人間は自分自身に関しても未知であり何になるのかもわからない
【遺伝より環境の作用が大きいー体験が人間を作る】
●大都会ではない小都市で生まれたルネサンスの偉業
この人は生物学の分野でノーベル賞を受賞した科学者である。
その科学者でも人間の体のことが未知であり分からないと言っている、つまり科学者でも人間の体のことでもわからないというとである。
人間を作るものまた作られる者は何なのかということである。
●遺伝的要因
●環境的要因
●経済的要因
●時代的要因
人間はどうしてもベースになるのが遺伝的要因である、これはどうしようもない、でもそれだけですべて決まるのかとなればならな、ただ天才というときは遺伝的要因が強力である。それでもやはりそれだけでは天才だとしてもその能力を発揮することはできない、なぜ天才が生まれるのかという研究もなされている。
何か大都会からは天才が生まれないのである。ということは環境が確かに影響している。その理由が大都会には自然がないことにある。自然から霊感を受けることがないからである
なぜまたフィレンツェのような5万くらいの都市国家からルネサンスが生まれたのか、ラファエロ、ミケランジェロ、レオナルドダビンチが生まれたのか、5万となれば小さな都市なのである。
それだから自然に囲まれていたのかとなる
確かなことは百万とかの現代文明の都市からそうした天才が生まれない、また育まれないということである。何かそういう社会では有機的に社会が結合されていない、余りにも規模が大きすぎて
一つの連関する有機体となりにくいのである。そこはカオスであり統一されたものとして自分自身でも認識構築できない、余りにも巨大であり人間的感覚から逸脱しているからである。
人間はやはり自然から学び自然とアイデンティティ化することにより精神を形成する。だから一千万都市は人間的感覚から逸脱しているからそこで精神の人間的形成は不可能になる
何か高い山が独立峰のようなものがある場所に偉人が出やすいというのも日々そうした山を見ていれば心に反映してくるからである、この辺では阿武隈山脈は高原であり山でないともなりそれでものたりないとなるが山形県の蔵王ははっきり見えるのである
だからと言って村落のような所でもルネサンスのようなものは生まれない、都会的なものが必要なのである。そこでは職人であれ商人であれ多様な人と交わるからである。農民だけではあのようなルネサンスは華開かないのである
●遺伝より環境の影響が大きい
環境というとき一番影響を受けるのはどんな家族に生まれるかであり育つかである。その家族構成とか経済状態でも一番影響受けやすいのである。私の場合は父親が早く死んで中学の時死んでそのあとを姉と母に育てられてそれが60才までも一緒に暮らしていたのである。その環境の影響が大きいものだった。
何か普通の母親であれ父親であれ両親がいる家族とは違ていた奇妙な家族だったとなる。
姉は性格的に陽気であり男優りであった。でも母親は内気な性格であった。この二人の異なる性格の影響を受けたのである
やはり姉は大らかでありその方が影響が大きかった。母は神経質で陰の性格であったからその性格を私は受け継いでいる
遺伝的素質は変えられないし受け継ぐしてもそれだけでは決まらないのだる。
家族の相互関係の中で育つからその影響は大きのである
それで一人っ子は社会になじめず稼ぎも悪く結婚しない割合が大きいのである。そのことはいかに環境が影響しているかるかを証明している
双子でも別々の国で育てばまるで違った人になることからもわかる。
人間は一般的は総合的に人間関係の中で刺激を受けて育つ、だから家族の影響は一番大きいとなる。カルト教団で育てられた人は全く親のロボットとなるしそこから脱出できなくなる。
また門前の小僧習わぬ経を覚えるとなる。そういう環境にあれば自ずとそうなってしまうのである。
また時代の環境の影響も大きい、戦後店をしていた時私の父親は酒屋の丁稚だったから配達とかソロバンを習わされた、つまりそういう時代であった。でもソロバンはなんの役にもたたなかった、計算機になりコンピューター時代になったからである、今なら子供でもコンピュウターのプログラムを習わせる。つまり時代も影響しているのである
コンピュウター関係は進歩していて生成AIの時代になる時これに適合できないものは現実生活で取り残されるものとなり収入も得られないとなる。
また余りに貧乏だと知的な開発ができなくなる。そういう例は多い。それもやはり環境が影響したとなる。
私の母は働きずめであり継母に育てられたから生け花などならわせれられないし花など必要ないとを豆を植えていた。それも悲しいことだった。それは経済的なものが貧乏だからそうなったのである。もしそうでなければ文学的才能があり短歌などを作っていたかもしれないのである
経済的にこうして才能を伸ばせないことは今日でも相当に多いことは確かである。
また家という建物も影響する、狭い家にいると何か心まで狭くなる、広い八畳間に寝ていると眠れるとなる
知的活動には明らかに広い家がいいし書斎があるといいのである。そういう点でも私は恵まれていたのである。
●人間を作るのは体験である
そして人間を作るのは基本的にはどんな体験をしてきたかである。何故なら体験しなければ基本的にわからない、実感できないからである。
山にしても遠くから見るのもいいが山は登ってみないとわからない、実感できない、山の厳しさは登ってみてわかる、それで岩手山に三回くらい登ってわかるものがあった。まさに体で感じる体感したのである。一番感じたのは真っ赤に山頂へ紅葉が染め上げたが一転して真白の新雪に覆われたことである
それは山の厳しい美だった。そういうことは実際に山に登らないとわからないのである。
旅でもそうであり特に外国旅行は実地にその場を踏まない限り実感できない、本をいくら読んでも分らないのである
それで50才からバックパッカーになり外国を回ったのが良かった
ともかく北海道でも梅雨の時期に十回とか行っている
電車なら全国の線に乗っている。それも体験であった。
あとは自転車旅行でありこれも相当に乗った。それも体験であった。自転車に乗り感じることは電車に乗り車に乗り感じるこのと違ってくる。その体験が後に活きて来る
だからこうして体全体で感じたことは後年にその体であれ脳であれ刻まれるものがある。その体で感じたものが後で活きてくる
でも車だと感じられないものがあり記憶に残らないから損だともなる、何か電車だと駅名だけを覚えているということがあった
やはり電車でも通り過ぎてゆくだけで記憶に残らないことがあった。
このことは遊びに過ぎないとしてもやはり体験として残る
つまり人間は何でも体験なのである、会社員でもそもそも何十年と働くのだからいくら社畜と自ら言ってもそれが体験であり人生だったとなる
●引きこもりも体験であり無駄ではなかった
私の人生は旅の人生だったが後は引きこもりがだった
なぜそうなったかというと大学を出て就職もせず家にいた、でも底辺で働いた、それは東京に出て働いた。それが過酷であり建築現場では4階から落ちて死ぬところだった。それだけ厳しいものだった。零下20度の冷蔵庫の中でも働いた、ここも危険だった
底辺は危険な所が多いのである。またあとは流れ作業でありそれもロボットだと思い嫌になった、それ以来労働するのが嫌になり引きこもりになった。自分にはそれが許されていたのである
親は何も言わない、返って旅に行くこと勧められていたのである
だからこれも特別私の場合は家族に恵まれたのである
それがマイナスの面もあったけど好きなことをしてきたのである
そういう生活が自分にあっていたのである。私が嫌だったのは高校までの窮屈な場であった。何か体までおかしくなっていた。
その時試験が常にあり自分の興味で勉強したことはないのである
それでも私立の東京の三流大学に入って親元を離れたのが良く作用したのである、やはり一度親元とか故郷を離れる経験は自立のために必要である
ともかく自分にとって引きこもりは自分の性にあっていたのである。そこではマイペースで自分の興味あることを追求できたからである。ただ私の場合はゲームなどはしていない、勉強していた本を読んでいたのである
小さかろうと一つのグループは会員たちに軍隊や修道院の規律を象った行動規則を課すことによってその時代の社会の悪影響を避けられる。
中世の文明はこのようにして進歩したのである。修道会があり騎士団があり、職人たちの組合があった。宗教集団の中である者は修道院にこもった。しかし会員が厳しい精神的肉体的規律に従っている。
個人の進歩のための二つの基本的条件とはある程度孤立していることと心身を鍛錬することである
つまり現代にはこうした場所が喪失した。だから家に引きこもることに成った。それは脱落者であり社会から無用のものとみられ迫害されることもある。ただどうして60万なのか引きこもりが現実にいるということはその原因を知る必要がある
過去には寺とか修道院とかあり社会不適合者でも居場所があったとなる
私は引きこもりとなり禅宗のように一人沈黙業をして自然とアイデンティティ化することを試みて来た、それを詩にしてきたのである
●ネットで独学できるから学びも変化する
今恵まれているのはネットでもyoutybeでも独学ができることである。知的刺激を受けられることである、自分自身でも一人で延々と講義しているようなものである。それも無料なのである
それからAIとかも先生になるから独学する環境ができている
そしてyootubeで放送するのは一線で活躍する優秀な人たちなのである。学校の先生よりずっと優秀である、講義でも面白いのである。だからこうした環境も整備されれば時独学するのにはいいし別に引きこもりでも学べるとなる
だから教育はこれから大きく変わってくる、別に学校に行かなくても学べるしそれよりネットであれ別な形の学びの場もできている、そうなるとそこから真の天才が生まれて才能を発揮する人達が出てくる
何か仕事に就くにしても職業が業であり必ずしもいいものではない、銀行とか硬い職業と見ていたがそうでもなかった。何か金融業はうしろめたいものがある。人をだます職業なのかと銀行は空気を売っているとか社会の寄生虫とか言われるとそいう場で働くのは金になってもいいことではない、それが老人になった時そいう場で働いた人は何も語りたくないとなる。そもにうしろめたいことをしてきたからそうなる。
そうならかえって引きこもりの方がいいともなる。そこにも問題があるにしろなぜこれほど引きこもりが多いのか?
それはまず自分にあった仕事などない与えられない、だからこそ社畜だというのである。そうなるとそれは精神衛生上でも悪い。し老人になって何も語るものもないとなる
その人生は金を稼いでも実は失敗だったなる
ともかく人間は自分自身にとっても未知なるものである。その自然にしろ世界にしろ未知なるものが無限に広がっている。だからいくら科学が発達しても人間の体であり脳のことでありそれは解明できない未知なのである
老人になっても依然として人間が完成するわけでもないし未知なのである。その探求は終わることなく続くのである。だからこそ長生きはこうして健康に生きれる人にはさらに無限の可能性が生まれてくるのである
とにかく人間は何をするにしても時間がかかるからである。何かを理解するにも本当に時間がかかる。膨大な本を買ってそれが理解できなかったからである。だから長生きすれば天才でなくても大した能力がなくても一角のものになれる可能性がある。それは時間を活かせるということになるからである
大器晩成になる。長寿の良い面はそういう人たちを多く作り出すということである。天才でなくてもそれなりに能力を発揮する人は多数出てくる可能性があるということである。
一方でこの本の著者は優生学を唱えている、何か一人の精神障害者であれ発達障害であれその負担が大きすぎることである
それでも兄弟でも障害者にエネルギーを注ぎすぎて他の兄弟の世話が疎かになり、大人になり介護したくないとなる
一番手をかけた長男が世話できないとなっている
それも不幸なのだが今や高齢化社会とは障害者社会にもなる
認知症になる人が膨大だからである。これはだから老人は自殺しろというとき余りにも多くなりその負担で社会が維持できないとなる。それが高齢化社会の負の面である
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