2023年10月13日

イスラエルの問題の複雑さーエゼキル書の予言 【人間の業として土地争いが戦争の原因】


イスラエルの問題の複雑さーエゼキル書の予言

【人間の業として土地争いが戦争の原因】

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●なぜ戦争になるのか―土地争いでなる

なぜ人間は殺し合う戦争が止むことなくあるのか。その一つの答えが土地争いにある。そもそも戦争はどうして起こるのか。それには確かにいろいろな原因はある。でも基本的に戦争はなぜ起きるのかというと土地を巡る争いから戦争になってきたのは人間の歴史だと思う。なぜならその土地を巡る争いというのは現代でも終わることなく続いているからである。それは国と国の争いだけではない。個々人の間でも家の間でも土地を巡る争いというのはありそれが揉め事の第一にあり土地を基本にして人間の生活があるからそうなる。

私の家でもわずかな土地でも奪われたことがありそれが私の代でも恨みとなっているのである。その恨みは一代で終わらず次の第代まで続くのである。国にしてもそれは土地を基本にして領土があって国がある。だから領土を持たない国はない。
そして戦争とはなぜ起きるのかそれは基本的には土地を巡る争いである。ここは私たちの国の土地だという時ほかの国の人たちが奪いに来れば当然戦争になるのである。
なぜロシアが北方領土を自国の領土としているのか。そこはもともと日本の領土なのである。でも日本は戦争に負けたからロシアの領土になったのである。それは理不尽なことなのである。それでロシアとは友好関係が保てないのである。
つまり日本の土地を奪ったのものはロシアだからである。またウクライナ戦争はなぜ起きているのかそれも土地を奪ったということで戦争が起きる。ただそこはもともとロシアだったという理屈で戦争にもなっている。
つまり人間の争いの起こりは土地を巡る争いになる。

日本の国にして日本にしてもやはり戦国時代がありそれは土地を巡る争いから始まっている。入会権の争いがありそれをめぐって山を所有する争いになりそれに大名は応援して戦争になったとかある。
また丸森の木材資源をめぐって米沢藩と伊達藩と相馬藩が争った。これはめぐる争いだったのである。土地もこうして常に争いの元としてあった。だから返って農業社会になったとき争いが熾烈なものとなったのである。なぜなら農業というのは土地なくしてあり得ないからである。

●太平洋戦争も満州に農業するため土地を求めたことが原因

それで例えばなぜ日本は太平洋戦争まで突入したのか。その原因もまた土地にあったのである。何故ならその時農業が主なる産業でありその農業のためには土地を必要としたので。それでその頃日本は島国であり土地が足りなそれで新田を作るために狭い領土をだんだん畑やら海側を干拓してた田にしたのである。それも限界がありその土地を求めて満州まで進出したのである。そこには広大な土地があり農業するにはその土地を手に入れればいいとなったのである。

だから農民は満州のような寒いところでも米を作るために努力したのである。それはそのとき農業が主な産業でありその農業をするためには土地を必要としたからそうなったのである。
結果的に日本はその土地を手に入れるために満州を領有したのだがそれがかえって災いとなり戦争で300万人も死んだという犠牲を払ったのである。太
太平洋戦争の原因は主なものはやはり満州に進出したことにあった。それが仇あだとなってついにはアメリカまで巻き込んで大敗北となり300万人も死んだのである。
そして今回のイスラエルの問題もやはり土地争いが原因になっているのである。イスラエルはすでにパレスチナ人がそこに住んでいたのだからそこにユダヤ民族が入ってきてそこが自分たちの国だだからパレスチナ人は邪魔だとなってしまったのである。
その理由は2000年前にイスラエルの国がローマ帝国に滅ぼされユダヤ人が離散したことである。そしてイスラエルはアブラハムは約束の神から約束の地として与えられたものである。そのアブラハムを祖とする宗教がイスラムキリスト教ユダヤ教でありキリスト教でありイスラム教なのである。その三つの宗教の聖地がイスラムなのである。

●なぜ遊牧民にエホバが現れたのかー土地をもたなかったから

神が現れたのは遊牧民だったのである。羊を飼って一定の国をもっていない遊牧民だったのである。遊牧民から生まれたのが一神教の信仰である。それでイスラエルに対しイスラエルに関して誤解しやすいのはイスラエルとは砂漠でありその生活の基本は羊を飼うことである。
またラクダなどが泊まる隊商宿代わり砂漠の中で生活できる人たちだったのである。
ではなぜ砂漠で生活する遊牧民に神が現れたのか
それは人間というのは土地を基本にして生活している。だからこそ土地が最も大事であり命ともなる。でもなぜ農業している農民には神が現れなかったのかとなる。

 カインは農耕を行い、アベルは羊を 放牧 するようになった。 ある日2人は各々の収穫物を ヤハウェ に捧げる。 カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェはアベルの供物に目を留めた
バウルは乾燥している地域では農業に携わる人々から豊穣神として崇められた

農業が一神教のエホバから嫌われたのか、そしてその神を偶像を神の敵対者にしたのか?
そこに共通しているものは何なのか。つまり農業は土地を元にして土地から離れることはできない。だからこそ土地にこだわらない羊を飼う遊牧民に一神教のエホバが現れたのである。

そしてキリスト教でもこの世にいることは異邦人であり一時仮の宿なのである。それは遊牧民なら生活上肌で理解する。この世は永住する場所ではない。本当に永住する永遠の都はこの世にはないのである。そのためにその教えを伝えるのは遊牧民が適していたのである。
だからなぜイスラエルに今また深刻な争いが生まれたのか。それはまさに2000年間も世界を流浪したユダヤ人が国を持たない為に起きた事件でもある。ユダヤ人にとっては国を持つことが悲願でありその国とは2000年前にあったイスラエルなのである。そのことに執着した結果としてそこにはすでにアラブ人が住んでいて土地をめぐって熾烈な争いにもなったのである。
ただユダヤ人というのはなぜ2000年も国も持たず流浪してそれなのに強い勢力を持っているのかということである。
そしてなぜユダヤ人は優秀なのかということである。ノーベル賞の2割がユダヤ人でありグーグルとかフェイスブックとかの創始者はユダヤ人でありまたメディアはユダヤ人が経営しているのである。

つまりユダヤ人は滅びていない。土地を領土がないのに国もないのに滅びていないのである。それはユダヤ人は神に選ばれた民族であり選民であるから神は保存して残したともいわれる。聖書での記録ではヘブル人は神に選ばれた人たちであり神に守られているとされる。聖書では必ず神に選ばれた預言者がいてそれは神の聖意お実行するものとして尊ばれたのである。キリストもうその預言者の一人なのである。
ただキリストが出現することによってエホバの信仰はユダヤ民族だけではない世界中の民族に平等にもたらされるようになったのである。だからユダヤ民族だけを特別な選民として神が助けるということは必ずしもなくなったのである。
そもそもは神はこの世に神の国を作らない。もし土地に根ざして神を作れば神の国を作ったとしてもその土地をめぐって国々は必ず争うようになるからである。イスラエルもカナンの地とはあくまでもそれは天の神の国を目指すものとして象徴として与えられたものであり本物の神の国はこの地球には作れないのである。だからこそこの世では必ず土地を巡った争いが終わることなく続いている。その土地から離脱しない限りおそらくこのように永遠の平和など来ないのである。

ただいずれにしろユダヤ人が2000年前にあった自らの土地に帰還するなどということは考えられないのでる。だからこそこれを契機に世界動乱にもなりハルマゲドンにもなるという恐怖にもなるのである。すなわち土地をめぐって争いがありそれがカルマとなり人類最終戦争ともなり人間が滅びてしまうという恐怖にもなるのである。
現代はそうした宗教より人権というのは宗教を超えて重要視されるようになった。宗教が違っても一番大事なのは人権だとなったのである。パレスチナ人が傷つきイスラエル人が傷つきそれを見た時どっちにしろ同情するとなる。それは宗教と関係ないのでそこに苦しみ傷ついた人があれば宗教と関係なく哀れと思い助けるということにことが人権なのである

●宗教の争いの背後に必ず利権争いがある

宗教は関わると例えば日本民族は優れていて天皇陛下は現人神だとかして他民族でも殺していいとかなる。つまりそこでも宗教がかかわるとナショナリズムとなり多民族を殺していいとなってしまう。
でももし人権主義だったらヒューマニズムなら宗教と関係なく他者が苦しみ傷つきそのときは助ける哀れと思い助けるべきだとなる。
だから宗教というのはカルト宗教でもそうだがとにかく自分たちは神仏に守られているとか助けられるとかなってそれがエキセントリックになり争いともなる。
そして土地を持つということはまた権力を持つということにもなる。何か宗教の争いのようにみえてて実際は権力を持つと宗教は必ず争いになる。例えばイギリスのアイルランドでカトリックとプロテスタントは争っていた。でもその原因が宗教の相違というよりカトリック系の人たちが有力な地位に就いているとか経済的に有利だとかってそれが争いの原因にもなっていたのである。そういうことも宗教には多い。

日本でも創価学会の公明党はなぜ国土交通大臣になっているのか?それは枢要な権力なのである。当然それに不満な人たちが出てくる。それは宗教に反対しているというのではなくなぜ得しているのかということだけである。人間はなんでも損得で考えるしそれが一番わかりやすいからである。それでもし宗教で得するとなればご利益があるとなればその宗教に属することにもなる。

だからこそ創価などはその目的は政権奪取であり日本を権力をもち支配することである。そこにまた宗教が関わってくるとややこしいことになるのである。つまり土地から離れて人間がありえないように人間は権力から離れてありえないともなる。もし宗教でも自分たちのにとって利益があり有利だとなればそっち側につくことになる。
つまり宗教にとって何らか権力を持つということは問題なのである。だからこそキリストでも釈迦でも無権力であり食べるものすらなく乞食して与えられたとかなる。それで布教していたとかなる。そこには何の権力もない家すらない食べるものもないそんな状態だからこそ一切権力とは関わらず争いとならないとなる。

だから本当は人間は宗教だったら権力を持つことは危険である。なぜなら人間は宗教というよりその権力に目を付けるからである。その権力を得たいと言うために宗教もあるとなってしまう。そうなっているのは今のカルト宗教である。そこで立派な神殿であれ聖堂であれそういうもので庶民を支配するともなる。だから宗教というのは一つの人民を支配する道具ともなるのである。カルト宗教は宗教を道具にして人民を支配するためにあるからである。

●なぜフランス革命で政教分離になり人権主義になったのか

いずれにしろなぜ宗教フランス革命で宗教は否定されて人権主義になったのかヒューマニズムになった。それはあまりにもカトリックとか宗教の弊害が大きくなったからである。そこで政教分離の法律も生まれた。そういう経過があり宗教は権力と一体化するほど危険なものがないのである。別に何の権力も持たなかった。キリストである釈迦ならそんなことはない。一旦権力を持つときそこに宗教は大きな弊害をもたらすのである。

現実に日本の太平洋戦争でも天皇は神でありその神のために死ぬなら本望だとして日本民族は滅びる瀬戸際でもあったのである。でも私は天皇ではないとして神ではないとして天皇はが宣言したことにより日本民族は生き残ることができたとまでなる。
でも今は人権主義になり国連とかで共同管理するような場所にすべきだと思うのは。ただユダヤ人にしてもシオニズムとかの民族主義が勢力を持つと問題が起きる。もう旧約聖書のように神に逆らう民族は抹殺しろとかなってしまう。それはあくまで旧約聖書時代のものであり今はやはり人権が重んじられることで共通認識を持ち時代である。

エホバは個々人にあらわれるものおであり一国に特別味方したりはしなくなったのである。だから依然として選民思想の宗教であるがある特定の民族とか国とかを関係なくエホバは現れ導くのである。内村鑑三はそのこと言っていた
宗教でも宗派があり対立してそれが利権で争うことになる。その弊害が余りにも大きすぎたからである。だからまたイスラエルでイスラム教徒と戦う十字軍の再現となる。ハマスはそれを狙って攻撃した。それに乗れば世界大戦になるから怖いのである。

●エゼキエル書予言の恐怖

だからイスラエルでも確かにその土地が2000年前に自分たちの土地だったということはわかる。でもそうして土地を持ち国となるときその土地をめぐって熾烈な争いになっているのである。それは個人でも土地を巡る争いというのは熾烈なものになるのである。だからこそイスラエルの国がまた建国したことは意味があるにしても問題だったのである。そこは確かにユダヤ人の聖地でもあるまたキリスト教でもイスラム教の聖地でもある。
宗教でも宗派があり対立してそれが利権で争うことになる。その弊害が余りにも大きすぎたからである。だからまたイスラエルでイスラム教徒と戦う十字軍の再現となる。ハマスはそれを狙って攻撃した。それに乗れば世界大戦になるから怖いのである。

メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしは、あなたに立ち向かう。わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。
ペルシヤとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。
(エゼキエル38章1〜5節)

これを今の世界情勢から見るとはゴグとはロシアのことであり今そこでウクライナと戦争している。またペルシャとはイランのことであり今回のハマスを支援していたとされる。するとこの聖書の予言は今実現されるのかとなる。それも怖い話である。だから2000年後にイスラエルがわユダヤ人国家となることが世界に大きな影響をもたらす。人類滅亡ともなるともなる。だからこそこのイスラエルの問題はいくら日本は離れていても恐怖になるのである。

posted by 天華 at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

秋になり飯館村に行く【秋の風、秋の蝶、実り、秋晴れ、草の花、山津見神社】


秋になり飯館村に行く【秋の風、秋の蝶、実り、秋晴れ、草の花、山津見神社】

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月舘の方へ行く道と迷う

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六本木

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佐須村ーここは実りがないが他ではわずかだが実りがあった

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吾妻嶺の連峰

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山津見神社に行く道にある松^−この松はいい松である


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これは城の原型となっていたのか、城にみえるからである

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家の前畑に老婆や秋の朝
六本木我がまた来たり秋の風
山の上のレストランや秋の蝶
不動なる山を前ににし実りかな

久々に吾妻嶺望む秋晴れや佐須の峠を我が越えてゆく
飯館に一本の松か変わらじや山津見神社へ秋の日行きぬ
この道の家もまれにし遠きかな石一つうもれ秋の暮れゆく
石一つ埋もれてあわれ遠き道我がまた来たらむ草の花咲く
秋の蝶あまた舞うかなこの道の行く人もまれにここはにぎわふ。
飯館の森の深き何鳥や鳴く声聞きて秋になりしも

家の前の畑なら老婆でも庭の延長のようになり仕事ができるとなる。
佐須の峠を久々に超えて吾妻嶺を望む。途中六本の木がある。だから六本木となずける。でも六本木となると東京の六本木をイメージする。ここは全く人もまれにしか通らない道である。
人間はこうしてイメージするとき何か頻繁に情報として入ってくるものをイメージしてしまうのである。

霊山の虹彩館で芋煮を食べ飯館村に向かう。とにかく飯館村は広い。今年は暑くて来れなかった。だからさすの峠を越えて吾妻嶺を見たとき気持ちよかった。
何か飯館村の道の辺に埋もれた石がありそこに草の花が咲いていた。森の中から何鳥なのか鳴く声が聞こえた。
人も石のようにうもれてゆくのかとなる。
それから黄金色に稲穂が実っていた。ただまだ全部ではない。もその実りがあって村も生きるとな。不動の山があり実りがあり人もそこに定着できるのである。ただ飯館村の状態が今どうなっているのかそれが分かりにくいのは飯館村は広すぎるのである。森の中に点々と家がありそこに人が住んでいるのかどうかもよくわからないのである。
立派な家があると見るとそこは電気関係の会社であった。つまりどうしも今の時代農業だけではゆたかになれないのである。ただ賑わっているのは道の駅となっているまあ時間である。そこでは必ずよって休むからである

それにしても栃窪村に熊が出没したのかその注意を呼びかける案内があった。栃窪村で熊が出没したということを今まで聞いたことがない。ただ今日テレビを見たら日本全国で熊が人間の住む場所に出てきている。その数が多いのである。今年の暑さも関係して餌不足で人里に出てきているのである。だからキノコ採りに行って被害にあった人がかなりいる。
だから今年は簡単に森の中とか山の中にはいれないともなるかもしれない。ただこの辺ではめったに熊が出るということはない。でも餌不足でやはり熊が出てきているのだと思う熊
とにかく久しぶりに運動して自転車で運動して気持ちよかった

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栃窪村に熊がでたというのは初めてである。もともとこの辺は熊が出ない場所である

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大倉から佐須村へ行くは橋ができたが車は依然として通れない




2023年10月11日

相馬市と元の南相馬市の原町の相違 【人間の営みと共に自然が映えるのが文化ー原発事故で営みが失われた町に村】


相馬市と元の南相馬市の原町の相違

【人間の営みと共に自然が映えるのが文化ー原発事故で営みが失われた町に村】

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相馬市は城下町 by bing image creator

水墨画が似合っている

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街中にとりどりの花や原町に賑わいのあり秋となり

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●南相馬市原町区は明治に鉄道の機関区となり発展した

地域でも福島県という大きい県の単位の広さの地域もある。でも狭い範囲でも例えば相馬藩内でも城下町だった相馬市と前の原町市とは雰囲気も違っていた。それはなぜなのか。それは外から来た人には分からない。相馬市に行くと何かしんみりとした感じになる。市庁舎とか入母屋風にして何か古風な感じになる街町全体の雰囲気が元の原町とは違っている。
原町がなぜ相馬市と違ったものになったのか。それは明治維新を原町は駅前通りから発展したからである。原町機関区と同じようにそこから森林鉄道が発展して木材とか石材とか資源を東京に貨物列車で送るようになったからである。
いわき市は元は平市であり常磐鍛錬で有名なように石炭を東京にやはり貨物列車で運ぶようになった。
だから相当に鉄道が街づくりに影響していたのである。

鉄道はそもそも北海道でもそうだが各地に石炭を運ぶものとして作られた。人を運ぶより物を運ぶことを鉄道はから始まったのである。鉄道は乗客として乗る時相当に贅沢なものだったらしい。運賃が高かったからである。だからそんなに乗客としては利用されていなかった。何か母に聞いた話では原町から昔の中村市今の相馬市まで行くに運賃が高くて簡単に行けなかったと聞いた。つまりその頃鉄道で旅はできたとしても金持ちしか利用していなかったかもしれない。
子供の時長い貨物列車を近くで見ていた。その頃はまだ鉄道で荷物を運ぶことが多かったのである。六号線にしてもまだできていらなかったからである。
そしてなぜ原町と相馬の相馬市の街の作りが違っているのか。相馬市は元は中村であり駅前通りというのは作られなかった。
城下町であり碁盤の目のように細い路地が作られていたのである。だから原町とは街の作りも違っていたのである。

●原町は原っぱだった

原町という名のようにもともとは街になっているところは原っぱだったのである。雲雀が原の原があるようにそこは野馬追の訓練所だったのである。それで原町村があり騎馬武者一騎が野馬追に出ている。村としても小さな村だったのである。原町が発展したのは明治以降鉄道は通るようになってからである。
だから城下町であった相馬市と元の南相馬の原町市は雰囲気が違っているのである。ただこれは外から来た人にわかりにくい。確かに相馬市は城下町でも城もないし外から来た人にわかりにくい。
でも長年住んでいれば相馬市と元の原町市は雰囲気は相当に違っている。それでその街の特徴を考えた時原町市という名を合併で消したことは失敗だったかもしれない。相馬市というのはここはもともと相馬氏が支配した場所だから合っているとなる。
でも原町市は何か南相馬市としたことが一見良いように見えてやはり街の特徴を考えた時その名前と合っていないのである。なぜなら明治以降を考えた時原町市は相馬市より原町機関区となり街が作られたからである。

それは今でもその影響は明らかにある。原町市に元の原町市に行くと何か相馬市と違って近代的というか街のにぎわいがある。それで不思議なのは例えば六号線沿いの写真を撮ったがそこにとりどりの花が咲いていた。それが原町に似合っていたのである。また原町の道の駅も賑わっていた。相馬市の道の駅は田んぼの中にあり人もあまり人が入らないのである。
だから原町市は街として活気があり生きているという感覚になる。確かに駅前通りは廃れて賑わいは消えたとなる。どちらかというと六号線沿いが活気がある。それは車社会が影響してそうなったのである。またイオンは町より外れたところにあるがそこで自転車を修理してもらった。鹿島区は自転車屋が一軒もなくなったからである。
だからイオンも街に欠かせないものとなっている。ただ相馬市ではイオンが撤退してそれがかなり影響している。いつもあそこで休んでいたからそれができないので困る。イオンはなくなったことで町全体がさびれた感じになったのである。

また中村喫茶店もまくなった。それはレンガ造りで古風な感じがして城下町に似合っていたのである。何か相馬市に合っているのは例えば茶室などを作ってそこで安らぐというのが似合っている。
やはりその街の特徴を活かす時歴史的なものは欠かせないのである。相馬焼の茶碗で茶室でもてなすという時城下町の雰囲気を味わうことができるのである。でも相馬藩は6万石でありそうした伝統的なものが必ずしも残ってはいない。
ただなぜ相馬野馬追があるのかというとそれは今の街とはそれほど関係しない。相馬藩内の村から郷士がいて農業しながら侍だった家から出るのがほとんどである。
会津あたりだとやはり大きな国だから城下町となりそこでは茶の湯も伝わりそういうもてなしができるのである。

●人間の営みがあり自然でも映えることが文化である

とにかくそれぞれの市町村でもその独自の雰囲気がある。飯館村となると森の村であり森に囲まれているから村でもある。夏は涼しく冬は寒いとなる。でも標高が高いからそこが別世界となっているのである。このように相馬藩内でも雰囲気は違ったものになる。ただ飯館村などは別の世界だからわかりやすい。相馬市とか南相馬市の元の原町市とかの区別は分かりにくいと思う。
それで一枚の写真を撮った。そこにいろいろな花が咲いていた秋になり菊もも咲いていたがひまわりも咲いていた。だから何か元の原町市にふさわしいと見た。
つまり花でも自然そのものというのではなく人間の営みがあり街が形成されてそれが花でも調和して見る。原町のいい点は新田川がありそれは浅瀬の川であり瀬音ゆかしきとか仙台の青葉上恋歌のようになる。浅瀬だから常に瀬音がせせらいで流れているからである。そしてその川が街のはずれで街中を流れている感じにもなる。だから街の特徴を作るのは街自体だけではなく自然も一体となって作られているのである。

それでこの辺で原発事故で南相馬市でわは小高区とかが避難区域になりそこに行ってみると車さえたまにしか通らない。だから街自体が死んだようにも感じるのである。確かに車が通らないから静かでいいともなるが空き家が多いし何か街が生きていないのである。
するとやはりそこに花も映えないということもある。つまり自然ですら人の営みと関連して生きるということがある。ただ高山植物とかは人は関わらず咲いているから美しいとなる。でもまた人間の営みがありそれで自然でも花でも生きるということがある。自然でもやはり人間がかかわりそこに文化が生まれる。それで京都とかは魅力あるものとなっているのである。
仙台市でも広瀬川がありまだ盛岡市でも二つの川が流れていて岩手山が間近にそびえるから外国人に人気があるというのもわかる。東京には全く自然というのが感じられない。でも江戸時代にはベネチアのように縦横にに水路があって舟が行き来していたのである。。だから江戸の町は魅力あるものであった。

やはり人の営みまた生業があり自然と調和しているときそこに美が生まれる。それで橲原村とかで村総出で田植えしていたとき時そこに赤々とつつじが映えていた。それは人の営みと自然が調和して美しい光景となっていたのである。だから農村の風景でも早乙女が田植えのとき華やかに見えたのである。浪江町の請戸の早乙女の田植え踊りは有名である。
そのとき村でも活きていたのである。それが津波原発事故以後寂れてしまった。その時代時代の雰囲気がある。でもこの辺の変化はあまりにも変化が大きすぎたのである。ただここだけではない昔からあった村でも人口減少で維持できなくなっちる。要するに景観でも人為的景観がありそれは人間の手が加わったものでありそれが文化なのである。そもそも農業とはそうした文化だったのである。だからcultureと土をcultivate【耕す】となっていたのである

ラテン語耕地耕すこと」の (agri‐ 「土地耕地」+cultūra 「耕作」); cf.culture

こうして歴史とかふりかえると南相馬市と合併したけど何か街の特徴でも無視して名付けた。ただ相馬藩が一つであるから歴史を考慮したものだけど明治以降の歴史をふりかえるとやはりそぐわないともなる。つまり相馬市が中心になる。でも今の中心地は原町なのである。南相馬市となると相馬市に付随したものに感じるからである。
posted by 天華 at 18:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2023年10月10日

日本の地理は山が多くわかりにくい 【廃藩置県で地形とか無視して県単位では地理はわからない―東海道の旅の詩】

日本の地理は山が多くわかりにくい

【廃藩置県で地形とか無視して県単位では地理はわからない―東海道の旅の詩】


●海に囲まれていても海に面しない県

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海に面していない県

世界を空間と時間軸で見る。空間軸は人間の時間感覚ででは変わらない。でも空間軸にしても例えば日本であっても地理というのは分かりにくい。おそらく日本の地理が分かりにくいのは山が多いからである。

白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ 敵守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴の部を 班ち遣はし 山彦の 答へむ極み たにぐくの さ渡る極み 国形を 見したまひて

万葉集 第6巻 971番歌/

五百重山【いほいやま】 越えて国形を見るとなる

だから不思議なのは意外と海に面している県はこれだけであり少ないと思った。これだけ山が多いのだからもっと海に面してない県が多いと思った。ただそれは県単位で見ているからである
なぜなら福島県はハマナカアイズと分かれている。でも会津になると山に囲まれていて海は見えない。福島市とか郡山市のある中通りでも山は見えないのである。だから県単位で見ると誤解が生じる。海に面してない海が見えない地域は日本では多いのである。

確かに福島県では私の住んでいる浜道りでもいつも海に面している。海を見ている。だからこうしていつも海を見ている地域と海を見えない山を見ている地域とは相当に心境的にも変わってくる。また海に面していても太平洋側と日本海側はまるで違った感覚になる。それが心に相当に影響している。
海にに面していれば広い海を見ていれば心も開放的になる。でも山に閉ざされていれば何か心も閉ざされた感じになる。でも日本は確かに海に囲まれているがまた山にも囲まれているのである。だから国のまほろばというときそこは奈良盆地であり山に囲まれた平地なのである。そういう地域もまだ多いのである。

大和は 国のまほろばたたなづく 青がき山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し       古事記・中巻 倭建命

日本はこういう地形が多いのである。

●地理は錯覚することが多い

何か地理というとき必ず錯覚している。なぜこの辺で老人の施設に入っている人が青森に移されたというとき青森というときこれも地理的に東北の端でありそんな遠くに移されたことはなかなか行けないから面倒だと思った。
でも実際は青森でも八戸であり新幹線では2時間くらいである。でも2時間だと仙台から東京までは行かないとしても30分くらいの差で200キロくらいありそれなりに遠いと思った。
でも八戸というとき何か青森という感覚が持てなかった。青森というとき弘前市に城があった所としてイメージする。青森市でも海に面して函館に近いと見る。
だからそもそも県単位で見ることは間違っている。県単位になったのは明治以降であり馴染みがないからである。そこには無理があったからである。

福島県が明治になったとき会津県、二本松県、磐城県になる案があった。これは今のハマナカアイズである。。そして浜通りになると阿武隈山脈にさいぎられて中通りの福島市の吾妻山は見えないのである。だから福島県でも地理的一体感は無いのである。それはそもそも明治以降の廃藩置県で地理的にも歴史的にも無理があったからである。
ただ福島県と茨城県は地理的に分かれている。茨城県は平地が多いのである。でも福島県に入ると山が多いのである。茨城県はもともと関東平野の中に入っているからみちのくに入る白河の関を越えると山が多いということである。だから地理的にわかりやすい。

でも多くの県境でもそこが地形的に境界となっているわけではないのである。ただ東西を見るとき関ヶ原が地理的にも風土的にも分かれ目になっていることは分かる。関ヶ原には春でもなお雪が残っているからである。そして近江に出ると風景も穏やかで春らしくなっているのである。
明確に風土的にも地理的にも境となるところが認識できないのも多い。宮城県と山形県は面白山トンネルを境に風土も景色も違ってくる。春でも面白山トンネルを抜けると山は雪におおわれて雪が残っているからである。ただこうして県の単位でその境が認識されるのはなかなかない。宮城県と岩手県の境はどこなのか。一ノ関は岩手県でありでも平泉になるとでもその境はよくわからない。ただ平泉は一ノ関から近い。芭蕉は来たのは平泉までのである。その西行でも平泉までは来たのその奥までは行っていないのである。

とにかく日本は山が多くて地理が分かりにくい。群馬県とか栃木県とかは山だらけでありわかりにくい。栃木県だと那須は平野が広がっているからわかりやすい。でも栃木県になると会津から山続きでありどこが境なのかもわかりにくくなるのである。ただ群馬県と栃木県は関東であり関八州であり東京の延長としても見る。でも山が多くて関東平野とも違う。
ただ関東でも江戸から静岡県の方に出るには箱根の山があり箱根は天下の剣となっていた。箱根を超えると東海道になり海沿いに街道は続いている。だから山を越えると日本では別世界が開けるということにもなる。

●東海道の詩

箱根の山は 天下の険
函谷関(かんこくかん)も 物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳え(そびえ) 後に(しりえに)支う(さそう


春の東海道

小田原城前は相模湾
後ろは天下の剣の箱根の山
反りて高く見上げつつ
明日は越えなむ旅路かな

三島の宿の賑わいや草鞋脱ぎ
旅の疲れを共に癒すかな
その先遠しも太平洋に沿い
浪は騒ぎて鴎飛ぶかな

箱根を越えてそ東海道
沖行く船見て春の日や
駿河湾に魚踊り富士の峰仰ぐ
街の家並や道は真直に燕来る

花の盛りや波ひびき
次なる宿を目指すかな
松並木その間に見える富士の峰
春光まぶし海は光りぬ

京に行く人江戸に行く人
飛脚も行き交わる宿や
それぞれの旅や身の上も語り
一時の出会いに別れけるかな

旅は道連れ世は情け
惜しむ分かれや分去
見送り遠く消えゆきぬ
その日は帰らず思い出残る

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この東海道でも静岡県があり愛知県があるとしてもその境がわからないのであ。浜名湖が静岡県であり愛知県ではなかった。そもそも県単位で見ることが難しいからである。
大井川とかはやはり日本でも境として意識しやすい。特に川留めとかあるとそこが境と意識する。

ともかく日本全国を旅したから最初は地名に興味を持ち地理に興味を持った。学校の勉強では何か特別興味を持ったこともなく暗記と試験勉強で勉強きらいになった。でも人間は必ずこの世に生きればその人なりに興味を持つことがある。一番興味を持ちやすいのは地理である。旅に憧れるのはやはりあまりにも見慣れた故郷ではなくさまざまな地球の景観を見たいとなるからである。

それで私は学校の勉強では興味を持つものもなくその後の仕事もまともな会社に就職はせず流れ作業とこばかりさせられたから仕事が嫌になり家族に恵まれてただ旅をするようになりそれが仕事にもなったのである。ただそれは特別恵まれたことでありほかの人は20代でまともな職に就かなければそのまま何も身に着かないとなってしまうのである。
そして時間の過ぎるのが早い。何かぶらぶらしているだけでも時間は過ぎてしまうのである。でも旅したことによりそれが記憶として残されているからこうして回想して書いているのである


東海道春の俳句二十句
(歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)






2023年10月09日

秋からすぐ冬になるのか (花でも野菜でも果物でも普通と違うー白百合、木槿、ノウゼンカズラ 水澄む)


秋からすぐ冬になるのか

(花でも野菜でも果物でも普通と違うー白百合、木槿、ノウゼンカズラ 水澄む)

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新田川は浅瀬の川である、真野川は大きから深く流れるところがある。
宇多川は狭い川であり魅力がないが上流の山の方にゆくと何か荒々し川になっている、川の表情もみんな違っている

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原町の道の駅でダンスをしていた、あだたらとかあさかのとかありあさかのは郡山市でありあだたらは二本松である
福島県が合同した踊りだった

鮮明に見るにはクリック拡大!


料理する厨の窓に秋の蝶

農家なれ前畑広く蔵に柿

石の倉芙蓉にオクラ畑に咲く

新田川水澄み流れせせらぎぬ

蔵に柿バス停残り夕暮れぬ


白百合の我に向かいて咲きにしをそのあと添える花のとりどり

遅く咲く白き木槿や雨しとと10月となり寒くなりしも

ノウゼンの夏の名残りと咲きにしをようやく散りぬ10月になり

雨しとと石を濡らしてようやくに秋となれるや家にこもりぬ

今年の暑さは異常だった。その影響は米でも野菜でも花でもあった。陽射しが強くこの辺では米でも普通に実っていたから影響ないと思ったが実際は直射日光が強くて影響があった。
野菜でも水分不足で硬くなっているという。みずみずしさがないということである。それは農家育ちの女性が指摘した。そういうことにやはり敏感なのである。。
庭の白いムクゲがなぜ10月になって満開になっているのだろうか。そして今日しとしとと雨にぬれている。
この木槿は8月のお盆の頃にさく。その前にも咲き始めている今満開になっている。二ヶ月も遅れて咲いたとなる。それもなんなのだろうと思う。あまりに暑くて季節がずれてしまったのだろうか。またいつもの季節より早い時期に咲いた花があるかもしれない。何か花でも咲く時期が狂ってしまったとなる。

蝉の鳴く声を聞く期間も短かった。だから秋の蝉も聞いたとしてもたちまち聞こえなくなった。そして秋バテにもなり体も異常化した人も多い。 2日前は秋時雨を感じたというのもまた季節の異常である。秋時雨は10月末であり11月になると冬になり時雨になる。何かこうして季節感覚が狂ってしまったのである。だから季語というのがあわなくなったのである。
そして今日起きた伊豆諸島へなどの津波警報も地震もないのに津波が来たのである。そういうこともあまり聞かなかった経験もしていない。学者も分からないという。推測で海底火山が爆発してそれで津波が起こったのではないかとしている。ただこのように自然現象というのは多様であり実際はあらゆることはか解明はされていないのである。最近のこの暑さは何なのだろうということも明確には分からない。

でも心配しているのはこの辺で起きた津波地震の前の年の夏はやはりこのように非常に暑かったのである。だから来年になるとその影響が出てくるかもしれない。暑さが影響して地盤が緩んだりするかもしれない。そして地震が起きて津波が起きるかもしれない。地震でもやはり天候とかとも関係しているからである。ただそのメカニズムは解明されていないのである

料理は面倒でできない。その台所の窓から黄色の蝶が飛んで消えたのを見た。狭い庭だが庭があるとないでではやはり違っている。なぜ日本で家庭というのか。家と庭があって家庭となっている。だから庭が一体化しているのである。ただその庭というのは農家の庭広い庭のことでありそこで農作業だどうしたから家と庭が一体化したのだと思う。ただ風流にして庭を利用して庭を見ていたのではないのである。元々は何でも実用的なものから始まっているからである。家の基本は始まりはやはり農業と一体化して作られていたのである。

なぜなら前田とある時その村の中心地になりなるなる。その村の草分けの家が家の前が広い田がありそこが村の中心地になったからである。なぜなら家の前に田畑があれば家と一体化して便利になるからである。遠くに田畑があればそこに行くまで手間になってしまうからである。そのときは昔は車もないのだから歩いて行くほかないし荷物を運ぶにしても手間になるからである。

原町の新田橋を渡った高平にバス停がありそこが自動販売機が置いてあって人が休む。そこに蔵があり柿が実り金木犀が咲いていた。他にも蔵があればそこは農家だったということがわかる。
でもバスは今も通っているにしても一日二三回くらいしか通らない、それもいつもがら空きなのである。だから無駄にも思えるのである。



津波原発事故の前と以後で時代の雰囲気が変わった 【浜街道の小高の古い道標−プログの記録より】


津波原発事故の前と以後で時代の雰囲気が変わった

【浜街道の小高の古い道標−プログの記録より】

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2010年03月21日
浜街道を行くー小高ー浪江の高瀬川-春の俳句十句


人間は時間軸で見るのは本当に難しい。それがわかったのはこの辺では津波原発事故以後法域が雰囲気はまるで変わってしまったからである。これほどまで変わってしまうのかということが人間社会にあるのかと驚くばかりだった。
それは自分のプログを読んでそう思った。浜街道春に旅した。それは2011年が津波と原発事故が起きた一年前の春のことをここに書いていた。そのときは普通の状態でありそこには変わりない風景があり穏やかな春だった。
その小高の風景でありそこには江戸時代から続いたものがあり変わることのない風景だった。だから特別取り立てて何か感想を書くというものでもなかった。でも津波原発事故以後はありふれた風景でも違ったものになってしまったのである。

空間軸では別に空間が変質したということはないのである。でもその雰囲気は違ったものになってしまったのである。小高は原発の避難区域になり町自体がが寂れてしまった。そこは空家だらけであり住んでいるのは老人がほとんどである。
だから原発避難区域になった小高から浪江双葉大熊とかは全く違った雰囲気になってしまったのである。それはもはや元に戻らない前の雰囲気には戻らないとなってしまった。だからその変化はあまりにも大きなものだったのである。他でも津波の被害を直接受けた漁村も消失した。村ごと消失してそこに住んでいる人はいないのである。

南相馬市でも鹿島区となるとからす烏崎村と海老村とか湊村とかは消失してしまった。
だからそこで昔をしのぶということすらできなくなった。その変化辺かもあまりにも大きいものだったのである。
だから津波原発事故以後はその被害を受けた場所はその前と後でわまるで別な世界になってしまったのである。つまり歴史でも時代を見るとき明治以降と戦争に負けた戦後でではまるで違った世界となったと同じである。

要するに人間社会というのは空間軸と時間軸で生きている。でも空間軸というのは地史的なものになれば実際は何億年の単位でみれば空間軸でも変わっている。大陸が移動したとか海が陸地になったとか山になったとかある。なぜヒマラヤにアンモナイトの化石が発見されるのか。それはそもそもヒマラヤですら海だったからそうなのである。だから空間軸でも地史的に見れば何十億とかの間で見れば変わってしまうのである。

ここにヒマラヤのことを解説

●戦後の変化も大きかった

とにかく戦後の時代を見ても時代の雰囲気というのは変わる。戦後の焼け野原から団塊の世代が始まった。その子供の時を経験したの燃料は炭であり街の中で堀で洗濯していたとかまるで原始的な生活だった。街中では私の家には井戸もないから近くの人の井戸の水をくんで利用させてもらっていたのである。
ただその時子供だからその時代全体の雰囲気というのが大人は感じるものとは違っていた。要するに戦後十数年は極端な貧乏でありそれから高度成長時代がありその時代の雰囲気が変わってきたのである。東京オリンピックはあったとき原町の高校まで通うのが蒸気機関車だったということが今でも信じられないのである。その時すでにかなり鉄道でも変化して電気の時代になっていたと思っていたのである。だからその頃の時代の雰囲気というのは年齢でも感じることが違っていた。

高度成長時代の雰囲気というのは東京オリンピックで象徴されているように日本が急速に経済成長してジャパンアズナンバーワンとか世界を席巻する時代であった。その時代の雰囲気も失われた30年でガラッと変わってしまったのである。何かただそれからは日本の悪いことしか言われない。その変化もまた激しかったのである。そしてすでにまた高度成長時代の雰囲気というのも30年も過ぎれば分からなくなってしまうのである。

●時代の雰囲気とかはわからなくなる

だから時間軸で見る時人間社会は時代時代の雰囲気というのはわからなくなる。ましてや江戸時代でも300年続いたとしても例えば元禄時代がありそれは新田開発が各地で行われ経済発展して華やかな時代であった。でもそれをイメージすることはなかなか難しい。元禄時代に文化が花開いたというとき場所はみちのくの旅に出た。それで不朽のの奥の細道を残したのである。

そして芸術というのも必ずその時代を反映したものでありその時代を見ないと芸術も分からないという。でもその時代を見るというのは本当に難しいのであ。それはこの辺で起きた津波原発事故でわかる。この時代に生きたものでそれを経験した人と経験してない人の差はまた大きくなる。その時代の雰囲気というのはわからなくなる。
だからプログを記録するとき後で役に立つことがある。それは時間軸で見れるからである。だから私自身のブログを自分で読み振り返るときそんな感覚で見ていたのかということがわかる。

津波原発事故の前の一年前のことをここに書いていたがやはりそのときは平和な時だった。その感覚も春の日のことでありこの辺は江戸時代からでもその前からでも変わらない風景であった。それが津波原発事故以後避難区域になったところは小高でもまるで違った雰囲気になっている。これほどに変わるものかと驚くばかりである。何か日常的当たり前の風景が消失してしまったのである。だから時代の時代が変わるというときこの辺でわ津波原発事故の前とそれ以後とわでわ全く違ったものとなってしまった。

確かに空間軸で見れば浜街道でも残ってるしそれは変わらないとしても雰囲気というのはまるで変わってしまった。どうしても寂れた淋しいものとなってその雰囲気がまるで違ったものとなったのである。なぜならここで道標のことを書いているがそういうものでもその先に行けば人も住まない空家が残りもともとあった家もなくなっている。だから原発避難区域でわどうしてもそこが雰囲気が変わってしまったのである。

●戻らなくなった津波原発事故前の雰囲気

それはもう取り戻せないものとなっている。町自体が一時は空き家化して廃墟化したからである。ただその隣の原町とかでは別に変わらないのである。その差もまた大きかったのである。別に南相馬の原町とか鹿島とか相馬市か昔の街道を行けば変わらないものがある。でも津波の被害を受けた所はは村自体が消失してしまったからその変化は大きかった。
でも田んぼは元のように回復したでが津波の被害があった所では農家でも村でも消失したのである。その変化の大きかったのは津波だけだったらそれほど出なかった。原発事故があり避難区域となったことが大きく影響したのである。

津波原発事故前の一年前のようにここ書いた昔の街道を浜街を旅してもこんな感覚にはならないからである。
ということでこの時春の日に旅したことの記録が貴重なものとなったのである。今同じ碑がは小高にある。でもその同じ碑を見て旅しても感覚的には全く違ったものになったのである。
何か荒涼とした感じでありその雰囲気はまるで変わってしまったのである。だから時代が変わるということはこういうことである。何かありふれた風景でも全然違った。風景となってしまったのである。そして深刻なのは決して元の風景に戻らないということである。もちろんこれから時代がまた変わりその雰囲気も違ってくるかもしれない。でも今のところそういう感じはないのである。だから時代を分ける時この辺でわ津波原発事故とその前とその以後では変化が激しく別の世界になってしまったのである
posted by 天華 at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年10月07日

認知症の介護の問題 【脳の障害で心と関係しているから難しいーでも人間として通じ合える】

認知症の介護の問題

【脳の障害で心と関係しているから難しいーでも人間として通じ合える】

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現役医師ですがハッキリ言わせて頂きます。認知症の介護は危険です。理由を説明します。
ドクターハッシー/内科医 橋本将吉

説明がうまい、わかりやすいから人気になる


●認知症の人の脳を解剖してわかるのか

認知症の謎は脳が関係していることでそれが心とも関係してくる。心の関係はどうなっているのかとなる。つまり脳はは医学的に物体として見る。でも心はそうして物体として細胞の塊として解明できるのかとなる。でも説明を聞けばやはり脳は細胞からとか神経とか血流とか目に見えるものの中に働き医学としてはそこで解剖する。
でも脳というのはそうして医学的にとか物理的にとか科学的にとか理系として分析する。でも一方で心を問題にすればそれは文系的なものになる。だからこの認知症というのは脳の物質的というか機能的というか細胞というかそういう目に見えるものを解剖して解明しようとしている。

そしてここで説明しているのは感情というのも目に見えるものとして細胞の働きで感情が出てくる。感情が解剖的に説明できるのかとなるとなかなかわかりにくい。でもそれも神経細胞と関係して感情が生まれてくると説明している。
認知症はさまざまな障害が出てくる。一番の障害は記憶障害である。記憶できなくなることで忘れることでそれが単にここにあったものがなくなったとか忘れるというだけで終わらない。
忘れることが感情を司る場所に影響して怒りやすくなる。極端になると怒るだけだけでなく暴力になるのである。それが認知症を介護するときに怖いのである。何か日頃から感情的にでもよく思ってない人は特に攻撃されやすい。それで私の家族でも一緒にいられなくなったのである

●好意を持つ人は介護できる

だから感情的には好意を持っていた私が介護したのである。私には常に良い感情を持っていたから私を攻撃することはなかったからである。
だから他人が介護するときその介護する人に好感を持って居ないと攻撃されやすいのである。それで認知症の介護は難しいものとなる。そもそも好感を持つにしてもやはりそこに長い付き合いがないと簡単にはいい関係は生まれない。
私は60年間とか子供の時から生まれた時から一緒に暮らしていたからそこで親密になっていて攻撃されることはなかったのである。私のことは特別かわいがりそれは60歳までもそうだったからである。そういう関係であればいくら認知症が重いとしても暴力は振るわれない。
だから認知症と介護はこうして好感を持った人がすればその認知症の人は症状が穏やかになるのである。でも普通の人はそうした親密な好感を持ってる人ではないから介護することが難しくなるのである。

●脳と心は関係していて解明することがむずかしい

そもそも認知症の難しいのは脳と心の関係はどうなっているのか。それが解明できないし不可解になるのである。ただ確かに記憶障害ということが脳全体に影響して認知症になることは確かである。記憶する場の海馬は損傷してそれが脳全体に影響して脳の機能が正常に働く働かなくなるのである。
そもそも精神障害者というのは何なのかわかりにくい。発達障害の人とちょっと話してみたが確かに計算とかできない漢字も苦手である。ということは漢字でも数字の計算でも抽象的なことでありそれは高度な脳の働きが必要だからである。それができなくなるということはやはりかなりの知性の障害だとなる。でも認知症というのはこうして人格障害者となり精神障害者となりまったくの別人になってしまったのかというとそうでもない。

これまで60年も一緒に暮らしていて人間として通じるものは。相手を親切にしてよくすればそれは通じるのである。動物ですら犬猫でも親切にして可愛がればそれがわかるのである。ただいま外で飼っている猫はいくら餌をやってもなつかない。ちょっと近くに寄ったりするが警戒したままであり懐くことはない。
だから私は餌をやるのは嫌になってしまっている。かわいいところもないからである。なぜその猫はなつかなくなったのか。それはおそらく人間にいじめられて人間を極度に警戒するようになったからかもしれない。ただその理由はよくわからない。その猫は人になつくということはないだろう。そういう機会をなくしてしまったのかもしれない

●愛情は動物にも通じるから認知症の人にも通じる

とにかく認知症というのは記憶障害から波及してさまざまな障害が出てくる。でも動物と比べるのは変だけども親切にしたり愛情をかけたりしたりする人のことはよく思っている。そして実際に愛情を持って接していることは分かっている。
その愛情というのは動物でも通じるのだから別に認知症になっても通じるのである。ただいくら長く一緒に住んでいてもその人を嫌いだとか不快な感情を持っていると60年一緒にいた人でも一緒にいられなくなったのである。嫁と姑の関係と似ていたからである。夫婦でも離婚する人は1/3とか多い。子供を育て子供を成長させるまでは我慢するとかして一緒に居る。

でも子供が成長すると本音が出てきて一緒にいたくないとなり熟年離婚にもなる。その数も多い。また死後離婚にもなり一緒に同じ墓に入りたくないともなっている。そういう人だととても認知症の介護はできないかもしれない。つまり感情的に好き嫌いがはっきりあらわれるから極端になると感情が抑えていたのが抑えられなくなり暴力となってしまう。私はそれを見てきたから夫婦でもやはりそれまでの関係はどうであったかとかで認知症の介護になると難しいとなる。

認知症の謎は時々正気になることである。特に死ぬときは正気になる。だから冷たく扱うと恨んでで死ぬことになる。そのことが怖いことになる。私の場合は特別よくされたからそうなったら後悔したことになる。最後は自分のことを介護したことを分かっていて感謝して死んでいったので救われたのである。それは死後も影響してくる。供養するにしてももし恨んで死んで行ったら死んだ人はその人をどう思うかとなる。

別にそれは認知症の介護だけではなく介護そのものでもっ死んでからも影響するから介護というのは難しいのである。
ただ正直私の場合は認知症の介護でも二年半で終わったから助かったのである。介護というのは認知症でも十年とかでも続くことがある。そうなるとどんなに愛していても限界がくることは確かである。私は別におしめなどはしていないし二年間は一緒にいても身体的介護は何もしていない。近くで母親のおしめをするとき暴れられて殺した息子がいたからである。

●認知症は感情が抑えられない、本心があからさまに現れる

でもこの病気について不可解なことが多くて何かわからなかった。特に脳の病気でありそれが心とも関係しているから複雑であり不可解になったのである。
でも認知症は生まれつきの精神障害者とは違っている。人間として普通に生きてきたのだからやはりいろいろなことを分かっているのである。ただ記憶障害とかからいろいろな障害は出てくる。でも人間として全くわからなくなったというのでもないのである。それが誤解しやすいのである。だから認知症というのは直接解介護してみないと理解できない。それは医者にしてもわからないからである。

確かに脳の細胞とか神経とかアミロイドが溜まっているとかなんとかいろいろある。でも介護するときはそれを説明されても役に立たないと思う。それは脳と関係して心とも関係してくるからそうな。そもそも人間の心と何なのかなのかとなってしまう。いくら脳の機能を見ても細胞を見てもで人間の心はどうして作られるのかそれも脳をいくら見てもわからないとなる。でも神は人間の心を見ることができる。

なぜなら神は人間の心を見て判断きるとなっているからである。それは脳の細胞とか神経とか血流とかを見るのではない。では一体どうして人間の心を見ることができるのかとなる。人間の心にはさまざまな要素がありあの人は性格的に悪いとかあの人の心は歪んでるとか人を妬んだり人を憎んだりそういう感情的なものはある。だから人間は必ずしも外見だけでもわからない。でも神は人の心を見るというとき心の清い者は神を見るだろうという時確かに神は心が見えるのである。心の清い人は神をみるだろうというときそうである。だから人間は脳というのはどうして心を作っているのか不可解なのである。

認知症の人でも確かに記憶障害がありさまざまな障害があってもやはり人間としての心を持っていてそれが相手にも通じる。優しく愛情を持って接する人は好感を持ちそうでない人は好感を持たないから介護できないともなる。夫婦でも好感を持てなくても愛していなくてもいやでも我慢して一緒に居ることができる。
でも必ず本音が出てきて我慢できなくなって熟年離婚にもなるのである。つまり本心というのは本音というのは隠すことはできない。いつか必ずその本音をあらわれあれる。だから地獄というとき人間の本音が隠せなく露わになった場所である。憎んで我慢したりしていたがそれがあからさまに地獄で現れて暴力となり殺し合いにまでにもなる。つまりそうした感情でも抑えることができなくてそうなってくる。それが地獄だとなる。

例えば社会でも権力を持っている人にわ嫌でも従う。でも地獄では従うことなくその権力者に従わない。そして襲うことにもなる。なぜそうしなかったかというと相手が権力を持っているから従っただけでありいつかはその権力はなくなったりすれば相手を責めてくるのである。だから地獄とは人間の本心が現れている場所であれ憎しみでも露わになり隠すこともなく現れて殺し合いにまでもなってそれが地獄である。
だからこの世で権力を持って支配して従わせていた人復讐されるかもしれない。つまり立場が逆転するのである。

ともかく認知症の介護は至難である。それはただ人間の臓器の病気ではなく脳の病気である心の病気でもあるからだ。でも心は何かとなると人間には解明できない。それは神のみぞ知るとなってしまう。だから医学だけでは科学だけでも解明できないのである。そこに理系と文系の問題があるともなる。
心理学なども関係してくる。それは臓器だけの問題ではないし脳と心が関係しているから難しくなるのである
だから認知症の薬ができたというはそれで認知症が治るのかどうかはわからない。ただ認知症についても研究されてやはり薬はできてくる。でも問題はそれだけで認知症が治るのかどうかはわからないのである。それがそもそも脳というのは心と関係していて解明されていないからである






歴史は失敗の記録 【個々人の人生も失敗の記録カルマは繰り返す】


歴史は失敗の記録

【個々人の人生も失敗の記録カルマは繰り返す】

●聖書も神話も今も通用するのはなぜなのか

人間の歴史を振り返れば失敗の記録である。聖書でもそもそもが神が食べるなと言った知恵の実を食べた結果として人間は神から離れたものとなってしまった。そのことが最大の失敗でありその失敗したアダムの子孫が人間でありそれが変わることないからやはり同じ失敗を繰り返す。人間の失敗というときそれは神話の時代から続いている。

プロメテウスはゼウスから火を盗んだという時もそうである。その罰は過酷だった。その神話は現代にも通じていた。その火とは原子爆弾ともなり原発事故にもなったのである。
人間の失敗の淵源はそこにありそれは消えることなくカルマとなり継続されているのである。だから人間の科学技術でもそれは必ずしも成功するものではなく失敗することもある。
原発原子爆弾でもそうであり原発でもそうである。それはどれだけの災いをもたらしたかだからこそ火を盗んだプロメテウスの罰は過酷だったのである。科学技術でも遺伝子組み換えなども相当に危険なものかもしれない。何か神の領域に人が勝手にはいり操作する。そこで大きな禍が起きてくるかもしれない。
それは人間の知恵は万能ではないからである。核のことでも全部わかっていなかったからである。処理水にしてもそれを海に大量に流してどうなるのかわからないと言う。安全だと言っても結果をみないとわからないとなる。

失敗というときなぜ繰り返すのか。それは人間に欲がありその欲が消えないからそれがカルマとなって同じことが繰り返されるのである。人間から様々な欲が消えることは無い。だから具体的にわかりやすいのは女性に対する欲でありそれでも失敗する。その誘惑に負けて失敗するのである。
聖書では女性に誑かされて怪力のサムスンが力を失ってしまった。ダビデは王となり部下の妻を魅力に負けてその夫を戦場に出して死なせてその妻を自分のものにした。聖書でもやはり失敗の記録なのである。日本でわ久米仙人が女性の脛を見て天から落下したというのもそうである。つまりそこで神通力を失ったのである

まず世界史でも日本史でも人間の失敗の記録は歴史である。その失敗を繰り返すのはなぜかとなれば追求していけばそれが常に教訓となる。つまり歴史とは人生でも失敗の記録でありその失敗から教訓が生まれ庶民でも諺は生まれたのである。
そしてなぜそれが今でも通用しているのかとなれば人間自体の欲は消えないし人間はやはり神が食べるなと言った知恵の実を食べたということで原罪になっている。そのとき人間は神から離れてしまったのである。そして人間の力で神のようになる事を望んだのである。そのことからして必ず人間は失敗するようになる。もし神の御意にかなうように生きれば失敗は無いのである。

●人間の欲は消えずカルマとなり失敗を繰り返す

歴史とは人間の失敗の記録とすれば個々のの人生もまたほとんど例外がなく失敗の記録である。それはなぜなのか。そもそも人間の欲は消えないしいくら科学技術が発達しても人間自体は知恵の実を食べて自らが神のようになったというときそのことからして常に人間は失敗するようにできているのである。

そして人間社会というのはいくら科学技術が進んでもまた社会が変わってもなぜ理想社会ができないのか。それは人間自体が変わることがないからである。共産主義がで理想の社会ができるとか熱狂したがその結果は独裁者が生まれ何千万人なのか粛清されて殺されたとか言われる。カンボジアでは200万人が粛清されて骸骨の山の博物館となっている。つまり人間は社会自体を変えることは永遠にできない。そもそもは人間自体が変わらないからである。その欲は消えることはないし共産主義でも内部で権力争いがありそこで粛清されて殺される人が必ず出てくる。

それは何かカルト宗教団体とも似ている。共通しているのは人間の組織化でありその組織で序列化をする。幹部でもその組織は軍隊組織であり一人の独裁者が教祖でもナチスのようになり命令する。それが殺人でも組織化されて正当化される。それがオウムでもあった。そこには優秀な理系の大学を出た人たちがいて高校しか出てない人が上に上がりたくて積極的にサリンを撒いたと言っていた。その内部でも地位を上げるための権力闘争が行われていたのである。それは宗教団体でも宗教だから関係ないとみているが集団化組織化した宗教は共通しているのである。
一人の教祖が神のように崇められ偶像化してその大多数の人が組織化して序列化して軍隊組織になる。それは創価でも参謀とか隊長とか完全な軍隊組織なのである。だから教祖が神のようになり偶像となり絶対化してナチスのように他者を簡単に殺せと言えばその命令に従うのである。そこにカルト宗教でも共産主義者でも恐ろしいものがある。

また個々人でもなぜ人生が失敗であり後悔に終わるのか。例えば若気の至りとか必ずある。若い時のエネルギーが爆発してそれが過ちとなる。そういうこともカルマとして繰り返されているのである。そして人生を振り返り後悔することになる。
そして私も失敗した。私自身もは天才でもない、だから自由に生きたのはいいとしても社会から外れて生きることは難易度が高いのである。なにかおかしな方向に行ってしまいやすいのである。そして小人閑居して不善を成すと必ずなる。やはり一方で社会性を身に着けないと失敗する。それで親の介護で死ぬほどの苦しみを経験したのである。
とにかく人生で失敗したり後悔しない人は居ない。ダビデのような優れた人でも失敗してその失敗が教訓となっているのは人間の世界である。それは人間が滅亡するまでそのカルマは消えることなく続くのである。戦争でももう戦争など無いと思ったがやはり人間のカルマはおわらない。ウクライナ戦争がありやはり人間の業が戦争を作り出すのである。

●事業に失敗した人ーその動機が優秀であること示すため

なぜその人は事業に失敗したのか。特別誰も取れない資格を持っていた。だから会社でも収入が高く別に事業などしなくてもよかったのである。でもその人は常に優秀だと言われたから事業しても成功すると思っていたのであ。事業を起こした動機が私は優秀だから成功すると信じていたのである。でも会社で技術者として働くのと事業を起こして経営するのとは相当に違っていたのである。

でも動機からして自分の優秀さを示したいからしているというのも問題だった。そんな動機で事業をして失敗したら周りの影響も大きいのである。そして借金して苦しんでいる。そんな人が私が苦しんでいる時来たから最悪であった。頭の中が借金で一杯の人が人を助けることなどできない。だから事業でも簡単に起こすものではない。自分が優秀だとかみんなに見せてやるのだとかで事業を起こしたらそれがどうなるのかそれを考えるべきだった
ただ人間というのは常に他者より比べて優秀だということを争っている。その人は大工さんとして他にも庭仕事とかで優秀なのにそれではそれで満足はしない。だからまた別の事業をしてそれも原発事故などがあり無駄になった。
その人の事業を起こす動機もまたやはり自分が優秀だということ示したいためにそうしたのである。何か学校では優秀だとならず劣等感を持っていた。そのために大工でで優秀なことに満足せずやらなくてもいい事業をしてそれも無駄になったのである。

とにかく人間は自分は他人他者より優秀だということに非常にこだわっているのである。それで私の家族の一人は優秀だったにしても死ぬ間際に俺は優秀だったと言って息を引き取ったのである。それほどまでに優勝だということに拘っていたのである。
それで悲惨だったのはおそらく認知症になってそのことでなんとなく馬鹿になったことを気づいていた。だからこそそういったので俺はバカではないということでそう言って死んだのかもしれない。
ともかくこのように人間は異常に他者と比べて優秀だということを示したいのである。またなぜ組織を作り集団を作り集団になるとき必ず会社でもそうだが上下関係ができて序列化されそれは人間の業でもある。だからこそ人間はカルマ人を繰り返すから同じようなことを歴史の中でも繰り返すことになる。

●出世の意味

だからこそ聖書でもギリシャ神話でもほかの神話であれそれが現代まで通用しているのはまさに人間の原罪でありそれが消すことができないから継続しているのである。このカルマから脱することは不可能にもなっている。宗教の本来の意味は全く無視されて世間から脱して出世なのに栄誉栄華の地位を得る為に出世するということになったことでもわかるある
カルト宗教などはまさにこの世で出世して栄誉栄華の生活を送りたいというだけである。本来の宗教とは何の関係もない。だからそうした正反対になっている場で組織集団化している中でいられる人はすでに何か全く偽善の中にある。普通のまともな人ならとてもそんな中にいることできないはずである。

でもそれが多数となっているのはやはり繰り返される人間の業がカルマだともなる。
ただ理解しているのは御利益であり得するということでありそれはそれだけは常に誰でも理解する。発達障害の人でも理解している。利に敏いのである。それは直感的に日々の生活の中で計算もできないのに理解しているのである。だからそこでは実際考えることは必要ない。ただ御利益になること得することだを説けば誰でも即座に理解する。考えることもないからあれだけ人が集まるのである。





2023年10月06日

自転車でも個人の経営が難しくなっている (商売も人を助けることだがまず利益が優先される問題)


自転車でも個人の経営が難しくなっている

(商売も人を助けることだがまず利益が優先される問題)

●商店街が廃れた原因

地方の商店街何かで出店するとしたら 
飲食店以外でどんな業種があるんだろうなぁ 
理髪店位しか思い付かんな

なぜ商店街とかがだめになったのか。その一つが車社会になり商店街には駐車場などがないとか買い物に不便になった。
そして商品の種類とかあ増えすぎたのである。私の家は店屋だった。その頃商品の量は種類は少なかった。物がない時代であり物を置けば売れたということがあった。また繁盛した原因が角にあったということである。ただそれだけのことで繁盛したのである。
というのはその頃車など持ってる人いないし歩く範囲で生活していた。だから近隣の人が買い物に来てそれで繁盛していたのである。ただ場所が良かったというだけだったのである。何か私の家の人は商才などなかったからである。
だから必ずしも商売上手だからといって繁盛するということでもない。その時代時代に適応して繁盛する。

なぜその頃袋に入ってるものを売っていない。ばら売りであり袋は母親が新聞紙で一つ一つ作っていたのである。そのことをインドに行ったときバラックのような店でやはり新聞紙のようなもので袋に品物を入れていた。また量り売りでもあり飴玉一つでも売っていた。
とにかく物がないから物を置けば売れたのでそこに何か設備としてかかるものもほとんどなかったのである。その頃子供相手にもものを売っていて子供が多いからまた子供は欲しいものが売れたのである。だからそんな商売は何か特別な商才など必要なかったのである。
何か今になると病気になってやっと歩いている人が近くに店がなくて困っているという。店と言う時はもはや1万の街で二軒のスーパーがあるだけである。そこまでゆくのには歩いてゆくのは病気になって辛いのである。何かその頃は近くに魚屋とか豆腐屋とかあってそれで間に合わせていたのである

●個人商店は成り立たなくなっている

今になると車社会になったり商品の量が増えてとても小売店などは個人の小売店などは成り立たない。だから商店街はすたれてしまった。自転車屋でも町に一軒あった自転車の人が最近死んでなくなった。それで修理してもらうためにイオンに行った。何か個人の自転車屋だと原町で常連客ではないので断られる事があったからだ。それは昔は個人商店ではお得意さんいた。それと同じである。

スーパーになればお得意さんなどはいないのである。コンビニでもそうである。そこでただ人は物を買うというだけになってしまったのである。そしてなぜチェーン店などが増えたかというとたとえば自転車でもチェーン店が増えた。ただこの辺にはそういうものはない。自転車屋のチェーン店だとさまざまな種類の自転車を置いてある。私が買いたい折りたたみの電動自転車も置いてある。自転車の場合どうしても後から修理を頼むことがありか通信販売でわ外国製などいろいろあるのだが買えないのである。なぜなら現実にエンジンになる部分が壊れていたとかありそっくり交換したことがあるからである。それが出来ないから怖くて買えないのである

でもなんとか買おうとしても防犯登録をしなければならないとか面倒なのである。それで近くの自転車屋でもその防犯登録はしてくれなかった。というのはそこで買ったものはサービスするな防犯登録だけはしてくれない。金にならないからである。でもその人はその自転車屋は最近死んでしまったのである。

何かこれ商売というのはただ売って儲けるというだけではない。何か人を助ける人のために働くということが必ずある。だから本当は他で買ったものでも防犯登録でもしてくれるべきだったのである。でも経営が苦しければそうなってしまうのである。
だから一概に責めるわけにはいかない。そして思うに今は小さな個人商店というのが商売できなくなっている。それは自転車屋でも同じなのかもしれない。あまりにも自転車の種類が増えすぎたのである。イオンには自転車の数が少なすぎる。電動自転車も置いてない。扱っていない。電動自転車になると後の修理とかが面倒になる。普通の自転車だったら修理はできるのである。

イオンで自転車が部門があり人が居るのは別にそこで商売にならなくてもイオン全体で商売になればその一部分でも給料を同じように払うことができる。だからどうしても今の時代はそうして大きな会社でないと成り立たなくなっている。そのことは利用する人にとっても困る。サービスを受けられなくなるからである。だから個人商店が自転車屋でも成り立たなくなっているのかもしれない。ただ自転車屋の問題は必ず後で修理することがありそれが最大の問題なのである。
でもこれだけ商品の種類が増えるとき店に飾ってあるのはほんのわずかであり折りたたみ自転車や電動自転車は置いていない。だから現代では個人商店が成り立ちにくいのである。でもイオンでは修理だけでも受け付けている。それができるのはやはりイオンという大きい会社で給料を払っているからできるとなる。

●商売も人を助けるということが基本にある

いずれにしろ何か商売というのは人のためにすることでありやはりサービスを心がける。でもその前に利益を上げなければならないから無料で奉仕するわけにはいかない。そこにジレンマがある。
でも基本的には人を助けるということが商売の根底にもあるということである。ただそれを無料ではできない。それは医者だとか看護師だとかは常に人を直接に助けるという意識を持たないとできない。

でも医者や看護師でも必ずしもやはり商売にならないと金にならないとできない。だから近くの医者でもあなたはいつも来ていないから緊急の時見てもらえず断られたのである。自転車屋でもあなたはいつも来てていないからと修理を断られた人がいるのである、自分も断られたのである。

人を助けるにしてもどうしてもそこに個人商店だと経営が成り立たなくなるからそうなる。でも基本的には人を助けるということが商売の根底にありまたほかの職業でもそういうことがある。
もうし人を助けるということがなければあらゆる職業でも成り立たなくなるかもしれない。無料でしてくれとは言わない。実際防犯登録してくれたらそれなりのお金は払うと言っていた。
だから無料では頼んでいないのである。いずれにしろほとんどの職業でまず利益を上げなければやっていけない。それでこうした問題が起きるのである。でも基本的に根底に人を助けるということがなければ職業も成り立たないかもしれない。でも医者だったら金を払えなかったら医者にもかかることはできないし医者も相手にはしない。それで貧乏な人は金がかかるから医者に行けないとかなっているのである

●イオンとは商売が成り立たないと撤退する

ともかく確かなことは個人商店が成り立ちにくくなっていることなのである。例えば医者でもなぜ目の病気になったとき仙台まで行ているのか。その仙台の眼科は2人の医者がいて専門病院である。だから設備も整っていてそこで手術も前からわざわざ仙台市まで行くのである。
つまり医者でも今は日進月歩であり技術が進んでいるからそういう場に行かないそういう病院に行かないと損だとなってしまうのである。
だから小規模の個人の医院とか商売としては成り立ちにくくなっている。ただ理髪店や美容店などは個人経営で成り立っているのかもしれない。

とにかく商店街が廃れのはやはり時代に合わなくなった。だからどうしてもスーパーとか大きな会社に従属して商売する他なくなる。でも相馬市でイオンが撤退したように商売にならないなるとそうした大きな会社が撤退して街全体が廃れてしまうことにもなる。そうした大きな会社は街のことなどあまり関心がない。だから商売にならなければ簡単に撤退してしまうということである。でもその地域に生きる人は他に移ることもできない。それでその影響が大きいので。相馬市ではいつもイオンに寄っていたから相当に影響したのである


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2023年10月05日

秋時雨(急速に秋になってゆく (自転車の修理と買い物に原町まで)


秋時雨(急速に秋になってゆく

(自転車の修理と買い物に原町まで)


買い物に急ぎ走るや秋時雨

秋時雨時の移りの早きかな

北風の向かい風や季の変わる


午後から自転車の修理にイオンまで行った。ここのには一軒の自転車屋は主が死んでなくなった。原町までは近いので行った。イオンの中に自転車の修理などをする場所はあり意外と簡単に直してもらった。自分で直そうとしたができなかった。道具が必要だったからである。前にも治すことができずヤマハから直接道具を送ってもらって直したことがあった。やはり道具をそろえていないと修理できないのである。

その自転車でゆくと風が吹いていた。それは西風か北風であり自転車だとその風をまともに受ける。そして今日はパラパラと時雨が降った。それは秋時雨だった。夏から急速に秋になり冬になってしまうのかもしれない。もう暑くなることはない。

秋の末から冬の初めにかけてぱらぱらと通り雨のように降る雨

秋:8〜10月(厳密には、11月6日頃までが冬)
冬:11〜1月(厳密には、2月3日頃までが冬)

秋時雨にしてはまだ早い、でも何か季節が順序良く進んでいない、ただもしかしたら秋がなくなるというとき早めに冬が来る
温暖化で日本は夏と冬しかなくなるという人もいる
だから何か季節感がなくなる。秋時雨でも十月の末になるからだ。

今年はともかく遠くに行くことができなかった。暑いと自転車はまともに陽射しを受けるから熱中症にもなる。自転車は天候の影響を受けやすいのである。
だからこそ季節を感じるから俳句などを作ったりする。でも車だったら風でも時雨でも感じない。風流とはまさに風の流れを感じることだからである。

だから車というのは人間の五感を衰退させたともなる。ただ原町まで行くと遠くなる。田舎だと買い物でも車が必要になるのである。この買物というのは結構な仕事なのである。
どうしても原町まで行かないと足りないものがある。イオンではみかんが20個くらいで500円とかあった。鹿島区では十個くらい同じ値段だったので花でも安い物も売っている。そういうことで買い物では不便になるのである。

2023年10月04日

総務省は戦前は警察を動かす権限があった (県の政治のことは無関心なことの問題−内堀知事の問題)


総務省は戦前は警察を動かす権限があった

(県の政治のことは無関心なことの問題−内堀知事の問題)

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福島県庁で南相馬市の水害被害の支援を頼む

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【隠蔽、捏造、逃げ虚飾テク!テレビ各局プロレス化で終了!】見せかけの真実の追求で装い、既得権は絶対に離さないメディアの腐ったテクー加治氏将一


福島民報は創価の聖教新聞を刷り県で株を50パーセント持っているから官報である

総務省設置法第3条第1項に規定する任務を達成するため、行政組織、地方自治、地方公務員制度、選挙、政治資金、情報通信、郵便、統計、消防など、国家の基本的な仕組みに関わる諸制度、国民の政治活動・経済活動・社会活動を支える基本的なシステムを所管する。

かつては強大な権力を誇った旧自治省・総務省
 「内務省」の権限の中でも現代の我々からすれば驚きなのは、戦前は都道府県知事の選挙が存在せず、知事は内務省の官僚が務めていた点です。東京都知事も大阪府知事も内務官僚でした。

 ちなみに、内務官僚のなかでもエリート中のエリートだけが到達できる「内務省三役」といえば「内務次官」「警保局長(警察庁長官に相当)」「警視総監(首都警察トップ、今もありますね)」であり、圧倒的に警保(警察)畑が強かったそうです。警察国家です

●総務省の権限の大きさ

総務省のことなど普通わからない。ただジャニーズ事件でクローズアップされた。桜井翔のパパが総務省の有力な地位についていた。だから原発と同じくアンタッチャブルになり隠蔽された
総務省で怖いと思ったのは戦前は内務省でありそれが警察を動かせる警察に命令して取り締まる権力を持っていたことである。
知事でも選挙なしで知事になっていたのである。知事の権限は相当に大きい、知事と原発を建てる土地所有者の許可があって原発が建てられことできたとなる。原発とは事故の被害にあった周辺地域を問題にしているが実際は福島県の知事とか福島県の県庁の行政が深くかかわるものだったのである。

そもそも県庁の仕事は何をしているのかわかりにくい、日常的には市町村と関係していることは直接的に関わるから分かりやすい。でも県庁となると県議会とかにはまるで関心がない。ただ福島県の道路を作り整備管理するのは県庁である。すると建築土木関係の仕事をしている人は県とかかわっている。なぜなら公共事業になると県で予算を決めて地元の会社に仕事を頼む。そこで必ず賄賂問題で逮捕される人が役所の人がいる。やはりそこに利権が一番生まれるからである。
だから公明党が国土交通大臣の役職を手放さないのである。その権力で票を得ようとするからである。

総務省の力はマスコミを牛耳っているということである。だからこそジャニーズ問題でもそこに桜井パパがいて総務省の実権を持っていたから握っていたから何も言わなかったのだという。
マスコミとは政府の官報と似ている。肝心の政府の悪を追求しない。その象徴はジャニーズ事件だとしている。そして福島県の県庁にTOKIO課があったのはその象徴だったのである

それで福島県知事の内堀は総務省の工作員だったということが加治氏の説明でわかった。そして県知事となって総務省の指示に従うことになる。前は内堀氏はの各県庁に入り財政担当の中にはいりそこで工作していたという。やはり県庁でも財政を担当していればそこが一番力を持つからだともなる。
政治とはどうしても利権が変わるからそこでゆがめられる。
この辺で政府の官庁に入ったという人がいた。それも斎藤邦吉氏が国会議員でありそのコネで入ったという。その時結構な金を払ったという。つまり政治とは常に利権とかかわりそうなりやすいのである。

●総務省は戦前の内務省で警察を動かす権限を持っていた

ともかく役所のことなど県庁でも国政に関わる国の官庁でもどういう働きをしているのかどういう仕組みになっているのかわからないのである。特に総務省と言うと名前からして何をしているのかよくわからない。
でもジャニーズ事件で総務省が関わっていたということで明らかにされたのである。そんなところまで関わっていたのかということを知り総務省というのは注目されたのである。
総務省は意外と大きな権限を持つ省だった。その全身が戦前は警察の管理する警察を動かす力を持った省だった。
ということは警察をも動かすこともできる権力かもしれない。なぜならあらゆる人が警察だけは恐れている。庶民も警察は恐れている。なぜなら脛に傷を持たない人などいないからである。警察はそれで人を恐れさせ従わせることができる。

要するに最も権力が露骨に現れるているのは警察である。それは日常的に庶民とかかわりその権力を行使できる強制できるのである。だからその警察を動かすものが総務省の前進の内務省だったということはそれが戦争に通じていたのかもしれない。
なぜなら戦争に反対する人は特高が来て警察に連行されたからである。なぜ警察は一番の権力かというと暴力でもって強制的に従わせることが出来るからである。それは軍隊でもそうである。軍隊を命令して動かせるものは一番の権力者である。

だから軍隊が政権を握るということはミャンマーとか遅れた国で必ず起きてくる。。そもそも権力とは武力から生まれる。戦国時代のように武力によって支配される人間の歴史でもあった。でもそうなる地で血を争う悲惨な結果になったので犠牲があったので民主主義によって平和的に権力を移行させるとかになったのである。

でもこの民主主義をアメリカで発展したとしても最近対立が激しくなり選挙に不正があるとか議会に暴力でふるった人たちがいて世界を驚かした。だからいくら民主主義でもそこに公平はありえない。不満な人たちが必ずありまた社会が既得権化すると得する人はいつまでも得して損する人はいつまでも損する。それが今の日本である。

その原因として県政でも国政でも関心が持てないのは当事者意識がもてない、一票入れても何の変化もないとなり無力感があり投票率が上がらない、自分もそうだったけどプログで時事問題で発言するようになると相当に調べなければならないとか多少責任が生まれた。だからプログでもyoutubeでも発現することは民主主義の促進になる。

●政権交代がない日本は根本的に変わらない

いくら不満があっても自民党政権というのは一回しか政権交代をしていないのである。だから根本的に日本の政治は変わらないのである。既得権者はいつまでも得する場にあって変わらないのである。
でも韓国だと大統領が変わると必ず前の大統領の不正が暴かれ逮捕までされるのである。それを日本では韓国の政治を批判するが日本ではいつまでたってもどんなに不満があっても自民党が政権を担当する。
だからアメリカでも必ず共和党と民主党があり大統領が変わると権力も移譲されて根本的に変るのである。今のウクライナ戦争でもトランプに変われば戦争はやめるという。そこで大きな政治の変化は起きる。日本では政権交代がないから民主主義が機能してないのである。

いずれにしろこの辺で起きた原発事故がなぜ起きたのかということを追求してきたがそれはやはりこうした国とか県とか大きな権力がかかわり起きた。その権力は何か危険があっても隠蔽することができた。
原発にもいろいろな不備があり実際は危険なものだった。でもやはり国とかの大きな権力が関わりまたその背後にアメリカがいて危険は隠蔽されたのである
つまり権力の問題はこうして隠蔽できるということである。そこから危険が生まれ取り返しのつかないものともなる。戦前の戦争でも300万人も死んだということでもやはり国の権力がかかわりそうなった。そこに総務省の前進の内務省がありそれは警察を指揮する権力をもっていたことは怖いことである。
だからジャニーズ事件でも警察がなぜ一切かかわらなかったのか?
総務省も今も戦前の警察を牛耳る内務省と通じるものがあったからなのかとなる。そうなると総務省とは怖いものだと知る
ただ権力構造は複雑でありわかりにくいことで騙される

悪があっても可視化されにくく見えないからである。だからどうしても闇に隠される。するとそこから原発事故でも庶民は大被害になりジャニーズ事件でもそうであり戦前の戦争の犠牲者が3百人死んだとか空恐ろしものとなる。原発の処理水問題でも今や世界から批判される。なぜ批判されるのにあえて処理水を流したのか実際は流さなくてもいいものだったとしている。
ともかくこれほどに世界的問題となるものを原発自体を作ったことが問題だったのである。



posted by 天華 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年10月03日

遠野の地名由来 (地理は地形を知り境界を知るー関ケ原、区界(くさかい)など)


遠野の地名由来

(地理は地形を知り境界を知るー関ケ原、区界(くさかい)など)


●遠野の地名

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(1) 閉伊の先、閉伊の奥の意味で呼んだ汎称「遠閉伊」の野原という意味
(2) 山間の遠い野
(3) アイヌ語のト(沼)ヌプ(野)
(4) 「東野」の意味で東方の野
(5) 「撓野(タワノ)」の転訛で、たわんだ地形の盆地  

「遠閉伊(とほのへい)」の下略形という。または「タヲ(ゆがんだ地形)」+「ノ(野)」の転か

こちらは閉伊という地域にあって、さらに遠い閉伊・・・閉伊の奥地という意味もありそうですが、遠い閉伊の野・・・から遠野となったという説も語られてはいる。


 遠野の語源に関しては「東方の野」からきた説や、たわんだ地形の盆地である「撓野(たわの)」の変化、など諸説ある。日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。
上遠野郷の由来 上遠野郷の歴史」に「福島県石城郡の『今昔我等の郷土』によればー岩城氏の一族上遠野滝氏の領であったとい

平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。

これが有力である。なぜなら正史にも記されているからである。
閉伊郡ありこれは宮古を中心に広い範囲である。宮古が早く開けたが遠野となるとかなり奥地になるからである。
それは地形として理解できる。地形を基にしたものが地名であり地形と一致しているからわかりやすい。日本で野というとき野原とか平地をイメージするが実際は山の斜面であり平なところではない、平の地名は別なのである。日本で平らな所は湿地帯とか沼と湖になっていて住めなかったのである。
だから田でも最初は山の斜面に作っていた。それで県(あがた)が最初の国になったのである。
入野とか遠野とかの地名は平らな場所ではないのである。

吾が恋は まさかも悲し 草枕 多胡(たご)の入野の 奥も悲しも
(万葉集 東歌)

この歌は山に挟まれた奥の地域ということである。日本にはそういう場所が多いからである。

いわき市の遠野町は

上遠野郷の由来 上遠野郷の歴史」に「福島県石城郡の『今昔我等の郷土』によればー岩城氏の一族上遠野滝氏の領であったとい


地名で混同するのは地形と姓が一体化する。もともと地形を基にしていたのが村の名が姓となりその姓が移動して村の名になる
いわき市の遠野がそうである。遠野氏が支配して遠野となったとしいる。それはもともと中村村だったのが相馬氏が支配して相馬市になった。でもそれは最近のことだったのである。
やはり地名と地形が一致する時地理はわかりやすくなる。

私は御斎所を街道下り遠野に出た。その時稲は刈られて刈田になっていた。だから淋しい風景だった、地形から見ればまさに遠野だったのである。それが遠野氏が支配して遠野になったというとき何かがっかりしたともなる。
でも遠野はその地形と合っていたのである。

刈田なれ遠野に来たり農夫に会う

●地理は境を知るとわかりやすい

地理を知るには境を知ることである。どこが境となるのかそれも人為的行政的な境ではなく地形の境を知ることである。人為的なとは例えば戦国時代でも新地は相馬藩ではない伊達藩である。そこは別に地形と関係ないのである。遮る川も山もないからである。
ただ伊達政宗の領地になったからでありそういう地名は地形と関係ないのである。だから参考にならないのである。

そして必ずしも境は地形と一致してあるわけではない。地形と一致している時わかりやすくなる。例えば山形県と宮城県は面白山トンネルがありそのトンネルを抜けると山形県になる。その山が明らかに境界となる。現実に面白山のトンネルを抜けると依然として春なのに雪がなお厚く山に残っている。トンネルを抜けると雪国だったとなる。

陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ・斎藤茂吉

これは陸奥となれば福島県、宮城県、岩手県と広大である。でも二つに分けるとはならない、蔵王は山脈ではないし蔵王という一つの山だからである。ただ福島県の南相馬市の鹿島区まで蔵王は明確に見える。だから陸奥の象徴的山にはなっている。
でも陸奥を二つに分ける山ではない、それより私の住んでいる阿武隈山脈はいわき市まで続いているから中通りの吾妻山は見えない、だからこの山脈こそ福島県を分けているのである。
この阿武隈山脈があることで浜通りは地理的一体感がないのである。でも近くの山に登ると牡鹿半島から金華山が大きく見えたのである。だから地形的には宮城県の方が一体感があるとなる。
とにかく人間に心の面でも地理と風土は一番影響する。そして地形は人間の力で変えることができない。阿武隈山脈を平らにすることはできないからこれはいくら交通が発達しても地形そのものは変えられないのである。

大陸だとヨーロッパならライン川がありそこがゲルマンの境でありローマ帝国が侵略できない地帯になっていた。大陸だとこうした大河が境になる。それはロシアとウクライナの戦争でもそうだった。ドニエプル川が境となりその川を渡って攻撃することが難しいのである。川を渡り攻め入ることが危険になる。だから川をめぐって攻防があり現代でも同じだったとなる。つまり地理の地形のカルマがありかわらないから依然として河をめぐって攻防がある
そして今年は異常に暑く干ばつにもなりライン川の水が減り船で物資を運べないとして苦しんでいる。大陸では今も川が交通路となり物資を運んでいるのである。

●地歴を知るには境を知る

地歴というとき地は地形のことである。歴史も地形から作られから地歴となったのである。
関ケ原でなぜ天下分け目の戦いがあったのか、地形と地理が関係していた。関ケ原は東西を分ける境目だったのである。
気候的にもそうである。関ケ原を電車で行くと雪が残っている。まだ冬を感じる。でも関ケ原を抜けると近江になりそこは春となっている。景色も何か穏やかに感じる。
不思議だったのは琵琶湖の湖西線が通る高島から関ケ原の方を見るとそこから朝日が昇ってきたことである。それが意外だった
それで東でありそこから東(あずま)となっていたのである。

雪残る関ケ原を出て近江かな
近江に出穏やかなれや春の山
近江なれ蓮華の野を見て三上山

●みちのくの真野の草原も境のことだった

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

この歌も境の歌だった。そのこと追求してきた。この歌は大和王権に属する陸奥の辺境のことだった。それはやはり気候としても南となりマルハシャリンバイの自生の地として南相馬市の鹿島区の海老浜が指定されていたからである。そのことは書いてきた
ただ津波で海老村は消失してしまった

これらの山を詠んだ歌は、生駒山は三例、竜田山は三例、奈良山は真土山といった、大和国を越えていく地点を詠むことが多い。『万葉集』では関より、次のように生駒山・竜田山・奈良山・真土山は六例を数える。

遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしのなきがさぶしさ
(中臣宅守)

(徒に関険を設け、防禦を用ふ
の往来、毎に稽留の苦を致す。『続日本紀』延暦八年七月甲寅条)
遂に中外をして隔絶せしむ。既に通利の便を失い、公私と、わずか四例のみである。以下に二例のみ挙げる。
対して『万葉集』では、次の歌をはじめとして、 

遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしのなきがさぶしさ
夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてそ我が来る妹が目を欲り
白雲の竜田の山の露霜に色付く時にうち越えて旅行く君は

五百重山い行きさくみ賊守る筑紫に至り
これらから、意識の上では、関を越えることよりも山々を越え
りことなのである。


『万葉集』にみる「みやこ」と「ひな」への意識
file:///C:/Users/KOBAYASHI/Downloads/nike_061_137.pdf



奈良時代は関所より障壁となる山とか川が意識された。特に日本では山が多いから山を越えることに難儀したから山はまた国の境ともなり峠をこえることが異郷に行くことだった。それで峠という漢字は日本人が作った国字なのである。

山が境になる時今は車とか電車でも行くとわかりにくくなった。歩いて苦労して旅することがなくなったからである。
でも岩手県の宮古市から電車で区界(くざかい)という地点はかなり標高が高い
だからそこに電車が止まったとき雪が春でも厚く消えずに残っていたのである。

区界駅雪厚く残り一時を電車の止まり越えて行くかな

まさに区界(くざかい)境界だったのである。

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2023年10月02日

空き家1000万軒にもなる (個々人では解決しない社会全体の問題になっている)


空き家1000万軒にもなる

(個々人では解決しない社会全体の問題になっている)




●家は思い出があり愛着があり簡単に壊せない個々の事情がある

空き家のことをNHKで放送していた。10年後20年後に1000万戸が空き家になる。それも都会でも空き家が増えている。その空き家の処理をどうするか問題になる。空き家の問題は簡単に壊せないとかある。そこでその家で育った人がいて愛着が生まれている。家というのはただの建物ではない。箱ではない。そこで人が暮らした歳月があり営みがありそれが思い出として家がある。
だから問題なのは家というのは単なる建物というのではない。その家で暮らした人間の思い出がその家と共に宿っている。物がありその物に心が憑くとなる。物は単なるものとしてあるのではない。物心がつくという時も物と心は一体なのである。仏教で言えば色心不二となる。、物と心は一体なのである。それは東洋的思想だとなる。

そこで家という建物はハードでありその建物どういうふうに利用するかがソフトだという。その利用方法があるのだがそれはソフトだから何かアイディアが必要でありそれが問題になっている。
でもリフォームするとそれは使えるし今中古物件が売れているというのも分かる。そのリフォーム代を不動産屋が金を払ってしている。若い人たちが安い家を買えるのだから人気になるのもわかる。ただ都会の空き家と地方の空き家問題とは違ってくる。
東京でも一部では五軒に一軒が空き家となるという。だから東京というのも全体的に縮小してゆくのかとなる。そしてやはり今までは地方から集まってきた若い人たちがすでに老人になっている。そしてやはり高齢化して老人が増えてくるのである。

●空家問題は市町村で社会全体の問題

この空き家問題は個々人の家の問題でもあるがこれだけ空き家が増えるということはそこに住んでいる周りの人にも相当に影響する。だから自治体でも放っておくのではなく関わらざるを得なくなっている。火事とか誰かが勝手に住むとか犯罪の温床にもなる。アメリカではやはり自動車産業が衰退して街自体がすたれてゆく街を紹介していた。そこでは市が積極的に関わり都市計画として空き家を壊してそこを農地にするとか公園にするとかして都市全体の問題として関わる。
つまりこれだけ空き家が増えるということは個々人の問題でもあるが公共的な問題にもなっている。

また東京都心から埼玉県の方にニュータウンができた。そこから東京都心の都心へ通う住宅地であったがそれも空き家化している。そしてなんとかゴーストタウンになるのを防がなければならないとして対策を考えている。
この辺では原発事故で避難区域になったところは実際に空き家だらけであり街自体がゴーストタウンになったのである。今でも空き家だらけでありそれも壊されている。
最近私の家私の住んでいる近くでも四五軒が壊されてそこが空き地化したのである。町の中でもやはり家が壊されて空き地化しているところがある。

ただこの辺では原発事故で避難区域になったところから移住してくる人も多い。そこで新しい住宅地が四つくらい生まれた感じになる。そして不動産会社でわ土地を整備してその土地を売り住宅さらに建てようとしている。それは原町にも原発避難区域から移住してくる人が多いのである。
だから空き家が増える日本の地図を見るとき南相馬市は空き家が多い場所になっているのは当然である。でもなぜいわき市の方がもっと空き家が多いのだろうか。いわき市には原発避難区域から移住した人が新しい家を建てて近隣ともめたことがあったからである

●いわき市はなぜ空家が多いのか

グラフで見るいわき市の居住世帯あり住宅数は多い?少い?(推移グラフと比較)

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いわき市は原発避難区域からの移住が多いからこういうグラフになった。いわき市は面積が広いから農村地帯もありそれで空家も多いが原発避難者が二万人とか移住して補償金で新しい家を建てたので地元の人もめたのである。

ともかくこの辺は原発事故と津波の被害で海岸地帯の村が消滅したりその変化が激しかった。もし津波と原発事故がなかったらこんな大きな変化にはならなかった。それでもやはり少子高齢化になり空き家はどこでも増えた。それで原発避難区域とかは帰った人もいるがその人たちは老人が多いからまた周りは空き家だらけでありそういう町が維持できるのだろうかとなる。
そこで暮らすのも不便になる。だからいわき市であれ南相馬市でも相馬市にでも移住した人が多いのである。それだけの補償金をもらったからである。

だから原発避難区域になった街は維持できなくなりいわき市とか南相馬市とか相馬市でも移住するようになった。だからそこで減少している人口が歯止めがかかったともなる。
そのことは何を意味しているのかというと人口減少の時代には小さな町とか村が維持できなくなる。それで山の中の村の人を介護とか医者とかでも回るとすると2時間もかかるとかその手間が大きいのである。それが昔のように医者にも見てもらえないとか手厚い介護などしないという時代ならばそこに住むのも良い。

でも今のように手厚い介護とか医者にもかかりたいというとき山間部のような村は一軒一軒回るだけで2時間もかかるとか手間になるのである。そのような村では昔は救急車も来ない。そして子供を医者に診せるために背負って峠を越えていこうとしたら死んでいたとかいう話もある。
でもそうなってもその時代なら諦める他なかったのである。今になるとそんなことはできないとなりそういう僻地の村には住みたくないともなる。でもやはり今の平均的なサービスを受けるとしたらやはりそれだけの手間と金もかかってしまうのである。

●老人は仮設住宅でいつも話し相手がいて良かったという

何か原発事故でこの辺では仮設住宅がいくつも作られた。その時住居も狭いから隣の生活の音が聞こえたり嫌だという人もいた。
でも山間部の辺鄙なところに住んでいた人がいつも近くで話し相手がいていいという女の人もいたのである。確かに山間部だと街から離れていると一軒一軒も離れているから気軽に会えないとはなる。でも仮設住宅だったらいつでも会えるという便利さはあり女の人はいつも話し相手があるとか良い面もあったのである。
どちらかというと老人はそうして離れ離れになっていると孤立しやすい。でも長屋のようなところで集団的に暮らせば返って常に身近に話す人もいて親しい人もいるというとき安心するかもしれない。何か介護となるとき近くが良いのである。それは相馬市に娘がいても隣の市に娘がいても車で15キロくらいあるとやはりなかなか簡単にはこれなくなる。

だから車がない人は一日一回でもいいからバスがでるといいと言っていた。その人は脳梗塞になり自転車に乗れなくなって歩いてスーパーに行くほかなくなったからである。飯館村では大倉の隣の木戸木(ことぎ)に住む老人がそういうバスを利用している。
いくら車で近いとしてもすぐ隣だったら行けるし様子を見にに行くこともできるしまた別々の家でも近くだったら何かおかずを作ったら持って行くとかそういうこともできる。
でも田舎だと離ればなれになって暮らしているし買い物でも街から離れるとどうしても車が必要になるのである。だから車がない人は相当に不便になるのである

●空家で庭の方が価値あると見た

ともかく空き家がこれから1000万軒にもなるという。この数は半端ではない。それをどう利用するのかということは社会全体の問題になる。そしてそれをほっておくのももったいないとなる。だから不動産会社でリフォームして若い人向けに住めるようにしたのはよかった良かった。でもそういうことができるのは東京とか大都市になる。地方になるとなかなか仕事もないから若い人も住みにくいとなる。
私が空き家で注目したのは庭である。近くにも本当にいい庭があった。その家はあまり良いと思わなかった。何か古くなってそこには住みたいとも思わなかった。でも庭が立派でありその庭を活かす方法があってもいいと思った。
でも所有者がいるのだから勝手にはできない。そこを近くの人が集まるような場所にしてもいいとかなる。それも個々にに対応しなければならないから面倒になる。そこには必ず所有者が居るからである。
その所有者がと交渉しなければならないから面倒になるのであるそれで自治体で積極的に関わり空き家を生かす対策をするようになった。でもその家でも空き家でも物置にしたいとか思い出があるとか個々にに違っていて対応が難しいのある。


死者が帰ってきても寄り憑く場がない(詩)

死者が寄り憑く場所としてやはり家がある、その家がなくなると死者はどうなるのか、墓になるのか、墓は家がなくなっても残っているからである。
本当に空家でも幽霊が住んでいると感じる。やはり家とはそれだけ単なる物ではなくなている。だから家を壊してしまうと何も残らなくなる、死者が寄りつく場所がなくなるということである。

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2023年10月01日

青春時代は出発点であり人生の方向を決めるから大事 (人間は失敗するのは最初に方向を誤ることーそして引き返すことができない)

青春時代は出発点であり人生の方向を決めるから大事

(人間は失敗するのは最初に方向を誤ることーそして引き返すことができない)

●若きときに神を覚えよ

ドラマで金持ちの家同士が意に沿わなくても政略結婚のようなことした。それは戦国時代でもその後もあった。でも現代ではそれは強制できない、別に親に反対もできる時代である。
それであとでいろいろ問題が起きて事件が起きた。人間は出発点が悪いと必ずその後に問題が起きてくる。その出発点になるのは青春時代でありそれでそこで方向を誤ると人生をの後悔するともなる。 青春時代は出発点でありそこで間違うと一生が間違った方向に行ってしまうともなる。

ただ若いときは先が見えない。何か時間が無限にあるように思えるので。だから若い時したいことをして欲の赴くままに生きるというのも普通にある。ただその青春の時代を実際はあっという間に過ぎる。それも一瞬の輝きだったとなる。それは女性にも言える。その若さは美は儚く30過ぎるとおばさんとかになってしまう。だから親はその美貌もすぐに色あせてくるから婚期を逃すから早く結婚しろとなるのである。

若きうち神を覚えよ知れという時それがなぜ大事なのか。神を覚える神を知るということが若い時しかできないからだとなる。別に年とってからの方がいろいろ経験を積んで聖書でも深く読めるしいろいろ理解するのだから別に若い時でなくても神のことを知るということはできると思う。でもそれができないとなればいかに若い時の時間が重要だったかあとで知る。でもその時遅しとなっていたらどうなるのか、もう時間を元に戻すことはできない

●カルト二世は親にすべて決められる

それは神を知るというだけではない就職するにしても何をするにしても青春時代が出発点になる。そこでその出発点が誤ると一生誤ってしまうともなる。それは怖いことである。だからカルト宗教の二世問題とかが深刻なのである。その人たちの一生がすでにもう生まれた時から決められていたとはである。その方向は親によって決められそれ以外考えられないとなっている。そういう家族では親に反抗するということは相当に難しいからである。

その人の一生は全く親に決められたもの以外ないないのである。そういう人は別の道があることも全く分からない。そしてそのカルト宗教団体について疑問も何もない。ただおかしいと気づいても目をつぶるのである。
なぜなら親の言うとうりになっていれば親からもほめられるしそれは家族のためになっているのだから家族に反抗するようなことはできない。そこにカルト宗教二世の深刻な問題がある。そういう人は親の言いなりになりその集団組織の完全な一員となり何ら個性を発揮することなくロボットとして奴隷として終わる。

その集団組織に従属して何一つその人が生きる個性も示すものことなくただハイルヒトラーで教祖を偶像化して一生を終わってしまう。これも恐ろしいことである。それもなぜそうなるのかといえば出発点が悪いからそうなったのである。だから青春時代は出発点でありその行く先が方向が決まってしまうから大事な時なのである。方向が間違ってしまえば北に行くのではなく東に行けばよかったとか言っても人生の場合は簡単に方向転換できないのである。

●なぜ大学選びが大事になるのか

なぜ大学選びが大事になるのか。それは大企業などでは選別するのにやはり大学を見ている。マーチから上でないと履歴書を見てすでにそこで選別されて入社できない。そこからしてやはりすでに差が出てきて生涯に影響する。もちろんそれが人間を全て決めるものではない。でも大企業に入るものと入れないものの差がすでに若い時にできてしまうということである。

ただそれから一流の大学を出ても会社に入って仕事ができないとかなりニートになる人も居る。だから学歴ですべては決まらない。社会で仕事ができるかできないかは必ずしも学歴では決められない。
でもそもそもが出発点で大企業に入れないとしたらその差が将来的に大きくなってしまうのである。ただ大企業でもそれがすべて価値を決めるというわけではない。人間の価値はあまりにも多様だからである。だから別に大企業に入らなくても自分自身の価値を作ることはできる。私自身は底辺でて社会から外れてしまったから出発点がそうなると一生社会から外れた人生になる。

でも逆にそのために自分自身の興味あること関心のあることを故郷で追求してきてきたのである。その成果をブログで出しているのである。ただそれは例外的なものであり特殊であり普通はやはり大企業に入るものと中小企業や底辺層になるのは相当な差になる。だ
から氷河期というのはその出発点でまともな会社に就職できず非正規になってしまったから45とか50過ぎて非正規であり結婚もできないしもう60になったら働くことさえできなくなり年金もわずかでありそれが今度は国の負担にもなる。
それは出発点から悪いからそうなってしまったのである。だから出発点が悪いと誤ると氷河期世代のように結局その人たちでも国家でも問題を抱えることになるのである。

●人間は先を見れない

ただ正直人間は個人でも組織集団でも国家でも先を見ることはできない。一時的にカルト集団でも創価などでも会員が爆発的に増えたことがあった。でも今になるともうその熱狂は終わり会員は増えることはないし衰退するだけになってしまった。そういうことは時代的に常にありあれだけ興隆していたのに衰退してしまうことがある。

七つの海を制覇した大英帝国でも今や小国に戻ったともなる。だから時代の変化で人間はその先を見ることができない。それで日本でも高度成長時代がありその後に失われた30年があった。その期間も本当に長かった。給料も上がらないそして今や円安で物価は上がり日本は世界でも実際は先進国ではない貧困国家になってしまったのである。 IT化に遅れ頼む日本は依然としてハンコとか戸籍とか保証人とかが必要であり何か自由に経済活動出来ない国であり改革できない国だったのである。

今や日本は高度成長時代は日本がすごいということばかり言われ日本は今や何でも悪いことしか言われないのである。その代わり方も激しかった。ともかく青春時代2は人生の出発点だから重要なのである。そこで方向を間違うと一生誤ることになる。だから大事なことは何か目先の利益だけではない何か未来にを作るものを志すということでもあ。それで立志式というのはあったということはそのためだったとなる。志すことが悪かったら一生もやはり悪い方向に行ってしまい一生を誤ってしまうのである。

●なぜ14才で立志式があったのか

14歳を祝う行事。
・奈良時代の「元服の儀」が由来。
・将来の目標や夢にして誓いを立てる。

奈良時代から立志式があったということはやはり時代が変わっても人間は変わらないことがある。まあ14歳となるとやはりその年頃でもうすでに将来に対して志を持つことが大事なのである。
私の場合はちょうど14歳に父親が死んだからそれ以来なぜ人は死ぬのかということが頭から離れなくなった。それで求道をしていたのである。その入った先はカルト教団でも私の志は目的は死の解決だったのである。でもカルト教団などはそうかでも他でもそういうことを問題にはしていない。
なぜなら社会で勢力を持ち権力を持ち知恵や名誉や金持ちになりたいというだけだったからだ宗教や信仰など追及はしていない。だから私は学生時代に辞めたのである。
つまりそういう場所で運動している人はこの世の栄華栄誉とか金持ちになりたいというだけである。そうしたギラギラした欲を持つ人たちが集まる場所なので。だからまともな人だったらそんなところに居ることはできない。

ともかく人生の出発点が誤るとその後の人生も誤った方向に行ってしまう。とても人生は短いから引き返すこともできないしやり直すこともできないのである。その深刻さが分かるのは老人であり老人は別に学がなくても何であれその人生の結果を否応なく示されるのでは。
俺の人生が無駄だったとかむなしいとかみんなになってしまっているのである。それは出発点が悪かったからである。ただこの世の栄耀栄華を目指してなんとか他者より優れていることを示したいとかそういう動機が悪かったともなる。

そしてその結果を老人になれば変えることはできなくなってしまうのである。何か方向を変えるのは若いうちなら出来るが30くらいすぎるともうできなくなってしまうのである。それだけ人間には充分な時間を与えられていない。だからチャンスにしても一回だけだとか結婚するにしてもその人が人を選ぶというよりたまたまちょうど若い時に出会いがありそれで結婚したという人も多い。その人がどういう人なのかとなど簡単に分からない。

というより人間には十分に相手を見たり考える時間がないのである。それより先にあるのは性欲でありそれゆえに交わり仕方なく結婚したとかも多い。そして1/3も離婚しているのはやはり十分に相手を見て選ぶ時間が人間にはないのである。
要するに人間はたちまち老いてしまう。そしてみんな後悔しているだけだる。どんな人でも後悔しない人はいない。たとえ恵まれて大企業に入ったとしても結局社畜だったとか言う人も多い
だから若き時神を知れということになる。若き時に神を求めよとなる。でもカルト教団は一切そういうことは教えないし求めていない。この世の栄耀栄華を求めているだけである。世俗社会より異常なほどにこの世の栄誉栄華を達成することをだけを求めているのである。だから仏法であれその教義とは正反対のことを追求しているだけなのである。だからなぜ宗教を看板にしているのか全く分からないとなる。


2023年09月30日

秋になってもまだ夏なのか(鮎、カンナ、朝顔。月影、十五夜)


秋になってもまだ夏なのか(鮎、カンナ、朝顔。月影、十五夜)

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朝跳ねる鮎や一日始まりぬ

十字路に人交わりてカンナかな

縁白き朝顔一輪隠れ咲く

ゆかしきや朝顔一輪隠れ咲く

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苔の庭月影さして隠る石

十五夜の月や小窓に覗きけり

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昨日も結構暑かった。朝に近くの川で関のところで鮎が跳ねていた。もう10月にもなるのにまだ夏の感じだった。
何か地球が温暖化して日本でも春と秋がなくなり夏と冬になってしまうという。そしたら俳句などもできなくなる。日本のように明確な四季があって俳句が生まれたからである。その変化もまた大きいとなる。なぜならそうなれば日本の文化自体を変えてしまうからである。

ともかく川が流れてそこに朝に鮎が上る。そして一日の始まるというとき自然とともに一日が始まるということである。それが農民が6割とかいた時代になるとまさにあゆのように自然の中で一日が始まる。今はみんな会社に勤めるというとき何か自然とともに生きるということもない。田舎ですら農民は1割ぐらいしかいないのだから自然と共に生きるという人は相当に少ないのである。

でも自然とともに生きるということは鮎のように清流を懸命に上り泳ぐそれを見ていれば気持ちが良いのである。今日一日も清流を上り生きるとなるからだ。大都会だと人間の群衆の濁流を上り出勤するともなる。

また十字路に畑がありカンナが咲いている。そして一日が始まるというときその花と共に人も生きている。また広い庭のある垣根のあるところを見たら隠されて朝顔は咲いていた。その縁が白いのである。それで心に止めることになった。

月影が差して苔むす庭に隠されて一つの石がある。その石は自分のことなのである。石はそうして沈黙している。自分もまたそうして隠れ住む隠者のように沈黙していたのである。十五夜の月は一時は出ていたが雲に隠れ消えてしまった。ただ小さな窓から丸い十五夜の月を見た。ただまだ秋という感覚がなく季節的に合わなくなってしまった。

だから秋でも暑いということは俳句の季語でも活きなくなる。つまり日本の文化が部分的に消失してしまうということである。だから温暖化はその影響が大きい方でまた地球は寒くなると言う人もいる。だからこの気候はわからない。これだけ科学が発達してもわからない。本当に二酸化炭素の影響なのかそれも明確ではない。やはり依然として科学でも完全にはである解き明かされていないのであるはあ

2023年09月29日

認知症にならないためにすること (目,耳,舌,触覚・・を働かせて脳を刺激する)


認知症にならないためにすること

(目,耳,舌,触覚・・を働かせて脳を刺激する)

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医者でも漫才家のようであり分かりやすい、youtubeの特徴はわかりやすいことである。
専門的知識がなくてもなんとかりかいできることである

●血管に障害がでると万病の元になる

認知症になる原因として十個あげているが意外なのは遺伝的要素が十番目にしている。だから遺伝的要素は認知症にはそれほど関係していないのかとなる。ただ血管が大事であることはわかった。血管が傷んでくると高血圧にもなりそれが全体に影響する。だから脳梗塞とかになるなると認知症にもなりやすくなる。

また糖尿病も血管を痛めるからそれが認知症になりやすくもなる。また高血圧でもやはり血管がの一部がいたんでそれで血液を流す圧力を高くしなければならないので心臓に負担をかける。つまり血管というのは体全体に張り巡らされていて小さいのでは毛細血管がありそれにも影響すると目とかにも影響して白内障とか緑内障とかそういうのにも影響してくる。目が見えづらくなるのはやはり血管に血の流れがスムーズでなくなるからそうなる。
つまり血管というのはそれだけ大事なものなのである。脳にも欠陥があって毛細血管もあって違う巡っていくからである。要するに血の巡りが悪くなるということは頭の働きも悪くなる。
それで私の母親は百歳まで生きたが血管は丈夫だったのである。

●家事を94歳まで続けた母は認知症にならなかった

だから確かに認知症になったのだったがそれは95歳以上からでありその年になれば誰でも認知症になる。なぜそうして認知症に95歳までも普通でありえたのか。前から言っているように私の母は働きづめでありなんの趣味もない。花など金がかかるからいらないと言っていたのである。でも94歳までも家事をしていたのである。だから何か高等な趣味を持つとかではない。家事でもしていれば料理でもしていれば結構頭を使うのである。

料理というのは様々なものを用意しなければならない。だから料理をすることはかなり頭を使う仕事なのであるである。頭を使うというとき何か難しいことをすることではない。家事をすることはやはり頭を使うのである。だから危険なのは嫁が姑におばあちゃんは何もしなくていいですよテレビでも見てみていてくださいとか言われて何もしないことが役割がなくなることが認知症になりやすいのである。

私には二人の母親がいたがもう一人の母親は役所を退職してから何もしない家事もしなかった。それでも55歳くらいで退職したからそれから30年も生きたのである。その間に何もしない。ただテレビを見ているとか趣味でも何か自分に合ったものをでわなかった。だから認知症になった原因はやはり家事すらせず退職してからただ何もせず怠け者になりポケットしていたら認知症になってしまったのである。生理的にも太っていたしやはり血管がいたんで認知症になってから脳梗塞にもなったからである。だから血管をが痛むことは長生きできないとなる。

だから認知症になる原因が目耳触覚味覚の舌かを働かせないと頭も働かず脳がそれが認知症につながる。目とか耳でも悪くなると外部からの刺激がなくなりそれで脳も働かなくなり認知症になりやすいのである。だから外に出て光でも受けて運動して体全体でも脳でも働かせることが大事になる。そして生きがいを持つことも大事になる。何かもう生きがいもなく感動もなくただ漫然として家事すらもせず怠けているとどうしても認知症になりやすいのである。

●テレビでも自分なりに想像力を働かせて見る

だから長生きの時代はやはりライフワークを持つべきである。それは別に特別専門的なものでもなく何か興味をあれば追求していればそれでひとかどの専門家にもなりうる。ただ会社に勤めていて退職したら用無しになることが問題なのである。

例えばテレビを見るということでもただ漫然と受け身になって見ていると頭は働かない。でも最近見た推理ドラマで古い金持ちの館を持っている男性と両親と早く死別した女性がその男性と結婚して暮らすことになった。
でもそこには前の妻がいた館でありそこにやはり妻がいるという感覚になりその女性は嫌だったのである。そういうことを言う女性を知っているからなるほどと思った。
仏壇に死んだ妻の家が飾ってあってその人は依然として妻を愛している。そこにその家に親しくなった女性がその妻の死んだ妻のことが気になり嫌だったと言ってたからである。
その家は古い金持ちの家でありだからこそその家には何か代々の人がなお生きているという感覚にもなる。それで推理ドラマではその先妻は実は新しく親しくなった妻に女性に殺されていたとなる。

またその女性は妻となった女性は金持ちの家である何か会社を経営している親の都合で政略結婚のようなことを強いられた。そのことで夫婦がうまくいかないとなっていた。そしてそうした事件が起きたのはもともと無理やりに親の都合で結婚させたことだったとか反省していた。
つまり人間というのはその出発点が悪いと後々まで尾を引くのである。そういうことは老人になった時おのずと分かってくる。意に沿わないことを親に強いられて職業でも自分に合ったものを選ばなかったとかなる。それが後々まで尾を引いて老人になって後悔するのである。

●老人は何でも批評に向いてくる

このようにテレビを見ていても何か一方的に受け身になって見ているのではなくそれを自分の経験とかから重ね合わせてみる
ただ一方的にみるのではない何かそこに教訓を得るのである。だから意外とテレビのいい点は今BSで昔のドラマや推理ドラマが面白いのである。ただ漫然としてみているのではなく自分の人生と重ね合わせてそういうことだったのとか教訓を得る。
それはやはり老人になればいろいろ経験しているからその見方も深くなるのである。だからただ一方的に見るのではなくテレビでもドラマだったらそれを自分の人生と重ね合わせて深く見る。

そして批評というものが老人には向いている。テレビドラマでも何でも批評してみる。本を読んでも批評してみる。ユーチューブでも自分なりに批評してみる。そうするとただ一方的に見ているのとは違ってくるのである。明らかに批評するき頭を働かせている。批評というものは創造的なものでありその人なりに見る目がないと見れない。だから批評というのは文学っても一分野となっているので。
例えば自分自身が何か詩でも小説でも絵でも作らないないとしても批評はできる。でも批評は創造的なものでありその批評は経験豊かな老人に向いているのである

とにかく高齢化社会というのは色々な問題が生まれている。その大きな問題の一つが認知症になることなのである。その認知症になった家族を介護したから認知症の怖さを知ったからどうしたら認知症にならないで老いてゆくかそれがおーきな課題なのである。
なぜなら認知症になる人の数が本当に多いからである。だから認知症は誰にでもなる可能性がある。では認知症を予防するにはどうするのかということもある。最近日本でもその薬が出来たがそれもまだ実験的なものでありそれで治るということはない。認知症になる事を多少怒らせると言うくらいである。
でも認知症については世界で研究しているからやがてはいい薬が出来て治せるということもあるかもしれない。ただその先は長い。ともかく認知症になる原因として生理的な問題もあるが五番目までは目とか耳とかしたとか触覚とかの感覚が鈍くなりそれが脳が脳の働きが悪くなり認知症になる事に通じている。
だから五感を働かせることが問題になる。

いずれにしろここのyoutubeを漫才をしているのかとまで思う。医者なのにこんなに饒舌なのかというのも驚く。こういう人は俳優にもなれるだろう。ただ難しい医学のことでも漫才のようにして説明しているから人気になるのもわかる。
ユーチューブとかなると人気になる人はやはりこういう人である
説明が分かりやすく面白いからである。そういう人は数学の先生にもyoutubeで説明していたからである。
だから今やユーチューブは知識を身につけるためには必須のものとなったのである。

正直者は馬鹿を見るは本当なのか (私が家族の介護で経験したことーただ金を要求する人しか来なかった)


正直者は馬鹿を見るは本当なのか

(私が家族の介護で経験したことーただ金を要求する人しか来なかった)

「ずる賢い人が成功して、いい人は損をする」は正しくなかった|研究結果
ライフハッカー・ジャパン編集部 の意見

人に親切にすることは、誰もが知っているとおり正しい行ないです。では、賢い行ないとも言えるでしょうか?

うまく立ち回る、手を抜く、他人を操作するなどはすべて、手っ取り早く成功するために使われる戦略です。

こうした戦略はうまくいくのでしょうか? 古い格言にあるとおり「お人好しでは勝てない」のでしょうか?

自己中心的な戦略で成功したとしても、それはあくまで短期的なものであり、長期的に見れば「お人好しが勝てない」ことなどありません。

「ずる賢い人が成功して、いい人は損をする」は正しくなかった|研究結果

●介護の時金に困る人しか来ずに金を要求するだけだった

私の親の介護のことで塗炭の苦しみを味わった。そのことを延々と書いてきた。一人は事業に失敗して借金を抱えていた。その時点でもはや何も他者に対して助けることなどできない人だった。
だから自分が苦しんでいてもそのことを全く理解できていなかった。ただ金が欲しいということで何か事業で使った機械を1000万で買ってくれとか要請した。私はそんなところではない。親の介護のことで頭が精一杯頭がいっぱいだったのである。そして自分自身が病気でもあった。ただその人が何もしないということではなかった。でも借金を抱えていることでとても自分のことなどないがしろにされたのである。

まだこの辺ではその時原発事故があり避難者は住仮設住宅などに入ってきて混乱していた。だからその避難した人たちも私たちはとにかく助けられるべきだということで私が不満を言った時お前は冷たいやつだとか批判されたのである。

そのときは原発避難者や津波の避難所も混じり外部から援助の人たちがボランティアが来ていた。でも私のように個人的なもので悩むのは苦しんでいるものは全く無視された。そしてその原発避難者でも仮設に入って何もすることがないからパチンコとかギャンブル漬けだったのである。そんなところで借金していた事業に失敗した人の家族がパチンコ屋で働いていたとこあった。それも腹立たしいことだった。だからその時私は原発避難者にも不満を持っていたのである。でもそんなこと全体的には全く無視されたのである。ただそれは特別な異常な状態だからそれを批判するということもできない状態であった。

●私が苦しんでいることに全く配慮がなかった

でもなぜ私が苦しんでいることになんだ配慮はなかった。私のところに来た人たちは何か私の事に配慮が全くなかった。だから一人はれっきとした泥棒であり私が入院した時家が空っぽになり屋探して大金を盗まれた。
とにかく散々な目に合っただけでありそれも私のカルマだったともなるからあまり批判はできない。

人に親切にすることは、誰もが知っているとおり正しい行ないです。では、賢い行ないとも言えるでしょうか?

うまく立ち回る、手を抜く、他人を操作するなどはすべて、手っ取り早く成功するために使われる戦略です。

何か事業するにしても他者への心がけが親切心などが必要なのかもしれない。しかし現実は今の社会は他者から奪うということが普通にある。それが極端になると盗めばいいとなっている。現実に私に起きたことはそのことである。それは相手も金に困っているからそんな余裕がないからそうなったともなる。
そして金を持っている人から金持ちだったら奪ってもいいとなっていた。だから私が病気にもなり苦しんでいる時奪うというチャンスが生まれたのである。

でもそもそも相手が金持ちであり自分が貧乏で困っているときは金持ちから盗めばいいということことで正当化されるのか。そういうことをしてその人は裕福になれるのだろうか?そういう考えになる人もまた多いと思う。
逆に金持ちの家だったらそこに病人がいたら助ければそのお礼も大きなものになるかもしれない。ただそういう金目当てでだけでなく金持ちでも親切にすればやはり見返りがあるかもしれない。ただ金持ちはら奪えばいいという考えてはその人は裕福になれるのだろうか?

共産主義にはそういう思想がありだから貧乏人は搾取されているのだから奪えばいいとなり時の政権でも金持ちからでも奪うとなりそれが革命として正当化される。底辺層で恵まれない人はそうなりやすいのである。でも共産主義でも平等にはならなかった。
党の幹部に富が集まりやはり一部の人が豊かになる。富は一代で築けない、時間がかかり時間の作用があって一気に人間は平等化しない、でも貧乏であっても何代か時間がたつと富の蓄積が行われ豊かになう人もいる。だから一気に平等にするということは武力でも革命することには問題がある。それで失敗したのが共産主義革命であり粛清されたとかの数がカンボジアでは2百万人とか中国でもどれだけの人間が粛清されてころされたかわからないのである。

●金をとる奪うことしか考えない人が事業で成功するのか?

だからここで親切にすることはお人よしであり馬鹿げている。そんなことしても裕福にはなれない。それも一つの見方でありそういう人が多いかもしれない。でもそれが社会で成功するものなどだろうか。何か今の社会は金だけが目的であれ金になればいいとかなっている。それだけではない他者から奪うことが金にもなり裕福になる道だと思っている。ただ本当にそれで裕福になれるものなのだろうか。

それで私のところに来た人たちは一人は泥棒でありその人は果たして裕福になれるものだろうか。また事業に失敗した人は裕福になれるものだろうか。そもそもは相手が苦しみ困っているときただ金になればいいとしかないとしたらそういう人が果たしてで成功するものだろうか。確かに技術者としては優秀でも経営者としてはどういうこと成功するものなのだろうか。その辺は事業に詳しくないからわからない。でもここで書いていること親切にすることはお人よしでありそんなことしても見返りは無いともして人と接する。でもそういう人は本当に事業でも成功するものだろうか

ともかく一人の女性は金をくれとあからさまに言い本当に金を奪ったのである。だから極端でありそいう人もいるというのが現代である。
ただ今の現実社会はそんな甘いものではないとなりただし親切にしてお人好しの人などは貧乏になるだけだとなってしまう。でも本当にそうなのだろうかという疑問をここで呈している。

銀行でも投資信託を売りつけたかそれもただ銀行でもうければいいというだけであり客のことなどは考えていない。もちろん株とかは上がったり下がったりするからそれに文句をいちいち言うことはできない。でもただ銀行でもうければいいということしか考えなかったらどうなるのか。だからこそ転売して手数料を取ることしか考えてないとなる。そんなに転売する必要もないのである。でも転売するとその時手数料が入るのは大きいのである。

いずれにしろ銀行でもまた客から金を奪えばいいという考えしかない。それで銀行も仕事として成功するものだろうか。それもまた客から金を奪いということしか考えない。そこに問題がある。それは確かに一時的には金を儲けることができる。でもそれは一時的であり信頼を失うことにもなる。ただそれを全部銀行側の責任とはおならない。なぜなら客の方にも責任があり問題があるからである。

とにかく相手に親切にすることが助けることがお人好しだとして馬鹿にされることもある。でもガツガツとして相手から奪うということしか考えてない人が長い目で見れば成功するのだろうか。そのことをここで書いていたので納得した。短期的にはそれでいいだろう。儲かることは確かである。でも長期的に見れば逆にしてみれば損したとなりただ奪われたという感覚になる。それは株ならば上がったり下がったりするからそれをとやかくは言えない。
でもそんなに転売して株が上がった時も売ったそしてまた次の投資信託を買わせる。その時手数料が入り銀行にしてみればもうかったとなる。だからそういう商売は果たして長期的に見れば成功しているのかとなる。でも株とか証券とかはなかなか分かりにくいから一概に批判はできない。

●人を助けて親切にすればどこかで報いを得る

いずれにしろ私が経験したことは全く相手のことを考慮しない。何を苦しんでいるのかも見ていない。ただいま金がなくて苦しんでいるのだから奪いばいいという人しか来なかった。それは私の積んできたカルマだったのだ。また私の家自身のカルマであり一概に他者を批判はできない。
でも最近小さい事ではあるがカメラを忘れたりしたらわざわざ車で持ってきてくれた人がいた。また自転車で倒れたとき3人くらいの女性の人がわざわざ私のところに来て助けてくれたのである。それはやはり最近ボランティア的なことをしたり人を助けたりしたからそうそういうを徳積んだから見返りとしてそういうことがあったのかもしれない。見返りというのは必ずしも助けた相手からは来ない。全く知らない人から助けられるとこあり報いがあるということがある。
だから人に親切にしたり助けることは必ず何か報いがある。でもただ人を見たら苦しんでいる人であれなんであれ金になればいいとかをば良いとかとして接してくるとなるとその人に何か報いがあるのか。それはその人に取って悪いことが起きてくる。カルマとなってゆく。それは私自身が苦しみ経験したことである。
やはり徳は得であり親切にした他者をたすけることは得することになる
そのことをここでは言っていた

これを大きく世界的に見ればアメリカは世界の富を収奪したということは。そしてアメリカでも極一部の人がその富を一人占めする。もしアメリカでもその富を世界に分配して世界の人を豊かにすればアメリカはやはり栄えて衰退することはないかもしれない。でも世界史を見ればあらゆる国が栄えた国も衰退している。それは奢れる者の久しからずであり必ずある国に富が集中してもいずれは衰退してゆくのが人間の共通の歴史だったからである

別に中国がいいとかロシアがいいとかではないアメリカもやはり歴史を見れば衰退してゆく。七つの海を支配したイギリスでも衰退した。それと同じようにやはりアメリカも衰退する。それは世界の人間の法則のようにもなっている。この世に永遠に栄える国とかはありえないのである。ただもし世界の人たちを豊かにするいろいろな援助をして助けるということがあればやはりその国は栄えて長く長く栄えるということもある。

ともかく何かただ相手から金を奪う相手が弱ったときチャンスとなり金を奪うようなことをしていてそれが個々人であり国であっても栄えるものとなるだろうか。例えば中国でも確かに福島の処理水を海に放出することには問題がある。でもそれで困る人が相当にいる。中国国内でもいる。もちろん放射線の問題がありそれを許せないということはある。でもまたその魚介類でも売って生活する人がありそれは日本だけではない中国にもいる。そして本当に危険なのかどうかも分からない。
それは政治的なものであり科学的なものでも必ずしもない。そもそも原発自体が世界全体で作るべきものではないということもあった。それが一旦事故になれば福島のようにもう取り返しのつかないものになる。それは世界に波及するし今回のように世界の魚をべ食べられなくなる。だからこそ原発は作るべきではなかったのである。

●強欲資本主義はモラルがなく崩壊

他者に親切にすると言うのではなくそういうことはお人好しだとなる。かえって自分のためにだけ利益を追求して自分の会社のためにだけ利益を追求してもうければいいという感覚になっている。それが強欲資本主義でありそれが普通の感覚になっている時社会は荒廃する。すでに荒廃しているのである。だからもう資本主義というのはモラルも何もないから弱肉強食の世界で生きているとなる。そんな社会がどうして持続できるのだろうか。それはいつか破綻する。やはり人間社会でも共生とか共同とかがなければその社会は野獣社会となり食うか食われるかの世界となり地獄となってしまう。

現実に地獄にもなっている。ただいつの時代も親鸞が言っているように地獄は一定の住処なりである。いつの時代になってもこの世は地獄である変わることがないということである。だからこそやはり親切にするとかそういう人は馬鹿であり正直者は馬鹿を見るとかということわざも生まれたのである。でもそれが本当なのかやはり何らかのただそうして人間が利益をを追求するだけになったら人間社会そのものは自壊して行くだろう。現実にビッグモーターでもジャニーズ問題でも内部のモラルの荒廃から自壊するようにもなる。やはり結果としてそれを示しているともなる。一時的には成功しても長くは維持できない破綻して衰退するとなる

いずれにしろこの世を生きるということは何か。何か経験すればそこから教訓を得る。それでことわざというのは今にも生きているのは人間というものはそもそも変わらないからである。人間から欲を取り除くことはできない。だからこそ社会が変わっても科学技術がいくら進歩してもやはり人間自体は変わらないから同じような事件でも繰り返している。つまりカルマを繰り返すのが人間でありそのカルマ号が尽きることはないのである。なぜなら人間から欲がなくらないからである。

だからこそ自分のことばかり考えて自分の欲を達成するために手段も選ばず相手はただその欲を達成するために奪う存在だとなってしまう。また成功するためにはむしろ相手に親切にするとかでは成功しないとかなる。会社の経営でも客に親切に尽くすとかではなく客からいかにして金を巻き上げるとかになってしまう。それは極端にしろそういう考えで事業を起こしている人も居るだろう。まずは何でも利益が優先される。だからそこに多少の不正があっても目をつぶるということになる。そして利益を上げた人が褒められるし収入も多くなる。それはビッグモーターであからさまに起きたことである。

そして人間はとにかく相手より優れている成功者になりたい。そのために自分は優秀なのだということを示すために事業を起こしたのである。そういう動機になっていること自体が問題だったのである。そういうことで経営ができるのか成功するのかとなるとのかその出発点からして間違っていたのである。
ただ自分自身にしてもそういうことが起きたのは自分が積んできた何かのカルマでありそんな人しか来ないということ自体が自分のまた家族のカルマだったのかとなる。だからそんなに他者を批判はできない。でも現在はあまりにも金だけを追求して人に親切にするとかそういうことが無視されているのである。だからかえってそうそういうことでは事業でも成功しないのかと見る。

●大正生まれの馬鹿正直な女性

その女性は本当に馬鹿正直な女性だった。農家の女性でありその女性はまず嘘をつくことなどあり得なかった。何か今振り返ると私の家族はその人を馬鹿にしていた。でも認知症になったときその女性は私の家族によくされたわけでもないのに気遣ってくれたのである。これまで近くで親しくした人も認知症になったときは付き合うことはなくなった。でもその人はそういうことがなかったのである。でも別に私の家族に良くされたいということでもなかった。

だからその人はまれにみる馬鹿正直な女性だった。その女性は何か悪いことはできないまだしない。他者に対して裏表もない同情心を持っていた。だから今時そういう人は絶滅危惧種となっているかもしれない。どうしても戦後には特にそうなのかアメリカの民主主義が入ってきたとしても良い面はあったとしても人間はもはや金しか求めない。金が全てとなってしまったのである。
でも日本人はもともとそうでわなかった。いろいろな人がいるにしても日本人というのはこうして馬鹿正直な人でも普通にいたのかもしれない。そのために明治に入ってきたヨーロッパ人が日本人はみんな幸福そうだったというと言っているのは人間そのものが今と違っていた。何か悪というものを知らないというか馬鹿正直ということは素朴な人が多かったのかもしれない。

つまりそうして過去の人間のことが今になるとわからなくなったのである。同じ日本人でも今の人間は全く違った人間になっているのかもしれない。それは戦後はすべてアメリカに習ったからである。アメリカに習うということはアメリカはすべて金が第一であり金で全ての価値が決められる。そのことをアメリカに留学した内村鑑三は言っていた。
何するにしてもすべて金には金で測られる。でも日本は違っていると言うことを言っていたからである。何か講演してもその見返りとして金をいくら払えばいいとか金ですべてが決められる。そのことを言っていたからアメリカにすべてを習ったことが日本人もまた全ては金でしかなく金で計られるものとしてあるだけだとなってしまった。

だから戦前でも何か馬鹿正直な人がいたのかもしれない。ただそうは言っても同じ大正生まれでも全く違った人もいるから一概には言えない。でも何か日本人は金だけですべてを図るとか金で全ての価値を決めるとかそういうことはなかったのかもしれない。だから馬鹿正直な人がそれなりにいたのかもしれない。それは本当に絶滅危惧種となり今やもうそういう人は居ないだろう。常に利益を計算している。金をもらわなければ何もしない。何かしてもらえば金を払えばいいとしかなってない。

それはアメリカ人の価値観であり日本人はもともとそういうことがすべてではなかった。他でもラオスの人は素朴であるというときそこはまだ原始的でもあり文明も入ってきていないからそうなっていたのだろう。だから人間に言えることは文明化してもそれで人間が良くなったとも言えないのである。
返ってラオスのようにまだ外国人も入ってこない原始的な生活をしていれば素朴だとなる。でも最近中国人が入ってきているから商売にたけた人も出てくるし素朴さは失われるのである。
だから文明が人間の心を歪め素朴さを失わせる。それは日本でも明治以降に起きたことである。ただ戦前はまだ馬鹿正直な人でも日本人として素朴な人もいたとなる。ただもはやそういう人は絶滅危惧種であり現実にそういう人に出会うことはなくなったともなる。




2023年09月27日

一軒の家がまだ壊される (増える空き家の問題)


一軒の家がまだ壊される (増える空き家の問題)

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すぐ近くに何軒か新しい家が建つ



近くの大きま一軒の家が壊された。最近私のすぐ隣で5軒ほどは壊された。それは空き地になってしまった。ちょっと離れたところでその家も壊された。その家をいつでも見ていた。 大きな二階建ての家であり誰も住まないのはもったいないと見ていた。
でもこの家はもうすでに20年くらい住んでいなかったかもしれない。別にそれほど傷んででいないのである。去年の大地震で屋根瓦などが壊れた。でも瓦も直しているから壊されるとは見ていなかった。
そしてこの家にわ誰が住んで何をしていたのかそれも全くわからない。何かこうして家があってもそこに何か物語があったとしてもそれもわからない。すると何も残すものもないとなってしまう。やはり何か語るものがありこの地域でもそこで何か残すものがあってもいいとなる。

だから人間というのは建物だけを見ていてもわからない。そこでどういう暮らしがあったのかどういう人が住んでいたのか地域でどういう役割があったのかそれがまったくわからないのである。ただいつでも見ていたのは大きな家でありここに住まないということがもったいないと見ていたのである。

この辺では去年の大地震で取り壊された家も多い。ただもう跡継ぎがいないとか何かあって直すのも金がかかるとかで解体されたのかもしれない。ともかく津波でも海岸地帯は家がなくなり家がなくなり空き家化して更地にもなってしまった。
それより原発事故で避難区域になったところははゴーストタウンになり空き家の町とも化した。それは今も回復していないのである。
おそらく原発避難区域は残されたのは老人であり回復するのは難しいと思う。つまり少子高齢化で跡継ぎがいなくなっているからである。街中でも壊されて空き地化したところが結構ある。 農村地帯でも空家が目に付くのである。それは農業というのが衰退して跡継ぎも居なくなっているからである。

全国的に限界集落がありそこでは近くにスーパーが無いとか介護でもそうした村落を回るだけで2時間もかかるとか不便になる。車で回ってもそれだけの時間がかかるのである。だからどうしても現代ではスーパーが近くに病院とかあり最低限のものはないと不便になる。私は一万の町でも一応病院がありスーパー二軒あるからなんとか車もないのに自転車で買い物にもいける。
でもどうしても買い物でも足りないものがあるから隣の町まで自転車で行かざるを得ないのである。 7キロくらいだからなんとかいける。だから山の中の限界集落のようにはならないのである。

ただもともと限界集落でもそこで暮らしてきた人がいたのである。ただ病気になったら医者にかかれないとか介護でも大したことができずに死んでいたとなる。それより長生きもしないから病気になったら大した手当をせず早めに死んでいたのだろう。
現実にそういう限界集落では子供が病気になってそれをその子供を町の病院に見せるために運んでいるうちに死んだとかも聞く。救急車すら来ないからそうなったのである。でもそういう場所でも人間は継続して生き続けてきたのである。でも便利な生活が普通になるともうもう住めないとなったのである。

今日テレビで老人が部屋を借りられないという問題を議論していた。その人たちを空き家に住めるようにしたらいいとかいっていた。田舎でもいくらでも空き家があるのだからそこに住まわせればいい。で
も地方でそうした老人を受け入れるのは問題がある。なぜなら老人は労働力にもならないしすぐに介護とか病気とか介護になりその自治体で世話する他なくなる。すると財政的負担が増えるだけだとなる。。たしかに年金をもらっているからそれで暮らせることがあっても何か生産的ではないので受け入れにくい。若い人ならやはりこれから生産的なことをする時間があるから体力もあるから歓迎されるとなる。

例えば戦後戦争からの引き揚げ者がわずかの耕作放棄地でも土地があればそこに開拓に入り貧しくてもそこでなんとか食料を得てくらしていた。では今の時代にそんな人がいるのかといえばいない。耕作放棄地はいくらでもある。でもそこで農業するかといえばしない。そんな苦労はしたくないとなるからである。
ただ田舎で年金があり空き家で暮らすというのはあまり歓迎されないだろう。老人が増えているのにさらに老人を増やしてどうなるのだとなってしまう。そこに少子高齢化社会の深刻な問題がある。

この辺で救われているのは実はその大きな家が壊されてもすぐ近くに新しい家が何軒も建った。それはおそらく原発避難区域から移住した人たちである。その人たちは補償金が結構大きいから新しく土地を買い家を建てたとなる。
でもその人たちは何をして働いているのかはわからない。でもそのために原町区とか鹿島区とか他でも相馬市でも新地でも移住した移住した人たちがいて人口は減っていないのである。

だからもう原発避難区域は復興すること自体が難しいとも見る。復興してもらいたくても現実は厳しい。残されたのは老人が多いからである。そしたら後を継ぐ人もいない。そういう場所で町でも町でも村でも維持できるのかとなる。それで官僚の人が津波で被害を受けたに三陸などにジジババしかいないところに金をつぎ込んでも無駄だという本音をいったことも分かる。現実を見ればそうなってしまうからである。

そして現在の便利な生活をしようとすれば限界集落には住めない。そこで別に介護とか医療とかのサービスを受けずに昔のようにただあきらめて死んで行くならいいがそうともならない、でも現代のサービスを受けるとしたらどうするのかとなる。だからコンパクトシティとかが勧められる。それがこの辺では原発事故で小高や浪江双葉大熊とか空き家化してゴーストタウンにもなった。
そしてその回復が望まれるがそれもうまくいかない。それはやはり少子高齢化が影響しているのである。だから原町とか5万くらいの年に移住した人が多いのである。それだけの家を建てる保証金をもらっているからである。

つまりもしかしたらもともと大熊辺りは広野とか大野とかなって地名のようにそこは原野だったのである。また夜ノ森とあればy夜は余のことであり相馬の殿様の森として名づけられたのである。だから元の森に戻ってしまうのかともなる。復興を望むにしても現実問題としてやはり少子高齢化とか現在の問題現在の問題が難しくなっている。
そもそもが少子高齢化というのは全国的問題でありどうしても現代のサービスを受けるにわ最低限の人口が必要でありインフラも必要である。スーパーとか病院とか無い所で住むことはいやだとなる。
だからコンパクトシテイとか人々を集めてそこでそのサービスを受けさせる。介護にしても2時間もかけて限界集落を点々と点在する限界集落を一軒一軒回ることは手間になるからである。

そして小さい町でもスーパーがあり車がなくても歩いてでも買い物に行ける。だから現在のサービスを受けたいならコンパクトシティというかにして人口を集中させる以外ないかもしれない。
ただ自分としては生活の多様性があって海でも山でも村でも暮らしがあるのがいいと思っている。でもそれはただ外部から見てそう見るのであり現実問題としてそこで暮らす人にとっては暮らせないとなるのである。だから人口集中させてコンパクトシティにするというのが効率的になるのである。
posted by 天華 at 14:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月26日

内堀福島県知事は総務省の工作員だった! (ジャニーズのTOKIO課があり依然として応援している)


内堀福島県知事は総務省の工作員だった!

(ジャニーズのTOKIO課があり依然として応援している)

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TOKIOは原発事故前から人気番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の企画で、福島県浪江町で農業に挑戦。復興支援に携わり、2
012年度から県産品をPRするテレビCMに出演する。21年には、福島の魅力を発信する県庁内のバーチャル組織「TOKI
O課」が設置された。

TOKIOは家族」福島県知事が連携継続を強調 問い合わせは250件

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●総務省が県の行政を監視して支配する

この説明はわかりやすかった。総務省とはそんなに力あるのかと見えるものがあった。マスコミも支配できるし内堀福島県知事がその総務省から派遣された工作員だったということにも驚く。だからこそトキオ課まで福島県庁に特別設置されたのである。なぜ芸能人を強制で行政でそれまで特別待遇しているのかそれは総務省のトップである桜井パパがいるためにそうなっているのだという。そんなこと普通はわからない。でもこの説明でなるほどとわかった。

何か内堀知事は評判が良かったみたいだ。外国に積極的に福島の宣伝をして福島の産物を売らせている。だから内堀知事対してあまり悪いことを言う人はいなかったみたいだ。何か政治というとき福島県知事にしてもあまり関心がない。選挙でも関心がない。でも知事というのは相当な権限がある。何か原発でも知事と土地の所有者だけでその許可があれば原発でも作れたということを言う人もいる。

そして総務省がそんなに権限のある課とも見ていなかったし関心もなかった。総務省はやはり自治体に対して相当な権限を持っていた。だからこそ内堀知事は各県の財政を調べるため財政課に入っていたのである。それは総務省のトップの指示でそうなっていた。工作員だったと言うことを加治氏が言うのもそのためである。つまり権力構造として地方自治体は総務省の意向に逆らうことはできない。だからこそ東電の原発事故は東電が賠償すべきだという。でもそれを政府がさせないのは政府にとって東電が天下り先だとか金になるから守らねばならない。それは検察庁や警察でも海上自衛隊までも天下りして利益を得ていたのである。

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サンデー毎日ー10月9日号−ジャニーズ事件

これが正しい再出発の方法だったのだろう。これまでの膿をだしてこそ再出発できたとなる

東電を守らねばならない。東電を潰すわけにはいかないとなったのが問題だった。本来は東電を潰すべきだったのだが政府は事故の尻拭いをした。その額は20兆円にもなるという政府の国の予算のから支払われたのである。それは国民の税金なのである。そのことについて何か国民も怒ることもない。おそらくそのその官庁などのことなどよくわからないからとも見る。

●原発事故でも国の権力がかかわり起きた

だからなぜこれだけの大事故を起こして原発に関してはそうした政府の高官でも官僚でも誰一人責任を取らないのである。東電の幹部でも責任を取らない。でも何か人間社会というのは必ず誰かが責任を取らされるようになっているのである。政府と東電の責任があってもその人たちは責任を取らない。でも原発避難区域になったところでわその周辺では放射線被害で進めなくなったとかして大被害に遭う。必ず誰かが責任を取らされる。

例えば歴史でもなぜ太平洋戦争で300万人も死なければならなかったのか。その責任は誰にあるのかそれもやはりその責任者とは誰なのかもよくわからないのである。それで昭和天皇は広島に行ったときその責任を問われてしどろもどろになっていたのである。そしてその後三島由紀夫はなぜ天皇は人間宣言したのかと反乱を起こして自死した。それは天皇を神として戦い死んだ人たちが300万人もいたのだからそのことを許すことができなかったのである。ただその戦争でも責任が誰にあったのかというと国民にもあったしマスコミにもあった。

朝日新聞は戦争を煽ったとかいうこともある。だから今回でもマスコミはジャニーズを批判しなかった。原発でも批判しなかった。なぜならやはり総務省というのはマスコミを管轄していてそれに逆らうことはできないシステムになっていたからかもしれない。桜井パパが総務省のトップに居ればそうなる。だから本当に福島県庁にトキオ課まであるのか本当におかしかったのである。でもそのことを指摘するマスコミはいなかった。第一福島民報などは創価の聖教新聞をする株でも50%が福島県庁の出資しているとなれば国とか県の官報と同じである。中央の権力の意向に従うほかないとなる。だから福島県の政治に関しても何ら批判することもない。

ただ政経東北は内堀知事のことを批判していたことがあった。ただトキオ課があるとか批判はしてないだろう。政経東北にしても何10億の金を幹部が山分けした除染で山分けした相双りテックの宣伝を裏表紙でしていた。だからマスコミというのはとにかく新聞を出すにしても雑誌を出すにしても金がかかるからその金でも読者から得られないから県庁でも大企業でも宗教団体でも資金援助してもらわないと成り立たないからそうなっている。

●権力の横暴と暴走とをいかにとめるのか

だからそこにもはや何か権力を監視することはできない。権力と迎合することしかできないのである。それを象徴していたのは原発事故のとき朝日新聞社から読売新聞社からマスコミの代表は東電に招待されて中国で中国に集まっていたのであるその時原発事故がおきたのである。このように政府権力とマスコミは一体化しているからマスコミに何か期待することもできないので。ユーチューブができてこれはあまり金がかからないが個人でも放送局になるようになっ加治氏のように批判する人が出て来たのである。

ともかく地方自治といっても自治体はなかった。中央の権力の命令に従うのは地方自治体である。その工作員として内堀福島県知事がいたとなる。その地方自治体を取り締まるのは総務省だったとなる。ただ総務省にそんな力があるのかなど普通の人はわからない。それよりそうした官庁とかの権力構造はわからないのである。
でも今回加治氏の説明で私自身もなるほどなと理解したのである。なぜ権力が問題になるのか。権力の怖いのは今回のように原発事故になったりまたナチスのように全体主義になり何百万人とも死んでいくという恐ろしさがあるからである。だから権力というものをどういう風に操作するか。それが大きな問題なのである。

カルト教団でも統一教会でもオウムでもそうだったように創価でもそういう団体が権力を持つことを目指しているのだからそれを批判しないとナチスのようになってしまうのである。だからこそ権力をもつものを監視する役割のものは必要なのである。でも三権分立になっても検察でも東電に天下りしていてそれができないようになっていたのである。日本で民主主義がないというとき政権交代がアメリカのように民主党と共和党で定期的に交代しないということもある。政権が交代すれば前の政権の批判もできるしあくも暴くことができる。日本では政権交代がないのだからいつまでたっても政権の悪を暴くことはできないのである。
韓国で最高権力者の大統領が変わると前の政権の批判して悪事でも暴く、それを何か批判するが日本ではそもそも政権交代がないことが問題なのである。すると既得権者がいつまでも有利になり改革できないのである。

●人間が権力を持つことで起きる恐ろしい結果

原発の悪にしても権力で隠蔽されて何もできなかったのである。マスコミも何もできない。ただ津波が地震がその悪を暴いたのである。巨悪になるとそれが見えない。だから巨悪というのは批判もされないから誰もその暴走を止めることはできない。結果的にはナチスのようにもなるし日本の戦争もやはりその暴走を止めることができず300万人も死んだということになる。その結果の恐ろしさを知るべきである。つまり人間の権力を持つということ自体が問題なのである。そして人間はこの世で権力を持つ権勢を得るということがあまりにも魅力が大きいのでそのために人はその権力を得るために何でもするとなる。

宗教は権力を否定するものであるが結局カルト宗教団体になるとこの世の権力を得るために運動するだけになる。だから人間社会はいつまでたっても変わることがない。共産主義がでも結局人間の欲があり権力を持つことで堕落する。権力は絶対的に腐敗するというときそうである。それは人間の欲がなくならないからである。だからこそこの世に理想の国などいつまでたってもできないのである。それは宗教団体がただただこの世の権力を求めて運動していることでもわかる。全て御利益であり権力を得ることしか興味も何もない。その御利益を得られると説けばあれだけ膨大な人が集まるのである。何故ならその信者もまた御利益求めているからそうなるのである。
posted by 天華 at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月25日

ようやく秋になるー窓に月(朝露、稲穂、秋彼岸、酔芙蓉)


ようやく秋になるー窓に月(朝露、稲穂、秋彼岸、酔芙蓉)


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朝露の稲穂に光り玉と散る

街中に空地増えるや秋となる

秋彼岸なれ花挿し勤め墓守る

朝静かそよ風にゆる酔芙蓉

街中に畑の手入れやオクラの花

十字路や1万の街にカンナかな

窓に月一人思索の我が家かな

誰か見る心を見るや窓に月

一時や窓に移りて消えし月


ようやく秋になった。この辺では稲穂は順調にも実っている。。他では暑すぎて順調に実っていないところもある。朝露が稲穂に光り気持ちがいい。
私の住んでいる街は1万位である。だから街の中に畑もある。そこに働く人がいてオクラの花が咲いたりする。また畑に酔芙蓉が咲いている。秋彼岸で私の墓はすぐ近くにある。そういう点では便利である。この夏は暑すぎて自転車で遠くに行くこともできなかった。隣の市でも7キロくらいでも一回くらいしか言っていない。でも1万くらいの町でもスーパーが二軒ありツルハが二軒もある。足りないものもかなりあるが別にそんなに不自由でもないのである。贅沢を言ったら人間キリがないからである。

私の場合は都会には住めない。人混みがいやなのである。何か自分は人と会うことが疲れるのである。陰の性格でありそれで引きこもりにもなったのである。だから人がいないところで住んでいるのは合っているのである。
ただ正直山の中の飯館村のようなところには住めない。スーパーもないし足りないものは多い。この私が住んでいる町でも街内から離れると買い物だけでも手間になる。ななぜなら車がないと田舎では買い物すらまともにできなくなる。だからどうしても車が必要になってくる。でも1万の町でも街内に住んでいればなんとかなる。

そして今日は朝から駆けずり回っていた。一人だと家事があり食事の用意もするから何かと忙しいのであ。その合間をプログを毎日書いている。これも結構手間になる。だから一時動画の方を試しにやってみたがそれも結構手間でしていない。とても何でも一人ではできないことがわかった。
夜には月が出ていた。その月も窓の端に見えていたがまもなく消えた。そのように人も一時映り消えたとなる。月の特徴はこのように移ってゆくことである。
月は何を見ているのか?あなたの心見ている。あなたにやましいことがあると月も住んで輝ない。自然は心に反映しない、人間の心は鏡なのである。だから心がけがれると自然の美は心の鏡に映らなくなる。それも怖いことだがそんなことを気にすることまない、そこに人間の盲点がある。とにかくようやく秋になりほっとした。体調も悪くしたからである。

ともかくようやく秋らしくなったのである。秋になればやはり読書の秋でもあり運動するにも良い。本当に三か月くらい遠くには行っていない。でも家でやることはありプログでも家でやれるからいいのである。家事で時間を取られるとしてもプログはその合間で続けられるのである







2023年09月24日

インターネットで郷土史の研究ができる時代 (神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)


インターネットで郷土史の研究ができる時代

(神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)

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天明というとき飢饉のあった時代である。相馬藩では人口が三分の一に減った
だからここも古い土地である。国誉の戒名は何を意味しているのか?国の誉れになる人だったのか不明である。

「橋本郷土研究会資料」相模原市

郷土史研究というときその方法方法がある。私の場合は地名に興味を持って歴史でも郷土史にでも興味を持った。
でも学問というときそれをどういうふうに研究するのかそれが問題になる。今になると郷土史というのはインターネットの中にいろいろと発表する人が増えてきた。郷土史というのはその市町村でも数が多いからとても調べようがない。確かに本はいくらでも出てる。でもその本でもとても買うことも難しいし調べることも難しかった。インターネットだと学者の論文も出てるしその地域に住んでいる人が郷土史を発表すればそれが全国の人に読まれることがある。でも数が多いから何が重要なのか検索するのが難しいのでは

でも郷土史という時数が多いから調べにくい。でも郷土史でも必ず日本だったら共通性がある。それはなぜかというと神社でも必ず例えば日吉神社とか山王神社とか秋葉神社とかなどこにでもある。それはなぜかというと人が移動してきてもたらされた神だからである。例えば日吉神社とかは南北朝の争いで霊山から逃れてきた人たち落ち伸びてきた侍がその神も一緒にもたらしたからである。
それで南相馬市の鹿島区の日吉神社でもそうである。でも日吉神社となれば全国どこにでもある。ここにだけあるものではない。日吉神社の元は比叡山のあり比叡山は天台宗とかでもあり日本の仏教の総本山になっていたのである。だから鎌倉時代でも日蓮がそこで修業したり日本の仏教の比叡山から広まったのである。

近くの秋葉神社には郡山市の多田野村由来の只野氏の碑がある。それは最近作られたものである。神社を守っていた只野さんは死んでいる。だから祭りも途絶えるともなる。南北朝の争いの時霊山から逃れてきたのが只野氏である。。だから南相馬市鹿島区には只野という姓が50人くらいもいるのでは。只野一族の村でも街でもあった。
だから秋葉神社でも只野氏が移動してきてもたらされたのである。まず人が移動してその人が神も一緒にもたらして移動しているのである。秋葉神社というのは秋葉山がありそこで修験者がが山伏が修業した場所である。だから法院とかの墓がある。

郷土史でもその土地独特の神というのはほとんどない。たいがい日吉神社とこのように総本山があり京都とか奈良から神も移動してきたのである。だからいくら郷土史でもその土地独特のものというより神に関しては共通したものが多いのである。だからかえってどこの郷土誌でも研究していれば共通したものは必ずある。すると理解しやすいとなる。その土地だけにしかないものではないからである。ここにも日吉神社がある秋葉神社があり他にも共通したものがある。だから他の郷土史でも理解しやすいからである。まったく馴染みのない神社というのは少ないのである。

このPDFは一冊のの本のようにもなっていて何か郷土史を調べる基本のものとして優れていると思った。だからこれは読んでおいた方がいい。

2023年09月23日

今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害 (自然災害も政治的なものが関係している)


今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害

(自然災害も政治的なものが関係している)

●リビアの洪水被害は政治の問題

地球で今何が起きているのか。リビアのダムが決壊して2万人も死んだということそれはなぜそうなったのか。

●自然的要因

●政治的要因

自然的要因としては地中海に何か異変があり大量の雨が降った。そして政治的要因としてはリビアは内戦状態にありのダムの点検を整備を怠っていた。結果的に2万人も死ぬとことになった。自然災害というのは必ずしも自然だけの影響ではない。そこに必ず人為的なもの政治などが関係してくる。

それは東北地方で起きた津波とでもそうだった。特に南相馬氏では相馬藩が支配していた。でも400年前に戦国時代であり相馬藩内でも激しい戦争があった。相馬藩を作ったのは千葉県の方から来た相馬氏でありその相馬氏がこの地方この地を支配するために争いがあった。在地の勢力と衝突して戦争となっていた。その時やはり津波が来ていたのである。

でもその津波のことより事細かく相馬藩政記には相馬氏がこの地を戦いによって支配したかをということである。その論功行賞が詳しく記されていた。でも津波で700人が溺死したというこたった二行しか記されちなかった。ほとんど700人も死んでも記されていなかったのである。それより相馬氏がこの地を在地の勢力と戦い支配することは優先されていたからである。

つまり自然災害でも政治などのにより無視されて何も対策もされない。それはリビアの状況とも似ている。内戦状態になっているのだからいかにして戦いに勝ち支配するということが第一になるからである。そのためにダムの点検整備をないがしろにしたのである。だから人間社会に起きることはすべて自然災害でもそのせいにすることはできない。必ず人間側にも問題がありそれが自然災害が起きて被害を増大させる。

●飢饉も政治的問題でもあった

他にも飢饉あるとしてもそれもすべて自然災害のせいにはできない。東北の米を江戸に送るために商品作物となりそれで米を送ったが地元では米を食べられず飢饉になったということもある。だからこれは経済政策が失敗したのであり必ずしもすべて自然災害ということでわ片付けられないものだった。

それは今でもクライナで戦争がになるとウクライナとロシアは穀倉地帯であり外国に輸出している。でも戦争でそれが止められると輸入している国は飢餓にもなる。
それは政治的要因なのである。今やグローバル化するとどこかで何が起きても世界中に影響するとなる。だから戦争はグローバルに影響してただ二国間の問題ではなくなる。だから政治的問題として世界で解決しようとしなければならない。また原発事故でも処理水を海に流して中国に批判されたように環境問題は地球がつながっているのだから世界の問題でありそもそもは中国でもトリチウムを流しているとか原発そのものが問題があり廃止するべきだとなる。

環境問題になるとそれは世界の問題であり例えば森と海は密接に結びついているというときそうである。森と海をつなぐのが川であり川から流れる森の腐植土とか栄養分が海に影響して海の魚やや海草や貝などに影響する。つまり森と海は別なものではない。一体化したものであり分離できないのである。

それは地球全体がそうであり密接に結びついている。地球を一つの体に例えればどこか一部分がおかしくなれば病気になれば全体も病気になってしまうのである。それで森や山の木を切ってそこをソーラーパネルにしてしまう。それも危険なので森には保水能力がありまた腐植土などを所蔵して栄養分を蓄えそれが川を通じて海に流れ海の生物を栄養分にもなり養うとなる。だから自然は切り離して見れないのである。

●恵みの意味

恵みとはめぐることであり地球全体がめぐるのである。それはその言葉はもしかしたら縄文時代の生活から出てきたしそうかもしれない。だから自然を別々のものしてそれぞれ部分的に考えることはできないのである。
今グローバル化して木材も外国から輸入する。そして日本の森は利用されなくなり間伐しないので森に栄養分が蓄えられないとかそこにいろいろな問題が出てきている。つまりグローバル化とはこうしてもともとあったその国土内での自然の循環を断ち切り自然を破壊してしまうともなる。貿易は必要でも生態系的経済を重んじれば制限をしなければならないのである。

原発事故の処理水で中国がホタテなどを輸入しなくなったことで日本は大打撃を受けている。それも政治的問題であり自然の問題ではない。グローバル化というのは常にそうした政治的リスクは増大することである。食料品でも政治的問題で外国から入ってこなくなることがある。このように政治的問題が人間社会には常にありそのために苦しむのである。それは自然とは関係ない。自然災害は避けようがないかもしれないが政治的問題は人為的なものであり政治的に解決できるものなのである。

●原発事故も自然災害が原因ではなかった

原発事故がなぜ起きたかということを追求してきたがこれを津波地震という自然災害のためだということになっているが実際は人為的なもの政治的なものも関係していた。まず原発が本当に必要なのかどうかそのような危険なものは必要なのかどうかということから検討されねばならなかった。電気は必要だとしても今年の異常な暑さでも電力は不足しなかった。だから原発なくても天気はまかない。ではなぜ原発が必要なのか。それは電気が必要だからだけではない。そこに何か軍事に利用するとか政治的な役割があって原発がある。

だから原発というのはただ電気が必要だからというだけではない政治的なものとしてまたは軍事にも関係して作られた。なぜなら人口がこれから日本で減少してゆけばそんなに電気など必要なくなるからだよ。もう人口は6000万人くらいになればそんなに電気は必要はなくなる。だから人口減少がすべてマイナスに働くともならないのである。やはり日本には日本の国土にあった適正人口がであればいいのである。
また東京周辺に人口が集中しているのだから地方に分散すればいいともなる。それも実は政治的問題でもある。だからこそ一時東京遷都が言われたのだがそれも今は何も言われなくなった。

とにかく自然災害は実は自然の影響で避けられないということにもなるが政治的な問題としてもある。政治的に解決できるものでもありそれを怠ったときリビアのような悲惨な結果になるのである。だから国が分裂するということは恐ろしいことになるのである。それは政治的問題であり自然災害とも違う。

自然災害はある程度洪水があるとしたら堤防を高くするとか津波でも防潮堤をを高くするとかで現実に防げたこともある。だから何らか対策することができる。とても政治的問題として国内が分裂したりするとその被害が増大するのである。それは世界でも世界大戦になればその被害は甚大なものとなる。それは自然災害以上に恐ろしいものとなるのである。だから人間社会における災いはすべて自然災害によるものではない。それは政治的に予防できるものであり解決できるものでもある。


松永勝彦. 森が消えれば海も死ぬ 第2版 陸と海を結ぶ生態学 (ブルーバックス) (Kindle の位置No.1567). 講談社. Kindle 版. 

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2023年09月22日

利から離れた場が教育には必要 (宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)


利から離れた場が教育には必要

(宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)

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青年の特権

青年は利を語るなかれ
これをやれば儲かる金になる得する
青年は利得を語るなかれ
青年は純粋たるべし
世俗の欲にまみれざるべし
青年は大いなる未来を語るべし
それは成らずとも語るべし
青臭くとも大言壮語でもよし
喧々諤々議論するもよし
とにかく利欲より離れてあるべし
純粋にその理想を語り目指すべし
それは別に成らずともよし
それが青年の特権なり
大げさなことと批判されても良し
確かに現実がすぐに突きつけられる
でも青年は未来を語るべし
なぜなら未来は青年によって作られるから
老人はただ過去を回想するだけになる
青年には大いなる未来がある
未来を創るのは青年であり老人ではない
だから青年の特権は未来を語ることにある
それが大げさでも非現実的でもいい
とにかく青年は未来を語り利得を求めない
ともかく青年は大望を抱くべし
それがならずとも抱くべし
それは青年の特権なり
いずれはその大望も挫折するとしても
青年は大いなる大望を抱き未来を語るべし
利得を離れてただ純粋に大いなる未来を目指すべし
それが青年の特権であり
神は青年に永遠の命の霊を与える
その時青年は神を知り神の子となる
その先の人生も挫けることはない
神は汝を導き天の国に引き上げる
神の懐は深く大きい過ちも赦す
紆余曲折があっても神は汝を神の国に導く
神に敗北はなく勝利のみがある
汝を再び神の天地創造の技を見る
全能の神の技は尽きることはない
その大自然が神殿でありさらに天にに真の神殿がある
そこに聖徒たちが集い天使が神を賛美する
さらに神は驚くべき技を行うだろう
新しい天と地を見る
人はかくて神を讃え神と共にあり永遠の都に住む
朽ちざる都がありその成すことは虚しくはならない
そこに誠の実りがありその実りを刈り取る
そして神にその実りはは奉げられる
神と結ばれて栄があり神を離れて栄はない
永遠に讃えられべきは一なる神なり
その光は闇を払い消えることはない
永遠の光明のなかにあり悪は見ない
神を見たものはその神々しさに倒れる
全知全能の神を畏るべし



●明治から立身出世も学問となった

教育でもなぜ歪められたのか。それはすでに明治時代から始まっていたのである福沢諭吉が学問のすすめを書いたけどもそれは学問でもって立身出世をする。それが学問の目的と化した。
そこからして学問というのが利益と結びつき一体化した。
学問とは立身出世のためであり何か真理とかを追求するとかではない。社会に出て立身出世するための学問である。
つまり学問と勉強とは社会で得する有利な地位に就く。そのための学問であり勉強である。だから慶応大学とかは学閥が強力であり社会を牛耳っている。それは利権団体として強固なのでそれで慶応大学に入ると就職するにも社会に出ても学閥が強力であり得するとなる。
こうしてその出発点からして歪められていたのである。ただ戦前の大学は全く今の大学とは違って本当に選ばれたエリートでありそれでそこに自由があり青春が謳歌できたのである。だから利だけではないデカンショデカンショとか世の中に出ても役に立たない哲学でも追求していたのである。つまり社会の利から離れた場として大学がありそこでエリートとして育てられていたのである

でも戦後は大学はそういうエリートではない。大衆化したとしたものとなっていた。講義をするにしても千人も入る講堂でするとか高校とはあまりにも違っていたので特に文系は暇つぶしの場であり遊びの場になっていたのである。
だからゼミに入っても教授とあったのは一二回しかなかったのである。教授とかでも何か教えないのである。だから大学というのは何だったのかと何かを教えられる場として入ってきたのだが教えることもないしただそこに自由な時間が与えられていただけなのである。
でももともと何かを追求するために大学に入ってはいない。大学に入れば何か得する社会に出ていいポジションを得る地位を得る。ただそういう利得を得るものとして大学にも入り受験戦争もあり本来の学問の目的など関係なくりの教育であり純粋に何か興味を持って追求するということもなかったであろう。
学生運動というのも戦前の特別なエリートは違った大学になった時起きた。大学は大衆化して起きた現象だったのである。つまり戦後はあらゆるものは大衆化してゆく。そこに今までの選ばれたエリートとか特権階級というものはなくなったからである。だから戦前の大学と戦後の大学はまるで変わったものとなったのである。

●戦後の民主主義は利を求めるだけ

そして戦後は民主主義となりその民主主義でもただ権利を主張して利を得ることが目的化したのである。そこに責任は無い。ただ利を追求することでありそのために教育もあり学校もあり大学もあるとなった。
とにかく人間というのは利と結びつくと歪められ金と結びつくと歪められる。でも子供の時は純粋に遊ぶということが仕事にもなる。それは利と結びつかないのである。だから遊ぶということはもともとは神聖なことであり神は遊ばされるとなる。つまり神は利から離れて遊ばせられる聖なる存在なのである。

神社でもそこは賽銭箱があって利を得る場所になった。そもそも宗教はこの世の利から離れる場所としてあった。でもこの世にある限りそれも不可能であり利と結びつきついにはただ御利益を追求するような場となったのである。
カルト宗教団体となるとむしろ信者を集めて組織団体化して利権団体となり政治団体となり権力を得るためのものとなり完全に利益を追求する団体となったのである。カルト宗教団体は共通しているのはその内部でも出世争いがあり権力争いがありしのぎを削っている。そこは世俗的な場よりさらに世俗的な場所になってしまったのである。ただ共通しているのは利求めることなのである。

大衆化した宗教であり大衆化するということは利益を第一にすることである。利益というのは誰でもすぐに理解する。発達障害の人が簡単な計算すらできないのに利に聡いのである。それは日々の生活の中でいかに金が大事なものか身をもって知っているから金のことを第一にして理解しているのである。
つまり面倒な理屈などなくても知らなくてもいい。どんな人で学がなくてもこの利益だけは理解する。得することは何かを理解する。だから今の宗教はすべて御利益宗教なので利益になる得すると吹き込む金になるとそういうことばかり指導しているのである。だからこそあれだけ人数が増えてくるのである。難しい理論は一切必要ない。ただ利を説くだけなのである。

●教育する場の喪失

要するに大衆化した社会ではもう教育する場というのはなくなった確かに学校はある。それも必ず利益と結びつき利益を得るための学問であり勉強なのである。学校では常に試験がある。その点数を上げるための勉強なのだがそれもただ利になるからそうしているのである。それから逃れられないのはその学生が悪いというのではなく第一親がそう強いてるからである。親もまた常に利を求めているから得したいから子供をそうした得する場に楽に稼げる場に地位を得ること望むからである。だからいくら利から離れた教育をしようとしてもできないのである。

ただ教育というときそうした一部のエリートがしているものではなかった。教育というのはそもそも実用的なものであり何か高等な哲学などは普通の人にとって関係ないものだったのである。職人だったらその技を身に付けるものでありそれはあくまでも社会に出て稼げる力をつけるためにそうしていたのである。だから私の父親は明治生まれであり酒屋で丁稚奉公していた。
それで私も家で店を始めたとき絶えず配達とかさせられていたのである。つまり父親は私を丁稚として見ていたのである。そしてそろばんを習っていたのもそのためである。それは丁稚には必ずそろばんが必要だったからである。でもそういう経験をしているから上の学校に上げたら楽だとして上の学校に上げてくれと言って中学のとき死んだのでは。だから教育ということ自体何か利益を得る社会でも有利な立場に立つそういう観点からしか観ていない。親も子供にそうした立場に立つことを望んでいるからである。

結局なぜ人間は教育でもなんでもゆがめられるのか。それは常に利がが優先され本来の目的がそれによってゆがめられるのである。子供の時に純粋に遊ぶという時そこにには関わっていない。でも大人になればそうして純粋に遊ぶということもない。遊ぶこと自体にも利が関わってくる。そこで本来の目的とは違ったものとなり弱められるのである。

カルト教団などは創価でもひたすら御利益であり後は社会的地位を上げることであり得することであり利益を得ることでありただそのために毎日祈っている。ほかの宗教でもやはり利と結びつき本来の宗教性は何もないのである。そこで語られるのはただ得することであり御利益を求めることだけなのである。だからそこで何か利を離れて未来を語ることなど何もないのである。

●子供と青年の特権は利を離れて未来を望むこと

子供の特権は青春の特権は利から離れて遊ぶことにあり青春の特権は利から離れて未来を語ることである。その未来を語るのは青年の特権なのである。もしかしたら荒唐無稽なことでもいいとても実現しない未来でもいいそのことを語ることが青年の特権なのである。
何か青臭くても良いし大言壮語でもいい。とても実現しない未来を語ってもそれが青春の青年の特権だとなる。そういう場があってもいいのだが今は必ず利と結びつきそういう場が失われたのである。なぜ青春は大事な時かというとそこが人生の出発点となり後々まで影響するからである。その出発点が間違うと人生そのものは間違ったものともなり得る。ただ青春の時はさまざまなことが一気におしいよせる。その性の欲望であれなんであれ一番膨れ上がりその欲望に圧倒されて肝心なものも見えなくなる。

でもなぜ若き時神を知れということが大事なのかそれは若い時しか聖霊を受けることはできないからである。なにか老人になれば悟りが得られる。れは確かである。理解できなかったこと何か自ずとと不思議に理解できるようになるのである。
でも青春の時最も血気盛んな時その時神を知らなければもはや神を知ることはできなくなる。神を知るということはやはり青年の時しかできない。だから青春時代に何か放蕩三昧にして節制しないと神を求めないとその後は得られなくなるし真善美の世界も見えなくなるのである。だからやはり人生の出発点が後々まで影響するのである。そしてあっという間に青年時代も過ぎてしまい老人になってしまうのである。

もう35になったら人生はあとは余禄だというのも分かる。40歳で白髪が生えてきたりするからである。それだけ人生は過ぎ去るのが早いのである。そして人生は夢のようになって終わる。「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」人生となってしまう。ただ今人生百年時代だから違っている。それでも人生は短いのである。それで職人であれ普通に働いている庶民であれなんで働いてきたかわからないという人が多いのである。何のために金をためたのかもわからないと言っているのである。別に知識人でなくても普通に現場で働いている人もそうなっているのである。空の空になてしまうのである。だからこそ若き時神を知れいうことが重要な教えとなるのである。出発点を間違うと一生も間違うとなるかっらである。

詭弁学者は自分の知識を営利の目的をもって諸都市を巡回し謝礼を得るためにさまざまな科学や芸術中でも雄弁修辞のの学問を売りさばいていた。彼らの学問の目的は純粋な真理追求ではなく実利を目的としていたそれは宗教にも言える宗教団体の勢力を伸ばそうとして政治的に経済的に実利を目指す芸術の分野でも思想書くというよりは本を書く制作するというよりは絵を描いて実利をものにする方に進む
離脱の思考ー上野霄里

つまり学問でも芸術でも宗教でもすべて利を求めるものとなった。そのことを厳しく批判している。それは批判とより激しい糾弾になっているのは上野氏の特徴である。それは原野に咆哮する野生の動物とも似ている。
とにかく社会は利によって歪められ本来の素心はなくなったのである。素朴なる心を失ってしまったのである。ただどこに行っても複雑に利益がー絡みあって利から離れられないのである。あらゆるものは利益を目的として社会は機能する。それは宗教でも同じである。宗教はすべてご利益宗教になっているのを見ればわかる。だからこそ宗教はカルト宗教になり大衆宗教になり堕落したのである。でも世俗で認めるのは本来の宗教などではないそうして堕落した利権化した利を求める宗教こそ大衆でもわかるからそれは巨大化してナチスのようにもなる。

つまり大衆がそうしたカルト宗教を作り出し利権化してただただ利益を得るためのものとなってしまったのである。だからそこに本来の宗教を目指すものは何もない。ただ利益を得ることであり権力や地位をあくことなく求めているのである。そして政治化した利権団体となれば批判もできなくなるのである。
現代は個人など認めない。それは拒否するべきものでありそもそもこの世に存在させられないのである。この世で大きな声になるのは必ず背後に利権団体があり宗教でも必ず組織団体がありその団体よ社会は認めたとえそうかのように完全な政教一致でも数が多ければ世間はそれに従う。なぜなら選挙はすべて数で決まるからである。そこに法律も何もないのである。そこから全体主義ファシズムとなったのはナチスだったのである。

●老人でも最後は神の国に向かって前進する

いずれにしろ人間の一生は不連続なものではなく連続している。だからすでに老人になったとしても老人の中に青春があり青年がある。それで青春でも老人の中によみがえる。青春の冒険精神お忘れるなという時人間の一生は連続しているからである。
ただどうしても若いときは無謀であり欲望が溢れて何か理解することにかけている。理解する悟るというのは老人になってからで。ただ私の場合は遅すぎたということである。 70以上になってからようやく理解するようになっているからである。すでに天才ならば若い時に芸術でも何でも理解しているからである。

自分の耳に目に芸術的なものまた美術的なものを触れ示いまだ多くの人が思いもかけない未発なもの蓄える力を養うということが大事です
老いゆけよ、我と共に  手島郁朗

そうして日々蓄えたものが老年になって実りとなる。とにかく人生は連続していてその出発点が青年でありだからこそ若き日に神を知れとなることが大事なのである。出発点を間違うと一生間違った方向に行ってしまうからである。
そういう人たちは集団組織の中に取り込まれて自らの個を失い硫一生ただ集団組織のために生きるロボットとなるのである。そして教祖を偶像化して教祖のコピー人間となり終わる。
ただそういう集団組織の中で利を追求するから利益にはなる。

でも最後にわ普通の人でもただがむしゃらに利益のために働き金を残しても何のために残したのかもわからないと言っている。それは別に集団組織のために尽くした人だけではない。それは最初の出発点が間違っていたからそうなったともなる。ただ利益しか求めていない。そして他者より優れているものとして這い上がろうとして必死になる。集団組織の中でも地位を求め激しく争うのそれはオウムでもそうだった。そこには理系の優秀な人たちがいてその人たちに負けたくないとして高卒の人がサリンを撒いたと言っていた。その内部でも熾烈な競争があり地位を得るために争っているのである。

とにかく人生は連続したものであり若き日のことは老人になっても連続している。別なものではないのである。人生はやはり日々生きたものはその人のものとなる。日日蓄えたものはやがて老年になって実りとなる。ただそれは天才の場合は別なので天才は別であり努力しなくても会得するものはあるからである。
私が参考にしたものは内村鑑三でありキリストの幕屋の手島郁郎であり直接学んだ上野 霄里氏となる。ただ上野 霄里氏は信仰者とは違う。天才思想家行動者哲学者でありキリストの信仰者ではないのである。だからそれのその思想を理解できるのはやはり天才だとなる。でも普通の人は天才でないのだから偶像崇拝化する危険がある。
そもそも師というのは問題がある。なぜならどうしても天才だともともと優れているものを持っていて努力しなくても備わっているからである。だからそれを真似ることは出来ないのである。でも普通の人でも神から聖霊を受けてそれによって神を知り神の国に入ることができる。主と共にそのその生は終わらないのである。その生はさらに天の国に向かって神の国に向かって進んでいるのである。だから真の成果は神の国にありこの世では成就しないのである。

離脱の思考 ー原生人間復権のための試論ー (現代神話シリーズ第4輯) 単行本(ソフトカバー) 上野霄里 (著),

老いゆけよ,我と共に: 手島郁郎英詩講話R.ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」に寄せて 文庫 – 手島 郁郎 (著)
posted by 天華 at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人 (偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)


ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人

(偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)

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これは再放送がある

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この人の最初の詐欺はオックスフォード大学の卒業証書を偽造したことである。その卒業証書はあらゆる理系の学部を学び卒業したと書いてあった。まず最高の大学で理系だったら相当な価値がある。ここでも文系は価値がないことがわかる。
その卒業証書が見破られなかったのは公証役場で国家の認証を受けたからだった。その卒業証書を持っていたからポルトガルの植民地だったアンゴラで鉄道会社に就職できた。そこで実際に機関車の故障を直して評判になったのである。その人はすでに高校とかで専門学校で工学部に入っていて勉強していたから直すことができた。だから別に本当はオックスフォード大学の卒業証書がなくても仕事ができる人だったのである。

現実にオックスフォード大学を出た人は人もそこで働いていたがそういう現場の仕事はしてしないとなっていた。だからここでそうした卒業証書はすべてそれで判断することは間違っているということになる。ただオックスフォード大学の理系となればどうしても誰でも認める。まず今や大学などが50%以上の人が行っているのだから価値がない。計算も読み書きもまともに出来ない人まで言っている。そういう時代である。でもやたらと学歴にこだわる人もいる。

私は三流大学の経済学部を出ても何も勉強してない。だから高卒で銀行に勤めている人のほうが実務をしているから経済を知っているとなる。まず文系は社会に出て大学の勉強などほとんど役に立たない。文系とは実用とは関係ない教養にすぎないからである。それは無駄ではないにしろ独学できるものなのであるある。

その次は株を買い占めるための資金を得るために小切手の詐欺をしたことである。アメリカの銀行に金がないのにおろさせた。次に鉄道会社の株を買い占めて経営者になることなるために資金が必要であり銀行を通じて紙幣を作ることだった。そのその紙幣をばらまきアンゴラの経済を立て直すということがあった。だからこの人のやっていることはアンゴラのためでありその人自身の私利私欲というものでもなかった。実際に経済政策として紙幣を金を回して経済を活性化するということは国家レベルでもしているからである。

だからこの人のしてきたことは別に私利私欲というものでもなかった。これは別に国家レベルですることでありそれが一個人でしていたという違いである。そして別にオックスフォード大学の卒業証書がなくても実際の現場で仕事ができていたのである。だから会社側でも別にオックスフォード大学の卒業証書がなくてもその人は仕事ができる人だったのである。だから学歴にしてもそれですべてを判断することは間違っている
だからこの人の詐欺は何かすべて悪いものにも見えない。何かそういうことは会社でも国家レベルでも行っている。大掛かりな詐欺になってもいるかもしれない。あまりに大掛かりになるとかえってそれが見えないし信用するとなる。それで現実にグローバル経済とかではそういうことが実際に行われている。だからこそ陰謀論は常に言われるのである。
つまり国家自体とか大会社でも銀行でも詐欺していることがある。でもそれが巨大だからわからないとなる。つまりグローバル経済というのはそうした大掛かりな詐欺なのかもしれない。でもそれは罰せられることはないのである。国家レベルの詐欺ということもある。それは誰も罰することができないのである。

何かこの世はそうした騙しが詐欺が公然として行われる場でもある。それがカルト宗教団体でありそれを取り締まることもできない。税金も払うことがないビジネスなのか何かそれがあまりに大掛かりになると巨大になるとその悪夢は隠蔽されて見なくなるのである。
つまり大掛かりな詐欺はだましは簡単に見破れなくなる。原発事故でもそうだった。検察とかも天下りして官僚もかかわり国家的事業でありそのために安全神話が作られ誰もそこに立ち入ることもできない。アンタッチャブルとなりそこに危険があっても何も言うこともできなくなっていたのである。それは国家的犯罪でありでもそれを取り締まることはできない。だから国家自体が犯罪者になるということがある。でもそれを取り締まることはできなくなる。それで国民が大被害を受けることがある。

不思議なのは一人の個人がこのような大掛かりな詐欺作業したということである。でもそれは全て悪いものかというと国家に代わってアンゴラの経済を立て直すための方策として紙幣をばらまいたのでそれは結果的に効果があった。この人は確かに自分が英雄になりたいとか認められたいとかはあったがそれは私利私欲と言うものでもなかった。アンゴラの経済の立て直しのためにそうしていたのである。国家ができないことを個人で不正であったが防いであったが個人でしていたということである

ともかく国家的犯罪は犯罪にならない。戦争でも国家的犯罪であっても何百万人が死んでも犯罪にはならない。国家を罰するものはいないのである。また国家を罰することはできない。だから原発でも罰することができなかった。ただ津波が地震がその悪を暴いたのである。
だから何らか国家を罰するものは国家を超えたものでありそれは神にしかできないともなる。だからこそ最後の審判がありそれは個々人を罰するものだけでなく国家でも罰せられるのである。国家自体が犯罪を犯すものでありでも罰することはできないからである。
だからこの事件は個人の問題だけではない国家の問題として提起されたのである。国家は何もしてくれないから個人が大きな詐欺をして偽の紙幣をばら撒きアンゴラの経済を活性化させたということにもなる。でも結局は罰せられて悲惨な結果として終わったのである。

posted by 天華 at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年09月20日

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?  父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?

 父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。

 この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。


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私の家族は複雑であった。二人のの母親がいて一人は実の親だけど百歳まで生きた。もう一人は母親違いの姉であり年齢は七歳しか違っていなかった。同じ大正生まれだったのである。そして母は私の父親の家に嫁いできて女中のように働くことだけだった。特に店をしてた時食事をしていても満足にゆっくり食べることができなかった。店にお客さんが来て食事中でも立っていたからである。
そして私の母親は実家でも継母が来ていじめられて苦しんだ。それで何かそこでも働き詰めであり趣味など持つこともなかった。だから花にも興味はなく花など買わなくてもいいといいとか花はいらないと言っていたのである。それも育ちが原因していて貧乏でありそうゆう余裕もなく習い事もさせられることもなくただ働くことだけだったのである。だから実際に東京に出て女中もしていた。だからその一生は女中ともなっていた。

一方姉の方は公務員であり役所に勤めていた。もともとは看護婦だった。 55歳まで勤めて退職した。早めの退職だったが勤めることが嫌になったからやめたと思う。でも55歳は早かった。なぜならそれから30年も生きていたからである。姉も何か趣味になるものもなかった。向いていたのは看護婦だったのである。だから役所を辞めてから何をしていたかというと何もしないのである。家事は94歳までしていたからである。一方の姉は55歳で退職して何もすることがなかった。家事すら全然してない。なぜなら母が全部していたからである。

ここで一見これは何でも食事でも用意されるから人いいと見る。でもそれが認知症の原因にもなっていたのである。役所を退職してから何もしない。趣味もない。向いていたのは看護婦だったがそれもやめていた。ただ保健婦の後は事務的なもので働いていた。でも役所を退職してからは何もしない。家事すらしない。ただ何をしていたのか、テレビとか見て家では何もしてない。それは認知症になった原因だったかもしれない。母は94歳まで家事を一人でしていた。姉は何もしないかったのである。

母は働きづめの一生だったけどそれがすべて悪いものとして作用はしなかった。 94歳まで家事をして働き家で掃除でも常にしていて役割があった。姉は家で役割が無く役所も辞めて何も役割がないものとなってしまった。そのことは認知症になる原因だったかもしれない。家事というのは男が馬鹿にすることもあるが結構頭を使うのである。頭だけでない手も足も使う。特に料理は相当に頭を使うし熟練しないとできない。だから家事をする料理をすることは給料をもらえなくてもそれは仕事なのである。

だから男が退職したりして妻が食事の用意でもなんでもしてくれる時男に役割がなくなりそれが認知症にもなる原因となる。一見何でもしてくれる身分であればいいと思うが実は違っている。人間は常に役割を持ち働いていないと頭も体も機能しなくなり退化してゆくのである。だからこれは何か人生の人間のパラドックスにもなる。

例えば主人がいて召使いがいて召使がなんでもしてくれたりするのはいい身分だと見ているが必ずしもそうではない。認知症になりやすいのは召使いがいて自ら何もせず何でもしてもらう主人の方なのである。
また姑が嫁にお母さんは何もしなくていいですよテレビでも見てくださいと言われると姑がボケるということはある。それは家事も何もしなくて張り合いもなく頭も働かないのでそうなるのである。だから男でも何もすることがなかったら家事をするべきだとなる。家事はそれなりに頭を働かせるし体も使うから全体的にいい作用をするのである。

そして人間は何らか役割がないとボケてしまうことがある。だから長生きの時代老後も長いから何か役割を持ち働き続けることが大事である。
ワーク(work)というとき作用するとか機能するとか作品などの意味がある。つまり人間は生涯ワークする。それが例え金にならないとしても何か役割を持ちワークすることが大事なのである。それが高齢化社会の大きな問題になっている。老人は引っ込んでろとかテレビテレビでも見てるとか何もするなとか若い人に言われたらその人はボケてゆく。すると社会に大迷惑をかけるのである。

ともかく認知症はもう90以上になったら半分はなりどうしてもそれは避けられない。でもそれを防ぐにはやはり役割を持ち何らかの生きがいを持ち働き続けることが大事なのである。理想的なのは働きながら死ぬことなのである。近くの自転車屋は癌になっていても十年間くらい働き3日前に行ったらもう仕事もできないかもしれないと言って3日後に死んだのである。
まさに仕事をしながら死んだのである。街に一軒しか自転車屋はなくなっていたから貴重な存在だったのである。他でも近くの医者も90まで仕事をしていて一週間間くらいであっけなく死んだのである。そういう死に方はいいと思う理想である。
そうはいっても肉体労働者だと働き続けることが難しい。どうしても体が弱りできなくなるからである。でも軽いこと家事くらいはできるからそれでもしていた方がいいとなる。
ただ何もせずボケーとしていることが一番悪いのである。

老後は長くなるというとき大きな問題が病気になること特に認知症になることは一番大きな問題である。それは周りに大迷惑をかけてしまうからである。介護するにも精神障害者になってしまうからその苦労が大きいからである。そして本人にしても馬鹿になったとか言われてその生きてきた人生の価値まで否定されてしまう。あの人は馬鹿になって死んだ。それだけの評価になってしまうことも怖いのである。そして死ぬ最後の言葉が[私は優秀だった〕と言って死んだのである。それも悲惨だったのである。
ただなんらか馬鹿になったこと自覚していた節があった。それで自分は馬鹿ではないということ言いたかったのかとなる。

ここで家父長制的認知症と言ってるが家事もしないでただ妻の何でもしてくれるということは危険なものとなる。
認知症になることが確率は大きくなるからである。ただ人間は高齢化社会を生きることは今の時代になって初めて経験することでありそれでみんなが対応できないとなっている。その最大の問題が認知症になることなのである。

2023年09月19日

特別暑い夏の詩(鷺、涼しい、雷、夏の雲、・・・)


特別暑い夏の詩(鷺、涼しい、雷、夏の雲、・・・)

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雲の台のようになっている

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川の浅瀬の流れが響く
鷺が一羽餌漁りしている
木陰に休み風が涼しい
鮎が跳ね鯉が流れに泳ぐ
夏の雲が依然として湧き上がり
今日も雷が鳴り轟いた
高く高く雲は湧き上がり崩れる
まだ家にのうぜんが咲いて
例年になない暑い夏が終わらない
何か何年分かの夏を生きたよう
夏を十分に生き秋を迎えよう
我が生きる日はそれほど長くないだろう
灼熱の夏を生きてこそ夏は体に刻まれる
暑い夏寒い冬があり地球を感じる
今年の稲の実りは豊かである
十分に強い直射日光をあびたから・・・

今日も暑かった。鷺は夏の季語である。だからまだ今年は夏であり夏の光景なのである。これを見ていると涼しいとなる。
夏の雲も依然として出ている。
今年の夏は十分に夏を味わった。暑い夏寒い冬が枕草子で書いているが京都はまさに盆地であり寒暖の差が激しいからである。
浜通りは海からの風が涼しいから福島市の盆地とは違っている。でも今年の暑さは異常だった。
すぐ近くに川も海もある。散歩するにはいい、でも陽射しが強いので隣の街に行けなかった。近くを自転車で走るだけだった。
今日も雷雨があり今夜風が涼しい。明らかにまだ夏である。