2018年09月24日

資本主義は格差をもともと産む制度 (特別優秀なものを求めるからAIも産まれた ーしかし人間は万能になりえない)


資本主義は格差をもともと産む制度

(特別優秀なものを求めるからAIも産まれた
ーしかし人間は万能になりえない)

●スポーツ選手や芸能人の世界から見る

資本主義とは何か?それはいろいろな側面があるにしろもともと格差をうむ制度なのである
社会主義は平等を目指すが資本主義の理念は違っている、格差を必然的に産みだす制度なのである。
資本主義の欠点としてバブルになるとか恐慌になるとか失業を産むとかマイナスの点は指摘されてきたし現実に起ってきたのである
資本主義とはどういうものかというとプロスポーツ選手とかで芸能人をみるとわかりやすい、野球には何百人も一軍にも入れないやめる人が多い、そして一軍でも収入の多い優秀な人は本当にまれである、でもその一パーセントが興行収入を独りじめするように高額な収入となる
確かに大谷翔平とか注目される、その一人の活躍で野球の人気があがる、みんなアメリカの野球でも見るようになるからだ
つまり一人の天才的な選手が出ることで人気になるからそうなる
ある意味でスポーツでもとびぬけた選手を期待している
その他はどうでもいいとはならないにしても重要視されないのである、芸能人だって吉本興業に6000人いるとか言われ年収が10万だとかなりアルバイトして生計をたてているとかなる
芸能人でもそうして成功する人はまれなのである
タケシくらいになるとプール付きの大豪邸に住んでいる
ただスポーツ選手でも芸能人でも成功る割合は一パーセントくらいであり後は日の眼を見ないのである

●飛びぬけて優秀な人をスーパーマンを求める資本主義

これはスポーツ選手とか芸能人だけに限らないのである
資本主義のルールはこれとにているのである
とびぬけて優秀な人は収入もけたはずれになる
でも平凡な大多数は収入は低くなる、それも格差が拡大してもう底辺層は生きてもいけないという状態になる
つまり資本主義とはそういう極端な格差を産む社会でありそれだからこそ資本主義が普及したともなる
例えばビルゲイツとかジョブスとかパソコンを発明した人は何兆もの収入になる、でもその発明にはそれだけの価値があったからだとなる、毎日同じことを流れ作業のようなことをしている人には価値をおかないのが資本主義なのである

事業するにしても20人に一人くらいしか成功していない
後は事業の失敗者が山ほどいるのである
そういう人が借金とかで苦しんで来て自分を責めてきたことを書いてきた
事業で成功することは極まれであり後は失敗が多いのである
ただ表に出てくるのは成功した人が多い
その成功した人は資本主義社会で富裕層となり大金持ちとなるのが資本主義なのである、株でもうけたとかでもそうである
そとれだって相当な知識と経験がないと株ではもうからない仕組みになっている

それはどこの分野でも職業でもそうである
医者でも優秀な人を手術でもうまい人を求めている
その人のためには多額の金が支払われる、そういう人は社会にとっても価値あるものだからそうなる
病院にとってだけではない、誰でも手術のうまい医者にしてもらいたいのである、でもその医者にかかるとなるなかなかできない
病院でも好待遇で雇わなければならない
それで地方ではできないから東京に集まるというのもわかる

地銀にしても証券にかかわると投資になると今までのやり方ではできない、銀行には投資について投資信託でも全く素人だったのである
でももし一人でも優秀な人がいればいろいろとアドバイスできるからその人に頼み決めてもらえばいいとなる
だからそういう人が簡単に得られないからAIに代わってしてもらうのがいいとなるのだ
人間はいろんな分野でいくら優秀な人を求めても得られないからである。
英語の先生でもネティブのようにしゃべれる先生はいない、とすると翻訳をAIでしてもらうとなる
それは今や相当に優れたものであり詩まで訳していたことに関心する、それだけ進歩しているのである

●人間の願望がAIを産みだす

AIとは何か?それは人間はいろんな分野でスポーツ選手でもス−パーマンも求めているからである。
それだけどこの分野でも優秀な人は限られているし得られないからである
医者であれ技術分野であれその差が大きいからである
芸術だって優れていて後世に残るとなると一パーセントになる
俳句などがそうである、素人のデレタントが膨大にいる
一万人とか軽くいる、でもその中で後世に残るのは江戸時代なら
芭蕉とか蕪村とか一茶とかしか残らないのである
芸術の分野でも優れた人はわずかしか生まれないのである
芸術という時ただ収入が特別多くなるとは必ずしもならない
でもそこでも特別優秀な人を求めても得られないのである
そもそもべートベンのような大作曲が日本に生まれてくれと言っても生まれようがないことでもわかるのだ
そんな人が出てきようがないからだ

資本主義はもともと格差をうむ社会である、それはスポーツ選手や芸能人を例にするとわかりやすいものとなる
資本主義は平凡な人を求めていないのである
特別優れたスーパーマンを求めている
科学技術の分野でもそうである、スタップ細胞が発見されたというとき大騒ぎしたことでもわかる
遂に人間は死ななくなるのかとまで騒いだからである
それは嘘だったがそういうものを期待しているからそうなる

今なぜAIがこれほど騒がれるのか?
それは資本主義では平凡な人はいらない、特別な優秀な人を求めている、それを機械として得られて使用できるならこれほどいいことはないとなるからだ
AIに高額な金を払う必要もないからである。
科学というのも人間の願望から生まれているのである
今や一番の願望は特別頭脳でも優れた人である
でもそういう人は得られないからAIに期待しているのである

●平凡な人は資本主義では無用な者と化す

資本主義は極端な格差を産むということはそういう制度思想の上に成り立っているともなるからだ
まず平凡なその他大勢には価値をおかないのである
そんなこと誰でもできるではないか、コンビニの店員など誰でもできるとなりそうした職業は時給になるのである
後はベーシックインカムが言われるのはそういう大多数の平凡な人は最低限で生活保護のようにすればいいということになる
資本主義では資本家はそういう誰でもできる仕事は機械化するAI化もする、そしてコストを省くようになるからだ

ただAIでもそれはどこまで優秀な人の代わりとなるかは未知数である、創作となるとどこの分野でも簡単にはできないだろう
AIだって創造とすなるとむずかしくなる
何かAIに過剰に期待するのは人間は死ななくなる、スタップ細胞騒ぎとにているのである
奇跡を期待する宗教ともなっているのが現代の科学技術だからである、だから過剰に科学に期待するのである
そこにまた落とし穴がある、矛盾が生まれてくる

人間は結局大多数は平凡でありいくら努力しても天才にはなれない、でも一人の天才の効果はスポーツのように大きい
だからその人が独り占めするような収入を得ることになってもその人を批判できない、それを容認するのが資本主義だとなるからだ
社会主義にはただみんな平等であり才能だって伸ばさないからだ
要するに前提として収入でも待遇でも平等だということから始まってるから資本主義の思想とはルールとは違っているからそうなる

なぜ欧米中心の世界になったのかというとやはりヨ−ロッパには天才がいろいろな分野で多い、それで世界をリードしたということがある、それはなぜなのか?
それはルネサンスにみるように天才を育む土壌があったからだとなる、それが力となって世界をリードしたとなる
中国とかアジアにはそうして世界をリードするような発明などない
日本でも物まねがうまいだけだったとか中国もコピー文化だとかなっているからである
だからアメリカでは著作権とかをうるさく言うようになったのである、ただ自ら発明したものではない作り出したものではないまねして盗んだだけだとしているのである
それで豊かになることは許されないと反発するようになったのである。

資本主義から格差は必ず生まれる、中国だって共産主義の平等を目指してもはあれだけの格差社会になった
その格差でも中国の場合は賄賂社会であり官僚が利権を得ることでそうなった、ただ資本主義でも株式市場でももうけるものはそれとにている、ただ株式市場に通じるにはやはり官僚のように濡れ手で粟のようには金を得られない
そこにはリスクがあり知識や経験がないともうけられないのである
それも一種の特別な才能だともなる
でもそこには何か不正があり一般人は入っていけないのである
不正なギャンブルのようになっているから金融資本主義は批判されるのである

ただ優秀な人が生まれればそれで大衆も大多数の平凡な人も恩恵を受ける、それ医療でも優秀な医者がいたり研究者がいたりすると病気も治るとかなる、パソコンが発明されればそれがどれだけ人類に貢献したかわかる

資本主義はそうして発明と開発とかイノベーションを促進させるからそうなる、そこに格差が生まれてもそれだけ社会に貢献する度合いが大きいから資本主義の方がいいと世界的になっているのである
ただ格差がこれだけ拡大するともう社会自体が分裂して内乱状態になりかねないともなる
要するに株式市場とか金融資本主義はそうして特別優秀な人を作り出しているというわけでもない、それを促進させるにしても世界市場で株が操作されてそこに金が集中することで格差が生まれる
そのことを世界では批判しているのである

●人間はAIでも万能にはなれない

いづれにしろ人間はどんなに能力を尽くして努力しても理想社会など生まれない、作れない、それはなぜか?
人間は万能になりえないからである
神のみが万能でありオールマイティである
だからこそ神なのである、もし人間が全能になったら神を崇めたりしない、人間を崇めることになる、だからもし科学者でもそうしたことを望まれているがなれないのである
なにかしら今回の原発事故のように破綻する
それは人間が万能でありえないからである
だからこそ「安全神話」は崩壊したのである

もし人間が万能になったらどうなるのか?
傲慢になり神を崇めたりしなくなる、神と人間とは同等だとなってしまうからである
そして個々人でも能力は分散しているから万能にはなりえない
あらゆることに通じる人などない、だから謙虚にならざるをえない、そして人間は個々人でも病いあり老いがあり誰でも弱者と化すのである
国でも盛衰があるのは一国がアメリカのように強力になりすぎると傲慢になる、だから必ず世界史を見れば栄枯盛衰がある

AIもまるで万能のように見るが期待するがそうはならない
どんな文明も遂には崩壊する、破綻する、滅亡する、実際に文明は砂に埋もれ森に埋もれ海に沈んだのである
理想の世界は神にのみしか作れらない、それは神によってあたえられるのものなのである

人間はいかに努力しても無益だともなる、なににしろ原発事故のように破綻するのである、それは確実なのである
科学技術がいくら発達しても同じである
むしろこの世は滅びると予言している、欲の社会は滅びると予言している、原発も欲と関係していたのである
原発がそうである、科学というより政治的なものや欲が原発を作らせたからである
地元の人でもそうである、原発で金になるしかなかったのである
その危険性を言う人はいなかったのである
それを言えば地元でも排除されるし住むことさえできなくなっていた

それはなぜか?欲望を抑えろということは誰も同意しないからである
もっとうまいものを食べたい、もっといい家に住みたい、もっといい車が欲しい・・・それは限りないのである
そのためなら不道徳なことでも何でもするとなっていたのである
いかに人間の欲が深いか、それは性にしたってそうである
老人になると無欲になるというのではない、かえって性でも他のことでも欲が異常化してくる、人間の欲は老人になっても死ぬまで消えなということである
だから人間の欲のために滅びると聖書では言っている

そもそも宗教は欲を抑えることではじまったことは共通している
それだけ人間の欲が限りないしそれを抑えないと禍が生じるからそうなった、原発事故でも人間の欲から生まれたのである
資本主義だって欲望を肯定してさらに欲望を刺激していらないものまで宣伝で売らせる、消費は作られるのである
だからそういうことでももう限界にきている
そこで資本主義でも破綻が生じる、人間の欲がこれ以上無制限に拡大したらどうなるのか?
食料でも不足するし環境汚染も増大するしと限界になっているからだ、だからなんらかの歯止めが必要になり天変地異でも起きてくる
そうしないともう地球はもたない、維持できないとまでなっているからである


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2018年09月19日

銀行とは何なのか? (江戸時代から明治へ移行するときすべてが変わった)


銀行とは何なのか?

(江戸時代から明治へ移行するときすべてが変わった)

現代の社会をみるとき江戸時代から明治に変わったときどうなったかを見ないと根本的にあらゆることがわからない
ここの変化が新しい日本を作ったからである
銀行を例にとれば銀行とは何なのだろう?
それはまず銀行はなかった、江戸時代はそれとにたものとして頼母子講とか金貸しとか両替商があった

北イタリアの都市国家は独自貨幣を発行するようになり、都市間の貨幣の交換を行う両替商が生まれた。彼らは都市の広場にバンコ(banco)と呼ばれる台を設置してその上で貨幣の量目を計ったり、交換業務を行った    

三組両替および番組両替には酒屋および質屋などを兼業するものも多かった。

三井は呉服店であり銀行を兼ねた、

三井炭鉱を中心とする石炭事業はやがて三井鉱山会社、三井銀行、旧三井物産となった

銀行は何なのか?それを知るためには江戸時代から知らなければ理解できない
銀行とにたものとして両替屋とか質屋とか頼母子講とかがある
銀行とにたことを酒屋がしていたりしたのは酒屋が当時は主な産業であり金になる会社だったからだとなる 養蚕業でもうけた人も銀行をはじめていたのである。
銀行とは最初そうした事業を起こした会社の中にあったのである

銀行とはもともとこうした多機能なものであった、三井がなぜ銀行業にもなったかというと呉服屋でもうけた、資金が資本が生まれたから銀行業もするようになった
石炭事業でも成功して銀行業もするようになったのである
金融業は銀行はもともとは事業が先にありそこで蓄えた資金が資本となり事業を拡大したのである
ただ頼母子講とか金貸しとか質屋とかにはそうして事業して金を貯えるということはなく銀行の役割とは違うものである
でも銀行だって金の出し入れとかしていた両替もしていた
ただ金を資本としてまた事業を展開するということはなかった
つまり資本主義とはまず資本蓄積があり事業がありそれでもうけてまた新たな事業をはじめる、その役割を担ったのが独立して銀行となったのである

だからもし銀行の役割が何なのかとなると両替屋的機能とか金貸しの機能とかあった
でも近代的資本主義の銀行の役割は事業をして金を貸して投資して利益を出すことにあった
つまり銀行が生まれたのがそもそも事業家からであったことがそれを示している

銀行はその後事業家からではない、一般庶民から金を集めるようになった
それに利子をつけるようになったのである
そして銀行は事業家,会社に金を貸して金をもうけたら利益を出したら利子をとり還元して預金者に利子を払っていたのである
だから高度成長時代は会社がうなぎ上りに成長したから銀行の預金には7パーセントとかの利子がついていた、だから貯金するとそれが十年二十年とかさらにすぎると確実に倍になっていたのである
その時また事業を起こす人が多かったがその事業もまた成功しやすかったのが高度成長時代だったのである

銀行がなぜ今もう必要がないとか利子もつけないしただ金を集めてどうするんだとなっている、ただの貸金庫なのかとかその必要性が問われて銀行員は無駄だとされる
投資信託を売りつけて確実に手数料をとるあこぎな商売となる
それは銀行とはなになのか?銀行の役割が何なのか?それが今問われている
ふりかえると事業家が銀行家にもなったことでわかるように事業するための金を貯える
それが資本となりファンドとなり新たな事業を展開することにあった
地銀だと地元に密着して事業をする人に会社に資金を提供することにあった
それが高度成長時代はできていたのである

銀行はもう前のように会社のことを知り地元のことをしり投資することができない
目利きする人がいない、それで投資信託とかを売るようになる
銀行というのがその役割が喪失したというとき何か事業を起こす人は今はインタ−ネットとかでもクラウドファンディングとかで資金を集めている
それは銀行がしていたことなのである
銀行とはそもそも三井でもそうだが事業家からはじまっていた
他の機能があるにしろ近代的銀行の始まりは資本主義社会では資本を蓄えて金を蓄えてそれによって新たな事業を展開することだったのである
それができなくなったらただ金を集めてどうするのだ、利子もつけない、貸金庫なのか?その役割が失う、そして銀行員はいらない、リストラされるようになる

例えば地銀は津波と原発の復興事業にどうかかわるのか?
地方の産業の衰退にどうかかわるのか、その資金をどう活かすのか?
それが見えないのである、資金がある人は金がある人は金持ちは銀行家にもなる
何かそういう責任が課せられる、金をもってもそれを有効に活かせないとしたら金持ちとしての資格がないと批判されるのである
それと何か銀行も似ているのである
今地域にはいろいろな問題がある、でも地銀がそういう地域の問題にどういうふうにかかわっているのか見えない、だから大手の銀行が農業が成長産業だとして銀行員も派遣されて農作業しているのである
農業も事業だからその事業を開拓しているのである
金を集めて金をどう生かすのか、それが活きた金となるのか死んだ金となるのか?
それは個人的にもそうだが銀行にも問われているのである。

posted by 老鶯 at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年09月12日

人間から仕事を奪ったら何が残るのか? (高齢化社会、AI化社会で仕事が奪われるとどうなるのか?)


人間から仕事を奪ったら何が残るのか?

(高齢化社会、AI化社会で仕事が奪われるとどうなるのか?)

人間から仕事を奪ったら何が残るのか?
それが起きたのは原発事故以後漁業関係者にもあった
そのことは補償金問題などで私は指摘してきた
現実に魚をとることを仕事がなくなったとき漁師はなぜ自分はここにいるのかわからないと考えたのである
ただ漁業関係者は事故前も事故後も一番手厚く補償金がもらえたから全く生活には困ることがなかったのである、魚一匹もとれなくても困らなかったし今もそうである
船主になると立派な家をいち早く建てたからである

それとは別に人間から仕事を奪ったら何が残るのか?
これは意外と人間にとって重要な問題である
たいがい別に人間は食べるために仕事をしている、金を稼ぐために仕事をしている
だから普通は仕事の意義など考えないのである
考えているのは給料の多寡である、どさだけ稼げるか金になるかを常にみているのである
でもこの辺で起きたことは一時的に仕事をしなくても良い状態になったのである
仮設に住んで補償金で暮らせるから仕事はしなくなった
その時何が起きたのか?毎日パチンコ通いだったのである、あとは競馬であり競輪であり他のギャンブルに東京とか仙台にも行っていた
結局何もすることがなくギャンブルになった
そして外部の人が復興の仕事をしたのでありボランティアも多数来たが被害にあった人はなにもしなかったのである。
そういうことができる社会になっていたのである
大手の建築会社が建売の家を一週間くらいで組み立てるから別にそこで地元の人が今は働かなくてもいいようになっていたからである。

だからかわいそうだと毎日のようにボランティアが炊き出しやらなにやら来ていたが仮設に入っている人たちは毎日パチンコ屋通いだったのである
だから何がかわいそうなのかとも思った
その時NHKやらマスコミはテレビで盛んにかわいそうだと連日報道していたから全国の人もかわいそうだと見ていた
確かに津波の被害者はかわいそうだったというのは本当である
でも原発避難者は補償金をもらえた、人によって額は違っても一か月百万以上もらっていた人もいたのである。
それでかわいそうだかわいそうだというのには違和感があったがそれを公に言うことはできなかった、NHKでもマスコミは原発避難者の味方だったからである

ただここで問題にするのはそういうことではなく人間から仕事を奪うとどうなるのかということである、それは定年後にも起きているしAI化でも起きると予想している
身近なところで考えてもそうである、漁師から魚をとる仕事を奪ったら何が残るのか?
その人はただ港でうろうろして何もしなくなったからである
その人は役目がなくなったのである、人間は役割があって与えられて生きている

漁師の役割は何ですか?

魚をとることです

魚はとらなくても金を与えます、仕事はしなくていいです

私は何のために生きているの?

あなたの役割は仕事は魚をとることです、それがなければ不必要な人です

俺はここには必要ないいらない人間なのか、とするとここに住む理由もなくなる?

こういうふうになってしまう、何か漁業関係者はもう漁業を生業とするより実質は東電の社員と化していたのである。そして補償金で不労所得者になっていたのである
そういう人を地域から見ればどうなるのか?

何の役割があるのか?

漁師はもともと地域の人たちに魚をとり売るにしても与えることにあった
それが地域での役割だったのである。ただ高価な魚は新鮮なうちに東京に運ばれて高く売られていたから地域の人のためにだけあるのではなくなっていた
でも地域の人に魚を供給することが仕事であり役割なのである
そのために尽くすのが漁業関係者であり漁業権もそのために与えられていたのである。
東電に漁業権を売り不労所得者になるためではなかったのである

これは特殊な事情でこうなったが他でも人間をみれば人間から仕事をとったら何が残るのか?
農業という仕事がある、その女性は畑で野菜を作っている、そのことは私のフログで度々紹介してきた、その女性は根っからの農民であることを知った
農家の生まれであり農業を体で知っているともなる
でもその畑で野菜を作っても相当て赤字であり金にはならない、金をかえって使うのである、それを自分が援助したとなる
そしてその女性に何の価値があるのか?
それは畑で野菜を作ることにあった、畑で仕事することにあった、そこにはカンナなどを植えて咲かせて映える、周りに荒地が多いからそこで美観を作り出すことも仕事となっていたのである、金にはならないがやはりそれも復興の仕事になっていたのである。

他でも自転車屋でもそうである、この前は古い自転車でタイヤが癖になりのめりこんでいた、その歪(ゆが)みをなおすのに大変な苦労をした
それを自分は見ていたのである。自転車屋の仕事は結構熟練がないとできない、技術者なのである。
そしてこの人から仕事をとったら奪ったら何が残るのか?
その人は他に何ができるのか?何もなくなってしまうかもしれない。
そこで自転車屋をしていることが街の中の重要な役割となっているのだ
なぜなら今や一軒しか街に自転車屋がなくなったからである
だからこの一軒なくなると本当に困ることになる
なぜなら自転車屋は修理が多いからである、それが主な仕事ともなっているからだ
ただ売るだけではない、修理が必要だからアフターケアが必要だから他の商品とは違うからである。だから通販では自転車は普通は買いないのである
ただ仕事は身近に見ていると覚えることがあると思った
自転車屋の後継ぎは息子が多くなるのはそのためである
人間は見よう見まねで覚えることがあると思った
だから江戸時代はたいがいそうして親の跡を継いだのである

いづれにしろ昨今しきりにAIのことを言うがそこで人間の仕事が奪われることを言う
そして人間は仕事がなくなるからみんな芸術家にアーティストになるとかいうこと自体がありえないことだった
仕事がなくなる奪われるということが人間にとって何を意味するのか?それは相当な変化であり人間は暇を有効に活かせるのかともなる
ただそれは豊かになれば起きてくることである
暇が生まれる、スコーレが生まれてスクールになったからである
現実に暇な人は増えているのが現実である
仕事をしないニートも多いしどこにでもいる時代である
それから定年後に暇の問題が起きてくる、その数も団塊の世代とかで何千万にもなるからそれだけの人が年金暮らしとか働かないで暮らせるのか?
そういう時代にすでに突入しているからである

人間は仕事がなくなり役割がなくなることは実際相当に重大な問題な問題である
それが家族の一人が認知症になったことで前にも書いてきた
一人は趣味もなにもない働きづめの大正生まれの女性だった
一人は公務員であり55歳くらいで退職してそのあと仕事はなくなり何もしなくなった
家事すらしない、ただ趣味をしていてもそれもあったものではない
三食は用意されているし家事もなにもしないのである
そうしてテレビなどばかりみていてたがボケてしまったのである
一方奴隷のように働かせられた女性は94歳頃まで現役として家事をしていたのである
そうして95以上になってボケたけど百歳まで生きたのである
だから役割がなくなる仕事を奪われることは認知症になることにつながるから笑っていられないのである。認知症ほど残酷な病気はないからである
もう人間ではないとすら見られからである

人間は仕事をして役割が与えられより高等になると使命感をもって仕事をすることに生きがいが生まれるからである
人間は何か意義ある仕事をしなければ生きる価値がなくなるのだ
家事でも仕事でありそれすらしなければ女性として何の価値があるのかとなる
畑で野菜を作っている女性から畑仕事を奪えばその女性に何の価値があるのかとなる
人間は仕事をもつことにより価値を作り出している
ニートとか無職で遊んでいるとかがいいことではない、有名な女優の息子は覚せい剤を
38になってもやめることができなかった

一か月百万の金を与えられていたという、だから仕事をしなくてもいい身分だったのである、でも仕事がないからこそ価値あることができないからこそ薬で堕落したのである
何か社会で有意義な仕事を見出していればそうはならなかったのである
バーとか資金援助されてしたりしていたが仕事とならなかったのである
だから人間に仕事がない役割がないことは本当に深刻なことなのである
そのことで今ニートであれ退職者であれ少子高齢化で本当に仕事をしない人が膨大に増えた、そのことが社会問題化する、それは人間は暇を活かすということはギリシャのように一部の天才しかでぎなかったことでもわかる
だから暇を活かすということはこれからの社会の大きなテーマとなる
AI化によって仕事を奪われるとういことは相当に深刻であり経済的問題だけではない
精神的問題としても深刻なのである。
それは高齢化社会で現実化している、でも趣味が仕事になるということは簡単にはできない、趣味でも相当な訓練が必要であり簡単にはできないからである
高齢化社会とかAI化社会の備えができていないから深刻になるのである。


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2018年09月01日

銀行がコメ・野菜づくり?  (三井住友、秋田、鹿児島銀が農業法人を設立した狙い)


銀行がコメ・野菜づくり? 

(三井住友、秋田、鹿児島銀が農業法人を設立した狙い)

メガバンクや地方銀行が農業参入を決めた背景には、企業の資金需要が伸び悩む中、コメの減反廃止を決めるなど政府が規制緩和に乗り出し、農業の成長力を高めようとしていることがある


銀行は何するところなのか?前は銀行に貯金していれば利子がついていた
それも7パーセントとか利子がついていた時代があった
だから貯金があれば利子で食べていけるとみんな思っていたのである。
その時は貯金の価値は高かったのである。

それはなぜだったのか?

今になると高度成長時代であり経済が好調だったからである。
それで銀行でも金を貸し付ける会社が多く会社ももうけるから銀行も余裕で利子をつけて預金者に払っていた、そして銀行は固い職業であり地域の就職先としては公務員と同等の安心した就職先だったのである
つまり銀行はたいして努力しなくても経済が好調ならもうかる商売だったとなる

銀行というのは社会でどういう役割を果たしているのか?
地元にあってもわかりにくい、金を集めてその金を何に使っているのか?
地元にその金を使って何をしようとしているのか?
それがわかりにくい、具体的にわからないのである。

銀行は金貸しなんだから金を貸さないでどうするんだと財務大臣に言われた
でも金を貸すにしてもそれがもうかるものでないと銀行は金を貸さない
確実にもうかるということでなければ損してまで金は貸さない
そんなことしていたら商売あがったりだからである

それで金貸す先がなくなり投資信託を売りつけるようになった
それはアメリカだと0.5パーセントとかである、日本では3パーセント手数料としてまずとるのである、そして絶対に銀行は損しない商売なのである
投資信託は損してもみんな客がその損を被るのである
そして銀行は全くの証券とかには素人だったのである。
自分は金融を扱うのだからプロだと思っていたのでまかせたのである。

普通は医者でも一応プロだからまかせる、手術するにもまかせる、そうするほかないからだ、銀行も証券のプロだと思ってまかせたのである。
なぜなら証券とか株に詳しくなることは素人では不可能だからである
それに時間も費やせないからである。じも素人でも株をしている人は四六時中パソコンの画面を見て売り買いしているのである。
そういう人こそ実はプロであり銀行員は素人並みだったのである。

それを証明したのがリーマンショックの時買った株が半分になったが上がってきたとき投資信託に回したからである。それはJ-リートだった
それをなぜそこに回したかというと担当の若い銀行員が投資信託のノルマを課せられているからである、投資信託を売れば銀行の利益になるからそれで上司に成績をあげたとなるからである、認められるからである
だから客のことなど全く考えていないのである。
手数料をとればいいしかない、それは郵貯でもしていた
それだけ投資信託は売る方にとっては確実にもうかり絶対に損しない商品なのである
株だったら確実に損する、でも投資信託は売る方で損しないのである

確かに銀行で農業に投資することはそれだけ成長産業が日本になくなったためである
農業は高度成長時代に低く見られるようになったけど最初はやはり農業は成長産業であり戦争の引揚者が土地を求めて辺鄙な所に開墾に入ったのである
それはこの辺ではいたるところにある、浪江の奥の津島ではそうだった
そこは苦労して開墾したから団結しているというのもわかる
ともに苦労した仲間だから団結がある
高度成長時代は最初は農業も成長産業だったのである。それで農家でも豊かになった家は結構ある、ただそこにも能力の差が出た
浪江の病室が同じだった人は広い畑で野菜を栽培して昔の平(たいら)に売って財をなして娘三人を大学に出したのである。
篤農家といかのは前らいて農業でも裕福になっていた人はいたのである。

銀行が農業が成長産業とみているというときまた製造業が衰退して日本の農業が外国よりいいものを作るということでもそうなる、品質がいいからである
でも東京の銀行員が実地に畑で田んぼで働くとなると容易ではない
こんなこと銀行に入ってするとは思わなかったともなる
事務とか金勘定が銀行の仕事だとも思っていたかもしれないからだ
銀行は土にまみれと汗だくで働くのとは違う、ビルの中でクーラーのついた所で金の計算をしているところでありきれいな仕事としてイメージして入ってくるのが普通である

現実に雑草をとっていたら足が痛くなって動けなくなったとか言っていた
玉ねぎも雑草のために3割くらいしか収穫がなかったとも言っている
知っている人が小さな畑で野菜作りしているのを報告したが肥料代、農薬代、種代、道具代からその他もろもろでその出費は大きい
そしてもらったのはキュウリ何本かだった、それはうまいものだったが一本一万以上したものだった、その他にもらえるものもとれていないからである。
ただ毎日キジに食われた、キジはうまいところだけ食うんだよとか、モグラに食われた、ネズミもでてくる、虫にやられたとか次から次と被害がある、盗まれるのもそうである
畑のものは盗まれ安いのである。
農業はそれだけ苦労が多いものなのである。

だからこそみんな跡を継がない、そして農業をする平均年齢が67歳くらいになっいてるその知っている女性も年であり病気もちでありいつも体が痛いとなって今度は仙台まで診てもらいに行った、その金を要求されるのである。
隣の畑は家の人に車でのせてもらって来ていたが這って農作業していたが遂に力尽きて耕作放棄地となり草ぼうぼうとなった
この辺ではこうして放射能汚染で草ぼうぼうなったところがまだ多いのである。
それはここだけではない全国的に問題になっているのだ

自分は変なのだが収益がないにしろ銀行のような役割を担った
金持ちだとするとその人は何か銀行とにてくる、金貸してくれとかもあり貸したりしたがその人は貸して返せないからくれると同じである
銀行とは何なのか?それは何か養蚕業で商売でもうけた人が銀行をはじめたのである。
金をもうけたからその金を使って貸してもうけようとしたのである。
だから金が蓄えられた人は資本家となり銀行とにてくる
銀行を金を集めを組織的にしているだけだともなる、単純に考えればそうである

では組織的に金を集めてそれをどうするのか?

それが問題なのである。それで国債を買って日本銀行から利子がついていたこともあったがなくなってマイナス金利となり銀行は苦しくなった
金を集めてもそれを誰かに貸してもうけられないからである。
それで銀行は窮地にたたされて全く素人の投資信託でもうけようとしたのである。
人間はおいつめられると善悪でも何でも見えないなくなる
今日食べるものがないとまではならないにしても追い詰められると何でもいいか金儲けしようとするのである
それは会社でも同じだったのである、それでスルガ銀行が不正していたことでもわかる
銀行は今追い詰められているから何とかして儲けようとして不正になる

ただでは農業に投資してもうけるとなると容易ではない、現実に雑草のために三割しか玉ねぎがとれなかったとういことでもわかる、農業はいろいろな作用があってむずかしいのである
でも金足農業が話題になったがそこでは女子も多いというとき今農業は人気がでているのだ、花栽培でも農業だし果物でもそうだしいろいろなものがありこれからの成長産業になりうるし地元志向だからいいともなる
それでも農業に銀行が投資するというとき銀行員も楽ではない時代になったなとつくづく思う、田畑で草取りして汗をかく,肉体労働者になる、これは楽ではない
つまり銀行は今や楽な仕事ではなくなった、肉体労働までさせられる
侍が農業するようになったのともにている、時代が大きく変わる時そうなる
そういう時代に適応できるかどうかは厳しいとなる
人間はどうしても楽な方に向かう、だからこそ投資信託という絶対に損しないものを売りつけるようになったからである。

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2018年08月28日

ITで変容する社会 (守旧派となるもの?無常こそこの世である)


ITで変容する社会

(守旧派となるもの?無常こそこの世である)

人間社会は常に変化がある、だからこそ無常の世の中であり常なき世の中なのである。
栄枯盛衰も激しいのである、今力ある者もたちまち弱者と化してしまう
それを自分の家族で見たからショックだった
認知症になり銀行からも金をおろせなくなったり訳わからなくなった
いろいろなことで優秀だったのに馬鹿になったということが未だに信じられない
そして自分は優秀だと言って死んだのも悲惨だった

このように一個人でも人間は極端な変化に見舞われるのだ
一個人でも必ず死ぬからそうなる、死ぬと人間はたちまちどんな人でも権力を持っていた人でも忘れられるのが早い、そんな人いたのとなる
だからこそこの世は無常なのである。あとに残す一つの墓くらいでありそこに名前が記されているがそれも記憶している人もいないとなる 
無常は無情なのである、そこに情の入る余地がない、捨てられるのである
それは誰にでも起きることである、だから無常(無情)の世なのである。

つまり何事無常(無情)を見なければならない
この世は仮の世だとか無常を見ていなければならない
そうそいう無常は誰にでもやってくるからである。
人間の生も永遠につづかないし突然に無常化して無情化して終わる
そう見ればある時は幸せだったとか急に零落したとか何か変化があっても
世の中はそういうものだと悟れるかもしれない、そういう繰り返しがこの世に生きることだからである。
まず変わらないものが家族でもなんでもありえないからだ
津波で家族が一瞬に流されて死んだり村自体がこの辺でいくつも消失したことでもそうである、その無常は無情であり家族が死んだ人は信じられないとなる
ただその前に茫然としているほかなくなったのである。

人間の社会は今だからこんなに変化しているのではない、常に激変してきたのである。
江戸時代から明治の変化も激しかった、侍だった身分もなくなったとしたらそういう社会で生きていたものが明治に四民平等の社会に適合することは容易ではない
いつまでも自分は殿様だとか侍だとかこだわっている人かいて当然なのである。
それが守旧派になる、明治維新では長州でも守旧派がいて下級武士たちの革新派と争う
そこで守旧派は革新派の吉田松陰とか高杉晋作とかに負ける
その時庶民から奇兵隊が作られて後に伊藤博文などが首相になった、その人は地位ある侍の出ではない、庶民に過ぎなかったのである 
奢れるもの久しからずというのもそうである、長く栄える家も国もない、栄枯盛衰がこの世の習いだとなる、だからアメリカがいつまでも強いとは限らないのである。
アメリカもすでに衰退国家だという人がいるのもそのためである

このような激変は人間社会に常にあった、戦争だとその時の価値観は国家が一番大事であり国家のために死ぬことが最高の価値とされたのである。
でも戦争に負けたら鬼畜米英からアメリカ支配になりギブミーチョコレートになった
もう日本の国体とか盛んに愛国を言われた時代ではない
チョコレートを食いたいということしかなくなったのである。
それで焼野原からチョコレートを食いたいとなり日本は高度成長になったのである
この変化も激変だった、だからその時とまどう人がいても当然なのである。
守旧派というのがあって当然なのである,特に老人だとそうなりやすいのである。
つまり老人は新しい時代に適合できない、だから守旧派になる
今でも新しいものが出るとスマホでもなんでも嫌うし操作できない
すると貨幣を紙幣をなくしてスマホ決済することに抵抗する守旧派になる
それで社会の変化を進歩に逆らうようになる

IT社会になると本屋が消えてゆく、自分の町にももう本屋はない、そして図書館も必要なのかどうか問われる、前は郷土史関係の調査で行っていたけど介護とかになったり家事で忙しくなりここ十年一二回しか行っていないのだ
つまり何か調べるにも本を読むにしても隣の街まで行かなければならないから不便なのである。時間がかかるからいけないのである。
だから今や図書館はただ受付とかいても本を管理していてもそれが本当に必要なかどうか問われる、何か老人のたまり場とか高校生の待合室とかになる
だから前の前の渡辺市長の時南相馬市の立派な図書館は立地を考えて原町の駅前に作られたのである。それは立派なものである。
その時は10年前とかでありまだスマホとかも普及しない、 ITでも普及しつつあったが図書館が必要なのかどうかなど問う人はいなかったのである。か
今になると時代の先見性がなかったとか言われる
そこには大きな予算を使ったからである、それが無駄だったとも今にするとなる
それは有用論もあるから一概に言えないにしても不要論は図書館を建てる時もあった
ただそれは市長の政策で強行されたのである。

なぜこうして図書館まで不要論が言われるのか?
それは予算がかかるからである、市民の税金でも国の税金でもかかるからそうなる
そんなところに金使って何になると言う人がでてくるからである
図書館は調べるのにも不便だとかいらないという人が出てくるからだ
そういうことは銀行にしてもいえる、銀行は何しているのだ、銀行で金を下ろす人は今はいない、みんなカードでおろしている、受付などいらない、金の無駄となる
そして銀行は窮地にたたされる、大手銀行でも大幅に人員を削減した
それで収入が減るから投資信託をすすめる、これは銀行が絶対に損しない商品であり手数料を確実にとれる、アメリカでは一パーセント以下なのに3パーントはとる銀行にとってだけ有利な確実にもうけにるな商品なのである。
それで銀行のイメージも変わった、硬い職業であり田舎ではエリートと見ていたからである、それがブラック会社と変質する、ただ自分も老人だから守旧派になってしまう
そういうふうに変化していことについていけない、銀行を今までのイメージで見ていたからそうなったのである。今では銀行は信頼できないものとなった
地方銀行は県に一つも残ればいい方だというのも本当だろう
もう銀行の役目はなくなりつつあったのだ

ITで本屋は消えたというときそれは時代で当然だった
まず私は仙台に一週間一回行っていたのは本を買うためだった
田舎では本当に本は少ない、仙台でも今からすると少ない、本の数は膨大だった
すると限られた本しか読めなかったとなる
それで「冠婚葬祭」というカッパブックスの本が百万部も売れたのである。
それが売れたのはベストセラーとなったのはただ本屋に置かれたからだともなる
本屋に置かれた本は地方の本屋ならわずかなのだから目立つから売れたというのに過ぎないのである。それで本屋商売は成り立っていたのである。
あまり固い本は売れないけどそうしたつまらない本でも売れれは収入になるからである
週刊誌でもコンビニに置けば目立って売れるということがあった
今やインタ−ネットのDマガジンで読める、一か月400円で雑誌は読める
そこで気にいった記事しか読まなくなった、意外と読む記事がなかったともなる
週刊誌でも雑誌でも本でも目立つことが売れることに通じていたのである。
その内容より目立つ場所に置かれることで売れるということがあった

そして今はアマゾンで古本ならどんなものでも安く買えるしボタン一つで二日くらいで配達される、日本の出版はめんどうである、取次とか介入してめんどうなのである。
そもそも取次はアメリカが検閲のためにもうけたものだから誰も気軽には出版できないものとして作られたからである。
それでアマゾンになったとき取次を通さなくなりインタ−ネットであれ電子本なら誰でも出版できるようになったのである。
ただこれも目立つことは至難である、要するにテレビが力をもったのは目立だたせる力だった、テレビに出ればたちまち有名人になれる
その人がどうのこうのというのではなく有名人になれる、すると内容がない本でも紹介すればめだって売れるということもある
その内容より何か目立たせることが今の社会では必要になる
物を売るにしても宣伝で目立たせる必要がありそのために金をかけている社会だからである。          

それで原発でも東京に原発を作れという本を出したがそれは書店の片隅で目立たないようさせられていた、それはかなりショッキングなことだがそれには注目しない
自分も冗談なのかこの人はSF作家で妄想を語っているのかと思った
それだけ「安全神話」は強力なものとして作られていたのである。
どこにでも原発は安全だということは徹底していた
だから危険だということはもう社会から排除される、それだけ強固な安全神話に逆らう人はいないとなったのである。またできないようにさせられていたのである。
その安全神話ももくも崩れ去った時また戦争の敗戦と同じようなことが起きたのである。

ある時社会は激変する、その変化についていけない、守旧派となる
ITがそうであり国際関係でも今度は十数年前までは物価が日本の十分の一だったのが今は上海や北京になると日本より物価が高くなり海外旅行に来るようになったのである。
中国人に頭を下げる時代になった、その変化も大きいのである
中国を今までのイメージで見ている人はいるし日本でもそうである
それは守旧派になり老人はそうなりやすい、今までのイメージで見るからである
でも実際はそう見ていたものが銀行でもそうだし中国でもそうである
アメリカでもそうである、アメリカの見方でも今までのような見方が通用するかどうかわからないからだ、そういうふうに国際関係でも常に変化しているから対応を誤るのである

2009年に南相馬市の立派な図書館ができた、約十年前だけど新しいとなるけどその時のからのITの変化が激しかった
だから市長はやはりたいだい若い人より年配の人がなるから守旧派になりやすい
また経験がないとできないこともある、でも弱点としては時代の変化に即応できないのである。だから図書館にこだわったのだろう、駅前には図書館よりスーパーの方が便利だということはあったかもしれない、前はスーパーがあったが震災以後なくなった
これも震災以後の変化である、震災以後はまたこの辺は激変した
すると将来の見通しでも全く違ったものとして見ることを強いられているのである。
それが守旧派になると老人になるとなかなかできない、それで女川町では老人は口出させないということで街作りを若い世代にまかせたのである。
守旧派を最初から排除したのである。


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国富は景観として現れる、政治経済は文化の下僕である (鎖国と資本主義ー川勝平太)


国富は景観として現れる、政治経済は文化の下僕である

(鎖国と資本主義ー川勝平太)

こういう人がいる、その内容はわかりにくい、なぜなら今の時代の人は国富が景観と見ていない、国富とは経済力でありの経済力を作るのは科学技術力である
だからこそ原子力発電そういう観点から作られたのである
原発がある国が科学技術的に優れていて国富を作りだすとなる。
経済でもトヨタがいい車を作るから世界に売れるから日本人は優れているとなる
日本の景観がいいからとそれで日本の国力があがったとかはならない

第一そうてらばこんなに日本の景観に重きを置いていたなら日本の自然景観の破壊は起きなかった、日本の富が一番集中するのは東京でありそこでは自然はない
人工的空間になり景観は消滅している
それは景観は経済力にならない無償のものであるからだ
富士山は日本を象徴している、それをどこからも見えるとして富士山を見たらここに金を置いて下さいとかならない、富士登山には金を払うようになっても富士山はどこからでも見える、そこで金を払ったりしないからである。

景観自体は海でも山でも森でも無償のものとして提供されている、ただ海で魚をとり森で木材を家の材料や昔なら炭の材料として利用すると経済的価値が生まれて富となる
ただ海があり森がありでは山がありでは経済的価値にならないのである
一般には景観は金になるものとして見ていない、だから国富は富として現れるというのはなぜなのかわからない、国富は常にGDPとか金の多寡で表わされているからである
もし国富が景観なら国富を破壊してきたのが戦後日本だし高度成長時代でも過度な開発で自然を破壊してきた、そして一番国富が集中している東京こそ国富であるとしたらそこに景観はビルとか車とかしかない、そうなったら日本には国富を作りだしたのではなく破壊した来た貧しい国だったともなる

江戸は百万都市でも水路が縦横にめぐらされてベネチアにもにていて美しい景観があった富士山を高層ビルがないから映えていた、日本橋でも日本の中心の橋として美しく富士山が映えていた、それは浮世絵に残っている、浮世絵には日本の美しい自然と調和した景観が人の営みが描かれている、現代にはそうした景観はない、高速道路があってもそれが景観として美しいとはならない、ただ電車とかは写真マニアがいるように自然景観とマッチするから国富を作り出したとはなる、船でもそうである
東北には太平洋でも船が行くのがまれなのである。
だから淋しいとなる、船が航行することで海も活きてくる、瀬戸内海は万葉集時代から船が行き来して活きていたのである

天離る 鄙の長道ゆ 恋来れば 明石の門より 大和島見ゆ  柿本人麻呂

海は陸と違って船は景観を汚さないし破壊しない、海には船があってこそ活きるし人間的なものとなる、それは海人の船でもそうである、船が海に浮かび魚をとることで人の営みがあることで活きてくる、もしそれがないとただ荒涼とした海があるだけだとなるからだだから景観が富だというとき海に船が見えるとき国富があるとなる
それは海という景観を壊さないからである。陸はもともとあった自然の景観を都会化で壊す穢すからそこに富はないなとなるがでもそれこそ国富としてきた
GDPは人口とか消費力とか生産高とか家でも数とかビルの数とかで統計的に計られる
それが国富なのである。
また現代の富は貨幣で計られる、いくら貨幣がある国でも計られる、個々人でも会社でも銀行でも国でもどれだけの金融資産があるかで富も計られる
だから国富は景観として現れるというのがありえないのである。
ただこの著者はその意味はまた違っているのだろう、本だけではその本意をすべて示すことはできないからだ

ともかく景観とは人の手によって作られたものがあるということは確かである
農業でも田畑があることで景観が作られたのである。なぜなら田畑には手がかかる
ほうっておくと草茫々になり荒地になる、この辺は原発事故以後避難区域でなくても荒地が多くなった、そこには現実に米も野菜もとれないが景観も穢されたから富が失われたということは確かである。
だから趣味で畑で野菜を作る女性はキュウリが一本一万になったとしても景観を作っていたから富を作り出したとなる
でもそれを富だと思う人はいないのである。
都会人だったら一本一万のキュウリなど食べないからだ、都会では景観と食料は分離されているのである。景観を作るために食料を生産していると言ったら誰もそんなことを理解しないだろう、安くて新鮮ないい野菜を果物を米を食べたいとなるだけである
景観がどうのこうのとか関係ないのである。

ただ景観というとき畑にカンナが咲いている時そこに夏の雲湧き一段と映えていた
生け花とかフラワーアレンジメントをしてきたがあきた
それは自然の景観の中に映えないからである。自然の中に花は咲くのであり花瓶の中にもともと咲くものではなかったからである。
自然の光の中に風の中に一番花は映えているのである
だから菊畑とかありまた花畑になれば美しい景観になる
でも菊畑の隣がソーラーパネルになったりしているからこれも自然を破壊して調和を乱すものだとなる、それは国富を失ったものとなる?
その菊畑に月が出たりしていたがソーラーパネルになるとその景観は失われたのである。

手入れする5色に育つ菊畑

国富が富だとするとソーラーパネルも国富を失うものとしてもあったとなる
原発事故でも故郷に住めなくり荒地化したから国富を失ったとなる

いづれにしろ都会では食料をこうした景観を作るものとして田畑がある、水を活かすためにあるとかはならない、食料は栄養源としてあるだけである、工業製品ならどこでも作っていい、外国でも同じように規格品を作れる、でも食料はその土地に根付いて作られる
自然と一体となり景観と一体になり作られる、そこが根本的に違っている
外国でいい葡萄が作られるのは日当たりのいい場所であり前は湖とかなると光が反射していい葡萄が作られるとかミカンでもそうである。だからこそワインの種類が多い、味がみんな違うからである、それは日本の酒も同じなのである。そこには自然の作用が土地によって違うからである
何か自然の微妙な作用があって作られる、そこが工業製品とは違っているのだ
それはハウス栽培でも水加減とかいろいろむずかしいのが農業なのである

日本が美しいというとき確かにそれは人の手で作り出されたものがあった
白砂青松の風景もそうである、その白砂の風景も人工化とか浸食で壊された
そして津波でこの辺の右田の松原が根こそぎ流されたのはシッョクだった
それは江戸時代から海の方へ開拓して田んぼにして塩害を防ぐために松原が作られたからである。それは国富だったとなる、それを破壊したのはまた自然だった
一方で八沢浦のように元の美しい入江を再現したのも津波だった
ただそこでは人が死に多くの家が流されたのである

故郷の原風景というときここでは自分の場合は俳句にすれば

故郷や実りに松に漁の船

これになっていた、いつもその松原に行き烏崎からは他から来た漁船でも見ていたからである。夏は松影になり涼しい風が吹いて休んでいたのが自分だったからである。
その松影もなにもなくなり今は今度は風力発電の風車の風景になったのである。
これも国富を失われたことになる、ただこの国富を喪失させたのは自然だったともなる

とにかく景観が国富だとか文化が経済の下僕とかはなっていない、その逆になっていた
景観は経済発展の国富のために破壊されて文化も破壊され消失したともなる
でも現実は景観は価値として計れない金にならないとなり無視される
景観から食料は実際は生まれているけどそうは思わないのである。
なぜなら自然という景観があって果物でも米でも野菜でもとれるからである。
都会では食料は作り出せないからである。野菜工場を試しても無理だろう
失敗している,それはやはり食料を作り出すのは自然であり自然景観があるところで作り出されるからである。
だからこの著者の言うことは矛盾しているけどまた共感もしている

何か本でも常に批評の対象になり感想を書く人が増えた、それはプログなどでも書きやすいし発信しやすいからである。
やはり対話する時本の内容は濃いから思索が深められるのである。
本を読むことは著者と対話することなのである。
そして引用は従になると著作権違反になる、自分の主張が思想がありその引用として数行利用することが許されている
となると本の批評することは批評する人がすでにその本を従にするような思想とか見識とかの持ち主でないとできないのである。
だから若い時はただ本によまれていた、批評はできない、今は読まれるというより読み込むのである、自分の思想や文章の中に読み込み利用するのである
結果としてより深くものを見ることができるようになる
だから本を読むことはただ読まれるだけでは何も効果がないのである。

今はアマゾンで関心があるものを連関して読める、そして感想を書ける、それをまた読まれる、そういう作用がインタ−ネットで容易になった
だから本を前より買っているし読んでいる、ただ高い本は買わない1000円以上になるとなかなか買わないが安いものが古本で出ているから買うのである
それでも十分だとなる、まず本の数も多すぎるからだ
今は知的な探求は別に田舎でもできる
アマゾンで本が買えないときは仙台に一週間に一回とか行っていたのは本を買うためだった、でもその時古本でもないし本を買うことは簡単にできなかったのだ
そこで田舎では本当に不利だった、それで東京の古本屋で水道橋に古本の全集を買いに行ったこともあった、それだけ田舎は勉強するには不利だったのである。
そういう差はなくなったから今になると田舎の方がいいとなる
そんなに不自由なことがなくなったからである。

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2018年08月27日

価値は常に変化している (変化に対応できないものは生き残れない)


価値は常に変化している

(変化に対応できないものは生き残れない)

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野口悠紀雄−ダイヤモンド9月号

価値というのは常に変化している、そもそもあらゆるもので一定した価値はない
常に価値は変動しているのが人間社会である。
江戸時代には米が一番価値があった、すべての価値は米で計られていた
藩の力も何万石とた給料も米で計られていた、米が貨幣であり価値の基準だった
それが江戸時代だったのである

次に明治になると価値基準が大幅に変わった、確かに米の価値は依然として高いが
様々なものが価値となる時代になった、農業国から工業国に変わると価値も変わってくる時代によっても価値も変わる、戦争中は国のために死ぬことが最大の価値だった
国家に殉じることが最大の価値だった、江戸時代なら藩に殉じることが価値となっていたと同じである

こうして常に価値は変わる、その価値に変わりようについていけなくなる、江戸時代から明治になって生きた人たちがそうだった、侍という身分がなくなったとき新しい時代でどう生きるのか模索された、その時はまだ農業時代がつづいていたから北海道に開墾に入るとかなった、この辺でも八沢浦は明治に田んぼにした開拓された場所である
そこが津波の被害にあった

時代によって大きく価値が変わる、米の価値は極端に低くなった、それより顰蹙をかったが八沢浦は前のように入江になっていたら美しいだろうと津波の前から私はイメージしていたのである。それが現実になったときほど驚いたことはない
浦となり波が光を受けてきらきらと寄せて来たのである
それは奇跡のように思えたのである。でもそこには家が浮いていたのである。
その後に泥となりその中から幼児の死体を探していた人がいたのである。
ただそういうことをその時は思わなかった、40軒くらいあった海岸沿いの家もみんななくなったのである
でもまたその後に広い沼ができてこれは昔の自然状態にもどったとして感嘆していたのである

つまり今は私は特殊にしても米という価値を高く見ていないのである。
米などいくらでもとれるから減反政策になったとかなる
米は売れない、パンを食べるようになって売れないとなった
ここでも価値の変化が起きる、つまり自分が特殊であれ価値観が変わったからそうなる
「八沢浦が元の入江に戻った」というの写真に出したときそれを見る人は多かった
でも地元にしてみればそこで死んだのだからなんだとなってしかられたの当然だとなる

ただ農業の価値でも変わる、農業をただ食べるものとして食料として見る
でも農業にはそれだけではない、自然景観の保存とか水の利用とかで自然を維持するということがある、ただそれは都会の人だとただ食料として金を払うだけになる
でも地元からみるとそういう自然を維持する、自然の環境の保護ということもある
景観は人間は作ってきたものがありそれを損なわれることはそうして人間が作ってきた営みの破壊になるからだ
津波はそうして人間が作った実りの田んぼとか松原の景色を根こそぎ破壊した
一方で八沢浦のように元の美しい入江とか湿地帯化して沼ができたとかなる

農業でもこの辺は原発事故以後まだ荒地が多い、避難区域だったところは草に埋もれている、すると米とか野菜でも食料として生産するのではなく景観の回復として復興する
花畑とかにするとそこは景観が回復する、すると米や野菜がとれなくてもそこに住みたいという人がでてくるかもしれない、外からも花を見にやってくるとなり復興するともなる新しい場所としての価値を作ることになる
ただそういう考えは文字通りお花畑だと古い人には言われるだろう

ともかく価値は一つではない、多様なのである。そして常に変わるのである
時と場所によっても変わる、だからアフリカで黄金と塩が等価で交換されたとなる
塩の方が生きることにとって大事な場合があるからだ
とにかく人間の社会は常に変化する、そしてその価値も変わる、その変わり方は激しいとついていけなくなる、現代社会はグロ−バルになっているときそれを批判してもその影響を受けるからますます価値は変動しやすいのである。

それは昔からあった、「三日見ぬ間の桜かな」とか人間も信じられないように変わってしまう、老人が不利なのはこうして激変する社会についていけなくなる
無常というのは常ないことであり同じではないことなのである
それは社会でもそうだし人間個人でも変化する、たちまち老人となり病気になり死んでしまうとなる
人間はそうした変化の前に茫然とする、自然災害でもそうである
この辺でも村自体がいくつも消滅した、村自体がなくなるということなどイメージもできなかった、それが現実だということが信じられないとなる
その激変についていけない、だからそれが夢のようで現実だと最初は思えなかったのである。それほど激変になったからである

最近ITの進歩でサラリーマンがいらなくなるというのも何なのだろうとなる
それも技術の進歩で価値の変化が起きてくるからそうなる
そもそもIT社会になると様々なものの価値の変化が起きる、それに日本は紙の紙幣にこだわるから効率的ではないとして遅れた国だとされる
中国や東南アジアでもスマホ決済になっているからだ、日本は高度成長時代は先進国だったが今や中国でも韓国でも東南アジアでも追いつかれる、中国の都市部の物価は日本より高くなっているから日本に旅行にくる
10数年前は10倍の差があった、それがこんなに変わることの驚きである

「強いもの、賢いもの、大きいものだけが生き残るわけではない、変化に対応するものが生き残る」ダーウィン

まさに最近この引用が多いのはそのためだろう、現代はそれだけ変化が激しい社会だからである。
何か今やインタ−ネット上で文章を書くと引用が多くなる
それも現代のインタ−ネット社会の変化である
雑誌でも読むだけ終わっていたが今は引用して利用する
ただ雑誌とか本は引用するのが効率的でないのが違っている
でも引用は別に著作権違反にならない、そのルールを守ればならないのである。

タグ:価値の変化
posted by 老鶯 at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年08月26日

平均的人間はいらなくなる? (国を豊かにするにはイノベーションが欠かせない)


平均的人間はいらなくなる?

(国を豊かにするにはイノベーションが欠かせない)


「今はアリのように働いても豊かにならない」
今までは勤勉が国を豊かにする、勤勉さが価値だった
勤勉なこととは何か創造的なことをすることではない
与えられた仕事を毎日同じようにしてこなすことである
そこで何か工夫したり何か発明したりすることではない
明治以降の教育はそうした大量生産の規格品を作ることだった
それが学校もそうした大量生産の規格品を作るために作られた

一人一人の非効率的な作業でなく集団で作業する必要が大きくなってきた世の中です。雨が降ったら仕事をしないとか、時間が適当とかそういったことは許されません。決まった時間に集まり作業する必要が出てきますが、そのためには、訓練する場所が必要です。少し考えてみてください、朝起きて、ご飯を食べて、時間通りにその場所に行くというのが、国民として義務づけられるのはいつからでしょう?そうです小学校からです。

学校はあくまでも平均的な人間を大量生産して社会に出たら大量規格製品を作ることだった、だから創造的作業より暗記とかが大事になる
人間をロボットのようにすることが学校の目的だったのである。
でもなぜ今はそうして勤勉と平均的な人間育成を否定的にとらえるようになったのか?

最近盛んにAIになると決まりきった仕事をする職はなくなるとかサラリーマンがなくなるとか言われる、そしてベーシックインカムが現実化するということを言う
これも団塊の世代などからすると何なのだろうとなる
企業戦士として会社に命まで献げることが要求されたしその通りにして生きてきたからである
それがおおぴっらに言われることが解せないのである
時代が変わるとそうなるのか?アリのように働くことが日本人として勤勉でありすすめられていたからだ

ところが資本効率からすると機械で生産の効率をあげるのと機械を使って資本効率をあげるのでは機械の方が有利になった、すると会社では機械を使った方がコストがかからないのである。その仕事はロボットの方が効率的で金がかからないからである
それで中国では麦刈りは人海戦術でしていた、でもコンバインだと千倍の収穫を機械一台でししてしまう、その差はあうまりにも大きく出稼ぎ労働者は必要なくなったのである

社会は今は蟻のように働くものは機械が代わってする、家事でも戦前では中産階級でも二人の女中を雇っていた、そうしないと家事ができない,洗濯でも機械がなければ手で洗濯板でごしごし洗っていたらその手間と労力は大変なものになるからだ
今は洗濯機にほうりこむだけだとなる、だから自分でも家事のために女性を雇うとしても三日に一回皿二三枚洗うだけだから必要はないのである。
でもその女性は畑をもっていて農業のことをいろいろ教えてくれるからその代金として払っているともなる
自分は農業に興味はあっても実地にしていないし知らないからである
そして体力的にも時間的にも自分ではできないからである

するともう家事のために雇っているのではない、農業の話を聞くために雇っているとなるそれで太いキュウリがもらったが一本一万以上したと書いた
肥料代から種代からいろいろ金を払ったからである
つまり農業はそこで金を得るものではない,自分としては別にスーパーから買っているからである
そして農業というのは今や必ずしもその生産したものだけを見ているが値段を見ているがその価値は環境保全だとか美観のためとか景観のために必要だともなる
今この辺は放射能問題で荒地になっているのがまだ多い
するとその荒地を畑にしたりその畑で花を栽培したりすると景観的にもいいとなる
つまり農業の価値は今や生産物を売るだけではない
農業高校に女性が多くなったというとき花栽培とかもあり農業は意外と創造的な側面があるからだ
女性に向いたものがあるからだ

社会の価値観が変わる、今は女中とかは極端に減った、それより老人は話し合いてを求めているとかなる、でも女中のような掃除洗濯とかはあまり求めていない
ではそうした話し相手になれるのか?
これは知的なものとかいろいろあるから簡単にはいかないだろう
その趣味でも合わないと話し相手にはなりにくい、そんな人がいるのかとなればいないとなる
要するに女性でも家事から解放されたら外でみんな働くようになったけど蟻のようにただ機械的に働くことが求められる時代ではないとなる

そして国を豊かにするのにはどうするのかというと今は必ずしも勤勉ではないのである。いくら勤勉に働いても豊かになれないのである。
要するにグロ−バル社会になると同じような規格品を作っていても競争になり安くなり売れない、大量生産して売れた時代は終わっている
日本が豊かになったのは品質のいいものを家電製品を売ったからである
でもそれは今では中国でも韓国でもどこでも作れて売れるとなれば売れなくなり日本は衰退国になったとされる

そして日本はITでおくれをとったからだと言われる、コンピュターでもソフトウェアでも通信機器でもスマホなどでも中国に先を越されたとなり貧乏国に転落したと言われる
ではコンピュターとかITとかの先進国になったのはリードしたのはアメリカであった
そのアメリカのビルゲイツとかジョブスとかがパソコンを発明したからだとなる
アメリカはエジソンなどのように発明の国である
勤勉より発明をイノベーションを重んじる国である
だからそうした発明することによって巨額の富をもたらす、ビルゲイツの収入はけた外れになる、でもその人は天才であり国に富をもたらした人だから批判をされないのである

つまり現代ではいくら人々が勤勉に働いても国にも富はもたらされないのである。
ただこうして数人であれ天才的な人がいて発明すると巨額の富をもたらされるのである
他にも医療の分野でももしアルツハイマーの有効な薬を発明すればその国に莫大な富がもたらされる、でも勤勉にいくら働いても富はもたらされこないのである。

でもそんな天才を作り出せるかとなると簡単にできない、勤勉な平均的なロボットのような労働者はいくらでもいるがそんな天才は簡単に生まれないのである
ただなぜヨ−ロッパにいろいろな分野で天才をその延長のアメリカで輩出したかを知るべきである
なぜヨ−ロッパが世界をリードするようになったのか?
それは機械であれいろいろな発明があり今でもアメリカが世界をリードしているのはIT分野だということでわかる

創造的能力は別に普通の人でも開発できる、創造的訓練が必要なのである。
ただ受験の暗記のためではない、創造的訓練をすることなのである
そんなものがあるのかとなるとある、科学になると様々な実験をしているがそれも創造的訓練なのである。
子供の時は自由に遊びを工夫していたが学校ではそういうことはなく暗記だけだから創造的なものは養われないのである。
学問でも芸術でも一見生まれつきの才能とされる、それはあるにしても自分は俳句を作りだしたのは20代だけど全くいいものは作れなかったからこの人は才能はないと見られた実際その時はそうだった、今になるとそれなりにいいものを作っていると自分では思っている、短歌でもそうである
才能といっても日ごろの訓練の積み重ねが必要なのである。
創作する訓練が必要なのである。でもそういうことは普通はできない、同じことをただ蟻のように勤勉にしているだけでは創造力はつかないからである

もちろん天才など自分とは関係ないということはある
でも国を豊かにするには平均的な人間をいくら作り出しても豊かにはなれない
クリエーションを求められるというときそれも日ごろからの訓練が必要になるのである
訓練など天才には必要ないというがエジソンでも「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」というときやはり努力が必要になる
その努力はなにか型にはまった努力ではなく創造的な努力が必要となる
エジソンもいろいろと実験を重ねたということが創造的努力だったのである。

日本は平均的に勤勉に努力する人間を作ることでは成功して豊かになったが
今はそういうことでは豊かになれない、それをみんなが自覚する必要がある
ではもともと平均的な人間が圧倒的に多いのだからそんなごくわずかの天才など関係ないとも言える
でも平均的な多数でも国を豊かにするときそういう人たちが必要なのだということを自覚しないと豊かになれないのである。
要するに勤勉な蟻として国民全部がグロ−バル社会では貧乏になるということである
ただ日本は平均的な人間を大量生産することは得意でも何か突出した天才的な人を作るのは苦手である、そういう人は嫌われるしそういう人は村という社会では受け入れられないしかしそのこで日本は衰退してゆく、貧乏国になることを知るべきだとなる


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2018年08月19日

家業が喪失して実家に頼れない (一人暮らしや孤独死の増えた原因)


家業が喪失して実家に頼れない

(一人暮らしや孤独死の増えた原因)

もちろん戦前にも独身者は存在していました。結婚しなかった人、離別した人。例えば江戸時代の東北地方の離婚率はほぼ1/2だったそうですよ。結婚しても約半分の夫婦が別れる、まるで離婚大国です。
別れた人は実家に戻り、未婚の人は実家に住み続けた。それが成立していたのは、戦前の家制度がそれぞれの家業のもとに成立していたからなんです。戦前の社会にはシングルの居場所があったんです。
家業を基盤とした家というものが確固として存在し、そこを個人が出入りしていたのが戦前までの家制度といえるでしょう。
                               
一方、男性側も家事を女性に頼っていたのは今と同じ、やもめ暮らしはなにかと不便で再婚を望むことが多かったとか。

武家の場合、離婚率は10〜11%、離婚後の再婚率はなんと50〜59%にもなったといいますhttps://edo-g.com/blog/2016/03/divorce.html/3


どれぐらいメイド雇用が広く普及していたかは、東京都内にある「江戸東京たてもの園」に残された建物を見ると分かるかと思います。様々な年代の家には、そこそこ「女中部屋」が存在しているからです


過去は意外である、江戸時代は制約が多く離婚などできないと思っていた
それが東北でも二分の一が離婚していた?これも信じられないとなる
ではなぜそういうことができたのか?
そういうふうにできる社会があったからだとなる

戦前とか戦後十年は江戸時代のつづきである、水道も電気もない、洗濯は裏の小川でしていたから原始的生活と変わりないところがあった
そして農家でもそうだが家業中心であり農家では自家生産で納豆まで作っていた
極力今のような買う生活、消費生活はないのである

家業中心の生活となると少人数の家族では成り立たない、労働力が必要になるから大家族になっていた、それで離婚しても実家で暮らすことができた
つまり実家では働き手として受け入れていたのである。
家業というときまず家事の仕事が大きな部分をしめる
だから中流家庭でも二人の女中を雇い女中部屋を用意していたのである
自分の母親は東京で女中をしていたからである。
女中は差別語になっているがその頃は女中は女性の普通の仕事だったのである
なぜなら女中がいなかったら家事だけに追われるからである

そしてなぜこれほど一人暮らしが増えたのか?
それも産業構造の変化だったのである。
みんなが今度は会社員とてり工場労働者となっていったからである。
そこでは雇われる身であり家業とは違うのである。規模も違う
家事は今度は電化製品が担うようになった
その時女性は家事労働から解放されたのである。

ともかく家事労働にかなりの労力が費やされたのが戦前であり戦後10年だった
自分の家でも店をしていたら変なんだけど子供の時店を常に手伝わされていた
それは家業だからそうなっていたのだ、子供でも手伝わないと家業は成り立たないからである。大家族だったのはそうして家業であれば労働力として大家族である必要があった
それは戦後の高度成長期の核家族とは正反対のものである
家族は社会の構造によって変わるということである

戦前でも実家の重みは家業をしていたことによっていたのだ
そこで大家族が労働力として必要であり離婚しても実家で暮らすことができたのは労働力を必要としていたからである。それは家事でも相当な労力を費やしていたからである。
つまり家事の労働力は社会全体にとっても相当な負担であり労働力を必要としていたのである。
女性にしても家事労働から解放されたい願望は強かったとなる

なぜこれほど一人暮らしが増えたかというと家事が電化して楽になったからと消費社会になりオカズでも買えるからである、まず戦後十年まではオカズとか惣菜は売っていない
料理しなければならなかったからだ、コメを炊くのでも竈でまだしていたから手間だったのである。家事は実際今でも相当な手間である
自分が十年くらい家事するようになったけど介護は家事と一体だったのである。
料理して出すとかがそうである、だから介護は女性に向いている
息子がするようになったがそれで介護疲れで親を殺しているのは息子が介護している時なのである、それは家事になれていないからである。

でも家事は料理でも電化してほとんど一人でできる、そうなると結婚しなくても家事はできるからしなくてもいいと思う人も増える
江戸時代は離婚が簡単でもまた再婚率も高いのである、それは家事を男一人ではできないからそうなった、結婚しないと家事をしてくれる女性がいないと生活すらできないとなる自分は今一人で十年くらい家事をしている
実際していることは買いものが主であり後はめんどうだから弁当とか買う、料理はほとんどしない、料理はいろいろめんどうだからである。それに凝っていたら他のことができなくなるからだ

一人女性が家に来るとして三日に一度それも皿を二三枚洗うだけでありその人は後は一切なにもしない、掃除もなにもしない、ただ金をせびりにくるというだけなのである
その女性が熱心なのは畑で野菜を作ることなのである
でも家事が容易になりそれに費やす労力や時間が省かれることはやはり社会を変えたのである
なぜ貧乏になったと言っても日本ではニートでも百万近くとか老人でも働かない人が一千万人単位でいる、働く老人も増えたが働かない老人の方が多いのである。
ではなぜそれだけ働かなくてもいいのか?
それは家事が電化したことが大きいのである。別に一人暮らしでも食事の用意はできる
それも時間をかけずにできるようになっているからだ

家事に労働力を費やさなければ時間をとらなければ暇が生まれる、それでゲートボールなどして遊んでいる老人が本当に多いのである。
ギリシャとかローマでは貴族は奴隷に労働させていた、家事をさせていたから暇な時間が生まれた、今は機械がしてくれるからそこで暇が生まれているのである。

一人暮らしが今問題になるけど一人暮らしは水道費とか電気代、風呂代が個々にかかる
これが貧乏な時代になると負担になる、だから必ず電気をとめられたとたか、水道がとめられたとかなる、もし大家族だったら共有だからそういうことはなかった
水汲んだりした労働は大家族などの労働力でまかなっていたのである

みんなが会社員になっている時代は家業とは違う、決められた時間を働いて給料をもらう非正規は時給いくらとなる、それは家業で働くのとは相当に違ったものなのである。
家族でも会社の一員として雇われている感じになる
それで高度成長時代は会社は終身雇用であり家族のめんどうまでみるようになっていたのである。大家族の代用として会社があるとなっていた
でも不景気になると貧乏になると会社はそうはならない、会社も倒産するからである。
終身雇用もなくなる、不安定なものとなった

いづれにしろ一人暮らしの増加とか孤独死の問題は社会構造の変化とともに起きたことである。それは過去との比較でわかる、過去にはそういう大家族があり家業があり成り立っていた、でも今はそうはならない、いまの社会は大きな会社という枠がありそこにはめこむものとして人がいて労働力が必要としている
家族も会社の枠の中にとりこまれる、それが核家族になった原因だし一人暮らしでも孤独死でも増えた原因なのである。
困ったとしてももう実家に頼れない、そこの家業はない、実家でも会社員になっているからである、実家でも代々つづくということはないから墓を受け継ぐ人がいなとなったりする、それは家業としての実家が喪失したからだったのである。

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2018年08月12日

田舎から考えるグローバル経済 (一本一万円のキュウリの味)


田舎から考えるグローバル経済

(一本一万円のキュウリの味)

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キュウリをもらったけどそさが太い、こんなにキュウリが太いのかと驚いた
売っているものは細いからである、味も違う、うまいものだった
硬くなく柔らかいキュウリなのである
今はハウス栽培のを買って食べている、だから天然の露地ものの野菜を知らない場合がある、近くで市が開かれるがそこのトマトは露地ものでありうまいものだった
でも後で一個500円にもなって買わなくなった
近くの市場では何でも高くなる、だからスーパーで買った方が安いのである
それもグロ−バル経済広域経済のためなのである

なぜこの太いキュウリが一万円だとしたのか?
それは実際はもっと高くついている
肥料代と種代と農薬代とが自分が払ったからである
そこでもらったのはこのキュウリだけである
だからもっと高くついているのだ
でもそれが高かったのかというとそうでもない
農業についてじかに知ることができたからである
そういう勉強代に払ったとなる

農業する畑をもつことの意味がどういうものかわかったということがある
自分はちょっと草取りなどしても何もしない
でもその土地でとれるものを食べることその味は格別なものがあると思った
そう思うようになったのはこれまでも書いてきたが畑が例え趣味でしてもどれだけ大変なものか肌で知った
毎日草取りだしキジの被害は大きい、他にもモグラだとかネズミだとか虫に食われるとかの被害も常にある、それから必ず盗まれるのも困る
そういうことを毎日聞かされたから農業がいかに大変なものを肌で知ったからである。
だからこそもらったキュウリは格別なものとなったのである。

スーパーで売っているものはどこでとれたのか?どうしてとれたのか?
そうしたことは一切わからない、ただ金を払えば買える
だから金の方が貴重だとなる、食料がとれる過程が全くわからないからである
苦労なども全くわからない、ただ気にしているのは値段だけだとなるからだ

もらったキュウリはこの土地でとれたものであるということも価値があることだった
この住んでいる場所でこういうものがとれるんだということを実感する
すると買うより豊かな気持ちになる、その富はこの土地から生み出されたからである
戦前とかその後で自給自足的な生活は戦後十年くらいまではつづいていた
何故ならエネルギー炭だったから炭は近くの山の木材だったからである
たいだい周りにあるもの地元にあるもので生活していた
家を建てるにしても地元の木材をとり建てる人も地元の人だった
今は家は外材であり建てる人も外部の人であり地元の人も材料も関係ないのである。
そういうときそこが故郷なのか?
故郷とは何かというときこれもなかなかわからないものだった

故郷とは与えられたものではない、ただあったものではない、それは先祖が田畑でも切り開き作りだしたものである、家があるとしてもそれは先祖が作り残したものだとなっていた、戦後開墾に入った場所が全国で多い、この辺でも浪江の津島辺りでも開墾に入り切り開いた、それで結束が強いというのもわかる
そこは放射能被害で住めなくなった、放射線量が特に高い場所だったのである
そういうふうにして苦労して開墾して住んだ人たちはそこが第二の故郷になる
それはただ与えられたものではない、苦労して切り開いたからこそ故郷なのである
故郷とはただ与えられるだけでは故郷にならないともなる
故郷はそうして作り上げられるものがあって故郷となるのかもしれない
俺たちはここを苦労して切り開き田畑にして住めるようにしたとかなる
それは北海道を開墾して住んだ人たちもそうである

逆にこんなことを自分が言うがそこで働く人はそうはならない
いくら農業しても金にならないとして農業したくないというのが現実だった
それはあまりに過酷だったからそうなった
農業だけはやるな親に殴られたという人は原発で働き工事現場で働いたのである
そこは金になるからである、とても農業だけで生活できない、そして時代が変わったからである

その畑で野菜を作る人にしても実は貧乏であり誰かが援助しなければ畑もできない
畑で野菜を作っても金にはならない、実際は十倍もの金がかかるのである
いくらこの土地でとれたものだから価値がありうまいと言ってももし農業して生活することはできない、,小遣いにもならない、赤字なのである
でも何かその土地でとれるものを食べることは買うのとは違った充実感がある
充足感がある、それがやはり自然だからだろう
みんな普通はその土地の恵みがあり生きていたからである
地球の裏側か食料が入ってくることは異常なことである
グロ−バル経済は何か異常なのことなのだが慣れれば普通になってしまう
飯館村でも山菜を山でとって暮らすのが普通でありただ買うだけの生活になったとき不安になったとかなるのもわかる
飯館村が貧乏でもそこに暮らすもののメリットはあった
それはどこでも何かしらその土地に恵みがあり生きるメリットがあるのだ
だからこそ地球は多様な恵みがあり多様な文化が生まれたのである

畑にはカンナが明るく咲いている、そして実りがあった
その時買うだけの生活ではない、充足感を感じた
それが故郷となるのかもしれない、今のように買ってばかり生活していたら金が一番大事になり別に金さえあればどこにでも住んでいいという感覚になる
だからこそ今は金で買う生活だから一億円もらったらみんな故郷を捨てて簡単に流出したともなる
前から一億円もらったら故郷を出るのだがという若者も多かったからである。
自分でもそうだが金だけにたより金で買うことばかりの生活だそうなってしまう
そこが故郷となるのか?ならないからみんな流出したともなる

ただ正直人間は矛盾した存在である。いくらそうはいってもやはり金がないなら趣味の畑でも故郷の土地からでも実りはないとなる
でも実感として一万したとしてもそのキュウリにはそれだけの価値があったなと思った
それはそれだけその畑と自分もかかわったからだともなる
何か矛盾しているのだけどもその価値を認識した、それは理屈ではない実感である

畑にそカンナの咲きて夏の雲湧きあがかなここに生きなむ

カンナが畑に明るく咲いていた、そして夏の白い雲が湧きあがる、その時この土地に生きることを実感した、農業している人は自然と一体化するからそれを実感するのである
自分の場合はただ花を見ていただけである
だか今回畑で野菜を作る人とかかわりこの土地との一体感を感じたのである
ただ矛盾しているここに生きるとしてもその人自体も金がなくては生きられないのである医者通いもしているし年金ではたりないとか生活できない
それでも畑がもっている意味とか故郷とかその土地の意味とかが何かをじかに知ったということはあった、田舎だと本当は農業を知らないとわからない

ただ今は田舎でも農業を知らない、農家に嫁いだ人は何も知らない、土さえ触ったことはない、夫は会社員だし妻もそうである
田んぼは委託しているし花さえ作っていないからだ
その女性は古い農家に嫁いでも農業のことは何も知らないのである
今はみんな会社員だとすると田舎でも農業のことを知らないのである
一応田畑があるから見ているけど農業を知らないのである。

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2018年08月03日

階級社会と格差社会の相違 (社会をいかに構成するのか?)


階級社会と格差社会の相違

(社会をいかに構成するのか?)

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階級社会とは歴史を見れば常にあった、それは歴史的に経験済みでありヨ−ロッパなどでは継続している、貴族と労働者は英語でも違った使い方をする
英語といってもいろいろある、クイーンズイングリッシュとアメリカの英語は違うというときそうなのである、同じ英語でも違うのである
歴史的伝統的に作られてきたものがありその中で言葉も洗練されて使われる
アメリカ英語が平民的だというとき平等の言葉だというとき王様もいないし貴族もいないからである、そういう歴史もない国では平民的な対等な言葉になる
上の人にへつらう言葉は生まれない、敬語もあってもないとなる

京言葉があんなにやんわりしているのは上の人にへつらうご機嫌をとるためだだんという東北弁になるとぶっきらぼうになる、おめえとか・・・だべえとか敬語を使わないのである。人との関係でもそうなっていたのである
確かに侍という支配階級が生まれて侍言葉が生まれた、平和な江戸時代に階級が作られたからである。
階級社会というとき不平等な社会であり理不尽な社会だと今ならみるがその時代にはその時代の生き方がありそれに適合するからすべてが悪いとはならないのである。
階級社会があって身分制があって社会のモラルとか秩序が形成されていたからである。
日本だと侍で贅沢していたのは極一部でありその他の侍は他の身分の人ととさして変わらなかったのである。極端な格差はなかったのである。

今になると時代劇でもどうして身分の上の人に奴隷のように忠勤する人がいたのか?
時代劇では仕える家と一体化して犠牲になる人すらいた
それは家族のようになっていたのである。でも身分社会で今なら差別されていたとかなる経済的にそう強いられていたのだとかなる
でもその時代にはその時代のモラルがありそれで社会が成り立っていた
だから階級社会の負の面をみればもう暗黒社会だとなるのである。

不思議なのは戦前とかはまだ新しい時代である、その時なぜ女中がいて家で働いていたのか?それも特別金持ちではなくても中流階級でも二人も女中を雇っていたという
自分の母親も東京で女中していた、その頃女性の働く場所が女中とか紡績工場しかなかった、絹織物を生産してアメリカに売り外貨を稼いでいたのである。
紡績は富国強兵の政府の政策で奨励されていたのである。
それで母が言うには紡績工場で働いていても現金をもらったから良かったと言っていた
それは女性が働いて現金になる場が限られていたからである。

そしてなぜ女中という仕事がそれほど求められていたのか?
家事には大きな労力が必要でありそのために人力でするほかないからそうなった
電化製品がゼロというとき洗濯板でごしごし洗っていたらその労働は並大抵のものではないからだ、それは世界で共通していてあのパリのセーヌ川で女性たちが洗濯していたことでもわかる、世界的には洗濯は川でしていたのである。
自分の家では裏に堀があってその流れる水で洗濯していたのである
ご飯をたくのにも竈の時があり手間がかかりすぎていた、ボタン一つで米はたけないのである。すると家事の労働を頼まないと仕事もできないということになっていた

自分も介護から家事労働をしているが電化されていても労力がいる、手間がかかる
だから料理はしていない、買うだけである、最近オカズを得るために生協に入った
簡単にオカズになるものを用意しておくと便利なのである
冷凍とか冷蔵であり長持ちするから一人暮らしには便利なのである。
一人暮らしだと使わないで腐らすものなどが多くなるからだ
戦前辺りだと人間の労働は女性ならほとんど家事に費やされていたのである。
それも妻一人ではできないから女中を頼んでなんとか家を維持していたのである
そういう時代は別に女中になることはさげすむことでもない
女中は女性の仕事として認められていたしそのモラルも要求されていたのである。

もし今のように女中が差別語として使われなくなったように女中という仕事はあってもお手伝いさんとかなる、職業としては家政婦とかなる
しかし女中という仕事はないのである、職業もない、女中という仕事が成り立ったのは戦前までであり後はないのである
その時代は女中は普通の家庭でも中流家庭でも雇えるものだったのである。
その時代の要請で女中がいてそれは普通のことだったのである

今はなぜ女中がいらないのか?それは家事が電化されたりオカズでも買う時代になったからである、ともかく買う種類が多いのに驚く、料理を作ることではない、何を買うかが家事なのである、家事のために便利な道具を買うことなのである。
家事も機械化されやがてはAI化されるてさらに手間が省かれる
そもそも今は誰も女中とかにならない、お手伝いさんにもならない、何か会社で掃除するとき掃除を一時間とかするときそれは会社員であり女中でもお手伝いさんでもない
その人は会社員なのである。

そして昔の女中は家政婦になるがこの家政婦は気軽に雇えるものではない、もう極一部の恵まれた社長とかしかない、給料だって相当に高くなるからもう雇えないのである
ただ家事は機械頼みだということをしてわかった
機械化してなるべく手間をはぶくことなのである。やがてAIで機械化して自動的に料理ができることなのである。それをみんな願っている
なぜなら家事の手間は今でも時間をとるからである
そして今は女性でも外で働いているから家事に時間をかけられないからである。

もともと家事をとりしきる女性は重要な役割を家でもっていた
母刀自というとき墓に刀自と記されてもいるから家事をとりしきったものとしての誇りを記していたのである。 

 真木柱(まけばしら)、ほめて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず

 大黒柱というけど女性こそ大黒柱という矜持をもっていたのである。

今は家事は女性でも第二級の低いものとして見られる、価値観は時代によって変わる
時代のモラルも変わるのである。
今はお手伝いさんでも家政婦でもなりたくない、母親が娘を医者にしたくて娘が母を殺したという事件があった、母はどうしても娘を医者にしたかったのである。
看護師にはなったがその後も医者の試験を娘は受けていたのである。
それは母が医者にしたかったからである。女性でも男性のように医者にしたいとなる
その時代の価値観の差は大きい、戦前だったら別に女中になってもはずかしいことではない、そこが働く場所として必要だったし社会が要請されていたからさげすまれるということもない、普通に働く場所だったのである。

いづれにしろ人を雇うこと働いてもらうことにはコストがかかりすぎる
ロボットだったらA地点からB地点に物を運ぶならそれだけ忠実にして文句言わないのである
人間だったらそうはいかない、怪我したときのために保険をかけたり家族がいてそれも考慮しなければならい、そして仕事はA地点からB地点に物を運ぶだけでも人間はそれだけではすまない、なにかやと要求がある、それに答える方が嫌になるのでできないのでAI化であり機械化しようとする、人間が一番効率的ではないのである。
その効率的でないことがまた人間だとなる
でも資本主義社会では効率化が要求される競争に勝たねばならい、そこでジレンマに陥るのである

人間と機械の間では情は生まれない、でも人間と人間の間では情が生まれる
その情を重んじれば効率的でとなくなるのである
そのこと故に人間でありうる、資本家とか経営者からすれば人間は大きなコストになる
だから極力省く方向になる、AIとか機械は文句を言わないからである。
機械にはプライドもないから文句は言わない、うらやましがったりもしないからである
資本主義社会を追求してゆくと非情になる、すでになっている、金だけがすべてになる
何でもあれなんの能力もないものでも何もできないものでも人格的に悪辣だなんだといっても金のある人間は資本主義社会では勝ち組なのである。

だから格差社会と階級社会が違うというとき階級社会とは何か?
それは人間の歴史で階級社会の方が長いのである。格差社会と階級社会は違う
階級社会は簡単に作れない、貴族社会は長い時間の中で作られてきたからである。
その階級を否定するとしても貴族社会には階級社会にはそれなりの価値観とモラルがあり社会を維持してきた、江戸時代がそうである
それがすべて悪いものだった、格差社会であり奴隷社会だったともみる
でも江戸時代全体を見たとき階級社会でも庶民は外人が明治に日本に来たとき幸福そうな顔をしていたというとき今見るものとは違っていたのである。

階級社会より格差社会が悪いというとき階級社会は江戸時代のように侍が支配して身分社会だった、その人たちは階級として共同体を形成してモラルを形成した、武士道でもそうである、そして責任が重かったから責任をとるとき切腹したのである
そういうことを庶民は見ているから侍にはなりたくないと言っていたのである。
今ならそういう責任がないから庶民から見て金持ちはただ楽しているだけだと見るから
階級社会ではなく格差社会なのである。
格差社会はただ収入の金があるかないかだけで判断している社会である
階級社会はヨ−ロッパでも長い歴史の中で生まれたものであり日本の侍でもそうである
今は格差社会であり階級社会ではない、階級社会は簡単に作れない、長い時間の中でしか歴史のなかでしか作れないからである
格差社会より階級社会の方がいいというときその階級社会は歴史の中で長い時間の中で作られたものだから作りようがないのである。江戸時代でも300年ありヨ−ロッパだってそうである

階級社会というとき侍を庶民は認めていた,それは金があるからでなはい、経済的に豊かだからではない、社会の中で重い責任を果たすものとして見ていた
だからこそ侍として庶民は認めて従っていたのである。
今は金持ちを誰も認めていない、あいつらむしろ不正しているからあこぎなやつだから金に汚い奴らだから金持ちになっている
そういうやつは許してはならない、資産でももっと税金をかけるべきだ
むしろ金を奪うべきだともなっている、格差社会ではいづれそうした不満が爆発する
金持ちをそもそも認めていないのだから金持ちは暴動が起こり襲われる
格差社会はこうして深刻な対立を生み国は分断されるのである。
格差社会は金持ちにとっても危険なのであり常におびえていなければならない社会である枕を高くして寝ていられない社会なのである。
そういう社会では金持ちもいいものではないとなる


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2018年07月27日

頼む人によって損したり得したりする (頼んだ大工は修理しても直っていなかった)

頼む人によって損したり得したりする

(頼んだ大工は修理しても直っていなかった)

雨漏りして大工に頼んだ、その大工を紹介した女性がいた
結果はどうなったか?
あとから何度も金をとられた、請求された
ちょっとした仕事でも金がかかった
高い所だから危険だからと金を請求した
そんなふうに後から後から金を請求されるのも困る
普通は見積もりを出して引き受けるのが普通である
ただ今回はそうしたまとまった仕事ではない、一部を直すものである
それで頼む人がいなくて頼んだ
結果はこの前雨になり同じようにだらだら雨もりして水浸しになった
何にも直っていなかったのである

するとそれで金を払ったのが損だったとなる
その大工は直すことができなかったのである
また交渉もできない、ただ金をとるだけだったともなる
そうなったら半分くらいこちらでもらいたいともなる
実際に直っていないのだから仕事はできていないからである

そして頼んだ女性にも問題があった、そういう人を頼んだからである
頼む人でも中継ぎになると連帯保証にもなる、その中継ぎになって頼んだ人にも責任がある、なぜそんな人を紹介したのだともなるからだ
大工にも相当に腕の差があるのかもしれない
とにかく人に仕事を頼むときその頼む人によって損したり得したりする

事業は人なり」と言われるが、これは全くその通りである。どんな経営でも適切な人を得てはじめて発展していくものである。いかに立派な歴史、伝統を持つ企業でも、その伝統を正しく受けついでいく人を得なければ、だんだんに衰微していってしまう。経営の組織とか手法とかももちろん大切であるが、それを生かすのはやはり人である。

いくら会社でも人が仕事するのだから人による、AIとか機械はあくまでも人間の補助にしかならないだろう、それを利用するのも活かすのも人だからである。

庭作りした小高の大工さんは一人親方もできるから優秀だった、まず話がうまいし交渉もできる
大工の腕もいい、そういう人はめずらしい、職人気質でとりつきにくい人もいるからだ
ただ小高と鹿島がうまくいかなくなりつきあわなくなった
近くの一軒だけの自転車屋の人も交渉がうまい、そして他で買ったものでも差別なく修理してくれる
原町の自転車屋はとそういうことが全くなくな断った
これも人である、だから人によって医者でもそうだが何でも損したり得したりする
ただ田舎だと選ぶことができないのである。
都会だとすでに原町辺りだと何でも選べるからいいのである。
選べないということはその人がどうのこうのとか文句も言えなくなるのである。

銀行でも自分は投資のことがわからないから銀行員に頼んだ、まかせた
そんなに時間をさけないからである。
つまり投資のプロだと思い頼んだのである。
ところが銀行や銀行員は投資は素人並みだったのである
何もわからないにしろ投資なら株なら安い時に売り高い時に売ればいいとなる
それから基本は分散投資していればいいのである。
それを株が上がっていたのに投資信託に回したのは手数料がとれるということで回した
それで損した、それは銀行では今稼ぐことに苦労しているから投資信託を売りつける
投資信託は銀行にとってはいいものなのである。絶対に損することがなく手数料がとれるからである
これも銀行という組織であれ個人であれ頼んだのが失敗だった
銀行員はノルマが課せられているからとにかく銀行にとってもうかるものをすすめるからである

人間は何か頼むときその人にも組織にもよる、それで損したり得したりする
ただ人でも銀行でも選定がむずかしい、信用して雇った人も泥棒だったとかなる
家に入る人は本当に危険である、それも結局頼んだ人が悪いからである。
不用心に頼んだからである。
おそらく会社運営でもまずそうして社長一人ではできない、社長を支える信頼できる人材を集めなければならない、頼まねばならないのだ
その頼む人が悪いとうまくいかずに倒産したりする

自分の場合なんでも頼んだ人が悪いからあらゆることで損したのである。
病気で介護の時もそうである、そこに来たのは悪い人ばかりだったから損して苦しんだのである。
だから頼む人がどう選ぶか会社でもどう選ぶかが大事である
ただ田舎では銀行でも数少ないし選びようがないのだ
東京辺りだと大手の銀行とか証券会社があり頼める、聞くこともできるだろう
それがないから選びようがないからそうなる
医者でも町でも三軒くらいしかない、ただ原町には眼科医でも三軒くらいある
だから原町だと医者を選べるのである。それび評判のいいところは繁盛している
でも糖尿病で白内障の手術した人は仙台の医者にかかった
糖尿病で手術できるのは仙台にしかないというからだ
難しい病気になるとここではお手上げになる、それが田舎の一番の問題なのである。

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2018年07月19日

すべてがグローバル経済に巻き込まれる (麦が輸入されて癌になる、サンマがとれなくなる)


 すべてがグローバル経済に巻き込まれる

 (麦が輸入されて癌になる、サンマがとれなくなる)

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日刊現代−7月19日号

小さな畑がある、そこでとれたものを近くの農協がかかわる販売店で売ろうとする
すると農協から肥料とか薬を買えと強制され金をとられるという
売るほどのものがとれないのに農薬代とか肥料代とか種代で金がなくなる
その金をまた自分に要求されるのは困る
趣味でやる畑は自分でとさたものを食べるかとか回りの人にくれるとかでいい
とてもそれを売るとなるとハードルが急に高くなる
そこでは全国の競争にさらされグロ−バル経済もかかわってくる
野菜でもアスパラガスなどでもメキシコからと入ってきたからである

農業は全国的にも世界的にも競争にさらされている、すると昔のような自給自足のような農業は成り立たない、米だって全国規模になりブライド米として売れないと成り立たないトマトでもまず種類が多いし安くなっていた、それだけ全国的にもトマトを栽培している農家が多いからである。トマトはそれだけ売れればもうかるからそうなる

現代文明とはグロ−バル経済だというとき輸送文明なのである。輸送力が格段に発展した社会である。それで外国からも食料でも野菜でも入ってくる社会である
だから田舎でトラック運転手が意外と多いというときそうして東京とかに運ぶ輸送を担っているからである、そしてトラック運転手な過酷な労働が問題になる
一分でも遅れないように輸送を強いられているのである。
市場のせりにまにあうためとか九州からでも東京の市場に運ぶのである

それで今日の日刊現代の記事に興味をもった、麦を運ぶのに薬を使っている、船で運ぶにしても時間がかかるから腐敗しないように薬を使う、それが癌の原因になるという
つまりそれだけ食料となると運ぶということで問題が起きる
それだけ遠くから食料などを運ぶことは無理がある、でもその無理を克服して技術力があるからそうするようになった,それでもそうした問題が起きているのである。

基本的に人間の社会は日本だったら戦前まで地産地消だった
その土地でとれたもので生活していた、第一そんなに遠くに運ぶ技術がなかったからだ
冷凍して魚を運ぶとか新鮮なものを運ぶとなると容易ではないしコストがかかるからだ
だから東京なら江戸前であり新鮮な魚は江戸の前の海でとれたものなのである。
江戸前とはまさに百万都市の江戸でも新鮮な魚が食べられた象徴した言葉だったのであるこの辺でも新鮮な魚が食べられていた、港がありそれが豊かさだった
漁師の人は二三日過ぎたら魚を食べないとなっていたのだ、魚は新鮮さが勝負なのである江戸というとき東京をイメージするが江戸前は今はない、全国から食料は運ばれて一千万人の胃袋を満たしているのである。だからそのエネルギーは膨大なものとなる
そのために運ぶためにトラック運転手が苦しみ一分争って運んでいるのである。
だから東京一極集中は異常な世界なのである。
福島に原発を作ったのも東京にエネルギーを供給するためだったのである
別に原発は東京に作れたのである。その方が効率的だったのである。

江戸だったら練馬大根でも回りが農家であり野菜も近くから供給されていた
ただ米だけは地方から特に東北の伊達藩では江戸の米の三分の一を運んでいたという
江戸ではいつも白米を食べれるということで贅沢だとなっていたが脚気になった
でも麦飯と粟飯でも五穀を食べていた人はならなかったのである。
それで脚気は江戸患いとなっていた、江戸に生活して白米を食べているとなった病気だったのである。
これもやはり本来なら白米だけを食べない、雑穀を食べる、食べ物でも一つの種類だけに特化して食べることは危険だとなる
なぜそうなったのか?
それは船で米を輸送する技術が生まれたためにそうなったのである。

グローバル経済というとき世界的株式市場のことのように思い関係ないともみる
でも現実はまず食料からしてグロ−バル化しているし巻き込まれている
石油があがればトマトを作るハウスでも石油を使うから値段を上げるとかなる
農業も石油と関係しているし電気とも関係しているようになった
食料自体が工業製品のようにもなるし農機具を使うので機械化もする
そして常に世界的競争にもさらされているのである

例えば漁業でもサンマが今年はとれないから一匹400円とか500円とかもっと高くなるといかいうときどうしてそうなるのか?
その原因は不明でも台湾や中国の大型船が日本の排他的領海より外で大量にとるためだともしている、これまでは中国ではサンマは食べる習慣がなかったが日本で食べるようになりそれまねて食べるようになった、サンマは旬で食べるのがいいのだが中国などではそうした文化はなくまだ成長しないうちからとって食べるという
つまりサンマを食べる習慣は文化はなかったが最近日本をまねて食べるようになったのである。
そうすると中国の人口は多いから魚だって獲りつくされる恐怖がある
それも結局グロ−バル経済の結果なのである

地産地消の経済が言われるけどもともと自給自足の経済であり地元でとれたものは地元で食べてそんな遠くから来たものは入ってこなかったのである。
自分の家でも店をしていたとき野菜は近隣の農家から買って売っていたのである。
遠くから来るものは少なかったのである。
卵でも農家から売って買っていた,子供の時卵を買いに行かされたからである。
その時自転車でありその自転車もいい自転車ではなかった、だから必ず糠に入れた卵が割れていたのである。
野菜でも姉が自転車で運んでいた、大きな箱を後ろの荷台につけて野菜を朝に運んでいたのである。それは相当に大きいから持ち上げるのに運ぶにも力がないとできない
でも姉は力持ちだからできたのである。車などないからそうなった
梨農家では相馬まで前の中村までリヤカーで運んだという、後はまだ馬車の時代であり運ぶに苦労したのである。

輸送する技術が生まれたときグロ−バル経済が成り立つ、でもその時地産地消のその土地にねづいた文化は失われる,世界の株式市場をいつも四六時中気にしている投資家と同じになる、漁業にしても小規模な漁業は中国や台湾の大型船にかなわないとなる
すると小さな港で地元を地盤にして生活も破壊される
それで漁業でも小規模ではやっていけないとか跡継ぎがいないとかで東電に漁業権を売り渡して補償金で暮らした方がいいとなり現実になったのである。

サンマがとれないというとき高くなると庶民の魚ではなくなり庶民の魚文化も食文化も失われる、つまりグロ−バル化は文化を破壊するのである。
文化というとき食料とか料理も文化だからである。
原発事故でその農業でも漁業でも林業でも一番放射能で汚染された
そうし人が住めなくなった、一番影響したのがそうした自然を基に生活していたものだったのである。
そこでは誰も跡継ぎがないとか金にならないとかでやる気がなくなっていたところに原発事故で壊滅的な被害になったのである

グロ−バル経済は食文化も破壊するとき深刻なものになる
なぜなら本来は日本人は肉と牛肉は本来食べていない。穀物中心の食文化だった
だから日本人は腸が長いのである、牛のように胃袋が四つもあるというとき穀物を消化するためにそうなる、それで不思議なのは欧米人は肉を消化する酵素が日本人より出るというときこれもその食文化は長い間に文化として定着して体まで適合するように作られていたのである。

逆に今日本人の食文化はサシミでもサンマでもスシなも世界に普及した
日本人の食文化は料理は体にいいから長寿なのだとして世界でも普及したのである
これも食のグロ−バル化として起きている
肉食文化より魚と野菜と米中心の食文化が体にいいとなった
実際に癌とかアルツハイマーの原因はわからないにしても食文化が変わるとわからない病気が増えることはありうるのである、やはり食が健康の基だからそうなる

いづれにしろ移民問題にしろ食でもなんでもグロ−バル化した世界がもたらした問題である。そのグロ−バル化に組み入れられて巻き込まれているからそこから離れられない
グロ−バル化からは離れてありえなくなったのである。
グローバル化やエネルギー問題の深刻さはこの辺のように住めなくなることなのである
これほど深刻なことはない、人間はまずその土地に住むことを目的として生きるからである、その土地に住むためにどうするのかということからはじまる
その土地に住めないことはもうすべてが終わりなのである。
現実に街すら廃墟となり放置されて人は住まなくなったからである。
そうしたことは電気は必要だとかいろいろ理由を言ってももうその理由も成り立たない
それで大熊辺りでは蝋燭で家族一緒に生活できた方がいいとか極端なものになったのである。住めないということほど深刻なことはなかったのである。

グロ−バリズムの終焉(経済学的文明から地理的文明へ)
関廣野、藤沢雄一郎著

これは自分が追求してきたものと重なる、地域に根ざして土に生きてきた人だから自分より説得力がある、農業を実践してきたからである
この著者も原発に疑問を抱いて前から原発に反対して運動していたのである。
ただ左翼関係かもしれないが原発に関しては別に右左はないのである

この本では著者は住むことを一番大事にしている、住めための経済学である
貿易とかにも疑問をもっているし銀行でも支配者のためにあり金持ちのためにある金融支配のものだと批判している,確かに銀行は何しているかわからないのである
株とか投資信託でもうけるとなるともう証券会社であり地銀の役割はになっていないからだ

ただこれだけグロ−バル化とか資本主義とかが世界を支配するときそれを否定して生きることは不可能に近いともなる、エネルギーにしても炭を使って木炭で車を動かすとなると百年前にもどるのかとなるからだ、ただこの本は自分の思想と一致するので深く検討する必要がある

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2018年07月10日

グロ−バル経済に生きる人間の心の変化 (小規模共同体の文化や伝統は根こそぎ破壊される)


グロ−バル経済に生きる人間の心の変化

(小規模共同体の文化や伝統は根こそぎ破壊される)

グロ−バル経済とは何なのか?それを理解することが意外とむずかしい、でも現代はどんな片田舎でもグロ−バル経済の中に組み込まれているのである
田舎とか村とか確かにあるけど実際の生活でもグロ−バル経済の中にある
例えはバナナを食べているとしたらすでにグロ−バル経済の中で恩恵がありバナナを食べられるとなる、葡萄でも安い葡萄を食べるときそれはチリとか地球の裏側からきているのだからどんな片田舎でもグロ−バル経済の中で恩恵とか損とかあっても生活しているとなる

グロ−バル経済とは世界の株式であり普通日常の生活と関係ないと思っている
株なんか特別金のある知識のある人がするものだし特別な人がもうけているのだと思っている、でも株式がグロ−バル経済のシステムとしてありその影響をどんな片田舎でも村でも受けるのである。

それで日常的にどういう気持ちに今なっているのか?
東京のような大都会だとまず食料はすべて買う、その買うにししてもそれが別に外国産でも中国産でも何でも安くて品質が良ければいいというだけなのである。
食料は外国産でもいい、日本の農業は補助金とかばかりかかり税金がかかるだけでやめた方がいいとか限界集落など金がかるだけで維持する価値がないとなりなくした方がいいとなる
そういうことがグロ−バル経済の思考として普通になっているのだ

それを江戸時代とか戦前とか村が自給自足で生活していたような時代なら土地は一番貴重でありその土地を活かして生きるほかないからそんな思考にはならないのである。
森があったらその木材を活かして炭にしたり家を建てたりとするからである
グロ−バル経済とは世界的経済であり世界的競争する資本主義社会なのである。
そういうシステムとしてグロ−バル経済があり世界はそれから逃れられないようになっている

現代というのはだから人々の心情も変わる、漁業とか農業とか林業などが金にならないというとき価値が貶められたのはグロ−バル経済の結果なのである。
実際に林業がだめなになったのは外材に頼るからでありそこにこそグロ−バル経済が具体的に田舎でも影響していることが明確にわかる
米すら今ではいい米が外国でも作れるしそれで日本に米を買ってくれとなる
すると日本の農家はそうした外国と米ですら競争にさらされることになる

そして農家とか漁業でも農家ならハウス栽培であり冬でも石油を使い温度を調節する
電気も使う、農業はもう工業なのだとかなる、土が育てるというより石油が育てているんだよなとか電気が育てているとかにもなるし実際そういう栽培をしている野菜工場もあるそういう社会では何が起きてくるのか?
つまり石油というのが電気でも最も大事なものになる、だから農家でも石油がないと野菜をも作れない売れなくなるとか電気でもそうである

そして石油とか電気を作るのに石油を使っている時、石油がないともう農業もなりたたないと農家の人すら思っている社会なのである。
日本には資源がないというが石油を精製する技術はアメリカとドイツと日本にしかないから心配ないというがではその技術が競争に負けたり失われると日本はお手上げになり貧乏国に転落するのである。
戦争でも特攻隊のゼロ戦とかは片道飛行しかできなかった、燃料の石油がないので帰ることもできないとして突撃したのである。

こういう社会で人々はどういう心で生活しているのか?
石油が入らなくなったら技術が遅れをとったら日本は終わりだと思う
その石油を買うのには例えば日本の技術で生産される、自動車とかその他のもの半導体でもそうだが外国に売れる品質のいいものを作る必要がある
それができなくなれば石油を買えなくなるというとき日本はその技術を最も最重要のものとしてみる、そこに原発でも技術として開発する理由があった
技術先進国の地位を確保するためにそうなったのである

つまりなぜ漁業でも農業でも林業でも重んじられないのか?
それはグロ−バル経済なのかで生きているからそうなった
石油を輸入することでもそうだがバナナを輸入することでもそうなのである。
それを輸入するには対価となる売るものがなければ買えないのである
つまりグロ−バル経済というものを現代では否定して生きることはできないということである
石油がないなら終わりだとか電気がくなると終わりだとかそれは都会の人だけではない田舎の農業している人さえそう思っているのがグロ−バル経済なのである。漁業でも石油がないと船が動かせないから魚がとれないと思っているからだ

現代はグロ−バル経済など田舎で関係ないというけど実際は深く関係している
株なんか関係ないというけど深く関係している、株をしなくても関係している
石油があがれば車のガソリンでも上がるし全体に影響するからである。
もし自給自足のような江戸時代のような生活がつづいていたらグロ−バル経済は関係しないのである。

そしてグロ−バル経済は昔の村のような共同体とか伝統を根こそぎ破壊する
自然の中で自然と共生して生きてきた文化を根こそぎ破壊する
それは自然破壊にも通じる、小規模漁業とかも大会社の大きな船で魚を大量にとると小規模な漁業は破壊される
イオンのような大資本会社が店を開けば小規模な商店は消失してシャッター通りになる
それはグロ−バル経済の中で起きてきたことなのである。

グロ−バル経済でも移民問題が発生した、物の自由な流通から人の自由な出入りが可能になった
飛行機で行き来することが可能になった、ただそこでも物ならいいが生身の人間が入ってくると問題が起きた
生身の人間は言葉も違うことからして意思疎通が簡単ではない、一人の外国人が入ってくることはその国の歴史とか伝統とか文化を背負っているからである、だから物を入れるようにはいかない、そこで文化摩擦とかが起きる
昔の村だったらまずそこは強固な共同体を形成しているから簡単にその村で生活できない
草鞋をぬぐとして村で認められる信頼されるには一代だけでも村では認めないし信頼しないのである。
同じ日本人でも言葉が通じてもそうなっていたのである

グロ−バル経済というのはそういう文化的垣根も取り払おうとするがそこに摩擦が生じてナショナリズムに移民の国のアメリカすら排斥するようになったのである。
グロ−バル経済というのは別に大都会だけの問題ではない、片田舎でもその問題は同じなのである。
みんな農民ではない、会社員でありサラリーマンだからである。
すると田舎でも農業とか漁業でも林業でもその価値は低くみられていたし価値ないものとされていた
それより原発だとなってしまっていたのである。

金の社会になるというのもグロ−バル経済でそうなった、金の力がこれだけ大きくなったのも世界的金が通用するからである
それでドルが世界の金になったということはアメリカが一番力をもっているからそうなる
ドルは一番信用されているからそうなる、中国があんなに経済が発展しても中国の金が世界で通用ししていないことでもわかる
そてし金がこれほど大きな力をもつようになるとそこに摩擦が起きる
原発避難者が多額の補償金をもらっていわき市辺りで次々に家を建てた、二万人も避難したとなればその摩擦も大きなる
土地が値上がりしたり病院が満員になったとかその土地にもともと住んでいた人たちは迷惑になった
これは自分の町でも起きたことである。
そして避難した人たちは「私たちここで消費して鹿島の人を助けているのよ」と言っていた
つまり金をもって金を使う人が一番偉い、消費するものが王様だという社会に生きていたからそうなったのである。
こういう人が特別な人ではない、そういう社会に生きていたからそれが常識ともなっていたのである。
でもそうして小高と鹿島の人たちは金をめぐって分断されたのである。

こういうことは移民にも起きてくる、ただ金が欲しくて日本で金を稼ぎ仕送りする、その目的は移民にすれば金しかない、
受け入れる方でも部品を合わせるように人間を見ているのである。
それで摩擦が起きる、人間は機械の部品のようになれないからである。文化が違うから適合できないとなる
金があればいい、金さえあればどこでもいいとはならないのである。
そこに積み重ねられた生活がありそこに金があるからと入ってきて何でもいいとはならない、金払うからいいじゃないかとはならないのである。

例えば小さな島でもそれなりの生活がある、そこに大金持ちが入ってきて何でも自由になるのか?
その大金があれば島一つくらい買えるし買っている人もいる、でもその金でそこに昔から住んでいた人たちを支配できるのか?
自由にできるのか?観光ならホテルを作り外から客を呼び込む,リゾートホテルにする、そういうことは実際に起きている
島の人たちはホテルで働くようになる、するとその島の支配者はホテルを経営する資本家だとなる
そこに昔からあったその島ならではの生活はは根こそぎ破壊されるとなる
社があっても漁をするにしてもホテルの方が生活になる金になるからだ、それはこの辺で原発を誘致して事故になったのと同じなのである。そして根こそぎ文化や伝統は破壊され共同体も喪失して人が住まない村や町になったからである
そしてもしホテル経営が観光がうまくいかなくなると島には原発事故で起きたように人が住まなくなるということが起きる

ただこういうことは全世界でグロ−バル経済で起きたきたことである。だから別に日本だけの問題ではないのである。
だからこそ原発という技術開発でも日本では必要となるしグロ−バルな技術競争に負ければバナナも買えないし食料すら買えないとみんな思うようになっている、それがグロ−バル経済に生きている人の心の変化なのである
それは農民だろうが同じなのである。そこで一番の価値は技術だとなる、車でも売れなくななればトヨタが衰退して倒産したりしたら日本は終わりだとみんな思っている、江戸時代なら天候不順で米がとれなければ終わりだとなっているのと違った価値観に生きているのがグロ−バル経済社会なのである。原発もそういうものとして作られたのである。
でも本当に大事なもの、価値あるものはと何かということを原発事故で問われたことは確かである。
それでもグロ−バル経済なのかに田舎でも組み入れられていてそこから逃れられな事実を見て対処しなければならない
だから簡単には解決できない問題なのである。

その時代の人間の気持ちがこうして時代によって違ってくる、車社会に生活しているのと徒歩で生活している時代の人の気持ちは違っている、だから人間はその時代を生きるのであり時代を越えて生きられないとなっているのである。
戦争の時は戦争して死ぬことも普通だという気持ちになっていた、その時代によって人の心も違ってきているのである。
ただ現代を知るには過去を歴史を知る必要があることは確かなのである
グロ−バル経済社会では人々の心もそれを拒否したとしてもそのシステムの中で生きているからそうした気持ちは同じなのである。
どうしても漁業でれ農業であれ林業であれそうしたものの価値は低くなり原発でも電気でも車でも技術の価値が高くなる
食料など世界のどこからでも入ってくる、日本の農業などに関心がなくなり価値がないとも見てしまうのである。
それはグロ−バル経済の中で否応なく生きているからそうなっているのである。
だから人間は時代を越えて生きられないのである。

posted by 老鶯 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年06月27日

意志疎通できない社会の問題 (自然と歴史と社会への意思疎通が欠かせない)


意志疎通できない社会の問題

(自然と歴史と社会への意思疎通が欠かせない)

●自然への意思疎通

●歴史的意思疎通

●社会的意思疎通


駅に毎日行っていた,でも向かい側のホンダにネパ―ル人が三年働いていたとかわからなかった、人間は意外と近くのことがわからないのである。
灯台下暗しなのである。今や外国の方が詳しくても日本のことがわからない人もいる
ニュースはたいがい広域的だし今はグローバルになる

つまりホンダにネパ―ルの人が来て働いています

こういう報道は一切ないのである。
駅でいろいろな人とあったことをプログで書いたがそれもニュースだが報道はされない、人間は何かを知ろうとしているが身近なことすら今では知りえないのである。
駅でボランティアをして外部の人と内部の人と交わり土地のことをある程度理解したが一万の町でも今では複雑だからわからない、隣で何をしているのかわからないことも多い
こういう社会は今までなかったのではないか?
江戸時代だったら長屋だと家のことが筒抜けだし村だったら農家だったらもうその家のことはみんなわかる、     
だから現代というのは江戸時代と比べると異常だともなる

つまり身近に住んでいる人でも何をしているかもわからないということである
そもそもそうして外国人が来ているということは目立つことだがそれすらわからなくなっているのである
そしてただ金があればどこでも暮らしていけるという社会なのである。
ただそこで現代社会で何が起きてくるのか?それは様々な事件として現れてくる
まず通り魔事件などは江戸時代だったら起きないだろう
江戸時代の犯罪はわかりやすいのである。目的もわかりやすいのである
今でも犯罪は動機がわかりやすいものがあるが何か不可解なものもある
それは日ごろから社会が多様化して複雑化しているからである
仕事も無数にありその仕事を理解することが難しいのである。

人間とは生きるときまず自然との意思疎通が否応なくせまられる、自然のことがわからなければ生きていけないからだ、狩猟でも漁労生活でも農耕でも遊牧民生活でもそうである採集生活でも何が毒の植物なのかなど見分けなければ生活できない
そこに自然との意思疎通が不可欠でありそれがまずなければ生活できない
それは今でもつづいているが自然との意思疎通は文明化工業化が高度になるとおろそかになる、なぜならホンダで働いていたネパ―ル人がいたように今は農業社会ではないからだ
でもそこで何が起きてくるのか?
自然との意思疎通ができなくなるとき何が起きてくるのか?
そこに今回のような原発事故なども起きて自然が根こそぎ汚染されて住めなくなったりする、東電とかには自然との意思疎通はない、農民や漁民や林業にあったとしても東電には自然との意思疎通はないのである。
東電とか政府でも地元の人との意思疎通はなされていない、ただ政府とか東電では金さえやればいいとしていたのである。
地元でも意思疎通を望まない、金があればいいとしていたのである。
ただそもそも科学のこと原子力のことなどわからないから意志疎通ができないということもあった
ここも現代の問題なのである。専門家がいてお前たち素人には何もわからないとしたとき意思疎通がなくなるからだ
そして何か現代社会はホンダで30人くらい働いているのは多いなと見る
東北電力で働いていた人が2000人とかいたというのも驚きだった
そういうこともなかなか近くでいつも見ているのだが内部がわからないのである。
人間は今田舎に住んでもそうしてわからないことが多いのである。

もう一つ大事なものとして歴史的意思疎通がある、その土地には長い歴史がありその歴史の上に市町村でも作られている,でもこの歴史的意思疎通もむずかしいのである。
なぜならそれは死んだ人たちとの意思疎通ともなるからだ
もうそこに昔を語る人はいない、みんな死んでいるからわからなくなる
だからまるで江戸時代になると実は外国より異質な理解できない世界になっているのだ
ヨ−ロッパでも古い城が数多くあるが現代の生活はどこでもにたりよったりだからであるでも中世の生活はどうだったのかとなると江戸時代を理解するのと同じようにむずかしくなる、特に外国は理解するのがむずかしくなる

私が古い碑とか墓とかで常に時代を見る、江戸時代だったら貴重だったとなり何度もみるそれは昔の人と意思疎通する手段になる、文書だけではない、その土地を踏んでそこに生きた人たちをイメージするのである、つまりそこに生きたものをただの記録ではないものを感じるからである。墓には何かそうした文書ではないものを感じるから意味があるとはなる
でも日本でも旅行するとその土地のことは歴史を知るのは容易ではない、その土地と意思疎通することがむずかしいのである。
そもそも人間は歴史というとき親が死ぬとまた身近な人でも死ぬと謎になる
その人は死んだとき考えるのだがすぐに忘れてしまうのである。
そしてその人が生きていた実在の人物なのかどうかもわからなくなる
人間は死んだ時点でみんな不可解な謎になるのである
だから歴史上の人物でも明治維新のように吉田松陰などは一人のテロリストにすきなかったなどと言われるのである。歴史はそうしていろいろに解釈されるのは人間は死んだ時点で不可解な謎になるからである。

現代は思うにグロ−バル経済になっても社会になっても実はただそれは物のやりとりだけであり金を媒介にしてつながっているにすぎない、ではグローバルに意思疎通が深まったかというとそういうことでもない
確かに世界を旅行できるからしないよりはいい,ネパ―ルに一回だけでも行けばあんな山の上にどうしてい生活しているのだろうと実感してネパ―ル人とコミ二ケーションできるからだ、まず一回を行っていないとあの山のことは理解できないからだ
つまりそこから意思疎通が始まるからだ

そもそも4000メートル級の所に人間が住めるのか?
そこでどんな暮らしが成り立つのか?

そこからして意思疎通がむずかしくなっているのだ
人間は狭い地域でもは意思疎通することはむずかしい、まず農民と漁民でも職業が違うと意思疎通がむずかしくなる、天狗とか山に怪物が住んでいるとかなるのはそこに誰が住んでいるか意思疎通できてないから神秘化してそうなったのである。
山の人と里の人と海の人があまり交わらないからそうなったのである
江戸時代ではどうしても閉鎖された所で生活しているからそうなる

では現代はこれだけ広域的に交わり世界と交わっているがそれで意思疎通ができるようになっているのか?実際は金を媒介にしてそうなっているだけであり意思疎通できているとは思えないのである。
ただ物が入って来たとしても意思疎通できるとはならないからである。
そこでマルクスが言ったように物だけがありその物にまつわるものは一切省かれるからこそ金を媒介にして流通できるとなる
それで神社とかで無縁化した場所に市場が生まれる、というよりは村ではそうして無縁化したところでしかそうした売り買いはできない
なぜなら村人は濃厚な地縁との結びつきで成り立っている、そこでは簡単に物を売ったり買ったりできないからである。そうすると村社会が破壊されるからである。

現代はそうして金だけを媒介としてグローバル経済となり共同体を破壊してきたのであるそこに意思疎通がなくてもいい、金だけを媒介にする社会である。
そこでまた様々な問題が起きる、金だけが力をもち金だけが媒介にするとき共同体が破壊される、人間の関係も金だけになるとどうなるのか?
人間性すら喪失する、モラルすらなくなる、金が猛威をふるい共同体でも人間のモラルを踏みにじるのである。
要するに社会が共同体があって金があるのではなく金があり社会があるとなる
そういう社会は意思疎通もなくなる、相手から金をとるものとしか見なくなるのである。金持ちがいればその金を盗ることしか考えなくなる
親ですら金をとるものとして見なくなるのである。

歴史でも郷倉に文書を村人の意志で保存していたように歴史すら保存されなくなる
歴史の保存には共同体が必要だからである。
共同の意志がはぐくまれたのはやはり金だけの社会ではなかったからである。
だからなぜ原発事故でこんなに簡単に町も村も崩壊したのか?
確かに放射能汚染がありそうなったとは言える、でもそれだけではないということを追求してきた、それを証明しているのは原発避難民は多額の補償金をもらった、そしてその金のことしか考えなくなった、そこにあった自然と歴史と共同して作られたものはその人達の中になかったのである。
第一先祖がどうのこうのといっても現実そんなことを考えても生活できないとなるからだそれより金さえもらえれば一億もらえればいいとなる
それでその金でいわき市では二万人の人が避難して次々に家を建てた
それを地元で家を建てられない人がうらやましがり事件が起きた
いわきの人と金だけでそうすることが反感をかったのである。

でも現実問題として金があれば別にいわきの人たちが家を建てるのではない
今は会社が外部から来て組み立てるだけなのである。
この辺でも何百軒も家が建ったが地元の大工はほとんど作らない、というよりそんな数をこなせるわけがないからだ、家というものを作るのでも別に地元の人とかかわらなくてもかねさえあれば建てられるしどこでも住める時代なのである。
そこで見逃されたのか無視されたのが目に見えないものである。
先祖とのかかわの歴史とか自然の価値とか金にならないものの価値があったがそれはもともと金にならないから無価値として認識されなかったのである。
だから若い世代は金をもらってみんな散り散りばらばらになったのである

三つの意思疎通が人間には基本的にあるとしてその三つとも今の社会は希薄化している
一見金だけを媒介にしてグローバル経済になってもでは世界との意思疎通が深まったかというとそういうことも必ずしもないだろう
ただ物が自由に出入りしているということなのである。金を媒介にしてそうなっているのである。別にバナナが入ってきたからとこれがどうしてとれるかなど考えることもないからである。何かただ何の苦労もなく実りそれが店頭に並ぶとなるだけである
でもバナナをとるにも苦労だと実際にそこで働いた日本人が報告しているからその現場で働いてみれば違うのである。

意思疎通がなぜむずかしいのか?それはもう歴史的にもむずかしい、なぜ万里長城ができたのか?それが今も同じ問題を起こしていたことに驚いた

ナイジェリア政府は24日、中部プラトー州でキリスト教徒の農民とイスラム教徒の遊牧民が衝突し、多数が殺害されたと発表した。地元メディアは86人が死亡し、50棟以上の家屋が破壊されたと報じた。

 ナイジェリアでは長年、土地の所有権を巡り農民と遊牧民が対立している。農民は、遊牧民が農地で放牧し作物を食い荒らしていると主張。近年は天候不順で農地が減り、衝突が激化している。

こういう衝突はやはり農民と遊牧民が意思疎通することがいかにむずかしいかを示している、遊牧民にすれば食料がなくなると食料のある農耕民を襲うのは当然なのである。
なぜならそうしなければ飢え死にするからである。
でも農耕民にすればそんなことされては困るのである。それで万里の長城ができたのである。農耕民は遊牧民の生活そのものが理解できないから意思疎通できないからそうなったのである,あなたたちは遊牧して食料で困ることはわかります、では食料を分けてやりましょうとはならていからである。ただそこで何らかの交換が貿易が成り立てば争いはなくなる、ただ一方的に武力で食料をとられることになるのは意志疎通がないからである
その意思疎通でもやはり交換する経済があればそれは平和的なものとして争いにはならないということはある、貿易でも摩擦があると貿易戦争になる
確かにグローバル経済は意志疎通する手段ともなるがまた反目するものともなる
ただ近間でも意思疎通ができないように人間にとって意志疎通することはいかにむずかしいかわかる、ましてや外国になると言葉から何から違うからむずかしくなるのである。 

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2018年06月26日

ネパ―ル人とあって移民のことを具体的に考えた (駅の向かいのホンダで働いていた)


ネパ―ル人とあって移民のことを具体的に考えた

(駅の向かいのホンダで働いていた)

どこの国の人なのだろうとスマホをしている人に聞いた
そしたらネパ―ル人だった,その人は結構日本語ができる
その人が住んでいるのは4000メートルの場所だという
私が行ったのは3000mのトレッキングコースだった
そこは観光ルートであり別に登山ではないのである
なぜなら山小屋が点々とあり食事も寝るところも提供されているからだ
そこで別に体力がない人も上っている
なぜなら3000mまで上ると8000mの山が天を衝くように聳えているからだ
その時曇りだったので一回くらいしか見えなかったのが残念だったのである。
一人で登山していた人は十回も上っていたからうらやましかった
自分の失敗は海外旅行することが遅すぎたことである。

その人は30くらいなのか7000mまで上ったという、それで苦しかったというから
そんなところに住んでいる人でも7000mとなると苦しいのである。
ネパ―ルでわからなかったのはサイとワニが住んでいるジャングルもある、熱帯と8000mの山がありその変化が激しいのである。
そしてどうしてそんな高い所に住んで暮らしているのかわからなかった
ジャガイモとか作っている、牛を飼っていたりもするがとてもあそこで暮らすことがわからないのである。電気なども通っていない、カトマンズの近くでもそうである。
ただにたような生活というと葛尾村のようなところかもしれない
戦後まもなくだとやはり何もないのだからにているとなる
そういう場所でも暮らしていたからである。
自分の明治生まれの親はそこの出身であり双葉の新山に丁稚奉公に出たからである。

その人はその4000mの所に生まれて住んでいたが出稼ぎに出て十年以上くらいたっていて長い,だからその生まれた場所にも帰っていないという
ネパ―ルでは仕事がないのである。金になる仕事がガイドなのである。
でもガイドになると英語をしゃべらなければならない、でも女の人もいたが英語ができないという、つまりインドでもイギリスの支配したミャンマーとかも英語ができる人がいるができる人は一部なのである。
ただその人はもう日本に三年いて日本語が結構できるからコミ二ケーションできるから困らないなと見た

なぜ日本語ができるようになったのか聞いたらホンダで自動車の修理で技術を習っているから覚えたという、ていねいに教えてくれたという
やはり技能実習生でもそうして3年もいれば日本語でも覚えるのである。
ただこの日本語でも覚える人と覚えない人がいる
日本語を覚えると住みやすくなる

その人は日本は安全でしきりにいいという、ネパ―ルは政治的に不安定だとしきりに言う自分が英語のできるガイドとトレッキングに行ったときも一日ストライキとか何かデモがあり中止になった、それで一日分の金をさしひいた,でもそんなことをすることもなかった、自分は海外旅行に行ってもバックパッカーであり貧乏旅行者だったからである。
だから金の差、物価の差のことが良くわからなかったのである。

この人は工事に来た人たちとは違う、鹿島に住んでいる、日本にも長く住んでいる
だから言葉をできて日本をある程度知っているのである
だからある程度は日本語でコミ二ケーションできる、普通の人で話せるのである
その人は見た感じ性格がいいように見える、すると怠け者の性格が悪い日本人よりいい感じになる、つまりこれだけ国際化するとどうしてももう人でも自由に入ってくる
それをこばむことができない、そして深刻なのは日本の人手不足である
日本人が働かない、外人が真面目にこの人のように働いているのである。
そうなると日本に定着してもらうような政策をとらざるを得なくなるのである
その人は第一40000mの生まれた場所には育った場所には帰らないとなるどこで定着するのかとなるからだ

このネパ―ル人と接しして外国人を受け入れるべきか受け入れないべきかということを具体的に考えさけられた、日本人でもニートなど働かいな人がいるがこうして真面目に技術を学んで働く人がいる、こういう人は真面目なのである。
そして言葉もできてある程度コミ二ケーションがもできるとなる別にそれほど困らないとなる、むしろ働かない日本人は嫌われるようになる
だから政府でも家族でもよびよせる定住政策をせざるをえなくなる
それは問題があるにしろ日本の人手不足、少子高齢化が深刻だから考え方も変わるのである。

でも待遇を良くしなければとても定着はしない、ベトナムとかネパ―ルだったら中国人よりはいいとなるかもしれない、政治的には問題ないからである。
鹿島とかの田舎でも中国人と結婚した人がいる、ハルビン出身だった
前からそうだけどこうして人のグローバル化もさけられないのである。
ネパ―ルでは出稼ぎが多い、国が出稼ぎで成り立つようになっているかもしれない
それは仕事する場所がないからである。
ただ田舎でも今有力な仕事する場所が駅の向かいのホンダだったように車関係で一番仕事が多いと思った、だから日本でも車産業が衰退したら大打撃になるのである
仕事がなくなるからだ、朝に集まり朝礼していたが30人くらい働いていた、車関係とか電気関係で働く人が多いのである 

ともかくこうした田舎町でも国際化する,それは前からそうだったがそして人手不足が深刻だからホンダでも会社の人も親切だというときそういうふうに迫られている
人手がないからやめられたりするとまた困る、外国人を雇うことは日本語など教えることで手間になる,でも人手がいないからそれでも教えているのだと思う
だから日本はもう移民をどうのこうのとか言っている余裕がない、日本の国そのものが人手不足で成り立たなくなりつつあるからだ
ただ誰でもいいと言うわけではない、中には犯罪に走る人もいる、だからどうしても人を選ぶことにもなる,ただあの人は見た感じ素直に見えるからあういう人は定着してもいいのかなとも思った
あの人は4000mの生まれ育った場所には帰らないからだ

私も今になるとネパ―ルにはもっと行って本当に8000メートル級の山を見たかった
それが残念なこととして残った、自分はその時海外旅行に簡単に行けるものではないと思っていたのが失敗だったのである。
別に3000メートルまで観光ルートなのだから行くのは簡単なのである。
どんなところでも観光ルート化しているところが観光で行ける
ジャングルに行ったとしてもそれは観光で行っているからである。

とにかく自分は日本全国も隅々まで旅している,するとこの辺でいろいろな所から全国から労働者が集まったからどこの出身とかきいてちょっとでも話を合わせられるのである。外国人でもネパ―ルにも行ったしベトナムにも行ったからベトナム人とちょっとでも話したのである。ただその人は日本語があまりできないから今回のようには話せなかったのである。

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2018年06月24日

東京一極集中が社会を歪めている−江戸時代との比較 (トラック運転手の過酷)


東京一極集中が社会を歪めている−江戸時代との比較

(トラック運転手の過酷)

 トラック過酷な労働−トラック列島3万キロ
                                              

一極集中の東京を考えるとき江戸八百八町の百万都市からはじまっている
その時も江戸は日本の中心としての機能があり栄えた
政治都市であり文化都市ともなる、江戸の日本橋を渡ることは日本の中心に来たという感激があった、それは天皇のいる京都が日本の中心だという同じであった
でも江戸時代の江戸百万都市と今の東京の相違はその規模でもそうだが景観でもそうであり全然違っている、だから同じ大都市なのにその様相はまるで違っていたのである。

江戸の回りは農民が住んでいた、それで江戸の町にきて肥料とする糞尿を運んでいたのである。そういうことは農民が深く江戸の町にかかわっていた
食料をどうしていたかというと回りの農民から供給されていた
ただ米は地方から運ばれていた、地方が飢饉のときも米は地方から運ばれていた
江戸では白い米が食べられるとなっていたのである。
それは現代の矛盾とにている,地方は江戸のために犠牲になったとなるからだ
でも野菜は遠くから運ぶことができないから近くでまかなっていた
それで練馬大根とか近くの野菜のいいものが売れることになる
米以外の食料は江戸の回りの農家から買っていたのである。
長崎から大根を東京まで運んでくるのとはあまりにも違っていたのである。

 吉宗が、鷹狩のため、享保4年(1719年)に小松川村を訪れた際、香取神社が御膳所となりました。
 この時に、香取神社神主の亀井和泉守が、地元で採れた青菜を入れた餅のすまし汁を吉宗に差し上げたところ、吉宗はたいそう気に入り、土地の名をとって「小松菜」と名付けたと言われています。

こういう話が伝わっていること自体いかに将軍ですら農民と関係をもつし近くで野菜がとれていたことの証拠なのである。

野菜は、タネの形で参勤交代などの際に全国から江戸へ運ばれてきたといいます。各地から集まったタネは江戸近郊で栽培され、よりおいしく育てやすい遺伝子を残すべく、原始的ではあれど選抜育種も行われました。こうして江戸とその近郊の土地の名前を冠した野菜が確立されていったのです。小松川(現江戸川区)の小松菜、亀戸(現江東区)の亀戸大根などが、その代表といえるでしょう。

 やがて街道沿いにはタネ屋が林立し、手軽な江戸土産として、江戸で確立した野菜は地方へも運ばれていきました

これでわかるように農業が主な産業の時は種は大事であるし肥料でもそうである。
だからこそ地方から種の多様な品種が集まり江戸でも品種改良されたりその多様な種が参勤交代などで地方へ伝播された
このことからちわかるように都市とは交流の基点とてり市場となりそこに農業技術を発展させた
つまり農業が主な産業の時は江戸は都市は世界的にもそうした機能をもって必要不可欠となっていた
つまり江戸に来れば地方では買いないものが買えるし見れないものが見れる
それは本でもそうだった、地方では置かれている本がわずかであり買えなかったのである。
それで仙台に一か月に何回も行っていたのは本を買うためだった

でもその本でも本の種類は膨大だから手に入れることができない、古本でもそうである
すると古本だったら古本屋街がありそこで買うほかなかったとなる
アマゾンでボタン押せば買える時代ではなかったからだ
そこに東京と地方の差が歴然としてあった、他にもありそれで田舎は嫌だとなって脱出したいとなったのである。
今は買い物でもなんでも困らない、東京に行って何か新しいものがあるのかとなるともうないように思う
だから東京に行きたいということがなくなったし仙台にすら去年一回行っただけで行っていないのである。
これはと年のせいもあるが田舎でも4,5万の都市が近くにあればそれなりに不自由しないのである。

地方創生とか盛んに言われるがこれだけ流通が発達していれば何も困ることがない、ただ物を買うにしても金がいる,その金になる仕事が地方にないということで地方創生になっている
原発事故のことで避難区域になっことを書いてきた、それが現代の問題を象徴したように起こった、それを社会学的に追求してきた
原発事故を様々な見地から研究できる,まず科学的な面から当然研究できる
でもここで起きたこことは社会学としても見本となったのである。
村や町が一挙に人がいなくなり住まなくなることはどうういことなのか私は追求してきた
それは放射能汚染だけではない科学的なば問題だけではないものを感じたからである。
なぜ簡単に共同体が崩壊したのかというのもそうである、それはやはり共同体が田舎でも喪失していたからではないかと追及した

このトラック運転手の過酷な労働を取材したユーチューブの放送でもそうである。
長崎から築城の市場にまにあわせるためにとか運ぶ眠ることもできずに運ぶ過酷な労働である
それは江戸時代などから比べるとあまりにも異常である
その距離も江戸時代とは比べようがないのだ、だから何かここに現代の文明の異常性に気づく
その過酷な労働を生んだのはまさに文明であり東京という肥大化した大都市だったのである。
地方はまた金を得るためにその奴隷となる構造ともなっていた
ただ東京という大都市にも様々な問題をかかえているからそうなる

原発事故だって東京で膨大なエネルギーを消費するからこそ危険でも必要になる、でも東京では誰も賛成しないから離れた福島に作ったのである。その時地方では出稼ぎが問題だったからである。
特に原発が作られた地域は過疎地域であり金になるもの仕事ができるものが欲しかったのである。
現実に浪江の前の親戚の人は原発関係に就職した、それで原発関係で仕事になっていた人が多かった
それが飯館村の、、、でも原発で働いていたのである。
川内村では三分の一が働いていたとか経済的効果が大きかったのである。
漁業関係者は漁業権を売り補償金で原発御殿が建っていてうらやましがられていた
だからこそ原発事故以後でも東電を責められないとか言っていたのである。
これも東京という大都市が近くにあることでそうなった
東京の問題が地方に波及してまた逆に地方の問題が東京に波及するのである。
それは江戸時代の江戸のように種を品種改良して東京−地方の流れでいい面もあったが
悪い面として現代では作用したのである。

明治維新以降は文明開化は鉄道の開始とともに新橋から汽笛一声ではじまった、歩いていた時代から鉄道という輸送がはじまり東京が一極集中になったのである。江戸もそうであったが明治以降は文化でも東京中心になった
なぜなら方言では意志疎通できないからと標準語東京語にしたからである。
文化も東京中心で発信される体制になった、出版でもそうであり最近のテレビ局が六局しか許可できないのも東京中心のためだったのである。インタ−ネットが普及するとそうした情報の一極集中も変わり地方からの情報の発信ができるようになったのである。

田舎でも仕事としてトラック運転手が多いということに気づいた、すでに四人くらい出会っている
それはなぜなのか?やはり東京の築地などの市場に地方から食料でも野菜でも運ばれるからである。
この辺だと石鰈などが運ばれて高く売れていたのである。地元では高くても買わないとしても東京だと買う人がいくらでもいるからだでも別に漁業関係者は東電から補償金を事故前も事故後ももらっていたから生活には困らなかったのである。

ともかくなぜトラック運転手が長崎から大根でも運ぶ、それは別に東京だけではない、全国的に運ぶ、それで過酷な労働となる
でもそうして広域経済が成り立っている、全国のいいものを食べられるとなっている
そのために過酷な運ぶ労働がトラック運転手に課せられているとなるのだ
こういう経済は何か自然ではない、文明とは自然なものではない必ず無理する、自然から発生した村はまさに自然村であり自給自足である,地産地消である、それが本当は自然な生活だったとなる
もちろん経済にはそうした物流が不可欠である、でも生鮮食料品となるとやはり地元で近くでとれたものでまかなうというのが自然なのである。長崎から大根を得るために運ぶというのは無理が生まれトラック運転手にそれが課せられることになる
そこに現代の異常性がある、いづれにしろこうした東京一極集中の時代は終わりつつある

実際は東京には人口は集中していないし若い人も減っている、そして意外と問題なのは東京が高齢化して老人が地方より増えてくるのだ,それが東京の重荷となってくる,逆に地方では老人が減ってゆくのである。そういう現象はすでに起きているのである。
それで今度は東京では老人を地方に移住させる,地方で面倒見させるとなるのも勝手だと思う
なぜなら若いときは積極的に若者を呼んで年取ったらめんどうみない、やっかいだから地方に帰りめんをとみてもらいとなるからだ
人間はやはりその土地で生きた場所に人生を過ごした場所が故郷になるからだ
そういうのもなにか東京一極集中の矛盾だったのである。ただ労働力がたりないとか会社や企業のためであり人間の人生のことなど考えていない結果だったのである。会社や企業の都合で人間がその一生を有意義に老人まで一貫したものとして過ごせないという矛盾を作り出していたのである。
老人だけが原発事故でも避難区域に帰っているというのは理解できる、なぜならそこで定着して死にたいとなるのがまさに自然な感情だからである。
なにか現代社会は経済は確かに全国と交通で結びつき物資の流れが盛んになったとしてもまたそのために矛盾を作り出していたのである。それが高齢化社会にもなりその矛盾が噴出してきたのである。



  

posted by 老鶯 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年06月17日

失われた共同体を考える−(家族が共同体の基) (第3の経済を読む)


失われた共同体を考える−(家族が共同体の基)

(第3の経済を読む)

第3の経済

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金の切れ目が縁の切れ目である。しかし、共同体というのは全人格的に関わってくる関係によって成り立っている

今の事業、経営で一番問題なのは、志がないことである。志を失った原因の一つは、共同体、コミュニティの一員としての自覚がなくなったことである。

優秀な人材があれば、資金を出し合って中央の学校へも出したのである。また、有為な人材は、故郷に錦を飾る、あるいは、郷土に戻って働くことを誉れとした。医学などその典型である。

誰も他人のことを思いやらなくなった。そして、思いやるゆとりさえなくしてしまった。そして、他人と関わり合うのさえ厭(いや)になってしまった。親は子の世話をしなくなり、子は、親の面倒を見なくなった。それで足りなくなったところを教育制度や介護制度、福祉制度に求めるようになった。会社は、会社の都合だけで社員を雇い。社員にとって会社は、生活費を稼ぐだけの場でしか過ぎなくなった。国に、国民は、要求だけをして国に尽くす事を忘れた。


このサイトで語られることに共感する、なぜ自分がこんなに今になり家族にこだわるのか?
現代ではもう共同体というのはないとこの著者も指摘している、家族も人間の基本的な共同体でありそこから故郷でも江戸時代の藩でも明治維新以降の国でも天皇を親として国民は赤子という国家を家として意識させたのである。
そして家制度を国家の根幹にしたのである。

なぜなら墓のことで考察したように江戸時代ではみんな個人墓なのである。
墓を持った人は侍であり侍でも特別な人なのである、後は僧侶であり上流階級しか墓をもてない、経済的にも墓を作ることは金がかかるからできない
でも不思議なのは明治以降に家というのもに共同体の基とした
しかし江戸時代の共同体は家族があったとしても村が共同体だったのである。
だから一見墓もないことは家族共同体もないのかとも見える
むしろ村という共同体があったから個々の家族の墓も必要なかったのである。
村の共同墓地がありこの辺ではホトケッポという所に埋められたからである。
個々の家族が墓になると墓は増えるばかりだが今になると跡継ぎとがいなとか墓じまいするようになる、江戸時代の村だったら村全体で供養するからかえっていいとなる
個々の家族だったら後継ぐ人がいなくなると供養もできなくなる、墓は維持できなくなるからだ、墓にも家族としての共同性とか村の共同性とかが関係しているのである。

現代は共同体がない限り生きていけない、自分がなぜ共同体のことを考えるようになったかというと家族がみんな死んだとき一人取り残されてしまった結果である
家族という共同体があって自分は守られて楽していたのである。
だから自分は何か社会の非情さを感じなかったし社会はいいものだと思っていたのであるそれが親の病気や介護や自分の病気で今の世の非情さを身をもって知った
そのことを延々と書いてきた、人間がこんなに非情なのか結局金しかないのかということだった、そんなことはみんなわかっているということはあった
しかし現実に自分がそういう苦しみを受けたとき具体的に理解した

今はどんな田舎だろうが都会と同じである。共同体は喪失しているのである。
拠(よ)り所となる共同体はもうない、その代わりにあるのは金だけである
金をすべての拠り所としている、だから金の切れ目が縁の切れ目になる
現代社会ではより冷徹に貫かれている
共同体とは何か?それはいろいろあっても家がその根幹にある、家族が根幹にある、
その波及したものとして会社があり国家もある、国家も家なのである。
だから江戸時代では会社がないにしろ店があったとしたらそこは家族形態として経営したとなる

家族共同体というとき血縁とばかり思っているが違う、血縁を基礎にしても結婚自体が別に血縁ではない、他人同士が共同生活することであり子供をもつことで共同体を形成することである。子供でも養子とかもあり養子でも家族共同体になる
ただ家族共同体になるとどうしても排他的になる、自分の家族のことしか思わない、他者の家族は敵対するものにもなる、家族の利益だけを考えればそうなる
だから実は家族共同体だけでは共同体は維持できないようになっている
会社に勤めればそこがやはり共同体ともなるからである
江戸時代の侍社会では御家大事でありその共同体を維持するために人柱となり死ぬ人もいたし強制もされたのである。

共同体というときそれがある期間を共同することではない、学校でも会社でもそれは会社でも長いにしても一期間になる、でも家族は祖父母がいて両親がいて子供がいてと世代の継続がある、そこにまた家の重み生じる、それは故郷とか江戸時代の藩とかでもそうである。先祖がいて死んだ先祖はその家に死んでも生き続けることがある
そこに家の重みがある、そのことは死んで母を思うということで短歌俳句の部に書いた
家族がみんな死んでそのことを痛切に感じたからである。
家族の共同性は時間軸でも継承されている,事業を起こしても会社でもそうして何か継続されものがない、トヨタでもあれだけ大きくても車が売れなくなればそれでなくなる
でも家族はなくならないのだ、それは物による紐帯ではない、精神的なものだからであるもちろん物質的なものとしても経済的なものしとても家族はありうる
経済的破綻すると家族も崩壊する、事業に失敗したりすると家族が崩壊する
それでも家族のつながりは依然として維持されるのである。

いづれにしろ今は家族でも共同性を失い、ただ金だけだとなる
それで原発事故で避難区域になった所はなぜあんな簡単に住むことが放棄されて残されたのは老人だけになったのか?
それは放射能も確かに原因しているがそれだけではないものを感じていた
なぜなら今一億円もらうならこんな田舎を出て暮らすとかいう若者が普通にいる社会である
それは若者だけではない、そういう人はやはり多くなっている
だからこそ多額の補償金をもらった人はなんの抵抗もなく故郷を出てほかの土地で新しい生活をはじめたのである。何か未練もないとなる、そのことは何を意味しているのか?
それももともと田舎でも共同性は失っている,昔のような村もないし共同体はない
ただ金だけを求める社会になっていたのである。

それでみなんで共同して復興しようとする意志もないのである。
一番働いたのは地元の人ではない、外から来た労働者でありボランティアだったのである地元の人は毎日パチンコでありギャンブルしていたのである。
それは現代を象徴している奇妙な光景だったのである。
身近な共同体は喪失しているが広域的な経済でありそれで外部からの援助があって生活していたのである。
地元の人が復興するのに働かない、その意志もなくなりただ外部の人にまかせきりになったのである。
そして地元の人は補償金をもらうことしか頭になくなったのである。
これもやはり現代社会でもともと共同体が失っていたからそうなったのではないかと考察した 

人間はいづれにしろ共同体無くしては生きられない、上野霄里(しょうり)氏でもあれだけ家族にこだわっているのもそのためである
社会から離脱する強烈なアウトサイダーでも家族という共同体にこだわりそこに自分の最後の砦としているのである。
現代はとにかくグローバル経済になってもそこには共同体はない、共同性はない、ただ金が動く非情な市場があるだけだとなる、共同体の中で金は動いていない
非情な金の市場の論理だけが支配しているのである。
家族共同体であれその延長したものに波及した社会で情が通うことはある
それは家族の延長として見るからである。
手伝いさんが家族の一員になると書いてきた
でもまた金だけの関係となりそれも一期間でその関係も切れる
金持ちの家でもお手伝いさんに家族のようにやさしくしてもそれを感じない
要するに金さえもらえばいい,もっと金が欲しいとなり盗めばいいとなるだけである。
そうして関係は簡単に切れてしまう、同じ田舎に住んでいてもそうである
そこには共同性がない、共同体ではないからである。
ただ金をやりとりする関係に過ぎないからそうなってしまう

金の切れ目が縁の切れ目である。しかし、共同体というのは全人格的に関わってくる関係によって成り立っている 

つまり侍の共同体は全人格としてかかわっている,だから白虎隊が城が燃えたというときもう終わりだとして自刀したのもそのためである。
侍共同体は全人格的なものとして一体だったからそうなった
金だけをもらう関係とは違うからである、そういう関係はやはり戦国時代から江戸時代を通じて社会が作られたのでありそういう社会を明治以降日本では喪失したから理解できないものとなったのである
今は全人格的にかかわり生きる場も共同体もないのである。
ただ個々人は金を求め金がすべてとなる、金をより多く持ったもの稼いだものが勝者でありそれ以外の価値は認めない社会である。
金でも共同体の中で稼ぎ使われるのとただ個々人が金を求めて使うことには大きな落差がある。
共同体の中で人格を育成すること共同体を維持して発展させることになると金だけがこれほど突出して猛威をふることはない、もっと高い価値にあるべき価値に金はただ下僕のように使われるが今はみんな金の下僕になっているから殺伐としているのである。
こいつから金をとればいい、後は関係ないという社会なのである。

posted by 老鶯 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年06月14日

相手を見て商品をすすめないのは誠実 (銀行はただ投資信託をすすめることしか頭にない)


相手を見て商品をすすめないのは誠実

(銀行はただ投資信託をすすめることしか頭にない)

スマホをやろうとしたがやめた、自分はパソコン20年とかしていると説明しても
実際は携帯もほとんど使っていない、遠出しないし旅にも10年くらい出ていないからである
だから携帯も最低の月2000円のでしていた,ただソフトバンクのはつながりふにくいauはつながりふすいということで聞いてみた

ケーズ電気でも聞いてみた、そしたら女の人がしない方がいいと言ったのでやめた
普通なら金になるのだからすすめるがすすめない
何か自分の話を聞いてこの人はスマホはしない方がいいと判断したのである。
前にもそういうことでしない方がいいと言われてやめた
パソコンでしているから必要ないと判断したのかもしれない
それとどうしても毎月5000円くらいかかるから無駄だと判断した
契約をとれば店の利益になるのにすすめなかったのである

かえってそのことがケーズ電気でもほかの店の人も誠実だなと思った
実際自分にしてもスマホは今は旅もしないし必要がない
やはり二年間くらい契約するから途中解約がむずかしいからすすめないということがあった、それは対応が誠実なのである。
とにかく契約をとればいいんだというのではない、相手をみてすすめないのである。
相手の話を聞いてすすめないのである。

一方で銀行では投資信託を強引にすすめる、それは客のためではない
銀行のためであり自分の利益を優先してそうなっている
とにかく契約すれば手数料が大きいのである。
その後も手数料が入る仕組みになっている、銀行にとっては損しないのである。
銀行は今窮地にたたされているから投資信託をすすめる
銀行は金を貸すの商売だけど貸さないと批判される
実際銀行でいくらでも金を集めても有効に使えないとする銀行に金をあずける意味があるのか?それは貸金庫なのかとなる
銀行でもうけを出せないということがあり金をただ集めてどうするのか?
銀行が社会でどういうい役割を果たすのか?それが問われている

客のことを考慮しないで投資信託をすすめる、それは銀行では絶対に損しない商品だからである。手数料が確実に入る銀行が得するものなのである。
家電の量販店の人はスマホを相手を見てすすめない,銀行では相手など見ていない
考慮していない、ただ投資信託を売ることで契約をとることである
だから株が上がったのに投資信託に回したのである、そのままにしてた方がよかったのである。銀行は不誠実である
ただ自分はそのとき銀行にまかせたのである。
でも銀行が投資を知っていると思ったし時間がないからまかせたのである。
いちいち調べるのが手間だからである。それが仇になった

ケーズ電気で相手の話を良く聞いている,若い女性だけど落ち着いて聞いていたのである銀行では相手の話を聞かない、ただ頭に契約をとることしかないのである。
それはノルマが課せられているからである。その重圧がありもう客のことを考えないのである。話でも聞かない、まず投資信託をすすめて手数料をとればいいだけなのである。
それも銀行は投資のことはほとんど素人と同じレベルだったのである。

結局個人的に余裕がない人は相手の話など聞けない、相手の身になって聞けない
追い詰められた人はただただ自分が苦しいことしかないからだ
そういう人が自分が病気で介護の時来たから最悪だったのである
要するに自分のところに来た人はそうして余裕がない人たちばかりだったからひどいめにあったし損もしたとなる

営業とか医者とか介護士とか人と直接接する人は相手の話を良く聞く、相手のことをしる必要がある、相手と通じ合う必要がある
これはなかなかむずかしい、相手のことを知るにも話を合わせるにもみんな違っているからむずかしい、だからトラック運転手は同じトラック運転手と話が合うし同じ仕事をしている人はその仕事で同じ経験しているから通じあわせやすいのである。
自分も工事現場で働いたから危険なことを知っているから話を合わせるとなる

結局現代は職種が無数に増えて他者のことが理解できなくなったのである
江戸時代ならみんな農民だとすれば理解しやすいしやっていることがわかる
これだけ職業がふえるともう理解できない、何しているかもわからない
だから現代は意思疎通がむずかしい時代なのである
そもそも銀行の仕事は本来何なのかということもわかりにくいのである
地銀は地元の中小企業を育てるために金を貸すというけどそういうことを具体的に理解することが経験ないものにはむずかしい
銀行は今どういう役割を社会でになっているのかもわかりにくい
銀行とか証券会社とかは理解しにくい、それは虚業なのかともなる

頼母子講などはわかりやい、相互扶助の組織であり銀行の基になっていた
江戸時代だと人間のしていることはだいだいわかっていたのである
代々後継いで仕事していたし農民だったら農民が集まり代々暮らしていたからである
そこで人心も安定していたのである,それで江戸代の日本人はいい顔していた、幸せそうな顔していたと外国人が見ていたのである
それは相手のことをとにかく誰でもわかりあえるという社会だったからではないか?
今はわかりあうことが難しい社会なのである

いづれにしろ現代はいらないものを多量にすすめられる時代なのである。
医者にしてもいらないくすりをすすめる、それで金になるからだ
でもそのことで医療負担も増えてくる
いらないものはすすめるべきではないし売るべきではない、現代は多くのいらないものをすすめられる社会なのである。
いらない需要が宣伝も作り出されて買わされる時代なのである。
だからすすめないということがかえって誠実になる
売らないということが誠実になる、でもそうなると売れないから商売あがったりだともなる、経済が停滞するとなる、無理に売らねばならない,買わされるのは会社でもうけるために強制されるからである
需要というのは自ずと生まれるのであり強制するものではない
そういうことを言う人がいた

医療自体が本当に病気でないものまで病気にしている、つまり無理やりそうして医療で需要を作り出して患者にして医療関係者もうけているとなる
強制的に医療でも患者が作られているという側面があるのだ
なにかすすめないということも現代では必要である。カルト教団なでも勧誘して会員にするためにすすめる
ところがそのすすめることが社会悪になっている
裏で信者を操作している、背後に韓国とかアメリカがかかわっているのではないかとも疑われる
今や現代ではなんでもすすめる時代であるがすすめないということが社会悪にならないともなる
それは何も成さずして成るとかの老子の思想に通じているのである

タグ:営業の問題
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2018年06月09日

社会は常に優秀な人を求めてきた (一番優秀なのはAIになるのか?)


社会は常に優秀な人を求めてきた

(一番優秀なのはAIになるのか?)


人間社会は優秀な人間が常にどこでも求められてきた,ただ優秀だというとき時代によって変わる、侍として優秀なのはやはり武道ができる人だったり戦争で力を発揮する人である。
明治以降になると福沢諭吉がでてきて学問に優れた人が出世するとなった
それから理系の技術者がいたるところで必要になりそこで優秀な人が望まれた
戦争も核兵器などのように技術競争になったからである。

人間社会は会社でもそうだが国でもそうだが優秀な人がいるとその人によって会社でも国でも株があがる,アメリカを見ればわかる
コンピュターを発明した人がビルゲイツとかいたからこそアメリカは技術的に情報社会で世界を支配するとなる
そういう天才がいて優秀な人がいて国家でも株が上がり世界を支配する
ただ金融だけでは支配できない,紙を刷っているだけで世界を支配できるとなればこれほど楽なことはないからである。

ヨーロッパが世界を一時支配できたのはヨーロッパには天才が非常に多い,それで発明発見があり産業革命があり豊かになった
イスラムが遅れたのはイスラムから学ぶものが宗教しかないというときほとんどの科学技術でもヨーロッパで発明されたものである。
その差が歴然としているのだ,イスラムになにがある,アラーの神がある,他に何がある石油と砂漠しかないのか?そんなふうになっている
世界レベルでイスラムから学ぶものがない,それは芸術の分野でもイスラムから偉大な天才は出ていないのである
中国でも発展したがパクリ国家であり何も世界をリードするものを発明されていないのである。だから先進国になれないと言われる

なぜ最近AIとかがうるさく言われるのか?
つまり人間は優秀な人材を求めている,でも優秀な人材は簡単に得られないのである。
会社でも国家でもどこでも求めている,その優秀な人材を得られれば会社も国家も株が上がるからだ
例えば医者でも一人の優秀な医者がいると例えば手術がうまい医者がいるとその病院の株は上がる,南相馬市では脳外科で脳出血関係で手術がうまい先生がいてその人がいたから脇に専門病院ができた,その先生に習うために若い医者も来るという
つまり一人の優秀な医者がいれば地域にも医者来るとなっているのだ
他に銀行でも投資に関しては素人並だった,投資には相当な知識と専門性が必要であるが銀行にはそうした優秀な人はいないのである。
もしそういう優秀な人がいれば投資関係でも銀行はもうけられるとなる

人間は簡単に優秀な人は得られない,するとどうするのか?
AIに優秀な人の代わりになってもらいうということになるのだ
いくら優秀な医者でも手術がうまいとしてもその数をこなすのは限られている
優秀な人はものすごく忙しくなる,優秀な手術のうまい医者にみなしてもらいたいからそうなる
するとAIにその代行をしてもらうとなれば好都合なのである。
Aiだと休まず24時間働いても疲れないからである。

自分もプログを三つくら一日アップすると疲れる,家事もしなければならないしそんなに一人の人間ができないのである。助士が欲しいがそれも簡単にはできない
金もないし家政婦も雇いない,やはり一人でやれば忙しくなる
ただインターネットだと知識吸収とか発信のスピードが早くなり効率的になる
これを図書館で調べていたら一冊一冊本で調べると時間がかかってできなくなった
家事があるので余裕がないからだ
図書館に必要なのはアルバイトの司書ではない,本でも情報化したAI化したロボットなのである。
なぜならキーワードで郷土史関係の資料でも調べられれば効率的になるからだ
まずアルバイトとかの司書などはただそこにいるだけで役にたたない,案内役にもならないからだ

ともかく優秀な人間は忙しくなる,やることが多くなる
でも助士が欲しいとかなるとその人だって優秀でないと勤まらない
それは科学者が実験している時でも弟子が助士が優秀でないと役にたたないからだ
だからどこでも優秀な人を望まれているがそんな人は簡単に得られないのである。

ただAIがどういうものか今はわからない,まず翻訳には驚いた,そのレベルが高いから学校の先生に学ぶよりいいとなる,あんなにすらすら翻訳できないからだ
他にも自分のしている抽象画も実はAIとにている,AIが創作しているのではないがソフトで制作しているからにている,これも70から80人のアメリカの人が見ているのである。
だから評価されているのかとなる,これもコンピュターが産み出した芸術でありAIと関係しているのである。
AIは人間の助士になる,知的な分野で助士になる人も簡単に得られないからだ
手術するにもAIロボットを使うのもそのためである。
それは手術の優秀な助士なのである。

AI社会とはどういうう社会なのか?
人間は優秀な人を求めてきた,でも優秀な人は簡単に得られない,するとAIに代行してもらえばいいとなる,労働者でも簡単な仕事はロボットがする
そのロボットを優秀な人が発明すればいいとなるのだ
そして優秀でない人は社会で人類でいらないとなる
なぜなら高度な知的な仕事はAIを使うからである。すべてができないにしろ助士として優秀だからである。
そこでロボットが簡単な機械的にできる仕事をさせると単純労働者はいらないとなる
働く場がなくなるとなり格差社会ちなる
でもまずみんな知的にも技術的にも優秀な人間になれるのは極一部なのである。
その極一部でもAI化すればロボット化すれば社会は回ってゆくとなる
人間はそうして優秀な人間を求めてきた,だから必然的にAI化してゆくとなったのだ

今後の社会の歪みは人工知能を拡大させ、巨大ハイテク企業が世界を制する


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2018年06月05日

働くことには誇りが必要 (モチベーションが上がらないと働けない)


働くことには誇りが必要

(モチベーションが上がらないと働けない)

働くことにはいろいろな要素がある,一番は当面の生活するために金が必要だから金のために働くのが普通である。
金になれば資本主義社会では別にどうしてもうけようと評価される
和歌山のドンファンの人はただ女性のために働いていた
金があるところに女性もよってくるからである。
でもそこで働く従業員もいた,その人たちは社長がそうして働くときそれが従業員のモチベーションになるのだろうか?
それはただ金だけが目的の会社になってしまう
そういう会社で働く人はどういう気持ちで働くのかとなる

働くとき誇りが必要だというとき人間にはプライドがある,それが人間の存在意義にまでなっている
なぜなら家族が認知症になってそのことが痛いほどわかったからである。
ただ自分の家族の場合,特別プライドが高かった
だから認知症になっても決して馬鹿になったとは思わないし馬鹿として扱うこともできない,馬鹿にすると怒るし暴力にもなるのだ
それだけプライドをもちつづけていたのである。
それは死ぬまでそうだった,最後は自分は優秀だったと言って死んだのである。
自分の家族の場合は特殊かもしれんがそれだけ人間はプライドは最後までもっている
だから認知症になってもそうだからもし社長だった人なら演技しても社長として持ち上げる必要が治療になるのである。
その時気分を良くしてくれるからである。すると症状も治まるからである

人間がプライドをもつというとき職種によっても違ってくる
自分は若いとき流れ作業しかしていないからそこでこれが人間のする仕事なのか?
これはロボットと全く変わりないということでそれ以後自分は一切仕事がする気がなくなったのである。
だから自分は会社員にもならないし仕事したことがない
そういう自分が働くことをどうのこうのというのも矛盾しているのである。
ただ普通人間は日々働いているからどうしても働くことを考えざるを得ないのである。

働くことに誇りがもていなというとき職種で相当違ってくる
コンビニとかスーパーのレジとか掃除とか無数の職種がある
ではその仕事に誇りをもてるのか?
そんなものやがてAI化して人はいらなくなるとかしきりにいう
ところが人間は働かなくてもいいとなっても誇りはプライドをもつことで生きがいになるそういうものがもてないとき人間はどうなるのか?
それは今のニートとか無職がどれだけ社会から批判の的になっているかを知ればいい
「働かざるもの食うべからず」なのである。

その点医者とか看護師とか技術者とか他でもそういう社会から認められ誇りをもてる職種はいい,社会から認められて尊敬されているからである。
それはもう過剰なほど尊敬されているからである。
だから優秀な人間が医者を目指すというのもわかる
ただ誇りというときこれは職種だとすると専門家のことであり外国ではあなたのプロフェショナルは何ですか?と聞かれる
専門職が何かでその人を見ている
でも日本では会社でその人をみる,どういう会社に所属しているかで人をみる
その人が何のプロフェショナルなのかを必ずしも見ていない
だから大企業に属しているだけでその人は社会の評価が高くなるのである。

でも地銀などを苦しくなり投資信託とかを売るようになった
でもその投資信託を売る銀行員は全く証券とか投資のプロフェショナルではなかった
本当に素人並であり適当にすすめているだけである。
素人でも分散投資とかの理屈はわかる
でも株が上がっていたのに売ったりして投資信託に回した
それはただ銀行側で投資信託がもうかるからである。それしか理由がないのである。
本当の証券とか投資のプロフェショナルは普通の人は知ることもできないものなのだろう

だから仕事というとき会社に所属してしているのとプロフェショナルとして見る仕事がある
医者でも大きな病院に所属していようがテレビドラマで見たが特別天才的に優れた医者がいて若いけど手術がうまいのでその人は横柄でも上の人でも頼り文句が言えないのである医者でも伎倆がすぐさているとまさにプロフェショナルであり有名な大きな病院に所属しているよりその伎倆の高い医者がいるからその病院の評価があがる
それは南相馬市立病院で脳外科が脳出血とか脳梗塞の専門病棟ができた
それは手術がうまい先生がいてそれでそこに習いにくる若い医者が集まるという
そうして優秀な医者がいるから病院の評価も高まっているのである。
そういう先生の下で働くことに誇りをもつということがある

誇りというときいろいろある,故郷を誇りに持とうというとき,何が誇りになるのか?
相馬地域だと野馬追いが有名だからそこに誇りをもつとなる
これは伝統があり誇りをもてるし祭りは故郷の誇りになる
でも今故郷に誇りをもつというとき何を誇りにするのか?
目立った自然があれば高い山でも川でもそうだが自然が誇りになることはある
自然は多様だからその地域地域の特性があり誇りをもつとなる
自分の場合は故郷の歴史とか自然環境を基にして詩を作ったりしているから故郷の誇りをそこに求めているともなる
自然がないところには真善美もないからである。
東京は経済的には富が集中しているがそこに人間として誇りをもてるのか?
ただ田舎ではそうして自然の美より経済的なものが優先するから誇りにしない人も多い
農業でも金にならないからと跡継ぎもいないのである。

だから原発事故があったけど事故の前は東電の社員は地域のエリートだったし技術者は誇りをもっていたのである。
そして地元でも東電で働いていた人が多いから東電に働いて家を建てたとか家族を養ったとかあり誇りをもっていたのである。
でもその誇りも事故で打ち砕かれたのである。でも事故後もあまり東電を批判できないんだよなというときそこで誇りをもって働いていたからだとなる
そこで収入を得ていたからだとなる

人間にとって誇りの問題は大きな問題である。それで人間は経済的動機より誇りをプライドが優先して歴史を動かしてきた,人間の根本的動機がプライドにあるとまでみて歴史を解説した本も出ている
だから会社であれ国家であれ故郷であれそこに所属している人は誇りをもちプライドのために死ぬともなる,国と国の争いは人間のプライドをかけた争いであり経済的要因ではないとしている
戦争に負けることは国が隷属状態になりプライドを失うことだからである。
日本はアメリカに負けてそうなったからである。
アメリカは世界で一番であることにこだわるのはプライドがそれだけ一番高いからそうなっているのである。

では銀行のように今までのようにプライドがもてるのか?
何かプライドがもてる仕事をしているのか,それは他でもそうである。
大学でも一流大学だとプライドがそれだけでもてる
でも別にやはりいろんな人がいるから一流大学でもだめな人はだめなのである。
外国ではプロフェショナルに誇りをもっている
大学でも外国ではそこで何を学んだかを重点にしている
いくら大企業でも一流大学でもそれですべての評価とはならないのである。

歴史の終わり(フランシスフクヤマ)では人間を気概からみている
経済的動機ではなく気概があって人間は動く,民族主義は気概があって他の国との戦争になる,気概が動機であり必ずしも経済が動機ではないと言っている
それだけ気概とか誇りが人間にとって大きな意味をもっているのである。





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2018年06月04日

素人並だった銀行の投資の営業 (投資信託は買うな!)


素人並だった銀行の投資の営業

(投資信託は買うな!)

東邦銀行でもボーナスねらいで投資信託を街頭ですすめていた
東邦銀行は福島県では一番大きい銀行である。
県で一つしか残るとしたら東邦銀行である
近くの人が東邦銀行に孫が入ったと自慢していた
そもそも地方では銀行はエリートが入る公務員よにう見ていたのである。
でも銀行は今や窮地にたたされている

アメリカでは預金量10億ドル以下のコミュニティ銀行が95%を占め、活躍しています。小規模だからこそできるこまやかな地域サービス。その生命線は地元での中小企業融資です。政策的にも重視されており、CRA(地域再投資法)を支える要となっています。(2月5日、3月15日)

 「銀行は国民に奉仕し、預金者保護、信用秩序を守り、適切な資金を配分して地域の中小企業、商店などと密接な関係を保ってこそ信頼が得られるもの」

 地域経済破壊する早期処理 地銀・信金重視して
金融アセスメント法の制定こそ

ここのサイトは詳しくシリーズで地銀や信金の問題を書いている

銀行員が金融商品を扱う際、顧客目線ではなく販売員目線もしくは手数料重視といった考えが根底にあるということは往々にしてありえます。


地銀と大手銀行の成り立ちは違ったものである。だから意外なのはアメリカなら常に大手銀行がありその銀行が世界を支配しているなどの陰謀論で常に言われるがコミュニティ銀行が95%を占めているというのは意外である。
とすると銀行の原点はそうしたコミニュティ銀行なのである。
日本では江戸時代の頼母子講でありそれとにている
コミニュティ銀行とは日本の地銀だったのである。

今でもこれまでは地銀は地元の中小企業を相手の金融だから福島銀行で取り次ぎ騒ぎがあり金融庁から指導されたとき福島銀行は必要だと地元の経済界からの応援があったことでもわかる
福島銀行と大東銀行が合併するとか言われるときもこの二つの銀行は全国レベルでも最下位の銀行になっていた
でもこうした弱小銀行が合併しても力にはならないという指摘がある


彼らは、目の前のお客様がその投資信託によって利益を得なくても、その投資信託を売った時点でノルマを達成し、銀行の利益に貢献することになるため、往々にして“売る”ことに重点を置いてしまいがちなのです。

これは本当である。

なぜ株が上がっていたのに投資信託に回したのか?それはこのことがぴったりだったからである。
その時自分は銀行は金融のプロだから株や投資のことは知っていると思ってまかせたのである。
銀行を医者のように見ていたのである。医者は専門知識があって病気の相談にのる
だからまかせるのである。もし信用できなかったら命にかかわるからまかせないのである金だって今や金は命までなっているか簡単にそんな素人並の知識も経験もないところにまかせないのである。

銀行は証券会社と大手銀行とはそもそもその成り立ちからして違っている
地元中心の金融であり金を都合して地元の発展を金融面で支える役割だったのである。
ただ地元の地方の経済が疲弊して倒産件数が増えて貸し付けてももうからなくなった
高度成長時代は利子が7パーセンの時代があったのだ利子だけでも生活できるような状態だったのである。
だから退職金一千万でも二千万の価値があった,今一千万あってもない,目減りしてゆくのである。
それで投資に回させるのが銀行なのである。そこで失敗する人が多いのである。
まず投資というのは特に投資信託は複雑すぎてわかりにくい,そして毎月配当されるということも何か売る方にとってうまくできているのである。
それも元金から引かれていたりするのが普通であり目減りしているのである。
そして手数料が大きい,まるで手数料をとるための商品に見える

いづれにしろ銀行は今や存続が問われている,でも不思議なのはアメリカの銀行の95パーセンということはそれだけ実は日本で言えば地銀の役割が大きかったとなる
アメリカは大きい国だからそうなったのか?グローバル経済で支配する銀行がアメリカだと思っていたからである。
アメリカにはもともと本当に小さな街のミニコミの新聞があったりして地域に根ざすものがあった,それはアメリカは州単位の政治になっているのは広いからである。
それで報道でも地域中心のものがあったとなる

ともかくこうして銀行は今窮地にたたされその存続すら問われている
そうなるとあこぎなこともする,なりふりかまわなくなる
東邦銀行が街頭で投資信託をすすめのもそのためである。
ただ地銀の強みは一軒一軒営業して信頼を築いてきたことである。
その信頼を逆手にとって投資信託など銀行にとって都合のいい確実にもうける商品を売り込む
だから銀行はもう信用できないとなる
そして地銀などは全く投資に関しての知識が素人並だったのである。
ただ投資信託がノルマを課せられているからすすめているだけだったのである。
投資信託でも何百種類もあり実際にもうけている人は知らない商品だというのも不思議である。
たいがいオリンピックでももうかるからとか今はやりのAIやロボット関係の商品をすすめる,それはわかりやすいから客に理解されやすいからすすめる

でもほんとうにうかる商品は知らないものであり目立たないものだとうときそういう商品を説明することはむずかしいからなのかとなる
それだけ投資というのは複雑であり知識が必要だから素人は簡単に手をだすべきではなかったとなる
ただ株は上がったり下がったりするから仕組みがわかりやすい
それでリーマンショクのとき半分になった株が最近元にもどりさらに上がったのでそのままにしていれば相当な利益になっていた
だから株の方がリスクがあるが下がったとき買って上がった時売ればいいというだけだからわかりやすいのである。
そういうリスクを承知でやれば別にいいとなる

投資信託はまず仕組みからして複雑でありどこでもうかっているのかもうからなのかわからない
そして銀行の営業担当自体が投資信託のことすら知らなかった!
どれくらいもうけて損したのかという報告すらできていなかったのである。
その営業担当にも問題があったとなる,結局営業自体が成功する人としない人がいるとなるがそれだけ営業というのはむずかしいとなる
押しの強いだけではまず営業はできない,商品知識があり顧客第一にしてすすめる
でも銀行側では上司が投資信託をすすめるから営業担当でも顧客側の要求は無視するのである。
投資信託は最初からそういう商品なのだから買うなとなる


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2018年06月03日

人間は誰のために働いているのか? (自分のため,家族のため,会社のため,地域のため、国のため・・・)


人間は誰のために働いているのか?

(自分のため,家族のため,会社のため,地域のため、国のため・・・)

人間が働くということはそもそもただ金をもらうためのなのか?
月給をもらうためなのか?それが前提条件としてある
でもどこで働くにしても自分のためであり家族があれば家族のためであり会社があれば会社のためである。
そこから地域のためとか故郷のためとか国のためとかまではならない
ただ戦前はみんな国のために働いたのである。
そうでなければいくら強制されたとして3百万人も死ぬということはありえないのである

地銀を例にとればまず自分のために働く,月給もらうから働く,地銀をもうけさせるために働く,それで今利子がつないから客をもうけさせるために投資信託などをすすめるようになった
それにはノルマを課せられている,自分がノルマを果たして成績をあげれば会社で評価される
まずそのことが第一となり客にもうけさせるよりノルマを果たして自分が成績をあげる,会社を地銀をもうけさせる
それでリーマンショクの前からもっていた株を上がっているのに投資信託に回した
それはノルマを果たすのと勤めている地銀をもうけさせるためである。
今地銀は苦しいからである。
でも地銀の役割としては地銀とあるごとくその地に根付いて会社を育成するとかその地域に金融で役立つ地域のためにとかも働く一番の要因としてあった
証券会社とは違うものとして地銀は成り立っていたのである。
地銀でも会社そのものが共同体にもなっている,だからこそ企業戦士として高度成長時代はあった,命をかけても会社に尽くすのである。それは家族と同じだったのである。


働くというとき江戸時代の棒振りで商売している人さえ国のために働くという意識があった,江戸時代なら藩のために働くということである。
地域と密接に結びついて働いていたとなる
なぜなら会社というものがその時はないからである。
・・・屋という屋号をもつものが会社であり丁稚奉公として働いていた
そこでも自分のために屋号をもつもののために地域のために働いていたし家族のためにも働いていた
働くということはだからその範囲は実際は広いのである。

駅でもボランティアしていると駅は街の人のためにまだ案内がある,それから外から来る人の案内があると外から来る人は全国の人だとなると大げさになれば全国の人のために働いているとなる
それは自分のためであり地域のためであり全国の人のためだともなる
働くとはたいがいそういうものであり自分のためにだけ働くのだと言っても実際は働くというとき広い範囲に波及しているのである。
ただ複雑な社会でありあまりにも広いグローバル社会になると意識できないのである。
グローバル社会になれば世界のために働いているということにもなる
働くということはなんらかの共同性があり共同を追及している

例えばバナナを日本に売るとしたらバナナを作ったり売ったりしている人は日本人のためにも働いているとなる
バナナを食べられるのはバナナを作ってとって運送してくれる人がいるからである。
バナナは自動的にとれたりしないのである。バナナをとる経験した若者は苦労があったとするときバナナをとるにも苦労しているのである。
それはあらゆる世界から入ってくる食料に言えることなのである。
でもそこでバナナを作りとる人が日本人のために働いているとは意識していない
ただバナナを売って金にしたい,その金で買いたいものがあるから売っているとなる
日本人のためだとか思わない,第一日本人がいたとしてそういう人とは直接会わないからである。
私の作ったバナナを苦労してとって送った、その人が喜んで食べている役にたってうれしいとかならないのである。
身近に住んでいる人ならそうなっていたが国も違えば遠いしそうはならない

でもバナナは自動的にそこにあるように思える,そして金を出せば買える,そこにそれを作ったりとったり運送したりする人を意識しないのである。
ただ物としてあるだけなのである
狭い市場だったら何か売るにしてもその物を作る苦労を語ったり買うものと売るものの話があった,それが現代では一切ない,ただ金でやりとりするだけなのである。

つまり物と心が分離している経済でありマルクスは疎外としてそのことを言った
日本人は物と心は一体化して考えていた,物はものごごろとかものがつくとか物と心は分離していないのである。
薬でも看護師さんからこの薬は良く効きますよ飲んでくださいとすすめられる,その時感情をこめてすすめられる,どうぞこの薬を飲んで良くなってくださいねとか女性の看護師に言われると何か直るような気分になる,つまり薬に何か人間の気持ち心が願いがのりうつるのである。物に心が憑くのである。
その時薬はただの薬ではない,人の心が願いとかが愛とかでもついたものとなる
母親が子供に出す料理はスーパーで売っている惣菜とは違い母親の愛情がこもっているから心がついているから違ったものなのである。
バナナにしても単なる食料ではない,物ではない,そこにそれを作る人や収穫する人や運送する人がいてようやく食べれるものなのである。
それを意識して食べている人はいない,金があれば食べれるではないか?
問題は金なのだとなる,完全にその時金しか念頭にないのである。
またそうならざるえなくなったのが現代の経済だとなる

ただ物を売るときただ物を売るというのではない,そこに心をこめて売るということがある、その人のために思って売るとういことがある
ただ物を売るとういのではなくこの品物は食品の効能がありそれに心を込めて売る
そこで人の手を介在して渡すとき物に心がつくとなる
胃が悪くて朝鮮人参の飲み物を買うとき薬屋の人が血流を良くするという一語で何か効くように思えたのも不思議である。それはただ効くというだけではない科学的裏付けあって言っていたからである。今は科学的裏付けの方が信用されるのである。
昔はそうではなくただ法印とかに頼み祈ることに効用があるとさたのである。

それで営業力が試されるとなる,何かヤクルトなどの販売はそうして物だけを売るのではなく手渡して売ることによって物を人間味あるものにしているのである。
だから何でも自動化することコンビニすら人がいなくなるということでそれで本当に物が売れるのか?そこに人間が非効率でも人間味ある社会を望みそんなこと嫌だとなる
多少高くても人間味があるのがいいともなるかもしれない
つまりAIとか自動化機械化が人間社会では万能ではないのである。

人間とは常に日常のありふれたことでもささいなことでも考える哲学する
それが人間の人間たる所以なのである。
そんなことを考えるより金になることを考えればいいのだともなるのが普通である。
この社会であれ自然であり考えるのは人間だけである
動物でも植物でも地球にあるものでも自ら考えるものはない
人間だけが考えるのでありだから考える葦だとい言われた
ではなぜ人間は考えるのか?

なぜ働くのか?

毎日人は働いている,だからこそ働くということが一番の関心事になる
自分は若いとき流れ作業とか工事現場でしか働けなかった
だからその時働くということは考えない,ただ日々の糊口を得るためだけに働いていたのである。
奇妙なのはその後働いていない,でも働くというどういうことを考え続けてきたのである働かない人間は働くことを考えつづけるのも奇妙だとなる
でもそういう矛盾は人間に常にある
マルクスも別に働いていない,ただ大英図書館に通って本を読んで調べていただけだとなる

人間は働くということを考えるとき働くことに意味と意義とか価値を見いだしたいのである。そんなこと金によって決まるじゃないか,金をもらえばいい,多くもらえる人はそれだけ価値あることをしている,それだけだよともなる
でも本当にそれだけで人間は納得するのか?
人間は根本的に誰でも哲学者なのである。
金をもらえればいいしそれで食べられればいいあとは何も考えないとはならない
確かに肉体労働者でもそういう人は多数である。
そんなことを考えているのは実は暇人であり働かない人だともなる
学者は実際の現実の場で働かない人である。働くことを分析している人だからである。

人間は何するにしても意味と意義と価値を求める,それは別に金をもらえば価値あることをしているとなる
でも金をもらえなくても価値あること意味あることをしている人はいるのである。
遊ぶということも実は意味があり価値があるのが人間である。
第一いろいろな娯楽があるけどアニメであり映画であれゲームであれ仮想現実で遊んでいる人に莫大な金が使われている,遊びを提供してもうかっているのが現代である。
それが金になっているから遊びも価値あるとなる
でもこの世に金にならなくても価値あるものはいくらでもある。
価値は多様だし無数にあるといっていい,何が価値あるのか?
それは人によって数限りなくあるからだ
これだけの本が出ているとういことそれはみんな自分の価値を認めてもらいたいということである。
プログでもインターネットでも何かを発表しているのは自分の価値を認めてもらいたいからなのだ
金になるならない前に価値を認めてもらいたいのである。

土地も本来の価値、その土地の持つ属性が削ぎ落とされ、地価という価値でしか評価されなくなる。しかし、土地の価値は、その土地の利用価値で決まる物なのである。
 例えば、海に近い土地とか、よく肥えた土地とか、思いでのある土地とか、由緒正しい土地だとか、歴史のある土地とかである。土地は利用目的によって様々な形を持っている

 このように価値は多様なのである。それがすべて価格で金で判断されることが社会をゆがめているのである。このサイトではそのことを追及している
だからベーシックインカムが必要になる,その時本当に価値あるものを追及する人が出てくることは確かである。金だけで使われない価値を追及するのである。
ただ実際にこれが実行したらまた様々な問題が生まれてとりやめになるかもしれない
それでもなにか現代の金だけの経済を見直すことにはなる


















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2018年06月02日

田舎の少子高齢化 (田舎の生活が逆に見直されることも?)


田舎の少子高齢化

(田舎の生活が逆に見直されることも?)


自分の組の10家族

一人暮らし 4人
老夫婦の二人暮らし二家族
子供のいる家なし
60歳以上 10人

これだと活気がなくなる,一人暮らしの人はやがて大きな家に住んでいるが空家になるかもしれない,子供がいないとなると街から離れた農家の部落では祭りが維持できないとかテレビで放送していた
そこは新地の福田というところであり丸森から神楽が伝わっていたのだ
それは子供だけでする神楽であった
でも後継者がいなくなるとか言っていた,こういうことはもうどこでも起きている
それよりその神楽はあくまでも農業の農家の祭りである
五穀豊穣を祈る祭りだとするとき現代に合わないものとなる
それは昔の村だったら成り立つものである。
今は村でもみんな農業しているわけではないからである。
田んぼも委託して何もしない農家が多いのである。

隣が空家になっていて近くの人が新築するためにそこを借りた
その家には子供がいる,めずらしいなと思った
孫と遊んでいる祖父母がいる,そういう姿も見ていないからだ
その家は若い夫婦がいて祖父母がいるから大家族である。
そういう家族が普通だったのだろう

近くでも知っている人が自転車屋でも娘が東京にいるが後継者はいないからいづれはやめることになる
そうすると町には一軒も自転車屋がなくなるのである。
するとかなり困ることになる
同級生の人も娘は東京にいる,地元に住んでいる息子や娘が少ない
するとどうなるのか?
やがては空家となり墓を守るものもいなくなるのである。
それで墓じまいとかなる

そして田舎に故郷に帰ってくる老人も増えてくる,そういう人と駅でもあったし他でもあった,つまりまた老人が増えるのである。

商工会で街を良くしようとして集まるとしても50以上とか多いだろう
すると将来を考えるより老後を考える,30代まで40代までならなんとか将来を見る
50以上になると無理になる
それで女川とかでは復興するのに老人は口ださないことにしたというのもわかる
老人はどうしても新しいことについていけないのである。
変化に対応できなくなっているのだ

そして老人が求めるのは安定であり安心である
何か例えば土手を毎日歩いている
そこに桜並木がありそこを毎日通る
その桜は太いのである。もう大分前にこの地区の人が植えたものだからである。
その木を見ていると何か心が安定する
そこで求めるのは信頼とか安定とか安心なのである。
それはこの土地に長く根付いて成長したものである。

そうして変化しないものを老人は求める
それは別に悪いことではない,そういう生活もまた現代では求められているからだ
めまぐるしく変わる世界がいいとは限らないのである。
大地にその土地に深くねづいた生活を求める
そういう時代の変化もある,東京などの若者が田舎志向になっているのもそのためであるだから老人の志向するものがすべて悪いとはならないのである。
若い人が志向するのはすべていいとは限らないのである。
結局高度成長時代は若い人向きの社会だった
若い人が多いから一面活力ある社会だったとなる
でもその高度成長が終わったとき今度は成熟社会になる
すると社会のモデルも変わってくるのである。

理念における二つのモダン(近代)なモデル(模型)のモード(流行)があります。ちなみにモダンとモデルとモードとは、語源にあっては同根です。つまり近代とは「最近の時代」などというカレンダー上のことではなく、「模型が流行する時代」ということを指します。

西部邁

モダンとは模型のことであり型にはまった模型的思考のことである。つまりそこに新しさはないのである。誰かの真似ごとがモダンなのである。

西部氏に共感することは古いものが必ずしも古いものではない,新しいものが必ずしも新しいものではない,すべてのものは歴史的生成されたものであり全く新しいもはないという考え方である。

何か自分は自然とアイディンティティ化することをもとめてきた
木があるとき木と一体化する,すると心も安定して安心するとなる
その傾向が年がとると余計深まってくる
人間もやはり自然の中に生きる自然に生きる生物だからそうなるのがまさに自然なのである。

根を張る木

深く深く
強く強く
大地に根を張る
信頼の樹々よ
そこに安らぎがある
木は大地に根を張り
深い影をなして
ここに静かに成長してゆく
その時は長い
そうして信頼を深めてゆく
信頼は時間によって作られてゆく
偽らざる木よ、正直な木よ
そこに安らぎがある
人間はそのように
落ち着く場が必要
精神的に安定する場が必要
そこで仕事も成就する

treehome11.JPG
こんなふうになってゆくのが自然なのである。
仕事をするにも成すにしてもそうした安定する場がないとできないのである。

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2018年05月30日

家(いえ)とハウスは違う (イエは強固な共同体の一つ)


家(いえ)とハウスは違う

(イエは強固な共同体の一つ)

日本人が家というとき何か英語で言うハウスとは全然違っている
英語だとホームである,ホームタウンが故郷である。
ホームというとき何か還るべき場所としてある
ハウスとホームはまるで違っている
ハウスは寝起きする箱としてしか見ていない
だからアメタリか移動社会だというとき一時的に家というハウスがありその土地から離れて移動する遊牧民的生活になる
そもそも移民の国だから土地に対して愛着がないのである。

日本人が家(イエ)というときはイエは単なる寝起きする場所ではない
家にはまた歴史が深くかかわっている,祖父母までが深く家にかかわっている
家には先祖が住むという時そうである。
古い家だったら特にそうなる
イエはだから単なる建物ではないハウスではない
精神的紐帯なのである。
だから原発避難者でも家に固執するのは老人なのである。
その家は家族がともに過ごした記憶となる場だからである。

家は一つの共同体であるから何か夫婦だけではそうならない,夫婦が子供をもつとき家になるのかもしれない,そこで家族が形成されるからである。
そこで一つの共同体となる
家は明らかに最も基底をなす人間の共同体なのである。
確かに血縁を基にしても養子なども入るから共同体なのである。
だからこそその家の延長が平氏でも源氏でも外国でもハウスブルク家とか国家にまでなったのである。

家が共同体となるとき運命共同体にもなる,最も基本的な共同体なのである。
それは時代が変わっても変わらないものがある
家が今やホテルだとかなっても最後のよりどころとして家がある
他にそんな共同体があるのかとなるからだ

ただ確かに家というとき家をそうして基本にすれば家の外に対しては排他的になる
そういことはあるが実は家自体が血縁というのではなく共同するもの共同体としての核を形成してきたことは人間として変わらなかったのである。
家という人間の基礎を作る共同体すらなくなるとどうなるのか?
もう安心する場がなくなる,すべて回りが敵となる
家族がなくなったら身寄りがなくなったらそうなるのである。
それは野獣の群れに放り出されると同じになる

ただ一方で家は宗教でも家が否定されてきたのか?
それは宗教ではキリスト教でも仏教でもそうである。
血縁で結ばれる家を否定してきたのである。
それは家が血縁という狭い範囲での共同体でありより大きな共同体を形成できないからである。
日本では村が強固の共同体であり日本人の姓が必ずどこかの村が起源になっていることでもわかる
血縁より地縁になったのが人間の歴史でもある
血縁より地縁が大きな共同体となりうるしそうしないと社会は維持できないからである。

人間は動物と違うのはそうして共同体を社会を作ることである。
それは血縁だけではない地縁であれ国家であり共同体を作ることにある
その共同体は家より家族より強固なものとなるから戦争で日本人が3百万人も死んだともなる,犠牲になったともなる
家というときも最初の共同体でも何かそこに複雑だが犠牲が強いられことがある
共同体とは人は別個にあっても犠牲がないと維持できないことがある
城を作るのに人柱を要求されたのもそれは共同体を保つためだったからである。
城も家という強固な共同体だったからである。
だから会津では城が燃えたとき白虎隊の悲劇が生まれた
城は単なる建物ではない,生活でもあらゆるものが一体化した象徴としてあった家なのである。

現代にはもうそうした強固な家(いえ)なくなった,ただ会社がその代わりのようにはなった,なぜなら会社で働くことが長いからそうなる,時間を会社に費やすとすればそれが人生だったともなるからである。
ともかく人間は共同体を必要とする,それが経済人間化したとき村がなくなったりして
その紐帯は壊れた,その時どうなったのか?
原発事故で町や村が簡単に捨てられて廃墟化したりする
そこにはもう村や町を維持しようとする紐帯も共同体も実は形だけになっていたともなる
なぜなら犠牲になっても共同体を維持しようとするのが人間だからである。
戦争のときを見ればわかる,その是非はともかく300百万人が死んだ犠牲になったとなるからだ,そんなこと今の時代にできるか?
ただすべてが利を求める時代である。利がまず優先される社会である。
利にならないことはしない,それはカルト宗教でも利の宗教だからである。

そういう社会は意外ともろい,分離解体しやすい,みんな利だけを求めるのだから便利さだけを求める社会だからそれだけを求める社会だとしたら何か困難があって犠牲になることがあったりしたすぐに原発避難民のように離散してゆく
もちろん放射能被害とかありまたそれだけはないにしてもそうなりやすい社会ではないか家族は家(イエ)は必ずしも利だけではないものによって結ばれている
家族愛もありその他に代々受け継がれた歴史もある
だから家の歴史がありそれによっても結ばれているのが家族なのである。
だから核家族となると結びつきが弱いのである。
それは資本主義社会の工業社会の生産的単位として戦後に作られたものであり農村社会だった地方ではそうはなっていなかったからである。
やはり長男があって家が維持されてきたからである。

グローバル経済ではそうした共同体とか共同性を作らないのである。
物だけのやりとり便利さだけの追及となり豊かになっても世界が共同するということ犠牲になってまで共同するということはない,むしろ利がなくなると利で対立することになるそれが貿易戦争になる,それはただ利を求めることだけだからそうなる
人間は国家というとき大きな共同体を作ったが世界となるとできなかった
そこで戦争になって犠牲を強いられたのである。

例えば日本では明治維新の時家中心にして日本国家共同体を形成しようとした
親が天皇であり子が国民としたのである。
明治以降に家族墓ができたのであり江戸時代には個人墓だったことでもわかる
これは意外なのだけど侍の墓でも個人墓なのである。一家の墓ではないのだ
庶民でも幕末には豊かになった農民が個人墓を作っていたのである。
それまではホトケッポとか共同墓地に埋葬して家族墓も個人墓もないのである。

そして大東亜戦争でも

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです

ここでも家が共同体の基本としてある,世界が家のように家族のようになるという思想なのである。
おそらく日本は江戸時代でも武家の支配だが御家中と所属する藩を呼んでいた
野馬追いの旗にも御家中とあり日本の共同体は村の地縁があり家(イエ)が基本にありそれが拡大解釈されたのである。
ただその思想には限界があった,そういう思想ではとても世界を統一する思想とはなりえないからである。

宗教はキリスト教でもイスラム教でもそうした家とか血縁を超えた思想があるから共同体が生まれた,ユダヤ教は以前として血縁主義民族主義だから世界的に普及しなかったのである。
ユダヤ人でなければ救われないとなれば排他的になるからである。
つまり家からまた民族が生まれた,血縁として血統として民族が生まれた
すると民族同士が争うことになる,民族は他の民族に対して排他的になるからだ
だから世界が一つの家になることは不可能だとなるのである。

いづれにしろ現代ではすべて経済人であり経済の価値の中でしか生きていない
だからそこで便利な豊かな生活を遅れないとなるとそれ以外の価値を認めないとすると
簡単に町でも村でも見捨てて外に出る,また外に出て暮らしやすいからである。
原発事故が起こらなくても一億円もらったらこんな田舎出て行きたいという若者は普通にいたからである。
つまり故郷に田舎に求める価値は経済的なものだげであるという人が多い社会だったのである。
だから現実に一億円補償金もらったらさっさと親でも捨てて外に出て家を建てて帰らないとなったのである。
経済的価値しか認めないからこそそうなったのである。

家族共同体ならなんらか犠牲が強いられることはある,でもそれもしたくない,便利な豊かな生活をできればいい,そういう価値観しかないから簡単に町でも村でも崩壊したとなる,それは原発事故だけの原因ではない,そういう社会になっていたから原発事故を契機にして現実化したとも自分は見たのである。
自分はすべてが原発事故のせいでそうなったというのに疑問をもっていたからである。
あらゆることが原発事故のせいだとできるのかという疑問である。
そうでない原因もすでに社会自体にあったのではないかという疑問なのである。

onke12.jpg

野馬追いで天皇旗印があり御家とあるのも日本は家としての共同体の歴史だったともなる


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2018年05月17日

投資信託は証券会社と銀行のために作られた (その仕組みは営業担当も知らなかった)


投資信託は証券会社と銀行のために作られた

(その仕組みは営業担当も知らなかった)

投資信託の仕組みは複雑でわからない,営業担当の人すらわからないで売っていたのである。
もちろん銀行の営業担当などは素人と変わりなかったのである。
ただ自分は知らないからプロでありまかせてくださいというからまかしたのである。
第一株でも投資信託でも素人はいちいちその動向をみて売り買いできない
その時間がないから頼んでいるのである。
病気でも医者にみてもらうのはプロであるから頼むのである。
人間はなんでも知り得ないからそうするほかないのである。
だからお前は投資のことを知らないでまかせたから悪いともならないのである。

毎月分配型配当金の罠

投資信託が何か詐欺的なのは毎月配当金が入るかから利子のように考える
ところが毎月配当金が入っていると喜んでいたら元金から引かれていたのである。
その額も大きいから投資信託は危険な商品でもあった
もちろん株はそういうものだが投資信託はなぜか損しないとか配当金が毎月入ってくるとか何か詐欺的なのである。
それは証券会社や銀行側に勧める方に有利にできたもうけられる商品として作られた
なぜなら確実にまず証券会社で売ったら手数料が入り客が投資信託を売るとまた解約金とかとられる,その間にも手数料がとられている
そのことを営業担当の人すら知らなかったのである。
最後になって銀行側で全部計算してきた
でも4年間して実際は損していないがとしてももうかってもいない
本当は株をもっていればもうかっていたのである。

投資信託が証券会社や銀行になぜすすめられるのか?

まずこのことから知るべきである。それは証券会社と銀行にとって確実に手数料としてもうけられるものだからである。
3パーセントの利益がまず入ってくる,その額は大きくなるとかなりの収入になる
その間にも手数料がとられるし解約するときも手数料がとられるのである。
手数料だらけだというのも本当である。
ではなぜそんな商品が作られたのか?
それは証券会社と銀行が結託してもうけるためにだとなる
もちろん投資信託でもうけている人もいる,でもその数は一割くちいだともされている
だから投資信託も株と同じリスクをともなっているのである。
だから知らない人はやるべきではないとなる

確かに銀行側でももっと説明することも必要である。それで納得して買うことも必要である。でも素人はわからないからプロにまかせるのである。
そうなら銀行側でも

私たちはプロではありません,ただ売買の手続きをするだけです

こういえばだましたことにはならない,プロだからまかせてくださいというのに投資信託の仕組みも何もわからないのである。
だから計算もできないから得した損したかも営業担当の人はわからなかったのである。
つまりこうして素人同然の銀行にまかせたことが失敗だったとなる
そして責任は証券会社でも銀行でも一切とらない,ただ手数料だけはもらいますよという楽な商売なのである。
投資についてプロではない詳しくもない,ただ適当に客の金を回しているだけだったのである。

別に素人でも投資してもいい,それが日経平均をみる株なのである。
だからリーマンショックの前にもっていた株が半分の価格になっていたけど元にもどりそれをずっともっていたら相当な利益になった
その株を売って投資信託に回した結果その利益も得られなくなったのである。

ともかく銀行は今大きな変わり目に来ている,それであこぎなものにも手を出すようになった,前の銀行のイメージとは違う,質の悪い金貸し業にもどったとも言われる
銀行は就職するにももっともめんどうなのはそれだたけ信用を基としているからである。他人の金を扱うから信用が第一だから銀行員というと硬い職業だと今までは思っていたのである。
証券会社員だと前もなにかうさん臭いとかあまり信用されなかったのである。
それが銀行も証券会社化している,つまり投資ファンドとかのようになりつつある
だから銀行に対するイメージを変えねばならない
こういうふうに何でも社会は変わるからそれについていけなくなる
それで老人はそうした株とか投資とかには手を出すなともなる
若いときなら経験してとしてやるのはいいが経験ないものはやるなとなる
社会が変わるとき何かモラルも崩壊してゆく,そういう変わり目の時代だから何が起きるかわからない,あらゆるものが変わりそれについていけないとなる

カナダ国債 USリート Jリート

このように分散投資することは間違っていない,一つが損しても四つの内一つはもうかったりするからである。
自分の場合はUSリートと株はもうかっていたから実際株を投資信託にJリートに回さなければ相当にもうかっていたのである。

投資信託はしてもいいし株もしていい,それは自由である。
でも責任は誰もとってくれない,自分で決めれる人はやってもいいのである。
自分で決められずに証券会社や銀行にまかせきりにする人はやるべきではない
責任は全部客にとらされるからである。
だからこそ客が選び客が売買の決定することができなるやってもいいとなる
その責任は一切客にある

証券会社とか銀行はただ売買の手続きをして手数料をもらうのでありプロとしてまかせられたからとして一切責任はとらない
実際にそうしたまかせられるプロは別にいるし金持ちを相手にしている
でも損したら首になるしそのリスクをとらねばならない
もうけたら確実に何パーセントでも収入になる
損したらそのまかせられたプロも大きな損失をこうむるのである。
そう割り切ってやれるならいいがそうは全くなっていないがのが投資信託なのである。 

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2018年05月11日

商売の基本は変わらなかった (三方よしとは「売り手よし、買い手よし、世間よし」)


商売の基本は変わらなかった

(三方よしとは「売り手よし、買い手よし、世間よし」)


中国の大富豪の劉智健(リュウ チーチェン)という人物が出てきて、こんな言葉を言っています。

「ビジネスの成否を分けるのは、長期の視野をどれだけ持てるかだ」

石田梅岩は、真の商人をこのように定義しています。

実の商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり

まず、「実の商人」というのは、真の商人という意味です。

そして、「先も立ち」というのは、まず最初に、お客さんのことを第一に考え、行動することで、お客さんの信用、信頼を得られ、そして、その結果として、「我も立つ」、つまり、自分のビジネスが上手く回るという状態を作ることができる人こそが、真の商人なんだという意味です


自分の場合は銀行でこれを感じた,銀行となるとまた商売でも違うが金融商品の種類が多いのである。とても個人的に選べるものでもない
すると選んでくれる人が客のためにしてくれるのが商売だとなる
でも投資信託がそういうものではない,客のためにそもそも仕組まれたものでもない
証券会社と銀行のために仕組まれたと見る方が適切である。
その仕組みがあまりにも複雑でわからないからである。
つまり証券会社や銀行はその仕組みを知っているが客は知り得ようがないのである。
この知識の格差があまりにも大きいから客にとっては不利な商品なのである。

証券会社や銀行がそうしてもうけやすいものだから投資信託を売り込むのである。
投資信託も種類が多いからその中にもうけられるものがあることもいえる
でも証券会社と銀行の勧めるのは客にとってわかりやすいものである
オリンピックだからJリートがいいとかロボット産業やAIはみんな投資して上がっているとかその内容がわかりやすいものなのである。
でも実際にもうかる投資信託は目立たないし知られないものだという
これもまたなぜそうなっているのか?
そこに金融商品の複雑さがあり素人にはわからないものなのである

そのことを一番自分が経験したことで実証していたのはリーマンショックの前にもっていた株が元にもどったときそれをそのままにしていればかなりのもうけになった
でも銀行の営業の人は投資信託に回したのである。
それは客のためではない,銀行がもうけるのには投資信託がいいからである。
それと営業者にはノルマが課せられているからである。
客のことは考えない,考える余裕もないのである。
ノルマが課せられていると頭の中が投資信託を売るとういことしかなくなるのである。

金融商品というのは物を売買するのとは違うがやはり三方良しという近江商人のやり方が商売の基本として今も通じている
だから社会がこれだたけ変わっても基本的なもので変わらないものがあると思った
もちろん自分は商売について何か語れるものではない
あくまでも客として言っているだけである。

でも商売を考えると飲食業があるとする,これなどはまずごまかせない,料理はごまかせない,値段どおりなのである。
高ければ材料もいいものを使っているし安ければそれなりのものである
これは料理をだす方にしても食べる方にしても納得できるものしかだせない
安いのにいいものを期待するのは無理である。
第一材料費を安い料理にはだせないからである。
サシミ定食を見たら千円くらい材料費がかかっていた,それは日頃買い物しているから察しがついた,すると1700円だったがそんなものだろとなる
ただ自分はメニューを見ないで本当は1000円だ思って注文したのである。
自分は千円以上のものはほとんど食べていないからである。

三方良しというとき客にとっていいものは社会にとっても世間にとってもいいものとなるもちろん売る方でもそのために感謝されるともなる
銀行とか今まではそういうものがあったから地域に必要なものとして地方では銀行員はエリートととして扱われていたのである。
何か社会のためにいい,役割をもっていなければどんな会社でも存続できなくなるのが普通だろう,そういう会社は普通は淘汰される
だから銀行は今社会にとって必要ない,役割がなくなる危機にたたされている
自分たちだけの利益を計る,投資信託などをうりつけるのはそういうことになる

「ビジネスの成否を分けるのは、長期の視野をどれだけ持てるかだ」

これもそうだろう,今もうかればいいとなれば投資信託を売りつける,でも長期的にはどうかとなるとみんなもそれがどういう商品が気がつく,そしてなぜこんなものを売りつけたのだと銀行不信にもなる,信頼されなくなる
銀行は信頼が第一でもっていたからである。
石田梅岩は商人道を説いた,そういうモラルは職人道でも農民道でも江戸時代からあった農民道は二宮尊徳が説いたのである。
そういう日本独自のモラルがあって社会が成り立っていたのである。

それが明治維新になって西洋の思想が入ってきたとき混乱した
新しい資本主義がありそこにもモラルがあったとしても江戸時代からあったものにも習うもの継続するものがあったが見捨てられたということはある
明治維新後は日本古来からあったものを日本人は遅れたものとして見捨てたのである。
あまりにも西欧文明一辺倒になってしまったのである。
それが今になると日本の歴史を見直し古来からある日本の良さを見直すことが求められる時代となった
つまり外来の文化が入ったあとに日本では必ず国風文化にもどるからである
そういう時代の分かれ目として現代はある
それは商売だけではない、いろんな分野に影響しているのである。
医療の分野でも東洋的な医療を見直すとか西欧一辺倒の文化から古来からあったものを見直し取り入れるようになる
現代はそういう時代の節目であるがそこでやはりまた葛藤が生まれるのである。

江戸時代にあったものそれがみな遅れているものとして省みなくなった
そこに現代の日本の問題がある,別に西欧に習わなくても商人道でもあったのである。
それは西欧的な資本主義とはまた違うものなのである。
そのモラルは実はわかりやすいのである。法律となるとわかりにくくなるがそのモラルはわかりやすいのである。
法律も本当は基本的に人間の基本的なモラルを基にしている
嘘をつかないとか約束は守るとか人間として基本的なものを守ることである
それを法律でもなんでもあまりにも複雑にした結果,かえってモラルは荒廃したのであるその複雑故に投資信託でもかえって売る方が有利になりだましやすいともなるからだ

商人道であれ農民道であれそれは別に特定の職業のものだけではない,それは別に一般的に通じるものである。モラルはそういうものである。
ただ長期的視野をもてというとき江戸時代は有利だった
社会の大半は農民であり農民は自然とかかわり自然の中でモラルが培われたからである。その延長に商人もありえたからである。
農民はモラルを形成しやすいが商人となると暴利もあるからむずかしくなる
株ともにている,時代劇では悪徳商人はいるが農民に悪い者はいないとなるからだ
その商人にだまされるのが農民だというシナリオになっているからである。
長期的視野というとき林業でも木が育つには50年とかかかるとするとどうしても一代だけではない,長期的視野で仕事をしなければならない
そうした自然のリズムと合わせるから自ずと長期的視野をもつことになる
今はグローバル社会でもあり変わりすぎるから目前の利益にとらわれすぎるのである。
それがかえって社会のためにならないし客のためにもならないし結局会社のためにもならずとなり三方良しではなく三方悪しとなりやすいのである。



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2018年05月10日

銀行,証券会社はブラック会社 (社員はノルマの奴隷-インターネットから引用)


銀行,証券会社はブラック会社

(社員はノルマの奴隷-インターネットから引用)

「おい。お前、今月数字できてないだろ。お前の給料分以上の働きはしろよ。それとも俺に何か恨みでもあるのか? 今、ここで言え。『今週中に必ず100万円の数字をつくります』と……」

ノルマのためなら、顧客なんてどうでもよい

ニュースサイトで読む: http://biz-journal.jp/2012/08/post_485_3.html
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「投信を購入する人は、たいてい人気が高くてすでに値上がりしているファンドを買いたがるため、基準価格がピークに近いときに買ってしまう人がとても多い。ところが、一般的にはピークの期間はそう長くは続かず、それを過ぎるとマーケットが調整局面入りして基準価格も値下がりしていく。人気の高い投信を買って儲かったという人は意外に少ないんです」(前出・神戸氏)


正直、オススメのファンドは派手な宣伝もなく、資金もそれほどたくさん集まっていません。金融商品では保険などでもそうですが、良い商品は概して日の当たらない場所にあるものです。

投資信託はあなたから手数料を吸収するのとは別に、もう一つの役割があるのです。

何だと思います?

それは自社の投資部門で赤字になった証券をあなたの買った投資信託の中にこっそり混ぜて運用して、顧客に損失を被って貰う為にあるのです。

つまり証券会社が上手く儲ける為のシステムでしかないのですよ。

ちなみに証券会社内の隠語で投資信託は「ゴミ箱」と言われています。


投資信託を買おうと思われている人は、「素人の選択眼で株や債券を買うよりは、多少のコストを支払ってでもプロの運用に任せるほうが、リターンは少なくても確実なような気がする」って人が多いのではないかと思います。

しかし、まず大きな間違いなのは、投資信託を運用している人は、プロと言うか殆どの人がただのサラリーマンって感じです。

投資信託(ファンド)って聞くと、「ちゃんとした会社の、ちゃんとした金融商品」みたいな印象を受けるかもしれませんが、調べれば調べるほど「証券会社や銀行がいかに上手く手数料を稼げるか考えた商品」って感じですね。


こういうことだったの?それは自分が経験したから理解できた,もし経験しなければまた理解しにくいことがあるだろう
何か楽天的に考えるのが人間だからである。
人間はつくづく経験でしか本当に理解しないのである。
投資は海千山千のものである
ところがなぜ失敗したのか?

銀行員が来たということである

自分は銀行は地銀などは硬い職業だというものと思っていた
その銀行員が直接来たからまかせたのである。
でもマイナス金利とかで銀行が窮地にたたされて証券売買も自由になったとき銀行は変質していたのだ
それを知るのも遅かったとなる

結局自分の経験で一番わかりやすかったのは

なぜリーマンショク前に買っていた株を投資信託に回したのか?

それはここに書いてあるように銀行側の利益を優先しているからである。
証券会社や銀行員は今やノルマの奴隷なのである。
証券会社はもともとそういうことがあったが銀行員も今やそうしたブラック会社になっていたのである。
銀行員のイメージは堅実で地域でも有力な就職先であり銀行に就職したとなると信頼されるものだったのである。
それが社会が変わり銀行は投資先もなくもうけることもできないから証券会社化したのである。
現実に証券会社の人が銀行で仕事しているのである。
証券会社と一体化しているのが今の銀行なのである。

この世にはブラック会社も多い,それが銀行にもなっていたのである。
銀行は意外と文系でも就職しやすい場である。
でも銀行が体育系なのかというのも驚きである。
銀行は知的なエリートが入る会社だと思っていたからである。
営業に来た人は押しが強いから体育系の人である

でもそういう人が営業に向いているとも限らないと思った
そういう人は強引であり相手のことを知り聞いたりしないからである。
たから自分がこれまでもっていた株をなぜ売るのかと疑問に思って聞こうとしたが一方的に投資信託に回したのである。
そのことを一番自分でも悔いている
確かにその時の情勢があるからいちがいには批判できない
でも分散投資をするなら株であり国債であり投資信託にするとなる
なにも投資信託にすべて回す必要はなかったのである。

そのことを言っていたのでそうしたのである。
それも結局銀行側の一方的にもうけるものとして投資信託が設定されていたのである。
投資信託の仕組みは素人には理解できない,理解できないということはだましやすいことである。法律でも普通理解できないからまた弁護士にとってだましやすいということにもなる

株だと単純なのである。日経平均を見て下がった時に買い上がった時に売ればいいだけなのである。
株が上がってきたから普通だとチャートを見て上昇する株はすぐに売らないのである。
その判断はむずかしいにしろ素人でも判断できるのである。
まず投資信託は絶対に仕組みでも理解できないようになっている

それは証券会社が銀行がだますものとして作られた商品だ

そうまで言えるかもしれない,そういう商品だったということである。

posted by 老鶯 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

四年間の投資成績 (銀行にまかせきりの人は投資はするな)


四年間の投資成績

(銀行にまかせきりの人は投資はするな)


銀行員が勧める金融商品の9割がダメな理由

この通りだった,銀行員は

四年間もすでに投資していた,その成績は損していないが実際は手数料がとられているので損しているかもしれない,銀行は信用できないということもある
ただ損はしなかったのは確かだろう
でも四年間かなりの額を投資したのだからそれもカナダの国債,USリートとあとでJリートを買った,その成績表はトータルでは確かに損していないがもうけてもいないと思う
とんとんで終わったとなる

一番の失敗はリーマンショック以来の株をもっていた,今日それがいくらになったか見たら五〇万とか増えている,もしこれをもっていたらどうなるのか?
その時点の株は確か16000円くらいだったのだ
それが今でも23000円とかなるとそこから7000円もあがっている
リーマンショクで半分になりそれが回復して7000円もあがったのである。
16000円の時に投資信託に回してそれが損したのである。

それをしたのは営業の独断だった,営業の人は別に銀行の上司に聞いて決めているのではない,営業の人が直接独断で決めていたのである。
なぜならそうすれば投資信託に回せばノルマを果たせるし成績を上げることができるからだ,もし銀行の上司が決めていたならまた別である。
つまり投資の出来不出来は実は営業の人にかかっていたのである。
もし営業の人が優秀だったら客をもうけさせることもできた
ただ銀行側としてはノルマを果たせることを第一にする
投資信託を銀行ではすすめたいのである。それは何か手数料が入る,配当があっても定期的に手数料がはいるとか銀行側にとっていいものなのである。
だからこそ営業の人も銀行の利益を考えるなら投資信託に回したのである。

銀行等は投資信託を販売することによって利益を得ています。そのため購入者が儲かる投信よりも銀行側が儲かる手数料の高い商品や上司から販促に力を入れるように言われた商品が勧められやすいわけです。

投資信託が危険だ、詐欺だと言われる3つの理由

もし金持ちに個人的に雇われた人ならそうはしない

なぜなら自分も損する,首になる

クライアントに客に頼まれて投資をまかせられるけどもし損させたら首になるからリスクを負うから自分のようにはならない,株が上がってきていたらそのまま様子を見ているだろう,別な投資信託に回すようになことはしない
自分もその時は自分の判断をするべきだった
それは素人でもこれだけ上がっているのだから売る必要もないと思っていたのである。

だから銀行に頼むにしても自分で判断できるものをやるべきである。
株は自分で判断できるのである。日経平均を見ていればいいのである。
安く買って高くなったとき売ればいいだけだからである
それは自分で判断すればいい,それで失敗しても責任は客にある
でももし銀行の営業でも金持ちに頼まれた投資家でも失敗すればリスクを負うから簡単には決められない,真剣になるのである。

つまり銀行側に営業者に判断をまかせてはならない,そしたら判断をまかせる
でもその判断の責任は銀行でも営業者でもとらない
銀行はそもそも株でも投資信託でも責任は一切とらない
責任をとらされるのは客なのである。
「もうけさせますからまかせてください」と言っても失敗したら一切責任はとらないのである。
もし自分で素人なりわかって判断するならそれで失敗しても責任は客がとる
そういう商品ならしてもいいとなる,別に銀行側に責任はないとなるからだ

いづれにしろ投資をふりかえって損はしないにしろ失敗だったと思う
まずこれだけ投資をしてももうけたとは言えないからだ
むしろ株をそのままに放置していたらかえって大きな利益があった
そのことが一番悔いているのである。
だから自分はもう株とか投資信託はやる気がなくなった
まず銀行とか証券会社を通して投資しているのでは普通はもうからないものなのだろう
証券会社が銀行の意向が働いているからである。
証券会社や銀行の利益が優先するからである。
そのことによって判断も誤るのである。

商売も損して得をとれというとき投資にもあっているかもしれない
銀行でももうけようとしたら客にもうけさせる,銀行側だけがもうけて客に損させる
そういう商売は一時はいいにしても長くはつづかない
そして今銀行は追い詰められているからかかわると危険だとも思う
余裕がないと客に対しても余裕がない,銀行側が営業者がノルマを果たしたいと余裕がないから客のことなど考えられなくなるからだ

借金している人が自分が苦しい時にきてひどいめにあった
そういう人はとても人を助ける余裕などないのである。
今地銀はそういう立場にある,銀行は今は窮地にたたされている
こういうのとかかわると危険になる
投資は別に詐欺でもない,素人でももうけはだせる,ただそれはなかなか知り得ようがないから失敗するのである。
投資信託は特に仕組みが複雑でわかりえようがないから失敗する
そして失敗しても誰も責任はとらないのである。
だから自分でわかり判断できるものはして自分の責任でもしょうがないとするべきであるそうして割り切ってやるのならいいが後で文句を言うようになるならやるなとなる

タグ:投資の失敗
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2018年05月07日

金とカルマ (金は責任でありカルマとなる)

金とカルマ

(金は責任でありカルマとなる)

金にまつわる話は一番多い,それだけ金無しでは生きていけない時代だからである
金の怖いのはなんでも金が入ればいい,得ればいいとなっていることである。
その金がどうして得られたのか?そこでカルマになっているのだ
これも奇妙なんだけどある人が三百万円で墓を頼むといって死んだ
それを頼まれた人は責任が生じていたのである。
自分も関係していたが金はもらっていない,でも金で頼まれた人は墓を守っていかねばならない,それも結構めんどうなのである。
別に墓を捨ててもいいがそれも何か後味悪くなるだろう

その原因は金をもらって責任が生じていたためなのである。
もし自分と折半していれば責任は半分になっていたから楽だとなっていたかしれない
ただその人は子供がいるからその子供が墓を守るということで三〇〇百万円もらった
でももう孫の世代になると祖父母に直接あったり知らないとなりいづれ墓も捨てられるかもしれない
だからそもそも三〇〇百万円で墓は維持できない
それより金で墓は維持できないものなのだろう。何か家系の継続がないと維持できない
そして今代々つづく家は減っているから余計にできないのである。
ただ金はこのうよに常に責任が付属してカルマとなっているのである。

金はみんななんでもいいからもらえばいいと多くもらえばいいと思っているのだ
だから別に不正しても盗んでも得ようとする,盗むにしても金持ちから金を盗んでいいのだという泥棒にも三部の理が働いているから罪の意識などもないとなる
でも何かもらってはいけない金というのがあり怖いものが金にはなる
ある人が不孝で死んで入ってきた金を権利もないのにもらうことは一見いいようでも後でカルマとなり災いとなる
弁護士に不孝があり相談してそれだけで百万も要求されて払った
でも別に払う必要もなかったのである。
そんな法律がそもそもないし相談しただけでそんな金をとるとしたらその弁護士は悪徳弁護士だったとなる,その金は何か悪いものとしてその弁護士に将来左右するかもしれないすでに何十年も過ぎたから実際にしているかもしれないのだ

ともかくみんな金になればいい,金になることならなんでもいいとなる
それだけ金が必要な時代だからそれを否定できない,実はそういうふうに金がなくてもいいやというのはある程度金を持っている人なのである。
余裕があるから金があるからなくてもいいやとなっているのである。
そうでないと金に余裕ない人はどんな由来の金でもほしがるのである。

この辺でも原発の補償金でもめたけどこれもみんなただ高くもらえばいいとしか考えない絶対にこれでいいなど満足しない,もっと欲しいもらって当然の権利だなって要求する
でもその権利があるにしてもそれを要求できるのは避難者になった人達だけであり他の人はほとんどもらえなかったのである。
原発がある市町村は前々から何かと補償があり財政的にも潤っていた
お前らは前から優遇されていた金をもらっていたとなる
実はそれは責任でありカルマとなっていたのである。
そういうことを金をもらっているときは考えなかったのである。
その金は責任がありカルマとなり今それが現れているのである。
だから外部からはあいつらは原発あるときも金になり原発事故後も金になる勝ち組なんだと見られているのである。

金というときみんな金持ちはいいとおもっている,誰も金が欲しい,金があればと常に思っている,ではその金には責任がありカルマとなる
貧乏だけがカルマではない,金持ちに責任がありカルマがある
なぜなら中国のようにまわりが飢えて死んでいるとき贅沢していた福王は殺されて鍋でにられて食べられたからである。
その金をまわりの納得いくように使えないそうなる
巨額な金をもっていてもそれをためておくだけならその金は奪われる,強盗などが入ってきて奪われ殺されることも普通にある
だから金をもつときそれを有効に使い活かされないものは巨額の金をもつ責任が果たせないのだからもつべきではないとなる,ただ小金もちとかは別である。

金にはなんらかの責任が必ず生じている,そこで陶器を市で売っていた人は言う
金もらうと文句が来るから嫌だとでも文句が言われてこそそれを参考にしていいものを作ればいいとも言っていた
ボランティアだったら金をもらわないから責任もないのである。
だから適当であり時間を守らなくても休んでもいいとなると誰もそういう人に責任ある仕事はまかせられないのである。
ただ補助的な仕事をやらせるとなるだけである。でも金をもらえれば少額でも責任が生まれるのである。金を払う方から何かと注文と文句を言われる
でもボランティアだったらそんな文句も何も言われないのである。
その辺の兼ね合いがむずかしいのである。

金は金でありどんな経過を経て得ても金は金だという人もいる
でももしその金が不正で得たものや盗難された金だとか事故などで死んだ人の金を勝手に使ったりしたら何か災いが生まれる,現実に生まれている
金にはそうした責任とかカルマがある,どんな金も金だとはならないのである。
ただそれがわからないこともある,でも結果として何か金を不正にためて強盗か入って殺されたという金持ちもいるかもしれない
それはただの偶然ではなくそういうカルマを背負っていたがそれを自覚できないで金をもっていためかもしれない,そういうことはありうる
そこに金の怖さがある、金には責任とカルマがつきまとっているのだ

金は金だ,悪い金も良い金もない,同じ金だという思想は間違っている
ただ何か現代の資本主義は金の流れは明確ではない,誰かが操作して莫大な金が吸い上げられている,それが株式市場だとなるのはあまりにも規模が大きいからそうなっいる
それは何か悪魔的なのである。
数パーセントの人に金が流れているとかなるともうこうした金融資本主義は成り立たなくなる,その金は悪魔的となり自ずから崩壊してゆくとなる

金を人間がもっているモラルも通用しなくなりただ悪魔的に金が世界を支配する
そこで陰謀論が生まれてくる,誰かが金を操作して世界の金を吸いあげている
それがユダヤ人だとかイルミナティだとか陰謀論になる
そういうことを言われること自体もう資本主義は限界にきているとなる
やはりモラルが通用しなくなると誰も信用しなくなるからだ
だから今度はそのシステム自体が崩壊することになる
それはいかさま博打とにているのだ、サイコロの目に細工して不正にギャンブルでもうけているとなり誰ももうそのギャンブルに賭けたりしなくなるのである。
タグ:金とカルマ
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2018年05月03日

時代の変化についていけない (人間は急激に変化することに弱いー ただ変化に対応するものだけが生き残る)


時代の変化についていけない

(人間は急激に変化することに弱いー
ただ変化に対応するものだけが生き残る)

ここ十年の変化は一身上でもあまりにも激しかった,人間は突然来ることに弱いのである一身上では家族が認知症になったときあまりのショックだった
それは徐々になったのではないからである。
突然暴力になって発狂したような状態になったからである。
この時の衝撃はあまりにも大きかった
それから介護になり二人の介護で看取るまで四苦八苦してきた
そのことをプログに書いてきた

その間に津浪があり原発事故がありまわりでも信じられない大変化に見舞われたのである自分は津浪の被害もないし原発事故で避難することもなかった
でもそのまわりい変化も信じられないことだったのである。
人間は激変するとそれにもう対応できない,ただ茫然としているだけになる
津浪でも逃げられずに死んだのは急激なことに人間は弱いからである。

●家族が認知症になる
●犯罪にあう
●親戚が借金して責められる
●自分の病気で二回入院

こういうふうに四苦八苦してきた,同情は一切なかった,ただ金を欲しいという人だけであり大金も失った
こういうことは予期せぬことであり対応できなかった,それも自分のカルマだった
しかしなんとか乗り越えて今になると楽になった
でも最近の失敗は銀行で投資したことだった
よゆうの金でしていてもこの失敗も大きかった

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地銀を信用していたのである。銀行というのが堅実な信用できるものだと思ったいたのである。
ところが銀行はマイナス金利とかいろいろ岐路にたたされて苦しんでいた
だからもうなりふりかまわなくなる,自分を苦しめた人も金で苦しんでいるからなりふりかまわなくなる,かえって相手が弱っているとき好都合になるのである。
それでその弱みにつけこまれて脅迫されるうよな状態になったのである。

明治以降の社会の変化は江戸時代と比べるとあまりにも大きかった
江戸時代だと代々家業を継ぐのが多い,職人ですら十代以上つづいているとかある
そういう社会は変化しないのである。だから精神的に安定しているのである。
そこで飢饉とかありやはり人間社会には何か激変がある
ただ江戸時代は戦国時代が終わりそうした激変はそれほどなかったとみる
もちろん災害はあったが暮らしの基本が変わらないから変化が少なかった時代である。

明治以降の変化は激しかった,そして変化は急激に来る,例えば戦争がはじまると赤紙一枚で招集されて戦地に送られた,これもショックである。
考える暇もなく戦地に送られたのである。これも突然のことなのである。
突然に運命的なことが起きる,ベフートベンの運命である
悪いことは突然に起きてくるのである。
その変化に対応できないのである。

銀行でも営業の人がきてFXのような為替の売買をした,これもいちいち買うと手数料がとられる,売り買いするにも書類を書くからめんどうなのである。
ただ奇妙なのだけどこれはもうけは少ないにしろもうかったのである。
この為替差益でもうけるのはわかりやすいのである。
投資信託の仕組みは素人にはわからないから銀行などの言いなりになるだけである
人間はわからないものには手を出すなというのは心得として知るべきだったとなる
投資について銀行はプロでもなんでもない,銀行は素人と変わりないのである。
だからリーマンショックのときからもっていた株を上がったのに売り投資信託に回したのである。

なぜそうしたか?

銀行にとっては投資信託が手数料で稼げるからである。それが営業のノルマになっているからそうなった,銀行の利益と営業員の利益になるからそうしたのである。
顧客の利益は二の次三の次なのである。
ただそれを知ったのも遅かったとなる,これも銀行が変わったということに対応できなかったのである。

ここに出したように別に銀行に頼まなくてもFXでもうける仕組みがある,それはAIが判断するのである。いちいち営業の銀行員が書類を書いては手数料とられることもない,AIが自動化して判断して売買するのである。
この方が確実にもうかるとなる,つまり銀行とか証券はAI化しやすい分野だったのである人間の判断だったら銀行では手数料が確実にとれる投資信託をすすめる
でもAIの判断の方が銀行より優れているのである。

すると今求められているのはITの技術者だとなり一億円でも払うからと人材獲得に躍起となっているのである。
つまり時代によって求められる人材も能力も違ったものになる
だから今いいとしても技術が進歩して変化すると役に立たなくなるのである。
そういうことは常に起きてくる

AI化で人間の知的仕事もなくなる,失業者が増えるというときもそうである。
静岡の大井川の川越の人足が鉄道ができて失業したときお茶作りをはじめて転職に成功したとかそういうことは常にあったからめずらしくないのである。
でも現代の変化の速度は早すぎるのである。
例えば退職者が高齢化で何もすることがない,居場所がないというときもそうである。
会社一筋に働くことしかしていないとそうなる
でも退職したからと地域にとけこむとか簡単にボランティアすらできない
ボランティアにもやはり何かしらの適格性が必要になる
そういうものを見つけることは容易ではないのである。
遊ぶにしても人間は日頃そうしたものをしていないとできないのである。
要するにここでも急激に変化したことに対応できないから問題になるのである。

だから強いものではなく変化に対応できるのものが生き残るというダーウィンの言葉が活きることになる
若い人が有利なのは最先端のものにふれてそれに適合できるからである。
その変化のスピードが速いときすぐにまた古くさいものとなってしまい取り残されるのである。
まず誰でも百歳まで生きる人生など想定できない,すると金銭的にも困る人々がでてくるもうそれだけ生きる金はがないとなる,政府でもないとなるからだ
こういう変化が常に世の中にはありそれで対応できないのである。
津浪ではそのために死んだ人が多数いたということである。
こんな津浪にとても対応できないということで死んだのである。
変化に対応できないことは死にもいたることになる

必死で変化に対応しなければ銀行でももうつぶれるのである。
そういうことは別に今だけでなく常に言われてきたのである。
「世の中は三日見ぬまの桜かな」である,三日でも大きな変化がある
この辺ではそうだった,新しい家が何百軒も建ちまるで変わってしまったのである。
こんなに変化することが想像もできなかったのである。
海岸の松原はなくなりソーラーパネル風力発電になったのである。
風景自体がこんなに変わることが信じられないとなるのである。


タグ:時代の変化
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2018年05月02日

資本主義が有効に働く場 ( エコノミストの記事より考える)

資本主義が有効に働く場

( エコノミストの記事より考える)


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カンボジアではアンコールワットでバイクで案内する若者いる
そのバイクは借りている,中国人がそのバイクを所有していて貸している
つまりこの時日本人でも資本があれば経営できる
金の力がこういう後進国では大きく働く
何か商売をはじめるためにも資本が必要とするからだ
インドでは腎臓を売って商売をはじめる資金としたとかある
そういう後進国では資金がないのである。
資本がないのである。

自分の家でも店をはじめるとき資金がなかった,それを借りるのに大変な苦労した
それはわずかな金だったがそうだった,その時は戦後の焼け野原で何もない時代だから物を置けば売れていたのである。
立派な店を作ることもない,自作して店を作っていた
資金はそれぼと必要なかった
インドではバラックの店があったり屋台なども資本がいらない商売なのである。
江戸時代などは棒ふりであり資金はかからないのである。

そのとき工場でも中小企業が東京でも景気が良かった
それで人手だたりなくて集団就職の中卒を使っていたのである。
こういう時代も資本さえあれば商売ができたのである。
でもその時でも銀行は金を貸さなかったのである。
そして今銀行は金を貸すことができない
金は銀行にオーバーバンキングされている
それで投資信託と詐欺的商品を客に売りつけている
これも資本主義が投資先がなくなってゆきづまっていることなのである。

つまり東南アジアがそれもタイとかでなくてベトナムとかカンボジアとかラオスとかでは資本主義が有効に働く,前は中国だったが今は中国でも飽和状態になる
人件費も高くなっているから中国で会社を作って生産しても安いとはならないからだ
ただ東南アジアでは今度は中国の進出があり日本人企業は進出する度合いが低い
経済でも中国人が支配している,その一つの例がカンボジアでバイクを貸して観光でもうけている中国人なのである。
カンボジア人がすればいいのだがバイクを買う金が資本がないから中国人が経営者になりバイクを借りて賃金をもらうほかないのである。
ここに資本主義の生々しい姿が如実に現れている

アメリカの企業進出は下降していて中国の力が拡大している,それでアメリカの影響力は弱まっている,日本の企業進出も低下している,そうういなかで南沙諸島が中国の基地になる,アメリカの影響力は後退しているのだ
世界を見るときこうして経済の分野から見るとわかりやすい
たからアメリカは経済的にも後退しているしトランプの自国経済主義になり世界から孤立する,とういうよりアジアでも中国に押されて進出する力がなくなっているのだ

ただ右寄りの論客は中国経済は危機でありまもなく破産するとか盛んに言っている
でもこれもわからない,アメリカの衰退は確かである
移民も減少しているし経済が縮小しているのだ

いづれにしろ資本主義がゆきづまるというときもう資本が有効に働く場がなくなっているアフリカが最後のフロンティアとしているがそこでは中国が支配している,アメリカではないのである。
そこでドルの価値は低下してゆく,かといって人民元がドルのような貨幣になるとはならない,中国経済はそれだけ安定しているものではないからである。
世界が今や三国志のようにEUのユーロー圏と中国の人民元圏とドル圏に分かれる
ドルが突出して世界マネーになる時代は終わった
それで円高になる,一ドルが80円とかにまたなるとか指摘している
世界が三国志のように三分割して平衡を保つ,平和を保つのもいいのかもしれない
アメリカが今までは突出していたからである。
それが成されるのは経済で均衡するからそうなる

ともかく今は資金があっても逆になにか事業を起すにしてもむずかしい,成功しない時代である。新興国のように投資先があるのならいいがない
腹が満たされれば何に金を使うかとなると内装がいいレストランとか他に付加価値を求める,あそこは景色がいいレストランだから行くかともなる
食べるだけではない価値が求められる
おそらく人の求める価値が多様化するがそれが豊かさになる
それで裁縫ではAI化しても個々人のオーダーメードになるから裁縫にたづさわる人は生き残るというのもそのためである。
つまり個々人で求めるのが価値が違ってくるからそうなるのである。
一律に大量生産して同じものを求める時代は貧乏な時代であり豊かな時代は個々人でも求める価値が違ってくるのである。
そういうものに対処しないと商売も成り立たなくなる時代になる

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2018年05月01日

ローソンのコーヒーを手渡しする是非 (AI化機械化合理化効率化でかえって逆に情が求められる)


ローソンのコーヒーを手渡しする是非

(AI化機械化合理化効率化でかえって逆に情が求められる)

「コーヒー手渡しやってる暇ない」コンビニ人手不足で店員の仕事量増加、やりがいも乏しく

これもわかる,手渡ししているだけで仕事量がふえる,人手不足だからそんなことする必要ないとなる,客も望んでいないとなる
要するに自動販売機の方がいい,コンビニなど店員はいらない自動販売すればいい
人はいらないとなり実際にその実験が中国でもしている

この手渡しをローソンがこだわった理由はわかる,自動販売機ではなくそこに人間の情を通わそうとしたのである。
人間が直接渡せばそこに人間の情が伝えられると思ったのである。
しかしそうなると手間になるからゆきづまることもわかる
ただ現代社会が何でも便利なものを求めて情がなくなっている社会である。
逆に人間は今情を求めている,情というのは目に見えないし効率的ではないのだ
でも人間はみんな経済的効率だけで動くものではない,人間は合理的理由だけで動くものではない,そういうものを極力省いてゆくと社会に人間がいなくなる
そこはロボットと自動販売機しかなくなる

 鈴が音(ね)の 早馬(はゆま)駅家(うまや)の 堤井(つつみい)の 水を給(たま)へな 妹が直手(ただて)よ 」 巻14の3439 作者未詳

 これも直手(ただて)で手で水をすくって与えたから手から人間の情が伝わるとなる生々しいものを感じる,人間からは必ず情が伝わるのである。
まず茶碗でもない,茶碗で水を与えれば情がただてのようには伝わらないとなる
そこに物が介在してくるからである。
これは万葉時代だからこそありえたことである。

ただ2000年前からすでに人間は道具を使うと人間性が失われるということは指摘されていた,道具を使うことによってそこに直接人間の手を使わないから人間が本来もっているものが失われる
例えは人間が本当に通じ合うには言葉があったとしても文章があったとしても直接話あわないと十分に相手に伝わらない,だからソクラテスでもキリストでも文章として残してはいない,後の人が文章として残していたのである。
直接語ることしかしなかったのである。文章にして伝えることを拒否したのである。

だから何かを伝えるときそこに道具が介在すると通じあうことがむずかしくなる
特に情的なものが省かれるのである。
いろいろ文明の利器として電話であれ最近はインターネットからスマホともうそこには直接人間同士があって話し合うということがなくなる
その時そこに情が通じ合わなくなる,その点が実は現代社会で一番問題であり危険なものとなる,ネットだけで知りあって女性が殺されたとか恐ろしい事件も起きている
ラインとかで言葉だけのやりとりでそうなったのである。
パソコン通信のとき文章でコミニケーションするのに違和感を感じた
ついていけないことがあったのはそれはパソコンを通じてしていたからである。
文章だけで話すことははじめてしていることだったからである。

現代では生身の人間と直接あって通じ合わせることは少なくなった,ただ今でもヤクルトとか地銀の営業の人が来ることは直接人と接して商談でもするから違っているなと感じた生身の人間が来るからインターネットで話すのとは違う,そこに地銀の強みがあった
日頃から地元の客を一軒一軒回って信用を築いているからである。
だから逆にそうして対面的営業をしていると悪いこともしにくいとういことがある
投資信託は詐欺的商品であり何か銀行も今苦しくて銀行では確実に手数料とれて客は損してもかまわないものを売りつけているとなり信用できなくなった
これも電話とかインターネットとかでのやりとりだと人間と直接会わないからそういうこともなかったかもしれない。

ともかく現代社会は合理化効率化を極限まですすめてゆく,すると社会はどうなるのか?
街に出るとスーパーまで自動販売になりコンビニでもそうでありもう人がいないのである駅はすでにそうなっている所が多い
駅でボランティアのまねごとのようなことをして感じたことは自動化できるがそこには情がない場となる,人はただ駅を通過するだけの人でありそれを監視カメラが見ているとなる
もともとJRでは人へのサービスはしない会社である。機械を動かし時間どおりに事故なく人を運ぶということだけに働いている会社である。
だから合理化効率化をすすめるために駅は無人化して自動化している,すでに半分は無人駅になっているのだ

そのことで自分は駅で案内のボランティアをして無人駅ではたりないものがあると実感した,そこに人間の手が加わらないと確かにそれほど困ることはないかもしれない,自動化はできる,でもそこに欠けるものがある
そこに人間の情がなくなるのである。だから何か無味乾燥になり駅に来てもそこに人間がいない,ロボットがいるだけだとなる,でももう人間はいらない,スマホを乗客も見ているだけだとなる
そこに会話もなくなる,そして情というとき情報とは情に報(むく)えることが情報だったのである。

旅でも旅情があるとか情緒があるとういことを自分は追及してきた
それは旅だけではない,あらゆる面で情なき社会が現代であるからである。
便利で効率的で合理的なことはいいことである。経済的にそれを追及することはやむをえない,でも人間はそれだけで成り立たないのだ
そこに人間の人間たる所以がある,人間は情を求めている,情は愛にもなる
家で母親が料理してくれるのとただ惣菜でも買って食べているのとは同じものを食べていても違ったものとして感じる,家庭料理にはお袋の味があるから違っているのである。
今はそれすらなくただ買うだけになってしまった
そういう根本的な所でも情が失っているのである。
それがいかに社会に影響しているのか?
人間社会ら情がなくなるときどうなるのか?それは愛がなくなることにも通じている
もう殺伐とした社会になる,情がないから弱い人を見ても同情などしない
そういう社会生活を日々しているとそれが習慣になるからである。
現代社会は確かに便利である,でも殺伐としている
人間を人間と見ていない,ただの物ののようにしか見ていない,情ある人間とも見ていないのである

そういう社会は本当は恐ろしいものとして現象として現れる,戦争でも人間は物ののようにしか見ないからナチスでもあれだけの大量殺戮になったし原子爆弾でも落された
そこまで情ある人間ができるのか?原発事故でもそうである。
科学技術の発展は道具の発展は2000年前に老子が予言していたような現実を作り出したのである。情のない非情な社会である
それは文明社会が日々そうして非情な社会で生活することが習慣としているからである。まわりが自動販売機でありそこに人間がいない社会となったらそこで情をはぐくむことは不可能である。それは学校時代から起きていたことでもある
人間はある面でロボットのように生産されているからである。
社会のロボットのように教育され訓練されているともなる

なぜ江戸時代に人々がいい顔していたのか?江戸時代は今と違ってあるゆる面で旅するにしても旅は道ゆきであり旅は道連れであり旅でも情を伝えあうものだったのである。
何するにしても情がなくては成り立たない社会だったのである。
確かにそこでは便利ではない,逆に不便だから歩いて旅していたから情がはぐくまれていたのである。
だからつくづく人間は何が幸福かわからない,便利でいいなと思っていたらそれが不孝の原因にもなっていたのである。

ただローソンの問題はどっちがいいとかは簡単に言えない,それはローソンでも会社側でも客の側でもそんなめんどうなことをしなくてもいいとなるからだ
ただヤクルトでもそうだがあれも人が直接わたすことにより情が伝わることで逆に成功していたのである。だからすべてを便利にするにしてもこれからの商売でも情が大事になることがある
特にAI化するとき残る仕事はそうした情を重んじる仕事なのである。
人間と直接向き合う仕事なのである。だから医者とか看護師でも介護士でも直接人と向き合う仕事はなくならないとしている,それはコーヒーでも直接手渡しする
そういうことがかえって重んじられる社会になる
ここではコーヒーを手渡してくれたから高くてもいいとかなる
そこに価値を認める人もででくる,むしろその価値が情の価値が高くなる社会になる
機械化合理化効率化をすすめてゆき最後に不合理な効率的ではない情が価値が高くなるというのも逆説である。
人間社会はそうして矛盾したものであり不合理なものして効率的ではないものとして価値がある,それが人間だということを現実社会で生きて知るのである。





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2018年04月23日

強引な営業マンは客に逃げられる? (人の話を聞かずに銀行側の利益だけを考えていた)


強引な営業マンは客に逃げられる?

(人の話を聞かずに銀行側の利益だけを考えていた)

人間関係から生まれる成功と失敗


投資は分散だという方針は間違っていなかった,それでカナダの国債を買って,USリートを買った,カナダの国債は石油が安くなりすぎて損した
為替差益が大きいのも失敗だった,それが重なって失敗した
次にUSリートはもうかっていたがトータルするとそうでもなかった
自分は何か投資を知らないから定期的に利子のように配分されるのかと思っていたのである。これが最大の誤算だった
ただ分散投資するということでは間違っていなかったのである。

一番の失敗はリーマショック前からもっていた株である。それが元の値段にもどり上がっているときその株を売って投資信託に回したことである。
今度は為替差益がないということでJリートに回した
ところがその後株はどんどん上がっていったのである
自分はその時株はそのままにした方がいいのではないかと内心思っていたが
銀行の営業の人が強引に投資信託にその株を売り回したのである。
その理由が今になるとわかる

投資信託は銀行側にとってもうかる

営業する側にとってノルマがありそのためにすすめる

自分はその時銀行は金融のプロだからとまかせたのである。
それも間違いだった,銀行は投資に関して株とかに関しても素人ととたいしてかわりないのである。

要するに分散投資する方針は間違っていなかった,だから株と投資信託とか国債に分散投資していればよかった,株は売る必要なかったのである。
それを自分は株を売るときとうかなと言おうとしたが強引に投資信託に回した
その投資信託はもうかっていないのである。損しているのである。

だから銀行の言いなりになって投資信託をするべきではない
投資信託は銀行側にとっていいものでも客にとってはそうではなかったのである。

まずなぜこうなったのかというとき銀行が今や追い詰められているからである。
それでスルガ銀行のように悪徳な金貸しにもなっている,犯罪にもなる
地銀は追い詰められている,マイナス金利でもそうである。
こうして追い詰められた個人でも会社でも危険なものになる
余裕がないからである。余裕をもって相談にのれない
まず余裕がない人は相談にのること自体できないのである。

自分が介護で必死になっているとき事業で失敗したからと借金にきてどうだこうだとなってもそんな余裕がこっちにはない、でもそういうとき借金をしやすいとなる
脅迫のようになり弱みをもっているからである
自分の所に来た人はそんな余裕のない追い詰められた人だけだったとういことである。
ある人は泥棒であり大金を失ったとかなる

ただ銀行もまさか追い詰められて詐欺的な投資信託を売りつけるものだとは思っていなかったのである。
人間は追い詰められれば善悪もない,今腹へって食べるものがなくなればわずかの金でも殺してでも得ようとする,だからそういう追い詰められた人と会ったら最悪だったとなるだから下手にそういう人を招き入れることは怖いことになる
格差社会でも追い詰められる人間が増えてくれば治安も悪くなるのである。

余裕がないというとき野球でも必ずボールが増えてカウントが悪くなると追い詰められるとどうしてもストライクを投げざるをえなくなり打たれる割合が高くなる
逆に打つ方でもストライクが先攻されると追い詰められてボールで打たざるを得なくなるのである。余裕をもって対処できなくなり負けることになる
結局人間余裕がないということはすでにそこで敗北に向かっているのである。
まず余裕がない人に相談をしてもなにもできない,それは金銭的だけではない,問題をかかえて苦しんでいる人に相談しても何もできないからだ

ただ銀行がまさかそういう窮地にあるとは思わなかったのである。
もう銀行は金の出し入れでも使用しなくなりスマホとかの決済になると余計に銀行の役割がなくなる,銀行は投資先もなくスルガ銀行のように消費者金融のようにもなる
それも追い詰められているからである。
だから投資の相談などすべきではない
すすめられるのは銀行にとって絶対に損しないもうけになる投資信託をすすめるからである。これは確実に手数料がとれる,銀行は何をすすめようと損はしないものなのである。だから銀行は今は客のことを余裕がないから客のために何かをしてやることなどできない客からいかにして金を巻き上げるということしか頭にないのである。
営業の人はノルマを課せられているから余計にそうなる
ノルマを課せられと余裕がないから自分の利益だけしか考えられないからである

ただ別に投資がすべて悪いとはならない,客のためにしている人もいる,それは特別な金持ちができることであり銀行などはしてくれないのである。
友各銀行は今や窮地にたたされて危険なものとなっている
特に地銀が苦しい立場に追い込まれている,それで福島銀行と大東銀行が合併するということも言われるのもそうである。
ただこれも両者ともクラスとして下位になるから合併のメリットは少ないというのもわかる

営業の人が直接くるということで考えたことはやはり人に直接接することはインターネットとかでやりとりするのとは違う,営業の人が若い人だから将来銀行にこのまま勤めていいのか,こんな銀行でいいのかとか心配する
何かどうしても対面的になると人間的情が生まれる
それで頼まれて嫌々ながら営業の人に応じたというのもわかる
だからこそ本当は営業の人はその頼む人に対しても情をもつことが必要になる
ただもうければいいということだと人間と人間の関係はもうありえないからだ

つまり人間と人間のやりとりとなると簡単にはいかない,強引な人が押しの強い人がいいとはならないと思った,そういうことの方が営業に向いているとされるが必ずしもそうではない,つまり本当は相手のことを考え相手の言い分を聞く相手のことを思いやるということが基本にあり自分だけ会社だけが良ければいいではな商売にならないだろう
それは病人に接する医者であれ看護師と同じである。
ただ自分のもうかることを利益なることを売りつけるだけなら押し売りと変わりないのである。
それでも人間は追い詰められたらそうなる,売れなければ力づでも売りつけてやろうとなってしまうのである。
営業で成功している人はそうした強引な人ではなく人間の機微に通じている人かもしれない,それは若い人では無理だろう
ともかく人間が直接やりとりするとなるとそこには複雑な問題がありただ強引な手法だけではだめだと思った
銀行がノルマを営業の人に課するとそうなりやすい,カルト宗教団体でもノルマを課して会員獲得して一票を獲得するために一軒一軒回って歩く
それが押しつけになり嫌われるのである。

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政経東北3月号


地域のコンサルタントであれとここで指摘している
地銀とは地域の経営者の相談にのり地域を活性化する,それが本来の役目だとしている
だから投資信託などを中心にして収益を上げるのは邪道なのである。
一時的にはいいとしても自分のように銀行に不信感をいだき信用しなくなる
銀行から金を引き上げるという人もでてくる
地銀とあるごとく地銀は地域密着型であり地域と一体化してある
それは地域の人ととも一体なのである。
東京の証券会社はグローバルに展開しているから違う,でも地銀はそうういうものではない、その設立の動機も頼母子講とか身近な人達の助け合いから資金を出し合ったことではじまっているからである。


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2018年04月09日

余裕なき社会の危険 (余裕ある社会にするにはどうすればいいのか?)


余裕なき社会の危険

(余裕ある社会にするにはどうすればいいのか?)


人間の問題を考えると余裕がないということがいろいろな問題を起す
だから余裕ある社会にするにはどうするのかということが問題になる

経済的余裕
時間的余裕
空間的余裕

人間は余裕がないというとき一番は経済的余裕である。
金がないものは追い詰められると犯罪になる
明日食べるものがないとなれば人を殺してまでわずかの金を奪うために殺す
人間でも追い詰められた人間は怖いのである。
それはもう後先考えられない,善悪の問題でもない,なぜなら追い詰められているからである。

例えば借金している人も余裕がない人であり犯罪予備軍である。
確実に借金している人には犯罪する動機があるから警察では借金の有無を調べるのである格差社会がなぜ悪いかとなると経済的に余裕がない人が増えるから犯罪も増えるためである。
これは別に個々人の問題でもない,会社でも経済的余裕がないとどうなるか?
会社自体が追い詰められるから犯罪的になる,ブラックになる
銀行なども苦しくなり客にはもうからない投資信託をすすめる
自分の場合も明らかに株を投資信託に回されて失敗した
なぜなら営業する人が投資信託にそれを回したのは投資信託をすすめて契約するとノルマを果たすことになり銀行側にとって利益になるからである。
このノルマを課せられるということもまた営業する人を余裕のないものにしているのである。

だからそういう人が来ることは危険になる,余裕がないからである。
このように余裕がないということは犯罪にも結びつきやすいのである。
まず余裕がないということは相手のことを思いやることなど全くできない
頭が自分のこと自分の会社のことで一杯だからである。
その思いやることもできないということが実は危険なのである。
余裕がない人が来ることは危険なことなのである。

自分の所に来た人達はみんな余裕がない,金がない借金している,銀行でももうけられないから余裕がない,ノルマを課せられてなんとか投資信託でも自分たちの利益になるものをすすめる,すると客に対して余裕をもって接しられない,とにかく投資信託を契約させてノルマを果たすことしか考えないのである。
そこで判断の間違いが生じてくる,余裕がないことはそうして犯罪にもなり事故にもなる
経済的余裕についてはわかりやすいが時間的余裕となるとこれも危険になる
何かに追い詰められている人はまた時間的余裕ももていないのである。
早くノルマを果たそうとして余裕がない,余裕がないということは判断を誤るということである。
自分にしてもそうである。じっくり考えてから決めましょうとしていればこんなことはなかった,自分は別に時間の余裕がないわけではなかった
十分に考えて調べてからすれば良かったとなる
ただ金銭的に余裕資金だからしたとはなる

人間はまず学校からして余裕がない,絶えず勉強に追われる,強制的に追われる
学校では絶えず試験かあり試験に追われる,なにか自分でじっくり考えて勉強する余裕などないのである
それはあまりにも膨大な知識でありそれを消化できない,もうそうした余裕がもてない社会である。
何か一つのことに疑問をもったらそれをじっくり考える余裕もないのである。

自分は相当に時間的余裕だけはあった,何もしなくても良かった,だから時間をもてあましていたがそれもいつのまにかに消失した
時間と何もしないでもあっというまに消えるものだったのである。
だから時間は貴重だったと後で後悔する
ただ時間的余裕がないというこも危険であり判断を誤る
なぜならもう少し考えてから実行しましょうとならないからである。
ただいくら時間的余裕を言っても即断したりしなければならないことはある
だからその兼ね合いがむずかしいのである。

空間的余裕とかもある,それで荘子の教えに無用の用を教えたのである。
一区域だけでそこが有用なものとして必要であってもその回りに無用の空間が必要だということである。その無用の空間が有用の空間も活かされるのである。
都会にはこの無用の空間がなくびっしりと有用の空間で埋めつくされているから空間的にも余裕がない生活をしているのである。
それ自体が心に余裕がもていないのである。

ただ経済的余裕あるというときそれほどの金持ちでなくても貧乏でも余裕がある人はいるそれは普通の人にはむずかしい,やはりある程度の収入がないと今は余裕がもてない
でもみんなそんなに金持ちにすることはできないのである。
だから余裕をもつ生活をしようとするときある程度の収入でも余裕があるようにしないとならない,それは社会全体でもそうしないと余裕ある社会は作れないのである。
きりなく贅沢をしていればとても金持ちだって余裕がある生活はできないのである。

ともかくこの余裕をもつということは何をするにも意外と大事なものとなるが意識されない,まず余裕ない人と会うことはつきあうことは危険になる
それは銀行でも会社でもそうなる,そういう会社に勤めていれば個々人も余裕がないのである。
絶えずせかされるし客のために余裕をもって接することはできない
それは医療の分野とからゆる分野でそうである。
金にせかされ時間にせかされていれば患者に余裕をもって接することはできない
だから意外と余裕というのは人間生活で大事なものである。
余裕というとき現代は豊かな便利な生活しても余裕がない
絶えず金に追われ時間に追われ休むことがないのである。

金に余裕があり時間に余裕があり空間に余裕があるとき豊かな生活になるが文明はそうなっていないのである。
絶えず金に追われ時間に追われ空間的余裕も得られないのである。
そんなのんきなことを言っていたら生きてもいけないとなるというのもそうである。
お前みたいなのんきな生活がみんなできるわけではないともなる
自分の場合は学校というのはこうして常に試験とかみずからしたい勉強に追われるのが嫌だった,それが特殊な環境でそういう生活を送らなくても良かった
ただ社会からはずれた人生になったのである。そこにまた問題が生まれていたのである。

人生百年時代になるとこれは時間的余裕ある社会の実現なのかもしれない
人生50年だとしたら人生そのものが時間的に余裕がなくなるからだ
人生は60からだとなれば余裕が生まれる,60からでも学べるとか自分のやりたいことができるとかなれば余裕になる
長寿社会のいい点は時間的余裕ができたとことだとなる
成果を示すのは60からでも70からでもできるとなるからだ
長く生きることは様々なものに理解を深めることになるからだ
何するにも一つのことを理解するにも時間がかかるからである。
知識でもある一つのことに詳しくになるには時間がかかる
そしていくら天才でもあらゆることに詳しくなれないのはそれだけの時間がないからである。
何に時間を費やしたかで人生が決まるというときそうである。
何かに人間は時間を費やしてついきゅうしてゆけば詳しくなれる,専門家にもなれるからである。

四十里四方の大倉庫に芥子(けし)を充たし、 
百年毎に一粒づつ取り出して、 
つきない程の長期とするを 
『芥子劫』といっています。

これは時間の感覚を量で示している,でも砂時計などもそうである。
でも時間の感覚は時計のようにアナログでも秒針が動くことでもいろいろに現される
まずその頃一秒刻みの時間感覚などなかったのである。
江戸時代なら時間の感覚も大雑把であり自然のリズムにのっとていたのである。
文明により時計が生まれて時間の感覚は変えられて時間に時計に追われるようになったのである。

こういう時間の感覚ではインドとか中国の方がやはり大陸だけあって長大である。
時間の感覚がまるで違ったものとしてとらえていたからである。
仏教でも老荘思想でもそうである。そういう時間感覚が文明にはない
おそらく自然があり自然的生活をしていたから自然の時間感覚になり長い時間感覚になった,木でも成長するのに50年とかなりそういう生活はではその木が成長して利用するのは50年後になるとき次の代の人がその実りを得ることになるからだ
そういう時間の感覚になると生活そのものも一代だけでの生活でもって組み立てることができないのである。
自然の時間のリズムにあわせた社会になるのである。
江戸時代は職人でも十代もつづいたとかある,そういう社会は余裕があり安定していたともなりかえって余裕がある社会だったともなるのである。

いづれにしろ余裕がないということは様々な問題を引き起こすし犯罪になるから危険であり問題なのである,株なんかも余裕がない人はするなとなるのは当然である
だから格差社会でも余裕がない人が増えると危険な社会になるから問題なのである。
それでもそんなに経済的にみんな豊かにすることは不可能でありもう経済成長もない時代である。
だから経済的に余裕をもつ社会というとき別な観点から考える必要がある
贅沢していたらどんな豊かな国でも余裕がなくなるからだ
その兼ね合いがむずかしい,どうしたら余裕ある生活が収入が低くてもできるのかということが課題にもなる、みんなにそんなに金持ちにはできないとすると必然的にそうなるからだ
だからベーシックインカムなどが文明には必要になる
それも無理だともなるがそうしないといくら文明が発達しても余裕がない社会であり犯罪も増えるし人々は本当に精神的に豊かになれないからである。ベーシックインカムになれば犯罪は減るだろう
やはり最低限でも保証されるとういことがそうさせるのである。



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2018年04月08日

物神化はグローバル経済で極端化した (物と心は分離して人間的モラルは通じない)


物神化はグローバル経済で極端化した

(物と心は分離して人間的モラルは通じない)

価格と質が納得できるものであればその生産過程は基本的に問わないという態度に徹することが、この社会では最も効率的なのです。多くの人がそのように振舞う結果、商品が人と人とのどのようなかかわりを通じて生まれてきたものかは、人々の目には映りにくくなり・・・・・・・

物件化とは労働の疎外過程である。疎外とはよそよそしくなることであり,労働の疎外とは労働者が労働過程そのものから疎遠になることである

これはわかりやすい例ですね。お歳暮を贈るというのは、「お世話になっています」という気持ちの現われであり、「気持ちそれ自体」は目に見えません。贈られた物を、贈られた人が「これからもよろしくお願いします」という気持ちを物から読み取るものだと思います。気持ちが物として現れている、つまりこれは物象化だといえます。人間関係は目に見えませんが、それが物と物との関係になると、目に見えるのです

何か物神化などというとむずかしくなる,専門用語になるし法律でも同じである。
自分が追及している経済と社会学はそういうものではない
人間社会を解きあかすものとして学問を利用する,でもその学問がすべてを解決するわけではない,一手段なのである。
第一経済学ですべての社会を解明することなどできないからである。
マルクスでマルキシズムが宗教のようにドグマとなりイデオロギーになったことがその大きな間違いになったことを歴史が証明した
どんな学問でもそれは社会を見る一手段にすぎないのである。
マルキシズムが社会の矛盾とか不公正を解決するものとはなさなかったのは共産主義が中国のように最も格差社会になったことでも証明しているのである。
ただマルクスの見方はやはり現代社会を分析するとか何かそれが見事にあてはまるということでそれに心酔して宗教のようになったのである。

何か現実の資本主義社会でもグローバル化社会を見るときもマルクスの見方があてはまり見直されるのである。
べつにこうしたむずかしい専門的な学問でも卑近なものから読み解くこともできる
本来の人間と人間の関係が物と物との関係になり物を通してしか人間は交われない,
その間に貨幣が媒介するものとしてあり貨幣が神のようになってしまう
そこで人間そのものが疎外されるということは誰でも日頃の生活で感じているからだ
むずかしいことはわからないにしろそういう生活を日々しているから実感として社会は金で動いているとなる

物が商品があるとしてその物は人間が労働して生産するものでありその生産過程を知ることが無くただ物だけが現れ物を通してしか関係を築けないとなる
その物が一つのリンゴでもどういう過程で作られてきたのかはわからない
ただ商品の質だけを見ているというのは本当である。あとは値段である。
そこで消費者は厳格に見ている,でもそれがどうして作られてきたのかなどはには関心がないしまた知り得ようがないのである。

近くで小さな畑で野菜を作っている人はその生産する過程を苦労ばかりを言う
それはまさにスーパーとかの商品を売るのとは逆なものになっている
最近は道具を盗まれたとか毎日草むしりだとか鳥に食われたとか肥料代がかかるとかあるがそういうことは一切買う人は知らない
買う人は商品の品質と値段だけ見ているのである

「お世話になっています」という気持ちの現われであり、「気持ちそれ自体」は目に見えません

物には実は心も入っている,物と心を分離するのが西欧的である,東洋では日本では物とは日本語でモノとはモノが憑(つ)くとか物に心がつくのである。
物は単なる商品ではなく数値でもなく心がついたものとして流通していたともなる
それは狭い範囲での生活だったらそうなる,その物がどうして作られて得られるか目に見えるようにわかるからである。
近くの畑でとれたものを買ったりもらったりしたらそうである。
もともとそういう村とか狭い範囲で生活していれば物とは単なる物ではなくそれ提供する人のことを見えているから物と心の分離は起こらないのである。

江戸時代ならまだ狭い範囲だから物と心の分離は起こらない,でもそれが広域化する,日本全体でもさらにグローバル化すればもう物と心は分離して物だけが商品だけが入りそこで貨幣の力が増大するのである。
そもそも貨幣とはなぜ生まれたのか?
それは外部のものを買うために輸入するために貨幣が生まれというときそうである。
贅沢品を手にいれるとき貨幣が必要になり貨幣の力が増大する
だから一時日本でも宋銭が出回っていた時外国の物が輸入されてそれと同時に宋銭が日本に出回ったのである。どうしても外国の物を買うのには銭が必要になったということである。それまではそんなに貨幣は出回らないのである。
江戸時代辺りになると経済も広域化すると貨幣の力が大きくなってゆく

ともかく現代のグローバル経済ではもう心と物は分離している,だからモラルもなにもなくなる,貨幣のみが神のようになるというのはみんな日々の生活で実感している
すると遂に人間そのものも商品であり金として見るのである。
自分に接した人もそれしかない,こいつとつきあえばいくら金になるのだとかこいつが死ねば金が入るなとかこいつはいくら金を残すのかとかしか関心がないのである。
それは親子関係でもそうである。親子の関係すら金なしではありえないのである。

人を見る場合もいくら給料がもらえるのかとか金しかから見ないのである。
どんなふしだらな人間でも金のある者が消費者が王様になる社会である。
そしてグローバル化することは金をそれだけ価値あるものとするとき都合がいいのであるそれまでの価値は江戸時代だと社会的身分であり土地や山を所有するとかに価値があった貨幣がこれほどまでに価値あるものとはなっていなかったのである。
貨幣とは今では金貨でも鉱物でも作られていない,ただの紙なのである。
紙だから本当に紙屑になることもある,今はさらに紙すらなく金は数字になり数字として銀行に記録されているだけだとなる
そしてあらゆるものが債権化される,債権化することによりグローバルに売買することが容易になり世界が株式市場になった

でもそこには人間の心は通じない世界である。非情化された人間と人間のやりとりがないのである。金を貸すにしても直接金を貸せば相手のことをいろいろ考慮する
グローバル経済ではもうそこにはそうした人間の事情などいちいち見ていない
ただ非情な世界で莫大な金が債権が売買されているだけだとなる
だから数バーセントの人達がそのグローバル経済では富を独占するというのもそうである例えば小さな村とか狭い範囲で売買していたらそんな法外な利益をあげることはできないし富を得ることはできない,なぜなら富はとても一人の人間では作れないからである。
するとそんな富をもっているものは回りから責められる
それは田舎だと平等を追及されるからとてもそんな人は住むこともできないのである。
日本ではもともと村社会だからそうした桁外れの金持ちはいないし住めないのである。

グローバル経済はまず地域を破壊して国を破壊する,それでトランプとかはアメリカの富はアメリカ人にもどすべきだとなる,イギリスでもEUから離脱する
国はもう泣く泣く多国籍企業が世界を支配しているしてもう国はいならないとなる
そういう社会が成り立つのか?グローバル経済にもいい点はあるし否定はできないものがある,世界的競争で品質は向上する,鉄鋼でもそうである。
アメリカで鉄鋼輸入しないと粗悪な国内産のものを使うといいものはできないからであるそういうことはあってもグローバル経済は限界に来ている
なぜなら国内に住む人がグローバル経済で貧乏になってゆく,失業してゆくとなると国が衰退して成り立たなくなるからである。
経済とは苛烈な競争でありその競争に負ければ経済戦争に負ければ国は戦争に負けると同じになる、そうなるとアメリカは中国と経済戦争になりその後は本当に戦争になり勝敗を決めるとなる,最後の手段は軍隊であり軍事力で国の勝敗が決まるともなる

日本でも石油の輸入をアメリカにとめられたから戦争になったように北朝鮮でもそうであり経済戦争が先にありその後に本格的な人と人が殺し合う戦争になる
それだたけグローバル経済では経済戦争が戦争の引き金になる
そうなると戦争を未然に防ぐには経済戦争をしないことだともなる
つまりグローバル経済のいい点はあっても何らかのそこに制御するとか戦争にならないようなルールとかが必要になる
そんなことができないとなるとグローバル経済は限定したものとしてやめるべきだとなる世界的株式市場もやめるべきだともなる
なぜならいくら貿易は自由でグローバル経済がいいとしても戦争になるとなればもともこうもないからである。

いづれにしろ人間的なものを回復するには小地域経済とかを見直すべきだとなる
小国家の方がそうしやすいということもわかる,中国とかアメリカは巨大すぎるからである。それは恐竜のようになり最後は苛烈な経済戦争になり本当の戦争になりそれに世界もまきこまれてしまうから怖いのである。
要するに経済一点張りよりそれ意外のものの価値を見直すことだともなる
そんなに世界から輸入しなくても国内産でも満たされるとかの考え方である。
その小地域で血の通った見通しのきく情の通じる,心の通じる社会を目指すというのも選択なのである。
グローバル経済はそうして物と心が分離してモラルがなくなるのは当然なのである。
それはあまりにももう人間の手を離れた怪物的なものになっているのである。
だから恐慌というとき転変地異のように見る,でもそれはあくまでも人間が作り出した物であるから人間によって制御できるものなのだがもうできない
突然クラッシュが起こり経済でも壊滅状態になる,それが資本主義だとバブルとなるがグローバル経済ではあまりにも大きすぎるからそれが起きる
原発のように一旦そうなると制御できない,壊滅状態になる恐怖なのである。

今の社会はただマルクスの思想だけでは解明できない,それは文明的問題であり世界的に共通しているからである。
なぜ日本では孤独死とか無縁社会とか失踪社会とかなるのか,それも文明が発達した結果そうなる
人間との絆が震災で象徴されたがその絆もこの辺では補償金で分断されて金のためにそうなった
人間はもう番号であり株であり人間として見られていない,人間も無数の物として金として計算されるだけだとなる
民主主義などといっても現実は膨大な数で決まりそんなところで人間の一票によって何か存在感を示せないのである。
カルト教団でも人間を人間とみていない,ただ一票として見ているだけだから選挙の一票の頭数としてか見ていない
数を集めることにしか関心がないのである。
それは文明の問題ともなりマルクスの思想ではそれを経済の観点がわかりやすいように説いたから宗教のようになったのである。でもこうした文明の問題になるととてもマルクスの思想だけでは解決などできないのである。

人間は砂粒である
人間は数字である
人間は番号である。
人間が消えた後に
何も残らない
砂粒だけの砂漠だった
文明の都市は蜃気楼のように
砂漠に消えた
残ったのは何もない
砂粒の砂漠だけだった




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2018年04月07日

働くことは人助け-端(はた)を楽にすること (金だけが働く目的と化して荒廃した)


働くことは人助け-端(はた)を楽にすること

(金だけが働く目的と化して荒廃した)


働くとは端を楽にすることから生まれた言葉である。それは狭い範囲の生活,家族とかの範囲で生まれた言葉である。
一生懸命休みなく働いている家族がいれば楽にしたいということが自然な感情として沸き上がるからである。
人間は働くということはどういうことなのか?
それには様々な要因があるにしろ大きなものとして人助けがある
人を助けるために働くことが働くことの基本にある
資本主義が神に奉仕する修道院から人助けとしてはじまったことでもわかる
働くことは日本でもそうだが人を助ける為に働くことだったのである。

それがなぜただ金のために働くようになったのか?
働くことだけではないすべてが価値が金に換算される
自分が苦しいときこいつは弱っている金があるから金をこの時奪いばいいとしかなかいことを経験した,一見最初は人助けとかあったが後はなにもない
その理由は自分に来た人達はみんな金に困り追い詰められていたから人助けどころではない,金で窮しているから金をとることしか考えていなかった
最初から金をくれと来て本当にそうした人もいた

まず荷物をもつのでも何ももともとしたくないのである。
ただ金が欲しいとなる,その時軽い荷物でももってやるのにも相当な金を要求する
車をのせるにもなにするにもそうである。
自分が困っていても全く考慮しない,その余裕がないのである。
だからこういう人に助けてもらったら法外な金を要求される
車にのせてもらうにも何十万ともなることだってありうる
つまりただより高いものはないということを実感した
誰もただでもは無料では軽い荷物一つももってくれないのである。

現代社会はまさに働くことはすべてに金に換算して金にならなければ働かない社会である例えばここで病気で倒れている人がいるとしたらまず助けることが第一のはずである。
でもこの人が金をくれるとかなんとか考えていたら助けることはできないのである。
その後にお礼があったりするがまず最初はとにかく人を助けなければならないのである。そうしないと手遅れになるからである。

でも現実に弱者化したらその弱みにつけこんで金をとるチャンスとなっただけである。
ある人は「金をくれ」と言って家捜しして本当にそうした
ある人は「金でめんどうみろ」と言って狂気のようにして去った
ある人は「金をよこせ」と弱みにつけこんで要求した
借金しているからもう相手のことなど考えない,とにかくこの際チャンスだとなっただけである。

自分が体験したように今の社会は金によってモラルが崩壊したのである。
それが如実に現れたのは原発事故で避難区域になった所に住んだ人達である。
多額の補償金をもらった結果,それでもう故郷は捨てて他に家を建てたりあとはギャンブルで使っているだけだった
子供は親を捨てて残っているのは老人だけである。
子供は外では働いているが肝心の親がいる場所では働かないのである。
つまり親子の間でさえ金の方が優先されて人助けは放棄されたのである。

それは働くことが人助けだということを自覚していなかったからである。
ただ金をもうけることが金の為に働いているとなっていたからである。
現実に避難区域では誰かが働くことは人助けであるが働く人はいないのである。
若い人はみんな去ってしまって残されたのは働くことができないたすけてもちいたい老人がほとんどだとなってしまったのである。

人間が働くことが人助けだということを感じない社会がそうしたのかともなる
なぜなら原発避難民は仮設に住んでいても金があれば生活できる
その移り住んだ場所で助けてもらっているなど微塵も考えないからである。
むしろ地元の人達を金を使ってたすけてやっているんだと言っていたからである。
現実にそうであり金さえあればどこでも暮らせるし物も外部から入ってくるから
そうなる,そして補償金をもらえるから別に困ることはなかったのである。
もし移り住んだ所で食べ物がないからゆずってもらえませんかとかなったら別だったが今の社会は金さえあればどこでも暮らせるからそう感じないのである。
結果的には補償金をもらったら他で暮らす方がいいなり故郷に残されたのは老人だけだとなる

何かこの辺の問題は現代社会の矛盾とか荒廃がなんでも極端に現れた場所なのである。
自分に対してもそうだった,金をとればいい,金さえあればいい,人が弱っていれば金をとるチャンスだとしかなっていないのである。
弱肉強食の世界が資本主義社会でありそれが一番弱者にしわよせがきて過酷になる社会である。弱者は金のないものは資本主義社会では苦しめられるとすると人助けからはじまった修道院からはじまった資本主義とはまるで違ったものとなったのである。

では金がある者でももし弱者化して困ったとしても金だけを要求する社会である。
すると金があっても金を要求するだけだとしてたらとても人助けなどしないだろう
まず端(はた)を楽にさせてやりたいとかの動機がないからである。
金持ちなら金をとればいい,それ手っとり早くするには盗めばいいしかないから自分の場合はそうされたのである。
でももし働くことが人助けとしてあったなら後で感謝として金でも与えることになる
でもその前に金をとることしかないのである。
そういう社会に生きることは本当に索漠としている凍りつくような人間関係の中で生きているとうことにもなる

こういう社会に生きていればそんなあまちょろいことで生きていけるか,食うか食われるかの厳しい社会なのだ,人間社会はもともとそういうものだった,戦国時代もあり殺すか殺されるかの社会でもあった,そんな聖人のようなものを期待していては生きていけない働くことが人助けだと笑わせるなとかなる
それが一般的現実だともなっているし人間社会はそうだったともなる

でも一方ででは人助けが働くこととしてそれが本当に馬鹿げた損なことばかりなのか?
そうでもない,ビジネスでも実際は人助けから成り立っているのが多いのである。
人の為にならないことがどうして社会から受け入れられのかともなる
もし自分も弱った時,困ったとき助けてくれたら感謝するし金も与えていたのである。
その時はまず助けてもらうことであり金はあとで払うとなる
ところがます先に金をよこせ,金をもらおうというのが今の社会なのである。
金をももらってからしか何もしないのである。

現代社会資本主義社会の荒廃はこうして何かすべてがまず金であり人助けがビジネスの基本だということがなくなった,なぜ事業を起こした人が成功しなかったのか?
その原因はいろいろあるにしろその人にはまず人を助けるというかそういう気持ちが全くなかったのである。
金持ちから金をとればいいということではじめたのである。
その頭の中は金しかない,何か社会に貢献するという気持ちもなかったのである。
だから自分が弱り困ってたときでも金をとればいいしかないのである。
借金においつめられたからでもあるがもともと事業起すにもそういう考えしかなかったのである。
事業も弱者を食い物にするとか自分がもうければいいとか相手を犠牲にしてももうければいいとかで成り立つのか?
銀行でもそうである。銀行がもうかる投資信託を売りつけて客のことは二の次三の次である
それが一見いいようでも結果的に悪いものとしてはねかえってくることもある
別に投資でも客にもうけさせてくれれば悪いということもないのである。
ただ銀行が得することだけをすすめて客のことなど考えないから問題なのである。

いづれにしろ働くこととの荒廃がグローバルにも起きてきているから働くことの動機も荒廃しているからもう資本主義は弱肉強食の世界となり崩壊する
その一つの大きな要因として今や広域化したグローバル化した社会では誰のために働いてイいるかなどわからないからである。
地球の裏側から物が入りそんな人のために働いているのかとなる
つまり働くとは端を楽にすることでありそれは家族的なもの狭い範囲でこそ成り立っていた労働観だった,それがグローバル化したときもうとても人間的にはとらえられない経済株式資本主義となりそうなったともいえる
そこにはもう人間的なものを越えたなかでの取引でありそうしてその金がわずか数パーセントの人達に吸い上げられている社会である。
そういう社会はもう悪魔的なものでありとても人間的モラルなど通じなくなっていたのである。

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2018年03月30日

人手不足時代のいい面 (もう物でも売れない,需要がない,無理やり売ることが害になる)


人手不足時代のいい面

(もう物でも売れない,需要がない,無理やり売ることが害になる)

警官まで募集しているのに来ないというのを福島のテレビで放送していた,それで警官になってもらうおうと誘っている警官がいた
いたるところで人手不足になる,それで待遇を良くしないと人が集まらない
時給でもそうだが働く環境でもそうである。

これは働く人にとってはいい時代になった,金がないと無理やりに嫌な会社でも働かざるを得ない,待遇が悪い会社はつぶれる,経営すらできなくなる
現実になっている,その方が労働環境としては正常だったのである。

そもそもなぜ人手不足になるのか?
それが若年世代が減少していることもある,それより何か人間は文明は無駄な労働が多すぎるのである。無駄なものを作りすぎている
その無駄なものを作るために労働させられている人が多すぎるのである。

そして物が売れないとか需要かない時代にもなっいてる,あらゆるものが売られていて売れない,それはもともと需要がないからである。
本当に需要がないものまで欲望を刺激させて宣伝で売るの資本主義である。
ところがそうして刺激しても物があふれているから売れないのである。
物は過剰であり何か特別欲しいものが少なくなった
物の飽和状態になっているからである。

そうして売れないからなんとか売ろうとする,医療関係だといらない薬を患者に買わせる本当はいらなくても病気には必要だとして薬を与える,そこで収入になる
そうして需要を医療関係者が作り出している時代である

そもそも医療関係ならかえって患者が少ないということは健康たからいいことなのである医者に来るということ薬を飲む人が多いはいうことは不健康な人が多いことだから好ましくないのである。
第一医者が病院がもうかるということはいいことではない,なぜならそれだけ患者が増えて病人が増えているからである。

例えば警官とかでも募集しても来ない,人気がないというのは悪いとは言えない
警官が増えることは犯罪などが増えているから必要になる
理想を言えば警官がいないということはいなくてもいい社会は最高にいい理想社会なのである。
兵隊もいない,役にたたない社会もそうである。戦争がない社会になっているのだからいい社会なのである。

なんか人間が無駄なことに労働を費やされている,そしてその無駄なことがただ無駄ならいい,害を及ぼすから怖いのである。
銀行員でもノルマを課せられているから詐欺的な投資信託をすすめる,するとそんな仕事をさせるなとなるが銀行がもうけるために生き残るためにそうしている
すると銀行員は害にもなるなとみるようになった

何かそうして無駄なことのために人は働かせられることが多いのだ
極端な例は兵器を作る会社でありそれは戦争がないと会社は継続できない,つぶれるのである。
アメリカの軍需産業は巨大でありアメリカの屋台骨のようになっている
すると怖いのは戦争しなければ武器でもミサイルでも弾薬でも戦闘機でも何の需要もなく金にならないとなり国で戦争してくれとなる
そのためにアメリカという国は政治を動かして戦争してきたと真顔で言われている

戦争という需要がなければ商売あがったりだと戦争してくれと政治家に頼んでいるとするとそんな会社があること自体がブラックであり無くすべきだとなる
何らかで無害にすべきだとなる
それは病院であれ医者であれ薬会社であれ患者がいなければ薬が売れなくて困るから病気をつくりだしてくれとまでなっていて一部は現実に実行されているのである。

自分は無用の用とか老子の思想に共鳴してきた,文明は新奇なものをいろいす作り出す,一番の味は無味の味であり水がいいというときもそうである。
様々なジュース類も実際は90パーセントは水が成分だからである。
ジュースでもいろいろ飲ませる工夫をするがそれによってまた労働が増えるのである。
そんなに多くの種類のジュースがそもそも必要なのかとなる

それも害にならなければいいが害になる食品だってある,それは無理やり需要を作り出して売っているからである。
そして売れなければ会社がやっていけないとなり躍起になる
ノルマを課して銀行でも投資信託を売らせるしどこでもノルマを課して売らせる
そうしなければ収入がなくなるからそうなる

だからこれだけもう物があふれた状態ではもう売れない,それが自然なのことなのであるもう物はいらないとなる,作る必要もないとなる
必要ないものを,作り出して無理やり売ること自体異常なのである。
少子高齢化でますます需要はなくなる,老人は消費するエネルギーがなくなっている
金をもっても消費できないのである。

老人が求めているのは物ではないからだ,人のあたかいサービスなのである。
それは物では金では計れないものでもある
AI化でも仕事がなくなる,機械がロボットが仕事をしてくれる,それで人手不足も補えるそれでベーッシクインカムが必要だと言われるようになった
これは夢物語かと思っていたがそれも社会の要請でそうなるかもしれない現実性を帯びてきた
なぜならみんなブラック会社では働きたくない,何か意義があることも価値あることを求めて働きたいとなっているからだ
だから人手不足で待遇が悪い会社は淘汰されてつぶれのはいいことだと労働者は言っているのである。

高度成長時代のように物がないときは売れるものが必要だった,今はなんでもあるのだから売れないというのも自然なのことなのである。
その方が正常であり売れるものを無理やり作りだしていることこそ異常だったのである。警官のなり手がないというときもそれは悪いことではない,警官になりたい人が多いということは兵士になりたいという人が多いのと同じである。
そういう仕事はなるべく少ない方がいいのである。
そういう人が増えることは社会が平和ではないということだからである。

要するに兵士とか警官とか医療関係でもそうしたものは少なければ少ないほど実際は平和ないい社会なのである。
需要を無理やり作り出す社会を見直すべきなのである。
そうなると景気が悪いからなんとかしようとする,GDPが減ると国力がなくなり日本は侵略される,だから経済成長はつづけるべきだというのもこれも戦争するためにそうしなければならないとしたら邪道である
戦争に備えなければならないという社会は平和がないからそうなっているのだ

ともかく現代は資本主義でも転換期なのである。
今までのような物を際限なく作り出すのも限界であり資本を無理やり投下して発展させるという思想も無理がある
世界的にも経済が限界にきている,それは悪いことではない,無限の際限のない経済発展とか成長はそもそも無理なのである
それは自然破壊につながり公害にもなるからだ

つまり資本主義でもそうだが社会全体が世界経済でも無限に成長と拡大とか目指す時代は終わったのである。
ローマ帝国は拡大の時代だったし大航海時代でもそうである。
これからは中世になるというのもそうである。中世は修道院にこもる内面化した閉鎖された世界で生きていた
そういう社会に変化してゆく,人間の内面の心の探求に変わってゆく
それは確かに老人はそう自然となってゆく,だから老人的志向であり問題があるというのもある,若者はそういう見方をしないうというのもわかる
ただ時代的にはどうしてもそうなっているしそれに適応しなければならなくなる
これ以上無理やり需要を喚起することは社会に害をもたらすからである

軍需産業→戦争起こして景気よくしてくれ
警官→犯罪者をふやしてくれ
医療関係→病人を増やしてくれ

こういうことは異常な世界である。そのことを二千年前に老子が指摘していたのである。無駄なことに人間の労力が費やされすぎているのである。
それは働く方でも強制されるからそうなる
でもベーシックインカムなどで働くことが強制されなければそうはならないかもしれないそれもまた理想論だから実際は矛盾が出てくるし失敗だったともなる
ただその時代に社会に適応したものがシステムでも何でも生まれてくる
軍需産業の会社が国に戦争してくれとロビー活動していることなど異常だからである。
戦争をなくすことはそうした軍需産業がなくなることなのである。

ただ人間の社会はそもそも戦争が作り出されたりナチスでもカルト教団でも必要ないものが無理やり作り出されて最悪の災禍をもたらしてきた
だからそうした害あるものがなくなることはない
かえってそうした害あるものによって滅びるともなる
宗教でも組織化すると利権団体化して社会に害悪をもたらすし現実にもたらしているのである。
それは宗教でもなんでもない,社会にとって必要でないものだか需要を作り出して利権化権力化しているのである。
もしかしたらこの地球にとって宇宙にとって人間存在そのものが害悪なのかもしれないということである。それは不必要なもの作り出すからである。
文明自体がそうだともなる,それは2000年前に老子が言ったことなのである。


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2018年03月25日

みんながアーティストの時代になるのか? (AI化で働くなくてもいい社会になる?)


みんながアーティストの時代になるのか?

(AI化で働くなくてもいい社会になる?)

働かなくては人間は存在し得ない時代がこれまでつづいた,それより働かざるもの食うべからずであり働かないものは犯罪者と同じである。
それは働かねば食料も得られないのだから当然だとなる
働かないものは食うべからずであり餓死して死ぬべきであり現実社会ではそうなっていただからこんなことを言っていることが信じられないベーシックインカムも信じられないことである。
だからそんなもの実際は夢物語だというのもわかる
そんな社会などありえないということである。
ニートがヤクザより役に立たないとか言う人もいるからどれだけ嫌われているかである
もちろん自分はこの辺では働かないことで病院とか介護関係で困っている許されないという状態にある,でもそういう人は別にこの辺でも同じようにいる

そもそも人間は無駄飯食わせるということを相当に抵抗感じるだろう
親でもニートを嫌うのはなぜただ食って寝ているだけの人間を世話し続けなければならないのかということである。
だから親さえもういいかげんにしてくれとなっている,殺人事件も起きる
社会的にも何の価値も認められないし片身が狭い
ただなぜそんな人が増えたのかというと親に経済的余裕が生まれたからできているのである。

団塊の世代が生まれたのは貧乏な時代であるから物質的に何かを得たいという欲望が強い時代だった,それでみんな企業戦士となったのである
会社で働けばその欲望を達成できるからである
電化製品から次には車からマイホームと欲しいものがありそのためにがむしゃらに働いた働けばそれだけ給料も鰻上りに上がる時代だったし利子でも7パーセントだったから信じられないとなる
今はマイナス金利である,なぜなら物価があがれば金は目減りするからである。
貯金しても実際は割引でみる,それでたりないと株とか投資で増やすとかなり失敗する
高度成長時代は一千万を銀行にあづければ十数年で倍になっていたのである。
その差も大きいと思った,そして今銀行自体がつぶれるという時代になったのである。
そういうふうに時代が変わることで追いついていけないのである。

みんながアーティストになる時代というけどアーティストとして歌ばかり歌っているとか何かそんなことで人が認めるのか,それはあくまでも素人の遊びでしかないとなるだろうそこにプロ級のアーティストが生まれることはまれなのである。
そもそもアーティストという時何かプロをイメージするのであり素人はイメージしていない,俳句でも芭蕉とか一茶とか正岡子規とか特別な人をアーティストとしている
絵画の分野でも音楽の分野でもいろいろな分野でぬきんでた人でありそれは極々まれなのである。確かに俳句などいくらでも作る人がいてもそれらはディレタントでありそれで日本人がみんな芸術家でありアーティストだとはならない
アーティストは極々まれな存在なのである。誰でもなれるものではない
相当な訓練と天分もそうだが訓練期間も必要になる,ピアノを例にしてもそうである。
楽器一つを習得するにしても長い訓練期間が必要なのである。
自分も時間があったか楽器を習得しようとしたが挫折した
それは子供のときから習いごととしてやっていないとできない
それでもピアノを習ってもものになるのは極わずかなのである。

人間は何か飯を食わせるにしても金を出す方になると親でも子供が何の社会に役にたたない,無駄飯食らいを養うことができるのか?ニートがどれだけ社会に嫌われているか?
それは社会的に存在価値がないものとして見られているからである。
そのために俺たちは働かせられていることでそうなっている
人間はもしAI化でも機械化でもロボット化でもいい,働かなくてもいい時代がきたとしても人間は必ずその存在価値が問われる
これまでは何でもいい働いて稼いで食べている人はその労働がなんであれ価値あるものとして社会的に認められている
ではそんなにみんなが働かなくなってもいいとなったらその存在価値は何なのだと逆に問われる
誰も無駄飯食らいに金を払うのかとなる

例えば僧侶というのが世界中に存在した,その人たちは働かなくても存在が認められていた,かえって社会で価値あるものとして認められていた
それも今になると僧侶は価値が認められなくなる,それで檀家をやめる人も増えてくる
ただ金をとられるだけでありがたみもないということでやめる
実際僧侶は信長の時代でもそういうことがあった
それは武士でも働かないから農民から米を税としてとりあげている搾取者だという思想家もでている,つまり働かないということはそういうふうに常に批判の的になるのである。それは貧乏な時代なら余計にそうなっていた

自分の場合は特殊な過程環境で働く無くてもいいようになっていた
でも一時は働くことを強制されて苦しんだ,自分は学校でもそうであり会社勤めもできない性格だった,団体生活できないのである。
わがままといえばそうなるがそれで特殊な過程環境で働かないまま遂に老人になったのである。
実際自分は60までも旅していた,これも今になると異常だったなとなる
ぶらぶら旅している人はいる,でも60までしている人はいない
退職して旅しているのとは違うからである。
こうなったのは自分の性格と特殊な過程環境のためにそうなれたとなり普通はなれない
なぜそうなったのか?それはたまたまそういう特殊な環境がありなっていたとなる

そもそもアーティストというとき悲惨な天才的芸術家をイメージする
その人たちは天才であるからそうなった,なみはずれたものを生来備わった人達である。それは社会では極々まれなのである。
だからみんなそんなアーティストになどなれないのである。
そういう人達はアウトサイダーであり社会からはずれた人達であったがその価値は認められている,ただ生前は悲劇的に認められず終わったのである。
ゴッホは一枚の絵も売れなかったのである。

ただAI化とか機械化とかロボット化時代になるとき人間的なものは何かとなるとどうも感情的なもの感性的なもの情感とか宗教的なもの愛とかそういう方面がAI化とか機械化できないものとして見るようになることらしい
なぜならそういうものはAI化できないし機械化できないからである。
するとそういう面での価値が高くなる,それは医者とか看護師とか介護士とか人と直接接する仕事である。そこにはどうしても感情が働くからそうなる
感性という面でもとてもAIとか機械には芸術の鑑賞もできないだろう。創作もできない。だからこそみんながアーティストになるとかなる

いづれにしろベーシックインカムが絵空事ではなく真面目に議論されること自体考えられないし銀行がなくなるというのもイメージできなかった
つまり社会の変わり目には価値観が大きく変わる
江戸時代の身分社会から明治に変わるときもそうだった
だからこそそんなことありうるのという驚きになる
自分の一生は旅と遊びだったけどそれも社会に認められなかったけど今になってそういう人生がすすめられること自体これはなんなのだとなる
蟻とキリギリスの例えがあるが蟻はもう認められない,キリギリスの一生を送れとなるのも時代のの大きな変化である。
ただそうなってもキリギリスでも下手な歌手ではその存在意義は認められないだろう。
そんな人のために飯を食わせておくのかともなる
ただ働きづめの蟻のような人は逆に社会的に批判の的ともなる
そういう人を身内で知っているから自分の親は異常だったと書いてきた
働くことしかしないし価値を認めないから異常だった
でももし芸術でも絵でもなんでも金になれば認めていたのである。

蟻はいらない,キリギリスにみんななれ

こういう社会は何なのだろうととまどう,そんなに簡単に価値転換はできないだろう。
働かなくてもいいからいい社会だとなるのか?
でも以前として人間はその存在価値を問われる
こんな下手な歌い手を養う必要はないとかなる,そうなるとまたそういう人達は社会的価値を認められないから苦しいともなるのである。
猫でも犬でもなぜ養っているのか?それは癒しとなるからである。ネズミをとるとか猟犬とか番犬ではない癒しとなるから飼っている,それも価値観が変わったからである。女性は男性にとって癒しとなるからそういう面での価値は変わらない
別に家事は機械でできるしオカズは買えばいいともなる,現実に自分は全部家事をしているしそこで女性の役割はない
ただ一人だと淋しいとなり癒しが必要になる,そこで女性は必要なのである。
つまり今までの女性の働きは家事だったがそうでなくなったときどうなるのか?
女性も家事だけできても価値ないとなる,生け花をしたりピアノをひいてなぐさめるとか何かそこにも芸術的なものが求められる
それはAIで機械でできないからその価値が逆に高まり家事ができるというたげではいい嫁にはならないとなる
そういうふうに常に価値が変わるから今までの価値観を変えねばならない時人は困惑する
そこで教育の仕方もかえねばならないとかあらゆるものを見直すようになる
そうならざるをえないのである。

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2018年03月24日

日本製品は品質がいいが発明発見がない (ものまねだけでは世界から遅れをとった)


日本製品は品質がいいが発明発見がない

(ものまねだけでは世界から遅れをとった)

「追及して磨きをかける」ことで偉業を成し遂げる日本人

DERKNRESで言うのもわかる,日本人はこういうところは歴史的にそうだったのだろう。
職人気質でありもの作りをとことん追及してゆく
それはまさに精進であり神に潔斎してまで追及してゆく
日本刀などを作るにもそうだろう。

ところがそれは日本人のいい点としてあるのだがまたそうでないマイナスの面もある
つまりもの作りにしても発明したものは電器製品でもほとんど欧米のものなのである。
その発明された製品を改良して壊れないものを追及してゆく

でも日本人は猿まねだというとき何か日本人自身で発明したものがない
改良したものはある,そこが日本人としての弱点である。
なぜ発明できないのか?そこに日本人の弱点がある

欧米にはなぜ天才が多いのかということもそうである
ヨーロッパには歴史的にも天才がなぜあのように多く輩出しているのか?
それは単に一人二人だけ突出して出ているのではない
科学の分野でも何の分野でも天才が多いのである。
すると天才が突然生まれるのではなく天才を産む土壌があって生まれてくる
何か発見したのは科学をとってもヨーロッパの天才達であった

日本人はそうして発明されたものを磨き追及するのは得意である。
では全く新しいものを発明するとなると不得意なのである。
それはなぜなのか?
そういう土壌があるからだとなる
その土壌となっているものはいろいろあるから一概には言えない
でも確実に日本人には新しいものを発明する能力には欠けている

そして現代では必要なもの,日本人に必要なものはそうした発明されてできあがったものを改良したり磨きをかけることより何か新しい技術をでも科学の分野でも発明することなのである。
だからITとかで遅れをとった,これも発明したのはアメリカだったのである。
日本でも一時トロンとかでパソコンを発明できる素地があったのだができなかった
そういう能力がないというのではなくなにか日本ではできない環境にあったのかとなる

何でも個人でも国単位でもいい面と悪い面がある,でも日本人の弱点はこうして発明とか発見ができないことで世界に遅れをとる,世界をリードできないのである。
日本にはそういう環境がないと外国に出る人も多いことでわかる
能力があってもそういう環境がない,それで研究者も不満になったり研究とか開発もすすまない,そういう面に力をそそがないしまた出る杭は打たれるのが日本なのである。

武田邦彦氏も言っているが日本では特別金持ちになる人を嫌う,アメリカなどでは特別な法外な金持ちがいてもその金持ちたたくよりみんなそうして金持ちになることを望む
特別の金持ちをたたいてもみんなが金持ちにならないからそうするという。
そういう気質がある,日本では特別な変わった人を養成しない,そういう人は叩かれる
ただ欧米で発明されたものを磨き改良するのは得意なのである。

それは明治維新から西欧化するということ西欧に追いつくということでは良かった
でもそれが成されたときでは次はどうなるのか?
日本人自身が発明しないと世界はリードできない,そこでITでも先を越された
ソフトでもアメリカのが優れていて日本はいいものがでない
それははり発明能力が欠けているということにある

日本人はもともと外国のまねは得意でも自ら開発して発明することが遅れている
それはすでに歴史的にヨーロッパではなぜあれほど天才が生まれたのかということであるそういう土壌があって生まれたのであり何か一人の人間の特別な才能の結果でもない
その生まれた背景がある,それは何なのかというのもテーマになる

なぜなら日本は世界から遅れをとり貧困化するとか三流国になる後進国に追いつかれるというときまさに現実にそうなっているからである。
その原因は日本人はヨーロッパに追いついたとしてもその上をいくことができなかった
ただまねして追いついたがではその上にゆく開発とか発明ができなかったのである。
日本製品がいいというのはわかる
ただそれだけでは世界をリードできない,日本の行き詰まりがそこにある

つまり天才をはぐくむ土壌がないのである。天才とは別に生まれつきのものとは限らない確かにそういうのが天才だけどではそれがその時代とか国とか背景があって生まれる
音楽の天才でもそこにヨーロッパの音楽の作られた歴史があり生まれてくるからだ
例えば日本の音楽というときそれが発展しないのは発明がないからだともなる
伝統は同じものでありそこから革新的なものが生まれないのである。

ともかく天才を作るには生まれつきだけではできない,そういう土壌があり発明をすることを子供のときから訓練する,ただ暗記だけではない,ものを考えるとか工夫するとかを訓練するのである,それが受験戦争とかではできない
要するに発明発見が常にどこでもありその能力を高める訓練することである。
教育でもいつも型にはまったように教師から学ぶ時代は終わる
ITとかAI化とかで自主的に開発してゆく能力が必要になる
ただ一方的に先生から教えられるような時代ではなくなっている

インターネットだとこうして人の意見でもマスコミでも週刊誌でも雑誌でも引用して対話して考えることができる
自分は対話していないがこうしてダークネスとか武田邦彦氏とか前は「心の青雲」の都築詠一氏とかとは対話して書いた,やはりそこには一貫した主張があり反発もあるが読むべきものがあるからだ
確かに日本人のいい点として改良して磨きをかけることはあってもそこにたりないものもある
その足りないものこそ日本では今必要とされているのである。

ただそうなると簡単にいかない,なぜならその土壌は歴史的にも作られているとしたら即席に作れるものではないとなるからだ
ただ日本人に必要とされているのはそうした開発とか発明とか新しいシステム作りとかである,そういう改革できないのでヨーロッパに追いついても世界をリードする国とは成らず後進国にもの作りではおいつかれて日本自身が三流国に転落しつつある
貧困化してしているのである。欧米で発明されものを磨き改良したのはいいがその先をいくことができなかった,そこに行き詰まりの原因がある
原発事故などでも「安全神話」を作ってももともとアメリカより技術や安全については遅れていたのである。
日本人は技術的に優秀だというのもうぬぼれだったのである。
だから日本人を自画自賛しすぎるのも問題と思う,いい点は認めるとして一方でそれでたりないものがありそこが今問題になっているからである。

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2018年03月23日

大きな時代の変わり目 (銀行であれ大きな会社であれつぶれてゆく時代)


大きな時代の変わり目

(銀行であれ大きな会社であれつぶれてゆく時代)

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文藝春秋(4月号)

時代が変わるとき今までの規制のものが崩壊してゆく
その象徴が銀行だった,銀行などつぶれない安定したものだと思っていた
地方で銀行と公務員と農協職員はエリートであり安定の象徴だったのである。
そういうものが不安定になるということは時代が大きく変化しているからである。

紙幣を金を流通させることは手間がかかりそこに膨大な費用がかかる
それをスマートホンとかで決裁すれば電子情報として金が流通する
すると手間も費用も大幅に削減される
つまり紙幣と金貨は過去のものとなってしまう
そういう時代にすでになりつつあるし中国では実現している
紙幣を使うことは前時代的になる
それも大きな変化であり銀行が無用化する大きな原因である。

自分はスマホは使っていない,そこで遅れるということはある
60代以降はスマホを使わない人が多い
そこに世代間の格差が生まれる
スマホが紙幣の金の代わりになるときスマホをもたないと買い物もできなくなる
中国ではすでに小さな商店でもスマホが紙幣の代わりになっている

銀行にはただ預金だけが増えてその資本を貯えてもそれを活かすことができない
利子もつけられない,ただ金だけが貯えられてもそこで富が産み出せない
それでどうするのかとなり投資信託などを顧客にすすめる
それは銀行にとっては手数料を稼げるものだが顧客にとってはもうからないものである
なぜなら手数料は確実にとれるが客がもうからないものだからである。
そういうものを投資のことを知らない老人にすすめている
でももうからない事がわかれば銀行を信用しなくなる
銀行から客も離れてゆく,自分も銀行の見方が変わったからである。

銀行が窮地にたたされているのは大きな時代の変化のためである。
技術革新があり社会の変化のためである。
金融というときそれが情報時代に最も情報化しやすいものだった
銀行は情報産業だったのである。
一面そうだからこそ情報化しやすいからこそ情報社会で無用化されるようになったのである。

時代の変革期には今まであったものが消失して新しいものが生まれる
その時必ず痛みが生じる,それを今銀行が負っている
大規模なリストラとか合併とか投資信託とか株への移行とか起きている
それは一時的なしのぎのようにもなっている
銀行が生き延びるのはどういうものになるのか見えないのである。

銀行は本当に店舗がありそこに人員を配置して対面的信頼関係を地元で築いてきた,
それが機能したのは高度成長時代だったのである。
それから銀行は貸し渋りとか企業に一般の預金する人にも利子がつかないのでただの貸し金庫のようになってしまったのである。
その放題な金融資産も活かせない,かえって預金してもらうと困るともなって金をあづければ事務費をもらうとまでなってしまった
そして預金がある人は目をつけられ詐欺的な投資信託をすすめられるのである。

もう銀行というシステム自体崩壊しつつある,デジタル化情報化社会に適応できないのである。店舗型経営というとき通販とかもあって書店が消えるように物として管理するものは機能しなくなる,本は情報でありこれも電子化しやすいし例えは絵画とか音楽でも映画でも情報化しやすいのである。
だから別にこれは電子化しても問題ないのである。
ただ対面的なものとして人間しかできないことは残る,AI化しても人間にしかできないことがある
それは愛情とかいたわりとかやさしさとか何か機械ではAIではできないことである。
医者とか看護師とか介護とかにはそういうものが求められるがAIではロボットではできないのである。
物理的な移動とか物をもちあげるとか機械でできるものは機械化されるがどうしても機械化ロボット化AI化できないものがありそれが人間的な労働となり価値を産むようになる

銀行は何か金を扱うのだが数量化しやすいし数値化情報化しやすい,電子化しやすいのである。仕事の性質が何か電子化しやすいものだった,だから情報化デジタル化電子化の技術の変化を一番受けているともなる
株式でも何か電子化しやすいのである。もう人間だけではとてもグローバルした株式市場とか情報化社会のデーターを処理できないのである。

これからの銀行はどうあるべきなのか?
そう考えている余裕もなく時代が進行している,否応なく銀行は時代の変化によって淘汰されてゆく
そういう変化にあることを自分も知らないから銀行で投資信託などすすめられてのったのが失敗だったとなる

一番不要になるのは預金、為替などのテラー業務。 
いわゆる一般職のおねーちゃん達。 
銀行でも渉外や融資管理、債権回収などはむしろ人手不足なんだわ 
銀行総論ではこれから人手余剰だけど、内部では人員足りない部門が厳然としてある 
おねーちゃん達に今更そのへんを教育、再配置する時間がない 
県二番手以下の零細地銀とかは会社丸ごと不要、淘汰だけど

銀行員として本当に相手の人格や事業可能性を見て金貸ししていたならまだしも 
日本の銀行員なんて土地しか見てこなかったからな

銀行は本業だめだから手数料が高い保険とか投信の販売で 
稼ごうとしているが、そんなの証券会社の猿真似でしかない。 
証券会社で以前問題視された投信の回転売買を今頃真似して儲けようとするとかアホの極み。 
銀行としての本来の業務を正常化させないと株が取り扱えない劣化証券会社に成り下がる。

早々に口座解約しようかな 
この人たちは身を切るってことを知らないのかな 
自分たちの給与ボーナスは維持して 
しわ寄せを客に押し付けるつもりか? 
利息もほとんどつかないし
公務員よりも害悪じゃないか

銀行は今まで特別楽だったのである。公務員と変わりなかった,マイナス金利になり金が国から入ってこなくなり窮地にたたされている
やはり楽しすぎると後で人間は苦しいことがやってくる
それは自分もそうだった,社会的に訓練していれば苦しい目にあっていればこうはならなかった
楽しすぎることは後で必ず苦労するのである,銀行は国から資金が出てつぶれなかったりと公務員並だったからである。
なにかこの世で安定しているものがないのかもしれない
津浪や原発事故でも公務員は今生き残るために四苦八苦している
もうやめたいというのもわかる,住民がいない町が成り立つのかとなる
銀行はどう生き残ってゆくのか,そこには相当な痛みが生まれる
その痛みを負わされたのが投資信託をすすめられて損した客でもあった自分にも負わされたのである。だから銀行は何なのだと身内のことのように考えるようになったのである。

タグ:銀行の危機
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2018年03月22日

詐欺まがいの投資信託を売る銀行 (士気があがらなくなり客も働く人もやめてゆく・・)


詐欺まがいの投資信託を売る銀行

(士気があがらなくなり客も働く人もやめてゆく・・)


特に外資などの場合、成績を上げなければ明日にでもクビになってしまうのでその売らなければいけないプレッシャーやストレスたるや物凄いものがあります。なぜなら、お客様が儲かろうと損しようと関係なく手数料収入をとって利益を上げなければ、金融マン自身の給料すらも貰えなくなる可能性があるからです。

当然だれもがお客様の大切なお金を減らしてやろうなどとは最初から思っていないと思います。ただ、大きな商業系の銀行で営業マンとして採用されている立場の場合、新しい投信のキャンペーンなどがあるとどうしても一定数以上を見込み客に売らなければならないというノルマを課されます。

銀行は信用するなというときこれだった,まず銀行では顧客のためにすすめるのではない必ずすすめるのが今はやりのものである。
AIとかロボット関係などを今度はすすめてきた
でもこれもチャートでは上昇曲線でもその上昇曲線になっているときはすでに下がる兆候なのである。そこに投資が集中していることもある
つまり銀行員や証券会社の人達がすすめるときはすでに旬が過ぎているのである。
もうけるにはずっと前に投資して上がったとき売らなければならない
だから銀行とか証券会社がすすめるのはほとんど旬が過ぎたものであり下降線になるときのものなのである。
だから投資は上昇するものを早くから見込んで投資すれば上昇すれば利益を得られる
見通しが大事だとなる,銀行とか証券会社は常に今はやりでみんなが投資しているものをすすめる,その時は遅いのである。

投資信託は本当に詐欺的商品である。その仕組みなど複雑でわからない,そのわからないことにつてこんですすめている
そしてまず手数料が確実に入るものであり銀行には何のリスクもないのである。
銀行自体で投資すればリスクがあるが投資信託のリスクは全部客がかぶることになるからだ,これほどいい商売はないのである。
それは銀行自体で知っているのである。投資信託は銀行にとってもうかるものであり顧客にとってもうかるものではない,そのことは知っている
営業に来る人はノルマを課せられているからそんなことを言っていられないのである。

現実になぜリーマンショックでもっていた株が上がってきたのにそれを投資信託に回したのかとなる,その時の状況があってもそこで自分は言いたいことがあったが勝手に強引に投資信託に株を売って回したのである。
分散投資するなら株と投資信託とリートと国債ともっていれば確かにもうかることもないが損することもなかったのである。
USリートは良かったが後は全滅になったのである。

ただ正直こうして何も知らないで銀行をプロの人だと思いまかした自分にも責任があり自己責任だといわれればそうである。
しきりにプロですからまかせてくださいというが実際のプロは別にいた
それは本当の富裕層であり株を知っている人なのである。
そういう人達は金を増やす術を知っているのである
まず証券会社とか銀行に頼む人は株のことや投資のことは知らないのである。
自分も全然知らずに金融のプロだと思いまかせたのである。
その時はこの人は金融のプロだと思っていたからである。
証券会社や銀行はプロとはいえない,会社のための利益を優先する人達であり顧客は二の次三の次である。
だからこそ投資信託をすすめる,それは証券会社や銀行にとって利益があがるものであり客にとってあがるものではないのである。

そして投資するならわかるものをやれとなる,株だったら別に安いとき買って高いとき売ればいいだけでありそれは自分で決めるべきなのである。
銀行でもそれがプロだとしてまかせたら銀行員は自分のノルマを果たすことと銀行のために利益になることしか眼中にないのである。
そこで逆に判断を誤ると思った,つまり株が上がってきたのにそのままにしておけばいいのに自分のノルマを果たす利益をあげるために投資信託をすすめたのである。
そういう商売をしていたら一時的にはいいとしても銀行自体の信頼が喪失する
もう喪失している,なんだ銀行はそんなものだったのか,詐欺的なものでも堂々とすすめる,ただ別に投資をすすめても悪いことはないのである。
それは顧客の利益をまず考えることである
株が上がっているのになぜ投資信託に回したのか?
それは自分のノルマと銀行の利益を優先するからそうなった

自分にしてもあくまでもわかるものを自分の責任で決めるべきだったとなる
別に株などは安いとき買ってあがった時売ればいいのである。
だから自分で決断できるのである。その責任は自分にあるから銀行にあるとはならない
でも金融のプロだと思いまかせた,それは自分で決断すべきものだった
投資信託は複雑でわからないから自分で決断もできないのである。
だからわからない人はやるべきでとないというのは本当だった
これも結局後の祭りだったとなる

ただ「銀行よ,お前もか」という暗殺されたシーザーの最後の言葉を理解した
シーザーが信頼していた部下にすべて裏切られてその言葉を残して死んだとなる

ブルータス お前もか 銀行よ,お前もか

なんか盗まれたとか事業に失敗して借金を迫られるとかその他人間社会の非情を経験した銀行にはそういうイメージはなかったが銀行自体が苦境においこまれているからそうなった,追い詰められた人はモラルを喪失するから危険である。
自分に来た人はそういう人達だったからである。
銀行員も投資信託を売らなければもうけにならない食べていけないとなり必死になっている,そこでモラルが喪失するのである。
そこに人間社会の暗黒が生まれる,とにかく窮地に追い込まれた人間がいかに危険なものになるか?
そこで犯罪が起こる,銀行自体がそうして追い詰められているからこそモラルが喪失したのである。

でも本当はそうして働く人も嫌だとなる,銀行がブラックになっていたらそこで働く人の士気もあがらない,一見ノルマを果たしたから自分のために銀行のためになっていても
それが顧客のためになっていないとすると士気があがらない
駅で道案内しているだけでありがとうと言われる,そうなると教える方も気持ちがいい
それは金にならないにしてもそうである。
でも金をもらってもそうしてありがとうと言われるものにならないならその士気はあがらない,やがてその仕事にも嫌気がさしてくる

この仕事はなんなのだろと疑問に思うのが人間であれば普通である。
銀行がモラルが喪失したとするともう一時的に利益をあげたとしても何かやる気がなくなってくる
やはり例えば戦争でもいろいろあるが死ぬとなると何らかの動機がモラルが必要になる
そうでなければ士気があがらないのである。
会社というのは利益をあげればいいとなるがではそれだけで士気があがるかとなると上がらないのである。
働く気力もなくなってくる,そうなるといくらもうけをだしてもそれで満足させられない働く人もやがて離れてゆく,現実に銀行をやめさせられる人や自らやめる人がでてくるのも当然だとなる

posted by 老鶯 at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

自転車屋を考える (商売となると接客がありそこがむずかしい)


自転車屋を考える

(商売となると接客がありそこがむずかしい)



個人店でアホな事してるクセに、本人がそれに気付かず、何でも文句言えば言いなりになる「大手が良い」って思い込む典型的な人。 
地域が育てる商店だよ? 
街の自転車屋は(笑)

個人店?殆どが駄目だね。 
学校前のスポーツ店と同じ。今まで「あそこで買わないと気まずいから」で生きてきたツケ。 

昭和の時代、チイキに甘やかされてきた既得権。 

裸一貫やり直せ。 
これは君たちの為を思って言ってやっている。

一般に 起業というのは 大半が失敗する。 
自転車屋が 生き延びてるのは 修理のおかげ。 
物品販売業というより サービス業に近い。 
理髪店みたいに。 
別に 愛想悪くても いいんじゃないか?(笑) 
腕が確かならね。職人なんだから。 
確かに 金儲けは ヘタかも知れないね 
好きでやってる仕事だしな

自転車のみの店はさらに厳しくなるだろうな 
女性が入りやすい店 
今の自転車屋は油まみれの怖いオヤジがいる感じだもんな

自転車屋に行ったら、店舗で購入したもの以外受け付けない、帰ってくれ!と追い返されたと友人が泣きついてきたので、俺は優しく正規の1.4倍の料金で電動コンポを付けてあげました 

それにしても買ったもの以外受け付けないとか酷い自転車屋もあるもんですね、許せないです

いまはほんとに自転車に金使わないからなー 
都内で車が必要でない地域でさえ一人あたり年平均8000円〜使えば良いほうじゃない? 
儲からないと言われてる美容院より更に少ないんだぜ笑っちゃうよ

街の自転車屋さんは営業センスゼロだからな


もう個人商店の時代じゃないんだよね

車を購入維持できない層の増加分<少子高齢化で減った人口なんかな

自転車屋さんで、笑顔で愛想よく迎えてくれる店主に会ったことがないんだよね。 
ママチャリの時はパンク修理ぐらいしか用がないから気にならなかったけど、 
ロードバイクだといろんな用件ができて、行く回数や滞在時間が増えて気になるように 
なった。 

特殊技術で、基本的に競争がなくて、いやなら来なくていいよと言える 
お仕事だからなのかな。

なるほど。自転車屋さんは、場所代かからないからそんなに売上する必要がないのですか。 
なんとなく無愛想の謎が解けました。確かに家族が食える分稼げれば、それ以上は 
客こなくても生きていけますね。 

同時に、元々人と関わるの苦手な人が多くないですか? 
物と接しているほうが好きなような。 


自転車屋は自分の町で一軒しかなくなった,その人も後継者がいないから病気になったとか聞いているしいつまでつづくのかとなる
そこが終わると一軒も自転車屋がなくなる
原町が近いから今でも行っている人がいる,でも修理とかなると買った店でしろといわれる

自分は高い電動を原町で買ったけどその自転車屋はお前は鹿島で買ったからその自転車屋に行けと断った,聞きたいことがあるだけだったが「お前は来るな」と面と向かって言われたことには驚いた
何か自分の店で買わないものは客でもないという意識が強い
それは歯医者とか医院とかでもそういうことがあった
自分で客を占有したいのである。だから他にも行くと面白くないとなる
ただその言い方が露骨なのである。
それは東北人らしいといえばそうなる

自転車屋は何十年前とかなるがその時は一万くらいの町でも4軒くらいかわからないがあった,少なくても三軒はあったろう。
つまりそれだけの需要があったからでてある。
でも自転車は子供のとき乗ったとしてもそれは今の自転車とは全然違って子供用の自転車などなかった,なにかごつい自転車だった
そして自転車は一回買ったらめったに買い換えないのである。
それだけ自転車は高級品だったとなる
まず10万の電動自転車など買わないのである。一回買った自転車をていねんにみがいて修理して使っていた,その頃は物を大事にしていたから機械でも修理して使うことが多かった,電器製品でもそうでありまたその時は街の電器店でも直すことができたのである。
それほど機械が複雑ではなかったのである。
それで街の電器屋が繁盛していたし何でも個人商店でも繁盛していた
それで街に活気があったとなる

そうした店が高度成長時代だったのである。小さな個人商店がどこでも繁盛したし中小企業も繁盛したのである。だからさほど資本が無くても個人で店でも会社でもはじめられたのである。そういう時代は今では良かったなと一面思う。
商売を考えるとどうしても接客がありそれがむずかしいのである。

元々人と関わるの苦手な人が多くないですか? 
物と接しているほうが好きなような。 

自転車屋も技術者であり職人気質なのである。そういう人は物作りは得意でも接客は不得意になる,愛想笑いなどしない,それは物を売るにしてもそうである。
それで東北人は農民気質であり職人気質であるから向いていない
何かそうした商売というのも伝統があり関西とかでは商人の街だからそうした気質が養われたのである。
言葉使いからして商売用になっているからである。
何かその土地の性格でも歴史的に培われ作られてきたのである。

ただでは今東北人がみんなそうして商売に向いていないというかとそうでもない
ここの自転車屋は接客がいいし感心する,前の小高の一人親方の大工さんも本当に接客がうまいのである。一人親方となるとただ職人として大工だけするのとは違う
そこで接客が営業が必要になるからだ
物を作ることから物を売る段階になるとどうしても売るということは人と接することなのである。
ヤクルトでもそうである。会社で物を作っても売るとなるとまた別な問題が生じる
直接一軒一軒回ってお客さんと接して手渡しにする,それで売れているのである。
そういう商売の仕方で成功しているのだからヤクルトという物だけの価値で売れているのではないのである。

つまり商売にはそうした接客が欠かせない,それは別に必ずしも媚びを売るとかではない人に直接接するということは相手のことを思いやるとかが関係してくるのである。
それはなんでもそうである。営業に来るひとはそうである。
銀行でもそうである。何か相手に対してのおもいやりがなく売ってもうければいいというのでは果たして一時的に会社でもうけがだせる,でも長続きしないのではないか?
なんでほとんどもうからない投資信託を一軒一軒回って売りつけているのか?
そのこと自体がもうすでに客のことへの思いやりがない
ただ会社にとって手数料とれるものを売ればいいとしかないのである。
それは銀行だけが悪いのではないがその商売の仕方がボリシーがいいものではない
でもまず利益を出せということでそうしている

もちろん自分に商売を語る資格がないといえばそうである。
ビジネスにかかわったことなどないし会社に勤めたことがないからである。
ただ商売というのは何も悪いものではない,客にとっていいものを与えるという行為であれば何も悪いことはないのである。
仙台から来たユニットバスを百万で作ってくれた人は何も悪いことはない
むしろ安くていいものを作ってくれたと感謝しているのである。
そういう会社はいくらすすめても営業してもごまかすことなどないのである。
何か営業というと悪い感じをいだく人がいるがすべてがそうではないのである。
安くていい仕事してくれれば客も得したとなり感謝するのである。

医者でも接客がある,人間の体を直接ふれて診ることでただ物を売るというより人への気遣いが必要になる,人のことをロボットのように機械のように診れないのである。
機械を修理するように診れないのである
そこに優しさとか愛とか同情心とかがかかわってくる
ただそうはいっても医者にもいろいろいる,近くにいた医者は口が悪いことで有名だったでも見立てがいいということで繁盛していたのである。
医者にそういう人はいる,そんな愛とか優しさなどどうでもいい伎倆が問題だとなる
手術とかになるとその伎倆が問われるからだ

ただいくらAI化しても人間的なものが必要になる,AI化するとかえってそうした人間にしかできないことの価値が高まる
原町の福寿園でロボットを導入した,それはただ物を運び人を案内するロボットである
それによって施設で労働力を人間だけができるものに集中させる
ではその人間だけにできるものとは介護となると直接人に接することでありそこには愛とか同情心とかやさしさとかが必要になる
ただ現実はそういう仕事はみんな嫌っている,だからいちがいにそういう仕事がいいとはならない
でもなんても機械がしてAIがするとなると人間は何をするんだとなる社会が来る
すると人間だけしかできないことの価値が高まるのである
経営者はコスト削減することに勤めるから効率化するからなるべく人件費がかからない
ようにするため機械化AI化するからである。
でもどうしても機械化AI化できないものがある

それを自分は無人駅でしてきたのである。確かに無人化しても困らないようにできているそれでもたりないものがあった,それはそこでの人との接客サービスであった
足の悪い人が来たら話しかけてどうですかとか聞いたり盲人を案内したり
困った人がいたらわからないことがあったら道案内したり何かあった
つまり無人化で事はすむのだがやはりそこに人間がいて温情ある駅になる
ただJRでは時刻通りに運ぶことだけに勤めている,人間へのサービスはない
だから半分も無人駅化しているのである。駅にはもう人はいらないとしている
コスト削減するためにもそうなる,それはやはり乗客が減ったためでもある
そういう人へのサービスまでできないからこそ無人化しているのである。
そういう社会は何か索漠としたものとなる,現実になっているのでありますますそれが加速されてゆくのである。

現代は情のない社会として作られてきた,それは情というのがあいまいなものであり何か具体的に金にならないものだからである。具体的に見えるものとして利益をあげないとういことがあるからだろう。
物を売りいくらだとして金になる,そこに愛情こめて売るとか言ってもその愛情とは何なのだとなると具体的に現れないからである。
ただ病院とか介護ではそういうものを要求する場だということである
何か物を売れば終わりだとなるが物を売ることでも人間の関係があり継続する
だからカスタマーというのが習慣的に来る人が客だとなる
そのカスタマーにこだわるから一元さんはお断りとかなる
それは自転車屋でも言えたし開業医でもそのことにこだわっていたのである。
カスタマーになれば情をかけてもろるとなる
一元さんとかいつも来る客でなかったらそうはならないというのもわかる
ともかく物作りから物を売るという段階になると人間的なものが加味されることは確かである。






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2018年03月21日

ボランティアと正規の仕事の相違 (金をもらえば義務と責任が生まれる)


ボランティアと正規の仕事の相違

(金をもらえば義務と責任が生まれる)


ボランティアしてみてわかったことはボランティアには義務とか責任がないことである。それが課せられていない,では一般の仕事はどうかとなると必ず義務と責任が課せられている,自転車屋でも安全に自転車に乗るようにして買うものに与えたり修理したりする
鉄道でもそうである。安全に時刻通りに走らせることに対して義務と責任が生じている
医者でもなんでも仕事は金をもらうしそこに義務と責任が生じる
金をもらうということは義務と責任が生じることなのである。

ではボランティアというとその義務と責任がない,時刻表を駅に置いたとしてなぜJRでは断ったのかというとその時刻表について文句が言われる,責任をおしつけられるからである。
そういうことがあるのかとわかった,確かに時間が間違ってたりすると駅に置いたのだからJRの責任が問われることにもなる,つまり苦情が来るとなる
たから駅に置くものはJRの許可がないと置けないルールになっている
でもパンフレットの類が責任はJRにはないのである。
それは観光案内でありその連絡は発行した商工会などにある
でも相馬市のレストラン案内のパンフレットも撤去されていたのである。
JRの許可がないと置けないということを知らなかったのである。

ボランティアの問題は何か?それは社会にも法的にも守られないし認められていないことである。
自分がしたことは誰も認めなかった,ただ道案内したときありがとうとか言われたからそのことで感謝されたから役に立ったとはなっている
でもこれをJRとか地元の人でも認めていない,ただありがとうと言ってくれたのだからそれが役に立つものとして認めたのである。
そういうことを言われたことがないので気分良くしたということは確かである。
JRでは駅でボランティアしようが一言も言わない,こいつうるさいなとかしか見ていないのである。それは他の人にもそう言っているからである。

ともかくボランティアの問題は義務と責任がないことである。
別に金をもらっていないのだから適当でいいし何かをしなければならないという義務もない,仕事だと定時に出勤しなければならないがボランティアは適当なのである。
金ももらっていないのだから真剣にやる必要もないし義務も責任もないのである。
そこにボランティアが認められない問題があったことに気づいた

まずどんな仕事でも義務と責任がある,それは金をもらい金を動かしているからである。銀行が投資信託をすすめるのはいい,でもその説明もあやふやでありもともと仕組みがむずかしくてわからない,それをいいことに手数料とる商売にはいいとなる
でも金を扱うということ顧客から金をあづかりそれを運用するとなると責任が生まれる
ただ株とか投資信託でも市場の相場に左右されるからどうにもならなといえばそれまでである
結局自己責任だとなる,知らないからあづけたのでありお前が悪いで結局は終わる
それは自己責任だから銀行にまかせたものが悪いのであり銀行は悪いとはならない
責任は全部自分になるとなっている

そうなるとするとよほど慎重にしなければならない,事前の知識も必要である。
経験者にも聞いたりといろいす調べてからしないといけない
なぜなら銀行にまかせたらまかせた方が悪いとなるからだ
だからそうして何も知らないでまかせる方が悪いとなるのだから慎重にすべきだとなる
一方で銀行で投資信託がどういうものかしっていて客にすすめる
そこにもやはり責任が生じていたのである。
なぜならわざわざ株をやりたいとか投資信託したいと銀行までゆく人はまれだからであるそうして一軒一軒回ってすすめることはやはり責任がともなっているのである。
そんなにもうかるものなのですか?銀行自体で投資信託をしていないとういことも聞いているからである。そういうものを客にすすめるのは詐欺的だとなるからだ

金とは何か?金から一秒も離れられない社会である。
たとえ仕事しなくても金をもつということはすでにそこに責任を課せられている
百万もてば百万の責任が課せられ、一千万もてば一千万の責任が課せられている
別に遺産としてもらったからどう使うとも勝手だとはならない
そうしている人もいるが社会から良くは思われないのである。
金とは社会的責任なのである。だからその社会的責任を果たせる者なら金をもってもいいとなる
そうでないものは日々の生活にかかるものはいいとしてもそれ以上の金をもたせるべきでないともなる
社会的責任として仕事があり金があるからだ

だから地区の協議会で地区の振興するというとき市から金をもらったら義務と責任が生じる,何をしたとか何に使ったとか報告する必要もあるし成果も出す必要がある
そうしないとしたらその金は市から出るとしても市民の税金とか国の金も使っていることになるからだ
国の金というときそれは国民の税金なのである。
それで生活保護はうるさくなるのである。

金とはなにか?義務と責任をもたされるのが金である。
だから途方もない金を資本主義の中でもうけたのもはそれだけの義務と責任が課せられているのだ,それをただ私益に贅沢に使うことは本来できないのである。
だから石の貨幣があるとしてそんな大きな石は流通もしないの貨幣だった
その貨幣は威信とかと関係していた,社会的威信として石の貨幣があった
別に流通しないがその石の貨幣をもっていることでその人は社会的威信をもつことができたのである。金だけが社会にとって価値あるものとはならない
その社会の中で何か認められるものがあればその人は価値ある人となる
現代はただ金をどれだけとるかもっているかで評価されるが社会的評価はそれだけではない,ただ金は具体的に人に義務と責任を課すのである。
それを果たせないとすると金は与えられないし与えるべきではないのである。

だからボランティアがいかにも人助けでいいようでもそこに問題があった
ボランティアなど義務も責任もない適当なものだ
だから重要な仕事はまかせられないとかなる
また仕事している人からすると鉄道会社でも義務と責任を課せられているから邪魔だとまでなってしまうのである。
それは自分が経験したことである。
仕事とは何かとなればいろいろあっても義務と責任が課せられたものである。
それは金をもらう報酬をもらうということでそうなっている
ただボランティアが何も与えられないかというとありがとうと言われることが報酬であるでもそれは仕事としてではない,JRの職員だったら給料をもらっているから義務と責任がありそれでクレームが言われるのが嫌だとなり駅に時刻表を置かせなかったのである

まず人間は仕事しないと社会のことはわからない,それで自分は社会性がなく社会のことがわからないとなる,こういうことは実際に仕事にたずさわらないとわからないからである
まず学問だけではわからない,現実の社会の場で実感しないとわからないのである。
ただ別に仕事しなくても義務と責任が社会に対してある。
それは国家に対しても自治体に対してもあるし家族に対してもある
日本国民であること国籍をもつことはすでに日本国に対して義務と責任がありパスポートでも付与されているのである。
ただ国家というと大きいから意識しにくい,でも戦争のときのように命までささげなければならなくなるときもある,その時国家の義務と責任を痛切に感じさせられるのである。
人間は義務と責任から逃れられない存在である。親と子でもお互いにすでに義務と責任がある,結婚でも義務と責任がある,金をもらえば責任が生まれる
でもその金でもいい金と悪い金がある,でも金をもらえば義務と責任がやはり生じる
金をもらったから義務があり責任があるからと悪いことでもしなくてはならなくる
報道関係とかなると大会社から宣伝費をもらうからそのスポンサーの悪口は言えない
そうして原発の「安全神話」は作られてきたからである。
金をもらうにしてもそれによって義務と責任がおしつけられるのである。
そういうことも世の中に多い,金でもなんでもいい面と悪い面に働くのが人間社会なのである。

だから別に金をもらわないから適当でもいいとはならない,出版とかになるとそこにいろいろな圧力がかかる,出版社は売れるものを書けとかなり自由な発言が規制される
ネットだと無料だから自由にみんな発言しているのである。
それは金がかからないからである。金がかかれば逆に今度はその金を払った人達,会社でも義務と責任が生まれる
だから無料だからといって義務と責任がないとはいえない
ただボランティアに関しては金をもらわないのだから適当にやっていればいいとなる
責任は問われないとなるからだ,でも報道関係でネットでも適当にフェクニュースでも流していればいいとはならない,報道するものの責任があるともなる
第一報道しているとしても自分の場合はボランティアでありネットで金をもらっている人は本当に少ないのである。そこにも問題があるが現実はそうなっている
ただ宣伝が全然なされていないかというとグーグルとかでネットでしているしネットが盛んになればグーグルがもうかるようになっているのである。


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2018年03月19日

道徳を離れて経済もありえない (人へのサービスにば愛とか同情心とかが必要になる)


道徳を離れて経済もありえない

(人へのサービスにば愛とか同情心とかが必要になる)

society111.jpg

社会を構成するものはなにか?
社会を大きく分類すると分解すると物作り,商品作り、製品化があり次にそれらを売るということがある、製品は消費者に利用してもらわなければ意味がないし価値もないし金にもならないからだ
製品をいくら作っても消費者に利用されない消費されないとするとそもそもその製品はなくてもよいものだったとなる
そして物作りとかなるとそこは人へのサービスはない,人へのサービスがあったとしてもそれを作り出す人には人とは直接かかわらないのである。
物作りというときそれを開発するのは研究部門でありそこでいい製品を利用者になるためのものを作り出そうとしている,それは主に理系の仕事だとなる

例えば自転車屋から考えると自転車を作る人がいる,自転車でもそこには様々な技術が駆使されている,今電動自転車時代だから電気系統もかかわるから複雑なのである。
そしてそこでの技術の開発は車でも飛行機でも電車でもにたものがある
軽量化でありパッテリーを長持ちかするとかいい素材の追及である。
鉄よりアルミニウムが軽くなりさらにカーボンだとさらに軽くなる
それは共通していたのである。
そういうふうに絶えず研究して新しい製品を作り出さないと売れない
それはまさにイノベーションなのである。
そのために投資する,それが資本主義だとなる
技術開発が常に必要なのが資本主義である。
それはあらゆる分野でそうなのである。薬の分野でもそうである。
病気との戦いは歴史的に継続されている,だから効果的な薬を産み出せば大きな利益となる,今は癌とか長寿にする細胞を若返らせる研究をしているうあるそれも発見があり実現してくる、人類はいい面と悪い面があるにしろさらに長寿化してゆくのは技術的に間違いないのである。
常に技術は進化して追及されているからである。

でも社会はこうして技術を追及する,ではその技術だけで事足りるかというとそうはならない,今AI化とかロボット化を追及している,すると鉄道でも無人駅にするしコンビニでもスーパーでもレジがいらないとか極力無人化する
病院でもAI化してロボット化がすすめられる,ロボットの方が正確に手術できるともなるそういうことは確実にすすめられてゆく、ではそれで人間社会は成り立つのか?
そうはいかない,どうしても人間がいなければならないものがある
機械ではロボットではAIではできないものがある

それがなにかというと人へのサービスなのである。製品を作る人は人とは直接かかわらない、でも薬でも売る人は人と直接かかわる,薬屋でも医者でもかかわる
この薬はききますよというのはわかる,では人間はその薬だけでたりるのか?
薬がすべて人間が直せるのか?そうはならない
その薬を与えるにしても医者であれ看護師であれその人に対して愛とか同情心とかをもって薬をわたすのと医者でも看護師でもただ病人をロボットがするように扱ないのである。もちろんロボットの役割はある,人が重いのでもちあげるとかはロボットがするがでは介護とかなるとどうしても愛情が必要になる,同情心とかも必要になる
それはロボットにはできないのである。機械にはできないのである。
だからいくらAI化してもロボット化しても機械化しても人間にしかできないことがある

この人とと直接かかわることが常にある,物を売るでも例えばヤクルトなどが成功したのはヤクルトを売る人に重きを置いて成功した
女性が一軒一軒回り配ることをして成功した,ヤクルト自体の製品だけの力ではないのである。サービスする人に重点を置いたのである。
そしてヤクルト配るにしても人から直接渡されるからそこに愛がこもるというか人間の心が加味されるのである。
そういうことはロボットとか機械とかAIではできないことなのである。
だから人間的なものは何なのだろうとなるとそうしたロボットとかAIにできないものである。
愛とか同情心とか優しさとかなにかそうしたものが人間的なものだとなる

そして一見ビジネスという何かそうした愛など同情心など全く関係ない非情な世界のように見える,でも人間はまず自己の利益を考えて生きている
これを否定はできない,そして会社に入ると会社の利益を考える,でも会社だけの利益を追及してそれが社会的に有益なのもの公益性がなっかたら会社が繁栄するだろうか?
自己の利益→会社の利益→社会の利益になればいい
そうならなければ会社でも社会にとって害悪となったりしたら存続できるだろうか?
銀行でも投資信託など自分の会社の利益になるだけのものを押し売りしてもうけていたら社会にとって利用者にとって必要なものなのか?
だから一見自己の利益になる,会社の利益になることはいいことおように見える
でも結果的に社会にためにならない,利用者のためにならないとしたらそういう会社が繁栄したりするものだろうか?
何かそういうことを会社が考えない経営者が考えないというのもおかしいとなる

経済とは何か?経世済民とかから経済がある、それはモラルのこと道徳のことである。
道徳を離れて経済はありえいなのである。では利益をあげることが不道徳なことかというとそうはならない,例えば駅で必要とされているものが大きな時刻表である。
それを自分は無料で置いた,なぜなら必ず時刻表を見に来る人がいたからである。
確かにJRでは小さな時刻表を置いているが小さすぎるのである。
字も小さすぎるからみにくいのである。
大きな時刻表を家にはっておけばいちいち駅に見に来る必要もない
それは原町と相馬市では商工会で大きな時刻表を出している
それをビジネスにして売って利益をあげても別に悪いことではないのである。
もうけることがみんな悪いことではない
そんなことしていたらこの社会は成り立たなくなる
ポーターのようなものでも金をもらって運んだら金をもらうことが悪いことではない
本人がそうしてもらいたいのであり金を払ってもそうしてもらいたい助けてもらいたいとなればビジネスになり金をもらうのも当然だとなる

とにかく社会にかかわり感じたことは経済は決して道徳と離れてありえないことである。道徳など愛とか同情心とかいたわりとか関係ない世界だと今は思っている
でもウェバーが資本主義は修道院からはじまったというとき神への奉仕であり他者への隣人愛としてはじまったことに由来しているというときそこに経済は道徳から離れてありえないからそうなったのである。
他者を搾取してむさぼるというのが経済ではないのである。
そういう会社が成功することはありえないのである。
そうなったらこの世は暗黒であり生きていることすらできなくなる


「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳)

常識とは、道徳であり、仁義であり、公共の利益であり、私の利益です

信用金庫の人がこう言っている、投資信託をすすめるような銀行にはそれがない
銀行員はノルマを課せられて自己の利益を目指す,銀行は銀行だけの利益を目指す
それも結局時代が変わり利益をあげられないからそうなったことはわかる
要するに常に時代が変化してゆく,それに対応できないものは滅びるのがこの社会だともなる
自分自身は社会から離れた人間であり社会性がなかった
ただ介護十年したとかその後今度はたいしたことではなくても無人駅などでボランティアして社会とかかわった,これは誰も認められないしJRからかえって煙たいものとして扱われ無視された,地域でもなんら認められなかった
ただ道を教えただけでありがとうと言われた,自分は何かそういうことを言われたことはない,そのことで自分も他者のために何かしているのかという意識をもったのである。
自分は他者に対してありがとうと言わなかった,だからそんなことでしありがとうというのが意外だったのである。それだけ自分には社会性がなかったのである。
都築詠一氏などがベートベンとか天才芸術家が社会性がないということを批判していた

何かそういう人は社会からはずれていてもいいということが言う人もいる
ただそれにも問題があり社会に生きることはどういうことなのか?
宗教でも社会にとって必要なのはなぜなのか?それが社会と全く離れてありえないだろう
また逆に社会にどっぷりつかって俗化してもありえないのである。
だから僧院とか寺とかに籠もり社会から離れた生活では何か説教することもできない
そういう人は社会から離れていて社会のことがわからないからである
ただ社会がすべてではない,社会は世の中はどうしても汚れたものでありどんなことしても改革できない,だからこそ世から離れた世界を追及するのも宗教だったとなる

宗教と経済は不可分に関係している,ただカルト宗教団体となると別物である。
資本主義が崩壊の危機にあるというときそれはモラル的な面にもある
一握りの人が世界の富を独り占めするようなことはモラルに反するからそうなる
そういう社会はグローバル経済でも世界の公益性に反するから資本主義は修道院から始まったものとはまるで違ったものとなり
崩壊してゆく,グローバル経済にはモラルがないからである。
道徳を離れて経済もありえないからである。


タグ:経済と道徳
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2018年03月18日

自転車は人間の性格などの相違とにていた (その多様性に共通性があった)


自転車は人間の性格などの相違とにていた

(その多様性に共通性があった)

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重くて走りが鈍い,悪路に強いマウテンバイクだった

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図体が大きいが小回りがきかない
28インチのタイヤが大きすぎる
坂をすいすいと上れない
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これは一番いいロードだった,軽快に走る,でも坂をのぼるとバッテリーがすぐきれてしまう
それが弱点だがあとは一番いいものだった
26万とか高いとしてもすでにロードとしてそれだけの価値あるものだった




自転車の種類はいろいろある,メーカーによっても違う。
基本的にロードとクロスバイクとマウテンバイクがある
でも同じロードでも乗り心地とかが違ってくる
百種類の自転車があるとしてその百種類の自転車はみんな乗り心地が違う
それがなんとも不思議なのである。

遠くに行くということで28インチのパナソニックの自転車をすすめられてかった、
それはバッテリー容量が多いということですすめられた
長距離用としてすすめられた,それは28インチのタイヤだから早く進むことは確かだったでも婦人用タイプでありスポーツタイプではない
だからデザインとか乗り心地は違っていた
早く軽快に走るものとは違っていた
そしてパナソニックの電動自転車は坂をスムーズに上りにくいのである。
ヤマハの電動自転車は坂を上り安いようにできている

本当に乗ってみてそれも一年くらいとか乗ってみてわかる
この自転車はこういう自転車なのだとわかる
ヤマハのパスブレイスはずいぶん前である。だから重いし走り自体が重いのである。
でも馬力がすごくて悪路をぐんぐん上るのには驚いた
だからマウテンバイクなのである。
でも遠出をするとなると重くて走りが遅いから向いていなかった
それで今度は軽いものにしようとした

今パナソニックの電動自転車は買い物用にしているがこれもあっているとは言えなかったタイヤが28インチであり大きから小回りがきかない,街を乗るのには適していないし何かぎこちないのである。
一番気にいったのはヤマハのYPJ=Rである。これは26万したとしても高いものではなかった
それだけの価値あるものだった,これ自体優れたロードだったのである。
電動はおまけについたという感じである。
ただこれは坂を上ると電池がすぐきれるので長距離に向いているとは言えない
めしてドロップハンドルだと危険になる,急ブレーキをかけにくいのである。

こうして自転車はつくづく一長一短でありなにもかも満足するものはない
それで人間を考えたら人間も同じだなと思った
人間でも同じ人間はいない,みんななにかしら違っている
性格も違っている,でもその人をわかるには自転車をのりこなして一年二年とかでその自転車の良さと悪さがわかる
人間も同じである。何でもいい人間はいない,何かしら欠点がある
何かが得意であり得意ではないものがある
人間は人間の数だけ多様なのである。だから自転車ともにているなと思った

東北人だからといって社交的ではない,接待とか商売が下手とかではない,一般的にはそういうイメージでも全然違った人もいるのである。
その人は一人親方として庭作りから大工でも塗装でも何でもできる
そして人を接待することがうまいのである。
しゃべることがうまいのである。そういう人は東北人でもいる
だからこそこの人は一人親方として営業もできる
営業となると人と接することであり商売であり話が上手でないとできないからだ
ただこの人の欠点は八方美人なのである。
なんでもできるのだかやらなくてもいい仕事まで手を出している
それも金のためならなんでもするという何でもできるという器用さがそうしている
器用貧乏なのである。こういう人もまたいる

大工というと職人気質であり全然話せない人も普通にいるからだ
でも親方となるとそうはいかないのである。
事業を起こして失敗した人も職人としては優れていたが事業で社長になると仕事をとりにゆかねばならない,営業になるから商売になる
それがうまくいかず失敗したのかと思う
自転車屋でも接待が営業がありそれに向いていないる人といない人がある
でも自転車屋は職人としての技術的な面と客に接するサービス業なのである。
この二つを兼ね備えている自転車は少ないだろう
自分の町の自転車は兼ね備えている,いつも店では誰かと地元の人と話しているのであるそしてその人も人と会話するのがうまいなと思う
だから別に東北人だからといってすべて商売に向いていないとはならない

隣の街の自転車屋は古いタイプの人なのだろう
お前はここで買う必要はない,いつも買っているところで買いと知らないことがあり
ミヤタの最近出た電動自転車について聞きたかったからだ
そこで外国製まで扱っていたからである。
それをただ聞きたいのにお前はここに来る必要ないとまでなっていた
一回も買っていないならいい,パナソニックの電動自転車を買っているしパンクしてタイヤも交換したことがあるからだ

それで開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。

こういうことは別に他にもある,歯医者とかにもある,そこも接客が悪かった
でも歯医者とか医者だと尊敬されるから低姿勢になって接客する必要もない
だがやはり歯を直すだけではない,接客がある
でも看護師が何人かいて接客を担当してくれからいいのである。
それでも歯医者は対人商売であり人と直接接するからそうして人への気遣いが必要になる客に直接接する仕事はとうしても人とも接しないで物作りに励んでいる人とは違う
相手をロボットのように見て診れないのである。
だからそうした接客AI化しても残るとなる
JRなどでもまず接客のこと人のへのサービスは念頭にないのである。
だから駅を無人化してコストを減らせばいいとしかなっていないのである。

いづれにしろ人間と自転車を比べるのも変だが自転車はそれだけ多様だとなる
一台一台個性をもっているのである。
その乗り心地はまた乗ってみないとわからない,人間一人一人もつきあってみないとわからないのである。
人間の場合は生い立ちも違うし住む場所も違っているし男女もあるし年齢差もあるから自転車より多様なのである。
そういう多様な人達とどう接するかとなると本当にむずかしいとなる
自転車もつくづく一長一短であり人間もそうである。
それがにているということも人間と共通点があるという発見があった
おそらく車でもそうである。それぞれに用途があり乗り心地も違うからである。
ただ車に乗っていないからわからないのである。
家にしてもみんな違ったものになっている,建て増ししたりもするし家の造りは違っている
住む人によっても家は違っていて個性がある,庭でもそうである。
だから時々他人をの庭を自分は見ているのである。
自分は石に興味があるから特別見ているとなる

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銀行は江戸時代の金貸しにもどった? (投資信託はだまし的要素があり危険)


銀行は江戸時代の金貸しにもどった?

(投資信託はだまし的要素があり危険)

日本古来のクラウドファンディング「頼母子講」とは

銀行というのがかかわってわからない,わからないのは金融業がわかりにくいからである自転車屋とかでもわからないことがあったがインターネットで調べるとそういうものかと納得する,でもまず銀行とか証券会社とかは理解できない
このサイトでは頼母子講から銀行が分化したとある,保険や投資もしていたのが頼母子講でありこれは相互扶助組織だった,何か協力するものとして生まれた
それは明治以降も活きていたという,つまりまだ銀行はそれほど普及していなかったのである。
自分の父親は酒屋をしていて暖簾分けした,それが双葉の新山だった,そこに姉が良く行っていてそこに銀行があり遊んでいたという,その時銀行はめずらしいものだったのである。

もともと金貸し業が基になっているのが銀行だというのもある
すると江戸時代のようなあこぎな金貸しの面もある
消費者金融の親になっているのが出資しているのが銀行だからである。
ヤクザまがいの人間を雇ってとりたてをするのは江戸時代と同じだとなる
ただ裏でいい顔して役人のようにしているともなる
今までは銀行をそのように見ていない,やはり高度成長が終わって利子がつかなくなったときから銀行は変質した
金を貸すもうけさきがないからそういうあこぎな金貸し業に先祖返りしたのかとなる

ただ資本主義社会では銀行は必要欠かせぬものとしてある,だから銀行の役割はある
ただ資本主義がもうこれ以上投資先がないとかなりただ金をためていても銀行にとっては負債を抱え込んでいると同じだとなる
金をあづかってもかえってそれで投資してもうけが出ている場合良かったのである。
それで地元でも助かった会社いるし育てられた会社もある
ただそれは高度成長時代に銀行は別に悪いものではなく良いものとして機能していたのである。

だから銀行が今地銀などでも苦境にありどうしてもうけるのかとなり投資信託とかすすめることになった,これはとてももうけられる仕組みになっていないのである。
ではなぜすすめるのかというと手数料を高くとれるからである。
銀行自身が投資して株をしているがそれは失敗したら損になる,リスクをかぶらざるをえない,でも銀行が手数料をとって買わせる株でも投資信託でも手数料がとれるから損することがないからである。

でもこうして自分でもそうだが投資信託は詐欺的商品だというとき何かわかりにくいからそうなっている,わかりにくいとごまかしやすくなるからしている
株だと意外と買った時点で安ければ株が上がればもうかるということは子供でもわかる
だから株の方がわかりやすいのだが投資信託をすすめるのである。
それは銀行や証券会社にとって都合いいものだからである。

銀行側にすれば借金している人のように追い詰められている,だからノルマも課せられているから押し売りのようになっている
そもそも貯金をしてもらってもそれは銀行の債務だというときそうなのだろう。
なぜならその金をあづけられても活かさなければただもっているだけでも費用がかかり事務費をとるということにもなる
では銀行自身が投資してもうければいいが銀行とはいえ株の世界では簡単にもうけられない,リスクがあり損することがあるからだ
だから投資信託でも株でも手数料を確実にとるのが一番楽なのである。

銀行はもう社会の中で正業として機能しなくなったのではないか?
それは銀行だけではない,官僚が経営する財務省でも不正が行われていた
財務省とは金融庁であり銀行を監督する立場にある
その大元が不正していたのである。そのために自殺した人まででてきた
財務省そのものが国民から税金をとりたてて不正しているとなる
金融資本主義は世界的にも格差社会を産みわずかの人達が私腹を肥やすものとなっているだから資本主義自体が危機になっているのだ
資本主義はもう機能しなくなっりつつあるのだ
すると銀行も機能しなくなりたまった金を活用できないのである。
もうけ先がなくなり預金者に投資信託などをすすめて手数料で稼ぐ
つまりあこぎな江戸時代の高利貸しのようになっている
銀行はこうなると社会にとっての悪であり必要ないともなる
銀行の役割が喪失したともなる

時代の変化で永続するものなどない,銀行もそのために変質した
何か変化しなければならないのだがそれができない
だから消滅の危機にあるのかもしれない,誰もそんなことしていたらかかわりたくないとなる
最初はいいにしてもいづれみんなそのことがわかる
得するのは銀行だけであり金をむしりとられるだけだとなる
そうなると預金者も銀行にいい顔をしなくなる
かつての銀行のイメージとは違う、あこぎの高利貸しにもどったともなる

そういうところで働いていると人相まで悪くなるかもしれない
消費者金融の人達とにたようになるかもしれない,紳士面していてもその中味はもう高利貸しと同じだとなる
銀行の社会的使命があったがそれが時代が変わり変質してもうその役目は終わったのかとなる
何か正業として利益をあげる方法がないのかもしれない
となると社会にとって害悪な存在ともなる,そういうことが預金者も気づきはじめたらどうなるのか?
銀行は信用されなくなりいらないとなる,でもどこに金をあづけるのかタンス預金なのかとなるとこれも危険である。
するとそれぞれ株をやればいいのかとなるとそれも危険である。
ただ銀行はかつての銀行とは違っていた,それだけはみんなも知るべきである。


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2018年03月17日

自転車屋も人へのサービスが欠けていては駄目 (昔風の自転車屋はつぶれている?)


自転車屋も人へのサービスが欠けていては駄目

(昔風の自転車屋はつぶれている?)

もう一つの理由に、昔ながらのまちの自転車屋の入りづらい雰囲気がお客を遠ざけている事もあります。
昔ながらのまちの自転車屋というと職人気質で「サービス」という概念がない店が多いのです。
例えば、店主が店内でテレビを見ていて声をかけていいのか分からない店や、
店内が工具やバラした自転車部品で占領されて人が居るのか居ないのか分からない店などです。
そういった店は女性にはなかなか入りづらく、料金表もないために修理が頼みづらく
結局は、まちの自転車屋から遠ざかってしまうという悪循環です。


1.自社ブランド自転車開発で量販店に対抗
2.女性にも入りやすい店舗デザインと店作り
3.分かりやすくい料金表示
4.気軽に利用してもらえる接客サービス(空気入れ無料・ピカピカ洗車等)
5.他店購入の自転車も修理・点検OK!

接客に力を入れていれば、お客さんはついてくると思います。
技術は、後からでもどうにでもなります。
わからないことは、他のFC店や本社にも聞けますからね。

開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。
お客さんとは親しくなるのはいいことですが、
なぁなぁの関係になるのは良くないし、
技術的なことが分からないお客さんに上から目線で接客するのは論外です。
いつでも、丁寧を心がけて接客してほしいと思います。

まちの自転車店リコ


今生き残っている個人経営(街の自転車屋)の殆どは取引先が官公庁がらみのお店です。
市区町村役場、郵便局、警察・・・こいつらが税金で一流ブランドのママチャリや災害用名目で大量のマウンテンバイクを「定価」で購入し店側も「保守」という年間整備費を請求します。

苦戦しているのは旧態依然としたお店です。
古い「昭和的思考」から脱却出来ないお年寄りの経営するお店がそうです。

少なくとも真面目な自転車屋は、自分の整備不良がお客さんの命を奪ってしまうかもしれないといった責任を持って仕事をしています。
そこに通販で購入した安い粗悪品の自転車やろくに整備をしていない自転車を持ちこまれて、本心では「この自転車は危険なので買い換えてください」と言いたくても、なかなか言えるものでもありません。



自転車は好きであり自転車旅行は何度も一カ月とかでもしている,だから自転車には興味あるのだが自分はメカに弱い,だから自転車のパンク修理もできない
器用さがない,それで自転車の種類でもロードを知ったのは最近だというのでもわかる
まず自転車乗りでロードを知らない人はいないからである。
ロードの醍醐味を知らない人は自転車のことを知らないとなる
自分の場合はただ乗って自然を楽しみ遠くに行けばいいという考えしかなかった

自転車は種類が多い,そして一台一台乗り心地が違う,それもまた乗ってみないとわからないのである。だからみんな同じようで同じではない
普通通学とか一万二万の自転車なら同じだろうが今は電動自転車などで種類が増えたのである。

それで自転車を買おうとした,それはミヤタの30万もする電動自転車だった,それは長距離用でいいものだった,だがその販売店がこの辺にはなかった
それで原町の自転車屋に行って聞いてみた,そこは外国の自転車も扱っていたから扱っているのかと思ったからである。
そこではパナソニックの電動自転車を買っているし一回パンクしてそこで修理してもらった
だから全くはじめてではないのである。

でもミヤタは扱っていません,あなたは地元のH自転車屋で世話になればいいとか対応が冷たいのである。
ただ聞きに行ったのだからミヤタはあつかっていませんでもいい,話だけでも聞いてもいいはずである。それもしない,あなたはHさんに頼めばいい,ここに来る必要はないという感じである。あなたはここにはもう来るなという感じである

なぜそういう対応になったのか?
それで自転車屋のことを調べたらなるほどなと思った

少なくとも真面目な自転車屋は、自分の整備不良がお客さんの命を奪ってしまうかもしれないといった責任を持って仕事をしています。
そこに通販で購入した安い粗悪品の自転車やろくに整備をしていない自転車を持ちこまれて、本心では「この自転車は危険なので買い換えてください」と言いたくても、なかなか言えるものでもありません。

こういうことがあったのかということもある,実際に一回は28インチのタイヤで近くで事故を起し頭をぶつけて歯を三本折った,それは打ち所が悪いと死ぬこともあった
自転車は意外と危険であり整備も必要になる

自転車屋は職人である,でも一方で常に売ることもしているので接客サービスが要求される

それで開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。

接客に欠けるというのがある,その店は70近い人がしている店である
それも影響しているかもしれない,職人気質だと人のサービスより自転車の職人となり人へのサービスはないがしろにされる
これは鉄道でも同じだった,JRでは人へのサービスは欠けている
電車を作る安全に走らせる職人集団なのである。
人への接客とかサービスは関係ない,考慮していないからこそ駅の無人化をしようとしているのである。人はそこに必要ではない,ただ職人として電車を作り鉄道の保守管理をして時間通りに正確に走らせるということに力をそそいでいるのである。

自分の町にはもう一軒しか自転車屋がない,別に隣の町のスーバーとかにもあるけどここではない、その一軒がなくなればゼロになる
これも困ったことになる,自転車屋は後から世話になることが多いからだ,近くにないと困るのである。
何か自転車は町の顔のようにも思える,駅前に自転車屋がなくなったら相当に淋しくなる自転車屋には人の出入りがある
そしてその一軒の自転車屋は人の対応がいいのである。
それに感心する,田舎ではそもそも商売上手な人がまれかもしれない,接客が下手であるそもそも東北人は職人には向いている,でも接客の商売には向いていない
自分もそうでありこつこつ何か人とかかわからないでしているのが向いている
自転車屋は職人であるとともにそれを直接人に売るから接客が大事になる
それができているからあそこは田舎ではめずらしいとかなるのかもしれない
ただひどく嫌っている人もいるから評価は必ず分かれる
ただその人は異常なクレーマーなのである。それは田舎で最底辺で生きてきたために不満が多いからそうなる


リコジャパンとかチェ-ン店の自転車ができているということはやはり時代に適応できないからである。
品物の量も増えているしそれにも対応できない,サービスでも対応できない
昔風の職人気質の店では入りにくいこともある
ただここでは一軒しかないのだから嫌でも頼むほかない
それでも隣の街まで行って頼んでいる人もいる
いづれにしろ商売でも何でもむずかしい,接客があるとそれに向いている人といない人がいるし職人気質だと向いていないとかなる
その両方をかねそなえるとなるとなかなかできないのである。
だから地元の自転車屋はそれを兼ね備えているからめずらしいのかともなる
このことは医者でもそうだし何でも商売にかかわることに通じている
自転車屋だけの問題ではないのである。仕事全般に通じていることなのである。
だから自転車屋の仕事だけでもそこから社会が見えることはある
そこでは様々なことに社会全般にかかわるものとしてあるからだ
自転車というのも車とにているからである。車社会になったようにやはり自転車もそういう側面があるから社会を見ることがそこからできるのである。


何か仕事についてわからない,自転車屋でもこうしてインターネットだと内情がわかる
これもつくづくなるほどなと納得したのである。


posted by 老鶯 at 08:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年03月16日

グローバル経済の格差から起きた残酷な事件 (国と国の格差が大きくなり起きた事件)


グローバル経済の格差から起きた残酷な事件

(国と国の格差が大きくなり起きた事件)


フィリピン妻は結婚できない中年男を幸せにするか? 奇跡の婚活、夢の果てに=
鈴木傾城


この話はグローバル経済を象徴したものなのだろう。資本主義社会を象徴したものなのだろう。
それが余りにも露骨に残酷に現れたのである。
そこには何の愛情もなかった,ただ金が目的であり最後は金のために殺したのである。
その殺された人間もあわれであるが女性を金で買えるとした社会にも問題がある
グローバル経済では後進国と先進国の為替の差がまだ十倍とかある国がある
フィリンピンとかカンボジアとかがそうである。
カンボジアでは若い女性でも5ドルで売春されているとか安い
その女性にしても眼中には金しかないのである。

日本人の50代の男性もあわれだがもともと金で女性を買おうとしたことに間違いあった
だからその男性も悪いとなる
そしてグローバル経済の格差の中で生きているとこうしたことが露骨に現れる
その女性も金で殺し屋を雇い殺したのだから金がすべてだとなる

こんなことが起きるのはグローバル経済では露骨に国と国の為替が大きいとそうなるからである。
それは国内でも起きる,金持ちの家に今の貧乏人が家政婦であれ家に入ればその暮らしの差が歴然として露骨になるからだ
するともう労働するよりなぜこの家ではこんなに裕福なのだとなりなぜ自分はこの家で働かせられているのだとなる
そして盗みとか犯罪になりやすいのである。

この女性もまた相手が求めたきたものを金をもらい与える,しかし逆に金をとればあとは関係ないとして金で雇った殺し屋に殺させる
そこには非情な金の関係しかないのである。
人間の関係は金しかない、金の切れ目が縁の切れ目である
それを自分も介護十年で自分の病気でも経験した
借金で苦しむ人に殺されようとしたからである。
自分が弱ったとき金を要求する,そして死んだ方がいいとさえ思うようになっていたのである。
すでに心で人を殺していたのである。保険金殺人のようになる
そういうことは遺産相続で普通に起きていることである。

格差社会というときこういうふうに余りにも差があるときもう善悪の問題ではなく犯罪は起こる
江戸時代は身分社会だけど侍が特別贅沢していない,庶民と比べてそんなに贅沢していない,だからフランスのように貴族階級に対しての革命が起こらなかったのである。
身分差があっても日本では暮らしそのものはそんなに差がなかったのである。

グローバル経済がこうした国々の格差を露骨にする,給料が十倍とか違う,それがもし人が交わらなければ問題は起きない,貧乏な国はその国の中でその貧乏の中で生きてゆくほかない,そして貧乏人同士助け合うということもある
格差が国々で拡大して人と人が交わるとき問題が生じるのである。

おそらく物だけが入ってきているとしたら人が交わらないとしたらこういう問題は起きないのでないか?
その国がどんなに貧乏でもその貧乏を知ることはできない,また金持ちのことも知らない人と人が直接交わることは物が流通するのとは全く違ったものになる
一人の外国人がよその国に入ることは全然違ったものになる
様々なも軋轢を産む,文化も宗教も違うし差別なども身にしみて感じるようになる
それで日本に来たベトナムの実習生でも日本を恨んで妬み帰っていい印象をもたないようになるのである。
もし観光だけで来ているのならこうはならない,でも観光するにも金がいる
ただ今は平等に東南アジアでも中国でも日本に観光に来ているから格差はなくなったのである。
そして今度は日本人が中国人より貧乏になり観光に来た人達を接待するようになった
それがグローバル経済でもある
一旦経済の競争に負けたら外国人に使われるようになるのである。
女性も売られたりするようになる,それがグローバル経済なのである。


金,金,金・・・・

借金した者が飢えた獰猛な虎のように襲ってくる
ハエエナが屍をあさる,それは遺産を争う人ににている
弱きものは狙われ襲われ真っ先に餌食になる
弱肉強食の世界に生きざるをえないもの
獣の中で人は生きる
人の世では金がものいう
人は金に泣き金に笑い金に苦しみ金に翻弄されて生きる
一時たりとも金から離れることができない世
金をくれ,金をよこせ,金をください・・・
金でめんどうみろ・・・すべて人の世は金がまとわりつく
金の切れ目が縁の切れ目・・・・
そうしてすべては去った
一日でもいいから金から離れたい
金とは人間の欲でありその欲は消えない
そして心から思う
自ら額に汗して稼ぎ本当の実りを我が手でとる
金で買うのではない,自らの労働で実りを得る
または神から無償で果実が与えられる
あたかもマナのように与えられる
金をめぐってこの世はまわる
金から脱することができない世
家族も肉親でも金で争っている世
何かが間違っているとしても金から逃れられない世
いくらあっても金はたりない
それより人間の欲望は永遠に満たされない
餓鬼地獄に生きている人間
金が悪いのではない,それは手段にすぎぬもの
金にすべての悪をおしつけることはできない
それより金は現物を離れて操作される
我々は今金に操作される世界に疲れた
人間は金ではない,本当に価値あるもの得たい
金で計れない価値あるものもある
値段がつけられないか価値あるもの
そういう価値こそ本当に価値あるもの
それは金で変えられないから・・・・

posted by 老鶯 at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年03月09日

利益だけを金だけを追及していると判断を誤る (でもそれから逃れられない人間)


利益だけを金だけを追及していると判断を誤る

(でもそれから逃れられない人間)

人間の最大の問題は何か?
それは生きる限り利益を追及することから逃れられないことである。
なぜならあらゆるものが会社でもそうだし教育関係でも医療関係でも
利益追及から逃れられないからである。
利益追及ということはあらゆることが金だということに通じている
人間は生涯金から離れられないのである。
地獄の沙汰も金しだいになる
結果的にそれが人間を社会をゆがめることになる

原発事故でもどうして起きたかとなれば金が関係している
政府と東電がかかわり莫大な金が使われた
その金は地元にもばらまかれその金によって原発は実際は地元の人によって積極的に誘致されたということもある
放射能の危険を知らなかったというがその前に金が利益になるからということで危険より利益を金をもらうことを優先したのである。
つまり人間は社会でも利益が優先でありそのために狂わされる
実際に金に狂っているというのが社会である。
金によって人生は狂わされ社会も狂わされている

例えば教育とか医療は金を利益を本来は追及するものではない
でも現代は医者でも医は仁術ではない,医は算術になりいらない薬や無駄な治療をして保険の点数を稼いだりする
それはまた病院側にすれば金を稼げなければいい医者や看護師とかも雇いないしいい機械も用意できないとなれば患者も獲得できないともなるからだ
だからあらゆる分野で金が追及される

それから宗教の分野でも金が利益が追及される,会員をなぜそんなに増やさなければならないのか?それは勢力を拡大して世間に圧力をかけ自分たちの利益を追及するためだともなる
教育でもそもそもなぜ自分たちの団塊の世代は数が多いから競争が激しい
それで受験戦争があった,その勉強はなぜするのか?
教えられることは勉強しなければ立派な人間になることではない
一流大学に入らないと損するからだ利益にならないからだ
出世もできないとか言われる,立派な人間を育てることを目標としていないのである。
知識とはなんのためにあるのか,もう利益のために金をもうけるためにあるとなる
そうしてみんな金に狂わされてまともな議論もできない
早期教育がどうすればいいのかというときそれを推進させるのは塾を経営する人達はそれでビジネスをするためであり金になるからかかわってくる
そういう人達はとてもそうした議論すらできない,まず利益になるということで議論するからである。

芸術だって利益から離れられない,売れないものは何の価値もないとされ芸術家などなんの価値もないとされるのである。
自分がしていることは実際は遊びであり金儲けのためにしていない
プログも無料で提供できるから何か利益のためにしていない
本なら出版社とか書店がかかわりそこでも売れないと困るから売れるものを書けと有名な人でもそうさせられるのである。
そこでゆがめられるのである。何か本当に著者が書きたいことも書けないのである。

広告自体がおかしい,薬とかいろいろな宣伝でもこれが効きますよと言っているのは
金をもらっているからでありその薬が飲み物が効くかどうかそう宣伝している人すらわからないのである。
それは金をもらえるから言っているだけなのである。
こうして金によって狂わされているのが人間であり社会である。
マスコミがおかしいのはそうして会社から宣伝費をもらって成り立っているからである。
そこに公正な報道などない,東電からも何百億円の宣伝費がマスコミに流れていたから
原発の危険をマスコミでは報道しなかったのである。
その利益に目がくらみ判断が誤るのである。マスコミの害はみんなが見ているからそれで今度はみんなの判断も誤ってしまうことなのである。まず重大な事実があっても報道されないことがあるからだ

奇妙なのはチンパージーに遊びを覚えさせたがそこでその遊びをやらせる動機を餌を与えることでやらせようとしたら遊びをやらなくなった
チンパージーは純粋に遊びを楽しんでいたのであり餌のためにししていたのではなかったのである。
芸術は本来遊びの要素が大きい,餌が与えられるから金になるからするというわけではない,評価はされるにしろそれがすべて金でされるものではない
かえって金のためにすると芸術は汚されるとういことがある
芸術とか学問でも宗教でも利益を金を追及してするわけではないからだ
真善美を純粋に追及するものである。真理を追及するときそこに利益追及とは違うのである。
それがすでに幼児からでも小学校からでも利益追及がはじまっている
早期教育によって天才を作るというとき親がそれによって将来利益になるということを考える,それを推進されるのはそれで金ももうけになる,塾関係だとなる
それが必要なのかどうかは議論はそういう利益と関係している人にはできない
利益にかかわらず追及すれば議論もできる
何か利益とかかわり金とかかわるとき議論もゆがめられるのである。
だから原発でもものすごい利益と金がかかわっていたから最初から危険のことなど議論もできなくなっていたのである。
科学的真理とか事実とかあってもそれも利益とか金のためにゆがめられるのである。
だからまともに議論もできないのである。

自然界はチンパージーの例でも純粋であり本当に正直である。
花を見ていればそれが何か利益になるから咲いているのではない
ただ神に与えられた美を示すために咲いている,ただそれだけのことである。
自然に咲いている花でもそれをとって売ろうとすれば利益から花をみているとなるからだ自然界は何かそうして利益のために存在しているのではない
人間社会になるとすべてが利益のために存在するようになる
あらゆるものが利益の追及なのである。
そうはいっても人間ならうまいものを食べたいとか家ももちたいとか車をもちたいとか
いろいろな欲望がありそれが悪いとはいえない,そのためには利益を追及する金をが欲しいということは悪いとは言えない,そのために働いているのだともなる

ただ人間は利益だけから金だけからみていると追及すると判断を誤る
原発でもそうである。まず金ありきからはじまっているから判断を誤ったのである。
銀行にしても投資信託をすすめたのは銀行の利益を優先していすすめる
投資信託は銀行にとってもうかるからであり顧客のためではない
だから株が上がったのに銀行員が投資信託をすすめたのは判断を誤ったともいえる
自分の利益を優先するから銀行の利益を優先したからである。

そういうことは無数に社会ではある,それが日常だともなる
ただ問題はそこで大きな判断の誤りがありとりかえしのつかないことになる
原発事故のようになりもう後でそのことをなにかにや言っても無駄だとなってしまう。
そしてそうした判断の間違いは戦争とかなる何百万人も死ぬとさえなるから怖いのであるもし純粋に真善美を追及していれば誤ることはないのである。
ただそれを追及することは至難の技だとなる
この世で生きることもできないともなってしまうとなる
世の中はそういうものだとしてあきらめて妥協して生きるほかないとなっているからだ
別にそうはいっても正当な報酬で生きている人はいる
仙台からきたユニットバスを作った人は百万だったがガス屋の人はこれは二百万するといっていたからだ,すると別にその仕事はどこも悪いものはない
それだけの仕事をしたのだからそれも安くしてくれたのだから顧客のためになっていたのである。だからすべてこの世の中は利益を追及してもそれが正当な報酬を利益を得て生活している人も普通にいるのである。
でも利益追及のために社会全体がゆがめられていることは言えるのである。

posted by 老鶯 at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題