2017年09月08日

ソバナの花-月(小池の墓地)


ソバナの花-月(小池の墓地)

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秋の雲ホールにねらい定かな

にぎわいぬパ-クゴルフ場秋の蝉

夕月や数羽の鷺の巣に帰る

虫の音や大き家に我が一人かな


月澄みて今日ものぞくや我が部屋をものしずかにして文を書くかな

小池なる墓地にあわれや草むしてソバナの花あまたうなだる


今年はなんか天候が変だった,梅雨が長引いた8月末までつづいたようになり最近晴れた感じは秋なのだが夏のような気もする,今日は残暑のような気もした
パークゴルフ場はにぎわっている:そこで鳴いているのは秋の蝉なのか夏なのかわからない,蝉といえば夏だからである。

ソバナの花といえば墓地にあっていた,死者は何も言わない,ソバナの花がそこにうなだれ咲いている,小池に行ったのはコモドインの食堂に行ったのである。
小池ではあの墓地が目立つ,あとは古墳くらいである。
自転車だと結構遠い感覚にもなる
土地土地に感じるものが違う,だからそうした部落がなくなったりした田舎の魅力は半減するだろう。

月がものを書く自分の部屋をのぞいている,やはり月は秋である。
虫の音が大きな家に一人いる自分に向かって鳴く
その声に耳を澄ます,何か一人くらいならなんとか世話できる
家に来ているのは一人だけだからである。
それもいろいろ問題がある
今日も今も窓には月がでている,満月である。 

水墨画

水墨画


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2017年09月07日

土手 の道でで同級生と昔話する (病気から見違えるほど回復していた)


土手 の道でで同級生と昔話する

(病気から見違えるほど回復していた)


今日土手で自転車に乗っている脳出血で一命をとりとめたきいた同級生とあった
その人は只野という人で南北朝時代,霊山から逃れてきた人を先祖にもつ古い家だったのである。
鹿島には只野性が本当に多い,それはその時逃れてきた武士の子孫なのである。
ただなぜ鹿島の街内だったというのが謎だった,というのは街内は新しい人が入ってきているのが多いからだ。
ただ鹿島でももともと鹿島村だったのである。でもその規模が大きいのである。
そこは平地が広がっていたからそうなる,それで橲原田(じさばら)とうい地名が鹿島町誌に残っている,今はない。
橲原の人が土地を求めて開いたからその名がついた,なにかこれもわかりにくい,
右田の人が橲原に肥料として草刈る場を所有していた
するとそこに右田という地名がついてもおかしくないのである。
ここに橲原田(じさばら)となった理由はわからない。

その同級生は例えば駅前の自転車屋が実は自分の家を間借りしてはじめたという,それは今自転車屋をしている人の父親である。だからその子供のときを知っているという。
ゆして不思議なのはそこに開業医があった,それを知っている人はもうかなり少ない
それをなぜ自分が知っていたかというと母親からそこで幼児の時注射してその傷跡が今でも太股に大きく火傷のようにして残っているからである。
だから医者は下手の人にかかるとひどいことになる
その頃はおそらく医療の技術は遅れていたからである。
つまり医者で一生の傷を負う命取りにもなるということである。

何かその頃町医者が多かった,それは今のように大きな病院がないからである。5軒以上はあった,内科であり歯医者も多かった,それだけ子供が多い時代であり繁盛した。
その時は主に子供とか若い人が医者にかかっていたのである。
今のように老人ばかりがかかっていたのではないのである。
そういう時代の差があった
自分の姉は保健婦だったから医者とはかかわっていたのである。

その人は相馬高校を出て東北学院に電車で通っていた,東北学院はこの辺ではポピュラーな大学である。ただ東北大学とかなると雲泥の差がある。
この辺がまぎらわしいのである。京都大学と京都産業大学とかなると雲泥の差があるのと同じである。
その時大学に出る人はクラスで4,5人だった,その人は兄は東京の法政大学に入ったので
地元の東北学院に入ったという
ただあの人は故郷を出て生活をした経験はないみたいだ,東北学院に通ったとしても故郷を出たとはいえない,自分は大学は東京だから同じ程度の大学でも違っていた
その相違は自分にとって郷里を出て一人生活することはやはり精神的自立することになったからである。故郷を一度も出ないものは何か精神的自立をしにくいように思う。
ただあの人もともとコミニケーション能力があった,そういう性格は変わらない
自分には社会性とかコミニケーション能力が欠けていたのである。
こうして他人と話するようになったのは60代以降強いられてそうなったのである。

自分にとって大学に入ったことは勉強することではない,勉強は嫌いだったし学校にはなじめない性格だった,ただだから家を出ること故郷を出ることが自分の望みだったのである。今でも故郷を出るという志向が自分にはある
あの時代は東北大学に入る人が4,5人でもいた
原町高校と相馬高校でもいたが今は全くいない,それだけ高校生の数が減ったからであるあの時は人が多いからその中に優秀なものも出たとういことである。

ともかくあの人も郷土史を勉強している,あれだけ古い家の生まれだから当然家には一番興味をもつからである。何か古いもの,お宝が残っているらしいがそれがいつの時代のものかはわからないらしい。
郷土史とかはおばあちゃんとかおじいさんとかの話を聞いて興味をもつということを前に書いた。
その人の父親は戦争の空襲のことをノートに書いていたという,鹿島でも爆撃されて死んだ人がいたのか?そのノートに記してあったという,原町の被害は大きかった
飛行場もあり相馬農業学校は爆撃で燃えた,その近くに母の実家があり母から防空壕に逃げた話を聞いている,防空壕の蓋が飛行機が飛んできて舞い上がったとかあるから相当に低空飛行したのかもしれない,そうなったのは相馬農業高校が近くにあったからである。その実家も今はない,墓だけが残っている

自分の家のことも二代くらいだが一人になって昔をふりかえる
家で店をしたとき姉が古い自転車で農家に野菜を買いに行ったことが思い出される
それは役場に出勤する前でありその野菜を積むにも相当な力が入る,女性では簡単にできないのである。その量も多いからだ,でも姉は力持ちだからできたのである。
その野菜を売っていたのが母だったのである。
何か必ず家々にはこうした物語が残っているのである。
一軒一軒の家が郷土史なのである。この辺ではどうしても原発とかかわることが郷土史になってしまった,原発の恩恵を受けていたことが多いのである。
だからあまり東電を批判できないとなっているのである。

その同級生は本当に二年前にあったときよりすっかり回復していたのは驚いた
一時間以上立って話しているのに疲れたとも言わない,二年前だったら立っていられないだろう。二年間の間に相当回復したのである。
もともと脳は損傷しなかったからそれが良かったのである。
そして脳出血は時間との勝負であり早く治療して南相馬市は前に新しく脳出血センターができたように副委員長が専門的に優れているから若い研修生も習いに集まるほどである。そういうことで幸運が重なりあんなに回復したのかもしれない

いづれにしろ団塊の世代も年でてある。昔を語る人となった,まず自転車屋の前に開業医院があったことを知っている人はほとんどいない,自分は母親から太股の傷のことで聞いてその医者のことを思い出したのである。
注射によって傷が広がったのである。
その医者によってつけられた傷だったのである。
それを恨みに思うももうその医者は5とっくの昔に消えているのである。
ただなんらか昔のことが傷として体に残っている人はいるかもしれない
そういうことは長い一生の間にはある

その人はおくさんもいるし子供がいるから娘は千葉にいて常磐高速でしょっちゅう行っているという,世話する人がいるから病気になっても良かった,今はのんびり庭の手入れをしたり自転車に乗ったり車を運転して楽しんでいる
それにしてもあんなに回復することは驚きである。
やはり脳がやられないから良かったのである。脳がやられると体が麻痺するからである。
やはり近くの同級生は隠れ脳梗塞があるということを言っていてそれがずっとあとにまた脳梗塞になり脚に麻痺がきてびっこになりやっと歩いて買物していた
車があるから買物もできている,まだ車は運転できているのである。
近くでもあれでは買物もできなくなる,一人暮らしだけど一週間に一回くらい弟が世話している,その人も最近母親も死んだので一人暮らしなのである。

団塊の世代は過去をふりかえる時代になった,その歩んだ人生は違っている
その人は普通に勤めて結婚して子供をもうけていたから変わったものではない
最近インターネットだけで知ったプログを最後まで書き続けた人も死んだが同じ世代である。その人は透析を17年間もしていたというからこれも驚きである。
必ず60代から病気がでてくる,そして死ぬ人も出てくる
タグ:団塊の世代
posted by 老鶯 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

死後にひびく言葉 (「心の青雲ー都築詠一氏へ献げる詩)


死後にひびく言葉

(「心の青雲ー都築詠一氏へ献げる詩)

(君のからだ,日常振る舞いは極上のものか,死んだら君は極上のものとなる)
ホイットマン(草の葉)
  

死後にその人の
重い言葉がひびきわたる
崇高なる峯のように
荒々しい山嶽のように
そそり立つ巌のように
不浄を拒否して
そは天に聳え立つ
風雪を帯びて厳しく
烈風はその高峰に唸る
氷河にも閉ざされて
銀河をちりばめる
崇高なるもの目指せしもの
そはその途上に倒れぬ
高潔な死者の霊はそこに宿る
しかし死後その言葉は
荘重にひびきわたる
硬質な鋼鉄のような文体
その言葉を受けるものは誰か
その厳しさには人は耐えかねる
それは天上よりの声となりしや
死後にその言葉は重くひびきわたる

死んだら極上のものになるといってもみんなそうとは限らない,その人が生きたものが極上だったら極上になるん,生と死は切り離せないのである。
ただ死ぬとその人を客観的に見れる,生きている内はその人の欠陥などの方を指摘する
でも死ぬと人間は美化され祭り上げられたりもする
過去が江戸時代でもみんないいものではないが過去を理想化し美化しやすいのである。

「心に青雲」の都築氏はプログでしかしらない,ただずいぶん長く読んでいた
旧プログ時代からも読んでいたとする長い
するとそれだけ毎日読んでいたらその人の思想とか何かに染まる
何か文章に独特の張りがあった,やはりプログで表現するものと本とかで表現するものが違っていたためだろう。その文体が過去の伝統的なものと現代的なものがミックスされたということもあるだろう。
インターネットだと生放送のようにもなり話し言葉になりやすい面があるからだ

何か近寄りがたい厳しさが文から感じた,人間も簡単に近寄れるような人,語れる人だとたいしたことがないともなる,彼はマスコミでも何かバーに出入りする文人仲間でも
そういう人と相互浸透するから交わらないと言っていた
A型で潔癖症だったともなるがそもそもマスコミでも何か商業主義の場だから汚れる
そこでは出版社でもそうだがもうけるために適当な大衆受けする人を作り上げるのである芥川賞なんかそうである。そういう世界を相互浸透するからと嫌っていた
結局そういう世界を拒否するとき孤高となり社会から隔絶してしまう
でもまた逆にしきりに社会性を言っていたのはアウトサイダーとは違っていた
その辺が良くわからないことがあった

いづれにしろ死んだということでその人のことを語り安くなることは確かである。
生きていたらとても語れないからだ,現代では70才の死は早いとなる
ただすでにその年で死んでいる人は結構近くにもいる
自分もすでにそうして死は真近なのである。

2017年09月06日

談論サロン天寿道(掲示板より) (立ち歩くことによって人間になったー「心の青雲」の認識論)


談論サロン天寿道(掲示板より)

(立ち歩くことによって人間になったー「心の青雲」の認識論)

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木を降りることになりますが、サルは本来の足も手になってしまっているので、歩くのは得意ではありませんので極めて危険です。そこで木からあまり離れたところには行けませんが、この木に登ったり下りたりの繰り返しの中で、認識的には木の上にあやふやに認識と降りてのしっかりとした認識の繰り返しの中で、天空のあやふやの像と地上のはっきりとした像との交互的相互転化の繰り返しによって、その中で、空間的な像が時間的な像へと量質転化していくという発展があって、

この人間の見方も面白いと思った,前に歩くことの効用を書いた
人間は猿のように木に留まっていたら人間にはならなかった

人間は大地に立ち歩くことによって人間になった

立つこと歩けることが人間の認識と精神を作ったとなる
動物を見れば四つ足であり立つことはない,ただ歩いてはいる,しかし立って歩くのとは違う。動物は常に下を見て餌を探すために歩いている

人間は立ち歩くのは上を見るためである。上には実際は天であり銀河であり餌となるものがないのである。でも人間は天を仰ぐのである。天なる所にいる神を仰ぐのである。

そして立つということは人間を人間たらしめたというとき木をみればわかる
木は立っているのである,すると人間は立つことによって木と同化する
木の上にぶら下がっていたらそういう認識は生れない
大地の上に木のように人間は立つのである。木は最も人間に親しいものとなるのはそのためである。

英語でもstandからunderstandとかは理解する,認識するとなっているからだ
そして立つことから人間の自然への認識がはじまった,まず木の上にぶらさがったり四つんばいの状態では認識は生れない,ただ日々餌を探すということに終始しているだけになる,立つことは天を仰ぎ星を見ることにも通じている
そして立つことによって木への認識が生れた結果神殿も生れたとなる

そもそも神殿の柱は木を模したものだからである。木が実際に人間になっているのもあるからだ。立つことにより木の認識が生れ神殿が生れたともなる
列柱というときそれは森の木が列を成していることだからである。

心に青雲の都築氏の弁証論などはわかりにくい,ただこうした立つこと歩くことから認識論を展開するとわかりやすいのである。
自分は常に田舎で木とか石とか森とか山とかと同化することで詩を書いたりしてきた
だから自分の思考は自然の像と常に結びついているのである。

ところが東京とか横浜であれだけの大都会になるとそうした自然の像がないのである。
像で考えろというときその像たるものがないのである。
そこに「心の青雲の都築氏の認識論が深まらなかった結果なのだろう。

哲学があるとする宗教でも詩が必要なのである。そうして総合的なものとして学問でも芸術でも何でも結ばれるときルネサンスが生れたのである。
そういうことで都築氏は何か理解しにくかったのだが社会性とか歴史の中での芸術を見ていた,芸術でも社会と切り離せずあるというのは本当である。

例えば絵画は建築の一部としてあり荘厳なカテドラルは一つの総合的なものとして結実である。ヨーロッパの社会歴史と不可分なものとして生れた,だから絵は絵とか音楽は音楽とか単体では存在し得ないものだった,そこに荘厳な文化が形成されたのである。
文化とは俳句とか短歌という一部分のことではない,全体のことだからである。
その全体が興隆するものが現代にはない,社会が無数のパーツ化していることでそうした荘厳な文化が形成されないのである。

いづれにしろどうしても東京であれ横浜であれ認識論を深めてもそこに自然というバックグランドがないとき人間はいくら努力しても偉大にはなれないのである。
つまり巨大な都会の中で混沌の中で一機械の部品となり歯車としてしか生きることができないのである。高層ビルを見ても認識が深まることがないからである。

でも人工的なものでもヨーロッパには日本と違って建築が人間に威厳を与えていたのである。駅まで立派なローマ風のアーチの建築になっていてそれでラファエロの「アティネィの学堂」の絵のように威厳が与えられていた,だからそういう感覚は日本ではもてないのである。そこにはヨーロッパの社会と歴史が一体化して結実したものとして荘厳なものが華開いたのである。
「心の青雲」都築氏はそういうことが語りたかったのだろう。
ただそれを展開するには不十分であったのはバッググランドとしての自然の中に生きていなかったからだともなる
ただ批評家として優れたものがあったとしても文芸批評でも十分な展開はできないなかった

ここでわからないのは

空間的な像が時間的な像へと量質転化していくという発展があって

空間的なものが時間的なものへ質量転化するとは何なのか?

動物には時間がないという,歴史もないのである。
ところが人間と木と同化するときアイディンティティ化するとき木に年輪があり時間とともに成長する,大地に根を張り時間軸としてその土地に根を下ろすのである。
大地に根を下ろすことによってその土地は一体化して認識を深化させるのである。
それが都会だとしにくい,だから文化は田舎から生れる
都会化したとしても神殿の柱は木でありゴシック建築はゲルマンの森を象ったものとして造られたということでもそうである。

ただピラミッドとかアーチの建築には精神性が何かしら備わっている,それは技術的なものとしてだけ見るのではない,機能的なのもから建築が発展したとしても精神性が備わるだからラファエロのアテネの学堂は建築と人間が一体化した荘厳なものを表現したのである。



この引用もまた問題あるかもしれない,これの著作者は誰なのか?
ニックネームだとわからないからまた著作権の問題がでてくる
掲示板だとまたわかりにくくなる
ただ「心の青雲」は死んだので引用しやすくなった
生きていたら攻撃されるし許可も必要だしできないのである。
天寿堂さんからはコメントがあったし都築氏と親しいということで
この発言は都築氏なのかとも思う

「心に青雲」都築詠一氏の部をはじめました

ここにまとめることにしました

「心の青雲」都築氏死亡の波紋 (インターネット利用はどうすべきなのか)


「心の青雲」都築氏死亡の波紋

(インターネット利用はどうすべきなのか)

交際相手に殺されたキャバ嬢のTwitterは、死ぬ2時間後まで元気な書き込みがされていた突然の死の後、アカウントはスパム業者にのっとられ、宣伝ツイートを延々垂れ流すbotになってしまった。

家が廃墟になった後、管理なしできれいなままにするのが不可能なのと同じ。
インターネット空間に放置されたサイトは消えないまま、第三者や悪意のあるプログラムによって、踏み荒らされてしまう

「心の青雲」都築氏のログはグーグルとかで残されている,それは日本の機関ではない,アメリカである。すでにこういうことでインターネットは国際的なのである
国際機関で世界の情報を作品を残しているのである。

ただ都築氏が死んだときどうなるのか?そのプログをそっくり自分のサイトに転載する人もでてくる,そして宣伝で稼いだりする人もでてくるかもしれない,管理する人がいなくななればそうなる,管理する人がいれば訴えられるからだ

まず死亡したからといって商業利用る人は許可がいる,著作権を受け継いだ人がいてその人の許可がいる,ただではインターネットはそもそせ商業利用していない
ただ実はグーグルとかでは宣伝に利用して利益をあげているのである
それはインターネットを作っているのが検索させているのがグーグルとかの会社だからである。

ただ出版だってこれも商業利用であり取り次ぎから出版社から印刷会社から書店からとかかわって出していた,だからそこではコストがかかりすぎるから簡単には本は出せないのである。それでどうしても大衆向きの本が出されるようになる
硬い本は売れないからだ,週刊誌などみればわかるだろう。
一時はスクープもあっだか最近は芸能ゴシップとか他つまらないものとなった
そもそも文化と商業利用はなじまないのである。

インターネットの特徴は商業利用もあるが無償でできるということが違っていた
コストがほとんどかからないのである。手間はかかっても金はかからないのである。
本は古本でも金が関係している,インターネットは無料で読めることが違っていた
だから出版社とかから出せないものでも出せる

都築氏はマスコミとか出版社でもそうしたものを嫌っていたのである。
ただ彼自身は何か出版社とかで作家の手助け,編集をしていたみたいである。
どういう仕事をしていたのかわかりにくい,そもそも家が裕福だとすると
金に困ることがない身分だった,最後にプログで自分の思いのたけを表現したのである。

本としては残らないにしてもログは残っている,それは本なのか?
死んでそれを勝手に利用できるのか?
例えばプログに勝手に転載できるのかという問題もある
旧プログを転載していたのは許可があったからだろう。
今は許可する本人が死んでいるのだから困惑してしまうのである。

死後50年著作権が消滅しないというのは著作権を受け継いだ親族などが商業利用して金にするとき問題になるのだろう。
インターネットはもともと無料で読めたものだからこれもまたどうなるのか?
ログとしてあるのだから読みたい人は読めるのである。

自分の文に引用するときは二三行であり主が自分にならねばならいとしてある
それも著者が死ぬとどうなるのか?勝手に全文を転載する人もでてくる
それをとがめる人もいないとなる,本人は死んだのだからそうなる

著作権というのは何かわかりにくい,自分の抽象画もインターネットの画像をソフトで変化させて作っている,これもまた著作権からすると何なのだろうとなる
インターネットにはこうしていろいろわからないことが多すぎるのである。
それは今までにないものだからそうなっているのである。

ともかくログが残っているので再検討することが可能になった
その全容を編集することも可能なのである。でもそれは著作権違反になるからできないともなる
でも本人が死亡しているということでどうなるのかともなる
インターネットではルールも確立していないのである。

2017年09月05日

「心に青雲」の都築氏のプログの記事はログは残っていました


「心に青雲」の都築氏のプログの記事はログは残っていました


ここに「心の青雲」のURLを入れると2011年からでてきます
カレンダーの日付の一つ押すとその月の分が全部出ます
あとはそこから月ごとにログが読めます

「心に青雲」


自分のプログも試してみましたがここに記録されています
これは便利です,意外とインターネットに出すと記録はログは消えない
消えるようで消えないのもインターネットである。
ただかえって個人のパソコンは管理できないし技術がない人は消してしまうことがある。ハードデスクが故障すると一瞬で消える
だからかえってインターネットに出していた方がいいともなる

これでインターネットの再検討ができるようです

みなさんもここから読んでください

「心に青雲」の都築詠一氏の文体 (歩くことの効用から抜粋)


「心に青雲」の都築詠一氏の文体

(歩くことの効用から抜粋)


文章診断

これだと読みやすいとか適切だとかやや硬いとかあるから合っているのだろう。

刑事たちが歩くということにはどんな効用があるか。それは歩くことで刑事のカンが発達することである。
 犯人が辿ったあとを歩くことで、犯人の像ができてくる。犯人の感情がわかってくる。そうやって認識が創られるとともに、足を使うことによって頭が良くなるという二重構造があるのだ。
つまりカンとは実体的ありかた(歩く)で創ったもので、それは二重構造になっている。

松尾芭蕉も歩きに歩いたから、俳句の認識が創られるとともに、足を使ったころで頭が良くなり、前人未到の俳句を芸術の域にまで高めたのだった。
カントもヘーゲルも歩いたことがプラスになったはずである。

「心の青雲」旧プログ

こういうことを常に言っていた,頭ではなく身体で考える,推理ドラマを犯罪にあってから良く見ていた,確かに現場に行けというとき歩いてその状況を体で知るとなる
歩くというとき今は車だから歩かない時代である。
その歩かないということは現代人に相当に影響している
ものの見方から認識のしかたに相当影響している

街でも歩いていると街の認識の仕方が違う,通りを歩けば一軒一軒の家を店でも見る
車で自転車だって通りすぎることが多いので歩くことは原始時代にもどり認識を高めたり深めたりする,そのことを自分はこれまで書いてきた,自転車で旅するのと車で旅することも相当に違う,特に峠を越えるとなると全く違った認識が生れる
それは歩いていると同じになる。自分は坂を上る力がないから歩いて自転車をひいて上っていたからである。
旅は歩いてするのと自転車でするのと電車でするのとバスでするのでもみんな違ったものになるのである。

文章でもパソコンで書くのと墨で筆で書くのとまたペンで書いたり鉛筆で書いたりボールペンで書いたりといろいろあるが違ったものとなる
最近は全くペンなどで書いていない,パソコンばかりである。
だから文章を書くにしてもそれが影響しているし横文字になるのも影響している
だからどちかというと話し言葉になりやすいのである。
現実に文でもって話し合っているのがバソコンのインターネットのメデアである。
それで短い文が多いのである。

プログになると長い文が書ける,自分にとっては合っていた,長く書けるので深いものを追及できるからである。
「心の青雲」都築氏の不思議の一つに明らかに文体があったのではないか?
それが現代のインターネットの電子空間にもマッチしたものとしてあった
話し言葉と硬質な旧来の文章の混成がありそれがわかりやすいものとなり読みやすいものとなっていた,でも硬質であり深いものがあり独特の表現となっていた

日本語自体が第一大和言葉がありこれは何か女性的なものを感じている,そして漢語とかなの混成語になったのが日本の文章だから日本語は相当に複雑である。
話し言葉だと柔らかくなり漢語だと硬い表現になる,それがミックスした文章になるのが日本語である。
もともとそういう性質があったのだけどそういうものが「心の青雲」の著者にはあり
それがプログで表現されたこともあり今までにない文体が作られたのかもしれない

自分の文体を診断したら読み安さとか適切さとかはない,だから読みやすい文ではないとなる,何か話し言葉だけだとたるんだものになるが本来の文章を書くとひきしまり重厚なものにもなる
そういうものが「心の青雲」都築氏の文体にはあった
そもそもこれだけの内容と文を書ける人はあまり見当たらないのである。
ただそういう硬質なものだからまたそれに答えることはむずかしかった
絶えず有名人でも批判していたから普通の人は批判するのがむずかしかった

そういうことで死んだということログが消えていることが残念である。
何かこうして書いているとあの世から電子空間で読んでいるのかとなる
自分は別に交流もないし自分のことは注目してもいなかった
自分はずっと読んで注目していたのである。

ただなぜ都築氏は自分がせっかく書いたものを消そうとしたのか?
また残そうとしてかっのか?それも謎である。
何か自分の記念になるものを人間は残したい,それが普通である。
なぜ消そうとしたのか,それも謎である。
もしたいした文でもない雑文ならそういうのが山ほどあるから消されてもどうでもいいとなる
しかしこれだけの内容あるものを書き独特の文体で表現したものをなぜ自ら消そうとしたのか?自ら書いたものをどう思っていたかのかも不思議である。

いづれにしろ都築氏の死は何を意味しているのか?
それはやはりインターネットの中の電子空間で死んだということが何なのか問うている
そもそも人間が死んだというとき知らなければその死が本当に確認できるのか?
例えば死んだ俳優が今でもテレビにいくらでも出ている不思議がある
すると死んだように思えないのである。
死んだというニュースを知らないとしたらまだ生きて演技しているだけだとなる
死は感じられないのである。それと電子空間の死はにている

死は看取りから焼き場で灰になるという残酷な過程の中で認識する
そういう認識が別にインターネットの電子空間だけではない,知らない人の死など認識できないのである。近くでも死ぬ人などいくらでもいる
昨日あってしゃっべていたなと思った人すら死んでいる
でもすぐに忘れてしまうのである。

ただその人の残したものが意味あるものだとするとその記録から死者を思うのである。
家族とかなると死んでも何も残さなくても不思議なのは自分は声を出して死者と語っている,そしたら本当に死者が生きているように感じたのも奇妙だった
だから家族のような場合,死者は家族として生きつづけているのである。
他の人は何か特別意味あるものを残さないとすぐに忘れ去られるのである。



核文明の恐怖(H・コルティコント)を読む (すでに原発の危険は予見されていた)


核文明の恐怖(H・コルティコント)を読む

(すでに原発の危険は予見されていた)

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福島原発の歴史
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この本は1979年発行でありすでにほぼ40年前のことにもなる
ただその時から事故がありフクシマと同じようなことが起きていたのである。
それはスリーマイルとかでもない,それ意外にも事故がありそれは火災事故だったのである。

この統計は1978年である。フクシマの第一原発は1971年3月に1号機の営業運転を開始しである。

図を見ても日本は原発を作るの早かったしその時すでに世界で3番目の原発国になっていたのだ,それはやはり人の技術力が高いから受け入れることができたのか?
アメリカの強引なおしつけがあったのか?その辺はわかりにくい。

この本の題名が核文明の恐怖とあるとき現代の文明が核文明になるということを予想して書いていたのである。
この時東ドイツとあるからまだ東西ドイツが統一されていない,その時ドイツも原発が多かった,その後はやめた,フランスが日本より原発が少なかったというのも意外である。やはり日本はアメリカの影響があって原発が多くなったのではないか?

原子力産業は比較的歴史が浅いことを心にとめておく必要がある。
アメリカでは商業利用がはじまってからわずか25年であり,核兵器生産がはじめられてからも35年しかたっていない,癌の潜伏期間は12年から40年でありまた遺伝上の突然変異は何代も現れないことがあるから私たちはやっと放射線の影響を経験したばかりなのである

様々に放射線の影響が言われる,

癌の潜伏期間は12年から40年でありまた遺伝上の突然変異は何代も現れないことがある

こういうことがあるとする母親などは異常に心配するからもう故郷には原発避難区域には帰らないとなる,最も危険なのはプルトニウムだとこの本で著者は言っている
要するに核のことは人間はわかっていないしその危険性を無視して原発は造られたのである。歴史が浅いというとき未熟な知識ではじまり今でも放射線がどういうふうに人間の身体に環境に影響するのか正確にわからない,だからこの辺はモルモットにされているのである。放射線の影響は長期的なもの次の代とかその次の代にも影響するとなるから深刻なのである。

原子力発電所の設計は著しくこみいっていて自分の専門分野以外の人の仕事を理解しない-お互いに話し合おうともしない-実際原子炉を建設したり運転したりするのにその全体の過程を統合するような役割の個人やグループは全く存在しない

これはフクシマ原発でも同じであった,肝心の吉田所長が復水器のことを知らなかった,それは自分の専門分野ではないからだったと言っている
そして東京の本部との意思疎通もできなくなっていたのである。
要するに誰ももう原発を制御できるものがなくなっていたのである。
最後は自動化しているから機械が暴走して破綻するとなるのである。
人間の力では制御できない代物になっているのが原発だったのである。
それは現代文明全体に言えることである。その全容を知るものはいない,何か巨大な事故があったらもう何もできないのである。

ブランズ・フェリー原子力発電所はいまだかつて火災に対する安全検査をやったことがない,この事故で誰も地域の役所に事故を知らせなかった,実際緊急避難措置はいっさいとられなかった

「安全装置は絶えず工夫が施されているが莫大な金がかかったり原子力産業のスケジュールに都合があったり政治的圧力がかかったりするために安全装置の効果について評価を正しく行うことはほとんど不可能になっています」

これもこの辺の事故と同じだった,浪江の人達は津島の山側に避難した,そこは一番放射線量が高い地域だった,町民には自治体には何も知らせられなかったのである。
ただ東電の社員がいて山より街の方が安全だとそれに従って街にもどった人達がいた
それが正しい判断だったのである。放射線のことを知っていればそうなる
実際はスピーディでそれがわかっていても知らせなかったのである。
アメリカにいち早く知らせていて自治体には知らせなかったのである。

安全装置にしても原子力村とかが形成されて政府の安全委員会など何もできない飾りだったのである。要するに何もしないで多額の金をもらっていた人達が原発には多いのであるそういう人達にとっては原発はいいものだったのである。
東電から巨額の宣伝費が電事連からは800億もの宣伝費が流れていた
そしてそまマスコミの幹部が東電によって中国に招待されていたとき事故が起きたのである。朝日新聞社加わっていたからマスコミで原発に反対するものはなかったのである。
創価系の雑誌でも東電から宣伝費を二番目くらいにもらっていた
原発は金のなる木だったのである。地元でも金がばらまかれた,特に漁業権のある船主は原発御殿が建っていたとかあとでわかったのである。
それも今になると罪深いものだったとなる

原発はまだ歴史が浅く未熟な技術だけでその効果が大きいから安全を無視して作られてきた,それがまた核兵器と結びつき軍事力としての相乗効果があり作られてきた
電気を作るだけではない軍事力として欠かせないものとして作られていたのである。
だからこそこの本では核文明としているのである。
そしてこの辺の事故では核文明の崩壊したと自分が書いたのである。
土や水や空気や人間の基本になるものが汚染されたら住めないしそして放射線の影響はどうでるのか何代も見なければわからないという恐ろしいものだったのである。

なぜそれだけ危険なものを作ったのか?それは核の魅力が大きいからそうなる
北朝鮮を見ればわかるだろう。あのような小国でも核をもてばアメリカと対等に戦えるからである。だから実際は人間は核を操作できないものでも無理して操作していたのであるそれが大事故で核文明そのもの崩壊となりこの辺は住めなくなったのである。
湯川秀樹博士が原発を作るのはまだ早いとして作るべきではないとしていた
つまりまだ日本でも原発を作り操作できる技術はなかった
原子力の歴史は浅いしまだまだ操作できる状態にはなかったのである。

でも無理やり作ったのは政治的な圧力とかアメリカの圧力とかいろいろ科学的技術的問題ではないものがあり作られてきた,
文明の崩壊までになるようなものをなぜ作ったのか?
文明が崩壊したらもとこうもない,終わりだとなるからだ
それなら人間は極端になるが炭をエネルギーとして細々して生き延びる方がいいともなるからだ,文明が滅び水も土も空気も汚染されたら住めないからである
そして遺伝子が損傷して何代にもわたり影響するとなると種の滅亡ともなる
人間はもう絶滅するということである。

そんな恐ろしいものを科学者もとめられなかったしそれ突き進んで行ったのはなぜなのか?
何かそこに人間の業(カルマ)があり人間滅亡,文明滅亡の宿命を核によってもたらされるだからさけられないのか?何かそういう人類史の最後に核が現れ文明は崩壊するのかとなる
posted by 老鶯 at 11:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年09月04日

インターネットはプログは重要なものはログをとって読む (リンク先のログはとっておくー「心に青雲」のログが死亡してなくなる)


インターネットはプログは重要なものはログをとって読む

(リンク先のログはとっておくー「心に青雲」のログが死亡してなくなる)


インターネットをどう利用していいのか?その著作権とかリンクとか何かなのか良くわからないのである。
「心の青雲」の都築氏が死んで考えた,ログが二カ月分残っていたものがあった
でもたったの二カ月分だけだった

自分のリンクしたログは残っていない,どこにあるのかもわからない
もうリンクはたどれないのである。

だからインターネットは特にリンクをはったりしたらそのログは記録しておくべきだったそうすればこの文にリンクを張り書いたとなり死んでわかるからである。
こういうことはインターネットも高齢化社会になると起きてくる

ただグーグルとか他の機関でログをとっている場合がある,つまり本と違って電子空間は膨大な記録を保存するのは簡単なのである。
本だったらかさばるし国会図書館でも保存でときなくなっているのである。
本ももう膨大なものであり保存すること自体不可能になっているのだ
ただ電子空間なら膨大なログを保存できるのである。
書斎もいらなくなるのである。

ともかくインターネットはどう利用していいのかわからない面がまだまだある
まさか「心の青雲」都築氏が死ぬとは思わなかったからである。
ただ17年も透析していたとなるとそこから死もありうるのかと想像する
でもそれを知らなければ透析でも元気にしていられるのかと思ってしまう

ともかくインターネットの電子空間ではログをとることが不可欠である。
突然消えることもあるからだ
ただ何かそれも容易でない面がある,めんどうになるのである。
ただグーグルとか東京大学とかではホームページとかプログでもログを巡回して集めているみたいだ,どこかにそうした機関があり記録されているかもしれない
図書館に本を集めるより技術があるなら簡単にできるからだと思う
それはどんなに膨大でもできる,それが電子空間の記録(ログ)なのである。

つまり技術がある所ではプログでも日付順でそっくり残せる
するとそれは本と同じになるのである。
ただ十年二十年とかなるとどうなるのかわからない,記録が呼び出せなくなるかもしれないからだ

ともかく「心に青雲」の都築氏のプログが内容があったからログをとり再検討すべきものだった,幅広い分野に批評できるものがあった
文学とかの分野でもっとその批評を書いてもらいたかったのである。
批評家として優れたものをもっていた,それがわからなくなったのは残念である。

記録というのは人間で大事である。
なぜなら自分で書いたものでもこんなことを書いていたのかと発見している不思議があるつまり人間はとにかく忘れやすいのである。だからその都度書いたものでも忘れる
何でもメモしておけというとき忘れるからである。

人間は最後は記憶や記憶がその一生になる,認知症になるとまさに記憶に生きるのでありそれが人生だとなってしまうのである。
だから記録がない記憶が消えることは一つの死を意味しているかもしれない
記憶が残り記録が残れば何かを過去を知る,墓でもそうである。
一行からでも何かその人の過去を知るということがあるが記録も記憶も消えたらその人はこの世にあったこともわからなくなる
直接接しなければ本とか記録からしか知り得ようがなくなるからだ

とにかく「心に青雲」の都築氏の死はインターネットの中での大きな事件だったかもしれない,こうなることは予想しなったからである。
だからインターネットの利用方法がまだ成熟しいないということがこれでもわかったである。

何か不思議なのは死んで一カ月にもならないとすると生々しいしまだ生きているのかともなる,何かまだプログに書き込みするのかとも思ってしまう不思議がある
何かインターネット上では死んだという実感がわかないのである。
電子空間の中での死となるとそれはまた普通の死とは違う,でも現代的死でもあるのかもしれない,毎日数年間も読んでいたらやはりその死の感じ方は違う
何かまだプログから発信している,書き込まれている感覚になっているのだ。

人間の歴史は公平と平等の追及 (人間には裁く力がないー核で国は守れない)


人間の歴史は公平と平等の追及

(人間には裁く力がないー核で国は守れない)


平等に権利を得た。公平に権利を与えた。

インターネットのキーワードの検索でこのことが出ていた
平等とは何か,男女の差があっても平等にしろとか能力の差があっても平等にしろとか
生れた出自で生まれつきの家がらに関係なく平等に扱いとか人種で差別するな平等にしろとか平等にしろというとききりなくある

平等の語源は仏教の教理そのものを象徴する語で,全ての衆生はみな均しく悟りに至る資格を備えている,

ヒンズー教ではカーストのよう差別があり釈迦はその差別を廃して衆生が仏の前に平等だとなる,悟ることができるとされる
宇治の平等院とか平等寺とか四国の遍路などにあるのもそのためである。
日本では平等という概念は仏教からはじまっていた,漢字化されたなかには仏教から入ったものが多いのである。
女性は汚れたもので成仏しないとか何か差別されていた,ただ仏教では女性も悟れる,仏の前では平等だとされた,仏教によって平等の権利を得たとなる

人間の歴史をたどれば平等と公平を求める歴史だともなる
そのための闘争だったともなる,フランス革命で貴族階級が倒されたのもそうであり
それは庶民からすると平等ではないとして庶民が反乱を起こしたからである。
人間は必ず何らかの格差が生れる,金持ちと貧乏人が生れる
それが平等でないとなる

でも平等を追及しすぎる個々の個性の差や能力の差や様々な差を認めない,悪平等になる何の能力もないのに努力もしないのに平等を求める
そのことが不平等になる,平等を求めすぎるとかえって公平でなくなる
それが現代では極端化して男女平等をもとめてかえって女性が苦しんでいるのである。
そもそも女性には男性に伍して働く能力がないのである。
それを平等にして働けとなれば女性が苦しむ,女性の能力は別なものに生来あるからだ
平等をあまりに追及してかえってそのために女性の能力を発揮できないとなっている

例えば四角,三角,丸,とかあるとしてみんな平等で同じだとするときただ一つとか二つとか数で数える,するとその形の個性は失われるのである。
平等というときこうして数字的に還元することが多い
どんな人でも一票の権利があるというときもそうである。一人が二票をもつことはできない,そうしたら不平等となるからである。
これも一見いいようでも悪いものともなる,老人が一票もつのも若い人が一票もつものもみんな一票だとなる,そこで老人が多いのだからシルバー民主主主義になり社会がゆがめられる,平等なようで不平等にもなっている弊害がある。

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公平というときはまた違った意味がある
スポーツだと何かルールを決めてしている,そのルールを守らないで勝つことは公平でないフェアではないとなる
例えば格闘技で体重制になったのは体重差があればフェアでとなるからである。
大きいものはどうしても小さいものに勝つ,柔道では大きなものを小さなものが倒すということがあったが確率的にはどうしても大きなものが有利になるから体重制にした

でも国際関係とかになると大きな国がアメリカのような国が小さな国をふみにじる,中国でもそうである。その差が大きすぎるから対等の戦いができないのである。
だから北朝鮮がまるで巨人のアメリカと対等に核で戦っている
核があるが故にかえってフェアになっている,アメリカだけが核を使い小国は使っていけないのかとなる,それはフェアではないとなるからだ
何でも大国の言いなりになる,力でそうなったら公平な世界はなくなる
神がシオンで裁くというとき公平に裁くということである。
世界規模になると裁くことは神しかできないからである。

平等には何か現代では問題が多いが公平は求められる,国だって貧乏な国が一挙に豊かな国になる権利があるというのも問題である。国でもやはりその国が成り立つ歴史があり
その長い歴史で形成されてきたからである。
家でもやはり富める家があるとしたらやはりその先祖が努力してきてその子孫が繁栄しているともなる,それを否定すると社会の調和は乱されるのである。

その大きな過ちの思想がマルクス主義にあった,資本家がすべて悪く階級が悪いとなり
暴力革命になり平等を追及したがそれが悪平等になったからである。
結局共産主義革命は大きな不平等を作り出した,ソビエト連邦でも中国でも共産党一党支配となり幹部が今度は貴族となったからである。
平等を求めて不平等になったのである。それはかえって公平でないとなった
公平を求めるのがいいのだけど平等を求めすぎると人間社会は混乱するのである。

「平等じゃない」「公平ではない」というのは違っている
北朝鮮が核をもってアメリカに対抗するのはアメリカが公平ではないからである。
アメリカだけ一国が莫大な核を保有しているのは公平ではない
小国でも核をもてば平等であり対等になるとなる
アメリカは強大な力があり公平に国に対処しない,力あるものが公平さを与える
ところが警察を見ればわかるように警察自体が職務質問でもなんであれ力がありすぎるから公平を与えない,そして逆らうこともできないのである。
そもそもアメリカが世界の警察だというとき警察とにているのである。
なんでも力で通すことができるとなるからだ

ただ「平等じやない」というとき弊害がありそれが共産主義のような過ちや民主主義でも弊害がある,「公平じゃない」というときは警察があっていいとしてもそこに公平が与えられないと不満になる,大きな権力をもつものに対して要求している
アメリカは世界の警察とされたとき公平でないから世界の反発を受けたのである。
力があってもそれだけですべてが通るわけではない,世界は力だけでは支配できないのである。
ただ国々を公平に治めることなどはできない,そこに世界の政治とかなる法律でも通用しないのである。それはまた神しかできないともなる
国と関係なくそもそも公平に人間は犯罪でも何でも裁く力がないからである。
そこに人間の限界があり

わたしの腕は国々の民をさばく。

シオンは裁きをとおして贖われ(イザヤ)

国々を裁くとなると神しかできないのである。そういう思想があるのは聖書だけである。だから世界史に神の裁きが現れるともなる
つまりあれだけ強大なアメリカでも中国でも力によって世界を思いのままにはできないのである。

そもそも本当に人間は国でも軍事力で守れるのかという疑問がある。
日本も核をもつべきだという主張が強い
でもアメリカがあれだけの莫大な核をもっているのに北朝鮮のような小国におびえているのとはなぜなのか?
それは核だけで軍事力だけで国は守れないからでないか?
聖書でもそう書いてある
かえって力ではなく公平を追及したものが神に守られるともなる
力だけで押し通すことは警察に反発が強いのは公平を与えない,力で押し通すことができるとなるからだ。それで警察に対する反発が大きいのである。
アメリカが力が強大だから反発も大きくなるのである。

馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。 

戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。 (イザヤ)

この馬とは今では軍事力である,飛行機であり戦艦であり戦車でありありとあらゆる兵器である。そして核である。
しかしそれで国が守れるのだろうか,9条を唱えて守れるのかというのもある
神が守ってくれのかという疑問もある。
でも実際にアメリカは馬を莫大な兵器を核をもっていても北朝鮮のような小国におびえているのはなぜなのか?馬では核では守れないからではないか?
アメリカは公平ではないとうことで実際は世界から責められる
そのことこそがアメリカが世界を敵にまわして恐怖におとしいれられている
それが北朝鮮のような小国におびえる原因ではないか?
馬があれば兵器があれば国が安全だとか守れるとは限らないのである。
そこに何か世界史でも神の力が働いているのかとなる

最近日本の戦争が見直される,武田邦彦氏などの歴史観だと日本はアメリカに対して正義でもって戦いその犠牲になったのだという,ところがアジアでは中国でも朝鮮半島でも
そういう歴史観はない,日本は侵略国なのである。
それはアメリカの歴史観と共有しているのである。
なぜならその侵略者たる日本を成敗したのがアメリカなのだからアメリカは救世主みたいなものになっているのだ。
一方で矛盾しているのは北朝鮮である。北朝鮮とかつての日本は同じなのである。
鬼畜米英としていた日本と同じなのである。
もし北朝鮮がアメリカに殲滅されれば日本と同じ結果になるのである。

北朝鮮の問題はこうして何か過去の戦争の歴史とかアジアの歴史とかアメリカと日本の戦争とかとかかわっている,アメリカと北朝鮮だけの問題ではないのである。
日本の戦争がその犠牲が何であったのかとか北朝鮮によって問われているのである。
もし今度は中国でもアメリカと対立すれば同じようになる
日本が見直され共同の歴史観をもつことになる,アメリカと戦うアジアの同盟国として
歴史観を共有することになるのである。
それが中国と朝鮮半島にはないのである。

つまりアメリカの属国化から解放されても次は中国の属国化の道しかないのである。
それはでにチベットとかウイスラム教徒のウィグル族とかの弾圧になっているから
日本も同じ運命にされる
あくまでも中国中心の中華帝国の再興でありそれが中国の歴史観であり日本はそれに隷属するだけだとなる,それはアメリカに隷属されたと同じなのである。
アジアは共通の歴史観を共有できないのである。
日本は中国に戦争のことで謝罪すべきだとしかないからである。

日本がアメリカに戦争で勝っていたらそうしたアジアの共有の世界観歴史を作っていかもしれない,それがアメリカによって壊滅させられたのである。
次に台頭するのは中国の中華帝国の世界観の歴史である。
だから靖国に礼拝する日本人を中国は絶対に許さないしかえってアメリカと歴史観を共有しているのである。
北朝鮮はアメリカと対抗している国である。そしたらかつての日本と同じでありそれは奇妙だけど北朝鮮は日本を韓国と同じように敵対しているけど共通の歴史観を世界観をもつことになるのである。
北朝鮮問題は過去の歴史を写す鏡でありアジアの焦点としてある国である。
それはアジア全体の問題なのである。
posted by 老鶯 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

アメリカでも中国でも強いから何でもできる (そこに正義もなにもない,力の論理があるだけ)


アメリカでも中国でも強いから何でもできる

(そこに正義もなにもない,力の論理があるだけ)

力があるものは力のないものに無理難題を言っていい
なぜ日本を脅迫したのか日本が強いから
中国は南沙諸島を支配するのか,強いからできる
弱いものはそれで怒り戦争になった

力があるものが力のないものを勝手にやっつけてはいけない
力のないものは誇りをもって戦ったのが日本

武田邦彦

世界史的にみれば強いものが勝ち強いものが歴史を作る,それは日本でも世界でも同じである。
そして強いものは正義を主張したとしても強い者の正義でありその力によって強い者が正義とされるだけである。力の論理でそうなっているだけなのである。
正義とかはもともとそういうものではない,公平なこととか何か別な基準である。
それで法律が生れた,でも国際法になるとそうした国内で成立する法律は通用しないのである。
ただ力のあるものが正義になってしまう。
それはアメリカだけではない,中国が南沙諸島が中国のものだといえば中国のものになるそれは何かの基準でそうなっているのではない,強いから強いものがこれは俺のものだといえばそうなってしまうのである。
国内法だったらある程度はいくら強くても勝手にできないものがある。
国際政治ではそういうものが通用しないのである。

アメリカは世界で一番強い国だからアメリカの言い分が正義になる
あの国が気にくわなからやっつけてやろうとなるだけで戦争をしかけて国をつぶすこともできる
それは強大な力をもっているからそうなるのである。
それは警察の権力とにているのだ,警察も一番権力をもっている,だから理不尽なのことでも通りやすい,例えは警察が不法侵入していても罰せられなかった
それでボランティアで街の防犯係をしている人がその警官に逆に職務質問したのである。警察は悪いことをしても隠されることが多いのである。
警察の上に公安委員会があるとしもやはり警察と一体なのだから警察権力で仲間なのである。
だから警察に対抗することはできない,それで行政も警察に脅迫されていたのである。

そしてこうして国家権力が介入してくると小さな田舎の町などの平和が乱されることを駅の自分の職務質問のことで書いた,ただあやしいというだけで職務質問にきて自分のことを説明してもあやしいと通報があればまた来る,自分のことを説明しないというのであるこういうことは警察には非常に多いのである。
それはなぜなのかというと警察が権力をもっているから強いからだとなるのだ
強いものが正義だとなる,いくら法律を楯にしても警察権力と戦うことは簡単にできないのである。強いものが正義だとなるからだ

これは国際政治ではただ強いものが正義であり弱いものは何もできないとなる
アメリカは世界に力があるから介入して世界の平和を乱したのである。イラクなど別に攻撃する理由もなかったけど難癖をつけて攻撃したのである。そしてその周辺の平和を乱したのである。シリアの紛争がそうである。
それはアメリカのイラク攻撃に由来しているのである。

ただアメリカでも中国でもロシアでも強いものが何でも通るとなるのか?
そうはならない,アメリカが一番強いとしてもその力も衰える
すると世界から反撃されてくる,いくら核兵器を北朝鮮の千倍ももっていても
北朝鮮を恐れている,そして世界からのテロにも恐れる
アメリカが世界から反撃ささればとても自国も守れなくなるのである。

国内でもそうだが人間社会は権力だけで力だけでは治めらない,もしそうしたとしても反発が大きくなる,警察でも横暴なことばかりしていたら住民から信頼を失いその権力も剥奪される
自分が経験したように田舎だとなるべく争わないようにするのがいいのであり警察が介入するとかえって平和が乱されるのである。
アメリカは世界に力でも介入しすぎたのである。
力で何でもできる,通るとして介入した結果がかえって平和が乱されたのである。

アジアのことはアジアで解決しろとなっていたらアメリカが介入しなかったら別な解決方法が生れていたかもしれない,それがアメリカが介入したことによって多大の犠牲が生れアジア自体の平和が乱されたのである。
この世は力あるものが必ずしも勝つとは限らない,それは聖書でしつこく言っていることである。聖書では弱いものが神の力で勝つ物語でもあったからである

それが今アメリカの力が衰えるときアメリカが世界から反撃に恐怖となっているのだ。
日本に原爆を落としたこともカルマとなり北朝鮮のような小国におびえている
アメリカは意外と弱いなと見てしまうのである。
そこに中国の台頭もあるがアメリカは世界からの反撃をくらっているのかもしれない
相当に世界で理不尽なことをした報いを受けつつあるのかもしれない
だからアメリカは世界から後退して自国にとじこもり移民も受け入れない
白人優位主義を唱えて昔のエスタブリッシュメントに帰り保守化してゆく
それはアメリカの国力の衰退につながってゆく,アメリカの活力がなくなってくるのである。
アメリカはすでに国内でも人種問題などで衰退国家になってゆく
そして世界からの反撃に核の攻撃に恐れとじこむるだけだとなる
それは日本にも大きな影響がある,もうアメリカは頼りにならないというときどうするのかということが具体的につきつけられるからである。
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2017年09月03日

北朝鮮におびえるアメリカ (原爆落としたカルマなのか?)


北朝鮮におびえるアメリカ

(原爆落としたカルマなのか?)


このままほっとけば米は世界覇権を失うよ 北は世界中に核ICBMをばら撒くからね
世界の津々浦々から米は核攻撃される危険を抱え込み負け犬として引き籠ることになる


なぜアメリカが北朝鮮のような国におびえているのだろうか?
それはやはり日本に原爆を落としたことがカルマとなっていなか?
あれだけのことをしたアメリカが核に恐れているのはやはりカルマなのか?

人間はカルマから逃れられない,カルマはどこかからめぐりめぐって回ってくる
つまり日本で報復しなくても別な国が報復したりする
殺人を犯したら必ずしも殺された本人の家族とかに報復されるとは限らない
回り回って関係ない人から報復される
そう。そいうことがカルマの法則にはある

アメリカが北朝鮮を恐れているではないだろう,その背後に中露がいるからだともなる
でもアメリカが日本に原爆を落としたカルマが消えるとは思えないのである。
だからこそ北朝鮮の核に恐れている,あんなに離れていても恐れている
アメリカは核におびえる,恐れるカルマを日本に原爆を落としたことでもつようなったのだ,それは逃れられない重いカルマなのである。

そんなのんきなことを日本で言えるのか?それもそうである。
日本に核のミサイルがぶちこまれたらどうするのだとなるのもわかる
でも別に日本は朝鮮に原爆は落としていない
日本はアメリカに原爆を落とされてもアメリカと安保条約結ばれているから同盟国である日本が核攻撃されたらアメリカが北朝鮮を攻撃する

でもアメリカが一番核を恐れてはいないか?その恐れは日本に原爆を落としたことによるのである。
自分たちが日本に原爆を落としたようにそのカルマがアメリカに向かうことを恐れる
それも因果応報ではないか?
それだけの重いカルマをアメリカは持ったのである。

そして世界中から核の脅威を受ける,核をもたせないようにしてもできなくなる
とてもアメリカだけで支配できなくなる
そしてアメリカ本土にとじこもるようになるのかもしれない

ただその時日本はまた窮地にたたされるがたろう。
ロシアが北海道に侵略して中国が沖縄から侵略してくる
日本はそして分断される脅威にさらされる
今度は日本はそれに耐えられるのか?
今日本にそんな力があるのかといったらない
日本はとても戦争などできない国になっているのである。

そしたら日本が守られるのか?アメリカが守ってくれないからだ
日本がその時窮地にたたされることは間違いない
今度は中国やロシアの属国化してゆく
そうして国は分断される脅威にさらされる
それはシリアとかではそうなったからだ
大国のせめぎ合いで難民化したからである。

アメリカは北朝鮮とは戦争しない,むしろアジアからは手を引いて自国にひきこもるのではないか?それだけの国力もなくなっている
そして核におびえ原爆を落としたカルマにおびえるのである。
核の呪いがアメリカにふりかかっているのである。
それから白人優位主義は傲慢でありアメリカ国内でも争乱となり二分される
白人優位主義は神によって砕かれるのである。
人間はみんな平等だというとき神の霊は黒人にもアジア人にも日本人にも下っているからである。
何を根拠として白人優位主義があるのかわからない,知的能力なのだうか?
それも別に白人だけが優位になるのではない,すると何を根拠にしているのかわからないのである。
色が白いだけでどうして他の人種より優位にたてるのか?それも合理的に考えればわかるはずだが
なぜそんなことに固執しているのかわからないのである。
それは傲慢なる故にかえって神の罰が下るとなる,文明は東西文明があり東が栄え西が栄え東が栄えと長期的歴史をみればそうなっている,だから今は西が衰えて東がまた栄えるようになる
その西が白人優位主義でもそれも東がまた栄えればいくら肌が白いからなどという白人優位主義は世界で通用しなくなる

いづれにしろ人間は個々人でもそうだが国単位でもカルマから逃れることができないのである。
日本が原爆を落とされた唯一の国である。それは何を意味しているのか?
また日本に原爆が落とされるのか?それはありえないのではないか?
人類を代表して核の被害者となった国だからである。
カルマとしてはアメリカが核攻撃されないにしろその恐怖におびえる
そういう宿命,カルマを日本に原爆を落としたことで背負っているのではないか?

要するにあんな小国でも核をもつと大国に見えるから不思議である。
核をもつと国の力はまるで対等になる,その他だったら経済力でも軍事力でも何でも格段の差があるからだ
ただ核をもつことによって巨人なるアメリカに小人の北朝鮮が対等に戦っている
それが結局原爆を日本に落とした呪いではないか?カルマではないか?
ただ北朝鮮の火遊びも危険である。核のミサイルに酔っているがそれが命取りになる
核をふりまわすことは北朝鮮でもどこでも危険なことになるのだ
それが呪いとなってゆく

剣をもつものは剣で滅びる,核をもつものは核で滅びる

ただ人類は核戦争になったら人類そのものが滅びる,だから核は人類への呪いでもあった原子力発電もいいものと思っていたが呪いだった,この辺では住めなくなったからである核そのものが人類の呪いでありそんな危険なものを作り出したことが人類を滅亡させるものとなる
posted by 老鶯 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

自然と結びついた言葉の重みの喪失 ( 空間に受肉したのが自然の事物-そこから言葉も生まれた)


自然と結びついた言葉の重みの喪失

( 空間に受肉したのが自然の事物-そこから言葉も生まれた)



人間は空間において受肉しているということ

『人間と空間』 フリードリッヒ・ボルノウ

この一行が興味深い表現である。受肉というときキリストが神の言葉が現実化した、肉体化した存在としてある。日本語の概念にはない言葉である。
神の言葉が空間に受肉したというとき自然も神の言葉が受肉して現実化したものである。神の言葉がロゴスがembodyした存在である。この世に実在しているものはみんなそうである。神が創造したものだからである。

むしろ言葉の前に神の創造した実在がなければ言葉もありえないのである。
山がある、岩がある、樹がある、その山も樹も岩も見ていないならその言葉も理解できないのである。
人間は空間において受肉しているということ・・・・人間はまず空間の中に生まれるから当然である。空間は常に意識されるものである。
でもその空間がただ平坦な砂漠のような所とか日本のように山が多い地域とかその空間は世界では様々な様相を示している、そうした空間が地域とか国の個性を作る
風土が国の文化を作る、そういう空間が風土がなければ個性的文化は作られなかったのである。

自然の事物は空間に受肉したembodyしたものなのである。そして言葉は生まれたのである人間はまず言葉だけから自然を理解できるだろうか?
もし海や山や湖や川や木や岩を見ない人はその言葉を理解できない、何のことかもわからないのである。例えば火星とか他の惑星で生まれたらそういう自然がない、としたらそういう言葉もないのである。
不思議なのはもし火星とかでも他の惑星に行ったとき人間は地球の記憶がありそこでなんらか地球の再現を試みる、何もない所だったら山のうよなものを作ったり川のようなものを流れを作ったりする、ちょうど庭を作るようにである。
人間は言葉だけからでは何も理解できないのである。それを裏打ちするものがあって実在があって理解できる

言葉が死んだというときロゴスが死んだというときそれはそうした実在が喪失したからに他ならない、東京のような大都会になるとそこを埋めつくしているのはビルであり車であり人である、そこには自然がない、とするとそこではすでに自然の実在がないのだからその言葉も理解できない、身体化できないのである。
言葉を失うというとき大都会の前では言葉を失う、もう言葉で表現できないからだ
言葉で表現できないものの前に立って唖然としてたたずむ他ないのである。

それはピカートとなら騒音語でありロゴスを失った原始の混沌にもどったともなる
人間は混沌(カオス)を嫌いロゴスを求めてきた、ロゴスというときこれも日本語の概念にはない、秩序とか規律とかもあてはまる、それは数学的にもあてはまる、秩序とか規律とかを求めて生まれた学問だからである。

空間に受肉するというとき砂漠だと何もないからこそそこにピラミッドが人工的に山のようなものが作られたのである。その建築物も空間に受肉した人工的実在化したものであるartifishl embodied objectである、文明をみるとき建築からみるとわかりやすい、エジプト文明はピラミッドに象徴されているしローマはアーチの煉瓦造りの建物に象徴されるその後はキリスト教のゴシック建築のようなカテドラルに象徴される
それは荘厳な空間に受肉した具体化したものとなる
不思議なのは駅までヨーロッパまではアーチの荘厳な建築があり威厳を感じる、人間に威厳を与えているのである。駅にはそんなものが必要ないという意見もあるが建築からみれば建築が人間に威厳を与えているのである。それでアティネイの学堂のようなラファエロの絵が生まれたのである。

荘厳であるとか威厳があるとかなると自然には常にそういうものがある、山や岩や樹や大地とかにある、抽象画で変化させた山の多様な姿を自分でパソコンで作り出して不思議だった、こんな多様な山の姿があるのかと自分で感嘆しているのも不思議だった
それは現実の山の反映なのだが現実の山には見えないものである
でもart(技術)がコンピュターの技術がそれを見させたから人工的なものが第二の自然でも作り出すとういことはある。

人間の顔にしても神の受肉した自然から形成されてゆくという

「だから山地の住民は,その顔に山の姿を明瞭に写している,そそれたつ岩壁は彼の顔の顴骨(侠骨)にあらわれている,小径や,秘めやかな場所や,山々の戴(いただ)きもらの顔の中にある,そして,頬のうえの両眼の明るさは,ちょうど暗紫色に襞どられた山々の上の空の明るさのようだ」ピカート(人間の顔)

詩にしたがこの辺では森が多い,飯館村だと70パーセンとが森である。
するとその深い森の影が心にいつも宿る,それが顔として形成される
都会だとそういう自然がないのだからその顔はロボットのような顔になっているのだ

現代人の顔は何なのかとなる、自然は反映されない、数式化したロボットのような顔にもなる、そこでは詩語もないしロゴスもない混沌(カオス)がある
そういう所に生きているのは精神を病むというのは必然である。
鬱病にみんななっても不思議ではない世界に生きている、人間という存在を保つこと自体不可能な環境に住んでいるからである。
そこは火星なのかどこか地球ではない別な惑星に来た感じにもなる

だからどうしても天才的なエネルギーのある人はもう耐えられないである。
そうしてニーチェとかミラーとか上野霄里(しょうり)氏とかアウトサイダーが生まれたでもこの社会では受け入れられないのである。
そういうアウトサイダーはまた恐竜のような存在になる
文明そのものを破壊するものともなるから受け入れられないのである。
でもアウトサイダーになるとき自然の中でロゴスとか言葉でも回復する
空間を風土の中でもう一度詩語が生き生きとして自然の中に脈打つ活きた言葉となるのである。それはとても東京のような所ではありえないのである。
人間はそこで統計的数字にしかすぎない、宗教でもカルトであり一票として数としてあるだけであり人間として認めるものはなにもない

人間はそこでは経済的に政治的な数としてしか見ない、統計的数として処理するだけなのである。だからそこには荘厳な人間の死もありえない、人間は一個の数字として処理するだけだとなる、それだけの意味しかもたらされないのである。
それはどんな大会社にいても同じである。人間の個としての荘厳な死がないのは生きているときからもともと荘厳な意味あるものがないから死にもないのである。
人間は無数の部品の集合体である、その一つが欠けても意識すらされない、でも小さな島のような所に生活しているとその存在が大きくなる、部分にしてもみんな大きな部分になる、小さな町のような所でもそうなる、全体というのを把握しやすくなるからである。

ただ今や小さな町であれどこであり巨大な文明の中に抱合されているから人間が部品化されて生きる、その部品化されないためにはアウトサイダーになるほかないのである。
その人は文明の中では見えないとかにもなる、存在しない、存在させられないともなる
人間は部品化したものとして専門家したものとしてしてしか職業でもないし意識されないからである。全人間など理解もできないし意識もできないのである。

原発でも地域の生態系で風土のもつ空間にどう影響するか?全体的な空間でどう影響するかなど考えない、結果的に空気も水も土も森も汚されて住めなくなくなったのである。
その影響は計り知れない、でも地元に住んでいる人も自然という風土から離れて生活しているのが現代である。第一次産業が一割にも満たない生産力しかない、だから自然との全体で空間を地域を考える人はまれである、農民は自覚したとしても少ないし純粋な農民は一割にもみたないし農業は跡継ぎがないなど否定されてきた
そういう心性がつちかわれてきたとき原発はかえって容易に地方の風土とか生態系を無視して入りやすくなっていたのである。
多国籍企業が日本でも熱帯の森を破壊しているというのもそうである。
巨大な資本がその土地土地の生態系を破壊して原発事故で水や土や空気まで汚染されて住めなくさせたのである。
森の哲学者と言われたオラウータンも住めなくなったのである。
だから原発事故は文明の崩壊現象として起きたともなるのである。


posted by 老鶯 at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

2017年09月02日

意思疎通できない連関なき社会 (そしてコミュニティが破壊される)


意思疎通できない連関なき社会

(そしてコミュニティが破壊される)


話し合いが意思疎通ができない社会 (原発事故でも話し合いの住民自治がなかった)


ここでも書いたけど田舎だったら意思疎通できていたように見られる,でも高度成長以後はやはり田舎でも会社員化して意志疎通ができなくなる
自分の家で店をしていたとき野菜は近くの農家から買ってきた,それは自転車で買ってきていたのである。姉は力持ちだから大きな箱に積んできたのである。
すると近くの農家と親密な関係が生れる,そしてその頃は店が個人の店であり狭い範囲にあった,するとその狭い範囲で暮らしているから親密になる
一方でいいろいろかんぐられるので嫌な面もでてくる

大工でも地元の大工が家を建てるから地元の大工と親密になる,今建て売りであり外部からきた人が建てる地元の人とは関係しない,建売は組み立てるだけである。
この辺では新しい街が一つできるくら家が次々に建った
それはみんな外部から来た人が建てたのであり地元の人は関係ないのである。
するとそこでも地元の人でも意志疎通がなくなる

意思疎通ができないというときタニコウはこの辺で大きな会社である,でも友伸エンジニアリングも建物を見れば大きな会社であり工場である,それはすぐちかくの小池にあったでもタニコウの人は知らなかったのである。
それはなぜなのか?何らか仕事でつながりがなければ共同しなければ近くでも無関係になるのである。
現代とはそういうことが非常に多いというときそういう文明社会だとなる
ピカートの言う連関なき社会でありそこからヒットラーが生れた,ナチスが生れというとき無数の部分になりそれらがどう結びついているかなどわからないのである。

鉄道があるとして車をもっている人は乗り方さえもわからなくなる,すると鉄道を残せといっても車の人は利用しないから関係ないとなる
ただ車で駅前に来ることがあり駐車したりして駅に来ることがある,ここでは道の駅がないからランドマークとして来るのである。駅にはそういう機能がある
そこで関連してくることはある

こうして江戸時代なら村とかで濃密な意志疎通していた,しなければ生きていけないような社会と今の社会はあまりにも違いすぎる
広域化グローバル化社会になればそうした狭い範囲の意志疎通より金が大事になる
金があればどこでも生きられる時代である。人間の意思疎通は金になったともなる

大量の物は野菜でも遠くから来る,外国からも来るからである。
すると自分の家で小さな店をしていたときのように近くの農家も関係なくなる,関連しなくなる,こうした小規模な店とかは戦後増大した,それは大きな資本が無くてもできたからである。でもスーパーになったときそうした小売業は姿を消した
そしてシャッター通りになった。

ここで問題なのは大資本が介入してくると小さなコミニティは破壊されやすい,そうして根こそぎコミニティが破壊されたのが原発事故であった
そこには国家権力もかかわり巨大企業である東電がかかわりそれに付随してマスコミとか検察とか警察までもかかわるとなる
国家権力によって自治体が崩壊させられたのである。

そういう巨大資本とか会社とか国家権力でもマスコミでも小さな自治体に介入してくると根こそぎコミニュティは破壊される,マスコミで自治体の争いに介入してくる
そもそもそれは自治体内で解決するのが望ましいのである。
内部の事情に通じない場合があるからだ

そのことで自分が駅で警察に職務質問されたのもそうである。誰かがあやしい人がいると通報したのだが警察まで来て介入すると田舎の平穏な生活がコミニュティも破壊される
つまり大企業でも国家権力でも力が強すぎるからそうなる。
それに小さな自治体は抵抗できない,そしてコミニュティが破壊される
この辺はズタズタに破壊されたのである。

巨大な国家権力機構,大企業とかかかわると一自治体はもろくも破壊される,
狭い範囲内の意志疎通もできなくなりただ巨大な権力によって自然まで破壊されたのである。
それは東南アジアの森林が巨大企業にかいしめられてオランウータンが住めなくなったのとにている,その企業が日本にもあり銀行が融資しているとき銀行もかかわっている

とにかく意志疏通がない社会とか連関性がない社会は文明は最終的にどうなるのかと思うピカートよればナチス化する社会になる,カルト宗教団体もそれとにている
それは疑似コミニュティであり本当のコミニュティではないと言っている
そういうものはナチスのようになる危険がはらんでいる

いづれにしろ意思疎通がない連関性なき社会は文明は何かの調子で崩壊するかもしれないそして自動化社会というのも意志疏通が連関性がなくなる社会なのだ。
一見確かに便利だがすべて現代文明は機械化自動化しようとしている
人間の意志に関係なくそうしようとしているからだ
するとすべてが機械化自動化するとその自動化することによって機械でもコンピューターでも制御不可能になり暴走して自滅するともなる

文明社会が核分裂状態にあるというのもわかる,無数の部分に分裂して連関がなく意思疎通がなく自滅する自壊してゆく,その例がこの辺の原発事故による惨事だったのである。

posted by 老鶯 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

「心に青雲」都築氏の死亡で考えたこと (実績で決まる死後の評価)


「心に青雲」都築氏の死亡で考えたこと

(実績で決まる死後の評価)


人事は棺を蓋うて定まる

人間の真価は、その人の死後に初めてきまる。棺を蓋(おお)いて事定まる。

人間は評価るのがむずかしい,偉大な人になると評価がむずかしいのは偉大な人を普通の人は理解できないからである。
他に文学とかでもその内容を深く知らなければ評価できない
だから文学作品でも芥川賞などでも出版社の宣伝であり売るために作られているのである出版社では売れないと困るから話題性のあるものを出して売ろうとする

人間は死んだとき確かに評価しやすい,生きている時は偉大な人になると力量が違うから評価しにくいのである。へたに評価するとその評価する人からの反撃をくらう。
だから「心の青雲」の都築氏は評価しにくかったとなる

自分が共感したのはそこに一本筋が通ったものがあり何か貫くものがあったためである
右とか左の思想ではなく人間そのものの魅力である。
第一右と左とか団体化して騒いでいる人たちはマスである。個人はいない
人間はマスとしてみるのではなく個人としての人生をみる
それがどこの団体に属していたかで見ることはできないのである。
そこにはいろいろな人がいて尊敬するような人などいないからである。

「心の青雲」には何かそういう右左関係なく人間的なものを一本筋を通ったものを感じていた,何か強い意志があった
ただ陰謀論は受け入れることができない,この世の中陰謀論で見たらきりがない,陰謀にまた陰謀になり何がなんだかかわからなくなるからだ
ユダヤ人がこの世をすべて支配できるのか?別にキリスト教徒でもユダヤ人が良くならなければ世界が良くならいなとしている,ユダヤ人が特殊な地位にあることは確かなのである。でもユダヤ人が世界を支配する力があるとは思えない
現実に世界をみれば中国が台頭してくればアメリカの力は弱まる
そしたらユダヤ人の力も弱まるとなるからだ

人間は死んで評価ができるというときそもそも人間の評価は何なのかとなる
死んだ人が何を残したのか?何か実績を残さないと評価できないだろう。
「心の青雲」都築氏ではプログに残したものしかない,本も出していないのである。
それが死んだ時,ログが消えている,すると読み直して評価するのもできなくなっているただ毎日読んでいたからその趣旨はわかる

そして実績から考えると年齢は関係ないのかもしれない,若いときすでに天才的な人がいて科学の分野でも実績を残したとすればその人は歴史にも残る
野口英男などがそうだろう,細菌と戦い黄熱病の病原体を発見して51才で死んだけどその実績は評価されて残る

人間は年齢ではない,何かを残したかの実績である,芸術家だったらなぜ啄木などがあれほど評価されているのか27才で死んだのにである。
別に若くして死んでも評価される人はされる,それは何か実績を残したからである。
ただ長く生きればそれだけ文学とか芸術の分野でも実績を残しやすい
でも別に若くしてすでに成熟した理解力をもつ人もいるのである。
だから人間を評価するのは実績であって年齢ではない
馬齢を重ねるとかありいくら長生きしても実績がないものは評価されないのである。

「心の青雲」の都築氏の実績は何なのかとなるプログしかないのである。
そのプログからしかしりえようがないのである。
そのプログが死んだら消えたことが問題なのである。
人間は実績を残すには時間の無駄が多すぎるのである。

「時間は有効に使おうと思えば思うほどたりなくなる」と「日本人の死に時」の著者の久坂部羊氏は言っている
有効に時間を過ごそうとするとそうなる,例えば小説一つでも書こうとする論文を書こうとする絵を描こうとすると時間がたりなくなるのである。
何か作品を仕上げようとするとき時間がたりなくなる
そしてたちまち時間は消失する,それで老人になるとまた病気になったりするともう何もできないということになる

ただ都築氏の場合は17年間透析していたというのも驚きである。
透析しても人間は普通に生きられるという不思議である。何か病気になったら必ず弱気になる,自分もなんか今年は体弱わった,やはり年なのかと感じた
すると先がないんじゃないかと心配する

都築氏の場合なぜあれほど強気でいられたのか?終始そうであり体の調子が悪いとプログの書き込みがなくなって一カ月くらいで死んだのである。
まだまだ文章からは死ぬものとは思えなかったのである。
だらだら介護されて死ぬのではなく簡単に死んだということで本人も生前介護などされたくないと言っていたからそのように死んだのである。
ひっそりと死んでゆきたいというのももっと有名になりたいということもなかった
その死は見習うべきものがある
死といっても生と死は連続したものである。その人の一生が死にも現れる
だからその死はその人の一生を示していたともなる

ただその実績を問うとき十分なものが残せなかった,弁証論も学として師を継承したにとどまり自らの学を打ち立てることができなかった
それより一つの学を打ち立てることは本当にむずかしい
何か断片的なものとしてプログで発言して終わった
ただその断片的なものでも光るものがあったのである。
そういうことで実績を残せず死んだともなる

何を追及したのかというと一日本人として

豊国の 企救(きく)の浜辺の 真砂地(まなごつち)真直(まなお)にしあらば何か嘆かむ 
(巻7−1393)

これを追及したのかもしれない,これは日本人的なものの見方である。
神道に通じる心である。直し赤き心などという,ただそれは日本の自然の中でそうあるのでありそれが戦争に結びつくのとはまた違う。
良く人の顔を見て批判していた,あいつの顔はだめだとなりその人を評価しない
それは人間の心が顔に否応なく反映されるからだろう。
それは自分が真直なるものを追及してきたからそうなった
ただ横浜とかに住んだらそういう自然はない,田舎でも真砂地というのは砂浜がなくなっている,そこからして日本人の心も失うとなる
実際に企救の浜辺は小倉であり工業地帯になったときその面影すら偲べないのである。

いづれにしろ数年は毎日プログは読んでいた,文章がわかりやすい,読みやすいということがあった,断片的なものでもその人の人生経験からもれてくるものには訴えるものがある。若い人にはそういうものがない,ともかく人間を評価するのはむずかしい。
偉大になればなるほどそうである。ただ死んだとき評価しやすいのである。
要するに簡単に評価される人間は偉大ではないとういことである。

2017年08月31日

情報化時代の弊害 (過剰に反応して疑心暗鬼の社会に)


情報化時代の弊害

(過剰に反応して疑心暗鬼の社会に)

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現代はものすごい情報量に接する情報化時代である。インターネットでさらに加速した,その量は膨大でありとても追っていけない,情報化時代で何か起きているのか?
それは例えば教師とか様々な地位ある人でも性犯罪が報道される
すると教師が全部そういうふうに見られるのである。
それはなぜかというとそういうことが全国でテレビで常に報道されるからである。
毎日犯罪のことが報道される,するとこの世の中犯罪者ばかりだとなる
テロでも世界中で大騒ぎになる,それもわかるのだがではその国全体がテロだらけになっているかというと別に平和に暮らしている人たちもいる
一部がそうなって大騒ぎになることはわかる,でも全部ではないのである。
イスラム教徒でも全部がテロリストではない,極一部なのだけでイスラム教徒全員があやしいとされる
それは自分が駅であやしいとされ警察に通報されたのとにているのである。

つまりそういう犯罪のニュースばかり流されると今やべてがあやしいとなる
今日のテレビでは花を植えていた鉢が壊れていた,それを誰かがしたと思い込んだ
その人は回りに対して疑心暗鬼になってしまった
回りの人は何かさけている,除外していると思い混むようになった
二人で近くで話していた話しかけたらそれは会話が終わったからにすぎない,
その人と話さないというのではないけどそう思い込んだのである。
鉢は風で壊れていたのである。

そして遂に探偵を頼むまでになった,でも調査の結果は頼んだ本人が被害妄想になっていただけだったのである。
このテレビの番組を見て現代は被害妄想になりやすい,被害妄想とは疑心暗鬼になりやすい社会である。それは都会だと知らない人が多いし引っ越してくる人も多いからである。それは田舎でもそうである。
友伸エンジニアリングの会社は小池にあった,それは大きな建物である
とするとタニコウも小池にあり近くにあるのだから知っているはずなのである。
でもタニコウの人は知らなかった,最近自分は東京から来る人がいるので知ったのであるそれは小池にあるし目立つ建物だったのである。
このように田舎すらわからないことがある
都会だと本当に互いに何をしているのか本当にわからなくなる
そうなると互いに理解しあうこともむかしくなる
結果的に疑心暗鬼になり被害妄想になってしまう

村のような狭い社会に生きていれば竈の灰まで知っているとなるのも困るがそうなっていた,それが逆に今は田舎でも互いに知らないで暮らしている人が多いのである。
そして情報化というとき身近なことを知らないで世界の果てのことを知るということも起きてくる,そこは日常的には何の関係もないのだがグローバル化の情報化時代になるとそうなる,マクルハーンの言うように世界が一つの村になるとうのはそのことだろう
村の噂が世界の噂となり拡散されてしまうのである。

そうなると何が起きているのか?情報にふりまわされるのである。
世界からの情報にふりまわされているのが現代である。
油まみれの海鳥もイラク戦争の時世界中に流されてイラクは悪いとされたのである。
世界中がその一枚の写真に過剰に反応したためである。
それも必要でも情報過剰に悩みまた情報に過敏に反応しすぎることでみんな疑心暗鬼になりあやしいとなり警察にまですぐに通報する
もう狭い田舎でも信じられないとなっている
それはた解に知らない,意思疎通がない社会だからそうなっている

ナチスがラジオから生れというのがピカートの説である。ラジオは国中に放送できるからそうなる,今ならラジオにそんな力があるとは思えない,今ならテレビである。
テレビで放送されるとそれに過剰に反応する
テレビでは毎日犯罪を報道していると日本は犯罪者だらけなのかとなる
実際は日本は犯罪は少ないまれな国なのである。
でも犯罪のことばかり放送していると外国でも日本は犯罪者だらけにみえる
それは外国でも同じである。犯罪者のことばかり放送しているから危険だとなる
でも中国だって旅行したが危険なことはなかった
危険を経験はしたがどこも危険というわけではなかった
でも報道で危険なことばかり犯罪者のことばかり報道していたら危険な国となる

要するに報道は一部を拡大してそこだけを強調するようになっている
日本の戦争でも中国人を医療の実験台にしたとか悪いことばかり報道されると
日本人は残酷だとなる,それを世界に伝播することになる
そういう日本の悪いイメージを新聞社とかが拡散すると日本のイメージがそのとるにたらない嘘のニュースであっても拡散して日本はそんな国なのかとなってしまう
時代劇でも座頭市でもそこにいるのはヤクザばかりて争いばかりあったのかと錯覚するのである。実際はそんなことは極一部であり普通はみんな平和に暮らしていたのである。
ただドラマだと面白くないから面白くするためにそうしているだけなのである。

ドラマだって時代劇となると歴史の情報を勝手に歪曲して伝える,すると何が事実かもわからない,架空のドラマが事実と錯覚している人もででくる
庶民は歴史考証などに関心がないからである。水戸黄門のような人が実際にいたとまで信じる,実際は水戸光国は一回も旅していないのである。
現代は過去の歴史でもそうして事実でもないのに事実のように思わされ歪曲されて伝えられているのである。
そして問題はそうした情報に過剰に反応しているためにみんな疑心暗鬼になる
みんなあやしいとなる,被害妄想化してくるのである。
確かに子供の犯罪はある,でもそれは極一部のことである。
でも一人でも起きれば日本人全員を疑うことになるのである。

要するにいつの時代でも現代でも犯罪はあるし犯罪をとめることはできない,江戸時代あたりだとそんな犯罪があっても藩の外のことはしらなかったろうし村の外のことすら知らなかった,するとその村内では平和か保たれたとなる
それは閉鎖的でそんな社会は嫌だともなるがまたこれ人間のことは必ずいい面と悪い面があり情報も諸刃の剣なのである。
現代は情報化社会が日常化している,報道は必要でも犯罪ばかり報道していたらそれに過剰に反応してみんな犯罪者に見えてしまうのである。
みんなあやしいとなり被害妄想になる人もいる,それはやはり今の社会は狭い田舎ですら互いに知らない人が増えすぎたのである。
そして直接話する人は少なく常にテレビからそうした情報が絶え間なく流れてくる
すると現実に住んでいる狭い範囲の情報より日常的には関係しない世界の情報が身近になる,世界が村になり肝心の住んでいる村のこと知らないとなるのである。

人間は本当に何でも知るのがいいのかともなる,知らないですまされたらそれでかえって平和でいいということもある
人の悪口にいちいち気にしていたらもう生きるのも嫌になるだろう
かえって知らなければ平和が保たれる,現代はかえって情報によって平和が乱された時代だともなる
特に犯罪ばかり報道するのは問題がある。それは一部のことであり全部じゃないからである。
そしてそこに誤解が生れ一人でも議員が不正を働くと議員とはそんなものだとかみんなそう思ってしまうのである。

北方の森(NORTH FOREST)


北方の森(NORTH FOREST)


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NORTH RIVER




これも一つの抽象画を変化させたものである。
それは確かに森の絵である。
でもそれを変化させたら全く別物だから著作権違反にはならない
ただ川は何かなるかもしれない,
ともかくこういうふうにして抽象画を作ることは今までありえなかったことなのである。

This changed one abstract picture, too.
It is surely a picture of the forests.
But if change it, do not become the copyright violation at all because is an exception; the river is only what, or it may be; it is a thing impossible so far, anyway, do it in this way, and to make an abstract picture.

鷺が元の巣に帰り平和な里にもどる


鷺が元の巣に帰り平和な里にもどる



深野(ふこうの)に夕べひびきぬ蝉の声

善徳橋今日もわたりて木槿かな

鷺脚を流れる水に浸すかな


合歓の花風にそよぎて田舎駅でで虫の殻や電車とまりぬ

水無川今日清らかに流れつつ翡翠数羽飛びて来れり

山鳩の夕べ飛ぶかな我が里や実りそめにし稲穂見るかな

山鳩の夕べ飛びにつ今日一日平和に暮れむ心なごみぬ

我が里に牛のいにつつ動かざれ秋めく風の吹きにけるかな

鷺あまた前の巣にそもどりけり夕風涼しともに眠りぬ

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この辺は元の状態にもどりつつある,鷺の群れが竹藪にもどり眠る
あそこには震災前も鷺が群れていたからだ
それで前のような状態にもどったと感じた。それだけ田んぼが増えて餌も増えたからである。田んぼがなければ鷺も増えない,なんかこの辺は動乱がつづいたのである。
それは自分の一身上でもそうである。精神的にもへとへとになってしまった。

だから何か今は平和だなとつくづく感じる,そういう光景は30年くらいつづいていたのである。
人間は一生の内平穏無事には終わらない,時代的にも大きな変化に必ず見舞われる
これから生きる人もそうである。それはどういう変化なのかもはや想像もつかない,
想像もつかない変化が起きる

蛙が盛んに鳴いたときも復興を感じた,そして鷺が増えたことで復興を感じた
常磐線が開通したことで復興を感じた,そこで駅のボランティアしているのも不思議だとなる
ただ小高とか浪江となるとその差が大きすぎるのである。
自然も田んぼがないから蛙も鷺もいないのである。
前も田んぼがない田舎が考えられないと書いた,田んぼは単に米をとるというだけではない,日本人の原風景になっていたからである。
だから都会の人と田舎の人の感じ方は違うのである。
神戸の地震のような復興と田舎の復興は違うのである。

田舎というとき深野(ふこうの)とあるがそこの感覚はやはり独特なものがある
それは簡単に言い表せない,歴史的には深野は大原よりかなり古い,
中世の館という地名が二つあるからだ,大原は相馬氏進出して開いた
相馬氏から来る前から深野はあった
郷土史は村の新旧を知れというときその土地についてわかり俳句や短歌や詩にするときでも深いものができる,また鑑賞もできる

ただ深野に夕べ蝉が鳴いている,ただそれだけでは何がいいのかとなる
深野とは短歌ならその前に枕詞がつく,暮れなづむとかなる

暮れなづむ深野の里に我が来る蝉の音ひびきあわれ深まる

小池から坂をおりて「ユッサ」にゆく道である。あそこは実際に草茫々にまだなっているところがある,そこは牧草地にするという,小池でも震災前から牧草地になっていたところがある,牛舎がありやめたのかと思ったらやめていないという
また牛を飼うことをはじめると言っていた
結構広い土地が牧草地になる,ただ田んぼかなり増えた

田舎は村ごとに違った印象を与える,その土地土地の地貌が違うのである。
それが自分にとっては詩とかの題材になる,何か今はその土地土地の特徴が失われているが以前として地貌というものがある。
栃窪も橲原でもそうだし大原もそうだし特徴がある
今よりそこで自給自足していた時代はもっとその土地は特徴があった
生活そのものすら他の村と違うということがあった
だから日本は無数の村があるとしてその村は地形的にも違っていて地貌があり狭い国でも変化がある。大陸だとどこまで行っても平坦で嫌になるだろう。
日本は海あり山あり変化があるから旅をしてもあきないのである。

小池の善徳橋は前は木の橋で趣があった,土橋のようなものだった,真野川だってそういう土橋であり子供のときわたったがゆれるから何か怖かったのである。
そういう橋は洪水になると流されやすい,日本では橋は頑丈でないから流されやすいのである。野馬追いの行列も新田川をわたるとき橋が流された絵が残っているのもそのためである。
善徳とは人の名前である。橋でも田んぼでも人の名前がつくということはそれだけその人が生きていたとき何か貢献してそうなったともなる
人の名前を簡単にはつけられないからである。

水無川は最近雨で水が流れている,カワセミを三羽ほど見た,これはめずらしいとなる

今合歓の花が咲いている,駅の向かい側にも咲いている,そして夕べに電車が来てとまるでで虫の殻が残っていた,何かそれは田舎の平和な風景である。
しかし駅にあやしい人がいるということで警察に通報されたことはショックである。
その時田舎の駅の平和は乱されたのである。
だからそれには自分は怒りになっているのだ。

山鳩は平和の象徴である。そして稲穂が実りそめる,なんとなくもう今年は秋めいた。
ただ今日も曇っているから天気がぱっとしない日が本当に長くつづいたなと思う。
タグ: 山鳩

2017年08月30日

「心の青雲」都築氏の死亡について (大成せずに死んだ無念が残る?)


「心の青雲」都築氏の死亡について

大成せずに死んだ無念が残る?

「少年老いやすく学なりがたし」というのを年取れば誰でも感じる,先がいくらでもあり時間がいくらでもあると若いときは思っているが時間はたちまち消散する
先がなくなってくるのだ,都築氏は弁証学の師匠のことについてほめていた。
それを継承するものとしてあった,でもそれは何かわかりにくいものとして理解されないものだったろう。
そもそもねの師匠のことも知られていない,そしてその師匠を継承するものとしても自らの学を打ち立てることはできなかった

そして死んだとなる,それもプログでだけ発表して死んだというのも現代的である。
今やプログでもインターネットでも高齢者が書いている場合がある。
すると死ぬということがある。だからインターネットでもプログでももう若い人だけのものではない,まるで遺言のようにして書いている人もいる
そうなるとインターネットでもプログでも重いものとなる
インターネットとかプログは出しやすいから一般の人でも書ける
その中にはこうして遺言のようにして書く人もでてくる
これからますますそうなってくる,若い人でも老いてくるからである。

とにかく「心の青雲」のログは消えているのも問題である。死んだ時点でインターネットは消えるのかとなる,そうなるとリンクもたどれない,そのことは指摘されていた
本だったら長く残ることがある,でも本はなかなかだせない人もいる
公表しにくいのである。本屋では売れない本など置かないし危険な思想のものも置かないインターネットではそういうのが自由だから出しやすいのである。

人間は師匠が必要であり尊ぶとしても10年違っても時代が違うと考え方も変わる,世代間のコミニケーションもしずらくなる,普遍的な価値は変わらないにしてもそういうことがあるし師匠でも弟子でも個々人の個性が違っている,だから師があったとしても師の学があったとしもただ継承するだけでは後世に残せるものは成せない
常に師を乗り越えることで新たな知の世界が開ける
それが都築氏にはできなかった,その前に死んだとうことが無念であり残念だっとなる

「心に青雲」の文は読みやすいし受けた,時の人物批評も良かった,なかなか批判できない有名人もしていた,歯に衣を着せぬ言い方である。
空手をしていたので芯が強い,それが文体にも現れていた
そして一カ月前まで発言して体の調子が悪いとしてプログの発言がなくなった
そしたら死んでいたのには驚いた,まだまだ死ぬとは思えなかったからだ
なぜなら一カ月前まで同じような強きの発言をしていたらからである。

コメントしてきた人が

都築さんは裕福で上品で、でも虚弱で、そのことにひどく劣等意識を持っていました。そのことが、「弱い人ほどほど強くなる」という思想の南郷空手に強烈に心酔していった理由です

そういうことがあったのか,それは三島由紀夫ともにていた,文学するような人が文弱と言われるように身体が弱い人がいる
その反動としてあれだけ肉体を鍛えてみせたのは涙ぐましいとさえなっていた
普通に強い人はそんなことをしないからである。
それは自分ともにていた,自分も虚弱でありなんとか強くなりたいと一時は大学の体育系に入ったがつづかなかった
都築氏も何か常にそういう面が確かにあった,懸命に体を鍛えていた,鍛練していた
強くなりたくてそうしていた,そういう一面があり強い人に憧れていたとなる
それは自分ともにている,だからこそ日本兵の強さとかアレキサンダーのような人になりたいとなっていた
それは文章だけからではわからないものだった,あんなに強きだったというのは自分が弱いからこそそうしていたというのも
今になると意外だったとなる

いづれにしろ弁証学も未完に終わったしその他も未完に終わった
そし死んだらリンクも消えることが問題なのである。
過激な思想でありそういうものでもインターネットならだせたのである。
人間はその人が右だと左だとかで判断すべきではない
何か一貫したものがあれば筋が通ったものとなる
実際は右の団体に属している組織に属している人でも左の組織団体に属している人でも転向は普通にある。日本自体が戦争に負けて転向したからそれに納得いかないというのも当然なのである。その転向したことが次の世代にも影響しているからである。
だから自分は右の団体でも左でもカルト宗教団体でも団体組織は信用できないのである。そこに一貫したものはない,時代によっても変わるしそして政党が変わるように変わるのである。社会党が消えたように時代によって消えるのである。

都築氏は極端な右寄りのようでも天皇を批判していた,特に昭和天皇を批判していたのである。たから右でも天皇を批判するのかとなる,そこが他の右よりの人とは違う
ただ日本軍の兵士の強さを称賛していた,その強さが日本人として誇りとしていた
それも左からするとそうはならない,戦争犯罪者になってしまう
その辺は右よりなのである。
ともかく歴史の見方は人によって違う,そして太平洋戦争についての総括はまだ成されないないのである。

それにしてもログが消えたのだから再検討とするのには困る,それは大きなインターネットの問題である。なぜなら遺言のように残したものが消されたとなると書いた人も無念に思うからである。
ただ自分は数年はずーと欠かさず読んでいた,だからそれが頭に残っている
ただまた再検討するにはログを読み返さないといけない,それがないということは再検討できないということにもなる,だからやはり本にして残すということが必要になる
それで自分もその作業をしているのだが書いたものが膨大になるので苦労なのである。