カメラのレンズで歴史をみる (日本が技術的にも優秀だとうぬぼれるのは危険だった)


カメラのレンズで歴史をみる

(日本が技術的にも優秀だとうぬぼれるのは危険だった)


メーカーごとのマウント一覧
ライカ   M マウント L マウント
キヤノン   EF マウント FD マウント
ニコン   F マウント
ソニー − A マウント E マウント


日本のカメラ産業の競争力分析
望月 宏

日本のカメラの歴史を紹介している、ソニー − A マウント E マウントとありこれはソニー用だったのかとなる
そもそも私はソニーは電気関係の会社とばかり思っていた、デジタルカメラの前にカメラを作っていたのかとなる
現実にレンズに関してはミノルタの技術を取り入れてデジタルカメラを作っていた
となるとミノルタのレンズとは相性がいいのかとなる

日本ではドイツからカメラの技術を学んだ、今でもドイツと連携している、風力発電もドイツの技術者が来ていた、日本独自の技術はほとんどないというのが現実である
ただ改良した結果として世界でも通用する誇れるものにしたということである

カメラの技術はスマートホンでも利用される、監視カメラでも利用される、映像の時代になったときカメラの技術でもレンズでも重要なものとなった
日本の技術は優れているというとき何か日本で発明したものではない、改良改善したものである、だから日本人は技術先進国のように見ていたがそうでなかった
原子力だってももともとアメリカの技術をまねたものであり日本がで技術が優秀だから事故は起こらないということに洗脳されていた
日本は優秀だとか、日本が特別な国で神の国で優秀だから戦争に負けないというのも過剰な自尊心から生まれたのである、それは危険なことになった

日本人は津浪の被害の歴史が生々しく伝えられているのにスマトラ地震で津波の大被害があったときも日本だったら警戒しているからあんなに死ぬことはないのにと言っていた
それもまた日本人の奢りだった、日本人が苦手のはどうしても島国であり他国との接触が直接的ではない、間接的になる、すると「他山の石」という感覚を持てないのである
海を隔てて世界を見ることは弱点になる、地政学として長所として働くがマイナスとしても働く、大陸国だと絶えず異民族が否応なく侵入して規制の社会を壊して新しい社会を作ってしまう、日本自体が異民族に支配されたことがないから内輪で物事を処理できたのである
腹でかるとかいちいちその理由を問う必要もなかったのである

とにかく技術に日本人は相当にうぬぼれていたのである、それは高度成長時代に電器製品が売れたことにより日本は技術的に優れているという先入観を植え付けられたのである
その優秀さとはあくまでも外国の物をまねてコピーして改良改善したことによるものであった、日本人が発明したものではないのである
それはカメラの歴史の一つでもそうなっている、だからこそなぜ日本が今技術的にも遅れをとっているのか?それはもともと日本人が優秀で技術的にも優れたということではなかったのである
日本は確かにそういう自尊史に陥り安い国なのである


それは漢と争った夜郎自大国と同じである、漢などたいしたことがないと戦争した
相手は鉄の武器をもっていたが夜郎自大国では青銅器でありあえなく敗れた
漢などたいしたことがないというときアメリカはたいしたことがないとして戦争して負けたとにているのである
つまり技術力では漢が優れていたしアメリカが優れていたのである
別に日本には日本の歴史と文化があり誇るべきものがある、それはどこの国でもある
ただ日本は特別で神の国だとか宗教にもなるのは危険だったのである
日本は世界のことを肌でしりえない地理にあったとでそうなった
それでも日本独自のものがあり文化があり歴史がありそれは尊重されるべきなのである
ただそれは他国にもるから他国の文化も歴史を尊重するべきだとなる


カメラ一つとってもそこには歴史があった、ミノルタのレンズ技術をソニーがとりいれたというときそうだったそういう技術が継承されてソニーのデジタルカメラが作られた
そのカメラの基はドイツだったということである、車を作る技術はドイツと日本とアメリカしかないというときやはりこの三国は技術先進国である
でも日本の技術はほとんど外国から取り入れたものであり自国で発明したものがほとんどないのである
技術的にでも学術的にでも科学でも発明したものは欧米だったのである
日本で発明した技術があるのか、それが世界で利用されているかとなるとないだろう
日本の発明品とは何かとなると日本語だったとなるかもしれない
漢字を取り入れる前に大和言葉があったからである、だから日本語は日本が発明したものである
でもどこでもその国の言葉があるから日本語が特別優れているのかというのも疑問であるつまり言葉はそれぞれの文化だからである

とにかく日本のいい点はあり悪い点もある、それはどこでも同じである
日本の危険は何か自尊史に陥り安いのである、それが危険なのはそれで戦争になったし
また原発事故も起きたことなどがあり戒めるべきだとなる
個人的にうぬぼれることは危険になってくる、国でも同じでありそれが滅びにも通じている
技術でも必ず歴史が関係してくる、どうして今の高度な技術になったのかをカメラの歴史からふりかえる

今回面白かったのはカメラとレンズのアダプターである、これに接合することがむずかしい、メーカーが違うとうまくいかない、そのことは例えば国際関係でもそうである
日本は中国とアメリカの和を保つ接合するアダプターの役割がある
それは韓半島もそういう地政学的役割があり今もつづいているからだ
アダプターとして接合する国なのである

2020年06月10日

Amazonの通販で買い物の失敗 (レンズのことがわからないで失敗)


 Amazonの通販で買い物の失敗

 (レンズのことがわからないで失敗)

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 広角のレンズが欲しいとAmazonで8ミリの広角レンズがあったのでこれは凄いと思ってすぐに買ったのが失敗だった
そもそも自分にはカメラの知識が欠けていた
レンズでも買ったことはあるがそれはずいぶん10年とか前だったのである
それでもそのレンズがソニーのα6000にあっていたからレンズがあうのかなと思って買ってしまった
その前に近くカメラ専門店があれば聞いたが今は仙台市にもコロナウィルスで行けなかった

別にこの買物はむずかしいものではなかった
だけどカメラの素人にはEマウントカメラとAマウントカメラの区別がつかなかった
その時表示していたのがメーカーを選ぶことでありソニーの選んだから合うと思った
でもそれは簡単にわかることだった
まずシグマの会社に電話して聞くことだった
ただこの電話を大きなメーカーだと電話が通じない、ソニーでは有料対応になっている
でも500円くらいだと聞くことができる
知識がないものは今通販の買い物で失敗するときがある
レンズのことはほとんど知らなかったからである
カメラを使っている人はデジタルカメラの前から使っている
その時に使っていた人はレンズのことを知っている
かえってそのレンズが古くても映りがいいと言って使っていた
デジタルカメラでも使えるそうした古いレンズでいいのがある
レンズ自体はかえって古いのでいいのがある

それを返品しようとしてAmazonで調べたら不安になった
なぜなら中味を開けたら箱でも壊したら半分の値段にするとか書いてあったからである
すると4万で買って2万になるのかと躊躇した
それからこれを使えないかとアダプターがあるのを聞いた
でもそれも三万以上とかして躊躇した
それも動作は保証できないとシグマの本社の人が言って教えてくれた
ソニーの方は有料でめんどうなので聞いていない
これは本当は動作するかどうかメーカーに直接聞くべきだった

なんでもソニーではミノルタのカメラをレンズでも引き受けたとかある
ミノルタのカメラ技術を取り入れてソニーで電子化した
ただ私の記憶でぱソニーがデジタルカメラ専用だとばかり思っていた
おそらくミノルタとかでも何か古いカメラメーカーがデジタル化する前にあった
それから電子化したのがソニーだと見た

まずシグマの8ミリの広角は他にないと思い即座に買ってしまったのが失敗だった
これは自分の落ち度だった、それをアマゾンに電話で連絡して返品で金が返るのか聞けたのが良かった
そこで案内してもらい安心した、だから電話対応してもらわないとわからないことがあるただ電話対応となると手間がかかる、それでAmazonでも電話対応をやめていたのだがまたはじめたので助かった

とにかく新しく名取にできたビックカメラの人は親切に教えてくれた
シグマに電話してみて聞いてみてはといわれ、聞いたら電話対応してくれた
他にソニーにも聞いてみたらといわれ調べたが電話対応しているが有料だった
この教えることが有料になるのはやむをえないだろう
なぜなら教えること自体かなりの手間だからである
買う人も今は別になってもしかたない思った、商品自体が種類が多くて買うのさえむずかしいのである

自転車では試乗できないから乗り心地がわからないから高いの買うと困るのである
それでヤマハの電動のロードを買ったが25万してもほとんど使わずに終わった
これは大失敗だった、でもヤマハのマウテンバイクのYPJ-XCは本当に優れたものであり
乗り心地がいいのである、自走する感じにもなりこれは乗り安いから老人に返っていいものだったのである
それで病気になった同級生に紹介したらいいものだと言っていた

カメラについてはなかなか奥が深いからレンズとなるとめんどうになる
なぜカメラが奥が深いかというとレンズがデジタルカメラの前に大量に出ていて中古品の市場となっているからだ、レンズ自体はデジタルのではなくてもいいものだったのであるおそらくカメラは機械でもそうだがレンズにも左右される商品である

とにかくヨドバシカメラの対応した人は良くなかった、何も教えてくれない
要領がえなかった、ただあそこは東北では一番カメラには強い店である
ただコロナウィルスのことで行けなかった
今の時代こうして機械でもカメラでもなんでも複雑化している、するとどうしても教えられないとわからなくなる、ただインタ−ネットが発達してあらゆる知識が検索できる
でも問題は検索の仕方がわからないとか何か行き詰まることがある
そもそも初歩的なことがわからない人は検索もできないということである

今日ゆうちょで返品として送った  

名取のビックカメラの人に教えてもらい感謝します





2020年06月09日

アメリカの暴動の次は日本か? (日本の貧困化で治安も悪化する)


アメリカの暴動の次は日本か?    

(日本の貧困化と治安も悪化する)

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アメリカの暴動の原因は何なのか?それは簡単に黒人差別とも言えないようだ
暴動に参加したのはアジア系とかアフリカ系とかが入り混じっていた
黒人を殺した白人の警察官はアジア系の女性と結婚していた
これも複雑である、アメリカは人種の坩堝である
黒人差別の根はもともと深く解決していない、そして最近はヒスパニック系が多い
スペイン語であり英語が通じないとてしいる
そうなるとコミ二ケーションするのが困難になる
言葉自体通じないのだからそこからして意思疎通がむずかしくなる
だからそんな国がまとめられるのかとなる

様々なモザイクのような人種模様があってそのパズルも複雑であり分解してしまうのではないかともなる、そんな国は何をアイディンティティするのかとなる
そして極端な格差社会であり数パーセントの人が富を独占しているのも異常である
移民がまた多いということでまとめるのが至難になる
人種で相反目して銃で威嚇して不穏な状態になり暴動になる
そこに経済的格差が極端なので不満が金持ちに対してでも爆発する

それは資本主義というのはもともと格差をさけることができないものとしてある
資本主義が勝者を選別して持てるものがますます持てる者になり持てないものはますます貧しくなる、なぜなら資本がもていないからである
資本という時土地でもそうであり金融資本でもそうである
金でも本当に一億もつと株でも何かの投資でも見返りが大きくなる
損することがあっても一億あれば一千万損してもいいやとかなるから余裕なのである
そうして投資すると今回のようにコロナウィルスで職がなくなる人がいてもかえって株が上がってもうかっているのだ
これも社会の矛盾でありゆがんだ社会となっている
つまり道徳なき経済なのである、市場はギャンブル場でありカジノなのである
そこに公平さなどはありえない、もう見えざる神に導かれるのではない
実際は見えざる悪魔に導かれているのが現代のグロ−バル資本主義なのである

こういう社会は真面目にこつこつ働くことが馬鹿らしくなる
一攫千金とか消費だけが目的化する、ギャンブル場では時給いくらで汗水たらして働いていても金にはならない、でも市場のギャンブル場で巨額の金が賭けられてもうける
そこにももう職業倫理もなにもない、そんなふうにして真面目に働いても金は博打場に吸い上げられて下には回ってこないのである
道徳なき経済である、そして金は湯水のように刷られて日銀が株を買いコロナウィルスで苦しんでいる人たちのことなど関係ないのである
株は上がっている、国債とかからの金が株にながれて上がっているとかなる
要するに実態経済とは関係なくマネゲームなのである
そして労働倫理も職業倫理もない、一攫千金を夢見てFXに底辺層は賭ける

ただその資本主義のマルクスが指摘したことで社会主義共産主義国家が生まれたがこれも中国のように共産党幹部が王朝の官吏となり莫大な金を得ているから同じなのである
ただ不満を暴力で抑えている違いがあるだけである
六億人が貧困層だというのも驚きである
その格差もまた大きい、不満が爆発しないのは暴力で抑えているからである

中国の李克強(りこくきょう)首相=写真、新華社・共同=が五月二十八日の記者会見で「中国では六億人の月収が千元(約一万五千円)前後だ」と発言し、中国メディアなどで話題となっている

これが中国の実体なのか・、中国の貧困はもともと生活費が安かった、粥だけで朝食とかで安いのである、日本の十分の一とかだった、10数年前にしてもそうして安く生活できるからいいのである、宿でも百円か何か安く泊まれのである、日本がだったらとても泊まれない、つまり日本では貧困でも金がかかりすぎるのである
貧困用のものがない、みんな富裕層とたいして変わりない生活しかできないのである
第一食べるものでも外食でそんな安いものがないからである

このアメリカの暴動は世界に飛び火する、格差が世界で大きくなったからである
それを是正するにはなにかしらの今回の様な暴動のようなものが起きてしか変わらないともなる
中国は盗賊が王になったごとくである、それすら底辺層は目指すようになる
それが主義とか関係なく権力をとることである
黄巾族とかが宗教でも時の政権に反抗する、カルト宗教団体がそうである
その創価とかカルト教団と自民党が一体になっているのも不似合なのである
なぜなら創価には下級国民が多いからである
自民党は上級国民を相手にしていて旨い汁を吸う政党だからである

だから何かこれからさらなる巨大な変革が起きて来る、格差社会を打ち破るような大きなことが起きて来る、その後に来るのはわからないが資本主義でもない社会主義でもない
何か新しいものがそこから生まれるようになる
日本の貧困化はさらに厳しくなりその人たちがもうアメリカのように暴動を起こすかもしれない、そんなことがないとはいうけど犯罪は増えることは間違えない
追い詰められた人間に善悪などない、明日食べるものがなくなれば襲ってくる
相手のことを考える余裕もないからだ
そういう不穏な危険な時代になっているのだ

ただそうした混乱状態からまた新しい秩序が生まれるかもしれない
格差社会は打破される、フランス革命のようなことが起きるかもしれない
その前に既得権層は貴族がギロチンで殺されたように血祭りにあげられる
そのとき下層民は喜んでいたのである
そういうことがアメリカでも起きて中国でも起きてそして日本でも起きる
日本の貧困化は深刻になっているからだ
このコロナウィルスでさらに貧困化してホームレスなどが増えたりして治安が悪くなる
そういう困窮者が増えれば治安が悪くなる
そして上級国民とか金持ちとかが襲われるのである

だから株でもうけたからいいやとか金持ちが思っているとそうはならない
巷に浮浪者がホームレスがあふれるときその人たち犯罪者になってゆくからだ
それで戦々恐々として生活するようになるからそこに富裕層にしろ貧困層にしろ平和はなくなるのである
若者の不満も大きい、貧困化しているから世代間対立も激しくなりその不満をぶつけるようになる
貧困層とか不満分子が怖いのはもともと資産もは金もないからかえって守るものがないから暴動でも起きて失ってももともとだとなる、ところが富裕層は金でも資産を持つと守りに入る
どうしたら財産を守れのかとなら腐心するのである
それは中国の共産党幹部でも外国に逃げる算段しているし金があっても紙幣が紙切れになることがあり恐怖になる
その金持ちにつけいり財産の保全を説く投資家のコンサルタントが生まれるのである
つまり金持ちは金持ちで決して安泰ではないのである
むしろ格差社会を金持ち自身がなくすようにしないとその危険から逃れることができないのである

ただこうして大きな混乱が起きてその後にまた新しい社会が生れて秩序が生まれるかもしれない、そういうことが人間の歴史の繰り返しでありカルマだったからである
だから津波から原発事故から水害からコロナウィルスからアメリカの黒人暴動からと世界は不穏になり国際関係も大きく変化する
そこで日本はどうするのか、それが今大きく問われているのである


posted by 老鶯 at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

磯部村の寄木神社の謎(津波の伝説を調べる)


磯部村の寄木神社の謎(津波の伝説を調べる)

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磯部村の寄木神社の石段



今から300百年程前の江戸時代に、浅羽海岸を中心に大津波がおき、海岸周辺の集落は大打撃を受けました。この地方の殿様から、町の人たちを助けるよう命じられた役人が、海岸(現・浅羽町中新田)を歩いていると、神々しい光を放つ木像の観音様が打ち上げられているのを見つけ、拾って帰りました。


ゆめごこちのまま、海岸に流れついた木(こ)っぱの山を見つめていると、その上に、おさないわが子の無事(ぶじ)な姿(すがた)があったのです。そして、その木っぱの下には、一ぴきの大きな亀(かめ)が死んでいました。子どもとともに流されたつまが、亀になってわが子を助けたのでしょう。いつもつまや子どもをだいじにし、いっしょうけんめい仕事にはげむ青年の願(ねが)いを、神様がきいてくださったのでしょう。
 青年は亀をていねいにほうむり、そこに一本の松(まつ)を植えました。

 亀の松(袋井市)これも浅羽海岸の津波の伝説


この神社の名称となっている「寄木」とは、海の彼方に実在すると考えられていた常世(天国・浄土)から、神仏の依代(よりしろ)として流れ着いた霊木のことである。太平洋沿岸には漂着した寄木を祀る神社が特に多く見られる


熱海(あたみ)来宮の七月十六日の例祭に、古来行われていた鹿島踊の記録は、かなり精密なものが『民俗芸術』三の八に報告せられている。附近の幾つかの村のも是に準拠したものか、歌の詞ことばなどは互いによく似ており、俚謡集に出ている次の安房郡ものも大同小異である。


ちはやふる神々をいさめなれば
みろく踊のめでたし
まことやら熱海の浦に
みろく御舟が着いたとよ
ともへには伊勢いせと春日かすがの
中なかは鹿島かしまのおん社やしろ 云々

海上の道 柳田国男


磯部の寄木神社の由来は全国にも共通している、海に囲まれた日本だからこういう物語が生まれた、物語でもそれは実用的なものがあり空想から生まれたのではない
つまり歴史でも伝説でも事実があり人間が生きて経験したことから語られる
全くの空想など小説にもない、そこには何かしら必ず経験されたことが伝えられている

海となると海にまつわるものがあり海彦山彦の物語が生まれる、それは綿津見神社と山津見神社がありそこから安曇族が全国に海を通じて渡ってきて未開の地を開いた物語がある相馬地域に本当に綿津見神社と山津見神社が多いのかそのことが神社として残っていてもそれにまつわる伝承がないのも不思議である
伝説とか伝承とかが歴史の前にある、歴史は文書化するとそれに頼る、その前に伝説と伝承が口碑として伝えられた、それを掘り起こしたのが柳田国男だった

まず寄木神社の由来は海の寄り物がありそれが由来である、木でも海岸に流れ着く
去年の洪水では海岸に木が多く流れ着いたことには驚いた
川からも木は海岸にながれつく、するとその木を炊きものとして燃料として利用する
海にはまたいろいろなものが漂着する、人間すら漂着する
つまり海から來るものが日本に多いのは当然なのである、海に囲まれているから当然そうなり、海のかなたに理想の国がニイラカナがあるという弥勒信仰が起きる

だから寄木から弥勒菩薩が現れてそれが神社の基として祀られるのも自然だとなる
海から福と富がもたらされる、海を伝って異人でも中国からでも韓国からでも渡ってくるからである
そして日本ではその入り口として津が大事だった、津(つ)とはつづく、つづる、つたえるとかなりきづなは木綱であり何か海から流れてくるものによって絆が結ばれていた
木と綱だということもそうした漂流物と関係して生まれた言葉なのかともなる
つなはつなぐにも通じるからである、海は外と内を結ぶものとしてあった

それで津波のことを津(つ)になったのは津波はつづいて波が押し寄せるからだともしている、つはつづくだからである
この検索で注目したのが津波が遠羽海岸に木像の観音様が打ち上げられたという伝説である
するとここでは津波の伝説が語られていたとなる、確かに津波があったこととして伝えられている
この辺でこれだけの大きな津波がありそのことを探求して来た 
でも不思議なのは400年前に慶長津波があり大きな被害があった
でもその記録は相馬藩政期に二行だけ700人溺死と記されていただけだった
それも津波の後にやっと発見された記録だったのである
伝承は確かに相馬市の鹿島区の境の八沢浦の延長の柚木村に急ぎ坂とか念仏に関係する伝承が残っている、あそこに残ったのは八沢浦の奥ということで残った
そこまで津波が来ても大きな被害にはならなかった、津波は村を全滅させる
するとそこには伝承でも伝説すら残らない、海老千軒あったとするとあそこは弥生時代の遺構も発掘されたり最近古墳が二つも発見されたから古い場所だった
ただ鹿島区に何一つ津波の伝承は残されていない、原町区でも他でもそうである
これもなぜなのだろうと探求しても結局わからないのである

だからここに一応伝説で大津波が来たということはやはり大きな意味がある

相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。
市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。

その村は壊滅して今はソーラーパネルが敷き詰められてその面影を偲ぶものはなにもないそこに家があったということもわからなくなった、それは海老浜でも右田浜でも烏アでも萱浜でもどこでもそうである、家があった痕跡するなくなる
だから津波は本当に恐ろしいものであったのだ、それで津波で壊滅した村の伝説は残らないというのはそれをう伝える人も死んだからだとなる
ただ津波でも助かった人たちがその周辺で伝説を残したとなる

津浪から十年すぎて一昔になるとしてもまだまだこの辺ではその傷痕が消えない
それだけの大きな被害だった、ただ八沢浦とかは田が回復したとか復興はしている
でも犠牲者が余りに多すぎたことでその死者は還ってこないのだからそのことでまだまだ忘れるとはならない、家族を失った人たちはやはり忘れられないとなる

とにかく磯部村に残ったのは寄木神社だけであり海岸の磯部村は消滅したのである
ただ古磯部ともありもともとは海岸地帯の磯部村は後からできた
もともとは高台に住んでいたのだろう、なぜなら家が密集していたところは砂州だったからである、古い場所は高台にある、日本では平地は湿地帯になっているからである
それで古い神社はたいがい高台にある
八沢浦でも熊野神社がある所は海から近くても高台にありそこで津波が来て必死にその後ろの山の高台に逃げて助かった人がいた
かなり海に近いのに助かったのは前に丘があったからである、それで津波の勢いがそがれたのである

そして八沢浦は明治になって干拓された場所でありそれで平地にあった妙見の社は消失した、それは新しいものだったからである
神社とか寺は古いから高い所に作ったのである
烏崎の津神社ももともとあそこの平地にはなかった、別な所から移されたのである
そこも湿地帯だったからである、烏崎の方が最初の漁場でありその河口の方はあとから生活の場となり港ができたからである
烏崎で最も不思議だったのは高台にあった八幡神社が津波からぎりぎりで助かったということである、それはまさにぎりぎりの高さにあったことの不思議だった
それも古い神社はたいがい高い場所に作るから助かったのである

日本がにはこれだけ津波の被害かある国だった、でもこの辺では津波の伝承とか伝説がなかった、それで400年間忘れられていたのである
それで此の辺ては津波が来ないとして逃げずに死んだ人もいる
むしろ老人が頑固で逃げずに死んだ
これは何を語るのか?それは人間の時間の感覚が短いからである
いくら人生百年としても百年である、400年前となるともう誰も知らない伝える者すらいなくなっていたのである
それでも他では津波のことが語られている、相馬地域ではほとんど語られていなかったからなぜなのかとなる


寄木神社の由来  

  合祀稲荷神社 寄木神社 
  
平氏没落後志摩国磯部に身を隠した落武者辰
之丞一行は間もなく陸奥国石巻に下り寺島氏
を称して世を忍ぶ辰之丞を船頭として漁師とな
つたが 海面を混濁する北上川の氾濫に度々漁撈
を妨げられ 遂に適地を求めて宇多郡大竹荘磯部
の里に移つたと伝えられる
辰之丞より六代程過ぎ寺島三郎通称与五作が或
日海に漁して一古木を得これを海中へ捨てたが三度
も網にかかったので砂浜に放置したところ 其夜海
浜一帯に怪光を輝かし与五作には夢に寄木大神の託
宣があつた
与五作はこの古木を箱に納め藁菰に被い祠に安置
して寄木大明神と崇め奉ったと伝えられ 時に
暦応二年(一三三九)秋七月であったという 次い
て与五作は神官となり市大夫と称して寄木大神
に奉仕し 黒木城主黒木正光が神田若干を寄せ
たと伝えられ また四代の神官寺島大之進の応永
二十二年(一四一五)三月には時の黒木城主が信託
によつて社殿を建て神田三反余歩を寄附したと
いう
永享の末頃寺島家は元の漁師に復し神官は絶
えたが後 佐藤好信が相馬氏に仕えて磯部城に拠
り祈願所として開山した海蔵寺が別当を勤めた
と伝えられる 天正十三年(一五八五)の建立を伝え
られた社殿は昭和九年(一九三四)旧正月十二日の類
火に焼失したが 畏くも御神体は災禍を免かれ
同年社殿が再建された
天永元年(一一一〇)上之台に祀られたと伝えられる
稲荷神祠は大永元年(一五二一)ここに合祀された
と伝えられ祭神宇賀御魂神と称し奉る
 昭和六十年十月吉日」

 海面を混濁する北上川の氾濫に度々漁撈
を妨げられ 遂に適地を求めて宇多郡大竹荘磯部
の里に移つたと伝えられる

これも災害があってこの地に移った、そしてまた津波の災害にあって磯部村は壊滅した
つまり日本がいかに自然災害が多い国でありそれが伝説にも物語にもなるのが当然である実際に津波にあって石巻からか故郷の丸森に移りそこで今度は水害にあった女性もいた
これはその逆の話しだったのである

posted by 老鶯 at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2020年06月08日

海老村ー八沢浦ー磯部村を夏に回り俳句と短歌を詠む (津浪から9年半過ぎた変化)

                            
海老村ー八沢浦ー磯部村を夏に回り俳句と短歌を詠む

(津浪から9年半過ぎた変化)

irishouse11.jpg
ここは金沢へゆく六号線の脇

perolerose7.JPG

この薔薇はブルーバリューと名である

この写真は成功した、やはり一眼レフでないといい写真はとれない
後ろが偶然ぼけたから見栄えがいいとなったからだ
これはプロ級の写真となるかもしれない、自分でも意外だった

natukikuriver1.JPG
sekireikawa2.JPG

鶺鴒が映っているから拡大しないと見えない

クリック拡大

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鹿島区の仮設がみんな壊された
その跡が広いのである、だからその空地をどう利用するのかとなる
家はまだ建っているがこれ以上はそんなに建てる人はいないだろう
でも鹿島区の人口は二割以上が外から来た人になった
だから都会化したのである



磯部村(寄木神社)

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yoriki4.JPG

isobekamome6.JPG

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家囲み紫菖蒲の色深む

街中の空地の広く夏雲

外へ出て今日も飛び交う夏燕

黄菖蒲や沖行く船を海老に見ゆ

(磯部村寄木神社)

老鶯や石段上り社古る              


我が庭に薄紫の薔薇一輪奥にそ咲きてつつみ隠さる

我が家の廊下の広く真夜中に夏満月を見て歩むかな

灯のともし月影さして夏の夜や町は眠りぬ音もなくして  
  
(八沢浦)  
         
新しき道まっすぐに八沢浦都草咲き我が行きにけり

湊村消えしもあわれ誰が語るその跡もなく消えてなしかも

(磯部村)

磯部村消えて悲しもその思いいづこに残る社訪ねき

磯部村社の樹々の森なして残るも人は消えて悲しも

ハマヒルガオあまた咲きにつ海広く鴎の群れの鳴きて飛び交ふ   



八沢浦から磯部村に行った、八沢浦の湊村は消えた、磯部村は余りにも悲惨だった

「相馬沖は遠浅だから津波は来ない」。地域の多くの人たちが、そう信じていた。1960年のチリ地震でも津波は防潮堤を越えなかった。経験則があだになった。

相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。 市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。

海老村も消失した、崖の高台が避難場所として指定されたのが大失敗だった
あそこで30人くらい死んだ、でもうしろの森に逃げた人は助かったのである
危機一髪で助かった、あそこを津波の避難地として指定したのは津波のことをこの辺では全く知らなかった、まず400年前にあったとしてもそんなことを知る人は学者でもいなかったのである
津波の後に相馬藩政史に二行だけ津波で700人溺死という記録を発見したからだ
だから津波は来ないという確信になってしいたから磯部では逃げなかった
津波の恐ろしさは村ごと消えてしまうことである
磯部村は消え八沢浦の湊村は消え、海老村も消え烏崎村も消えたのである
これほどの被害があったならあんな海岸線に家を建てない
だからなぜあんなに家が密集して建てていたのかという疑問になる
それは日本が全体でもそうである、津波の被害は常に日本であったけど忘れられていたのである

とにかく災害は忘れたころやってくるというのは本当である
コロナウィルスでもそうである、スペイン風とかコレラとかで被害があっても忘れていたそして今回でいろいろとウィルスの怖さを言うのである
つまり人間はこうした自然災害とか定期的にくる、カルマとして来ることなのである
カルマは必ず苦しみとなってくるときそのカルマを自覚するのである
そうしないと自覚できない、昔の人が津波であれ苦しんだとかウィルスでもそうなのである

磯部村ではただ寄木神社だけが残った、あそこは森になっていて何か古さを感じる
でも事実上磯部村は消滅した、丘の方は残ったとしても村として維持できるのかとなる
磯部地区全体としては2000人いたとなると人口としては多い
その大部分が海岸地帯に住んでいたから悲惨だった
ともかく磯部村にはあの寄木神社が残るだけである、ただ丘の上の小学校とかは残っている、もともと磯部村は古磯部がありそっちの方が古いとなる
だからあの海岸線に住んだのは新しいとなる、でも実際はそこでも慶長津波の前から人は住んでいたから古い場所なのでなのである
古磯部とあるのはそこに新しい町が生まれたからである、そっちの方が中心となったから
である、寺も高台にあったことでもやはり古く住んだ場所は高い場所だったとなる

とにかく何か磯部村ではそこはソーラーパネルが一面にしきつめられそこに多くの住んでいた跡がなくなった、だからもうここにあれだけの家があったことを後の人は知ることもできない、つまり偲ぶものがないからだ
神社が残ったとしてもそこに人が住んだ跡とはならない、それは別だからである

なぜか磯部の海に鴎が群れて飛んでいた、あんなに多く飛んでいるのはなぜなのか?
浜昼顔が防潮堤の隙間から咲いていた、砂浜に咲くといいがそれもない
松川浦の海には咲いている

夏は写真とか花を見るにはいい、それで原町へ行く六号線の脇の金沢の坂を上る所の堤の側に新しい家ができた、それは大工の家だった、庭に畑がありその家を囲んで紫の菖蒲が咲いていた、それを写真にとらないんのが失敗だった
人間は何気ない所に美があるが見逃しているのである
あまりに平凡だとそこに美があると感じないのである
ただあそこは前がソーラーパネルになったから景観としては良くない

夜は満月であった、広い家の二階の廊下から見る、まずテレワークとかなると家で仕事するとなると静かな広い空間と部屋が必要になる
子供もいたり何か煩いと仕事ができないからだ、私自身は知的作業するが誰もいないからかえって集中できる、でも家事とかやるのに追われる
これだけの文章でも写真でもプログに出すとなるとそれが一仕事になる
それでフェスブックとかはじめたが一回も見ていない、やり方がわからない
それよりいちいんち答える時間がないのである
まずプログに書くことが一仕事なのである
それでプログの人気者がyoutubeで5000万一年に稼いだという人がその苦労話を語っていた、最初プログの記事を書くために8時間かかったというのもわかる
プログとかインタ−ネットとかで表現する問題はやはり手間がかかり時間がかかるのである、この時間だけは手間だけはいくら便利になってもできない
それはどんな仕事でもそうである、いくら機械化しても人間の手間がかかるのである
その手間がなくなることはないのである

2020年06月07日

「相馬新報」にタイトルを変えた

                                      
「相馬新報」にタイトルを変えた

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プログのタイトルを題名を変えた、相馬郷土史としてはじまったがその他いろいろなことを書いたので似合わなくなった
そもそもインタ−ネットという技術からして新しいものでありその技術で新しいものが生まれる
だからこれまでのメデアとして新聞があり雑誌があり週刊誌があり月刊誌がありいろいろあった、でもこれらは個人でやるのは金銭的にも無理でありできなかった
このインタ−ネットは個人をベースにして新聞であり雑誌でありyoutubeだとテレビ局になっているのだ

これまでのマスメデアは巨大なものでありテレビだと六局しか放送できなかった
そこには莫大な資本がかかるから報道を独占して権力をもった
それでマスコミの報道に洗脳される結果になった
特にNHKは絶大な力をもっていてNHKの放送すること国民の世論を形成したのである
NHKが言っているから正しいとまでなっていた、国民から全員から強制的に金をとって報道しているのに偏向報道していたのである

相馬郷土史とか相馬学とかでも何かあっていない、相馬新報というときあっている
それは相馬地域からの土着した場を重視した発信だからである
それがリアルタイムでもインタ−ネットでも可能になった

ただ正直一人でやるとなるとこれまでしてきたけど楽ではない、プログでも本当は
ワードプレスとかでも試したがめんどうでやめた、またフェスブックもやろうとして設置したが一回も発現せずに放置した、ホームページもWIN95から始めていた、これも放置したままである、それで表現する技術も進歩した
だから早い時期からはじめてここにいたっているが技術が変わりついていけない、何でも一人ではできない
スマホから読まれるのも多くなった、それで私はスマホはしていないから技術的についていけなくなった
スマホから読まれることでインタ−ネットも一般化したこと確かである

人間はやはり常に革新であり新しいものが生まれることが喜びなのである
それはあらゆる分野でそうであり新しいものを創造することが人間に与えられた使命なのである
だから最初新しいものが何かわからないのである
私自身自分のしていることが何なのかわからない面があった
でもふりかえると郷土新報という名にふさわしかった
郷土史だけでなく様々な視点から報道してきた、探求して来た
それは津波とか原発事故というあまりにも大きな事件があったためである
それがメインテーマとなったからである
これはどうしても外部より地元が大被害になったのだから地元の人が語るべきこと報道するべきことであったからだ
それは今だにつづいている問題なのである

これはもう大きなテーマとして未来にも託された大問題になった
そこに科学が深くかかわっているのでそれを探求する事は文系の自分には無理があった
そんないろいろな能力がないからである
でも地元だから自分なり放射線量とかを計り報告したのである

相馬新報でもそうだが人間は何か人間は新しいものを作り出すことにより新しい世界が開けて来る、そういう繰り返しなのである
人間に停滞は許されない、停滞は死なのである
技術でもそうだし社会でもそうである、常に改革がイノベーションが望まれる
グロ−バル社会になると世界との競争で旧来のままだと負けて衰退国家になる

だからメデアでも旧来のものは衰退して消えるともなる
マスコミは報道を導いた6局集中の独占形態だった
それがインタ−ネットで崩れた、ただ依然として旧来のメデアに頼る
でもそこから新しい報道でも何か生まれないのである
明らかに新しいものはニューメデアのインタ−ネットから生まれている
ただそれも最初は何か理解しにくい、新しいものは簡単に理解できないのである
明治維新でも江戸時代から明治になったときこれはなんなのだろうと理解できない
変化大きいと理解できない、それは明治維新と戦後にそうなった
あまりにも大きな変化でありそこで旧来のものが新しいものになったとき最初は何か理解できないのである
つまり技術でもインタ−ネットとかでも何か最初理解できない、それでとまどう
でもその技術になれて一般化するとそれが当たり前にもなるのが歴史なのである

ともかくどこに未来があるのか、その未来を作ることが新しい世界を作る
何かいろいろなものが日本でも行き詰まっている、それは新しいものが作れないからである、明治維新のように新しいものが作れない、それであらゆる面でゆきづまる
世界に後れをとる、日本は政治経済教育技術であれ新しいものを作り出すことが強いられている、そうしないと日本は衰退国家となって取り残される
そういう岐路にたたされている
それは中国が巨大化するとかアメリカが衰退するとか国際政治でも日本は岐路にたたされている、経済とかでも本当に日本が貧困化して上級と下級に分断される
そして暴動さえ起きるのではないかと危惧されるように格差社会となる
それは資本主義が限界に来て機能しなくなりギャンブルとなりカジノとなり道徳なき経済となっているからである
そこにも大きな変革が起きて来る、それは銀行の役割がなくなったことにも現れている
つまりあらゆるもので変革が迫られているのである
もしそれができなければ衰退国家となり日本は今度は中国の奴隷国家とされる

戦後はアメリカの加護の下に高度成長がありえた、でもそれは冷戦とか国際情勢の幸運によっていたのである、それがなくなったとき中国とアメリカのはざまで日本は新たな危機にさらされる、でも日本の地政学はどちらにも組みしない、東西を結ぶつなぎ役なのである
ただそれは日本がやはりそれなりの大国でないと無理である
小国では結局どちらかの属国の継続なのである

いづれにしろ日々状勢は変わる、コロナウィルスでも今度は世界自体が変わる、考え方まで変わる、これも時代の要請で生まれたのかとまでなる
何か神の意志が働いて世界が変わるのかともなる、易姓革命である
どうしても老人は時代の変化についてゆけない、でも老人は経験があり深い見方ができるだから無用なものではない、人生百年時代は特にそうである

自分自身でも今ようやく成果が現れたと感じる、だから人生百年時代は成果を出すのが遅くなる、高度成長時代は経済一辺倒だったが企業戦士の時代だったがそれも変わる
これからは文化の時代になる、内面の時代になりそれそれの創造の時代になる
ただ高度成長時代に培ったものが人生百年時代に華開く
やはり豊かな時代を経験しないと文化創造は生まれない、ルネサンスは生まれないのである、だから高度成長時代はその基を築いたのである

それが人生百年時代に華開く、だから日本は経済的に衰退しても文化の面ではこれから栄えてゆくように思う
インタ−ネットはそうした表現の場として優れているからだ
こんなプログでさえ表現できることでもわかる、無料で誰でもできるからだ、他では表現の場を与えてくれないからである、つまりインタ−ネットはyoutubeもで個々が表現する時代になったのである
その表現するものにもいろいろある、多様な表現の社会になったのである


神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい
十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。詩編-ダビデ

2020年06月06日

資本主義は限界、銀行に金があっても投資先がない (投資は株でももギャンブル化して経済の実体を反映しない)


資本主義は限界、銀行に金があっても投資先がない

(投資は株でももギャンブル化して経済の実体を反映しない)


この手数料は明確化していない、でも3パーセントとなると銀行にとってはいい商売である

絶対に銀行は損しない商売だからだ!

3パーセントというとき100万だと3万であり1000万だと30万になる
それで何かその1000万をあづけたものを投資信託としてでも国債でも株でも売ると売り買いするとき手数料が入る
だからずっと長くもっていていいものでも売る
それがリーマンショックの時もっていた株が元にもどり上がりはじめていたとき売って
J=REITに回した、その理由は東京の不動産とかオリッピックで上がるからだとしていた
でもリートは一時下がっていた、でも上昇してもうかるようになった
そしてコロナウィルスで半分にも下落したのである

これまでの成績をみるとカナダ国債が石油かとれるのでいいとして買った
なぜカナダなのかも私にはわからなかった
カナダで石油とれていたんだというくらいの認識しかなかった
それが石油が下がり急激に下がった、それで売った、これは失敗だった
ただ一つだけはアメリカのリードは為替差益でかなりもうけた、トランプ大統領になったとき円が安くなったからである

結局何もわからないで銀行にまかせた、第一そういうことが失敗のもとだった
だから自分にも責任がある、ただ銀行とは信用できるものだとばかり思っていたのでる
ところが今ではゆうちょでも農協でも金融となると信用できなくなったのである
だからこの変化も大きいものだった
それで地方のおばあちゃんでもおじいちゃんでも今までの感覚でゆうちょでも地銀でも見ているから失敗する、ゆうちょに銀行にあづけていれば安心だとなっていたからである
そういう時代は夢物語になっていたのである

ただ奇妙なのはコロナウィルス後一週間前だったか株が上がっているからどうですか?

チャートを見せて株をすすめた、でもいろいろあって買う気にもかかわる気にもならなくった
でもその株が上がったのには驚いた、こんな時期にどうしてあがったのか?
富裕そうにはコロナウィルスで庶民が苦しんでも株で大きな利益をプレゼントしたとかいうのもわかる
株は富裕層が大きくもっているからだ
そして株長者も生れる、株とか資本を多くもっている人はさらに大きくもうかるのが資本主義である、それは確かなのである
投資する額が小さいとどうしても利益も少ない、それはギャンブルとにているのだ
大金をかければ大金が入る、一気に大金をかけると百万二百万になり一千万が二千万になる、それはギャンブルなのであり株とかはギャンブルとにているのだ

そもそももうグローバル経済となると見えない世界だからである
ただ金が増えれるか減るかしかわからないからだ
だから運が作用しているとなる
どんなリスクがあるかも先が見えないからだ、石油が下がる、コロナウィルスで世界の経済が縮小する、こうしたリスクは予測できないからだ
そしてコロナウィルスから回復するというのも予測できない
でも回復すると見込んで株が上がったのかというとそうではない
日本で日銀が株を買っているとかアメリカでも国の機関が買っているとかで上がっていて景気とは関係ないのである
一種のマネーゲームと化しているのである

景気をみる指標は銀行にある、銀行に金があまっていても貸す先がない、投資する先がない、つまり新しい会社を起こすとか新しい事業をするとかで金を貸してくれとかないのである
私の家では店をはじめるとき戦後まもなくであり5万円だったかその資金がないので苦労した、それをやっと知人から借りた、銀行では貸してくれなかったのである
でもその後店は繁盛した、だから借りた金は利子をつけて十分に返すことができたのである、そういう時代に金を貸さないのは銀行では見る目がなかったとなる

ただその時は貧乏な時代だから慎重になっていたのかもしれない
高度成長の時代はとにかくそんな小規模の零細な店でも工場でも雨後の竹の子のように出てきた時代だったのである
それで労働力がたりなくなり中卒の金の卵が集団就職したのである
その時どこでも何か起業しても何でも作れば売れる時代だったのである
そういうときは銀行から金を借りて事業を起こすようになる、それで事業でも成功して銀行も貸した金に利子がついて返ってくる
結果的に銀行に貯金した金にも利子がつく、それも高かったのである
銀行ではただ金を集めるだけで良かったのである

つまり株だけでは景気をみれない、アベノミックスは政府に操作された作られた景気であり株しか上がっていない、コロナウィルスでも株が上がっていること自体異常なのであるだからみんなコロナウィルスで苦しんでいる時株だけは上がっているというのはもう経済が機能していないのである
要するに紙幣は紙なのだからいくらでも供給できる
それで景気が良くなったりしないのである、MMTとかの理論も成り立ちようがないというのもわかる
そこに現代の資本主義が限界にきていることを証明している

それで不思議なのはコロナウィルスである、これはグロ−バル経済をとめたことの驚きである、その一番の象徴が航空会社が大損して倒産したとかある
この航空産業こそグロ−バル経済では最も必要としたものだったからである
ばんたりとヒトの流れはとまったのである
それで有名な投資家が航空会社で大損したのである

そしてグロ−バル経済はもう元のように戻らないというときもそうである
国と国も分断される、自由なモノ、ヒトの流れがとまる、国内に回帰する
それとともに何か人々のマインドも変わる、外へ外へと向かったマインドが内へ向かう
鎖国とならないまでも何かそういう傾向になり家でテレワークしたり家で過ごすことが多くなる、外出すらままならいなともなる
そうなると禅僧のように家で瞑想しているともなる
それで家を住みやすくする心地よくする、家です過ごすためのものが売れるようになる
まず家で仕事するにも仕事場が必要であり家の中が快適でないとできないからである

そうなるとIT関係はさらに需要が増える、教育関係でも家で授業を受ける、今でもyoutubeでできる、するといかに効果的に教えるかということで競うことになる
それで人気になればテレビに勤める人のようにわずかでも高収入を得る社会となる
私も子供向けの番組を作りたいがめんどうでできない
それは教材を作ることと同じなのである、熟とかなると場所の問題から人間関係とかいろいろめんどうすぎるのである
ただyoutubeで教材を作るだけだでありそれで収入になるとしたら楽ともなる
ただそこで必要なのは創造力なのである、いかに教えるかは創造力なのである
テレビだとか動画だとわかりやすくなるからだ、それで大衆向きにもなっているからだ
だから専門外でも何かそれなりに知識がつくということがある

いづれにしろ資本主義はもう限界にきている、金融資本主義とかマネーゲームとか世界がギャンブルゲームになるような世界は退廃してくる
道徳無き経済は人間としてありえないからだ、経済は経世済民である
「経済」という言葉はそもそも中国の古典の中にある「世を經(おさめ)民を濟(すくう)」ことを意味している。つまり民を救うために様々な公的対策を行わんとすることが「経済」なのである。
まさに今コロナウィルスで苦しんでいる人たちがいるのに株が上がり富裕層だけが得しているというの世界は成り立たない、だからアメリカで暴動が起きるし日本でも中産階級が下級民に落ちてくるとき危険な状態になる
今までも格差が危険な状態にあった、さらに危険になり日本でも犯罪が増えて暴動が起きる、それを一身上でも経験したから恐怖なのである
そういう恐怖を富裕層も感じるべきなのである、政府でもそうである
それで自民公明政府も倒れる、そういう兆しが見えてきたからである
そういう大きな時代の変わり目にある、だから予断を許さないのである

posted by 老鶯 at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年06月05日

夏菊、青葉、夏の雲(夏の日の花の写真)


夏菊、青葉、夏の雲(夏の日の花の写真)

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奥の日影に薔薇が咲いているのもいい

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ここまでクリック拡大

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老鶯に聞き入り根付く木によりぬ 

様々なの薔薇を咲かせて通りかな

SAに寄り夏の雲湧く行き来かな

二手にそ湧き広がりぬ夏の雲  

夏菊や川の流れに沿いて咲く

夏日没る一時燃える牛越城

  
夏菊や雷雲湧きて広がりぬ街の上かな燕飛び交ふ 

野萱草に薊の咲きて草深し高松の家居離れて開墾の碑あり

真すぐなる木の梢にそ風そよぎ青葉にまぶし夏日輝く

分け入りぬ森の中にそ真すぐなる樅の木立ちて力強きも

夕風に青葉のそよぎ六号線萱草咲くや走りさるかな   

満月の植田に写し蛙鳴き原発事故の復興成りぬ


昨日は夕べも原町の方の高松と回り自転車で走った、夕風が涼しく気持ちよかった
夜は満月でありそれか植田に写っていた、蛙が鳴いて南相馬市とか原町鹿島は復興したと見た、小高でも50パーセント帰った、でも小高は復興にはほど遠い隣の浪江町は10パーセントも帰っていないからその影響も大きい

そして今日は暑かった、午後から常磐高速のSAに行った、あそこは休憩できるからいい
それからまた帰ってくると夏の雲今度は海の方に湧いていた
黄色の夏菊が土手に一面に咲いている

それから夏菊が咲いている家の庭を写真にとった、ここは何かいい感じである
ただあまり家を許可なくとるとまずい、でもわからないことがある
畑の写真などはかまわないが家だと誰かの家とわかることがまずい
でも田舎の家自体が絵になるのが多いのである、農家は特にそうである

そして雷雲になり雷(かみなあ)が鳴りを降った、何か梅雨に入る前の夏なのか?
暑いのは暑いが夕方になると涼しいから自転車で運動するのにはいい

高松は越中などの人が開墾に入った土地である、もともと森だったし開墾された場所はどこでもそうである、あそこちは牧場もあったがやめていた、原発事故以後牛を飼うことをやめた人が多い、牛肉がコロナウィルスで売れずに安くなったというニュースもあった
飲食店に売れないとかコロナウィルスの影響は広範囲にある

今の季節はやはりまだ外に出れるからいい、これが30度近くになると熱中症になったりするから危険である、去年だったとか三回くらい熱中症になったので怖い
ただ今の自転車は走って楽だから乗りたくなるのである

写真は結構むずかしい、写真をうまくなるのにはカメラをプロ級にしないといい写真はとれないという説明があったがそうだと思う、もう一つめりはりがない写真になる
一応記録として撮っている、今回は花にいい場面があった、今頃は一番花が咲いているから写真とするにはいい
のである

原発事故では南相馬市の原町と鹿島地区はほぼ復興した、だから満月がにあっていた


地銀は証券会社となりモラル消失 (そもそも法律に違反していた―担当の営業の人に左右される)


地銀は証券会社となりモラル消失

(そもそも法律に違反していた―担当の営業の人に左右される)

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こうなるとたいがい何か銀行でも証券会社でも違反している


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資産防衛の新常識-江幡吉昭


銀行そのものがもう成り立たなくなっていた、社会が変わりすぎたのである
銀行でもゆうちょでも金をあづけていれば利子がついた
一時は7パーセントとかついた時期があった
30年前とか40年前とかそうだった、だからみんな貯金して何の心配もなかった
貯金していれば利子が増えるから貯金の価値は大きかった
そしてその貯金の利率がかなり長く継続していたのである
それで保険ですら二十年前とか親が欠けていた保険がかけた金額より大きな金になって返ってきたのである

今ふりかえるとそれは本当に恵まれていた高度成長時代の夢物語になった
そのとき銀行でもただ貯金を集めれば良かった銀行員は土地のエリートであり公務員と同じだったのである、地方には安定した就職先がないから銀行員となれば固い職業として結婚相手としてはいいとかなっていた
それがまるで変ってしまったのだ
この変わり方も大きかった
どこでも地銀があり郵貯があり村にも郵貯がある、与那国島とかに行って最初に上陸して見たのがゆうちょの支店だった、それは全国津々浦々にゆうちょの支店がある
でもそのゆうちょすら苦境にたたされて詐欺的な保険を売って金融庁から注意された
そして今アメリカの証券会社、ゴールドマンサックなどの助言で危ないジャンク債に巨額の金をつぎこんでいる、一番危ないのが農林中金だとされる
地銀でも投資先がなくそこに金を回している
そこで損失になると日本の莫大な金融資産が奪いとられることになる

私自身は全く金融のことがわからなかった、銀行のこともわからなかった
大学の経済学部出てもなんの勉強もしていなかった
大学の先生が株だけはやるなというのを聞いたことがあったのを覚えている
つまり学者でも株でぱもうけられないからそういったのだろう
でも今は利子がつかないのだから株でも投資でもすすめられるし知らないでいらなれない時代になった、でも経験がないと株など簡単にもうけられないのである

それで十年前に買ったリーマンショックの株が元にもどしてそれから上がっていった
15000円で元にもどしそれから2万以上になり2万4000円にもなった
コロナウィルスでも今26000になっている
だからこれは何なのだろうとなる、景気は悪いのにどうして上がっているのか?
それはアベノミックスの金融の操作であり日銀が株を買っているからだという
実体経済と株が乖離しているからそうなる
つまり紙幣はいくらでも作れる、でもそれで富を産み出せないのである
結局世界で金余りになり投資先がなくなり金の価値が低下する
利子がつくということは儲ける会社がありそこに金を貸すことで銀行がもうかるからだ
そういう会社がないとしたら富を得ることはできないのである

いづれにしろ銀行は今やブラック会社である、その社員もブラック社員ともなる
だから銀行が大学生の就職先として人気だった時代は終わったのである
何かわからない投資信託とかをうりつける手数料商売になったとみられる
それでやめたくなるのもわかる
銀行員だったら信用されたり地位として安定して時代は終わったのである

地銀の営業マンを最初は信用していた、今は信用していない

まず東京の証券市場で働いたというのもわからない、なぜならその投資も何か知識があってしたわけではない、ただ分散投資は基本だとしてもそれすら守らなかった
勝手に説明もなくリーマンショックの時もっていたものをJ=reitに回した

それはなぜか?

転売して手数料をとりノルマを果たすためだったとなる
何回か売ったり買ったりした、すると手数料が入りその収入が大きいとなるからだ
3パーセントとかとると大きいのである
手数料が安い証券会社もあるが地銀とは高いのである

ともかく地銀の営業マンとか地銀そのものが金融の法律に違反していた

赤枠のようなことは普通に今は銀行員でも証券会社でもしているからこれはただ注意しろとかであり法律違反にはなりにくい

それで株が上がった時、何の説明もなくクライアントの承諾もなくJ-reitに回した!

これは法律違反だった、なぜ株が上がっているのに回したのか?
それも客に説明もなく勝手にそうしたのである
確かにオリンピック景気でオフィスとかインバウンド系が土地でも上がるという気分だったことはある
でも株を売ることで「売りますか」と聞くこともなかった
そのことで私はその地銀の営業マンを信用しなくなった
この人は会社のノルマを果たすのが至上命令であり客のことなど考えないことがわかったただ自分にも非があった、自分はめんどうだからその営業マンを信用して地銀を信用してまかしたからである
こうして銀行でも証券会社でもまかせたりしたら本当に危険である
なぜならそうした会社では会社と自分のノルマを果たすことした頭にないからだ

そして奇妙なことはその営業マンを信用しないことで今回助かった
コロナウィルスでJ=reitが半分ほどに暴落したからだ
別に私はその時予想したわけではない、その営業マンを信じられなくなったからである
それは地銀も信じられないとなった
銀行は信用商売だけど株とか投資信託とかreitでもすすめれば信用を失うことになる
ただ銀行はもう商売が成り立たないというとき余裕がない、そこで追い詰められた人間でも会社でもブラック化するのである
つまり銀行自体の役割が喪失してモラルも消失する
すでにそうなっている、だからそうなると地域での役割もないとなる
建築土木関係を見ると川が氾濫して土手が崩れたとかで復旧修理している
それは郷土のために働いていると目に見えている
地銀とか証券会社はなかなかそうして何の役割なのか目に見えてわからないのである
農家だったら食料を作って提供しているとか目に見えてわかるが金融関係はわかりにくいのである

ただ資産を守るにはプロに頼む、でもそれもまた専門化して誰に頼むかもわからない
私の場合は一億以上の富裕層には入っていない、でも頼むにしてもむずかしい
でも頼む人に左右されることは確かである、有能ないい人に当たれば資産活用はうまくいくのである
ただ株とかわかりにくい、今度は株がコロナウィルスでも上がってきたからとすすめにきた、でもそれに乗らなかった、ただその時は確かに買えばあがったのだからすぐに売れば利益になったとはなる
でももうめんどうだから頼まなかった、このように株とか投資信託とかリートとか買うにも売るにもタイミングなのである、それを逃せばもうけられないのである
だから奇妙だけど今回は買いのときにすすめにきたとはなる
このようにめまぐるしく株とか変わるから追いついていけないのである
そんな時間は私にはないからまかせたのである


結局人生は何に時間を費やすかでその人の価値が決まる、投資に時間を費やしていれば株でももうけられる、時間をかけて学び訓練するからである
老人はそういう時間がないのである、老人の問題は時間がないということである
死が迫っていて時間がない、やるべきことはその人の価値を追求したことである
それは私は芸術学問の創作だったとなる、別にこれで金にはならない
でもそこに自分の価値を追及して来たからそれを示すということになる

結局人間の価値は最後は金ではない、その人の価値は何だったのか?
その人の価値は貯めた金で計られるのか?
今ではそうなっているけど価値は多様でありすべて金銭に換算できないのである
一応金には余裕があるとして今それを使えないのである
自転車で長距離も行けないから長距離用の最新のもう一台30万以上で買ってもいいとかなるが第一それだけ旅行する気力も体力もなくなった
登山用の新しいバッグを買ったけどこれも登山できない状態になった
また他にもビデオカメラを買ったが編集とかめんどうだとかできない
youtubeでもしたいとなるがこれもめんどうでできない、ワードプレスも試したが時間がかかるしめんどうでできない、こうして新しいことができないのである

すでに40代のとき、偶然にワープロで通信していて今日に至っている
つまり30年間ITにかわっていたのである、でも通信世界が急激に発達した結果として追いつけなくなったのである
このプログとかでも文章を毎日アップすることが手間なのである
つまり老人なにるといろいろなことができなくる、限界症状が出て来る
だから退職して老後にいろいろなことをしようとしてもできないとなることが多いと思う若い時しかできないことがありその時しないとしたら後はできない
海外旅行などバックパッカーなど若い時することであった
それが50代で自分はした、遅かったのである、その後介護で旅行すらできなくなった
ただ今は人生百年時代だから人生の後半戦が長くなる
それでそこでその人の実力を発揮する人もでてくる、でも若い時にやるべきことやらないと後はできないのが普通なのである

いづれにしろ何かあらゆる仕事でモラルが消失している、それが社会を歪める、金になればいいが至上命令になるとき
本来の役割も使命もなにもない、金と利益の亡者になってゆく、まさにそれは滅びることに亡ぶことに通じている
posted by 老鶯 at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

浪江町の帰還率が10パーセント以下 (9年半過ぎても帰らない現実ー コロナウィルスで東京も住めなくなるカルマ)


浪江町の帰還率が10パーセント以下

(9年半過ぎても帰らない現実ー
コロナウィルスで東京も住めなくなるカルマ)

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帰還率




復興住宅に住んでいる人は浪江の人であり大工さんしていたという
娘と二人で住んでいる、家が狭いと嘆いている、二階にはトイレもないとか不便を言う
たいがい田舎でぱ大きな家に住んでいたからである
自分の家でも家で法事したりしているから人が集まるために広い家作った
小高の人は十八畳なのか広い家に住んでいた
だからまず仮設に住んたり狭い家だと窮屈に感じる

その復興住宅でもう一人の浪江の人は毎日釣りに行っている
何もすることがなく遊んでいるだけだとなる
その大工さんもいつも土手の所に暇そうにしている
何かすることがない、金は5000万近くもらっているから余裕がある
でも何か失った方が大きい感じになる

10年も避難暮らししている人のことはわかりにくい、感覚的にわからない
何か喪失感が今になって大きくなっているかばしれない
その人たちは帰らないと言っている
取り残されたのはこうして老人なのである

ただ浪江町が2万くらいいて一割も帰っていない、これは深刻である
現実に浪江駅前でも閑散として人も住んでいないし店もやっていない、確かに電車は通るようになっても人が住んでいない
でも小高は50パーセント帰ったから浪江町とは相当に違っている
高校でも通っている生徒が500人とかいるからだ
ただ問題は若い人がいない、子供がみかけないというのは本当である
子供が他から町が用意したタクシーで通っている
小高とかでも原町区は5万くらいの人口が今でもありそこに移り住んでいる人が多い
だから原町からでも小高の学校に通うとなる
飯館村でも人は住んでいない、でも新しい立派な建物の学校があり他から通っている

何かはっきりしなけど浪江町の町長自体が中通りの町に家を建ててその後死んだとかある飯館村の町長も福島市に住んでいる、つまり肝心の町でも村でもそのトップが住んでいないのである
ただ何か飯館村でも人が住んでいると自分は錯覚した
なぜなら新しくこじまりとした家を建てていたからである
現実はそこに住んでいない、それはときたま帰ってくる別荘だというのでそうかと納得した
浪江町がなぜ10パーセント以下という低さなのか?

その原因は何なのか?町の半分くらいがまだ高い放射線量があり敬遠した
ただ飯館村の方が帰っている人が多い、だから帰還者の比率では低い
隣の小高は50パーセントだからかなり帰っている、しかし子供は見ないというのは共通している、見かけるのは65歳以上の老人でありなんとか働けるのは50代からだともなる、田舎ではもう50代は相当に若い世代であり働く世代である
第一農家の年齢が67才というときもう田畑を維持する限界なのである
それでも日本では8割は専業農家が農産物を生産しているから実はそうした零細な農家がつぶれても外から入ってくるから困らないのである
でも地元の農家でも田畑でも荒廃する、草ぼうぼうになる
それを見ると何か荒涼とした風景になる

つまり今なら田んぼでも蛙が鳴いている、今日の夜は満月だった、それで自転車で夜風を受けて走る、涼しくて気持ち良かった
おりしも満月がでていた、植田にその満月が映っていた

満月の植田に写り蛙鳴く

こういう光景になるが小高とか浪江では草ぼうぼうなのである
だからそういう風景は原自然でもない、もとも人工的に作られた第二の自然であり
人間が作った光景なのである、それが失われたときかえって荒涼と感じる
それで飯館村とかではもう神社まで死んでいた、誰もお参りするものもなく捨てられていた、つまり神様も人が住んでいて活きていたのである

とにかく原発事故でも避難区域でも日本国民は忘れるようになった
今はコロナウィルス一色である、でも原発事故と同じようなことがコロナウィルスで起きていることも不思議である、政府の対策でもそうである
何か検査をしないとか被害の正確な数字を出さないとか隠ししている
原発事故でも放射線量を低くしていたとかある、それは自分が計ったからわかっている
それが大成建設の社員がモニタリングポストの下の土を掘っていたからである

そしてこういうことが今回のコロナウィルスでも起きている
何か支援金が電通とかに700億円くらい流れているという、それは除染費用の3兆円とかが大手ゼネコンに流れたとかあったのと同じである、ただ地元の建築業者にも流れたから大手だけではない、そしてここで補償金でもめたように支援金で不公平がありそれで
不満になる、それはここでも嫌というほど経験したからである
つまり人間は何か同じことをしている、カルマになる
政府でも原発事故のことを忘れさせ同じようなことをしている、福島を反省していないとなる

まずオリンピックの復興だとか聖火リレーだとかであたかも福島の復興がありとか政府で世界に装うとした、何にも復興などしていないからである
だからオリッピックなどなぜするのか理解できなかった
そのオリッピックもコロナウィルスでつぶれたとなるとそれは神意だったとなる
また何かしらコロナウィルスはカルマであり神の意志が働いたのかともなる
それは東京が一番人口が密集して被害になったからである

それで東京の人は来るな!

これは放射能うつるから福島の人が来るなと言われたのと同じである、カルマなのであるさらにこれからどうなるのか?
東京の人は東京に住めなくなる、そして一部であれ人がいなくなった原発避難区域に住まざるを得なくなる、そこは人がいないのだから田舎のめんどうな人間関係もないのだから住めばいいとなる
放射線のことを気にしているどころではない、東京にはさらなる災害が地震でも何でも襲ってくるからだ、その前に地方に特に人の住んでいない原発避難区域に住むのがいいとなるからだ、それがカルマなのである
東京がもたらした災いを福島が受けた、その償いを福島でしなければならないのだ
そうしてこそカルマの清算ができる
何らかで個々人でも必ずカルマの清算を強いられるからだ
それなくして東京の人からカルマが消えることはないのだ

そういうことはアメリカにも言える、原爆を落としたカルマは消えることはない、その人類的罪はカルマは消えないのである、だからアメリカは一番核に恐れていなければならないのだ、核兵器を世界で一番もっているがそれで安心は来ない
カルマは清算されないのである、むしろ自ら核で原爆のように苦しまない限りそのカルマは清算されないのである
とにかく東京の人はそういう自覚をもつべきである
福島を忘れてももう忘れることはできない、必ずカルマとなり襲いかかる
コロナウィルスがもしかしたらその一つのカルマなのかもしれない
次にはさらなるカルマが襲ってくる、それが地震なのかミサイルなのかはわからないがそれは確実なのである、だから東京脱出しないと危険なのである

posted by 老鶯 at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2020年06月04日

コロナウィルスウィルスが世界を変える不思議 (グロ−バル化、都市化、生態系破壊などへの逆襲)

コロナウィルスウィルスが世界を変える不思議

(グロ−バル化、都市化、生態系破壊などへの逆襲)

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新潮6月11日号


コロナウィルスが提起した問題はいろいろある

そもそもなぜたらまち広がったのか?その原因は何なのか?

●生態系の破壊

●グロ−バル化と都市化

●経済のみ重視

●科学技術進歩と偏重

他にもいろいろあるにしろこの三つが基本的にある
何か動物から未知のウィルスが発生したという時、そこは人間は入ってならない場所だった、聖域、サンクチャリーとしてあった、そういう場所にもづかづか人間は入り込むようになった、その原因が今科学者とか生物学者からも指摘されている

新潮の記事でもアフリカに意外とコロナウィルスが広がらないのはなぜだろうというとき人口の密集する場所が少ない、都市化もまだしていない、それで広がらないとしている
それでコロナウィルスが一千万都市の武漢から世界中に拡散したというときまた世界中で都市封鎖がされたというときそうである
都市が世界で巨大化したからである、日本でも東京から拡散する、東京を止めない限り安心はないとなる
この辺でも東京のライブハウスに行った人が感染したのである
他でも東京から感染が広がる、大都会から感染が広がる、大都会は常に人が密な場所だからである
都市そのものが生態系と断絶した生物として住むには異様なものなのである
異物ともなっているのだ

ただコレラとかでは長崎とか福島県なら会津若松から拡散した
そこは新潟県からでも中通りからでも街道があり人が集まる交差点になっていたからである、だから人の交流する集積地となりそこから各地に拡散したのである

またグロ−バル経済を批判して来たけどグロ−バル経済とは結局政治と経済原則とか生態系とか地理とか様々な制約をあったものを破るものとしてある
それが極限に達するような状態になっていた
そうなると何の制約もないアナキー社会になる、無政府状態のようになる

そこに通用するのは何か?

金しかなくなった、金ですべては売られだけである、金にならないものは一切価値のないものとして切り捨てられ無視される社会である
値段のつかないものは無価値にされ捨てられるのである
だからそもそもグロ−バル経済など成り立たない代物だったのである
世界的な公平な市場など成り立たない、そこは極わずかな超富裕層がもうけるギャンブル、カジノなのである
そこで世界の富は数パーセントの人たちに吸い上げられるのである

こういうグロ−バル社会が継続できるのか、それはバブルとなり恐慌となり破綻して当然だともなる
現実に家もなく路頭に迷っている人たちがいるのに株価は上がっているのも変なのであるそのこと自体経世済民が経済だというとき全く正反対の経済なのである
モラルがない、ただ金が右から左に流れ投機になる、マネーゲーム化して巨万の富を得ている少数者がいる経済なのである
経世済民どころではない民を苦しめるだけの経済なのである
だからアメリカのように暴動が起きても不思議ではない、その資本主義のシステム自体がもう成立しなくなっているのだ

また科学技術が巨大化して一地域のミクロコスモスを簡単に破壊する
それが原発だった、原発事故によって空気も水も土も汚染されて住めなくなったからだ
科学技術は万能ではない、だからコロナウィルスも未知のものであり対処できない
専門家でもいろいろ言って定まらない、原発事故でもそうなった
コロナウィルスについて誰も科学者でもわからないのだ、ただみんなそれぞれ勝手に予測している段階なのである

ともかく東京から若い働き盛りの人が地方へ移住するようになるのは老人が移住するより活気をもたらすからいいとなる
テレワークになったり働き方も変わる、距離を関係なくさせるのがIT技術だからである
こうして文章を書いて一瞬で全国に世界に発信できるのもそうである
その技術の恩恵はある、ただ技術がすべていい方に作用するとはならない
それが原発事故だったのである

いづれにしろコロナウィルスで社会構造をシステム自体変えざるを得なくなったというときそれは悪いばかりではない、人間が密集する都会は災害でも危険である
それでミサイルが飛んでくるとして恐れたりするようになる
軍事防衛的にも大都会は一発核ミサイルが飛んできたら壊滅するから恐怖である
それより一千万とか人間が密集する世界が生態系を無視しているし危険なのである
津浪で襲われた三陸とかでは裏山の清水で米をたいてしのいだとかある
そういうことが大都会ではできない、備蓄しても限度がある
その時ただ脱出するほかなくなる、ならばその前に脱出した方が安全だとなる

グロ−バル経済でも何か物でもいくらでも入ってくるという社会はいいように見えた
でもその物を得るためには金が必要である、その金をどうするのかとなる
何か売るもの作らねばならない、でも何か売るということはいろいろコストがかかる
第一全国でも外国でも売るとなると交通費がかかったり容易ではない
それは負荷が大きいのである、それは簡単にみんなができることではない
かえって苦労が大きくなり負担になる、だからあらゆるものを世界から買うことができる食料でも外国から金さえあれば入ってくることはありえないのである
それでマスクすら中国頼みであり日本で作れず調達できなかったことでもわかる
つまり肝心なものが日本国内で作れず入ってこなかったのである
それは今後でも緊急事態でそうなる

人間は遠くの親戚より近くの他人というとき緊急の場合はそうなる
何か親戚としても薄い関係であり自分自身が責められることがあるらいいにくいが
東京にその人がスンデいても要求するのは金だけの関係になっていた
だからその人は金だけを要求する、金を送ってくれだけでありこっちのことは何の関心もない、心配もしない、そういう人と人間関係が結べるのかとなる
このように人間関係を越脱してグロ−バル化が限度なく進攻したのである
経済の前に人間と人間の関係が何なのか?
ただ物の交換とか金だけがグロ−バル化で通用する世界は人間からするとありえないことだったのである   

だからコロナウィルスで物でも人でも交流が止められた、その時外国人労働者が自国に帰れないとかなり雑草まで食べて飢えをしのいだとか記事にあった
まさにこういうとき外国人労働者でも人間なら助ける、相手は物ではないからである
外国人労働者を入れることは単に給料が安いからとして受け入れても物として扱えないからそうなる
つまりグロ−バル経済というのはそうした本来の人間の在り方を越脱したものであり
それがコロナウィルスの危機で露呈したのである
「金を送ってくれ、あなたが病気になろうが何になろうが関係ないです、その時は連絡しないでください、私は関係ありません」
こんな関係が成り立つのかとなる、それは親戚でも成り立たないから遠くの親戚より近くの他人になったのである

人間はいくら交通が発達してもある限定された土地で生活する、そこが根拠になる
その中で経済でも回す、それで戦前までは自給自足の生活だった
その土地でとれるものを基本にして生きるほかなかったのである
だから燃料は炭だったのである、炭なら森林があり森林は50年で育つとしても絶えることなくある、でも石油とかに頼るとなると遠くから運ぶから負担になる
緊急の場合、紛争とか戦争かあると石油は入ってこなくなる
かといって炭で生活する時代にはもどれない、でも何か外国でも外部に頼りすぎる生活は緊急時に弱いし危険が伴っていたのである
それをコロナウィルスで知らしめられたのである
posted by 老鶯 at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年06月03日

記者の避くべきこと (公正中立を保つためには隠者になること?)


記者の避くべきこと

(公正中立を保つためには隠者になること?)

有名な新聞記者スモレー氏は,ハーバース雑誌上に記者の資格について論述するに当りて
記者こるの避くべきこと、二ケ条をあげたり

一、多く人と接すべからず
一、問をかくべからず

而して記者と深報者との肝要なる別あるべし
公平独立の観察は隠遁者流の者ののみに世に供するを得べしと述べたり、卓見と謂うべし
(内村鑑三)

これは意外である、なぜこのことに共感するかというとき何か自分でホームページを立ち上げてプログでいろいろ書くようになった
その時、自分が記者の端くれになったと自覚した
記者の様なこたとをして報告するようになった
それは津浪と原発事故が起きてそれが地元の自分が住んでいる場所だから否応なく地元のことを報告することになった

なぜ一、多く人と接すべからず・・とか言うのか?

普通は記者とはいろいろな人と逢い情報を仕入れてみんなに知らせるのが役割である
まず人と接しないとしたら何ら情報は得られないのである
でも黒川検事とマージャンしていた新聞記者が批判されたのはそこで客観的な立場ではなく親しい仲間となった、そうなると新聞記者として真実を追及して報告することはできなくなる
でもまたそうした検事でも接しなければ情報は得られないのである
新聞記者の仕事は第一多くの人と接することなのである
取材とかでもそうである、だから人と接しないでこの職業が成り立つのかとなる
それで意外と思ったが自分自身がまず人と接しないから共感する
引きこもりのような状態をづっとつづけてきたからである

問をかくべからずとはよくわからないけど深報者とは仏教者のことらしい、とすると何かそれは常に問うものである、
人生にいかにあるべきとか問うものである、でも記者は何かを問うのではなく真実を事実を伝える者でありそこが違っているとなる、だから何か勝手にマスコミが編集して操作して事実を曲げて粉飾してもフェクニュースにすることは一番記者とてはしてならないことである、でも現実は事実を事実として伝えない、マスコミの意図があって編集して操作して伝えている
それが巧妙でわからないことがある、そのトリックに気づかいなのである
マスコミはただ事実を伝えることに生きがいを感じない、社会を政治でも自民党なら時の権力者なら攻撃して転覆させるとかの意図があって報道しているのである
だからその意図にかなわないものは報道すらしないのである
そこに視聴者は相当に不満になっていたのである、それでインタ−ネットが出てきて様々な個人がそこで経験したことを知ったことを報告するようになったのである、だからマスコミの比重は相当に低下してゆく
マスコミ自体が常に批判の対象になってしまったのである

この意味するところは記者が公正な立場に立って報告をするというとき情実が生じて来るまた権勢家と権力者とかかわるとどうしてもその権勢に従うようになりそこから利益を得るようにもなり公正な立場がそがれる
そもそもマスコミが批判されるのはまさに独立の立場をとれないからである
会社の様々な団体の宣伝費によって運営すること自体がそうである
また視聴率第一になるのもそうである、そこで本来の趣旨より面白おかしく芸能人を呼んで大衆向きにする
つまり娯楽番組であり何か政治とか現実の様々な問題を真剣に追求することはなくなる
そこから原発事故でも800億円という宣伝費がマスコミに費やされていた
そのことから原発の闇が生れて真実は報道されず大事故になりとりかえしのつかないことになった          

おそらくどうしても公平になるにはある団体とか組織とか派閥に入ると公正さが失われる第一にその所属する組織団体の利益を利権を優先するようになるからである
だから公正中立になるには何かの派閥とか党派に組みしないことである
でも実際は何らかの組織とか党派に派閥に属していないと力をもてない
それで一個人が取材させてくださいとしてもそんな人を受け入れないのである
門前払いで終わりである
でもそもそもそうして団体に組織に派閥に属しているから取材を受け入れるというのも
すでにその時偏っているのである、取材される方も相手を受け入れるのは権力をもっているからだとなるからだ
そこで権力ある者と権力ある者が利益を共有するようにもなる
それが黒川検事とマージャンするということで起きた
新聞記者と検事のなれ合いとなりもともとは不正を追及する立場の人ができなくしていたのである

とにかく「神は偏り見ない」というとき人間がこれを実行するのは至難である
なぜなら内輪のことでも家族のことになると家族に属していれば家族が悪いことをしてもそれを正すことがしにくいからである、家族だとどうしても利益共同体だからそうなる
そこに肉親の情もあり余計に偏り見ないことができない、偏って見てしまうのである
それで裁判では肉親は弁護できないのである
私が原発事故の補償金で追及した時でも自分の住んでいる区で自分自身が不満でありそれで他の区を批判したともなる、人間はなんらか必ず利益を得たいとなるから公正に見られない、ただそういうことがあっても私自身が特別の利益を要求したわけではなく不公正が大きかったからそれは偏ったものではなかったと思う
ただコロナウィルスの支援金でも必ず公正にはならない、不公正が生まれるのである

現代の退廃はあらゆる部門で場所で職業倫理でも喪失した
その職業が何を目的として何を期待されて何を果たすべきなのかわからなくなった
ただ金をもうければいい、金を得ればいい、利益がすべてだとなってしまった
利益をあげれば金を得ればそれでいいしかないのである
それは社会全体でそうでありグロ−バル経済になると全くそうした倫理的なことが消失した世界の経済なのである
見えざる手によって導かれるとういがそんなものは成り立たないのである
だから一握りの人に世界の富が収奪されている
つまりカンジ―の言う道徳なき経済(商業)なのである

「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である(二宮尊徳)」

@ 原則なき政治

A 道徳なき商業

B 労働なき富

C 人格なき教育

D 人間性なき科学

F 犠牲なき信仰 

二宮尊徳はまさに道徳なき経済は犯罪だと言っているのだから手厳しい
現実にグロ−バル資本主義とは本当に犯罪だともみる
一部の詐欺集団が犯罪者であり莫大な富が収奪されているからである
公正な市場などでありえないのである
また金融資本主義には労働などない富なのである
なにか世界的ギャンブルのようになっているからだ、市場が賭博場のようになっているからだ

だから記者とか報道関係に従事するものではモラルが喪失している
真実は追求されずそれが原発事故にもなって甚大の被害を与えた
何かモラルの退廃がそれが大きな事故とか崩壊に通じている
ローマ帝国もモラルの退廃で滅びた、もともとは質実な農民が基となり建国したからである

記者のミッションがあるがこれも何か失われた、真実を追及して真実を明らかにして世に貢献する、そういうものがなくなった
マスコミはテレビは大衆に娯楽を提供する場となった、そうしたのはまた大衆の方でもある、いくら高等なことを言っても大衆が欲している低俗な娯楽だとしたらローマのようにパンとサーカスにならざるを得ないからだ

現代は何かそれぞれの職業で職業倫理が喪失した、ただ金だけを利益だけを求めているだけである、もちろんそれを全部否定はしないとしてもその目的とモラルを失っている
グロ−バル経済では範囲が広すぎるしまたそこに人格など働きようがないのである
倫理が人格に由来するとすればもう人格など通用しない世界だからである
大衆社会とか機械社会とかAI社会の盲点はそこに人格が消失した倫理も消失した社会なのである、そんな社会がとても理想の社会とはなりえないのである

スーパーヒタチは絵になり写真に映える


スーパーヒタチは絵になり写真に映える

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夏菊にスーパーヒタチ映えて去る

夏燕スーパーヒタチの走りさる

吹きぬける風や青葉に映えて去る  


スーパーヒタチは見ていて気持ちがいい、それじ写真をとる、写真撮るためにいい場所を決めて写真をとる
写真がむずかしいのは場所の選定とか構図とかいろいろ要素がありそれがうまくいかないそれでし写真のプロは何百万のカメラをもっているとyoutubeで説明してい
メカに左右されるとある
なかなか大きな画面になると花などはとりにくいことがある
ただそこまでやるとなるとめんどうである

今は駅には行っていない、このスーパーヒタチの写真をとることが鉄道に関係することである、これは絵になる、走っているのを見ているだけで気持ちいいのである
でもまだスーパーヒタチに乗っていないのである
乗っているのは一人とか本当にがらあきである

とにかく今の季節は写真とるにはいい、花とかいろいろ映えるからである
今は映像の時代だから俳句でも写俳と言われたように写真と俳句が一体化する
だから写真は欠かせないのである、ただ重いととりにくい、私は自転車だから重いカメラはもちにくい、それで落として一部レンズが壊れたからである


summer forest

summer forest

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summer wind in the forest

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ruin road
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2020年06月02日

権利と責任(カルマ) (過剰な権利の要求が民主主義になった弊害)


権利と責任(カルマ)

(過剰な権利の要求が民主主義になった弊害)

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今回のコロナウィルスでも政府からの給付金、支援金がもらいとなるとあらゆる人が要求した
こういうときもらわなければ損だとなり権利があるとして要求する
それで京都の寺でも拝観料をが入らなくなり政府から給付金を出してくれと訴えた
ところが寺では拝観料に税をかけようとしたとき寺の組合がみんなで反対してとめた
つまりもしここで税金を払っていればもらう権利が出ていたかもしれない
それを今さらまた拝観料が入らなくなったから支援してくれというのは虫がよすぎるとして政府の担当の政治家が怒ったのもわかる

芸能人でも給付金を要求した、芸能人は一応税金は払っている
でもネットでは批判が多い、収入が大きかったし芸能人は河原乞食でなくてもどうでもいいんだとして批判が大きいのには驚いた
なぜならち芸能人だとその批判している人でも見ているのかと思ったからである

そしてなぜ芸能人がこれほど批判されるのか?

それは収入が馬鹿高いとかもともとその仕事に一般の人も評価していなかったのである
ではなぜそうして批判があるのに認められるのかというと一般の人が批判してもやはり
一般向けに大衆向けに面白おかしく政治のことでも語り影響力があるからだとなる
それで政治家でもカルト宗教の団体でも芸能人を宣伝役に使うのである
それで影響力があるから政府でも芸能人を宣伝役として使う、また支援金を出すというのはそのためである

結局そうして影響力があることが政治家を動かし現代の民主主義となる
何か一人の人間が熟考したことを言っても無駄である
なぜなら民主主義は数で決められるからであり多数決だからである
すると政治家でもとにかく数を集めようとする、一人の人間よりどうしたら数を集めるのかとなる、これはマスコミでも視聴率をとることが宣伝費も入るからいかにみんなにみてもらうかで芸能人をテレビに出すのである
それがポピュリズムにもなりファシズムにもなってゆく、そこに民主主義の限界があってもそれに代わるものがないからそうなっているだけなのである

ともかくこの支援金問題は原発事故でも起きた、それは何度もしつこく追及して来た
つまり原発の補償金は避難区域で大きかったからである
それであらゆることに補償を要求したのである
それで一番矛盾したのが漁業権をもった漁業組合なのである
なぜなら漁業権が大きな権利でありそれを東電に売ったからである

そのことが何を意味していたのか?

その意味も何も考えない、漁業だけではやっていけないとなりそれなら金になればいいとしかなかった
つまり金になるなら何でもいいとなっていた、それは地元でもみんなそうである
金になればいいしかないのである、そのために権利を主張する
家の前の海でも権利あるとか日ごろ関心もない私道にも権利があるとありあらゆるものに補償を要求したのである
ただ東電でも仏壇とかいろいろな物に補償を与えたのである

それに対して何の疑問も感じなかった、つまり権利を法律的にも何でも主張できると思っていたからである、そこに悪びれることもなにもない、当然でありそれに後ろめたいものも何も感じなかったのである
つまりこれは民主主義がただ権利を主張するものとして受け入れた結果なのである
だから原発事故になり海が放射性物質で汚染されて魚がとれなくなった
でも事故前も事故後の十分な補償金をもらえるから困らないのである
いち早く立派な新しい家を建てたのは船主だということがわかった
その人たちは補償金で困ることがないからである

でもここでわかったことは権利を主張するのはいい、でも権利と責任は一体だったとういことである
寺で支援金を要求するのはいい、でもその権利には責任がともなっていた
拝観料に観光税を払うことを拒否した、税金を治めなかった
それなのに観光客が来ないから税金で補償してくれというのは虫が良すぎる
なぜなら市の行政でも観光客の便宜を図り税金を使っているからである
寺だけで観光客を呼べるもてなすこともできないからである
だからこそ京都市でも観光客があれだけ多いのだから税金をとろうとしたのは納得する
別に拝観料とることは宗教活動でもないからである

つまり権利を主張するのはいいとしてその権利に正当性があるのか?

これが問題になっていたがそれを深く検討などしない、金になればいいしかないのであるこのことはあらゆることにある
第一弁護士自体がなぜ相談に行ったら相談料として百万も最初にとったのか?
その正当性がどこにあうったのか?
その弁護士は詐欺だったのである、弁護士自体がそうして金のためなら法律に違反していることを平気でしているのである
だから弁護士自体が何かうさんくさいとされるのである
弁護士は何か法を守る番人でもない、金で動くこと自体弁護士という資格をもって利権を得て金を得るともなっている
今の世の中はあらゆるところでこうして金を得るために権利が主張されているのである

ところが怖いのは金をもらえばいいとなってもそこに何らかのカルマが付加されている
カルマとは責任なのである、金は具体的だからカルマがわかりやすく付加されている
10万の金には10万のカルマが付加され、百万には百万のカルマが付加され
一億には一億のカルマが付加されているのである
カルマとは責任のことなのである、だから金を得て良かったと普通はなるがそうなっていない、後でそのカルマがア苦しみとなって現れる
逆にみんなから責められるのもカルマだったとなる

そういうのは自分自身にもあったのだ、親の遺産問題でそうなった、ただ自分は懸命に介護したから遺産を受け継ぐ権利を得たともなる
親が認めてくれたからである、でももし肉親でも介護をしなかったどうなるのか?
それは確かに法律的に権利があったとてももし他人が介護したらやはりその人にも権利が生じる、それで法律でも遺産を得る権利があるとして認めるようになったのはわかる
つまり権利には何であれ責任がともなっているのである

つまり権利と責任は一体なものである、そして現代では金がすべてとなったとき権利ばかり主張する、それが民主主義であり当然だとしている
でもその権利を主張する責任のことが欠落しているのである
ドラマにしろヤクザが親分から5両でも金をもらった義理があるとかで人を殺した
つまり5両をもらっただけで人を殺してしまうという責任が課せられていたのである
こうなると怖いことである、そんな金をもらうこと自体普通だったらもう拒否する
そな責任は負えないとなるからだ、ドラマにしてもやはり金というのはそうして怖いものをもっているのだ
江戸時代は5両盗んだら死刑とかなったのもそうである、金の額で刑罰が決められる
しかしほとんど金を得られれば何でもいいしかないのが現実であり権利だけを主張するのが民主主義として受け入れた戦後があった

権利というとき不思議なのは法律ではあらゆることに権利が主張される
日本国民は労働の権利と義務があるというのもそうである
実際このことでも労働は権利だというのが理解しにくい、労働はやむをえざる強制となっているのが普通である、私に労働の権利があるから職を与えてくださいとか言わない
そんな権利など与えてくれない、職が得たかったら国が職を与えることなどないからである、ただ労働の義務は課せられているだけである

だからとにかく「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」こんな権利があるだろうか?日本貧困化してくるときどうしてそれが保証できるのか?
貧乏な国ではそういう保証は不可能である、なぜなら戦前は貧乏だから普通に乞食がいたそれを国で保証したりしなかったからである、国でできなかったからである
だから日本が画貧困化ししてくればそんな金を出すことができなくなる
つまり何でも国で保証できるわけがないのである
それで政府では紙幣をすればいくらでも金を作れるというのも疑問になることは確かである、そんな魔法のようなことができるのか、それなら誰もこんなに苦労しないだろう
紙切れの紙幣をすればいくらでも金が生れ解決するとかならないというのは小学生でもわかる、それでMMT理論はありえないとしているのもわかる

とにかく金を得ればいいというとき権利を主張するときその正当性が問題になる
なぜ漁業権を得たのか?資源保護のためにである、でも東電に売ることが資源保護になったのか?それが原発事故以後問われたのである
なぜ寺で拝観料から税金をとることを拒否したのに国に給付金を要求するのかとなる
権利を主張するのはいいとしてその正当性が問われたのである
だから日本は民主主義が何かを理解しないでただ権利だけを主張することを要求するものだとなったのである
そして権利というとき反対は利権になる、そこに漁業組合であれ宗教団体の組合であれ
その活動には税金をかけない、そういう権利を得ている
でも今回別に京都の寺で拝観料をとることが宗教活動でもない
また宗教団体でも給付金を要求して得られというのも理にあわない
もともと税金を宗教活動なら免除されているからである
でもまたなぜそういうことが通るかとなるとそれが団体化して数で影響して権力化して政治家を動かすからである、そこでまた政治が歪められるのである

とにかく様々な利権を主張することが民主主義でありそのために数を集める、それは宗教団体でもそうである、それで利権を得て金を得る、利権団体民主主義になったのが日本なのである、その問題は社会自体を歪めるから問題なのである
何も権利を主張するのがいいことだと悪びれることもなにもないのである
それが正義だとなっているからだ
ただ何かをしたら権利を主張できる、何も草取りを頼まないのに勝手に草取りした
だから金をくれと要求された、つまり勝手に草取りしてその権利を得たとなる
何もしないのに金をくれとは言えないからそうなった
これも変なのだけど一応権利を得たとはなっていたのである 

他にもマスコミでも六局に特別放送する権利が与えられた、その権利は大きいものだったそれでマスコミに左右される結果になった、つまりそれは特別の権利である
でもその権利がマスコミで勝手に解釈して公共の利益になるとはならなかった
NHKは特に国民から平均して金をとって放送しているから中立の立場で放送するべきである、それもしなかったので批判される
その影響が大きいから問題になる、それでインタ−ネットが出てきて万人に放送の権利を与えたことは民主主義の大きな進歩になった
テレビだけを見ていると社会がわからなくなるからだ
テレビ自体がいかに映像で操作できるものか知ったからである
それはネットから指摘されるようになったからである
テレビは大きな権利を与えられていた、でもその権利を悪用したということがあった
つまり権利が大きければ大きいほど責任も重くなっていたのである   

ところがまたインタ−ネットでも誰でも発言することができるようになった
するとそこに権利を得たとしてもまた責任が生じるようになった
それでネット上の発言で責められて自殺した女性のプロレスラーがいた
それはネットだと何でも発言できる、誰かわからないとか匿名だとかでそうなった
これまではネットで発言してもそんな影響がなかったのである
でもスマホであれ一般化すると何んでも発言していい環境でなくなったともなる
それが広まり安くなったからである、ただその発言がそれだけ影響するとは思わない
それがネットの盲点である、面と向かって言うわけではないからそういうことはこの通信世界には常にあった、顔も見えないからである
ただyoutubeは顔を出しているから責任が生れているとなる
ただインタ−ネットだとそれだけ読まれるとか見られるとかない、そこで責任が軽減されている、でもだんだん一般化してきたからそういうことが起きてきた
つまり権利を得ることは責任も生じるということである
権利を主張のはいいとして責任をとかその主張する正当性をrightを自覚して発言するべきだとなる
それが意外と後で大きな問題となる、得したと思ったことが大損にもなるから気をつけるべきだとなる、つまり重いカルマとなりのしかかることになるからだ


生活保護って何なの? (権利ばかり主張するようになった現代) 





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2020年06月01日

規格が統一されないと何でも使いにくい (カードでもケーブルでも数が多いと使いにくい)


規格が統一されないと何でも使いにくい

(カードでもケーブルでも数が多いと使いにくい)

kable1234.JPG
デジタルカメラのケーブル
average123455.jpg

平均の規格を出す数式


一度スーパーキクチのカードを無くした、それが偶然見つけた、でもまたなくした
そうなったのはカードで買い物する場合、私はキチクスーパーとシシドスーパー両方に行く、それで一枚のカードで買えるビザカードだと便利でとなる
何か何枚もカードがあると使いにくいからなくしたりする
10枚くらいカードをサイフに入れている人もいる
そうなるといちいち選び使うからめんどうになってなくしたりする
一枚だったら楽なのである

だから金でも本当はグロ−バル化したらドルが世界貨幣として通用させた
でもそうなるとアメリカの金融支配となる
石油がドルでのみしか決済できないとなったからだ
それでイランの石油は世界で買えなくなった
ただイランと中国とは石油の取引を独自の銀行を通してしていた
中国はこうしたしアメリカの一局の金融支配に対抗して独自のデジタル貨幣を使用するように動いた

今日見た妙法でその仕組みが語られていた、SWIFTというブラットホームを通じて外国からの送金を仲裁している、そこはアメリカの手中にあり手数料がとれる
また銀行が日銀を通して金のやりとりしていることも説明した
つまり日銀を通してのみ銀行が金のやりとりができない
それと同じように世界でも仲介する銀行が必要でありそれがSWIFTだという
アメリカの強さは金融を支配してドルが世界貨幣になっているからである
それをつぶそうとするとアメリカはその国を許さない、だから中国を敵視する
イランでアメリカ軍に殺された人は軍人ではなくこうしてアメリカを通じて取引することを拒否した人だったという
とにかくここにも根深い対立が生れていた

たしかにユーロ―になる前にヨ−ロッパを旅行した時は不便だった、いちいち国が変わると両替しなければならなかった、ただそれで国が変わるということでコインを集めたりして楽しんだ思い出となった
その国に旅したという記念ともなった
でも人間社会はどうしても一つの規格になると何でも使いやすい、でも規格化することはその規格化をする国が力をもつことになる、今はアメリカなのである
ただ規格化しないと大量生産だってできないのである

それで困っているのはデジタルカメラのケーブルである
パソコンに取り入れるのにケーブルがみんな違っている、十個くらいケーブルがある
他にも使うからある、もしこれが一つで間に合うなら楽である
なぜメーカーごとに違っているのか?それが理解てきないのである
それで記録するusbメモリーカードでもカードリーダーを使うようになった
一部ソフトの具合でパソコンにケーブルを通じてとりこめなくなったからだ

ともかく規格化すれば日本の企業でもそれによって富を独占できる
日本の規格化だからである、そういうことで日本でデジタルコインの規格化しろというのもわかる、日本の円の方が世界で信用できるからだとしている
また香港が金融のハブでなくなるときシンガポールに移行するとか今度は日本に移行するようにするとか画策する
金融を握るだけで送金したときなど銀行のように手数料が入るからだ

ともかく紙幣とかコインはコロナウィルスで嫌われるようになった
だから余計にデジタル化とかIT化が進むようになる
ただカードでも一つになると使いやすい、それでカード会社もしのぎをけずった
つまり他者との競争でも一つのカードで使えるといいからである
その一つの規格が選ばれると利権を独り占めになるからである

ただ金融というのはわかりにくい、だからこそ国際資本家に莫大な金が流れて格差社会になる、その金は実際は汗水たらしてためた世界の人たちの金なのである
世界規模になると何かその不正すら見えない、そんなグロ−バル化経済とか市場とかは成り立たなくなる、それでグロ−バル資本主義は行き詰まり自壊してゆく
今こんなにコロナウィルスで困っているのに景気が落ち込んでいるのに株だけがあがる
ここにも株とか金融は実体経済と乖離している
いくら株が上がっても実質経済は巷では失業者が増えているのに株が上がる
そういうことは何かもうグロ−バル経済市場とかは作られた虚構の世界、イリュージョンなのである、つまり紙幣は紙きれになる、紙幣がいくら貯えられてもそれでもう経済は成長したり豊かになれないのである

金はこうして仲介業者により世界でもぬきとられている
                                                                          

 SWIFT(国際金融決済機関)

2020年05月31日

農業を知らなければ自然も田舎もわからない (今は田舎に住んでも農業を知らない人の方が多い)


農業を知らなければ自然も田舎もわからない

(今は田舎に住んでも農業を知らない人の方が多い)

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「鍬ハ国々にて三里を隔ずして違ふものなり」と述べ、各地の特色ある鍬を図示しているが、この中に「若州小浜辺之鍬」「越前敦賀ニ用ル中鍬」が含まれている。鍬は刃と柄の角度が大きく、頭上から打ち下ろして土中深く耕す「打ち鍬」、刃と柄の角度が小さく、土中深く打ち込むのではなく、土を浚え移動させるのに便利な「引き鍬」、その中間で、粘質土に適した「打引き鍬」の三つに分類される


乾田では土が硬くなっているので、まず深さ20cmくらいまでの土を細かく砕く「荒起こし」を行います。その後、深く耕すためには人力による鍬では対応できないため、牛や馬の力を用いる馬耕とセットで奨励されました。
「乾田馬耕」により、収量は倍近くになり、稲刈りの後に麦などを栽培する裏作が可能となりました。

明治後期に入ると馬耕用の犂が使われます。堆肥を田んぼ一面にまいてから、牛や馬に犂を引かせて土を起こします。


年内に全県の112万ムーの土地を「大きく生まれ変わらせる」計画であるという。そして、土地は深く耕すことにより、水と肥料の呼応化を充分に発揮させることができ、収穫量を数十%から100%、数百%も増加させることができると述べた。

これに対して毛沢東は、5月27日八期二中全会で以下のように述べて、全国に長葛県の経験を広めるように呼びかけた。

「一尺五寸の深耕は大きな発明である。長葛の経験は全ての各県に問題を投げかけている。もし長葛県が今年一年で全県の耕地112万ムーで深耕をおこなったとすると、別の県でできないということがあろうか?一年で無理なら二年、二年で無理なら三年、三年で無理なら四年、四年で無理でも五年ならできるだろう!」

《若干重大决策与事件的回~・t,薄一波著,中共党史出版社,2008-1 


今の機械では土は深く掘れない
牛馬で鋤で掘りおこしたとき深く掘れた
何か機械の方が深く掘れると思った、だから意外だった、土を耕す掘るということは土作りに不可欠である、土を掘ってまぜるとかで土作りになる
農業の基本は土作りである、それは花でもそうなのである、土が良くなかったら花すら咲かないのである
深耕という言葉が何かひびくものがある、文化がcultureでありcultivateが基である
つまり文化というのは農業から土を耕すことから生まれたのである
俳句の季語でも農業から生まれているからである
だから本当は農業を知らないと俳句すら理解できないとなる
つまりこうして文化の基は農業にあった、ところが肝心の農業を知ることは容易ではない田舎に住んでも今は農業している人は一割にもみたない
農業がいかに苦労が多く様々な技術も必要であり道具も必要であり知識の範囲も広いのである
だから農業の世界は奥深いし簡単に知ることはできないのである

ただ自然を知りたいなら農業を実地ですれば体で自然を知ることになる
私の場合はただそうして外から見ているだけであり実地に体で知りえないのである
ただ実地でわずかの畑で野菜作りしている女性から聞いた話で興味をもったのである
ただそこではほとんど何もとれなかった
そこで道具代から肥料代から苗代から薬から金ばかりかかっただけである
正直十倍の金はかかり収穫はほとんどなかった
ただ農業の苦労話を聞いただけである、ただそれでも農業とはどういうものか実地に知るということがあった、その知るために金を払ったともなる

私のように自然を実際の農業をするのではなく何か芸術的に精神的なものとして見る
それでは本当の自然がどういうものか体得することはできない
農業を実地にして実りを得ている人は実地に自然を体得している
ただ農業していたら何か文章書いたり知的なことはできなくなる
それだけ手間であり体力も使うからである、とても家事から何から一人ではできない
要するに人間はあらゆることに通じることができない

でも田舎に住んでいて農業を知らないということは肝心なことが欠けているのだ
それで浪江町の東電に電気関係で働いていた人が回りは草ぼうぼうでも何の関心もない
それで東電で働いて金を残したとか全く田舎に住んでいて農業に関心もない
それで周りが草ぼうぼうでもなんとも感じていない、東電の社員であり農業とは関係なく住んでいたからこの人は全くの都会人になっていたのである
だから田舎に住んでも今や仕事は農業ではないとしたら農業のことはわからない
戦前では8割が農民だったとかあり戦後も引揚者が農業するために開墾に入った
そういう場所がすぐ近くに残っていた、現実にそういう人を子供の時知っていた
つまり戦後焼野原になったとき仕事は農業するほかなかったのである
その後十年くらいして電器製品が売れて高度成長時代になったのである

例えば田んぼがあるとして田んぼに水を張ることで稲作が飛躍的に発展した
つまり田んぼに水を張るということが様々な効用があり稲をとるのに進化した形態だった水の効用でそうなった、その前は乾田であり陸田とか陸稲だったりしたからだ
つまり農業というのは道具でもそうだが絶えず進歩してきたのである
だから本当は人間は自然をしるためには農業を知ることが不可欠である
でも田舎に住んでいても田畑に囲まれていても実際に農業を知っている人は少ないのである、そもそも農業を仕事にしなくなったからである

毛沢東が農業を指導していたからこそ農民の心を知ったとなる
つまり農業の実地の指導者でなければまた国家の指導者でもありえなかったのである
そこに毛沢東の偉大さがあったがそれは農業をしていないと理解できなとなっていた
それは中国は農業国家だからそうなっていたのである
でもその後工業国家になったときやはり農業が軽んじられるようになった
それは世界的に共通している

とにかく深耕というとき何かこの言葉に魅かれる、深く耕すとはあるゆることに言える
あらゆるものは深く耕してその知識でも技術でも深めてゆく進歩させてゆくものだからである

富める者は、必ずといってもよいほど、その前から徳を積んだものである、もし麦を蒔かなかったら、来年は麦がまったく実らない。麦の実りは冬から力を入れてきたからである稲を仕つければ秋には実る。米の実りは、春から丹精して(心を込めて励んで)きたからである

こういう思考は農業を実地にしていなければ生まれないのである

音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経(きょう)を繰り返しつつ(二宮尊徳)

二宮尊徳には芸術的に見ていない、自然には音もあり香もある、天地の経を読むということは天地を知ること土を知ること自然を知ることが農業だったからである
人間とは絶えざる努力なのである、今あるものは田んぼすら水を張るということが先人の工夫として生まれたのである、だからそうした歴史を知ることがあらゆることで人間を知ることなのである

おそらく江戸時代から明治維新でも工業化しても戦後十年でも依然として農業が基本でありそこから文化が生まれていたのである、工業でも道具を作ることで農業と結びついていたのである
だから現代が農業から心でも離れたという時、小高の人は親が農業していたが金にならないので農業だけはするなと殴られたという、つまりそのことはいかに農業というのが農家自身で苦労が多いだけとなって捨てたのである
でもその時何が起きたのか?原発に農業を捨てた子供は働くようになった
そのことで空気も水も土を汚染されて故郷に住めなくなったのである
自然を守るとういが実は実際に自然で生活している人がいて守られるということがある
狩猟でも動物をとるのは殺生だとするがそこで動物とも自然とも深く交わる術を学ぶのは農業と同じなのである、そういう生活から人間は都市人間は離れすぎてしまった
自然という時何か自分自身がそうなのだけど表面の美だけを見たりしている   

実際は自然の中で食料でもいろいろ自然を活用したとき自然を知るのである
自然を守るとういうが森林でも外材に頼り肝心の自国の木材を利用しないとき枝打ちとかしなくなり森林は荒れてしまったのである
だから自然を守れとか景観を守れというが自然と深く交わるには自然の中で生活して自然を利用して活用する時自然を知るとなる
そういうことが第一田舎に住んでいる人さえなくなっていたのである
それは自分のように表面的にだけ自然を風流として見ているものも同じである
何かそういうことから自然を知るといってもそれは観念的になる
ただ正直農業をするということは体力的にきついから知的な仕事をするとなると両方を兼ねることはむずかしくなるのである

posted by 老鶯 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年05月30日

夏菊 菖蒲(菖蒲と蔵ある家)


夏菊 菖蒲(菖蒲と蔵ある家)
   
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下太田

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高速に遠くより来ぬ青葉かな

黄菖蒲やなお陽の明るし野良仕事                              


夏菊に矢車草の交じり咲きスーパーヒタチのここを行くかな

蛙鳴く植田の縁に萱草の咲きて白鷺の餌あさるかな

影なせる奥の家かな蔵ありて菖蒲の咲けり石の重しも

夏の日のなお輝くや一面に菊の白くも風にそよげり


鉄道でもスーパーヒタチが通るのと通らない差が大きいと思った
その車両に魅せられたとなる
普通の車両はかっこういいとならない、その差が大きい
夏の日に田園を走るのが気持ちいいし絵になっている
鉄道は何か自然と融合するからいいのである
ただ鉄道の問題はせっかくスーパーヒタチが通るようになったのに客がほとんど乗っていないのである、これはまだ当分つづく
まだ一回も乗っていないから乗ってみたいが出にくいのである

蛙が鳴き植田があり萱草が咲き鷺が餌をあさる、この光景は見慣れたものだけどこの辺ではずっとそういう光景が一時消えたのである
それから田が元にもどり蛙が鳴き鷺が来るようになった
田んぼは生態系に融合したものとして自然の一部となっているからそれがなくなると蛙でも鷺でもいなくなるのである
それで蛙が鳴き、鷺が戻って来た時復興したと思った
田舎だとこうして生態系とともに生きている
都会だったら街の復興というとき建物とか道路とかインフラの復興になる

でも浪江の人は回りが草ぼうぼうになっているのにそのことで何も感じていなかった
仕事は東電でしていたから田畑に関心がなくなっていたのである
つまり田舎でもそういう都会人になっている人が結構いる
第一田畑で仕事している人は一割くらいであり他の人は別な仕事をしているからである
だから自分もそうだったが意外と農業のことがわからないのである
自ら米作りしたり野菜作りしている人は少ないからである

ただ生態系とともに生きているということは田舎では普通は感じる
コロナウィルスでも生態系のことを言われた、何か不自然に人間が生態系に入り動物からウィルスを感染する、だから原発でも生態系を破壊されたからコロナウィルスでも共通していたのかとなる
地球規模で生態系の自然の破壊がもう限界に達していた、だからコロナウィルスが自然の逆襲として広がった、また自らの生態系を守るためにウィルスが出てきたのかともなる

柚木(ゆぬき)の家は隠れようにあり何か蔵がありその前に大きな岩がありどっしりとしている、この家を見たとき何かここで営まれた生活の重みを感じる
家構いからしてそうなのである、兜屋根でありたいがい養蚕した場所がある
だからどれだけ養蚕が盛んだったかわかる
今になると地元に根付いた生業というのが大きなものとなっていない
当時は外から何か物が入ることなくやはり自給自足的な生活を継続していたのである
ただ養蚕は絹織物は輸出するためのものだったのである

とにかく大都会には生活の重みを感じられない、家自体がなにか狭苦しくおしこまれたようになるからだ、この家はどっしりとしている、岩もいい岩である
ただ家を勝手に写真撮ったりすると見ている人がいる
実は庭に隠れて人がいたのである
それに気づかなかったのである、それでとがめられたことがある
田舎では人がいないようでいる、そして見ているのである
誰もいないと見てもいるし見ているとなる、やはりこういう場所に来ると目立つのであるあの辺は木陰が多いから自転車で行くと気持ちいい場所である

見えない貧困の問題―分断される社会 (ローマの奴隷の方が恵まれていた?)


見えない貧困の問題―分断される社会

(ローマの奴隷の方が恵まれていた?)

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絶望令和の貧困を語ります。(中村敦彦)

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クリック拡大、デュラント(世界の歴史)



あらゆることを考える時必ず歴史をふりかえり考えると見えてくるものがある
映画とかで見るとローマの奴隷など過酷だとみる
剣闘士にされて戦わせられたりただ残酷にしか見えない
でも現実はどうだったのか時代が過ぎるとわからなくなる
まず奴隷制度ができたのは人間の進歩だったとされる
なぜなら戦争に負ければ皆殺しにされた、でも奴隷として生かされたことは進歩だったとなる

だからこのデュラントの指摘も歴史の見方としてあるのかなと読んだ
なぜこのように主人と奴隷が同じ人間として遇されたのか?
そしてむしろ奴隷というより家族の一員のようになったのである
これに興味をもったのは人間の歴史では必ず富裕な者がいて貧しい者がいる
また地位の高いものがいて低いものがいる
強い者がいて弱い者がいる、今でも上級国民と下級国民がいる
それで上級国民のことを下級国民はうらやましがり責める
ただ社会が変化するとそうした差も変わるのでわかりにくくなる

現代では奴隷などいない、みんな自由であり差別はないとなりいい社会だとなる
ところがこのデュラントの奴隷について語ることにも共感するのである
それは人間というものがどういうものか?
いくらそこに金持ちとか身分の差があっても同じ屋根の下でまた家族のように生活していれば自ずと情愛が生まれる
それは別にローマだけではない、現代で不思議なのは江戸時代であれその前でもやはり身分差があって侍の家に仕える人たちがいた
また身分の高い者に仕える臣下がいた、でもそういう人たちでも一緒に生活することで
忠義の心が育まれていた、殿様の子供の乳母(めのと)となり家臣が育てることで家族のようになり忠義の心を育てることに役立った
そこには身分差があっても対立するだけではなかった
ここが現代で理解できなくなったのは現代というのはまずそうした協働性とか共同体が喪失したためだろう
それは封建制時代までであり日本でも明治維新からは資本主義になりそうした人間が情愛で結ばれるということが消失していった

ただ人間関係の歴史を外国でもヨ−ロッパでも貴族と召使階級があり召使が認められた仕事だった、それでチップ制が生れた、なぜチップを払わなければならないのか日本人に理解できないからである
ヨ−ロッパには明確な階級制がありそれが今日でもつづいているともなる
なぜこのことに興味をもつようになったのか?
それが自分の家に他人を入れて多少働いてもらうようになった経験からである
日本でも戦前は女中がいた、家事手伝いである
中産階級でも女中を二人も必要としていたと女中が女性の仕事であった
私の母は東京で女中の仕事をしていた
女中は女性の勤めさきとしてあった、そして今女中という言葉も死語となり差別語となった

今はお手伝いさんとかはいる、でもそもそも家の中で働くということはなくなった
その原因が家事が機械化したことである、それで私は全部家事も一人でしてこうして毎日プログに文を書いている
それを全部一人でできるのはパソコンとか通信の発達とか家事の機械化でできている
だから別に女中をお手伝いさんを雇う必要もないのである
ただ一人だから話し相手として来る女性がいる
それでその人が貧乏なので金だけ要求されるともなる
もし戦前のようだったらまず家事に追われて何もできない、勉強も文章書くことすらできない、家事に追われていた、第一米を炊くだけで洗濯するだけでどれだけの労力が必要だったかを知ればわかる
人間が電気を使いそういう労働から解放されたのである

ただではなぜ人間は必ずしもローマ時代の奴隷とかまた身分差があっても仕える人と比べて何か不幸なのか、かえって恵まれていないのか?
それは貧困とかが貧しい人が見えなくなったのである
それよりシステムで見えなくさせられたのである
だからこの貧困をテーマにして取材している作者でもそのことを言っている
つまり上層の人と下層の人は交わらなくなった
実は上層の人と下層の人はどうしてしも家事労働が重荷となっていたから下層の人を雇うことがあったが今は機械がするからなくなった
そこでかえって人間と人間のつながりが消失したのである
そこにかえって分断が生まれたのである

人間というのはいくら金持ちでも上層でも一緒に生活していれば必ず情愛が生まれる
その情愛があって忠義が生れたり奴隷でも家族のように扱われたとういことがある
現代はかえってな上層と下層は分離してそこに対立しかないともなる
そして貧困が見えない、貧しい人がいても見えない社会になった
生活保護者は生活保護者として区別されて分離されて隔離されて暮らしている
これは意外と危険なことになる、社会が分断されるとそこにかえって対立が露わになり
貧しい人たちが上層を襲う暴動が生れるとされるのもそうである
そして現代の価値観は金さえあればいいしかなくなった
だからたとえお手伝いさんとか雇ったとしても非常に危険なのである
戦前でも女中がいたし封建時代の江戸時代でも上の者と仕える者でも情愛で結ばれていたとかあり忠義の心があった、しかし今はない
それで金さえあればそんな上も下もない時代である
するとそうして家族の中に入ってくるとどうなるのか?
主人がいないとき金を盗むことしか頭になくなって屋探して盗むことしかないとなる
だから現代ではいかに家に入れることが危険なのかわかる
ただ裕福な家でももともとそうしてお手伝いさんを雇っていた金持ちの家はそうして家で働くことで信頼されていたからできる
それが普通の家ではできないのである

とにかく現代というのはまず情に欠けた社会である、そして貧乏が見えないという時、
機械が労働者となり奴隷というときシステム化された奴隷ともなる
いろいろな下働きでも時給いくらとかなるのは下働きでありでもシステム化してそういう人たちは奴隷ではない、でもその人たち現代の奴隷なのかもしれない
良く俺は社畜なんだよなとか言うのそうである
現代にも奴隷制があるがかえって過酷だともなる
なぜなら機械化ロボットのように扱われているからだ
むしろ戦前であれ江戸時代であれローマ時代であれ人間には情があるから情として通じるものがあり奴隷にも情愛が生れていたから奴隷が一概に不幸だったともならない
それはあくまでも比較でそうなる、ただ歴史の現実は今と比べてもわからない
むしろ現代の方が情が消失して過酷だともなっている

上層の人たちが下層の人たちと交わらない社会は社会が分断されることであり危険になる互いに人間として理解できなくなりそうしているうち対立が深まり不満が大きくなり暴動にもなる
そして現代は金が唯一の価値とするとき下層が成り上がるには株とかまたFXとかの博打のようなものにで一攫千金を試みほかないのである
でも株でも元金がないと資本主義ではもうけられない
意外と自分で株を投資信託でもしてわかったことは大きな金があれば増えやすいということである、失敗があるにしても大きな元手があると増える金も大きくなる
金が金を増やすのが資本主義のルールなのである
だから金持ちはより金持ちになり貧乏人はいつまでも貧乏から這い上がれないのである
それがいづれ限界にきて暴動が起きると予測できるので実は上層にとっても金持ちにとってもいいことではないのである
治安も悪くなり南米のように金持ちは子供が誘拐されて身代金を要求されるとか安心して暮らせなくなるのである

このyoutubeで貧困のことが実際の取材をして語っているからリアルである
何か不思議なのはyoutubeで語るのと本で読むのとは違っている
何かわかりやすくなる、だから本だけから人は理解できないと思った
その人の経験したことを語るには何かささいなことでもつまらないと見えることでもyoutubeでは語られるから身近になる
この人は本を相当だしている、でも読んだこともない、でもこうしてyoutubeで語ると身近になるのである
だからこれから本の作者もyoutubeで語る時代だとなる
ただそこで金をもらえるのかとなると相当数登録者を得ないと無理である
でも本だとなかなか読むことが抵抗があってもyoutubeだと気軽に見れるのである
ただ何か深く考察するには本を読むのがいい、私の場合は深く考察するから文章の方がいいししゃべるのが苦手なのでこうして毎日ブログで書いているのである

posted by 老鶯 at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年05月29日

原発事故での漁業権の問題と寺の給付金要求の共通性 (権利を与える目的が見失われていた)


原発事故での漁業権の問題と寺の給付金要求の共通性

(権利を与える目的が見失われていた)


原発事故のことを追及してきた、その原因は何なのか?それを現場なのだから追求し続ける立場にあった
そしたらコロナウィルス騒ぎになった、これも何なのだろうと原発事故の経験と比較して考察して来た、そこに共通の原因があった
するとなぜ社会自体が歪んでくるのか?そこに共通の原因がありそれを知るべきだとなる
再三漁業権を東電に売ったということで漁業組合を批判して来た
これはどういう経過で起きたのだろうか?

まず東電で原発を作る⇒漁業権をもつ漁業組合と交渉する

「ここに我が東電では原発を建てます、海は汚すことはありません
でももしもの場合として補償します、その金は払いますのでご了承願います」
「補償してもらえるならいいでしょう、漁業権を売ります、でも補償は十分にお願いしますよ」
「わかりました、補償は十分にさせていただきます」

なんかこんな交渉があった、でもここでおかしなのは漁業権の権利が与えられた目的はなんだったのか?

それは漁業資源の保護であり東電に漁業権を売って補償金をもらうために与えられたのではない、確かに漁業をするために海産物を汚されては困る
でも汚されるても補償金を払うから容認されたのである
だから漁業権を与えられた趣旨と違ったものとして利益を得るために漁業権を売ったのである

権利を与えるのはもともと権利はライトであり正しいから与えられる
また最初は権利は権理と訳されていた、何か権利を与えるには理に適うことで必要だからである
ところが権利は利権にもなる、最初から利権になれば金になればいいということがどこでも起きている、権利を与える目的がありその目的より金になればいいとなってしまう
そこであらゆるものが歪められるのである
それは漁業権だけではない、あらゆるものがまず金になればいいとしかなくなっている
それが社会全体を歪めているのである

今回のコロナウィルスでもそうである、給付金を寺にもしてくれと政府に要求する

ところがそもそも寺は何のためにあるのか?

僧侶はなんのためにあるのか、何の目的をもって社会に存在しているのか?
それが見失われている、それで観光客から金をとるときその金に税金を京都府でかけようとしたら仏教組合で反対して税金をかけさせなかったのである

観光はそもそも宗教活動なのか?

お布施とかありそれは何のために金を払うのかとともなる
つまり金を払う方でももらう方でもその金についての明確な理由があいまいなのである
そもそも寺が何のためにあるのかということもあいまいだから観光税をかけるというとき宗教行為だから税金をかけるなとしている
では宗教行為とは何かとなるとこれもあいまいなのである
別に外国人が寺に来るのは仏様を信仰するとか何の関係もないからである
主に寺の美術品とか庭を美の鑑賞とかになる
でせもともと寺は観光のためにあるのではなかった、その目的からは観光ははずれていたのである、そこで莫大な収入ともなるから京都府では税金をとりたいというのは自然なの事である

こういうことは常に社会にある、会社を経営するときでも何もを目的としているのか?
まずもうければいい、金になればいいとなる、利益にならなければどうにもならない
だからあくどいことでも客をだましてでも利益をあげることが優先される
銀行でも投資信託とかむずかしいものをすすめて手数料をとる
その目的は何か不明でもまず利益をあげればいいとかなる、客でも金になればいいとしかならない、第一投資するにもなんのために投資するかというより金になればいいとしかならないからである
だから投資する方でも目的がただ金になればいいとなりわからないのである

宗教というのがある、でも宗教活動とは何なのか?

これも不明でありあいまいなのである、神を仏を信じることだとなっても創価などは選挙を第一として政治の権力を得るための活動になる
だから選挙が最大の仏法の戦いだとして仏に祈り一軒一軒回って必死に一票を獲得に回るだからその目的が宗教活動ではない、政治活動になっている
教理にしても王仏冥合の思想が日蓮宗にあり王は政治であり仏と一体化する社会を作るということでもそうなる
でもそれは現代の法では政教分離で禁止されている、それは神道が国家神道となり戦争で三〇〇百万人死んだという反省で生まれた法律でもある
現実に創価の創始者の牧口常三郎は戦時中弾圧して獄死したとかあるからだ
これでもまた政教分離を主張することになるが政教一致祭政一致の集団となっているのも矛盾なのである

こういうことはこの世の中に常にある、宗教でも権利を主張する、でも宗教が権利を主張するとしてもともと宗教の勤めはなになのかとなる
宗教活動に税金をかけないのは宗教行為だからとしている
また国が援助しないのは国家権力が宗教に関与しないからだとしている
だから常に権利と利権{利益}と目的が相反するものとなり矛盾してきて社会をゆがめる
権利を与えることには責任がともなう、それで資本主義社会だと金がよりあるものが実は責任が重くなるということがある
金をもらうことは得ることはその金に責任がともなっている
それでヤクザが金をもらったから殺すんだとというときそのもらった金に責任をともなっていたからそうしたとなる
つまり何であれ金をもらうこと得ることでも責任が課せられているともなる

民主主義はただ個々人でも団体でも常に権利を要求してそれが利権になっていた
そこに責任があることを自覚しない、権利が与えられることは責任がともなっていた
漁業権は資源の保護であり東電に売って金を得ることに与えられていなかった
だから事故になってその責任が問われる、なんだあいつら東電から事故前も豊富な補償金をもらい事故後ももらっている
それは回りの者が事故後に気づいたことであり別に事故にならなければ責められることも気づくこともなかったのである
実際はそれは権利を与えられたとしても責任が重いものだったのである
だから何でも金になるからいいというのは相当に問題なのだけど現実は金になればそれでいいいとしかないのである

税金にしてもそれがどう使われているかも不明なのが多い、コロナウィルスの給付金でもそれが利権化して目的とは違って使われる、そのことは原発事故でも起きたからである
ただ金になればいいとしかなくなる
原発事故でも地元住民でも金になればいい、あとは関係ないとなっていた
ただ事故後にいろいろ考察すると原発を作るのはその土地に住めなくなるほどの被害を出すのだから相当に互いに検討して納得してから作るべきだったと今では思う
責任は必ず誰かがとらされる、地元で住めなくなったということで地元住民は責任をとらされたからである
でももし地元に住めなくなるということがイメージされてそれを納得の上に原発を建てさせたかとなると疑問になる
そういう例が近くになかったので真剣に地元の人たちも考えなかったのである
それよりまず金だ、金になればいいとしかなかったのである

ただ一般に人は今や金のことしか考えない、あとは考えることもめんどうになる
その人の前に金をが積まれればそれがなんであれ従うのが資本主義社会だともなる
でもそうして金と利益だけに目を奪われると矛盾してくるしまた原発事故のように地元に住むことさえできなくなる
そういう教訓を事故から得たということもある
ただ一般的に大衆となると金を積めばそれでたいがいは通る、それで本来の目的となるものが見失われる、それはどこでも常に起きている問題なのである

人間社会はともかく何か考えるより金だとなるのがわかりやすい、また何か理屈など考えずに宗教だったら題目を唱えるとか楽だからそれがポピュリズムとかファシズムになりやすい、何のために働いているのか行動しているのかも考えない
まず金になればいいとなり若者は上の人に年配者に権力者に使われるとなる
だからどうしても本当は若者は必ず何か不正を社会に感じる
それを感じないとしたらその若者も人間としておかしいとなる
つまりおかしいな、こんなことしていることは人間として許せないとか何か義憤を感じるそれを感じないとしたらもうすでに社会の悪にどっぷりとひたってしまったのかもしれない、そうなるともう改革はありえないのである

結局人間の社会は常に腐敗でありそれの絶えざる改革を迫られる、それは限りがないのである、その原因は人間社会をそもそも治めることができない、それで改革は永遠につづき人類が滅亡するまでつづくほかない、そして最後は滅びなのである
真の理想の国は天にしかなく神がその作られた国を与えることによって成る
人間に理想の国は作ることは不可能であり必ず何か不測の事故が起きたり混乱したりして右往左往したりとバブルの塔のようになる
それが人間の宿命であり人間が人間によって理想の社会を作ることは不可能だとなる




posted by 老鶯 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

寺でも政府に給付金を要求で怒られる (政教分離は重要でも検討されない)


寺でも政府に給付金を要求で怒られる

(政教分離は重要でも検討されない)

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週刊新潮6月号


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この記事でわかったことはコロナウィルスで観光業の影響が大きかった
するて京都などをみれば観光収入が減ったかというか入らなくなった
その打撃が大きいと思った
何か京都とかなると寺は美術館なのか博物館なのかわからなくなっている
そして宗教法人になっているとその観光収入が莫大でも税金を納めなくてもいいとなる
坊主丸儲けともなる、そういうことが昔からあったからそんな言葉が生まれた

それは宗教の場ではなくなっている、高い戒名料とったり何か本来の役割がなくなっている、江戸時代までは武士の菩提寺となりそこで死者を供養することであった
また戸籍係のような武士の政治の事務方のようなものにもなっていた
それで手厚く保護されていたのである
それで変なのは明治維新になったとき廃仏毀釈運動が起きて仏像など壊されたのは神社側が天皇が強力な力をもったことで国家神道となったことで力を得て積年の恨みを果たしたとなる、それはただこれも利益を得られない、利権の問題としてそうなったのである

もともと宗教と利権は深く結びついていたのである
宗教とはもう俗化したのであり利権の場と化していたのである
だから神社にしても完全に戦争の時国家権力として機能するようになった
地方の小さな神社でも必ず戦争に出征するとき神社にお参りして戦地に出されたからである、だから必ず神社に武運長久とか狛犬の台座とかに字が刻まれている
もともとそうした小さな神社は豊作を祈るとかであり国家神道化したものとは違っていたのである

ここで仏教団体にも金銭的に支援してくれ補助金を出してくれと頼んでしかられた
税金も免除されているのに金をくれというのは図々しいとなり担当した政府の人が怒ったというのもわかる                          

そもそも寺とか宗教はなんのためにあるのか?

観光のためになるのか?美術館なのか?博物館なのかわからなくなっていた
京都とかなればインパウンドで観光客が増大した、それがコロナウィルスでぱったりと来なくなった、確かにそうなると収入が激減したとなる
でもこれまでどれだけもうけていたのかともなる、それは京都だとそうなる
それで京都では白足袋族の人といって寺には逆らえないという事情があったという
なぜならそれだけ観光でも寺中心でありそれで京都でも恩恵がある
それはあくまでも観光としてであり何か本来の宗教とは関係なくなっている
観光自体にも問題があった、観光とは何か、その前に人々の日常生活がありそこを乱さないようにすることも必要だったのである
京都などは外国人観光者の街となってしまったからである

ただ寺というのは建物とか庭でも維持するだけでそれなりに金がかかる
だから観光収入に頼る、でもそれは本来の宗教の役割ではないが観光には不可欠だとなる第一宗教の始祖とかみればわかる、あばら家に住み乞食と変わりないような生活していたからである、キリストにいたっては住む家すらなかったのである
釈迦でもそうである、そしたらそうした教祖にならうのが宗教者になるがそうはならないかえって派手な衣装を来て土地の権力者となったり観光収入で豪華に寺を装い遊んでいるともされる

そして仏教界でも利権を守るためには一致している、反目しても政府から金をもらいために創価にも相談するかともなる、でももらう資格かないのであきらめた
宗教団体からも税金をとるべきだというとき宗教界では利権を守るために一致していた

とにかくこういう政府からの給付金とか出るとなるとみんな目の色を変える
それは原発事故の補償金でそうなったことを延々とプログで書いてきた
原発避難区域ではあらゆるものが補償されたからである
仏壇でもあらゆる物権もそうであり何か私道のようなものでも補償してくれとなった
それで自分の家の前の海にも権利があるとして補償を要求した
そもそも何か漁業権というのでも強力な権利となり東電から事故前も事故後も手厚い補償があった
なんでもこうして利権化して団体化してゆくのが現代である
宗教団体も利権団体なのである、創価はあからさまにそうであるが他の宗教団体でも政治力がそれなりにあり権利を要求する、だからこそ本来の宗教とは違うのだから税金を納めるべきだともなる
でも自民党は公明党に反対できないのである

これはそもそもヨ−ロッパのキリスト教でもそうだった、カトリックが権力をもち堕落した
その権力は強大なものでありローマ帝国と一体化して権力基盤を広げたのである
だからヨ−ロッパとかでもあれだけ大聖堂とかあるのだから宗教が盛んなのかと見るとそうでもなく無神論者が増えているのである
日本でも外国から来た人が寺が多いから仏教信者が多いのかとみるがそうではないのとにている面があるようだ

いづれにしろこのコロナウィルスの影響はこうして宗教界まで及んでいた
韓国で広がったのはカルト教団が密集して起きた、何かそうして集団化して祈ることが本来の宗教からはずれている、キリストは密室で一人祈りなさいと言っているからだ
だから集団化組織化した宗教は権力化した政治化した宗教なのである
それで仏教というとき私は禅宗にひかれるのである、日蓮宗とか念仏宗は集団化して一心に題目を唱える、それで騒々しいからである
ただそういうのは大衆に受ける、集団となり一体化をかもしだすからだ
それが結局ファシズムにも通じているのである
何か宗教というのは人を心から奴隷化するのにはいいのである
それはイスラム教でもそうである、なぜイスラムの世界では科学とかでも一時は先進国だったのに停滞したのか?
それは宗教と関係している、民主主義も受け入れないのは宗教のためである
政教分離ができないのもそうである

だから意外と政治と宗教の政教分離がヨ−ロッパで法制化したがイスラムではできなかった、それがヨ−ロッパに後れをとったとのかともなる
それは中国でもそうである、中国では宗教ではないにしろマルキシズムが共産主義が宗教のようになっている、そして一党独裁であり批判を許さない
それで周りの国でも中国に同調しにくいのである
政治体制が恐怖政治であり批判を許さない体制でありそれで受け入れられない
そこで香港の自由はなくなり次に台湾は占領されて沖縄が占領されて中国に支配されてゆく、だから中国と欧米が対立するとそうした宗教化したイデオロギーの対決ともなる
それはソビエト連邦の冷戦でもそうだったからである

本当は政教分離はこうして大きな課題である、でもそのことはあまり議論もされないのである、信長は徹底して政教分離を宗教より政治の優位を寺を破壊し僧侶を殺戮することで実行したから新しい時代を作ったとされる
だから政教分離はそれだけ人間社会にとって大きな問題である
なぜなら明治維新で今度は神道が国家神道化して太平洋戦争に日本が突入したからである国家神道というときそれは政教一致になったからである
それで戦後は反省して政教分離が法律になったのだが創価とかあるように他でもそれが守られていないのである、それは結局ファシズムになる危険があるからだ
また中国が受け入れられないという時、経済の恩恵はあっても政治体制が一党独裁のイデオロギー政党であり共産化をおしつけるともなるからだ

宗教がかかわると厄介なのはなにかというと批判すると罰当たる地獄に落ちるとか集団で恫喝する
そうなると批判一切許されなくなる、それが危険なのである、宗教ファシズムになりやすいのである
ただ共産主義とは何なのか?それはソビエト連邦が崩壊して過去の亡霊ではないのか?
でも巨大化した中国でまだそれが残っている、それでも資本主義社会の中にもある矛盾である
だから中国はこうしたことで内部矛盾をきたし自壊するとも言われる
だから政教分離とは大きな問題なのだけどあまり検討されていないのである



1985年、当時の今川京都市長は古都税を創設しました。目的は寺社などの古都遺産を守るためです。京都市内の寺社へ支払う拝観料に対して課税する


古都の掟は彼らが決める。京都の影の実力者「白足袋族」は何者か

こういうことがあった、拝観料に都では税金をかけられなかったのである
だから税金を都にも国にも払っていないのだから今度コロナウィルスで観光客が来ないからと給付金を政府で出してくれというのはあまりにも虫がよすぎるとなる
白足袋族というのも京都の強力な利権団体だったのである
だからあらゆるものが利権団体化すると社会を歪めるのである

本来の仕事はなになのか?本来すべきものが何なのか見えなくなる
ただ利権だけを金だけを追及するようになるからだ
それは原発事故でも起きた、漁業権でも本来は資源を守るものだったけど手厚い補償金を東電からもらう団体と化していたのである
それだけではない、そういう本来の仕事を目的があるとしても利権団体化して歪められるのである

お寺が持続化給付金と引き換えに失うもの

ここでは税金をまねがれていたが政府からの給付金をもらうことは今度は宗教法人でも団体でも税金をかけられてもしかたがないとなる
なぜなら拝観料でも税金をとるなと京都府に抗議してそれが認められたからだ
だからこそ今回給付金を払えないとなったのである
それで給付金を払いというのは法律的にも理屈に合わない身勝手なのである



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2020年05月28日

コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由 (原発事故も生態系を破壊して住めなくさせたのは自然の逆襲だった)


コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由

(原発事故も生態系を破壊して住めなくさせたのは自然の逆襲だった)

流行の背景にあるのは、人間による野生動物の世界の撹乱です。アフリカ、中南米、中国の奥地など未開の地において、土地開発や農耕地の拡大による自然破壊、動物の乱獲、密猟、売買などが繰り返されることによって、自然界に埋もれていたウイルスと人間が接触するチャンスが必然的に増えてしまいました。

江戸時代もまた、地域ごとに最も適応度の高い社会を作り、経済を分散させることによって全体の適応度を上げていました。ところが、いま世界中で進行しているのは、地方分散型社会とは真逆の、画一化としてのグローバル化社会です。

コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由

コロナウィルスで変わる世界 (生態系を無視して人は生きていけない)


人間の生活は生態系を基にして成り立っている、その生態系というとき人間はもともと一地域で自給自足でまかなっていた
村が単位の経済だったのである、江戸時代がまさにそうだし実際は明治になってもその延長だった、だから子供の時本当に自給自足の江戸時代の生活だったのである
水道も電気もない生活である、水は井戸でありまた燃料は炭であり薪でありトイレは外のトイレであり農家の人がくみ取りして肥料にしていた
そしてその土地土地にとれるものでおよそまかなっていた
交通が発達していないから運ぶにしても馬車とかなると運べないからである

この運ぶというき鉄道ができたとき確かに運ぶことが飛躍的に発達した
福島県ではもともと小名浜から船で運んでいたのが常磐炭田ができて蒸気機関車で東京まで運ぶようになった、その他網の目のように森林鉄道がはりめぐらされて木材とか石材とかを東京に運んだのである
つまり運ぶという時主に東京にこの辺では運んだのである
そして何か外から運ばれるものがまれだった、地方では地方でとれるもので地産地消していたのである

運ぶといっても海でとれた魚を運ぶだけで苦労である、短い距離でも運ぶのは労力なのである、自動車などないからである
だから魚を売るということから行商が始まったということがある
松川浦の魚を売る人がいたからである
運ぶという時どうしても海を交通路にして運ぶということが楽である、もちろん海は危険だったか陸を運ぶとなると自動車も鉄道もないと海を運んだ方が楽である
だから北前船が日本海を通じて運んだのである
明治になり鉄道ができて運ぶのは不便となり廃れたのである
運ぶということは簡単にできない、江戸時代なら余計にできないから自給自足になったのである、それで隣の村とさえ交渉がない、隣から麦踏みの若者が大蛇だったとかの伝説が残る、つまり隣の村でもそれは得たいの知れない人になっていたのである

そういう社会だったら人は交わらないからウィルスは広がらないとなる
それでもウィルスは広がり大きな被害があった、その時医学も発達しないから被害が大きくなった
とにかく人間の生活がある一定の地域に限定されて住んで他と交わらないというのが長い間歴史的にそうなっていた
日本人は外国のように陸続きでないから海に閉ざされていたから外国とも交わらない
特殊な環境にあった、大陸の歴史は民族の激烈な抗争でありその侵入を防ぐことができないのである、だからこそ万里の長城が作られたのである
今回のコロナウィルスでも大陸ではヨ−ロッパでも陸続きでありロシアにもたちまち拡散したとか陸続きになると侵入を抑えられないのだ
だからグロ−バル化は今回はコロナウィルスをたちまち拡散させたのである

人間は生きることに最も大事なのは本当は生態系である
その生態系でもその土地土地が一つのミクロコスモスの生態系として完結している
その生態系の基本となるのは空気と水と土と森林とかである
そこが基本としてありそれが損なわれると生きることもできなくなる
現実に原発事故では空気も水も土も森林も放射性物質に汚染されて住めなくなったのである、それだけ甚大な被害が生まれたのである
原発がミクロコスモスを破壊したのである

ではコロナウィルスとは何なのか?これも生態系を動物とか生きている場所に人間が無防備に入りこんだからだときされている、その動物からウィルスが人間にうつされたからである、つまり生態系の破壊なのである動物は地域地域の中の生態系で生きる
技術もないから自然状態では生態系を変えることはできないからその狭い生態系に適応して生きている、それでそのウィルスがでてもその外に広がらないようになっていた
コレラでもインドの風土病でありそれが人に感染してもその地域から広がらないものだったが人が移動することによって広がった

人間は生態系を破壊するというとき原発でもその一地域の生態系を破壊すると空気でも水でも土でも汚染されて住めなくなる、今でも放射性物質の廃棄場にその汚染物質が積まれている
コロナウィルスと原発事故を比べて考察してきたが何か共通性があった
自然破壊は生態系の破壊でありコロナウィルスでもそうした人間の暴力的な自然の侵入と関係していたからである
そこで自然から逆襲されたということにもなる
ミクロコスモスというときそこで生物が生きる基盤であり人間でもそうだったのである
空気と水と土がないと人間は生きていけないからである

ところが東京のような大都会になると生態系を感じない、生態系から遊離して一千万人もの人間が生きるようになった、ただ原発で感じたのは空気が汚染されたことである
でも水でも水源が放射性物質で汚染されることがありその水が危険になる場合があった
そして食料でも外国から入るからいいとかなりその土地の日本の風土の生態系を意識しなく何ていたのである
でも今回のように外国から食料を運べないとなると日本の地方に食料を依存するほかないのである

つまり運ぶ技術がこれだけ発達しても食料でも外国から入らなくなる
そうすると近くから日本国内から運ぶことになる、でもまたコロナウィルスではそうして運ぶことも危険になった、そうなると日本国内からも食料も運べないともなる
それだけ遠くと結びく経済はいいようでもその弱点と危険性を自覚したのである
だから人間は生態系とか国々の風土を無視してはありえない存在である
その土地土地に生態系に動植物のように適応するのがまさに自然だとなる
それを無視した結果としてのグロ−バル化とか広域化経済には無理があった

何かスーパーで大きなタマネギ十個くらいが150円とかで売られていた
それは何か安物でまずいものだから売られていると思い買わなかった
別にそうでもなかった、佐賀県でとれたものが大量にとれて廃棄するようになったからそんなに易く出回ったとなる、東北で九州のタマネギが入ってくる
それは今は当たり前にしても何か不自然なものを感じた
何か過剰にある地域で一種類の野菜が大量に作られているからそうなる
それは全国に売るためであり運ぶ交通が発達したからそうなったのである
だから日本でも世界でも運ぶ交通の発達がそういうふうにある場所で一種類の野菜でも大量に作るとなる                                                     

それでコーヒーばかり作っていたらコーヒーが安くなったりして食べることもできなくなったとか後進国であった、そこではいろいろな野菜を食料を作っていた
でもコーヒーだけを作っていたら安くなったり売れなくなったら他の食料がなくなって飢え死にするともなる、それは江戸時代の東北で起きた
米ばかり作っていた所で起きた、米は江戸に送る商品作物となっていて米を作りすぎていたのである、だから米が冷害とかでとれなくなったら他のものが食料がなく飢え死にしたとかなる、これもグロ−バル経済とかで広域経済で起きる

つまりタマネギが大量に作られて捨てるくらいになる、キャベツとかでもキャベツ農家がキャベツがとれすぎて安くなるからと捨てたことがあったからだ
何かこういうことは不自然なのである、その不自然なことは自然から復讐されるともなるもちろん一地域ですべてをまかなうことはできない、それがグロ−バル経済でも広域社会でも度を越したものとなっていた
そうなると金の力が大きくなる、遠くからそうしたこ食料でも買うということは金が必要になるからだ

そうして金だけが頼りになったのは土地をもてなかったユダヤ人でありそれで金融が発達したとなる、それが今のグロ−バル金融社会を作ったものともされる
そうなると金が万能になる、それで原発事故以後補償金をもらうことがこの辺では目的化してその補償金を基にして他に移り住むちようになり故郷は放置されて復興できなくなったのである
金さえあれば別に便利な場所に住んだ方がいいからである
そういうふうに移動社会になるとそうなる、一億円もらえば前ら故郷を出て都会に出たいという人が多いからだ、それで仙台市に移り住んだ人がこの辺でも多いのである

何か原発事故でもコロナウィルスでも人間の生活が自然に則らない、不自然なものになって自然から復讐されたのではないか?
人間にはそもそもそういう宿命があった、人間は自然を破壊するように宿命づけられていたからである、グロ−バル化とはグロ−バルに地球環境を破壊することに通じていたからである、だから逆に自然からコロナウィルスでも復讐されたとなる 



佐賀のタマネギ農家に打撃 外食自粛、給食中止で価格大幅下落 出荷量全国2位 

これもコロナウィルスでタマネギが売れなくなり余ってこうなった

東北地方の気候は米の栽培には向いていなかったため、米以外の作物もつくられていましたが、江戸期に米の増産を強いられて水田の割合をふやした結果、天候不順がすぐに飢饉をまねく体質となっていました。 

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abstract painting-Hokkaidou

  
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2020年05月27日

なぜ人間は道を誤るのか? (先が読めないーそして二0代で方向が決まる


なぜ人間は道を誤るのか?

(先が読めないーそして二0代で方向が決まる

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同じ時間でもその重要な度合いが違っている
そんなはずがないとしても後でわかる
それで新卒一括採用が人生を決めるとされるのである

人間は道を誤る、その原因は何なのか?
オウムとかカルト宗教団体に入りそこで優秀な理系の人がテロ集団化して殺人集団になり殺人を宗教で正当化してそれで人生を棒にふる
そこか宗教を求める場ではない、なぜそんなことになったのか?
今でもカルト宗教団体は創価のように社会に宗教を看板にして大集団化して組織化している

それは何なのだろうとなる、それもカルトなのだけど別に社会では容認されている
別にオウムのようにテロ集団ではない、選挙で政権を奪うとかそうでなくても権力側につき利権を得たいとなる
それも巨大な御利益を得るための集団であり組織である
それは政教分離に違反していてもとがめられることもないのである

道を誤るという時、国家自体が道を誤る、それが戦争で3百万人死んだ
それは国家が道を誤ったからである、また原発事故でも国家が道を誤ったからである
これも故郷に住めなくなったとか甚大な被害を与えたのである
国家すら道を誤る、国家が道を誤ればその被害は3百万人死ぬとかになる
また原発事故で故郷に住めなくもなる
つまり個々人だけではない、国家自体が常に道を誤るものなのである
だから本当は政府とか国家の指導者を監視しなければならないのである
それは原発事故で証明された、安全神話を権力で国家が作って道を誤ったからである

個々人でも何かしら道を誤る、国家規模でも道を誤る、それはなぜなのかとなる
面白いのはFラン大学に入ったことで人生は失敗だったとすでに28才くらいで大後悔したとyoutubeで反面教師になっているのを見て共感した
自分もFランとさぼど変わりないからである

何か結局人間が20代で方向が決まる

これが意外というかそう自覚できる人はまれである、人生は若い時はとてつもなく長いものに感じる、でも老人になると40くらいになると白髪でてきたりしてあっというまに老人になっているのだ
老人になると人生はあっという間だとなってしまう
それでみんな後悔するようになる、すで28才でこの人は人生が終わったようになって後悔しているのだ
その歳で人生を悟ったともなるのだ

なぜ20代が大事なのかと言うとそこで人生の方向が決まってしまうからである
カルト教団に入ったものはそこから脱出しなければ一生そのままになってしまう

そしてなぜ新卒で人生が決まるとされるのか?

それは大学を出て新卒で大企業とかに入ればそれで一生が安泰となる
また公務員とかになるにもそこで人生の行路が決まるからだ
そこからはずれたものは一生底辺になってしまうのである
それを私も経験した、就職もしないで一時は底辺労働者となってうろついていた
そしたらそのまま老人になるまで無職であり社会からはずれたものになってしまった
つまり20代でまともな進路からはずれたものは一生まともになれないのである
社会からも認められないのである
Fラン大学などはまともな就職先もなくブラック会社で底辺で働き給料も少ないから結婚もできなとしている
一生底辺の人生を送る他ないとなる
私も大学出てもアルバイトであり肉体労働とか流れ作業とかしか仕事の経験がないのである、だからそういう底辺に共感するのである

正社員の経験がないと、中途採用にも応募できない。年齢的にもどんどん厳しくなり、30を過ぎると応募できる会社自体がなくなる。周りの視線も厳しくなっていきました。『落ちこぼれ』『負け組』などと、自業自得と言わんばかりのレッテルを貼られ、自己嫌悪に陥りました。

30才すぎるとこうなってしまうのである

ただまた何かこれは変なのだけど自分は宗教を求めていたのである
自分のテーマはなぜ人間は死ぬのだろうということだった
それを解決したくて宗教を求めていたのである
だからカルト宗教団体に入ったのである
そして私はキリスト教について教会に一回も行っていないし聖書などもほとんど読んでいないのである
ではなぜキリスト教徒になったのだろうとなる
それは本当に自分自身も不思議だとなるのだ

ただ言えることは「求めよ、さらば与えられむ」である
なんであれもしそこでカルト宗教団体であれ求めるものが正しければ道を誤らないだろう私が求めているのはなぜ人間が死ぬのだろうということであったとしたらなぜ毎日選挙のために運動するのか疑問になるからだ
他でもそういうことは必ずある、だから何を求めるかが大事である
そこさえはっきりしていれば道を誤ることは無いのである

だから自分の場合は別に20代で道をはずれて底辺になってしまってもかまわなかったとなる、ただ人間が社会からはずれることアウトサイダーになることは実際は過酷なことなのである、ニートとか働かなくて楽じゃないかとなるがそうではない
世間の目が厳しいしまともに扱ってもらえないこともある
それから必ずそうして社会からはずれると社会のことがわからなくなる
社会のことがわかるにはやはり社会生活をしなければわからないのである
それで芸能人であれ芸術家であれ社会からはずれたものは確かに常識もしらない異常化する、それは自分自身が何か変な方向に行ってしまったからである
必ず小人閑居して不善を成すからである
実際のアウトサイダーになった人は天才芸術家とかでありその人たち優れた作品を残した人たちである、でも社会からはずれた人だったのである
その数は百万人に1人くらいであった、でも狂気となったのも多い
それだけ社会からはずれるということは精神異常と隣り合わせにもなる

ただ人間が異常化するというときそうして公務員とか正規のルートを進んだ者でも異常化していた、まるで常識もないにも驚いた
それは東大出ても今回のマージャンしていた検事でもそうである
あれだけ地位があってもその地位の自覚もない異常だったのである
なんらか人間は異常化する、例えば学者がいるとする、これもまた象牙の塔とかにこもり社会を研究していても現実の社会を知らない人がいる
科学者でもある一部分を研究しているだけでありそこに詳しくても全部に詳しい人は今はいないのである、そうして人間は極小化された部分に通じても全体を知らないとなり何かそこで専門馬鹿とか異常化しやすいのである  
そしてナチスとかもそうであり国家自体が狂気のファシズムともなり道を誤る
国家レベルでも道を誤り悲惨な結果になったのである 
個人も狂うが集団も狂う、でも集団が狂う時正常だとされるのである
なぜならその集団に歩調を合わせない者は今度は異常とされて刑務所にも入れられたからである、これだけ複雑な社会になるともう社会全体のことなどわかりえようがない
だからこそカルト宗教にもなりナチスでもファシズムでも生れて当然だとなる

現実の社会はその現実で働いて見ないとわからない、本ばかり読んでいてもわからないからだ、経験が物言うのである
何か理解するには仕事でも職業でもちょっとでもいいから経験すると本当に理解できるのである、そして会社の人でも上の人が現場で働く人のことを知らない
現場の人が知っていたのである、原発でも配管のことなど老朽化していて危ないとか知っていたのは現場の人だったのである
幹部と現場の乖離がありまた東京の中央の幹部と福島の現場との乖離があった
そこで意思疎通ができなくなっていたのである
流れ作業ばかりしていたら自分はこんなロボットのようなことはしたくない、ではどうすればいいのか?必死で勉強すればよかったとなるのである
そういうふうに人間は経験からしか理解できないのである
だからFラン大学とは痛切に勉強しないことを後悔するようになる

ともかく20代でそうして正規の社会からはずれた結果として変な方向に行くようになったのは20代で人生の行路が決まっていたからである
例えば赤軍とかの人は日本航空機をハイジャックして北朝鮮に行った
そこで遂に一生を過ごすようになった、子供すらそこで育てていたのである
でも日本に帰りたいとなったのである
何か北朝鮮のスパイのような仕事をさせられていたのである
そこでもその時人生の方向が決まってしまったからである
だから20代で人生の行路が方向が決まる、そのことが自覚できない
別に人生は長いのだから道を誤ったらまた引き返せばいいとかなる
でも実際は引き返せない、方向がきまり誤った道でもそのまま行くほかなくなりたちまち老人になっていたのである

人間が道を誤るのはなぜなのか、それはそもそも目的とか動機が悪いからだともなる
事業に失敗した人は別に理系で優秀だったし一級の免許をもっていた
でも事業をはじめたのは自分は優秀でありその優秀さを示すために見せてやるためだったとなる、そんなことで事業をはじめたのかとなるとそれが失敗したとしても当然だとなるそれに同情もできないとなる
そんなことで事業などしたら他者の迷惑だとなる

人間の不可解なのはなぜそんな行動をするのか?

その動機は何なのか?

推理小説では動機をまず探る、なぜ殺したのか?その動機は何だったのかとなる
つまり事業でもそういう行動をしたのはなんのためだったのかとなる
もちろん金儲けしたいということはあってもその他の動機があってする
俺は億万長者になって優秀なところを見せたいから事業をする
そういう動機だとするとその時周りの人はなんとみるだろうか?
そこからして出発点からして間違っている

だから戦争でもそんな一大事を国家の運命を決めるの動機は何だったろうとなる
なぜなら3百万人も死んだら結果論してなぜそこまでしなければならなかったと問うようになっているからだ、でもなぜ戦争になったのかその戦争の原因は動機は何なのか70年過ぎてもわからないのである
ただ戦争終った後にいろいろ理由をつけているだけなのである

いづれろにしろ20代で人生が決まるとか言われるのはその方向が決まってしまうからである、そして誤っても引き返せないから怖いのである
それで「若い時神を覚えよ」となる、なぜなら神を知るのは20代とかまででありそれ以上になると知る機会がなくなるとしたらいかにその時を逃したらもう神を知るチャンスがないとしたらそうなる

つまりチャンスは二度と来ない、神を知るチャンスはその時を逃すと二度と来ない

これを知れば恐怖である
でも20代では様々な欲でも噴出する、性の欲望でも極大化してとめられない
他にも欲望があふれるように出て来る時でもある
結局そうした欲望に目がくらみ神を求めよと言ってもできない
そのうちあっというまに老人になっているのである
だからみんな人生は後悔なりとなっている
だから勉強することでもなぜしなかったとのかとあらゆることで後悔するのである
なぜ旅しなかったのかとか外国に行かなかったのかとその後悔することは老人になるといろいろある、でもみんなそうして後悔して死んでゆくだけなのである

求めよ、さらば与えられむ

そこに神を求めよとでありその外のものを求めすぎるのである、そこから人間は道を誤るのである 

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2020年05月26日

暮らしがあるのとないことの差の大きさ (原発避難区域と磐城太田駅で感じたこと)


暮らしがあるのとないことの差の大きさ

(原発避難区域と磐城太田駅で感じたこと) 

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菜の花畑があり隣は麦畑であり田植えで水張る田もあり鯉のぼりもなびいている
ここに暮らしがある、ただスーパーヒタチにはコロナウィルスで人がほとんど乗っていない
ただ写真をとる場所としては良かった


磐城太田駅でスーパーヒタチの写真をとった、そこは今の季節だと田んぼに水が張れている、菜の花畑がありそこでしきりに雲雀が揚がりさえづる
隣は麦畑であり麦の穂が風にそよぐ、それが気持ちがいい
五月だから駅前の家に鯉のぼりがなびいている
ということはそこに子供いるということになる
田んぼで農作業する人もいる、ただ磐城太田駅は無人駅であり人が乗るのが見えなかったあそこでどれくらい人が乗っているのか?
日立木でも一人二人くらいしか乗り降りしない
だから駅自体が成り立つのかという問題がある
またコロナウィルスでスーパーヒタチに一人しか乗ったのを見なかった
ただスーパーヒタチが走っている光景が絵になる
しかしただ写真をとるだけに走っているというわけではない
とにかくこの光景は暮らしがあって風景も自然も活きている

これと比べたとき原発避難区域は暮らしが失われている
田んぼは草ぼうぼうで荒地であり人が戻ったとしても子供はいない、だから鯉のぼりもないとなる、小高はある程度帰ってたとしても浪江町とか飯館村は子供が住んでいない
飯館村だと立派な学校を建てても村の外から通っている
町長自体も村に住んでいないのである
新しくこじんまりした家を建てていたので人が帰って住んでいるのかなと見た
でも住んでいないのである、補償金をもらったから援助があるから建てたらしい
それは別荘だというときときたま帰っては畑などで野菜を作っているらしい
だからそこには暮らしがないのである

そこで生業を返せと裁判に訴えて認められたした
つまり生業が暮らしが奪われたのである
その生業とは何なのか?それはそこにもとからあった暮らしなのである
田んぼがあり畑がありそこで仕事していることなのである
それはこうした風景を作っていたのである
それがなくなると草ぼうぼうになり子供もいないから鯉のぼりも見ないとかなる

例えば菜の花があるとする一面の菜の花畑があった時、その菜の花畑は菜種油の材料として菜の花があり暮らしがあって活きていたのである

菜の花や油乏しき小家がち 蕪村

菜の花は菜種油をとるものとして植えられていたのでありただ鑑賞するためではなかった油ともしきとうとき菜種油でもとるに手間だからそうなった、油は貴重だった、何でも貴重な時代だった、小家がちというとき小さな家が農家でも多かったということである、小家という表現が多いからである
菜の花はまさに生業としてありそれが風景を作っていた
それはただ菜の花が鑑賞用に見ているのとは違っていたのである
ただ小高でも菜の花を植えて菜種油作りしていても現代ではいくらでも油は作れるからそういう風景にならないのである
油を作るのに効率的ではないからである

いづれにしろ原発事故の避難区域になった所とのそうでない場所の差が大きいことを子の光景を見て感じた
第一磐城太田というけど隣はすぐ小高なのである、それで小高から原町に来る山側に田んぼだった所がソーラーパネルがしきつめられていた
海岸ではあまり感じなかったが狭い田んぼはソーラーパネルになった所が多い
もう誰もそうした田んぼでも跡継ぎもなくやる人がいなくなっていた
それで手間ばかりかかるからやめる、ソーラーパネルなら土地を貸すだけで収入になるからである、ただその時田舎の風景はなくなる
つまり生業がなくなったからである

ただ生業を返せというとき別にソーラーパネルになる前から農業は金にならないとして
その生業自体を放棄してやめたい人が多かったのである
だから耕作を放棄した耕作放棄地が日本全国てぬ膨大になったのである
でもそれなりにまだ磐城太田駅付近で農業が続けられているから耕作放棄地だらけにはなっていない
それで田に水を張り田植えがありと暮らしが続けられて田舎の風景が保たれているのである
それは原発避難区域と比べると一目瞭然なのである
風景は自然の風景と違って人間によって人間の暮らしによって何代にもわたり作られた風景がある、それで南相馬市の鹿島区の松原もそうして作られた風景である
米を潮の害から防ぐために作られた松原だった、それは江戸時代からあったらしく松が太かったのである、それが根こそぎ津波で消失したときはショックだった
今やその風景は全くなくなったからだ
白砂松原という風系は暮らしがあって作られた風景だったのである

posted by 老鶯 at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2020年05月25日

牡丹の写真

 牡丹の写真

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朝の陽の光吸い込む牡丹かな


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これは大きくすると見栄えする、やはり牡丹は大きな花だからである

この写真は成功していた、私の庭の牡丹も毎年五六輪咲いていたが今年は一輪も咲かない
でも20年以上咲いていたのだから驚きである
やはり遂に土地の栄養分がなくなったのかもしれない
でも花を植えても三四年とかで消えたりするのが多い
ただ地下深く根を張る花は長く咲いている
やはり土地に栄養分がなくなると咲かなくなるようだ



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武田邦彦氏とし加治将一氏のyoutube発言の比較 (反するものがあるが共通するものもある)


武田邦彦氏とし加治将一氏のyoutube発言の比較

(反するものがあるが共通するものもある)

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武田邦彦 テレビじゃ言えないホントの話! 



武田邦彦氏と加治将一氏の日本論を比較すると私の場合どちらにも共感する
確かに武田邦彦氏は日本礼賛であり鍛冶将一氏は縦社会の日本階級社会の元凶は天皇を頂点とした既得権階級の利益のためにあるとしている
一方で武田邦彦氏は天皇は偉いというのではなく天皇を頂点にして後は平民はみんな平等にしたシステムだとしている
つまり日本はまれにみる平等社会だとしている

ヨ−ロッパ―とか大陸は王様がいて貴族がいて90パーセントは征服した異民族でありそれは奴隷だった、それでslaveがスラブになりそれが奴隷民族をさしていたとなる
つまり戦争で民族同士が戦いそれで優劣を決めて負けたのもが奴隷にされる
その過酷な世界が大陸一般に通じる社会だったのである
だから新種差別なども黒人奴隷なども未だに形が変わってもアメリカに継続されている
コロナウィルスでも白人とかより倍も感染して死んでいるからだ
アメリカは超富裕層と貧困層に二分化されている

要するに日本は世界でぱ特殊なのでありそうした奴隷が階級社会があるのが普通の社会なのである、人間は歴史的に優秀な貴族と奴隷になる人間とに分化していた
その優秀さを決めるのが戦争だったのである
だから大陸の歴史は戦争の歴史だったとなる
日本も戦国時代があったし戦争があったにしても大陸と比べると熾烈な民族絶滅させるような過酷な戦争はない、適当なところでおさめる、殿様が腹を切れば戦いは終わりその殿様に仕える家臣は助けられるというのが多い        

それでまた戦争しても敵味方塚など戦った敵味方でも供養している
それは東北に攻めてきた九州と薩摩長州の兵でもそうである、それは碑として残されているのである、なぜ敵を供養するのかということが中国から来た人には理解されない
なぜなら中国では敵の墓を暴いてもばっしているからである
つまり中国も大陸でありその歴史はヨ−ロッパとにている、絶えざる異民族との抗争が歴史である、日本には異民族はない、みんな日本人なのである
日本人の根底には同じ日本じゃないかということがある
それで勝海舟と西郷隆盛は江戸を戦場にしないことで合意した
それは同じ日本人として同じ武士として通じるものがあったからとしている

加治将一氏はアメリカ暮らしが長い、それもビジネスしていたのだからアメリカ人にもなっていた、もちろん武田邦彦氏も科学者としてじかに外国人と欧米でも一流の人とじかに接している、そこが日本だけにしか住んでいないものとの差が大きい
でも言うことは根底から違っていても共通したものがあるのが不思議である
加治将一氏はしきりにフラットな愛のある関係を説く、武田邦彦氏は日本人は平等だとしきりに言う、天皇がいたとしても天皇以外はみんな平等なのが日本人だとしている
そういう歴史を作ってきたのが日本人だとしている
これは一見違ったようにみえても両者とも共通したものがある
つまりアメリカが外国がフラットな社会ではなく日本こそがフラットな社会としている
両者の意見が違っているようでも加治氏が日本が縦社会の階級社会、既得権社会だとしているが日本はもともと平等社会だとしている

もともとアメリカは王様がいないところから始まった、リンカーン大統領は丸太小屋に住んだヨ−ロッパからきた開拓者であるからだ
だから当然平等社会になっていた、それでホイットマンの詩が生まれた
そこであらゆる人を詩にしている、アメリカに住む人はみな平等であり同胞だとしている確かにその時代はそういう社会がアメリカだった、今は途方もない格差社会になっている数ハパーセントの人が富を独占しているからである
だからアメリカこそ縦社会であり階級社会であり貧富の格差になっているフラットな社会でないのである、そこをなぜ加治将一氏は指摘しないのか批判しないのかわからない
それでアンテークコインに投資している、それもわからないがアンテークコインは富裕層の資産保全のために構築された場である
なぜロスチャイルドがそのアンテークコインで財産を築いてそれで世界を支配する富を手に入れたと陰謀論になるからだ

確かにホイットマンの詩はhuman flat relationになる、それに共感する
でも日本人こそが実は武田邦彦氏の言うようにhuman flat relationの社会だったとなる
同じように外国生活していても見方が違ってくる
内村鑑三はアメリカに留学してアメリカが拝金主義なことや様々な悪い点を見た
そして日本のいい点を見直した、だから外国の宣教師でもキリスト教でもそれは本来のキリスト教でぱないとして批判したのである

ただ奇妙なのは両方が対立しているうよで共通しているものがある
天皇を頂点とした縦社会既得権社会だということにも私は共感する
また天皇を頂点して天皇だけは別格として後は日本人は平等だったということにも共感する
ただ加治氏がアメリカを批判しないのは理解できない
つまり今をみればアメリカがむしろ最大のフラットな社会ではない、極端な格差社会でありそれを見習うことはできない、大国はどうしても中国でもそうなように一将なって万骨枯るになりやすいのである
あれだけ巨大な国を治めるとなればどうしても強権になり一党独裁になるからだ
それでコロナウィルスにしてももうそんな大きな国を統制できなくなるのである
それでかえって小国がコロナウィルスを封じ込めることができたのはそこで政治でも治めやすいからである、ガバナンスが行き届くからである
それでまた今回のコロナウィルス騒ぎでかえって地方自治体が大阪モデルなど適格な判断ができて指導できたとされる、これも異論があるが地方自治体の方が手の届く支援も支持もできたとなる
大陸だと歴史的にどうしても巨大化して大帝国化した、そこで大量の奴隷が生れ王を頂点とした階級制が生まれた
日本にはそういうことがなかったのは日本は島国でありそれも割と大きい島国であり特殊な環境にあったからである

とにかくyoutubeの発言は他にもいろいろある、そこでかえってマスコミには出ない人が自説を展開するのはいいことである
マスコミだとマスコミの意図にかなう人しか発言できないからである
だから武田邦彦氏などはテレビに出ていないのである
拒否されてしまうのである、医師会などあからさまに批判すればそうなる
なぜなら医師会とかなるとお医者様の団体となれば怖くて批判できない
庶民だと病気になったら診てもらえないのではないかという恐怖になる
それは原発ともにていた、電事連が800億円も宣伝費をマスコミに出していたからである、それに逆らったらマスコミ自体が成立たないなにっていたからである
医師会の言うことを自民党も無視できない、選挙の時は医者が頼りになる、たいがい地方の有力者だからである

ただここで両者ともなぜ熱があったとか体に異変があって医者に行っても診てもらえなかったとかそれで死んだとかありそれは医師会のためにそうなったともしている
病気になったら病院に行く医者にみてもらうのが当然だからである
そのために保険料を払っているからである
そこでもやはり共通して怒っている、これも医療のことでもわからないから国民は気づかないし専門家の言い訳があるからわからない
それも原発で核のことがわからないと同じだったのである
専門家の言うならば従うほかないとなる、知らない奴は口だすなとなる
それで原発事故では地元に故郷に住めなくなったのである

だから両者の意見は違っているのだがまた共通しているのがあるのも不思議である
ともかくyoutubeは個人が主体だからその個人の思想なり生活なりを診るのが違っているメデアである
マスコミはマスコミが主催してマスコミの意向を通すものでありそのために人選があるそれに反するものは拒否される
それはNHKでも同じなのである、そこで意見が言えるのはNHKの意向にそったものである
それで武田邦彦氏は温暖化はないというときもうNHKは温暖化をしつこく言ってキャンペーンまでしているからNHKからにらまれてテレビには出れなくなったのである
だから福島県のマスコミもそうである
原発を批判することなどなかった、なぜならやはり莫大な広告費の分け前を得ていたからである、この報道でも相当に日本は歪められたのであるフェクニュースでも惑わされた
だからこれからは常にマスコミは糾弾される対象なのである
それは日本の方向を歪めてしまい国民を誤った方向に導くからである
マスコミ自体が批判される時代になった、それはマスコミにはマスコミの意向がありその意向にそった編集をしている

そしてマスコミ自体がフェイクニュースを平気で流している
六本木なのか原宿なのか自粛が解除されて人でにぎわっている光景を写ししていたがその映像が古いものだったのである、他でも鉄道ファンが集まったとかも自粛より前の古い映像だったのである、こうして映像にもだまされるのである
それも気づきにくいのである、だからマスコミは今や常に批判的にみてネットからその真実を暴かれるようになった
六局独占の時代は終わったのである、新聞でももうもたない、旧メデアは報道するのに金がかかりすぎるのである
プログなどになると報道するのは無料なのである

ただやはりもう一つわかりやすい構成にしたくてワードプレスとかしようとしたがこれもなかなかできなくなった、つまり技術的にめんとうになった
それは歳とって技術についていけなくなったのである
ホームページでも作り直すのもなかなかできない、意外とこのインタ−ネットの作業が時間がかかるのである
ただテキストは親指シフトでなれているから早く打てるのでできている
でもプログを同じもの二つ作ったのが失敗だった
それが手間になっている、それを変えることもできなくなったのである
フェスブックも設置してみたが使い方がわからないから一度も発言も返事もしていない放置したままである
まずプログに文章や写真をアップすることが第一でありその外のことをする時間がないのである
なぜなら家事も全部一人でしているから時間がないからである

2020年05月24日

資本主義の起源−日本人の勤勉さはなぜ (草刈のように農業は勤勉さが要求される‐怠けることが悪になる)


資本主義の起源−日本人の勤勉さはなぜ

(草刈のように農業は勤勉さが要求される‐怠けることが悪になる)


田舎はいわば運命共同体
手入れが悪くて害虫を発生させた場合
当人だけではなく周りの田畑までまで影響が及ぶ
最善を尽くして被害が出たならばそれはたまたまその家が出ただけであって自分から出たかもしれないので地域全体でバックアップするし助け合う
ただ最善を尽くさずむしろ怠惰によって周りに被害をもたらしたものは許されない

この意見は面白い、どこに書かれたかわからなくなった

農業は毎日草刈が仕事である、草は刈っても刈っても生えて来る

怠けていると雑草が生えて来る、それで困るのは自分の畑を持っている人だけではない
隣でなまけて草を刈らないと困る、だから隣の人が怠けることが許されないのである
この辺では畑をやめてそこが荒地になると草が生え放題でありそれで困る
日本はヨ−ロッパとか違って乾燥していない、絶えず雑草が生えてくる
湿潤だから雑草が生えてくる、そういう風土である

農業は怠けられないのである、まず脱穀機ができたのは戦後まもなくであり精米するにも手間がかっていた、米を作ることは田植えからはじまり草取りがありまた手間がかかっていた、つまり米を作ることでも怠けられないのである
だからみんな勤勉でないと農業は成り立たない、それで一人でも怠けることは責められることになる

一方で狩猟とか牧畜は根本的に違ったものである、そこにあまり勤勉さを必要としていない、牧畜でも羊を放牧して自由にさせる、羊飼いは何かじっと見守っている
何か手を加えなくても羊は勝手に草を食べる、ただ草のある所に移動する時羊飼いは働くとなる、つまり移動することが働くことになる
それで馬を使用したりする、馬が不可欠になる

何か稲作とか畑で仕事するのとは農業は根本的に違っている、そこから形成される人間の感覚でも人間自体も違ったものとなる
狩猟とかなるとこれも何か勤勉に働くことではない、獲物を一発でとらえる
そこに必要なのはその獲物を捕らえる道具である
弓矢であり槍であり鉄砲とかでもある、そこで自ずと道具が発達したとなる
それが戦争の道具ともなった、何か稲作とかだとその道具が戦争になりにくい
そういう差が文化の差となり文明の差となった

それをなぜ知るべきかとなるとそもそも人間社会を導いたのは狩猟民族であり牧畜民族であり遊牧民だとなるからだ
ただエジプト文明は麦を栽培して農業文明だった、なぜならビールまで作っていたからである、ピラミッドを作ったのも農業の定着文明だからである
それはマヤやインカの文明にも通じている
とうもろこしを主食とすることは農業文明だったとなるからだ

なぜ日本人は一様に行動したり規律的になり村八分にしたりするのか?

それは稲作とか集団的に組織的一様化する労働からそうなった
そこで誰か一人が勝手な行動はできないし怠けることは許されないのである
それが草取りに現れていたのである
つまり一区画の田でも畑でも勝手にするわけにはいかない、それが草取りに現れていた

ここで詳しくは探求できないがこのことを思ったのはそもそも資本主義の精神というのがなになのかである
それう知るためにこうしたその基本となるものが資本主義の精神を形成した原動力は何かということである
それは勤勉な農業とも違う、何かそれは狩猟や牧畜、遊牧民から生まれた精神でないかと思った
ただその両方もある、何かを食料でも貯えるということは農業にあるからだ
資本主義にも資本を貯えるこということがあるからだ

ただ一発大きな獲物を捕らえるということは農業にはない、それで大航海とかを農民だったらしない、それはまるで違ったものだからである
航海はやはり海で魚をとっていた漁民から発展したのかとなる
どうしても船を操作することにたけねばならないからである
だから漁民が商人ともなる、遠くへ海をわたり品物を運ぶことになるからだ
つまり狩猟でも遊牧民でも移動することで共通している
農業文明は土地に定着して移動しないのである

つまり狩猟とか遊牧民だと狩猟は獲物を得るために弓矢とか道具が発達する
遊牧民は移動する、それで馬を使うようになる
どれだけ効果的に移動できるかが問題になる
それは何か資本主義に通じている、資本主義はグローバル化したがそれはその根底に移動するということがあった、移動して富を得ることがあったからだ
狩猟民でも獲物を求めて移動するからだ、
人間は人種より白人だとかアジア人だとかで区別するのではなくその生活形態で分けるべきである、アーリア人が残酷で世界を支配したというよりそもそも狩猟民であり遊牧民であるということが根底にありそうさせたとなる

ただ二つの生活形態で簡単に分けられないという面はある
なぜなら狩猟民とか遊牧民は大きな文明を作れなかった、大きな文明は四大文明でも農業文明であり定着文明だったからである
モンゴルとかは遊牧民の大帝国を一時作ったとしてもそれはただ拡散しただけであり何か文明を作ったとはならない、ローマは文明を作った、ローマ人は農民だったのである
質実な素朴な農民がローマを作ったのである
これも農業文明だったのである

ただ資本主義の謎はあらゆるものを資本とする、資本蓄積してそれで投資して富を増やしてゆく、物でも土地でも資源でも債権化して商品化して投資の対象にする
だから大航海時代に船の株主となりもし船が無事に荷物を積んで帰ってきたら株主は大きな利益を得た、しかし船が沈没したらゼロになったのである
そういう冒険的なギャンブル的なものがあるのが資本主義である
常に市場では株は上がり下がりしているからである、そこに必ずリスクがあるからだ

いづれにしろ何かコロナウィルスでこの移動が制限された
それはグローバル化が止められたとなる
グローバル化が限界にきてもうこれ以上拡散できない、縮小を余儀なくされたのである
それは自然環境にしてもグロ−バルの負荷が大きくなった
経済成長を追及してゆくと自然環境が破壊されて原発事故のように住めなくなるからだ
そのためにコロナウィルスが神がばらまいたのかとまでなる

資本主義が限界に来たという時、銀行がもう投資先がない、貸す会社もないということに現れている、銀行は金を貸して利子でもうける、でも何か設備投資して新しく商売する新しいものを作るということでも限界に来た
AIとかがもてはやされるのはそれは頭脳のことであり何か今までのものとは違っている
だから不思議なのはすでに2000年前に仏教であれキリスト教であれその後のイスラム教であれ宗教が興隆したのは何か文明がすでに発達した結果として内面化の精神文明が生まれたとなる第一僧侶とか牧師とかでも生産にたずさわらない、ただ瞑想しているということは生産に寄与しない人間だとなる
そんなことは日本だったら絶えず草取りしているのとはまるで違ったものだからである
瞑想して働かないということはその瞑想している人に食料を与える人がなければできないのである

いづれにしろ資本主義であれグロ−バル経済でありそれはコロナウィルスを契機として見直される、限りなく経済成長することは世界の自然環境を破壊することである
そもそもコロナウィルスはその土地の風土の自然環境を壊した結果としてそこからウィルスが生まれたということになるとまさに自然破壊がコロナウィルスでも産んだとなるからだ、自然からの警告だったともなるからだ

これから資本主義でももう投資先がない、それで銀行の役目もなくなる
そして宗教てあれ哲学であれ何か内面志向、物質ではない人間の精神を重視する文明に変わる、それはローマ帝国の後の中世時代とかにもなる、日本なら江戸時代の国風文化への回帰なのである、ただそれは同じものにならない、21世紀にふさわしい精神の内面化であり文化の創造となる
パソコンとかAIとかは何か物を作るというのではない、人間の脳とか心とか精神に働きかけるものをもっているからだ
通信というのもそうである、物の移動ではない、何か情報の移動であり物ではない
物の移動はもう限界にきていたのである

だからコロナウィルスで移動できなくなったことがそのことを象徴していた
移動から定着化とか縮小化とかステーホームとかは新しい生活様式だというときそうである、それは個々人が宗教のように内面化することにもなるからだ
コロナウィルスは三密を嫌う、集団的な行動を嫌うというのも不思議である
テレワークは何か個々人化するコミ二ケーションにもなる
なんらかコロナウィルスは世界を社会を変える作用したのも時代を変える作用をしたのもやはり人間社会は人間だけでは変えられないものがあり自然の作用で神が働きかけてそうなったきかと見たのである

posted by 老鶯 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

磐城大田駅で撮ったスーパーヒタチ(菜の花に映える)


磐城太田駅で撮ったスーパーヒタチ(菜の花に映える)

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菜の花の隣は麦畑になっている、麦を栽培するようなった
ここはもともと田んぼだった

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磐城太田駅は無人駅である、そこに菜の花が咲いていたので待って写真をとった
鯉のぼりも見えたから絵になっている
撮り鉄も面白い、その撮影ポイントを探すことからはじまる
乗り鉄から撮り鉄に変わった、とういのはここ十年以上旅していないからである
私は車窓から常に風景をながめていた
それは贅沢な時間だった、でも鉄道趣味でもいろいろある
模型を楽しむのもあるしメカもある、自分はメカには弱い
ただ鉄道は風景にとけこむから絵になり写真になるから好きなのである

菜の花や電車を待ちて写真とる

ただ写真を撮るのに待っている、乗るためではないのも変である
そしてコロナウィルス騒ぎで電車に人が乗っていなのである
これも奇妙だった
ただ自粛が解除されたのでこれから乗るようになるのか?
それでも東京まで行くのはまだ危険である
原町の食堂では幸楽苑とか狭い場所で密集してラーメンを食べていた
あれもあんなに密集してコロナウィルスにうつらないのか?
何かそうした不安もなくなっているようである