2025年03月31日

会津の心(詩)ー【風土と地理から見る会津−会津は古代から一つの国だった】


会津の心(詩)ー【風土と地理から見る会津−会津は古代から一つの国だった】

aizupoemtate.jpg

aizucurrent.jpg

gamoudake.jpg

aizumagariya2.jpg

sobaaizu.jpg



会津の心

会津の土を踏み
会津の山を見上げ
会津の大川の流れの岸に立ち
そのひびきそ良しも
城の街中にありぬ
あわれしとしとと雨降り
桐の花は濡れ誰が眠る墓や
更に奥に激流は磐を打ち轟き
鬼百合四五輪燃え咲きにけるかな
七つ岳や夏の日映えぬ
蒲生岳鋭く聳えて燕飛び交う
会津の古沼に潜むは何そ
会津の奥残る曲屋に
白い蕎麦の花咲き
なお暮らしのあれや
落葉踏み社の古りぬ
立木観音真直ぐに立ち厳しく
土地の人々祈りけるかな
歴代の会津藩士の墓所や
何を語るや共に眠りぬ
しんしんと雪は降り
悲しくもあれ踏みにじられし歴史
その傷痕は深く消えず残りぬ
会津の深き雪を自ら踏み
会津の心を知りぬ
水清く雪清く心洗われる地
その真白き雪は穢れを拒む
一本の古木や芯太く年輪重ね
この地に根付き直ぐに立ち
強くも直き心にしあれ
人の心もここに養われぬ
ならぬものはならぬ
その意志強くも立ちにけるかな


会津とは何かというとき地理と風土から見る。ただ行政的単位ではなく風土と地理に根ざして育まれたアイデンティティ化したものとしての国を見て心を見る。それで(風土)のように見る。それが色濃く現れているのが会津だとなる

会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

会津は東北では一番古い地域であり国として意識されていたのである。茨城県とかでも国として意識されていない
つまり東北では一番古い場所であり国として意識された場所だとなる。

四世紀の始めに、崇神(すじん)天皇が四方の敵を討つために、四道(しどう)将軍を派遣した。大彦命(おおひこみこと)は北陸道をすすみ、武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)は東国に進軍した。そして、二人は会津で出会った。それで、「相津(あいづ)」の地名ができた。

斉明天皇4年(658年)4月に越国守であった比羅夫船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している

日本海側は太平洋側より早く開けた。それは海が比較的穏やかであったからである。それで安倍氏が飽田・渟代−秋田、能代まで船で行ったとなる。つまり日本海側から交通でもあり開けた。逆さ地図で見れば韓半島でも大陸でも船で行き来できたから
出雲に国引き神話が生まれたのが必然だった。渤海国などの交流もあったのもそうである
何か交通でも錯覚する。日本海は何か今になると陽が沈む淋しい地域に見える。でも古代でも江戸時代でも船による航海が盛んであった。それは日本海が冬でなければ太平洋とは違って穏やかだったからだと見る
北前船も日本海側を行き来したからである。

また一方でなぜ毛野氏が大きな勢力を持っていたのか?それは日本では最初は縄文人は山とか森に棲んでいた
毛野氏の領域は高い山もある山間地域である。飯館村でも縄文中期の遺跡が発掘されたとか山側が古いのである。

志賀高穴穂朝の御世に瑞籬朝の五世孫賀我別王を以って国造に定め賜う

毛野氏でも賀我は加賀別王がかかわり浜通リの南相馬市の鹿島区に浮田国造が設置されたのはなぜだろうとなる。
賀我別とは今の加賀地方であり日本海に接している。毛野氏の勢力が大きいからこそ浮田国造が設置された

いずれにしろ会津も山深いけど栃木群馬県も山深い。それも高い山が多い。山が多いから日本の地理はわかりにくいのである。
会津は山がそれも高い山ひしめいているから浜通リからするとさらにわかりにくくなる。
舘岩となるかなり奥地だが隣に栃木県の山が聳え群馬県と連なり山また山なのである。
会津は東北で唯一国として意識されたのは群馬栃木県の山側の毛野氏の領域がありそこが日本海側にも通じていた所である
青森の三内丸山の縄文遺跡からヒスイが発見されたのもそのためである。
会津はやはり東北で最初の国となったのは日本海側からみれば納得する。また毛野氏の栃木県と群馬県と山つづきであり
そうした地理から古代に大塚山古墳に三角縁神獣鏡が唯一発見された

会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。
それだけ古い地域だったのである。

こうして空間軸と時間軸で解読する。会津がわかりにくいのはまた日本がわかりにくいのは山が多いから見遠し効かない、それでわかりにくいのである。ただその地を踏まない限りその土地のことは理解できないことは確かである。
日本国内でもそうだが外国だと余計にそうなる。実地にその地を一回でも踏まないと実感できないのである

ともかく会津は古代から一つの国として意識されていた。それで桐の箪笥とか会津塗とか木地師の歴史がある。あとはソバが有名である。落人の里として知られる桧枝岐とかなると隔絶していて米は食べず蕎麦が主食だったとなる

一つの国として文化も養成された場所だとなる。それはドイツとも似ている。そこも風土的に歴史的に形成されたからである
寒い地期なのも似ているのである。ただドイツにしても平野が広いから日本とは違う、日本は大和であり山が多い。
その山が多いいから山に遮られて地理がわかりにくいのである。

なぜ会津であれボッシン戦争でうまく対処できなかったのか、それは余りにも融通性がない真面目実直なのが東北の武士であり
それで横暴な薩長軍にうまく対処できなかった。うまく交渉すれば白虎隊が二本松少年兵の悲劇はなかったとされる
世良をうまくおだててもあしらえば悲劇はなかったとする。東北人には何かそうして交渉するにも商人的なものがなく
悲劇になったと明治維新という過ち(原田伊織)で言っている。明治維新でうまく立ちまれずそれで会津の悲劇も生まれた
それと比べると伊達政宗は芝居気があり秀吉との交渉でもうまくいったのである。ただ伊達政宗はとても東北人と思えない人だったのである。だからめずらしいとなる。

会津でも融通性がないというときならぬものはならぬというときただ頑固になっている。そういう気質は風土と山国で培われたのかとのなる。海に面していれば開放的になるのか、伊達政宗は海に面してそうなったのかとなる
その場所に寄り形成されるものがあることは確かである




2025年03月30日

様々な継続されて解消しないカルマ 【地理的風土的歴史的カルマー個々人の家族のカルマ】


様々な継続されて解消しないカルマ
【地理的風土的歴史的カルマー個々人の家族のカルマ】

●様々なカルマ

●遺伝的カルマ
●家族のカルマ
●個々人の行為のカルマ
●土地土地のカルマ
●国々のカルマ

遺伝的カルマは逃れがたくある。私自身は蓄膿症の手術を二回している。だから頭がさえず学校の成績も悪かった。
蓄膿症は頭脳に相当影響する。私の母親も蓄膿症があり遺伝だった。他でも何か先天的に体が悪い人が必ずいる。
それも様々でありなかなか他人のことはわかりにくい、病気も多様であり理解できないのである。
これは一生苦しむ、なぜ去年の異常な暑さで鼻が悪くなり舌が乾くとかそれが未だに完治しないのもそのためである
体の遺伝は死ぬまである。それぞれに体に弱点を持っているからである
だから何らか病気は遺伝と関係しているカルマなのである。

家族のカルマという時これも家族も一様ではない多様でありなかなか他者の家族は理解しにくい。家族はみんな違っていてその不幸もみんな違っているとなる。私自身の家族も複雑で他者に理解できないものだった。たあだれが悪いとは自分にはなっていなかった。成り行きでそうなったとなる。
その家族は障害者をもちその苦労は並大抵のものではない、延々と50過ぎたその息子を心配し世話するとなるとそれも大変な苦労になる。その人は貧困に苦しめ続けられてもいる。そして今は病気になって苦しいとなる
なぜそんなに苦労が課せられているのだろうとなる。何か呪われているのだろうかとも見る
でもそういう人は家族でもそれなりにいる。

カルマは行為のことである。だからその個々人の行為がカルマとなる。何かしら罪を犯すのが人間でありカルマとなる。若気の至りで後年にそれがカルマとなり現れることもある。そうした行為は消えるわけではないからである
土地土地のカルマもある。その土地には山側に住んでいれば山津波に襲われ海岸に住んでいれば大津波に襲われ甚大な被害があった。それは必ず繰り返されてくるから土地のカルマなのである。
この辺では相馬藩政記で400年前に700人人生波(津波)で溺死したという記録があった。それも忘れられていた
自然災害も実際は周期的にやってくるカルマなのである。その土地土地の地形風土により災害が繰り返されてきたのである

●民族抗争のカルマ

国々のカルマでも地理地形とか風土とかが異なり災いが繰り返される。それは自然災害だけではない、戦争も繰り返されている
大陸だと民族抗争が絶え間なくありそれが継続される。ウクライナとロシアの戦争も民族抗争でもある。大陸では多様な民族が抗争を繰り返した歴史でありそれも継続されているのである。
youtubeで奴隷化された民族の国の悲惨なことが映像化しているからその残酷さをリアルに知る
ヨーロッパの女性も白人もイスラムに奴隷化されて売られていたことがありバイキングが侵入して女性が奴隷化される
奴隷はまさに大陸の歴史でありそれでスラブ人とスレーブであり奴隷民族だとなる

つまり大陸欧米の歴史は奴隷と切り離せずある。日本にそれがなかたのは海に囲まれて侵略できなかったからである
大陸では凄まじい民族抗争があり継続される。だからこそジェノサイドとか民族絶滅の戦争とかある。絶えざる民族抗争の歴史である。それで中国では敵が墓に入っても暴き出し罰する。一方は日本では敵味方塚として供養している
戊辰戦争でも東北でも西の侍でも手厚く葬り墓を作っているからである。

つまり日本には苛烈な民族抗争はなかったとなる
中国でも苛烈な民族抗争がある。漢人がメインとしても他に多様な民族があり言葉があるから音では通じないから漢字を共通語とした。テレビのテロップでも漢字を流しているからである。それだけ音だけでは通じないからそうなった
このカルマも延々と立いる気では続く、アメリカでも移民国家だというとき多様な民族が混交している
黒人はまさにアフリカから連れてこられた奴隷である。そうななったのそういう歴史の継続としてそうなった
つまりカルマだったとなる。だから多様な民族が混交するアメリカを一つにまとめることは難しいとなる

●複合的に起きるカルマ

カルマはまた複合的にも起こる。南相馬市小高の人は原発事故で避難区域になり住めなくなった。その人は原町区の空家を買い住んだが病気になり仕事で息子が仙台市に住むようになり難しい病気なので仙台市の病院に入院した。年齢も70才とかである
そして熟年離婚もしていて妻は息子と暮らしばらばらになった。この苦難も原発事故という土地のカルマがあり過去の家族のカルマがありと複合的カルマが重なりそうなった。そこには原発事故だけは原因ではないその人自身のカルマが行為があってそうなった。それは自分の家族の苦難もやはり家族のカルマがありそうなった

ある人は事業に失敗して借金をして苦しむがそれもやはりカルマが関係していたとなる。何らかその家が持っているカルマがありそうなった。それは自分の家族でもそうだった
要するに人間の苦しみはカルマから来ている。そのカルマも多様であるからわかりにくいのである
そうしたカルマを解消しようとしても簡単にできない、遺伝的カルマとなればいくら医者でも直せないからである
人間は生まれた時からカルマを背負っている。そしてその後も個々人で行為がりそれでカルマを積んでいる
悪行は罪の行為はカルマとなり清算が強いられる。そのままでは終わらない消えないのである
ただそのためにカルト宗教団体に入ったりするとその団体自体がカルマを積んでいるから実際はその団体のカルマも背負い二重三重の苦しみとなる。カルマはさらに負荷されるのである。

●解消できないカルマ

いずれにしろカルマは苦しまなければ解消しない、それも並大抵ではない、私自身が介護とかで四苦八苦したことを書いてきた
でも何とか終えたがその期間十数年にもなる。カルマは簡単に消えないのである
原発事故でもプルトニウムは二万年消えないとなりそんな長い期間のカルマをこの辺では背負ったのである
それが土地のカルマとなったのである。

人間はおそらく死なない限りカルマは解消できない、遺伝的なものでも治らないで苦しむが死ねば解放されるとなる
明かに直しようがない病気がある、老いは病気でもあり直せないのである。貧困は何とか将来的なくせるとして病気は依然として全部が直せないし老化自体が病気になることでもある。でも老化を直すことはできないのである
だからこの世は苦界なのである。地獄だともなる。そうした苦しみから解放できないからである
そもそもなぜこうして苦界に生まれねならなかったのか?それは何らかの因縁なのか何なのかわからないのである

ともかく生きるとはカルマを積むことである。善行を積むより人間の行為自体がカルマになりそれが苦を後でもたらすことになる。善を行うとしても悪を行うとなる。カルマの解消は神の国でしか解消されないとなる
カルマは世の終わりまで繰り返される。最後は人類絶滅戦争のハルマゲドンで終わりとなる。そのとき人類のカルマは解消するのかとなる。

死は愚かさの一つの終わり

一つの愚かさの終わり
石は愚かを成さず
石は誤謬を犯さない
石は何も成さず
人は成して成して
愚かさを重ねて
遂に死して一つの愚かさが終る
集団も愚かさの集約
無益な労働、戦争の人命の消費
死体の山を築き終る
人類の大いなる誤謬
壮大な愚かさの終わり
人間のように無益を成さぬもの
自然には壮大な愚行はない
ただ己が分を守り生きる
神の定めし法則からはずれない
それぞれの分を尽くして終る
雀は雀、鴨は鴨、白鳥は白鳥
それぞれは争うことはない
無益な争い、消耗は自然にはない
内面と外面が一致して
単純にして明快
石は何も成さず
無益な愚行はなく留まる
人間は死して愚行が終る
カルマが消滅する
死もまた幸いなるかな
死者は賢く生者を見守れ
死者はもはや愚行を成さず
故に死者も幸いなり

人間の行為がカルマになりそれが延々と消えない、自然は神の法則の中にありそれをはずれることはない、人間の愚行は繰り返す
それは終わることがない。カルマは行為であり繰り返すとなる。それ故に人間の苦しみも終わらない、カルマは消失しない
延々と繰り返すのである。何故諺が今でも活きているのか、それは人間自体は変わらないからである。科学技術が進歩しても人間自体が変わらないから依然としてカルマは消えない愚行は続く。だから絶望にもなる。人類は滅びて新しい人間が生まれない限り愚行がありカルマはくりかえしてゆく。それを止める方法がないとなる。
善行を行うより必ず人間の行為は悪を無し罪を犯すようにできている
だから行為は必ずカルマとなり後で苦しみとなって現れるのである















posted by 天華 at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年03月29日

グローバル企業の社長は情もないサイコパス? 【東電の原発事故とグローバル企業の世界支配の共通性】


グローバル企業の社長は情もないサイコパス?
【東電の原発事故とグローバル企業の世界支配の共通性】

enterpraise.jpg

worldenterprise.jpg

【世界を支配する超富豪!世界経済破壊の自己矛盾を抱えている】
何兆円稼いでもまだ欲しい!大富豪は、しょせん最大多数から搾取

巨大企業などが地域社会をつぶす (原発事故も東電による地域破壊)


インターネットの機能で有効なのはリンクすることである。そのリンクによって理解を深める
人間はあることには詳しくてもあらゆることに詳しくなれない、それで必ず知識でも補うことが必要になる
それは別にその人との一部見解の相違があってもできる、右左関係なくできる
必要なことは反対意見でも知識を深めることである。なぜ加治将一氏の意見が参考になるのかそれはアメリカで十五年も会社を経営していたことである。それが学者とは違う、肌でアメリカを知り世界を知っているとなる

だから今世界を支配しているのは誰なのかというときわずかの大富豪でありそれは国家を越えた存在でありその目的は金もうけだけでありそれしか眼中になく一つの国の国家予算くらいの何十兆円の金をもっている
その人たちは冷酷であり他人への愛情など無視して金儲けだけを目的としている。でもサイコパスでも人ができないと思うことでも成功させる能力がある。
その人たちには国家とかはない、国家はむしろ大企業に従属させるものである。国家より大企業が上なのである

それは東電が自治体より上となり東電の企業城下町となったのと似ている。そのことを前に書いていたのでなるほどと思った
つまり私の書いていたこととリンクして読むと理解が深まる。
グローバル大企業に世界が支配されるということがどうなるのか、そのことは追求してきた。ただ問題が大きいので分かりにくいのである。ともかくグローバル大企業の問題は国々でも血の通った人間が住んでいるとしてもすべて金儲けの手段になってしまう。それは国家を越えてそうであり東電が一市町村より上であり支配したのと似ている
グローバル大企業となると国家を無視する地方の自治体も無視できる巨大企業である

国家とは国民がいて成り立ち市町村でも市民が町民が村民がいて成り立つ、だからその配慮が必要になる
でもグローバル大企業はそうしたものはなく金儲けに特化して支配する。だからその土地土地の自然でも文化でも無視する
別にそのグローバル会社の社長は一国にも一地域にも住んでない、世界中に別荘を持って住んでいる
その人たちには国家はない国家はただ金儲けのためにあるだけだとなる
だから非情でありただ金儲けに徹するだけなのである。だからサイコパスであるとしている。非情になり世界の人間でもすべて金儲けの手段としか見ないとなる。それができるからこそグローバル大企業になったとなる

これは陰謀論でもない事実である。現代の支配者は誰なのかということである。政治家なのかとなるとそれよりこうしたグローバル大企業でありその社長だとなる。それが国家より上になる。そしてその莫大な富は政治家にマスコミにばらまかれて批判できないようにする。だから国民にとって有害なサントリーとかビール会社を加治氏は批判している
そのウエスキ―会社が相馬市の玉野村にできるというときも巨大な企業の配下となる。農業だけでは成り立たないから企業を誘致することになる。でもそれは有害なことでは原発と同じものともなる。ただ電気は有害とはならないのは違っている

いずれにしろ現代の問題はグローバルに必ず関係する。このように一地域でも必ずグローバルに関係してくる
だからグローバルな理解が必要になる。それがなかなかわかりにくいのが問題なのである
ただこの辺では原発事故で地域が破壊されたことで具体的痛みを経験したから似たものとしてグローバル企業を見る
グローカルというときグローバルなものとローカルなものが一体化した言葉であることもそのためである

グローバル企業だと土着するものではない第一そこに住んでいないからである。だから自然破壊しても別な地域に住みまた別な国であれ地域でもうければいいとなる。ただ原発は日本国家の存亡になったから違っている。吉田所長が東北には住めなくなると言ったときそうである。でもグローバル企業は一国が滅びても他の国で儲ければいいとなる。別にそこに住む必要はないからである。投資家のジム・ロジャーズはシンガポールに住んでいる、ただシンガポールが国かどうかなのかわからない
国という時はその国土から歴史から様々な要素で時間をかけて作られたものであり一企業とは違うからである
だから単なる経済的単位として見れないのである。

そもそもトランプ大統領が国と国の関係もデールとして商売としての関係だというときそれが世界に通用するのかとなる
それは他国でもグローバル企業と金儲けのためにあるとなってしまう。金が儲からなければ切るとなる
これも金の切れ目が縁の切れ目だとなる。イーロンマスクはまさに政府の中の重要ポストに入り込みグローバル企業が政府を動かし支配するともなる。だからトランプと相性がいいとなる。
ただそれで国際関係が成り立つのかとなる。いずれにしろもはやアメリカは世界の指導者の役割を担えないからこそ
世界的にもいろいろな問題が起きている。



posted by 天華 at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年03月28日

時間の大切さがわからないー何に時間を費やしたかが人生 【海外旅行は金より体力+時間が必要だった】

時間の大切さがわからないー何に時間を費やしたかが人生

【海外旅行は金より体力+時間が必要だった】

人生でもっとも大切なことは、思い出をたくさんつくることです。なぜなら、自分の人生の最後に残るものは、お金ではなく思い出だからです

●時間の貴重さが金のように意識できない

人間は人間は時間の大事さがわからない。常に金のことは十円でも意識する。金が貴重なことは生活の中で身に染みて理解する
でも金のように時間の貴重さを意識しない、時間はいくらでもあるとなりそれが30才過ぎる辺りから時間がないと意識される
なぜなら40才になると白髪が出てきたりするからである。そうなれば老いでも意識するようになる
死すらまじかだともなる。青春はあっというまに過ぎる。女性でも30過ぎるとおばさんにもなる
時間などいくらでもあると時間の貴重さを意識できない、それが盲点なのである。

それは現代だけではない昔から言われたことであり人間はやはりいろいろ変わっても老いて死ぬことは変わりないから現代でも諺でも聖賢の教えでも廃れず残り通用する。諺でも馬鹿にできないのは人間が生きて死ぬということを経験することは同じであり今いくら寿命が伸びたとしても同じなのである。寿命が20年伸びたとしてもやはり生きる時間は短いと感じる
とにかく時間の価値は意識しにくいのである。それは老人になった否応なく意識させられる
つまり何するにも時間がない、つまり最後は時間切れで死ぬということである。死ぬとは健康が失われるというだけではなく
生きる時間はなくなることである。だからいくら金があってもその金を使えないということがある

何か新しいものを機械でも操作できないということがある、それを使いこなせないということがある
老人は携帯は使える、私の母は90才でも携帯が使えたからである。ただ番号を押せばいいのだから意外とできたのである。
でもスマホとなると面倒になるから使えないとなる。それでいくら金があって買えてもその操作が難しく使えないとかなる
それには時間がかかるからである。私自身もプログをSSL化しないのは操作がめんどうになるかしていなかったのが失敗だった
何か老人になると面倒になる、それで億劫ななる、若い時は新しいものに飛びつく

私は悪筆だからワープロをしてそれに通信機能がついていたことで早い時期からパソコン通信でもしていた
面倒なものでもしていたのは私の場合引きこもりで暇だからできたのである。つまりここでも時間が関係していたのである
何か習得するにも常に時間がかかる。金もかかるとしても時間もかかる。時間がかかるというとき手間もかかる
その時間がいくらでもあると思っているがその時間も消失する。

●金より体力と時間が大事なこともあった

金+体力+時間=経験になる。確かに金がなければ何か学ぶにしてもできないことがある。本を買うにも金がかかるとかある
旅行するにも金がかかる。それで失敗したのは海外旅行が円高で金がかからない時代があった。そのとき貧乏人でもフリーターとかでも世界を旅行していたのである。その時金が無くても世界旅行できたのである
私は50才過ぎてバックパッカーになって世界旅行した。でもその時でも外国のことがわからなくて金がかかると思っていたのである。

なぜそうなったかというと私は日本国内でも旅行するので困ったのが泊る旅館とホテル代だったのである
いつも安い宿を探していたから疲れたのである。それで海外に行っても安宿を探していた
ただヨーロッパだと意外と安いホテルが多い、それはユースホステルとか千円で泊まれるとか老人でも泊っている
また個室ではないにしろ安い若者向きのホテルがある。だから金がかからないかった。でもアジアでも金がかかると思い節約していたのが失敗だった。金よりむしろ体力があれば若ければ海外旅行は意外とできたのである
それは円高時代だったからである。今になると苦しくなる。だからその時海外旅行した人は得だった、恵まれていたとなる

金+体力+時間=経験となるが若い時は金が無くても体力と時間がある。老人は金があっても体力がない時間もなくなり
何かきついことはできなくなる。でも海外旅行は金がなくてもなんとかフリーターでもできたのである。
だからその時代は恵まれていたとなる。金の問題として私の場合恵まれていたのだがやはり親は実際は金がありその金を使わしてくれればもっとできることがあった。遺産をもらったのは60以降であり遅かったからである
だから親でもやはり子供に金を使わせるべきだったなる。ただ私は十分に過分に親にあたえてもらったから文句は言えない
でも何か60過ぎて70近くになって金があればもっと金を与えてくれればよかったとなる

つまり親でも金を使うべき時に子供に与えてくれなければ時間がなくなり金を使えず何もできないとなる
第一70過ぎてから海外旅行するとなるといくら金があっても苦しくなるからしたくないとなる
だからいくら金があてもそれを有効に使わないと使えなくなる。そして日本人は死んで使わない金を膨大に残している
それは生きているうちに子供で与えれば良かったとなる。

●何であれ何に時間を費やしたかが人生

とにかく人生は誰でも失敗がある、失敗がない後悔がない人はいない、それは時間でも体力でもありつづけると思っていることである。30過ぎると体力でも落ちてくる、だからこそ鉄は熱い内に打てとなる。激しい運動はできなくなるからである
そして人生が最後に残るのが思い出だけだとなる時その思い出を作る経験が大事になる
だから会社員で30年でも過ごしたとすればそれが人生でありそこに時間が費やされたのだから社畜であれそれがあなたの人生だったとなってしまう。そんなことしたくなかった、金のために仕方なかったとしてもつまり人生とは何に時間を費やしたかが人生だとなってしまう。それが老人になり思い出になってしまうのである

その会社で共に長く働いたとなればそれが思い出となりその思い出を語ることになる
それが何であれ人生だったなってしまう。会社での30年40年であれそれだけの時間を費やしたのだからそれが人生だったとなる
だからそこで費やした時間が無駄だったとなればその人生は何になるのかとなる
カルト教団であれそこにやはり会社に尽くすように働いた人はやはりそれが間違っていてもそれが人生だったとなることは怖いとなる。でも老人になれば否定できないとなる。若い内は方向転換できたけど年を取るにつれてできなくなる
もうその時は新しく何かをする時間が消失したとなる。

だから人生とは何に時間を費やしたかである。旅に時間を費やせば芭蕉のように人生は旅だとなってしまうのである
ただ様々な人生がある、でも何に時間を費やしたかが人生であることは確かである。何か原発事故で浪江町の津島の方で
戦後引揚者が入って来て苦労して畑でも作り共に苦労した仲間いてそこで暮らしたいという時そこで時間を費やしたから
それが人生となり思い出となったから離れたくないとなったのである

それは原発事故の避難区域ではそうなった。確かに新しい土地に移り生活して便利になっても実際苦労して共に働いた場所が人生の時間を費やした場所でありそれでそこに住みたいとなった
新しい所は便利でも若い人なら新しく経験して思い出が作れるが老人にはその時間がなくなったからである
つまりそうした人生の思い出を奪ったことが大きな被害でありそれを金で穴埋めできないとなった
つまり新しい土地でやり直す経験する時間が老人には消失したからである。

ただ空間では同じ場所に暮らしても20年であれ30年であれ交流がないと理解できなくなる
空間を共有してもその空間で共に時間を費やすことがないと相手を理解できなくなる
だから空間を共有しても時間では別々なのものに費やしているから近くでも理解できなくなる
それは現代では職業でも多様でありまた移動社会だから空間を共有するとしても福島県とか仙台市の人とかでも仕事に来る
だから昔の村のような狭い土地に密着して暮らす農民社会とは違ったものになる
隣は何をする人ぞとなりやすいのである。そこから近くでも理解しにくくなるのである









2025年03月27日

人間は無報酬(金なしでは)では他者に何もしたくない―ただより高い物はないの意味 【神の国では神自ら無報酬で賜物として与えられる‐聖書の野の花の例え】


人間は無報酬(金なしでは)では他者に何もしたくない―ただより高い物はないの意味
【神の国では神自ら無報酬で賜物として与えられる‐聖書の野の花の例え】

godgift.jpg


人を媒介して与えらるものは無償ではない、見返りが必ず要求される

●無報酬では何もしたくない、ささいなことでもしたくない、ただより高いものはない

人間の価値は金で計られる、でもそれが本当なのだろうか?労働自体も金で計られる、金の多寡で労働が決められる
でも変なんだけどその人は大金持ちだとする。でも貧乏な人が来て自らお茶を入れるとかする
単にその人のために物を運ぶというとき何か大金持ちだからそんなことしないでお手伝いさんにしてもらえばいいとか
そのために金を払って自分は何もしない、ありあまる金を払えば事が済むとなる

私自身がその人は別に金を払うわけでもない、むしろ金を与えている、その人のために物を運ぶ、寒いから小型の温風器を運ぶ
それが手間に感じたのである。その人は別に私のために何もしてくれない、それなのに金を与える
奇妙なのは金を与えるよりその人のために温風器を運ぶことが負担に思ったことである
それは直接の労働にもなっていたからである。人間社会は赤の他人に無償ではなにもやりたくないことが実感した
金がもらえるという報酬があり仕事している。単にモノを運ぶことでもそうである。金をあげますからA地点からB地点へ物を運んでくださいとなり運ぶのである。それを無償ですることはない。

それで親戚の人でも箱一つを運ぶのを嫌がっていた、そんなもの簡単でも何も報酬がないとしたくないとなる
でも報酬は与えていたのである。その人は借金していたから私からその借金を払うために金を都合してもらいたかったのである。
その額も事業していたから大きいものとなっていた。ただ確かなことは私のためには何もしたくなかったのである
だから気持ちとしては箱一つでも運ぶのを嫌がっていた、頭の中は借金のことしかなかったからである

ただそれが私が批判できるかとなるとできないとわかった。なぜなら自分自身がなぜ赤の他人に物を運ぶのに負担を感じたからである。それも金をはらっていてまた物を運んでいたからである、何か物を運ぶことが返って負担を感じたからである

人間は何か報酬がなければ何もしたくない!

これが別にいい悪いとかではなく人間だということを知る。ただより高いものはないというとき無償で何かを他人にしてやる人はいない、もしする人があるとなると何か魂胆があり後で大きな見返りを要求されるとなるから出た諺だとなる
要するに人間はなんであれただ無料で他人に尽くすことはできない、それはいい悪いとかではなく人間はそういうものだということである。福祉関係の仕事でも無料ではない、国からでも自治体からでも金をもらっているからしているのである
だからこの世でただより高いものはないというとき人間は無償では何もしない、したくないとなる

だからただですることがあれば返ってその報酬は金を払うより高くつく、だからこそこの世で他者にサービスを受けるとき
一定の価格が決めれる。ただのサービスは返って高くつくからそうなった。他人には報酬なしでは何もしてもらえないということである
カルト宗教団体であれ宗教だと無償でしてくれるのかとなるとやはり無償ではない、カルト教団なら確実にその見返りを要求している、だから献金が常に要求されるのである。要するにかえってただより高くつく場合がある。無償で助ける人はいないということである

●無報酬でもしたいことはある

ただ不思議なのは人間は報酬無くても金がもらえなくてもやりたいことがある。例えば芸術家なら画家ならいい絵を描きたいという願望が強い、それを売れば金になるからではない、絵を描きたいという動機がありそのために金が必要だとなる。だから画家は金になるより自分の納得する絵を描きたいとなる、だから絵を描くことは報酬が例えなくて描きたいのである
仕事にはそういうことがある。私は別にプログで毎日書いても報酬はないしほめられるということもない、でもなぜこんなに熱心にしているのか、それは自分なりの絵を描きたいという画家と同じなのである
それは金を払ってでもしたいことだからそうなる。単にモノを運ぶとなればしたくないのはそれが絵を描くのとは違っている
それは何か報酬がなければしたくない仕事だとなる。

要するにただ金を得るだけに強いられる労働と自らしたくてする労働は違っている、大方は金のためにしたくないけどしている
だからみんな会社員は社畜だと自ら言うのである。
ともかくただより高いものはないというとき人間は無償で他人のために働くことはしたくないそれは確かである。

なぜあなたのために物を運ばねばならないのか?
何か得があるのか

だから一つの物でも他者のためには運びたくないのである。それは冷たいともならない批判できないみんなそうだからである。
一方自然界は食料でも何でも無償で無料で与えられる。それでも人間が栽培するとそこに人の労働が加わりるから無料ではない必ず報酬が金が要求される。どうしても絶えずこれは苦労して作ったものとなり報酬が要求される
でも不思議なのは自然界では食料を得るとしてもそこに労働は加えられていない、木の実であれ何であれそれは神から直接与えられたものである。何か報酬は要求されない。だからその時その果実でも木の実でも甘美になる

それで野にある桑の実を食べたときそういう食べ物は買って食べるより甘美なものになる、別に誰かが苦労して作ったものではない、無料で無償で食べられるものだからである。それは出エジプトで与えられたマナとも似ている
誰かの労苦によって与えられたものではないからである。だからそれは一層甘美だったのである
天国とはこうして食べ物でも無償で与えられ場である。神が直接賜物として与えられる。金を払う必要はない、ただ神に感謝して食べればいいだけなのである。何か人間が手を加えるときかえって必ずそこには不純なものが生まれて来るともなる
人間の手から与えられるものは神が直接与えるものとは違う、かならず報酬が要求されるのである。それが負担に感じるのである。

そして人間でも無償では他人には何もしたくないのである。それは冷たいというのではない、神は何かを与えるにしても
無償であり何か神自身が苦労したわけでもない、それは奇跡と通じている。
聖書では何かそうして奇跡として人間い与える、キリストもパンであれ葡萄酒であれ奇跡として与えた
奇跡とは何の苦労もせず与えるということである。病気でも触れただけで癒したとかなる
人間の医療となればいろいろと苦労する。だから医者にかかれば医者への報酬は一番高いものになり医者は一番偉いものとなる
医者に対しての報酬は一番大きいものとなる。医者が神のように崇められともなる。

要するに人間を媒介として与えられるものは無償ではない、常に負担となるものである。だからただより高い物はないとなる
逆に無償でただで与えるのが神だとなる。何か見返りを要求しない、感謝するだけでいいとなる
つまり人間を媒介として与えられるものは常に報酬が期待されて負担になる、それで何か生きること自体負担になっている
純粋に喜べないのである。ただでしてもらってもそれは神が与えるものとは違ってさらなる報酬が要求されているからである

●神の国では無償で与えらる

この世で本当にいいものは自然の景観であるがそれは無償で与えられる、富士山を見たからと金を要求はしない
野の花を見たから何か報酬は要求されないのである。そして野に咲く花が最も美しいのである

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

働きもせず、紡ぎもしません

人間が作り出す衣服は作り出すのに大変な苦労がある。野の花は働きもせず、紡ぎもしませんとなっている
それは労苦なしで咲いている。でも人間が花を栽培すると苦労して栽培したとなり報酬が金が要求されるのである
でも一番は花が美しいのは野に咲く花なのである。
人間は絶えず働き紡いでいる、それで必ずしも野の花のように美しいとはならない。だから人間の労働は膨大なものである
その労働の結果として大都会がある一千万の大都会があってもそこに一輪の野の花ほどの美がないということでその対象が極端なものと現れている。要するに膨大に働き労して紡いで作られたものでもそこに美がない、それは何なのだろうとなる
それこそ徒労だったのかとなる。

ともかく人間の労働はすべて賞賛されるものではない、絵を描くとか何かその人なりにしたいことをしていない、強制されて働く、何か与えられるにしても必ず報酬が要求される
そのことは資本主義だろうが共産主義だろうが変わらないのである。また変えようがないのである
そこにこの世の絶望がある。神が自らの業で作り治める神の国でしか理想は実現されないのである
人間がいくら労働しても努力しても理想の国は実現することがないのである、そこに人間の限界がある。

神の国では神自ら治める
神の手でじかに食料も与えられる
それ故により甘美となる
鳥は着るもので苦労しない
住む家もなく苦労しない
食べるものでも日々ある
神は労せず何でも与える
その報酬は要求はしない
ただ感謝すればいい
そこに至福があり人は満ち足りる
神の計らいは万全であり
そこに災いはない
病もなく老いもない死もない
永遠の神の都で安らぐ

野の花でも鳥でも同じである。食べるものでも与えられているけど人間とは違う。着ることもないし家もないけど生きられからである。誰か苦労して与えるわけではない、神自ら与えるもので生きる。ただ家畜とかペットになると人の手から与えられたもので生きるから違ってくる。だからいくら餌を与えても慣れない猫になぜ餌やるのだろうとなる
また餌をやっても感謝もない、だからなぜ餌をやっているのかとなる。猫でも与えるときは何らかの報酬を期待しているからだとなる。

確かなことは人間は常に何でも苦労して作り出すから報酬なくしては何も与えたくないということである
giftはドイツ語由来でありそれには毒の意味があったことことが象徴的である。人間から与えられるものには毒が含まれているともなる。何かただより高いものはないに通じている。無償の賜物としては与えられないともなる
つまり人間から与えられるものには毒があるとなる。一番いいものは神から直に賜物として与えられるものだとなる。


2025年03月26日

統一教会に解散命令―次は創価でありそこが本丸 【隠蔽されてきた悪が暴露される―カルマは消えない】

統一教会に解散命令―次は創価でありそこが本丸
【隠蔽されてきた悪が暴露される―カルマは消えない】

soka11.jpg

祝!統一教会に解散命令くだる!次は創価学会!乾杯しましょう
『TTBジャーナル』

ここは法律的にも政教分離を説明しているからわかりやすい
宗教団体でも法人格を得た宗教団体は特権を得るから違っている
創価の問題は検察でも議員でも権力を持つ者とかかわって操作する
そのために政治権力を得ることが活動の中心になる
政治によって利権を御利益を配分するからである

●宗教法人化した団体とそうではない宗教団体の相違

ここの分析はわかり安い、法律の問題点を指摘している。宗教団体と法人格を獲得した宗教団体は違っている
法人格を得れば税金は払わなくてもいい、その特権があるからこ法人格を得た宗教団体は政治運動などをすることを問題にしている。でも法人ではない宗教団体は活動が自由だとしている。これが明確にされていないので混乱する
法人格を得たら政治活動は禁止されて宗教活動のみ許されるとなる
創価でも別に政治活動しても憲法違反にならないとしている。でも創価の場合明らかに憲法違反なのである

ではなぜ放置されちたのだろうか?何か巨悪にしろそれが最初わからない、何か手を打てない間に悪は増長して手が付けられなくなる。それがナチスにもあり他にも悪は隠蔽され増長されても何かわからないのである
それは原発でもそうでありそこで危険があっても政府の権力で隠蔽され続けて来た。そして事故になりその危険性を具体的に被害となって意識されたのである。つまり最初は悪が何かわからないのである。それが重大な被害として現れるときわかる

アンタッチャブル化すること特権化して不可侵の領域にすることが危険なのである。そういう権力をもつと権力が暴走してナチスのようになっても誰も止められない、検察警察も止められなくなる、なぜなら検察も創価の人がいて操作できるからだとなる

でもその時はすでに時遅し

となっている。その被害が甚大なものになって自覚されるのである。ただ悪はいつか露見される。それには時間がかかる。
ジャニーズ性加害でも隠蔽されていた。その期間が長いのである。つまり何が悪なのか見えにくい、特に巨悪は見えにくいのである。むしろ大悪人でも善人とされる、カルト宗教団体の場合がそうである
ではそうした悪が生まれた背景は原因は何だったのか?それはいくら池田大作でもできない、その背景に池田大作を産み出す社会があったとなる。それは戦後の焼け野原からカルト宗教団体は生まれ成長した。また東京に地方から人が移住して人の繋がりを求めてそういう団体に入った。だからその背景にそうした社会事情があり急成長したとなる
社会の不満分子を吸収したとなる。

●創価と共産党の共通点

不思議なのは創価と共産党は似ている。その共通性は生活に困窮していて恵まれていない人たちが多数なのである。
その人は障害者を持っているとか貧乏で食べることもままならない、いつも困窮している。何かいいことがないのである
最近では病気にもなって苦しい、そういう苦しむ人たちは頼るところがなく創価とか共産党に頼る
そしてそういう人達は身の不運は困窮は社会のせいであり常に自民党を批判している。自民党のせいでこうして苦しむからそうなる。でも障害児をもったのは別に自民党のせではないのである。それは何なのかよくわからないのである

ただそいう人は頼るべき人がいないから頼る、すると政治的にであれ利用されるとなる。そういう不満分子を集めて反政府団体と組織して力を持つとなる。そして異常なほど御利益福運を説く、信じれば御利益福運が得られると異常なほどの熱気となり祈るのである。だからナチスを生んだ社会背景がありまた創価を生んだ社会背景があり急成長したのである
だからこうして社会問題を解決できないから何かカルト宗教団体に頼る人達がいるから成り立つのである
そういうことは人間社会で変わらずあり貧困問題でも日本で多数の問題化していてそれが解決しない、そもそも人間社会の様々な問題が解決できないことからそうしたカルト教団がなくならないともなる

●誰でもカルマで苦しむ―解消できないカルマ

人間は誰でも何らかで苦しむのはカルマだともなる。それは親の因果子に報いとなるのもそうである。親から遺伝するということはカルマだとなる。病気でも遺伝だとそうなる。障害者も遺伝がありそれがその親に子にカルマとして苦しめられることになる。家族でも何らかカルマを持ち苦しむ。その原因が様々であり何らかで苦しむようにできているのが人間だとなる

そしてそのカルマは解消できない!

これが衝撃的なことなのである。社会を変えても人間そのものが持っている業がありそれがカルマとなり延々と続くのがこの世だとなる、このカルマは業は消えることがないのである。何故今でも戦争がなくならないのか、それも人間の業がありカルマが原因している。人間のカルマを消滅させることができないのである。それはこの世の終わりまで続く、人間の力では解決できないからである。

つくづく人間はジキルとハイドである、口では善を説き善人のふりをするが実際は自らの我欲で動くのでありカルト教団の幹部などでもそうである。人を助けるよりそういう困った人達を利用して我欲を満たすことである。だから平等を追求した共産主義でも幹部は中国なら共産党幹部が巨万の富を得るし幹部がその師弟でも就職でも優遇される特権化する
だからカルト宗教団体でも利権団体であり利権を御利益を追求するのである。それで政治にもかかわるのである
でも政治の利権にかかわることは法人化した宗教団体では禁止されているのである

それがなぜ黙認されてきたのか?それが最初は悪と明確に見えない、でも後からその実体が悪が見えてきて暴かれるとなる
カルマでも何がカルマを積んでいるのかわからない、でもそれが必ず苦しみとなって現れる時意識する
それは60以降に現れる。いくら恵まれていても何かしらカルマを積んでいてそれが苦しみとなって現れる
そういうことが社会には多い。

●ジキルとハイドになる人間ーでも悪は暴かれる

いずれにしろ統一教会より何百倍も危険な団体が創価である。それがなぜ見逃されてきたのかとなる。それは自民党の責任でもありマスコミの責任でもありこれまた原発事故と同じ構図になる。そこに巨大権力がかかわり見逃されて大被害になった時その悪に気づいたとなる。太平洋戦争でも300百万人が死んだことで悪が暴かれる。ただそれは日本だけではないアメリカの悪もあったとなる、つまり巨悪となるとかえって善と見える。巨悪になると悪が見えなくなる

むしろ善として推奨される。だから自分は最悪の悪人だと自ら説いた親鸞などこそ本当の善人だったとなる逆説がある
何かみんな悪とか罪を意識しない意識できないからである、普通はみんな善人だと思っているからである
だからカルト教団の教祖が最大の悪人だったけど最大の善人もされていたとなる
そういう矛盾をかかえているのが人間でありジキルとハイドになる。

でも悪は必ず露見して暴かれる、この世で露見しなくても隠れたものでも来世で露見して暴かれ裁かれる
つまり悪は見逃されることがない、この世で見逃されても来世で死んでからでも裁かれるとなる
それを自覚して恐れる人は本当の宗教家である。第一来世のことなど恐れる人などいない、今世が良ければばいいとなる
だからこそいつまでたってもこの世から悪はなくならない罪は消えないのである
いつか人類は滅びる運命にある。ただそうなっても依然として神に選ばれた者は神の国で生き続けるとなる




posted by 天華 at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年03月25日

近辺の春【初蝶、若草、福寿草、蓮華、椿】


近辺の春【初蝶、若草、福寿草、蓮華、椿】

dovebutterfly.jpg

tubakibird.jpg

fukujyusou.jpg

rengekofunn.jpg



山鳩に初蝶飛ぶや大原村

若草や風のそよぎて走るかな

一面に農家の庭や福寿草

誰は眠る蓮華に古墳真野の里

椿咲き鳥の飛び来て去りにけり

鳥飛びてきらめき流る春の川


大原村では初蝶を見た、山鳩が木にとまていた、のどかな風景である
福寿草が農家の庭に一面に咲いていた。古墳には蓮華は咲く
平和な光景である。まもなく桜も咲くだろう



2025年03月24日

春に偲ぶ江戸【隅田川の春−浜離宮ー海を望む城】


春に偲ぶ江戸【隅田川の春−浜離宮ー海を望む城】

seacathle.jpg


suidagawa2.jpg

edobrige.jpg

edoshiro.jpg



春に偲ぶ江戸

春の日に隅田川に百羽の鴎
永代橋、両国橋、吾妻橋,言問橋
その名の良しや謂れあり
浜離宮の池に春の潮を入りきぬ
松のゆかしく客を接待
ここより船は外海に望む
かなた流人の八丈島のあれ
波はその断崖に打ち付け閉ざす
江戸八百八町水路は縦横に
舟は入り来舟はめぐりぬ
海の潮も上り来て屋敷の池に知る

舟はゆっくりと進む
寺の鐘は重くなり
待つ人も急がず
ゆっくりと船は進む

船宿に柳しだれてあわれ三味線のひびく
芸者が小橋をわたり艶に歩む
蔵前に各地より米は運ばる栄
仙台堀は伊達藩の屋敷のある所
江戸前の活魚を天秤棒で運ぶ
その威勢の良さや江戸っ子の一心太助
江戸城は高くも聳え富士をかなたに仰ぐ
登城する侍は威を正し大君にまみえる
日本橋の未明大名行列は出立す
江戸の夜明けや身の引き締まる


江戸城の堀には別に海の水は入ってくる構造になっていないがそれでも桜田堤までは若干海の水が入ってくる。赤坂の溜池も。使用の満ち干によって水量が変わる池であった。江戸の両国に作られた旗本の屋敷で、満潮になると庭に作られた池には海の水が入ってくるという仕組みになっていた。屋敷内にいて、海の潮の満ち干が味わえた。

海岸線の歴史。松本健一

確かに海岸に城がある。何か江戸城となると海から遠い感じがする。現代ではビルと家が密集してとても海を意識できない
東京で何か見るべきものがない、でも江戸の町は水路がめぐらされていて海の潮が入って来たのかとなる
そういう風景をイメージできない、ただ高層ビルを見上げて車と群衆を見るだかけなのかとなる

ただ東京で魅力を感じたのは隅田川である。それは明らかに海と通じていて浜離宮には春の潮が池に入ってくるのである
だからあそこでは自然を感じるからいいのである。でも今そうして昔の江戸を感じる場所がないのである
江戸城跡に皇居がある時、やはりそれは明治維新で作られたものなので歴史を感じないのである
だから天皇は京都に住むべきだというのが正論だともなる。

優艶に枝垂桜の池映る京都の御所の近くなるかな

江戸城跡には江戸城を再建すればいいという人もいる。そうすれば歴史を偲べるとなる。東京で残念なのは歴史を偲べないことだからである。大阪なら大阪城跡があるだけでも偲べる。でも江戸城の跡があっても何か大阪城のように偲べない
やはり何か歴史はその当時のものが残らないと偲べないのである


日本の城は海側に作られてその城が海より見えて目印となりまた海の海水が入って舟も入れるようになった港の機能があった
それは瀬戸内海と四国の城はそうである。東海道でも吉田城は川があり橋がかかり城がある。それは浮世絵に描かれている
私はその橋の欄干にもたれると確かに海から風が吹いてきたのである。海がかなり近い場にあった

春の風海より吹くや吉田城

ただ実際に吉田城には電車で来たのでありそれで中に枝垂桜が咲いていた。だから感覚的に海を望む城と感じなかった
何か旅はアプローチちの仕方で違ってくる。だから江戸でも隅田川へ舟で入り水路を行ったら感覚的に海と通じているとなる

海側に城があったというときこの辺でも相馬藩の最初の城は小高にありそれが浮舟城となっていた
船が浮く城というときそれは城の前に海が迫っていたことなのである。そして今の小高駅の下をくぐって津波の海水があふれた
駅の海側は津波で海になり湾となった。つまりそこは船が出入りする港だったのである。それで蔵院とかもありかなりの船が出入りしていた。それは中世のことである。だから日本の城が海岸にあるというのもわかる

隅田川も大江戸線が地下から出てきて橋を走るのには驚いた。地下鉄線が今はめぐっているとなる
そこには何か水路をめぐらされて江戸とは余りにも違っていたのである


落語の中の言葉167「船宿」






2025年03月23日

芽吹きの庭【牡丹、梅匂う、落ち椿、クロッカス、白椿】


芽吹きの庭【牡丹、梅匂う、落ち椿、クロッカス、白椿】

sunnsetume.jpg

freshbuds.jpg

stonebuds.jpg


P1060764.JPG

crokasu.jpg

umeredwhite.jpg


里に老ゆ夕陽赤々梅匂う
朝の風芽吹きあまたや我が庭に
牡丹の芽10ほどありや重し石
知られざる田舎の小径落椿
梅匂ふ部屋に老女と話すかな
石の側クロッカス見ゆ我が庭に
白椿一輪隠れ咲き初めぬ

今年は新しい牡丹が咲く、蕾が出ている、でも二年間くらい葉っぱだけしか出ないから咲かないと思った
土に合わないから咲かないと思ったが咲く、だから楽しみだとなる
牡丹は隣の庭にも咲く、そこも空家であり塀もない、一時家族が来たが住まないのである

クロッカスが一輪石の側に咲いた、この花は去年も咲いたが他の花咲かない、白椿は裏の方に咲いた
細長い庭でもそれなりに花は咲く、広くなると手入れが大変になる
今日はあたたかい、春らしいとなった

2025年03月22日

高齢化社会の老人の不幸は価値観が変わったこと 【国家の価値ー会社人間の価値から個々人の価値の変化】


高齢化社会の老人の不幸は価値観が変わったこと
【国家の価値ー会社人間の価値から個々人の価値の変化】

「老いは邪魔者」な超高齢社会をどう生きるか? 

●老人は無用で無駄だという時なぜ他にも無駄な金がつぎ込まれるのか

こんなことは人間社会には成り立たない、老いたゴリラが子育てして役割があり依然としてリーダーでいられる
それは昔の農村社会の村のような共同体があった時代とか大家族だった時代なら成り立つ
そんなことが現代社会では成り立たないのである。子育てするから役割があるとかいってもしたくない老人もいる
またそれで社会的に認められるわけでもない。問題化しているのは社会的に価値がなくなり無用化する老人の数が膨大だということである。ではその人達が子育てを手伝ったとしてもそれで老人を敬うことなどありえないのである
家族内の価値はあるにしてもそれが社会的価値にはならないのである。

そもそも老人がただ負担になるだけの無用な存在だという時何なのか、経済的負担になるだけで若い人でも税金として負担させらるからだとなる。それは数が多いし老人は役に立たない価値がないとされるからである。
それも社会的に何が価値があるのかなどもわからないのである。酒とかタバコなど有害でありそれを宣伝する新聞社も有害だとなる。風俗なども有害だとなる。この世には別に有害なものでも必要だからある。

私はオリンピックなど無駄でありなぜそんなに金をかけるのか、その金はIOCの幹部に入り特別待遇で接待されて金を得る
そんなことになぜ税金を使うのかとなる、大阪の万博でも現代に必要なのかとなればする必要もないとなる
時代的に合わないのである、高度成長時代はあっていたのである。でも今そんなことしても時代に合わないとなる
だから見に行く人国内でもあまりない、だからそんなことになぜ金をつぎこむのだとなる。

老人が無用だというけどこのように無駄なことが社会にはある。老人が無用だから自殺しろというけど他にも無用なことはある
それでもタバコでも酒でもギャンブルでもやめられないからある。老人だけが無駄なものではないのである
ただ老人が無駄だという時、老人の価値が問われてるのである。常に何であれ人間は価値が問われる存在なのである
老人は価値がないから集団自殺しろというときもそうである。それはナチスでも優性思想があり障害者であれ老人でも抹殺しろとなたし古代では福祉ということがないから強い者が生き残ればいいとなり弱いものは抹殺しろとなっていた

●老人に問われるものとは何なのか

ただ正直老人がこれだけ多いと何か老人は人格的におかしい人が多いのかと見る。それは金があっても何か人格的に歪んでいるとかとにかく歪んでいる老人が多いのである。何か尊敬される老人がいるのかとなる。そもそも尊敬される人間がいるのか、人間は他者を尊敬するのかとなる。権力があればそれに従う金があれば従うとかあってもそれは尊敬するからではない
金をもらえるから仕方なくへつらいしたがうに過ぎない、だからいくら金をもっていても高級老人ホームに入っても尊敬しているのではなく金をもらうためだからどうしても粗末に扱われることがある。
そもそも今の時代に他者を尊敬することなどありえるのかとなる

要するに何に価値があるのかということが問われる。その価値を認めれば尊敬されるとなる。それは別の老人だけではない、常に人間は価値が問われているのである。現代社会はその価値が多様化したから昔のように農村社会のような価値観では対処できないのである。何か一芸に秀でていればやはりその人は価値があるとなる。それは老人でも同じなのである
それは老人だから価値がある無いとかではない。ただ老人は若い人より何かしら積み重ねたものがありそれで価値を創っている
若い人はこれかららその人なり価値を創ることでありその期待されることで価値がある

いずれにしろ、これまでは老人はそんなに長生きしていないしそんなに問われることはなかった、今は数が多いからそんな老人無駄だとされる。それはそもそも現代社会は余りにも多様化して複雑化して価値が明確に可視化できないのである
確かなことは村社会のように共同体がありそこで老人がその村の中で生活して知ることがあり教えることがあり長老とかなり死んだら御先祖様として尊敬されることなどないことである

価値はそれぞれが作ってゆく時代である。何か一つのことでも趣味でも専門家になり詳しくなれば一目置かれるとなる
その価値を創るのは若い時から始まっている。老人なってすぐに価値は作れないのである
何でも積み重ねが必要になるからである。でも会社人間になると会社内の組織団体内で価値を創って来たのだから会社を退職すると価値がなくなることが問題なのである。個々人の価値を問われるにしても会社で作って来た価値が通用しないともなる
一部は通用しても全部は通用しない、だから会社人間はその人なりの価値を創ることがむずかしいのである

●会社人間からその人なりの価値が作る時代

江戸時代の職人とかは会社で働いていたのではない、個々人で職人でも働いていた。だからカンザシであれその人が作るということでその人の価値があった。それで下駄作るにしても作った人の名前が記されていた。何か包丁でも近くで作る人がいてそれがいとして名前が彫られていた。それはまさに個々人の価値を示していて誇りになっていた
今は会社で作るものでありそこに個人名など記されない、カメラ一つ作るにも様々な人が関わる、外国もかかわる
そこで個人の価値は失われたとなる。何でも会社で組織で仕事するのが現代だからである。一人では何もできないとなる
でも不思議なのはインターネットだとプログでもyoutubeでも一人で新聞社にもなりテレビ局にもなっている
すると個人でも価値が作れる時代だとなる。テレビ局をもつことなどできなかったからである

価値という時私は何々の会社の一員として働いていましたとなり価値があるというときそれはその個々人の価値ではない
だからこれからは個々人の価値を作り出す必要がある。そのツールとしてインターネットが発達したとなる
この人の言っていることは価値があるとして注目されて金までもらえる。それはマスコミとは違うのである
今までは六局しかテレビ局でも許可されていない、でも今やyoutubeだと何百局何千局のテレビ局がるとなる。
だからまたそこで選ばれることは容易ではない、それで有名人がやはり見られているとなる

ただ現代はこうして個々人の価値が問われる時代になっているのかもしれない、youtubeは一個人のテレビ局だからである
プログでも一個人の新聞社であり出版社になっている。それだけのことを一個人でもできる時代になったとなる
でも一個人と言っても膨大な数になるからそこで選ばれて読まれるのは極わずかだとなりほとんど見られないものも膨大になる。ともかく価値観は常に変化する。団塊の世代は普通に親から殴られ親に逆らうなとか学校では体罰が行われていた
それで親も今も厳しく育てた方がいいと言っている。その考え方が変わらないのである

私の場合明治生まれの父親が中学の時死んだのでそういうことがなく自由に生きられて自分の好きなことを追求できたのも不思議だとなる、父親が生きていたらそうはならなかった。引きこもりなっても自由に旅することを奨められていたのである。とがめられることもなかっのである
団塊の世代はみんな企業戦士となり引きこもりなどいなかったのである。貧乏だから働かざるをえなかったからである。
それが時代が変わり価値観が変わったから子供を殴ってもいいから厳しく育てろとかなると虐待だとか社会から攻めらる時代になった。それも価値観が変わったからなのである。だから老人は昔の価値観で生きているから何で老人を尊敬しなのだとか不満になるのである。だから今の老人は概して不幸だとなる。会社人間でも会社を退職したら会社で築いた価値が喪失するからである。そして価値無いものとされる。社会のゴミだとまでされてしまうのである
それはやはり時代の変化でそうなったのであり価値観の変化でそうなったのである

約30年間にも渡る自身にとっての大東亜戦争が終わると、小野田は1974年(昭和49年)3月12日に日本航空の特別機で日本の羽田空港へ帰国を果たした

小野田少尉が戦争続けていたのである、でも日本に帰って日本が全く変わったことに驚いたのである。戦争を継続してきて
日本に返ったら何か自堕落な平和な日本に失望もしていたのである。戦争でもそれはその当時否定的ではなく日本が一丸となってアメリカと戦うことでそれが日本人の一体感をつくり懐かしんでいるということもあった。
つまり戦争でもその時代はその価値観に生きていた。国家が最重要なものでありそれに殉じることが当時の価値観だったのである。今は否定されるにしてもその価値観をすべて悪いものとして見ていないのである
だから時代による価値観の相違は大きい。それが今の老人にも起きている。どうしても時代が変わるとそうなる
時代は70年周期くらいで大きく変わるからである。







posted by 天華 at 16:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年03月21日

真面目に働いても価値を創れない問題−ひろゆきの論


真面目に働いても価値を創れない問題−ひろゆきの論
【マリアとマルタの例えー花に興味がない人は価値がない】

hiroyukiwork.jpg

【ひろゆき】真面目に働いている人には申し訳ございませんが、真面目な人ほど使えない理由を説明します

godgarden.jpg

人間は常に価値が問われる存在である。真面目であることも価値はある。ただ何か真面目に仕事をしてもその人の価値が認められるのか?例えばレジにするにしてもそのレジをする。女性でも特別な価値を認められるのか?
ただ、レジにしても男性より女性が良いとなる。女性でもまた美人がいいとかなる。美人でなくても愛想がいいとかなる。
何かそこでほかの人と違うものを示せば、価値あるとなる。
何か。近くの店でも80近い人がレジを店番しているといい感じはしない。やはり若い女性の方が良いとなる。
だから、あらゆる仕事にも適材適所なのである。老人は裏方に回り掃除などをしていれば良いとなる。

ひろゆきはただ真面目なのなら、それだけでは真面目なのならそれだけでは価値にならないとしている。
ただ、時間どうりに真面目に仕事をこなす。でも、それだけでは価値にはならない。
何か、その人は営業でも。ほかの人とは違って、成果をあげればその人の価値が認められる。その人が、必ずしも時間どうりに来なくても結果を出せば価値あると認められる。それを真面目に時間どうりに働く人は違って成果を出しているからだとなる。会社ではいくら時間どうりに来て働いても成果が出なかったらその人を評価しない。
要するに、何らかの成果を出すことが評価につながる。

それで、わかりやすいのは芸術家である。たとえ一作でも優れた作品を作れる人は創作できる人はその一つの作品で評価があり、それでその一つの作品でも絵でも売れたり評価が得られ価値ある人とされる
音楽にしても一つの作品でも優れているとそれだけで売れるし価値があるとなる
その価値は必ずしも真面目な人でなくても天才的な人は作れるのである。もちろんゴッホとか価値を認められない人もいて苦しんだが死後その価値は世界的に認められた。生前は食うこともままならなかったが何十億にもなっている
そもそもそういう価値はいくら努力しても作り出せない、天才だからこそ作り出せたものだからである
芸術関係だといくら真面目に努力してもそうした作品を創造できないからである
第一そういう天才は努力しなくても創造できる。小学生から大人の小説を読んで理解していたとかなる
天才と秀才は違う、秀才は真面目な努力家だけれど何か新しい発見と創造に寄与しないのである

何が価値を作り出すかは多様である。別に普通の人でも様々な価値がある、その価値を見い出されない人いる
その女性は何かコミュニケーション能力が高い、そして緑化会社に勤めていたからまた農家の出だから花に詳しい
他の女性でも農家の人は花に本当に詳しかった。でも全然花に興味を持たない人がいる、その人はまだ若いので美人でも花に興味をもたないのである。だから私はその花に詳しい老人に価値があるとして金を与えている
ただ病気になって庭のことなどでもできなくなったので残念だとなる
その人は最初は家事をしてくれた、それもほんの一時期のことである。その仕事より庭の手入れとか花について知っていることに価値を見出したのである
それはキリストがなぜ家事をしているマルタよりキリストの言葉に熱心に耳を傾ける人女性を評価したのかとなる

マルタは当時の常識からマリアを非難しているのです。しかし、それだけではないのです。マルタの心の中にあった思いは、不満は、「自分も本当はイエスの話を聞きたいのに、女だから仕方なく家事をしている」という不満があったことです。

 マルタは「家事なら誰にも負けない。わたしは働き者で、マリアは怠け者だ」という優越感もあったのでしょう。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエスの言葉は、料理のことだけでなく、このような優越感と劣等感の狭間で悶々として、ストレスと感じているマルタの心の状態を指摘しているのではないでしょうか。

マルタとマリア

そういうことはあった。でもマリアの方を評価した。それは私の母がそうだった。結局大正生まれで働くことしかなく何かその他のことは何にも全く興味をもたなかった。それはやむえない家庭に事情でそうなった。貧乏な時代は常に働くことが優先されたからである。だから戦時中食料がなく苦しんだから庭に豆を植えていたのである。花はいらないと言っていたのである
それはなんとも悲しいというか異常なことに見えた。その時何か母が巨大な働き蟻に見えたのである

母は働くことにしか金になることにしか価値を見い出さなかったのである。それはそういう環境で育ったからであり母が全部責任があるとはならないのである。あまりに貧乏だとそうなってしまう、花より団子になってしまうのである。
何故その時キリストの言葉を聞くことが大事だったのかそれはその時をのがすともはやあうこともその話も聞くことができなくなっていたからである、だから家事が必要でもキリストの言葉を聞く方が大事だったのである

いずれにしろ真面目に働くだけでは価値が生まれない、

野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

働きもせず、紡ぎもしません・・・必ずしも真面目に働くことが価値をうまない。だから怠けていろと言うのでもない、
真面目なことがすべて価値にはつながらないのである。価値を生み出さないのである
でも私は天才でないから芸術の創作などでも学問でも真面目に追求してきたのである
そしてこの年になってその成果を出しているのである。だから何に対して真面目なのかが問題なのである
切磋琢磨して職人として真面目に技を磨くことはいいことである。何でも天才でない限り努力しない限り身に着かないのである
真面目に精進することは大事なのである。ただ真面目に決まりきったことをしても価値を生まないのである
それでみんな社畜だというときその人なりの価値を見つけ育て価値を創っていないのである
ただ価値と言っても余りに多様だから一概に言えない。

ただ様々な花を見るとき様々な形と色の花があり花はそれぞれ個性があり私を認め評価してくださいとなる
それはそれぞれに違った美があり花の楽園を作りそこがパラダイスになっているのである
つまりそれぞれに違った美があり価値があるとなる。同じだったら価値がないとなる。その美のイデアを作り出したのは神でありその様々な花を見るとき神の業に感嘆して神をほめたたえるともなる
その時もほめたたえられた神も喜ぶとなる。でも花に関心がない人はマルタのように価値を認めないとなる
神はその創造した花を見て評価する人の方を価値あるものとされるということである

とにかくこの世の価値は余りにも多様なのである。だから何に価値があるとかなると簡単に言えないのである
ただ糞真面目に働いても価値は生まれないとなる。それはロボットにやらせればいいとなる
現実にそうなりつつある。ロボットにAIでもできないことをすることがこれからのからは価値あることだとなる。
だからみんなアーテストになれというのは団塊の世代の高度成長時代と価値観が変わったのである
どうしても貧乏な時代はそうした余裕がなからそうなっていたのである。

いずれにしろ老人になり価値が問われる。どんな価値を作り出したのかその人なりの価値を作り出したのか問われる
それは死んでも問われる、なかなか人間のことはわからない、家族ですらわからない、でも死んでからいろいろと自ずとわかることがある、そういうひとだったのかとわかるのである、だから死んでからも人間の価値は問われているのである
弔うとは死者を問うことだからである、何をしてきた何の価値を残したかを問うことなのである


2025年03月20日

膨大な情報の処理ができないー人間は自分が書いたものでも忘れる 【道具を機械を使い失われる人間の五感】


膨大な情報の処理ができないー人間は自分が書いたものでも忘れる
【道具を機械を使い失われる人間の五感】

sumahocc.jpg

manybooks.jpg

●道具(機械)によって失われるもの

現在の情報社会で必要なのは?情報処理能力である。自分なりの表現をするにしても自分だけに蓄えてある。記憶であれ、情報であれ限られているからである。インターネットとかAIになるとその強みは膨大な情報に。アクセスしてそれを組み合わせているようである。それはもはや天文学的な情報がありその情報を処理することが一人の人間では不可能になっているからである。
そして、膨大な情報のなかから選択して組み合わせると編集すると何か新しい創作にもなる
どうもそれをしているのがAIとも感じる。とにかく人間は忘れやすい、記憶したものでもそれを書きとめてもそれも忘れている
過去に書いた膨大なプログでも自分の書いたものでも忘れていて読んでみて感心しているのも奇妙なのである
こんなことを書いていたのか自分で感心しているのも変なのである。ともかく、人間はそれだけ忘れやすいということである。 

膨大な本を買ったけどその本の中に線を引いてそこが大事なものとして忘れないようにしても全く忘れていたのである。
だから本をどう読むのか問題になる。それで買った本は何か自分で興味があり買ったのだからそれをテキスト化して検索できるようにするといいとなる。一つの言葉からネットで検索するようにするのである。それは一冊の本でも一つの言葉から検索することは役に立つ、プロメテウス的人間とアルカデア的人間がいるという時現代の主流はゼウスから火を盗んだプロメテウス的人間になる。それは科学技術者であり理系であり文系はアルカデア的人間になる

なぜなら老子が鍬とまで否定したと追いう時道具というのは人間を非人間化するものを常に持つからである。
だからアルカデア的人間という時そうした道具によって奪われるものがあり否定するとなる
それがルソーであれニーチェの超人であれ上野霄里氏の原生人間の回帰なのである。トロピズムの原始的本能の回帰なのである。それは老子に始まり道具というのは人間が本来持っていたもの五感でも奪うからそうなる。
そのことはすでに2000年前から指摘されて現代になり極端化したのである。その弊害は極点に達したともなる

●車で奪われた人間の五感

私は車を持っていない、だから車と自転車の比較をすると車も人間の持っていた本能的なもの五感を奪うのである
自転車なら風を感じ光を感じ体でも感じる。でも車だと密閉されているから感じないのである
また早すぎて道の辺の花なども見ないでただとばして目的地に着くことが優先される。
だから不思議なのは自転車でもそういうことがあり歩いて見えるものが新鮮になる

山路きて何やらゆかしすみれ草 芭蕉

近くなる路地裏を歩み残る虫 (自作)

この句は歩いていたからこそ生まれた句でありそもそも歩くしか移動することができない時代がありそこで感じたものは車社会とは相当に違っていたのである。
そして田舎には杖つく老人が多い目立つという時、田舎では車が必需品であり車で移動するから足腰が弱っていると医者が指摘する。それも意外だけど確かに都会では電車でもバスでも交通の便があり歩いて用がたせるから返って都会人の方が杖をつく人が少ないのかとなる。足腰が弱りそうなるのかというのも意外になる

ともかく様々な機械を使い機械に追われるのも現代人である。それによって失われたものがあり得るものあった。私は機械を否定するのでなくそこに得るものと失うものが必ずあるということを知るべきとして指摘している
確かなことはゼウスから火を盗んだプロメテウス的人間が主流となった科学技術文明のマイナス面が拡大した時代だとなる
その反動としてアルカデアを求める、それが常に自分の性分としてあったことに気づいたのである
ただ技術の恩恵は常にありそれを否定するのではない、そのマイナス面が大きくなったから抑制されるべきだと感じるようになった。

●スマホの使い過ぎで脳の異常化

スマホの弊害も大きい、それが脳に相当影響しているというのもそうである。私はスマホを持っているけどほとんど使わない
なぜかと言うと画面が小さいから目が疲れる、頭でも疲れるから嫌なので使わないのである。小さい画面で操作するのは相当に疲れる負担が大きいのである。外に出て外気を吸うのでもスマホばかり見ていたらおかしくなる
旅でもスマホばかり見ていたら見るべきもの感じるものも感じなくなる、ただでは旅で道を聞いても親切に教える人ひない
適当にしか教えないからスマホの地図を見た方がいいとなる。

でもスマホばかりに頼っていると何かおかしくなることは確かである。要するに機械は得るものがあっても必ず失うものがある
その失うものが大きなものとなり弊害を感じるようになったのである。情報にしても情報洪水になりそんなに大量の情報を処理できないのである。人間が処理できる情報は限られている。情報にしても事件でもその場と切り離せずありその場に存在して理解することがある。take place(起こる)必ず場所が関係しているからそうなる。それで外国となるとまずその場所が理解できないから誤解を生むのである。テレビの画面だけでは理解できないから誤解を生む、イラク戦争の海鳥が油まみれになっていてその映像が世界に影響してイラクが悪いとなりその映像操作で世界の人が操作されたのである
実際は周りに油などなかったからである。またフェクニュースも拡散されやすいのである。
もう膨大な情報を処理しきれない、それで逆に情報を断つということも必要になる、スマホでも断つことが必要になるのが現代である。脳を休ませることが必要になる。

情報で有効な利用は連鎖する情報である。ギリシャの詩を作りギリシャを知りたいときその方面のyoutubuが参考になった
それでギリシャについての知識を深堀りできたとなる、つまり拡散するのではなくデープに掘り下げるのが有効的だとなる
拡散した情報でも結びつけることで新たな視点が得られることも確かである。ただ無制限無限にあらゆる情報を取り入れることは不可能である。だからただ漠然として情報にアクセスするのではなく目的をもって情報を得ることが必要になる
そこでデープな情報を得ることになる。

いずれにしろ情報化時代に対処するにはどうするのか問題である。本だけでも膨大でありさらにネットでも膨大である
ただ良質な情報は本にある。その本にしても読みこなすとなると大変になる。
ただ自分が関心があり興味があり集めた本だからそれをもう一度読み返すと消化できる。自分の文の中に取り入れることができる。






  

2025年03月19日

古代ギリシャの賦(詩)−ギリシャ文明も地理と風土が深く関係していた


古代ギリシャの賦(詩)−ギリシャ文明も地理と風土が深く関係していた

I stay at Athens on sunny day in spring

greecetenple.jpg

idolphincoin.jpg



明るい春の陽光の下と戸外のの散策逍遙
偉大なる師、ソクラテスよ
真剣な真理の追求の問答
不滅のイデアを見る
オリンポス山は雪の衣に覆われて
聖なる山は不浄を拒み鎮まりぬ
粛々とかつて神の宣託を受けし場
デルホイの神殿の石柱はもの寂び
競技を見る観客の石に座席は古りぬ
ここは世界の中心とありしギリシャの栄光
ギリシャの船は地中海を帆を張り進む
各地の植民都市ネオポリスへ
ホメロスの冒険の物語、ヒーローは生まれぬ
そはは真にトロイの城の跡や
その前に平原あり海へとつつづく
かつて野外舞台にコーラスは青空にひびき
アテネのパルテノン神殿は鎮座する
天才は綺羅星の如く輩出する
ピタゴラスの定理、アルキメデスの原理
その目は輝き探求心のやむことなしも
スパルタは山中に専制軍事国家として埋もれぬ
その子らはマルスの神の生贄ともなる
アテネイの女神の奉献はなく
その知性は磨かれず兵士の養成のみ
しかし今なお古風なるものは残る
腰蓑を着て岩山を羊を追う牧人よ
鄙びた鉄道は走る模型のような車両よ
その煉瓦の駅舎は小屋なりしか
オリンピアに残される石柱と積まれた石
そは二千年の歳月にも残りぬ
ここに若者の体は鍛えられぬ
アテネより離れてクレタの島よ
地下に迷宮を残し謎を語る
イルカに乗る少年よ、波しぶきをあげ進みぬ
地中海の育む神話よ、海の神ポセイドンよ
地中海は人を結ぶ海、交流の海
またその海をめぐり戦いは繰り広げらる
時に嵐に壺を積んだ船は海底に沈みぬ
植民都市はローマの基となり
西洋文明の基となりぬ
文明は小国に文化は小都市に生まれぬ
また辺境に生まれぬ
日本は中国の辺境なりしも
アジアの辺境なりしも
日本にも新たな文化の生まれむ
日本もまた西の中心なるも
その北に東北に新たな文化の生まれむ
未開の地なればこそ希望が生まれる
榎本武陽の蝦夷共和国を目指せしごと
新たな未来は望まれる
若者よ、時代は新たに作り出すもの
希望無きところに希望を見出す
世界を肌で感じよ
そして新たな未来を築け
東から西へ西から東へ文明は起こる
そのサイクルの500年なるを知るべし
今のギリシャはただ過去の栄光のみ
島にロバに古い岩石、菜の花の原
大きな船が近づいてくる
露店にあわれ老人よりドラクマで土産を買う
そのドラクマも今はユーロ―に変わりぬ


ギリシャの地形

ギリシャの山々は気高く雪を帯びて
霊気漂いゼウス神など神々の棲む
アテネの神殿は海に望み地中海に開く
地中海から風はそよぎ泡からアプロディティが生まれる
帆船は風にのり島々を伝い神々も運ぶ
時に風は思わぬ遠くの島に運び
英雄の伝説が憧れとともに語り継がれる
山岳地帯のペロポネス半島にはアルカデア
尚武の国のスパルタの名をはせぬ
華美な文化の育たず質朴素朴の山国
山頂に山羊を追い山中に埋もれたり
ギリシャの島々は地中海を結び交易の基地となり
山を望みて独立の気運起こり
海を望みて外に眼を開き自由の気運起こり
ギリシャに大帝国、統一国できず
ポリスの自主性育み民主政治の起こる
その変化に富みし地形は多様なる思想を育み
あまたの天才のここに生まれ競いあいぬ
エジプトに砂漠を貫くナイル川ありて
一人の王を頂き一大統一国の安定して持続す
しかし外に発展せず砂漠にピラミッドは埋もれぬ
ギリシャの地形は個々に多様に分化して
それぞれの個性を育みローマに受け継がれて
後の西洋文明の礎となり今日に生きる



ギリシャは西洋文明お基となった。それはなぜなのか、その謎は地理とか地形にある。何かギリシャは自然が大きく感じるという、ゼウスが住んだオリンポス山でも2400メートルあるから高いのである。それを春に見た時雪に覆われて神聖なものを感じた
失敗したのはそこのホテルに泊まるべきだった。何か海外旅行がなれていないので失敗した
でも実際の一度みるだけでもその経験は貴重である

ギリシャでもやはり地理と地形を知るという時山が多いから日本とも似ている、そして地中海に面しているから海洋国家ににもなった。国土が狭くても変化に富んでいる。山が高いということは聖なるものとなり宗教が育まれるのが世界で共通している
またギリシャでは牧畜もありそれが多様性を産んだ。日本では牧畜はなく農業が主体だからである
それで地中海に面していることで船を操作する海洋民族にもなった。それでアフリカでもイタリアでもフランスでもナポリとなればネオーポリスーnewpoliceでありフランスのニースであれやはりネオポリスなのである。


ギリシャの陽光は明るくイタリアとも違っているというのもそうである。真昼の明るさがありそれで物が明確に見えて彫刻の美が発達したという、つまり文明文化でも必ず気候風土が影響している。そういえばイタリアを南イタリアを電車で行った時曇りであり雨であった。そして中世の城が見えたのである。イタリアとギリシャは相当気候が違っているのかとなる
この辺は短い滞在だからわからなかった。確かなことは気候風土が影響してギリシャ文化が生まれた。

ギリシア人は、都市文明が形成される初期の時代に、最も近いアナトリア(今のトルコ)と、その南側のシリア・パレスティナから影響を受けた。のちにポリスの形成期には、シリア・パレスティナのフェニキア人からとくに文字や航海や商売を学んだ。エジプトからは高度の学問や芸術などを学んだ。

これもい知的に地理的に外来文化を取りいれるのに有利だった、彫刻となればエジプト文明に習ったとなる
でもエジプト文明は巨大な神像だがギリシャは生きた人間を等身大にリアルに彫刻にした
エジプト文明とギリシャ文明は相当に違っている。政治でも芸術でも違いが大きい、何百ものポリスがあり民主制が行われたことも違っている。巨大国家になればエジプトであれペルシャであれ専制独裁国家になる、大陸では土地が広大でありそれを統一するためにはそうなりやすいのである。

だからギリシャの場合地理的なもの、地形的なもの気候的なものも影響したのである。
そもそも民主制度はそうした小規模な都市から生まれて育まれたのである。中央集権の強力な統一国家ではなかった
だからこそ自由な思考が育まれて哲学が発展して科学の基礎も作られたのである
そこにはまた地中海があり海の民としてあったことも影響した。ギリシャを見ると高い山々があり海に面している
生活も牧畜があり農業があり漁民がいてまた地中海は交通路になっているから交流が促進される、地中海は人を結ぶ海なのである

でもギリシャに行った時驚いたのは私がイメージしていたのとはまるで違っていた。現代のギリシャは後進国である
海運業と観光くらいしか仕事がないから一千万人人口がいたとしても400万人が外国に働きに出ているというのも驚く
出稼ぎの国だとなる。現代の目安は工業化の水準で決められる。工業製品を作れない国は後進国なのである
グローバル化の熾烈な競争経済でありそれの追いつき負ければ国の経済も成りたたないのである
ギリシャは借金で国が成り立たなくなるとなったの自国に観光と海運業くらいしか産業がないからである。
そして公務員が多すぎるから民間の産業が発達しない、それで今財政を緊縮したので失業者がホームレスとか増えて治安が悪くなっているという。

だから何か昔の時代に戻ったような感覚になった。一面に菜の花であり確かに工場など見かけなかったからだ
それで島の古い岩石にロバがいる風景が何か象徴していた。でもそこに大きな船が来るのは地中海的だとなる
でも依然としてスパルタからしょぼい車両の鉄道でアテネに向かった時岩山を腰蓑をして羊を追う牧人を見た
それは古代と変わらぬ風景だと見た。だから外国は百聞は一見にしかずとなる
想像するものとはまるで違ったものにもなるからである。

それは奇妙だけでアルカデアにもなる、プロメテウス的人間とアルカデア的人間がいるというときプロメテウスはゼウスから火を盗んだ者であり現代の科学技術文明を築いたものであり現代はまさにプロメテウス的人間が主流だとなる
私は牧歌的なアルカデア的人間だとなる。
とにかくギリシャは遺跡と観光の国でありそれで返って工業国ではない休養するにはいい環境になっているのも不思議である
でも現実には国の経済が成り立たなくなっているのである

greececraisisu.jpg

この説明もわかりやすい、こうして個人で取材に行き見る人が多くなり稼げるとなれば仕事になる
こういう仕事はしてみたいとなる。
















2025年03月18日

尾瀬沼から霊感を得た詩ー天上の神の園


尾瀬沼から霊感を得た詩ー天上の神の園

great hrmony one.jpg

天上の神の園

鋭く山頂は天を衝き聳え
突如雷鳴がひびき稲妻が走り
岩は凝固して沈黙する
その片へに神秘の花は咲く
蛇紋岩に薄雪草よ
その山の上の湿原に咲く花々
心地よく池塘に映しぬ
その穢れなき花
その水の鏡は平静にして
心清き者のその花を見る
天上の花の楽園にあれ
幽かにトウスミトンボのとまり
ここを乱してはならぬ
神の御顔がここに映る故
神は聖なる地をゆくりなく逍遙する
原始の山は厳しくせり上がり迫る
岩盤にほとばしり流れよ
生々流動する大自然のエネルギー
瀧は轟き渡る、その大音響よ
神はコンダクターその棒を一心にふる
自然は一つに統合されて神殿を形成する
原始の森に精妙にして荘厳なひびき
その低音のバスと高音の調和
天地に鳴りひびくものよ
天に木霊する歌声よ
汝は天に召されるべしや
清き流れはさらに遠く下る
かしこ素朴な村々が隠されあり
その営みありて神は良しとする
貧しきも養うべきものあり
そを神はつつみ隠しぬ
人よ醜き顔を出さざるべし
汝は隠されるべし


尾瀬沼からイメージした詩だけどあそこは天上の花の楽園であった。あれだけの自然は世界でもなかなかなかもしれない。
山でもそうだし三条の滝も凄い、ただ40年前とかになると記憶が薄れる、でもやはり現場び立つことが一回でも印象に残る
私の旅は尾瀬から始まっていたのである。何か老人になって会社を退職してからとかいろいろな体験をしなで失敗したとかある
時間はそもそも何らか体験する知識でも体験して知識を広めることがある

でも登山とかなるときつくなる。私は体力がないので尾瀬に行った後に何か死ぬよう疲れたのである
登山は相当に疲れる。だから40くらいでやめて自転車旅行になった、北海道は自転車で半周したとかある。一か月くらいかかった。その時は電動自転車がでていないから苦しかった。でも若い時はまだ行けたのである
だからきついことは若い時でないとできないから老人になって時間と金があってもできなくなるのが問題なのである

ともかく時間はたちまち過ぎる。今やきついことはできない、何か死が目の前に近づいているともなる
同年代の死が毎日のようにテレビで報道される、それだけ同年代で死ぬ人がますます増えて来る
団塊の世代が膨大に死んでゆく、それで今度は火葬場がたりないとかなる、学校で教室がたりないとなっていたが今度は
火葬場が足りないとなるのが団塊の世代である

いづれにしろ何でも体験したもの知識でも何か関心のある本でも集めただけでも後で役に立つ、その知識でも今読み返すと理解できるとなる、それでヘルダーリンの詩とかも理解できて自分の詩にも取り入れるとなる
自分が主体になり引用できるとなる。そうしてこそ本当に本は読んだことになる
私の詩の一つのテーマとして山がある、でも山でも詩にするときその崇高な巨大な山を詩にすること自体それに相応するものを自分自身の中の魂になけらば表現できない、そこに限界を感じる、そもそも自然を表現すること自体超人でもないとできないとなる。とても軟弱な人間では表現できないのである

ただ天才でなくても体験して感じるものがありまず体験することが大事だとなる
それは特に外国を知るには本を読んでもテレビを見ても実感することができない、つまり実感することが大事なのである
山を表現するには登山すべきだとなる。でもヒマラヤとかなると表現の域を越えている。
それで十回もヒマラヤに行った人がいたことはうらやましかった。こうして人間はとにかくいろいろなことを体験しないで後悔しているのであある、体験することでも限られているから後悔する
そもそも会社員だと一か月とかの休暇をとれない、すると長い旅はできない、とにかく50才でバックパッカーになって世界を旅行したのが良かった、そのご60才から親の介護で近くすら旅もできなくなったからである
だから本当に人間の体験することは限られている。たちまち時間が過ぎてしまうのである

世界は自然には美がある。でも結局人間はどこの国でも醜いのである。それは共通している。田舎の自然は美しくても人間は醜いのである、何か蛇が草叢から出てくる感じになる。だからその暮らしを隠せとなったのである
人間の暮らしは自然の中に隠されて自然が映える。それは東京のような大都会を見ればわかる
一千万の人間が作った大都会は自然はなく隠されないからむき出しになり醜悪になっている

それが何なのか異常な異様な別の惑星に来た感じになる、そこには美がないのである。荒寥とした人間砂漠になる
それは今や世界の大都市で共通している。そこにホームレスが路上にたむろして薬物中毒になり彷徨う、何か世紀末的風景なのである。要するに自然に隠されることがないから人間の醜悪さがむきだしになっているのである
そこではまともな人間は存在しえない、そこには狂気的カルト教団とかナチスとかが席巻したのも文明の病的現象として生まれたのである。宗教の始まりが聖なる山からギリシャでもモーゼのシナイ山でも中国の山でも天台宗が起こりそこで修行した
だから東京のような大都会から生まれたカルト宗教は何か聖なる要素がゼロなのである
だからそこから本当の詩であれ芸術でも生まれようがないのである




The Garden of the Gods above


The sharp peak of the mountain rises to the sky
Suddenly thunder rumbles and lightning strikes
The rock is solidified and silenced
Mysterious flowers bloom on one side of it
Light snowdrops on the serpentine rock
Flowers bloom in the marshland on the mountain
Reflected in the pond and tangled pool
Its unblemished flowers
The mirror of its water is calm
The pure in heart see its flowers
Be in the paradise of heavenly flowers
A damselfly perches in the shadows
Do not disturb this place
for God's face is reflected here
God wanders tirelessly through the holy land
The primeval mountain rises severely and looms
Let it flow over the bedrock
The energy of nature, alive and flowing
The waterfalls roar and resound, their great sound
God is the conductor, waving his rod with all his might
Nature is united to form a temple
An exquisite and majestic sound in the primeval forest
The harmony of its bass and treble
That echoes through the heavens and the earth
O singing voice that sings in the heavens
Thou shalt be called to heaven
The clear stream goes farther down
Here and there simple villages are hidden
God is good because of their workings
Though poor, they have something to nourish
God hides it all from sight
O man, do not show your ugly face
Thou shalt be hidden

Translated with DeepL.com (free version)

2025年03月17日

加治将一氏の原発問題の意見−誰に責任があるのか? 【福島県民が悪いー金の多寡で問われる責任】【2】


加治将一氏の原発問題の意見−誰に責任があるのか? 【福島県民が悪いー金の多寡で問われる責任】【2】



原発事故の責任は誰にあるのかそれが、依然として問われている。加治将一氏は福島県に責任がある、千葉県でも茨城権でも迷惑だった。福島県では別に原発を拒否できたのにしなかった。その責任は東京にもないし政府にもないとなる
選択したのは福島県である。
この論でゆくと私でも常に指摘したのは原発の責任は誰にあるのかという時原発の距離に比例して責任が課せられていたとなる
また距離に比例して責任があり漁業権を持っていた組合とか特に船主とが責任あると追求した
それはなぜか、つまり一番金をもらっていたからである。事故前でも手厚い補償金をもらい原発御殿が建ったと回りからうらやましがられていたのである。事故後も補償金が手厚いから何ら困ることがないのである

でも事故が起きてその責任が問われるようになった.漁業組合が拒否すれば原発は作れなかったとなるからそうなった。
だから一番金をもらっていた漁業組合関係が責任あるともなる
ただこの辺では火力発電所もありその時も漁業関係者は補償金をもらい原発でももらったからその時ヨーロッパ旅行にも行っていたのである。その費用は当時では50万としていてそのことがあり私は円高でみんな海外旅行している時でも行かなかったことを悔いている。これも自分場合は遅かったのである。

何か加治将一氏の論になると原発事故の被害区域内でも同じようなことが起きていると思った
特に原発から近い所ではなぜ反対しなかったのか、小高や浪江や双葉や避難区域になった所はそうである
小高には現実に東北電力で原発が建てられるところだった。それで小高の人は景気良くなるからいいとしていたのである
でも南相馬市では小高区は避難区域になり住民が離散して衰退して回復しないのである
ある人は息子が仙台市に移り仕事するようになった、その親も一時原町区に空家を買って住んだが病気になり息子のいる仙台市の病院に入院したのである。それは結構厳しい結果になった。熟年離婚もしていたからである。

ともかく原発事故の責任を問う時、金の多寡で責任が問われた。漁業関係者は一番金をもらっていたのだから一番責任があり
とのされた。また距離に原発からの比例して責任を問われた。でも補償金もまた原発からの距離に比例して決められた
30キロで区切られて原町区となると鹿島区より三倍の補償金をもらったから不まであり相馬市になるとわずかな雀の涙というくらいしかもらっていないのである。放射線量は同じなのである

だから何か現代社会は金が責任がある。金の多寡で責任が課せられている社会である。ただ江戸時代でも五両盗んだら打ち首だとあり金の多寡によって責任が課せられていた。だから銀行で貸金庫から億の金を盗んでいた銀行員は江戸時代なら打ち首なのである。でもそれほど責任はとわれないのである。、また東電に天下りした官僚なども警察や海上自衛隊でも責任がとわれないのである。その人達も東電から多額の金をもらっていたのだから責任がある。それを問う人がいないというのもわからないのである。また金をもらっていたとなればマスコミも電事連から莫大な金を宣伝費としてもらっていたのである
だからマスコミにも責任があるとなる。

何故なら金をもらっていたからだ!

金は現代では責任になっている、金の多寡で責任が問われる社会である。だから金持ちは責任がありその金を有効に使わない人は責められのである。金のない人は責任もそれほど問われないとなる。
だから加治氏が福島県で原発を作られて迷惑したのは千葉県とか茨城県だという時原発から近い所は恩恵を受けたから

責任があるとなる。だからなまた手厚い補償金がもらえるのだともなる

原発を積極的に誘致したのは双葉町でありその近隣の浪江町であり小高区だともなる
そのために迷惑したのは南相馬市の原町区であり鹿島区であり相馬市であるとかなる
でも原町区は補償金が手厚かったから不満はない、でもなぜ原町でも原発を批判しなかったのかと問われる
鹿島区は30キロ離れているから関心がなかった。それで奇妙なことは責任もあったとしても小さなものとなりその代わり
補償金も原町区の三分の一になっていたのである。それで私自身は30キロはなれた地区だから何かこうして責任を問えるともなる。原町区だと補償金が手厚いから問いにくくなる。返って喜んでいる人いる。
でも鹿島区であれ相馬市であれその周りの市町村であれ不満になる。

原発事故の責任はその権限がある人にある。何故ならどうして決められたのか?県とその土地所有者だけで決められたのかとなる。そんな重大なことが協議することもなく決められたことが問題だったとなる
だから一万くらいの新潟県の巻町で原発が拒否できたのが不思議なのである

ともかく原発事故の責任は原発からの距離に比例してあったことも不思議だとなる
だから30キロ離れた鹿島区とか相馬市は補償金は少なくされた。それは責任もなかったからだとなる
でも鹿島区は南相馬市だから一応原町区の三分の一でももらえたとなる
本当はもらえないということもあった。もしもらえなかったら30キロ離れている市町村は原発の責任がない、でもそれなりに被害があるから補償金が払われた。だから原発事故の責任となると金をもらった多寡によって責任も比例して問われたとなる
原町区は鹿島区の三倍もらったから三倍の責任があったともなる。でも別に原発に反対する人はなかったとなる

いずれにしろ金の多寡で責任が問われたのが原発事故である。そして原発事故の裁判で東電が無罪になっているのも解せないのである。そんなことがありえるのかとなる。むしろ司法関係者が問われるともなる。何故なら検察関係者が天下りしていたからだる。そしてそれは財務省でも同じだった、なぜマスコミが財務省のデモを報道しなかったのか、NHKでも報道しなかったのかとなれば財務省の人が天下りしていたからだとなる。金をもらっていたからだとなる
だから現代社会の責任は金で判断される。金の多寡で判断される。金を多くもらった人はまたそれに比例して責任が課せられていたのである。石破首相が議員に10万の商品券を配ったことで問われたり裏金問題でも常に金のことで責任が問われるのである。

posted by 天華 at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2025年03月16日

原発事故で失われた価値は何だったのか―土地と共にあった価値 【浪江の津島村は廃墟の村となった】


原発事故で失われた価値は何だったのか―土地と共にあった価値

【浪江の津島村は廃墟の村となった】

tushimamemory.jpg

消えゆく故郷の姿を残したい〜浪江町・津島の全記録

shirafujitushima.jpg

tushimafuji.jpg

白藤長垂
谷間夕月
山中営為
一村惜春

荒れ果てし家をし見れば悲しかな思いはここに残るべしかな

津島は本当ゴーストタウンに村になった。ここも浪江から上ってくると大山祇の社の跡があったから安曇系統の人たちが焼畑に入った地域である。だからそれなりに古い歴史がある、ただ相馬市の玉野村は江戸時代に開墾された場所であり比較的新しいとなる。津島村から葛尾村に行く道があり柏原村がありそこは私の祖父が住んでいた所だった、私の父は明治生まれであり双葉町の酒屋で丁稚奉公していた。おそらく山では生活ができないので町に出て働いた

ただではなぜ山でも暮らしが成り立っていたのかというと木材とか炭焼きで成り立っていた。田畑もあったが土地が狭いからなかなか現金収入を得られにくいからである。だから山持ちで木材が売れて山でも長者になった家がある
飯館村の大倉では相馬女学校に親戚の家から通ったという女性がいた。相馬女学校というときその当時相当な金持ちでないと入れないし特別の人でそれだけで注目された。私の姉は頭良かったけど貧乏だから入れなかったと悔しがっていた
だから別に山の村でも金持ちはいたのでありそれで長者伝説残っているのである

津島のある家は長屋門があり中庭があり広い大きな家だった。そこには白藤が覆い幽霊屋敷のようになっていた。でもそれなりに金持ちだった家なのである。だからすべて山村が当時の感覚で貧しいとはならないのである。
津島には小中の学校もありまた高校の分校もあったからそれなりに子供でも生活していた
小さくても診療所もあった
それでテレビで学校の先生していた女性が写真を撮って記録として残すと言っていた
また孫がいて柱に成長の記録を残していたそれだけは家を壊すのだが残してくれと壊す人に頼み残した
その柱は移住した先の仕事場に置いた。

こうして原発事故で何が失われたのかそれが問われた。それは日常的な暮らしであり別に変ったことではない、でも一旦村自体が消失して長年家族と暮らした家が壊され失われたときその価値を問うことになった
何か人間はありふれたことを特別意識しない、家族のことでもいつもいるとなり意識しない、でも死んでしまうともう逢うこともできないとなり意識して偲ぶとなる。
それは村でも町でも市でもそうである。それがなくなるなど考えもしないのである。ただ村自体でも街でも消失することは考えることは今までなかった。それは余りにも衝撃的なことだったからである。

ここで考えたのは人間の生きる価値がどうして作られるかである。それはその土地土地に風土とか地理から基本的に作られる
人間はその土地の産物であり景観でもその人を作るものというのもそのためである
津島は浪江町からも相当離れている。だからあそこに一つの村が作られたのかとなる。むしろ三春藩の方に近いからである
葛尾村でも鉄を製鉄して長者になった葛尾大臣が三春藩と関係していたからである。
でも葛尾村まで相馬藩だったのである。

ともかく原発事故で失われたものは何なのかそれがこの辺では14年すぎても依然として深刻に問われている
確かに補償金で便利な土地で新しい家を建てて暮らせるかから返って良かったとも見る人もいるし津島に住めなくてもいいという人もいるだろう。何故なら津島で記憶に残っているのは中国人の嫁がこんな所に住んでいられないと夫を鉈で襲った事件があったからだ。あまりに辺鄙な所だったのでそうなった。

でもその当時そうした不便な所に嫁に来る人がなく外国人がフィリッピン人でも住んだのである
それで原発事故で牛を飼っていた人も妻がフィリッピン人であった。また飯館村の大倉の近くの木戸木【ことぎ】には今でもフィリッピン人の妻が住んでいる。すでに40才過ぎているのである
だからこうした山村にはこうして相当な数の外国人が嫁になった家がある
そういう一時代があった。また必ず戦後の引揚者が開拓に入った所が多いのである。そこに代々住んでいた人かと思うと戦後開拓に入った家とか多いからそれで錯覚するので注意する必要がある

人間は確かに失うものがあり必ず得るものもある。原発事故は手厚い補償金がもらえたし便利な場所で新しい家で住むこともできた。だから返って良かったという人もいるだろう。でも失われたものもありそれはなかなか当たり前のことであり意識されないことなのである。津島とかでも戦後引揚者が入って開拓したとかありそこで苦労したとか連帯感は強い、でも新しい場所に移ればそうした絆は失われることになる、つまり短いにしろ歴史的価値が失われたのである。何故なら人間には必ず祖父母であれ
両親であれ築いてきたものがあるそれが歴史的価値である。それはその土地と共に築かれたものでありその土地を離れると失われるとなる。心とはここのことでありその土地と一体としてある。
その心がその土地から離れれば失うということである。ただそれは全国的に限界集落が増えて起きている、原発事故地域は極端なもとして現実化したのである。

ひさかたの天道(あまぢ)は遠しなほなほに家に帰かへりて業(なり)を為しまさに 〔巻五・八〇一〕 山上憶良

おまえは青雲の志を抱いて、天へも昇るつもりだろうが、天への道は遼遠だ、それよりも、普通並に、素直に家に帰って、家業に従事しなさい、というのである。「なほなほに」は、「直直なほなほに」で、素直に、尋常に、普通並にの意

これは津島で「なほなほに」に働いていた、そこから離れて街に出ていい暮らしをしているが津島で共に働いていた仲間を思い出しなつかしいとかなる。何か平凡なことが返って貴重な日々だったとなる。なぜならその平凡な日々が返って来なくなったからである。それは家族でもいつか死んで別れて永遠に逢えなくなるのと通じている

ただ何か家とかその土地には死者も依然として生きているしまた生きようとするのかもしれない、要するに老人になると残るのは思い出だけだとなる。その思い出はその土地と一体化してあった。その土地から離れたら思い出も希薄化してくる
家でもそこに死者でも生き続けている感覚になる、家がなくなると死者のいる場所もなくなる
だから家は単なる物と言えないのである。それで御先祖様が田植えにに時期に山から下りて田植えを手伝うという時まさに死んでもその土地から離れず業(なり)を行い続けるとなる
生業を返せと運動したがそれは必ずしも生業を重んじたからともいえない、ただ生業の大事さに気づいたその価値に気づいたということはある。

しかしその土地から離れたらその業(なり)も消失するのである。だから何か得ても必ず人間は何かを失っているのである
また逆に何かを失っても何かを得るということもある。ただ価値というのはなかなかわからないのである
すべて金で価値は計れないからである。老人になると思い出に生きるからそれは金をいくら貯めても思いではもはや作れないとなることに気づく、思い出を作る時間が失われたからである。つまり人間の生きる時間は限られているからそうなる
もし人生二百年生きるなら思い出をまた作れる、でもそうでないからいかに時間が貴重だったか知るのである
人間が体験する時間は限られているのである





posted by 天華 at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2025年03月15日

梅匂う里【暗香の意味】


梅匂う里【暗香の意味】

umepoem.jpg


村里幽径
処々梅匂
暗香蓊葧
暮春帰宅
手折一枝
壺挿家内
馥郁充満


田舎の径行き
そこはかとなく
処々芬々と梅匂ふ
その一枝手折り
我が家に持ち帰る
馥郁と暗香に充ちぬ
都会にあらじ
金にならじも
田舎の良きこと
春の日廻りて暮れぬ


どこからかともなく、良い香りが盛んに漂ってくるさま。
「暗香」はどこからか漂う良い香り。
「蓊葧」は勢いが盛んな様子。
「暗香蓊勃」とも書く。

漢詩は作れないけど漢字の感覚を知るには漢詩を知ればいい、ただ暗香というのはわかる。
日本語にするとそこはかとなくとなる。梅は匂いにありそれが田舎だと四方から匂ってくる
梅の木はかなり多い。それでまた野の梅を手折り家に挿す。これは無料である
うめが四方から匂うという時小さな都市でもそういう感じにはならない、やはり村の感覚だろう

ただ今日は曇っていたし寒かった。今年は意外とまだ寒い感じである


梅が香を 夢の枕に さそひきて 

     さむる待ちける 春のはつ風  (『金塊和歌集』巻上・春・15)実朝

 (大意) 梅の芳しい香りが春の初風に乗って運ばれてきて、私の春の夜の夢

    の枕辺で漂っている、あたかも私の目覚めるのを待っているようである。



妨碍春眠花訊    春眠を妨碍(サマタゲ)る花訊(カシン)    [上平声一東韻 ]

梅花若開前院中, 梅花 開いたが若(ゴト)し 前院の中(ウチ), 

隨風夢枕暗香籠。 風に隨(シタガ)いて 夢枕に暗香(アンコウ)籠(コモ)る。 

有如等待人覚醒, 人の覚醒するを等待(マツ)が如(ゴト)く有り, 

送馥正是春初風。 馥(フク)を送るは 正(マサ)に是(コ)れ春の初風。


 
 夢枕に暗香(アンコウ)籠(コモ)る。この暗にというのがいい、はっきり口に出さずに、なんとなくにおわせるさま。それとなく。
そこはかとなくというのもなになのか、どことなくとか何か確定できないあいまいなことなのか、言葉の由来があり漢字と日本語では違っているのである。
ともかく漢詩から漢字の感覚を知る、ただ正直漢詩は難解すぎる。



梅匂う【紅梅、椿、春の月ー空家のこと】


梅匂う【紅梅、椿、春の月ー空家のこと】

内密に遺影や二つ梅匂ふ
新築の家や紅梅匂うかな
石の庭梅の匂うや人は棲む
玄関に人去る後や春の月
知る道や月影さして梅匂ふ

空家にそ残せし梅を我が手折り壺に挿せるも匂いけるかな
我が家に来たれる女あわれかなひそかに去りて春の月見る
人住まぬ家のあわれも石に向かいて椿咲き散る

梅が匂うという時それは内密にとか何か内輪の中で匂うとなる、内密に匂うとなる
ともかく近辺を行くと空家が目立つのである。空家に入ったわけではないが裏に咲いていた梅を通り私の家の中にさした
そこも家のものでも何か外に咲いているのと同じだった

この空家問題も相当に深刻である。そもそも原発事故の避難区域は空家だらけのゴーストタウンにもなったからである
だから全国的にも空家をどうするのかが大きな問題になる。



菅原道真 月夜見梅花(月夜に梅花を見る)

月耀如晴雪 月の耀(かがや)くは晴れたる雪の如し
梅花似照星 梅花は照れる星に似たり
可憐金鏡転 憐れむべし 金鏡の転じて
庭上玉房馨 庭上に玉房の馨(かお)れることを



月が輝いているのは、まるで晴れた日に(見えるきらきらした)雪のようである。
梅の(白い)花は照らされている星に似ている。
とても愛おしいことよ。黄金色の鏡(のような月)が移りゆくにつれ、
庭では玉のように白い梅の花が香ってくるのは。

梅と月は何かに似合う、梅の季節であり田舎であればすぐ近くでも梅は咲き匂うがそこも空家だったが壊されて空地になったのである。ただこの辺では原発避難区域から移住した人たちが新しい家を建てて住んでいる
一方で原発雛区域で空家だらけになっている。その空家をどうするのだろうとなる

2025年03月14日

金だけではない人間は価値を求めその人の価値を見る 【価値は多様であり変化するー花を知る人の価値】


金だけではない人間は価値を求めその人の価値を見る
【価値は多様であり変化するー花を知る人の価値】

●金を増やすだけでは価値にならない

投資をするとき株の投資を考えるがなんとか金を増やそうとする、その動機はただ金を増やすことである
何か投資する会社のことを知りそれがわかり投資する人は稀だろう。そうなると難易度が高くなるからである
地方銀行でもそもそも投資信託を奨めたが銀行すらその会社のことがわかって投資をすすめていない
ただ適当に当たるも八卦当たらぬも八卦であり銀行は手数料をとることが目的でしかなかった
そもそも投資する会社のことがわかることは容易ではない、プロですらわからないし損を出しているからギャンブルだとなる。
何かわからずに金をつぎ込んでそれが運よければもうけがあるとなる。

またその時々の時代の情勢でも変わる
ともかくこうした株式投資は金だけが増やす言うだけでありそれが問題だった。何か仕事するにしてもただ金だけを利益だけを得るということはそれを目的とすることは問題がある。
でも現実社会ではまず利益を出すことが最優先される。利益をあげれば成果として認められる。それが不正であっても利益を上げらば認めてもらえる。でも何であれ高等なことを言っても利益をあげなけらば認められない。そこに矛盾が生まれる。

何かそういうことは社会全般にある。成果を出せ利益を出せと常に強制される。そうしなければ会社自体成り立たないとなるからである。理想はあっても利益が出さなければ会社は成り立たない。そのジレンマに悩む。
カルト宗教団体でも実際は利益が御利益が第一だという時、お布施をもらえる、また一票を得ることは具体的な成果として出てくるから目標となる。金と票は具体的成果なのである。それが信心の結果になる

ここで人間はとにかく利益を上げる、金を増やすというだけになる。でも人間が何か買ったり時間を使うという時価値を作り出すために使う、何か消費するにしても本を買うとしたら知識を広めるため深めるために買う、それはその人なりの価値を作り出すための消費である。私自身膨大な本を買った、読まないものがあったが確かなことは知識を広め私なりの追求するものがあり買ったとなる。それは明らかにただ金を増やすためではない、目的がありしてきたことである
また旅でも見分を広めることでありただ遊ぶだけではなかった。それは明らかに目的があり具体的成果がある投資だったのである、旅をして見分を広め地名とか地理に興味を持ったからである。それはただ金が増えればいいというものではない、世界を広く知り見聞を広めてたいという動機があった。

つまり人間とは何らかのその人なりの価値を見い出して作ってゆくのが人生だとなる。そのために時間が与えられているし金も必要だとなる。金だけを増やすことが目的ではない、金を得たとしてもそれだけでは価値にはならない、その金をどのように使うかが問題になる。でもそもそもそんことより食べるために働かねばならないとなる。何が自分の価値を創るのか?
それより今日一日食べるために働くとなる、強制されるのが普通だとなる
それでも人間は働くことであれ遊ぶことであれ価値を作り出す、それが最後に老人になってあなたは何の価値を作り出してきたのですかと問われる

●花に詳しい老女になぜ金を与えるのか

それは別に意識して働かなくてもとにかく人間は何かに時間を費やしている。その人は別に取り柄があるわけではない、金も残していない金で苦しんでいる、でもその人は緑化会社とか庭作りとで仕事していて花とかに詳しいのである
花の美を見るのではなくその花を手入れすることを知っているのである。
だから花を見てその手入れができるのである。私は花の美を見ているがその年配の女性は花の育ち具合とか土の状態とか見るのである。だからその人は私の家に来て何もしないけど金を与えているのである
なぜなら全く花に興味を示さない女性もいる。その人は比較的若くて美人だけど花に興味を示さないから私にとって価値ないと見る。
私の母親も継母に育てられ花に興味がなく花などいらない無駄だとしていた、食料でも苦労したから庭に豆を植えていたのである、それを見て悲しかった。それは母のせいではなく花を見るような環境に無く働かせられていたからそうなったから一概に責められないのである

やはり貧乏だとどうしても花より団子になてしまう。日々食べることで精一杯になる。私の場合はそうした仕事にも追われることもなく様々なことを暇だから追求してきたからである。だから私の場合は特別恵まれてそうなったとなる
ともかく人は人生で何か必ず価値を作り出すものがあるし本来は価値を創ることのために投資すべきであり時間を使うべきだとなる。なぜならその価値を老人になると問われる、例え相当な金を残したとしてもその金に価値があるのかとなる
その人は何の価値があるのか価値を作り出してきたのか何に時間を費やしてきたのかとなる
その人は金を残しても何をしてきた語らないしわからないとなる。ただ金は残したのである。でもその人に価値が認められるのかとなるとないとなる。だからすべて金で計られるともならない、ただ毎日食べることにも事欠く人も増えているから金がいらないととかではない、価値は金だけでは計れないということである

価値は多様だからである。その女性は貧乏でも毎日食べることに事欠くとしても花に興味があり花を育てる智慧を身に着けていたのである。その人はまた農家育ちであり健康な時は畑で野菜作りしていた。それもほとんど収穫はなかった。それでもその話が私は興味をもっていたから金を与えていたのである。つまり農業を実地にしている人は自然を血肉でもって知っているともなったのである。だからその女性に金を与えても自分自身は無駄だとは思わなかったのである
農業知る花を育てることを知っていることは価値あることと認めたからそうなる。別に利益が得られなくても損したとは思わないのである。
人間の価値は多様だから別に金にならなくても価値がある人はいる価値になるものは無数にあるとなる

●その人なりの価値を作り出すのが人生−弔うとは死者を問いその価値を問うこと

いずれにしろ人生は何らか価値を創ることが目的であり利益を金を得ることだけが目的化すると最後に自分の価値は何だったのかと他者からも自らも問われる、何故なら死んでも終わりではなくその人の生きた価値が依然として問われるからである。
弔うとは死者を問うことである。死んでもその人が生きた価値が問われれる
最近有名なアナウンサーが死んだけどな十億の金を残して死んだというがではその人の価値は何だったのかと問われる
金ではなくその価値は何だったのかとなる。戦争で死んだ人達も何で戦い死んだのかと深刻に問われる
でも目的と確かな価値を求めて死んだとしたら悔いはないとなる

確かなことは人生の価値は残した金の額だけでは計れない、その価値は多様でありその価値が老人になり最後に他者にも問われまた自らでも問われるのが人間だとなる
この価値を問うということは死んでも終わらない、なぜなら延々と死んだ人の価値を問うからである。明治維新でもやはりそこでしてきたことの価値が今でもいろいろと問われる、その価値も一定ではなく変化したりしている
死んでも依然として価値が追求され問われているのである

カルト教団でも一世を風靡した教祖でも死んで全く価値がなくなることもある。生前いくら脚光を浴びても死んだら全く語られず忘れられて無価値になる人もまた多い、だから人間の価値は生きている時だけで決まるわけではない。
死んでからも延々と価値が問われるのである。

結局人間は最後から老人になって人生を振り返ると誰でもわかることがある。それで老人で後悔しない人はいないのである
金は有り余るほど残したけど社長であり忙しくて旅もできなかったとか何か自分のしたいことができなかったとか後悔する
ともかく人生とは限られた時間を何に費やしたかが価値になる。そして人間に与えられる時間はみんな限られている
ある人が特別な長く与えられるわけでもない、ただ長く生きる人とそうでない人はいる、でも時間は大概平等に与えられている
だから公平だとはなる。ただ金は公平には与えられていない。

でも人間の生きる時間は短い、その間に経験することも限られている。いくら金があってもやはりその人の経験することは限られている、あらゆることを経験することはできないのである
その点は平等だとなるかもしれない、要するに花のことを語ったが花にしても多様だから詳しくなるのは難しくなる
ある人はクリスマスローズを育てているとか知った。その種類もいいろいろあるからやはり詳しくなるには時間がかかるのである。でもその花に詳しいということは価値を作り出しているのである。一つの種類の花に詳しくなることもまた価値を作り出しているのである。だから価値は多様なのである。そしてクリスマスローズの専門家とももなり価値ある人となる
だから価値という時金ですべては計れないのである。だから最後にこの人は何の価値を残したのかという時金では計れないのである。何億残したとしてもそれは他人には関係ないからである。それでその人の価値は計れないのである。

あなたの価値は何ですか?
私は何億の金をもうけてためた、それが私の価値だ

最後はそうはならないのである。金ですべての価値を計れないのである。価値は余りにも多様だからそうなる。
ただ金があればその金を使って価値を創ることはできる、でも死んで金を残してもそれを子供に残しても価値とはならない
つまり価値とは何かというとき多様でありそれが哲学的問題になる。哲学など一般に関係ないとなるがやはり価値は価値は必ずだれにでも問われるのである

2025年03月13日

中華文明の片割れの日本 【漢字を使うからそうなるが中国のことがわからなくなっている】


中華文明の片割れの日本
【漢字を使うからそうなるが中国のことがわからなくなっている】

chinesepoem.jpg

中華歴程

中華大塔
大河悠々
牡丹優艶
大輪開花
城市門月
万物産出
千年歴程
大唐版図
西域征服
異人交流
遠大俯瞰
馬上英傑
青史記録

中国は漢字を通じて日本と密接である。でも欧米に習うことによって中国が何かわからなくなった
でも漢字を使っているから依然として中華文明の片割れになる。つまり日常的に使う言葉の影響は大きいのである。
なぜなら漢字を使えば必ず中華文明の一員にもなる。それは英語でも同じである。でも日本では英語は文の中に入らない
英語で思考することがない、漢字は明らかに漢字で思考している。漢字の一つに意味がある
これは漢詩ではないにしろ何か意味は通じるだろう、漢詩は私には難しくて作れない、ただ何か漢字を積み木のように並べる積み重ねる感覚で漢字で表現する、確かにこの漢字を並べただけで意味は通じるだろう、ただ中国と日本の漢字は違ている

何か漢詩を作るには相当な漢文とかを読み素養がないと作れない、なぜ明治に一番漢詩が興隆したかとなれば江戸時代は漢籍で
教育されていたからである、それが基となって明治に返って漢詩が興隆したのである
またなぜ明治に綺羅星の如く人材が輩出したのか?これも実は江戸時代の侍の教育が藩内で藩校で行われた結果だったのである。そこでは学校のような莫大な知識の詰込みではなく全人的教育が成されていた。というよりはそういう場に生活することで身につくものがあった。だから内村鑑三の武士道キリスト教が生まれたりした。
つまり侍は何か知識だけでは人格的に全人間としてモラルが生活の中で醸成されていたからだとなる
それも否定する人もいる。それは強固な身分社会であり身分でその人の価値が決められていたのである

その人が才能があるとか天分があるとかではない、生まれた家の格でその人の価値が決められていて
だからこそ明治維新は下級武士によった成されたでのである、福沢諭吉にしてもなぜ天は人のの上に人作らずとなったのか
平等を主張したのか?それは下級武士で日ごろから不満がありそうなった
明治維新はそうした侍の中でも身分に差がありそれが不満で起きたのである
初代の首相が足軽身分に自らなり成り上がった伊藤博文だったということがそのことを示している
そんなことが江戸時代にありえなかったからである。

いずれにしろ確かに日本人は依然として漢字を使っている。でも逆に漢字の意味するのが何なのか中国のことがわからなくなている。要するに外国の文化でもその言葉から理解するから言葉に通じないと理解できない
ただその言葉にしてもその背景に実物がありその実物を理解しないとまたわからないとなる。
だからいくら本を読んでもテレビで見ても外国は実地に一回だけでもその場に立てば即座に実感するものがある

とにかく中国の文化は同じようで違っている。塔を見ても中国の党は高い。それは外敵が来るのを防ぐ見晴らしの塔であり
ウオッチングする監視する塔でもある。その成り立ちからして違っている。それはヨーロッパでも同じなのである
日本の党は五重塔はそういう外的が攻めて来るのを見張る塔ではない、何か優雅な塔なのである。雨が多いから庇の機能がある塔の形になったというのも日本の風土から生まれたからそうなる。でも日本は外敵に攻められることがないからその用途が根本的に違っているのである。中国の仏像でも塔でも何か厳しく引き締まっている。
日本の仏像は平安仏となるとふくよかでありそうした厳しい感じはない、ただ日本でも鎌倉の大仏となると武士の武士の時代になり厳しい厳格なものを感じる。だから建築でも彫刻でも時代の影響を受けるのである。



2025年03月12日

春の中国の旅の短歌 【なぜ中国でも大陸を日本人は理解できないのかー風土と歴史の相違−花からの考察】


春の中国の旅の短歌
【なぜ中国でも大陸を日本人は理解できないのかー風土と歴史の相違−花からの考察】

chaineseship1.jpg

chinesecannel2.jpg

chinesetemmpleltower4.jpg

towerevening.jpg

mokurenntower5.jpg

chineseyanagi3.jpg


寧波から運河を舟に春の日や天童寺にそ日本人来る
山寺や紫雲なびきて高塔や松並木古り修行の僧かな
尽きず咲く木槿の花や中国の大地を走る火車の響きぬ
砂漠へと蒸気機関車走るかな中国大なり計り知れじも
白木蓮大塔に咲き大河を渡る橋や中国の雄大なるかも
連なりぬ万里の長城守るかなその兵士なれ中華大なり
赤き百合長城を歩みて咲きにけりその赤さの際立ちぬ
山羊を飼う貧しき農家長城の下暮らしのありぬ
城壁の分厚く長く門入りてその上歩む長安に泊る
城内に柳しだれて雨の降り青々として心洗われる
兵馬俑地下より挙り立ち上がるその威容かな異人も交じりぬ
山一つ始皇帝の墓と春の雨降り古思うかな
楊貴妃の美肌を濡らす温泉やその艶なるや春の長安
始皇帝地下宮殿に贅をつくしなお生きんと侍らす人かな
春の日や運河行く船菜の花の大地を埋め一日かけぬ
長々と垂れにし柳北京なる公園我がありにしや宮城望む



中国語では「木槿」(ムーチン、もくきん[4])、韓国語では「무궁화」(無窮花; ムグンファ)、木槿;モックンという。
華清池は玄宗皇帝が楊貴妃のために造営した離宮

中国には三回行ったけどあまりに広いのでわからない、それは大陸は広すぎるのである、アメリカで、ロシアでも広すぎるから
そもそも地理からして知り得ないのである。
寧波から運河で天童寺まで行けるようだが私は行っていない、ただ道元が修行した天童寺に行った
そこに道元が座禅した場があったという、運河があり高い塔がいくつか聳え春の日に紫の雲がたなびく光景は中国的である
古い松の参道がありいかにみ古い感じだった。


中華興亡の跡

楊貴妃の美肌を濡らす華清池
長々と柳しだれて春の雨降る
歴代の王の栄華を究む中華の歴史
宮城の大庭園に牡丹を賞賛
興亡はやまず兵馬俑の威容
千騎の軍馬立ち上がり攻め行かむ
変転して零落して追われる玄宗皇帝
城春にして草木深し
重厚なる城壁の内長安の宿舎
回想するその長大なる歴呈
西域の砂漠に伸びぬ長城の跡
遊牧民は天幕を張り移動
千里菜の花運河が結ぶ大陸
南船北馬や商人は行き来する

chinesebotan.jpg

中華清池は玄宗皇帝が楊貴妃のために造営した離宮

唐代の詩人「劉禹錫」は『賞牡丹』で次のように詠んでいます。

庭前芍薬妖無格
池上芙蕖淨少情
唯有牡丹真国色
花開時節動京城

(庭先の芍薬は美しいが風格がなく、池の蓮は清らかだが情趣に欠ける。唯一本当の国の美しさを持つのは牡丹で、花が咲く時期には都をも動かすほどである。)

中国の国花は牡丹である。アメリカの一州はヒマワリでありドイツは青いヤグルマギクである。

フランスはの花の一つは英語圏の女性名。原型に当たるマルガリテス(Margarites, ギリシア語: Μαργαρίτης)
スコットランはアザミであるがそれには

中国語では「木槿」(ムーチン、もくきん[4])、韓国語では「무궁화」(無窮花; ムグンファ)、木槿;モックンという

スコットランドがノルウェーの大軍に攻められたとき、夜襲を掛けようとしたノルウェー軍の兵隊がアザミを踏んで悲鳴を上げたため、奇襲に気がついたスコットランド軍は大勝を収めることができた。 そして、それ以降、スコットランドの人々を悩ませていたノルウェー軍の侵攻はなくなったという。 こうしてアザミは国を救った花とされ、スコットランドの国花や紋章となったのである


イギリスの花が赤い薔薇であるがスコットランドはアザミなのである。薔薇は教会に薔薇窓があり一般的にヨーロッパの花である。何か晩秋にドイツとか旅して見た薔薇は同じ薔薇でも違って見えた。つまり同じ薔薇でも歴史とか風土で違って見える
薔薇がやはりヨーロッパの歴史とかでアイデンティティ化してきたから違うのである
ドイツのヤグルマギクはドイツ的なのかと見る。韓国は木槿である、日本なら桜だからわかり安いのである

とにかく中国をなぜ理解するのがむずかしいのか、それは根本的に地理と風土が違っているのと歴史でも違っている
その広さからして理解できなくなる。ただ日本人との違いとなるとその欲望がむき出しになり強い、日本人は食べ物でも淡白であり侘び寂びとかの感覚があるが中国にはない、何か酒池肉林とか女性でも楊貴妃のように艶やかになりそれで美人に耽溺する
食べ物でも特別辛いとか味が濃いとなり中華料理と日本料理は違っている
歴史と風土の相違がそうさせる。確かに日本人も漢字を使っているから中国の一部のように見えてもその内実は相当に違っている。漢字の解釈は違っているのである

いずれにしろ花でも国が違うと同じ花でも同じでなくなる。それがまさに文化である。中国で菜の花をというとき運河伝いに延々と埋め尽くされている菜の花である。また柳というとき

元二(げんじ)の安西(あんせい)に使(つか)いするを送(おく)る        
                           唐・王維
  渭城朝雨浥輕塵
  客舎青青柳色新
  勸君更盡一杯酒
  西出陽關無故人

これはまさに私自身も経験した。中国は砂塵が砂漠から飛んでくるから雨がそれを濡らす時気持ちいいのである
中国はとにかく着るものでも汚れるのである。だから雨が気持ちいいのである
だから中国では汚れをあまり気にしないともなる。トイレでも汚いからである。日本は異常に清潔になっているのはなぜなのかともなる
ともかくそれぞれの国の文化となるその背景になる地理と風土が関係してわかりにくくなる

何か記憶が薄れたのだが万里の長城内に赤い百合が真っ赤なユリがさいていた。その赤さが鮮烈であり中国は真っ赤なものを
好む。あいまいではなく明確なものを原色を好むとなる。日本人は淡白であり何かどぎつ色を好まない傾向がある。大陸では
空でも陸でも単純化しているからだともなる。ただドイツでは霧が深いからまた違っていることもある。
大陸と日本の相違は白黒をはっきりする、敵味方をはっきりする。イエスかノーをはっきりするあいまいにしない。

中国の語順は主語があり次に動詞が来るから英語と似ているのである。基本の語順は『主語+述語+目的語』である
なぜなら民族間の攻防が激しく負けたら一族皆殺しとかなり奴隷にされる。だから敵であれば墓を暴いても罰するとかある
日本のような敵味方塚などありえないのである。徹底して敵を殲滅する、それが大陸の興亡であった
とにかく日本のようにあいまいにすることはない、それは中国も大陸だからそうなる。だから逆に中国人は日本のことが理解できないとなる


雛の調度。蓮の浮葉のいとちひさきを、池より取りあげたる。葵のいとちひさき。なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし。(枕草子)

日本の美的感覚は小さいものだという時これも大陸は大きいものになるから根本的に違ってくる。

日本なれ村の小径やスミレかな

裏山の小径を行けば紫と白のスミレを我は見つけぬ

こんな風になる詩そもそも俳句は一番世界で短い詩になる。中国となるとどうしても建築でも大きなものとなり外から見て大きさで目立つものとなる。広大な平原であれば大きなものとか塔とかでないと目立たなからである
壮大なもの長大なものになる。だからその欲望も強烈になりむき出しになる。それが日本とかと比べると桁違いになる
日本はどうしても島国であり淡白になる。しつこくはない、どぎついものではないものになる
そこに風土と歴史の相違でそうなる。ただ日本は欧米中心になりそれに習ったから中国のことがわからなくなっているのである。


ヨーロッパの心と日本の心の対比ー晩秋ボーデン湖の詩 【ドイツと東北の風土の共通性】






2025年03月11日

原発事故から14年でも復興はできない 【補償金が多くもらったから返って外に人が流出して帰らなくなった】

原発事故から14年でも復興はできない
【補償金が多くもらったから返って外に人が流出して帰らなくなった】


過度な原発避難者への援助がかえって不和をもたらし復興させなくした (内村鑑三の指摘の再考)

「金銭を与えるとか、あるいは税金を免除するとかは、彼らの困窮を助ける方法ではない 実際のところ、彼らの救済の秘訣のひとつはまったく金銭的な援助を取りやめることにある。
 そのような援助はただ貪欲と怠惰を生じさせ、人々の間に不和を引き起こす源である。


原発事故でこの辺で起きたことはいろいろあったがやはり保証金の必要であってもあまりにも手厚くなり復興というより保証金をもらうことが復興になってしまった。

小高に住んでいた人で津波の被害にあった人はそういう面があった。なぜならその人は原発事故の避難区域の小高に住んでいて補償金がかなり高いものになったからである。それであまり東電を批判しないのである。
ただ、一方で原発事故の補償金は?30キロで区切られて南相馬市でも鹿島区になると原町の1/3になっていたのである。
放射線量などは。別に。距離的なものでは測れなかった。海側だと浪江町であれ 0.5マイクロシーベルトとかマイクロシーベルトとか、かなり低いものだったのである。でも一方同じ浪江町でもずっと、奥の山の方の島津になると。信じられない。放射線量であり。 90マイクロシーベルトとか山の中は今でも30マイクロシーベルトとかほとんど除染もできない。住むこともできない状態であった。そして津島の集落は廃墟の村となってしまったのである。

つまり市町村ごとに補償金を割り当てたのは間違いだった。海側は低いし、山の方はこのように非常に高いものになっていたからである。だから、山の方に住んでいた人には保証金を高くしてもそれは仕方ないものであった。
そもそも放射線量によってその多寡によって補償金が決められたわけではない。
現実に相馬市では市内でも私が測った時0.6、マイクロシーベルトとかあり鹿島区より高かったのである。だから。地区ごとに補償金を決めることは。不公平になっていた。それでこの辺は分断されたのである。
そして相馬市の人は一人六万とかしかもらえなかったのであり不満だった

その小高の人は息子が仙台市に移住して仕事を始めた。それでその父親は地元に残っても小高から一時原町の空家を買って移り住んだ。何かスポーツカーなどを買って贅沢もした。他の人もレクサスなど買ったとか話題になって車が傷つけられたとかあった。何か急に思わぬ金が入って浪費したともなる。風俗に東京まで遊びに行ったとか何か復興と言ってもそこに住んでいる人たちが力を尽くしたということでもなかった。現実は日々ボランテアが来て援助していた
それで肝心の地元の人たちがパチンコなどをして遊んでいるのを見て怒っていた

小高の人は今は病気になり熟年離婚にもなっていたが息子のいる仙台市の病院に入院した。この変遷も激しかった
避難先を転々として精神的に苦しくなり死んだ人もかなりいたとかなる
ただなぜ14年も過ぎるのに復興できないのかとなると14年も過ぎたら他に移り家を建てたとしたらそこで14年間も生活したらそこで生まれた子供の故郷はその移り住んだ場所になる
つまり14年の歳月は長い、生活が別々になってしまった。だから故郷に帰って復興するというのもむずかしくなった
それだけの年月が過ぎてしまったということである。

何か補償金が必要でもそれが全部いい方には作用しなかった。補償金をどれだけ多くもらうことが復興でありその金をもらったら他の土地を買い家を建てるとなった。それだけの補償金をもらったからである
もし補償金がそれほどもらえなかったらそうはならなかったかもしれない、苦しくても金がないのだから地元に何と生きる算段をしなければならないとなったからである

でも補償金が手厚かったから地元に留まるより他に移り住んだ方がいいとなって帰らなくなったのである
だから南相馬市なら原町区鹿島区に家を建て住んだ人たちが多い、相馬市でも新地でもそうであり仙台市にも移り住んだ人がある。それは補償金が多くそれを元手にして他で暮らすようになった。だから補償金が必要でも復興ということになるとそれが良く作用したとはならなかったのである。そして補償金の多寡でこの辺は分断されたのである。

そして現実として復興の主役は外から来た人達だともなる、若い人でも住むようになったのはこれまでのように地元の人たちがいなくなり空白になりそこに縛りもなくなり外から入ってくる人たちが若者でもあるというとき外から来る人が歓迎されているからである。何とかしてくれとなれば外から来る人が頼りになる。飯館村でも一割くらい外から移り住んだ人たちなのである

ただ年配の人が多いからそれも問題である、つまり年配の人たちが問題なのはいづれ老人化して働けなくなる
若い人なら長く働けるから復興には若い人が来てもらいたいとなる。子供もいなくなり若い人もいなかなるとやがて町も村も消滅する。それは少子高齢化で日本全国で起きていることである。この辺は、そのことが極端なものとして起きているのである。
どうしても。老人になると先を見れない。あと何年生きるだとかなり死ぬだけだとなってしまうからである。

それで庭に木を植えようとしたがそれが育つのが8年かかるとかなるとそれまで生きていないかもしれないとして植える気になれなったともなる。後継ぎがいない人も多くなるから何か復興ができないということにもなる
そして廃炉には40年もかかるとしたら先が長いと驚く、それだけ原発とかは厄介なものだったのである
とても40年先を見れない、それより他に移った方がいいとなってしまう。

ともかく震災から14年は本当に長い、忘れる人も多くなり地元でも関心がなくなる。浪江町などでも駅前に商業施設を建てるとしてもそれが5年後にしか完成できない、このように時間の影響があり復興がむずかしくなる
そして一番の問題は肝心の人が住まないことなのである、確かに立派な施設建物は箱モノは作っても肝心の人が住まなければ
賑わいはうまれないのである。でも14年も過ぎたらもう帰って来ないのである

そこに外から若い人が入って来て新しく街作りするにしても人が足りないとかなる、日本は人手不足になっている
だから補償金が余りに手厚かったからかえって地元に留まる人もいなくなった。その補償金を元手に他に移り方がいいとなったんである、別に農業しているわけではなっから土地に依存するわけではないから移動しやすい社会だからそうなったのである
だからこそ内村鑑三が言うことがこの辺のことにもあてはまっていたのである。

浪江町では町づくりも本格化している。2020年3月にゼロカーボンシティを宣言し「なみえ水素タウン構想」を発表。同年に水素製造工場もでき、就労のための移住者が増加した。浪江駅前の整備事業も行われており、27年3月に商業施設や交流拠点、集合住宅などの整備を完了する予定だ。

やはり働く場が必要でありそれで戻る人が出てくる、現代は農業社会ではないから勤め先が必要である
農業は今では地方でも一割にもみたないからである。それで原発で働いていた人が周りの田んぼが草茫々になっていても
関心がなく補償金もらって老人は喜んでいると言っていた
別に食料は金があれば買えばいいとなっているからそうなる。おかしいと思ってもそういう社会でもある
金さえあれば何でも買えばいいという社会だからである









posted by 天華 at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2025年03月10日

道の辺の木槿は馬に食われけり 芭蕉の句の評価 【写生俳句であり説明感情を抜きにしたもの】


道の辺の木槿は馬に食われけり 芭蕉の句の評価
【写生俳句であり説明感情を抜きにしたもの】


道の辺の木槿は馬に食われけり 芭蕉

蠟梅の花食う鳥や今日も来ぬ (自作)


この句の解釈はいろいろある。でもこれは正岡子規の写生の句ではないか?ただ子規自体が酷評している
何かの教訓を含んでいる訳でも名だろう、ただありのままを事実を写生したまでだとなる
それが返って効果的でありその解釈は各自に任せるとなる、それが写生俳句である

何故この句に私が注目したかというとこれと似たものを見たからである。
私の庭に毎日ヒヨドリが蠟梅の花を食べにくる、冬の時期に餌がないためなのか、追い払っても執拗に来る
そもそも蠟梅の花を食べて栄養になるのかとも見る、何か実ならば栄養になると見る
でも蠟梅の花を食べて栄養になるのかと見る。

ともかくこの句に何か他意はないだろう、ただ驚いて見たままを句にしたとなる
馬が木槿を食べるのかそれをそのまま句にしただけだろう
解釈すれば馬にとおては花も餌にしか見えないとなる。空腹であれば原の足しになれば食べるとなる
花が栄養になるかなど考えない、でも何でも食べるというのもでもない、本能的に食べられると判断して食べた
何らか動物は食べていいものと行けないものを見分ける


空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

これを感じる。鳥はなぜ生きていられるのか何を食べて生きて飛ぶことができるのか、そのエネルギーが得られるのかとなる
白鳥も去ったが白鳥も飛ぶのに相当なエネルギーが必要だと見る、


ハクチョウは水草の葉、茎、地下茎、根、を好んで食べ、草食性と思われがちですが、実は雑食性です。時には昆虫、貝、甲殻類も食べるのです。

白鳥は大きいから飛ぶのにも相当エネルギーが必要に見える。だからこれも自然の不思議である

【天の父は鳥を養ってくださる】人間ならなおさらそうではないかとなる。でも人間は絶えず食料でも得られるかと不安が絶えないのである。でも自然界で動物でも鳥でもそういう心配はしないと見る。人間だけが異常に貯えていても安心がなく不安なのである。

いずにしろ【道の辺の木槿は馬に食われけり】は何か驚いて見て句になった。まず木槿の花を馬が食べるのかとなる
それh私がヒヨドリが蠟梅の花を食べるのかと見たのと似ている、別に動物が花より団子である、花の美より腹の足しになるものを優先する。それだけのことだが人間が見ればそれが不思議に見える
そもそも自然のことを理解することは何でも難しい、何か理屈をつけてもわからないことがある
要するにだからこそ写生俳句が生まれた。ありのままを理屈と感情抜きに句にするのである
ただこれを死期が評価しなかったのは解せないとなる






2025年03月09日

日が永くなる【牡丹の芽、日永、春夕焼け、白鳥去る】

日が永くなる【牡丹の芽、日永、春夕焼け、白鳥去る】

eveningbird2.jpg

peapuleflower.jpg

botanbuds.jpg


日永きや夕月光りて鳥の飛ぶ

道真直ぐ一番星や春夕焼け

夕闇に白鳥飛びて去りにけり


紫のクリスマスローズ一輪を部屋に飾りて我が見つあわれ

新しく我が庭に植えし牡丹なり芽三つあり咲くを待つかな

山形ゆ嫁ぎ働く若き女我が街に住み一冬すぎむ


6時ころまで明るかった、日は長くなった、外に出ると日が暮れて夕焼けが残る
でも夕べは雪で朝は一面に雪だった。昨日は寒かった、でも着実に春は来ている
日が永くなった6時でも明るい感じで夕月が光り鳥が飛んでいた
白鳥はニ三日前シベリアへと向かい何羽か飛び去るのを見た


牡丹の芽が三つほど出ていた。これは紫の牡丹であり二年なのか葉っぱだけで咲かないと見た
でも今年は三つくらい芽が出ているから咲くのが楽しみである。
近くに山形から嫁いだ若い女性がいる。山形に住んでいるから市内では雪はあまりふらないという
面白山トンネルをぬけるといつも残雪の山が見えるから雪が降ると思った
ここから蔵王ははっきり見えるから山形の方が近く感じる
でも福島市の吾妻山は見ないから福島県でも身近に感じないのである。


クリスマスローズを買った、400円くらいで安かったので買った。何か2000円とか高いのである
それは特別作り売りにだしたのだろう。
家に来る老女は杖ついて来るけど今はなくなった相双緑化とかで働いていたので花とかに詳しいのである
老人の価値は見た目はあまり関係なくなる、美人でも全然花に興味もない知らない女性と話しても価値がないと見る
老人になると何であれこれまで人生で経験したことが価値になってゆく、その人は見栄えが悪くても花に詳しいので価値があるとなる
つまり人間は何かを経験して積み重ねたものがありそれが価値となるのである
それは必ずしも金ではない、金があってもその人の経験してきたこと学習してきたことが価値になる
そこが誤り安いのである、金だけを得る為に働いた人は老人になると後悔する
金がなくてもいいというのではない、金だけでは価値にならないということである




丸森の森に咲くコブシの花ー宮沢賢治の寂静印の花か



丸森の森に咲くコブシの花ー宮沢賢治の寂静印の花か

kobushinohana.jpg

森に包まれた花

森に包まれて白いコブシの花が咲く
森の道行く人もなくひそまり
その花は黙す石の上に散る
花は深い森に隠される咲きぬ
天よりその花を見るのは神のみ
石は互いに黙しつつ歳月は過ぎぬ
そこは神の杜にしあれ
不埒な者の踏み入るべからず
寂静印の花なるべし


諒安(りょうあん)は眼を疑いました。そのいちめんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いているのでした。その日のあたるところは銀と見え陰になるところは雪のきれと思われたのです

「マグノリアの木は寂静印(じゃくじょういん)です。ここはどこですか。」 

宮澤賢治「マグノリアの木」より



丸森は文字通リ森の町である。森が深いのである。だから丸森の花はコブシになるかもしれない、でもコブシは純白な花ではない、曇った感じの白だとなる。別にどこにでも咲いている。ただ神秘的するためにマグノリアの花とした
何か私は北海道を自転車で巡りポプラの木の見える農家にコブシの花を見た
開拓の家となる北海道にもコブシはふさわしいと見た。

丸森は森に包まれて森が深い、一時森の中にに入り迷って出れなくなる恐怖を味わった。その辺にコブシが咲いていた
でも最近山ごとソーラーパネルになったりしているのが残念である。丸森は江戸時代に木材資源が豊富なので米沢藩と伊達藩と相馬藩でその木材をめぐって争いになったことは有名である、それだけ森が深く木材が豊富だったからそうなった
今になるとその木材が外材中心になって活かせないからソーラーパネルになった。それに反対するがそこで暮らすとなると何らか収入がないと暮らせないからそうなる。ただそこで失われるるものもある

森が癒しの効果をもたあすからである。それは飯館村でもそうである。森に囲まれているからである
太い樅ノ木が丸森にも飯館村にもあった。それは神殿の柱のようにも見えた
それでドイツでは黒い森があり樅ノ木で有名でありその森を模したのがあの重厚なゴッシクのカテドラルになったのである
もともとヨーロッパは森に覆われていた、それを今でも残っていたのがウクライナとかロシアの森なのである
平原を覆っているのは森なのである。

いずれにしろ原発事故以後ソーラーパネルとか風力発電とかがこの辺では多く作られた、全国的にもそうである
ただそれもまた自然破壊にもなったのである。人工的なものは自然破壊になる。それが人間の宿命だとなる

2025年03月08日

ヒマラヤの詩とネパールの旅の感想

ヒマラヤの詩とネパールの旅の感想




ヒマラヤの詩


3000メートルの高みに積もる純白の雪に

ラリグラスの真紅の花の散る

氷河が溶けて清冽に谷間に打ち響き流れ川

ヒマラヤの峰々は崇高に聳える

天空よりその8000メートル峰々を望む

その地球の創造の神の偉業

その絶巓になお神の隠れ棲まむ

何故にアンモナイトの貝の発見されぬ

その地球造山運動の計り知れぬ力

何億年の歳月が成す地球の形成

ネパール人が裸足で荷を背負い石の道を歩む

原始の日がそこにありなお生きる人

強大なるヒマラヤの峰々は屹立して

超絶なる連なる峰々に烈風うなり吹き人を寄せつけぬ

天には向かって厳しく聳え響いている

千古もの寂びて人の手の触れぬ

人跡未踏の地に神の刻みしものは知らず眠りぬ

その切り立つ峰にハーケンを打ち込み

真剣に山に果敢に挑みかかる登山者よ

それでもその峰に登山者は挑み死ぬ

果敢なる冒険者の魂はここに眠り

傑物英雄はかくて天に召される

天頂から魂は昇天する

その山頂は天に向かい凍れるように響く

決然としてその姿に無駄は無し

その澄みわたる空に凝縮して究めた姿

神の業なる究極の彫刻は天に向き映える

燦然と輝く銀河の星々を飾りとして

大都会に無数の消耗される塵となる人よ

その生に真の実りありしや

大衆群集は塵と消えぬる

ネパールの花よ、ラリグラスよ、真紅の花よ

貧しくも原始の穢れなき美にあれ

神はその花を我が意を得たりと壺に挿しぬ

岩を打ち轟く谷間の流れは下る

崇高にヒマラヤの霊峰は聳える

地球創成の神の業はここに成りぬ



ネパールは 3000m級でもトレッキングができる。観光化していて意外と途中に休む場所もあり泊まる場所もあり。別に登山するというわけでもなく普通の人でもトレッキングしているのである。


ただ、私が行ったときは春だったのでヒマラヤの8000m級の山が見えなかったことは残念だった。その3000mから8000mとなると。どれだけ高いかわかる?なぜなら富士山が3000mでありそれから比べて5000mも高いという時、どれだけ高いのかわかる。だから実際はヒマラヤというのは空から見るほかないともなる。それで飛行機に乗って空からもヒマラヤを見たのである


とにかく3000mの場所に雪が積もっていた。そこにラリーグラスが咲いていた。これはシャクナゲでありネパールの花である。真っ白な雪に真っ赤な花が散る。ということで感動的だった。


そもそもネパールではあのような高い山で暮らしが成り立つのかという疑問がある。平地がないから。田畑にするにしても簡単にはできない。牛を飼っているがその他に何か生活の手段があるのかとなる。

だから登山者の荷物をもつポッカが生活の手段にもなる。

何か石の道を裸足で歩く人がいたのには驚いた。今時、裸足で歩けるのかと思ったからである。でもインドでもリキシャの人が裸足だったのである。それには驚いたとなる。

それは原始人かと見たのである。


そういう場所に若い娘がいたのだがその人が何か畑なのか仕事をしていたみたいだ。それが何か、万葉集の時代に戻った感覚であった。粗末な着物のようなものを着ていたからである。

そこでまともに教育するというのもたいへんである。

学校を作るにしても。その学校に行くにも。険しい山路だから通うのが大変になるからである。また、水も少し不足しているから。水を運ぶのは一苦労になる。雨が降るようで乾季とかではと降らないみたいだからである。


でも私は子供の時家に井戸がないので近くに井戸がある所で水をもらっていた。バケツで水を運んで風呂に入れていた。近くの堀で洗濯もしていた。燃料は炭であり町に住んでいても、囲炉裏があったのである。それはまるで、江戸時代からの生活の続きでもあった。多少その生活と似ていたのである。

そこでまだまともに電気も使ってはいない。一応子供の時に電気があったとしても裸電球一つだったのである。

だからその生活を経験していると確かにそれと似ている面もあった。


そんなところで教育するにしてもノートや。ボールペンすらない。それで必ず観光客にボールペンくれとなり。私もそれを用意していてくれると喜んでいたのである。

つまり学校に行ったとしてもあったとしてもノートやボールペンすらまともに無いとしたらどうして勉強できるのかとなる。

でも戦前の日本でも貧乏であり鉛筆を使っていたのだが。それが、極端に。短くなって。持つのも苦しくなっても使っていたのである。つまり、それだけ鉛筆も貴重であったから、そうなった。


何か今ネパール人で働く人男性でも女性でも見かけた。女性は服装で働いていたのである。ネパールでは出稼ぎが多いのである。どうしても現金収入がないからそうなってしまう。

ともかく失敗したのはもっとヒマラヤに行けばよかったと思った。そもそも外国には簡単に行けないという先入観がありそれで行かずに失敗した。なぜならヒマラヤに10回も来ていたという人に出会ったからである。別に3000m級のトレッキングだったら誰でもできたことだったのである。それで今やもはや体力もなくなり外国旅行もできなくなったことでそのことを失敗したと思ったのである。つまり何かやれることをやれずにそのチャンスを逃すことが人生には多いということである。













2025年03月06日

再起動要求でテキストが読めなくなった 【ワードパッドが消えていた、ワードパッドは使えなくなる】

再起動要求でテキストが読めなくなった

【ワードパッドが消えていた、ワードパッドは使えなくなる】


win11でワードパッドを使っていたが再起動しろとメッセージがでたのでしたら。ワードパッドでテキスト保存したのが読めなくなった

別な画像編集ソフトで開けとなるができない。

それで別なパソコンのワードで開くと開けた、メモ長帳でも開いても暗号になり読めない


それで別なパソコンのワードでは開けて読めた

一時は読めなくなるのかと焦った。パソコンは不具合があると直せなくなる。

通信はできるが文字が書けない、その原因はワードパッドにあったらしい、これは今マイクロソフトで廃止にするからそれで新しく再起動が要請されて邪魔だとして消えたのかもしれない、ワードパッドはマイクロソフトでは使用させたきないのか、でもワードだと開ける

だからワードを使いとなるがそうなると一か月2000円とかかかる

これも困る


今はグーグルのドライブでテキストを書いた、それしか方法がない

ともかくタブレットを2万で買ってもそれが英語表示でありYI=FIで自宅では通信できなかった。通信販売では失敗がある


パソコンは今でも必ず何か不具合があるから困る、それを簡単でも直せなことがある。だから再起動命令が来たのがしたくなかったのである

またソフトのインストールでもウィルスとか怖い、データーが破壊され使えなくなる。今回は他のパソコンのワードで使えた

やはりパソコンはいいものを買わないと失敗する、それが取返しつかなくなるから怖いのである


ともかく何らか安全に確保し備えてやらないといけないのがパソコンである。

何かかえってグーグルのドライブが安心である、なぜならそこは大会社であり安全でも計れるからである。とにかくパソコンは安全を計ることが大事なのである、データーでも一瞬にして消えるからである


パソコンは今のノートパソコンはdellの6万くらいのものである

パソコンの性能とも関係しているかもしれない、パソコンはやはりいいものが必要だともなる。

なぜならこうして不具合があると大損になりデーターが消えるからである

それが怖いのである、だからケチると大損になり取り返しがつかなくなる

確かなことは安いものは安全の面で問題がある。普通こんなことにはならないだろう

ただ再起動とかソフトでもインストロールのは怖いとなる、パソコンそのものを操作される危険がある


前からパソコンはやっかいなものだった。今になると年取ると何か面倒なことをしたくないしできないとなる
若ければいろいろ機械でも操作することでもできる。それが老人になるとめんどうになる
たた機械と関係なく文系的なものは返って老人になるといろいろ理解するようになり洞察力も深まる
それは機械の操作の習得とは違ったものだからである。

マイクロソフトのnextpadは使える、テキストも開けた
ワードパッドは使えなくしているので注意

再起動要求でテキストが読めなくなった 【ワードパッドが消えていた、ワードパッドは使えなくなる】

再起動要求でテキストが読めなくなった

【ワードパッドが消えていた、ワードパッドは使えなくなる】


win11でワードパッドを使っていたが再起動しろとメッセージがでたのでしたら。ワードパッドでテキスト保存したのが読めなくなった

別な画像編集ソフトで開けとなるができない。

それで別なパソコンのワードで開くと開けた、メモ長帳でも開いても暗号になり読めない


それで別なパソコンのワードでは開けて読めた

一時は読めなくなるのかと焦った。パソコンは不具合があると直せなくなる。

通信はできるが文字が書けない、その原因はワードパッドにあったらしい、これは今マイクロソフトで廃止にするからそれで新しく再起動が要請されて邪魔だとして消えたのかもしれない、ワードパッドはマイクロソフトでは使用させたきないのか、でもワードだと開ける

だからワードを使いとなるがそうなると一か月2000円とかかかる

これも困る


今はグーグルのドライブでテキストを書いた、それしか方法がない

ともかくタブレットを2万で買ってもそれが英語表示でありYI=FIで自宅では通信できなかった。通信販売では失敗がある


パソコンは今でも必ず何か不具合があるから困る、それを簡単でも直せなことがある。だから再起動命令が来たのがしたくなかったのである

またソフトのインストールでもウィルスとか怖い、データーが破壊され使えなくなる。今回は他のパソコンのワードで使えた

やはりパソコンはいいものを買わないと失敗する、それが取返しつかなくなるから怖いのである


ともかく何らか安全に確保し備えてやらないといけないのがパソコンである。

何かかえってグーグルのドライブが安心である、なぜならそこは大会社であり安全でも計れるからである。とにかくパソコンは安全を計ることが大事なのである、データーでも一瞬にして消えるからである


パソコンは今のノートパソコンはdellの6万くらいのものである

パソコンの性能とも関係しているかもしれない、パソコンはやはりいいものが必要だともなる。

なぜならこうして不具合があると大損になりデーターが消えるからである

それが怖いのである、だからケチると大損になり取り返しがつかなくなる

確かなことは安いものは安全の面で問題がある。普通こんなことにはならないだろう

ただ再起動とかソフトでもインストロールのは怖いとなる、パソコンそのものを操作される危険がある


前からパソコンはやっかいなものだった。今になると年取ると何か面倒なことをしたくないしできないとなる
若ければいろいろ機械でも操作することでもできる。それが老人になるとめんどうになる
たた機械と関係なく文系的なものは返って老人になるといろいろ理解するようになり洞察力も深まる
それは機械の操作の習得とは違ったものだからである。

2025年03月05日

村が消失することは多様な文化も消失すること 【詩でも現実にある場からイメージして作る―橲原〔じさばら〕村のことなど】


村が消失することは多様な文化も消失すること
【詩でも現実にある場からイメージして作る―橲原〔じさばら〕村のことなど】

edotreejisabara.jpg


jisabaramurastone.jpg


石一つの詩

広々と安らぐ枯野の大地
石は黙して耳を澄まし
残る虫の音を聞く
木の葉は石に舞い散り
北風唸り吹き石は黙しぬ
石は所を得て鎮まりぬ
時に休み騒がざれ
汝いかに労するも世は変わらじ
人の労苦は限りなく続き
人の世の騒擾は止むことなしも
人はカオスの世界に倦み疲れぬ
石一つに心を集中する
争いはやまず大地を乱す者等らよ
虚しく人の骨は埋もれぬ
神は関わらざるかな
その岩盤の石は堅く
平和の礎を据えて
末永くここにあるべし
春の風は石に吹きそよぎ
またここに清楚なる木の花の咲くべし



橲原の名の由来はじさの花
白いエゴの木の花
その花が真白く咲いている
清流が流れ滝がひびく
新緑に5月の風はそよぎ
樹々はしなるゆれる
鳥の鳴く声は奥に響き合ふ
一つの石が昔を語り
そこに変わらずありぬ
なお老いたる夫婦畑に働く
ここに生業はつづきぬ
橲原村の名の良きかな
その村の失われるは悲し
そこに先祖は生きしも
その先祖もまた失われぬ
先祖もまた悲しむなりしを
・・・・・

●橲原のジサはエゴの木の花

橲原(じさばら)のジサはエゴの木の古語

新緑の大原から八木沢峠へそして橲原【じさばら】へ 


詩を作るとき現実にある場所をイメージしてつくる。
天国でも現実にある場所からしかイメージできないのである。
これも全部ではないが橲原【じさばら】村からイメージして作った。全部ではないが清楚な木の花とはエゴの花のことである
ジサはエゴの花のことだからである。ただ他にも白い花は咲く石は村の入り口にある立目石のことである。
でも橲原村は原発事故以後田畑は荒れ地になった

原町の大原村でも病院で知り合った農家は息子がいても街に住んで跡を継がない、前田という所にあるから草分けの古い家なのだろう、場所的にそうである。
だから詩にするにしても何か合わないのである
だから全国でこうした小さな村が失われる時何か多様性とは消失して文化が消失する
なぜなら文化はcultivate〔耕す〕からcultureになったからであるう、つまり一つの村でも消失することは日本の文化が消失することである

そうはいっても現実は村だけで暮らすのは不便すぎる。だからそうした限界集落には住まずに一か所に人を集めて住めとなる
すると近くで用をたせるからいいとなる。
実際一万の街でもスーパーでしか買い物はできない、すると車がないと離れていると自転車で買い物するのも手間だとなる
車なしでは田舎では暮らせないということがある

いずれにしろこうした村でも限界集落となり空家が増えて消失することが何を意味しているのか?
それは日本人の心にも影響してくる。多様性がなくなり文化が消失してゆくことである。ただ文化より経済中心になるからそのことを深刻に考える人はまれなのである
現実になれば住みたくないとなるかからである
橲原村にしても農家は数軒であり二三軒くらい空家化している
とにかく空家が街中でも目立つのである。人口減少は全国的に起きている。


●文化の意味ー村があり生活があって文化もある

なぜ文化経済政策が必要なのか
政策特集文化と経済の好循環の創出〜経産省が文化経済政策に取り組む意義
令和4年3月文化経済部会報告書-「文化と経済の好循環を実現する文化芸術の
『創造的循環』」を受けた取組について

アートというとき何か生活から離れた感じになるけどそもそも俳句の季語でも農業から生まれてもいる、
つまり農業に携わること自体が一つの文化である
また他に漁業でも林業でも職人でも文化なのである
ただ絵画とか詩でも生活と分離してありえないのである
でも何か芸術も生活と分離して商品化したのである

だから橲原村でツツジが赤く咲き田植えをしているときとか村は活きていたのである。そこに生活が何らかなくなると文化もなくなる、その村の祭りとかも文化だからである
文化という時どうしても現実の生活から切り離されてみるが実際は文化がcultivvate-cultureとなったようにその土地を耕すことから始まったいる。だから文化というときも部分的なものではなく全体のことである。絵画とか音楽とか文学でも実際の生活から土地からでもはなれてありえないのである。
だからドイツの音楽でも理解するにはドイツの大地を踏みしめて実感するというのもアートは土地と離れてありえないのである。
だから村が消失することこそ文化が消失することになる。

何か伝統芸能とか歌舞伎とかでもなくなることよりそれは相当に深刻なことであり身近な所で文化が消失するからそうなる。
つまり経済的価値があり文化的価値がある、でも経済的価値がなければ文化的価値は無視される
利益にならないものは無視される、でも文化的価値も人間には不可欠なのである
今の時代は逆に経済的価値より文化的価値が追求される時代にもなっているからである

posted by 天華 at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層