2018年03月05日

JRが駅に置いた自分が作った時刻表やパンフレットを撤去した (JRの許可なしで置いてはいけないルールだから)


JRが駅に置いた自分が作った時刻表やパンフレットを撤去した

(JRの許可なしで置いてはいけないルールだから)
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自分が作った時刻表を置いたトイレとか観光パンフレットを全部撤去した
JRの許可なしで置いてはいけないという

なんでなのか?

いろいろ苦情が来るからだという,パンフレットについても何か聞かれると困るという
これも何なのだろうと思う
時刻表でも自分は10円でコピーして置いておいた,それをみんなもっていった
なぜなら必ず時刻を見に来る人がいるからだ

それをこんなものJRの許可なしでなぜ置いたのか?
みんな撤去しろとなった

ただJRにも言い分がある,何か駅に置くには申請しないとだめだという
それがルールとなっているから守らないとJRでは困るし許可できないのである。
なぜならJRの責任にもなるからだ
それはそうなのかと理解した
申請は個人でも簡単にできるという

JRはまず自分が結構いろいろ無人駅なのでかかわって知っているのに礼一つない
結局お前はここで何しているんだ,何もする必要ない,ここは無人化して自動化しているからだ,こういうことなのである。
そして警察からはお前はここで何しているんだと誰かが通報して職務質問されたのであるそれもみんなの前でである
俺たちがすべて管理する,自動化したら人はいらない,ここで何かするな!
勝手に何もするなとしている,俺たちがすべて鉄道や駅のことはする
他の人はかかわるなということなのか?
ただ勝手なボランティアだから認められないことはある

でもこれは何なのか?

JRはJRだけですべてする,他の人はかかわるな!

こういう管理のしかたなのだろうか?俺たちの仕事の領域に他の人は立ち入るな
無人化して自動化したのだから人はかかわるな!
だから構内に勝手に入ったときJRの人が入るなと言ったのである。
それもやはり鉄道のことはJRでするから他人はかかわるなということである。
でも無人駅だからこそかかわっているのである。
無人駅だとやはり困ることがあるからかかわっているのである。

こういうことなのだろうか?
この経営態度は何なのだろうか?全く地元とか人間を無視した態度なのである
だから無人化自動化をすすめいる,人間とはかかわるな,
パンフレットを置いたのは自分では自転車屋の人である。
そのパンフレットは観光案内なのだから別に許可なくても置ける
何かの宣伝でもないからである。

ともかく市の地域振興課に聞いてみたらJRにはルールがありそれを守らねばならない
勝手に置いてはいけない,そのことはわかった
でもルールでも何か人間味がない,ルールが全能ではないからだ
何か現代の社会はこうしておかしなものになっている

鉄道はみんなJRのものであり他の人は立ち入れるな,鉄道はみんな自分たちでやる
これがJRの上から目線の態度なのである。
人間に関してのサービス精神が全くないのである。
JRではのせてやっている,ありがたく思いという意識しかないのである。
人間がサービスする人間がかかわることを拒否しているのだ
ただもう電車でも駅も無人化自動化して自動運転のようにしたいのである。


何かこれは無人化自動化する社会への警告ではないか?
そういう社会はもう人間味もなにもなくなる,ただロボットがいてすべてまかなえる
人間は必要ないということにする社会である。
そこにAI化とかいいように見えるが人間そのものが排斥されていらないとなる
冷酷な社会になることも暗示している
つまりAI化とか自動化とかはすべてバラ色ではない,人間の暗黒を作り出すものにもなる仕事の場でも人間は効率的でないから邪魔だからいらないとなるからだ
そういう社会はも情もにもなくなってくる
現実になっている,そういう社会にはいくら便利でも生きたくないとなる
結局原発でもそうだが便利だということはすべていい方には働かないのが人間社会だったのである。

時刻表は商工会なり自治体なりで配布すべきなのである。
それもJRの許可が必要でもそうすればこの問題は起きなかった
原町駅の時刻表は作られているし相馬市でも作られている
前は一軒一軒配れていた記憶がある
そうすればこの問題は解決しているのである。
要望として時刻表が欲しいという人が多いからだ
その要望に答えるのが自治体でもあり商工会でもJRでもある
それをするものがいないから問題になったのである。
別に自分は時刻表を置かなくてもいい,置くと金がかかるからだ
だから別に乗客が不便でもいいともなる
何か感謝するわけでもないからだ,ただそこで不便になるのは乗客だとなる
それもやはり乗客がそういう要望を出さないからである。
もし十人でも百人でも要望がありまとまれば圧力になり対策されるからである。
ただそれほどの要望でもないから個々人で不便でも時刻表を見にくるほかないともなる

自分としては申請してまでまた金をはらってまで時刻表を置く気はない
それをするべきなのは乗客なのである。
乗客がそれを要求しない限り不便でもそのままになる
民主主義社会はまとまって何か要求しないかぎりそのままになる
改善されない,ただみんなが困っているのだからそれをまとめる人も必要になる
それが代表となるということである。
つまり政治の問題となる,そういうことで民主主義が発達するということはある

鹿島駅の問題は無人駅になったということにある,普通だったらまず勝手に構内には入れないし
確かに勝手に駅内に何でも置けないからである。駅員がいるから許可が必要になる
その駅員がいないから問題なのである。
無人化して自動化してもそこに人間がないことで生じる問題が必ずあることがわかる
だからAI化で無人化自動化してもそこに問題が生まれるのである。

普通の社会人だったら絶対にあり得ない!!JR駅員の高慢な接客態度

やはり自分だけが感じたことではない,自分は別に乗客としてかかわったのではない
そもそもJRとかには普通の社会人としての常識が通用しないのである。
そうしなくてもいいという感覚であり乗せてやっているという気持ちだからそうなる
いろいすめんどうなことは言うなよ,乗せてやっているのだからありがたく思へ
そういう感覚だから普通の人の感覚がない
人に道を教えただけでありがとうと言うとするとそういうこともないのがJRなのである。
人のことは言えないが国鉄からの殿様商売だとなる
ただ職人として時間どおりに安全に電車を走らせることには勤めているのである。
人へのサービスはぬけているのである。

タグ:JRのルール

銀行の役割の喪失 (地方で安定した就職先がなくなるのも問題)


銀行の役割の喪失

(地方で安定した就職先がなくなるのも問題)

銀行はなになのか?これも歴史が古いから人間生活にとってはなくてはならないものとしてありつづけた
銀行は江戸時代だったら金貸しであり質屋である,両替などもそうである。
地銀は江戸時代の頼母子講などからはじまったとある
金を出し合って相互扶助の助け合う講だった
銀行は必ずしも銀行として独立していない時があった
絹織物でもうかった家がその中に銀行を開いていた
銀行は何かでもうけて金がたまると資本となりそれで銀行にもなっていた
銀行というと何かむずかしいけど実は金持ちは自ずと資本家になり金貸しになりそれが大きくなると銀行になる
金持ちになるど必ず金を貸してくれという人が来るからである。
ただそれを組織化したものだから頼母子講などから発展したとなる

だから銀行が金を貸さないでどうする,必要なくなるとまで政府から言われた
銀行は金貸しなのである。それが金を貸してもうける先がなくなっている
バブル時期に銀行でも金を貸さない銀行が生き残ったとかあり金を貸すことにその時期から慎重になるようになった
日本はバブルから20年成長しないし停滞した
その時銀行も金を貸すことしなくなった,貸し渋りとかなった
でも日銀に国債をあずけて利子をもらっているとかでやりくりしていた
それがマイナス金利になったとき追い詰められていたのである。

銀行は地方の就職先ではエリートだった,それは公務員と同じように見られていたのである。まず地方では田舎では公務員とか銀行とか農協とかが有力な就職先でありその他あまりないのである。
そこが安定している,それで地方の有力者の就職先になっていたという。
それで融資先もあったとかいう。そうしたコネで就職できたということがある。
それで孫が銀行に就職したということで自慢している人もいた
銀行はそれだけ信用がないと就職できない所だったのである。

地方の問題は就職先が限られていることである。田舎に住んでみるとわかるが田舎では資産がないと住みにくいのである。土地と家があり何代も同じ土地で住んでいる人が多い
だから田舎では家がないとか賃貸の住宅に住んでいると貧乏な人だとなる
ある人は4000円で部屋が三つある一軒家に住んでいる
これは都会と比べると贅沢だなと見た
ただ田舎ではそうした所に住んでいる人は貧乏だとなる
それで仮設がこの辺でできたとき狭い所に住んでいる窮屈さを知ればいいという人がいた
田舎で安定的に暮らせるのは土地と家があり恒産がある人である。
農家中心の生活のときは土地をもっている人だったのである。
だから小作となると不安定になる,貧乏になる
自分の家は最初は貧乏だった,戦後はみなんそうだったがその時農家の方が食料でも恵まれていた,なぜなら納豆まで作っていたし鶏も飼っていたから食べ物は町で暮らしているより良かったのである。
その後経済成長になり店をはじめて繁盛した,その時どこでも小さな工場でも繁盛した
何か小規模の事業をはじめても成功した人が多いのである。
それは経済成長の時代だったからである。その時銀行も貸す先があり利子をとれたから預金に利子が7パーセントにもなっていたのである。
それだけの収益を銀行は金を貸して出していたのである。
今になると夢のような世界だったとなる

正直田舎で暮らすには恒産があって恒心ありとなる,だからある程度の財産かないと余裕があって生活できないのである。
土地と家があり金融資産もありとかならないと余裕ある生活ができない
だからかえって田舎では貧乏になるとみじめになる,そして目立つのである。
そして田舎の安定した就職先が公務員と銀行と農協だったのである。
自分の家族の一人も公務員だったから知っている,公務員は何かと得するのである。
公務員などたいした仕事していないのに高給取りだと常に批判している若い人がいるのもわかる
ただ田舎で公務員とか銀行とか農協とかの勤め口がないと安定して暮らせない
田舎で安定して暮らせることのメリットは精神的に安定するから自然と融合する生活ができる,そこにcultivate(耕す)ことでcultureが生まれる
自分はそういうことをしてきたのである。
別にそういう場所に就職したのではないが家に余裕があるからできたのである。

地方は田舎は今はいろいろなことで窮地に追い込まれている
そういう中で地銀とかがなくなると就職先がないとういことで田舎に定着できないとういことも起きてくる,それも問題なのである。
そうはいっても社会に必要でないものを養う余力はもう日本にはないのである。
田舎で地方でそうした安定した就職先がないと若い人は都会に東京にでてゆく
だから知っている人の息子は40代なのに東京に出た,建築関係の仕事がなくなったからである。
自分が学問とか芸術とか追及できたのは安定した家があり家族がいたからだとつくづく思う,そうでなければ田舎では暮らせないからである。
ただ我ながらこんな生活をできたものだとふりかえる
今はめずらしくないけど高度成長時代となると団塊の世代ではこんな暮らしをした人は極少数である。それは社会からはずれたアウトサイダーだったのである。

いづれにひろ銀行がこんな窮地にあるとは思わなかった
銀行についてはyoutubeでいろいろ語られていたのである。
ともかく自分は介護になって親が家族が死んで大変な目にあった
その時自分も病気でもあったが一切同情はなく金だけを要求されて大金も失った
それが銀行までに投資信託とかで金をとられのかということは田舎が地方の経済が窮迫しているためであった
直接そういう人達に接しなければ今まではしていないからわからないだけだったのである生活に困る人,事業に失敗した人,飲食業に勤めて賃金をもらえなかった人,または勝者金融から金を借りていた人とかそういう金に窮している人たちが家にきた
その人たちは自分を襲ってきたとも言える

地方は田舎は経済的にこれからもさらにおいつめられてゆく,この辺では原発事故の援助が金銭的にされるのはあと三年しかない,その後は自治体の運営でも苦しくなる
例えば小高でも帰ったのはほとんど老人であり人手不足で介護施設が運営できない
そこに市立病院を運営するにも市の財政負担になる
でも小高ではそれを要求している,そのことは南相馬市全体の問題なのである。
だからこそ小高の人は自立してやってくれとなるがそれを言うとまた反発される
補償金のことでもめたからである。
でも銀行が必要なくなるようにそれを維持したくてもできない,財政的にできない
すると切り捨てるほかなくなる,そんな余裕がなくなってくるからだ
少子高齢化や日本の経済の衰退とかで田舎は地方は窮地に追い込まれる

だから高度成長時代こそ自分のような今で言うフリーターであれニートなどでも
もっといても良かったのである。
その時はみんながむしゃに働いた,企業戦士となっていたのである。
その人達が団塊の世代の人達が退職して今度はその人たちが社会の負担にお荷物となってしまったのである。
キレル老人とかでもそうであり財政的負担も大きすぎるのである。
病院に通う老人も多い,医療や保険や生活保護の負担が増えるばかりなのである。
田舎で安定的に生活するのは生活保護になるほかないとまでなっているのだ
posted by 老鶯 at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

銀行の役割の喪失 (地方で安定した就職先がなくなるのも問題)


銀行の役割の喪失

(地方で安定した就職先がなくなるのも問題)

銀行はなになのか?これも歴史が古いから人間生活にとってはなくてはならないものとしてありつづけた
銀行は江戸時代だったら金貸しであり質屋である,りょうがいなのどもそうである。
地銀は江戸時代の頼母子講などからはじまったとある
金を出し合って相互扶助の助け合う講だった
銀行は必ずしも銀行として独立していない時があった
絹織物でもうかった家がその中に銀行を開いていた
銀行は何かでもうけて金がたまると資本となりそれで銀行にもなっていた
銀行というと何かむずかしいけど実は金持ちは自ずと資本家になり金貸しになりそれが大きくなると銀行になる
金持ちになるど必ず金を貸してくれという人が来るからである。
ただそれを組織化したものだから頼母子講などから発展したとなる

だから銀行が金を貸さないでどうする,必要なくなるとまで政府から言われた
銀行は金貸しなのである。それが金を貸してもうける先がなくなっている
バブル時期に銀行でも金を貸さない銀行が生き残ったとかあり金を貸すことにその時期から慎重になるようになった
日本はバブルから20年成長しないし停滞した
その時銀行も金を貸すことしなくなった,貸し渋りとかなった
でも日銀に国債をあずけて利子をもらっているとかでやりくりしていた
それがマイナス金利になったとき追い詰められていたのである。

銀行は地方の就職先ではエリートだった,それは公務員と同じように見られていたのである。まず地方では田舎では公務員とか銀行とか農協とかが有力な就職先でありその他あまりないのである。
そこが安定している,それで地方の有力者の就職先になっていたという。
それで融資先もあったとかいう。そうしたコネで就職できたということがある。
それで孫が銀行に就職したということで自慢している人もいた
銀行はそれだけ信用がないと就職できない所だったのである。

地方の問題は就職先が限られていることである。田舎に住んでみるとわかるが田舎では資産がないと住みにくいのである。土地と家があり何代も同じ土地で住んでいる人が多い
だから田舎では家がないとか賃貸の住宅に住んでいると貧乏な人だとなる
ある人は4000円で部屋が三つある一軒家に住んでいる
これは都会と比べると贅沢だなと見た
ただ田舎ではそうした所に住んでいる人は貧乏だとなる
それで仮設がこの辺でできたとき狭い所に住んでいる窮屈さを知ればいいという人がいた
田舎で安定的に暮らせるのは土地と家があり恒産がある人である。
農家中心の生活のときは土地をもっている人だったのである。
だから小作となると不安定になる,貧乏になる
自分の家は最初は貧乏だった,戦後はみなんそうだったがその時農家の方が食料でも恵まれていた,なぜなら納豆まで作っていたし鶏も飼っていたから食べ物は町で暮らしているより良かったのである。
その後経済成長になり店をはじめて繁盛した,その時どこでも小さな工場でも繁盛した
何か小規模の事業をはじめても成功した人が多いのである。
それは経済成長の時代だったからである。その時銀行も貸す先があり利子をとれたから預金に利子が7パーセントにもなっていたのである。
それだけの収益を銀行は金を貸して出していたのである。
今になると夢のような世界だったとなる

正直田舎で暮らすには恒産があって恒心ありとなる,だからある程度の財産かないと余裕があって生活できないのである。
土地と家があり金融資産もありとかならないと余裕ある生活ができない
だからかえって田舎では貧乏になるとみじめになる,そして目立つのである。
そして田舎の安定した就職先が公務員と銀行と農協だったのである。
自分の家族の一人も公務員だったから知っている,公務員は何かと得するのである。
公務員などたいした仕事していないのに高給取りだと常に批判している若い人がいるのもわかる
ただ田舎で公務員とか銀行とか農協とかの勤め口がないと安定して暮らせない
田舎で安定して暮らせることのメリットは精神的に安定するから自然と融合する生活ができる,そこにcultivate(耕す)ことでcultureが生まれる
自分はそういうことをしてきたのである。
別にそういう場所に就職したのではないが家に余裕があるからできたのである。

地方は田舎は今はいろいろなことで窮地に追い込まれている
そういう中で地銀とかがなくなると就職先がないとういことで田舎に定着できないとういことも起きてくる,それも問題なのである。
そうはいっても社会に必要でないものを養う余力はもう日本にはないのである。
田舎で地方でそうした安定した就職先がないと若い人は都会に東京にでてゆく
だから知っている人の息子は40代なのに東京に出た,建築関係の仕事がなくなったからである。
自分が学問とか芸術とか追及できたのは安定した家があり家族がいたからだとつくづく思う,そうでなければ田舎では暮らせないからである。
ただ我ながらこんな生活をできたものだとふりかえる
今はめずらしくないけど高度成長時代となると団塊の世代ではこんな暮らしをした人は極少数である。それは社会からはずれたアウトサイダーだったのである。

いづれにひろ銀行がこんな窮地にあるとは思わなかった
銀行についてはyoutubeでいろいろ語られていたのである。
ともかく自分は介護になって親が家族が死んで大変な目にあった
その時自分も病気でもあったが一切同情はなく金だけを要求されて大金も失った
それが銀行までに投資信託とかで金をとられのかということは田舎が地方の経済が窮迫しているためであった
直接そういう人達に接しなければ今まではしていないからわからないだけだったのである生活に困る人,事業に失敗した人,飲食業に勤めて賃金をもらえなかった人,または勝者金融から金を借りていた人とかそういう金に窮している人たちが家にきた
その人たちは自分を襲ってきたとも言える

地方は田舎は経済的にこれからもさらにおいつめられてゆく,この辺では原発事故の援助が金銭的にされるのはあと三年しかない,その後は自治体の運営でも苦しくなる
例えば小高でも帰ったのはほとんど老人であり人手不足で介護施設が運営できない
そこに市立病院を運営するにも市の財政負担になる
でも小高ではそれを要求している,そのことは南相馬市全体の問題なのである。
だからこそ小高の人は自立してやってくれとなるがそれを言うとまた反発される
補償金のことでもめたからである。
でも銀行が必要なくなるようにそれを維持したくてもできない,財政的にできない
すると切り捨てるほかなくなる,そんな余裕がなくなってくるからだ
少子高齢化や日本の経済の衰退とかで田舎は地方は窮地に追い込まれる

だから高度成長時代こそ自分のような今で言うフリーターであれニートなどでも
もっといても良かったのである。
その時はみんながむしゃに働いた,企業戦士となっていたのである。
その人達が団塊の世代の人達が退職して今度はその人たちが社会の負担にお荷物となってしまったのである。
キレル老人とかでもそうであり財政的負担も大きすぎるのである。
病院に通う老人も多い,医療や保険や生活保護の負担が増えるばかりなのである。
田舎で安定的に生活するのは生活保護になるほかないとまでなっているのだ
posted by 老鶯 at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年03月04日

abstract forest (forest in northen europe)


abstract forest

(forest in northen europe)

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forest in Northern Europe



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タグ:FOREST

人生老後の誤算 (百歳の人生はイメージできない)


人生老後の誤算

(百歳の人生はイメージできない)

何故今これほど老後が問題になるのか?それは人生百歳とか言われるようになったためである。
百歳となれば60で退職してそれから40年もある,するとどうなるのか?
それをイメージもできないのである。
まず人間は若いとき老人になることをイメージできない
だから若い人はたいがい50とか60で死んでるよと死にたいとかなる
でも実際はもう現代は70で死んだら早いなとなる
ただ70は一つの区切りのような気がする
還暦が60というのは今の時代に合わない
60は普通に働ける時代である。個人差があるけど一般的にはそうである。

明かに現代では十年は若返っているしこれからも寿命は伸びる
なぜなら細胞を若返らせる研究がすすんでいるしそれは空想の世界ではなく現実となるとか投資されているからである。
すると百歳は普通に生きる時代がくる
それはいいとしてそれに備えるものがない,社会的にも個人的にもないのである。
金銭的な面でもそんなに長く生きることを想定していないからである。

だからこそ退職してから余裕ある生活をするには一億円かかるとなる
ただもし百歳生きるのが普通になれば人生設計を変えねばならない
それは金銭的な面でもそうだし精神的な面でもそうである。
会社勤めを終えて今までは人生は終わりだとなっていた
でも会社を退職してから30年40年もの人生があるとしたらどうなるのか?
精神的な面では趣味もなにもない人はその長い年月を有意義に過ごせないという問題もでてくるしでている
会社一辺倒で働いていた人達は社会で役割もなくなりただ早く死んでくれと今でも言われる
社会ではもう高齢化社会で老人に金を使っていられないからそうなる
そして年金とか保険も破綻すると真面目に言われる,それは数が多いし確実に長生きするからである。その財源も日本は少子高齢化や経済の衰退でなくなる
そういう深刻な状態が年金が破産するのが後三年だという人もいる
そういう危機的状態が迫っている

そして不思議なのはAI化で人間は働く無くてもよくなる,人間はそこで何をするのか?
それは人間にしかできないことをする,芸術とか創造的分野で才能を開発するとか言われる
それはなんのことなのか?今までは働くことが美徳とされてきたし強制もされてきた
働かない奴は無職は社会の敵であり排除されてきた
ただフリーターとかニートとか増えたのは何かそうしたことを奨励するためだった
創造的個性的生き方を奨励した結果そうなったとも言われる
結果的にその人たちは悲惨なものとなる,それは誤っていたとしている

そもそもそんな考えが堂々と言えることが理解できなくなる,価値観は絶えず変わるにしてもそうである。自分などはそれに対して別に驚きもしない
なぜなら自分は無職だったし働いていないからである
でもベーシックインカムとかがまことしやかに語られる時代が来るのも何なのだろうと思う
自分のように生きた人はアウトサイダーであり極少数だった,フリーターとかニートなどが増えた時代とは違うからである。ただ今でも無職ということは犯罪者と同じなのであるだから暴力団の方がニートより増しだと激しい憎悪をいだいている人がいる

いづれにしろ人間は人生はみんな誤算である,それは70年の人生だったとしても時代が変わり価値観が変わり思わぬことが津浪や原発事故が起こる
何かのために備えてもそれも無駄だったとかもなる
事業しても成功しているのは20人に一人であったり常に誤算がつきまとっているのである自分の身内でも最後まで優秀だったと言って死んだのは認知症になったためである。
人生の最後に認知症になるのも最大の誤算だったとなる
優秀な人でも最後は馬鹿になるのかという恐怖を介護してまざまざと見たからである。
人間は金でもなんでもそんな長い人生で計算できないのである。
思わぬ出費があったりいろいろある,それが人生百年になったら余計にそうである
社会的にも個人的にもとても備えられないのである。
ただでは個人的には金銭的に余裕があるからいいやとはならない
回りはそうして金銭的に苦しい人が増えると余裕ある人も危険になる
そういう目に自分はあったからだ,老人の犯罪も十倍以上に増えているからだ
その問題はその負担はみんなにのしかかるのである。

人間の最後はやはり生物と同じである。天命を全うして死ねばいいとなる
そして苦痛もなく死ぬのがいい,90から百歳とかなると老衰がいいとなる
95以上生きたらたいがい老衰で死ぬからあまり苦しみはない
樹が枯れるように死ぬ,欲も消失してそうなるのがいい
ただこれも個人差があり人間の欲はそう簡単には消えないのである。
いづれにしろ百歳となると本当に老後も長いしそれをどう生きるのかが課題になる,でもそれに物心共に備えることはもうできないのである。
ただその結果として何か社会が変わる,価値観が変わることは確かである。


樹齢千年の桜
そは十分に花を咲かせた
暴風に倒れたが
その命は全うされた
老木は枯れて朽ちてゆく
痛みもなく命は尽きて
逆らうことなく
天命を全うし森に還る

樹齢千年の大玉村の馬場桜が倒れる

2018年03月03日

最近の故郷の風景(春は来たが) (風車もなじむ景色となる?-磯部のパン屋)


最近の故郷の風景(春は来たが)

(風車もなじむ景色となる?-磯部のパン屋)

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風車が回っていない
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磯部のパン屋
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相馬市の道の駅のすぐ近くで二人の若い女性が事故死する

ここで雪の日に二人の若い女性が死んだ
歩道が雪で凍って歩けない,それで車道を通ったのだが白線の内側も凍っていた
すると車の通る車道を歩いていた
そしてトラックにはねられたのである。
これは思わぬ雪と真夜中の三時という時間が影響して事故になった
まず夜は自転車でも危険になる,いくら慣れていても危険になる
第一あそこをなぜ真夜中の三時に歩いていたのかとなる
自転車でも歩道が凍って通れないと車道になるがそこは白線の外に出れば自転車も危険になる
悪い条件が重なって事故死したのである。


風やみて風車回らず冬芒

石十個常連客あれ冬の暮

蠟梅や猫一匹いつき我待つ


この道に若き女性の二人死ぬいたましきかなうらめしきかな

梅咲くもかなたの山は雪なりや厚くも雲の覆いけるかも

春なれば峠を越えて飯館へ我が行かむや雪雲閉ざしぬ

面影のなおも浮かぶや我が家に待つ人なしや春となりしも


磯部のパン屋は場所が自転車でも行ける,相馬市までだとなかなか行けない
ただパンはそんなに種類がないし素人の家族で焼いているという小規模のものだった
機一昨日,強風のとき行って失敗した,風がやみ雨もやんだと思い行った
それから急に風がふいた,そして吹き飛ばされて転んだ
その時自転車の予備の電池をなくした,あれは高いし損した
ロードは軽いけど自転車としては危険だなと乗ってみてわかった
だからへたすると大怪我する危険を感じる
早いから急ブレーキにしてもぶつかる度合いが大きくなるからだ

あそこにあんな民家があったとは思わなかった,東京の方からあそこに移ってきた
その人がパン屋をはじめた,パンはたいしたものではなかったがあそこの場所はいい
自分は何か場所にこだわる,そこがどういう場所なのか,景色がどうかとかまずみる
この辺でも場所が違うと雰囲気でも何でも違っている
狭い場所だからどこでも同じではないかというとそうではない
あそこは海が遠くに広く見えた,それが違っていた
あそこには広い高台があった,あそこには行ったことがなかった
そういう場所に休む場所があるといいのである。

だから限界集落とかなりそうした地域地域が失われることは住んでていて面白くないというか変化がなくなる,場所の雰囲気を変化を楽しむことができなくなる
田舎は多様な場所に住んでいるからである
ともかくあのように今は意外と他から移り住んでいた人達がいた
でも放射能騒ぎとか津浪もあり帰った人も多い
その人も実際はパン屋をするわけではなかったこの辺の特殊な事情ですることになった
商売は常連客があるとリピーターがないと成り立たないだろう
この辺は工事とかで今も外からの人が来ている,それで成り立っている食堂とかある
でも前のようには来ないので地元の人に来てもらわないと成り立たないということがある自分は朝はパンだからうまいバンを食べたいのである。

鹿島区は海岸が風車の風景になった,今日はめずらしく風が吹かないので風車が回っていない,そして冬芒の風景になっている
これもこの辺の風景としてなじんでくるのかとなる
家で待っている人はいない,待っていたのは猫だった
この猫も何か不思議なのである。猫は家にいつくというが本当である。
家の住人のようになるから不思議なのである。

死んだ人もだんだん忘れさられてゆく,去る人は日々に疎しになるがなおやはり面影が浮かんでくる
春といってもまだ春とは感じられない,今年は寒かったからだ
ただ梅は咲き始めたから春にはなっている,鶯の初音も聞いた,雲雀も鳴いたのである。ただ本格的に鳴きはじめるのはまだである。
飯館の方は雪であり雲におおわれて雪がこっちにも吹きかけてくるのがこの浜通りの気候である。







タグ:風車 磯部 冬芒

グローバリストとナショナリスト(ローカリスト) (国や地域の文化を重視するのがナショナリスト)

グローバリストとナショナリスト(ローカリスト)

(国や地域の文化を重視するのがナショナリスト)


グローバリストとは何なのか?グローバルとはglobeのこと地球のことである。
そこには国はない,地球という神が創造した自然のことである。
だから何かここで言葉でも受け取り方が違っている
グローバリストとはその地球とは関係ない,経済的に貿易で国境をなくす
経済優先の人達なのである。
グローバルに経済を展開して利益を得る,多国籍企業がそうである。
一方でナショナリストは国内経済を主要なものとしてまずあるべきだという人達である。だからトランプ大統領が中国などに鉄鋼で関税をかけるというのは国内の鉄鋼産業が衰退すると労働者も困るし国内産業も育成できない,労働者も失業するということで主張している

自分の考えではグローバルとはあくまで地球なのである。地球というとき海があり大地があり川があり森があり山がありという地球のことである。
そこで経済だけでありえない人間の生を考える,何かの物を生産する,売買する,もうかる,損するというかの問題ではないものとしてグローブ(地球)を考える
たから自分が言うグローバリストとかナショナリストの意味は違ってくる
グローバリストは地球主義なのである。それは経済原理の地球主義ではない
国々の風土があり文化あり歴史かありその中で培うものが地球主義でありグローバリストなのである。だからグローバリストというときeconomical globalistになる

グローバリストとナショナリストを考えるとこれは世界的にだけあるものではない,
東京とかに住む人はみんなグローバリストなのである。
なぜなら彼らの思考は完全に自然から乖離しているからである
回りに自然がない,食料はどこから入ってくるのか?
子供ならスーパーにいくらでもあるじゃない,金さえあればいいとなる
田んぼとか畑がなければ食料がどういうふうに育つのかもわからないのである。

都会と特に東京と田舎,地方との対立はグローバリストとナショナリストの対立とにているのである。ナショナリストという大きな範囲になるがローカリストとの対立だとうのもわかる
ナショナリストはローカリストはやはりその土地土地の風土に養われて思考している
東京に住んでいるような人達はそうした自然を思考しないですべて語る
経済でもそうだし科学でもそうだしなんでもそうなのである。
そこに自然がぬけている,自然の思考がないのである。

自分は地域地域を一つのコスモスとして見る,でもグローバリストはただ世界を経済の道具とみている,多国籍企業などでもそうである。
車を売るために薬でも売るための市場としてのみ見ているのである。
だからグローバル経済は非人間的である。
そもそも世界は地球は市場とだけ見ることが間違っている
その国々を地域をただ市場として見ていることそして経済的に支配するものとして見ているのは悪魔的だともなる
石油の値段が下がってベネゼエラが破産状態になった,国民が10キロやせたのである。
食料が入らなくなったのである。そういうことがグローバル経済では起きる
日本は車だけ作っていろ,牛肉をアメリカから買いと常に要求される
そして東京に住んでいる人は田舎人とナショナリストと対立するのはにている
食料など農民などは国の援助で成り立っている,俺たちの税金が農民に使われている
そういう不満が田舎の人達に農民に対してある
だから外国から食料を輸入した方がいいと本気で思っているのである。
彼らに日本の国土への思考がないのである。
まさに東京とかなるみんなグローバリストが住んでいる所なのである。

自分がグローバル経済を否定するのはそれは文化的側面からなのである。
グローバル経済は国々の国境をとりはらい自由に物でも人でも流通させるということになるがそこに国々の歴史があり文化があるがそれも無視するのである。
その国々は国内でも風土があって自然があって歴史があって作られてきたのである。
その地域地域であれそこで血の通った人間的経済にすることで本来の人間性が回復する
一つの世界観が形成される,アイディンティティが形成される
そういうことを自分は詩とかで追及してきたのである。

自分は経済的な面だけからではなくナショナリストではない,地域地域の風土自然があってそこで世界観をアイディンティティを築く,経済より文化を重んじて言っている
経済がグローバル経済になったらもう文化もなにもない,ただ経済的原理だけで動く
それが今のグローバル経済である,そこには弊害が起きてくる
だから自分が言っているグローバリストとナショナリストの意味は違っている

アメリカだとクリントンはグローバリストでありトランプはナショナリストというとき経済的側面だけでそうなっている,アメリカの中でも対立していることがわかる
ナショナリストとなる国を第一にするからどうしても歴史でも文化でも重んじることになる,グローバリストは経済的に世界を支配しようとすることである。その支配の方法は金融なのである。それがユダヤ人とだけは言えないだろう別にキリスト教者のネオコンなどもそうだからである。

アメリカでも白人がアメリカを作ってきた,それなのに移民がアメリカを支配するようになるとかナショナリストが反発したのである。
人間は経済的原理のみでありえない,それはグローバル経済でもそうである。
そこに金融資本主義になり格差社会になり国々の文化や歴史を無視する横暴があった
人間はそもそも経済人間だけとなるものではない,様々な要素がありそれで人間的に生きられるとなるからだ

自分の考えでは東北ブロックとか道州制とかにしてそこでそれぞれの世界観を形成してゆく,金融でもそういう中で機能してゆく世界である。東北ブロックがあればその中にまた地域地域のブロックが自然でも歴史でもある
金融でも地域の会社を育てる地域に貢献するものとしてあるのが地銀だとなっている
だからグローバル経済の株をすすめたり投資信託をすすめるのは合わないのである。
会津とか考えるとそこはもともと万葉集から一つの大きな国として意識されていた
そういう自然があり歴史が育まれてきた,ただ経済的原理だけで働くとか世界を見るというのが合わなくなった,そもそも人間が経済人としてだけあるのではない

グローバリストとは人間が世界でもみんな経済人としてみている
あらるものを経済の単位としてみている,海であれ山であれ森であれ美しい景観の中に住んでそこで文化を育むという思考がないのである。
ナショナリストに回帰するというときそれは経済だけの問題ではない
その国の風土と歴史によって育まれたものを再アイディンティティ化することなのである
グローバルというとき地球を今やグローバルに探求している,無数の写真や絵がインターネットにでている,そこでソフトで抽象画を作ったというのは不思議な体験だった
そういう芸術でもグローバル化する,それは経済とは違ってまさにグローブ(globe)
地球の景観が多様に写真などで見せられる時代である。
そういう文化的なもののグローバルは経済摩擦など起きないのである。
グローバル経済になるとどうしても摩擦が起きてそれが深刻になると戦争にもなる
いくらそれがいい面があるとしても日本から車を買っているんだから牛肉を買いとか
オレンジを買いとかなるのは当然なのである。
そこで必ず貿易摩擦が生まれ深刻になると戦争になる
経済の原理だけのグローバル化はそもそも無理なのである。
貿易とかは必要でも現代のグローバル経済は限界を越えたものとなりそれに人間はもう耐えられないのである。人間はみんな経済人として生きるものじゃないからである。


posted by 老鶯 at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年03月02日

津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因 (自然に悪意はない)


津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因

(自然に悪意はない)

edfukagawa.JPG

津浪の被害はあまりにも大きかった,それでどう解釈していいかわからなかった
それで自然でも海でも天でも被害にあった人は呪ったのである。
でも自然には悪意があるだろうか?
悪意というとき人間にのみ悪意がありこの悪意が一番怖いのである。
投資関係でも投資自体は公平だとしても悪意をもって接触してくる人は危険である。
投資でだまされやすいのは投資の世界がわからないからである。
悪意というとき自分たちだけもうければいいという考えの人も実は危険だった
それが銀行にも今はなっていたのは経営的に追い詰められていたからそうなった
人間は借金でもなんでも追い詰められると危険になる

自然に悪意がないというときそのことこそ自然と人間の一番の相違である。
石や花でも木でも動物でも本来は悪意はない,蛇などは嫌だとなるが何か全般的に悪意をもっていない,だからこそその無垢なる状態に感嘆する
人間社会は虚偽の世界であり常に偽りの中に生きている,嘘つかない人がいないことでもわかる
その自然がどうして人間社会に対して悪意をもって災害を起すのか?

自然災害が起きるのはなぜなのか?
ノアの洪水とか確かにあったけどそこに神の意志が働いていたとなる,だから自然に神の意志が働くことはある,聖書は神の意志が働いた記録である。
だからモーゼが海を割ったとか太陽が止まったとかいろいろある
自然をも左右するのが神だとなればそうなる
ただその後は自然と神はきりはなされ科学的に自然を見るようになった

なぜ自然災害が起きるのか?それは自然を人間が改造して破壊して住んだことに根本的な原因があった
今回の津浪で甚大な被害あった所は自然を無視して住んだ場所である。
本来住むべきではない所が甚大な被害にあった
石巻は被害が大きかったけどあそこは家が密集していたのである。
だからこんなに海に近くてこんなに家が密集しているのは不自然だなと見ていた
そこが根こそぎ津浪で破壊されたのである。

そもそもなぜ海側にこれほど家が密集したのか?その原因は便利だからである。
漁業するに便利だから海側に人家が集中した
磯部などでもあんなに家が集中してそこが根こそぎ失われた
でも高台がありそこは無傷だったのである
あれを見れば高台に住んでいれば助かったのにとつくづく思う
でもそこは不便な場所なのである。

日本は国土が狭いから海側に開拓して米作りをした,その田んぼにしたところが津浪の被害があった
そして縄文時代の海が再現したのには驚いた
どこでも縄文時代に海だったところは海になったのである。
要するに自然が元の自然にもどったのである。
つまり人間はもともと海だった所を開拓して住むようになった
もしそういうことをしなかったら自然災害があったとしてもこんな甚大な被害にはあっていない
江戸の安政地震で被害にあったのは埋め立てて作った深川とかが死者が多かった
そこは海であった所を埋め立てて住んだから地盤が悪いし液状化が起きたとも推測している

人間は文明が発達するに連れて自然にそって住んでいない,不自然に住んでいる
東京という大都会を見ればわかる,そういうところで大地震が起きれば当然大被害になる神戸でもそうである。大都会とかは自然にそって作られていない
異常な密集状態になり不自然なのである。
だからこそ大きな自然災害があると被害が大きくなる
それは自然が悪意をもって人間を苦しめるために災害が起きているのではない
文明とは自然を改造して破壊した結果として自然災害が起きている

例えば極端になるが家が二階になると危険が増す,それよりもし弥生時代のような掘っ建て小屋のようなものにに住んでいれば地震が来ても壊れてもまたすぐ建てられるともなる
倒れるものがないから安全だともなる
つまり家すら文明が発達すると高度なものになり便利なものになるが危険も増していたのである。都市は便利なものとして人間が作り出したものである。
でも人間が密集して住めば便利なのだけど危険にもなる
人間はまず便利なものを追及する,それが自然災害には弱いものとして危険なものになっていたのである。
大都会は地震か自然災害で甚大な被害を出すのは自然ではない不自然に人間が便利さのために密集して住んでいるからなのである。
自然が別に悪意をもって人間を苦しめるために災害を起こしているのではない
人間がそもそも災害を作りだすものを便利さを追及して作り出していたのである。
それは原発だってそうである。科学技術は便利さを追及してきたからである。
でもその結果として自然災害に弱い社会が生まれたのである。

不思議なのは四倉とかでも前は広く砂浜がある場所は被害があったが大きな被害にはならなかった,あそこだって海に面しているから相当な被害になり街ごと消失するようにもなっていた,でも街全体がなくなるようなことはなかった
それは前に広い砂浜がありそこが緩衝地帯になっていたためである。
それは自然な状態がそこに残されていたからである。
砂浜もなく直接海に面していた磐城の漁港などは豊間などは被害が大きかったのである。九十九里浜でもあういう緩衝地帯があると津浪を弱めるのである。

文明が発達するとそうした緩衝地帯は海側になくなり漁港が便利さのために作られそこに人が密集して住んだ結果被害が甚大なものとなった
文明とは便利さを追及することである。その便利さが人間に仇にあだ)になるということがあった
便利さを追及することが誰も悪いものとは思わないからこそこれだけ便利な社会になったでもその便利さは自然に逆らうもの改造して破壊するものとして働くものでもあったことを津浪で思い知らされたのである。
なぜなら縄文時代のような一番不便な生活をしていたなら被害も最小限にくい止められたからである。海であったところに縄文人は住んでいないからである。
新地の山から手を伸ばして貝を食べていたという手長の巨人伝説でも貝塚が高台にあり高台で縄文人は生活していた,海側にあんなに接近して住んでいなかったのである。



江戸幕府以前の江戸

現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。 道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。 道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります。

わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る

これは実際の景色を詠んでいたのである。江戸というのはベネチアのように美しい街だったのである。江戸なら今の東京と違い住んでみたいとなる
江戸城の前まで海だったというときそれだけでも景色が良かったことがイメージできる

posted by 老鶯 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2018年03月01日

駅の保守点検は毎日のようにしている (駅前の活性化をどうするかが課題)


駅の保守点検は毎日のようにしている

(駅前の活性化をどうするかが課題)
taxekimaee1.JPG
人のいるところに車がとまっているのを見たことがない


駅では何かしている,電気系統の保守点検も常にしている,掃除はJRの委託会社の人が駅舎の中を掃除するようになった
商工会はホームのゴミとトイレを掃除する,周に一二回である
だから掃除の問題はかたづいた

タクシーの乗り場と白線の字を消していたのは電気系統の小屋のようなものを建てるので車の置き場を確保するためである。
あそこにタクシーと白線で書いてあるから利用できない
ここは駐車場が駅前だけであり狭いから問題なのである
あの白線をさけてとめている
するととまる場所が限られるようになる
でも北郷タクシーではそこを確保するために金も払っているのかもしれない
でも実際にあそこにとめているタクシーを見たことがないのである。

自転車屋の人が一番駅を見ている,だからあそこが切符売り場とか駅を利用する人の便宜を計るのに向いているのである。
しきりになにかしたいと言っていた,ただおおがかりなことになると無理である。
鹿島区にも資金が援助されていたがそれも使ってあとつづきしなかったという
そのことをしきりに山梨から来た事業に失敗した人が言っていたのである。
あの人は経営のセンスがある人だったのだろう。
失敗しても事業のことを知っているのである
だから外部からそういう人を招きしてもらうこともいいとなる

地銀とか信用組合とかはそもそも地元に根ざした金融だとすると地域を良くするために活性化するために資金を投入することが本来の役割だったのだろう。
でもグローバル経済へ投資させて自分は損したのである。
自分で選んだことでもあるがグローバル経済には疑問が前からあった
地銀が生き残るにはグローバル経済とか投資信託を売るとなると
地域には必要ないものになるかもしれない
まず地域を良くしようとか銀行では考えないのである。
まず自分たちが損しないで利益をあげることを目的にしている
そしてたら地域の金融なのかとなる,証券会社なのである。
地銀としての役割はなくなったとなる

別に何か休息する飲み物を出す食べ物を出すような所はある
前にしていたところもあり空いている,使われていないか喫茶室とか休み場として利用できる,でもそうなると賃料を払わなくてはならない
人の流れが少ないからあそこで利益を出すのはむずかしいだろう
ただ休む待つ時間が電車の場合あり長くなる時があるからそういう場所が必要になる
小高辺りで事情があってお茶のみ場とか無料で提供している
小高の場合はいろいろ援助があってできたのである。

いづれにしろまず大きな事業となるともうできない
ただ小さなことはできる,自転車屋だって一部を休息所にできるかもしれない
そこでお茶やコーヒーやおにぎりくらい用意しておくのである。
そこでまず利益をあげようとすると失敗する
それほどの人の流れがないからである。
常磐高速のセデッティは人の流れがあれだけあれば商売になる

あそこで果物のジュースをミキサーで出していた,それを自分もまねして作ってみた
2500円のミキサーで簡単に作れた,リンゴだと材料がリンゴ半分でできた
あそこでは350円くらいで出していた,するともうかっているのかと思った
そのジュースをミキサーで出すのもいいかもしれない
なぜなら駅にある自動販売機は一番売れているからだ
必ず待ち合わせがありコーヒーとか飲んでいるからだ

今日は雨はあがったが後から強風になり運休になっていた
今日は風が吹かない前に磯部で始まったパン屋にパンを買いにいった
あそこだと鹿島からも近いのである。相馬市まで行くと遠いのである。
鹿島区ではパン屋がないので焼きたてのパンは食べられない
誰かやればいいとも思う,なぜか新地にはパン屋がある
焼きたてのパンを売っているのである。
磯部のパン屋は民家を改造してしている
まだパンの種類が少ない,だから期待したものとは違っていた
ただあそこから海が見えて眺めがいい所だった
復興住宅もありあそこの民家はもともとあそこにあった
磯部でも広いからあそこには行ったことがなかった

意味を求める人間 (宗教や哲学などの意味を求める時代になっている)


意味を求める人間

(宗教や哲学などの意味を求める時代になっている)

この地球とか宇宙はなぜあるのだろうか?
こういうふうにまず考えるのが人間なのである。
そこに人間の人間たる所以(ゆえん)がある
これだけ多様な生物がいて宇宙があり地球がある
しかしその意味を考える人はいない
考えて意味を与えているのが人間なのである。
神が創造主だけど意味を価値を与えることは人間なのである。

動物は腹が減った今日食べるものがあった腹は充たされた満足だとなる
それ以外なにもない,自分が生きる意味など考えないのである。
人間も最初はそうだった,狩猟するにしろ漁労で生活にしろ食べることに追われていた
そこに余暇はないのである。
「俺たちは何で生きているのか,働いているのか?」
とか考える余裕もなく食べることに追われていた。
暇ができなければ考えたりしない,意味を求めたりしないのである。

ただ人間が言葉をもつというときその言葉がすでに動物にはない高度なものである。
言葉があるというとき人間はすでに意味を求めるものとして言葉があった
言葉がロゴスが最初にあったというときそれだけ人間にとって言葉はその存在を問うものとして欠かせないものになっていた
バベルの塔の意味しているのは人間は一つの言葉を話ししていたとき神が怒って言葉が通じなくさせたことなのである。
人間が通じ合えるのは言葉によってだったのである。
何かこうして延々と一人プログで自分は書いているけど書きながら考えているのである。それがプログとかではしやすいのである。
言葉や文章は考える道具なのだとつくづく思う
もちろん言葉で話しても考えるが文章で考えることは深くなる

なぜ人間に宗教や哲学が生まれたのか?
それが大きな疑問がありその解答を得るためである。
最大の人間の問題は死だった,なぜ人間は死ぬのか?
それがどうしても今だって納得がいかないからである。
死によってすべてが終わるのかとなれば生きる意味もなくなってしまう
どうせ死ぬんだ,無になるんだ,だからどんな生き方してもいい
悪も善もないとか自暴自棄のようにもなってしまうだろ。
それだけ死はすべての人間の存在を否定するものなのである。
だからこの解決なくして人間の生きる意味は様々なことを言ってもなくなる

その解答は永遠の命を説いたキリスト教しかないともなる
ただ死後の生があるということで宗教は共通している
この世だけで生が終わらないということは死んだら天国とか地獄とかあるとなれば
そのことに恐怖して現世も生きることになる
その来世をも否定する無神論者が普通に多い
でも無神論者がどこまで真剣にそのことを考えるかとなると考えない
人間はそのことで人間でいられなくなるとか結論した人もいる
人間が存在して自分でも自然でも宇宙があるのではない,神が存在して人間があり宇宙があり自然がある
自然は自然に生成したという人がいる,それは違う,明かに人間であれ万物は目的があり神によって創造されたのである。
ただその意味とか価値は人間が求める,人間が解答を出すようにしたのである。
山でも木でも石でもそれがなどういう意味をもっているかは神は教えない
その答えを出すのは人間なのである。

今は日本では豊かになったから暇も生まれた,働かない人が膨大なのである。
一億人にいるとして65歳以上が4人に一人とかなる時代である。
その老人の大半は働かないのである。その他ニートとかも働いていない
それができたのは高度成長時代に親が金を貯えたからだともいう
自分などもそうだった,自分が働くこともしないで旅ばかりしていたというのも親がいたからである。
高度成長時代はまずがむしゃらに欲望を達成するために働いた時代である。
そういう時代は何のために働くかなど考えない,家電製品が欲しい家が欲しい車が欲しいうまいものを腹一杯食べたいしかないのである。
そういう時代は何でも意味を求める時代ではなかった
働くことにも意味など求めないのである,金になればいい欲望を達成すればいいとしかならない
でも豊かになると人は意味を何でも求める,働くことにも消費することにも何かしら意味をもとめる,中国人でも最初は物の消費だったが今は事の消費だというときもそうである何かしらその国の文化とかその国のもっている価値を見いだそうとしているのである。

老人になると人生をふりかえり自分の人生は何だったのだろう?
このように必ずその人生の意味を求めるのである。
でもそう思ってももうその人生の意味を老人になってから求めることができない
意味を求めたらこんな人生を送らなかったといっても後悔してももう人生をやり直すことができないのである。
そして金持ちにっても何か虚しいなとなっていることもある
自分が求めたのは結局金だった,でも金だけでは意味ある人生を送れなかったとかなる
ただ金にふりまわされで生きてきただけだとか後悔する
老人になるとこうしてみんな哲学的になるのである

今の時代は高度成長も終わり経済は成長しなくなった,成長を求めてももう無理である
そういう時代ももどってこない,今は宗教とか哲学とか芸術とか他でも何か意味をあるものを求める考える時代なのである。
そして価値観とかも変わってしまったのである。がつがつと欲望を充たすために働いた時代は終わった,一人一人が意味ある生を求めているのである。
老人の貧困が問題になるが老人は欲望が一般的には減退する,あまり消費しない
自分も電動自転車のマウテンバイクを欲しいと思った,それは30万以上する
でもそれに乗るエネルギーがなくなったのである。
節々が痛くなるとか疲れるとかなる,新しい道具でも何か電器製品でも使いこなせないことがある,パソコンでもそうである。
それを教えてもらいたいが量販店では物を売るだけしかしないのである。
そういうことでも需要に答えていないのである。
高齢化社会というのも時代的に違った価値観になる
つまりまだ高度成長時代の延長のような価値観が尾をひいている
その価値観を高度成長も終わり高齢化社会になり変わっているのである。
だからそれに適合した社会にも経済にも働き方にもなる必要がある

とにかくこうして延々と自分一人で書いているのも書きながら考えるのにいいからであるここに対話がないのだけど思索を深めているのである。
要するに人間はいくら他者がいていろいろ言っても結論は自分で出すほかないのである。投資でもなんでも結論をだして選択するのは自分しかないのである。
それを誰かの言う通りにしていたら自主性と独立はなくなるからだ
それでカルト教団とかに入り奴隷にされたりいろいろ洗脳されて投資させられたり
原発を造らされたりして甚大な被害を受けるからだ





2018年02月28日

最上川、日本海沿いの旅情の秋の短歌連作


最上川、日本海沿いの旅情の秋の短歌連作




最上川流るる水に春日かな

松江にて茶町とあわれ秋柳


石の橋かかりてあわれ遠きかな左沢(あてらさわ)の町春の灯ともりぬ

最上川流れくねりて滔々と春日輝き写りけるかな


最上川流れくねりて滔々と流れゆくかな春の日写りぬ

虫の音や旅人の影ここにあれはるか流るる最上川かな

幽遠に白糸の滝下る川紅葉に映えて夕べ淋しも

最上川船着場かな大石田実り豊かに昔栄いぬ

最上川下りて酒田や秋のくれ栄し昔しのび泊まりぬ

酒田なれ灯ともりあわれ旅の宿木の灯台や秋の夕暮

佐渡島遠くもあわれ岩あらわ雨に打たるる野菊の花かな

波の音の心にしみぬ古き岩月のいでにつあわれ深まる

月まるく海にい出にき夕日没る湊々のもの寂びあわれ

船とまる小さき漁港日本海家々あわれ秋の陽没りぬ

佐渡島遠くもあわれ岩あらわ雨に打たるる野菊の花かな

佐渡島流される人の跡とあれ枯野に海やあわれ深まる

船泊まる小さき漁港日本海家々あわれ秋の陽没りぬ

旅人の遠く来たりぬ秋の雨山越え暮れぬ関所をあとに

旅人のいづこさまよふ山越えて関所のあれや秋の夕ぐれ

隠岐の島ここより遠き松江かな我は行かじも秋の夕ぐれ

旅終えて我が影なおもさまようや今宵いづこに泊まる宿かな

陽炎のゆらめく中に山頭火埃の道を歩む影見ゆ

松江と常夜塔

また最近旅をふりかえる,印象に残るのはやはり自転車で旅したことである。電車で旅したさともありそれも思い出してこの短歌連作になった
思い出す旅も不思議なのである。
この思い出す旅をするにはやはり歩くとか自転車とかでないとできない
電車の旅ではできない,峠を越えたとか何かそうした体に記憶できないのである。
風でも雨でも感じないとまず旅にはならないからだ,車は風でも雨でも自然をシャットアウトするから旅にならないのである。
だから現代から旅は消えたし旅人もいないのである。
旅人が存在したのは山頭火までだったのである。

最上川は水量が日本で一番豊かだろう,だから船運があった,日本ではあれだけの水が豊かに流れている川はない,必ず浅瀬になり船でゆくことはむずかしい
でも最上川でもそういう場所があり船を曳くところがありそれを仕事にしていた村があった,最上川で気持ちがいいのはあれだけの水が流れていることなのである。
中国でもヨーロッパでも大河があり船の運行があったし今でもある
日本にはあっても短い距離である,最上川は長い距離だから日本ではそういう川はほとんどないのである。

最上川から日本海に出る,日本海は太平洋側とは全然違った趣になる
海から太陽が出て海に沈むからまるで変わった感覚になる

初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます

なぜ島がこれほど入っているのか?隠岐も入り佐渡島も入っている,ということ海人族が日本本土に島伝いに渡ってきたことを示唆している
佐渡島まで入っているのは日本海は航海しやすいからである。日本海側の歴史が古いのである。そうでなければこれだけの島を神話に記さないだろう。
本州が一番最後に生んだというのもそうである。

いづれにしろ旅をふりかえると不思議である。何かまださまよっている感覚になる
それだけ旅をしたということもある,記憶に残るのは自転車の旅だった
さまよっている感覚になるというときやはりそれは歩くか自転車の旅である
電車の旅ではさまよっているとはならないからである。
そして記憶が定かでないからそのさまよった場所があいまいとなるのである。

現代はいろいろなものを得たのだが旅はなくなり旅人はいない
それで皮肉なのは今ほど旅をしている時代はないとなっている
でもその旅は観光旅行とかグルメ旅行とかなっていて本当の旅ではない
旅人はいないのである。時々確かに国道を歩いて旅している人がいても
それが外から見て旅人に見えないのである
その姿は車の喧騒に消されて旅人は旅人でありえないのである。
江戸時代は庶民でも普通に旅人にもなっていたのである。
それは歩いていたから自ずと旅人となっていたのである。

ともかくずいぶん自分も旅したけどそれも10年間はしていない,つまり旅は終わったともなる,それだけの気力もなくなったとなる
でも自分の人生をふりかえると旅だったともなる
仕事もしていないし残ったのは旅の記憶だとなる

人生というものは60以降になり必ずふりかえりその人生が何であったのかわかる
会社に一生勤めた人はそれが人生だったのである。
それが何であれそうである。だからもう一度病気になった人は仲間と一緒に働きたいと思ったのはわかる,その人は倉庫係とかで働いていたのである。
たから常々に言っているけど何であれそれが外から見た無益であれ無駄であれ何に時間を費やしたかが人生だったとなる
人生も最後になればただ記憶をたどることが生きることにもなるからだ
そして最後に人間は最も印象に残ったことを記憶を語りつづける
戦争を経験した人は認知症になって千回もそのことを語りつづけた
それで嫌になったがそれが人生で一番印象に残っていたからそうなったのである。

あしなたは最後に何を語るのか?

その語ったことが人生だったともなる

陽炎のゆらめく中に山頭火埃の道を歩む影見ゆ

山頭火は最後の旅人だった,あそこまで旅できるエネルギーがあったことは驚きである。旅に憑かれた人だったのである。ただ作品的には俳句でも深いものがない
その時々のものを簡単に俳句にしたという感じである。
でもあれだけの旅をした旅人であった最後の人だったとなる
芭蕉は旅を深い哲学的な人生論にまで昇華した,それと比べると山頭火はそうはなっていないが最後の旅人だったのてある。なぜならまだ歩いて旅していたからである。

ある時社会の光景から消えてゆくものがある,江戸時代から明治時代になったときそうである。鉄道ができればどうしても歩く旅自体が消えてゆく,でも明治から戦前までは歩いて旅していた人が結構いる,文人でもいる
戦後はその旅人が消えたのである。車時代になったらもう旅人である余地もなくなったのである。
観光旅行している人は無数にいる,でも旅人ではない,旅人はいないのである。
バイクでも車でも旅していてもその人たちが旅人には見えないのである。
何か通過してゆく物体ののように見えてしまうのである。
だから一見文明化して便利になったとしても実際はいろいろな今まであったものを失っているのである。
それは人間として生きることをつまらなくしているのである。
旅人など無用のものでありそんなものいなくてもいいともいえる
でも何かそれが社会でも人間としてつまらないものにしている
ただ現代で旅しようとする時,かなりの演出をしなければならない,労力もかかるのである。江戸時代なら歩いているのだから何も演出しなくても旅していたのである。

ふりかえると自分は以前として旅していて全国をさまよっているという感覚になる
でも十年とか二十年とか三十年とか過ぎる記憶も定かでなくなっくる
でも何かまださまよい旅しているのである。
人間は様々な場所に住んでいる,旅をしてその様々な場所を思い出す
左沢(あてらさわ)というのは印象に残っている
あの石の橋とか何か遠い場所に思えた,それが記憶の中に浮かんでくる
山形県ではあそこが印象に残っている、あそこには電車で行ったのである。
そこは秋ではなく春だったのである。
でも前に書いていたからその記録から記憶をたどる旅をしているのである。


東北-新潟県(旅の思い出)

なぜ老後の資産形成に投資が不可欠とかすすめるのか? (9割は損しているのに・・・)


なぜ老後の資産形成に投資が不可欠とかすすめるのか?

(9割は損しているのに・・・)

雑誌でも老後の資産形成には投資が必要だと良く書いてある
それは理論的にも納得いくように書いてある
だから何か自分もそれを読んだり目にしたりしてそういうものなのかとなり
投資信託を買った

でも9割も損しているのになぜすすめているのか?

90パーセントは投資で損している

まずこういう見出しが書いてあれば普通は投資はしない
そういうことを書いていないし何かめんどうな投資や株のことは書いてある
まず知るべきは

90パーセントは投資で損している

このことはyoutubeでも言っている人がいる,これは自分が適当に言っているのではない統計的真実なのである。
だからどうしてこんなに雑誌でも株や投資のことが宣伝されるのかわからない
それは投資する方ではなく投資させる方の宣伝だとなる
証券会社や銀行の宣伝のために何か投資が老後の資産形成には不可欠だとなる

「利子がつかないですから投資で増やすほかないでしょう」

こういわれると知らない人はそうかなとなる,投資になにか甘い期待をもつのである。
それは人生百年とか言われるようになり老後の資金がたりなくなったからである。
そこでどうしても穴埋めするための資金が必要になる
その不安につけこまれて投資の話が雑誌でも常に宣伝される

ところがまず自覚すべきことは90パーセントの人は投資で損している
この厳格な事実を知るべきなのである。
でも雑誌などでもいろいろな投資のことを書いてある
ここが一番肝心なことだけで書いていないのである。

老後の資産形成に投資は欠かせない

でも90パーセントは損しているとは書いていないのである。

これもなぜそうなっているのか?それが良くわからないのである。

原発の時も原発は安全だとなって危険だということすら口に出せなかった
「安全神話」が作られていたからだ

原発は安全だ

原発は安全だ

原発は安全だ

原発は安全だ

原発は安全だ

・・・・・・

原発は危険


こういうふうになっていればまず原発は安全だということしか目にしない,書店でも原発の危険性を指摘していた本も出されていたがそれは冗談だとかSF的なストーリーに見られていた注目されなかったのである。

人間は何か権力をもつものがそうして洗脳しているのではないか?

老後の資産形成には投資が不可欠だ

そのことがすりこまれる,すると証券会社や銀行にとって都合いいからである。
もちろん株や投資ではリスクは常に言っているから原発とは違う
でもそのリスクの伝え方が十分ではないのである。

投資で90パーセントは損している

このことが最も大事なことなのだからそのことを見出しとして雑誌でも出すべきだが出ていない,youtubeとかには出ているからわかりやすかったのである。

この社会のわからないのは事業をしても成功しているのは20人に一人である。
そうしたら簡単に事業などできないとなる
失敗したらどん底に落されるからである。それでも事業をする人はいる
投資も同じなのである。ものすごく成功率が低いのである
投資の場合は損失が大きくなる


老後の資産形成には投資が不可欠だ

老後の資産形成には投資が不可欠だ

老後の資産形成には投資が不可欠だ

老後の資産形成には投資が不可欠だ

投資で90パーセントは損している



投資で90パーセントは損している

投資で90パーセントは損している

投資で90パーセントは損している

投資で90パーセントは損している

老後の資産形成には投資が不可欠

何かこのように洗脳されているのである。最初に頭の中が老後の資産形成には投資が不可欠だというのが先入観として入る,そして投資で90パーセントは損しているということが見逃される
そして何か甘い期待を抱いていてるのである。自分もそうだった

もし最初に投資は90パーセント損しているという事実を指摘していればこうはならないのである。
それと投資にもいろいろあり投資信託もありその仕組みが複雑だからいろいろあってその中で成功するものがあると錯覚するのである
投資全体では90パーセントは損しているのである。
この情報こそ一番重要なものでありそこから投資する人はすればいいとなるが
余りにも甘い期待でしている,それは投資が複雑だから理解できないからである。
やはり何か現代とは心理学が生まれたように人間の心理を利用するのが多いと思う
それは社会が見えない複雑すぎて情報も膨大であり投資すべきだという人とするべきではないという人に必ず分かれるからである。
この薬は効くという人と危険だという人もあり食べ物でもいろいろな情報が出る
そして遂には情報パニックになっているのが現代だからである。
その判断の根拠をどこに置くかわからなくなるからである。

問題は投資をすすめたい人達が証券会社や銀行である。
その人たちは金をもっているから宣伝するから操作される
それは原発でも国家権力と一体となり原発神話が作られたのと同じである。
それでインターネットのyoutubeの情報などは意外と中立であり的を得ているなと思った
要するにyoutubeの解説がわかりやすいということにあった
雑誌とか文章になるとわかりにくくなる,youtubeの特徴は浅い知識でもわかりやすいのである。
だから人間社会がこれだけ複雑でもわかりやすく説明されればわかることはある
だからyoutubeの情報はそうした投資でも権力をもつものに抵抗できるメデアだと思った
ただ最近見始めたので遅かったとなる
情報はいろいろあってもやはり人間は体験しないものは理解しにくい
そして痛みを負ったとき本当に理解するのである。

posted by 老鶯 at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月27日

石油が下がりベネゼエラ国家が破産状態に (カナダ国債でも下がり損した)


石油が下がりベネゼエラ国家が破産状態に

(カナダ国債でも下がり損した)

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この記事に興味をもったのはカナダ国債で損したためである。急激に石油が下がった,カナダは石油が世界で四番目とかとれていた資源国だった

だが最高値130ドルだった原油価格は30ドル台なので、採掘して輸出しても赤字を出しています。

ここも石油が急激に下がって国家崩壊状態になった,国民は食料がなく10キロやせたとかその影響が大きかった,グローバル経済というのはこういうところに影響していることを実感した

自分も石油のことで損したのでこの痛みがわかる,ただこんな悲惨な状態になるのはやはり国自体が小さいのと他に産業がないためだろう。
日本とかでもグローバル経済の影響を受ける,すでに受けている
家電は売れなくなり日本の経済は20年停滞したままなのである。
かろうじてトヨタとか車が売れているので輸出で稼ぎ石油を買う,それができているからベネゼエラのようにはならない

でもグローバル経済になると日本もこうした窮地に陥るかもしれない
輸入に頼るのが多いからである。だから食料だけは自国でまかなえるようにしておくべきだとなる
つまりここにリスクがあるからだ,そのリスクに備えないと危険になる

何か人間の社会はリスクがありそのリスクにどう対処するか?
それを事前に知っている必要がある
津浪もそうだし原発事故もそうだし投資でも絶えずリスクがありそのリスクによって大損になるのだ

経済の三要素は石油と金利と為替とそれに加えて技術革新(イノベーション)である
石油の値段も金利も常に変動していてその影響が大きいのである。
それでUSリートとは金利が上がり証券会社の人が来て売れといわれ売った
それは正しい判断だった,円高にもなったからである。
石油と金利と為替の影響は本当に大きいのである。
一円円高になるとトヨタ百億とか損するというから大きい
外国に投資する場合は為替の影響が大きいからその幅で利益も出るし損も大きくなる
それで一回円安になりUSリートを売った時もうかった
これだけはもうかったとなるがそれもたいしたことはなかった
一番もうけられたのはリーマンショック前にもっていた株だったのである。
それを投資信託にしたから総合的には損した

ただ石油が下がって損したのは自分だけではなかったとこの記事を見て知った
だからこそベネゼエラはひどいめにあったなと自分も損したので共感したのである。
これがグローバル経済なのである。
石油を売れば莫大な利益をグローバル経済で得る,しかし一旦石油が下がれば小国はその他の産業がない国は破産状態にもなる
つまり小国は石油に頼りすぎてそうなったのである。
商品作物としてのコーヒーばかり作り輸出していた小国もその価格で大きな影響を受ける飢饉状態にもなる,なぜならバランスよく食料を栽培していないからである。
商品作物としてのコーヒーばかり作っていたらコーヒーの値段が下がったりしたら他に地元で食べるものがなくなるのである。

そういうことはすでにあった,江戸時代の東北の飢饉は米が商品作物となり多く作られ江戸に運ばれ売られていた,米はあったのだか江戸の大消費地に高く売れるので地元にまわらなかったのである。

江戸時代の飢饉の要因 〜経済が発達した社会の弱点〜

これも地域経済から広域経済になったときこういう問題が起きた,それはグローバル経済では大規模に世界的に起きるのだ,日本は車だけを作っていろとかアメリカでも世界でも冗談でなく言う,そしてアメリカの牛肉を買いオレンジを買い米も作っているから買いとか現実にグローバル経済では要求されるのである。
それは無謀なことでもアメリカにしたら車を買うのだかさら当然だとなるのだ
そこにグローバル経済の危険がある

ともかく遅かったが相当に株とか投資信託とか国債とか買ってみて具体的にグローバル経済を実感した
だから経済を理解するには今は株をすることは不可欠である。少額でもいいから実験してみるといい,こんなふうに世界が動いていたのかと実感するのである。
グローバル経済の危険も理解する,それは小国も巻き込んでいるからそうした小国は破産もさせられるのである。
石油が売れないので食料すら買いない状態になり10キロ国民がやせる,飢饉状態にもなる石油だけに頼っているとそうなる
アメリカでシェール石油がとれるようになったのは技術革新(イノベーション)があったためである。これもグローバル経済では影響する
何か新しい技術が生まれるとそれでグローバル経済は富をもたらす
そもそも産業革命はそうして蒸気機関車とかの発明から始まったからである。
その時のイギリスの人口は1600万くらいだというから驚きである。
イギリスは小国である。でも技術革新によって世界を制覇したともなる

いつれにしろ経済の動きを知るには株をするとわかりやすい,ただこれも9割が損しているというとき少額で試しにやるというのがいい,自分はそれなりのものを投資したから失敗したのである
負けてもいいやというくらいの金でやれば別にもうからなくても勉強にはなったのである人間はなにごと経験であり本を読んでも経験を積まないとなんでも理解できないのである

posted by 老鶯 at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

わからないことで損したりだまされる (それがひいては社会をゆがめ社会の損失になる)


わからないことで損したりだまされる

(それがひいては社会をゆがめ社会の損失になる)


現代社会は複雑である。これを理解することはもう不可能である。どんな才能があり優れた人でもほんの一部しか理解できない
それは理系の科学技術分野でもそうである。
そこから何が起きてくるのか?人間の無力化である。それはイリイチが言っているように専門家に牛耳られ無能化される
そして金でも奪われるし奴隷化されるのである。
それはあらゆるところに起きている社会全般の問題である。

なぜ弁護士に相談に行っただけで百万もとられたのか?
それは相談に行った人が弁護士のことも知らないからである。
相談だけでそんなに金をとることはない,何かそこで弁護とかの仕事をすれば払う
最初から何もしないのに百万とることはありえないのである。
実際に何かしたのは仕事したのは交通事故の保険会社の人であり
弁護士は何もしていない,これは今考えると悪どいとなる

渡辺病院でMRIで認知症の写真をとったけどそんなもの何の役にもたたない
それは写真をとる人が知っていたのである。
そこは払うのが3万だったから払う方にしてそれほどでもない
でも実際は十倍払っている,その負担は国民の負担ともなっていたのである。
そもそも認知症の治療などその原因もわからないのでできないのである
わずかに郡山市とかに二台ある機械ではわかるというがこれも認知症のこと自体わからないのだからそれで何かわかることもない,第一治療方法がないのが認知症なのである。

次に銀行がすすめる投資信託もその仕組みが複雑でわからない,そのわからないことが銀行とか証券会社にとって都合がいいものだった
あなたにはわかりませんとなれば銀行側の言いなりにされる
説明してもあなたにはわからない,現代は複雑だからそうなることが多い

みんなあなたはわからないい,説明してもわからない,だから支持通りにしなさい

原発事故でもそうだった,あなたは原子力とか核のことはわからない
だから私たちの支持通りにしていればいいのです
私たちが専門家が安全だと言えば安全なのです,そこで「安全神話」が作られたのである
そういうことが社会にどう影響するのか?

社会の健全性とかモラルをゆがめるのである。そして国民自体がその影響を受けて原発事故だったら大損失になる,個々人が損しただけではすまないのである。
そうしてわからないことで利益を得たからいいと思っていても回り回って社会に影響して社会自体が損なわれる,何もそうしてもうけることは悪いことではないと会社では思っている,その会社員だったそうしてもうけなければ会社が成り立たないともなる
そんないいことばりでこの世は生きていけないと主張する

でも公益的観点からするとそれが社会全体を損ねる,ゆがめる,損失を与える結果となるなぜこれが大きな問題なのか?
それは公益性の高いもの権力を有するものだからである。
弁護士だってやはり社会の正義を看板にしている,でも金のために悪徳弁護士にもなる
病院も公益性の高いものである。それは国民保険とかで成り立っているからである。
そこで病院がもうけても国民の負担となってゆく
銀行も証券会社でも公益性が高い,それも自分たちの会社の利益だけを追及すれば社会自体がゆがめられるのである。

ともかくわからないいうことが人間を無力化させられるのである。
それは宗教だって同じである。宗教も詐欺になりやすいのはわからないということでそうなる
宗教にすすめに来るのは自発的に信仰へ向かわせるものではない
最初から悪い意図でくる,ある団体は一票をとるためでありある団体は会員を増やすために勢力拡大するために一軒一軒回って歩く,そして会員にして奴隷にするのである。
宗教は会員にして勢力を持つの好都合なのである。
やめると罰があたるとか脅されるとやめられなくなるからである。
それでカトリックでは免罪符を売りつけたのである。
商売にしたのである。そういうことは特に現代のカルト教団に受け継がれている
だから宗教にも歴史があり歴史はくりかえすとなる

つまり人間は死後のことはわからない,病気のことはわからない、法律のことはわからない、原子力,核のことはわからない・・・・わからない・わからないということで
そこにつけこまれて致命的な損失を受ける,わからないということをいいことに金を奪われたり精神の自由が奪われたり遂には原発事故では故郷に住めなくさえなったのである。わからないこと人間を不安にする,そこでおびえる,そこにつけこむ
週刊誌でも絶えず株が暴落するとか大地震が来るとか不安をあおる,すると読む人も不安になり増えるということもある
情報社会でも不安をあおる,それは結局わからないということに由来しているのだ

投資の世界もわからないことが多すぎる,そこで常に不安になる,銀行員や証券会社の人がプロでわかっているかと思ったらそうでなはい,自分たちの都合のいい投資信託を買わせて手数料をもらう商売である。
ただ前に書いたように投資でもわかることはあった
そのわかることをやれば損してしょうがないとなる
ただかわらないものをしているとただ銀行や証券会社のいいようにされる
だからわからない人,経験しない人はやるなとなる

三方よし(売り手よし 買い手よし 世間よし)/近江商人

無理に売るな、客の好むものも売るな、客の為になるものを売れ

商売にも教訓がありモラルがはぐくまれた,客のためになるものを売れ・・・それが銀行のためになるもの証券会社のためになるものしか投資でもすすめないし売らないのである江戸時代の方が何かモラル的には良かったのである。
だから外国人が来た時日本人はみんないい顔していたというのである。
それはモラルとしては安定していたからである。
今は安心できない,安心できると思った銀行自体が安心できないものになった
それは社会が変わりやすいからそうもなる,江戸時代は多少変化して変わらない社会だから安定していたからモラル的にも安定していたのである。
そして現代は遠くの人とグローバルに交わったり見知らぬ人と交わることが多いのも信用ができないとなる,信用は簡単に築けない,時間もかかるしやはり近くに長く住むと作りやすい,それで農家の人は三代になってはじめて仲間入りさせられるというのもわかる
そういう社会は信頼できるし安心であり安定していたとなるからだ









posted by 老鶯 at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月26日

株は自分で判断できるものをやる (投資信託はめんどうだからするな!)


株は自分で判断できるものをやる

(投資信託はめんどうだからするな!)


株と投資信託で経験したことは銀行や証券会社に頼むとしてもまかせきりではだめ

収支もはっきりしない分配型投資信託はしない

月々の分配金がもらえる投資信託は利子のようにもらえるから得に見える
自分も最初はそう思っていた,でも長くはつづかない,必ず変動する,投資信託も株なのである。
景気の変動の波をもろに受ける商品である。
特に海外だと為替の影響が大きく損失が大きくなる
だから分配金をもらうのではもうけられない,むしろ株をもっていた方がいい
投資信託がその仕組みがむずかしすぎる
株ならその時いくらで買った,上がったから売れば得するということは素人でもわかる
そうしてわかりやすいものを買うのである。
だからFXはわかりやすいから素人でも銀行や証券会社に頼んでももうかる
放っておいても上がったり下がったり一年二年の間するから安い時買って高い時に売るということでわかりやすいのである

他でも投資信託ではないものは株でもわかりやすいなら自分の判断ですべきである。
株は長い間で上がったり下がったりするからである。
だから暴落のときは買いなのである。ただそれなら小学生でもわかるのだ
銘柄など選べないからそういう株の商品を銀行でも頼んでもいい
でも銀行は投資信託をすすめるから危険だったのである。
それでリーマンショクで半分になったのが売った値段に回復したとき売って損したとなるそれは銀行にまかせたからである。
それはわかりやすいから自分で判断すべきだったのである。

証券会社、銀行に頼んでもいいが売り買いの判断は自分ですべきである。
それができるのは株とFXである,これは何も考えなくてもできる
株でも十年とか放っておいても上がったり下がったりしているから下がったとき買い上がったとき売るだけなのである。
そういうふうにわかりやすいものは自分で判断できるものはしてもいいのである。

投資信託は仕組みがわかりにくいからわからないからすべきではない

これは証券会社とか銀行がもうけるためのものである。
これをすすめる人が多いがそれがどうしてかわからない
現実に株が上がっているのにチャート見れば普通は売らないのに売った
投資信託に売ったのは自分たちがもうけるために手数料をとるためにそうしたのである
証券会社や銀行は顧客をもうけさせる人達ではない
それは別にプロがいることを書いた

商売を考えるとこれがだましだとかでたらめだとかなるが実際は商売にもモラルがないと成功しないと思った
顧客にとってももうけるものを提供すべきなのである。
もちろん売る方ももうけていいが売る方だけを考慮していたら成功しない
何かこれは商売全般に通じているものである
だから損して得しろというとき損してもいいから客にまず得させろということなのだ
自分がまずもうけるんだ,今もうければいいとなればもう長続きはしない
でもそういう人が多い,そうなりやすいのである。
おそらく東北人などは融通性がないか商売に向いていない
商売は相手をだますことではない,それ相応の値段で売り売る方も買う方も得することなのである。

売り手によし、買い手によし、世間によし』を示す『三方よし』という表現は、近江商人の経営理念を表現するために後世に作られたものであるが、そのルーツは初代伊藤忠兵衛が近江商人の先達に対する尊敬の思いを込めて発した『商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの』という言葉にあると考えられる。」

これを株には適用できないが何か通じるものがあった
もちろん自分がビジネスを語ることはできないが損させられたことでこれを思った
三方良しというとき世間よしも入っている,世間とはその地域地域であれ売り買いで豊かになることである。
株には通用しないかもしれないが自分が株でもうかればそれを地域の人に消費したり配分すれば世間よしともなるからだ
ところがもう頭の中がノルマが課せられて売らねばならないというもうけねばならないということが脅迫観念のようになり顧客のことは考えられなくなる
でもそうして自分たちだけ売る方だけがもうけようとするとかえってビジネスでも商売手も失敗する,客は逃げてゆく

株の場合はいくらでもいいわけができるからである,売った方の責任はないとなるからだだからこそ退職して投資のことがわからない人は銀行や証券会社に頼んだとしてもわかりやすいのを選び売るときは自分で判断することである。
それで失敗しても自分で判断したのだから納得がいく
でも頼んだ銀行とか証券会社はプロではなかったのだ
プロを雇うことができるのは一億円とか軽くまかせられる人である。
普通の人はそういう人を頼めない,証券会社や銀行の人はプロではなかった

それよりこうして単純な投資のノウハウもわからないのだからやるべきではないとなる
結果的に投資信託をすすめられて証券会社や銀行の餌食になる
投資信託は本当に売る方にとっては実に都合いいようにできている
それがなぜ野放しになっているのか?
金融庁からも注意されていたのである。
買う方にとってはこれはめんどうなものであり損しやすいものだったのである。
でも何か雑誌でももうかるようなことが書かれているのが多いのである
老後の資産形成には利子がつかないから不可欠だともなっている
そういうことは投資信託ではまずできない
もちろん成功している人はいる、その確率は9割が損しているように損する仕組みであるつまり売る方だけが得する仕組みだからやるべきではないのだ


posted by 老鶯 at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

東風(こち)が吹き春北風(きた)が吹く


東風(こち)が吹き春北風(きた)が吹く

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浜通り東風(こち)に春北風(はるきた)風変わる

山鳩の三羽来たりて梅開く

何励むパークゴルフや冬芒

目覚めれば知らずにふりぬ夜半の雪


時にして春の嵐や時代かな若き命を散らしけるかな


出典新古今集 雑上
「めぐり逢(あ)ひて見しやそれとも分かぬ間(ま)に雲隠れにしよはの月影」

夜半(よは)の月の歌である。ここでは夜半の雪である。
夜半に目覚めたら隣の屋根に雪が薄くふっていたのである。
この辺ではあまり雪は積もらないけど今年は一時積もった
これもいろいろに鑑賞できる,何かこの句が死をイメージする
ひっそりと死んでそのあとに白い雪がおおっているとかなる
この辺では雪はなかなか降らないから雪にたいしてイメージがわかないのである。

今年は寒いから冬が長い,パークゴルフは今日もにぎわっている
とにかく老人が多いからいつもにぎわっている,それは無用な冬芒なのかとなる
何かこの辺では人手不足だけど老人は強いられない限り働かない
今日も駅に杖ついてきた老人が5人くらい見かけたのである。
本当に老人が多すぎるのである

今日は東風(こち)が吹き春北風(きた)も吹いた
今頃浜通りでは海からの東風と山からの春北風が吹く
その東風が原発事故で災いしたのである。
東風が福島市の方まで吹いて放射性物質を運んだからである。
これは本当に不運だった,一月頃だったら良かった
まだ東風が吹かないからである。
そして飯館村があんなふうになったのはショックだった
飯館村は森の国であり森に隠された村だったからだ

近くの梅は開いた,まだわずかである。徐々に増えてはきているがまだまだである。
今年は春が遅い,東風でも冷たいのである。
風というのはその土地特有の風が吹く,だから風土となっている
この風を感じるには車ではできない,風を自然を遮断するからである。
ただ自転車は最近疲れる,節々が痛くなる
だから遠くに行くのが億劫になった
後で筋肉が痛くなのである。
知っている人は腰が痛い痛いと実際はなにもしていない
ただ畑をやる気はある,そこに生きがいを見いだしている
腰が痛くてもやりたいことはやろうとする
自分にとって自転車を乗っているのと同じなのである。


タグ:東風

人間はタイミングで勝負が決まる (チャンスは一度であり何度もまた来ない)


人間はタイミングで勝負が決まる

(チャンスは一度であり何度もまた来ない)

誰だったかビジネスでもチャンスは一度で決まるとか言っている人がいた
何度もチャンスなど来ないのである。
大きな仕事をまかせられるチャンスはめぐってくる
でもその仕事で一回でも成功しないとはたしてまた回ってくるだろうか?
一回でも失敗するとその人は失敗する人だ,実際はそれだけの実力がない人だとされてしまい,金持ちでもヘッジファンドでもプライベートファンドでも雇わなくなる
今回は失敗しましたが次は必ず成功させますといっても頼む方にすると断るとなる

ただ株とかでも投資はつくづくこれもタイミングだと思った
その時の情勢とかが影響していた
なぜカナダ国債で失敗したのか?
石油があれだけ下がることが予測できなかったのである。
あの時は石油がずっと上がっていたしカナダで石油が世界で4番目にとれているから国債も評価が高かったのである。
一年くらいは配当とかでうまくいっていたのである。
ただその期間は短いから分配金があってもたまらないのである。

投資信託の月々の分配金は割りが悪い,損しやすい

元金から引かれていたことがわからなかった,分配金が月々配分されていたからこれは生活費として老後の資金として役に立つなとくらいにしか考えていなかった
投資信託はその計算ができないのである。
複雑でできない,収支報告もはっきりしないのである。
手数料がどれだけとられているかもはっきりしないのである。
それで金融庁ではっきりさせろと注意されたのである。
それより変動が激しいから利子のように投資では株ではもうけることはできない
急激に何かの要因で上がったり下がったりする
だから基本的には株は下がったときに買い上がったときに売る
それがわかりやすいがそこをどこで見極めるかもむずかしい
わかりやすいのは暴落したときである。
その時株を買うチャンスだったのである。
そこがタイミングだったのである。

ただすべてがまかせた銀行員が悪いとはならない,その時の情勢が関係しているからだ
要するにタイミングが悪いと何でも失敗しやすいのである。
例えば暴落しているときは逆にチャンスだった,その時株を買ってしこんでいればもうかったのである。
そして株の上がるチャートを見ていれば15000円で買ったものが回復したとき売らねばよかったのである。
それは素人でもそう思う,チャートで株が上がっているのに売るということは普通しないからである。チャートをいつも見ているからである。
その株が貴重だったのはリーマンショックとかをのりこえて長くもっていた株だからである。別に自分は放置していたから今回も放置していたら良かったのである。
下がるわけではないからである。

人間はやはりタイミングなのである。株が必ず暴落する,でもその暴落がかえってチャンスになることを経験でわかった,でも株でも退職した人とか60代以降に学ぶとするとむずかしくなる
若いときから経験していなと株は損する
自分は今回数年で外国の国債も買ったしUSリートも買ったし日本の株も前に買ったしJリートも買った,だから数年で体験を積んだ,それで損して痛みを負ったから身をもって学んだとなる,それでも証券の世界は本当に複雑であり多様だから理解できないものだと思った,おそらく基本的なことを体験したというだけだろう。
それでもグローバル経済というのがどういうものなのか身をもって知ったのである。
株をしないかぎり資本主義でもグローバル経済でも実感としてわからないのである。
それで勉強にはなったがそういう実験している余裕がなくなっていたのである。

結局これからの予測はいいものはない,日本の経済は低迷期が以前としてつづく,アメリカも停滞してゆく,だから株がいつ暴落すると専門家は言っている
中国の経済もゆきづまりでありいつ破綻するかもしれないと予測する専門家も多い
つまり経済はもう伸びない,資本主義はもう限界に来ている
それで銀行がなくなるとか大量のリストラになるとか騒いでいるしすでに実行されていることでもわかる
個々には以前としてもうける人がいてもそれは限られた金持ちとか極一部の人である。
あとはみんな負けになる可能性が大きいのである。
つまりタイミングがそういう時代に入っているということを見るべきである。

人間の勝負はタイミングで一回のチャンスで決まる、信長の桶狭間でありそれはタイミングを活かして勝負して勝ったのである。
その時の天候とか勝つ要因があった,それは運だったともなるがやはりタイミングだったのである。そのタイミングを逃すとまた同じチャンスはめぐってこない
その一回のタイミングを活かしたことにより信長は天下制覇に踏み出したのである。
それは一種の運だったのかもしれない,運も実力の内ともなる

では投資は運なのかというとそうでもない,何か予測するものがありチャートをいつも見ているからだ,ある程度は予測できるものとして専門家は見ているのである。
だから暴落のときはチャンスだというのが自分でも今回実感としてわかった
ただそれはリーマンショックからだから10年とか過ぎてわかったことなのである。
だから長い目で見れば株は上がったり下がったりしている
それで必ず下がれば上がるから長くもっているといいともなる
それも一つの戦略である

人間は時代に左右される,これはどうにもならない,高度成長時代は恵まれていたのである。その恩恵は十五六年前の保険金が倍以上になっていたとか郵便局にあづけた貯金の利子があづけたときの高い利率で支払われていたから今の老人は貯蓄だけで財産を形成できたのである。
それが時代だったのである。今は退職金が二千万だとしてもそれだけの価値しかないから老後資金としてたりないとなっている,これも時代で損しているなと思った
利子が全然つかないからわからない投資の話にのせられやすいのである。
利子がつくならこんなことにはなないからである。
銀行にしても金だけあづけられても迷惑とすらなっている
それで投資信託をすすめて手数料商売になる
そういう時代の変化がタイミングが悪い時代になったのである。

人間はその時代時代を懸命に生きるほかない,こういう時代に株とか投資に賭けることは危険だとなるしそれよりもう資本主義が投資先もなく終わりだというとき何か心の持ちようも時代に対応して変えねばならない
グローバル経済も変わる,何か新しいものを模索する時代になる
株とか投資信託をあおっているのは証券会社とか銀行とかでありそれらは商売だからそうしている
実際は今の時代は日本が貧困化しているし株で一稼ぎするとかの時代ではない
むしろ無駄な消費をおさえるとかヨーロッパの中世とか江戸時代に回帰する
内需志向であり外国貿易でもうけるグローバル経済でもうける時代は世界中で拒否されている
グローバル経済の矛盾が噴出して爆発寸前になっているからだ
だから資本主義の株式会社がなくなるとか学者も言うのである。

時代を見て対応しないと失敗する,これからは貧困化してゆく日本はどういう生活態度がいいのかとなる
今までの豊かになった消費優先の社会でいいのか,すでにそれはゆきづまっている
物価を上げようとしても上げられないのは当然なのである。
これだけ物はあふれていても賃金も上がらないからである。
外国人の観光客でも中国人でも日本に求めているのはもう物ではない
事の消費であり日本がもっている環境とか人の優しさとかそうした文化的なものが価値をもつようになっている
そういう時代が変化するときであるが過去の幻影に人は酔うのである。
金持ちが貧乏になっても以前として金持ちとしてふるまったりすることからぬけだせない贅沢を覚えるとそれからぬけだせない,変えられないのである。
一度王様になったら貧乏人になってもやはり王様だったときのことが忘れられないのである
日本は高度成長とか豊かだった時がありそのことがまた起きるとかそういう時代をなつかしむ,でもその時代は帰ってこないのである。
時代が逆戻りすることはない,江戸時代に帰るといってもその様相はまた違っているのである。

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2018年02月25日

自己責任とは何なのか? (原発事故や株,投資信託の自己責任)


自己責任とは何なのか?

(原発事故や株,投資信託の自己責任)


自己責任とは何なのだろうとなる,民主主義社会は自己責任社会である。職業でも選べるし住む場所も選べるし自由である。
ただ自己責任というのを今は必ず問われる社会である。
その自己責任が問われる前提というものもある
民主主義社会だと情報が開示されているとか十分に事前に納得してもらうとかある
原発事故でも自己責任が問われた,事故を起こしたけど原発を積極的に誘致したのだから誘致した村でも町でも県でも責任があり自業自得だとなる
そのために十分な金を支払われていたのだからそんなに補償金を要求するな
それは税金だから国民に要求するなという批判があった

でも自己責任というとき自己責任をもちうるものが情報が開示されていて責任がもちえたまず政府とか官僚とか東電やマスコミでも「安全神話」を作ったのだから何か原発に対して危険を感じても質問すらできない状態だったのである。
「お前ら原子力のことなどわかるのか,専門家に政府にまかせておけばいいんだからひっこんでいろ」
「お前らには十分な金をやる,飴をやるから黙っていろ」
とかなっていたのである。そして地元では原発が危ないというだけで地元にいずらくなっていた,なぜなら三分の一も原発にかかわって生活しているとなるとそうなる
事故が起きて今度はお前たちの自己責任だというときその自己責任になる条件が欠けていたのである。
つまり民主主義社会が自己責任だというときそのためには情報開示が必要であり何かそれを充たすものが必要なのである。
「安全神話」になればもう何も言わせない状態を政府と一体になり作り出されていたのである。
だからどこまで自己責任なのかそれが良くわからないのである。

民主主義社会ではあらゆる所に自己責任が問われているのである。
交通事故でも必ず自己責任が問われる,ルールに違反していた信号を無視してわたっていたとか落ち度があったら責任が厳しく問われるのである。
何か知らなかったとかでは通らなくなる
何でも知らなかったでは通らないのであり知らないということが自己責任にされるのである。
でも人間はあらゆることに通じることはできない,一部しか知らないのである。
でも自己責任にされるのが民主主義社会なのである。
何かそうなると万能性すら要求されているのである。そんなに知識がある人などいないのである。

今回の株や投資信託の問題でもそうだった、損したのは別に銀行のせいでも証券会社のせいでもない,知らなかったお前が悪いのだとなる,お前の自己責任だとなってしまう
ただ自己責任というのは何かわからない,完全に自己責任というのはないようにも思う
株でも一番ふりかえり失敗したのは株があがってきているのに売って投資信託に金をつぎこんだことである。
それは銀行員がそうしたのである。その時強引にそうした
ただ自分は銀行員でもその人がプロであり知っているからそうしているものとしてまかせたのである。
でも損したら全面的に自己責任になる,証券会社も銀行員も悪くはない,知らないお前が悪い,まかせたお前が悪いとなる,でも何かこれも納得いかないのである。

ただ今反省すると株とかでも実際は自分の判断ですべきものであった,それをまかせたことが失敗だった,なぜなら自分の判断でしていたなら損してもあきらめがつく
それをプロだと思いまかせたから失敗したのである。
まかせたということは銀行員にも責任が生じていたのである。
でも銀行ではその責任は一切とらない,顧客が損しても銀行や証券会社は絶対に損しない仕組みになっている,つまり銀行や証券会社は手数料は確実に入り損はしないのである。自己責任を言う前に確実に人間は失敗の責任をとらされるのである。
原発事故でもそうである。そこに住んでいた人達は故郷に住めなくなる責任を負わされたからである。

株でも金持ちならヘッジファンドとかに投資して損しない方法がある
またプライベートファンドとかに頼む,そういう人達が本当のプロだったのである。
その人たちはもうかったらそのもうかった分から報酬をもらうのである。
もうからなかったらやめさせられたり一文の金にもならないのである。
だから真剣にもうかるように努力するのである。
投資信託などとはまるで違ったものとなっていたのである。
その人たちは責任をとらされるから真剣になっているのである。
投資信託はそんなことはないい,ただ金を集めて適当にやっているだけである
別に損はしないからである。責任をとることもない,責任をとらされるのは顧客だけである。
ただそうはいってもやはり銀行などはもともと信用があって成り立っていたからその信用を失うこともありもう地道な前のような活動ができない,信用されなくなるからである。「なんでこんなもうからない投資信託を売りつけたんだ,もう信用しない」
こうなるからやはり何らか責任が問われるのではないか?
原発事故では責任を問われたから国では莫大な補償金を支払ったのである。
それだけの理由があったためである。

自己責任というとき例えば何か人を仕事でも紹介するときでも紹介した人が責任を言われる,お前の紹介した人は何なのだ,仕事ができないとか言われる
その人は何か仕事についてルーズであり紹介した大工も何か支払いについてルーズだったのである。責任というとき親戚とかなると意外と連帯責任のようにされる
事業に失敗したらそのことと関係ないと思っていたが自分が苦しいとき借金を迫ってきた関係ないと思っても事業失敗の責任が回ってくるのである。
他人がしたことで関係ないと思っても責任が回ってくる場合もある
親戚関係になるとそういうことが逃れられないようになるから怖いのである

ともかく自己責任といっても全部が自己責任にはなりえない,そうなことを言っていたら人間は万能人間になるほか生きていけない,万能人間なら責任をとれるからである。
それは神にもなってしまう。
社会自体が連帯責任で成り立っている,保険などはそうである。
あらゆる責任をとれないから保険でみんなで責任をとりあっている
交通事故が起きたからと何千万円の金など払えないからである。
みんなで責任を負うことで自己責任を軽くしているのである。

だから自己責任を言いすぎるのが現代だと思う
自己責任は確実にある,病気でも不摂生で病気になったのだからお前の責任だといわれてもしょうがないことはある
病気でも自己責任が問われる,何か知らないで失敗すればお前は勉強しないから自己責任だとなる,株でもそうである。
でもすべて自己責任など負いようがないのである。
人間はあらゆることについてしりえようがないからだ
放射能のことを株のことを簡単にわかるかといえばわかりえようがないからだ
法律のことがわかるか?それも複雑だからわかりえよがない
そうして複雑な社会でわからないことが多すぎる,それで自己責任を問われるとなると
こういう世界に生きていけるのは万能の超人,神のようになってしまう

原発事故だと国民にも責任があった,原発を造ることを許したのは国民だからである。
選挙で自民党を勝たせて原発を造らせたともなる
戦争でも同じでありあらゆる人か責任になる,戦争を望んだのは国民にも責任があるとされる
だから自己責任でなんでもかたづけるのは疑問なのである。
株や投資信託でも銀行がすすめれば全部ではないにしろ責任が生まれる
わざわざ銀行まで行って投資信託をしますなどと言う人はまれだからである。
銀行員が一軒一軒回って話してすすめるから買うとなる
だからそこまですすめる方にも責任が生じる
銀行員にもすべての責任があるわけではない,ノルマを課してすすめさせる銀行とか会社が責任があるのも確かだからである。
全部を個人に自己責任としておしつけるのは疑問になる
ただ自己責任もいろいろあり海外で危険な目にあい死んだ人は自己責任だとされる
そこに国民の同情はない,勝手に警告している危険な場所に入り死んだから自己責任だとしてかたづけられていた,そこは政府でもそもそも戦場なのだからそんなところで死んでも自己責任であり人質になっても助けない,金は払わないとなったのである。
自己責任もケースバイケースだからちがってくるからいちがいに数式のように判定できないのである。
タグ:自己責任
posted by 老鶯 at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

時代の変革期には痛みがあり犠牲がある (明治維新に太平洋戦争でもそうだった)


時代の変革期には痛みがあり犠牲がある

(明治維新に太平洋戦争でもそうだった)


時代を歴史をみると戦国時代でもそこで生きていた人は必死である。
今は娯楽として戦争を見ているのだ,そこでは生きる死ぬかのなかで生きていた
例えば戦争があっても名もない人達が無数に死んでいる
戦国時代だと信長とか秀吉とか家康とかが常に話題になるがその他の雑兵はその他大勢になる,その時農民でも商人でも職人も生きていたのである。
そこで悲惨な状態で生きていても話題にならないのである。
でも戦国時代は華やかな時代にも見えるのである。
それはただそうしたその当時生きて苦しんでいたことは時代が変わればなくなるからである。

人間の一生でも苦しんだことがあっても過ぎ去ると笑い話にすらなるのとにている
ただ自ら痛みを負った人はそうした苦しんだことはなかなか忘れられないのである。
人間は何か痛みを負うとそれが忘れられないものとなる
痛みを負うことによって他者のこともわかることがある
だから障害者を子供にもった人が苦しみを言うが障害者をもって実際に苦しんでみないと痛みを負わないとわからないのである。

ただこうして人間の歴史をみると戦国時代でも別にそこに生きて苦しむわけではないから娯楽として今では見る,戦国絵巻だとかなる,かえって戦国時代は安土桃山時代で華やか時代だったとみる
でも庶民などはそうした華やかさとは何のかかわりもなかったのである。
要するに一時代が終わるとそれは過去になり何か娯楽化して回想する
そこで塗炭の苦しみを受けた人のことなどを見ないのである。
別に自分が苦しむわけでもないし痛みを負うこともないから娯楽にもなる

時代の変革期には必ず痛みがあり犠牲がある
明治維新でもこれも同じようにその時の英雄がドラマとなる,西郷ドンとかなる
でも無名の内に死んだ志士も多いし会津のように犠牲にされた人達も多い
時代の変革期には必ず痛みと犠牲がある,武士が職を失ったことは余りにも大きな変化だから武士でありたいと西南戦争が起きたことも理解できる
時代が変わると産業も変わるから失業する,新しい職に就くのは容易ではないからだ
それで大井川の渡しを職にしていた人達が鉄道で職を失った
その人たちは茶を作りはじめて名物になったとかある
川越人足の仕事が幕府でできなかったのは川越して金を得ているものが1000人とか多いためにその人たちの既得権をとりあげることができなかった
その人たちが職を失うことはそれだけ大問題になるからである。
橋もかけられたし船で渡せばいいとなるしそれも技術的にもできるとしたらそうなる
そういうことは江戸時代には何か多いのである。
である。でも既得権となって守られていたとなる

そのことで気鋭の学者がAI化するために既得権者がいてできない
その既得権者を退場させないとAI化はできないと訴えていた
日本でIT技術が遅れた,20年間で進歩がなかったのは既得権者がいてだめになったという何か新しいもので社会化できない,反対がありすすめられなかったと言っていた
江戸時代はそういうふうに保守的であり外圧もないから技術革新もできなかった
必ずしも時代が変わったからマイナスにならない,プラスに転じることもある
それでもそこに痛みがあり犠牲になる人がかならずいる
歴史となりふりかえるとそういう痛みや犠牲より時代が変わり新しいものが生まれることで全体的には良いものとして見ているのである。
戦国時代でも安土桃山時代とか明治時代でも新時代として華やかなものとして見ている
ただ太平洋戦争は焼け野原になったから華やかなものとしては見ない
でもなぜ破壊しつくされた国土,焼け野原から復興したのか?

これもふりかえると不思議である。戦国時代よりも明治維新の時より徹底的に日本は壊滅的状態になったのである。
そこから復興して高度成長時代になった,これも全体的に見てふりかえればそこで痛みがあり犠牲があった,300百万人が戦死した犠牲がありその後に復興があったがそこでも痛みと犠牲があった,引揚者が働く場がなく土地の悪い場所に開墾に入ったからである。
戦後十年は日本人はみんな一様に貧乏だったのである。
焼け野原になったときそこでは食べるものもなかったから苦しかった
そういう時代を経て今日の繁栄があった

そして今は変革期になっている,津浪とか原発事故も大きな変革をうながすものだった
街ごと消失したのだからそうなる,その後に前とは全く違う街を作ることになったからである。天変地異でもそういうことが起こる
何かそうした大きな変革期になり痛みがあり犠牲にされる人たちもある
では一体明治維新から70年後で太平洋戦争があり敗戦があり79年過ぎて何が起こるのか?
それは大きな変革である。銀行がなくなるとかいうのもそうである。
そこで痛みがあり犠牲がある
でもそこで大きな変革をしないと時代に世界に遅れるのである。
そこで破壊が起きないと次の時代は来ないのである。
規制のものや旧弊なものの破壊である,その破壊があって新しい時代が来ているからである。
現代とはそういう変革期にあることを自覚すべきである。

グローバル資本主義も金融資本主義であり格差社会を世界的に生んだ,だからこれも機能しなくなるからもしれない,銀行がなくなるとかいうのもそうである
ではその後に何が来るのか?
それは未だわからないにして大きな変革期にさしかかっている
イギリスのEU離脱でもそうだしトランプ大統領が出てきたのもそうである。
ナショナリズム,国内経済にもどるというとき日本もそうなる
グローバル経済はもう限界なのである。むしろブロック経済になりそこで複雑ではなく血の通った人間的経済にもどる
中世にもどるというときもそうかもしれない,道州制というのもそうである。
なぜなら東京一極集中は明治維新からの政策でそうなっていたからである。
何か大きな変革が世界で社会で要求されているのである。
ただその変革期には大きな痛みがあり犠牲がともなうのである。
でもその痛みがあり犠牲がないと新しい時代は開けないのである。
それは歴史をふりかえればわかるのである。
posted by 老鶯 at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月24日

株や投資信託で9割は損している (得しているのは大金持ちだけであるー 資本主義はもう信じられないシステムになっている)


株や投資信託で9割は損している

(得しているのは大金持ちだけであるー
資本主義はもう信じられないシステムになっている)

金融の世界では、オープンに価格が形成される「市場のリスク」よりも、意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪いというのが、筆者の偽らざる感想だ。

東証REIT指数は、昨年10.4%下落しました。ただし、1年間で約4%の分配金(税引前)が出ています。分配金まで勘案すると、昨年の投資利回りは約6.4%のマイナスだったことになります。

 日本は今、不動産ブームの渦中にあります。都心不動産は値上がりが続いています。それでも、J-REITが嫌われて下がってきたのは、不動産市況に過熱感があり、先行きブームが終わる懸念があるからです。

 REITとは?投資効果をわかりやすく解説

意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪い

これが銀行員だったとは・・・???

銀行は苦しくて投資信託とかができるようになり銀行にとって有利な商品をもってくる,手数料の高くとれるものをもってくる
そういう意図が確実にあってすすめたのである。

ただこの投資の世界はあまりにも複雑であり不可解であり理解できないものだと思った
ヘッジファンドとかもありこれは金持ちが利用している
これはプライベートファンドであり金持ちが委託してまかせる,それは成功報酬なのである。成功して利益を上げれば10パーセントとかもうかる仕組みである。
だからこれは一億円くらい元金がないと参加できない
もともと金持ちの貴族の資産保護のために作られていたのである。

そもそも市場が公平なのかということが疑問としてあった
つまり株はギャンブル性が高く結局胴元だけがもうかるという説もある
本当に株式市場は公平なのか?それが疑問なのである。
そこに陰謀論も生まれる理由がある
ある人の説では金持ちだけが金を安全に得るのが株の世界だという
だから金持ちはいつまでも金持ちであり貧乏人はいつまでも貧乏人になる
景気の波がありその景気の波は株の上がり下がりは実は金持ちと言われる層が操作しているためなのだという
だがらそうした金持層は株が下がっても上がっても損しない,株が下がる景気が悪くなるとほとんどの人は生活が苦しくなるから金を借りる,すると借りた金を返すために働かざるを得ない,また株が上がると景気が良くなると金持ちには金が入る
でも株をもっていない大多数の人はその恩恵を受けられないとなる
つまり金持ちは景気に左右されず金持ちであり続けるとなる
その方法として投資でももうける方法を知っている

金持ちというとき少なくても一億円でも金持ちでは今はない,2億円以上であり10億円とかにもなる,なぜならヘッジファンドだと一億くらいまかせるからである。
そういう人は株が上がろうが下がろうが損はしないとなる
他の一般的な人は株ではもうけられない,損する仕組みになっている

9割は株でも投資信託でももうかっていないのである。

この統計的事実を株や投資信託をする人は胆に命じるべきである

銀行とか証券会社の人は

意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪

これらの人は金を集めてあとは手数料だけをとるサラリーマンだというのもわかる

でも別に株が一般人でももうからないということはない,公平さはあった
それはリーマンショックの前にもっていた株だった
一時は半分になったが元の値段に回復した,それをもちつづけいてればもうかっていたから一般人でももうかることがあるから公平性が全くないかとはいえない
その株も銀行員がきて投資信託に回した

日本株が上がっていたのに早めに売ってもうけることができなかった

カナダの国債の投資→石油が急激に下がり失敗

USリートも金利があがりとんとんとかになる

為替に影響がないJリートは指数が下がりその将来性も実際は危ぶまれている

ただJリートは今年の後半からは上がるという説もある
一般的予想ではそうなっている
でも実際は空き室率が増えているし将来性がないのがJリートとだとこのサイトには書いてあった

石油が下がった,円高になった,アメリカの金利が上がった,もともとJリートは将来性がないものだった
こうして銀行にすすめられたものはみんな失敗して損したのである。

自分はそもそも株のことなど投資信託のことなどわからないから銀行が信用できると思ってまかせたのである。
第一いちいち株を見て売り買いなどできないからである。
いづれにしろここでも大きな損失を出した
奇妙だけど二回ばかりFXをしたがこれは成功したのである。
ただその差益はたいしたことがないからもうかったとはいえない,FXは株とか投資信託などと違いめんどうなことがない,簡単であり理解できるからかえって初心者にはいいとあった

いづれにしろ自分は株とか何にも知らないで銀行にまかせたのである。

それは知らないお前が悪いのであり自己責任だとなってしまう。
ところが人間はそんなにいろんなことに通じることはできないのである。
そうなら株など投資信託などしなければ良かったのだとなる
それがお前の責任だとなってしまう。

何にも知らないものがまかせてしたのだからお前の自己責任だ

結果的にはそうなる,ともかく何か金融関係は公平な所があってもブラックである。
それはその仕組みがわかりにくいのと複雑で理解できないからである。
そういう場で株式の取引をしている,そこに何も知らない人が入るのは危険だとなる
でもそこに水先案内人として銀行がありその銀行員が来たからまかせてしまった

意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪い

その銀行員でも証券会社員でもこういう人だったのかともなる

中世では金融が盛んになり金の貸し借りも増えた,そこで不正も行われた
親鸞が対象としていたのはそういう混乱の中で悪が跋扈して悪人が増えて
その悪人正機説が生まれた
つまりその時代に今のような金だけを求めて血走っているような時代だったとなる
そういう中で自分が悪人ではないかと不安になる人が増えたのかもしれない
それでその人たちは悪人正機の教えに救われたとなるのか?

いづれにしろ今の社会は複雑である。でも株式でも資本主義でも根底がゆらいでいる
信用がなくなり公平性が維持できない,株式が公平だというときそれはあることはある
でも素人の人は9割が損する世界だったのである。
それでは公平とは言えない,素人はカモにされるだけの世界だったとなる

アメリカの景気も実際はその実体ではないく株によって仮想的好景気になっているというアメリカ人は株をもっている人が多い,年金生活者でもそうである。
だから株が上がれば消費もあがる,でも株だけの操作では限界がくる
アベノミックスもそうである。金融の操作であり実体の経済とは違っているのだ
だからアメリカは金利があがり景気後退にはいり暴落も近いと分析する人もいる
ただ暴落でももうけるし株の世界で生きている人はかえって歓迎しているのである。
そこで損するのは自分のようなみんなまかせてしまっている人なのである。

ともか資本主義とか株でもモラルはない,投機であり投資ではない,投資は会社育てて社会のためにするものである
地銀だったら地元の会社を育ててそれが地元のためになりその資金を活かすことが基本にあった,それがなくなったとき銀行でも投資先がなくなったときもう資本主義は終わりだという人もいる
現代のグローバル経済とか資本主義はモラルが欠如している
投機的資本主義であり例えば中国人の金持ちのマネーが日本の不動産とかビルとかマンションとかに流れている,それから北海道の土地も買われている
それは日本の国土が中国人のものになってゆくことであり防衛上も良くないから何らかの国でとめるべきだというのもわかる

意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪い

これは国の関係でも個々人でも同じである。
それで右翼系は韓国と在日とか中国人を警戒しているのである。
もし日本をのっとろうとする意図があって入ってきたら危険だからである。
現実に資料とかがもちだされたり意図的にマスコミでもそういう人達が入り操作されているとしきりに言う人がいるからだ

神は人間の心を見ている

こういうとき人間はその意図を見るべきなのである。動機を見るべきなのである。
犯罪でも何が動機なのかで罪の軽重がある
何を意図して活動しているのか?それが人間にとって重要なのである。

確かに株式でも公正なものがあることはある,でもそれは一部の金持ちにとって公正なのであり一般の人には公正ではないのである。
そういう人達は金持ちの駒にされる,株式に参入したらその金は吸い上げられるのであるそして証券会社とか銀行とかに流れる
それで9割の人間は損していることでもわかる

ただなぜそんなに損しているのに結構投資信託とかでも株でもする人がいるのかは不思議である。むしろビットコインなどはわずかの金でも十倍になったというから公正なのかとも思う,まず株式では億以上の金がありさらに余裕がないとできない,億というとき一億を軽くあづけられる人なのである。

とにかくアメリカが衰退して崩壊してゆくということもしきりに言われる
それはなぜなのか?こんなモラルもなにもない仕組みで一握りの人間に富が独占されているからである。
そういう社会では労働意欲もまず消費もできなくなる,そしたら企業も物を作っても売れないのである。そういう矛盾が回り回ってその富を独占する人達にもゆく
遂にはそういう人達への憎悪となり革命も起きる,国は分裂してアメリカは衰退して崩壊する,それは中国に言える,共産党の幹部が兆の富を独占しているのは同じだからであるつまり資本主義とかグローバル経済とか共産主義でも革命前夜なのかもしれない
またリーマンショックなみの暴落が来る
何か致命的なものとなり崩壊してゆく,そこにはモラルなどないからである。

人間には何かそんなことをしていると罰があるのかもしれない
資本主義はグローバル経済は必要なものとして普及した,でもそれが限界に来たのであるその後に何が来るのか?
みんな株とか資本主義には嫌気がさしている,一握りの人間が大金持ちになり操作される世界を複雑なりに見抜くようになっている
資本主義自体信じられなくなっているのだ
その資本主義の先兵が銀行であり証券会社とか金融にたずさわるものなのである。
ここが一番ブラックになっていればもう社会は暗黒になる
だから資本主義は共産主義でも格差社会は何らかで崩壊するし崩壊すべきだとなる
もうそういうシステムや社会を信じるなともなる
それが地銀とかが信じられなくなったということに一番現れていたのである。


この文章は自分の考えたものではないです
他のプログとか本とかを編集して書いたようなものです
自分の文はそういうものが多くなっている
雑誌とかには経済でもかたよっている,ただプログとかなると個々人の体験が赤裸々に語られいるから雑誌とは違っている
例えば日経とかでもあまり株について弱気なことは書かない
投資信託でももうかるような記事を書いている,本当に株とか投資信託で老後の資産を形成できるのか?
実際に9割が損している世界なのである。
おそらく証券会社とか銀行から宣伝費をもっらいっているのではないか?
そうでなければそんなに損するものにみんなするわけがないからだ
ただ株とか投資信託は複雑だから自分は初心者でありわからない
自分がもうけていたらこんなことは書かないから自分の言っていることがすべて正しいとはならない
でも何か銀行なども加担してのせられている
銀行でも儲け先がなくなりそうなっている,インターネットの情報は今回も役に立ったが遅かったとなる
これは簡単にインターネットでも理解できないものだったからだ














posted by 老鶯 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

abstract rivers


abstract rivers

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morning river
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Sound of the river

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クリック拡大 enlarge
seacove123454567.jpg

eroded  land by the sea

川を見ればリアルな川でも様々な表情がある,ただそれを表現しようとするときどうするのか?
言葉で伝えることもあるし絵で伝えることもあるしまた音楽でも川を表現できる
多様な方法で表現するのが芸術である
普通には見えないものを芸術に表現して見る
ただこの抽象画は変形して作られたものであるが一つのソフトからできやすいものである
それは機械的操作で作られるからそうなる

If you look at the river there are various expressions in a real river, but what do you do when you try to express it?
Sometimes I tell words, I tell them with pictures, I can express rivers with music
Expressing in various ways is art
Express what you can not see normally in art
However, although this abstract picture was made by deforming it is easy to make from one software
It is because it is made by mechanical operation
タグ:abstract rivers

2018年02月23日

海からの視点 (南相馬市の大船とかそが船とか船着の地名)

海からの視点

(南相馬市の大船とかそが船とか船着の地名)
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津浪が来た地点に古代の地名が残っていた
大船は烏崎である

●海からの視点が日本では先にあった

日本の神話は国産み神話は海人族のものである。その国土形成もイザナギとイザナミであるが島々を作るというとき塩の滴りから作るというとき海人族のものである。

この地球を見るとき山から見る視点になると国見というとき

天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌(おほみうた)

《訓読》
 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和国は

これは山からみて国を見る,南相馬市にも原町区に国見山がありそれがちょうど小高とか鹿島の範囲が見える,だから南相馬市は地理的に一体感があった
相馬市となると国見山から見える範囲からはずれてくる
この万葉集の歌では海原(うなはら)や鴎が出てくるくることが大きな疑問になっている
それでもともと奈良は太古から大阪湾から奈良まで入り込んでいたという説がある
その当時の地理がありそれで歌われていた
それは今回の津浪でわかったように海は陸に深く入り込んでいたことが証明された
それで日下石(にっけし)は太陽の陽の沈む場所でありその古い地理の痕跡を示していた
なぜそこが陽の沈む場所だったのか?それは陸から見ていたらむしろ陽の昇る場所だからである。
現実に日下石まで津浪が来て太陽がかがやき沈んでいったのを見たときは本当に驚いたのである。それほど深く海は陸の方に入り込んでいたのである。

海から見る視点が欠けるのは海は日常的に歩かない,海に通じているのは漁師などだけど漁師のことは良くわからない,漁師は山を目印として見ている,船に乗れば意外と山だけが見えるし目印になりやすいのである。
その山を目印にして航行できる,例えば新地からは牡鹿半島が見える,金華山も見える
新地駅は新しくなって高いから駅から見える
意外とこれも近いなと思う,すると船で渡ってもまようことがない,目印がはっきりしているからである。こういうふうに海から見る視点は違ったものとなる
それでも海から国見などはできない,山がありそこから平地を見て山を見て海を見るのである,でも日本では盆地が多いから海は見えないことが多いのである。
福島県だと浜通りは海が見えるから会津とは相当に感覚的にも違う世界なのである。
それで海からの視点とか歴史をみることが必要になる

その海の視点として見るとき万葉集の「陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)」この草原(かやはら)は萱のことではなく地名であり港のことだと自分は解明した、なぜなら塩崎まで海になっていてそこに船着とありそのすぐ近くまで津浪が来たからである。そこは低い所でありそうした奥まで入り込みやすかったのである。
烏崎から船が津浪で六号線まで流されてきたことには本当に驚いたのである。
そこが万葉時代は海であり平安時代あたりまで船が行き来していたとなる
それで市庭(いちば)という地名も残っている,市庭とは古くから日本では市がたつ場所だった,だからなんらか商品の売買があったとなる
そこが真野の草原(かやはら)として地名とは断定できない,石巻にも萱原という地名がありそこが江戸時代からこの歌の場所だとされてきたからである。
その後の考古学の発見で南相馬市の鹿島区の真野が有力になったのである。

海を視点にして見ることが歴史的にも弱いのは海は何も残さない,そこで戦争があっても船は海に沈んでしまう,すると証拠がなくなる,それで最近は海にもぐり沈んだ船を探している,モンゴルの船も沈んだし太平洋戦争でも沈んだからである。
船はそうして証拠を残さないから海の視点から見ることがむずかしいから海はないがしろにされる,陸だったら小さな古墳でも残っていてここで確かに死んだ人が埋まっていると見れるからである。海だと海には何も残らないから歴史として遺物が残らないからただ想像力の世界となりそれが架空の世界ともなり認められないのである。
推理ドラマでは常に証拠を見せろとなるからだ,証拠がないといくら推測で言っても裁判でも負けるからである,だから海からの視点はないがしろにされてきたのである。
それで網野善彦とかが海からの視点で歴史を見直したのである。

船というとき船が単体であるわけではない,船を航行する技術とかそれを作る技術とか材料とかそこに波及する技術は多様なのである。
それは車でも飛行機でも同じである。それは政治的にも様々なものに影響する
エジプトではナイル川があり船の運行がしやすかった,するとあれだけ大きい王国でも川で結ばれたということがある,ピラミッドは川に通じていたともなるからだ
船の木材はレバノン杉が必要だというときそこに外国まで広がる貿易が必要になる
船を作り運行することはまた方向とかあり星座に通じる天文学とかが必要になる
羅針盤などがそれで中国で発明された,そして船によって大航海時代が作られたのであるその時オランダの風車の技術が船作りに応用されたのである。
日本では船の材料は山で供給されるから船木山とかあれば船に使用した木材を取り出したやまだとなる

●網野善彦の海民から見直す日本の歴史

網野善彦の農民だけではない海からの視点から日本の歴史を見直したことに評価がある

北条氏は津軽から若狭までの要津にをほぼすべてのその直轄下に置く一方、湊々浦々の
「大船」に過所を発給し,その直属の廻船として海上交通を支配した(日本社会再考-海民と列島文化)

この意味が良くわからないが過所とは許可証のようなものだろう。
そういう文書が残っている,大船という地名が鎌倉とか大船渡とかあるがここにもあった製鉄跡の東北電力がある所が大船という地名なのである。今は使われていない
ここで生産された鉄が運ばれたから大船なのか,鉄が運ばれたというとき船で宮古から浪江の請戸湊に運ばれて葛尾村で精錬されて葛尾大臣が富を築いた
鉄を運ぶとして重いから船が有利になる

海人などの長の立場に立つ人は刀禰(とね)と呼ばれていた(日本社会再考-海民と列島文化)

すると利根川が刀禰である
海人は海だけではない川にも通じて支配したのは交通ができたからだとなる
バイキングでもセーヌ川をさかのぼってパリに攻め入ったからである。
海と川は一体化しやすいのである。オランダが発展したのはライン川の出口の河口にあり海に通じていたからである。物資の集散する場所だったのである。
そういう地の利から小国でも貿易が商業が発達して富を築いたのである。

11世紀後半からの院政期には紀伊半島を中心に東は東国,東北、西は土佐、九州にいたる太平洋の海上交通が安定した航路となり活発な船の往来があったことは確実に証明できる
伊勢志摩の海民的な商人,回旋人はその広域的な海上交通を通じて根強く強い生命力をもつ自治都市(公界」を育てあげたのである

(日本社会再考-海民と列島文化)

移動しつつ各地に定着していった,綿津見系と宗像系という二大海人を想定する

この辺で神社として多いのが綿津見系である,宗像系ではない,それから熊野神社も多い八竜神社も多い,これは海と関係した神社なのである。

『長野県史 通史編 1 原始・古代』(長野県編 長野県史刊行会 1989)
 p414「安曇郡」の項に「安曇の地名は海人の統率者だった安曇氏の定着したところともいわれ、安曇郡の中央にある延喜式内大社の穂高神社(南安曇郡穂高町)は海神である綿津見命(わだつみのみこと)を合祀している。」

こうして海人族が長野県のような山奥まで入ってきて定着しているのである。
熊野神社が多いのと鈴木の姓がこの辺などで多いのは熊野系統なのである。
渡辺党というのもありこれも粋郡系統でありこの辺に多いのである。

そして熊野系統は南朝方についたというとき海人を味方にして海運をにぎり海を支配しようとしていたのである。

この辺の歴史でももともと相馬氏は北朝であったが海に海岸に館を置いていた豪族と相馬氏が進出してきてそれらのものが抵抗して苦戦した
なぜなら小高でも蔵院とか湊があり船があまたあり海運の拠点ともなっていたからである今回の津浪でわかったように小高の城近くまで津浪が来ていたからである。
そこは船の出入りする物資が流通する港だったのである。

それから相馬氏が高平に進出して西殿とか古屋敷とか地名が残るように相馬氏でもみんな一体でなく争うこともある,そこで海側を支配していた泉氏と対立した

泉廃寺跡は泉間が跡として知られ古代からかんがが置かれていた,その延長として中世までその機能が港があり海運をになっていた
13世紀後半から15世紀と17世紀前半の時期に変われるが多くの舶載陶磁器や国産陶磁器が出土した

河川交通と海上交通の結節点に位置して中世を通じて流通にかかわる遺跡だあった可能性が高い
古代行方郡家が置かれた新田川流域,泉地区は中世において地域支配の中核であり在地領主の屋敷地が鎌倉時代に作られた

泉観音堂に安置された一一面観音像菩薩立像から「弘安六年一二月・・」と記されている胎内銘が確認されている(原町市史)

この高平地区で南北朝の時代争いがあったのは相馬氏が北朝であり海側の港を根城にしていた人達,相馬氏でも分裂している場合があり対立した
西殿という地名はそこに館があった,でも海側にも館があり争いがあった
南朝は海人を味方にして勢力をもっていた,日吉神社もまた南朝方でありそれで霊山が炎上して落ち延びたとき鹿島区の真野に逃れたのである。
その逃れた系統に海人系統がまじっていた,それで烏崎にも住んだのである。
烏崎では鎌倉時代にすでに岩松氏が船でついたという伝説がある
これは磐城から来たといわれる,何か南朝と北朝の争いで混乱していたが相馬氏は先は北朝だったのである。
そして熊野神社系統も南朝だったのである。海の支配権は南朝がもっていたのである。
相馬市では磯部館があり佐藤氏が支配していた,海から急襲されたとかの言い伝えがあり海を通じての興亡があったとなる,後に佐藤氏は相馬市の道の駅にある鬼越館に移ったのである。それは津浪が来る前だった,だからこれも不思議だと思う

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか? (伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)

●津浪が語る昔の地形

今回の津浪では古代にさかのぼり地形が明らかになった,海だったところが本当に海になったのである。
それで大内の古い地名のそが船とか塩崎の船着や市庭という地名が現実を反映したものであり地名の化石であることを実感した
地名はそれほど古い歴史の痕跡だったのである。
曽我船とは船がそこをさかのぼっているという意味である。
そういう地名がつくのはいつも船がさかのぼってくるからこそいつもそういう船を見ているからこそそういう地名がついた
たまたま来るのではない,日常的に来ていなければそういう地名はつかないのである。

そして津浪が来た到達点からみると鎌倉時代の中世の板碑がある高平を見るとすぐ近くまで津浪が来ていたし鹿島区だと田中城は古い城だがそこも近くまで津浪が来ていたのである。だからその位置が地理が歴史を語っていたのである。
田中城は湿地帯に囲まれ守られていた,だから昔は海というより湿地帯になっていたのである。高平では屋敷があったのは西殿でも津浪が来ない場所である。
だから津浪の来た場所は湿地帯で人が住みにくい場だった

1611年12月2日(慶長16年10月28日)に慶長三陸地震があり津浪があった

15世紀と17世紀前半の時期に変われるが多くの舶載陶磁器や国産陶磁器が出土した

慶長時代までこうした貿易が行われていたのである。だからその時まで小高でも原町でも鹿島でも磯部でも港を根城とする土着勢力があり相馬氏はその後に入ったから対立した
そこで争いがあり海老の大工が大原の相馬氏と関係した伝説が残っている
それは相馬氏が中村に城を天守を造るとき何か抵抗した
その理由はわからないが津浪も関係していたのかもしれないと考察した
何か異変があり相馬氏の命令に従うことを拒否したのである。
そこで板挟みにあって大工が苦しんだ伝説だったのである。
時代の中で争いの中で必ず苦しむ人がでてくるのである。
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高平の中世の石塔群から見て津浪が来た距離が鹿島区の田中城からの距離とほぼ同じだというのも不思議である。
何かここに因果関係があるのか?

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)






2018年02月22日

日本に来る中国人の動機 (今は経済的なものだけではない,別な価値を求めている)


 日本に来る中国人の動機

 (今は経済的なものだけではない,別な価値を求めている)


まだ一軒残っている仮設の食堂は嫁さんが中国人である。
その人は中国に研修とかで十日間ほど休んだ
今日中国のことを聞いてみた
自分が疑問に思っていたのは

なぜ中国人が豊かになったのにまだ日本に働きにきているのか?

そのことだった,聞いてみたらもう中国は日本とさほど変わりない,日本人より金持ちの人がいるという,その人が行った先はハルビンである。
元の満州であるが寒い地域である
なんでも日本に行くか中国で働くか悩んでいる人がいるという
つまり日本にはそれほど来たいという強い願望はなくなっている
その中国人の嫁さんはそうした経済的格差とは関係なく日本にひかれているのは別な要素だった
つまり街中がきれいだとか日本人がやさしいとかなにか経済が豊かだからではない
それは中国人の観光でも事の観光となり爆買いが下火になって物ではないのに変わってきたということでもわかる

ハルピンには新幹線も通っているというからその変わり方が激しいのである。
自分の行った十数年前は電車に家畜か物のように人間がつめこまれていたのである。
そんな所に乗った死ぬ思いになった,笞で打たれてつめこまれていたから本当に家畜の扱いだったのである。
それが新幹線になったということはその変わり方は早すぎるのである。
物価もすでに十年前でも北京辺りは日本と変わらないように高くなっていたのである。
満州でもロシアの国境にある満州里ではトヨタに乗っていた金持ちもいたのである。
それから十年も過ぎたからその変わり方は激しいものとなる
確かに中国は広いから貧乏な人も多いが都市は日本と変わりなくなっているみたいだ

そうなると日本に経済的価値だけをも求めるのではなく日本の環境がいいとか日本が好きだからとかなる,それは貧乏な人が求める価値観とは違っているのである。
新幹線があり車も乗っている人が多くなればたいして日本と変わりないとなるからだ
ただ自分はそのことを経験していないから実感としてはわからない
ただ物価が十分の一の時代から同等になってしまったのである。
だから中国で格安に旅行する時代は終わったのである。
満州となると飛行機でも近い,3時間くらいだから楽である。

ロシアから満州に電車できた時はどこまでもとうもろかて畑しか見えなかった
その中に汚い川が流れているだけだなと見た,たた外国で自然は良くわからないのである自然の中に入ることは危険になるからだ
その人は言葉が通じなくて困るではないかと言ったらそうでもないと言っていた
日本語を結構覚えたとも言っている,中国語はまるでわからなかった
英語の方がわかって英語で会話したしまた漢字を書いて会話した

国際化というとき田舎でも国際化している,まず中国人を嫁さんにしていれば中国がより身近になる,その人は中国を案内してもらうから中国通になる
近いから行き来も楽である。
でもなぜまたフクソウとかで働いてる中国人の女性がいるのかとなる
別に中国で働いていた方がいいのではないか?
逆に中国で働いている若者がいた,youtubeで紹介されていた
中国の方が日本より働く場としていいともなっている時代なのである。
ただその人が言うように中国でもいいが日本にも行ってみようかというとき
すでに経済的なものが動機ではない,日本と中国でそれほど賃金も変わらないとなったら日本に来てもしょうがないとなるからだ
今多くなったのはベトナム人である,だからベトナム人の犯罪が増えている
この辺でも駅で何人かにあっているからだ,前の中国人がベトナム人に変わったのである。

日本が先端分野のITとかドローン技術では中国はすすんでいる,それで日本がその下請けになるとか記事にもある,そうんな時代になっていたのである。
とにかくその変わり方の速さについていけないのである。
それで判断を誤るのである。



タグ:中国人
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人間を見る心理学 (ギャンブルでも最初にもうけさせてあとで負けさせるのが定理)


人間を見る心理学

(ギャンブルでも最初にもうけさせてあとで負けさせるのが定理)


今回の自分の投資信託でもうやる気がなくなったのは最初から負けたからである。
それは予測しないことが起きたこともある
カナダの国債が石油が急激に下がって損した
石油は今までずっと高かったのに急激に下がったのである。
まずこのことを予測できないから失敗したとなる
先を見ることができなかったとなる

もう一つの大きな失敗はリーマンショク前から株をもっていたのである。
それが15000円になったとき回復して元にもどった
でもその時株は上がり調子だから上向きのトレンドだからそういうときはチャートを見て専門家は売らないのである。絶えずチャートのグラフを見ているからだ
でもなぜ自分の担当の銀行員は売ったのか?
それを投資信託に回したのは手数料がとれるからだったのである。
その時自分は売らなくてもいいではないかとも思った
上がってきているからそう思った,しかし相手はプロだと思いまかせたのである。
でも前に書いたように大手証券会社でも銀行は特にプロでも何でもないのである。
プロとはプライベートファンドのように利益を上げたらその10パーセントはもらうという商売である。最初から手数料をとるということはすでに損は投資信託を売った時点で損はしない仕組みになっているのである
ただそこで手間隙かかるからその分とるということはわかる
でも損はしないのだからそれもいいわけにはならないだろ。

ともかく人間の心理として最初にもうけるとまたギャンブルでも賭ける
これは人間の善悪の問題ではない,人間の心理が古来変わらないのである。
そういうふうに人間が変わらない心理がありそこから人間を見るということも必要であるそれで中国とかでは絶え間なく戦乱であり人間を策略で陥れる
そういう非情を見てきたから孫子の思想とかがが生まれる
マキャベリもそうである。

人間はだいじに扱うか、叩きのめすか、どちらかにすべきである。小さな傷を受けた者は復讐するかもしれないが、重傷を負えば復讐できない。人を傷つけるときは、必ず復讐のおそれを断っておくべきである。

これを日本にあてはめると日本は原爆を落されて完全に打ちのめされて抵抗できなくなったのである。だからアメリカでは容易に日本を支配できるようになったのである。
日本人はあれほど鬼畜米英になっていたのにすんなり原爆をおとされて従順になったのを不思議がるが原爆の影響が大きかった,この言葉のように完全に打ちのめされたのである
日本が戦争に突入した原因としてギャンブル的に考えれば日本は日清日露戦争で一応勝ったので傲慢になった
それはギャンブルで最初に勝ったことによりそうなったともいえる
もし日露戦争でも負ければ日本は弱いのだという自覚をもつから次の戦争でも躊躇したことはありえる,つまり最初に勝つことは人間の心理としてかなり影響する
次もまた勝つという奢りが生まれるのである。
だから日露戦争に反対した内村鑑三などいたが後は日露戦争を賛美する人が今でも多いし当時は国民がロシアに勝ったと熱狂していたのである。
それも実は危険なことであり奢りとなり次の太平洋戦争に突入した

信長は桶狭間で勝ったけどその後は同じ戦法を使わなかったというときそこに信長の優れたものがあった,同じ戦法では時と場合がありケースバイケースであり勝てないのであるともかく人間は一回勝利するとその成功体験に酔う,次も同じように勝つと奢りになるのである。
だから必ずしも最初から勝つということはその後がありいいとういことはない
要するに日本の戦争でも日露戦争で負けていたらうちのめされていたらアメリカと戦うようなことはしなかったのである。

ともかく自分はとてもまた投資信託などやる気がしなくなった
これだけ負ければやる気がなくなる,ただもし勝っていたらまたやることは間違いないのである。
だから株をすすめる人は最初いいものをもってきて勝たせる必要があると思った
ただそういうことは投資信託ではない,ほとんど手数料をもらう商売であり客にもうけさせるということはないのである。
だからもうそのことを客がわかってくるとやる人がいなくなる
投資信託は7割がもうかっていない,でも3割はもうかっているとなるがその3割は大手証券会社とか銀行にすすめられたものではない,別な証券会社であり手数料をとらないものとかいろいろある,まず大手証券会社と銀行にすすめられるものはもうかる人がいても一割くらだろう。だからほとんどは損しているのである。
つまり投資信託の仕組み自体がそうなっているからもうからないのである。

いづれにしろ自分の場合は人間の心理として最初に負ければ損すれば次にまた賭けるということはしなくなる,それは人間の心理でありどうにもならないとなる
だから人間の心理というのを良く知ることも必要だなと思った
悪知恵にしても最初はもうけさせない限り人はもうその後は賭けないからである。
結局全敗だったからやる気がなくなったとなる,分配型は知らぬ間に元金からひかれていたのも錯覚をもたらしていたし収支決算もしないしすべて投資信託をすすめる人が有利になっている仕組みなのである。
だからこそすすめるのである。

ただネットでもどこでも様々な情報がでる,では投資信託の情報で気をつけねばならいなのは投資信託をすすめる商売をしているものとそれを買う側とに分けるべきである
投資信託をすすめる商売の人は投資信託を言いも気としてすすめるからいいことを書いている,でもそれで失敗した人はそうは書かないのである。
でも失敗した人は一部だとも言うことはできる他の人に言える
でも統計的にも7割しか成功していないし3割が成功しても大手証券とか銀行にすすめられたものは成功していない確率が多いのである
だから統計的にも合理的なものである。一人一人はいろいろあってもやはり統計的に答えが出ているのからだ

ただわからないのはどうして投資信託のようなものが世間に出回りそれがもうかるような錯覚をもたらしているのか?
それになぜ銀行までが加担して広めているのか?
それは一時的にはもうけをだしてもみんなもうからないとか損したとなると信用がなくなる,なぜこんなものをすすめたのだと客が銀行でも不信をいだくようになるとあと何をすすめてもしんようできないとなる
信用を損なうようなことをして将来的に成り立つのかという疑問である。
別に銀行員が悪いということはない,銀行の方針としてノルマを課して投資信託をすすめさせているからだ

こういうことは自分も経験している,カルト教団では会員を獲得することがノルマである一票をとるために毎日奔走する,それはなぜだったのか?
それがその団体が権力を得るためにそうしている,数が増えれは社会的勢力となり影響力をもつのが民主主義だからである。
そういうふうに圧力をかけているのは誰なのか?
それは上に立つものだともなる,若い人は別に従わなくてもいいが銀行に勤める限り従わざるを得ないのである。
だからそもそも銀行自体が問題視される,そういう経営で社会のためになるのか?
社会の中で存在意義があるのかということにもなる
なぜなら会社とは会社の利益だけを追及するものではないからである。
必ず公益的なものがありそれでなければ存続しえないからである。
それで金融庁から投資信託のことで注意されたのである。
つまり銀行自体が実は問われているのである。
ただ銀行側にすると投資信託はもうかるものだからそうしている,でもそれが信用を失うことになり社会的公益性からして銀行はすでにもういらないとされるようになる
そういう危機に直面しているのが銀行だともなる

タグ:心理学
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2018年02月21日

無駄に金が使われすぎる (弁護士とか銀行とか医療関係とかゼネコンとかで無駄に使われた)


無駄に金が使われすぎる

(弁護士とか銀行とか医療関係とかゼネコンとかで無駄に使われた)


今になると経済を知るには株をやるといい,それも百万とか実験的にする,それは損してもいいとしてやる,すると相当経済の勉強になっていたなとこれも後悔する,今頃それをしても遅かったのである。
これも失敗だったと思う,実感としての経済学がわかることが大事なのである。
株をしていると確実に損したり得したりするとそこから実感として学ぶからである。
それがまさに資本主義社会なのである
株をしないと実感的に資本主義とかグローバル経済というのがわからないのである。
カナダの国債で円高になり相当に損したということで円高のことがわかる
トヨタなどでも一円で百億円とかの損益でるとなるとこの為替の上がり下がりは怖いなと実感した
最近USリートを売ったのはアメリカの金利が上がったからである。金利が上がる住宅関係は借りにくくなるから指数が下がってきたのである

人間は経済的な面から見ると損したことは良く覚えている,あれは損だったということを実感として脳裏に刻まれるのである。
でも成功した体験は何か忘れやすいのである。
おそらく心理学的にはギャンブルで最初もうかるということが危険なのである。
そこに有頂天になるとか俺はついているとか過信が生まれたりするから危険なのである。ただ人間の心理として最初にもうかるとまたギャンブルでは賭ける
だから最初にもうかることはかえって危険だとなる
ただ心理学的には人間は最初もうかると必ずまたもうかると思い賭けるのである。
そして今度は損したとしても何か最初にもうかったからあきらめるともなるのが不思議である。人間の心理としてそれがある、だから心理学的に人間をだますこともできると思った,ギャンブルでは最初は勝たせないともうその後は賭けないからである。
今回の自分の投資信託は全敗だったからもうやらないと決心したのである。

損したというとき自分は直接かかわっていないが弁護士に何もしてもらわないのに相談料で百万とられたのは今ふりかえるとただ金をとられたというだけになった
なぜなら実際の交渉は保険会社の人がしたからである。弁護士は一切なにもしていない
ただ弁護士に頼んだということを相手には言ったが実際は何もしないのに相談料だけ最初に百万とったのである。これも理不尽だなと今ふりかえる
それから前の渡辺病院でMRIで認知症になった姉の写真をとったが3万とられた
でもその機械でまず認知症のことはわからない,写らないのである。
郡山とかに二台ある機械だと多少わかるようだがそれでも認知症がわかる機械はないのである。

3万払ったとしても実際は一割だから30万も払ったことになる
これもその時は考えなかったが今になるとそのことに気づいた
30万は大きな金である,なぜこうしてこういうふうに金がかかることは実は自分の家族だけの問題ではない,税金となり保険となるから国民の負担となっている
医療関係にはそうした無駄な治療とか検査とか多すぎるのである
でも病院とかではそれで稼がないといい機械を買えないとかありそうするのである
3万で安いと思っても実際は医療の場合は馬鹿高くなっている
他でも医療費がふくれあがりもう保険でも介護でももたないというときそこには相当な無駄があるためである。減らすことができるが無駄がありすぎる
何か税金は無駄が多い,その額も大きいのである。

この辺で除染で何兆円も欠けたけどそんなに必要だったのか?
むしろその金を南相馬市だったら小高とかと鹿島区ではもめたからその金によって争いをなくすようにできたのである。
また公共の建築土木関係には大きな金の無駄が指摘されてきた
その無駄が国民にはねかえり税負担になる
人間は自分の金は大事にするけど他人の金は大事にしない,それで官僚は税金を無駄にするというのもわかる,自分の金だったらそういうことはしない,やはり十円でも百円でも損失には敏感だからである。
本当に大きな金になると無駄も大きくなるのである。

弁護士であれ医療であれ株とか大きな金が動く,そこでその金をとりこむことができる
それは不正というのではないが合法的に金がとられとなる
でもそれはだましにもなっている,弁護士の相談料に100万を払う必要はなかった
自分が払うとなるとそんなにかかるのとなるからだ
今はみんな自分で払うから自分の金だから痛みになる
ただ医療費はいくら3万でもしかたがないのかとなりやすいのである。
薬でも高いのもしかたがないとなるのは病気に人間は弱いからである。
弁護士でももめごとで困っているから頼むのである。
そこに常に弱みがありその弱みに合法的につけこまれるのである。

銀行でも証券会社でも大きな金が動く,するとそこに暴利のようなものにもなる
ビットコインなどもそうである。そこでは普通の社会では得られない金を得た人がいた
そういう株の世界には不自然なものがあり理不尽なものもある
ただ金を得ればいいとうだけのことしかない,日常の生活ではそういうことはない
野菜でも果物で何か作って売ってもそれ相応の分しか金はもらえないからだ
だから仙台の優創建とかのユニットバスを作った人は百万で安かったしできたものはいいものだった,ガス屋では200百万かかるというのを百万で作ったのである。
地元の大工だと3百万かかっていた,知り合いの人に頼むとそうなった
なぜなら見積もりもなにもないからそうなるのである。

結局人間は何か地道な仕事がモラル的にはいいとなる,ただそうなると収入が少なくなるから嫌だとなる,肉体労働となるとまたきついから嫌だとなる
でも弁護士でも銀行でも医療関係でもブラック化しやすいなと思った
金融関係は一般的にそうなりやい,地道に働くのとは違っているからだ
人間がどういう職につくのかは大事である。
なぜならもしそこで人生の時間を費やすとしたらそこに費やした時間が人生になってしまうからだ,そこがモラル的には悪いとなるそれが後で影響が出てくる
何か顔を見ると人間がわかるというがそういう仕事をしていると人間は心も歪んでくる
それがあとで結果として出てくるから怖いのである。

自分が思うには江戸時代がみんないい顔していたということを外人が言うとき貧乏でも今のような多様な職業の中でモラル的に歪んだものではなく天に恥じないような仕事をしていた,農業だと今の弁護士だと金融関係などの仕事とは根本的に違うからである。
そういう影響で素朴な人が多く人をだましたりしない,何か弁護士でも正義のためにするのではない,口八丁でだますということがしやすいのである。
法律する人をだますものとして悪用しやすいものだからである。
何か現代の職業はそういう職業にかえって憧れるし楽で金が入るとかなるけどそういう職業はモラル的に問題あるなと思った

投資信託の話などでたらめだとなる,自分たちの銀行でも証券会社の利益が優先されているから顧客のことより手数料の多い投資信託をすすめる
そこで判断が誤るということもある,なぜなら株をリーマンショクの前にもっていたのにそして上がってきたのにその時売って投資信託につぎこんだからである。
それはその時の判断がありいちがいに批判はできない
でもその言っていることがただ自分たちの銀行の利益が優先で顧客のことは二の次三の次だなと経験して思った
そして損すれば株とは上がったり下がったりいろいろな政治とかその時々の様々な影響がありますといえばいいのである,そう嘘でもいいわけがしやすいのである。
素人にはわからないからである。

結局安全なのは貯金だとなる,これも問題あるにしろもう年になれば株は無理である。
手堅くいく他ない,底辺層が貯金がないから安心がないというのもわかる
株で投資信託などで増やそうとするのではなく手堅く財産を守るとなる

●節約する
●消費を極力減らす
●財産は守る,なるべく減らさない

このように保守的になる,それは老人はみんなそうでありそうすることがしやすいのである。老人は消費するにもできない,いい長距離用の電動マウンテンバ自転車が出たから買いたい,でも体力もないし遠く行く旅行は無理だとか思い買っても無駄だとなる
すると老人自体が消費できないのである。消費することもエネルギーが必要なのである。現代は消費することが生産すると同じようにエネルギーが必要なのである。
だから自分の生活の仕方,方針を転換した
それで75歳から5万もらえる保険がいいとか思った
ただ75歳前に死ぬとゼロになる,でも安心だともなる,自分の場合国民年金だとたりないからである。でも5万は結構大きい金だからそれでなんとかのりきれるとかなる
つまり保守的になってしまうのである。
退職してから株とか投資に向かいないのである。
これも相当な訓練と経験がないとできないからである。




タグ:無駄な金
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銀行,大手証券のすすめる投資信託はもうからない (その人達は金融のプロではない)


銀行,大手証券のすすめる投資信託はもうからない

(その人達は金融のプロではない)



投資信託だけは買ってはいけない3つの理由 − 金融のプロはどうやって儲けているのか

ここで言っていることは経験してわかった、金融のプロがどうしてもうけているのか?
その金融のプロとはどういう人なのか?

プライベートファンドの多くは、信託報酬の他に「成功報酬」として「運用で勝った場合に、勝ち分の〜%を貰います」という報酬形態を採用しています。

彼らの給料の内多くはこの成功報酬から払われることになりますので、手数料の面で一見投資信託よりも高く映ります。
しかし、むしろ実質的な運用の質は遥かに高いものが期待出来ると言えます。

これはわかる,銀行とか大手証券会社で手数料をとるのはまるで違っている
失敗しようが全然損益にはならない,手数料は確実に入ってくるのである。
でも証券会社でも銀行でも個々人に投資させれば投資するものが損する
証券会社とか銀行は何の不利益にもならないのである。

だからある程度大きな金ならプライベートファンドを見つけて金をまかせた方がいい
大手証券でも銀行でも手数料が多くとれることしか考えていないからである。

相手をもうけさせようとしているのではない

証券会社が銀行がもうけるためにまずすすめるのである。

それでリーショックの時株もっていた半分になった,でもその後倍になった
でもその時投資信託をすすめたと銀行員はその株を投資信託に回した
なぜか?

銀行にとって手数料がとれる投資信託がもうかるからである

つまり顧客のことより自分たち銀行のもうけを優先しているからである。
それで今になると株が上がったたのだから売れば相当な利益になっていたのである。
ただその時の判断はあるが自分はその銀行員がプロだと思いまかせたのである。

大手証券会社とか銀行員は金融のプロではない

ここがはっきりと認識すべきである。
だからここのサイトはその要点をついているからわかりやすいのである。
もちろん投資信託でも株でも金融商品にはいろいろな見方がある
だからいちがいに自分の経験が参考にはならない

でもカナダの国債が石油が下がりusリートでも一時売ってもうかったがまた買ったとして手数料がとられる,3パーセントは大きな額になる,投資信託の金が大きければその額は大きいのである。

まず証券会社の人でも銀行でも投資信託はしていない

それは証券会社と銀行はもうけるのであり顧客をもうけさせるもののためではないからだただ手数料をとればいいという商売である。

だからこそ株が上がっていたのにその株を売って投資信託にしたのである。
そして今度はJリートにしたがこれも指数が下がり今は損して売れない
つまりみんな実際は自分の場合は投資信託でも外国の国債でも失敗したのである。
そして次々に新しい投資信託を買わせるのはその時大きく手数料が入るからである。

投資信託はもうからない仕組みになっている,もうかるのは手数料をとるリスクもなにもない,大手証券と銀行である,だから詐欺ともにているのだ
投資信託を売りつければ自分たちは絶対に損はしない手数料だけはいただくという商売だからである。

損して得をしろというけど投資信託は得して絶対損しない商売である。

そういう商売自体が一時的にもうけてもその後は成り立たなくなる
まず銀行員が投資信託をすすめても信用できない,いいことを言ってもこれだけ失敗すれば信じることはできない,株とかそういうものだとしてもプロとしてまかせたからである
でも証券会社や銀行は金融のプロではない

金融のプロとはプライベートに大金をまかせられる人なのである。それは大手証券会社とか銀行ではないのである。
金融のプロはそこで顧客をもうけさせれば何パーセントと利益を得るが失敗すれば何も得られないからである。
それはただ相当な金持ちしかそういう人には頼めないのである

実際投資信託でも手数料が安いとそれなりの対応しかしてくれないというのはわかる
でも自分はそれなりの大きな金を頼んだのである。
金持ちとは違っていても手数料も大きかったのである。
それで失敗したとなるともう何を言っても信用できない,まずその証券会社と銀行員は金融のプロではないのだ
ただ手数料をとるために適当に金集めしているだけだというのもわかる
つまり顧客をもうけさせるのではなくまず彼らが考えているのは手数料をとることである
だから商売でも相手を得させるということは損しても得しろということが諺として残されている,それとは全く違う世界である。
でもその諺も通用する,もし最初にもうかっていればまたもうかるのではないかと別な投資信託をすすめられれば投資することになるからだ
ギャンブルでも最初にもうけた人はまた賭けるのと同じである
これだけ損して全敗のようになれば賭けたりしないのである。
投資でも最初分配金が払われて信用したということもある
全く自分の場合は全部失敗したのだからとてもこれ以上すすめられてもそんなことできなくなったのである。

そもそも銀行自体信用できなくなったともなる
そのことを知っている人がしきりに言っていたから当たっていたとなる
金融は複雑だからだましやすいのである。何かもうかるような気分にさせる
でも現実にこれだけ全部失敗して損させられればもうまかせることはできない
それが小さい金だったらこうはならなかった
それなりの金をまかせたのにその人は金融のプロではなかったのである。
一般的に普通の人が接するのは金融のプロではない
ただ手数料をとるだけの自分たち確実に得するが顧客は損しようがかまわない商売なのである。
ただそういうものが社会にまかり通っていることが納得がいかない
それも銀行という固い職業でそうだとういことは銀行の信用は失墜する
それでもしているのは銀行が追い詰められているからだとなる

ともかく人間は経験である。もし株でも経験していればこうはならなかった
本を読んでもわからないことがこの世にはいくらでもある
経験しない限り株なら損するとかしないとその世界のことはわからないのである。
それがわかるのは学者が経済や経営を教えているけど株でもうけられないことでもわかるそういう世界に通じるにも経験なのである。それがないからたやすくだまされるともなるのである。
ただわからないのは銀行がそこまでするということは切羽詰まっているからでありでも結果的には最大の財産である信用失うということになりかねない
その怖さを認識しないと会社自体が危うくなる,すでになっているからこそそうしたものに手を出さざるをえなくなったとなる



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掃除は商工会の女性がしていた


掃除は商工会の女性がしていた

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商工会で掃除とかJRに頼まれたのを断ったというが今日はホームのゴミをかたづけたらしい
自分はゴミがはみ出したのでゴミ袋に入れてかたづけた
そのーとに制服を来たような女性が二人あと二人とか来て掃除したらしい
あそこは別に掃除といってもホームのゴミ箱にたまるのをかたづけるくらいである。
でも商工会に頼むとJRでは金を払っている

最近は駅であまりすることがない,ただなぜ自分が時刻表とか無料で配ったりしたのか?
それもカルマだったのである。自分は鉄道旅行が長いから相当にJRに世話になったとなるするとそこにカルマが生まれていたのである。
人間の一生をふりかえると必ずカルマが蓄積される
カルマをもたない人はいないのである。

それで介護とかもカルマなのである、親に世話になったから介護がカルマとしてのしかかる,カルマというのはなかなか気づかないのである。
でもどこかでカルマを返すことを要求されるのである。
それが強制される場合があるときは相当に重いカルマなのである

駅ではなにかある,今度は駅舎内にスーピカーをつけた,ホームにはあったが駅舎内にはなかった
何かこうして駅は仕事がある,ただ今はさほど仕事がなくなったことは言える











2018年02月20日

北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)


北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)

無念の声が
北海道の厳しい
大地に埋もれぬ
その分厚い雪の下に
無念の声が埋もれる
開墾に敗れし者
その無念の声が
冬の過酷な大地に
閉ざされ埋もれぬ
雪はふぶき非情
しかしそこに挑みし者は
無益ならざれ
北海道の大地の実り
その実りを味わう者は
また悲痛なる無念の
大地に埋もれし声を聞くべし
その大地に蕗の薹
力強く芽吹きぬ
北海道の大地の春は輝きぬ
悲痛に埋もれし者も
その命の芽吹き見る
死者の願いはそこにかないぬ
そこに死者は輪を作り立ち上がる
力強いその群像を見る
死者はそこにありて
その大地と共に生きつづける

北海道の魅力はやはり北海道は広くても一つの国として見る,本州だと一部をみていても北海道のように全体を見れない,福島県だって広いから会津は別な国であり一つの県として見れないのである。そこでなかなか福島県の詩とか作りにくいのである。
北海道はあれだけ広いの一つの国のように見ている
榎本たけようの蝦夷共和国というのは何か地理的なものとしてそうなったのである。
江戸幕府が敗れても北海道に新天地を見いだそうとしたのである。

北海道に入れば空気まで違う,苫小牧に船で上陸したとき必ずその空気が違ってるのだ
澄んでいるのであるそこに野の花々が咲いている
そういう原始性が残っているから違っている
本州だとどうしても町とか市とかに出る,どこまでも広がる大地とか草原とかそういうものは本州にはない,だからそこで心まで解放された気分になる

ただそこで生活するとなると過酷である。自分など体力がないから耐えられないとなる
北海道開墾はそこで敗れた者も相当に多い,猪狩満直もその一人であり他に大勢いるのである。
彼らは北海道の実りを享受できなかった,しかしその後の人はその実りを享受する
それがまた人間の歴史だったのである。
何らかの犠牲の上に次の時代も築かれるとなる
戦争の犠牲の後に日本の高度成長があったのもそうである。
何にもない焼け野原から良く高度成長になったのは驚嘆すべきである。
でもそれは中国でも20年くらいで同じように起きていたのである。
だからそれは世界的なものであり日本だけのものではない
何かそういう力が日本に働いて高度成長になったのである。

北海道は明治になりフロンティアになった,そこから日本の新生が始まったのである。
もし北海道がなかったら日本は失業した武士などの受け入れる場がなかった
アイヌはいたにしろ手つかずの未開の地が開けていたのである。
ただ北海道で犠牲になった人達も多い,それだけ厳しい大地だったのである。

おらは反抗する
あくまで敵對する
まつ白な雪の中で
零下の寒氣の中で
このまま目をつむれるもんか
おら おららは

猪狩満直「移住民」

これはこの詩人だけではない,北海道の開墾に敗れたものは大勢いる
それらの人達の代表としてこういう人がいて詩に残したのである。




















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posted by 老鶯 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

高度成長グローバル資本主義の終わり (宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


高度成長グローバル資本主義の終わり

(宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


小さな庭

沈黙の深く
一人一人の
意味あるものと
顕れるべしかな
一人一人の声を聞き
雑多なる声は
騒音語となり消えぬ
小さな庭の
一つ一つの石は
確かに組まれて
意味を深める
人は意味なき世界に
生きることあたわず
小さなる世界に
その意味を求め安しも
経済のための社会にあらず
社会のための経済
その小さな世界に具現化す
グローバル経済には意味は求めがたし
ただ経済のため金のために翻弄されるだけ

今の時代は何なのか?それは実際は今の人にはわからないのである,歴史は一時代が終わったとき冷静に見れるし評価も定まってゆく,人間も生きている内は評価しにくいのである。
今の時代は何か?それがしきりに言われるようになったのが中世にもどるということである。
ただ中世とは何かというとこれまた見方がありいろいろである
日本の中世はかえって動乱の時代だったからヨーロッパの中世とは違う
ヨーロッパの中世はグローバル社会とはまるで違った閉鎖された江戸時代のような世界である。だから暗黒社会だとも言われる

ではなぜ中世なのか?それは資本主義がグローバルに展開した時代が終わったとういことである。グローバル資本主義がありえたのは投資先が常にあって成り立っていたのであるそれがなくなったとき銀行に金をあづけても利子がつかない,むしろ金をあづけると事務費とかはられることになる
そのことが何か資本主義の終焉を象徴していたのである。

日本は戦後焼け野原から何もない世界から急速に高度成長したのである。
中国とにている,中国の二十年前は再貧困国のようになっていた
それが二十年すぎたら新幹線のようなものも走るしとか日本の高度成長と同じだったのである。世界も十年単位とか20ねん単位急速に変わるものだと思った
だからその変わりように追いつけなくなるのである。
人生もまた70年単位にして急速に変化してその変化に対応できなくなる
現代は変化のスピードが早いのである。

日本が敗戦になったのはこの変化についていけないとういことがあった
戦艦大和のような船の時代は終わり飛行機の時代になったときそれは無用化されて海の藻屑と消えたのである。
20世紀は科学技術の時代である。科学技術が社会を席巻した時代である。
それと高度成長とグローバル資本主義の時代だった
そしてもう日本ではインフラ整備も終わりかえって道路でも橋でもトンネルでも老朽化して修復する時代である。また無用な道路なども作りすぎた時代にもなった
高度成長が終わり長く経済が停滞するしグローバル資本主義でも投資先がなく金融資本主義になった
金融資本主義とは本来の資本主義とは違う,ただ金を右から左とながしてし利ざやを稼ぐのであり投資しているのではないのである。
投資する先がなくなっていたのである。
地銀なども地元の企業に投資して育てるという役割があったがそれないから証券会社の支店化して投資信託とかで利ざやをかせぐだけの商売である
銀行の役割はもうなくなり消えるという時代になっていた

こういう時代は何なのか?
物理的空間的拡大の時代であったのも現代である。それは交通面で飛行機とか車社会とかなり人間は外へ外へ向かうようになった
広域社会化でありグローバル化社会である。人も物も自由に行き来することが可能になったからである。
ただそのグローバル化も移民問題などで世界的にゆきづまった
それがアメリカでもそうでありグローバル化は失敗してもうこれ以上できないとなった
資本主義も投資先がなく銀行に利子がつかないようにもうゆきづまり終わるとされているビットコインバブルなどもそれを象徴している
資本主義は必ずバブル化して破綻しやすいからである。

そして次なる時代は何なのか?ITとかAI,通信時代になった,この特徴は物の流通ではない,物理的リアル空間の拡大ではない,その中心が頭脳に左右するものであり心の世界に向かう,内面世界に向かうものである。
だから今までも物理的物の豊かさを目指すものではないのである。
その技術は精神に影響してくるものである。
そもそもインターネットを介して物の流通があってもそれよりそこで人間が情報をやりとりしていることが主だとするとそれは情報も精神の世界なのである。
膨大な情報のやりとり交通の世界になったのである。

インターネットでもその発信方法が変わる,最近youtubeを見ているとこれは学習能力がある,テレビとは違うメデアである。それも誰でも簡単にテレビのように放送できることが強みである。それでユーチュバーが生まれたのもわかる
ただそのユーチュバーが稼いでいるのはテレビと同じ手法である。
何か刺激的な映像を出して視聴率をとるのである。
でもその他にも多様であり学べるものがある
インターネットのメデアは一方的でなく対話的な面がある
だから引用して議論しやすいのである。本とも違ったメデアなのである。
どちらかというと広く浅い知識を得るメデアである。
現代は多様な複雑なの社会だから広く浅い知識も必要なのである。
それには要点をついたyoutubeが向いているなと最近思った

ただ現代はこうしてインターネットとか世界的につながるとしてもそのアイディンティティを得る場はどこなのか,それはやはりリアルに自然とか社会と結びついている場なのである。
小さな庭というときそれが拡大したのが故郷かなる,リアルな自然があり村があり町があり市がある所である
そこで意味を探求して進化させるのが人間的なのである。
だから像で考えよというときその像が都会にはない,自然がないから像として考えられないのである。毎日高層ビルを見上げていかなる像が浮かぶのかとなる
ヨーロッパでは都市が歴史的に作られそこが一つの世界となり世界観を作る
地方都市が充実しているからミクロコスモスとなり文化が興隆した
フィレンツでも4万くらいの人口だった,小都市にすぎなかったのである。
ヨーロッパではそうした小都市が歴史的に作れらて文化が育まれたのである。
日本にはそうした小都市は歴史的に少ない,城下町は都市とは違うからである。
だからこれから地方の小都市の充実がかえって望まれている
東京一極集中は文化的に不毛なのである。

自分は田舎で石とか樹とか森とか山とかのアイディンティティ化することをしてきた
そこに意味を求めてきた,それを短歌や詩にしたりした,それは意味を求めていたのである。自然の意味を求めていたのである。
それは科学技術とかとは違う芸術とか哲学とか宗教の分野にもなる
今の時代は経済一辺倒の世界が収束して宗教,哲学,芸術とか内面的な精神的価値を求める時代になる
グローバル経済社会ではとても意味など求められないのである。
それは非人間的な世界であり株の世界でも世界の賭博場のようにしている
ただ人間はそこで経済に金にふりまわされているだけなのである。
そしてそこでもうけるのは極一部の人しかなく後は世界的格差社会になったのである。

人間的な世界を求めるとき小さな庭のように狭い世界でないと一つの区切られた世界でないとできない,例えば会津は万葉時代から一つの国として意識されていたからそこで意味を深めるアイディンティティ化しやすいのである。
今の県は廃藩置県後にできたのもであり風土とか地理を歴史を考慮していないから一体感がないのである。
例えは北海道は広いのだけど原始性が残っていて一つの国と見れる
それで榎本たけようが蝦夷共和国を目指したのが理解できるのである。
北海道は自然でも原始性が残りそこに日本では別個の一つの世界を作り出すことができると明治維新の時も思われていたのである。
北海道はだから今でも蝦夷共和国を目指し得るのである。

結局戦後焼け野原から高度成長時代へと発展したが日本は高齢化したように老人になると過去をふりかえるようになる,そういう時代になった
過去をふりかえるということは老人ならどんな人でもしている,そしてその意味を求めるようになる,俺の人生はこうだったとあれも失敗だったとか悔いるのである。
そういう反省の時代でありそこから若い人も学ぶものがある
若い人だけで議論していると何か深いものの見方ができないのである。

いづれにしろ今の時代はもうグローバル経済とか金だけに経済だけに翻弄される時代は終わったという認識をもつべきである。
だから株とか投資とかで期待してそうした狂騒の世界に巻き込まれるべきではない
それは自分も最後にしたがもうやめた,結局投資信託でも手数料をとられだけであり銀行の最後のあがきとしてすすめているだけなのである。
銀行がなくなるということがまさにグローバル経済の終焉の時代を告げていたのである。ただすぐにはグローバル経済とか資本主義はなくならない,ただ傾向としてはもうそういう経済だけの世界は終焉に向かっているのである。
そういう時代認識をしないと何かまた過去の幻影にふりまわされるのである。
時代というのは社会でも常に変化しているけどその変化に対応できないのである。

とにかく小さな世界だと意味を求めやすい,禅宗だとその小さな庭に一つの宇宙をも世界を見たのと同じである。大きな世界になると社会でも自然でも意味づけることがむずかしくなるからだ,そこに自然を庭化する日本的なものがあるといえばそうである。
ただ世界的にも意味を求める時代は宗教は哲学,芸術などの時代になるのである。
インターネットとかはそういう精神世界の追及に向いているものがある
いろいろな人からの情報とか知識を得やすいからである。また対話的にもなっているからである。ただ草創期だと日常のささいなことの対話になるがだんだん成熟すると深いものの見方をする人などもインターネットに現れてきている
そして死んだ人が「心の青雲」のプログの著者の都築詠一氏だったのである。
なぜならその人はインターネットでプログを書いただけで本には出ていないからである。そういう人も出てきたのだと驚いたのである。
インターネットで発表することは発信する方にすると楽なのである
publishとはpublicであり公表するということであり公(おおやけ)にすることである。
今なら本は簡単に安く作れる,でも公表するとなると簡単にはできない
その公表するということでインターネットでは気軽なのである。
そして人間は書きながら文章で思考することがあるなと思った
文章を書くことで思考を深めている,思考を具体化しているのである。
だから自分はこうして毎日書いているのはそういうことをインターネットではしやすいからなのである。だから現代はインターネットでも文章の時代だともなる
自分はしゃべることは苦手だから文章を書く方がいいとなりプログなどは向いているのである。
文章の方が深いものを探求できる,しゃべるだけではできない,ただ広く浅くなる知識や情報だとしゃべるyoutubeの放送が向いているなと思った




2018年02月19日

南相馬市は若い世代が流出,老人が増え,生活保護が増える (国からの補助金も三年後に打ち切られ財政難に)


南相馬市は若い世代が流出,老人が増え,生活保護が増える

(国からの補助金も三年後に打ち切られ財政難に)


知人の母と息子が住んでいた家は息子が40くらいでありいわきの方に正社員として建築関係で仕事していたが仕事がないとなりその息子は決断した
東京に仕事探しに行きアパートを七万で借りて帰ってこないという
東京だと仕事がないということがない,建築関係でもそうである。
そして七万の家賃でも今は建築関係は人手不足だからやっていけると踏んだのだろう。

この状況からみてこの辺は意外と復興関係の仕事も減り仕事がない状態になっているのかその人は前はここで除染の仕事をしていた,それも終わった
まだ外部から来ている人がいるが大分少なくなっているだろう
統計的にも一段落して復興関係の仕事はもう減ってゆくだけである。

仙台のユニットバスの会社がまた家のリホームをしないかときた
その会社は百万でユニットバスを作った,ガス屋に聞くとこれは二〇〇百万かかると言っていた,確かにそれだけの仕事であり安いと思った
地元で知っている人に頼んだら三百万はかかっていた
その人の知っている大工でも仕事してもらったが何かいいかげんだった
だからあてにならないと思い頼んだのである。
この辺は何か家でもほとんど大手の住宅会社が建てている

仙台でも震災関係の仕事がなくなったからこちらの方に進出してきたとなる
つまり仕事がないということが仙台周辺でも起きているのだろう。
大きな仕事もなくなっている

そうなるとこの辺では若い世代の流出が震災直後から問題になっていた
原発避難区域ではそうなって若い世代が帰ってこないとなった
だからその知っている人の息子もそうなったのである。
その人は別に原発事故のために地元にいられなくなったとかではない
ここで仕事がないということで東京に出て帰らないという
それはここで仕事がないし生活できないと決断したのである。

まだ40くらいだからそれができた,50代とか60代になると東京とかに出て働くのもむずかしいとも思う
自分はもともと田舎志向だから東京などにごみごみした所にゆきたくないとなる
介護十年でもう東京には10年以上行っていない,そして仙台にも去年は一回しか行っていないのである。
旅ばかりしていたがここ十年は近間を回っているだけなのである。

この辺で人手不足というとき介護とか看護師とか飲食関係とかが深刻であり建築関係の仕事はなくなっている
ただそうして若い世代が流出してゆくことはここには老人ばかり増えて働き手が減少するすでに他の県より市よりこの辺は高齢化率が10パーセントくらい高くなっている
それがさらに増えてくる,南相馬市だと小高は老人の街となりそれを補佐するのは容易でなくなる,だから立派な老人ホームがあっても介護士がいなくて運営できなくている
親が住んでいても子供たちはその親を見捨てて流出したから帰ってこないのである。
親は帰ってくるというけど一旦流出したら別な土地で暮らし始めたら仕事をはじめたら簡単には帰れなくなったのである。
それで妻まで子供の方に移り住んで老人が一人小高とか復興住宅とかでも浪江の老人が残される結果になったのである。
つまり浪江の人が南相馬市にも住んでいるから実質の老人はさらに多くなっているのだ

あと三年後に国からの援助もなくなるとか補償金もすでにもらえないとかなり苦しくなる本当にこの辺は危機的状態になるかもしれない,ただそういう危機感はない
人間はそうなってみないと何でもリアルに感じないのである。
そして個々人でも介護でも病気でも自分がそうならないかぎり他人事なのである。
でも市全体が疲弊したら必ず個々人にもその影響がでてくる
だから後三年後というのはこの辺では具体的にその影響が現れてきて苦しみ感じる人々が増えてくる、生活保護だって増えれば財政負担が増えるし老人は病気になりやすいし介護になりやすいからそれが負担になる

posted by 老鶯 at 15:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連