこでも見られるのである、どこもかしこも養蚕なのである、そこで絹織物をアメリカに売っていた
紡績産業が主要産業だったのである、それは明治以降にそうなった
紡績産業が工業化の始まりだったのである
それで私の母親も原町の紡績工場で原紡で十年間働いたのである
そこに原町駅からの引き込み線まであった、それだけ盛んだったのである

その後産業構造は石炭産業が花形のときもあったが石油がでてきて衰退した
常磐炭鉱もなくなりそれハアイアンに仕事を変えたのである
それが一応成功したのである
つまり今何が起きているのか?
そうした産業構造の変革の時代でありそれに適応できないと国自体が衰退してゆく
日本が高度成長の原動力になった電機産業衰退したから日本が貧乏化している
そしてIT産業に日本は乗り遅れて中国がアメリカと競うトップに踊り出たとなる

社会構造が変わると必ず失業問題が起きる、アメリカ国内でもラストベルト(錆びついた地帯)とか生まれたのは自動車産業の衰退で失業者が増えたためである
それは今度は日本で起こっている

電子産業生産金額を重ねてみると、まず目立つのは2000年以後の急速な減少である。2013年の生産金額は11兆円と、ピークの26兆円の半分以下となる。GDPは「ほとんど伸びない」程度なのに、電子産業生産は「10年で半減」だ

このために大企業の電機関係で電子産業で衰退が著しくリストラされるようになった
失業問題が起きてくる、今人手不足となっいてるのは底辺層の仕事であり日本を支えた先進技術関係ではないのである
そういう先進技術関係は衰退しているのである、すると戦国時代のように侍であった身分であったものが失業して浪人化する、浪人は金持ちの商人に雇われて用心棒になったり時代劇ではなる
それと同じことが大企業をリストラされた人たちはブラックな会社に落ちてゆく
それは浪人とにているのである

そして地銀とかは半分になるとか銀行でもすでにIT 化でつぶれるとなり銀行員の失業問題がクローズアップされる、つまり必ず失業問題が社会が変わる時起きてきてそれが社会の不安定要因となる、失業者があふれるときドイツではナチスの戦争になったからである戦争によって失業者を吸収したともなるからだ
日本でも戦争が終わり引揚者が過酷な開墾に従事させられた、兵隊を失業したからである兵隊よりはいいとしても悪い土地を開墾して生活するのは容易ではないから半分はやめたのである

社会が変わるというとき変えるというときそれは政治だけでは変えられないのである
アベノミックスとかの金融政策でも変えられない、それは歴史を見ればわかる
根本的に社会構造産業を変えない限り変わらないのである
日本は明治維新以降その産業構造を変えることに成功してきたのである
でも今度はその産業構造を変えることができなかった
それで窮地に追い込まれている、ではどうしたらいいのか?
それは新しい時代の産業に変えなければ政治でいくらアベノミクスとかしても効果はないのである、ただますます格差が広がり株でもうけた人だけが恩恵をこうむったとかなっている 

リストラの意味はReーstructuringなのである、産業の再構築なのである
そこに痛みが生じるが明治以降でも侍が失業したが北海道に移民して農業で再構築したとかなる、ただこうして再構築できないときどうなるのか?
それはドイツで大量の失業者が生まれて行き場を失い戦争として兵隊となったということも起きてくる、つまり戦国時代で侍が失業したとき浪人が大量に発生してそれが社会の不安化になったのとにているのだ
失業というとき大企業の正社員であったものがそれは侍とかが庶民の仕事ができない
ブラック会社に落ちるのは嫌だとなるのとにている

いづれにしろ政治で官僚でも何か政策をアベノミックスとかしても産業構造自体を変えなければ社会は変わらない、日本人の不満も解消しないのである
それはアメリカにも言えたのである、ラストベルトを解決するのにはやはりアメリカの産業構造を変えなければ解決しない、でもアメリカ全体ではIT産業に変えたからアメリカ衰退論はないという人もいる、ただ中国にIT関係でそのシェアを奪われるとアメリカは衰退するとして危機感をもったのである


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2019年05月02日

youtubeで40才くらいの底辺労働者の切実な訴え (底辺労働者ーLove & Freedom )


youtubeで40才くらいの底辺労働者の切実な訴え

(底辺労働者ーLove & Freedom )

このyoutubeは何か今までにないものであり直接に訴えるものがあった
例えば外国人労働者問題で是非を盛んに言うがそれは政府関係者とか学者とか会社経営者とか上に立つ人が意見を言っている
でも底辺労働者の生の声をテレビでも出演させて話を聞かないのである
それが今までのメデアでありマスコミだった
この人は底辺労働者だからこそそれを訴えるから今までのものとは違っていた
そういうことはインタ−ネットであったがyoutubeになると何か感情的なものが伝わってくるから切実なものが感じ取ったのである

外国人労働者というときこの人が言っているのは30から40とかその上でも賃金が上がらなくなる、来年の4月から法律が変わり外国人が大量に入りやすくなり底辺労働者として受け入れる、その人たちにとって賃金が安いとしても為替の差でかまわないという
そして仕送りするのである
また若い人だから会社でも企業でも受け入れやすい、若い人は使い安いからだ
コンビニでも言葉ができないにしても飲み込みが早いから適応できるという
肉体労働の現場でも筋肉が違っている、ギャングなどしていたとかそういうツワモノが入ってくるから40とか以上のおっさんは建設現場では使いたくないとしている
そのことで会社で若い外国人労働者が一杯入ってきて若返ったと喜んでいる人がいたのもそういうことなのだろう
つまり若いということはそれだけ価値があるということである

その人はもうコンビニとかは外国人労働者で固められていて日本人は入っていけないという、その人たちだけの仲間でやっているから日本人は入れないという
それだけすでに外国人がコンビニでも入ってきて独占しているともなる
また雇う方でも外国人の方がいいとなっている
それはグロ−バル化の結果でもある、為替の差でどうしても日本はまだ高いから安い賃金でもかまわない、そして若いから使い安いとなっているからである
それで政府でも外国人を研修させて金を使うとか積極的になる
そうして取り残されてゆくのが日本人の40を中心にした氷河期世代だという
その世代が一番苦しいとしている,その世代は不運な世代だったとなる
ただその数が多いからやがて60過ぎたりすると生活保護になるからそれが社会の負担となる、それは自己責任だけではすまされない
社会全体の負担になるからである、ただ会社のいいようにされてきた
でもそれが社会全体で見たとき良かったのか?それが問われている

40になると結婚でもなんでもどうにもならないとかも言っているが同時にまだなんとかなるとも言っている、ただ人間は30くらいまで人生の方向が決まってしまう
一旦そうしたレールから若い内でもはずれるとはずれたまま人生の最終章まではずれたままになってしまうのだ
それは自分自身がそうだった、若い時就職もしないで結婚もしないで底辺労働者だった
そしたらこの年まで社会からはずれたアウトサイダーとして生きていたとなる
そうできたのは自分の場合はそういう家庭環境がありできたのである
今の人は別にアウトサイダーでもない、フリターがいいとかされたが実はそういう労働を上からおしつけられていたとなる、非正規だと首をきりやすいから会社にとっては便利だったのである
現代が会社社会だという時、会社の意向の方が優先されるから会社に就職もしない人は社会からはずれたものとなる

この社会からはずれるということは実際は怖いことだったのである
それができたのは団塊の世代だったら極一部である、全体からしたら10万人に1人とか百万人とか一人とかの極少数でありそんな人がいたのかとなる
それが今の40くらいになるとフリターとか非正規が膨大に増えたのである
その人たちは働かないわけではないが正規のレールからはずれたようになってしまったのである
そして行く着く先が孤独死だとかなり俺たちは捨てられるとしている
その人は友達もいないし身寄りもないとかでそうなっている
それは自分自身が経験したことである、介護とかなり病気になっても誰も頼るものがないそれよりその弱さにつけんこんで脅迫して金だけを得ようとする
相手も金に追い詰められているからそうなったのである
その過酷さがどういうものか思いしることになる
それも自分の場合はカルマだったということは言えるしそのカルマとは自己責任のことだったのである

その人はただ働かされるだけで希望もなにもないと言っている
それで希望は株とかFXでありそれで金になるのが希望だとしている
後は絶望しかないと言っている、でも何かしたかったのか?
その人はただ金が入ればいいだけだったのか?
私の場合はいろいろすることがあった、旅でもそれは学習であり芸術方面でも追及して来たし学問でも追及してきた
それもその人に言わせれば金がないのだから何もできないとしている
何も積み重ねるものスキルも身につかない仕事で絶望している
だからなんとかスキルを身につけろと今になり後悔しているが遅いともしている
つまり人間は30くらいで方向が決まってしまう
人生百年でも若い時で人生の行く方向は基本的に決まってしまうことが怖いのである
そして青春はたちまちすきで40くらいになるともうとりもどせない
方向は遂に孤独死とか決まってしまうのである

いづれにしろ

俺はなんのために生きているんだ

その問いは40くらいでかなり重いものとなる、実はそれは20代でそう真剣に問うべきものだったからだ、若き時に神を知れとういのがそうである
時間はたちまちすぎる、光陰矢の如しである
ただ人生百年時代はその成果は70からでも普通にありうる時代である
だからその成果を出すことに急ぐ必要はなくなった
何か自分でも成果を出しているのは60からだったなと見るからである
そういうことでも時代が変わっている、政治家でも70と80近いとか92で首相になっているとかそういう時代なのである
それだけ長い時間の中で成果を出す時代になったのである
だから40でもまだまだというのはわかるが限界の年齢でもある
なぜならその人が言うように資格をもっていてもキャリアがないと採用されない、実践で役に立たないとなっているからだ、資格だけではだめなのである
人間は何でも経験がものいうからそうなってしまうのである
40となるとなんらかキャリアがないものは採用されないとなるのだ
底辺労働も経験だかキャリアにならないのである

ただ人生をふりかえれば順調に正規の会社員のレールにのったとしてもそれで万全なことなどない、現実に今45くらいの人がリストラされているからだ
そしてたらその人たちはとをなるのか?その人たちももう正社員として採用されるのは極一部だとなるからだ
つまりこの世に万全に備えることができない、何が未来に起きるかわからないからであるそれでベーシックインカムになりみんなアーティストになれというのも本当に今までありえないことだったのである、そういう時代が来るかもしれないからだ

結局どういうことなのか?

人生は予測できない意外な結果で終わる

これなのである、何でこうなったのだとこの人だけではない、正規のレールを真面目に歩いてきた人たちでもそうなのである、だから底辺労働者だけがそうなっているとは限らないのである
そして今や日本人全体が底辺化している、それはだからこの人だけの問題ではなくなっているのだ、底辺化してどう日本人が生きるのかという課題がつきつけられているからだ
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2019年04月27日

固定観念を破らないと生きていけなくなる (変化に対応できない者は生きていけない?)


固定観念を破らないと生きていけなくなる

(変化に対応できない者は生きていけない?)

「こうするのが当たり前」と思っていることが実は当たり前ではない、ということはよくあります。
私たちはそれぞれに異なる過去を辿ってきました。
そうした異なる過去で身に着けた常識、それにこだわることを固定観念と呼びましょう。

人間はなぜ固定観念化するのか?

●地理
●時代
●家庭環境ー生い立ち  

基本的にはこの三つの影響が大きい、まず地理のことを再三語ってきたけど地理は一番わかりにくい、それは地図を見たってわからない、グーグルで山があるとしてその山がどれだけ深い森が延々とつづいているかなど表示できない、それは経験しないかぎりできない近くでも山は延々と森で覆われて出口もなかったのである

地理が何か一番固定観念を作り安い、だから人間は狭い場所で生活しているからその小さい世界で一つの世界観が生まれる、国単位なら日本は島国の世界観が生まれる
そして島国でも様々な地域の風土があり地勢がありそこで世界を見る
太平洋側だと海から太陽が昇るとなり山に沈むというのをいつも見ている
すると世界はそういうものだと固定観念が自然と作られる
でも日本でも日本海になると海に太陽は沈むし山から太陽が昇り山に沈む地域も多いのである、日本がには盆地が多いからである
それで旅行すると全く違った世界を地理から知るのである
固定観念がそこで破られるのである

また時代が違うとそこで経験することはまるで違ったものになる
江戸時代に生きた者と明治以降に生きたものとはまるで違った世界を生きているのである戦前を生きた者と戦後を生きたものでもそうである
だから江戸時代から明治を生きた者はその時代に適応するのに苦労する
侍は侍でなくなり威張っていられないとかいろいろ激しい変化があり戸惑うのである
何か人間の社会も70年サイクルで急激に変化する
明治維新から70年で太平洋戦争があり戦争が終わり高度成長時代に向かった
それが団塊の世代だった
そして70年過ぎてまた大きな変革の時代を迎えている
日本はおそらくそういう変革の時代に再びあるのだがそれがまだ意識されていないのだろう、でも否応なく変革は迫られてそれに適応できないものは滅びてゆくとなる

銀行なども特に地銀とかゆうちょとかなると地域に根ざしたものであり信頼されていた
それは時代がそうしたのである、確実に利子がついている時代は銀行は信頼されていた
銀行が潰れるなどありえないことだった、でもバブルとかで銀行が潰れたことがあった
銀行もつぶれるのてある
最近は銀行は半分に減るとか存亡の危機になっている
それでも地銀とかが投資信託を売りに来ておばあちゃんが一千万とか損したが
それでも銀行を信用していたということでもわかる
老人はこれまで生きてきた経験から固定観念がありそれで判断するからである
自分自身もそうだったのである、銀行は信用できるという固定観念を植え付けられていただから地銀の人が投資信託をすすめたとき信用したのである
株でも投資信託でも証券のことなど自分は知らなかった
でも銀行員を信用していたのである、それが根本的に間違いだったのである
時代が変わっていたことを知らなかった、時代は急速に変わることがあるからだ

AIとかが良く語られる時代になりベーシックインカムが空想ではなく現実問題として語られる、現実にベーシックインカムを実行した国もある
そうして人間は働かずみんな芸術家になるとか言うのも本当に理解できない
なぜなら高度成長時代は団塊の世代は企業戦士として猛烈に働いたからである
その時自分自身は働いていない、ただその時ニートなどはいない
引きこもりもいない、いたとしてもほんのわずかでありそんな人はいたこともわからないのである
でも今になるとニートとか引きこもりの数が多くなったから話題になる

働くということは別に江戸時代から明治時代から戦後でも強力な否定できない価値観だったのである、働かざる者食うべからずだったのである
大正生まれの私の母は働くことしかない、それで花とかに興味もないし一切趣味もない
働くことだけしかなかったのである、これも異常だった
そういう環境にあったということも影響した、貧乏だから趣味などもてなかったのであるだから本当に時代が変わると価値観ががらりと変わることに驚くのである

アリとキリギリスの話があるけどキリギリスは常に否定されてきた、蟻のように働いて貯えろというのが普通の常識だったのである
でもみんなAIと機械化でアーティストになるというときキリギリスになれとはいうことなのである、キリギリスになれない者は歌を歌いないとか何か趣味もないとか個性を表現できないとかできない人は価値がない、蟻はいらない、それはAIや機械がするとなるからだそういう変化にもみんなが気づいているわけではない、そうなると今までの生活全般、教育でもなんでも見直すことになるからだ
今までの固定観念から判断できないからである 

固定観念というとき家庭環境とか生い立ちも影響してくる、みんな同じようで育った環境とか生い立ちが違うから人はみんな違っている、何か自分は普通でない家庭環境で育ったから正常な家庭でないから奇妙なものとなった
家庭環境がやはりいつもそこで生活しているのだから影響が大きい
自分自身は働くことを強制されなかった、だから働かないし自由に旅行していただけだとなる、それもとがめられることもなかったのである、その結果として介護とか自分自身の病気とかで塗炭の苦しみを受けたのである
それは今のニートが40代以上とかなり親が老いて死んだりすると自分と同じような結果になる
それは想像もつかない厳しい状態に追い込まれることは眼に見えているのだ
誰もその時助けないからである、お前は遊んでいただけだからともなる
つまり人間はなにかしらなんであれカルマを積んでいない人はいないのである
その清算が60以降に必ず強いられる、逃れることができないのである
人間の生い立ちというとき家族でも兄弟でも姉妹でもまるで違った運命をたどることが普通にある
家族ですらそうなら他人になるとさらに生い立ちとか家庭環境が違うと理解しにくくなるのである

なぜなら自分の育った環境とか生い立ちが固定観念となる、異常な家族でもそれがその人にとってはそうして育ったのだから普通になる、家族とは異常でもそういうものだったと固定観念が作られるのである
固定観念はこうして強固に植え付けられるからこれから脱することは容易ではないのだ
それは例えばカルト宗教団体でもそこに入ったものはそこは異常でもそれが正常となる、その異常性に気づかないのである
そこに固定観念が強固に作られるからだ、だから外部の意見など聞かなくなる、批判すると集団的に罰当たるとか威嚇するようになるのである
科学でも固定観念を破ることは容易ではなかった、地動説から天動説を唱えたり様々な科学の発見でもそうである
それは強固に固定観念が作られているからだ、それを脱することができないからである
また固定観念を破らない限り新しい時代は生まれないし作れないのである

この辺で津波とか原発事故で起きたことでもそうである、田畑があり街があるとかそれは固定観念として変わらないものだと思っていた、それが田畑が荒地化して村や街が津波で消失するとかなるとそのあまりの変化に対応できないのである
そこで何か今まで違ったものを作れといっても簡単にはできないのである
第一田んぼにしたって千年とかの単位であったものでありそれがなくなるとういことは田舎ではイメージすらできなかったからであるそれでデザインとはザイン(在る)ものをdは否定する言葉の由来がある
デザインは今まで在るものを否定することから始まる、それは固定観念を破ることから始まるとなる
だから今までの街作りではなく新しいデザインで街でも村でも作るとなる
そうしなければ復興はない、流出した若い人も故郷に戻ってこないともなっている
それで小高のマルシェは新しいデザインで街中に憩いの場を作ったのであれは良かったなと思ったのである
それは今までにないものとして作られたからである  

めぐり 逢 ひ て   見 し や それとも   わか ぬ 間 に 雲隠れ に し   夜半 の 月かな      

月は常に満ち欠けして変化している、月は変化の象徴である
だからもともと暦は旧暦は月の変化を基に作られた、太陰歴である、外国は太陽暦である
日本文化の特徴として四季でも変化がはっきりしている、季節の変化が激しいのである
この歌は人間の出会いも次々に変わることを示唆している
自分自身の経験でもそうだった、家族がみんな死んで次々に人間関係も変わったからである
親戚関係は全部切れた、この世の人のめぐり会いもめまぐるしく変わるのである
無常の世界なのである、この辺では津波原発事故で信じられない無常を経験したのである

最近は特に暑くなったり寒くなったりする、今日はもう夏になるのに寒いのである
日本人は本質的に風土的に変化に適応しやすいのかもしれない、それはこうした気候の変化でも激しい風土から生まれているのかとなる
一方で北極星とかは不動であり変化しないもの定点にあり位置を知るのに信仰までになった
妙見信仰がそうである、この世は変化するものがありまた変化しないものも求めている
変化しないものにも価値がある、AI化でも見直されるのはかえって人間的なもの情的なものや人間の感性だとかなるとそれはもともと人間にあったものでありそれが見直されるとういこともある、ただかえってそうしてもともと人間にあったものが見直されるのでありすべてが変わるということでもないのである 





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2019年04月25日

人間が一番のコスト (機械化、AI化は必然的に起きたー「一人で会社を経営しろ」もわかる)


人間が一番のコスト

(機械化、AI化は必然的に起きたー「一人で会社を経営しろ」もわかる)

人を雇うことは雇われる人より雇う人の方が大変なのである
そのことを雇われる人は理解していない
ただ雇われる人は不満だけなのである
これくらいの金でやっていられねえよとかだけなる
例えば家で手伝ってもらうにしても何もしたくない
そこに主がいるとしても家族でもないし夫でもないし働くのはただ金のためだの動機しかないのである、それは江戸時代とか身分制社会なら主人に仕えるということがモラルとしてある、そういう社会では主人に仕えることは金のためだけではない
一つの共同体を維持するとかあったとなる
それが現代では全くないのである、金しか働く動機がないのである

すると手伝いに来る人はどうなるのか? 

金しか動機がないから主人でも物色して金がないかと探して現実に金が盗まれたとなる
極端化すればその家に来る動機が金しかないとしたら当然そうなるのである
そういう人を雇うことは危険極まりないとなる
だから雇わない方がいいとなるのだ

皿洗いにしても    

●家族のためにやる

●しかたないからやる

●金になるからやる

家族のためにやるというときそこに動機がある、一人暮らしだと汚れたままにしていられないからしかたがないからやるとなる
外部の人にしてもらうとその人はそもそも動機が金しかないのである
そこに危険が生まれる
だからしかたがないとか他者に手伝ってもらうと危険とかなり一番いいのは機械化なのである、皿洗いの自動化であり家事の機械化自動化がすすめられる
他人の家で働く動機が金しかないとなるとそれは危険だからである

最近出た本で「会社は一人で経営しろ」というのが拾い読みしたが面白いようだ
人を雇うことがコストになりそれが搾取になるというとき一人でした方がいいとなる
そのためには外注とか機械化とかAIに頼るとなる
人間を雇うということは一番コストだからである
それで外国人労働者でも安くこき使うことができなくなるのは当然である
福祉とか給料でも日本人並みにしなければもう働かないとなる、日本には来ないとなる

働くということは何か動機が必要なのである
端(はた)を楽にするがはたらくだというときそれは身近な家族でも苦しんで働いているから楽にしてやりたいと自然と湧きあがるものがありそれが動機になっていたのである
介護だってやはり他人になれば介護施設でも働く動機が金だけになりどうしても家族のようにはできない、むしろ金持ちに使われるのが嫌だとなる

機械化AI化すると何かいろいろな分野で一人でできる社会になるのかもしれない
インタ−ネットを利用すればすでに一人で雑誌でも出せるとかなる
現実に自分のしていることでもそうである、一人で多様なことを書いているから小雑誌になっている、それは一人でできるのである、これを本にしていたり販売したりになると出版社が必要になる、なんらか雇う人が必要になるからだ
ところがインタ−ネットだったら即座に送信できるから販売がなくなる
ただ誤字とか脱字がありこれは自分でもわかっているのだがなかなかできない
それも相当手間になるからだ

「一人で会社を経営しろ」というときそういう社会になりつつあるからだろう
機械化AI化するとそうなる、インタ−ネット上で即座に書いて送信していること自体そうである
ただ雇うにしてもその人に金だけの動機ではないものがあれば雇ってもいいのである
でも誰も皿洗いなどしたくない、それは自分自身でもそうだし家族でもそうである
でもどうしても家事はしなければならないからしかたなくしているとなる
その人は今は何もしていない、ただ一週間に一二度見回りして畑のことを話すだけであるその人は畑はいろいろ不満を言ってもしたいのである
畑をやりたいという動機がある、農業が好きであり生きがいにもなる
でも皿洗いとか他人の家事などしたくないのである
でも畑にしてもそれに金を払ってもキュウリ二三本で一万とかなる
ほとんどとれていないからである
だからその人は金の援助がなければ畑もできないのである
しかしその人のしたいことは畑での仕事なのである

これからの社会はベーシックインカムとかなればしたくないことはしない
自分のしたいことをする、そしてしたくないことは機械にAIにさせるとなる社会になるから一人で会社を経営しろということも現実化している
大勢でなくても一人でする方が効率的だとなるからそうなる
雇われる人の問題は動機がないことなのだ、ただ金しかない、そして金の不満だけになるもし動機があれば別なのである、自分にしてもプログでもこんなに書いているのはそこに生きがいとなり無料でも働く動機があるからだとなる
自分の個性を出せる仕事だからやるとなる
実際自分にしても金くれるから仕事しろとしてもしたくない、動機がなかったらしたくないからである
だから金のためにだけ働く人間は雇いたくない、それ自体が問題なのである
でもまた金のために働いている人が多すぎるのである、そこに俺は社畜なんだよなとかいう人が多いという時、そういう人を雇う方もただ搾取されているとか見られるだけになるから嫌になる、それなら一人で会社を経営できるならその方がいいとなってしまうのである

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2019年04月16日

貧困化する日本の実態 (外国人観光客より貧乏な日本人)


貧困化する日本の実態

(外国人観光客より貧乏な日本人)

【貧乏・貧困・格差社会の日本】半額弁当や半額惣菜に群がる人たち…


閉店まぎわの半額弁当を半額惣菜に群がる、外国人観光客がデパチカで高い弁当を買っている、半額弁当の取り合い争奪戦になっているという
それは戦後の配給とにているという、アフリカなどで援助物資を奪い合っているという

貧乏のこと今いろいろ言うけどこれは何か生々しい、そんなに日本人が貧乏になっているのか?それがショックである
田舎のスーパーではそういう光景を見かけない、とすると都会の方が数が多いから貧乏人も多いのかとなる
これはもうすでに日本は逆に東南アジアとか中国人の貧乏人のレベルとなったのか?
そういう光景である、外国人観光客を優遇して金を使わせる
それはかつて日本人がそうだった、日本人がパリとかでもブランド品を買い漁っていたのである、その時日本の円高で安く買うことができて海外旅行ブームになったのである
その逆の現象が起きている

これも国レベルのカルマ現象なのかと思う
後進国で貧乏な国で日本人が威張っていたからである
今度は逆に外国人様様になり観光客を優先して地元の人はないがしろにされる
テレビで外国人と旅館のおばちゃんが抱きあっているというのもそうである
日本人が観光客として来ないからそうなっている
貧乏な国は前は外国でもそうだったからでありその時日本人は威張っていたからである

ただそれだってたかだか20年前くらいは日本人の海外旅行ブームだった
でも中国でもそうだが10年過ぎると世の中は急速に変わるということに驚く
あるyoutubeでは外国人労働者を正規の労働者として受け入れることに積極的なので日本人の底辺労働者が追い詰められているともい、それはなぜかというと外国人労働者は若いからである、その若さが会社でも活気を与えるからだという
日本人は中高年が多すぎるからそうなっているという、それもわかる
やはり若いということは価値があり社会にとって活力を与えるのである

なぜ高度成長時代が生れたのか?
戦後の焼け野原から団塊の世代のベビーブームになった、その時子供が膨大に増えたのである、だから良くそんなとき食べ物がないのに子供を育てることができたと感心する
その団塊の世代が労働力となり高度成長時代が生まれたのである
中卒の金の卵とかが東京に行き労働力となったのである
何かその時はふりかえると日本が活力があった時代だったとなる

その団塊の世代ももう70以上になり高齢化して今度は逆に負担になり重荷となり経済でも成長はない、少子高齢化で日本経済は縮小してゆく
そういう貧乏な時代になってきた
それは私の一身上でも経験している、事業に失敗した人が追い詰められた借金を要求してくる、それも自分も病気であり介護でもそんなことをかまっていられない
また手伝いに来た人に大金を盗まれるとか困窮した人が金を貸してくれとくる
その人は必ずガス水道電気がとめられてどうにもならないと泣きついてくるのである
ただ金額が少ないから工面できる

事業に失敗した人は俺は億の財産があると言っていたからそんな人とどうして事業家でもない自分が都合できるのか?借りる金が千万とかまで普通になる
そんな人と付き合えるのかとなる
その人は成功しているとかレベルの高い生活をしてきた、それを落とすことができないのである、それはこれまで高度成長とかバブルを経験した人にも言える
今までの生活のレベル落とせないのである
でもそれを借金で継続していたらどうなるのか?他者にも多大な迷惑をかけることになる
だから貧困化する時代にはそれなりに生き方を変えなければならなくなる
それは日本全体でそうなるからだ、銀行だって金を貸す会社がないとかなり投資信託とかそうした株と投資信託には素人でしかないのに手数料がとれるのですすめる
それも結局日本全体の経済が落ち込んでいて銀行でもどこでも利子をつけられないからである、だから逆に客から貯金している人から利子を与える代わりに投資信託とかで手数料商売にしているのである
日本経済全体の落ち込み衰退の結果なのである

だからこれから生活を根本的に変えねばならない時代に突入したのではないか?
消費が進められても消費税が10パーセントになったら貧困化しているのに消費できるわけがないからだ
すると庶民の防衛策としては消費しない、節約する他ないとなるのである
それは資本主義社会では経済成長をとめるものだとしてもそうならざるをえない
投資など普通の人はもうからない仕組みになっているからだ
するとその対抗策は節約しかないとなる

貧乏という時、本当の貧乏を戦後生まれの人は知らない、また江戸時代の貧乏がどれほど過酷だったかもしらない、もちろん飢えることがどういうことかも知らない
だからそういう時代と比べればまだましだとも考えることができる
それは時代的に合わないとしてもやはりここでも歴史を参考にすることはできる

(徒(かち)町百首俗解に描かれた徒町弥田之進の短歌)
                                                            
徒の町土塀南瓜の霜がれて赤椀する時は来にけり

赤椀をふすともしらで家中人こたつをやたらほりばたの庵(いお)
                            
これもどん底の貧乏である、赤椀をふせるとは炭が買えないから赤椀をふせて炭火の感じをだしていた、炭も変えなかったのか、会津のような寒い場所で炭も買えなかった
そしたらそんな寒い所でどうして過ごせるのかと今なら思う
炭は別に子供の時団塊の世代では使っていたのである
炭だと炬燵でもあたためられるからましだとなる

今になるとこれは貧乏な人がガスとか電気水道をとめられることなのである
なぜならそうなるともう生活できないからである
たいがいそこまで追い詰められてくる
いづれにしろ貧乏な時代をどう生き抜くのか?それが日本人の課題になってきている
でもそれがむずかしいのは高度成長とかバブルとか贅沢を経験しているから生活レベルを落とすことがむずかしいからである
だからどうしても借金することになりそこで追い詰められる
でもそんなことをしていたら首を自ら絞めることになる
では貧乏にどう対処するばいいのか?庶民には節約しかない、ぎりぎりに節約する他なくなってくる、それもむずかしいにしても追い詰められればどうにもならなくなる
ともかく日本が豊かだっか時代の感覚ではもう生活できないことを自覚するべきである

そしてこうして日本人が貧困化する時、それは必ずまだ余裕がある金持ちでも影響する
それが自分自身が体験した、治安は悪くなるしそうした追い詰められた人が多くなれば決して金持ちでも安閑としてはいられない、社会自体が余裕のない不安な暴動寸前のような状態になり金持ちが現実に襲われて殺されたりもする
そういうことが革命にもつながっていたからである
だから日本の貧困化でもそれは一部だけの問題ではない、日本が全般で深刻なものとなってゆくから怖いのである

ただ奇妙なのは老人は節約しやすい、何か贅沢しなければ食べていればいいと考えればたいして金はかからない
でも海外旅行だとかまた何か金をかかることをするとそうはならない
でも何か老人はあまり金を使わない、何か新しい機械を買っても道具を買っても使いこなせないとかある
その点では有利である、使うとしたら医療費用とか介護費用なのである
その他は使わない、だから節約というとき老人はできるかもしれないが若い人はいろいろ自分に投資するから苦しいとなるし
また日本自体の活力が衰えるともなる


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2019年04月11日

人を雇うほどやっかいなことはない―人手不足はなぜ起きる (奴隷のしつけ方(本)を読む)


人を雇うほどやっかいなことはない―人手不足はなぜ起きる

(奴隷のしつけ方(本)を読む)


コンビニでも人手不足で24時間営業ができなくなるとか曲がり角に来ているとかなる
24時間影響でないと仕入れを夜にして早朝に品物を出せなくなるとかある
それより人手不足が深刻のためもう維持できないとなっている
都会では外国人労働者が多くなる

そもそもなぜ人手不足が起きるのか?
少子高齢化とかいろいろあるにしても現代では労働したくないのである
人間はもともと労働をしたくないというのがある
労働は重荷になるからである

だからこそ機械化自動化することに経営者は熱心になる、また誰でも機械化して家事ですら楽にしたいということで機械化したのである
人間の楽園はエデンの園では労働はしていない、そこには果物でもふんだんに実り労働する必要はなかった、アダムが罪を犯してエデンの園から追放されて労働させられるようになったのである、労働は呪いであり神からの刑罰だったとなる

私自身も労働を嫌悪した、それは底辺で流れ作業のようなことばかりしていたからであるそれはまさにロボットにされることだったのである
そこに人間の尊厳は丸ごと奪われこる、機械と同じにされる、ならば機械化して人間はいらないとなるのは当然である
それ以後私は一切仕事はしていないのである

コンビニに働く人がいないのはなぜか?
そこで働く人に敬意をもつ必要があるとか言っていたがまず今働く人に敬意をもっているのは医者とか科学者とか技術者とかくらいだろう、弁護士などもそうなる
後は底辺の労働者にまず敬意を持つ人はゼロだろう
そこには敬意どころか感謝すらないのである、感謝されるのは買う方だとなっているからだ

駅で道案内とか何か案内してありがとうと言われる、その時すら感謝しているがコンビニとかスーパーで働く人に感謝している人など皆無である、ただ文句と不満しかないのである、だからそういうところで誰も自主的に働いているわけではない、しかたなく金のために働いている、それはみんなそうである
つまり現代はあからさまな奴隷はいない、金銭の奴隷化されたのが現代である

人手不足というけど別に元気な老人が膨大にいるしその人たちはパークゴルフとかして働かない、ニートもいてその数も60万とかいる
つまり現代は働かないで暮らせる人が膨大なのである、何千万人といるのである
それだけの余裕があるからそうなっている

人間というのは本当に歴史をふりかえると過去には奴隷がいて過酷だったとかなる
でも現代でも資本主義社会で巧妙にかえって過酷な奴隷にされているということがある
それはあからさまに奴隷ではないからそう自覚しないだけである
「奴隷のしつけ方」−マルクス、シドニウス、ファルクス・・は面白い本である
ローマの奴隷となると過酷な本当に奴隷のように思っていたがそうではなかった
奴隷も人間だから人間的に扱うようになる、そうしなければ奴隷を働かせることはできないと書いている

不思議なのはかえって人間的なものがそこにあった
奴隷は奴隷ではない人間であり主人でも奴隷のように仕えるのでは人間として仕える
そして忠誠を誓い主人のために命までささげた奴隷もいたのである
それは家族のような紐帯が一緒に暮らしているから自ずと生まれていたのである
人間はどんなことしたって家畜ではない、家畜のようにはできない、必ず人間的情が生まれる、奴隷は家の中で働くから余計にそうなるのである
家族の一員のようになってしまう、現実に奴隷でも家族と一緒に食卓を囲み食事していたことがあった、奴隷というと鎖縛られて家畜のように扱われたように見ていたが違っていたのである

現代の方がむしろ非情な奴隷化システムが構築されている、そこには人間の情が親愛の情が通わない、ロボットのようにまさに工場では流れ作業をさせられているのだ
後進国だと余計にそうさせられる、子供まで安い賃金で働かせられる
だから時代が進んでも文明化されても人間が幸福になるということはなかったのである
誰もが今働きたくないというとき労働する者に敬意をはらわないというときローマの奴隷以下にされているのが現代なのである

そして決して人間は奴隷のように働かすことは不可能である
だからこそ外国人労働者でも自国並みの待遇をしなければもう日本には来ないとなる
それでそういう法律もできる、いかに人間を働かすことはやっかいなことかである
とても機械のようにロボットのように働かすことはできない、だから奴隷というがそれは今よりましだったともこの本を読んで思った

正直それを自分自身が嫌というほど経験した、もう根も尽き果てるほどになる
雇う方が重荷になるのである、それでまた機械化ロボット化が雇う側にするとそうする事情がある、人間を雇うということはどれだけ負担になるのか?
そうなら機械化ロボット化自動化ですまそうとするのは必然なのである
だからコンビニでもどこでも自動化する、駅でも無人化するのである
そのコストは金銭面だけではない、様々なことで負担になるからである
そして自らの自主的な意志で働く人はまれである
それからどこでも働いてる人に敬意などもたない、むしろサービスがたりないたりないと文句と不満しかないからである
それでベーシックインカムでも現代に堂々と言われ実行さえされている
でもこれも失敗になっている、働かなくてもいい社会である
なぜならみんな働きたくないからそうなる

ではベーシックインカムになったらみんな働かないかというとそうではない
私の家にきて働いた人は今は何もしない、皿洗いもなにもしない、ただ三日に一度くらい話にきて金をせびるだけだとなる、でもその人は小さな畑でたいして野菜もとれないがその仕事だけは文句言いながらしたいのである
それでもそこには種だと肥料だ道具だと金がかかるがそれも払っている、それでもらったのはキュウリ二三本だったのである、だから一本一万以上のキュウリになっていたのである

いづれにしろ人間は金のために働く人は奴隷である、ソローも「森の生活」でそう言っていた、もちろんベーシックインカムなども実現不可能なことはわかる
でもそれが公然と言われすでに実行されたのはやはり現代のシステムはローマ時代より過酷な奴隷労働化されているからである
ローマの方が主人との親愛の情が生まれ主人のために命まで捨てた人もいたのである
それは武士社会でも主従関係が生まれてそういうことがあったのとにている
そこにはどうしても家族のように一緒に暮らすからそういうことが自ずと人間だからこそ生まれたのである

今はただ人間と人間の関係は金しかなくなったのである
そこに一切人間的情を省かれた社会なのである、だから索漠とした社会である
もちろんローマの奴隷でも召使でも奴隷でも常に盗まれるとかがあったから今と同じである、でも何かそれでも家族内労働となると人間的な情愛が生まれる
現代の問題は情が喪失した省かれた非情化した世の中である
そしてすべてが金に換算されるだけで一切人間の情は通わない世の中なのである
だからまず家の中に入る人はローマの奴隷ように危険である
まず金しかもらうということしかない、だから後は盗めばいいとなってしまうからであるローマでもそのことで苦労していたけど反面家族のようになった人もかなりいたということである

つくづく人間の進歩とはなんなのだろうと思う
ローマの奴隷とかなると映画とかで見ると非人間的な社会だと見ていた
実際はむしろ現代社会より情的であり人間的であったともなる
現代の方が非人間的であるとすると自由社会でありながら巧妙に資本主義のシステムのなかで奴隷化されている、どうせ社畜なんだよなと常に言うのもそうである
会社員でも奴隷だと意識しているわけである 

だから元気な老人でもニートでもなんでも金さえあれば働きたくないのである
そして当然そうなれば働くことを強いられなければ働かないとなる
それも責められるにしても自分のように別に働かなくてもいいなら働かない
駅でボランティアしているのは別に働いているわけではない
そこで人と話したりその合間に困った人がいたら案内しているだけだとなる
別に雇われているわけでもない、だから雇う人は何の負担にもならないのである
私は何もしない人でも金を払っているのとは違うのである



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2019年04月05日

食堂・レストランはどこがいいのか? (価値=場所+料理+サービス)


食堂・レストランはどこがいいのか?

(価値=場所+料理+サービス) 

食堂というとき食べるだけではない、その他の付加価値が影響する
何か私は狭い食堂が嫌なのである、狭苦しいと嫌なのである
だからそもそも私は都会には行きたくなくなった
ごちゃごちゃしているから嫌になったのである
人ごみも嫌になった、前からそういう性格があった
でも若い時は都会に行くことを苦痛とはならなかった
それが今は何か人ごみとか狭苦しい場所とかに行きたくない

そうなると食堂でもまず場所だとなる、場所と関係してその食堂内の雰囲気も問題になるもちろん味も問題になる
味が一番の問題なのだがその味にしても一人暮らし用になっていない
一人暮らしで気づいたことは定番の料理はあきる
でもみんないつも同じ定番の料理なのである、エビフライとかハンバーグとかサシミ定食とか決まっているのである
そこで一人暮らしに向いているのは惣菜などを個別に売って自由にとれるものである
それで自分なりの組み合わせの料理が味わえるのがいいのである

そういうの都会にある、都会にはいろいろ需要がありサービスも生れる
でも田舎だと外食でも限られている、それも定番のものが多いからあきるのである
そこが最大の問題なのである
そこで東京では日替わりで違ったカレーを出している店が繁盛しているのもわかる

一人暮らしにとって料理はめんどうになる、だからどうしても外食が多くなるのが
それがいつも定番だから飽きるのである
ただそもそも安いのだからぜいたくは言えないのである

それで深野のユッサでは最近食堂を新しくした、そこは惣菜を小皿で150円でだしていいる、するとそれを選んで自分好みにできる、そういう食堂は都会にある
つまり需要があるからそれに応じてサービスが生まれる
田舎ではそもそも需要がないからそういうサービスが生まれにくい
一時仮設食堂であつみ食堂でそういうバイキング方式の食堂をしていた
それも客が以外と入らずにやめたのである
それはなぜか?そういう方式でも受けなかったとなるのか?
それより一人暮らしに野菜がとれるので良かったのだがそもそも一万の町では需要がなかったのである
でも都会だったら一人暮らしの老人が多いから老人用の食堂までできている
それが田舎ではできないためだと思った

つまり何か商売するのにも需要がないと成り立たないのである
また需要を見ないと商売は成り立たない
そして価値=場所+料理+サービスなのである
私はだから高見食堂に行ったけどそこは料理がいいにしても狭苦しいのである
まずカウンターにしか座れないのである、そこも狭いのである
そういう場所だと悠々と食事できないともなる
それで高見ホテルの食堂は広いしコーヒーも無料なのと味噌汁がいいものを出していてうまいのである、ただあそこも定番になるからあきる
日替わりの魚定食があればいいがホッケしかでてこない
でも大きなものだからあそこは得である、あとはいいにしても飽きる
たとえうまくても高くても同じだとあきるのである
これが食堂とかレストランの一番の問題だった

とにかく一人暮らしだと果物は簡単に用意できるが野菜を食べるのがむずかしいのだ
だから小皿で安く野菜とか惣菜を食べられるのがいいのである
ただそれをしているのは深野のユッサだけである
そこは場所がいいとしても自転車だと遠くなるから簡単には行けないのである
そういうふうに何かすべて満たされるものはこの世にないとなる




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2019年02月28日

禍福は糾える縄の如し 万事塞翁が馬 (人間は未来が予測できない―不幸が幸福になり幸福が不幸になる)


禍福は糾える縄の如し 万事塞翁が馬

(人間は未来が予測できない―不幸が幸福になり幸福が不幸になる)


鹿児島の硫黄島に漁獲量の豊富な地区とそう多くない地区があって、漁獲量の多い地区がかえって過疎化した
その地区子供の教育に金をかけることができるので、子供は進学のために島をでて、都会で就職して帰ってこなくなった
一方教育に金をかけることができなかった地区は子供が漁業を継いで過疎化に歯止がかかった (文化の時代の経済学入門)

これは何を示唆ししているのか?
漁獲量が多い地区は金が入った、だから子供の教育に金をかけることができた
それは悪いことではない、いいことだったのである
それが島という狭い土地を離れさせる原因になったのである
どうしても島に住みたくないとなったのである
それは教育を受けさせた結果だとなった、ここには島の事情があるから一般的に適用はできないだろう

でもこれは何を意味しているのか?
人間は良かれと思ったことでもそれが必ずいい結果を生むとは限らないことである
人間の幸福はまた計れないことである、だから江戸時代と今の時代と比べて江戸時代の人が不幸だったとはならない、幸不幸は計れないからである
そういう時代を生きることはまたその時代を生きない限りわからないのである

人間はこれが幸福につながると思ってもそれが不幸なになったり不幸と思っていたことが幸福につながったりする
何かたりないものがあると思ってもそのたりないことが幸福につながることもある
日本がは資源がないから教育に力を入れて先進国になったとかそれぞれの国でもすべてを満たされた国はないからである
郷土料理は金をかけたものではない、その土地でとれたものを工夫して利用したものでありそれは金かけた材料で作るものではない、だからこそそれが今になると貴重なものになっている

原発事故でもわかったようにそれはこの土地にとっていいものだったのである
それは富をもたらしたのである、そのいいものが事故になり住むことすらできなくなっただから未来は予測できないものとしてある
それがいいことだと思っても悪いことに転化する
それは社会にとってもそうであり個々人でもはそうである
硫黄島の場合はそこに何ら悪いと思えるものを予測しえないものでもそうだったのである子供にいい教育をさせることにどこも悪いとはならない
それですら思わぬ結果になったのである、それは未来を予測する能力が人間にないからだとなる

そういうことは人生でも組織でも団体でも国家レベルでもある
いいと思うことが悪い結果を生み悪いと思うことがいいことを生む
戦争に負けて300百万人も死んだことは最悪だった
でも不思議なのことは戦争の結果として日本は高度成長を遂げたのである
それは既得権益者が一掃されて新しい国造りができたからだともされる
そしてその時なぜ食料もないのにベビーブームになり団塊の世代が生まれた
その人たちが労働力となり日本は経済成長を遂げたのである
これも予測し得ないことだったのである
つまり人間には個人でも社会でも予測し得ないものがあり思わぬ結果になる
そういう運命を握っているのは誰なのか?それは神なのかもしれないとなる
それでfortuneとは運命でありまた財産にもなっている
富も財も努力が必要でも運の力も大きいということである
でもその運がまたどういうふうに作用して幸福をもたらすのか不幸をもたらすのかもわからないのである

個々人でも技術関係で理系で優秀な人がいてもそれが経営者になったときまるで実際は違った分野であり失敗したという人も多い、あることで優秀でも人間すべてに優秀ではないからだ、だから優秀だと言っても一部のことであり神のように万能にはならないのである万能でないからこそ人間は原発事故であれなんであれ必ず躓く失敗する運命にある
また成功してもまたそれが永続したりもしない、成功したために失敗につながることもある
つまり人間の未来は予測できない、未来を握っているのは神にもなるからだ

だから硫黄島のことなど本当にそうである、どこも悪いことではないのにいい結果をその土地の者には家族にでももたらさなかったのである
そういうことはこの世にいろいろあるからこの諺が生まれたのである
だから悪いと思える所にいいことがあり見出す努力すればある
いいと思うところも原発事故のように悪い結果をうむのである
だから人間の未来は予測できない、だから悪いことがあったとしてもいいことに通じるということもあるのだからそういう志向が大事になる
そしていいことと思ったことでも悪いことに通じるということを知るべきだとなる
そこに謙虚さが必要だとなる、いいと思うことは才能でも奢りになりそれが失敗に通じているのが常だからである、それは一つの法則のようなものなのである
だから別にむずかしい学問でないにしろ庶民の間で諺が残された
それが今日でも生きているのは人間個々人でも社会でもそもそも人間は変わらないからである

人生が終わりになっている、老人に聞いてみるといい

意外な結果に終わったな  こんなはずじゃなかった

こうなっているのである、いくら努力したとしてもそれがいい結果になるとは限らないし思わぬ幸運も不運もあるからである
これこそ未来は予測できないからこうなっているのである
人間個々人でも人生でも思うようにはならないのである、それはたとえどんなに恵まれていたとても最後はわからないからだ
必ず思わぬことが起こりみまわれてそうなっているのである



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2019年02月27日

経済原理だけのグロール経済社会の限界 (環境保全とか景観の視点と価値観の転換の時代ー文化経済学へ


経済原理だけのグロール経済社会の限界

(環境保全とか景観の視点と価値観の転換の時代ー文化経済学へ)

●戦後経済の見直し作業

原発事故は様々な現代社会の矛盾を具体的なものとしてつきつけたのである
それを追求してきた、大きな時代の変革の時にこういうことが起きてくる
それは明治維新とか戦争に敗北したとかで起きてきた
そういう時代に突入しているのが現代である、それは世界的な現象でもある
この世界に適応されたのは経済原理だけである
要するにグロ−バルに金で価値を計る社会である
あらゆる価値を金で計算する、それは国境を越えてもそうである
そこで国すら越えてグローバルな多国籍企業が世界を牛耳る時代になった
そこにあるのは経済原理しかない、金ですべての価値を計るのである

そこで問題が起きる、巨大企業が進出して環境も破壊される
それはこの辺の原発事故でも起きた、自然環境が放射性物質で汚染されて住めなくなった未だに松川浦で潮干狩りができない、それは観光の打撃となっている
アサリが汚染されたからだ
でもそういうことがなぜ起きたのか?そのことを延々とプログで追求してきた
それは現代社会のグローバル経済の矛盾でもあった

そこには一つの価値観しかない、経済原理だけなのである
国家だとGDPが増えればいいとか個人レベルだと金になればいいとかしかない
数量的価値観と金ですべてを計る価値観である
そこで原発を作った国家でも東電でもそれにかかわる人たちも地元民も金さえやれば納得する、それよりそうして地方を活性化させるためる地元民が積極的に誘致させたのだとまでなる、頼まれて原発を作ってやったのだとなっていたのである

でもあらゆるもの経済原理で金で価値は計れないのである、つまり人間の価値はあまりにも多様だからである
私はワインなど飲まない、飲まないということはそれに価値を置いていないということである、でも金持ちでなくても日本でもワインを飲む習慣が生まれている
ある人にとってそれは価値がないがそれを楽しめる人は価値があるとなる
  
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この表はわかりやすい、価値観が対象的にしているからである
赤丸で囲んだ価値への転換なのである、これは自分も特にそうだがそういう社会状況になったからみんながそういう価値観を求めれば自ずとそうなってゆく、もちろん金だけの価値観を克服することは容易ではない
ただ変革の時代にはそういうことも総体的に起きてくる

 ホスピタリティとか気遣うと情とか場所の価値とか倫理主体とか計算不能の価値観である、つまりすべてを金で計算できない価値の社会なのである
等価交換ではない、不等価交換である、実際時と場合により価値は変わる、価値は多様だから一定しないのである、だから時給いくらとかで労働力を計算するのは非人間的なのである、つまり現代から奴隷がなくなったようで巧妙に資本の論理で奴隷労働化されているのである、それで今仕事をしたくないというときそこに生きがいを見いだせないからである
お前の労働は時給いくらだ、それがすべての価値観となっているからである

●価値は多様であり一定ではない

例えば旅行でも豪華な列車で金持ちでも多額な金を払って一回限りの旅をする
また高級バスで何十万を払い超贅沢な旅をすることが話題になる
私は旅ばかりしたけどそういう旅をうらやましいとも思わない、ワインを飲めなくてもそれで不幸だともなんとも思わない
旅だとむしろ歩くなり自転車なりの時間をかけた旅の方が旅という経験をしているからだそんな豪華な旅はもう旅でも何でもないのである
確かに金のある老人の楽しみだとはなるがそれが旅とは言えないのである
つまり旅を経験していないのである

あらゆる価値はいくら金を出しても手に入れることはできない
例えば読書などがそうである、高い本でもいくら買えるとしてもそれを鑑賞することは相当な知的レベルを要求されるしそれを自分のものとして読むことは容易ではない
ただ私はやっとこの年になって鑑賞できるようになったことでもわかる
だから自分なりに本を読んでその解説ができる
するとその時こそ本当に読書しているとなっているからだ     
若い人はこれはできない、経験とかがものいうからである
また老人のように精神的に成熟しないからである

とにかくあらゆるものを金で手に入れることはできない、老人になるともう体力もないから登山もできないとか無理なことができなくなる、それはいくら金をだしても体力がもどらないのだからできないのである
若者だったら金がなくても別に野宿しても旅はできる
だから野宿して旅ししている人と豪華な贅沢三昧の旅をしている老人をとどっちが旅をしているかとなると若者の方だとなってしまうのである
それは老人がいくら金を積んでもそういう旅ができないからである

経済原理だけで金だけすべてを計る社会はもう限界にきた、貧乏な時代は豊かになりたいというのはわかる、でもそれもある程度満たされると人は価値観が変わるのである
それは今や社会全体に及んでいる
金でなんでも手に入れることはできないということがわかりつつある
老人ならそのことを何もむずかしい本を読まなくても経験から知っているのである

●農業漁業林業は生態系維持環境保全としての価値がある

だから価値というのは様々でありすべてを金だけで経済原理だけで計ることは人間を不幸にする、それがこの辺が原発事故で起きたことなのである
農業とか漁業でも林業でも第一次産業は金にならないとして誰も跡を継がないとかもう放置されるような状態になったときとうなったのか?
原発でも金になればいいとなった、結果として水すら飲めないとか空気すら吸いないとまでなって住めなくなった、これほど最悪なことはなかったのである
土も利用できないから田畑も利用できないとかなる、すると地元で食べるものすら得られないとなったからだ

価値観の転換として農業というのをただ食料生産の面から見るという視点より環境保護のために必要だということも価値観の変換である
環境保全の役割を農業はになっいていた、それは水の利用とか自然と密接につながりそうなっていた、それが自然環境の保全の役割を果たしていてその結果として農村の景観が作られていたのである
そういう景観と自然環境でも農業をただ経済原則だけからみたら金にならないとしてみんな誰もやらない、放置される、そして耕作放棄地が全国に膨大に増えて景観も破壊されるのである
そこには今度はソーラーパネルだらけになったり風力発電の風車が森の中や山にもできるそして景観は破壊されるのである
それはそもそも第一次産業を金にならないという経済原理からしか見ていないからある
でも実際生活するにはそうなるからやっていられないというのはわかる
でもみんながそうではない、経済原理だけからしか見ない価値観を変換させればまた違ってくる

東京のようなビルの谷間で人口が異常に集中して暮らすのが人間の生活なのかという疑問も都会から起きている
つまり景観とか環境保全があって人間は幸福に暮らせるという意識が高まると価値観が変わるとみんな金だけではない、経済原理だけではない価値観の変化が起きるとやはり社会は変わるのである
食料を生産するだけではない、環境保全、持続可能な自然との共生とか景観の保全とかが価値となる生活である、そこに意味があるのだとなれば金だけでは計られないものとしてそこに金を回すとういことも起きてくる 
そんなことではまともな暮らしができないというときそれはまた価値観の転換が必要なのである、それで家族一緒で故郷に住めるなら蝋燭でもいい言う人がいたときそれは極端でもそうなるのである   

●恵みはめぐるであり生態系の維持があって恵みがある

グロ−バル経済は多国籍企業が世界を経済原理で動かして支配するシステムなのである
そこにもともとある自然も無視するしそうして生活していた住民も無視する
それは原発事故で起きたのである
もちろんもともと住んでいた住民もまた今の社会の価値観に染まっているからそうなったそういう矛盾がこの辺では生まれた
元の貧乏な生活にもどれというのかとかそこにはまたいろいろな問題がある
ただ人間の価値を経済原理だけで金だけ計る時代は終わり新たなまた古くからあるものの価値観を見出すべき時代になっているのだ

恵みとは巡る、めぐることなのである、ロールすることなのである
水のように山から平地へと田んぼへと水は巡り恵みを与えるのである
それが自然との共生の生活でありその中で自然環境は保全されまた景観も維持できるのである
そういう恵みの思想が工業とか巨大企業にはないのである
何か自然から富を資源でも収奪する他国からでも収奪するというのが現代のグロ−バル経済である
それで自然は破壊されて極端になったのがこの辺だったのである
だからどうしても価値観の転換が望まれている
経済原理の金中心の経済を止めることなのである
何でも買うそして捨てるという生活なども見直す時代である
そういう傾向はシェア経済などで生まれてきている、大量生産大量消費の時代は終わったのである
そうなると確かに不景気とかになるがそれも時代だからやむをえないのである
そうなったならなったで人間は適応して生きてゆくほかないということである

●経済は意味と価値を求める時代になる

原発事故では現代の矛盾が噴出したのである、それはとりもなおさず現代社会を見直すものとなった
例えば松川浦の人が漁もできなくなった、放射性物質の汚染でできなくなった
その時「俺はここになんのためにいるのか」と自問していた

「漁もしない、俺はここになんのためにいるのか?」
「あなたたちは多額の補償金を原発事故前からももらっていたから別にいいんじゃない」「それはそうだけどでもなんのために生きているのかもわからないよ」
「今も十二分に補償金を特別もらっているだからいいんじゃない、みんなうらやましがっているよ」
「そう言われてもな」
「そもそもさ、漁業権を東電に売ったことがおかしいんだよ、その漁業権はそもそも資源保護とか環境保護のために与えられたんだよ、それは必ずしも漁業者のものじゃなかたんだよ、みんなのものだったんだよ、ただ資源保護のためにみんなから委託されたものなんだよ」
「そういうむずかしいことはわかんねえな」
「あなたたちは特権を与えられていたんだよ、その特権には責任が課せられていたんだよそういう自覚が必要だったんだよ」
「かといって漁業で暮らすことはできない、いろいろと金がかかるし魚もとれなくなっているからな」
「でも漁業権を東電に売ってどうなったのか、金だけはもらい何の意味も価値もない者になったんじゃないか」

原発事故は漁業関係者に一番矛盾が現れたのである
事故前も原発御殿が建っていたとかその後は軽く一千万以上の庭を作っているとか一番恵まれていたからである、ただ津波の被害にあったから家族でも死んでいるからその点は犠牲が大きかったとなる
それで近くでも漁業に関係しない人もいるから罰があたったとか言う人もいたのである
そこまで言うとはやはり周りの人はそういう恵まれた人に相当不満があったということである

そして松川浦では現実にアサリ採りが潮干狩りができないから観光でも大きな打撃だったのである、資源保護のために漁業権が与えられていたのにその資源保護の務めをしなかったとなる

とにかくここに象徴的に補償金で別に生活には困らない、補償金は継続的に東電や国から入ってくる、でもその存在意義と生きる意味とか価値は地域で失ったのである
ただ現代のグロ−バル経済はこの生きる意味とか価値とか意義とか倫理的なものは追求していないのである、むしろそうしたものを省略化して成り立つのがグロ−バル経済なのである
世界をそうして人間的属性としてあるものを省く、ただそこで経済原理、金だけで計るようにしたのがグロ−バル経済だからである
それで失敗したのは移民となると外国人を入れるとなると相手は人間だから物のように金で計ることはできない、様々な問題が生まれ福祉や共同体にどうして受け入れるかとかが問題になり失敗したとなる
人間はモノの用地扱えないからそうなったのである 

漁業が跡継ぎがいないとかいうけど漁獲高が多い所でかえって跡継ぎがいなくなった
教育に金をかけて子供を育てたが東京に就職したとか漁業を継がない
でも漁獲高が低くく子供の教育に金をかけなかった所は子供が漁業の跡を継いで残ったというのも皮肉である  
これも何か現代の矛盾した社会を示唆ししている、跡継ぎがいないというとき農業でもそうだし山村でもそうである、それは人間の生きる意味とか価値を経済原理だけで計っているからである、金になればいいとう価値観しかないからである

●万人の万人に対する戦い、モラルなき社会は地獄に生きることだ

ただ確かに先立つものは金だというときその矛盾は大きい
そんなものは理想論であり現実はそうはならない厳しいから適応できないともなる
でも明らかに現代の社会の行き詰まりというか荒廃はゆきつくところまで来ている
倫理もないモラルなき金だけが突出してふりまわされている社会である
それが自分自身の体験で嫌というほど経験した
もう金のために保険金殺人のように殺される一歩手前まで来ていたのである

金でめんどうみてもらへ

金をよこせ

金をください

これしかなかった、自分苦しい時にも相手は金しかみていなかったのである
それは芥川龍之介の羅生門の世界である、人間は生きていても死体でありその死体に身につけている髪の毛でも金属類でも金になる者が価値になる世界となっている、もうグロ−バル経済では人間的なものが省略されし見えないからそうっないるのだ
物がありそれに債権化された金しか価値観がない世界である

それほど金の亡者となり人を人とも見なくなっている社会である
それは何であれ生活をレベルを落としたくないということもある
今までいい生活していたのにそれを落とすことがむずかしいからである
でもそうだからといって他者から金を奪い殺してもいいとまでなることの怖さである
だから情なき経済原理だけの社会が極端化すれば万人が万人の戦いなっているのである

「万人の万人に対する戦い」とは国家や法律のない自然状態を表現した、ホッブズの言葉である。『リヴァイアサン』で語られており、自然状態におかれた人間は、すべての人が各々、自己保存の権利を無制限に追求して自由にふるまう。その結果、相互に敵対的な立場を取り、暴力的な混乱状態が発生してしまう。このホッブズの利己主義的な人間観は、「人間は人間に対して狼」とも表現されている

まさに現代のグロ−バル経済は世界的にそうなっている、そして極端な格差社会になっている、モラルなき社会と化しているのである、まさにこうなると地獄に生きているのである、そして生きる意味とか価値とかは無視されて金だけを追及する
それで何か原発事故でもそうした社会の中で起きた極端なものでありそれが具体的な現象として現れたともなるのである
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2019年01月23日

投資は何の価値があり意味があるのかわからない (金は使ったとき価値がわかる)


投資は何の価値があり意味があるのかわからない

(金は使ったとき価値がわかる)


投資に何の価値があり意味があるのかわからなかった
カナダの国債を買ってなんの意味があるのか?
株を買って何の意味があるのか価値があるのかわからない
現代の資本主義は投資に何か価値とか意味を見いだせない

ただ利益があがることに価値がある

それ意外のことはわからない、そして現代の資本主義では金を使う時その価値が一般人でもわかる  

具体的には

●仙台の「優 創建」でユニットバスを100万で作ってもらった

●小高の大工さんに庭を作ってもらった

●ヤマハのjpy-xrを買ってその乗り心地に感動した  



仙台の優 創建に作ってもらったユニットバスは本当に得だった
まず古いタイル張りの風呂を壊すことから大変な作業だったしその後でも仕事を見ていたら大変だった、浴槽でも高いと見えたし全体で百万では本当に安い
なぜならガス会社では200百万かかるといっていたし地元だと300万以上かかっていた、なぜならその人は何もわからない、あっせんした大工さんは修理を頼んでも直っていなかったからである

次に小高の大工さんは優秀であり庭作りもできたしいろいろその他仕事ができた
だからこれも得したとなる、その後小高と補償金などでももめて頼まなくなった
でもその小高の大工さんは仕事ができる人だったのである

それから感動したのはヤマハのjpy-xrだった、これは今までのアシスト自転車とは違うものだった、走りが違う、バイクのように自動的に走るような快感があった
エンジン部分が進歩したのである、こんなに違うものかと驚き感動した
今までの倍速で軽く走れるからである

このように現代の資本主義はまず投資してもそれが利益があがれば得したとなるだけであり金を使ってみない限り金の価値も意味もわからないのだ
だから銀行があるとして地銀などでどういうふうに金を使っているのか?
どこに投資して地元の会社を育たているのか?
金を集めてその金をどう使っているのか?
地元に何かその金で貢献しているのか?それを見ると金をあづけてその金を運用して地元の経済でも活性化して貢献していると実感する

それは例えれば大金持ちがいたとしてその大金持ちが何に金を使うかをみる
ただ100億とか200億の収入のあった芸能人やプロのスポーツで金儲ける人などがいてもそれは豪邸を建てたとか何か自己満足で浪費して終わってそれで破産しているというのもその人が金を社会のために使いなかったからである
もしその金を有効に使う能力があったなら社会に貢献もできてそんな破産するような状態にならなかったからである

つまり金をどういうふうに使うかでその人がみれる、会社でも見れるとなる
いくら金をもうけてもその使い方が悪ければ知らなけれればそういう人に金をもたせても社会のためにならないとなる
それは銀行に言えるのである、銀行を大金持ちに例えればわかりやすくなるからである
そこには巨万の金が貯えられている、その金は庶民から集めたものなのである
ではその金を何に使うのだろうか?
今は利子などゼロである、貯金した人には利子として還元されないなのである
その金は貯金した人のものである、もし利益をあげないとしてたら預けた人は何のためにあづけているのだろう?
銀行は利益をあげられないのだからただ銀行は貸金庫なのか?
現実に貸金庫をしているからそれだけの用なのかとなる
銀行に金をあづけても利子はつかない、そして投資信託などをすすめられて損するだけだとなる、そうなると銀行は必要ないとまでなる

現代の資本主義はグロ−バルだからまず投資したとしてその金がどう動きどういう価値があり意味があるのかもわからないのだ
もし例え損したとしてもその投資することでそれが価値があり意味があるなら必ずしも損したとはならないからだ、それがグロ−バル経済では全くわからないのである
わからないからこそそこに不正があってもわからない
極一部の数パーセントの人たちに世界の富が金が吸い上げられている
ただ投資しても庶民には金は回ってこないのである
要するにグロ−バル経済では巨大なギャンブル場と同じようになっている
とても庶民がそこでもうけることはむずかしいから一般の人は手を引いているのである

投資信託などは毎月分配型とあってもそうはならない、それはだます手法だったのである何か月ごとに月給のように入ってくると錯覚させるからである
つまり投資というのは株でもそうだが極一部の人しか理解できないものなのである
グロ−バル経済になれば特にそうなる
ただ現代資本主義の価値を理解できるのは金を使う時なのである
株でも投資でも利益あげればその金を使うことでその価値と意味がわかる
その投資がどうしてもうけて価値が意味があるかはわからないのである
銀行ではだからいかがわしいものにも世界で投資している、武器とか何か環境破壊する会社にも投資している、だからやめさせるべきだということもわかる
投資には必ずも価値と意味があるものとは限らないのである
それでも金を使う時は具体的にその価値と意味を見出すのが現代の資本主義なのである

最初はウエバーのように資本主義がキャスト教から修道院から発したときは働くことが神に奉仕することでありまた社会に奉仕するということではじまった
そうして蓄えられた資本を消費する使うということに価値と意味を見出していなかったのである、それが逆になったのである
金を使うことでしかその価値と意味を実感できないのである
だからグロ−バル経済には何か見えないが大きな不正の温床になり世界の数パーセントの人が富をもつ異常なものとなったのである
それはグロ−バル経済は見えない理解できないものだからである
世界を市場化して公正のように見えてもそうではない

だから地銀などというと地元に密着して地元に金を流して投資して地元に貢献するものとして金を使う、投資するという使命で成り立っていると見ていた
地元の企業を育てて地元に貢献するのが地銀の使命であり貯金でも利子がつかなくてもそういう貢献をすれば納得することがある
そういうものが見えないし地銀でも利益をあげられないから投資信託などを売りつけ手数料商売をするようになったのである
すると地銀は社会にとって地元にとっても不要のものだとなる
だから金をあづけても地元のために使うわけでもないとなるからだ
つまり金があっても有効に使えるのか、それは個人でも会社でも銀行でも同じだったのである

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素人は一般人は投資ではカモだったのである
もうからない仕組みになっていてギャンブルと同じ
胴元がもうかるだけだった


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2019年01月22日

投資の失敗の原因 (地銀でも利益を上げられず余裕がなく追いつめられていたから)

投資の失敗の原因

(地銀でも利益を上げられず余裕がなく追いつめられていたから)

なぜ投資が失敗したのか?
これも結果論だがふりかえればまず自分自身が投資の経験もないし知識もなかった
それでなぜ投資したのか?銀行の投資信託の誘いにのったのか?
それは利子がゼロとか銀行を地銀を信用していたことであった

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この人も親しまれていた人だったが地銀もこれとにていたのである

最近テレビで見たのが干し柿の会社に投資した人がいたがその会社は倒産した
この何か干し柿とにていたのが地銀だったのである
何か地元に根付いて一軒一軒回って営業して対面的に信用を築いてきたのが銀行であり特に地銀だったのである
干し柿というとき何か素朴な地域的なものを感じるからである
そういう会社はごまかさないだろうと思うからである
地銀もそれとにていたのである
だから一千万でも投資信託に投資させられたばあちゃんが損しても地銀の人を信用していたのである

ただ時代は常に変わってゆく、その変わり目にきたとき失敗した
地銀は第一苦しい、銀行自体が投資先がないとかAIとかで変革を迫られて大手の銀行は大量にリストラされる時代になっていた
銀行はもともと利子がゼロにゼロ金利になっていた
銀行はもう金を貸してその金でもうけて利益を出してくれ会社がない
だから高度成長時代のように利子がつかなくなった

そして銀行自体が余裕がないし追い詰められていた
なんとか他益を出させねばならないと投資信託をはじめたのである
それは金融庁で最近許可したからである
投資信託は銀行にとってた最高にいい商品なのである
まず契約して売れば絶対に銀行は損しない、株の値上がり値下がりともなんの関係もない確実に手数料が入る銀行にとっては最高にいい商品なのである
でも客にとってはいいものではない、手数料が高いし損することも普通にある
そして投資信託を理解できない複雑な仕組みになっている
月ごとにもうけが分配されるというのも嘘である、実際は元金からひかれていたりする
それも詐欺的なのである

別に株でも投資信託でも銀行で扱ったりそれが悪いこととはならない、なぜなら資本主義社会ではそうなっているからである、もし悪いとすれば資本主義が悪いとなってしまうからである、投資して利益を出すことが資本主義だからである
ただそのやり方が悪かったのである、詐欺的だったのである

「私は金融のプロですからまかせてください、私は東京の株式市場で働いたことがあります」
「銀行は金融のプロだからまかせていいのか、私は忙しいしいちいち株のことを見ていられない、だからまかせるほかない」

それで失敗したのがカナダ国債を買ったのは石油がカナダでとれていたからである
そういうことも知らなかった、最初は分配金が定期的に月ごとに確かに入っていた
でも急激に石油の値段が下がりこれはかなりの損失になった
次にUSーREITはトランプになり円安になり売って得したみたいだ

一番の失敗はリーマンショック以来もっていた株を丁度元にもどって上がっている時
J=REITにその金を回したことである、それから回転売買もしていた
銀行では一か所に置くよりそれを別に買ったり売ったりすると銀行の収入になるからだ
そして営業の人はノルマを課せられているから回転売買とか何か自分が成績を上げることしか考えていない
銀行自体が今や追い詰められている、余裕もないから詐欺的商品でもすすめる
収入先がなくなっているからだ
だからこうして追い詰められているとか余裕のない人間とか会社でもかかわると危険になる

結局これまで書いてきたように自分自身が介護や病気になったとき来た人たちは泥棒とか事業に失敗して借金に追われている人とかそういう余裕もない人だった
地銀もそうなっていたのである
それが自分自身をさらに不幸にしたのである

でもふりかえるとなぜ地銀がそうなったのか?
それは余裕がない、収入源がない、それで投資信託でもうけを出そうとする
でも地銀などには証券の知識は素人並みなのである
ただ株でも証券でも分散投資していればそれなりにリスクは逃れられるのである

国債
リート

とかに分散していれば安全度は高まるのである

それを銀行員が自ら破って自分のノルマの成績をあげるために株があがっているのに今度はJ-REITに回した、それも損していた
ふりかえれば株が元にもどったときそのままにしていればかなり上がった
そして上がった時売っていてJ-REITに回せばそれほどの損失にはならなかった
J-REITも損しているがそれほどでもなかったからだ
そうしたら地銀でも営業の人でも責めることはなかった
ただこれも結果論なのである、自分の自己責任もある

結局自分のところに来た人が悪かったからこうなったのかともなる
いい人が来ればいい結果にもなる、悪い人がくれば悪い結果になる
ただ銀行の場合は人といっても背後に会社の責任もある
だから銀行だからと信用できないとなっていた時代の変化を知らなかったからだともなる何か老人になると時代の変化についていけなくなる、それでだまされたり損することが多くなる

結局投資などしないでもっていた株をそのままにしていれば結構もうけになっていたのである、それも結果論だった
余裕がないとか追い詰められている人は会社でも危険である
手段を選ばなくなくなる、今日食べるものがないという人に出会ったら数万の金欲しさに殺されることもある、そういうふうに追い詰められた人間と出会うことは危険になるのだそれが地銀がそうなっていたことに気づかなかったのである

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2019年01月09日

クボタの社員が若いヤンキー風の女性を採用する相談 (人手不足になっているからか?)


クボタの社員が若いヤンキー風の女性を採用する相談

(人手不足になっているからか?)

喫茶店でしきりにクボタの中年くらいの社員が若い女性を相手に仕事の説明をしていた
部品でも100くらいからの納入がありその手続きのことをパソコンですることを説明していた、会社ごとに伝票とか違ってくるからめんどうになると言っていた

その女性は髪が長いからヤンキー風である、焼肉屋とかで働いていたと言っていた
だから継続して夜も働きたいとか言っていた

ではなぜこの女性がクボタに応募したのだろうか?

事務をしたいということは言っていた、でも何かクボタとなると大きな会社でありその社員になるにはふさわしく感じなかった
実際に髪が長いとしきりにその説明する社員は言っていた
制服がありそれを着てもらうからだとか注意したのは

「じいちゃんばあちゃんの印象を悪くする」

つまりここでわかることは農業しているのは60以上のじいちゃんとかばあちゃんが多いということである、実際に本当に農業しているのはそうなっている
するとヤンキー風の女性は好まれないから何回もそのことを言っていたのだ
第一そういう人は面接で落とされるはずである

でもなぜ採用しようとして仕事の説明を丁寧にしていたのか?

それはやはり人手不足になっているからではないか?

もう人を選んでいられないとも見た、特に若い人は少ないからである
その女性は事務員には向いていないとも見たからである

休みのことで農繁期があり秋の刈り入れ時期は忙しくなる、修理なども頼まれる
でも冬になると暇になるから休暇を取りやすいとか言っていたのはやはり農業だそういうリズムになるからだ
あとはハワイとか観光旅行にも会社で行うとか言っていた
つまり何かクボタの社員の方がなんとか説得して若い女性に働いてもらいたいという感じなのである
それはやはり人手不足になっているなのか見た
その女性は事務員には向いていないと見たからである、でもパソコンの操作などはできるから採用しようとしたのか?

人手不足はいろいろ深刻になっている、広島の災害地で復興できないのは大工が少なく修理ができないとテレビで放送していた
地元の大工は今や本当に少ない、ただ大東建託のようなのはすぐに外から来て組み立てるだけだから建てることができる
でも修理となると大工でないとできないのである

この辺でなぜ見て南相馬市から青森の老人ホームに移されるのか?
それは青森ではもともと仕事のない所であり女性も仕事がないから介護で働く人が多いからである、仕事がもともとないから介護が仕事になる
福島県では施設があって空き部屋があっても入所を断っているのは介護する人がいないからである

ともかくいたるところで人手不足は深刻になっているから外国人労働者を入れる新しい法律も作ったのである
ただ外国人労働者を入れることは国と国の国際問題になりやっかいなのである
でも人手を会社でどうして確保するのか、誰でもいいというわけではない
でも働く人の質はどこでも介護でも低下してくる
でもニートとかでも今なら働けるのではないか?
それだけ人手不足になると選ぶ方でもその質をどうのこうの言っていられないからである

ともかくどうも焼肉屋で働くのとクボタの事務員となるのはかなり違ったものになるのでは、確かに焼肉屋でも勘定していたし会計していたとか言う
でもクボタの仕事となると高度になるように見えた
百社もの部品の納入とかの事務になると結構大変な作業になると見たからである
ただパソコンでもそうしたことはわかりやすくなっているからとは説明していた
自動化をどこでもしているからである
ただ一千万とかの納入があるとか金の責任が生まれるからそこは注意していた

仕事はこうして何か経験しないとわからないのである、だからこういう仕事をすればこなせば一段上の収入のいい仕事につける、この女性は男性と暮らしている、男性も仕事しているのである、だから焼き肉店で夜も働いているとなると結構収入になるとはなる
ただまたそれだけ働かねばならないともなる

posted by 老鶯 at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年12月28日

外食産業がチェーン店もは時代のニーズに合わなくなった (手作り感や人間味が求められているー時代で変わる商売)


外食産業がチェーン店もは時代のニーズに合わなくなった

(手作り感や人間味が求められているー時代で変わる商売)

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単純に言えば、家族でやってる3ちゃん企業は固定費や人件費がかからんのです。
店員が10人いたら、売り上げがあろうとなかろうと10人分の人件費は払わなくてはなりません。
大企業では本社などのスタッフ部門の給料も売り上げから捻出する必要がありますが、3ちゃん企業はもちろん本社は自宅なので、会社としてもオペレーションコストは不要です。

田舎の小さな店は、地縁血縁の固定客がいますので、細く長い経営が成り立っています。
大型チェーン店は一見の客が多いので、よほど味やサービスが良くないと長続きしません。


食事はめんどうだから外食するのが一人暮らしだといい、でもそれがチェーン店でもファミレスでも何か定量化されて決まりきっていて飽きる
それで毎回カレーでも違ったものを出している小さな店が繁盛しているのもわかる
しかしこうなると出す方も大変になる、決まったものを出している方が楽だからである
手間もかからない、機械的に作ればいいとなる
何かチェーン店は流れ作業のようにして食事を出している感じになる
客も流れ作業のように処理している、相手にするのは個々人ではない
数であり一人一人のニーズには答えられないからそっけないともなる

だからかえってこじんまりとした飲み屋とか食堂でも見直される
要するにそこにはチェーン店にはない魅力がかえってあるとなる
どうしても料理は定番化してくるから飽きる
そして何か変なのは自分は田楽が好きなのだがそういうものは出していない
あと鍋物を出していない、そういうのは自分で手間で作るほかない
どうしても料理を楽しみたっかたら手作りになるのだ

今何かあらゆるものが時代の変わり目に来ている
それは外食産業だけではない、マスを相手にしたもの大衆を相手にした定量化したものに飽きている、同じものを大量に供給することも時代的には合わなくなっている

そもそも情報産業すらそうなっている
みんなテレビの芸能人のばか騒ぎにはうんざりしている
テレビ自体が視聴率をとるために大衆を相手にしてそういう番組作りになったがそれも限界にきている、だからもう若い人は見ないのである
新聞だって見ないのである、キーワードで何でも調べるという時それはその人のそれぞれのニーズから調べているのである

新しい自転車を買ったらその備品を買うのが意外と多かった、ベルを新しくとりつけたとかサドルの痛くならないを買ったとかいろいろあった
それはアマゾンでぴったりしたものがあった、ただベルは一つは千円で買うの失敗した
それは今回買ったもののようにブザーのように音が大きく出なかったからである
それはキーワードを間違えたからそうなったのである
どういうキーワードを入れるかがいい買い物をすることになる
それからその人にあった情報もキーワードから導かれるからキーワード検索はインタ−ネットに向いている
テレビは一方的におしつけるメデアだからである

現代は何でも大組織になり経済が動く政治でも動く、だから大衆をマスを相手にしてきたマスコミ二ケーションだった、宗教さえそうだった
数を集めることが第一でありその人がどんな人かなど全く考えない
要するに一票になりそれで勢力をもって社会に影響するためにある
悟りだとか何か求道などとは関係ない世界である
ただ大衆相手に数を増やすことが第一でありそれで社会に影響力を権力を誇示するだけなのである

何か時代が変わる時がある、その変わり目に来ている
大衆相手マスを相手にするのは終わった、大量規格品の生産も物が豊富なのだから飽きられる、みんな同じだとしたら価値がないのである
そういうマスを大衆相手のものは終わってゆく
だから外食をするにも何かそこに一人一人に気を配ってくれるものを望んでいる
それでかえって小さな飲み屋がつぶれないでやっていけるというのも逆説である
それよりそういう小さなものでも見直されるものがあったとなる 

ファミレスとかチェーン店は高度成長時代とかその後の時代にあったものだった
家族で贅沢する場であり晴れの場を演出するものだった、それあ安価でできたということで全国に普及したのである
それも時代のニーズにあっていたのである
でも今はまたニーズが変わったのである、高齢化社会とかまたシングルが多いとかニーズが変わった、このニーズにあわなければ商売も成り立たないのである
ただそのニーズに合わせるにしても毎日カレーのメニューを変えることは容易ではない
でも時代のニーズに答えないと適応しないと商売もできなくなる
つまり社会も同じままに進行しない、必ず変化があり変化を望むのである

これからの時代は小さなもの、個人個人の好みに合わせるとか何か今までとは違った価値観が生まれる、すでにインタ−ネットなどではそうなっている
それは大衆相手ではないからである
だからマスを相手にしているマスコミとかはもう終焉に向かっている
それぞれの要望がありそれを基に情報も検索して探しているからである

これからの時代は逆に東京一極集中はなくなってゆく
地方に人は分散してローカルなものの中でそれぞれに合った生き方をする
つまり大量生産マスを相手にした社会は終わりになる
それは文化の時代にもなく、大量規格生産では文化ではないからである
ただ自分の場合は料理は手間がかかりすぎるからしたくない
簡単にすませたいのである、それで外食に行くからこんなことを考えるようになったのである

posted by 老鶯 at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年12月08日

職人の仕事が失われてゆく、後継者もはいない (地方を活かす文化が再び求められているのだが・・・)


職人の仕事が失われてゆく、後継者もはいない

(地方を活かす文化が再び求められているのだが・・・)


「福島県地域おこし協力隊」を募集します。

福島県には、国見町のあんぽ柿、会津美里町の会津本郷焼、須賀川市の牡丹、西会津町の会津張り子など、多くの伝統産業が地域に息づいています。
 これらは、地域の風土、気候に根ざし、歴史を紡ぎながら独自の産業として 受け継がれてきた「宝」であり、「地域住民の誇り」です。
  
  
 南北朝時代、時の武将「斯波兼頼」が山形市で地盤を築き、以降職人の町が発展した際には150を超える職人屋敷がありました。
現在、伝統を受け継いだ職人さんは急激に減り、桶樽や竹細工など残念ながら埋没してしまった技術もあります。和傘や漆器、鋸や特技木工は特に事業の承継が急務な状態です。



職人の仕事がなぜあったのか?
そもそも戦前から江戸時代は地元密着の経済だったからである
地元にあるもので生産して消費する傾向があった、外部から入るのではなく外部に頼るのものでもない、自給自足が原則だった
それはそもそも農業に従事する人が8割だったというとき当然そうなっていた
その土地に根ざした生活が基本になるからである


このテレビ放送は面白かった、室町時代にこの土地で飢饉があったがこの芋だけはとれて助かったとその家に伝えられているのも古い歴史がある、室町時代となると残っているものが東北では少ない、それが農家に伝わっていたということで興味をもった
そんな言い伝えが山の一軒の家に残っていることの驚きである
飢饉は崔さんあり山の人たちが買えって山に食料があり助かったとかも伝えられている
また米だけを作っていることで飢饉になり苦しんだとかある、土地にはそもそも米だけではない多様な食料を作っていたからである、米は伊達藩では江戸に売る商品作物化して飢饉になり食べるもものがなくなって死んだとも伝えられるからである
これは現代ではグローバル経済でコーヒーだけを作っていた所でもそうしていろいろものを食料として作らないからコーヒーが売れないとそうなっていたのである

何か私はこうしてその土地に根ざしたものがあるとき関心をもつ、そこに歴史があり土地に密着したものがありそれが人間の本来の生活だったともみるからである
だからそこにこうして物語がある、会津でも木地師の物語が伝説が残っているのはそのためである

そもそも職人とは今のように特殊な人たち、芸術家のようなものではない、ただ日々の生活に必要なものを手作りで作っていた人たちである
それを民芸としたのは近代になってからである、竹細工とかあれば竹で籠などを作っていた、そういう人が近くにいた、籠屋とかいたのを知っている
竹を削り竹を編んで籠を作っていたのである、漆屋も近くにいた
そこでは何度も何度も塗りをしていたのを見ているから一個の製品を作るのが手間なのである、それは職人はみんなそうである、石屋とかもあり近くで石を一つ一つ鉄の道具でたたき削っていたのである、墓一つ作るのに手間だったのである、手作業だからである
それがなんでも機械化した、墓の戒名でもなんでも人の手で彫るのではない機械でしているから楽なのである

だから団塊の世代は戦後生まれであり戦後十年は江戸時代の継続だったからある程度江戸時代をイメージできるのである、高度成長時代になったとき急速に変化したのである
だから職人の世界というのをこの世代は親が職人だったりするからまだ理解できる
私の父親が酒屋の丁稚だったということでその丁稚のことで時代劇を見た
暖簾分けして一人前になる物語でありそれが何か身近に感じたのもそのためである
第一自分の家がその暖簾分けした家だったからである
すると江戸時代からの継続があり江戸時代に興味をもつのである

確かに職人の世界は喪失した、陶芸以外は厳しい、陶芸はまだまだ需要がある
そしてお土産品にはいいのである、その土地独特のものとして室町時代からでも継続しているのがあるからだ、相馬焼は大堀焼は古いから他に技術が伝播された
職人の手仕事の世界には今の物とは道具と製品は人間味があり人間臭いのである
そこにだから物語が生まれ伝えられる
今の大量生産の製品にはそうした人間味がない、人間が作ったというより機械でロボットで大量生産した画一化されたものとしてある
それぞれに個性とか土地の匂いとか文化はないのである
どこでも文化が喪失したのである、なぜなら文化とはもともとcultivate-cultureから来ているからだ
その土地を耕すということが文化なのである、甚五右ヱ門芋とかがまさに文化なのであるその土地の名のついた練馬大根とかもあり他にもある
それが特産品となりその土地のものとして伝えられてきたのである
だから江戸時代の方が食べるものでもその土地のものからとれたものが出されたから味わい深いとなる、郷土料理は別に特別なものではない、その土地でとれたもので工夫して作られていたのである

ともかく今盛んに文化の時代になるというとき大量画一生産からその土地のものを作り出すべきだというときそれは戦前まではあった、それが失われたとき一体その土地独特のものを作り出すことは容易ではなくなる、また同じようなものを作っても伝統が活きるとはならない、伝統でも新しいものが加わらないと商品化しにくいのである
地域おこしのむずかしさはやはりそうした伝統が消失してきたときそれでは新しものを簡単には作れないのである

ただあくまでも日用品として生活の中で日々使われることで道具でも物でも活きる
芸術品のように鑑賞品となるだけでは活きてこないのである
そこがまさに現代の民芸の問題である、それは日用品として使うものではない、特殊ものとして見られるからである
つまり今は職人の仕事は芸術家のような仕事に見られているのである
でも現実には手間がかかり高価になったりして何か実用品より芸術品のように見られているのである、それでここも跡継ぎがいないというとき金にならないといことでそうなる

それでも現代は大量生産の品物とか道具に飽きている、だから茶の湯のようにお椀とかその作法とかにこるようになり芸術化する
実用と機能性重視からお椀を手に取りそのお椀をしげしげとながめくろいだ時間を過ごすようになる、茶碗でもコーヒーカップでも色の違ったものとか変えて気分転換するとかなる、そういう時代にもなっている
ただあくまで日常的に日用品として使うことで道具でも物でも活きてくる
その基本は変わらないからそこで新しいものを作る必要が生まれる
会津漆器のお椀でもレンジで使用できるものを作っていたとかなる

ともかく何か土地の物語が文化が失われたのが現代でありそれを回復しようとするが現実はその基本としての生活に使用されないから回復するのがむずかしいし後継者も育たないのである
職人に弟子入りして苦労するというのも何か現代では向いていないのである
だから職人芸というものも工場での製品作りにあったがそれもコンピュターに伝承させるとかなっているのである
それでもデザインとかは本当に抽象画をパソコンのソフトで作ってみて多様だからそういう装飾性をくわえることは新しい技術で変えることができる
そもそもartは技術き意味だったからである

posted by 老鶯 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年10月29日

高齢化社会の価値観 (高度成長時代の価値観は終わる―節約の時代に)

高齢化社会の価値観

(高度成長時代の価値観は終わる―節約の時代に)

●デフレは解消しない

飲食店以外でも、ファミリーマートやナチュラルローソンなどコンビニのイートインは、お昼は満席です。

東京の場合は、東京駅(八重洲側)も含め、新宿・渋谷・池袋など大きな駅の周辺は、デフレ系のお店であふれています。お昼の時間帯は、マックや松屋、富士そばなどは満員。行列ができていることもしばしばです


金を使わないのではなくそもそもないのだから使いようがないのである
それだけ日本が貧困化している、低所得者が増えたのである
消費を減らすほかないのである
消費税が10パーセントになったらますます消費は冷え込む
そして消費が増えないのは老人も数パーセントの人だけが余裕があるが後はない
もう破産状態の人がいる、年金も少ないから食べてゆくのがぎりぎりだとかなっている
そして頼る人もいないのである、娘息子でもこのように苦しいからである
老人はまた物が欲しくないとかなり金ある人も消費しないとなるがそれは極わずかでありあとはぎりぎりなのである

これからの時代はだからミニマム生活とか縮小化社会にあった思想とか哲学とかが必要になる、消費者は王様だとか終わりである

●節約の時代にもどる

貧困化する社会にどう対処するのか

●新しい物をなるべく買わない
●今あるものを大事に使う
●金だけではない協力(シェア)しあう経済 

貧乏には貧乏なりの生活を工夫するとなる、そうしなければ生活できなくなる
ただ人間は一旦豊かな生活を覚えるとそのレベルを落とせなくなる
かえってそのことが辛くなる、だから金持ちでも零落すると悲惨なのである
もし貧乏だったらもともと貧乏だからそういうことはない
そういう生活でも満足する他ないとして生活していた
戦前とか江戸時代はみんなそうだったのである
ご飯と味噌汁とか梅干しとか漬物くらいで生活していた
紡績工場で糸取りして働いていた母の昼食がそうだった、それで長時間労働だった
本当に栄養失調になるようて食事で良くそれだけ働けたなと不思議に思う
江戸時代でもオカズがないからご飯を一杯食べていた
ご飯がエネルギー源だったのである、土方弁当などでもそういうことがあった

今は食べ物でも低所得者でもその頃と比べると豊かなのである
だから贅沢になれすぎてそうなったのである
そういう生活を貧乏になると見直すことが強いられる
つまり過去の生活を知って今の生活を見直すという歴史を知ることが必要なのである
便利な時は江戸時代だったらあらゆるものを大事にしたリサイクル社会である
糞尿でも肥料するするとか紙一枚でも無駄にしない、油一滴でも無駄にしない  

ロウソクに火をつけたときに垂れた蝋(ロウ)を捨てるのはもったいないということで、使い終わったロウを集めて、固め直し、再利用し、ロウソクとして販売するという「蝋燭の流れ買い」という仕事が江戸時代にはおこなわれていました。

それだけ物は貴重だったのである

●生活態度を変える

これからは必然的にこうして生活態度を改めないともう生活できなくなっている
それは何か高齢化社会に適合しているのも不思議である
老人になるといろいろ消費できなくなる、新しい機械を買っても利用できないとかなる
それで老人は金を使わないから経済が停滞するというのもわかる
でも新しいものを次々に買うという経済が貧乏化すると成り立たなくなるのだ
次々に新しいものを買う金がない、そうなると今まであるものや物でもすぐに捨てるのではなく長く大事に修理しても使うとなる
そういう生活の態度を変えることが必要になる
それは社会にとって悪いことではない、あまりにも物を粗末にしてきたし消費が浪費になっていたのである
高度成長時代は日本にとっては特別な時代であり異常な時代でもありそれがつづけることは無理だったのである
だから貧困化は正常化にもなる、そうでなくて経済成長しなければ貧乏は解決しないとういのもわかる、でもそれができないとしたらどうするのか?
生活する態度を変えないかぎりもう生活できないとなっているのだ

何かいい方法があればまた別である、株とか投資信託でももうけられる人は極一握りてことがわかった、それよりもう普通の人は大多数は節約するほかなくなる
それしか方法がないからこそ昼食500円以下とかもうそれ以下の300円とかでデフレが改善できないのである
そうしてければ増えた低所得層は生活できないのである
消費を増やせとか言ってもできない、そもそも収入が増えない、減ってもいるとなるとそうするほかないからだ

いい面だと貧乏な人でも米をくれとか隣の人が来たりして助け合うとういことが生まれ来るかもしれない、互いに協力しあうとういことができてくるかもしれない
それは貧乏な時代にはかえってあったし江戸時代で長屋とかではそうだった
互いに都合しあうということが生まれてくるかもしれない、シェア経済とかはそういう時代にあったものいかもしれない、何でも金を使う消費するという経済が続けられなくなってくるからだ、収入が増えてくれば節約する他ないからだ
ただそうはいってもその切り替えがむずかしい、生活のレベルを下げることはむずかしいそこには見栄もあるからしにくいけど切羽詰まったら見栄とかも言っていられなくなる
ただただただ頭を下げて金を要求できる人間とかは生きていけるともなる
そういう人を知っているからそういう人は人に何度も頭を下げて頼むことができるからだでも金持ちの家に生まれたような人はできない、自分もできない
そこで金もないのに依然として見栄をはるがそれも成り立たなくなる

そして怖いのはそうした高いレベルのままの生活をしたいがために借金をしてまでそうしたり見栄のためにそうする人が怖い
そうして借金を要求された経験があるからだ
その人は自分が成功したと見せたいから借金してまで贅沢をしていたのである、そういうことが回りに影響する
みんな余りにも立派な家が欲しいいい車が欲しい、もっともっと贅沢したいとなり原発が誘致されたのもそうである
その欲望には歯止めがないからである
そんな人のために私は恐怖に陥れられた
金のためにそうして脅迫され殺されるようなことにもなる
例えばギャンブルで遊びたい金が欲しいとして襲われたりするのと同じである、それは日々食べるものがないとかではない
ただ遊びたいとか自分は成功者だと見せたいとかのためにそうしている、そのために他者が犠牲になるのが怖いのである

●江戸時代に学ぶ

確かにこうなるとますます物は売れなくなり不景気になるということもある
でも収入が増えないのだからそんなことを庶民は言っていられないのだ
消費税10パーセントになったら余計にそうなる
それに対抗するには節約しかなくなるのである、それからいい方向に行くとしたら
グローバル経済が崩壊してゆく、その兆候は世界で現れている
自国が大事であり他国に頼る経済は衰退する、自国でまず食料でもなんでも例えば木材でも日本では豊富なのだから外国から買うより自国でまかなうとなる

自国の産物を資源を極力活かす江戸時代のような生活にもどるとなる
同じではないにしてもそうした生活をしないかぎりもう日本はそもそも生活できないとなる、それは理屈ではなくそういうふうに強いられているのである
第一アメリカでも日本車に関税をかけてくれば車も売れなくなる
そうなると外国の外材でも買えなくなったりする、他にも外国の資源でも買えない
石油でもそんなに買えなくなる、石油でも高くなるからである
アメリカで車の関税を高くすれば車を売ってドルを得ることもできなくなるからである
石油はドルの決済になっているからである

何か高齢化社会は悪い面ばかり言われるが老人の特徴は消費しないことである
あまりものはいらなくなる、消費できなくなる、そして何かいろいろなものがいらなくなる、節約生活が向いているのである
老人にとって必要なのは物の豊かさではなく精神の豊かさが大事になる
過去に経験したものが宝となり新たに経験することがしにくくなる
だから過去を回想したりすることが得意であり新たに経験することが苦手になる
それは高齢化社会に精神的な状態となるときこれからの貧乏社会には向いているともなるただそうなると日本の活力は停滞するともなり世界に遅れをとるというのもわかる

反面そうしたことがすべて悪く働くとはならないかもしれない
高度成長時代の価値観は普通てはなかったのである、特殊でありそういう社会はもうこない、むしろ江戸時代のような節約型の社会が人間にとって正常な社会だとなる
だからそこでかえって社会が正常化してゆくということもある
だから高齢化社会は悪い面だけが強調されるが反面そうした社会風潮は社会を落ち着いたものにしたりモラル的にも今までの消費一辺倒の無駄な浪費社会を是正することになる
それはモラル的にも相当に影響してくる、それが全部悪いとはならないのである

そしていくらでも今は物が入ってくる、外国からでも入ってくる
それが高度成長前の貧乏とは違う、バナナすら売っていない時代があった
バナナはここで売っていず家族が病気になった時仙台から買ってきたのである
つまりバナナせ贅沢品だったのである、今は果物でもバナナは一番安いのである
果物ではバナナとかリンゴでもこの辺でも梨は安い、すると安いもので間に合わせようとなる、貧乏になればそうなるのである

●高齢化社会の価値観が社会の価値観になる

これからは必然的にこうして生活態度を改めないともう生活できなくなっている
それは何か高齢化社会に適合しているのも不思議である
老人になるといろいろ消費できなくなる、新しい機械を買っても利用できないとかなる
それで老人は金を使わないから経済が停滞するというのもわかる
でも新しいものを次々に買うという経済が貧乏化すると成り立たなくなるのだ
次々に新しいものを買う金がない、そうなると今まであるものや物でもすぐに捨てるのではなく長く大事に修理しても使うとなる
そういう生活の態度を変えることが必要になる
それは社会にとって悪いことではない、あまりにも物を粗末にしてきたし消費が浪費になっていたのである
高度成長時代は日本にとっては特別な時代であり異常な時代でもありそれがつづけることは無理だったのである
だから貧困化は正常化にもなる、そうでなくて経済成長しなければ貧乏は解決しないとういのもわかる、でもそれができないとしたらどうするのか?
生活する態度を変えないかぎりもう生活できないとなっているのだ

何かいい方法があればまた別である、株とか投資信託でももうけられる人は極一握りてことがわかった、それよりもう普通の人は大多数は節約するほかなくなる
それしか方法がないからこそ昼食500円以下とかもうそれ以下の300円とかでデフレが改善できないのである
そうしなければ増えた低所得層は生活できないのである
消費を増やせとか言ってもできない、そもそも収入が増えない、減ってもいるとなると
そうするほかないからだ

確かにこうなるとますます物は売れなくなり不景気になるということもある
でも収入が増えないのだからそんなことを庶民は言っていられないのだ
消費税10パーセントになったら余計にそうなる
それに対抗するには節約しかなくなるのである、それからいい方向に行くとしたら
グローバル経済が崩壊してゆく、その兆候は世界で現れている
自国が大事であり他国に頼る経済は衰退する、自国でまず食料でもなんでも例えば木材でも日本では豊富なのだから外国から買うより自国でまかなうとなる
自国の産物を資源を極力活かす江戸時代のような生活にもどるとなる
同じではないにしてもそうした生活をしないかぎりもう日本はそもそも生活できないとなる、それは理屈ではなくそういうふうに強いられているのである

第一アメリカでも日本車に関税をかけてくれば車も売れなくなる
そうなると外国の外材でも買えなくなったりする、他にも外国の資源でも買えない
石油でもそんなに買えなくなる、石油でも高くなるからである
アメリカで車の関税を高くすれば車を売ってドルを得ることもできなくなるからである
石油はドルの決済になっているからである

●高齢化社会は金で計れない精神的価値を求める時代

何か高齢化社会は悪い面ばかり言われるが老人の特徴は消費しないことである
あまりものはいらなくなる、消費できなくなる、そして何かいろいろなものがいらなくなる、節約生活が向いているのである
老人にとって必要なのは物の豊かさではなく精神の豊かさが大事になる
過去に経験したものが宝となり新たに経験することがしにくくなる
だから過去を回想したりすることが得意であり新たに経験することが苦手になる
それは高齢化社会に精神的な状態となるときこれからの貧乏社会には向いているともなるただそうなると日本の活力は停滞するともなり世界に遅れをとるというのもわかる
反面そうしたことがすべて悪く働くとはならないかもしれない
高度成長時代の価値観は普通てはなかったのである、特殊でありそういう社会はもうこない、むしろ江戸時代のような節約型の社会が人間にとって正常な社会だとなる
だからそこでかえって社会が正常化してゆくということもある
だから高齢化社会は悪い面だけが強調されるが反面そうした社会風潮は社会を落ち着いたものにしたりモラル的にも今までの消費一辺倒の無駄な浪費社会を是正することになる
それはモラル的にも相当に影響してくる、それが全部悪いとはならないのである

これまでは欲は物に集中していた、家電が欲しい、車が欲しい、マイホームが欲しいとかなっていた
でもこれからはそうした物ではない、金では計れない価値が価値を帯びてくる、老人の価値観は変わる
金が必ずしもそんなに価値があるとはならない
何か精神的なものが価値を帯びてくる、老人が過去を回想するというとき過去に経験したことが価値となる
それは物ではないのだ、老人はみんな何かしら過去を語り語り部となり哲学的にも庶民でもなるのである
そしてもともと精神的な価値は見えにくく金になりにくいものだった、そもそも宗教とか哲学とかは心の豊かさは金では計れないものだったからである
その計れないものに価値がでてくる、それはその人の経験とかから生まれてくる価値である

だから農業している女性は冬は土も眠り栄養を貯えるとか何も肥料もやらなくてもいいとか言うのもそうである
冬はふゆ(ふえる)だったのである、その言葉は農民の経験から生まれたものだったのである
農業をしないものはそのことを実感としてわかりにくいからだ
つまりその女性は農業のことを知っているということで価値がある、ただそれで金を要求されるのは問題にしても経験でそういうことを知っているということは価値になる
だから価値にはいろいろある、金だけで計れる価値も基本的にあるとしてもこれからはそれだけではない、金で計れない価値が価値になる、それは高齢化社会ではそうなりやすいのだ
老人が求めるのもは物とかの物欲ではなく精神的なものを求めるからである
時代的にも高度成長時代は終わり精神的なものを求める
宗教とか哲学とか芸術とか何か精神的なものもを求める時代になる、宗教も実際はカルトであり物欲御利益宗教だったがそれも変わる、本来の内面的精神的価値を求める時代になる

江戸時代は停滞した時代のようでも何かを貯えていた
冬にかえって栄養を維持している土のように貯え増やすものがあった、そうでなければとても明治維新などできない
歴史は連続しているから江戸時代に蓄えたものが明治に華開いたともなる、江戸時代に日本の基礎が作られていたからこそ明治維新ができたともなるのである
これからの時代は春とか夏ではなく秋とか冬がふさわしい時代となる、それもまた実りの季節であり蓄える季節となる
そういう時代の循環があるともなる、だから一概にすべてが悪い方向にいくとはかぎらないのである
ただなんらか今までの生活や態度や考え方、価値観とか思想を変えなければならない、高度成長の価値観の延長では成り立たない
銀行だってもう金余りで投資する先がないとなって資本主義の危機だともされる
時代的に資本主義でも変革を強いられているのである






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2018年10月14日

過剰化社会から縮小社会やミニマム生活へ変わる (無駄な消費が多すぎた社会)

  
過剰化社会から縮小社会やミニマム生活へ変わる

(無駄な消費が多すぎた社会)


●過剰消費社会

●過剰医療社会
                
●過剰教育社会

●過剰情報化社会


縮小社会というのは悪いことばかりではない、それは現代資本主義が限界にきて生まれてくる正常化の方向転換なのかもしれない、あらゆる物が増えすぎて、買うものが増えすぎた、いらないものまで買わされる、過剰化に悩んでいるのが現代人でもある
最近ミニマム生活とか捨てることが推奨されるのも無駄なものを買いすぎる、ためこむからそうなる、古いものは修理ししてまた使うとかはない、常に新しいものを買うことになるから物も増える、それでリサイクルとかシェア経済が言われるようになる
何か欲望資本主義には常に物を買わせる仕組みがある
宣伝されればそれが欲しくなるとかなりいらないものでも買うとなる
ジュース類などでも多すぎる、ジュース類は実際は栄養分はほとんどなくかえって人工甘味料とかが必ず入っていて体に良くないのである

かえって運動したあと飲んでも疲れるというのもそうである
本当の栄養分はほとんど入っていないのである、甘いだけでかえって疲れるとなる
それで老子の言う無味を味わう、水が一番いいとなる皮肉があるのだ
人間の栄養を考える時基本的なものはいいものをとる、でもその他に現代は無駄なものをとりすぎるのである、それがかえって体に悪影響しているから太るとなる
やせ形タイプの自分でもなかなかやせられない、太るのはそれだけ栄養を知らずにとっているからである、そういう環境にあるからそうなる
過剰消費社会は会社の利益をまた過剰に追求するためになった、江戸時代のような村社会ではそういうことはありえないからだ

大企業とか会社とかは社会に害悪を及ぼすものとしてもある
まず利益をあげる売るということを第一にする、本当の需要がないのに需要を無理に作り出す、宣伝で作りだすのである
いらないものまで売りつける、それは銀行でも同じである、,投資信託など売りつけるようになる、それは銀行だけが確実にもうかるものだからそうなる
そういうことは保険とかでもいろいろ現代社会にある
そして皮肉なことにその人が本当に困ったことで必要なものは手に入らないということがあるのだ、消費というのは消すということであり無駄なことが多いことは確かなのであるそして現代社会はあらゆることで消費社会になる
病気でも本当に病気はあるし治療も必要である

でも過剰治療が問題になる

「病でつながる社会」(「病縁"化社会」
と必ずしも同義ではない)とそれから生み出された病にしか安住できない人々
について論じている。その

その弱者をいたわる「看護人」だらけ
の「世界が巨大な病院になる」とゲーテの言葉を引用して述べている。そして,
敢えて,「公認された『病人』的な位置がとても心地よいために『弱者』をやめ
られなくなってしまう人たちが現実に出ている。(中略)『弱者』帝国主義とで
も呼ぶべき困った状況が出現する」(前掲書:136)と忠告を発している。その
結果,先述したように病で他人や社会としかつながれないで,病にしかアイデ
ンティティを見いだせない病人をつくり出していると批判している。

過剰治療が日本では保険制度もあって作り出される、生活保護者は無料になるから医療費が無駄になるから医者でも病院でも過剰医療になる
その負担がまた国民に税金としてのしかかるのである
そして国がつぶれるとまでなる、過剰医療のために延命治療とかでもそうだが莫大な金が使われる、もちろんなかなか延命治療が悪いとはならないことは自分自身の家族の介護で経験しているからむずかしい問題である
ただ二年半で死んだから長いとは言えなかった、病院には半年いて死んだ
だからいちがいに悪いとはならないが一般的問題としては過剰医療が多いのである
検査でもそうである、やたらと検査する、無駄な検査が多いのである

認知症になりMRIをとったがそれなど何もわからない、わからないというよりその機械はそもそも脳の精密な写真が撮れないものだったのである
福島県にとれる病院は二つしかない、その機械は極端に高価なものだからである
それでも認知症は写真撮ったからわかるものでもない直らないのである
そうして3万とられたが一割負担とかするともしかしたら写真とるだけで30万かかったかもしれない、知っている人は東京まで行って写真をとり20万かかったといっていたからだ、脳の写真となるとそれだけ高いものになる
でもそんな写真をとることもないのに30万かかったとしたらその負担は国民にはねかえってくるのだが医者とか病院は利益をあげればいいとしかなっていないのである
そういう医療でも多すぎるのである

老人だと町の医院とか病院が社交の場とかもいわれる、病気のことで連帯感を持つということにもなる社会である
またそれしかつながりをもてない社会だというのも不健康な社会だとなる
その他では普通の社会では激烈な競争社会だがそういう場では社会は病人として扱い親切になるからいいともなる
医者が話相手にもなってくれるとかなる、孤立した老人にはいいともなる
ともかく病気だとか障害者でもなると国から援助されるようになるからいいとなる
逆に弱者をよそおい脅迫するまでにもなる社会である

一旦弱者と認定されると権利になる、この辺の原発事故でもそうである
原発事故避難者などは特にそうである、もう永遠に補償しろとまでなっている
もう何も自助努力もしなくなる、そうした特権を得ることになる
そういう人を批判することはタブーになる、お前はかわいそうな弱者を批判するのかとなりタブーになる、現実は毎日原発避難者はパチンコとかギャンブルで遊んでたいのであるいづれれにしろ何かうまくいかなければ原発事故のせいだとなる
それがまた通るから余計にそうなり自助努力はしないしもうあきらめて他で住むとなった沖縄とか韓国だと必ず日本の戦争のためにこうなったといって賠償金を要求してくるのと同じである、そして個々人の弱者は助けたりしない、それで自分は途端の苦しみであってもただ責められるだけだったのである
お前はなぜ原発避難者をかわいそうな避難者を責めるのだと批判されこたけど自分自身が苦しんでいたけど誰も助けないただ責められるだけだからそうなったともなる

過剰という時いろいろな過剰がある、教育というのも過剰がある、膨大な知識が過剰に幼い時からでもおしつけられる、そうなるとやはり消化不良になり自主的学習動機が失われる、受験とかでもそうである、そしてそういう受験戦争にかちぬいた人たちが指導者になって問題が起きるというのもわかる
あまりにも知の面を重視してそうなった
過剰というとき今は情報社会であり情報でもそうである、これはいい面と悪い面がある
あまりにも多い情報は消化しきれなくなる
何が重要なのか重要でいなのかニュースでもわからなくなるのである
ただマスコミだけの情報の一方通行は悪いものだった
情報が多いということは多角的に検討できるということである 

だから最近はアマゾンでいくらでも古本でも安く買えるからまた本が増大したのである
こういうことが早い時期にできたら田舎では知識で劣ることはなかった
本を買うこと自体仙台まで行かねばならないしそもそも仙台でも売ってない本が多すぎたのである、それだけ今になると本というのは多いものだと思った
だから読むべき本も読まないで終わったとなったのである
だから情報が多いということは悪いことではない、多角的に物事を見れるからである
ただそれも限度がある、もうとても処理できない情報の氾濫になってしまったからだ
ただこういうことが若い時からあれば相当に有利だったのである

例えば動画があるが動画をビデオにとるとその情報量が写真の百倍にもなる
膨大な情報量になる、それがテレビとかで編集するが実は百倍のテレビに写さないものが残されている、それも情報なのだがはぶかれる、つまり人間が摂取する情報には限りがある、百倍あるとしたら8時間でも見ていなければなくなるからだ
だから最近動画をとって出そうとしたがあきらめた、その作業も手間だからである
写真だったら一場面でいいからだ、いいものを印象になった一場面を出すからだ
ただその写真でデジタルになると実は百枚とって一枚選ぶとなる
情報でモ選別作業が必要になる、その選別作業でもむずかいしのである
情報を処理しきれないというのが現代にもなる、その膨大な情報の中で重要な貴重な情報が見逃されることもある、これも問題だと思った

だから過剰化社会になると無駄なゴミ情報に追われるということもある
これはテレビ六局時代にあった、それは情報の独占時代だったからである
でもこれだけ情報が増えると膨大な情報のゴミが生まれても整理できない
それがゴミなのかどうかも判定できないから簡単には言えない
でも検索でも膨大な情報の前にゴミの中から宝石を探すような状態になる
ただ膨大なゴミをかきわけるとかになる、情報の過剰化社会だとそうなる
でもそれをゴミとか簡単には判定できない、でも肝心の宝石となる情報も埋もれるということはありうる、それは大衆化したということでもある
インタ−ネットでも少数の時代があり今ではスマホでも参加して大衆化したのである
大衆化するとどうしても何でも低俗化する
低俗な情報がインタ−ネットをしめる、それで視聴率でもとる
それはテレビと同じだとなる、でもyoutubeでも百万は見ていないからいかにテレビがみんなが見ることで力をもったかわかるのである

とにかく縮小化社会とかミニマム社会とは過剰化社会からの変換として必然的にそうなってゆくのかもしれない、何かあまりにも過剰化してそれが税の負担の増大になる
もうそれに耐えられない、国自体がつぶれるとまでなる
それは過剰な医療とか過剰な無駄は許されなくなる、そんな余裕はもうないのである
だから縮小化社会とかミニマム生活とかが言われるのはそうした反動があり必然的に生まれたともなるのだ
なんでも増大すればいいという社会は終わりを告げたとなるからだ  

大量生産・消費時代の「足りない、欲しい」の意識を捨てることで、

余計なものを削ぎ落とし、コンパクトに生きるミニマムライフが大切です

こんなことが盛んに言われる時代になったのである











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2018年10月13日

縮小社会であらゆるものがへる (大学でも銀行も病院も倒産が増える)


縮小社会であらゆるものがへる

(大学でも銀行も病院も倒産が増える)

銀行倒産
大学倒産
病院倒産
宗教団体倒産
肥大化した自治体倒産
新聞テレビもいらない

・・・・・・・・


会社はAIを操作する人と他は少数精鋭で一人握りで経営、社員や行員は極力減らす
教師は特に優秀な人にしぼりあとは減らす、通信で全国放送とかパソコンのソフトとかで学び人間から学ぶことははぶく

教師は減らす
銀行員はいらない
病院も優秀な医者がAIを操作してあとは減らす
宗教団体の数はへらす、あくどい宗教商売だから
そこで幹部は収入減でやめる
それも商売だったからだ

要するに人間社会は特に現代はいらないものを増やしすぎたのである
それは高度成長時代だから人口も増えて何でも増えることがいいという時代だった
物でもどんどん増やさないといけない、また人口が多いから売れたのである
大学だってすでに団塊の世代から私立大学などはマンモス大学になり二三流となるともう何が大学かわからなくなっていた、ただ大学という名前だけになっていたのである
三千人に講堂で講義するとかなるとつまらないからみんなゲバ棒をもって学生運動が面白いとかなった、そこで青春のエネルギーを発散させるとかなっていたのである
つまりこの時から大学生はエリートという感覚がなくなっていたのである

とにかく何でも右肩上がりに増大した時代は終わった
次に来るのは縮小社会なのである
これからせ病院も倒産してくる、すでに倒産が増えている
患者が減ってくる、高齢化でもまもなくその高齢者自体が死んで減ってゆく
すると病院も医者もそんなにいらなくなる
医者とか病院がへってもそれは社会にとって悪いとはならない
みんな健康で年をとり介護されないで死ぬようになると社会的コストも少なくてすむ
医療費で国が潰れるようなことはなくなる

あらゆるものが減ってゆく時代である
空き家が800万軒も全国にある、いたるところに空き家は増える
そのことは自治体の人口がへり縮小してゆくことなのである
つまり少子高齢化とかこれからは深刻な縮小社会になる

逆に今までは大学生でも大量生産でありどこが大学生なのかわからない、ただ名前だけが大学とついているだけになった
銀行も金を集めるのはいいが投資先がないからもうけられない
それで投資信託をうりつける、それで信用を失うということもある
つまり銀行もいらなくなったのである
金余りであり金の使い先投資先がないのだ
だから銀行自体が無駄であり社会に何の役割があるのかとなりいらないとなる
縮小社会になるからそうなるのである

なんでも縮小しないともう経済的にもやっていけない、限界になったからである
無駄なことにエネルギーを費やしていられない時代になる
必要なものだけに投資してなんとかやってゆく、江戸時代のようなリサイクル社会にもなる、そういう変化の時代である
これからの時代は高度成長とかの時代とは違う、減らす時代なのである
それは老子の言うような増やすのではない、減らす時代なのである
それはまた無駄なものが多すぎたということもある
かえって減らす結果社会はすっきりして住み安くなるメリットある
もちろんデメリットも大きいから社会の変革時には苦しむ人が増える
ただそれを乗り越えるとかえって住みやすい社会になっているかもしれないのだ  

インタ−ネットで新聞とか雑誌とか出版社でもテレビもいらなくなるしもうなっている
こうしたものはメデアだったのである、ただ仲介するものでありそれで利益を得ていたのである、医療分野でも専門雑誌がありそこで仲介して出版社がもうけていたがそれを直接インタ−ネットで閲覧させる仕組みを作ってそこに金を払わないようにしたとかある
そういう仲介業者はインタ−ネットになるとはぶかれる
時代の変わり目には失業する人が増大する
ただ新しい職業も生まれる、それを模索中なのである

ともかくなんでも減らす時代になる、縮小する時代になる
ダウンサイジングする時代になる、こういう時代は今までの成長時代とは違った人生哲学思想が必要になる、リサイクルとかシェア経済とかである
貨幣でも今までの違ったものとして現れる、金に対する感覚も変わるしそれより価値観が変わる、物が豊かになると物意外が価値が生まれる
それは今まで金では買えないものだったがそうした金では計れない価値が価値を帯びてくる、それはAIで加速する、固定化しない流動的な社会になる
そういう中で活路を見出す人が生き残るとなる
その過渡期だからいろいろなことが試されるとなる

これまでは大量生産の時代であり量の時代であった、これから質の時代になる
つまり良質なもの人でも優秀な選ばれた人が必要になりその選ばれた人がAIにもなる
なぜなら人間社会はもともとどこでも優秀な人を求めているからである
そればどこの分野でもそうである、その優秀な人はわずかでありだからこそAIを作りその優秀な人の代わりにさせるとなるのである
要するに社会は少数の優秀な人がいればまわる、その他は無能なのはいらない、それはコストになるだけだとなる、その未来はまた悪夢にもなる
なぜなら無能であれなんであれ人間はこの世に生まれたら生きていかねばならないからだ多数の無能であれなんであれ無視してはありえてないのである
ただ社会自体少数で機能し運営されるようになる
縮小社会ではそうならざるを得ないからだ、そうしなければ人口が減るのだから労働力も減るのだからそれを補うためにはAIであれロボットであれ必要になる

ただ誰も未来のことはわからない、それが悪夢にもなる、いくら科学技術が発達しても人間に楽園は来ない、原発事故を見ればわかる、何かで矛盾が生まれ必ずアクシデントがあり破綻するのが人間社会の運命なのである
ただ別に縮小社会にもメリットとデメリットがあり全部悪いものではないのである
かえって広々として狭い日本も住みやすくなったとかなるかもしれない、日本はそもそも狭いところに人が集まりすぎているからだ
家でも広い部屋に寝ている安眠できる,八畳間で天井が高いとかなると安眠できる
心に余裕ができなる、空き家が増えるとそういうことがやりやすくなる
東京でも江戸が百万だとするとせめて5百万とかなると住みやすくなる
そういう時代が縮小社会でやってくる、地方都市などに人口も分散する
それは縮小社会で起きてくる、その方が住みやすくなったとなる
だから未来がすべて悪いものとはならないのである


要するに無駄に食べ過ぎている、過食になっている、また食べさせられている
それは会社のもうけのためであり会社を経営する人たちがそう仕向けている

そういう罠にはまらない、質素な生活でも人間は健康になれる
自分も実際はやせているタイプなのに太る
現代の生活は何か太るようにできているのである、過食になるのだ
一人暮らしは余計になりやすい、外食とか簡単なものですませる
そして野菜がどうしても不足するからである

現代人はこうした食生活を見直すべきである、これも大きな無駄でありその無駄によって健康を害す、まずジュース類は人工甘味料が入っているら体に良くない
これも太るようになる,野菜ジュース自体が野菜ではないのだ
それで買って飲むのが間違っているのである
確かに安いがこの辺は本物の野菜と果物をとらないとだめである




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2018年10月12日

戦後70年で時代変革の時が来た (そこに若者の活躍する場が開ける)


戦後70年で時代変革の時が来た

(そこに若者の活躍する場が開ける)


人間はどうして人格形成とか知識でも思想でも作られてゆくのか?
それは何もしないで作られるわけがない、生まれつきで作られるというのは天才だけだろう、天才だってなんらかか社会に生きていて身につくものがありなる
人間は必ず時代の影響を受ける、もし今の人が一時代前にタイムマシンで行ったらそこで天才になってしまう、それは時代が違うからそうなる
時代の影響が大きいしそれを乗り越えられない、だから不思議なのは江戸時代は農業社会であり80パーセントが農民だったのに工業化できたのか?
そういう素地があったのかとなる 

明治時代はみんな大学でも会社でもみんな創業者になった、そういうことができたのだろうとなる、それはやはり江戸時代に培ったものがなければできない
そのことが良く理解できない、工業といっても家内工業とかでありそれが機織りから工場の絹織物工場に変化したからである
そこには機械を入れて煉瓦作りの工場を建設して農家の若い女性は工員となったからである
その時なぜ学校ができたかというと集団で組織化して子供を工場で時計にあわせて働かせるものとなったからである
寺の鐘で時間をおおまかに計っていたのとは違い時計によって人は時間で働かせられるようになったのである 

こう考えると明治時代は凄い時代だったとみる、それで外国の人も驚いた、日本の力に脅威を感じたこともわかる、なぜならアジアをみればわかる、ほとんど植民地になったからだ、明治時代はまた西洋に追いつくために青年は必死だった
それでイギリスに留学した青年が英語できなくて自殺したとかある
公費留学だから責任も感じていた、その時明治維新でもそうだが若者が活躍して新しい時代を切り開いたということがある
それだけ新しいものを吸収するには今までの価値観とか考え方や特権に甘んじている既得権者にはできないことだった、それで明治維新の中心になったの下級武士の若者だったのである、明治維新でも歴史でもいろいろな見方がある
最近は明治維新を否定的に見る人もいる、でもその激変のなかで日本だけがヨ−ロッパの植民地にならなかったことは特筆すべきことだったしそしてその後も日本自体をあれだけ変革したということは驚嘆すべきだった
江戸時代とはまるで違ったものとなった大変革があったからである

ただ人間何もないところから何か新しいものが生まれるとは思えない
だから日本は江戸時代のことを良く知るべきだがなかなか理解できない
新しい改革を担ったのは侍だったということもあるからだ
侍が教育者になったのが多い指導的立場になった
そういう人材になるものとして侍があったとなる
別に薩摩長州だけではなん江戸幕府からも明治時代を築く人たちは出ていたからである
人間はどうして作られるのか?

人間は歴史的存在だということが動物とは違っている
歴史的に継続されたものとして人間がある、それを一番感じるのはそれぞれの家なのである、家というの実際それぞれ違っていて歴史があり重みをもっている
二代くらいでも家の歴史があり人間がつきあうときその個人もあるが家を見ないとわからないということがある、それで前は家と家の結婚だったということでもわかる
その家の家系など家を見て結婚していた、家柄もあってそれを見ていた
だから家柄が違うと結婚しないということもあった
これもプラスマイナスはある、だから全面的には肯定できないがそこにもやはり伝統的なものにはなにかしら人間にとっていいものがあるから伝えられてきたのである 

人間はまずその時代に生きていてもその時代のことはわからないことがある
一時代が終わった時、その時代が見えてくる、歴史とはそういうものである
今の時代だって現実に生きていてもわからないことがあるのだ
今どういう時代になっているのか?その時代を見ることがむずかしいのである
これだけグロ−バル化したことでさらにわからなくなる
中国があんなに遅れていたのにもう世界の大国になりアメリカと覇権を争うまでになっている、そういうふうに国際関係でも常に変わってゆくから理解できなくなる

老人の有利なのはやはり一つの時代を生きたことでその一時代を見れるということがある団塊の世代は戦前とかの世代と比べると戦争を経験しない、日本をだめにした世代とされて若者の反感が多い、団塊の世代のために日本はだめにされた、団塊の世代はいいとこどりしたとか言われる、団塊の世代は高度成長の時代であり何か企業しても小規模でも店でも中小企業でもうまくいった時代なのである
今になると起業することはむずかしい、それはもういろろいなものができあがっているからである、もう物質的には飽和状態になっている
団塊の世代はものずごい物欲があり三種の神器として「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」があった、それを欲しくてがむしゃらに企業戦士として働いた
テレビにはみんなかじりついていたからだ、子供の時はラジオだった
家にはどこでも飯台一つであり裸電球とか何もない時代だったのである
その物欲はその後もマイホームとか車が欲しいとなり日本人は働いたのである

そして今若者が物欲がないというときそういうものがあふれていて満たされているからである、生まれたときからあるのだからそれはあってあたりまえだからそれを欲しいとはならないのである、便利な生活が当たり前だから特別欲しいともならないのである
つまり物欲の時代は終わったのである、情報化社会というのは物欲社会とは違っている
そこに何か価値観の変化が起きている、それは今の時代に生きていてもわからない
例えば日本の経済がなぜ停滞して衰退して日本人が今度は貧乏になってゆくのか?
その原因はなんなのだろうとなる、その前に日本人はなぜ戦後世界でもアメリカについで経済力をもち豊かになったのかというのもある
それはアジアで一番先に西欧化したヨ−ロッパに追いついたということがある
それは明治に植民地化されないでそうなったのである
戦争に負けた結果それが悪いこともあったがいい方に働いた
軍事力に力をそそがないで経済だけに集中すればよかったからである
それからソビエト連邦とアメリカの冷戦も日本にとっていいものとして働いた
そこに戦後は国際関係で日本に有利に働き経済発展を遂げたのである

そして戦後70年過ぎて時代の変わり目がきたのである
日本はまた変革しないと後進国になる、すでにその兆候はいたるところに現れている
明治時代のような進取の精神はない、それで今は国際化して大学にもアジアの留学生が来る,その人たちは熱心に真剣に学んでいるという、それは日本の明治時代の青年と同じなのである、なんとか国に帰って発展させたいという熱意があるからそうなっている
日本人は今若者ですらそういう進取の精神がない、それは満たされた社会だからである
物欲は満たされた社会だからそれがないのである

日本は高度成長時代からバブルとか経験してあらゆることに遅れをとった
IT分野でもそうでありすでに中国に追い越された、知的な分野でも科学技術でも遅れをとっている、今のノーベル賞をとっているのは20年前と30年前の基礎研究の結果だと言われる、これからはノーベル賞もとれない,なぜなら論文の数が少なくなり今度は中国が日本をおいぬいて進んでいるからである
だから中国でも20年前には最低の国だと思っていたがこんなに変わることに驚くのである

今日本は戦後70年で変わり目にきている、あらゆる方面でそうなのである
銀行は安定していい就職先だった、しかし銀行はもうすでに大手の銀行でも大量にリストラされている、地銀でも投資信託などを売りつけてもともと証券会社でないのに利益が出せない、貸し付ける先がないとなり危機にひんしている
そもそも世界中が金余りになり金が回らない、それで世界的に経済が停滞しているというその大量の金が行く先がてくなり大麻とかをとりしきる闇の世界に流れていたのである
つまり資本主義でも変わり目にきている,金だけが価値となる社会から何か違った価値観が生まれる、そこで今までの金が紙幣が流通するのではなく別の価値観でやりとりできる新しい貨幣の創造が成される、試みがなされている
それはインタ−ネットとかの普及でも変わるのである

今の時代の先端を行っているのはやはりIT関係だともなる、だから銀行は旧弊なものとなる、何か銀行が江戸時代のような感覚にもなる、私自身も古いタイプだから銀行は信用ある硬い職業だというものとして見ていた
それで投資信託を売りつけられて2000万損したというばあちゃんは損しても銀行を信用していたのである、それは明治の時徳川幕府を信じていた、永遠につづくと思っていた人たちと同じなのである、それは自分自身がそうだったのである
老人はとはそういう過去からあったものをそのまま継続して同じにあると見ているからそうなるのである
情報だって今はテレビだけからとるものではない、インタ−ネットがあり今度はyoutubeがありと幅広くなる
それでわかるのはテレビを見ている層ははっきりその傾向が年代別にわかる
50代以上は多いし60代以上になるとさらに多い、その年代の人たちはテレビをみている、だからテレビではそういう人たちに見られているのだから番組作りも若者向きではない、老人向きの番組作りになるのである

そして現代の問題は少子高齢化でありシルバー民主主義というように老人は投票に行くし老人に政治家もこびる、老人向きの政策になる
それで正規社員はやめさせられないとか50代以上になると若者の給料の倍をもらっているとか若者世代の40以下の世代の不満が大きいのである
でもそれが改革できないのはシルバー民主主義になり50代以降でもそこが人口が多いから政策でもその年代向きのものになる
つまり改革できないということである、それで日本全体が衰退してゆき結果的に貧乏になるというITを担う若者が40代以下が言うのもわかる
つまり何らかの改革が日本ではしなければならない、それは大学でもそうだしあらゆる面でそうなのだができないのである
老人がこれだけ多いということはなかなか新陳代謝ができない社会だからそうなる
それは世界的にそうである、中国もそうなりつつあるという、そうなるとこれから発展するのはアフリカになるのかという、なぜならアフリカは一番若い人が多いとなっているからだ、若い人が多いということはそれだけでエネルギーとなるからだ
戦後に団塊の世代は生まれたが数が多かった、だから不思議なのは戦後の焼け野原なのに食べるものもないのに良くそんな人口を養えたという不思議がある

いづれにしろ今の時代を生きていても今がどういう時代なのかわからない
でもその中で時代を切り開く人たちがいて新しい時代が生まれた
そういう時代の変わり目には若者が活躍できるということもある
新しい時代を築くとなると老人にはできない、この辺でも復興しようにも避難区域に帰ったの老人だけでありどうせ死ぬだけだとなる人が復興はできない
こういうときこそ若い世代が活躍しなければできない、それが流出したからできなくなっているのだ
ただでは新しい時代を築くとしてもそれを切り開くには容易ではない
未来を見る目が必要になりそれはまた過去を歴史をふりかえることでもある
だから明治時代にあれだけの改革をできたということは驚嘆すべきであり見習うべきだとなる、今あるもの大学でもそうだが企業でも会社でも明治時代にできたものだからであるただ老人は歴史とかを見る目は養われる、それはやはり長く生きていてその変化をみるからである、家というのも生きていてそこで長い目で家の歴史をみる
家が形成された歴史をみるからそれが他でも歴史を見る目が養われるのである


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2018年10月09日

銀行はもう害になるだけでいらない? (投資信託の説明責任があってもしない(犯罪として認定された)


銀行はもう害になるだけでいらない?

(投資信託の説明責任があってもしない(犯罪として認定された)

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銀行の投資信託販売につき不法行為責任が認められた事例

説明義務違反について

本件各投資信託について、一応の説明は行われていたとしつつも、Xの年齢や投資経験、知識の乏しさに照らし、「本件各投資信託は、その内容を理解することは容易ではなく、将来の株価の予測というおよそ困難な判断が要求され、また、元本割れのリスクも相当程度存在するにもかかわらず、条件付きの元本保証、という商品の特性により元本の安全性が印象づけられることから、当該条件については特に慎重に説明する必要があった」とした。

 そのうえで、Xが不安も述べずにその場で直ちに購入を決めていたことなどから、Xは本件各投資信託の内容を具体的に理解できず、そのリスクについて現実味を帯びたものとして理解 できていなかったとした。

 また、Aらは、Xが元本保証を重視していることを知っていたのに、株価予測の参考となる情報を提供しなかったことなどから、本件各投資信託の危険性をXが具体的に理解することができる程度の説明をしたとは認められないなどとして、Aらの説明義務違反を認めた。

 そして、適合性原則違反および説明義務違反による不法行為を認定し、2割の過失相殺のうえ205万9748円の限度で損害賠償請求を認め、弁護士費用20万円を認容した(契約不成立や錯誤については、複数の手続書類(約定書や確認書など) の存在や、勧誘時に一応の説明がなされていたことから否定)。



AがBに対して "accountable" であるということは、AはBに対して自分の行動や決断を説明、正当化し、また不正行為を働いた場合は、処罰を受け入れる義務を負う、ということです。

つまりは、「説明責任を果たす」ということは、与えられた権限を行使し自らの役割を果たし、もし任務に失敗したり、何か不正を働いた場合は、その責任を負う。最終的には出所進退を申し出て、裁きを待つ。

日本では、accountability が矮小されて、「説明する責任」になってしまっており、責任を負う、責任を取るという肝心の部分が抜けてしまっています。これは、なぜでしょうか。誰もが責任を避け、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会と評される日本の文化では、これも当然の帰結なんでしょうか。


ここで犯罪と認定されたということである、そこまでできるのか?
こういう判例は他の者にあとで適応できるのか?
こういうことは相当に今増えているからだ、もしこれが適用できれば裁判になり勝訴するともなる、,銀行でも証券会社でも警戒するからすすめにくいともなる
ただここでこれだけで本当に犯罪として裁判で認定されたということはやはり他の者にも相当に影響するのではないか?

銀行がすすめる投資信託は人気商品はもうからないという、なぜなら人気商品となったとき高額になっていて下がるだけだからだという、早いうちに仕込んでいれば将来もうかるしかし銀行が人気商品としてすすめるときはもう下がるときなのである

そのことを銀行は知らないのか?

知っている?

知っていてすすめるのか 

銀行がもうかるから

これはだましという詐欺罪なのだろうか?

まず銀行では今はやりでもうかります、みんな投資していますとかすすめる
youtubeではAIをすすめた、でもその時はもう高額になっていたりして新規参入が多くなり競争が激しくなり株価は必ず下がるという方程式みたいなものがあると指摘していた
youtubeではAI投資で大損した人も説明している、つまりはやりのときをすすめるがその時はすでに高額になっていて遅い
後は株は下がるだけだというのが株をしている人は知っている
今はやりのものはそのずっと前にしこんでおかないとみんなが参入したときでは遅いのである
でも銀行はそれを知っていてすすめてくる、知らないわけがないのである
その時証券会社の人も一緒に来たから銀行と証券会社は共謀していたとなる

銀行員は私はプロですからまかせてくださいという
その人は証券市場で一時的に働いていた
ではその人はこうした事情を知らないですすめているのだろうか?

このyoutubeでは東京の大きな銀行でもすすめらたのである
その大きな銀行でこうした事情を知らないのだろうか?
つまり銀行は金融業だから株式にも素人よりは通じていると思うだろう
そういうふうにプロだからまかせてくださいというからまかせたのである

でもそもそも銀行は投資信託のことを株のことをどこまで知っているのだろうか?
支店長は証券会社ではないから知らないと言っていた
そんな知らないなら投資信託などすすめるなとなる、素人にすすめるなとなる
本当に株のことは知らない,ただ証券会社の人も来たから教えられていることは確かである
でもまた証券会社では本当に金融のプロだとするとき銀行にそうしたはやりの投資信託をすすめるのか?

証券会社はそれがどういう商品か知っている

もうすすめるときはもうからない  

銀行は証券会社から知らないで委託されて客に売るのか

証券会社→銀行→客

ここに二つの媒介となるものがある、この二つはその商品が投資信託がどういうものか知っている、少なくてもそれを仕事にしている人だからである
もしそういうことを知らないとしたら誰もまかせないだろう
もちろん株だとしたらいろいろなことでリスクがあり上がったり下がったりする
でも投資信託に株にも方程式のようなものがある
そこは説明されないし投資信託の仕組みは複雑すぎてわからないのである

ここで私が問題にしているのはこれは意図がある詐欺にあたるのではないかということである

もし知らないとしたらまかせてくださいとか言えるのか?

もし知っているとしたらどうしてそんなもうからないものをすすめるのか?

もちろん株には上がり下がりがあり予測できない、でも事前にyoutubeの失敗した人の話では一切そうししたリスクは説明しないのである
銀行では知っていて説明しない、説明したら買わないからである
いいことしか言わないのである

どうしてもこれは詐欺にあたるのではないか?

説明責任を果たさないということで詐欺になる、それで実際に訴えた人がいる
説明責任を問われたのである、もちろん買う人にも責任はある
でもどこまで買った人に責任があるのか? 
買った人も責任があるとしても銀行側の責任もあることは確かである

要するに銀行側ではその投資信託は実際はもうからないと知っている
でも売った時点確実に手数料がとれるしあとはどうでもいいと考えている
銀行側では絶対に損しない商売だからである

なぜこういうことが起きるのか?

それは医療関係でも説明責任があるのだが良く説明しない、それは専門用語とかになりわかりにくいからである、それで説明されたとしてもわからないままに治療をつづけてかえって薬や抗癌剤を飲み続けて悪化したとか普通にある
医院では医者ではいらない薬でも必要ないMRIの写真をとらせたりする、20万かかったとかある、その費用は福祉関係で税金だったりする
それで医療の費用が高齢化で莫大なものになり国がつぶれるとまでなる

そこではどうしてしももうける利益をあげることが優先されるからだ
医者だってもしいらない薬を与えているとしたら知っていて与えるとしたらそれは違法であり詐欺的なものとなる、そこには金がかかり国の財政に影響してくる

これは原発事故でもあった、まず説明はされない、ただ安全だ、安全だとしか言わない
それで「安全神話」が作られていたから避難する時も一番危険な場所に浪江の人たちは避難したのである
それは「安全神話」が作られていれば事故が絶対に起きないという説明だから事故が起きても対処することなど考慮していないからである
事故の時一番先に伝えたのはアメリカだったのである
日本ではもう何もできなくなっていたのである
アメリカに頼ることしかできないようなものを日本国内に作るなとなる
アメリカでは事故になってもかけつけることもできないからである

原発の場合はまず放射線とかわかりにくい、するとそこに御用学者が科学者が説明するけどそれは政府とか東電に雇われた人であり説明責任を果たすことはできない
やはりただ安全だ安全だとしか言わないからである
危険のことは言わない、言ったら原発も建てられないからである
銀行でももし投資信託がどういうものかそのマイナス点を説明したら説明責任を果たすことになるがそれはしない、そうしたら買ってもらえない、銀行の利益にならないからである

現代文明社会の問題はこうして複雑であり説明されても株とか投資信託でもわからない
医療でもわからない、原発はさらにわからない、そこで説明されてもいいことしか言わない、でも反論もできない、専門家の言うままになる
それで専門家によって無力化された社会だということがわかる
そうして専門家にまかせても専門家が万能ではない、危険がありそれに備えることはできない、そしてとりかえしのつかない大事故になった

結局誰かが何であれ責任をとらされる

投資信託はまがいものだが買った奴が悪い、大損になる責任をとらされる
医療でも抗癌剤をいいとして飲まされて悪化して早く死んだ
死んだ本人が責任をとらされる
原発事故では「安全神話」がふきこまれリスクの説明責任は果たさなかったが地元の人は住めなくなるとか農作物を作れない責任をとらされた
必ずなんであれ誰かが責任をとらされるのが人間社会である
そのことを事前に頭に入れておくことが大事だとなる

日本では、accountability が矮小されて、「説明する責任」になってしまっており、責任を負う、責任を取るという肝心の部分が抜けてしまっています。これは、なぜでしょうか。誰もが責任を避け、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会と評される日本の文化では、これも当然の帰結なんでしょうか 

説明する責任ではない、説明したら終わりではない、責任をとるということである、原発事故のことで再三指摘してきたけど日本人は本当に責任をとらない社会である、誰も原発事故でも責任はとらない、でも責任は必ず誰かがとらされるのである
つまり責任をとらされるとしたらそのために真剣になり事にあたり万全を期すとなるからだ
責任とらなくていいとなると説明でも適当でいいしとか事故など百パーセント、確率で百万年に一回しか起きないとか言っていればいいのである、でも起きたらどうするのか?死刑になっていもいいのかとなったらそんなこと簡単には言えないのである
つまり責任感が日本人にはないとなる

これは危険なものですよ

これは大損するかもれませんよ

こういう恐怖をもって対処しないと必ず責任をとらされるし後から泣いても誰もその責任を代わってくれないのである
要するにだまされた奴が悪いとなりどん底にになっても誰も助けないとなってしまう
ただ現代社会はそうして大きな組織が団体がカルト宗教団体でもだましの団体になるし
国家自体がだますということも原発ではあったのである
こうなるとこの世をまともに生きてゆくことは本当に困難だとなる
そういうだますような詐欺的団体でも組織でも容認されているからだ
だから説明責任で銀行が罪に問われたことは大きい、消費者側にたったからである

第一国家がそうしてだますとなるともうお手上げだとなってしまうからだ
銀行などは地銀などは今までは地元でも信用するものとしてあったからだ
だからこそだまされてもばあちゃんは銀行を信じていたのである
だからそういう身近なところでも苦しくなると利益をあげるためにはそういうことをするだから個人でもそうだが団体でも追い詰められると人間は怖いとなる
善悪もなくなるからだ、それで日本の戦争でもアメリカに経済的に追い詰められたから石油も入らないとかで戦争に突入して負けたとなる
追い詰められることはすでに敗北しているのである
事業して失敗した人も借金して追い詰められているから人を助ける余裕などない
結局自分の困窮している時に来た人はみんな追い詰められた人だったから怖いものとなったのである
今自分は多少金銭的にも助けているとなるとそれは今は病気でもないし余裕があるからである

余裕がない人はみんな危険だ

銀行も今は追い詰められているから危険だ

追い詰められている人間と接することは一番危険だとなる 

いづれにしろ引用した文のようにして事にあたっている人がいるのか?
そうでないから国家の事業ですら誰も責任はとらない、そして誰かが確実に責任をとらされるのである
だから実際に説明責任を果たさないと判決が出て罰せられたということは知るべきである
原発事故では本当にこれをあてはめれば説明責任を果たさない犯罪だったとなり罰せられるべきだが罰せられないのである、誰も責任をとっていないのである

それにしても地銀とかはもともと信用を第一にしている、銀行だとそうである
証券会社はもともと何かあやしいものとして普通は手を出さないのである
自分もそうである、銀行は信用できるものだと思ったから銀行にすすめられたから買ったという人は相当に多い

でもこういうことを銀行がそれも大手でもするとなると銀行の信用はどうなるのか?

銀行はそんなものだったのか?

もう銀行は信用できない,地銀とかは何するところなんだ、地域にもいらない
実際に銀行が生き残るのは県で一つくらいとなる、銀行が消えてゆく
それはこんなだましをして悪あがきをしても生き残れなくなったのだ
何かそもそも投資信託は老人をだますために作られた商品だったと思う
次々配当金が入るとか何か利子がついてくる感覚になっていたのである
自分も馬鹿だと言えば馬鹿であり責任があることはある
でもばあちゃんが銀行を最後まで信用していたように銀行とはもともと信頼されていた
地銀となると地域に密着するから信用第一だったのである
それで銀行に就職するには身元調査をしたりと金を扱うからうるさいのである
それがこんなふうに人をだますような投資信託を売るようになったらもう銀行も終わりである、銀行の役目は終わったとなる
ただ害になるだけではないか?地域に何か貢献することがあるのか?
もうないとしたら役割を終えたとなるのか?

もう銀行はいらない、害になるだけだ!

こうなったらもう終わりである






posted by 老鶯 at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年09月29日

雇うことは雇われるよりずっとむずかしい (雇われる人は雇う人の気持ちがわからない)


雇うことは雇われるよりずっとむずかしい

(雇われる人は雇う人の気持ちがわからない)


人を雇うことは、雇われる人と労働契約を締結することを意味します。
また、雇われる人からみると雇主と労働契約を締結することを意味します。
求人に応募して、採用が決まり、働くようになったならば、それは雇主と働く人の間で労働契約が締結されたことを意味します。
働く人から見るとあまり意識しないかもしれません。
しかし、雇う立場の方は、契約を意識しませんでしたでは全く通用しません。
人を雇う以上は、労働契約を締結するという意識をしっかり持たなければなりません。
契約関係にあるということはお互いに義務を負い、権利をもつことを意味します。

もしもクビだと言われても、応じる必要はありません。

労働法も解雇を簡単には認めていません。職を失うことが死活問題になることを法律も考慮しているのです。

ちなみに労働契約を使用者から解約するのが解雇、働き手から解約するのが辞職、話し合って解約するのが合意解約です。

最初に明確に労働契約していないと賃金もまともに払われなくても法的に訴えることができないのである
その人は食堂で働いたが賃金が支給されないが訴えることもできなかった、なぜなら労働契約を結んでいなかったからである
法律的に文書で契約していなと訴えることもできない、それは他のことでもそうである
法律的に訴えるにはそうした証拠が必ず必要になるからである
だから現代では必ず法律的に有効なものとして文書が領収書などが大事になるのである
人間は口約束だとごまかしたりできるからである



雇う人は、雇われる人のことを考えるべきだし、
雇われる人も、雇ってくれている人のことを考えるべき。

雇う、雇われるの関係性に
上下関係だとか主従関係ていうもが
まったく存在しないとは言わないけれど、
結局のところ、「人」と「人」だから
土台の部分は対等だよね、って思う。

でも、人を雇うって、想像以上に気力も体力もお金も必要なのは事実。


雇われている人にも、雇われている人なりの思いがあるのと同じで、
雇う側の人にも、その人なりの思いがある。

「雇われる人」にはこれが永遠に分からないのである。
 だから「雇う人」が語る言葉を全く理解しないことがある。

─それだけではない。
 永遠に愚痴を言い、座っているだけで、何もしない無為の時を過ごすのだ。

繰り返し言う。
人間には「雇う人」と「雇われる人」の二種類しかいない。

どちらを選ぶのかは個人の自由だ。
「雇う人」は時間を思いのままに出来るが、同時に大きな責任を負う。



人を雇うことがこれほど大変なことを意識しなかった
もともと自分には人を雇う資格もないし経験もないし世事に疎いからできないものだった、ただ家の事情があって人を一時間でも雇うようになったのである
最初に雇ったのは自分ではない、母が雇ったのである
シルバーセンターの関係で手伝ってもらったのでそのまま雇った
しかしシルバーセンターは信用されるようでできない
人物の調査をしていない、ただその時はシルバーセンターは介入していないから責任は自分の家にあった

どんなことでもささいなことでも雇うことは大変なことである
雇う方が雇われるより大変なことだと知った

雇う人を信用できるのか?

これ自体がまず最大の困難である、どうしてその人を信用できるのか?
最初はするシルバーセンターとかで信用した
今は個人ではなくそうした組織が信用機関になっているからだ
その後は個人と個人の関係になっていたのである
シルバーセンターとは関係なくなっていたし別にシルバーセンターを通していないから責任はシルバーセンターにはない
現実にそう契約に書いてあるからだ、勝手にシルバーセンター通さないで雇うなと書いてあるからだ
そこが錯覚しやすいことだった
そして田舎のことだから信用することがあった
小さな領域に住んでいるからである
そこで盗まれて大損失になった

ここで私が意識したことは人を雇うことは本当に雇う側にとっては重大なことである
それは家なら家のことをまかすとまでなるからだ
だから家の中に入れる仕事は本当に信用が一番大事である
ヨ−ロッパなどでは信用をどうして得ているかとなると召使というのは前に雇われた家のことを知りそのことで正直に勤めていれば信用ができていた、それは今の履歴書みたいなものかもしれない
そういうことは雇う方で情報が入っていたからできた
要するにその人となりがわかって雇っていたとなる

雇うとはまずその人を信用しないかぎり本当はできない

そして雇う方では「頼みますよ」という切実な思いがあって頼んでいる、でも雇われる人はそのことを意識しない
いくら金がもらえるのか?それしか頭にないのである
そして二番目の人はただ金だけをもらうために来ているだけになった
なぜなら三日に一回皿を洗うにしても二三枚であり後はなにもしない
何をしにくるのか?金の請求である
契約でいくら払うといって雇ったがその倍以上請求する
払わなくても良かったがいろいろ事情があって雇う側の裁量で払ってきた
その時はまだ金の余裕があったからである
別に雇われる人がどうであれ雇う側でよしとすれば働かなくても払う人はいる、それは自由なのである

ここでの雇う雇われる関係は会社とは違う、個人と個人の関係になる
そうすると一番大事なのはどうして信用するかなのである
これが最高にむずかしい、実は雇うということはその人を信用したということなのである
そのことで決められた金を払うとなる
まず履歴書でも見て面接してその人を見て雇うか決める
雇った時点で給料を支払う時すでにその人を信用したのである
この信用するということがいかに重要か?
雇われる人は感じないのである
ただ時給いくらで働かせるだけでありできれば働きたくないとなっているからだ
でも雇う方は実は切実なのである

特に個人対個人になるとそうである、雇う方では困っている
それで他人に頼むとなるまず信用できるのか、家に入れて大丈夫なのか?そのことが最大の問題になるからだ
でも家に入れた時点で雇った時点で実はその人は信用されたのである
でも雇われた人はそうして信用されたことを意識していない
会社でコンビニとかで雇われる場合でもそうだろう
ただ時給をもらうために雇われたとしか意識しないだろう
ただ他人の家に入ることはまた違っている
そこで一番大事なのは信用なのである

雇う方では「頼みますよ」という切実な思いがある
雇われる人はただ時給として金をもらえばいいとしか考えないのである、これだけの金をもらったからこれだけのことをする
それ以上のことはしないとなる
でもその人は例えば三万で頼んだとすると確実に前借りするしなにかにやと要求する、それも電気がとめられたとか水道とめめらたかとか借金とりがきたとか次から次と切迫したことを言う
それで結局必ず倍以上の金額を要求する
それも事情があったから払っていた

「この金額で頼みますよ」と頼んでもそれでは絶対に終わらない
三万で頼んだら三万以上を要求されることがわかると頼めなくなったのである。
三万は六万になるとなれば頼めないのである
金を払う方になるとそうなる、雇う側になるとそうなる
雇う側でも金が無限にあるわけではないからだ、でも雇う人は何かそういうことを感がない,とにかく多くの金をもらいたいとなるのだ,でも金には常に責任がついてまわっている
金をもらえばそれは責任になる

自分の場合は個人と個人の関係の雇用だから会社ではないからかなり違っているが基本は同じなのかもしれない
まず雇う側としては信用しないと雇えないのである
そして雇うということは信用されたことだが雇われた人はそういう自覚はない、ただ時給をもらえばいい、できるだけ働かなくてももらえばいいしかないのである
そこであまり雇われる人は責任を自覚しないのである
頼まれるということはその人を信頼することだったのである

それでなぜ自分は病院に一か月入院したとき親戚の人に知らせないで頼まなかったのか?
それはその人が事業の失敗をして多額の借金をしているからである
もし頼んだら事業家だからその金が大きくなるからだ
すでに金を貸してもいるからだ、そこで頼まなかったということは信用しなかったことである
でも結果的にそのことで大金を失った
だから自分には頼むという人がなかったとなる、信用して頼む人がいなかったのである

人間は頼むとか頼まれるとかを簡単に考えている
ところが頼むという時切実なことがあり何とか助けてくれとかで頼むことがある
でも頼まれる人はそのことを重大なものと考えないのである
雇用関係が今は対等だということにもなっている
それより雇う側の人が責任があり責任が課せられている
そのことを意識しないのが雇われる側である
こういうことは大きな組織でも国とかの単位になるとそうである
指導する立場になるともきすごい責任が課せられることになる
その決断が判断が誤れば戦争のように3百万人とか死ぬことになるからだ、その決断する立場になったら空恐ろしいことだとなる
もうすでにそれは一人ではできない、だから戦争では国民全員が責任あるとして誰も責任は問われない、原発事故でもみんな責任があるとして誰も責任を問わないのである
国民に責任があるとしたら誰も責任は問われないのである
でも必ず誰かが責任をとらされる、3百万人が死んだということで国民が責任をとらされたのである

人を雇うって、想像以上に気力も体力もお金も必要なのは事実。

これは本当にそうである、もう自分はそうした力もない、もともとなかった、ただ事情と成り行きでそうなっただけである
本当に今は雇うと雇われ関係は対等でありむしろ雇う側の責任の方が大きいから雇うことは普通の人はできない
これは指導する人と指導される人の関係にも似ているかもしれない
指導する方が責任が重大であり疲れる
ただ支持される人は責任もなく楽だとなる
でも何かをまかせられる、たのまれることは雇われる方でも実は「あなたに頼みますよ」ということで信用して頼む切実なものがある、でも頼まれる人はそれを感じないのである

だから人間は雇う人雇われる人がいるというとき雇われるだけではなく雇う人の身にもなってみるべきだとなる
そうすれば両方の気持ちがわかるから責任も感じるとなるからだ
結局こういうことも経験しないとわからないのである
雇う人になることは普通は少ない、みんな雇われる人になっているとすると雇うことがどういうことかわからないのである
雇うことも雇われることも実は個人と個人の信頼関係だということだということは基本にある
それがないかぎり両者が基本的にうまくいかない
ただ会社とかなると組織になるとまた違っているが基本に個人と個人の信頼関係として雇用関係はあるとなる
会社だと個人とか雇う人が誰なのか?それが見えないから現代の雇用関係は集団的相互信頼関係に変わったともなるが基本にはやはり信頼関係は個人と個人にある


文章を引用しているがurlだけではない、文章そのままを検索に入れるとたいがいでてくる
だから著作権違反はすぐに指摘できる
引用でも別に相手が指摘しないとか引用側の文が主になっていれば違反にはならないのである
ただインタ−ネットではどこに引用されているかもわかりにくいからかなり違反があるとはなる



posted by 老鶯 at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年09月27日

人間の労働には動機が必要 (金だけが動機になる労働は人間を退廃させた ―資本主義のモラルの崩壊)


 人間の労働には動機が必要

(金だけが動機になる労働は人間を退廃させた
―資本主義のモラルの崩壊)

人間には心がある、人間は心でももって動く、ロボットには心がない、だから例えば荷物でも一定区間を運ぶにしてもこれだけの労働するのだからいくらくれとか金が少ないとかなぜ荷物を運ばなければならないのかとか考える
例えば無料で何か荷物で運ぶことは誰もしない
でも美人の女性だったらそういうことをする男性が出てくる
それも一つの動機があり心が動いてそうする
人間は何かするにも無料ではしない、するにしても動機がある
そこに人間のやっかいさがあり人間を雇うことは働かせることはそれだけむずかしいのである
なぜロボットとかAIにしようとするのか?
それは人間自体がコストだからである
そのコストとなる人間を極力省くために経営者は熱心になることがわかる

人間はそもそも働きたくないのである、何か積極的な動機がなければ働きたくない、怠けるのである
そして問題は金だけでたいがい働かせるがそれだけでは人間を働かせるには無理なのである
お手伝いさんを雇ってわかったことはまず自分のために働く動機がない、金しかないのである
この人のために何かしてあげたいという気持ちが全くないのである
だから一人は泥棒で家探ししたとかある
次でも自分のために何かしてやりたいという動機が全くない
お茶一杯でもあげてやりたいという気持ちがない

だから何も言いつけないと本当に何もしないのである
普通だったら家が汚れていたら主婦だった家の者だったら掃除するからである
そういう気持ちがないから何も言いつけないと何もしない
ただ金が欲しい
というだけでその人はただ金を要求するだけになった、それは事情があったので払っていた
ただ三日一回皿洗うといっても二三枚だからそんなこと自分ですることにした、後は金の要求だけなのである

家族が母親はずっ−と食事の用意をしてくれた、それは家族だったからである、それが当たり前だと思っていた
でも今になると本当に自分のために一杯のお茶を出してくれる人がいないなのである
すべては金である、本当に荷物一つもってもらうのに一万とか十万でも払うようにもなる、なぜなら自分のために何もしたくないからである、そうなると全部金だけになるのである
労働でも無償の行為がある、家族労働は本来無償の行為である
子供を育てるのが将来自分が世話してもらいたい自分のために働かせたいという気持ちはない無償の労働である
ただそうして世話してくれるからこそ後で介護をしてくれるともなる、それは結果論でありそういう動機で子供を育てるわけではない
ただ昔は子供が労働力となるとして農民は育てていたということはある、それは時代でそうなった

いづれにしろ自分の言いたいことは人間は心をもっている
だから何かしら心が動かないと動機がないと働かない、荷物一つすら運ばないのである
不思議なのは好きなことであれば苦労でも人間はする
その人はもともと農家の出だから農業が好きなのである
いろいろ文句は言ってもそうなのである
だから苦労でもしている、文句を言ってもしている
ただそのために金を自分は払っている、だからキュウリ一本一万以上したものなのである
その女性にとにかく農業をする動機があるのだ

それは芸術家ともにている、芸術家が金で動いているのではない
何か内発的な動機であり画家だったら傑作を描きたいという動機が強いのである、金のためより前にそうしした動機が強く働いている
だから別に金にならなくてもゴッホのように異常なほど熱心になる
絵が一枚も売れなくても金にならなくてもそうなっているのである
インタ−ネットとかプログでも何か発言したいと知らせたいとかがありそれで無料でも書いたり写真を出したり動画を出したりする人はいる、それで注目をあびたいということでもしている

金だけではないのである、だから人間はすべてが金だけが動機で働くと限らないのである
もし金があるならば自分のしたいことをする、したくないことはもう金をもらってもしないだろう
その人はまず家事などしたくない、皿洗いでも二三枚でもしたくないのである、でも農業は苦労でもしたいのである
ただボランティアでは別に金にならなくてもすることはある
それは金に余裕があり人のために働くことが生きがいにもなるからである、ただその前提として金に余裕がなければ人はボランティアはしない、だから人間の働く動機はいろいろあるから必ずしも金だけではないのである。

金だけが働く動機になると問題が起きる
介護などは何か動機がないとしにくい、なぜこの赤の他人のために嫌な労働をさせられるのか?
給料が高いなら我慢するが安いのにこの人のために働かせられるのか?そういうことで熱心にはなれない
でも家族のためだったらいろいろ世話してくれたとかなり動機があるから違ってくるのである
自分の場合は特別に世話になったということがありできたのである
苦しかったけどもともと家事などしたことがないのにルーズでもするほかなかったとはなるしそういう動機があったからできたのである、人間苦しいことでも動機があればできる
それが戦争とかなると本当に動機が重要になる
なぜ若くて死ななければならないのか?
そのことに納得するには本当にむずかしい
だからいくら戦争を美化してもあのとき特攻隊でも煩悶して死んでいったのである、国のためだ天皇のためだといっても納得できなかったのである

だから人間はやはり金だけでは動かない、何するにしても動機が大事になる
そうでないと困難になったらすぐやめるとなるからだ
犠牲にされるとなると余計にそうである
介護などでも家でするとなると犠牲になるからだ
だから兄弟でも誰かに押し付けられるのである
まず一杯のお茶でもわかして動機がない人は出さない
後は金でやらせるのだがそこには心がこもらないのである
つまり心がこもって動機があってする労働と金だけの労働の差も大きいのである
だからただ機械的にする労働はロボットとかAI化されるのは必然なのである

人間は荷物一つ運ぶのも動機が必要でありしないからである
労働には動機が必要なのである
だからこそ資本主義がもともとウェバーの言うように修道院で生まれたという時、他社を助けるという宗教的動機からはじまったというときそうである
そうして労働することが神の御意にかなうということではじまったのである
それが今はただ金のためだけの労働となったから腐敗したとなる
ただ宗教的動機で働くことは普通はむずかしい、そんな高邁な動機を人間は普通もてない、だからただ金のためにだけ働いているのである、でも労働には必ず人助けということがある


医者とか介護関係とかには具体的でわかりやすくそうなっている
だからその動機がここで金だけになると問題になる
あとは災害の時などは金だけではない、利害に関係なく人を助けるために人は働いたのである、この辺でも原発事故で物資が入らなくなった、でもその時物を運んでくれなければ死にもつながっていたのである、だからこういうときは利害ぬきでの労働が必要とされたのである。
医者がただ金のためにだけ働くとなると地方では金にならないからと東京でみんな働くようになる
地方だと医者の労働がきついし金にもならないとかなって東京に集まる
医者の働く動機が人助けということが基本にあるとしてそれがなくなればただ医者も金だけで動くとなると社会自体が退廃してくる、地方にはいい医者がいなくなってしまうのである
この問題も働く動機が問題になる、地域医療を志す人がいないなくる、ただ医者は金になることだけが働く動機になればそうなるのである

ともかく自分が家族に恵まれたことを書いてきた
でもそのあまりにも恵まれた結果として今や一人も自分のためにお茶一杯も出してくれる人がいなくなった
これもやはりカルマだったとなる、ただ今は与えるだけだとなる
猫に餌やるのもそうだし何か与えることをしなければならなくったのである、だから人間はいつしか知らない間にカルマを積んでいる
それを必ず払わされる、それがカルマなのである
だから老人になるとそのことが具体的に現れる
いくら子供があったとしても親もいろろいだから親であっても名前ばかりの親もいるし毒親もいるから最後にその結果がカルマとなって現れるのである
おそらく人間は最後はカルマを必ず支払わされる
もしこの世で支払わないとしたら来世でも支払わされる
地獄とは何か?それは地獄とはカルマを支払わされる場所なのである

シーシュポスは神々を二度までも欺いた罰を受けることになった。彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた
シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

これは何を意味しているのか?
有益な労働をしなかった罰なのである、だから無益な労働を地獄で延々とさせられる羽目に陥ったのである
だからニートとかかなり危険なものである
働かなくていいとしてもカルマを積んでいるから延々と今度は無益な労働をさせられるともなる
地獄とはこの世であれ積んだカルマを支払わされる場なのである
老人はそういうカルマを具体的にすでに感じさせるし負わされるのである

いづれにしろ人間の労働が資本主義が修道院からはじまったというときそれが金だけの消費だけの労働となったとき退廃した
資本主義は社会主義と同じく理想があったがそれも退廃した
中国だって共産主義は幹部でも毛沢東でも人民服だった
みんな平等の精神がありそうなっていたが今や幹部は大金持ちで別荘だってもているだろう、何かこうして堕落したから資本主義も社会主義も失敗したから崩壊するということがある
人間は働くにしても動機が大事になるからそうなったとも言えるのである

そもそも何する労働にしてもこの人から金をとればいいとなったとしたら現実になっている、社会が成り立つのかとなるからだ
医者が患者から金とればいい、いらない薬でも飲まして金をとればいいとかなったり銀行員は客に投資信託をうりつけて手数料だけをとればいい後は関係ないとかお手伝いさんは働くにしても金だけしか動機がないとしたら盗めばいいとなり現実になる
介護でもこんな爺婆は何で生きているのだ、早く死んだ方がいいとなる、金持ちでもなぜこんな奴らに俺は使われているんだ、金のためだとなりその接し方でも愛など持ち得ようがなき
家族とは違うからである、こういう何かもともと家族がしていたような労働は極端になりやすいのである
だから現代は労働倫理が退廃してしまったのである

posted by 老鶯 at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年09月24日

資本主義は格差をもともと産む制度 (特別優秀なものを求めるからAIも産まれた ーしかし人間は万能になりえない)


資本主義は格差をもともと産む制度

(特別優秀なものを求めるからAIも産まれた
ーしかし人間は万能になりえない)

●スポーツ選手や芸能人の世界から見る

資本主義とは何か?それはいろいろな側面があるにしろもともと格差をうむ制度なのである
社会主義は平等を目指すが資本主義の理念は違っている、格差を必然的に産みだす制度なのである。
資本主義の欠点としてバブルになるとか恐慌になるとか失業を産むとかマイナスの点は指摘されてきたし現実に起ってきたのである
資本主義とはどういうものかというとプロスポーツ選手とかで芸能人をみるとわかりやすい、野球には何百人も一軍にも入れないやめる人が多い、そして一軍でも収入の多い優秀な人は本当にまれである、でもその一パーセントが興行収入を独りじめするように高額な収入となる
確かに大谷翔平とか注目される、その一人の活躍で野球の人気があがる、みんなアメリカの野球でも見るようになるからだ
つまり一人の天才的な選手が出ることで人気になるからそうなる
ある意味でスポーツでもとびぬけた選手を期待している
その他はどうでもいいとはならないにしても重要視されないのである、芸能人だって吉本興業に6000人いるとか言われ年収が10万だとかなりアルバイトして生計をたてているとかなる
芸能人でもそうして成功する人はまれなのである
タケシくらいになるとプール付きの大豪邸に住んでいる
ただスポーツ選手でも芸能人でも成功る割合は一パーセントくらいであり後は日の眼を見ないのである

●飛びぬけて優秀な人をスーパーマンを求める資本主義

これはスポーツ選手とか芸能人だけに限らないのである
資本主義のルールはこれとにているのである
とびぬけて優秀な人は収入もけたはずれになる
でも平凡な大多数は収入は低くなる、それも格差が拡大してもう底辺層は生きてもいけないという状態になる
つまり資本主義とはそういう極端な格差を産む社会でありそれだからこそ資本主義が普及したともなる
例えばビルゲイツとかジョブスとかパソコンを発明した人は何兆もの収入になる、でもその発明にはそれだけの価値があったからだとなる、毎日同じことを流れ作業のようなことをしている人には価値をおかないのが資本主義なのである

事業するにしても20人に一人くらいしか成功していない
後は事業の失敗者が山ほどいるのである
そういう人が借金とかで苦しんで来て自分を責めてきたことを書いてきた
事業で成功することは極まれであり後は失敗が多いのである
ただ表に出てくるのは成功した人が多い
その成功した人は資本主義社会で富裕層となり大金持ちとなるのが資本主義なのである、株でもうけたとかでもそうである
そとれだって相当な知識と経験がないと株ではもうからない仕組みになっている

それはどこの分野でも職業でもそうである
医者でも優秀な人を手術でもうまい人を求めている
その人のためには多額の金が支払われる、そういう人は社会にとっても価値あるものだからそうなる
病院にとってだけではない、誰でも手術のうまい医者にしてもらいたいのである、でもその医者にかかるとなるなかなかできない
病院でも好待遇で雇わなければならない
それで地方ではできないから東京に集まるというのもわかる

地銀にしても証券にかかわると投資になると今までのやり方ではできない、銀行には投資について投資信託でも全く素人だったのである
でももし一人でも優秀な人がいればいろいろとアドバイスできるからその人に頼み決めてもらえばいいとなる
だからそういう人が簡単に得られないからAIに代わってしてもらうのがいいとなるのだ
人間はいろんな分野でいくら優秀な人を求めても得られないからである。
英語の先生でもネティブのようにしゃべれる先生はいない、とすると翻訳をAIでしてもらうとなる
それは今や相当に優れたものであり詩まで訳していたことに関心する、それだけ進歩しているのである

●人間の願望がAIを産みだす

AIとは何か?それは人間はいろんな分野でスポーツ選手でもス−パーマンも求めているからである。
それだけどこの分野でも優秀な人は限られているし得られないからである
医者であれ技術分野であれその差が大きいからである
芸術だって優れていて後世に残るとなると一パーセントになる
俳句などがそうである、素人のデレタントが膨大にいる
一万人とか軽くいる、でもその中で後世に残るのは江戸時代なら
芭蕉とか蕪村とか一茶とかしか残らないのである
芸術の分野でも優れた人はわずかしか生まれないのである
芸術という時ただ収入が特別多くなるとは必ずしもならない
でもそこでも特別優秀な人を求めても得られないのである
そもそもべートベンのような大作曲が日本に生まれてくれと言っても生まれようがないことでもわかるのだ
そんな人が出てきようがないからだ

資本主義はもともと格差をうむ社会である、それはスポーツ選手や芸能人を例にするとわかりやすいものとなる
資本主義は平凡な人を求めていないのである
特別優れたスーパーマンを求めている
科学技術の分野でもそうである、スタップ細胞が発見されたというとき大騒ぎしたことでもわかる
遂に人間は死ななくなるのかとまで騒いだからである
それは嘘だったがそういうものを期待しているからそうなる

今なぜAIがこれほど騒がれるのか?
それは資本主義では平凡な人はいらない、特別な優秀な人を求めている、それを機械として得られて使用できるならこれほどいいことはないとなるからだ
AIに高額な金を払う必要もないからである。
科学というのも人間の願望から生まれているのである
今や一番の願望は特別頭脳でも優れた人である
でもそういう人は得られないからAIに期待しているのである

●平凡な人は資本主義では無用な者と化す

資本主義は極端な格差を産むということはそういう制度思想の上に成り立っているともなるからだ
まず平凡なその他大勢には価値をおかないのである
そんなこと誰でもできるではないか、コンビニの店員など誰でもできるとなりそうした職業は時給になるのである
後はベーシックインカムが言われるのはそういう大多数の平凡な人は最低限で生活保護のようにすればいいということになる
資本主義では資本家はそういう誰でもできる仕事は機械化するAI化もする、そしてコストを省くようになるからだ

ただAIでもそれはどこまで優秀な人の代わりとなるかは未知数である、創作となるとどこの分野でも簡単にはできないだろう
AIだって創造とすなるとむずかしくなる
何かAIに過剰に期待するのは人間は死ななくなる、スタップ細胞騒ぎとにているのである
奇跡を期待する宗教ともなっているのが現代の科学技術だからである、だから過剰に科学に期待するのである
そこにまた落とし穴がある、矛盾が生まれてくる

人間は結局大多数は平凡でありいくら努力しても天才にはなれない、でも一人の天才の効果はスポーツのように大きい
だからその人が独り占めするような収入を得ることになってもその人を批判できない、それを容認するのが資本主義だとなるからだ
社会主義にはただみんな平等であり才能だって伸ばさないからだ
要するに前提として収入でも待遇でも平等だということから始まってるから資本主義の思想とはルールとは違っているからそうなる

なぜ欧米中心の世界になったのかというとやはりヨ−ロッパには天才がいろいろな分野で多い、それで世界をリードしたということがある、それはなぜなのか?
それはルネサンスにみるように天才を育む土壌があったからだとなる、それが力となって世界をリードしたとなる
中国とかアジアにはそうして世界をリードするような発明などない
日本でも物まねがうまいだけだったとか中国もコピー文化だとかなっているからである
だからアメリカでは著作権とかをうるさく言うようになったのである、ただ自ら発明したものではない作り出したものではないまねして盗んだだけだとしているのである
それで豊かになることは許されないと反発するようになったのである。

資本主義から格差は必ず生まれる、中国だって共産主義の平等を目指してもはあれだけの格差社会になった
その格差でも中国の場合は賄賂社会であり官僚が利権を得ることでそうなった、ただ資本主義でも株式市場でももうけるものはそれとにている、ただ株式市場に通じるにはやはり官僚のように濡れ手で粟のようには金を得られない
そこにはリスクがあり知識や経験がないともうけられないのである
それも一種の特別な才能だともなる
でもそこには何か不正があり一般人は入っていけないのである
不正なギャンブルのようになっているから金融資本主義は批判されるのである

ただ優秀な人が生まれればそれで大衆も大多数の平凡な人も恩恵を受ける、それ医療でも優秀な医者がいたり研究者がいたりすると病気も治るとかなる、パソコンが発明されればそれがどれだけ人類に貢献したかわかる

資本主義はそうして発明と開発とかイノベーションを促進させるからそうなる、そこに格差が生まれてもそれだけ社会に貢献する度合いが大きいから資本主義の方がいいと世界的になっているのである
ただ格差がこれだけ拡大するともう社会自体が分裂して内乱状態になりかねないともなる
要するに株式市場とか金融資本主義はそうして特別優秀な人を作り出しているというわけでもない、それを促進させるにしても世界市場で株が操作されてそこに金が集中することで格差が生まれる
そのことを世界では批判しているのである

●人間はAIでも万能にはなれない

いづれにしろ人間はどんなに能力を尽くして努力しても理想社会など生まれない、作れない、それはなぜか?
人間は万能になりえないからである
神のみが万能でありオールマイティである
だからこそ神なのである、もし人間が全能になったら神を崇めたりしない、人間を崇めることになる、だからもし科学者でもそうしたことを望まれているがなれないのである
なにかしら今回の原発事故のように破綻する
それは人間が万能でありえないからである
だからこそ「安全神話」は崩壊したのである

もし人間が万能になったらどうなるのか?
傲慢になり神を崇めたりしなくなる、神と人間とは同等だとなってしまうからである
そして個々人でも能力は分散しているから万能にはなりえない
あらゆることに通じる人などない、だから謙虚にならざるをえない、そして人間は個々人でも病いあり老いがあり誰でも弱者と化すのである
国でも盛衰があるのは一国がアメリカのように強力になりすぎると傲慢になる、だから必ず世界史を見れば栄枯盛衰がある

AIもまるで万能のように見るが期待するがそうはならない
どんな文明も遂には崩壊する、破綻する、滅亡する、実際に文明は砂に埋もれ森に埋もれ海に沈んだのである
理想の世界は神にのみしか作れらない、それは神によってあたえられるのものなのである

人間はいかに努力しても無益だともなる、なににしろ原発事故のように破綻するのである、それは確実なのである
科学技術がいくら発達しても同じである
むしろこの世は滅びると予言している、欲の社会は滅びると予言している、原発も欲と関係していたのである
原発がそうである、科学というより政治的なものや欲が原発を作らせたからである
地元の人でもそうである、原発で金になるしかなかったのである
その危険性を言う人はいなかったのである
それを言えば地元でも排除されるし住むことさえできなくなっていた

それはなぜか?欲望を抑えろということは誰も同意しないからである
もっとうまいものを食べたい、もっといい家に住みたい、もっといい車が欲しい・・・それは限りないのである
そのためなら不道徳なことでも何でもするとなっていたのである
いかに人間の欲が深いか、それは性にしたってそうである
老人になると無欲になるというのではない、かえって性でも他のことでも欲が異常化してくる、人間の欲は老人になっても死ぬまで消えなということである
だから人間の欲のために滅びると聖書では言っている

そもそも宗教は欲を抑えることではじまったことは共通している
それだけ人間の欲が限りないしそれを抑えないと禍が生じるからそうなった、原発事故でも人間の欲から生まれたのである
資本主義だって欲望を肯定してさらに欲望を刺激していらないものまで宣伝で売らせる、消費は作られるのである
だからそういうことでももう限界にきている
そこで資本主義でも破綻が生じる、人間の欲がこれ以上無制限に拡大したらどうなるのか?
食料でも不足するし環境汚染も増大するしと限界になっているからだ、だからなんらかの歯止めが必要になり天変地異でも起きてくる
そうしないともう地球はもたない、維持できないとまでなっているからである


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2018年09月19日

銀行とは何なのか? (江戸時代から明治へ移行するときすべてが変わった)


銀行とは何なのか?

(江戸時代から明治へ移行するときすべてが変わった)

現代の社会をみるとき江戸時代から明治に変わったときどうなったかを見ないと根本的にあらゆることがわからない
ここの変化が新しい日本を作ったからである
銀行を例にとれば銀行とは何なのだろう?
それはまず銀行はなかった、江戸時代はそれとにたものとして頼母子講とか金貸しとか両替商があった

北イタリアの都市国家は独自貨幣を発行するようになり、都市間の貨幣の交換を行う両替商が生まれた。彼らは都市の広場にバンコ(banco)と呼ばれる台を設置してその上で貨幣の量目を計ったり、交換業務を行った    

三組両替および番組両替には酒屋および質屋などを兼業するものも多かった。

三井は呉服店であり銀行を兼ねた、

三井炭鉱を中心とする石炭事業はやがて三井鉱山会社、三井銀行、旧三井物産となった

銀行は何なのか?それを知るためには江戸時代から知らなければ理解できない
銀行とにたものとして両替屋とか質屋とか頼母子講とかがある
銀行とにたことを酒屋がしていたりしたのは酒屋が当時は主な産業であり金になる会社だったからだとなる 養蚕業でもうけた人も銀行をはじめていたのである。
銀行とは最初そうした事業を起こした会社の中にあったのである

銀行とはもともとこうした多機能なものであった、三井がなぜ銀行業にもなったかというと呉服屋でもうけた、資金が資本が生まれたから銀行業もするようになった
石炭事業でも成功して銀行業もするようになったのである
金融業は銀行はもともとは事業が先にありそこで蓄えた資金が資本となり事業を拡大したのである
ただ頼母子講とか金貸しとか質屋とかにはそうして事業して金を貯えるということはなく銀行の役割とは違うものである
でも銀行だって金の出し入れとかしていた両替もしていた
ただ金を資本としてまた事業を展開するということはなかった
つまり資本主義とはまず資本蓄積があり事業がありそれでもうけてまた新たな事業をはじめる、その役割を担ったのが独立して銀行となったのである

だからもし銀行の役割が何なのかとなると両替屋的機能とか金貸しの機能とかあった
でも近代的資本主義の銀行の役割は事業をして金を貸して投資して利益を出すことにあった
つまり銀行が生まれたのがそもそも事業家からであったことがそれを示している

銀行はその後事業家からではない、一般庶民から金を集めるようになった
それに利子をつけるようになったのである
そして銀行は事業家,会社に金を貸して金をもうけたら利益を出したら利子をとり還元して預金者に利子を払っていたのである
だから高度成長時代は会社がうなぎ上りに成長したから銀行の預金には7パーセントとかの利子がついていた、だから貯金するとそれが十年二十年とかさらにすぎると確実に倍になっていたのである
その時また事業を起こす人が多かったがその事業もまた成功しやすかったのが高度成長時代だったのである

銀行がなぜ今もう必要がないとか利子もつけないしただ金を集めてどうするんだとなっている、ただの貸金庫なのかとかその必要性が問われて銀行員は無駄だとされる
投資信託を売りつけて確実に手数料をとるあこぎな商売となる
それは銀行とはなになのか?銀行の役割が何なのか?それが今問われている
ふりかえると事業家が銀行家にもなったことでわかるように事業するための金を貯える
それが資本となりファンドとなり新たな事業を展開することにあった
地銀だと地元に密着して事業をする人に会社に資金を提供することにあった
それが高度成長時代はできていたのである

銀行はもう前のように会社のことを知り地元のことをしり投資することができない
目利きする人がいない、それで投資信託とかを売るようになる
銀行というのがその役割が喪失したというとき何か事業を起こす人は今はインタ−ネットとかでもクラウドファンディングとかで資金を集めている
それは銀行がしていたことなのである
銀行とはそもそも三井でもそうだが事業家からはじまっていた
他の機能があるにしろ近代的銀行の始まりは資本主義社会では資本を蓄えて金を蓄えてそれによって新たな事業を展開することだったのである
それができなくなったらただ金を集めてどうするのだ、利子もつけない、貸金庫なのか?その役割が失う、そして銀行員はいらない、リストラされるようになる

例えば地銀は津波と原発の復興事業にどうかかわるのか?
地方の産業の衰退にどうかかわるのか、その資金をどう活かすのか?
それが見えないのである、資金がある人は金がある人は金持ちは銀行家にもなる
何かそういう責任が課せられる、金をもってもそれを有効に活かせないとしたら金持ちとしての資格がないと批判されるのである
それと何か銀行も似ているのである
今地域にはいろいろな問題がある、でも地銀がそういう地域の問題にどういうふうにかかわっているのか見えない、だから大手の銀行が農業が成長産業だとして銀行員も派遣されて農作業しているのである
農業も事業だからその事業を開拓しているのである
金を集めて金をどう生かすのか、それが活きた金となるのか死んだ金となるのか?
それは個人的にもそうだが銀行にも問われているのである。

posted by 老鶯 at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年09月12日

人間から仕事を奪ったら何が残るのか? (高齢化社会、AI化社会で仕事が奪われるとどうなるのか?)


人間から仕事を奪ったら何が残るのか?

(高齢化社会、AI化社会で仕事が奪われるとどうなるのか?)

人間から仕事を奪ったら何が残るのか?
それが起きたのは原発事故以後漁業関係者にもあった
そのことは補償金問題などで私は指摘してきた
現実に魚をとることを仕事がなくなったとき漁師はなぜ自分はここにいるのかわからないと考えたのである
ただ漁業関係者は事故前も事故後も一番手厚く補償金がもらえたから全く生活には困ることがなかったのである、魚一匹もとれなくても困らなかったし今もそうである
船主になると立派な家をいち早く建てたからである

それとは別に人間から仕事を奪ったら何が残るのか?
これは意外と人間にとって重要な問題である
たいがい別に人間は食べるために仕事をしている、金を稼ぐために仕事をしている
だから普通は仕事の意義など考えないのである
考えているのは給料の多寡である、どさだけ稼げるか金になるかを常にみているのである
でもこの辺で起きたことは一時的に仕事をしなくても良い状態になったのである
仮設に住んで補償金で暮らせるから仕事はしなくなった
その時何が起きたのか?毎日パチンコ通いだったのである、あとは競馬であり競輪であり他のギャンブルに東京とか仙台にも行っていた
結局何もすることがなくギャンブルになった
そして外部の人が復興の仕事をしたのでありボランティアも多数来たが被害にあった人はなにもしなかったのである。
そういうことができる社会になっていたのである
大手の建築会社が建売の家を一週間くらいで組み立てるから別にそこで地元の人が今は働かなくてもいいようになっていたからである。

だからかわいそうだと毎日のようにボランティアが炊き出しやらなにやら来ていたが仮設に入っている人たちは毎日パチンコ屋通いだったのである
だから何がかわいそうなのかとも思った
その時NHKやらマスコミはテレビで盛んにかわいそうだと連日報道していたから全国の人もかわいそうだと見ていた
確かに津波の被害者はかわいそうだったというのは本当である
でも原発避難者は補償金をもらえた、人によって額は違っても一か月百万以上もらっていた人もいたのである。
それでかわいそうだかわいそうだというのには違和感があったがそれを公に言うことはできなかった、NHKでもマスコミは原発避難者の味方だったからである

ただここで問題にするのはそういうことではなく人間から仕事を奪うとどうなるのかということである、それは定年後にも起きているしAI化でも起きると予想している
身近なところで考えてもそうである、漁師から魚をとる仕事を奪ったら何が残るのか?
その人はただ港でうろうろして何もしなくなったからである
その人は役目がなくなったのである、人間は役割があって与えられて生きている

漁師の役割は何ですか?

魚をとることです

魚はとらなくても金を与えます、仕事はしなくていいです

私は何のために生きているの?

あなたの役割は仕事は魚をとることです、それがなければ不必要な人です

俺はここには必要ないいらない人間なのか、とするとここに住む理由もなくなる?

こういうふうになってしまう、何か漁業関係者はもう漁業を生業とするより実質は東電の社員と化していたのである。そして補償金で不労所得者になっていたのである
そういう人を地域から見ればどうなるのか?

何の役割があるのか?

漁師はもともと地域の人たちに魚をとり売るにしても与えることにあった
それが地域での役割だったのである。ただ高価な魚は新鮮なうちに東京に運ばれて高く売られていたから地域の人のためにだけあるのではなくなっていた
でも地域の人に魚を供給することが仕事であり役割なのである
そのために尽くすのが漁業関係者であり漁業権もそのために与えられていたのである。
東電に漁業権を売り不労所得者になるためではなかったのである

これは特殊な事情でこうなったが他でも人間をみれば人間から仕事をとったら何が残るのか?
農業という仕事がある、その女性は畑で野菜を作っている、そのことは私のフログで度々紹介してきた、その女性は根っからの農民であることを知った
農家の生まれであり農業を体で知っているともなる
でもその畑で野菜を作っても相当て赤字であり金にはならない、金をかえって使うのである、それを自分が援助したとなる
そしてその女性に何の価値があるのか?
それは畑で野菜を作ることにあった、畑で仕事することにあった、そこにはカンナなどを植えて咲かせて映える、周りに荒地が多いからそこで美観を作り出すことも仕事となっていたのである、金にはならないがやはりそれも復興の仕事になっていたのである。

他でも自転車屋でもそうである、この前は古い自転車でタイヤが癖になりのめりこんでいた、その歪(ゆが)みをなおすのに大変な苦労をした
それを自分は見ていたのである。自転車屋の仕事は結構熟練がないとできない、技術者なのである。
そしてこの人から仕事をとったら奪ったら何が残るのか?
その人は他に何ができるのか?何もなくなってしまうかもしれない。
そこで自転車屋をしていることが街の中の重要な役割となっているのだ
なぜなら今や一軒しか街に自転車屋がなくなったからである
だからこの一軒なくなると本当に困ることになる
なぜなら自転車屋は修理が多いからである、それが主な仕事ともなっているからだ
ただ売るだけではない、修理が必要だからアフターケアが必要だから他の商品とは違うからである。だから通販では自転車は普通は買いないのである
ただ仕事は身近に見ていると覚えることがあると思った
自転車屋の後継ぎは息子が多くなるのはそのためである
人間は見よう見まねで覚えることがあると思った
だから江戸時代はたいがいそうして親の跡を継いだのである

いづれにしろ昨今しきりにAIのことを言うがそこで人間の仕事が奪われることを言う
そして人間は仕事がなくなるからみんな芸術家にアーティストになるとかいうこと自体がありえないことだった
仕事がなくなる奪われるということが人間にとって何を意味するのか?それは相当な変化であり人間は暇を有効に活かせるのかともなる
ただそれは豊かになれば起きてくることである
暇が生まれる、スコーレが生まれてスクールになったからである
現実に暇な人は増えているのが現実である
仕事をしないニートも多いしどこにでもいる時代である
それから定年後に暇の問題が起きてくる、その数も団塊の世代とかで何千万にもなるからそれだけの人が年金暮らしとか働かないで暮らせるのか?
そういう時代にすでに突入しているからである

人間は仕事がなくなり役割がなくなることは実際相当に重大な問題な問題である
それが家族の一人が認知症になったことで前にも書いてきた
一人は趣味もなにもない働きづめの大正生まれの女性だった
一人は公務員であり55歳くらいで退職してそのあと仕事はなくなり何もしなくなった
家事すらしない、ただ趣味をしていてもそれもあったものではない
三食は用意されているし家事もなにもしないのである
そうしてテレビなどばかりみていてたがボケてしまったのである
一方奴隷のように働かせられた女性は94歳頃まで現役として家事をしていたのである
そうして95以上になってボケたけど百歳まで生きたのである
だから役割がなくなる仕事を奪われることは認知症になることにつながるから笑っていられないのである。認知症ほど残酷な病気はないからである
もう人間ではないとすら見られからである

人間は仕事をして役割が与えられより高等になると使命感をもって仕事をすることに生きがいが生まれるからである
人間は何か意義ある仕事をしなければ生きる価値がなくなるのだ
家事でも仕事でありそれすらしなければ女性として何の価値があるのかとなる
畑で野菜を作っている女性から畑仕事を奪えばその女性に何の価値があるのかとなる
人間は仕事をもつことにより価値を作り出している
ニートとか無職で遊んでいるとかがいいことではない、有名な女優の息子は覚せい剤を
38になってもやめることができなかった

一か月百万の金を与えられていたという、だから仕事をしなくてもいい身分だったのである、でも仕事がないからこそ価値あることができないからこそ薬で堕落したのである
何か社会で有意義な仕事を見出していればそうはならなかったのである
バーとか資金援助されてしたりしていたが仕事とならなかったのである
だから人間に仕事がない役割がないことは本当に深刻なことなのである
そのことで今ニートであれ退職者であれ少子高齢化で本当に仕事をしない人が膨大に増えた、そのことが社会問題化する、それは人間は暇を活かすということはギリシャのように一部の天才しかでぎなかったことでもわかる
だから暇を活かすということはこれからの社会の大きなテーマとなる
AI化によって仕事を奪われるとういことは相当に深刻であり経済的問題だけではない
精神的問題としても深刻なのである。
それは高齢化社会で現実化している、でも趣味が仕事になるということは簡単にはできない、趣味でも相当な訓練が必要であり簡単にはできないからである
高齢化社会とかAI化社会の備えができていないから深刻になるのである。


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2018年09月01日

銀行がコメ・野菜づくり?  (三井住友、秋田、鹿児島銀が農業法人を設立した狙い)


銀行がコメ・野菜づくり? 

(三井住友、秋田、鹿児島銀が農業法人を設立した狙い)

メガバンクや地方銀行が農業参入を決めた背景には、企業の資金需要が伸び悩む中、コメの減反廃止を決めるなど政府が規制緩和に乗り出し、農業の成長力を高めようとしていることがある


銀行は何するところなのか?前は銀行に貯金していれば利子がついていた
それも7パーセントとか利子がついていた時代があった
だから貯金があれば利子で食べていけるとみんな思っていたのである。
その時は貯金の価値は高かったのである。

それはなぜだったのか?

今になると高度成長時代であり経済が好調だったからである。
それで銀行でも金を貸し付ける会社が多く会社ももうけるから銀行も余裕で利子をつけて預金者に払っていた、そして銀行は固い職業であり地域の就職先としては公務員と同等の安心した就職先だったのである
つまり銀行はたいして努力しなくても経済が好調ならもうかる商売だったとなる

銀行というのは社会でどういう役割を果たしているのか?
地元にあってもわかりにくい、金を集めてその金を何に使っているのか?
地元にその金を使って何をしようとしているのか?
それがわかりにくい、具体的にわからないのである。

銀行は金貸しなんだから金を貸さないでどうするんだと財務大臣に言われた
でも金を貸すにしてもそれがもうかるものでないと銀行は金を貸さない
確実にもうかるということでなければ損してまで金は貸さない
そんなことしていたら商売あがったりだからである

それで金貸す先がなくなり投資信託を売りつけるようになった
それはアメリカだと0.5パーセントとかである、日本では3パーセント手数料としてまずとるのである、そして絶対に銀行は損しない商売なのである
投資信託は損してもみんな客がその損を被るのである
そして銀行は全くの証券とかには素人だったのである。
自分は金融を扱うのだからプロだと思っていたのでまかせたのである。

普通は医者でも一応プロだからまかせる、手術するにもまかせる、そうするほかないからだ、銀行も証券のプロだと思ってまかせたのである。
なぜなら証券とか株に詳しくなることは素人では不可能だからである
それに時間も費やせないからである。じも素人でも株をしている人は四六時中パソコンの画面を見て売り買いしているのである。
そういう人こそ実はプロであり銀行員は素人並みだったのである。

それを証明したのがリーマンショックの時買った株が半分になったが上がってきたとき投資信託に回したからである。それはJ-リートだった
それをなぜそこに回したかというと担当の若い銀行員が投資信託のノルマを課せられているからである、投資信託を売れば銀行の利益になるからそれで上司に成績をあげたとなるからである、認められるからである
だから客のことなど全く考えていないのである。
手数料をとればいいしかない、それは郵貯でもしていた
それだけ投資信託は売る方にとっては確実にもうかり絶対に損しない商品なのである
株だったら確実に損する、でも投資信託は売る方で損しないのである

確かに銀行で農業に投資することはそれだけ成長産業が日本になくなったためである
農業は高度成長時代に低く見られるようになったけど最初はやはり農業は成長産業であり戦争の引揚者が土地を求めて辺鄙な所に開墾に入ったのである
それはこの辺ではいたるところにある、浪江の奥の津島ではそうだった
そこは苦労して開墾したから団結しているというのもわかる
ともに苦労した仲間だから団結がある
高度成長時代は最初は農業も成長産業だったのである。それで農家でも豊かになった家は結構ある、ただそこにも能力の差が出た
浪江の病室が同じだった人は広い畑で野菜を栽培して昔の平(たいら)に売って財をなして娘三人を大学に出したのである。
篤農家といかのは前らいて農業でも裕福になっていた人はいたのである。

銀行が農業が成長産業とみているというときまた製造業が衰退して日本の農業が外国よりいいものを作るということでもそうなる、品質がいいからである
でも東京の銀行員が実地に畑で田んぼで働くとなると容易ではない
こんなこと銀行に入ってするとは思わなかったともなる
事務とか金勘定が銀行の仕事だとも思っていたかもしれないからだ
銀行は土にまみれと汗だくで働くのとは違う、ビルの中でクーラーのついた所で金の計算をしているところでありきれいな仕事としてイメージして入ってくるのが普通である

現実に雑草をとっていたら足が痛くなって動けなくなったとか言っていた
玉ねぎも雑草のために3割くらいしか収穫がなかったとも言っている
知っている人が小さな畑で野菜作りしているのを報告したが肥料代、農薬代、種代、道具代からその他もろもろでその出費は大きい
そしてもらったのはキュウリ何本かだった、それはうまいものだったが一本一万以上したものだった、その他にもらえるものもとれていないからである。
ただ毎日キジに食われた、キジはうまいところだけ食うんだよとか、モグラに食われた、ネズミもでてくる、虫にやられたとか次から次と被害がある、盗まれるのもそうである
畑のものは盗まれ安いのである。
農業はそれだけ苦労が多いものなのである。

だからこそみんな跡を継がない、そして農業をする平均年齢が67歳くらいになっいてるその知っている女性も年であり病気もちでありいつも体が痛いとなって今度は仙台まで診てもらいに行った、その金を要求されるのである。
隣の畑は家の人に車でのせてもらって来ていたが這って農作業していたが遂に力尽きて耕作放棄地となり草ぼうぼうとなった
この辺ではこうして放射能汚染で草ぼうぼうなったところがまだ多いのである。
それはここだけではない全国的に問題になっているのだ

自分は変なのだが収益がないにしろ銀行のような役割を担った
金持ちだとするとその人は何か銀行とにてくる、金貸してくれとかもあり貸したりしたがその人は貸して返せないからくれると同じである
銀行とは何なのか?それは何か養蚕業で商売でもうけた人が銀行をはじめたのである。
金をもうけたからその金を使って貸してもうけようとしたのである。
だから金が蓄えられた人は資本家となり銀行とにてくる
銀行を金を集めを組織的にしているだけだともなる、単純に考えればそうである

では組織的に金を集めてそれをどうするのか?

それが問題なのである。それで国債を買って日本銀行から利子がついていたこともあったがなくなってマイナス金利となり銀行は苦しくなった
金を集めてもそれを誰かに貸してもうけられないからである。
それで銀行は窮地にたたされて全く素人の投資信託でもうけようとしたのである。
人間はおいつめられると善悪でも何でも見えないなくなる
今日食べるものがないとまではならないにしても追い詰められると何でもいいか金儲けしようとするのである
それは会社でも同じだったのである、それでスルガ銀行が不正していたことでもわかる
銀行は今追い詰められているから何とかして儲けようとして不正になる

ただでは農業に投資してもうけるとなると容易ではない、現実に雑草のために三割しか玉ねぎがとれなかったとういことでもわかる、農業はいろいろな作用があってむずかしいのである
でも金足農業が話題になったがそこでは女子も多いというとき今農業は人気がでているのだ、花栽培でも農業だし果物でもそうだしいろいろなものがありこれからの成長産業になりうるし地元志向だからいいともなる
それでも農業に銀行が投資するというとき銀行員も楽ではない時代になったなとつくづく思う、田畑で草取りして汗をかく,肉体労働者になる、これは楽ではない
つまり銀行は今や楽な仕事ではなくなった、肉体労働までさせられる
侍が農業するようになったのともにている、時代が大きく変わる時そうなる
そういう時代に適応できるかどうかは厳しいとなる
人間はどうしても楽な方に向かう、だからこそ投資信託という絶対に損しないものを売りつけるようになったからである。

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2018年08月28日

ITで変容する社会 (守旧派となるもの?無常こそこの世である)


ITで変容する社会

(守旧派となるもの?無常こそこの世である)

人間社会は常に変化がある、だからこそ無常の世の中であり常なき世の中なのである。
栄枯盛衰も激しいのである、今力ある者もたちまち弱者と化してしまう
それを自分の家族で見たからショックだった
認知症になり銀行からも金をおろせなくなったり訳わからなくなった
いろいろなことで優秀だったのに馬鹿になったということが未だに信じられない
そして自分は優秀だと言って死んだのも悲惨だった

このように一個人でも人間は極端な変化に見舞われるのだ
一個人でも必ず死ぬからそうなる、死ぬと人間はたちまちどんな人でも権力を持っていた人でも忘れられるのが早い、そんな人いたのとなる
だからこそこの世は無常なのである。あとに残す一つの墓くらいでありそこに名前が記されているがそれも記憶している人もいないとなる 
無常は無情なのである、そこに情の入る余地がない、捨てられるのである
それは誰にでも起きることである、だから無常(無情)の世なのである。

つまり何事無常(無情)を見なければならない
この世は仮の世だとか無常を見ていなければならない
そうそいう無常は誰にでもやってくるからである。
人間の生も永遠につづかないし突然に無常化して無情化して終わる
そう見ればある時は幸せだったとか急に零落したとか何か変化があっても
世の中はそういうものだと悟れるかもしれない、そういう繰り返しがこの世に生きることだからである。
まず変わらないものが家族でもなんでもありえないからだ
津波で家族が一瞬に流されて死んだり村自体がこの辺でいくつも消失したことでもそうである、その無常は無情であり家族が死んだ人は信じられないとなる
ただその前に茫然としているほかなくなったのである。

人間の社会は今だからこんなに変化しているのではない、常に激変してきたのである。
江戸時代から明治の変化も激しかった、侍だった身分もなくなったとしたらそういう社会で生きていたものが明治に四民平等の社会に適合することは容易ではない
いつまでも自分は殿様だとか侍だとかこだわっている人かいて当然なのである。
それが守旧派になる、明治維新では長州でも守旧派がいて下級武士たちの革新派と争う
そこで守旧派は革新派の吉田松陰とか高杉晋作とかに負ける
その時庶民から奇兵隊が作られて後に伊藤博文などが首相になった、その人は地位ある侍の出ではない、庶民に過ぎなかったのである 
奢れるもの久しからずというのもそうである、長く栄える家も国もない、栄枯盛衰がこの世の習いだとなる、だからアメリカがいつまでも強いとは限らないのである。
アメリカもすでに衰退国家だという人がいるのもそのためである

このような激変は人間社会に常にあった、戦争だとその時の価値観は国家が一番大事であり国家のために死ぬことが最高の価値とされたのである。
でも戦争に負けたら鬼畜米英からアメリカ支配になりギブミーチョコレートになった
もう日本の国体とか盛んに愛国を言われた時代ではない
チョコレートを食いたいということしかなくなったのである。
それで焼野原からチョコレートを食いたいとなり日本は高度成長になったのである
この変化も激変だった、だからその時とまどう人がいても当然なのである。
守旧派というのがあって当然なのである,特に老人だとそうなりやすいのである。
つまり老人は新しい時代に適合できない、だから守旧派になる
今でも新しいものが出るとスマホでもなんでも嫌うし操作できない
すると貨幣を紙幣をなくしてスマホ決済することに抵抗する守旧派になる
それで社会の変化を進歩に逆らうようになる

IT社会になると本屋が消えてゆく、自分の町にももう本屋はない、そして図書館も必要なのかどうか問われる、前は郷土史関係の調査で行っていたけど介護とかになったり家事で忙しくなりここ十年一二回しか行っていないのだ
つまり何か調べるにも本を読むにしても隣の街まで行かなければならないから不便なのである。時間がかかるからいけないのである。
だから今や図書館はただ受付とかいても本を管理していてもそれが本当に必要なかどうか問われる、何か老人のたまり場とか高校生の待合室とかになる
だから前の前の渡辺市長の時南相馬市の立派な図書館は立地を考えて原町の駅前に作られたのである。それは立派なものである。
その時は10年前とかでありまだスマホとかも普及しない、 ITでも普及しつつあったが図書館が必要なのかどうかなど問う人はいなかったのである。か
今になると時代の先見性がなかったとか言われる
そこには大きな予算を使ったからである、それが無駄だったとも今にするとなる
それは有用論もあるから一概に言えないにしても不要論は図書館を建てる時もあった
ただそれは市長の政策で強行されたのである。

なぜこうして図書館まで不要論が言われるのか?
それは予算がかかるからである、市民の税金でも国の税金でもかかるからそうなる
そんなところに金使って何になると言う人がでてくるからである
図書館は調べるのにも不便だとかいらないという人が出てくるからだ
そういうことは銀行にしてもいえる、銀行は何しているのだ、銀行で金を下ろす人は今はいない、みんなカードでおろしている、受付などいらない、金の無駄となる
そして銀行は窮地にたたされる、大手銀行でも大幅に人員を削減した
それで収入が減るから投資信託をすすめる、これは銀行が絶対に損しない商品であり手数料を確実にとれる、アメリカでは一パーセント以下なのに3パーントはとる銀行にとってだけ有利な確実にもうけにるな商品なのである。
それで銀行のイメージも変わった、硬い職業であり田舎ではエリートと見ていたからである、それがブラック会社と変質する、ただ自分も老人だから守旧派になってしまう
そういうふうに変化していことについていけない、銀行を今までのイメージで見ていたからそうなったのである。今では銀行は信頼できないものとなった
地方銀行は県に一つも残ればいい方だというのも本当だろう
もう銀行の役目はなくなりつつあったのだ

ITで本屋は消えたというときそれは時代で当然だった
まず私は仙台に一週間一回行っていたのは本を買うためだった
田舎では本当に本は少ない、仙台でも今からすると少ない、本の数は膨大だった
すると限られた本しか読めなかったとなる
それで「冠婚葬祭」というカッパブックスの本が百万部も売れたのである。
それが売れたのはベストセラーとなったのはただ本屋に置かれたからだともなる
本屋に置かれた本は地方の本屋ならわずかなのだから目立つから売れたというのに過ぎないのである。それで本屋商売は成り立っていたのである。
あまり固い本は売れないけどそうしたつまらない本でも売れれは収入になるからである
週刊誌でもコンビニに置けば目立って売れるということがあった
今やインタ−ネットのDマガジンで読める、一か月400円で雑誌は読める
そこで気にいった記事しか読まなくなった、意外と読む記事がなかったともなる
週刊誌でも雑誌でも本でも目立つことが売れることに通じていたのである。
その内容より目立つ場所に置かれることで売れるということがあった

そして今はアマゾンで古本ならどんなものでも安く買えるしボタン一つで二日くらいで配達される、日本の出版はめんどうである、取次とか介入してめんどうなのである。
そもそも取次はアメリカが検閲のためにもうけたものだから誰も気軽には出版できないものとして作られたからである。
それでアマゾンになったとき取次を通さなくなりインタ−ネットであれ電子本なら誰でも出版できるようになったのである。
ただこれも目立つことは至難である、要するにテレビが力をもったのは目立だたせる力だった、テレビに出ればたちまち有名人になれる
その人がどうのこうのというのではなく有名人になれる、すると内容がない本でも紹介すればめだって売れるということもある
その内容より何か目立たせることが今の社会では必要になる
物を売るにしても宣伝で目立たせる必要がありそのために金をかけている社会だからである。          

それで原発でも東京に原発を作れという本を出したがそれは書店の片隅で目立たないようさせられていた、それはかなりショッキングなことだがそれには注目しない
自分も冗談なのかこの人はSF作家で妄想を語っているのかと思った
それだけ「安全神話」は強力なものとして作られていたのである。
どこにでも原発は安全だということは徹底していた
だから危険だということはもう社会から排除される、それだけ強固な安全神話に逆らう人はいないとなったのである。またできないようにさせられていたのである。
その安全神話ももくも崩れ去った時また戦争の敗戦と同じようなことが起きたのである。

ある時社会は激変する、その変化についていけない、守旧派となる
ITがそうであり国際関係でも今度は十数年前までは物価が日本の十分の一だったのが今は上海や北京になると日本より物価が高くなり海外旅行に来るようになったのである。
中国人に頭を下げる時代になった、その変化も大きいのである
中国を今までのイメージで見ている人はいるし日本でもそうである
それは守旧派になり老人はそうなりやすい、今までのイメージで見るからである
でも実際はそう見ていたものが銀行でもそうだし中国でもそうである
アメリカでもそうである、アメリカの見方でも今までのような見方が通用するかどうかわからないからだ、そういうふうに国際関係でも常に変化しているから対応を誤るのである

2009年に南相馬市の立派な図書館ができた、約十年前だけど新しいとなるけどその時のからのITの変化が激しかった
だから市長はやはりたいだい若い人より年配の人がなるから守旧派になりやすい
また経験がないとできないこともある、でも弱点としては時代の変化に即応できないのである。だから図書館にこだわったのだろう、駅前には図書館よりスーパーの方が便利だということはあったかもしれない、前はスーパーがあったが震災以後なくなった
これも震災以後の変化である、震災以後はまたこの辺は激変した
すると将来の見通しでも全く違ったものとして見ることを強いられているのである。
それが守旧派になると老人になるとなかなかできない、それで女川町では老人は口出させないということで街作りを若い世代にまかせたのである。
守旧派を最初から排除したのである。


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国富は景観として現れる、政治経済は文化の下僕である (鎖国と資本主義ー川勝平太)


国富は景観として現れる、政治経済は文化の下僕である

(鎖国と資本主義ー川勝平太)

こういう人がいる、その内容はわかりにくい、なぜなら今の時代の人は国富が景観と見ていない、国富とは経済力でありの経済力を作るのは科学技術力である
だからこそ原子力発電そういう観点から作られたのである
原発がある国が科学技術的に優れていて国富を作りだすとなる。
経済でもトヨタがいい車を作るから世界に売れるから日本人は優れているとなる
日本の景観がいいからとそれで日本の国力があがったとかはならない

第一そうてらばこんなに日本の景観に重きを置いていたなら日本の自然景観の破壊は起きなかった、日本の富が一番集中するのは東京でありそこでは自然はない
人工的空間になり景観は消滅している
それは景観は経済力にならない無償のものであるからだ
富士山は日本を象徴している、それをどこからも見えるとして富士山を見たらここに金を置いて下さいとかならない、富士登山には金を払うようになっても富士山はどこからでも見える、そこで金を払ったりしないからである。

景観自体は海でも山でも森でも無償のものとして提供されている、ただ海で魚をとり森で木材を家の材料や昔なら炭の材料として利用すると経済的価値が生まれて富となる
ただ海があり森がありでは山がありでは経済的価値にならないのである
一般には景観は金になるものとして見ていない、だから国富は富として現れるというのはなぜなのかわからない、国富は常にGDPとか金の多寡で表わされているからである
もし国富が景観なら国富を破壊してきたのが戦後日本だし高度成長時代でも過度な開発で自然を破壊してきた、そして一番国富が集中している東京こそ国富であるとしたらそこに景観はビルとか車とかしかない、そうなったら日本には国富を作りだしたのではなく破壊した来た貧しい国だったともなる

江戸は百万都市でも水路が縦横にめぐらされてベネチアにもにていて美しい景観があった富士山を高層ビルがないから映えていた、日本橋でも日本の中心の橋として美しく富士山が映えていた、それは浮世絵に残っている、浮世絵には日本の美しい自然と調和した景観が人の営みが描かれている、現代にはそうした景観はない、高速道路があってもそれが景観として美しいとはならない、ただ電車とかは写真マニアがいるように自然景観とマッチするから国富を作り出したとはなる、船でもそうである
東北には太平洋でも船が行くのがまれなのである。
だから淋しいとなる、船が航行することで海も活きてくる、瀬戸内海は万葉集時代から船が行き来して活きていたのである

天離る 鄙の長道ゆ 恋来れば 明石の門より 大和島見ゆ  柿本人麻呂

海は陸と違って船は景観を汚さないし破壊しない、海には船があってこそ活きるし人間的なものとなる、それは海人の船でもそうである、船が海に浮かび魚をとることで人の営みがあることで活きてくる、もしそれがないとただ荒涼とした海があるだけだとなるからだだから景観が富だというとき海に船が見えるとき国富があるとなる
それは海という景観を壊さないからである。陸はもともとあった自然の景観を都会化で壊す穢すからそこに富はないなとなるがでもそれこそ国富としてきた
GDPは人口とか消費力とか生産高とか家でも数とかビルの数とかで統計的に計られる
それが国富なのである。
また現代の富は貨幣で計られる、いくら貨幣がある国でも計られる、個々人でも会社でも銀行でも国でもどれだけの金融資産があるかで富も計られる
だから国富は景観として現れるというのがありえないのである。
ただこの著者はその意味はまた違っているのだろう、本だけではその本意をすべて示すことはできないからだ

ともかく景観とは人の手によって作られたものがあるということは確かである
農業でも田畑があることで景観が作られたのである。なぜなら田畑には手がかかる
ほうっておくと草茫々になり荒地になる、この辺は原発事故以後避難区域でなくても荒地が多くなった、そこには現実に米も野菜もとれないが景観も穢されたから富が失われたということは確かである。
だから趣味で畑で野菜を作る女性はキュウリが一本一万になったとしても景観を作っていたから富を作り出したとなる
でもそれを富だと思う人はいないのである。
都会人だったら一本一万のキュウリなど食べないからだ、都会では景観と食料は分離されているのである。景観を作るために食料を生産していると言ったら誰もそんなことを理解しないだろう、安くて新鮮ないい野菜を果物を米を食べたいとなるだけである
景観がどうのこうのとか関係ないのである。

ただ景観というとき畑にカンナが咲いている時そこに夏の雲湧き一段と映えていた
生け花とかフラワーアレンジメントをしてきたがあきた
それは自然の景観の中に映えないからである。自然の中に花は咲くのであり花瓶の中にもともと咲くものではなかったからである。
自然の光の中に風の中に一番花は映えているのである
だから菊畑とかありまた花畑になれば美しい景観になる
でも菊畑の隣がソーラーパネルになったりしているからこれも自然を破壊して調和を乱すものだとなる、それは国富を失ったものとなる?
その菊畑に月が出たりしていたがソーラーパネルになるとその景観は失われたのである。

手入れする5色に育つ菊畑

国富が富だとするとソーラーパネルも国富を失うものとしてもあったとなる
原発事故でも故郷に住めなくり荒地化したから国富を失ったとなる

いづれにしろ都会では食料をこうした景観を作るものとして田畑がある、水を活かすためにあるとかはならない、食料は栄養源としてあるだけである、工業製品ならどこでも作っていい、外国でも同じように規格品を作れる、でも食料はその土地に根付いて作られる
自然と一体となり景観と一体になり作られる、そこが根本的に違っている
外国でいい葡萄が作られるのは日当たりのいい場所であり前は湖とかなると光が反射していい葡萄が作られるとかミカンでもそうである。だからこそワインの種類が多い、味がみんな違うからである、それは日本の酒も同じなのである。そこには自然の作用が土地によって違うからである
何か自然の微妙な作用があって作られる、そこが工業製品とは違っているのだ
それはハウス栽培でも水加減とかいろいろむずかしいのが農業なのである

日本が美しいというとき確かにそれは人の手で作り出されたものがあった
白砂青松の風景もそうである、その白砂の風景も人工化とか浸食で壊された
そして津波でこの辺の右田の松原が根こそぎ流されたのはシッョクだった
それは江戸時代から海の方へ開拓して田んぼにして塩害を防ぐために松原が作られたからである。それは国富だったとなる、それを破壊したのはまた自然だった
一方で八沢浦のように元の美しい入江を再現したのも津波だった
ただそこでは人が死に多くの家が流されたのである

故郷の原風景というときここでは自分の場合は俳句にすれば

故郷や実りに松に漁の船

これになっていた、いつもその松原に行き烏崎からは他から来た漁船でも見ていたからである。夏は松影になり涼しい風が吹いて休んでいたのが自分だったからである。
その松影もなにもなくなり今は今度は風力発電の風車の風景になったのである。
これも国富を失われたことになる、ただこの国富を喪失させたのは自然だったともなる

とにかく景観が国富だとか文化が経済の下僕とかはなっていない、その逆になっていた
景観は経済発展の国富のために破壊されて文化も破壊され消失したともなる
でも現実は景観は価値として計れない金にならないとなり無視される
景観から食料は実際は生まれているけどそうは思わないのである。
なぜなら自然という景観があって果物でも米でも野菜でもとれるからである。
都会では食料は作り出せないからである。野菜工場を試しても無理だろう
失敗している,それはやはり食料を作り出すのは自然であり自然景観があるところで作り出されるからである。
だからこの著者の言うことは矛盾しているけどまた共感もしている

何か本でも常に批評の対象になり感想を書く人が増えた、それはプログなどでも書きやすいし発信しやすいからである。
やはり対話する時本の内容は濃いから思索が深められるのである。
本を読むことは著者と対話することなのである。
そして引用は従になると著作権違反になる、自分の主張が思想がありその引用として数行利用することが許されている
となると本の批評することは批評する人がすでにその本を従にするような思想とか見識とかの持ち主でないとできないのである。
だから若い時はただ本によまれていた、批評はできない、今は読まれるというより読み込むのである、自分の思想や文章の中に読み込み利用するのである
結果としてより深くものを見ることができるようになる
だから本を読むことはただ読まれるだけでは何も効果がないのである。

今はアマゾンで関心があるものを連関して読める、そして感想を書ける、それをまた読まれる、そういう作用がインタ−ネットで容易になった
だから本を前より買っているし読んでいる、ただ高い本は買わない1000円以上になるとなかなか買わないが安いものが古本で出ているから買うのである
それでも十分だとなる、まず本の数も多すぎるからだ
今は知的な探求は別に田舎でもできる
アマゾンで本が買えないときは仙台に一週間に一回とか行っていたのは本を買うためだった、でもその時古本でもないし本を買うことは簡単にできなかったのだ
そこで田舎では本当に不利だった、それで東京の古本屋で水道橋に古本の全集を買いに行ったこともあった、それだけ田舎は勉強するには不利だったのである。
そういう差はなくなったから今になると田舎の方がいいとなる
そんなに不自由なことがなくなったからである。

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2018年08月27日

価値は常に変化している (変化に対応できないものは生き残れない)


価値は常に変化している

(変化に対応できないものは生き残れない)

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野口悠紀雄−ダイヤモンド9月号

価値というのは常に変化している、そもそもあらゆるもので一定した価値はない
常に価値は変動しているのが人間社会である。
江戸時代には米が一番価値があった、すべての価値は米で計られていた
藩の力も何万石とた給料も米で計られていた、米が貨幣であり価値の基準だった
それが江戸時代だったのである

次に明治になると価値基準が大幅に変わった、確かに米の価値は依然として高いが
様々なものが価値となる時代になった、農業国から工業国に変わると価値も変わってくる時代によっても価値も変わる、戦争中は国のために死ぬことが最大の価値だった
国家に殉じることが最大の価値だった、江戸時代なら藩に殉じることが価値となっていたと同じである

こうして常に価値は変わる、その価値に変わりようについていけなくなる、江戸時代から明治になって生きた人たちがそうだった、侍という身分がなくなったとき新しい時代でどう生きるのか模索された、その時はまだ農業時代がつづいていたから北海道に開墾に入るとかなった、この辺でも八沢浦は明治に田んぼにした開拓された場所である
そこが津波の被害にあった

時代によって大きく価値が変わる、米の価値は極端に低くなった、それより顰蹙をかったが八沢浦は前のように入江になっていたら美しいだろうと津波の前から私はイメージしていたのである。それが現実になったときほど驚いたことはない
浦となり波が光を受けてきらきらと寄せて来たのである
それは奇跡のように思えたのである。でもそこには家が浮いていたのである。
その後に泥となりその中から幼児の死体を探していた人がいたのである。
ただそういうことをその時は思わなかった、40軒くらいあった海岸沿いの家もみんななくなったのである
でもまたその後に広い沼ができてこれは昔の自然状態にもどったとして感嘆していたのである

つまり今は私は特殊にしても米という価値を高く見ていないのである。
米などいくらでもとれるから減反政策になったとかなる
米は売れない、パンを食べるようになって売れないとなった
ここでも価値の変化が起きる、つまり自分が特殊であれ価値観が変わったからそうなる
「八沢浦が元の入江に戻った」というの写真に出したときそれを見る人は多かった
でも地元にしてみればそこで死んだのだからなんだとなってしかられたの当然だとなる

ただ農業の価値でも変わる、農業をただ食べるものとして食料として見る
でも農業にはそれだけではない、自然景観の保存とか水の利用とかで自然を維持するということがある、ただそれは都会の人だとただ食料として金を払うだけになる
でも地元からみるとそういう自然を維持する、自然の環境の保護ということもある
景観は人間は作ってきたものがありそれを損なわれることはそうして人間が作ってきた営みの破壊になるからだ
津波はそうして人間が作った実りの田んぼとか松原の景色を根こそぎ破壊した
一方で八沢浦のように元の美しい入江とか湿地帯化して沼ができたとかなる

農業でもこの辺は原発事故以後まだ荒地が多い、避難区域だったところは草に埋もれている、すると米とか野菜でも食料として生産するのではなく景観の回復として復興する
花畑とかにするとそこは景観が回復する、すると米や野菜がとれなくてもそこに住みたいという人がでてくるかもしれない、外からも花を見にやってくるとなり復興するともなる新しい場所としての価値を作ることになる
ただそういう考えは文字通りお花畑だと古い人には言われるだろう

ともかく価値は一つではない、多様なのである。そして常に変わるのである
時と場所によっても変わる、だからアフリカで黄金と塩が等価で交換されたとなる
塩の方が生きることにとって大事な場合があるからだ
とにかく人間の社会は常に変化する、そしてその価値も変わる、その変わり方は激しいとついていけなくなる、現代社会はグロ−バルになっているときそれを批判してもその影響を受けるからますます価値は変動しやすいのである。

それは昔からあった、「三日見ぬ間の桜かな」とか人間も信じられないように変わってしまう、老人が不利なのはこうして激変する社会についていけなくなる
無常というのは常ないことであり同じではないことなのである
それは社会でもそうだし人間個人でも変化する、たちまち老人となり病気になり死んでしまうとなる
人間はそうした変化の前に茫然とする、自然災害でもそうである
この辺でも村自体がいくつも消滅した、村自体がなくなるということなどイメージもできなかった、それが現実だということが信じられないとなる
その激変についていけない、だからそれが夢のようで現実だと最初は思えなかったのである。それほど激変になったからである

最近ITの進歩でサラリーマンがいらなくなるというのも何なのだろうとなる
それも技術の進歩で価値の変化が起きてくるからそうなる
そもそもIT社会になると様々なものの価値の変化が起きる、それに日本は紙の紙幣にこだわるから効率的ではないとして遅れた国だとされる
中国や東南アジアでもスマホ決済になっているからだ、日本は高度成長時代は先進国だったが今や中国でも韓国でも東南アジアでも追いつかれる、中国の都市部の物価は日本より高くなっているから日本に旅行にくる
10数年前は10倍の差があった、それがこんなに変わることの驚きである

「強いもの、賢いもの、大きいものだけが生き残るわけではない、変化に対応するものが生き残る」ダーウィン

まさに最近この引用が多いのはそのためだろう、現代はそれだけ変化が激しい社会だからである。
何か今やインタ−ネット上で文章を書くと引用が多くなる
それも現代のインタ−ネット社会の変化である
雑誌でも読むだけ終わっていたが今は引用して利用する
ただ雑誌とか本は引用するのが効率的でないのが違っている
でも引用は別に著作権違反にならない、そのルールを守ればならないのである。

タグ:価値の変化
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2018年08月26日

平均的人間はいらなくなる? (国を豊かにするにはイノベーションが欠かせない)


平均的人間はいらなくなる?

(国を豊かにするにはイノベーションが欠かせない)


「今はアリのように働いても豊かにならない」
今までは勤勉が国を豊かにする、勤勉さが価値だった
勤勉なこととは何か創造的なことをすることではない
与えられた仕事を毎日同じようにしてこなすことである
そこで何か工夫したり何か発明したりすることではない
明治以降の教育はそうした大量生産の規格品を作ることだった
それが学校もそうした大量生産の規格品を作るために作られた

一人一人の非効率的な作業でなく集団で作業する必要が大きくなってきた世の中です。雨が降ったら仕事をしないとか、時間が適当とかそういったことは許されません。決まった時間に集まり作業する必要が出てきますが、そのためには、訓練する場所が必要です。少し考えてみてください、朝起きて、ご飯を食べて、時間通りにその場所に行くというのが、国民として義務づけられるのはいつからでしょう?そうです小学校からです。

学校はあくまでも平均的な人間を大量生産して社会に出たら大量規格製品を作ることだった、だから創造的作業より暗記とかが大事になる
人間をロボットのようにすることが学校の目的だったのである。
でもなぜ今はそうして勤勉と平均的な人間育成を否定的にとらえるようになったのか?

最近盛んにAIになると決まりきった仕事をする職はなくなるとかサラリーマンがなくなるとか言われる、そしてベーシックインカムが現実化するということを言う
これも団塊の世代などからすると何なのだろうとなる
企業戦士として会社に命まで献げることが要求されたしその通りにして生きてきたからである
それがおおぴっらに言われることが解せないのである
時代が変わるとそうなるのか?アリのように働くことが日本人として勤勉でありすすめられていたからだ

ところが資本効率からすると機械で生産の効率をあげるのと機械を使って資本効率をあげるのでは機械の方が有利になった、すると会社では機械を使った方がコストがかからないのである。その仕事はロボットの方が効率的で金がかからないからである
それで中国では麦刈りは人海戦術でしていた、でもコンバインだと千倍の収穫を機械一台でししてしまう、その差はあうまりにも大きく出稼ぎ労働者は必要なくなったのである

社会は今は蟻のように働くものは機械が代わってする、家事でも戦前では中産階級でも二人の女中を雇っていた、そうしないと家事ができない,洗濯でも機械がなければ手で洗濯板でごしごし洗っていたらその手間と労力は大変なものになるからだ
今は洗濯機にほうりこむだけだとなる、だから自分でも家事のために女性を雇うとしても三日に一回皿二三枚洗うだけだから必要はないのである。
でもその女性は畑をもっていて農業のことをいろいろ教えてくれるからその代金として払っているともなる
自分は農業に興味はあっても実地にしていないし知らないからである
そして体力的にも時間的にも自分ではできないからである

するともう家事のために雇っているのではない、農業の話を聞くために雇っているとなるそれで太いキュウリがもらったが一本一万以上したと書いた
肥料代から種代からいろいろ金を払ったからである
つまり農業はそこで金を得るものではない,自分としては別にスーパーから買っているからである
そして農業というのは今や必ずしもその生産したものだけを見ているが値段を見ているがその価値は環境保全だとか美観のためとか景観のために必要だともなる
今この辺は放射能問題で荒地になっているのがまだ多い
するとその荒地を畑にしたりその畑で花を栽培したりすると景観的にもいいとなる
つまり農業の価値は今や生産物を売るだけではない
農業高校に女性が多くなったというとき花栽培とかもあり農業は意外と創造的な側面があるからだ
女性に向いたものがあるからだ

社会の価値観が変わる、今は女中とかは極端に減った、それより老人は話し合いてを求めているとかなる、でも女中のような掃除洗濯とかはあまり求めていない
ではそうした話し相手になれるのか?
これは知的なものとかいろいろあるから簡単にはいかないだろう
その趣味でも合わないと話し相手にはなりにくい、そんな人がいるのかとなればいないとなる
要するに女性でも家事から解放されたら外でみんな働くようになったけど蟻のようにただ機械的に働くことが求められる時代ではないとなる

そして国を豊かにするのにはどうするのかというと今は必ずしも勤勉ではないのである。いくら勤勉に働いても豊かになれないのである。
要するにグロ−バル社会になると同じような規格品を作っていても競争になり安くなり売れない、大量生産して売れた時代は終わっている
日本が豊かになったのは品質のいいものを家電製品を売ったからである
でもそれは今では中国でも韓国でもどこでも作れて売れるとなれば売れなくなり日本は衰退国になったとされる

そして日本はITでおくれをとったからだと言われる、コンピュターでもソフトウェアでも通信機器でもスマホなどでも中国に先を越されたとなり貧乏国に転落したと言われる
ではコンピュターとかITとかの先進国になったのはリードしたのはアメリカであった
そのアメリカのビルゲイツとかジョブスとかがパソコンを発明したからだとなる
アメリカはエジソンなどのように発明の国である
勤勉より発明をイノベーションを重んじる国である
だからそうした発明することによって巨額の富をもたらす、ビルゲイツの収入はけた外れになる、でもその人は天才であり国に富をもたらした人だから批判をされないのである

つまり現代ではいくら人々が勤勉に働いても国にも富はもたらされないのである。
ただこうして数人であれ天才的な人がいて発明すると巨額の富をもたらされるのである
他にも医療の分野でももしアルツハイマーの有効な薬を発明すればその国に莫大な富がもたらされる、でも勤勉にいくら働いても富はもたらされこないのである。

でもそんな天才を作り出せるかとなると簡単にできない、勤勉な平均的なロボットのような労働者はいくらでもいるがそんな天才は簡単に生まれないのである
ただなぜヨ−ロッパにいろいろな分野で天才をその延長のアメリカで輩出したかを知るべきである
なぜヨ−ロッパが世界をリードするようになったのか?
それは機械であれいろいろな発明があり今でもアメリカが世界をリードしているのはIT分野だということでわかる

創造的能力は別に普通の人でも開発できる、創造的訓練が必要なのである。
ただ受験の暗記のためではない、創造的訓練をすることなのである
そんなものがあるのかとなるとある、科学になると様々な実験をしているがそれも創造的訓練なのである。
子供の時は自由に遊びを工夫していたが学校ではそういうことはなく暗記だけだから創造的なものは養われないのである。
学問でも芸術でも一見生まれつきの才能とされる、それはあるにしても自分は俳句を作りだしたのは20代だけど全くいいものは作れなかったからこの人は才能はないと見られた実際その時はそうだった、今になるとそれなりにいいものを作っていると自分では思っている、短歌でもそうである
才能といっても日ごろの訓練の積み重ねが必要なのである。
創作する訓練が必要なのである。でもそういうことは普通はできない、同じことをただ蟻のように勤勉にしているだけでは創造力はつかないからである

もちろん天才など自分とは関係ないということはある
でも国を豊かにするには平均的な人間をいくら作り出しても豊かにはなれない
クリエーションを求められるというときそれも日ごろからの訓練が必要になるのである
訓練など天才には必要ないというがエジソンでも「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」というときやはり努力が必要になる
その努力はなにか型にはまった努力ではなく創造的な努力が必要となる
エジソンもいろいろと実験を重ねたということが創造的努力だったのである。

日本は平均的に勤勉に努力する人間を作ることでは成功して豊かになったが
今はそういうことでは豊かになれない、それをみんなが自覚する必要がある
ではもともと平均的な人間が圧倒的に多いのだからそんなごくわずかの天才など関係ないとも言える
でも平均的な多数でも国を豊かにするときそういう人たちが必要なのだということを自覚しないと豊かになれないのである。
要するに勤勉な蟻として国民全部がグロ−バル社会では貧乏になるということである
ただ日本は平均的な人間を大量生産することは得意でも何か突出した天才的な人を作るのは苦手である、そういう人は嫌われるしそういう人は村という社会では受け入れられないしかしそのこで日本は衰退してゆく、貧乏国になることを知るべきだとなる


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2018年08月19日

家業が喪失して実家に頼れない (一人暮らしや孤独死の増えた原因)


家業が喪失して実家に頼れない

(一人暮らしや孤独死の増えた原因)

もちろん戦前にも独身者は存在していました。結婚しなかった人、離別した人。例えば江戸時代の東北地方の離婚率はほぼ1/2だったそうですよ。結婚しても約半分の夫婦が別れる、まるで離婚大国です。
別れた人は実家に戻り、未婚の人は実家に住み続けた。それが成立していたのは、戦前の家制度がそれぞれの家業のもとに成立していたからなんです。戦前の社会にはシングルの居場所があったんです。
家業を基盤とした家というものが確固として存在し、そこを個人が出入りしていたのが戦前までの家制度といえるでしょう。
                               
一方、男性側も家事を女性に頼っていたのは今と同じ、やもめ暮らしはなにかと不便で再婚を望むことが多かったとか。

武家の場合、離婚率は10〜11%、離婚後の再婚率はなんと50〜59%にもなったといいますhttps://edo-g.com/blog/2016/03/divorce.html/3


どれぐらいメイド雇用が広く普及していたかは、東京都内にある「江戸東京たてもの園」に残された建物を見ると分かるかと思います。様々な年代の家には、そこそこ「女中部屋」が存在しているからです


過去は意外である、江戸時代は制約が多く離婚などできないと思っていた
それが東北でも二分の一が離婚していた?これも信じられないとなる
ではなぜそういうことができたのか?
そういうふうにできる社会があったからだとなる

戦前とか戦後十年は江戸時代のつづきである、水道も電気もない、洗濯は裏の小川でしていたから原始的生活と変わりないところがあった
そして農家でもそうだが家業中心であり農家では自家生産で納豆まで作っていた
極力今のような買う生活、消費生活はないのである

家業中心の生活となると少人数の家族では成り立たない、労働力が必要になるから大家族になっていた、それで離婚しても実家で暮らすことができた
つまり実家では働き手として受け入れていたのである。
家業というときまず家事の仕事が大きな部分をしめる
だから中流家庭でも二人の女中を雇い女中部屋を用意していたのである
自分の母親は東京で女中をしていたからである。
女中は差別語になっているがその頃は女中は女性の普通の仕事だったのである
なぜなら女中がいなかったら家事だけに追われるからである

そしてなぜこれほど一人暮らしが増えたのか?
それも産業構造の変化だったのである。
みんなが今度は会社員とてり工場労働者となっていったからである。
そこでは雇われる身であり家業とは違うのである。規模も違う
家事は今度は電化製品が担うようになった
その時女性は家事労働から解放されたのである。

ともかく家事労働にかなりの労力が費やされたのが戦前であり戦後10年だった
自分の家でも店をしていたら変なんだけど子供の時店を常に手伝わされていた
それは家業だからそうなっていたのだ、子供でも手伝わないと家業は成り立たないからである。大家族だったのはそうして家業であれば労働力として大家族である必要があった
それは戦後の高度成長期の核家族とは正反対のものである
家族は社会の構造によって変わるということである

戦前でも実家の重みは家業をしていたことによっていたのだ
そこで大家族が労働力として必要であり離婚しても実家で暮らすことができたのは労働力を必要としていたからである。それは家事でも相当な労力を費やしていたからである。
つまり家事の労働力は社会全体にとっても相当な負担であり労働力を必要としていたのである。
女性にしても家事労働から解放されたい願望は強かったとなる

なぜこれほど一人暮らしが増えたかというと家事が電化して楽になったからと消費社会になりオカズでも買えるからである、まず戦後十年まではオカズとか惣菜は売っていない
料理しなければならなかったからだ、コメを炊くのでも竈でまだしていたから手間だったのである。家事は実際今でも相当な手間である
自分が十年くらい家事するようになったけど介護は家事と一体だったのである。
料理して出すとかがそうである、だから介護は女性に向いている
息子がするようになったがそれで介護疲れで親を殺しているのは息子が介護している時なのである、それは家事になれていないからである。

でも家事は料理でも電化してほとんど一人でできる、そうなると結婚しなくても家事はできるからしなくてもいいと思う人も増える
江戸時代は離婚が簡単でもまた再婚率も高いのである、それは家事を男一人ではできないからそうなった、結婚しないと家事をしてくれる女性がいないと生活すらできないとなる自分は今一人で十年くらい家事をしている
実際していることは買いものが主であり後はめんどうだから弁当とか買う、料理はほとんどしない、料理はいろいろめんどうだからである。それに凝っていたら他のことができなくなるからだ

一人女性が家に来るとして三日に一度それも皿を二三枚洗うだけでありその人は後は一切なにもしない、掃除もなにもしない、ただ金をせびりにくるというだけなのである
その女性が熱心なのは畑で野菜を作ることなのである
でも家事が容易になりそれに費やす労力や時間が省かれることはやはり社会を変えたのである
なぜ貧乏になったと言っても日本ではニートでも百万近くとか老人でも働かない人が一千万人単位でいる、働く老人も増えたが働かない老人の方が多いのである。
ではなぜそれだけ働かなくてもいいのか?
それは家事が電化したことが大きいのである。別に一人暮らしでも食事の用意はできる
それも時間をかけずにできるようになっているからだ

家事に労働力を費やさなければ時間をとらなければ暇が生まれる、それでゲートボールなどして遊んでいる老人が本当に多いのである。
ギリシャとかローマでは貴族は奴隷に労働させていた、家事をさせていたから暇な時間が生まれた、今は機械がしてくれるからそこで暇が生まれているのである。

一人暮らしが今問題になるけど一人暮らしは水道費とか電気代、風呂代が個々にかかる
これが貧乏な時代になると負担になる、だから必ず電気をとめられたとたか、水道がとめられたとかなる、もし大家族だったら共有だからそういうことはなかった
水汲んだりした労働は大家族などの労働力でまかなっていたのである

みんなが会社員になっている時代は家業とは違う、決められた時間を働いて給料をもらう非正規は時給いくらとなる、それは家業で働くのとは相当に違ったものなのである。
家族でも会社の一員として雇われている感じになる
それで高度成長時代は会社は終身雇用であり家族のめんどうまでみるようになっていたのである。大家族の代用として会社があるとなっていた
でも不景気になると貧乏になると会社はそうはならない、会社も倒産するからである。
終身雇用もなくなる、不安定なものとなった

いづれにしろ一人暮らしの増加とか孤独死の問題は社会構造の変化とともに起きたことである。それは過去との比較でわかる、過去にはそういう大家族があり家業があり成り立っていた、でも今はそうはならない、いまの社会は大きな会社という枠がありそこにはめこむものとして人がいて労働力が必要としている
家族も会社の枠の中にとりこまれる、それが核家族になった原因だし一人暮らしでも孤独死でも増えた原因なのである。
困ったとしてももう実家に頼れない、そこの家業はない、実家でも会社員になっているからである、実家でも代々つづくということはないから墓を受け継ぐ人がいなとなったりする、それは家業としての実家が喪失したからだったのである。

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2018年08月12日

田舎から考えるグローバル経済 (一本一万円のキュウリの味)


田舎から考えるグローバル経済

(一本一万円のキュウリの味)

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キュウリをもらったけどそさが太い、こんなにキュウリが太いのかと驚いた
売っているものは細いからである、味も違う、うまいものだった
硬くなく柔らかいキュウリなのである
今はハウス栽培のを買って食べている、だから天然の露地ものの野菜を知らない場合がある、近くで市が開かれるがそこのトマトは露地ものでありうまいものだった
でも後で一個500円にもなって買わなくなった
近くの市場では何でも高くなる、だからスーパーで買った方が安いのである
それもグロ−バル経済広域経済のためなのである

なぜこの太いキュウリが一万円だとしたのか?
それは実際はもっと高くついている
肥料代と種代と農薬代とが自分が払ったからである
そこでもらったのはこのキュウリだけである
だからもっと高くついているのだ
でもそれが高かったのかというとそうでもない
農業についてじかに知ることができたからである
そういう勉強代に払ったとなる

農業する畑をもつことの意味がどういうものかわかったということがある
自分はちょっと草取りなどしても何もしない
でもその土地でとれるものを食べることその味は格別なものがあると思った
そう思うようになったのはこれまでも書いてきたが畑が例え趣味でしてもどれだけ大変なものか肌で知った
毎日草取りだしキジの被害は大きい、他にもモグラだとかネズミだとか虫に食われるとかの被害も常にある、それから必ず盗まれるのも困る
そういうことを毎日聞かされたから農業がいかに大変なものを肌で知ったからである。
だからこそもらったキュウリは格別なものとなったのである。

スーパーで売っているものはどこでとれたのか?どうしてとれたのか?
そうしたことは一切わからない、ただ金を払えば買える
だから金の方が貴重だとなる、食料がとれる過程が全くわからないからである
苦労なども全くわからない、ただ気にしているのは値段だけだとなるからだ

もらったキュウリはこの土地でとれたものであるということも価値があることだった
この住んでいる場所でこういうものがとれるんだということを実感する
すると買うより豊かな気持ちになる、その富はこの土地から生み出されたからである
戦前とかその後で自給自足的な生活は戦後十年くらいまではつづいていた
何故ならエネルギー炭だったから炭は近くの山の木材だったからである
たいだい周りにあるもの地元にあるもので生活していた
家を建てるにしても地元の木材をとり建てる人も地元の人だった
今は家は外材であり建てる人も外部の人であり地元の人も材料も関係ないのである。
そういうときそこが故郷なのか?
故郷とは何かというときこれもなかなかわからないものだった

故郷とは与えられたものではない、ただあったものではない、それは先祖が田畑でも切り開き作りだしたものである、家があるとしてもそれは先祖が作り残したものだとなっていた、戦後開墾に入った場所が全国で多い、この辺でも浪江の津島辺りでも開墾に入り切り開いた、それで結束が強いというのもわかる
そこは放射能被害で住めなくなった、放射線量が特に高い場所だったのである
そういうふうにして苦労して開墾して住んだ人たちはそこが第二の故郷になる
それはただ与えられたものではない、苦労して切り開いたからこそ故郷なのである
故郷とはただ与えられるだけでは故郷にならないともなる
故郷はそうして作り上げられるものがあって故郷となるのかもしれない
俺たちはここを苦労して切り開き田畑にして住めるようにしたとかなる
それは北海道を開墾して住んだ人たちもそうである

逆にこんなことを自分が言うがそこで働く人はそうはならない
いくら農業しても金にならないとして農業したくないというのが現実だった
それはあまりに過酷だったからそうなった
農業だけはやるな親に殴られたという人は原発で働き工事現場で働いたのである
そこは金になるからである、とても農業だけで生活できない、そして時代が変わったからである

その畑で野菜を作る人にしても実は貧乏であり誰かが援助しなければ畑もできない
畑で野菜を作っても金にはならない、実際は十倍もの金がかかるのである
いくらこの土地でとれたものだから価値がありうまいと言ってももし農業して生活することはできない、,小遣いにもならない、赤字なのである
でも何かその土地でとれるものを食べることは買うのとは違った充実感がある
充足感がある、それがやはり自然だからだろう
みんな普通はその土地の恵みがあり生きていたからである
地球の裏側か食料が入ってくることは異常なことである
グロ−バル経済は何か異常なのことなのだが慣れれば普通になってしまう
飯館村でも山菜を山でとって暮らすのが普通でありただ買うだけの生活になったとき不安になったとかなるのもわかる
飯館村が貧乏でもそこに暮らすもののメリットはあった
それはどこでも何かしらその土地に恵みがあり生きるメリットがあるのだ
だからこそ地球は多様な恵みがあり多様な文化が生まれたのである

畑にはカンナが明るく咲いている、そして実りがあった
その時買うだけの生活ではない、充足感を感じた
それが故郷となるのかもしれない、今のように買ってばかり生活していたら金が一番大事になり別に金さえあればどこにでも住んでいいという感覚になる
だからこそ今は金で買う生活だから一億円もらったらみんな故郷を捨てて簡単に流出したともなる
前から一億円もらったら故郷を出るのだがという若者も多かったからである。
自分でもそうだが金だけにたより金で買うことばかりの生活だそうなってしまう
そこが故郷となるのか?ならないからみんな流出したともなる

ただ正直人間は矛盾した存在である。いくらそうはいってもやはり金がないなら趣味の畑でも故郷の土地からでも実りはないとなる
でも実感として一万したとしてもそのキュウリにはそれだけの価値があったなと思った
それはそれだけその畑と自分もかかわったからだともなる
何か矛盾しているのだけどもその価値を認識した、それは理屈ではない実感である

畑にそカンナの咲きて夏の雲湧きあがかなここに生きなむ

カンナが畑に明るく咲いていた、そして夏の白い雲が湧きあがる、その時この土地に生きることを実感した、農業している人は自然と一体化するからそれを実感するのである
自分の場合はただ花を見ていただけである
だか今回畑で野菜を作る人とかかわりこの土地との一体感を感じたのである
ただ矛盾しているここに生きるとしてもその人自体も金がなくては生きられないのである医者通いもしているし年金ではたりないとか生活できない
それでも畑がもっている意味とか故郷とかその土地の意味とかが何かをじかに知ったということはあった、田舎だと本当は農業を知らないとわからない

ただ今は田舎でも農業を知らない、農家に嫁いだ人は何も知らない、土さえ触ったことはない、夫は会社員だし妻もそうである
田んぼは委託しているし花さえ作っていないからだ
その女性は古い農家に嫁いでも農業のことは何も知らないのである
今はみんな会社員だとすると田舎でも農業のことを知らないのである
一応田畑があるから見ているけど農業を知らないのである。

posted by 老鶯 at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年08月03日

階級社会と格差社会の相違 (社会をいかに構成するのか?)


階級社会と格差社会の相違

(社会をいかに構成するのか?)

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階級社会とは歴史を見れば常にあった、それは歴史的に経験済みでありヨ−ロッパなどでは継続している、貴族と労働者は英語でも違った使い方をする
英語といってもいろいろある、クイーンズイングリッシュとアメリカの英語は違うというときそうなのである、同じ英語でも違うのである
歴史的伝統的に作られてきたものがありその中で言葉も洗練されて使われる
アメリカ英語が平民的だというとき平等の言葉だというとき王様もいないし貴族もいないからである、そういう歴史もない国では平民的な対等な言葉になる
上の人にへつらう言葉は生まれない、敬語もあってもないとなる

京言葉があんなにやんわりしているのは上の人にへつらうご機嫌をとるためだだんという東北弁になるとぶっきらぼうになる、おめえとか・・・だべえとか敬語を使わないのである。人との関係でもそうなっていたのである
確かに侍という支配階級が生まれて侍言葉が生まれた、平和な江戸時代に階級が作られたからである。
階級社会というとき不平等な社会であり理不尽な社会だと今ならみるがその時代にはその時代の生き方がありそれに適合するからすべてが悪いとはならないのである。
階級社会があって身分制があって社会のモラルとか秩序が形成されていたからである。
日本だと侍で贅沢していたのは極一部でありその他の侍は他の身分の人ととさして変わらなかったのである。極端な格差はなかったのである。

今になると時代劇でもどうして身分の上の人に奴隷のように忠勤する人がいたのか?
時代劇では仕える家と一体化して犠牲になる人すらいた
それは家族のようになっていたのである。でも身分社会で今なら差別されていたとかなる経済的にそう強いられていたのだとかなる
でもその時代にはその時代のモラルがありそれで社会が成り立っていた
だから階級社会の負の面をみればもう暗黒社会だとなるのである。

不思議なのは戦前とかはまだ新しい時代である、その時なぜ女中がいて家で働いていたのか?それも特別金持ちではなくても中流階級でも二人も女中を雇っていたという
自分の母親も東京で女中していた、その頃女性の働く場所が女中とか紡績工場しかなかった、絹織物を生産してアメリカに売り外貨を稼いでいたのである。
紡績は富国強兵の政府の政策で奨励されていたのである。
それで母が言うには紡績工場で働いていても現金をもらったから良かったと言っていた
それは女性が働いて現金になる場が限られていたからである。

そしてなぜ女中という仕事がそれほど求められていたのか?
家事には大きな労力が必要でありそのために人力でするほかないからそうなった
電化製品がゼロというとき洗濯板でごしごし洗っていたらその労働は並大抵のものではないからだ、それは世界で共通していてあのパリのセーヌ川で女性たちが洗濯していたことでもわかる、世界的には洗濯は川でしていたのである。
自分の家では裏に堀があってその流れる水で洗濯していたのである
ご飯をたくのにも竈の時があり手間がかかりすぎていた、ボタン一つで米はたけないのである。すると家事の労働を頼まないと仕事もできないということになっていた

自分も介護から家事労働をしているが電化されていても労力がいる、手間がかかる
だから料理はしていない、買うだけである、最近オカズを得るために生協に入った
簡単にオカズになるものを用意しておくと便利なのである
冷凍とか冷蔵であり長持ちするから一人暮らしには便利なのである。
一人暮らしだと使わないで腐らすものなどが多くなるからだ
戦前辺りだと人間の労働は女性ならほとんど家事に費やされていたのである。
それも妻一人ではできないから女中を頼んでなんとか家を維持していたのである
そういう時代は別に女中になることはさげすむことでもない
女中は女性の仕事として認められていたしそのモラルも要求されていたのである。

もし今のように女中が差別語として使われなくなったように女中という仕事はあってもお手伝いさんとかなる、職業としては家政婦とかなる
しかし女中という仕事はないのである、職業もない、女中という仕事が成り立ったのは戦前までであり後はないのである
その時代は女中は普通の家庭でも中流家庭でも雇えるものだったのである。
その時代の要請で女中がいてそれは普通のことだったのである

今はなぜ女中がいらないのか?それは家事が電化されたりオカズでも買う時代になったからである、ともかく買う種類が多いのに驚く、料理を作ることではない、何を買うかが家事なのである、家事のために便利な道具を買うことなのである。
家事も機械化されやがてはAI化されるてさらに手間が省かれる
そもそも今は誰も女中とかにならない、お手伝いさんにもならない、何か会社で掃除するとき掃除を一時間とかするときそれは会社員であり女中でもお手伝いさんでもない
その人は会社員なのである。

そして昔の女中は家政婦になるがこの家政婦は気軽に雇えるものではない、もう極一部の恵まれた社長とかしかない、給料だって相当に高くなるからもう雇えないのである
ただ家事は機械頼みだということをしてわかった
機械化してなるべく手間をはぶくことなのである。やがてAIで機械化して自動的に料理ができることなのである。それをみんな願っている
なぜなら家事の手間は今でも時間をとるからである
そして今は女性でも外で働いているから家事に時間をかけられないからである。

もともと家事をとりしきる女性は重要な役割を家でもっていた
母刀自というとき墓に刀自と記されてもいるから家事をとりしきったものとしての誇りを記していたのである。 

 真木柱(まけばしら)、ほめて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず

 大黒柱というけど女性こそ大黒柱という矜持をもっていたのである。

今は家事は女性でも第二級の低いものとして見られる、価値観は時代によって変わる
時代のモラルも変わるのである。
今はお手伝いさんでも家政婦でもなりたくない、母親が娘を医者にしたくて娘が母を殺したという事件があった、母はどうしても娘を医者にしたかったのである。
看護師にはなったがその後も医者の試験を娘は受けていたのである。
それは母が医者にしたかったからである。女性でも男性のように医者にしたいとなる
その時代の価値観の差は大きい、戦前だったら別に女中になってもはずかしいことではない、そこが働く場所として必要だったし社会が要請されていたからさげすまれるということもない、普通に働く場所だったのである。

いづれにしろ人を雇うこと働いてもらうことにはコストがかかりすぎる
ロボットだったらA地点からB地点に物を運ぶならそれだけ忠実にして文句言わないのである
人間だったらそうはいかない、怪我したときのために保険をかけたり家族がいてそれも考慮しなければならい、そして仕事はA地点からB地点に物を運ぶだけでも人間はそれだけではすまない、なにかやと要求がある、それに答える方が嫌になるのでできないのでAI化であり機械化しようとする、人間が一番効率的ではないのである。
その効率的でないことがまた人間だとなる
でも資本主義社会では効率化が要求される競争に勝たねばならい、そこでジレンマに陥るのである

人間と機械の間では情は生まれない、でも人間と人間の間では情が生まれる
その情を重んじれば効率的でとなくなるのである
そのこと故に人間でありうる、資本家とか経営者からすれば人間は大きなコストになる
だから極力省く方向になる、AIとか機械は文句を言わないからである。
機械にはプライドもないから文句は言わない、うらやましがったりもしないからである
資本主義社会を追求してゆくと非情になる、すでになっている、金だけがすべてになる
何でもあれなんの能力もないものでも何もできないものでも人格的に悪辣だなんだといっても金のある人間は資本主義社会では勝ち組なのである。

だから格差社会と階級社会が違うというとき階級社会とは何か?
それは人間の歴史で階級社会の方が長いのである。格差社会と階級社会は違う
階級社会は簡単に作れない、貴族社会は長い時間の中で作られてきたからである。
その階級を否定するとしても貴族社会には階級社会にはそれなりの価値観とモラルがあり社会を維持してきた、江戸時代がそうである
それがすべて悪いものだった、格差社会であり奴隷社会だったともみる
でも江戸時代全体を見たとき階級社会でも庶民は外人が明治に日本に来たとき幸福そうな顔をしていたというとき今見るものとは違っていたのである。

階級社会より格差社会が悪いというとき階級社会は江戸時代のように侍が支配して身分社会だった、その人たちは階級として共同体を形成してモラルを形成した、武士道でもそうである、そして責任が重かったから責任をとるとき切腹したのである
そういうことを庶民は見ているから侍にはなりたくないと言っていたのである。
今ならそういう責任がないから庶民から見て金持ちはただ楽しているだけだと見るから
階級社会ではなく格差社会なのである。
格差社会はただ収入の金があるかないかだけで判断している社会である
階級社会はヨ−ロッパでも長い歴史の中で生まれたものであり日本の侍でもそうである
今は格差社会であり階級社会ではない、階級社会は簡単に作れない、長い時間の中でしか歴史のなかでしか作れないからである
格差社会より階級社会の方がいいというときその階級社会は歴史の中で長い時間の中で作られたものだから作りようがないのである。江戸時代でも300年ありヨ−ロッパだってそうである

階級社会というとき侍を庶民は認めていた,それは金があるからでなはい、経済的に豊かだからではない、社会の中で重い責任を果たすものとして見ていた
だからこそ侍として庶民は認めて従っていたのである。
今は金持ちを誰も認めていない、あいつらむしろ不正しているからあこぎなやつだから金に汚い奴らだから金持ちになっている
そういうやつは許してはならない、資産でももっと税金をかけるべきだ
むしろ金を奪うべきだともなっている、格差社会ではいづれそうした不満が爆発する
金持ちをそもそも認めていないのだから金持ちは暴動が起こり襲われる
格差社会はこうして深刻な対立を生み国は分断されるのである。
格差社会は金持ちにとっても危険なのであり常におびえていなければならない社会である枕を高くして寝ていられない社会なのである。
そういう社会では金持ちもいいものではないとなる


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2018年07月27日

頼む人によって損したり得したりする (頼んだ大工は修理しても直っていなかった)

頼む人によって損したり得したりする

(頼んだ大工は修理しても直っていなかった)

雨漏りして大工に頼んだ、その大工を紹介した女性がいた
結果はどうなったか?
あとから何度も金をとられた、請求された
ちょっとした仕事でも金がかかった
高い所だから危険だからと金を請求した
そんなふうに後から後から金を請求されるのも困る
普通は見積もりを出して引き受けるのが普通である
ただ今回はそうしたまとまった仕事ではない、一部を直すものである
それで頼む人がいなくて頼んだ
結果はこの前雨になり同じようにだらだら雨もりして水浸しになった
何にも直っていなかったのである

するとそれで金を払ったのが損だったとなる
その大工は直すことができなかったのである
また交渉もできない、ただ金をとるだけだったともなる
そうなったら半分くらいこちらでもらいたいともなる
実際に直っていないのだから仕事はできていないからである

そして頼んだ女性にも問題があった、そういう人を頼んだからである
頼む人でも中継ぎになると連帯保証にもなる、その中継ぎになって頼んだ人にも責任がある、なぜそんな人を紹介したのだともなるからだ
大工にも相当に腕の差があるのかもしれない
とにかく人に仕事を頼むときその頼む人によって損したり得したりする

事業は人なり」と言われるが、これは全くその通りである。どんな経営でも適切な人を得てはじめて発展していくものである。いかに立派な歴史、伝統を持つ企業でも、その伝統を正しく受けついでいく人を得なければ、だんだんに衰微していってしまう。経営の組織とか手法とかももちろん大切であるが、それを生かすのはやはり人である。

いくら会社でも人が仕事するのだから人による、AIとか機械はあくまでも人間の補助にしかならないだろう、それを利用するのも活かすのも人だからである。

庭作りした小高の大工さんは一人親方もできるから優秀だった、まず話がうまいし交渉もできる
大工の腕もいい、そういう人はめずらしい、職人気質でとりつきにくい人もいるからだ
ただ小高と鹿島がうまくいかなくなりつきあわなくなった
近くの一軒だけの自転車屋の人も交渉がうまい、そして他で買ったものでも差別なく修理してくれる
原町の自転車屋はとそういうことが全くなくな断った
これも人である、だから人によって医者でもそうだが何でも損したり得したりする
ただ田舎だと選ぶことができないのである。
都会だとすでに原町辺りだと何でも選べるからいいのである。
選べないということはその人がどうのこうのとか文句も言えなくなるのである。

銀行でも自分は投資のことがわからないから銀行員に頼んだ、まかせた
そんなに時間をさけないからである。
つまり投資のプロだと思い頼んだのである。
ところが銀行や銀行員は投資は素人並みだったのである
何もわからないにしろ投資なら株なら安い時に売り高い時に売ればいいとなる
それから基本は分散投資していればいいのである。
それを株が上がっていたのに投資信託に回したのは手数料がとれるということで回した
それで損した、それは銀行では今稼ぐことに苦労しているから投資信託を売りつける
投資信託は銀行にとってはいいものなのである。絶対に損することがなく手数料がとれるからである
これも銀行という組織であれ個人であれ頼んだのが失敗だった
銀行員はノルマが課せられているからとにかく銀行にとってもうかるものをすすめるからである

人間は何か頼むときその人にも組織にもよる、それで損したり得したりする
ただ人でも銀行でも選定がむずかしい、信用して雇った人も泥棒だったとかなる
家に入る人は本当に危険である、それも結局頼んだ人が悪いからである。
不用心に頼んだからである。
おそらく会社運営でもまずそうして社長一人ではできない、社長を支える信頼できる人材を集めなければならない、頼まねばならないのだ
その頼む人が悪いとうまくいかずに倒産したりする

自分の場合なんでも頼んだ人が悪いからあらゆることで損したのである。
病気で介護の時もそうである、そこに来たのは悪い人ばかりだったから損して苦しんだのである。
だから頼む人がどう選ぶか会社でもどう選ぶかが大事である
ただ田舎では銀行でも数少ないし選びようがないのだ
東京辺りだと大手の銀行とか証券会社があり頼める、聞くこともできるだろう
それがないから選びようがないからそうなる
医者でも町でも三軒くらいしかない、ただ原町には眼科医でも三軒くらいある
だから原町だと医者を選べるのである。それび評判のいいところは繁盛している
でも糖尿病で白内障の手術した人は仙台の医者にかかった
糖尿病で手術できるのは仙台にしかないというからだ
難しい病気になるとここではお手上げになる、それが田舎の一番の問題なのである。

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2018年07月19日

すべてがグローバル経済に巻き込まれる (麦が輸入されて癌になる、サンマがとれなくなる)


 すべてがグローバル経済に巻き込まれる

 (麦が輸入されて癌になる、サンマがとれなくなる)

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日刊現代−7月19日号

小さな畑がある、そこでとれたものを近くの農協がかかわる販売店で売ろうとする
すると農協から肥料とか薬を買えと強制され金をとられるという
売るほどのものがとれないのに農薬代とか肥料代とか種代で金がなくなる
その金をまた自分に要求されるのは困る
趣味でやる畑は自分でとさたものを食べるかとか回りの人にくれるとかでいい
とてもそれを売るとなるとハードルが急に高くなる
そこでは全国の競争にさらされグロ−バル経済もかかわってくる
野菜でもアスパラガスなどでもメキシコからと入ってきたからである

農業は全国的にも世界的にも競争にさらされている、すると昔のような自給自足のような農業は成り立たない、米だって全国規模になりブライド米として売れないと成り立たないトマトでもまず種類が多いし安くなっていた、それだけ全国的にもトマトを栽培している農家が多いからである。トマトはそれだけ売れればもうかるからそうなる

現代文明とはグロ−バル経済だというとき輸送文明なのである。輸送力が格段に発展した社会である。それで外国からも食料でも野菜でも入ってくる社会である
だから田舎でトラック運転手が意外と多いというときそうして東京とかに運ぶ輸送を担っているからである、そしてトラック運転手な過酷な労働が問題になる
一分でも遅れないように輸送を強いられているのである。
市場のせりにまにあうためとか九州からでも東京の市場に運ぶのである

それで今日の日刊現代の記事に興味をもった、麦を運ぶのに薬を使っている、船で運ぶにしても時間がかかるから腐敗しないように薬を使う、それが癌の原因になるという
つまりそれだけ食料となると運ぶということで問題が起きる
それだけ遠くから食料などを運ぶことは無理がある、でもその無理を克服して技術力があるからそうするようになった,それでもそうした問題が起きているのである。

基本的に人間の社会は日本だったら戦前まで地産地消だった
その土地でとれたもので生活していた、第一そんなに遠くに運ぶ技術がなかったからだ
冷凍して魚を運ぶとか新鮮なものを運ぶとなると容易ではないしコストがかかるからだ
だから東京なら江戸前であり新鮮な魚は江戸の前の海でとれたものなのである。
江戸前とはまさに百万都市の江戸でも新鮮な魚が食べられた象徴した言葉だったのであるこの辺でも新鮮な魚が食べられていた、港がありそれが豊かさだった
漁師の人は二三日過ぎたら魚を食べないとなっていたのだ、魚は新鮮さが勝負なのである江戸というとき東京をイメージするが江戸前は今はない、全国から食料は運ばれて一千万人の胃袋を満たしているのである。だからそのエネルギーは膨大なものとなる
そのために運ぶためにトラック運転手が苦しみ一分争って運んでいるのである。
だから東京一極集中は異常な世界なのである。
福島に原発を作ったのも東京にエネルギーを供給するためだったのである
別に原発は東京に作れたのである。その方が効率的だったのである。

江戸だったら練馬大根でも回りが農家であり野菜も近くから供給されていた
ただ米だけは地方から特に東北の伊達藩では江戸の米の三分の一を運んでいたという
江戸ではいつも白米を食べれるということで贅沢だとなっていたが脚気になった
でも麦飯と粟飯でも五穀を食べていた人はならなかったのである。
それで脚気は江戸患いとなっていた、江戸に生活して白米を食べているとなった病気だったのである。
これもやはり本来なら白米だけを食べない、雑穀を食べる、食べ物でも一つの種類だけに特化して食べることは危険だとなる
なぜそうなったのか?
それは船で米を輸送する技術が生まれたためにそうなったのである。

グローバル経済というとき世界的株式市場のことのように思い関係ないともみる
でも現実はまず食料からしてグロ−バル化しているし巻き込まれている
石油があがればトマトを作るハウスでも石油を使うから値段を上げるとかなる
農業も石油と関係しているし電気とも関係しているようになった
食料自体が工業製品のようにもなるし農機具を使うので機械化もする
そして常に世界的競争にもさらされているのである

例えば漁業でもサンマが今年はとれないから一匹400円とか500円とかもっと高くなるといかいうときどうしてそうなるのか?
その原因は不明でも台湾や中国の大型船が日本の排他的領海より外で大量にとるためだともしている、これまでは中国ではサンマは食べる習慣がなかったが日本で食べるようになりそれまねて食べるようになった、サンマは旬で食べるのがいいのだが中国などではそうした文化はなくまだ成長しないうちからとって食べるという
つまりサンマを食べる習慣は文化はなかったが最近日本をまねて食べるようになったのである。
そうすると中国の人口は多いから魚だって獲りつくされる恐怖がある
それも結局グロ−バル経済の結果なのである

地産地消の経済が言われるけどもともと自給自足の経済であり地元でとれたものは地元で食べてそんな遠くから来たものは入ってこなかったのである。
自分の家でも店をしていたとき野菜は近隣の農家から買って売っていたのである。
遠くから来るものは少なかったのである。
卵でも農家から売って買っていた,子供の時卵を買いに行かされたからである。
その時自転車でありその自転車もいい自転車ではなかった、だから必ず糠に入れた卵が割れていたのである。
野菜でも姉が自転車で運んでいた、大きな箱を後ろの荷台につけて野菜を朝に運んでいたのである。それは相当に大きいから持ち上げるのに運ぶにも力がないとできない
でも姉は力持ちだからできたのである。車などないからそうなった
梨農家では相馬まで前の中村までリヤカーで運んだという、後はまだ馬車の時代であり運ぶに苦労したのである。

輸送する技術が生まれたときグロ−バル経済が成り立つ、でもその時地産地消のその土地にねづいた文化は失われる,世界の株式市場をいつも四六時中気にしている投資家と同じになる、漁業にしても小規模な漁業は中国や台湾の大型船にかなわないとなる
すると小さな港で地元を地盤にして生活も破壊される
それで漁業でも小規模ではやっていけないとか跡継ぎがいないとかで東電に漁業権を売り渡して補償金で暮らした方がいいとなり現実になったのである。

サンマがとれないというとき高くなると庶民の魚ではなくなり庶民の魚文化も食文化も失われる、つまりグロ−バル化は文化を破壊するのである。
文化というとき食料とか料理も文化だからである。
原発事故でその農業でも漁業でも林業でも一番放射能で汚染された
そうし人が住めなくなった、一番影響したのがそうした自然を基に生活していたものだったのである。
そこでは誰も跡継ぎがないとか金にならないとかでやる気がなくなっていたところに原発事故で壊滅的な被害になったのである

グロ−バル経済は食文化も破壊するとき深刻なものになる
なぜなら本来は日本人は肉と牛肉は本来食べていない。穀物中心の食文化だった
だから日本人は腸が長いのである、牛のように胃袋が四つもあるというとき穀物を消化するためにそうなる、それで不思議なのは欧米人は肉を消化する酵素が日本人より出るというときこれもその食文化は長い間に文化として定着して体まで適合するように作られていたのである。

逆に今日本人の食文化はサシミでもサンマでもスシなも世界に普及した
日本人の食文化は料理は体にいいから長寿なのだとして世界でも普及したのである
これも食のグロ−バル化として起きている
肉食文化より魚と野菜と米中心の食文化が体にいいとなった
実際に癌とかアルツハイマーの原因はわからないにしても食文化が変わるとわからない病気が増えることはありうるのである、やはり食が健康の基だからそうなる

いづれにしろ移民問題にしろ食でもなんでもグロ−バル化した世界がもたらした問題である。そのグロ−バル化に組み入れられて巻き込まれているからそこから離れられない
グロ−バル化からは離れてありえなくなったのである。
グローバル化やエネルギー問題の深刻さはこの辺のように住めなくなることなのである
これほど深刻なことはない、人間はまずその土地に住むことを目的として生きるからである、その土地に住むためにどうするのかということからはじまる
その土地に住めないことはもうすべてが終わりなのである。
現実に街すら廃墟となり放置されて人は住まなくなったからである。
そうしたことは電気は必要だとかいろいろ理由を言ってももうその理由も成り立たない
それで大熊辺りでは蝋燭で家族一緒に生活できた方がいいとか極端なものになったのである。住めないということほど深刻なことはなかったのである。

グロ−バリズムの終焉(経済学的文明から地理的文明へ)
関廣野、藤沢雄一郎著

これは自分が追求してきたものと重なる、地域に根ざして土に生きてきた人だから自分より説得力がある、農業を実践してきたからである
この著者も原発に疑問を抱いて前から原発に反対して運動していたのである。
ただ左翼関係かもしれないが原発に関しては別に右左はないのである

この本では著者は住むことを一番大事にしている、住めための経済学である
貿易とかにも疑問をもっているし銀行でも支配者のためにあり金持ちのためにある金融支配のものだと批判している,確かに銀行は何しているかわからないのである
株とか投資信託でもうけるとなるともう証券会社であり地銀の役割はになっていないからだ

ただこれだけグロ−バル化とか資本主義とかが世界を支配するときそれを否定して生きることは不可能に近いともなる、エネルギーにしても炭を使って木炭で車を動かすとなると百年前にもどるのかとなるからだ、ただこの本は自分の思想と一致するので深く検討する必要がある

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2018年07月10日

グロ−バル経済に生きる人間の心の変化 (小規模共同体の文化や伝統は根こそぎ破壊される)


グロ−バル経済に生きる人間の心の変化

(小規模共同体の文化や伝統は根こそぎ破壊される)

グロ−バル経済とは何なのか?それを理解することが意外とむずかしい、でも現代はどんな片田舎でもグロ−バル経済の中に組み込まれているのである
田舎とか村とか確かにあるけど実際の生活でもグロ−バル経済の中にある
例えはバナナを食べているとしたらすでにグロ−バル経済の中で恩恵がありバナナを食べられるとなる、葡萄でも安い葡萄を食べるときそれはチリとか地球の裏側からきているのだからどんな片田舎でもグロ−バル経済の中で恩恵とか損とかあっても生活しているとなる

グロ−バル経済とは世界の株式であり普通日常の生活と関係ないと思っている
株なんか特別金のある知識のある人がするものだし特別な人がもうけているのだと思っている、でも株式がグロ−バル経済のシステムとしてありその影響をどんな片田舎でも村でも受けるのである。

それで日常的にどういう気持ちに今なっているのか?
東京のような大都会だとまず食料はすべて買う、その買うにししてもそれが別に外国産でも中国産でも何でも安くて品質が良ければいいというだけなのである。
食料は外国産でもいい、日本の農業は補助金とかばかりかかり税金がかかるだけでやめた方がいいとか限界集落など金がかるだけで維持する価値がないとなりなくした方がいいとなる
そういうことがグロ−バル経済の思考として普通になっているのだ

それを江戸時代とか戦前とか村が自給自足で生活していたような時代なら土地は一番貴重でありその土地を活かして生きるほかないからそんな思考にはならないのである。
森があったらその木材を活かして炭にしたり家を建てたりとするからである
グロ−バル経済とは世界的経済であり世界的競争する資本主義社会なのである。
そういうシステムとしてグロ−バル経済があり世界はそれから逃れられないようになっている

現代というのはだから人々の心情も変わる、漁業とか農業とか林業などが金にならないというとき価値が貶められたのはグロ−バル経済の結果なのである。
実際に林業がだめなになったのは外材に頼るからでありそこにこそグロ−バル経済が具体的に田舎でも影響していることが明確にわかる
米すら今ではいい米が外国でも作れるしそれで日本に米を買ってくれとなる
すると日本の農家はそうした外国と米ですら競争にさらされることになる

そして農家とか漁業でも農家ならハウス栽培であり冬でも石油を使い温度を調節する
電気も使う、農業はもう工業なのだとかなる、土が育てるというより石油が育てているんだよなとか電気が育てているとかにもなるし実際そういう栽培をしている野菜工場もあるそういう社会では何が起きてくるのか?
つまり石油というのが電気でも最も大事なものになる、だから農家でも石油がないと野菜をも作れない売れなくなるとか電気でもそうである

そして石油とか電気を作るのに石油を使っている時、石油がないともう農業もなりたたないと農家の人すら思っている社会なのである。
日本には資源がないというが石油を精製する技術はアメリカとドイツと日本にしかないから心配ないというがではその技術が競争に負けたり失われると日本はお手上げになり貧乏国に転落するのである。
戦争でも特攻隊のゼロ戦とかは片道飛行しかできなかった、燃料の石油がないので帰ることもできないとして突撃したのである。

こういう社会で人々はどういう心で生活しているのか?
石油が入らなくなったら技術が遅れをとったら日本は終わりだと思う
その石油を買うのには例えば日本の技術で生産される、自動車とかその他のもの半導体でもそうだが外国に売れる品質のいいものを作る必要がある
それができなくなれば石油を買えなくなるというとき日本はその技術を最も最重要のものとしてみる、そこに原発でも技術として開発する理由があった
技術先進国の地位を確保するためにそうなったのである

つまりなぜ漁業でも農業でも林業でも重んじられないのか?
それはグロ−バル経済なのかで生きているからそうなった
石油を輸入することでもそうだがバナナを輸入することでもそうなのである。
それを輸入するには対価となる売るものがなければ買えないのである
つまりグロ−バル経済というものを現代では否定して生きることはできないということである
石油がないなら終わりだとか電気がくなると終わりだとかそれは都会の人だけではない田舎の農業している人さえそう思っているのがグロ−バル経済なのである。漁業でも石油がないと船が動かせないから魚がとれないと思っているからだ

現代はグロ−バル経済など田舎で関係ないというけど実際は深く関係している
株なんか関係ないというけど深く関係している、株をしなくても関係している
石油があがれば車のガソリンでも上がるし全体に影響するからである。
もし自給自足のような江戸時代のような生活がつづいていたらグロ−バル経済は関係しないのである。

そしてグロ−バル経済は昔の村のような共同体とか伝統を根こそぎ破壊する
自然の中で自然と共生して生きてきた文化を根こそぎ破壊する
それは自然破壊にも通じる、小規模漁業とかも大会社の大きな船で魚を大量にとると小規模な漁業は破壊される
イオンのような大資本会社が店を開けば小規模な商店は消失してシャッター通りになる
それはグロ−バル経済の中で起きてきたことなのである。

グロ−バル経済でも移民問題が発生した、物の自由な流通から人の自由な出入りが可能になった
飛行機で行き来することが可能になった、ただそこでも物ならいいが生身の人間が入ってくると問題が起きた
生身の人間は言葉も違うことからして意思疎通が簡単ではない、一人の外国人が入ってくることはその国の歴史とか伝統とか文化を背負っているからである、だから物を入れるようにはいかない、そこで文化摩擦とかが起きる
昔の村だったらまずそこは強固な共同体を形成しているから簡単にその村で生活できない
草鞋をぬぐとして村で認められる信頼されるには一代だけでも村では認めないし信頼しないのである。
同じ日本人でも言葉が通じてもそうなっていたのである

グロ−バル経済というのはそういう文化的垣根も取り払おうとするがそこに摩擦が生じてナショナリズムに移民の国のアメリカすら排斥するようになったのである。
グロ−バル経済というのは別に大都会だけの問題ではない、片田舎でもその問題は同じなのである。
みんな農民ではない、会社員でありサラリーマンだからである。
すると田舎でも農業とか漁業でも林業でもその価値は低くみられていたし価値ないものとされていた
それより原発だとなってしまっていたのである。

金の社会になるというのもグロ−バル経済でそうなった、金の力がこれだけ大きくなったのも世界的金が通用するからである
それでドルが世界の金になったということはアメリカが一番力をもっているからそうなる
ドルは一番信用されているからそうなる、中国があんなに経済が発展しても中国の金が世界で通用ししていないことでもわかる
そてし金がこれほど大きな力をもつようになるとそこに摩擦が起きる
原発避難者が多額の補償金をもらっていわき市辺りで次々に家を建てた、二万人も避難したとなればその摩擦も大きなる
土地が値上がりしたり病院が満員になったとかその土地にもともと住んでいた人たちは迷惑になった
これは自分の町でも起きたことである。
そして避難した人たちは「私たちここで消費して鹿島の人を助けているのよ」と言っていた
つまり金をもって金を使う人が一番偉い、消費するものが王様だという社会に生きていたからそうなったのである。
こういう人が特別な人ではない、そういう社会に生きていたからそれが常識ともなっていたのである。
でもそうして小高と鹿島の人たちは金をめぐって分断されたのである。

こういうことは移民にも起きてくる、ただ金が欲しくて日本で金を稼ぎ仕送りする、その目的は移民にすれば金しかない、
受け入れる方でも部品を合わせるように人間を見ているのである。
それで摩擦が起きる、人間は機械の部品のようになれないからである。文化が違うから適合できないとなる
金があればいい、金さえあればどこでもいいとはならないのである。
そこに積み重ねられた生活がありそこに金があるからと入ってきて何でもいいとはならない、金払うからいいじゃないかとはならないのである。

例えば小さな島でもそれなりの生活がある、そこに大金持ちが入ってきて何でも自由になるのか?
その大金があれば島一つくらい買えるし買っている人もいる、でもその金でそこに昔から住んでいた人たちを支配できるのか?
自由にできるのか?観光ならホテルを作り外から客を呼び込む,リゾートホテルにする、そういうことは実際に起きている
島の人たちはホテルで働くようになる、するとその島の支配者はホテルを経営する資本家だとなる
そこに昔からあったその島ならではの生活はは根こそぎ破壊されるとなる
社があっても漁をするにしてもホテルの方が生活になる金になるからだ、それはこの辺で原発を誘致して事故になったのと同じなのである。そして根こそぎ文化や伝統は破壊され共同体も喪失して人が住まない村や町になったからである
そしてもしホテル経営が観光がうまくいかなくなると島には原発事故で起きたように人が住まなくなるということが起きる

ただこういうことは全世界でグロ−バル経済で起きたきたことである。だから別に日本だけの問題ではないのである。
だからこそ原発という技術開発でも日本では必要となるしグロ−バルな技術競争に負ければバナナも買えないし食料すら買えないとみんな思うようになっている、それがグロ−バル経済に生きている人の心の変化なのである
それは農民だろうが同じなのである。そこで一番の価値は技術だとなる、車でも売れなくななればトヨタが衰退して倒産したりしたら日本は終わりだとみんな思っている、江戸時代なら天候不順で米がとれなければ終わりだとなっているのと違った価値観に生きているのがグロ−バル経済社会なのである。原発もそういうものとして作られたのである。
でも本当に大事なもの、価値あるものはと何かということを原発事故で問われたことは確かである。
それでもグロ−バル経済なのかに田舎でも組み入れられていてそこから逃れられな事実を見て対処しなければならない
だから簡単には解決できない問題なのである。

その時代の人間の気持ちがこうして時代によって違ってくる、車社会に生活しているのと徒歩で生活している時代の人の気持ちは違っている、だから人間はその時代を生きるのであり時代を越えて生きられないとなっているのである。
戦争の時は戦争して死ぬことも普通だという気持ちになっていた、その時代によって人の心も違ってきているのである。
ただ現代を知るには過去を歴史を知る必要があることは確かなのである
グロ−バル経済社会では人々の心もそれを拒否したとしてもそのシステムの中で生きているからそうした気持ちは同じなのである。
どうしても漁業でれ農業であれ林業であれそうしたものの価値は低くなり原発でも電気でも車でも技術の価値が高くなる
食料など世界のどこからでも入ってくる、日本の農業などに関心がなくなり価値がないとも見てしまうのである。
それはグロ−バル経済の中で否応なく生きているからそうなっているのである。
だから人間は時代を越えて生きられないのである。

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2018年06月27日

意志疎通できない社会の問題 (自然と歴史と社会への意思疎通が欠かせない)


意志疎通できない社会の問題

(自然と歴史と社会への意思疎通が欠かせない)

●自然への意思疎通

●歴史的意思疎通

●社会的意思疎通


駅に毎日行っていた,でも向かい側のホンダにネパ―ル人が三年働いていたとかわからなかった、人間は意外と近くのことがわからないのである。
灯台下暗しなのである。今や外国の方が詳しくても日本のことがわからない人もいる
ニュースはたいがい広域的だし今はグローバルになる

つまりホンダにネパ―ルの人が来て働いています

こういう報道は一切ないのである。
駅でいろいろな人とあったことをプログで書いたがそれもニュースだが報道はされない、人間は何かを知ろうとしているが身近なことすら今では知りえないのである。
駅でボランティアをして外部の人と内部の人と交わり土地のことをある程度理解したが一万の町でも今では複雑だからわからない、隣で何をしているのかわからないことも多い
こういう社会は今までなかったのではないか?
江戸時代だったら長屋だと家のことが筒抜けだし村だったら農家だったらもうその家のことはみんなわかる、     
だから現代というのは江戸時代と比べると異常だともなる

つまり身近に住んでいる人でも何をしているかもわからないということである
そもそもそうして外国人が来ているということは目立つことだがそれすらわからなくなっているのである
そしてただ金があればどこでも暮らしていけるという社会なのである。
ただそこで現代社会で何が起きてくるのか?それは様々な事件として現れてくる
まず通り魔事件などは江戸時代だったら起きないだろう
江戸時代の犯罪はわかりやすいのである。目的もわかりやすいのである
今でも犯罪は動機がわかりやすいものがあるが何か不可解なものもある
それは日ごろから社会が多様化して複雑化しているからである
仕事も無数にありその仕事を理解することが難しいのである。

人間とは生きるときまず自然との意思疎通が否応なくせまられる、自然のことがわからなければ生きていけないからだ、狩猟でも漁労生活でも農耕でも遊牧民生活でもそうである採集生活でも何が毒の植物なのかなど見分けなければ生活できない
そこに自然との意思疎通が不可欠でありそれがまずなければ生活できない
それは今でもつづいているが自然との意思疎通は文明化工業化が高度になるとおろそかになる、なぜならホンダで働いていたネパ―ル人がいたように今は農業社会ではないからだ
でもそこで何が起きてくるのか?
自然との意思疎通ができなくなるとき何が起きてくるのか?
そこに今回のような原発事故なども起きて自然が根こそぎ汚染されて住めなくなったりする、東電とかには自然との意思疎通はない、農民や漁民や林業にあったとしても東電には自然との意思疎通はないのである。
東電とか政府でも地元の人との意思疎通はなされていない、ただ政府とか東電では金さえやればいいとしていたのである。
地元でも意思疎通を望まない、金があればいいとしていたのである。
ただそもそも科学のこと原子力のことなどわからないから意志疎通ができないということもあった
ここも現代の問題なのである。専門家がいてお前たち素人には何もわからないとしたとき意思疎通がなくなるからだ
そして何か現代社会はホンダで30人くらい働いているのは多いなと見る
東北電力で働いていた人が2000人とかいたというのも驚きだった
そういうこともなかなか近くでいつも見ているのだが内部がわからないのである。
人間は今田舎に住んでもそうしてわからないことが多いのである。

もう一つ大事なものとして歴史的意思疎通がある、その土地には長い歴史がありその歴史の上に市町村でも作られている,でもこの歴史的意思疎通もむずかしいのである。
なぜならそれは死んだ人たちとの意思疎通ともなるからだ
もうそこに昔を語る人はいない、みんな死んでいるからわからなくなる
だからまるで江戸時代になると実は外国より異質な理解できない世界になっているのだ
ヨ−ロッパでも古い城が数多くあるが現代の生活はどこでもにたりよったりだからであるでも中世の生活はどうだったのかとなると江戸時代を理解するのと同じようにむずかしくなる、特に外国は理解するのがむずかしくなる

私が古い碑とか墓とかで常に時代を見る、江戸時代だったら貴重だったとなり何度もみるそれは昔の人と意思疎通する手段になる、文書だけではない、その土地を踏んでそこに生きた人たちをイメージするのである、つまりそこに生きたものをただの記録ではないものを感じるからである。墓には何かそうした文書ではないものを感じるから意味があるとはなる
でも日本でも旅行するとその土地のことは歴史を知るのは容易ではない、その土地と意思疎通することがむずかしいのである。
そもそも人間は歴史というとき親が死ぬとまた身近な人でも死ぬと謎になる
その人は死んだとき考えるのだがすぐに忘れてしまうのである。
そしてその人が生きていた実在の人物なのかどうかもわからなくなる
人間は死んだ時点でみんな不可解な謎になるのである
だから歴史上の人物でも明治維新のように吉田松陰などは一人のテロリストにすきなかったなどと言われるのである。歴史はそうしていろいろに解釈されるのは人間は死んだ時点で不可解な謎になるからである。

現代は思うにグロ−バル経済になっても社会になっても実はただそれは物のやりとりだけであり金を媒介にしてつながっているにすぎない、ではグローバルに意思疎通が深まったかというとそういうことでもない
確かに世界を旅行できるからしないよりはいい,ネパ―ルに一回だけでも行けばあんな山の上にどうしてい生活しているのだろうと実感してネパ―ル人とコミ二ケーションできるからだ、まず一回を行っていないとあの山のことは理解できないからだ
つまりそこから意思疎通が始まるからだ

そもそも4000メートル級の所に人間が住めるのか?
そこでどんな暮らしが成り立つのか?

そこからして意思疎通がむずかしくなっているのだ
人間は狭い地域でもは意思疎通することはむずかしい、まず農民と漁民でも職業が違うと意思疎通がむずかしくなる、天狗とか山に怪物が住んでいるとかなるのはそこに誰が住んでいるか意思疎通できてないから神秘化してそうなったのである。
山の人と里の人と海の人があまり交わらないからそうなったのである
江戸時代ではどうしても閉鎖された所で生活しているからそうなる

では現代はこれだけ広域的に交わり世界と交わっているがそれで意思疎通ができるようになっているのか?実際は金を媒介にしてそうなっているだけであり意思疎通できているとは思えないのである。
ただ物が入って来たとしても意思疎通できるとはならないからである。
そこでマルクスが言ったように物だけがありその物にまつわるものは一切省かれるからこそ金を媒介にして流通できるとなる
それで神社とかで無縁化した場所に市場が生まれる、というよりは村ではそうして無縁化したところでしかそうした売り買いはできない
なぜなら村人は濃厚な地縁との結びつきで成り立っている、そこでは簡単に物を売ったり買ったりできないからである。そうすると村社会が破壊されるからである。

現代はそうして金だけを媒介としてグローバル経済となり共同体を破壊してきたのであるそこに意思疎通がなくてもいい、金だけを媒介にする社会である。
そこでまた様々な問題が起きる、金だけが力をもち金だけが媒介にするとき共同体が破壊される、人間の関係も金だけになるとどうなるのか?
人間性すら喪失する、モラルすらなくなる、金が猛威をふるい共同体でも人間のモラルを踏みにじるのである。
要するに社会が共同体があって金があるのではなく金があり社会があるとなる
そういう社会は意思疎通もなくなる、相手から金をとるものとしか見なくなるのである。金持ちがいればその金を盗ることしか考えなくなる
親ですら金をとるものとして見なくなるのである。

歴史でも郷倉に文書を村人の意志で保存していたように歴史すら保存されなくなる
歴史の保存には共同体が必要だからである。
共同の意志がはぐくまれたのはやはり金だけの社会ではなかったからである。
だからなぜ原発事故でこんなに簡単に町も村も崩壊したのか?
確かに放射能汚染がありそうなったとは言える、でもそれだけではないということを追求してきた、それを証明しているのは原発避難民は多額の補償金をもらった、そしてその金のことしか考えなくなった、そこにあった自然と歴史と共同して作られたものはその人達の中になかったのである。
第一先祖がどうのこうのといっても現実そんなことを考えても生活できないとなるからだそれより金さえもらえれば一億もらえればいいとなる
それでその金でいわき市では二万人の人が避難して次々に家を建てた
それを地元で家を建てられない人がうらやましがり事件が起きた
いわきの人と金だけでそうすることが反感をかったのである。

でも現実問題として金があれば別にいわきの人たちが家を建てるのではない
今は会社が外部から来て組み立てるだけなのである。
この辺でも何百軒も家が建ったが地元の大工はほとんど作らない、というよりそんな数をこなせるわけがないからだ、家というものを作るのでも別に地元の人とかかわらなくてもかねさえあれば建てられるしどこでも住める時代なのである。
そこで見逃されたのか無視されたのが目に見えないものである。
先祖とのかかわの歴史とか自然の価値とか金にならないものの価値があったがそれはもともと金にならないから無価値として認識されなかったのである。
だから若い世代は金をもらってみんな散り散りばらばらになったのである

三つの意思疎通が人間には基本的にあるとしてその三つとも今の社会は希薄化している
一見金だけを媒介にしてグローバル経済になってもでは世界との意思疎通が深まったかというとそういうことも必ずしもないだろう
ただ物が自由に出入りしているということなのである。金を媒介にしてそうなっているのである。別にバナナが入ってきたからとこれがどうしてとれるかなど考えることもないからである。何かただ何の苦労もなく実りそれが店頭に並ぶとなるだけである
でもバナナをとるにも苦労だと実際にそこで働いた日本人が報告しているからその現場で働いてみれば違うのである。

意思疎通がなぜむずかしいのか?それはもう歴史的にもむずかしい、なぜ万里長城ができたのか?それが今も同じ問題を起こしていたことに驚いた

ナイジェリア政府は24日、中部プラトー州でキリスト教徒の農民とイスラム教徒の遊牧民が衝突し、多数が殺害されたと発表した。地元メディアは86人が死亡し、50棟以上の家屋が破壊されたと報じた。

 ナイジェリアでは長年、土地の所有権を巡り農民と遊牧民が対立している。農民は、遊牧民が農地で放牧し作物を食い荒らしていると主張。近年は天候不順で農地が減り、衝突が激化している。

こういう衝突はやはり農民と遊牧民が意思疎通することがいかにむずかしいかを示している、遊牧民にすれば食料がなくなると食料のある農耕民を襲うのは当然なのである。
なぜならそうしなければ飢え死にするからである。
でも農耕民にすればそんなことされては困るのである。それで万里の長城ができたのである。農耕民は遊牧民の生活そのものが理解できないから意思疎通できないからそうなったのである,あなたたちは遊牧して食料で困ることはわかります、では食料を分けてやりましょうとはならていからである。ただそこで何らかの交換が貿易が成り立てば争いはなくなる、ただ一方的に武力で食料をとられることになるのは意志疎通がないからである
その意思疎通でもやはり交換する経済があればそれは平和的なものとして争いにはならないということはある、貿易でも摩擦があると貿易戦争になる
確かにグローバル経済は意志疎通する手段ともなるがまた反目するものともなる
ただ近間でも意思疎通ができないように人間にとって意志疎通することはいかにむずかしいかわかる、ましてや外国になると言葉から何から違うからむずかしくなるのである。 

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2018年06月26日

ネパ―ル人とあって移民のことを具体的に考えた (駅の向かいのホンダで働いていた)


ネパ―ル人とあって移民のことを具体的に考えた

(駅の向かいのホンダで働いていた)

どこの国の人なのだろうとスマホをしている人に聞いた
そしたらネパ―ル人だった,その人は結構日本語ができる
その人が住んでいるのは4000メートルの場所だという
私が行ったのは3000mのトレッキングコースだった
そこは観光ルートであり別に登山ではないのである
なぜなら山小屋が点々とあり食事も寝るところも提供されているからだ
そこで別に体力がない人も上っている
なぜなら3000mまで上ると8000mの山が天を衝くように聳えているからだ
その時曇りだったので一回くらいしか見えなかったのが残念だったのである。
一人で登山していた人は十回も上っていたからうらやましかった
自分の失敗は海外旅行することが遅すぎたことである。

その人は30くらいなのか7000mまで上ったという、それで苦しかったというから
そんなところに住んでいる人でも7000mとなると苦しいのである。
ネパ―ルでわからなかったのはサイとワニが住んでいるジャングルもある、熱帯と8000mの山がありその変化が激しいのである。
そしてどうしてそんな高い所に住んで暮らしているのかわからなかった
ジャガイモとか作っている、牛を飼っていたりもするがとてもあそこで暮らすことがわからないのである。電気なども通っていない、カトマンズの近くでもそうである。
ただにたような生活というと葛尾村のようなところかもしれない
戦後まもなくだとやはり何もないのだからにているとなる
そういう場所でも暮らしていたからである。
自分の明治生まれの親はそこの出身であり双葉の新山に丁稚奉公に出たからである。

その人はその4000mの所に生まれて住んでいたが出稼ぎに出て十年以上くらいたっていて長い,だからその生まれた場所にも帰っていないという
ネパ―ルでは仕事がないのである。金になる仕事がガイドなのである。
でもガイドになると英語をしゃべらなければならない、でも女の人もいたが英語ができないという、つまりインドでもイギリスの支配したミャンマーとかも英語ができる人がいるができる人は一部なのである。
ただその人はもう日本に三年いて日本語が結構できるからコミ二ケーションできるから困らないなと見た

なぜ日本語ができるようになったのか聞いたらホンダで自動車の修理で技術を習っているから覚えたという、ていねいに教えてくれたという
やはり技能実習生でもそうして3年もいれば日本語でも覚えるのである。
ただこの日本語でも覚える人と覚えない人がいる
日本語を覚えると住みやすくなる

その人は日本は安全でしきりにいいという、ネパ―ルは政治的に不安定だとしきりに言う自分が英語のできるガイドとトレッキングに行ったときも一日ストライキとか何かデモがあり中止になった、それで一日分の金をさしひいた,でもそんなことをすることもなかった、自分は海外旅行に行ってもバックパッカーであり貧乏旅行者だったからである。
だから金の差、物価の差のことが良くわからなかったのである。

この人は工事に来た人たちとは違う、鹿島に住んでいる、日本にも長く住んでいる
だから言葉をできて日本をある程度知っているのである
だからある程度は日本語でコミ二ケーションできる、普通の人で話せるのである
その人は見た感じ性格がいいように見える、すると怠け者の性格が悪い日本人よりいい感じになる、つまりこれだけ国際化するとどうしてももう人でも自由に入ってくる
それをこばむことができない、そして深刻なのは日本の人手不足である
日本人が働かない、外人が真面目にこの人のように働いているのである。
そうなると日本に定着してもらうような政策をとらざるを得なくなるのである
その人は第一40000mの生まれた場所には育った場所には帰らないとなるどこで定着するのかとなるからだ

このネパ―ル人と接しして外国人を受け入れるべきか受け入れないべきかということを具体的に考えさけられた、日本人でもニートなど働かいな人がいるがこうして真面目に技術を学んで働く人がいる、こういう人は真面目なのである。
そして言葉もできてある程度コミ二ケーションがもできるとなる別にそれほど困らないとなる、むしろ働かない日本人は嫌われるようになる
だから政府でも家族でもよびよせる定住政策をせざるをえなくなる
それは問題があるにしろ日本の人手不足、少子高齢化が深刻だから考え方も変わるのである。

でも待遇を良くしなければとても定着はしない、ベトナムとかネパ―ルだったら中国人よりはいいとなるかもしれない、政治的には問題ないからである。
鹿島とかの田舎でも中国人と結婚した人がいる、ハルビン出身だった
前からそうだけどこうして人のグローバル化もさけられないのである。
ネパ―ルでは出稼ぎが多い、国が出稼ぎで成り立つようになっているかもしれない
それは仕事する場所がないからである。
ただ田舎でも今有力な仕事する場所が駅の向かいのホンダだったように車関係で一番仕事が多いと思った、だから日本でも車産業が衰退したら大打撃になるのである
仕事がなくなるからだ、朝に集まり朝礼していたが30人くらい働いていた、車関係とか電気関係で働く人が多いのである 

ともかくこうした田舎町でも国際化する,それは前からそうだったがそして人手不足が深刻だからホンダでも会社の人も親切だというときそういうふうに迫られている
人手がないからやめられたりするとまた困る、外国人を雇うことは日本語など教えることで手間になる,でも人手がいないからそれでも教えているのだと思う
だから日本はもう移民をどうのこうのとか言っている余裕がない、日本の国そのものが人手不足で成り立たなくなりつつあるからだ
ただ誰でもいいと言うわけではない、中には犯罪に走る人もいる、だからどうしても人を選ぶことにもなる,ただあの人は見た感じ素直に見えるからあういう人は定着してもいいのかなとも思った
あの人は4000mの生まれ育った場所には帰らないからだ

私も今になるとネパ―ルにはもっと行って本当に8000メートル級の山を見たかった
それが残念なこととして残った、自分はその時海外旅行に簡単に行けるものではないと思っていたのが失敗だったのである。
別に3000メートルまで観光ルートなのだから行くのは簡単なのである。
どんなところでも観光ルート化しているところが観光で行ける
ジャングルに行ったとしてもそれは観光で行っているからである。

とにかく自分は日本全国も隅々まで旅している,するとこの辺でいろいろな所から全国から労働者が集まったからどこの出身とかきいてちょっとでも話を合わせられるのである。外国人でもネパ―ルにも行ったしベトナムにも行ったからベトナム人とちょっとでも話したのである。ただその人は日本語があまりできないから今回のようには話せなかったのである。

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2018年06月24日

東京一極集中が社会を歪めている−江戸時代との比較 (トラック運転手の過酷)


東京一極集中が社会を歪めている−江戸時代との比較

(トラック運転手の過酷)

 トラック過酷な労働−トラック列島3万キロ
                                              

一極集中の東京を考えるとき江戸八百八町の百万都市からはじまっている
その時も江戸は日本の中心としての機能があり栄えた
政治都市であり文化都市ともなる、江戸の日本橋を渡ることは日本の中心に来たという感激があった、それは天皇のいる京都が日本の中心だという同じであった
でも江戸時代の江戸百万都市と今の東京の相違はその規模でもそうだが景観でもそうであり全然違っている、だから同じ大都市なのにその様相はまるで違っていたのである。

江戸の回りは農民が住んでいた、それで江戸の町にきて肥料とする糞尿を運んでいたのである。そういうことは農民が深く江戸の町にかかわっていた
食料をどうしていたかというと回りの農民から供給されていた
ただ米は地方から運ばれていた、地方が飢饉のときも米は地方から運ばれていた
江戸では白い米が食べられるとなっていたのである。
それは現代の矛盾とにている,地方は江戸のために犠牲になったとなるからだ
でも野菜は遠くから運ぶことができないから近くでまかなっていた
それで練馬大根とか近くの野菜のいいものが売れることになる
米以外の食料は江戸の回りの農家から買っていたのである。
長崎から大根を東京まで運んでくるのとはあまりにも違っていたのである。

 吉宗が、鷹狩のため、享保4年(1719年)に小松川村を訪れた際、香取神社が御膳所となりました。
 この時に、香取神社神主の亀井和泉守が、地元で採れた青菜を入れた餅のすまし汁を吉宗に差し上げたところ、吉宗はたいそう気に入り、土地の名をとって「小松菜」と名付けたと言われています。

こういう話が伝わっていること自体いかに将軍ですら農民と関係をもつし近くで野菜がとれていたことの証拠なのである。

野菜は、タネの形で参勤交代などの際に全国から江戸へ運ばれてきたといいます。各地から集まったタネは江戸近郊で栽培され、よりおいしく育てやすい遺伝子を残すべく、原始的ではあれど選抜育種も行われました。こうして江戸とその近郊の土地の名前を冠した野菜が確立されていったのです。小松川(現江戸川区)の小松菜、亀戸(現江東区)の亀戸大根などが、その代表といえるでしょう。

 やがて街道沿いにはタネ屋が林立し、手軽な江戸土産として、江戸で確立した野菜は地方へも運ばれていきました

これでわかるように農業が主な産業の時は種は大事であるし肥料でもそうである。
だからこそ地方から種の多様な品種が集まり江戸でも品種改良されたりその多様な種が参勤交代などで地方へ伝播された
このことからちわかるように都市とは交流の基点とてり市場となりそこに農業技術を発展させた
つまり農業が主な産業の時は江戸は都市は世界的にもそうした機能をもって必要不可欠となっていた
つまり江戸に来れば地方では買いないものが買えるし見れないものが見れる
それは本でもそうだった、地方では置かれている本がわずかであり買えなかったのである。
それで仙台に一か月に何回も行っていたのは本を買うためだった

でもその本でも本の種類は膨大だから手に入れることができない、古本でもそうである
すると古本だったら古本屋街がありそこで買うほかなかったとなる
アマゾンでボタン押せば買える時代ではなかったからだ
そこに東京と地方の差が歴然としてあった、他にもありそれで田舎は嫌だとなって脱出したいとなったのである。
今は買い物でもなんでも困らない、東京に行って何か新しいものがあるのかとなるともうないように思う
だから東京に行きたいということがなくなったし仙台にすら去年一回行っただけで行っていないのである。
これはと年のせいもあるが田舎でも4,5万の都市が近くにあればそれなりに不自由しないのである。

地方創生とか盛んに言われるがこれだけ流通が発達していれば何も困ることがない、ただ物を買うにしても金がいる,その金になる仕事が地方にないということで地方創生になっている
原発事故のことで避難区域になっことを書いてきた、それが現代の問題を象徴したように起こった、それを社会学的に追求してきた
原発事故を様々な見地から研究できる,まず科学的な面から当然研究できる
でもここで起きたこことは社会学としても見本となったのである。
村や町が一挙に人がいなくなり住まなくなることはどうういことなのか私は追求してきた
それは放射能汚染だけではない科学的なば問題だけではないものを感じたからである。
なぜ簡単に共同体が崩壊したのかというのもそうである、それはやはり共同体が田舎でも喪失していたからではないかと追及した

このトラック運転手の過酷な労働を取材したユーチューブの放送でもそうである。
長崎から築城の市場にまにあわせるためにとか運ぶ眠ることもできずに運ぶ過酷な労働である
それは江戸時代などから比べるとあまりにも異常である
その距離も江戸時代とは比べようがないのだ、だから何かここに現代の文明の異常性に気づく
その過酷な労働を生んだのはまさに文明であり東京という肥大化した大都市だったのである。
地方はまた金を得るためにその奴隷となる構造ともなっていた
ただ東京という大都市にも様々な問題をかかえているからそうなる

原発事故だって東京で膨大なエネルギーを消費するからこそ危険でも必要になる、でも東京では誰も賛成しないから離れた福島に作ったのである。その時地方では出稼ぎが問題だったからである。
特に原発が作られた地域は過疎地域であり金になるもの仕事ができるものが欲しかったのである。
現実に浪江の前の親戚の人は原発関係に就職した、それで原発関係で仕事になっていた人が多かった
それが飯館村の、、、でも原発で働いていたのである。
川内村では三分の一が働いていたとか経済的効果が大きかったのである。
漁業関係者は漁業権を売り補償金で原発御殿が建っていてうらやましがられていた
だからこそ原発事故以後でも東電を責められないとか言っていたのである。
これも東京という大都市が近くにあることでそうなった
東京の問題が地方に波及してまた逆に地方の問題が東京に波及するのである。
それは江戸時代の江戸のように種を品種改良して東京−地方の流れでいい面もあったが
悪い面として現代では作用したのである。

明治維新以降は文明開化は鉄道の開始とともに新橋から汽笛一声ではじまった、歩いていた時代から鉄道という輸送がはじまり東京が一極集中になったのである。江戸もそうであったが明治以降は文化でも東京中心になった
なぜなら方言では意志疎通できないからと標準語東京語にしたからである。
文化も東京中心で発信される体制になった、出版でもそうであり最近のテレビ局が六局しか許可できないのも東京中心のためだったのである。インタ−ネットが普及するとそうした情報の一極集中も変わり地方からの情報の発信ができるようになったのである。

田舎でも仕事としてトラック運転手が多いということに気づいた、すでに四人くらい出会っている
それはなぜなのか?やはり東京の築地などの市場に地方から食料でも野菜でも運ばれるからである。
この辺だと石鰈などが運ばれて高く売れていたのである。地元では高くても買わないとしても東京だと買う人がいくらでもいるからだでも別に漁業関係者は東電から補償金を事故前も事故後ももらっていたから生活には困らなかったのである。

ともかくなぜトラック運転手が長崎から大根でも運ぶ、それは別に東京だけではない、全国的に運ぶ、それで過酷な労働となる
でもそうして広域経済が成り立っている、全国のいいものを食べられるとなっている
そのために過酷な運ぶ労働がトラック運転手に課せられているとなるのだ
こういう経済は何か自然ではない、文明とは自然なものではない必ず無理する、自然から発生した村はまさに自然村であり自給自足である,地産地消である、それが本当は自然な生活だったとなる
もちろん経済にはそうした物流が不可欠である、でも生鮮食料品となるとやはり地元で近くでとれたものでまかなうというのが自然なのである。長崎から大根を得るために運ぶというのは無理が生まれトラック運転手にそれが課せられることになる
そこに現代の異常性がある、いづれにしろこうした東京一極集中の時代は終わりつつある

実際は東京には人口は集中していないし若い人も減っている、そして意外と問題なのは東京が高齢化して老人が地方より増えてくるのだ,それが東京の重荷となってくる,逆に地方では老人が減ってゆくのである。そういう現象はすでに起きているのである。
それで今度は東京では老人を地方に移住させる,地方で面倒見させるとなるのも勝手だと思う
なぜなら若いときは積極的に若者を呼んで年取ったらめんどうみない、やっかいだから地方に帰りめんをとみてもらいとなるからだ
人間はやはりその土地で生きた場所に人生を過ごした場所が故郷になるからだ
そういうのもなにか東京一極集中の矛盾だったのである。ただ労働力がたりないとか会社や企業のためであり人間の人生のことなど考えていない結果だったのである。会社や企業の都合で人間がその一生を有意義に老人まで一貫したものとして過ごせないという矛盾を作り出していたのである。
老人だけが原発事故でも避難区域に帰っているというのは理解できる、なぜならそこで定着して死にたいとなるのがまさに自然な感情だからである。
なにか現代社会は経済は確かに全国と交通で結びつき物資の流れが盛んになったとしてもまたそのために矛盾を作り出していたのである。それが高齢化社会にもなりその矛盾が噴出してきたのである。



  

posted by 老鶯 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年06月17日

失われた共同体を考える−(家族が共同体の基) (第3の経済を読む)


失われた共同体を考える−(家族が共同体の基)

(第3の経済を読む)

第3の経済

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金の切れ目が縁の切れ目である。しかし、共同体というのは全人格的に関わってくる関係によって成り立っている

今の事業、経営で一番問題なのは、志がないことである。志を失った原因の一つは、共同体、コミュニティの一員としての自覚がなくなったことである。

優秀な人材があれば、資金を出し合って中央の学校へも出したのである。また、有為な人材は、故郷に錦を飾る、あるいは、郷土に戻って働くことを誉れとした。医学などその典型である。

誰も他人のことを思いやらなくなった。そして、思いやるゆとりさえなくしてしまった。そして、他人と関わり合うのさえ厭(いや)になってしまった。親は子の世話をしなくなり、子は、親の面倒を見なくなった。それで足りなくなったところを教育制度や介護制度、福祉制度に求めるようになった。会社は、会社の都合だけで社員を雇い。社員にとって会社は、生活費を稼ぐだけの場でしか過ぎなくなった。国に、国民は、要求だけをして国に尽くす事を忘れた。


このサイトで語られることに共感する、なぜ自分がこんなに今になり家族にこだわるのか?
現代ではもう共同体というのはないとこの著者も指摘している、家族も人間の基本的な共同体でありそこから故郷でも江戸時代の藩でも明治維新以降の国でも天皇を親として国民は赤子という国家を家として意識させたのである。
そして家制度を国家の根幹にしたのである。

なぜなら墓のことで考察したように江戸時代ではみんな個人墓なのである。
墓を持った人は侍であり侍でも特別な人なのである、後は僧侶であり上流階級しか墓をもてない、経済的にも墓を作ることは金がかかるからできない
でも不思議なのは明治以降に家というのもに共同体の基とした
しかし江戸時代の共同体は家族があったとしても村が共同体だったのである。
だから一見墓もないことは家族共同体もないのかとも見える
むしろ村という共同体があったから個々の家族の墓も必要なかったのである。
村の共同墓地がありこの辺ではホトケッポという所に埋められたからである。
個々の家族が墓になると墓は増えるばかりだが今になると跡継ぎとがいなとか墓じまいするようになる、江戸時代の村だったら村全体で供養するからかえっていいとなる
個々の家族だったら後継ぐ人がいなくなると供養もできなくなる、墓は維持できなくなるからだ、墓にも家族としての共同性とか村の共同性とかが関係しているのである。

現代は共同体がない限り生きていけない、自分がなぜ共同体のことを考えるようになったかというと家族がみんな死んだとき一人取り残されてしまった結果である
家族という共同体があって自分は守られて楽していたのである。
だから自分は何か社会の非情さを感じなかったし社会はいいものだと思っていたのであるそれが親の病気や介護や自分の病気で今の世の非情さを身をもって知った
そのことを延々と書いてきた、人間がこんなに非情なのか結局金しかないのかということだった、そんなことはみんなわかっているということはあった
しかし現実に自分がそういう苦しみを受けたとき具体的に理解した

今はどんな田舎だろうが都会と同じである。共同体は喪失しているのである。
拠(よ)り所となる共同体はもうない、その代わりにあるのは金だけである
金をすべての拠り所としている、だから金の切れ目が縁の切れ目になる
現代社会ではより冷徹に貫かれている
共同体とは何か?それはいろいろあっても家がその根幹にある、家族が根幹にある、
その波及したものとして会社があり国家もある、国家も家なのである。
だから江戸時代では会社がないにしろ店があったとしたらそこは家族形態として経営したとなる

家族共同体というとき血縁とばかり思っているが違う、血縁を基礎にしても結婚自体が別に血縁ではない、他人同士が共同生活することであり子供をもつことで共同体を形成することである。子供でも養子とかもあり養子でも家族共同体になる
ただ家族共同体になるとどうしても排他的になる、自分の家族のことしか思わない、他者の家族は敵対するものにもなる、家族の利益だけを考えればそうなる
だから実は家族共同体だけでは共同体は維持できないようになっている
会社に勤めればそこがやはり共同体ともなるからである
江戸時代の侍社会では御家大事でありその共同体を維持するために人柱となり死ぬ人もいたし強制もされたのである。

共同体というときそれがある期間を共同することではない、学校でも会社でもそれは会社でも長いにしても一期間になる、でも家族は祖父母がいて両親がいて子供がいてと世代の継続がある、そこにまた家の重み生じる、それは故郷とか江戸時代の藩とかでもそうである。先祖がいて死んだ先祖はその家に死んでも生き続けることがある
そこに家の重みがある、そのことは死んで母を思うということで短歌俳句の部に書いた
家族がみんな死んでそのことを痛切に感じたからである。
家族の共同性は時間軸でも継承されている,事業を起こしても会社でもそうして何か継続されものがない、トヨタでもあれだけ大きくても車が売れなくなればそれでなくなる
でも家族はなくならないのだ、それは物による紐帯ではない、精神的なものだからであるもちろん物質的なものとしても経済的なものしとても家族はありうる
経済的破綻すると家族も崩壊する、事業に失敗したりすると家族が崩壊する
それでも家族のつながりは依然として維持されるのである。

いづれにしろ今は家族でも共同性を失い、ただ金だけだとなる
それで原発事故で避難区域になった所はなぜあんな簡単に住むことが放棄されて残されたのは老人だけになったのか?
それは放射能も確かに原因しているがそれだけではないものを感じていた
なぜなら今一億円もらうならこんな田舎を出て暮らすとかいう若者が普通にいる社会である
それは若者だけではない、そういう人はやはり多くなっている
だからこそ多額の補償金をもらった人はなんの抵抗もなく故郷を出てほかの土地で新しい生活をはじめたのである。何か未練もないとなる、そのことは何を意味しているのか?
それももともと田舎でも共同性は失っている,昔のような村もないし共同体はない
ただ金だけを求める社会になっていたのである。

それでみなんで共同して復興しようとする意志もないのである。
一番働いたのは地元の人ではない、外から来た労働者でありボランティアだったのである地元の人は毎日パチンコでありギャンブルしていたのである。
それは現代を象徴している奇妙な光景だったのである。
身近な共同体は喪失しているが広域的な経済でありそれで外部からの援助があって生活していたのである。
地元の人が復興するのに働かない、その意志もなくなりただ外部の人にまかせきりになったのである。
そして地元の人は補償金をもらうことしか頭になくなったのである。
これもやはり現代社会でもともと共同体が失っていたからそうなったのではないかと考察した 

人間はいづれにしろ共同体無くしては生きられない、上野霄里(しょうり)氏でもあれだけ家族にこだわっているのもそのためである
社会から離脱する強烈なアウトサイダーでも家族という共同体にこだわりそこに自分の最後の砦としているのである。
現代はとにかくグローバル経済になってもそこには共同体はない、共同性はない、ただ金が動く非情な市場があるだけだとなる、共同体の中で金は動いていない
非情な金の市場の論理だけが支配しているのである。
家族共同体であれその延長したものに波及した社会で情が通うことはある
それは家族の延長として見るからである。
手伝いさんが家族の一員になると書いてきた
でもまた金だけの関係となりそれも一期間でその関係も切れる
金持ちの家でもお手伝いさんに家族のようにやさしくしてもそれを感じない
要するに金さえもらえばいい,もっと金が欲しいとなり盗めばいいとなるだけである。
そうして関係は簡単に切れてしまう、同じ田舎に住んでいてもそうである
そこには共同性がない、共同体ではないからである。
ただ金をやりとりする関係に過ぎないからそうなってしまう

金の切れ目が縁の切れ目である。しかし、共同体というのは全人格的に関わってくる関係によって成り立っている 

つまり侍の共同体は全人格としてかかわっている,だから白虎隊が城が燃えたというときもう終わりだとして自刀したのもそのためである。
侍共同体は全人格的なものとして一体だったからそうなった
金だけをもらう関係とは違うからである、そういう関係はやはり戦国時代から江戸時代を通じて社会が作られたのでありそういう社会を明治以降日本では喪失したから理解できないものとなったのである
今は全人格的にかかわり生きる場も共同体もないのである。
ただ個々人は金を求め金がすべてとなる、金をより多く持ったもの稼いだものが勝者でありそれ以外の価値は認めない社会である。
金でも共同体の中で稼ぎ使われるのとただ個々人が金を求めて使うことには大きな落差がある。
共同体の中で人格を育成すること共同体を維持して発展させることになると金だけがこれほど突出して猛威をふることはない、もっと高い価値にあるべき価値に金はただ下僕のように使われるが今はみんな金の下僕になっているから殺伐としているのである。
こいつから金をとればいい、後は関係ないという社会なのである。

posted by 老鶯 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題