2017年11月11日

観光立国の疑問 (なんでも経済優先は後で後悔する)


観光立国の疑問

(なんでも経済優先は後で後悔する)

デパートの売り上げが大幅に減ったことはともかくとして、これまで培ってきた「洗練された」「高級感あふれる」「落ち着いた」街という銀座のイメージが損なわれてしまったことは残念ですね

短期的な儲けを当てにして、外国人観光客目線の商売をすることは、長期的には、街に対する愛着を失わせてしまう恐れがあります。


NHKで観光立国のことを今放送していたけど疑問である。人間社会というのは何かを得れば何かを失う宿命にあることに気づくべきである。
確かに経済的に困窮してくると観光でもなんでも金を稼がねばならないとなるからそんなことを言っていられないともなる
この観光立国の問題はもしかしたら日本の文化的なものが破壊されることかもしれない
京都などの古都ではそういうことが起きているだろう,しみじみと静けさのなかで味わう日本的情緒が外人がおしかけて喪失する,それはすでに修学旅行生などで起きていたのである。そもそも寺は観光のためにあるのではない,修行の場だったのである。
これは銀座だけの問題ではない,京都などで一番起きている問題だろう

それぞれの土地には、そこに根差して暮らしてきた人々が時間をかけて培い、大切にしてきた歴史的、社会的な「意味」があります。そうした意味を、人々が共有しているからこそ、郷土愛や郷土意識、人々の同胞意識が育まれ、村や町、ひいては国が成り立っているわけです。

ここの文章はうまく表現している,観光が目的化するとこうしたものが無視され外国人のためにばかり配慮してそもそも長年生活していた土地の人のことは無視される
それが国の政策として奨励されると余計にそうなる
京都などは何か和服の人がもともと静かに歩み通るのに向いていた,それがすでに現代化したとき失われていたのである。
さらに外人が増えるともう京都の情緒もさらに失われる,だから宿もとれないとかなるともう行きたくないとなる,自分は十年間旅行していないししたくなくなったからいい。
自分が旅行したときは恵まれていたなとなる,むしろ閑散としていた方が情緒が味わえる
これも不思議なんだけどこの辺では原発事故で一時原町と相馬市の駅の間しか電車が通らなかった,それが何か人間的なのである。今までは6両くらいのときそう感じなかったのである。

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今日も行く二両の電車や秋の虹
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冬の雨(二両の電車の不思議は以前としてつづく(4)
枯野(人間的な二両の電車)

二両の電車は今でも二回くらい行き来している,乗る人が少ない昼間である。
なぜでは六両の電車と二両の電車が違って見えるのか?
それは一つの謎である。六両だと人間的ではない,二両だと時雨たりしても何か電車が人間のように見えるのである。
車だと時雨とか風でも感じない,外から見ても感じない,電車は風景と溶け込むことがあるので人間的なのである。それが二両になったとき余計に感じたのである。
この感覚は不思議だなと思う

だからこういうことは観光にも影響しているのである。京都などは人が多すぎたらもう本来の京都の情緒はないのである。
そして最近観光に来る外国人は別にそんなふうに見る人達でもない,ただラーメンを食べたいとか庶民が来ているのである。それでやはり観光により俗化が起きてくる
夜も楽しみたいというときそこに若者も来ているから見せ物を作り出す,それは日本文化とは違う,テレビのような見せ物になる

ただそうはいっても人間はつくづく背に腹はかえられないのである。
みんな金になるならやるとなる,地方では余計に衰退しているからそうなる
ただそこで失うものもまた生まれる,マイナスの面が生まれる
原発でもとにかく金になればいいと地元の人達が誘致したのである。
今になると後悔しても時遅しだったのである。
だから観光も極端化してゆくと遂には日本文化の破壊までになる

ただ日本はそれだけ落ちぶれたから贅沢は言っていられないとなる
要するに金のために日本の魂まで売るとまで大げさに言えばなる
それは原発でそこに住めなくなったこの辺とも共通しているのである
何か当たり前にあったものが喪失した,「生業を返せ」と補償金を要求しても
金をもらってももう生業は返ってこのないのである。

だから観光立国がすべていいように政府が奨励してもその弊害もある
ただ人間は背に腹はかえられぬとなる,別に自分は海外旅行したから外人と交わるのが楽しいということがある,外人と交流したいということもある
一人一人が外交官になる必要があるというのも面白い指摘である。
外人と交流を深めれば日本を理解されるからである。
それでもこれだけ数が多くなると問題が生じてくる
やはり限度があるが日本は何で稼ぐとなると観光で稼ぐほかないとなりそれをとめることもできないだろう。それで失うものより金が欲しいというときそれは原発と同じなのである。そして後で後悔したりするのである。


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2017年11月10日

なぜ心の青雲の都築詠一氏は昭和天皇を批判したのか? (明治維新にその根があり光厳天皇を賛美することになった)


なぜ心の青雲の都築詠一氏は昭和天皇を批判したのか?

(明治維新にその根があり光厳天皇を賛美することになった)

「心に青雲」の著者の都築詠一氏は右である。でも昭和天皇を常にこきおろしていた。
それはなぜなのか?昭和天皇には何か蓄財だとか民を思う心がなっかた
ただ一身上の保身のみがあり戦争についても責任があるのに責任逃れした
それで光厳天皇を賛美していた,ただ光厳天皇という人は知らなかった
南北朝の争いで自ら反省して最後は乞食までして隠棲して死んだ
だから昭和天皇もそうあるべきだとして常に批判していたのである。
天皇は自分の保身しかなく蓄財にのみ関心があり民のことは思っていなかった
何かそれが極端だからこれも右にしてはどういうことなのか?
それは左の人が言うならわかるが右の人がそれほどまでに言うことが理解できなかった

その根はどこにあったのか?
それは明治維新にあったのだ,明治維新が過度に賛美されたことは天皇賛美と天皇礼拝に通じる,天皇が現人神(あらひとしみ)になることに通じていたのである。
それで最近明治維新が見直されるというとき天皇も見直されるのである。
それは中国の文化革命のようなことも起きていた
神道派が力を得て廃仏毀釈になった,これは中国の文化革命とにている,イデオロギー闘争であり思想闘争である,これもまた宗教の争いのように見えて権力闘争にもなっている江戸時代は寺が優遇され神社はないがしろにされたとかその不満が宗教の争いとして噴出したとなる

天皇とは何かというとき常に政権争いの神輿としてもちあげられることがあった
天皇は本当は中立であらねばならない地位にあった,それで姓がなかったのである。
姓があるというこは平家なら平家に属することになる,源氏なら源氏に属することになるからだ。
宗教は権力争いにからんでいた,そもそも宗教は本願寺であれ比叡山であれそこが僧兵もいて城と同じだったのである。
だから信長は宗教なら中立を保て浅井氏とか一方につくなと警告していた
でもそれを破ったから比叡山は焼き討ちされ信長の容赦のない殺りくになったのである。それで寺院というのは権力に敵対するものだからそうなった

寺院には信長の前は職人でも仕えているしそこは一つの国を形成していたのである。
治外法権のような領土をもっていたのである。それはカトリックでもあったし宗教が権力を持ち集団化するとそうなる,今でもカルト教団はそういうことがある
宗教の名のもとに団結して権力をもち世俗社会を支配するのである
だから信長がそれを許せなかったのである。

天皇というのも明治維新で近代化にはそぐわない存在だったけど尊皇攘夷派によって薩摩長州によってもちあげられすぎたのである。
それは神がかりになりその後太平洋戦争に結びついたのである。
つまり明治維新から太平洋戦争は一連のものとしてあった
明治維新に太平洋戦争の種はまかれていたのである。
それで明治維新の明治の元勲とが呼ばれた人が批判されるようにもなった

そして「心の青雲」の著者の都築詠一氏は幕臣だった,だから薩摩長州の勢力に不満だったのである。天皇でも薩摩長州にもちあげられたから不満だった
幕臣は薩摩長州に恨みをもっていたのである。武士の出だった内村鑑三も幕臣だったから終始薩摩長州が権力をにぎったことで腐敗したことを常に批判していたのである。
何かこういうところに歴史の継続がある
権力争いで必ず恨みが残るのである。

天皇というのは何なのか?それがなぜ明治維新の時持ち上げられたのか?
それは水戸学派の天狗党など過激な思想となりイデオロギー闘争となり廃仏毀釈となり天皇絶対制を作り出した,それは近代化すること民主主義とは相反したものであったが無理やりそうさせられたのである。
都築詠一氏が昭和天皇をあれほど批判したのは明治維新も評価しないことに通じていた
そして光厳天皇に光を当てた,だから光厳天皇論は都築詠一の思想の骨格にある。
歴代の天皇で自らの過ちを認めた天皇はいないだろう,なぜなら昭和天皇でも現人神とされたのだから神が過ちを犯すことがないしまた敗れることもないからである。
だから昭和天皇は謝罪はしていない,ただ神ではない人間天皇を宣言しただけなのである

この考えは会津とかに共通したものだし東北でも薩摩長州に踏みにじられたから不満が今でも残っている,いづれにしろ光厳天皇が一人間に立ち返りその過ちを認めて隠棲して死んだということそれは日本ではまれなことだったのである。
ありえないことでもあったから都築詠一氏は共感したのである。

日本ではこれから天皇自体が問われ天皇制は維持できなくなるかもしれない,天皇に対する崇拝とかはなくなっているだろう。天皇をyoutubeで悪人だとこきおろしているから驚く,明治だったら戦争中だったら不敬罪になり警察に逮捕されて刑務所にぶちこまれる
警察権力が天皇を警護するものとしてもあるだ,菊の紋が警察の紋であることでもわかる警察権力と天皇は密接に結びついているのである。
天皇は常に権力と関係して存在したのである,だから南北朝の争いでは天皇が二人になり日本が二つに分裂してしまったのである。
天皇がお墨付きを与えて薩摩長州が官軍になった,それで靖国神社は薩摩長州の神社となったが西南戦争で長州の神社にもなった,そして山口県から首相が出るし今も出ているのはそういう支配構造が明治維新にできたからだとも言う人がいる

いづれにしろ都築詠一氏の遺したものは何なのか?それは死によって永遠に中断してしまった,ただ昭和天皇批判とか明治維新の見直しはなされるようになった
つまり天皇の宗教的権威がそがれてただの象徴となったときそうなった
日本に天皇が必要なのか?そういう議論までになるのはやはりそれだけ天皇というものの権威が落ちた現れなのである。

原発事故と神戸製鋼など大企業の不正の共通性 (日本の技術への奢りなのか)


原発事故と神戸製鋼など大企業の不正の共通性

(日本の技術への奢りなのか)

●技術の奢り

●コスト競争

●納期を守る

●縦割り組織

●安全の無視

何か最近起きている大企業の問題と原発事故も共通していた,それは日本自体の製造業の危機だとも言われる,東芝とかシャープとか神戸製鋼とか日産などは日本を代表する大企業だからである。
なぜこうした大企業が問題を起こしたのか?それは原発と共通性がある。
根本的にはモラルが喪失がある,企業経営にもモラルが必要なのである。そのモラルが喪失するとき問題が起きる

そして技術の奢りも日本にはあった,日本の製品は品質管理は優れているというのが世界で信頼を得ていたのである。それが壊れたのはなぜなのか?
日本が長年築いてきたそうした技術が奢りになっていたのである。
日本は技術が外国より優れているからロシアのチェルノブエリのような事故は起きないと自分も思っていたしみんな思っていた,それで「安全神話」が作られていたのである。
それは東電だけではない他の大企業でもそういうことがあったのである。

ただ内部事情ではコスト競争とか納期を守るとかそういうプレッシャーとか人手不足で品質管理を怠ったのである。納期を守るということでも急ぐから品質管理をおろそかにしてパスしていた,検査資格もない人にやらせていたのである。
縦割り組織というのも横の連携がなくなる,それも原発事故の原因にもなっていた
縦割り行政の弊害があった,セクショナリズムというのもそうである。
吉田所長が覆水器のことがわからなかったのである。専門分野が違うとなりわからなかった,様々な分野に別れているから全体を知る人がいなくなる
大きな組織はみんなそうなる,役所でも部署が違いますとか言われて何も聞くことすらできないことがある,それは責任逃れなのである。

そしてまたグローバル化するとコスト競争にさらされる,それてコストをおさえようとすると品質管理とかはいい加減になる,何かをコストを減らすことが要求される
それで東電の清水社長はコストカッターとしてのしあがったとういことでもわかる
そういうことが事故につながっていたのである。

東電では10メートル以上の津浪がくるということを試算していた,それがわかっていても対策をしなかったのは金がかかるからしなかったのである。コストの問題なのである。
企業でもやはり根本的な所でモラルがなくなるとそれが事故につながり安全は守れないのである。
ただこれは会社や大企業でも常時起きている問題である。
だからどこでもこういう問題は起きるのである。

奢りといえば別に個々人でも起きてくるし会社単位でも起きてくるし国単位でも起きてくる,奢りが個々人でも滅亡に導く,日本の戦争だって奢りからはじまった,アメリカの強大さを知らなかったからである。
そして日本の技術は特別優れているということをすりこまれてきたのもそうである。
技術のこと科学のことがわからないくてもそう思わされていたのである。
でも電器製品と原子力はまた別物だったのである。原子力の技術はアメリカとかフランスが優れていたのである。
そういう思い込みが一般人にもあり事故など起きないと思わされていたのである。

日本の技術は優れているというときそれがナショナリズムとなり日本礼賛となっていた
確かに優れていたものがあってもすべてではなかったのである。
原発に関しては後進国でありそういうことはなかったのである。
技術というのは安全性が生命線にもなる,鉄鋼でもそうである。
長く使っていると必ず磨耗してくるから強度が大事になる,技術の基礎としてある
ずいぶん長く使っても壊れない機械がある,そういうのには感心するのである。

いづれにしろ東芝であれ日産であれ神戸製鋼でありこうした日本を代表する大企業がこういう問題を起す時世界からの信頼も失われ日本の根幹がだめになってゆく兆候なのだろうか?
だから株価が上がっているけどこれは別に日本の産業が上向きになったからではなく金融の操作でなっているのであり日本の産業の価値があがっているわけでとないのである。
それもまた錯覚させられているのである。
賃金だってあがっているのは一部であり人手不足でもそれは少子高齢化が原因であり景気がいいからではないのである。
ともかく何かそういうふうに政府とかに思わされるのである。
それは原発事故で「安全神話」が作られたと同じなのである。
それは結局奢りであり奢りから事故が起きたり国自体の滅亡になってゆくのである。

日本の大手製造業では、長引く低成長のなかで、名誉職を含め、企業の上層部に団塊世代やバブル世代が長く居座り続け、製造ラインへの新増設投資は乏しく、若手社員の補充が乏しい傾向がある。要するに、活気がないのだ。

こういうことも影響しているのか?少子高齢化も社会を活力なくしている,やはり日本自体が老化しているのである。高度成長時代は若者の人口が多かった,今はその逆だからである。若者のエネルギーが社会にを動かさないのである。
そしてどこでも会社でも技術を受け継ぐ人が不足している,農業や漁業は顕著なのだが
企業でもそうだったのである。中小企業でも後継者がいなくなり倒産している,会社が継続できなくなっているのである。だから少子高齢化は本当は社会全体に影響する大きな問題なのである。
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2017年11月09日

忘れられた昔の生活 (戦後十年は江戸時代のつづきだった)


忘れられた昔の生活

(戦後十年は江戸時代のつづきだった)

その家の近くだけど農家だった,だから庭が広い,農作業したからである。なぜか隣が神社でありそこに脱穀機が置いてあった,馬を飼う納屋があったのを知っている
その家に嫁いだ女性は八五才で死んだ,その人のことは子供の頃から知っていた
その夫は鉄道で工夫として働いていた,妻は農家で仕事していたがあとで菅野漬け物屋で働いていた,農家だから糞尿を汲みにきていたのである。
農薬を使わない時代は肥料は糞尿であった
便所は新聞紙を使っていた,トイレットペーパーがまだなかったのである。
何か汚いという感覚にはなるがそれが仕事だったのである。
もし糞尿を捨てる場所がなかったから困ったからである。

鉄道で働いていたというとき他にも国鉄の時代であり鉄道全盛の時代は鉄道はいい働き口だった,給料も良かった,民営化で騒いだがその時は高度成長時代であり退職しても金はもらえたのである。その時野党は社会党だったのである。
国鉄が衰退してなくなり民営化して社会党も消失したのである。
農業していたし国鉄で工夫で働いてもそれなりに収入は良かったかもしれない
ただ金に困った時はあったようだ,金に借りにきたこともあった
それでもそんなに生活に困るというのではなかったと思う
高度成長時代というのはみんなが豊かになった時代だったからである。

鉄道全盛の時代は鉄道関係の仕事が多かった,国鉄職員も多かった,今になると車関係の仕事が多いのと同じである。
鉄道の時代から自動車の時代になったからである。
ただ自分のように車をもっていないものは車がわからないのである。
だから現代では車をもっていない人は時代遅れであり仕事にもつけないのである。
たまたま自分は幸運で仕事しないですんだが車なしでは仕事にならないのが現代である。それで車もっている人は高速道路に入ると楽なんだと言うのは意外だった
車間距離をとれば自動運転するように行けるともなる,高速は自動運転化しやすいことがそのことを聞いてわかったのてある。
今は車のことがわからないのは社会もわからないとなるのである。
一方で旅するときは歩くことや自転車でする方が記憶に残る旅となる,車だったら昔の街道を行っても旅した気分になれないのである。

その近くに井戸があり自分の家では井戸がなくその水をもらっていた,水は水道がないのだから井戸がない家は水をもらっていたのである。
子供の時風呂に入るのには水くむから大仕事になる,バケツで水を運んだからである。
風呂は父が手作りで作った小屋のようなものだった,外風呂であり便所も外にあった
水道がない時代というのも相当に不便だったろう。
洗濯は近くの小川でしていたのである。
だから江戸時代のつづきを子供時代に経験しているのである。
燃料は炭であり炉端があったからである。

 朝顔につるべとられてもらい水 千代女

これは江戸時代だけと明治以降水道がないのだからもらい水だったのである。
街中では良く姉が言っていたけど「水ください」と井戸ある家に頼んだと言っていた。
それは子供の時であり井戸がない家はそうして頼むほかなかった。
でも水をもらっても金をとったりしないのが昔だった
第一払う金などない時代だからである。
その点農家の方が井戸はあるし自給自足で納豆を作っていたとか鶏がいて卵とかその肉も食べられたとなる,農家でもいろいろあり小作は貧しいが農家の方が豊かな面があった

橋は木の橋であり土橋だった,だからゆれるので怖かったのである。
自分はその橋を卵買いに行かされた,卵は農家から買っていたのである。一個か二個卵が割れるのである。そういう経験したことは今になると貴重である。
仕事はやはりわずかのものしか経験できない,仕事を経験するだけでも人生にとって貴重である。自分はその後仕事していないからそれを感じるのである。

昔をふりかえると不思議なのは江戸時代が理解できないことがある
江戸時代は靴下とかはいていない,女性でも素足なのである。冬でもそうである。
浮世絵の遊廓の女性も素足なのである。だから寒いと見るのである
そんな寒い所で良く暮らせたなと思う,それが時代が違うと理解できない
江戸時代で裸足で歩いていた人もいたという,なぜできたのか?
金属片とかガラスがないからできたと言うのも今から考えるとそうなのかとなる
道でも人と馬さえ通れればいいのだから広い道はいらなかった
第一広い道を作るのは簡単にできないからである。
子供の頃の道は舗装されていない,だから埃がたつ道だったのである。

外国ではネパールなどでは裸足で今も歩いていることに驚いた
インドでも街中で力車の人は裸足である。
裸足で生活することは何か原始的なことである。
現代人は相当に身体的にも弱くなっているのである。
ネパールとかインド農村に行けば昔の生活を体験できるのである。
そこに旅の面白さがあったが若いときならいいが良く見れなかったのが残念であった

街の中でも農家があるのが普通である。養蚕もしていたし田舎では街も農家の一部なのである。そもそも町というのは一区画のことであり今の町とは違った意味だったのである。だから村の中に町とつく地名がある,そこに町があるのではない,一区画の意味だったのである。墓町とあれば一区画が墓地になっている所なのである。
馬町とかあれば馬を売り買いする一区画だったとなる

家はトタン屋根であり雨漏りして洗面器を並べていた,それが伊勢湾台風で自分の家は低い場所にあったので一番被害が大きかった,その後に今の大きな家を建てた
煮炊きするのは竈であり炭や薪が燃料だった,だから台所がすすけて黒くなっていたのである。店をしたり食事の用意をした家事をすると忙しい,昔の人はまず家事に半分は費やされた,だから中流階級でも女中が二人いたとかなる,それだけ家事が一仕事だったからである。電気製品とかなければそうなる,オカズでも売っていない,作っていたから家事にさく時間が多かった,それで母と遊んだ覚えがないのである。

芭蕉野分して盥(たらひ)に雨を聞く夜(よ)かな 

昔の家は雨漏りするのが普通だった,ヤハな家だったのである。

大正生まれの母は原紡(原町紡績)で働きあとは東京へ女中になった,まずその頃女性の職場は紡績工場とか女中くらいしかなかったのである。その時良く東京に行ったと思う
母はそうした冒険をしないおとなしい女性だったからである。それだけが最大の冒険だったのである。女中でも現金収入なるとなり喜ばれたのである。

何が一番変わったのかというと政治体制とかではない,基本的な暮らしが変わったことである。今までに高度成長時代のようにな成長もなかったし庶民まで豊かな暮らしはしていない,庶民はずっと貧乏だったからである。
歴史をふりかえれば今ほど人間が贅沢を覚えた時代はなかったということである。
そして莫大なエネルギーを費やしている時代もなかった
石油であり原子力発電であれ信じられない莫大なエネルギーを使っているのが現代なのである。こういう時代は世界的にもなかったのである。
その歪みが原発事故とかなり石油戦争とかも生み出したのである。

ともかく人間は最後は思い出だけになる,つまりこうして昔を語るとき思い出すとき老人は生きているのである。それで認知症になると千回も昔のことを同じことを話するのである。それが生きた証(あかし)だからそうなるのである。
インターネットはこういう昔のことを書いたりするのに向いているかもしれない
これが本とかなるとできないからだ,今は地域の人にも語れないし子供にも語れないからである。
そしてインターネットでもパソコンでもこれからしていた人も老人になってゆくからである。
すると何でも思い出話に花が咲くとなるからだ,ただまだ若い人中心だからそうなっていないだけである。
遂に2チャンネルでも老人が増えて昔を語るようになる
今は老人はのけものにされているがやがてそれも変わってしまうのである。

posted by 老鶯 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

白河街道の旅 (勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ)


白河街道の旅

(勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ)

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同年、会津6郡・仙道5郡を与えられた蒲生氏郷が会津に入部すると、白川の地も氏郷の支配下に入り、氏郷は小峰城に城代として4万8千石で関右衛門一政、次いで町野長門守吉高を置いた。

漆器に目をつけ,会津から職人をうつして藩の産物とした
紙も会津人牧本善右衛門をまねいて様々な紙をすかせ一産業とした.

白河に会津町があるのはこういう歴史があるためである。会津町が城の近くにあるのもそのためだろう。

地図を見ると丹羽長重の墓がある

長重は毎日2,000人を動員して約4年の年月を経て小峰城と城下町の大改築を施し、白河城と呼ばれるようになった。

白河城を築いた人だった,聞いた話だと白河城の石垣には十字が彫られているという,それは掘られているという蒲生氏郷がキリシタンだったからとなる
そうした隠れた歴史がある,それは地元の人しか知らないということもある

白河街道というとき白河を意識するが会津街道にもなる。今でも六号線は東京からだと水戸街道と言われている
ここで白河に馬町があるが馬市が行われていたのだ

三代村の川をだんだんに登れば勢至峠である,分外に広い山野があって木地屋などの小屋掛けしているのが見える
峠になった勢至堂は下りの中腹にあって荒れた宿場である。会津へ帰る武士はここで酒を飲んだ,ここはまだ会津領ではなかった
勢至堂は馬の守り神かと思われる,奥州では所々にその石塔がある
この山中の村でも家々に駒を育てている,昨日買われた二才駒が五六匹一繋ぎになって見知らぬ親父にひかれてゆく,いづれも小さな木札が下げられている
香川県綾歌郡などと書いてあった
左側が片岨(そば)になっていて江花の古駅は坂道の両側に村を成している
この辺はみな熱心な馬飼いで一等賞を得るために泥鰌を食わせたり卵を飲ませたりしているう(柳田国男全集-勢至峠)

白河では馬市が行われていた,これは戦前のことでありそれで香川県からも馬が売られたのか?ただ江戸時代からも馬市があったのだろう。馬町という名がつけばそうである。
その辺の由来はわかりにくい,ただ白河は十万石くらいあるとしてやはり大きな藩だったのである。相馬藩は六万石だからである。白河は白河の関で有名なように要所だったので明治維新の時はそこが争いの場となったのである。
東北の藩が集結したのである。相馬藩の武士も戦いに参加した

馬というときなぜこれほと馬頭観音が多いのかとなる,それは馬が死んだときその供養のためだった,すると馬は二〇才くらいで死ぬからその数も多いのである。
だからそれだけ馬頭観世音の碑が多いのである。

勢至峠は車の道からはずれた所に家並みもそのつまに残っている,それは旧道になっているのだ。
この峠を越えて福良にでる,今は湖南町である。ここは郡山市なのである。
勢至堂も会津領ではなく白河領になっていた,境目になる場だった

この街道は二回か三回通った,春とか夏とか秋である。
普通はみんな鉄道が通っている方を通るがこっちの方がものさびて歴史を偲ぶのにはいいのである。福良では湖南町では一回蔵の宿に泊まったのも趣があった
あの辺はかえって猪苗代湖でも景観的にいいのである。奥まった所にあるからだ
福良は自分が行った時でも街の通りに茅葺きの家が何軒かあった,今はないだろう。
焼き物でも有名だった,あそこは魅力ある場所である。

清水湧き野菊の咲くや旧街道

山間は芒に暮れぬ旧き道

会津へと街は遠きも山間は芒に暮れぬてかすか虫鳴く

会津というと萱が芒が茂る山が多い,昭和村の方に行ったときも山が萱に覆われていたのである。この辺ではこんなに萱が繁っている風景を見ない,それだけ大量の萱が産出する場だったとなる,それは大内宿のよ茅葺きの家のように萱が大量に必要としていたからその需要があった,会津から萱葺き職人が相馬藩辺りに来たとういのもそういう技術に優れていたためである。
ともかく白河街道は魅力ある街道である。

白河はまた南湖公園とか翠楽苑(すいらくえん)とかある,翠楽苑は十年くらいして整備された,借景として自然の松林を利用している,いい庭園である。



白河街道を会津へ (会津の歴史を白河から偲ぶ)

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

白河の秋の翠楽苑

秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)

福島県の旅の部に白河について連作として書いています
キーワードで白河と入れてあとはそのタイトルをグーグルで調べると全文読めます

タグ:白河街道

2017年11月08日

名誉棄損だった職務質問 (公衆の面前でされたから)


名誉棄損だった職務質問

(公衆の面前でされたから)

今回野球の試合があるということでバスが野球場まで出ていた
そういう人が集まるとき警察官が二人来て自分も職務質問したのである。
それはあやしい人がいると通報があったからだとなる
そのことは書いた

これまで何回も職務質問されているが今回は事情がまるで違っていた
あやしいと通報されたことは与那国島で経験している
木蔭に休んでいるからととうい理由だったのである。
与那国島は閉鎖された島だからそうなったのだろう
その時公衆はいない,一対一である。
その時警察官は村の人が通報すれば来なくてはならないのですと
実際は来たくないようなことを言っていた
木蔭に休んでいるからあやしいとはならないからである。

今回がなぜ名誉毀損になるのかというと公衆の面前で職務質問に来たからである。
すると周りの人はどうみるのか?
この人の変な人なのかと見られてしまのうである。
自分は駅に一回限り来ているものとは違っている
実際は半年くらい駅に通いみていたのである。
無人駅になったので教えることもあり通っていたのである。

だから知っている人は知っていた,特に前の自転車屋の人は親しいから知っていて
弁護してくれた,他の人もあやしい人ではないですよ言ってくれたのである。
でも身体検査とかカメラの検査とか強引にしたのである。
だから今回は今までの職務質問とはかなり違ったものである。

つまり名誉棄損になることであった,公衆の面前でされたことそして公共のためにしていることが職務質問によって阻害されたことなのである。
これはかなり大きなことである
ボランティアには何も法的保護がないと嘆いているのもわかった
ボランティアは例え公共のために尽くしていても認められないことがある
ただあいつは何しているのだとあやしいと見られるだけのこともある

名誉棄損というときいくら盗まれてもその人のことを何人かに言うとかえって訴えられることもある
その人は別に法的に裁かれていないから何もしていないのに罪を犯していないのにと訴えられることがあるのだ:つまり名誉棄損になるのだ
これも変なのだけと犯罪者が守られているのである。
だからそうして法律を利用してつけいる人も多いとなる

なぜ自分がこのことにこだわるのかというと駅に自由に出入りできないようにもなったからである,誰かまたあやしいと通報して警官がくるのをおびえるようになる
これによって公共的活動が阻害されたのである。
そのことが一番怒りになったのである。

今も駅に行って道案内などはしているが長くいない,それは誰かが通報するということで不安になるからである。
大げさかもしれないが検察は権力をもっている,だからその権力の使いようが問題になる権力を持つということはそれだけ慎重になるべきことである。
その権力を行使することがどういう影響を与えるかわからない場合があるからだ
権力を行使するときは慎重になるべきなのである。

ただ現実は職務質問はただ強引にされているけど何もできなのが現状なのである。
それは相手が権力をもっているからである。
だから警官でも恐れさせるために名前を聞いたり不当な職務質問には訴えるとか抵抗しないと横暴な職務質問はとめられないのである。
ただそこまでやるとなるとかなりめんどうになるからみんなしていないのである。

だけど強制で見せろと言われた時にその理由を述べろと言って不審な物が入ってないか調べたいと言われたら、そこまで人を疑って何もありませんでしたで申し訳ありませんだけで済ましませんよ。名誉毀損で訴えますよ!なんていうのは有りですかね?しかも周りにたくさんの人がいて恥をかかされるわけですからなんらで訴える事ってできますか?

この人の答えは警察官が答えているのと同じである。警察官には職務質問する絶対的権利があるとなり訴えても無駄と言っている
本当にそうなのだろうか?

周りにこくさんの人がいて恥をかかせられたというのは自分と共通している
自分の場合はたいしたことがないにしろ公共のためにボランティアをしていたからであるそれが阻害されたことで怒っているのである。
ただもう職務質問は警察の絶対的権利であり逆うことはできないとここでは議論になったそれに答えているのは警官ではないかと思った

例えば公衆の面前ではない,あとでこっそり対面的に職務質問していれば良かったかもしれない,そうあれば公衆の面前ではないから被害がそれほどない
公衆の面前でしたことが問題だったからである。
いづれにしろ職務質問はもう警察の絶対的権利でありこれに逆らうことは不可能だとまでなっている,いくらそうなっていても納得できないのである。
それは権力の横暴にしか見えないのである。

明治維新と庶民 (侍の支配に不満があった)


明治維新と庶民

(侍の支配に不満があった)

会津地方の旧武士階級の人々が薩長土肥に対して強い恨みを抱いたという話はよく知られている。だが農民、特に戦場にならなかった地域の人々にとっては、かねてからの重税や物産の専売制度による搾取に加え、藩主松平容保が京都守護職として上洛して以来、その経費を賄うために行われてきた増税に対する不満に一気に火をつけることになった。9月22日(1868年11月6日)、会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。
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会津というと白虎隊だとかいろいろいその悲劇が語られる,一方で見逃されているのは会津だけではない,庶民が明治維新にどういうふうに見ていたのかである。
あの姫路城が10万で売りに出されるとか信じられないとなる
その時城に価値を認めていないのである。城に価値を認めていたのは侍だけだとなる
白虎隊が城が燃えているとこれまでだと自刀したのもそうである。
城に深い思いがあったのは侍であり庶民は城に対してはそんな感情をもっていない
だから会津で明治維新になり一気にその不満が爆発したのである。
そして侍の住む会津若松ではなくその北にある喜多方が商業が栄えた,それで多くの蔵が建ったのである。

そもそもいくらなんでも城が10万とかで売りに出されること自体城に価値を認めないからそうなった,城に価値を認めないということは侍に反発するものがあったからである。
城はやはり権力の象徴として当時威圧するものとしてあったのである。
今歴史的遺産となっている建築物でもそういうふうに権力的に威圧するものがある
建築は権力の象徴なのである。それは仏教でも同じである。
奈良の仏像とかでもそういう面はある,ただそういうものでも歴史的意義があり後で評価されている

ただ明治維新のときなぜそうしてこれまであったものが否定されたのか?
それも極端なのである。今になって薩摩長州のテロリストによって破壊されたというのも今だから言われる,では明治維新の時は庶民の感情は城に価値を認めない,侍にも価値を認めなくなった,その感情は急に起きたことではない,日頃から侍に不満がありそうなった,野馬追いでも野馬追いのときだけ馬上の人となり侍が復活する
その時侍の時代にもどり威張れるのである。そこに明かな身分の差が生まれる
野馬追いに出れる人は侍の出でないと出れないからだ
由緒ある家でないと出れないからである。もっと誰でも野馬追いに出て盛り上げたらいいとなるが野馬追いの場合できないのである。
だから祭りとしては侍の祭りであり庶民がかかわらないから地元でもつまらないともなる青森のネブタなどは外から来ても誰でもハネトになれるのである。
それは庶民の祭りだからである。

日本人は明治維新でわかるように極端に過去を否定して変化する,そういう民族的特質があるのかもしれない,ただ人間の歴史をみれば必ず権力をもつものる対する不満があるがそれができないからあるとき爆発する,それがフランス革命とかでもありどこの国でもあるのだ,人間は一旦権力をもつと傲慢るなるからだ
そして権力というのは常にもつものが変わっているのだ
現代ではマスコミが権力を持つものとして標的にされマスゴミだとか盛んにネットで言われる,それはマスゴミが正しいというより現代では権力を持つものだったからである。
第三の権力といわれたのもそのためである。
NHKでも強大な権力をもっていたし今ももっている,
NHKががこう言っているのだか反対するようなことを言うなと学校に抗議があったことでもわかる
それだけ現代ではマスコミの力が大きくなっていたからまた反発もあったのである。
マスコミは左寄りでありそこに中国韓国の工作員が入って支配されているというのもそうである。

いづれにしろ明治維新の時それほど権威があった侍が作ったものが根こそぎ喪失した
それに対して庶民は別に惜しいとか価値を認めていなかったのである。
城は庶民を威圧するものとして権力の象徴だからそうなった
今になって庶民は城をどうみているかというと城は街のシンボルだとういうがこれも明治維新のことを考えると庶民も勝手だなと思う
観光資源として城が必要だとなるのも勝手だとなる
庶民はそもそも功利的にしか動かないともなる,でも庶民の意向が全く政治に反映されないかとなるとしている,明治維新が成功したのは薩摩長州の勢力であり庶民がかかわらないとなっていたのか?

でも庶民でもやはり侍に反発するものがあり精神的に応援するものがあった
それで西南戦争では国民軍を形成して庶民が参加して武士に勝ったと言うことで大きな転機となったのである。そこで国民意識が生まれたのである。
太平洋戦争でも庶民はどう思っていたかと言うと上からあおられて戦争に無理やり参加したというのとも違う,その時鬼畜米英という感情が庶民にも異様な熱気としてあったという,つまり戦争を引き起こすものが庶民にもあったのである。
この辺の原発も積極的に金になるからと誘致されたのもそうである。
庶民には何の責任もないということはないのである。何か庶民は身勝手だということがある,その時々のことで時流にのる,利があればのってゆくともなる

ともかく人間の歴史を見れば同じようなことが繰り返されている,権力をもつものが権力を失うのである。栄枯盛衰がくりかかされる,だから一時代がすぎるとまるで変わったものとなってしまう。
城がそれを具体的に示している,今になってこれほど城に価値を認めているのはそれが観光の目玉になるとか庶民の身勝手なものから生まれている
城に本当に価値を認めるとしたら侍にも価値を認めることになる
それを根こそぎなくしたことでもわかるようにその時庶民は城にも侍にも価値を認めていなかったのである。むしろ排斥する方向に強く働いていたとなるのである。

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2017年11月07日

城は何を意味していたのか? (城は建築は文明の象徴でありまた権力の象徴だった)


城は何を意味していたのか?

(城は建築は文明の象徴でありまた権力の象徴だった)


●建築は文明を象徴したもの

建築は文明を象徴したものとしてあった,城の美とかを自分も追及した,白壁であり簡素であり質実なものが城にはある,その建築には日本の精神と美がある,建築には必ず人間の精神が反映されている,建築物を見るとその国のまた一時代の文化が具体的にわかりやすいのである。
だからヨーロッパの建築は多様である。教会でもろいろいろに別れている,
ビザンチン建築ゴシック建築ロマネスク建築ルネサンス建築イスラム様式建築とかありその時代をみることができる,ローマ風というとき建築の歴史の基礎はローマにはじまっているからである

arch- の語源を辿れば、古代アテネ ancient Athens の第一執政官 archon に行き着く。archon は統治者 ruler であり、命令を下す始まりの者 begginer である。ここから、
arch-(pre-vowel), archi-(pre-consonant) : <接頭語>第一の、首位の、始まりの →昔のの意味が生ずる。

「首位の」
archangel [ɑ'ːrkèindʒəl] : n. 大天使 cf. Michael the archangel 大天使ミカエル
architect [ɑ'ːrkətèkt] : archi-(統治者) + -tect(造り手、大工 cf. tectonics, technology) → 大工の棟梁 → n. 建築家、設計者、発案者

Architecture

建築はこのように統治するということに結びついている,文明を見るときエジプトであれローマであれマヤであれキリスト教文明であれ建築を見てその文明を見る,建築が文明を象徴しているのである。
だから日本の文明というか文化というか最も象徴しているのが城だとなる
しかし現実に活きていたときの城は明治以降廃止された,その時城は邪魔者扱いされていたのである。あの姫路城が10万くらいで売りに出されていた,貴重なのは城ではなく燃料になる木の方だったというのも今になると信じられないとなる,なぜなら熊本城でも地震で壊れたら何百億円でも直そうとしているからだ,名古屋城で金がかかっても木で作ろうとしている,それだけ城の価値が見直されているのである。
その時時代の変化で城とか侍は一気に価値を失った,その変化があまりにも大きかったのである。だから今になって明治維新を見直す風潮になったのである。
つまり3百年つづいた侍の時代にもいいものがありそれを全否定したことで後悔しているのである。日本人は太平洋戦争でも負けたらころっとアメリカ追従になり文化まで否定する,全否定してしまう,そうなると文化の継続が消失してしまうのである。

城の美学

●城には桜も木も植えられていなかった

桜の名所に選ばれているお城は全国にたくさんありますが、実はお城に桜が植えられたのは明治以降のこと。1873(明治6)年の廃城令で大半のお城が取り壊され、廃城処分で民間などに払い下げられた際、市民に公園として開放されるようになって、桜が植えられたケースが多いのだそうです。

【そもそもお城に樹木はなかった!?】

では江戸時代まではどうだったかというと、そもそもお城に樹木は植えられていなかったそう。なぜならお城が攻められた際、樹木は視界をさえぎり、敵にとっては絶交の隠れ場所になってしまうから。江戸時代に幕府の指示で描かれた城の絵を見ても、樹木が確認されるお城はほとんどなく、あってもほんの数本。それも万が一のときに食糧や薬、燃料になる松、椎の木などだったそうなんです。

城は明治以降は無用のものとされた,でもその後城は公園とかなり庶民の憩いの場所となり鑑賞する場になったのである。
城は鑑賞としてだけ見るようになった,城についての詩歌でも俳句でも短歌でも城がなくなってあとに作られたのが多いのである。
今城には必ず桜が咲いて映えるが桜や木は城に植えられていなかったのである。
いろいろな城の詩でも城がなくなってから作られたのである。

春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出(い) でし 昔の光今いずこ

これもそうだし城がなくなってその城があったときの時代を偲んでいるのである。
明治となるとまだそういうふうに城があったときを記憶している人がいるからだ

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ 島崎藤村

これもそうだった,まさにそこはもう城があってもそこに寝ころび休む場所にすぎなくなっていたのである。そして雲がいづこともしらず流れてゆく,放浪の詩人がただ廃墟と化した城を偲んでいるのである。

「不来方(こずかた)の/お城の草に寝ころびて/空に吸はれし十五の心」石川啄木

これもやはり城はただ公園となり遊ぶ場所と化していたのである。

●城があった時城は近寄りがたい怖いものだった


人寄せぬ桜咲けり城の山 

鎌倉や今はかゞしの屋敷守 一茶

絶頂の城たのもしき若葉かな 蕪村

二本松城の跡かや蕎麦の花 子規

城というとき江戸時代に庶民からどう見られていたのか?一茶だとこんな感じになる
一方で蕪村は頼もしとあるから城がありそこで庶民を治めるものを賛美していることになる,これはただ美的にも見ているのである。
不思議なのは芭蕉には城の俳句がないのである。これはなぜなのか謎である。
城というのはともかく一番目立つものだったからである。
今では必ず城を見ることになる,でも城があったときはその城の中には入れないのである城に入れたのは侍でありそれもよその藩の者だったら招かれなければ入れない場所だったのである。

一茶のそこのけそこのけお馬が通るというとき何か侍に対していい感じをもっていなかった,それは侍は当時権力者だったからである。
おそらく庶民は侍に対してはそんな感じで見ているのが普通である。
その時の庶民の気持ちはなかなか今になると察することがむずかしくなる
普通の感覚では「人寄せぬ桜咲けり城の山」ここでは桜が咲いていたから不思議である。桜が咲いていたとしても人をよせつけないというより第一城には庶民など入れないのである。遠くから見ているだけである。居丈高に城が庶民を見ているだけだとなる

時代が変わると何が怖いものか変わってくる,侍の時代は侍が怖いものだった,それはやはり権力をもっていたからである。その前は僧侶や貴族なども怖い存在だった
なぜなら僧侶は教会とかを支配していた支配者であり日本でも僧侶は大寺院を有した権力者だったからである。宗教を恐れる前にその権力を恐れていたのである。
それは今のカルト教団にも通じている,その背後にある数の権力とか権力と通じていることで恐れているのである。
時代によって怖いものは変わる,今は医者などが怖い存在である。医者は今の権力者でもあるからだ,医者だけは尊敬されているからである。
あとは金持ちが今の一番の権力者になる,金さえあればその内容は問わない,一番の権力をもつことになる,昔もそういうことはあったがやはり時代によって怖いものは変わってくるのである。

鎌倉や今はかゞしの屋敷守 一茶

この屋敷も鎌倉に幕府があったときは権力をもった武士がいたから怖い場所でもあった,それが一時代すぎたとき案山子が守ってるだけの廃屋のようになり怖いものがなくなったのである。

牛砲打つ地城の上や雲の峰 漱石

二本松城の跡かや蕎麦の花 子規


1871年(明治4年)9月9日から、皇居内旧本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射されていた。
牛砲による正午の通報は、現在の東京都区部の大部分で聞こえ、その音から「ドン」と呼ばれ人々に親しまれていた。

江戸時代には、江戸市中に時刻を知らせるため「時の鐘」を鳴らしていたが、明治時代から牛砲となり、1929年(昭和4年)5月1日にサイレンに代わり、1938年(昭和13年)9月まで続いていた。

漱石の俳句は城が頼もしいものとしてまだ感じていたのか?明治になり時を知らせるのが牛砲になった,大砲を打つ音になった,ただこの俳句は城がまだ当時のように活きている感じになる
一方で二本松の城となるとそこはなにもない蕎麦の花になったのである。
明治維新で薩摩長州軍に荒らされてそうなったともなるのか?
ただ一般的に明治維新後姫城すら全く価値ないものとして売られようとしていたのだから明治の変化はあまりにも大きかったのである。
人間社会は時代によって怖いものが変わる,侍が戦争中は軍人が怖いものであり威張っていたのである。でも今自衛隊の人を怖がっているか?
警察は怖がっているが今庶民にとって自衛隊員は下位のものとなっている
こういう時代は平和でいい時代だとなる,警察が庶民にとって怖いのはやはり今では一番権力をもっているからだとなる,暴力装置でもあるからだ

侍と庶民がどういう関係にあったのかはわかりにくいがこの祭りは面白い

馬威し-武士と庶民の正月行事
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ここでは侍と庶民が交わり身分も関係なく庶民が馬の邪魔をしている,ここに身分の差別はなくなっている
ところが相馬野馬追いでは御行列とかといって二階から見るなとか何かとうるさいのである。野馬追いは侍時代の身分差別を意識するときでもあるのだ
馬上から野馬追いに出る侍となった人は威張れるのである。
だから野馬追いに出たいという人もいる,野馬追いに出るからといってその人は別に普通は庶民にすぎなくなっているからだ

馬に乗ることが許される者の身分を厳格に定めたことも、馬車がなかった背景の一つ。
馬にまたがって手綱を取って乗れるのは武士のみ。

馬に乗れるのは身分によって決められていたのである。侍しか乗れなかったのである。
そういう身分社会のことを今になると理解できなくなる

ただこういう祭りがあったということはやはり何か侍と庶民が交わるということもあったこういうのは実際は例外的でありなかなかなかったとも思う
とにかく今城を見ているのと江戸時代に城を見ているのとは全く違っていたのである。
歴史を見るとき今の時代から見るから必ず誤解して見ているのである。
つまりその当時を生きることはできないから必ずそうなってしまうのである。
今は城は怖くない,ただその美だけを鑑賞しているのである。


posted by 老鶯 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

晩秋から冬(城の俳句十句) (城は季節でも周りの環境で印象が違ったものになる)


晩秋から冬(城の俳句十句)

(城は季節でも周りの環境で印象が違ったものになる)

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晩秋の熊本城や古木かな

和歌山城白壁に映ゆ朝の菊

晩秋にたずぬや大き彦根城

塩の道松本城や秋深む

足軽の長屋あわれや冬たずぬ

実りありここも一国秋田城

城外に虫の音あわれ会津かな

打ち曇り雪に暗しや鶴ヶ城

冬の日や老松残る盛岡城

二すじの冬の川流る盛岡城

弘前城雪に埋もれて門古りぬ

老梅の根を張り冬の弘前城

弘前の遠くや雪のしきり降る


長々と城の石段登りつつ白壁映ゆる秋の朝かな


標高約49mの虎伏山(とらふせやま)の上に建てられ白壁の天守閣の美しさから、別名「白亜(はくあ)城」、山の名前を取って「虎伏城」などとも呼ばれていました。

城は必ず旅したり観光すれば見る,その街の中心にある,城がわからないと歴史もわからないとなる,でも城がどういう印象が残るかというと城によって違う,それはその辺り景色とか季節によっても違う,今回は秋から冬の城である。

不思議なのはなぜ和歌山城が印象に一番残っていたのか?それは白亜の城というように白壁が映えることとその時季節が秋だったからである。秋に白壁が映えるからである。
それが鮮明な記憶となる,記憶として残っていた:それから石段が長く坂になっているのも記憶に残る,何か城というとき平城が多い,ここは平山城であり高い方の城だったからである。ただ城というのは全体を見るのがむずかしい,ここは天守閣が二つあったというのもわからなかった,事前にそうした知識がなかった
今はインターネットとかあるからそうした知識が得やすい

城といっても城だけではない周りの景色とか季節で印象が変わるのである。
熊本城をたずねたときは晩秋であり城の前の公園に太い古木があってそれが印象に残った彦根城はと大きな城だということが印象に残ったがここから琵琶湖が見えるのはわからなかった,ただここは関が原が近いから地理的に要衝だった

そんな松本城の特徴のひとつは、外壁に黒漆(くろうるし)を塗った「漆黒(しっこく)の城」であること。「これは、小笠原氏のあとに入城した石川数正・康長親子によるもので、豊臣秀吉の大阪城が黒で統一されていたことから、秀吉への忠誠のしるしと言われています」と林さん。それに対し、姫路城のように「白亜の城」は徳川家康の時代の城とされるそうです

そうなのか,秀吉時代の城だったのか?城というとたいがい白壁である。ここはだからめずらしい,松本は他に塩の道の終点として有名なのである。
相馬藩でも塩の道はあるがここは本当に日本海の糸魚川まで長いのであ。塩は牛で運ばれた,牛繋ぎ石などが市街に残っている,そういう観点からも松本を見ると違ってくる

新潟県の新発田城の足軽長屋は昔のままに残っている,これはまさに長屋である。長屋は庶民が暮らしていたのだからこれと同じだった,つまり長屋と武士の家の差が大きかったとなる,今はこの辺の市営住宅でも部屋数が三つとかあるがここでは一部屋くらいだったただこういうのは戦前でもあった。日本人はもともと狭い所で住んでいたのである。

会津の鶴が城は有名だが何か印象に残らない,平城だからかもしれない,何か特徴がない奇妙なのは城の外に田園風景が広がり晩秋に虫が鳴いていたことを記憶している
それは何を意味しているのか?会津だと白虎隊とかドラマ化されているけど庶民はそうした悲劇とは関係していないのである。かえって明治維新の時恨みをもっていた農民が一揆を起こしていたのである。会津の落城でも庶民には関係ないことでありそれで侍中心の
城があるところよりその北の喜多方が(きた)が商業で栄えたので蔵が多いのである。
どうしても旧来のものに縛られるから侍の街は新しい時代に適合できないからである。
ともかくただ冬になると毎日雪であり雪で暗かったという感じになる
雪国にはそういう暗さがどこにでもある

盛岡城は石垣だけであり中津川と北上川が流れて環境的にはいい,都会にしてはいい,
ただここの歴史は良くわからないが周りの環境がいいのである。
岩手山も見える,北上川がて流れているとか都会では景色に恵まれているのである。

建築年代を示す明確な資料はないが、いずれも江戸時代初期と考えられ、木部をあらわし古式を伝える遺構である。各門は、桝形ますがたを構成する土塁に囲まれ、雪を考慮してか下階の屋根をひときわ高く作るなど、配置や構造に工夫がなされている。

弘前城の城門は見るからに古い感じになる,雪を考慮していたというのも雪国らしい,弘前というとき青森は東北でもここからは東京より遠いという感覚になる
でも新幹線で近くなったこともある
青森は福島県からでも果ての国だという感覚になるのだ
弘前で見た雪は何か朝であり爽やかであり美しかった,雪の感覚は同じ雪でも相当に違っているのだ

心からしなのの雪に降られけり 一茶

この一句には一茶の深い思いがある,しなのの雪にふられるということはその土地に生まれて長く住んでその気候とともにあったからである。
そういう感想はその土地に住んだ人でないとわからないのである。気候の影響は人間には大きい,性格まで作る,雪国の人間が何か陰気になってしまうのもわかる
海に近いところは開放的になる,山国はどうしてもと閉ざされた感覚になるからだ
これは別に雪だけでなは,心からその土地になじめばそうなる,心(こころ)とはここのことでありここに長く住んだ人がもつのが心なのである。
それで原発事故で避難した人達はその心の場を失ったから悲劇だったのである。

しなのの雪に降られて一茶死ぬ

そこは終の住処でもあったからそうなる,人間は最後はみんなそうなってしまうのである。

青森の魅力は地の果てという感覚である。そこは冬には雪がしきりふり埋もれる,だから東北でも青森県は特殊の地理的環境にある,観光では魅力あるとなる
ともかく城というとき季節でも周りの環境でも違った印象をもつのである。
だから春とか秋とか二回くらい訪ねればいいとなる,たた全国になると城も多いからむずかしい,自分は恵まれたのでめぐり歩いていたのである。
今は何か旅行する気力がなくなったのである。

俳句という文芸は一句とかで鑑賞するのがむずかしい,短すぎるからだ,でもこうして城の俳句とかで十句とかを一つの作品として読むとそれなりに深い鑑賞ができる
これは一つのつながりがありそれで全国のつながりができるからである。
日本全国を一つのものとして見るのである。こういうことは現代はしやすいのである。
芭蕉の「奥の細道」が古典になったのはやはり一つのつながりとしたからでありその中に俳句があるからである。

今なら新幹線とかあれば何度も行けるということもある
だから季節ごとに行けばまた印象が変わるのである。
ただ問題は旅しても後で記憶に残るかが問題なのである。
自転車旅行を推奨したがこれもすべてだかいいとはならない,ともかく疲れるのでゆっくり鑑賞できないのである。電車で行けば体力的に余裕があるから見れるということもあるだから旅は電車でもいい,いろいろな手段ですればいい,でもそうなると自分のように一生が旅に費やされるとなってしまうのである。
それだけの時間が必要になるからである。そしてたちまちその旅も終わったとなる

2017年11月06日

JRでは掃除費用を商工会の女子部に払っていた (でも今は掃除しないともめている)


JRでは掃除費用を商工会の女子部に払っていた

(でも今は掃除しないともめている)

鹿島駅は商工会がJRに頼まれて掃除していた,女子部が掃除していた
無料でしていたのかと思っていた
掃除といってもごみ箱にたまるものをとりのぞくくらいである。
駅自体は汚れない,ただタバコ吸う場所に空き缶などがあるので自分がかたづけていた
駅構内にごみ箱があるのでわかりにくいのである。

地区では花壇などを手入れしていた,地区とか商工会が関係していた
それから前の自転車屋の人が言うには市の許可ないと掃除などして金をJRからもらえないという,それも団体などでないと許可しにくいという
老人会などである。でもわずかでも金が払われていたことが意外なのである。
ただなんらかで商工会の女子部は掃除したくないとなったのである。
この理由は良くわからない,金が入るにしても女子部に入れば飲み食いして終わりだろう
市の企画に電話したらJRからそういう相談したことは知らない,別な部署だったのか?
自転車屋の人は名前まで知っていたのである。その人が担当だったから直接話したから知っていたのである。
市が関係しているのはトイレである,毎日福祉関係の人があさがおが掃除している,だからぴかぴかなのである。

金が欲しいわけではないが掃除するだけで金をJRが金をはらっていることは意外だった
なぜなら無人化しているのは人を雇うことが金がかかるのでしているのかと思ったからである。鹿島駅は無人化する駅ではなかったが震災以後の事情でそうなった
ただ駅員でも相馬市でも制服着ていてもJRの正式の職員ではないのである。
委託された人である,何か委託する人が必要なのである。

だから切符を販売ずるとかも頼みたいとか言っていたがそうなるとめんどうになる
掃除だとあそこは楽である。それで金をもらいるとしたらボランティアとも違ってくる
委託されれば制服のようなものを着ることになる
ただ一時間くらいの掃除だとそういうものはいらない

自転車置き場を広げると水戸管理局の人が言ったが原ノ町の人は知らなかった
これもなぜだろうとなる,ただ今回は自転車置き場を見に来ただけだったのだろう。
駅は市も関係している,自治体も関係している,駅は街と直結していることと
駅が街のランドマーク,目印になっているからである。
ここでは道の駅がないからトイレも利用しているからである。

駅の機能は実際は電車を利用するだけではない,街の中心的なランドマーク目印とある,だから一応駅に来る人がいる,でも駅前は駐車場ではないのである。
一時的にしかとめられないからキクチスーパーにとめるとなる
それも駅の問題なのである。

ともかく駅からその街のことがいろいろ見えてくる,それは駅がその街の玄関口になっているからである。駅は本当に前は玄関だった,駅を利用する人が多いときは余計にそうなっていたのである。だから家でも玄関が大事だというとき人が出入りするところだから
玄関でその印象を決めることがあるからそうなる
玄関に花とか飾ればきれいになり入る人も気分良くなるからである。

タグ:駅の掃除

深野から石神の旧家に嫁いだ女性 (紙漉きをして古い鎧があった)


深野から石神の旧家に嫁いだ女性

(紙漉きをして古い鎧があった)


郷土史とかは家の歴史が基本にある,誰でも家のことに一番関心があるからだ:それでおじいちゃんとかおばあちゃんから聞いたか話が郷土史に興味をもつ
だから郷土史でも古い旧家に生まれると郷土史に興味をもつのである。
そうでなくても一軒一軒の家には二代くらいでもそれなりの歴史がある,謂われがある

深野(ふこうの)から石神の旧家に嫁いだ家は古い家だった,野馬追いにもでていて鎧が博物館に飾ってあるという。この辺では野馬追いがあるからそういうことがある

遠き粗(おや)の片身の鎧萬代にいかで我が名を伝えてしかな

これは柳田国男の家の歴史をたどり兄が残した短歌だった,野馬追いにでている家は相馬氏一族につながり相当に古い,戦国時代までさかのぼる,ただなぜか野馬追いの旗の由来はわからないのが多いのである。
なぜなら旗印は鎌倉時代からはじまるとしたらその源をたどると古いからわからなくなる紋を基にしてもそれが古代にもさかのぼる

例えば只野家の由来は郡山の多田野村に由来して南北朝時代に霊山が炎上したとき落ち延びてきた末裔なのである。その旗印は杉だった,その杉の旗印の源をたどると奈良の三輪山にいたる,奈良の三輪山は雄略天皇時代からの信仰の山である
杉が神聖化されていた,杉の旗印はそこから生まれていたのである。

味酒(うまさけ)三輪(みは)の祝(はふり)がいはふ杉手触(てふ)れし罪(つみ)か君に逢ひがたき

杉は神聖なものだった,三輪山は山自体が神になっているから祭るものがないのである。
古い家というとき深野から石神の旧家に嫁いだ女性は紙漉きをしていた家である。
紙漉きは相馬市の山上に紙漉き沢という地名が残っているからどこでも生業となっていたただその古い家を新しい家にした,それは原発の補償金が入ったからだとなる
その女性は深野出身であり実家の母親は臼作りをしていたという

臼作りというとき餅を作るには必ず必要だから各地で作られていた

船引のけやきの森で臼作りで

欅(けやき)は硬いから臼に向いていた,槐(えんじゅ)というのアイヌのお土産屋で聞いたら灰皿にも使えるという,それだけ硬いから火も消えるとなる
ただこの辺で杉は多いけど欅は少ないかもしれない,ただ材料があったから作られたのである。材料がなっかたら陶器でも作れない,相馬焼を庶民化した左馬という人か大堀で陶器になる土を見いだして左馬茶碗が大堀で普及したのである。

木はもともと器として作られていた,茶碗でもなんでも地元の木を利用して作られていたそれで木地師の伝説が生まれたのである。山の奥地に箸だけを作る村があるとか分業化もされていたらしい,船引では臼だけを作っていた
中山道の昔の街道ではおろく櫛というのが有名である。そこでは櫛だけを作っていたのである。
何かそうした生業というのものが今はほとんど忘れられている,生業とは生まれついてする職業のことである。だから自ずと地元に密着したものであった
原発事故で「生業を返せ」東電や政府に訴えた,その生業は農業なら今も通じるが何か工業化自体になると通じにくいのである。
戦後十年くらいは炭焼きもしていたから生業は地元にあるもので生活していたのである。
そしてともかく物は道具でもお碗一つでも貴重なものだった,そこからもったいなという言葉が生まれた,片身分けというのも衣服でも貴重だから片身分けになる
今は物を遺しても貴重なものとはならない,金の方が大事になる
「生業を返せ」というけども何か地元に密着した生活は喪失していたのである。

いづれにしろ郷土史は家の歴史をたどることからはじまる,一軒一軒の家から見えてくるものが郷土史なのである。
注意すべきは深野は大原より古いことである。館という地名が二つあるのはこれは中世のものだからである。大原は相馬氏が開墾に入った場所だったのである。
最近は畑が牧草地になったり小池の親戚が荒地になった所を耕しているというとき近いからそうなる,深野と小池は山があるにしても近いのである。

只野姓の由来
南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 
タグ:家の歴史
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2017年11月05日

馬が好きで東京から来た女性 (野馬追いで馬を飼っているから馬が見れる)


馬が好きで東京から来た女性

(野馬追いで馬を飼っているから馬が見れる)


今日駅であったのは折り畳み自転車で旅する人だった
その自転車は小さいもので重さは12キロあった
それを袋にいれていた,結構そういう人はみかける
でもロードとかであり小さな自転車ではない

だからめずらしい思って話しかけたら,その人は馬が好きで馬を見るために三連休を利用してきたという
東京の人であり馬が好きというのもめずらしい,競馬が好きなのかとも思ったが馬自体が好きなのである。だから北海道とかにも馬を見に行っている
この辺は野馬追いがあるから馬を飼っているきで馬が見れるから来た

もう一人青森出身の人であり下北半島の尻屋崎に「寒立馬」がいると教えた
下北半島は鉄道で行ったが終点からかなり遠い,馬に興味があるとしたら行きたいとなるのか?

鉄道の問題は駅からの足がないことである。その人もバスがないかと探してもないとか言っていた,都会だと結構バスがあるからだろう
折り畳み自転車は鉄道で遠くまで行けるが自転車が重いしかさばるので嫌になるのであるその女性は相馬市まで行こうとしたが坂があるので嫌なので電車を利用して相馬市に行った

なぜか結構鹿島駅でも遠くから来る人に出会う,遠くから来た人は無人駅になったので
切符代わりの乗車証明書をとるのがわからないから教える
スイカをもっていればいいがもっていな人もいる
だから外から来た人には教えることがある

ともかく馬が好きで馬を見に来るという人はまれだろう,東京辺りではそもそも馬は競馬でしか接しられない,競馬が好きな人は馬も好きだいうことがある
確かにそこでは毛並みのいい馬を見れるからである。

馬が一番あっているのはモンゴルのような草原なのである。
そここそ馬が一番あっている場所なのである。
馬が好きだという女性になると遠野辺りの民話で馬と結婚したという話が伝わっているからそういう女性もいるのかと思った
ただそれは馬と一緒に曲屋で住んでいたからそうなった
東京だとそんなことありえないからなぜ馬が好きになっているのかわからないのである。
ただこの辺が野馬追いということで馬を見に来る人がいても不思議ではない場所である。ただ馬だけを見に来る人はまれだと思った

像で考えろ,図で考えろ (抽象化された社会で生きる術)


像で考えろ,図で考えろ

(抽象化された社会で生きる術)


抽象化することは具体的な事物から離れてしまう,なぜ勉強嫌いになるのか?
それは学校はまさに抽象的空間しかない,何か具体的に学ぶことがない
教科書中心でありそこに具体的な現実にある事物を通じて学ぶことがない
実習として畑とか花作りなどをすればいいがそういうこともほとんどない
抽象的空間とは言葉がまずそうである。
言葉は現実にある事物を抽象化したものだからである
なぜ英語が身につかないかというと言葉でも実際の生活から具体的なものから
無意識的に覚えているのだ,

だから英語でスティディ(stedy)というのを馬が落ち着かず暴れるのを「スティディ)と言ったのを映画で見た時理解した,「落ち着け」とかの意味だがその他堅実になどいすいす意味がある,言葉そうして現実の生活の中で覚える
英語の場合にそれが結びつかないから身につかないのである。

そして現代はあらゆるものが数値化した世界になっている,数字も抽象化したものであり人間も数値化される世界である。科学は数字で現す,また化学記号化するからこれも抽象の世界になる,まるで人間は記号の中で生きていて人間自体が記号のように数字のようになっている,それで議員が病院で番号で呼ばれて怒ったというのもわかる
人間はおそらく学校でも会社でも工場でも番号化しているのである。
この人は俺は議員様だということ言いたかったのかもしれない,番号だったらどの人も同じになるからである。地位も個性もなにななくなるからである。

今の社会はこして数値化された社会である。銀行などもそうである。
金は実は数字にすぎないというのもわかる,金がもし小判とか銀でもいい金自体が価値あるものだったらその金をもったとき財産をもったとなる
数字だったら一瞬にして消える恐怖があるからだ
そして数字は抽象的だから金をもっていることが実感できないのである。
だから毎日札束を見ていたら実感できる
そしてわかったことは数字をグラフ化すると図形化するとわかりやすくなる
数字だと実感がわかないが図形とグラフ化すると実感として感じる度合いが強くなる

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この辺の放射性物質の被害もすべて数字でしかわからないものだった,それだけ抽象化した世界だから実感がわかないのである。どこに危険があるかも実感できないのである。
0.2と0.3マイクロシーベルトの相違がどれだけあるのか?
それも実感できない,放射能物質に色がついていればわかりやすいにとかなるった
水は透明であり空気もそうでありどこで汚染されているのかわからないのである。

自分は数学とか科学は苦手である。でも今ふりかえると数学の場合,子供のときから試験ばかりであり考えることがなかった,やはり考えることが学問に興味をもつことなのである。
算数も図形で考えれば具体的になり興味をもっていたのである。ただ暗記ばかりだから興味がもてなくなり勉強嫌いになる
不思議なのは一旦興味をもつとのめりこむ,そういうオタクのような人は興味をもったものに集中できるのである。そういう人が理系の人に多いというときなるほどと思う。

ともかく学問は学校で興味をもたなくても現実社会でもし役にたてば興味をもつ,そもそも数学だって実用のために生まれた,土地を計り建物を建てるのにも計測することは不可欠だからである。それはエジプトですでに生まれていたからこそピラミッドが作られたのである。知識とか技術はエジプトが起源になっているのが多いのである。

実用というとき原町の歯医者に行ったら例えば年齢により一割分や二割分や三割分がとられる,だから千円はらったとしたらそれが二割分はらったとなると実質に全部でいくらはらったことになるのか?
それが数学がわからないからなかなかわからなかった

二割ということは0・2であり分数に直すと10分の2であり数式にすると

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となりあらゆるものがこの数式にあてはまる,3割り負担になると10分の3×Xとなる
このように現実社会で役に立つと数学でも興味をもつのである。
いかに現実社会で生きるかがもともと学問だったからである。

それから保険証はもっていったが高齢者用のものをもっていかなかった,でもすぐ近くが市役所だったので市役所の人が連絡して事務ができた,それは市役所でできたのは南相馬市として合併したからできたのである。そういう点は便利になったのである。
その日はどしゃぶりの雨だったら助かったのである。

いづれにしろ現代は数字と離れずにありえない社会である。あらゆるものが数値化されるのである。絶えずどこでも経済でも数字の世界になる,科学は基礎は数字である。
数字の世界を生きているのである。
だから数学ができないと今の社会はいきずらいとなる,でも今や暗記だけの教育ではもうやっていけない,世界の競争に勝つにもそうである。
考える力が創造力がなければ世界から取り残されるのである。
posted by 老鶯 at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2017年11月04日

本の整理に苦労する (本が整理できないのではなく知識が整理できない)


本の整理に苦労する

(本が整理できないのではなく知識が整理できない)

本の整理に苦しむ,本はかさばる,本は重い,整理しにくい,本は物になっているから整理しにくい,読んだ本でも忘れている
なぜそうュのか?本は知識であり知識は物ではないが本だと物となっているから整理しにくいのだ
電子化すれば膨大な本が検索できることが効率的になる,それはインターネットでしている

ただインターネットには本のような専門家の詳しい知識は見つかりにくい,それなりに知識が膨大になっているが専門的な知識は本にある
ところが本は千冊あってもどこに何が書いてあるのかもわからない,ただ本屋の立ち読みのようにランダムに読んでいるとその数行がこれはいいとなり利用する引用するのである気ままにいろいろな本を全部ではなく拾い読みする,するとそこに新しい発見がある
新しい発見があるのはそれは読む方が発見するのであり読む方が引用できるとなると
読む方が独創的になっているからできる

本のあるページの数行からイメージをふくらませて自分なりの文を書いてゆくのである。10冊の本があるとしたらそれが歴史関係だったら世界史とか日本史とかに分類してまとめておいて拾い読みすると相互のつながりが生まれてくる,その時本が活きてくる
だから何かを調べるとか書くとするとき本はその分野のものが多く内容が濃いものだと
自ずと独創的なものが書けるのである。
それはAIのビッグデーターの手法なのである。膨大なデーターから探れば自ずと研究するには有利になるのである。

とにかく知識は膨大である。一生の間に読める本も限られている
千冊読んだとしても忘れるのがまた多いのである。
本でも内容が濃いものは何回も読む,何かあきずに読む,つまらない本はもう何回も読まない,とするともういらない本になっているのだ。
そういう本も多すぎるのである。何か自分は本の中味を読むより本を集めた蒐集家になっていた,本は物だから骨董品のように集めるという人間特有の真理は働く
本を買ったら知識が増えたような気になる,でも実際はそうはなっていなかった
知識は何か物ののように財産とはなりにくい,かつては本が希少価値があったからそうなっていた,今は本はそれほど希少価値がない,情報は本の外でも膨大になっているからだ
ただ本は全部読むのではなく一部分を読むのでも知識の吸収に効果がある
だからものを書くとしたら私設図書館のようなものが必要なのである。
書くときは必ず参考にする本があり知識があるからだ
本が整理できないというとき本ではなく知識が整理できないのである。
一冊の本を読むときでもそこに何が書いてあったのかも忘れているからだ
線を引いていても忘れているから読んだことにもならなかったのである。

本に埋もれてしまったが実際は膨大な知識を消化できなかったのである。
それで本に書かれたものも忘れたとなる
知識も無限だから何かしら消化する必要がある,でもその知識も一部にとどまるのである消化するということは自分なりに自分の体で消化して栄養分にすることである。
ただその栄養となるものも知識の場合は知識の世界にしたらほんの一部だとなる
いろいろ本を買ってもそれを理解する方がむずかしいからそうなる

ただ知識を整理するというとき例えば物だったら四角のものは四角とか丸いものは丸いものとか同じ種類のものを集めて整理する,知識はなかなかそうはいかない,全然関連しないようで知識はみんな関連しているところがある
そういうふうに知識の組み合わせは無限なのである。
だから知識は創造的に利用することがむずかしい,整理もできないのである。

自分の場合は詩に関したもの短歌とか俳句に関連したものとか文学関係は集めた
アマゾンの古本で安いから買い集めた,これはいい方法である。
詩を書くとしたらやはり参考とするものが多いといいのである。
詩は詩でみんな関連しているからである。
最近集めたのは原発関係とか津浪関係であった,これもみんな読み理解すると容易ではない,第一これらは知識として追及していないかったから今になり追及するとなるとむずかしくなる,知識はやはり積み重ねだからそうなるのである。

新しい知識は吸収しにくくなる,若いときからテーマをもって積み重ねたものは理解しやすいが新しいものとなる理解しにくくなるのである。
だからAIとかでてくると理解しにくくなる,新しい機械も操作しにくくなる
それで新しい電気製品を買ったが使いなのが多くなり失敗したのである。
使い慣れたものは使い安いが新しいものは使いにくい
パソコンのソフトでもそうである。これは多機能だから新しいソフトは使いにくいのである。それがいいものでも使いないのである。

情報化社会とか知識社会になってくるのはコンピュターが一般化したとき予想されていたのである,自分はワープロで富士通の親指シフトを使っていたから今も使っている
これで文章が早く打ちやすいから書いている
ローマ字シフトだと遅くなり文章を書くのが嫌になるからだ
知識社会になるとあまり暗記とかは重要でなくなる,創造性とか考えることが大事になる
そのためには暗記中心の教育は受験などは知識社会には適合できなくなる

なぜならAI化すると機械のやれることと人間のやれることが区別されるからである。
翻訳などは相当に進歩したことでもわかる,機械の方が優れてるのである。
それはどういうことなのか?人間にしかできないこと創造することがより重要になるのである。創造することは子供のときからしていなとできない
才能があるないという前に暗記だけの教育ではもう知識情報社会には適合できないからだ今のアナログ的な教育は前時代的なものになっているし変わらることが望まれているのだ暗記中心の教育はAI時代には取り残されてしまうのである。
だから考える訓練を子供のときからしている必要がある

2017年11月03日

「消された王権・物部氏の謎」関祐二を読む (伽耶がいかに大和朝廷の前にかかわっていたかがわかる)



「消された王権・物部氏の謎」関祐二を読む

(伽耶がいかに大和朝廷の前にかかわっていたかがわかる)

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●ツノガノアラシトとは

関裕二氏は「消された王権・物部氏の謎」

「日本書紀」垂仁天皇2年の条に、「一書にいわく」、という形で次のような記述がある。
「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越の国に泊まれり。
彼、そこを名づけて“角鹿”(つぬが)という」

これによると崇神天皇の時代、“額に角を生やした人”が舟にのって「越の国」に着いたという。
その人物に角が生えていたことから、この場所を“角鹿(つぬが)”→“敦賀(つるが)”と呼ぶようになったというのである。

どこからやってきたのかを問うと、「おお加羅国」の皇子で、名は「ツヌガアラシト」であったという。
日本に聖君がいると聞きつけて、こうして帰化しに来た、と語ったことが記録されている。

一説にはこの人物が王子であったところから、王家出身のしるしとして冠をかぶっていたのではないか、
あるいは「ツヌガアラシト」という名称が、“角のある人”と聞こえることから起こったとも言われるが、これは素直に“鬼”と解するべきであろう。
ツヌガアラシト個人だけではなく、「加耶」という国の有り方自体に“鬼”をめぐる問題が隠されていたためである。


(中略)

「日本書紀」の「ツヌガアラシト」説話の直後には、「アメノヒボコ」なる人物が半島のもう一つの国「新羅」から渡来した話が載せられるが、 (「古事記」の中で「アメノヒボコ」はなぜか「日本書紀」の「ツヌガアラシト」と同一視されている。)
通説でも、加耶皇子「ツヌガアラシト」を神格化したものが新羅の「アメノヒボコ」であるとされている。

紀元節(建国祭)の起源となたった祭りに、(園神の祭りと韓(から)の韓(から)の神の祭りがあってそれぞれの祭神が園神(国の神)大物主神と韓神(伽耶出身の神)少彦名彦神であった
そして第二に「出雲の国造(くにのみやっこ)の神賀詞(かみよごと)」のなかで、出雲を代表とする四柱の神の一つにカヤナルミの名が登場する、カヤナルミは伽耶の姫の意味である、これを全く日本書紀では無視している

任那日本府は鬼の府ではなかったか、物部−蘇我−伽耶−新羅を結ぶ反天皇家、まつろわぬ者どもの思惑と一致するのである

なぜ大物主神は伽耶の女性と結ばれたのか、伽耶の少彦名神≪ツノガノアラシト,天日槍)との間に起きた鉄の利権争いとその後の和解が大きなヒントになっている
伽耶と出雲の和解の証(あかし)として婚姻関係が結ばれた、この和解の申し子が事代主神−蘇我氏が物部、伽耶双方の血を受けた正当な鬼であった

日本建国の成り立ちが複雑なのは朝鮮半島から始まっているからである。朝鮮半島の争いが日本本土にももちこまれたから複雑になっている
ここで抑えておきたいのは大和朝廷が物部−蘇我−伽耶−新羅の連合軍と対立していたことなのである。蝦夷というのは大和朝廷に対立するものであり野蛮人とかではない、蝦夷とエミシは違っている
蝦夷は広範囲に大和朝廷と対立するものの意味であるからだ、その対立は朝鮮半島から始まっているから複雑になったのである。

●須恵器の歴史

日本書紀に雄略朝のとき、百済から新漢陶部高貴渡来したと伝えられる、新羅の王子とされる天日槍(あまのひぼこ)とともに多くの工人が渡来して近江の鏡谷で朝鮮式陶器を焼いたとある
鉄は朝鮮語で〈スエ)とういう、そこで鉄のように固い焼き物であるから「須恵」と呼んだのだろう、いまでも残る須江、陶、末などの地名はその須恵器の生産に深くかかわったのだろう
最近では仙台でも窯跡が見つかっている
窯跡では3基の須恵器専用の窯が発見されている。製品の供給先については明らかではないが、東方約2.5qのところにある郡山遺跡T期官衙(かんが)との関連が推定される。
http://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/isekidb/k0000000079.html

昔須恵器を作った部落には今でも陶、須恵、末、主衛などの地名が残っている所が多い
また須恵器の窯跡が集落として場所は近くに古墳群や、府中、国分寺のあっことこやすが多く地方文化の中心地だったところと密接な関係があったようである
須恵器は縄文時代の土器とかとは相当に違ったものである。韓国語でスエは鉄のことだから固いものとして使われていた
中国の黒陶という陶器である。だからその技術はエジフトの古王朝時代にもさかのぼるのである。
すでに轆轤を使われていた、エジフトは先進の文明国だったのである。
「轆轤の起源は車の発見とほぼ同時で,車を縦にしたものが轆轤だ」こういうとき技術は必ず転用されることを古代から示していたのである。

考えてみると縄文時代の火炎土器はどうしてあのような文様になったのか?
それは野で火で土をそのまま焼いたからかもしれない、そのとき火が燃え上がるからである。その火を見て焼いたから火炎土器となった
縄文土器は非常に原始的なものだったのである。だから原始の力をそこに感じる
須恵器となると洗練されたものとなる,縄文土器のような荒々しいものはないのである。
陶器の生産の効率の上昇は、出土する陶器の数や種類が前の文化に比べ増大したことにもみられ、鼎や鬲、9宦A高柄杯など、調理器や食器として使われた多様な黒陶・灰陶の陶器が出土している。

陶器のほか、石包丁など石器や骨器などの武器や道具、ヒスイなどの玉なども出土している。龍山文化の後期には青銅器も出現しており、殷代・周代(あるいは殷の前にあったとされる夏代)の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。
龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。また土を突き固めた城壁や堀が出土しており、特に山西省襄汾県の陶寺郷の南で発見された陝西龍山文化の遺跡・陶寺遺跡(紀元前2500年 - 紀元前1900年)は龍山文化の都市遺跡の中でも最大級のものであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96

須恵器は韓国経由で日本に伝わった、そのオリジナルは中国にあるのが普通である。韓国独自のものは少ないと思う、なんでも韓国起源にするけど元をたどれば中国になるのである。
すでに紀元前2000年ころにそういう技術があったことに驚くのである。

●須恵器の窯があった場所が福島県では棚倉と浜通りである

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須恵器の窯跡の分布図(森浩一編)

この地図で須恵器の窯跡があるのは福島県に注意すると浜通りと棚倉である。棚倉は古代にヤマトタケルの伝説がある場所である。

この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱(かむいしかや)、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、

ここに神石萱(かむいしかや)がいる、これは伽耶に由来するのだろう
それは須恵器の窯跡があるように須恵器の技術を渡来人が伝えたのである。

そして浜通りにも末続駅があり真野地域がある、須恵器が福島県ではこの二か所に伝わった、それは考古学的な発見と残された伝説が一致しているからち信憑性が高いとなる
伝説でも何かしらの事実があって伝えられているからである。
万葉集の真野の草原(かやはら)地域にはほかに唐神堤という地名がありこれは唐は韓なのである。なにかしら仏教がこの辺に伝わり地名化したのである。
地名化することはそれだけ定着して住んだ人がいるということになるのだ

出雲には

唐川という地名、これは韓川であり韓窯神社や新羅系統の韓国伊太神社(いたて)
野だだ時代の自然送風神をまつる都武自(つむじ)神社、フイゴによる送風神を祭る伊布伎神社や剣神を祭る都我利(つがり)神社などなどがある
(古代朝鮮と日本の旅(朴春日))

伊太神社(いたて)というとき伊達氏の由来がここにある、するとこれも渡来系に由来するのかとなる
そして気になるのが都我利(つがり)である、つがはつがるにもなる,京都には津軽という地名もある、このつがはツノガノアラシトにも通じている
これは渡来系に由来するのかもしれない、ただ津川とかなると川のことだから関係ない
不思議なのはつがの地名を集めると何か須恵器のある窯跡と一致するのである。

津賀 (つが) [茨城県鹿嶋市]
都賀 (つが) [千葉県千葉市若葉区]
津荷 (つが) [和歌山県東牟婁郡串本町]
笏賀 (つが) [鳥取県東伯郡三朝町]
津賀 (つが) [高知県高岡郡四万十町]
継鹿尾 (つがお) [愛知県犬山市]
都加賀 (つがか) [島根県飯石郡飯南町]
津賀町 (つがちょう) [三重県鈴鹿市]
都賀西 (つがにし) [島根県邑智郡美郷町]
津金沢 (つがねさわ) [福島県耶麻郡猪苗代町]
津金沢 (つがねざわ) [山形県山形市]
都賀の台 (つがのだい) [千葉県千葉市若葉区]
都賀本郷 (つがほんごう) [島根県邑智郡美郷町]
都賀町家中 (つがまちいえなか) [栃木県栃木市]
都賀町臼久保 (つがまちうすくぼ) [栃木県栃木市]
都賀町大柿 (つがまちおおがき) [栃木県栃木市]
都賀町大橋 (つがまちおおはし) [栃木県栃木市]
都賀町合戦場 (つがまちかっせんば) [栃木県栃木市]
都賀町木 (つがまちき) [栃木県栃木市]
都賀町富張 (つがまちとみはり) [栃木県栃木市]
都賀町原宿 (つがまちはらじゅく) [栃木県栃木市]
都賀町平川 (つがまちひらかわ) [栃木県栃木市]
都賀町深沢 (つがまちふかさわ) [栃木県栃木市]
都賀町升塚 (つがまちますづか) [栃木県栃木市]
都賀行 (つがゆき) [島根県邑智郡川本町]
都賀行 (つがゆき) [島根県邑智郡美郷町]
津軽町 (つがるちょう) [京都府京都市中京区]

なぜこれほど栃木県に多いのか?何か関係があるのか?
福島県の猪苗代は別に須恵器の窯跡とは関係ないだろう
いくつかは渡来系と関係しているのか、京都に津軽町があるのはそうなのか?
これも関連性があるものとしてのせてみた
津軽(つがる)はツノガノアラシトであり出雲の都我利(つがり)神社も同じ系統だろうともかくこうして追求してゆくと真野の草原(かやはら)という万葉集の歌は渡来人と不可分に結びついたものだということが積み重ねたもので限りなく伽耶に近いともなる
伽耶ではないにしろ渡来人が関係していたのである



自分は学者ではないし学問というとき研究となるとやはり研究の仕方がわからない、またはできないのである。勉強も実は勉強の仕方がわかればすすむのである。
今回は今まで買った本をさっと読んでつなぎあわせて書いた
相当に本も集めないと研究はできない,でも本でもある目的をもって読むと頭に入るし活きてくる、漠然と読んでいてはダメなのである。
自分のテーマと万葉集の真野の草原(かやはら)の歌の謎に迫ることでここまで研究してきたのである。一つの目的があるとその線にそった情報を集めるから情報も活きてくるのである。

もらっていい金とそうでない金がある (金もカルマとなり後で苦しむ人がいる)


もらっていい金とそうでない金がある

(金もカルマとなり後で苦しむ人がいる)

金に人々の感情がこもりカルマとなる (親の因果は子に報うはさけられないカルマである。)

金はもらっていい金ともらってはいけない金が確かにある
もらってはいけない金はそれがカルマになりあとで悪い影響がでてくる
自分の経験では自分がもらったのではないが親が交渉でもらった金はもらうべきではない金だった
それは人の不幸によってもたらさこれた金だったからである。
交通事故で死んだ結果もたらされた金だったからである。

その金をめぐってもめた,そのとき弁護士を頼んだが弁護士は何もしなかった
百万払ったが何もしなかった、実際に交渉したのは保険会社の人だった
結局弁護士は漁夫の利を得たのである。実際に本当に何もしない,交渉すらしない、裁判にもならなかったからである。となると一体弁護士はそんな金を受け取っていいのかとなる?
それは悪い金でありそれがカルマとなる、弁護士は何かそうしした紛争になるときにかかわる
だから弁護士という職業もなにかブラックなものとなりやすいかもしれない。

それはどこにでもある,医者でも金持ちから礼金をもらうことは普通にあるし普通に良くしてもらいたいと金を払うことがある、第一医者になるには莫大な金がかかる、だからこそ医者は跡を継がせるために金が必要となる医者は今やいらない薬を与えたりいろいろと患者に無駄な金を使わせる、子供に跡を継がせるだけに金を使うとかなるのもどうかなと思う
なぜなら医者に向いていないものもいるからだ、そうした人も無理やり医者にするのは社会にとっても良くない、それは政治家にも言える、二世議員が多くなるのとにている、職業の適正はそこで損なわれ社会にとっても歪めたものになる
そうしてもうけた金がいいものかどうか疑問になる、医者は仁術だというとき何か人助けがありそうなったが今は医者は算術なのである。あらゆるものがそうなっているから医者だけには言えないがそれで社会が歪んだものとなってしまったのである。

ともかく金はすべていいものではない,何か怖いものがあるのだ、でも人は自分でもそうだが金はあればあるほどいいものだと思っているのだ。金があればこしたことがないしなければいいことはない
現実社会ではそうである。だから金をいらないとか否定しにくいのである。
でも明らかにもらってはならない金はある、人を殺してまで得た金だったらもうそれは恐ろしいカルマとなってゆくだろう。
百万でも拾った金だとそれもどういう金かわからないから危険がある
得たいの知れない金だからである。

例えば株でもうけるというのは資本主義社会では容認される、だから悪いとはならない、でもそれが巨額になると何か悪魔的になる、現実に資本主義社会では極少数のものに巨額の金が流れている、それで世界を支配しているのはそうした金持ちだという陰謀論になるのである。
その金はどうして得られたのか?ただ株に投資して得られた、一方で汗水垂らしてわずかの金を稼いでいる人もいる、それが社会の大半である。そしてグローバル社会では貧乏な国が富裕な国のために低賃金で働かせるとかなりそれが国のカルマともなる
カルマは国だけではない組織とか団体にもカルマとなる、会社でもそうである。
カルト宗教団体でもそうである。そういうところに属しているだけでカルマとなっている
おかしなのはそういう団体に属しているからこそ救われるとか成仏する信じている人たちがいる
でもいづれはそれがカルマとなりその悪が暴かれるときがくる、その責任が問われる
責任が必ず問われる、カルマとは責任のことだからである。
団体にいればみんなでいるから安心だと思っていてもいづれは一人一人がその責任を問われる
みんなが入っているからいいものなんだよとはならないのである。

原発事故でもそうだった、これほど重い責任があるとは思っていなかったろう、原発を金のために誘致した
地元の人たちもそうである。それを運営した政府とか東電とかでもそうである。そこにはあまりにも大きな責任が課せられていたのである。その責任はとらされるが政府でも官僚でも東電の幹部でもとっていないのである。でも誰かが責任をとらされるのである。責任をとらされたのは地元の人だったのである。
空気も水も土地も放射能で汚染されて住めなくなったからである。遺伝子も傷つき子孫すら残せないとかなったからである。
責任は必ず責任があった人がとらされるとは限らない、全然責任もない関係もない人だってその被害を受ける
人間は責任から逃れられないようにできているのである。

ただ地元の人でも金になればいいと政府と東電からも金を受け取ってきたのである。
だからそうした金はカルマとなり事故となり責任が問われた、そして地元の人たちも責任を言われる
お前たちは恩恵を受けていたのだから責任をとれとなるのである。
つまり金ならなんでもいいとはならないのである。
でももう金ならなんでもいいとなるのが今の社会である。
つまりもらっていい金ともらってはならない金があることは確かなのである。
そこに金の怖さが隠されているのである。

この辺では今は船主が批判の矢面にたたされている,原発事故前から補償金で潤っていたからである。
事故後も船主には一番補償金が手厚いのである。だからいち早く立派な家を建てたのは船主だったとなる
でもまわりの人たちは良く思っていない、それは事故前もそうだったのである。
みんなが船主ではないからである。
金をもらっているときは漁業関係者はもらって当然の金だと思っていたのである。
それは海が汚されたら魚も売れなくなるからだ、そのときは周りでも文句も言えないのである。
それは当然の権利だったからである。でもその金はいいものではないもらってはならない金でもあった
だからこそ今になると批判されるのである。

金はともかくなんでもいい、悪い金もいい金もないとかありえないのである。
もらってはならない金は確かにある、それがカルマとなり後で苦しむことになる
それは自分がもらわなくても親がもらっていたりしたらそのカルマを受ける、自分がそうだったともなる
別に親が不正してもらった金ではないにしろ何かそういうものが一部あったことは確かである。
自分もは恩恵を受けているのだから金は怖いものがあると感じたのである。

でもこんなふうに金に敏感になったら金はたまらないだろう、どうしても貧乏になる
金そのものが不潔なものになり金に触れたくないともなる、そうしてインドの修行者は暮らしている人がいる
金をいちいちそうして悪い金だといい金だとか区別しにくいからである。
小さい金はそういうことはない、大きな金になるとそうなりやすい、遺産関係などがそうである。
だから必ずもめるのである。
そんな大きな金をあなただけがもらう権利があるのか?
それもそうなのである。だから親がどうして遺産を残したのかも問題になるのである。
自分の遺産は親が店をやったりこつこつ働いたものである。でも母は年金を一銭も払わないのに月3万もらい
60歳から百歳まで40年間もらって一千万以上になっていたのである。その金は一銭も使わなかったがその大半は盗まれたともなる,だからこれも何なのだったとなる
それはもともと国の金でありみんなが働いて出した金ともなるからだ

ともかく金はもらっていい金ともらってはならない金がある、これは間違いない、でもそんなことをいちいち考える人はいない、でもそうでも後でそれがカルマとなり親でなくても子とかそのほかの人を苦しめることがあるのだ、濡れ手で粟のように入ってくる金はいいものではないのかもしれない、そこには呪いが隠されているかもしれない、そこに金の怖さがある
ただカルマはつぐづくある、その人は子供のために使う金を親が使っていた、今度は子供が親になったときやはり子供のために使う金を親が使うようになったのである。何か間違いなくカルマとは人間が繰り返される業なのである。
ともかくこの世の問題の多くは金にまつわるものである。それだけ金の力が大きくなったのである
タグ:金の呪い

2017年11月02日

秋も終わる?(俳句十句) (俳句は単純でも深い読みで鑑賞するもの)


秋も終わる?(俳句十句)

(俳句は単純でも深い読みで鑑賞するもの)

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加工はしたけどやはり写真が基本である。
どういうふうに撮るかが問題である。
ここで木を写真の中に入れたことで活きた
乳母車の母と子はねらってとった
こういうふうに変化するのを写真にとるのはむずかしい
隠れてなんとか気づかれないようにとった

川上の巌の硬く水澄みぬ

晩菊や牛数頭のここにいる

卵生み鮭の命の尽きにけり

一区画畑の手入れや秋の暮

誰が座る公園のベンチ落葉かな

労務者や仮設のプレハブ秋あざみ

灯のともり空き地にかすか残る虫

晩年に秋夕焼けの色の濃し

帰るとて待つ人なしや冬の来る

田舎駅遠くの人や曇る月


俳句は短いからむしろ鑑賞する方が深い読みをしないと鑑賞できない
「川上の巌の硬く水澄みぬ」この句などなんなのだろうとなる
自分の場合,石と巌とかテーマにしてきた
石でも巌でも山でもそこで人間化する,巌が硬いというとき穢れをよせつけない
真実の巌となりそこに水が澄むのである。
一見単純でもそこに深さがある,ただそれを読み取るのがむずかしいのである。

「晩菊や牛数頭のここにいる」この句でも本当にあまりにも単純なものでありこれが俳句なのかともなる,ただ晩菊屋か咲いていた,そこに牛がいたというだけだからである。
でもこの単純さの中に俳句が活きている,単純だから活きている

今日は原町の歯医者に行ってきた,原町には買い物があり行く,必ずパンを買う,それは鹿島では売っていないからだ,それで困っている,相馬市にもパン専門店がある,焼きたてのパンを売っている,自分はパンは好きな方であり朝はパンを食べている,簡単であり楽だからパンにしていることもある
原町だとまだ近いから自転車で行けるが相馬市となるとなかなか行けなくなった

道の駅に公園がありベンチがある,何かそのベンチには人が座る,でも原町だとまだ都会であり人が往来するから結構人が座るかもしれない,鹿島とかになると公園があってもほとんど利用されていないのである。
あそこの公園は子供でも外からの人も利用しているのである。結構にぎやかな場なのである。だから公園らしいともなる

今日は秋夕焼けが美しかった,秋夕焼けの色はまた独特である。晩年は秋夕焼けがふさこわしい,ただもう冬が来る,今年の天気は変則的だった,秋が来たと思ったら冬のようになりまた秋になりとか季節感がまともではない,だから俳句の季語もうまく使いないのである。

月がでているけど雲にかかり光っている,一応月は出ている,微かに虫の音も聞いた
でも秋も終わりなのか?まだそうでもない,これからが紅葉なのだろう。

立冬は11月8日頃(2017年は11月7日)とあるからやはり冬なのである。
ただ何か秋が普通は長く感じられて晩菊とかの季語があったのである。
それが短く感じられるから季節感が狂ってしまった

今日は月も出て光っているが雲がかかったりしている,駅に遠くから来た人は一時出会う知らない人である。だからこそ気楽にちょっと話して去る,でも何か駅にはそうして外部の人が何かを残してゆくというのは確かである。
駅は何か本当は人間臭い場所なのである。人間が出会い別れる場所でもあるからだ
ただ今はスマホを見てそればかりに集中している人が多くなった

あれはその場の雰囲気を味わうことがない,人との出会いもなく,ただスマホばかり見ているのは何か感覚的にも残るものがなくなる,便利なのことは確かだがスマホだけでは
本当の情報には接しられない,なぜなら情報とは情に報いることだからである。
情報は情を通じ合わせることなのである。それは一時の出会いでもそうであり道を教えたりしてもそうなのである。そこで見知らぬ人でも情を通わすのである。
ただ自分も旅のときそういうことをしていない,何か旅だと次がどこに行くとなりその次の旅先に心が向いて落ち着かないからだったかもしれない,迎える方になると落ち着いているし余裕があるから話しかけたり自分がしているのだと思う

いづれにしろ家には誰も待つ人がいないのも淋しい,それが何なのかまだ良くわからないつまりそういう一人の経験をしていないからである。
家に家族がいないことはそれが家なのかという疑問が常にあった
家とは何なのか?ハウスとなると建物のことでありホームとなるとそうではない
そこには何かあたたかく迎える人がいる,それがなくなったときハウスがあってホーム
がなくなってしまったのかもしれない,ホームは人間の帰るべき場所だがハウスはただの建物なのである。だからそこはホームではない,つまり自分にはホームがなくなってしまったのである。

でも本当にホームがあったのかとなるとそれも疑問だった,今家族も冷たいという人も多くなった,この世に本当にホームがあるのか?キリスト教では天国にしかホームはないのである。この世は異邦人としてありこの世がホームになりえないのだ
家族だって愛がない家族だってあるからだ,そこがホームとはなりえないのである。
ただ自分には理想的ではないにしろホームがあった,待つ人がいたのである。
それがいなくなったとき家はただのハウスであり建物である
それでも家があるというだけでもいいとかなる

山の変容(Change of mountain)

山の変容(Change of mountain)

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山の断面

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タグ:Mountain

自分のプログの「検索方法」


自分のプログの「検索方法」

検索の窓でキーワードを入れてそれからそのタイトル,題名をグーグルの検索で探す
するとたいがいそのタイトルの全文が出てきます

量が膨大なので何を読みたいのか調べたいのかとなると結構むずかしくなっている
自分自身が自分の書いたものを忘れて探している

何らか整理しないとならないけどそう簡単にはできない

ホームページの方で整理したいがこれももう長い間書き込みしていないので使い方が良くわからなくなっている

インターネットの問題はいかにうまく効率的に検索するかにある
それが意外とむずかしい,そのノウハウがわからない,どこに自分の探すものがあるのかヒットしない,どこにあっても知らなければ価値もないということである。

ともかく今も整理はしている,今は一日二回アップしている
午前中に一回午後に一回である。

プログは書きやすいので書いている,でもまた読み返してそのつづきを加筆することができる,それがプログとかのインターネットのいい点である
完成したものとはならない,死ぬまで書き続けることになる

実際にそうして「心の青雲」の著者の都築詠一氏は死んだことに驚いたのである。
それは未完のまま終わったのである。途中で突然死んで途切れてしまったとなる
今やそういうこともある
プログはホームページでも自分の世界を作りだすことができる
本とか雑誌は紙のメデアだと普通はこんなふうにできないからである。

時系列だとここで自分のプログがタイトルごとに読める
タグ:検索

2017年11月01日

一本の樹(詩)から考える (飯館村などの避難区域のこと)

    
 一本の樹(詩)から考える

 (飯館村などの避難区域のこと)
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一本の樹

この道の辺に
一本の樹
秋の夕日のさして
ここに立ちて久しも
そは何を語るや
ここに根づきて
ここにありしことの尊さ
何ごとのなけれど
ここに長くありしがゆえに
人は去りしも
ここに立ちて動かざれ
ここにありつづけるもの
その意味と尊さを知れ
一本の樹
かくもここに長くもありて
その土地の標(しるし)となりぬ
この道を歩みてまた暮るるかな
 
   
 野の樫

野にひともとの樫立つ
冬の日の老いた幹と枝は
いま光る緑につつまれて
野の道のほとりに立つ
行き還りその傍らをすぎるとき
明るい悲哀とものしずかな勇気が
ひとの古い想いの内にひびく
(伊藤静雄)


飯館村でもどこでもそうだがこうした木はある,それは日ごろ意識しない、でも村の中でもどこでもそういう
木は人間化した木になる、だからこそ村に人が住まなくなったとき余計にさみしく感じるのである。
空き家になった庭の木でも石でもそうである。

人間はこうしてしただあるものの価値を感じない、でも一旦この辺のように原発事故で人が住まなくなったときこれは一体何なのだろうと常に考えるようになったのである。
村でも町でもどこでも一本の木はある、そういうものはまるでその村の目印のようにあった
だから一本松とかが地名になり残された、それは意識しないが常にあったものでてある。
人間も生物の一種だから老人になると定着志向になる、その土地に根付きやがてその土地に朽ちてその土地の養分ともなる、それは生物はそういう循環を繰り返してきたからである。
人間もまた同じように自然の中に生を繰り返してきたのである。

ここで見直されたのはただあることの価値である。そこにあるだけで価値あるものがあった
そして長くあるものは価値があった、木とか石とか自然は長くあるから価値がある
人間は変わりやすいから価値が消失してくる
そこにいつまでもあるものはやはり価値を帯びてくる
本当の価値はそこに長くあるものでありそこに価値と意味と尊さが生まれる

それが現代では常に変化して新しいものを求めて古いものが捨てられる、
常に人間の社会は古いものがあって新しいものがある野だが技術の面では常に変化してしそのスピードが早い,
だから老人は技術的には追いつけないから無用のものとされる
でも精神的な価値を求めると老人的な価値がむしろ社会の価値を作ってきた、成熟しなけければ本当の価値は生まれない、
若者的なものが必要でも騒々しいものになる、
自然でもなかなか若いときその意味と価値を会得でとないのである。
それで自然と同化するアイディンティティ化するには時間がかかるから老人にならないと自然でも人生のこともわからないのである。

老人は人生をふりかえるから誰でもそれなりに人生とはこういうものだったのかとわかる
ただその時は時遅しとなっているが老人はそういうことで若者とは違った見方をしている
ただ本当にあるというだけで価値が帯びてくる、そういうものがあるということに気づく
そして原発事故で人が住まなくなった町や村はそこに住む人の担(にな)うものが大きくてなった
村でも町でも市でもそれがなくなるということはイメージもできなかった

そこで意識したのは村全体のこと町全体のことだったのである。
普通村全体でもなかなか意識しない、常に個々人とか家族は意識して暮らしている
でも村の暮らしをどうしようかなどは意識しにくい、飯館村辺りはそういうことが震災前もあった
でもやはり避難区域になったとき人々は補償金をもらい家族だけは守ろうと帰らなくなった
それはやはり村全体を意識することがなかったからでてある。
村があり町があり市があり家族もあり個々人もあると意識しなかったのである。
そういう全体は意識しにくいのである。ただ今回のように村でも町でも人が住まなくなり村自体が町自体が消失する危機となり意識したのである。

木でも川子の農家の二本の木は変わらずにある、ますますそこに結び合い離れないようにある二本の樹である。この辺では木もかなり切られた、ここの木は残っている

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 the twined trees
 in stability 
 the faithful ones
 
それは老夫婦のようでもある、何か顕密に結びあっている、無言ではあるが互いにもの言わずも信頼して結び合っているという感じになる 

二本の樹

常にここに
二本の樹
もの言わずとも
互いにここに
長くしあれば
信頼し結び合ふ
そは離れざるかな
秋の日はさして
秋は深まり
ここに静かに
二本の樹は変わらずに
今日もありしも

この二本の木も変わらないことによって価値が帯びているのである。その意味を深めているのである。
それを感じるのはやはりこの辺が変わりすぎた結果なのである。 

俳句になると

晩菊や牛数頭のここにいる

飯館村は牛の村だった、牛は定着的な価値の象徴なのである。 牛がいるということで定着を示唆している
そこに落ち着きがあり生の充実がある、こころがここの意味というときまさにここにあるのが牛なのである。
とにかく避難区域に帰って住むことは今までは村とか町の価値はその人口分で維持していた、でもその一割とか二割しか帰らないとなるとその減った人の分を村や町で負うことになる
価値が何倍にもなるのである。そしてそこで村や町に継続された歴史を担うことになる
だからそれを思いばやりがいがあるともなる、ただこんなふうに考えるのは思想的哲学的詩的に考えるのは普通はいない
みんな利益からしか考えないからこそ原発だって建てられたのである。
そのあともやはり補償金でもめてもう不便な土地は嫌だと帰らなくなったのである。

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人が減ると同じ地域でもになうものが大きくなる
百人いたのが10人になったら十倍にになうものがふえる
それは生活でもそうだが精神的なものでもそうである。
村や町には歴史をとして残されたものがあるし死者も墓に住んでいたり
他に歴史として生き続けているものがあるからだ

それを人がへれば担うことになり重いものとなってゆく、でもそこに住むことは
価値あることになる
でも不便だからその不便さもになうことになる
それで村や町を捨てるとなるが残る者には前より十倍もの負担があっても価値があるともなる
いづれにしろ村や町がその全体が消失することがいかなることがまだ自覚されていないのだと思う
posted by 老鶯 at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村