2016年12月02日
投資信託はもうからない もうかるのは証券会社と銀行だけ
2016年11月30日
ことわざは人間の普遍的真理 (損して得をとれ)
2016年11月29日
銀行が投資信託や証券に手を出すリスク (銀行は証券のことは支店長でも部長でもわからない)
2016年11月28日
地方銀行の役割は何なのか? (証券などに手を出すのは信頼を失いかねない)
2016年11月25日
銀行員も今はブラックなのか? 若い人の会社や仕事で形成される人格は将来どうなるのか ?
2016年11月24日
投資信託を為替差益で失敗した (為替差益でか江戸幕府も崩壊したその恐ろしさ?)
2016年11月20日
投資信託でも証券会社、銀行でもでもリスクをとらない (原発もリスクを説明しないから詐欺だった)
2016年11月15日
見える仕事と見えない仕事 (人間の仕事が機械に代わるとき、人間の価値は何か問われる)
2016年11月04日
二宮尊徳の思想が見直される時代 (グローバル資本主義経済は限界に来ている)
2016年10月18日
広域化グローバル資本主義の限界 (原発事故から考えるー離散解体しやすい社会)
2016年09月28日
広域社会の暗部、貧困日本の家族離散生活 (青森から沖縄からトヨタで派遣労働ー原発は出稼ぎしないために誘致された)
2016年09月12日
若者(20代)の自殺率ワースト 日本の自殺率世界一 (時代をふりかえり考える)
2016年09月05日
なぜブラックな職業が多いのか? (社会自体がブラックだから)
2016年08月17日
グローバル巨大化資本主義の限界 (次に来るものは小規模なもの地方文化の興隆)
2016年07月04日
民主主義は権力の平衡をは計る制度 (暴力ではない対話と話し合いが基本
2016年06月30日
底辺層の不満は根強い (余裕がないと金持ちへの怒りにもなる)
2016年06月28日
グローバル資本主義の何が問題なのか? (移民などにより国家民族文化共同体の崩壊)
2016年06月13日
人間はなぜ対立して戦争するのか? (現代社会は複雑で敵が見えないから陰謀論になる)
2016年06月12日
グローバル資本主義やTPPについての「心の青雲」主張の矛盾 (2) (青森のリンゴが高くなり食べられないから考えた)
2016年06月11日
グローバル資本主義やTPPの矛盾 (久々に地元の小女子( こうなご)を食べた)
2016年06月07日
なぜ景気が良くならないのか? (グローバル経済資本主義では格差が拡大する)
2016年05月26日
スーパーで毎日買い物して考える (日本は貧乏になり外国産のものを食べられなくなるのか?)
2016年05月08日
犯罪はパターン化できる (犯罪にあった人は犯罪に興味をもつ-格差社会は犯罪が増える)
2016年05月07日
全国市町村財政情況0・5以下の感想 (北海道の旅の回想の詩ー和寒(ワッサム)
2016年05月05日
この世の中誰が犯罪者かわからない (刑務所の囚人が低賃金で多国籍企業に使われる矛盾)
2016年04月25日
グローバル経済社会とは多国籍企業が世界を支配する (インターネットの読み方、知識情報の構築が必要)
2016年04月14日
グローバル経済と郷土学 (遠くの人は外国人は本当に困ったとき助けるか?)
2016年02月27日
グローバル経済は数字化してリアリティが得られない) (恒産なくして恒心無しーモラルが形成されない)
2016年02月26日
なぜ農業が軽視されるようになったのか? (米余りなどで農家の価値は低下した)
2016年02月20日
現代は遊びが仕事化する (遊びは創造を産み出す-人間は最後は遊び人間になる)
2016年02月12日
世界同時株安に翻弄されて不安になるのはなぜ? (見通しがたたない、空間的にも時間的にもー紙幣は紙屑になり数字でありゼロになる)
2016年02月11日
世界的株の下落について銀行の部長と話する(短編小説)
2016年01月09日
武田信玄はなぜ天下をとれなかったか? (天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)
やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし
2016年01月04日
何のために誰のために働いているのかわからない (見えない不特定多数の人のために働く矛盾)
2015年12月28日
労働の価値は常に変わっている (女性の家事労働は機械化したから別な価値を女性に求める時代)
2015年12月09日
保証人問題は江戸時代からあった (江戸時代から継続している人間の問題)
2015年10月25日
国際性が身につくとは何か (株とか世界に投資してみるとわかるー信用が一番大事)
2015年10月20日
資本主義の終焉と歴史の危機ー水野和夫を読む (資本主義民主主義の理念の危機でもある)
資本主義の終焉と歴史の危機ー水野和夫を読む
(資本主義民主主義の理念の危機でもある)
それまで三世紀にわたって封建経済全体を前進させてきた原動力である農村の開拓が地理的にも社会構造上も客観的にみて天井に突きあたってしまった
これは日本とにている、日本も幕末辺りになると新田開発になる場所もなくなり人口が増えるのも停滞した、日本でも田を作るための開墾開拓の歴史は弥生時代から延々とつづいてきたからヨーロッパともにていた。
そして明治維新後も開墾開拓はつづいていたのである。
八沢浦は明治になり埋め立てられて田になった。小高の井戸川浦は大正時代に開拓されたのである。
戦後でも引揚者が各地に開墾に入ったのである。小池というと鹿島では街から近いのちそんなところまで開墾に入った。だからいたるところ戦後でも開墾に入ったのである。
つまり農業国の延長として戦後十年くらいはつづいていた。
そもそも満州に日本が進出したのは広大な土地で農業をしようとしていたのである。
日本は狭く農業が限界に達して開墾地を求めて満州に進出した。
それが契機となり中国と戦争となりアメリカとも戦争になった。
日本という一国でも成長しようとするとき外国へ進出してそれが戦争ともなる
成長が限界になるとそうなりすいのは歴史をみればわかる。
資本主義の限界とは資本の実物投資の利潤が低下して資本の拡大生産ができなくなってしまうことです
金があっても今やどこにその金を投資してもうけるかとなるとその国も会社もなかなか見つけられなくなる、世界の資本主義がもうそこで限界に達する
自分がカナダの国債を買ったけどそれが一割も引かれたのはショックだった。
カナダはよく分からなかったが石油がとれるからいいんだとすすめられた。
今は石油の時代だから石油がとれることは経済が強いのかと思った。
ところが最近石油の値段がかなり下がった。それは中国の影響などで需要が低下したからそうなったのかと思う。
石油がとれてもそれを使ってくれる世界経済が停滞すれば石油の値段も下がるのである。中国でも成長の限界がきたということでそうなった。
そこで金余りにもなりパブルになる、一度日本では異常に土地の値段があがったのはそのためである。金の投資する所がなくなりオランダではチューリップバブルになった。
絵画が異常に高い値段でバブルの時に買われたのもそのためである。
バブルと同時に長いデフレになっていったのももう物余り金余りになったからである。
今やどこの国に投資しようがもうけがない、利子が生まれないので資本主義は限界に達したとされる
「主権国家が消滅して世界政府ではなく中世の西洋のキリスト教世界に存在したような普遍的政治組織の近代的、世俗的な相当物がそれにで変わる」
キリスト教的価値観に支えられた中世の神聖ローマ帝国のようになる
これはグローバル資本主義の限界として言われるようになった。それは自分でも相馬郷土史研究として地域のアイディンティティを追及したのとにているしグローバル化した世界が逆にフィードバックして中世的な世界に帰るという現象である。
相馬郷土史というよりこれから相馬郷土学として発展させたいから名前も変える
つまり資本主義が限界に達すると世界政府とか世界市民というより中世的なブロック的な世界観にもどるということがあるのは日本でも共通している。
世界政府となると価値観がとても共有できないからである。
グローバリズムの負の部分は世界の個性的な歴史的発展した文化の破壊であり自然の破壊だったからである。
何か文化的な統合はグローバリズムから経済だけのものであり起きなかった。
ルネサンスは世界的な文化の統合の結果として起きた。
ギリシャからローマからイスラムからキリスト教文化が一体となって起きたのである。
そこにイスラムがその時先進的な役割を果たしていて数学とか科学で優れていたのである中東は後進国ではなかったのである。
イスラム国のような野蛮だけが目立つ世界は世界に何も貢献しないのである。
ただ武力だげだったら文明は作り得ないのである。
資本主義は最初はこれも理念だった。それはプロテスタンシズムとしてはじまった理念の実体化したものとしてはじまった。利子はキリスト教では禁止していたが利子を産むことを勤勉に働いて資本を蓄積することは神に奉仕することだとなった。
なぜならその蓄積した資本を富を有効に使えば神に奉仕することになる。
それは他者への奉仕としてはじまったのである。だから理念であった。
それは現代の資本主義とはただ利子を産みそれを利己的に使うのとは違っていたのであるそして民主主義も自由、平等、博愛という理念からはじまった。
でもそこに西欧の文化には文明には必ずキリスト教文明でありキリスト教なくしてありえない文明である。
資本主義もそうだし民主主義でもそうである。一見関係ないようでもその底流にキリスト教があってありえるものだった。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
こういうことは今では普通にあるが今までは人民の命は国王のものだとかなっていたしこういうことを実践することは今でもむずかしい
中国などの王朝国家からしてもこんな思想は起こり得ないのである。
それはアメリカだと貴族もなく上も下もない平民的世界になったから民主主義が可能になった。
それでもアメリカでも金持ちと貧乏人の格差が極端だというときそうはなっていない
逆に一パーセントの金持ちが富の大半をもっているというとき異常な格差社会で人民は金持ちの奴隷化しているのが現状なのである。
格差社会になると中間層が消失してゆくと民主主義もなりたたないいうのは対等を求めるのが民主主義だからである。
わかりやすいのは大金持ちが貧乏人に仕えるのがキリスト教であり対等化するのが民主主義の理念だとしたら現代の資本主義は全く初期のプロテスタンシズムとも全く相反するものなのである。
大金持ちは仕える人を金で求めるが誰かに仕えることなどありえない
金があればもう毎日外食でもいい、豪華な外食を毎日できることは金があるからそのサービスを受けられるのである。
そして召使を雇うこともできる、召使は金持ちに仕えさせるのであり金持ちが仕えることなどありえないのである。
だからアメリカでは黒人を奴隷として働かせた、それをしたのはキリスト教国だったのである。
仕えるというときそれが具体的に如実に現れるのか家で働く家政婦とか手伝いさんとかである。
なぜここに露骨に現れるかというとまさに家政婦とかお手伝いさんはその家の人に仕える仕事を目に見えてしているからである。
そこでなぜこの人はこんなに金持ちで贅沢しているのだということがはっきりとわかる。その格差を肌でわかる。だから金持ちの芸能人がベビーシッターを雇ったが宝石類を盗まれたというのはそのためである。
自分もそういう経験しているからわかる。
今の自分の感覚はお手伝いさんと言っても皿洗うとかで十分くらいで仕事が終わる
そうすると何か自分がかえってそのお手伝いさんに仕えているような感覚になる
なぜならほとんどの家事でも介護でも自分がしているからである。
それが機械化しているとか買うことで可能になっていることもある。
その代わり昼間は外で食事して家事を極力省いているのである。
そうすれば時間が生まれプログに書くこと創作に専念できるからである。
それは社会にとって有効だともなる。ただ具体的に自分のプログは社会的に認可されているとはならない。
要するに今は家事をしなくても外食であれ何であれ機械でするとか外に頼むことでできるだから昔は中産階級でも女中を二人雇っていたとの時代とは違う。
それだけ家事は一大労働となっていたからである。
でもまた現代の労働は奴隷は派遣とか非正規労働者に安い時給とかでやらされているとかなりそれは女中とか家政婦とか手伝いさんは具体的にわかりやすいがそうした派遣とか非正規の安い労働者は現代の奴隷なのかもしれない
ただそれが女中とかお手伝いさんとか家政婦のように金持ちに仕えているということが具体的でないから意識されにくいのである。
別に誰かの金持ちの人に仕えているわけでもない、会社に使われているだけだとなるからである。
でもその時会社の幹部に仕えているのかもしれない、それは間接的だから意識されにくいのである。
別にレストランで食事をしてもサービスされる方も奉仕されているなど意識しないだろう現代の奴隷は意識されないし貧乏人もじかに接してみないと目に見えないのである。
三食つきだし後は自由である。自分が60才までそうだった。
今も自分が召使であり奴隷になっていたのである。仕えるものはになっていたのである。
どうして資本主義にあるのかというとはじまりが修道院にあった。そこでは神に奉仕するということで勤勉に働き資本蓄積して人の世に役に立つということであり修道士は贅沢などしていないのである。
今は逆でもそういう所が出発点としてあった理念だったのである。
民主主義もどこまでも対等を求めるというときそれはキリスト教の人に仕えなさということからはじまってる。それは人間の平等対等の理念である。
そして仏教でも女性は成仏できないと差別されていた。女人禁制の山が各地にあるのもそのためである。女性は不浄なものとされていた。
それでヒンズー教ではカースト制があり差別があり釈迦が生まれて仏教になり女性も成仏できるということで女性も信者になり普及したのである。
それも人間が対等を求めるからそうなる。そして逆にフェミニズムとなり今度は女性の適性を無視したもの女性の特権化が起きたり民主主義はあらゆる人が自由であ権利があり極端化して大衆の卑俗なものが力をもつようになったのとにている
要するに理念は理想である、でもその理想は時間がたつにつれて曲解されて俗化されて堕落して別なものになってゆく
資本主義と民主主義が理念だというとき中東のイスラム圏などと相いれないのは理念が対立しているからである。トルコは宗教でも妥協しているから違っている。
つまりすべて軍事力とか経済力の対決ではなく理念の対決で世界が調和しない、対立関係になるということがある。
誰も中国の共産党一党独裁は嫌だとなる、日本は中国よりはアメリカにも問題が多いが共産党一党独裁だけは嫌だとなり協力できないのである。
どうしても経済力があり軍事力があっても共通の価値観をもてないことが最大の問題なのである。
2015年10月19日
明治維新に国民国家となった経緯 (国民国家から世界市民へ向かうのが人類の進歩?)
明治維新に国民国家となった経緯
民主主義国家とは主権が国民一人一人にある国家である。つまり国民の一人一人が国家に対して責任をもつのが民主主義国家なのである。
国民の一人一人が平等の権利をもたせる、票でもみんな一票であり同じ権利なのである。生活保護だかろうがよぼよぼの老人だろうがそうである。
西南戦争で武士と戦い国民軍が勝ったことにより国民の意識が生じたのである。
だからその時戦った一平民の国民がどんな感覚になったのかということである。
「俺たちは侍と戦って勝った、もう侍に従う必要ない、俺たち国民一人一人が国をになうのだ」
その時意識変革があった。その意識変革はに民主主義に通じていた。
リンカーン大統領が、「人民の、人民による人民のための政治」としたことが民主主義の発祥である。
(日本国憲法)
国民国家としての戦争ではない、天皇の臣民としての戦争となる
国民というとき国民一人一人のために戦うのであり天皇のために戦うのとは違うからだ。ではこの国民主権となり国民国家となったとき責任は国民一人一人に課せられる、国家をになうのは国民一人一人である。
自分が仕えている大名に忠誠心をもつというものです
商家にもそれはありました
愛国をなじませるために忠君愛国にした
(明治という国家ー司馬遼太郎)
日本人にあったのは藩民でもない、会津ではあれだけの戦いがあり犠牲があっても会津藩に属する農民は無関心だったのである。
だから
なった。
■会津の落城からまだ十日とたたない十月三日から、会津全域にわたって数万にの
ぼる農民の激しい一揆騒動が起きた。「ヤーヤー」と叫んで打ちこわしを行った世
直し一揆は、封建制度を厳しく批判して、新政府に対しその改革の実行を迫るもの
であった。
常に会津の戦争が悲壮感をもってみられるが庶民にとっては無関心だったのである。
それはヨーロッパだと城壁に囲まれて市民が一体であり市民とんう感覚が育てられた。
それは外敵と共同して戦うということから市民(citizen)が生まれた、外国にゆくと
どこの市民なのかと問われる、citizenship(公民権)というのはそこから生まれている共同体意識なのである。
civilizationもこのcitizenから生まれた概念である。
要するに市民というとき外敵から共同して守ることであり強固な連帯意識がある。
でも日本の封建時代にはそうした強固な共同体はない、侍は侍であり農民は農民であり職人は職人である。それらが一つの共同意識をもっていない。
だから会津ではあれほどの戦いがあってもそこの住民はかえって歓迎していたとなる
つまり農民は侍に米を納税するだけのものであり会津藩を共同して守るという意識がなかったのである。
ただ藩単位で生活していた期間が長いのだからそこで醸成されたものは郷土愛である
郷土愛とは何かというときこの辺は原発事故で避難区域となり住めなくなった。
その時故郷とは何かということが常に問われたのである。
故郷とは何かというときそこは一代だげではない、何代にもわたって人が暮らした所でありそこへの愛着は親から祖父からさらに代々暮らした所への愛着でありそれが歴史となっている。
だから自分の父親が双葉の酒屋で丁稚奉公していたということを書いたがそこにもやはり自分は経験していなくても話を聞いているから愛着がでてくる
つまり人間の記憶というのは一代だけではない、親や祖父やその前の長い歴史があり愛着が作られてきたのである。
だから郷土愛というのは普通にもっているものであり地が血となるのもわかる。
ところが文明というのはcivilizationであり市民から発しているのである。
そのcivilizationから国民意識になった。そのことが日本ではむずかしいので天皇の臣民として理解させて国民意識を作っていったのである。
だから国民になることは明治維新の最大の改革だった。また法人となること会社の一員となることもまた改革だった。会社というのも明治になって生まれたからである。
でも国民軍が勝ったことで武士階級はなくなった。その時会津藩士も国民軍に参加していたのである。その時薩摩に恨みをいだいてその恨みを晴らすということもあったかもしれないがもう藩はない、国民として戦ったのである。
何かその時国民軍として戦い参加した人たちは最初に国民を意識した。
侍が国をになうのではない、国をになうのは戦った国民軍の一人一人だということを意識した。それはやはり命をかけて戦ったのだから学問的に知識として理解するのとは違っていたのである。
そして日露戦争から太平洋戦争と国民軍は外国との戦いでさらに国民意識が強固にされたのである。
今になると国民など当たり前ではないかとなるが明治維新の時はそうではなかった。
日本国民として大きな範囲での意識が生まれたことはこそcivilizationだったのである。なぜなら侍が治めているときは政治でも何でも侍が決めてそれに従うだけであり庶民は政治に関与することができないからである。
そうすると藩があっても藩意識もないのだから責任感も生まれない
それで会津の侍があれだけの戦いと犠牲があったのに無関心だったことでもわかる。
でも今や国民となるとき外敵に向かい国民が責任をもって戦うという意識になった。
日本のどこかが外国に攻められて炎上しても高みの見物だとはならない
同じ日本国民として黙ってはいられないのである。
太平洋戦争ではこの国民意識は最高潮になり過度になり敗戦でまた変わってしまった。
日本は戦争を否定して国民意識も変わった、日本国民自体を遺棄して日本国民であることに誇りがもてない、否定的な感情をもつようになった。
特に左翼系では日本国民であること自体を拒否する。おそらく中国に属した方がいいとか一方で右翼系でもアメリカに従属して属国化したから本当の国民意識は失われた。
その時愛国心も失われたのである。
歴史というときやはりどういう経過でそうなったのかをふりかえることにある。
明治維新が今日の日本国の基になったのでありその時からの継続が日本であった。
●国民国家は否定され愛国心は日本では喪失して多国籍企業世界へ
その原因は太平洋戦争でアメリカに敗れて属国化されたことにあった
敗戦以後は国民という意識が希薄化してみんな企業戦士となったことでもわかる
会社が企業が国民の代わりとなったのである。この傾向は多国籍企業がグローバルに支配するということでもあった。アメリカですら愛国心がどうなっているのか、いくら戦争に勝っても愛国心となるとやはり衰退しているだろう。
むしろ多国籍企業として国が企業化しているというのが現代である。
だからこれは日本だけではないグローバル化した世界では愛国心は薄れるのである。
そして国民意識から何に変わったかというとグローバルな経済人となったのが現代である中国でも愛国心を言うが共産党の幹部は巨額の金を貯えてアメリカでもカナダでもどこでも移住する準備をしているとか日本でも金を金持ちは他国に移すとかをしている
もし愛国心の時代だったらそんな国を裏切るようなことはありえないのである。
でも世界的経済人としてなら別に国より経済が大事だからそうなっても不自然ではないのである。
今は国と国が戦争するように見えても実際は石油の利権とか企業の利益のために戦争になる。それは今までもあったにしろ多国籍企業世界ではそれが露骨になる。
太平洋戦争のときはそこまで多国籍企業の力はなかったからである。
ともかく人類史で考えれば国民国家というのは大きな共同体となり一つの大きな進歩だった。次に国を越えて共同意識をもつグローバル経済になったけどこれも問題はいろいろある、企業は利益共同体でありそれ意外ないから国々の文化も破壊する。
江戸時代のときの藩はその土地に根ざして個性的でありその土地土地の文化を育んだ
そこには土地と一体化した共同性と文化がやはり育まれたのである。
だから廃藩置県になったとき県というのは今でも違和感がある。
県の範囲が広いので県からイメージできないのである。福島県だったら会津は会津であり福島県としてありえないのである。そもそも福島という名前すらどこから来たのかこれも福島県が一体になりえないことである。県という範囲がどこでも広すぎるのである。
城があったところからその土地のことはイメージしやすいのである。
多国籍企業となるとこうした土地土地の文化を破壊することが大きな問題である。
でもまた貿易とかを否定はできない、なぜならオランダが最初に国民意識をもったのは貿易が盛んだったからだという、商人の国になったときどうしも世界が広がるから国民意識ももつ、そしてオランダは国が狭いから国民意識をもちやすいこともあった。
商人は国境を越えて商売するから国の支配を受けると自由がなく税ばかりとられるから国を否定するというのは今の多国籍企業とにている。
ハンザ同盟などがそうである。そうした商人のネットワークが一つの国のようになる。
そうした矛盾はあるにしろ人類が目指すのは何なのか?
文明とはcivilizationであり市民からはじまり国民意識となりさらに世界市民としての自覚をもつ世界なのだろうか?
そこでは世界市民となると世界市民として方を遵守するとか人権を重んじるとか共通の価値観の形成が必要になる。
そこには宗教とか様々な相違があり困難を究める、しかし人類の進歩とは国民意識がそうだったように世界市民として拡大してゆく、物理的には空間はすでにどこでも行ける時代だからその障壁はとりはらわれたから問題は意識の問題なのである。
ただ世界市民といってもそうなる前に今でもそうなように混乱が起きてくる
シリアの難民問題でもそうでありそれはあくまでも理想であり人類はその前にハルマゲドンとなり国と国が最後の戦いをして滅びるということもある。
だから世界市民といっても架空のことであり国民意識は現実となった歴史感覚であるか
世界市民という意識をもつのは困難を究める。
マルクス主義の世界のプロレタリアートは団結せよというのはそれも一つの世界市民への国を越えた運動だった、それも挫折して凄惨な大量殺戮で終わったのである。
だからその前途は厳しいが国民国家になるということができたことはやはり人類の進歩として見直すことは必要である。
そして今世界ではどうしてもそうした広域で結びつく世界を目指すのは貿易などで強いられている。それでヨーロッパ共同体 (EU) が生まれたのはそのためである。
でもこうした広域な共同体になることは歴史的なものもあり非常にむずかしいのである。だから以前として軋轢があり問題が生まれる、日本が江戸時代から明治維新で国民国家になったのはやはりそれだけの歴史があり統一しやすかったとなる
他ではアジアでも国民国家になるのは遅れたことでもわかる。
そうした広域共同体がむずかしいのは言語であれ様々な文化の相違もありそれを何をもって統一するかとなるとむずかしい。ヨーロッパとか中東は宗教が大きな役割を果たしたが現代はむしろ宗教を否定してフランス革命で自由、博愛、平等が理念になった。
それは民主主義の理念たったのである。民主主義というのは理解しにくい、でもそれは何でも自由とかではない、一つの理念なのである。
アメリカはその理念を世界に普及させることを強いる、それに従わないと戦争で従わせるとなるが中東では受け入れられなかったのである。
2015年10月18日
雇用者の責任と雇用される者の責任 (民主主義では雇用するものもされるものも対等を求める)
(民主主義では雇用するものもされるものも対等を求める)
雇用主(使用者,会社)も,従業員の業務中の行為による損害について賠償責任を負います。これを『使用者責任』といいます。
※労働契約を締結するときに、期間を定める場合と、期間を定めない場合があります。一般的に、正社員は長期雇用を前提として特に期間を定めず、アルバイトやパートタイマーなど短時間労働者は期間の定めがあることが多いです。
僕が「基本的には人を雇うべきではない」と思う一番の理由は、人を雇うということには、大きな責任が伴うと考えているからだ。社員を雇えば、毎月給料を払わなければならない。会社の業績なんてお構いなしに、契約した分のお金は払う責任がある
僕は、どうしても人が必要な時には「従業員」ではなく「共同経営者」を見つけるべきだと思っている。
http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/01/26/214422
いくら会社の業績が落ち込んできたとしても、「明日からクビだ」なんてことは言えません。
社員とその家族の面倒を見るという責任です。
でも現実社会になると具体的なこととして理論ではなく何でも重い責任が課せられているがわかった。
それは人を一人簡単に手伝いさんとして雇ったことからはじまったのである。
それは自分が雇ったのではない、家の人が雇ったのだがそのことからいろいろな社会や人間の問題を考えるようになった。
雇ったお前の責任だ、お前が悪いんだ
簡単に雇えないのである。まず手伝いさんでも簡単には雇えない
家の中に入るのだから家の中のことがわかるのだがら簡単に雇えない
つまり何かあっても雇った方の責任にされるのだ。
そして民主主義のことを書いてきたが民主主義とは選挙権があるというだけではない
社会そのもの民主主義なのである。
それはだから雇用とかの面でもそうなっている
雇う人と雇われる人がいるがそれは対等を計る制度なのである。
雇う方でも責任があるから雇う方でもいろいろ手を打つ、厳しくせざるをえないのであるなぜならその責任はとらされるのは雇い主だからである。
大金を失ったのは雇った方が悪いとなるからである。
そんな危険な奴を簡単に雇った方が悪いのだ
お前が犯罪を誘発したのでありお前が悪いのだ
誰も同情しないよ
警察でも証拠がなければとりあわない
お前がすべて悪い、馬鹿だということ
一見雇い主の方が有利になっているようでなっていない
だから人を雇うなというとき共同経営者になることだというとそうである
それは共同の責任であり雇うと雇われのとは違うからである。
つまり雇う者と雇われる者は対等になるのが共同責任だからである。
正社員と派遣とかに分かれたのは雇う方が責任をとりたくないことなのだ
正社員ならいろいろ保証するが派遣だったらいつでも首が切れるということで雇う方にすれば便利なのである。
でも雇われる方にすると身分も安定しないし将来の設計もできない
すると公務員とかはまず一端入ったら身分保証が一生される
簡単には首にできない、病気だろうが何だろうが能力は実際なかったにしろ
一端入ったら身分が一生保証されるのである。
その違いはあまりにも大きいとなる
公務員は身分だというとき侍と同じだとなる
会社だとやはり会社自体がつぶれることがあるからそうはならない
公務員はこの辺のように町や村がなくならない限り身分は保証される
食いぱっぐれないのである。
民主主義は要するに何でも対等をめざしている、一見そうでないように見えてもそうである。
雇い主と雇われるものもそうだし政治家でもあくまでも選ぶのが選挙民なのだから対等である。
民主主義の功罪は極端化するとみん対等だし責任を問われることを極度に恐れることになる
医者と患者は対等でないようでも対等を求める、だから医療ミスにあうとことを医者は極端に恐れると医者になりたくないとなる、そういう問題が実際に起きた。
先生と生徒でもそういうことは起きる、絶えず責任が問われるから戦々恐々としていなければならない社会である。
子供に声かけても何かあったら責任が問われると必ず何があってもお前が悪いんだとされる社会である。
そうなると雇う方でも徹底的に疑い信用しないという窮屈な社会になるし実際そうなっている 互いに人間が信用できない社会なのである。
それまた当然だともなる。つまり雇う方でも雇われる方でも対等を求めれば責任が問われる、雇う方にだけ責任があるのではなく雇われる方にも責任がある。
雇う方も雇われる方もだから共同経営者になるのが理想だしそういう会社もあった。
まさに民主主義社会ではそうした対等な関係をどこでも求めているのである。
つまり民主主義社会では一票が平等である。それは平等の権利を与えられていることなのだ。生活保護者でも一票は同じなのである。
とういうことは対等だということは対等の責任もあるということになる
首相でも大臣でも何でも対等であり首相にだけ責任があるのではない
その首相を選んだのは一票を入れた者にもあるとなる
だからある人が金を多くもっていたりするとそのことも対等ではないとなる
あまりに対等を求めると平等を求めるとそれがかえって平等でなくなる
たいして働きもしなくても同じ賃金をよこせ、能力もなくても対等を要求する
才能でも努力でも何でも無視してすべては同じであるべきだとなりそういう要求もまた理不尽になるのである。
とにかく会社であれ何であれ例えばどこの市町村に属していてもその市町村の一員としての責任が問われる、だから原発事故では原発を誘致して金もらっていた町の人が悪いんだとされた。つまり民主主義とはこうして常に一人一人が責任が問われることなのだ
上の人が決める権力をもっていたなら下の人は従うだけだから責任はない
それは江戸時代なら侍がすべての責任があり切腹するほかないとなる
今はどこでも一人一人の責任が問われる
そうなるとき会社でも共同責任者であるとしたらその会社自体のことを総合的に考えざるをえなくなる
何かそれは利益だけではない、そうした社会に対しての総合的な視点が必要になる
俺は別に時給いくらもらっていればいいだけだよとはならないのである。
でも時給もらっている人はそれだけのものとしてみられることは確かである。
それは上からの強制ではなく一人一人がそうした自覚や責任が課せられているのが民主主義だとなる
今人手不足で会社が困っているというときやはりただその場その場で会社にとって都合のいい雇い方をしていたからだと言うのもわかる
でも一方で雇われる方でもそうして何でも対等になると責任が大きくなるのだ。
派遣などはそうした責任がないから気楽だとか言われる
そういう人は責任がないのだからまた時給であり安いとなることに甘んじなければならないともなる
要するに民主主義とはともかく対等を求める社会だがそれと同時に責任も課せられている社会のである。
2015年08月24日
何か与えることがないものは生きていけない (貨幣とは何なのか?)
何か与えることがないものは生きていけない
(貨幣とは何なのか?)
あなたの一番有益なことをしなさい
金は与えます
金のために働く必要はありまん
あなたは何をしますか
あなたは何に一体時間を費やしたいんですか?
とにかくあなたが時間が費やしたものが人生です
漫画を一日読んでいたい、音楽を一日聞いていたい
そうしたいならそうして下さい
それがあなたの人生です
ところがです、漫画を一日読んでいたというが
それは誰かが創作して苦労して作ったものなんです
音楽を一日聞いていたいというけど
それも誰かが創作したものなんです
うまい料理を食べたい
うまい新鮮な野菜を食べたい
うまい肉を食べたい
うまい魚を食べたい
、、、、、、、、、
それも誰かが苦労して作ったものなんです
私は快適な家でのんびりしたい
それもその家も誰かが苦労して作ったものなんです
自由に旅行したい
それも乗り物でも食べることも泊まることもしなければならない
それも誰かが提供して旅ができているんです
本を読みたい
本ならインターネットでいくらでも買える時代
でも誰かが運びその本の内容も書くの苦労しているんです
そして車で苦労して運ばれてきているのです
人間が無料で提供されているのは空気くらいでしょう
今や水さえ水道管を通って人の力で供給されているんです
そのために払っているのが代価が金になっているんです
金など株とかで入ることあるんじゃないか
親の資産でのうのうと暮らしている人もいる
そんな人は何の苦労もしていないじゃないか
それそうですが、親の資産でも親が苦労して残しているんです
金は簡単に生まれないんです
株だったいつももうからない、必ず下がりますから
また金は万能ではない
物価が高くなり金は紙切れにもなる
この世の中、人は何かを人に供給する、与えないと生きていけないです
あなたは何を与えられるのかです
あなたが何もしなくてぼーっとしていたい
でもあなたは三食食べねばならないし住む家も必要でしょう
それも必ず誰かが苦労して提供したものなんです
問題はあなたは何を与えられるかなんです
何も与えることがない人は何も与えられません
世の中とはそういうものではないですか
働くのは金を得るためではありません
誰かに何かを与えるためなのです
肉体労働でもそうです
暑い盛りに外で働いている人はそうでしょう
頭を使って働いて与える人もいるでしょう
私はパチンコ屋で働いています
それも誰かに与えるためですか
娯楽として与えるためですか?
それはあなたが金を得るためだけです
そんなものが与えることになるでしょうか
その人は借金を返すためにパチンコ屋で働いている
誰かに与えるためとかはなく何のためもないのです
それこそ金をえるだけのものとなっている
普通の仕事はなにかしら自覚しなくても他人のためになっています
金のために人は働いているのではないのです
金は一つの働くということが代価となるものなんです
金はすべてではない、金はメデアであり仲介するものなのです
ではなぜ収入にこんなに差があるのですか
おそらく多く与える人は多く金を得るのが理想だけど
金はとうしても不公平が生じる
金というのは無数の職業があるとき
いちいちその価値を物で与えたりしためんどうだから貨幣を作ったんです
それは人間の知恵です
その金に支配されるということがあってはならないのです
人間と人間のやりとり金が介在しただけなんです
理想は多く与えるのもは多く受け取る
少ししか与えないものは多くは与えられないというのが理想なのです
人間は何が与えられるかが一番大事なんです
働くのは金のためではないんです
そこが社会を歪ませる大きな原因なのです
国と国の関係もそうです
何も与えない国は何も得られない
何もない砂漠でも石油が与えられるから豊かになる国がある
日本は技術力を与えて製品を加工して売って石油を買っている
何もない国は安い労働力を売る他ないのです
金だけがあればいいようにみんな思っているけど
金自体には何も価値がないのです
貨幣で何かを交換できる、買うことができるから価値があるのです
黄金の金は黄金自体に価値はあります
それとて何かと交換できるから価値があるんです
アフリカでは黄金と塩が等価だったというのもそうです
なぜなら塩の方が日常の生活では不可欠だからです
黄金をいくらためても食べることはできないからです
食べるものを買うことができるとき黄金に価値が生まれるのです
金自体は紙にすぎないのです
それが交換能力を失ったとき金の価値はなくなる
ただの紙になってしまうのです
円安になれば外国のものはますます高くなり
日本の円の価値はなくなるのです
交換能力がなくなるからです
金は媒介するものです、メデアです
情報でもメデアなのだからメデアをもったものが力をもってはならないのです
マスコミはメデアをもったから権力をもち大衆を操作するのです
貨幣でも媒介するものが力をもちすぎるのです
世界的に交換するものが増えると貨幣の力も強くなる
なぜなら交換したい、買いたいものがグローバルに広がるからです
欲望もグローバルに広がるのです
そして金が世界を支配してしまう
アメリカのドルが世界を支配してしまう
世界の機軸通貨がドルだということは世界を支配するのがアメリカになる
ドルをもっていけば世界中でアフリカの奥地でも通用するからです
ドルだったら世界のどこでも何かを買うことができるのです
それがアメリカが世界を支配する力を与えたのです
世界の人は国はアメリカにドルを通じてひれふすのです
金融でもって世界を支配するのです
しかしアメリカの背後に世界一の軍事力があり
ドルだけでは支配できません
ドルもまた紙でありドルを価値づけるものがないと価値はありません
実際に価値があるのは石油であり技術力であり軍事力です
貨幣はただ媒介するものであり貨幣自体には価値がありません
ローマの貨幣が価値があったのはローマ帝国があったからです
アメリカのドルが価値があったと同じです
ローマが価値があったのは軍事力であり貨幣ではないと同じです
何か資源でも技術力でも何でも与えるものがなければ価値がない
貨幣自体に価値があということはないのです
貨幣に価値あらしめているのが本当の価値です
だから江戸時代は貨幣より米高で給料が支払われていた
米が貨幣の代わりをしていたのです
サラリーとはローマの兵に支払われたけどそれは塩のことだったのです
塩が金の代わりに支払われていたのです
だから貨幣に紙幣に価値があるというのはそうあらしめているものがある時です
日本に技術力がなくなり与えるものがなくなれば円は暴落する
何も買うことができない紙切れになってしまうのです
そういう恐怖が昨今の経済の中で起きてきているのです
日本に膨大な借金があるというときそれは何なのでしょう
日本銀行が紙切れをの紙幣を作り市場に出しても景気が良くなりますか
黄金でもあればそれなりに景気が良くなるでしょう
ただ紙切れをいくら刷っても景気が良くなりますか
そんならこれほど楽なことはないでしょう
働くこともないです、紙切れをするだけですから
今の世の中絶えず金のことを考えないと生きていけない
金のことが頭から四六時中離れられない
世界が金のことで頭がいっぱいになっている
株や金融が世界をかけめくっている時代はなかった
でもよくよく考えてみると貨幣とは何かとなる
貨幣は単なる紙切れでしかないのである
そんなものに価値があるはずがない
これはみんなわかっている
世界の経済の動きは金融ではない
その背後にあり紙幣を価値づけているものである。
日本の円が価値がなくなのは国の価値が減退したからである。
それはいろいろある、だから日本銀行が紙幣をすっても景気は良くならない
紙切れをいくらすっても景気はよくならない
そんなことで景気が良くなるなら楽である
だから何かバブルになったりするのは資本主義社会の宿命なのである。
膨大な金あまりになり何かそれで買えるのかとなり
チューリップバブルが起きたように絵画バブルが起きたように
なんでもいい紙切れをもっているより現物に価値があるということなのである
俺はありあまる金を今もっている
でもここにはなにもない荒野なんだ
ここでは水一杯も飲めない
金をもっていても何の役にもたたないんだ
自動販売機もないしな
金がここでは捨てるだけだよ
何とも交換できない、買うこともできないから
そのとき一人の人が馬にのってきた
「助けてください 水一杯ください、金はこれだけあります」
「いいだろう、全部もらおう」
「ああ、やっと水をもらっんて助かった」
金も荒野や砂漠なら買うものがないから何の価値もないんだよ
2015年08月20日
グローバル企業は地球をも破壊する (生産共同体ー文化共同体の考察)
人間は群れることから村になったとかいう。人間は何らかの共同体に所属して人間だというのもわかる。
人間はもともと生産も消費も一体の存在として生きてきた。
何かを生産することで共同体になることはわかりやすい、江戸時代の村とかさらに縄文時代の村までさかのぼれば生産共同体である。
みんなで狩りをする魚をとる米を作るなど生産共同体である。消費するというときそれも生産の一過程である。
森の木材でも消費するというときそれは生産につながる。消費という言葉には浪費という言葉から来ているのだろう。
江戸時代のような小規模の自給自足経済では浪費するようなことはできない
資源が限られているのだから浪費などできない、だから人間の糞尿だろうが紙切れ一枚でも無駄にすることはできない社会である。何でも有効利用する社会である。
つた物は現代の物あまりの時代と違って大量生産ではないから一つ一つの物は手作りであり貴重なのである。だから現代のようになんでも消費するという観念はなかった。
だから村でも何でも生産共同体でありその中でしか生きられない社会である。
現代でもやはり生産共同体が社会を形成する、会社ではなにかしら必ず生産することによってそれを売って消費してもらって成り立っているのである。
ただ工業化社会になると生産するものは電化製品でも車であれ様々な無数の物が生産されているがそれは会社で分業化して生産されて消費される、使用されている。
一方で村とか自給自足の経済では自然の循環の中で生産されて消費され使用されて成り立っている
米を作るということは山から絶えず水を供給されて実りがもたらされる。
山は水の貯水の役割を果たしていて雨がふらないときでも山からは水が流れている
そういう干ばつのような時を経験しているが山には水が絶えず流れていたのである。
それで山が神となり春には平地に下りてくるというときそうした自然循環の中にあっての生産共同体だからこそ生まれた信仰である。
つまり昔の生産共同体は自然と切り離せない自然循環の中にあった共同体である。
だから祭りごとも一致している。祭りが政り(まつり)事になるのも当然だった。
天皇がその政(まつり)ごとにたずさわる神官のような役目を果たしていたのもわかる。
大嘗祭が豊作を天に祈る司祭だったというのもわかる。
一方で現代の会社はこうした自然循環の生産共同体とは遊離したものとしてある。
第一電化製品でも車作るのでも他の様々なものを作るのに自然と関係していない
自然を考慮することもない生産共同体である。
東電のような電力会社も原発とかなると自然循環の共同体とは何にも関係ない会社であるだから農業とか漁業とか林業とかとも関係しない
でも電気そのものは第一次産業でも使うから関係しないということはない
なぜならダムのよう水力発電だと自然と関係している。
石炭でも石油でも実際は自然にあった自然エネルギーだから自然と関係している。
核となると今までのエネルギーとはまるで違ったものであり自然とは関わりないのである自然エネルギーだと科学に弱くても石炭であれ石油であれ燃やしてエネルギーになるのだからわかりやすいのである。
原発になるとそういうふうに今までの観念では理解できないものである。
ともかくこれまでの共同体は自然循環の中にあり自然を自ずと意識化される社会である。そもそもだから社に介するがのが社会でありそれが会社になったことでもわかる。
その会社が今やグローバル化して大企業化してその大会社が国を越えて世界で生産活動して消費させているのが現代である。
だからアメリカでもアメリカという国を支配しているのはロスチャイルドだとかロッフェラーだとか常に言われる。ロスチャイルドが原発にかかわりその利権を獲得していたとかいわれる。
それは東電でもあれだけの三兆円の資産があるとか国並の力をもっていたのである。
その東電に政治家でも官僚でも検察でも天下り先としてあり雇われていたともなる。
政治家より国より大企業の方が力があれ国は政治家は大企業の下僕であったという構図が原発事故で見えてきたのである。
その会社は一地域とか国とか世界でも制約されずに活動できる。
大企業にとっては国というのがあると自由に活動できないから障害になる。
貨幣でも国ごとにあると経済活動が停滞するから一つになった方がいいのである。
それでユーローが生まれたしドルが実質的に世界貨幣となっている
そうなるとアメリカがアメリカの大企業が世界を支配しているともなる
その規模は日本の昔の村と比べたらあまりにも規模が大きすぎるから理解不能になってしまう。
だから大企業は地球の自然でも破壊する力をもつようになる。
後進国の森林資源でも破壊してとりつくしたり有用な樹を植えて混生林の自然林を破壊してしまう巨大な力をもつことになる。
こうした大会社は自然に制約されて生きてきた小規模な生産共同体とはあまりにも巨大なマンモス的なものでありそれは地球の自然まで破壊する力をもったのである。
そもそも人類史でこうした地球の自然を破壊するような巨大会社は存在しえなかった。
自然の制約を越えられないしその中で生きていた共同体である。
国とはなにかとなるとそれは小規模な村がもともと国(くに)であり区切るとかあるからクニは小規模なものから発している。小国(おぐに)というのは全国にありそこは一つの自給自足の国だったのである。その規模とはかけはなれたものが大会社なのである。
そして国というときそこには何かしら文化がある。祭りがあり政(まつりごと)がありそれは自然と密接に結びついてあった。大企業とかはただ一つの物をテレビならテレビとか車なら車とかを生産する共同体でありそこには自然とかかわる祭りは生まれない
つまりそこには文化がないのである。
生産共同体があるとしたら文化共同体がある。文化というのもcultureがcultivate(耕す)から来ているように生産共同体がなくして文化もありえないのである。
文化というときその土地土地に根ざす生産共同体をベースにしているから多様になる。
一方でテレビや車だけを生産するのは単一生産であり多様化しない
自然とも関わらないので会社には文化が生まれないし育たないのである。
だから会社というのは世界的に文化を破壊するのである。
言葉にしてもそれは国々の文化であり文化共同体の基礎として共有される。
でも言葉が違うとグローバル経済にとっては不都合になる。一つの言葉の方が大企業にとっては商売しやすいし英語が世界語になった方が便利になるのだ。
そうなると言語としての文化は文化共同体は破壊されるのである。
グローバル企業が地域の文化を破壊するのはアメリカが世界の文化を破壊しやすいのはアメリカはグローバル企業が支配しているからだとなる。
今は例えればイオンがあるとするとイオンという大会社の一員として働くのでありその地域地域で働くとはならない、商店街はその地域のものだけどイオンとなると大会社であり地域のものとは違う。だからイオンという会社が優先化するから撤退したら何も残らなかったとか問題が起きる。地域だとここが商売にならないからと撤退できないからである。でも今やみんな地域の一員とかの感覚ももてない、現実には会社の一員でありまた国の一員と戦後のような強い国意識ももてないなのである。
だからいくら愛国心をあおっても何か国としてのアイデンティティが失われているのである。
とにかくグローバル化すると地域の食文化も破壊される、みんな一様化され安い、ただスシとかが世界で共通語になることもあるがスシとかは日本の暑い湿気の多い所にあった食である。暑いと刺身とか生のものかうまいからである。日本の湿気とか暑さから文化が生まれていたのである。酢の物もそうでありさっぱりしているからである。
日本の暑さは乾燥地帯の暑さと違っているからである。
現代は会社社会であり文化が破壊されやすいのである。その文化が破壊されることが深刻なことを理解されていない、文化はまだ技術によっても破壊されやすい
文化はもともと自然循環の中で生きてきた長い伝統から生まれた、それぞれの国の成り立ちは必ず文化がありその文化も大規模な機械化とかグローバル企業化によって破壊される万葉集などは日本の生産共同体から成り立った文化共同体の産物である。
会社社会はそうした文化は生まない、だから自然を容易に破壊する、森でもそこは木材という自然としてしかみない、米を作る生産共同体だったら山は水を貯える神聖なものだとかなるがそういうことは無視される
大企業や巨大な機械化によって森が根こぞき破壊され森と一体化した人間の共同体も破壊されるのである。
だから今回の原発事故も大企業による破壊だったのである。
第一次産業が致命的な打撃を受けたのはそもそも会社は昔の村のような自然と一体化して生きるものではない、自然循環に生きるものではない
現代文明はこの巨大会社化したときその弊害も大きく地球の自然を破壊するまでなったのである。
2015年08月15日
現代人はなぜ労働したくないのか? (jobでなく[lifework]を目指すべき)
働くこととを探求してゆくとこれも複雑なのである。
jobだと賃[手間]仕事をするとか半端仕事とかある。
workだと•one's life's work [lifework]であり作品の意味もある。
現代に増えた仕事はjobである。
作品をしあげるとなると江戸時代の職人はみんな一つの作品を仕上げるために精出していた。
だから下駄でも何でも作った人の名前がついたりしている。
今でも特殊なきれのいい包丁を作っている所が近くにあった。それには名前が刻まれていた。
名前か刻まれていることはそこに誇りがあったのである。
そこから職人気質とかが生まれたのである。
今は大量生産になれば作った人の名前など記されていない、誰が作ったかもわからない、もしかしたらロボットが作っているのじゃないかとさえ思う
大量規格生産だったらそうなる、大量に同じものを作ることになったからである。
そういうものは貴重なものではない、例えは江戸時代など簪(かんざし)などあるがあれも一本一本手作りで貴重だったろう。
戦前の十年後とかまでは物はないから何でも貴重だった。自転車だって一生磨き使っていた。
物は職人でも丹精こめて一つ一つ手作りで作っていたから貴重になりその材料も大量生産するほどないしわずかだからさらに貴重になる。
簪(かんざし)でも銀の材料が貴重だから産地の秋田まで職人が移動したとかも言われる。当時は簡単に材料でも運べないからそうなる。
職人はすでにその仕事自体はone's life's work [lifework]であった。
そういう仕事をしている人は今の人の仕事とは全く違った意識をもっていたのである。
まさにwork(作品)を仕上げることが仕事だったのである。
現代人が豊かでも物があふれても何か満たされないということもこれも過去の比較でみるとわかりやすいのである。
まずこうして[lifework]として仕事をしている人はまれだから仕事はただその場稼ぎというか賃金を得るためのものであり生きがいを見いだせないのである。
自分にしても能力かないから若いときから流れ作業のような仕事しか与えられなかった。それ以来仕事を嫌悪するようになり仕事していないのもそのためである。
現代ではまず生きがいある仕事をできる人は特別な能力がある人しかなれない
ほとんどの人があとはロボットのような大量生産の部品を作る人になるしjobになる。
ともかく仕事はその場限りとかではなく本当は[lifework]になるとき仕事なのである。
だから昔の職人は技をみがくために一生努力する、現代ではその場限りなら技を磨く必要もないし何か仕事に上達するとかもない、その場限りで手間賃を得るだけだとなる
そうすると仕事に生きがいをもていなから仕事したくないとしてニートとか働かない若者も膨大に増えたのである。
それだけの余力が家にあったりするからそういうこともできるのが現代である。
自分の庭を作ってくれた人はそういう職人だった。大工でもあるし庭作りもできて一人親方になっていた。何でもできるから驚いた。でもそういう能力がある腕が良くてもやはり金がたりないと別なブラックな仕事をしていたのである。
今の社会はそれだけきりなく金が必要になる。それだけ贅沢を求めてきりない社会なのである。
家を建てている人は借金している人が本当に多い、借金してまで贅沢をしているのが現代なのである。
生産社会だったのがこれまでの物を大事にする社会である。もったないの社会である。
それが物がないからであり大量生産できない社会だからでもあった。
物があふれれば物は貴重でなくなる、だから簪でも江戸時代なら貴重でも今ではそうはならない、そうした物の価値も時代によってまるで変わってくるからである。
現代でもそうした職人とかは受け継がれている、エキスパートとかスペシャリストとか専門家がそうなるだろう。そういう人はやはり貴重であり価値ある人となる
でもそういう人になれるのは極まれなのである。
そういう人は別に農業でもいる。農業のエキスパートで成功している人もいた。
浪江の人で野菜作りに優れていて平(いわき)に売って財を成して子供を三人も大学に出した人である。その人は賞ももらっている。
野菜でもネットなどで販売している人では名前を出してその人が作ったものとして売り出しているがそれは昔の職人とにているのである。
だから現代でもそういうことは受け継がれているのである。
宅配とか、自販機の飲料水詰め込みとか
よくあんな仕事やれんなぁ〜と思ってる漏れの仕事(IT土方:夜間オペもやった)も
他人様から見リャ、よくあんな奴隷みたいな仕事やってんなぁ〜という目で見てるんだろねw
確かにこういうことが多いから仕事したくないという人が増えたのである。
自販機などは機械化して手がかかってないようで詰め込む作業を見たら種類が多いから結構な仕事になっていた。なかなか今の仕事は見えないから苦労がわからないのである。
自分は家事が仕事だからゴミだすのも一仕事なのである。するとゴミを投げるからゴミをもってゆく清掃車を見ている。あの人たちもゴミを運んでいるからあれも結構重いから楽じゃないなとかみる。
一つの仕事としての連帯感をもったのも奇妙である。
やはり同じ仕事している人は共感を持つということになる。
そしてあの清掃車の仕事でも市町村を支えているという実感をもった。
なぜならこの辺は人手不足でありみんな補償金とかもらって働かない人が多いからであるこの辺でそうして働かないとゴミすら運ぶ人がいないと市全体で困ることになる
一見そういう仕事はしたくないとなるがそれがするものがなくなったときどうなるのか?
市がもはや成り立たない運営できない、住むこともできないとまでなってしまうだろう。外国とかストライキがあってゴミが街に散乱したことがあっことでもわかる。
原発事故では何かそうした市を町を村を誰が支えるのかということが問題になった。
働き手の若い人がいなくなればゴミを運ぶ人とかまでいなくなればもはや市町村も運営できないとなるからだ。
こういう場所ではまた仕事の意味も違ってくる。でも働かない人はこの辺では老人も多いこともあるが補償金もらっているから他よりずっと多い
それでどこも人手不足になっているからまた事情が違ってきたのである。
だから俺たちの住んでいる市町村で困っているのに働かないということはそこに住めないとまでなる。
そういう危機的状態になれば今までのようにしてはいられないはずなのである。
金があるから働かなくてもいいとかならない、年金もらっているからいいともならない
第一年金暮らしといっても金があっても働いてくれる人がいないなら老人の暮らしも成り立たないのである。
病院でも介護でも働く人がいなくなれば金があってもサービスは受けられないのである。
だから避難区域では現実に帰りたくないというとき働く若い人がいないのだから老人だけ帰っても暮らせるかとなって問題になったことでもわかる。
働くことが端を楽にするというときまんそれは狭い範囲でみた労働感である。
つまり身近な家族でも苦労して働いているから楽にしたいという気持になる。
それが小さな市町村だと家族のようになりそういう意識がこういう緊急事態では生まれた他でも老人だけの村がスーパーも運営できないと自ら働かざるをえなくなったことでもわかる。少子高齢化ではそうなりやすい、人手不足が深刻になるからである
働くとは身近で感じたことであり今のように外国の人が働いて物を運んでくるということなどない
だから働くという目的とかがはっきりと見える社会だった。
今は一体誰のために働いているのかなどわからない、外国の品物が入ってもそれは誰のために働いているかなど関係ないのである。金になればいいとしかないのである。
一方で医者とか看護師とか介護関係などは直接人と接する仕事だから誰のために働いているから明確である。働く相手は現実に向き合う近くの人間だからである。
だからそういう仕事は嫌な面があっても生きがいが生まれる
だからいつも医者とか看護師とか介護士でも感謝されるのである。
品物を作って人とかコンビニとか他にも何か働いても感謝される仕事は少ないである。
ともかく現代は働けといっても働くことが嫌悪される社会なのである。
誰も今や家事なとしたくない、その女性の生きがいはわずかの狭い畑で農業することであるそこで生産するものはほんのわずかである。趣味にすぎないのである。
農業自体は実は苦労があってもまさに実りがあるからそれで働く喜びがある。
でもそういう仕事は一面金にならないし趣味でありかえって金がかかっているのである。でもそれが生きがいだから仕事している、つまり金になって生きがいになる仕事は現代では少なすぎるのである。
だからみんなjobとなりプロフェショナルになはならないのである。
そういうスキルもなにもいらない単純仕事は機械化される、ロボットがするようになる。でも農業などは複雑であり機械化できないのである。
人間の仕事がなくなることなどありえないのである。
株などでも大金が入っても金が入ってもそれ自体では生きがいになはならい
ただそれを消費することが生産に通じることはある
その金で有益なことに消費すれば生産になる、花を高いけどフラワーアレンジメントすれば美を作り出しているとかなる。
ともかく若者はjobではなく若いときから[lifework]をもつべきだとなる
それは趣味の分野でもそうでてある。才能なくても積み重ねてゆけばそれなりのものになる
雑学の分野だってそうである。何度も言うが時間を費やしたものがその人の人生なのである。そして時間はすぐに切れてしまうのである。
人生はつくづく遊ぶ時間すらないものだった。お前はそんなに遊んでいたじゃないかというけどそれでもそれもあっというまに過ぎてしまったとなる
おそらく何をしても人間の時間はたちまち過ぎるということである。
一つの楽器に習熟するのにも一生もかかってしまうのが現実なのである。
何事でも一万時間をかければそれなりのものになる。
いくら天才でも第一与えられた時間は増やせないからである。
2015年07月22日
アメリカに投資してもうけている自分の矛盾 (アメリカ人は日本より貧困層の問題が深刻)
アメリカに投資してもうけている自分の矛盾
「他人の子供の世話をするために、自分の子供の世話をおろそかにする。自分は標準以下の家に住んで、人さまの家を完璧に磨き上げる」ワーキングプアは「ひたすら与えるばかりの人たちなのだ」とエーレンライクは言います。
何か専門的な知識やスキルを基にして働くものは収入が大きい。
「特権階級」は親の資産とかを受け継いだ人とかであるがアメリカでは金持ちでも桁はずれるになる。
日本はアメリカを戦後手本にしているのだから当然アメリカ社会に何でもにてくる。
それより世界が資本主義というグローバル経済のシステムに組み入れられているから資本主義経済の影響が大きい。
それでどこの国でも格差が生まれる、それはアメリカだけでなくて世界中で起きていることである。
だからこそアメリカだけの問題ではなのである。
ただアメリカとか中国とかなると国が大きいから極端になるのである。
なぜ貧しい人と裕福な人がいるのかとなるとこれもまた今だけの問題ではないし歴史的にもう人類がはじまってからあるだろう。
だからこの格差の問題は今だけではない、根の深い問題なのである。
貧乏の原因を考えるとまずそうした社会的問題としてとらえるのではなく個々人が原因になって起きることが必ずあり自己責任だとして批判されることはやむをえないことである貧困は今は目に見えないしまたそもそも人間の直接に接する人は少ない、10人くらいかもしれない、するとそこから見えてくるもので判断しやすい
良くシングルマザーとかの悲惨な貧困が増えているということを話題にするけどそれもマスコミでは極端なものしか取り上げられないからその内容が本当かどうかもわからない。つまり最低の極端なものが話題にされやすいのである。
普通に生活している人は話題にしても面白くないから極端な貧乏を話題にするのである。だからそういう記事が本当なのかどうかという疑問がわく
ただ全般的に現代が格差社会だということは否定できないだろう。
個人的な貧困の原因としては
●親の資産を受け継いでいない
●離婚している
●プロフェシャナルになれない
何もないところから一から結婚して始めるとなるとその労力は何倍にもなってしまう。
10万とか家のローンを払うとなると月給からその分30十年とかひかれていくのだから辛いそれで老後に破産しているとかが起きている。
でも能力ある人は一からはじめて財産を残している、土地を買い、家を建て、子供を教育して育てている。
農家だって三代しないと農家とは認められないという。
それだけの積み重ねがないと農家にもなれないからそうなる。
「草分け」というのはまさにその名からわかる。
つまり草茫々の原野に入り開拓した家である。
その後から入ってくる人はそうした草分けの家をまず頼りにして働きやがて代を経て財を築いてゆくのが順序である。
そういう人がなぜ今貧乏なのだ、草分けはうらやましいとか言って盗んだりすることはゆるささないことである。その家は最初は同じように苦労してきたからである。
子孫はその恩恵を受けている、でも恩恵を受けた子孫も零落することはある。
あとからの人がかえってけ苦労して豊かになってゆくということも昔からあったのであるその人は電工であり普通の労働者だけどトラック運転もして人より歩合制で一台いくらで勘定するけど人より運んだから収入になったという。それだけ努力したということである別に特別なスキルがなくても貧乏にならないし土地も家もあり普通の暮らしをできた人も多い。高度成長時代ということもありそういう人はが中産階級になった。
派遣とかフリーターとかはその時代ほとんどいないし正社員の時代だったことは今とは違う。
夫に問題があっても収入があれば昔ならがまんしていた。現代ではがまんしないから収入が減ってその後の暮らしのことを考えないで離婚する
すぐに生活保護になった人も知っている。
貧乏にはかならず自己責任の部分はあるし否定できないのである。
社会のシステムの影響で貧困から脱することができない問題である。
それはその本人ではなく社会のシステムで資本主義社会が悪いからそうなっている
それも確実にある。それでピケティの資本の不公平を指摘したのが世界的話題になった。つまり資本主義はもともと資本が元金がないと豊かになるチャンスが与えられないのである。
それは一億円の元金がたまれば株に投資すれば今でもその元金が増える、でもそのまとまった元金が増えなければ増えない、だから一億円あれば働かなくても暮らせるなとためる人もいる。
その一億円の金も資産家なら簡単にもてることができるから格差になる。
だから資産というのはどうしても一代で築くことはむずかしいと思う。
それは特別能力があるプロフェショナルな人にはできるが普通は苦しくなる。
自分の場合はただ親に恵まれたので今は金には困っていない
でも自分が金持ちだったという気分になったことは一度もないのである。
旅ばかりしていたといっても最低限の旅でありまず外食で千円以上使ったなかったし宿も最低限の宿を探すのに苦労していたのである。
だから贅沢な旅などしたことがない、温泉旅館などに一度も泊まったことがないのであるあと使ったのは本代であり何か贅沢などしたことがないのである。
●毎日家事に追われている自分は金持ちではない
金持ちだったら家政婦でも20万とか30万でも雇うだろう。それこそ金持ちの気分になるだろう。掃除、洗濯、買い物、介護をしていたら自分は召使と今は同じではないか?
あいつは金があるなと言われても自分の状態は召使なのである。
だから自分を自分も金持ちだと思いないし召使としか言いようがないのである。
本当の金持ちは家政婦を二人とか雇っている人である。そういう人がいたが強盗に殺されてしまった。
だから金持ちは何なのかというときその内容もある。毎日家事に追われているような人が金持ちとは言えないのである。
家政婦とかだと一番格差を感じやすいのである。
他人の子供を世話して他人の家をぴかぴかにみがくのはなぜだろう?
そういうとき一番格差を感じやすいのである。
だからアメリカでは手伝いさんを裸にして使うということが極端化してなった。
それだけ格差が大きいと家に入る人はほとんど泥棒だということになってしまうからである。
確かに自分でも一番不思議なのは矛盾なのはアメリカに投資して儲かっていることであるええ、でもアメリカではこんなに貧困者がいるきかという驚きである。
アメリカは極端な格差社会である。移民社会だからそうなる。
つまりアメリカが国として豊かなのに貧困者がそんなにいるのかという疑問である。
そのアメリカで自分が金をもうけているというのも矛盾なのである。
これはグローバル経済では普通のことでもそういう経験がなかったから感じなかった。
アメリカが豊かでもその富はアメリカ人の国籍のある人に還元されていないのである。
誰に還元されているのか?それは株主だというのが資本主義なのである。
アメリカでは特に株主が優先される純粋な資本主義国である。
それは別に日本でもそうである。日本でもうけたものが別に日本人にその富が還元されるわけではない、外国人の投資家にも還元されるからグローバルなのである。
ただギリシャのようになると国自体が貧乏になると国内の格差だけではすまなくなる
全員が貧困状態に陥り国自体が滅亡するとまでなる
それは日本でも言えるのである。格差社会でも国にまだ力があれば国自体が全員貧乏になり滅亡するような状態にはならないのである。
2015年07月17日
経済学とは経世済民 (日々の生活であり一番身近なもの)
大学で経済学部を専攻した。でも自分はそもそも勉強が嫌いであり学校に適応できなかった。受験の勉強であり勉強が好きになれなかった。
だから勉強とは常に試験とかで強いられたものであり暗記であり高校まで自分で考えたことがない、ところが学問とはそもそも学び問うというように何かの問いがありそれを解決するものとして生まれた。
この世に生きる限り様々な疑問が生まれてくるからである。
今や文明生活は複雑であり疑問だらけでありその全容を知ることはできない
「なぜ3百万人も死んだ戦争があったのか?」
これも深刻な問いでありその明確な解答などないのである。
「なぜ人間は死ぬのか」
これも人間にとって個々人にとって最大の問いになる。
それで求道になりその問いをの答えを求めるのが人間である。
そしてその問いの答えは必ずある
だから真剣な問いがあることが学問のはじまりである。
学問というとき問い学ぶとあるが学ぶはまねるでありそのまねる、暗記だけだと学問は嫌になる。
簡単な算数でも今になると暗記でありそれをいろいろ考えて学習すると勉強好きになった算数を数字だけで抽象的に考えているとわかりにくいのである。
子供の学習で像から考えろというとき、一、二、三・・・と数があるときそれを具体的なものとして一個二個三個として図形として数字をとらえるとわかりやすくなる
数字は極めて抽象的なものだからとらえにくいからである。
そしてでは経済学とは何なのだろうとなる。学問は現代では様々な分野に分化してしまった。学問は学び問うが基本であり問うとはやはり哲学でありギリシャの学問が哲学であり問答形式になっていたことでもわかる。
経済学にしても商学部とか経営学部もあり分化している。
ただ経済となるとより一般的になり総合的になるから哲学的にもなる
商学部とか経営学部は実用的なものとしてある。
経済学部とは何か宗教にも通じている。世を治めるというとき宗教もそうだからである。資本主義がそもそも修道院から生まれたキリスト教のモラルから生まれたというのもそのためである。
仏教でも勤めというのはまさに仏に勤行をあげるとかが勤めでありそれが一般社会にも勤めるとなり働くとなった。
自分は今になると学問好きだったと思うようになった。
ともかく自分は考えることが好きなのである。何か実践することは苦手である。
だから実業家とか政治家とか現実社会で何か事業をしたりすることは向いていない
だから学者タイプだったのである。
経済学とはあらゆる分野に必要になる。根本的には経済とは何か、それはコストの問題があらゆることに最初に問題になるからそれが経済学なのである。
自動車は一人でも使うから効率的ではない、多人数を運べばバスの方が効率的になる
田舎では一人一台車をもっているのが普通である。それは大量にエネルギー消費しているから都会より田舎の方がエネルギーを無駄にしているとなる。
それでコンパクトシティがいいというとき現代の便利な生活を維持するにはエネルギーでもコストがかかりすぎるからそうなる。
料理するとき湯で卵にするためにガスとか電気を使う、ガスだと5分とかであり電気だと10分とかになる。その時常に自分は無駄を感じていた。
つまり卵二個だけゆで卵することにそれだけのエネルギーを使うのかという実感である。なぜなら5個でも使うエネルギーは同じでありさらに十個でもほとんど変わらないからである。何かこれが田舎の生活がかえってエネルギーを消費しているというのとにている。都会だと人が集まっているから人間を卵に例えると百個でもゆで卵にできるとなる
それが毎日のことだから実感としてエネルギー消費を考える。
それは水道などでも同じである。一人風呂に入るのと五人風呂に入る水道の料は同じなのである。そこに水の無駄が生まれているのである。
現代は個々の暮らしが多くなったからこういうエネルギーの無駄が多いのである。
つまり車がエネルギーをそれだけ消費するのはゆで卵を一個を同じエネルギーで消費しているからである。バスだったら十人のせるが車は一人だからである。
それから太陽電池発電がこの辺でも原発事故以降いたるところに見られる
これも自然エネルギーだからすべてがいいというわけではないという。
それもコストの問題なのである。税金を投入しているから安いものではない、その設備投資でも保守するのにも金がかかる、これもコストの問題があり経済学なのである。
科学が技術だけの問題ではない経済学が関係しているのである。
つまりあらゆるものにコストがどれだけかかるということが常に問題になるからである。だから゛あらゆる分野で経済学が問題になる。
それはコストの問題が最初にあるからである。物を買うにしてもこれが買う価値があるのか、これだけの金を払う価値があるのかとかこの人を雇って価値があるのかとかコストの問題になる。それが経済学なのである。
オリンピンクの国立競技場問題もそうである。そんな大金をつぎこむ価値があるのか?
コストの問題がありそれでもめているのである。
それはコストだけではない、アメリカの要請とか核兵器にするという裏の目的もあったのかとなる。
ただ東電の社長がコストカッターとして資材部から社長にのしあがったということでやはりコストが関係していた。
最初は高い所に原発を建てる計画だったのを低くしたのもコストのためだったのである。つまり安全を計ればコストがかかるからであり現実に津波の予想を東電ではしていたのである。
それをあえて津波対策の工事をしなかったのはコストがかかるためである。
これも経済的問題であり経済学だった。
この経済的問題はあらゆるところに生じる
日々の主婦のやりくりも経済学なのである。
介護問題にしてもこれも経済学の問題である。そもそも介護保険があるとしてそれは税金からでている。その金も膨大なのである。
確かに一日ディサービスでとまると5000円くらいとられる、でも現実は介護保険からその8倍くらいは出ているのである。もしその分をはらったら一日8万とかなると高級ホテルに泊まることと同じ料金がかかることになる
それで一カ月部屋が空いているから泊めたらどうかとケアマネジャーに言われた。
これまでは空いた部屋がないと思っていた。この辺では人手不足でもあるから実際そうだった
でも一カ月泊まりませんかというと空いているのだろう。
空いたままではホテルと同じように金にならないからすすめられた
一カ月15万は別に高くないのである。
ところがその15万は介護保険から出ると7倍8倍となったら百万にもなってしまう。
そういう計算をすると空恐ろしくなるのである。
別に介護保険から出るからいいじゃないかとなるがコスト的にはどうかなと疑問になる
なぜならその一カ月百万の金は税金だとすると個々人でも介護保険から払っているから実際は無料ではない、みんなして税金とて払っているものである
それで若い人にこうした保険料でも負担が多すぎるから健康保険でもコスト面で問題になる。国民年金でも若い人に税金の負担をかけているから問題になる。
税金をとったり払ったりすること使ったりすることも経済学なのである。
それが額が大きすぎるから何か実感しないが個々人でも月給からも税金としてひかれているのである。
高齢化社会とか介護とか医療には金がかけすぎるから政府でも何とか減らそうとするのはわかるのである。
それは自分の家の問題でもあるからよそ事としてではなく自分の問題として経済学がある経済学とは日々の生活のことであり学問としてむずかしいことではない
経済学は今ではグローバル経済になるとますます世界的なことも経済学としてみるようになる。
世界のことは関係ないとしていられないのである。アメリカに投資したらアメリカの動向や世界のことが常に気になってくるのである。
それは自分にも直接影響するからである。
そういう貧乏な時代は何でも物でも大切に使っていた。
医療とか介護とかも科学だけの医療技術の進歩だけでも解決しない
コストの問題がありそんなに保険を税金をつぎこんでいいのかとなる
それですでに国がつぶれるとまでなる、
ともかく物を今のように消費して使い捨てるとかの経済は成り立たなくなる
そんなに資源を無駄にするほど地球は人間に与えない
物を大切にするということはやはり経済学の基本でありモラルの基本なのである。
何でも新しいもの新しいものを求めるのも問題なのである。
今あるものを大事に使うというのも長く使うというのもコストの面でモラルの面でも必要なのである。結局そうならざるをえなくなる。
現代の消費生活はギリシャのように借金してまで贅沢するよう生活は経済学的にも破綻するということである。
医療とか介護分野でもそんなに金を使うことは経済の破綻になる。
何も介護など金をかけないでもできる。金を使えば個々人にも全体にも負担が大きくなり経済にコスト面で破綻してしまうのである。
やはり経世済民とは経済は世を治めることなのである。
何でもコストの問題が最初にありそれに納得してもらえれば世は治まるとなるからである現代とは税金の無駄が多すぎるからである。その税金が公務員に使われているとか不満が多いから世が治まらないのである。
2015年06月30日
物は移動できても人間は簡単に移動して住めない (移民は日本の家族のように受け入れないと不可能)
(移民は日本の家族のように受け入れないと不可能)
物が移動するのと人が移動するのは全く違ったものになる。
人が他国に移動するとどうなるのか?
家族であれその国のことであれまたは宗教であれその人ともにもたらされる
だから移民したヨーロッパではイスラム教が増えてそこが別な国のようになってしまう。日本でも移民を入れるとなると単に人間を部品のように働かせることはできない
つまり人間は物でもないし機械でもない、人間に付随するものは全体だから
この一部門で働く人がいないからと機械のように部品のように人を外国から臨時的に入れて働かせることは問題が起きてくる
そういう働かせ自体に問題がありもめごとが起きたしこれからも起きてくる。
それは人間は機械でもないし機械の部品でもないからである。
ただ文明の仕事は移民を入れるにしろ入れないにしろ仕事自体が機械化して効率化を計ってきた。
つくづく文明とは膨大な分業であり部品化だったのである。
人間の仕事はもはや無数に細分化された部品の集合なのである。
それは車を生産して使うとういことで象徴されている。
国がトヨタの会社でありその車を使うために人間が部品化され配置されているとかなる
車は部品の集合からてりその部品を請け負い作る中小企業がいて従業員がいるからである文明そのものがそうして生産を機械化して効率化してきた。
ただそれが外国人でも何でもいい、その機械化部品化として人間があるからいいとはならない。
障害者が最近雇用を会社でもしなければならなくなった。
でも意外と障害者でも流れ作業とか部品化した分業化した仕事ができる
てもそもそも人間の仕事は普通の人でも分業化して細分化して部品化していたのである。そういう仕事はかえって障害者にもできる、向いていたとさえなる
まず全人間的仕事をしている人は文明社会では極少数である。
文明の全体を知る人など誰もいないだろう。
第一次産業は自然の中で仕事していたから全人間的である。
工業化すると機械も部品の集合であり人間も機械化され部品化される
一人の人間が一つのものを作るとういことはない
江戸時代ならほとんど職人であれ一人の職人の手仕事だったのである。
職人一人が製品を全部仕上げていたのである。
田から職人も全人間的に生きていたとなる
医者でも現代のようないろいろな科はない、人間の全部の体をみていた。
人間の体の部品化はないしできなかった。
でも移民が問題になるのはなぜなのか?
人手がたりないから国内のように人間を機械のように部品のように使えないからである。移民とともにもってくるものは家族であれ国であれ宗教であれ一人の外国人はその国を代表してもってくるものがある。
移民の一人でも何かその国を代表したように国自体を外国にもってくることにもなる
だから移民は文化的衝突することになる
つまり国の中にもう一つの国ができることになってしまう。
でも外国から物だけを取り入れていればそういうことはないのである。
別にバナナが入ってくるからとフィリッピン人がメキシコ人がどうのこうのとかにはならない゛フィリッピン人が風俗であれ嫁になるのであれ人間そのものが入れば必ず全人間的なものとして問題になる
人を雇うにしても自分でもちょっとした時間でもいかに人を雇うことが特に家で働いてもらうとなると大変なのもになるか身をもって経験した。
そこには常に露に人間的な問題が露骨に現れる
もちろん普通の会社でも経理でごまかすとかあるから人間にはそうした信用問題がつきまとっているのだ。特に家に入るものは一番危険なのである。
そして時給一時間いくらはらえばいいとはならない、なにやかにやとその家の問題がありそれまでめんどうみなければなちらなかった。
家族の一員のようにしてめんどうみなければならなかった。
だから人間を雇うをほどめんどうなものはないと思った。
ただ時給いくらで雇うというときコンビニなどでもそうした家の事情とかには立ち入らないシステムになっている。
いちいちそんなことを聞いていたらもうもうけることもなにもできない
社会福祉事業になってしまう。
移民でも人間が入ってくれば現実に日本人の家族として受け入れるようでないとうまくいかない。
機械のように便利に使っては使い捨てというわけにはいかないのである。
いづれにしろ原発事故で避難した人たちも人間が各地に移動したから問題になった。
人間はそもそも物ではないのだから移動するとなると移り住むとなると簡単にはできない、移った場所に簡単になじむことはできないのである。
ただ旅するなら別である。旅人になる別に移動することが目的だし一所にとどまらない事か旅だから別である。
でも人間は長年住み慣れた場所から他の場所へ移り住むのは様々な問題をうむ
確かに第一次産業の自給自足の生活ではないからその土地に愛着するというこはそれほどなくなった。
でもやはり長年住んでいる場所と人間は一体化する
それは自然でも人でも他にもその場所に長年住むということは石のようになることでもある
それだけその村の古い木とか石は単なる自然の物ではない人間と一体化していたのであるだから浪江の女性が60代の人は田舎の淋しい場所に住んでいた。
それが高層ビルに住むようになったから相当な違和感がある
都会の灯の海を見て暮らすのとはあまりにも違っていたのである。
物だったら例えはみかんであれリンゴであれ野菜でも移動してもその味は変わらないのである。
ところが人間そのものが移動するということは物ではないから機械の部品でもないから簡単に移動できないものなのである。
人間は一つの部品ではない、全体に生きているからそうなる。
人間はその土地に根付く植物や樹とかともにている。結局人間の自然の中の生態系に生きる生物の一種だからそうなるのである。
2015年06月21日
全国賃金時給分布からみる差 (データーを素人でも見るインターネット時代)
全国賃金時給分布からみる差
(データーを素人でも見るインターネット時代)
鹿児島なんて最低賃金時給600円台半ばチョイくらいだよ。
で、地元じゃわりと大手の企業でも平気で最低賃金、サービス残業とかまかり通ってるよ。
本当に生活保護が勝ち組みたいなレベル。
こんなんだから、鹿児島はパチンコ屋が異常に多い。
市内中心部の一等地も立体駐車場完備の大型パチンコ店が多数進出していて、観光も多い県なのに本当に恥ずかしい、情けない景観。
所得低いから金を安易に増やそうとパチンコ屋に入り浸る人が多い。
もちろん、ちょっと暇つぶし、気晴らし程度で2、3千円程度楽しむだけの人もいるけど、老若男女問わずパチンコ人口多いのは鹿児島の最大の恥。
中国人が「日本製品やっす!」「日本女やっす!」と爆買いするのを
「爆買い有りがたや ありがたや」と揉み手で迎える。
戦後、米軍トラックを「ギブミー!」言いながら追いかけてた時代に逆戻り。
地元民が食べる屋台のランチのヌードルですら一食日本円で1200円くらいだよね
人の価値が安い国。
中国人も逃げ出す日本の低賃金
そもそもも物の値段だとわかりやすい、毎日買い物しているから物価には敏感になる。
アスパラガスは好きだから毎日買っている、国内産だと三〇〇円とかなると高い
今日は外国産が置いていなかった、メキシコ産など国内産の半分とかだった
この値段の差がどこから出てくるのか?
それはグローバル経済だからこそでてくる値段なんだよ
最近は外国産は円安で食料でも高くなっているから前のように買いずらくなった
輸入品が高くなり食料品も高くなる、これもまた当然なのかもしれない
日本だったら食料でも人件費やなにやらで高くつく、種が上がったとかで農家の人も嘆いている 肥料だって輸入していれば高くなる
ただ食料品が高くなることは国内産にとって農家などにとっては有利になるだろう。
それは外国産が半分の値段とかなっていれば競争できないからだ
もし外国産と国内産がさほど変わらないとなれば日本産を買うようになる
つまり日本の農業にとっては円安は歓迎だとなる、それは生産者にとってである
アメリカで時給を一八〇〇円にするとなるとこれは高いなと思う
でもこさを日本と簡単には比べられないみたいだ
それでもアメリカが景気がいいというときアメリカに投資してなぜ分配金が高いのか驚いた
そういう株とかでもうけたことがないからである
だから資本主義とは元金が資本があるともうけられんだなと実感した
時給とかで働いても今や正社員でも賃金が高くならないからである。
グローバル経済がいいの悪いのという前に世界の現実がそうなってしまっているのであるだから会社で時給で働くより株主になって配当金をもらった方が資本主義では得なのである。だから資本主義はとにかく元金がないと資本がないと得しない仕組みだとなる
東北だと経済力は宮城県が一番であり次に福島県がいいのである。
ただ福島県は前は浜通りとか中通りと会津には差があった。
だからその県内でも差がある
一番ひどいのは青森県とか常に言われてきた。
それは全国の賃金差でも時給でも同じである
東京近辺は神奈川とか千葉とかはやはり高い
大阪近辺でもそうである。なぜか近江では賃金は高くても時給が740円では安いと思った
やっぱり大阪や京都から離れているのが影響している?
富山石川福井長野は賃金は福島県より高い、茨城、群馬、栃木なども高い
これは関東圏は高くなっているということだろう。
まず神奈川などは本当にわかりにくいし他にも福島県なども広くて福島県に住んでもわかりにくい。
全国を旅したらその土地が歴史的文化的にどういう土地なのか興味をもつ
一回でもあそに行ったなとなると興味をもつ、それは外国でも同じである。
日本は相当におちぶれて衰退してきている、なぜなのか?
日本には何か欧米のような独創性がないからかもしれない
でもアジアはアメリカでも留学生でも成績がいい
特に数学の成績がいい、その理由は稲作と関係していたというのも面白い
農耕民は努力型であり欧米のような狩猟牧畜民、遊牧民と違っている。
そのメンタリティはなかなかわからないのだ。
なぜ欧米が主導権を握ったかというと何か新しいものを発明して作り出す能力は欧米人が優れているからではないか?
こつこつ努力型には何か天才的ひらめきで新しいものを作り出す能力に欠けている
それでITなどでも遅れをとった
今やロボットがニュースの記事を編集して書くということすらコンピュターでできるという。人工知能の進化は進んでいる
人間はやはりデーターが手元にあれば素人でも分析しやすくなる
こんなことを書けるのもインターネットの情報の流通によって書ける
ネットで面白いのは地域差があって地域から地方から発信されることにもある
マスコミだと中央よりだし取捨選択も何か視聴率にだけこだわるからかたよる
そしてマスコミは権力機関の政府でも団体でも宗教でも大企業でも広報機関なのである。宣伝費をそうした大きな団体からもらっているからそうした大きな団体はたたかないのである。
だからマスコミからだけでは真実はわからないのである。
ともかく情報は無限大でありそれをどう見るからはやはり個々人で判断するほかない
そのためには資料が必要でありネットでも交流が必要になる
ただネットでの交流は会話になるとめんどうだし若い人に老人はついていけない
自分は前もそうだったが今や会話することが一番労力を使う
相手となんらか合わせなければならないしめんどうになる
だから今は家事から介護からで毎日追われているからその余裕がないからいちいち答えられない、その時間の余裕がないのである。
ただプログだと時間をみて書きづづけている、発信できることを主体にしてそこにエネルギーをそそいでいるのである
とにかく日本は衰退してゆくとき、海外旅行でも中国でさえ高くなっている
カンボジアやミャンマーなどが残された安い国になるが海外旅行すら自由にできない時代になっている。
それで逆現象が起きている
日本人が中国人でももてなす時代になる、女性も安く中国人に遊ばれとかなる
それは日本人かさんざんしたことだから自業自得でありカルマである。
国にもカルマがあり必ずカルマが厳しくのそのツケが支払わせられるのである。
すでに日本人のいい時代は終わったということかもしれない
なんとか安いとき海外旅行に行ったのが良かったともなる
人間はチャンスを逃したら二度ともどってこない
その時にやるべきことをやらないと絶対にはもうできなくなる
このことは若い人は肝に命ずるべきだ
例え金になるしとてもそこに時間を費やして後で後悔する人も多い
結局人間の最後は結末は想定外、計算外のことが必ず起きる
今度の津波や原発事故もそうである。
何か計画していたものが一挙に破綻したりして計画通りにならないのが人生である。
世界情勢なども今後どうなるかわからない、結構若い人にとって厳しいものになってゆくのかもしれない,徴兵とかなるのかもしれない
国が破産状態になったりとこれからは日本は厳しい局面にたたされる
団塊の世代は特別恵まれていた時代に生まれたともなる
自分も特別私的にも恵まれていた、ただ二十代は危険だった
底辺労働で危険な死に目にもあっているから危険だった
それも別にそこに追い込まれたというのでもなく自らそういう場所に飛び込んだのであるそれも経験だったということである。
2015年05月13日
資本主義の労働倫理の頽廃 (介護から考える労働とは何なのか)
(介護から考える労働とは何なのか)
●資本主義は修道院からはじまり他者を助けるのが労働
人間を人間たらしめているのは労働だろう。労働なくして社会も成り立たない、生活もできないからである。
ただすべての労働が肯定されるものではない
別にパチンコ屋とかその他の娯楽は息抜きに否定はできないだろう。
低俗なのものでもこの世の中需要があれば否定できない
ただそうしたパチンコ屋でもギャンブルでもそれが労働とはならないだろう。
現実にこの辺で原発事故で避難民であふれ仮設に住んだ人たちが補償金ですることがなく遊び暮らすようになったとき何か起こったのか
パチンコ屋に働く人がいなくなるとかまで人手不足になったのである。
ところが他でも介護関係でもコンビニでもスーパーでもあらゆる所が人手不足になった。そんなときパチンコ屋が人手不足だなどと言っているのも異常だったのである。
別に普通の時だったらいいが働く人がいなくて困っているとき遊ぶ人が増えてその世話する人が人手不足で困っているというのは異常なことである。
その時は津波の被害もあり外からの人が懸命に瓦礫をかたずけるとか働いていたのであるそんなとき地元の人は遊んでいたから飲み屋で地元の人がもっと働けと怒ったというのも当然だとなる
労働とはもともと仕事そのもの価値のことを言っていた。
なぜなら修道院から資本主義がはじまったというとき修道士修道女が神の奉仕として働くこと自体が信仰になっていたからである。
その人たちは消費はしない、贅沢はしなかったのである。
ただ真面目に働いて他者に与える労働をしていたのである。
その労働が人助けとしての労働だったから神の意にかなうものとされていたのである。
資本主義もそういうまさに宗教からはじまったから主義なのである。
民主主義も主義でありそれはその根底に信仰のようなものがある。
資本主義はそもそも人助けのキリスト教から生まれたというとき今は全く違ったものとなってしまった。
そうした人助けの労働という観念が全く消失した。
つまり労働自体に価値を置かないのである。むしろ消費の方に価値を置いているのが現実である。
労働自体の価値より労働で得た金によって何か買う消費するということで働いている。
それが人助けだとかなんだとか関係ないのである。
コンビニであれスーパーであれ農家であれ会社であれそこで働いている人が労働自体に価値を見いだして働いている人はまれだろう。
ただ医療関係とか福祉関係は直接その個人に対しての労働だから奉仕的になり労働自体の価値を感じる、だから一番感謝される労働になっている
医者とか看護師の労働はその代わりきついけど直接今の社会で感謝されるのはまれだろう家を建てたから道路を作ったから電気を供給しているからとか感謝してくれる人はいるのか?。
現代社会は直接感謝してくれる労働はまれになっている。
ただ金をもらい消費するということが働く動機になっている。
そして資本主義の最大の矛盾が本質から全くそれてしまったのは労働倫理の喪失であった世界的マネーゲームで巨万の富を得るというのもそうである。
働かずして信じられない巨万の富を得る人がいる。
それが資本主義だと言えば否定はできない、そういうシステムで世界は動いているからだ現実に自分もそれで得した方だから矛盾している。
働かずして金を得ているというのは全く資本主義の発生した倫理が消失してしまったからである。
第一そういう人たちを見たら真面目に働くのが嫌になるだろう
若い金融関係の仕事している人が自分の給料より株でもうけている人のもうけが高いと言っていたのも矛盾である。
そういう格差が生まれているのが現代の資本主義なのである。
それは世界的にモラルの頽廃を生んでいる、それで資本主義は崩壊すると言われる
資本主義によって戦前からあった日本人のモラルも義理人情なども今はない、
ただ金だけがすべての基準になってしまったのである。
人間と人間の関係はすべて金になるとき「金の切れ目が縁の切れ目」となり自分の場合もたいして関係でなかったから切れたとなるけど他でそうなりやすいのが現代なのである。あらゆる価値を金で計算すればそうなってしまう。
いくら労働したからといって金で価値が計られるとしたら金の多少ですべての価値は決まることになる。
一千万稼ぐ人と500万稼ぐ人と300百万稼ぐ人がいてすべて収入で計られる
あの人はこういう労働していてその労働が価値あるとか見ている人はいない
金の多寡でその価値は決められているのである。
その労働自体の価値が見えにくいからそうなるということもある。
●介護も新しく生まれた仕事であり労働
労働についても探求してきたが正直自分は20代は結構アルバイトとか労働したけど流れ作業とか単純作業が嫌になりそのあとは30年間労働していていない
お前自体が遊んでいたのに労働のことが語られるのかといえばそうである。
今でも株などてしいるからお前も資本主義で得しているからそんなこと語られるのかとなる
ただこの七年間は何をしてきたのか?
このことはプログでも書いてきた。毎日親の介護であり家事である。
これは求めてしたのもではなく強いられたのである。
毎日三食出すことや家事が介護が加わると結構な労働になる。
その間に病気にもなっても誰も助けるものもいず自分一人でなんとかしてきた。
介護は金の面でもいろいろな面で無駄だというのもわかる。
介護という労働に何の意味があるのだろうかとなる
ただ介護も病人の看病の延長として介護というのが生まれた。
もともと看護と介護は一体なものとして切り離されずあった。
介護は確かに看病の延長としても高齢化になって生まれ仕事なのである。
どうしても90才になると体力の限界になり介護状態に陥る人が多いのである。
自力で自分のことができなくなるのである。
だからその労働は人助けになる。労働自体が人助けなのである。
そういう点からする労働自体に価値があるとなる。
七年間というと結構長い、なぜならその間ほとんど息抜きもできなかったからである。
家事と介護に休みはないのである。医者が休みをとりにくいのともにている。
それは奉仕的なものとしての仕事だから命にかかわる仕事だからそうなっている
ただその見返りとして医者の地位は高いし給料もいい、感謝もされるから仕事自体としての価値は現代では一番高いように思う。
それでNHKのクローズアップ現代で献体するものが増えたというとき医者に直してもらったことがあり献体で医療に役立ててもらいたいという人が増えたのである。
それだけ医者の仕事の価値は今では一番高いからそうなる。
医者とコンビニの店員を比べれば一目瞭然である。
コンビニの店員に感謝する人など一人もいない、店員の方が客にありがとうと感謝しているだけなのである。つまりそれだけコンビニの店員の仕事自体の価値は低いのである。
その価値の低さは時給で計られ安いことでもわかる。
こういう仕事は機械化されて消失しやすい、一部スーパーのレジが機械化していることでもわかる。
コンビニの店員より介護士の方の労働自体の価値はある。やはり感謝されることでわかるただまだ介護士という職業は看護師のように認知されていないのは高齢化で新しく生まれた仕事だからそうなっているのである。
結局人間は労働してみなければ労働の価値はわからない。何でも金を払えば買えるじゃないかとなる。でも買うものには労働して売られている。
その労働の結果としての商品のことが労働してみない限りわからないのである。
もし一つの物を生産してそれを売るとなると運ぶことが必要でありまた店に並べて売るとなる。
もしその過程を一人で労働してみたらその物の価値がわかるのである。
例えば外国旅行して買ったものをもってくるとなると運ぶだけでも苦労である。
するとその運んだものには価値があるとなる
そういう労働をしてみないと物の価値もわからないのである。
自分が家事とか介護して思ったことは一日でも三食用意してくれる旅館で休んでみたいとなる。お前は自由に旅行していたではないか?
確かに旅行はしていたけどそれはあくまでも旅であり温泉旅館とかで料理を楽しむ休息するのとは違う。
自分は宿はとまるだけの場であり料理を楽しむ所ではなかった。
だから料理は金がかかるから最低で外でしていたのである。
最低の料理しか食べていない、長く旅すると料理に金がかけられないのである。
ホテル代だけで日本は高くつくからである。
自転車旅行になると野宿だから宿は無料だったとなる。
料理してくれて出してくれる人の労働の価値がわかるということになる。
つまりこういう単純なことでも実際に労働してみないと価値がわからないのである。
「七年間自分は三食を作り出しつづけてきました、一回だけでもいいから三食出してもらい、のんびりしたいです、それをしてくれる人には感謝します」となる
これは別に旅館とかではない、誰かそうしてくれれば同じである。
今まではそう思ったことがなかったからである。
妻が死んだときそういうことを痛切に感じるのと同じである。
妻が死んで妻の家事の労働のありがたみがわかると同じである。
●労働とは誰のために働いているかも問題
なぜイスラム圏に資本主義が根付かないのか民主主義と相いれないのかは宗教の相違によるということもあった。
イスラム教の倫理はまた別なものとしてありそれはそれの違った倫理観がある。
それをいちがいに否定はできないわけである。
日本でも義理人情だって日本的倫理観になるからである。
日本でもどこの国でもそうした倫理観は必ずあるから否定できないのである。
そうしたその国独自の倫理観があって外来の倫理もモラルも道徳も根付つくのである。
だから武士道とキリスト教は結びつけられたのである。
こうした資本主義の発生したときの倫理観の喪失はやがて深刻なものとなってゆく、実際にもうなっている。
つまり働くの馬鹿らしいという感覚である。泡銭のように金が入る人といくら働いても働いても安月給で時給しかもらえないとなるとなるべく働かない方が得だともなってしまうそしてもうけさせるのはブラック企業の幹部になり得しているのは公務員だとか俺たちはそういう人たちの奴隷にすぎないとなり労働意欲が減退して遂にみんな働かないとなってしまうかもしれない
現実にそういう働かない人が若者にも増えている,それが別な理由にしろ労働することが馬鹿らしいということが起きているのである。
要するに一体誰のために働いているのか、奉仕しているのか?
結局社会の支配的地位の人のために働かせられているという感覚が強くなった。
もし医者や看護師ならはやはり患者のために働いているという労働倫理かある。
介護士の場合は安月給で上役や他のものに金がゆくが実際現場で働く人には回らないという不満がある。
社会のためだと言ってもわかりにくいし結局上の人のために働いているとてり馬鹿らしいともなる。
介護の仕事だって金持ちに使われるのは嫌だというとき金持ちだけが優遇されることの不満がある。
金のためにしかたないんだよなとなることでモラルの荒廃をうむ
金の多寡とは違うところに本来の労働倫理があったからである。
ただそうはいっても常にこの世は矛盾である。
薬とか買えないとか医者にも行けず早死にした人もいる。
そうなると金がないから早く死んだとなるからどうしても金が欲しいとなる。
嫌でも金になる仕事をしている人ではこの世にはいくらでもいる。
修道院からはじまった資本主義ならそんなことありえないのである。
困った人たちを助けるために働いているのだから自分たちのために働かせるなどありえないわけである。
カルト宗教団体とか政治運動でも創価などはすべてが一票とるための活動であり誰のために活動しているのかとなると議員になる人とか幹部のために働いているとなるから馬鹿らしいと気付くだろう。それはどこの政党でも組織でも似たものである。
要するに中国でも格差が極端だから一体誰のために働いているのか?
共産党幹部が王様のようになりぜいたくさけるためなのかともなる。
そういうことは他にもある。大企業でもたいしたことをしないでもある年齢になると高額の給料をもらっていると若者は不満になる。
一体自分は誰のために働いているのかということがそこで問われているのである。
働くということはそもそも自分のために働いているのではない。
コンビニの店員でも買いに来る人のために働いているのである。
他者のためにサービスして金をもらっている。
自分が助けてもらえたもらいたいとき、事情があるにしろパチンコ屋で働くのが忙しい、パチンコ屋で遊ぶのが忙しい、他でも仕事かあるのでエステなのか知らないけどそんな人たちのためにサービスして自分のことは何に関心もなかったのである。
そして金だけは要求していた、自分の母親に一杯の水も出さないのに金だけは要求してきた。
それで義理の母を介護している嫁にも遺産を分けるべきだというときそれだけの労働をしたのに他の兄弟はしていないのにすべての権利があるのかとなる。
何かしら労働したとき権利が生まれているのである。
だからこの点は法律も変えるべきなのである。
2014年12月23日
この世はみんなブラックじゃねえか? (回りも見ても自分もその一人だった)
この世はみんなブラックじゃねえか?
(回りも見ても自分もその一人だった)
みんなそうだよ。この世は超ブラックですから。でも逆説的なんだけど、それでも努力しないよりはしたほうがマシな方向に行くというのも事実です。
そして、大企業で働いたことがあるなら誰でも知っている。
http://tokunoriben.hatenablog.com/entry/2014/08/02/164000
プロレタリア革命といいつつ国民総奴隷化が現実だった共産主義なんだから
別におかしくもなんともないだろ
共産主義が労働者のためとか笑わせてくれるわ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1383967037/
ブラックというときただ安い賃金でこき使われて奴隷のように働かせられる人のことを言っている。それもブラックなのだがそのブラックを指摘する側もブラックなのである
共産党がブラック会社を追求してやめさせるというとき共産党が一番ブラックじゃないかというときそうなのである。
幹部は貴族になって下で支える人は奴隷のような扱いしかない、たた同然で働かせられている。
結局共産主義とかカルト宗教団体なども最大のブラック団体である。
どっちもイデオロギーを基にしているからにている。
これらの団体が世界平和を達成するとか平等な社会にするというがそもそもその組織内で極端な階級制がしかれているのである。
宗教を看板にしていてもそのその内実は全く正反対の団体である。
共産主義でもカルト宗教団体でもそもそも人間の欲望を否定的できない
「おまえら、拝んだら金持ちになれるぞ、議員様にもなれるぞ、勲章も山ほどもらえるぞ、俺を見ろ(池田大作)」と見本を示しているのになぜ疑問を感じないのか?
結局みんなも池田大作のようになりたいということしかありえないのである。
そんな宗教やイデオロギーなどを掲げて運動している奴らほど危険なものこの世にいないそいつらがこの世を支配したらまさにこの世はブラックになり共産主義国家で大粛清殺戮になったようになる。カルト宗教団体でも同じである。
むしろ戦国時代や侍の時代が正直な時代だった。
つまり強いものが勝つのであり弱肉強食がこの世の現実だったのである。
侍は平和だとか宗教のようなきれいごとを言わない、人間の欲望を否定したりしないのである。だから敵の首を多くとったものに報酬を与えて出世させているのである。
これが現実であり正直なこの世のありさまだったのである。
だからイデオロギーとか宗教は偽装にしかすぎない、そこには最も俗悪な人間が跋扈しているのである。
信長はそれを見抜いていたから僧侶を敵とみなして殺戮したのである。
だから政治でもきれいごとを言う人は信じられない、政治家になるには大衆をだますことであり嘘をつかないではなれないと議員本人が言っている。
ブラックだというときこの世の中あらゆるものがブラックなのである。
個々人でもあの人はな腕のいい大工なのにまた別なブラックな仕事を手を出すのか?
あの人はなぜ事業に成功していたというけど借金で首が回らなくなっていた
なせこんなに生活保護者が多いのだろうか
何か個々人を問うてみても人間の生活はブラックなのである。
原発事故が起きていた浜通りは他より欲が深くブラック的だったかもしれない。
だからこそ小高でも東北電力で原発が作られすでに工事がはじまるところだったのであるだから大工さんは原発できれば景気が良くなると言っていた。
そして今の個々人を見るとアメリカのリーマンショックは住宅をローンで借りたり金もないのに買っていたから起きたのである。
それが何かそういう人が日本にも多い。
知っている人も立派な家を借金で建てたから金が欲しい欲しいとなっていたのである。
現代では身の丈にあった生活をしている人はまれなのである。
だから8人に一人は危ない金融機関から借金していることでもわかる。
最近はローンで買った家を老後になり払えなくなり手放すとか苦しむ人が増えているのもそのためである。
この世がブラックだというとき個々人でもそうだが社会そのものがブラックなのである。賃金を払わない飲食業の人がいたがあれは明らかなブラックだった。
賃金未払いというのも常にある。
それだけではない、そもそもブラックというとき例えば公務員というのも官僚も犯罪人だというときこれもブラックなのだ。
公務員になればたいして努力しなくても得なことが多いのである。
国民から税金をとりその莫大な税金を操作して天下り先とかを確保するために働いているそういう金が集まる操作するとるなとブラックになりやすい。
銀行も実際はブラックだというとき金が集まっているからである。
サラ金の資金源になっていたのは銀行だったことでもわかる。
そういう職業がこの世にはまた結構あるしなんらかブラックになんているのが多いのである。
そもそも会社というのもまたブラックなものがある。
グローバル経済でそうした会社が巨大化して国のようになりやりたいことをやる。
そのグローバル経済で低賃金で働かせられている人達が世界にはいる。
グローバル経済では必ずそうしたブラックな会社が他国のものを搾取するようにシステム的にできているのである。
要するにこの世の構図はブラックになることをいつの時代でもまねがれない、ただ戦国時代などはそれが正直に行われ殺し合いが正当化されていただけである。
現代ではブラックなものが法律で守られていたりするからまたわかりにくくなる。
そもそも法律自体が会社を罰することができないというのも何なのだろうとなる。
東電の社長や幹部は海外の子会社で優雅な暮らしをしていると言われのもそのためである会社そものがブラックなところがかなりある。それが法律で守られている。
資本主義自体がこれもブラックなのである。そのシステム自体がブラックである。
なぜなら資本を金でももっている人は金が金を生む、資本が資本を生むで金を持っているだけで働かなくても金が入るシステムなのである。
だから貧乏人はいくら働いても働いても豊かにはなれないシステムなのである。
なぜ今アメリカが景気が良くて一千万を投資して配当金が一月40万入っている人がいるという。それも実感として理解した。
株で今までもうけたことがないからそんなことありえないと思っていたのである。
でもグローバル経済になるとそういうことがありうる世界なのである。
金が金を生む、資本が資本を生むというのが資本主義なのである。
だから資本主義自体がブラックなシステムだともなる。
いくら汗水たらして働いても資本主義社会では豊かになれないのである。
結局自分も他人をブラックな奴だとかブラックな会社だとか批判しているけど
自分自身も資本主義社会のシステムで甘い汁を吸っているのだから自分自身もブラックだとなっていることに気づいた。
遺産とか土地持ちとか金融で生活している人はブラックである。
ただブラックについて考えるとフラックでない人がいるのか?
それはいることはいた、それは例えば職人だったら職人で農民だったら農民で自力で暮らしていた人達がそうだったかもしれない、でも今の農家がブラックでないかというとそうでもない、補助金を国からもらっていて減反してももらえるしなぜ田舎がわずかの田をもっていて生活がなりたつかといえば補助金かもらえるからだとなるとこれもブラックな面があるのが現代である。
フリーターとか派遣とか時給で暮らしている人は現代のフラック社会の奴隷であり犠牲者なのかもしれない。
ただ昔から働くことだけで豊かになるとは考えていなかった。
三年寝太朗の伝説はなまけものでも豊かになれる言い伝えである。
なまけていても何らかの才覚と知恵があってそれを機会に豊かになった。
金持ちの家に婿入りしたりしたらそうなる。
それも才覚であり三年寝ていても何か才覚があれば豊かになれる。
資本主義でもその才覚があれば金持ちになれるということじ通じている。
こつこつ働いてもなかなか金持ちになれないということは昔もあったのである。
だから資本主義社会はもともと勤勉からはじまったとしても今では消費が優先されているし働くことが馬鹿らしいということになっている。
働くの機械にさせろロボットにさせろともなっている
だから資本主義社会は何らかのきっかけで限界に達して世界恐慌となり終了すると言われている。それは資本主義自体がブラックになりすぎたからだろう。
共産主義もブラックでありでは何かいいのかとなると結局人間社会は決してブラックがなくならない、この世はそうできている、もしブラックでなかったらこの世が天国になっているからである、カルト宗教団体なども最悪のブラックな団体なのである。
だからこの世はサタンが支配するブラック社会なのは人間が生まれてから変わらなかったのである。
2014年12月18日
鍋一つもったいなということを家事して思った (労働通じてしかモラルなども身につかない)
鍋一つもったいなということを家事して思った
この鍋を幾度洗ふ大切に捨てずに使う年の暮かな
人間の不思議は鍋でも物でもそれに愛着というか愛情を感じてくることがある。
物なんか使って捨てるだけではないかというのが大量消費時代の感覚になった。
毎日大量のゴミが捨てられている。食料も膨大な量が捨てられている。
一方で世界では子供でも飢えてまとも食がとれない人達も何千万といる。
だからそういう人達から見れば豊かな国は罰当たりだとなる。
日本でも戦前から千五十年くらいまでは「もったいな」とか物を大切にすることがあったそれは一重に貧乏故にそう強いられていたのである。
貧乏だったら物を粗末にしていたら生きられないからである。
そして意外なのは大正時代が六千万人くらいの人口だったとういことである。
明治になって3千万とか4千万とかになっていった。
ずいぶん日本は人口が少ないと思った。だから明治時代は日本の自然が残っていて景色的には江戸時代のつづきがあった。都会すら東京でも高層ビルなとないのだから
景観的には今よりいいものがあった。
日本が4千万くらいだったら田園風景がいたるところにあったのである。
その相違はあまりにも大きすぎる。
それじても啄木は故郷の自然を望郷する短歌を作ったから東京はやはり自然景観は消失していた。
「もったいない」というとき人口が多くなると人間の価値も減退する。
だから群衆とか大衆という感覚が生まれたのは明治以降だろう。
それまでも人間をそんなふうに物ののようには見ていないのである
だから明治になって鉄道ができたとき見知らぬ人と乗り合わせたときすら違和感を感じていたのである。
見知らぬ人同士が一つの車両に一緒にいるということになじめなかったのである。
鉄道ができたとき関所もなくなり切符が手形代わりになったというのもわかる。
切符さえあれば日本全国どこでも行けたということの変化は大きかった。
江戸時代は藩内とか村内の狭い範囲でしか生活していなかったからである。
鉄道ができたことで日本人は別な藩の人でも自由に交わることが飛躍的に増えたのである
台所と食事する場所が離れているからどうしてもガスを消すのが忘れるのである。
それで何度もこがしてしまっていたのである。
だからすでに十回くらいこがしてごしごし洗って落とした。普通だったら買い換えているだろう。千円くらいだったらそうした。
でも不思議なのはそれを捨てないで何度も洗うことは「もったいない」に通じていた。
何かその鍋が貴重に思えたし愛着を覚えた。
職人でも物や道具に愛着を覚えることがあるだろう。そういう感覚を経験したのである。人間は物を道具でも大事にしろと何度言っても現代では通じない、そもそもモラルとかはいくら説いても通じないのは経験から学ばないからである。
人間は本を読んだり人に教えられたりしてモラルが身に帯びることはなかなかないだろうモラルは日々の生活の中で身につけていたのである。
だから侍でも侍のモラルは日々の生活で身についていたからこそ本物だったとなる。
ただ現代でも仕事の中で身につくものが本物だということはありうる。例えば農業なとは趣味の範囲でもこれは自ら畑を耕して肥料をやり種をまきとかして経験しないと本当はわからない、そこに自然と深くかかわり多様な経験を体で覚えることになるからだ。
だからそうしてとれた地元の野菜もらってたべたとき単にスーパーで買うものとは違ったものとなる。そのものには人間の情がこもっていたのである。スーパーで買うものは確かに味はあっても何か情がこもっていない、冷たいものに感じた。
それは家族で食べるものが料理されるものが母親の愛情がこもっているとにていたのである。単に買うものには愛情が情がこもっていないのである。
だから江戸時代は自給自足の時代、その土地土地でとれるものを食べていたのだからその土地と人間に密着して情がこもっていたのである。
ただそうはいっても極端な貧乏もあったからそれも一面の見方ということはいえる
家事というのも実際は一つの仕事である。刀自(とじ)というのが女性であり家全部をきりもりするから力をもっていたのである。今でも刀自と墓に刻まれていることでもわかる。昔は家事が大仕事だったのである。機械がないから洗濯するだって大変な労力を必要とした。寒い時など水も冷たく辛かったろとなる。食器を洗うにしても自分の母親はいつも霜焼けになっていたのである。温水になってからはそうならなくった。
家事は中流の家庭でも女中を二人雇っていたとかそれだけの手間が必要だったのである。機械化したときその手間がはぶかれたのである。
だから自分でも何とか介護まで一人でやれるのである。
ただすべてが機械化するとき鍋洗うのも機械化するとき今回感じたような鍋一つに愛着を情がこめられるということはなくなる。
つまり人間は自らの手で子供でも育てたとき愛情を覚えるように自ら何でも経験して感じる覚えるものが本物なのである。職人でも体で覚えるということを師弟でもしてきた。
以心伝心などもそうだろう。今は何かそうして人間と人間でもその間に機械などコンピューターなど入ると人間から学ぶものはないとかなる。
するとそこには情が欠けてしまうのである。
それは鉄道が普及したとき見知らぬ人同士が膨大に交わるようになったのともにていたのである。機械化するということは人間の情的なものを希薄化して非情にしてしまう。
人間がしたのではなく機械がしたとなると仕事したとなると人間は重んじられなくなるのである。
例えば一つの石を苦労して運んだり積んだりするときその労働は人間しているのであり
ここまで自分がもってきたなとその労苦がその石に残る。
でも車で機械で運んだり設置するとしているのは機械だとなる。
その機械を使うことの方にエネルギーがそそがれるのが現代であり人間的なものがはぶかれてしまうのである。
現代は全般的に情には欠けた冷たい社会になってしまった。それは便利さを追求したり機械化したりグローバル経済になったとき必然的にそうなってしまったのである。