2016年02月12日

世界同時株安に翻弄されて不安になるのはなぜ? (見通しがたたない、空間的にも時間的にもー紙幣は紙屑になり数字でありゼロになる)


世界同時株安に翻弄されて不安になるのはなぜ?

(見通しがたたない、空間的にも時間的にもー紙幣は紙屑になり数字でありゼロになる)


今日は真っ暗な道を自転車で帰ってきた。そして何かにつまづいたりなれた道でもずいぶんそれてしまった。
でも道は知っているから迷うということはない、自転車は暗いと迷いやすい、それで地元でないと迷ったときあせった。そこが全くどこなのかわからなくなった。
皆目検討もつかなくなることがあった。その時はパニックになる。
でも地元でこうして暗闇でつまづいたりてもあせることがない、なぜならその行く先ははっきりわかっているし必ず帰れるということはわかっているから途中でつまづいてもあせらない、いくら闇がおおっていても安心しているのである。


暗闇でも先の見通しがたっている、行く先がわかっていればあせらない、なぜ人は不安にかられるのか?
もし地元でないと先の見通しが全くつかなくなる、暗闇では余計にそうなる
そうなるとあせるし不安が増大する、パニックになる。
つまり地元では暗闇でもすでに心の中で道筋がはっきり見えているのである。
だからあせらないし急ぐこともないし安心で暗闇の中でも帰って行ける


世界同時株安と株がこれからどのくらい下がるのだろうとか、何か不安になるのは先の見通しがたたないから不安になる、こんなことは今までも良くあることだしまた株は下がったら上がるもんだよと誰も確信して言えないし先の見通しが言えない
それでみんな不安になり世界が不安心理におおわれるのである。
現代のグローバル社会は具体的なものとしてとらえられない世界に生きている
未だに自分の金融資産がどれくらいあるのか具体的にわからない、それはなぜなのかというと数字になっているからわからないのである。
数字だと抽象的であり具体性がないのである。
これまでは現物で経済を計っていたのである。給料も米高で相馬藩だったら六万石であり給料も米高で何石とりの侍とかなっていた。
こういう経済はわかりやすいのである。米で計られ米で一俵とかで計られる経済である。だから蔵に米が俵につめて置いておけば安心だとなる
まさに実物経済だった、それは江戸時代まで金は流通していても基本的には実物経済だったのである

金融というのはグローバル社会では数字で動いている、実物経済ではないのである。
だから世界が数字化して動いているからそこに落とし穴がある。
数字としての紙幣と現実に動いている実物が動いている世界とは違うのである。
世界が数字によって操作される、マネーゲームになる。
もちろん原油安が株安の原因とされる時、原油は世界の経済を動かすマネーである。
それは米と同じである。でもそれがマネー化するとき紙幣となり数字化した世界となる
だから現実の実物の世界として反映した経済ではないのである。
つまり現実の実物経済と金融化したグローバル経済のマネーゲームは違ったものなのである。
江戸時代などは社会がこんなに複雑化していない、実物経済がベースだからわかりやすい社会である。
人間の関係もやりとりもわかりやすいのである。
何かこうした架空化した数字化したマネーゲームのようなことをしているのは本来の経済ではない、経済とは経世済民から来ている、右から左へ巨額の数字化した金を動かすのが本来の経済ではないのである。
アベノミックスとか黒田氏の金融政策でもうまくいかないのは実物の経済と離れたものとして金融があるようになった。それは世界的にそうである。


奇妙なことだが現代のグローバル経済では何億もってようが安心を得られない、なぜならそれはあくまでも金といっても紙であり、数字にすぎないからである。紙だったら紙屑になるし数字は簡単にゼロになるからである
紙幣という金がそれほど信頼される富かというとそうでもない
だから大金持ちでも現代では不安をもっている
金がたまったら土地を買えということはそのことである。
自分の母も戦前に前の夫が事故で死んだとき一生暮らせる補償金をもらった。
でも実際は戦争になりその紙幣は紙屑になったのである。
残ったのはわずかに買った何反かの土地だけだった
原発事故でこの辺では避難区域から移り住んだ人が増えた
その時土地が求められた、補償金で家を建てるにも最初に土地が必要になる
それでこの辺では土地が三倍くらいに高くなったのである。
金はまさに紙屑となり数字はゼロとなる恐怖があるからみんな不安なのである。
これだけ豊でも不安を解消できない、それもまた皮肉な矛盾した現象である。


いづれにしろ人間は暗闇でおおわれるとき見通しがつかないからパニックになる
地震でも津波でも夜起きたらさらに被害者が増えた、そういうとき見通しがたたないから逃げることもできなくなる、津波から避難するときもあの道を行って坂を上って高台に逃れればいいと頭に入っていれば見通しがついていれば助かりやすい
でもそういう見通しがないとパニックになり迷うのである。
釜石で子供が津波から逃れられたのは避難訓練していてどう逃げるか道筋をわかっていたからである。それは自分が自転車で暗闇を帰れるのもその道筋が暗くても頭の中でわかっているからである。見通しがたっているからなのだ。

なぜまた現代はあらゆることで不安が増大するのか?それは情報過多ということもあるしマスコミもまた不安をあおる、週刊誌でも不安をあおる記事を書くと売れる
いいことばかり書いていると人はその記事も読まないのである。
「大きな地震がまもなく来る」と書けばみんな恐怖して読む
「もう百年は大きな地震は来ない、津波も来ない」と書けばあまり読まないのである。
なぜなら百年後となるともうみんな死んでいるからである。


いづれにしろこの世から不安をとりさることはできない、この世の終わり来るというのも真実である。むしろそのことを受け入れて来世を待ち望めばかえって見通しがたって安心だとなる、ジタバタしてもどうしようもない、来世なら天国なら永遠の安心があるが
この世にある限り不安から解放されることはない、それが人間のカルマであり生きることだとなる、実際は安心なのに安心でないとあおりそれで金を手ばなさない、消費しないというのも本当だろう。
今の世の中金がなければ老人を相手にするものもいない、子供すら頼りにならないとなると余計に金をためて使わないとなる
そして確かに人間の寿命は本人にもわからない、すると不測の事態が必ず起きる、その時金がないと困るとなり老人はためて使わないとなる
経済でもグローバル社会は世界的不安におとしいれる、それが怖いのは世界恐慌から戦争になったからである。グローバル経済はグローバルな戦争を引き起こすから怖いのである

こうした人間の不安心理を利用するものもいる、カルト宗教団体などがそうであり人を不安にして壺を買わせたとか商売にしたものもあった。
仏教でも安心立命とかというたとを言うから安心とかは宗教に帰依しないとないかのかもしれない、それはカルト宗教団体でもそうである。莫大な金をもっているからである。
自分もまた株に頼ったりしているからお前もそうじゃないかということもある。
では一体どこに安心があるのかとなる
それは金という紙幣なら確実に紙屑になるということは確率的に今は大きい、数字がゼロとなり全財産を失うことはありうる、では何か安心なのかとなると皮肉というか矛盾だけど自給自足的な生活に安心かあったとも逆説的にはなる
なぜならグローバル経済など関係ない、外から何も入ってこなくても一応生活できるようになっていたからである。
もちろん原発事故で空気も水も森林も汚されたらもう自給自足もなにもない、住めなくなったら何に頼るのかとなるとこの辺では補償金になってしまったのである。
飯館村の人が野菜など作り自給していたが金に頼るようになったら不安になったというのも象徴的だったのである。




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2016年02月11日

世界的株の下落について銀行の部長と話する(短編小説)


世界的株の下落について銀行の部長と話する(短編小説)

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只野は東北のある田舎に住んでいた。只野は最近遺産がそれなりに入った。それでこの頃銀行は利子もつかないので外国の国債とか不動産に投資することにした。
その額はそれなりに大きかったので銀行の人が時々来るようになった。
その銀行は小さい銀行である。若い人が来たときも自分は証券の方で働いていたのですとしきりに言う。
それで勘違いしていたのは証券会社で働いていて銀行に移ってきた人かと思っていた。
「私は証券の方で働いていましたからまかせて下さい」
そういうふうに自信ありげに言う、性格的も押しの強い性格である。
只野が最近の世界的株の下落と原油安で心配になり銀行に聞きに行ったこともあった。
前には日本の株に投資していた、それが七年前くらいでありその時も最初は調子よく配当金が入っていた。その額は少なかった。それでも利子がつかないよりはいいと10万くらい配当金があり喜んでいたのである。
それが急速にリーマンショックになり半分になったのである。
今回もそういう急速な株の下落が起きてまたリーマンショックなのとか不安になった。
それで今日はいつも来る若い人と本店の営業企画部長の人が来て話した。

「カナダも原油安で裏目にでた」
「まあ、石油にもいろいろあるんですよ、一種類じゃないんですよ」
「そういうことをテレビで自分も見ました」
「石油は今下がっていますがとてもつづかないですよ、サウジアラビアなどはもうもちませんから、政情不安定になり政権も危なくなりますからまた石油は上がってきますよ」
「そういうことを解説している人がいます、また上がってくると、、、、」
「もう少し様子を見ていて下さい」
「みんな不安になっています、どうなるんですか」
こんなことを話した。

只野は原油はいつも高い、安心する投資だと思っていた。それがこんなに原油安となることが意外だった。そしてカナダが原油が世界で4番目にとれていることも知らなかった。
原油は世界で結構とれている、これだけ原油安になるとロシアから中東から南米でも経済が苦しくなり政情不安になる。
原油だけではない世界が政情不安になる
「ヨーロッパも危ないです、あそこはまとまらずEUが分裂するでしょう」
もともとまとまらない、歴史的にもそうでしょう」
「ペルギー人とあったけど盛んに俺はベルギー人だと主張していましたがあんな小国でもそういうことがあるからまとめるのは容易ではないでしょう」
ヨーロッパは日本のように城が多いから日本と似ていると只野はヨーロッパを旅して思った。日本の封建時代とにていると思った。
それから中国の話になった。

「中国では車が2500万台走っているんですよ、だからガソリンを消費するんですよ」
「そうですね、中国は今は北京など日本より物価が高いでしょう、時代が変わったもんです」
「中国の消費量も下がったもの一時的でしょう」
「東南アジアに行くとベトナムでもカンボジアなどはまだ車は普及していない、足はバイクです、道路一杯をホンダのスーパー株が走っていました、面白いのはカンボジアでは
中国人がカンボジア人にバイクを貸して営業させていました、ともかくカンボジアはやすいですから日本円でももっていけば事業起こせると思った。
バイクを買って貸せばいいからです、そんなことを考えたのもあまりにもまだ日本円との差が大きすぎるからですよ」
「東南アジアはこれから車が普及してゆくでしょう、常に世界は変わっていますから」
「そうですね、中国も十年たってあんなに変わってしまいましたから」
「東南アジアというとベトナムはフランスだったか」
「ベトナムでは漢字を使っていたんですよ、それからカンボジアのアンコールワットの壁画には中国人の兵隊とかタイの人も浮き彫りとして残っています,あの辺は昔から中国とかタイとかベトナムでもせめぎ合いがあったんです」

只野が田舎町に住んで世界情勢など直接語る人がいなかったのでその銀行の営業部長とかの人とと話して多少興奮した。
只野が世界旅行したのは50才からでありそれでも世界を20カ国くらい旅したのでそれなりに詳しくなった。それまでは本を読んで世界を知ろうとしていたのだがそれが失敗だったその時は日本が海外旅行ブームであり熱気となっていた。
なぜならその時の円は80ドルとかであり高かったから円の価値があったからである。
今は120円とかなったとき高いから海外旅行をもしにくいのである。
かえって中国人とかの爆買になり日本の風俗にも中国人が来ているというから逆になったのである。カホボジアでは5ドルで買っているとか信じられない安さでありそこに日本人やヨーロッパ人がたむろしていた。なにか自分は嫌だったが報いとして今度は日本人はそういう立場になるのもカルマだと思った。
そもそも中国に新幹線ができたということ自体時代が変わった。只野が行ったときは汽車で流民化した出稼ぎ労働者が家畜のように積み込まれて都市部に移動していたのである。車掌が笞で乗客をはたいていたというからまさに家畜だったのである。
それからたちまち十年以上たつと中国も変わってしまったのである。

ともかく只野にとって銀行は遺産がおりたときからかかわることになった。
そして株をするようになってからもかかわるようになった。
ただ株といっても不動産とか配当金目当てであり只野は年金をもらえないので月に配当金をいくらかもえればいいと銀行を通して投資したのである。
でも銀行が今や利子もつかない、マイナス金利にもなり一体銀行は何なのだろうと疑問に思った。営業部長といってもその人が証券会社の人と錯覚していたり銀行自体証券会社の支店化しているのかとも思った。
そもそも銀行自体がフインテックとかIT化されたり利子もつかないことや投資先がないとか経済の停滞でもうけることができない、銀行自体が消滅するのではないかということも言われる時代である。

つまり銀行の役割が消失しつつあるのではないかということである。
そもそも銀行がなにかということもわかりにくいがこれは江戸時代にはなく明治になって資本主義が導入されて不可欠なものとしてできたのである。
二宮尊徳が資本主義を江戸時代にはじめた先覚者だと言われる
資本を金をためてその元手で資金で生産を増加させたものとして評価されている
その時銀行はなくても資金を集めためて活かしたのだから銀行のはじまりのようなものだったのかもしれない。
そしてある本を只野は読んで銀行に貯金することは投資することでもあると書いてあるのを読んだ。なぜなら銀行とは金を集めてその金を貸してもうけて利子として配分するから株式会社と同じだということを知ったからである。
銀行が貸ししてもうけることができなくなれば利子も配当できなくなれば存在価値がなくなる、それで証券会社の下請けのようになってしまっていると思うのも当然である。
只野はともかく金がやはり現実に増えたり減ったりするから株がどうして上がったり下がったりするのに関心が向く、それが世界情勢とも関係しているから世界が身近に感じられるということもあった。
それは学問としてではなく現実の金がかかわっているから余計にそうなった。

銀行というとき大金をあづける人でも会社でも組織でも団体でもそれで銀行が経営できるのだからその金を積んでくれる会社でも組織でもその経営まで参加するようになるだろうそういう大口の貯金が引き上げられたら経営すら成り立たなくる
それである巨大な宗教団体ではその経営者のようにもなり銀行を支配するとまでなる
そういうふうに金の力はあるゆるところで左右する、マスコミにもそうした金が流れ支配されるから公平な報道などない、ドルが世界で一番強いというとき世界が金を通じてアメリカに支配されているということである。
エジプトの果てでロバに乗った少年がワンドーラくれというのもそうである。
アフリカの果てまで通じる金はドルなのである。
アメリカに逆らうものは今中国あれ世界でロシアであれ南米であれ石油安によってもつぶされるというのもなおアメリカが世界を支配しているからだともなる
その営業部長は終身保険としてオートラリアをすすめてきた。
「オーストラリアはこれは一番安全な商品です」
「こんなときオーストラリアがいいでんすか、石油安ですよ」
「石油はこれから上がりますよ」
「なにか、みんな不安でしょう」
「これは一時的なもんですよ」
只野は家族に従軍看護婦として今のシンガポールの対岸のマレーシアのジョホールバルという所のイギリスの赤十字病院に四年間いたのでそこに行きたいと思っていた。
オーストラリアにも行っていないのでそこを回って行ってみたいと言った。
只野はもう家族の介護でここ十年はどこにも行っていない、旅をしていなかったのであるただ年も年だから何か旅するのも海外旅行するとなると億劫になってしまった。
海外旅行ではひどい目にあっているので余計に今行くとなると嫌になっていた。
でもやはり家族に千回も聞いた話の場所には直接行ってみたいと思っていたのである。




あとがき


小説は苦手でありドキュメントとしてプログに書いてきた。プログはそれぞれの個人のドキュメントとしてニュースとして新しいジャーナルとなった。
マスコミで報道することだけがニュースでもない、個々人がニュースになった時代である例えば家族にとって家族の死であればこれは一番のニュースになる
だから母の死などをプログで書いたときそれも実際はニュースなのである。
ただ読む人の数がマスコミからすると極端に少ないし注目されないというだけである。
でも新聞で毎日死んだ人がのっているがその人がどういう人だったかはほとんどわからない、そうなると郷土の人でも何もわからない、ただ死んだという報告だけなのである。
それでは一人の人が郷土で生きて死んだということの意味とか価値もわからないのであるそれは郷土史としてとりあげることもできないのである。


郷土史というとき過去だけではない、今生きていることも郷土史でありというより郷土学になる。銀行でもやはり郷土として関係してくる、あらゆるものが関係してくるのが郷土学となる、郷土学とはトータルに社会をみるということであり意味を探求して価値づけるものである。
だからその範囲は自然も含めて広範囲になる、とても一人ではできるものではないのである。
自分は大学は経済学部であってもほとんど勉強していないし大学でもやっと入ったのであり三流であり遊んでいただけだった。
だから基礎的なものがわかっていない、それでも経験をつむとそれなりにわかるものがある、ただ現代は本当にグローバル社会になるとき70になろうが一生かかってもわからないことが多すぎるのである。
銀行とは何かとなったらこれもわからない、銀行に貯金するこきと投資することだよというのもそうなのかとなる、銀行には貯金して利子をもらうものだとばかり思っていたからである。現実にマイナス金利になったら株と同じとなった。
銀行でももうけられないとなると株のように低下してマイナスになってしまうのである。

いづれにしろこの十年間で経験したことをプログに書いてきたがこれは分厚い小説になるその能力が不足しているがやはり小説になるとすると特別の経験をしたときなると思った平凡な生活をしていれば小説にもならない、戦争など経験した人は小説を書けると思った能力が不足しているがそうなる
そして今プログにはそうしたネタが無数にある。もし小説家が読んでいたら小説のネタにはことかかないとなるだろう。

タグ:銀行の話
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2016年01月09日

武田信玄はなぜ天下をとれなかったか? (天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)


武田信玄はなぜ天下をとれなかったか?

(天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)

武田信玄が人は石垣、人は城としたときこの原理に従って言った。人の和が一番大事だから城はいらないとした。
そして滅亡したのは肝心の人の和が家臣団の和が崩れたためだとなる。
次の代の勝頼は家臣団をまとめることができなかったためだという。
人の和というとき中国は巨大だから必ず分裂して三国志が生れた。大きすぎて一つになる、和を作れない国である。それが弱体化する原因である。
日本は一億総なにかとか一眼となってまとまるから小さい国でも強いとなる。
和の力が働きやすい国である。


でも国の興亡でも人でも家でも何でも一つの原因で決められない、様々な要因があり一つではないのである。
武田信玄には何かそれがみんなあてはまる。地の利というときこれも山国であり外の情勢にうとくなる。山に囲まれているから閉鎖的になる。それは会津ともにている。
だから直江津の港から海に出たいということで謙信と戦ったということもうなづける。
今でも直江津は船がでているし自分もその船に乗ろうとしたが乗れなかった記憶がある。戦国時代地の利というとき一番信長もっていたのである。京都に一番近い距離にあったこともそうだし海に面していたのもそうである。
京都に近いから近江にその居城、安土城を作ったのもそのためである。
歴史的人物が生れるにしても地の利というのは影響している
どんなに傑出した人間もその人の力だけではなりえない、地の利の制約を受けるのであるだから政治は地政学であり地の利を基にして考えねばならない


ロシアは武田信玄のように海にでるための港を求めた。それでロシアはシリアに固執するのは地中海の港がありそこを海に出る拠点にしようとしているからである。
その前にはだかるのがトルコになっているからEUは地政学的にトルコと組みトルコを重視すべきだったというのもわかる。
世界でも世界史でも地の利がわからなくして理解できないのである。
そして日本国内でも地の利というのが一番わかりにくいのだ。福島県自体も広いからわかりにくい、この地の利で何か必ず誤解が生れてくるのである。
一つの県から地の利がわからないのである。東北はなんとかわかるがそれだって岩手県なども広いからわかりにくい、他でも一つの県から地形を具体的にイメージできないのである。
イメージしやすいのは奈良とか近江はイメージしやすい、奈良は平地を山が囲む広い盆地であり

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし


近江も中心に琵琶湖があって山が囲んでいるからである。そして近江は東と西の境目である。
関が原を境にそうなっている。関が原を越えると近江であり景色も何か穏やかな感覚になる。そして関が原が天下分け目の戦いの場であるというのも地の利のためだった。
必ず春にゆくと関が原は雪が残っている地帯である。
そこが西と東の境目としてふさわしいのである。東(あづま)は関が原からはじまる地域だった。ここで西の文化と東の文化が別れる地域だった。
それで伊吹山でヤマトタケルが死んだ山でありここを境にして壬申の乱があり西と東の勢力がぶつかる地点だったことでもわかるのだ。


いづれにしろ武田信玄は天の時、地の利、人の和からみるとそれを象徴している人物なのである。
人の和があっても人の和が崩れ地の利が京都から離れて山国で天下を見るには不利であった。そして天の時も逃したのである。
天下をとるにしては謙信との戦いで時間を消耗した、結果的に天下とりに出たのが遅くすでに50をすぎて病気にもなり天の時を逃して挫折した。
人間は今でも個々人でも組織でもそうだろう。天の時、その人の人生でチャンスがくるのは一回しかない、それを逃すともうチャンスは永遠に来ない
ビジネスでも営業でも一回のチャンスをものにしないとあとは契約がとれないともある。それはどんな分野でもそうである。チャンスは何度も来ないのである。
恋愛でもチャンスは一回でありその時しないとあとはできない、つまり十代とか二十代の前半くらいまでしかできない、求道でも若い内しなければ年取ってからできない
若いとき放蕩したりすると老人になってもひびく、真善美を求められなくなる


結局ここの人間であれ平凡な人間であれ一つの教訓を残してみんな死んでゆく、武田信玄も英雄にしてそうだった。
死んでからこの人はこうだったああだっとかいろいろ批評する、そこには必ず教訓を残しているからである。それは平凡な一生でもそうである。
なぜその人はもっと何かをしていればよかったとかなぜもっと遊ぶということもしなかったのかとかなる。
それは時代を反映していたのだけど戦前生れだと働くばかりだったのはそういう時代だったからである。
でも戦後の団塊の世代になると遊び上手になる、近くの人が58才頃からスキーをはじめたというから驚きである。ピアノもしているとか趣味をもつようになった。
でもすでに65才くらいになっていて良くできるなと感心した。こういう人が戦後生まれには結構多いのである。そこが戦前生れと違うところである。


人間はただ長生きしただけで天の時を得ることがてきる場合がある。徳川家康は長生きしたから天下が自ずとれたともなる、武田信玄も長生きすれば違っていたのである。
才能がなくても長生きすればそれなりのことがてきる、才能があっても早く死んでしまうとできない、そういうことは個々人の人生でも家族の中でもある
母は百才まで生きたがそれが家族の中では意味ある価値あることだった。
もちろん長生きして意味がなく価値がなくなる人も多いし現代ではその方が多いから問題なのである。
でも才能を伸ばすのには長生きしていた方がいいとなる、凡庸な人間でも長生きして積み重ねるものがあればそれなりのものになりうるからである。
一方で天才的人物は別に長生きでなくても成果を残す、天才が短距離走だというとき短距離は努力してもなれない、生まれつきのものであるからだ。
マラソンはそうではないというとき平凡な人にも向いているというときスポーツでも生まれつきだけでは決められないものもある
大器晩成というけど平凡な人が長く時間をかけてやればそれなりのものになるということであり別に大器だからではないのである。
だから高齢化社会は平凡な人の才能が華開く時代だともなる
多様な才能が華開く時代だともなる、それが高齢化社会のプラスの点でもある


タグ:武田信玄
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2016年01月04日

何のために誰のために働いているのかわからない (見えない不特定多数の人のために働く矛盾)


何のために誰のために働いているのかわからないグローバル社会


(見えない不特定多数の人のために働く矛盾)


この社会は働くことを至上の価値としている。だからこの社会で働かないものは最も批判されるべきものであり無職は人間でもないから殺処分すべきだと盛んに言う。
働かないニートなどは最も忌むべきものとして社会のゴミだとしてそう言われる
つまり働くことが至上の社会では当然そうなるのである。
「働かざるもの食うべからじ」なのである。
要するに誰かが働いているからこそ働かないでも生活できる人がいるとなるからだ
俺たちが働いているのにお前はは働いていない、俺たちはお前の奴隷なのかともなる
所が現代社会はグローバル社会であり自分たちは誰々の奴隷だなどと意識できない
ローマ帝国とか何か貴族がいて下級階層がいてとはっきりしていればそういう不満は成り立つ、あいつは贅沢して俺たち毎日あくせく働いてやっと食べているだけだとか目に見えてわかるからである。そういうことでマルクスがその俺たちを奴隷にして働かせているのは資本家だとして攻撃の対象として革命して労働者階級主体の社会を作るべきだとして共産主義社会を理想の社会としたのである。


でも結局今度は中国などのように共産主義革命が達成しても今度は働くのは誰のためだとなると高級官僚とか共産党の幹部のためだとかなる、そうして革命で特権化した階級が生れそれは資本家と同じではないか?
労働者が平等に働いて豊になるということはなかったのである。
そもそも働くということは現代は何のために誰のために働くということが具体的にイメージできないのである。
それはあらゆる働く場所でそうである。一体コンビニでもスーバーでもそこで働くことは誰のために働いているかなど意識しないだろう。
確かに客として来るけどその人を意識して働いているというのではない、小さな町でもどこでも大勢の人のために働いているからである。
だから誰のために働いているということが意識できないのである。
そして何のために働いているのだろう?それも意識できない、わからない、なぜならグローバル化した社会では品物はあなたの身につけている着るものでも外国で作られているし地球規模で労働しているものが提供しているからである。
そういう人たちは誰のために作るなど意識できない、ただ金銭のために働いている
それが何のためか誰のためなのかなど関係ないのである。

だから現代の労働は矛盾している、労働すること自体に生きがいを見いだすことはむずかしい社会である。その成果はすべて金に換算されることによってあるのであり
誰かのために働いたとか私はこうして働くことに生きがいをもつということはまれなのである。労働は金に換算されてしかありえない、どんな辛い労働をしようがすべての労働の価値は金に換算されて計れるだけである。それはマルクスが言って社会の変革をうながしたのだがそもそもグローバル社会になればどっちにしろ誰のために働いているかなどわからない

誰かのために働いているというのが明確なのは子育てとかである。母親は明確に自分の子供のために骨身を惜しまず働いている。食事を出したりいろいろと子供の世話をする
それは親の愛でありその労働する対象が明確なのである。
そういう労働は明確であり子供はたいがいは親に感謝する、それは子供でもともかくわかりやすいからそうなる、自分は特に60までそうしてくれたから特に感謝しているから介護もしたのである。介護は恩返しだったのである。
でも自分のために働いていくれる人にそうして親のように感謝したりしない
それはすべて金で換算される、金を与えてそれで終わりである。感謝などしないのであるもちろん働いている人もある特定の人を意識して働いている訳ではない、その報酬はただ金で換算されて金が労働の報いなのである。
だからすべて労働の価値は金で換算されるしそれ意外はないのである。
もらう金が少なければ価値がない労働だというだけである。
でも子育てとかの労働は特定の人のための労働だから金には換算できない労働である。
そして苦労して貧乏で子供を育てたというときかえってその労働の価値は高くなる
子供は親の背を見て育つというから親に感謝する度合いが高くなる
自分の母親は霜焼けで苦しんでいた。そのことで今になると感謝している
それははっきりと誰のためかということがその時はわからなくても後でわかるからである


現代の労働の矛盾は自分でも今回の津波や原発事故でも体験した。
自分が病気になり苦しい身体障害者になったとき誰も同情しない、誰も自分のために働いてくれなかったのである。
その時家に来た人は借金に追われてパチンコ屋で働いていて自分の家に来て一切なにもしない、皿一つ洗ってくれなかった。
そして二三分で帰ってゆくだけだった。その時バチンコ屋では懸命に働いていたのであるそういう事情があったからしかたないとういう面はあった。
そして一方で原発で避難民化した人が何千人と来てその人たちは暇になりパチンコ屋におしかけたのである。
自分が病気であり身体障害者となったことに全く考慮されない、その人が働くのはパチンコ屋であり避難民はパチンコ屋で遊んでいたのである。
つまり肝心の自分という病気であり身体障害者であるものは無視されてパチンコ屋で遊ぶ人のために働いていたとなる。
だからこの時そのパチンコ屋で働く人にもパチンコをしている人にも腹がたった
それは一体誰のために働くのかということが矛盾として具体的に現れたからである。
だから自分はその時思った。

バチンコする人のために働いているのだからパチンコをしている人にたすけてもらへ

このことはまた東京の親戚の人にも言えた。自分はあまりかかわらないからその人も全く自分がどういう状態にあるのかもわからない
ただ金だけが欲しい人である。それも権利はわずかでもあったので払うことはいい。
しかし自分がその時どんな状態にあったのかを全く無視しているのである。
そんなことを聞きもしないで金だけをくれとなっていたのである。
そして私はエステで働いているからそこは厳しいからすぐ帰らねばならないとその女性も話す暇もなく帰ってゆく、そんならこちらも

あなたはエステのためにそんなに働いているのだからそのエステをしてやる人に助けてもらへ

つくづくそういう労働の矛盾が自分に具体的に現れたのである。
要するに金になればいい、金に換算される労働しか今はないということである。
不思議なのは一方で医者とか看護師とか介護士とかは具体的に人間とじかに接して働くのだから感謝されやすい、特に看護師は一番感謝されやすい職業なのである。
看護師は重労働だからしたくないというけど一番感謝される職業なのである。
そういう職業はグローバル社会ではまれなのである。
昔の狭い地域社会だったら何か労働の対象が狭い範囲だから誰のためにとか何のために働くか意識された
自給自足社会ではそうである。そしてその土地のもので暮らしているからその土地の自然に感謝していたのである。それが信仰にまでなっていたのである。
それが広域化グローバル社会なると米すら外国から入るとなるとそういうこともなくなる自分の家ではまだ木材でもこの土地でとれたもので作ったからそれを自慢していた。
損なことも今はない、建て売りだと家を造る人も土地の大工ではない、みんなよそから来た会社の人たちなのである。
だから故郷という意識もなくなって故郷に未練がなくなり原発事故を契機として若い人たちは流出した。それは故郷に愛着がなくなっていたこともある。単に放射能が怖いからだけではないのである。


いづれにしろ「働かざるもの食うべからず」となるけどなぜ働くのか?誰のために働くのか?何か労働がただ金に換算されるだけの社会はマルクスの疑問のように大きな問題なのである。なぜなら毎日人は働いているからである。その働くことに意義が見いだせないのである。すべての労働は金で換算されるだけであり金を多く得るものが価値があり金が多くえられないものは人間的にも価値がないとされるのである。
だから無職は現代社会ではあってならないものと批判される
それは誰かが働くことによってお前が働くなくていいからだとなる、ところがその誰かとは誰なのだとなると不特定多数でありわからないのである。
一番自分が働いてもらいたいときに誰も働いてくれない、こういう矛盾を自分は体験したそれは生死にもかかわるということもあった。しかしそれでも金のために他で懸命に働いていたのである
別に自分は金はあったから与えることができた。現実に与えていたのである。
広域化グローバル社会の経済の矛盾はいろいろある。いい面もあるしまた悪い面もありそれがこの辺で自分の一身上で具体的に矛盾として現れて自分が苦しんだのである。
グローバル社会とはもしいい面があるとしたらアフリカとか飢えている子供などがいればその人たちを助けることなどがあるだろう。そういう遠い世界でも金が有効に働くということがある。そういう利点はあるが一方ですぐ近くでも助けられず放置されているという矛盾もグローバル社会にはある。
ともかくこの辺では様々な矛盾が露骨に具体的に現れた所なのである。



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2015年12月28日

労働の価値は常に変わっている (女性の家事労働は機械化したから別な価値を女性に求める時代)


労働の価値は常に変わっている

(女性の家事労働は機械化したから別な価値を女性に求める時代)


この世の価値は何でも一定していない、常に変動している、変数である。労働の価値も変化している。
そして機械の時代になると人間の労働の価値が急激に低下するのは本当である。
昔は江戸時代には力ある男が一人前の男として認められた。
それでどこでも比べ石というのがある。この石を持ち上げたら男として一人前として認められたのである。
要するに機械がない時代は体力がもの言う社会だった。男で体力がない人間は生きていけないのが一般的だった。体力のない人間は商人とかになり人を相手に商売するとか帳簿をつけるとか何か頭を使う仕事をするとかで身をたてる
でも一般的に江戸時代から戦前までどちらかというと体力がやはり仕事する目安になる。農業中心だったら第一次産業中心だったらそうなりやすい。
その時、農機具が発達していないからである。例えば鍛冶屋でも刀を作るにしても熱い鉄を打つ仕事は重労働である。
ただ職人でも細かい手作業の仕事はまた器用さであり違っている。


そして現代になると細かい仕事が多くなったから器用な人が価値がでてくる。
医者でも手術がうまい人は器用な人であり歯医者などでもそうである。
あらゆる場所で力目持ちより器用さの方が価値があり重宝されるのである。
ただ体力は以前として今でも価値がある。それで自分が失敗したのは自分は体力がないから体力を使わない仕事に従事するべきだった。
自分のことがわからないから勉強もしなかった。体力のない人は知的な仕事につくとなると勉強が必要になるのである。
ただ自分は学校になじめず勉強嫌いだったがあとで学問好きなことがわかった。
人間は自分の適性すらわかっていない、医者の子供は医者になるけどみんな適性が阿わけではない、そこに危険性がある。
だから親の都合で職を決定されるのはその医者にみてもらう患者に害を及ぼすから問題なのである。
それはあらゆるものに言える、適性あって仕事についている人は珍しい方かもしれないからだ。その害は本人だけにとどまればいいが他の人に害を及ぼすから問題なのである。

「労働の価値」が下げられている絶望時代
盛んにこのサイトではでは機械によって人間の価値が下がり仕事がなくなる、もう人間は働いても金にはならない、フリーターだ派遣だとか増えて働いても金にならない、大企業に勤めていても安泰な時代が終わったというとき確かに東芝やシャープでも斜陽になり大量にリストラされるから現実化している
おそらく大量の規格製品が売れる時代が終わった。日本は世界にテレビでも電気製品でも大量の規格製品を売り出して豊になった。でもそういう規格品は中国でも韓国でもどこでも作れるようになるとき価値が低下する。
そこに新しい価値を作り出そうと努力しているがなにか鮮明な画像を作り出すとか大型にするとか技術革新をしているが新しいイノベーションが最近生れてきていないのだろう。これはという商品が生れていない、何かそういう点で技術革新は限界に来ているのかもしれない、それより何かテレビの番組が面白くない、コンテンツが面白くない
芸能人の馬鹿騒ぎを写しているのももったいないとなる、最初テレビは何でもいい写るだけで視聴率が高かった、写るということが驚異的であり何か写っていれば驚き見ていた時代である。今は写るだけでは何の面白みもなくなった。
テレビという箱の開発してもそこに流す番組が面白くなくなったら見ないとなる
価値はテレビというハードに機械にあるのではなくそこに写る番組ソフトに移行したとなる


つまり時代によって価値が常に変化している。現代はインターネットで個人が放送局になったというのもそうである。個人がテレビ局になるということはイメージすらできなかったろう、そういうふうに機械が価値を変えてしまうことがある
家事などでも機械化されて家事の価値は変貌した。家事は今やご飯をたくのも機械だし洗濯でも何でもそうである。
洗濯板でごしごし洗っている時代は一大労働だった。そこに人間の労働力は費やされてきたのである。それで戦前だと女中が主な仕事であり中産階級でも女中を雇っていた。
家事そのものもが機械化されない時代は一大労働だったからである。
今でもそれなり料理などは結構な労働なのである。惣菜でもなんでも買っていたり家でする労働は相当にへった、その代わり金を得るために外で主婦は働くようになったのである家事の労働の価値は下がった他でも機械化して価値が下がるものが多いから人間が不用になり人間が働く場所がなくなり会社でも極力人間を雇うのは金がかかるから機械化する
事務ですらパソコンで機械化されるから職を失うとか人間の働く場がなくなってゆく


例えば田植えでも機械でできてい縁(へり)を人間が田植えしているという、そこは機械でしにくいからである。
そのことは中国でコンバインで麦刈りをすると人力の千倍もの力を発揮する、これまでは出稼ぎ者が人力でしていた。そこでもコンバインでてきない土地の起伏のある場所は人間がしていた。
いくら機械化しても何か機械にはできないものが残る、そこに仕事がある
そして人間の価値は変わる、機械化によっても変わる、記事でもインターネットでコンピューターで書けるとかなり新聞とか雑誌やただニュースの事実をだけを流すものは機械化される、そうなると今の新聞などはいらいなとなる
そして何かインターネットの読み方と新聞の読み方は違う。雑誌でも網羅的に書いていて一つのキーワードから記事の内容を深める読み方はできない
あるキーワードとかテーマごとに調べるとなるインターネットの方が優れているのであるそれでもすべてはインターネットでもできないしコンピューターでもできない
例えは受け付けなんかロボットでもたいして代わりないように見える
同じようなことを案内しているだけだからである
機械と人間を比べて変わりないものは機械化される、そういう仕事が結構まだある。
スーバーのレジなんかそうだろう、てもお釣りが自動にでてくることで一部が機械化されると人力が省かれるので仕事がなくなる
人手不足の時代になるといかに機械化できるかが問題になる


自分も経験したことだが今は別に家事を手伝ってもらう必要ないのである。
自分はほとんど家事はしている、ただ手伝ってもらうというときその女性は何か話がうまい、土地のことを良く知っている、同じくらいの年で経験も豊であり話が合うのである。その人はほとんど家事はしない、でも金を払っている、その人の女性として魅力は外見ではほとんどない、不細工なのである。
でもその人の価値は自分にとって相当に大きい、何かと家事ではなくても必要なものになっている
だから今は家事ができるということに価値はほとんどなくなっているかもしれない
女性でもそうである。その女性は別に中卒であり教養というものもない、でも何かいろひいろ苦労したりして話して面白いというか他にはない女性の特徴がある
その女性はそういう点で価値あると自分が認めて金を払っているとなる
なかなかこういうことをできる女性は少ないと思う


掃除なら今なら誰でもできるだろう、ロボット掃除機もでている、でも話術に巧みだとか何か機械にはできないなごみと癒しがあるとかになると人間しかできない
介護の仕事は新しいから評価されないけどロボットにはできない、優しさとか老人と話できるとかそういう要素がこれから大きくなってくる。持ち上げるとか何か力のいることは機械化される、すると何が価値あることになるのかとなり精神的なものが大事になる
そういう価値は家事が機械化したとき高いものとなるかもしれない
なぜなら家事自体が機械化されていて家政婦などがきても家事をすることもないとしたら何をするかとなるからだ。もし子供がいたとしたら子供をあやすのがうまいとか別な価値によって雇う方も雇うようになる
もし教養があるとしたら短歌でも俳句でも作れるなら学者とか何かそういう場所で重宝される、するとこれから大事なのは女性は教養を身につけることの方だ大事だとなる
いろいろな知識をもち学者やいろいろな職の人と話ができるには女性も教養が必要になる自分の母親は全然そういう余裕がなくただ家事だけをする女性だった
それは時代でしかたなかったのである。でもこれからの女性の価値は別なものであり家事にはないのである。
男も比べ石で一人前として認められた時代があり女性も家事ができることが価値だった。それが機械化すると人間の価値は変わる、そういう肉体労働は機械化がすすみ必要なくなってくる、そこで価値ある人間とは別なものになってゆくのである。
もしかしたら株が毎日変わるように人間の価値も変わっている、それに気づかないこともある。その人は時代に取り残された人となってしまい底辺化ししてしまう

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こんな募集になるかもしれない、家事が必要がないというときこれは何なのだとなるだろう
これからそういうことがありうる、家事は機械化してする必要がない
でも女性にしかできないもの女性しかもっていないものが活きる仕事はある
それはロボットで代行できないからである。





タグ:労働の価値
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2015年12月09日

保証人問題は江戸時代からあった (江戸時代から継続している人間の問題)


保証人問題は江戸時代からあった


(江戸時代から継続している人間の問題)



学校を卒業してからの就職は雇用契約、結婚も契約、離婚も多くは契約、病気治療も契約、はかなく死亡した場合の葬儀、墓地埋葬も契約である。
 このように、生まれてから死ぬまで、人間は無数の契約を締結しており、ある一面では人間の一生は「契約で始まり、契約で終る」ということができる。


興味深いのが「埒明ける(らちあける)」という言葉です。奉公に出たもの(就職する人)が雇用期間中に、問題を起こしたり、行方をくらました場合は身元を保証した名主や親類が「必ず埒明けます(必ず解決します)」と約束しています。

人格の信用を第一としていた時代だったので、一度、奉公先を逃げ出し、埒が明かずに奉公を辞めた人間は二度と正業にはつけなかったようです。


借家人の身元保証人、家請人の事

この数年、借家人の家賃が滞り、借家明け渡しに関しての訴えが多い。
そのほかけしからぬ振る舞いなどもあるので、この度大坂の町で、家請人が判代金を徴収して、借家人の身元保証人になることを、別紙五十三人の者どもの願いにより申し付けた。身元保証の方法は別紙の通りで、この旨三郷の南組・北組・天満組の町役人は承承知した。もっとも、借家人の身元保証人になる家請人の営業をする者はこの五十三人のほかは、営業してはならない旨、町役人へ申し渡した。


このような人宿のなかには悪質な者も混じっており,奉公人と
共謀して,奉公契約を結んで給金を受け取っておきながら奉公先から欠落
させ,自分も姿をくらまして給金をだまし取る等のことにより,雇主であ
る武士の被害が無視できない状態になってきた。そのため,幕府は宝永7
年(1710)8月,当時390名余いた人宿を30名ずつに分け,13 の組合を作
ることを命じた。
この組合は,奉公人が欠落・取逃したら,組合としてその雇主に給金を
支払うか代人を出すこと,盗品がある場合はその代金を返済すること,欠
落した奉公人を組合として捜査することなどを責務とした。



奉公人争奪
がせり売り状態になって給金が高騰する, 手数料等の奉公人宿への支
払いが多くなって同様に給金が高くなる,という理由を挙げて,今後雇用
契約は相対にさせて欲しいとの願書を提出している。



江戸時代は何か現代とは隔絶した時代のように見える、でも人間社会は実際は継続している、歴史は継続して積み重ねて作られてきた。
だから何でも歴史的に考える必要がある。現代の問題は現代だけの問題のように見えてそうではない、必ず歴史的継続の問題として考察する必要がある。
保証人問題の根本は人をいかにしして信用するかにある。
これはまず人類が生れてからの最大の問題である。そもそも人間が信用できない、人間が罪を犯す、人間を性悪説を前提として法律ができたのである。
十戒でもそうである。殺すな、盗むな、姦淫するなとかはどこの国であろうがするなとなる、ただ十戒で偽証するなというのは何かすでに裁判制度があった証拠なのかもしれないそもそも人間とは罪を犯すものであり信用できないものだからこそ法律が生れた


なぜ保証人が必要なのかというとその人を信用できないからである。
人を雇うにしてもどうしてその人を信用できるのか?
私は信用できる人間ですといっても誰がそれを認めるのか?
雇う方でもどうして信用するのか?
それで就職するときも保証人を求める
なぜなら会社の金を横領されたら困るからである。
そういうことは常に起きて損害を与える、すると誰がその責任をとるのか?
責任問題が生じる、それで雇う方でも責任が問われるから保証人を求める
損害を与えたとき保証してくれる責任をとってくれる保証人を求める


雇う方でも責任が問われるから保証人を求める、雇われる方でも実は雇う方が保証してくれるのかという問題もある。
現実に江戸時代から賃金未払いはあり途中で雇われる方がやめて困ったとかすでにあり
雇われる方にも問題があり雇う方が損失をこうむる。
雇う方でも雇われる方でも双方に責任が生じている。
雇われる方が今だとフリーターとか派遣とかで正社員よりは気楽だとなるがそれなりに必ず責任問題が生じているのである。
本当は雇う方も雇われる方も双方の責任であり共同責任にもなる
会社だったら社長であれ社員であれ共同責任として会社を運営している
そして民主主義国家では個々人が自由だとしてもその自由には必ず責任を課せられているだから常に自己責任論が言われる、海外に行くのは自由だけど危険な場所に行ってはならないのに行ったから殺されたとなりそれは自己責任だとされる


民主主義国家は自己責任論社会である。政治家を批判してもその政治家を選んだのはお前ら一人一人でありその一人一人が悪いのだとなる
また健康でもお前の生活が不健康だから年取ってから病気になったのだ、健康も自己責任論になり不健康な生活をして60代以降病気になった人は自己責任であり国で医療費をめんどうみるのは問題として政治家がいた。
それも一理ある、毎日タバコをすい、酒を飲み、健康を害するのは自己責任でありそのめんどうを国の金で税金で面倒みれないとなる
それは税金だからそうなる、税金とかはみんなか払うものでありそんな不摂生な生活をしている人はその人の責任でありみんなで面倒みれないとなる
周りの人に迷惑をかけるからである。
そうはいってもいくら健康に気をつけても必ず60代になると必ず病気が出てくるのであるそれを自己責任されるのも辛いとなる。


どうしたら人を信用できるのか、保証されるのか、それはもう人間が生れてからの問題だったのである。
人間はそもそも信用できない、罪を犯すしその言うことも嘘が必ずあり信用できない、まず嘘を言わなかった人はいないしその人は異例であり馬鹿しかいないとなる、だから馬鹿正直だとなる、利口な人は必ず嘘ついているのである。
だからこそ保証人を求めている、その個人を信用できないからである。
そしてその個人を信用できないとき、保証をどうするかという問題になる。
それは家政婦だったら家の中に入るから非常に危険である。
それでフィリンピン人は家政婦として出稼ぎ者が多い、それは信用システムが作られているからだという、借金を調べて借金ある人は雇わないとか国でも信用システムを作っている


また家政婦を雇う時はそうした信用システムがない、個人で勝手に雇うと非常に危険になる、被害あった場合もう責任も問うこともできない
それが家政婦団体としてあればそこで共同責任になるから保証されるということもある
つまり共同責任体制の方が責任を問い安いし安心だとなる
五人組制度というのもそうである。
江戸時代は地域的な連帯で保証されることがあった。地域のつながりが濃密だったからである。だから村に住んでいれば村の人は信用できるとなった
でも一端村から出ると出稼ぎ者になると信用が別な問題となる、そこでいろいろ問題が起きてくる
法律が生れたのはヨーロッバで生れたのはそれは異民族が交わることで公平な法律が自ずと要求されて文書化された。口約束とかでは必ず破られる信用できないからである。
そういう経験を自分の家でもしている。口約束は破られてわずかだが土地は近くの人にとられた。近くの人でも信用できないのである。
人間がいかに信用できないかということでそもそも法律が生れたのである。
絶えず人間には裏切りがありそれで命を落とす人もいる、口約束は常に破られるのはそこに信用システムが構築されていないからである。


五人組などが何か封建的で古いものとしてあったと思うが今になると何かそれは共同責任体制であり信用システムだったのである。
江戸時代の問題は現代に継続している。例えば口入れ屋とかは今の派遣業者とにているしそういうものが必ず必要になり江戸時代も今も同じ問題が生じていた。
なぜなら江戸時代は終身雇用などない、年季奉公というとき期限がありあとは日銭稼ぎがほとんどであるから今の派遣とかフリーターとかの労働とにているから現代はかえって江戸時代にもどったのかとなる
現代の問題でも常に歴史的継続してと考える習慣が必要になる
江戸時代だから人と人が信頼し合っていたということでもない
ともかく人は信用できないということから保証人問題が生じていた。
だからどうして人を信用できるのか?常にそういうことが問題になる
履歴書でも偽って書いてわからなかったとか言う人もいるしそういうことは文書化して何をしても防ぐことはできないし犯罪はなくならないのが人間社会である。
ただ被害を最小限にとどめるとか何かしらの保証を人は信用できないから求める
それで保証人問題が江戸時代でも今も継続されているのである。






タグ:保証人
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2015年10月25日

国際性が身につくとは何か (株とか世界に投資してみるとわかるー信用が一番大事)


国際性が身につくとは何か


(株とか世界に投資してみるとわかるー信用が一番大事)


カナダに投資したらカナダのことは行ったこともないし知らない、でもカナダがどういう国なのか気にかかるようになった。
カナダに投資しているからカナダが経済的にも利益を出す国で政治でも安定していてその他でも何か世界に利益になるものを売り出しているとか気になる
石油の資源国なことはわかったがその他のことも気になる

投資することとか商売することとかグローバル経済とは何かというとき何か自分は学問的に考える、するとそれが学問上の問題のようになり現実から離れる
でも投資するとなると違っていた。中国の経済の不安で株価が世界的に下落したしカナダも下落して一割ひかれたことは大きかった。
株は前からそういうことがあった。だから株はリスクがあるから怖いのである。
ただ日本では株を多少していたが外国に投資したのははじめててである。
だから投資した外国のことが気になるようになった。
それはただ旅行しているとか学問的に外国のことを知るのではない、実際に自分の金がどうなるのかという深刻な問題になったからである。

人間は自分の金が得したり損したりするとき真剣になる。ギャンブルがやめられないのはそうした金の真剣勝負になるからである。
株は必ずしもギャンブルではない、外国に株であれ国債であれ何であれ投資することは何を意味しているのか?
例えば会社で働いている人は外国で勤務したりするとビジネスでも具体的に理解できる
外国と取引すること商売することがどういうことなのかわかる。
そういう経験を積んでいれば別に株をしなくても外国と取引する外国人とつきあうということがどういうことかわかる

外国に投資することで最大の問題は何なのか?そこは日本ではないということである。
それは当たり前のなのだが日本でないということはまた大きなリスクである。
なぜなら日本ではないということは日本で受ける保証がないということである。
だからある時投資した金がゼロになる、外国だったらそういうことも簡単にできる
としたらまず外国に投資したりしないだろう。。
現代のグローバル経済というときいろいろ批判してきたけど自分が株とかに投資したときそのグローバル経済の中に組み入れられていることを実感した。
資本主義が資本を投資してはじめて資本主義を理解するのである。
貯金していてもわからない、資本をもちその資本を金でも投資するとき資本主義を理解するのである。


その資本主義であれグローバル経済で一番大事なのものは何なのか?
それは信用なのである。金をあづけることは信用するからあづける、そんなことが当たり前というけど信用がなければまず商売は成り立たない、経済も成り立たない、まずカナダという国を信用するから金をあづける。そこは外国だから余計にそうなる。
政府で簡単にあずけた金をゼロにされたりしたらもう世界経済も資本主義も成り立たないのである。
商売で一番大事なのは信用なのである。これはあらゆる面でそうである。
信用がなければ社会も人間関係も成り立たないのである。
信用ということは農民だったらあまりなじみがない、信用にかかわることがあるとしても具体的に人と人のやりとりがあっても農民だったら何を信頼するかというと大地だとか自然になる。人間と人間の関係ではないのである。
商売では契約が一番大事であり命に懸けても守らねばならないものとなっているのは信用が第一だからである。
それで聖書が絶えず人間と神との契約の書だというときまさにその信用のことだったのである。中東辺りでは商売がはじまった歴史が非常に古いからそうなった。
法律でも商売に由来するものが多いのである。
宗教と商売とは関係ないようでも密接に関係していたのである。

グローバルな資本主義世界となったとき、そもそも貿易をして商売するのだから信用がなければ成り立たないのである。
中国では偽物が多いから日本で爆買いするというときもそうである。
中国はなにかと政治でもまだ信用がないから投資するのが世界でも不安になる。
それは政情不安な国とかもそうであり何か信用できないとなる
だから投資しにくいとなる。投資というのは大損するときがあるから個人的にでも簡単にできないのである。
ともかく投資することは信用するから投資するのである。
問うされた人は国でもその信用に答えねばならない、それが世界経済として成り立つ、信用がなければ国と国の貿易でもできなくなるからだ。

それで例えばTPPというときこれも日本だけが不利とはならない、アメリカでも反対しているからアメリカでも不利なのである。
でもこれも互いに信用しなければ成り立たない、アメリカが一方的に得する仕組みだとなると他の国も参加しないだろう。
そしてTPPの一番の問題がその参加国が信用しあえるかなのである。
その一番の不安が食料にあるだ。
何かあったとき食料が入ってこなくなる、金でも買えなくなる、何かそこが一番外国だから不安になる。日本国内だったらそういうことはない、食料だと輸送するのも新鮮なままに輸送するのもむずかしくなるからだ。
これも経済でそうした協定を結ぶことは国が違うのだから国同士の信用関係がないと成り立たないのである。

なぜ中国とか韓国とかと日本はうまくいかないのか?それは常に戦争のことで責めれるし日本を敵国のように攻撃してくるからである。
すると中国はいつ日本を攻めてきて占領されるかもしれないと不安にさいなまされているのである。日本人が滅ぼされるという極端な不安をあおる人もネットにいる。
それは信用できないということにある。
ただ信用できないというとき国同士信用しあっている国があるのかともなる。
ロシアは信用できないとかもそうである。それは歴史的にもシベリア抑留とかで信用できない、政治的に信用しあっている国があるのかとなる。
ヨーロッパは連合したがEUになったときそれは信用しあうものとして連合である。
その国々では国境もなくしたというのはそのためである。

ともかく商売とか経済とかはグローバルになったとき信用がさらに大事になる
なぜ例えば原発を最初に福島に作ったときアメリカのGEは古い型のマーク1を日本に売りつけたのかというのもそうである。
それは危険なものだったが外国だから売りつけたのである。

外国だから粗末なものでもいい、もうければいい

つまりこうなるとき公平な商売貿易は不可能になる。外国となるときすでにもう信用関係がない、危険な原発でも被害が及ばないとなれば安いものでも古いものでも売りつける。それは無責任だとなり外国は信用できないとなる。
日本国内でも東電は東京では危険だからはフクシマに原発を作った。それは東京までは事故が起きても被害にならないということフクシマに作ったのである。
すでにそこで原発はリスクをともなうものと認識していたのである。
それほど安全を言うなら東京に建てれば良かったのである。
そこにすでに信用できないものとしてフクシマでも見れば良かったのだが金欲しさが優先されて信用したのである。
その信用は見事に裏切られたのである。

ともかく人間関係でも信用が一番大事である。それは人を雇う者と雇われる者でもそうである。まず信用がなければ雇うこと自体できない、だからどうして雇う人間を信用するのかということが最大の問題だった。
近くに住んでいるからとかそんなことで信用したりしたのが失敗だった。
田舎だから安全だとは今はならない。
そして信用関係は簡単に築けない、時間もかかるし互いに信用するには必ず問題が起きて信頼できないとかなる。でも何とか問題があったが和解したとか信頼関係ができたとき
安全になる。それは狭い地域でもそうだから日本国内でも広いから同じである。
外国となるともともと国同士が常に信頼できないとなっているとき、どうしてでは経済でも商売でも貿易でもできるのかとなる


だから国際関係の基本は政治だけではない、経済にあり商売にありその他国と国が行う事業とかでも信頼関係が必要になるのである。
信用できないということが致命的なのである。
物を売ったけど金が払われなかったとかインターネットであればインターネット自体信用できないとか問題になる。
インターネットというメデアが何か信用できなるのかとなるとここでも商売をしているからそうなる
人間関係とは国同士でもどうしたら信用関係がもつことができるかが最大の問題なのである。
契約はその信用を証明するものだから一番大事なものとなる。
いくら自分はそんなこと契約していない、金を借りていないと言っても契約書があれば
嘘はつくことができないとなる。それで契約書が大事になる。
でも日本ではこの契約の大事さを認識していない
つくづくだから中国とかと政治問題でこれほど信用できないとなるときどうして経済が貿易ができるのかともなる。
日本の会社は中国をひきあげるとか投資もしないとかなるのである。
それは韓国でもそうだけど信用できないからそうなるのである。
中国の日本の会社が打ち壊されたりしたらもう経済活動も何もできなくなるのである。
戦争のことと経済商売のこととは別である。戦争の問題とかで日本をたたくことで貿易もできなくなる、戦争のことはなかなか今でも判断しにくいのである。
そのことで常に攻められたら日本でも中国とはかかわりたくない、経済的にもかかわりたくないとなってしまうのである。





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2015年10月20日

資本主義の終焉と歴史の危機ー水野和夫を読む (資本主義民主主義の理念の危機でもある)


資本主義の終焉と歴史の危機ー水野和夫を読む

(資本主義民主主義の理念の危機でもある)


それまで三世紀にわたって封建経済全体を前進させてきた原動力である農村の開拓が地理的にも社会構造上も客観的にみて天井に突きあたってしまった

ぺリーアンダーソン

これは日本とにている、日本も幕末辺りになると新田開発になる場所もなくなり人口が増えるのも停滞した、日本でも田を作るための開墾開拓の歴史は弥生時代から延々とつづいてきたからヨーロッパともにていた。
そして明治維新後も開墾開拓はつづいていたのである。
八沢浦は明治になり埋め立てられて田になった。小高の井戸川浦は大正時代に開拓されたのである。
戦後でも引揚者が各地に開墾に入ったのである。小池というと鹿島では街から近いのちそんなところまで開墾に入った。だからいたるところ戦後でも開墾に入ったのである。
つまり農業国の延長として戦後十年くらいはつづいていた。
そもそも満州に日本が進出したのは広大な土地で農業をしようとしていたのである。
日本は狭く農業が限界に達して開墾地を求めて満州に進出した。
それが契機となり中国と戦争となりアメリカとも戦争になった。
日本という一国でも成長しようとするとき外国へ進出してそれが戦争ともなる
成長が限界になるとそうなりすいのは歴史をみればわかる。

資本主義の限界とは資本の実物投資の利潤が低下して資本の拡大生産ができなくなってしまうことです

金があっても今やどこにその金を投資してもうけるかとなるとその国も会社もなかなか見つけられなくなる、世界の資本主義がもうそこで限界に達する
自分がカナダの国債を買ったけどそれが一割も引かれたのはショックだった。
カナダはよく分からなかったが石油がとれるからいいんだとすすめられた。
今は石油の時代だから石油がとれることは経済が強いのかと思った。
ところが最近石油の値段がかなり下がった。それは中国の影響などで需要が低下したからそうなったのかと思う。
石油がとれてもそれを使ってくれる世界経済が停滞すれば石油の値段も下がるのである。中国でも成長の限界がきたということでそうなった。
そこで金余りにもなりパブルになる、一度日本では異常に土地の値段があがったのはそのためである。金の投資する所がなくなりオランダではチューリップバブルになった。
絵画が異常に高い値段でバブルの時に買われたのもそのためである。
バブルと同時に長いデフレになっていったのももう物余り金余りになったからである。
今やどこの国に投資しようがもうけがない、利子が生まれないので資本主義は限界に達したとされる

「主権国家が消滅して世界政府ではなく中世の西洋のキリスト教世界に存在したような普遍的政治組織の近代的、世俗的な相当物がそれにで変わる」
キリスト教的価値観に支えられた中世の神聖ローマ帝国のようになる

新中世主義ーブル

これはグローバル資本主義の限界として言われるようになった。それは自分でも相馬郷土史研究として地域のアイディンティティを追及したのとにているしグローバル化した世界が逆にフィードバックして中世的な世界に帰るという現象である。
相馬郷土史というよりこれから相馬郷土学として発展させたいから名前も変える
つまり資本主義が限界に達すると世界政府とか世界市民というより中世的なブロック的な世界観にもどるということがあるのは日本でも共通している。
世界政府となると価値観がとても共有できないからである。
グローバリズムの負の部分は世界の個性的な歴史的発展した文化の破壊であり自然の破壊だったからである。
何か文化的な統合はグローバリズムから経済だけのものであり起きなかった。
ルネサンスは世界的な文化の統合の結果として起きた。
ギリシャからローマからイスラムからキリスト教文化が一体となって起きたのである。
そこにイスラムがその時先進的な役割を果たしていて数学とか科学で優れていたのである中東は後進国ではなかったのである。
イスラム国のような野蛮だけが目立つ世界は世界に何も貢献しないのである。
ただ武力だげだったら文明は作り得ないのである。

資本主義は最初はこれも理念だった。それはプロテスタンシズムとしてはじまった理念の実体化したものとしてはじまった。利子はキリスト教では禁止していたが利子を産むことを勤勉に働いて資本を蓄積することは神に奉仕することだとなった。
なぜならその蓄積した資本を富を有効に使えば神に奉仕することになる。
それは他者への奉仕としてはじまったのである。だから理念であった。
それは現代の資本主義とはただ利子を産みそれを利己的に使うのとは違っていたのであるそして民主主義も自由、平等、博愛という理念からはじまった。
でもそこに西欧の文化には文明には必ずキリスト教文明でありキリスト教なくしてありえない文明である。
資本主義もそうだし民主主義でもそうである。一見関係ないようでもその底流にキリスト教があってありえるものだった。
なぜなら

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

こういうことは今では普通にあるが今までは人民の命は国王のものだとかなっていたしこういうことを実践することは今でもむずかしい
中国などの王朝国家からしてもこんな思想は起こり得ないのである。
それはアメリカだと貴族もなく上も下もない平民的世界になったから民主主義が可能になった。
それでもアメリカでも金持ちと貧乏人の格差が極端だというときそうはなっていない
逆に一パーセントの金持ちが富の大半をもっているというとき異常な格差社会で人民は金持ちの奴隷化しているのが現状なのである。
格差社会になると中間層が消失してゆくと民主主義もなりたたないいうのは対等を求めるのが民主主義だからである。

わかりやすいのは大金持ちが貧乏人に仕えるのがキリスト教であり対等化するのが民主主義の理念だとしたら現代の資本主義は全く初期のプロテスタンシズムとも全く相反するものなのである。
大金持ちは仕える人を金で求めるが誰かに仕えることなどありえない
金があればもう毎日外食でもいい、豪華な外食を毎日できることは金があるからそのサービスを受けられるのである。
そして召使を雇うこともできる、召使は金持ちに仕えさせるのであり金持ちが仕えることなどありえないのである。
だからアメリカでは黒人を奴隷として働かせた、それをしたのはキリスト教国だったのである。
仕えるというときそれが具体的に如実に現れるのか家で働く家政婦とか手伝いさんとかである。
なぜここに露骨に現れるかというとまさに家政婦とかお手伝いさんはその家の人に仕える仕事を目に見えてしているからである。
そこでなぜこの人はこんなに金持ちで贅沢しているのだということがはっきりとわかる。その格差を肌でわかる。だから金持ちの芸能人がベビーシッターを雇ったが宝石類を盗まれたというのはそのためである。
自分もそういう経験しているからわかる。

今の自分の感覚はお手伝いさんと言っても皿洗うとかで十分くらいで仕事が終わる
そうすると何か自分がかえってそのお手伝いさんに仕えているような感覚になる
なぜならほとんどの家事でも介護でも自分がしているからである。
それが機械化しているとか買うことで可能になっていることもある。
その代わり昼間は外で食事して家事を極力省いているのである。
そうすれば時間が生まれプログに書くこと創作に専念できるからである。
それは社会にとって有効だともなる。ただ具体的に自分のプログは社会的に認可されているとはならない。
要するに今は家事をしなくても外食であれ何であれ機械でするとか外に頼むことでできるだから昔は中産階級でも女中を二人雇っていたとの時代とは違う。
それだけ家事は一大労働となっていたからである。

でもまた現代の労働は奴隷は派遣とか非正規労働者に安い時給とかでやらされているとかなりそれは女中とか家政婦とか手伝いさんは具体的にわかりやすいがそうした派遣とか非正規の安い労働者は現代の奴隷なのかもしれない
ただそれが女中とかお手伝いさんとか家政婦のように金持ちに仕えているということが具体的でないから意識されにくいのである。
別に誰かの金持ちの人に仕えているわけでもない、会社に使われているだけだとなるからである。
でもその時会社の幹部に仕えているのかもしれない、それは間接的だから意識されにくいのである。
別にレストランで食事をしてもサービスされる方も奉仕されているなど意識しないだろう現代の奴隷は意識されないし貧乏人もじかに接してみないと目に見えないのである。

つくづく今になるニートが一番貴族である。
三食つきだし後は自由である。自分が60才までそうだった。
今も自分が召使であり奴隷になっていたのである。仕えるものはになっていたのである。
資本主義とか民主主義とは何なのかというときそれが理念でありその根底にキリスト教の精神がある。
どうして資本主義にあるのかというとはじまりが修道院にあった。そこでは神に奉仕するということで勤勉に働き資本蓄積して人の世に役に立つということであり修道士は贅沢などしていないのである。
今は逆でもそういう所が出発点としてあった理念だったのである。
民主主義もどこまでも対等を求めるというときそれはキリスト教の人に仕えなさということからはじまってる。それは人間の平等対等の理念である。
そして仏教でも女性は成仏できないと差別されていた。女人禁制の山が各地にあるのもそのためである。女性は不浄なものとされていた。
それでヒンズー教ではカースト制があり差別があり釈迦が生まれて仏教になり女性も成仏できるということで女性も信者になり普及したのである。

それも人間が対等を求めるからそうなる。そして逆にフェミニズムとなり今度は女性の適性を無視したもの女性の特権化が起きたり民主主義はあらゆる人が自由であ権利があり極端化して大衆の卑俗なものが力をもつようになったのとにている
要するに理念は理想である、でもその理想は時間がたつにつれて曲解されて俗化されて堕落して別なものになってゆく
資本主義と民主主義が理念だというとき中東のイスラム圏などと相いれないのは理念が対立しているからである。トルコは宗教でも妥協しているから違っている。
つまりすべて軍事力とか経済力の対決ではなく理念の対決で世界が調和しない、対立関係になるということがある。
誰も中国の共産党一党独裁は嫌だとなる、日本は中国よりはアメリカにも問題が多いが共産党一党独裁だけは嫌だとなり協力できないのである。
どうしても経済力があり軍事力があっても共通の価値観をもてないことが最大の問題なのである。
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2015年10月19日

明治維新に国民国家となった経緯 (国民国家から世界市民へ向かうのが人類の進歩?)


明治維新に国民国家となった経緯

(国民国家から世界市民へ向かうのが人類の進歩)

●西南戦争で国民軍が勝って日本国民になった

民主主義国家とは何かなのか明確に意識されていないのである。
民主主義国家とは主権が国民一人一人にある国家である。つまり国民の一人一人が国家に対して責任をもつのが民主主義国家なのである。
国民の一人一人が平等の権利をもたせる、票でもみんな一票であり同じ権利なのである。生活保護だかろうがよぼよぼの老人だろうがそうである。
国民国家というときそれが日本に生まれたのは明治維新の時なのである。
西南戦争で武士と戦い国民軍が勝ったことにより国民の意識が生じたのである。
だからその時戦った一平民の国民がどんな感覚になったのかということである。
「俺たちは侍と戦って勝った、もう侍に従う必要ない、俺たち国民一人一人が国をになうのだ」
その時意識変革があった。その意識変革はに民主主義に通じていた。
リンカーン大統領が、「人民の、人民による人民のための政治」としたことが民主主義の発祥である。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
(日本国憲法)

民主主義国家とは明治維新後でも明確に意識されないしなっていない、なぜなら天皇の臣民となっていたからである。それは国民の国家とは違う、天皇の国家となってしまうからである。そのことから太平洋戦争は天皇の臣民としての神国としての戦いであり多大な犠牲が国民に強いられた。
国民国家としての戦争ではない、天皇の臣民としての戦争となる
国民というとき国民一人一人のために戦うのであり天皇のために戦うのとは違うからだ。ではこの国民主権となり国民国家となったとき責任は国民一人一人に課せられる、国家をになうのは国民一人一人である。

江戸時代までの日本に存在したのは愛国はなく忠君という倫理だけでした。
自分が仕えている大名に忠誠心をもつというものです
商家にもそれはありました
愛国をなじませるために忠君愛国にした
(明治という国家ー司馬遼太郎)

江戸時代から明治維新で激変したのはそうした封建時代に培われたものの大変革だった
日本人にあったのは藩民でもない、会津ではあれだけの戦いがあり犠牲があっても会津藩に属する農民は無関心だったのである。
だから

■明治元年(一八六八)九月二十二日、若松城は一ヶ月の籠城戦の末、遂に開城と
なった。
■会津の落城からまだ十日とたたない十月三日から、会津全域にわたって数万にの
ぼる農民の激しい一揆騒動が起きた。「ヤーヤー」と叫んで打ちこわしを行った世
直し一揆は、封建制度を厳しく批判して、新政府に対しその改革の実行を迫るもの
であった。

これは明治維新の時の庶民がかえって城が破壊されるとか城の侍が激しく戦い死ぬとかに同情していない、むしろ歓迎していたとなる。
常に会津の戦争が悲壮感をもってみられるが庶民にとっては無関心だったのである。
それはヨーロッパだと城壁に囲まれて市民が一体であり市民とんう感覚が育てられた。
それは外敵と共同して戦うということから市民(citizen)が生まれた、外国にゆくと
どこの市民なのかと問われる、citizenship(公民権)というのはそこから生まれている共同体意識なのである。
civilizationもこのcitizenから生まれた概念である。
要するに市民というとき外敵から共同して守ることであり強固な連帯意識がある。
でも日本の封建時代にはそうした強固な共同体はない、侍は侍であり農民は農民であり職人は職人である。それらが一つの共同意識をもっていない。
だから会津ではあれほどの戦いがあってもそこの住民はかえって歓迎していたとなる
つまり農民は侍に米を納税するだけのものであり会津藩を共同して守るという意識がなかったのである。

●江戸時代は庶民は藩意識もない、強制的に所属されていただけ

明治維新から日本で一番の変化はこの武士の階級がなくなった。城もなくなった。藩もなくなった。廃藩置県でなくなった。このことが一番の変革だったのである。
ただ藩単位で生活していた期間が長いのだからそこで醸成されたものは郷土愛である
郷土愛とは何かというときこの辺は原発事故で避難区域となり住めなくなった。
その時故郷とは何かということが常に問われたのである。
故郷とは何かというときそこは一代だげではない、何代にもわたって人が暮らした所でありそこへの愛着は親から祖父からさらに代々暮らした所への愛着でありそれが歴史となっている。
だから自分の父親が双葉の酒屋で丁稚奉公していたということを書いたがそこにもやはり自分は経験していなくても話を聞いているから愛着がでてくる
つまり人間の記憶というのは一代だけではない、親や祖父やその前の長い歴史があり愛着が作られてきたのである。
だから郷土愛というのは普通にもっているものであり地が血となるのもわかる。

でもcitizen(市民)とかは本当にわかりにくいのである。文明というときみんな科学技術のことを蒸気機関車が走ったことなど技術だと思っている。
ところが文明というのはcivilizationであり市民から発しているのである。
そのcivilizationから国民意識になった。そのことが日本ではむずかしいので天皇の臣民として理解させて国民意識を作っていったのである。
だから国民になることは明治維新の最大の改革だった。また法人となること会社の一員となることもまた改革だった。会社というのも明治になって生まれたからである。
具体的に国民を理解したのは西南戦争の時である。とても武士階級に国民軍が勝てると思っていなかったし西郷軍の武士階級もそう思っていた。
でも国民軍が勝ったことで武士階級はなくなった。その時会津藩士も国民軍に参加していたのである。その時薩摩に恨みをいだいてその恨みを晴らすということもあったかもしれないがもう藩はない、国民として戦ったのである。
何かその時国民軍として戦い参加した人たちは最初に国民を意識した。
侍が国をになうのではない、国をになうのは戦った国民軍の一人一人だということを意識した。それはやはり命をかけて戦ったのだから学問的に知識として理解するのとは違っていたのである。
そして日露戦争から太平洋戦争と国民軍は外国との戦いでさらに国民意識が強固にされたのである。

今になると国民など当たり前ではないかとなるが明治維新の時はそうではなかった。
日本国民として大きな範囲での意識が生まれたことはこそcivilizationだったのである。なぜなら侍が治めているときは政治でも何でも侍が決めてそれに従うだけであり庶民は政治に関与することができないからである。
そうすると藩があっても藩意識もないのだから責任感も生まれない
それで会津の侍があれだけの戦いと犠牲があったのに無関心だったことでもわかる。
でも今や国民となるとき外敵に向かい国民が責任をもって戦うという意識になった。
日本のどこかが外国に攻められて炎上しても高みの見物だとはならない
同じ日本国民として黙ってはいられないのである。
太平洋戦争ではこの国民意識は最高潮になり過度になり敗戦でまた変わってしまった。
日本は戦争を否定して国民意識も変わった、日本国民自体を遺棄して日本国民であることに誇りがもてない、否定的な感情をもつようになった。
特に左翼系では日本国民であること自体を拒否する。おそらく中国に属した方がいいとか一方で右翼系でもアメリカに従属して属国化したから本当の国民意識は失われた。
その時愛国心も失われたのである。
歴史というときやはりどういう経過でそうなったのかをふりかえることにある。
明治維新が今日の日本国の基になったのでありその時からの継続が日本であった。

●国民国家は否定され愛国心は日本では喪失して多国籍企業世界へ

日本がなぜ愛国心がなくなり日本人であること自体拒否するようにもなったのか
その原因は太平洋戦争でアメリカに敗れて属国化されたことにあった
敗戦以後は国民という意識が希薄化してみんな企業戦士となったことでもわかる
会社が企業が国民の代わりとなったのである。この傾向は多国籍企業がグローバルに支配するということでもあった。アメリカですら愛国心がどうなっているのか、いくら戦争に勝っても愛国心となるとやはり衰退しているだろう。
むしろ多国籍企業として国が企業化しているというのが現代である。
だからこれは日本だけではないグローバル化した世界では愛国心は薄れるのである。
そして国民意識から何に変わったかというとグローバルな経済人となったのが現代である中国でも愛国心を言うが共産党の幹部は巨額の金を貯えてアメリカでもカナダでもどこでも移住する準備をしているとか日本でも金を金持ちは他国に移すとかをしている
もし愛国心の時代だったらそんな国を裏切るようなことはありえないのである。
でも世界的経済人としてなら別に国より経済が大事だからそうなっても不自然ではないのである。
今は国と国が戦争するように見えても実際は石油の利権とか企業の利益のために戦争になる。それは今までもあったにしろ多国籍企業世界ではそれが露骨になる。
太平洋戦争のときはそこまで多国籍企業の力はなかったからである。

ともかく人類史で考えれば国民国家というのは大きな共同体となり一つの大きな進歩だった。次に国を越えて共同意識をもつグローバル経済になったけどこれも問題はいろいろある、企業は利益共同体でありそれ意外ないから国々の文化も破壊する。
江戸時代のときの藩はその土地に根ざして個性的でありその土地土地の文化を育んだ
そこには土地と一体化した共同性と文化がやはり育まれたのである。
だから廃藩置県になったとき県というのは今でも違和感がある。
県の範囲が広いので県からイメージできないのである。福島県だったら会津は会津であり福島県としてありえないのである。そもそも福島という名前すらどこから来たのかこれも福島県が一体になりえないことである。県という範囲がどこでも広すぎるのである。
城があったところからその土地のことはイメージしやすいのである。
多国籍企業となるとこうした土地土地の文化を破壊することが大きな問題である。

でもまた貿易とかを否定はできない、なぜならオランダが最初に国民意識をもったのは貿易が盛んだったからだという、商人の国になったときどうしも世界が広がるから国民意識ももつ、そしてオランダは国が狭いから国民意識をもちやすいこともあった。
商人は国境を越えて商売するから国の支配を受けると自由がなく税ばかりとられるから国を否定するというのは今の多国籍企業とにている。
ハンザ同盟などがそうである。そうした商人のネットワークが一つの国のようになる。
そうした矛盾はあるにしろ人類が目指すのは何なのか?
文明とはcivilizationであり市民からはじまり国民意識となりさらに世界市民としての自覚をもつ世界なのだろうか?
そこでは世界市民となると世界市民として方を遵守するとか人権を重んじるとか共通の価値観の形成が必要になる。
そこには宗教とか様々な相違があり困難を究める、しかし人類の進歩とは国民意識がそうだったように世界市民として拡大してゆく、物理的には空間はすでにどこでも行ける時代だからその障壁はとりはらわれたから問題は意識の問題なのである。
ただ世界市民といってもそうなる前に今でもそうなように混乱が起きてくる
シリアの難民問題でもそうでありそれはあくまでも理想であり人類はその前にハルマゲドンとなり国と国が最後の戦いをして滅びるということもある。
だから世界市民といっても架空のことであり国民意識は現実となった歴史感覚であるか
世界市民という意識をもつのは困難を究める。
マルクス主義の世界のプロレタリアートは団結せよというのはそれも一つの世界市民への国を越えた運動だった、それも挫折して凄惨な大量殺戮で終わったのである。
だからその前途は厳しいが国民国家になるということができたことはやはり人類の進歩として見直すことは必要である。

確かに藩にすら所属していない時代から日本国民になったということは飛躍的な進歩だった。それからアメリカに所属しているというのはアメリカが世界国家的だからそうなる
そして今世界ではどうしてもそうした広域で結びつく世界を目指すのは貿易などで強いられている。それでヨーロッパ共同体 (EU) が生まれたのはそのためである。
でもこうした広域な共同体になることは歴史的なものもあり非常にむずかしいのである。だから以前として軋轢があり問題が生まれる、日本が江戸時代から明治維新で国民国家になったのはやはりそれだけの歴史があり統一しやすかったとなる
他ではアジアでも国民国家になるのは遅れたことでもわかる。
そうした広域共同体がむずかしいのは言語であれ様々な文化の相違もありそれを何をもって統一するかとなるとむずかしい。ヨーロッパとか中東は宗教が大きな役割を果たしたが現代はむしろ宗教を否定してフランス革命で自由、博愛、平等が理念になった。
それは民主主義の理念たったのである。民主主義というのは理解しにくい、でもそれは何でも自由とかではない、一つの理念なのである。
アメリカはその理念を世界に普及させることを強いる、それに従わないと戦争で従わせるとなるが中東では受け入れられなかったのである。


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2015年10月18日

雇用者の責任と雇用される者の責任 (民主主義では雇用するものもされるものも対等を求める)


 
雇用者の責任と雇用される者の責任


(民主主義では雇用するものもされるものも対等を求める)



雇用主(使用者,会社)も,従業員の業務中の行為による損害について賠償責任を負います。これを『使用者責任』といいます。
契約はいつまでか(労働契約の期間に関すること)
辞めるときのきまり(退職に関すること(解雇の事由を含む)

※労働契約を締結するときに、期間を定める場合と、期間を定めない場合があります。一般的に、正社員は長期雇用を前提として特に期間を定めず、アルバイトやパートタイマーなど短時間労働者は期間の定めがあることが多いです。

労働契約に期間の定めがある場合は、労働者は、やむをえない事由がない限り、一方的に辞職する(労働契約を解約する)ことはできないのが原則です(

僕が「基本的には人を雇うべきではない」と思う一番の理由は、人を雇うということには、大きな責任が伴うと考えているからだ。社員を雇えば、毎月給料を払わなければならない。会社の業績なんてお構いなしに、契約した分のお金は払う責任がある

僕は、どうしても人が必要な時には「従業員」ではなく「共同経営者」を見つけるべきだと思っている。
http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/01/26/214422

言い換えれば、派遣労働者というのは、必要がなければ後腐れなく切れる企業にとって都合のいい人材という前提で作られた身分ということです。
http://winfriede.com/post-2346/

しかし、働く人が少ない中小企業では、社員一人一人の顔が直接見えます。
いくら会社の業績が落ち込んできたとしても、「明日からクビだ」なんてことは言えません。
当然、雇う側にも責任があります。
社員とその家族の面倒を見るという責任です。

どんな理由であろうと辞めると言っている人間を引き止めても仕方ないですし、
それが体調不良となればなおのこと止めることはできません。
http://lucas-sedori.com/?p=827



自分など社会とかかわらないから社会のことはわからなかった。学者のように本を読んだりして勉強していた。
でも現実社会になると具体的なこととして理論ではなく何でも重い責任が課せられているがわかった。
それは人を一人簡単に手伝いさんとして雇ったことからはじまったのである。
それは自分が雇ったのではない、家の人が雇ったのだがそのことからいろいろな社会や人間の問題を考えるようになった。
自分が人一人雇って大金を失ったのは誰の責任か?
雇ったお前の責任だ、お前が悪いんだ
結果的にこうなったのが現実なのである。もう金は取り戻せないし何もできない

だから人を雇う時はその履歴とか保証人とか厳しい
簡単に雇えないのである。まず手伝いさんでも簡単には雇えない
家の中に入るのだから家の中のことがわかるのだがら簡単に雇えない
つまり何かあっても雇った方の責任にされるのだ。
そして民主主義のことを書いてきたが民主主義とは選挙権があるというだけではない
社会そのもの民主主義なのである。
それはだから雇用とかの面でもそうなっている
雇う人と雇われる人がいるがそれは対等を計る制度なのである。
雇う方でも責任があるから雇う方でもいろいろ手を打つ、厳しくせざるをえないのであるなぜならその責任はとらされるのは雇い主だからである。

大金を失ったのは雇った方が悪いとなるからである。

犯罪でもそうである。
犯罪にあった方が悪いのだ、油断したから悪いのだ
そんな危険な奴を簡単に雇った方が悪いのだ

お前がレイプされたのはそんなに派手にしているからだ
お前が犯罪を誘発したのでありお前が悪いのだ

お前がタンス預金して盗まれたのはお前が悪いのだ
誰も同情しないよ
警察でも証拠がなければとりあわない
お前がすべて悪い、馬鹿だということ

民主主義社会では常にこうなっているのである
一見雇い主の方が有利になっているようでなっていない
だから人を雇うなというとき共同経営者になることだというとそうである
それは共同の責任であり雇うと雇われのとは違うからである。
つまり雇う者と雇われる者は対等になるのが共同責任だからである。
だからお手伝いさんを雇うにも共同経営となるか家族のようにしないと成り立たないとなる

正社員と派遣とかに分かれたのは雇う方が責任をとりたくないことなのだ
正社員ならいろいろ保証するが派遣だったらいつでも首が切れるということで雇う方にすれば便利なのである。
でも雇われる方にすると身分も安定しないし将来の設計もできない
すると公務員とかはまず一端入ったら身分保証が一生される
簡単には首にできない、病気だろうが何だろうが能力は実際なかったにしろ
一端入ったら身分が一生保証されるのである。
その違いはあまりにも大きいとなる
公務員は身分だというとき侍と同じだとなる
会社だとやはり会社自体がつぶれることがあるからそうはならない
公務員はこの辺のように町や村がなくならない限り身分は保証される
食いぱっぐれないのである。

民主主義は要するに何でも対等をめざしている、一見そうでないように見えてもそうである。
雇い主と雇われるものもそうだし政治家でもあくまでも選ぶのが選挙民なのだから対等である。
そして結果としては選んだ政治家が悪いとしたら

選んだお前たち選挙民が悪いんだよ

となる、それは犯罪にあったら犯罪にあう方が悪いんだとなるのと同じなのである。
マスコミに対して批判が多いのは

なぜマスコミだけが大々的に報道する権利があるんだ
民主主義は平等ご、誰でも報道する権利はある
知る権利がはある

とかなり新聞とかテレビの批判になりインターネットが生まれたのは当然なのである。
報道はテレビ局でも六局とかに独占されていたからである。
何も知らされないなら民主主義も成り立たないからインターネットは民主主義を促進されるツールになる。

民主主義の功罪は極端化するとみん対等だし責任を問われることを極度に恐れることになる
医者と患者は対等でないようでも対等を求める、だから医療ミスにあうとことを医者は極端に恐れると医者になりたくないとなる、そういう問題が実際に起きた。
先生と生徒でもそういうことは起きる、絶えず責任が問われるから戦々恐々としていなければならない社会である。
子供に声かけても何かあったら責任が問われると必ず何があってもお前が悪いんだとされる社会である。
そうなると雇う方でも徹底的に疑い信用しないという窮屈な社会になるし実際そうなっている 互いに人間が信用できない社会なのである。

それまた当然だともなる。つまり雇う方でも雇われる方でも対等を求めれば責任が問われる、雇う方にだけ責任があるのではなく雇われる方にも責任がある。
雇う方も雇われる方もだから共同経営者になるのが理想だしそういう会社もあった。
まさに民主主義社会ではそうした対等な関係をどこでも求めているのである。
つまり民主主義社会では一票が平等である。それは平等の権利を与えられていることなのだ。生活保護者でも一票は同じなのである。
とういうことは対等だということは対等の責任もあるということになる
首相でも大臣でも何でも対等であり首相にだけ責任があるのではない
その首相を選んだのは一票を入れた者にもあるとなる

でもそういうことを自覚している人は少ない、国を担うのでも会社を担うのでも何でも実際はみんな対等だとなるとき対等の責任を課せられているとなる
だからある人が金を多くもっていたりするとそのことも対等ではないとなる
あまりに対等を求めると平等を求めるとそれがかえって平等でなくなる
たいして働きもしなくても同じ賃金をよこせ、能力もなくても対等を要求する
才能でも努力でも何でも無視してすべては同じであるべきだとなりそういう要求もまた理不尽になるのである。

とにかく会社であれ何であれ例えばどこの市町村に属していてもその市町村の一員としての責任が問われる、だから原発事故では原発を誘致して金もらっていた町の人が悪いんだとされた。つまり民主主義とはこうして常に一人一人が責任が問われることなのだ
上の人が決める権力をもっていたなら下の人は従うだけだから責任はない
それは江戸時代なら侍がすべての責任があり切腹するほかないとなる
今はどこでも一人一人の責任が問われる
そうなるとき会社でも共同責任者であるとしたらその会社自体のことを総合的に考えざるをえなくなる
その会社は何をしようとしているのか、社会に対してどういう存在になっているのか?
何かそれは利益だけではない、そうした社会に対しての総合的な視点が必要になる
俺は別に時給いくらもらっていればいいだけだよとはならないのである。
でも時給もらっている人はそれだけのものとしてみられることは確かである。

大きくなれば会社だけではない、市町村員としての自覚とか国民としての自覚も要求される
それは上からの強制ではなく一人一人がそうした自覚や責任が課せられているのが民主主義だとなる
今人手不足で会社が困っているというときやはりただその場その場で会社にとって都合のいい雇い方をしていたからだと言うのもわかる
でも一方で雇われる方でもそうして何でも対等になると責任が大きくなるのだ。
派遣などはそうした責任がないから気楽だとか言われる
そういう人は責任がないのだからまた時給であり安いとなることに甘んじなければならないともなる
要するに民主主義とはともかく対等を求める社会だがそれと同時に責任も課せられている社会のである。



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2015年08月24日

何か与えることがないものは生きていけない (貨幣とは何なのか?)


何か与えることがないものは生きていけない



 

(貨幣とは何なのか?)




あなたの一番有益なことをしなさい

金は与えます

金のために働く必要はありまん

あなたは何をしますか

あなたは何に一体時間を費やしたいんですか?

とにかくあなたが時間が費やしたものが人生です

漫画を一日読んでいたい、音楽を一日聞いていたい

そうしたいならそうして下さい

それがあなたの人生です

ところがです、漫画を一日読んでいたというが

それは誰かが創作して苦労して作ったものなんです

音楽を一日聞いていたいというけど

それも誰かが創作したものなんです

うまい料理を食べたい

うまい新鮮な野菜を食べたい

うまい肉を食べたい

うまい魚を食べたい

、、、、、、、、、

それも誰かが苦労して作ったものなんです

私は快適な家でのんびりしたい

それもその家も誰かが苦労して作ったものなんです

自由に旅行したい

それも乗り物でも食べることも泊まることもしなければならない

それも誰かが提供して旅ができているんです

本を読みたい

本ならインターネットでいくらでも買える時代

でも誰かが運びその本の内容も書くの苦労しているんです

そして車で苦労して運ばれてきているのです


人間が無料で提供されているのは空気くらいでしょう

今や水さえ水道管を通って人の力で供給されているんです

そのために払っているのが代価が金になっているんです

金など株とかで入ることあるんじゃないか

親の資産でのうのうと暮らしている人もいる

そんな人は何の苦労もしていないじゃないか

それそうですが、親の資産でも親が苦労して残しているんです

金は簡単に生まれないんです

株だったいつももうからない、必ず下がりますから

また金は万能ではない

物価が高くなり金は紙切れにもなる


この世の中、人は何かを人に供給する、与えないと生きていけないです

あなたは何を与えられるのかです

あなたが何もしなくてぼーっとしていたい

でもあなたは三食食べねばならないし住む家も必要でしょう

それも必ず誰かが苦労して提供したものなんです

問題はあなたは何を与えられるかなんです

何も与えることがない人は何も与えられません

世の中とはそういうものではないですか

働くのは金を得るためではありません

誰かに何かを与えるためなのです

肉体労働でもそうです

暑い盛りに外で働いている人はそうでしょう

頭を使って働いて与える人もいるでしょう


私はパチンコ屋で働いています

それも誰かに与えるためですか

娯楽として与えるためですか?

それはあなたが金を得るためだけです

そんなものが与えることになるでしょうか

その人は借金を返すためにパチンコ屋で働いている

誰かに与えるためとかはなく何のためもないのです

それこそ金をえるだけのものとなっている

普通の仕事はなにかしら自覚しなくても他人のためになっています

金のために人は働いているのではないのです

金は一つの働くということが代価となるものなんです

金はすべてではない、金はメデアであり仲介するものなのです


ではなぜ収入にこんなに差があるのですか

おそらく多く与える人は多く金を得るのが理想だけど

金はとうしても不公平が生じる

金というのは無数の職業があるとき

いちいちその価値を物で与えたりしためんどうだから貨幣を作ったんです

それは人間の知恵です

その金に支配されるということがあってはならないのです

人間と人間のやりとり金が介在しただけなんです

理想は多く与えるのもは多く受け取る

少ししか与えないものは多くは与えられないというのが理想なのです

人間は何が与えられるかが一番大事なんです


働くのは金のためではないんです

そこが社会を歪ませる大きな原因なのです

国と国の関係もそうです

何も与えない国は何も得られない

何もない砂漠でも石油が与えられるから豊かになる国がある

日本は技術力を与えて製品を加工して売って石油を買っている

何もない国は安い労働力を売る他ないのです

金だけがあればいいようにみんな思っているけど

金自体には何も価値がないのです


貨幣で何かを交換できる、買うことができるから価値があるのです

黄金の金は黄金自体に価値はあります

それとて何かと交換できるから価値があるんです

アフリカでは黄金と塩が等価だったというのもそうです

なぜなら塩の方が日常の生活では不可欠だからです

黄金をいくらためても食べることはできないからです

食べるものを買うことができるとき黄金に価値が生まれるのです

金自体は紙にすぎないのです

それが交換能力を失ったとき金の価値はなくなる

ただの紙になってしまうのです

円安になれば外国のものはますます高くなり

日本の円の価値はなくなるのです

交換能力がなくなるからです


金は媒介するものです、メデアです

情報でもメデアなのだからメデアをもったものが力をもってはならないのです

マスコミはメデアをもったから権力をもち大衆を操作するのです

貨幣でも媒介するものが力をもちすぎるのです

世界的に交換するものが増えると貨幣の力も強くなる

なぜなら交換したい、買いたいものがグローバルに広がるからです

欲望もグローバルに広がるのです

そして金が世界を支配してしまう

アメリカのドルが世界を支配してしまう

世界の機軸通貨がドルだということは世界を支配するのがアメリカになる

ドルをもっていけば世界中でアフリカの奥地でも通用するからです

ドルだったら世界のどこでも何かを買うことができるのです

それがアメリカが世界を支配する力を与えたのです

世界の人は国はアメリカにドルを通じてひれふすのです

金融でもって世界を支配するのです

しかしアメリカの背後に世界一の軍事力があり

ドルだけでは支配できません

ドルもまた紙でありドルを価値づけるものがないと価値はありません


実際に価値があるのは石油であり技術力であり軍事力です

貨幣はただ媒介するものであり貨幣自体には価値がありません

ローマの貨幣が価値があったのはローマ帝国があったからです

アメリカのドルが価値があったと同じです

ローマが価値があったのは軍事力であり貨幣ではないと同じです

何か資源でも技術力でも何でも与えるものがなければ価値がない

貨幣自体に価値があということはないのです

貨幣に価値あらしめているのが本当の価値です

だから江戸時代は貨幣より米高で給料が支払われていた

米が貨幣の代わりをしていたのです


サラリーとはローマの兵に支払われたけどそれは塩のことだったのです

塩が金の代わりに支払われていたのです

だから貨幣に紙幣に価値があるというのはそうあらしめているものがある時です

日本に技術力がなくなり与えるものがなくなれば円は暴落する

何も買うことができない紙切れになってしまうのです

そういう恐怖が昨今の経済の中で起きてきているのです

日本に膨大な借金があるというときそれは何なのでしょう

日本銀行が紙切れをの紙幣を作り市場に出しても景気が良くなりますか

黄金でもあればそれなりに景気が良くなるでしょう

ただ紙切れをいくら刷っても景気が良くなりますか

そんならこれほど楽なことはないでしょう

働くこともないです、紙切れをするだけですから




今の世の中絶えず金のことを考えないと生きていけない

金のことが頭から四六時中離れられない

世界が金のことで頭がいっぱいになっている

株や金融が世界をかけめくっている時代はなかった

でもよくよく考えてみると貨幣とは何かとなる

貨幣は単なる紙切れでしかないのである

そんなものに価値があるはずがない

これはみんなわかっている

世界の経済の動きは金融ではない

その背後にあり紙幣を価値づけているものである。

日本の円が価値がなくなのは国の価値が減退したからである。

それはいろいろある、だから日本銀行が紙幣をすっても景気は良くならない

紙切れをいくらすっても景気はよくならない

そんなことで景気が良くなるなら楽である

だから何かバブルになったりするのは資本主義社会の宿命なのである。

膨大な金あまりになり何かそれで買えるのかとなり

チューリップバブルが起きたように絵画バブルが起きたように

なんでもいい紙切れをもっているより現物に価値があるということなのである




俺はありあまる金を今もっている

でもここにはなにもない荒野なんだ

ここでは水一杯も飲めない

金をもっていても何の役にもたたないんだ

自動販売機もないしな

金がここでは捨てるだけだよ

何とも交換できない、買うこともできないから

そのとき一人の人が馬にのってきた

「助けてください 水一杯ください、金はこれだけあります」

「いいだろう、全部もらおう」

「ああ、やっと水をもらっんて助かった」

金も荒野や砂漠なら買うものがないから何の価値もないんだよ




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2015年08月20日

グローバル企業は地球をも破壊する (生産共同体ー文化共同体の考察)


グローバル企業は地球をも破壊する


 
(生産共同体ー文化共同体の考察)


人間は群れることから村になったとかいう。人間は何らかの共同体に所属して人間だというのもわかる。
人間はもともと生産も消費も一体の存在として生きてきた。
何かを生産することで共同体になることはわかりやすい、江戸時代の村とかさらに縄文時代の村までさかのぼれば生産共同体である。
みんなで狩りをする魚をとる米を作るなど生産共同体である。消費するというときそれも生産の一過程である。
森の木材でも消費するというときそれは生産につながる。消費という言葉には浪費という言葉から来ているのだろう。
江戸時代のような小規模の自給自足経済では浪費するようなことはできない
資源が限られているのだから浪費などできない、だから人間の糞尿だろうが紙切れ一枚でも無駄にすることはできない社会である。何でも有効利用する社会である。
つた物は現代の物あまりの時代と違って大量生産ではないから一つ一つの物は手作りであり貴重なのである。だから現代のようになんでも消費するという観念はなかった。
だから村でも何でも生産共同体でありその中でしか生きられない社会である。

現代でもやはり生産共同体が社会を形成する、会社ではなにかしら必ず生産することによってそれを売って消費してもらって成り立っているのである。
ただ工業化社会になると生産するものは電化製品でも車であれ様々な無数の物が生産されているがそれは会社で分業化して生産されて消費される、使用されている。
一方で村とか自給自足の経済では自然の循環の中で生産されて消費され使用されて成り立っている
米を作るということは山から絶えず水を供給されて実りがもたらされる。
山は水の貯水の役割を果たしていて雨がふらないときでも山からは水が流れている
そういう干ばつのような時を経験しているが山には水が絶えず流れていたのである。
それで山が神となり春には平地に下りてくるというときそうした自然循環の中にあっての生産共同体だからこそ生まれた信仰である。
つまり昔の生産共同体は自然と切り離せない自然循環の中にあった共同体である。
だから祭りごとも一致している。祭りが政り(まつり)事になるのも当然だった。
天皇がその政(まつり)ごとにたずさわる神官のような役目を果たしていたのもわかる。
大嘗祭が豊作を天に祈る司祭だったというのもわかる。

一方で現代の会社はこうした自然循環の生産共同体とは遊離したものとしてある。
第一電化製品でも車作るのでも他の様々なものを作るのに自然と関係していない
自然を考慮することもない生産共同体である。
東電のような電力会社も原発とかなると自然循環の共同体とは何にも関係ない会社であるだから農業とか漁業とか林業とかとも関係しない
でも電気そのものは第一次産業でも使うから関係しないということはない
なぜならダムのよう水力発電だと自然と関係している。
石炭でも石油でも実際は自然にあった自然エネルギーだから自然と関係している。
核となると今までのエネルギーとはまるで違ったものであり自然とは関わりないのである自然エネルギーだと科学に弱くても石炭であれ石油であれ燃やしてエネルギーになるのだからわかりやすいのである。
原発になるとそういうふうに今までの観念では理解できないものである。

ともかくこれまでの共同体は自然循環の中にあり自然を自ずと意識化される社会である。そもそもだから社に介するがのが社会でありそれが会社になったことでもわかる。
その会社が今やグローバル化して大企業化してその大会社が国を越えて世界で生産活動して消費させているのが現代である。
だからアメリカでもアメリカという国を支配しているのはロスチャイルドだとかロッフェラーだとか常に言われる。ロスチャイルドが原発にかかわりその利権を獲得していたとかいわれる。
それは東電でもあれだけの三兆円の資産があるとか国並の力をもっていたのである。
その東電に政治家でも官僚でも検察でも天下り先としてあり雇われていたともなる。
政治家より国より大企業の方が力があれ国は政治家は大企業の下僕であったという構図が原発事故で見えてきたのである。

その会社は一地域とか国とか世界でも制約されずに活動できる。
大企業にとっては国というのがあると自由に活動できないから障害になる。
貨幣でも国ごとにあると経済活動が停滞するから一つになった方がいいのである。
それでユーローが生まれたしドルが実質的に世界貨幣となっている
そうなるとアメリカがアメリカの大企業が世界を支配しているともなる
その規模は日本の昔の村と比べたらあまりにも規模が大きすぎるから理解不能になってしまう。
だから大企業は地球の自然でも破壊する力をもつようになる。
後進国の森林資源でも破壊してとりつくしたり有用な樹を植えて混生林の自然林を破壊してしまう巨大な力をもつことになる。
こうした大会社は自然に制約されて生きてきた小規模な生産共同体とはあまりにも巨大なマンモス的なものでありそれは地球の自然まで破壊する力をもったのである。
そもそも人類史でこうした地球の自然を破壊するような巨大会社は存在しえなかった。
自然の制約を越えられないしその中で生きていた共同体である。

国とはなにかとなるとそれは小規模な村がもともと国(くに)であり区切るとかあるからクニは小規模なものから発している。小国(おぐに)というのは全国にありそこは一つの自給自足の国だったのである。その規模とはかけはなれたものが大会社なのである。
そして国というときそこには何かしら文化がある。祭りがあり政(まつりごと)がありそれは自然と密接に結びついてあった。大企業とかはただ一つの物をテレビならテレビとか車なら車とかを生産する共同体でありそこには自然とかかわる祭りは生まれない
つまりそこには文化がないのである。
生産共同体があるとしたら文化共同体がある。文化というのもcultureがcultivate(耕す)から来ているように生産共同体がなくして文化もありえないのである。
文化というときその土地土地に根ざす生産共同体をベースにしているから多様になる。

一方でテレビや車だけを生産するのは単一生産であり多様化しない
自然とも関わらないので会社には文化が生まれないし育たないのである。
だから会社というのは世界的に文化を破壊するのである。
言葉にしてもそれは国々の文化であり文化共同体の基礎として共有される。
でも言葉が違うとグローバル経済にとっては不都合になる。一つの言葉の方が大企業にとっては商売しやすいし英語が世界語になった方が便利になるのだ。
そうなると言語としての文化は文化共同体は破壊されるのである。
グローバル企業が地域の文化を破壊するのはアメリカが世界の文化を破壊しやすいのはアメリカはグローバル企業が支配しているからだとなる。
今は例えればイオンがあるとするとイオンという大会社の一員として働くのでありその地域地域で働くとはならない、商店街はその地域のものだけどイオンとなると大会社であり地域のものとは違う。だからイオンという会社が優先化するから撤退したら何も残らなかったとか問題が起きる。地域だとここが商売にならないからと撤退できないからである。でも今やみんな地域の一員とかの感覚ももてない、現実には会社の一員でありまた国の一員と戦後のような強い国意識ももてないなのである。
だからいくら愛国心をあおっても何か国としてのアイデンティティが失われているのである。
とにかくグローバル化すると地域の食文化も破壊される、みんな一様化され安い、ただスシとかが世界で共通語になることもあるがスシとかは日本の暑い湿気の多い所にあった食である。暑いと刺身とか生のものかうまいからである。日本の湿気とか暑さから文化が生まれていたのである。酢の物もそうでありさっぱりしているからである。
日本の暑さは乾燥地帯の暑さと違っているからである。

現代は会社社会であり文化が破壊されやすいのである。その文化が破壊されることが深刻なことを理解されていない、文化はまだ技術によっても破壊されやすい
文化はもともと自然循環の中で生きてきた長い伝統から生まれた、それぞれの国の成り立ちは必ず文化がありその文化も大規模な機械化とかグローバル企業化によって破壊される万葉集などは日本の生産共同体から成り立った文化共同体の産物である。
会社社会はそうした文化は生まない、だから自然を容易に破壊する、森でもそこは木材という自然としてしかみない、米を作る生産共同体だったら山は水を貯える神聖なものだとかなるがそういうことは無視される
大企業や巨大な機械化によって森が根こぞき破壊され森と一体化した人間の共同体も破壊されるのである。
だから今回の原発事故も大企業による破壊だったのである。
第一次産業が致命的な打撃を受けたのはそもそも会社は昔の村のような自然と一体化して生きるものではない、自然循環に生きるものではない
現代文明はこの巨大会社化したときその弊害も大きく地球の自然を破壊するまでなったのである。

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2015年08月15日

現代人はなぜ労働したくないのか? (jobでなく[lifework]を目指すべき)


現代人はなぜ労働したくないのか?

(jobでなく[lifework]を目指すべき)


働くこととを探求してゆくとこれも複雑なのである。
jobだと賃[手間]仕事をするとか半端仕事とかある。
workだと•one's life's work [lifework]であり作品の意味もある。
現代に増えた仕事はjobである。
作品をしあげるとなると江戸時代の職人はみんな一つの作品を仕上げるために精出していた。
だから下駄でも何でも作った人の名前がついたりしている。
今でも特殊なきれのいい包丁を作っている所が近くにあった。それには名前が刻まれていた。
名前か刻まれていることはそこに誇りがあったのである。
そこから職人気質とかが生まれたのである。
今は大量生産になれば作った人の名前など記されていない、誰が作ったかもわからない、もしかしたらロボットが作っているのじゃないかとさえ思う
大量規格生産だったらそうなる、大量に同じものを作ることになったからである。


そういうものは貴重なものではない、例えは江戸時代など簪(かんざし)などあるがあれも一本一本手作りで貴重だったろう。
戦前の十年後とかまでは物はないから何でも貴重だった。自転車だって一生磨き使っていた。
物は職人でも丹精こめて一つ一つ手作りで作っていたから貴重になりその材料も大量生産するほどないしわずかだからさらに貴重になる。
簪(かんざし)でも銀の材料が貴重だから産地の秋田まで職人が移動したとかも言われる。当時は簡単に材料でも運べないからそうなる。
職人はすでにその仕事自体はone's life's work [lifework]であった。
そういう仕事をしている人は今の人の仕事とは全く違った意識をもっていたのである。
まさにwork(作品)を仕上げることが仕事だったのである。


現代人が豊かでも物があふれても何か満たされないということもこれも過去の比較でみるとわかりやすいのである。
まずこうして[lifework]として仕事をしている人はまれだから仕事はただその場稼ぎというか賃金を得るためのものであり生きがいを見いだせないのである。
自分にしても能力かないから若いときから流れ作業のような仕事しか与えられなかった。それ以来仕事を嫌悪するようになり仕事していないのもそのためである。
現代ではまず生きがいある仕事をできる人は特別な能力がある人しかなれない
ほとんどの人があとはロボットのような大量生産の部品を作る人になるしjobになる。
ともかく仕事はその場限りとかではなく本当は[lifework]になるとき仕事なのである。
だから昔の職人は技をみがくために一生努力する、現代ではその場限りなら技を磨く必要もないし何か仕事に上達するとかもない、その場限りで手間賃を得るだけだとなる
そうすると仕事に生きがいをもていなから仕事したくないとしてニートとか働かない若者も膨大に増えたのである。
それだけの余力が家にあったりするからそういうこともできるのが現代である。


自分の庭を作ってくれた人はそういう職人だった。大工でもあるし庭作りもできて一人親方になっていた。何でもできるから驚いた。でもそういう能力がある腕が良くてもやはり金がたりないと別なブラックな仕事をしていたのである。
今の社会はそれだけきりなく金が必要になる。それだけ贅沢を求めてきりない社会なのである。
家を建てている人は借金している人が本当に多い、借金してまで贅沢をしているのが現代なのである。
生産社会だったのがこれまでの物を大事にする社会である。もったないの社会である。
それが物がないからであり大量生産できない社会だからでもあった。
物があふれれば物は貴重でなくなる、だから簪でも江戸時代なら貴重でも今ではそうはならない、そうした物の価値も時代によってまるで変わってくるからである。

現代でもそうした職人とかは受け継がれている、エキスパートとかスペシャリストとか専門家がそうなるだろう。そういう人はやはり貴重であり価値ある人となる
でもそういう人になれるのは極まれなのである。
そういう人は別に農業でもいる。農業のエキスパートで成功している人もいた。
浪江の人で野菜作りに優れていて平(いわき)に売って財を成して子供を三人も大学に出した人である。その人は賞ももらっている。
野菜でもネットなどで販売している人では名前を出してその人が作ったものとして売り出しているがそれは昔の職人とにているのである。
だから現代でもそういうことは受け継がれているのである。


宅配とか、自販機の飲料水詰め込みとか
よくあんな仕事やれんなぁ〜と思ってる漏れの仕事(IT土方:夜間オペもやった)も

他人様から見リャ、よくあんな奴隷みたいな仕事やってんなぁ〜という目で見てるんだろねw


確かにこういうことが多いから仕事したくないという人が増えたのである。
自販機などは機械化して手がかかってないようで詰め込む作業を見たら種類が多いから結構な仕事になっていた。なかなか今の仕事は見えないから苦労がわからないのである。


自分は家事が仕事だからゴミだすのも一仕事なのである。するとゴミを投げるからゴミをもってゆく清掃車を見ている。あの人たちもゴミを運んでいるからあれも結構重いから楽じゃないなとかみる。
一つの仕事としての連帯感をもったのも奇妙である。
やはり同じ仕事している人は共感を持つということになる。
そしてあの清掃車の仕事でも市町村を支えているという実感をもった。
なぜならこの辺は人手不足でありみんな補償金とかもらって働かない人が多いからであるこの辺でそうして働かないとゴミすら運ぶ人がいないと市全体で困ることになる
一見そういう仕事はしたくないとなるがそれがするものがなくなったときどうなるのか?
市がもはや成り立たない運営できない、住むこともできないとまでなってしまうだろう。外国とかストライキがあってゴミが街に散乱したことがあっことでもわかる。


原発事故では何かそうした市を町を村を誰が支えるのかということが問題になった。
働き手の若い人がいなくなればゴミを運ぶ人とかまでいなくなればもはや市町村も運営できないとなるからだ。
こういう場所ではまた仕事の意味も違ってくる。でも働かない人はこの辺では老人も多いこともあるが補償金もらっているから他よりずっと多い
それでどこも人手不足になっているからまた事情が違ってきたのである。
だから俺たちの住んでいる市町村で困っているのに働かないということはそこに住めないとまでなる。
そういう危機的状態になれば今までのようにしてはいられないはずなのである。
金があるから働かなくてもいいとかならない、年金もらっているからいいともならない
第一年金暮らしといっても金があっても働いてくれる人がいないなら老人の暮らしも成り立たないのである。
病院でも介護でも働く人がいなくなれば金があってもサービスは受けられないのである。


だから避難区域では現実に帰りたくないというとき働く若い人がいないのだから老人だけ帰っても暮らせるかとなって問題になったことでもわかる。
働くことが端を楽にするというときまんそれは狭い範囲でみた労働感である。
つまり身近な家族でも苦労して働いているから楽にしたいという気持になる。
それが小さな市町村だと家族のようになりそういう意識がこういう緊急事態では生まれた他でも老人だけの村がスーパーも運営できないと自ら働かざるをえなくなったことでもわかる。少子高齢化ではそうなりやすい、人手不足が深刻になるからである
働くとは身近で感じたことであり今のように外国の人が働いて物を運んでくるということなどない
だから働くという目的とかがはっきりと見える社会だった。
今は一体誰のために働いているのかなどわからない、外国の品物が入ってもそれは誰のために働いているかなど関係ないのである。金になればいいとしかないのである。


一方で医者とか看護師とか介護関係などは直接人と接する仕事だから誰のために働いているから明確である。働く相手は現実に向き合う近くの人間だからである。
だからそういう仕事は嫌な面があっても生きがいが生まれる
だからいつも医者とか看護師とか介護士でも感謝されるのである。
品物を作って人とかコンビニとか他にも何か働いても感謝される仕事は少ないである。
ともかく現代は働けといっても働くことが嫌悪される社会なのである。
誰も今や家事なとしたくない、その女性の生きがいはわずかの狭い畑で農業することであるそこで生産するものはほんのわずかである。趣味にすぎないのである。
農業自体は実は苦労があってもまさに実りがあるからそれで働く喜びがある。


でもそういう仕事は一面金にならないし趣味でありかえって金がかかっているのである。でもそれが生きがいだから仕事している、つまり金になって生きがいになる仕事は現代では少なすぎるのである。
だからみんなjobとなりプロフェショナルになはならないのである。
そういうスキルもなにもいらない単純仕事は機械化される、ロボットがするようになる。でも農業などは複雑であり機械化できないのである。
人間の仕事がなくなることなどありえないのである。

株などでも大金が入っても金が入ってもそれ自体では生きがいになはならい

ただそれを消費することが生産に通じることはある

その金で有益なことに消費すれば生産になる、花を高いけどフラワーアレンジメントすれば美を作り出しているとかなる。


ともかく若者はjobではなく若いときから[lifework]をもつべきだとなる
それは趣味の分野でもそうでてある。才能なくても積み重ねてゆけばそれなりのものになる
雑学の分野だってそうである。何度も言うが時間を費やしたものがその人の人生なのである。そして時間はすぐに切れてしまうのである。
人生はつくづく遊ぶ時間すらないものだった。お前はそんなに遊んでいたじゃないかというけどそれでもそれもあっというまに過ぎてしまったとなる
おそらく何をしても人間の時間はたちまち過ぎるということである。
一つの楽器に習熟するのにも一生もかかってしまうのが現実なのである。
何事でも一万時間をかければそれなりのものになる。
いくら天才でも第一与えられた時間は増やせないからである。




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2015年07月22日

アメリカに投資してもうけている自分の矛盾 (アメリカ人は日本より貧困層の問題が深刻)


アメリカに投資してもうけている自分の矛盾

(アメリカ人は日本より貧困層の問題が深刻)


●アメリカは貧困社会?



アメリカは「特権階級」「プロフェッショナル階級」「貧困層」「落ちこぼれ」という4つの階層に分かれ、「特権階級」「プロフェッショナル階級」の上位二階層を合わせた500万世帯前後、総世帯の5%未満に、全米の60%の富が集中しており、トップ20%が84.4%の富を握っているそうです。そして、経済的に安心して暮らしていけるのは、この5%の金持ちだけだとのことです。

「他人の子供の世話をするために、自分の子供の世話をおろそかにする。自分は標準以下の家に住んで、人さまの家を完璧に磨き上げる」ワーキングプアは「ひたすら与えるばかりの人たちなのだ」とエーレンライクは言います。

小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』



日本だとプロフェショナルが何ですかとか言わない、職業より会社名などを言うだろう。プロとはあなたの専門は何ですか?となる
何か専門的な知識やスキルを基にして働くものは収入が大きい。
「特権階級」は親の資産とかを受け継いだ人とかであるがアメリカでは金持ちでも桁はずれるになる。
日本はアメリカを戦後手本にしているのだから当然アメリカ社会に何でもにてくる。
それより世界が資本主義というグローバル経済のシステムに組み入れられているから資本主義経済の影響が大きい。
それでどこの国でも格差が生まれる、それはアメリカだけでなくて世界中で起きていることである。
だからこそアメリカだけの問題ではなのである。
ただアメリカとか中国とかなると国が大きいから極端になるのである。

なぜ貧しい人と裕福な人がいるのかとなるとこれもまた今だけの問題ではないし歴史的にもう人類がはじまってからあるだろう。
だからこの格差の問題は今だけではない、根の深い問題なのである。
貧乏の原因を考えるとまずそうした社会的問題としてとらえるのではなく個々人が原因になって起きることが必ずあり自己責任だとして批判されることはやむをえないことである貧困は今は目に見えないしまたそもそも人間の直接に接する人は少ない、10人くらいかもしれない、するとそこから見えてくるもので判断しやすい
良くシングルマザーとかの悲惨な貧困が増えているということを話題にするけどそれもマスコミでは極端なものしか取り上げられないからその内容が本当かどうかもわからない。つまり最低の極端なものが話題にされやすいのである。
普通に生活している人は話題にしても面白くないから極端な貧乏を話題にするのである。だからそういう記事が本当なのかどうかという疑問がわく
ただ全般的に現代が格差社会だということは否定できないだろう。

●貧困の原因

個人的な貧困の原因としては

●親の資産を受け継いでいない
●離婚している
●プロフェシャナルになれない

なぜ親の資産を受け継がないと貧困に落ちるれのかというとこれはまず土地とか家がないということをイメージすればわかる。
何もないところから一から結婚して始めるとなるとその労力は何倍にもなってしまう。
10万とか家のローンを払うとなると月給からその分30十年とかひかれていくのだから辛いそれで老後に破産しているとかが起きている。
でも能力ある人は一からはじめて財産を残している、土地を買い、家を建て、子供を教育して育てている。
農家だって三代しないと農家とは認められないという。
それだけの積み重ねがないと農家にもなれないからそうなる。
「草分け」というのはまさにその名からわかる。
つまり草茫々の原野に入り開拓した家である。
その後から入ってくる人はそうした草分けの家をまず頼りにして働きやがて代を経て財を築いてゆくのが順序である。
だから誰もいつまでも貧乏にとどまるとは限らないのである。
そういう人がなぜ今貧乏なのだ、草分けはうらやましいとか言って盗んだりすることはゆるささないことである。その家は最初は同じように苦労してきたからである。

子孫はその恩恵を受けている、でも恩恵を受けた子孫も零落することはある。
あとからの人がかえってけ苦労して豊かになってゆくということも昔からあったのであるその人は電工であり普通の労働者だけどトラック運転もして人より歩合制で一台いくらで勘定するけど人より運んだから収入になったという。それだけ努力したということである別に特別なスキルがなくても貧乏にならないし土地も家もあり普通の暮らしをできた人も多い。高度成長時代ということもありそういう人はが中産階級になった。
派遣とかフリーターとかはその時代ほとんどいないし正社員の時代だったことは今とは違う。
それから貧乏している人は必ず離婚している、離婚している人は二人分の収入があるのに一人分になるのだから当然貧乏になるのは目に見えている、現代はあまりにも簡単に離婚しすぎるのである。シングルマザーの問題もそこから起きてくる。
夫に問題があっても収入があれば昔ならがまんしていた。現代ではがまんしないから収入が減ってその後の暮らしのことを考えないで離婚する
すぐに生活保護になった人も知っている。
貧乏にはかならず自己責任の部分はあるし否定できないのである。


現代の格差社会を問題にするときそうした個々人の問題に原因があるというのではなく
社会のシステムの影響で貧困から脱することができない問題である。
いくら働いて働いても豊かになれないのはなぜなのか?
それはその本人ではなく社会のシステムで資本主義社会が悪いからそうなっている
それも確実にある。それでピケティの資本の不公平を指摘したのが世界的話題になった。つまり資本主義はもともと資本が元金がないと豊かになるチャンスが与えられないのである。
それは一億円の元金がたまれば株に投資すれば今でもその元金が増える、でもそのまとまった元金が増えなければ増えない、だから一億円あれば働かなくても暮らせるなとためる人もいる。
その一億円の金も資産家なら簡単にもてることができるから格差になる。
だから親の資産を受け継がない人は元金がないから投資もできず細々と働いているほかないのである。
だから資産というのはどうしても一代で築くことはむずかしいと思う。
それは特別能力があるプロフェショナルな人にはできるが普通は苦しくなる。
自分の場合はただ親に恵まれたので今は金には困っていない
でも自分が金持ちだったという気分になったことは一度もないのである。
旅ばかりしていたといっても最低限の旅でありまず外食で千円以上使ったなかったし宿も最低限の宿を探すのに苦労していたのである。
だから贅沢な旅などしたことがない、温泉旅館などに一度も泊まったことがないのであるあと使ったのは本代であり何か贅沢などしたことがないのである。

●毎日家事に追われている自分は金持ちではない

今でも自分が金持ちなのだろうかというとそうではない、実際に毎日家事と介護に追われているとなるとどうして金持ちなのだろうかとなる。
金持ちだったら家政婦でも20万とか30万でも雇うだろう。それこそ金持ちの気分になるだろう。掃除、洗濯、買い物、介護をしていたら自分は召使と今は同じではないか?
あいつは金があるなと言われても自分の状態は召使なのである。
だから自分を自分も金持ちだと思いないし召使としか言いようがないのである。
本当の金持ちは家政婦を二人とか雇っている人である。そういう人がいたが強盗に殺されてしまった。
だから金持ちは何なのかというときその内容もある。毎日家事に追われているような人が金持ちとは言えないのである。
家政婦とかだと一番格差を感じやすいのである。
他人の子供を世話して他人の家をぴかぴかにみがくのはなぜだろう?
そういうとき一番格差を感じやすいのである。
だからアメリカでは手伝いさんを裸にして使うということが極端化してなった。
それだけ格差が大きいと家に入る人はほとんど泥棒だということになってしまうからである。

確かに自分でも一番不思議なのは矛盾なのはアメリカに投資して儲かっていることであるええ、でもアメリカではこんなに貧困者がいるきかという驚きである。
アメリカは極端な格差社会である。移民社会だからそうなる。
つまりアメリカが国として豊かなのに貧困者がそんなにいるのかという疑問である。
そのアメリカで自分が金をもうけているというのも矛盾なのである。
これはグローバル経済では普通のことでもそういう経験がなかったから感じなかった。
アメリカが豊かでもその富はアメリカ人の国籍のある人に還元されていないのである。
誰に還元されているのか?それは株主だというのが資本主義なのである。
アメリカでは特に株主が優先される純粋な資本主義国である。
それは別に日本でもそうである。日本でもうけたものが別に日本人にその富が還元されるわけではない、外国人の投資家にも還元されるからグローバルなのである。
ただギリシャのようになると国自体が貧乏になると国内の格差だけではすまなくなる
全員が貧困状態に陥り国自体が滅亡するとまでなる
それは日本でも言えるのである。格差社会でも国にまだ力があれば国自体が全員貧乏になり滅亡するような状態にはならないのである。




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2015年07月17日

経済学とは経世済民 (日々の生活であり一番身近なもの)


経済学とは経世済民

 
(日々の生活であり一番身近なもの)


「経世済民」

 経世というのは「世を治める」の意味です。「済民」は「民を救う」という意味です。世を治め民を救う、この4文字の言葉から「エコノミー」は「経済」と訳したらどうかということになり、そのまま経済という言葉として定着しました。

大学で経済学部を専攻した。でも自分はそもそも勉強が嫌いであり学校に適応できなかった。受験の勉強であり勉強が好きになれなかった。
だから勉強とは常に試験とかで強いられたものであり暗記であり高校まで自分で考えたことがない、ところが学問とはそもそも学び問うというように何かの問いがありそれを解決するものとして生まれた。
この世に生きる限り様々な疑問が生まれてくるからである。
今や文明生活は複雑であり疑問だらけでありその全容を知ることはできない
「なぜ3百万人も死んだ戦争があったのか?」
これも深刻な問いでありその明確な解答などないのである。
「なぜ人間は死ぬのか」
これも人間にとって個々人にとって最大の問いになる。
それで求道になりその問いをの答えを求めるのが人間である。
そしてその問いの答えは必ずある
だから真剣な問いがあることが学問のはじまりである。
学問というとき問い学ぶとあるが学ぶはまねるでありそのまねる、暗記だけだと学問は嫌になる。
簡単な算数でも今になると暗記でありそれをいろいろ考えて学習すると勉強好きになった算数を数字だけで抽象的に考えているとわかりにくいのである。
子供の学習で像から考えろというとき、一、二、三・・・と数があるときそれを具体的なものとして一個二個三個として図形として数字をとらえるとわかりやすくなる
数字は極めて抽象的なものだからとらえにくいからである。

そしてでは経済学とは何なのだろうとなる。学問は現代では様々な分野に分化してしまった。学問は学び問うが基本であり問うとはやはり哲学でありギリシャの学問が哲学であり問答形式になっていたことでもわかる。
経済学にしても商学部とか経営学部もあり分化している。
ただ経済となるとより一般的になり総合的になるから哲学的にもなる
商学部とか経営学部は実用的なものとしてある。
経済学部とは何か宗教にも通じている。世を治めるというとき宗教もそうだからである。資本主義がそもそも修道院から生まれたキリスト教のモラルから生まれたというのもそのためである。
仏教でも勤めというのはまさに仏に勤行をあげるとかが勤めでありそれが一般社会にも勤めるとなり働くとなった。
自分は今になると学問好きだったと思うようになった。
ともかく自分は考えることが好きなのである。何か実践することは苦手である。
だから実業家とか政治家とか現実社会で何か事業をしたりすることは向いていない
だから学者タイプだったのである。

経済学とはあらゆる分野に必要になる。根本的には経済とは何か、それはコストの問題があらゆることに最初に問題になるからそれが経済学なのである。

「エコロジー幻想ー武田邦彦)という本を例にすると

鉄道とバスと自動車を比べた場合、一人を一キロ運ぶエネルギーが鉄道は100、バスは178、自動車は595になるという。こんなに違うのかというのも意外である。
自動車は一人でも使うから効率的ではない、多人数を運べばバスの方が効率的になる

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田舎では一人一台車をもっているのが普通である。それは大量にエネルギー消費しているから都会より田舎の方がエネルギーを無駄にしているとなる。
それでコンパクトシティがいいというとき現代の便利な生活を維持するにはエネルギーでもコストがかかりすぎるからそうなる。
料理するとき湯で卵にするためにガスとか電気を使う、ガスだと5分とかであり電気だと10分とかになる。その時常に自分は無駄を感じていた。
つまり卵二個だけゆで卵することにそれだけのエネルギーを使うのかという実感である。なぜなら5個でも使うエネルギーは同じでありさらに十個でもほとんど変わらないからである。何かこれが田舎の生活がかえってエネルギーを消費しているというのとにている。都会だと人が集まっているから人間を卵に例えると百個でもゆで卵にできるとなる
それが毎日のことだから実感としてエネルギー消費を考える。
それは水道などでも同じである。一人風呂に入るのと五人風呂に入る水道の料は同じなのである。そこに水の無駄が生まれているのである。
現代は個々の暮らしが多くなったからこういうエネルギーの無駄が多いのである。
つまり車がエネルギーをそれだけ消費するのはゆで卵を一個を同じエネルギーで消費しているからである。バスだったら十人のせるが車は一人だからである。

それから太陽電池発電がこの辺でも原発事故以降いたるところに見られる
これも自然エネルギーだからすべてがいいというわけではないという。
それもコストの問題なのである。税金を投入しているから安いものではない、その設備投資でも保守するのにも金がかかる、これもコストの問題があり経済学なのである。
科学が技術だけの問題ではない経済学が関係しているのである。
つまりあらゆるものにコストがどれだけかかるということが常に問題になるからである。だから゛あらゆる分野で経済学が問題になる。
それはコストの問題が最初にあるからである。物を買うにしてもこれが買う価値があるのか、これだけの金を払う価値があるのかとかこの人を雇って価値があるのかとかコストの問題になる。それが経済学なのである。
オリンピンクの国立競技場問題もそうである。そんな大金をつぎこむ価値があるのか?
コストの問題がありそれでもめているのである。


原発事故でも経済学が関係していた。原発を建てるにば金がかかる、それだけの金を使う価値があるのかとなる。なぜそんな危険なものを作る必要が日本にあるのかとなる。
それはコストだけではない、アメリカの要請とか核兵器にするという裏の目的もあったのかとなる。
ただ東電の社長がコストカッターとして資材部から社長にのしあがったということでやはりコストが関係していた。
最初は高い所に原発を建てる計画だったのを低くしたのもコストのためだったのである。つまり安全を計ればコストがかかるからであり現実に津波の予想を東電ではしていたのである。
それをあえて津波対策の工事をしなかったのはコストがかかるためである。
これも経済的問題であり経済学だった。
この経済的問題はあらゆるところに生じる
日々の主婦のやりくりも経済学なのである。


介護問題にしてもこれも経済学の問題である。そもそも介護保険があるとしてそれは税金からでている。その金も膨大なのである。
確かに一日ディサービスでとまると5000円くらいとられる、でも現実は介護保険からその8倍くらいは出ているのである。もしその分をはらったら一日8万とかなると高級ホテルに泊まることと同じ料金がかかることになる
それで一カ月部屋が空いているから泊めたらどうかとケアマネジャーに言われた。
これまでは空いた部屋がないと思っていた。この辺では人手不足でもあるから実際そうだった
でも一カ月泊まりませんかというと空いているのだろう。
空いたままではホテルと同じように金にならないからすすめられた
一カ月15万は別に高くないのである。
ところがその15万は介護保険から出ると7倍8倍となったら百万にもなってしまう。
そういう計算をすると空恐ろしくなるのである。


別に介護保険から出るからいいじゃないかとなるがコスト的にはどうかなと疑問になる
なぜならその一カ月百万の金は税金だとすると個々人でも介護保険から払っているから実際は無料ではない、みんなして税金とて払っているものである
それで若い人にこうした保険料でも負担が多すぎるから健康保険でもコスト面で問題になる。国民年金でも若い人に税金の負担をかけているから問題になる。
税金をとったり払ったりすること使ったりすることも経済学なのである。
それが額が大きすぎるから何か実感しないが個々人でも月給からも税金としてひかれているのである。
高齢化社会とか介護とか医療には金がかけすぎるから政府でも何とか減らそうとするのはわかるのである。
それは自分の家の問題でもあるからよそ事としてではなく自分の問題として経済学がある経済学とは日々の生活のことであり学問としてむずかしいことではない
経済学は今ではグローバル経済になるとますます世界的なことも経済学としてみるようになる。
世界のことは関係ないとしていられないのである。アメリカに投資したらアメリカの動向や世界のことが常に気になってくるのである。
それは自分にも直接影響するからである。
経済学はまた倫理学である。昔だったら物を大切に使う、使い捨てなどしない、自転車でも高いから一生磨いて使うものだった。新しいものを買う金がないからである。
そういう貧乏な時代は何でも物でも大切に使っていた。

経済学はモラルの問題でもあるから「経世済民」になった。
医療とか介護とかも科学だけの医療技術の進歩だけでも解決しない
コストの問題がありそんなに保険を税金をつぎこんでいいのかとなる
それですでに国がつぶれるとまでなる、
ともかく物を今のように消費して使い捨てるとかの経済は成り立たなくなる
そんなに資源を無駄にするほど地球は人間に与えない
物を大切にするということはやはり経済学の基本でありモラルの基本なのである。
何でも新しいもの新しいものを求めるのも問題なのである。
今あるものを大事に使うというのも長く使うというのもコストの面でモラルの面でも必要なのである。結局そうならざるをえなくなる。
現代の消費生活はギリシャのように借金してまで贅沢するよう生活は経済学的にも破綻するということである。
医療とか介護分野でもそんなに金を使うことは経済の破綻になる。
何も介護など金をかけないでもできる。金を使えば個々人にも全体にも負担が大きくなり経済にコスト面で破綻してしまうのである。
やはり経世済民とは経済は世を治めることなのである。
何でもコストの問題が最初にありそれに納得してもらえれば世は治まるとなるからである現代とは税金の無駄が多すぎるからである。その税金が公務員に使われているとか不満が多いから世が治まらないのである。



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2015年06月30日

物は移動できても人間は簡単に移動して住めない (移民は日本の家族のように受け入れないと不可能)


物は移動できても人間は簡単に移動して住めない

(移民は日本の家族のように受け入れないと不可能)


物が移動するのと人が移動するのは全く違ったものになる。
人が他国に移動するとどうなるのか?
家族であれその国のことであれまたは宗教であれその人ともにもたらされる
だから移民したヨーロッパではイスラム教が増えてそこが別な国のようになってしまう。日本でも移民を入れるとなると単に人間を部品のように働かせることはできない
つまり人間は物でもないし機械でもない、人間に付随するものは全体だから
この一部門で働く人がいないからと機械のように部品のように人を外国から臨時的に入れて働かせることは問題が起きてくる
そういう働かせ自体に問題がありもめごとが起きたしこれからも起きてくる。
それは人間は機械でもないし機械の部品でもないからである。
ただ文明の仕事は移民を入れるにしろ入れないにしろ仕事自体が機械化して効率化を計ってきた。

つくづく文明とは膨大な分業であり部品化だったのである。
人間の仕事はもはや無数に細分化された部品の集合なのである。
それは車を生産して使うとういことで象徴されている。
国がトヨタの会社でありその車を使うために人間が部品化され配置されているとかなる
車は部品の集合からてりその部品を請け負い作る中小企業がいて従業員がいるからである文明そのものがそうして生産を機械化して効率化してきた。
ただそれが外国人でも何でもいい、その機械化部品化として人間があるからいいとはならない。
障害者が最近雇用を会社でもしなければならなくなった。
でも意外と障害者でも流れ作業とか部品化した分業化した仕事ができる
てもそもそも人間の仕事は普通の人でも分業化して細分化して部品化していたのである。そういう仕事はかえって障害者にもできる、向いていたとさえなる

まず全人間的仕事をしている人は文明社会では極少数である。
文明の全体を知る人など誰もいないだろう。
第一次産業は自然の中で仕事していたから全人間的である。
工業化すると機械も部品の集合であり人間も機械化され部品化される
一人の人間が一つのものを作るとういことはない
江戸時代ならほとんど職人であれ一人の職人の手仕事だったのである。
職人一人が製品を全部仕上げていたのである。
田から職人も全人間的に生きていたとなる
医者でも現代のようないろいろな科はない、人間の全部の体をみていた。
人間の体の部品化はないしできなかった。

でも移民が問題になるのはなぜなのか?
人手がたりないから国内のように人間を機械のように部品のように使えないからである。移民とともにもってくるものは家族であれ国であれ宗教であれ一人の外国人はその国を代表してもってくるものがある。
移民の一人でも何かその国を代表したように国自体を外国にもってくることにもなる
だから移民は文化的衝突することになる
つまり国の中にもう一つの国ができることになってしまう。
でも外国から物だけを取り入れていればそういうことはないのである。
別にバナナが入ってくるからとフィリッピン人がメキシコ人がどうのこうのとかにはならない゛フィリッピン人が風俗であれ嫁になるのであれ人間そのものが入れば必ず全人間的なものとして問題になる

人を雇うにしても自分でもちょっとした時間でもいかに人を雇うことが特に家で働いてもらうとなると大変なのもになるか身をもって経験した。
そこには常に露に人間的な問題が露骨に現れる
もちろん普通の会社でも経理でごまかすとかあるから人間にはそうした信用問題がつきまとっているのだ。特に家に入るものは一番危険なのである。
そして時給一時間いくらはらえばいいとはならない、なにやかにやとその家の問題がありそれまでめんどうみなければなちらなかった。
家族の一員のようにしてめんどうみなければならなかった。
だから人間を雇うをほどめんどうなものはないと思った。
ただ時給いくらで雇うというときコンビニなどでもそうした家の事情とかには立ち入らないシステムになっている。
いちいちそんなことを聞いていたらもうもうけることもなにもできない
社会福祉事業になってしまう。
移民でも人間が入ってくれば現実に日本人の家族として受け入れるようでないとうまくいかない。
機械のように便利に使っては使い捨てというわけにはいかないのである。

いづれにしろ原発事故で避難した人たちも人間が各地に移動したから問題になった。
人間はそもそも物ではないのだから移動するとなると移り住むとなると簡単にはできない、移った場所に簡単になじむことはできないのである。
ただ旅するなら別である。旅人になる別に移動することが目的だし一所にとどまらない事か旅だから別である。
でも人間は長年住み慣れた場所から他の場所へ移り住むのは様々な問題をうむ
確かに第一次産業の自給自足の生活ではないからその土地に愛着するというこはそれほどなくなった。
でもやはり長年住んでいる場所と人間は一体化する
それは自然でも人でも他にもその場所に長年住むということは石のようになることでもある
その本が見つからないが会津の民話では村の欅が一緒にお伊勢参りしていたとかあり
それだけその村の古い木とか石は単なる自然の物ではない人間と一体化していたのであるだから浪江の女性が60代の人は田舎の淋しい場所に住んでいた。
それが高層ビルに住むようになったから相当な違和感がある
都会の灯の海を見て暮らすのとはあまりにも違っていたのである。
物だったら例えはみかんであれリンゴであれ野菜でも移動してもその味は変わらないのである。
ところが人間そのものが移動するということは物ではないから機械の部品でもないから簡単に移動できないものなのである。
人間は一つの部品ではない、全体に生きているからそうなる。
人間はその土地に根付く植物や樹とかともにている。結局人間の自然の中の生態系に生きる生物の一種だからそうなるのである。


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2015年06月21日

全国賃金時給分布からみる差 (データーを素人でも見るインターネット時代)


全国賃金時給分布からみる差

(データーを素人でも見るインターネット時代)


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平均賃金

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時給



鹿児島なんて最低賃金時給600円台半ばチョイくらいだよ。
で、地元じゃわりと大手の企業でも平気で最低賃金、サービス残業とかまかり通ってるよ。
本当に生活保護が勝ち組みたいなレベル。
こんなんだから、鹿児島はパチンコ屋が異常に多い。
市内中心部の一等地も立体駐車場完備の大型パチンコ店が多数進出していて、観光も多い県なのに本当に恥ずかしい、情けない景観。
所得低いから金を安易に増やそうとパチンコ屋に入り浸る人が多い。
もちろん、ちょっと暇つぶし、気晴らし程度で2、3千円程度楽しむだけの人もいるけど、老若男女問わずパチンコ人口多いのは鹿児島の最大の恥。

中国人が「日本製品やっす!」「日本女やっす!」と爆買いするのを
「爆買い有りがたや ありがたや」と揉み手で迎える。
戦後、米軍トラックを「ギブミー!」言いながら追いかけてた時代に逆戻り。
アベノミクスで見事に日本は三等国堕ちw
台湾、上海あたりの最低賃金っていくらなんだろ
地元民が食べる屋台のランチのヌードルですら一食日本円で1200円くらいだよね
日本は貧乏くせえわなあ、最賃、700円とかだろ?
人の価値が安い国。


中国人も逃げ出す日本の低賃金
中国人の研修生はどんどん数を減らして東南アジアの研修生が増えている
彼らもご存知の通り日本の低賃金にすっかり騙されたと
失踪したり訴訟をしたり散々な状況



インターネットで変わるものは相当あった。ただそれが個々人ではなかなかインターネットは意識されない。
そもそもも物の値段だとわかりやすい、毎日買い物しているから物価には敏感になる。
アスパラガスは好きだから毎日買っている、国内産だと三〇〇円とかなると高い
今日は外国産が置いていなかった、メキシコ産など国内産の半分とかだった
この値段の差がどこから出てくるのか?
それはグローバル経済だからこそでてくる値段なんだよ
最近は外国産は円安で食料でも高くなっているから前のように買いずらくなった
輸入品が高くなり食料品も高くなる、これもまた当然なのかもしれない

そもそもグローバル経済では外国産は安くなりすぎていたのだろう
日本だったら食料でも人件費やなにやらで高くつく、種が上がったとかで農家の人も嘆いている 肥料だって輸入していれば高くなる
ただ食料品が高くなることは国内産にとって農家などにとっては有利になるだろう。
それは外国産が半分の値段とかなっていれば競争できないからだ
もし外国産と国内産がさほど変わらないとなれば日本産を買うようになる
つまり日本の農業にとっては円安は歓迎だとなる、それは生産者にとってである
まず経済とか景気感とかは個々人によって地域によってみんな違っている
アメリカで時給を一八〇〇円にするとなるとこれは高いなと思う
でもこさを日本と簡単には比べられないみたいだ
それでもアメリカが景気がいいというときアメリカに投資してなぜ分配金が高いのか驚いた
そういう株とかでもうけたことがないからである
だから資本主義とは元金が資本があるともうけられんだなと実感した
時給とかで働いても今や正社員でも賃金が高くならないからである。

その資本とは国内だけではないグローバル経済の中で活かさないともうけられないのである。
グローバル経済がいいの悪いのという前に世界の現実がそうなってしまっているのであるだから会社で時給で働くより株主になって配当金をもらった方が資本主義では得なのである。だから資本主義はとにかく元金がないと資本がないと得しない仕組みだとなる
賃金とか時給の差をみるとやはりその県の経済事情が反映している。
東北だと経済力は宮城県が一番であり次に福島県がいいのである。
ただ福島県は前は浜通りとか中通りと会津には差があった。
だからその県内でも差がある
一番ひどいのは青森県とか常に言われてきた。
それは全国の賃金差でも時給でも同じである
東京近辺は神奈川とか千葉とかはやはり高い
大阪近辺でもそうである。なぜか近江では賃金は高くても時給が740円では安いと思った
やっぱり大阪や京都から離れているのが影響している?

福島県が賃金で88は九州や四国より高い、原発事故後はこの辺は人手不足で飲食店では1000円を越えているがコンビニではそれほどでもない、飲食店は結構仕事がきついということがあるからだろう。
富山石川福井長野は賃金は福島県より高い、茨城、群馬、栃木なども高い
これは関東圏は高くなっているということだろう。
全国を地域別に見るのは別に経済力だけではない、いろいろなものに県別や地域差はあるただこれも全国を旅してその土地柄を地形など知らないとわかりにくいだろう。
まず神奈川などは本当にわかりにくいし他にも福島県なども広くて福島県に住んでもわかりにくい。
全国を旅したらその土地が歴史的文化的にどういう土地なのか興味をもつ
一回でもあそに行ったなとなると興味をもつ、それは外国でも同じである。

日本は相当におちぶれて衰退してきている、なぜなのか?
日本には何か欧米のような独創性がないからかもしれない
でもアジアはアメリカでも留学生でも成績がいい
特に数学の成績がいい、その理由は稲作と関係していたというのも面白い
農耕民は努力型であり欧米のような狩猟牧畜民、遊牧民と違っている。
そのメンタリティはなかなかわからないのだ。
なぜ欧米が主導権を握ったかというと何か新しいものを発明して作り出す能力は欧米人が優れているからではないか?
こつこつ努力型には何か天才的ひらめきで新しいものを作り出す能力に欠けている
それでITなどでも遅れをとった
今やロボットがニュースの記事を編集して書くということすらコンピュターでできるという。人工知能の進化は進んでいる
人間はやはりデーターが手元にあれば素人でも分析しやすくなる
こんなことを書けるのもインターネットの情報の流通によって書ける

ネットで面白いのは地域差があって地域から地方から発信されることにもある
マスコミだと中央よりだし取捨選択も何か視聴率にだけこだわるからかたよる
そしてマスコミは権力機関の政府でも団体でも宗教でも大企業でも広報機関なのである。宣伝費をそうした大きな団体からもらっているからそうした大きな団体はたたかないのである。
だからマスコミからだけでは真実はわからないのである。
ともかく情報は無限大でありそれをどう見るからはやはり個々人で判断するほかない
そのためには資料が必要でありネットでも交流が必要になる
ただネットでの交流は会話になるとめんどうだし若い人に老人はついていけない
自分は前もそうだったが今や会話することが一番労力を使う
相手となんらか合わせなければならないしめんどうになる
だから今は家事から介護からで毎日追われているからその余裕がないからいちいち答えられない、その時間の余裕がないのである。
ただプログだと時間をみて書きづづけている、発信できることを主体にしてそこにエネルギーをそそいでいるのである

とにかく日本は衰退してゆくとき、海外旅行でも中国でさえ高くなっている
カンボジアやミャンマーなどが残された安い国になるが海外旅行すら自由にできない時代になっている。
それで逆現象が起きている
日本人が中国人でももてなす時代になる、女性も安く中国人に遊ばれとかなる
それは日本人かさんざんしたことだから自業自得でありカルマである。
国にもカルマがあり必ずカルマが厳しくのそのツケが支払わせられるのである。
すでに日本人のいい時代は終わったということかもしれない
なんとか安いとき海外旅行に行ったのが良かったともなる
人間はチャンスを逃したら二度ともどってこない
その時にやるべきことをやらないと絶対にはもうできなくなる
このことは若い人は肝に命ずるべきだ
例え金になるしとてもそこに時間を費やして後で後悔する人も多い
結局人間の最後は結末は想定外、計算外のことが必ず起きる
今度の津波や原発事故もそうである。
何か計画していたものが一挙に破綻したりして計画通りにならないのが人生である。
世界情勢なども今後どうなるかわからない、結構若い人にとって厳しいものになってゆくのかもしれない,徴兵とかなるのかもしれない
国が破産状態になったりとこれからは日本は厳しい局面にたたされる
団塊の世代は特別恵まれていた時代に生まれたともなる
自分も特別私的にも恵まれていた、ただ二十代は危険だった
底辺労働で危険な死に目にもあっているから危険だった
それも別にそこに追い込まれたというのでもなく自らそういう場所に飛び込んだのであるそれも経験だったということである。




タグ:時給
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2015年05月13日

資本主義の労働倫理の頽廃 (介護から考える労働とは何なのか)


資本主義の労働倫理の頽廃

(介護から考える労働とは何なのか)


●資本主義は修道院からはじまり他者を助けるのが労働

人間を人間たらしめているのは労働だろう。労働なくして社会も成り立たない、生活もできないからである。
ただすべての労働が肯定されるものではない
別にパチンコ屋とかその他の娯楽は息抜きに否定はできないだろう。
低俗なのものでもこの世の中需要があれば否定できない
ただそうしたパチンコ屋でもギャンブルでもそれが労働とはならないだろう。
現実にこの辺で原発事故で避難民であふれ仮設に住んだ人たちが補償金ですることがなく遊び暮らすようになったとき何か起こったのか
パチンコ屋に働く人がいなくなるとかまで人手不足になったのである。
ところが他でも介護関係でもコンビニでもスーパーでもあらゆる所が人手不足になった。そんなときパチンコ屋が人手不足だなどと言っているのも異常だったのである。
別に普通の時だったらいいが働く人がいなくて困っているとき遊ぶ人が増えてその世話する人が人手不足で困っているというのは異常なことである。
その時は津波の被害もあり外からの人が懸命に瓦礫をかたずけるとか働いていたのであるそんなとき地元の人は遊んでいたから飲み屋で地元の人がもっと働けと怒ったというのも当然だとなる

労働とはもともと仕事そのもの価値のことを言っていた。
なぜなら修道院から資本主義がはじまったというとき修道士修道女が神の奉仕として働くこと自体が信仰になっていたからである。
その人たちは消費はしない、贅沢はしなかったのである。
ただ真面目に働いて他者に与える労働をしていたのである。
その労働が人助けとしての労働だったから神の意にかなうものとされていたのである。
資本主義もそういうまさに宗教からはじまったから主義なのである。
民主主義も主義でありそれはその根底に信仰のようなものがある。

資本主義はそもそも人助けのキリスト教から生まれたというとき今は全く違ったものとなってしまった。
そうした人助けの労働という観念が全く消失した。
つまり労働自体に価値を置かないのである。むしろ消費の方に価値を置いているのが現実である。
労働自体の価値より労働で得た金によって何か買う消費するということで働いている。
それが人助けだとかなんだとか関係ないのである。
コンビニであれスーパーであれ農家であれ会社であれそこで働いている人が労働自体に価値を見いだして働いている人はまれだろう。
ただ医療関係とか福祉関係は直接その個人に対しての労働だから奉仕的になり労働自体の価値を感じる、だから一番感謝される労働になっている
医者とか看護師の労働はその代わりきついけど直接今の社会で感謝されるのはまれだろう家を建てたから道路を作ったから電気を供給しているからとか感謝してくれる人はいるのか?。
現代社会は直接感謝してくれる労働はまれになっている。
ただ金をもらい消費するということが働く動機になっている。

そして資本主義の最大の矛盾が本質から全くそれてしまったのは労働倫理の喪失であった世界的マネーゲームで巨万の富を得るというのもそうである。
働かずして信じられない巨万の富を得る人がいる。
それが資本主義だと言えば否定はできない、そういうシステムで世界は動いているからだ現実に自分もそれで得した方だから矛盾している。
働かずして金を得ているというのは全く資本主義の発生した倫理が消失してしまったからである。
第一そういう人たちを見たら真面目に働くのが嫌になるだろう
若い金融関係の仕事している人が自分の給料より株でもうけている人のもうけが高いと言っていたのも矛盾である。
そういう格差が生まれているのが現代の資本主義なのである。

それは世界的にモラルの頽廃を生んでいる、それで資本主義は崩壊すると言われる
資本主義によって戦前からあった日本人のモラルも義理人情なども今はない、
ただ金だけがすべての基準になってしまったのである。
人間と人間の関係はすべて金になるとき「金の切れ目が縁の切れ目」となり自分の場合もたいして関係でなかったから切れたとなるけど他でそうなりやすいのが現代なのである。あらゆる価値を金で計算すればそうなってしまう。
いくら労働したからといって金で価値が計られるとしたら金の多少ですべての価値は決まることになる。
一千万稼ぐ人と500万稼ぐ人と300百万稼ぐ人がいてすべて収入で計られる
あの人はこういう労働していてその労働が価値あるとか見ている人はいない
金の多寡でその価値は決められているのである。
その労働自体の価値が見えにくいからそうなるということもある。

●介護も新しく生まれた仕事であり労働

労働についても探求してきたが正直自分は20代は結構アルバイトとか労働したけど流れ作業とか単純作業が嫌になりそのあとは30年間労働していていない
お前自体が遊んでいたのに労働のことが語られるのかといえばそうである。
今でも株などてしいるからお前も資本主義で得しているからそんなこと語られるのかとなる
ただこの七年間は何をしてきたのか?
このことはプログでも書いてきた。毎日親の介護であり家事である。
これは求めてしたのもではなく強いられたのである。
毎日三食出すことや家事が介護が加わると結構な労働になる。
その間に病気にもなっても誰も助けるものもいず自分一人でなんとかしてきた。
今や介護も一つの労働となっている。昔は介護という仕事はなかった。
介護は金の面でもいろいろな面で無駄だというのもわかる。
介護という労働に何の意味があるのだろうかとなる
ただ介護も病人の看病の延長として介護というのが生まれた。
もともと看護と介護は一体なものとして切り離されずあった。
介護は確かに看病の延長としても高齢化になって生まれ仕事なのである。
どうしても90才になると体力の限界になり介護状態に陥る人が多いのである。
自力で自分のことができなくなるのである。
だからその労働は人助けになる。労働自体が人助けなのである。
そういう点からする労働自体に価値があるとなる。

七年間というと結構長い、なぜならその間ほとんど息抜きもできなかったからである。
家事と介護に休みはないのである。医者が休みをとりにくいのともにている。
それは奉仕的なものとしての仕事だから命にかかわる仕事だからそうなっている
ただその見返りとして医者の地位は高いし給料もいい、感謝もされるから仕事自体としての価値は現代では一番高いように思う。
それでNHKのクローズアップ現代で献体するものが増えたというとき医者に直してもらったことがあり献体で医療に役立ててもらいたいという人が増えたのである。
それだけ医者の仕事の価値は今では一番高いからそうなる。
医者とコンビニの店員を比べれば一目瞭然である。
コンビニの店員に感謝する人など一人もいない、店員の方が客にありがとうと感謝しているだけなのである。つまりそれだけコンビニの店員の仕事自体の価値は低いのである。
その価値の低さは時給で計られ安いことでもわかる。
こういう仕事は機械化されて消失しやすい、一部スーパーのレジが機械化していることでもわかる。
コンビニの店員より介護士の方の労働自体の価値はある。やはり感謝されることでわかるただまだ介護士という職業は看護師のように認知されていないのは高齢化で新しく生まれた仕事だからそうなっているのである。

結局人間は労働してみなければ労働の価値はわからない。何でも金を払えば買えるじゃないかとなる。でも買うものには労働して売られている。
その労働の結果としての商品のことが労働してみない限りわからないのである。
もし一つの物を生産してそれを売るとなると運ぶことが必要でありまた店に並べて売るとなる。
もしその過程を一人で労働してみたらその物の価値がわかるのである。
例えば外国旅行して買ったものをもってくるとなると運ぶだけでも苦労である。
するとその運んだものには価値があるとなる
そういう労働をしてみないと物の価値もわからないのである。

自分が家事とか介護して思ったことは一日でも三食用意してくれる旅館で休んでみたいとなる。お前は自由に旅行していたではないか?
確かに旅行はしていたけどそれはあくまでも旅であり温泉旅館とかで料理を楽しむ休息するのとは違う。
自分は宿はとまるだけの場であり料理を楽しむ所ではなかった。
だから料理は金がかかるから最低で外でしていたのである。
最低の料理しか食べていない、長く旅すると料理に金がかけられないのである。
ホテル代だけで日本は高くつくからである。
自転車旅行になると野宿だから宿は無料だったとなる。

つまり毎日三食用意して出していたらその食を出してくれ人に感謝の気持をもつということである。
料理してくれて出してくれる人の労働の価値がわかるということになる。
つまりこういう単純なことでも実際に労働してみないと価値がわからないのである。
「七年間自分は三食を作り出しつづけてきました、一回だけでもいいから三食出してもらい、のんびりしたいです、それをしてくれる人には感謝します」となる
これは別に旅館とかではない、誰かそうしてくれれば同じである。
今まではそう思ったことがなかったからである。
妻が死んだときそういうことを痛切に感じるのと同じである。
妻が死んで妻の家事の労働のありがたみがわかると同じである。

●労働とは誰のために働いているかも問題

ともかく資本主義の労働が労働倫理がありそれはキリスト教に基づいていたのである。
なぜイスラム圏に資本主義が根付かないのか民主主義と相いれないのかは宗教の相違によるということもあった。
イスラム教の倫理はまた別なものとしてありそれはそれの違った倫理観がある。
それをいちがいに否定はできないわけである。
日本でも義理人情だって日本的倫理観になるからである。
日本でもどこの国でもそうした倫理観は必ずあるから否定できないのである。
そうしたその国独自の倫理観があって外来の倫理もモラルも道徳も根付つくのである。
だから武士道とキリスト教は結びつけられたのである。

こうした資本主義の発生したときの倫理観の喪失はやがて深刻なものとなってゆく、実際にもうなっている。
つまり働くの馬鹿らしいという感覚である。泡銭のように金が入る人といくら働いても働いても安月給で時給しかもらえないとなるとなるべく働かない方が得だともなってしまうそしてもうけさせるのはブラック企業の幹部になり得しているのは公務員だとか俺たちはそういう人たちの奴隷にすぎないとなり労働意欲が減退して遂にみんな働かないとなってしまうかもしれない
現実にそういう働かない人が若者にも増えている,それが別な理由にしろ労働することが馬鹿らしいということが起きているのである。
要するに一体誰のために働いているのか、奉仕しているのか?
結局社会の支配的地位の人のために働かせられているという感覚が強くなった。
もし医者や看護師ならはやはり患者のために働いているという労働倫理かある。
介護士の場合は安月給で上役や他のものに金がゆくが実際現場で働く人には回らないという不満がある。

労働というとき誰のために働いているのかというのも問題になる。
社会のためだと言ってもわかりにくいし結局上の人のために働いているとてり馬鹿らしいともなる。
介護の仕事だって金持ちに使われるのは嫌だというとき金持ちだけが優遇されることの不満がある。
「俺は巨万の富を持ち主だ、金はやるから俺のために働け、奉仕しろ」
そういわれたとき金をもらっても働く気力がそがれる
金のためにしかたないんだよなとなることでモラルの荒廃をうむ
金の多寡とは違うところに本来の労働倫理があったからである。
ただそうはいっても常にこの世は矛盾である。
薬とか買えないとか医者にも行けず早死にした人もいる。
そうなると金がないから早く死んだとなるからどうしても金が欲しいとなる。
嫌でも金になる仕事をしている人ではこの世にはいくらでもいる。
修道院からはじまった資本主義ならそんなことありえないのである。
困った人たちを助けるために働いているのだから自分たちのために働かせるなどありえないわけである。

カルト宗教団体とか政治運動でも創価などはすべてが一票とるための活動であり誰のために活動しているのかとなると議員になる人とか幹部のために働いているとなるから馬鹿らしいと気付くだろう。それはどこの政党でも組織でも似たものである。
要するに中国でも格差が極端だから一体誰のために働いているのか?
共産党幹部が王様のようになりぜいたくさけるためなのかともなる。
そういうことは他にもある。大企業でもたいしたことをしないでもある年齢になると高額の給料をもらっていると若者は不満になる。
一体自分は誰のために働いているのかということがそこで問われているのである。
働くということはそもそも自分のために働いているのではない。
コンビニの店員でも買いに来る人のために働いているのである。
他者のためにサービスして金をもらっている。

働くが端を楽にするというときもそうである。それは苦労している身近な人を見て助けたいうのが働く動機だったのである。
自分が助けてもらえたもらいたいとき、事情があるにしろパチンコ屋で働くのが忙しい、パチンコ屋で遊ぶのが忙しい、他でも仕事かあるのでエステなのか知らないけどそんな人たちのためにサービスして自分のことは何に関心もなかったのである。
そして金だけは要求していた、自分の母親に一杯の水も出さないのに金だけは要求してきた。
それで義理の母を介護している嫁にも遺産を分けるべきだというときそれだけの労働をしたのに他の兄弟はしていないのにすべての権利があるのかとなる。
何かしら労働したとき権利が生まれているのである。
だからこの点は法律も変えるべきなのである。


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2014年12月23日

この世はみんなブラックじゃねえか? (回りも見ても自分もその一人だった)


この世はみんなブラックじゃねえか?


(回りも見ても自分もその一人だった)


みんなそうだよ。この世は超ブラックですから。でも逆説的なんだけど、それでも努力しないよりはしたほうがマシな方向に行くというのも事実です。

そして、大企業で働いたことがあるなら誰でも知っている。
一定の規模の会社になると、なぜかなーんにも仕事をしないのにただそこにいるってだけでべらぼーに高い給料をもらってる人がゴロゴロしてる。
http://tokunoriben.hatenablog.com/entry/2014/08/02/164000

プロレタリア革命といいつつ国民総奴隷化が現実だった共産主義なんだから
別におかしくもなんともないだろ
共産主義が労働者のためとか笑わせてくれるわ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1383967037/



ブラックというときただ安い賃金でこき使われて奴隷のように働かせられる人のことを言っている。それもブラックなのだがそのブラックを指摘する側もブラックなのである
共産党がブラック会社を追求してやめさせるというとき共産党が一番ブラックじゃないかというときそうなのである。
幹部は貴族になって下で支える人は奴隷のような扱いしかない、たた同然で働かせられている。
結局共産主義とかカルト宗教団体なども最大のブラック団体である。
どっちもイデオロギーを基にしているからにている。
これらの団体が世界平和を達成するとか平等な社会にするというがそもそもその組織内で極端な階級制がしかれているのである。
宗教を看板にしていてもそのその内実は全く正反対の団体である。
共産主義でもカルト宗教団体でもそもそも人間の欲望を否定的できない
「おまえら、拝んだら金持ちになれるぞ、議員様にもなれるぞ、勲章も山ほどもらえるぞ、俺を見ろ(池田大作)」と見本を示しているのになぜ疑問を感じないのか?
結局みんなも池田大作のようになりたいということしかありえないのである。

そんな宗教やイデオロギーなどを掲げて運動している奴らほど危険なものこの世にいないそいつらがこの世を支配したらまさにこの世はブラックになり共産主義国家で大粛清殺戮になったようになる。カルト宗教団体でも同じである。
むしろ戦国時代や侍の時代が正直な時代だった。
つまり強いものが勝つのであり弱肉強食がこの世の現実だったのである。
侍は平和だとか宗教のようなきれいごとを言わない、人間の欲望を否定したりしないのである。だから敵の首を多くとったものに報酬を与えて出世させているのである。
これが現実であり正直なこの世のありさまだったのである。
だからイデオロギーとか宗教は偽装にしかすぎない、そこには最も俗悪な人間が跋扈しているのである。
信長はそれを見抜いていたから僧侶を敵とみなして殺戮したのである。
だから政治でもきれいごとを言う人は信じられない、政治家になるには大衆をだますことであり嘘をつかないではなれないと議員本人が言っている。

ブラックだというときこの世の中あらゆるものがブラックなのである。
個々人でもあの人はな腕のいい大工なのにまた別なブラックな仕事を手を出すのか?
あの人はなぜ事業に成功していたというけど借金で首が回らなくなっていた
なせこんなに生活保護者が多いのだろうか
何か個々人を問うてみても人間の生活はブラックなのである。
原発事故が起きていた浜通りは他より欲が深くブラック的だったかもしれない。
だからこそ小高でも東北電力で原発が作られすでに工事がはじまるところだったのであるだから大工さんは原発できれば景気が良くなると言っていた。
そして今の個々人を見るとアメリカのリーマンショックは住宅をローンで借りたり金もないのに買っていたから起きたのである。
それが何かそういう人が日本にも多い。
知っている人も立派な家を借金で建てたから金が欲しい欲しいとなっていたのである。
現代では身の丈にあった生活をしている人はまれなのである。
だから8人に一人は危ない金融機関から借金していることでもわかる。
最近はローンで買った家を老後になり払えなくなり手放すとか苦しむ人が増えているのもそのためである。

この世がブラックだというとき個々人でもそうだが社会そのものがブラックなのである。賃金を払わない飲食業の人がいたがあれは明らかなブラックだった。
賃金未払いというのも常にある。
それだけではない、そもそもブラックというとき例えば公務員というのも官僚も犯罪人だというときこれもブラックなのだ。
公務員になればたいして努力しなくても得なことが多いのである。
国民から税金をとりその莫大な税金を操作して天下り先とかを確保するために働いているそういう金が集まる操作するとるなとブラックになりやすい。
銀行も実際はブラックだというとき金が集まっているからである。
サラ金の資金源になっていたのは銀行だったことでもわかる。
そういう職業がこの世にはまた結構あるしなんらかブラックになんているのが多いのである。

一定の規模の会社になると、なぜかなーんにも仕事をしないのにただそこにいるってだけでべらぼーに高い給料をもらってる人がゴロゴロしてる。

こういう人も結構この世には多い。福祉事業もまたブラックなのである。もうけているのは経営者でありその下で介護士などが過酷な労働を強いられているし薄給である。福祉の名によってもうけいるのは幹部であり経営者であるからこれもカルト宗教団体とか他のイデオロギー団体とも組織ともにているのである。福祉の名のもとで搾取される人立ちかいるということである。
ぎりぎりで働かされ過労死したりする人達もいる。ブラック企業にこき使われている人達である。
そもそも会社というのもまたブラックなものがある。
グローバル経済でそうした会社が巨大化して国のようになりやりたいことをやる。
そのグローバル経済で低賃金で働かせられている人達が世界にはいる。
グローバル経済では必ずそうしたブラックな会社が他国のものを搾取するようにシステム的にできているのである。

要するにこの世の構図はブラックになることをいつの時代でもまねがれない、ただ戦国時代などはそれが正直に行われ殺し合いが正当化されていただけである。
現代ではブラックなものが法律で守られていたりするからまたわかりにくくなる。
そもそも法律自体が会社を罰することができないというのも何なのだろうとなる。
東電の社長や幹部は海外の子会社で優雅な暮らしをしていると言われのもそのためである会社そものがブラックなところがかなりある。それが法律で守られている。
資本主義自体がこれもブラックなのである。そのシステム自体がブラックである。
なぜなら資本を金でももっている人は金が金を生む、資本が資本を生むで金を持っているだけで働かなくても金が入るシステムなのである。

だから貧乏人はいくら働いても働いても豊かにはなれないシステムなのである。
なぜ今アメリカが景気が良くて一千万を投資して配当金が一月40万入っている人がいるという。それも実感として理解した。
株で今までもうけたことがないからそんなことありえないと思っていたのである。
でもグローバル経済になるとそういうことがありうる世界なのである。
金が金を生む、資本が資本を生むというのが資本主義なのである。
だから資本主義自体がブラックなシステムだともなる。
いくら汗水たらして働いても資本主義社会では豊かになれないのである。
結局自分も他人をブラックな奴だとかブラックな会社だとか批判しているけど
自分自身も資本主義社会のシステムで甘い汁を吸っているのだから自分自身もブラックだとなっていることに気づいた。
遺産とか土地持ちとか金融で生活している人はブラックである。

ただブラックについて考えるとフラックでない人がいるのか?
それはいることはいた、それは例えば職人だったら職人で農民だったら農民で自力で暮らしていた人達がそうだったかもしれない、でも今の農家がブラックでないかというとそうでもない、補助金を国からもらっていて減反してももらえるしなぜ田舎がわずかの田をもっていて生活がなりたつかといえば補助金かもらえるからだとなるとこれもブラックな面があるのが現代である。
フリーターとか派遣とか時給で暮らしている人は現代のフラック社会の奴隷であり犠牲者なのかもしれない。
ただ昔から働くことだけで豊かになるとは考えていなかった。

三年寝太朗の伝説はなまけものでも豊かになれる言い伝えである。
なまけていても何らかの才覚と知恵があってそれを機会に豊かになった。
金持ちの家に婿入りしたりしたらそうなる。
それも才覚であり三年寝ていても何か才覚があれば豊かになれる。
資本主義でもその才覚があれば金持ちになれるということじ通じている。
こつこつ働いてもなかなか金持ちになれないということは昔もあったのである。
だから資本主義社会はもともと勤勉からはじまったとしても今では消費が優先されているし働くことが馬鹿らしいということになっている。
働くの機械にさせろロボットにさせろともなっている
だから資本主義社会は何らかのきっかけで限界に達して世界恐慌となり終了すると言われている。それは資本主義自体がブラックになりすぎたからだろう。
共産主義もブラックでありでは何かいいのかとなると結局人間社会は決してブラックがなくならない、この世はそうできている、もしブラックでなかったらこの世が天国になっているからである、カルト宗教団体なども最悪のブラックな団体なのである。
だからこの世はサタンが支配するブラック社会なのは人間が生まれてから変わらなかったのである。

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2014年12月18日

鍋一つもったいなということを家事して思った (労働通じてしかモラルなども身につかない)



鍋一つもったいなということを家事して思った


 
(労働通じてしかモラルなども身につかない)


この鍋を幾度洗ふ大切に捨てずに使う年の暮かな


人間の不思議は鍋でも物でもそれに愛着というか愛情を感じてくることがある。
物なんか使って捨てるだけではないかというのが大量消費時代の感覚になった。
毎日大量のゴミが捨てられている。食料も膨大な量が捨てられている。
一方で世界では子供でも飢えてまとも食がとれない人達も何千万といる。
だからそういう人達から見れば豊かな国は罰当たりだとなる。
日本でも戦前から千五十年くらいまでは「もったいな」とか物を大切にすることがあったそれは一重に貧乏故にそう強いられていたのである。
貧乏だったら物を粗末にしていたら生きられないからである。

そして意外なのは大正時代が六千万人くらいの人口だったとういことである。
明治になって3千万とか4千万とかになっていった。
ずいぶん日本は人口が少ないと思った。だから明治時代は日本の自然が残っていて景色的には江戸時代のつづきがあった。都会すら東京でも高層ビルなとないのだから
景観的には今よりいいものがあった。
日本が4千万くらいだったら田園風景がいたるところにあったのである。
その相違はあまりにも大きすぎる。
それじても啄木は故郷の自然を望郷する短歌を作ったから東京はやはり自然景観は消失していた。

「もったいない」というとき人口が多くなると人間の価値も減退する。
だから群衆とか大衆という感覚が生まれたのは明治以降だろう。
それまでも人間をそんなふうに物ののようには見ていないのである
だから明治になって鉄道ができたとき見知らぬ人と乗り合わせたときすら違和感を感じていたのである。
見知らぬ人同士が一つの車両に一緒にいるということになじめなかったのである。
鉄道ができたとき関所もなくなり切符が手形代わりになったというのもわかる。
切符さえあれば日本全国どこでも行けたということの変化は大きかった。
江戸時代は藩内とか村内の狭い範囲でしか生活していなかったからである。
鉄道ができたことで日本人は別な藩の人でも自由に交わることが飛躍的に増えたのである


自分の使った鍋はIH用でもあるから3000円以上しているから簡単に捨てられない事情もあった。それがなぜ汚れるかというとガスでつけっぱなしにすることが多いためだった。
台所と食事する場所が離れているからどうしてもガスを消すのが忘れるのである。
それで何度もこがしてしまっていたのである。
だからすでに十回くらいこがしてごしごし洗って落とした。普通だったら買い換えているだろう。千円くらいだったらそうした。
でも不思議なのはそれを捨てないで何度も洗うことは「もったいない」に通じていた。
何かその鍋が貴重に思えたし愛着を覚えた。
職人でも物や道具に愛着を覚えることがあるだろう。そういう感覚を経験したのである。人間は物を道具でも大事にしろと何度言っても現代では通じない、そもそもモラルとかはいくら説いても通じないのは経験から学ばないからである。
人間は本を読んだり人に教えられたりしてモラルが身に帯びることはなかなかないだろうモラルは日々の生活の中で身につけていたのである。
だから侍でも侍のモラルは日々の生活で身についていたからこそ本物だったとなる。

ただ現代でも仕事の中で身につくものが本物だということはありうる。例えば農業なとは趣味の範囲でもこれは自ら畑を耕して肥料をやり種をまきとかして経験しないと本当はわからない、そこに自然と深くかかわり多様な経験を体で覚えることになるからだ。
だからそうしてとれた地元の野菜もらってたべたとき単にスーパーで買うものとは違ったものとなる。そのものには人間の情がこもっていたのである。スーパーで買うものは確かに味はあっても何か情がこもっていない、冷たいものに感じた。
それは家族で食べるものが料理されるものが母親の愛情がこもっているとにていたのである。単に買うものには愛情が情がこもっていないのである。
だから江戸時代は自給自足の時代、その土地土地でとれるものを食べていたのだからその土地と人間に密着して情がこもっていたのである。
ただそうはいっても極端な貧乏もあったからそれも一面の見方ということはいえる

家事というのも実際は一つの仕事である。刀自(とじ)というのが女性であり家全部をきりもりするから力をもっていたのである。今でも刀自と墓に刻まれていることでもわかる。昔は家事が大仕事だったのである。機械がないから洗濯するだって大変な労力を必要とした。寒い時など水も冷たく辛かったろとなる。食器を洗うにしても自分の母親はいつも霜焼けになっていたのである。温水になってからはそうならなくった。
家事は中流の家庭でも女中を二人雇っていたとかそれだけの手間が必要だったのである。機械化したときその手間がはぶかれたのである。
だから自分でも何とか介護まで一人でやれるのである。
ただすべてが機械化するとき鍋洗うのも機械化するとき今回感じたような鍋一つに愛着を情がこめられるということはなくなる。

つまり人間は自らの手で子供でも育てたとき愛情を覚えるように自ら何でも経験して感じる覚えるものが本物なのである。職人でも体で覚えるということを師弟でもしてきた。
以心伝心などもそうだろう。今は何かそうして人間と人間でもその間に機械などコンピューターなど入ると人間から学ぶものはないとかなる。
するとそこには情が欠けてしまうのである。
それは鉄道が普及したとき見知らぬ人同士が膨大に交わるようになったのともにていたのである。機械化するということは人間の情的なものを希薄化して非情にしてしまう。
人間がしたのではなく機械がしたとなると仕事したとなると人間は重んじられなくなるのである。
例えば一つの石を苦労して運んだり積んだりするときその労働は人間しているのであり
ここまで自分がもってきたなとその労苦がその石に残る。
でも車で機械で運んだり設置するとしているのは機械だとなる。
その機械を使うことの方にエネルギーがそそがれるのが現代であり人間的なものがはぶかれてしまうのである。
現代は全般的に情には欠けた冷たい社会になってしまった。それは便利さを追求したり機械化したりグローバル経済になったとき必然的にそうなってしまったのである。

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2014年11月18日

人間は何に労力を費やしたかで見る文明論 (超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)


人間は何に労力を費やしたかで見る文明論


(超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)

●技術から見る歴史はわかりやすい

歴史の見方はいろいろある。一つの見方などない。だからそれぞれの分野で異なった見方をしている。人間は道具を作るものであるとか言うのも一面の見方である。それは技術の発展が深く関係しているから理系的に科学的なものとして見る。
例えば弥生時代から古墳時代とか奈良時代でもノコギリが確かにあったのだが一般には使用されていない。
石斧とかは縄文時代からあるし石刀とかもあるがノコギリがなかった。
ノコギリがないということは同じ寸法に木が切れないのだから家も建てられない。
奈良時代は法隆寺とか五重の塔をすでに建てていたのだからノコギリも使用したていた。ただ一般的には使用されていなかった。ノコギリが普及したのはかなり後の時代だった。そういう技術的な面から歴史を見るのも歴史の大きな見方である。

中世で城壁が無用となったのは大砲が発明されたとかが原因であった。
信長が鉄砲を利用して天下を制したとか技術的側面から歴史を見るのは何かわかりやすい一方で歴史は複雑であり様々な要素がからみあっていて歴史とは何かは一つの答えはない
歴史はその人の専門家でもみんな見方が違う、それぞれの個々人の関心から歴史を見るとしたら無数の見方があることになる。
歴史は絶対に決まった見方はない、マルクス主義がもてはされたのは経済を階級という視点から見たものでありそれが歴史を明確に説くものとしてわかりやすいからもてはやされた。でもそれも一つの見方に過ぎなかったのである。
歴史はあまりにも多様であり人間の過去に生きた集積だとしたらそれを一つの見方として解析などできないのである。
ただあらゆるものに歴史がある。

例えば墓にも歴史がありこれも不思議なのである。
江戸時代には個人墓であり夫婦墓が主である。それが明治時代になると一家の家族の墓になる。それは江戸時代前まではなかった。
ではなぜそうなったのか?それは明治になり国家から強制されたものであった。
だから家族墓というのは歴史的に見たら新しく不自然なものだとさえなる。
個人墓とか夫婦墓はかえって理解しやすい、自分の名前を墓に刻むことは残すことは庶民にとって誇らしいことだったからである。侍は苗字があっても庶民にはなかったからである。夫婦墓というのもその結合の深さから理解できる。
ただ家族墓となるのこれは明治以降であり新しいものだから本当は理解しにくい。
また家族墓になる必然性もなかったのである。
何でもこうして歴史的にふりかえると見えてくるものがあるから歴史の研究は欠かせないのである。

●歴史を建造物から見るのもわかり安い

今回歴史の一つの見方として人間は何に時代時代に労力を費やしたかで見るのもかりやすい。ピラミッドをなぜ作ったのか?あんな巨大なものを膨大な労力を費やして作ったのか?それが今になると不明になっている。王の墓だというのは近年否定されている。
つまり王の権力の象徴として作られたのではなく庶民も積極的に参加して作り上げた。
自主的な民衆の支持があって作られたという説も有力になっている。
一つの宗教的建造物だったという説もある。何か信仰の対象だったというのも理解しやすい。あれだけのものに費やした労力はやはり王の権力だけでは作れないからそう見るようになるのも理解できるのである。
明確な理由はわからないにしろエジプト文明はピラミッド建設にその労力を費やされた文明だったともなる。
そういう建造物、建築関係から歴史を見るのもわかりやすいのである。


ローマは公共の建築に力を入れた。またコロッセウムとか競技場にその労力を費やした。未だにそうした建築物はヨーロッパに石の建造物だから残っている。
もう一つは道を作ることにその労力が費やされたともなる。それは道によってローマ帝国の支配権を確立するためたったのである。
次に中世はキリスト教の聖堂に民衆の労力が費やされた。それはヨーロッパ行けばいたるところ大聖堂が残っている。それは荘厳な立派なものであり石で作ったから残っている。それだけ宗教の時代だったともなる。宗教というとき、インドでも中国でも韓国でも日本でも宗教の時代があり仏教の仏像や伽藍の建築に労力が費やされた。
だから仏教文明だったと中国でも韓国でも日本でもなる。
なぜそれだけのものに労力が費やされたかとなるからだ。
奈良の大仏がその象徴でありあのように巨大なものはピラミッドに匹敵する。
それから古墳時代は仁徳天皇の巨大古墳がいくつも奈良に作られた。
古墳を造ることに民衆の労力が費やされたのである。だから古墳時代とされる。
それはなぜなのか?となるとこれも良くわからなくなっているのだ。
ただ歴史として見れば仏教に民衆の力でもその労力が費やされた時代だとなる。
つまりこれも科学や技術から見ると同じく残された物として歴史を見るからわかりやすいマヤ文明でもなぜあのようなピラミッドのようなものが作られたのかとなるとそれは天文を知ることにその労力が費やされたためである。天文台がマヤ文明を象徴していた。
文明は建築物から見るとわかりやすいのである。

●江戸時代は米を作るための開墾に労力が費やされる

ただ建築物だけではない、人間の労力が費やされるのは江戸時代なら開墾して開拓して米を生産することに労力が費やされ続けてきたのである。米を食べることのためにいたるところに海側は埋め立てて開拓して山側は棚田のようにわずかの土地でも米を食べたいから作られてきたのであり米を作ることに労力が費やされた文明だとなる。
これは古墳とかピラミッドとか仏像とか天文台とかとは違いわかりやすい。
米を食べたいということはうまいものを食べたいということでありこれは今でも本能としてあるから変わりない。でもピラミッドはそうした食べるものとは違う、古墳にしてもなぜそこにそんな労力を費やしたのか今になるとわかりにくい、それは食料生産のためではない、ただマヤ文明は天文を知り豊作を祈ったのだから実用として天文台のピラミッドを作った。ただ古墳にしても仏像にしても聖堂にしても精神的なものとして作られている。ローマの建造物や道も実用的なものとして作ったから現代でもわかりやしすい。

でも古墳でもピラミッドでも宗教的建造物になるとなぜそれだけの労力を費やしたかわかりにくくなる。
なぜなら近代化したときヨーロッパでも宗教への情熱は失い現実の利得一辺倒になったからである。
世界へ船で未知の大陸に向かったのも黄金を求めて求めてとか一攫千金を得るためとか何か実利的なものとして大航海時代生まれた。
そのエネルギーは実利的なものを求めてでありアメリカ大陸発見はまさに実利の大陸となったことでもわかる。
アメリカには精神文明はない、物質文明しかないことでもわかる。
アメリカが何に労力が費やされているか見ればわかる。科学があったとしてもそれは実利であり軍事力の強化でありエジソンの発明でもすべて実利のためであった。
だからローマとにているというのもわかる。
科学のために労力が費やされているというときそれは実利に結びつくからであり金となるからである。機械を発明することに労力が費やされるのもそのためである。


世界的にみてもそうだが日本でも何に労力が費やされたかを見れば時代が見える。
江戸時代は開墾開拓新田開発に労力が費やされた。それは米を食いたいということのためでありわかりやすい。
でも明治維新からは人間の労力は米を作ることも継続されていたが養蚕に労力が費やされた。いたるところに今でも養蚕した農家が全国に残っている。
明治維新後も日本は八割が農民であり農業が主体であった。養蚕は絹を作りそれを外国に売る外貨を稼ぐためだった。それで富岡工場が世界遺産になったのである。
その絹で稼ぎ軍事力を強化して富国強兵の政策がつづいていたのである。
つまり養蚕に労力が費やされた文明だったともなりうるほど養蚕が盛んだったのである。それから仕事としては家事に多大な労力が費やされていた。
それは世界的にそうである。セーヌ川が洗濯する女性でうまっていたという絵もある。
洗濯すること自体その労力が膨大なものとなる。
日本でも戦前の女性の仕事が家事であった。中産階級すら女中を二人も雇っていた。
それほど家事というのが機械化かされていないから労力がかかるものだったのである。
自分は今一人で家事とか介護をしているがこれも機械化したからできているのである。
そうでないと本当に二人も女中が必要となっていたろう。
今どき女中という言葉すら死語となってしまった。
女性の労力は今や別な方に費やされているのだ。

●超高齢化社会は老人の寿命を伸ばすために労力が費やされる

そして戦後という高度成長時代とは何に労力が費やされたのかとなる。
社会全体から見れば電化製品などメイドインジャパンが世界を席巻した時代だからそこに労力が費やされた時代にもみえる。車も輸出品になっているから車を作ることと利用することに労力が費やされた時代、車社会の時代だともなる。
それは技術的な面から見ればわかりやすいとなる。
一方で明治から大正から太平洋戦争があり戦争の時代、戦争に労力が費やされた時代だとも見える。太平洋戦争では3百万人も死んだということはまさに人命まで費やされたからてある。
ではなぜそんなに人命まで費やさねばならなかったのか?そもまた良くわからないとなってしまっている。何故に人命までそんなに費やさねばならなかったのか?
それすら一つの歴史の謎になってしまうだろう。
それは明治維新から西欧列強に伍するための結果でありそれが太平洋戦争で終結した。
そして次の労力はエコノミックアニマルとして企業戦士となり物作りに励み電化製品などで世界を席巻した時代だったとなる。
何に労力が費やされたから見ればそうなる。


そして今何に最も労力が費やされているのか?それは奇妙だけど超高齢化社会になり寿命を伸ばすこととか健康であり介護や医療に労力がついされている時代である。
この分野でどれほどの労力と金が費やされているか、それは自分の住んでいる田舎で一番立派なのが病院と老人ホームとか介護施設であることでもわかる。
それはまるで神殿のようになっているのだ。なぜなら田舎では高いビルディングがないから一番目立つのは病院であり老人をホームであり介護施設だとなってしまう。
この老人のためにどれだけの労力が費やされているのか?病院だってほとんと老人であることを見ればわかる。若い人などほとんどいないのである。
老人のためにみんな労力を費やして何十兆円が老人のために使われている時代なのであるつまりそれこそが超高齢化社会であり介護施設には90歳以上の人が多いのである。
現代を象徴するのはまさに百歳の人は百万くらいになるかもしれないとんいう超高齢化社会なのである。
そんなことに金を使うのは無益だというのもわかるが現実にそれだけの使う金が労力があるからそうなっている。それが仕事を造り出しているからそうなる。
あとの仕事は機械がしているのかもしれないからそうなっている。

こんな無用な老人に労力を費やしてどうなるんだともなる。
それは大古墳にピラミッド建設に膨大な労力う費やしたのはなぜかと問うのと同じである超高齢化社会とは老人に労力が費やされる時代なのである。
そんなこと必要ないつづかないということもこれからありうるが現代の文明の特徴がそうなっているしこれは自分の地域だけの問題ではない、世界的なものとして特に先進国では長寿をあくことなく求める社会になっているのである。
ただそういう余力があるからそういう文明にもなるということである。
江戸時代だったら米を作ることにその労力が費やされていたからである。
米など今は余っていて困っていることでもわかる。
時代によって何に労力が費やされるかとみれば現代は超高齢化社会であり老人の寿命を伸ばすことに労力が費やされた時代だとるでなる。
これも一つの見方としてありうるのである。


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2014年11月03日

機械化が社会を根本的に変えた (刀自には一家の主的役割があったー機械化で失った主婦の役割)


機械化が社会を根本的に変えた


(刀自には一家の主的役割があったー機械化で失った主婦の役割)

●機械化工業化で明治以降は社会が激変した

現代の社会を根本的に変えてしまったのは機械化の影響が大きい。信長の時代だと鉄砲が入ってきてそれが時代を変えた。戦争でも常に武器が社会を変えていった。中世の城壁が無用になったのは大砲がでてきたためである。会津の戦争でも大砲で旧式の鉄砲で戦いなかった。現代社会を大きく変革したのは機械だった。江戸時代まで大量生産ができなかったから工場もないから時間にルーズですんだ。大量生産で効率的にするには時計で時間を絶えず計り規格製品を大量に作り出さねばならない。
その大量生産のために学校が作られたのである。学校もまた機械化される社会に適応させるために世界中で作られたことでもわかる。
それは国と関係なく機械化社会に人間を適応させるためにそうなった。
江戸時代の寺子屋は意外と自由であり机を並べて一人の先生の指示に従うものではない。学校は規格化された大量生産のために必要だから作られたのである。
time is moneyになった資本主義もそうして時間を機械化して計ることにより人間を機械化することだった。

現代文明とは機械文明でありそれは機械を使いこなせなければ生きていけなくなった。
それは非人間的なものであっても機械化された社会になるとその中で生きる他なくなるのである。
戦争すら機械化戦争であり高度な機械は殺人兵器となり大量殺戮になった。
原子爆弾がその象徴でありナチスのガス室送りでの大量殺戮もそういう文明の結果だともされる。ともかく人間がこれほど大量に殺されたのは機械が発達して機械が大量殺戮を可能にしたからである。空爆だったら大量に殺戮できることでもわかる。
人間は機械に使われ機械によってその人間性も容赦なく奪われる。
ただ機械化しなければ他国との競争に勝てないから共産党主導の強引な政策の強制は失敗した。

全農民を動員して鉄鋼大生産に全力を挙げるよう命じた。だがそもそもが農民を総動員して鉄鋼生産をさせるという手法に根本的な無理があった。金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は全く使い物にならない粗悪品であり、膨大な資源を浪費する結果となった
http://dadao.kt.fc2.com/fanzui08.htm

要するに機械化できないから鉄鋼の大量生産ができないから農業から工業化ができずに遅れをとったのである。
戦後は農業でも機械化であり農機具なしでは農業もできなくなった。そのことは中国でも同じである。コンバインだと麦刈りするとき人力の百倍とか千倍の収穫ができる。
それで麦刈りの出稼ぎ者は極端に減ってしまった。ただコンバインの入れない地形の所で出稼ぎ者がまだ使われていた。それは日本でも田植機で田植えしてもその縁(へり)が機械でできないので手植えしているのとにている。
巨大な機械によって人間が隅に追いやれ人間の力は機械に比べていかに小さいものか認識される。中国は人口が多いから人力作戦で行う。その中国ですら機械の力にすれば小さいものになったのである。

●日本人意識は鉄道によってもたらされた

これは大局的に見た現代文明である。明治維新以後は鉄道化した結果江戸時代の社会が大きく変わったのである。江戸時代は簡単に藩を出ることはできなかった。範囲意外の人間と交わることはまれだった。それより隣の村との行き来すらしていない自給自足の閉鎖された社会だった。例えば伊達政宗が相馬藩の街道を通るとき相馬の殿様の許可を得なければ通れない、でも伊達藩にも恩義があるということで特別通された。
そういうことは全国であり簡単に道は関所もあり通れないのである。
鉄道の歴史で面白いのは切符が江戸時代の手形やパスポートのようになっていたという指摘がある。切符一枚あれば日本全国どこにても行けるからである。そんなこと当たり前だろうとなるが鉄道ができた当時はそれはありえないことだったのである。
そして鉄道に見知らぬ人が乗り合わせることもありえないことだった。江戸時代は見知らぬ人が出会うということは少なかった。だから全然知らない人が同じ車内にのっているということが何か普通の経験ではなかったのである。
そういうことを小説の描写で残しているのがあるし鉄道ができたことにより社会そのものが人間関係も変わってしまったのである。見知らぬ人が同じ車内で出会い切符一枚で全国どこでも行けることは日本の社会を変えてしまった。
だから鉄道が日本を統一国家にした日本人として意識させるようになったというのもあながち否定はできない、天皇ではなくそうした鉄道化した社会は日本人としての意識をもたらした。なぜなら天皇とはその頃まで庶民にはそんなになじみがあるものではなかったからである。
江戸時代までは日本人は他の藩のことなどしりえようがなかったのである。
現代の人間関係は常に見知らぬ人と遠くの人と交わるのが普通になっている。
狭い村の自給自足的な閉鎖された社会とは違い人の出入りが激しい社会である。
そういう中で犯罪も増えてくる。
機械化というとき通信の世界でも匿名の人が集まり文字で話し合うというのも現代的である。これも相手の顔も素性もからず文字だけで話しているのである。こういう世界もありえなかったのである。現代は膨大な人々が匿名で交わる社会である。
それもパソコンとか通信機械化社会に寄ってそうなったのである。
コンピュターライズド社会になった。その前にモータライズド社会が車社会ができあがっていた。車社会となったのも大きな変化である。
それは鉄道にまさる変化をもたらしたのである。

●昔の家事の重みは万葉集など刀自の言葉に伝えられる

機械化というとき家事も機械化であり機械なしでは今やありえない、機械化で効率化しているから仕事も外でできる。今は一人暮らしでも機械によって家事が簡便化した。
米たくにもスイッチ一つ押せばいいとか誰でもできる。
ただ家事のノウハウは多岐にわたっているからそれが家事を全くしていな男にとってはそのノウハウを知らないことで苦労する。
自分もここ七年間はそうした家事に追われていた。家事は簡単にそのノウハウが会得できないのである。まず料理からしてめんどうであり自分はほとんど買ったものでまにあわせている。それからいろいろな管理方法でもわからないのである。
その点女性は知っていて教えられることがあった。
全然家事したことがない男性が妻に突然死なれたりすると苦しむのはそのためである。
家事というのは昔でも大きな仕事であり

トヌシ(戸主)の転。戸口を支配する者の意。「家長(いへきみ)」の対。
「刀自」は女、つまり、「一家の主婦」なのですが、奈良時代には「一族の女主人的な立場の人」でもありました。年寄りでも若くても関係なく「刀自」です。
さらに転じて、「女性に対する尊称」として用いられるようになり、
平安時代には、「内侍所・御厨子所・台盤所などに勤めて、事務・雑役に従う女房」に使われるようになったと書いてあります


神道では故人は神(祖霊)になって、一族を見守るようになる。
刀自命(とじのみこと)、姫命(ひめのみこと)、大人命(うしのみこと)、命(みこと)は祖霊になった際につける敬称の1つ。

意味合いは違うが、仏教における「戒名」と近いものとなっている。
※刀自命の刀自とは、戸口を守るという意味があるそうです。転じて女性を指す言葉となっています。

母刀自(その2)……駿河国の坂田部首麻呂の歌。

「真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず」(4342)
目豆児の刀自/身女児の刀自……『万葉集』巻十六、能登国の歌。
「鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て
石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自」(3880)


刀自は家事を背負った大きな役割を果たした女性である。その家事の内容が今とは戦前でも役割の中身が違っていた。今のように機械もないし買うこともないのだから自給自足となると一軒の家ですべてをまかなうということになる。
戦後でもまもなく農家では納豆まで作っていた。もちろんその前は味噌も自前で作っていたりと何でも自前で作っていた。今はただ買う生活なのである。
だからそこで刀自とかいう家の重みを背負っている女性は喪失した。

真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず」(4342)

ここには家の重みのある時代を彷彿とさせる。家自体も真木柱とありその木が特別な木である。その柱のごとく殿はあった。そういう家に母刀自は重い存在だった。
お袋の味とか言われるがそれすら今もなくなったがそういうものを作り出していたのが母刀自である。その日々の仕事は家事に費やされていたのである。
時代をさかのぼればのぼるほど家の重みがあった。

鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て
石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自」(3880)

一種の自家生産なのである。塩をもんでいるとなると塩を加工するのも仕事である。
売っているものを買うのではない、回りにあるものを利用して自給自足でありだから生産と消費は直結していたのである。ここに刀自が四つもでてくることでもわかる。
刀自の役割は大きかったのである。つまり今でいうなら言うなら主婦の座の役割は大きかったのである。
今は主婦はそうした刀自の重みはない、むしろ外でいくら稼ぐかとかで計られる。
家事はやはり料理でも自前でするというよりオカズでも買っている人が多いのである。
家の重みでも主婦の座の重みでも消失したのである。
刀自の重みは単に家だけではない自家生産して消費していたことにあったのである。

●刀自の役割が喪失して女性のフェミニズムが主張されるようになった。

昔の家事は機械など極力使わないから人力であるからその費やす労力も大きい。戦前でも中産階級ですら二人の女中を雇っていたというからそれだけ家事は機械化していなければ手間がかかるものだったのである。家事の労働に女性の労力は費やされていたとなる。
それが機械化されたとき女性の労苦も解放されたのだがまた新たな苦労が待っていた。
外で稼ぐには男性並みの能力がないと稼げない、でもそれだけの能力ある人は少ないから今度は外で働くのに女性は苦労するようになった。
つまり人間の社会は一見何かで楽になった機械で楽になったとか思うと別な苦労が待っている。機械化でもたらしたものは大変革だったがそれによる弊害も大きかった。
昔の女性はフェミニズヒムなどでは差別差別とか騒いでいるけど実際はそうした家事全般を受け持つことで大きな役割を果たしていたのだ。
刀自というのは今でも原町の大原の知って人の墓に刀自と記されている。
何か刀自というのには女性の高い大きな地位を示していたのである。
だから墓まで刀自と記しているのである。女性の地位をいろいろ言うが機械化でかえってその大きな役割を失ったということもあったのである。
男女平等を言うがそもそも男女平等というとき外で働くようになった女性が男並に能力を発揮することを強いられた結果としてそうなった。どうしても仕事では女性は男性並にはなれない。つまりそもそも男女の役割が違っているからそうなっているのである。
要するに女性本来の力を発揮する所は家にあり刀自としての役割にあったのである。
むしろ女性の本来の役割が近代化機械化で失われたということもある。

なぜそんなことを思うようになったかという自分がまさにそ家事一切を背負う男刀自になっていたからである。墓参りでも先祖の祭りでも自分がしなければならない、すべて家事一切家のことをまかされることになった。その刀自の役割は家を守ることである。それは家事だけではない家の財を守ることでもある。実際に犯罪に合い家の財も奪われたから家はまた刀自がいないと大きな隙間ができるからそうなる。
そして毎日介護でありこれも刀自の延長の仕事してあった。家の中で介護する負担は大きい。今でも嫁がやらされるというときその時刀自のような役割を担うことになる。
昔は大家族だから手のあいている人がやっていたのだろう。女中が中産階級で二人もいたということは女中も介護などの仕事をしていたのである。
ただ機械化した結果、掃除洗濯料理はもう機械ができる。オカズも買うから料理しなくてもいいから女中の仕事もなくなったのである。
今は女中の仕事をする人はまれである。それでも毎日家事の仕事は本当にあるものだと思った。大きな家になると掃除自体が手間になる。
だから最近買った3000円の掃除機が使える、簡単な掃除に使える。
3000円は安いなとすぐに通販で買った。35000千円で買った。スチームクリーナーは3万以上したがトイレとか床にはいいがあまり使えなかった。掃除機は重いからこれは気軽にできるから良かった。
これも機械をいかに自分にあったものを買うかとかが問題になり買うことから使うこなすことが始まってる。
なかなか道具は使ってみないとわからないから困る。この3000円の嘘かと思うくらい安い。それでも使えるから得だった。
知らないとこうして無駄な出費も多くなるのが現代である。何を買っていいのかも電器店に聞いてもわからない。
印刷機でも使えないものがあったし自分でいろぽす見て選択するほかないのが現代である。
電器店では売れ残りとかを進めたりするからこれも信用できなくなっている。
かえって通販の方がいいとまでなんているのだ。ただそこでは選択する能力が必要になっているのである。

毎日ゴミがでる、ほこりがでる。掃除は毎日欠かせないからまた手間なのである。
家事でも機械化すると便利な機械を知り機械を使いこなすことが肝心になる。
誰か主婦にならうより機械を使いこなす方が現代では大事になる。
そうはいっても家事のノウハウは実際の主婦の女性の方が知っている。
でも現実は機械でこなすほかないのである。
だから無洗米とかを精米できるところがあるとは知らなかった。
それだともう米を洗う必要もないのである。そうなると主婦の役割は喪失して外での仕事でいくら金をかせぐかが男と同じように評価の基準になってしまうのである。
家事をうまくやれるかより外で仕事ができて稼ぐことができるかが女性の価値判断になり男女平等がフェミニズムが興隆することになったのである。


これが3000円!
http://urx.nu/dHy8

吸引力が結構あり便利である。音はかなりうるさい。でも普通の掃除機は重いからめんどうである。これは手軽にチョコチョコ利用できるからいい。
これは偶然に見つけた、通販でしかこういうものは買えない
最近また通販で毎日のうように買っている。
通販だと自分の欲しいものが次々と買えるからいい
今は機械でも何でも多様化しているから通販でないと買えない
もう電器店だってそろえきれないものがあるからだ。
それは本でも何でもそうである。
あらゆるものがそろえきれない、だから店にあるのは大型テレビとか決まりきったものになる。
買い始めたらきりなくなるというのも困るが今まで買えないものが買える。
田舎でも都会にいると同じなのである。



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2014年10月20日

富者と貧者(詩)より (富者と貧者の問題の根は深い)


富者と貧者(詩)より

(富者と貧者の問題の根は深い)

富める人と貧しき人


富める人は知らじ
貧しき人のありしを
日々工面して生きる人を
わずかの金を貸し借りする人を
狭き市営住宅に住む人を
富める人は知らじ
貧の悲しみを
今は貧者のあるすら見えじ
富める人はみな富めると思ふ世なり


幸福なる人は悲しみの人を知らじ
障害者を持ちて苦しみ悲しみ老いし女
その女の悲しみ苦しみ尽きじ
かくなる女のありしも知らじ
重なる苦しみと悲しみの女
人はそれぞれ苦しみ悲しみもてり

近くに妻を亡くせし女の苦労を語りぬ
家事に苦しむ一人暮らし
我もまた同じなれば知る
ただ夫婦健やかなる人は知らじ
老いの悲しみ苦しみを若きは知らじ
その美貌も力を失いゆくを知らじ
その時老いのあるを知らじ
病める人の心をを健やかなる人は知らじ

津波にあまた亡くせし人のありしも
近くにあれどその悲しみも知らじ
家をも土地も家族を亡くせし人の
その悲しみ苦しみを知らじ
災いの我が身に及ばざれば知らじ

幸いなる人よ、汝は知らじ
世に苦しむ悲しむ人を
富める人は知らじ
世に貧に苦しみ悲しむ人を
ただ自らの幸いを求むのみにてよしや
苦しき悲しき人もしばし還り見よ
汝の幸いは汝のみにてかなわざるを知るべし

人は知らし、知らじ苦しみ悲しむ人を
ゆえに必ず巨万の富を積む人は呪わるべし
富を分かたざれば富は失うべし
また貧者は富める人の同情を知らじ
情けをかけてもただ富を奪う心のみなり
まことに富を強奪して富者に報いぬ
これまた貧者の追い詰められし悲しさ
それは良しや富者と貧者はいかにあるべし
その調和はいかにあるべしかな


富者と貧者の問題は有史以来ありつづけたのだろう。原始人だったらなかったろう。それだって獲物をとる人が上手な人と下手な人がいるし必ず何か差が生まれてくる。
そういう差が貧富の差となる場合もあるから人間には避けられないものとして富むものと貧するものがある。
ただ本当に貧者というとき、その貧者にも問題がある。たいがい離婚した人は貧乏になりやすい。生活の当てもないのに若いときすぐに離婚して生活保護になった人もいる。
こういう女性が今は本当に多いのだ。すぐに離婚してあとで困っている。昔だったら子供が成長するまで我慢するとかなっていた。今はすぐに不満があったら離婚する。
すると二人分でやることが一人でやるから苦しくなるのは当然なのである。
だから貧者にも必ず貧者になるべきものがあってなっているということもあり批判される特に現代では自己責任論になってしまうのである。確かにそういう人か多いからである。ただ障害児とかもったら苦しみ悲しむ、それも一生だから悲惨てのである。
そういうのは同情するけど貧乏には貧乏になる所以がその人にありすべてが社会のせいでもないのである。


資本主義は何か根本的にシステムとしても壊れている。資本主義は修道院の禁欲から生まれたというとき今の欲望資本主義とはあまりにも違ってしまったからである。
それでは共産主義がいいかというと今の時代また共産主義が復活しつつあるのあまりの格差社会になったからだろう。共産主義は貧者は富者を殺してでも革命でもして富を奪っていいのだということに極論すればなるしソ連と中国などでは実行されたのである。
でもそれもうまくいかなかった。やはりさらなる格差が生まれている皮肉がある。
人間から格差がなくならないというのはそれは宿命のようにある。
どんな社会になっても富者と貧者や貧富の差はなくならない。


現代は貧者がいても見えないのである。ボロを着ているわけでもないし見えないのである現実に食べるものは富者とさほど変わりないのである。もちろん外食では差があっても刺身を食べていない人はいない、いくら貧しくて最低一カ月一回は食べるだろう。
自分の父親は病気になり刺身を食えるようになったけど食いたくないと言って死んでいった。モノがない時代は貧乏とはそういうものだった。
今の貧乏は昔の貧乏とは性質が違ったものとなっている。だから貧乏が見えにくいのである。どこに貧乏人かいるのとなってしまう。
自分は直接貧乏人と接したから現代の貧乏人がいることを知った。一人はただ貧乏といっても贅沢したい貧乏でありだからこそ自分は強奪されたのである。
その人は確かに貧乏でも同情されない犯罪人であった。

もう一人はこの人はいろいろ苦しみを背負わされた女性だから同情している。
でもやはり富者に対して要求するものが大きすぎるしいくらでも金とれるとかなると怖いと思う。
その女性は今どきなんでももったないもったないとしていて本当に貧乏だったのである。だからといって人をだましたりして富者から奪うというのは少額でもいいのだろうかという疑問があった。前のは大金だったので許すことはできないでいる。
でもやはり富者からも犯罪でもなんでもいい奪えばいいというのがこうしこた格差社会になるとなってきている。それを富者は気づいていない、ただ現代の富者も知られていない、ビルゲイツなんか何百億の資産があってもジーパンはいて街を歩いていれば普通の人と変わりないのである。金持ちすら見えない、豪邸に住んでいるとわかるくいである。

でも今でも別にいい家に住んでいる人は多いし車もみんな持っているから誰が本当に金持ちなのかなどわからないのである。
要するに現代の貧乏はアメリカでも日本でも中産階級が没落した結果、上と下の中間がなくなって格差が露になった結果なのである。労働者でも派遣とかフリーターとか時給いくらで働く人が増えた。正社員でない人が増えた結果、差が開きすぎて貧乏が問題になったのである。そして物が溢れているの買えないということもある。

高度成長時代は物があふれてきて買うことができた。今はトヨタで派遣で働いても車も買えないとなっているのが不満になっている。
そういう格差社会になった結果貧乏がクローズアップされるようになった。
貧乏な人が目立つようになったのでありそのためにかえって富者も比較されて責められるようになったのである。つまり共産主義革命の時代に戻ってしまうということである。
みんなが高度成長のように裕福になればこうはならなかったのである。
ただ貧乏の原因が富者だけにあるのではないしそこかまた問題なのである。
でも目先のことを見れば富者にその憤りが向いてきているのである。


別に自分はこれまで富者という気分になったことはない、ただ前にも書いたように自由な時間を与えられただけなのである。やはり千円レベルで苦労していたのである。
百万など現金をもったこともないのである。車もないし本代には使っていても旅行しても最低限しか使っていない、自分が金持ちだと思ったことは一度もないのである。
金持ちはやはり少なくても一千万でも自由に使っていいという身分だろう。
それでも一億円とか資産でもある家なのである。ただ上見ればきりがないし下を見ればきりがないということがある。こんなに貧乏しているのかというのが現代ではある。
そういう格差社会になったことが問題なのである。
ただ富者と貧者の問題は簡単に解決するものではない、なぜなら富者と貧者がない時代はなかったからである。そこには何か深い理由があり共産主義のような理論では解決しない人間の根本的問題があった。
だからこそ「悲しむものは幸いなり」というキリストの教えかあった。
悲しみ苦しみを知らないものは人間的に浅薄だとなり人間を知らないとなる。
そして人間の幸福とはそうした苦しみ悲しむ人の上にあり一人では富者になることができないということもある。その自覚が富者にも必要である。
だからといって貧者が富者を殺してでも奪えばいいとなるのか?
それを理論化したのがマルクスだったのである。それも失敗したのである。
だからそういう歴史もふりかえる必要があるのだ。

タグ:格差社会
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2014年10月12日

現代の格差社会、貧民の増加は危険な状態に (昔の貧乏より現代の貧乏も苦しい面がある)



現代の格差社会、貧民の増加は危険な状態に


(昔の貧乏より現代の貧乏も苦しい面がある)

スーパーで万引きしたり、親戚や友人知人の家に盗みに入ったり、
息子や娘名義のJA口座を無断で作成して借金したり、
おかしなボッタクリ物品のセールスに励んだりと、ムチャするのが多数。
んで、こんなことがあっても警察は何もしてくれない、と。

最近話題になるのは老後破綻とか老人の犯罪増加とか生活保護の増加とか生活が困窮している人のことである。
株が上がっても恩恵があるのは金持ちだけであり底辺層はかえって円高で生活が苦しくなっている。
資本主義は資本があると得する社会である。資本というとき金もそうだが土地でもそうであり無産階級は損することばかりになる。
金が金を生む、資本が資本を生むのが資本主義なのである。
だからアメリカが景気かいいとかで投資したら得していた。
つまり金はグローバルに移動しているからそうなる。
でも元手がないものは資本がないものは大きな金は入ってこない仕組みになってる。
株だって元手が一億円くらいないともうからないだろう。
きャンブルでも元手大きければ必ず最後に勝つ仕組みと同じなのである。
いつまでも負け続けることは無いからである。株でも長期間でみれば上がったり下がったりするから長い目でみればもうかることにはなっている

現代の貧乏は昔の貧乏とはかなり違っている。戦後十年くらいは戦前と江戸時代の生活のつづきだったのである。自給自足であるから農家の方が豊かな生活をていた。
第一卵を食べていることが贅沢だったのである。玉子焼きが食べれるようになったとき高度成長期に入ったのである。
貧乏というとき醤油が使いなかった貧乏のことを書いたけど今の貧乏のレベルとは全然違っている。要するにご飯と味噌汁と梅干しとタクワンとかの食生活が普通でありそれはほんの一部をのぞいたて変わりなかったのである。
三食食べれれば良い方たったのである。だから自分の家の貸していた家では着るものもなく布団もセンベイ布団で餓死して老人が死んだ。そういう時代だったのである。
もちろん生活保護も無いし医者にかかれるわけもない、貧窮のどん底だった。
その老人は風呂にも入らないし汚い手で家賃をわずかばかりもってきたのである。
それは戦後間もないときでありそのときはそうしたどん底の生活をしていた人がいたのである。
だから農家では食べ物はあったのだから餓死すようなことはなかった。
ただその老人が餓死したのは別に子供がいたのに助けなかったのだからまた事情は違っていた。あういう人は今だったら福祉の方で世話するからあんなふうにはならなかったのである。
昔の貧乏も苦しいけど今の貧乏もまた事情が変わって苦しい。
とうしても消費社会になったから買う生活になっているから金がかかる。
まず戦後十年くらいは水道もないから街では水をもらっていた。
その水は無料だったのである。水代は無料であり電気代なども裸電球一つだとほとんどかからない、買うものというと米とか味噌とか豆腐とか極限られたものである。
燃料は炭だからこれは金がかかっていたかもしれない。
ともかく家にあるのは飯台一つであり何もない生活である。また何もモノがない時代だから買いようがない時代だったのである。

今はあらゆるモノがあふれた時代であり金さえあればなんでも買えるモノがある時代なのが違っている。基本的なところで水道代とか電気代とか通信費とかでも二万以上になるからこの出費も大きいのである。
そして毎日買い物しているけどなぜこんなに買い物があるのかと思う。
別にそれほど贅沢していないのにともかく買う物が多すぎるのである。
金さえあれば何でも買えるということで無駄も多くなる。
だから底辺層が増えると老後でも国民年金をもらっても8万でもやっていけない、辛うじて夫婦で15万くらいもらえばギリギリでやっていける状態であり妻か夫が死ぬとやっていけなくなる。ともかく消費社会は金が使うようにできている。金を使わないといたるところで支障がでる。節約すればいいだろうとなるが基本的なところで水道や電気や通信代を節約できない、みんな携帯を老人でももっている。
今の貧乏はモノがいくらでもあるのに金がなければ買えないという貧乏なのである。
もともと何もない戦後十年くらいの貧乏とは違っている。
欲しいものかいくらでもあるのに金がないから得られないというのはかえって苦しいともなる。要するに渇望感が増してくる、あふれるほど物があるのに買えないとなるとますます欲しくなるというのが人間の心理だからである。なければないですますというわけにもいかないのでてある。
今は清貧などありえない、清貧がありえたのは何も物がないときにありえたのである。
清貧だからといって水道代や電気代通信代を払わないわけにはいかないからである。
だから八人に一人がサラ金から借りているとかみんな無理をしてなんとか現在の生活水準に合わせようとしているのだ。

結果的にこうした困窮者が増えてくるとどうなるのか?
社会の秩序が乱れ犯罪も増えるから金持ちだってもう塀を囲み防衛しているというとき安心がない社会になる。
金持ちはまたそうした貧民が増えるとどうしてもねらわれやすくなる。
それは強盗にもなり殺人までなってゆくから怖いのである。
現代はすでにそうなっている特に老人で犯罪が十倍になっているのは国民年金などでそもそも生活できないからである。
つまり現代は相当に社会の治安が乱れ秩序も乱れすでに貧民の動乱が起きるような危険な状況になっているのだ。
犯罪は表に現れるのは罰せられたりするのはほんの一部であり一割くらいかもしれない。だから老人の犯罪が統計上10倍に増えたというとき実は百倍にも増えているのである。

人間は善人も悪人もない、こうして生活に困窮してくると誰でも犯罪を犯すしモラルがどうのこうのもなくなる。明日食べるものがないとなる平気で殺すのも人間である。動物と同じように食うためには相手を殺すほかないとなる。
現在はそういう危険な状態になっている。
金持ちから奪うのに抵抗さえなくなってくる。あいつらは俺達が苦労して働いている金で贅沢している。だから奪ってもいい、殺しても奪ってもいいのだ。
金もっているだけでそうみられるし危険になっているのが現代なのである。
反乱か起きないというが暴動が起きないというがそういう前夜にさえなっている。
個々人ではそういう危険なものになっているから何らかのきっかけで暴動さえ起きかねないのである。

タグ:格差
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2014年10月08日

金とは何なのか(2) 人間の思いがこめられたものは価値は金では公平に決められない


金とは何なのか(2)


人間の思いがこめられたものは価値は金では公平に決められない

人間の思いというものが意外と作用して影響が大きいことを意識しない。
ある人が殺したいとか強く思ったとき関係ない人にも影響して殺人起こるというのはそれだけ念が影響しているからそうなる。もしそういう悪い念が満ちてくると何か自然災害でも今回の津波でも起きてくるというのはそれが人間界だけではなく自然界にも影響してくるということもありうるのだ。
清浄な自然界で耐えられなくなりその悪い念を打ち消そうとして巨大災害が起きる。
どうしても今は田舎も都会もないのだが都会に悪い念が集まりやすい。
だから都会で大災害が起こると被害も甚大になる。
東北の大震災は津波はなぜ起きたかとなるとおそらく今後来る東京などの大都会の災害が起きる前兆かもしれないのだ。
思いは念は距離を越えて働く、だから外国からでもその念が影響することはありうる。一種の強烈な電波のようにもなる。ある人のことを常に思っていたらその人と会うということがよくあるだろう。
それも思いが通じているからそうなる。ある人を思ったとき電波が発信され相手に届き会うということもある。念は距離とか空間を越えて働いている。
そして金というのは一見人間の念とは関係ないように見える。

日々使っている金にどんな念が思いがこめられているか意識する人はいないだろう。
金にもそうした思いが働いているのだがその思いが普通は感じられない。
ところがよく箱に寄付金などに金を入れるとき一〇〇円でも何かすごくその金を意識しないか?
「俺は百円入れた、寄付したぞ」となるがその金は全く個人として記録されないし匿名なのである。
でも寄付金にその金には特別な思い入れがこもる。それは普通の生活で使う金と違っているからだ。
そこには何も代価を得られないから無償だからこそかえって思いと願いがこめられているのである。
だからそういう金を取り扱うことになると相当な注意が必要である。
寄付金というのは実際はどういうふうに流れてゆくかわからないのである。
そこで寄付金を管理する団体がその寄付金を私用するということもかなりある。
なぜならそこには普通の経済生活で行われている監査などされないからである。
つまりどこにどう金が流れて使われたのかわからないのである。
ただその集められた金には人々の思いが強くこめられているから百円でも普通に使うのとは違うのである。

だからそれを管理する団体は相当な信用がないとできないのである。
本当は収支をはっきりするのがいいのだが集めれた金がどれくらいあるかなども明確にされなくてもいい。
営利事業でないのだからかえってずさんになり金の行方がわからなくなる。
この辺の東北の震災の義援金を五万くらいもらった。それもこの辺では感謝すべきものだったのだろう。
原発補償金はまた別でありこれは義援金でなく補償金だから権利だから違っている。
だから義援金なぎ寄付金を集める団体が赤十字ですら何か疑われるのは収支がはっきりしないからである。
不正に使われてもわからないし私腹こやされてもわからない、そういうのは相当な罪になるだろうけどかえって善人にされる。でもそういう強く人間の思いがこめられた金を悪用するとそれは犯罪にもなり社会自体がゆがめられる。その影響も大きいのである。

大きな金を集めるとなると税金があるけどそこにも人間の思いがためられている。だからこそ税金を無駄使いしているのではないか、官僚や公務員だけがいい思いしているとか常に批判がある。税金にもなんらかの人間の思いがのりうつっているからである。だからそういう金を正当に利用しないと国すら腐敗し頽廃してゆく。
現代は金の世界だと常に言うとき金のあること自体がすでに責任を課せられている。金をもっている人が現代では一番偉いとされているからである。江戸時代は別に武士は貧乏でありそれでも偉いとされたのは庶民とは違い高いモラルを追求するものとしてあったからである。今は金をない人を誰も相手にしないし偉いともしない。
金があらゆる価値の基準になった時代だからである。だからどんな人であれ金をもっている人が偉いのでありまた責任も課せられている。億の金を持っている人は億の責任を課せられている。百億もっている人は百億の責任が課せられている。それだけの責任を負えるかとなるとかえって重荷になるから拒否する人さえでてくるだろうすでに金のあるところには人がよってきて金を有効にもっていな人のために使うことを要求さているからだ。
その金をためこんでいたりすると盗まれたり強盗にあったり殺されることまでされるのが現代である。
それは金中心の社会だからそうなっているのである。江戸時代でもそういうことがあっても別な価値基準もあったのである。今は全くその価値基準がないのである。だからみんな金だけを追求しているのである。

思いがこもる金として例えは年金は保険金だという人もいるが普通の保険金なら何かあったとき災害であれ事故であれ病気であれ払ってもらえるから払っている。保険は相互に協力するものとしてあった。災害のときなどは被害者が保険金を受けるとるが何もない人は受け取らない、みんなで助け合いとして資金を出し合ってリスクに備えている。
それがわかたっのは近くで同じ農協の保険に入って人が津波の被害で五〇〇万もらっていたのでわかった。自分は三〇万くらいしかもらっていない、でも被害が大きい人は高いのしょうがない、それでもその差が大きいと思った。それは互いの助け合いだからそうなっていたのである。ただそれを意識しないのが意識できないのが現代なのである。保険に入っている人は膨大でありそんな人同士がつながっているなど思わない、ところが江戸時代の講などは顔の見えるものであり協力していることが具体的に見える
現代のような広域社会は保険でもグローバルになると巨大であり数も膨大なにるから顔が全く見えなくなってしまうのである。

ともかく人間は思いが念が常に影響している。個々人でもそうであり社会でもそうである。誰か思っているとき念が働いている。そして意外と人は思うことは簡単であり目に見えないから注意しないのである。
それでも思うということはそれぞれの個人でも思うことは結構なエネルギーを使うものだということを知る。
なぜならたいがい思うというときその思いの働く対象が限られている。
ある人を思うとなってもその思いを働かせる人が極めて少ない、だからある人を思ったり思われることは得難いことだともなる。奇妙なことは憎しみも相手を思っていることなのである。何も関心がなければ憎しみもない、憎むことは相手を強烈に思うことなのである。だかち愛の反面は憎しみであり憎しみが愛に変わることもありうる。
無関心から愛も何も生れないのである。

「あなたは今誰のことを思っていますか」こう問う時、愛であれ憎しみであれ思いで通じ合っているというのも不思議である。なぜならこの世に数十億の人間がいても思っている人は数人にととまるだろう。
とくに老人になると交わる人が減ってくるから余計にそうなる。たださよならだけが人生だとなりやすいのである。もう思う人が死者だったりするわけである。だから墓が一番親しいものとなっているのが老人なのである。思っているのは墓に入っている死者だとなってしまうのである。
ただ死者を思い続けることも反応がないのだからやがて忘れやすい、いつまでも思いつづけることはそれだけ愛していたからだとなるだろう。
祈るとか願うとか宗教と関係してきたけどそれも思いが現実に働くから実際に効能があるからこそ今でも祈るのである。

ともかく金は単なる金属でもないし紙でもない人間の思いがこめられたものでありそれが金属となり紙となっているものである。ただその思いが感じられないのが問題なのである。
毎日買っている無数の商品にも作る人の思いがこめられているだろう。単に売れればいいというだけではない、自分の苦労して作ったものが使われて喜ばれたとなるとうれしいとなる。そういう思いが商品にあってもただ金で媒介されるとき市場原理だけが働くだけになりその思いが消失してものの物神化になり疎外されるというのがマルクスの理論であった。

だから金というのは何か極端な不公平をみんな感じている。金持ちが例えば百万円使ってもなくしても何にも感じない、一方で貧乏人はそれで自殺もするし相手も殺すことも平気でする。金の重みが貧乏人と金持ちでは全く違うのである。ものの値段であり労働の値段でありあらゆる値段はそれがその価値に相当するかというとそうではない、ただ便宜上便利だから金に換算しているにすぎない。物の価値であれ人の価値であれ人間の価値観は刻々変わっているからだ。今価値あってもすぐに一年も一カ月もたたないうちにもう一日でも価値が変わるのが現代である。江戸時代は土地とか山の木材とか価値の変わらないもので生活していたから価値観がさほど変わらないが現代はめまぐるしく何でも変わる。
もともと商売だったら中国人や外国では物の値段は決まっていない、値切って決めるのが普通だというとき物の値段はその時その人その場によって一定していないからである。
だからポランニーの言う人間の経済というのが現代から見るとそんなことありうるのかというけどあういうのが本当の経済だったのである。

この世にはものがあってもそのものは常に人間の思いがこめられている。だからものは心と同じ意味になっていたのが日本語だった。ものが憑くとかになるからだ。
自然の石でも古い伝説となっている石などは何か本当に違っている。何かまさに心が憑くような感じになっている。全くの自然の石とは違って見えるのである。
実際にすでに何からの人間の心がついてものなのである。津波の跡の不思議を常に書いてきたけど庭の石とか樹が残っていたけど家がなくなったときそれが主人がなくなったがその忠実な家来が残っている感じになっていたのである。それはまるで人間だったのである。普通の自然の樹とは違っていたから何度見ても不思議だなと思ったのである。それは何か言いようがないものだったのである。


 
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2014年10月07日

金とは何なのか (思いがこもっている金とこもらない金)


金とは何なのか


(思いがこもっている金とこもらない金)


金というのは何なのかこれも実際毎日使っていてわからないものである。金の重みは使うときとそれを労働など得る時わかる。労働していればこれだけ働いてやっと自給が七〇〇円とか不満になるのがわかるのだ。
何かしらの労働の代価として金が得られる。その時金の重みがわかる。
一方で全然金の重みがわからないで金を得られることも資本主義社会ではある。
株とかで億とか一気にもうけたとかギャンブルでもうけたとか遺産が入ったとか何か金の重みを感じないで得る金もかなり現代ではある。グローバル経済化したとき、世界に人間の思いから離れた金が莫大に流通してマネーゲームで稼いでいることが批判される。でも金の力は大きいから金は金になるところに流れてゆく。
今はアメリカが景気がいいからアメリカに投資される傾向が大きくなる。
グローバル経済とはアメリカ中心になっていることは変わりなかった。
もし中国が中心になれば中国の貨幣が世界のマネーになるからだ。依然としてドルが世界のマネーなのはアメリカが世界を動かしているからである。政治経済の中心はアメリカなのである。

金はともかくグローバル経済になるとマクロになると人間の思いから離れて人間の経済から離れて動いているから金が何かわからなくなってしまう。金はミクロ的になると金がどう働いているのかわかりやすいのである。
例えば家族の金として使うときなど一番わかりやすいのである。子供のためとか妻や夫のためとか親のためとかその金が誰のために何のために使うか明確でありそこに思いがこめられているからである。
それは親戚でも入学祝いとか何かの記念に送る時はやはりそこに思いがこめられている。
立派に育ってもらいたいとかの願いもある。親ならもっとあるだろう。
自分は子供を育てたことがないからそういう感覚がなかった。でも親戚の子供に金を渡したときそれを感じた。個人単位と家族単位とかで使う金には必ず思いがこめられているのである。
そういうことをもらっているときは意外と感じないしありがたいとも思っていなかった。
それが親になれば親の気持ちがわかる。今は親を介護しているから食事を作りだして洗ってとか結構大変だと思い親の苦労がわかった。

金というのは例えば雇うものと雇われるものでも思いがこもる。雇う人はやはり金を支払うのにはそれなりに苦しい時がある。経営が苦しいときでも支払うということがある。人を雇うということでもそこで金には雇い主の思いがこめられるている。よく働いてくれたから加算したとか働いてもらうことに感謝して払う場合もあるし
これからも長く働いて会社のために尽くしてもらいたいとか家で働く人だったら家のことを思い働いてもらいたいとかなる。一方で雇われている人はただ金がもらっているから働いているだけだともなる。
だからもらう給料には常に不満になるのだ。ただ雇い主からすると本当に苦しくても過分に払っている場合もある。それはその人を見込んでそうなる場合もある。その支払う金にはそれだけ思いがこめられているのである。ただ給料をもらうだけの人はそんなことは思わない、給料が少ないし働かせすぎだと思っている。
ブラック企業などになると確かにそうなる。
だけど中小企業とかでは従業員のために苦しいやりくりをして経営している人もいる。
つまりかそ家族経営とか何でも小規模だと金がどう働いているか実感としてわかりやすいのである。

商品には本当は多くの人の労働がかかわっているとすると単に金があれば買えるというものでは本来なかったのだろう。小さな村社会などでは物々交換とか小規模な社会だったらそうだった。品物を売買するにもどうしてその品物がもたらされたかをその苦労などを語るからその物の価値にこもっている思いが見えていたのである。
つまり人間の思いから離れた経済は何か暴力的になり侵略的でもあり人間の思いなど無視されている。
非常な無機的な世界的市場経済で人間の思いは排除されて物だけが流通して金が支配する社会になる。
まさにこれはマルクスの言う物神化というとき、その思想が宗教のようになったのは今の社会の矛盾を的確に指摘したからである。物によって人間の心が疎外され無視される社会だということは確かだからである。

人間はものを考えるとき卑近なことからミクロ的なことからマクロ的なものと思考を拡大すべきである。
金にしてもそうなのである。思いがこもっている金には単に金だけでなく人の思いがこめられているからそれを無視することはできない、無視された方もその思いが無視されたことで傷つくのである。
だから苦労して子供を育てた、金を使ったというときそれに親の思いがこもっている。その親の思いを無視されることは親にとって辛いのである。
ただ金を権利として要求するような人が増えてきた。民主主義は権利の主張のみをあらゆる欲望も是認されるものだとなりモラルが喪失した。
遠い親戚の人に金をやっても全く感謝しない、その子供にやっても感謝しない、なぜなら権利だと思っていたからである。複雑な事情があっても権利として要求しているのだから感謝などしないわけである。
「俺の金をよこせ」しかないのである。だから裁判に訴えるとまでなって関係は切れたのである。

何かこうして今は金の問題で人間の関係が切れることが本当に多い。金の切れ目が縁の切れ目になることが多すぎるのである。そういう自分もそれでもう人間関係は次から次と切れてしまったのである。
金を与える人の思いを理解しない人が多い。人間はもらうだけではない与える方になると違った観点から人もみるようになる。子供などはただ与えられるだけだから愛されるものだから愛のことはわからない。
愛とは与える愛になってはじめて愛だというのもわかる。
それは金というものにも思いや愛や労働の汗や期待もこもっているのである。
だから金を盗むということはそうした思いも盗むし裏切るから罪深いとなる。
強盗とか殺人までして得た金がどうなるのか?それがまともに機能する金とはなりえないだろう。
その金は呪われた金となる。その金には殺されたもの奪われたものの強い怨念がためられているからそうなる。いい思いがこもった金とそうでない悪い怨念がこもった金もあるのだ。

金というのは何か具体的なものとして現れるからわかりやすいから金を通して人間性も現れてくる。
生活保護の人と二組ばかり知ったが生活保護の人がモラルが頽廃している人が多いのはなぜか?
貧乏ということもあるがまず生活保護の人は金をもらっていてもそれを権利だと思っているから感謝などしない、遠い親戚でも権利だと思っているから金をやっても何の感謝もしない、強引に俺の金をよこせとなるだけである。その権利もないのに誤解してそうなっていてもそうである。
今の人間は特に団塊の世代以上はまず権利を主張するのが民主主義だとして育ったから共通性がある。
生活保護も権利であり憲法にも条文があるから当然だなとる。
ではなぜ生活保護の人がモラル的に頽廃しているのだろうか?

もちろん貧乏な人も現代ではそうなりやすい、それは生活保護の金にはどういう思いがこめられているのか考えればわかる。生活保護の金を国民が出しているのはしかたがない、出したくないのに出している、何かそこにはマイナスの思いしかこもっていない、本当は出したくない、何の思いもないのだがしかたなく出している。
そんな生活保護の人などいなくなった方がいいと思っている。
つまりそういう金で養われているから生活保護の人のモラルは頽廃しているのである。
そんな金をもらっても感謝などしないのもそのためである。
生活保護で誰かに世話になったという感情も生れないのである。誰に感謝していいかもわからない、国民に感謝しろと言っても感謝しようがない、やはりマクロになると人間の思いというのは働かない、ミクロだと働きいやすいのである。人間の思いは人間と人間の個々の間では一番働きやすいのである。
そこに金に対しても思いがこめられることになるのだ。


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2014年07月16日

贅沢を覚えた猫 (豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)


贅沢を覚えた猫

(豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)

●猫も人間と同じだった

猫を飼うということも一つの経験であり猫というものが自分にはわからなかった。
実際に飼ってみて猫というものを新たに理解した。猫にはほとんど関心がなかった。
犬は子供の時飼っていた。猫についてはそもそもわからなかった。
猫も犬と同じく人間が飼うと人間と一緒に生活すると人間化してゆくものだと思った。
その猫はたまたま餌をやったらいつくようになった。もともとは飼われた猫だったのだろう。だから甘えるよに鳴いてよってきた。ただ半年以上すぎるけどまだ時々襲いかかるように吠えるように化け猫のよように口をあけてなる

おそらくこの猫は捨てられて野良猫となり相当に人間に虐待されたのだろう。
だから人間になつかなくなった。その傷が深く忘れられない、人間に恨みをもっている。でも最近は自分のところによってきて眠るからなれてきている。
でもまだ時々口を空けて化け猫のようになる。
ただこの猫はしょっちゅう餌を要求するからよく野良猫として生きていられたと思う。
野良猫として生きるのは相当に厳しいと思うからだ。
猫の胃袋は小さいから食い溜めをできない、だからしょっちゅう餌が必要になるというが野良猫だったらそんなに餌がない、だから相当に窮乏した生活をしていた。
その窮乏感とはその日食えるか食えないかというぎりぎりの生活からくる窮乏感だったろう

野良猫は家猫に餌をやるからその餌をねらってやってくる。野良猫は結構多いものだと思った。最近近くの空家に三匹の子猫が出入りしていたのを見た。
空家だと猫の住まいにはいい場所である。その三匹も野良猫になる。
だから野良猫は増えるから餌をやるなと言う人もいる。
野良猫は結局もう野生の猫のように自分で餌をとれないのだから人間の問題化している。犬のように登録制にしろとか地域猫として飼いとかいろいろ法律まで整備しろとまでなるそれは一個人で勝手に飼ったりするとまた増えたりするから去勢して飼いとかなるからだ猫というのは人間化すると人間の問題になるのである。
だから猫はもう介護までされたり猫の墓まで普通にある時代になったのである。

猫は自分が食事している時、猫が自分の食事しているのを見ている。その時、サシミでも一切れとか与えていたらその味がわかって必ずご飯のとき見ていて分けてくれと鳴くのである。他にも魚類や肉類なども一切れとか分けてやっていた。するとその味を覚えて食べたいとちょこんと座って鳴いて要求するのである。
この猫は自分の家で飼われるようになってから贅沢猫になったのである。
野良猫の時は満足に食えなかった、窮乏していてうろついていたのである。
その生活は相当に厳しいものだったろう。家に入ってきてはぶたれたり追われて生活していたのである。野良猫は飼い猫の三分の一の年くらいしか生きられないという。
それだけ野良猫として生きるのは厳しいのである。

それが一旦こうして贅沢を覚えると自分が食事して何も与えないとすごく不満そうにしている。それがやはり表情でわかるのだ。とにかく食事の時迫ってきて鳴いて「俺にもくれ」と要求するのがわかるからだ。
だから与えないと「なんでくれないんだ」と口に言わなくてもひどくがっかりしたようにして離れるのである。
だから猫もぜいたくを覚えるとその味を覚えるといいものを与えないと不満になるのである。野良猫のようにともかく腹をみたせればいいというのではない、うまいものを食べない日は不満になるのである。贅沢を覚えてその贅沢ができない窮乏感をもつようになったのである。


●モノがない時代の貧困


この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにているなと思った。
自分の子供のころはモノがない何もない社会だった。どこの家でも飯台一つくらいしかない貧乏だった。電気製品は何一つない裸電球一つあるだけだったのである。
食べるものは麦飯でありオカズはコロッケとかサケとか決まっていた。今日ももコロッケ明日もコロッケなどの歌がはやったのもそのためだろう。その頃まだ卵も農家では食べられても一般の家では食べられなかった。だから自分の家では店をやっていたので農家に卵を買いにやらされたのである。卵はずっと贅沢品だったのである。
病人しか食べられないとかの贅沢品だった。

その時代は乞食というのも普通にいた。乞食は戦前も田舎にもいて悲惨だった。
それは野良猫とにていたのである。
ただ回りを見ればみんなそんな何もない貧乏暮らしなのだからその貧乏を嘆くというよりはあきらめて生活していたのだろう。
大正生れの母は今でも梅干しとご飯があると満足するくらいである。
もちろん介護されているのだから食欲がないからそうなっているがもともとそういう暮らしだったのである。粗食で生きてきたのである。ただその後はやはり食べ物は贅沢している、だからエチゴなどやケーキは食べるのである。

現代の貧困は何かというとボロを子供などいないから貧乏に気づかない、野良猫がいるのが普通気づかない、でも猫を飼っていると必ず野良猫もよってくるのである。
この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにている。自分の子供の頃はなにもない、飯台が一つあるくらいの生活だった。電気製品も一つもない、裸電球が一つくらいしかない生活でありそれは共通していた。
食べるものでもオカズは決まっていた。麦飯とかでありコロッケでありサケとかは良く食べていた。肉は食べず卵は農家では食べていたが一般の家庭では食べられない贅沢品だった。親が病人で卵を食べていたのをうらやましがっていたことを話す人がいた。
だから店をやっていたときその卵を農家から買わせられたのである。その時は農家の方が家で納豆まで作っていたのだから豊かだったのである。そもそもモノがない時代はモノを作り出す米でも野菜でも卵でも作り出せる農家の方が豊かになる。
戦争中でも戦後でも着物を食料と代えたということでもわかる。そして農家は汚いとか都会の人に言われた。今でも農家は農家の人が汚いというからそういうことは今でもある。


その頃は乞食も普通にいた。乞食は一軒一軒物乞いして歩いていた。それは普通の光景だったのである。戦前になると山頭火のような物乞いして旅できたというのもそういうことが普通にできた時代だったからである。戦前から戦後十年くらいは普通に乞食がいたのである。今は乞食がいないから貧乏人がいるように見えないのである。
だから貧乏自体がないように見える社会なのである。
現代がいろいろ貧乏のことが言われるようになった時、それがモノがない貧乏ではない、モノがありふれてそのモノが買えないという貧乏なのである。
それは野良猫から飼い猫になり贅沢を覚えた猫と同じである。
うまいものを食わせないと不満になった猫である。その窮乏感は渇望はかえって強くなり不満になる。

●モノがあふれているのに買えない貧乏の時代

例えは新車が絶えずでるけど車を運転できる人なら買いたいと思っても買えない、するといいものがあるのに買えないという不満が渇望感がましてくるのである。
ではその渇望感を充たすにはどうするかというと借金してまで買うということになる。
それでサラ金とか闇の金融から借りている人が八人に一人もいるのが現代社会の実相なのである。充たされない欲望を借金で充たしている異常さなのである。
まず昔だったらローンで家を建てたりはしない、家を建てるのも借金なのである。
だからあとで借金は大きな負担となってまた苦しむことになるのだ。
「消費者は王様」だという社会になったとしても消費する金がない人、貧乏が増えたのである。そんなにモノを作っても売れないとなるとそんなに作ることもないとなる。
少子高齢化でますますモノは売れなくなる。だから実際は作る方も売る方ももう限界にきているとなる。それでもグローバル化社会になるとあらゆる食べ物でも入ってくるからほしいとなり欲望は無限に拡大してゆく。

現代の矛盾はそうしていくらでもモノを作り出しても今度はそれだけのもの買える経済力がない人たちが増加した。フリーターとか派遣とかニートとか正社員でいな人たち増えた。その人たちは賃金が安いのだからモノを買えといっても買えないのである。
これも欲望資本主義社会の矛盾なのである。何か過度な無際限の欲望資本主義が限界にきているのだ。作る方にしても売る方にしても買う方にしてもそれが限りないものではなくどこかでとまる、制限される、それが無限に増えてゆくということはありえないのであるそういう無限に増えるということを追求してゆく社会自体が過ちだとなる。
そのことは社会自体に個々人に返ってくる。


これが今回の原発事故と関係ないように見えても関係していた。つまり身の丈にあった生活ではなく、無限に拡大した欲望を充たす社会だからこそ原発事故も起きた。
豊かになるには原発が魔法のようなものであった。でもそれは危険であったがその危険も無視して豊のためにはどうしても原発が必要であるとなり作られた。
これは石油もそうである、豊かになるためにはどうしても石油が必要であり危険でも石油を得る必要があるとなり戦争してまでも石油がほしいとなる。
原発事故でもそういう無際限の欲望追求の社会にもあった。
人間はどこかで欲をとめない限り危険なものになってゆく。戦前や戦後十年の貧しい時代にもどるのかというのではなく何らかこれだけ豊かになったら欲望の制限が必要になっているのだ。第一みんなそんな欲望を充たされる社会などないから一部の金持ちが豊かな暮らしができても今度は多数の貧乏人が生れる。高度成長時代のようにみんなが豊かにはなれない社会になっていたのである。
売る方にしても作って買う人がいない、こうなれば作る方もまた貧乏になってゆくという矛盾が生れたのである。
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2014年06月15日

一九七〇年代からふりかえる (高度成長時代から日本は物質欲が減退して文化の時代に)


一九七〇年代からふりかえる

(高度成長時代から日本は物質欲が減退して文化の時代に)

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●団塊の世代の大学生活

案外忘れられてるけど卓上電卓がオフィスに普及したのも最近なんだよね。
70年代からじゃない? つまり団塊が社会人デビューしたころは算盤上等なわけで
電卓はあっても値が張るわけで、まだまだ算盤やら手計算がメジャーなわけだ。
いわんや簿記なんか分厚い帳簿を引っ張り出さなきゃいけない。
経理だろうと人件費計算だろうと大量に人間がいたわけだ。

書類がコンピューターでデジタル化した。だから相当書類が減った。書類の整理だけで大変な労力がこれまではあった。そういう所が省力化すると人手がいらなくなる。
本や情報もデジタル化すると効率がいい、ただ本なんかはやはり本としての良さがあり
なくならないだろう。ただコストがかかるということで衰退してゆく。

今や自分は忙しくて図書館などで調べられない、図書館は何か調べ物するには効率が悪いし時間がかかりすぎるのである。
町とかに図書館があっても小さすぎて役にたたないのである。
インターネット化すると郷土史の研究が全国的ネットで結ばれるメリットがあった。
郷土史研究はマイナーであり本で調べるのがむずかしい分野である。
大学で論文を出していたのでそれを読んで参考にした。
一般の人が大学と結ばれるのもインターネットではできる。
今までは情報にアクセスするには壁があった。
大学には一般の人は入ることはできなかった。
ただまだまだ情報や論文を公開している大学は少ない。


それにしてもずいぶん時間がすぎてしまった。遠い昔になってしまった。
団塊の世代も歴史的に語られる存在になっているのだ。
高度成長時代を作ったのが団塊の世代である。
大学時代に車に乗っている人がいたがあの時車は贅沢であり車もっている男性は格好いいと女性から見られていたのかもしれない。
車はそんなにみんながまだもてるものではなかったろう。
ただその頃から急速に普及し始めていたのだろう。


自動車の普及が急速に進むなか、1968年日本の自動車生産台数が世界第2位に躍り出ました


日本の技術の開発のスピードは意外と早かったなと思う。その時すでに世界二位というのは驚きである。集団就職の時代であり人手がたりな金の卵として田舎から大量の労働者が東京などに送られた時代だった。
この日本車もすでに世界で通用していたのである。

●団塊の世代でもすでに大学は大衆化していた

クラスで田舎では大学に入れたのは4,5人だった。
集団就職が三分の一くらいいたようだ。
それでも大学だと私立はマンモス大学であり凄い数が集まっていた。
この時大学は特別なものではなく大学の大衆化がはじまっていたのである。
3000人とか入る大講堂で講義しているのも異様な風景だった。
高校からするとあまりにも違っていたからとまどい勉学の意欲を失う人もいて
全学連など学生運動に身を費やす人もいた。


大学はレジャーランドとか言われた時代であり毎日マージャンをしている人もいた。
大学で授業にゆくやつは遊ばないやつだとうとまていたのも不思議である。
大学とは高校と違って遊ぶ場所だったのである。
マージャン大学、パチンコ大学にもなっていた。
パチンコはその当時本当にヤハなものだっ。
誰でも手作りできるようなもので板の箱でただ釘を打っているだけのものだったのである。
その釘の調節で出るのと出ないのを調節していた。
そのころからみるとぶいぶん変わったなと思う。


高校では考えられない落差がありとまどう人も多かった。
高校は毎日通い遅刻も許されない、大学は授業に出るのも出ないのも自由だというのはあまりにもその差が大きかった。
かといって自主的に勉強している人はまれだったのである。
文系は特にそうでありそれでも卒業できたのだからでたらめな大学が多いとういこともあった。
それでも社会に出ると学歴で判断されることが多い。最終学歴はあとあとまでついてくる理系ならともかく文系なら学歴などほとんど関係ないものだったかもしれない

そういう大学で自由に過ごしたのに卒業したら企業戦士として会社人間となったのも不思議である。全共闘の闘士は今度は企業戦士に変身したのである。

●高度成長時代から労働欲減退の衰退の時代へ

その時丁度高度成長期で経済は鰻登りで波にのっていた。
給料は毎年確実に上がっていた。だからメーデーなどの賃上げのパレードは祭りとなっていた。
労働組合もその時最盛期であったのはそれだけの賃上げが確実に要求すればあったからである。
それは日本経済が家電分野でも自動車でも世界の最高レベルにありプランドとなっていたからである。
今になると高度成長期は日本の黄金時代だったともなる。

現代の経済状態はアベノミックスとか金融で経済を活性化しようとできない、
なぜなら世界で売れるものが作れていないからだ。
家電でも中国韓国においつかれているしこれは日本製でないとだめだというものがないのである。そうしたらいくら金融で経済を活性化しようとしても無理だろう。


紙幣をすって紙をすって景気よくなるなら苦労しないよな


これ本当だと思った。日銀で一兆円でも紙幣をすっても景気良くなるとは思えない。
日本はどうみても衰退社会に向かっている。高度成長の黄金時代から少子高齢化とか非正規雇用が一千万とかまともに働く場所すらなくなっている。
その一つが引用したパソコンなど機械化により労働力をはぶいている。
2001年にwindows xpがでたとき急速に普及した
農家でも田植え稲刈りも機械であり片手間に農業をしている人が多いしそれでもできる。あとは専業農家に田んぼでも頼んでいる。

高度成長時代は会社人間であれみんな働く意欲があった。
それは物質欲が強い時代だったからだろう。
ギブミーチョコレートからはじまった戦後があり物質欲が異常に高い時代だった。
戦後の何もない焼け野原からはじまっていたからである。
その物質欲、欲望に高度成長が火をつけた。
その時、若年人口が多く人手はいくらでもあったがそれでも人手不足の時代だったのである。


●機械化がすすみ底辺化した労働者

現代は非正規の人が多いという時、機械化により労働力がはぶかれ会社の正社員にもなれず、底辺労働化した時代である。
高度成長時代はどんな大学出ても会社に就職できていた。正社員になれたのである。

今後何十年も新卒は6割しか就職出来ず、その多くは非正規の仕事か数年以内の早期退職になって、

毎年数十万人以上の若者がニートやフリーターになるんだぞw
氷河期やニートを含めたらやがて1000万人を越えるぞ。
大卒や弁護士や会計士の資格の有る人ですら就職難なのです、
それ未満の学歴の人には更に就職先は有りません。


大学などは今やこれだけ数が多くなれば価値がない。大学でて当り前とまでなっている。そうした非正規労働とかブラックな企業で働くとかが問題になるとき、高度成長期のような労働意欲が衰退しているのだ。
そして別にテレビでも車でもなんでも一応もてるしそれが特別ほしいという物欲も衰退している。そんなもの安く誰でも手に入るという感覚になった。
つまり団塊の世代のような物質欲も今は衰退している働く意欲もない
そして働く場所がそうした底辺労働しかなくなっていることもある。

つまり現代は物質欲の減退した時代になっているのだ。テレビがほしい、車がほしい、マイホームがほしいという欲望が希薄化した時代である。
そういうものはすでにあり充たされている人が多い。
だから経済を活性化させようとするとき高度成長のような物質欲を刺激してもすでに充たされているとなるとそれはできない。
日本ではすでにそうした物質欲を刺激して経済成長を計る時代は終わっている。
そしたら何をもって経済成長するのかとなる。

だんだんモノではなく心を豊かにするものを求めてゆく時代になる。
中国でも経済成長とする世界旅行がプームになったことでもわかる。
物を買いにもくるがやがて日本文化というものに興味をもつようになる。
つまり文化の問題がクローズアップされるようになる。
その日本文化というのが明治維新以来の欧米化で衰退してしまった。
だから日本人自体が日本の文化を見直す時代が来る。
こういうことは奈良時代や平安時代にも起こったことである。
インターネットは事業化してもうけようというビジネスに利用するという風に騒いだが
本来インターネットはそういうツールではない
情報の共有とか格安で自力で発信できるとかビジネスの金儲けとは違ったコンセプトで作られた。
だからインターネットを金儲けしようとすることにあわないのである
それは何か知的なものとかハードからソフトへと移行するツールでもあった
それはハードの物作りよりソフトなものが要求されている


ともかく人間は働くという自主性が労働にあるときはいい,でもたいがい非正規でも働かせられているという受け身にさせられている。だから働くことに生きがいを感じない。
また働く場所でも人間はただ部品のように付け替えさせられているだけであり機械と代わりないとなる。時給いくらというときそれは人生の貴重な時間を切り売りしている。
労働がworkというとき、作品になるのだから働くことが自分の人生の作品を作るような働き方でないと自ら働くとはならないだろう。
ただ強いられて働かせられているというのは人間本来の労働ではない、
そんな贅沢がいえるかというのもあるが豊かになればやはり労働の質も変わってゆくのである。


ともかく現代の問題は過去から考えないと見えないのである。
すでに団塊の世代は過去になり歴史となりふりかえる時代になっているのだ。
60まで生きれば個々人も一つの歴史を生きたとなりふりかえる。
そしてその時自分はどう生きたのかどういう時代を生きたのか自ずと理解できる。
その人の人生が個々人でもどういうものだったか否応でも解答が出る。
だからでたらめに生きた人は過去をふりかえるのも苦しくなるだろう。
ただ人間は過ちを犯さない罪を犯さない人間はありえない
でも最後は後悔が多くなるというのが人間の繰り返しだったのである。

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2014年05月14日

時給化された労働は本来の人間の労働ではない (時給が上がるのは当然だったー時給1500になった原町のすき家)


時給化された労働は本来の人間の労働ではない

(時給が上がるのは当然だったー時給1500になった原町のすき家)

時給が深夜1500円になったのは福島県の「すき家」原町店。原発事故を起こした東京電力福島第一原発からは約25キロメートル。JR常磐線原ノ町駅から約1.5キロメートルの国道沿いにある24時間営業の店だ。

   周辺の外食店はどこも深刻な人手不足に悩まされている。放射線の影響を懸念して、主な働き手だった若者や主婦層が市外に流出したうえ、除染作業などの復興事業の本格化が重なったことで、労働力の奪い合いが起こっている。
http://www.j-cast.com/2014/05/12204475.html


あそこは本当に忙しいのがわかる。時々納豆定食を食べていた。
あそだ働いていたら息ぬきもできない、暇なし働かされる。
普通は働きたくないだろう。
この辺では若い人が流出したこともあるし小高などの原発避難者は補償金で遊んでいて働かない
第一そんな忙しい所で働きたくないのが普通である。
この辺の人で不足はそこだけではない、コンビニでもそうだし全般的なのである。
チェーン店はほとんどそうなっている。


ただ時給千円というのは前は地方では結構な値段だった。
でもそもそも人件費が安すぎたのである。
人間を雇うほどめんどうなものはないし金がかかって当然なのである。
あまりにも人間を大事にしなかったのである。

自分は家でちょっと一時間でも家事の手伝いしてもらうのに大変な苦労してわかった。
そもそも一時間など働く人がないから余計そうだった。
それで犯罪の被害者になった。
ただ人間とは機械のように扱いないし奴隷のようにも扱えない
それが時給いくらだとかそんなふうに人間を扱うこと自体、奴隷化されていたのである。
時給いくらだとかいう働かせ方自体間違っていたのである。
働くのには別な価値観が必要である。
時給いくらだとかで計ること自体、人間無視だったのである。


働くことはそんな時給いくらきかで決められないだろう。
なぜなら働くことはその人の人生の問題であり
ただ一時しのぎの稼ぎとは違ったものだろう。


英語で

workは作品である、自分の作品を作るために働くとなるとライフワークになる。


I work for a company
I work at a company


の意味は違っている。
 
forには全体のためにとか目的のためにとか長い時間の中で働くという意味がある。
電車でも行く先地に行くのはforである。

つまりforは目的地に向かって電車を運転して運んでいるという感覚である。
一方はatは場所とか一部の担当とか部分的なものになる。


I work for the hospital
I work at the hospital


これはforは病院という全体の働いている感覚になる。
atはそうではない、一つの部門とか科で一時的に働いている感覚になる


現代とは働くにも部品化して細分化しているからforの働き方が消失している
for my familyとなれば一人のためではない家族全体のために働いている。
お手伝いさんとかなるとそうではない、ただ賃金をもらって一部の家事をしているのだから
work atになってしまうのである。]それは時給的働き方と同じなのである。

現代は働くこと自体、forという観念はなく時間的にも部分化、部品化されているのだ。

むしろ村だったら村という全体のために働いているという意識が自然と生れていただろう。
自ずと共同意識の中に働いてきた。それは意識しなくても無意識的にそうなっていたのである。
そこではそもそも時給いくらだとかいう感覚はないだろう。
もちろん田植えでも稲刈りでも手間賃をもらうということはあった。
それでも逆にまた自分の家でも田植えや稲刈りで働いてもらうとなると助け合いという意識、
共同性の中で働いていたということもある。

ともかく時給いくらだというのはatの一時的なその場しのぎの働き方なのである。

だから本来は郷土のために働くという時、部品としてではなく郷土全体のために働くということであり土着的な働き方であった。
そういう共同性が喪失した時、時給化された部品化された働き方になったのである。


I work for my homeland

I work at a homeland


この意味は相当に違っている。forは全体であり時間的持続性もあるがatにはないのである。
ともかく現代は全体を共有するとか共同意識が衰退して時間でも空間でも
何でも部分化して細分化して人間自体もそうされているのだ。
アルミニウムの高度な溶接していてもそれが郷土のためだとか意識することはない
でもその人が退職して自転車で郷里を走り回っているとあそこはどうだとか
今なら津浪でどうだとかになり郷里の共有意識で話しているのである。

いづれにしろ現代はwork forという働き方が喪失した時代なのである。

workには機能するとか作用するとかの意味もありそれは自然だったら
自然に機能して作用してゆく働きかただから自然とも深く関係していた働きかたである。
大地に根を張るような働きかたである。
毛細血管のよう細密に土に根を張る植物とにていたのである。

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2014年05月08日

機械に代われないものに価値がでてくる時代 (モノ余り、豊かな社会の価値観は変わるー人間にしかできなものが常に残る)


機械に代われないものに価値がでてくる時代

(モノ余り、豊かな社会の価値観は変わるー人間にしかできなものが常に残る)


しかしロボット開発はそう簡単ではない。少なくとも基礎としては、工学の世界で4力と呼ばれる「材料力学」「機械力学」「熱力学」「流体力学」が最低限必要だし、これだけでは足りず、「電気回路・電子回路」の知識も必要だ。
さらにこれらを知っているためには、物理学の「力学」「電磁気学」「解析力学」「統計力学」ぐらいは必要な知識だ

http://mathcut.seesaa.net/article/385235486.html

こんな頭のいい人がロボットを生産して働かせる。人間の代わりにロボットが働いてくれる。
すると人間はロボットに代わられた所では失業する
ロボットを作り出した頭のいい人は特別の高給取りになり
他の人は働く場すら奪われる、そして最底辺から生活保護にもなる
ここはネズミの実験用のロボット化なのか何かわからないがロボットが屋ことによって
人力がその研究分野で省かれたのである

これはあらゆる分野で起きている。

機械化とはロボット化でありロボットが高度に発達すれば知能部分も機械化される
コンピューター化して事務部門の労働が省かれたのと同じである
家事でも前にも書いたが機械化しているから主婦がかかりきりで家事をやっていた時代とは違う。
男一人でも家事はできる。自分は介護士ながらやっている。
機械がある程度してくれるということはロボットがしているのである
主婦がかかりきりで家事をする必要がないからパートにでて現金収入を得る
主婦という家事が機械化されて専門の専業主婦がなくなったのである。


ロボットは歴史的には昔なら奴隷である。
ギリシャでもソクラテスなど知識人が輩出したのは日常の家事など
または生産をしていたので知識や哲学の探求ができた。
「スコーレ」暇がありスクールができた。
学校の起源が暇にあったということは重要である。
暇を作り出さなければ知識の探求や哲学など生れないのである。
なぜなら毎日労役に費やされるからである。
自分だって家事と介護に追われているがそれでも知識の探求ができるのは
家事も機械化していてそこで暇がなんとか作り出されているからである。


マルクスの理論では労働力だげが資産で労働しか売ることができないものは
資本主義では搾取されると見た、そういう無産階級は土地ももたないから余計にそうなった。
でも現代で格差社会、階級社会になるのは土地とか資産もっているとか
そういうものではない、地主とか小作の関係でもない
そこに機械化された知能までコンピューター化された労働がロボットに代行される
それが大規模に起きたためである。




産業革命では繊維工業で機械が発明され,それによって手工業職人たちは失業と賃金が安くなるかもしれないという不安に襲われました。
さらに食料価格が非常に高くなり,経済不況も加わって機械破壊運動が爆発的に発生したわけです。
この運動の最初の犠牲になったのは,1779年当時イギリス最大の紡績工場であったアークライトのランカシャー工場でした。そこから始まり1810年代に入って運動はもっとも激しくなりました。1811年にはノッティンガムシャーで熟練手工業職人が,靴下やレースを編む織物機械を破壊しました。翌年1812年にはランカシャー,チェシャー,ウェスト=ライディングなど北部で,新しい紡績機や織布機の打ちこわしが続発しました。

この運動の被害者の多くは新しい機械の発明者たちでした。ケイやハーグリーヴズ,アークライト,カートライトなどは工場や住宅を破壊されました。



こういうことが過去にあった。機械というのはそれだけ社会を変えてしまうものなのである。
格差社会という時常に公務員が得しているとかある特権化した人間にその恨みを妬みを向けているけど
機械にその恨みを向ける労働運動は日本では起きていない
機械は自然と同じように人間ではないから天災のように恨みを受けない
具体的に恨みや妬み受けるのは人間である

だから現代では本当の特権階級とか金持ちが見えないということもある
では頭脳労働者が高給取りでもなかなかそういう人たちは社会では表立って見えないのである。
そもそもIT長者といっても田舎などではそういう人たちのことを理解できないだろう。
山持ちとか地主とか何か具体的になものがあればわかりやすいが
現代の金持ちは見えにくいのである。
だから公務員とか官僚とかそうしたものは巨額の税金を扱い国民から奪い楽していると常に怨嗟の目で見られるのである。


文明は結局機械化で起きている問題が特段に顕著になった時代である。
あらゆるものが機械化してその機械によって人間が動かされている
だからついにはコンピューターが世界を支配するというSF映画があったことでもわかる
原発事故にしたってこうした一連の文明の進展のなかで起きた事故である。
機械化して機械が故障して破壊されて大事故になり悲惨な結果をもたらしたのである。
戦争すら現実にロボットが無人兵器がすでに実用にされて殺傷までして問題になっている
人間の戦争ではなく機械と機械の戦争になる、ロボットとロボットの戦争になる
それは鉄腕アトムのテーマでもあった。
それは未来を先取りしていたから漫画でも歴史に残るものとなった。


これだけ機械力が巨大になると自然破壊も巨大化する
原発事故はその機械化によりこの辺が大被害になった
機械というのは確かに苦役から人間を解放した
一方で人間から人間的なものを奪ったのも機械であった。
だから鉄道でも最初はソローのように自然を破壊するものとして驚異だったのである
車社会だってそれも大規模な自然破壊でもあった
便利になったが商店街やら他にも失われたものはある


機械化をおしすすめたのはエジソンなどが生れたアメリカである。
アメリカはあれだけ巨大な国だから国土だから機械化に向いていたのである。
広大な土地をトラクターで耕すことが向いていた。
機械化文明はまさにアメリカ文明だったのである。
不思議なのはホイットマンが生れたアメリカの開拓時代は日本の江戸時代とにていたのである。
ホイットマンが賛美したのは農民であり牧畜民であり手仕事をもった職人であり
そうした巨大機械化しない人間そのものが働いていた時代なのである
それは江戸時代とにている。個々の職人がその技を競い農民でも人力社会である
だからそこには機械より人間中心の人間を賛美するものが生れる

牛と馬とかも機械の代わりに利用されているがそれは機械ではない
生物であるから人間扱いされて馬が人間と結婚する、動物と結婚するという
民話が生れる動物は人間と同じ生物であり機械とは違う
やはり命をもったものであり人間化する
機械は生物ではないから人間化しない、ロボットもいくら知能化しても人間にはなれない
ロボットはペットにはなれないし介護も精神的な面ではできないのである。
物を運ぶくらいはできるが精神的交流はできないのである
そこに機械とロボットの限界があるのだ。

americaland.jpg
マークス「楽園と機械文明」ーテクノロジーと田園の理想

この本は面白い本だから何回も読み直している。アメリカの理想はその広大な土地を利用した農業にあり機械を利用した製造業に開拓時代はなかったのである。
その製造業はイギリスのヨーロッバにさせて田園の農本主義が理想だった。
そこには大規模な自然破壊は起きない社会であった。
農本主義になると江戸時代までの日本とにているのである。

なぜ現代は三分の一も働かないで暮らしていけるのか?
それは労働が機械化されているからでありそれだけの余剰が機械を生み出しているからである。
でも実際に労働するとなると機械の方が安上がりで人間は高くつく
手伝いさんでも家の中では働いてもらうとなるとその労力が大変なものになる
犯罪にあったように気を許すことができないからええって疲れる
炊飯器や洗濯機のように人間は使いないからである
人間はそもそもそんな機械の部品のように使えるものではないし
機械より能力がないものとして扱われること自体異常だったのである

生産性とか効率性とか合理性を追求すれば機械がいいしロボットの方がいい
人間の効用は機械にやれないことにこそある
それはこれだけ機械化してもそうである
機械にできない、人間にしかやれないことはいつまでも残る
それは別に高度な知能とか技術だけではない
介護なんかはまさにそうした人間でなければできない
ただその価値がまだ認められていないのである。
必ずしもこの世の中価値があってもその代価が払われないことがある
そういう価値の不公平の故に格差社会になっているということもあるのだ


要するには人間の社会の価値は実はあまりにも多様なのである。
だからボランニィーの人間の経済学がある。
何が価値になるのかその土地により国により時代により違ってくる
それは食料の心配がなくなると贅沢品を求めるから
あらゆるものが価値となってくる
珍しい石でも庭に置きたいとか高い価値が出てくるのである。

結局価値を決めるのはその人の価値観にもなる
一億円あったら家とかは別にしてその人の価値観で金を使う
自分の場合は庭を作ってみたいとか
家事を手伝ってくれるひんいい人があれば高い金でも払うとか
その人の価値観で金を使うのである


だから老人はあまりモノがいらなくなるから
かえって個人的に人間的サービスをしてくれるのがいい
宅配の弁当でもそこで老人の話しを聞いてくれるとかがいいとなる
しかしそれは若い者にはなかなかできないかもしれない
なぜならただモノを配達すればいいというのが仕事になるからだ

そういう老人と話をできるのはかえって経験の積んだ老人が向いている
これも誰でもできるというのではない、一つの能力なのである。
女性でも話しがうまい人と下手な人とがいるのと同じなのである
いづれにしろそういうものは機械ではできない価値があるし
その価値に金が加算して支払われる時代にもなっている。
モノに付加された価値の方が高くなるということも豊かになればある時代になる
ペットブームが象徴しているのは犬は番犬でもない、猫はネズミ取りでもない
そうした実用的なものでなくで何かかわいいから癒されるとか
別な価値観でペットブームになっているのとにているのである


posted by 老鶯 at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

機械でもできない田の縁(へり)を人が田植えしていた (機械化で人手が必要なくなり格差社会が生れた)


機械でもできない田の縁(へり)を人が田植えしていた

(機械化で人手が必要なくなり格差社会が生れた)

tanohhheri.jpg

田の縁(へり)を人で補う田植えかな


時々田植えしている人をみかけるけどあれは機械で田植えできない
縁(へり)を人手で補っている
つまりほとんどは機械で田植えしているのであり手ではしていない
だから今の農家は重労働ではない
でも小さな畑で野菜を作っている人は年取っているので
うなうことが辛いから男の人にしてもらっている
金を出して頼むかとも言っている
それなりに今でも農作業は力仕事がある
その女性は骨太で腕も太く農家の人にふさわしい女性に見える
土木関係の仕事もしていたから力仕事ができる


一方で若い女性は華奢でありまるでモデルのようにすらっとしている
だからその女性がとても農家の人とは思えなかった
それでも田植えをしたことがあるという。
その田植えとは今は機械でしているのだが田のへりが機械でできないから
補うためにしていたのである。それなら重労働ではない

人間の労働は機械化すると人手がいらなくなる
その極端な例が中国で麦を刈るのにコンバインだと人間がやるより
百倍もの差がでるだろう。
ただそのコンバインを借りてやるのに金がかかる
今までは出稼ぎ労働者が麦刈りに動員されていた
それでも需要がなくなったわけではなく
機械ではやれない場所がありそこで出稼ぎ労働者が利用されている
これは田の縁を田植えしているのと同じだった
でもその労働は微々たるものとなってしまったのである。


現代は人手不足が言われるけど一方で人手が必要としているのは
機械化するとその頭脳にあたるものが人手不足になる
なぜならそれは高度な技術が必要であり知識が必要であり
誰でも簡単にできないからそうなる
だからITでも科学の研究でも技術の開発でも頭脳部分の人手は不足する
そういう場では高給取りになる
だから会社でも人手を省くために事務でもコンピューター化して
事務職はいらないとなると今度はその人たちが失業する

格差社会の原因はそういう社会の構造の変化にもあったのだ。
もちろん官僚が天下りとかで得するとかはある

でも全体の社会から見ると労働力を省く機械化がすすむと
一部の頭脳の技術者だけ会社では採用すればいいとなる

そして底辺労働しか残らなくなる
コンビニとか配達とか介護とかしか雇用がなくなる
つまりそれが格差社会の根本的原因だともなる
要するに機械で田植えしてどうしてもできない労働を人間が補う
機械が主役であり人間は脇役になっているのだ。


ただ医療とか介護とか人間的サービスとなるものは機械化できない
機械化できない労働は必ずある
労働の価値も常に変わっているのだ
機械でやれることは価値がなくなる
機械でできないことが価値がでてくる
だから介護なんか最底辺の仕事だと言うが
極めて人間的サービスであり機械にはできない
特に認知症の介護となると最高にむずかしい
そういうものにはかえって価値がでてくることにもなるはずである
常に価値は変動しているからそうなる
機械でやれるものは価値がなくなり
機械でどうしてもやれないものが介護など無駄といっても価値がでてくる


機械化されると多くの労働が底辺化して格差社会になった
そうしして機械化されると農業でも昔のように村人総出で田植えとか
稲刈りとかもなくなるからと共同性も失われる
労働歌の民謡とか踊りとかも農村の文化も失われたのである。
なぜならトラクターであれ田植機でしていればそこには人間がいないからである
それでも田植えでも稲刈りでも無料でしていたのではない
手間賃が払われていた。子供の頃、そのもらった金が大きかったという
江戸時代辺りになると共同で無料でやっていたかもしれない


人間は重労働から解放されたくて機械を発明した
毎日重労働に負わされるので辛いから機械を発明した。
昔は土を固めるにも人力だったとするとその手間と労力は莫大なものとなっていた
機械化した結果そういう辛い労働から解放されたのである。

でも結果的に人間はみんな頭脳が優秀ではなく
ITとか設計とか技術職につけるわけではない
活字文化や本でもインターネットで機械化されるとそこでも労働力はいらなくなる
紙の節約にもなり森林資源の保存になる
でもそこでいらなくなった労働者はどこにいけばいいのかとなる
そういうことは機械化がすすむといたるところで起きている
その象徴が田植えをしていたがそれは機械でできない縁(へり)をしていたのと同じなのである

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2014年04月19日

人によって場によって時によって価値は一定していない (自分にとって手料理の価値は大きいー個々人へのサービスへ変わる時代へ)


人によって場によって時によって価値は一定していない

(自分にとって手料理の価値は大きいー個々人へのサービスへ変わる時代へ)

これまでの価値観はあるモノに対しての価値は変わらない、世界中でモノの値段は均一化されつつある。
どこでもどこで買っても値段は同じだという世界である。
だからスーパーなどが均一化して安く売るから繁盛した。
「安ければ売れる」というのが価値観だったのである。
でも本当に価値というのはそんなに均一化した単純化できるものだろうか?
価値というのはどうして作り出されるかである


最近手伝ってももらう女性は料理を作ってもってきてくれる。
その手料理が自分にとっては何ともうれしいのである。
その手料理は他では買えないものなのである。
今日はスイトン料理を作ってくれた。
これは一回そういう料理をしている食堂で食べたことかある。
これは食料不足の時戦時中に工夫して作られたものだった。
それで母も普通は食べなくなっているが食べたのはおいしかったのだろう。
食欲がなくてもおいしいものは食べるということが病気でもあるからだ
自分もその料理はおいしかった。
だから千円払ったしそれたけの価値は十分あったのである。
前にはアシタバの天ぷらをもってきてくれた。
これも変わった味だなと食べた。


ところが別に妻がいて手料理を食べさせられている人は
いつも食べているのだからそれがありがいたという価値観がない
当たり前のこととして食べていて文句を言ったりしているのである
自分もこれまではそうだった。
今になって食事でも全部自分で作って出す方になった
その時、鍋物などが作れなくて食べれなくなったので悲しくなった。
手料理を食べられなくなったのである。
だからほとんどオカズは買って食べていたのである。
だからそういうものをもってくれる女性がいることの価値は自分にとって大きい


前にも来ていた女性がいたがありきたりもの買ってくるだけであった
女性だから何か手作りの料理でも作ってきてくれてもいいと思ったが
そんなことが全くない、心使いが全くないのである。
自分の所に来たのは実際に強盗だったり人の気使いがない異様な女性たちだった
それは信じられないものだった。
地獄の中に引きづられて出れなくなったような閉塞感に苦しんでいたのである。
自分が病気でも同情など全くしない、借金しているから入院していても借金の要求であった
こんな人達ばかりなのだからこの7年間は地獄の苦しみだったのである。


その女性にも問題がありいい面ばかりではない、でも比べると地獄で仏にあったという気分にもなるのだ。
その気持もやはりこんな異常な人たちに囲まれることによって価値観が変わってそうなったのである。
津波の被害にあった人が貯金などしない、今生きていればもうけものだというふうに考え方が変わったのと同じである。
その人の価値観は様々な体験を経て変わるのである。

ある人に対する価値観も人それぞれによって見方が変わってくるのだ。
もう一人の人もその女性と友達関係にあるが娘が一週間に二回来て料理などしてくれる
だからその女性とは毎日電話のやりとりして頻繁に行き来してもその女性の手料理を食べていない
その男性は妻を六年前になくしても料理に苦労していてもまだ娘がいて料理してくれている
自分は全く料理してくれる人がいないからまたその女性に対する見方も変わってくる
人に対する価値観もその人の事情によって経験によって違ってくるのである。


要するに人が人の気持がわからないのはそういう立場を経験しないからなのである。
確かにその男性は妻をなくして一人暮らしは同じである。
でも娘が一週間に二回来て料理してくれるから違っていたのである。
人間にはこういうことがいくらでもあるだろう。
相手のことがその境遇でもわかりにくいのである。
それはそういう境遇になっていないし経験していないからわからないのである。

ありきたりのを売っているだけのものを買ってくるような女性はかわいいくても全く
何か根本的に人に対する心使いがまるでないのである。
もちろんそうしたくないからそうなったともとれる
だから自分の病気に対しても何の心使いもなかった
もともと何もしたくないのでありしかたなく一カ月に一回義理で来ていただけなのである
あういう人がどうしても事業に成功するとは思えなかった。
妻であってもそういう人は夫を助けることはできないと思った。

いづれにしろ人間は顔だけ見ていると外見だけで判断すると女性でもあとで失敗する。
それで離婚が多いのかもしれないのだ。
美人でかわいい顔していたけとこんな女性だったのかと裏切られことがあるかもしれない。
それは介護の時などに露骨に現れやすいのである。


人間の価値観は一人一人実際は違っているのだ。
だから値段が一定しているということはかえって不平等なのである
ある人が千円払うしある人は二千円払ってもいいのである
金持ちの場合は定価ではなく本当のものに金を高くても払う。
要するにもしかしたらこれからの時代は個々人への
サービスが大きな価値を生む時代になるかもしれない
大量生産で大量供給してもモノあまりの時代は売れないのである
個々人へのサービスは多様になるからその価値づけも一人一人違ってくるから
値段は一定しないのである。


だからポランニィーが黄金と塩が等価に交換されていたとか全く今の経済感覚とは違った価値観の経済があった。

中央スーダンの首都クカでは、糸に吊るされた子安貝とマリア・テレサ銀貨との等価が、毎水曜日に市場において公示された。
(人間の経済ーほランニィ)

これはその時々によって価値が違っていることなのである。
次の水曜日にはまた違った等価が公示される。
そういうふうに時価は今でもそうだが変わってくるのである。
その場その時によって価値観は変わるのである。

贈与経済でありそれはその時代の価値観であり今の価値観とはまるで違っていたのである
そういう経済にもどるということもこれからは考えられる。
若者と老人の価値観は天と地のように違う場合がある。
老人にとって失ったものは青春でも健康でもとりもどけないから悲惨なのである。


というのはもの余り時代の価値観はそういうふうに個々人へのサービスに変わる傾向があるからだ。
価値観は個々人で違っていて多様化するのである。
だから定価で安いからいいとは限らないし選ぶとも限らない
現実に今は不景気時代がつづいたといってもいいものは高くても売れていることでもわかるのだ。
すべてが安ければいいとはならないのである。
老人にはモノは売れない、老人が欲しているのはそうした個々人の心使いであり
それが手料理を提供してくれた女性の価値が高くなるということか一つの例なのである。

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2014年03月02日

広域化したグローバル化した経済がもたらしたもの (愛郷心もうすれモノだけを見て人は注目されない)


広域化したグローバル化した経済がもたらしたもの

(愛郷心もうすれモノだけを見て人は注目されない)

小さな畑で野菜を作っている人が雪で野菜がだめになったというとき
農業は天候の影響を受けやすい、だから農業が中心だった時、
農家でなくても天候に敏感になる。
日本では特に四季の移り変わりが激しいから季語が生まれ俳句文学が生れた。
体力では天候が毎日からりと晴れるような所では天候のことをいちいち言わないだろう。
ともかく雪で野菜がだめになったと野菜を作っている人が言う時、
直接田舎に住んでいる人にはひびく、それは他人事ではないからだ。


それが広域化グローバル化したときどうなったか?
確かに大雪で野菜がが一時的に高騰はした
でもある県でとれなくても別な県ではとれる
北海道でとれないなら九州でとれるし入ってくる
そうなると自然災害でもあまり影響しないともなる
ナーニ日本がだめなら外国から買えばいいともなっている
そういう感覚は戦後20年くらいまでなかっただろう
そんなにまだグローバル化経済になっていなかった

戦後十年は江戸時代の延長の自給自足生活だった
食べるものも燃料も炭でなんでも地元にあるものでまかなっていた
だから農家では納豆まで作っていたのである。

地元で暮らすということは地元の土地の実りと地元の人の労働によっていたのである。
そこに自ずと地元の人の連帯が生れていたのである
まさに協働が共同となっていた。

小さな畑で野菜を作っている女性はいろいろとその苦労を語る
すると野菜一つとるのにも苦労しているなと思う
つまりその野菜ではないモノではない
苦労して作っているその人自身が価値がある重みあるものとなって訴える
その人があって労働があって野菜が作られている
その労働にも価値があると実感として思う
モノより人に注目されるのである。


ところが現代ではモノは商品としてあふれているがモノに注目して
それを作り出している人には注目されないのである
小さな畑でも苦労して野菜を作っているものをもってくれば
それはどういうふうに作られているから実感としてわかる
するとその野菜も大事だがその人が大事であり注目されるのである
でもモノが全国から世界中から入ってくるときは
人より金が大事になる

金があれば別に大雪になっても外国から飛行機で買えるということもある
ただ今回の大雪は交通にも影響したから別だった

普通はモノはいくらでも入ってくるから金さえあれば買えるとなる
第一そのモノがどうして作られたかなど想像すらできないのだ
モノはその土地からも人からも分離してしまっているのが現代である。
だから意外と愛郷心などなくなっているともいえる
別に金さえあればどこでも暮らせるではないかとなるからだ
それでこの辺で原発事故で故郷に住めないとなったとき
若い人は簡単に多額の補償金をもらって別な所に住んだ方がいいとなり
家も建てたり帰らないとなる

つまり愛郷心というのはその土地と人と密接に結びついて育まれるものである

現代はそれは分離してしまった、田舎でもほとんど会社員だかから愛社精神はあっても
愛郷心はうすれているのだろう
原発事故では避難区域になったところは実際に東電の廃炉事業の拠点の街として残そうとすることでもわかる
市町村が実は東電の社員になっていたのである
トヨタの社員になっている市長村もある

愛郷心は人と人のつながりのなかで愛郷心が育つ
人と人との結びつきが広域化グローバル化経済で破壊されると愛郷心もなくなる
だから愛郷心が希薄化するのはそうしたグローバル化経済が関係してたのである

田舎は本来は協働共同社会であった
田舎は陰湿だというのもそこにはマイナス点としてあった
ただ田舎では土地と人と人のつながりが強かったから助けあう社会でもあった
助け合うという意識をもたなくてもそうした自然環境の中で自ずとそうなっていた
「たすけあいましょう」「親切にしましょう」「・・しましょう」というとき
それがなくなったから声高に叫ばれるのである
連帯がないと「連帯、連帯」と前の全学連のうよにスクラムを組んでデモになる
そういうところは連帯がないからこそそれを声高に叫んでんいるのである


現代はグローバル化経済はモノだけどこからでも流通して暴力的にすらなっていると思う
そこで肝心の人に注目されないし無視されている
すると金だけが唯一の価値として物神崇拝になるというマルクスの理論が受けたこともわかる
いくらモノが流通しても金で買えても人間の心はばらばらになっている
自給自足経済では人が大事であり人と人が結び合いその地域を支えあって暮らしていた
だからこそ愛郷心が育まれた

「この野菜は私が耕し苦労して育てたものですよ、買ってください」
「そんなものより、もっといいものがスーパーで安く買えるよ、だから買わない」
こんなふうになるともう地域の連帯もなくなる
人と人のつながりもなくなる
ただグローバル化経済の中で価値あるモノを作らない限り生きていけない

でもいくらいいモノを作って売れても買った人と作った人の連帯は生れない
もっといいモノが売られているよ、じゃ今度はそっちを買おうとなるだげである
そういうところに人と人の持続的連帯など育ちようがないのである

だからインターネットで生産者と直接結びつくような販売で
雹がふってアスバラガスがとれるのが遅くなったが一週間がまんしてくれと連絡があった
契約している消費者はその一週間を耐えた時、生産者との連帯が生れた
でも現実は別に他からいくらでもメキシコ産の太くて安く売っていたよとなれば
そっちを買うのがふつうなのである

だから広域化グローバル化経済はいいようでも人は常に無視されている
作っている人は注目されないのである
だから互いの連帯感も生まれないのである
ただ金だけがあればいい、金さえあればモノは買えるし腹は満たされるという考えになってしまう
それがかえってモラルの荒廃を生み人間同士がバラバラになってしまっているのだ


追記
労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そして自己の実現の諸条件からの分離を不埒な強制された分離だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「経済学批判要綱」『マルクス資本論草稿集A』S.371)。「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そしてUnrechts――強制関係―自己の実現の諸条件からの分離を不公正―だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「1861-1863草稿」『マルクス資本論草稿集H』S.2287)。

なんだかこれもむずかしいけど労働が本当は一番人間にとって大事なものだということ
労働が自己実現の道であるということ、それが広域的グローバル化経済では労働の価値とモノの価値が分離させられるということ


「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そしてUnrechts――
強制関係―自己の実現の諸条件からの分離を不公正―だと判断すること


モノだけが注目されて人が注目されない、人の労働の価値がモノより注目されない
モノと人の労働は分離している
むずかしく言えばそうなるが簡単な例で言えばそういうことは狭い範囲の経済活動でもわかる

この世の中のことは具体的な生活にこそあるのでありマルクスの理論でも
その一面をとりあげたものにしかならない、ただそれがグローバル化経済で顕著になったから
マルクスも見直されるのである



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2014年02月03日

桜井市長が原発事故で北海道に逃げたのはデマだった (田舎は毎日噂や人の不孝を楽しむ怖さ)


南相馬市の桜井市長が原発事故で北海道に逃げたというのはデマだった のか?

デマガデマを呼ぶ-火の無い所に煙はたたないもまた真実

(田舎は毎日噂や人の不孝を楽しむ怖さ)


語源は「民衆 (δ?μο? / d?mos) を導く (?γειν / agein)」であり、本来は民衆指導者を指すが、アテナイではペリクレスの死後、クレオンを初めとする煽動的指導者が続き、衆愚政治へと堕落した。このことから「デマゴーグ」は煽動政治家のような悪い意味で使われるようになった。また、彼らの民衆煽動はデマゴギー(独: Demagogie)と呼ばれ、煽動的な嘘や噂を意味する「デマ」の語源となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9E%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B0

ネットでまたしても悪質なデマが広がっている。釣り雑誌に掲載されていた男性が福島県に住む祖父の田舎を釣りで応援すると言い、30キロ圏内で野宿し池や川で釣った魚を食べたことで急性リンパ白血病で亡くなったという話だ。この情報は瞬く間に大手掲示板やTwitterに拡散したが、本日釣り雑誌のライター小塚拓矢さんが『彼は福島原発の30キロ圏内で野宿をしていません』と否定した。
http://www.yukawanet.com/archives/4028726.html




別に田舎でなくてもギリシャの時代からデマはあったからこそデマゴーグという政治手法があり今でも何か全国レベルでデマが広がる。何を根拠としているのかわからないけどデマが広がる。インターネット時代でも発言するのが容易だから全国的にデマが拡散しやすいというのもデマは田舎のような偏狭な人間の集まりでなくても起こることがある。

ただ田舎のデマとか噂はそうしたデマとも違っている。それが狭い人間関係の中で日常的に起きているのである。絶えず隣はどうだ、誰かさんとうだとか中傷が毎日のように口づたいで行われている。面と向かい生活しているからインターネットの空間のデマとは違っている。それが直接的にひびいてくる、だからインターネットの空間より害が大きいし
怖い側面がある。一旦噂になればそれもなかなか同じ場所に住んでいるのだから消えないのである。


だから田舎では犯罪は犯しにくいと思っていたがそれも今は変わってきた。自分が被害者になったからそんなこともなくなったのかと思った。でも実際はそうでもない、一旦悪い噂が立てば田舎では影響が大きい。常に回りから噂だけでも白い目で見られるようになる。別に泥棒でも外から来て逃げてしまいば忘れられる。現実に住み続けていれば白い目で噂だけでも見られつづけるのである。

そして今の住んでいる人でも必ず親のことや祖父母はどうだったとかまで仕事上でもなるからなかなか悪いことはできないということもあった。

だから噂だけでも田舎では怖いとなる。そのこと今回の南相馬市長選挙で起きた。


桜井市長が原発事故で北海道に逃げたというのはデマだった?


市議会長は北海道に逃げたらしいが桜井市長は逃げていないことがわかった。それで今回評価が上がり当選したのだという、とにかく桜井市長の批判は誰でもしていたから当選するとは思っていなかった。これも本当かどうかわからなかった。組の人が回ってきて言っていたので本当だと思った。実際はやはり北海道に桜井市長は娘がてて市議長と一緒に逃げたというのが本当かもしれない。
なぜならそのことが辻褄があうのである。二人一緒に北海道に行く辻褄が合うからだ。
ともかくデマがデマ呼ぶ、自分もデマに踊らされデマをプログでふりまいたとなる。

ともかく田舎ではデマは日常的だからこういうことは起こっても不思議ではない、でも
そのデマに左右されていたら選挙でもまちがった判断になる。今回はかえってデマであることがわかり桜井市長が当選したというのも皮肉である。


放射能でもこれも目に見えるものではないしデマが出やすい、何が本当なのか嘘なのかも判断できない、学者のいうこともまちまちであり科学に弱いものは余計に判断できない。だからデマがとびかう、別に放射能が原因で死んだわけでもないのに死んだとされた。
30キロ圏内で釣りをしていなかったのである。
なぜこんなデマが信じられたのかというと放射能は危険だと特にしたい人がデマをふりまく。何かしら意図があってそうなる。


いづれにしろ田舎ではある人は町内ではなく一キロくらい離れているところに住んでいてそこは回りは親戚が多いので見張られているという。だから女性が入るとうるさいから来るなと言っている。田舎では見ていないようで見ている。穴からでも覗いているのが田舎である。それは特別ではなく何か外を見ているとそうなるのである。
自然と見る範囲がそうなってしまう。都会だったら人が多い建物が多いからそんなことができない、出入りも激しいからだ。田舎では道を通るにしても歩いていると余計に目立つ。誰だろうと特別関心がなくても見ているのである。車だと中の人はわかりにくいのである。自転車でも歩くのと同じく見られやすいのである。


田舎では以前として人間が監視カメラなのである。与那国島に行った時はただ木陰に休んでいるだけで怪しいとされ警察が職務質問に来たのには驚いた。見ていた人が通報したのである。まるで江戸時代だった。与那国島などは本当に狭い島だから一人一人が監視状態になりとじこめられているのだ。今でもそういうことが田舎にはある。
だから都会から田舎で暮らそうとすることは人間関係が嫌になり挫折するのが多い。
田舎の人間は情に深いわけではない、むしろ近くの不孝を楽しむ残酷さがある。
自分もそういう目にあった。助けたりしない、その不孝をじっくりとドラマのように鑑賞して噂にするだげである。それはテレビでも同じだが田舎の方がより直接的なので残酷である。ここが田舎の一番の問題だったのである。

自然は美しくても人間はせこいし狭隘である。農家の人が情があるというものでもない、支援物資でももらうとき汚いとか常に言われている。
田舎でもいろいろな人がいるからいちがいには言えないが総じてそうなるのである。

ともかく田舎では負の力が人間に対して働きやすい、人間をおとしめて喜ぶ傾向が大きい。みんなが低劣化されるのである。誰かをほめるということはない、低劣化されてくる。こういうところでは良いものを作り出しても素直にほめられたり勧められたりはしない、むしろ否定的なものとして何でもいいものに対して働くのである。

常に話題になるのは一番低劣な人でありその低劣なものを中心にして田舎がある。
そんな人に近寄らねばいいのだがそれでもそういう人とかかわっているのである。
だから選挙でも公平な判断はできなくなる。これは田舎だけではないにしろ田舎では極端化するのである。

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2013年10月24日

江戸時代の対比で現代を考える (人口と石高の関係ー土地より人口が労働力が大事だった)


江戸時代の対比で現代を考える

(人口と石高の関係ー土地より人口が労働力が大事だった)

日本史再発見(板倉聖宣)の中の相馬藩の研究を読む

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●人力で人数で生産高をあげる代わりに機械が上げる時代
相馬藩の年貢の石高を人口の対比で調べたものである。これは比例している。土地というのはもともと一定であり増えないものである。でも最初は耕地とささない田とされない土地が広がっている。人口も少ない、だから開発する余地があるから生産高も上昇して人口も上昇してくる。それを江戸時代の変化でとらえた。津浪があった慶長時代(1611)頃はまだ検地もされていないし石高も良くわからない時代である。それは開発する開墾する余地が十分にありまた人口も少ない時代だった。だから津浪が来て今回の津浪と同じような被害があっても人口が増えれば開墾する地は広いのだから津浪自体がそれほど痛手となっていなかった。伊達藩でもそうであり相馬藩でもそうだったのである。相馬藩ではまだ石高とかの記録がされていない記録の空白時代だった。だから津浪のことも溺死700名しか記されていないのだ。


この本での発見は天明の飢饉とかか相馬藩で甚大な影響をした。三分の一の人口が減ったというけどそれがその後の石高が増加しない原因ではなかったという。石高はすでに下降気味でありそういう下降極線が飢饉で促進されただけだったという。すでに開墾する余地が土地になくなっていたことが最大の原因だった。それでも天保の飢饉では餓死者がなかったのはなぜか?天明の飢饉の教訓を活かしたことと人を大事にする政策をとったからだという。
百姓の数が減ったら農地が増えるのだから生活が楽になるかというとならない、いくら土地があってもその土地に応じるだけの百姓がいなければその土地を耕すことができなくなる。」相馬藩の場合も人口が減り荒廃田が増えて年貢が減ったのである。

ところが現代を考えればこのようにはならない、土地が一定であり人口が減っても生産高はあげられる。なぜなら機械がその穴埋めをするからである。中国では手刈りで麦を刈る出稼ぎ者がいたかコンパインはその人力の千倍もの働きをする。つまり人間の労働力はいらないとなる。だから土地が広ければ広いほどいいし狭ければ生産高は上げられない。

それでアメリカとかオーストラリアか中国の広大な土地で機械でやればいくらでも生産高はあげられる。飛行機で種まきなどをやっているからである。こうなるととても日本の狭い土地での農業はたちうちできないのである。現代文明は機械によってう動かされている時代なのである。戦争まですでにロボットが現実にしているのだ。機械を動かすには石油が必要でありそれが原子力になって事故が起きたのである。機械と言っても魔法の力ではなく石油とか石炭とかそれが枯渇するからと原発にてったのである。

家事の機械化にしてもそうである。家事だけで料理から洗濯からしていたら家事すら大労働であり当時の中産階級ですら女中を雇わないとできないものだった。
二人も雇っていた家がそれなりにあった。人力で補う他なかった時代である。
それは江戸時代も同じだったのである。すべて人力で補う時代だった。
だから人口が減ると致命的なものとなっていたのである。


●江戸時代に相馬藩で子供を強制的に産ませていた

農村では14歳から50歳までの女性を登録させて年に三回づつ妊娠しているものを見届け確実に生ませるように監視する
体制ままで作った


江戸時代と現代を比べるといろんな面で過去も現代も見えてくるものがある。それはいい悪いとか江戸時代に帰るのかという問題ではない、過去が意味するものが現代と対比して見えてくるし現代も見えてくるのである。歴史を学ぶということはそういうことなのである。戦争で若くして死んだ人がいたというときその心中を察すればあまりあるものがある。そんなことで今の若者は悩むこともないから就職ができないくらいで死ぬことはないともなる。過去の貧乏を思いば今は贅沢すぎるとかなる。それは過去を歴史を知らないと具体的にそういう考えも身につかないのである。
現代ばかりに注目しても現代のことがかえってからないのである。

江戸時代は1611-慶長津浪が起きた時は伊達政宗の活躍の時代であり家康の江戸時代からはじまったばかりだったのである。だから相馬藩では石高との記録もない、津浪の記録も一行しかなかった。そういう時代で公的な記録がされなかった。ただ被害が大きかったのだから民間で伝承されてもいいはずだったがされなかった。その理由はよくわからない


江戸時代はグラフで示されたように元禄から宝永の時、最盛期だった。相馬藩でもそうだった。新田の開発でうるおっていたのである。元禄は江戸でも一番華やかな時代であり今のバブルの消費時代だったという。それは都会ではそうなったが田舎てはそうではなかった。宝永時代も新田の開拓が進んで豊かになった時代である。だから鹿島町の御子神社の隣の墓地にあれだけ大きい宝永時代の碑があったのだろうか?あれだけ大きい碑はなかないからである。元禄時代はまた芭蕉が活躍した時代で文化が花開いた時代だったのである。それで葛尾(かつろう)村の落合に元禄の碑があった。明暦とも書いてあり明暦は検地がはじまった年である。でもあんな山の中にあるのか不思議だった。あのうよな山の中も元禄時代は開拓が進み山の中でも繁栄するものがあったのかもしれない。
古い碑を研究すれば見えてくるものがある。新地にある文禄の碑はやはり朝鮮への伊達政宗の出兵が関係していた。文禄とだけ記してあるのはないからである。


江戸時代を参考にするとき、人口の増加が収入を石高を増やすことだった、だから人を大事にせねばならめとして年貢を減らした。それは税金を減らしたことなのである。
子供を生んだ人には奨励金を出したりもした。まず人口を増やすことが奨励されたのである。強制的に子供を三人作れとかの政策もあった。これも現代の少子化とにている。
ただそういう政策が現代には通じない、なぜなら機械化がこれだけ進んでいるのだから労働力の穴埋めが機械でてきる時代だからである。なぜ現代は1億二千万の人口で三分の一が実は働いていない、さらに会社でも働かずにただ会社にいるだけで会社内失業の人も多いという。ではそんなことがなぜ可能なのか?それはやはり機械が仕事の肩代わりをしているからである。江戸時代は人力なのだから労働力は人口によっていたのである。


●人口増加政策だけでは現代は対処できない(労働の質が変化した)


ただこの辺の津浪原発事故を考える時、やはり人口が流出している、労働力が流出していることが問題になっている。それは江戸時代とにている。特に若い働き手か流出していることで衰退してゆく危機になっている。高齢化で老人ばかり残されるうば捨て山になる恐怖がある。医療や福祉の担い手が流出するとそうなる。看護師はいくら募集しても来ないという。他にも人手が不足して時給を1200円にしても人が来ないというのもそのためである。補償金で金があっても若い働き手が流出すればそうした贅沢なサービスは受けられない,金は銀行にも増えているけどその金が使われて産業が起こるわけでもない、その金で昼間から酒飲んだりパチンコしたりする人ばかり増えてもこの辺はやがて衰退してゆくだけである。


双葉や大熊などでは原発交付金で立派な公共施設を作っても繁栄しなかったという。つまり金だけあっても何でもできるわけではない、過疎地域に一億円あるから住んでみようとしても肝心のサービスする人がいなければ医者にもかかれない、そこで死んで行く他ないともなるのだ。だからそんなところで金は何の価値もないとないとなる。
そういう人が来てもなにもならないとなる。土地が一定でも狭くても働き手の人口が増えた時生産高が上がったというときそういうことはこの辺のことにもあてはまる。


今はなぜ都会に人が集中するのか?それは労働の質がまるで変わったからである。
第一次産業は一割にもみたない、あとは工業とか情報産業とか別の労働になっているからである。東京のような全く農業もない世界で一千万人もどうして生きていられるのか不思議に思う。江戸時代は百万都市でも回りは農業の社会であり農民が肥料として人糞を集めていたことでもわかる。回りには田畑が取り囲んでいたのである。
そういう社会とはあまりにも違っているのだ。工業、商業、情報産業が生活の糧であた農業でも漁業でも林業でもないのだ。だからtppが促進されるという時、都会人にとっては別に食料が外国から入ってもかまわないとなる。現実にそういう生活をしているからそうなる。そして都会では様々な仕事があり第一次産業とは関係なく生活しているのである。農業より原発が電力が大事だという時、工業は電気なしで成り立たないからである。

農業すらハウス栽培とか電気とか石油でありやがては都会では工場で野菜などを作るともなっている。だから江戸時代の農業中心の社会をみても現代の問題の解決にはすべてなちないのである。

むしろ別な発想が必要になってくる。花栽培なら放射能の影響がないからやるとか何か別な発想が必要になる。農業だけにだけこだわることもできない、でも農業を新しいものとして活かすことはできる。現代は肉体的人力労働が主流ではない、知能労働が主流になった時代である。機械を作るのは肉体労働じゃないかとか思うが実際はそれも知能労働である。機械の設計は知能労働だからである。事務の効率化も情報処理の効率化もコンピュターが優れている。それがすべてではないにしろコンピューターなしで社会はもう成り立たない時代になった。職人の技もコンピューター化されている時代である。出版にしても活字を一つ一つ拾っていたのは昔話である。新聞も本つくりも一部からオンデマンドで機械化している。この情報化のスピードは早い。自分の家が新聞社とか出版社とかテレビ局とかにさえなりうる時代である。
ただ取材となると人力が必要だがそういう情報化の機械化で飛躍的な情報発信能力が生まれたのである。
最近わかったことは考えるとは書きなから考えていることだった。だから自ら情報発信しない限り書くことは進歩しない、自らが主体的に発信しない限り考えも深まらないし書く能力せ見につかないのだ。
だからインターネット時代はかえって書く能力がましてくる。様々な情報を自ら考えて構築することが要求されているのだ。
そして発信することか要求されている。

少子高齢化時代は果たして人口を増やすだけで解決できるのか?
江戸時代はそうだった。現代でも人口が増えれば活力生まれることは確かである。
でもその労働力を機械で補うとするときその労働は知能の労働に移っている。
すると良質な教育を受けた知能労働者こそか必要となる。
だから現代は教育に金がかかるから子育てが苦しいから少子高齢化に必然的になる。
貧乏人の子だくさんというとき子供も農民では労働力としてみていた。
後進国では今でもそうである。戦前でも親に孝行というとき子供は親に尽くすものとされたのは親も労働には人手が必要だから子供を労働力とみていたからである。
そういう時代の変化をみないと社会は見えないのである。

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2013年10月17日

俗謡の分布と連続性-失われた労働の共同の歌 (箒はいらぬ、裾で掃くは栄えた所に残っていた)


俗謡の分布と連続性-失われた労働の共同の歌


(箒はいらぬ、裾で掃くは栄えた所に残っていた)


野蒜新町竹箒いらぬ、若い娘の裾で掃く


野蒜築港が賑わい料理屋や旅館などが軒を並べるようになって新町と言われていた。
原野に新興市場が生まれた。


飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く
http://musubu2.sblo.jp/article/65971043.html


宍道木幡は箒がいらぬ 嫁や姑の裾で掃く
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tabikiti/kikou/kikou107.html


狭山茶作り唄


♪狭山よいとこ 銘茶の場所よ(ハァヤレヨレヤレヨレ)
  娘やりたや はぁ婿ほしや(ハァヨリコメヨリコメ)

♪お茶は芽が出る蚕は二眠
  連れて出るなら 今ここよ

♪宇治の銘茶と 狭山の濃茶
  出会いましたよ 横浜で

♪狭山街道にゃ 箒はいらぬ
  
茶より茶摘みの 裾で掃く


海野宿場は 箒(ほうき)がいらぬ
     笹屋およしが 裾で掃く

箒(ほうき)がいらぬ裾で掃く・・・ということは江戸時代から時代の連続性があり戦前までその歌には共通性があった。この歌は江戸時代の元禄にも相馬藩に残っていた。相当に古い由来があり伝えられていたことがわかった。この唄か歌われ所は栄えた場所なのである。相馬市の新田というところ実は松川浦の方に開拓して新しい田ができて栄えた所になっていてこんな歌が生まれた。だから必ずしも相馬の殿様がおみかを無理やりみそめて城に仕えさせたどうかはわからない。明確なことはこの歌の歌われるところは一時的でも栄えた場所だったのである。裾は今のスカートでありそれか何か当時のエロッチクな俗謡となっていた。女性が特に若い女性が多くいることはやはりそこが栄えて繁華になっていたのである。


我々の間にしけ出現したものに工女唄があった。工女は一つの階級で特殊なる利害と心理とをもっていた。


仕事唄は多数の合同作業を必要としなくなって次第にその第一次の目的を忘れて行ったようである。古い霊では今でも残っている草刈り歌、茶摘み歌などどいうのがそれであった。

柳田国男(仕事唄と恋歌)全集6


ここで気づいたのがこういうことだった。仕事歌が生まれたのはその背景に当時の労働がどういうものだったかを知る必要がある。歌は共同性がありその象徴として民謡や俗謡でも生まれたのである。それだけではない歌には辛い労働を紛らわすものがあったりいろいろな要素があって生まれたのである。民謡が非常に多いこと俗謡も多いこと童歌も多いこと昔話も多いことこれらは民衆の文化であった。

今はなぜ労働歌や共同の歌が喪失したのか、すべてが商業化して専門家しか文化を作り出ししていない、歌でも専門家が作ったものを民衆が金で買って歌わされている。民謡は専門家が作ったものではない、もうけるために作ったものでもない自発的に民衆から生まれたものである。文化という時今は何か文化人と民衆からかけ離れたもの高貴なものとして商業化している。それも考えてみると文化はそういうものではなく民衆レベルで無償で作り出していたのである。


そして共同の歌が失われたという時まさに現代がどういう時代か見えてくる。現代は共同性が喪失したことが最も顕著な時代である。その共同性がないから共同の唄が民衆から自発的に生まれないのである。田植え唄でもそれは早乙女がするのはやはり若い女性が主役になるときそこに活気か生まれる。今若い女性がスターやアナンサーに憧れ芸能が商業化してしまい民衆の文化が衰退したというより喪失したのである。


現代の様々な問題、異常性は歴史的に考察してみれば見えてくるものがある。あまりの機械化も共同性を喪失させたのである。田植えが稲刈りが機械でやれば共同の労働がなくなるから歌もなくなる。そこに共同性がなくなる。会社員がほとんどだというとき会社の歌になる。でも会社の共同性と昔の共同性は別なものである。工女というと工業化がはじまった大量生産の走りだけどそこでも時代的に連続したものがあった。そこにはだから共同の歌が生まれていたのである。


現代の文化とは何なのかというと、民衆から自発的に生まれる文化が喪失した時代なのである。すべてが専門家により作りそれを買う時代であり消費するだけであり民衆は文化を作り出さない文化不毛の時代なのである。それは機械と深い関係がある。あらゆるものが機械化するとき共同性も失われる。共同で労働する時一番人間は連体感をもつ、会社が現代の連帯する場所であるというときそこでは一応みんな共同で仕事しているからである。
例えば出版社とかマスコミとか知識や情報分野でも民衆レベルでは参加できない作り出せないものとなっている。新聞社とテレビが知識と情報を伝達するものだとなっている。

これも長くつづくと当たり前であり疑問もさしはさまないようになる。マスコミによって一方的に洗脳されているのだ。ただ一般の人は民衆は気付いていない、マスコミは必ず何か意図をもって報道している。事実をそのまま報道すことはない、ただ気付かないことが多々あるのである。TPPの報道でも公平には報道しない、必ずTPPは得だから参加すべきだということがマスコミの方針なのである。なぜならマスコミを成り立たせているのは会社の宣伝費であるからだ。だからTPP推進になる。第一次産業の農業や漁業や林業はマスコミに宣伝費など払わないのである。東電からは電事連から莫大な宣伝費が入っていたから原発推進になっていた。東電の会長の人が中国にマスコミの幹部を招待していたとき事故が起きたことが象徴的である。


現代は民主主義とかなんとか民衆が自発的にものを言い行動する時代のようになったとか言われる。ところが現代からかつての民衆はいない、ただ専門家の作り出すものを金銭で買う消費するのが大衆なのである。それは情報という面でもそうでありマスコミに操作されて自発的に考えて判断していない、なぜなら情報にしても全国レベルになるとマスコミが主体となってしまうからである。出版なども一見誰でもできるようで限られた専門家しかできない仕組みになっていた。今は本自体は簡単に作れるけどやはり書店には置けない仕組みになっている。それは出版社とかマスコミが力を持っているからなのだ。
つまり現代とは大衆が消費する文化であり何かを作り出す文化がない、それは共同の労働がなくなったとかそこには時代の変化で膨大に喪失したものがあったからだ。
共同性がなくなったといカルト宗教団体が創価でもオウムでも何でもそうした社会背景があって生まれた。これは本当の人間の共同ではなかった。

柳田国男が語り書いたものは戦前でもほとんと喪失してしまった。そこには人間的営みとして貧乏でも豊かなものがあった。現代の文明の発展の中で喪失したものがどれだけ貴重てものだったか?そのことが目前のことに目を奪われて見失ったのである。

新しい時代には新しいものに適応すべきだというがその失われた膨大なものにこそまた新しいものがあった。なぜなら今失われたものが今の精神の貧困の原因となっているからである。現代の社会は民主主義で自由だとか表面上は見えてもすべて操作されていることが多いのである。原発事故はその象徴として起きたのである。


過去から歴史から学ぶことは無限にある。現代が何なのかは歴史から見ないと相対化していとわからないのである。昔は貧乏でいいことがなかったというのも事実としてある。
しかし人間の営みはそれだけではない、かえって現代のこれだけの豊かさのなかで失われた精神の貧困や文化の喪失は深刻なのである。過去にはもとれないしろ過去から学び未来を作り出すのが人間なのである。どうして労働の疎外が起きているのか?労働が忌避される時代なのか、それは機械化により人間の労働が自然と一体化したものとならない、流れ作業とかになり労働に充実感が得られない、それは機械化と関係していた。機械化は労働を楽にしたいために必然的に生まれたものだがその機械化が人間疎外を生むという矛盾もあった。機械貧乏で農業が成り立たないとか機械によって苦しめられる人間が一方であった。原発事故はそうした矛盾の象徴として起きたのである。つまり原発事故は時代の矛盾を象徴したものであり一技術者の会社の問題を越えた社会全体の矛盾の象徴として起きたのである。だから現代社会そのものの見直しが必要になっているのだ。

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2013年07月12日

気配りとか精神的なもが大事になる時代 (ス-パ-やチェ-ン店、コンビニにはない店の対応)


気配りとか精神的なもが大事になる時代

(ス-パ-やチェ-ン店、コンビニにはない店の対応)

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●気配りでもてなす例



お勘定を済ませ店をあとにしようとすると、女将さんらしき女性の方が入り口をでるところまでずっとお見送りをしてくださいました。
こういう気配りはとても気持ちがいいものです。
http://tabelog.com/yamanashi/A1901/A190101/19003303/dtlrvwlst/2762602/


目を見て、笑顔で、きちんと話せれば、十分小さな感動ものです。
その上、お客様のことを覚えていれば、完璧です。必ずうれしくなってまた来てくれます。
ちょっとした気配り、気づきでお客さまに感激、感動していただく。
マニュアル化できないとは、そのとおりですね。
だから、感性を磨かなければならない。
http://mikan-no-kokoro.blogspot.jp/2013/05/2013530.html


私の周囲の人間も、「カスミは店員の態度がわるいからネ〜、でも安いからね。」
と言っている、
私も実際、安いので利用しているが、それでいいのだろうか。
http://toridestory.at.webry.info/200805/article_14.html


まちづくりや観光客誘致に関連して、『もてなし』という言葉がよくいわれる。これは、簡潔にいうと来訪者を受け入れるときの「迎え方」といえるのではないでしょうか。

 地方を旅していて、「佐倉から来ました」というと、「良い所に住んでいますね」といわれたり、たまたま立ち寄った店での接客態度や、途中で道を聞いた時の住民との触れ合いが、楽しい思い出として心に刻まれ、そのようなまちは再度訪れてみようという気持ちになります。
http://p.tl/hBAahttp://p.tl/hBAahttp://p.tl/hBAa


相手を和ませることができるような人になれば、素敵だと思いませんか。



●自転車旅行でももてなされた例


自分は旅行ばっかりしていたから旅館に泊まればいい接客をしてくれる普通は旅館が印象に残ったとかあるだろう。ところが自分にとって旅館は安ければいいのでありもてなしはかえって必要なかった。ただ泊まって寝れる場所があれば良かった。だから本当は木賃宿のようなものが一番自分にはあっていたのだ。ホテルなどは旅にはあっていない、旅が長くなると一番金がかかるのは宿泊代なのだから安い方が一番いい。日本ではその安い旅館を探すのが一苦労だったし実際はなかった。最低でも5千円とかになってしまう。素泊まりで泊まってもそうである。日本では長い旅行をしにくい。外国だと安い泊まるだけのホテルが多い。ユ-スホステルだって多く年配の人も普通に利用している。スイスなんかホテルが高いけどユ-スホステルに泊まれば千円とかで泊まれるのだ。だから長い旅行ができるのだ。

そもそも日本を旅行してもてなされた記録は二回しかない、一回は阿武隈高原を自転車で走っていてどこかわからなくなったが石川町辺りの山の中で昔の万屋があった。そこで食糧を買ったら味噌汁までごちそうしてくれた。今どきこんなことまでしてくれる人はいない、今は何かよそ者に対して冷たい社会である。疑り深くもなっている。昔の人情を田舎で期待するのはもうありえないのだ。むしろ人情とかもてなしは都会の方があったりする。もてなしが商売として洗練されたりしているからだ。江戸時代あたりだとかえってこうした人と人が人情的に接することが多いからもてなしががあった。わが町から江戸時代にお伊勢参りとかに行った人が旅籠でとまった三人の女性の名前を覚えていた。接待してくれた女中だった。三人もの名前を今ホテルとか旅館に泊まって覚えている人はいないだろう。それだけ現代は忙しいからあう人も多いから人の名前とか顔を覚えていないのだ。

要するに一人一人に注意が払われない時代なのである。そういう余裕もないスピ-ド時代である。

もう一回はこれも山形県で山の中に自転車で迷い込んだのである。どこに泊まっていいかわからずホテルがあったのでそこに入った。そしたらそこでただで泊めてくれたのである。そもそもそこは自転車で旅するような人を泊める場所ではなかった。普通は断られる。自転車旅行の人は普通はホテルなとどで泊めない、汚い面もあり嫌われる。第一ホテルが向いていないからテントを持って歩いているのだ。そこではそういう自分の状態をみて空いている部屋にただで泊めてくれたのである。結構大きなホテルであり団体客用のホテルだった。そこは相当にもてなしがいいホテルだったのである。

ただ個人客の自転車旅行者まで同じ様に接客するようなことはありえないのだ。
自分はたいがい身なりなどをみて一番悪い部屋に泊まらせられたし別な部屋に移されることも多かった。それでも自分は安ければいいしそれでいちいち怒ったりもしない、要するに安ければ待遇などはどうでもよかったのである。それで外国旅行まで安宿探しだった。バリの東駅で安宿探しているとは思わなかった。今になると旅でも人に親切にしてくれた所は覚えていたとなる。今は本当にそういうことはまれになった。


●モノを売るだけでない精神的サ-ビスを求める時代


最近思うことはこれからはモノを売るだけの商売が変わってくるように思う。老人が欲しいものはなにか?老人が喜ぶものは何か?そんなことをキ-ワ-ドで探している人は結構いる。老人相手の商売が増えているからだ。老人への接客はまさにただモノが安いからでは喜こんでもらえないのである。
老人はモノより精神的なものがあるゆる点で重視される。親切な言葉の一言でも喜ばれる。例え多少高くてもそうなる可能性が強い。すると現代の店屋というのはそうした精神的サ-ビスは欠落している。ただス-パ-やチェーン店でも安ければいいとなっていた。だからそういうところではいちいち人をもてなすなどという心はまるでいなのである。第一そこに雇われている人も時給でありただ一時間いくらで雇われているという感覚しかないからそうなる。ただ売ればいいというだけの人なのである。そこに働くことの現代の問題が生まれている。コンビニであれス-パ-であれあらゆる所で雇われているのは時給の人でありただ雇われてモノを売ればいいというだけの人である。その人はその店に愛着もないのである。時給いくらであり他の店が高いとなれば簡単に移る。だからロボットのように自動販売機のようにも人が見えると前に書いてきた。

ところが高度成長時代が始まったころは店屋はみんな自営業であり自分の店であり家族経営であったから今のコンビニやス-パ-とは違っていた。ただ売っているというだけではない、家族経営だとその店に愛着をもつ、時給で雇われているのとはちがう。それが今でも自営の店だとそうなっている。
何か同じ様で自営で店を運営しているのと時給で雇われる人は違うのである。

その例として相馬市駅前の花屋のことを度々とりあげて書いてきた。あそこの女の経営者はただ売っているのとは違うことに気づいた。客への気配りがあるのだ。一人一人に気を使っている。一見気がつかないが確かに時給で雇われている人とは違う。何か自分で経営しているから店に対して思い入れが強い。なんとか小さい店でも維持していかねばならないという責任感みたいなものがある。時給の人にはここでやめても別にかまわない、他に移ればいいとなるから客に気配りなどしないし客も求めていない、安く便利に買えればいいというだけである。だから何年も通っても客がお得意さんとして覚えられることがないのだ。まずお得意さんという言葉自体廃れた。そして通りはすべてシャッタ-通りになった。でも高齢化社会はまた逆にそうしたもてなしとかモノを買うだけではない、それプラス精神的な付加価値を求める時代になる。小さな個人経営の店で大事なことは常連客を作ることである。もう一度そこにゆき買ってみたい、その人とあってみたいとかが大事になるのだ。だから客一人一人の気配りが大事になる。特に品揃えが少ないとかなると余計にそうなのである。モノを買うだけならス-パ-の方がいいとなってしまう。意外とこうした時代の移り変わりに気づいていない人かいるかもしれない、モノなど安く便利に買えればいいとかなっていたがそれも変わってくるということもある。


明かにこれからはの時代はモノだけではない、精神的なものを求める時代になる。その精神的なものは何かというときそもそももてなしに気配りがマニュアル化できないし時給の人にそれを求めることは無理である。それは天性の感性でもありみんなができることでもないだろう。その価値はいくらいくらだと金で計算することもできないものなのである。ただそうした金で明確に計算できないものの価値が大きくなってくる時代になるかもしれない、そのことに気づいていないかもしれない、その付加価値的要素が大きくなる。でもそれはみんな簡単にできないのである。そういう人は得難い人だとなる時代がきてそこは貴重なものとして見られるようになるかもしれない、それは明かにコンビニとかス-パ-とかチェーン店では養われないのである。そういうところにいくら勤めていてもそういう心は養われないのである。だから時給で勤めている人は相馬市の駅前の花屋のような感覚はない、ただモノを売るロボットのように見えてしまうのである。


●土着的なものに回帰する時代


自転車旅行も旅行そのものもできなくなったからそんなことに注意を払うようになった。もてなしのいい旅館でホテルでゆっくり休みたいとなる。多少金がかかってもそういう所に泊まり癒されたいともなる。ただそれ自体ができなくなった。地域自体でもそうしたよそからの客のもてなしがあればもう一度来てみたいとなるだろう。それはモノを売ることではない精神的なものだからなかなか気づいてもらえないし目に見えて金でも計れない価値なのである。ただそういうものがこれから大事になってくる。価値があるものとなってくる時代になる。前にも書いたけどそういうものは土着的なことである。コンビニとかス-パ-やチェーン店は土着的ではない、そもそも時給で働くこと自体土着的ではないのだ。これからモノを売るだけではない土着的精神が大事になる。土着的なことが文化だからである。店屋でも自営業はその土地に根を下ろすということで土着的だったのである。何事土着的でないと仕事もうまくいかない、仕事も成就できないということがある。仕事も一カ所で技を磨かないと上達しない、芸術も石のことを詩にしたけど土着的でないと深いものが作れないのである。


だからこの辺は放射能汚染で故郷に住めないということはもう土着的な志向すらできないから深刻なのである。水も食糧も土着的に供給できないことは致命的だからである。まずそういう所には他からは来たくないとなってしまう。ただ津浪の跡とか原発で田んぼが草原になってしまったとか変わっているから他より面白いとかにもなる。現実にそういうことをプログで書いてきた。それでここで死んだ人がいるんだぞとしかられもした。その辺はまたむずかしい面がある。

自分は花が好きだし花を見てきたから放射能と関係ない、花の栽培地域にするのもいいかなと思うがなかなかそういうことも簡単にはできない、そうしたノウハウは簡単に生まれないだろう。
でも自分が郷土のことを紹介しているけど全国の人呼んでいて何か宣伝になり興味をもつ人もある。そういう効果はどこのプログにもある。その土地の魅力はそこに住んでいる人しかわかりにくいことがあるのだ。自分は自然的なものとしては相馬辺りはいいと思っていた。気候も暑くもなく寒くもない所で良かった。人に関してはあまりいいとはいえない、東北人はかえってもてなしの心などないのである。

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2013年06月27日

戦前の国家軍国主義と民主主義教育の過ち (個々人の権利ばかりを人権の名の元に要求する-自分の非を認めない社会)


戦前の国家軍国主義と民主主義教育の過ち

(個々人の権利ばかりを人権の名の元に要求する-自分の非を認めない社会)


●明治維新から富国強兵国家主義が始まった


戦前と戦後は極端に変化しすぎたのである。そもそも江戸時代から明治時代へ移る時も変化が激しく極端だった。この時も外圧が元でそうなった。黒船が来て日本は変革を迫られ封建時代の武士社会から平民社会へと移行した。それがなしえたのは日本ではヨ-ロッパのような貴族社会と平民の差が経済的にもそれほどなかったことが原因しているかもしれない、武士にしても平民とそんなに経済的に差があるわけではない、特に武士でも下級武士が多くそれらは内職していたようにたいして平民と生活が変わりない貧乏だったのである。家老クラスくらいが経済的に恵まれていたとしてもあとは日本全体が貧しいのだからたいして変わりない生活をしていた。明治維新はだからフランス革命のように貴族を倒すための革命ではなかった。不思議なのは武士が武士を否定する革命だったのである。

ヨ-ロッパでは考えられない革命だったのである。武士といっても下級武士が多く貧しいのだから別に武士を否定することに抵抗なかった。それほどの特権階級ではないから否定できた。ヨ-ロッパのように資産あもつ階級だったら自らの階級を否定できないだろう。

一旦既得権を得るとなかなか手放せないのだ。今でも官僚の既得権が問題になるように既得権が大きいと手放せないのである。それは財産でもそうである。一旦大きな財産をもったら簡単に手放せなくなる。だからそういう人は革命などできないのである。既得権にへばりついている方が楽だからである。人間の習性としてみんなそうなっているのだ。だから武士の既得権はそれほど大きなものでなかったとなるのだ。
確かに江戸の大名の屋敷は立派で農民は大部分が掘っ建小屋で庶民は長屋だったというのは確かである。でも大名の屋敷は公邸であり政治の場だからそれなりの格をもっていなければならない、そこでヨ-ロッパの貴族のように贅沢していたとはならない、今でもそうした公の建物は立派である。ヨ-ロッパのような貴族の邸宅とは違っていた。城にしてもヨ-ロッパとかと比べるとそれほど立派なものに見えないのである。ヨ-ロッパの宮殿などとは違っている。日本にはそもそもヨ-ロッパのように富の蓄積のない貧乏な国だったのである。だから西欧に追いつくために無理をしすぎたのである。明治維新の富国強兵がが継続して太平洋戦争までなった。


●国家主義から民主主義も極端に変化しすぎた


つまり国家主義から軍国主義になったのは対外的な圧力でそうなったのである。太平洋戦争までは国家主義であり国家に奉公する、国家のために生きることが優先された。それが極端にそうなっていたのた。個々の権利など主張することなどできない、富国強兵にして対外的に欧米にロシアにも伍するために背伸びするほかなかったのである。その最終戦が太平洋戦争になった。国家が優先されるから太平洋戦争のように300万人以上死んだ、犠牲にされた。国家の方が重く一人一人の人間の命は実に軽いものだったのである。それがわかるのは今の時代と比べるとわかる。民主主義時代になったら国家より一人一人の人権だとか権利ばかり主張される。誰も国家を優先して国家のために犠牲になるという感覚が全く喪失している。むしろ国家が一人一人の人権のために権利のために犠牲になるべきだとなっているのだ。だからあらゆる人が絶えず国家に要求するだけになった。その差があまりに極端であり日本人はこんなに極端に変わる民族かとなる。


国家最優先の社会も個々人の利権、権利最優先の社会も両極端であり間違っていたのである。国家のためにそんなに簡単に300万人も犠牲にされたことは間違いだった。一方で戦後は個々人の利権、権利ばかり主張するのも間違っていた。民主主義はただ自分だけがいい、自分だけの利権、利害だけを追求するだけになった。そこにはもはや公はない、個人の私欲の追求が民主主義になった。弱者でも弱者なる故に保護されるべきだと権利をもつにいたった。弱者がこんなに権利を主張して国に要求するのは今までなかったのである。戦前ではそんなに主張できない、今は弱者が弱者なる故に強者ともなっている時代である。あらゆる人が権利をもち主張し要求する時代になったのだ。

それは団塊の世代から特に顕著になった。ゲバ棒をふりがざして社会に何を主張するのかわからずに暴れ回った。その時学生だった人たちまだ貧乏なのだから恵まれた人たちだったのである。それで警察官は高卒だとかなんだあいつら金持ちの恵まれたやつじゃないかと反発して戦った。つまりあの学生運動には共感していなかったのである。もちろん戦争の時のように真剣さはないし死ぬ等はありえないことだった。戦争ならそれが間違っていても死ぬということは容易ではないから真剣なものが生まれる。学生運動は結局人権主義でありただ利権を権利を追求するものとなった運動だったのである。それは社会全般がそうなっていたのである。


●戦後60年は大きな時代の変わり目


いづれにしろこ国家軍国主義にしろ民主主義にしろその教育は根本的に間違っていたのだ。団塊の世代が特に嫌われるのは戦後の民主主義教育の一番影響を受けた人間だからである。個々人の利権と権利しか追求しない人たちだったのである。そういう教育の結果でもあった。それは団塊の世代の5年前くらいの人は子供の時、ギブミ-チョコレ-トの時代であり進駐軍にただモノをおねだりする世代と変化していた。国家主義には多分に精神主義があった、貧乏でも志操をもつとかあった。でも戦後はアメリカ化してギブミチョコレ-トしかなくなった。モノを得る物質主義の追求しかなくなったのである。それは高度成長時代となって加速されたのである。明治維新後の富国強兵から国家軍国主義も個々人の権利をエゴを追求するものがすべて肯定された民主主義も誤りだったのである。戦前の国家軍国主義の反省から否定から今度は民主主義の個々の権利、エゴの追求の肯定になり団塊の世代に顕著にみられるただ権利ばかり追求して何か公のものを追求しない一団となってしまった。

教育自体が他者を蹴落としてでも得をしろ利権を得ろという受験戦争しかなかった。その教育も間違っていた。戦前には国家主義でも個々人にまだ日本人的な義理人情があった。これも否定されるが否定してもそれでは民主主義に何かいいものが生まれたのか?物質的には豊になっても人間の心は荒廃しきっている。ただ人間関係も金しかない、こいつからいくらとれるんだとしか頭にない、その人が生きようが死のおうが関係ない、金さえとれればいいとまでなっていてそれはすでに犯罪者に近いのである。だから保険金殺人も起きる。現代人はともかく理不尽なことには耐えられない。絶えずなぜ自分だけはんなに不遇なのだ、金がないのだとかその不満は例え自分にあっても自分が責任があるとは思わないのだ。必ずむしろ国家にその不満をぶつけ権利を要求するし他者にその不満をぶつける。金持ちがいればそいつが不当に利益を得ているとなり不満をぶつける。そしてもうそういう人だらけだから家で働いてもらうことは危険極まりない。こいつは不当に金があるから盗んでやれしかない。介護でも水一杯も運ばないのに金だけは要求してくる。そんなもの親戚でも権利がないのだ。権利をえるために水一杯で運べとなるがしないのである。そして不満ばかり言っているのだ。


もう絶対に自分の非を認める人はいない、そして悪いの他者であり国家だ、社会だ、金持ちだとなる。そうして自分は病気の時まで金を要求され脅迫もされた。どうしてそんな人が上に立てるのか事業をまかされるのかわからない、例え技術があり頭がいいとしてもそういう人が信じられないのである。戦前の国家主義では「なぜ国のために死なねばならないのか?なぜ国のために犠牲にならねばならないのか」こう若者が苦悶したのはあまりにも理不尽だからわかる。その逆が個々人の理不尽がありそれが国家や社会や他者に向けられるのだ。戦争の時はその理不尽は国家によって作られたものだった。戦後の理不尽は例え個々人にあったとしてもそれを認めない、国家が悪いんだ、社会が悪いんだとなる。

そういうことが民主主義の平等人権権利主義では多すぎるのだ。戦前はそうした大きな理不尽があっても従わざるをえなかったし一般的にも社会そのものがそういう理不尽に忍従する他なかった。マルクス主義者からすればそういうことが強いられたともなる。でもそれが民主主義社会になった時、明かに社会ではない自分に非があるのに国家や社会や他人のせいにしているのだ。何も質素に生活していれば別に借金などしなくてもよかった。収入なりの生活をしていればよかった。たりないとしても戦前の貧乏よりはずっとましなのである。


そこまで社会は人心は荒廃しきっているのだ。それは戦前の極端な国家主義から民主主義に変わってそうなったのである。民主主義には民主主義の良さがあるにしてもその解釈はまた違ったものとして実行されたのである。結局津浪も原発事故もこういう時代の変わり目に起きたのである。原発事故も日本国民全部が目前の利益だけを優先して事故を起こしたのである。
戦後60年は大きな時代の変わり目に来たのである。これまでの民主主義は根本的に改めないとますます日本でも社会は荒廃してゆくだけである。

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2013年06月07日

ベ-シックインカム時代の顛末の一物語


ベ-シックインカム時代の顛末の一物語

ある家に金が欲しいと働きたいという女性が来た。

「あなたはなぜここで働きたいのですか?」
「金が欲しいからですよ」
「ただ金のためですか」
「金のためにの他に何かありますか、みんな金のために働いているんですよ、そんなことは聞くまでもないでしょう、私は貧乏してきたんです、女一人で子供二人育てたんです」
「それは苦労したんですね、金に苦労しましたよ」
「どうしてご主人と別れたんですか」
「そんなことどうでもいいでしょう」
「別れないで二人で働けば子育ても楽だったでしょう」
「あなたは私を雇いたいのですか」
「家事をしてもらいたいのですが一時間いくらになります」
「いいですよ」
「でも、あなたには働く動機が金しかないんですよね」
「そんなこと決まっているじゃないか、みんなそうだよ、金のために苦労しているんだよ
なんのために働くなど聞くことじたい馬鹿げているよ」
「今の時代、豊になりましたので金のためだけでは働けません、何かしら動機が必要なんです、
何でもいいですから何かここで働きたいという理由が悪といいのですが・・」
「そんなものないよ、金だけなんだよ」
「家では母親が高齢で寝ていますのでその世話などもしてもらいたいのですが・・・ただ金だけだとなるとこちらでも困るのです」
「そんなこといったって私はこの家とは何の関係もないものですよ、働く動機は金しかないじゃないですか」
「それもわかりますが少しでも他人様の役に立ちたいとかいう理由でもあればいいのですが・・・
私の家は人手がたりなくて困っていますので・・・」
「そんなものないです、あなたと私の関係は金だけですよ、金をくれるから働くそれしかないでしょう」
「それもわかりますがそうだと雇うわけにもいかないのですが・・」
「あなたは困っているなら金で助けてもらったらいいでしょう、みんな金をくれるから働くんですよその他になにかありますか?何にもないですよ、あなたの家族とも何の関係もそもそもないんですから」
「そういうことでしたら今の時代、最低の生活補償はされる時代です
ベ-シックインカムといって一人いくらと生活補償はされるんですよ、だから働かない人は働かなくてもよくなったんです ただ働きたい人は働く理由が必要になったのですよ
働く理由、動機がないものは働けない時代になったのです」
「そんなら遊んでいればいいは、ここの家に働く理由などこれっぽちもないから働かないよ
もっと金だけ欲しいだけだったんだから、別にそういうふうに暮らしていけるなら誰も働きますか?そんなこと聞くまでもないでしょう」


こうしてこの人はそこの家では働かなかった。働く動機、理由が金しか見いだせなかったのである。ベ-シックインカム時代は生活の補償は最低されるのだからこの社長は気に食わない、働く仲間がいやだ、仕事がくだらない、こんな仕事に何の意味があるんだ、様々な理由で働かなくてもいいことになっている。働かない理由は何でもいい、身勝手でもいい、だからベ-シックインカムの社会では働かせることは最高にむずかしい時代となった。みんな働かなくてもいいなとなったがその社会の盲点があった。


働かない理由が動機が見つけられないと働かない社会である、人を雇う時も必ずその理由が動機が問われる。雇う人も会社も働く動機がないと雇わないのである。雇う方も困るじゃないかとなるがあえて働く動機も理由もない人を雇うことはできないのである。そうしたら働かない人ばかりが増えて誰が一体社会を維持するのか?あるところでは生活が補償されているのだから働かない、それで毎日ギャンブルであり遊んで暮らしている。そうしたらその市や町は医者も看護師も福祉関係でもス-パ-のレジでもあらゆるところで働く人がいなくなり店をやるにももう人は働かないのだから成り立たなくなった。街は閑散として毎日ギャンブルの話ししかない、そのうちこんな市にいるのはもうできないと市から出てゆく人が増えた。そしてますます市はギャンブルだけの市であり衰退して遂には買い物すらできなくなった。ス-パ-で働く人すらいなくなったからだ。それでようやくみんなが騒ぎだして

「買い物をどうするんだ、買い物できなければみんな死んでしまうよと騒いだ 」
「働く人がいなくなったのだからどうしようもないよ、いくら時給を高くしても働く人が来ない、

最低は補償されるベ-シックインカム時代だからみんなレストランとかの給仕とか働かないよ、レジだっていやだろうし工場も働くのいやだろうし肉体労働も疲れるしな・・・あとさ高齢化で老人ばかり増えているんだよ、この辺は特に三人に一人は老人なんだよ、その人たちは働くにも働けないんだよ、一応ベ-シックインカムで年金代わりに補償されているから働かなくてもいいんだよ」

「そんなこといったて高齢者とか言ったて買い物すらできなくなったら病院でも医者不足医者がいない、看護師も流出していない、病気になったらもう医者にもかかれない、死ぬほかないよ」
「もう無給でもス-パ-を経営して働くほかないよ、老人も健康だったら働くほかないよ、みんなこの市は死んでしまうよ・・・ベ-シックインカムなんかなんではじめたんだよ、馬鹿げているよ
働く理由が見つけなければ働かない,働かせないというけど最後はもう生きるためにぎりぎりで働かなければならなくなるんだよ・・」


結局働く理由や動機を見つけることは容易ではなかった。それができないから市町村自体がもう消滅する危機に直面したのである。働く理由、動機さえみんながもてばこうはならなかった。それが見つけられないから市町村は消滅するほかなくなった。働く理由を動機を必死で探し見つければこうはならなかったのである。金だけ欲しいということは理由にも動機にもなりえなかったことが致命的だったのである。でも一方で


「私はどうしても金が欲しいんです、家族が何にもいて子供もいます、だから食べさせて養わねばなりません、そのために金が欲しいから働くのです」
「その動機はわかります、そういうふうにしてみんな働く動機になっている、金がなければ食糧も買えないですからね、その動機はわかります、でも一人一人にベ-シックインカムは金は支払われんですよ、別に働かなくても子供でも家族でも養うことはできますよ、子供も一人いくらともらえるんですから、かえって子供が多いと金は多くもらえるんですよ、子供が多くて助かったという家族もベ-シックインカム時代には多いんですよ」


ベ-シックインカム時代ではこうした普通にあった働く動機も理由も通用しないのである。だから働く理由を見つけることが動機を見いだすことに苦労するのだ。

そしてどうしても働く動機を理由を見つけられなかった女性がその理由と動機を言った。


「私はあなたに仕え奉仕するために働きます、あなたを助けるために働きます、あなたは家族もないので困っているようですから私が助け働きます」
「それは立派な理由です、金だけではないですね、それは十分な理由になります」


その女性は遂に働く動機と理由を見つけたのである。そして人々何とか働く動機を見つけるように努力した。街が汚れているので掃除してきれいにしたいということで働く人もいた。それは金のためではない、自分たちの住んでいる場所をきれいにしたいということが動機だった。もちろんギャンブルで遊んでいる人もまだまだいた。でも回りでもそうして働く動機を理由を見つけるようになって働きだしたとき働く動機を見つけないで働かない人へ向ける回りの視線はきついものとなっていった。


「なぜあの人たちはギャンブルばかりして働く動機を見つけないのだ、あういう人たちとは一緒に暮らしたくない、あういう人たちは市から出て行ってほしい」


つまり働く動機や理由を見つけられないギャンブルばかりなど興じてた人たちは遂に市民の怒りの対象にまでなっていった。あんなやつらは出て行けという嫌がらせや暴力まで起きた。

ベ-シックインカムとは働かなくてもいいものではない、働く理由や動機を見つけられないものは市町村から追放されいる場所をなくすのである。それは人間社会の一面の理想の追求でもあった。

でも皮肉なことに働かなくてもいい社会は最も働くことを要求されるものともなっていたのである。社会主義革命が平等を目指したがそれが中国のように極端な格差社会になったように矛盾していた。共産党の幹部は百億円とかもうけても庶民は食うや食わずの人が膨大に残れたように矛盾していた。民主主義も平等を目指したのはいいがあらゆるものがみんな平等で同じでなければならない、偉い人はあってはならない、金持ちもいてはならないとなり、結局みんなどんぐりのような人間しか生まれなかった。傑出したものは追放され殺されもしたからである。大衆が一番偉く誰も指導者もいない、そういう社会では指導者がいないのだから何か危機があっても指導できない、大衆は烏合の衆でありわめき騒ぐだけで何にもできない、そして混乱してその国は滅んでしまったともなる。


 
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2013年06月06日

ベ-シックインカムの悪い例が原発事故周辺の市町村 (補償金で誰も働かず市町村は衰退、荒廃、消滅?)


ベ-シックインカムの悪い例が原発事故周辺の市町村

(補償金で誰も働かず市町村は衰退、荒廃、消滅?)


●働くことはとは何であったのか?


そもそも人間が生まれてから働くことははじまった。その時働くことの意義は何だとか考える人もいないだろう。働かねば食えないのだから働くことが強いられていたのである。ギリシャで余暇が生まれたのも奴隷が日常の仕事をしていたからでありそこから余暇からスコ-レ(スク-ル)が生まれた。
余暇が文化を生み出した。哲学や様々な学問も生まれたのも余暇があってこそである。でもその余暇は奴隷がいて余暇がありえたのである。そこに矛盾があった。その後も何か学問や芸術や文化の発展は誰かが下働きするものがいて成り立っていた。裕福な家でも下働きの人がいないと成り立たない、それは奴隷的労働だったともなる。ただそうした裕福な家から天才とか学芸に秀でたものが生まれた。毎日下働きばかりさせられていたら学問や芸術やその他の文化的なことはできない、現在自分はある程度そうなっている。絶えず家事に介護に追われている。簡単な仕事でも結構時間をとられる。
だから前のように十分な時間がないからいろいろなことができない、介護でも寝たきりになったらポ-タブルトイレの始末するだけで時間がとられる。つまり下働きが多くなっていたのである。
現代は下働きを機械が代わりにするようになった。それでもどんなにしたって全部を機械化はできない、それで仕事に追われてしまうのである。


働くことはそもそも何であったのか?日本語では働くは端を楽にするということである。家族とか非常に狭い範囲で生まれた言葉なのである。家族の一人が苦労しているからその子供が楽にしてやりたいということなどから生まれた言葉である。家族的労働の日頃から目に見える範囲で生まれた言葉である。今は地球の裏側から食糧でも入ってくるからその労働など見ることはできない、だから例えその労働が過酷でも身近なものとはならないのである。
家族の中でその人の労働の価値を認めるということであった。いまでもそういうことがある。
介護の場面でそういうことが一番出やすい、家族としてその労働の価値を認めるのである。家事でも子供にしてみればあとで大人になって自分のために苦労して家事してくれたんだなと思うときがありその家事の労働を認める。それが介護になったとき介護する意義になる。一つの恩返しである。
介護というのは家族だとその価値を見いだしやすい、家族でもいろいろあるがひどい親だったらめんどうみたくないということがある。でも一般的に家族だと世話になったとかなりその働くことの価値を見いだしやすいのである。特に親が苦労して育てくれたときはそうでありかえって金持ちは苦労もしないから親に恩情を感じないということがある。だから金持ちの親は高額な施設にあづけられるのである。子供も介護では苦労しないということになる。子は親の背中を見て育つというのはまさに介護の時に現れやすいのである。


ところが家族的労働だと他人になるとその価値を見いだしにくい、一体赤の他人の親の介護を下の世話までどうしてするのだろうという疑問になる。この親が自分に何をしてくれたのかとなると何もしてくれないからだ。だから金だけが動機になる。だからヘルパ-などでも手伝いさんでも家族の中に入った時一番危険なのである。昔だったら女中とかは嫁入り前の修行だとかあったが今はそんなもの全然ないし若い人はそんなところで働かなくても他に働くところがあるから働かない。他人の家の中で働く動機が全くない、金だけになる時最も危険なのである。現実にそういう人を知っている。
全く動機がないから家の中を荒し回り犯罪にあう、だからそうした動機のない人、金しか動機のない人ほど家にいれて働かすことは危険極まりない時代になった。アメリカでは手伝いさんを裸にして働かせたというけどそのことが突飛とも思えない、それほど危険だし信用できないからだ。
本当は働くことで動機がないほど危険なことはないし致命的なことがわかった。


●金しか動機がないなら働く必要なし 、何かしら動機がないともう働かない時代


ベ-シックインカムのいいところは働きたくなければ働かなくてもいいことである。でもそうしたらみんな働かなくなるではないか?それはこの辺で実際に起きたことである。補償金をもらっているから毎日パチンコなどギャンブルであり東京まで競馬にも行っている。その人の言い分は今さえ良ければいいと言っていた。別に働く必要がないなら人間の悪しき面としてそうなる。要するにギャンブルが生きがいでありそれは補償金でまかなえる。だからベ-シックインカムの悪い行き着く先は原発周辺地帯で実際に具体的例として起きているのだ。
ではなぜ働かないのかという時根本的に働く動機がないことなのだ。金だけしか動機がない人は金があれば働かない、実際自分も流れ作業とか事務とかはしたくなかった。自分のあう仕事もないので仕事はしなかった。コンビニのアルバイトとかス-パ-のレジとか工場とかの流れ作業とか時給いくらかとか働きたくないのが普通だろう。


それが原発事故周辺では現実にそうなっている。人を募集しても来ない、補償金とかもらっていれば働く必要がないのだからそうした仕事もしない、時給がチェ-ンのレストランで1200円になっていた。それも昼間でそうである。そこでは支配人のような年配の男性がお膳を運んでいたのである。
この辺では募集しても人が集らない、そもそも働く動機がないのだから補償金がもらえば働かない、また高齢者も他より多くなった地域だから働かない、年金でももらえば働く余力があっても老人は働かない人が多いのだ。働くことがわずらわしくなるしそもそも動機がないのだから働かない。
犯罪でも一番大事なものは動機なのである。何かしらの動機があれば犯罪者として目星をつけやすい、動機がないと皆目見当つかなくなる場合がある。「神は心みている」というとき人間を見る場合、心が動機が一番大事なのである。金だけしか働く動機のない人は働く価値を見いだしていない人でありそういう人を働かせなくなくするのもベ-シックインカムの重要な役割になる。
そういう動機がない人が無理やり働くことは社会にとっていいものではないからだ。
そんな理想を言っていたら誰も働かずみんなギャンブルになりどうなってしまうのかともなる。
そのことがいままさに原発周辺地帯で具体的に起きているのだ。


●誰も働く価値を見いださない時、市町村は荒廃して消滅する


---働く価値を見いださない市町村は荒廃して消滅する-----

これはこの辺で具体的に起きている。ベ-シックインカムになったら働かなくてもいい、働きたくなければ働かなくてもいい、つまり働く価値が見いださなければ働かなくてもいい。
ベ-シックインカムをつきつめると具体的にはこうなる。働く価値が見いだせない市町村は消滅するということである。これは原発事故周辺で具体的に起きていることである。補償金で働かなくてもいい。働く動機もないからギャンブルに興じる、それを誰もとめることもできない、なぜか?


働く価値を見いだせないから働かないのである

結果としてどうなるのか?原発事故周辺地帯では毎日パチンコでありギャンブルである。募集しても人は来ない、時給をあげてもこない、いたるところで働く人がいなくなりサ-ビスも受けられなくなる。病院でも看護師がたりない、医者がたりない、福祉では介護士がたりない、外部から今は応援されているがあと何年かで外部から応援には来ない、ギャンブルで助ける人が遊んでいるのに外部の人はもう助けるのも馬鹿らしくなるだろう。そして最後にどうなってゆくのか?
テレビでやっていたけどある限界集落で村のス-パ-がやっていけないと働く人がいなくなった。それで老人ばかりが取り残されそこに住む老人が無料で働きなんとかス-パ-を維持するようになっていた。その時働く意義というか価値というかそれはあまりにも歴然としている。
ス-パ-がないなら生活すらできない、どうしたらいいんだ、みんなで無料でも働かねばならないとなったのである。


原発事故周辺ではその前に働く人がいなくなりギャンブルする人ばかりで生活を支えて働く人がいなくなるのだ。極端化するとそうなる。ギャンブルばかりしているような市町村にはいたくないと出てゆく人も増えてくる。すると老人とかギャンブルだけをしている人たちしか残されない、誰も働かないなら遂にはその市町村は荒廃して消滅する。大内村ではもともと不便だったから郡山市で暮らせようになったら便利だから帰りたくないという、その大きな原因が補償金だったのである。
要するに大内村で暮らす価値を見いだせなくなったのである。何か大内村で暮らすメリットや価値があったのけどそれも便利な生活をしているうちに忘れられたのである。
つまり働くことの本質的な価値が原発事故でその市町村が問われたのである。
故郷を喪失することがどういうことかなどいろいろこの辺では問題が山積みでありいろいろな人間的課題が生まれたのである。


ベ-シックインカムは


働く価値が見いだせない時、市町村は荒廃して消滅する


市町村だけではない国すら消滅する、みんなギャンブル狂になったら当然そうなる。ということはいかに働く価値を見いだすかにかかっている。いかに働く価値が自ら見いだすことが大事になる。
それは本当に生きるか死ぬかの問題にもなる。それを見いだせなかったら市町村も国も消滅するからだ。その価値を見いだすことに命がかかってもくるのだ。

でもこのことは笑い事ではなくおおげさでもなく人間にとって一番大事なのは働くにしても動機なのである。この世でその働く動機を見いだせないものは消滅するしそれこそ生きる価値がないものとされる。ギャンブルだけをしているものはいくらベ-シックインカムでも許されないものとなるのだ。
つまり自ら生きる価値を働く価値を見いだせないものは死に価する社会なのである。


「最低の金はもらえんだから働かないよ」
「じゃなにをするの」
「毎日パチンコやギャンブルだよ」
「そういうふうに働く価値を見いだせない人は追放されるよ
ベ-シックインカムで補償するのはあなたの働く価値を見いだすことなんだよ」
「それがギャンブルでもいいじゃないか」
「そうしたら市町村は荒廃して消滅するよ、働くことの価値を見いだせない市町村は消滅する
誰も働かないところでギャンブルだけしている人が残りどうするんだ」
「そういうことになるのか?今が良ければいいんだよ、そんな先のことは考えないよ」
「この辺じゃもう働く人がいなくなるから生活できなくなるんだよ」


確かに何か必要かなど人間にとって働くことは多様であるべきだから強制できない、でも働く意義は価値は家族労働でもいいから自ら見いださねばならない、それがベ-シックインカムの責任なのである。だからこれは結構厳しい社会となる。働かなくていい社会でも結果的に前よりも働かざるをえない社会になる皮肉がある。働かなくてもいい社会は最も働くことが必要とされることにもなる皮肉がパラドックスがある。何か人間には常にそうしたパラドックスがある。そもそも民主主義とは民が主になる時代である。すべてが対等にもなる時代である。
誰かに指示されて働く時代ではない、奴隷の時代は終わった。それがベ-シックインカムにもなる。
でもここでも自らでは価値をルものを民は見出せるのか、何が価値があるものなのか自ら見出されるのか?
それが問われている。民衆の個々にそういう責任が課せられるのである。

「自分は価値を見出そうとしましたがどうしても見出せません、ギャンブルしかできません」
「じゃ、社会から追放です、死んでください」

冗談でなくてこうなるかもしれないのである。

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ベ-シックインカムは可能なのか (人類の理想は自ら価値を求めて働くこと)


ベ-シックインカムは可能なのか

(人類の理想は自ら価値を求めて働くこと)


ベ-シックインカム研究所
http://blog.basicincome.jp/


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生産性が上がり効率化された日本の土地の利用


●戦後十年までは貧乏のどん底だった日本


そもそもベ-シックインカムということが本気で論議するようになったことだけでも現代の豊かさを象徴している。人間の歴史は労働の歴史でもあり労働によって酷使されてきたのである。労働は人間に神から呪いとして課せられたという労働感もある。そうした呪いの労働の解放が実現されるとなるとそれは人類の理想の一つが達成されるともなる。それを可能にしたのは一面現代の文明だというのも確かである。例えば高齢化でもすでに65才以上の人が四千万いるとかなるとその人たちは年金とかで働かない人でありさらにニ-トとか無職の人が普通にいる、働かないでも暮らせる社会が現代なのである。高齢化も働かない人がこれだけいるのもありえない社会だった。

貧乏は戦前から戦後十年まで延々とつづいていた。日本の戦争の原因だって満州に農民が土地を求めて移住したことからはじまっている。日本は狭いからもう開拓する耕地もないからそうなった。
人類史上これだけの豊かさを実現した時代はなかった。特に日本は江戸時代であれ明治以降から戦後十年までは貧乏しか経験していな人が大多数だったのである。戦争だって東北の農民は白い飯が食えるからと志願した人さえいる。戦争の原因が貧乏でもあったのだ。だから日本は豊かさの欲求が激しかった。アメリカに戦争で負けたのも貧乏国だったということを負けて知ったのである。

アメリカは日本では考えられない豊さだったのである。

それは日本の養蚕業が絹織物が戦前はアメリカの輸出品となっていた。それはアメリカでは贅沢だから輸入できた。日本ではその絹製品を使用できない、みんな貧乏だから安い綿の着物とか着るものでも貧しいものだった。女工哀史などあるのもそのためでありその絹の輸出製品で外貨をかせぎ軍事費に使い戦争で使われただけだという人もいる。こういうことは後進国では今も起こっている。アジアでも貧しい国ではエビを養殖しても自分たちは食べられないとかそういうことはいろいろある。
輸出するものがないからそうなる。日本は資源もないし輸出するものがなかったのである。
その輸出するために女工哀史が生まれた。なんかよくわからないけど母も原町紡績の(原紡)で働いていて昼の休みが30分しかなくその時遊びたくて早食いした人が病気で死んだという。それだけ休み時間が待ちどおしくてそうなった。ゆっくり食べていたら30分で休むことすらできなかったのである。そういう貧乏のことは何度もプログで書いてきた。


●技術の発展で人間は働かなくても良くなった


人間の労働感は高度成長経済をへて相当に変わった。豊かさをもたらしたのはいろいろあるがやはり機械化とか技術の発展があった。アフリカ辺りで貧乏なのは広大な土地をもっていてもその土地の生産性が極端に低いのである。日本では戦後、米の収穫量が増え品質が良くなったのはは技術の発展のためだった。土地が狭くても前より何倍も米の収穫量でも増えたから減反までなった。だから農家では野菜とか果物とか花の栽培とか商品性が高いものを作らないと生活していけなくなった。米だけでは農家はなりたたなくなった。それはあらゆるところで技術発展の影響を受けたのである。情報分野でも目ざましい革新があった。新聞であれ本であれこれを出すのには設備もかかり金がかかるから簡単にはできないものだっ。本だって一つ一つ活字を拾っていた時代があった。そうした分野の技術者がいてもてはやされた。そんな時代があったが電子化で活字の時代など終わった。今はこの分野では何十倍の効率化をしている。文字が電子化してIT化すれば何十倍の効率化であり一人の人間でも新聞社やテレビ局や出版社にでもなれる時代なのである。


そういう自分がこれだけ忙しいのにプログに写真まで出してやれるのはIT化だからできているのだ。家事から介護からやっているのだからもしパソコンやIT化していないならできない、だから自分は今一人で3,4人分の労働をしている。暇なく絶えず何かをしていてそれでもこれだけ書いているからだ。それができるのはパソコンで書いているから忙しくてもその暇になんとか書けるということがある。そもそも家事だけで昔は一仕事であり一人がかかりきりでないとできないものだった。
その家事もやり介護まで一人でしているのだからすでに三四人分の労働をしているのだ。
そして現代では4千万人が働かないように働かない時代である。この辺でもそれが顕著に現れている。仮設に入っている人が3千人とかいたとしてもその人たちは補償金をもらっているから働かない、
それからゲ-トボ-ルとかパ-クゴルフとか健康な老人も働かない、東京まで競馬に行ってギャンブルしているしこの辺でもまた競輪のサテライトが開設される。パチンコが繁盛しているようにギャンブルが暇で金がもっている人が増えるから繁盛する。まさに原発避難者は働かないことで批判されているけど金があれば人間は働かない、そういうことが原発事故周辺では起きている。
それも豊かさの象徴であり極端化してこの辺が問題になったのである。


●すでにベ-シックインカムが現実化している時代では?


ベ-シックインカムになったら働かない人が膨大に増えて経済が成り立たないというけどそもそもすでに高齢化で4千万人が働かない時代は現実にそうなっているのではないか?確かに高齢化社会だからそうなっているが人間が技術の発展による機械化や効率化でそういう高齢者でも生きていける高齢者医療のために膨大な金を使っていて若者から批判されている。昔だったらとても無駄な老人は養えないからうば捨て山があったとか間引きがあったとかなる。それよりも老人はみんな早めに死んでいたのである。でもよくよく考えてみると介護士とかの仕事ができたのも現代の豊かさを象徴しいるのだ。それだけの介護する余力があるからそこに回す経済力があるからそうなっているしその医療とか介護福祉分野での仕事が増えて働く場を提供しているのだ。技術の発展で失業した人も膨大なのである。家事も機械化したから女中は必要ないし事務もパソコン化したら必要ないしとか自動販売機で売り子もいらないとかいろんな分野で機械化して人手を省いているからだ。そこで介護分野に仕事があるとなりそこに就職できる。それが若者がするべきものではない、無駄だといっても他に仕事がないからそこで働く人もいるのである。機械化されて人間の仕事がなくなるからそこに仕事が生まれた。そして介護関係の仕事は極めてもの作りとは違って人間と人間が向き合う人間的な仕事でもあるのだ。そんな老人の世話なんか無駄だというのも言える。では失業した人たちの仕事かどこにあるのかとなるのだ。

いづれにしろ原発事故周辺で起きていることは何か未来を先取りしたような地域になっているのだ。

●働かないで暮らせる人が膨大に増える
●自ら価値を見いだせない人は働かない
●介護する老人が他より増大している
●自然エネルギ-地帯を目指す(ソ-ラ発電)
●米以外の産業の振興
●花栽培などは放射能に汚染されないからできる
●津浪で住めなくなり市町村がコンパクトシティ化ししている
・・・・・・・・・


他にもあるが津浪や原発被害地は何か価値の大きな変化を求められているのだ。何らかの発想の転換が求められている。だから何かの特区にしようとするのもわかる。自然エネルギ-特区とかコンパクトシティ化とかは他でも言われてきた。花栽培というのもこれは盛んになってもいた。
つまり豊かな時代は文化の時代だから花の需要が増えるということもある。「森の花屋」というのが鹿島区の六号線にできたのも新しいことだった。あれだけ大きなものができれば何か心が豊になった気分になった。

オランダでチュ-リップバブルがあったけどそんなに花に価値があるものかと思った。でも豊かな時代には文化の時代となり花にも価値が生まれてくる。米など食糧は余っているとなるとそうなる。
つまり一つの土地が米をとり野菜を栽培してその余力があるから花の栽培にできるのだ。花を楽しむこともできるのだ。土地の効率的利用ができる時代だとなる。今までだったら全部田んぼか畑にするほかなかったのである。だからそういう点で働き方も変わってくるのである。

ベ-シックインカムの悪い例が原発事故周辺の市町村
(補償金で誰も働かず市町村は衰退、荒廃、消滅?)
http://musubu.sblo.jp/article/68953271.html

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2013年06月01日

家事とはまず道具を機械をそろえること (将来の社会は一部のエリ-トと機械が支配する)


家事とはまず道具を機械をそろえること

(将来の社会は一部のエリ-トと機械が支配する)

●家事も職人も道具が大事


家事のコツはなかなか会得しにくい、家事は職人ともにている。職人にとって道具が大事である。コケシ職人であれ昔からそうした器を作るものであれ道具が大事だった。それは大量生産するだけの型にはまった道具では使えないその人独自の道具を開発したりして使っていた。特別その用途にあった道具が必要になってくるのだ。農家でもまだ昔の鍛冶屋のことを四国の山国でしていたがその鍛冶屋は農家の人の注文で鍬などの道具を使っていたのである。つまり人間にとってどんな職業であれ道具が必要なのである。道具は機械でもあり現代が何でも機械化したというとき昔から道具に頼っていたにしろ機械に頼る割合がものすごいスピ-ドで増大したのである。あらゆる職業で機械をいかに使いこなすかが問題になる。医療分野でもここも高度な機械化でありコンピュ-タ-を駆使した高価な機械で人体をみる。そして人間よりロボットの手術が正確だとまでなっている。こういうところはかえって人間の細かい作業が必要だと思っていたがロボットを操作する手術が正確にできるというのも不思議である。もちろんそのロボットを操作するのは人間にしろコンピュ-タ-ができてそういうものが開発された。コンピュ-タ-ができてまた人間は頭脳の仕事もコンピュ-タ-に頼るようになった。
最近プロバイダ-が安いから変えてみないかと連絡があって変えた。その変えることも簡単だった。
パソコンを遠隔操作して変えていたのである。本人は一回だけ文字を入れるだけであとはなにもしないのである。こんな簡単にできるのかと驚いた。遠隔操作というのはまさにコンピュ-タ-に頭脳がつながってできることである。なんか自分の頭脳まだ遠隔操作されるのではないかと思った。


ともかくあらゆる分野でまず人間から教えられるより機械の操作が大事になる。そこに問題があるにしろ現実はそうなっているのだ。まず人間に頼ることより家事も機械に頼ることが第一になる。一人暮らしなどは特にそうである。今は女中とか手伝いさんとかは簡単に雇えない、そういう生身の人を家庭に入れることは非常に危険であるしそんな便利な人はいない、人は機械と道具とは違うからめんどうすぎる。信頼だって簡単に築けない、何か昔の村の共同体のようなものだったら人の手を借りることもできるが今はできない、人間は信用できない時代になった。機械は嘘をつかないからかえって機械の方が人間よりいいとまでなっている時代である。人間を信用するということは昔の小さな村のような共同体があればそうなりやすい。でもこれだけ広域な社会になったとき人間は今や誰を信用していいのか?人間だって広範囲に交わっているのだからまず昔の村の共同体のような感覚では生活できなくなった。だから家に入ってくる人は一番危険なのである。田舎だってどんな人間が入ってくるかわからないしそもそも田舎だって信用関係はなくなっているのだ。するとまず頼るのは人間ではない、道具や機械になってしまうのである。それは人間との信用関係は長い時間でしか作れないということもある。でも自分だけでやるのは家事だけでもむずかしい。すると頼るのは道具であり機械の方が便利だとなる。


●人間との信頼関係が失われた社会では機械と道具に頼る


今回買ったのはカタログが店に置いてあったのでそこからキッチン用の道具を選んだ。インタ-ネットでは意外と何を選んで買っていいかわかりにくいのだ。アマゾンで言葉で検索したらみんな売っていた。アマゾンで買う場合もまず検索する言葉が大事になってくる。言葉がわからないと検索しようもないのだ。インタ-ネットでは検索する言葉、キ-ワ-ドが重要になる。そこを手がかりとして情報を拡大化深化しているのだ。
ステレンス洗い桶、匂いのしない、生もののごみ入れとかみそを計量してとかすみそドラマ-とか
料理したものをはさむちょことトングとか料理したものを切るハサミとかである。これらは必ず家事をしていれば必要不可欠なものとなっていた。だけどこういうものがあるということ自体近くに店屋があってもわからないのだ。インタ-ネットでもまず言葉がわからないと検索しようがないのである。インタ-ネットではそうしたものが混雑して選べないということかある。意外と調べにくいというのも盲点なのである。


今の世の中は人間の信頼関係が失われた時代といえる。それは昔の村のような共同体とはあまりにも違いすぎるからだ。昔の村では名付け親とか何か一つの家族のようになっていた。こういう村は介護とか福祉の面ではやりやすかった。なぜなら介護の医療福祉の関係は機械ではすまされない、人間的なつながりが必要になっていた。つまりケアマネとかよくくるけどこれは若い人が多い、すると家に入ってくるのだからそのめんどうをみるのはおばあちゃんとかその曾祖母とかになってしま。そこで家族のようにおばあちゃんとかなるとやりやすいわけである。それがないとただその関係は金だけで仕事するとか動機がなくなってしまう。家で仕事してもらうことは何か家族の一員のようになる。
するとどうしてもそういう関係が基礎としてある社会だとやりやすいのである。金だけ雇われる現代にはそぐわないということもある。だからいくら高価の施設でも金持ちの人が入っていてもそれを世話する人は介護士などは金だけだとなりうまくいかない、その世話する人がおばあちゃんとかおじいちゃんとか思えないからである。福祉関係はどうしても人間と人間が直接向き合う場だからそうなる。それは医療にも言えるのだ。病人でも老人でもモノのように扱うというときそういう人間的関係が喪失した社会だからそうなりやすいのである。


いづれにしろ今の職業は農家だって機械に追われて機械貧乏で失敗しているし小さな会社でも機械の設備投資の額が大きいからそれで失敗する。またそうした機械の設備なしでは仕事もできなくなっているのだ。あらゆる所で機械を介して仕事している。人間より機械の役割が巨大化して機械に道具に使われているというのも現実である。戦争だってもう人間の戦争とはまるで違う。機械同士の戦争であり鉄腕アトムのロボット同士の戦争というのも現実化している。遠隔操作されたロボット同士が戦う戦争になる。


●家事でも機械の安全が大事だった


自分も家事は機械との格闘だった。そこで問題になったのが安全性があった。介護でモチを食わせるのに自動で消えない古い形のヒ-タ-を使っていたのでそれを消し忘れることで火事になるところだった。ガスでもつけ忘れるのがあり何度してもそれができないのである。だからIHヒ-タ-を買った。これはガスや他の電気製品より便利である。これだったら付け忘れもないし料理しやすい、こうした最先端のものを使わないと危険だということに気づいた。これは原発でもマ-ク1という古い型の原子炉を使っていたことで事故になったと同じなのである。技術は日進月歩であり安全性も向上してくる。それを使わないと安全は補償できないのである。パソコンのウィルスでもやはりそうである。機械には常に安全性も便利さと共に大事になってくる。家事の道具でも機械でも火事とかになりやすいのである。パソコンが安全でないとということはデ-タ-が一瞬にして消えるとういことはこれまでもあったから恐いのだ。こんなに機械に道具に頼る文明はやがて機械に操作されて機械とともに滅びる、原発も機械だったからそうなるというのも現実にある。でももう機械なしでは生きていけない社会である。家事にしても人間がもはや助けてくれない、遊んでいる人が膨大にいても雇うことなどもできない、金があれば誰も働かないし雇うにしてもその人間をどうして信用していいのか現実に大損害になった。これは機械の損失などというものではない、財産すらなくしてしまう危険が人間を雇うことにはあったのだ。また殺人にまでもなりうる、人間関係は機械の関係より恐いのである。


例えばA地点からB地点まで物を運ばせる場合、機械だったら忠実に文句も言わず運ぶ。
でも人間だったらそうはいかない、
「こんな仕事したくないんだよな、給料も安いしな、
他ではもっと高いらしいよ、ここの社長はいい暮らししている、俺たちはこうして奴隷のように働かせられるだけなんだよ、そしてこんな仕事して誰が感謝してくれるんだよ
金も安いのになんのためにやっているかもわかんねえんだよ、つまらないよな
結局奴隷なんだよ、俺たちはな・・・ 」
人間なら働くものの不満はどこでもきりがないのだ。機械だったらロボットだったら一言も文句も言わない、雇い主の操作する人の通りに運ぶだけなのである。別に感謝しなくても気を使わなくてもいいのだ。

だから人間より機械の方が正直だとか本当に思う人が増えてもいるのだ。だからもう人間は信用できない、ロボットを使って足りないところを補おうとなる。これも人間不信が極端化するとそうなる。外国人を労働者として受け入れるにしてもそこでは給料がたりないとか殺人まで発展している。
必ず回りとか雇い主と生活を比べるからそうなる。雇い主では機械のように安上がりに便利に仕事してもらいたいけど人間はそうはいかないしそうさせるべきものでもないからだ。だから労働は常に奴隷的な側面がつきまとっていたのである。最後は人間より機械の方がいいとなり人間は事務でもコンピュ-タ-が代わりをして重労働も機械がして人間は不用だともなるかもしれないしすでになりつつある。人間はみんな失業するのだ。だから遊んでいる人が今や日本では全人口の三分の一はいるだろう。仕事しているのは機械だともなる。そこで人間の役割は何かとなる。みんなが機械より創造的な仕事ができるわけではない、ただの無用な人となる人も膨大になってくる。一部のエリ-トが金をかせぐ仕事をしてあとは機械が仕事してあとの三分の一はただの無用な社会の邪魔者無駄飯くらいになってしまうのかもしれない、問題はあるしろそういう社会を目指しているのは確かなのである。


家事の機械化の意味するもの
(人間はあまりにめんどうだから機械に仕事させるようになった)

http://musubu.sblo.jp/article/68282810.html

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2013年05月24日

家事の機械化の意味するもの (人を雇うのはめんどうすぎるから機械化になった)


家事の機械化の意味するもの

(人を雇うのはめんどうすぎるから機械化になった)



私なんて専業主婦なのに家事が嫌いです(爆)
もう19年にもなるのに・・・
嫌いだし正しいやり方かどうかも自信がなくて、
娘4人もいるのに家事を教えることができません。
こうして家事ができない女が増殖していくのです。

あまりのダメっぷりに、夫はいろいろ機械を導入してくれました。
機械のほうが信用できるそうです(私の信用ゼロ!?)


高齢者です。
やらなければいけないから仕方なくやってきました。

特に料理、なんで人間は一日に3回も食事をするのか
それも365日延々と続く。
せめて3日でもいいから家事から解放されたら、などとも
思いましたが夢のユメでした。


私たちの子どもの世代では、子どもを持たない割合が38%、孫を持たない割合は50%になるだろうと言われている。家族で支え合うことが難しくなるということです。

 その結果、世帯構成が変わり、例えば一人世帯が増える。ならば、どうするか。生活の中での効率化という視点が意味を持ってくる。人がするべきことは人がするべきですが、人がものとかかわるような場面で、人でしなくてもよいことは機械がやればいい。そうすることで、さまざまな負担が軽減できるようになるわけです。
http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001539


●女中は戦前は家事手伝いとしてあったから抵抗感がなかった

PDF1

メイド333.JPG


女中というのは戦前までは女性が経験するものとしてあった。それは嫁入りの修行とか単に賃金をもらうだけではないメリットもあった。家の中で働くことが若い女性の働き口であった。そういう社会では女中であることはめずらしくないし女中を雇うことも抵抗がない、一つの歴史として文化として女中という仕事があった。それはどうしても家事が機械化されていないから骨の折れる労働になっていたからだ。洗濯自体が洗濯機がないとき洗濯板でごしごし洗っていたのだからその労力は大きなものだった。家事自体が女性の仕事の大半をしめていたのだ。だから若い人は結婚前の女性は嫁入り前の仕事として女中を選ぶことは社会慣習としてあったのだから雇う人も雇われる人も抵抗感がなかったのである。


戦後は社会が急速に変化した。家族は核家族化して大家族が消えていった。高度成長時代になり人手不足の時代になった。そこで若い女性は工場労働者となったり働き口が増えたのである。それで家事に手が回らなくなり家事は機械化され外注されるようになった。
オカズも惣菜屋とかでまにあわせて家事は洗濯でも掃除でも機械化した。女性はその分外で働き稼いだ金で電化製品を買うようになったのである。
機械化というとき別に家事だけではない、あらゆるものが機械化がどんどん進んだのが戦後でありそれは今なお継続中である。もう理想はロボットで家事をやってもらうことなのだ。介護でもロボットにしてもらいたいという願望があり開発されている。結局こうしたあらゆるものの機械化は何を意味しているのか?


雇う側からすれば個人の家だろうが会社だろうが人を雇うことほどめんどうなことはないからである。特に家の中で働いてもらうことが一番めんどうなのことなのである。そのことが後進国の人がフィリンピンであれ手伝いとして雇用されるがそこで問題が起きる。
日本でもアジアなどの後進国でどうしても人を家事のために雇わねばならないから問題が起きる。この世で人間ほどめんどうなものはない、人間は使う方から見るとどれほどめんどうなものか?
機械化する原因はやはり雇う方にすると人間があまりにも要求が多くて仕事させるのがむずかしいからである。

メイド123.JPG

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https://www.gcoe-intimacy.jp/
images/library/File/working_paper/New%20WP/
WP_NextGenerationResearch_11_YAMAMOTO_s.pdf


家の中で働いてもらうには機械のようにはいかない、いろいろと気を使うし信用もできないからさらに疲れる。戦前のように嫁入り修行だとかモチベ-ションがあればいいが今は賃金しかないから余計に気を使う。そして人間と人間の信用関係は長い時間がかかる。すると何かしてもらうには機械の方が便利だとなる。それが人間が機械化する大きな要因でもあったのだ。


別に今家族の中で働く人手がたりないということではない、働ける60代の人が相当にいる。でもその人たちはゲ-トボ-ルとかパ-クゴルフとかして働かない、原発事故地帯では働ける人も補償金もらっているから働かない、そういう働けるのに働かない人も今の時代は膨大になっているのだ。いくらそういう人がいてもその人たちは金があれば無理して働かないのである。それでますます機械に頼る生活になっている。電化製品はそれで実際はますます必要になってくる。料理するにはガスよりIHヒ-タ-が便利である。安全装置があり今度は自分も安いのを買うことにした。ガスだとガスを消すのが忘れやすいのだ特に自分の家は台所と食事するところが離れている古い家だから特にそうなのである。だからなんとか家事をやりやすくするために機械に頼らざるをえないのである。いろいろ験してみたがおかゆメ-カ-は使えなかった。機械も使いこなすのがパソコンのように馴れるまで結構手間がかかるのである。


●時間給とか人生の時間を切り売りしたくない


ともかく人間は一つの機械のように部品のうよに使えないめんどうなものである。人を使うということはその全人間が問題になってしまう。それを無視して派遣だとかアルバイトだとかパ-トだとか一時的に便宜的に人間の時間をさいて働いてもらうのはそれは雇用主側の要求でそうなっているのだろう。人間はそんな時間を切り売りするような働き方をしたくないというのが普通である。人間は時間ほど貴重なものはない、その時間を部分化され賃金のためにパ-ト化されるのは人間を無視していることなのだ。ただ雇う側からするとどうしてもそんな全人間を相手にするようなことをしていられない、便宜的に効率的に安く雇いたいとなる。それで今のような人間の時間を人生を切り売りするような労働形態が生まれたのである。だからこそ雇用する側からすると人間より機械の方がいい、いっそうロボットの方がいいとなる。現実的にパ-トとか派遣とかアルバイトとかの雇用は人間のロボット化なのである。現代の雇用形態自体が無数に部分化した労働になっているのだ。そこから人間疎外が言われるようになったのである。ス-パ-でも労働力不足になると自分で機械を操作して計算してカ-ドで金を払うとか自動化する。それは雇い主のためというより客のためにもなる。そうして労働力を省けば品物のコストが安くなるということもある。


労働は雇う側と雇われる側ではそこに大きな溝があり埋められないのである。実際は雇う側も雇われる側も一体化する、区別がないような労働形態が理想でありそういう会社を小規模ながら目指している所が紹介された。そもそも一時間いくらとか時給制という働き方自体が人間を無視したものである。人間を雇い主の都合によりロボット化機械化したものなのである。それより戦前のように雇う人も使用人も一つの家族のようになっているのがかえって全人間的な働き方だったかもしれない、現実に一つの墓に使用人の名前が記されている所が一緒に墓に埋められているのがある。それは墓まで一緒だったとなりそれなりに家族のようになっていたとなる。ただこれもいろいろな見方がある。そんなものは一方的に奴隷のように地主にでも働かされたのだろうとかともなる。

ロ-マ帝国のような奴隷制でも結局人間を奴隷として扱うことはできないからこそ主人と奴隷でも人間的なものが生まれたし奴隷制は廃止されたのである。現代もやはりロ-マ帝国のように露骨ではないにしろ社会組織の中で奴隷制が生まれているとも言える。それで働くこと自体に抵抗を感じるから働かない人もニ-トなどもでてくる理由にもなる。もし働くことが自らの価値観で自ら求めてその働くことに満足するならいいがほとんどの人は満足していない、自分は奴隷だよとなっているから問題があるのだ。ただこうしたことは何千年前から継続された人間の問題であり簡単に解決しない、その解決方法として機械化がロボットに労働を代行してもらうということになったのである。


それにしてもあまりにも機械化された結果、農家でも昔は村のもの総出で田植えとか稲刈りをしていたときそのとき協働することで連帯が生まれていた。今でも家族総出で田植えしているときそういうものを感じる。大家族で労働しているとき協働しているとき家族の連帯も生まれたのである。
つまり労働を通して家族のつながりや地域のつながりが作られていたのである。
労働は単に便利になればいいというものでもなかったのである。だからいくら人間の労働を機械化してもロボットにしてようとしてもそこに必ず欠けたものが生まれ矛盾が生まれる。
何でも便利に使用として機械化しても何にしても人間はうまくかないものなのである。
どんなことしてもすべてを機械に代行することなどできないのである。

 
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2012年10月14日

労働の価値は労働してみないとその価値がわからない (料理することも運ぶことも労働だ)


労働の価値は労働してみないとその価値がわからない

(料理することも運ぶことも労働だ)

佐用共立病院(兵庫県佐用町)で女性入院患者=当時(85)=が肋骨(ろっこつ)を折られた事件で、傷害容疑で逮捕された同病院の看護師羽室沙百理(はむろ さおり)容疑者(26)が、動機について「患者が感謝の気持ちを示してくれなかった」などという趣旨の供述をしていることが12日、捜査関係者への取材で分かった。看護師として自信がなかった、とも漏らしているといい、仕事への不満と不安の矛先が、一方的に寝たきり患者に向けられた可能性がある。


この事件が何か突拍子もない、異常な事件のように見えたがそれなりに理屈があり通り魔事件のように全く理不尽なものとも言えないことが自分の経験からもわかった。
ずっとこの五年間家で介護しているから食事の用意をすることでそのことを感じた。
料理することと別室に料理を運ぶことが結構手間なのである。実際に食事がゆっくり余裕をもってできなくなった。お茶わかすにしても別室にもってゆくから手間になり自分の食事をゆっくりできないのである。別室で寝ていることはそれだけ運ぶ手間が必要になってくるのだ。

つまり料理をすること、運ぶことで二重の手間になっているのだ。だから自分の食事をゆっくりできない、食事の途中で立ったりすることが多いのである。食事もゆっくりできないことが何とも悲しいとなる。今までは三食用意されていたからだ。ただこれもつくづく自業自得だと思った。母も店をしているときゆっくり食事できなかった。店に客が来ると食事の途中でもしょっちゅう立っていたのである。母は自分の家では奴隷のように働かされてきたのである。それが今度は自分にふりかかってきたからしょうがないきとあきらめている。人間はつくづく他人が苦しんでいることが自分の身にふりかかってくる。この人は病気でかわいそうだなと思って自分は関係ないとその時は思っていてもみんなやはり病気になっているのだ。人間はもし誰かを虐待したり苦しめたら必ず自分も同じ目にいつかあう。それは生きている内にあう、死んでからではないのだ。


ともかく料理して運ぶから食べ残したりすると気分悪くなる。なぜせっかく料理して運んだのに食べ残しているのだ、贅沢だと思う。ただ病人だから違っているにしろそんなこと思ったこと今まで一度もない、相手のために労力を使ってるから食べ残したり感謝しないと不満になるのだ。それは金を払ったからといって解決する問題でもない、金持ちの施設で「オレは大金払っているんだよ、もっと親切にして働けよ、お前たち奴隷なんだよ」などと横柄に対処されたらいくら金をもらっても嫌になるし金持ち相手が嫌になったというのもわかる。料理して運び世話するということは相手のために尽くしていることでありそれがすべて金を払えばいいじゃないかでは人間の関係は成り立たない、働く方にするとそこに不満が生まれるのだ。これは看護師が患者に対して不満をもつのもわかる。苦労して嫌なことをしているのに感謝もないとか相手が横柄だとなると仕事する気にもならなくなる。
ただ一方で手術したばかりなのに手荒くあつかわれるのは患者からするとひどいな残酷だなと自分は思った。


人間は絶対にサ-ビスを受けているばかりだったら労働の価値がわからない、消費しているばかりだったら労働の意味もわからない、食料でも金があるからス-パ-に行けばいくらでも買える、金さえあればなんでも手に入るとなるが実際は食料でも誰かが手間をかけて作り出している、それが見えないことが問題なのである。ただ医療関係、福祉関係はあからさまに見えるから自分はこんなに苦労して尽くしているのになぜ感謝しないでこの人は横柄なのだとかなってしまう。それは介護でも同じである。なぜそれなりに苦労して料理を作り運んでいるのに食べ残したりしているのかとかなる。これは病人だからしかたがないが病人でなかったら家族でもそう思うだろう。


結局労働とは何でもそれなりに苦労するからその苦労することで労働の価値が生まれる。苦労もせずに何もかもできるなら何にも感謝しないし感謝しろとかならない、だから人間は自ら労働しない限り労働の価値も物の価値もわからないとなる。それは知的労働でもそうである。プログ書くにしてもそれなりに努力している。苦労して買いているところがある、でも実際は何の報酬もないのが現実である。つまり情報を与える方にならなければその苦労はわかってもらえない、ただ記者でも取材で死んだ人が結構いるからその時報道でも命懸けで知らせているのだと自覚させられる。その情報は命に変えて与えたものだとなりその価値を認めるようになる。


オレはこの料理を苦労して作ったんだぞ
そしてこうして運んできた
なぜ食べ残したりするのだ
なぜうまいと食べないのだ
買うにも金がかかっている
買い物でもそれなりの労力なんだよ
それだけじゃない、
この食料を作っている人の労力も大変なものだよ
だからこそ食料は無駄にしてはならないんだよ


相手が病人でなければこうなる。それでも日本などではゴミが出すぎるのだ。ゴミ出しに毎日追われているのだ。その中に無駄になった食料がありその量は日本全国になるとものすごい量になる。
人間は作り出すものの苦労がわからないとその価値もわからない、電気にしてもボタンを押すと使えるが実際は石油を運ぶのにどれくらい労力がかかり危険を犯しているかとか考えるとやはり料理して運ぶ労働とにているのである。そういうことが現代ではリアルに感じられないのである。

大工さんとか看護師とか医者には労働が目の当たりに見えるので感じるが他はなかなか感じにくいのが現代なのである。人間はただ与えられ消費するだけだったら人の労働の価値は何もわからないとなる。「働かざるもの食うべからず・・」というのは基本的にはあたっている。
食料を生産しなくても料理してそれを運ぶということ自体手間である。それは労働してはじめてわかることなのである。ただすべての労働が価値あるとは限らない、ブラックな仕事も相当この世にはありそれらが価値あるとはならない、そういう労働でも無価値な労働もまた多いのである。ただ蟻塚を築くために営々と働くということもあるのだ。無益な労働も膨大なものとなっているのだ。

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2012年05月10日

土着なくして職業も学問も芸術も報道もない (故郷とは有機的に結合されたミクロコスモス)


土着なくして職業も学問も芸術も報道もない

(故郷とは有機的に結合されたミクロコスモス)

●土着の思想
土民生活に於ては一切の産業が土着するが故に農工業や交換業が或は分業的に或は交替的に行はれて鞏固な有機生活が実現される。

鍛冶屋も土民なら、大工も左官も土民だ。地球を耕し――単に農に非ず――天地の大芸術に参加する労働者はみな土民だ。土民とは土着の民衆といふことだ

土民思想に於ては、職業によつて軽重を樹てない。たゞ総ての職業が土着することを理想とする。自治は土着によつてのみ行はれる。然るに他の諸々の職業人と有機的に連帯しない農民のみの土着は不可能だ。その土着生活は必ず他の職業に依頼せねばならないので、再び動揺を起さねばなるまい。総ての職業が土着するには、金融相場師がなくなるを要する。総ての職業が土着すれば、そこに信用が確立し、投機が行はれなくなる


底本:「石川三四郎著作集第三巻」青土社
http://www.aozora.gr.jp/cards/001170/files/46455_25648.html


土着性とは何かというときこれも奥深い問題である。土着というときそもそも人間は土着しなければ生きていけないということからはじまっている。縄文時代はその土地に動物のように土着して生きていた。回りにあるものだけを食べて生きていた。どんぐりまで食べていたとすると猿とさほど変わらないものであった。それしか生きる道がないし神は動物でも人でもそこに生きる糧を与えていたのでありそれで生きていた。弥生時代になり稲作がはじまっていても基本的には土着なくして生きてはいけない、農民的土着的生き方が江戸時代までの生活だった。今日のように高度に文明化したとき、改めて土着性が問題になった。それはとりもなおさず人間は土着的なものから余りにも離れてしまったからである。当たり前のように土着的に生きていたものが土着的でなくなった。東京辺りだと土すら見ることがない、そこでは土着という言葉さえ通じなくなってしまう。土から離れて生きる人が何千万人と今ではいる。江戸は百万都市でも回りは農家であり農家の人が町中まで深くかかわって暮らしていた。だから江戸に住んでいてもやはり土着的な所があった。

土着的というとき人間も自然の中に生きるのだから当然土着なくしてありえない、誤解しているのはあらゆる職業が土着的なものとしてあるべきなのが自然なのである。土着的であってこそ生の充実と生きがいが見いだされる。土着的とは全体的と同じである。職業には土着性が必要なのである。

勤務医は土着性がなく転勤しやすいとかいうときやはりそこに何か職業として欠落してくるものがある。開業医は土着性がある。何代も医者をやっていたりしたら農家と同じくなる。この辺で看護師が不足して他の県から派遣されて働いている人がいた。でもその人は期限付きだから困るという。ずっとここで生活して働いてもらわないと困ると言っていた。それもまさに看護師も土着的でいなと勤まらない職業だということになる。何代もつづくということは土着性があることになる。職人でも十何代もつづいているのが江戸時代であった。職人も大工でも地元の材料を利用して家を建てていたらより土着的になる。庭作りは地元の石や植物とかに精通していないと作れないとかなると極めて土着的である。庭は故郷の自然と直結していたのである。庭作りは農耕ともにていた。花作りは野菜を栽培するとたいして変わりないのである。


芸術もこれも土着なくしてはありえない、cultivate(耕す)がcultureになったことでわかる。その土地に根ざしてできるのがア-トである。山や海や大地や川がなくてどうして芸術がありうるのかとなる。都会には芸術家は生まれない、天才も生まれないという、それはそういう基盤が故郷をもたないからである。その人が大地から自然から遊離していたら芸術が生まれ得ようがない。芸術の霊感の源は自然だからである。その自然のないところで芸術が生まれようがない。音楽だってベ-トベンの音楽がドイツの森や大地から生まれたというときまさにそのことを物語っているのだ。ベ-トベンの音楽を理解するのにはドイツの大地に立たないと理解できない。すべての文化の根源には土着性がある。それぞれの国そのものが土着して生まれた。大和(ヤマト)自体が奈良の一地域の名前だった。一村が日本という国になったのである。奈良が国のはじまりだというときまさに奈良という山と大地に土着したものが日本の国となった。封建時代はそれぞれの藩が国でありそれも極めて土着的でありそれぞれが一つのミクロコスモスとなって生活していた。そこでの職業もすべて土着的なのである。

●地人論の思想

政治家でも銀行家でも実際は土着的である。地域に通じなければそもそも政治家になれないし融資するにしても地域の経済に通じなければできないから土着的になる。報道というものも実際はこれも土着的なものなくてしてありえない職業である。今回の津浪や原発事故でそのことがみんな理解した。そもそも情報が東電や巨大なマスメデアによって支配されていたことが事故につながっていたのである。マスメデアは報道すること自体莫大な金があるから宣伝費をもらって成立している。だから東電では莫大な金をマスコミに流していた。そして情報は統制されて安全神話が作られていた。福島県の地元のマスコミ、新聞雑誌も同じだった。土着的に独立している報道機関ではない、他の巨大な財力、権力あるものの一機関なのである。カルト教団から金をもらっていたりとか報道するのに莫大な金がかかるところは巨大な権力に頼らざるをえないから地元民に密着した土着的な報道となりにくいのである。あらゆるものは土着的なものの追求なのである。土着的なものから離れたとき今回のような原発事故も起きてくる。公害事故も起きてくる。災害にも対処できないとかいろいろな問題が起きてくる。東電は土着的ではない、それ故土地の歴史を津浪を考慮しなかった。東北電力は地元であり土地の歴史を重んじて高台に原発を作り辛うじて津浪の被害をまねがれたことでもわかる。


地を離るれば人なし、人を離るれば事なし、故に事を成さんと欲する者は
まさに地理を究むべし 吉田松蔭


われわれは、各地に生まれてから昇天するまで、各地に固有の地の理
を究め、産業や経済を起し、政治や行政を行い、子や人を育て、美や文
を追求し、自然や神に祈る。
「仕事を起こし、地域を創り、人を育て、文化を高める」‘営み’によっ
て、先人から学び、経験を蓄積し、次世代に伝える。内村鑑三(地人論)


ユダヤ人が土地をもてない、国をもてないから金融業に頼ったというのはわかる。そこから世界は金だけの世界になったと批判するのもわかる。マルクスの人間疎外が貨幣が神のようになったということもわかる。現実的に今は人間をどうみているかはいうと物-金(人間)-物・・物を交換する媒体として金がありそれが人間なのである。普通に人間を金としてみてしまっている。この人がいくらの金がもたらされるのだとしか考えない、それは親族の間でさえそうなっている。それが普通の状態になっているのだ。それほど貨幣の力が大きくなりすぎた。それをいろいろ批判しても現実がそうなっている。だから否定できない力として貨幣社会がある。江戸時代まではそういう貨幣万能の社会は生まれていない。貨幣はやはり土着的なものから人を切り離すことにも大きな力を発揮したのである。今はただ金のために働く生きるというときそこで労働の本質が見失われたのである。


●働くことなくして人間の存在価値はない


農民は土を耕し種をまき作物を育てるとき力が湧く
その実りを自らの手にするとき力が湧きあがる
大工は工夫して家を建て完成したとき
自らの力を自覚して力がわき上がり喜びがある
土木業者は道を作り土台を作り力が湧く
医者や看護師も患者の病を直し助けて力が湧く
手伝いさんも自ら料理して掃除して家事をして力が湧く
料理人はうまいものを食べさせたとき力が湧く
教師はうまく生徒をに教えられたとき力が湧く
旅人は困難な旅をしているとき力が湧く
画家はいい絵を描き力が湧く
詩人はいい詩を書けたとき力が湧く
何もしなければ例え金をもらって生活はできても
何の力もわき上がらない
金のために働く前に働くことはその人が活かされること
その人の能力が活かされることにあり

労働とは本質的には金のため消費のためではない、生きがいのためでありまた各自の能力が活かされることである。その能力は別に特別の人がもっているものではない、あらゆる人が能力をもっている。例をひいた土民思想はそれを示している。なぜ今働くことが拒否されるのか?それは土着的なものとして意識されないからである。ただ一つの部品のようにされ全体の中で生きるという自覚がもたらされない。人間はいくら仕事してもそれは一部である。でも全体に通じているとき力がでてくるのである。仕事がしたくないというとき生きがいが見いだされないということが根本的な問題としてある。貧乏な時代は生きがいもなにもない、ただ食うために働かされるという時代であった。そういうとき働くことがどうのこうなどと考えない、働かねば飢死するという窮迫だけがあった。今は働かなくも食べて生ける、その数が何千万人にもなっていると思う。こういう時代はただ金のために働けといっても働かない、郷土史いうときもこれミクロコスモスの探求であり土着性の追求である。郷土史は別に特殊な好事家のものではない、すべての人にとって不可欠なものである。土地のことに通じなければ市町村長になることはできない、今回の津浪でもそうであった。いかに土地のことに通じる必要があったか思いしらされた。また何百年前のことも知っていなければならないか思い知らされたのである。


この辺ではともかく働くというとき働くこと自体を奪われた。それで昼間から酒飲んだりパチンコしたりと外からも批判される。それでも別に補償金をもらっていれば生活はできる。でも生きがいが喪失してしまいその存在自体が無用とされてしまう。だから働くとは何なのかということを当たり前のことが別に普通は考えない人も考えざるをえなくなったのだ。そしてその働く場としての土着の場としての故郷が喪失したとき人はすべてを失ったのではないか?補償金として一億円もらっても自分たちを活かす場が喪失した。「先人から学び、経験を蓄積し、次世代に伝える」その先人も経験の蓄積である歴史も失われた。次世代に伝えるものはその故郷という場すら喪失したのだからない。
ただ金だけをもらい故郷に蓄積されたアイディンティティをすべて奪われた。それが原発事故の悲劇だったのである。

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2012年01月03日

禁欲生活から始まった資本主義にもどる必要がある (宗教は人間の欲望を抑制するために生まれたことを再考せよ)


禁欲生活から始まった資本主義にもどる必要がある

(宗教は人間の欲望を抑制するために生まれたことを再考せよ)

●働くこと自体、欲念や欲望を避けるためだった


宗教はそもそも禁欲からはじまっている。道徳というものはすべて何らかの欲の抑制と禁欲を教えている。資本主義すらもともと修道院の禁欲主義からはじまった。神に奉仕して民衆に奉仕することが動機となっていた。そのためにこそ働き利益をあげることが神から許されたのである。修道士は利益をあげてもそれでもって享楽したり贅沢などしない、家庭ももっていないとしたら日々食べるだけで満足しているのが修道士である。そうしていれば自ずから利益が上がり利益は蓄積され資本も蓄積される。ではその利益が蓄積されその資本をどう使うかが問題となる。消費をしない倹約、禁欲を守るのだから修道士は消費しない、でも生産が増加すればもの余りになるだけである。資本主義は勤勉の宗教、哲学なのだからいつかはそうして日々働いていたら誰かが豊になり裕福になることに運命づけられている。一方で富は富裕になることは修道院では禁止されている。そういう矛盾が資本主義にはあった。


日本人が勤勉だというとき本当に明治から大正生まれの人は良く働く、そして消費をすることを悪いものとしている。それが極端になると働くことだけを価値となしあとの一切の消費を悪いものとして否定する。食べるものは贅沢したりして認めている。しかし庭とか作ったりしたら全く価値を認めない、他のものにも認めない。趣味的なものも認めない、花を買って挿したりすることは多少認めていても庭に花を植えたりして鑑賞することも認めない、一切遊びもしない、趣味で遊ぶことも体験もしていない。そういう環境にもあり労働が子供の頃から強いられた世代である。すべてがもったいなという世代である。だから食べ物で今贅沢しても食べ物で何か文句を言ったりすることもないのである。どんなものでもありがたい、食べられればいいという世代である。そういうことは感心する。しかし自分の家族のことは極端だから一般化はしにくい。しかし何のために働いたのかというと奇妙なことは働くために働いたということになる。たいがい今は消費するために働いている。食べるほかに家が欲しい、いい車が欲しい、大きいテレビが欲しい、海外旅行がしたいとかそういう消費がグロ-バルに広がったからそういう消費で満足するために働く。そういう欲望が限りなく広がって来たのがグロ-バル化経済の欲望資本主義である。


なぜこれほど労働に重きをキリスト教のプロテスタンシズム、修道院では置いたのだろうか?それはおそらく働くないと気が散りかえって様々な欲望や享楽の誘惑に負けるからだったともいえる。働くことに夢中になっていれば別に消費しないでも誘惑からまねがれるからいいとなる。そうでないと怠惰な時間があるとそこに欲望や誘惑が入りこんでくる。それを修道士は恐れたのである。それは別に厳格なキリスト教でなくても仏教でも禁欲であり禁欲こそが宗教であり哲学であり道徳なのだ。ただ仏教では働かない、洞窟で座禅を組み禁欲にはげむ、僧院にこもり修行するのも禁欲である。インドなど暑いから木蔭でじっとすることが暑さに耐えることも関係していた。蓮の花のあうのはインドである。その蓮の花がエジプトでもロ-タスとし象徴的な花となっている。蓮の花はもともと暑い国の花である。

プロテスタントシズムが起こったのはドイツとか北欧とかでありそこは寒い国だった。寒い国は勤勉になる。暑い国はどうしても怠惰になる。だから座禅を組んで働かないで禁欲を実行したが座禅しても気が散り欲望は目覚める。かえって強く目覚める。一方働くことは気が散らない欲望を忘れられる効果があった。それで修道士は働くことに勤しんだのである。働くために働くということとある程度共通していたのである。自分の家族の場合は異常だったけど修道士はそうではなかった。神に奉仕しているとして働いていたのである。時計というものが修道院内で発明され時の鐘を鳴らすのは修道院でありそこで時間の感覚が養われたのである。


●キリスト教では座禅する代わりに働いて禁欲した


宗教というのはどうしても禁欲が不可欠なのである。例えば女性と交わらないというとき女性はあらゆる面で欲を増長するものとしてあることがいなめないのだ。その衣裳で飾り様々なもので誘惑する。それは女性が悪いというのではなく極自然な行為としてしている。それでその女性の贅沢のために男性が働くということも普通にある。するとそうした労働は贅沢のためであり宗教的にはしてはならないものである。だけど働くということに重点が置くとその意図とは違ってそうした贅沢なことに消費されるのである。そこにまた矛盾があった。それでソロ-が働くことを拒否したのは金持ちのために金持ちの浪費のために働いているとかを見て働くことをその場合は無意味としたのである。確かに現代の労働となるとすべてが本当に必要なものなのだろうか、これほどの労働が必要なのかという疑問がでてくる。貧しいときは労働は必要だった。おそらく機械化も関係している。コンバイン一台で千人分の麦刈りをしてしまう時代である。人間の労働はある程度機械が肩代わりするようになった。すると人間は機械と比べるとこれだけの差があるのだから人間の労働が無力になったから働くことが必要なくなったという一面はある。ただ労働の分野は無限に増えている。介護とか新しい分野ではいくらでも必要になっているのだ。家事などは機械化して消費化しやすくなっているから金でまかなうことができる。自分でもほとんど買ってまかなっている。風呂も自動だし洗濯も自動だから一人で何とかやっていけるのだ。ごはん炊くこともしていない、インスタントの米をレンジであたためて食べることができる。これが昔のように電気釜もない時代だったら家事だけで一日が終わっている。洗濯にしても骨の折れるものであった。昔の労働は大きな部分が家事に費やされていたことは確かである。女性の主な労働は家事だったのである。


人間は強いられて働いてきた。日常の糧を得るために追われ働いてきたのが普通である。でも豊になると働く必要もないのに働いているように見えるようになった。明治維新後は欧米に追いつくために富国強兵とかがむしゃらに働かされたのだ。豊になることを追求してきたのだ。戦後の焼け野原になってからも物質不足でありその物を充たすために団塊の世代はがむしゃらに働いたのである。それが今働かない人が人口の三分の一くらいもあるような時代になった。高齢化の人も年金暮らしで働かない、ニ-トや若い人でも働かない人口が多い。これほど働かない人がいた時代はないだろう。ただ働かない人達が働きたくないということではない、自分の生き甲斐となるものがあれば働く、ぶらぶらして何もしないということも楽でないからだ。そしてそういう暇な所に欲望や享楽の誘惑がはいりこみやすい、また小人閑居して不善を成すとなやすいのである。働くことは修道士のようにそういう欲望を抑制して逃れるためにもあったのだ。特にに若いときは欲望の力が爆発的になるから余計にそうである。そこで禁欲を実行することは至難である。


ところが懸命に労働しているとある程度逃れられるとういことがある。座禅などしていてもかえって欲望が増大するからむずかしい。ともかく人間の生活には明かに禁欲が必要だからこそ昔から宗教や哲学や道徳が生まれたのである。欲望のままに生きる人間は野獣と同じになってしまうからである。結局人間の悪は性であれ何であれ抑えられない欲望のために起こるからだ。だからあくなく消費を刺激する現代の資本主義は全くプロテスタントシズムからはじまった禁欲の資本主義と正反対のものである。消費がすべて悪いものではない、消費も生産につながっているものもある。旅をしたことは知らない世界を見聞することであり本を買うことも知識を得ることであり消費は生産につながるものでもある。だからいちがいに消費は無駄とはならない。ただ絶えざる性を刺激するようなファッション産業などや様々な消費が奨励されるのかとなるとそうは思えないものが増えてきたのである。車だって本当にこんなに必要なのかと疑う、そんなことを言う人は今は異端であり誰も相手にしない。もし車が過剰で無駄だとなるとき車を生産していることにで働くことも無駄だとなるのだ。働くことが疑問になったのはあまりにも物がふえすぎた結果だろう。そしてさらに足りない足りないと欲望を刺激するものが過剰に作られているからだ。


●現代は昔の禁欲生活が必至になった


江戸時代から戦前は貧乏だから別に宗教のように禁欲を強制しなくても強制させられていたのである。禁欲が大きな価値となっていた。宗教的には享楽的消費より禁欲が推奨される。それで魂は汚れから逃れられる。そして実際に禁欲というのは現代文明には不可欠となっているのだ。原発事故がなぜ起きたのか?その原因はいろいろあるにしても人間の欲にあったことはまちがいない。原発は人間の欲望に答えるものだからこそ危険なものでも作られてきた。原発は人間の欲と深くからんでいる。だからこそ廃止することもむずかしいのである。すべての人の欲を抑制させることはむずかしいからだ。地元にしても原発からの恩恵があるから積極的に誘致したという経緯もある。だから原発も宗教ともからんでくる。双葉町辺りで何キロしか原発から離れていない所では家族がばらばらになりその主人が家族が一緒に暮らせるならロウソクでもいいと言っていた。まさにそうした極端な禁欲的なことを言うようになったのはその被害が大きすぎたからである。こんなに害を及ぼすものだとは思っていなかったのである。


原発を拒否するには生活そのものでは昔のように禁欲的にならざるをえない、俗社会では耐えられないということになればまた原発事故が起きて住めなくなる。以前として欲望を拡大化する欲望資本主義が継続されたらまた原発事故が起きる。社会全体に禁欲が要求されているのだ。もちろんロウソクにしろとか車をもつなとかは言えない、しかし禁欲はある意味で強制的にすら必要な時代になっている。そして禁欲がすべて悪いとはならない、禁欲はかえって満足をもたらす、幸せをもたらすことにもなる。江戸時代の人々が幸せそうに見えたというのは今より欲望が抑えられて禁欲的だったからである。人間の欲望は限りないし決して満足をもたらさない、結局人間は何ら本質的には変わってない、欲望から脱しない限りこの世に平和はこないし人間は欲で滅びるということは変わっていない、原発だって人間の限りない欲望が作り出したものである。原発は科学の問題であり科学がやがて解決するというがそうはならない、今回の津波はこれ以上原発をもつなという天からの神からの警告だった。これを無視してさらる原発をつづけるなら日本は滅亡する。地震国であり津波国であり危険すぎるのである。アメリカの科学者が日本では狭いから原発事故になると逃れる場所がないと言っていた。二三ケ所事故になったら日本は滅亡して外国に逃れるほかなくなる。


いづれにしろ人間は常に少数者であれ禁欲を実行する人達を必要としていた。それが今のように全く世俗化した社会になったとき欲望のみが放置され拡大化してゆくときそこから原発事故でもあらゆる害が抑えようなく起きてくる。カルト宗教にしてもそこもぎらぎらした人間の欲望を増長するだけの団体である。宗教はあらゆるところで厳格な禁欲を実行する場ではなくなった。神社にしてもそうでないか、賽銭にはこの世の欲がこびりついている。何を祈るかと言ったら何かのこの世の欲望を実現したいが為にお参りしているだけではないか?だから現在は神聖な場はすべて欲で汚ごされている。寺もまた戒名商売とか観光商売とか世俗の欲と離れた世界ではない、宗教は本来世俗の欲と離れることを志向した。世俗の欲を絶つことが出世であり信仰の場だったのである。そんなところ今はどこにもない、宗教的な場所に行けばそこは常にそうである。なぜ山の上まで行ったらそこに神社があって賽銭のようなものが要求されるのかわからない、どこでも賽銭が要求されるのが宗教的な場所になっているのだ。それは商人にかけた関税なのかとも思う。だから今は自然そのものにじかに接することが身を清めることであり宗教的な場に行くべきではない、そこには常に人間的な欲がまとわりついているのである。昔のように禁欲的な修行をしているということもないのだ。ただ賽銭をもらいたいという人が形だけ僧侶になったり神主になったりしているように見えるのだ。宗教はそもそも禁欲を実行する場でありその原点に帰るべきなのである。

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2011年11月09日

モラルなき欲望資本主義はすでに崩壊している (働かない人が増えるのそのため)


モラルなき欲望資本主義はすでに崩壊している

(働かない人が増えるのはそのため)

●修道院からはじまった資本主義


当面生活に必要なお金が手に入れば、それ以上働かないというのが生物としてはむしろ自然な行動だと思います。


労働そのものに価値を見出し、経済発展を遂げた国はプロテスタントの国と日本だけです。


キリスト教の信仰から、近代資本主義に必要な「勤勉」「契約の遵守」「所有権の確立」「資本の蓄積」という考えが出てきたのです。


カトリックは一般信者を甘やかしたので、この精神も希薄ですが、プロテスタントは厳しくキリスト教の原則を守りました。


http://plaza.rakuten.co.jp/sailmssn/40000


人間はそもそも本来は怠け者であり働かなくてもよければ働かない、勤勉になるのはそれなりの理由があるのだ。資本主義は修道院の中から生まれたというときまさに宗教と特にキリスト教と関係していたというときその基になるのが宗教だった。神に仕え人に奉仕するために勤勉になったのである。人間は豊になりたくてもそんなに働かない、働かないことを選ぶ場合だってある。労働は過酷でありすべての人が過酷な労働に耐えられないし選びもしない、貧しくてもそれなりに暮らせればいいとか考える人がいるのだ。江戸時代は会社に勤めていない、職人は一人一人であり商人も棒ふりなど一人一人の零細な商人だった。大きな商家はあっても底辺の多数は一人一人の商いであり職人だった。だから会社のように何時間働けとか強制されない、今日はこれくらい稼いだからあとは休もうとか働く時間もル-ズなのである。分刻みで働かせられる現代とは違っている。工業会社社会ではそういう圧力から逃れることはできない、会社員でないものは人にあらずとされるからだ。ただそういう会社社会の勤勉ももともと修道院からはじまったのだから宗教的なものとして出発したのである。その宗教的モラルが強制力をもつようになったのが社会全般に普及したのである。侍のモラルが民衆のモラルとなったのと同じである。商家でも奉公するというとき侍が主君に奉公すると同じなのである。

●侍はモラルの模範であった


侍のモラルを習って商人のモラルもあった。修道院のモラルが一般社会に普及して人々は勤勉になるようになった。それは最初は自主的なものであり強制されるものではなかった。信仰はいくら信じろと言っても信じない人は信じないからだ。どんなことでも人間はすべて強制してやれるものではない、奴隷すら強制的に使用はできない。その人が何か有効な価値を見出すとき自主的に働くことになる。その時その人は本当に金だけではない労働自体の価値を見出しているのだ。そういうことは本当に特別なことではなくあらゆる仕事にある。ヘルパ-とか掃除婦とか卑近と思われる仕事でもある。

ただ労働は今や一般的に苦役であり強いられた労働となっている。初期の自主的にはじまった資本主義の精神とは違ったものとなっている。それは宗教意識、信仰の堕落だともなる。働くモラルが低下したのである。また初期の信仰心から発した労働と今はまるで違ったものとなってしまった。ただ欲望を満たすだけための労働となった。最初は勤勉であり節約が美徳とされ労働はあまり消費に重点を置いていなかったのである。そもそも修道士は禁欲を実行するものだからそうなった。仏教でも修行者は禁欲を実行する者である。だから修道士や僧侶がぜいたくすることは禁止されるし他からみても許されないのである。


労働そのものに価値を見出し、経済発展を遂げた国はプロテスタントの国と日本だけです。


日本人がなぜこんなに働くのか、勤勉ななのか不思議である。労働自体が救済であり労働自体に価値あると見なしているからだ。働くことが勤めるとは仏教のお勤めのことである。お経をあげることである。それは宗教と関係していた。働くも端を楽にするということは他人を楽にしてやりたいということは助けたいから働くということは宗教的と言えないことはない、働くにはそういう動機があったのである。働くことは自分もそうだが他人を益すること他人を助けるということがあった。奉仕とか奉公とかはそういうことがあったから出てきた言葉である。自分も無化してただ仕える奉仕するということがあった。そういう仕事は今でも家事とかに残っている。家事するのは無報酬の愛が基でありそれがなければ成り立たない、その家事を切り離して利益労働にするとただ利益だけを追求するようになる。家事から離れるとそこに愛は必要なくて利益だけを追求するものとなる。

つまり労働でも動機が大事でありその動機が失われたときその社会は崩壊する。「神は人の心を見ている」というときいかにあらゆる所で動機を見ているかわかる。犯罪でも故意なのかどうかまずみる。盗むにしてもコンビニなどで知らずにカバンにパンを入れてしまったことがある。週刊誌を読むのに気をとられてそうなった。全然盗む気がないのにそうなった。そういうのは犯罪にはならないが外から見れば盗んだように見える。殺意なくて偶然殺人になることだってある。そういうものも犯罪にならない、明確な動機がなければ犯罪にならないのだ。だからもし具体的に犯罪にならなくても恨みを抱き殺意をもったらすでに犯罪だというのも言える。それほど動機は大事なのである。


●モラルを実行する模範とすべきものがいない社会の荒廃


資本主義は修道院からはじまったのだから動機は今とはまるで違っていた。神に仕え奉仕するというのが先にあり禁欲であり節約であり勤勉があった。大金もうけてやりたいことをやるというのとは欲望を満たす資本主義とは違っていたのである。現代の資本主義はすでにこの動機、モラルの点で崩壊している。すべての働く人の動機はすでに不純でありただ金が欲しい欲望を満たす何か消費したい、贅沢したいという動機しかない、だから手っとり早いのは働かず盗んだ方がいいとさえなる。みんなそういう気持ちになっているのだ。現代はもうモラルが崩壊している。経済の基礎は道徳だというのは本当である。その基礎が崩壊しているのだから資本主義自体崩壊しているのだ。それは下々のものまでそうである。下々のものもモラルは江戸時代だったら侍を模範としてモラルを形成していた。

それで奉公ということが商家でも習ってそうなったのである。今や習うべきものがない、金をもうけることがけが最優先される。欲望を満たすことだけが追求されている。教育からして他人を蹴落としてまで受験戦争に勝ちいい会社に就職して楽をする得をするということを教えられる。その結果として東大を頂点とするヒエラルキ-が生まれた。官僚が身分だから壊せないというときそれは江戸時代の侍の身分とは違っている。侍は庶民と同じく貧しかった。


ただ模範とされたのはモラル的なものとして精神的な徳を実践するものとして見習ったのである。今は上に立つ人はモラルがない、官僚であれ、政治家であれ、会社であれ、あらゆるところで金さえ得ればそれでいい、利益を得ることが第一とされる。そして模範とするべきものはない、ただ金持ちを庶民はうらやむだけでありそのうらやむのは欲望を満たすことができるからいいというだけである。官僚の天下りとかそういうものを見れば誰もうらやましがるのはそういう身分になれば得をするということだからである。濡れ手に粟で金を入る立場になるということがうらやましがられているだけである。実際に上に立つものの腐敗がモラルのなさが原発事故につながっていた。ただ金を得るということで人々は働いていたのである。マスコミも宣伝費をかせぐためにそうなり官僚も巨大な天下り先だから監視が甘くなり地元も金になるということで見逃されてきたのである。技術的問題もあったがモラルの崩壊としても事故は起こっていたのである。


●資本主義はモラルが喪失したからすでに崩壊している


資本主義が修道院からはじまったとういとき余りにも今は変わりすぎた。強欲資本主義とか欲望充足のためだけの資本主義であり土地転がしとか金転がしで金融業がアメリカの産業だというときアメリカの働くモラルも最悪である。西部開拓時代はホイットマンのように働く人は実業に働く人でありその人たちが讃美されて詩になっていたのである。金転がしのようなことで巨万の富を得るような人達ではなかった。その時代は働くことでも健全であったのだ。資本主義はもう崩壊しているのだ。それは恐慌とかそういものではない、経済の基礎となるべき道徳が崩壊しているからだ。日本はそうではないというが日本も同じである。日本には明治時代あたりにあった義理人情とかまるでない、ただ金だけが

唯一の価値となってしまった。だからこそ今働かない人がニ-トなどがふえたりしているのは
働くことに意義を見出せない人々がふえたということもある。働かないということが価値観にすらなっている。働く奴は負けだとかさえなっている。それは余りにも働くということが金だけの欲望充足のための経済となったためである。唯一の価値基準は金しかない、金があるものが一番偉いのであり金がある人が一番責任がある社会である。金がすべてになればそうなる。金によってすべてが動くとなればそうなる。庶民も見習うべきは金持ちでありかただ金持ちになりたいというだけである。そうすればすべての欲望や願いもかなえられると思っているのだ。そのことが資本主義が崩壊していることなのである。そういうことが極点に達すればモラルがないのだから崩壊する。人間社会は基礎に何らのモラルがないともう維持できない、無秩序の弱肉強食の社会になってしまう。そういうふうにもうなっているから崩壊してゆく。


人間は明かに働くにしてもモラルが必要だったのである。ただ金だけ欲しいという動機の人は実際はヘルパ-でも家政婦でも家の中に入ってくる場合本当に怖い。家の事情がわかるから大きな犯罪に結びつきやすい、昔の奉公するというモラルもないとすると働く動機が金しかなくなれば人など簡単に雇えない、そういうことは金では福祉関係などでは助けてもらえないということである。社長が借金ある人は側近に雇うには信用しないとか金のない人は危険だというのもわかる。金に飢えている人は犯罪予備軍なのである。そういう人を簡単に信用したら大変なことになる。虎視眈々と財産をねらっているという怖さがあったのである。そういう恐ろしい時代にすでに入っているのだ。だからこそ資本主義はモラルの喪失から崩壊してゆくし実際に崩壊している。それが今や恐慌からではない、働かない人がふえたり上に立つものから下々のものまでモラルはなくなり崩壊しているのである。庶民にしてもモラル的に模範とすべきものなど何もない、今一番偉いのがお医者様になるけどお医者様にしても病院では利益第一主義でありいらない薬とか金のために無用な手術までしたり怖いことが起きている。それは金のために殺人するとさほど変わりないけど医療の現場では隠すことができるし許されるのである。医も算術になったのである。


●モラルが崩壊すれば法律も役に立たない


そういうモラルの荒廃が社会全般に起きているからこそ資本主義は崩壊する。原発事故もそうしたモラルの崩壊も原因して起こったのである。危険をかえみみずただ利益になればいいというだけである。それは社会全般にそうである。宗教はカルトとなりこれも利益追求を第一としてとても修道院からはじまったモラルなど皆無である。教えることは贅沢ができることでありそういう身分になれとはいうことで権力を追求しているのだ。そのために毎日祈っている、禁欲など全くないのである。モラルが崩壊することは社会が崩壊する深刻なことだとまだ認識していない、これは法律だけの外部からの強制では成り立たない、人間は自主的なものがなければ成り立たない、自主的に働くことや自主的に社会に参加して働くことがないかぎり成り立たない、強制では成り立たないから共産主義は崩壊したのである。

民主主義はそうした自主性を育つものとして作られた制度であるけどそういう自主性もモラルも喪失するとき最悪になる。自由は自由なエゴと各人の欲望を充足するためのものであり権利だけを主張して義務は実行しない、とにかく金だけはよこせというだけになる。ボランティアが震災で起こったがその時やはりその時働くこと自体人を助けることに意義と喜びを見出しているからこそできるものであった。その労働は修道院からはじまった資本主義の理念とか動機と一致していたのである。そこに働く意義をかえって見出したのはそのためである。ただ物資を運ぶことが人助けになっていたのである。まさに働くことが奉仕だったのである。
震災の負の面も大きかったがそういう点で助け合うのが経済だったということを見直したのはいい面として働いたのである。


資本主義の堕落がここに書いてある。
http://www18.atpages.jp/hisao123/newpage16.htm

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2011年01月23日

昔をふりかえる意義(移動過剰が社会を荒廃させた)


昔をふりかえる意義
(移動過剰が社会を荒廃させた)

現代と昔の相違の盲点は昔は人は移動して生活していない、江戸時代でも長屋の大家が親同然というとき長屋でもそこで一生を終える人たちであった。今のアパ-トのように移動するのが普通になっているとそうした昔のことが誤解するようになる。時代劇で浪人が長屋に住んでいるがひょいとどこかに行っていなくなってしまう。長屋はそんな住人もいたのかと思ってしまうが長屋の人はほとんど移動しないで同じ場所で同じ長屋で変わらぬなじみの人たちと暮らしていたのである。江戸時代は明治以降より移動しない、移動しないだけではない、職業も親を受け継ぐのであり結婚も親に決められた家同士の結婚である。分相応というように階級があり武士は武士、農民は農民、職人は職人とそれぞれ暮らし方が決まっていたし職業選択にほとんど悩むことのない社会だった。社会が固定化して安定してていた社会でありこういう社会では犯罪は起こりにくい、ウチとソトも明確に別れていて村のウチでは協力して安定していた。ソトと交わることがない社会であった。
移動しないということは身近で生活を成り立たせねばならない、遠くに行けないのだから身近が大事になる。前田、門田、前畑・・・・とかが重要だったというとき家の前の田こそ生活を支える場所だったからである。歩いて行ける範囲で生活は完成する自給自足社会だった。これは町だってそうである。買物でも歩くとなると隣近所が便利になる。車社会になるまでみんなそうだったのである。移動するにしても馬とか牛が荷を運ぶのだから遠くに運ぶとなると一日かかりとかなるから基本的な生活は身近でできるようにしていないと生活が成り立たない、だから必ずしも貨幣が今日のように万能とはならない、貨幣がこれほど力をもつようになったのは交通が発達して外部との交流がグロ-バルに広がったからである。金があれば何でも買えるとなったがでも交通が発達していなければ原町区でも大原から市街に買物に行こうとなると簡単には行けないから自給自足の生活が基本になる。つまり金に頼らないでも生活できるようになっていないと昔は生活が成り立たなかったのである。移動することがどれだけ大変だったか車社会になったとき想像できなくなったのである。移動するのは基本的には歩くことであった。不思議なことに人間が歩くことがなくなると歩くという人間の基本的な感覚も喪失する。浮世絵では下駄を履いて歩きその足元に雪がふってくる。浮世絵を見ると人間が歩くという情緒があふれている。そんなことが当たり前だとなるが車社会になったら歩く情緒がなくなったことでもわかる。人間から歩く姿の美というかそうした感覚が喪失したのである。

手前味噌という言葉よくお使いになりますね。自分のことをほめる言葉です。これは自分の家の味噌汁なんです。味噌ではないんです。ですがもう少し前に行くと味噌も自分の家で造っていた家庭が沢山有りました。私の家でも私が中学生頃までは作っていました。
http://www.kanda-zatsugaku.com/070615/0615.html


醤油は味噌よりも手間がかかり、醤油絞りの職人を頼まねばならないため、早くから購入するようになりましたが、戦前まではほとんどの農家が自家製の醤油を造っていました。
http://www.hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/minzoku/00000065/23.html


手前味噌という言葉も使ったことがないから死語になっているかもしれない、昔は味噌でも醤油でも自家製で作っていたのである。何かを買うということはよほどのことでないとしていなかった。農家では特に自給自足だったろう。町だと買うことが多くなるのは近くに買う店があったからである。それでも卵すら戦後まもなくして農家が放し飼いの鶏から商品として売るようになったのである。それまでは農家では鶏の卵を家でとって食べていたから農家の方が豊だった。卵自体贅沢なものだったからである。自分の家で店をやっていたとき自転車で卵買いに農家に行かされていたことでもわかる。卵すらまだ商品化されていなかった。1961(昭和36)年の流行語で「巨人・大鵬・卵焼き」だったのである。玉子焼きがこの頃やっとみんな食べられるようになった時代だったのである。玉子焼きを弁当にもっていたときうらやましがられたこともあった。学校でも玉子焼きを食べられない人はいたのである。その頃中卒や金の卵の時代だからやはり相当貧しかったのである。でもその頃から急速に高度成長時代に突入していたのである。


着物は仕事着、子供の着物など、ひとえものはすべて手織りでやっていた、糸を買い、これを染めて織ったのである。


越後平野の代表的な農村においては醤油は日常つかわれるようになったのは大正の後半期からであり鮭は今なお客用、正月用だった。 地方生活(島木赤彦)


こういう生活は江戸時代の継続であり基本的な生活そのものが変わっていなかった。なぜなら町でも囲炉裏があり燃料は炭だったからである。醤油すら使っていないということは意外である。醤油は外国旅行でももっていくと便利である。魚がでても醤油がないので困ったことがあった。醤油はそれだけ役に立つのに醤油すら使っていなかったということはいかに貧しい生活だったかわかる。醤油は広く売られていないから自家製でも作れないと使われないということになるからだ。人間の生活これだけ貧しかったのでありこの貧しい時のことをふりかえり今を見直す作業が必要なのである。


人間の共同が地域でもどこでも失われて無縁社会化ししているというときその原因の盲点が交通が発達していない時代は自給自足が基本であり身近ですべてをまかなわねばならないから身近で協力すまことが必要になる。そしてそこで金の力は大きくはまだなっていない、とおくから外部から交通が発達していろいろなものが入ってくると金が大きな力となる。もちろん金はすでに明治以降になると地租も税金も米ではない金になったのだから大きな力になった。でも生活そのものは戦前までは自給自足が基本だったのである。そういう時代は人間は身近で協力しあって生活していたしそうならざるをえなかったのである。だから現代の生活を見直すときこれまでも書いてきたがモラルが低下したというときそうしたほとんど移動しない自給自足的生活だったら犯罪も起こりにくいし古い日本的道徳も守りやすいものとなる。現代のようにグロ-バルに生活範囲が拡大するととてもそうした狭い世界で旧来の道徳を維持することは不可能になる。そこで外部から外国人まで入ってくるから犯罪はふえて治安は悪くなる。身近で協力するというより金の力が大きくなりすぎると近隣より金さえあればいいとなり近くの人も信用できなくなる社会になったのである。金がすべての価値観になってしまいやすいのである。


そして今は高度成長期と違って働いてもフリ-タ-、派遣、パ-トととかこれらは時給でありたいして金にならない、使い捨てのような人間性無視の雇い方であり労働のモラルもかなり低下している。働くのが馬鹿らしいという風潮が大きくなっている。逆に一方でモノあまりであり豊かな生活を維持しようとするとき車も一人一台とか必要であり手放せない、それで借金してでも今までの豊かな生活を維持しようとする。人間がそこで余裕のない人であふれている。そういう人たちは自給自足の貧乏な時代より汲々としている。心に余裕がないのだ。借金している人はまず心に余裕がないから交際したくない、でも借金している人が実に多いのである。それだけ家を借金で建てたとか余裕がないのに贅沢してきたのである。別に車がなくても一万の町でも町内ならス-パ-もあるし買物もできる。原町とか相馬なら本当に車がなくても医者も近くにあり便利だなとつくづく思う、ザイは車がないと今はやっていけないことは確かだが町内だったら別に車がなくても生活できるのである。こんなに人間が頻繁に移動する社会というのは人間的でなかった。そこからモラルの低下、治安も非常に悪くなったのである。田舎でも隣ですら油断できないと身構えなければならない、本当に怖い社会である。だからこうした社会にどうしてなったのだろうというとき昔はどうだったのだろうとふりかえる必要があるのだ。そこからもう一度社会を見直してみる必要があるのだ。郷土史というのもそういう面からも研究する必要がある。

人間は豊かさを追求してきた。それ自体は悪いことではないだろう。その結果としていろいろな負の部分が大きくなったことも確かなのである。移動しすぎる社会、豊さを追求して心に余裕がなくなった社会、これはやはり豊かさの過度の追求の結果だった。高度成長期とか戦前でも江戸時代でも貧しいときの方が日本人は道徳的には高いものをもっていて治安も良かった。

明治に来た外国人が日本人はほんとうにいい顔している、満足している顔しているとかその表情を見て感心していた。それは社会が貧しくても身近に協力しあねば生きていけない社会だったからかもしれない、それに豊さを過度に追求しないからかえって少ないものでたりるとしているからそんなにあくせく働く必要もないとかあった。今は豊になってかえってあくせくして心に余裕がない人が実に多いのだ。金がない金がないと金欠病になっている人が実に多い、それもあまりにも豊かさを求めた結果だったのである。ある程度の貧しさでいいとしていたらこんなことにはならない、豊かさの餓鬼地獄になっているのだ。これでいいとか満足することがないのである。

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2010年11月08日

職業を金だけで計ることの疑問


職業を金だけで計ることの疑問

毎日問題にされるのは給料の問題である。働いていくら金をもらえるかが問題になる。医者はいくらだ、弁護士はいくらだ、公務員はいくらだ、恵まれているとか毎日が金の計算しかない、こんな金でこんなひどい仕事してられるかとかそうした不満が延々とメタンガスのようにふきだしている。それはそれでいいとしてでは人間はもしあなたは仕事しなくていいですよ、金は十分に与えますからとなったらどうなるのか?毎日安い金で働くことがない、遊んで暮らすというのも結構楽ではない、社会的にも認められない生活は結構楽ではない、人間はそもそも仕事しないでいられるものだろうか?農家の人にしても農業など金にならないからやりたくないといつも言っている。でもでは何もしないで暮らせる金を与えたらどうなるのか、あなたはこれから自分のやりたいことをやってくださいと言われたらどうなるのか?医者にしても看護婦にしても激務で給料が安いと言うとき、では医者をやめてどんな職業につけばいいのだろうか?金になるだけならいいのかとなる。医者は社会的にも尊敬され感謝される職業である。仕事は辛くても他の仕事とは全然違う。もっと金になる職業につきたいとして医者をやめたら他の仕事で生きがいを見出されるのか?社会的にも尊敬される職業なのであり他にそんなに尊敬される職業があるだろうか?ベ-シックインカムが導入されると働かない人がでてくるというけどそういうことは絶対にない、人間は仕事しないでいられないのである。


人生とは仕事が生きがいなのだ。本当に画家になりたい人は金にならなくても絵を描いているのに間違いがない、金にならないから画家はつまちらないとして絵を描くことをやめるような人は本物の画家ではない、別な仕事に向いているのだろう。ともかくどんな人でも能力があるにしろないにしろ人間は仕事が必要なのである。家事手伝いとか掃除の仕事でも立派な仕事だった。病院を掃除している人は60才すぎているけど金は安いけど緊張があるからしているという、シルバ-センタ-でも金を得るより実際は老人の生きがいを作るためだった。人間は六〇才で会社を退職させられることは残酷だというのは本当である。人生が会社とともにあったのにその会社から断絶し切られてしまう。地域社会などに生きがいを見出すのは至難である。なぜなら地域社会自体崩壊しているからだ。人間はまず金を計り金が優先される。しかし仕事をすべて金で計られるのだろうか?仕事の理想は仕事に使命感、ミッション、をもつことであり天職に従事することである。天職というと何か医者のような高級なものと思っているが家事手伝いのようなものでも立派な天職であり実はそれしか活かす道がない女性が結構多いのだ。掃除も天職なのである。


もしそういう仕事もないとしたら何をしているのか?ただ遊んで暮らすのかとなる。退職して何もしていないことは本当にかえって苦しいということがわかる。退職金をもらい、多額の年金をもらって遊び暮らせるからいいではないかとなるが本当に趣味などの世界で生きがいを見出せる人は少ないだろう。芸術家は別にして一般的にはそうではないか?人間に生きがいが必要である。生活は保証されても生きがいがなかったら淋しいものとはならないか?ただ毎日他人の給料をうらやみ仕事を金だけ計っていることは何か変ではないか?金からしか計算できないことが何か変なのである。仕事にはそれに見合った収入はあるべきである。でも仕事そのものにも生きがいがあるはずであり掃除婦にししても今日から病院の掃除はしなくていいですよ、家の掃除だけでいいですよとか言われたら淋しいものとなるだろう。病院の中で掃除することは患者にも眼をとめられ患者を励ましたりして患者とかかわる掃除婦なのである。つまり医者や看護師だけではない掃除婦も患者を助ける一員として共同で仕事しているのである。だから緊張感があり生きがいあるということになるのだ。

タグ:職業
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2010年08月22日

金持ちと貧乏人


金持ちと貧乏人

●金持ちは運命的なのか?(財産はFORTUNE)

 

お手伝いさんというと昔は女中であり家事が機械化されていないから掃除、洗濯、料理とかそれ自体が大きな仕事ととなっていた。ヨ-ロッパでも「洗濯女」という商売が成り立っていたから洗濯は一仕事であり洗濯専用の仕事があったのである。洗濯は主に川でしていた。だからセ-ヌ川で大勢の女性が選択している絵が残っている。もともと人間の歴史が始まって以来、召使とか手伝いする人は存在した。人間の歴史をマルクスが階級制から解きあかしたのもそれだけ人間の歴史はすでに上にたつものと下で働くものに別れていたのである。その階級制の起源はやはり財も持つものと持たざるものに必ず別れることなのだ。なぜ財を持つものと持たざるものに別れるのかそこにはいろいろな要因がある。技術的な要因もある。一早く先進の技術をとり入れた国は豊になる。そういう大きな側面からの考察ではなく個々の家でも豊かな家、財を築く家と築けない家がある。そもそもなぜこの世には貧乏な家と金持ちの家があるのだろうか?
その疑問も実際は解けていない、金持ちの家の人はなぜ自分は金持ちなのだろうかなどと考えない、貧乏な人はなぜ自分は貧乏なのかと絶えず考えている。そもそもなぜその家が財を築き豊になっているのか?それにはそれなりの理由があるだろう。ただ幸運だけでそうなったのか?やはりその家の積み重ねられた努力もあった。

ただ昔から財はfortune(運命)だから運が作用しているというのも確かである。いくら真面目に努力しても財を築けない人はいくらでもいる。努力しなくても運で財がある時入ってくることがある。道路工事や公共事業の住宅工事でこの辺では家など建てる金がなかった人が土地も与えられ家が建てられた。何千万という金が市からもらえたからである。これは運というほかない、他でも火力発電所ができたとき漁業権で億の金をもらったとかで近くの呉服屋が高価な着物を売れたとかある。大きな金は必ずしも努力しても入ってこない、親が死んで財産相続で大金が入ったりと運が良く大金が入るのが多い。その人の努力とは関係ないのである。なぜ金持ちと貧乏人がいるのか?その疑問は解けていないからインドではまさに運命だとなり前世の宿縁だとなりカ-スト制が生まれたのである。つまり洗濯する職業の家は代々洗濯を仕事として他に仕事を持てないとまでなっている。それは運命だから受け入れざるをえないとなる。そういう人たちは金持階級の暮らしを羨む時、前世の宿縁であり運命だからあきらめるほかないと納得する。もしそれに納得しないなら中国やロシアやその他の共産主義国家のように革命を金持ち階級、資本家を倒して財を奪いとなる。

●成功しなかったマルクスの階級制の否定

なぜこのこの世に金持ちと貧乏人がいるのか?その疑問は解けていない、それを運命論的なものとして受け入れのを拒否して階級制を打破して金持ちも貧乏人もない理想国家を作ろうとしたのがソビエト連邦であり中国であった。しかしその試みは失敗した。カンボジアなどでもかえって何百万人もが粛清されたことでもその試みは失敗したのである。中国では経済発展が著しく豊になったが貧富の差は日本では考えられないものになっている。その差があまりにも大きすぎるのである。平等を目指した共産革命がこれだけの貧富の差を生み出したことが皮肉である。共産党幹部は大金持ちになりまだまだ膨大な貧民が中国にいる。共産革命がこれだけの貧富の差を作り出していることでもわかるようにいかに貧富の差を解消することがむずかしいかわかる。だから中国では金持ちになるものは先に金持ちになりあとにその金持ちにつづけとなった。その思想は的を得ているのだ。誰もが一気に金持ちに離れない、一部のものが金持ちになりつづいてみんなが金持ちになって行く。その方法が正しい方法であり金持ちを倒してその財を奪うというやり方はまちがっていたのである。

相馬地方でも飢饉で人口が3分の一になったとき越中などから移民を募集した。その移民は最初は草分けというその土地の旧家の下で働いた。最初は悪条件の下で働かされたが徐々にその努力が実り豊になって土地に根を下ろすようになった。こういうやりかたが豊になる方法であり最初から貧富の差があるからと言って財産あるものを否定して奪って豊になれというのはまちがっている。財産は資産はその家の代々の努力によって築かれた場合であるのが普通である。幸運だけでは財産は築けないのだ。一代で財産を築くのは無理だろう。何代も家が続けばどんな貧しい家でも家を買ったりと財産をもてるのである。

●不遇な人、貧乏人は不満を言っても解決にならない

この世には不遇な人や貧乏な人はいくらでもいるし人間の歴史が始まって以来そういう問題は生じていた。それでマルクスの階級制の否定の歴史理論が生まれた。でもそれは実際に社会に適応したとき失敗した理由はそれが実際の社会を生きるものにとって不具合であり適さないからそうなったのである。豊になるにはまず相馬に移民した人のように草分けの旧家の下で地道に働く他なかった。それはヨ-ロッパでも同じである。パリの革命のように一気に貴族階級を倒してしまい、貴族を抹殺してしまいとなった結果、悲惨な殺戮の世界になってしまった。それでみんなが金持ちになれるわけではなかった。そういう革命は無理があり社会的に大混乱をもたらす、一部に今でも官僚の天下りとか批判すべきものがある。それは王政社会にもあった。

ただでは貴族を金持ち階級を否定して抹殺してみんな金持ちになれるかとなるとそうはならなかったのである。個々の問題としても不遇な人がいる。なぜそんなに不遇の星の下に生まれたのかと思う人もいる。ではその不遇な人が恵まれた人を羨みその不遇が解決するのかとなるとしない、むしろその不遇を運命的なものとしてとらえ金持ちの人、恵まれた人を羨むだけではなく地道に努力していればその人もやがて財を築くのである。不遇な人は貧乏な人は他者を羨みその不遇をいくら嘆いても解決しないのである。かえって悪い方向に向かってしまうのだ。不遇でありさらに不遇にしてしまうのである。そういう人はその原因をその運命に社会の不平等とか外部に求めていることが多いのである。確かにそういう側面はあったとしてもやはり自分自身にも不遇を産む原因を作っていることが見逃されているのだ。個々によって事情が違うにしろ文句ばかり不満ばかり他者に社会にぶつけても解決にならないのだ。お前は恵まれたからそんな呑気なことを言っていられるのだというのも一理ある。それは否定しない、でも不遇だった人がどうしてさらに不運を招いたのかは不遇の星の下に生まれたからではない、その人がさらに不運を招きよせたのである。

●お手伝いさん召使の仕事

台所に菊の香満ちる手伝う女(ひと)

そもそも金持ちでないからお手伝いさんとか召使がどういう仕事なのか庶民では知る人は少ない、たまたまお手伝いさんというのを家でわずかの時間でも働いてもらってこういう仕事もあるのかと思った。なかなか仕事に対して理解をすることをむずかしい。仕事の苦労はわかりにくいのだ。よそからみていれば重労働でもそれを見ている人は感じないのである。そこに人間の弱点がある。他人が苦しんでいてもその苦しみはわかりにくいのだ。だから傍観的になってしまうのだ。でも一度介護とか認知症の介護とかしてみれば大変だなと身をもって経験するから同情できるようになる。それまでは人の仕事の苦労はわからないのである。ただ昔なら働くが(端を楽にする)からきていたように身近で働く姿を見ていたから理解した。今は身近で子供でも働く姿を見ていないから余計にわかりにくいのだ。お手伝いさん、召使はその家と深くかかわる。その家の一員のようにまでなってしまう。住み込みになればそうである。仏壇に菊の花を捧げる時、その菊の花が台所に満ちてくる。そのことはその家の先祖とも深くかかわっていることなのだ。

ともかく人類の仕事で昔からお手伝いさん召使の仕事はあったし家事が機械化されないとき女性の仕事としても男性でもそうなっていた。それだけ働く場としてあったのである。武士の家でも相当数の家来をかかえておりその中には女中や召使も多かった。それだけ家事が大きな仕事だったのである。戦前までも女中の仕事の需要があった。母が東京に出て女中になった。女中が嫌だったかというと嫌とは言っていない、住み込みで食事も出されるし何より給料もらえるから良かったと言っている。女中は結構当時ではいい仕事だったし需要があった。だから女中とかお手伝いさんは卑しい仕事とはならない、その家と深くかかわる工場とか会社とかで働くのとはまた違ったものなのである。

ただ今のお手伝いさんはまた役割的には昔と違っている。介護関係でヘルパ-などが家に入ってくるとき庶民でも家の中で他人に働いてもらうことがどういうことなのかみんな考えるようになるのである。このお手伝いさんにしても女中にしてもその家で仕事するとき身の不遇や不満ばかり言っていたら勤まらないだろう。むしろその家に忠実に仕えて富を分けてもらうとか富にあづかるとかしようとするなら勤まる。不遇、不満ばかり言っていたらどんな仕事も勤まらない、そして地道に努力していれば報いられる時がくるだろう。

そこにfortune(運、財産)も味方するだろう。それを金持ちを否定してその財を奪って豊になるのが豊になる道だというのは無理があり失敗する。財産はfortuneだとしても運だけでは財産は得られない、確かに生まれつき努力しなくても大金持ちの家に生まれる人はいる。それこそ運なのだけどその財を他者のために運用しないものはその財も消失しやすい、運命的なものが財でもその運用は勝手にしていいものではない、そもそも財そのものが共有的なものであり個人のものではないからである。財はとても一個人の努力ではできない、みんなの協力がなければできない、大金持ちがいたとしてもそれはみんな努力してくれた結果なのである。一個人でお金持ちになることはありえないのである。自分のことを言えば自分は別に金持ちでもないしお手伝いさん雇えるような金もない、ただちょっとだけお手伝いさんに家で仕事してもらったのでその感じたことを書いたのである。現実今や介護などで自分自身がここ5年くらいは今や家のお手伝いさんであり給仕である。だから金持ちの家とは全く違うのであることを考慮してください。

posted by 老鶯 at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題