2017年05月19日

シャガの花(鹿島区でも通りは発展しない) (街作りのテーマ)


シャガの花(鹿島区でも通りは発展しない)

(街作りのテーマ)

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この通りを歩いている人はほとんどいない

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こっちの薬屋は今は行っていない,近くのツルハに行っているからだ


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ここは新しくできたアパートである。

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草原の夕べ明るし夏雲雀


新しき家やはやも草伸びてシャガの花咲くこの通りかな

木陰の道を我が行き来しシャガの花新しき家に咲きて暮れにき

夕日さしシャガの花咲き庭に石新住宅街や街の変わりぬ

色濃くも菖蒲の咲きし通りかな人行くまれに我が今日も行く


なんか前からそうだったけど街でもその回りでも自転車で回っている、まず駅に行きそこで案内したりする、鹿島にボート工場があったの?東京から本社から来る人を迎えに来ていた。他の会社でも駅に迎える来る
それからキクチスーパとシシドスーパーとツルハをドラッグストアを回る

外食は今度は小池のコモドインにしている、距離的に原町になると遠いがあそこは町内だからいい、そしてそこは町から離れているので気分転換になる
外食がうまいものを食べるということもあるが気分転換の効果もある
だから本当はながめのいい郊外とかがいいのである。
街内だとそれがない、それでも仙台辺りは並木があり緑がある
でも最近はまた仙台にも行かない
なんか遠くに行く気力がなくなった

深野のユッサもいいが距離的に遠い、自転車だと遠くなる、最近疲れやすくなるから行きたくなくなる、鹿島で暮らして問題なのは外食する場が限られていることである。
仮設ではもう一軒しかないがメニューが限られている
それでコモドインは日替わりがあるからいい、駅にいると食事したいという人がいて
駅前の鈴木食堂による人がいる、あれを考えると昔は駅前は人の出入りが多かったから駅前で商売になることが多かったろう。
ただ仙台を往来する人が三倍に増えたということはいいことである。

鹿島は前に街作りとして新しい通りを作った
川沿いだがあそこは通りとしては新しいし気持ちいい場である。
木蓮が咲いたり通りに花を咲かせている、川が近くだし自然景観もいい、駅前から昔の旧道は自然景観は良くないからだ

ただその新しい通りがほとんど活かさていない、店がほとんどない、それはどこでも同じである。だから歩いている人はめったにいない、ただ車が通りすぎるだけである。
だから何か淋しいという感じがする、でも通りを花で飾っているのである。
スーパーとかにないものは通りには自然が活きていたり通りを歩く楽しみとかある
それがあれば楽しいとなる、前は喫茶店があったみたいだがやめた

結局街というのはある程度の人口がないと何をしてもうまくいかないだろう。
人口一万では発展しない、少なくても二万あればそれなりの街になるかもしれない。
ただ鹿島区は新しい住宅街ができた、だから人口は減っていないが高齢化もあり活気があるとはいえない、これはどこでも同じだがやはり一万の人口の限界現象がある
だから新しい通りを作っても活かせないのである。

ただ鹿島区は何か都会化したと感じるのは新しい家が増えたためである。
その家の数が多いからである。小池辺りでも増えたしあの辺は田んぼだったが住宅地になった。そこにコモドインなどの復興関係のホテルなどができたから都会化した

基本的に街が死んでいる通りが死んでいるというときそれはシャッター通りになっているというとき車社会になったからでありそれをあからさまに批判している本がでていた
「成熟社会」とかの本である。
今思潮として高齢化した結果、昔のような近隣関係とかコミニュティとかの回復を言う人が増えてきた、それを破壊した一番の原因が車社会になったことだからである。
ただ車をもたないとか車社会を批判すること、それが社会の歪みをもたらしたことはあまり言わない、それは原発に反対できないのと同じだった
車社会に反対するというとき車をなくせということではない、何らか制限が必要だということである。

だから交通にしてもバスとか何かそれに変わるものが必要である。駅にいるとそこからの足がないからだ、だから車で迎えに来る人が多い。
都会でかえって車なしで生活できる、鉄道網がありかえって効率的になる
田舎は広いから車なしでは住めない、ただ街内に住んでいればなんとか住める

人間が住みやすい場所は必ずしも田舎ではない、田舎的ものと都会的なものが調和した場所なのである。田園といってもそこに都会的なものがある場所である。
だから鹿島に欠けているのは外食するレストランなどがないことで一人暮らしは困る

いづれにしろ奇妙なのはシャガの花となると何か山の中の人気のない所に咲くものだと見ていた、そういう感じの花である。それが新しい通りというか住宅街に咲いている
そしてすでに草が伸びてそこに咲いている
このことが何かこの辺の変化を現している、都会的なものと田舎的な幽邃なものがあるとなる、あまりにも都会化した場所にはシャガの花はにあわないからだ

雲雀というとき草雲雀とかあり草原ににあっていた、田んぼより草原ににあうのが雲雀だったのてある。この辺は海側がまだ草原なのである。
この風景も前から不思議だった、草原とういモンゴルになるからだ
モンゴルの風景が一部ここに再現されている不思議である。
ただあとはソーラーパネルになっている、でもあそこだとソーラーパネルはそれほど目立たない、飯館村は森の国でありその山に森を削ってソーラーパネルにすると目立つのである。景観が破壊されるのである。

ともかく津浪や原発事故以降景観までこんなに変わることの驚きである。
それで新しい経験をしているということもある
今日あたりも快晴だけど暑いし日ざしが強いと最近疲れる、紫外線は体に良くない
そういう点で老いを感じる、おそらくなぜ昔を回復しようとする思潮が出てきたかというと高齢化社会は歩く生活とか近接社会とかそうした昔のスロー社会とかに向いているからである。若いときは高度成長とか大都会が向いている、高齢化社会にはそうしたかえって活気あるものと見えたものがあわなくなっているからである
ただやはり人間的活気も必要でありそれが通りにないからもったないと感じるのである。

2017年05月18日

資本主義の精神とは何か 資本主義の倫理は崩壊したから資本主義は終わる


資本主義の精神とは何か


資本主義の倫理は崩壊したから資本主義は終わる


自分の職業もまた神が選んでくれたものに違いない。これを天職または召命という。この考え方はプロテスタンティズム以前にはなかった。自分の仕事が天職であるならば怠けているわけにはいかない。働いて働きまくることが神様のみ心にそう方法。もともとキリスト教には労働こそが救済の手段であるという思想がある。働かざるもの食うべからずというのはキリスト教修道院の戒律だ。こんな思想は仏教にはない。仏教では働かなくても食ってよいし、それどころかインド仏教では経済活動を禁止し、お布施で暮らしていた。


今は社会主義国でも資本主義のなかに組み込まれ生きている、でも資本主義というとき何なのか?それがわかりにくいのだ。
だから何かを理解するのには何かと対比することである、比較することである。
人間はそもそも美と醜があるとき醜があるから美を理解する、善と悪でも悪があるから善を理解する、何かをうまいというとき味でもまずいものばかり食べていたら何がうまいかもわからない、歴史でも今を知るには昔にさかのぼり日本だったら江戸時代をみる
すると現代というのがどこが変わったのかそして昔あったもの失ったことをしる。

例えば車社会になるとこれがどれほど社会を変えててまったか驚くほどである。
なぜなら駅前はすたれシャッター通りなり人間は個々に車に閉じた生活をするようになった、車の影響は実は単に道具が変わった便利になっただけとかならない
人間の精神のありかたまで変えてしまったのである。
なぜこんな人間ばかりなのだと嘆くとき車社会になった人がその社会に適合してそうなったともなる、だから道具の影響は人間の精神まで変えるからただ便利だからいいとして
応用すると社会そのもの人間の精神そのもののまで変えてしまうのである。

メデアでも新聞からラジオからテレビからインターネットと変わる時、変化した、それは社会そのものまで変える、それはマスコミが世論を作ってきたと言われるようにである。世論も操作できるのだからどれだけたマスコミが力をもったかわかる
でもインターネットが出てきて今度はまた変わってくる
インターネットの不思議は個人がクローズアップされるメデアである。
対話的メデアである,マスコミのように一方通行ではない、基本的にman to manのメデアである。それはもともと個々人がメデアとなったときまた個々人が反応しやすいからそうなる
パソコン通信は必ずレスポンスが必要であるものとしてはじまったことでもわかる

資本主義でもそれがどうしてキリスト教から生れたのかとなると理解しにくい、確かにイスラム教や仏教からは生れていない、労働の倫理でもある。
そもそも宗教と資本主義が関係あるのかとなる
今の資本主義がどうしてキリスト教と関係あるのかとなる、隣人愛などと何の関係もない、自分の欲だけを限りなく追求するだけである。そこにはまず禁欲などないからだ。
禁欲があったら消費もないのである。欲望を無限に拡大して消費することがすすめられているのだ、そこにかつての素朴な倫理は皆無である。

結局逆に働かないで勤労しないで株でもうけたいとなる、一攫千金を得たいとなる
働かないで食べていきたということを今の資本主義から人々は目指すようになった
なぜなら今や金融の操作で働かないで莫大な富を得る、数パーセントの大金持ちが世界から富を吸い上げているとなる、それがなぜ隣人愛だとなる
それはまるで違った資本主義であり宗教とはもう何の関係もないのである。
もし修道院で働く人たちを見ていたらそれがキリスト教に由来して隣人愛の労働だと他者も理解したのである。労働が尊いと理解したのである。

株を金融を操作している一握りのものが世界の富を集めているといのうは悪魔的なのである。つまり資本主義はもうサタンによって操作されていてそこで陰にユダヤ人がいるとかロスチャイルドがなんとか陰謀論になってしまう世界である。
もう資本主義の精神とかモラル崩壊しているのである。
 現実に投資のことをボジティブな姿勢として見たが株式市場では素人は勝てないようになっている
数パーセンのものが株式市場で勝つように仕組みとしてなっているからギャンブルにしても勝てない
なんか銀行に手数料をとられ素人はプロに金を吸い上げられ得するのは数パーセントの大金持ちだとなってしまうのが
現代の株式市場なのである。


では社会主義がどうかとなると、社会主義の精神は何なのだとなる、これも資本主義を否定するものとしてマルクスが産み出したものである。
それが現実化したのがかつてのソビエト連邦とかであり北朝鮮であり中国もそうだった
でも社会主義というのは平等の精神なのか、ぬきでたものはいらない、みんなどんぐりの背比べでいいともなる
何かに新しいものに投資もしない、平等であればいいとなり福祉を充実させることだとなる、そして社会主義国で一番成りたい職業は官僚だとなる、役人だとなる
そこに一番富が集まるからその富の分配にあづかるのが役人だからである。
それで中国ではそうなった、そこにも大きな格差を産む社会になった
でも中国は資本主義も取り入れているからいろいろな試みが投資が行われている

資本主義がもう限界だというとき資本主義は常に投資して新たな富を作り出して分配する平等より差があってもいい、ただその差は何かに投資して新たな富を作りだすからこそ容認されていたのである。
その新たな富を産み出せなくなったとき資本主義が金融資本主義とかなりただギャンブル資本主義となり数パーセントのものに世界の金が富が吸収されるだけとなる
その時、こんな社会なら働くの馬鹿らしいとなり勤労や勤勉の精神がなくなったのであるそこにモラルの荒廃が生れたのである。つまり逆に資本主義が生れた宗教の勤勉を基にしてたモラルが失われたとき資本主義は成立しなくなった
なぜなら働くことが馬鹿らしい、誰のために働いているのだ、株で金融でもうけている人のために俺たちは働いている奴隷なのだとなってしまったからである。
今や富は極少数のものにサタンに吸い上げられているだけだとなる。
そこで常に陰謀論となっているのである。

そして機械化がすすむと人間は労働しなくてもいい、労働しなくても生きられるようになる、ベーシックインカムになる、まさに機械も人間が労働しないために推進される
自分の労働経験は流れ作業しかない、だからもう若いときから労働などしたくなくなったロボットとしての労働でしかなかった、その後労働を嫌いアウトサイダーになった
これも学校も嫌だったし集団組織になじめないということからそうなったこともある。
たまたまそういう境遇に恵まれたからできた、でも自分は学問とか芸術は好きなのであるだからその方面では勤勉に勉強して開発してきたのである。

いづれにしろ資本主義の精神は失われた、そのモラルは失われ荒廃している。
そういう面でも資本主義が崩壊してゆく、もう成り立たないのだ。
世界中で働きたくないということになる、こんな格差社会で働くの馬鹿らしいとなるからだ、悪魔的な世界の数パーセントに富が独占される、その他の人たちみんなその数パーセンの人たちの奴隷だなっていたらそうなる
もう働く動機がもちえない、働くとしても隣人愛のためとかではない、世界の富を独占する数パーセントのものために働く奴隷だとなっているからだ

事業をして失敗した人はそもそも何の理念もない、動機もない、ただ資格をもっていたから金持ち相手にもうけてやろう、そしてもともと自分は優秀だから社長になろうというくらいで事業を起こした、ここに何か社会のためになるとかの動機もなにもない、俺は優秀なんだ、だから社長になれるんだとしかないのである。
そして失敗したら今度は弱者を責めて借金を強要する、ここに隣人愛など微塵もないのである。ただ自分は頭がいいのだから優秀な人間としてみともらいたいから事業したとなるせめてみんなに上手い料理を食べさせて幸せな気分なってもらいたいとかあればいいがそうういものもない、金持ちは金をもっているからそいつらを相手にすれば金になるだろうしかないのである。
こういう人はそもそも何のために働くの生きるのかもわからないだろう。

ただ以前として働くことには意義がある、それが医者とか看護師とか介護士などがそうである。それは相手が弱者だから愛も必要としているからである。
そうした愛を必要としていると直接接するからわかりやすいのである。
ただ現実は医者でも看護師でも弱者を相手にして優位にたつ商売だとも反面なっている
ただその労働は隣人愛に本当は一番通じやすいものとなっているのは確かである。
何か商品を作る売るにしてもそれが人助けになってもそれに感謝する人はいない
金を払えばいいじゃないかだけである。

だから駅で道案内して行きと帰りに二回もありがとうと言われたのは意外だった
ありがとうというときそれは隣人愛に通じていたとも大げさになるが言える
ただそこに金が介在すると当然でありむしろ金払っているのになんとかだとクレームがくるのである。
ともかく今や労働の倫理はモラルは崩壊している、もうだから働くより人に使われるより働かない方がいいとなる
働くのは金だけが動機でありそしてもう働くより金ある所から人から盗めばいいとなる
そういう気持ちになっていることがもう労働のモラルは崩壊しているのである。
勤勉に働く必要などない、もうけた奴は悪い奴だから盗まれても当然なのだ
巨万の富をたくわえたものは俺たちの労働を盗んだものだと思っているしそれも事実だからである。巨万の富だけではない金持ちに対してはみんなそう思っているからである。
そういう意識が蔓延している、現実に自分はそれで大金を失った。
だから今は人間に働かせるより機械に働かせる方がいいともなる
人間はもう働きたくないからだ、そして家事は実際機械や買ったものでまにあせられる
人間は働く必要がないのである


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投資とは攻めかー貯金は守り (経験しないと投資の世界もわからない)


投資とは攻めかー貯金は守り


経験しないと投資の世界もわからない


自分がしたのは株ではないし銀行経由の投資信託だから株の世界はわからない
本当はしたくなかった、ただ貯金は利子がつかないのでやむをえずすすめられした
今でも本当はしたくない、何か今は減る方の心配が大きいのである。
だから増えるより減らないようにしてくれとなる
実際に減ったことがありかなり損したからである。

でもそもそも投資というのは何なのか?投資と貯金は相当に違っている
投資とはそもそも株でも何でもその前に人間は何かに投資して生きている
例えば教育も投資だし何か物を買って利用するのも投資なのである。
ただそれがすぐ見返りとして金として返ってこないものもある

でも人間は何か投資して生きる、教育は将来の投資なのである。
それに見返りなくても投資して教育はある。
金を使うことは投資なのである。本が高いとなるがこれも投資である。
自分は何か本を読んでも理解できないことが多かった
ただ本を買っただけで本をためただけで何か読んだ感覚になり知性も伸ばせたという感覚になっていた。でも本は買っても内容を理解しない限り買った価値も得られないのであるだからいくら金があっても投資しても理解できなければ何もならないのだ

でも不思議なのはそのただ買って集めた本が今になって活きてきているというのも奇妙なのである。
自分がプログで文章を書くようになって今まで買った本を読み直して引用しているからである。本というのはそもそも今自分がしているように自分の文脈にとりいれたとき活きるのである。ただ一方的に読ませられても活きてこないのである。
こういうことは情報にもある、一方的にテレビでも情報でも見たり聞いたりしてもそれが自分のものとして理解しないとただ洗脳されるだけだとなる
だかち本を読むにしても情報を取り入れるにしても批評的に読めれば見れば効果的なる

まず投資というときそれはどこでも起きている、だって何をするにも投資ということがある。例えば農業に投資が関係ないようでも種を買って肥料を買って作物を育てるのも投資なのである。それが実りになるからどうかわからないからだ
それは投資してみて実際に試してみなければわからないのである。
何でも成功は約束されていないのである。農業にも天候の異変とか様々なリスクがあるからだ
だから何でもリスクを逃れられないのである。

でも何もしなかったら何か実りがあるのかとなったらないのである。
金だって使うとき使わないと腐れてゆく、宝の持ち腐れとなる
資本主義が株式会社が最初にオランダの東インド会社から起こったというとき
航海するために金を出しあってリスクを引き受けた、なぜなら船は遭難することがあるからだ、もし遭難したら収入はゼロになるし投資した金もゼロになるリスクがあるからだ
でも成功すればその見返りは大きいのである。株は今でもそういうことで変わりないものだと思った
もちろん今の株とか金融はシステム的にギャンブルであり欺瞞だというのもわかる
ただ投資というのが根本的に何なのかということを投資して考えたのである。

投資というときあらゆることに投資があるからだ、何かを発明するとか研究するとか新しいものを作り出すとあらゆることが投資なのである。
だから投資をやめたら人間社会は活動を停止してしまうことになる
金でも銀行に貯金していてもタンス預金していてもそれが安全とはならない
金の値段は貯金しようがタンス預金しようが変動しているからである。
人間はこの世を生きることはリスクをまねがれないということである。
そのリスクは今回のような津浪だとか原発事故とかでもそうである。
必ず事故はつきものでありリスクが人間社会にはある

人間がでもリスクを回避して安全を計ることばかりしていたら進歩もなかったろう。
常に投資してきてそれがリスクがあってもしてきたから進歩したとなる
大航海時代というときこれもアジアの白人の侵略だったということもあるが
新大陸を目指して航海したことは大きなリスクだった、だから投資というときヨーロッパから生れた攻めの態度だったとなる
農民は守りであり貿易とか外に冒険するのとは違う、ただ農業には農業のスピリットがありそれはまた別である。
投資のスピリットとフロンティア精神でもあり攻めの姿勢なのである。

ただスポーツでも攻めと守りがあり守らねばならないときは守る、それは忍耐に通じている、一方的に攻めということはない、攻めるために守ることも大事になる
男は攻めであり女は守りだもなる、でも経済に関しては守りというのはないのかもしれない、貯金していても高度成長時代のように利子が7パーセンとつけば貯金として守っていれば良かったのである。その時銀行でもいくらでも投資先がありもうけられたからそれだけの利子がついた、今は投資先がないから利子がつかない、それで投資信託とかにならざるをえない時世である。

ただ人間は守りだけになると結果的に守ることさえできず失うだけだともなる
守るとはスポーツなら攻められたら守りぬくが守ったら攻めに転ずるために守るのである結局サッカーのようにシュートをはずれても打つ、そのうち回数が増えればゴールになる確率が増える、シュートは投資である、でもはずれることがある
でもシュートしなければゴールになることもないのである。
そして守っていただけではゴールを得られないからどこかで攻めなければならない
投資は攻めであり人間には不可欠なものとしてある
ただそれが金融とかなるとその攻めが何なのか投資とは何なのか理解することはむずかしい、ただ人間は生きることは投資が欠かせないことは確かである。




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夏の日(abstract pictures-summer come)


夏の日(abstract pictures-summer come)

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summer mountains

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column in the water
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about sunshine in the forest

抽象画でも具象画と切り離せない、森の太陽という題にしたけどこの抽象画をまず森となみないと鑑賞できないのである。
森をイメージしないと何なのかわからなくなる、これは森だと見るとき抽象画でも理解できるのである。

The abstract painting was made a title as the sun in the forest which can't be separated from a representational painting, but when there are no forests and regulars first, this abstract painting can't be appreciated.
When thinking this which doesn't know any more what it's is a forest, even an abstract painting can understand that a forest isn't imagined.

posted by 老鶯 at 06:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

2017年05月17日

海は誰のものか? 船主や漁業権者の不満が原発事故で大きい


海は誰のものか?


船主や漁業権者の不満が原発事故で大きい



 特定の人(漁業協同組合関係者)だけが、漁業権の免許権者である都道府県知事から免許されることによって、一定範囲の漁業を独占排他的に営みその利益を享受することができる、


実際には、漁業権の譲渡は、例外的な移転を除いて禁止され(同法26条1項)、貸付は不能(同法30条)であり、抵当権の設定、使用方法に至るまで、漁業法は多くの制限を科しており、民法上の物権とみなしていると考えられる点は殆どない。

漁業権とは魚などを捕ったり養殖する権利のことで、海を占有する権利ではありません。ダイバーは当然、漁をしている場所で潜ったりしませんから何か捕らないかぎり、漁業者が「ここで潜るな」などと言うのはすじ違いなのです。


フクイチ事故でとん挫した上関原発計画であるが、何が何でも祝島漁民の漁業権を奪うつもりのようです。

10月11日、祝島漁協有志で山口県漁連に申し入れを行い、これ以上祝島漁民が漁業権を売らないという意思を尊重し、妨害しないことを求めました

地理的に限定することはきわめて困難かつ時間的に限定することが不可能であるという、
原子力発電所の特徴を考慮すれば、
そうした広範な人びとからの強い反応は当然だと私たちは考えますが、

祝島支店の32名 (過半数)の正組合員および8名の準組合員は今年3月、
この漁業補償金を受け取らないという意思を、改めて貴組合に申し入れております。

今この辺では補償金でもめている、原発事故で避難解除になったからだいたい支払いが終わっている、でもこの辺では船主とか漁業関係者への不満が根強い、それはもうみんな知っている、海岸に住んでいた人も別に船主でもない、漁業にたずさわらない人は多かったそういう人たちは何ら補償がないのである。
それで海老の人が家も流されて生活が苦しくなったからその不満を言う
しかし海岸に住んでいないものはわからなかったのである。
自分もわからなかった、ただ海岸に住んでいる人は漁業関係者が金があるのを知っていて原発事故前からその不満かあったが公には言っていないのである。

それで原発御殿が建ったとかは本当だった、ある人は船主の家に招待されて金の襖があったという、それは東京の職人を呼んで作ったものだったという、その御殿も津浪で流された、それは請戸の港の家だったという。
このことは例えば駅に東京などから帰省してくる人たちも家族から話を聞いて知っていたのである。もうこの辺ではみんな知っているしその不満がぶつぶつと溶岩のようになっている、だから一面そういう不満が爆発したら怖いとなる
いくらそれだけ補償金をもらっても漁業関係者も安穏としては住んでいられないともなる
そもそも漁業権とは何かとなると明確ではないのである。例えば一定水域での漁業にたずさわる権利というものがある。それは広い領域の漁業権ではない、そういうのは代々受け継がれた権利ともなる

貸付は不能(同法30条)であり、抵当権の設定、使用方法に至るまで、漁業法は多くの制限を科しており、民法上の物権とみなしていると考えられる点は殆どない。

これはそもそも漁業権があるのは認めていても漁業権を売り渡すことはできないとうことになる、ではなぜ東電に漁業権を売り渡したのか?
東電の原発のある場所の水域は東電のものであり他の人は立ち入れなくなったのである。その海を所有していたのは漁業組合だからそれができたのかとなる

不思議なのは今山口県の上関原発建設にあたり

原子力発電所の特徴を考慮すれば、
そうした広範な人びとからの強い反応は当然だと私たちは考えますが、

ここでは漁業者だけではなくその土地の広範囲な人々の協力を得て原発を建てさせないようにしている
ところがこの辺では原発を建てるとき漁業権者がその権利を独占して補償金をもらっていた、事故後も多額の補償金をもらっている、それでみんな立派な家を真っ先に建てたのである。一番手厚いの漁業権者にされたからである。

そもそも海は誰のものかというとき漁業権者のものなのか?市町村のものなのか?
県のものなのかとなる、ここでは意外と県が許可権をもっていて法的な権利をもっている原発を建てるときもその土地の所有者と県の許可で建てられたということになると
県の力が強いからそうなった。
その私的に土地を所有したり海を所有したり山を所有したりということが明治以降にありその弊害がいろいろ現れて原発にも及んだのである。

自然は海でも大地でも山でも川でも一つにつながっているからそもそも一区画を自分のものだという私的所有になじまないのである。
入会権から山を私的所有になると無数に山が分割されてその一部を誰かに売ることができる、するとそこがソーラーパネルにされて自然破壊が起こった場合、山全体に影響が出て村全体にも影響がある、土砂災害が起きるかもしれない、そして有害物質となりそれも影響してくる、自然とはもともと私的所有になじまないから国有になっていた。
そういうことは農業するものにとってわかっていたから田んぼは勝手に売れないものとして今でもある。

海は誰のものかというとき漁業権者はあくまでも市町村とか国からその権利を漁業資源保護のためにとか委託されたものである。
なぜならその許可は県とか国が出しているからである。
それよりそこに住む自治体のものであり漁業権者だけのものではない
その海を自分たちだけの権利にして東電に売り渡すようなことがそもそもできたのかとなる、それは法的にも検討されればおかしなものとなる

あなたたちはそこで漁業する権利を与えます
魚をとりすぎたりしないように保護もしてください
魚でも汚染されないようにしてください

それは言えるにしてもそれがどうして東電に売り渡して補償金を得ることができたのかとなる、漁業の保護とは何の関係もないからである。
むしろ海が汚染されて魚がとれないとか売れないとなるから拒否する
それならわかるが補償金をもらうために漁業権を売り渡すことはできない
第一東電の原発が建っている海岸を立ち入り禁止にしても汚染されたら事故でわかったように海全体に汚染水が流れて拡散されるからである。
それは福島県だけの問題ではない、日本全体のひいては世界の問題までに発展する
だから県だけの許可でもそんなことができたのかとなる

自然の権利となるとそれらは切り離されずつながっているからその権利の主体は広範囲になる、だから一区画を所有しているからそれを売って原発を建てさせて県が許可するなどあってはならないことだった
それも過剰な私的所有の権利を与えたために起きたことである。
俺の海の前まで権利があるとか補償金のために言う人もいた、小高では誰のものかわからない私道まで権利が主張されたりもした
これは人間の欲が限りなくなるから歯止めがきかなくなり自然を我が物にしようとする

猪苗代湖の岸辺の砂浜に自転車で入ったらここは入ってはいけないと言われた、所有者がいてバンガローのようなものを建てていたからである。
猪苗代湖の岸辺も私的に所有されているのか?そこで独占して利益を得ている
それは誰のものなのかとなる、そんなことして利益を得ているとしたらなぜそうできるのかとなる、プライベートビーチとんかのもそうである。
ホテルなどが所有したらそこに立ち入ることもできなくなるのである。
そういう場所が結構ある、すると自然を平等に楽しめないとなるのである。
そうしたかったら金を払いとなるのである。

そもそも土地を売買する投機の対象にした資本主義自体が誤っていたと言う人もいる
土地は全体とつながっているから区画して売ることになじまないのである。
海でも山でも川でもなんでもそうである、それを所有するということになじまない
ただ相馬藩内で小良が浜(おらがはま)という小さな港が双葉にあったりしたのはここはおらの浜だという意識はやはり江戸時代からあったとはなる

今回だけは漁業権者だけが手厚い補償金をもらう権利はない、それは市町村の住民にも権利がある、その海の権利はあくまでも魚をとるための権利であり海を売り渡す権利などないしそもそも法律的にも売るものとして物権とかにならないとあるからである
だから法律的にも違反していたから法的なものとしても裁判になるものでもある
ただこれだけ回りに不満があるとなると漁業権者でも船主でも苦しいとなる
回りがこれだけ不満であることは感じるから苦しいとなる

posted by 老鶯 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

海老の津波の被害者とあう (意気消沈して不満を言っていた)


海老の津波の被害者とあう


意気消沈して不満を言っていた


海老で一人元の神社の所に座っている人がいた。
それは個人用の神社だったという、その人が住んでいたのは海老の通りの突き当たりの角だった、車輪梅の案内がある所だった、広い庭があった。
海老の人は死んだ人は少なかった、死んだ人が多かったのは湊の方だった、あそこの人たちが崖の高台に逃げたからだ。あそこは運動場になっていて網で囲まれていたのも災いしたらしい、湊からあの高台は相当な高さを感じる、とすると八沢浦は低いのである。
右田も川があるから低いと言っていた、確かに川は低い所に流れるから低い場所である。
海老では区長が電気の仕事をしていてスピーカーで逃げろといって助かった人が多かったという、海老だとすぐにければ確実に助かった、後ろの墓地でも10メートルくらい逃げれば助かる場所であり高い所だったからである。だからあそこは被害がないと思っていた。八沢浦の湊とか右田は低いから被害があったと思った。

その人は何か意気消沈した感じである。盛んに補償金のことを言って不満だった
何か鹿島区の人は補償金に相当に不満である。
それを自分が言ったがそれは自分だけではない、みんなその不満を必ず言うからである。特に津波の被害者は相当に苦しいことが表情からわかる
家も流されて家族も死んだ人がいるからだ
生活が苦しくなっていることもある、海老の人で家を建てた人を知っているがローンで苦しいと言っていた。

そして船主や漁業関係者のことをうらやましがっている、このことは今になるとみんな知っているし言っている、自分だけが言っていることでもないのである。
何か自分がフログに書いて小高の人に責められたけどそれは自分だけではないということを知るべきである。
まず船主とか漁業関係者への不満は実際は前からあったのだ。その補償金が大きいから回りの不満も大きくなる。
なぜなら津波の被害者はまた小高の原発避難者と違って補償が少ないからである。
すると小高の避難者もうらやむことになる、その小高の原発の避難者を見て相当に不満だったことは確かである。同じ仮設に住んでもその差が大きいからである。
なぜあんなに優遇されているのだとなるからだ。

何か船主とか漁業関係者がこれほど責められているということはいくら金をもらっても地元では住みにくくなっている、相馬総合病院で請戸の人が特等室に入っていて家を建てると言っていたけどそれでも回りから反発を受ける、相馬市の人は別に放射線量など変わらないのだけど何ももらっていないからである。
だから遊んでいないで働いてほしいとしきりに言っていた。

いづれにしこの辺は複雑である。小高の人に補償金のことを言うと怒る、避難させられたから当然だと思っているからだ。なぜ苦しいのに責めるのかとなる。
一方で津波被害者もいてその不満が大きいのである。それでいわき市でももめたのである南相馬市の場合は何らか対策があってもいいはずだった。合併しても何の効果もなかったともなる、一体感が失われたからである。

鹿島区では小高への人の不満が大きいのである。ただそれを言うと自分のように責められる、そこに根深い対立が生まれたのである。これは小高の人も自重しなければならないのだが何かそういうことを考慮しないのである。
だからお前は傷口に塩ぬって楽しいかとか責めてくる、こういうことは自分だけに起きていることではない、小高の人と接した人が断られたとか何かぶしつけな人が多かったとかなる、いろいろな人がいるから一概には言えない
自分は南相馬市とかの全体を考慮して言っていたのである。
でももう小高と鹿島の亀裂は深いので修復しにくくなっているのだ。
それは最初からの市でも住民でも話し合いもなくただただ補償金をもらえるだけもらえばいいとなっていた、住民自治がなかったのである。
それは原発が建てるときも住民自治がなかったし原発はタブーの場であり住民がかかわれないものとしてあったことも問題だった。

津波の被害であれ原発事故事故の被害であれ6年すぎてもその傷痕は深い、これは廃炉に30年とかかかるというときそれだけの時間があってもこの辺はこの傷を回復できないほどの災害だったのである。
ただ田んぼが増えたし前よりは回復したと感じる、海側はまだ原野化している所が広い
山側でも田んぼになっている所は少ない、でも平地は田んぼが増えて蛙の鳴き声が騒がしくもどったとなる。
タグ:海老の人
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2017年05月16日

マスコミは会社から宣伝費をもらって成り立つ (会社側に立つから公正な報道はない)


マスコミは会社から宣伝費をもらって成り立つ


(会社側に立つから公正な報道はない)

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人間は求めるものがいろいろある。医者に求めるのは病気を治してもらいたいということが第一である。看護師に求めるのは病気を直す手伝いをするということもあるがやさしく看護してほしいということがある。
医者の助手となっていも病気だからやさしくしてほしいとなる
何か同じ病院でも要望するものが違ってくる

大工だと今は全国的住宅会社があり丈夫で快適な家を建ててもらいたい、安くてもそれなり家を建ててもらいたとかなる、常に何らかの要望があってそれに答えようとするのが商売であり会社でもある
レストランだったらうまいものを出してほしいとなるのは当然である。
人間はともかく何でも娯楽すら金をはらうと要望が生れる
金払ったのにつまらない映画だったかなるからだ

ではテレビとか新聞とかなるとその要望が何なのかわかりずらくなる、テレビ会社には視聴者は金をはらっていない、NHKには払っている、民間には払っていない、民間のテレビ会社はではどういう要望があるのかとなると視聴者の要望もあるが実は宣伝費として金をはらってくれる会社の要望に支配されるとなる
そのために視聴率をあげねばならない、視聴者の要望より宣伝費をくれる会社の要望に答えようとする、だから東電や電事連から八〇〇億とかの宣伝費がばらまかれたから東電でも原発のことは批判しなかった、安全神話に加担したのである。
それは朝日新聞社でも同じである。東電が中国でマスコミの幹部を接待したとき事故が起きたからである。

例えは地方新聞でもテレビでも全国紙と違って地方の要望が生れる、地方を知りたいとなるのは当然である。その地方で知りたいということに答えるというよりやはり東電などの宣伝費をもらうと会社が優先されて視聴者は優先されない
その原因は新聞でもそうだけどテレビでも視聴者はテレビの場合金をはらってくれないからそうなる、ただ新聞の場合は金を払って定期的に講読してもらっている
すると新聞の場合は視聴者の要望を繁栄するものを作ってくれないと困る

それでもなぜ新聞社でも半分が広告になっているのか?つまり新聞を発行するためにそれだけの巨額な金がかかるからそうなる、定期的に金をもらっていてもそうである。
雑誌などになると一カ月一回発行してやっていけるのかとなる
そこは会社からの宣伝費が入って成り立つ、何か他にも援助がないと成り立たないのである。

視聴者がマスコミに何を望むのか?視聴者が望んだものは報道されないのである。
原発の危険性を報道してくれといってされない、福島民報も民友も安全神話に加担していたからである。
そもそも新聞とかテレビでも公共的なもののように見ている、NHKは国民みんなから金をとっているのだからそういう側面があってもやはり報道がかたよっている
そもそも報道は何らかかたよるのが普通である。中立を維持するのはむずかしい、国際関係でも中立は維持できないようになっている
でもマスコミは中立を装うからまぎらわしくなる

その点、赤旗とか聖教新聞とか党派新聞は正直である。完全にかたよっていて他の人はそういうものだとして見るからである。マスコミは何か中立的な公共的なものとして見ている、それが誤解をまねいているのである。
もし赤旗や聖教新聞のようであればそれそれでそういうものとして見ているからいい
例えば世論というとき何か世論なのか?それはマスコミが今まで作り出していたのであるなぜなら報道媒体としてあり全国に報道できるのはマスコミしかないからである。
するとそこにマスコミの意向が入ってくるのである。それで世論と言ったとき、世論ではなくマスコミの意向だったとなる
そのことでトランプ大統領はマスコミを嫌うようになった。実際の世論はラストベルトと言われる取り残された製造業の労働者だったのである。
それを無視してマスコミは報道していたから世論でもかたよっていたのである。

ともかくマスコミの時代は終わりつつある、別に誰でも簡単に格安で報道できる、youtubeでもできる、それでも以前として記者とか今までのマスコミ的役割は必要であり残る
まず取材となると簡単にできない、情報を官僚とかでもとることがむずかしいからであるでも記者クラブとかで独占して情報をもらっていたからそこで馴れ合いが生まれ大本営発表しかなくなっていたのが原発でありそして事故が起きた

一方ででは民主主義とは民の要望を繁栄させる仕組みが必要である。
それが今まではなかった、官僚とか大企業とかの要望の上に報道していた。
福島民報などでも聖教新聞刷っているのだから創価などは批判しない、毎日新聞でも他でもそうである。新聞を発行するにはそれだけ金がかかるからだ
報道するのに金がかかりすぎたことがこういう問題を生んだのである。
その金をどこから得るのかとなると視聴者からは得られない、新聞は購読者から得られている、だから何らかそこで購読者の要望が反映されてもいいはずだった
原発のことをその危険性を指摘して報道してくれたら事故を防げたかもしれないとういことはあった。それができないのはその上の巨大な権力がマスコミを支配していたからである。
スーパードクターに頼むなら金を払いというのと同じである。弁護士でも金にやらないと引き受けないと同じである。政治家も金で動く、そこに弊害がありすべてがゆがめられているとなる

そもそも要望する方でもその要望するものを明確にしないと圧力をかけないと報道する側も動かないのである。
つまりこれは民主主義が自治が問われたことなのである。
ただ権力側に従ってだけいたら権力側のいいようにされるだけである。
そういう民衆側から自治があり要望に答えるように働きかけないと民主主義は機能しないのである。
インターネットはそういう報道の面で改善することがあった、でもこれもまだマスコミのような力はない、でも対抗メデアとして力をつけていることが民主主義を促進するものとなる

ただ深く取材したりするとなるとできない、個人ではできない、取材する方も権力が必要だからである。一人のプロガーが取材してくれと言っても受け付けないだろう。
NHKだとか朝日新聞社のものだとなると取材される方も従う信用することがある
個人はまるで信用されないからである。信用もあるが権力がないと報道もできないのである。

原発事故がなぜ起きたかというと科学的な原因もあるが民主主義が日本では機能していなかったのである。そういう原因もあった、でもそれが不可能だったかとなると違っていた新潟県の巻町では原発に反対して建てさせなかったからだ
そんな小さな町で良くできたなと今になると感心する
新潟日報も応援していたということでここだけはマスコミでも違っていたからだ。
肝心の福島県のマスコミは報道はみんな原発に賛成だったのである。
民主主義はまだ日本では成熟していない、復興でもそうである。
下からの要望がない、ただ上から金がばらまかれてもそれが有効に利用されなかった。
ただ住民でも金をもらえばいいということしかなかったからだ
その補償金についても分配でも利用でも南相馬市なら市全体で話し合い復興につなげるべきだったのである。

政治家も医者も弁護士も金か (庶民のことは眼中にない)


政治家も医者も弁護士も金か


(庶民のことは眼中にない)


 「心臓手術のスーパードクター」としてマスコミにたびたび取り上げられている埼玉医科大の心臓外科医、新浪博士(本名新浪博)教授に手術を依頼したのに別の医師が執刀したとして、手術から半月後の2014年5月に死亡した埼玉県の女性=当時(64)=の遺族が16日、大学と新浪教授らに総額1億円の損害賠償を求め、さいたま地裁川越支部に提訴することが15日、分かった。 

医者のほとんどは拝金主義で人の命なんてなんとも思ってない。 
自分だけ名医にかかりたい奴が大勢いる以上、裏金渡す奴が大勢出てくる。 

身内に有力者が居ればね…。 
向こうから変わって来るよ。 
うちの母親の膵ガン手術も父が市の要職とバレた途端外科部長に執刀医変わった。 
市立病院長からそこの院長へのホットライン。

結局、弁護士が金儲けの為に 
遺族の悲しい悔しい気持ちに付け入ったって事かな…

3000万も包めば執刀してもらえただろうに 
医者も人間だから包む額でやる気が違ってくる

金が少ないとか払わなかったんだろ 
私大は裏金や謝礼なんか当たり前 
親の場合は大学病院ではないが300万包んだよ 

医者にしてみりゃ、小遣い程度だろうけど


事業に失敗した山梨の人は言っていることはまともである。政治家の運転手をしたことがあるという。その人たちは一万もする料理屋にゆく、寿司店でもそうである。
そういう人たちが庶民のことを考えるかという、回転寿司に何回行ったとかそうした庶民のこを考えるかとか言うのももっともである
つまり政治家が気を配っているのは自分たちの利益になることだけでありその取り巻きに利益を配分することで支援を受ける
政治家と金持ちのことの方が金になるので富裕層につき貧乏人の庶民のことなど考えないというのもわかる。

こういうことは一見たいしたことがないようでも一万の料理を普通に食べている感覚がすでに庶民と感覚的に離れているのである。
田舎では自分も外食しているけど千円くらいのしかない、まず一万の料理などどういうものなのかイメージもできない、そういう料亭は東京だと普通にあるから違っている
そういう金持ちは別に政治家でなくても東京にはいる。
ただ自分は食べることにそれほどこだわらないそれなりの料理を食べれればいいとなる
だから別にうらやましいとも思わない。

弁護士にしても庶民の味方ではないという、そもそも庶民の相談にのっても金にならないからだ、ただ何か遺産相続と会社経営とかでも何かもめごとがあると仲裁で大きな金になる、自分の親族で交通事故があり死んだがその時結局弁護士は何もしなかった。
でも漁夫の利で百万が弁護士に支払われた、実際に請求したのは保険会社の人だったのである。弁護士は何にもしないのである。何の役にもたたなかった
でも百万を手にしたのである。わからないから頼んだのだが結果的にそうなった
つまり弁護士は漁夫の利を得ただけである。

この世の中何かそうして富裕層に地位をるものに権力あるものが得するようにできているそして医者でも弁護しでも政治家でもそういう富裕層とか地位あり権力あるものを優先する。庶民はなるべく相手にしない、選挙の時はただ口だけいいことを言うだけなのであるこの世とはそういう場であり「悲しむものは幸いである」というとき庶民は損するのがこの世である。
医者にしても自分の場合は地位もなにもないし付け届けもしない、家族もいないからそこまで気がまわらなかった。金はあっても身寄りがないとかなると弱者なのである。
弱者に冷たいのがこの世である。

スーパードクターに頼むならそれ相応の金を払わないとしてもらえないというのもそうだろう。64才ではまだ若い、今は老人は80才以上である。
だから若い人の感覚では60以上が老人と思っているがそうでもない、60代はまだ現役である。60代が小老人、70代中老人、80代が大老人となる、この区分けが必要なのが現代である。60代は死んでもいいとかはならないのが時世である。
これからの若い人もこういう考えをもってもらわないと困るのである。
60代の婆が死んでもしょうがないとはならないのである。

いづれにしろ人間は本当にこうして命を大事にすることもわかる、でも本当に死ぬときはみんな平等である、あっけなくころりんと死ぬ、どんなに苦しんでも死んでみればあっけないとなる、それはどんな金持ちでも地位あるものでも同じなのだ。
老人になるとなにかあきらめがつくことがある。
だから飯館村の老人が全く放射能を気にしていない、水も飲んでいるし山菜も食べているそれだけあきらめがついている、どうせ長いことないなとなってあきらめがついているから住めるのである。

自分も入院二回して手術もしてひどいめにあった。研修医の実験台となって手術された。それでも医者は手術するにしても最初からうまくなるはずがないから誰かが実験台になるのである。
だからスーパードクターにしもらいたければ金払いとなるのもわかる
ただ人間の幸不幸などわからない、徳州会の徳田虎雄氏をみればわかる、病院をもっていてあれだけの治療を受けていても身動きもとれないしゃべることもできないからそれが幸福だとはならない、最高の治療を受けても直らないからだ。
結局人間の幸不幸はわからない、最後までわからないのである。

別に孤独死でも野垂れ死にでもそれがすべて不幸なのかもわからない、病院で延命治療されている方が残酷である。
結局人間はみんな死ぬということでは平等なのである。
そしてそのことであきらめることも肝要だとなる
いつまでもこの世に生きる命にこだわっているのも見苦しいともなる
金がなければないで別に‎スーパードクターにかからなくてもいいとかあきらめることも必要なのである。
ただ70以下では今はこういう心境にはならないかもしれない、今は60代はまだ老人ではないのである。女性でも若い人がいる、個人差も大きいからである。

ともかくこれからは老人の命は軽くなる、数も多いしこれ以上金をかけられないからだ。すると金をかけないで死んでくださいとなる。そういう時代である。
だからあまり命に執着するのは良くない、いづれみんな死ぬ
あっけなく死ぬ、だから老人の命は軽くなる、もう治療もしないから死んで下さいという時代が来ているのである。数が多いから老人の価値が低下しているからだ
昔だったら90とか100才まで生きれば貴重な存在になるが今はありふれているとなるとただ重荷だとなってしまう。

そして自分も10年介護をしたがこの介護の労力が並大抵のものではない、正常心も奪うのである。それで介護殺人になるのも増えているのだ。
つまり若者の将来さえ犠牲にしていることがある。それは生命の法則に反しているから
もう老人は健康でとないなら淘汰されてもしかたがないともなる時代である。
お前はそれでいいのかとなるとわからないが自分は介護も終わり健康も回復したから言えるのかもしれない、人間はやはり最後まで生きたいというのが本音だからである。
ただそうはいっても本当に死んでみると人間の命はあっけないのである。
それはどんな人でも金持ちも地位ある人も貧乏人も同じなのである。
死んでみるとあっけないなころりんと死んで終わりだなとつくづく思うからである。
posted by 老鶯 at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題

2017年05月15日

植物的なものと動物的なもの (文明崩壊が起きる原因ー原発事故も同じだった)


植物的なものと動物的なもの

(文明崩壊が起きる原因ー原発事故も同じだった)


この世界を見るとき生物でも植物があり草食動物がいて肉食動物がいる。
すると基本的には植物があって草食動物も植物を食べて生きることができるし
草食動物がいて肉食動物が生きることができる
ベースになっているのは植物である。
となると植物を栽培する農業が文明を作り基礎になっていたことがわかる
遊牧民は羊を飼うが羊は草食性であり草がなければ生きられない
つまり羊を食べて生きているがその基になっているのは草であり植物なのである。

そして肉食動物でも雑食性があるもの、熊などがまだ日本のような文明化した国で生きられるのは雑食性だからである。ヨーロッパでは熊は絶滅しているからである。
雑食性の強みは肉が食べられなかったら植物を食べるから生き残りやすい
こういうことは人間にも起きてくる、商品食物としてコーヒーばかり栽培していると
何かコーヒーが売れなくなったとか問題が起きるとコーヒーだけでは飢えることになる
現実そういう問題が起きて飢餓状態になった後進国がある。
畑でもいろいろなものを作っていれば食糧になるから飢えることがなくなる

飢饉になったとき山に住んでいる人がまねがれたというとき山の食糧となるもの山菜でも何でも食べて生き残ったということがある。米だけに頼っていても危険になる
つまりAだけに頼るのではなくBCDとかの選択があれば助かりやすいとなる
だからTPPとかなるとグローバル化経済で分業化するから日本は車だけを作っていればいいとなり食糧も自給できなくなりそのことにより飢饉とかに緊急の際に対処できなくなるそれでTPPはむしろアメリカが反対していたというのもわかる
とても国レベルになれば分業など成立しないのである。

文明というときも自然の秩序と同じようにして植物を食糧として成り立ったのである。
だから欧米人が肉食のために体から酵素を出すというとき肉食になって体が変質したともなる、肉食はどうしても人間も肉食動物化する、草食動物と肉食動物は見た感じも根本的に違うからである。草食動物は繁殖力が強いから肉食動物より弱いようで強い
肉食動物は減少の一途をたどる、また大型の象とかでも絶滅の危機になる
それは恐竜が滅びたように強いように見えても弱いのである。
結局人間は何が強いか本当はわからないのである。

人間はやはり木のように根をもつ場がないと個々人でも安定しないし文化も文明も作れないのである。
ユダヤ人が土地をもたない、国土をもたないから流浪の民となりただ金融で生きるほかなくて資本主義を産み出したという説もそうである。
ユダヤ人は土地を持たないのだから安定が得られない、ただ金だけが頼りとなるがその金だって紙屑にもなるから安定しないのてある。
江戸時代なら倉に米を貯えていた方が安心であり今でもそういうことがある。
金をいくらたくわえてもそれは債権であり貸しているとしても返されない恐怖がつきまとうのである。そこで世界恐慌が資本主義では常にあり破綻してしまう。

遊牧民は砂漠とか草原を生活の場としていたから通商が発達した。常に移動していることはすでに商人として移動していると同じだからである。
イスラムに商業が発達したのはそのためである。モハメッドも商人だったからである。
砂漠地帯に人類最古の場がありそこに一神教が生まれた、なぜならそもそも神と契約するというときそれは商業の概念がもちこまれていたからである。
契約というとき商業で絶対的なものでありそれが守れないとしたら商業は成り立たないからである。

脆弱で対処しにくい環境に住む人々は短期的には見事な成果をもたらす理にかなった解決策を採用するが長期的に見た場合、外因性の環境変化や人為的な環境変化を未然に防ぐことができなかった変化に直面したとき致命的な失敗ももたらす。

現代人-住宅所有者、投資家、政治家、大学の事務官、その他の人々-は経済が好調なうちはただな浪費をしても許される、その情況が無常あることを忘れて変動したときすでに贅沢なライフスタイルに慣れきってしかたなく生活レベルを落とすかあるいは破産するか
二つに一つしか選べないのである。
(文明崩壊ージャレド、ダイヤモンド)

現代人というとその最たるものは科学者、技術者だろう。原発事故でこの人たちのテクノクラートの権威が失墜した。
原発とういのはエネルギー不足を短期的に補うものであった。手っとり早い魔法の技術だった、それには大きなリスクがあったが無視された
そして人々はそれに頼った結果として社会自体が崩壊して放棄された、町や村がゴーストタウンになったからここで実際に起きたことであり空想ではない事実なのである。

長期的視野にたてば森林資源が日本にはあり炭焼きなどが継続する資源としてはかえって良かったとなる、そんな生活できるのかとなるがこの辺では現実問題としてそういうことがつきつけられたのである。
この辺では贅沢な生活を求めてあくなきものとなっていた。
みんないい車をもっている、田舎では一人一台車をもっている、借金しても立派な家を建てる、そういう生活を常時していると生活レベルを落とすことができなくなる。
事業に失敗した人も同じである。贅沢していたからその生活をレベル落とせない、それで今度は借金するために何でもする、犯罪だって最後にはするようになる
そんな人が自分が病気のとき介護のとき来たのだから最悪だった
もう贅沢した生活をするために他者から借金しても犯罪してもするとなるから怖いのである。
その人はまた見栄もあり成功したということに固執している、そのために借金してもそう見せているのである。

ともかくこの辺で起きたこと自分にも起きたこと原発事故でもこれは一つの文明崩壊現象なのである。それがなぜおきたかというとこの著者の提言がこの辺にあてはまる
それはここだけではない、日本全体でもそうであり世界全体でもそうである。
継続性のない科学技術に頼りすぎるとインディアンの村とは違う大規模な文明崩壊が起きてくるのだ。


根を張る一日

今日一日が静かに始まる
それはさらに大地に根を張る一日
大地と深く結びつく一日
幹を枝を造る一日
その積み重ねが大木を作る
急がずに積み重ねられるもの
そこに充実した実り
時計が刻む時ではない
一年十年単位の時
牛の歩みごとく
一日一日が大地に根を張る
そういう長い時間の中に
大地と人と人も結ばれぬ
その絆は断たれることはない
一層強固に結ばれるのみ

こういう思考は田舎から農業から起きてくる、都会では大地から離れているから起きないところがこれだけの科学技術の文明はそもそも大地から離れている
すると東京でも大都会でも大規模な崩壊が起きてくるかもしれない
電気が供給できないから原発に頼るそのために土も水も空気まで汚染されたら住めなくなるのである。その都市は廃棄されてゴーストタウンになる、この辺で起きたことと同じことが起きるのである。
そんなことがありえないと思うが現実にこの辺では起きているし事実なのである
もう町でも村でも前のようにもどらないからである。
だからそんなことは起きないということとして安心もできないのである。
つまりこの世が無常だということである。個々人でもそうであり全体でもそうである。

人間は常に変化する無常のなかにある、それをまねがれえないのである。
文明は確かに発展してもまた衰退する、奢れるもの久しからずなのである。
栄華はどこでも一時的なものである。それは世界史でもそうである。一時栄えたイスラムもあのように衰退しているしどこでもそうである。それはこの世がそもそも無常の世だからである。永続する栄えなどないのである。
ただ恒久的なものは農業にあるということは確かなのである。
確かに農業でも栄えても文明は遂に衰退して崩壊する、でもエジプト文明でも長い、千年とか普通でありそれだけ長く持続すれば十分だともなる
現代の時間感覚とはまるで違う、人間はもはや百年後のことなど考えられないからだ
今だけが良ければいい、後は野となれ山となれという今にすべてを費やす感覚である。
しかし世代はつづくしカルマは今度は子や孫やそのあとの世代に引き継がれるのである。この辺などでも原発事故のそのカルマはプルトニウムが二万年消えないとかのカルマを背負わされたのである。
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鹿島区のの独居老人死亡 ( 増える独居老人)

鹿島区のの独居老人死亡

( 増える独居老人)


コンビニにきていた這って買い物していた老人が死んだ
這っていたがコンビニの人は助けないし何もしない
それで自分が車まで助けて乗せた
車に乗れるから買い物に来れた
そして家は荒れて住めなくなって車で寝起きしていたという
その家は蔦が這って伸び放題だった

もう買い物もできない、するとどうなるのか、誰か助けなければ生きていけない
姉か妹かが東京にいたらしいが遠くて援助できない
そしてその後どうなったのか?

それはわからないが車の中で死んだのか?どうして死んだのか?
これが独居老人の恐怖である。
誰も助けない、隣近所も助けない、福祉関係が来てめんどうみたのか?
それも今はこの辺は特に人手不足だから施設に収容できたのかどうかわからない
遠くの親戚はあてにならない、そして最期は孤独死になったのか?

孤独死でも近くに親戚とか子供と兄弟がいるといい、東京辺りではどうにもならない。
ともかく独居老人は増大している時世である。
特に原発事故周辺で避難区域になったところでは若い人たちが流出して復興団地に取り残されたのは老人が多い、一人暮らしが多い
この辺では全国平均より10パーセント65才以上が多いのである。
そして介護関係とか看護師不足だから余計にめんどうみきれないとなる

そこで老人は独居老人は野垂れ死にのように死んでゆくほかない時代になる
這って歩いて買い物にしても誰も助けもしないし関心もないのである。
そういう時代になったとき放置されて孤独死が増えてくる
田舎でも隣近所などあてにならないのである。

同級の人は脳梗塞になり脚をひきづって歩いて買い物していた
あの人も車は運転できるから車できて買い物している
となると車があれば脚が悪くても買い物はできるのか?
自分のように自転車だとのれなくなったりする
歩けなくなったら買い物すらできないから一人で生活できなくなる
一人暮らしにはそういう恐怖がある。

今はとにかくそういう人を見ても田舎でも無関心である。
それで自分はひどいめにあったことを書いた。
病気になり介護になったら来たのは強盗と変わりない女性だった
そこで大金を盗られた、次は事業に失敗した人であり自分が弱ったときチャンスと借金を要求するだけだった
ただ相手も金で苦しんでいたからそうなった

こういう時代に買い物もできないような状態になったらどうなるのか?
同級の人は兄弟が近くにいて見ているからまだいい
身寄りもなにもない人はこの人のように放置される
あと来るのは金にならないかと金を求めて来る人だけだとなる

いづれにしろ死ぬ人が多くなる、十年介護していた知り合いの人もあっけなく死んだ
十年は長いなと言っていたが死んだ、それでやっと重荷から解放されたとなる
その女性も相当に疲れた感じだったからである。
自分も介護から解放されて最近余裕が出たので駅で案内などのボランティアをするようになった、それは余裕ができたからである。
介護となるとひどいのは認知症とかの介護となると24時間拘束される
何か絶えず介護している人に気を集中しなければならないから他のことができない、関心を向けられないのである。
そのことを介護が終わって気づいた
いろろいな方面に関心をもてるようになったからである。

いづれにしろ人間はあっけなく死ぬのもである。ころりんと死ぬ、そのころりんと死ぬというとき何か死というのが奇妙になる
ころりんと死んだら人間は楽になる、つまりあっけなく死ぬということはこの世の苦から解放されることなのである。
この世は苦海でありその苦海から逃れる道は死しかないともなる
それで死んでみるとなんだ、人間なんってあっけなく死ぬもんだと思う
それで気が楽になることがある、若い人が苦しいと思うのはエネルギーがあるし生きたいと思う念が身体ともに強いからである。老人は死が身近になる
なぜなら同年代でも世代的に次々に死んでゆくからである。

人間はあっけなくころりんと死ぬな

人間なんか生きているとき悶え苦しんでいるけど結局はあっけなくみんな死ぬんだなと悟りみたいものもが生まれてくる
だからこの世のことにいろいろ拘泥しなくなるのである。
孤独死でもいいや、野垂れ死でもいいや、どうせころりんとあっけなく死ぬのが人間なんだよとかなる、それで苦海から解放されるんだとなるからである。
posted by 老鶯 at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題

2017年05月14日

文明は農業文明であり遊牧民から文明は起きていない 国々の風土にあった文化が作られる



文明は農業文明であり遊牧民から文明は起きていない


国々の風土にあった文化が作られる 



文明とは何かというとき狩猟とか牧畜と遊牧民からは生まれていない、遊牧民が都市国家を作ったというとき商業をもちこんだからだろう、貨幣も遊牧民の発明だろう。
貨幣は移動するものにとって欠かせないものであるからだ、羊の頭がcapでありcapitalism-資本主義に通じているというのもそうだろう。
羊は移動して売り買いもされるからである。
また遊牧民が貴金属を財産として持ちあるくというとき持ち運びしふすいからそうなる。それは貨幣と共通しているのである。
ただ遊牧民は文明を作ってはいない、都市とは商業都市であり貿易の仲介をする場であり市場から発展したということがある。

世界史をふりかえると中東とか中央アジアは現代の世界で発展から取り残された地域となっている、でもそこはもともとは先進国だった、科学でも化学が代数学が起きた
アーチの建築とかドームの建築もイスラムから持ち込まれた、イスラム圏は偶像崇拝を禁止して厳格だから抽象思考が発達したとなる
その時ヨーロッパは辺境であり遅れていた、経済的にも商業で栄えていたのは中東である今の5ドルとかでヨーロッパ人の女性が売り買いされていたとか今の逆だったのである。

中東でもエジプト文明を継承してはいない、エジプトにはアラブ民族が移動して支配したエジプト文明を継ぐものは何ももっていないのである。
例えばヨーロッパ文明の基がギリシャにあるというとき精神的な故郷としてギリシャを見る、でも精神としてもイスラムからも技術でも文化をとりいれているのである。
ルネサンスというときイスラム文化の影響があって成った面があった

中東には先進国だったという矜持がありそれで欧米に屈折した感情をもっている、それは中国が先進国であり日本はその中華文明の派生したものだと見るのと同じである。
本元は中国にあり日本にはないという矜持と同じである。
中東の移民というときそれは単純労働者の移動であり奴隷化されたように扱われる
そうした移民は隷属されたものでありそこに不満が起きてテロになる
中東にテロの発祥地になっているのはそうした文明の発展に乗り遅れたことが背景にある自分たちは欧米より優れた文明をもっていたのにという過去の歴史から不満が爆発する
移民はただ安い労働力としてみるだけだからである。

中東とか中央アジアとかモンゴルとか遊牧民は空間的に拡大する、でも文明は作っていない。文明とは何かというときそれはただ領土を拡大化することではない、一つの世界観を作ることでありシステムを創造することである。
そのために時間が積み重ねが必要になる、そして文明というとき農業があって文明が作られている、エジプト文明でもそうであり中国でもそうでありインドでもそうである
巨大な農業国家なのである。日本でも稲作文明であり農業を基盤にした文明である。
だからこそ持続したのである。マヤ文明とかもトウモロコシを生産した農業文明である。だから寿命が長い、千年とか普通に継続するのである。

そして農業文明は時間に関心をもつ、農産物を生産するのには時間がかかる、季節の移り変わりにも敏感になる、それで天文学も発達した、マヤ文明は非常に精巧な歴を作っていたというときもそうである。時間の感覚が優れていたのである。
遊牧民だと航海民と同じように方向が問題になる、移動するから方向が一番大事になりここでも星が目印となる、特に北極星が移動の目印となった
それでそれが中国に入り北辰信仰になり韓国を経由して日本に入ってきた。
相馬藩が妙見信仰になっているけどこれも北極星のことである。野馬追いお旗印にもなっている、遊牧民では砂漠であれ水がある場所を探すことが大事になる
それが生死を分けるから信仰までなる、方向を間違うと死ぬというリスクがある。

いづれにしろ文明を形成するのは農業があってできる。農業があってこそ国の基礎ができる、今でも中東が不安定なのは農業が充実していないからである。
遊牧民は飢餓状態になりやすい、それで農業国家の中国に侵略したのがモンゴルであり万里長城がそのためにできたのである。
またインドでも農民のモラビダ族とイスラムの遊牧民が融合してできたのがインド国家なのである。
そして大国として今も継続していのは農業国家として維持できる国である。、いくら工業化してもそうである。それはローマ帝国でもそうである。ローマ人は農民でありそれで建築も質実なのである。農民的要素が色濃い文明なのである。
マヤ文明もトウモロコシ栽培を基礎にしてできた農業文明である。

現代でも大国は農業国家という面を維持している、フランスでもドイツでもそうである、アメリカさえそうなのである。アメリカは農業国家なのである。広大な領土があるから農業国家なのである。そこに強みがある。
何か工業とか技術ばかりとりあげて農業が国を作っているということを看過する
工業でも農業を基盤にしてある、工業には継続性がない、常に変化して一時的には栄えても衰退する、日本の電器製品が売れなくなったことでもわかる

文明とは何かというときトータルなものとしてある。車が作れるから売れるから文明とはならない、自然と融合してトータルな総合的なものとして文明がある。
文明と文化はまた違う、ただ文明の基に文化がある。
文化とはcultivate-cultureだからである。つまり大地を耕すことがあって農業があって文化もありえる。
だから多国籍企業のグローバル経済は文化を作らない、国々の土地土地の文化を破壊するのである。
コカコーラとかハンバーグでもそうである。食はそもそも風土が違えばみんな違ってくるが一様化されるのである。日本は海の幸に恵まれていたから肉を食べないというのもそうである。そうして長い時間の中で人間の体も作られてきた、腸が長いというとき穀物を消化するには適しているが肉を消化するには適していない、欧米人は肉を消化する酵素を体から出すから肉食に向いている。体まで風土によって違って形成されてきたのである。
それを無視するとあらゆるところに問題が起きるのだ。
発は向いていなかったのである。その後の技術的な面でも森とか山が多い日本にソーラーパネルは向いていない、地震が多い地に原発は向いていなかったのである。
風土と技術の適合性も大事だったのである。それを無視すると今回の原発事故のようなとりかえしのつかないものになる
日本に日本に向いた技術の養成も必要なのである。

建築は人間の魂をもっとも良く表現する表現する芸術形式である。樹木と良くにているからである。それを違った土地に移植するといろいろ妙なことが起きてくる
えり抜きの植木屋の一隊を連れてきて念には念を入れて栽培しないことにはもとのものとはまるで違ったものになってしまう。
(芸術の歴史ーH.ブァン・ルーン)

芸術とかそれが建築でも何でもそうだけど風土と密接に関係してできたものである。
芸術というとき絵とかももともとは建築の中に飾られるものであり一体化したのが近代は分離した。絵だけを鑑賞するということはてかったのである。

聖堂であって同時に城郭であり、学校であり、美術館であり、音楽堂であり単に魂あでなくて人間を徹底的にbuildenする場所であそれを完成する一切の設備が完備している場所である。中世では一切芸術も文学も思想も個々以外には存在せず、ここ以外からは出現しなかったろう。(ヨーロッパ遍歴ー下村寅太郎) 

そこは単なる祈りの場だけではなく総合的な当時の社会を具現化した場だから絵と建築の分離もないし音楽もない、音楽もその聖堂がオルガンでも荘厳に反響する大ホールになっていたのである。その聖堂の外の市街もまたその延長上にあるから都市が一つの全体として機能していたのである。

芸術という分野はなく社会全体の中に構築された文明としてあった。
それはエジプト文明でもマヤ文明でもそうである。全部が一つの精神で形成されているのである。その中の部分を一つを取り出して鑑賞はできないし観ることもできないものである。現代ではそうして一部を分離して観るのは世界を部分的に観ることに通じているのだ
ゴシック建築とういときドイツなどの北方の森を象ったというときもそうである。
明らかに内部は深いドイツの森でありそこにステンドグラスがあり光がさしこんでくる
天上は枝のように組まれていて森の中に入ったような荘厳な雰囲気になる
そういうゴシックは北方のドイツにふさわしく南国のイタリアにはふさわしくないのである。だからイタリアではゴシック建築を拒否したことがわかる

人間は風土性にかなったものとして文化は耕される、cultivateされるからである。
それは技術の面でも言えた、日本に合わない技術はとりいれるべきではなかった。
原発とかソーラーパネルは日本の風土にあわないのである。
そういうことは他にもある、グローバル化はそういうことを無視して文化を破壊する傾向がある。国々に土地土地に自然にあって生育するものが文化なのである。

posted by 老鶯 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

動的文明から静的文明へ (グローバル移動社会から定着文化の時代へ)



文明は農業文明であり遊牧民から文明は起きていない


国々の風土にあった文化が作られる 



文明とは何かというとき狩猟とか牧畜と遊牧民からは生まれていない、遊牧民が都市国家を作ったというとき商業をもちこんだからだろう、貨幣も遊牧民の発明だろう。
貨幣は移動するものにとって欠かせないものであるからだ、羊の頭がcapでありcapitalism-資本主義に通じているというのもそうだろう。
羊は移動して売り買いもされるからである。
また遊牧民が貴金属を財産として持ちあるくというとき持ち運びしふすいからそうなる。それは貨幣と共通しているのである。
ただ遊牧民は文明を作ってはいない、都市とは商業都市であり貿易の仲介をする場であり市場から発展したということがある。

世界史をふりかえると中東とか中央アジアは現代の世界で発展から取り残された地域となっている、でもそこはもともとは先進国だった、科学でも化学が代数学が起きた
アーチの建築とかドームの建築もイスラムから持ち込まれた、イスラム圏は偶像崇拝を禁止して厳格だから抽象思考が発達したとなる
その時ヨーロッパは辺境であり遅れていた、経済的にも商業で栄えていたのは中東である今の5ドルとかでヨーロッパ人の女性が売り買いされていたとか今の逆だったのである。

中東でもエジプト文明を継承してはいない、エジプトにはアラブ民族が移動して支配したエジプト文明を継ぐものは何ももっていないのである。
例えばヨーロッパ文明の基がギリシャにあるというとき精神的な故郷としてギリシャを見る、でも精神としてもイスラムからも技術でも文化をとりいれているのである。
ルネサンスというときイスラム文化の影響があって成った面があった

中東には先進国だったという矜持がありそれで欧米に屈折した感情をもっている、それは中国が先進国であり日本はその中華文明の派生したものだと見るのと同じである。
本元は中国にあり日本にはないという矜持と同じである。
中東の移民というときそれは単純労働者の移動であり奴隷化されたように扱われる
そうした移民は隷属されたものでありそこに不満が起きてテロになる
中東にテロの発祥地になっているのはそうした文明の発展に乗り遅れたことが背景にある自分たちは欧米より優れた文明をもっていたのにという過去の歴史から不満が爆発する
移民はただ安い労働力としてみるだけだからである。

中東とか中央アジアとかモンゴルとか遊牧民は空間的に拡大する、でも文明は作っていない。文明とは何かというときそれはただ領土を拡大化することではない、一つの世界観を作ることでありシステムを創造することである。
そのために時間が積み重ねが必要になる、そして文明というとき農業があって文明が作られている、エジプト文明でもそうであり中国でもそうでありインドでもそうである
巨大な農業国家なのである。日本でも稲作文明であり農業を基盤にした文明である。
だからこそ持続したのである。マヤ文明とかもトウモロコシを生産した農業文明である。だから寿命が長い、千年とか普通に継続するのである。

そして農業文明は時間に関心をもつ、農産物を生産するのには時間がかかる、季節の移り変わりにも敏感になる、それで天文学も発達した、マヤ文明は非常に精巧な歴を作っていたというときもそうである。時間の感覚が優れていたのである。
遊牧民だと航海民と同じように方向が問題になる、移動するから方向が一番大事になりここでも星が目印となる、特に北極星が移動の目印となった
それでそれが中国に入り北辰信仰になり韓国を経由して日本に入ってきた。
相馬藩が妙見信仰になっているけどこれも北極星のことである。野馬追いお旗印にもなっている、遊牧民では砂漠であれ水がある場所を探すことが大事になる
それが生死を分けるから信仰までなる、方向を間違うと死ぬというリスクがある。

いづれにしろ文明を形成するのは農業があってできる。農業があってこそ国の基礎ができる、今でも中東が不安定なのは農業が充実していないからである。
遊牧民は飢餓状態になりやすい、それで農業国家の中国に侵略したのがモンゴルであり万里長城がそのためにできたのである。
またインドでも農民のモラビダ族とイスラムの遊牧民が融合してできたのがインド国家なのである。
そして大国として今も継続していのは農業国家として維持できる国である。、いくら工業化してもそうである。それはローマ帝国でもそうである。ローマ人は農民でありそれで建築も質実なのである。農民的要素が色濃い文明なのである。
マヤ文明もトウモロコシ栽培を基礎にしてできた農業文明である。

現代でも大国は農業国家という面を維持している、フランスでもドイツでもそうである、アメリカさえそうなのである。アメリカは農業国家なのである。広大な領土があるから農業国家なのである。そこに強みがある。
何か工業とか技術ばかりとりあげて農業が国を作っているということを看過する
工業でも農業を基盤にしてある、工業には継続性がない、常に変化して一時的には栄えても衰退する、日本の電器製品が売れなくなったことでもわかる

文明とは何かというときトータルなものとしてある。車が作れるから売れるから文明とはならない、自然と融合してトータルな総合的なものとして文明がある。
文明と文化はまた違う、ただ文明の基に文化がある。
文化とはcultivate-cultureだからである。つまり大地を耕すことがあって農業があって文化もありえる。
だから多国籍企業のグローバル経済は文化を作らない、国々の土地土地の文化を破壊するのである。
コカコーラとかハンバーグでもそうである。食はそもそも風土が違えばみんな違ってくるが一様化されるのである。日本は海の幸に恵まれていたから肉を食べないというのもそうである。そうして長い時間の中で人間の体も作られてきた、腸が長いというとき穀物を消化するには適しているが肉を消化するには適していない、欧米人は肉を消化する酵素を体から出すから肉食に向いている。体まで風土によって違って形成されてきたのである。
それを無視するとあらゆるところに問題が起きるのだ。
発は向いていなかったのである。その後の技術的な面でも森とか山が多い日本にソーラーパネルは向いていない、地震が多い地に原発は向いていなかったのである。
風土と技術の適合性も大事だったのである。それを無視すると今回の原発事故のようなとりかえしのつかないものになる
日本に日本に向いた技術の養成も必要なのである。

建築は人間の魂をもっとも良く表現する表現する芸術形式である。樹木と良くにているからである。それを違った土地に移植するといろいろ妙なことが起きてくる
えり抜きの植木屋の一隊を連れてきて念には念を入れて栽培しないことにはもとのものとはまるで違ったものになってしまう。
(芸術の歴史ーH.ブァン・ルーン)

芸術とかそれが建築でも何でもそうだけど風土と密接に関係してできたものである。
芸術というとき絵とかももともとは建築の中に飾られるものであり一体化したのが近代は分離した。絵だけを鑑賞するということはてかったのである。

聖堂であって同時に城郭であり、学校であり、美術館であり、音楽堂であり単に魂あでなくて人間を徹底的にbuildenする場所であそれを完成する一切の設備が完備している場所である。中世では一切芸術も文学も思想も個々以外には存在せず、ここ以外からは出現しなかったろう。(ヨーロッパ遍歴ー下村寅太郎) 

そこは単なる祈りの場だけではなく総合的な当時の社会を具現化した場だから絵と建築の分離もないし音楽もない、音楽もその聖堂がオルガンでも荘厳に反響する大ホールになっていたのである。その聖堂の外の市街もまたその延長上にあるから都市が一つの全体として機能していたのである。

芸術という分野はなく社会全体の中に構築された文明としてあった。
それはエジプト文明でもマヤ文明でもそうである。全部が一つの精神で形成されているのである。その中の部分を一つを取り出して鑑賞はできないし観ることもできないものである。現代ではそうして一部を分離して観るのは世界を部分的に観ることに通じているのだ
ゴシック建築とういときドイツなどの北方の森を象ったというときもそうである。
明らかに内部は深いドイツの森でありそこにステンドグラスがあり光がさしこんでくる
天上は枝のように組まれていて森の中に入ったような荘厳な雰囲気になる
そういうゴシックは北方のドイツにふさわしく南国のイタリアにはふさわしくないのである。だからイタリアではゴシック建築を拒否したことがわかる

人間は風土性にかなったものとして文化は耕される、cultivateされるからである。
それは技術の面でも言えた、日本に合わない技術はとりいれるべきではなかった。
原発とかソーラーパネルは日本の風土にあわないのである。
そういうことは他にもある、グローバル化はそういうことを無視して文化を破壊する傾向がある。国々に土地土地に自然にあって生育するものが文化なのである。

posted by 老鶯 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

2017年05月13日

相手の価値を認めないと共同はできなくなる (弱みをもつと人間は正常心を失う)


相手の価値を認めないと共同はできなくなる


(弱みをもつと人間は正常心を失う)


鹿島駅前の鈴木食堂に行く人がいる、ちょっと離れているので場所がわからない、離れているといってもすぐ近くだけとはじめての人には場所がわかりにくい、それで若い女性が来たので教えた、時々そうした案内がある。
何かそれだけでその若い女性は帰りもあったからありがとうと言っておいしかったというそれだけで感謝されるのかというのも意外である。
何にも言わない人もいる、そして今日頭に来たのはそんなことしても無駄とか必要ないという人である。
その人は畑をしている、でもその畑から何かもらえればいい、何にももらったことがない苦情だけは聞いているし農業のことを理解することにはなる
考えてみるとそういう畑をしていても誰も感謝しないことの不思議である。
それは別に金にならないことでも有益である、荒地にしておくよりはいいからだ

でもなぜその女性が駅で自分がしていることを認めない、無駄というときどういうことなのだろうかとなる。
その人には相当に援助しているけどその仕事は自分でもできるから必要ないのである。
今になると自分は常に弱い立場だったから理不尽なことでも不満でもどうにもならなかった、結局その弱さに常につけこまれてきたのである。
弱みをもつと結局不満でも何も言えないのである。
だから借金している人はその弱みにつけこまれる
それか人間の悪質さである。その人もまた常に弱い立場にあり苦しんできた人ではある

道案内しただけで感謝されるのにその人は無駄とかしなくてもいいとか言うときどうなるのか?
相手のしていることの価値を認めないときどうなるのか?それは金銭の問題ではない
むしろしなくてもいいことに金を払っている、同情もしてきた。
しかし自分が駅でしていることを無駄だとかしなくてもいいとか言うことは何なのだとなる
そうなら道案内して感謝されるだけでもそっちの方がましだとなる
金も払う必要がないからだ、その人は別にしなくてもいいことで金をもらっているともなるからだ、その金でもシルバーセンターのような安いのならいいがそうでもない
その人は主張する女性だからいい面がある。
しかしこっちでは金を払っている、でもそれは当然であり感謝などしない、仕事していると思っているからだ。それはしなくてもいい仕事なのである。

それなら道案内して駅で案内して感謝される方が自分にとっては気分いいとなる
人間はボランティアしている人でも何でもその人のしていることを否定されたらどうなるのか?
ボランティアなど格好つけているけど無駄なことが多いんだよな、自己満足すぎないんだよなとか見る人もいる、自分もそういうふうに見ている面はあった
でもボランティアにしてみれば全く自分のしていることを否定されたことになるから怒りにもなるだろう。
なぜなら実際に感謝している人がいることもある。他から見てわからないからだ。

ある人から見れば詩など書いても絵でも理解しない人には無駄だとなる。
でも資本主義社会では金になることは価値が認められたことなのである。何でも売れなければ金にならなければ価値がないものとみなされる社会である。
でも相手がありがとうということは価値が認められたことなのである。
それはささいなことでもそうである。
だからそんなことしても役に立たないということが納得いかないのである。

ともかく自分は介護はじめてから十年間は弱みにつけこまれてきたのである。
なんか今は確かに一人ということ自体弱みではある。でも今は他者に頼らなくても一応自分でできる。介護するとか病気だとか金がないとか人間は様々なことだ弱みをもつ、するとその弱みにつけこまれて奴隷化されるということがある。
病院では医者とか看護師に何も言えないというとき病気であり弱みをもつからである。
そういうことが世の中には常にある、相手が弱みをもつことはその人の上に立てることになるからだ。何か何でもそうなると要求しやすいのである。

いづれにしろ道案内でも感謝している人がいるのにその人はそんなの無駄ということは何なのだろうとなる、それなら感謝される人に尽くした方がいいとなる
自分はいつのまにか奴隷化されていたのである。何も言えなくなっていたのである。
それが今になると別に頼らなくてもいいとなると弱みにつけこまれる必要もないとなる
なんか介護などしていると人間が異常化してくる、病気になっても借金しても他にいろいろなことで人間は正常心を失ってしまうことがあるだろう。
戦争していれば人が死ぬの当り前だからそういう異常な環境で正常心を失うのである。
それも怖いことである。夫婦でもDVなどでもそれが日常化して慣れてそれが普通だとなるとしたら怖いとなる。

弱者化されることに気づかない人もいる、たいがい人間はいいように使われるのが普通である。カルト宗教団体に入るのも弱みがもつからである。左翼関係でもそうであり貧困ビジネスもある。極端な貧乏をとりあげてそれで社会に訴える、それが金集めの手段にもなる
人は何でも人を安くいいように使いたいのである。それは結局人間がなんらか弱みをもっているとそうなる、その弱みにつけこまれていいように使われるとなる
除染であれ建築現場でも正規でない人は何か事情があってくるから賃金の不払いとか安く使われる、暴力団が介入してくるとかある。
ブラックユーモアなのはアメリカの刑務所で安くこきつかわれている人たちである。
これも弱みをもっているから資本家に安くこきつかわれるとなる
そういう仕組みを作り出しているのか資本主義といえばそうなる

逆にカルト宗教団体とか底辺層を相手にする団体でも左翼でも人の弱みにつけこむともなる、それで勢力を拡大する、そういう弱みをもった人は強力な会員に鳴りやすいということである。
要するに人間は弱みをもつと頼らざるをえないからそこに歪みが生まれる
別に金をもっていれば嫌な仕事などしなくてもいいのである。
ともかく人は何らかの弱みをもくそれで心も実生活もゆがめられているのである。
雇われている人でも別に金があれば雇われなくてもいいし相手に何を言おうといいわけである。その人も雇われているとなると弱みになる。
人には人の価値観があるから別に何を無駄だ、そんなことしても価値がないということは言えるのである。
そうならあなたはそのように生きなさいとなる、別に相手の価値など認めなくてもいいわけである。
では人を雇うというとき実は雇う人も一人でできないとか弱みをもっているからでもある機械でやれるとか自分一人でやれるとなれば別に雇う必要もないのである。
自分の場合は弱みをもったから様々なことでそう強いられたのである。

人間は意外と価値観の対立は深刻である。グローバル化したときなぜ移民問題などでうまくいかなっかったのか?
イスラムとの価値観をキリスト教圏ではできないということもあった。
その価値観の対立の故に共同できないということがあった、一見自分のしていることの否定はささないたとでもそういうことで必ず人間は対立が起きる
それは家族内でも起きている、自分の母親は貧乏だったから花にも興味もないから庭作りしたとき木を植えたらそんなものいらない、金がかかるからいらないと言い続けていたのである。母と子だってそうした価値観の対立があり世代間でもありそれで共同しえなくなるのである。だから価値観の対立はささいなことでも深刻になり共同しえなくなり分裂することにもなる。

posted by 老鶯 at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2017年05月12日

初夏(小池の横峯堤(つつみ)は広い)


初夏(小池の横峯堤(つつみ)は広い)

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寺内の横峯堤

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パノラマ写真-クリック拡大

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小池の墓地とコモドインホテル



葉桜の風にそよぎて小池かな

葉桜の影や小池の墓地の朝

八輪の牡丹の散りし虚ろかな


知る人の今日も畑にありにしを我は成すじも実りを思ふ

八輪の牡丹の散りてそのあとに緋色の牡丹我が家に見る

横峯の堤の広く藤の花隠し田なれや朝風涼し

白藤の咲きにし家や今日来ればはや散りにしを街にもどりぬ


小池の横峯堤は広いから気持ちいい、そこに隠された道があり堤の反対側に行くと
小道があり田んぼがあった、藤の花も咲いていた
別に堤がありこの田んぼのために作ったのか、そこには田が二三反なのかあった
ともかく日本は田を作る、狭い所でも田を作る、そうすれば米がとれるからである。
あそこは隠し田のような感じにもなる、日本ではあのように隠れるようにしてある田が多いのである。
こんなところにも田があるのかとなるのが多い。

小池も変わった、未だに仮設もありプレバブの宿泊所がまたできたりあのコモドインというのが一番この辺では意外なものだった
あれでも最新のホテルなのである。復興用にしてもホテルまでできるとは思わなかった。あそこのカレーはうまい、料理人が朝食と夕食を出しているからだ
食事が出るということそれが料理人がいて出しているからいい、普通はビジネスホテルとかなると食事は出さない、復興用だから食事が必要となるからかもしれない。

今や夏になった、暑いので熱中症気味になる、今年咲いた八輪の牡丹は散った。
そして鉢植えの緋色の牡丹が咲いた、今の時期いろいろな花が咲く
知っている人は毎日畑に行く、暑いときは朝に行く
でもそこで何がとれているのかほんのわずかなのである。
その人自体ほとんど野菜でも買わなければ生活できないのである。
その金を誰が供給するのか?

ただ豊かになるとベーシックインカムが現実味を帯びてくる
無理して嫌な労働はしない、それでも人は生きがいを求めるし労働をすることは確かである。それが暇になった退職したシニアがボランティアを求めていることでもわかる
毎日何もしないということに何か社会にとって無用にされることに耐えられないからだ
高齢化社会の問題はその数が多いということである。
その数の多さが圧力になる、高度成長の時は団塊の世代は数が多いから活力となったのである。高齢化社会でも同じなのである。

鹿島でも本当に変わった、寺内の孟宗竹の林も切られた、整地して売り出してまた家が建つのだろう。とにかく新しい家が次々に建つのである。
その新しい家が何百軒ともなっている、だから何か都会化したのである。
それでももともと一万くらいの町だから自然は豊かだとなる

今日鹿島駅で東京から来たのは鹿島カントリークラブに来た人である。
一年に一回くらい来るという、あそこはいいですかというと環境的にいいという、
東京から来るとなると金持ちなのだろう。
それでも金を落とすからいいともなる、仮設の人が金が入って消費しているから助けているのよというとき今の時代だったら原町まで4000円でタクシー利用してくれれば会社では助かるともなる
でもその金がいつまでつづくのか?年金とも違うしいつれは枯渇する、その時どうなるのかと思う。確かに小高の人が国民年金ではやっていけないから生涯補償する年金をもらいたいというのは誰でもそうなのである。
でもそれなら南相馬市全部で要求すれば文句は言わないが小高ばかり要求したら不公平だとなる、それは前からももめていたことだからである。


2017年05月11日

老鶯、夏の月(里に老いる)


老鶯夏の月(里に老いる)


老鶯や共に老いゆく里のあれ

老鶯や堤の広く里暮れぬ

田の増えて蛙も増え鳴く夏の月


今日の夜は夏の満月である。そして鹿島区では田んぼが増えた、だから蛙が増えて鳴く声も騒がしくひびく、田んぼが増えると蛙ももどってくるのである。
去年よりもまた増えているから農業も相当復興している、ただ山の方は田んぼにしているのはまだ少ない、田畑でももう跡継ぎがない所は荒地のままでありそれは別に利用するようになる、大きな畑にした所は会社経営にするとか言っていた。
小高ではそうするというとき個人の家ではやれなくなっているからだ

横峰の堤は広々としている、そこに夏になれば老鶯が鳴く、夏鶯と老鶯の受ける感じは相当に違う、老鶯というときどうしても老いたなるから老人をイメージするのである。
だからこの俳句もできた、高齢化社会というのはこれからさらに社会の問題になる
そもそも高齢者多いということはそれだけ社会全体に圧迫する、人口圧力が大きくなる
すると社会全体が高齢化社会になるのだ。若い人は何かかえって目立たないのである。

団塊の世代は若いときは今とは全然違う、暴力的になったとしてもその若いエネルギーが社会に噴出していたのである。それだけ若い人が多く日本は若い社会だったとなる
高齢化社会になるとこれは未だ経験しないものであり社会自体が高齢者に老人基準になるのである。それは停滞した活力のない社会ともなるがまた反面落ち着いた社会とか今までにない社会になる。

老いゆくというときどうしても共に老いるということで長く住んだ所に老人は住みたいのである。老人になるとなかなか新しい場所でも知己でも得にくいのである。
ただ別に老人になってもかえって今まで知らない人とも交わるのも増えている
老人ホームに入ったらそこでは今まで知らない人たちが一緒に暮らしたりしているからである。

この辺は小高とか浪江とかの老人と知り合うようになったのもそうである。
普通だったらあまり交わらないからである。元の相馬藩内で人が交わるようになったのである。近くの仮設に住んでいるから当然そうなる

老いるというときやはり里に老いるというのが自然である。
その里というとき街ではない、田んぼとか畑とか自然な生活のある所である。
そうなるとこの辺でも原町とかなると大きな街になるから里とはならない
鹿島、小高はまわりが田畑がら一万くらいの町だと回りが里になっているのである。
だから原町とか相馬市に暮らすのとはまた違った感覚になるのだ

前にも詩にしたが森の樹々がともに年輪重ねて老木となりやがて森に倒れ木となり還ってゆくという感じになる、ともにそこに年月を重ねた木なのである。
そこに木の連帯感が生れていたのである。


老木の語ること(詩)
http://musubu2.sblo.jp/article/169729214.html
タグ:夏の月 老鶯

今日の鹿島駅 飯館村の人と小高の人と話する


今日の鹿島駅

飯館村の人と小高の人と話する


実家が鹿島にある女性が来ていた。そういう人は多い、町の変わりようなどを説明する
飯館の蕨平の人がまた来ていた、鹿島にある競輪の券の売り場にゆく、あそこには定期的に来る人がいる、タクシーで行くからそれなりに収入にはなる
あそこができるとき反対する人たちもいたがおしきられた、自分も反対の方だった
それでも仕事ができるとか人が集まるとかで賛成した
底辺で働く人はあそこで掃除の仕事ができるからいいとか言っていた
底辺だとそういう発想になるのだろう。だがらの悪い人も来る
でもこのギャンブルだけは人類からなくすことはできないだろう。
なぜ寺が博打場になったのか?寺銭が払われたのか?
これも何か人間の業みたいなものなのかもしれない、酒とかもそうでありやめることができない、貧乏なときは酒は栄養補給だったのだろう。
タバコもやめることができない、でも阿武隈山地は葉たばこで生活できていたのである。

飯館の人は今回は釣り竿を三本くらいもってきていた、釣りもしていたのである。
海の方だと満潮のときでないとだめだという、満潮の時期を新聞など調べて行くという。なんでも最近、ホッキガイとか牡蠣などもとれたという、松川浦の人は85歳で牡蠣を震災後も食べていた
その人も飯館村の放射線量が高いことを知っていても平気で飲んでいるという。
全然気にしていない、老人は関係ないんだよとなっているからだ
今回の放射能汚染で老人は影響を受けないのである。
だから避難しても帰るというとき故郷への住み慣れた所へ帰るということもあるが放射能をこのように全く気にしないことも原因しているのである。
確かに85歳なら放射能など関係なくなるからだ

飯館村では大きな川がないけど岩魚がとれるの?と聞いたらとれると言った
かえって細い川がいいんだよ、岩魚はそういう所を好む、岩魚を釣れる人は上級者だよと言っていた。
飯館村には大きな川がないのである。細流はある、自分がいつも行っていたのは大倉から峠を越えて飯館村に入る場所だった、そこには家が二三軒あったが一軒が廃屋になり
一軒が残っていた、その時そこは森につつまれていて人が通れる道があってもめったに通らない神秘的な場所だった、そこにはきれいな水が流れていて岩魚がひそんでいたというでもその岩魚を見ることはできない、今は舗装した道ができてその神秘的な森につつまれた細流はなくなった、でもその細流は今も流れている
ヤマメは橲原(じさばら)の水無川の上流の八木沢峠の麓の川に行くと深い淵があり泳いでいるのを見たことがある。
あそこは今は放射線量が高く避難区域になって空家になっている家がある

大石の裏にできたたるみや、岩の下にあるえぐれ、倒木などの障害物の周囲にできる緩流帯はイワナの好む緩い流れと隠れ場所を兼ね備えた高ポイントとなっている場合が多いのです。

水が少ない場所でも生きていけるように、歩くことができます。歩くと言っても、前びれを上手に使い、身体をくねくね動かして、水のない場所も移動します。

飯館村に住んでいる人に直接話を聞くことはなかなかできない、ただそこに住んでいる人は確実にその土地のことを知っているから聞いてみる必要がある。
山には山の暮らしがある。岩魚でもとれれば食料にもなるからだ
自分はそうして釣りとか農業に実際にたずさわらない、そこに自然をみるとき欠けたものになる、実際に釣りとか農業をすれば自然に直接接するから自然により深く知ることになる、それで釣りをしながら山村を歩く哲学者がいたということもうなづける
釣りは自然と接するものとして有効なのである。
ただ自分に釣りは向いていない、自然が好きとしてもじっとして待っているのが嫌なのである。何かすぐに動くのがいいのである。だから自転車で次々に回ってゆくとなる
でもそれも自然と接することなのだが釣りは明らかに自然と融合するものになる
ギャンブルよりは趣味としてはいいのである。

今日は小高の人にもあった、小高の人はやはり金をもっているのだろう。
その人は車がないので原町に良くタクシーで行っていたという、原町までタクシーで入ったら4000円くらいとられた、だからやはり小高の人は補償金で金が今はあるようだ
ただこれからは金が入ってこないのだからどうなるのかとなる
その人も老人だから働くつもりはない、そういう環境で働く気もなくなったのである。
でも働ける人は働いた方がいいよとか言っていたのも矛盾である。

そのうち小高に帰って住んでいる人が駅に来た、仮設の仲間だった人である。
その人は原町とか鹿島のスーパーでも買物に来ている
小高にはスーパーがないのだから買物に来る、鹿島でもキクチスーパーが新しくなりシシドスーパーもできたから買物はできる、シシドスーパは原町にはないからである。
シシドスーパーはもともと卸屋だから新鮮なものを売るから評判が良かったのである。
小高の人は今仮設に残っているのは一割くらいである。
いつまでいられるのか?まだまだいられるみたいだ
でもその人が言うには仲間が減るとやはり小高に帰る人も増えてくるという、仲間が残っているとまだ残る人がいるという、それも六年間もいて親しくなり仲間となったからである。

ともかく駅にいろいろな人が行き来して集まるのである。
山梨の人は弁護士の事務所で助手みたいなことをしているみたいだ
その人も定期的に通っている、事業をしていた人だから事業のことなど人を使っていたからそうした人事にも詳しいのである。
そして言っていることがまともなのである。補償金でもちゃっと使い道を決めさせて与えないとただ浪費するだけになるとか人にはそれぞれの生活があれその分を越えた金をもらうとどうなるか、金銭感覚が狂いその人の生活を乱してしまうというのもそうである。
思わぬ大金が入ってきていいようでもそれで贅沢して浪費して終わりになるしもう金があるからと働かなくなるというのもそうである
この辺は実際にそうなってしまったからである。
あの人は経営者として失敗してもそういう人事の経験を積んでいるからまともなことが言えるのだろう。
大阪の人は何でもあからさまに言うけど本当に相手を助けるときは本気で助けるという。そういうことはやはり様々な人を使っていたから人に詳しくなる
ただその人は裏切られてそのことがショックで人を信用できなくなったのである。
自分もそうなったから同じ経験をしたからその人のことを理解できるのである。

ともかく駅は様々な人が行き来して集まる場所なのである。
今日は南相馬市のリサイクルセンターの近くの会社の人も来ていた。
東京からは清水建設の人が三人くらい来た。
清水建設の事務所はまだ鹿島区にあるからだ
まだ外からの人も来ているのである。それで前より仙台を行き来する乗客が三倍に増えたというのもそのためである。

いづれにし老人が多く集まるというときこの辺は他より10パーセント65歳以上が多いのである。それと仮設に住んでいる人も老人が多かった、だから老人は暇だから川子のパークゴルフ場に百人もいたように暇な老人が集まるからそうなるのである。
ボランティアを求める人も退職した人が多い、この辺に小高でもまだボランティアが来ているからだ。それはどういうことかというとむしろその要望があるというよりボランティアをしたいという人の要望の方が大きいのである。
道路公団に勤めていた人は道の脇を何か探していたのもそうである。
道路公団に勤めていたからそういうことをしていたのである。
自分も介護が終わり余裕ができると関心がいろいろな方向に向く

この辺は実際は自然でも豊かであった。釣りをすれば魚の生態系とかに興味をもちひいては自然を深く理解することになるのである。
つまり旅をしなくてもこの辺はもともと自然が豊かだから発見がある
だからわからないことも多いのである。飯館村は広いからそうだった
隠された知らない細流が他にもあったとなるのである。










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浪江の山林火災で放射性量は上がっていた (常に隠蔽されるごまかす体質は変わらない)


浪江の山林火災で放射性量は上がっていた

(常に隠蔽されるごまかす体質は変わらない)



東京電力福島第1原発事故に伴う帰還困難区域に指定されている浪江町井手の十万山で起きた山林火災で、 
県は9日、周辺3カ所で8日測定した大気中を浮遊するちりの放射性セシウム137の濃度が前日の約3〜9倍に上がったと発表した。 

配信 2017年5月10日 

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浪江の山林火災で放射性物質が拡散して放射線量が上がった、やすらぎ荘で9マイクロシーベルとになっている、これは今だと高いとなる
そもそも飯館村でもあれだけ高かったのに草野で7マイクロシーベルくらいあったのにその半分以下とかなっている、0・5とかになっている
それがなぜなのか?除染した結果なのか?
ただ森の中は3マイクロとかありそれは変わっていない、森の周辺の樹木を切って除染した。でも森があるとそこから放射性物質が流出する
山林の放射性物質の放射線量は変わりない

放射性物質は減るのはセシウムだったら30年後でありその間減らない、ただ除染すれば減る、でも山林は除染できないことで浪江の山林火災でまた放射性物質が拡散した
除染するにはどうするのかというと泥ととか土についているからそれを除去する
溜池を今は泥と水を分離して除染している
でも回りから放射性物質の泥がまた流れてくると同じになる
それでも数学的には放射性物質が一定数ばらまかれたというときその一定数が変わらないその一定数を減らすには除染する他ないとなる

部屋の中の放射性物質は減らないのは除染できないからである。
屋根とかは洗い流して樋とか土にたまった放射性物質をとりのぞき減った
山林は除染できないからそこに一定数放射性物質が残存する
だからこれほどやっかいなものはないのである。

モニタリングポストの値は下の土をとったりして設置されているし低い、モニタリングポストの近くでも倍とかありだから倍とかにして見ないとわからない
飯館村で0・5でも実際は1以上になっているから今では高いとなる
0・23以下が住める基準になっているからだ。

なんか放射性物質とか考えると数学的思考が身につくともなる、そもそも数値でしか計り得ようがないからだ。だからこの辺では放射能に興味をもつ子供でも若い人でもでてくることは確かである。現実にこれだけ被害があるからそれが直接かかわるからである。

原発の問題は浪江の山林火災でも同じようなことがおきた

放射性物質は拡散しないから安心してください

こうしたことが福島県の広報で発信された、原発も爆発したとき御用学者がメルトダウンはしていなとしきりに言っていたが嘘だった
今回も同じだった、真実を報道しないでただ安全です、安心してくださいという報道になったのである。
原発はこのうよに常に少しでも不安を与えることに異常に過敏なのである。
そこで真実の報道はおさえられ、安心です、安全ですという報道になる
それこそ「安全神話」を作ったことでもわかる
そして事故が起きるということも言えない、科学的合理的なことも追求されずねじまげられて報道される、そんなわからない危険なものには手を出すなとなる
原発にたずさわるもの科学者でも常におびえているからそうなっているのだ。
いくら安全を唱えても科学者でも不安がありそれでなんとか科学的合理的な追求ではなくごまかそうとする、それが原発にかかわるものの体質となっていたのである。

別に一部で放射線量が上がったとしてもそれを正直に発表すればそういうことはない、でも必ずごまかすからかえって信じられなくなりみんなを不安にととしいれているのであるかえってそのことが不安を拡大させている、不安になる人はその結果かえってふえる
不安になる人は東京でも九州辺りのペットボトルを飲むとかなる
そもそもモニタリングポストがその数値をごまかすものとして置かれていたのである。
だから何を信用していいかわからないのが原発だったのである。

つまり何か原発で起きるときメルトダウンはしないとか今回の火事でも放射性物質は拡散しなとか報道する、そういう体質は変わらなかった
だから今ある原発でも同じであり常に隠蔽されるし安全だ、安全だとごまかしてでも言っていなければならない、そこが原発の最大の問題だったのである。
そのことで拡散することを指摘した新聞社に謝罪させているというのも同じ体質である。
真実の報道をさせないのである。
原発の問題はそういうことが積もり積もって大事故につながっていたのである。
そもそも隠蔽されて真実が追求できないようになっていたからである。
「安全神話」つくれるほど強大な権力をもっていてタッグを組んでいたからできたことだったのである。




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2017年05月10日

原発事故が現代に問うたもの (苦闘に生きて死んだ戦前の農民ー猪狩満直など)


原発事故が現代に問うたもの

(苦闘に生きて死んだ戦前の農民ー猪狩満直など)

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そもそも自分は農民でもないしまずそうした戦前のどん底の貧乏の農民を理解できない
また戦争で死んだ人たちの苦しみも理解できない、何か理解するというとき同じような体験をしたとき理解できる
ある人は10年夫を介護していた、その時自分も介護していた
でも話したこともないから自分も相手のことは知らないからその苦労も知らない
だから相手も無関心だったし自分も無関心だったのである。
ただ互いにそのことを知ったとき同情しあわたのである。

貧乏でも貧乏を体験しない人はいくら本を読んだとしても理解できないのである。
何かをそのことをイメージしようとしても甘いものとなりできない
だから昔でも歴史でも常に人間は今の生活からしかイメージできないのである。
そこに錯覚が生れる、過去は何か今の生活からみるといい面だけを見るようになる
今からすると自然環境は良かったから昔の方がいいとかなる
でも現実にそこに暮らす人は食うや食わずだったとなりこんな所嫌だとなる
タイムマシンに乗って過去にさかのぼればそうなってしまう
そこは今から比べるとあまりにも過酷な世界なのである。

北海道の開拓にしてもあまりにも過酷でありだから
火のような呪いがあると満直が詩にした、そういうことばぎりぎりの生きる死ぬかのなかで生れた言葉である。普通呪うなどあからさまに言わないからである。
そこまで厳しい生活だったということである。
それは観念的には全く理解できない世界である。

戦争というのも何か美化するようになるけどあまりにも過酷な経験である。
だから姉は従軍看護婦として赤紙一枚で戦地に送られた
四年間シンガポールに今のマレーシアのジョホールバルで過ごした
死ぬときまで何かうなされるようにしてそのことを語りつづけていたのである。
それだけ忘れられない過酷な経験だったからそうなった
そういう過酷さをもう楽な生活をしている現代人には理解できないのである。
もちろん現代には現代の苦しさがありそのことを訴える
でもその時代の過酷さはとても現代では理解できないのである。

だからそういう人たちのことを書くとなると体験がないから書けないとなる
ただ原発事故でそういう農民であれそのことが何を今に語るのかと問われた
今は農業は辛いし金にならないからと常に否定的になり誰も跡も継ぎたくないとなった
親から農業だけはやるなと殴られたとしてその人は原発や建築現場で働いた
猪狩満直の時代はそもそも農業しか仕事がなかった
わざわざ北海道のような所に開拓には入らないが戦前までみんな農業しか仕事がない
そのことが戦争の原因にもなっていたのである。
満州に日本が進出したのは広大な土地を得て農業するためだったのである。
それであの寒い地で米まで作ろうとしていたのである。
農業には土地が必要だから満州に進出したのである。
その後も戦争が終わってもブラジルとかに移民したのも農業するためだった

ところが日本が工業化してゆくと農業に従事する人はどんどん減っていった、今や一割にもみたないし全体の生産額でもそうである。
そういう時代になると誰でも金になる仕事につきたいとなり会社勤めになる
田舎でもほとんど会社員であり農業だけで暮らしている人は一割にも満たないのである。だから人間は時代に適合して生きざるをえない
だから奇妙なのは山尾三省のようになるとパンも食べないとかなるとそれは何なのだ
テレビで良くやる貧乏を見せるための演技なのかとなる
この豊かな時代にパンも食べないとか食べるなとか何なのだとかかえって批判される
そんなことを受け入れる人は今の時代にはいないからである。

山尾三省と猪狩満直とか三野混沌などと昔の農民と比べるとまるで違ったものである。
それはまず観念的に自然と共生する思想があってそういう貧乏な生活を試みたのである。一方で猪狩満直とか三野混沌などはただぎりぎりで必死に貧乏を生きざるをえなかったのである。だからその貧乏を呪うとまでなっていた
それほど過酷だったからである。
自分もまた自然とか農業でも観念的に見ているのである。

では現代にそういう過酷な過去を生きた人たちは何を問うのかとなる
原発周辺はあまりにもその逆だったのである。
漁師は漁師で海を漁業権を売り渡して原発御殿を建てて贅沢していたし
飽くことなく現代の贅沢を求めていた、その欲は限りないものとなっていた
それはもう手段を問わないのである。原発が金になるならいい、それで景気が良くなるならいいとしかないのである。
借金して家を立派な家を建てる人が本当に多い時代である。
借金してまで贅沢したいのが現代である。猪狩満直は粗末な小屋に住んでいた
食うや食わずの生活だった、そういう農民が多いのが戦前だった
その生活の差があまりにも大きいものだった

だからそういう昔の人たちは現代の生活をみてどう思うのかとなる
この生活は何なのだと思うだろう、俺は食うや食わずで最後は病気で死んだ
ここの暮らしは何なのだ、こんな世界がありうるのかとなってしまう。
今から過去へイメージすることは現実にあったことだし一応記録もあるからイメージはできる、でもまた未来となるとこれはイメージできないのである。
ただ農業というのが楽ではないことは変わっていないのである

でも趣味でやっている人がいくら苦労を言ってもそれで生活するわけでもいな、みんなスーパーで買って暮らしている、野菜でもそうである。
だから金なくしては野菜も買えないし暮らしていけないのである。
それにしても人間の不思議はそんなぎりぎりの生活でも希望をもっていたということである。
余りにも満たされた生活では人間は自堕落になり希望すら失うというのも逆説なのか?

原発事故で避難した人たちが苦しいというけども毎日パチンコとかギャンブルしている人がどこが苦しいのかとなる、その人たちに言い分があってもそうである。
6年間はほとんど遊び暮らす楽な暮らしだったなと見るのである。
それは過去の過酷な生活を比べることやシリア難民とかと比べることはできない
それにしても自分は介護していたしその回りでも苦労していた人たちはいる
それを自分たちのみが苦しいと訴えていたのも納得いかなかったのである。
そしてなぜ同情しないのかと怒りになっているのも納得いかなかったのである。

その前にそもそも原発を誘致して贅沢をしたいということがありそれが事故となり漁業でも農業そのものもを破壊されてしまったとなる
その農業などでも飯館村などでは回復不可能にもなっている
水さえ飲めないとまでなっている、それは何なのだろうとなる
そして若い人が流出してもう町も村も維持できない状態になっている
飯館村ではこのままでは1000人くらいになるという、それも老人の割合が半分以上だからどうして村が維持できるのかという深刻な状態に将来なる
そこには希望もなにもなくなってしまうのである。

どんな時でも 仲間よ
俺たちは俺たちの瞳のような子供のあることを忘れはしないだろう
どんなときでも 仲間よ
俺たちは新しい地を継ぐ子供のあることを忘れはしないんだ
(仲間よ、俺たちは戦っている)

俺たちは俺たちの瞳のような子供のあることを忘れはしないだろう

これは何か生きる子供の純粋な気持ちをもちつづけることであり
そして新しい地を受け継ぐ子供のあることとは何なのか?
そういうふうに親が苦労して生きていたときそのことを子供は知っていて受け継ぐ
だからそういう過酷な状態でも人間は希望だけは持ち続ける

一方で農業だけはやるなと親に殴られた人は親になり原発で働いて豊かになってもその地を受け継ぐ人がいなくなったのである。
双葉町では原発と未来を築く町としてあった、その未来は無惨に破壊されたのである。
だから過度な豊かさを求めてそれを得たとしてもそれが未来の希望になるとは限らないのである。
現実に子供たちはその地を受け継がないで去ってしまったということである。
子供が受け継ぐというときカルト宗教団体のうよなものも受け継がないだろう。
いづれその偽善にきづくからである。

だから不思議なのはそうした過酷な貧乏の中ででも人間は未来に希望をもっていたということである。その昔の過酷さと比べると原発事故はまた違った被害だけど楽だとはなる
でも若い人たちは次代を継ぐ人たちは去って行ってしまったのである。

どんな時でも 仲間よ

その仲間もみんなばらばらになって帰ってこなくなったのである。
どんなときという時というとき苦しい時でもとういことである。
それが家族ですらばらばらになり老人だけが故郷に取り残されたのである。
仲間といっても会社員の時代になると違うからそうなったともなる


参考にした本

猪狩満直と「移住民」-佐藤久弥著
posted by 老鶯 at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年05月09日

今日の鹿島駅 (「鉄道詩紀行ーきむらけん」から読む駅の不思議)


今日の鹿島駅


「鉄道詩紀行ーきむらけん」から読む駅の不思議


鉄道の保守管理の人が定期的に回って見ている、前も盲人の歩む黄色のブロックを見て直した、盲人というとき一人が定期的に通っている、でも向かい側には行かない
だから危険というものでもないが電車に乗る時は多少危険になる
ただ車掌が見ていて確認している
駅で盲人を見るのは定期的に通っている人だけである。
でも一人でもいれば整備する義務がある、法律でも決まっているのだ
でもいつも思うことは盲人が利用するのは田舎ではほとんど見ないのである。
そのために黄色のブロックを作るのは贅沢なようでもそれだけ障害者のために金を使う労力を使うことは弱者に配慮した社会だとなる
ただ現代は盲人でも車だとか電車でも危険が多すぎる、人とぶつかるくらいならいいが
車とか電車は危険になる、だから盲人にとっては危険が多い社会である

今日きた人は相馬の天の粒という品種の米作りに関係している人だった、その人は話しなかった、話する人としない人がいる、ただパンフレットのようなものを見た
そこに天の粒とあったからである。それをインターネットで調べたらずいぶん出てきた
天の粒は外国まで売り出して相当に宣伝している
相馬の米として売り出しているのである。これは品種改良したもので相馬のブランド米として売り出しているのである。ただその人は何もしゃべらなかった。

それからまた四人くらい保守点検に来ていた、定期的に来ている、それから原町の駅員がきてホームのトイレに何か置いた、そして燕が巣を作っていたのを壊してそこに巣を作れないように網をかぶせた
自分が燕の糞を掃除したから汚れるから撤去したのである。
定期的に原町の駅員が回ってみている、何かこうして仕事がある
無人駅でも定期的に見回ることが必要になる

無人駅でも困らないにしても何かそこに人間の手が必要になる、そして何か話したりすると人間的になる、ただ普通は駅で話したりしないので話さない人もいる
ただ駅には必ず待つ時間がありそこで何かしら話するということがある
その待つ時間が人間的なものを駅に作り出しているのである。

今日は岩沼から来た老夫婦がいた、その人は電車に乗ったことがないで乗り方がわからなくなっていた、本当に電車の乗り方すらわからなくなっている人が意外と多い
それだけ電車というのは乗らないものになったということである。
車社会になったということである。電車の乗り方がわからないなどありえいことだったからである。その人は町中でまた会った、自分の家の近くに来ていたのである。

ともかくいろんな人が行き来している、駅の面白さはそこにある。
もちろん話せる人とできない人がいる、だからなぜ来ているのかわからない人もいる
でもこの街に駅に来たということは縁であり何かが記憶されるのかもしれない。
ただ自分も鉄をとでずいぶん旅したけど駅でも待っていたけどそこで土地の人となど話したことがないから普通は話などしない
でも駅はただ通過する場所ではないことに気づいた、駅で待つ時間も何か旅していたら印象として残すべきものである。それで撮り鉄は駅舎の写真をとるのである。
ただ写真ばかりでも記憶に残るとはならない、写真で残して思い出すこともあるが人間はともかく忘れやすいのである。

駅というのはほんの一時でも何かを人が残してゆく場でもある。そういう人々が交差して電車を待っていることは駅に人生も交差している、そういう場所は今はなかなかない
そういう世代を問わず職業問わず貧富も問わず地域も問わず近くでも遠方のものでも交わるという場は意外とない、子供と子供が交わる場は学校である。病人と病人が交わる場は病院である。仕事として交わる場が会社である。
ではそういうものを越えて交わる場というものが現代にはないのである

だから駅というのはみんな気づいていないが不思議な場所なのだ
それに気づいたのは駅員のボランティアしてみてわかった
旅しても駅はやはり通りすぎるだけであるが駅にいて案内したり見送ったりしていると何か駅が人間的交流の場であることに気づいたのである

人が出会い、そして別れる場である、ときめきがあり、悲しみがある
その駅には様々な人が混ざりあっている、裕福な人もいればホームレスもいる、健康な人もいれば病んでいる人もいる、
いわば停車場は人の博物館だ
(日本鉄道詩紀行ーきむらけん)

待合室の長椅子の
ビロードの
毛の中に
魂のかけらを
みんな忘れてゆく停車場である。(小熊秀雄)

この本は鉄道好きな人には相当に奥深いものを読み込んでいる、停車場は人の博物館だーまさにこれを感じた、ただ停車場というときそれは昔の感覚である。
その時はさらに駅は人間臭いものがあったからだ、そしてその時代は鉄道が最盛期であり人が駅に集まっていた時である。だから駅が最も熱気があったし駅前通りができたのもそのためである。
だからその時代なら余計にそうなる、薄荷(はっか)の匂いがするというときそのことなのだろう。小熊秀雄は北海道の出身だから薄荷の博物館が北見にあるからなじみのものだった

魂のかけらを
みんな忘れてゆく停車場である

ここが駅の不思議だったのである。一時であれ何かしらその人のたましいのかけらを駅に残してゆく、地元の人も利用するから遠方の人が駅にいるのとはまた違っている
でも駅には様々な人が行き来している、地元の人でもそうである。そういう場所が今は意外とないのである。病院だったら病人と老人がほとんどでありいろいろな世代の人とは会わないのである。学校だったら子供だけとかそういうことが多いのが現代である。
だから田舎駅ですらいろんな人が行き来していることが違っている
そこに駅の魅力を作り出している、一時でもそれぞれ多様な人々が魂のかけらを残してゆくのである。

駅にさす花を入れ換え様々な人出入りして今日もすぎゆく

ともかく駅にかかわることはそこが無人駅であっても人間的なものを付与される、そこに人間がいなければそうはならない、ただ機械がロボットがいるだけになる
機械やロボットはその人間的なものを嗅ぎ取ることはできないのである。
そこに人間がいてはじめて嗅ぎ取ることができる

実際に駅にはどこでも今や監視カメラがあり犯罪者がつかまえられたというから驚きである。田舎の駅でも監視カメラがどこにあるかわからない、監視社会なのである。駅には犯罪者もいるし変な人もいる、がらの悪い人もいるしそっち系の人もいる
つまり本当に人間の博物館になっているのが駅なのである。
でも監視カメラであれ機械がいくら精巧になっても人間的なものは人間しか感じることができないし作り出すことができないのである。

参考にした本(日本鉄道詩紀行ーきむらけん)




posted by 老鶯 at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 今日の鹿島駅(常磐線)

高齢化社会の課題 健康、金、暇、介護やボランティアの問題など?


高齢化社会の課題


健康、金、暇、介護やボランティアの問題など?


高齢化社会というのはそれは世界的に起きている、中国でも起きている、中国は最も高齢化で影響を受ける、世界で一番の高齢化社会になるからだ、その用意もされていない、年金もなくてもう子供も援助しないなど自殺までしていることが問題になっている
人類は高齢化社会を経験していない、60くらいまで死んでいれば高齢化の問題は起きていない、80以上になると起きてくる

高齢化で問題になるのが金であり暇であり健康である。何か異常なほどの健康ブームになっているのは老人は健康を気づかうからである。
健康だけが関心の人もいるだろう。何か自分も病気になったせいもあるが健康を気にするだから食べ物とかも気にしている、今までは食べ物など気にしていなかった
もちろんその時は与えられたものを食べているだけだったこともある
自分で買って料理するとなれば食べ物を気にかけるようになる
とにかく買うものでも料理するとき種類が多すぎて困るのである。
だからなるべく買ってすませるようになる

高齢化の課題で一番の問題は健康である。まず60代以降健康がそこなわれたら高齢化社会の脱落者になる、でも60代以降病気になる人が多い、重篤なものになるともう急速に老いて普通の生活すらできなくなる、そういう人も近くにいる
そして死ぬ人も次々にでてくる、高齢化社会をのりきることは健康の面でも容易ではないなんらかどうしても体が弱ってくるからだ
ただ高齢化に備えるといってもむずかしいものがある。
人生そのものの積み重ねたものが結果として現れるのが健康面である程度そうであり精神面でもそうである。
だから老人になってから何かできるとか変わることができないのである。

老人にとって金があることも大事である。でも金だけではない意外と暇の問題がある。
高齢化社会とは暇が時間が増えるということである。
それは予測されていないしそれに備えることも簡単にできない
なぜなら趣味でも何でも人間はこれまで生きた延長としてしか生きられないからである。知識だって凡人は積み重ねであり何かを積み重ねて行けば詳しくなれる
それをしてないものはすぐに何か年取ったから理解するようにはならない
ただそうして積み重ねてきたものがあると老人になると理解が深まる
なんか自分は詩でも理解できないが今になると深く理解できる
芸術そのものが何でも理解する、鑑賞すること自体がむずかしいのである。

退職すると暇になりその暇になることが意外と苦しむ、それがボケに通じることもあるかもしれない、駅に毎日行っていると近くの人が自動販売機のジュースを飲みにくる、その人は80近いのか年齢はわからない、目がとろんとして反応が悪い、目が死んでいるのだ。こういう人はボケてくのかという不安がある
そして今なぜシニアのボランティアが人気になるかというとシニアは暇であり生きがいを探しているのである。そういう人が本当に多いのである。
でもボランティアも簡単に誰にでもできるものではない、その人の向いたものではないと長続きしないだろう。
でも何か生きがいがないと老人は目も死んでだんだん生きながら廃人のようになる恐怖がある。だから老後は生きがいが意外と大事である。
それは金でも得られないものである。生きがいを簡単に金では買いないからである。

金にならなくても何か生きがいをもつ必要がある。知り合いの女性は農業が好きだから小さな畑でしている、それは農家の出でありその人は農業が好きだからしている
金にもならないしかえって金がかかっているのである。
でもそれでも生きがいとしてはいい、自分が駅に行ってボランティアしているのもそうである。これは別に無人駅でも困らないがでも何か用がありしている
駅は実際にかかわると本当に不思議な場所であり様々な人が人生が交差する場であることを発見したのである。
つまり老後になっても新しく発見することがある、それはボランティアでもそうである。ボランティアを通じて発見するものがある、人との交わりから得られるものがある
老後は利益を追求するより生きがいを追求することになるからだ

自分も介護しているとき関心が介護する人に向く、ひどいのになると24時間も介護する人につききりになる、それは肉体的なものだけではなく、精神的に常に介護する人に向けられていたことにきづいた、今は関心がいろいろな方向に向くようになることになってわかった、だから介護というのは社会からも隔絶されるし社会との関わりもなくなってしまう危険がある。介護はだから相当な労力の無駄にもなる
自分の場合は介護することがカルマだと自覚していたからしていた
それにしても十年となると長かったなとなる、十年一昔になるからだ
この介護の問題も高齢化社会の大きな課題である、介護殺人が次々に起きていることでもわかる、老後が介護になったときその介護でエネルギーを消耗してしまうことにもなる
すると老後の時間を有効に活かせないのである。

生きがいがないというときそれがボケに通じることが怖いのである。
自分の家族の一人は退職してから何もしていない、食事すら用意するものがいてしていない、そのうちボケたのはそういう原因もあったことは確かである。
一人は100歳まで生きたが確かに寝たきりになってからはボケていたがそれまではボケなかったのである。
それは火事を93才頃までしていたからである。趣味もなにもない女性だったけど家事をしていたからボケなかったのかとなる
一方食事を用意されていた何もしない女性はボケたのである。
田から一見働いている人がひどいな苦しいなと見るが何もしないで与えられた人が実はボケたから見方が変わる
つまり生きがいがないという今年後とがなくなることそれがボケに通じるから怖いのである。

駅で目が死んでいる、ぼやーとしている老人はもう死んでいるのかもしれない、そういう老人も多くなっているかもしれない、暇だから南相馬市のパークゴルフ場に百人もいたのには驚いた、この辺は他より10パーセント老人が多いからである。
ただ若い人は駅では会う、子供にも会う、駅は世代間でもそうだがいろいろな人が出入りして会う場所なことに気づいたのである。
今は病院だったらほとんど老人である、子供は学校であり、仕事している人は会社でありみんなばらばらでありそうした人たちとは会わないでも駅ではそういう様々な人が交差しているのである。
だから駅は意外と面白い場所だなと気づいたのである。
だから介護が終わったから駅のボランティアは面白いことに気づいてしている

自分は他にいろいろしているがパソコンの抽象画も発見したことである。これもありえないようなことである。これが芸術なのかともなるがやはりパソコンから生れた芸術なのである。絵が描けなくても絵を楽しめるからだ、これもパソコンをしていたからできたことである。
つまり人間は年をとっても新しいものを発見することができる、また発見することが大事なのである。それは人によって違うものになる
なんか自分は鉄道の旅が長いから鉄道に思い入れがある。

でも鉄道を利用してただ乗客になっているのと駅でボランティアしているのとは全く違ったものだった、だからこれも不思議だった、人間は何でもそうだけどサービスを提供するものと受けるものとは違う、サービスを与えるものは奴隷だとなるがでも与える方でも学ぶものがある、与えられているだけでは社会のことも何もわからないのてある。
いづれにしろ老後の問題はすでに若いときからはじまっているから備えることがむずかしい、金は備えても今度は老後をどうすごすかとなると用意はできないからだ
ただ健康などもある程度備えることができる
自分の場合は学校にも社会にも適合できない、でもそうして自由にしていたから運動をかなりしていてそれが良かったのかとなる、デスクワークなどばかりしていたら体に悪い
からだ

いづれにし老後に備えるとしても金だけではない、今50代でも未婚率が異常に高くなっているとかありこういう人は自分と同じように老後に備えていないのである。
自分がそのことを書いたけど本当に家族がないことがいかに悲惨なことになるか
それを予測していないからのんびりしているのである。
病気なにったらもう地獄である。介護になってもそうである。
頼るものがない、頼るのは誰もいない、そして自分が書いたように頼った人は金しか求めない、病気の時もそうであり介護でもそうである。その時どういうことになるのか?
それは本当にそら恐ろしいことなのである。

ただ人間はとてもあらゆることに老後に備えることはできない、何かしら欠けてくる
だから高齢化社会をのりきることはいかに大変なことかわかる
しかしそれがみんなに課せられている時代なのである。
高齢化社会は確かに負の面も大きいのだけどもし人類がこの課題をのりきれば大きな進歩なことは確かである、それがプラスに作用すれば人類の大きな進歩になる
なぜならそれは何か技術的なものではなく精神的な面が大きいからである。
生きがいを求めるということもそうである。それは金だげではない、精神的な要素が大きいからである。

posted by 老鶯 at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題