2025年02月27日

北海道の花―俳句短歌 【コブシ、シラネアオイ、延齢草、エゾリンドウ,ムシャリンドウ】

北海道の花―俳句短歌
【コブシ、シラネアオイ、延齢草、エゾリンドウ,ムシャリンドウ】

rrinndoou1.jpg


eazorinndou.jpg


shiraneaikita.jpg

popurahokkaidou.jpg

ezoshika.jpg



我が庭にエゾムラサキの今年も咲く
耕さる大地にコブシ北海道
新緑やポプラにサイロ北海道
大輪のシラネアオイや北海道
針葉樹の森に入りて延齢草
新緑に高きより滝層雲峡
層雲峡地史を語るや秋澄みぬ
水清く巌の硬く秋澄みぬ
羅臼にそ熊の湯ありやエゾリンドウ
太々とエゾリンドウや北海道
羅臼岳ムシャリンドウや登る人
雪埋もれ蝦夷鹿鳴くや知床に
雪深し残る足跡知床に
網走や監獄凍てる記憶かな


流氷にクマゲラ叩く音響き知床望み斜里に泊まりぬ
斜里岳の雪の覆いて夕陽さしオホーツクの海望み暮れにき


羅臼は熊の湯がありそこにエゾリンドウが咲き羅臼岳の登山道にはムシャリンドウが咲いていた。ただヒグマがいると思い登れなかった。エゾムラサキは我が庭に咲く。
北海道は本州とは相当に違っている
東北とも違う、東北は因習的なものが残り何か閉塞感がある

北海道はそうしたものがなくさわやかであり北海道に立つと気持ちまで変わるのである、そういうことは他で経験できないのである。気持ちまで変えるという土地はなかなかないだろう。もちろんアメリカでもそうだがどうしても一回くらい言ってもわからないのである。北海道には十回くらい梅雨の時期に行っていた
だからカラッとして気持ち良かったのである

北海道はエゾとつく花の名前が多い、北海道は花の宝庫である
寒いから高山植物でも咲く、ヒオウギアヤメとか尾瀬の至仏山でで見たからである。ハクサンチドリでも宗谷岬で見た。本来は高山に咲く、だから北海道は平地で高山植物が見れるのである
知床には冬にも行った、雪に埋もれてそこにエゾシカがいて鳴いていた流氷を見て斜里の町に泊った。クマゲラの叩く音が響ていた。雪の斜里岳は夕日に染まり美しかった。
北海道には原始的風景があり本州とは違う、だからその場に立って気持ちまで変わるというのは日本でもない。

網走となると不思議なのは網走監獄がありそれをイメージして何か凍てりつくようになる。そこで200人くらい死んだとなると何か網走となるとその地名に怨念が籠っているのかとなる。

posted by 天華 at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2025年02月15日

北海道花の短歌十首


北海道花の短歌十首

tomakomaiport.jpg

hakusankozakura.jpg

chulipsmountain.jpg

船はつく苫小牧かなルピナスや北海道の大地に立ちぬ
苫小牧い出て原野や赤き百合咲きて波よす我が走るかな
大雪山雪踏みしめてハクサンコザクラ我が愛で去りぬ
菖蒲咲く襟裳岬の濃霧かな旅人一人霧に消えにき
雪覆ふ芦別岳や迫り見ゆ富良野に来てチューリップ赤し
雨しとと宗谷岬や遠きかなハクサンチドリここに咲くかな
神秘なる沼に咲きにし延齢草陽の輝き映りけるかな
大輪のシラネアオイや湖の岸山の聳えて夏の朝かな
稚内はるか来たりて6月になお桜咲く日本なるかな
北の果レブンウスユキソウの一面に咲き覆い夕暮れるかも
熊の湯の羅臼にありぬ知床に蝦夷竜胆の色濃く咲きぬ
羅臼岳ムシャリンドウの一群れの咲きにつここを登る人あり

posted by 天華 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2025年01月24日

北海道讃歌の詩ー北海道は一つの新しい国


北海道讃歌の詩ー北海道は一つの新しい国

hokkaidoumap.jpg

hokkaidovocano.jpg

hokkaidouforest.jpg



函館

hakodatepoem.jpg


hakodateportship.jpg



羊蹄山は厳しく迫り聳える独立峰
山頂は氷雪に閉ざされぬ
その眼下広々と耕された大地
牧場に牛はどっしりと憩い
丘に花々は咲き満ち天を望む
摩周湖は底まで透き通り
不浄を拒絶する神域
原始の森なるエゾ松トド松
神殿の柱のように重厚に
森の主エゾフクロウの棲む
あわれアイヌコタンの点々と
その生業と伝説を語る
深々と針葉樹の荘厳な森
延齢草のここに咲き長寿なれ
ポプラの木は真すぐに天に伸び
湖の岸にシラネアオイの大輪の花
樽前山はなお煙吐きて
藪甘草の赤々と咲きぬ
北海道を打ち囲む海なれ
その原野の海岸線の長々と
鴎飛び波打ちひびき鳴る
知床半島崖は反り原始の貌
オホーツクの海は流氷に閉ざされぬ
轟々と流るアムール河よりしも流れ着く氷塊
我が宿にクマゲラの叩く音ひびく
函館はロシア正教のドームもの寂び
岩に十字架の外人墓地のロシア人の墓
その港に古し煉瓦の倉庫群
路面電車のものうくひびく都市も古りぬ
そのエキゾチシズムの街並
終点や立待岬に浪打ち付けて
白波は大森浜に打ち寄せてひびく
東海の小島の磯に蟹とたわむる
啄木の墓の雪に埋もれぬ
岩礁に浪うちつけ響き太陽の黄金の光
質実なるトラピスト修道院のありぬ
清楚静粛にして神への祈り
ああ 榎本武陽の蝦夷共和国の夢は砕かれ
そ開陽丸の残骸の海に沈みぬ
斬新なるオランダに学ぶ星形の要塞五稜郭
北海道は一つの新たな国なれ
清新の気の満ちて新天地なりしも


北海道の魅力は地理的に日本列島でも分離して風土も気候も違っている。九州四国も一つの島であっても気候は似ている
北海道は本州から分離して独立した一つの国となっている
だから北海道というとき風土が違った別の世界となるからそれが返って魅力になる。

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる

東北の仙台市から船で苫小牧に着くと何か花でも北海道特有の花が咲いている。ルピナスとかそうである。空気ども違っている
苫小牧は都会でもちょっと離れると原野や湖でもある。東北とかとはなり違った雰囲気なのである。原始的状態の自然もあるとなる 宗谷岬にはハクサンチドリが咲きヒオウギアヤメがさきそれは高山に咲くものでもある。北海度は寒いからそうした花が平地に咲いているのも魅力である

北海道の歴史はアイヌから始まるがむしろ明治以降に職を失った侍が入植して拓いた土地である。新天地として北海道を目指したのである。そこクラークとから内村鑑三はキリスト教を習い薫陶を受けた。また榎本武陽は開陽丸をオランダで作り150日かけて日本にもたらした。でも函館で政府軍との戦いがあり海の底に嵐で沈んだ。五稜郭もオランダの城をまねて作った

北海道は歴史的にも明治から始まるから身近である。江戸時代となるとわかりにくいが明治は現代と連続している。
ともかく東北は古代から歴史がある。日高見の国があったにしろ西より先に統一国家がったという説もありそれだけ古い
でも北海道は東北とは異質なのである。原住民のアイヌが住んで歴史があるとしても北海道は明治以降の新しい国なのである
新天地として侍でも入植したのである。伊達市は亘理の武士が入植して伊達市となった。

明治に函館に港が開かて外国人もロシア人も入って来てロシア正教会が作られて外人墓地にその墓がある
函館は放浪して短歌を残したように異国情緒ががある。

函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花

こうした雰囲気はやはり明治時代に異国と触れたからそういう時代の雰囲気の中で生まれた、つまり時代の雰囲気はその時代を生きたものでないと実感できないのである
芭蕉の俳句でも江戸時代の社会があって生まれた。自然でもそのとき車もないし電気もないのだから沈黙と闇が深い、万葉時代だたらもっと闇が深くぬばたまの・・・という枕詞になった。

いずれにしろ明治時代は魅力がある。でも何か大正時代になるとデカダンスとか退廃的なものになり昭和となると戦前だが何か戦争に向かう暗いものを感じる
平成から昭和になると今や昭和でも歴史となりなつかしむとなる
それで当時のテレビドラマを見るとその時代の雰囲気がある
商店街に活気があり人々の生活も今とは違っていたのである。小さな店がたくさんあった。その頃は若い人が多く活気があったとなる。現代は少子高齢化で老人が多いから活気がないともなる



posted by 天華 at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2025年01月22日

北海道の旅と人生 【十分に生きない者は死ぬこともできない―人生は連続している】


北海道の旅と人生
【十分に生きない者は死ぬこともできない―人生は連続している】

sarobetuway.jpg


北海道を走る

タンポポが一面に咲き満ち
雲雀が声のかぎりにさえずっていた
そのさえずる声が激しくひびきわたる
大空に大地にひびきわたる
人は見えず誰はばかることなく
雲雀は思い切り一心にさえずる
その声のみがひびきわたった
自由なる旅人よ
そは広大なる北海道を旅する
かなたへかなたへ
そはひたすら進む
ああ 人よ悔いなく生きよ
汝は奴隷のごとく生きるなかれ
隷属してただ服従するなかれ
汝を自ら縛るなかれ
人に使われる汲汲たる人生
それは果たして良きものや
幾ばくかの金で使役される
それが実りをもたらすや
人の生は短く儚い
汝の人生に何を残すや
金を貯めてもその生を失う
自由の旅人よ!
広大な北海道の大地よ
その最果ての地に来たり
ハクサンチドリの咲きぬ
美しきかな旅人は遠く来たり見ゆ
汝の生を謳歌せよ!
自ら奴隷となりて生きるなかれ
ただ不満の言い嘆くなかれ
生きる日は短くたちまち過ぎる
労働はすべて良きものにあらじ
そが生と時間を奪われるなかれ
また夏の日郭公は鳴いた
その声は広大な北海道にひびきわたる
遠くへ遠くへ旅人は行く
汝は何を見たのか何を得たのか
汝は金にとらわれ金を求め生きたのか
その人生に何を得たのか
誰も汝をを認め称賛しない
汝は金のための奴隷なれや
雲雀が郭公がキセキレイが激しく鳴く
その広大な花咲き満ちる湿原に
利尻岳が厳しく聳え迫り
碧々と北の海は深く静まり
旅人はひたすら走る
錚々と草原を吹きわたる風よ
鴎は飛び波打ちつける海岸線よ
かなたへかなたへと続く
海は轟きひびき鳴る
北海道我が心の故郷よ
雄大に大らかに健やかなれ
汝の生を全うせよ
自由の大地よ、汝は生きぬ
郭公の声はひびき木霊する
汝は大いなる歌いつつ去るべし
壮大な地球を歌いつつ
天地にひびき木霊する歌よ
天にも昇り歌いつつ去るべし
そして神に目見えるべし


生きることとは何なのか、何か老後のために金を貯えるとかいろいろ心配するけど、その前に本当に生きることである
生きなけらばあなたおの生を全うしなければ逆に安らかな老後も死もないのである。
老人になって後悔する時金を貯めなかったということがあっても本当に生きなかったということただ金のために働き使役されたことが後で後悔になる。私は自由が与えられていたが金はなかった
でも別に金が無くても旅はできた。自転車でテントを張り寝たそしたらホテル代はかからなかった。問題は自由な時間が必要だった。時間は十分に与えられていたのである。会社員になると自由な時間が得られないのである。

だからいくら金があっても時間がない、それで自由な旅はできない、また老後に退職して旅をするというとき体力がなく自転車で旅ができなくなる。つまり人間はすべて金だけで何でもできるわけではない、不平等を嘆くにしても時間はみんな平等に与えられている。金持ちでも貧乏人でも時間は平等に与えられて差別はないのである。問題は限られた時間をどう利用するかなのである

別に金があれば楽な旅はできる、でもその旅は印象に記憶に残るとは限らない、だから貧乏人でも旅はできる。海外旅行でも円高の時はフリターとか貧乏な若者が世界を回っていたのである
それは恵まれた時代だった。それが円安でできなくなるからその時旅しない人は大損だったとなる。私は辛うじて50歳以後バックパッカーになり外国を旅した、それはやはり時間があったからである。でも60才以降親の介護になったからその機会を逃すとできなくなっていたのである。つまりチャンスを逃がすと金あるなしでなく何でもできなくなる、そして60歳くらいになると病気になりやすく過酷な登山でも旅ができなくなる。
だから金が無いから何もできないということでもない、体力ある内に行いとなる。
北海道は十回くらい行っている。だから第二の故郷ともなる

ともかく老後の心配してもしょうがない、まず若いうちにやれることやれば後悔しない、それがあなたの血肉となる。
それでこそ安らかに死ねる成仏するとなる。そうして私は生きたのだということがないことが後悔になる、なぜならそうして生きるチャンスが失われて二度と戻ってこないからである。
そして嫌々ながら社畜だとしていくばくかの金をもらい自らを奴隷にする、それが老人になって後悔する。もちろん旅がすべての人にとって人生とはならない、その人なりの人生を生きたかということである。そうして生きなかった人は不満であり老人になってただ今度は死にたくないとなりただだらだらと延命するだけの老人なる。

つまり老人の問題は若い時から始まり継続した問題なのである。だから老人になって後悔しても時すでに遅しとなっている。老人の問題は老人になったから起きるのではない、若い時から始まっているのである、その生を全うすれば後悔することはないのである。

多数の者は他人の意志によって動かっされるだけである

時に適って生きなかった者がどうして時に適って死ぬことができよう

我々はもうあまりに疲れて死ぬことさえできない、それで我々は目覚めたままで生き続ける―墓穴のなかで
ニーチェー『ツァラトゥストラ』

人間は死を恐れる、なぜ恐れるのか、人間は十分に生きていないから恐れる。それぞれの生を全うしないからまた死ねないとなる
疲れて死ぬこともできないとなる。生と死は表裏一体であり十分にその生を全うした者は安らかに死ねるとなる
老人の問題はいろいろある、でもその生を十分に生きることこそ安らかな生があり成仏するとなる。
つまり十分にそれそれぞれの生を生きなかった者は死ぬにも死ねないとなる。人生とは一連のものとして継続していて突如老人になるわけではない。子供から青年壮年老人と継続したものであり
切り離すことができないのである

だから老人を語る時実際はその人の全人生が問題になる、どう生きたかが問題になる。死も生と関連してある。切り離せないのである。十分にその人なりに生きた人は後悔なく死ねるとなる
それは熟した果物ののようになり終わるともなる。
〔若い内神を知れ〕というときそれは老人まで影響する。神が存在する神に認められるということで安心がありそれは老人になっても継続して影響する、ともかく老人の問題は全体の人生と切り離してありえないのである。だからこそ十分にその人なりに生きない人は死ぬこともできないとなる。時期に適って死ねないとなる

omoide1.jpg

ベストセラー】「60歳からは、「これ」しかやらない 老後不安がたちまち消える
「我慢しない生き方」」を世界一わかりやすく要約してみた【本要約】













posted by 天華 at 17:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2020年09月24日

函館の思い出ー矢車の花、フランス菊―啄木の歌にロシア人の墓


函館の思い出ー矢車の花、フランス菊―啄木の歌にロシア人の墓

hakodatetakuboku11122.jpg

goryoukakutt11.jpg

yagurumakiku1234_FotoSketcher.jpg

矢車の花は函館に合う花である、それは啄木が歌にしたからそうなった
でも何か函館はハイカラな街であり街全体がヨ−ロッパ風にもなっているエキゾシズムがある
やはりあの坂がいいのだろう、坂を上ったり下りたりして港がある、船がある
その風景は独特である、だから函館に魅せられて何回か行った

北海道には十回くらい行っている
北海道が外国人に人気があるのもわかる、やはり外国人でも魅力を感じる場所なのであるただ北海道のような風景は外国に多い、でも外国人は北海道に魅せられるから来ていたのである  


立待岬に浜百合咲き轟ける波の音かな啄木の墓 

外人墓地大きな岩にロシア人ここに埋もると鉄の十字架


函館の街の西の端にある「外国人墓地」は、日米和親条約が締結され(1854年)、半年後の開港が決まっていた函館の港を視察に訪れたペリー艦隊の一行の中の水兵2名が死亡し、彼らの埋葬場所として提供したことに端を発する。この一帯が正式に外国人墓地に定められたのは、米、英、デンマーク、ロシア、ポルトガルの在函五カ国領事が開拓長官に外国人墓地の永久保全を求める願書を提出し、それが認められた明治3(1870)年のことだ。

 1913年11月14日付『函新』は、函館税関では、漁期になると数千人のロシア人が往来するため、商船学校嘱託の露語教師浪江良平を講師に招き、税関職員に対して翌年3月までの4か月間、毎日午前11時から1時間、露語講習会を開くことになった、と報じている。

あの岩の墓はロシア人のものだった、千人も来たというのも驚きである
つまり函館が栄えていたとき相当の外国人が実際にここに来ていたのである
外国人を入れる窓口となっていた、それは横浜と同じだったのである

旅の問題はその時そこの歴史とかがわからないことである、後で調べたりするがなかなかわからない、30年前以上になると記憶も定かでなくなる
でもインタ−ネットができて記憶をたどりやくなった
この歴史を知ると知らないでは相当に印象が違ってくる
なぜデンマークとかポルトガルの人までここに来ていたのか?これもやはりそれだけ函館がその当時国際的な港だったことを証明している

これは前にも書いたがここで付け足してまた書き直す必要がある
旅は旅する前と旅している時、旅をふりかえることがある
ただこの旅をふりかえることがむずかしい、忘れるからである
30年過ぎて思い出すとなるとむずかしくなるからだ

ただ立待岬に啄木の墓があり崖に浪の音がとどろく、それがふさわしい場所だったとなるなぜなら啄木の一生は苛烈であり27歳で死んだからである
それで立待岬に波が打ち付けてその墓にも轟いているとなる
啄木も明治という時代が生んだ天才だった、明治は日本がにとって特別な時代だったのである、その後は何か大正でも昭和でも戦前は日本は領土でも拡張するのだが時代としては暗く感じる、それは戦争で負けたからそうなったのである
明治時代は日露戦争にも勝っていたから高揚した時代、日本の夜明けの時代だったのである、ただ日露戦争で奢りとなって太平洋戦争では負けたともなる

結局人間は時代の子である、これをまねがれえようがない、時代時代を生きるのが人間である、ここで運不運も生れる、戦後だと団塊の世代は高度成長時代を生き氷河期世代は非正規となり恵まれない時代を生きざるをえなかったとかある
これからも時代に運不運がありそれは逃れようがないのである
戦争では才能ある有為な生年もえなく戦場の露と消えたからである

とにかく函館には矢車の花があっている、また北海道にいろいろな花が咲いている
高山植物も平地に咲いている、ハクサンチドリが宗谷岬にも咲いていたからである
高山地帯に咲く花が平地に咲いているのが特徴である
北海道は電車でも行ったし自転車でも行ったから思い出の地だとなる

posted by 天華 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2019年07月23日

北海道の花の俳句十句 (パソコンの俳画)


北海道の花の俳句十句 (パソコンの俳画)

hokaidouflowerspic1.jpg


hakodatekiku2.jpg

tomakomaiship3.jpg

tarumaemm455.jpg

agedflowe5.jpg

kitahana8.jpg

apoidakee7.jpg

isokazerumoi10.jpg

夏菊や洋館坂に望む海

苫小牧ルピナス咲くや船に着く

風荒し駒ヶ岳にそ岩袋  

煙はく樽前山や藪甘草 

一列に菖蒲の畑牛舎かな  

農家ありポプラにこぶし北海道

針葉樹に延齢草や北の森

霧流れ磐にしるしぬ東菊

大雪にエゾコザクラや残る雪

エゾキクや鉄路のつづき北海道

ぼうぼうと紫菖蒲や霧の中

雨にぬるハクサンチドリ宗谷かな

熊の湯やエゾリンドウに羅臼かな

中腹にムシャリンドウや羅臼岳

磯菊や海風強く留萌かな  


北海道は十回行った、だから第二の故郷である北海道だけは日本では異国なのである
空気まで違っている、だから船で苫小牧に来たときすでに空気が違ってることを感じる
そこにルピナスが咲いているのもそうである、この花は普通は本州では自生していないからである、北海道は寒帯の花が咲く、それで宗谷岬にハクサンチドリが咲いていた
これは高山植物だからである  

シラネアオイとかも高山植物だけど平地に咲いている
その他檜扇菖蒲とかも平地に咲いている、北海道は花がきれいにみえる
やはりまだ未開拓の地という感覚あり広いからそうなる
この辺では飯館村に咲く花が何か純粋に見える、草むら深く咲いているからである 

登別の方に行くところに樽前山がありこれは煙をはいている、広い牧場があり藪甘草が咲いていた、それから畑に一列大きな菖蒲が咲いていた、牛舎がありいかにも北海道的である

富良野に自転車で春に行きついた時芦別岳が印象に残った
銀色に雪におおわれていた、そして赤いチューリップが印象的だった
こういう風景に出会うのは電車ではない、ただ正直疲れる旅だった

富良野にそ我が着きにけりチューリップ銀色の雪に芦別岳見ゆ

I have reached at length in Furano by bicycle
And I saw Mt. Ashibetsu covered with silver snow
It was impressive with the red of the tulip

この光景は神秘的だった、ただ旅というのは記憶していないとそこに行ったことすら忘れる、すると行ったことにもならなくなるのである
十年とか二十年とか三十年でもふりかえり記憶していれば旅を回想のなかでできるとなる

富良野から美瑛とかを回りはるかに稚内まで自転車で行った、その時は春であり稚内で桜が咲いていたことには驚いた

アポイ岳は低い山で常に霧がかかっている、その日高線は暴風で高潮で破壊されて不通になっている、いつ再開するのかわからない、見通しが聞かないからだ
その終点の様似からアポイ岳に登った、そこが高山植物の宝庫なのである

アポイ岳は、海岸に近く、特に夏期、海上に発生する濃霧がアポイ岳を覆って日射をさえぎり、気温を低下させ、また、海岸からの強風などが、植物に対し耐寒性を要求することになり、多くの高山植物を生殖させる要因となっている

羅臼はエゾリンドウである、これ太いのである、そして熊の湯という露天風呂があった
その場にふさわしい花がある
樽前山では広い牧場があり牛舎があり大きな菖蒲が一列に畑に咲いていた  

それから日本海側は磯菊が一面に咲いていた、そして留萌とかは風が強い場所だったのである、何か記憶をとびとびになってしまった
だからこれはまた付け加えることがある
記憶をたどりや一つの作品に連作をする、ただ俳句だけでは表現しにくい
そもそも北海道は俳句になじまない、広いからである、俳句はやはり本州から生まれたものだと思った
風土と関係していたのである
詩にもしている、詩はまだほとんど出していないのである、この作品はまだ完成していない、つづきがある   

 圧倒的なスケールの大きさ!北海道の花の名所23選

北海道で花が映えるのは広いからである、本州では北海道のように広い所がないから一面に花咲く光景が作れないのである



posted by 天華 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2018年07月25日

冬の知床、斜里岳の短歌十首 (北海道は冬を知って本当にわかる−万葉の時代に帰る場所でもある)


冬の知床、斜里岳の短歌十首

(北海道は冬を知って本当にわかる−万葉の時代に帰る場所でもある)


知床の雪にそ脚を踏み入れて蝦夷鹿の鳴く声ひびきけり

知床に蝦夷鹿鳴きてその奥に消えしも足跡雪に残れり

知床に雪深く積もり誰か入る月影さして獣の足跡

流氷の知床によりそそりたつ巌やここは日本の果てかも

夕日さし雪おおいにけり斜里岳の今も穢れず神し思ほゆ

斜里岳の雪の衣をまといつつ聖なるものや国の果てかも

斜里岳に至純の心純白の雪のおおいて汚点(しみ)もなきかも

流氷のよりし斜里の町その宿にクマゲラの木を叩く音かな

あかつきや白鳥の鳴く声ひびき凍りし沼に北の果てかも    

オホーツクに流氷閉ざし厳しきやかなたロシアの凍えけるかも


北海道は十回くらい行った、それも一か月とか長いのである。
それだけ旅行していたのは恵まれたからである。
家を留守にしても家族がいて安心だった、今確かに旅に行けるけど家を留守にするので行けないということがある、これもやはり自分のカルマだった
あんたはそれだけ旅したのだからもういいだろうということになる

なぜこれほど北海道に魅かれたのだろう、それは北海道は本州とは違う、自然の状態がそのまま残っている、原生環境が残っているためだったろう
苫小牧に降りるとそこから何か空気まで違っているのである
最初は電車の旅だったがものたりなくなり自転車の旅になった
最初は自転車で旅できると思っていなかったのである。
そう考えたのが失敗だった、人間は何かできることでも自分はできないなと思う
自転車旅行は40代からはじめたができたし海外旅行は50代からはじめたけどできた
ただ海外旅行では悔いが残った、早くからしていればもっとできたしヒマラヤなどにも何回か行けた、自然を見る点では失敗した

また海外留学でもできないことはなかった、それは30代でもすればよかった
ただその時海外旅行は高くついていたので無理だと思っていた
海外旅行は40歳の頃からしやすくなっていたのである。
つくづく人間はやれることをやらないと後で後悔する
特に若い時はそうである、経験を積むことが大事だからである
ただそういうことをすることに恵まれている人は少ない
親でも金持ちだとそういうことができる
留学するとなると相当な金持ちしかあの時はできないと思った
でもしている人はいたのである
ただ旅ばかりに明け暮れて終わった自分は普通の人生ではなかった
今でもそうしている人がいるがそれで後で後悔する
何か人生にとってたりないものが生まれて苦労する
旅だけが人生というのではもう普通の勤め人にはなれない、社会からはずれたアウトサイダーになるからである

これもその時代によるのである、今なら留学するのが普通になっているからだ
この時代の差が大きいのである。まだまだ団塊の世代で留学した人は特別恵まれた人だったからである、北海道に開拓に入ったいわき市の猪狩満直なども詩人だったが力尽きて病気になり若くして死んだからである
それも過酷な時代故だったのである。時代でどうにもならないことがあるのだ
それから比べると自分は時代的にも親でもずっと恵まれていたのである。
なぜ北海道に魅了されるのか?それは本州にはない原生環境があるからだとなる

アイヌが住んでいてそこを常にカムイなるものとして神居として意識していたことでもわかる、その感覚は日本の古代からあったが現代ではあまりにもその環境が失われてしまった、富士山は神なる山だがその前景がもうまるで違っている
大都会であり家が密集しているし富士山が映えないのである。
知床とか斜里岳とかあるところは何もないから自然がそのまま原初のままに映えている
だからそこに神々しいものを感じた、その現実に見たものが心に残っていたのである
北海道は冬を知ってこそその真実を知る,それはほかでも四季があり四季を知ってその土地のことがわかるのである 

秋の雑歌(ざふか)

崗本天皇(をかもとのすめらみこと)の御製歌(おほみうた)一首

夕されば小倉(をぐら)の山に鳴く鹿は今夜(こよひ)は鳴かず寝(いね)にけらしも

大和(やまと)へに君が立つ日の近づけば野に立つ鹿(しか)も響(とよ)みてそ鳴く

これは鹿と人間と自然が一体となった歌である
岡本宮がある天皇が住んでいる場所の近くでも広い深い自然が背後に広がっていたのである。
いつも裏山で聞こえる鹿の声が今日は鳴かないというときいつも鹿の声を聴いているからである、すると聞こえないということで自然の奥深さを感じて一体化しているのである
鹿というのは大きな自然の中に生きている、鳴かないことで深い自然の沈黙を感じたのである。
現代ではもうこういう感覚はありえない、都会の騒音とビルの谷間に生きていたら聞こえるのは車の騒音だけでありごちゃごちゃした都会のネオンとか雑踏とかむんむんとした人の熱気しかないのである

まず万葉集時代なら日本全国でも数百万しか住んでいないのである。
ということは自然に覆われていた世界なのである。岡本宮とあったとしてもそこには一軒の宮が建っていただけだとなる
これは妻を呼ぶ声にたとえられるがただそれだけではなく深い自然の中に鳴く鹿がいつも鳴いているのに鳴いていないということでかえって自然の奥深さとか沈黙を表現したのである、この歌は秋の歌だから余計深みを自然の寂寥も感じるのである
人を送る時鹿が鳴いているというのもいかに自然と人間が鹿と人間が一体化していたかわかる
鹿も人間となり見送っていたのである

この時代はまず自然と人間は一体でありだからこそ万葉集ができた
それを深く理解できないのはもう現代ではそういう環境がありえないからである
まず現代では宗教でもなんでも都会から生まれてくる、自然から生まれないのである
だからすべてが政治であり経済であり科学であり工業であり商売しかないのである
宗教が神道でもそういうものではない、現生の自然の中から生まれたのである
そこで万葉集が神道の起源になる、「真直」なるまなおなるものとして自然を見て接した心がある、それが北海道ではなお感じるから北海道は日本にとって最後の神秘的な領域として貴重なのである、そこはまだ本州のように開発されていないからである

ともかく蝦夷鹿がいるということで普通に見れるということで貴重である
知床でも冬に見たのはその鳴き声でも聞いたのは貴重だった
雪に埋もれた知床に踏み入ったのは貴重な経験であり今になると思い出すのである。
斜里岳は荘厳であり神なるものを感じたのである、それは冬に一層そう見えたのである。これはその時その場でしか感じえないものである。
それが心に残っていたということである。オホーツクとか知床は日本の果てだから特別な地域だともなる、そこからロシアに通じている
アムール川に通じている、そこでアムール川を見たのも貴重だった
だがそこでは大変な失敗をしていた、ロシアは一人旅はしにくい場である

今は暑い盛りだけどこれで涼しくなるということもあるのか?冬の北海道は魅力的である
ただ相当に寒い、その時は比較的暖かいから助かったのである。自分は体が弱いから暑さ寒さに弱いから助かったのである

posted by 天華 at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2018年07月08日

夏の霧(北海道俳句) (霧に消えた旅人)


 夏の霧(北海道俳句)

(霧に消えた旅人)

mistkituneee111.jpg

erimomm11.jpg

misttravelll1.jpg
                          
夏の霧キタキツネ出て古き沼

夏の霧牧場つつみ夕日かな

旅人の去りて消えにし夏の霧

霧流る襟裳岬に菖蒲かな

霧晴れて都草の一面に


旅をふりかえるとそこがどこかわからなくなる、襟裳岬まで行った、その前に寄ったのがどこだったのか?
ただ海岸でありそこに沼がありキタキツネがでてきた
それは思い出している、そこに宿があり一泊している,何か自転車だったら奇異に見られた、バイクなどがとまるライダー宿ならそういうことはない、そういう宿にも泊まったことがあるからだ、そこは町とかで運営している宿のようだった
そこがどこか思い出せないのである。、牧場の丘があったところであるがそういう風景が北海道ではめずらしくない

その時深く霧がかかっていたことは記憶にあるのでこの句ができた
自分自身すらそこがどこかわからず夏の霧の中に消えたとなる
その時自分は旅人であったからだ
今は旅人になることはむずかしい、車とかバイクでも早すぎるのである。
すると景色に溶け込めないのである。
昔は普通の人でも旅人となっていたのは徒歩の旅でありそれで景色に自然と溶け込むようになっていたのである。

今は何かホテルでも泊まると旅人として何かにあわないのである。
立派なホテルだと何か旅人の宿ではない、そこでくつろぐとかうまいものを食べるとかなってしまう、現代はこれだけ観光旅行していても旅人はいなくなったのである。
だから北海道でテント張って旅したときは旅人となっていたのである

人間は死ぬと不可解な謎になる、もう深い霧につつまれる、その存在はみんな謎になる
北海道が夏にふさわしいというときまさに旅人は夏の霧に消えた、謎となったのである。
襟裳岬では霧が流れていた、そこに菖蒲が咲いていた、そして百人浜に出ると都草が一面に咲いていた、そこにもキタキツネが歩いていた、キタキツネは日常的に出会うのであるただ襟裳岬から百人浜まで行ったことは覚えているがそこからどこに行ったのか覚えていないのである。

ともかく霧は幻想的にする、霧がつづいたので北海道のことを思い出したのである。





posted by 天華 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2018年03月17日

北海道夏の旅短歌十首と詩(宗谷本線の咲来(サックル) 北海道の大地にリフレッシュせよ(詩)


北海道夏の旅短歌十首と詩(宗谷本線の咲来(サックル)

北海道の大地にリフレッシュせよ(詩)

monponn1.JPG

mobponaiii22.JPG

テレビで放送したものだけど開拓村の感じである。
煙突があるからやはり冬は厳しいものがあり北海道を感じる

宗谷本線・咲来駅に行ってきました。

ここに咲来(サックル)のことが写真付きででている



なかなかに電車の来ぬやその鉄路雨ぬれつづき夏草茂る

咲来(さっくる)に夏の日一人おりたぬ何をか見むや数軒の家あり

一軒のライダーハウスありにしと咲来(さっくる)あわれ夏の夕暮

人気なく流れに泳ぐ鮎なりき勢いよしはそれのみなりしも

人来たり驚きぬかなひそむ魚流れに群れの素早く泳ぐ

電車来ず鉄路に眠るでで虫や木立の影の鉄路をおおふ

砂浜に流木の山夏の日や荒き波音人一人来ぬ

海岸の果てなくつづく砂浜や何かとどめむアイヌの地名

波荒くうちよせ荒れぬ利尻かな鴎飛びつつ旅人行きぬ

礼文島遠き島かな夕暮れにレブンウスユキソウ咲きみちにけり

霧かかり磐(いわ)一枚ここに眠りて遠き島や夏の日暮れぬ

飛び交いぬ燕やかなたの宿遠し旅人交わり夏の日去りぬ

我が走る北海道や燕飛びまたはるかにもかなたへと去る

はるかなる大地つづきて雲雀鳴きいづこへ行かむ旅の空かな

今思い出すと不思議である。咲来(さっくる)という駅で一両の電車を来るのを待っていたそれはなかなか来ない,ふりかえるとなぜあの線が残っているのかと思う
採算は全くとれないし本当に乗る人もわずかである。
ただ観光路線として残しているのか?
鉄路があり雨にぬれて夏草にうもれる,テレビで見ていてその辺のことを行ったことがあるのでなつかしいとなる

自分は咲来(サックル)駅を下りて辺りを歩いていた,川がありその川でも辺りに家がわずかであり電車にしても一両でありなかなか来ない,ただ稚内まで急行は走っているが
あの辺りは本当に人家もまれな地帯である。
あういうところで自由に気ままにぶらついていたのが自分だったのである。
それは恵まれた時だった,北海道には十回も行っているから第二の故郷である

北海道は東北とあっても他に大きな区分けがあるが一つとはならない
北海道は一つの国のようになっている、そこで気候も相当に本州とは違ってくる
海に囲まれた島にもなっているから一つの別な国として意識させられる
沖縄ともにている,沖縄もまた別個の島であり国になっているからである。
福島県でも広いがそれが一つの県としての意識がもてない
北海道はあれだけ広くても一つの県として国としての意識がもてる
そこで北海道全体を一つのテーマとして詩でも作れるのである。
そこに多様性があっても一つの国として世界として構成できる
]だからこそ蝦夷共和国の発想が明治維新の時生まれていたのである。

北海道は日本では外国である、北欧とかににているのだろう。
だから宗教でもプロテスタントとかゲルマンのゴシック建築とかにあうとなる
樹だと針葉樹の世界でありトドマツでも太いからである。
それが北の風土ににあっているのである。

北海道は詩にしても一つの国として意識して作る,他にも一つの国として機能する世界を作りやすいのである。本州になるとそうした感覚はなくなる
山が多いせいで統一感を感じないこともある
山にはばまれて統一感を感じない,福島県でもそうである。
阿武隈高原によってさえぎられ福島市とか中通りは地理的一体感を感じにくいのである
平原があればそれはかえって一つの統一国家になりやすいことはあった
山にさえぎられればそこで地理的一体感は断たれるからである。
山は障壁となり壁となり人の出入りも防ぐ天然の要塞となるからである。
おそらく北海道には平原的な風景がある唯一の場所だから本州と違って統一感をもつのである。

それにしても何でも人間は最後は過去を回想する,どんな人生であれ語る,会社に勤めていたらやはり会社が人生だったからそのことを語る
それはつまらないものでもそうである。その人にとってはつまらないとしてもそれが人生だったのである。そこに人生の重みが生まれる
だって人生は一回限りであり一回しか経験できないからだ
誰でもその一生が意義あるものとしてあることを願うだろう
とにかく自分はこう生きたのだと語る,自分は旅を生きたから旅を今語るのである。
そんなの遊びじゃないかとなればそうである。
でもそれもやはり自分の人生だったとなる
つまり今も心は北海道にあるともなる


北海道の大地にリフレッシュせよ

北海道心身ともに健やかにす
北海道の大気を吸いこみ
その心は澄み大地から
力が沸き上がる
黒々と大地は耕され
原始の巌がそそりたつ
雲雀が一日とがめられることなく鳴いていた
その声はどこまでも広がる大地にひびきわたる
つばめは縦横に飛び交い
旅人もその果てし無き大地をめぐる
悠々として大地は実りをはぐくむ
夏の日、若き日よ、旅人は交わり去りぬ
ああ、その日よ,我が身も心も放たれぬ
その広々とした大地に空に
その森厳なる針葉樹よトドマツよ
風雪を帯び北の聖堂の列柱のようにたつ
しかし過酷なる北の大地よ
そこに成らず敗れし者も多し
摩周湖の水は底まで澄み神秘をたたえる
その透明の水に映るのは神の顔
北海道を囲む海よ,そそる岩壁に波はうちひびく
海岸に流木の延々と積まれて
広々として湿原に花々は咲き満ちる
池塘には花がうっとり我が身を写している
激しく鳥が全身で鳴く声が日がなひびきわたる
利尻島は厳しく極のように聳え立つ
群青の海の色は深く北の清冽な自然に打たれよ
ポプラは風にそよぎゆれその大空よ大地よ
深々と北海道の大気を吸い生気にふれよ
そこになお原始の日が息づいている
人はその厳しい自然に鍛えられ人格を形成する
北欧のような北の文化を形成する

todomatuuu123.jpg




posted by 天華 at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2018年02月20日

北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)


北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)

無念の声が
北海道の厳しい
大地に埋もれぬ
その分厚い雪の下に
無念の声が埋もれる
開墾に敗れし者
その無念の声が
冬の過酷な大地に
閉ざされ埋もれぬ
雪はふぶき非情
しかしそこに挑みし者は
無益ならざれ
北海道の大地の実り
その実りを味わう者は
また悲痛なる無念の
大地に埋もれし声を聞くべし
その大地に蕗の薹
力強く芽吹きぬ
北海道の大地の春は輝きぬ
悲痛に埋もれし者も
その命の芽吹き見る
死者の願いはそこにかないぬ
そこに死者は輪を作り立ち上がる
力強いその群像を見る
死者はそこにありて
その大地と共に生きつづける

北海道の魅力はやはり北海道は広くても一つの国として見る,本州だと一部をみていても北海道のように全体を見れない,福島県だって広いから会津は別な国であり一つの県として見れないのである。そこでなかなか福島県の詩とか作りにくいのである。
北海道はあれだけ広いの一つの国のように見ている
榎本たけようの蝦夷共和国というのは何か地理的なものとしてそうなったのである。
江戸幕府が敗れても北海道に新天地を見いだそうとしたのである。

北海道に入れば空気まで違う,苫小牧に船で上陸したとき必ずその空気が違ってるのだ
澄んでいるのであるそこに野の花々が咲いている
そういう原始性が残っているから違っている
本州だとどうしても町とか市とかに出る,どこまでも広がる大地とか草原とかそういうものは本州にはない,だからそこで心まで解放された気分になる

ただそこで生活するとなると過酷である。自分など体力がないから耐えられないとなる
北海道開墾はそこで敗れた者も相当に多い,猪狩満直もその一人であり他に大勢いるのである。
彼らは北海道の実りを享受できなかった,しかしその後の人はその実りを享受する
それがまた人間の歴史だったのである。
何らかの犠牲の上に次の時代も築かれるとなる
戦争の犠牲の後に日本の高度成長があったのもそうである。
何にもない焼け野原から良く高度成長になったのは驚嘆すべきである。
でもそれは中国でも20年くらいで同じように起きていたのである。
だからそれは世界的なものであり日本だけのものではない
何かそういう力が日本に働いて高度成長になったのである。

北海道は明治になりフロンティアになった,そこから日本の新生が始まったのである。
もし北海道がなかったら日本は失業した武士などの受け入れる場がなかった
アイヌはいたにしろ手つかずの未開の地が開けていたのである。
ただ北海道で犠牲になった人達も多い,それだけ厳しい大地だったのである。

おらは反抗する
あくまで敵對する
まつ白な雪の中で
零下の寒氣の中で
このまま目をつむれるもんか
おら おららは

猪狩満直「移住民」

これはこの詩人だけではない,北海道の開墾に敗れたものは大勢いる
それらの人達の代表としてこういう人がいて詩に残したのである。




















タグ:北海道の詩
posted by 天華 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2018年02月18日

北海道短歌十首(2)(見直される猪狩満直などの詩人)


北海道短歌十首(2)(見直される猪狩満直などの詩人)


北海道原始のままに飾らずにますぐに太く立ちにし樹かな

高きより滝の落ち来る新緑の巌に映えて層雲峡かも

自由なる旅人一人北海道の郭公の声かなたにひびけり

北海道大地の広くその空に郭公の声ひびきわたれり

底までも澄みにけるかな山上湖原始のままにけがれなきかな

北海道流れの清く蕗の薹芽吹きけるかなその数多しも

アイヌの顔彫りの深しも哀しかなその民滅び和人となりぬ

きれぎれのアイヌの言葉残りしも継ぐ人なくて絶えにるかな

ここにしもアイヌの民の物語深くも尋ぬ人は少なし

ラベンダーの中に揚羽舞い来たりひそみ長くまた飛びたちぬ

ラベンダーの紫つつむ富良野かな鉄路の長くまた旅たちぬ

大いなる挫折にありや大鳥の半ばとびたち墜ちにけるかも



北海道は十回くらい行っている,これだけ旅するには勤めていてはできない
自転車でも何回も行っているからだ,だから北海道はほとんど回っている
一番長い旅は苫小牧から宗谷岬をめぐり稚内に行った時だった
その時六月で稚内に桜が咲いていたのである。

その時はまた郭公がどこまでもひびいていた,その声がひびきわたる大地の広さがいいのである。
北海道の良さはまだ全体的に原始性を残していることなのである。
原始的な清純な自然に触れることなのである。
それは本州とかなるとそこには確かに自然があっても全体としてはどこもないのである。北海道は全体として原始性が残されている,それが魅力なのである。

アイヌも住んでいたからそこに物語も残されているから深く尋ねれば興味深いものとなるただアイヌ語はもう死んだ言葉だし不明となっている
それでも彫り深い顔だちの人がいてその人はアイヌの末裔なのかと見る
その顔はもしかしたら西洋的というか何かそっち系統の顔なのかもしれない
縄文人とつながっているのかどうかは不明である。
言葉の痕跡として動詞が主語によって変化するとかあり英語などに通じるものがある
アイヌ民族の謎は未だに解明されていないのである。
アイヌが存在したということ,それも歴史だったということを日本史の中に記されるべきなことは確かである。

北海道の開墾に入り猪狩満直は挫折した,でもその人を考えるとそれが大いなる挫折だったということである。
その挫折には意味があったなと思う,啄木も挫折したがまた猪狩満直などは違う
啄木は注目されているが猪狩満直などは詩人としては注目されていない
三野混沌などもそうである。
その当時は農業中心の社会でありみんな農業で生活をたてるほかなかった
それは戦後の戦争の引揚者の時代までつづいたのである。
だから戦後の引揚者が入った場所がいたるところにある
この辺でも山には必ずそうした引揚者が入って開墾した場がある
それは全国的に仕事がないからそういう場に入ったのである。
北海道でも農業中心の社会ではそうなったのである。
だからそういう時代だったとなる,時代の犠牲になったともなる
戦争で犠牲になったのと同じである。

ただ挫折したからといって今考えるとそれが無意味だったとはならない
それは大いなる挫折だったのである。北海道の大地に挑み挫折した
それは大いなる挫折でありその残したものが何なのか考察する必要がある
挫折しても大いなる挫折でありそこに未来に残すものがあった

そのことはこの辺で原発事故で前にも書いたがみんな原発にかかわる人が本当にこの辺では多かった,南相馬市でもそうである。この人も原発にかかわったのかと新たにまた知った,それだけ原発の影響はこの辺で大きかったのである。
飯館村の人も原発で働いていた,川内村は近いから三分の一が原発で働いていたのであるそれで実際は村が成り立っていたのである。飯館村はそれほどではなかった
だから一番福島県で低所得だったのである。

そして小高に住んでいた人が子供のとき親から農業だけがするなと殴られたという
それだけ農業は過酷だったから経験でそう子供に言ったのである。
その子供は原発と建築関係で渡り働いたのである。
その原発があったことが事故後は仇となり生活そのものを見直す結果ともなった
でも事故後も補償金でもめたりただ補償金だけが頼りとなり分裂したのである。
水俣でも公害があっても分裂したのは補償金のためだったと書いてある
だから三野混沌とか猪狩満直などの農民詩人が見直したのである。
その人たちの後世に残したメッセージは何だったのかとなる
それは大いなる挫折であり後世にメッセージを残したことに気づいたのである。
それは宮沢賢治でもそうである。農業は過酷でありそこに戦ったのが挫折したのである。その挫折した歴史に教訓があったとなる

ともかく北海道に十回も行ったし北海道にひかれる、だからもう北海道は第二の故郷だともなる,外国旅行しても何か原始の自然に触れることはなかなかできない
やはり歴史とか文化を都市中心に見るからである。
ただネバールには驚いた,犀がいたというのも驚きである,象でジャングルに入り観光する,つまりなぜネバールにジャングルがあるのか驚きだった
あそこには原始的自然がある,人間も高地を裸足で歩いていたのである。
ボールペンをくれというときそこにはそういうものも売っていないのである。
だから原始的な生活があり自然がありヒマラヤの高峰を望む所に生活しているのも驚きである。
そこで現実に生活するとなると過酷だとなる,それは北海道とにているのである。
中国の帰りの船で一緒になった若い人はモンゴルで羊を飼うことを習うために一年間くらい一緒に暮らしたという
冬になると一間回り痩せるという,それは冬の生活がそれだけ厳しいためなのである。
その人は北海道で羊を飼って生活をしている,羊を飼うことを広めたいと言っていた
農業大学出身だった,その人がNHKのテレビでドキュメントして放送していたのである。
その後はどうなったかわからない,でも恋人が一緒に船にいてその後結婚して子供も何人かいて生活が苦しいとテレビで訴えていた

何か自分は東京が大学時代いたけど嫌になった,それから自然志向で北海道に旅したのである。
だから自分は北海道のような所で死にたいとまでなる,東京のような都会で死ぬのも無惨である。北海道のような所に死んだら本望だ気持ちいいとかなる
つまり生きたい場所が死にたい場所なのである。東京などに生きたくないということは死にたくもないということなのである。
ただ自分の場合は遊びだったから猪狩満直のように呪いにはならない,ただ旅した思い出だけだとなる,それで思い出す旅をしているのである。






タグ:北海道短歌
posted by 天華 at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2018年02月17日

北海道の思い出短歌十首(原始的自然が残るから惹かれる)


北海道の思い出短歌十首(原始的自然が残るから惹かれる)


北海道美し厳し一詩人命短く呪いつつ死す

開墾に挑むも成らず捨てられし家そちこに北海道かな

タンボボのまばゆく映えて草原や真昼間に鳴く雲雀のひびきけり

煙吐く十勝岳かなボプラの木丘にますぐに草萌えるかな

煙吐く樽前山に藪萱草放牧の牛たむろするかな

針葉樹厳粛にして北海道の大地の広く国を成すかも

トドマツの太くもあれな大雪山残れる雪や層雲峡見ゆ

北海道針葉樹林の黒々と打ちひびくかな原始の山見ゆ

沼一つ宗谷の果てや隠されて森の影深く陽の写し輝く

霧深く陽の輝くやこの辺りいづこやキタキツネの現れ消えぬ

霧流るえりも岬に菖蒲咲きその霧深く隠しけるかな


おらは反抗する
あくまで敵對する
まつ白な雪の中で
零下の寒氣の中で
このまま目をつむれるもんか
おら おららは

移住民(猪狩満直)


猪狩満直は四〇歳くらいで北海道の開墾に入り肺病で死んだ,絵も描いていたから相当に才能があった,でも厳しい開墾で病に倒れた,だからしきりにこうして呪っていたのである。
まず開墾となれば旅ではないのだから厳しいのである。
だから北海道にはそうして捨てられた家がそちこちにある
みんなが成功したわけではない,挫折した人も多いのである。
猪狩満直は北海道の厳しい自然と格闘して敗れ死んだのである。

北海道には本州と違うのはまだ原始的自然が残っている,それが北海道全体で感じる
北海道に入ると本州の空気まで違ってくるのである。
だから自分は十回も北海道をさまよい旅したのである。
その記憶もあいまいとなっているがこうして時々思い出して短歌と詩にしている

例えば福島県でも長野県でも県単位だと一つのものとして見れない,岐阜県の人とあったけど名古屋が岐阜県だと勘違いしていた,岐阜県はどういう地域なのかイメージできないのであてる。福島県でもそうである。ハマ,ナカ,アイヅで気候が違っているからである地形も違っていて一つの県としてイメージできない
北海道は広いのだけど一つの国としてイメージできる
そこはいろいろあるが一つの北海道として見る
そこには荒々しい原始的な自然を感じる,だから北海道に船で苫小牧から上陸したとき違った世界に来たとその時感じたのである。

旅の記憶をたどると宗谷岬に行く途中にカムイト沼がありここは本当に神秘的である。
原始の自然の沼である。こういう沼は本州では見れない,なぜか?
本州では人が住んですぐ近くに村でも町でも都会にもすぐ出るからである。
ここは町とか村でも離れていて家も少ないから自然のままなのである。
宗谷岬当たりは本当に人家もまばらだからである。
そこにはハクサンチドリとかの高山に咲く花も咲いていた
北海道には高山植物が寒いから咲いている,それが魅力的なのである

十勝岳は美瑛から見える,北海道には今も煙を吐いている山がある
樽前山もそうだった,だからここにも原始的なものを感じる
やはり北海道の魅力は北国の自然でありそれが厳粛なのである。
南国と北国でも自然が違っている,針葉樹林でありトドマツとかであり太いし荒々しいという感じになる,ドイツの黒い森とにているだろう。
そこは樅の木である。樅の木でも飯館村の奥に隠されていた樅の木には感動した
二本とかあったが太い樅の木だった,一般的に樅の木はあるがあのように太い樅の木は見ていない,同じ樅の木でもいろいろある,飯館村は森の村なのである。
この辺はまだ森がある,海から森へと通じる自然がある,ただ山はないのである。

こうして思い出す旅をしているのも介護が終わり余裕ができたからでもある
何か思い出すにしても時間と余裕が必要なのである。
介護しているとそういう余裕すらなくなっていた
冬はこうして思い出す記憶をたどる旅に向いているのだ
ストーブにあたたまり思い出す旅をしているのである。
ただ旅ももう何か終わったという感じにはなる
何か介護十年して消耗して疲れたのである。
だから旅する気にもならなくった,そのエネルギーもなくなったのかとなる


カムイト沼
3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%A4%E3%83%88%E6%B2%BC&fr=mcafeess1





posted by 天華 at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2016年10月12日

途中下車宗谷本線(詩)ー宗谷本線が消える?



途中下車宗谷本線(詩)ー宗谷本線が消える?

souyaaaaaa11.jpg

railkkkkk1111.jpg


宗谷本線
一つの駅
おりたちぬ
夏の日の思い出
数軒の家あり
立葵明るく咲き
一軒の家の庭
花々に囲まれぬ
かしこ我がしばし
一人遊びてあり
今にして遠い記憶
一つの駅またおりぬ
その辺り歩みて
牧舎に牛のいぬ
のっそりとして
そこは湿原や
菖蒲の咲きにき
一両の電車あわれ
夏の夕ぐれ
ただ遠き日の旅の思い出
そ最果ての線路
一つの無人駅
おりたちて
いつ来るとてなし
電車を長々と待ちぬ
線路には恐ることなく
でんでん虫の一匹眠りぬ
その路線も消える時
まさにただ記憶とならむ



宗谷本線の存続がむずかしくなるらしい、稚内からは乗る人がまれである。ほとんど無人駅である。電車も一両だった。youtuneで延々と電車からの風景を写している
延々と森の中を走っている、家は本当に少ない、あんなに家がなかったのか?

人間は最後は記憶だけになる、記憶がそこにあったということを示すが例えそこにあっても記憶が消えたら存在しないと同じなのである。
ても旅でも今は騒がしいから忙しいから記憶に残らないのである。
すると旅したことにもならないしそこにあったということすらなかったともなるのである
自分は暇だったから一つの駅でおりてその辺をぶらぶらしていたのである。
電車は二時間くらい来なかったかもしれない、あの辺は無人駅が多い。
電車も一両だった。それだけ乗る人がいないというとき廃止になるのもやむをえないのかとなる、北海道の路線はすでに半分は消失した。これからも消失してゆく
ただ宗谷本線は違っていると思った、なぜなら急行が走っているし本州と最果ての地を結ぶ路線だと思っていたからだ。そういうことでなくなるとは思わなかった
ただ一両の電車がたまに走る路線だから日常的に地元の人が乗る人が本当に少なかったのである。

電車の旅はずいぶんした。北海道はずいぶんのった。でも電車の旅は意外と記憶に残らない、その車窓の風景でも早く過ぎて行くから記憶に残らない、ただ途中下車するとき何かそこが記憶に残っている、宗谷本線では途中下車して長い時間をいたから記憶に残っていたのである。
記憶は時間と関係しているのである。早く過ぎたりちょっと留まったりしただけでは記憶に残らない゛ともかくそこでは途中下車しても長い時間を過ごしていたのである。
それで記憶に残っていたのである。
現代の旅は何でも忙しくて早すぎて記憶に残らないのである。すると何か実際は時間の浪費しているのである。
効率的な時間で旅すること自体がかえって時間を浪費しているという逆説になる
なんか無駄な時間がかえって記憶に残りあとで宝となる

人間は老人になればわかる、体験したことが宝でありもう新しい体験ができないから体験した記憶が貴重なものとなる、人間の生きる時間は極めて限られたものなのである。
そこに人間の限界がある。老人になると新しいことを消化しにくくなる。
ただ今まで経験したことをふりかえりその意味を深化させるのに向いているのでてある。では旅した経験を書くというとき記憶に残っていなかったら書くこともできない
でも記憶に残ることはつくづく少ないと思う、とにかく人間ほど忘れやすいものはないのである。

自分の場合、介護だ自分の病気だ、津波だ、原発事故だとかあり十年がたちまち過ぎた、それで時間を消費してエネルギーも消耗した。旅する気力もなくなったともなる
そして新しいことを消化できないのである。
今まで経験したことを深化してゆくことしかない、だから老人は狭い範囲で生きてその場で意味を深めてゆくことに適している、新しい場で再出発することは向いていないのである。だから原発避難民でも老人は故郷に帰りたいとなるのである。
そこには生きた記憶の場所だからである。

タグ:宗谷本線
posted by 天華 at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2016年03月27日

北海道新幹線開業 (北海道には十回行ったー過去の記憶の街ー函館(詩)


北海道新幹線開業


(北海道には十回行ったー過去の記憶の街ー函館(詩)




hhhhhhhhhhhhhhhhh1.jpg

過去の記憶の街、函館


市電は過去の記憶を刻む
乗り場は駅でありその名に親しむ
老若男女が日々乗り合わせる
我は旅人なれば気楽なり
市電はゴトゴトコト街中を走る
その線路は刻まれた記憶の道
古い喫茶店が十字街にある
私はかつて函館の住人のようにあった
私は長く気ままにそこに滞在した
青函連絡船もその時あった
函館と本州は船で結ばれていた
白波が両側から打ち寄せる
立待岬に荒々しい波が打ち寄せる
エゾカンゾウが崖に咲き鴎が飛ぶ
ここに啄木の一族の墓がある
函館はその時青春の時代
榎本武揚が夢見た蝦夷共和国
日本の夜明けの熾烈な抗争の場
斬新な五稜郭に古風な見張りの屋根
ここに幕府軍は力を尽き船は沈みぬ
函館はその時開港して外国に開く先進地帯
今は秋から冬となり過去の記憶の街
ゴトゴトゴト市電は今も記憶の街を走る
私は冬の日もたずねた
入船町にロシア人などの異人が眠る墓
ハリスト正教会の屋根
カトリック教会の塔
トラピスト修道院も樅の木立ちて鎮まる
瞑想と祈りの日がこの北国にある
函館の市電の乗り場に凍てつく雪
その雪を踏みしめて歩みぬ
啄木の墓はここにありここに眠りぬ
そこはふさわしき奥津城なれや
明治の青春の日の形見なりしも


啄木の墓

立待岬の崖反りて暗し
荒波の大森浜に打ち寄せ
その波の音のひびき聞きにつ
啄木の墓の雪に埋もれありぬ
荒寥たるかなその一生
函館にその跡しばしとどめぬ
市電は路地を曲がり鈍き音
鴎とびきて冬にも旅人あり
坂を上り下りして暮らしあり
入船町に外人墓地や船は入りぬ
ハリスト教会や天主堂教会の塔
その鐘の音の海にそひびきわたり
ここに外国への門戸を開く
五稜郭に榎本武揚の蝦夷共和国
その夢は開陽丸の沈没とともに潰えぬ

hakkkkkk2222.jpg




北海道というと十回は行っている、それも一カ月くらい一回で行っていた。
それほど自分は暇だったのである。
何故そうなったかというと梅雨の時期に家にいるのが嫌だったから北海道に行った
仙台から苫小牧までのフェーリーが便利だったのである。
電車で行くと新幹線すらないときがあったから遠かった。
青函連絡船の時から北海道に行っていたからずいぶんそれから月日が流れたと思う

函館にも何回も行った。函館から入るのと苫小牧から入るのは相当に感覚的に違っている函館は明治を象徴した街であり苫小牧はじかに北海道の大地を感じる
苫小牧に下りた時から北海道の大地を感じる、ルピナスとか北海道にしかない花が咲いていたりするからである。空気まで違って感じるのである。
最初は電車だったがそのあとはものたりなくなって自転車になった。
本当は最初は自転車でそのあと電車になるのが良かったが逆になった。
旅というのは意外と遊びのようにでもエネルギーが必要である。
特に自転車になるとそうである。旅をするというとき今は便利だから楽になりそれがかえって記憶に残らない旅になる。
旅とは峠があればそれを徒歩であれ自転車であれ苦労して上るときそこが記憶される


人生でも苦しみや不幸を経験しないと幸福が何かわからない、自分もここ十年間介護から何から苦しみの連続だった。でも今なにかその苦しみから解放されたなと幸福感がある
幸福とは苦しみがなければ不幸がなければありえないのである。
幸福ばかりだったら幸福はありえないとなるのだ。
今はだから旅をするというとき保養であり旅人はいないのである。
旅人になるというときそれだけの時間もないし便利だから二三日保養になる
江戸時代あたりだと歩いて行くとなるとそれだけで苦労だし旅になってしまう。


北海道の魅力はやはりそこが明治を象徴したフロンティアだったことである。
日本にもまだ耕すべき広大な土地が広がっていたのである。
その頃農業中心だから常に土地が求められてきた。それは満州にも求められてきたのである。それが戦争の原因にもなったといわれる。
農業中心だと土地が必要になるからである。戦後もブラジルとかに移住したのも農業するためでありそのための土地を求めていたのである。


北海道新幹線はそれぼどインパクトはない、それより青森まで新幹線が通ったときインパクトがあった、弘前から津軽鉄道に乗って終点の中里駅から十三湖にタクシーで行ったときはずいぶん近いと感じたのである。二時間くらいになると本当に近い。
ただ函館までは別にたいした距離ではないから新幹線の効用はそれほとない、現実にすでに開業したばかりでも空席がでていることでもわかる。
つまり札幌まで伸びない限りインパクトと効用はない、だから別に新幹線で函館まで行ってみたいとも思わない、松前には行ってないから行きたいとはなるか新幹線に乗ってみたいとも思わないのである。

ここ十年間介護に追われたりして旅はしていない、そして旅もできなくなる
自転車だと疲れるしなんか億劫になってしまったことである。
だからつくづく旅すら人間はできなくなる、これほど旅してもこれだけで終わりかとなるのが人生である。それは何でもそうである。
みんな終わってみれば人生はこれだけなのかとなるのに驚くのである。
もっといろんなことができると思ったが本当にできない、読書すらできない、せいぜい本でも100冊読んだらいい方である。その知識で書いているのである。
第一インターネットがないとまともな本が地方では読めないということが大きな問題だった。まず詩などとなるとどういうものがあるのかとかそれすらわからない
今は通販で詩集を集めて読んでいるがあのころはまずできない
それで仙台まで行って買っていたのである。それでも詩集など買いなのである。
だから田舎は知的なものを探求するには相当に不利だった
時代的に損得は必ずあるかちらどうにもならないのである。

いづれにしろ自分にとって北海道は第二の故郷である。十回も行ったからそうなる
新幹線は自分は山陽新幹線も乗っていないし北陸新幹線も乗っていない、鉄道が好きでも新幹線は敬遠してゆっくり普通の電車でわざわざ乗っていたのである。
だからこれも時間があるからこそできたことなのである。旅は金より時間がないとできないのである。暇人しかできないのである。
今回の北海新幹線にはそれほど魅力を感じないのである。

posted by 天華 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2015年11月06日

心をつなぐ一本の線路(詩) (北海道の消えゆく線路)


心をつなぐ一本の線路(詩)

北海道の消えゆく線路

mokotooo11_FotoSketcher.jpg
rrrrrrrrrrrrrr1233455.jpg
北海道の果ての線路
一本のみが伸びている
駅舎も古りて単線のホーム
確かに一本の線は伸びている
広々とした野は枯れて
何かをつなぐように
一本の線は伸びている
でも果たしてその向こうに
駅があるのだろうか?
それも何かおぼつかない
それほど淋しい線路
北海道の路線は次々に消えた
この線もいづれは消える
野は枯れて霧の向こうに
寂寥とした枯野の向こうに
本当に駅があるのだろうか
町があるのだろうか
誰かが乗るのだろうか
誰かが下りるのだろうか
アメリカのアムトラックに乗った時
一人のみがその駅に下りた
駅の名はプリンスとか覚えている
王子様が住んでいる所
それも広大なアメリカであったのか
一本の線路は心をつなぐもの
でもそのかなたに本当に駅があるのか
誰かか待っているのか
ああ 家族はみな亡き人となった
故郷に帰っても誰も待つ人もいない
みんな墓の中だ
その駅には幽霊が待っているのか
良く帰ってきたなと
笑顔で迎えてくれる家族
その時自分は悲しく涙がでる
誰も待つ者もいない
人はみんな死んでゆく
ああ 一本の線路よ
それは心をつなぐ線路
それはかなたにつづき
人と人をつなぐ

rrrrrrrrrrrrrr1233455.jpg


rrrrrrrrr234456677.jpg


北海道には十回行っている、それは梅雨の時期に仙台港から苫小牧に船で行っていた。最初は電車の旅だった。二十年くらい電車の旅だった。だから日本の線路はだいたい乗っている。乗っていないのは関西など私鉄だけである。
ただ北海道の線路は今や半分は消えているだろう。
まず自分のように旅行した人もいないだろう。旅行が仕事だった。そんなことができたのも幸運だった、今なら遊んでいるニートなどいくらでもいるからめずらしくない
あのころはそんなふうにして遊んでいる人は少ない、一カ月も自由に旅する人は少ない
そのあとは物足りなくなって自転車の旅になった。
今になると自転車の旅もできない、筋肉が疲れてだめになったからだ。
遊びにしてもこれも簡単なようで時間がない体力がないとできなくなる


外国まで電車の旅をしていた。アムトラックで思い出したのはそれは深夜だった、一人の女性がおりた、それは一人だけだった。こんなところに駅があるのかと不思議だった。
さぞかし淋しい駅なのかと思ったらそうでもない、調べると写真もでているが「プリンス」という駅でありその名前で覚えていた。
外国でも名前で覚えることがあった。
アメリカは広くてこれも記憶に残りにくかった。外国の旅は記憶にのこりにくい。
でも旅はあとで思い出すことが意外と大事だった。景色も消えてその名前だけが印象に残ったからだ。アムトラックも観光路線であり冬でありがら空きだった。
アムトラックなどは座席が大きくゆったり座れることがよくそこでソァーのように眠れたから良かった。日本は座席が狭いから眠れないのである。


とにかく自分は鉄道にこれだけ旅行したのだから愛着がある。鉄道マニアというときいろいろある。撮り鉄とかいろいろある。実際に線路まで愛着を覚えるのが鉄道なのである。鉄道には何か人間的なものがあり旅情がある。
バスだと何かそういうものがないというのも不思議である。
鉄道の旅とバスの旅は全然違ったものなのである。
インターネットで藻琴駅とかの写真を見ていた。あそこも駅はあってもバスが線路を走るそうなると全く違ったものになる、やはり一両でも車両が走らないと気分がでないし旅情がないのである。
鉄道というと音にも感じる、汽笛でも線路を走る音でもそうである。
それはやはり旅しているからその心があの音に感じる、駅もまた旅情がありバス停とは違っている。鉄道はそれだけ人間的である、新幹線になるとまた違っている
早すぎて旅情がない、ただ早く運ぶだけだとなってしまう。
鉄道が全盛期のころがなつかしくなるだろう。
それは団塊の世代でもそのあとでもやはり鉄道が生活路線だったときがなつかしい
駅だってそこが街の中心であり駅前通りがありそうしてにぎわっていたころがなつかしい車時代になり道の駅になったが何かそれで淋しいのである。


人間は最後は思い出だけとなってしまう。原発事故で故郷から離れた人も何かこの詩のような感覚になる。もう駅があっても双葉とか大熊はいつ電車が通るのかもわからない
それも想像もできないことだったし村ごと津波で消えたことも想像もできないことだったあまりにも変わりすぎたのがこの辺なのである。
ゴーストタウンになりゴーストステーションになっている。
こんな映画のようなことが現実になることがおもいもよらなかったきである。
ゴーストタウンを幽霊のように彷徨っている姿がある。
そしてすべて消えたのか、やはり思い出はみんな残っているのである。
死んだ人はなにもなくなったのか、思い出だけが今でも残っているのである。
一本の線路は心をつないでいる、それは死者とも通じている
それは自分が死ぬまで消えることがない、心の線路なのである。




タグ:北海道の駅
posted by 天華 at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2015年06月15日

電車(ディーゼル車)を待っている時間 (詩) (金のように計算できないから時間が節約できない)


電車(ディーゼル車)を待っている時間 (詩)

(金のように計算できないから時間が節約できない)

stationnnn123.jpg

stationnnn123444.jpg

春の雲がぽっかり浮いている
自由な気ままな旅
見知らぬ駅で途中下車
なかなか電車が来ない
遠い北の果ての鉄道
やっと一両のデーゼル者が来る
線路の脇にでんでん虫が眠っている
遠い見知らぬ駅におりたつ
そこには何軒かの農家があり
牛を飼い畑を耕し暮らしがある
そこにも駅があることがなつかしい
ああ、そういう自由な気ままな旅の日
それがなつかしい
今はただ日々家事に追われ介護に追われる
その時線路はどこまでもつづき
自由な時間がありふらりと途中下車
誰もとがめるものもなく
「どうぞゆっくり電車 (ディーゼル車)を待っていて下さい
その内電車も来ますよ」
夏の蝶が花々にとまり蜜を吸い
私は気ままに放浪していた
立葵の花が一際明るかった
私は延々と線路がつづく限り
自由な旅をしていた
そこに尽きることない自由な時間があった
しかしその時間も尽きたのだ
何事時間は尽きる
恵まれたものは自由な時間
それはもはや得られないことの衝撃
人に与えられる時間は限られている
何をするにしろ時間は限られている
そしてたちまち時間は尽きて老いる
そしてただ思い出すだけになる
そしてこの世から去ってゆく
私の時間は見知らぬ駅でなかなか来ない
汽動車(ディーゼル車)を待っていた時間
それは幸せな時間
その時間はもう二度と帰ってこない
人がこの世にいる時間は限られている
なかなかディーゼル車が来ないと思っていたら
本当にディーゼル車は来なかった
でも待つ時間に意味があった
待っている時間が人生の豊かな時間
そういう時間がない旅は記憶に残らない
ただあわただしく過ぎ去り
記憶に残らない旅となる


人間の盲点は常に時間を浪費していることである。
時間は金のように計れないから自ずとそうなってしまう。
金だったら物を買うのにもいつも意識して節約したりする
時間は節約するという思考が働かないのである。
時間をためるとか時間を一気に使うということもできない
金だったら多くたまったら一気にぜいたくして使ってしまうことができる
時間は一気に使ってしまったりできないしためることもできない
だから時間というのは常に不思議な理解できないものなのである。
ただ時間を理解できるのは老人になったときだけである。
これは誰でもはっきりと理解できる

人生の時間がなくなってしまったことを否応なく意識させられるからである
金だったらためることができるし老人になっても金は確かに有効に働く
ただ若いときの時間とかはもどってこない
青春という時間も二度ともどってこない
女性だったら若いときの美貌でももはや二度ともどってこない
ただ老人が若いときに失ったものの代わりとして経験から得たもの
知恵とかが備わってくる
若いときに読んだ本はいろいろあったが理解できない
今読んでみると理解できるのである。
人間の知恵とか理解力は老人にならないと身につかないようなっているのだろうか?

結局人間は何か失ってももまた何かを得るようになっている
ただ時間だけは失ったら取り戻せないのである。
それは巨万の富を積んでも取り戻せない
人生の時間は確実に切れるのである。
だから時間の謎は人間は何かを成しうるために時間が与えられている
その時間はそれぞれ限られている
時間とは刻々の時間であり日々の時間であり四季の時間であり一年の時間がある
人生の時間も子供から青春時代から壮年と段階があり
時間とはそうした日々の集積であり経験の集積である。
だかち人生は一挙に何でも経験できなようになっている
今日経験することと明日経験することは違っている
そういう経験された集積されたものがやがて実りとなる
だから老人はになるとその実りがいい方面でも悪い方面でも否応でも現れてくるのである時間が何に費やしたか確実に現れてくる

それは電車を待っていたのが自分の時間であり人生であったとなってもそうである。
つまり人生は何に時間を費やしたかで決まるからである。
何に金を費やしたかというより何に時間を費やしたかの方が人生を決める
つまりあらゆることに時間を費やすことはできないからそうなる
百億もっていてもあらゆることに時間を費やすことはできない
それで享楽に費やしても煙のように消えるし
また苦労してもその苦労した時間がありまたそれも人生だったとなる
それも無益とはならないしその苦役の時間もまた人生を作っていたのである。

時間はたいがい与えらるのは平等なのである。
金は不平等でも時間は公平なのである。
ただ金持ちだと時間を節約できることはできる
食事でもめんどうだから贅沢な外食ですませば時間がうく
高い金を払って家政婦を雇えば時間が浮く
自分はそれができないから時間が奪われているともなる
それでも家事は機械化されたとか外食もしているから時間を浮かしている
時間はいくら金があっても基本的にはある人が特別長い時間を得るということはできないのである。
そして時間を節約するということが金のように意識しないので時間は必ず浪費されているのである。
あなたが使う時間があなたの人生を決めているのである。



デーゼル車は北海道に多い、稚内とかへゆく線はそうだった
北海道の鉄道は廃線になったのが本当に多い

タグ:電車の旅
posted by 天華 at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2015年06月03日

函館の夏の短歌十首(お土産のガラスの壺に花をさす)


函館の夏の短歌十首(お土産のガラスの壺に花をさす)


hakonatutaku.jpg
クリック拡大

函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花 啄木

natugikuuuuuu1234455.jpg


これは函館のお土産ではない、安い壺である
でもこれが夏菊とあっていたのである。
フラワーアレンジメントは実際は簡単である。
様々な花を活けてみるとそれぞれの花が映えるのである。
それはなんら考える必要がないのである。
ただ意外と壺が関係している
壺と花を合わせることも必要になる
この夏菊は外でとってきたものである。

それから何か津軽ビイドロは津軽的なものがありその色合いが違ってた。
その地方の特色を出せば売れる
鎌倉彫りも武士がはじめたというのもで何か武士の感覚が伝えられている
相馬では大堀で相馬焼きの窯元があったが原発事故でなくなったのである。
その土地のカラーを出すことがこれから経済的な面だけではなく
地域創生にとって大事なのである。
もう経済的発展は日本には望めない
文化になるとそれは道路を造るとか建物を作るのとは違うソフトの面である
そういう面はいくらでも開発できるということがある
だから文化の面にエネルギーがシフトされてゆく
現実に釜石では工場があっても機械化して地元の人を雇っていないという
もの造りなどは機械化するから人は雇わないとなると
人間はどこで働くのかとなるからだ。


natukikuu333.jpg

yagurumama123.jpg
矢車の花

様々に彩る花や函館の街に船よる夏の夕暮
函館の市電にのりておりる駅白波よせて夏の日の街
啄木の青春の日や明治の日海に響きぬ教会の鐘の音
函館の坂上り下り船とまり夏菊咲きて旅人行きぬ
榎本の五稜郭に陣とりて意気の高しも船は沈みぬ
函館に上陸してそ様々の思いや若き明治の日かな
北海道希望の地なり学びけれ働きにしや明治の青春
函館の交差する通り市電ゆく船も見えつつ夏の夕暮
函館に異人の墓やロシア人ここに眠るや厳かにして
函館に明治の夜明け様々の思い交差し夏の夕暮




北海道というと梅雨の時期に必ず太平洋フェリーで一カ月くらい自由に旅していた。
今考えるつくづく恵まれていた。
別に旅行しても金はそれほどかからない、最初は電車で旅していた。
それからものたりなくなり自転車で旅するようになった。
函館には何回も行った、青函連絡船の時も何回も行った
あんなふうに自由に旅できたのが今になると恵まれていた。
つまり旅に行ったらいつ帰ってこいという縛りがなかったのだ
勤め人だったら一カ月も旅できないだろう。
すでにその時から社会からはずれてしまったし普通の社会生活からもはずれてしまっていたのだ
ただ家庭環境でなぜか自由な旅ができた。
家の人は何にも文句いわなかったからである。
こういうこともあまりないだろう。
今になるとただ記憶をたどる旅になってしまった。

函館は何回も行ったから今でもそこを歩いている感じになる。
何回も行ってそこに深く親しむと何か旅してなくても旅のつづきがイメージの中でつづいているのである。
だから不思議なのは日本全国でも世界でも何か自分はあっちこっち旅していている
心が日本全国に浮遊して世界に浮遊してそこにあるという感じになるのだ。
だから今は全くすぐ近くにゆくのも容易ではないが
心は日本全国を浮遊して世界にも浮遊している不思議があるのだ。

旅したときはその場所がどういう歴史があるとかなかなかわかりにくい
でもあとからなぜかその場所について理解が深まることがある
それは全部ではない、旅したある場所が特別思いだす
函館は春にも夏にも行ったし冬まで行っていたのである。
北海道は冬にも流氷見るために行っていた。
だから自分はだいたい全国の人とあうと住んでいる場所を聞くとイメージできる
最近この辺では工事関係者とか除染の人が全国から来ている
時々その人のことを聞いてみてその人がどういう場所に住んでいるかイメージできる
ただ富士山を毎日見て暮らすという人の場所はイメージできなかった
全部ではない、イメージしやすい場所とそうでない場所がある
京都とかこみ入った所はイメージしにくい
ただ近江は自然環境があり琵琶湖中心にイメージしやい場所である。
だからそういうところは思い出して短歌や俳句や紀行文でも調べて書けるとなる

まずその場所についての地理的空間的なもの時間軸の歴史的なものを知るのが大事である函館には明治の青春が凝縮された場所でもあった。
あそこに上陸して北海道に開拓であれ向かったからである。
北海道の玄関なのである。
ただ新幹線が通るというとき地下から北海道に行っては旅情がそがれる
なぜなら函館は船がよる港として栄えたからである。
船なくして函館の価値はないのである。
だから青函連絡船がなくなったとき一つの歴史が終わり函館はさらに過去のものになった函館の今は一番生活保護者が多い
それは経済的に衰退している街だということである。
北海道全般がそうだが函館が今がそれだけ衰退しているのはやはり北海道全部がそういうイメージになる
新幹線が通ったら来年になるけど今度は観光客が来るという
青森の人は青森を通過してしまうから困るとかも言っていた。
それでも函館は船が欠けたら魅力がない
船でゆくとき港だったのだから函館の昔と今も感じるのである。

ともかくなんらかその場所について語るときはやはり相当にその場所とコミットメントしないと書けない
それだけの暇がある人はまれである。
そうなると旅行作家にもなるが旅行作家でも一生旅ばかりしても深いものはなかなか書けない
たいがい一つの場所なら何回も行きその度に感じるものが違って新たな発見がありいろいろあとで歴史的なものも時間をかけて知るようになる
つまり何かを理解することはその場所でも時間がかかるのである。
一番何でもそうだが理解が深まるのは60以降である。
その頃になるとたいがい本を読んでもすぐわかる
十冊の本を読んでもすぐ要点がわかるのだ。
自分はばらばらに本を積んで最近はアマゾンでも自分の書きたいことを調べるためにもそのつど買っているからまた本が増えた。
それでもつれづれなるままに本を手にとり要点だけを読んで利用しているのだ。
一冊をじっくりと読むのもいいが本はやはり知識はあることについて理解を深めるには多様な知識に接することも必要になる

それを理解する基礎はやはり旅などをして実感を多くもつことなのである。
肌で感じたことは忘れないし思い出すし血肉になるのである。
本だけを読んでもテレビを見てもインターネットでもその場所に行かない限り実感にはならない
でもそれだけ理解を深めるとなると旅するとなると一生が終わってしまうのである。
自分はいつのまにか旅しているうち人生も終わりに来ていたのである。
人生はそれだけ短いのである。
何するにも時間不足で最後はできない
あの時はあんなに暇だったのに今になると時間があっというまに過ぎたとつくづく思う
そして人間はいろんなことができるようでできない
何か一つのことを習得するにも時間がかかるからできないのである。
まず結婚したり子供をもったり他に何かしていたり無駄なことをしているとあることに集中できない、人間はそんな時間がないのである。
家庭をもって勤めて子供をもったりしたすでに自由な旅などできないのである。


タグ:函館
posted by 天華 at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2013年11月30日

北海道の地名(思い出す旅の不思議)


北海道の地名(思い出す旅の不思議)

kuronaiiiii.jpg

wasssamuuu22.jpg

ofuyuuuumoji111.jpg


北海道は十回行ったから思い出深い場所である。最初は電車の旅だった。それから自転車の旅に変わった。電車ではものたりないと思って自転車になった。それも40歳くらいになってからだった。若い時に自転車で旅できると思っていなかったのである。
旅も今になると思い出す旅になる。その思い出す時不思議なのは何か記憶に残っているかということである。何が思い出すのか?それがまた旅だったのである。

老人になると何でもそうだけど思い出すことが仕事になるのだ。
別に旅だけではない、それぞれの一生がありそれが何だったか思い出すことが生きることにさえなる。だから夫婦でも人生でもどういう人生を送ったかが必ず老人になると否応なく思い出さされるのである。嫌なことを忘れたいと言っても思い出すことがある。
罪なことも例え刑に服さなくても罪として意識される。


ただ旅を思い出すという時忘れるものが実に多い、どこに行ったのかもわからなくなる。電車の旅は電車は早く過ぎ去るから思い出しにくくなる。それで「雄冬」という地名が気にいった。何か簡潔で地から強いしまさに秘境にふさわしい名前だった。ただここには行っていない。でも名前から人間はまず記憶するということがある。これは北海道らしい名前だと思った。


記憶して思い出したのは函館線の「黒松内」という駅である。なぜかそこに長く止まっていたような記憶がある。そこはこの名の通り黒い森林地帯だからその名とあっている。
そういう街も見えない森林地帯が延々とつづいていたみたいだ。そういう場所が北海道にはある。

それからなぜか「和寒」という駅も思い出す、これは字の通りに何か寒い感じになるから不思議である。稚内線に入ってゆく線だからそれも不思議ではない、何かこの辺からそうした奥地に行くという感覚になっていた。ただ電車の旅は時間がたつと忘れやすい、どこをどう通ってどういう景色だったか思い出せない、ただ黒松内という駅名を記憶していたときあそこは確かに黒々とした森林地帯だったなと思い出した。何らか記憶に残っていたのだ。


北海道の地名にはアイヌ語の当て字だから変わっているしアイヌ語より漢字でイメージする。美瑛とかなると美しい場所だとイメージして本当にそういう場所だった。
和寒などもこれもアイヌ語であるかアイヌ語には何か簡単すぎて実用的で漢字のイメージとは違っている。むしろ地名はそうした無味乾燥なものが多いのだ。だから漢字の当て字にしたのは全く別なものなのである。

記憶をたどる時何かたどるべきものがないとたどれなくなる。それで地名がその一つの印として記憶する。名は体を現すで名前から人もイメージする。だから名前が大事になる。「雄冬」という名前はその名前と実体が一致しているのだ。いかにも寒そうだし力強いし簡潔なのである。岩内までは行ったがその奥だった。北海道は広いからとても回りきれない、バイクなどだと一応回ることはできるだろう。自転車だとできない、電車でも通らない所があるから行けない場所がかなりある。特に北海道は廃線になっているのが多い。

街には昔の駅が記念にあるのが多い。歯がぬけたように鉄道路線は消えているのだ。


夏の暮黒松内の駅暗し

和寒の名のみ覚えて冬の暮
北海道雄冬のありや冬に入る
posted by 天華 at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2013年07月18日

残された北海道の一枚の写真 (写真はあとで貴重になる)


残された北海道の一枚の写真

(写真はあとで貴重になる)


hokkaudoupppp111.jpg

hhhhhhhhh22222.jpg

クリック拡大


ここが北海道のどこかわからなくなった。最近ずといろいろなものを整理していた。ンも整理して半分くらいなげた。結局本も利用しなかったら何の価値もないのである。ただ集めて飾っていても野役目は果たしていない、ただ本が蔵書が必要だったのはどうしても辞書のように参考するものを置いていないと文章が書けないからそうなった。そこに図書館の意味もあった。参考にするを資料など全部揃えられないからだ。


それにしてもまずこの山はおそらく羊蹄山の麓の写真なのだろう。いかにも北海道らしい雄大な景色である。この写真をとった記憶も全くなくなっていた。この写真をみていい写真だなとつくづく思った。デジカメなどない時代だからこれは大きなプリントにしていたのはやはりいい写真だったからかもしれない、ただこれは本当に自分でとった写真なのか不明なのである。雑誌の写真を拡大化したのかもしれない、でも大きなプリントにするというのも解せないのである。


一枚の写真は実は多くのものを語って伝えることがあった。これは風景だけだけど人間が写っているものがそうであった。自分の家の子供の頃の写真を発見した。その写真は本当に不思議だった。
それから死んだ姉の写真もいろいろあった。とくに昭和15年にとった看護婦の写真は貴重である。なぜならその頃白黒写真だったからである。それもぼやけてくすんで汚くなっていた。

人間は死ぬと思い出すものは写真だけになる。その写真をみていると本当に不思議である。
こんな人だったのかとか思い出す、写真で問題だったのは日にちと場所がわからなくなっていたことである。これが意外と写真の盲点だった。日にちと場所と名前を書いておくと写真は貴重な記録になる。


現代はデジタルカメラで膨大な写真が記録されているからそれが50年後とかになるとかなり貴重なものとなり記録がよみがえる。人間にとって記録がいかに大事か、津波で思い知らされた。もし一枚の白黒の写真でもいいから400年前にあったらどうなったか?つたない絵でも残されていたらそんなことあったのと注目したに違いない、ともかく現代は写真で時系列にも記録される時代である。
人間ほどわすれやすいものはない、すでに母はぼけていて写真を見せてもわからなくなっている。

もう自分が経験したことも誰が誰なのかもわからなくなっている。たいがい90すぎたら認知症になってしまうからだ。記録が消えてゆくことは実は人間の死を意味していたのである。記憶していれば過去も生きているし一緒に生きた人たちも生きているのだ。忘れればもうその人たちも生きていないのである。


ただあまりにもくるしい人生だったというとき忘れることも必要である。嫌なことは忘れた方がいい、でもいいことも忘れるから困るのである。と
ともか北海道に十回も行ったからいろいろ記憶されているはずだが忘れてしまうのである。
だから思い出す作業をしているときこうした一枚の写真でも残っていると記憶がよみがえってくるからいいのである。

posted by 天華 at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2012年07月03日

北海道の海岸の詩 (旅では記録する写真が貴重)


北海道の海岸の詩

旅では記録する写真が貴重


ryuuboku11111.jpg


茫漠たる海
砂原に点々とつづくは
鳥の足跡のみ
波がよせてはひびく
流木の海岸
草原に風はわたり
茫々たる原野
蝶が一羽風にあおられている
人の跡はそこに印されない
わずかにアイヌの地名のみ残る
何を記憶に残すのか
波と風と砂に消される記憶
一両の電車がゆく
荒野の風に吹かれて
廃線の跡が草地に残される
烏がとまっている
自然の風化は地を清めることなのか
津浪の跡の砂原は草原は北海道になった
霧多布湿原にクシロハナシノブの星のよう咲く
丹頂鶴が優美な姿に舞いおりる
海岸には霧が流れキタキツネの足跡
渡り飛ぶ海鳥の声が砂原にひびく
荒々しくうちよせる波に
それは野生の歓喜の声か
人の跡の尽き果て
かなたに見えるのは海
日本列島はどこまでも海に洗われている

北海道シリ-ズになったけど現代は言葉より写真で伝えることが主流となった。写真で外国に伝えるというのは絵画でも世界的評価ができるからいい。詩は言葉のみだからむずかしいのだ。言葉ほどむずかしいものはない、特に詩はむずかしい。だから一般的に詩で伝えることはむずかしくなる。
旅行でもそうである。一枚の写真の方が詳細に細部を記憶していて訴える場合がある。
最近いろいろ整理していて写真でもそうだった。一枚の写真のもっている価値が旅では大きい。
ええ、ここどこだったのかとかこんなところに行っていたのかと思い出す、他の人の写真の価値が落ちるのは自分がその場にいなかったからである。自分の写真はその写真だけではない、その場にいたからその場の雰囲気から見れるから他人がとったように一部をきりとったものとはならない、そこに写真の大きな意味があった。他人の写真はビデオはどうしても感動しないのはその場にいなかったからである。自分の写真はその場にいたということが大きな相違なのである。

それにしても人間は忘れやすい動物である。次々に事が起こり忘却されてゆく、こんなに次々忘却されていいのかと思う、政治でもそうでありゆっくり記録される時間がない、何でもスピ=ドが早すぎるのである。車にのっていて新幹線でも記憶されない、歩いて自転車で行った時は記憶される。
それは雨風に打たれるから記録されるのだ。自然が体に刻まれるから記憶されているのだ。
つまり体に記憶されているのである。


北海道には十回も行っているのだから回想すれば思い出すものがある。それでも今や良く思い出せないのが多くなった。何十年前となってしまったからである。自分の場合はゆっくり旅しているから記憶されているものがある。そこで思い出してなんとか詩を書いたりしているのだ。その時デジカメがなかったから記憶されているのが少ない、今なら記録の面では格段の進歩をした。記憶というのは意外と大事だった。歴史は根本的に記録である。津浪のことでも400年前に同じ様な大きな津浪が相馬でもあった。それが一行しか記録されていないから誰も注意もしなかったのである。ところが今回のように生々しい映像として残されれば違っている。あまりにも生々しいから口伝えや文字で伝えるのとは違っている。その伝わり方は違っているからこれからの津浪は違ったようにみる。これまではあんなに生々しく記録されていなかったからだ。そういう点で将来への影響は大きいのである。


北海道では最初に20年前でも自分はいち早くビデオカメラを買ってとっていた。ところが写りがかなり悪いからぼやけている。でもそれすら貴重なものとなっている。記録は貴重なものなのである。
この辺では右田の松原が津浪で消失した。その一部の写真がホ-ムペ-ジの方に残っていた。いろいろ書いたから自分でも何がどこにあるのかわからなくなっていた。インタ-ネットは意外と消えない、本の方が消えなようでも本は書店に置けないし図書館に置いても全国の人は見ない、インタ-ネットは誰かがみるということがある。ただインタ-ネットの問題は見れた、読まれた感覚がない、アクセスを解析していない、ホ-ムペ-ジの方はそうなっているからあるのかないのかさえわからないような状態になっている。プログの方はどのペ-ジが読まれているから解析しているからこれは読まれたとか多少反応はあるとそれでみている。ともかく一度書いたものを整理する必要が出てきた。量が膨大なので整理すること自体大変である。

ともかく北海道は草原、原野、湿原の原初の状態が残っているからそこにあるのは野生の跡だけともなる。そういう世界は北海道にしかない、そこが魅力なのである。防波堤のない自然のまま砂原の海岸が延々とつづくところがサロベツ原野辺りにある。
あういう場所は本州ではないが津浪で原初の自然状態に帰ったのは驚きだった。

posted by 天華 at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2012年07月02日

美瑛の夏(詩)


美瑛の夏

bieiiiiii1111.jpg



ポプラの木の丘に高きや風そよぎ
緑うるわし丘々や畑は耕されて
黄金のタンポポは天まで咲きつづくや
残雪の十勝岳は煙を吐き隆々と迫り
兀々(ごつごつ)として荒き肌に肩を組む
丘々をこえ郭公の声はひびきわたり
雪解けの水は清流となり大地を潤す
神殿の柱のごとく列なす針葉樹林
北の風雪に耐えてその樹々の列
ひしひしとその針葉樹の厳しさ
北方の風雪に鍛えられて立つ
その土、その岩、その樹、その草・・・
原始の精のここにありて息づく
オオバナエンレイソウの谷間に隠れ咲き
ここに光はしずかに人の歩みもまれなり
汝の足は今ひそかに忍び入るかも
ああ ポプラの木の高きや風そよぎ
神は花々をここに集め草原にしく
大地と山々と樹はあなたに答える
真直(まなお)なるあなたの心に答える
誠実なるあなたの心に答える
大地と格闘して倒れしものよ
汝はまたなおここに生きむ
汝の無念は受け継がれるべし
ここに大空に大地に峰々の調和しぬ
美瑛の夏よ、今蘇るかな
深々とここに息して爽快に癒されよ
日がな郭公の声は遠くへひびきわたれり


tocachiiiiii111.jpg

写真ではこの光景は現せない
十勝岳に向かって咲いていたタンポポは圧巻だった
天まで咲き続けるようにまぶしかった
十勝岳は力強いものがありあれが風景をひきしてめていたのだ



美瑛は自転車で一回行って農家のライダ-宿に泊まった。その時、延々と農家なんかやっていられないとか聞かされた。最後は中国の方がいいとか言っていた。こんなところにも中国人がでてくる。
農家はみんなほとんどそうした農業ではやっていけないとかしか聞かない、この辺でもそうだった。機械には金がかかるしとかとてもやっていけなねい、やっていけないという話しか聞かない、北海道は本州よりもっと厳しい,なぜなら農業の他に仕事がないからである。本州では専業農家は少ない、兼業農家であり減反政策でも補助金が入る。わずかの田でも米を作ってもらえればそのう農家には金が入る。そういう矛盾が現代の農業である。結果として原発ができたのもこの辺では必然だったのである。第一次産業と農業に従事するものが一番賛成していたという皮肉があるのだ。そして一番被害を受けたのも第一次産業だったのである。


美瑛に行った時は郭公の声が丘々のかなたからひびき木霊していた。それは宗谷の方に行ってもそうだった。だから郭公の声は忘れることができない、今になると自転車旅行はできない、それを考えるともう行けない、思い出すだけだなとなる、遂にはみんなそうなるときが来る。時間は思った以上に早くすぎてゆく。美瑛はやはり独特の地形で魅力がある。丘の上にポプラの木が立っているのがいい、あういう風景はなかなかない、抽象画はこれはあるプログの写真を加工した。
加工すると原画がわからない、秋の方がいろどりが豊になる。9月ころが色の絨毯ができる。
今になると北海道は遠い。近くすら遠い、結局人間の与えられた時間は有限でありどんなに自由が与えられていてもその時間は有限だった。時間は尽きるのである。そして残ったのは思い出、記憶なのである。その記憶もあいまいとなるからあとでなかなか書けないのである。
それでも自分はかなり思い出す旅をしているから多少は書けるのだ。


美瑛にはプロの写真家が住んでいる。一人だけではない、何人も住んでいる。それで商売が成り立っている。開拓の時代は終わった。だから北海道も空家が目立つのだ。今いなくなったような家があった。それは飯館村の人がいなくなった家とにていたのである。他にも住宅のような家が空家になっていた。北海道は暮らしてみれば前もそうだが今も過酷である。ただ夏だけが最高であり天国になる。ここは北海道に行かなくても多少北海道化したから北海道にいる気分になるというのも不思議だった。


北海道を詩にしよとすると何かむずかしい、やはり伝統的日本的情緒の世界ではないからだ。大陸的でありつかまえどころがないからである。俳句でも短歌でもすんなり作れなかったのはそのためである。この詩もあまり成功したとはいえない、函館の詩はそれなりに特徴をとらえて成功したかもしれない、一回くらい行ってもその土地の特徴をとらえることはむずかしいのだ。十勝岳が圧巻であった。北海道に十回行っても本当の北海道の姿をとらえることはむずかしい。それでもこの頃思い出して結構いい詩ができるのは不思議である。自分でも言うのはなんだがやはり人間は最後になるといいものができる。正岡子規でも他の人でも若くして死んだ人がなぜあれだけのものを残したか不思議だった。それは常に死に直面していたからである。あと何年しか生きないとなるとどんな人でもいいものができなるのである。人生でも自然でも鮮明に見えてくるのだ。最近は詩でも大量に書いている。

発表しているのは一部である。こんなふうに書けることが自分では不思議である。なぜなら自分は才能がなく,40代でも俳句でも短歌でも稚拙なものであり鑑賞もでなきかった。今はたいがいのものが深く鑑賞できることも違っている。ここにきて何か自分なりのもの書けるしほかのも鑑賞できる。

こんこんと泉から湧きだすように創造できる。自分も死期が近いからかもしれない、どうも70くらいで最近死ぬ人が多い、人間死期が近づくとものが見えてくる。これは才能と関係ない、死期を前にして人は見えないものも見えてくるのだ。心眼で見えてくるのである。だからある人は本当に天国をありありと死期を前に見ることがありうる。そういう心境になってくることがありうる。心清らかに生きた人は最後にそうなってゆく。これは才能ではない、死期を前にしているからそうなってくる、
人間の神秘なのである。人間は最後にお迎えが来るというとき本当に天使でも観音様でもお迎えに来る。そして天国に連れ去るのである。その前にこの世のことが自然でも鮮やかに見えるようになるのである。こういうことは芸術家だけのものではない、ごく普通の人でもそうなりうるのだ。

posted by 天華 at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2012年06月30日

夏の日-函館(詩)


夏の日函館

hakodate11111111.jpg

夏の日よ
白く波は砕けぬ
立待岬に波は砕け
北の海が吠える
エゾスカシユリの花は咲く
崖に吹き上がるしぶきに咲く
あわれ啄木の墓よ
函館よ
北海道の玄関口よ
船はまずここにつきぬ
青函連絡船の汽笛は鳴りにし
開拓の内陸の入り口よ
新天地を求めし新たな大地
夏の日よ
波は白く砕けちる
鴎は街の上をとびやまじ
函館の栄えし日よ
明治の日はここにある
学びに貿易に新しい風は起こる
異人の墓地に眠る人々よ
矢車草の青い花は咲く
坂に尖塔は高く教会の鐘が鳴る
函館よ
夏の日よ
白い波がおしよせ砕け散る
青春の時よ
今路面電車は古びし街路を
記憶をたどるように走る
北海道よ
火を噴く火山よ
荒々しい自然が息づく北海道よ
明治の日よ、若き日よ、夢の大地よ
北海道に挑む開拓者の若き挫折よ
汝の無念を深く心に刻め
そして再び燃え上がる熱情の大地よ
広大な地平線よ
函館より北海道ははじまる


北海道は十回くらい行ったから第二の故郷である。なぜそうなったのか?梅雨の時期に船で行きやすかったのである。だから苫小牧まで船で行き北海道をめぐることになった。だから意外と花咲く時期に行っていなかった。梅雨の時期には六月頃はそれほど咲かない、一面に原野に咲いている花をあまり見ていないのだ。なかなかいいときに見れることはない、でも自転車で苫小牧から稚内まで行った。自転車とかバイクのツ-リングには向いているのが北海道であった。


函館には最初の内何回も行っていた。北海道の入り口だからそうなる。あそこはやはり波が両方の岸から砕ける、独特の地形になっている。あそこては常に波を感じるのだ波がくだけているのである。啄木が東海の小島といったとき島のように感じたからである。回りに波がよせてくだける。常に波を感じる街だからあういう地形の所は世界でもめずらしいだろう。


函館は栄えたときは明治であり明治はやはり日本の夜明け、近代の開かれた時である。明治は青春だったのである。クラ-クとか内村鑑三がキリスト教を学んだ時であり日本が世界に開国して新鮮に外国を学ぶ時だった。その青春の舞台が北海道だったのだ。「明治が遠くなりにけり」といいうとき青春が遠くなったのである。明治はやはり日本の伝統と外国の文化が合体した時でありそこに人物も生まれたし新しい時代が生まれた。


もちろん猪狩満直のように北海道で開拓に挑み挫折した人も多い。でもやはり明治のとき北海道が一番輝いていたのである。アメリカだったらホイットマンのフロンティアだったのである。日本は時代的にはもはや欧米化してすでに老大国のようになっているのかもしれない、青年の時代は過ぎてその活力も衰えた老人である。確かに高度成長時代は物質的欲望を追求して充たされた時代である。それが今や経済も衰退して老人国と化してゆく、函館にしても偲ぶのはすでに今ではない、過去になってしまったのである。栄える場所は歴史的には常に変わってゆく。

ベネチアも衰退して過去の栄光のみがあり過去の栄光に浸っているだけである。函館ともにている。そういう場所はいくらでも世界にはある。

ただ自然は変わらないし北海道の魅力はある。ただ時代的に明治のようなフロンティアの時代感覚はない、それでも北海道は苫小牧から空気まで違った感覚になる。北の花々にいろどられる。それは本州の花々とは違っている。ルピナスの花が咲いていたりと違っている。水田がないことも違っている。一番の違いは水田がないことかもしれない、この辺が水田がなくなって草原化して北海道になったということを何度も書いた。水田がなくなると北海道化することを実感したのである。

 
posted by 天華 at 13:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2010年08月30日

線路に眠るでんでん虫-「幸福駅」(詩)


線路に眠るでんでん虫-「幸福駅」

宗谷本線-稚内近くの無人駅

線路にでんでん虫が三匹ほど眠っている

いつ電車は来るのだろう

いつまでも待っている

故郷から遠く離れた稚内

そこに自由な時間が与えられていた

故郷を遠く離れて拘束されない時間

広大な澄んだ空気のなかで羽根を伸ばす

いつ電車は来るのだろう

無人駅には一人しか乗る人がいない

線路にはじっとでんでん虫が眠っている

ああ その幸福な自由な患いのない長い時

人には苦しみも必要だ

でも苦しみだけでは心も歪む

人には幸福な時間も必要だ

たっぷりと幸福な時間が必要だ

人生は短い、労苦ばかりが人生ではない

たちまち人は老いる

病気になったりして旅もできなくなる

自由な時間もなくなる

そしてただ思い出す、その患いのない幸福な時を・・・・

何でもないそんな時が幸福の時だった

その幸福の時間は帰ってこない

場所は変わらないかもしれない

でも時間はたちまち過ぎて元の時間にもどれない

日々の労苦が重なり自由は奪われた

稚内-遠き果て-ぶらり無人駅に一人

でんでん虫が線路に眠っている

いつ電車は来るのだろう

いつまでも待っている

やっとのこのこやってきた一両の電車

その駅はどこだった、遠い果ての駅

そこに自分の幸福の時間があった

「幸福駅」という駅も確かにあった

しかし今では幸福駅という切符が記念に残るだけ

まさに幸福駅に幸福な時間があった・・・・

でんでん虫は線路にいつまでも眠っている

宗谷本線の無人駅
http://musubu.sblo.jp/article/37318341.html

 

posted by 天華 at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2010年06月13日

函館(抽象画)

hakkodabin1123.jpg

hakkodabin11234.jpg


函館と青森とでは印象が赤と白のように違う。江戸時代の北前線で栄えたのが青森であり
明治維新から北海道は開けた。ツガルとなればその名前さえどこからきたのか古い。
函館の魅力は函館から新しいものがはじまった。それが百年たったら青函連絡船もなくなり
ここも過去の歴史の街となったのである。
函館は地形的に両側が海でありこれは世界でも相当変わった地形であり魅力的であり坂の街でありそこから個性的な街となった。

 

函館で買ったガラスの花瓶と黄色の苧環は斬新でありあっていた。花瓶と花があうのはなかなかないだろう。花瓶は確かに種類が多いが花にアホせたものを買おうとしたらぴったりなものはないだろう。今回はぴったりだった。それでインタ-ネットで検索してガラスの花瓶を見たら「津軽ビイドロ」というのがでてきた。津軽でそんなもの作っていたのかと初めて知った。
それでガラスに白い雪模様の花瓶をアマゾンで注文した。津軽だと雪がにあう、インタ-ネットだとこうした土産となるようなものを選んで買える、かえって旅行したときじっくり選べないからつまらないものを買っているのだ。インタ-ネットはその地域の他では売ってない特産品を売るには向いている。津軽ビイドロなどはじめて知ったからである。

抽象画にすると絵らしくなる。ソフトで加工すると意外なものがでてくる。これは面白いと出しているのである。創作しているのはパソコンのソフトでありそれを評価しているのが人間だというのも不思議である。ガラスはやはり涼しい感じになるから夏に向いていたのだ。

posted by 天華 at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

2010年04月23日

北海道(抽象画)

hookaiji123.jpg

hookaiji12344.jpg

hookaiji1234455.jpg

海の紋様

 

 

posted by 天華 at 18:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

宗谷本線の無人駅(北海道夏の短歌十首)

tracememo1.jpg


宗谷本線の無人駅(夏の短歌十首)



でで虫の線路に眠りなかなかに来ぬ車両を夏の日に待ちぬ

ようやくに一両の車両来るかも菖蒲の咲きぬ湿地帯行く

一時を無人駅に下りある家の花に囲まる夏の日の午後

その駅に一時のみや我が下りて夏の花咲く村を去るかな


立葵の花の明るくその通り家十数軒の無人駅かな



湿地帯の奥に牛飼う家ありぬ菖蒲の咲きて駅舎淋しき

はるかなる旅の駅かも一両の電車を待ちぬ夏の日の午後

北海道いづこの駅や我がおりて木陰に眠り電車待つかな

その駅に乗るは一人も一両の車両に去りぬ夏の一時

我が老いてまた行くことあれや無人駅北の果てなれ花美しき

その駅に一時遊びぬ夏の日や恵まれし我遠き思い出


前に書いたけど人間の不思議は記憶なのである。この駅はどこにあったのか?何十年前にもなると思い出せない、宗谷本線で稚内近くの天塩辺りなことは記憶している。そこの駅は無人駅であり駅の前には家がわずかにあるが本当にやっと家があったというくらいの所である。十軒もないのである。そんなところに気まぐれに下りてぶらぶらしていたのが自分だった。そこは何の特徴もない駅である。そこに咲いていたのは立葵だった。ただもう一回ここではないにしろ自転車で北海道を何回か行った。その時の記憶が湿地帯に菖蒲が咲いてそこに一両の電車が走るのを見たのである。その記憶がまじりあっているが北海道は十回くらい行ったからそれなりに記憶が残っている。どういうところが記憶に残るか?それは名所とは限らない、旅ではこうした何気ないありふれた時間が貴重なのである。追われる旅は記憶に残らない、旅はそもそも今では贅沢なものになった。こんなに忙しい時代は自分のようにゆっくり旅することはできない、旅で大事なのはそこで余裕をもって見ることである。そうでないと記憶に残らないのだ。旅で記憶に残らないことが多いのはそのためである。一体どこにいたのかあやふやとなってしまう。旅は記憶に残すことがむずかしいのだ。スケジュ-ル通りに行くのが旅ではない、道が二つに別れている、その別れ道をどっちに行こうか、こっちにするかとか自由に選べるのが旅なのである。決められた通りに行ったら旅ではない、旅にはそれだけ時間が必要なのである。その時間が与えられたのが自分だったのである。

その頃ニ-ト、フリ-タ-などいない、みんな正社員で企業戦士として働いていた。だんだん経済も下り坂になったがまだまだ上りの経済だった。そんなときみんな働いているときこうした時間をかけた旅をしていたのである。それが今になると記憶に残っていたのである。老人になると何が仕事かというと記憶をたどることなのである。線路はまるで記憶をたどるようにつづいている感覚になるのだ。それもあやふやであり駅名などを覚えていてかすかに浮かぶとかなる。老人になると時間が逆戻りしている、昔のフィルムの映写機を元に戻して回すように記憶をたどる旅になる。さらに70とか80なると全く記憶だけが人生になってしまうのである。自分が経験したことを語りつづけるのが老人なのである。認知症になると遂に千回も同じことをしゃべりつづけるようになる。それでもその人にとっては記憶していることが人生そのものになってしまっているのだそして記憶に残っていることが人生だとすると鮮明に記憶が蘇るとしたらそこが大事な場所だったことがわかる。たまたま何気なく下りた駅、夏の明るい日、そこは夢のような所であり貴重な場所だった。なぜならそこにもう二度と行けない、というより死ねばもうそこに誰も二度と行けないのだ。その地を踏むことができないのだ。とすればこの世で記憶した事は夢の世界だった。
特に一時下りただけの無人駅などはありふれていたとししてもそこで人に悩まされることもなく
自由の一時がありただ夏の花だけが映えていた夢の国にあったのと同じだった。大きな駅や都市は忘れやすいがこうした小さな駅を覚えていたというのもそこが小さいからこそ記憶しやすいということで覚えていたのである。

日永きやどっちに行こうか別れ道

posted by 天華 at 02:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)